時湯

時湯に来ると会えるんです。私の大好きなばあちゃんに。大好きだった、死んだばあちゃんに。

立ちのぼる白い湯気、コーンと響く桶の音、ザバーと湯船からお湯が溢れ出る音。
「ああ〜」とか「ふう〜」とか「極楽 極楽」とか、思わず口から洩れてしまう至福のため息。
子供達の笑い声、大人達の話し声。
「おーい、出るぞー」と、男湯から聞こえる声。
「はーい」と、恥ずかしそうに答える女湯からの声。
その全ての音が天井を覆い隠す白い湯気の中に吸い込まれては消えていく。

なんとも、いいんです! ここは、銭湯 時湯。
籘で出来た、背の低い小振りのベビーベッドが、脱衣所とお風呂場を仕切る窓ガラスのすぐ傍に三個並べられている。若いお母さんが大急ぎで身体を洗いながら、心配そうに窓ガラスの方を気にしている。赤ちゃんが少しでも手足を動かそうものなら大慌てで身体の石鹸をお湯で流し、窓へ駆け寄る。
そういう時はいつも、すぐ傍で帰り仕度をしているおばさん、またはおばあさん、希にお姉さんが、赤ちゃんのベッドを覗きこみ寝ているのを確認してから、心配顔のお母さんに「大丈夫、寝てますよ。」と口を大きく動かして知らせてくれる。それから、その中の80パーセントくらいの人がお風呂場の入口の所まで行って、その戸を少しだけ開けてから、
「大丈夫、私がちゃんと見ているからゆっくり入ってて」と声を掛けてくれる。
「すみません、それではお言葉に甘えて、少しの間だけお願いします。」
頬を上気させた若いお母さんが、素直に好意に甘える。
その様子をおっとりしながらも、しっかりと番台のおばちゃんが見ている。

私は、原田 季 22才。
住んでいる所は、風の街で有名な、時市時岡町。
時市は人口が約28万人の北に位置する港町だ。海があり、標高334mの時山がある。
時山は陸繋島なのでまるで海にぽっかり浮いているかの様にも見えて、ひょっこりひょうたん島を思わせる。その時山の裾野を、路面電車がガタンゴトンとゆっくり走っている。
手を伸ばすと、デパートもおしゃれな雑貨屋も図書館も市役所も、すぐ手の届く所に在るという、なんとも使い勝手の良い小さな街だ。
海からの風が町中に潮の香りを届けている。その潮風に乗って、カモメが時市の空を飛び交う。街路樹はプラタナス。時折、その大きな葉を簡単に転がしてしまう程の強い風が吹く。
北国の春の訪れは遅く、五月を少し過ぎた頃にやっと桜達が蕾を開き始める。風の街といえば聞こえは良いが、開いたばかりの桜の花を容赦なく、風が一瞬にして剥ぎ取って行く。
迫力ある桜吹雪か時市を覆い尽くす。
春、そんな、厳しくも美しい季節に・・・
私の大好きなばあちゃんは亡くなった。
原田 いつ 79才 五月十三日午前9時、自宅の庭で倒れているのを、母が発見した。救急車で時市民病院に搬送されるも、再び心臓が動く事はなかった。
まだ まだ ずーと一緒に居られると思っていたのに・・・

五月十三日午前7時20分。ため息をつきながら玄関で靴を履く私に、ばあちゃんは満面の笑顔で、
「季、行ってらっしゃい」と、声を掛けてくれた。その笑顔に元気をもらって、どうにか私は立ち上がる事ができた。
「いってきます。」と、力なくばあちゃんに手を振ったのが、最後になってしまった。そんな私を心配して、ばあちゃんは私が見えなくなる迄、手を振り続けてくれていたんだと思う。
たぶん。私は、振り返る事さえしなかった・・・

ばあちゃんが死んでからこの3日間、私は布団から出る事が出来ないでいた。大好きなばあちゃんを失ってしまったというその事実は、悲しさと共に胸をえぐられるような痛みが、私を打ちのめしていた。
痛くて痛くてたまらない。どうしたらいいのかが解らない。私は、ただただ布団の中で歯をくいしばっていた。
そうする以外に、どうしたらいいのか解らなかった。

私は、小さい頃からの夢だった美容師になりたくて、高校を卒業後、美容師専門学校へ入学した。入学してすぐに専門学校という所の厳しさを思い知ることになった。
それはそれは忙しい日々で、知識と技術をみっちりとびっしりと目一杯、毎日朝から晩まで教えこまれた。志しをしっかりと強く持った者が通うべき場所だと思い知った。
一応、私にだって美容師になりたいという強い意志はあったので、へとへとになりながらも無事に卒業する事が出来た。北風美容室に就職も決まった。
北風美容室は、先生と女性スタッフが5人の大きくも小さくもない、ちょうど居心地の良いそれでいておしゃれな店だ。
店の玄関前の小さな庭には、ガーデニング好きの先生の手で四季折々の花がわんさか賑やかに植えられていた。
勤めて2年、まだまだ下っ端でいまだにお客さんのカットは任せてもらえない。なんか頑張っても頑張っても、なかなか認めてもらえない。一度のミスで今迄積み上げてきたものが、自分の中でガラガラと音をたてて崩れてしまう。同期で入った雪絵さんは、あんなにてきぱきと仕事が出来るのに、どうして私はこうも鈍くさいのか。先が見えない不安感、焦り、苛立ちが苦しい。そんな日々を私は過ごしていた。
ばあちゃんは、そんな私をいつもやさしく見守っていてくれた。
「季、大好きだよ」
「ばあちゃん、大好き」
ばあちゃんが死んだ・・・そんな事受け入れらられる訳がない・・・

そんな私を母はとても心配して、やさしく声を掛けてくれる。手をしっかり握ってくれる。背中をゆっくり、いつまでもさすってくれる。母の私への思いと優しさは、私の心を暖かく包み込んでくれて、それはそれは有難かった。でも、申し訳ないけど胸の痛みはいっこうに消えてはくれなかった。食事も取れない私の為にお粥を作ってくれるが、どうしても口に出来ない。そんな私に、静かに母が話してくれたのは、
「ねえ季、季はばあちゃんとよく一緒に時湯に行ってたね。どうだろう・・・」
そうだった!
「うん、行ってみる!」
久々に出す私の声は、ちゃんと母に聞こえただろうか。私は、母がまだ話し終わらないうちから、行動に出ていた。

私が小学5年生の秋に、私たちは、ここ時岡町に引っ越してきた。それまで住んでいた時市大町の家が手狭になったため、思いきって売却して、中古だが今住んでいる家より一回りは大きいこの家を購入した。静かな住宅街に建つ、白い外壁の2階建て5LDKの家だ。我が原田家は、父 巳太郎、母 さつき、弟 犬也、祖母 いつ、そして私、季の5人家族だ。引っ越しは大変な作業だけれども、その先にある新しい生活への期待にわくわくどきどきしていた。かったるそうに段ボール箱に荷物を詰め込んでいる2年生の犬也とは対照的に、私は楽しくて楽しくて仕方なかった。犬也も私も初めての転校には不安はあったが、同じ時市内なので友達を失う事はなかった。家は築25年と古かったが、しっかりとリフォームされていて快適だった。
「これだけの建材を使った家は、新築で購入したら俺たちが買った値段の十倍位はするかも知れないぞ。」と、父が満足そうに言っていた。
確かにどっしり構えた佇まいは頼もしくて、私達に安らぎを与えた。浴室は最新の物に作り替えられていた。
でも、ばあちゃんと私は大の銭湯好きだったので、引っ越して3日目から二人の銭湯探しが始まった。
ぶらぶらと散歩がてらに銭湯を発見すると、二人で顔を合わせたにんまり。夜には二人てわくわくしながら昼間に見た銭湯に入りに行った。歩いて行ける範囲には三軒の銭湯があった。その中で、だんとつに気に入ってしまったのが時湯だった。古い建物だが小綺麗にしている。落ち着いた藍色ののれんが気持ち良い。のれんをくぐった時のやさしく凛とした感触がなんともいえない。朱で曇りガラスの所に大きく、女と書かれた引き戸をがらがらと開けると、すぐ左手に番台があり、おばちゃんが笑顔で迎えてくれる。ちなみに男湯の引き戸の曇りガラスには、これまた力強い漆黒で、男と書かれていた。女湯の戸を開けた右側に下駄箱の壁があった。いろは順に文字が書かれた小さな扉が並んでいる。いろはの文字が書かれた木が、差し込み式の鍵になっている。足下には土間の上にすのこが敷かれてある。すのこを挟んで脱衣所が広がる。壁際に木で造られた洋服を入れる鍵付きのロッカーが備え付けられているが、私とばあちゃんは貴重品もないので籐で作られた大きなかごを利用する。まずはかごを逆さまにしてとんとんと埃を落とす。それから脱いだ洋服をきちんと畳んでかごに入れて、最後に二つ折りにしたバスタオルで全体を隠すように被せる。私はさらにばあちゃんと私のかごをぎゅっとくっつけて、「よし」と言ってから浴室へと入って行く。浴室は広くて天井が高く、解放感があった。三方の壁に蛇口とシャワーがずらーっと並んでいる。楕円形の大きな湯船が真ん中にどーんとあるのが面白い。その楕円形の3分の2が大人用の湯船で深さがあり、熱めのお湯でみたされていた。3分の1は、子ども用で子どもがしゃがんでちょうど良い深さになっていた。お湯も熱くはない。左の壁は男湯と女湯の仕切りになっていて、その真ん中くらいに、半円の湯船がべたんという感じに張り付いていて、薬湯になっていた。ばあちゃんはその薬湯が、大好きで気持ち良さそうにずーっと入っていた。私は薬湯の底が見えない程の黒い色が、なんとも不気味で、どうしても入る事が出来なかった。
「あーもったいないねー。季も入ればいいのに、美肌になるよー。」と、ばあちゃんに言われても、
「いいの。」と言って入る事はなかった。そうそう時湯が定休日の時は、鶴亀湯に入りに行っていた。鶴亀湯は時湯の半分位しかない小さな銭湯だったが、由緒正しい日本の銭湯という風情が好きだった。それにお隣にこれまた小さな今川焼き屋さんがあって、優しそうなおばあちゃんが作っている、まんまるい今川焼きがもうー、絶品だった。
私が小学校を卒業するまで、ほとんど毎日、私はばあちゃんと一緒に銭湯に通っていた。

そして、いま。わたしは、
「行ってきます。」
少しでもばあちゃんを感じる事が出来たら・・・。
その一心で、動こうとしない体を無理やり起き上がらせる。のろのろと支度をして、ふわふわ漂う様に玄関を開けた。母が心配そうに、
「大丈夫なの?一緒に行こうか?」と、言ってくれたが、
「ううん、一人で大丈夫だから。」と、私は答えていた。久しぶりの外の明るさにくらくらしながらも、時湯へと足は動いてぐれた。
そんな私を母は、心配そうにいつまでも見送っていた。
午後1時15分、時湯が開く。
久しぶりの時湯。どうやら私が1番のりみたいだ、・・・
慣れ親しんだ銭湯通いのおかげで、身体が勝手に準備をしてくれる。気がつけば浴室の戸を私はカラカラと開けていた。
高い天井が湯気で霞んで見えない。その天井のすぐ下にある窓から昼の陽射しが入り込み、立ち上る湯気を照らしている。まるで別世界に来た様な感じがする。
体を軽く洗ってから湯船へと身を沈める。
「ふ〜 」と思わず口からもれてしまう。
「ばあちゃん・・・」思わず声がでていた。
「ばあちゃんも一緒に入ろうよ・・・」と、声が続く。涙が頬を伝い胸に落ちた。
胸の痛みが消えていく。

