現代版 徒然なるがままのタクシー旅日記
其の一
個人タクシーの人生模様
此処では現代版、芭蕉風の徒然なるがままの旅日記を記したいと思っている。
芭蕉は江戸時代中期の俳諧師で、日本各地を何千里と徘徊したことであろうか。つとに有名な「奥の細道」は600里(約2400Km)を弟子と共に行脚したといわれる。現代の世の中と違い、高い山、深い谷あるいは川を越え、海を渡り殆ど道無き道を走破した事であり、幾多の困難を乗り越えたに違いない。余程の健脚で無
い限りは途中で挫折したであろう。
生まれが伊賀上野とくれば、言わずと知れた忍者の里である。子供の頃から鍛えており、十数里を一日で走破するのは納得である。
其れに、今の発達した情報手段とて全く無く、殆ど、足の向くまま気の向くままの成り行き任せであった。
よく言われる、徳川幕府の隠密、忍者説、それにより各地の不穏大名の情報集めだの、世間の噂がかまびすしい。
行く先々での情報は、俳諧師仲間や道中での宿泊先、出会う人々から得ていたのであろう。
又、徳川幕府になってからは参勤交代制度が設けられ、全国の大名が領地と江戸を往復させられた。これにより各地の情報が随分と得られやすくなる。
然しながら、その芭蕉の足跡情報が世に出たのは、旅を終え「奥の細道」が編さんされた後の何年、いや何十年も経た後の出来事である。
現代であれは地震、災害情報伝達など、マス・メディアやインターネットを通じてほんの一瞬の間に、日本国中の隅々までに広まるのであるのだが。
因みに、日本国中を一番旅した人物は?
江戸期からそれ以前の時代、ダントツ一位は伊能忠敬であろう。
十七年の歳月をかけ、日本国中の海の周りを自分の足で歩き日本地図を作成した男である。
又、忠敬の測量技術を教授された間宮林蔵あたりも長い距離を走破している。
そのあとの順位は、目的が夫々違うが、芭蕉もいい位置に来るであろう。
いずれにしても健脚揃いである。さもあろう御庭番、忍者の里の出である。然し、忠敬だけは違う。商人の出で其れも五十五才からの出発で、並み外れた体力の持ち主であったのであろうか。
一方、現代版の、こちとらの旅の足といえば車である。日本国中、都会から田舎の山奥迄、道という道は殆ど舗装され網の目の様に網羅されている。車社会の世の中、何万、何十万キロも走行する事はごく当たり前で、地球を延べ何周分も走行する事だろう。
老若男女、体力に関係なく、座ったまま乗り心地良く走行するので、足腰が疲れる事はまず無い。まぁ、誰もが運動不足で体力が落ち弱るばかりだけれども。
芭蕉といえば伊賀国の生まれだが江戸に出た為、主に東日本を記した俳諧が多いが、私が住んでいる広島は西日本である。其の為、特にこちらを中心に活躍した歴史上の人物の足跡を辿りたいと思っていた処、水墨画の禅僧である雪舟の軌跡が有った。だが色々調べてみても両者の接点は何も無い。年代も違い雪舟の方が遥か昔である。
何はともあれ、こちらも現代風に芭蕉、雪舟気取りで各地を飛び回ってみたいと思った。
然し、私は個人タクシーの事業主だ。幾ら何でも思い通り勝手に走れるものではない。あくまでお客様有っての商売だからだ。常日頃の営業は広島駅に待機して順番にご乗車頂くのが主で有った。
然し、これでは毎日が同じ事の繰り返しで、人生の何の糧にもならない。
何か人のやらない事が出来ないものかと、有りもしない頭で思案をしていた。
そうした時、閃いたのがインターネットだ。
此れだけは私のオンボロ人生、最大のヒットだ!
私が商用ホームページを開設した時、全国に同業者が法人、個人共に十社(十人)もいなかった。その時、東京、大阪とも零であった。
当時、インターネットでお客様を獲得出来るなど及びも付かない時代であったからだ。
爾来、運行を重ねて観光、ビジネス利用で東日本はとも角、西日本中、車で行ける処は殆ど行き尽している。
北は青森下北半島むつ市、南は鹿児島県指宿市、此れ皆、タクシーでお客様を乗車して走行した本当の事である。東京へもタレントさんを乗せて一夜にしてテレビ局にお送りしている。朝の番組の生放送に出演される為だ。其れも何度もだ。
初志貫徹、志は何時しか通ずるものだ。
其れがたまたま開業医のお医者さん夫婦と知己を得てからは、似たような境遇となって来たのである。
とに角、先生夫婦は旅好きだ。知り合う迄にも、他の交通機関を利用し日本各地を網羅されている。
ただ、先生は飛行機嫌いで、空を飛び海を渡るのが大の苦手なのだ。
鉄の塊が空を飛び、海に浮かぶなど考えられない古風な人で、反対に、奥様は何でもござれのおてんば女性である。
先生夫婦には、子供がいない。運転免許が無い為に、新幹線を始め一般交通機関を利用せざるを得ず、限られた場所への限定にならざるを得ない。
又、体力的にも、日に何度もの乗り換え走行には無理が生じてきた。
丁度、その頃に、たまたま私と出会った次第である。
渡りに船で真似をして徘徊をしてみる事にした。でも此れはお客様あっての物種だ。自分一人で走り回るなど到底あり得な い。
気分だけ。芭蕉、雪舟は共に歴代の偉大過ぎる人物だ。其れに旅するこちらは、整備された道路網を走る現代の車であり、情報網の発達した中での道行きは比較の対象にもならない。
然し、ここに記している現代の徒然なる旅日記は、嘘も隠しも無い現実の体験記である。旅好きの他のお客様のご利用もあるが、殆どがお医者さん夫婦との道連れの旅日記である。
[雪舟、涙で描いた鼠の絵]
今日も朝から快晴で絶好のドライブ日和だ。
前日に奥さんから
「明日は高梁川を下流から上ってみたいそうよ。テレビを見た影響よ」
笑いながら電話をしてくれた。何の番組かは知らないけど。
開業医である先生の医院は広島インターのすぐ近くで、山陽道に乗るには都合がいいのだ。此処から高速に乗り東に向かって走って行く。
約30キロで西条ICだ。今は東広島市といわれるが、此処は日本三大酒処といわれ、兵庫灘、京都伏見、広島西条、と江戸時代から並び称されている。
因みに、北広島市は遠く離れた北海道にあり、東と北は凄く離れているが、これは明治17年頃に広島県人が、蝦夷と呼ばれ原野だったこの地に入植し開墾した事に由来する。今は仲良く姉妹都市として交流を深めている。
車窓から酒造りの為の、高く赤いレンガ造りの煙突を何本も遠目にしながら、更に休まず走り続ける。三原、尾道の背後を通過し福山東インターを降りる。其処から江戸時代からの旧山陽道を東に向かう。
のどかな田園風景の中を並行して井原鉄道の高架線が走っている。一昔前までは芦田川を遡ったこの辺り迄、入り組んだ瀬戸内の海だったのだ。
童謡「ゆうひ」や「とんび」の作詞家で知られる、葛原しげるの生家に立ち寄る。
「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む〜」の歌碑が有り看板によると、全国の津々浦々の学校の校歌を四百曲も作ったとある。
言われてみると、私の故郷の広島県北で山の中の中学校時代に歌った校歌は、信時潔の作曲だ。この当時は如何に有名作家であっても所得が少なかったのであろう。教師の傍ら副業をしていたと思われる。
そもそも著作権法なるものがある訳ではなく、其れが制定されたのは昭和45年の事である。二人とも明治の時代の生まれであってずっと後の事の様だ。
両側が田んぼの田舎の道を井原鉄道がのんびり走って行く。下に線路が有ってよさそうなものだが何故だか高架が多い。山坂が無く殆ど平地で有り、この方が農地利用には効率が良いのであろうか。
神辺を出てから間も無くの処で一里塚の標識が見えた。昔の山陽道の参勤交代や旅人の距離の目安であろう。然し、今は松の木は一本も無く、何の名残りも感じさせなかった。
高屋の駅前に来ると大きな看板が見え、そして優しい心地の良い音楽が流れている。
中国地方の子守唄「ねんねこさしゃリませ ねたこのかわいさ おきてなくこのつらにさ ねんころろん」
「あ〜、このメロディ聞いた事ある!」
と奥さんが叫んだ。そうなのだ、かっては民放テレビのエンディングテーマでこのメロディが流れており、昔からよく聴いていた。
今、訪れているこの地から生まれた子守唄が、遠い子供の頃を忍ばせる。
此処で聞いた子守唄に惹かれたのか、この後、五木の子守唄、島原地方の子守唄、と哀愁に満ちた故郷を巡る事になろうとは。
因みに、瀧連太郎の「荒城の月」のモデルとされる岡城址見学に訪れた時、此処の豊後竹田市が「竹田の子守唄」の発祥地とてっきり思っていた。然し、実際は京都地方で歌い継がれたものである事を知った。
でも此れだから徒然なる旅はやめられない。
暫く走ると左手に山の上に銀色に鈍く光る物が見えてきた。更に右手には国立天体観測所の看板がある。
昔から、晴れの国、岡山と言われているほど日照時間が長く、それほど高くない山々が多く、人家の明かりも無く空気が澄んでいる為、天体気象観測に適しているのであろう。
此処には美星町星田という地名がある。正に満天の星空で、信じられないくらいのお星様が見えるのだ。
高梁川を渡ると堤防の上の道を遡って行く。今日は総社の古い史跡の多く有る場所は予定にない。
この川は何時から存在するのか、遥か、遠い遠い昔から変わらず流れている。今から約五百年前の室町時代に活躍した、雪舟が育った子供の頃の原点であるこの地に思いを馳せ、この山でこの川で遊んだであろう、変わらぬ風景を頭の中で想像すると、今、此処に子供の雪舟が飛び出して来て、話しかけてくる錯覚に陥っているのである。
時代は変わり人の世も変わる、されど高梁川は何も知らんぷりで静かに流れていく。
今日は先生夫婦との徒然なるがままの旅の原点である、雪舟に所縁の名刹、臨済宗宝福寺を訪れる事が第一目的である。
互いに両手を合わせて山門をくぐった。創立年代は不明ながら、歴史の重みを感じる境内を歩くと綺麗な石庭がある。国の重要文化財である立派な三重の塔や方丈があり、秋は紅葉の名所とある。さぞ美しい事であろう。
寺社内を歩くと橋本なる墓が有る。墓誌は無い。お参りされていたご婦人によると、橋本龍太郎元総理大臣の墓らしい。方丈を眺めていると、あの有名な少年時代に、雪舟が涙で描いた鼠絵の伝説の板の間がある。
然し、中は公開されていなかった。そして外には小僧さんの頃、柱に縛られている像がある。あれだけの立派な禅僧に成ると、嘘もまことしやかに伝わるものなのであろうか。
雪舟は武家の生まれである。
当時、この地に学問所はなく、学問や文芸などは禅僧であるお寺さんか教えていた。宝福寺に預けられたが短い期間しか在籍していない。その後は京都相国寺へ禅僧として修行に入っている。
そこでは禅僧修行を積む傍ら師匠に絵の教えを受けている。当時は絵を極めるのも修行の一つであったのだ。
又、遣明船で明(中国)に渡り、三年間水墨画に励み、日本に帰国、各地に墨の濃淡だけで描く山水画の国宝級の名作を数多く残している。又、山口、益田と雪舟庭も造営している。
お寺を後にし、其れから山間の道を高梁川と並行して走ってく。綺麗な水の流れだ。
暫く行くと難解な駅名の看板が現れた。「美袋」と書いてある。
「奥さん、あれを何と読む」
「エ、エッ、みたい?」
「お父さん、分かる」
「サァ、ワシが知るか」
「あれは、みなぎですよ」
「へぇ〜、全く読めんわ」
「此れは難解駅名の一つですよ」
何のことはない、自分は出掛ける前に予習をしていたのだ。
余談だが三つ並べると超難解な駅名がある。何と読む?
