エイミー 〜スクールカウンセラーと多重人格生徒の連続殺人計画〜

松井 理以

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主な登場人物
マツダ…スクールカウンセラー
エイミー(A)…臆病ないじめられっ子。主人格
B…暴力的な殺人鬼の人格。マツダを連続殺人計画に引き入れる
C…穏やかでミステリアスな人格
D…気の強い娼婦の人格
E…赤ん坊の人格



加害者と被害者の対話プログラムは完全に失敗した。笑ってしまうぐらい私の想像通りに。当たり前よ。初めからこんなの、上手くいくはずがないと分かっていた。あのハゲた校長の馬鹿馬鹿しい思いつきに付き合わされるのはこれで最後であることを願わずにはいられない。
ここは学校のカウンセリングルームだ。
むやみに大きい音を立てる壁掛け時計の音を聞きながら、私は目の前に坐る対照的な二人に目を向けた。
 私から見て左に座っているのがエイミー、右に座っているのがジェニー。エイミーは両手の拳を握りしめて膝の上にのせ、ひたすら怯えた様子で私とジェニーと床の順番でせわしなく視線を彷徨わせている。一方ジェニーはくっちゃくちゃと大きな音を立ててガムを噛みながら、椅子の背もたれに限界まで寄りかかっており、その顎はつんと生意気に持ち上がっている。
 「ねー、これって時間の無駄じゃないですか?」ジェニーはガムの噛み音の中に言葉を混ぜるようにして言った。「本人もあんまり話したくないみたいだし。あたしもう帰ってもいいですか?」
 「もう少し我慢してね、ジェニー」
 私は彼女を窘めた。ジェニーの気持ちはわかる。こんな無意味な対話なんてさっさと終わらせて家に帰りたいのは私だって同じ。だが、私の場合、立場というものがある。だから何らかの“成果”と言える言質を取らない限り――最悪でも、これをきちんと行ったと言えるだけの時間を続けない限り、これを終わらせるわけにはいかない。五分、いや三分で会話が終わってしまったとあっては、校長に報告が出来なくなる。校長は時代遅れの性差別主義者だから、ただでさえ私の仕事に何かとけちをつけたくて仕方がない。私が有能でないと思わせる証拠を彼にこれ以上渡すのは嫌だった。
 私は今度はおどおどした方の女生徒に目を向けた。
 「エイミー、もう一度聞くわよ。あなたとジェニーが長い間あまり良くない関係だったことは生徒たちの話でもう分かっているの」
 マイルドな分、曖昧な言い方になった。あなたはジェニーとその取り巻きにいじめられていたわね、とは流石に言えない。
「ジェニーにされたことの中で、嫌だったこともあるわよね。ジェニーに対してどういう気持ちを持っているのか、あなたの気持ちを率直に話してもらえない?」
「その……さっきも、言った通りです…」エイミーの蚊の鳴くような声。「特に気にしていないですし、これからそういうことをやめてもらえればいいだけで……私の方は、別に何も言うことは……」
 声を出すだけで緊張するのか、喋り出すのと同時に目がきょときょとと泳いだ。私の頰の筋肉が皮肉っぽい笑顔を作る。『エイミー』だって分かっていない筈はあるまい。ジェニーは更生のしようもない根っからのいじめっ子で、気の弱いエイミーはその格好の獲物だということ。ここでどんな会話をしようが、明日からもエイミーはずっといじめられ続けるのだということ。弱いものは強いものに食い物にされるほかないのだということ……。
『我が校はいじめを決して許さないし、万一起きてしまったならばその後のケアも怠らない』
頭の中にあの禿げた校長の声が響いてきた。
 『いじめの加害者には罪を認めて謝罪し、自分の行動を反省する機会を与える。被害者には赦しの大切さを教える。加害者と被害者が対話をしてお互いの心をぶつけあう方法論は、犯罪心理学でも一定の成果を上げているんだ。高校にこのプログラムを導入するのは我が校がはじめてだがね』
 演説じみた言い方で自分に酔っていた校長の顔が浮かんできて、重いため息が出かかる。ああ、いけない。ため息はまだだめ。今はまだ仕事中だった。私は慌ててため息を押し戻して口を開く。
 「ジェニー、それを聞いてどう思った?」
 ジェニーは肩をすくめる。
 「知らないよ。っていうか何も言うことない」
そうなのだ。このいじめっ子は、そもそも自分がいじめたことを認めていない。だから、『加害者と被害者の対話』なんていうのは、スタートする前からそもそも成立していない。ジェニーは下手な発言で自分の立場を危うくするのを恐れ、口をつぐんでいる。しかしの目は警戒するように真っ直ぐ私に向けられており、その抜け目ない輝きは狡猾なハイエナを連想させた。
 「私がやったことはいじめなんかじゃないんですよ。ちょっとからかうつもりだったんです。仲が良い友達同士でからかうみたいなもので」
 「じゃあエイミーとあなたは仲がいいの? 私にはそうは思えない。残念だけどその言い分は通らないわよ」
 静かな声で告げると、ジェニーの顔がみるみるうちに歪んでいく。『先生』の前でかろうじてかかっていた仮面が今にも本性に破られそうになっている、ギリギリの表情がのぞく。
 「……でもさあ、こいつにも問題あるって思いませんか?」
 ジェニーはかろうじて言葉を絞り出した。その指はエイミーを指している。
 「ちょっとからかっただけなのに、異常なぐらい――それこそ赤ん坊みたいに泣き叫ぶんですよ。かと思えば、何を話しかけても聞こえないみたいに無視してくる時もあるし。まあ一言でいうと意味不明なんです」
 エイミーは下を向いたまま黙っている。
 「先生はエイミーを可哀想な被害者としか思ってないんでしょうけど、そんなに単純なものじゃないですよ。コイツがオヤジたち相手にウリしてるって噂聞いたことあります?」
 ジェニーは下卑た笑みを浮かべた。その噂は私も聞いたことがある。が、私は黙って首を振った。
 「ないわ。それにその噂が真実だとしても、この話し合いには関係のないことよ」
 「おい、エイミー! ずっとだまってないで、何とか言いなよ! いつも被害者ぶりっ子して、裏じゃ悪いことやりまくってるくせに」
 「…そんなっ……そんなことないのに……!」
 ジェニーは鼻で笑った。
 「とんでもねえ嘘つき野郎だよ、コイツは。よくこんな被害者ヅラ出来るよねえ」
 「うううっ」
 急に耳をつんざくような泣き声が部屋中に響き渡った。エイミーが大声で泣き始めたのだ。私は狼狽えた。
 「うっ……うう……ひどいよ…………」
 「エイミー、落ち着いて……」
 私が肩に手をかけて慰めても、エイミーは一向に泣き止まなかった。それどころか、どんどんひどくなっている。これは弱った。エイミーの泣き声はヒステリックになっていく。なんとか宥めようとするが、私の言葉が通じていないようにすら感じる。
 「うわぁ、やっぱイカれてんな、こいつ」ジェニーは半笑いで私を見た。「先生も分かったでしょ? あたしは悪くないんだって。おかしいのはコイツの方だもん」
 エイミー。気が弱くて、いじめられ易い性格の子だとは思っていたが、どうやら精神的にもかなり不安定な所があるようだ。この泣き叫び方は正常ではない。
 エイミー。そういえば、彼女は家庭に問題があるという噂を他の教職員からも聞いたことがある。ジェニーの言っていた“ウリ”の噂も何度も聞いたことがある。この子の性格からしてそんなことが出来るはずがない、いじめっ子たちが流した嘘に違いないとたかをくくっていたが……。
 エイミー……。
 「エイミー、落ち着いて、泣き止んでちょうだい。この部屋で話したことは誰にも口外しないから、もし何か言いたいことがあるなら、勇気を出して……」
 私はエイミーの座る椅子の目の前にまでいって屈んだ。それこそ赤ん坊を宥めるように、努めて優しい声を出してやる。するとエイミーが急に顔を上げた。
 私はどきりとした。エイミーは別人のように毅然とした表情をしていた。涙に濡れた目が強い光を宿している。
 「言いたいこと? そんなもん、あるわけねえよ」
 男のような口調だった。まるでいつものエイミーらしくない。エイミーは唖然とする私の前で音もなく立ち上がった。
 「言葉で解決なんかできるもんか。何かを変えたいなら、行動しなきゃな」
 屈んだままの私の前で、エイミーの小柄な体は奇妙なほど大きく見えた。彼女は私の背中側の本棚へつかつかと歩いて行くと、分厚い心理学用語辞典を片手に取った。
 そこから助走をつけこちらに走ってくる、そして目にも止まらぬ速さでジェニーの後頭部に辞典を思い切り振り下ろした!
 「ぐえっ!」
 ジェニーは鈍い床に転がった。倒れる寸前の彼女の目に浮かんでいたのは私の表情と全く同じ、驚愕の一色だった。
 「これはいつものお返しだ」
 「なっ、お前、なに……!?」
床に倒れ込んだジェニーはよろよろと顔を上げた。彼女に似合わない弱気な表情がそこにあった。
「食らえっ! 食らえっ! 食らえっ! 食らえっ!」
エイミーは辞典をもう一度持ち上げた。迷いのない動きで、素早く、数回辞典をジェニーの頭に叩き込んだ。「ぐぇっ」「あぐっ」何かがひしゃげるような鈍い音が連続して響いた。それを追いかけるようにジェニーの呻きが続く。それが10回ほど繰り返された後、ぴくりとも動かなくなった。
 ……死んだ?
 死んだ。
 今、目の前で、人が、私の生徒が、死んだ。
 「え……?」
 私は腰が抜けて動けなかった。私の生徒が私の生徒を殺すのを、なにも出来ずに見ていた。
 エイミーは初めて私がここにいたことに気が付いたように、こちらを振り返った。
 「ひっ……!」
 戦慄した。私はじりじりと抜けた腰を引きずって後退った。無感情な目がこの私を捉えている。体の震えが止められなかった。エイミー……この子供は完全に狂っている。今、躊躇いもなく人を殺した。次は口封じのために私が殺されるのだろうか。
 嫌だ。死にたくない。まだ死にたくない。
 心臓がうるさいほどの音を立てている。
 「おう、お前………」
 流石に疲れたのか、エイミーの息が軽く上がっている。
 「俺一人だと大変だから、ちょっと手伝えよ」
 意外な言葉が出た。手伝う?
 「何を……?」
私は震える唇をぎこちなく動かした。みっともないほど恐怖まみれの声だった。エイミーは重苦しいこの場に似つかわしくない、極めて軽い口調で言った。
 「死体の処理に決まってんだろ」



 Bに会ったのは人生に疲れ果てていた時だった。本当にこれ以上はもう無理だと思った時、Bは私の前に現れた。
 いや、これ以上はもう無理だと思った時と言ったけれど、よく考えてみると、私は何年ももう無理だと思い続けていたのかもしれない。10年ぐらい前からかしら…? 10年前といえば結婚生活が始まった頃だから、そんなものじゃない。結婚生活は地獄そのものだけど、この人生がくだらないのはもっと前からだ。では20年前ぐらいから…?
 学生だった頃の私の姿が浮かんでくる。私は本を読むのが大好きな、地味そのものの学生だった。社交的なタイプではなかったから当然いじめられた。エイミーはかなりひどいいじめを受けているけれど、私が受けたいじめだって負けず劣らず酷かった。女子グループから私の着ている服がいかにダサいか、頭からつま先まで丁寧に大声で解説された。根も葉もない噂を流された。悪口なんかは日常茶飯事だ。
 要するに、いつの時代も変わらないわけよね。弱い奴は強い者に食い物にされるっていう構図は。
 そう考えるともういつからこれほど疲れていたのかも覚えていない。だって私は生まれた時から弱かったわけだから。私は女で、有色人種で、性格もおとなしい。取り立てて頭がいいわけでもない。どう転んだって勝ち組にはなれないわよね。ええ。この人生、疲れていなかった時などなかったわ。それを彼が変えた。良い方向にか、悪い方向にかは分からないけれど、私の人生はあの時に変わった。そしてあの時から始まった。それだけは間違いない。



エイミー。
可哀想なエイミー。
皺が目尻に寄っている。私はこうして出勤前に化粧をする時も彼女のことを考えざるを得なかった。もううんざりする、家にいる時まで仕事のことを考えなくちゃならないなんて。
エイミーが入学してから、彼女がいつもこんな風に頭をよぎっていく。
エイミー。
 あの気弱な、見る者を苛々させる、小柄な少女。典型的ないじめられっ子。
一階のキッチンに下りていくと、すでにコーヒーの匂いが充満していた。
 「おはよう」
 新聞を読んでる夫に声をかける。夫はちらと私を見た後、何も言わずに時計に目を移した。
 「もう少し早く起きて朝ご飯を作ってほしいんだが。私がどれだけ忙しいかは知っているだろう」
 私だって働いているのよ。わざわざ私が作るのを馬鹿みたいに待っていないで、シリアルでも何でも食べればいいじゃない。今まで何度も飲み込んできた言葉を今日も飲み込んで、
 「卵はどうする? ゆで卵? スクランブル?」
 といつもの質問をした。
 「スクランブルにしてくれ」
……急いでいる割には、手間がかかる方の料理法を選んでくれるわけね。まあ、それはそうか。ゆで卵の作り方もスクランブルエッグの作り方も、どうせ同じようなもんだと思ってるんだろうし。自分で作ったことなんかないものね。自分の為に作っている気持ちなんて考える気がまるでない。昨日の夜何故私が遅く起きてきたのか、どれほど職場でストレスを抱えているかも、想像すらする気がないでしょうね。
朝からため息が止まらなかった。夫に朝食を用意した後、重苦しい気持ちで学校へ向かうと、校門近くでエイミーがジェニー達いじめっ子軍団に捕まっているのが見えた。私は見なかったことにして学校の中に入る。
 エイミー。非力なエイミー。可哀想なエイミー。
 もちろん、彼女を助けに行くなんてことはしない。仕事を増やしたくないから。それに厳しいこの世界では助けが与えられることなんてないのだから、彼女だってそれを早めに悟らなくてはならないのだ。
 私の仕事はこういういじめられっ子が我慢できなくなった時にカウンセリングをすること。話を聞いて心を軽くしてあげること。それ以外はなにも出来ないし、出来たとしてもするつもりはない。とはいえ、エイミーのことは少し気になるけどね。だって彼女は私と同じだから。
 廊下で校長とすれ違った。無視するわけにもいかず、造り笑顔で挨拶する。
 「校長、おはようございます」
 「マツダ先生、今日は少し疲れた顔をしていますね」
 心配するような声を出しているが、十中八九イヤミのつもりで言っているのだろう。エイミーにとってはジェニーが、私にとってはこのハゲたオヤジがいじめっ子だ。
 「ええ、最近少し寝不足で……」
 「それはいけませんなあ。先生には頑張ってもらわないと。例の加害者と被害者の対話プログラムもありますし」
 「はあ……」
 私がそのプログラムの導入に職員会議で散々反対して来たことを憶えていないはずがないのに、こういう嫌味ったらしい言い方をする。つくづく嫌な男だ。この男の良いところを挙げろと言われても、私は一つも思い浮かべられない。
 校長は私の反応が薄いのを見て不満そうに言った。
 「マツダ先生はお若いのに挑戦に消極的ですからなあ……まあ、女性にはこういった教育にかける情熱は分からないかもしれませんがな」
 私は微笑した。大人の攻撃は子供のいじめのように体への攻撃や暴言などの分かりやすい形を取らない。誰だって職場にトラブルが起きることは望んでいないからだ。そのかわり、言葉の端にこういうチクリとした毒を忍ばせる形で行われる。
 校長は性差別主義者だ。もちろん、この学校の職員の過半数が男性であること、職員会議では男性の意見ばかりが尊重されることと無関係ではない。
 校長に別れを言って、ふと窓の外を見ると、またエイミーが見えた。ようやくいじめっ子たちから解放されたようだが、顔は暗いままだ。世界の不幸を全て背負ったみたいな悲愴な顔をしている。
 エイミーを初めて見た時に思ったことを今でも覚えている。
 “可哀想な子”
 見ただけで分かる、生まれついての負け犬。
 あのねエイミー、あなたは負け犬なのよ。そしてこれからもずっとあなたは負け犬。きっと、卒業してからもね。私にはよく分かるわ。可哀想な子。
「マツダ先生」
 かわいそうなエイミー。
 かわいそうなエイミー。
「マツダ先生!」
 私を呼ぶ声がした。自分が呼ばれているとは気がつかなかった。
 振り返ると、女生徒がいた。眼鏡をかけた成績優秀そうな風貌の生徒だ。何度か進路について相談をされたことがある。名前は忘れた。私は作り笑いを浮かべた。
「ああ、こんにちは。……ごめんなさいね、ちょっとぼーっとしていて」
「いえ。この間は、ありがとうございました。進路の件、話を聞いてもらったら楽になったので」
「まあ、それは良かった」
「また伺います」
「待っているわ」
 女生徒を見送った後、ふっとため息をつく。
 廊下を歩きながら私は思った。私はなぜこの学校という地獄に何十年も留まっているのかしら。高校時代、私は高校が嫌いだった。卒業してやっと解放されると思っていたのに、今度はスクールカウンセラーとしてここに戻って来ることになった。しかも高校と違ってここにいるのは『期限付き』じゃない。ひょっとしたら、永遠にここにいる羽目になるかもしれないのだ。
 私はカウンセリングルームに入った。電気がついていないこの部屋に入るときはいつも気分が重くなる。またくだらない一日の始まりだ。バタンと音を立てて扉を閉める。
私はデスクの上にたまった埃を指で取り、無表情で見詰める。汚れていてもどうでもいいか。私はそのまま埃を机になすりつける。
 私は椅子に腰を下ろした。一人で物言わぬぬいぐるみたちと一緒にいると、この部屋が持つ記憶が蘇ってくる。
先週に相談に来た女の子。
 「ええと、親と上手くいかなくて悩んでるんです……」
 「そうなのね。教えてくれてありがとう」
 一年前に相談に来た男の子。
 「自分がアスペルガーなんじゃないかって悩んでいるんです」
 「そうなのね。教えてくれてありがとう」
 この部屋、この部屋、この部屋。
 数えきれないほどの「そうなのね。教えてくれてありがとう」
 正直に言って、思春期の子供たちの問題を解決してあげることなんて出来やしない。私にアドバイス出来ることなんてない。未来が良くなるなんて保証してあげることは本当は出来ない。なのに私が最後に言う台詞はいつも同じだ。
 「きっと良くなるわ」
 ……要するに、私にとっては他人事なのだ。
 三年前、もう卒業してしまった生徒がこの部屋をはじめて訪れた時、こう言ってくれた。「いい部屋ですね。落ち着きがあって、リラックス出来ます」
 それ以来、この部屋を改装することはやめた。それと同時期に、生徒の話を真面目に聞くこともやめた。
 この部屋が持ついちばん新しい記憶は、エイミーの姿だ。おどおどとした様子のエイミーが、私に手の甲を見せている。


クズその1
クズその2
クズその3
本物のクズ


 何、これは。
 私は顔をしかめそうになるのを辛うじて堪えた。エイミーの左の手の甲には、カッターで切り付けたような奇妙な傷跡があった。文字になっているわけだから、コンセプトしては自傷跡というよりは入れ墨の方が近いように思えるけど、それにしては雑な文字の書き方だ。とにかく読めればそれで良い、と言った感じの走り書きのメモみたいな。でも自分の体に書くのにこんな書き方をする人がいるとは思えないけど。
 「これなんです。朝起きたら、手にこんなものが……。こんなことをした記憶はありません。私もう、自分がおかしくなったんじゃないかって、心配になっちゃって…」
 エイミーは今にも泣きそうな顔をしている。本当に悩んでいるような顔をしているけど、要するに他の自傷癖のあるティーンエイジャーと同じ、心配してもらいたいからこんなことしてるのね。きっと自傷したことに恥ずかしさがあるのだろう、覚えていないと言うなんて。もしくは本当にクスリでもやってて本当に記憶がないかのどちらかね。
 「初めに…話しにくい話を話してくれてありがとう」
 とりあえずそう言っておく。
 ここから、どうやって「きっと良くなるわ」に持って行こうか。それを考えることだけが私の仕事だ。エイミーがどれほど面倒臭いことを言おうが、とにかく「きっと良くなるわ」に持っていく。それが出来れば良い。とりあえず、悩みがないかを聞くことから始めようと思った。



 そしてエイミーは今、目の前でいじめっ子の一人を殺してしまった。
 あの時、頷くふりしてほとんどこの子の話を真面目に聞いていなかったけど、もっと親身になるフリをしていれば良かったわ。学校でのいじめや、家庭内での問題について話していたような気がする。大人しい子に特有の歯切れが悪いうじうじした喋り方が面倒臭くて適当に流してしまったのよね。
 こんなことが出来る子だとは思わなかった。エイミー以上にアブなそうな子なこの高校にはたくさんいる。ヤク中のシングルマザーの元に生まれて抗うつ薬の中毒になってる太っちょのデクスターとか、他の生徒と目が合っただけで殴りかかるギャングのエリックとか。エイミーみたいな無害そうな子に限って、キレる時はヤバいってことね。人は本当に見かけによらないんだわ。こんなことが起こってから気がつくなんて、遅すぎるわね。
 「エイミー……落ち着きましょう。まずは、ジェニーを助けないと」
 そうよ。救急車を呼ばなくちゃ。私は携帯電話を取り出した。
 「見てわからねえのか? もうそいつは死んでるよ」
 確かに、ジェニーは床にうつ伏せになったままピクリとも動かない。素人目に見ても死んでいるのは明らかだ。かと言って、救急車を呼ばないと言うわけにはいかないだろう。死んでたから救急車は呼びませんでした、それでは大人の社会は通らない。とにかく体裁のためにだけでも「最善を尽くした」という実績は作らなくては。奇しくもそれは私が職場で毎日やっていることと同じだった。
 震える手で救急番号をダイヤルしたら、腕を乱暴に掴まれた。携帯は私の手からすり抜け、音を立てて床に落ちた。
「バカな真似したらお前も殺す」エイミーの声はナイフのように冷たかった。
 「ダメよ。とにかく……せめて、体裁だけでも……整えないとならないんだから……」
 パニックになっているせいか、頭の中で思ったことがそのまま口から出る。エイミーは片眉を上げた。
 「それから……警察よね。エイミー、あなたを警察に連れて行かなくちゃ。ね、私が裁判で証言してあげる。ジェニーがあなたをひどくいじめていたこと。きっと情状酌量が認められて罪が軽くなるわ。それにあなたは未成年だから、いくらでもやり直せる。私と一緒に警察に行きましょう」
 「こんな時に裁判のことまで考えるとはずいぶん冷静なんだな。だが、警察に行くのは論外だ」
 エイミーはサッカーボールを蹴るように躊躇なく、私の腹を蹴り上げる。
 「あぐうっ」
 私の腹をまともに衝撃が襲う。私は床に両手をついてゲホゲホと咳き込んだ。
 「もう一度言う。このクズの死体の処理を手伝え。協力しないのなら、お前もここで殺すぞ」
 「………わ、わかったわ」
 私はあっさり屈した。エイミーがさっき私を蹴った時、まるで躊躇のない動きだった。それを見て確信した。今のこの子なら本当にやりかねない。ここで逆らったって良いことなんかない、従おう。強い人には逆らわないに限る、それが弱く生まれた私の人生哲学だ。それだけを守って生きていればトラブルには巻き込まれずに済むのだから。
 私はそこではたと止まった。エイミーが『強い人』、ですって? 昨日の私にそんなことを言ってもきっと信じないだろう。そんなことは万に一つでもあり得なかった。エイミーは確かに負け犬の象徴みたいな少女だったはずだ。いつもおどおどした態度の典型的ないじめられっ子。
 しかし、実際に有り得ないことが目の前で起こっている。エイミーは今日、『キレ』た。そして別人のような顔になって私の前で仁王立ちしている。一転、『強い者』として。
 「グズグズするな、さっさと立て。早く死体を隠しちまわないとな」
 「隠すって……どこに隠すつもりなの?」
 エイミーは少し黙った後、「知るかよ」と吐き捨てた。どうやらこれは本当に無計画な殺人だったらしい。
 「とりあえず、バラバラにする。それで森かどこかに埋める」
 「何で切るの? 人体には骨があるんだから、スーパーで買った肉のように包丁で簡単に切れるというわけじゃないのよ」
 「チェーンソーか何かをどこかで買えば良い」
 「それだと死体が見つかった時に、切り口ですぐに足がつくわ。ここは大きくない町なんだから、見慣れないものを買ったら必ず店員が覚えているはずだもの」
 「………」
 「それに、死体を切り刻むなんて大掛かりなことをどこでやるつもり? それも、血痕とかの証拠を残さないようにやるとなると至難の技よ」
 私はそれらしいことをペラペラと言いながら(私の一番得意なことだ)エイミーが考えを変えて自首してくれるように願った。
 「……ねえ、やっぱり考え直すべきじゃない? こんなことをして死体を隠蔽したら、見つかった時にあなたの罪が重くなるだけよ」
 「お前が良い案を出せ」
 「え?」
 切れ長の目が私を睨んだ。
 「さすが年増なだけあって、俺より物を知っていそうだからな。どうやって処理をするかはお前が考えるんだ」
 「え……」
 そう言われて、私は流暢に口から飛び出していた言葉を急に失った。『それらしいことをペラペラと言う』のが一番私の得意なことなら、『自分の頭を使う』のは私の一番苦手なことだった。
 そもそも、こういう重要な場面で私の意見なんか求められたのはこれが初めてかもしれない。周りの意見を聞いてそれに合わせたり頷いたり答えたりするのが私の仕事なんだから。この人生でずっとそうだった。「ゆで卵にする? スクランブルエッグにする?」 「あなたはその時どう感じたの?」、家庭と職場、この二つの質問で私の生活は大体スムーズに行っていた。
 それが今はどうだろう。いじめられすぎて頭の狂った女生徒に死体の処理の方法を考えさせられている。エイミーは「早く考えろ」と私を急かし、何か言わなければ今にも私を殴りそうな殺気立った顔をしている。
 「………沼」
 「あ?」
 「私、すごく深そうな沼があるのを知ってるの。そこに沈めるのはどうかしら」
 これは全くの思いつきだった。もう死体の処理を避けられないのであれば、なるべく発見されないところがいい。それに沼なら事故に見せかけることも出来るかもしれない。
 「それはここから遠いのか」
 「いいえ、そうでもないわ。……隣町の森の中だから。でもかなり入り組んだところにあって、誰も知らないと思うのよ」
 「適当なことを言ってるんじゃねえだろうな?」
 エイミーが私を睨む。私は生唾を飲み込んだ。今のこの子には妙な迫力がある。下手なことを考えればすぐに見透かされてしまいそうだ。
 「私にはこれ以外に考え付かないわ」
 「………よし、じゃあお前の車を出せ」
 エイミーはすぐにでも動きたいようだった。
 「もう少し待ちましょう。死体を動かすのを人に見られたらまずいわ」
 私はエイミーをたしなめた。彼女は何も言わなかったが、異議はないようだった。
 私たちは辺りが暗くなり学校から完全に生徒が下校するまで待った。極力人に見られないルートを考えてビニールシートを被せたジェニーの死体を運び、私の車のトランクに入れた。そして隣町の森の中を散歩していた時に偶然見つけた沼まで車を走らせた。
 まるで現実感がなかった。そして自分が犯罪に加担しているというのに、私は自分でも奇妙なほど冷静だった。
 私たちは二人がかりで重い死体を沼の中へ沈めた。
 ああ、これでもう元には戻れないのね。私は自分の手を見て嘆息した。
 森の中は恐ろしいほど静かだった。風が吹くたびに葉が音を音を立てるが、それ以外の音は聞こえない。
 エイミーは背負っていたリュックサックを下ろすと、筆箱からハサミを取り出した。そのハサミで、自分の手の甲を傷つけた。彼女の手から赤い血がぼたぼたと落ちるのを、私はぼんやりと見つめた。
 「自分の町でもないのによくこんな穴場を知ってたな」
 「………」
 私は何も答えなかった。
 「あと三人だ」
 「え……?」
 「俺はあと三人殺らなきゃならねえ。そしてお前は共犯者として俺に協力するんだ」
 エイミーは手の甲を見せた。この間見せてきた文字が並んでいる。