その時、滴が一滴 わたしの頭に落ちた。
思わず天井を見上げると、湯気が渦を巻きながら天井を覆い隠している。まるで無限の宇宙へと続いているかの様に見えた。思わず吸い込まれそうになり、身体がぐらりとゆれた。

「季 いいお湯だね。」
「うん、本当に」って、
「えっ」
私は誰に返事をしたのだろうか?
今のは確かにばあちゃんの声、
「まさか」
しっかりしろ、と自分のほっぺたをバシバシと叩いてから首を90度回転。私のすぐ横に、ばあちゃんがお湯に浸かっていた。ゆったりと優しい笑みを浮かべて。
「季、久しぶり・・・」
私は、気を失いお湯の中に沈んでいった。
無理もない。この3日間ろくに食べることができなかった。いつ寝ていつ起きたかも定かではない。ただただ布団の中で、歯をくいしばっていた私が、時湯の熱いお湯に浸かって、ぶったまげる様な事に遭遇したら、そりゃあ倒れるだろう。
気が付くと私は自分のベットの中で目を覚ましていた。どうやって帰ることが出来たのかは、全く記憶にない。が、だいたい察しはつく。恥ずかしくて聞く気にもならない。
トントンとドアがノックされ、お父さんが顔を覗かせた。
「大丈夫か?」と、声を掛けてくれるお父さんに私は布団の中から
「大丈夫」と、蚊の泣くような声で答えた。
「ゆっくり休むんだぞ。」
お父さんがドアを閉める。
私は「ごめんね」と心のなかで謝った。
それにしても、
「このままじゃ駄目だ。」と声に出してみた。なんか力が湧いて来るのを感じる。
「しっかり食べて、しっかり寝て、そしてしっかり覚悟を決めてから、もう一度時湯へ行こう。ばあちゃんに会いに。」
「よし」と、私は自分のほっぺたをばしばしと叩いた。
翌朝、私は何事も無かったかかの様に、お母さんの用意してぐれたお粥をきれいに平らげた。
「ああ美味しかった。ごちそうさま。私はもう大丈夫だから。」と、満面の笑顔をお母さんにむけた。
お母さんは、そんな私に何も聞くことなく、微笑んでくれた。ありがたい。
体力をつけるために、外をゆっくり歩いてみた。ばあちゃんの大好きな桜は、終わろうとしていた。
昼食はお母さんがお弁当を、私の部屋のテーブルに置いておいてくれる。この3日間、私が食べたい時に食べれるように、お弁当を作ってくれていた。お母さんらしい気遣いだ。柔らかい煮物と柔らかいご飯を、美味しく完食した。
そして、いざ時湯へ。
ばあちゃんは死んでしまった。それじゃあ時湯にいたばあちゃんは、幽霊ですね。うんうん、何かどきどきする。うんうん、大丈夫、うん、大丈夫です。ばあちゃんの幽霊なんだから、うんうん大丈夫。どうにか自分を納得させて、時湯に到着した。
1時15分に開店を知らせる藍色ののれんが掛けられる。
大きく深呼吸して、それから「よし」と自分に気合いを入れてから暖簾をくぐった。鮮やかな朱色の女と書かれた戸をがらがらと開ける。番台のおばちゃんは席を離れていたのて、お金だけ番台に置いた。靴を脱いですのこを歩いて下駄箱に靴をいれカギを抜いた。それから脱衣所へと移動、篭をとんとんとしてからいつもよりゆっくりと着ていた服を畳み、その上にバスタオルを掛ける。心臓がどきどきを通り越してばっくんばっくん音を立てている。よく喉から心臓が飛び出しそう、というがこういう事なんだ。浴室の引き戸を開ける手が震えている。体にお湯を掛ける手も震えている。それからお湯へおそるおそる入ってみる。お湯の熱さが、解らない。とりあえず肩まで浸かって、それから
震える声で、
「ばあちゃん」と呼んでみる
その時、滴が一滴 私の頭に落ちた。

「こほん」と咳払いが聞こえた。それからもう一度「ごほん」と今度はいかにもわざとらしい咳払いが・・・
くすっと私は笑ってしまう。
「季」
ゆっくりと静かにばあちゃんが私の名前を呼んでいる。
私はこっくりと頷く。そして深呼吸。心臓のどきどきが治まっていく。
「ばあちゃん」と答える。その声は掠れてはいたが、震えてはいなかった。横には、ばあちゃんがお湯に浸かっていた。ゆったりと優しい笑みをうかぺて。私はばあちゃんと向き合い、その頬にそっとふれてみた。よくテレビで見る幽霊の様に、私の指は、ばあちゃんの頬を通り抜ける事はなかった。私はばあちゃんの頬に触れながら
「ばあちゃんは死んだの・・・」と聞いてみた。
「残念ながら、その様だね。」と、ばあちゃんは答えた。
「不思議だね、季。」とばあちゃんは言った。それか自分の頬に置かれていた私の指に、ぞっと自分の手を重ねた。
その瞬間。
湯船がどんどん広がっていく。もう見渡す限りお湯しか見えない。 まるで海だ。お湯が大きくゆっくり波打っている。沢山の湯気が立ち昇る。一瞬湯気でなにも見えなくなった。
それから、湯気が静かに消えていった・・・
そこに見えたものは・・・

ため息をつきながら玄関で靴を履く私に、満面の笑顔で
「季、行ってらっしゃい」と、ばあちゃんが声を掛けている。その笑顔に答えるように、私はどうにか立ち上がり
「行ってきまーす」と、力なくばあちゃんに手を振り、歩きだす。
そんな私をばあちゃんは、見えなくなるまで見送っている。
「大丈夫、大丈夫。」と独り言を言いながら。家の中に入っていった。
玄関には母が心配そうに立っていた。
「季はちゃんと行ったようですか?」と、ばあちゃんに聞いている。
「大丈夫そうだったよ。私にもちゃんと手を振ってくれたし。しっかりと歩いて行ったよ。大丈夫、大丈夫。」と、ばあちゃんが答える。
母は、私には洗い物をしながら
「気をつけて、いったらっしゃーい!」と何時も通りに言って、心配の素振りも見せなかったのに。
「そっか、良かった。」と、ほっと息をはいている。
「そういえば、お母さん、時公園の桜が見ごろみたいですよ。10時過ぎくらいにでも一緒に見に行きませんか?」と、母がばあちゃんを誘っている。ばあちゃんは大の桜好きだ。
「うん、いいねー。行こう行こう。」と、ばあちゃんが嬉しそうに答えている。
そんな二人の傍で
「行ってくる。」と、犬也が靴を引っかけて、玄関を出ようとしていた。
「あれま、犬也の事をすっかり忘れてた、ごめんね。気をつけて行ってらっしい。」と、母
「犬也、まだいたのかい?」と、いたずらっぽく笑うばあちゃん。
「べつにいいけどさ。」と、ポーカーフェイスの猿也が出ていく。
母が家の中の掃除をはじめると、ばあちゃんが庭に出てきて、庭の手入れをはじめた。しゃがんで雑草を抜こうとしたら、突風がふいた。桜の花びらが舞い上がっている。時市名物の春の突風だ。満開の桜の花びらを根こそぎ剥ぎ飛ばしている。空高く舞い上がる桜の花、花、花
それはとても美しく迫力ある舞いだった。
ばあちゃんは大きく息を吸い込み、空を見上げた。が、そのまま胸を押さえて足元から崩れる様に倒れて行った。
「危ない!」と、私は思わず叫んでいた。しかし何も出来ない、見ているだけだ。
母が物音に気付いて
「お母さん、大丈夫ですか!」と叫びながら、裸足で走って来た。倒れて身動きひとつしないばあちゃん。母の顔から血の気が引いていくのがわかる。
「お母さん、しっかりして」とばあちゃんの耳元で声を掛けるも、全く反応がない。ばあちゃんの胸に耳を押し当てる。位置を変えて何度も何度も押し当てる。くちびるを噛みしめ、震える手でエプロンのポケットから携帯を取り出して、119を押す。「はい、わかりました。」と言うなり、携帯を投げ捨てて、ばあちゃんに馬乗りになると、両手をばあちゃんの胸に押し当てて渾身の力を込めて圧迫する。母とばあちゃんの身体が大きく揺れる。母は、何かを叫びながら顔を真っ赤にして何度も何度もばあちゃんの胸を圧迫している。救急車のサイレンの音が大きくなり、そして止んだ。

私の周りが暗くなり、とうとう何も見えなくなった。何も見えない、何も聞こえない。・・・
「伝えて」
声が、この底なしの闇の中に轟く
声が、闇に眠るばあちゃんに届いた。
「伝えてあげないと、死んだことを、ちゃんと伝えてあげないと、季と一緒に。」
闇の中をばあちゃんが歩きだす。

