検校と鈴虫
盲人を主人公にした時代劇を書こうと思い、主人公の少年時代の設定を考えていたら、こっちの方が短編として先に書けてしまいました。
文化八年というから御一新を遡ること五十七年ほど前になる。
江戸の本所を流れる竪川に架かる一つ目橋の南側に、江島弁天という神社があった。
あたりの人々から「一つ目弁天」と云われて親しまれているこの神社、もともとは元禄の昔、杉山和一検校が将軍綱吉公に鍼治療を施した褒美に賜った領地だったが、このころには当道座という盲人団体を束ねるための「惣禄屋敷」という役所として使われていた。
その江島弁天から一つ目橋を渡ったほど近くに、森嶋検校彦一の屋敷はあった。
当道座とは盲人の職業訓練などを行う傍ら、彼らを管理・支配していた自治組織であり、検校とはその当道座の中でも、最も高い官位―盲官―であった。
彦一はその夜、ひどく不機嫌な面持ちで縁に座していた。
彼の前には筝が置いてあったが、先ほどからまったく弾こうとはしていなかった。
傍らには誰もいない。行灯はもとより不要であるから、あたりは墨のように真っ暗で、鈴虫の音だけが広い庭の草をそよがすように鳴いていた。
「誰だ」
彦一は不意に闇に向かって低く問うた。
暗がりの一点に「何かの気配」を感じ、見えぬ目をそちらに向けるのだった。
それは、足音というほどの音ではなかった。いや、そもそもそれは音ではなかった。
ごくわずかな風の揺れのような気配が、暗闇の奥からゆっくりと近づいてきたのだった。
すでに彦一の左手には杖が握られていた。
「検校さま…」
その「気配」が、聞こえるか聞こえぬほどの小さな声で、語りかけてきた。だが。
「誰かある。狼藉者じゃ、どこぞの痴れ者が紛れ込んでおるぞ」
彦一はにべもなく、中間の者を呼びつけた。
「ひっ捕らえてしばらく折檻してから放り出してやれ、斬って捨ててもかまわん」
「ただいまこれに」
ただちに三人の屈強な男達が、手に手に提灯を持って彦一の前に駆けつけた。
「それ、そこな狼藉者じゃ」
彦一は先ほどの「気配」を顎で示して言った。
「は…はあ。いや、しかし…」
彦一の示す所には、闇の空間があるだけである。
日頃、彦一の癇に何度も触れている中間どもはすっかり困り果ててしまった。
「ど、どうやら庭に逃げたらしゅうございますゆえ、草の根を分けてもひっ捕らえてまいりましょう」
彼らは彦一の逆鱗に触れぬうちに先回りをして、口々に勇ましく叫びながら庭に駆け出して行った。
そしてひとしきり庭をうろうろしてみせた後「どうやら外に逃げたらしい」「そのようだ、急げ」などと彦一に聞こえるように言葉を交わし合い出て行ったため、あたりはすぐに静寂が戻った。すると。
「検校さま…」
「気配」は再び現われた。
「やはりまだそこにおったか」
彦一はそう言ってみたものの、彼の心はわずかではあるが、動かされはじめていた。
その「気配」の声は、それほど美しかったのである。
声の感じでは少年のようであるが、それはまた少女のようでもあった。
男とも女ともおぼつかないが、若々しくて、みずみずしい心地よさだった。
「おぬし、物の怪か」
「わたしは決してそのような怪しげな者ではございません、むしろ、検校さまも憶えておられるかと…」
「帰れ」
彦一は鋭くさえぎった。
「おおかた、わしの血縁とでも騙るつもりであろうが、わしにはそのような者などおらん。わしの検校としての力を恃んで訪ねて参るそのような不届き者が蛆、ぼうふらのごとく、後からきりもなく湧いて出てくるゆえ困っておるのじゃ。金が欲しいならくれてやるから、さっさと出てゆくがよい」
当時、この当道座の最高官位がどれくらいの力があったかといえば、十五万石の大名並みで将軍にも謁見できたほどだったという。
そのため彦一の言うとおり、そんな検校の力を頼って彼を訪ねてくる者は後を絶たなかったが、彦一にはそのような血縁者の記憶などなかった。
かすかに記憶にある親や兄弟さえ、殺してやりたいほど憎い人間ばかりである。
長い沈黙が続いた。
