【S支局発】スクープ

中崎紫紅

 第1部 「ピラミッドはかく語りき」

 宮城県の港町。潮の匂いが漂う港そばに真心(まごころ)新聞S支局はある。支局長の中田圭介は一本のたれ込み電話を受ける。県内でも有名な私立大学の付属中で組み体操の死亡事故が起きた―。後輩記者の木山と事故の真相を追う。震災でようやく子どもの声が戻ってきた学び舎は住民たちの特別な存在。運動会も組み体操も人々の「心の復興」には欠かせない存在になっていた。学校も当事者の親もみな口を閉ざし、取材には非協力的だった。中田は、父親との関係を思い出しながら父と子のありように悩まされる。そんな中、遺族の父親が執念で集めた証拠で提訴のスクープをものにする中田。しかし、小さな新聞社組織はこの私立大学を訴える記事を書き、告発した中田を整理部に左遷する。何年か経ち、事故の真相を語りたいと少年がS支局に。同席した中田は、ピラミッドの最上段にいたこの少年がいじめの復讐で故意に落下したとの告白を受ける。

 第2部 「Mの罪」

 S支局がある町にはM町長がいる。M町長は、自分が創業したゴミ処理業者と不正な取引をしていたと議会から追及を受ける。業者のウソの申告をそのまま受けて、不燃物ゴミを売っていたという疑惑。自分の会社に便宜を図っていたとして、住民を巻き込んだ前代未聞の不祥事に発展する。町長選を前に、中田は、さまざまな関係者の思惑に揺れながらも、Mのたくらみを暴こうとする。

 第3部 「感染湯」
 
 この港町の娯楽は温泉。その温泉施設でレジオネラ菌の集団感染が発生する。五十数人が感染し、うち一人が死んだ。感染者の中には中田の妻、由起子も含まれていた―。事件にまで発生した集団感染をきっかけに、中田は妻との関係を見直そうとする。

【S支局発】スクープ

第1部
 ピラミッドはかく語りき



 海風がぬるく、苦い。
 宮城県のある港町。窓を開けると、潮のにおいが仕事場まで入ってくる。漁船のエンジン音がかすかに聞こえる。
 真心(まごころ)新聞S支局は、港のそばにある。
 支局といっても、五十ヘーベほどの部屋に四十代も半ばになる支局長と一回り下の部下がいるだけだ。
 震災の後、ビルの一角に移転したばかりでオフィスは真新しい。窓から小さな港が見える。
 柄が付いたサスペンダーが自慢の支局長、中田圭介が朝、いつも通り港のへりを二十分間、家からゆっくりとS支局に向かう。
 少しでも生あるものに触れていたい。
 そうしないと、ヘルメットをかぶったようなジリジリとした頭重感が、今まで以上に増すような気がするから。
 中田は最近よく眠れていない。いや、厳密には寝ているのだが、朝が早い。
 毎朝、テレビのローカル・ニュースが気になってしょうがないのと、仙台の都会暮らしでこの町にいまだになじめないストレスからだと勝手に思い込んでいる。
 そう思いたくなるほど、ここのところ体調がすぐれない。
 やつはいつもだいたい三十分ぐらい遅れてくる。部下の木山のことだ。
 駆け出しの頃を思い出す。上司が来る時間には一仕事終えていた。そう教育された。
 リベラルなことを世間に堂々と流布しているが、中身は一番古い体質なのが新聞社という組織なのかもしれない。
 案の定、新聞受けは他紙でいっぱいになっていた。
 きょうも一番乗りか。
 ■■
 席に着くと待っていたかのように電話がけたたましく鳴り響いた。仙台にある本社社会部の佐川デスクからだった。
 「あのさ、付属で運動会あった?」
 なんなんだいきなり。
 「ああ、あった思います。多分、確か…それが?」
 いつものように遠慮のない甲高い声で聞いてきた。朝っぱらから何だ。
 この時間にかかってくるのは、きょうの紙面のクレームぐらいしかないはずだが。
