【鯉月】朱夏の月

しずよ

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二次創作(腐)なのでご注意ください。
軍曹と少尉がそれぞれ走馬灯を見るお話です。ぷらいべったーにあげたものに加筆修正しています。
単行本20巻以降のネタバレありです。事後をにおわせる表現がありますので、苦手な方はご注意ください。
お月見イベントは実際に鹿児島市で行われていたと、民俗学者の〇田〇男氏の本にあります。年齢や日にちはこの話とは違います。
※月いご前提です。

一、
「私の人生は月を捕まえることから始まった」
「……は?」
 まだ汗が引かない。体の内側に鯉登が灯した熱源があるから、月島は必死にそれを逃そうとしていた。
 それと同時に全身がだるくてたまらないので、暑さなど忘れてさっさと眠りたかった。でも鯉登は話を続ける。
 体を重ねたあとに、鯉登はいつも月島に昔の話をするのだった。
 それがかなり饒舌で、いつまでも続けるために、月島は最後まで聞いたためしがない。いつも途中で寝てしまう。
 しかし、月島のほうが体の負担が大きいだろう、ということを鯉登も理解していたので、先に眠ってしまうからと言って怒ったりはしなかった。
「兄上の十四歳のお月見の日の出来事だった」
「え、十四歳ということは、少尉殿は……」
「一歳だな」
「……」
 月島は絶句した。鯉登は人並外れて記憶力が良いらしい、ということに薄々気が付いていた。が、一歳からの出来事を覚えているなんて。
 自分の古い記憶は確か三~四歳頃のはずだ。それは鶴見からロシア語を習っている時に、言語習得と記憶の話にちなんだ話題だった。
 その時に、鶴見自身も一番古い記憶は三歳頃だと言っていたから、それが一般的だと思っていた。鯉登は話を続ける。
「花沢閣下がまだ近衛師団に所属してた頃の話を、父上が聞いてきたのだ」
「はあ」
 だからこれは内緒の話だぞ、と鯉登は前置きして、説明を始める。
 それは宮中祭祀ではく、一般的なお月見とも違う催しだったらしい。今上陛下の皇子である東久邇宮(ひがしくにのみや)家の王子が十四歳を迎えた秋のことだった。
 旧暦八月十五日、本人の持つ盃に月が映ったら、その子の将来の幸せが約束される、というものだった。
「宮中でも大嘗祭や、他の神社でもその年が豊作かどうか、亀甲占いをするところがあるが、それと似たような占いの一種だったのだと思う。祭祀と違い地味なものだったそうだが、ススキや里芋団子などお供え物をして、殿下より妃殿下や女官などがお楽しみのご様子だったとうかがった」
「月は映ったのですか」
「さあ、私はそこまで聞いていない。が、楽しそうだった、と聞いたから、きっと晴れていたのだろう。それで花沢閣下が『勇作が十四歳になったら我が家でもぜひ催してみたい』とおっしゃっていたそうで、その流れでうちでもやったのだと思う」
 果たして、平之丞の盃に月は映ったのか。月島はそれを聞けなかった。鯉登の昔話には、月島にとっては地雷が多い。どこまで知らないふりをしなければならないか、鶴見とは示し合わせているのだけれど。 
「兄上が十四歳の年のその日は、曇りだったのだ。当時の私はその意味は分からなかったのだが、皆がどことなく沈んだ空気になったのは分かった。だから私は遅くまで起きて待った」
 布団の中にいる時に、外が明るくなったのが障子越しに分かったのだと言う。だから布団を出て兄の部屋に行き、起こして抱えられて庭に出たのだと言った。
「雲の切れ間はほんの数分間だったと思う。それでも兄さぁは私にありがとうと言ってくれたのを覚えている」
「嬉しかったと思いますよ」
 月島はしんみりとした心持ちで、それだけ返した。すると鯉登は月島の下唇に、そっと人差し指を押し当てた。