いつの間にか、庭ではまた鈴虫が鳴いている。
小さな声であるにも関わらず、庭の草木を打ち震わせるかと思うほど、それは時に激しく響きわたっていた。
「確かに、あなたさまは幼いころから大変なご苦労をなさいました」
「これは妙なことをいうものだな」
彦一は内心哄笑しながら言った。
彼の少年期を知る者など、今はいるはずもないのだ。ましてや。
「お前のような童に…」
だが、そう言いかけて、彼はふと考えた。
―こいつは本当に童なのだろうか―
声の感じでは、確かにまだ子供のようである。
だが、この落ち着いたものの言い方には、底知れぬ重々しささえ感じられた。
しかも、すでに何度も言葉を交わしていながら、男か女かさえ判っていないのだ。
検校彦一が、である。
当道座とは盲人の職能集団である。
彼らの職業は、鍼灸・按摩のほか、平家琵琶や筝・地歌三味線の演奏や作曲、あるいは学者や棋士になる者などもいたが。この彦一は当道座の盲官を、平家琵琶をはじめとする楽器演奏と作曲で駆け上がった男である。
耳は常人のそれとは比べものにならぬほど、よく利くはずだった。
彦一は左手の杖を床に突き、躰を預けた。
「ならばだ、たとえばどんな苦労をしたというかね」
―おもしろい、打ち据える前にどんなでたらめをぬかしおるか聞いてやろうか―
当然のことながら、彦一の興味はその一点にあった。
だが、そう思いながらも一方で、もう少しこの声を聴いてみたい気もあるのだった。
「幼少のころ、天狗の神隠しにお遭いなさいました」
「気配」がゆっくりとだが、即座にそう言うやいなや、一筋の風斬り音が光のように、ひゅるりと横薙ぎに閃いた。
それは、彦一の杖だった。だが。
「おぬしも、天狗の一味か」
彦一は静かにそう訊いた。
声の距離では確実に「斬れる」間合いだったが、手ごたえはなかった。
「天狗ではございませぬ」
「気配」の声は、やはり先ほどと同じ場所から聞こえてきた。
彦一の武術は、天狗に教わった術であった。
武術だけではない、今の彼を彼たらしめている楽器の演奏術も、もとはといえばその天狗から授かった技だった。
「何用じゃ、用件を聞こう」
「どうか、わたしめの歌をお聴きくださいませぬか」
「歌だと」
売り込んでくる者は後を絶たない。
しかもこのような無法な手段に訴える者は、初めてだった。だが。
「名を名乗るがよい」
彦一は杖を右側に置いた。
きわめて稀なことだったが、彦一は、この者の歌が聴きたくなっていたのだ。
「草鳥、と申します」
その名前に心当たりなどなかった。
「歌え」
―人とは死が近づくと、奇妙な幻に遇うものだな―
彦一は内心、己の物好きを鼻で嗤いながら腕組みをした。
不思議なことに彦一は、先ほどからこの草鳥と名乗る、物の怪とも幻ともつかぬ奇妙な「気配」の声に、自分でも説明できぬ懐かしさを覚えていたのである。
それは、あるはずの無いことであった。
彦一にはそのような、親しみを持った友人などいなかったのだ。
親兄弟でさえ、自分を捨てた憎い仇だった。
彦一は我知らずのうちに、己の記憶を辿っていた。
―わしに懐かしく思い出す者などいるはずは…いや―
一人いた。
―サヨ…―
その時、草鳥が歌いはじめた。
―なんという澄んだ声か―
草鳥の歌も声も、それまで彦一が聴いたことのない調だった。
彦一が初めて習った天狗の歌も、里や村や当道座の人々のそれとは、ずいぶんと違ったものだった。
だが、草鳥の歌は、そのどれとも違った。
それでいてなお、どこか懐かしかった。
草鳥の歌声は、決して大きくはなかった。
だが、この屋敷の床や屋根や、庭の草木まで、いや、空高く天空の雲まで打ち震わせるかと思うほどよく通っていた。
そして、彦一にもはっきりと理解できた。
これは、恋の歌だった。
―サヨ…―
彦一は再び記憶の中をさまよった。
彼は生まれついての盲ではなかった。サヨと過ごしたころには、まだ目は見えていたのだ。
彦一が天狗にさらわれたのは、世が天明と改まった年だった。さらわれる前は、会津の貧しい百姓の八人兄妹の六番目の子で、そのころの名前は三太といった。