 「たれ込みだよ。匿名の電話がこっちにあったんだ」
 佐川デスク。千葉か埼玉の出身で、中田より年上だが一歳しか変わらない。
 もともと文化部畑で社内では「穏やかだけど頑固」という評判で通っている。
 中田とは性格も記者としての構えも会社に対する考え方も、生き方も真逆だ。
 だから、ぶつからずにここまでやってこられたのかもしれない。
 「どうも子どもが一人死んだらしいのよ」
 「運動会で?」
 「いや、まだ分からない。それがさぁ、その人が言うには、組み体操が原因じゃないかって言うんだよ。とにかく学校に当たってくれる?」
 嫌な予感は的中した。
 電話を切ると木山が入ってきた。
 「運動会で子どもが死んだって」
 「えっ。どこのですか」
 現地に二人もいて、初耳とは格好が悪い。六月のじめじめとした空気が、中田をいらだたせた。
 それも、いま話題の組み体操だ。事故なのか、事件なのか、でたらめなのか、情報はゼロ状態。
 とりあえず中田は付属の学校に電話することにした。木山には警察と市役所を当たるよう指示した。
 「真心新聞の中田です。校長先生か教頭先生はいますか?」
 「あいにく二人とも夕方まで帰ってきません。どうしましょう?」。事務員らしき男性がそっけなく答えた。
 戻るまで周辺から情報を取ることにした。過去の記事を調べてみると真心新聞の訃報欄にこの少年の死亡記事が出ていた。
 死因は書かれていなかった。あっさりしたものだ。
 その訃報には告別式の日付がきょうになっていた。
 木山が斎場へ、中田は学校へ急行することにした。
 「付属」と言えば宮城県、いや東北地方でも知らない人はいない。
 私立大学の付属校で、中学校と高校を併設している。亡くなった少年は中学三年生だった。
 事故だったら、学校から何か言ってくるんだけどなぁ。
 中田は付属と支局とがこれまでも良好な関係を保っていたこと、よく取材依頼を受けていたことを思い出し、いぶかった。
 何か事情があるに違いない。とにかく校長を待とう。
 空はどんよりとした雲が覆っていた。かろうじて雨は降っていない。
 佐川デスクからの電話以外、特に変化のない梅雨の一日の始まりだった。
 ■■
 中田は先月、四十五歳になった。入社二十三年目のベテラン記者。いや、もうデスクになってもいい年次だ。
 ただ、中田は書くのをやめるのはまだ早いと思っていた。
 S支局は希望して来たわけではないが、本社社会部で何か不満めいたものを抱えていたから、結果的によかったと思っている。
 また一から支局で汗をかきたい。念願叶って支局に出ることができ、喜んでいた。
 ところが、S支局に赴任して三カ月後、原因不明のめまいで倒れた。
 自宅でのことだ。風邪をこじらせ、激しいせきが止まらなかったのはかろうじて覚えている。
 ある夜、寝ていると妙な夢を見てうなされた。中田とソリが合わない本社の上司が登場したのを覚えている。
 どこか高い場所から足を滑らせ、落下するような、そんな感覚に襲われた。とめどもなく深い闇に吸い込まれていくような。
 目を開けると、天井がぐるぐる揺れて回転し、おうとしながらやっとの思いで携帯にまでたどり着き、救急車を呼んだ。
 朝、妻が仙台から病院に駆け付けていた。脳には問題がなかった。
 ただ入院を余儀なくされた。その上、当面は車の運転を控えなければならなかった。
 職場復帰するまで仕事の負担をかけたのが部下の木山だった。
 木山はちょうど一回り下の三十三歳。S支局が初任地だ。いつもマイペースで寡黙な男である。
 180の大柄な中田に対し、木山は160ほどの小柄。「凸凹コンビ」と他社の記者からよくからかわれている。
 小柄だが、中田が入院中、一人で奮闘してくれた。頼りがいのある若手、と紹介しておく。