「こんな風に、兄さぁが盃の酒を私にも分けてくれた。当時の私は、盃の中身は水だと思っていたから、強烈な匂いでむせた記憶がある。だから兄さぁがだいぶ焦っていた」
 鯉登は遠く鹿児島の錦江湾を、見下ろしているかのような目をする。
 月島が思うに、少しは心の整理ができたのではないだろうか? 確か、兄の十三回忌の法要を、昨年とりおこなったと聞いた。
「月島はこのようなお月見をしたことがあるか?」
「いや、ありませんよ」
「では、今年の十五夜にやろう」
「嫌ですよ。十四歳なんてとっくに過ぎてるからおかしいでしょ。というより、あなた自身が……」
ーーあなた自身が十四歳の時にやったんですか? そう言い返そうとして、月島は口をつぐんだ。失敗した。その当時、死にたがっていたのを鶴見から聞いて知っていたからだ。
 月島が言わんとすることを察して、鯉登が答える。
「ああ。私自身は十四歳の時には何もしてない。そんなもの何の意味もない、と思ったから」
 二人の間に横たわる空気が、急に重たくなる。
「……」
 雰囲気を変えなければ、と月島は焦り、何か言おうとして口を開きかけた。しかし話を続けたのは鯉登だった。
「でも、あの行事があったからこそ私の記憶に強烈に残っているのだと思う。今でもあの日の兄さぁの声や表情を思い出せる。日常も大事な思い出だが、繰り返していると埋もれていき、いつのものかも分からなくなっていく」
 だから、今年やってみたいのだ、と笑顔になった。鯉登の声は本当に弾んでいて、その前向きさに月島は救われる。それと同時に、やすやすと未来の約束を取り付ける鯉登に、月島は胸を締め付けられて弱る思いがする。
 だって、その日が無事に迎えられるとは限らないじゃないか。オレに、安寧な未来を描かせないでほしい。
「それはそうと、月島はこういう神秘的な話は好きなのか?」
「え、どうしてですか」
「珍しく最後まで起きて聞いてたから」
 するすると鯉登の左手が月島の胸に伸びてくる。寝間着の襟から手を忍び込ませる。
「なんですか、この手」
 月島は払い除けようとする。
「もう一回したい」
「は? もう寝ましょうよ」
 月島は翌朝日の昇る前に帰るつもりでいた。
「お前は明日から夕張だろう?」
 炭鉱で爆発事故が起きた、と夕刊に載っていた。なので鶴見と月島と二階堂の三人が、急行することになったのだ。任務完了はいつになるか分からない。鯉登に臨時の補佐官が付くかどうかは、追って指示がある旨を自宅まで伝えに来たところだった。そのまま求められて布団の中である。
 それからもう一点、気がかりな事があった。
 鯉登の部屋に布団が二組敷かれている。前回の宿泊までは、普通に客人として扱われており、座敷に月島の布団は敷かれていたのだ。
 男が二人、ひとつの布団は狭すぎる、と月島が愚痴をこぼしたのでこうなったんだろうか。いろいろと頭が痛い。もう使用人の顔がまともに見られない。
「さみしかじゃらせんか」
 鯉登は月島の胸に顔をうずめる。
 月島はこういう場面で本当に困り果ててしまう。面と向かって「寂しい」などと口にする大の男なんて誰一人いなかったから、どう対処するのが正解なのか、ちっとも分からない。
 分からないまま考えるのを放置していたら、月島が拒否しないと捉えて鯉登はぐいぐい押してくる。これがいわゆる『絆されている』状態じゃないんだろうか。月島は気付くが時すでに遅し、である。強引に迫ってくる鯉登を、待っている節がある。そんな自分にも呆れている。のしかかる鯉登が顔を上げる。
「私も寂しいです、と言え。月島」
「そんな無理やり言わせて嬉しいんですか、あなたは」
「嬉しいわけあるか、バカタレ」
「……」