闇が透けていく。そしてたちこめる湯気、湯船がいつもの大きさに戻っている。

涙とため息が私の口から洩れた。私は、ばあちゃんをそっと抱きしめた。
「季、大丈夫だよ。」
ばあちゃんの柔らかい手が私の背中をさすってくれる。私は目を閉じた。ばあちゃんは何も言わず、私の背中をさすっている。いつも、そうだった。ばあちゃんに急かされた事は、今まで一度もなかった。私が、泣いていると、ずーっと側に居てくれた。ただ居てくれた。私が、やっと泣き止むと、何事も無かったかのように
「さぁ、ご飯にしようか」などと声をかける。私が、言葉につまり何も言えなくなった時も、言葉が見つかるまで、言葉が出てくるまで、いつまでも待ってくれた。
私はゆっくり目を開けた。ばあちゃんから身体を離して、しっかりとばあちゃんの目をみた。
「頭の中が、整理出来ていないのだけど、私はばあちゃんと一緒に、伝える、という事が出来る人なの?」と、素直に疑問を口にしてみた。
ばあちゃんが微笑む。吸い込まれそうな優しい目をしている。
「不思議な話しだよね。「伝えて」」と言う声で、ばあちゃんは目覚めさせられたんだよ。底なしの闇の中で。その時、初めて、ばあちゃんは死んだ事に気づかされたんだよ。季と一緒に伝えたい。死んだ事に気づかないでこの世に留まっている、亡くなってしまった人達に。そして安心して天国へ行ってほしいと心から願っている。それには季の手助けがとても、とても必要なんだよ。」
私は、ばあちゃんの言葉にしっかり、頷いた。ばあちゃんか私の頭を優しく撫でてくれる。ばあちゃんはその手を私の胸に、そっと置くと、
「なにやら、この胸に何か詰まっているみたいだね。何かな?」と首を傾げている。
ばあちゃんの言葉に私は目を見開いた。
私はばあちゃんに会えたら、謝りたいことがあったのだ。
「ばあちゃん、ごめんなさい。」と私は頭を下げた。
「季が謝る事なんて、何もないよ。」
「ううん。私はばあちゃんに酷いことをしたから。」
「酷いことって、季は何もしてないよ。何時でもばあちゃんにやさしくしてくれてたでしょう。」
「あのね、私はいい気になってばあちゃんの頭を実験台みたいに使ってた。色々な液でパーマをかけたり、色んな色に染めたりして、ばあちゃんの頭に沢山の薬品をかけてしまって、それでばあちゃんを弱らせてしまって、それで」
と、私が声をつまらせていると。
ぶはっと、ばあちゃんが吹き出している。あはは としばらく笑ったあとに、
「ああー可笑しい。季はそんな事を思っていたのかい。あーあ季らしいけど、バカだねー、そんな事で死んでたら美容室に、誰も行かなくなるだろうに。」と、あははと楽しそうに笑っている。
「そんな事で、死ぬわけがない。季、ばあちゃんが死んだのはそれは、ばあちゃんの定められた寿命というものだよ。それは誰のせいなんかじゃないのさ。
それから季、ばあちゃんは季に髪をいじられるなが大好きだった。季の優しい指使いが心地良くて、ありがたいなぁーと思ってたのに、それは季か担当したお客さんも同じように感じていたと思うよ。それなのに季ってば、そんな事を思っていたなんて・・ほんとうに・・なんか笑える。季らしいけど。」
私は、心底ほっとして、何度も何度も頷いていた。
そのまま ばあちゃんは湯気の中に消えていった。
「ええー、ばあちゃん、ちょっと待ってまだ色々聞きたい事が・・・」
湯船の中には、私がぽつんと1人きりになっていた。

混乱する頭で私は家に帰り着いた。母に説明する自信はない。だいたい私が、こんなに混乱しているのに、どう話せば良いのか解らなかった。どっと疲れが出て私はそのままベッドに倒れこむなり眠ってしまったらしい。
翌朝、ドアをノックする音で目が覚めた。
「季、大丈夫か?お父さん、仕事に行ってくるぞ。」とドア越しに、お父さんが言っている。
「はーい、行ってらっしゃい。」と私はできる限りの元気な声で答えた。
台所で洗い物をしている母にも、
「あ母さん、おはよー」と、元気に声を掛けた。とびっきりの笑顔で。それなのに、私の元気と引き換えの様に、母は元気がなくなっていた。私のために用意してくれた朝食をじっと見つめている。
「お母さん、私はもう大丈夫だからね。来週から仕事にも復帰するからね。」と言っても、母は優しく微笑むだけだった。母の中の緊張の糸が、ぷつんと切れてしまったかの様に見えた。私は母が私にしてくれた様に、そっと見守る事にした。いつか時がその傷を癒してくれます様に、と祈りながら。
今日もまた、お昼用にお弁当が机の上に置かれていた。もういいのにと思いながら綺麗に食べ終えると、銭湯時湯へと向かった。

今日もまた、一番乗りだ。出来立ての湯気が綺麗に立ち昇り、天井を覆い隠してゆく。
体を軽く洗い流してから、湯船へと身を沈める。
「ふー、いい気持ち。」と、思わず口から洩れてしまう。
滴が、一滴 私の頭におちた。
天井を見上げると、白い湯気が渦を巻いて天井を覆い隠していた。私の身体がぐらりと揺れた。
「季」と私を呼ぶばあちゃんの声が聞こえる。
「ばあちゃん」と、私は笑顔で返事をした。
ばあちゃんが私の隣でゆったりとお湯に浸かっている。

その時、男湯から「おーい、そろそろ上がるよ〜。」と声が聞こえた。
湯気の向こうにかすかに見える奥さんと思われる女のひとが、桶をコンコンと、二回鳴らした。20代後半かな、女性の方はなかなか恥ずかしくて声を出せないものだ。20代なら、なおさらだろう。
その女性が静かにお湯へと入ってきた。傍で見ると優しそうな、綺麗な顔立ちをしていた。それ以上に、なんて綺麗な手をしているんだろう。私は食い入るようにその手の動きを見ていた。
「季、声を掛けて。」
ばあちゃんが、私の耳元で囁いた。
「うん、わかった。」
「あのー、こんにちは」と、ちょっとドキドキしながら遠慮がちに声を掛けてみた。
「あ、はい、こんにちは」
その人は、私をしっかりと見て返事をしてくれた。
「突然ごめんなさい、あまりに気持ちがよくてついつい声を掛けてしまいました。」
と、がんばる私。
「はい、本当に気持ちのいいお湯ですね。」
微笑みながら、その人は答えてくれた。
「さっきの声は、旦那さんですか?」
「あ、はいそうなんです。大きな声でごめんなさい。」と、申し訳なさそうに頭を下げた。
「いえいえ、とんでもないです。私好きなんですよ、壁越しに交わされる、出るよ、の合図が。聞いていてほっこりするんです。何かいいなーって。」
「そうでしたか。良かったです。時湯に来ると本当に心も体もほっこりします。私達は時湯が大好なんです。といっても、月に2、3回くらいしか来れないんですけど。」と、嬉しいけど、ちょっと残念そうにその人は顔をほころばせた。
「私も時湯が大好きで、良く入りにきます。時湯がお休みの時は鶴亀湯にも、たまーに行きます。鶴亀湯ってご存知ですか?」
「はい、知ってます。今川焼き屋さんの、お隣ですよね。」
「はい、そうですそうです。鶴亀湯に行った帰りは、必ず寄るんですよ。おばあちゃんの作る、あのまん丸い今川焼きが大好きなんです。」おっと、よだれが出そうになる。
「鶴亀湯には、入ったことはないのですけど、今川焼き屋さんには、私も時々買いにいきます。美味しいですよね。あのまん丸い形が可愛らしくて、作っているおばあちゃんもとても優しい方で、大好きです。」
綺麗な手を合わせて丸を作って自分の口元に持っていく。
「とっても綺麗な手ですね。」
わたしかそっとその手に触れた時、ばあちゃんの手がその上に重ねられた。

お湯が、大きくゆっくり波打っている。
立ち昇る白い湯気で何も見えなくなった。
その湯気が少しずつ消えていく。そこに見えたものは・・・

夕暮れ時、雪がしんしんと降っている。すっかり葉を落としてしまったプラタナスの街路樹がうっすらと雪化粧をしていた。
住宅街へと続く歩道を転ばないように注意しながら小走りに急いでいるのは、さっきまで話していた女性だ。静かに舞い落ちる雪を嬉しそうに見上げては、先を急いでいる。スタンドカラーの真っ白いコートが良く似合っている。
表通りの国道を黒の常用車が走っているのが見えた。舞い落ちる雪の中を注意しながら運転している大がらな男の人は、先程の女性の、多分旦那さんかと思われる。
住宅街の一角に二階建てのお洒落なアパートが建っている。入口の横にある背の低い垣根にハイツ・タイムと書かれたグリーンのボードが見えた。そのボードの前でふたりは鉢合わせになった。思いがけない偶然を「おっ」「あら」等と言いながら楽しそうに喜んでいる。階段を上がってすぐ右手にある、201号室のドアを旦那さんが開けた。
表札には、宗吉 猛、空と書かれていた。玄関には可愛いサンタのぬいぐるみが二人お出迎えしていた。そうか、今日はクリスマスイブだ。猛さんの持っている大きな紙袋の中には、色とりどりのキャンドルと、ビル・エヴァンスのCDが一枚それとシャンパンと赤ワインが入っていった。

空さんはすぐに、昨夜仕込んでおいた煮込みハンバーグを火に掛けて、大根、人参、レッドオニオン、紫キャベツ、きゅうりを手際よく千切りにする、それにノンオイルのツナフレークとハムの千切りを和え、サラダにする。スープはトマトと卵を散らしたコンソメスープ。それにバゲットの薄切りを添える。手作りのチーズケーキも、忘れずに出しておく。
猛さんは、テーブルのセッティングをすると、色とりどりのキャンドルを台所とリビングのあちこちに置いては、火を灯す。クリスマスイブには、必ず見る「大停電の夜に」のビデオをセットして、空さんの大好きなビルエヴァンスのCDを静かに流す。
部屋の明かりが消される。沢山のキャンドルのほのかな明かりが揺らめきとても綺麗。その中で交わされる微笑みとお喋り、シャンパンと料理が美味しくて、手が口が止まらない。二人は場所をリビングに移して、ワインとチーズケーキそれから「大停電の夜に」のビデをゆったりソファーにもたれながら、楽しむ。ピアノの音とベースの程よく掠れた響きが、心地よい。しぜんに唇が重なり、火照った肌を求め会う。ワインの酔いと心地よい疲労感に包まれて、いつしか二人は深い眠りに・・・。
そのまま目覚めることなく 翌朝 二人は焼死体で発見された。

夜明け前の街を、サイレンの音と共に消防自動車が、何台も走って行く。火の手は、ハイツ・タイム201号室、ベランダから煙がもくもくと溢れ出て来ている。その煙の中に赤い炎が見える。サイレンが止むと同時に消防士の訓練された機敏な動きで、消火活動がはじまった。
私達は何時しかハイツ・タイム201号室の炎に包まれた部屋の中に立っていた。白いコート姿の空さんと、何故かコート姿のばあちゃんと、時湯へ来る時の格好のままの私が一緒に、横たわる猛さんと空さんを見おろしていた。
私は涙が止まらなかった。
「空さん・・・ごめんなさい・・」絞り出すように私が言う。そんな私を空さんは穏やかに見つめてくれた。ゆっくり首を横に振りながら、
「そうだったんだ。私ったら、何も知らないで、自分が死んだことさえきがつかないで・・・」と、つぶやく。
自分に覆い被さる格好で焼けただれ息絶えてる猛さんに目を移す。空さんの目から涙がこぼれ落ちた。
その瞬間、もくもくと湯気が立ちのぼり、空さんを包みこんでゆく、その湯気は次第に大きな人の形となっていく。何時しか、猛さんが空さんをすっぽり包み込むように背中から抱き締めていた。その大きな腕を空さんも小さな手で抱き締めた。
「ごめんなさい。私たちの不注意のせいで、とんでもない事になってしまって・・」
心から申し訳なさそうに頭を下げる空さん。猛さんも深々と頭をさげた。
「大丈夫です。一人として負傷者はでていません。」ばあちゃんがきっぱりと答えた。
「それより、たくさんの人達が二人の死をとっても哀しんでいました。」
北国の家は物凄く頑丈に造られている。窓も壁も分厚いので、燃えたのは201号室だけで済んだ。
「良かった。みなさんが無事で。」空さんの肩の力が抜けた。
「生きたかった、」と、ぽつりと空さんが言った。
「そうだよね。」と私は掠れた声で答えていた。
「うん、猛ともっと喧嘩したり、泣いたり笑ったりしたかった、美味しいものもまだ沢山たへ切れてなかったし。おじいちゃんになった猛を見たかった。私達の子どもに・・・」空さんの声がつまる。
猛さんが空さんをしっかりと抱きしめた。その胸に空さんが顔を押しあてた。
その瞬間、ぐらりと空間が揺れた。もくもくと立ちこめる湯気が、全てを覆い隠し、高く高くのぼっては消えていった。
「もっともっと生きたかった・・ー」空さんの声が消えて行く。