クズその1(×)
クズその2
クズその3
本物のクズ


 『クズその1』の所に傷をつけて、横線で消したようだ。つまり、ジェニーはクズその1で、クズその2だとかその3は、まだ殺すつもりのいじめっ子たちだと言うのだろう。
 「いやよ!」私は叫んだ。「もうこんなことに協力出来ない。今日のことは不可抗力だしもう仕方ないけれど、もうこれ以上は無理よ」
 「心配しなくても、お前が俺に害を与えないなら、全員殺った後はお前を解放してやる。元の平凡な生活に戻してやると約束するよ」エイミーは優しい声で言った。「お前はもう犯罪の片棒かついでんだよ、肚くくれよ。一人殺すのも十人殺すのも同じだ」
 「……でも……何のために殺すのよ?」
 私は恐る恐る聞いた。
 「俺以外は誰も動こうとしねえから、俺が動いてやるんだよ。動かなくっちゃ変わることなんかねえ。『あいつら』はそれが分かってねえんだ。Aを守ることしか考えていない。俺は違う、俺はAなんかどうでもいい。自分の為だけに生きると決めたんだ。一番簡単な良い人生の作り方を教えてやるよ。外側のクズどもと内側のクズどもを消し去ることだ」
 エイミーは今度は掌の側にハサミを当てた。グリグリと動かして傷をつけている。
 「エイミー、お願いよ。こんなことはもうしちゃダメ。考え直して」
 「俺はエイミーじゃねえ。俺の名前はBと言うんだ」
 「B?」
 「Aが……『エイミー』が作り出した人格の一つだよ」
 Bはおもむろに掌を見せた。そこには手の甲と同じく傷で文字が刻まれていた。

A
C
D
E

 「俺とA以外にも他にまだC,D,Eという3人の人格がいるんだ。そいつらも俺が全員殺す。それでこの体を乗っ取り、俺だけの快適な世界を手に入れる」
 「………」
「俺は生き残り、いい人生を送る。多くの奴らが望むことすら出来ない最高の人生をな。お前にはその素晴らしい計画に協力させてやる。嬉しいだろう?」
 私は呆然とエイミー…いや、Bを見つめた。
 多重人格。そういう病気があるのはもちろん知っていたが、精神障害者の妄想かでっち上げに過ぎないと思い込んでいた。目に宿る強い光はいつもの弱気なエイミーとは似ても似つかず、別人のもののようで、確かに多重人格という説明が一番しっくり来るような気がした。
 Bは強い。私よりも圧倒的に強い。常識が当てはまらない分、恐れや躊躇がない。逆らうことは出来ないのだと本能が感じていた。私は自分の平凡な人生が崩れていく音を聞いた。
 エイミー。
 ああ、かわいそうなエイミー。いいや、もう今日を持って彼女はかわいそうなんかじゃなくなったのかもしれない。だって、彼女は、負け犬だって反逆し得ると自分の力で証明したのだから。



 車に戻るとBは私に殺人計画を聞かせた。Bはまず手の甲を見せて説明した。


クズその1(×)
クズその2
クズその3
本物のクズ

 ジェニーはクズその1で、クズその2とクズその3は想像していた通り、ジェニーと一緒になってエイミーをひどくいじめていた女生徒たちだった。「こいつらがどれほどこの体を傷つけたか。このクズ共が死なない限り俺の心の平安は訪れない」とBは言った。一番下の段、本物のクズとは、エイミーの父親のことであるらしい。Bは多くを語ろうとしなかったが、エイミーに親からの虐待疑惑が出ていたのは知っている。
 「こいつらはある意味簡単だ。今やった要領でやればいい。刺すなり撃つなり締めるなりして体を物理的に殺せば終わりだ。問題はこっちだな」
 Bは手を裏返した。

A
C
D
E

 「俺はこの体の中にいる鬱陶しい他の人格も殺そうと思っている。俺以外の人格はこの体から消す」
 体を殺さずに人格だけを殺すだなんて、そんなことが出来るとはとても思えない。
 「そもそも、人格に『命』なんてあるの?」
 Bは頷いた。
 「それは確かだ。今までに何人もAの中で生まれては死んできたのを見てきたからな。もちろん他人を殺すようには簡単に行かねえだろうが………そうだ、お前が殺し方を考えればいい。お前は心理のスペシャリストなんだろ?」
 スペシャリスト。その響きと私が毎日学校でやっている流れ作業の乖離に目眩がする。
 「そんなことを言われたって、無理よ……」
 「なあ、ババア、分かってるのか。お前の方が負ってるものは多いんだぜ。『エイミー』は万一殺人で起訴されたとしても未成年で罪が軽くなるだろう。」
 「そもそもあなたが私を巻き込んだんじゃないの……!」
 「でもお前は俺に逆らわなかった。お前は弱かった。弱かったからこんなことになるんだろうが」
 「……」
 「弱いのは罪だ」
 Bのきっぱりとした物言いは心私のにグサリと突き刺さる。
 「Aは説明の必要はないな。お前もよく知ってるこの体の持ち主『エイミー』だ」
 Bは自分の体を指差した。
 「いつも何かに怯えてる負け犬だ。気が弱くて、いじめられたってやり返そうともしない。自分の為に戦うことすら出来ない。俺からしたら信じられねえな。Bは今お前の目の前にいる俺だ」
 「エイミーとはその……真逆の性格よね、あなたは」
 『暴力的』という言葉が出てきそうになったが、怖かったので口に出すのはやめた。彼はエイミーが溜めていた怒りを担っているのかもしれない。
 「D、こいつはすぐにトラブルを起こすから早めに処分したい奴だ。とんでもない尻軽で、きもいオヤジ相手に体を売って金を稼いでいる」
 「じゃあ、エイミーが売春しているっている噂は本当だったのね」
 「ああ。だがやっているのは全てDだからな。『エイミー』じゃない。あいつにそんな勇気はない」
 私は同意して頷いた。私の知っている気が弱いエイミーが売春なんてどうにもおかしいと思っていた。こうしていくつもの人格がいることを知れば、これまでちぐはぐだったエイミーの印象に説明がつく。
 「Eは赤ん坊みたいな性格だ。とにかく泣くことしか出来ない。泣くだけの為に作られた人格だ」
 ジェニーとの話し合いの時に急に泣き喚いたエイミーを思い出した。あれはひょっとするとEが出ていたのかもしれない。そのことを聞くとBは頷いた。
 「ああ……Eは子供でほとんど自分でコントロールする力がないから、押しのけて前に出てくるのは簡単だ」
 「Cはどんな人格なの? あなた、説明を意図的に飛ばしたようだけど」
 「こいつは説明が難しいんだ。何の為にいるのかもよく分からない。頭がよく回る物静かなやつだ。厄介な性格ではないが、俺はこいつを一番苦手としている」
 「どうして?」
 「奇妙な奴なんだ。主人格であるAや俺を含め、それぞれの人格は他の人格が体を乗っ取っている時のことを知らない。だが、あの忌々しいCはどういうわけこの体に起きた全てを把握している」
 「つまり、今日あなたがジェニーを殺したことはCも知っているってことね」
 「そうだ」
 「Cは……大丈夫なの? 誰かにこのことを話したりとか……」
 Cがものすごく倫理的な人格だったら不都合なことになる。しかしBはその可能性は否定した。
 「それは大丈夫だ。CはAにとって不利なことは絶対にしないはずだからな。Aの性格では刑務所の中で生きていけるはずがないことぐらいあいつもよく分かっているはずだ。しかし、何を考えているか分からない奴だから俺のやろうとしていることを止めようとしてくる可能性はある」
 Bは私の目を見て、ドスの聞いた声をだす。
 「おい、お前、今後誰に何を言われても俺を絶対に裏切るなよ。もし裏切ったらお前だけじゃない、お前の夫や子供も殺してやるからな」
 「……私に子供はいないわ」
 それに夫を殺してくれるならむしろ嬉しいぐらいよ。私は心の中でだけそう付け加える。Bは興味なさげに肩をすくめた。
 「そうかよ」
 「分かったわ。あなたに協力する。そのかわり、全員殺し終わったらもう私に関わらないでちょうだい」
 人質なんて取られる必要はなかった。私の前にはただ一つの真実があった。Bは私よりも強い。だから私はBに逆らえない。だからBの言うことを聞く。
 Bはいつの間にか煙草を取り出し、吸い始めていた。独特の苦手な匂いが鼻をくすぐる。全てに現実感がない。
 殺されたジェニーが性格の悪いいじめっ子だったせいなのかーーそれにしたって殺される程の悪いことはしていなかったとは思うがーー私の心に罪悪感らしきものはあまり湧いてこなかった。強い者の命令を聞く。私の人生はそれだけで成り立つ。人殺しだろうが、カウンセリングだろうが、家事だろうが、根っこのところは変わらない。
 いや。少し違うか。少なくともBは私に意見を求めた。死体の処理の方法は私の提案が採用された。それは大きな違いだ。あのハゲた校長や夫は一度も私の意見を採用したことなんてないから。
 家に帰ってきた私は、このことを夫に打ち明けるべきか迷った。夫は夕食が用意されていなかったことに腹を立ててさっさとベッドの中に入ってしまった。
 私はベッドに腰掛けながら、夫の肩を揺さぶった。
 「ねえ、あなた。話したい事があるのよ」
 『私、生徒に脅されて死体を隠してしまったの。それだけじゃない、これからも人殺しに付き合わされそうなのよ。ねえ、こんな状況一人じゃ抱えきれない。どうしたらいいと思う?』
 私は夫を揺すりながら、頭の中で言うべきことを整理した。夫はうーんと唸った後、薄く目を開けて面倒そうに私を見た。
 「あぁ? ……セックスだったらごめんだよ」
 「………」
 「……意味もないじゃないか」
 夫は寝ぼけた声で言った。私は何も言えなくなった。数秒後、夫のいびきが聞こえてきた。



 その一週間後。ジェニーの失踪は学校中の噂になっていた。私の見たところ、学校にはこの事件を楽しんでいるような空気すら漂っていた。何と言っても彼女は悪名高きいじめっ子グループの一人だったし、彼女がいなくなってホッとしている生徒も多いはずだった。捜索隊が出ているらしいが、死体は見つかっていないようだった。
 「卵はどうする? ゆで卵? スクランブル?」
 「先生、生理が来ないんです」
 「きっと良くなるわ」
 「先生、成績が伸びないんです」
 「きっと良くなるわ」
 「先生、いじめられているんです」
 「きっと良くなるわ」
 いつもの変わらない生活の中に、新たな仕事が加わった。私は暇な時はいつも殺し方を考えるようになった。
 そしてBはあれから毎日カウンセリングルームに居座っていた。
 「しかし死体をあの沼に沈めたのは正解だったな」
 Bは部屋にあるぬいぐるみだとか本だとかを掴んでは床に投げた。リラックス出来るように作られた部屋は破壊され、混沌としていく。
 しかし、私は別にそれでもいいと思った。元々わざとらしい穏やかさに溢れたこの部屋を嫌っていたのだ。Bがこの部屋を破壊して、私はようやく自分がそう思っていたことに気がついたのだが。
 「二回目があれほど上手くいくとは限らないわよ。あの時みたいに行き当たりばったりで殺すのは避けないと」
 Bは行動力があるが、頭より体が先に動くタイプだった。共犯関係になったからには、それを改めてもらわなくてはならない。
 「心配しなくても、次の計画はきっちり考えてある。次に殺すのはクズその2のマリーナだ」
 マリーナはジェニーと同じくいじめっ子グループの一人だ。
 「しばらくあいつに張り付いて観察したんだが、絶好の隙を見つけた。毎日学校から帰った後、犬を連れて散歩に行くんだが、その時人通りのほとんどない路地を通る。その時に後ろから近づいて殺ればいい」
 「犬が襲いかかってきたりしないかしら」
 「小型犬だから大丈夫だ。しかし邪魔をされたら厄介だから、俺がクズを殺している間にお前は犬を押さえつけてろ」
 「……分かったわ」
 決行は次の日になった。私たちは放課後、マリーナを絞め殺す為の縄を準備し、人通りの少ない散歩道の木の陰でマリーナが来るのを待った。
 数十分後、犬の息づかいと共に、髪の長い少女がゆっくり歩いてきた。
 「……来たわ」
 私はBに囁く。
 初めはその少女が今から殺そうとしているマリーナだとは分からなかった。普段は武装か何かのように流行の服を着こなして若い肌の上にメイクを塗りたくっているマリーナは、別人のように素朴な素顔とスエット姿だった。
 私はそのそばかすに覆われた顔を見たとき、迷いに襲われた。その顔は幼かった。いくらBに脅されているとはいえ、こんな幼い子供を殺してしまうなんて、本当にいいんだろうか……。
 私は何かを言おうとしてBの方を向いた。しかし、Bはすでにマリーナに向けてそろそろと歩みを進めていた。Bの手の中には縄が握られている。
 今、Bは無防備に私に背中を向けている。私は力づくでBを止めるべきなんじゃないのか? いくら精神力が強いと言っても、体は小柄なエイミーのものだ。本気で止めようと思えば、止められるはずだ。
 Bはもうすでにマリーナの背後にいた。Bはシマウマを狩るライオンのように、一気にマリーナの背中に覆いかかった。マリーナの首に縄がかかる。Bは躊躇いなく彼女の首を絞め上げた。マリーナの手から犬のリードが滑り落ち、犬は主人の異変を察して吠え始める。
 ああ、もう止められない。私は急いで近寄り、狂ったように吠える小さなチワワ犬を抱きしめた。犬の口元を押さえつけて吠えられないようにして、マリーナとBの方に視線を向けた。
 私は首を絞められて真っ赤な顔になっているマリーナと、目が合ってしまった。
 『助けて』
 彼女の目がそう言っているのがはっきりと分かった。突然の襲撃にパニックになっており、なぜスクールカウンセラーの私がここにいるのか考える余裕がないようだ。ましてや、自分の背後にいる襲撃者の共犯だとは思っていない。
 「……、………っ!」
 マリーナの口が動く。声もなく私に助けを求めている。
 ごめんなさい。私は心の中で謝った。
 自分の飼い犬を押さえつけたまま、全く動こうとしない私を見てマリーナは私が味方でないことをようやく察した。彼女の目の中に絶望が浮かぶ。
 『あんたゴキブリよりキモいよ』
 ……昔、エイミーにマリーナがそう言っているのを聞いたことがある。いつも意地悪げに口を歪め、自分が世界の中心のように振舞っている生徒で、もちろんあまりいい印象はなかった。
 しかしどうだろう、目の前の死にかけた少女の目は別人のように弱々しい。かわりにいじめられっ子だったはずのエイミーの、いや、Bの目はギラギラと輝き、マリーナの生命を確実に終わらせている。
 一切の抵抗がマリーナの手足から抜け落ち、不気味なほどの静寂が訪れた。Bは気を緩めず、それからもう三十秒ほど念入りに首を絞め上げた後、マリーナの体を地面に落とした。マリーナは死体になっていた。Bはかがみこみ、ぐったりとしたマリーナの腕に触れて脈をとった。
 「……死んだな」Bは無感情に言った。「さあ、さっさとこいつをあの沼に沈めちまおう」
 『エイミー、あんたゴキブリよりキモいよ』
 「………」
 そうよね。マリーナはこんな目に遭って当然よ。性格悪かったもの。
 その時、私の腕からマリーナの犬が飛び出た。動かなくなった飼い主の元に駆け寄り、顔を舐めている。私は飼い主を失ったこの犬を哀れに思った。
 「……その前に、この犬はマリーナの家に帰してあげましょう」
 Bは私の提案を鼻で笑う。
 「お前はもう少し賢いと思ってたがな。わざわざ捕まるリスクをあげるような真似するのかよ」
 「でも……このままじゃ迷い犬になってしまうかもしれない。見て、この子まだ子犬なのよ」
 「こんな犬がどうなろうと俺の知ったことじゃねえよ。家の玄関にセキュリティーカメラがあったらどうするんだ? そこに映れば警察は必ずマリーナの殺人事件に関連づけるぞ」
 「………」
 それはそうだ。私は何も言い返せなかった。
 「さあ、死体を片付けるぞ」
 私は助手席にBを乗せ、森へと車を走らせていた。自分の車に死体を乗せるのも2回目だ。ジェニーの時は恐ろしくてハンドルを握る手が震えていたけれど、今は問題なく車を運転できている。慣れてしまったということだろう。
 沼に着いた。私とBは協力して死体を運び出した。
 「この女、体型を保つ為に毎食後吐いてるとかなんとか抜かしてた割には重いじゃねえかよ…、……ぅぶっ……!」
 「えっ」
 Bは急に口から変な音を出して死体を落とし、頭を押さえてその場にうずくまった。
 Bは顔を上げたが、相変わらず白目を剥いている。一瞬だけ黒目が戻ってきて、Bの強い目が私を捉えた。
 「おい。死体を、処理しとけ……」
 絞り出すようにそう言うと、Bはまた白目をむいてガクンと首を垂らした。
 「ちょっと、大丈夫なの!?」
 私は力の抜けたBの肩を揺らした。
 「ごめん、びっくりさせたね。大丈夫?」
 Bは俯いたままだった。声音が完全に変わっている。
 私は一瞬で直感した。これはBではない。気弱なエイミーでもない。誰か別の人だ。
 その人の目は澄んでいた。揺れ一つない湖の水面のようだった。これほど静かな目を私は初めて見た。
 「あなたは、誰なの……?」私は思わず聞いていた。
 「僕はCだよ。マツダ先生」
 「C ……」
 Bが一番苦手だとか言っていた人格だ。役割がはっきりしている他の人格と違って、何の為にいるのか分からないと言っていたっけ。
 「私のことを知っているの?」
 「知ってるよ。エイミーがカウンセリングで世話になっているじゃないか」
 「………」
 この人格は自分が出ていない時の記憶も全て持っているとBが言っていた。つまり、今までもカウンセリングは全て聞かれていたと言うことだろう。Cはマリーナの死体に視線を向けた。
 「それで……どうしてあなたが彼女を殺さなくてはいけなかったの?」
 Cは言った。責めるような口調ではないが、奇妙な威圧感があった。
 Bがマリーナを殺す直前に湧いた罪悪感が再び苦く甦ってくる。
 「……殺したのは私じゃないわ。Bがやらせたのよ」
 「うん、知ってる」
 Cはそれ以上何も言おうとしなかった。居心地が悪い。いっそのこと、どうしてこんなことをしているのかと責めてくれた方が楽だ。
 Cは何も言わない。ただ真っ直ぐに私を見ている。
 「Bのかわりにあなたが手伝ってくれるの? 私、早くマリーナを沼に沈めなくちゃいけないのよ。万一人に見られたりしたら大変だわ」
 「僕は手伝えない。やりたいなら、先生一人でやってくれ」
 Cは静かに言った。ああ、やはり、Bの殺人計画にCは反対なのだ。
 「……私を責めないでよ」私はいたたまれなくなって言った。「Bが恐ろしいのは知っているでしょう。理性ってものがないのよ。私がBの殺人を手伝うのを止めれば、きっと躊躇いなく私を殺すわ。私だって、自分の身を守らなければいけないのよ」
 「僕は先生を責めていないよ。どうしてもやらなきゃいけないなら、やったらいいのさ」
 私はしばらくCを見つめたが、彼が何も言おうとしないのを悟って目を逸らした。静かな目を見ているのが辛くなる。私はマリーナの死体を仕方なく一人で動かした。人形のように微動だにしない腕を掴んで、何とか引きずるようにして沼に導く。
 ようやく死体を処理し終わった。Cはその間一言も言葉を発することなく、腕を組んで無表情で私を見ていた。居心地が悪くて私はCを睨む。
 「あなた、何なのよ……」
 「何って、僕はただここにいるだけだ。ここで先生を見ているだけだよ」
 「責めるような目で私を見ているじゃないの。一体、何が言いたいのよ」
 「僕があなたを責めているように見えるの?」Cは目を細めた。「だとしたら先生、それはあなたが自分自身をそんな風に見ているんだよ」
 私は自分の両手を見た。汚れている、と感じた。Bという恐ろしい存在に目をつけられてしまったから仕方がないと言い聞かせていたが、私は殺人などできる人間じゃない。自分の意にそぐわないことをやり続けるのに慣れすぎていた。だから、こんな異常なことをやらされても抵抗できなかったのだ。
 「……私、とても恐ろしいことをしてしまったわ」
 「そうだね」
 Cはかすかに微笑んだ。今のは私の紛れもない本心だった。自分の本心を知っただけで、少しだけ心が軽くなったような気がした。
 


 家に帰ってからも、Cの微笑みは私の中にずっと残っていた。あの穏やかな微笑みが緊張続きの私の心をリラックスさせてくれているような気がする。
 「お帰りなさい」
 「……夕食は?」
 夫は何も載っていないテーブルを見ていた。
 「………あ」
 夕食。すっかり忘れていた。ご飯を用意する、それも私の『仕事』だった。もう一つの『仕事』、人殺しの手伝いの方があまりにインパクトが強くて忘れてしまっていた。
 「ごめんなさい。ちょっと忘れていたのよ……」
 「またか? この間も忘れていたじゃないか」
 夫は目を細めた。ああ、これは嫌味が始まる時の前触れだ。
 「まあ、いい。人間だからたまには忘れることもあるだろう。でも、分かってるだろうな? これはお前の仕事なんだ。結婚する前に散々話し合っただろう」
 「ええ、そうね」
 私は頷く。夫は元々は私に主婦になって欲しがっていた。私が働くとしても、家事は私の仕事。そういうことでお互い納得をした結婚だった。
 「今から、急いで作るわ」
 「もう、いい」夫は投げやりに言った。「腹をすかせて帰ってきたから、もう少しだって待ちたくないんだ。外に行って食べてくるよ」
 夫は脱いだジャケット再び着た。
 「私が君の為に多くを我慢しているってことを忘れるなよ」
 これもお決まりのセリフだ。夫は散々嫌味を言った後、トドメのように必ずこれを言う。
 『子供の出来ない君と結婚してやってるんだから、せめて従順な妻でいろよ』
 こういうメッセージが言外に含まれているのだ。
 夫は結婚する前から私を軽んじる言葉をよくぶつけてきたが、ここまで酷くなったのにきっかけは明白だった。結婚後しばらくしてから、私が子供を産めない体だと明らかになったのだ。その日から私への当たりは強くなった。夫は子供を持つことを楽しみにしていたのだ。日本から来た夫は、伝統的な日本の家庭を作ることを望んでいた。
 「……私だって我慢してるわ」ポツリと言った。「夕食を用意するのを一度忘れただけで、ぐちぐち言われるのにはうんざりよ」
 『あなたの結婚観って本当に時代遅れで吐き気がするわ。もし私がBだったなら、あなた、今すぐに殺されてもおかしくないわよ』
 心の中でそう言ってやると、少しスッキリした。そうだ。Bならこんな口を聞く男はすぐに殺してしまうだろう。私は椅子の背をぐっと握りしめた。
 『Bなら、こんなふざけた口を聞く男は殺すわ。今すぐ、この椅子を手にとって、頭の上に振り落としてやる。何度も、何度も、何度も、この男が動かなくなるまで殴ってやる』
 夫はキョトンとして私を見た。いつもは口答えしないから、私が反論するのが珍しいのだろう。
 その後、興奮で手が震えていた。私も考えてみた。すると、私の覚えている限りでは、一度も夫にたてついた事がなかった。今のが私の初めての反撃だったのだ。