 なんと理不尽な上官だろうか。月島はめんどくさいと思い始めた。
「無理やりでも言わせないと、寂しいなどとお前は一生言わんだろう」
 それはそうだ。鯉登相手に、寂しいと甘えられる立場ではない。それよりも何よりも、月島の人生には甘えられる誰かはほとんど存在しなかったのだ。それを想像もしない、鯉登に少し腹がたった。
「私は、親にも甘えたことなんてないんですよ。だから正直なところ、少尉殿がおっしゃる気持ちがよく分かりません」
 月島の本音だった。鯉登は呆然としてしまった。ほんのいたずらのつもりだったのに、本気で怒られてしまった子供の顔だった。
「すまん」
「謝らないでください。責めているわけではありません」
 相手にわがままを言ったり、またそれを聞いてあげるのは、愛情表現なのだと思っているのだろう。でもそれが通用するのはほんの子供のうちだ。それではいつか関係が破綻するから、月島は言わないようにしている。
 そこではたと気づく。
 オレは関係を続けようと思っているのか。月島は自分の考えにひっそり驚いた。
 鯉登が落ち込んだようで黙ってしまったので、月島はそっと抱きしめた。すると一瞬だけ目を見開き、それから再び月島の胸にもたれた。
「安心する」
 鯉登がぽつりとつぶやいた。月島の胸に耳を当て、鼓動を聞いているらしい。何ともしおらしいことを言うもんだ、と感心していると、「二回目するんだったら、小休止せずに抜かずの二発とやらをやりたかった」と、鯉登にしては珍しく下世話な内容を口にした。
「あなたどこでそんな言葉覚えてきたんですか」
 月島は呆れてみせた。
「む、妬いたか?」
 顔を上げて嬉しそうにする。
 いや、決して嫉妬などではないはずだ。
 だから「今年の旧暦八月十五日はいつですかね」と何でもない風を装って言ってみたけれど、鯉登の舌やくちびるは愛撫に夢中で答えてはくれなかった。
――今年の十五夜は九月二十二日だ。
 後日、月島は暦を調べてその日を知る。二か月後、か。晴れるだろうか。月島は天気の心配をしている自分にハッとする。これじゃあ、楽しみに待ってるみたいじゃないか。誰もいないのに、赤面してしまった顔を隠すために、うつむいた。
 約束をしたら叶わない。
 月島は自分の身の上をそう決めつけて諦めている。だけど、もしかしたら。鯉登なら月島を血の轍から、強引に引きずり出しそうな、そんな気もしている。
 


 初夏から鯉登は月島らと共に小樽で任務についていた。
 八月、盆に帰省すると言うので、旭川に荷造りに戻ることになった。鯉登の兄の祥月命日が九月だから、鯉登家ではお盆に法要を執り行っているという。月島は、鶴見から淀川中佐に言付けがあったので、同行していた。そして夜は、鯉登の家に当然のように連行された。お互いの体液で濡れた体を拭いて、布団に体を横たえたところだった。
「私の家は祖父の代まで島津家の家臣のひとつでな」
「はあ」
 月島は気の抜けた返事をする。気温が高いと、余計に体がだるくなる気がする。
「だから本家の蔵には日本刀が三十振りくらいあった」
「そんなに?」
「ああ、陸士を卒業する前に帰省して、軍刀を拵えるための刀がほしいと祖父に言ったんだ。そしたら、蔵の中から好きな得物を持っていけ、と言われてな。祖父の長男や三男――叔父上たちは海軍省の文官や内務省の官吏だから、もう誰も使わないというのだ」
「はあ」
 何も興味がなさそうな素っ気ない返事をする。だが、華族にも引けを取らない家柄には、月島も内心驚いていた。
 ここで、もし月島が「すごいですね」と言ったら「身内が何をしていようと、自分には関係のない話だ」と冷たく言い放つだろうな、と予想した。鯉登にはそういう斜に構えたところがある。鹿児島出身だから、海軍属になれなかった、と嫌味を言う親類がいるのかもしれない。