「三次」「八次」「木次」
さぁ、分かるかな。(中国地方の駅名) 正解は巻末で
高梁の街に入って来た。ここの古い街並みの、美観地区を散策しながら奥さんはお土産を買っている。其の即ぐ近くには、山田方谷先生寓居跡がある。
其れから鎌倉時代に築かれた、日本三大山城と呼ばれる備中松山城へと車で駆け上がる。標高の高い所にあり霧のシーズンになると天空の城と化す。
だが本日は、急な坂道に恐れをなして途中で引き返す。
其処から離れ、暫く伯備線、高梁川に沿ってどんどん北に上がって行くと、川向こうにある「方谷」という小さな駅のホームが見える。谷合いに有る小さな駅舎である。此れも読み難い駅だ。
「ほうこく」と読ませる。
でもこれが全国的にも珍しい人名を冠した旧国鉄時代に名付けられたので、先程、高梁市内で見た山田方谷の生誕の地である。
昭和の初め鉄道省は「人名は絶対に駄目だ」と却下したのだが何度も請願し認められている。
方谷は備中松山藩に士分に取り立てられ藩政改革、財政立て直しを行い藩の為に貢献をした人物であった。
一夜漬けの予習でも、しているしてないでは大違いで有る。印象が何時迄も残っているのだ。其れがお客様を案内する真のサービスというものだろう。
昼飯はこの先の手打ちうどんの“くさまや”での遅い昼飯だ。新見市から高梁川下り探訪で一度立ち寄っている。今日は逆のコースなのだ。
「 食事を済ませると其処から吹屋の里を目指して駆け上がって行く。
此処は、かって栄耀栄華を極めた銅山、赤の顔料、ベンガラを産出した処だ。
小高い峠の頂上に家並みが続く通りに入って来た。
他とは全く違う光景に出会す。赤銅色の石州瓦に赤い格子戸、江戸時代から昭和初期に栄えた街並みだ。
当時は多くの人達が住んでいた事で有ろう。
通りから少し高い処に、今は廃校になってしまったが吹屋小学校がある。明治6年に開校した国内最古の立派な木造校舎だ。
然しながら、日本人の先達も賢いものである。江戸時代が終り、明治維新後すぐにこうした学校が国中に建設されている。こんな田舎の山村に迄もだ。昔から読み書きが普及し、更に、国民の殆どが学ぶ事が出来る様になったのだ。
以降、綿々と続き多くの卒業生が巣立っていった。
現在も日本国民の識字率が世界でダントツのトップである筈だ。
今は文化財に指定され、後世までも残す為に修復工事がなされていた。
赤の顔料は、有田焼や九谷焼にも綺麗な赤い絵付けで高級品として重宝され、其れを営む庄屋も潤い、現在も山中に其の痕跡が残っている。
其の中の一つに広兼邸が有る。山の中に異様に大きな白壁の邸が高い処にある。
銅鉱山やベンガラ製造を営んでいた大庄屋で、映画ロケにも度々使われ、八つ墓村や他のテレビドラマの撮影も数多く行われている。
又、近くの高草八幡宮に三人で上がってみた。創建は千二、三百年前と思われる。
昔の最盛期の頃は鉱山、ベンガラの鉱夫や職人、家族と何千人もいて、神社の村祭りで昼は祭礼、夜は神楽と大人も子供も盛大に楽しんだ事であろう。三人で昔の人達の暮らし振りを想像しながら、石段を登り鳥居をくぐると、目の当たりにした現在の寂れた辺りの景色を見るにつけ感慨深いものがある。
吹屋の里からの帰り道、
「先生、今日は新見から中国縦貫道を走らず、このまま山道を神石高原へ抜けましょうか」
「そうしょうか。まだ日が高いからのんびり帰ろう
や」
そうは言ったものの、険しい悪路が続く。重なる深い山また山の中が、高梁市、神石高原町とは名ばかりで恐れ入る。まるで車と人に出会わさない。たまにウサギや狸の小動物が道を横切って行く。谷間には数頭の鹿も目撃した。
然し、何で昔のままの村にしておかないのだろうか。
要らぬ節介で有ろうが行政上の市町村区分などどうでもいい、村は村の呼び名でいいのだ。
幾ら、何十分、走れども集落どころか一軒家らしきものも標識も見当たらない。実際のところ広島県も岡山県も標高は高くないのだが、重なる様に山が連なり谷間が多く通行を遮ぎるのだ。
「先生、こりゃ又、凄い山道ですね。考えればええ時代になったもんですね」
「何がよ」
「こんな山深くても狭いながら道が舗装してあるんですよ。一日に何台も車が通らんし、人っ子一人として歩かんでしょう。ほんま何時、工事をしたんですかね」
「そうよな、ワシらの子供の頃は、広島の街中の山陽本線、横川駅の近くに住んだ事が有るが周りは殆ど舗装してなかったよ。車もたまにしか通らんかったし砂利道の上で、球投げをしたりビー玉遊びをやっとったな」
「そういえば、道路舗装いうたら今と違ごうてコンクリートでしたでしょ。乾燥に何日も掛かり、子供の足で靴の跡をつけては走って逃げていましたよ。其れが何年も残っているのが嬉しくてね」
「そういやぁ、わし等もやっとったな」
昔の思い出話しをしながら、くねくねした坂道をゆっくり上がったり下ったりしていた。
「凄い所を走っとるな。まかり間違えりゃ谷底で」
「怖いからゆっくり気を付けてね」
「奥さん、酔わん?」
「今のところは大丈夫よ」
離合も出来ない様な杉や松林の細い道のその先が急に開けてきた。
そんなに広い空間では無いが、何がしかの耕作地がある。
何という!
その先に子供の手を引いた女性がいるではないか。
其れも背中には赤ん坊を背負っている様だ。然し、人家は見えない。
突如、現れたこの光景に、先生夫婦と私は思わず声をあげて感激してしまった。
「何という事じゃ」
「ワァ〜、子供さんがいる!」
今時、奥深い山の中で、子供連れの若い女の人を見かけるなど殆ど有り得ない。
「一寸、止めて!」
車を止めると奥さんが降りて、親子に近づいて行きそして話しかけた。
「こんにちは、子守りも大変ね」
「こんにちは」
「コンチワ」
小さな子も嬉しそうに声をだしてきた。
「でも別に、子供といると楽しいですよ」
「こんな処に住んでいて寂しくない」
「とんでもない、おじいちゃんとおばあちゃんが何時もいるし、自然の中で子供は伸び伸びしているし幸せですよ」
確かに子供さんは、他所の人を見て嬉しそうに駆け回っている。
こちらも親子連れと奥さんの会話を聞いていてほのぼのとしてくる。
聞けば自分は高梁の町から嫁入りしたらしい。旦那は近くのダム事務所に勤めているとの事、此処が生まれた家らしい。
奥さんは帰り際に、高梁市内で買ってきたお土産を差し出した。
「此れを食べてね」
「そんなぁ、見ず知らずの人から頂くなんて」
「いいから、いいから」
と子供に手渡した。
「アリガトウ」
この若い奥さんは、
「このお菓子は自分の家の近くのお店なんですよ」とはにかみながら礼を言った。
小さなお子さんの嬉しそうな笑顔、車が見えなくなる迄、この親子は手を振っていた。
別れて直ぐの左手に、小さな赤いトタン屋根の一軒家があった。昔は藁葺き屋根であっのを現在はこうしてカンカンを被せているのだ。築年数もかなり古く、代々に渡りこの家に住んでいるのであろう。
暫く走ったが人家は見当たらない。以前は、何軒か此処の土地に住み集落をなしていたものであろう。
此れだから、人里離れた山の中で暮らす人達との、一寸した触れ合いが印象に残って忘れられない。この人達にしてみれば、此処での暮らしが最上のものに違いない。
今日は道を違えて帰って来た為に、一日中、幸せな気分に浸れる事が出来た。
話しが逸れるが先生夫婦には子供さんがいない。
地域の学校が夏休みの時、地区の小学生達が朝、広場に集まってラジオ体操をする。その後、医院開業時間の前に待合室にゾロゾロと子供達が集まって来る。そして奥さんは紙芝居をされるのだ。
開業以来、何十年と続けておられ其れも全くのボランティアである。ここに観に来た卒業生は今迄に何百人もいるという事だ。マスコミにも何度か取り上げられて報道されている。
少しでも子供達の心を豊かにする為に、体を動かした後に静なる「紙芝居」を取り入れて生活を充実さる、お医者さんの奥様らしい配慮があるのです。今時、アニメ、テレビゲームの時代に逆行すると思われるかもしれないが、小さな頃から絵本を読み聞かせてもらっている子は、人の声に耳を傾ける様になり、集中力が高く、何事にも飽きっぽくなく、感性豊かな人間形成に役立つのではなかろうか。
今日の山の中での出会いにも、奥さんの優しさと愛情が溢れるさりげない姿勢に、本当に頭が下がる思いがした。
其れから又、山道を下って川の側を暫く走ると大きなダムが見えて来た。多分、主人の勤め先は此処ではなかろうか。この上流は帝釈峡のある処だ。
広島県側に入ってきた。然し、中国山地は山また山である。
此処だけではないが日本国中、国土の70パーセント以上は山で有り、綺麗な水や空気に恵まれて緑豊かな自然が溢れている、本当に有り難い事である。
庄原ICを中国自動車道に入り、一路、帰宅の途についた。
其の二
★ 「四国 こんぴら参り]
「犬山さん、天気も良さそうよ、泊まりは高知のホテルを予約してあるからのんびりと行きましょうよ」
「分かりました。其れじゃ岡山回りのコースで行きますか」
先生夫婦は私と知りあってからは趣味の旅行に拍車が掛かってきた。
とに角、休みの日は余程天気が悪くない限りは必ず外出していた。其の足は殆ど私の黒のクラウンロイヤル サルーンである。
子供がいない為、普段の診療業務を終えると、気晴らしに旅をする事が大好きなのだ。但し、飛行機嫌いで少々遠い処でも新幹線や在来線を利用されていた。
其処へ個人タクシーの私が現れたので渡りに船であったのだ。なにせ小回りが利き、好きな所に足を伸ばせる事が出来る。
何時もの様にスタートから山陽高速道広島ICにすぐ乗れる。何度走った事で有ろうか。遠出の旅の土日、とか祝日を挟んでの先生夫婦ご乗車以外にも、普段、営業しており、一般の広島空港利用のお客様を数限りなく乗せて走行している。
今朝はスタートが早い。広島から約300キロ距離が有るからだ。でも高知泊まりだから気は楽だ。車は道中でトイレ休憩を挟んで一気に倉敷に入ってきた。倉敷JCTを右手に曲がると左手がマスカットスタジアムだ。
此処は年に何度かプロ野球のゲームが開催され、主に阪神タイガースが使っている。此処から南下し四国を目指す。広々とした見晴らしの良い伸びやかな道路だ。児島ICを過ぎるとトンネルがある。其れをくぐると目の前が一気に開け巨大な橋が迫って来た。下津井瀬戸大橋だ。鷲羽山トンネル辺りで合流した本四備讃線が下部を、そして其の上を自動車道が走る。
陽の光が眩しく波静かな瀬戸内の海、浮かぶ島々、何とも心が洗われる様な爽快感に浸れる雄大な眺めである。
風光明媚な瀬戸大橋を途中の与島パーキングエリアに降りてみた。開通して直ぐの時に来て以来だ。
下から見上げると、架かる吊り橋の巨大さに目を奪われる。桁外れの橋脚で、その上は二階建て構造のスケールのデカさだ。世界の何処にも無い。其れらを支える二本のケーブルが展示してあった。多くのピアノ線が束ねて有り、何と直径1メートルとある。
ギネスに登録されている鉄道、道路併用大橋としてはダントツの大きさと規模で、日本の建築技術が世界に誇れる橋なのだ。
この橋は早いものでもう30年も経ってしまった。
然し、昔の子供の頃の吊り橋といえば、橋の真ん中で悪ガキがゆらゆら揺らせて、渡っている女の子をキャアキャア言わせたものだ。
此れは正しく吊り橋の化け物そのものなのだ!
此れが出来る迄は、本土と四国の往き来は船しかなく、陸の孤島のようなもので当時は、岡山宇野港、四国高松に宇高連絡船が有り、国鉄(JR)の列車をフェリーに乗せてチンタラチンタラのんびり行き交いしていた。
以前、何度かこの航路を利用した事があるが、宇野港での待ち合わせロビーでは''瀬戸の花嫁,,のテーマソングを聞いた記憶がある。
のんびりとして、のどかないい時代であったものだ。
其れが現在は瀬戸大橋の上を車も列車も一気に通過して行く。
然し、デカイ!それに青い海と空に島々が点在し景色のいい事この上なしだ!
