2020の3月6日は雪が降った。
「これからたくさん人が死ぬね」
先に口を開いたのは男のほうだった。私は凍り付いたようにその場でじっと女の言葉を待った。
「ねぇ、どうしてそんなこと言うの」
案の定、女から出てきたのは男を咎めるような口ぶりである。
此の場に私が潜んでいるとも知らずに、男は秘密を打ち明けるように女に告げた。
「急な気候の変化は生き物の寿命を縮める。ただでさえ疫病が流行ってる世の中で、このありさまだ」
雪が積もる野を見渡す男を見とめて、私はとっさに息を殺した。
「まったく、昨日は嫌になるほど暖かったのにね」
「ねぇ、どうにかならないの」
粒雪が降る野原の真ん中で女の寂しげな声が胸を打つ。
春風は冷たく、地面は凍えている。同様に女の声もわずかに震えていた。
男は女を一瞥してから一瞬呆れたように口籠った。
「どうにかなるもなにも」
唇をぎゅっと噤んでから改めて口を開いた。
「1月の時点でどうにかなることがいくらかあった。そう。いくらかあったんだよ。助かる道があったのに」
口惜しそうに男は女に背を向けて静かな雪野を見渡して小さく首を振った。
諦めているんだと、私には思えた。というのも、内心で当然だと同意した自分がいる。
なにせ私にも同じく口惜しいことがあった。言いたくともいえぬことがあった。
だが同時に、言ったところで人には理解できないことも心の底から見通せていた。
ざくざくと足を雪に沈ませるように男は進んでいこうとする。
「誰もがあなたのように先が解るわけじゃない。ねぇ、助けてあげられないの」
引き止めた女の懇願に、一瞬表情が曇る。男は肚の底から息を吐いた。
「罪を解し、過を改め、篤く天地を礼したなら、必ず事はうまくいく」
しんっと静まり返った白銀の世界で男は目を細めて笑う。
「これが私に言える、もっとも幸ある言葉だ」
「それはあなたの言葉ではないわ」
ぴしゃりと言い当てる女の一言に思わず私も頷いた。
今、男の口から語られたのは――――。
「世を治めるべき人の言葉だね」
天を仰いで男は目を伏せる。
「前例はあるんだ。ならどうして従わないのか、倣わないのか、祀らわないのか」
「あなたは、人を咎めてばかりよ」
咎めたように口走る女に男は困ったように微笑んだ。
「君は文句ばかりを言う」
「だって、あなたがなにもしないから」
「何かをしたい気分にならないんだ」
「どうしてよ」
やはり咎めるように女は言う。
女の目をじっと見て男は心を打ち明けた。
「偽りの王族も役に立たない為政者も、私はいらない。誰もが幸せになれる統治がいい」
まっすぐに告げる男の言葉に女は一瞬、たじろぐ。
「今、ここで悪を絶たなければならない。私は何もしないよ。何もせず、じっと待とうと思う」
「悪を滅ぼしてくれるヒーローを?それとも来るはずもない救世主を?」
どこか寂しげに、どこか嘲るような、女の冷ややかな言葉を男は小さく笑った。
「時節をさ」
雪が積もる春、狂い始める気候。
破滅的な疫病に混乱する人々。
それらは女の想像どおり、まるで聖書さながらの終末世界である。
尚、女は懇願した。
「それでも、ねぇ、それでもね。彼らだって同じ人で、困ってる人なのよ」
トンビが一羽、雪帽をかぶる電柱の上にとまる。
「悪を見捨てるのが善だというの?」
「人は自分が悪だなんて毛頭考えないものだよ。どこか心の中で、自分は正しいと、思い浮かべるものだ。だから」
「それはあなただって同じじゃない」
間髪入れずに女の言葉が続く。
「あなただって同じ人なのよ」
男は鼻で笑って返答した。
「いいや、違うよ」
「いいえ、同じよ」
拮抗する二人の問答の中で、私は改めて二人の顔を伺った。
玉肌の若い男女は武士さながらの顔つきで互いに一歩も引かずに見つめあっている。
「・・・・・」
どうも永い間、この場にいたせいか、寒さが身に堪え、皺がある自らの手を少しばかりさすった。
男女の隣で雪に埋もれながらも花開く桜がつい目に留まる。
沈黙の末、男が言葉を発す。
「慈悲の目に、憎しと想う人あらじ。咎あらば尚も憐れめ」
「またあなたの言葉じゃないわ」
今度は葉隠の大将の言葉が出てきて、私はこの男女の知見にやや驚く。
「女の目とはそういうものだと聞いている。だから、男女には分け隔てがある」
男の言葉には女も頷いた。
「ええ。そうね。私たちは違う性別だもの。きっと体以上に、考え方だって違うわ」
「それでも同じ人なのか」
「ええ。それでも、同じ人よ」
男は呆れたように息を吐いた。
「私にはまったくそういう風には思えない」
「思えなくたって同じ人間という種なのは認めるしかない事実でしょ」
同意を求めるような女の口ぶりに、男は表情を変えずに聞き返す。
「で、同じ人の君は私に求めずともやれることがあるんじゃないか」
「いいえ、あなたに欲している。困っている人を助けてくれることを」
女の言葉に男は心の底から呆れかえった。
「君の言う、困っている人というのは、人を困らせている人の間違いだろう」
「いいえ、本当に困っている人は自分が何に困っているか分からないものよ」
「ならやはり困っている事が認識できるまでほおっておくのが1番だろう」
「それじゃぁ・・・・、どうなるかわかるでしょう」
深く息をついてから男は再び女と向き合う。
「人は誰もが選択する自由を持っている。選べるんだ。選択できる。なぁ、自分で選択することができるのに、いずれは困ると解ることをなんで好んで選ぶ?」
「分からないからよ」
「なんで分からない」
女は小さく答えた。
「誰もが先がわかるわけじゃない。未来の予想が立つわけじゃないわ」
男は心底、うんざりした表情で言う。
「なら分からないと素直に認めればいいじゃないか。それなのに知ってる風を装って、辻褄の合わないことばかりをやって、人をさんざん困らせて、あげくにはなんだこの有様は。好き勝手やって、他人を貶めて、巧くいかなくなったら助けてくれ、か。ずいぶん腹の虫がいいことで。こんな奴等を助けたいと思う人間がいったいどこにいる」
男の失望を意に介さず、女が真っ向から食いつく。
「此処にいるわ」
まっすぐに男を射貫きながらに、さきほどの言葉を女は繰り返す。
「慈悲の目に、憎しと想う人あらじ。咎あらば尚も憐れめ」
「私の眼と君の瞳は違う」
「ええ、だって違う人だもの」
「それなのに君のように振舞えというのか」
理不尽だと訴えんばかりの男の視線に、一歩も引かずに女は頷いた。
はぁと小さな溜息が聞こえてきた。
「まったく同じというわけにはいかないが、私なりに出来ることはしてみる」
そして男は女の肩に積り始めた雪を小さく払った。
「だからもう行こう。身体が冷える」
二人の後ろ姿を見送って、私は男女の横でつぼみを開いた桜へと近寄った。
淡い桃色の花は、昨日は一凛咲いて、今日はさらに多く開花した。
ここに植えてから長く花開くことが出来なかった植木がこの雪春の中、花開いた。
「・・・・寒いな」
電柱に宿るトンビにも、雪がうっすらと積もり始める。
取り残された私もあの男女と同じようにこの時代に生きている。
2020の3月6日は雪が降った。