 その日は朝から職員会議があった。ジェニーに続いてマリーナが行方不明になったことで、学校では大問題になっていた。
 二人がいじめの主犯格だったことをメディアが嗅ぎつけて大々的に報道した他、SNSでは自業自得だとか天罰が下ったとか色々と騒がれていた。それを受けてか、学校にも問い合わせやいたずら電話が増えて学校は対応に追われていた。
 「我々教員はこんな時だからこそ一致団結するべきですな」
 ハゲの校長が汗をぬぐいながら教員に呼びかける。焦りが手に取るように見えて、正直気分がいい。
 「いじめ問題を放置していたツケが回ってきたのかもしれませんね」
 思わずポロリと本音が口から飛び出した。誰も発言しようとしない会議では、思いの外大きく響いて、全教員の視線が私に集中する。
 「なんですかな。マツダ先生」校長は不機嫌そうに言った。
 「……いじめがあったのはみなさん認識していたのに、具体的な解決には何も取り組んでいなかったじゃないですか。風の噂のいじめられっ子の復讐説だって、あながち間違いではないのかもしれませんよ」
 私は挑むように校長の目を見た。彼の目の中に怯みが浮かぶ。ああ、気分がいい。昨日だってそう。言い返すのはこんなに気持ちがいいのだ。
 Cの微笑みが思い浮かぶ。あの時、自分が本当はしたくないことをしたくないと認めるだけでとても気分がよかった。
 ひょっとして、人生は本来、そんな風に生きるべきなんじゃないかしら。人は、自分の生きたいように生きるべきなんじゃないかしら。今までの私のように、我慢するんではなくて。……私はふとそんなことを思った。



 カウンセリングルームがノックされた。続いて、遠慮がちに扉が開けられて、エイミーが入ってきた。Bじゃない、そもそもBならノックなどしないで、扉を蹴破るような勢いで入ってくるだろう。あの心がホッとする穏やかな雰囲気がないからCでもない。この自信なさげな態度は、エイミーに違いなかった。
 「エイミー、久しぶりね」
 「お久しぶりです」
 彼女の顔は目に見えて焦燥しきっていた。内側に抱えている悩みが今にも彼女の口からこぼれ落ちそうなギリギリの雰囲気を感じる。
 「座って。今日はどうしたの?」
 「……最近、前にも増して記憶が途絶える事が多いんです。さっきまで学校にいたはずなのに、はっと気がつくと自分の部屋にいたり」
 私は神妙に頷いた。エイミーの記憶がない時、彼女の体は私と一緒に人を殺している。
 「それに……ジェニーに続いてマリーナも……私をいじめていた子たちが次々に行方不明になっていってるでしょう」
 「ええ」
 「私、いけないってわかっているけど、この状況を嬉しいと思ってしまうんです。私がずっと密かに願っていたことだったから。もし、この行方不明事件と記憶が飛ぶのが何か関係があったらって……記憶がないときに、私が夢遊病みたいになって知らないうちにジェニーたちを殺しているんじゃないかって。実は、最近そんな夢を見るんです。すごくリアルな……」
 エイミーは自分自身を疑い始めているのだ。
 「私、やっぱり精神病院に行くべきなのかも……」
 私は焦った。それだけは困る。今、エイミーの中にいる人格のことを第三者に知られるわけにはいかない。
 「エイミー、そんなことあるわけないわ。あなたはきっと疲れているだけよ」
 「でも……」
 「約束して、そのことを誰にも話してはダメよ」
 「……私には先生以外に話せる人なんていません。友達もいないし、家族だって……」
 エイミーは口をつぐむ。
 ああ、かわいそうなエイミー。そんな内向的な性格だから、助けを求めることも出来ず、自分を守る為にいろんな人格を作らなくてはいけなくなったんだわ。私も同じだからその気持ちはよく分かる。
 「……きっと良くなるわ」
 三十分ほどエイミーの不安に耳を傾けた後、私はいつものセリフでカウンセリングを締めた。
 エイミーが出て行った十分後、すぐに彼女の『体』は戻ってきた。鋭い目つきと大股な歩き方。これはBだ。
 「なかなか出てこられなくて苦労したぜ。で、あの後、どうなった? きちんと死体は処理しただろうな?」
 Bは開口一番そう聞いてきた。私は頷く。
 「……あなたがいなくなった後、Cが出てきたわ」
 「やっぱりな。あの得体の知れない感じはCだと思ったんだ。あいつに何か変なことを吹き込まれていないだろうな?」
 私は口を閉じた。Cの穏やか微笑みが浮かんでくる。
 「ねえ、私……やっぱりあなたには協力できないのよ」
 私は意を決して切り出した。
 「気がついたのよ。こんなこと、やっぱり私はやりたくないの。あなたのことを絶対に警察に言ったりはしないから、私を巻き込むのはやめてちょうだい」
 声が震えた。私はそもそもノーと言うのに慣れていないのだ。それでも、言わなくてはならない。私はあまりに長い間、人に従ってきたんだから。
 これは自分に正直になる方法を学ぶために神様が与えてくれた機会なのかもしれない。
 「わかった、Cが何かを言ったんだろ。それに触発されたわけだ。……お前、本当に単純な女だな」
 Bは私にゆっくり近づいてきた。私は後退りながら身構える。
 「……だからこそ、俺もお前をパートナーにしたんだけどな」
 Bはそう言うと、手を軽く振るようにして私の頰を平手打ちした。
 「うぅっ」
 力を入れているようには見えないのに、ものすごい衝撃で体がよろめいた。
 Bはポケットの中から鋭く光るものーーナイフを取り出すと、私の右太もも目掛けて思い切り振り下ろした。
 「ぎゃあっ!」
 熱い。熱い。私は右太ももを抱えてのたうち回った。血が床を濡らしていく。
 「選べよ。ここで死ぬか? それとも俺に協力するか?」
 「うぅ……痛い……痛い……!」
 「さぁ、10数える間に決めないと、もう片方の太ももにも刺すぜ。1、2……」
 Bは楽しそうに数え始めた。
 私は改めて恐ろしくなった。この男、人を傷つける事が平気なんだわ。狂っているとしか思えない。
 「どうして?」私は朦朧とする意識の中で呻いた。「あなたはどうしてこんなに残酷な事が出来るの?」
 「……残酷なのは俺じゃない。Aの中に俺を生んだこの世界だ」
 Bの声は低く、冷静だった。何の感情も含んでいなかった。
 「この世界は生きるか死ぬかだ。綺麗事だけじゃ何も進まない。俺はこの世界で快適に生きる為、やらなきゃならねえことをやるだけさ」
 次に目が覚めた時、カウンセリングルームからはタバコの匂いと血の匂いがした。私は目の前の床が赤く染まっているのを見た。私の太ももから出た血にしては、量が多すぎる。視線を辿ると、3人目のいじめっ子、クララの死体があった。喉を切り裂かれ、目を開けたまま苦悶の表情で息絶えている。Bは私の椅子に腰かけて煙草を吸っていた。足元には吸い殻がいくつも落ちている。
 私は気を失っている間に何が起こったのかすぐに悟った。Bは私が起きたのに気がつくと、場違いなほど明るい声でこう言った。
 「おう、ババア。掃除の時間だぞ」

 私はまたBと一緒に沼に戻ってきていた。今さっき、クララの死体を処理したばかりだ。もちろん私が選んだわけではない、またBに強制されたのだ。私に選択肢はなかった。
 大人しくて気弱なエイミーの中に生まれた、良心の欠片もない、恐ろしい人格、B。
 「これで『外』の殺しはひと段落だな」
 手に書かれた『クズその3』にナイフで横線を入れた後、Bはつぶやいた。死体を運ぶのはこれで三度目だった。体温のない肌を触るのにもすっかり慣れてしまったようだ。
 ……ああ、またやってしまった。エイミーの中の、この狂った人格に脅されて、犯罪に手を貸してしまった。これで三人目……。

クズその1(×)
クズその2(×)
クズその3(×)
本物のクズ

 その文字を見ながら私は聞いた。
 「最後の『本物のクズ』っていうのは誰のことなの?」
 「俺の父親だ。こいつに関しては、殺し方も殺す時期ももう決めてある。その時が来るまで、一旦、『外』の殺人は休んでいい」
 Bの頭は今しがた沼の中に沈めたクララのことなどもう忘れて、次の計画に移っている。その冷酷さに寒気がするが、少なくともBの言ったことは私にとっては朗報だった。しばらくは殺人には協力しなくていいということだ……。Bは手のひらを裏返した。今度は違う文字が刻まれている。
 「さて、『内』のこいつらをどう殺すかだが……」

A
C
D
E

 「……普通に考えたら、Aを殺すのが一番最後でしょうね。主人格だもの」
 しかし、エイミーによって作られた人格であるBが、主人格であるエイミーを殺せるのだろうか。そんなことが本当に出来るのか。そう思ったが、あえて口にはしなかった。
 「お前、ちょっとは殺し方を考えてきたのか?」
 Bに出会ってから私は多重人格に関する文献にいくつか目を通していた。しかしその中に少なくとも、Bの気に入りそうな解決策は載っていなかった。
 「そんなの、考えたって分からないわよ。だいたい、人格を『殺す』なんて前代未聞だもの。人格の統合って言うのなら聞いたことはあるけど」
 「人格の統合だと?」
 「ええ。そう言う例は今までにあるの。地道なカウンセリングで主人格と他人格の統合を図って、元の一つの人格に戻すのよ」
 「なら論外だな。俺は誰かと一緒になるなんてごめんだ。俺は俺として生きていくんだから」
 「ええ、そうでしょうね」
 Bならそう言うと思っていた。私はため息をつく。
 「いいか。少し時間をやるから、お前は人格の殺し方を考えるんだ」
 その言い方はお願いといった感じではない、明らかに「命令」だった。もう覚悟を決めざるを得なかった。どうやら私の災難はまだまだ続くようだ。



 次の日。カウンセリングルームの扉がノックされた。薄い笑みを浮かべたエイミーがそこに立っていた。
 「……すごい騒動だね」
 軽やかな足取りで中に入ると、私の正面の椅子に腰掛ける。穏やかな話し方や雰囲気で分かった、これはCだ。
 「学校中の生徒が次攫拐われるのは自分なんじゃないかって怯えてる。特にいじめっ子たちはね。先生たちはマスコミ対応に追われているし……この学校で落ち着いてるのはあなたぐらいのものだよ」
 「………」
 「当然だよね。先生だけは、誰が犯人か知っているんだから」
 私は気まずくて下を向いた。私はついこの間、Cの前でもう殺しに協力したくないと言った。それなのに、私はBがクララを殺すのを止めることが出来なかった。
 「私は共犯になりたいわけじゃないわ。ただBの言うことに従って、これを早く終わらせてしまいたいだけよ」
 「Bが邪魔な人をみんな殺した後、あなたを解放すると本気で思ってるの? あいつはみんな葬り去ったら、今度は取り返しのつかないところまであなたを支配しようとするはずさ」
 それもそうだ。あのBが大人しくなるとも思えない。それどころか、余計に凶暴さを増しそうな気もする。
 「もしそれが嫌なら、どこかでBを止めなくてはならない」
 「それはそうかもしれないけれど……」
 もう抵抗なら何度も試みた。しかし、私にはBに立ち向かうだけの強さがないのだ。
 「もう、いいのよ。どうにでもなれよ」
 初めからそう。私には選択権など与えられていない。
 『女のくせに、生意気な態度をとるな!』
 どこかから、私の死んだ父の声がする。そう。私は弱い。私は女。だから反抗しない。反抗したら、また殴られるから。
 ……あの厳格な父親が死んでもう何年も経つのに、いまだに彼の声は呪縛のように私を押さえつける。
 「先生は子供が好きだよね」
 Cは前触れもなくこう切り出した。『子供』という言葉に、心臓が反射的に脈打つ。
 「……いいえ。子供なんて大嫌いよ」
 Cはその答えを予想していたかのように笑った。
 「違うよ。子供が出来ないと分かってから、嫌いだと言うような態度をとるようになっただけだ」
 私は驚いてCの顔を見た。なぜそんなことを知っているのだろうか。確かにエイミーに子供がいないと話したことはあるが、子供が出来ない体だと話したことはない。
 「先生は本当は子供が好きなんだ。この仕事を選んだのも、子供と関わりたかったから。違う?」
 「………」
 ……確かに、昔は子供が好きだった。カウンセラーになりたいと思ったのも児童カウンセラーになりたいと思ったからだ。幸福でなかった私のような子供時代を送って欲しくないと思い、子供の精神の健康に手助けをできればと思っていた。
 夫の仕事の都合で田舎に引っ越してきて、児童カウンセラーの仕事が見つからずに妥協して学校カウンセラーになった。しかし結局はこれでいいのかもしれないと自分に言い聞かせていた。私は一生自分の子供を持てない。児童カウンセラーになれば、子供を見るたびに胸が痛むに違いないから。
 「あなた、私とはほんの2回しか会っていないじゃない。私の何が分かるって言うのよ」
 「エイミーと話をする先生を僕はずっと見ていた。見ているだけでも分かることはたくさんある」
 Cの目はいつも穏やかだ。この目を見ていると、全てを見透かされている気分になる。
 「忘れないで。あなたが殺そうとしている中には、ほんの赤ん坊もいるんだ」
 Bが言っていた、赤ん坊の人格Eのことだろうか。
 「よかったら、今、会わせてあげる」
 「え?」
 Cは急に白目を剥き、がくがくと震えた。これは人格の交代の前触れだ。
 次に私を見たのは、無垢な丸い瞳だった。これはもうCではない。人格が入れ替わっている。Cの口ぶりからすれば、これはきっとEなのだ絵王。
 「………」
 Eはキョロキョロと部屋を見渡した。
 「あ……こんにちは」
 私はぎこちなく微笑んだ。
 「あなたは……」
 私が何かを言う前に、Eの顔がぐにゃりと歪んだ。この顔を見たことがあった。そう、一年前年下の従姉妹に子供が生まれ、見せてもらった時に見た。これは典型的な赤ん坊の表情だ。
 そして耳をつんざくような泣き声がしたかと思うと、透明な大粒の涙が後からこぼれ落ちた。
 「どうしたの、どうして泣くの……?」
 私は子供に話しかけるような口調になっていた。体がエイミーのものでも、本能がこれは赤ん坊だと感じていた。
 「エイミーを知っている?」
 「……うん」
 「あなたは、だれなの?」
 「うん……」
 Eは泣きながら、何を聞いても「うん」としか言わなかった。私はEの背中に手を当ててさすった。そのうち、少しずつしやくり上げる頻度が少なくなっていく。
 「あたしは、なくの。Aのためになくの。そのためにここにきたの」
 すうすうと寝息の音がしてきた。Eをあやしながらその規則正しい音を聞いていると、奇妙な満足感が胸の中に広がっていった。
 「泣くだけが仕事なんだから、ラクなもんだよねえ、Eは!」
 「え?」
 耳慣れない低い声がした。スヤスヤと眠っていたEの目がカッと開いた。
 「アタシはAに金をやるためにいつも体を張って働いてるって言うのにさ」
 またも人格が変わったのだ、と私は直感した。しかも、これはBでもCでもない、今までに見たことのない人格だ。
 「あなたは……」
 「Dだよ、センセー。初めまして。」
 わざと文法と発音を崩した下品な喋り方は、まるで道に立つ安っぽい娼婦のようだ。そういえばBはDについてこう説明していたはずだ。
 『とんでもない尻軽で、きもいオヤジ相手に体を売って金を稼いでいる』
 これが、D。口元がだらしなく開き、舌がちらりと覗いている。
 「…あなたは何の為に生まれた人格なの?」
 私は警戒心を解かないまま、恐る恐る聞いた。
 「アタシ? アタシは金とセックスの担当だよ。Aの性欲を満たしてやるし、それで金も稼いでやるんだ。Aの中にいる人格の中じゃ一番実益を上げている。」
 「………」
 「信じられないって顔してんね。あのエイミーが売春なんてって思ってたんだろ? そもそもあんな地味女が処女じゃないってこと自体が信じられねー、そんな感じじゃない? 図星でしょ?」
 Dはケラケラと笑った。
 「とんでもない、アイツは処女を6才の時に卒業してんだよ。実の父親にレイプされた時にね。『ブスだから男に相手にされない』ってAをバカにしてたジェニーやらマリーナなんかよりとっくの昔にロスト・バージンしてたってわけだ。笑えるね」
 実の父親にレイプ……。
 私は絶句した。あまりにひどい。カウンセリングをする中で、エイミーの家庭環境があまり良くないのは気付いていたが、そんな小さな時から性的虐待を受けていたとは。
 「……それが、エイミーの中にあなたたちが生まれたきっかけなのね?」
 「そうだよ」Dは頷いた。「毎晩の父親によるレイプ。地獄のような毎日の中で、ある日Aは気付いたのさ。どうせ逃れられないなら、エッチの快楽を楽しむだけ楽しめばいいし、どうせなら金の一つでも取ってやればいいんじゃないかって。自分はただの被害者じゃなくて、自分も望んでやっていることなんだって思いこもうとしたわけ。でもいくら合理的だってあのAが本心からそんなこと思えるわけがない。そこでセックス大好きなアタシという人格を作り出したんだ」
 「………」
 「それからはもう稼ぎまくりさ。父親には警察に言うぞって脅してセックスの度に金を巻き上げた。それでも足らなくて外に出てウリを始めたんだ」
 「そんなことをしたらダメよ。それをエイミーが知ったらどう思うかしら。」
 「Aには絶対にバレないようにやってるから大丈夫さ。それに言っとくけど、ウリはA自身の性欲処理も兼ねてるんだよ。父親からのレイプが初体験だったせいで、Aはセックスを汚らわしいものだと思っているから、自分じゃオナニーの一つも出来ないのさ」
 私は顔をしかめた。聞くに耐えない話だ。
 「ねえ、センセー……」
 不意にDの息が荒くなった。Dの目に妖しい光が宿り、ジリジリとこちらに不気味なものを感じて私は眉をひそめる。
 「……何……!?」
 Dは妖艶な仕草で股を開いて椅子を跨ぎ、私の上に乗った。冷や汗が出た。
 「センセー、アタシを買わないかい?」生ぬるい息が顔にかかる。「もう、アタシ、出てきたからにはセックスしなくちゃ治んないだよ」
 私はDの近づいてくる顔を両手で強く押し返した。
 「やめ……やめなさい……」
 「別に、女相手だからダメってわけじゃないよ。経験もあるし。セックスならアタシは何でも好きだから。センセーだって、欲求不満なんじゃないの? 最近セックスしてんの?」
 Dの手が私の胸に乗せられた時、体に電流が走った。私は一瞬、抵抗を忘れてその強烈な感覚に身を任せた。もう久しく忘れていた欲望がせり上がってくる。私は深く嘆息した。
 ……最後にセックスをしたのはいつだっただろうか。私に子供ができないと分かってからは夫は一度も私を抱こうとしない。
 Dの手が私のブラウスのボタンを外そうとする。そこで私はようやく我に返った。力の限り思い切りDを突き飛ばした。
 「………やめなさいっ!」
 Dはあっさりとよろめいた。女人格だからなのか、Bとは違って力はそれほど強くないようだ。
 「私は教師なのよ。こんなことが出来るはずないでしょう!」
 馬鹿にしたように皮肉っぽい笑みを浮かべる。
 「良い子ぶってんじゃねーよ、感じてたくせに」 
  私は顔が熱くなるのを感じた。Dは立ち上がると、服の埃を叩いた。
 「センセーも相手にしてくれないなら、外に客を取りに行こっかな」
 私はカウンセリングルームから出ていくDの背中を呆然と見送った。
 


 「全ての人格に会ったわよ」
 次にBが会いに来た時、私は報告した。
 「どうだった」
 「……強烈だったわ」
 Bに負けず劣らず強烈なキャラクターが揃っている。エイミーが辛い状況を生き抜くにはそのような人格が必要だったのだろう……。
 「他の人格は役立たずばかりだったろ? やっぱり俺がこの体を支配するのに相応しいのさ」
 Bは言った。子供っぽい自信に溢れた言い方だった。私はBの横顔をまともに見ることが出来なかった。人格が違っていたとはいえ、同じ体にキスをされたのだから。
 「少なくともDはかなり問題を引き起こしかねない性格をしているわね。誰彼構わず誘惑するなんて……私のことまで誘惑しようとしたのよ。もし人格を消すことが本当に出来るなら、一番初めはきっと彼女がいいわ」
 「……で、あいつらをどう殺す?」
  私は黙った。今の所、何もアイデアは浮かんでいない。そもそも、(肉体的に殺すわけではないとはいえ)『殺人』には抵抗がある。
 「元はといえば、あなたたち人格はエイミーの苦しみを救うために作られたわけでしょう。なら、苦しみの根源が無くなれば自然に消えるんじゃないかしらね。Dだったら性的虐待をする父親、Eだったら悲しくなるような出来事がなくなれば……でも、実際には難しいでしょうね」
 実際にはエイミーの苦しみを全て取り除くことなんて不可能に近い。一度生まれてしまった人格がそれほど単純に消えるものとも思えない。出来るとしても膨大な時間がかかるだろう。それにその理論が正しければBだって他の人格と同様、消えてしまうに違いないのだ。もちろん私にとってはBが消えてくれるのはありがたいことではあるけれど……。
 「『外』の奴らを殺すのは俺一人でだって出来た。でも『内』の奴らを殺すのはお前の協力がなくちゃ出来ない。俺は他の人格に干渉出来ないようになっているからな」
 Bは私のことが必要だと言っている。その事実は奇妙な程甘く響いた。
 「これからは他の人格と接触して糸口を探るんだ。お前はこれから俺の目になり耳になり気がついたことは何でも俺に報告しろ。いいな」
 「わかったわ」
 「幸い他の人格は俺たちの殺意に何も気がついていないから、寝首を掻くようにして殺してやればいい。Cだけは例外だがな。あいつは今も俺たちの会話を聞いている。得体の知れねえ、気持ち悪い野郎だ」
 Bは吐き捨てるように言った。


 また別の日。私は多重人格の症例の出ている本を読んでいた。エイミーが軽やかな足取りでカウンセリングルームに入ってきた。
 「その本の中に人格の殺し方は見つかりそう?」
 穏やかな声。Cだった。Cは机の上の本を一冊ひょいと掴む。
 「ビリー・ミリガンは興味深い症例だよね。僕も前にこれを読んだよ」
 考えてみれば、自分を殺す計画を立てている人間が目の前にいるというのに、Cの態度は穏やかそのものだった。
 「あなたはどんな役割を持った人格なの?」
 「他の人格と同じだよ。僕はただ、エイミーを幸せにしたいだけだ……そういえば、この間はDが失礼なことをして申し訳なかった。彼女の代わりに僕が謝るよ」
 あの時のことも全てCに見られていたのだと思うと情けない気分になる。
 「まあいいや、今日は先生について話そうよ。前から思っていたんだけどあなたはエイミーに少し似ているよね」
 私はギクリとした。ずっと前から思っていたことだったが、他人から指摘されたのはこれが初めてだ。
 「ええ、私もそう思う。だからエイミーのことはずっと目にかけていたわ。いつも何とかして力になりたいと思っていて……」
 「それは嘘だね」
 「え?」
 「あなたはエイミーとの会話をいつも早く切り上げたがっていたじゃないか。気まずそうに頷いて、話を聞くふりをして」
 ……Cには何もかも見抜かれている。
 「そんなことないわ。どうして見ているだけのあなたなんかにそんなことが分かるのよ?」
 「分かるよ。もしあなたがエイミーに似ているなら、自分を嫌っているからだ」
 「………」
 「ねえ、教えてよ。どうして先生はそんなに自分を嫌っているの?」
 「……弱いからよ。あなたも知っているでしょう」
 私はため息交じりに言う。本当は人殺しなんかやりたくなくても、抵抗することも出来ない弱い人間。それが私だ。
 「そうかな。Bに出会ってから先生はどんどん強くなっていっているように思うけど……あなたは、Bのやっていることをどう思っているの?」
 「あなたこそ、どうなのよ? Bの味方なの、敵なの?」
 「僕はエイミーの味方だよ」Cははっきりとした口調で言った。「それ以外の人にとっては敵でも味方でもない」
 Cは椅子に腰掛け、穏やかに話を始める。
 それから私たちは一時間ぐらい話し込んだ。話題は学校から世界情勢の話まで多岐に渡った。Cと話している時は十代と話している気がまるでしない。大人も顔負けな程博識だった。それを指摘するとCは笑い、テストの時にエイミーの代わりに受けることもあるのだと言った。
 「先生、もし暇だったら、今Eを呼んでもいいかな。前回、先生にあやされて随分リラックスしたみたいなんだ。あの子には多分母親が必要なんだよ」
 『母親』と呼ばれたのは私に甘く響きながらも、同時に多少の胸の痛みを感じる。
 「でも……私は母親にはなれないわよ」
 「子供を作れないからといって母親にもなれないの? そうやって視野が固定されるのは、大人の悪い癖だね。先生、いいことを教えてあげる。『強き女』という映画を見てみたらいいよ。エイミーの一番好きな映画だ」
 Cは何も言わずに居なくなった。そうして再び出てくるなり泣き始めたEを私はあやした。
 「よしよし。泣き止んで、可愛いEちゃん……」
 ソファーに寝かしつけ、無邪気なを見る。そしてもし私に子供がいたら、子供がいれば、毎日こんな穏やかな満たされた気持ちで過ごすことが出来るのだろうかと考えた。


