沈香

釘島滝子

(某日 原田斗志見の日記より)
 山犬は、僕が家を去って後に一度、僕らしき何かを辿って歩いてみたことがあるという。
「僕らしき何かとは何だ」
 訊くと、においに近いと山犬は言った。
「近いにおいだ。裏の山にぼんやりと、残っていた。近いと感じたが、あまりおぼろでよく分からなかったので、その伸びていくのについていった」
 それは深い秋の日であったという。
「どこまで行った」
「どこともなく歩いた。すると墓へ出た」
「墓か」
「墓だ。背の高い石がたくさんあったから、そうだろう。そのあたりに、においが強く凝っていた」
「それでどうした」
「ちょうど犬の恰好をしていたから、その下を掘った。あまり柔らかい土ではなかったから、時を要した」
「墓荒らしじゃないか」
 しかし山犬にはその善悪はよく分からないらしい。埋まっているものを引きずり出しただけだと言わんばかりの目が、こちらを向いた。そういうことがあったとは聞いていないから、外見だけは元に戻されたのだろうと思うが。
「何か出たのか」
「壺と骨だ」
「それはそうだろうな」
「若い男の骨だった。ちょうど骨身を集めていた時見つけたので、この身の中に使ってみたのだ。思うよりも馴染みがよかったから、今もここにある」
山犬はそう言い、己の喉仏のあたりを指でつまむような仕草をした。
「このあたりにいる」

    ◎

 山犬の少年の姿とは、過日、掘り返された小さな壺に収まってしまう量の骨の周りに、あれが喰い集めた小さな獣の骨肉――つまりは屍肉であるが――を、「見合うように」貼りつけて作り上げたものであるとか。あれの言うことにはそういうことだと。
「おれのこの顔が、もしか、誰かに似ているなどということがあるならば」
 それはその骨の顔なのだという。まるで同じということはなくとも、骨格のモデルはその焼骨である。
 山犬が少しつまんだ己の咽喉。そのまま引けば、何かがずるりと糸を引いて出てくるような心地。少しの興味がわいて、「見せてみろ」と言った。
「崩れるかもしれない」
 すると山犬はこともなげに言った。
「崩れたらどうなる」
「骨肉の結わえが崩れるのだから、中を撒き散らすことにはなろうな」
 咽喉をさすりながら、床が汚れるぞ、と山犬は僕を見た。一度、あれが外歩きのついでに、家へ泥を持ち込むのを咎めたことがあったが、それを覚えていたようである。
 存外にやはり犬のような、と思う。
「それは嫌だな」
「そうだろう。そうだと思った」
 山犬に表情はない。

    ◎

(某日 原田斗志見の日記より)
 山犬は屍肉でできている。
 そう聞いてから、山犬の身がどのように動いているのか、ただ好奇をそそられる。確かにその肌の白さは紙のようであるし、折につけて触れることがある彼の身体に、温度らしい温度はない。冬にもなれば、あれの手は氷のようでさえある。「骨が軋む」と、動かしにくそうに手を握っては開くさまをよく見る。
 その身に、血は流れているのだろうか。今は春だが、夏などの気温にあれの屍肉は耐えうるのだろうか。あれが人の姿を現したのは冬の手前だ。それから二度の夏を越えた。その前にも、獣の姿はあった。もっとも、僕にしか見えてはいなかったが、手触りはあるのだから実体も存在するだろう。
 そういえば、山犬が姿を解いた時のあの、薄靄のような翳は一体何であろうか。それまでは実際の肉が、肌に覆われて存在しているのに、その輪郭が突然、煙がごとく、空気に溶けてしまうのはなぜなのか。
 屍肉はどこに行くのだろう。
 山犬は聞かなければ語らない。僕も、聞いてみようと思っても、その機会には忘れていることの方が多い。興味の如何か、それとも僕がそれほど忘れやすい人間であることの証左か。
 山犬は僕であるというが、それにしては、あれについて知らないことが、やけに多いような気がする。

(後日の追記らしいもの)
 僕が僕について多くを知らないのだから、僕が山犬のことを知らなくても無理はないのだ。最も根幹のところを失念していた。

    ◎

(某日 原田斗志見の日記より)
 山犬がどこから骨を拾ってきたのか、興味が向いたので山犬に訊くと、あれは「道は覚えている」と答えた。地図でも示すかと思ったが、読めぬようで首を傾げていた。そういえば、文字を読む様子も特段には見られないので、単に知らぬだけかも分からない。今度、何かの教科書でも与えてみようと思う。
 たまの散歩のついでとして、その骨の所在を訪ねた。山犬はそれなりの案内をこなしたが、どこの敷地かも分からないような竹林へ、柵を越えていこうとしたり、家々の隙間の路地とは言えぬ場所に入ろうとしたりと、それこそ野犬の行いをしようとするのには辟易した。「そこは通るな」と言えば、あれは「でもここを通った」と、不思議と純朴な目で僕を見る。通った結果どこへ出たのか、いちいち訊きながら歩いた。大概は生まれ育ったところであるから、土地を知っているのが幸いであった。
 のろのろと三時間ほど歩いた。道をいちいち迂回したり、山犬が途中で立ち止まることが多かったりなどしたので、実際にまっすぐ歩くより倍近くかかったのではなかろうか。着いたのは確かに墓地であった。隣接する竹林に半ば、輪郭を侵されかかっているような、少し荒廃したところである。だが、確か僕の家が代々、墓を建てている寺の所轄するところだったはずだ、と思う。
 山犬はその墓地に遠慮もなく立ち入ると、特別に辺りを見回すこともなく、迷いも薄いさまで、ひとつの墓石の前に立った。「これだ」僕を振り返ってあれは言う。
 近く寄って気付いたが、それは僕の家の墓である。

