奇想短篇小説『オランウータン』
「馬が歌を歌うことを覚えないとは言い切れないでしょう」
(L・ニーヴン& J・パーネル『神の目の小さな塵』)
「おい、そこのにいちゃん。ちょっと待ちいな、ちょっと。わしの声聞こえとるやろ?」
後ろからそう言う声が聞こえてきたので、僕は声のする方へ振り返った。そこは〝オランウータンの森〟という室内展示コーナーだった。分厚いガラス窓の向こうには体育座りのオランウータンがいた。
「そう、あんたや、あんた。そうそう。いや、無視すんなや。いま目がばっちり合うたやん。ちょっとこっちきてえな。ちょっとでええから、な、頼むわ」
ずいぶんとしつこいので、僕は嫌々そのオランウータンの前まで行くことにした。
「来ましたけど」
「そんな怖い顔せんでもええやん」
「何か用ですか?」
「何か用ですかて。用とかそういうのは特にないんやけど。いや、な、見てのとおり、わし暇やねん」
「用がないなら僕はもう行きます」
「ちょっと待ちいな、な、そんないけずなこと言わんとってくれや。こうやって展示のとこにおるんもけっこうしんどいもんなんよ。ちょっとにいちゃん考えてみ。知らんおっさんとかおばはんとか、うっさいガキとかに四六時中わーわー言われて、そんでまっずいめし食わされてよ。ここは刑務所かて。わし何か悪いことしたんか。わしは好きでここに来たんとちゃうねん。わしがガキの頃に仲の良いツレたちと近所の森で石とかそういうもんで遊んどったら、知らんおっさんらにいきなり捕まえられて、そんで気いついたらここよ。ほんまに訳わからんわ。たまったもんちゃうわ。それになんでわしやねん。わしよりもっと活きのええもんもようさんおったんに。そんなんありかなしかで言うたらなしやろ? な? そう思わんか? なあ、にいちゃん、あんな、こっちは一生懸命しゃべっとるんやで、黙っとらんとなんか言うたらどうや。うんうんとかそういう相槌みたいなんでええねん。それもないとわしがただガラス窓に向かって話しとるだけで、アホ丸出しやないか。会話はキャッチボールや、キャッチボール。わかるか? まあ、本物のキャッチボールなんてやったことないんやけどな」
やたらと口数の多いオランウータンだな(オランウータンという種族はみんなおしゃべりなのかもしれない)と僕は思ったが、喋っている最中のオランウータンの口はまったく動いていなかった。ということは、これはひょっとするとテレパシーみたいなものなのかもしれない。あるいは単純に僕の頭がイッてしまったのか。いずれにしてもこれは子どものころによくビデオで観ていたエディー・マーフィーの映画みたいだな。けれども、僕はエディー・マーフィーでもないし天才獣医でもない。僕はつい先日仕事を辞めたばかりのただの男だ。辞めたのにはいろいろと理由がある。だから気分転換にひとりでこの動物園に来ただけだ。彼女でもいればよかったのだけど、残念ながら僕の目の前にいるのはおしゃべりなオランウータンだけだ。
僕は他の動物たちとも話せるのかもしれないと思い、オランウータンを無視してその展示コーナーから立ち去ろうとしたらオランウータンがこう言った。
「にいちゃん、他の動物とも話せると思っとるやろ? けどな、それは甘いで。かき氷のシロップくらい甘々やで。他のはわしほど賢くないで。オランウータンはな、動物の中でいちばん人間に近いんや。森の人て聞いたことあるやろ? やでこうやってわしはにいちゃんと話せるんや。やけども、オランウータンの中でもわしみたいに人間と話せる奴とそうでない奴がおる。そんで人間の中にも、にいちゃんみたいにわしらと話せる奴と話せやん奴がおる。そういうことや。やで、他んとこ行っても話せへんで。象とか鰐とかカンガルーとか、あのへんはみんなアホやでな。いや、象はわりといけるかもしれん。わしはあいつら好きや。まあ、まだ半信半疑やと思うで、いっぺん他んとこ行ってきてみ。そんでまたわしんとこ戻ってこい。待っとるわ」