 他人がうらやむ何もかも持って生まれてきても、本人が望んでいなければ、何も持っていないのと一緒だ。
 鯉登の自信と強さは、劣等感の裏返しなのだ。それを鶴見は「愛情深いくせに、愛を恐れているのだよ」と言い表した。
 だから月島にとっては始末が悪い。本当は、自分とは全く別の世界の住人であってほしかった。それなら割り切れたのに。
「月島、眠いか?」
「いえ、まだ大丈夫です」
「ぼんやりしてたから、もう寝るのかと思った。――それで、祖父から大太刀を一振り譲り受けた。それがあの軍刀だ」
 鯉登は布団の脇に置く軍刀に目をやる。
「しかし、帰るときに祖父がな、『小太刀は持っていかないのか?』と聞くんだ」
「小太刀、ですか」
「必要ない、と私が言うと、残念そうにため息をつくのだ。理由を聞くとこんなことを言っておった」
 江戸時代の武士は二本差だった。大太刀をひとふり、小太刀をひとふり腰に差していた。長い方は敵を斬る。短い方は自分の腹を斬るためのものだ。
 それはすなわち、人を斬る者は権限と同時に責任をも持たないと、示しがつかない。そういう意味合いだと、鯉登の祖父は語ったという。
「だから、月島」
「なんでしょうか」
「私の小太刀になってくれ」
「……またそんな芝居がかった台詞を」
 ふい、と素っ気ない態度で顔ごとそらす。すると隣から、フフ、と笑みがもれるのが聞こえた。照れてしまったことがバレているんだろう。
 普段は手のかかる末っ子のような甘え方をするくせに、時々こういう大人の包容力を発揮する。この落差が月島は嫌いではない。だから困っている。
「それとも、月島軍曹は死神の懐刀だけで手いっぱいか?」
 鯉登は上半身を持ち上げるために右腕を曲げ、肘を布団に沈ませ頬杖をつく。そして月島の顔をのぞきこみ、挑戦的な目で見た。
「それなら、私がいつも申し上げている『ー人で先に行くな』が小太刀の役割みたいなものでしょう」
 月島が仏頂面でそう答えると、鯉登は「たしかにそうだな」と歯を見せて笑った。鯉登が目を細めると、長いまつげが頬に影を作る。笑っていても憂いを帯びて見えて、月島はいつもそれに見惚れていた。



――いや、これでは小太刀ではなく盾だな。
 爆風に吹き飛ばされるのはこれで三度目で、妙に冷えた頭は一瞬のうちに過去の記憶を丁寧に引きずり出す。キロランケの仕掛けた爆弾で、吹き飛ばされた体が流氷原に叩きつけられる。
 ああ、走馬灯だ。
 だからあの子と過ごした時間よりも、失ってからの方が長くなってしまった現実を、月島に容赦なく刻み込む。
 そう、最後に見たのは出兵する日だった。
 歩兵第16聯隊は新潟から敦賀まで海路で、そこから鉄道に乗り広島駅で下車した。当時の大本営は第五師団のある広島城にあったから、立ち寄ったのだった。それから宇品港へ向かった。
 港には日章旗の小旗を持った人々が、あふれんばかりにいた。新潟港でもたくさんの人々に見送られたが、さすがに大本営を設置する規模の都市であった。従軍する兵士の家族や本省関係者、そして地元住民らが見送りに来ていて、思いの丈を叫んだり万歳したりしていた。
 そこで月島はにわかには信じられないものを目撃する。
 あの子がいたのだ。
 水面からの陽の光の乱反射に、目を細めて微笑んでいた。もっと近くにいたら、涙も見えたかもしれなかった。でも前進する歩は止められず、月島を船まで押しやる。
 月島は敬礼をした。
 陸から離れていく船からは、もう誰の顔だか分からなくなる。それなのに月島は、再び信じられない光景を見た。 
 子供の姿をした鯉登が、そこにいたのだ。
 ああ、これは走馬灯ではなく夢だ。