恐らくは、さらわれたのではなく体よく売られたか、貰われたのであろう。子供のころの彦一は、顔に大きな痣があったため大風―ハンセン氏病―と思われていたのである。
春のことだ。
彦一は親戚の家に三日ほど預けられ、それから家に戻ると親は珍しく優しく笑いながら「湯浴みに行こう」と言い出した。
日頃人目を気にして彦一と一緒に外を歩くことさえなかった親が、笑いながらそう言ったのだ。
だが、彦一は大喜びでついて行った。
そして、親はいつの間にか宿から姿を消し、彦一はその夜のうちにさらわれたのである。
恐らく彦一を親戚に預けている間に、彦一の親と天狗の間でなんらかの交渉が交わされたのであろう。
村人たちも、そんな子供がいたことなどすぐに忘れてしまったにちがいない。
山桜の咲く深い森を、丸二日ほど歩かされ天狗の村に着いてみると、同じような子供が何人かいて、その中にサヨがいたのである。
サヨは彦一より一つ年上だった。
少し田舎くさかったが、綺麗な少女だった。
顔の痣を除いては比較的美童だった彦一と、このサヨ以外の子供たちは、いつの間にか死ぬか売られてゆくかしていなくなったが、すぐにまた新しい子供たちがさらわれてきた。
そしてまた、その子たちも死ぬか売られていくのだった。
童たちは朝、日の出前から夕暮れに至るまで、とにかく働かされた。
男の童は水汲みや薪割りなどの力仕事、気の働く彦一は、天狗の生活に慣れるに従い、時には「神隠し」の手伝いをさせられることもあった。
そして仕事の合間に武術の稽古の相手をさせられるのだが、これが苛烈をきわめた。
女の童は木の実拾いや薬草採りに洗濯、そして天狗どもが生業としていた薬草作りや、竹籠編み、夜は天狗どもの伽をさせられるのだが、これは男の童も顔立ちの悪い者を除いて務めさせられ、彦一もその中に入っていた。
いわゆる天狗の情郎・情婦である。
楽器の稽古は手遊びのためではなく、あくまで高く売れるための訓練だった。
草鳥の歌は彦一の服をはぎ、肉を削ぎ、三太の姿へと変えていくのだった。
三太はその晩も泣いていた。
顔や頭のあちこちに一度流れた血が、乾いてへばりついている。ワラビという若い天狗と稽古をして、したたかに打ちのめされたのだ。
しかも今日のワラビは、よほど虫の居所でも悪かったのか、三太は晩飯の芋汁に小便まで入れられたのである。
「さんちゃんの歌と琵琶が長老さまのお気に入りなもんだから、あいつ、やっかんでやがんだよ」
自分の小屋から抜け出してきたサヨが、三太の顔を着物の袖で拭きながら、まるで三太の後ろにワラビが見えているように、にらんで言った。
お互いに伽を言いつけられなかった夜は、いつもサヨの方から三太の小屋を訪ねてくる。女として高く売れそうなサヨは、飯だけはたくさんもらえたから、半分ほど食わずに三太の所に持ってきてくれるのだった。
見つかればただではすまなかったが、サヨは根性の据わった子供だった。
「おら、武術はいやだよ。ちっとも強くなれねえ」
「嫌だ嫌だって言うから、あいつら余計に面白がって相手をさせたがるんだよ」
すでに二人ともさらわれてきてから、二年以上がたっていた。
臆病な三太は、武術の方はいまひとつだったが、歌と演奏にかけてはすぐに頭角を現し、すでにこの集落の中では並ぶ者がないほど達者になっていた。
「一度くらい堂々とワラビの目をにらみつけて打ち込んでやれば、あいつだってたまげて腰ぬかすよ」
「できねえもんはできねえよ。おら木剣を持つと恐くて躰が震えちまうんだよ」
「かわいそうなさんちゃん」
サヨはそうささやいて、三太を抱きしめた。
「痛てて、サヨの懐に何か入ってるよ」
三太が顔をしかめると、サヨは「あっ」と思い出したように、自分の懐に手を入れた。
「今日はおもしれえもん持ってきただぞ」
サヨが嬉々として懐から出した手には、小さな籠が大事そうに載せられていた。
「なんだい、これ」
「鈴虫だよ、今日捕まえたんだ」