 家に帰った後、私はインターネットでCの言っていた『強き女』を購入して見てみた。
 それはダイアナという破天荒な娼婦が主人公の冒険物語だった。貧乏から娼婦を始めたダイアナが、大物の客をとって成り上がっていく。題材自体は暗いがミュージカル調でそれを感じさせない作りになっていた。
 「………」
 見始めた時から、私は奇妙な感覚を感じていた。この娼婦の主人公をどこかで見たことがある。
 しばらくして気がついた。主人公はDを彷彿とさせるのだ。名前の頭文字はDだ。ひょっとして、ダイアナがDの人格のモデルになっているのだろうか。
 「楽しそうじゃないか。何を観ているんだ」
 夫が帰ってきて、パソコンのディスプレイを画面を覗き込んだ。しかし、この映画の題材を知るなりすぐに眉をひそめる。
 「娼婦の物語なんかを見て、何が楽しいんだ」
 「……でも、勧められたのよ」
 「誰に?」
 「………えーと……」
 私はとっさに答えることが出来なかった。もし正直に答えるなら、生徒に、いや、多重人格の生徒の人格に、ということになる。
 私は「友達に」と言った。それが一番しっくりくる呼び方だった。奇妙なことではあったが、私は確かにCに対して友情を感じているようだった。
 「こんな映画を勧めるような友達とは、縁を切れ」
 夫は言った。
 映画は佳境に入っていた。かなりシリアスな展開だ。大富豪の客を前に張り切って仕事に出かけたが、その大富豪は常軌を逸した変態で、アブノーマルなプレイを余儀なくされている。悲鳴に近い喘ぎ声が寝室に響き渡る。映画では、変態の大富豪が大型犬にダイアナを犯させている。
 『いや、やめて! それだけはやめて!』
 抵抗むなしくダイアナは犬に犯されてしまう。大富豪はそれを見て自慰をしている。全てが終わった後、主人公のダイアナは抜け殻のようになっていた。
 「……気の毒だわ」
 思わずそう漏れる。
 「娼婦なんかをやるからさ。そんな仕事をしていれば、こんな男に遭う可能性だってあるんだから自業自得だろう。さあ、こんな趣味の悪い映画を見るのはやめろ」
 夫は勝手にリモコンでテレビを消してしまった。そのまま沈黙が落ちる。
 「……なあ、そう言えば、しばらくしていないな」
 私に猫なで声でにじり寄ってくる夫の息が荒区なっていた。
 ひょっとして、今のシーンで興奮したのだろうか。あれだけ娼婦を軽蔑した発言をしておきながら、自分はしっかりと興奮するとは。私は目を閉じて夫の愛撫に耐える。
 私は久しぶりに夫とセックスをした。
 終わった後に鼾をかいて寝ている夫を見て、嫌悪感が込み上げてくる。
 ……醜い。私ははっきりとそう思った。なぜ十年も一緒にいて気がつかなかったのだろう、私はこの夫のことをずっと醜いと思っていた。一度だって好きだと思ったことはない。
 いや、心の底ではわかっていたのかもしれない。気がつかないふりをしていたのだ。この男に嫌われたら、子供も出来ない私とはもう二度と結婚してくれる人がいないかもしれないのだ。
 『お前は本当に不細工だ。女のくせに不細工なんて、なんの使い道もないな』
 ……そして結婚しなくては、父は私を蔑み続けるだろう。父はよくこう言っていた。
 『若い時に結婚するんだ。そうでなくては、お前と結婚したがる男なんているはずがないからな』
 私は暗い部屋の中でテレビをつけて映画の続きを見た。
 ダイアナの精神は崩れた。そのトラウマの事件以来、犬を見るとあの時の記憶が蘇り、パニック発作が起こるようになってしまう。しかしダイアナは精神的に強靭な女だった。その時の心の傷を抱えながらも娼婦を続け、最終的にお金持ちになるところで物語は終わった。
 憂鬱になる場面は多いものの、最終的にはハッピーエンドで良かった。『強き女』のタイトル通り、ダイアナのしたたかな生き方を描いた映画だった。エイミーはこれを見て、ダイアナという人格を作り出したのだろうか……。


 失踪してから数ヶ月経っても、Bが始末したいじめっ子たちは見つかる様子がない。このまま死体が見つからなければ、完全犯罪が成立するのかもしれない。この考えは私を安堵させると共に私を奇妙に興奮させた。これは矛盾した感情だった。殺人を手伝わされるのが嫌だと思っていたのに、私の中の暗い部分がBの思い切りのいい復讐劇を気持ちよく思っている自分がいる。暑い夏にソーダを飲んだ時のように、スカッとするのだ。
 エイミーの(正確にはエイミーの中にいるBの、だが)反逆を世界は止めることが出来ない。
 最近、カウンセリングルームを訪れる生徒の数が増えていた。そして比例するように、私も最近、仕事にやりがいを感じている。こんな気持ちは久しぶりだった。
 私はカウンセリングルームを訪れたBに聞いた。
 「ねえ、ちょっと思いついたことがあるの。Dはどうやって売春の客を取っているの?」
 まさか今の時代にストリートで立って客を探すだけが方法ではあるまい。もっと効率の良い方法があるに違いない。
 「知らねえけど、SNSとかでアカウントを作って色々漁ってるんじゃねえか」
 「そうよね。そのアカウントを見つけたいのよ」
 Bは携帯を操作して「これ見ろ」と言った。世界で一番有名なSNSにログインした形跡があるようだ。どうやらアカウント登録しているらしい。
 「これはエイミーのアカウントではないの?」
 「AがSNSでチマチマ友達を増やすような社交的なタイプじゃねえのはお前だって知ってるだろ。こんなもんにアカウントを作るとしたら、それは間違いなくDがやったことだ」
 Bはしばらくいじった後舌打ちをついた。
 「登録しているのは間違いないが、パスワードがわかんねえ。Aにバレないようにしっかりログアウトしてるんだ」
私は携帯の画面を覗き込んだ。4文字以上のパスワード。
 「……そうだ」
 私はDianaと入力してみた。すると、ログインに成功した。
 Bは無表情で、ほとんど無防備に椅子に座って私を見ている。私が何をするのかを聞くこともなく、協力してくれた。
 私はBを見て、ふと、私を疑わないのだろうかと思った。私が恐怖心からBを裏切り、警察に全てを話すことを恐れないのだろうか。私は信頼されているということかしら。この信頼という言葉は思いもかけず私に甘く響いた。そうか、Bは私を信頼しているんだ。この乱暴者のBが、私を信頼しているんだ。
 「何をにやけているんだ。気持ち悪いババアだな……」


 
 私は架空の男性を演じてアカウントを作成し、Dにコンタクトを取った。買春したい旨を書いてダイレクトメールを送れば返事はすぐに返って来た。
 『明日の夜、7時に◯◯橋で待ち合わせしよう』
 待ち合わせの約束を取り付けた後、私は友人に電話し、学校の演劇発表に必要だと言って一日だけ大型犬を貸してもらう約束をした。その犬は『強き女』で大富豪にけしかけられてダイアナを犯した犬と同じ犬種だった。
 当日、私は待ち合わせの場所から少し離れた場所で犬と共にDを待った。よく躾けられた犬は吠えることもなく大人しく私のそばにいる。
 エイミーが来た。おどおどとしたエイミーとは似ても似つかない、腰を左右に振るような歩き方でこちらまでやってくる。間違いない、あれはDだ。橋の袂まで来ると、携帯をいじる。
 『今着いたよ。どこ?』
 手元の携帯でSNSのメッセージがDから送られてくる。『悪いけど、10分ほど遅れる』と返事を返した。
 私は犬に小声でおすわりを命じ、待てと言って静かにそこを離れた。犬は大人しくその場で待っている。
 私はなるべく何気無い風を装って、Dの前に現れた。
 「あら、エイミーじゃない。どうしたの、こんなところで」
 「あんたか……アタシはAじゃなくてDだよ。客を待ってるとこなんだ」
 Dは私が偶然通りかかったと信じ、疑っていないようだった。
 「Dというのは、ダイアナの頭文字なの?」
 「なんで、あんた、それを知ってるのさ……」
 「ダイアナ、それがあなたの本当の名前ね?」
 「………」
 Dは黙り込んだ。
 そこで私は指笛を吹いた。Dが、いや、ダイアナがギョッとしたような顔で私を見た。
 指笛に呼ばれて、従順な犬が走ってこちらに近づいてくる。それを見たダイアナの顔色が変わった。
 「いや……!」
 ダイアナが悲鳴をあげてその場から逃げ出そうとする。私はその腕を掴んで羽交い締めにした。ダイアナは抵抗するが、私は必死で
 「やめて、放して……!」
 犬は人なつっこい様子でダイアナに近づく。これ以上ないほど顔を歪ませるダイアナの顔を舐めた。
 「ひいっ! 嫌だ!」
 ダイアナの声にならない悲鳴。
 「やめて、やめて!!」
 どれぐらいその状態が続いただろう。ダイアナの体からふっと力が抜けた。気絶したように、いくら揺すっても反応しなくなった。
 「ダイアナ……ダイアナ、大丈夫?」
 私は動かなくなったエイミーの体を前に途方に暮れた。
 どうしよう。まさかここまでの反応が返ってくるとは思わなかった。
 「Dがいなくなったよ、先生」
 急にCの声がして、エイミーの体が起き上がった。Cは淡々とした口調で続ける。
 「今、この体からDの反応がなくなったのを感じた。彼女は『死んだ』んだ」
 「……本当なの?」
 「うん」
 本当に死んでしまった。こんな方法で本当に殺せると思っていたわけじゃない。ただ、映画の中のダイアナとエイミーの中のDが同一人物なのかを確かめたかっただけだったのに。
 「僕たちはエイミーの中にいる人格の一つに過ぎないんだよ。精神的に死んでしまったら、それがイコール人格の死さ」 
 私は絶句した。私はDに本当にひどいことをしてしまった。
 「ごめんなさい、私……」
 「……」
 Cの深い目が私を見る。
 「僕も悲しいよ。Dは小さい時からずっとエイミーを守ってくれていたからね。だけど最近は、Dの行動がエイミーに害を与えるようになっていた。ほっとしているのも本音だ……」
 私たちはそのまま、しばらく無言で佇んでいた。




 数日後。廊下を歩いていると、エイミーが近づいてきた。主人格のエイミーは相変わらずおどおどとしていたが、表情が心なしかいつもより明るい。
 「先生、最近体が軽いんです。体がいつも疲れていた感じがなくなったと言うか……」
 「それは良かったわ。きっとストレスが減ってきているのね」
 正確には、Dが売春をやめて『肉体労働』が減っているせいだろう。
 そのまま世間話をしていたら、急にエイミーが白眼を向いた。これは人格変更の合図だ。エイミーは顔をあげて私に顔を近づけると、低い声で言う。
 「この体からDの気配がまるでなくなった。これはお前がやったのか?」
 「ええ。偶然だったのだけど、本当に殺してしまったわ」
  Bだった。私はBにDを殺した経緯を簡単に説明した。
 「よくやったな、マツダ」
 Bは珍しく素直に私を褒めた。Bが私の名前をまともに呼んだのはこれが初めてだった。
 その顔がいつも以上にぎらぎらと輝いている。私のやったことは間違っていなかったと思おう。色狂いの娼婦の人格なんて、誰も必要としない。性病のリスクや妊娠のリスクはエイミーをも脅かしかねない。しかし、Bの次の発言に私は複雑な気持ちになった。
 「これで邪魔な赤ん坊と不気味なCを殺せるな。俺がこの体の王になる日も遠くないってわけだ」
 Dの存在する弊害が明らかであったから彼女を殺すことにはあまり抵抗がなかったけれど、赤ん坊の人格であるEや、Cを殺すとなると話は別だ。平気で殺すなんてことが出来るはずがない。
 「でも……別に殺し方がわかったっていうわけじゃないのよ。苦手なものに触れさせたからって、全ての人格が死ぬとは限らないし」
 「関係ねえよ。殺せるんだって分かったことだけでも俺には収穫だ」
 当然ながらBは思い留まる気なんかさらさらないようだった。
 「Dの人格がダイアナという映画の登場人物をモデルにしていると知ったのが大きかったわ。人格のモデルを知ることが大きな鍵になるのかもしれない」
 「なるほどな」
 「そういえばあなたは自分が何がモデルになっているのか知っているの?」
 「知らねえ。だが生まれた時のことははっきり覚えている。俺はAの中にいた。その前のことは覚えてねえ。その時から、『邪魔な奴らを全員始末してやる』っていう考えだけを持っていた。ま、それが俺の『役割』ってことなんだろうな」
 なるほど、モデルとなったキャラクターの記憶があるわけではなく、これまでのエイミーの記憶だけを共有した状態で新たに生まれてくるようになっているらしい。
 「ともかく引き続き観察を続けて、何か分かったらすぐに俺に報告しろよ」
 「分かったわ」
 私は頷いた。



 最近、仕事も何もかもが充実している。仕事帰りにデパートに寄って服を見る。クローゼットの中に新しい服が増えている。
 「我が校が色眼鏡で見られるこの時期だからこそ、職員の皆さんには自覚ある言動をお願いしたいと思い……」
 校長は私の方をちらりと見ながら続けた。
 「えー、最近職員の中に派手すぎる格好をしている人が何人かいるようですが……適切な服装というものを心がけて欲しいですな」
 「大丈夫だから気にしないで」私の隣に座っている同僚が小声で囁いた。「最近のあなた、おしゃれでとてもステキよ」
 私は昔からこのパイパーという同性の同僚を敬遠していた。かなり小柄で早口で喋る国語の教師だ。童顔でちょこちょこと動きが速いものだから、妖精のような印象を与える。私は彼女のことを意図的に避け続けていた。彼女と喋れば女はすぐに群れるとか、噂話が好きとか、とにかく色々なもっともらしい理由でハゲ校長がケチをつけたがるに違いないから、というのは理由の一つ。でも何よりも大きな理由は、私より5歳年下なのに、すでに10歳になる息子がいたからだった。
 彼女がここに赴任したばかりの頃、昼食を共にしたら、彼女は子育てがいかに大変かを昼休み中喋り続けた。子供が出来ない私にはそれを聞くのが苦痛だったーー彼女がわざと自慢をしているのではないかと思えるほどだった。考えてみれば彼女は私の事情を知らないのだから、自慢などしているはずがない。被害妄想というやつだ。
 子供が出来ないと分かってから、私は無意識に子供の出来た友人を避け始めた。子供中心の生活を送っている友人と子供のいない私ではどうしても話が合わなくなってくる。そうしているうちに、年齢と共に少しずつ友人は減っていき、今では一人もいなくなってしまった。孤独を意図的に選んだわけじゃない。傷つかないように行動していたら、職場と家を行き帰りするだけのこの生活に落ち着いてしまったのだ。
 しかしそれも、変わるべき時がきているのかもしれない。
 「一緒にお昼を食べない?」
 お昼時、私はカフェテリアで彼女に話しかけた。パーパーは快諾してくれた。
 「嫌になっちゃうわ、あの校長。この服のどこが派手だって言うのよ。ねえ」
 彼女は笑った。
 「私、あなたがあんな反抗的な人だとは思わなかったわ。ずっとあなたは校長の手先だと思って敵視していたのよ。彼の言うことになんでも『ハイ、ハイ』って従うから」
 「そんなことあるわけがない。職を失いたくないから従順なふりをしていただけ。心の中でははらわた煮え繰り返っていたわよ」
 私たちはそれから色々なことを話した。これまでほとんど話したことのなかった彼女とは意外なほど気が合った。
 「もうあんな男に従うのが嫌になったなら、新しい仕事を見つけたらいいじゃない? カウンセラーの資格があるんでしょう?」
 「この町の中では無理よ。カウンセラーの仕事なんてそう多くはないんだから」
 「じゃあ、この町から出て行けばいいじゃない」
 彼女はなんでもないことのようにそう言った。
 この町から出る。そんなことは、長い間考えたことがなかった。ここで死ぬまで暮らしていくんだと思っていた。だけど奇妙なことに、それは同時にずっと望んでいたことのような気もした。それはとても魅力的な考えだった。この町から出ていく。
 



 「あー、マツダ先生。入ってもいいですか」
 カウンセリングルームで多重人格についての本を読んでいたら、扉の向こうから同僚の声がした。数学の教師だ。
 「はい、どうぞ」
 彼は気まずそうな顔で中に入ってきた。その隣にはエイミーがいる。目が真っ赤に染まり、何度もしゃくりあげているところを見ると、どうやらEのようだった。
 「授業中に指名したら、急に泣き出してしまったんです。理由を聞いても答えないし、困ってしまって。マツダ先生ならなんとかしてくださるかと思いまして」
 「難しい年頃ですからね。色々と悩みを抱えているのかもしれません。私が預かって話を聞きますよ」
 「助かります。じゃあ、私は授業に戻りますので」
 教師はそそくさと出て行った。厄介払いができて嬉しそうだ。
 「E、授業中に泣いたりしたら、周りの人がびっくりするでしょう?」
 「だって…だって…悲しいことを思い出したんだもん。Aが悲しいことを思い出したら、Aが悲しくならないように、あたしが出るようになっているんだもん」
 「そう……そうよね」
 それにしても、授業中に泣き始めると言うのは問題だ。もしエイミーの問題行為が報告されたりして、精神科に診せることになったら大変だ。Bと私のしたことがバレるリスクが跳ね上がるからだ。エイミーが多重人格であること、エイミーを含め他の誰にも知られてはならない。
 Eを殺す……その考えが湧いてくる。
 それから三十分ほど経っても、Eは泣き止む気配を見せなかった。
 「……絵本でも読みましょうか?」
 私は本棚から子供向けの本を取った。
 「悪者をみんなやっつけた王子様とお姫様は、お城で末長く幸せに暮らしましたとさ」
 物語が終わった頃、Eはようやく眠りについた。ため息をつきながら頭を撫でる。あやすのにこう毎回時間がかかっては疲れてしまう。
 私は次の日、パイパーに話しかけた。
 「ねえ、あなたに、子供のあやし方のアドバイスを貰いたいのよ」
 子供に関することは母親に聞くに限る。
 「あれ? あなた子供はいなかったんじゃなかった?」
 「ああ……ええと、姪よ、姪」私はとっさに嘘を言った。「姪の子守を任されているんだけど、これがなかなか手のかかる子でね」
 「幾つなの?」
 「ええっと……4才、かしらね」
 Eは赤ん坊ようだとはいえ乳幼児というような感じでもないし、おそらく小学校就学前ぐらいだろうと見当をつけた。
 「泣き虫でね、一度泣き出すとなかなか泣き止まなかったりするのよ。どうしたらいいと思う?」
 「うーん、そうねえ。子供によって違うのかもしれないけれど、うちの子がそれぐらいの年齢の時は猫がとても役に立ったわ。猫と遊んでいるうちは静かにしててくれてね」
 もちろんカウンセリングルームに動物を連れ込むわけにはいかない。
 「ペットねぇ……うち、ペット禁止なのよ」
 「じゃあ、魚でいいんじゃない? 友達の子供なんかはアクアリウムを買ったら子供がそれに夢中になったって話を聞いたわよ」
 「アクアリウムか……」
 それだったら手を出しやすいかもしれない。
 「子供って手が掛かるわね。全然自分の思い通りに動いてくれないんだもの。世のお母さんたちを尊敬するわ」
 「あなたは自分の子供持たないの?」
 「……私は子供が産めない体なのよ」
 「あら、だったら養子をとればいいじゃない」
 子供が産めないことを同情されるのかと思ったら、パイパーは意外にもあっけらかんとそう言った。
 「下手に実子よりもいいかもしれないわよ? 養子なら性別だって選べるしね。私はずっと女の子が欲しかったけど、男の子が生まれたらそれを受け入れるしかないもの」
 そういう考え方もあるのか。
 「あなたって子育てに向いてると思うわよ。だって、その姪の話をする時、なんだか生き生きとしてるもの」
 私は早速インターネットで簡単に飼える魚を調べた。すると、餌をほとんどあげなくてもいいという飼育が簡単な小魚があることを知った。たとえEが興味を示さなかったとしても、これだったら手間を取ることもなさそうだ。
 私は早速その小魚を買った。
 「E、これを見て」
 私はEの前に魚の入った水槽の前にEを連れて行った。
 「これ、なに? お魚……?」
 Eはそのままずっと魚の動きを眺めていた。もちろん、その間は泣き止んでいる。まさかこうも簡単に行くとは思わなかった。
 「Eも私と一緒に魚の世話をしてね。世話をしなくちゃこの子達は死んでしまうから……」
 「シンデシマウ? シヌって、なに?」
 Eは無垢な目で私を見つめた。まだ小さすぎて『死』という概念を知らないのか。
 「『死ぬ』っていうのはね……」
 私が説明しようとした時、Eが急に白目を剥いた。人格が交代するようだ。出てきたのはCだった。
 「Eの子守をしてくれたみたいでありがとう」
 「随分、急に出てくるのね」
 この印象はおそらく間違いじゃない。Cはわざと表に出てきたのだろう。Cは曖昧に笑う。
 「単刀直入にいうけど……Eが問題になりつつあるわ。授業中でも関係なく人格の交代が起こって、Eが泣き始めるのよ。こんな様子じゃ周りから怪しまれるわ。どうにかならないの?」
 「Eが出てくるようになったのは、近頃エイミーが精神的に不安定になっているからだ。いじめっ子たちがみんな行方不明になって生活が激変したからね。だけど、心配する必要はない。学校からは主要ないじめっ子たちがいなくなったから、Eが赤ん坊のように泣いたからってエイミーが前みたいにいじめられることはない」
 Cはどこまでもエイミーのことを中心に考えている。そう思うと妙に腹が立った。
 「でも多重人格のことを他の人に勘付かれたらどうなると思ってるの? Bがいじめっ子たちを始末したことだってバレるかもしれないのよ」
 私は軽く深呼吸して言った。
 「私はDのようにEを殺すことを検討してもいいと思っているの」
 「……あの罪のない小さな子供を本当に殺すと言っているんだね、先生」
 Cの声には明確な批判の色が含まれていた。
 「でも変だね。あなただってEの世話を楽しんでいるように見えたのに」
 「……」
 「それでもEを殺すとすれば、……Bのためなんだね?」
 Cは核心をついた。彼はいつでも私の全てを見透かしている。私は何も答えなかった。



 Eを殺すべきか、殺さないべきか。今日もカウンセリングルームに来て遊んでいるEのあどけない顔を眺めながら私は考えていた。
 「せんせい、出来たよ」
 画用紙に一心に何かを描きつけていた手を止めて私のところに持ってきた。
 私は目を細めた。まっすぐ私に向かってくるEの様子は可愛らしかった。私にもし子供がいたら、どれほど可愛がったことだろう。
 『だったら養子をとればいいじゃない』
 不意にパイパーの言葉が蘇ってくる。
 『養子なら性別だって相性だって選べるしね』
 子供を持つなら、男の子がいい。ずっとそう思っていた。
 『女は生まれつき男より能力が劣っているんだ。男の肋骨から作られた不完全な存在、それが女なんだ。女は男のなりぞこ内なんだ』
 ああ、父の言葉がいまだに私の身体中に染み付いている。
 Eの描いた下手くそな絵の中には少年と少女が一人ずついた。
 「これは誰?」私は聞いた。
 「エイミーと私だよ」
 私は首を捻った。話し方を聞くにEは女の人格だと思っていたが、男の人格だったのだろうか。
 「私たち、前はよく遊んでたの。とても仲が良かったの。エイミーはもうどこかに行って会えなくなっちゃったけど」
 「……これがあなた?」
 私は絵の中の短髪でズボンを履いた男の子を指差して聞いた。
 「ちがうよ、それはエイミー」
 「エイミー……?」
 絵に描かれた男の子のような風貌のエイミーは笑っており、今のおどおどしたエイミーとは似ても似つかない。エイミーは昔こんなにボーイッシュだったのだろうか。考えを巡らせていると、Eが「あ!」と大きな声で叫んだ。いつの間にか私の側から離れて魚の水槽を眺めている。
 「魚さんが1匹白くなっているよ。動かないよ。どうして?」
 中を見ると、1匹の魚がひっくり返って水面に浮かんでいた。いつの間にか死んでしまったようだ。
 「かわいそうに、死んでしまったのね」
 「シンデシマッタ?」
 「ああ、死ぬっていうのは……永遠にいなくなることなのよ」
 「エイエン、ってなに?」
 Eが無垢な瞳で聞く。
 「明日も、明後日も、何ヶ月経っても、何年経っても、ずっと戻ってこないっていう意味よ」
 「だけど、魚はまだここにいるよ。いなくなってないよ」
 「いなくなっていないように見えるかもしれないけど、もうそこにはいないの。それが死ぬって言うことなのよ」
 Eはハッとした顔で私を見た。Eは無言になり、彼女らしくない固い表情をしている。
 「……エイミー………」
 Eは泣き始めた。泣き声がどんどん大きくなっていく。
 「泣かないで。生き物はね、みんないつかは死ぬものなのよ」
 「じゃああたしも死ぬの?」
 「……そうよ。あなたもいつか死ぬわ」
 「いつ死ぬの?」
 「分からないけど……エイミーが死ぬ時にはあなたは確実に死ぬでしょうね」
 「エイミーが死ぬ時に、私も死ぬの?」
 「そうよ」
 私が頷くとEの顔色が目に見えて変わった。そしてより一層激しく泣き出した。
 「どうしたの、E? 怖くなったの? 大丈夫よ、怖がらなくったって人はみんな死ぬんだから……もちろん私だって死ぬのよ。さあ、泣き止んで」
 「だって、こわい……だって、エイミーが……!」
 抱きしめると、Eは震えていた。胸の中に母性本能と同化した使命感が湧いてくる。やっぱりこの子を殺すなんてことは私には出来ない。Bは恐ろしいが、彼に話をして、なんとかEと共存出来ないかどうか聞いて見よう。
 「死ぬのは、痛いの? 私が死ぬ時、痛くなるの?」
 Bの不安は私にも覚えがある。私も小さな時、死ぬことが怖くて怯えた。子供と一緒にいると、忘れていた小さなことを思い出す。
 「いいえ。あなたが死ぬ時は、きっと眠る時と全く同じように、とても平和な気持ちで死ねるわ」
 そう言うと、Eはようやく安心したような表情を見せた。
 「だから怖がらなくていいのよ」
 私はEの柔らかな髪を撫でた。