 宇品港での話も寝物語に聞いたことがあった。「私も旗を持って母上や叔父上ら親戚と一緒に、宇品港で兄を見送ったのだ。壮観で悲しかった」と鯉登は語っていた。ふたりの過去が混ざって、ひとつに重なる。
 そして月島の乗った船は、江田島にも寄って海軍兵学校の生徒らにも見送られた。カッターから敬礼する生徒らの中に、特徴的な眉の青年がいた。鯉登の兄だ。鶴見からの写真で見知っていた。
 夢とは違うな。これはいよいよ三途の川なのかもしれない。いや、海か。
 船は一定の速度で西に進む。瀬戸内海には大小の様々な形をした無数の島々があり、月島の故郷とは全く違う風景で、驚きと感動があった。その雄大で美しい空と海の青色に、圧倒された。そして時間が経つにつれ、世界が橙色に染められていく。一日でいちばん大気の安定する時間帯なのだろう、凪いでいるから船はほとんど揺れない。
 これが黄泉の国への道行きならば、悪くはない。鯉登を護り、役目も果たせただろう。
 でも、もう少し、せめて補佐の任期が正式に終了するまでは、彼の前途を見守りたかった。いつしか月島は、歴史にも翻弄されない何者かになるかもしれない、と若い可能性を見出していた。
 心を開放したら、そういう心残りがあることに気付く。首から流れ出る自分の血が、胸の奥にある鯉登への後ろめたさを氷解させる思いがした。

二、
 ゆらゆらと揺られるそのリズムが心地よかった。人力車か、あるいは馬車か。
 鯉登が目覚めるとそこは陸蒸気(おかじょうき)の中だった。
「目が覚めましたか」
 月島の声がすぐ近くで聞こえる。
 どうやら月島の肩にもたれて眠っていたようだった。鯉登は背筋を伸ばして座り直す。
「私はどれくらい寝ていた?」
「一時間くらいかと」
「そうか……。改めて思うが、旭川は遠いな」
 小樽を午後三時に発つと、翌午前零時に旭川に到着する。ひと眠りして、朝から荷造りをする。そして鯉登は使用人と共に、鹿児島へ帰省するのだ。
 一方、月島は明日軍司令部に顔を出す予定だと聞いた。
 鯉登は列車の中を見渡す。
 六人掛けの長椅子の上は、壁にある仕掛けを水平にすると、寝台に仕様を変えることができた。そしていま腰かけている長椅子も、頭部と足元に仕切りを作ると、下の寝台に早変わりした。
「うつむくから、最初は乗り物酔いしたのかと思いました」
 月島が話しかける。
「陸蒸気は平気だ」
 鯉登は憮然とする。
「十四の時に、父の転属で鹿児島から函館に住処を移した。その時にもできる限り陸路で移動したんだ」
 下関から青森まで、本州は線路で見事に繫がれていた。だが、最初と最後だけが繋がっていなかった、と鯉登はぼやいた。
「鹿児島から下関と、青森から函館まで船に乗った」
「それは……、大変でしたね」
「陸士時代に夏休暇で帰省する時にも、ほぼ列車移動だった。だから慣れている」
 他の乗客はみな談笑して楽しげに過ごしている。子供は通路をペタペタと裸足で左右の窓を往復して眺めていて、列車の旅を満喫するのに忙しそうである。
 自分たちも談笑しているはずなのに、どことなく空気が重い。
 長時間の列車の旅に慣れなければいけなかった理由を、月島は承知している気がする。鶴見中尉殿から聞いたのであれば、そう言えばいいのに。
 そうやって分別のある振りをして、距離を置かないでほしい。いつまでも成長しない子供だと、呆れて取り残された気がする。
 鯉登が黙り込んでいると、月島が口を開いた。
「あの、私の昔話で良ければお話しますが」
 すると鯉登は瞠目した。
「意外だな」
「そうでしょうか」
「ああ、お前は自分の話をするのが嫌なのだと思っていた」
 図星なんだろう。月島が難しい顔をする。そしてすぐに元の無表情に戻る。
「私が初めて陸蒸気に乗ったのは、鶴見中尉と一緒に新潟県内から東京の陸軍省へ出向いた時でした。もっとも、その頃は鶴見少尉でしたが」