サヨは女の子らしく、時々松ぼっくりなども持ってきて、三太を慰めてくれるのだった。
三太はわけが解らず「へえ」と言って籠を覗いた。
「こいつ弱ええから、ちゃんと面倒みねえとすぐ死んじまうだぞ」
「えさなんてねえぞ」
「おらが胡瓜持ってきてやるよ」
すると鈴虫は、まるでサヨの言葉が解るかのように鳴き始めた。
「こいつ、歌ってるぞ」
三太が珍しく目を輝かせて、サヨの顔と虫籠を見比べた。
小さな鳴き声であったが、狭い小屋の中は溢れそうなほどその声で満たされていった。
「これはな、女が恋しくて呼んでいる恋の歌なんだ」
「へえ、じゃあ、女も捜してやらねばよ」
サヨは訳知り顔で「んにゃ」と首を振って。
「こいつらはな、つがいになっちまうと、歌わなくなって死んじまうのさ」
と言った。
「じゃ、かわいそうだけど、ずっと一人ぼっちだな、おらと同じだ」
「おめえは一人ぼっちじゃねえだろ」
サヨが三太の手を握って言った。
「痛てて、そこも打たれたんだってば」
三太は顔をしかめたが、どこか嬉しげな目になっていた。
サヨの買い手がついたのは、それから何日も経たないころだった。
「さんちゃん、いっしょに逃げよ」
三太の小屋に転がり込んできたサヨが誘った。
「でも、サヨはお金持ちの家に買われて行くんだろ。これからはいい暮らしができるじゃねえか」
「おめえを一人置いて行けねえよ、おらがまんまやらなきゃ、おめえはあんな少ねえ飯じゃ死んじまうぞ」
サヨは三太に抱きついて泣きじゃくった。
「でも、逃げたって捕まったら突っ殺されちまうよ」
死んだ子供のほとんどは、逃げようとして逃げ切れずに殺されたのだった。
「いいよ、さんちゃんとはなればなれになるくれえなら、一緒に殺されたほうがいいんだ」
それもそうだ、と三太は思った。
顔の痣のためにおよそ家族の愛情というものを知らずに育った三太にとって、サヨはたった一人の姉であり、母親であった。
もしもサヨと引き離されたら、三太にとって生きている意味など最早ないと三太は思っていた。
月の明るい満月の夜。逃げるには最悪な夜だった。
天狗どもは、松明など要らぬらしく、昼とほとんど変らぬ速さで山を駆け、追ってきた。
「サヨは殺すな」
「もう、銭を半分もらっちまってる」
天狗の親方は、大声で言った。
―やつらの夜駆けがここまで速ええとは―
解りきっていたことだったが、三太は戦慄した。乾いた草の上を走る足がぬるぬると滑る。いつの間にか、どうやら足が血まみれになっているようだった。
―おらの剣じゃ、とてもやつらにゃかなわねえ―
三太は震えながらそう思ったが、精一杯サヨを励ました。
「大丈夫だ、この先に川がある、それを渡って少し行けば里だ」
これは本当だった。神隠しの手伝いをしたことのある三太は、サヨよりも山には明るかった。
川には橋代わりに丸太が渡してある。先に渡ってその丸太を蹴落としてしまえば…。
「ちっ。ちくしょう」
三太とサヨは立ちつくした。丸太のこちら岸には、すでに先回りしたワラビが待ち構えていたのだ。
こんな時のワラビは誰よりも速かった。
「おめえにこんな空度胸があるとはな。ほめてやるぜ三公」
満月の明かりに浮かび上がったワラビの顔が、愉快そうに歪んだ。
「俺はせんからてめえが気に食わなかったのさ、これで心置きなくぶっ殺せるぜ」
真剣を構えたワラビの双眸が、月より輝き燃え上がる。逆に木剣を抜いた三太のそれは、青白く静かに研ぎ澄まされていった。
「おらがワラビに跳びかかったら、おめえは橋を渡るんだぜ」
三太に耳打ちされたサヨは、驚いて三太を見上げた。
「でも、でも、それじゃあさんちゃんは」
「大丈夫、おらは負けねえ」
川は丸太のすぐ下を、雷鳴のような唸りをあげて流れていた。
幅は五間にも満たない小川だが、山の川は深く、流れも速かった。
背後に天狗どもが遠くから、わらわらと駆け集まってくる気配が感じられる。
「てめえら仲良く心中の相談でもしてやがるか、いつも仲良くしやがって、胸くそ悪い。他のやつの邪魔が入る前に突っ殺してやるぜ」