満足感に浸りながら走り終えると四国に入って来た。正面に讃岐富士がみえる。此処は丸亀うちわの産地で全国の90%を占めるほどの生産量を誇る。
何でも江戸時代に、大坂湊から大挙して金比羅詣でに丸亀港にやってくる、その参拝客のお土産として丸金印の団扇を藩が奨励し、作り続けたものがそもそもの始まりで、現在に至っているといわれる。
同じ参拝客であっても、九州や西國からは多度津港から上陸していた。
当時は、庶民が領国の外へ出る事は厳しく制限されていた。然し、寺社参詣と湯治だけは認められており、そのついでに、各地において物見遊山(観光)をするのが旅のかたちであった。
西國から来る参拝客にとっては一生に一度、出来るかどうかの憧れの金比羅詣りで、あくまで信仰の為のものが主であった。だが京、大坂等の東からの客は物見遊山気分で、粋で陽気な関西人が、ほ参拝を兼ねて遊興目的でやって来る。おまけに銭持ちときている。その為に参拝だけではもの足りず、旅籠、商店、土産物屋が立ち並び門前町を形成し茶店、遊女屋、芝居小屋などの遊び場が必要となったのである。
「金比羅船船、おいてに帆かけてシュラシュシュシュ〜」と陽気なお座敷小唄が流行る様になったのも諸説有る様だが、地元からではなく、大坂湊の宿場から流行ったというのが筋ではなかろうか。
何せ気候温暖な瀬戸内の海だ、風待ち潮待ち任せの波静かな状況の中、帆かけ船で、さしたる酔いもなく来れるので陽気になろうというものだ。
こうして昔から貧乏な讃岐の地も、金比羅さんへの多くの参拝客のお陰で繁栄していったのである。
讃岐平野の西の端には、弘法大師生誕の地、善通寺と金刀比羅宮という有名な寺社が存在している。
善通寺は空海(弘法大師)の生誕地で、この場所の西院に祀られている。
讃岐の地の豪族であった御父、佐伯氏の所有地の寄進に寄り善通の名を冠して善通寺となった。神社仏閣といえば、おおよそ一段と高い場所に創られている。だが此処は平地の一等地に鎮座している。第75番札所である。
弘法大師は高野山に真言宗総本山金剛峯寺を開創して1200年、十四才の少年時代迄は此処、讃岐の地で過ごし、次男坊の為、学問を学ぶ為に上京をしている。
此れらの有名な寺社が有る事により、海を隔てた四国の地に有りながら、金比羅さんがお伊勢参りに次ぐ、参拝客規模になったのである。
善通寺へお参りした後、更に土讃線琴平駅の方へ廻ってみた。国の登録有形文化財とあるが、正面から見ると和洋折衷のなんとも不思議な駅舎である。古い歴史の金比羅さんに何で洋風なのであろうか。
そして駅前から西の象頭山の山腹に点在する金刀比羅宮を目にすると、早々に先生の一声
「こりゃ駄目じゃ!」
「諦めますか」
「まぁ、近くに行ってみようや」
間近に見上げながら商店街を突き進む。これはとてもじゃないが傾斜もきつそうで、785段の石段を登るなど到底無理な話だ。
「奥さん、どうします?とてもじゃないが無理なようですよ」
「フゥ〜ン」
「一寸、インチキでもしますか」
「何よ、それ?」
「地元の方の生活道を出来るだけ上に乗り上げましょうよ」
何とか車で上に近付けないかと幟の多く立っている‘'金丸座,の横を通って更に坂上に駆け上がる。地元の方達の参道商店街の搬入路だ。
「こんぴらさん、今日は皆んな、よう歩けないから横着をしてごめんなさい」
奥さんの一声。
これでは御利益がないかな。でも何はともあれ、出来るだけ上の方で先生夫婦を降ろしてお参りをしてもらう事にした。中腹辺りまで来ると参道商店街裏に駐車スペースが有る。其処へ車を止めて
「すみません。お客さんに楽をしてもらう為に、上の方に登らさせてもらいました」
「どうぞ、どうぞ、止められてもいいですよ。タクシーだから出来る事ですよ。広島市内からですか」
「そうです。有難う御座います」
「然し、奥さん、傾斜がきつくて階段が多いのは生活するのには大変ですね」
「いえいえ、此れも慣れですかね、さして気にしておりませんよ」
「其れに、この直ぐ上には悩みを消す石段が有るんですよ。此れも''こんぴらさん,,の御利益ですかね」
「エェ〜、其れはどう言う意味ですか」
「実際は786段あるんですが「悩む」と語呂が良くないと、一段マイナス階段があるんですよ」
「是非、其処でその階段を乗り越えて悩みを無くして帰って下さい」
「へぇ、それは知らなんだ。どうも、どうも」
「よしゃ、其れなら頑張って行くか」
其れから先生夫婦連れで横の路地からゆっくりと登られて行った。
坂の途中の土産物屋の奥さんが教えてくれたお礼に、灸まんを二包み購入する。
「奥さん、ほんまなら三つ買わんといけんのに、こんな時にマイナス階段を使ってごめんね」
此の冗談には店先で聞いていた店主も、声をあげて大笑いしたのであった。
其れから暫くの間、下の歌舞伎小屋へ行き、様子見にする事にした。
「下に幟が仰山立っとりましたがあれが有名なこんぴら歌舞伎の金丸座ですか」
「そうですよ。昔は芝居に使われる事は無くて寂れていたんですが、昭和60年頃から歌舞伎公演をやられる様になりましてね、毎年大変な賑わいになりましたよ。凄い役者さん達が来演され、お練りの時などは、もの凄い数の方が沿道で声援を送られますよ」
「有り難う御座います。一寸、覗いて見てきます」
日本最古の芝居小屋で天保6年(1835)に建てられたとある。大きくはないが何処となく趣きが有った。
客席と舞台とが近い事で、演ずる役者さんの目の動き、立ち居振る舞いが手に取るように分り、お客さんとが一体となって楽しめる事の様で、大劇場では味わえない醍醐味のひとつなのであろうか。
因みに先生夫婦は私と知り合う以前は、正月は毎年、東京で迎えられていた。子供さんがいない為にホテルでの連泊である。そしてそのおりには、必ず初春大歌舞伎を歌舞伎座で鑑賞されている。
さぞや今回は間近で観る事が出来ず残念であっただろう。
毎年、四月に公演が行われている。
坂を下り後は名物の讃岐うどんに舌鼓を打つ。何軒も並んだうちの一軒の暖簾をくぐり店に入ると、讃岐うどんの云われを書いた講釈が掲げてあった。
それによると讃岐に誕生した空海(弘法大師)が修行の為、中国に渡りその際、持ち帰ったのがうどん製法と言われている。
もともとこの地は降雨量が少なく米が安定的に収穫出来ない。その為、代用食として麦から作ったうどんが欠くべかざるものであったのだ。
「うどん」といえば、だし汁を作る為、瀬戸内の「いりこ、塩」小豆島の「醤油」と上質の小麦が必要で有り讃岐地方は此れに全く適しているのだ。
うどんを美味しくいただき、お店を出ると此れから先は国道32号線で小さな阿讃山麓を越えて行かなければならない。
香川県は日本で一番少ない面積の県で山間部が少なく平野が広がっている。
瀬戸内海は気候が良く雨が少ないときている。その上に高く深い四国山脈に降る雨は、あらかた吉野川に集まり徳島に流れていく。
阿讃山麓が邪魔をする為に讃岐平野に水が回って来ないのだ。その為に遠い昔より多くの溜め池が作られqた。
現在は1万数千余り有り、そのうち殆どが江戸時代につくられている。
善通寺からそう遠くない処に満濃池がある。遥か昔に空海がこの溜め池に関わったといわれている。
「一寸、溜め池の親分の方に寄ってみましょうか。1200年前に弘法大師が改修に関わっているそうですよ」
「出来たのは其れから更に百年も前で、日本で一番古くて国内最大の灌漑用の池だそうです」
「そんなに古いんか。昔からもずっと雨が少ないんじゃな」
「寄ってみましょうよ」
のどかな田んぼの中を走る土讃線の列車を横に見ながら坂を上がると長い堤防が見える。
堤防の上に来て驚いた。何と広大な事、此れが池か!
周囲約20キロ有るようだ。
然し、考えてみると、こんな溜め池を人出を集めて作ったのも遥か昔の先祖さん達である。その時代に改修に関わった空海も一人の人間だったのだ。
其れが千二百年を経た今の世の中、弘法大師として仏様、神様として崇められている。何とも不思議な世界であろうか。
左上に行くと国営讃岐まんのう公園がある。綺麗に整備されていた。
そこを離れて国道32号を阿波池田駅を目指す。急な登りのカーブ、トンネルが続く。
暫く走ると下りの急坂の途中に「坪尻駅600m」の標識が有る。
此処があの有名な秘境駅か。土讃線の坪尻駅はテレビに度々登場しよく知っている。
車を止めてよく見ると草叢の中に細い道が有る。其処には何本もの杖が置いてある。急坂の為とマムシや動物避け用の物と思われる。
確かテレビで見た時は、トンネルを出て直ぐに待合所が有り、駅構内にスイッチバック線路があった筈だ。然し、駅へ入る取り付け道路が無いのだ。この辺りは標高も高く鉄道も国道も長いトンネルが多い。ナビを見ても何処からも進入路はない。
国道や近くの集落から1キロも離れてはいないのであろうが何せ谷底に位置している。
これぞ正しく日本一の秘境中の秘境駅であろう。
峠を越えると急坂が続き眼下に池田の町が見えてきた。
左側に箸蔵寺の看板が有り山頂に向けてロープウェイがみえる。
此処から土讃線も国道も街中に入る為にUターンの様に迂回して下って行く。直ぐ下を吉野川が流れている。
今は亡き蔦監督が率いるイレブン野球で甲子園に旋風を巻き起こし、チームが春夏の大会で何度も全国優勝を果たしている。
小高い山上に建つ県立池田高校の正門前を通り、車を停めて暫し感慨にふけっていた。よくもこんな山奥の公立の学校で甲子園出場を果たしたものである。当時は早稲田実業の荒木大輔や、大阪PL学園が強くプロ野球で大活躍した 清原、桑田がいた頃ではなかったかと思われる。
「合掌」
高校の直ぐ下は吉野川を堰き止めた池田ダムで其処を川沿いに国道を遡る。
★ 祖谷のかずら橋
土讃線の祖谷口駅から左に別れて支流の祖谷川沿の細い道を駆け上がって行く。一段と険しい細い山道になってきた。
するといきなり右手の高い山腹に集落の屋根が見えるではないか。何と云う、こちらも田舎の山奥育ちだが、これほど切りたった急峻な山の中腹に、家が有るなど見たことがない。
多分、この祖谷を除いて日本国中、何処にもないだろう。この光景は、奥に入るに従って何箇所も点在しているのだ。
現在は少々険しい道でも舗装されているが、狭くて急な昔の獣道であれば、どうやって登り下りしていたのであろうか。大八車など到底無理で、全部人手によって背中に「おいこ」や「ビク」を背負って用をなしていたことであろう。
祖谷渓は源平の屋島の合戦に敗れた平家落人の里と言われていた。両方に切り立ったV字形の山裾を削る様に急流が流れている。
普通、日本の河川が有る場所は、人間の生活する上での地理的条件として、必要不可欠な水、農耕と憩いの広い場所が有り、集落を形成するものだ。だがこの渓谷には全く其れが存在しない。
此れも落人達が、追手からの目を逸らせる上での知恵だったのであろう。
ご先祖さんから代々に渡り住んでいるとはいえ、今の家族の少ない高齢化時代では、暮らし続けるのが容易な事ではないだろう。
ドンドン上に登って行くと、細い道の先に車が駐車し二人連れが下を覗いている。 こっちも車を止めて見学する事にした。
ガードレールの外側には小さな小便小僧が据え付けられている。其の下はまるで底なしの断崖絶壁だ。その場で用足しをすると、いきなり深い谷底に霧雨となって届くであろう。目が眩むほどのこの光景は秘境の中の最秘境である。
考えてみれば、平家の落人伝説の熊本の五家荘から宮崎県の椎葉村にかけての連なる山深い自然溢れる景観、其れとサラリーマン時代に見た、険しい山岳の豪雪地帯の白川郷と合わせて日本三大秘境を旅する貴重な体験となった。口には出さないが胸のうちで(先生、奥様、毎度の事ながら有り難う御座います)
「こりゃ又、凄い処に人が住んどるもんじゃのう」
「昔の人達はどうしてあんな高い処へ住み着いて、生活をしていたんでしょうかね。殆ど耕作地が見えないですが」
「毎日がお粗末なもんの自給自足だったんじゃろう」
祖谷そば、アメゴ、そば米雑炊(蕎麦を粒のまま食べる)、でこ回し、と素朴な味のものが祖谷名物と云われるが、此れらは落ち延びた平家の落人以来の伝来の料理法である。
其のすぐ先の絶壁の上に立つ祖谷温泉ホテル。露天風呂が深い谷底の川岸に有り、其処へ降りていく専用のケーブルカーが見える。
駐車場を見ると多くの車が止まっている。日帰り温泉客なのであろうか、よくもこんな山の中迄と感心させられる。