 正しくは、父方の叔父の家の墓であった。あの家には叔父叔母の他に三人の男子があったが、その次男は僕が物心つくかつかぬかの頃、登った木から落ちて死んでいる。また、昨年にはそこの叔父も急な病に斃れた。年嵩の出てきた叔母も、調子は芳しくはないと聞いているが、詳しいことは知らない。
 山犬がその墓を掘ったのは、僕が大学二年にあった年であるから、この墓には死んだ従兄の骨しかないはずである。ではあれは、彼の骨を取り込んだと、そういうことなのだろう。彼は親戚の中では、比較的、兄の次くらいに僕を年上として可愛がったと思う。確かあの日も、彼は僕と兄とを連れて、裏山を駆けに行っていたのだった。僕は早々に疲れて輪を抜けていたから、その場は見ていない。
 山犬の顔を見る。その顔は、咽喉の骨のしていた顔であるという。
 十六歳で死んだ従兄の姿は記憶におぼろで、思い出すことはできない。
「どうした」
 墓石を眺めてしばし黙った僕を、慮るのではないだろう、ただ僕が動かないから、それを不思議に思っただけだろう。山犬は平坦に訊ねる。僕はそれを見る。彼の瞳は頭ひとつ分下にある。

    ◎

(某日 原田斗志見の日記より)
 山犬が通り過ぎたところに、ほのかに何かが香るらしいことに気付いたのは、そう最近のことではないが、近頃その匂いの種類に気付いた。何かの香だ。
 仏壇にあげる線香とは違う。もっと柔らかく、微かであるが、何のために香るものか。
 山犬に訊くと、「知らん」と言った。
「敢えて嗅ぐなら、腐肉の匂いしかしないはずだ」
「そっちの方が知らないな」
「おれは香の方を知らない」
 山犬は己の手の甲を鼻に寄せ、すん、と一度嗅いだ。
「そこいらで野垂れ死にした猫の、肉の匂い」
 ずいぶんな譬えである。
「ふうん。本当にか」
「本当にだ」
 言うとあれは僕に近く寄り、己の手を差し出した。促されたようにも思ったので、そのひどく白い手を取り、その甲へ、顔を寄せてみる。
 ふと、風に乗るまでもなく分かったのは、一瞬嘔吐きかけるほどの、濃い屍臭であった。「う」と思わず声を上げ、無温の手を引き離す。山犬はそのさまを見て、「ほらな」と言う。
 しかし僕は、屍臭の底に沈む、別の匂いも覚えていた。不可解にも不快な腐臭の上を、薄い柔肌の匂いが覆い、また腐臭に内包されたところに、沈香にも似た腹に響く種類の芳香がある。それを薄めたら、きっと僕が認識した、微かなものになるのだろうと思う。
「いや。でも、他の匂いもしたよ」
 山犬はただ首を傾げるだけなので、それ以上はあまり言わないことにした。

    ◎

 山犬の香の匂いは、あれの腐肉に頼らない部分の匂いではないだろうか。ふとそんなことを考えた。つまりは、あの肉体を肉体として取りまとめる翳の匂い。その外に、内に、肉があり、その肉を肌らしい薄膜が包んでいるらしい。肌らしいものに腐臭は阻まれるから、あれは密に接しない限りは無臭なのである。内から漏れてしまう微かなものに紛れ、あの香が僕の感覚に届くのだ、と考える。
 屍肉ばかりで組み上げられた山犬の身体から、そんな香りがするだなどとは、不思議なものだが。けれどもそれらしくはある。あれはあの世の匂いでもあるのだろうと思うと、いやに腑に落ちる。

    ◎

(某日 原田斗志見の日記より)
 山犬は、どうやら甘いものが好きらしい。
 一度、戸棚に残っていたキャラメルを与えたことがあったが、今までに見たことがない種類の表情で、「甘い」とだけ呟くのを見た。あれにまともな味覚があることを初めて知った。
 従兄はキャラメルが好きだったことを、急に思い出した。カレンダーを見ると月命日である。
 山犬は菓子の包装紙を、物珍しそうに嗅いでいる。甘い匂いが染みているらしい。

沈香

沈香

  • 小説
  • 短編
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  • ホラー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-03-28

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