「おお、その当時は少尉だったのだな! 何年前だ?」
 鶴見の絡む話とあって、鯉登は話に食らいつく。
「今から十一年前です」
「十一年か……」
 鯉登はにわかに考え込む。昇進が遅すぎて不自然だ。しかし、それを聞いても月島も知らないだろうし、知っていたとしても列車という公共の場で話せる内容ではないだろう。
「駅舎に停車している陸蒸気の大きさにもたいそう驚いたのですが、乗客も多くて舎内はごった返していました。とにかく鶴見少尉とはぐれないように、必死に人の波をかき分けてついて行きました。切符に書いてある番号を見つけて、ふたりで椅子に腰かけました。しばらくすると、発車を知らせる汽笛が鳴りました。が、そのとき舎内にいた車掌が何かを次々と車内に投げ入れるのです」
「投げる?」
「はい、よく見るとそれは履物でした」
「履物?」
「はい、家に上がるのと同じように、乗車するときには履物は脱ぐものだと考える人が多かったのです。実は、私も乗る前に下駄を脱いでいました」
「え」
 月島の大して長くもない話で、何度目の衝撃なのか分からなくなっていた。自分の目が限界まで開いている自覚がある。
「だから一昔前の車掌は、陸蒸気の発車直前に靴を投げ入れるのも大切な仕事だったのです」
「そうなのか、初めて知ったぞ! 月島軍曹もなかなか……、かわいいな」
 鯉登は肩を震わせて笑うのを堪える。我慢しすぎて腹筋も痛む。
「ああ、そういえば」
 月島は憮然としていたのもつかの間、視線を斜め上に巡らせた。
「なんだ?」
「私が通路に投げ入れられた下駄を拾いに行って、戻ってきた姿を見た鶴見少尉からも、少尉殿と全く同じことを言われました」
「か、かわいいと? 鶴見中尉殿からもかわいいと言われたのか?」
 おそらく正面に向き合っていたら、月島の肩を掴んで揺さぶっていただろう。鯉登は驚きとも嫉妬とも共感ともつかぬ、複雑な心地になった。その心の動きが手に取るように分かったらしい月島は「まったく、あなたは忙しい人ですね」と呆れた声音になる。それから少しだけ目を細めた。
 鯉登は、よくしゃべる人間だと思われることが多かったが、親しく会話する相手は、意外に少なかった。
 地元の私学の教育方針で『嘘をつくな』と躾けられていたから、どんな人に対してもそのように接していた。しかし、こちらが実直に対応しても、相手も同じようにするとは限らない。それは年を取るにつれ、実感することが増えていった。
 腹立たしいとか不愉快であるとか虫唾が走るだとか、そういう負の感情は、自分自身を消耗する。
 でも月島と話している時は、不快に感じることが無かったのである。それが鯉登には驚きだった。月島は虚勢を張ったり値踏みしたりしないし、飲む打つ買うなどのくだらない話もしない。
 だから鯉登は月島と話をするのが好きだった。軍務ではどんな些細なことでも質問したし、意見した。また、私語については時事や師団内の人間関係の機微、あるいは不埒なことまでたくさんの言葉をかわした。それで自然と寝物語が長くなった。
 それなのに、鯉登は何かが心に引っかっている。月島に聞かれて、答えていないことがあったはずだ。

三、
「月島」
「……鯉登少尉殿。気が付きましたか」
 慌てて医者を呼びに行こうとする月島を、鯉登は呼び止める。
「月島、ちょっと待て。私はどれくらい寝ていた?」
 その声が鯉登とは思えないほどに、弱々しかった。声を張ろうとして息を吸うと、胸が痛いと訴える。だからか細い声になる。
 月島は寝台のすぐ隣のイスに、再び腰掛ける。
「昨日、馬車で港からこの病院へ運んでもらいました。それから緊急に縫合の手術がありました。鎖骨の辺りと背中側が縫われています。それから丸一日、眠っていましたね」