其処から段々と下って行くと集落がある。この辺りにしてみれば繁華な地区なのだ。それなりに小さなホテルも有り民宿の看板も多い。都会や町住まいの人達にとっては祖谷の秘境に惹かれるので有ろうか。それに昨今は外人観光客の方に秘境巡りという人気を博し、年間多くの人が訪れている。ここ10年間の統計によると国外から30倍以上増えたとある。
だが、この地もご多分にもれず高齢過疎化している。然し、住人の素朴で優しく親切な人情が、クチコミで拡散して活況を呈する様になった。
昔はこの先から更に険しい道になっていたのであろう。殆ど崖沿いの道にへばり着くようしながら上の自分達の住む集落へ行き来していたと思われる。
現在はトンネルが有り楽に通過できる。
其の先にこんもりとした茂みがあり駐車場には車が結構止まっている。かずら橋だ。
「此処まで来たついでに渡って見ますか」
「よしゃ、そうするか。お前は大丈夫か」
「私は全くへっちゃらですよ」
と笑いながら奥さんが先に立って歩き出した。
橋が見えて来た。他の観光客もキャァキャァ言いながら恐怖半分、楽しそうにロープにしがみ付きながら前に進んでいる。何せ小さな角材で組んだ足元から、下の水の流れる沢が丸見えなのだ。其れも14メートルもあり結構高い。
「先生、奥さん、私しゃ辞めますよ。幾ら貰っても絶対に渡りませんよ」
奥さんは嬉しそうに
「やっぱりね」
早々に諦めて駐車場で待つことにした。
このかずら橋、祖谷地区には何本も残っている。
元々は、屋島の合戦に敗れた平家の残党が、散り散りバラバラになりながら四国山地に逃げ、一部が隠れ棲んだのがこの地であった。逃げる方にしてみれば恐怖心から奥へ奥へと逃げ延びた。
然し、実際はそれ程、源氏の追っ手が掛かっているとは思われない。最初の源平合戦は、摂津国の一ノ谷から始まり次に四国の屋島に場所が移り、最後は京の都よりかなり離れた壇ノ浦で決着している。双方ともに戦いの場を移動しており四国山地の奥地迄、敗残兵を追っかける余裕などなかったのだ。
この地に住み着いてからも、追っ手から身を守る警戒心の為に、様々な工夫を施し、其の一つがかずら橋だったのである。
急峻な山や崖がある高い場所に住み、下から見えない様に樹木で覆い、敵の侵入が出来にくい様にした。
又、遥か下を歩く人間を見張り、更に急流に架かる橋を渡って来る敵を防ぐ為に、何時でも切り落とせる様に、かずらやフジの蔓で架けたのである。
私達、観光客は現在、何気無しに騒いで渡っているが、約八百年以上前の先人達は、心中如何ばかりのものであったか、橋だけが知っている。
先生夫婦が橋を渡って帰って来る迄の間、駐車場で待っていた。
此れから何処をどう回るかと思案をしている時、小さなマイクロバスが駐車していた横を奥の方へ上がって行くではないか。
「おやまぁ、まだ此の先に集落があるんかいな」
車を降りて外で一休憩しながら眺めていると、他に止まっていた地元のタクシーから乗務員が降りて来て話しかけて来た。
「広島ナンバーですが、高級車でまさか観光でお客さんを連れて来られはったんでは」
「ハァ、朝、広島市内から瀬戸大橋回りで池田から上がって来ました」
「こんな長距離のお客さんがおられるんでんな」
「開業医さんですよ。ハイヤーの一日貸切ですよ」
「道理で」
「今夜は高知泊まりです。おたくも関西からでしゃろう」
「へへへ、地元も地元、直ぐ其処でんね。大歩危駅からですわ」
「僕は五年前にこっちへ帰りましてん」
「大阪の何処」
「西区の靱公園近くですわ」
「私しゃ、立売堀ですよ」
「なんじゃ、直ぐ近くじゃないですか。あの「どてらい男」の会社がある」
「そう、其処ですわ。十年居りました」
「いやぁ、お互い懐かしいですなぁ」
「然し、祖谷も随分と変わりましたよ。私が子供の頃は、他所からは誰も寄り付きもせんほど寂しい田舎で正に落人の里でしたよ。うちのご先祖さんもそうだったんでしょう。とんと人見知りをしていました」
「其れはそれなりに良いとこがあったんですけどね。
祖谷渓に、近頃は毛色の違う人達や話す言葉がまるで分からんのが増えましてね」
「ですが人間って不思議ですね。こちらが真心で接してあげると互いの心が通ずるんですわ」
「うちの家も更にこの奥の険しい山の中腹に張り付く様にあるんですが、此処へ帰って来てから女房が民宿を始めたんですよ」
「其れはいいことを始められましたね」
「長い大阪での暮らしからまるで環境が変わりましたが、田舎の風習や生活習慣が、都会の人や外人さんには新鮮に映るですかね」
「幸いな事に女房は北区でホテルの派遣社員をしていましてね、それなりに英語が話せますから、外人さんの接客には慣れていましてね。私はでけませんよってに身振り手振りですよ。でも此れが案外楽しいんですわ」
「結構、来られましてね、うちに来られるお客様の半分以上は外人さんで喜んで接客をしていますよ。其れに料理好きときとります」
「何も無い処ですが、此れから更に上に登ると、霊場剣山が聳えとります。とに角、この地はご報謝精神に溢れていますからね」
「ハイ、その心は、遠来から来た人達にも特に感じられると思いますよ」
「最近では、この地に都会から住み着いた方が二軒あるときいております。有難いことですよ」
余程、広島から来たハイヤーを見つけて嬉しかったのであろう、堰を切った様に喋っている。
「この前、フランス人の親子四人が祖谷体験に来られ、一泊予定が結局一週間滞在されましたよ。余程この地が自分達家族にリズムが合ったんでしょうかね。子供さん二人が、うちの子と同い年の男女であっという間に仲良くなりましてね。子供の物覚えは速いですよ。家族が帰る時にはですね、生活に困らない程のフランス語を身に付けていました」
「うちの子達が学校へ行っている間、寂しかったんですかね、一緒に連れてってと言い出しましてね。日本の学校を見てみたかっんでしょう。其れではと私が姉の中学校と弟の小学校にかけ合いに行きましたよ」
「此れには学校も喜んでくれて、一日体験入学を認めてくれました。ご存知の様に両方とも生徒が少なく、家族的な雰囲気で直ぐに馴染めました。皆んな親切で互いが近寄り、フランス人に接する事が嬉しかったのでしょう」
「女の子は昔の歌の文句じゃないけど‘‘青い眼をしたお人形はフランス生まれの〜’’ですからね」
「うちの子達も言葉が喋れてまるでヒーロー扱いだった様です」
日本人の挨拶の仕方から掃除や整理整頓を一緒にやり、算数、数学の時間では先生から児童生徒までが一緒になって黒板に「1、2、3、4、5と数字を書き、いち、にい、さん、しい、ご」そして「アン、ドゥ、トゥワ、ガタァ、サンク、シィス」の大合唱であっという間に一時間が済んだそうです。皆んな
「もっとやりたい!」
その日は先生も急遽、フランスの地図を引っ張り出してコピーし、他の授業もみんなフランスがらみになったそうです」
この子達は特に給食時間は大喜びで、日本の食事作法と自分達で配膳、後片付けと進んでやったそうです。「イタダキマス」「オイシイ、オイシイ」「ゴチソウサマデシタ」
「フランスの学校ではこんな事は絶対にしたことがないと両親が言っていました」
「親達にしても田舎での一日中の、する事なす事が新鮮で、全て吸収しようと百姓仕事を進んでやった様です」
「聞けばフランスの自分達が住んで居る処は、全く山河が無く殺風景な処だそうです。各家庭にしても家々の回りに日本程庭木が植えてありません。この祖谷の緑溢れる大自然に囲まれ、親切な人々との共存に、どれだけ心が和まされる事か、涙を流しながら感謝してくれました」
「とに角、この一週間の間、休む事は無く、急斜面に有る蕎麦畑や野菜の手入れの手伝いから、かずら橋の材料の、しらくちかずらの自生しているのを見に行ったりしました。
やはり一番は霊場剣山への登山体験だった様です。互いの家族で一緒に上がり感激しました。うちの子達も初めての経験ですから。
天気も良く絶好の山登りでした。同僚が運転してくれるジャンボタクシーに乗り上がって行きました」
「そんなにてっぺんの方迄行けるんですか」
「そうです。更にリフトが有りますからね」
「ほんの 7〜80年前迄は女人禁制の霊山で、道なき道の険しい山岳修行の為の登山というイメージだったのですが、現在はハイキングコースみたいに誰でも登れますよ」
「幾つもある神社や小さな祠が大切に守られ、そして人々を山の神が見守っていてくれていると云う互いの感謝の精神、とに角、古い文化をいつまでも大切にする国は、他に何処も有りませんと感激してくれましたよ」
「この家族が帰った後、学校からも国際交流が出来て、貴重な体験だったと大変感謝されました」
「其れから暫くして、一緒に山の中に入って取ってきた、しらくちかずらを使ってミニュチアの吊り橋を作りこの家族に送ったのです。其れに小、中学校の生徒の寄せ書き、折り紙、押し葉を添えました。そしたら、大感激し我が家の家宝にするとの事、其れに、今度は是非フランスに来て下さいと有りました。これには子供達も大喜びで、辞書を買い込み競争する様にフランス語の勉強により熱が入っています」
「然し、日本は有難いですね」
「何で」
「昔、逃げ隠れるする様に落ち延びた祖谷渓にはまるで道が無く、私が子供の頃に学校ヘ通う間中、自分の家に帰るにも獣道でしたよ」
「其れが現在はポツンポツンと有る各家々の庭先迄も道が広げられ完全舗装されていますよ」
色々、世間話をしている時に先生夫婦が帰って来た。
「いやぁ、ええ話しを聞かせて貰えて良かったですよ」
「どう致しまして、こちらこそ楽しかったですよ。此れからも互い に元気で頑張りましょう」
「お帰りなさい、平穏無事にお渡りのようで」
「大袈裟な、然しまぁ、怖い事、怖い事、下が丸見えじゃ。足腰が弱っとるけぇもう二度と渡らんぞ」
「私しゃなんとも、気持ちが良うてスッキリしたわ」
いやはや何とも度胸の座った奥さんに男二人のだらしのないこと。まぁいっか。
先生、此処はまだ序の口で、奥が深くて剣山まで続いておる様ですがどうしますかね」
「今日はそこまでは行く時間が無いよのう。其の先辺りから引き返すか」
「そうしましょうか」
「其れにな、この山は女人禁制じゃろうが、お前は登らりゃせんぞ」
「何を今時そんな馬鹿な」
と奥さんはせせら笑っている。
然し、此れは昭和初期頃迄、現実に山岳信仰の霊場として守られていたのである。
此処も奥だが更に道は続く。此れをどんどん上がって行くと剣山へと続く。四国第二の高さで1955メートルもある高い山だ。
今は殆ど頂上近く迄道路が整備がされており誰でも行く事が出来る。昔は霊山で修験者のみの道無き道の険しい山であった。
かずら橋から少し上った処まで来たが、祖谷川の側を走る狭い道路には集落は無く平地の耕作地が全く無いのだ。然し、両側の切り立った高い山腹には何軒かの屋根が見える。其れこそ一枚の水田も無いであろう。秘境住まいそのものである。先程のタクシー乗務員の話からすると、此処ら辺りに民宿住まいが有るのであろう。
奥祖谷からUターンして下りて来て国道筋に出る為に走っていた時である。祖谷民俗資料館辺りを少し行った処で、道路脇にへたり込んでいる人がいる。
「おやまぁ、気分が悪いんですかね」
「一寸、止まっとみちゃるか」
近寄ってよく見ると男の外人の様だ。然もまだ若い。30才前ぐらいで有ろうか。
「May I help you?」と声を掛けると返事がない。
すると先生が車から降りてきた。近ずき顔色をうかがいながら
「おう、こりゃ貧血の様じゃ。此の陽射しの強さと山歩きで疲れたんじゃろう」
「車に乗せて風通しをようしてやると直きに良くなるよ」
先生には容態が直ぐに察しが付く。
荷物は旅行用バッグが一個あるだけで其れをトランクに積み込み、助手席をリクライニングして寝かせてやる。
「where going from here?」
下手な英語で声を掛ける
「コオチ、ダイニチテンプル」
「オゥ、話しが出来るか、日本語が分かるか」
「スコシダケ」
よく見ると輪袈裟を首に着けているではないか。
色々、走る車の中で話しを聞いてみると、祖谷のかずまら橋を渡ってみたいと回り道をしたらしい。無論、ヒッチハイクである。
「ワシ等も此れから高知市へ行くから、その寺へ乗っけて行くよ」
「でも良かったよ。この方はドクターだよ」
「アリガトゴザイマス」
イギリスからの留学生で大阪で学んでいるらしい。四国巡礼八十八箇所巡りに興味を持ち、今度が二度目らしい。
奥さんが急に
「一寸、車を止めて!」