 「Eを殺さないでいることは出来ないの?」
 私がそう告げると、Bは露骨に顔をしかめた。
 「だってあの子はほんの子供なのよ」
 「お前の甘さには吐き気がするぜ。あんな爆弾のような赤ん坊が中にいたら邪魔で仕方ねえよ。自由な生活もクソもあったもんじゃねえ」
 Bは近くの石を蹴飛ばしながら言った。
 「まあ子供を殺すのにどうしても抵抗があるって言うなら、Eは後回しでいいからCを先に殺せよ」
 Cを殺す。それも考えられない。ひょっとするとEを殺すことよりも抵抗があるかもしれなかった。Bは私の考えを見抜いたのかこう言った。
 「忘れるなよ。俺はお前の人生を破壊することが出来るんだからな」
 「………」
 Bの脅しは前とは違ってそれほど恐ろしく感じなかった。それは単純にBの性格に慣れたせいもあるかもしれないが、Bにとって私が不可欠な人間と分かっているからだった。
 そう、私はBの計画に必要不可欠な人間だ。Bには行動力があるが他の人格には干渉出来ない。人格の殺害には第三者が必要だ。『私』が必要なのだ。
 「あなた自身はCと話したことはあるの?」
 人格同士はコミュニケーションを取れるのだろうか。疑問に思って聞いてみる。
 「ない。基本的に表に出てない時は眠っているような感じだ。Cだけはなぜか全ての記憶があるみたいだがな」
 「あなたはいつからエイミーの体の中にいるの?」
 「Aが15の時だ。4つの人格の中では俺が一番遅く生まれた。俺が生まれた時はもう他の人格は全て揃っていた」
 「そうなの」
 「いいか。俺がどうして生まれたのかなんてどうでもいい。どういう理由があろうが俺は生まれた。そして生まれたからにはこの人生を楽しむ権利がある。その為に邪魔な奴は消させてもらう。それだけだ」
 



 その後、エイミーがぷっつりと学校に来なくなった。もう三日も会っていない。Bの計画に無理やり加担させられたあの日から、人格はどうあれエイミーに会わなかった日はなかったのに。私は心配になって家まで訪ねてみることにした。
 エイミーの家は治安の良くない地区にあった。近隣の家の芝生は皆枯れ果てて茶色に変色してしまっている。見るからに健康的な生活をしている区域ではない。エイミーの家のベルを鳴らすとアルコールの匂いをプンプンとさせながら、隣の部屋から中年の女が顔を出した。
 「うるせえなあ。隣の娘を探してんのか?」
 「あ、はい……」私は彼女の異様な様子に圧倒されながら答えた。「私エイミーの高校で教師をしているマツダと申します。エイミーが急に学校に来なくなったので伺ったんですが」
 「あの子はいないよ。いきなりオレゴンに行くとかわけわかんないこと言いながら家を飛び出してった」
 「オレゴン……?」
 オレゴンはここから途方もなく遠い。到底高校生のエイミーが無計画に行くような場所ではない。
 「どうしてエイミーがオレゴンに行ったかご存知ですか?」
 隣人は顎のあたりをぽりぽりと掻いた。
 「そういやだいぶ前に父親から父方の親戚はみんなオレゴンに居るんだって聞いたことがあるよ。親戚に会いに行くんじゃない? 泣き喚いて宝よくわかんなかったけど、『エイミーを探しに行かなくちゃいけない』とか言ってた。同じ名前の従兄弟でもいるのかね?」
 これで間違いない。オレゴンに行こうとしてるのはEだ。
 「どうやって行くつもりなのかと聞いたら、歩いて行くとか言いやがんのさ。歩いて行くなら一ヶ月はかかるって教えてやったら赤ん坊みたいにピイピイ泣きやがって」
 幼い人格であるEにはオレゴンがどれほど遠いかもわからないのだろう。
 本来なら大人であるこの女性に止めてもらいたかったところだが、見るからにアル中のこの女性に常識的な対応を期待するのは無理か。
 「ありがとうございます。私、エイミーを探しに行かないと」
 私はそう言って去ろうとしたが、話し相手に飢えているのか、女性はなおも話を続けようとする。
 「前から思ってたけど、あの子は頭がいかれてるよ。ある時は愛想がいいかと思えばある時は平気で私を無視する。今流行りの躁鬱病ってやつだね、間違いない。でもかわいそうにも思えるね。早くして母親が死んで、父親も仕事でほとんどいないし。性格が歪んじまったに違いないよね……」
 「すみません、急いでエイミーを保護しなくちゃいけませんから……そろそろ行かなくちゃ……」
 早口の彼女を遮って話しを切り上げると、彼女の顔が歪んだ。
 「なんだよ、親切に答えてやったのにお礼の一つもなしか」
 「あ、ありがとうございました」
 慌てて礼を言うが、彼女はより一層眉間のシワを濃くした。
 「アホか。お礼って言ったら金に決まってんだろうが、このアバズレ!」
 隣人の罵声を背中で受けながら私はその場を後にした。
 この近くには空港は一つしかない。私はすぐにそこへ向かった。空港中をくまなく回ったが、エイミーの姿は見当たらなかった。
 「高校生ぐらいの女の子を見ませんでしたか」
 私は空港の職員に聞いて回った。六人目の警備員らしい男性がそれらしい女の子を見たとのことだった。
 「泣きながらオレゴンに行かなくちゃいけない、飛行機を取ってほしいと言ってきたよ。飛行機を取るのにお金がいるってことも分かってなさそうだったから、こりゃ精神病かなんかだって適当にあしらってたんだけどな。しばらく粘ってたけど、肩を落として去って行ったよ」
 私はそれを聞いて日が暮れるまで周辺を探した。そして、空港から一時間ほど歩いたところにある小さな公園で、座り込んでいるエイミー……いや、Eを見つけた。服はボロボロになり、疲れ切っているのが一目で分かった。
 「やっと見つけたわ」
 「先生……」
 私を認めるとEの顔が少し緩んだ。頰には無数の涙の跡があった。もう泣く元気も残っていないのだろうとすぐ分かった。
 こんなになるまで他の人格は何をしていたのだろう。BでもCでもいいから交代していればすぐにこの惨状に気が付いたはずだ。つまりEはこの期間ずっと交代せずにいたということだ。
 私はEの体を抱きしめた。
 「心配していたのよ。一体何をしていたの?」
 「オレゴンに行かなくちゃいけないの」
 「……どうして?」
 「エイミーが死んでるかもしれないの。エイミーが大丈夫かどうか確かめないといけないの……でもね……本当は確かめにいかなくたって分かるの。エイミーは死んだの。先生が死ぬってことを教えてくれた時にわかった。エイミーが『死んだ』なら……」
 Eは震えるため息をついた。
 「エイミーはそこにいるままなのに、エイミーに会えなくなったのも、全部わかった」
 私は混乱した。Eが何を言っているのか分からない。
 「……あたしすごく眠たいの。きっとあたしも死ぬんだ。エイミーが死ぬ時にあたしも死ぬんだっていってたもん。あたし、いま、死んでいってるの」
 「違う、エイミーは死んでいないわ。ここにいる。あなたと同じ体の中にいるのよ。だからあなたも死んだりしない」
 わたしは必死で言った。しかしEは穏やかにうなずくばかりだ。
 「うん……おきた時にまたはなそう。わたし、もうねむくてねむくて仕方ないから」
 Eは虚ろな目をして言った。そしてEはゆっくりと目を閉じた。それがEの最期だった。その時はEが眠っただけなのか本当に死んでしまったのか分からなかったが、後から出てきたCが、確かにEが死んだと教えてくれた。
 「Eが死んでしまった。あの子はエヴァの影だったのに……」
 「エヴァって?」
 「あなたには教えない」
 Cは静かに、しかしはっきりと言った。
 「あなたはEが勘違いして死んでいくのを黙って見ていたんだ。首尾よく進んでいるね、先生。Bのいいなりになって、DとEを殺した。次は僕を殺す?」
 「……あなたを殺したりなんかしないわ」
 本心だった。Cには、死んでほしくない。私は彼を友人だと思っているのだから。
 だけど、Bは認めないだろう。私がCを殺すように圧力をかけるだろう。……そうなった時、私はどうすればいいのだろう?



 エイミーは次の日から何事もなかったかのように登校して来た。私はすぐにエイミーをカウンセリングルームに呼び出す。
 「あなたに聞きたいことがあるのよ。エヴァっていう人に心当たりは知ってる?」
 「エヴァ? どうして?」
 エイミーは怪訝そうに言った。
 「この間あなたがカウンセリングルームに来た時に寝ちゃったことがあったでしょう。その時に寝言で『エヴァ』っていう人をずっと呼んでいたのよ」
 私はもっともらしい嘘をついた。エイミーは少し考えた後言った。
 「……ああ、そういえば、オレゴンに住んでる遠い親戚にエヴァっていう子が一人いたのを覚えています」
 「その子とは親しいの?」
 「いいえ、全然。小さい時にこっちに遊びに来ていた時に少し遊んだことがあるぐらいで、もう今は全然会うこともなくなりました。とにかくいつも泣いていた記憶があります。当時は悲しいときに素直に泣ける彼女が羨ましいって思ったこともあったなぁ……」
 エイミーは苦笑まじりに言った。Eのモデルは確かにその親戚のエヴァなのだろう。 エイミー本人も覚えていないような疎遠な存在が、人格のモデルになっているなんて不思議な話だ。
 「でも変な話ですよね。どうして関わりもない親戚なんかの名前を呼んだんでしょう……」
 「……人の無意識って不思議なものね」
 私は心からそう思った。

 「よくやったな」
 Bはこれまでの全ての経緯を聞いたあと、嬉しそうに笑った。
 「邪魔な赤ん坊も消えた。これであのうさんくせえCさえ殺せばこの体は俺のものになるんだ」
 「それと、Aね」付け加える。
 彼は目に見えて生き生きし始めている。邪魔者を全て片付けて、自分の望みどおりの人生を生きる、その日が近づいている。しかし喜ぶのはまだ早いだろう。
 「ここまではたまたま上手くいったけど、そう上手く行くかしら。Cは頭の切れる人だし、エイミーはこの体の主人格よ。今まで通り上手く行くかどうか……」
 それに、Cとエイミーを殺すのは私としても抵抗がある。エイミーはずっと悩みを聞いてきた受け持ちの生徒だし、思い入れがある。Cのことは気の合う友人だと思っている。
 しかし、それ以上にBの計画に対して感情が変わってきているのに私は気がついていた。もはやはじめの頃のように脅されて無理やり参加させられている訳ではない。私はこの破壊的な計画に惹かれている。この計画の結末を見届けたくなっているのだ。
 「その体が完全に自分だけのものになったら何を一番やりたいの?」
 「この町から出て行く」
 Bは即答した。少し拍子抜けな感じのする答えだった。Bの性格なら世界征服などと言ってもおかしくはないと思ったのに。
 「随分ささやかな願いね」
 そう言うと、言葉の中に侮蔑を感じ取ったのか、Bは不機嫌そうな顔をした。
 「生意気な女だな。この小せえ町にがんじがらめにされてる典型みたいなお前がそれを言うのか?」
 「でも本当にそう思うんだもの。いじめっ子たちをみんな殺して、自分の中の人格を殺して、やりたいことがそれだけなの?」
 「ふん」
 Bは少し何かを考えてから、こう言った。
 「……それが本当に簡単なことだって言うなら、お前がやってみたらどうだ。今から」
 「え?」
 「三時間以内に一歩でもこの町から出られたらお前の勝ちでどうだ。これ以上の殺しには巻き込まないでやってもいいぜ」
 「それ、本当なの?」
 「ああ。もし出来たら、お前は完全に自由にしてやるよ。その代わり出来なかったら、これからは一切文句を言わずに俺の言うことに従えよ」
 願ってもいない提案だ。そんな簡単なことでBの恐怖から解放される。
 私は時計を見た。仕事終わりにすぐに車に乗れば間違いなくこの町から出ていける。たとえ少しばかり残業になったとしても十分余裕を持てる時間だ。
 「乗るわ」
 「よし、これからぴったり三時間な」
 それから私は今日片付けるべき仕事をハイペースで終わらせた。さあ急いで帰ろうと言う時。同僚の一人がカウンセリングルームにやってきた。
 「マツダ先生、ちょっとこの生徒についてお話があるんですが……」
 ああ、もう。思わず舌打ちしたくなる。でもまあ、さっさと話を終わらせてしまえば余裕だ。私は最近学校を休みがちになっている男子生徒についての話を大雑把に聞いてから部屋を出た。すると廊下で今度は校長に出くわす。
 「おや、マツダ先生、急いでどうかされたんですかな」
 ああ。よりによってこんな時に会うなんて。
 「はあ、ちょっと……」
 「失踪事件のほとぼりもだいぶ冷めてきましたし、加害者と被害者の対話プログラムについて再度考えてもらいたいんですがな」
 「……またそのお話ですか」
 「このプログラムが成果を収めるのには時間がかかるのは承知の上です。私は先生の手腕を買っているからこそこうしてお願いしているわけです。マツダ先生のカウンセリングは生徒から評判がいいんですよ……」
 校長の見え透いたお世辞を受け流し、なんとか学校を後にした。しかし、まだ時間は余裕だ。今から車に乗れば十分間に合う。
 車に乗った時、携帯電話が鳴った。夫からだった。
 「まだ家に帰らないのか」
 「仕事が忙しくって……それからこの後、少し予定があるのよ。悪いけど今日は外で食べて来てくれない? 明日はしっかりご飯を作るから」
 「もうこれで何度目だと思っているんだ!」
 夫は声を荒げた。
 「君には付き合いきれない。今すぐ帰ってこなければ離婚だ。本当に離婚だからな」
 離婚……この言葉に冷や汗が出るのを感じる。
 父と別れられなかった母は『離婚』の履歴を作ることに怯えていた。私が離婚したと知れば、父はどう思うだろう。もし父があの世から私を見ていたら、また私を出来損ないの女というだろうか。私は時計を見た。あと一時間。急げば間に合う。
 「分かったわ。でも作る余裕はないから買っていくのでいいわね」
 夫はうなり声のような、投げつけるような相槌を寄越した。勿論、夫が自分で買いに行く方が早いことは分かっている。夫は私を罰するためだけに帰ってこさせようとしているのだ。
 私は急いで近くの中華料理屋に寄り、家に向けて車を飛ばした。
 「私、すぐに出かけるわね」
 買って来た夕食をテーブルに叩きつけると、私はUターンして外に出かけようとした。その腕を夫が掴む。
 「……お前、やっぱり変だな。なんでこんな遅くに女が出歩く必要がある? 最近、妙に格好が色気付いているのに気づかないと思っているのか?」
 夫は私にジリジリと近づいてきた。
 「証拠はまだないが、わかっているぞ。お前、浮気をしているんだろう」
 「何を言っているの? そんなわけないじゃない」
 時間がないのに。適当に受け流そうとしているのを感じたのか、夫は逆上して私の腕をさらに強く掴んだ。
 「ちょっと……! 私本当に行かなくちゃならないの……!」
 夫はすでに私の服を脱がし初めていた。私は抵抗した。その腕を夫は押さえつける。どうやら、私の抵抗が彼を余計に興奮させているようだった。
 長い時間が経って、行為は終わった。時計を見ると、Bの約束の時間から五分過ぎていた。家からやっと出られた時、そこには私を待っていたかのようにBがいた。
 「なんだ、お前。その格好」
 「これも妻の仕事の一つなのかしらね」私は自虐気味に言った。「夫がセックスしたい時に体を差し出すって言うのが……」
 「………」 
 「私、もう疲れたわ。もう疲れた。あなたの言う通りよ。私、この町から出て行く力すらない。……そうよ。この町から出て行く、なんて簡単なことが、どれだけ大変か……」
 私は我慢出来ずに啜り泣いた。Bは私の泣き言に対しては何も言わなかった。ただ「賭けは俺の勝ちだな」と告げた。
 「……そうね」
 「お前はどうかは知らねえが、俺はここから出て行くぞ。うざってえ他の人格どもからも、くだらねえ学校のゴタゴタからもおさらばだ。新しい土地で新しい生活を始めるんだ」
 そうだ。全てが終わったらBはいなくなるのか。そして私も元の生活に戻るのだ。変わり映えのしない、人の命令だけを聞く日々に……。
 不意に胸が締め付けられるような痛みを感じた。置いていかないでほしい。私も一緒に連れて行ってほしいと思った。
 「そういえば、俺の親父を殺す決行日は来週の日曜日だからな。お前にも協力してもらう。詳しい計画はまた明日……」
 「待って」
 「あ?」
 「タバコを一本ちょうだい」
 立ち去ろうとするBを私は引き留めた。Bは無言で一本寄越した。
 「お前がタバコを吸うとは意外だな」
 「一度も吸ったことはないわ」私はタバコに火を点けた。少し手間取ったが、なんでもないと言うように煙を吸い込む。「この町から出て行けなくても、タバコの一本吸うことは出来るのよ」
 これは私のささやかな抵抗だった。
 慣れていると言うように人差し指と中指で挟めば、不良になったような気分になる。
 Bの仕草を真似するだけで、何かとてつもなく暗く、強大な力を手に入れているのだと言う気がした。今までいつかはこの家から出て、この町からも出て行く。良いや、出て行くだけでは足りない。もっと遠くへ行くのだ……。



 「来いよ。俺の家を下見しに行くぞ。計画を教えてやる」
 次の日の放課後、Bは私を連れ出して自分の家へと連れて行った。ここにくるのは2回目だ。
 「……あなたの家にはEを探していた時に来たのよ。あなた達はひどい環境に住んでいるのね」
 「まーな。それとも後少しでおさらばだ」
 ギシギシと音を立てて階段を登り終えた後、Bは計画を説明した。
 「あいつは毎年職場の奴らが開くあいつの誕生会でベロベロになるまで酔って帰ってくるんだ。年に一回、この日は底なしで飲む」
 「計画はシンプルだ。あいつが帰ってくるのをここで待って、階段の上から思い切り突き飛ばす」
 酔って足を踏み外したことにすれば誰にも疑われないだろうとBは言った。
 「それで死んでくれりゃ儲けもんだが、もしそこで死ななくても大丈夫だ。気絶したあいつの体を二人がかりで屋上に運んで落とせばいい。酔っ払って屋上にタバコを吸いにきて、誤って落ちたと言うシナリオに変えればいいだけだからな」
 「なるほどね」
 単純だが隙がない。それなら事故に見せかけることが出来るだろう。
 「……これは元々はAが考えていた計画を俺が引き継いだ」
 「エイミーが?」
 あの臆病な子がこの計画を考えていたとは少し意外な気がした。
 「あいつは毎年誕生会で正体を無くして帰ってくる父親を見て、今年こそ階段から突き落としてやろうか、と考えていた。でもAにそんなことを実行するタマがあるわけがないから、俺がやっってやる」
 あの臆病なエイミーが殺意を抱くほどだ、よほど積もり積もった思いがあったのだろう。そして、自分の計画を実行させるために、Bと言う人格を無意識に作り上げたのだろう。
 しかし、誤算は生まれてきたBが想像よりも攻撃的で、並外れた行動力があったと言うことだ。Bは父親やいじめっ子たちを殺すだけでは飽き足らず、この体を乗っ取ろうとしている。エイミーもまさか自分が無意識に作り出した人格が自分を殺して体を乗っ取ろうとしているなんて夢にも思っていないだろう。
 Bは階段を降りて隅にある扉を開けた。そこは薄暗い小さな小部屋だった。
 「ここがあのクズ野郎がDとヤるヤり部屋だ。他の部屋よりも壁が厚くなってて外には声が漏れない。あのクズはAが子供の頃からそれを続けている」
 その暗い部屋を見ていると私自身の嫌な記憶が蘇った。
 「……じゃあこの部屋は、子宮なのね」
 私はぽつりと呟いた。
 「……はあ? どういう意味だよ」
 Bは片眉を上げて怪訝そうに私を見た。
 「ここがあなたが誕生した場所だからよ。ここでエイミーの心が傷ついたことで、あなた達が生まれた。……私の父もよく私をこんな暗い場所に閉じ込めたわ。言うことに従わなかったら罰だと言って何時間でも」
 Aの成績を取って来られなかった時、弟の面倒を見なかった時。ことあるごとにしつけと言って父は私を地下室に閉じ込めた。
 「ある時、閉じ込められながら私は思ったの。ここはお母さんのお腹の中なんだって。私は罰を受けてるんじゃない、暖かさに包まれているんだって、自分を信じ込ませようとした」
 それは一種の現実逃避だった。
 「ある意味正しかったのよ。あそこは子宮だった。あそこで今の私という人格は生まれたんだから」
良い子という私の人格はここで生まれた。人の命令を聞くことしか能のない私はあそこで生まれた。
 「だけど、時々思うの。私が生まれたことによって死んだ『私』がいたんじゃないかって。本当は……本当の私はどんな人間だったのかしら? ひょっとしたらまるで別の、今よりもずっと自由な私がいたんじゃないかしら? この恐ろしい子宮の中に閉じ込められることのなかった、本当の私はどんな人間だったのかしら? どんな人生を歩んできたのかしら?」
 エイミー。
 「あなた達を作ったエイミーの気持ちも、今は分かる気がするの。自覚がなかったけど、あなたが目の前に現れて分かった。私は、ずっとあなたみたいになりたかったのよ」



 金曜日の午後、Cが久しぶりにカウンセリングルームを訪れた。
 「デートしない、先生?」第一声からCは奇妙なことを言った。「この町を出て行こうよ」
 私はため息をついた。
 「あなたも見ていたでしょ。私にとってこの町から出て行くのは大変なことなのよ」
 「僕がなんとかするよ。旦那さんに電話させてくれる?」
 Cは
 「初めまして。マツダ先生の同僚のスミスと言います……」Cは急に大人のような喋り方をした。「最近マツダ先生が忙しい理由なんですが、家庭に問題を抱えている生徒の家庭訪問に行くことが多くなっているんです。ですから帰りが遅くなることもありまして……」
 淀みなく説明した後、Cは携帯を返す。
 「うん。大丈夫そうだよ。……それから、今から早退しておいでよ。叔母が倒れたとか、適当に理由を」でっちあげれば良い」
 私は言われた通りにした。意外なほど簡単に許可が下りた。 
 「さあ、行こう」
 私はCについて行った。車に着くとCは助手席に座った。
 「ハンドルを握って。あなたの行きたい所に行こう」
 行きたい所と言われても、とっさに思い浮かばない。結局、見慣れたこの沼にくることになったのだ。私はいじめっ子たちの死体を埋めた沼に来ていた。ここも隣町なので、町の外といえば外だ……。
 「明後日、Bと一緒に父さんを殺すんだね」
 Cは何気ないような口調で話を持ち出した。
 「まさか止めたりはしないわよね。私はエイミーを苦しめた元凶を殺すのだから。今度はあなたの考えとも食い違ってはいないはずよ」
 「どうかな」
 Cは肯定も否定もしなかった。 Cはこういう所がある。何かを聞いてもはっきりと答えずに煙に巻くのだ。
 「父さんがいなくなった方がエイミーの為になるってことのは分かっている。でも僕はそう口に出すことは出来ないんだ。エイミーは僕がそうすることを望んでいないからね」
 「………」
 「父さんがエイミーに酷いことをした時、僕はエイミーに言ったんだよ。なんとか今だけを耐えるんだって。そして大人になったらここを出て行こうってエイミーに言って聞かせた。そうすれば君は自由だからって。エイミーは僕にそう言って欲しがっていた。僕が、父さんを殺すなんてことを言ったら、僕はエイミーの信頼を失うことになる」
 「……あなたは不思議ね。悲しみを肩代わりするために生まれたE、性的暴力を耐えるために生まれたD、エイミーの持つ暴力的な願望を実現させるために生まれたB 。ある意味わかりやすい人格が揃っているけど、あなたの役割だけがまだ分からないの。そうやって彼女を元気づけるような言葉をかけるのがあなたに与えられた役割なの?」
 「僕に役割なんてない。ただエイミーは僕が必要なんだ。だから僕は消えるわけにはいかない」
 Cは珍しくはっきりと言った。
 「僕にBを止めることは出来ない。あなたはBを信じ始めている。好きになっているんだ」 
 Cの断定的な物言いに私はどきりとした。しかしCは意味深な口調でこう続けた。
 「……でも先生、あなたはいつかBに裏切られるよ」