 二人しかいない支局ではどうしてもお互いの短所が目につきやすくなる。
 その分、欠点やミスをフォローしないと、たちまち仕事が回らなくなる。
 中田はそういう意味でも、入院を通じて信頼関係が生まれてきたような気がしている。
 「告別式はどんな様子?」
 「施設の中に入れません。出てくるのを外で待っています」
 「外に出てきたらできるだけ多く関係者の声を集めてくれ」
 中田は携帯を切ると車に乗り込んでいた。学校へ行くためだ。学校は町の中心部にあり支局から車で十分で着く。
 ただ、今まで運転を控えていたから不安が込み上げてきた。
 ハンドルを握りながら校長への質問をあれこれ考えた。そうこうしている間に無事に着いていた。
 告別式から帰ってきていないようだった。何よりも運転できたことに驚き、小さな喜びをかみしめた。運転は半年ぶりだった。
 学校という組織が隠ぺい体質であることはこれまでの取材で思い知らされている。いじめや事故、職員による不祥事…。
 なぜこれほど身内をかばうのか不思議でもある。どうも好きになれない。劣等生だったからだろうか。よく分からない。
 木山からの着信だ。
 「終わりました。一人当たりましたが、だめでした。なかなか話してくれそうにない雰囲気です」
 「だれが来てた?」
 「遺族やほかの保護者、学校の先生たちです」
 「分かった。もう少し当たってみて」
 すると、学校から校長が着いたとの連絡が入った。道路脇に止めていた車を学校へ滑らす。
 正門は大学の付属校らしく大きく、中も中高併設とあって広い。
 この学校は、町を三方に囲む山の中腹にあり、津波の被害を奇跡的にまぬがれていた。
 公立学校の校舎と何ら変わりはないが、併設の分、白色のコンクリートの校舎の数が多いようだ。
 ただ曇り空のせいか、味気ない。冷たく無機質な刑務所に似ている。校庭は校舎の北側で入り口からは見えなかった。
 ■■
 この学校の運動会はちょっと有名だった。震災後、町の学校はほぼ津波で消えた。この学校だけが奇跡的に無傷で残った。
 だから、生き残った住民たちは学校を学校以上の存在として期待した。最近再開したばかりの運動会もその一つだった。
 少なくなった子どもたちはまさに宝であった。子どもたちの「生」に触れることができる数少ない催し―。
 中田は学校も病院のように生と死が共存する場、生死のはざまがある場、なのだと思った。
 やはり、多くの人が亡くなりすぎた。
 「たくちゃんが死んだって?」
 中田のいとこも津波で死んだ。中田より一歳上だった。この港町に住んでいた。
 仙台の母親からの電話で知ったが、中田も仙台にいたから、どうすることもできなかった。
 「職場が飲み込まれたらしいのよ」
 「奥さんは?」
 「奥さんは生きてるって。勤め先の病院の屋上にいて…奇跡的に助かったってよ」
 「たくちゃんの亡きがらは?」
 「見つかってないってよ」
 たくちゃんと中田は子どもの頃、仙台の実家でよく遊んだ。大人になっても、一緒に酒を飲む間柄だった。
 中田は、自分よりどこか父親に似ているたくちゃんが好きだった。いとこというより、兄弟のように思っていた。
 だからこの町には絶対に来たくなかった。取材の応援で来た時は感じなかったが、本社に戻ってから不眠症に悩まされた。
 S支局に赴任してからは、睡眠薬を病院から処方してもらおうとしたが、もう少し待ってみることにした。
 たくちゃんには一人息子がいた。中田に子どもがいなかったから、よくかわいがっていた。その息子も死んだ。
 こんな話は珍しくもない。思い出したくもない。中田は、震災以降の記憶を消すことに必死だった。
 学校が再開するまでの道のりは長かった。校舎と校庭が残ったとしても、人がいなければ何も始まらない。
