時湯
時湯に来ると会えるんです。私の大好きなばあちゃんに。大好きだった、死んだばあちゃんに。
立ちのぼる白い湯気、コーンと響く桶の音、ザバーと湯船からお湯が溢れ出る音。
「ああ〜」とか「ふう〜」とか「極楽 極楽」とか、思わず口から洩れてしまう至福のため息。
子供達の笑い声、大人達の話し声。
「おーい、出るぞー」と、男湯から聞こえる声。
「はーい」と、恥ずかしそうに答える女湯からの声。
その全ての音が天井を覆い隠す白い湯気の中に吸い込まれては消えていく。
なんとも、いいんです! ここは、銭湯 時湯。
籘で出来た、背の低い小振りのベビーベッドが、脱衣所とお風呂場を仕切る窓ガラスのすぐ傍に三個並べられている。若いお母さんが大急ぎで身体を洗いながら、赤ちゃんが泣き出してはいないかと、心配そうに何度も何度も、これでもかというくらいに首を伸ばして我が子が寝ているベビーベッドを覗きこんでいる。赤ちゃんが少しでも手足を動かそうものなら大慌てで身体の石鹸をお湯で流し、窓へ駆け寄る。そういう時はいつも、すぐ傍で帰り仕度をしているおばさん、またはおばあさん、希にお姉さんが、赤ちゃんのベッドを覗きこみ寝ているのを確認してから、心配顔のお母さんに「大丈夫、寝てますよ。」と口を大きく動かして知らせてくれる。それから、その中の80パーセントくらいの人がお風呂場の入口の所まで行って、その戸を少しだけ開けてから、
「大丈夫、私がちゃんと見ているからゆっくり入ってて」と声を掛けてくれる。
「すみません、それではお言葉に甘えて、少しの間だけお願いします。」
頬を上気させた若いお母さんが、素直に好意に甘える。
その様子をおっとりしながらも、しっかりと番台のおばちゃんが見ている。
なんとも、いいんです! 銭湯時湯は・・・
私は時湯が大好きで、少しでも時間があると、それ!とばかりに入りに行く。
それに、時湯に来ると、会えるんです。私の大好きなばあちゃんに。
大好きだった、死んだ、ばあちゃんに。
私は、竜田 季 22才。職業は美容師。住んでいる所は、風の街で有名な、時市時岡町。
時市は人口が約28万人の北に位置する港町だ。海があり、標高334mの時山がある。時山は陸繋島なのでまるで海にぽっかり浮いているかの様にも見えて、ひょっこりひょうたん島を思わせる。その時山の裾野を、路面電車がガタンゴトンとゆっくり走っている。手を伸ばすと、デパートもおしゃれな雑貨屋も図書館も市役所も、すぐ手の届く所に在るという、なんとも使い勝手の良い小さな街だ。海からの風が町中に潮の香りを届けている。その潮風に乗って、カモメが時市の空を飛び交う。街路樹はプラタナス。時折、その大きな葉を簡単に転がしてしまう程の強い風が吹く。
北国の春の訪れは遅く、五月を少し過ぎた頃にやっと桜達が蕾を開き始める。風の街といえば聞こえは良いが、開いたばかりの桜の花を容赦なく、風が一瞬にして剥ぎ取って行く。
迫力ある桜吹雪か時市を覆い尽くす。
春、そんな、厳しくも美しい季節に・・・
私の大好きなばあちゃんは亡くなった。
村山 いつ 79才 五月十三日午前9時、自宅の庭で倒れているのを、母が発見した。救急車で時市民病院に搬送されるも、再び心臓が動く事はなかった。
まだ まだ ずーと一緒に居られると思っていたのに・・・
五月十三日午前7時20分。ため息をつきながら玄関で靴を履く私に、ばあちゃんは満面の笑顔で、「季、行ってらっしゃい」と、声を掛けてくれた。その笑顔に元気をもらって、どうにか私は立ち上がる事ができた。
「いってきます。」と、力なくばあちゃんに手を振ったのが、最後になってしまった。そんな私を心配して、ばあちゃんは私が見えなくなる迄、手を振り続けてくれていたんだと思う。たぶん。私は、振り返る事さえしなかった・・・
ばあちゃんが死んでからこの3日間、私は布団から出る事が出来ないでいた。大好きなばあちゃんを失ってしまったというその事実は、悲しさというよりを胸を本当の痛みが走っていた。痛くて痛くてたまらない。どうしたらいいのかが解らない。私は、ただただ布団の中で歯をくいしばっていた。そうする以外に、どうしたらいいのか解らなかった。
私は、小さい頃からの夢だった美容師になりたくて、高校を卒業後、美容師専門学校へ入学した。入学してすぐに専門学校という所の厳しさを思い知ることになった。それはそれは忙しい日々で、知識と技術をみっちりとびっしりと目一杯、毎日朝から晩まで教えこまれた。志しをしっかりと強く持った者が通うべき場所だと思い知った。一応、私にだって美容師になりたいという強い意志はあったので、へとへとになりながらも無事に卒業する事が出来た。北風美容室に就職も決まった。北風美容室は、先生と女性スタッフが5人の大きくも小さくもない、ちょうど居心地の良いそれでいておしゃれな店だ。店の玄関前の小さな庭には、ガーデニング好きの先生の手で四季折々の花がわんさか賑やかに植えられていた。勤めて2年、まだまだ下っ端でいまだにお客さんのカットは任せてもらえない。なんか頑張っても頑張っても、なかなか認めてもらえない。一度のミスで今迄積み上げてきたものが、自分の中でガラガラと音をたてて崩れてしまう。同期で入った雪絵さんは、あんなにてきぱきと仕事が出来るのに、どうして私はこうも鈍くさいの。先が見えない不安感、焦り、苛立ちが苦しい。そんな日々を私は過ごしていた。
ばあちゃんは、そんな私の心の支えだったのに。
ばあちゃんが死んだ・・・そんな事受け入れらられる訳がない・・・
そんな私を母はとても心配して、やさしく声を掛けてくれる。手をしっかり握ってくれる。背中をゆっくりいつまでもさすってくれる。母の私への思いと優しさは、私の心を暖かく包み込んでくれて、それはそれは有難かった。でも、申し訳ないが胸の痛みはいっこうに消えてはくれなかった。食事も取れない私の為にお粥を作ってくれるが、どうしても口に出来ない。そんな私に、静かに母が話してくれたのは、
「ねえ季、季はばあちゃんとよく一緒に時湯に行ってたね。どうだろう・・・」
そうだった!