 エイミーの父親を殺す予定日がやって来た。
 「あいつには長い長い借りがあるからな。返せるのが楽しみだぜ。緊張するか?」
 「緊張?」
 私は首を傾げた。これから人を殺すと言うのに、自分でも全く緊張していなかった。むしろ興奮すらしていた。今日を限りにエイミーの苦しみを終わらせられるのだと思ったからだ。
 「全然緊張していないわ。私、人を殺すのに慣れちゃったのかもしれない。あなたのせいよね」
 Bは笑った。
 「俺のせいなもんか。お前が悪い女になったんだよ」
 悪。ワル。それはこれまでの私の人生にまるで関わりのない言葉だった。しかし今、Bがその言葉を何気なく引き寄せ、私はかつてなくその言葉とつながっているのだと言う気がした。私の中の悪の細胞が騒いでいる。
 「まあ、とにかく泣いても笑っても今日だ。絶対に失敗はしねえぞ」
 Bは私とは対照的に、いつになく少し緊張しているような気がした。やはり同年代のいじめっ子女子を殺すのと、何年にも渡って自分の創造主に苦痛を与え続けた父親を殺すのでは緊張感が違うのかもしれない。
 私たちはエイミーの家に入り、二階の階段の物陰に隠れ、エイミーの父親が帰ってくるのを待った。
 「あいつは力が強い。不意をつけなかったら失敗するかもしれない。手を下すのは俺がやるが、もし俺がしくったら……」
 「きっと上手くいくわ」
 今まで何百回、いや、何千回もカウンセリングルームで生徒に言ってきた言葉で私はBを遮った。いつもは空っぽな言葉が、この上なく力強く感じられる。
 ふと、遠くから車を止める音が聞こえた。私は唾を飲み込む。
 「……ヤツだ」
 「ババア、しくるなよ。良いか。俺が失敗したらお前があのクズを殺すんだ」
 ガタガタと何かがぶつかるような音が少しずつ近づいてくる。
 「エイミー! クソ娘! どこだあ!」
 中年男性の下品な叫びが聞こえた。エイミーの父親の声だ。酔っ払っているのがすぐに分かる、抑揚のない喋り方。
 「いねえのか! おい、久しぶりに相手をしろよ。お前はそれしか能がねえんだからなあ!」
 汚い言葉だ。私の実家でこんな言葉を使ったらきっと両親に殺されるだろう。
 Bの顔がかつてない程強張っている。怒りと恐怖が彼の顔に浮かんでいる。嫌な予感が背筋を駆け抜けた。瞬時に不安が高まり、私は思わずBに話しかけそうになった。
 エイミーの父親がヨタヨタとした階段を登りきった所で、Bは飛び出した。しかし、タイミングが良くなかった。父親はその直前、Bの姿を認めていた。
 Bは思い切り父親の肩を押した。父親はよろめいたが、エイミーの細い腕では体格の大きい父親を落としきれなかった。父親はすんでのところでバランスを取り、その場に留まった。
 「何してやがんだ、てめえは!?」
 Bは父親が次の行動を起こす前に父親の腹に蹴りを入れた。
 父親は顔を歪めたが、Bの足を両手でつかんだ。そしてBを引きずり下ろした。二人はもつれあって廊下に倒れた。
 「お前が俺に逆らえると思ったか!?」
 父親はそう言ってすぐに手を挙げた。
 「体が少しでかくなって良い気になったか? ガキがっ。女のくせに、俺に敵うわけがねえんだよ!」
 Bが殴られる音が響く。自分のやりたいことを自由にやってのけた強いBが男に殴られている。私は心臓が痛むほど鼓動を打つのを感じた。
 父親は私の存在に気がついていない。
 Bを助けなくては。私が助けなくては。何か純粋な使命感が胸を満たした。
 この男を私が殺さないと!
 私は何も言わず立ち上がった。
 父親は私の影に気がついて、こちらを振り向いた。男は私の存在を認めると、どんな表情を作って良いのか迷ったのだろう、ほとんど笑顔のような戸惑いの表情を浮かべた。私は間隔を空けず思い切り男の背中を蹴った。
 「うっ……!」
 その隙にBが父親の下から抜け出す。そして父親をもう一度強く押した。今度は鈍い音を立てながら父親の体は階段を転がって行った。私はすぐにそれを追いかけた。父親の体はピクリとも動かなかった。
 「……頭を打って気絶しているだけね。まだ死んではいないわ」
 Bは降りてこなかった。その場に留まったまま、肩で息をしていた。呆然とこちらを見つめている。
 「B、どうしたの?……大丈夫?」
 Bの様子がおかしい。瞳孔が異常なほど開いている。どうしたと言うのだろう。
 「妙な感覚なんだ。前にもこれと全く同じことがあった気がする。あのクズ野郎にああして殴られて……この感覚はなんだ?」
 「そりゃあ、殴られた記憶があるのはおかしいことではないわよ。長年に渡って虐待されてきたんだもの」
 「いや……、違う。あいつの暴力やレイプを受けるのはDの担当のはずだから、俺が直接あいつの暴力を受けたことはないはずなんだ。なのに、どうして……」
 いわゆる既視感(デジャブ)と言うやつだろうか。Bは戸惑いを隠せないといった表情だった。
 「しっかりして、B。まだ終わってないの。まだあいつは死んでいないのよ。予定通り屋上に連れて行きましょう」
 「ああ……」
 私はBを奮い立たせて、重い父親の体を二人で持ち上げた。何度も死体の処理をしているおかげで、もう慣れたものだ。私たちは屋上に父親を連れて行った。
 「こいつには長い間俺たちは苦労させられたからな。感慨深い瞬間だぜ」
 転がそうとしたちょうどその時、父親の体がピクリと動いた。私もBも体を固まらせた。
 唸り声を出した後、父親は薄く目を開けた。
 「ああ……? なんだあ……?」
 状況を把握できていないと言う風に男は周囲を見渡した。
 「おはようございます、エイミーのお父さん。私はスクールカウンセラーのマツダです」
 「ああ……はあ……」
 ぼんやりとした口調で私とBの顔を交互に眺めている。
 「今からあなたを殺そうと思うんです。……あなたは長年、エイミーを……エイミーを傷つけてきたのだから、殺されるに値するんです」
 「はあ!?」
 殺すと言う響きにただならぬものを感じ取ったのか、男は上半身を起き上がらせようとした。しかし頭が痛むのか、「うっ」と声を出して頭を抑えた。
 「残念だな、ジジイ。お前にはここで死んでもらうぜ」
 「……お前、ここまで育ててやった恩を忘れたのか……エイミー」
 すがるようにエイミーと呼ぶ父親に嫌悪感が募る。
 「恩? 恩ですって? ふざけたこと言ってんじゃないわよ」
 Bが何かを言う前に私は父親を蹴った。父親は呻きながら腹を覆う。
 「でもあんたが……ただの学校のカウンセラーがなんで……エイミーとなんの関係があるんだ?」
 「そんなの、あなたは知らなくて良いことよ」
 私は今までの怒りを込めて父親の体を蹴った。何度も蹴った。そして、最後にトドメとばかりに足の先を押し込んで、彼の体を転がした。父親は無様に悲鳴をあげながら底へと落ちていった。大きな破裂音が聞こえて、父親が即死したのが分かった。Bと私は無言でハイタッチした。
 「ハハ。最高のショーを特等席で見られたな。見ろよ、あのきったねえ無様な姿」
 「本当ね」
 「ポップコーンとコーラを持ってこようぜ。あいつの死体を見ながら祝杯だ」
 娘をレイプするようなクズ野郎をこの手で成敗してやった。達成感があった。高揚感があった。人を殺したのに、自分は正しいことをしたのだという感覚があった。私はその感覚に素直に身をまかせることにした。
 Bはポケットからナイフを取り出し、自分の腕を真一文字に傷つけた。


クズその1(×)
クズその2(×)
クズその3(×)
本物のクズ(×)


 「外側の邪魔者は全員始末した。あともう少しだ」」
 「でも、これからしばらくあなたは忙しくなるわよ。あの男が死んで未成年のあなたが天涯孤独になったわけだから、まずは行政に保護されることになるでしょうね」
 現実的な話をすると、Bは急に渋い顔をした。
 「ああ……そういうゴタゴタがあるんだったな。面倒くせえな……」
 「殺したのがバレないように大人の前では少しは悲しむフリするのよ」
 「んなことは言われなくても分かってる」
 「……あなた、怪我してるわ」
 私はBの口から出た血に気がついた。私は親指でそれを拭った。
 「心配しないで。あなたが動けない時も私がエイミーとCを殺す方法を探すわ」
 「お前、いやに協力的になったな」
 「あなたが自由になるところを見届けたくなったのよ。これからのあなたの物語を私も見たくなったの」
 Bは無言で私の手を取った。そして聞いた。
 「お前の父親は死んでるのか?」
 「ええ」
 「じゃあ、一人だな。お前は幸運だよ。俺は三人も居たんだからな」
 掌を痛みが襲った。そしてBが私の手を離した時、掌には下手くそな文字が刻まれていた。

 『クズ』
 
 「お前もいつか夫を殺せば良い」
 彼の言葉は魔法のように胸の中に吸収されていった。私はその下手くそな文字を眺めた。ずっとずっと、飽きることなく眺めた。



 エイミーの父親が死んだというニュースは生徒たちのあいだで噂になることはなかった。エイミー自体に人気がないから、エイミーの父親がどうなろうが話題にもならないのだろう。教員たちの間では少し話題になった。
 「あの子、かわいそうよね。親しい友達もあまりいないみたいだし、お父さんは大切な存在だったでしょうね」
 パイパーはそんなことを言ったが、真相はその真逆だ。父親こそがエイミーの不幸の原点で、彼女はそれから今や完全に解放されたのだ。
 「あなた、カウンセリングしているんでしょう。力になってあげてね」
 「もちろんよ」
 色々な意味で、力になる。Bの力に。
 「マツダ先生」
 パイパーと私が話していると、校長がニコニコとわざとらしい笑顔を貼り付けて近づいて来た。
 「はい。なんでしょう」
 「エイミーが先生とのカウンセリングを熱望しているそうでね。先生以外のカウンセたーの前では一言も口を聞かないんだそうだ。そんな頑固そうな子には見えなかったが、まあ父親が死んでショックなんでしょうなあ」
 「私が定期的に訪問します。今後の彼女の身の振り方も含め、私が力になります」
 「頼もしいですな!」
 奇妙な気分だった。昔はこの男を嫌悪しながらも恐れていた気がするのに、今は全く恐ろしくない。
 カウンセリングルームにやって来たエイミーは穏やかな笑みを浮かべていた。Cだと私はすぐに分かった。
 「『良い子』はもう卒業だね、先生」
 皮肉を言っているのかもしれないが、穏やかな口調のせいかそのようには感じなかった。見ているだけで心が落ち着く、静かな目。静かな佇まい。いつものCだった。私は深呼吸すると、Cに言った。
 「私はあなたのことが好きよ。あなたは賢くて穏やかで、話していると楽しい。ずっと仲良くしていきたいと思えるような、良い友達だと思っていたわ。でも……、あなたは何もしないの」
 「………」
 「あなたはいつもそこにいるだけ。何もしない。エイミーを助ける為に生み出された人格なのに、何もしないなら存在している理由がないわ。彼は行動するわ。行動するからこうやって変化を起こせるの。やり方が正しいかなんて些細な問題だわ。彼を見ていたいの。彼がこれから歩む人生を見てみたいの」
 私は少し間を空けて言った。
 「だから……私、あなたを殺すわ」
 Cは何も言わずに、表情も動かさずに私の話を聞いていた。
 「それが先生の答えなんだね」
 「ええ」
 「僕はエイミーのそばにいる。あの子が僕を必要とする限りいなくなるわけにはいかない。僕も黙ってあなたに殺されるつもりはない」
 Cの穏やかな目がまっすぐ私を見据えた。静かな火花が散るのを感じる。
 私たちは今、友人から敵になった。私はBの為に、Cを敵に回す決断をした。私はBの為に、友人だった人を殺す。
 Cを殺すのは今までのように簡単にはいかないだろう。それどころか、こちらに不利な戦いになりそうな気がする。Cは賢い。油断した隙を狙えるような相手ではない。何より、Cには私の殺意を明確に知られている。



 今まで人格を殺してきたパターンを考える。Dは苦手な犬に接触させて精神的ダメージを負わせた。Eは自分は死ぬのだと信じ込ませて殺した。とにかく、Cがどんな人間がモデルとなって生まれたのかを確かめる必要があるだろう。Cの正体を探るためにいくらでも時間をかける覚悟をしていたのだが、それは拍子抜けするほどあっさりと判明した。それは次のエイミーとの面談の時に明らかになった。
 「……お兄ちゃん、ですって?」
 「はい。お兄ちゃんが手伝ってくれたから、お葬式もスムーズにいきました」
 流石に自分が手を下したとは思っていないにしても、エイミーは明るい表情をしていた。父親という重荷から解放されたからだろう。しかし彼女の口から兄の存在が出てきた時には驚いた。
 「へえ……、今まで聞いたことなかったわね。あなたのお兄さんってどんな人なの?」
 「ええと、お兄ちゃんは穏やかな人ですよ。クリスっていうんです。一緒にいると不思議と安心するというか……」
  何か腑に落ちない話だった。もし兄がいるならとっくに連絡がいっている筈だし、まずはじめにエイミーを迎えにくるはずだ。今まで私に彼の存在を話していなかったことも不自然だ。
 私は調査をして、オハイオにいるエイミーの親戚に電話をかけた。
 「はい、その話は聞きました。エイミーは大丈夫ですか?」
 「ショックは大きかったようだけど、今はなんとか立ち直っています。今日はクリスについて聞きたくてご連絡したんです」
 「クリス……ああ、エイミーのお兄さんですね。可哀想なクリス……」
 「可哀想って?」
 「まだ小さな時に川で溺れて死んでしまったんですよ」
 「そう……ですか」
 半ば予想した通りだった。エイミーは兄がすでに死んでいるにも関わらずまだ生きていると信じているということだ。私はふと思い立って聞いてみた。
 「ひょっとして、そちらにエヴァという子はいらっしゃいませんか?」
 「ええ、いますよ。私の娘です。代わりましょうか?」
 「……いいえ。大丈夫です」
 話をしたところで、私の知っている泣き虫の赤ちゃんのエヴァと同一人物ではない。殺してしまったことを謝ったところで、病気だと思われて終わりだろう。
 



 しかし、腑に落ちないことがある。エイミーが死んだ兄が生きていると誤信しているのが周囲に知られたら、きっとエイミーは頭がおかしいと思われてこれまでに強制的に精神科に連れて行かれていたはずだ。あの父親が病院に連れて行くことがないとしても、友人や教師によって必ず。これまで彼女はなぜそれを免れているのだろう。兄のことを話そうとするたびに、他の人格が出て止めていたのだろうか。
 そんなことを考えていると、カウンセリングルームの扉が開いた。穏やかな目をしたエイミーがそこに立っている。Cだった。
 「久しぶり、先生」
 「C……いや、ひょっとして、クリスと呼んだ方がいいかしら?」
 私はカマをかけてみた。Cは特に動揺した様子もなく頷く。
 「そうだよ、先生。ご想像通り、それが僕の名前だ」
 「やっぱり」
 「心配しなくても、僕の妹は本当の僕が死んでいるのにはとっくに気がついてるよ」
 Cは私が考えていた疑問を先回りしていたように話し始める。
 「エイミーは心の底では僕が死んでいるのに気がついてるし、僕の話を他の人にしたら狂ってると思われることは分かっている。だけど今は父さんが死んだばかりで混乱していて制御が効かない。先生に話したのは、エイミーがあなたをそれだけ信頼しているからだ。この人に話しても、自分の害になるようなことはしないと」
 「………」
 「そしてそれはある意味正しい。あなたは誰にも『クリス』のことを言いふらしたりしないし、エイミーを精神鑑定にかけたりもしない。でもそれはあの子の為じゃない。Bの為だ」
 「……そうよ」
 私は肯定した。
 クリスがいなくなった後、私はしばらく考えていた。
 クリスは明らかに私のことを警戒している。自分が殺されるのを防ぐ為にエイミーに私のことを忠告するかもしれない。あまり私に自分のことを話すなと……。
 『しかし、どうしてクリスはすでにそうしていないのだろう』
 自分が殺されるのを防ぐ為には、カウンセラーのマツダに近づくなとエイミーに一言言えばいい。そうすれば兄を慕っているエイミーのことだからすぐに従うだろう。しかしそれどころかクリスという兄の存在を無防備に話すほどエイミーは私に対して信頼を寄せている。



 それから一週間後、エイミーの今後が決まった。近しい親戚もいなかったエイミーは。地元の施設に引き取られることになり、この町に留まることになった。学校は無感動にエイミーの復帰を受け入れた。私はといえば、クリスの殺し方を四六時中考えている。
 思いついたのは基本的にはDを殺したのと同じ方法で、水をかける方法だ。クリスは水死した。では当然、クリスは水に対してトラウマがある筈だ。エイミーの作り上げたクリスに、実際の「死」の記憶があるのかは分からないが、試す価値はあるだろう。
 私は2リットルの水を隠し持って、エイミーが部屋に入ってくるのを待った。
 「こんにちは、マツダ先生」
 入ってきたのは肩を丸めたエイミーだった。
 「さあ、座って。今日はあなたの兄のクリスについて聞かせてほしいと思ってるの」
 「兄さんのことですか……?」
 「ええ」
 私はクリスについていくつも質問した。エイミーは素直に答えた。クリスが辛い時にどれだけ力になってくれたか。誕生日にクリスが欲しかったおもちゃを買ってくれたこと。エピソードをいくつも語ってくれた。しかし、気のせいではないだろう、具体的なエピソードは全て幼少時代のものだった。
 「お兄さんには、苦手なものってあるのかしら?」
 私はさりげない様子で一番聞きたかったことを聞いた。
 「苦手なもの……?」エイミーは少しキョトンとした顔をしたが、すぐに答えた。「ああ、そうですね、トマトが苦手ですよ。一度、母さんが無理やり食べさせようとしたことがあったんですが、全部吐き出しちゃって」
 私はこっそりと『トマト』と手元の紙にメモする。エイミーはクリスのことについては饒舌だった。
 「いつか先生も兄さんに会ってみてほしいな。きっと兄さんと先生ならいい友達になれると思うんです」
 エイミーは何気なく言った。ちくりと胸が痛む。一度は私たちは確かに友人だった。なのに、今、私はクリスを殺す方法を考えている。
 「僕のことが気になるみたいだね、先生」
 急に声のトーンが変わった。人格がクリスに変わったのだ。
 「エイミーにはあまり話して欲しくないんだけどね」
 「あなたが直接妹に注意したらいいんじゃない? マツダ先生とは話すなって」
 「………」
 クリスは何も言わずに私をじっと見た。その目に、今まで見たことのない不気味な色が宿っているような気がした。
 「忠告しておくけど、トマトが苦手だと知ったからって何にもならないよ。そんなので死んだりしないし、僕はあなたからもらったものを食べるなんてヘマはしない」
 私は唇を噛んだ。こちらの考えはすでに見抜かれている。しかし、駄目元でやってみよう。
 「でも、こういうのならどう?」
 私は言いながら、隠し持っていた水をクリスに思い切りかけた。クリスは顔を覆うようにしたが、そこで怯むどころか、体を起こして私の手首を思い切り掴んだ。
 「痛っ……!」
 私は強い力に締め付けられてペットボトルを落とした。
 「てめえは俺をナメてんのか?」
 低い声。私は驚いて顔を見た。凶悪な顔は穏やかなクリスとは似ても似つかない。いつの間にかBに人格交代していたようだ。
 「B?」
 「交代したと思ったらいきなり水をかけやがって。ふざけてんのか、てめえは?」
 「B、久しぶりね……」
 エイミーは学校に復帰してくるまでBは一度も姿を見せなかった。大した期間ではないのに、懐かしさで涙が出そうになる。
 私はそれからBに事情を説明した。Cの正体がエイミーの死んだ兄だったこと。彼が水死をしたので水をかけて殺せないかと思ったこと。
 「……それで、水をかけるのは失敗したわけだな。Cは俺に交代して逃げたと」
 「ええ。やっぱり一筋縄ではいかないみたい」
 私はBを見つめた。先ほどから心臓がドキドキとうるさい。私はそれを誤魔化すように質問をした。
 「ねえ、あなたは幾つなの?」
 「あ?」
 Bは一瞬、わけが分からないと言った顔で私を見た。
 「俺に年齢なんてねえよ。生まれたのは数年前……いや」Bは眉を寄せた。「違う。俺は17歳だ」
 断定的な口調だった。
 「……17歳だ」
 「エイミーと同じ年なのね」
 「……なぜだ? 俺は明らかに十七年も生きていない。なのにどうして自分が17歳だという確信があるんだ?」
 「きっとあなたの人格のモデルになった人やキャラクターが17歳なのよ、何もおかしいことはないわ」
 「でも他の人格には記憶があるはずだ。Dなら売春していた時の記憶。Cならまだ生きていた時の記憶。でも俺は、Aの中にいる記憶しかない。それなのに……」
 Bは納得のいかない顔をしていた。
「過去のことなんてどうでもいいじゃないの」私は夢を見るように言った。「あなたには未来があるんだから……自由で素晴らしい未来があるんだから……」
 Bは何も言わない。深い考えに沈み込んでいるようだった。若い肌は部屋の光を受けて、頬が艶めいている。美しいと思った。エイミーが魅力的だと思ったことは一度もない。しかし、体に入っている中身が変わるだけでずっと魅力的に見えるのだ。
 私は心の中で言った。
 Bはクリスを殺し、エイミーを殺す。その美しく若い体にふさわしいBがその体を支配する。自由になったBはこの町から出て行く。そして私も。そして私も、Bと一緒について行く。


 私は忙しかった。カウンセリングの予約が増えたので単純に仕事が忙しくなったし、その合間を縫ってクリスとエイミーを殺す方法を考え続けている。
 その日は家で催眠療法を特訓していた。クリスを殺すため、エイミーからもっと情報を引き出す目的で試してみようと思ったのだ。
 「何をやっているんだ?」
 夫が聞いてきた。
 「催眠療法を勉強しているのよ」
 「そうか」
 適当な返事。まるで興味をそそられていないようだった。当たり前だ、この男は私の仕事に興味なんかない。
 「そういえば、近いうちに別れてもらうわ」
 私は静かに告げた。夫は冗談だと思ったのだろう、乾いた笑いを見せる。
 「この間離婚すると言ったのは冗談だ」
 「あ私は冗談を言ってるんじゃないわ。私は別れたい。好きな人ができたから」 
 私が淡々と告げると、夫の顔は怒りで赤く染まる。
 「お前の厳格なお父さんも天国でどれだけ悲しむことだろうな。自分の娘がこんな不道徳でふしだらと知ったら」
 この男、これが脅しになると本気で思っているんだわ。こんな脅しで私が考えを変えて『反省』すると思っているんだわ。私が今まで縛られてきたものがどれだけ下らないものだったのか私はようやく気がついた。
 「お別れするわ。……近いうちにね」
 「認めないからな。絶対に認めないからな」
 夫はブツブツと何かを言っているが、私は無視した。この男に離婚する気がないなら、やるべきことはたった一つだ。私は惨めな夫を放って催眠療法の音声を再び聴き始めた。