―上等だ、おらは今ここでサヨのために死んでやるんだ―
そう考えると、三太の躰の震えはいつの間にかなくなっていた。
「そこをどけっ」
「おらあっ」
ワラビは自信満々に、一息に間合いをつめた。だが、次の瞬間、牛蛙のように「げうっ」と唸り、一丈ほど後ろに弾け飛んで転がっていた。
大きく踏み込んで斬りつけようとするワラビの喉を、三太の木剣が一瞬速く突いたのである。剣に憎しみを込めすぎたワラビの気負いが彼の剣を鈍らせ、後の先の隙を許したのだ。
「か、勝った」
勝った三太の方が返って呆然としていた。
「さんちゃん早く、こっちへおいで」
すでに丸太の近くまで行っているサヨに促されて、三太も我に返り、サヨの後をついて丸太を歩き出そうとした。だがその時。
「うわっ」
三太は激しくつんのめった。
腹這いになっていたワラビが、三太の足首をつかんだのである。
前のめりに倒れ込んだ三太は、弾みでサヨを突き飛ばす形になってしまった。
「さ、さんちゃん」
大きなしぶきが上がって、三太にかかった。
「サヨ」
三太はワラビが怯んで、にぎっていた手を離してしまうほどの大声でサヨの名を叫んだが、サヨの躰は二度と浮いてくることはなかった。
ふと気がつくと、草鳥はいつの間にか歌い終えていた。
―みごとだ―
彦一はそう言いかけて、止めた。今さらそのようなことを口にすることが、ひどく無粋に思われたのだ。
彼の閉じた目からは涙が溢れていた。
この上なく悲しい夢を見たはずだったが、彦一の心はどこか晴れやかだった。それは、むし暑い夏の夕暮れのにわか雨が時にひどく気分がいいのと似ていた。だが。
「わしはもう、弟子をとる気はない」
代わりに口をついて出た言葉がこれだった。
「さようでございますか」
草鳥はまるで抑揚のない声で応えた。それは「全てを知っている」とも「何も知らないが興味もない」とも受け取れた。
「わしはもう、長くはないのだ」
これは、誰にも言ったことのないことだった。
「さようでございますか」
草鳥が再び抑揚のない声でそう応えたので、彦一もそれ以上語ろうとはしなかった。
「もう一曲所望したい」
彦一はそれだけ言い、草鳥も何も語らずまた歌いだした。先ほどとは別の歌だった。うって変わった悲しげな旋律に屋敷は満たされ、彦一はまた、夢の中に入っていった。
三太は、窓のない狭い小屋に閉じ込められていた。
顔は熟れすぎた果物のように腫れあがり変色して、あちこちが裂けている。こうして生きているのが不思議なくらい、執拗で激しい折檻を受けたのだった。
食い物は一日一度だけ、椀に半分ほどの汁物が与えられた。だが三太は食わなかった。
「おい、強情をはっていつまでも食わねえでいると、死んじまうぜ」
ようやく声が出るようになったワラビが、精一杯虚勢を張って嗤ってみせるが、板戸のすき間から覗き込むその目は刺すようである。
―死ぬつもりさ―
三太は寝転がって、黙って天井をにらんでいる。
―サヨが死んじまった、おらが殺しちまったんだ―
サヨを突き飛ばして川に落としたのは自分だった。あの瞬間、ワラビが自分を斬り殺してくれた方が、どれだけ楽だったか。
「おい、三公、てめえ妙な虫けら飼ってやがったんだな」
次の朝、ワラビが板戸のすき間から、小さな籠を投げ込んできた。それは鈴虫の虫籠だった。
鈴虫はすでに死んでいた。
サヨと逃げるのに夢中で、籠から出してやるのを忘れていたのだ。
「てめえもその虫けらみてえに、カラカラに干からびて死んじまいな」
ワラビはいかにも愉快そうに、カカカと嗤い声をあげた。
三太は虫籠を両手に抱え、じっと中を覗き込んだ。
―こんなことなら女のところに逃がしてやるんだったな―
「おらがまんまやらなきゃ、おめえは死んじまうぞ」
不意にサヨの声が聞こえたような気がした。涙が止め処なくこぼれ落ちた。
―せめて今からでも出してやるか―
そういう三太もこの鈴虫とほとんど大差はない。五体には立って歩く力も残っていないのだ。
ようやく蓋を開け、中から鈴虫を取り出すと。
「あれ」