「うん、行ってみる!」
久々に出す私の声は、ちゃんと母に聞こえただろうか。私は、母がまだ話し終わらないうちから、行動に出ていた。
私が小学5年生の秋に、私たち竜田家4人と村山家1人(母の実母)は、ここ時岡町に引っ越してきた。それまで住んでいた時市大町の家が手狭になったため、思いきって売却して、中古だが今住んでいる家より一回りは大きいこの家を購入した。静かな住宅街に建つ、白い外壁の2階建て5LDKの家だ。我が竜田家は、父 虎太郎、母 さつき、弟 猿也、祖母 いつ(母の実母)、そして私季の5人家族だ。引っ越しは大変な作業だけれども、その先にある新しい生活への期待にわくわくどきどきしていた。かったるそうに段ボール箱に荷物を詰め込んでいる2年生の猿也とは対照的に、私は楽しくて楽しくて仕方なかった。猿也も私も初めての転校には不安はあったが、同じ時市内なので友達を失う事はなかった。家は築25年と古かったが、しっかりとリフォームされていて快適だった。
「これだけの建材を使った家は、新築で購入したら俺たちが買った値段の十倍位はするかも知れないぞ。」と、父が満足そうに言っていた。
確かにどっしり構えた佇まいは頼もしくて、私達に安らぎを与えた。浴室は最新の物に作り替えられていた。でも、ばあちゃんと私は大の銭湯好きだったので、引っ越して3日目から二人の銭湯探しが始まった。ぶらぶらと散歩がてらに銭湯を発見すると、二人で顔を合わせたにんまり。夜には二人てわくわくしながら昼間に見た銭湯に入りに行った。歩いて行ける範囲には三軒の銭湯があった。その中で、だんとつに気に入ってしまったのが時湯だった。古い建物だが小綺麗にしている。落ち着いた藍色ののれんが気持ち良い。のれんをくぐった時のやさしく凛とした感触がなんともいえない。朱で曇りガラスの所に大きく、女と書かれた引き戸をがらがらと開けると、すぐ左てに番台があり、おばちゃんが笑顔で迎えてくれる。ちなみに男湯の引き戸の曇りガラスには、これまた力強い漆黒で、男と書かれていた。女湯の戸を開けた右側に下駄箱の壁があった。下には土間の上にすのこが敷かれてある。いろは順に文字が書かれた小さな扉が並んでいる。いろはの文字が書かれた木が、差し込み式の鍵になっている。すのこを挟んで脱衣所が広がる。壁際に木で造られた洋服を入れる鍵付きのロッカーが備え付けられているが、私とばあちゃんは貴重品もないので籐で作られた大きなかごを利用する。まずはかごを逆さまにしてとんとんと埃を落とす。それから脱いだ洋服をきちんと畳んでかごに入れて、最後に二つ折りにしたバスタオルで全体を隠すように被せる。私はさらにばあちゃんと私のかごをぎゅっとくっつけて、「よし」と言ってから浴室へと入って行く。浴室は広くて天井が高く、解放感があった。三方の壁に蛇口とシャワーがずらーっと並んでいる。楕円形の大きな湯船が真ん中にどーんとあるのが面白い。その楕円形の3分の2が大人用の湯船で深さがあり、熱めのお湯でみたされていた。3分の1は、子ども用で子どもがしゃがんでちょうど良い深さになっていた。お湯も熱くはない。左の壁は男湯と女湯の仕切りになっていて、その真ん中くらいに、半円の湯船がべたんという感じに張り付いていて、薬湯になっていた。ばあちゃんはその薬湯が、大好きで気持ち良さそうにずーっと入っていた。私は薬湯の底が見えない程の黒い色が、なんとも不気味で、どうしても入る事が出来なかった。
「あーもったいないねー。季も入ればいいのに、美肌になるよー。」と、ばあちゃんに言われても、「いいの。」と言って入る事はなかった。そうそう時湯が定休日の時は、鶴亀湯に入りに行っていた。鶴亀湯は時湯の半分位しかない小さな銭湯だったが、由緒正しい日本の銭湯という風情が好きだった。それにお隣にこれまた小さな今川焼き屋さんがあって、優しそうなおばあちゃんが作っている、まんまるい今川焼きがもうー、絶品だった。
私が小学校を卒業するまで、ほとんど毎日、私はばあちゃんと一緒に銭湯に通っていた。
そして、いま。わたしは、
「行ってきます。」
少しでもばあちゃんを感じる事が出来ら・・・。
その一心で、動こうとしない体を無理やり起き上がらせる。のろのろと支度をして、ふわふわ漂う様に玄関を開けた。母が心配そうに、
「大丈夫なの?一緒に行こうか?」と、言ってくれたが、「ううん、一人で大丈夫だから。」と、私は答えていた。久しぶりの外の明るさにくらくらしながらも、時湯へと足は動いてぐれた。
そんな私を母は、心配そうにいつまでも見送っていた。
午後1時15分、時湯が開く。
久しぶりの時湯。どうやら私が1番のりみたいだ、・・・
慣れ親しんだ銭湯通いのおかげで、身体が勝手に準備をしてくれる。気がつけば浴室の戸を私はカラカラと開けていた。