僕はまずキリンのところへ行った。大きいキリンと小さいキリンが並んで、黒い舌で器用に高い木の葉っぱを食べていた。僕はその二頭のキリンに向かって頭の中で話しかけてみた。おい、キリン。キリン。キリンさん。キリンさんたち。葉っぱはおいしい? おいしいですか? 聞こえる? 聞こえていますか? 敬語のほうがいいのか。
キリンたちの返事がなかったので僕はそのまま白熊のところへ行った。白熊は氷山を模した山の平らなところで蹲っていた。白熊。白熊さん。ちょっといいですか? 聞こえますか? 聞こえていたら返事をください。返事が無理なら何かサインをください。あの、起きてますか? ダメですか? 聞こえていないようだった。
僕は次にオランウータンが好きと言っていた象のところへ行った。だだっ広い敷地に二頭の象がいた。象たちは何をするともなくただ敷地内をうろうろと周回していた。象さんたち。すみません。ちょっといいですか? すると象たちが足を止めた。象たちは横を向いたまま右目でこちらをじっと見ていた。見ているような気がした。ひょっとすると僕の声が聞こえているのかもしれない。お楽しみのところお邪魔してすみません。あの、僕の声が聞こえま、象たちはまた周回を始めた。
僕はあきらめてオランウータンのところへ戻ることにした。
「お、来よった来よった。どうやった? あかなんだやろ? え? やっぱりな。わしが言うたとおりや。ちょっとにいちゃん、そんなしょげた顔せんといてや。わしと喋るんがそんに嫌なんか? いくらオランウータン相手やからって冗談きついで。ふつうに傷つくわ。けどええやないか、わしと喋れるだけ。な? そう思わんか? わしはにいちゃんと喋れて楽しいで」
たしかにこのオランウータンの言う通りかもしれない。それがいくらおしゃべりで鬱陶しいオランウータンでも、動物とこうやって会話をするというのはなかなかできることではない。そこで僕はどうしても気になっていたことをオランウータンに聞いてみることにした。
「あの、オランウータンさん。オランウータンさんでいいですか?」
「なんでもええで。にいちゃんが呼びたいように呼んでくれれば。正直、わしらオランウータンからしたら名前なんてどうでもええねん。人間が勝手に付けとるだけやから。それと、あのー、あれ。パンダのネーミングセンスさ、あれどうなっとるん? ランランとかシャンシャンとか。あれやめへん? もうやめようや。やめたってよ。なんか同じ動物としてかわいそうやわ、知らんけど」
僕は展示コーナーの右側にある動物紹介のプレートに目を向けた。そこには〝フトシ♂〟と書かれていた。
「フトシさんのほうがいいですか?」
「それだけはほんまに勘弁して。ふつうオランウータンにフトシて名前付けるか? どんな神経しとんねん。信じられへんわ。フトシて呼ばれても、そんなもんほとんど無視やわ。やで、オランウータンさんでよろしく頼むわ」
フトシがそんなに嫌なのか。
「わかりました。さっきから気になっていたんですが、オランウータンさんはなぜ関西弁を話せるんですか?」
「聞かれると思たわ。あんな、たいした理由はないんやけど、わしの飼育員が三重出身の男でな、そいつが関西弁で話しかけてくんねん、ずっと。そんで気いついたらこのとおりや。三重やでそこまで関西色は強くないらしいんやけど、にいちゃんからしたらそんなもんわからへんよな。ほんでな、不思議っちゅうか残念っちゅうか、その飼育員、西川っちゅう男なんやけど、わしの声ぜんぜん聞こえてへんねん。なんか皮肉やろ? 西川と話せたらもうちょいこの生活も楽しなるかなとか思うんやけど、話せへんほうがかえってよかったりもするしなあ、とかな。まあ、いろいろあんねん。けど、西川はええ奴や。しっかり面倒見てくれるでな」
「なるほど。そういうことだったんですね」それから僕はオランウータンの後ろにある森を見てからこう言った「オランウータンさんはこの場所でおひとりですか? 他のオランウータンはいないんですか?」