鈴虫の後ろ足が片方なくなっていた。
―ワラビのやつが乱暴にしやがるから、とれちまったか―
いや。よく見ると、なくなっているのは先っぽの半分ほどで、しかも折れたり千切れたりしたわけではないらしい。
―喰われたのか。他の虫にでも―
「喰ったのです」
不意に誰かが応えたような気がした。三太は思わず戸口を見たが、そこにワラビの気配はなかった。
―喰っただと。腹が減って、足を喰いながら生き延びたのか―
しかし声はそれきり聞こえてこなかった。優しげでありながら、胆の底に力のこもった声であった。
三太は鈴虫を置くと、憑かれたように汁の椀に這い寄って、一息に飲み干した。
―生きたい―
彼は心から思った。だが、すぐにむせて吐き出してしまった。
彼の胃の腑は、急激な異物の侵入を、すでに受け付けなくなっていたのである。
―サヨだって死んだと決まったわけじゃねえ。いや、きっと生きているような気がする―
むせにむせて、汁を全て吐き出してしまった。
―慌てるな、落ち着いてゆっくり飲めば―
三太が再び椀を口に近づけた時。
「ぐええ…」
今度はみぞおちのあたりを、誰かに思い切りにぎられたような痛みを感じた。先ほどむせたのとは、まるで異質な吐き気だった。
寒気がして、冷や汗でびっしょりになり、躰中がガタガタと震えだし、手足も痺れてきた。
朦朧とする意識の中で、三太は最初に吐いた汁に茸のかけらが混ざっているのを見つけた。
―やられた、殺された―
彼は理解した。恐らく先に死んでいった子供たちのほとんどが、こんな風に殺されたにちがいない。
殺すついでに、毒草や毒茸の効用を試されたのだ。
「生きたい、生きたい、生きたい」
三太は念仏のように呻いた。
―おらはまだ、なんにも歌ってねえ―
朝だというのにあたりが暗闇に変わり、そのうちぼんやりとも見えなくなっていった。
「わたしは、自分の足を喰いながら、歌い続けました」
草鳥はまた、いつの間にか歌い終わっていた。
「怨んでおるかね、わしを」
彦一は自分の頬をなでながら訊いた。
頬の痣は、見えなくなった目と引き換えのように消えていた。
結局見えなくなった目が元にもどることはなかったが、目だけですんだのは、むしろ僥倖といえた。もしも最初に飲み込んだ汁をむせて吐き出していなかったら、間違いなく命はなかったであろう。
草鳥は何も応えなかった。
「もっとも、わしもすぐにそちらに参るがな…藤里が、わしの脈を診て手を震わせておった」
藤里とは、彦一の弟子の中で最も脈診に優れた勾当だった。
「三太さまと過ごしたのは十日あまりでしたが、あなたさまはわたしに親切にしてくださいました」
「だが、本懐を遂げさせてはやらなんだ」
彦一は草鳥が少し笑ったように感じた。
「それはあなたさまとて、同じではございませぬか」
「なんだと」
「あなたさまは今でもサヨさまのことをお忘れになっておられません」
彦一は鼻先で嗤った。
「嫁も側室もいるわしが、死んだ女子のことなど…」
「本当に死んだとお思いですか」
今度は彦一が応えなかった。
確かに彦一はあの時以来、心のどこかに淡い希を持っているようなところがあった。
現にあの直後に里の捕吏がきて、天狗を追い散らしてくれたのは、サヨがなんらかの方法で助かって、里の者に報せてくれたためと思えなくもないのだ。
「だからどうだというのだ。仮にサヨが生きておったとして、わしになにをしろというのか」
「もったいのうございます」
「なにがだ」
「あなたさまには天賦の才がございました」
「そうだ」
彦一は見えぬ目で、雲の峰でも見上げるように天を仰いだ。
「歌も演奏も、曲の手付けも、わしは誰にも負け…」
いや。
―負けたのだ―
それは、この夏の演奏会だった。
勝ち負けを競う会ではなかったが、金崎匂当の演奏に彦一ははっきりと嫉妬を感じたのである。
金崎の縦横無尽な即興演奏に聴衆は水をうったように静まりかえり、やがてあちらこちらから、すすり泣く声が聞こえてきた。
―三位の…下位の匂当ごときにこのわしが―