高い天井が湯気で霞んで見えない。その天井のすぐ下にある窓から昼の陽射しが入り込み、立ち上る湯気を照らしている。まるで別世界に来た様な感じがする。
体を軽く洗ってから湯船へと身を沈める。
「ふ〜 」と思わず口からもれてしまう。
「ばあちゃん・・・」思わず声がでていた。
「ばあちゃんも一緒に入ろうよ・・・」と、声が続く。涙が頬を伝い胸に落ちた。いつしか胸の痛みが消えていた。
その時、滴がボツンとわたしの頭に落ちた。思わず天井を見上げると、まるで無限の宇宙へと続いているかの様に湯気が渦を巻きながら天井を覆い隠している。思わず吸い込まれそうになり、身体がぐらりとゆれた。
「季 いいお湯だね。」
「うん、本当に」って、「えっ」
私は誰に返事をしたのだろうか?
今のは確かにばあちゃんの声、「まさか」
しっかりしろ、と自分のほっぺたをバシバシと、叩いてから首を90度回転。私のすぐ横に、ばあちゃんがお湯に浸かっていた。ゆったりと優しい笑みを浮かべて。
「季、久しぶり・・・」
私の身体がぐらりと揺れてお湯の中に沈んでいった。
無理もない。この3日間ろくに食べることができなかった。いつ寝ていつ起きたかも定かではない。ただただ布団の中に籠っていた私が銭湯時湯の熱いお湯に浸かって、ぶったまげる様な事に遭遇したら、そりゃあ倒れるだろう。
気が付くと私は自分のベットの中で目を覚ましていた。どうやって帰ることが出来たのかは、全く記憶にない。が、だいたい察しはつく。恥ずかしくて聞く気にもならない。
とんとんとドアをノックして、お父さんが顔を覗かせた。
「大丈夫か?」と、声を掛けてくれるお父さんに私は寝たふりをして答えなかった。
「行ってくるからな、ゆっくり休むんだぞ。」
狸寝入りは、お見通しのようだ。
私は「ごめんね」と心のなかで謝った。
それにしても、「このままじゃ駄目だ。」と声に出してみた。なんか力が湧いてきた。
「しっかり食べて、しっかり寝て、そしてしっかり覚悟を決めてからもう一度時湯へ行こう。ばあちゃんに会いに。」「よし」と、私は自分のほっぺたをばしばしと叩いた。
翌朝、私は何事も無かったかかの様に、お母さんの用意してぐれたお粥をきれいに平らげた。
「ああ美味しかった。ごちそうさま。私はもう大丈夫だから。」と、満面の笑顔をお母さんにむけた。お母さんは、そんな私に何も聞くことなく、微笑んでくれた。ありがたい、と思った。
体力をつけるために、外をゆっくり歩いてみた。
ばあちゃんの大好きな桜は、終わろうとしていた。
昼食はお母さんがお弁当を、私の部屋のテーブルに置いておいてくれら。この3日間、私が食べたい時に食べれるように、お母さんが作ってくれた。お母さんらしい気遣いだ。柔らかい煮物と柔らかいご飯を、美味しく完食した。
そして、いざ時湯へ。
ばあちゃんは死んでしまった。それじゃあ時湯にいたばあちゃんは、幽霊ですね。うんうん、何かどきどきする。うんうん、大丈夫、うん、大丈夫です。ばあちゃんの幽霊なんだから、うんうん大丈夫。どうにか自分を納得させて、時湯に到着した。1時15分に開店を知らせる藍色ののれんが掛けられる。大きく深呼吸して、それから「よし」と自分に気合いを入れてから暖簾をくぐった。鮮やかな朱色の女と書かれた戸をがらがらと開ける。番台のおばちゃんは席を離れていたのて、お金だけ番台に置いた。靴を脱いですのこを歩いて下駄箱に靴をいれカギを抜いた。それから脱衣所へと移動、篭をとんとんとしてからいつもよりゆっくりと着ていた物を畳み、その上にバスタオルを掛ける。心臓がどきどきを通り越してばっくんばっくん音を立てている。よく喉から心臓が飛び出しそう、というがこういうなんだ。浴室の引き戸を開ける手が震えている。体にお湯を掛ける手も震えている。それからお湯へおそるおそる入ってみる。お湯の熱さが、解らない。とりあえず肩まで浸かって、それから
震える声で、「ばあちゃん」と呼んでみた。
滴がぽちゃんと、私の頭に落ちた。
「こほん」と咳払いが聞こえた。それからもう一度「ごほん」と今度はいかにもわざとらしい咳払いが・・・
くすっと私は笑ってしまう。
「季」ゆっくりと静かにばあちゃんが私の名前を呼んでいる。
私はこっくりと頷く。そして深呼吸。心臓のどきどきが治まっていく。
「ばあちゃん」と答える。その声は掠れてはいたが、震えてはいなかった。横にはばあちゃんが、お湯に浸かっていた。ゆったりと優しい笑みをうかぺて。私はばあちゃんと向き合い、その頬にそっとふれてみた。よくテレビで見る幽霊の様に、私の指はばあちゃんの頬を通り抜ける事はなかった。私はばあちゃんの頬に触れながら
「ばあちゃんは死んだの?」と聞いてみた。
「残念ながら、その様だね。」とばあちゃんは答えた。