「そう。そうなんよ。わしひとりなんよ。二年くらい前にな、先輩が死んでもうてん、老衰で。あのじいさんだいぶ長生きしよったわ。最後はええ顔しとった。静かに寝とるわ、て思てなんとなく顔に耳近づけたら息してなかったんよ。死ぬんて寝るのと変わらへんもんなんやな、てそのとき思たわ。それから、これは西川から聞いたんやけど、インドネシアから新人が一匹来る予定やったらしいんやけど、なんやかんやあって、そいつがなんか空気銃で七十発ぐらい撃たれてもうてんて。死にはせんかったけど、重症らしいわ。そりゃそうやわな。七十発やで? 撃ちすぎやろ。人間っちゅうのはほんまにおっそろしいわ。まあそういうわけで、しばらくはわしひとりや。楽しみにしとったんやけどな、残念や」
七十発も?ロボコップみたいだなと僕は思った。とにかく無事ならよかった。
「無事ならよかったですね。それじゃあ、僕はそろそろ帰ります」
「そうかそうか。にいちゃん、今日は話聞いてくれてありがとうな。楽しかったわ。また来てや。悩みとかあればいくらでも聞いたるで。ほな、元気でな」
それから僕は再就職のためにいろいろと忙しくしていた。翻訳事務所の面接を三社受けたが、残念ながらどれもダメだった。
ある日、四社目の面接が終わって、地下鉄に乗ろうと駅に向かっていたら、そこには動物園があった。その時に僕はあのおしゃべりなオランウータンのことを思い出した。あのオランウータンに会ったのは、たしか二ヵ月くらい前のことだ。閉園時間に近かったが、僕は行ってみることにした。
〝オランウータンの森〟のガラス窓の向こうには体育座りのオランウータンが二匹いた。この前の時から一匹増えたようだった。
「おお! にいちゃん! 久しぶりやないかい! 元気にしとったか?」とフトシが僕のことにすぐ気がついた。
それから僕がフトシの横にいるオランウータンを見ると「ああ、この子やろ? そう、ひと月前くらいにここに来てん。めっちゃかわええやろ? な?」とフトシが自慢げに言った。
二匹のオランウータンの見た目はほとんど同じだったが、フトシの横にいるオランウータンの頭には小さな赤いリボンが付いていた。すると赤いリボンのオランウータンが僕に話しかけてきた。
「Hi, how are you?」
流暢な英語だった。
「I, I...am good」と僕は驚きながら答えた。
「お、にいちゃん英語できるんか。わしはまったく無理や。ゼロや、ゼロ。やでこの子が言うとることさっぱりわからへん。けどな、なんとなくわかるところもあんねん。めっちゃええ子やで。仲良くしたってな」と言いながらフトシは彼女の肩をポンとたたいた。
「How are you doing?」と僕は彼女に尋ねた。
「Pretty good. I'm Emma」とエマさんが元気に答えた。
「そうそう、この子エマちゃん言うねん、ええ子やろ? 外人さんに育てられたみたいやねん。あ、そうや、にいちゃん。ごめんやけど、エマちゃんにその赤のリボン似合っとるよって言ってくれやんかな? 英語で」
「He said you look great in that red ribbon」と僕はすぐに訳した。
「Really? Thank you, Futoshi! But...actually, I'm sick of this ribbon. But please don't tell him about it. OK?」とエマさんが僕に頼んできた。
「OK. I won't」と僕はエマさんが実は赤いリボンを気に入っていないことを言わない約束をした。「オランウータンさん。エマさんが、ありがとう、フトシさんは優しいのね、と言ってます」と僕は良い部分だけをフトシに伝えた。
「そうかそうか。でもなんかあんま喜んでない感じやったけど、大丈夫か?」とフトシは少し疑った。
「エマさんがあんまりオスに褒められたことがないみたいで照れてるだけですよ」と僕は二人のために嘘をついた。オランウータンも人間と同じように、関係性をある程度良好に保つには多かれ少なかれ嘘をつく必要があるみたいだ。
「それならええんやけど」と言いながらフトシがぎこちない笑顔をエマさんに向けた。