その時、雫が一滴 湯船に落ちた。

私はばあちゃんと二人だけで、湯船に浸かっていた。空さんの姿はなかった。
私はため息混じりに、ばあちゃんに聞いた。
「ばあちゃん、これで良かったのかな?」
吸い込まれそうな深く優しいまなざしで、ばあちゃんは答えてくれた。
「ふたりが今、逝くべき所へやっと行くことが出来たのだから、良かったんだと思うよ。空さんに真実を伝えることが出来て、本当に良かったと思っている。」
「猛さんも同じだね。」と私は言った。
ばあちゃんは、少し辛そうに
「猛さんは、自分達が死んだという事は知っていたんだよ。でも、空さんは違っていた。」

お湯が大きくゆっくり波打っている。一瞬湯気で何も見えなくなった。それから・・・再びハイツ・タイム201号室炎の中。

猛さんか目を覚ました。すでに回りは火と煙に覆われていた。
「空、起きろ、空」大声で叫んで身体を揺さぶるが、空さんは目を覚まさない。ぴくりともしない空さんを抱き抱えて逃げ場を探すが、炎と煙が行く手を阻む。咳き込み膝をつく猛さん。次第に遠ざかる意識の中で、空さんを落とさないように横たわらせると、空さんに覆い被さった。自分の体の下から空さんがはみ出さないように、空さんの手を自分のお腹の下に押し込め、顔を胸の下に抱き抱えて、足は自分の足で繰り寄せその足の下に隠そうとしている。必死で空さんを火の手から守ろうとした。そして猛さんは息絶えてしまった。
発見された時、空さんは猛さんの胸の下に顔が、お腹の下に両手が、それは驚くほど綺麗に残っていた。
「猛さんは、自分が死んだ事を知らない空さんの側を離れる訳にはいかなかった。空さんにちゃんと伝える事が出来て、やっと二人は天国へいくことが出来たんだね。光となり天高く消えていった。」
私は涙が止まらなかった。
「悲しいけど、猛さんみたいな素敵な人にあんなに愛されて、そらさんが少し羨ましいな。」
ばあちゃんが目を細くして私を見た。
うっ、あの目はやれやれ空はと思っている時のばあちゃんの目だ。
「空さんと猛さんが結婚して間もない時だった。・・・
いつの間にかハイツ・タイム201号室が消えていた。明るくも暗くもない空間で私とばあちゃんは椅子に腰かけ向き合っていた。

普通ならあまい新婚生活が待っているはずだったのに。猛さんは日に日に元気が失くなって行った。そしてとうとう会社にも行けなくなってしまった。
猛さんが、布団から出ることも出来ない日々が続いていた。布団に包まった猛さんは、目は開けてはいるが虚ろで生気が感じられない。さっき空さんを抱きしめていた猛さんと同じ人には見えない。

ある日曜日の午後の事だった。
「ビールを切らしちゃったから一緒に散歩がてら買いに行こうか?」と空さんが声を掛けた。いつもなら
「それは大変だ、行こう行こう」と楽しげに出掛けてくれるのに、
「いや、いい。」と不機嫌に一言言うと、ふて腐れたようにごろんと横になってしまった。そんな猛さんにかける言葉もみつからず、空さんは何事もなかったかの様に
「それじゃあ、ちょっと買い物に行って来るね。」となるべく明るく聞こえる様に声をかけてから、部屋をあとにした。私のせいかなと考えずにはいられない。でも、何故、いろいろ理由をかんがえて見ても思いあたる事が見つからない。
元気なく帰って来た空さんに、「すまない」と、猛さんはぼそっと呟いた。その一言に救われた気がして、空さんは顔を上げる事が出来た。
翌朝、猛さんはどうにか起きることは出来たが食欲がない。いつもならご飯2杯はぺろりと食べていたのに、卵焼きを一切れを無理やり飲み込むと「ごちそうさま」を言った。そして日に日に口数も少なくなって行った。そんなある日、仕事中の空さんにメールが届く。
「つらい、会社に居るのが。」
翌朝、朝食も取らずにパジャマ姿のままソファーでうずくまっている猛さんに
「今日1日、会社を休めないかな?」と空さんが聞くと
「休んでいいかな、、、」と猛さんが、辛そうに返事をする。
「うん、休んじゃえ」と空さん。
猛さんが布団の中に戻って行く。それ以来布団から出ることが出来なくなってしまった。

空さんは猛さんの変わりように戸惑ってしまう。
空さんは自分自身に確かめる為に声に出して言ってみる。
「猛さんがとても辛そうだ。それはわかる。その原因は会社にありそうだという事も。私はどうしたらいいのか?。」
それから、両家の両親、兄弟、友達に、電話をかけまくり、相談してみた。すすめられた心の病気に関する本も図書館に行っては、夢中で読みあさった。診療内科の事も調べて、猛さんを誘ってみたけど、なかなか首を縦に振ってはくれなかった。
追い詰められた空さんは腹をくくった。
猛さんが頭から布団を被っている横に正座をする。背筋を伸ばして静かに深呼吸をする。
「猛、聞いてくれる。」
しばらく待っていると、猛さんがごそごそと起き上がり、布団の上に胡座をかいた。が、顔を空さんと合わせる事はなかった。
「うん、猛、私は猛が何もしたくないのなら、何もしなくていいんじゃないかと思っている。でもそれは私の一方的な考えなんだと思う。だから、私は猛自身がどうしたいと思っているのか、ちゃんと聞きたい、教えてほしい。」
空さんと向き合って座る猛さんの目から涙がこぼれた。
「あっ、ごめん。話すのがつらかったら、いいよ、話さなくても。」と、慌てる空さんに
「大丈夫、俺、話がしたい。」と猛さんの掠れた声が返ってきた。
「うん、わかった。」と、空さんの声も掠れる。
「空と結婚出来て、俺は本当に嬉しくて幸せなんだよ。それなのにこんな状態になってしまって、本当にごめん。」
猛さんは、そう言うとゆっくりと深呼吸をした。そして語り始めた。
「空と結婚が決まって、俺の上司も喜んでくれた。」
「ここは一つ、営業に異動して頑張って見ないか。」
と言われたんだ。俺は今の仕事が好きだったし、やりがいも感じていた。でもここは頑張りどころかなと思って承諾した。
でも頑張れば頑張るほど空回りしている感じがして、どうしても上手く行かないんだ。誰になんて相談したら良いのかも解らなくて。その時初めて会社に行きたくないと思ってしまった。一度そう思ってしまったら、そういう思いが頭から離れなくて。会社に行こうとしても、身体が動かない。どうにか会社の前まで行っても、どうしても入る事が出来ない。気持ちを切り替えてと思っても、どうしても上手く行かないんだ。そんな自分が、情けなくて。
「そっかー猛、そうだったんだ。辛かったね。話してくれてありがとう。」
空さんが猛さんを抱き締めると、猛さんは堰を切ったように泣き崩れた。どれくらい時がたったのだろう。静かだった。
「猛、私なりに色々考えていたんだけど。贅沢さえしなければ私のお給料だけでも十分生活していけると思う。ゆっくりでいいから思いきって転職を考えてみない?」
「それって会社、辞めてもいいって事なのか?。」
空さんは真面目な顔で「勿論、いいに決まってる。」と即答した。
「わかった。うん、頑張って職探しするから。」
猛さんは答えた。
「うん、ゆっくりね。無理しないで。それまでは少しずつ家事を覚えてもらおうかな。どう?」
「そうだね、ちゃんと覚えるよ。」
「ぼちぼちやってみよう。それじゃあ会社の方に辞める事を知らせないとね。どう?動けそう?私はついていくつもりだけど。」
猛さんは、
「今からか・・・」と顔を曇らせて俯いたきり動かない。空さんは何も言わずにただ、猛さんの返事を待つことにした。
猛さんが顔を上げた。少し強ばってはいたが、
「うん、今から行こう。今動かないと、また動けなくなりそうだから。情けないけど、会社まで一緒に来てもらえるかな。」
その時、電話が、鳴った。
空さんがゆっくりと立ち上がり電話に出る。
「もしもし、宗吉です。」
「岡田です。空さんですね。今日は青空がとても綺麗なので空さんを思い出して電話しました。なんちって、元気ですか?新婚そうそうだんなが出社拒否とは、ほんとうにもうケシカランですな。」
岡田さんの声は、空さんの気持ちを和ませてくれた。空さんがくすっと笑った。
「空さん、猛と代わってもらえるかい。」
穏やかだが凛とした物言いが安心感をあたえる。
猛さんが電話を受け取り、話し始めた。猛さんの背筋が伸びていくのが、見ていてわかる。口もとが少しだけほころんだ様に見えた。
猛は話し終わり受話器を置くと、
「空、俺今から一人で会社に行ってくるよ。岡田先輩が先ずは一度会社に出てこいというんだ。話はそれからだと。」
「大丈夫?私も一緒に行こうか。」
「いや、今ならひとりでも行けそうだから。今行かないと、また行けなくなりそうで、それが怖い。大丈夫だと思う。」
そういうと猛さんは洗面所へ行き久しぶりに髭を剃りはじめた。会社を辞めるという決心が猛さんの心を軽くしたようだ。それと岡田先輩の後押しもあって自分の思いを全て上司に話す事が出来た。会社は優秀な社員であった猛さんの退職を受け入れる事はしなかった。猛さんを元の部署に戻すということで、双方納得の結果が得られた。
猛さんは、空さんの屈託のない笑顔に励まされて、どうにか会社にいく事が出来るようになった。
「そう、空さんの大きな愛に包まれてね。これからだったのに・・・」
湯気で何も見えなくなる。
滴が一滴、湯船に落ちた。
ばあちゃんの姿が湯気のなかに溶けていった。
「もっと生きていたかった。」
空さんの声が天井を覆う湯気の中から聞こえた気がした。

帰り道、もし猛さんと空さんが今も生きていたら、と考えずにはいられなかった。
きっと素敵な日常がそこにはあったんだろうに。
私は好きになって付き合って、別れてを何度か繰り返していた。
好きになっても、一つでも気に入らない部分を見てしまうと、私の気持ちは急速に冷めてしまい、会うのが苦痛になって行った。「情けない。」何を見てきたというのか、何も育てようとはしなかった。一体何を大切にしてきたのか。
猛さんのあんな情けない姿を見ても、何一つためらう事なく、当たり前のように猛さんの幸せを考えている、空さん。
私もそんな風に人を好きになりたい。好きになった人を大切に思いたい、幸せを願いたい。