「不思議だね、季。」とばあちゃんは言うと、自分の頬に置かれていた私の手に、ぞっと自分の手を重ねた。
その瞬間。
湯船がどんどん広がっていって、見渡す限りお湯しか見えなくなった。まるでお湯の海だ。そのお湯が大きく波打っている。沢山の湯気がもくもく、もくもくと、立ち上る。真っ白で、なにも見えなくなった。と思ったら、
その湯気がさーっと、消えていった。
そこに見えたものは・・・
ため息をつきながら玄関で靴を履く私に、満面の笑顔で
「季、行ってらっしゃい」と、ばあちゃんが声を掛けてくれる。その笑顔に答えなくちゃと私はどうにか立ち上がり、
「行ってきまーす」と、力なくばあちゃんに手を振り、歩き出した。そんな私をばあちゃんは、見えなくなるまで見送っている。
「大丈夫、大丈夫。」と独り言を言いながら。家の中に入っていった。
玄関には母が心配そうに立っていた。
「季はちゃんと行ったようですか?」と、ばあちゃんに聞いている。
「大丈夫そうだったよ。私にもちゃんと手を振ってくれたし。しっかりと歩いて行ったよ。大丈夫、大丈夫。」と、ばあちゃんが答える。
母は、私には洗い物をしながら
「気をつけて、いったらっしゃーい!」と、心配の素振りも見せなかったのに。
「そういえば、時公園の桜が見ごろみたいですよ。おかあさん、10時過ぎくらいにでも一緒に見に行きませんか?」と、母がばあちゃんを誘っている。ばあちゃんは大の桜好きだ。
「うん、いいねー。行こう行こう。」と、ばあちゃんが嬉しそうに答えている。
そんな二人の傍で
「行ってくる。」と、猿也が靴を引っかけて、玄関を出ようとしていた。
「あれま、猿也の事をすっかり忘れてた、ごめんね。気をつけて行ってらっしゃい。」と、母
「猿也、まだいたのかい?」と、いたずらっぽく笑うばあちゃん。
「べつにいいけどさ。」と、ポーカーフェイスの猿也が出ていく。
母が家の中の掃除をはじめると、ばあちゃんが庭に出てきて庭の手入れをはじめた。しゃがんで雑草を抜こうとしたら、突風がふいた。桜の花びらが舞い上がっている。時市名物の春の突風だ。満開の桜の花びらを根こそぎ剥ぎ飛ばしてしまう突風がこの時期、突然吹き荒れる。空高く舞い上がる桜の花びらの群れ。それはとても美しく迫力ある舞いだった。ばあちゃんは立ち上がり、空を見上げた。が、そのまま胸を押さえて足元から崩れる様に倒れて行った。
「危ない!」と、私は思わず叫んでいた。しかし何も出来ない、見ているだけだ。
母が物音に気付いて
「お母さん、大丈夫ですか!」と叫びながら、裸足で走って来た。倒れて身動きひとつしないばあちゃん。母の顔から血の気が引いていくのがわかる。
「お母さん、しっかりして」とばあちゃんの耳元で声を掛けるも、全く反応がない。ばあちゃんの胸に耳を押し当てる。位置を変えて何度も何度も押し当てる。くちびるを噛みしめ、震える手でエプロンのポケットから携帯を取り出して、119を押す。「はい、わかりました。。」と言うなり、携帯を投げ捨てて、ばあちゃんに馬乗りになると、両手をばあちゃんの胸に押し当てて渾身の力を込めて圧迫する。母とばあちゃんの身体が大きく揺れる。母は、何かを叫びながら顔を真っ赤にして何度も何度もばあちゃんの胸を圧迫している。救急車のサイレンの音が近づいていた。
母とばあちゃんの姿が白い湯気に包まれていく。全てが真っ白になり、何も見えないし、聞こえなくなった。
湯気が透けていく。湯船がいつもの大きさに戻っていた。
涙とため息が溢れ出てしまう。私はばあちゃんをそっと抱きしめた。
「季、大丈夫だよ。」
ばあちゃんの柔らかい手が私の頭を撫でてくれる。
「ばあちゃん、ごめんなさい。」
「季が謝る事じゃないよ。」
「ううん。私はばあちゃんに酷いことをしたから。」
「酷いことって、季は何もしてないよ。何時でもばあちゃんにやさしくしてくれてたでしょう。」
「あのね、私はいい気になってばあちゃんの頭を実験台みたいに使ってた。色々な液でパーマをかけたり、色んな色に染めたりして、ばあちゃんの頭に沢山の薬品をかけてしまって、それでばあちゃんを弱らせてしまって、それで」
と、私が声をつまらせていると。
ぶはっと、ばあちゃんが吹き出している。あははとしばらく笑ったあとに、
「ああー可笑しい。季はそんな事を思っていたのかい。あーあ季らしいけど、バカだねー、そんな事で死んでたら美容室に、誰も行かなくなるだろうに。」と、あははと楽しそうに笑っている。
「そんな事で、死ぬわけがない。季、ばあちゃんが死んだのはそれは、ばあちゃんの定められた寿命というものだよ。それは誰のせいなんかじゃないのさ。
「それから季、ばあちゃんは季に髪をいじられるなが好きだった。季の優しい指使いが心地良くて、いい気持ちだった。それは季か担当したお客さんも同じように感じていたと思うよ。」