すると、天井にあるスピーカーから閉園を知らせるアナウンスと『蛍の光』が聞こえてきた。
「とにかくまあ、今日は来てくれてありがとうな、にいちゃん。そんじゃ、これからエマちゃんとお楽しみタイムやで、このへんで失礼するわ。ほな、にいちゃんも元気でな」とフトシはエマさんの手を引いて後ろの森の中へと入っていった。
あれから十年ほどが経過し、僕は自分で立ち上げた小さな翻訳事務所を経営しながら、妻と二人の娘と一匹の犬を養う父親になっていた。
小さいほうの娘が動物図鑑にはまっていたので、休日に家族みんなで動物園に出かけることになった。
休日の動物園は家族連れやカップルで賑わっていた。園内の大きな池にはスワンボートが浮かび、頭上には静かな音でモノレールが走っていた。池の近くのフードワゴンの前を通ると、娘たちがアメリカンドッグを食べたがったので、妻に許可を得てから、二人にアメリカンドッグを買ってあげた。それから僕はうず巻状のフライドポテトのLサイズを買って、妻と分け合うことにした。
僕は少し疲れたからベンチで休むよ、と妻に伝えた。一時間後にここでね、と妻は言って娘たちを連れて園内を周りに行った。
僕は十五分くらいベンチで休んでから、ふらふらと園内を歩いていると〝オランウータンの森〟という看板が目に入った。ああ、そうだった。ここはオランウータンのフトシとエマさんがいる動物園だ。けれども、最後に会ったのはもうかれこれ十年くらい前のことだし、オランウータンがどれくらい長生きするのかはわからないけど、もしかすると二人とももう亡くなっているかもしれない。
〝オランウータンの森〟の内装は昔とまったく変わっていなかった。天井のスピーカー、分厚いガラス窓、動物紹介のプレート。
いや、動物紹介のプレートだけが違っているように見えた。それは以前よりも少しだけ長くなっているようだった。そこには〝フトシ♂〟〝エマ♀〟〝リア♀〟と書かれていた。フトシもエマさんもどうやら生きていて、そしてリアというオランウータンが一匹増えているようだった。
しかし、ガラス窓の向こうには三匹の姿は見えなかった。後ろにある森の中にいるのだろうか。僕は姿の見えない彼らに語りかけてみた。
「オランウータンさん、エマさん。聞こえますか? お元気ですか?」
少しして、森の奥から一匹の年老いたオランウータンがゆっくりと出てきた。
「なんや、あんたか。久しぶりやな」
それはフトシだった。
「にいちゃん。いや、もう立派なおっさんやな、あんたも。わしはこのとおりただの老いぼれになってもうたわ。けどな、子どもできたんよ。エマちゃんとの。今でもエマちゃんて呼んどるで、わしは」と言ってから「エマちゃん、リア、ちょっとこっち来てくれ」とフトシが後ろにある森に向かって呼びかけた。
エマさんと子どものリアちゃんが手をつないで森から出てきた。
「あら、お兄さん、元気しとった?」とエマさんが言った。エマさんも関西弁になっていた。
「はい。今日は妻と二人の娘も一緒に連れてきました。今は園内のどこかでぶらぶらしていると思います。それにしても、お二人ともお元気そうでなによりです。それにリアちゃんもかわいいですね」と僕は少しかがんでリアちゃんに目線を合わせた。
「リア、このお兄さんにご挨拶は?」とエマさんが優しくリアちゃんを促した。「すいませんね、お兄さん。この子、人と話すのはこれが初めてなもんで、ちょっと緊張しとるみたい」
「全然かまいませんよ。うちの下の娘もちょうどリアちゃんくらいの年で、恥ずかしがり屋ですから。よろしくね、リアちゃん」と僕はなるべく柔らかく言った。
すると、僕の妻と娘たちが〝オランウータンの森〟に入ってきた。
「ちょっと、こんなところで何してるのよ」と妻が言った。
「いや、なんとなくオランウータンでも見ようかなって思ってさ」と僕は適当に言って、下の娘に「ほら、この子どものオランウータンにご挨拶は?」と促した。
「こんにちは」とリアちゃんが先に口を動かさずに言った。
「はじめまして」と下の娘が頭の中で言った。
奇想短篇小説『オランウータン』