というと道路の傍らにあった自動販売機に駆け寄り、冷たい緑茶のペットボトルを買ってきた。
そうこうしている間に顔色も良くなり覇気が出て来たではないか。
「大分、良くなったな」
「アリガトウゴザイマス。オチャイイデス」
其の内、土讃線の大歩危駅から吉野川と線路と国道が並行する様に高知を目指して走って行く。
やがて大豊町という処にやって来た。
道路標示の看板に「日本一の大杉と美空ひばりの遺影碑歌碑」の看板が見えるではないか。
「おっと、其処へ一寸寄ってみようや」
「ヘイ、ユー、一寸、待っとってくれるか」
「ワタシイキマス」
「ヒバリシッテマス。ビッグシンガー!」
「アンド、ビッグトゥリー、パワースポット!」
「ハハハー、然し、面白い会話じゃな、英語に日本語に広島弁。こりゃ堪らん!」
これに従い右手に上がってみた。
其れによると、美空ひばりがまだ小さかった頃、美空和枝と本名で名乗って地方巡業をしていた頃、此処ら辺りの国道筋でバス事故に遭い、一ヶ月近く入院する羽目になったのであった。
療養後に其の大杉のもとで「日本一の歌手になれます様に」と願掛けをしたそうです。
八坂神社の境内に有り樹齢約三千年、知る人ぞ知るパワースポットになっている。幕末の志士、坂本龍馬も詣でたとある。観るものを圧倒する迫力があった。
境内を箒で掃き掃除をしている地元の婦人に話しを聞くと、よく超有名人の歌手や芸能人の方が参拝に訪れられますよと云っていた。其の道のパワースポットなので有ろうか。
近くの道の駅で休憩しながら軽く食事をとった。
無論、先生の奢りである。
奥さんは食事の前にレストランの厨房に立ち、この青年の為に、貧血症状に効く野菜や肉の配慮をお願いをした様である。
「旅は道連れ世は情け 、渡る世間に鬼はなし」
本当にお医者さんの奥様らしい心優しい配慮であふれている。
此れだから高速道を行かず、地元の地道を走るのが堪らない。
其の後は大日寺迄送って行った。
別れの時、彼は完全に腰を屈め頭を下げ、手を合わせてお礼を述べる日本式の態度振る舞いであった。
今日の泊まりは高知であり、まだ陽は高い。
「こりゃ、ええ処で降りてくれたなぁ。室戸へ近いじゃろう」
「そうですね、海岸線の一本道ですからそう時間が掛かりませんよ」
「ごめん なはり線」なる変んてこりんな名の線を走るディーゼルカーが土佐湾の潮風にあたりながら景色の良い海沿いを走っているのを見かけた。
高架の上をド派手な漫画の絵の様なラッピングが施された車両が国道筋と並行して走って行く。何んと車両デッキから、観光客で有ろうかこちらに向かい手を振っている。其の幅も広いのだ。後調べてみると海沿いに面している側は殆どデッキになっている様だ。座席は中に寄せてあり何と粋な構造ではないか。
なんでも、どてっぱらに書いてある絵は、此の地出身のアンパンマンの作者で「やなせたかし」のものらしい。
暫く走っていると安芸市内に入って来た。左手にいきなり阪神タイガースが毎年キャンプを張っているタイガースタウンだ。如何にも気候が温暖な場所のようである。
だいぶ前だが、他のお客様を観光案内でお連れした時、沿線沿いの町に、元大相撲の地元出身力士の「土佐海」の幟が仰山はためいていた事があった。何せ、地元の英雄だ。
小さな町で一面が田んぼの、のどかな風景だ。安芸駅を北に進むと、白壁で黒い屋根瓦の一際目立つ大きな屋敷があり大時計が見えるではないか。側に寄りながら写真を撮り説明書きを読んでみる。
大地主であったこの家の畠中源馬は、自分が苦労しながら自作の大時計を作りあげた。明治20年頃の事である。素人で此れを作り上げるなど凄い人がいたものである。以来120年以上、時を刻み続けており全く綺麗な盤面であった。今では安芸観光のシンボルとなっている。
此処に来て一番見たいものは岩崎弥太郎の生家だ。
言わずと知れたあの三菱の創始者である。家の造り自体は大きくもなく、弥太郎が生まれる前に郷士の株を売り払った、いわば地下浪人で曽祖父が建てたとある。その頃は農業に従事していた。此れは220年以上も昔の建物で日本の家屋は何年経っても持つ丈夫な造りに畏れいる。
この家の長男で育った弥太郎は貧乏ながらも子供の頃から頭脳明晰であった。生家がお医者の出である母親の影響で土佐藩随一の儒学者から儒学を学ぶ環境に恵まれた。
十四才の頃、当時の土佐藩主山内公より漢詩や書を披露し褒美を頂戴している。
二十一才の時、土佐藩士の従者となり上京した。江戸でも塾に入り更に勉学に励んだ。その遊学費用は親が田畑を切り売りし捻出したと言われる。
然し、その後、一年くらいした直ぐの時、父親の不祥事の為に帰郷、酒癖の悪い親父の事で郡奉行所と掛け合い中、揉め事を起こし、逆に投獄され名字帯刀を剥奪され井ノ口村追放をされている。
其れは暫くしてから汚名回復はかなった。
然し、いかに頭は良くても藩士としては所詮、下級武士の為、認められる働きが出来る訳もない。とに角、中途半端な波乱万丈の前半の人生であった。
その後は吉田東洋の門下生となった。身分に関係なく真面目に学ぶ若者を受け入れ、同塾の後藤象二郎らと知り合いとなる。
此れが後々、岩崎弥太郎の商才に長けた実業家へと大出世に繋がっていく。
安芸の町を室戸岬を目指して太平洋を見ながら「ごめん.なはり線」と並行して走って行く。
終点の奈半利駅に立ち寄ってみる。仲々モダンな駅舎だ。案内板によると浜口雄幸元首相、中岡慎太郎、更にフランスのモネの庭をモデルに作られた庭園と結構見どころが有るようだ。
勉強不足でごめんなさい。今度、来た時は必ず立ち寄りますから。
室戸市を抜け岬灯台を目指す。室戸と云えばどうしても大型台風の襲来を思い浮かべる。いきなり太平洋に直面している突端だ。普段でも、何ら邪魔物が無く何時でももろに直撃をうける。宿命とは言いながら気庭の毒でならない。屋根の構造も風が流れ易く二重屋根で庇が短めの様に感じられた。
室戸岬の上に立つと異様な光景を目の当たりにする事が出来る。
今でこそインターネットのマップで、太平洋の海の底の地形迄みえる時代だ。其れによると、室戸岬沖の直ぐ先は断崖絶壁で何千メートルも落ち込んでいる。
其れこそ日本列島はその上にある様なもので地震が多発する筈だ。真っ黒な岩石が荒波に洗われ削られた地球の歴史を感じさせられ、此の場所は今も千年に2メートルは隆起しているといわれる。
丘の上に上がれば最御崎寺がある。高知に入って一番の札所だ。
中岡慎太郎像が太平洋に向かって立っている。坂本龍馬等と共に土佐勤王党として明治維新の先駆けとなった人物である。奈半利の少し奥の北川村の生まれで実家が庄屋で、此れ又、郷士や貧農の出達が日本の歴史を変える事となるのである。
帰りがけに馬路村を訪れる事にした。柚子を使った’'ごっくん馬路村’'をスーパーで売っているのを何時も見かけていた奥さんが興味を示し
「馬路村はどんな所か行ってみましょうよ」
急遽、ハンドルを右に取り安田から20キロの一本道を山の中に上がって行く。
今時、村と名のつく処が有るのか。
どんな山の中にあっても最近では市町標示になっている昨今だ。日本三大秘境と言われる熊本県泉村に行った時にも八代市になっていた。
広域合併をやろうとしない気骨のある人達が住む馬路村へ是非行ってみたいと思った。
村全域が殆ど山林だが何故だか美しい。日本で一番美しい村と云われるだけの事はある。
其れに小さな村中の集落には、行財政全てのものが揃っている。
立派な山林資源にも恵まれ 、其れに全国一を誇る柚子の生産で、馬路村はダントツの生産出荷量を誇る。馬路村ブランドも全国に名高い。
此れも先人達の努力の賜物であろう。正に堂々たる田舎である。
高知市内に入ると日が暮れかかってきた。先生夫婦をホテル迄おくる。
その後、高知市内のインターネット仲間に会うために高知城に有る山内一豊公の像で待ち合わせをした。
今は誰でも城に上がる事が出来る平和な時代だ。だが幕末の頃に活躍した坂本龍馬は下級武士の為、城の近くに生まれながら、お殿様にお目通りが叶うどころか登城も許されなかったといわれる。
山内一豊公といえば戦国時代の末期の頃、大出世し高知二十四万石の初代城主になっているが此れは妻、見性院の内助の功としてつとに有名で語り継がれている。
ホテルを朝、9時に出発する事にした。別々のホテルに泊まっていたので迎えに行く。
「この近くに龍馬郵便局が有る筈よ。日曜でスタンプは押せんけど姉にはがきを出してくるよ」
全国で唯一の人名を冠した郵便局で、全国から来た観光客が此処からスタンプを押して記念に郵便物を出す人気振りの様である。
入り口には等身大の坂本龍馬像が立っている。
そこからすぐの所に板垣退助の生誕の地がある。石碑には「板垣死すとも自由は死せず」とある。
武士の家に生まれたが現在はお寺さんの一角になっている。
幕末から明治初期にかけて日本国創成期の頃に活躍した政治家である。
今回は通り一遍で通過した為、高知市の歴史にはあまり触れていないが、タレント、マスコミ関係者との同行旅日記は後に触れてみたい。
高知と云えばはりまや橋、「南国土佐を後にして〜」歌の文句じゃないけれど、一度は目の保養にと車を側に停めた。尤も私は、今迄に何度も他のお客様を乗せて来て案内をしている。
「此の近辺に居りますから行って間近かで見て下さい」
奥さんは鼻歌まじりに口ずさみながら一人小走りに駆けていく。
だが先生は全くの拍子抜けの様子で
「ありゃ何じゃ」
と橋半ばで折返すと先に戻って来た。
「女房は近くの日曜朝市に寄ってくると云うとるよ」
処がなかなか帰って来ない。
「どしたんかいな。方向音痴で迷うたかな」
暫くすると嬉しそうに包みを持って帰って来た。
「良かったよ。通りに市が立っとって仰山人混みがしていたよ」
そしてホカホカの名物芋天を差し出した。
橋は江戸時代から何度も建て替えられたが、変わらぬ人情と地域の生活振りに触れて奥さんは喜んでいた。
現在の橋自体にはがっかりでも、人の見る目の違いで有り、歴史を見続ける昔の商人の名がついた「播磨屋」は満更捨てたものでは無かった。
日本がっかり名所と云えば、一番にはりまや橋が挙げらるらしい。
そういえば札幌の時計台、長崎のオランダ坂と此れらは奇しくも全て実際に訪れている。
見た目は貧相で悪くても、遠い昔の在りし日の歴史をその場で空想すると、非常に楽しいものになるではないか。
波静かな浦戸湾を南下し桂浜に向かう。小高い丘の上に建つ龍馬記念館を見学、景色の良い眼下の桂浜を見渡し更に浦戸城址を下ると巨大な龍馬像が目に入ってきた。
然し、デカい!其れも台座が高いのだ。幾ら志の大きかった龍馬といえどここまでしなくても。他所もんが文句を言っても詮無いことか。ごめんなさい。
其処から一路、中村を目指して土佐湾を西に向かう。
天気は晴れて景色はいいのだが何せ長い。全く単調な海沿いの道で 名所旧跡なるものがない。
「何処か寄ってみるとこはないかな。ほんま退屈な道路じゃで」
「一寸、有名な学校の前でも通って行きますか」
「其れではあの先に見える宇佐大橋を渡って明徳義塾高校でも見てきますか」
「へえ〜、こんな処にあるんか。よくもまぁ生徒が集まるもんじゃのう」
橋を渡ると明徳義塾 キャンバスとある。此処は校庭も無く本校はまだ先に有るのであろう。
坂を駆け上り段々と入り組んだ景色の良い道になって来た。
然し、完全に山道だ。こんな処に有る学校など殆ど全寮制なのではないだろうか。地元から通学するなどあり得ないだろう。野球部だって相撲部でも全国的に強豪で日本各地から生徒を集めているのであろう。其れに世界各国から留学生を受け入れていると聞く。大相撲の朝青龍も此処の生徒だったが、スカウトされ中退しているとの事、三分の一以上はそうだと聞く。是非、各界で活躍する良い人材を多く輩出してほしい。
「頑張れ、明徳義塾!」
校門前迄行きそう願われずにはいられなかった。
更に西へ進むと山間に武市瑞山像の標示が出て来た。言わずと知れた土佐勤王党の盟主て有る。半平太と呼ばれ、大正時代の作者によって書かれ、芝居に出て来る「月様、雨が、春雨じゃ濡れてまいろう」の名セリフの月形半平太のモデルで有るや否やの声がかまびすしい。
此の人物もやはりこの地の郷士であった。こうした下級武士達による尊王攘夷思想に依り、長い長い徳川幕府による鎖国制度が打破されやがて近代日本の先駆けとなった。
★ 四万十川の不思議
今、四万十市、以前は中村市と云われていた。