「それなのに季ってば、そんな事を思ってたんだね。なんか笑える。季らしいね。」
私も何だか可笑しくなって来て、へへと笑いながら何度も頷いていた。
ばあちゃんが湯気の中に消えていく。
「ええー、ばあちゃん、ちょっと待ってまだ色々聞きたい事が・・・」
湯船の中には、私がぽつんと1人きりになっていた。
「よし、又、明日だ。」
気持ちをきりりと切り替えて私は家に帰り着いた。母にどう話せば良いのか解らなかった。ので、私は疲れに身を任せ、眠りに着いた。翌朝、ドアをノックする音で目が覚めた。
「季、大丈夫か?お父さん、仕事に行ってくるよぞ。」とドア越しに、父が言っている。
「はーい、大丈夫だよ。行ってらっしゃい。」と元気な声でこたえた。
そのまま起きて、とんとんと階段を降りた。
台所で洗い物をしている母にも、
「あ母さん、おはよー」と、元気に声を掛けた。それはもう、とびきりの笑顔で。
私の元気と引き換えの様に、母は元気がなくなっていた。私のために用意してくれた朝食をじっと見つめている。
「お母さん、私はもう大丈夫だからね。来週から仕事にも復帰するからね。」と言っても、母は優しく微笑むだけだった。母の中で、何かが起きている。様に見えた。私は母が私にしてくれた様に、そっと見守る事にした。いつか時がその傷を癒してくれます様に、と祈りながら。
お昼にと、作ってくれたお弁当を、「ありがとう」と感謝して平らげる。
いざ、時湯へ
今日もまた、一番乗りだ。出来立ての湯気が綺麗に立ち上ぼり、天井を覆い隠してゆく。
体を軽く洗い流してから、湯船へと身を沈める。
「ふー、いい気持ち。」と、思わず口から溢れる。
滴がぽちゃんと私の頭におちた。天井を見上げると、白い湯気が渦を巻いて天井を覆い隠していた。私の身体がぐらりと揺れた。
「季」と私を呼ぶばあちゃんの声が聞こえる。
「ばあちゃん」と、私の声はしっかりしていた。
ばあちゃんが私の隣でゆったりとお湯に浸かっている。
その時、男湯から「おーい、そろそろ上がるぞ。」とこえが聞こえた。
湯気の向こうに見える女のひとが、桶をコンコンと二回ならした。多分若い奥さんなのだろう。熟練者なら、「はーい」とか、「ちょっと待ってて」とか声に出している。
その女の人が静かにお湯へと入ってきた。傍で見ると優しそうな、綺麗な顔立ちをしている。それ以上に、なんというきれいな手なんだろう。私は思わずその手に見いってしまった。
「季、声を掛けてごらん。」
ばあちゃんが、私の耳元で囁いた。
「うん、わかった。」
「あのー、こんにちは」と、ちょっとドキドキしながら遠慮がちに声を掛けてみた。
「あ、はい、こんにちは」
その人は、私をしっかりと見て返事をしてくれた。
「突然ごめんなさい、なんか気持ちがよくてつい声を掛けてしまいました。」
と、がんばる私。
「はい、本当に気持ちのいいお湯ですね。」
微笑みながら、その人は答えてくれた。
「さっきの声は、旦那さんですか?」
「あ、はいそうなんです。大きな声でごめんなさい。」と、申し訳なさそうに頭を下げた。
「いえいえ、とんでもないです。私好きなんですよ、壁越しに交わされるでるよの合図が。聞いていてほっこりするんです。何かいいなーって。」「そうでしたか。良かったです。時湯に来ると本当に心も体もほっこりします。私達は時湯が大好なんです。といっても、月に2、3回くらいしか来れないんですけど。」と、嬉しいけど、ちょっと残念そうにその人は顔をほころばせた。
「私も時湯が大好きで、良く入りにきます。時湯がお休みの時は鶴亀湯にも、たまーに行きます。鶴亀湯ってご存知ですか?」
「はい、知ってます。今川焼き屋さんの、お隣ですよね。」
「そうですそうです。鶴亀湯に行った帰りは、必ず寄るんですよ。おばあちゃんの作る、あのまん丸い今川焼きが大好きなんです。」おっと、よだれが出そうになる。
「鶴亀湯には、入ったことはないのですけど、今川焼き屋さんには、私も時々買いにいきます。美味しいですよね。あのまん丸い形が可愛らしくて、作っているおばあちゃんもとても優しい方で、大好きです。」
綺麗な手を合わせて丸を作って自分の口元に持っていく。
「うわあ、とっても綺麗な手ですね。」
わたしか思わずその手に触れた時、ばあちゃんの手がその上に重ねられた。
お湯が、大きくゆっくり波打っている。立ち上る白い湯気で何も見えなくなった。その湯気が少しずつ消えていく。そこに見えたものは・・・
夕暮れ時、雪がしんしんとふっている。すっかり葉を落としてしまったプラタナスの街路樹の下に私達は立っていた。裸ではなくしっかりと冬のコートを羽織っていた。
住宅街へと続く歩道を転ばないように注意しながら小走りに急いでいるのは、さっきまで話していた女性だ。静かに舞い落ちる雪を嬉しそうに見ながら先を急いでいる。スタンドカラーの真っ白いコートが良く似合ったいる。