「ただいまー」
台所に向かって歩きながら、声をかけた。そこに見たものは。
お お父さんがあ母さんを力ずくで、なんて、冗談で思っただけなのに。
お父さんの目がぎゅっと細くなり、私を睨んでいる。それにしても、お母さんを包み込んでいる腕を、ほどこうともしないなんて、相変わらず、お母さん大好きお父さんなんだから。
お父さんはそのままお母さんの耳元で、何かを囁いた。お母さんの顔に笑みが浮かび、私に顔を向けしっかりと答えてくれた。
「お帰り、季」
私は嬉しくなって、うんうんと大きく頷いていた。
忘れてた、すぐそばに素敵な恋のお手本があった事を。
次の朝、満面の笑顔で声を掛けたのだが、またしてもお母さんは、寂しそうに微笑むだけだった。
そうだよね、そんな急に元気になる訳がない。
うん、ゆっくり、ゆっくり、焦るな私。
よし、今日もしっかり食べて いざ時湯へ

1時15分、時湯の引き戸がガラガラと開けられる。敷居をまたいで入ろうとしたその時、
雫が一滴、私の頭に落ちた。
「えっ、」
思わず声が出る。 設定が変わったのか?
まだ、玄関だよねと、足元を確かめる。
そして、顔を上げたら目の前には、ばあちゃんが立っていた。
見慣れた柄の着物を楽に着こなした 姿で。
私が、専門学校で気付けを習っていた時、ばあちゃんに教えてもらいながら気付けをすると、とても楽に動くことが出来た。それに長時間着ていても、全く着崩れしなかった。私が、一人で気付けをしたら、まるでロボット状態だったのに。
私が思い出しながら、ばあちゃんの着物姿に見とれていると、
「さあ、季、今日はこっちだよ。」と、
男湯のほうへ、行こうとしている。
「ちょっと、まった、ばあちゃん」
私は、慌ててばあちゃんを引きとめた。
「うん、どうしたの? もう元さんが来てると思うから、行くよー」
私の手を繋ぎ、行こうとするばあちゃん。
「ばあちゃん、うんとうんと男湯に行くのはちょっと、 いちおう私も年頃の娘なんだから、だから、、」と、口をパクパクさせている私。
あははは と豪快に、ばあちゃんが笑う。
「ああ〜 ゴメンゴメン そっかー季も大人になったんだね。大丈夫だよ、心配いらないからついておいで。」
今度はさっさと、一人で男湯へと入って行ってしまった。
「心配いらないって、何がどう心配いらないの・・ばあちゃん、待って・・」
全くこの人は、どうしてこうなんだか・・もうどうしていいかわからないまま、ばあちゃんを追いかけた。
初めて男湯の暖簾をくぐった。心臓がバクバク鳴っている。番台のおばちゃんはと、首を伸ばし覗いたら
「良かった」 席を外しているようだ。
造りは女湯と一緒で、ただ左右対称になっている。藤てできたベビーベッドは置かれてはいない。なんか、武骨というか、閑散というか、暗い感じというか、、
女湯にはふわりとした、明るい暖かな感じが漂っていたのに、なんだかお湯も堅そうに感じてしまう。などと思いながら好奇心には勝てず、きょろきょろしていた。が そんな私の視線が止まった。
そこには、初老の大きな男の人が、ズボンを下ろそうとしていた。
私たちに気づくと、その手を止めるではなく、穏やかに声を掛けてきた。
「おやおや、こっちは男湯だよ。間違えたのかい。」
少し掠れた大きな声。
「元さん、申し訳ないんだけど、そのもも引きは脱がないでくれるかい。」
すでにズボンを脱ぎ、ももひきに手をかけていた元さんに、ばあちゃんが声を掛けた。
「おや、いつさんかい。何でまた男湯に来てるんだい?」と言いながら、ももひきをずり上げてくれた。
短く刈り上げた白髪まじりの頭、陽に焼けた顔と腕、長身で細身だが、その動きの中に鍛えられた筋肉が見え隠れしていた。
引き込まれるような優しい眼差しは、
ばあちゃんとも似ていた。
なんて大きな人なんだろう。身体もそうだが、全てをすっぽり包み込んでしまう、大きな包容力に引き込まれてしまいそうだ。
「あのー、大工の棟梁の元さんですか?」声が、勝手に出ていた。
「はいよ、いつさんのお孫さんかい?いつさんの若い頃に、よく似ている。べっぴんさんだね。俺に何か用があったのかい?」と、その場にあぐらをかく。さあ何でも聞くよ、言ってごらんという雰囲気をかもしだしている。ごつい手を膝におき、ゆったりと微笑んでいる。私が、犯罪者ならば全てをはいていただろう。
私は、その大きな手にためらう事なく、自分の手を重ねた。その上にばあちゃんも、そっと手を重ねてきた。

お湯が 大きくゆっくり波打っている。一瞬湯気で何も見えなくなった。それから、湯気が静かに消えていった。
そこに、見えたものは

とんとんとん、とリズミカルに釘を打ち付ける音が聞こえる。最近はガシャンガシャンと、大きなホチキスみたいなもので打ちつけている音をよく耳にしていたので、なんだか懐かしい。どうやら二階建ての家を建てているようです。
それにしてもきちんと整理された仕事場で、気持ちがいい。近くにターフが張られていて、荷物が整然と置かれていた。
2階の足場に見えるのが元さんだろう。

「よーし、ひと休みしようか。」少し掠れた大きな声で元さんが言っている。
下を見下ろしていた元さんの顔に、さっと緊張がはしった。
止めていた雪吹工務店と書かれた大きなバンの中から、ひょろりとした若い男の人が、厳しい顔をして車から降りようとしている。本人は必死で動いているつもりらしいが、体が思うように動かない様だ。どうにもこうにも動きが遅い。その彼の視線の先には、道路をはさんで500メートルくらい先にある住宅街の道路で、男の子が二人しゃがんみこんで、楽しそうに地面に何かを描いている。
二人の男の子の背後はゆるい坂道になっている。その坂の途中に一台の乗用車が止まっていた。その止まっているはずの乗用車がゆっくり動き出していた。乗用車の中に人は見えない。
元さんはすぐに状況を察知して、軽快な身のこなしで下へ降りて行く。
「くそー 諒の体は今日は動かないというのに! 間に合えよ」
弟子の敦と誠も屋根の上から同じ光景を、目にしていた。敦と誠も元さんと、同じくくそー という苦い顔になる。元さんを追うかたちで屋根から降りてくるその二人に、元さんが声を掛ける。
「敦は車に乗り込んでブレーキをかけろ、誠は人も車もこっちに来させるな!」
敦と誠が、「はい」「はい」と返事をしながら、走る。
諒はと言えば、「体 動け」と、唸るように自分に声を掛け、必死で子供達の所へと向かう。自分では走っているつもりなのだが、身体が思うように動かない。まるでスローモーションの様な動きになっている。
「二人ともにげろー 車がくるぞー」
必死で声を出す。届いてくれ。思いとは裏腹に弱々しい声しか出ない。
その声に、元さんの掠れた太い声が重なった。
「にげろーー」
その必死な声に、大きな方の男の子が振り向いた。元さんの指さす方を見上げた。
車が僕たちに、近付いてくる
「えー」っと、思ったと同時に、小さな男の子の手を掴んだ。
「謙太、にげるぞ」と叫びながら、その手を引っ張り走り出す。
謙太と呼ばれた小さな方の男の子も、すぐに一緒に走り出す。
そのまま逃げてくれると思ったのだが、
謙太は、途中で何に気づいたのか、その手を離すと元の場所へ走り出してしまった。
そこには新品の自転車と一回り小さな古い自転車が止めてあった。
「もおー!謙太!何してるんだよー」
そう言いながら大きな男の子か、追いかける。
間に合わない 諒は渾身の力を振り絞り男の子達に飛びかかる。
男の子達に触れるが、突き飛ばす力がなかった。
そのまま地面に倒れてしまった。
ダメか・・・ そう思った瞬間
元さんの力強い手が諒と、二人の男の子に届いた。そのまま三人を抱き抱えると、地面に倒れこんだ。元さんの体が背中からものすごい勢いで地面に叩きつけられた。
三人を抱えた腕は微動だにせず。
その横を無人の車が通り過ぎていった。
そのままだと大通りに出てしまう。
その直前身軽な敦が車に乗り込み、ブレーキを踏みつけ、サイドブレーキを思い切り引いた。
車はやっと停止して、何事も無かったかの様に、そこに置かれていた。
子供達が泣き出した。
諒は、身動きしない元さんに気づき、慌てて声をかける。
「元さん 元さん」
胸に耳を押しあてた時、ふ
「いててて・・・ ふうーみんな大丈夫か?」
元さんが、ゆっくり起き上がった。
「良かった、本当に良かった。」と、諒は泣きながら微笑んでいる。
二人の男の子がしゃくりあげながら元さんにしがみつくと、
「ごめんなさい」と、謝った。
しがみつく二人を宝物のように、元さんが抱き締めた。
「おお、泣くな 謝るな、おまえ達は何も悪くないぞ。」
男の子達の泣き顔が、笑顔に変わっていく。
「二人は兄弟かい?」ゆったりと胡座をかきながら、元さんが聞く。
「はい。僕が遼太で、弟が謙太と言います。」
お兄ちゃんの遼太が、しっかりこたえる。
「何年生?」元さんの後ろに誠がふわりと立っていた。
敦がゆっくりと歩いてくるのが、見えた。
「僕は三年生で」と遼太が答えていると
「僕は年長さんです。」と、負けじとばかりに謙太が答えた。
「そうかい、おじちゃんは元さんだ。こっちが誠さんで、そっちが敦さん。よろしくな。」
と、紹介すると、誠と敦は深々と頭を下げた。遼太と謙太も真似をして、深々と頭を下げる。四人同時に頭を上げると、顔を見合せにっと笑った。
「謙太は、あの新しい自転車を助けたかったのかもしれんが、謙太が死んじまったら、自転車どころじやないし、みんなが悲しむんだよ。ほれ見てごらん。自転車達もちゃんと無事だ。」元さんの優しい目が謙太の目を見つめる。
「うん、ごめんなさい。でも新しい自転車は、兄ちゃんので、僕は僕の自転車を助けたかったんだ。お父さんと兄ちゃんと僕で、ピカピカに拭いた自転車だから、大好きな僕の自転車だから。でもごめんなさい」

謙太は遼太の自転車が、大好きだった。
遼太が初めて自転車を買ってもらったのは、幼稚園の年長さんになってからだ。補助輪付きの青い自転車をそれは得意気に乗り回していた。その後をしょっちゅう謙太が三輪車で追いかけていた。何事にも慎重でマイペースな遼太の補助輪が取れたのは、小学一年生の夏の事だった。「補助輪を取って」となかなか言ってこない遼太に、親の方がしびれを切らしての事だった。その自転車も三年生になった遼太には小さくなってしまい、謙太に引き渡されたのだ。とっておいた補助輪を父が取り付けようとしていたら、謙太が「補助輪は付けなくてもいいよ。」と言う。「そっかー」と父も手を止めた。「まあ、試しに乗ってみようか」などのんびり構えていたら。あっという間に、謙太は補助輪なしの自転車を乗りこなしていた。「あれまー」と母も驚いていた。謙太は長きに渡り、憧れの青い自転車に乗る自分のイメージトレーニングがしっかり出来ていたものと思われる。満面の笑顔で青い自転車をこぐ謙太。
遼太の方はといえば、自分だけ新しい自転車を買ってもらって、謙太に「ごめん」という思いがあった。そこで、父に相談して一緒に青い自転車をピカピカに磨く事にしたのだ。そんな二人を謙太が見逃すハズもなく、三人で磨く事になった。とはいえ、はりきる謙太が中心となったのは言うまでもない。父に至っては、ほとんど見ているだけだった。