 仙台の本社にいた中田も何度かこの町に応援取材に来ているが、居を移してじっくり取材するのは初めてだった。
 学び舎では子どもたちのはしゃぎ声を聞こえてくる。天使の声のように、何かの始まりと希望と救いを感じ取ることができた。
 若い男の教諭が中学の校舎を案内し、応接室へ招いた。
 しばらくして校長が副校長を従え、姿を見せた。がっしりとした体格。五十代半ばぐらいか。口がへの字に曲がり変形している。
 「きょうはどんな要件で?」
 知ってても一応聞くのか。
 「ご存じだと思いますが、鶴川君のことです」。中田は丁寧に答えた。
 「私たちも今帰ってきたところでして。本当にびっくりしてるんです」
 「鶴丸君は運動会で亡くなったんですか」
 中田は単刀直入に、そして間髪入れずに最も聞きたいことを聞いた。
 「それが分からないんですよ」
 「運動会でなくなったんじゃないんですか? 亡くなったのは事実ですよね」
 「もちろんです。だから告別式に行ってきたんですから。病気の可能性があるんです」
 「病気?」
 中田は先手を打たれたような軽い衝撃を覚えた。想定外だ。校長の顔を見ながらその表情を観察した。
 既に理論武装している自信に満ちた表情。口角が上がる。分が悪い。
 「頭にこぶがもともとあって、それが破裂したとかなんとか?」
 校長は横の副校長の方に目をやり、同意を求めた。
 「ええ、こぶが破裂したと搬送先の医者から聞きました」。副校長はまるで校長の言葉をオウムのように返した。
 「では運動会とは関係なく、もともとあったこぶが突然、破裂して亡くなったと?」
 「私たちもその辺がよく分からないんですよ」
 「鶴丸君の様子はどうだったんですか。運動会でけがをしませんでしたか」
 「それがピンピンして元気だったんです」
 「なぜそれを?」
 「紅白対抗で運動会をするんですけど、白組の団長だったんです。それで選手宣誓とかもしていて…」
 「変わった様子はなかった、ということですか」
 「まったくありませんでした」
 「普段から病気がちだったとか、体が弱かったとか?」
 「いえ、そんな話も聞いたことありません。野球部に所属していまして、健康面に問題はありませんでした」
 「組み体操ではどこの位置にいたんですかね?」
 組み体操の言葉を切り出した途端、校長の顔色が変わったのを感じた。
 「組み体操は関係ないですよ。だれにそんなこと言われたんですか」。校長は一瞬笑うしぐさをしたが、真顔に戻した。
 「いえね。組み体操が崩落したとか、最近話題になっているじゃないですか」
 「実はそれについても、もう聞き取りをしました。崩れてないって、生徒たちが言うんです。生徒は騎馬を組んでいた生徒です。生徒が言うんですから、それ以上は調べようがありません」
 「聞き取り?」
 「念のため、そういうことがあったかどうか、騎馬の生徒に聞いたんですよ。運動会の後に」
 「崩れなかったと?」
 「そうなんです」
 「ではなぜ、元気だった鶴丸君が突然、亡くなったんですかね」
 学校は鶴丸君の死亡の原因を運動会と結びつけたくないようだった。
 「騎馬って、どういう形状しているんですか。ピラミッドとは違うんですか」
 中田が両手で三角形を示すと、二人は詳しいことは言いたくなさそうだった。
 「うちの学校はピラミッドのことを騎馬って言うんです。九人で三段つくるんですけど例年やってるし、ことしも問題はありませんでした。鶴丸君は二段目にいました。四つん這いになってました」
 下が六人、中段が二人、頂上に一人という構成らしい。
 「六人も下にいるんですか」
 「立ったまま支えるんです。立ったまま歩いて退場するんです」
 「つまり、動くピラミッド、というイメージですかね。六人が四つん這いの三人を支えるんですね」
 「そうです」