表通りの国道を黒の常用車が走っているのが見えた。舞い落ちる雪の中を注意しながら運転している大がらな男の人は、多分旦那さんかと思われる。
住宅街の一角に二階建てのお洒落なアパートが建っている。入口の横にある背の低い垣根にハイツ・タイムと書かれたグリーンのボードが見えた。そのボードの前でふたりは鉢合わせになった。思いがけない偶然を「おっ」「あら」等と言いながら楽しそうに喜んでいる。階段を上がってすぐ右手にある、201号室のドアを旦那さんが開けた。
表札には、宗吉 猛、空と書かれていた。玄関には可愛いサンタのぬいぐるみが二人お出迎えしていた。そうか、今日はクリスマスイブだ。猛さんの持っている大きな紙袋の中には、色とりどりのキャンドルと、ビル・エヴァンスのCDが一枚それとシャンパンと赤ワインが入っていった。
空さんの手にはクリスマスケーキが大事に抱き締められていた。
空さんはすぐに、昨夜仕込んでおいた煮込みハンバーグを火に掛けて、大根、人参、レッドオニオン、紫キャベツ、きゅうりを手際よく千切りにする、それにノンオイルのツナフレークとハムの千切りを和え、サラダにする。スープはトマトと卵を散らしたコンソメスープ。それにバゲットの薄切りを添える。
猛さんは、テーブルのセッティングをすると、色とりどりのキャンドルを台所とリビングのあちこちに置いては、火を灯す。クリスマスイブには、必ず見る「大停電の夜に」のビデオをセットして、空さんの大好きなビルエヴァンスのCDを静かに流す。
部屋の明かりが消される。沢山のキャンドルのほのかな明かりが揺らめきとても綺麗。その中で交わされる微笑みとお喋り、シャンパンと料理が美味しくて、手が口が止まらない。二人は場所をリビングに移して、ワインとチーズケーキそれから「大停電の夜に」のビデをゆったりソファーにもたれながら、楽しむ。ピアノの音とベースの程よく掠れた響きが、心地よい。しぜんに唇が重なり、火照った肌を求め会う。ワインの酔いと心地よい疲労感に包まれて、いつしか二人は深い眠りに・・・。
夜明け前の街を、サイレンの音と共に消防自動車が、何台も走って行く。火の手は、ハイツ・タイム201号室、ベランダから煙がもくもくと溢れ出て来ている。その煙の中に赤い炎が見える。サイレンが止むと同時に消防士の訓練された機敏な動きで、消火活動がはじまった。
私達は何時しかハイツ・タイム201号室の炎に包まれた部屋の中に立っていた。白いコート姿の空さんと厚手のオーバーを着こんだばあちゃん、そして時湯へ来るときの格好のままの私が、横たわる猛さんと空さんを見おろしていた。
私は涙が止まらなかった。
「そらさん・・・ごめんなさい・・」絞り出すように私が言う。空さんはゆっくり首を横に振りながら、
「そうだったんだ。私ったら、何も知らないで」と、つぶやく。
自分に覆い被さる格好で焼けただれ息絶えてる猛さんに目を移す。空さんの目から涙がこぼれ落ちた。その瞬間、もくもくと湯気が立ちのぼり、空さんを包みこんでゆく、その湯気は次第に大きな人の形となっていく。何時しか、猛さんが空さんをすっぽり包み込むように背中から抱き締めていた。その大きな腕を空さんも小さな手で抱き締めた。
「ごめんなさい。とんでもない事をしてしまって・・・」心から申し訳なさそうに頭を下げる空さん。猛さんも横に並び深々と頭をさげた。
「大丈夫です。一人として負傷者はでていません。」ばあちゃんがきっぱりと答えた。
「それより、たくさんの人達が二人の死をとっても哀しんでいました。」
北国の家は物凄く頑丈に造られている。窓も壁も分厚いので、燃えたのは201号室だけで済んだ。
「良かった。みなさんが無事で。」空さんの肩の力が抜けた。
「生きたかった、」と、ぽつりと空さんが言った。
「そうだよね。」と私は掠れた声で答えていた。「うん、猛ともっと喧嘩したり、泣いたり笑ったりしたかった、美味しいものもまだ沢山たへ切れてなかったし。おじいちゃんになった猛を見たかった。私達の子どもに・・・」空さんの声がつまる。
猛さんが空さんをしっかりと抱きしめた。その瞬間、ぐらりと空間が揺れた。もくもくと立ちこめる湯気が、全てを覆い隠し、高く高くのぼっては消えていった。
「もっともっと生きたかった・・ー」空さんの声が消えて行く。
その時、雫が一滴 頭に落ちた。
私はばあちゃんと二人だけで、湯船に浸かっていた。空さんの姿はなかった。
私はため息混じりに、ばあちゃんに聞いた。
「ばあちゃん、これで良かったのかな?」
吸い込まれそうな深く優しいまなざしで、ばあちゃんは答えてくれた。
「ふたりが今、逝くべき所へやっと行くことが出来たのだから、良かったと思うよ。」