元さんの顔がこれでもかというくらいに、くしゃくしゃになる。大きなごつい手で、わしゃわしゃと謙太と遼太の頭をなで回した。
「うん、うん、遼太も謙太もいいぞ!」
それを見ていた誠と敦が笑みをうかべ大きく伸びをする。
元さんの手が今度はふわりと、諒の頭に乗る。
「よく、頑張ったな」
諒は両足を投げ出し、両手で体を支えてどうにかその場で身体を起こしていた。真剣な眼差しで、「はい」と返事をした。
「さあ、みんな帰ろう」
そう元さんがいうと、雪吹工務店のパンを敦が運転して、諒の横につけた。
誠が諒に背中を向けてしゃがむ。
「お疲れ、諒、ほれ乗りな」
「ありがとう」諒が素直に自分の身体を預けた。

野々村 諒 22才
愛情あふれる父と母の元で、僕はのびのびと成長してきた。
中学生になっても、このまま何も変わることなくこの生活は続くものと、疑ってはいなかった。
変わらない自分、変わっていくクラスメイト、先生達、そして友達。
自分の居場所が解らない。解らないままいじめグループの一人となり、それがいじめと、認識がないまま、友達の心を傷つけていた。何かとんでもない思い違いをしていると思った時から、今度は自分がいじめられていた。どうでもいいという気持ちで三年生を迎え、解らないまま進学を決めなくてはならなくて、解らないまま高校生になった。解らないまま何の目的もないまま、なにがしたいかも解らないまま、そしてある朝、僕の体は動けなくなっていた。
両親は自分達を責めた。心療内科に僕を連れていき、 言われるがままに薬も飲んだ。それでも何も変わることは無かった。
ただ現実感が喪失していくのは感じていた。
部屋のベッドで目が覚めた。朝なのか昼なのかはわからない。開けはなったカーテン、その窓からは街路樹の上半分だけが見えている。
プラタナスの葉たちが風に揺れている。風にその身を任せているかの様に。その揺れる大きな葉に誘われるように、僕は久しぶりに外を歩いていた。
おぼつかない足取りで、風に身を任せるかの様に歩いていると、
とんとんとん、心地よい音が僕の耳に届いた。その音が僕の顔を動かしていた。
顔を向けると、 僕の目をしっかり捉えた元さんがいた。まるで広大な海を思わせる目に、僕は目眩を起こしそうだった。
そのままゆっくり、僕に向かって歩いてくる。
「見ていかないかい」と、一言
そのまま、ゆっくりと僕から離れて行く。その背中がなぜか僕を安心させた。
元さんは再び釘を打ち始めた。とんとんとん、心地よい音が再び僕の耳に届いた。
僕はその音や元さんの動きや一緒に働いている若い大工さん達が向けてくれた笑顔や、木の香りや、いろいろそれら、この場所の雰囲気が居心地良よかった。敦と呼ばれていた大工さんが、そんな僕を深緑色のターフの下に連れて行ってくれてた。途中で誠と呼ばれていた大工さんが、おにぎりとお茶を僕の手に持たせてくれた。久しぶりに感じた空腹に、おにぎりとお茶がしみわたった。
気がつくと、陽が暮れていた。
すっかり片づけもおわっていた。
「今日1日、本当にしっかり見ていたな。それはとても凄い事なんだよ。」
元さんと誠さんと敦さんが僕の目の前に立っていた。
元さんの掠れた声に、
「 いや、あの僕はそんな・・・」僕は情けない声しか出なかった。俯く僕を前に、三人がその場に腰をおろし胡座をかく。敦さんが自分の隣を「さあ、一緒に座ろうよ」と言わんばかりに手でパンパン叩いている。腕組みをした誠さんが「ほれ」と言わんばかりに目で合図を送ってくる。
僕は立っている事が居心地悪くなり、敦さんの隣に正座した。
しばらく沈黙が続いた。僕が喋り出すのを待っているのか。
元さんは空を見ながら、鼻唄を歌いだした。誠さんは腕組みをしたまま目を閉じている。敦さんはお茶を飲みながらお菓子をばりぼりと食べ始めた。
「大工にならないか?」と、元さんの掠れた声が聞こえた。
「えっ」と、僕は思わす顔を上げた。
敦さんのばりぼりという音と、誠さんの鼻息いや、イビキがそう聞こえたのかも知れない。幻聴か。僕は再び俯いていた。
また今日も、いつも通りに何もない一日が過ぎていくのか・・
敦のばりぼりとお菓子を食べる音がやんだ。お茶を飲み「ごちそうさん」と、手を合わせている。誠が目を覚ました。
「帰るぞ!」
元さんの一声に誠と敦が、「はい」「はい」と立ち上がった。
僕だけがまだそこに正座している。
三人が荷物を抱え、一台のバンに乗り込んで行く。
僕だけがまだそこに正座している。
また今日も、いつも通りに何にもない一日が過ぎて行くだけだ。それでいいのか?
今日という一日も何にもなくしてしまうのか・・
元さん、誠さん、敦さんと出会えたことを、心地よいこの居場所に居られたことを
僕はよろよろと立ち上がると、バンに向かって歩き始めた。
「大工になりたいです。」 精一杯の声を出した。
助手席に座った元さんが、「早く乗ってくれ」と、手招きしている。後部座席のスライドドアが開けられたままになっていた。
「よし、これから一緒に俺の家に行こう。」
元さんの掛け声で、誠さんがエンジンをかけた。
僕のあの蚊の鳴くような声を、元さんはしっかり受け止めていた。嬉しかった。
「あの、ちゃんと話しておかなくてはいけない事があります。聞いてくれますか?」
「おう、話してみろや。」
元さんの一言に励まされて、僕は落ち着いて話し始めた。
「僕は精神疾患があります。大学生になった頃だと思います。朝目が覚めると体が動かなくなっていました。心療内科にも通っています。週に一回のカウンセリングを受けています。僕が外出をするといえばそれくらいで、今日は久しぶりに自分から外に出る事が出来たんです。みなさんの働く姿を見て心が動きました。外に居る事が苦痛に感じませんでした。こんな僕でも、なれるものなら大工になりたい、と思いました。こんな僕が大工になれるんですか?」
元さんは
「うーん、大工になれるかどうかは、病気があるかないかに関わらず、やってみなきゃわからない事だな。お前さんがやってみたいと思うのなら、どうだい試してみたらいいんじゃないか?」
僕の仲で堰が切れた音がした。僕の中に知らない間に溜まっていたヘドロみたいなものが、やっと出口を見つけて流れ出る感覚に襲われた。心がすーっと軽くなった。
僕は大きく息を吸い込むと
「野々村 諒、22才です。一生懸命頑張ります。ヨロシクお願いします。」と、深々と頭を下げた。
元さんは、さっさと僕の両親と連絡を取り、僕を住み込みで置いてくれる事になった。
おかみさんも快く受け入れてくれた。優しく凛とした感じの人だ。元さんと同じ深くやさしい目をしている。
翌朝、大工の誠さんと見習いの敦さんに僕を紹介してくれた。
「今日から、住み込みで見習いとして働くことになった、諒だ。精神疾患があるそうだが、何が出来て、何が出来ないのかは、これからぼちぼち解っていく事だと思う。一緒に仕込んで行こう。よろしく」
ありがたかった。
「よろしくお願いいたします!」震えてはいたが、僕は全身から声を出していた。
「おう、よろしくな!」と、誠さんが答えてくれた。やさしい目がまっすぐ僕に向けられた。僕の全てを見透かれそうで、思わず身震いしてしまいそうだった。
「こっちこそ よろしく」と屈託のない笑顔の、敦さん。その目もまた優しくでも隙がなかった。
僕は動ける事が、話せる事が、考える事が、そして自分を動かすことが、嬉しくて、ただ嬉しくて。だが喜んでばかりもいられない。仕事が始まるとみんなの顔つきが変わった。容赦なく元さんの怒鳴り声が轟く。ちょっとの油断が大怪我を招いてしまう。建てている建物にも、怪我を負わせてしまう。元さんの目が隅々まで行き届いている。誠さんが丁寧に、でも素早く作業を進めてゆく。敦さんが誠さんの指示を受け、とにかくよく動き回っている。
僕はといえば、元さんと誠さんに、がんがん怒られながら、しっかりと大工というものの基本をたたき込まれていた。
「はい!」という返事も、日に日に大きく出せるようになっていった。ぼろぼろになりながらも辛いとは思わなかった。
そんな10日目の朝だった。
動けない。回りの景色が現実感の無いものに見える。
「ああー なぜ?・・・」
焦りと絶望感が、僕を襲った。今までの僕ならこのまま流れに身を任せて動くことを諦めていた。でも今の僕には、そんな状態の僕に逆らおうという気持ちがある。
どうにか現場まで行けたら、ひょっとしたらどうにかなるかも知れない。 そう思って。ゆっくりでいい、体を動かして。次は服を着よう。ゆっくりゆっくり、完全に動きが止まってしまわない様にゆっくりだ。よし、次は歩くんだ。そして階段だ。手すりにつかまって、落ちないように。漂うように階段を降りかけたが、そのまま階段を踏み外してしまった。手すりにつかまっていた筈の手も頼りなくはがされていた。そのまま僕は階段の下に、なすがままに落ちて行った。ずどーん、ばーんという物凄い音がした。元さんが慌てて駆け寄ってくる。その後ろをおかみさんが、心配そうについて来ていた。ちょうど来た敦さんと誠さんも、驚いて上がり込んでいた。
元さんが僕を抱き起こしてくれた。
「諒、大丈夫か」
みんなが心配そうに僕を覗きこんでいる。
「すみません、体が動かないんです。」
やっと口にすると、涙がこぼれた。
「わかった、動けないんだな。どこか痛まないか?怪我してないか?」
元さんが落ち着いて、怪我はないかと僕の体を触っている。
「よし、大丈夫そうだ。良かった。今部屋に運んでやるからな、動かなくていいからな。」
元さんがそう言うと、誠さんと敦さんが僕を持ち上げて、部屋まで運んでくれた。
「今日は、おとなしく寝ていろ。わかったな。大丈夫だ、話は帰ってからゆっくり聞くからな。」と元さん
「諒、ゆっくり休め。なんも心配しなくていいから。」と、腕を組んで誠さんが、言った。
「諒、大丈夫だ。」と、敦さんがポケットに手を掛け、ふらりという感じで言った。
僕に布団を掛けてから、僕の口に体温計をつっこんで、
「さあ、あとは任せてみんな仕事に行きなさい。」と、おかみさんが言った。