 「重ねて確認しますが、本当に崩れてないんですかね」
 「崩れていなし、事故もなかったです」
 「では、病気で亡くなった、ということですか」
 「それがはっきり分からないんですよ。ただ、その可能性もあるのかなと」
 中田は「分からない、はっきりしない」では、記事は書けないと思った。これ以上聞いても禅問答になるだけだ。
 分かったのは騎馬という特殊な組み方をしているということと鶴川君が死亡したこと、生徒への聞き取りで騎馬は崩れていない、ということだった。
 十五歳でこの世からいなくなる。親はよく納得したな。やはり病気だったのか。
 それとも生死のはざまにでも落っこちた、というのだろうか。
 ■■
 中田は校長に見送られながら、ふと「子さらい」の話を思い出した。いとこのたくちゃんが連想させたのかもしれない。
 震災の後、子どもと一緒に亡くなった父親の霊があの世で子どもに会えず、現実世界を徘徊するという話。
 生きている別の子どもを学校までさらいに来るという、にわかに信じがたいうわさのことだ。
 自分の子どもがあの世で見つからず、霊となった父親が学校の校庭で遊んでいる子どもに話し掛け、そのまま連れ去るという。
 実際に小学生の女児が行方不明になりかけた事件が別の町であった時、この都市伝説が一気に広がった。
 その町も、学校という学校が津波にのみ込まれた。小学校の跡地に「出る」という噂はずいぶん前から聞いたことがあった。
 中田はしかし、あくまでうわさ話で記事にできない以上は深く関心を持てなかった。
 ところが二年前の夏、宮城県警から一枚のファクスが記者クラブに届いた。
 小学一年の女児が行方不明になっている、という内容だった。
 女児が通う小学校も震災後、ほぼ無傷で残った。高台に位置したことが幸いして、ギリギリで津波の被害をまぬがれていた。
 平日とあって、午後三時には児童は下校していた。だが夜十時になっても女児は家に帰ってこなかった。
 クラブに連絡が入ったのはちょうど午前零時を回った頃だった。
 中田は本社社会部でちょうど夜勤デスクをしていたから、この騒動をよく覚えている。すぐに署轄担当を呼び出し、取材させた。
 結局、この女児は仙台に遊びに行っていただけだった。
 ただ、その友だちというのが東京の二十代の無職男でラインで知り合ったというのだ。しかも遊びに行った時が初対面だった。
 警察は女児の友だちから電話をかけてもらい、居場所を突き止めた。
 女児は、母子家庭で母親と二人暮らしだった。寂しくて遊びに行ったという。母子家庭と言っても、震災前は父親がいた。
 父親は職場で津波にのまれ、死亡したらしい。亡きがらはいまだに見つかっていない。ちょうど、母親の体内からその女児が産まれる直前の悲劇だったという。
 この手の話が別の町でもあった。いや、そのまた別の町でも。同様の話は尽きることがない。それだけ人が死んでいった。
 結局はこの女児のように、遠くに遊びに行ったり、家出したりと、事件にはならないものばかりだった。
 親たちは狂ったように我が子を探し、学校を責め立てた。
 いつしか親たちは、学校に「子さらい」が現れると恐れ始めた。
 亡くなった父親たちが、我が子と勘違いして連れ去る。
 それから、下校時間になると学校へ車で迎えに来る親が増えたというのだから、この都市伝説も一役買ったといえば買ったということなのだろう。
 子どものいない中田は親という奇妙な「生き物」、とりわけ父親という生き物に強い関心をその時抱いた。
 しかし、「付属」では現実に少年が亡くなっている。中田は、現実の世界に意識を必死に戻そうとした。
 いつの間にか、子どものはしぎ声も聞こえなくなっていた。
 昼休みだろうか。校内放送でクラシックのG線上のアリアが流れ出した。佐山デスクに出稿の見送りを伝えた。
