浴室鏡

北上八三

浴室鏡磨きっていうアイテムがこの世にあるのを知って、思いつきました。

彼の家の浴室には鏡がある。ただそれがいつも曇っている。
「水垢が」
水垢などが無数に。無数とかあと幾重。幾重にも。十二単くらい。
「いやいや、体感的には」
三十六単くらいの感じだよ。むしろ最初からこうだったんじゃないかと思うほどだよ。最初から曇っているまま売り出されたんじゃないかって思えるよ。摺りガラスの状態で売り出された鏡じゃないかと思えるよ。

「使えたらいいんだけどなあ」
私の家の浴室には鏡が無い。だからこの鏡が使えると便利なんだけどなあ。眉毛とかちょっと剃ったりとかそういうのに使えるんだけどなあ。いつもそう思う。彼の家に来るたびいつもそう思う。でも、いっつも鏡磨きを買うのを忘れる。彼の家に来るたび、
「あ、忘れた」
ってなる。

どうして忘れるのか自分でも理解できない。もしかしたら彼の家だからかもしれない。彼の家の浴室ではさすがにすね毛とかは剃らないし、眉毛とかも結局風呂あがってから剃ったりするからかもしれない。

「斎藤君、あれさあ」
「何?」
彼は浴室の鏡にまるで興味が無い。
「鏡。浴室の鏡、あれ磨かないの?」
あー、あったねえ。でも、別にいらないしなあ。斎藤君はそう言う。彼は風呂場に鏡があってもなくてもどうでもいいのだ。
「それに脱衣所のとこにもあるしねえ」
そう言う。
私も彼の家だからそれ以上は言わない。鏡使おうよ便利だよ。私が眉毛とかちょっと整えたいとき便利だよ。足のすね毛のチェックとかそういうのも便利だよ。私の肩に生える変な毛の有無確認も楽だよ。そう思うんだけど言わない。だって彼の家だし。どうせ彼は興味ないから、使うんだったらどうぞ。って言うし。それにあまりそのことにこだわると私が毎回鏡磨きを買い忘れている事実も露見するかもしれない。あと、女性は男性にそういう部分を見せない方がいいらしい。だからつまり毛の処理とかそういう事。男っていうのは何歳になっても女性に対して幻想を抱いてるから、しきたりとしてそういうのを守ることもしなくてはいけないらしい。自分に関係ない人にはどう思われてもかまわないけど、付き合っていて週末だけはどっちかの、まあ私の場合は大抵彼の家になるけど、そういう関係の人がいる場合は特に。

だから、彼の家の浴室鏡はいつも曇っている。そして私はいつも鏡磨きを買い忘れてしまう。彼の家のドアを開けるたび、うわーって思う。また忘れたーってなる。顔には出さないけど、おくびにも出さないけど、うわあーってなる。あほわたしーってなる。

しかし先週末に彼の家に行った際、
「はいこれ」
と、鏡磨きが出てきた。
「何どうしたの?」
「いや、こないだアマゾンで買い物した時ついでに」
買った。なんか前に鏡の事聞いてきたでしょ?それ思い出したから。

「ナイス!」
斎藤ナイス!

だから私はさっそくその場で封を開けた。乱暴ともいえる位、乱暴に開けた。
「ジャイアンみたいだ」
後ろで見ていた彼にそう言われたので、ファック!とだけ浴びせかけて風呂場に直行した。そんでシャワーで軽く水を浴びせた鏡をその鏡磨きで磨いた。一磨きしたら三十六単だった水垢が驚くほど落ちて、ピッカピカの正規の、赤子のような、生まれたばかりのような鏡面が出てきてうおーすげーってなった。

でも、

「ん?」
最初の一磨き目から違和感があった。

二磨き目で違和感は確信になった。

三磨き目でそれが恐怖心に変わった。

四磨き目はしなかった。

手が止まった。

「・・・」
それからゆっくりと、慎重に、まだ三十六単の大部分に残っている鏡に顔を近づけた。

見間違いじゃないのかどうか、確認が必要だった。

「・・・」
鏡の中に。

鳥肌。

誰がいた。自分じゃない誰か。

ずっとここに居たんです。最初からずっとここに居たんですよ。私。

そういう顔をしてる女がいた。

それからは、鏡にばっしゃばしゃ水をかけて早く水垢溜まれってやってる。

あと、彼との週末の泊りを私の家でやる事も増えた。

「どうしたの最近?」
って聞かれることもあるが、そういう時は大体、ええぇー?いいじゃにゃーい?って猫の真似してイチャついてごまかす。

あの後半端に磨いた鏡を前に彼がどんなリアクションするか気になったが、
「何が?」
風呂から出てきた彼にそう言われて、彼には見えていないんだ。と、わかった。

だから言わないことにした。

男の人っていうのはえらそうに見えても、意外と小心者が多い。

だから、言わないことに決めた。言って変調になられても困るし。

あと最近は同棲も考えている。彼とも話して物件も探してる。もちろん浴室鏡なんてない所。

浴室鏡

浴室鏡

  • 小説
  • 掌編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-03-23

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