 「……今日も、クリスの話をしたいのよ」
 「先生、この間から兄さんのことが気になっているみたいですね」
 カウンセリングでまたクリスの話を出すと、エイミーは少し困ったように笑った。
 「あなたにとって、お兄さんがとても重要な存在だと分かったから、彼を理解することがあなたを理解することに繋がると思ったの。それで今日はちょっと変わったことを試してみたいんだけど、いいかしら?」
 「催眠療法よ。最近催眠療法士の資格をとったの。あなたの無意識の中に入って、クリスとの過去なんかを探らせてほしいの」
 「催眠って、なんだか怖いイメージがあるんですが……」
 「大丈夫よ。この間資格を取ったばかりなの。催眠はとても効果のあると言われている療法だから、私を信じて」
本当は資格なんか撮っていないが、基礎を勉強したのは本当だ。これでエイミーの深層心理を探ることが出来るだろう。
 「リラックスして……あなたは10数える間にどんどん意識の深くに入っていきます」
 「………」
 数を数えるごとに、エイミーの呼吸が深くなっていくのが分かる。
 「………さあ、10。あなたは今、意識の最も深いところにいます……ここでは、あなたの心の中が全て見えます。普段は感じられない無意識の願望も、ここでははっきりと見ることが出来ます……」
 エイミーの呼吸は深く、一定だ。一瞬、眠ってしまっているのではないかと心配になる。
 「エイミー、聞こえますか?」
 「はい」
 すぐに返答があった。意識はあるようだ。
 「あなたの兄、クリスについて教えてくれる?」
 「はい」
 「クリスはあなたにとってどんな存在?」
 「兄さんは……私の救いです。この滅茶苦茶な人生で、たった一つの救い」
 「大切な存在なのね」
 「はい。……兄さんは頭が良くて、いつも私を導いてくれるんです。私にはわからないことも、兄さんは知っていて、いつもベストな選択を教えてくれる」
 「今まで、ずっと変わらずそうだったの?」
 「………」
 エイミーは黙った。表情に葛藤が浮かぶ。
 「………どうなのかな」
 エイミーは急に心細そうな声で呟いた。
 「兄さんは……昔と変わらず私のそばにいてくれるけど……私を助けてくれるけど……」エイミーは言い淀む。「昔……父さんが暴力を振るってきた時なんかは、二人で助け合ってたんです。『大人になったら自立して、この町を出て行くんだ』って、お互いを慰め合っていた。だけど……」
 「だけど?」
 「最近は兄さんが、遠いんです………兄さんの声が聞こえないんです。兄さんが私に話してくれることは理解できる。『こうするべきだよ』って言ってくれているのは分かる。だけど、兄さんと会話は出来ないんです」
 「それについてどう思う?」
 「寂しいです……とても寂しい……クリスは……何もしてくれないんです」
 「………」
 私が何も言わないでいると、エイミーの表情がみるみるうちに険しくなった。
 「そう……兄さんは肝心な時には絶対に私を助けてくれない。小さい時から分かってる……」
 「エイミー? 大丈夫?」
 エイミーの呼吸が急に荒くなる。
 「だってクリスになんか分かりっこない。男だから。父さんにレイプされるのは私だけ。兄さんは男だからレイプされなかったの」急に爆発したようにエイミーは饒舌になった。「兄さんが助けてくれたらよかったのに。あの時、兄さんが助けてくれたらよかったのに。私を犯している父さんを後ろから殴ってでも止めてくれればよかったのよ。どうして兄さんはそうしてくれなかったの……?」
 「………」
 「兄さん……」
 エイミーは泣きそうになりながら深呼吸した。
 「どうしてか分かる?」私は聞いた。「あなたが大切なはずなのに、あなたの前に姿を現さない、会話もできない理由があるはずよ。どうしてか分かる?」
 「わかりますよ。わかります。本当は分かってるんです」
 「どうして?」
 エイミーは十秒ほど沈黙した。そしてようやく口を開いた。
 「………本当は死んでいるから………」
 「そう、その通りよ。クリスはもう死んでいるの」私は赤ん坊に言い聞かせるようにゆっくりと言った。「クリスはもういないの。あなたの中にいる人格は幻なのよ」
 予想以上に上手く事が運んだ。これでエイミーがクリスの人格を自分で消滅させるかもしれない。そうなってくれれば願ったり叶ったりだ。
 「……兄さんは死んでいたんだ……」
 「そうよ」
 「じゃあ兄さんは、私のために何もしてくれないような人じゃなかったってことですよね。死んでいたんだから、何もできなくて当たり前よ……そっか……よかった……」
 エイミーは安堵したような声で何度も「よかった」と言った。
 「きっと、あの時だって、兄さんは私を助けてくれようとしてくれたに違いないわ。だけど父さんの仕返しが怖くて出来なかったのよ。私、兄さんのこと、これまでずっと誤解してたのかもしれない。兄さんは私を守ってくれるつもりだったんだ。兄さんは私を守ってくれていたんだわ」
 エイミーの頰に涙が伝っていた。
 催眠が終わった後、エイミーは放心したように宙を見つめていた。しばらく黙った後、ぽつりと言った。
 「……兄さんの墓参りに行こうと思うんです」
 それはエイミーの中で、クリスの死が決定的なものになったことを表していた。
 「そう、兄さんは死んでいるんです。本当は、気がついてたんだけど、認めたくなかったんです……」
 スッキリしたようなエイミーの笑顔を見ながら、私は考えていた。これで、クリスは死んでくれただろうか。



 それから一週間、エイミーには毎日会っているが、一度もクリスは出てこなかった。
 「だから、クリスは……Cはもう死んだんじゃないかと思っているのよ。あの催眠セッションの後に」
 私はBにそう言った。
 「だって、クリスがこんなに長い間姿を現さないなんて初めてのことなのよ」
 いつもは飄々とした態度で現れて、意味深なことを言い残して行くのに。
 「ふん。どうだかな」
 「エイミーがクリスの死を初めてはっきりと見つめたことで、エイミーの中のクリスはもう必要なくなったのよ。だから自然に消えたんだわ」
 「それだったら、手間が省けて何よりだ」
 Bはどこか他人事のように言った。
 「……最後はAを殺すだけね。それであなたは、自由になれるのよ」
 Bは何も答えない。私は少し不安になって聞いた。
 「今更、怖気付いたなんて言わないでよ。私はあなたの命令でここまで何人も殺してきたんだから。ここまで来たらあなたには最後までやり遂げてもらわないと……」
 「うるせえな。お前に言われなくてもそのつもりだよ」
 Bの手が急にこちらに伸ばされた。
 痩せた、未成熟な腕だ。しかしその腕が私の肩に触れた時、私は今までに感じたことのない安心感を感じた。同時に、ふと、嫌な予感がした。手つきの優しさに違和感を感じたのだ。乱暴なBがこんな、触り方をするだろうか。
 可能性に思い至った時にはもう遅かった。
 私は喉が強烈な力で締められていくのを感じた。私はとっさに自分の指を首に持って言った。細い指が信じられないほどの強い力で私の首を絞めていた。
 「Bに公平を期すために、一応言っておくけど……僕はクリスだよ。今、交代したんだ」
 クリス。やはり死んだのではなかったのか。
 クリスの顔からは今までに見たことのない殺気が漂っている。これまでの穏やかだったクリスが嘘みたいだ。これは本気で私を殺そうとしている。
 薄れゆく意識の中で考えた。
 どうして、今になって急にこんな……私に直接的に攻撃するような行動に出たのだろう。これまでも、やろうと思えばいくらでもチャンスはあったはずなのに、なぜ今更……。
 Cはいつものように私の表情を読み取って先に答えた。
 「……教えてあげる。あなたがエイミーに催眠をかけてくれたおかげで、僕という人間が変容したからだ」
 どういうことだ。
 「今まで、僕はエイミーを守りたくとも行動を起こすことが出来なかった。エイミーにとって、僕は優しくて頼れる兄でも、肝心な時に何もしてくれないというイメージがこびりついていたから」
 「………」
 「でも、それがあなたのセッションのおかげで変わった。エイミーの中での僕のイメージが変容した。あれのおかげで僕はエイミーを助けるために動けるようになった」
 Cはほとんど優しいと言ってもいいような声で私に囁く。
 「先生、僕はあなたを良い友人だと思っていたよ。あなたがエイミーに敵対することがなければ、こんなことは絶対にしたくなかった。あなたは僕の妹に似ている。あなたも自分でそう思ってただろう?」
 違う。違うわ。全然違う。
 私は、私よ。
「……さようなら、先生」
 Cがそう言うと、目の前が急速に真っ暗になった。



  目の前に女の子がいた。どこか見覚えがある女の子だ。
 「先生」
 「なあに?」
 「あんたってホントにクソよ」
 大人びた風貌から、信じられないような汚い言葉が飛び出した。
 「あなた、まるでBみたいね」
 私は苦笑しながら思ったことを言った。
 「B? Bって誰よ? 私はエイミーよ」
 「エイミー……」
 私はエイミーと名乗るその少女を見た。自信に満ち溢れ、目が輝きを放っている。
 「もたもたしやがってさ。だから、あっさりと殺されるのよ」
 「……」
 「動かないからよ。変えるなら、動かないと」
 少女ーーエイミーはまたもBのようなことを言った。
 私はBのことを思った。私は死んでしまったのか。もう、Bには会えないのか。彼の歩く自由の道を見届けることは出来ないのか。……



 私の体が動いていた。いや、正確には動かされていた。胸のあたりを強く押されている。乱暴に。何度も、何度も。私はその単調な揺さぶりにセックスを連想した。満足のいくセックスの記憶はあまりないが、それでも、誰かに求められている時の陶酔は私でも経験がある。懐かしい感覚だった。求められている。私は求められている。
 「おいっ。起きろっ! マツダ!」
 私の名前を呼ぶ声がする。
 「おい、このバカ。俺の声が聞こえねえのかっ」
 聞こえている。この声は女の声だけど、喋っているのは男だ。Bだ。
 「チッ。知らねえけど、やらないよりはマシかもな」
 そう言う声が聞こえた直後、唇に冷たいものが押し当てられた。
 少し湿ったそれが唇だということはすぐに分かった。遠慮のない力強さで、その唇を通じて空気が体の中に入ってきた。その空気に腹が膨らむ。苦しい。苦しくて顔を背けたくなるのに、心地良かった。それが何度も繰り返される。
 ああ……。
 生き返っていく。それは非現実的な感覚だった。死んでいた自分の体がみるみるうちに生き返っていくのを感じた。一度枯れた植物が魔法の水で色を取り戻すように。
 「………B ……」
 私は目を薄く開けて、カラカラに乾いた喉からなんとか彼の名前を絞り出した。
 眉間に皺の寄っていたBの顔が緩んだ。しかしその柔らかい表情は一瞬で、すぐに厳しい目に戻る。
 「一体何があったんだよ。気がついたらお前が目の前でのびてやがるし、状況はまるで分からねえ」
 「クリスが私を殺そうとしたのよ。あなたから交代して、私の隙をついて首を絞めてきたのよ」
 「……あの薄気味悪い野郎、ただの木偶の坊かと思ってたら、ついに動いてきやがったか」
 「ええ。ふざけたことをしてくれたわ。次は必ず私が殺してやる……」
 するりと自然に殺意が飛び出した。Bは片眉を上げる。
 「お前……」
 「さあ、一緒に考えてちょうだい。あのクソ野郎をブッ殺す方法を」
 私の邪魔をする者は殺す。そして私は自由を手に入れる。
 そうよ。私はBのようになる。エイミーにできたことなのだから、私にだってできるはずだ。


 次のカウンセリングの時間がやってきた。
 「あれ? この大きな水槽、何ですか? 今まで見たことないですけど」
 エイミーが目ざとく気がついた。流石に毎日この部屋に通っているだけあって、変化には敏感だ。
 「ああ……魚を飼っているんだけど、家にスペースがないから、広い水槽に移してあげようと思ってね」
 「大きな水槽ですね」
 軽く笑いながらエイミーは席に着いた。私はすぐに話を始める。
 「エイミー、今日は初めてあなたのクソ親父にレイプされた時の話をするわよ」
 「え……?」
 エイミーは信じられないというような顔で私を見た。それはそうだろう。私が汚い言葉を使ったのも、エイミーの前で前触れもなく繊細な話題を持ち出すのも初めてのことだから。
 「どっ……どういうことですか……?」
 可哀想に、あまりの動揺で震えている。
 「どういうことも何もないわよ。あの人間のクズがあなたをどういう風に傷つけたのか話しましょうって言ってるの」私は畳み掛けるように言った。「いきなり襲われたの? 痛かった? どんな感じがした? あなたは処女だったのね? まだ小さいのに男のアレを見せられた感想は?」
 わざと聞くに耐えないような質問を連続してぶつけた。エイミーは顔に恐怖を浮かべると、ふっと目を閉じた。
 「クリス? 早く出てきなさい」
 「………先生、一体どういうつもりなの?」
 目を開けると人格はクリスに変わっていた。
 クリスはエイミーの心を安定させる為に存在しているのだから、もちろんクリスがこの状況を放っておく訳が無い。分かっていて私はあんなことを言った。
 「今の、まるでBが乗り移ったみたいだね」
 Cは皮肉っぽく口を歪める。
 「私にとってはほめ言葉だわ。私を殺す時に、ありがとうと言ったわね。私からもあなたにもありがとうと言いたかったの。あなたに殺されたことで、私は、新しく生まれ変わることが出来たのだから」
 私はクリスの腕を掴んだ。
 「うっ」
 私は髪を引っ張ってクリスを水槽の前に連れて行く。
 「あなたはとっくに死んでいるのよっ! 溺れてっ!」私はクリスの頭を水槽に入れた。「さあ、もう一度死になさい! あるべきところに帰るのよっ! さあ、死になさいっ!」
 クリスは全力で抵抗しているが私の力の方が強い。水槽の中から水が飛び散る。
 しばらくして、クリスの体から力が抜けた。エイミー……もとい、Bの体まで水死させては大変だ。私は髪を引っ張って水槽から引き上げた。
 「……クリス? ……死んだの?」
 クリスは答えなかった。
 「………」
 私は息を吐いて床に座り込んだ。
 クリスの体が起き上がった。私の反応は遅れた。
 「……っ!」
 私の体はあっという間に床に転がされた。クリスの目には本物の殺意が宿っている。
 首に巻きついたクリスの手には、前回のような慈悲が全く感じられない。信じられないような力で首を締められる。抵抗すら出来ない。
 ああ、もうダメだ……今回はもう、ダメだ。私はここで死ぬんだ。私は確信した。
 B。助けて。私を助けて。
 私は心の中で叫んだ。



 その時。
 私は幻想的な光景を見た。
 カウンセリングルームの扉が開いた。そこからダイアモンドを百倍にしたような眩しい光が溢れ、何者かが現れた。立っているだけで光を放つ、異様な存在感。
 豹だ。私は直感的にそう思った。
 しかし、確かに豹だと思ったのに、よく見ると人型をしている。尊大な歩き方。男だ。手には小さな銃が握られている。
 彼の眼光は鋭く、私の上に乗ったクリスを捉えると、ためらいなくその頭に標準を合わせた。
 クリスの頭が一瞬で吹っ飛んだ。脳みそがべちゃべちゃと音を立てて床に飛び散った。何か濃い味が口の中に広がる。ああ、これは血の味だ。
 「あなた、……だれ?」
 私は聞いた。言葉を出したそばから、何を言ったのかを忘れた。そしてすぐに思い出した。私は今、彼に「愛しているわ」と言ったのだ。
 彼の正体はもう分かっていた。
 「……Bなのね?」
 彼は答えない。
 「そうなんでしょう?」
 彼は表情一つ変えない。
 「あなたって、本当はそんなにハンサムなのね。知らなかったわ」
 私の声が聞こえていないのかもしれない。私は地面を這って彼に近づいた。
 私はうっとりとため息をついた。当然というべきか、エイミーに似ているが、目元が少し違った。目は鋭く小さく、アジア人的ですらあった。
 見覚えのある顔だった。誰かに似ている。誰かに。
 ああ、分かった。私の父だ。父に似ているんだ。
 私は神々しい光を放つ彼に手を伸ばした。彼の足に触れた時、電撃が身体中を駆け抜ける。
 「ああっ……」
 私は叫んだ。私の中に彼が流れ込んでくる。彼が私の中に入る。彼が入って、私は私ではない人間になる。それは強烈な快感だった。



 私が変わる。変わる。
 産まれる。



 『この場所は、子宮』

 

 どこかから、息も絶え絶えになったクリスの声が聞こえてきた。
 『先生……予言してあげる。たとえ僕を殺せても、あなたはエイミーを殺せない。あなたが夢見ているような、Bと二人きりの世界は造れないよ』



 目が覚めた時、全ては片付いていた。死体はなかったし、あの豹のような……『エイミーの体ではない』Bも消えていた。私は床に転がるエイミーの体を見てどきりとする。
 急いでタオルを持ってきて濡れた髪を拭くと、エイミーはううん、と唸った。目が開く。
 「……」
 ぼんやりとした目が私を見た。
 誰が出てくるだろう。
 私は緊張して唾を飲み下した。
 「先生……?」
 声は高かった。Bの声でもクリスの声でもない。
 「エイミー? エイミーなのね?」
 「私……どうしてたんですか……?」
 「催眠セッションをやったのよ。そうしたらあなたが眠ってしまってね」
 Aはしばらく呆けたように私の顔を見ていたけれど、独り言のように語り始めた。
 「すごく長い夢を見ました。このカウンセリングルームで先生が私に急に意地悪な質問をしてきたんです。お父さんとのことを聞いて来て……でも、あれは夢だと思います。先生があんなことを言うわけないし」
 残念だけど、その部分は夢じゃない。
 「それでその後……お兄ちゃんが……」Aの目からポロリと涙がこぼれ落ちた。「お兄ちゃんが私にさよならって言ったんです。僕はもう行かなくちゃいけないからって」
 行かなくちゃいけない。では、クリスは今度こそ死んだのだろうか。
 「他に何か言っていた?」
 「……そういえば、私を殺そうとする人に注意しろって言っていました。僕はこれから守れなくなるから、自分の身を守れって……私の命を狙う人なんているわけがないのに、変ですよね」
 Aは神妙な面持ちで言った。
 「かわいそうなエイミー。気持ちはわかるわ。きっとお父さんが亡くなって参っているのね」私はAの体を優しく抱きしめた。「きっと、あなたが前に進むために、クリスにお別れをしなくちゃいけない時期が来ていたんだと思うの」
 「先生……万一、私に危険が迫ったら守ってください」
 Aは無垢な目を私に向けた。
 「お兄ちゃんは、必要なら守ってくれる人を頼れとも言ってたんです。それって、先生のことだと思うんです。私には先生しか頼れる人がいないから」
 「……もちろんよ。私があなたを守ってあげる」
 私はAの背中を撫でながらまるで別のことを思った。
 『さあ、あなたで最後よ。あなたを殺せばこれは終わる。邪魔なやつらは全部消した。やっとよ。やっとここまで来たのよ』
 私は込み上げてくる笑みを抑えられなかった。


 Cという一番の邪魔者はいなくなった。計画はいよいよ佳境に入る。
 「Cが死んだ? マジで言ってんのか?」
 目を丸くするBに、私の方が驚いた。
 「……もしかして覚えてないの?」
「何だよ?」
 「あなたが、Cを殺したのよ」
 そう言うとBは露骨に怪訝そうな顔をした。
 「ありえねえだろ。俺がどうやってCを殺すっていうんだよ。人格同士は干渉出来ないんだぜ」
 「じゃあ、きっと覚えていないだけよ……あなたは……」
 私は口を閉じた。あなたの魂はエイミーの体から抜け出して、別の人間になってこのカウンセリングルームにやってきた。そして、”物理的に”Cを殺した。
 Bの方に記憶がないなら、そんなことを言っても信じてもらえないかもしれない。私だって今だにあの時起こったことが信じられないでいる。だけどあれは現実だ。頭で考えるより、心がそれを知っていた。あの尊大な歩き方、殺すのに躊躇いのないあの決意、外見……あの時見た男は、全てがBそのものだった。
 「いいわ。とにかく、Cはいなくなったのよ。さあ、Cの名前を消して」

A
C(×)
D(×)
E(×)

 Bの手の文字はA以外の全ての名前が消えたことになる。
 「さあ、これであと一人よ。Aを殺すの。簡単ではないかもしれないけど、頑張りましょう。二人で力を合わせるのよ」
 Bは煙草を吸いながら小さく頷く。
 「Aはどうしたら殺せるかしら? あなた、何か意見はない? 私ももちろん考えてみるけど……」
 Bはぼんやりと遠くを見ていた。何か考え事をしているようで、私の話を聞いていないようだった。
 「ねえ、聞いてるの」
 「……お前はこれまで、よくやってくれた。感謝してる」
 「どうしたのよ、急にしおらしくなって。あなたらしくもない」
 「うるせえな」
 しばらく何かを考えるような顔をした後、Bは急にこんなことを言った。
 「今までの礼として、お前の方のクズ野郎を先に消してやろうか?」
 Bは私の手をとって彼が刻んだ「クズ」という文字を指差した。
 「……私の夫を殺してくれるの?」
 「そうだ」
 感激した。Bが私のために何かをしようとしてくれているのだ。この横暴な人格が、私の為に。
 「……ありがとう。嬉しいわ。でも、私のことはいいの。Aを殺すのよ。あとほんの少しよ。それであなたは自由になれる」
 「………」
 「Aを殺す方法を考えるわ。ねっ。あなたも考えてね……」
 Bは何も言わず私を見た。私は少しだけ背の高いBを見上げた。私たちはそのまま長いこと見つめあった。半分眠っているような、無表情な目をじっと見る。
 それは十秒もなかったかもしれないが、夫とのセックスよりもはるかにロマンチックな時間だった。陶酔するにはセックスなんて必要ない。視線一つで十分だ。私はこんな気持ちを今まで知らなかった。


 Aの苦手なものならいくつか知っている。しかし、主人格である彼女を殺すのに十分だとは思えない。
 Aといえば、父親とCが死んでからというもの、Aは目に見えて雰囲気が変わってきている。自信に満ち溢れているし、少ないが友達も出来たようだ。今までのAでは考えられない変化だった。
 「何だか、最近生き生きとしてるわね」
 「はい」
 「カウンセラーとしてとても嬉しいわ」
 「あれから、何だか全てが吹っ切れたみたいなんです。偶然かもしれないけど、嫌なことをしてきてた人たちがみんないなくなったし……まるで守護霊が私の為にしてくれたみたいに」
 偶然じゃないし守護霊でもないわよ。Bと私が殺してあげたの。でもそれはあなたの為じゃないわ。
 私は心の中でだけそう言った。
 「兄さんと精神的に決別できたのも、結果的に良かったのかもしれないって思うんです。あの直後は、もう兄さんはいないんだと思ってとても悲しかったけど……まだ守られている感じがする」
 「高校を卒業したらどうするつもりなの? 将来の夢とか……」
 「うーん……」
 Aは少し考えた後、はにかんだような笑顔で言った。
 「夢っていうほど大層なものじゃないですけど……卒業したらこの町から出ていきたいと思っているんです」
 「あら」
 驚いた。AはBと全く同じことを言っている。
 「成績が悪いし、お金もないから大学は無理かもしれないけど、もっと広い世界を見てみたいんです。以前はこの町から出て行くのすら無理だと思っていたけど、今なら出来るような気がする」
 「それはいいことだわ」
 正反対の性格をしているAとBが同じことを望んでいるのが、何だか少しおかしかった。
 「私もね、いつかはこの町を出ていきたいと思ってるのよ。仕事を辞めて……」
 夫を殺して……。
 「新しい世界に飛び出して、自由になりたいって」
 「先生なら、きっとどこに行っても楽しくやっていけると思います」
 Aは無邪気に笑った。その笑顔に苛立ちを覚える。Aは世間知らずで、それがどれだけ大変なことなのかわかっていないからそんな綺麗事を恥ずかしげもなく言えるのだ。
 私は言葉を選びながら言う。
 「私ぐらいの年齢になると全てが難しいのよ……何か大きなきっかけがないと、生活スタイルを変えることができないの」
 たとえば破壊的な殺人鬼に無理やり協力させられるとか。
 「だけど……人は誰だって自由になる権利があると思うんです。それを望んで、その為に行動を起こせば、きっと誰だって自由になれる。きっと多くの人はそれが怖いだけなんです」
 Aはいつになく饒舌だった。
 「そう……ね」
 私は首を傾げる。まただ。また、既視感があった。そう、AはBと同じことを言っている。
 恐ろしい可能性が頭に浮かんだ。ひょっとして……ありえないとは思うが、Aが精神的に回復してきて、人格の統合が始まっているのではないだろうか。Bの人格を吸収し始めているとか、万一そんなことになっていたら大変だ。



