翳踏むばかり/01-02.薫香に就てのこと
2023-09-23 改稿
(某日 原田斗志見の日記より)
山犬は、僕が家を去って後に一度、僕らしき何かを辿って歩いてみたことがあるという。
「何だそれは」
訊くと、においに近いと山犬は言った。
「近いにおいだ。裏の山にぼんやりと、残っていた。近いと感じたが、あまりおぼろでよく分からなかったので、その伸びていくのについていった」
それは深い秋の日であったという。
「どこまで行った」
「どこともなく歩いた。すると墓へ出た」
「墓か」
「墓だ。背の高い石がたくさんあったから、そうだろう。そのあたりに、においが強く凝っていた」
「それでどうした」
「ちょうど犬の恰好をしていたから、その下を掘った。あまり柔らかい土ではなかったから、夕方までかかった」
「墓荒らしじゃないか」
けれども山犬には、その善悪は分からないらしい。ただ埋まっているものを掘り起こしたら、たまたま人の骨であった、それだけのことなのだ。そこにある倫理など、野犬の装いには知るべくもないことである。
「何か出たのか」
「壺と骨だ」
「それはそうだろうな」
「若い男の骨だった。ちょうど骨身を集めていた時見つけたので、この身の中に使ってみたのだ。思うよりも馴染みがよかったから、今もここにある」
山犬はそう言い、己の喉仏のあたりを指でつまむような仕草をした。
「このあたりにいる」
◎
山犬の少年の姿は、過日、掘り返された僅かな骨の周りに、あれが喰った小さな獣の骨肉、つまりは屍肉を、見合うように貼りつけて作り上げたものであるとか言った。
「おれのこの顔が、もし誰かに似ているなどというならば」
それはその骨の顔なのだという。まるで同じということはなくとも、姿のモデルはその焼骨の主であった。
山犬が少しつまんだ己の咽喉。そのまま引いたら、何かがずるんと糸を引いて出てきそうだった。興味がわいて、「見せてみろ」と言った。
「こいつは、要だ。崩れるかもしれない」
すると山犬は事もなく言った。
「崩れたらどうなる」
「床が汚れる」
咽喉をさすりながら、「嫌だろう」と山犬は僕を見た。一度、あれが外歩きのついでに、家へ泥を持ち込むのを咎めたことがあったが、それを覚えていたようである。
存外にやはり犬のようだと思う。
「それは嫌だな」
「そうだろう。そうだと思った」
山犬に表情はない。
◎
(某日 原田斗志見の日記より)
山犬は屍肉でできている。
そう聞いてから、山犬の体がどのように動いているのか、好奇をそそられるようになった。その肌の白さは紙のようであるし、折につけて触れることがある彼の身体に、温度らしい温度はない。不思議と腐った感触はしないのだが、屍肉と見ても一切の遜色がない様子であった。真冬にあれば、あれの手は氷と同然に冷え切る。「骨が軋む」と、動かしにくそうに手を握っては開くさまをよく見る。
体に、血は流れるだろうか。今は春だが、夏などの暑気にあれの屍肉はどう耐えるのか。あれが人の姿を現したのは冬の手前だ。しかし獣の姿のうちに何度も夏を越えた。その頃のあれは僕にしか見えないものであったが、手触りはあるのだから構造は同じだろう。
また気になるものといえば、山犬が姿を解いた時のあの、薄靄の煙らしい姿は何であるか。それまでは、触れられるものが肌に覆われてそこにあるのに、その輪郭が突然、煙がごとく、空気に溶けてしまうのはなぜだろう。
屍肉は一体どこに行くのか。
山犬は訊かなければ語らない。僕も、いつか訊こうと思っていても、その機会には忘れている。興味の如何か、それとも僕がそれほど無頓着な人間であるということか。
以前にも思うことであるが、山犬のことについて、僕はあまりに無知が過ぎるようである。
◎
(後日の追記らしいもの)
僕が僕について多くを知らないのだから、僕が山犬のことを知らなくても無理はないのだ。
最も根幹のところを失念していた。
◎
(某日 原田斗志見の日記より)
一体どこから骨を拾ったのか訊くと、山犬は「道は覚えている」と答えた。地図でも示すかと思ったが、読めぬようで首を傾げていた。思うに、これまで文字を読む様子も見たことがないので、文盲であろう。何かの教本でも与えたら、あれは学ぶであろうか。
たまの散歩のついでに、その骨の所在を訪ねた。覚えているというのは本当らしく、山犬はそれなりの案内をしたが、どこの敷地か知れない竹林へ柵を越えていこうとしたり、家々の隙間の私道に入ろうとしたりする。それこそ野犬の行いなので僕は大いに辟易した。「そこは通るな」と言えば、あれは「でもここを通った」と、不思議と純朴な目で僕を見る。通った結果どこへ出たのか、いちいち訊いて歩いた。大概は生まれ育ったところであるから、土地を知っているのが幸いした。