国道56号を走り町の中に差し掛かって来ると「アストモスLPガスセンター」が有り、過去に此処で二度程、充填したことがある。
今迄に何台も乗換えクラウンロイヤル サルーンを愛車としてきたが、二代続けて燃料はLPガスだった。今でこそ燃費が良くなって、ガソリンのハイブリッド車がハイヤーの主流になっている。
今回は、何時もご乗車頂く先生夫婦以外に、四国の吉野川、四万十川探訪を二泊三日でご利用頂いた河川巡りの旅を記してみたいと思う。
関東のお客様で中学校を定年退職され、人生一度はのんびりと、夫婦で全国を旅してみたいと思い付かれ、その時に当方をご利用頂いた。教頭迄勤められ、社会科の教員をしておられたのだ。
奥様も小学校の教員をされていたとの事。
「生徒達には、行ったこともないのに知ったかぶりをし、四万十川の不思議を語っていましたが、是非一度、この目で確かめてみたいと思い来ました」
「私らの夢などほんの細やかなものですよ。日本史、世界史を教えていましたが、世界の河川から比べたら、日本の川は、ほんの糸の流れの様なもんです。エジプトのナイル川やブラジルのアマゾン川なんかは全長6千キロを優に超えますが、四国一の四万十川はたったの196キロですからね。でも小さくても中身は詰まっていますよ」
高知泊まりの後、朝9時頃出発した。
「其れでは一気に河口の中村の町を目指しますか」
「いやいや、その逆ですよ」
「と言われますと」
「源流近くから下って行くんですよ」
「其れではもの凄く遠く、時間が掛かるんじゃないですか」
「私にも実際よく分からないんですが、最近の拡大地図を見るとそうではない様なんですわ」
「普通に日本の川であれば、海辺の河口から源流の山奥に行くに従って段々と細くなり、道も無く、川の側を通るのは先ず不可能でしょう」
話しをしながらナビを検索したところ、この川は源流地域に車でほぼ行けるのだ。其処には「四万十川源流センター]がある。
「取り敢えず、其処まで行ってみましょうか」
「了解!其れではその先の須崎から上がりましょう」
「四万十川は源流から河口迄直線距離にすれば短いんです。だが何故か、河川の全長が日本で11番目に長くて196キロも有るんですよ。それに海辺の須崎から源流地点までが30キロそこそこでしょう。その不思議な発見をしてみたいんですよ」
「先生の言われる事は面白そうですね。是非体験してみましょうか」
高知自動車道を須崎で下りると、国道197号線の新荘川沿いのなだらかな道を駆け上がって行く。周りは結構田んぼの耕作地が続いている。
途中に、かわうそ自然公園なるものがある。
「処で今走っている国道197号の終点は何処だと思いますか」
「え〜、突然、何でしょうか。私もこの道は初めて走りますからよく知りませんが」
「へへへ、僕も来る前に地図を見ましてね、何と九州なんですよ」
「四国からフェリーで渡って大分市迄の海上国道らしいですよ」
「そんな道が日本には結構あるんですね。一昔前の行政のする事はよく分かりません」
「其れこそ此の197号線は「行くな国道」と云われる程険しいオンボロ道だった様です。でも現在は完全整備され快適に走る事が出来ますね」
「そういえば、佐田岬に行くメロディーラインは尾根の上を走って行く道路で景色が良かったですね」
道路談義をしながら暫く走ると、国道の上を横切る白い箱型の物が見えて来た。
「あれは何でしょうかね」
「多分、石灰石の積み出しのベルトコンベアーじゃないですかね」
「此処ら辺りは四国カルスト台地といって膨大な石灰石があり、其れも露天掘りの様ですよ。須崎港に繋がっているんじゃないでしょうか」
「何度も須崎港を見ていますが、確かに白い物が広い場所に有りましたよ。あれが石灰石なんですか。採掘場から直線で三十キロは続いているんですかね」
「まぁ、とてもじゃないが、急坂の険しい山道のトラック輸送は無理でしょう」
更に上に行くと新荘川が小さな小川になってきた。
幾つものトンネルを通り過ぎると道の駅の「布施ヶ坂四万十川源流の駅」がある。此処ら辺迄ずっと登り坂が続いていた。更に長いトンネルを抜けると信号機の有る交差点が有り、船戸郵便局が角に有る。其処を右に曲がって上を目指して駆け上がって行く。
クネクネした細い道だが綺麗で、谷間にせせらぎの様な流れがみえる。何処にでも有る小川の風景だ。登りきると水辺広場が有り「橋本大二郎高知県知事」の源流碑なるものが建立してあった。其処から徒歩約二十分そこそこが源流地点のようだ。
「此の直ぐ近くが源流の様ですね。然し、此の地点まで車で上がられて、更に、比較的簡単にスニーカーで誰でも歩いて行けるなんて、こんな川は日本国中、何処にも有りませんよ」
「言われてみれば、確かに不思議な川ですね」
其れから先生夫婦は少しの間、沢に下りて行かれた。
静寂の空間の中、車から外に出ると、気持ちが良くて森林浴気分だ。そして暫くして上がって来られると、感激された表情で
「有難う御座います。本当、一生の良い思い出になりました」
何を大袈裟なと思った。
だが此の源流地点を訪れた事により、其れこそ、お二人の長年の教員生活の原点に立ち戻り、川の流れの様に、過ぎ去った今迄の人生模様が重なり合って去来し、感傷に浸られたのではなかろうか。
此れから、山有り谷有り曲がりくねった四万十川を一緒に下って行くにつけ、先生の気持ちが分かる様な気がした。
其処で一休しながら、昨日行った吉野川に付いて先生が話しだした。
「今日は簡単に源流点に着きました。だけど昨日の吉野川は、とてもじゃないが、こんな事は絶対に出来ません」
「其れこそ、瓶ヶ森と云ってニ千メートル近い高い山の直ぐ近くが源流点で、並の人間では近づく事も出来ません。其れに河口の徳島市からもの凄く離れているんですよ」
「なるほど、其れが大体、日本の普通の川の状態なんで、如何に、この四万十川が不思議な川かよく分かりますね」
「こうした日本一の清流四万十川の魅力を、源流碑を建立された、あの方が発信されようとしたのでしょう」
休憩を済ませて出発点を下りだした。愈々、此れからが本番だ。
先程の郵便局迄来ると、国道197号を突っ切り県道19号に入って行く。初っ端から四万十川の不思議が見えだした。
「始まりましたよ!」
先生は嬉しそうに、子供の様に前方を見やりながら叫んでいる。
いきなりの雄叫びに、こちらも目を凝らした。然し
「何も見えませんが」
「巨大な四万十蛇ですよ。まぁ、それは冗談ですが、多分、此れから下る度に見られるでしょうよ」
すると川の流れがクネクネと蛇行しだしたではないか。其れも半端ではない。
「ひの字、くの字、コの字、U、Vターン]
何でこうなる!?
県道19号がご丁寧にも川沿いを走ってくれる。段々と下ってくると初めての高樋沈下橋だ。下流に小さな堰き止めた井手があった。渡った先に人家は無く、青々とした小さな田んぼが何枚か見える程度である。
此処からも谷間をなだらかに下っていくが平地は相変わらず少ない。だが昨日行った祖谷の切り立った険しい山岳を流れる祖谷川に比べると、全く圧迫感がないのだ。何処となく広々とした空間があり優しい風景なのである。
県道沿いには其れなりに家が立っている。だが一戸当りの耕作面積は少ないだろう。昔から何で生計を立てているのか不思議でならない。
とに角、蛇行の連続だ。暫く走ると、二番目の久万秋沈下橋だ。
その細い橋を渡ると、水田耕作地がある。圃場整備されておりかなりの面積がある様だ。川を挟み辺りには小、中学校もあり公共施設も揃っている、大野見地区でかなりの集落だ。
更に下っていくと一斗俵沈下橋が右下にみえる。橋の直ぐ下流に、井手で堰き止めた箇所がある。あくまでも灌漑目的の為の取水口だ。其の為に水の深さが有り、夏になると子供達の飛び込み遊びに最適なのだ。
橋の上は一切、車両が通れない。
因みに、此の沈下橋は昭和十年、架橋とあり四万十川流域の中では一番古く、国の有形文化財に指定されたと看板に記してあった。
訪れたこの日は丁度、丸太鯉のぼりの設置作業中のところであった。橋の上からカラフルに色付けした丸太を水面に落とし浮かべるのだ。
これが又、緑色がかった水面に映えて綺麗な事。
暫く、周りの田舎の原風景と相まってその光景に魅入っていた。
その作業を離れて見つめている人達がいる。
先生夫婦が近付くと指を差しながら
「何をしておられるのですか」
「あれはね、鯉のぼりを流すんですよ。丸太に絵付けをしているんです」
「仲々、面白い発想ですね。全国的にも見た事が有りませんよ」
「そうでしょう。林業の村ですからね。間伐材を利用して米奥小学校の児童達が塗ったもんですよ」
そこへ奥様が興味深そうに話し掛けてきた。
「そうですか、私も東京で小学校教員をしておりましたが、これが出来たらどんなに良かったでしょうか」
「其れは其れは。実は私もこの近辺の教員をしていたんですよ」
「まぁ、それではお互いに年金暮らしですね。ホホホ」
「遠路はるばるよくおいで下さいました」
「有難う御座います」
「私も人生一度でいいから、こうして遠出の旅がしてみたかったんですよ」
「そうですよね、現役時代、一緒に出掛けるなど到底無理でしたよね」
互いに打ち解けて話しが弾みだした。
「私は最後の勤めの時は「矢切の渡し」の有る江戸川の直ぐ側で柴又帝釈天が近いんです」
「羨ましい!そうでしたか。其れでは「男はつらいよ」の何作目かに、ここの四万十川流域の撮影が有りましてね、だけど渥美清さんが途中で病気でお亡くなりになり残念でした。でもバーチャル版では食い入る様に見ました」
「私もですよ。映像で見て本当に四万十川の美しい事、一度、是非来て観たかったんですよ」
「護岸されていない手付かずの自然の綺麗な川ですね。江戸川は今は災害防止の為、高い堤防が設置されており景観がよくありません」
「其れでも、堤防の下の川岸は少しは昔の原風景が残してあるんです。ですから今この光景を見ていて、此れが出来ればと、ふと思ったんですよ」
「でも貴女がおられた学校は、田舎人間にとっては憧れの土地ですよ。「つれて逃げてよ〜ついておいでよ〜」の細川たかしの歌も大好きだし、「男はつらいよ」の柴又にしたって何度映像で見たことか」
「うまいうまい!」
「貴女が唄って今思ったんですが、矢切の渡しがある近くから、航路の邪魔にならない範囲でやってみたら本当に素晴らしい事ですよね」
「ウヮ〜、其れは夢がありますね。此れが実現すれば、渥美清さんも心残りであられたでしょうから、本当に寅さん供養になりますでしょう」
「きっと綺麗な眺めでしょうね」
「そうなれば、本当に嬉しい事ですよ。こちらから四万十原木をお送りしますのに」
現場を離れて直ぐのところで奥様は、突然の見ず知らずの人との、一期一会の出会いに感激した面持ちで
「四万十川に来て良かったぁ、運転手さん、有難う御座います」
「何ですか、私は何もしてませんよ」
「あなたに出合い、こんなに素晴らしい体験をさせて 頂いております」
「有難う御座います。こちら迄嬉しくなりますよ」
と言いながら夫婦で頭を下げてこられた。
其処から少し下った処に養鰻場の看板が見える。川向こうに長白い建物で其の中でウナギの養殖をしているのであろうか。
道端にいたご老人に声をかけ聞いてみた。
「此処ら辺りで天然ウナギが獲れるんですか」
「あぁ、獲れんことはないが数がおらんよ」
「昔は、ウナギ籠を何本もつけとったもんじゃ」
「あこは河口で稚魚を取って来て、育てて出しとるじゃろうて。水にこだわっとって四万十ウナギとして身がしまったええもんらしいよ」
「有難う御座います」
予土線窪川駅前に立ち寄ってみる。予土線と土讃線のともに終点で有る。其れに四万十くろしおライン中村線の始発点でもある。
然し、全く気付かなかった。土讃線の終点が高知駅ではなく、此処の四万十町窪川迄来ていたとは。
其れから川沿いの県道381号を走っている時、
「運転手さん、一寸、見たい所があるんですが立ち寄っていい?」
「どうぞどうぞ、何処へでも」
「其の先辺りにある、中村線の川奥信号場を見てみたいんです」
「分かりました」
ナビで確認し、予土線の家地川駅の前を通り其の場所辺りに到着した。
細い県道を、何箇所も線路が見える場所に移動しながら撮影をされている。中村線は高い処から一気に下降することが出来ず、大きな円を描いて徐々に下って行かなければならない。
その時にたまたま、中村線をはるか下から走って上がるのが見えた。
「今に信号場へ来るぞ、右の線路だ」
じっと固唾を飲ん見守っている。
何とも云えない、この時のドキドキ感!
