小さな丘。

こかげ

二0一六年三月七日午前五時三十七分。

父が天へ帰っていった。

父は、前年の秋に、胃がん末期と宣告され、余命数か月、日に日に弱っていっ
た。
終末期を迎えるホスピスの施設もない、緩和ケアも満足に整っていない田舎の
病院の一室で、父は、ただ黙って、痛みに耐えた。そして、あんなに強気に生き
てきた人なのに、涙が一筋ながれるのを拭いてあげるくらいのことしかわたしに
はできなかった。

 父が亡くなったとき、わたしは仮眠用のベッドで眠っていた。すると突然、夜
勤の看護師さんがやってきて、意識がないようです、と言った。

 わたしは飛び起きて、父の手を握って、「お父ちゃん」と何度も言ったが、父の
いつも暖かかった手はすでに冷たくなっていて、父の魂が天に昇っていくのが見
えた。

 父の顔は、病に苦しんでいた時にはなかったような、穏やかな幸せそうな顔で、
とても静かだった。

 そのとき、わたしのこころの中で、「小さな丘」がなぜか浮かんできた。

 あんなに恐れていた親の死というものを目のあたりにして、わたしの心の中で、
父は広々とした草原のなかに浮かんだ、さわやかな風の吹く丘に変わった気がし
た。

 父の存在はわたしの中でとても大きく、巨大だったが、いまは小さな丘になっ
てわたしを慰めてくれているように思えた。

 「こかげ、好きなように生きて、ええんで」

 生前、父の看病をしているわたしに父が言った言葉だ。そしていまわたしは好
きな道を歩き始めている。

 いまでもわたしのこころの中には、小さな丘が見える。それはわたしを育てて
くれて、時に厳しく、時に一緒に支えて歩いてくれた、やさしい父の姿だ。
 
 その丘はきっとわたしの一生を支えてくれる、そう思える。

小さな丘。

小さな丘。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-03-23

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