迂回した道は多く、また山犬も時々に立ち止まる。三時間ほどのろのろ歩いて、着いたのは確かに墓地であった。隣接する竹林に、半ば侵略されかかる、少し荒廃したところである。
山犬はそこへ遠慮もなく立ち入ると、特別に辺りを見回すこともなく、迷いも薄いさまで、ひとつの墓石の前に立った。「これだ」僕を振り返ってあれは言う。
近く寄って気付いたが、それは我が原田の家の墓のひとつである。
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正しくは、父方の叔父が分けた墓であった。あの家には叔父叔母の他に三人の男子があったが、うち次男は僕の幼い頃、登った木から落ちて死んでいる。また、昨年にはそこの叔父も急な病に亡くなった。年嵩の出てきた叔母は、今は長男方に移り住んだが、調子は芳しくはないそうである。
山犬がその墓を掘ったのは、僕が大学二年の年だといった。墓には死んだ従兄の骨しかなかった頃であるから、山犬の咽喉にいるのは従兄の喉仏であろう。
あの従兄は、親戚の中では兄の次くらいに、僕を年上として可愛がったと思う。確か彼が死んだ日も、僕と兄とを連れて、裏山を駆けに行ったのだった。僕は早くに疲れて輪を抜けていたから、その場は見ていない。
山犬の顔を見る。その顔は、咽喉の骨の顔であるという。
従兄は十六で死んだ。姿は記憶に始終曖昧である。僕や兄の小さな頭を撫でるとき、手つきはいつも、少しだけ乱暴であった。
「どうした」
墓石を眺めてしばし黙った僕を、慮るのではないだろう、ただ動かないから、それを不思議に思っただけだろう。山犬は平坦に訊ねる。「何も」話してもあれには分からぬことだろうと思った。
瞳は僕の頭ひとつは下にある。
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(某日 原田斗志見の日記より)
山犬が通り過ぎたところに、薄く何か香るらしいことに気付いたのは、そう最近ではない。近頃はその匂いの種類を考えていた。
仏壇の線香と似るが異なる。しかし実に微かであって、区別がつかない。
何のために香るものか。縁側にいた山犬に訊くと、瞬きの後に「知らん」と言った。
「腐肉のようなものではないのか」
「それなら先に文句を言うよ」
「思い違いだ」
山犬は己の手の甲を鼻に寄せて嗅ぐようであった。
「轢かれた猫などが、こんなものだろう」
ずいぶんな譬えである。
「本当にか」
「本当にだ」
山犬は僕の傍へ寄り、片手を差し出した。促されたように思ったので、そのひどく白い手を取り、その甲へ、顔を寄せてみる。
ふと、風に乗るまでもなく分かったのは、嘔吐きかけるほどの、濃い屍臭であった。「う」思わず声を上げ、無温の手を引き離す。山犬は「だろう」と言う。
しかしながら、不思議なのは、その屍臭を覆うようにしてある別の気配であった。それもまた確かに何らの香りであって、濃く深い。さして薫香の類には明るくないが、線香に嗅いだ白檀、肌の上の甘い白粉、何処かの庭先に漂う茉莉の花を認めた。上澄みを取るとあの微香になるのだろうと思われた。
息を吐いた。「そればかりでもないんだよ」しかし山犬はただ首を傾げるだけなので、それ以上はあまり言わないことにした。
◎
山犬からくるあの匂いは、あれの腐肉に頼らない部分のものではなかろうか。
ふと考えた。つまりは、あの体を体の形に繕う陰翳の煙の匂いであるが、その内に外に、肉があり、その肉を肌らしい薄膜が包む構造と思われる。肌らしいものに多くの腐臭は阻まれるから、密に接しない限りは無臭なのである。それでも薄く漏れてくるものに紛れて、甘やかに乾いた香りが、僕の感覚に届くのだ。
組み上げるものは屍肉であるが、その山犬の身体から、そんな香りがするだなどとは、不思議なものだが、それらしい。陰翳なるものが、生命もこの世も何をかも飛び越えて、何処か知れぬ異界から漂ってくるのだとしたら、あれは異界の匂いでもある。
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(某日 原田斗志見の日記より)
山犬の好物は甘いものらしい。
戸棚に残ったキャラメルを与えたことがある。ひと口に放り込むと、今までに見ない種類の顔で、「甘い」とこれだけ呟いた。あれにまともな味覚があることを初めて知った。
従兄はキャラメルが好きだったことを、急に思い出した。カレンダーを見ると月命日である。
山犬は菓子の包装紙を、物珍しく嗅いでいる。甘い匂いが染みているらしい。
翳踏むばかり/01-02.薫香に就てのこと