一両の旅客ディーゼル車が予土線に合流し、そして通過するのを見送った。
皆んなで子供の様に喜びあったのである。
「いやぁ〜、然し、此の四万十は大人になったり、子供になったり、ロマンのある不思議な処ですね」
「処で先生、此処の山向こうは太平洋ですよ。直線で十キロそこそこですよ」
「そんなもんですか。此れから又、四万十川は山の中に入っていくんですね」
再度、家地川駅前を通り過ぎると、県道が予土線沿いを行く。両サイドに殆ど家がないのに向広瀬沈下橋が現れた。それより少し下って驚いた。
何と四万十川の流れが、酒徳利の形で其れも首が細い。
「此処も凄いですなぁ。此れじゃ''水の精''も酔っ払いますよ」
「普通に川の流れが変わるのは、長年に渡って土砂が削られて出来るものですが、此処は年代的にスケールが違います。地球が誕生し、太古の昔に
日本列島が海の底から隆起して以来のそのままの状態でしょう」
「然し、話しが大きくなりましたな。ハハハハ」
話しながら首の部分を走ってみた。トンネルになっていて向こうが直ぐに見える。先刻下って来た川側である。
「こりゃ又、お父さん、話の割にゃやる事が細い事、細い事」
これには車内で大笑いであった。
此処から下りは国道と予土線と川が仲良く並行して行く。土佐大正駅迄来た。こじんまりした町だが小、中、高校と揃って有る。
「運転手さん、一寸、此処の銀行に寄ってもらえませんか」
「どうぞ、でも地銀が有りますかね」
「へへへ、其れがあるんですよ。銀行と言っても焼酎銀行なんですよ」
「高知のガイドブックを見ている時に見つけましてね。栗焼酎らいしんです」
「然し、面白い処を良く見つけられますね」
「焼酎には目がないもんですから」
場所は即ぐに分かり、「四万十川焼酎銀行」の表示が有り入口が銀行風の造りになっている。
「口座開設に行って来ます」
お二人で入って行かれた。
暫くするとニコニコと嬉しそうに紙袋を持って出てこられ
「二人分、手続きをして来ました。利息も貰えるそうです」
こんな銀行など日本国中、或いは世界の何処にも無いだろう。其れに栗焼酎など初めて耳にしたくらいだ。此処は元地銀が使っていたが閉店し、当地の酒蔵が借り受けているとの事である。
茅吹手沈下橋、昔は渡し舟があったとの事だが川の両サイドに人家が全く見当たらない。
其処から少し下ると、道路の真ん中に白い建物がある。四国電力の小さな発電所だ。酒徳利の様な川の流れの所にあった取水堰から水道管を引いているのであろう。
其れから左にカーブを取ると見晴らしがいい景色が開ゆけてきた。そしてその先に、ポツンと一軒屋が見える。山の中にしてはツートンカラーの大きな建物の消防署だ。何でこんな場所にと不思議に思えてくる。
第一三島沈下橋を渡ると流れ穏やかな中洲に大きなキャンプ場がみえる。其れにこの辺りとしては広大な農場が有り青々としている。
四万十川を下って来て始めて三島渓流との間に挟まれた大きな中洲だ。
此処から又々、大きくUの字を描く様に川は流れる。
土佐昭和駅から、更に有り得ないカーブが続く。
半家沈下橋。この辺りはとに角蛇行が凄い。
何でこうなる?!
これでは幾ら大水でも水の流れに勢いが付かないだろう。激流など生じ様もない。沈下橋で十分なのだ。
中半家沈下橋を下り右に曲がった処に「半家駅」の看板が現れた。
「ちょ、一寸、あの駅で止まって下さい!」
「其れはいいですがトイレですか」
「いえいえ、切符を買ってきますから」
「でも無人駅ですよ」
国道筋に広場が有る。其処に駐車すると、奥様とニコニコしながら細い路地を駆け上がって行かれるではないか。
此処の珍しい駅名表示看板をホームで撮りまくられたのであろう。
暫くしてカメラを手にしながら
「北海道の増毛駅行きの切符を手に入れました」
「お父さん、いつ迄冗談を」
「すまんすまん、この駅はですね、全国の珍名、奇名に必ず出てくる駅名なんですよ」
「はげ」
今は廃線となり無くなってしまったが、北海道の「増毛」駅と必ず比較対称されている。何でも平家の落人が逃げて来て、この地に住み着き、後を追って来た仲間に分かる様に平の字の上棒を取り下にくっ付け半にして暗号にしたなど、尤もらしい地名の由来が言い伝えられている。
止まっていた場所で、ひとしきり冗談話しをしている時、後続が現れた。そして夫婦連れであろうかカメラを手にして上がっ行く。
其れを三人で見ていたが含み笑いが止まらない。
つるっ禿げのおっちゃんだ。
「今更、まじない祈願に来ても遅いぞ」
「そうでしょうかね、誰かさんもデンスケそっくりですが」
「ワシの事か!」
「さぁ」
「こちらも一緒みたいなもんですが」
皆んなで顔を見合わせながら大笑いだ。本当に、愉快な先生夫婦である。
長生沈下橋を過ぎると川幅も広くなっていく。北からの川風が心地良い。
江川崎の町に入って来ると右手から広見川が合流してきた。
江川崎といえば、日本最高温度観測地点として、近年話題になった処である。今迄は常に上州熊谷市がトップを占めていたが再度、抜き返された様である。
上流から此処まで予土線と四万十川に挟まれて国道を下って来て町中に入って来ると、川向こうに銀色の三角屋根の天体観測施設がみえる。橋を渡り近付いて見ると、此れは西土佐ふれあいホールで、こちらの勘そ違いであった。
観測地点は中学校の正門の側にあった。ポールが一本だけ!
「此れが?」
此処で記録されたものであろう。然し、此の周りの圧迫感の無いなだらかな山並みと、涼しさを感じる大きな川の流れを考えると、特別気温が上昇するとは思えない。
昔から上州名物「かかあ天下と空っ風」と云われる夏暑いのが相場の熊谷辺りが妥当なところか。
尤も現在は観測地点の環境変化で、あてにはなり難くい昨今だ。
広見川が合流した辺りから川幅が広くなりだし、蛇行先には堆積した砂地が広がっている。其処にはキャンプ場が多く有り、多くのカヌーを目にする様になりだした。少し行くと真っ赤な鮮やかなトラス橋が現れた。津大橋だ。周辺交通量には到底マッチしない立派な橋だ。
「喉が渇いたな、ちょい其処に止めて下さい」
橋のたもとにある食堂の自販機でコーヒーを飲んでいた。
外での話し声が聞こえたのか、他所の人恋しさか、店のおばちゃんが出て来た。
「ようきんしゃったな」
「大きな綺麗な橋が架っていますね」
先生が問い掛けると
「でも、こんなのはいらんがね、一日になんぼも通らんし」
「この直ぐ上には高校があるんですよ。分校ですけどね」
「一昔までは此の前をゾロゾロ生徒さんが通っていたもんですよ。うちの店に屯していたんですけどね。
今は全校生徒数が30人そこそこで本当に寂しくなりました」
「確かに日本一の清流と言われますが観光波及効果は此処らには及びませんからね」
「良い環境の中、勉学に集中して頑張ってもらいたいですね」
この店のおばさんも我々がよそ者の人間と分かると、途端に標準語ぽくなりだした。無理をしなくても。
勝間沈下橋を過ぎるとカヌーとキャンプ場が有り、
川幅も一段と広くなり出した。
少し下ると何艘もの屋形船が係留されている。此処ら辺りから観光船が予約制で運行されているのであろう。
三里沈下橋、此の辺に来ると川幅も更に広く、水の色は限りなく緑色に近く静かに流れていく。此処らの川の傾斜は、千メートルで一メートル下がる程度と云われる。この日も川面にさざ波が立っていた。橋の直ぐ先から左へ大きく蛇行すると砂浜が有り、テントを張り、水面には色とりどりの鮮やかなカヌーが五艘浮かんでいる。全く初級クラスの舟遊びだ。
普通に四万十川観光案内する定番は、下流の町中辺りからせいぜい此処くらい迄であろう。事実、今まで四度お客様をお連れしているが、此れ以上、上流に行った事がなかった。
佐田沈下橋が目の下に見える処迄来ると、暫くそこで車を止めて眺めていた。観光客が歩いて渡っている。川面には屋形船がゆったり下って来る。
「本日は本当に長い事、有難う御座いました。私達夫婦も初めての四国体験でしたが、今迄に一番良い旅をさせて頂きました。こんないい思い出は一生忘れません」
「そうです。私も主人と同じ気持ちです。本当の意味の旅の醍醐味を味わせて頂きました」
「そんなぁ、先生、大した事もしていないのに。でも私もご一緒して楽しくて嬉しい気持ちですよ」
「然し、先生、四万十川は本当に凄い河川でしたね。最初、言われた通り中身が詰まっていましたね」
「そうでしょう。源流から河口迄、殆ど川沿いを走って来ましたが、300メートルとて直線で流れる処が無く、私が数えたところ、90箇所ほどの蛇行が確認できました。緩やかなカーブを含めると100は超えるでしょう」
「正しく大蛇がとぐろをまいた姿で、其れも何匹もですよ」
「其れになんといっても、川の流域に護岸工事を施した処が無く、昔のままの全く手付かずの、自然の姿が見れる日本で唯一の川でしょう」
「どうしてこんな地形になったんでしょうか」
「分かりません。其れこそ、地球誕生の太古より神のみぞ知る造形ではないでしょうか」
「此れが最後の佐田沈下橋ですから渡ってみましょうか」
「そうしましょう」
この時には夕日も傾き暮れかかって来だした。
然し、狭い、それも長いのだ。高所恐怖症のこちらとしては前を見て慎重にハンドルを握る。
「ウヮ〜、綺麗!素晴らしい景色!」
でもこちらはそれどころでない。ちょっとハンドルを切り損ねドボン!想像しただけでも震えがくる。
無事渡り終えると余裕が出て来た。
西の空と山と四万十川が茜色に染まり何とも言えない絶景ではないか。川面には屋形船が流れに任せ静かに遊覧し、カヌーや釣り舟が浮かんでいる。
「然し、四万十川の旅を締めくくる偉大な光景になって来ましたね」
「又々、大袈裟な、でも本当に何もかも凄い出合いになりましたね」
赤鉄橋の四万十川橋を最後に源流から河口迄フルコース下って来た。
其れが教頭先生のお陰で、逆のコースを辿る事により四万十川の本当の自然の姿を全域見させて頂いた。
[後述記]
この川には一つも堰き止めたダムが無く、一度に放流される洪水災害がない。下流に水が多く要る工業地帯が無く、絶対数が足りている。其れに降雨量が多い。
其れに川の側には汚水を垂れ流す工場が何一つない。其れ故に日本一の清流と云われる所以であろう。
清き流れの四万十川に架かり、今でこそ観光地化している沈下橋。元々、此れは地元農家にしてみれば生活するうえでの大切な架け橋なのだ。
幅は狭く車一台がやっとで欄干が無い。洪水の時は流木やゴミが引っかからず、此れを超えていくので橋が流れないのだ。
然しながら、これは地域に人口が少ない事を意味する。架けては流れ、架けては流れでは地域住民がとても暮らしていけない。その為の生活の知恵から発祥したものである。
いつものお医者さん夫婦との道連れ旅は定番通りの観光コースである。今迄に三度、中村を訪れているが駅に立ち寄るのは初めてだ。
改装の情報は以前から知っていたので駅構内に入り見学がてら見させてもらった。
中村駅 モダンな駅舎 表彰されている。列車本数なし はお