彦一はその日の屈辱を思い、奥歯を鳴らした。
当道座の官位は上から検校、別当、匂当、座頭と分けられていたが、それぞれの位の中でも細かく分かれていて、全部で七十三の位があった。
金崎が当道座に入ったのは、彦一より三年ほど遅いだけだったが、出世のために謀略や賂などあらゆる手をつくした彦一にくらべ金崎の出世はずっと遅かったのである。
「金崎め、わしに残り飯を食わされた恨みに当てつけがましいことをしおって」
当道座の位の上下の序列はきわめて厳しかったというが、特に彦一は、この金崎とは若いころから馬が合わず、なにかにつけていじめてきたのだった。
「本当にそうお思いですか」
「なに」
「本当に、ただの恨みだけで、あのような融通無碍の演奏が叶うと思っていらっしゃるのですか」
彦一は犬のように「くう」と唸って黙り込むしかなかった。
顔や姿は見えなくとも、彦一にははっきりと解っていた。何事にもとらわれぬ心の自由なくして、あのような演奏ができるはずなどない、まして怨みや妬みなど論外である。
あの日の金崎は、ただ手下の筝を愛しみ遊び、無心に演奏を楽しんでいたにすぎなかったのだ。
「あなたさまは、大変ご出世なさいました」
「だがとうとう惣検校にはなれなんだ」
彦一は常にもなく、力なくそう言って肩を落とした。
「帝や将軍家に憶えめでたき曲をいくつもお作りになりましたものを」
草鳥は、はっきりと笑いを含んだ声でそう言った。
「それが悪いか」
彦一は声を荒げてから、自分に言いきかせるように続けた。
「確かにわしは武士や公家どもにおもねるような曲ばかり書いたさ。だが筝も地歌も、しょせんやつらに気に入られなければ屁の音と同じことよ、気に入られるために工夫して、なにが悪いか」
「ですがあなたさまは羨んでおられる」
「なにをだ」
「出世の遅い金崎さまの演奏でございます」
「なんだと」
彦一は本気で怒ったらしく、杖を持って膝を立てた。
「わたしはあの時、まだ見たこともない女のために歌い続けました…結局それは叶わず、女はついに現われませんでしたが、それでもわたしは自分の躰を喰ろうてでも歌い上げました、ですがあなたさまは今尚ご自分の心を歌っておられません、ご自身の死期が迫られた今、今度こそ、次の江島こそサヨさまのために歌ってさし上げなされませ」
―江島―
それは竪川の向こう岸の、江島弁天で五日後に開かれる秋の演奏会のことであった。
しかも彦一は、この演奏会で再び金崎と顔を合わせることになっているのだった。
―また、夏のあの時のような恥をかかされるのか…いや―
命旦夕とせまっている今、そんなことは最早どうでもよかった。
―ただ一度、ただ一度でよい、あの時の金崎のように無心の演奏がわしにもできぬものか―
彦一は、はっ、と顔を上げた。自分でも驚いていた。今の今まで楽器演奏など、出世のためにすがりつかんだ蔓くらいにしか考えていないはずだったのだ。
歌や楽器演奏のために授かった天賦の才などは、この見えぬ目や不幸な生い立ちと引き換えに、神や仏が気まぐれに勝手に施した偽善的で恩着せがましい、けれんの道化芝居のようなものと考えていたのである。
―おらはまだ、なんにも歌ってねえ…か―
「わたしは自分の肉を喰ろうて歌いました」
草鳥は先ほどまでより一段低い声でゆっくりと言った。
「ですが、今までのあなたさまは、ご自分の心を喰ろうて歌っておられたのです」
それきり草鳥は、二度と口を開かなかった。
草鳥がいつの間に立ち去ったのか、彦一にも判らなかったが、彦一も押し黙ったきりなにも言わなかった。
そんな彦一の姿は、傍目には、暗闇で鈴虫の音に耳を澄ませていた強面な盲人が、独り暗闇でふわりと微笑んだようにも見えたのだという。
了
検校と鈴虫
読んでくださった方、ありがとうございます。
自分としては、よい出来だと思っていますが、とにかく人気がなくて困ってます。
そのため、当初予定していた長編の方は、まだちょっと書く気力が湧いてきません。
いつになったら書きあがるのか、今のところ未定です。