「空さんに真実を報せることが出来て、本当に
良かったと思っている。」
「猛さんも同じだね。」と私は言った。
ばあちゃんは、少し辛そうに
「猛さんは、自分達が死んだという事実は知っていたんだよ。でも、空さんは違っていた。」
お湯が大きくゆっくり波打っている。一瞬湯気で何も見えなくなった。それから・・・再びハイツ・タイム201号炎の中。
猛さんか目を覚ました。すでに回りは火と煙に覆われていた。
「空、起きろ、空」大声で叫んで身体を揺さぶるが、空さんは目を覚まさない。ぴくりともしない空さんを抱き抱えて逃げ場を探すが、炎と煙が行く手を阻む。咳き込み膝をつく猛さん。次第に遠ざかる意識の中で、空さんを落とさないように横たわらせると、空さんに覆い被さった。自分の体の下から空さんがはみ出さないように、空さんの手を自分のお腹の下に押し込め、顔を胸の下に抱き抱えて、足は自分の足で手繰り寄せその足の下に隠そうとしている。必死で空さんを火の手から守ろうとした。そして猛さんは息絶えてしまった。
発見された時、空さんは猛さんの胸の下に顔が、お腹の下に両手が、それは驚くほど綺麗に残っていた。
「猛さんは、自分が死んだ事を知らない空さんの側を離れる訳にはいかなかった。季と一緒に空さんにちゃんと報せる事が出来て、やっと二人は光となり天高く消えていった。」
私は涙が止まらなかった。
「悲しいけど、猛さんみたいな素敵な人にあんなに愛されて、そらさんが少し羨ましいな。」
ばあちゃんが目を細くして私を見た。
うっ、あの目はやれやれ空はと思っている時のばあちゃんの目だ。
「空さんと猛さんが結婚して間もない時だった。・・・
いつの間にかハイツ・タイム201号室から全てが消えていた。明るくも暗くもない空間で私とばあちゃんは何かに腰かける格好で向き合っていた。
普通ならあまい新婚生活が待っているはずだったのに。猛さんは日に日に元気が失くなって行った。そしてとうとう会社にも行けなくなってしまった。
猛さんが、布団から出ることも出来ない日々が続いていた。布団に包まった猛さんは、目は開けてはいるが虚ろで生気が感じられない。さっき空さんを抱きしめていた猛さんと同じ人には
見えない。
空さんは初めての事に、なにが起きてしまったのか訳が解らす戸惑ってしまった。
ある日曜日の午後の事だった。
「ビールを切らしちゃったから一緒に散歩がてら買いに行こうか?」と空さんが声を掛けた。いつもなら「それは大変だ、行こう行こう」と楽しげに出掛けてくれるのに、「いや、いい。」と不機嫌に一言言うと、ふて腐れたようにごろんと横になってしまった。そんな猛さんにかける言葉もみつからず、空さんは何事もなかったかの様に
「それじゃあ、ちょっと買い物に行って来るね。」となるべく明るく聞こえる様に声をかけてから、部屋をあとにした。私のせいかなと考えずにはいられない。でも、何故、いろいろ理由をかんがえて見ても思いあたる事が見つからない。
元気なく帰って来た空さんに、「すまない」と、猛さんはぼそっと呟いた。その一言に救われた気がして、空さんは顔を上げる事が出来た。
翌朝、猛さんはどうにか起きることは出来たが食欲がない。いつもならご飯2杯はぺろりと食べていたのに、卵焼きを一切れを無理やり飲み込むと「ごちそうさま」を言った。そして日に日に口数も少なくなって行った。そんなある日、仕事中の空さんにメールが届く。
「つらい、会社に居るのが。」
翌朝、朝食も取らずにパジャマ姿のままソファーでうずくまっている猛さんに
「今日1日、会社を休めないかな?」と空さんが聞くと
「休んでいいかな、、、」と猛さんが、辛そうに返事をする。
「うん、休んじゃえ」と空さん。
猛さんが布団の中に戻って行く。それ以来布団から出ることが出来なくなってしまった。
空さんは猛さんの変わりように戸惑ってしまう。
空さんは自分自身に確かめる為に声に出して言ってみる。
「猛さんがとても辛そうだ。それはわかる。その原因は会社にありそうだという事も。私はどうしたらいいのか?。」
それから、両家の両親、兄弟、友達に、電話をかけまくり、相談してみた。すすめられた心の病気に関する本も図書館に行っては、夢中で読みあさった。診療内科の事も調べて、猛さんを誘ってみたけどなかなか首を縦に振ってはくれなかった。
追い詰められた空さんは腹をくくった。
猛さんが頭から布団を被っている横に正座をする。背筋を伸ばして静かに深呼吸をする。
「猛、聞いてくれる。」暫く待っていると、猛さんがごそごそと起き上がり、布団の上に胡座をかいた。が、顔を空さんと合わせる事はなかった。
「うん、猛、私は猛が何もしたくないのなら、何もしなくていいんじゃないかと思っている。でもそれば私の一方的な考えなんだと思う。だから、私は猛自身がどうしたいと思っているのか、教えてほしい。」