「そうか、一日か……」
「回復までにある程度の日数はかかると言われましたが、命に別状はないそうです」
 月島はいつもと変わらない表情で淡々と告げる。
「つかぬことを聞くが、月島は走馬灯がよぎったことはあるのか?」
「走馬灯、ですか」
「私は初めて見た。映像が止まると、死ぬものだと思っていたんだがな」
「よぎったら必ず死ぬ、とは限らないようですよ」
 月島は短く説明して、医師を呼びに病室を出て行く。
 廊下を急ぎながら、大泊港での一連の出来事を丁寧に胸の中に折り畳む。
 今となっては鯉登は唯一の共犯者だから、情報のすれ違いがあってはならない。今後は鶴見へ報告をする前に、じゅうぶん精査する必要がある。これまでとはまた違う緊張感のある毎日が始まる。
 鶴見が樺太へ迎えに来た昨日、手負いの杉元の前に立ちふさがり、刺された鯉登の姿を繰り返し思い出す。
 月島には、あれはまるで自害のようにしか見えなかった。説得の振りをしてわざと刺されたのか、それともスチェンカで自我を制御できなかった杉元のことを、本当に失念していたのか分からない。
 しかし鯉登は、五年前にたった一度だけ聞いた外国語を覚えているくらいなのに、忘れていたなんてあるのだろうか? あまつさえ「私のことはいいから」と投げやりな態度で。
 月島は奥歯をかみしめる。もはや自分が何に苛立っているのか、整理ができなかった。
 そしてふと、奉天で頭部を吹き飛ばされた鶴見と、港で刺された鯉登の姿が重なった。
 わざとやられたのではないのか。
 月島は自分の想像に、背筋が寒くなった。仕掛けられた罠に自らはまっている気がした。
 自分はやはり、傍観者にすらなれないのか。
 鯉登の診察を終えた医師と看護婦が、部屋を出ていく。
「月島」
 鯉登から名前を呼ばれて、胸に去来する動揺を素早く隠す。
「今年の旧暦八月十五日はいつだ」
「……調べておりません」
 樺太にいる間に、年が改まった。暦の上ではもう春だ。
「そうか、あとで教えてくれ」
「はい」
「去年の秋は、我々は何をしていた?」
「……確か、網走へ行く直前かと」
「そうか。そうだったな。走馬灯が昨年の八月で止まったんだ。その後を必死に思い返したら、十五夜の占いをしてないことを思い出してな。一緒にやろうと私が言い出したことなのに」
 それを聞き、月島は胸の内が震える思いがした。自分が、もうすでに鯉登の人生の一部になってしまっている。こうして、自分が、自分だけの人生でなくなることが、月島には恐ろしかった。
 もうあとには引き返せない。もとより、月島は鶴見の最終目標まで走り抜けるつもりでいるが、鯉登だけは別のゴール地点を目指してもらわなければならない。この使命感で身が引き締まる。
 鯉登は布団から手を伸ばして、月島の腕をつかむ。
「そんな不安そうな顔をするな。私がお前の月も捕まえてやるから」
 当日が必ず晴れる、と天候をも左右できるような自信を見せるから、月島は大げさにため息をつく。
「脅す相手にまで誠実である必要はないのですよ」
 すると鯉登は「まず自分の表情を鏡で確認したらどうだ? 私の方がお前より演技はうまいと思うぞ」と、怪我人にはふさわしくない明るい表情を浮かべる。
 月島は自分の頬に手を当てる。触っただけでは分からなかった。が、おそらくひどい顔をしているんだろう。こんな時にも手鏡は必要なんだな、と納得する。そして目を伏せて微かに表情を崩す。
 それは、予想もしなかった鯉登の強かさを目の当たりにしたからであることは、本人には内緒にしておこうと月島は思った。

〈了〉

【鯉月】朱夏の月

【鯉月】朱夏の月

  • 小説
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