 私は次の日、またAに催眠療法を施していた。私はAを無防備な状態にするにはこれが一番だ。そしてAを殺すきっかけを探っていけばいいだろう。
 「さあ……リラックスして……心を開いて……」
 Aは私の合図と共に深い催眠状態に入って行く。
 「今日は少しあなたには辛いかもしれないテーマに向き合って行くわよ。それは、あなたにとって辛かった経験……あなたにとって一番辛かった経験は何……?」
 「……お兄ちゃんが死んだ時です」
 「………」
 そうか、クリスの死があった。彼が死んだ時を思い出させて精神的に殺すのは難しいだろう。彼女はCの人格の死に直面して乗り越えたばかりだから。
 「その……言いづらいけど、お父さんに乱暴を受けた時ではないの?」
 「ええと……それは……なんというのかな……辛いことには辛かったんだけれど……大きくなってからされることはなかったし……」
 ええ、あなたの代わりにDが相手をしていたからね。
 「だけど、初めての時はとても辛かったんじゃないの? 精神的にも勿論だし……肉体的にもとても……痛かったりしたんじゃないのかしら?」
 「痛くは……なかったです。全てがすんなりと進んだし。初めてではなかったし」
 「えっ?」
 私は思わず目を見張った。初めてではなかったとはどういうことだ?
 「つまり、お父さんの前に他の男性と関係を持ったことがあるということ?」
 そんなことはありえない。初めて乱暴をされたのは6才の時だったとDが言っていたではないか。
 「………」
 Aは答えない。
 「エイミー、答えて! これはあなたの心を知る為に大切なことなのよ」
 「………」
 大きな声を出してもエイミーは沈黙を貫く。以前のエイミーなら、強い言い方をすればすぐにビクビクと答えていただろうに、今のエイミーにはそれが効かない。
 「だって、私は女だから……」
 長い沈黙の後、エイミーは小さな声で言った。
 「女だからそれほど辛くはなかった。私は女でラッキーだったんです……」
 それは低い、淡々とした声だった。Aの主張には違和感があった。女だからラッキー? Aは以前とは反対のことを言っている。なぜだか冷静なAが少し不気味だった。Aに対してこんな印象を持ったのは初めてだった。
 「先生、私はラッキーだったんです」Aは同じ言葉を繰り返した。「女だから、死ななくて済んだんです。私は女に生まれたことに感謝すらしているんです……」
 これは、一体どう言うことなのだろう。
 「八方塞がりだわ。Aの精神は別人みたいに強くなっているの」私はその後、Bに愚痴をこぼしていた。「精神的に弱い子だと思ってたから、いくらでも殺す方法は思いつくと思ったんだけど、甘かったみたいね。あなたの方は何か思いついた?」
 Bは肩をすくめた。何も思いついていないのだろう。Bは煙草の煙を吐き出した。煙草を挟む細い指先を見ていると、自然と疑問が口をついて出た。
 「……そういえば、あなた性転換手術は受けるの?」
 Bは不意をつかれたような顔をして私を見た。
 「性転換、だと?」
 「そうよ。すぐにその体はあなただけのものになるんだから、女のままでいる必要はないじゃない……」
 私はあの日見たBの姿を思い出した。男の体をした『本物の』Bの姿。
 「今はトランスジェンダーの人も珍しくないし、手術の技術だって上がっているはずよ。あなたは男なんだから、体も男にしたらいいじゃないの……」
 「俺が男の体になることが、お前に何の関係があるんだよ」
 目と目が合う。私は瞬間的に、自分が男の体になったBをセックスするのを想像した。いやだ、こんなことを考えて恥ずかしい。
 「そうよね。私が口を出すことではないわね。……ええと、Aを殺す計画だけど」
 私は話題を元に戻した。
 「とりあえず、今のAを精神的に攻撃することは難しいから、今度は肉体的に攻撃してみようと思うわ」
 「どうするんだよ」
 「あなたたちの家に向かう途中で空き家があるでしょう。あそこから大きな岩か何かを落とすわ……当たったら死にかねないようなものを。そうしたらAはかなりショックを受けるはずよ」
 「間違って本当に殺すなよ。この体は俺のものでもあるんだからな」
 「わかってるわ。私の仕事終わりが5時だから、あなたにはしばらく時間を潰して、その後Aに変わって6時ぐらいにAがあの空き家を通りかかるように調節してほしいのよ。いいかしら?」
 Bは何も答えなかった。長い間一緒にいて、私は理解しつつあった。沈黙は彼の肯定なのだ。



 パイパーと昼食を食べている時、彼女は急に私に薄い本を差し出した。
 「そういえば、見て、これが養子縁組の本よ。この間古本屋さんで見かけたからあなたのことを思い出して買ってみたの」
 表紙には『はじめての養子縁組』と書いてあった。パラパラとめくってみると、それは養子縁組に必要な手続きがまとめられた本であるようだった。
 「今は昔みたいに仰々しいものじゃないの。手続きも簡単なのよ」
 中には養子を迎え入れた人の体験談がたくさん載っていた。
 「……独身が養子を受け入れるのは難しいみたいね」
 「ええ、そうだけど……」パイパーは怪訝そうな顔をした。「それはあなたには問題ないでしょう? あなたは結婚しているんだし」
 「ええ……」
 「あなたたちの場合は、夫婦ともに十分な収入のある夫婦なんだから、養子を迎え入れるのは簡単なはずよ。面談とか書類とか、めんどくさい手続きはあるかもしれないけど……」
 「私にも子供が持てるかもしれないのね」
 そう思うと自然に胸が高鳴った。パイパーは笑う。
 「でも子育ては大変よ。覚悟しなくちゃね」
 仕事終わりに急いで荷物をまとめていると、校長が近づいてrくる。
 「マツダ先生、……例の加害者と被害者の対話プログラムのことなんですがな」
 「はあ……」
こいつも大概しつこい男だ。それはもうやらないと言っているのに。
 「例の事件も時間が経って落ち着きましたし、あれを試してみる時だと思うんです。画期的なプログラムじゃないですか? 加害者と被害者の和解を促すなんて。そうとは思いませんかな?」
 「……和解、ですか……」
 加害者が心から反省して被害者に謝る。被害者は寛大にもそれを許す。素晴らしい世界。理想の世界。こいつはそんな幻想を本気で信じているのだろうか。
 「くたばれ」
 「え?」
 「そんなクソみたいな考え自体、くたばればいいんだわ。加害を加えてくるような奴がいたら、殺してしまえばいいのよ」
 校長はあんぐりと口を開けた。信じられないと言った表情で私を見ている。
 「………では、失礼します。急いでいるので」
 私は何も言えずにいる校長の脇をすり抜けて帰路を急いだ。
 私は忙しい。どこかで大きな岩か、鉄の棒か何かを調達してこなくてはならない。こんなハゲに構っている暇はない。
 私は車を飛ばして空き家についた。私はそこの二階に潜み、Aがやってくるのを待つ。
 しばらくすると、Aが歩いてきた。歩き方も以前とは全く変わっている。前に、こんな風にAを見ていたことを思い出す。あの時のAはおどおどしていて、いじめっ子たちに囲まれていた。今はAをいじめようとする奴らはいないだろう。
 私はAがちょうど真下に来るのを見計らって岩を落とした。すると、Aは私の殺気を察知したように体を反らせた。間一髪のところでAは岩をかわす。
 「………」
 私は窓から身を隠し、こっそりと覗き見た。信じられないと言った表情でAは岩を見つめた後、岩が飛んできた方向ーー私がいる場所をきつく睨んだ。そのまっすぐな視線に少しどきりとする。
 私はその場を離れるAの後ろ姿を観察した。後ろ姿を見ているだけでも分かる。動揺している様子はあまり見られない。私は音を立てて舌打ちをした。



  
 「全然効いていなかったわ。岩が降ってきても、気にした様子もなかった」
 「そーかよ」
 私が結果を報告しても、Bは相変わらず他人事のように気の無い返事をする。
 「ねえ、どうしてそんなに気が抜けているのよ。これはあなたの為にやっていることなのよ」
 Bはため息を一つついて重い口を開いた。
 「じゃあ教えてやるよ。Aを殺すのは多分、無理だ」
 「……どうしてそんなこと言うの?」
Bの口からそんな弱気な言葉が出るとは思わなかった。動揺して知らず少し声が震える。
 「知らねえけど、勘だよ。Aは主人格だ。Aを助ける為に作り上げられた他の人格を殺すのとは訳が違う。あいつを殺すことは出来ない。そんな気がするんだよ」
 「でも、もしAを殺せないなら、どうするつもりなのよ?」私はBを見つめた。「あなたはずっとAと共存して生きていくつもりなの? ……人格の一つに甘んじて? そんなの、あなたらしくないわ」
 「………」
 「Aを殺して、その体の支配者になるのよ。そして自由になるの」
 Bは何も言わなかった。
 私は諦めない。私は焦って言った。
 「こうなったら、もっと直接的に働きかけてみることにするわ」
 「なんだ、直接的って?」
 「私が殺人鬼になるの」私は笑った。「マスクを被って、変成器を使って、銃を持って……殺してやると脅すわ。Aもさすがに殺されそうになったら平静ではいられないはずよ」
 「お前、すっかり悪党が身についてきたな」
 「……誰のせいだと思っているのよ」
 私はありったけの愛おしさを込めてBを見つめた。これは私の悪党。私のB。私を自由にしてくれた男。
 「で、それはいつやるんだ?」
 「そうね。今週の金曜日なんてどうかしら。下校中のAを車に連れ込んで、どこか人気のないところへ連れて……」
 「金曜日の放課後、な。わかったよ」
 Bは確かめるように繰り返した。 



 私は鏡を見た。鏡の中に写っている自分はまるで別人みたいだ。
 ズボンにGジャン。近所の大型スーパーで紳士服の場所で買ってきたものだ。いつもスカートしか履いていないから違和感があるが、その違和感が不思議と心地いい。
 それから、マスクを被らないと。私もさすがに素顔を晒して殺人鬼のふりをする気は起きない。ニット製の安いマスクをインターネットで注文しておいた。被ってみると、映画に出てくる銀行強盗の男そのものだ。
 「お前……なんて格好してるんだ」
 後ろから呆然とした声がした。私は不思議そうに振り返る。誰だっただろう、この醜い豚みたいな男は。
 「銀行強盗でもするつもりか?」
 そうだ、これはマツダだ。父が死んだ後、彼の代わりに私を押さえつけ、自由を奪い続けた男。
 「……これは……」口が勝手にそれらしい言い訳を紡ぐ。「学校で演劇があって、強盗の役をやるのよ」
 夫はホッとしたように息を吐いた。
 「よかった。今のお前ならなんでもやりかねないからな」
 「どういう意味?」
 「お前は最近、変わったからな」
 「そうかしら?」
 私は本当の自分に戻っただけよ。
 何も言わないでいるのをいいことに、夫はいつものようにくどくどと故郷のしきたりの話を始めた。
 「……アメリカ人のお前は知らないだろうが、日本には夫の三歩後ろをつく妻という表現があるんだ。従順な妻の美徳を示した言葉だ。アメリカにだって昔にはそういう考えはあったはずだがな、ここではもう男らしさだの女らしさだのは絶滅しかけている」
 私は鼻で笑った。
 私はもうそんな妻には戻らない。私はマスクを取った。鏡に映ったその顔を見て私は息をのんだ。
 小さな目。眉間にシワがよった険しい表情。この顔は……。私が思ったことと同じことを、夫がそのまま言った。
 「……お前、お父さんに似てきたな」


 そしてその日がやってきた。
 リハーサルは入念にした。Aの通学路の中で、もっとも人通りの少ない場所で計画を実行する。武器は動かしやすいシンプルなナイフだ。車の中で手錠も用意した。簡単には外せない本格的なものだ。変声機によって声で私とは分からないようにする。抜かりはなかった。
 私はAが学校から出たのを見届けると、少し時間をずらして自分の車に乗り込んだ。急いでAの通った道を追う。Aの後ろ姿を認めると、私は道路に車を駐車し、マスクを被った。ナイフを掴むと、車から飛び出して走る。
 全速力でAに追いつくと、袖を掴んだ。恐怖に歪むAの顔の前に鋭利なナイフを突き付けた。
 「動くな。動くと刺す」
 抵抗はほとんど無かった。
 「な……何……? お金なら、全部渡しますから……!」
 Aはカバンから財布を取り出そうとする。
 「金なんかいらねえよ。俺はお前に死んでもらいたいだけだ」正体がバレないようにわざと男言葉を使う。「こっちに来い」
 私はAの襟首を掴み、車まで連れて行った。後部座席にAを転がすと、手錠をかけて目隠しをする。
 「いいか、目的地に着くまでおとなしくしてろよ。もし怪しい動きを見せたらその時点でお前を殺す」
 「あなた誰なの……? どうしてこんなことをするんですか?」
 「……俺が自由になる為だ」
 Bの言葉が口から出た。Aはそれ以上は何も聞いてこなかった。
 車を走らせる。いじめっ子たちの死体を処理した沼。人気のないあそこ以上に丁度いい場所はないだろう。私は沼の前に車を止めた。
 「出ろ」
 私はAの体を車から出した。Aは抵抗しなかった。体は震えていないし、呼吸も乱れていない。意外にも、動揺は少ないようだった。
 「見ろ。この沼は底なし沼なんだ。ここにお前の死体を沈めれば簡単には見つからない」
 「もしかしてあなたが、私の学校の生徒たちを殺した犯人なんですか? ジェニーたちを殺したんですか?」
 「………」
 その質問に答えるほど私は馬鹿じゃない。しかし、どうして責めるような口調なのだろう。Aをいじめていた奴らを始末してあげたのだから、むしろ感謝されてもおかしくないぐらいだ。
 「お前みたいな弱虫の女の為に、その体はもったいないと思わないか?」
 私は言った。そう、Bこそがその体を支配するべきなのだ。あなたが死なないと、Bが自由になれない。
 「悪いけど、死んでもらうわ」
 もちろん本当に殺しはしないけれど、殺される恐怖は味わってもらう。運が良ければ、Aの人格だけ殺せるかもしれない。
 私はナイフを突き出した。Aは体を捻るようにして私のナイフを避ける。
 「驚いた。あなた、鈍臭そうに見えるのに、運動神経がいいのね。でも、あなたも死ぬのよっ!」
 クリスのように。Dのように。Eのように。Bの自由の邪魔になる人間は全員殺す。
 私はナイフを振りかぶった。動いたAの髪から、煙草の匂いがした。………
 ナイフを持つ私の手首を力強い手が掴む。そのまま、捻じ曲げられる。鋭い痛みが走り、私はナイフを落とした。
 「落ち着けマツダ! 俺だっ!」
 Aの口から出た声は明らかにBのものだった。
 「B……? どうしたの?」
 Aが生命の危機を感じてBに人格交代をしたのだろうか。
 「今ちょうどAを殺そうとしていたところなのよ。どうしてよりによってこんなタイミングで……計画が台無しじゃない」
 Bは私を睨みながら沈黙した。言うべき言葉を選んでいるようだった。
 「言っただろうが。Aのことは殺せないんだよ……!」
 「どうしてよ」
 「どうしてもだ。いいかげん、諦めろ」
 「やってみなくちゃ分からないじゃない! どうしてやりもしないのに諦めるの?」
 ずっと感じていた奇妙な違和感が急速に膨れ上がっていく。この違和感はなんだろう。Bらしくない。邪魔者を排除してきたBの姿と今のBが重ならないのだ。
 ………煙草の匂いがする。……
 煙草の匂い……Bの匂いだ。今まで煙草は吸ったことがなかったし匂いも嫌いだった。しかし、Bに会ってから煙草の匂いが何より好きになった。
 でも……。
 「いつ吸ったの……?」
 「あ?」
 「煙草の匂いがするけど。いつ吸ったの……?」
 「……」
 「学校を出る前よね」
 ここまではっきりと匂いが残っているぐらいだ。私がAを襲う前に吸ってきたのだろうが、そう前のことではないはずだ。
 「いつ入れ替わったの……?」
 Bは何も答えない。いつものぶっきらぼうな無表情が少し歪んでいるように見える。
 「まさか……。ねえ、私が襲った時から、もうあなただったなんてことはないわよね?」
 言った瞬間から自分で笑い飛ばしたくなる。もしそうとすれば、BはAのふりをして私に誘拐されたということになる。そんなのはあり得ない。馬鹿らしい考えだ。一体、なぜこんな考えが出てきたのだろう?
 「………」
 そう思おうとすればするほど、Bの顔の険しさが目に付く。それは私が核心をついてしまったことを雄弁に物語っていた。
 「何……どういうこと? ……あなた、ずっとAのふりしてたの……? どうして……?」
 心の奥底で私はすでに答えを知っていた。声が震える。
 「もしかして、Aを守ろうとしているの? 私に殺されないように?」
 Bは答えない。そう、答えない時は、決まっている。肯定なのだ。
 「でも、どうして……? これはあなたが言い始めたことじゃない。邪魔ないじめっ子共、父親、それから内側にいるクソどもを殺して、自由になるって……」
 「Aは殺せない」
Bは同じ言葉を繰り返した。
 「俺はAを救う為にAが生み出した人格だ。Aを傷つけるようなことは出来ないようになってる」
 「違う、そんなのは言い訳だわ」
 私はBの性格をよく知っている。
 「あなたは試しもしないでそんな風に諦める男じゃない。エイミーを殺さないとすれば、あなたは殺すつもりがないのよ」 
 「………」
 「あなた、エイミーを守っているのよ。私から。世界から。エイミーを傷つけるものすべてから。初めから……」
 Bの目に動揺が浮かぶ。
 「そうよ。初めから……! だって、考えてみればおかしいじゃない。どうしていじめっ子までわざわざ殺す必要があるの? 本当にあなたが体の支配者になるつもりなら、あなたがその度に返り討ちにすればいいだけの話。それなのに、リスクを負ってまで殺したのは何故? これからも、Aが出ている時も、いじめられずに済むようによ。気の弱いAが反撃なんて出来るわけがないから!」
 Bは何も答えない。これも肯定。肯定なのだ。
 「でもどうしてなの? 一体、エイミーの何がそんなに特別なの? エイミーを愛しているの?」
 「………」
 Bはため息をつくと、首を振って煙草を吸い始めた。私は白い煙が唇から吐き出されるのをぼうっと見ていた。
 「……吸うか?」
 私は黙って煙草を受け取った。
 沈黙が落ちた。私たちは示し合わせたかのように同じ仕草で煙草を吸い、口から離し、煙を吐き出した。まるで双子のようだった。
 どうしてこうなってしまったのだろう……。
 少し考えに沈み込んだ次の瞬間、後頭部に衝撃が走った。
 殴られたのだ。気付いた時には遅かった。あっという間に倒れ込んだ私の上に、Bが馬乗りになる。
 「お前のことは相棒だと思ってた」Bは独り言のように言った。「だから本当は殺したくなかったんだがな……」
 ああ、Bは私を殺すつもりなのだ。エイミーの為に。
 「じゃーな……」
 Bがいつのまにか私から盗んでいたナイフを振りかぶる。
 こんなところでみすみす殺されてたまるものか。私はナイフを避け、思い切りBの体を突き飛ばした。
 地面に倒れこんだBの手からナイフが滑り落ちる。私は急いでそれを拾った。渾身の力でBの腹に押し込んだ。Bはナイフの突き刺さった自分のお腹を見た後、私をにらんだ。
 「……やってくれたな、マツダ……」
 「あっ……ああ……B………ごめんなさい」
 顔を歪めるBを見て、咄嗟に謝ってしまう。
 でも、すぐに思う。そんな必要はない。
 刺されても当然なのだ。Bなんて。私を裏切ったんだもの。
 Bは自分の腹からナイフを抜いた。そして私に刃を向けようとするが、すぐに力尽きてナイフを落とす。傷口からは血がとめどなく溢れ出ている。 
 ……私が殺したかったのはBではなくてエイミーだったのに。Bに守ってもらえるエイミー。可哀想なエイミー。……
 血に塗れたBの体を見下ろした。出血が多すぎる。おそらく、もう長くはないだろう。
 「ははは………っ!」
 Bは突然、狂ったかように高らかに笑いだした。
 「何? ……おかしくなったの?」
 こんな破天荒なBでも死ぬのは怖いのだろうか。私は憐れむように息も絶え絶えなBを見下ろした。
 「はっ、ちげーよ。思い出したことがあるんだよ。なんでこんな大事なことを忘れてられたんだ、俺は?」
 「なんのこと?」
 私はBの側でしゃがみこんで優しく問いかけた。彼の最後の言葉を聞いてあげようという気になったのだ。
 「死ぬのは初めてじゃねえんだ」
 「……どういうこと?」
 「あのクソ親父だ。俺はアイツに一度殺されたんだ」
 それからBが語った話は衝撃的だった。



 この体は生まれた時は俺だけのものだった。俺は自分が男で、間違った体の中にいるって物心ついた時から俺ははっきり分かってた。女の真似事なんかする気はさらさらなかった。俺はエイミーという女の名前に反抗し、Bと名乗って男として生きていた。あのクソ野郎はそれが気に入らなかった。
 俺はあの日アイツにレイプされながら思ったんだ。
 『女になりたい。俺の精神が体と同じ女だったら、親父からこんな仕打ちを受けなかったのかもしれない』
 ……そして俺は一度死んだ。代わりに生まれたのが女の人格のエイミーだ。もう男の仕草であの男をイラつかせて酷いことをされずに済むように、極端に臆病で従順な女になって生まれて来た。
 兄貴……クリスは、何が起こったのかを悟っていた。俺を守ることが出来なかった罪滅ぼしか、エイミーを徹底して守ろうとし続けた。死んだ後もエイミーの中で守っていたが、それだけじゃ足りるわけがねえ。Dも、Eも同じだ。誰もあいつを本当の意味では守れねえんだ。



 「だから俺はまた復活した。今度は本物の男になって帰ってきたんだよ。今度はクソみてえなことでへこたれねえ、邪魔する奴は躊躇いなく皆殺しに出来る、本物の男になってな」
 「………そうだったの」
 私は虚ろな目でBを見つめた。私が聞きたいのはたった一つだった。
 「……エイミーを守るために、戻ってきたというのね?」
 Bは静かに頷く。その途端、涙が溢れた。受け止めきれない激しい感情を涙が流していく。私の体の中で地鳴りのように嫉妬が鳴っている。私は気がつくとナイフを手にとっていた。
 「何よっ! エイミー、エイミーって……」
 「ぐっ! うっ!」
 私はなんどもBの体にナイフを押し込んだ。
 「聞きたくないわ……」
 だって、それは私のことじゃないんだもの。私のことじゃないんだもの……。
 知らず涙が溢れた。私の涙に呼応するようにBが血を吐き出す。苦しげな呻き声。しかし表情には余裕があり、口元には笑みすら浮かんでいる。
 「お前は俺を殺せない。死ぬのは怖くなんかない。俺は必ず生き返ってやる……」
 「……それは素敵だわ」
 私は最後にBの口に長い長いキスをした。そのキスは血の味がした。
 「……良いことを教えてあげる。あなたが死んでも、エイミーは死なないのよ」
 Bが不思議そうに私を見る。
 「私の名前はエイミーなの」
 「…………」
 「知らなかったでしょ。私はエイミー・マツダよ」
 Bは見覚えのある表情を浮かべた。笑顔と戸惑いが一緒になったような表情。エイミーの父親を殺した時に、彼がこんな顔をしていたのだった。
 Bは、エイミーの体は、そのまま生き絶えた。私はその場から動けず、座り込んだまましばらくすすり泣いていた。




 ここは私の家。あれから一年経って、私はまだこの町にいる。赤ん坊特有の高い鳴き声が家中に響き渡っている。
 子供部屋でブライアンが泣いているのだ。早くあやしにいかないと。
 「エイミー……何故なんだ……」
 おっと。その前に、このクズを完全に殺さないといけないわね。私はもう虫の息になっている私の夫を見下ろしながらそう思った。私の手には血が滴るナイフが握られている。
 「Bのためよ。Bが自由になる為に、あんたは邪魔なの」
 「……何を言ってるんだ……どういう意味だ……Bって誰なんだ…」
 彼の顔にはたくさんの疑問符が浮かんでいる。でも、答えてあげる義務はない。
 「死んでもらうわね。さようなら」
 私は夫にとどめを刺した。彼は音もなく事切れた。長いこと連れ添った夫を殺したことに罪悪感は一切湧いてこなかった。


クズ



 ようやく、手に刻まれたこの文字を消せる時が来た。私はナイフで線を入れる。



クズ(×)



 ……Bをこの手で殺し、失意の中過ごしていた私の前に、古いカセットテープが届いたのは一ヶ月後のことだった。
 差出人不明のそのカセットを再生してみると、驚くべきことに、中には私の声が入っていた。
 『エイミー、俺だ』
 Bだ。私にはすぐにわかった。声こそ私のものだったが、それは懐かしいBの喋り方だった。
 言っていた通り、Bが生き返ったのだった。
 『久しぶりだな。今、俺はお前の中にいる』
 私は泣きながらその声に耳を傾けた。


 もう女と体を共有するのはごめんだ。俺が入る体を用意しろ。男であればなんでもいい。
 それから、さっさとあのクズを殺して町を出て行けよ。この町にはうんざりだからな。


 懐かしいあの命令口調。
 『俺が自由になる為にもう一度協力しろ』
 私の答えは決まっていた。Bを自由にするために私はどこまでもついて行く。どこまでも、どこまでも。
 ブライアンがまだ泣いている。私は夫の死体を残して子供部屋に行き、ブライアンーーまだ生後半年の赤ちゃんを抱いた。
 「ブライアン、よしよし……良い子ね」
 ブライアンは孤児院から受け入れた養子だ。クリスを殺した時のBに似ていた養子だった。一目見た時に、すぐにこの子だと思ったのだった。

 そうだ。この子を育てて、Bの体にしよう。

 この子を受け入れる為に夫の存在が必要だった。ブライアンを受け入れてしばらく経つ。もう夫は用済みだ。彼には沼に沈んでもらい、『行方不明』になってもらおう。
 しばらくあやすとブライアンは泣き止んだ。私はブライアンをベビーベッドに寝かすと、鼻歌交じりでカセットテープを再生する。
 『クズの死体を処理したら、荷物を準備しろ。引越しだ』
 言われるまま、服や生活必需品を大きめのスーツケースの中に詰めて行く。
 私はハイヒールを履いた。出て行く日のために新しく買ったハイヒールだ。こんなに高いヒールを買ったのは何年ぶりだっただろう。いや、生まれて初めてかもしれない。
 『……この町から出て行くんだ』
 そうよ。
 カセットテープから流れるBの声を聞きながら、私は笑っていた。


エイミー 〜スクールカウンセラーと多重人格生徒の連続殺人計画〜

エイミー 〜スクールカウンセラーと多重人格生徒の連続殺人計画〜

「お前は共犯者として俺に協力するんだ」 かわいそうなエイミー。いいや、もう今日を持って彼女はかわいそうなんかじゃなくなったのかもしれない。だって、彼女は、負け犬だって反逆し得ると自分の力で証明したのだから。 主な登場人物 マツダ…スクールカウンセラー エイミー(A)…臆病ないじめられっ子。主人格 B…暴力的な殺人鬼の人格。マツダを連続殺人計画に引き入れる C…穏やかでミステリアスな人格 D…気の強い娼婦の人格 E…赤ん坊の人格

  • 小説
  • 長編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • ホラー
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
  • 強い反社会的表現
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日 2020-03-20

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