赤いはな
「最近、花言葉に詳しいひとって、増えてるでしょう」
彼女は後ろ手で腕を組んで、高架下にひっそり生まれてしまった花をじっと眺めている。ぼくはその手前で、派手な色のついた、ダサい落書きを見つめている。先程の問いを受けて、たしかに、とぼくが返事をすると、彼女は困ったように眉を下げて、やっぱりそうでしょ、とつぶやいた。その事実が彼女にとってどう不都合に影響するのかはわからないけれど、花屋でバイトをしていると色々あるのかもしれない。会話はそこで途切れた。
彼女の目線の先の花を見てみるけれど、ぼくには花言葉はおろか、花の名前すらもわからない。彼女はそんなぼくを見てちょっとばかにしたように笑うけれど、彼女だってぼくの見ていた落書きを見て首を傾げているから、一応はお互い様である。
先程の路上ライブの余韻を受けてもわもわとした空気が漂っている高架下を早足で抜けて、まだ昼間の、あたたかい光を受けにいく。彼女が後ろから軽やかな足音をたてて、着いてくる。彼女のみじかい三つ編みがこまかく揺れている想像をして、楽しくなる。高架下を抜けた先の信号はちょうど青になっていたから、ラッキーだと笑い合って、右左を確認して、肩を並べて渡った。自転車がふたりを追い越して、小さな路地へ吸い込まれていく。せっかくあたたかい光のもとに出たのに、目の前にはアーケードの大きな屋根が広がっていて、ぼくはなんだかそれを惜しく思う。それは彼女も同じだったみたいで、アーケードに差し掛かる直前で、ぼくの背中のギターケースちょっと揺らして、立ち止まった。なんとなく、ふたりともまた歩く気にはなれなくて、端っこに寄ってぼんやりと行き交う人々を眺めている。
「花言葉を知っている相手に花を贈るのって、なんだか、恥ずかしくない?」
彼女は先程の続きか、後ろ手でなにやらもぞもぞしたまま話しだす。たしかに、とぼくはさっきと同じ返事をする。「愛しています、という花言葉の花を、それを知ってる相手に渡すのはなんか、勇気がいる、というか。恥ずかしいね、そのまんま告白みたいで」
そうそう、と彼女が小刻みに首肯すると、三つ編みがじたばたと揺れて、ぼくの頬をかすめる。「恥ずかしいんだよ」
だれかそういう相手がいるの、と訊こうとしたけれど、それを聞いたところで、ぼくが不幸になるだけな気がしたから、訊かないでおいた。恋心を揶揄する赤い花と、それを持って誰かに向かう彼女を想像すると、顔がすこし熱くなった。それが恥ずかしくって、わざわざ言わなくてもいいのに、今日は暑いね、なんてこぼしてしまう。涼しい風とともに吹いてきた彼女のたしかに、という返事に、ぼくは少しだけ、期待したくなる。
そこからまた会話が途切れた。横に立つ彼女の長いまつげを窺いながら、それがばれないように、目の前を通り過ぎる自転車の数を数えるフリをする。さっきの路上ライブで立ち止まってくれたひとが、スマホを片手にうろうろしているのが遠目に見えた。
「君は、知らないんだよね」
彼女がまた、話をはじめる。自転車を数える必要もなくなって、彼女の方を向くと、三つ編みがひらひらと揺れているのが目に入る。伏せた長いまつげと黒い瞳、なによりいつもより少し赤くなった頬が気になった。彼女がなにか重大なものを秘めている気がして、ぼくは内心戸惑ってしまう。知らないって、なにを? ぼくは尋ねる。「なにを?」
「花言葉。詳しくないでしょ」
「うん、まあ。花自体あんまり、わかんないし」
よかった、と彼女がうっすら微笑んで、後ろに回していた手をすっと、ぼくに向かって差し出す。そういえば、今日彼女の手を見たのは、これがはじめてである気がする。
彼女の手には、赤い数本の花が握られていた。え、とぼくが戸惑うのをよそに、彼女はそれをぐいと押しつけてくる。それを受け取りながらぼくは、また顔が熱くなっていくのをぼんやりと感じている。心臓がどくどくと鳴っている。これは? 妙な期待が頭をよぎって、それはいけないよというふうに、つめたい風がふたりの間を吹き抜ける。花弁が一枚落ちて、ぼくは慌ててそれを拾う。期待していることがまるわかりの、上擦った声で疑問をなげかける。「これは?」
「さっき言ったでしょ。花言葉を知っている相手に花を渡すのは恥ずかしいって。でも、知らない君になら、大丈夫かなって」
大丈夫じゃなかったけど、と手で顔を仰ぎながら、彼女は答える。
ぼくは数本の花をまじまじと見てから、それと似たような色を浮かべている彼女にまた視線を戻す。
「これ、なんていう花なの?」
「それ、教えちゃったら意味ないでしょ。絶対調べちゃ、だめだからね」
教えても意味はないけれど、教えなくても意味がないままなのではないか、と思ったけれど、結局、うん、調べない、とぼくが守る気のない約束をした。彼女は満足げに、それでよし、と笑ったから、それでよかった。
それからぼくたちは、いつものように駅の手前で別れた。ぼくは改札のほうに歩いて行き、彼女はそのまま、自分の家があるその街に留まる。
駅構内の花屋を珍しく覗いてみたのは、やっぱり彼女の気持ちのヒントが、少しくらいは欲しかったからだ。そこには偶然にも、ぼくの持ったそれと同じ色と形をした花が鎮座していて、ぼくの目線はその脇に掲げられた手書きポップに吸い寄せられる。
ゼラニウム-君ありて幸福
赤いはな