空さんと向き合って座る猛さんの目から涙がこぼれた。
「あっ、ごめん。話すのがつらかったら、いいよ、話さなくても。」と、慌てる空さんに
「大丈夫、俺、話がしたい。」と猛さんの掠れた声が返ってきた。
「うん、わかった。」と、空さんの声も掠れる。
「空と結婚出来て、俺は本当に嬉しくて幸せなんだよ。それなのにこんな状態になってしまって、本当にごめん。」猛さんは、そう言うとゆっくりと深呼吸をした。そして語り始めた。
「空と結婚が決まって、俺の上司も喜んでくれた。」
「ここは一つ、営業に異動して頑張って見ないか。」
と言われたんだ。俺は今の仕事が好きだったし、やりがいも感じていた。でもここは頑張りどころかなと思って承諾した。でも頑張れば頑張るほど空回りしている感じがして、どうしても上手く行かないんだ。誰になんて相談したら良いのかも解らなくて。その時初めて会社に行きたくないと思ってしまった。一度そう思ってしまったら、そういう思いが頭から離れなくて。会社に行こうとしても、身体が動かない。どうにか会社の前まで行っても、どうしても入る事が出来ない。気持ちを切り替えてと思っても、どうしても上手く行かないんだ。そんな自分が、情けなくて。
「そうだったんだ。辛かったね。話してくれてありがとう。」空さんが猛さんを抱き締めると、猛さんは堰を切ったように泣き崩れた。どれくらい時がたったのだろう。静かだった。
「猛、転職してみたら。私なりに色々考えていたんだけど。贅沢さえしなければ私のお給料だけでも十分生活していけると思う。」
「会社、辞めてもいいのか?。」
空さんは真面目な顔で「勿論、いいに決まってる。」と即答した。
「わかった。うん、頑張って職探しするから。」
猛さんは答えた。
「うん、ゆっくりね。無理しないで。それまでは少しずつ家事を覚えてもらおうかな。どう?」
「そうだね、ちゃんと覚えるよ。」
「ぼちぼちやってみよう。それじゃあ会社の方に辞める事を知らせないとね。どう?動けそう?私はついていくつもりだけど。」
猛さんは、「今からか・・・」と顔を曇らせて俯いたきり動かない。空さんは何も言わずにただ、猛さんの返事を待つことにした。
猛さんが顔を上げた。少し強ばってはいたが、「うん、今から行こう。今動かないと、また動けなくなりそうだから。情けないけど、会社まで一緒に来てもらえるかな。」
その時、電話が、鳴った。
そらさんがゆっくりと立ち上がり電話に出る。「もしもし、宗吉です。」
「岡田です。空さんですね。今日は青空がとても綺麗なので空さんを思い出して電話しました。なんちって、元気ですか?新婚そうそうだんなが出社拒否とはほんとうにもうケシカランですな。」
空さんの気持ちを和ませてくれた。空さんがくすっと笑った。
「空さん、猛と代わってもらえるかい。」
穏やかだが凛とした物言いが安心感をあたえる。
猛さんが電話を受け取り話し始めた。猛さんの背筋が伸びていくのが、見ていてわかる。口もとが少しだけほころんだ様に見えた。
猛は話し終わり受話器を置くと、
「空、俺今から一人で会社に行ってくるよ。岡田先輩が先ずは一度会社に出てこいというんだ。話はそれからだと。」
「大丈夫?私も一緒に行こうか。」
「いや、今ならひとりでも行けそうだから。今行かないと、また行けなくなりそうで、それが怖い。大丈夫だと思う。」
そういうと猛さんは洗面所へ行き久しぶりに髭を剃りはじめた。会社を辞めるという決心が猛さんの心を軽くしたようだ。それと岡田先輩の後押しもあって自分の思いを全て上司に話す事が出来た。会社は優秀な社員であった猛さんの退職を受け入れる事はしなかった。猛さんを元の部署に戻すということで、双方納得の結果が得られた。
猛さんは、空さんの屈託のない笑顔に励まされて、どうにか会社にいく事が出来るようになった。
「そう、空さんの大きな愛に包まれてね。これからだったのに・・・」
湯気で何も見えなくなる。
滴が一滴、湯船に落ちた。
ばあちゃんの姿が湯気のなかに溶けていった。
「もっと生きていたかった。」
空さんの声が天井を覆う湯気の中から聞こえた。
帰り道、もし猛さんと空さんが今も生きていたら、と考えずにはいられなかった。
きっと素敵な日常がそこにはあったんだろうに。
私は好きになって付き合って、別れて。
一つでも嫌な部分を見てしまうと、私の気持ちは急速に冷めてしまい、会うのが苦痛になって行った。「情けない。」何を見てきたというのか、何も育てようとはしなかでた。一体何を体質にしてきたのか。
猛さんのあんな情けない姿を見ても、何一つためらう事なく、当たり前のように猛さんの幸せを考えている、空さん。私もそんな風に他人を好きになりたい。
「ただいまー」
時湯