駅といえば都会や田舎に限らず人の集まる中心地となる憩いの場として誰もが開放して欲しいと思うだろう。
一日、何万人も乗降客が利用するわけではなく、せいぜい千人そこそこだ。此れであるならば、お堅く従来通りの駅に止どまる必要が更々ない。折角、いい場所にあるのだ。
賑わい交流施設として観光客、ライダー、巡礼者、地元民と様々な人達の為に利用して貰えればいいのだ。工夫さえすれば幾らでも呼び寄せる事が可能だろう。ほ
改札口の垣根をとっぱらい開放感を与えたという事は
安並水車の里へ向かってみた。広々とした圃場整備された田んぼの中に真っ直ぐ伸びるコンクリート水路、其の中に十機は有ろう水車が只、並べられていた。
「オイオイ、こりゃなんじゃ。おもちゃに毛の生えたような(みずぐるま)じゃないか」
「そうよね、田舎の草の生えた田んぼのあぜ道でカタコト、カタコト、音がして、ひとりで仕事をしとるなぁと学校帰りに覗き込んだもんよね」
「其れが意外と大きいんよね」
此れにはがっかりであった。自然の大河、四万十川とはあまりにもイメージがかけ離れていた。
「やはり野に置け蓮華草]
西側にあるトンボ公園に寄ってみたが何も無い。だがこちらの方が自然のままで、水車は此処にあるのがいいと感じたのは我が一行だけであろうか。
足摺岬を目指して南に向かう。
大昔、教科書で習ったジョン万次郎。
日本とアメリカの架け橋となるべく役目を果たした人物だ。
土佐清水は14才まで生まれ育った故郷だ。現在、小さな藁葺き屋根の生家が復元されている。父親を早くに亡くし、病弱の母親や兄弟達の為に生活が苦しく早くに漁船の乗組員となった。
足摺岬沖で鯵鯖漁中に嵐に遭い船ごと流されて遭難、鳥島に漂着、143日目にアメリカ船に助けられる。
その船は捕鯨船であった。一旦航海に出ると何ヶ月何年とアメリカの母港に帰らない。助けてもらい乗船していた仲間はハワイへ寄港の際、此処で下りたが、万次郎は船長達と共に航行を続けたのである。その頃は日本は鎖国の最中て有り、帰国する事が出来なかった。頭が良くて従順で働き者の万次郎は、親切で心優しい船長に気に入られ後に養子に迎えられている。こうしてアメリカに渡った最初の日本人となる。
十一年間をアメリカで暮らし学校にも行かせて貰い首席という優秀な成績で色々な事を学ばせてもらっている。
とにかく、誠実で真面目、その上に好奇心が強く何でも吸収しようとする勉強家で、後の日本の造船、航海術、捕鯨、外国本の翻訳と教育者として西洋文明、文化をいの一番に日本に取り入れ指導した先駆者である。
後藤象二郎、岩崎弥太郎(三菱創立者)も直接指導を受けている。
坂本龍馬も造船、航海術を学び大いに影響を受けた一番の人物であろう。
その後は勝海舟の咸臨丸に同乗し通訳とし日本の夜明けに大いに貢献している。その時、同行していた福澤諭吉は後の慶應義塾大学の創始者である。
明治新政府より開成学校(現東京大学)の教授拝命さる。
病に侵された後は政治家に転身する事なく教育者として生涯をおえている。おごる事なく謙虚で、決して自身をひけらかせる事は無かった。
足摺岬の灯台の直ぐ近くにジョン万次郎の像が立っている。
宿毛
旧御荘町、今は愛南町になっているが、友達四人で鹿島にキャンプに来た事があった。無人島で確か鹿や他の動物がいた記憶がある。馬瀬山公園展望台迄上がると素晴らしい景色に疑いなし。此処は足摺宇和海国立公園である。今回も上がってみた。其処には紫電改展示館なるものがあった。戦争時代の終わり頃零戦に変わる海軍の尤も優れた戦闘機であった。この近くの海底に沈んでいたもの引き揚げて今は平和のシンボルとして展示してあった。
真珠といえば伊勢の英虞湾の真珠が昔から最も有名で子供の教科書で習っていた。然し、今は宇和島が日本一の生産を誇っているとは
宇和島といえば忘れられないのが宇和島水産高校の練習船えひめ丸がハワイ沖で浮上してきたアメリカ原子力潜水艦と衝突して沈没し多くの犠牲者を出した事故である。
校門前に佇み暫し「合掌」
奥州仙台藩伊達政宗の長子、秀宗が元和元年(1615)に初代藩主として入城、2代宗利が手を加え爾来350年、其の天守の姿をを留めていると言われる。
江戸時代から残る現存「12天守」として国の重要文化財に指定されている。
[天赦園]
以前から不思議に思っていた事であるが何故、伊達政宗が詠んだ漢詩の一句にある有名な
「馬上に少年過ぎ、世は平にして白髪多し、残躯は天の赦す所、楽しまずして是を如何せん」
が奥州の地から遠く離れ、島流し同様の四国の僻地に有るのかと。当時としては正にこの心境であったに違いない。
初代藩主の秀宗は戦国時代に生まれ豊臣秀吉、関ヶ原の合戦、徳川家康の天下統一の間にあり人質に取られるなど数奇な運命にあり仙台藩に復帰する事なく宇和島藩10万石の少大名に
大洲!市に入るとおはなはんのメロディが何処となく流れてくる。
「へぇ、あのドラマの舞台は此処だったのか」
もう随分に古い事である。東京オリンピックがあった其の前辺りの事だ。当時は凄い視聴率であった事で有ろう。
時代は変われど懐かしい。
街中に入ると看板が見える。短いおはなはん通りだ。当時と何も変わらないので有ろう。綺麗な水の堀割りが有りうら寂しい佇まいであった。此処には富士山が有る。
「オッ、西の富士山じゃな。登って見ようや」
肱川を眼下に見ながらゆっくり登って行く。
「ワァー綺麗!」
頂上近辺はまるで花盛り大洲の街並みが見渡せる。
八幡浜を左にハンドルを切って国道197号線に入った。四国の最西端佐田半島の先端を目指す。日本一長い半島だ。
佐田岬メロディーラインはそんなに高くない山の尾根をひたすら西に向かって細長い龍の首の先に有る様な佐田岬をめざす。風と潮騒、野鳥のさえずりをイメージして名付けられた。然し、風がきつい。この日も帽子が吹き飛ばされるほどであった。さも有ろう。其れを避ける為に生活する住宅は海辺の低い所に密集している。
先に行くにしたがい低潅木の木々が北向きに傾いている。段々と両サイドに銀色のデカイ風車が増え出した。なんとも奇妙なコントラストだ。丘の上には原始的な風車発電があり、一方、北の海辺の窪地には張り付くようにして原子力発電所がある。装備自体は双方共に超ハイテクで造られているが方法自体は全く対照的だ。
伊方町役場から佐田岬まで四十数キロは全く水田が無い。リアス式海岸が続き農耕作地が殆ど無く、猫の額程の段々畑と半農半漁の暮らしで、この地区から収入を得る手段として多くの杜氏が出稼ぎに出掛けていたのである。其の為でも有ろう。町財政を豊かにするうえで原発を誘致している。
三崎港から更に佐田岬灯台へ走っていると尾根の頂上に多くの白い風車がみえる。
尾根の上を走っているとジャコ天、ジャコカツの幟が立っている。
「ちょっと、小腹が空いたよなぁ、寄って買うてから車の中で食べようや」
早速にも車を止めると奥さんが買いに走った。
なんとホカホカで美味しいこと。此れだから旅先でのつまみ喰いは辞められない。
一息ついて、駐車場に車を止めて灯台に向かって歩き出した処、地元のみかん農家のおばさんか商店主かは分からないが近寄って来て
「みかんは要りませんか。お土産に買っていって下さいよ」
「悪いがみかんはありますから」
奥さんが返事をしてから遊歩道を下りて灯台に向かって行く。
半島の最先端から、西の彼方に大きな島影や更に遠方に大分県の陸地がみえる。
余程、風の通りが強いので有ろう。遊歩道の樹々が全て瀬戸内側に傾いている。其れに下る坂の途中から、見える海の違いがはっきりと分かるのだ。右側の瀬戸内海はまるで波が無く、鏡の様で時に風にまかせてさざ波が立っている。一方、左向こうを見渡すと潮の流れが速く大きく波打ち、其の先は太平洋につながっている。佐田岬半島を挟んでこうも違うのだ。豊後水道と云われる程、速い海水の流れと其れに伴い強風が吹いているのだ。
丁度、目の先を白い船体のフェリーがゆっくりと進んで行く。海上国道197号線と呼ばれ大分佐賀関から三崎港へ入って来たところなのだ。何といい光景で有ろうか。
暫く灯台辺りを散策した後、引き返して上の駐車場に上がって来た。其処には先程のおばさんがいる。
今日はもう他の客に有り付けそうもないのであろう。
「幾らですか」
奥さんは優しい。
結構大きな袋に入っているミカンを持ってきた。そしておばさんは嬉しそうに三、四個の大きなミカンをおまけしてくれた。
「おまえは何時も人がええからな」
「へへへ」
帰りに三崎港の横を通ると、先程のフェリーが巨体を岸壁に接岸されていた。
今は広い道の尾根を走るメロディーラインが利用出来るが、一昔までは大変だったであろう。リアス式海岸の海辺の入り組んだ細いを走行しなければならない。其れこそ、197(行くな)国道(酷道)である。
先般、四万十川源流巡りで走ったカルスト台地の近くは山坂、山坂に深い谷の連続であったであろう。その国道197号線がリアスからカルストの高知県へと続いているのだ。何度も記すが日本は本当にありがたい国だ。何処までインフラ整備されている。
大洲市へ入って来た。
内子町は明治の後期から大正にかけて 国内での木蝋の一大生産地で潤った。当時の暮らしに明かりを灯す、小型の電力会社みたいなものであった。少々、オーバーかな。
繁栄振りが上芳我邸(木蝋資料館)に残されている。他にも和紙の生産で栄えた。
[うだつ]のある家並みが続くという事は、何かの物を生産をし村や町が潤っていた証なのだ。
内子座は大正5年に大正天皇即位を記念して建てられた。小さな村であったが余程賑わったと思われる。100年を超えている。
現在、日本国中の芝居小屋で、国の重要文化財に指定されているのは六つ有り、その内の二つが四国にある。一つは旧金比羅大芝居「金丸座」で優に180年を超え、ダントツの一位で毎年歌舞伎公演が開催されている。
一方、目の前の小田川河原で行われる、いかざき大凧合戦は初節句を祝う400年の伝統を誇る。何でも五十崎地区は昔から和紙の生産が盛んであった。其の為の影響か、紙を使った凧を飛ばしたのが始まりだと思われる。此の小田川から肱川を下り河口の港から京、大坂へ蝋燭、和紙を搬送することへの感謝を込めての祭礼ではないのか。
そもそも、イカとタコの合戦とは、内子の蝋燭、五十崎の和紙と小田川を挟んでの少なくても村同士のラのイバル意識が高じて、けんか凧へと発展したものではなかろうか。
然し、如何なる時代にあっても長く続く伝統には恐れいる。単なる凧揚げと思うなかれ。
此れを始めた時代は武家社会の時代であろうが、武士や町人農民と分け隔てなく祝い行事に参加した事であろう。
松山市に入った時はもう暗くなり出していた。
「こりゃ、しまなみ海道を回っとったら遅うなるな。フェリーで宇品迄帰ろうや」
「そうよね、明日は仕事があるからそうしましょうよ」
「えぇ、ほんまにいいんですか」
「長い事走って貰うたからな、一寸くらい休みんさいや」
松山観光港からならば船内で足を伸ばして一寝入りできる。
おやすみなさい。何時も優しい御夫婦、感謝!感謝!
現代版 徒然なるがままのタクシー旅日記