その夜、動けるようになった僕に、元さんが静かに話しかけてきた。
布団の上で正座をする僕の真向かいに胡座をかくと、僕の膝をとんとんしながら「ほれ」と言う。僕はうなずいて胡座をかいた。
「辛くないか?」と僕の顔を覗きこむ。
「はい、今は大丈夫です。」と答えると、「そうか」と一言。それから、こほんと咳払いをして、それから
「なあ、諒よ。病気の事をちゃんと話してくれたよな。俺は俺達は、それをきちんと受け止めているよ。これからもこうして動けなくなることがあるのだろうと、予測もできている。そんな事はどうってこと無い。だって、こうしてまた動けるようになるのだから、また動けるようになるまで、ただ待てばいいだけの話だからな。俺達にとっては何の問題もない。ただ、諒にとっては問題ないでは済まないのだろうな。動けないとも言いだせないで、無理して動いて、階段から落ちて、なんなんだか、、俺達を信じて力を借りる事は出来ないのかい?」
元さんの眼差しは静かで、少し悲しそうに見えた。
僕は僕の気持ちをちゃんと元さんに伝えなくては、伝えようと思った。
「本当に心配かけてしまって、ごめんなさい。僕は今、大工の仕事に関わっていられること事がとても嬉しいんです。これからもみんなの下でずーっと関わって行けたら、こんな僕でも何時かは大工になる事が出来るんじゃないかと思っていたのに、またこんなふうに動けなくなってしまった。今までの僕なら、このまま動くことを諦めていました。でも、今の僕にはそんな状態の僕に逆らおうという気持ちがあります。どうにか現場まで行けたら、ひょっとしたらどうにかなるかも知れない、と焦ってしまって、気がついたら階段から落ちていました。」
喋り終わった僕の口からため息がもれていた。
ふっと元さんのくちもとが笑った。
「そうだったのかい。そりゃあ災難だったな。うーんとまずは、動けなくなったからといって、パニックにならないことだな。時間がたてば必ずまた動けるようになるのだから、それまで待て、動けない時は、動くな。そのうちに大怪我をしてしまったら大変だからな。動けなくても現場には俺達で必ず諒を連れていく。約束だ。まあ、今日の所は状況が解らなかったから、家に残してしまって悪かったな。それから、絶対に大工になってみせると腹をくくれ。俺達が諒を大工にする訳じゃない。なるのは諒だ。そりゃあ技術的な事はしっかり叩き込んでやれるが、俺もまだまだ修行中、もっと上を目指しているよ。まっ一緒に頑張って行こうや」
照れくさそうに笑って、自分の頭をばしばし叩いた。
僕は胸が痛いほど熱くなり、
「僕は絶対に大工になって見せます。これからもよろしくお願いいたします。」と、深々と頭を下げた。
「よし、わかった。今度動けなくなった時は、必ず諒を現場まで運んでやる。だから無理して動こうなんて思うな。いいな。」元さんが念を押す。
「はい、解りました。」心底ほっとした僕の口元が自然に笑っていた。
翌朝僕は誠さんと敦さんにも、僕の気持ちを告げた。深々と頭を下げる僕の頭を二人がばしばし叩いて、いつもと変わることなく、みんなで現場へと向かった。
その一週間後、再び僕は動けなくなった。
「おっ、やっと出番が来たな。」と、敦さんが軽々と僕を背負って、いつもとは違うバンまで運んでくれた。そのバンは少し古く、横に掠れてはいるが、雪吹工務店と黒字でしっかりと書かれていた。バンの中はフラットになっていて、新品の布団が敷かれていた。元さんが用意していてくれたのだ。
敦さんがどうよ!という顔で僕を横たわらせてくれた。元さんと誠さんはいつものバンに乗り込んだ。敦さんが慎重に車を発進させた。現場に着くと、みんなの姿が見える所に車を止めて、ドアを全開にしてくれた。そして、何事もなかったかの様にみんなは、仕事を始めた。相変わらす体は動かなかったが、絶望感に襲われることはなかった。元さんの言うとおりに、動けない時は動かない。そう思うと心が軽くなった。
夏から秋へと
僕の体はこの二ヶ月くらい、順調に動いていた。ひょっとしたらこのまま行けるんじゃないかと期待した。しかし、その翌朝まるで試されているかの様に、再び僕は動けなくなった。
元さんが、いつものように僕の顔を覗きこむと、
「大丈夫だ、ちゃんと連れていくからな。」と、にっこりした顔で僕に言い聞かせる。僕は頷く。久々に動けなくなった僕を、みんないつもと変わることなく現場まで運んでくれて、何事も無かったかの様に仕事を始めた。

そして、謙太と遼太をあの自動車を現実感のない僕の視線が捉えたのだった。

その一ヶ月後の朝、元さんは亡くなった。

僕がいつも通りに6時に起きて、布団を片づけてから下に降りて行くと、音がなかった。
静かすぎる。異変を感じて元さんの部屋に行ってみると、元さんが寝ていた。そばにおかみさんが正座をして、元さんを見つめていた。
その姿を白い湯気が消していった。

私の目の前に、胡座をかき腕組みをして微動だにしない元さんがいる。
ふー と、大きく息を吐き出した。
「そうか、俺は死んだのかい。そうかそうか、でも何だな、どうしたものかな、、、
「元さん」ばあちゃんが静かに名前をよんだ。「脳梗塞だったんだよ。」
私の目から涙かこぼれ落ちた。
元さんはゆっくり立ち上がると、その大きな手で私の頬をすっぽり包み込んでくれた。
「元さん死なないて、お願い死なないて、、、」
思わず私は呟いていた。
元さんの顔がくしゃくしゃの笑顔になる。

湯気の中から私と同い年くらいの大きな男の人が姿を現した。その佇まいが元さんとそっくりだ。雪吹工務店の作業着を着ている。
元さんが目を細める。
「勇、立派になって。迎えに来てくれたのか。ずいぶん待たせてしまって、すまなかった。」
勇さんは、しっかりと元さんを見つめ優しく微笑んでいた。
雪吹工務店の作業着を着た、元さんと勇さんが並んでゆっくり歩いていく。まるで現場へ向かう様に・・
そして、そのまま二人は湯気の向こうへと消えていった。

「いつさん、季さん、たゃんと伝えてくれて、本当にありがとう。」
元さんの声が聞こえた。
「諒、精神疾患、上等じゃねえか。しっかり生きて、りっぱな大工になってやろうじゃないか・・・」

元さんの声が消えていく

冬が過ぎて、春から夏へと
日の出、少しだけ頭を出しただけの太陽が眩しく熱を感じる。
諒が力強くはしっている。あの時謙太と遼太を突き飛ばすことが出来なかった自分を鍛えようと、毎朝走ることにしたのだ。最初は少し走っては休み、また少し走っては休みを繰り返していたが、諦める事なく走り続けているうちに、今では五キロの距離を走りきることが出来るようになっていた。いつも見守っていてくれた元さんの視線を今もしっかりと感じながら。
敦さんは、三日三晩泣き明かしたあと、いつもの笑顔を見せていた。誠さんをしっかり手伝いながら、元さんに仕込まれた大工の基本を、しっかり諒へと伝え指導している。
誠さんは、元さんの後を継ぎ棟梁として町の人達から信頼される存在となっていた。
そしておかみさんは、仏壇の前に座り写真の元さんに怒っていた。
「まったく、さっさと先に逝ってしまって、いくら私を呼んでもまだまだそっちには行きませんよ。しっかり諒の成長を見届けたいから、長生きしますよ。諒の両親が私を気遣って、しょっちゅう顔を出してくれています。色んな所に私を連れ出してくれて、ああ忙しくって楽しくて。 だから元さんも、勇と一緒に楽しんでください。勇にも頼んでおいたけど。もう、会えましたか?」

湯気で何も見えなくなった。そしてばあちゃんが静かに話し始めた。
「勇さんは、元さんの一人息子だよ。
大工姿の元さんの事が大好でやっと歩き出した頃から、おかみさんにつれられて大工の現場を見に来ていた。5歳にして上手に釘を打ち込んでいたよ。勿論元さんが目を離す事はなく、一人で現場に来ることは絶対にさせなかった。
工業専門学校に通うようになってからは、毎日学校の帰りに現場に行っては手伝いをするようになっていた。大工の仕事が大好きだったんだね。それなのに、勇さんが17歳の時に体調を壊してしまって、吐き気が停まらなくなってしまったんだ。大学病院で検査をしてもらって、脳腫瘍に侵されていた事がわかった。手術をしたのだけれど場所が悪かった。担当の医師も最善を尽くしてくれたのだけれど、術後はほとんど寝たきりの状態になってしまったんだ。元さんとおかみさんが呼び掛けると目を開けてくれた。それが元さんとおかみさんをどれだけ癒やしてくれたことか。その後自発呼吸が出来るようになった時、元さんは担当医と相談しながら、ワゴン車を改良して勇さんを乗せれるようにしたんだ。おかみさんが勇さんに付き添って現場をみせてあげた。元さんの釘を打つ音が聞こえると、勇さんはゆっくりと右手を上げた。
まるで、釘を打つ様に。
それを見て、元さんとおかみさんがどんなに喜んだことか。
元さんはワゴン車の横に、雪吹工務店の名前をいれてもらった。勇さんのタオルケットの上に作業着を被せ
「勇さん、今日も一緒に仕事に行こうぜ」と、声をかけた。
週に一回連れていく許可もとった。
そして勇さん18歳の日に、現場を見ながら穏やかに、勇さんは逝ってしまったんだよ。」

いつのまにか私とばあちゃんは、いつものようにお湯に浸かっていた。
私は涙が止まらない
「生きていたら諒さんと同い年だよ。だから諒さんの病気も動けなくなることも、自然に受け入れられることができたんだね。だって諒さんは自分の足で歩くことも、話すことも全部出来るんだから。諒さんは、とても良い出会いをしたんだね。そして、諒さんの成長がおかみさんをしっかり生かしているんだね。
季、ばあちゃんは季に頭を触られるのが本当に好きだった。美容師の季の姿を見ているなが大好きだよ。」
そう言いながら、ばあちゃんも消えていってしまった。

私は小さい頃からの夢だった、美容師の仕事を今している。ばあちゃんが好きだといってくれた私の美容師としての姿。
辛いことがあったとしても、そんな事で諦めてたまるか。ばあちゃんの様に私に頭を触られるのが気持ち良いとお客様に言って貰える様に、しっかり頑張りたい。美容師の仕事を大切にしたい。
私は、前をしっかり見据えて、家までの道を歩いた。

「ただいま」
「おかえり」
答えてくれたのは、弟の犬也だった。
「あれま、久しぶりに見た感じがする」
と、私が言うと
「はぁ〜 俺は毎日規則正しい生活をしているからな、姉ちゃんがずーと部屋から出てこなかったから、、まっ 元気そうで良かった。」
屈託のない笑顔を向ける。そのまま母に顔をむけた。
「季 おかえり」
母の笑顔が私に向けられた。
良かった。お母さんの笑顔が見られてほっといていると。犬也がにたりと笑って、どうよ みたいな顔をしている。
はぁ〜 まったくこいつは何を考えているのやら。私は片手をヒラヒラ振りながら私の部屋へと向かった。
翌朝、犬也はとっくに大学へ行った後だった。
「おはよー」と、台所の母に声を掛けるが、ぼーと外を見ているばかりで返事がなかった。
ゆっくりゆっくり 自分に言い聞かせて、しっかり朝食を食べる。

さて、今日も行きますか、時湯へ
いつもの様に午後一時十五分、銭湯 時湯が開く。今日も一番乗りだ。静かな空間。立ち昇る湯気が日差しを優しく包み込んでいる。蛇口から出るお湯が温かくて、なんとも贅沢な気分にさせてくれる。そろりとお湯に浸かると、「ふー気持ちいい」と、思わす口から出てしまう。

そして 滴が一滴 私の頭に落ちた。
「おやおや、季ちゃんも一緒だったんだねー」
いつもの様にばあちゃんが、気持ち良さそうにお湯に浸かっていた。その隣で声を掛けてくれたのは、
「あー、おやき屋さんのおばあちゃん。わー、お久しぶりです。」
「まあ、季ちゃん美人さんになって。」
おやき屋さんのおばあちゃんの、ふっくらした柔らかそうな手が私の頬に触れて来た。
「えーそんなに事ないですよ。」
私はその手にそっと頬を、それから私の手を触れさせた。ばあちゃんの手がその上に重なる。
お湯が、大きくゆっくり波打っている。
一瞬湯気で何も見えなくなった。
それから、湯気が静かに消えていった。
そこに見えたものは。

夜、雪が振っている。ここは鶴亀湯の前だ。道路にも家々にも雪が降り積もっていて、まるでおとぎ話の世界の様にほっこりと美しい。雪の中、小さな窓から暖かい光が漏れている。そして、甘い美味しそうな匂いが。
窓の中にはおばあちゃんが、ちょこんと座っているのが見える。
その時、鶴亀湯からまだ子供だった私と、少し若いばあちゃんが出てきた。
私とばあちゃんは、何やら楽しげに話をしながら、迷う事なくおやき屋さんへと向かう。
小さな窓の前に立つと、おばあちゃんが、すーとその窓を開けてくれた。
「いらっしゃい、今お帰りですか?」
おばあちゃんが優しい笑顔で声を掛けてくれる。
「はい、今日はちょっと来るのが遅くなってしまって、まだおやきありますか?」
「大丈夫ですよ、焼きたてじゃないのだけれど」と、言うと電子ジャーの蓋を開けた。焼いたおやきを電子ジャーで温めていた。
「ちょうど五個残っていたので、どうぞ貰って下さいな。」そう言うと木の薄皮でそれを包み、紙の袋に入れてくれた。
「いえいえ、ちゃんとお支払いします。」
ばあちゃんがお金を差し出すと
「いえいえ、残り物ですけら。いつさんと季ちゃんに貰ってもらえるのが嬉しいんですよ。季ちゃん はいどうぞ、あったかいから抱っこして帰ったらいいよ。」
そう言うと、私の手に持たせてくれた。
「わーあったかい! ありがとう」嬉しそうな満面の笑顔の私。
「すみません 花さん、ありがとう。」と、頭を下げるばあちゃん。
暖かいこの一時の事を私は今でも鮮明に覚えている。ああー 懐かしい、と思っている間に、回りが一瞬暗くなる。と、目の前には、白いカーテンが引かれたおやき屋さんの窓が現れた。そう、あの日を最後におやき屋さんのカーテンが開く事はなくなっていた。
「さあ、いきますよ。」
ばあちゃんの声と同時に私達三人は、時市民病院の前に立っていた。
その瞬間、私の体がぐらりと揺れた。ひどい目眩がしてその場に座り込んでしまった。
「季、大丈夫かい」
心配そうに、ばあちゃんと花さんが私を支えてくれた。
「ごめん、もう大丈夫、、、目が回ってしまって、さあ、行きましょう。」震える声で私は答えた。 怖かった、これこら起きようとしている事が怖くてたまらなかった。ばあちゃんが私をしっかりと見据えている。私は大きく深呼吸すると大きく頷いた。花さんは全てを理解したようで、静かに佇んでいる。私達はゆっくり病院の中に入って行った。
303号室個室のベッドに横たわっているのは、花さんだった。
鼻には管が、喉からも太い管が伸びている。ベッドの横にある機械が規則正しく、ぴっぴっぴと音をたてていた。椅子には花さんに良く似た娘さんが、疲れきった感じで寝ていた。その横で立っているおじいさんが、花さんのご主人。穏やかな顔を花さんに向けている。
花さんは迷う事なく、ご主人の側にいくとその手に振れた。
「崇一さん、ありがとう。今まで本当にありがとう。」
崇一さんがその手に触れようとしながら、「花かい」と言っている。
花さんがにっこり微笑んでいる。
それけら寝ている娘さんの頭に手を置くと、そっと撫でながら、
「ごめんね。もう、いくよ。今までありがとう。わかば ゆっくり休んでね。」

それから、 躊躇する事なく、寝ている自分の手に触れた。
さっきまでのぴっぴっぴという音がぴーと鳴り響いた。

「崇一さんは、もう少し頑張って生きて下さいね。先に逝きますけどちゃんと待っていますから。
ちゃんと目を覚ましてもう少しだけ一緒にいたかった・・・」
花さんの声が消えて行く。

あの日、私とばあちゃんが嬉しそうに帰っていく姿を見送る花さんに、崇一さんが声を掛ける。
「後片付けは、俺がやるからゆっくり休みなさい。」
「はいはい、それではお言葉にあまえて、休ませてもらいますよ。」立ち上がるとそのまま、ばーんと音をたて、花さんは倒れてしまった。
その後、意識は戻らず・・・十年もの時が流れていた。
わかばさんも崇一さんも、奇跡を信じて延命治療を止めようとはしなかった。

今、崇一さんとわかばさんは、静かに花さんの死を受け止めていた。
「お母さん、ありがとう。今まで生きていてくれて・・・」
この言葉を言えるまでには、わかばさんと崇一さんには、十年の時の流れが必要だった。
「ありがとう・・・」

ばあちゃんが、私の手を握っている。
再び、ぴっぴっぴと、規則正しい機械音が聞こえてきた。
307号室個室のベッドに横たわっているのは、私だ。
鼻には管が、喉からも太い管が伸びている。ベッドの横にある機械が規則正しく、ぴっぴっぴと、音をたてていた。ベッドの側に、お父さんと犬也がたっていた。
ベッドの私と、近づいて行く私を二人が見ている。

あの日
ばあちゃんが死んでからこの三日間、私は布団から出ることが出来ないでいた。
お母さんが見かねて、静かに話しかけてきた。
「ねえ季、季はばあちゃんと良く一緒に、時湯に行ってたね。どう、行って・・」
そうだった・・
「おかあさん、ありがとう。」
私はお母さんがまだ話し終わらないうちから行動にでていた。
「行ってくる。」
少しでもばあちゃんを感じる事が出来たら・・・
その一心で、動こうとしない体を無理やり起き上がらせる。のろのろと支度をして、ふわふわただようように、時湯へ歩き出す。ふわふわただようように、歩く私に容赦なく突風が吹きつけた。この街特有の突風に、今の私はあまりにも無防備すぎた。足をアスファルトから剥ぎ取られ、そのまま仰向けに倒れてしまう。
身も心も崩れ落ちてしまった。そんな気になってしまった。
「もう、いいや・・ なんか このまま眠れたらばあちゃんの所に行けるのかな・・」
私は何の抵抗もせずに、なすがままに気を失っていった。
私の消えかける命、いや、消し去ろうとされる命を、無理やり繋ぎとめたのは父だった。

父の持つ能力、封印されていた能力、その封印を父と母は、ばあちゃんが亡くなった日に解き放っていた。消えかける私の命を察知して、私のもとへ駆けつけてくれた。
「季 絶対に死なせない 生きろ」
父は私を抱き抱えると、耳元で囁いた。
一瞬、体が燃えるように熱くなった。私は一瞬目を開き、そのまま規則正しい呼吸を取り戻していた。そのまま眠る私をここ、時市民病院へと運んでいた。
どうにか一命は取りとめたものの、生きる気力のない私の意識は戻っては来なかった。父の力をもってしても、生きようとしない命を繋ぎとめておく事は、至難の技だった。
そして、犬也に助けを申し出た。
この時、初めて犬也は父の能力を知る。そしてその能力を自分が受け継いでいる事も。その力を父と母の力で封印されていた事を。
父と母は、犬也の封印を解き放した。
犬也の力は大きく、父の力を上回っていた。
私に残っていた、生きよう とする僅かな気持ちに、しっかり寄り添った。
そのときから、生きたい という思いが私の中に芽生え、育っていく。
病院から戻った父は、私の部屋から聞こえてくる物音に気付く。
トントンとドアをノックして、ドアを開けた。
「大丈夫か?」
声を掛けてみる。その時寝返りを打つ私がいた。

私はベッドで寝ている私に近づく
この手に触れら、全てが終わるというのか
父も犬也も何も言わない。
ばあちゃんも何も・・・
決めるのは私・・
無性に腹が立ってきた。
「なにをやってるの! 馬鹿じゃないの、生きたくても生きられない人がいるんだよ。空さんが、猛さんが、元さんが、勇さんが、花さんが・・それなのに私ときたら、自分から命を投げ出して・・・馬鹿じゃないの 生きなさいよ! お父さんと袁也がつなぎ止めてくれた命だよ・・しっかり 生き抜いてみなさいよ!」

私は私の両手をぎゅっと握りしめた。その手の上に、父の手が、犬也の手が重なる。まるで命を押し込めるような力強さで。

湯気の向こうへと、ばあちゃんが手を降りながら、消えて行くのが見えた。

病院のベッドの上で、私は目が覚めた。
「大丈夫か?」
お父さんが、声をかける。
うん、と私が頷く。
犬也が、大きく息を吐き出していた。

家では母が古びた紙と、まだ新しい紙を丁寧に折り畳み、それぞれの木の箱にしまっていた。
古びた紙には巳太郎の名前が、まだ新しい紙には、犬也の名が書かれていた。

母には、私の姿が見えていなかったそうだ。病院のベッドで寝ている私しか、母には、見えてはいなかった。というか、父と犬也意外に私は誰にも見えてはいなかった。
父が犬也が、ぞっと母に教えていた。
「季が帰ってきた」と。
母は、見えない私に笑顔で「おかえり」と言ってくれていた。

そして、今
「お母さん、ただいま。」私の言葉に、母が小走りに駆け寄って来る。
「おかえり、季」と私を力強く抱き締めてくれた。

私は今も、時々時湯へ来ている。
遅い時間で、帰り支度をしている人が多い。そんな中に私と同じタイミングで浴室へ入ろうとしている人がいた。その後ろ姿に私は、はっとした。彼女の背中一面に蔦が絡み付いていた。ように見えた。それは深い藍色で施されたタトゥーだった。
滴が一滴、私の頭に落ちた。



ー 終わります ー

時湯

時湯

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-03-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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