 優しく、穏やかな音色に見送られるように学校を後にした。
 中田は、いつの間にか頭痛が消えていることに気付いた。
 たれ込みなんて全部が正しいわけじゃない。今まで「外れ」も何度もあった。
 空振りの方が圧倒的に多い。ただ、記者が途中で追うのを諦め、スクープを逃すことも多い。それだけは避けたかった。
 ■■
 「中田さんはなぜここ選んだんですか」。木山が尋ねたことがあった。
 「いろいろ理由はあるんだけど名前に惹かれた。マゴコロっていう。
 それと実家から、親から離れたかったのもある。あと『不屈のペン』ってやつに憧れたんだ」
 木山はきょとんとした。
 六〇年代、抗争が絶えなかった暴力団から平和な仙台の町を取り戻そうと真心新聞は暴力団追放キャンペーンを展開した。
 当時の編集局長宅に銃弾が撃ち込まれる事件にまで発展したほどだった。
 それでも彼らは書き続けた。彼らの奮闘の軌跡が本になっているのを知り、それを学生時代に読んだ。
 「不屈のペン」は、そんなオールドタイプの記者に敬意を表した言葉だ。
 その武勇伝を知っている記者も、もはや社内では少数派となった。中田が新人の頃、当時現役で記者だった人がまだ社内にはいた。
 中田は毎日のように上司に飲みに連れられその上司の上司だった彼らの武勇伝を聞かされた。
 そうやって社風というのは醸成されていくのかもしれない。
 そういえば木山をあまり飲みに連れて行ってないな。中田は反省した。
 「まあ、僕も東京ですし。縁がないほうがやりやすいこともありますしね」
 木山は眼鏡の黒縁に手を当て、表情を変えずに返した。たれ込み電話があった二カ月前のことだ。
 真心新聞には北海道や関東から来ているやつも多い。
 中田は最近特ダネを書いていないことに焦りを感じていた。
 悲しいかな、記者という仕事はニュースを書かなければ認められない。
 ここでいうニュースは、当局の発表を無視した独自記事。理由は簡単で、読者がそれを何よりも欲しているからだ。
 ネタは、最終的には人からもらう。その相手からまず信用されないと大きなネタも小さなネタも引けない。
 これがなかなか難しい。だからといってウソも書けない。
 中田は港が見える支局で、淡々と日々の業務をこなしていた。二人しかいない支局。中田も木山以上に出稿量が求められている。
 地域の行政や町ネタ、警察までありとあらゆる事象を追っている。
 M町長が創業し、その妻が経営する産業廃棄物処理会社が町との不明朗な取引をしている問題も、中田の頭を悩ませていた。
 だから組み体操の問題はいろいろあるネタの一つに過ぎなかった。
 たれ込み電話があった日から約半年が過ぎた十二月。中田はもうすっかり、鶴丸君のことを忘れていた。
 「支局長、鶴丸さんからお電話です。多分父親かと。例の…」
 「来たか」
 その男性は静かに、落ち着いた声で面会を求めてきた。支局に来たいという。拒む理由はない。今すぐに来たいという。
 鶴丸君の父親は一人で支局を訪れた。十二月下旬の底冷えする静かな夜だった。
 ■■
 鶴丸和夫。
 会社を経営している。中肉中背にスーツがよく似合う。穏やかな印象だが目だけは鋭さを宿していた。
 電話から十分ほどで来た。近くから電話したのだろう。
 「息子のことで相談したいことがあるんです」
 「組み体操の件ですね。私たちもお会いしようと思っていたんです。けどなかなか」
 中田は反省していた。もっと深く取材すべきじゃなかったのか。校長の言ったことをうのみにしすぎたんじゃないのか。
 めまいの後遺症を理由に少年の死の真相を追うことにちゅうちょしたことを後悔し、恥じた。
 「記事を書いてほしいんです」
 およそ三時間、中田と木山は鶴丸の話をじっと聞いていた。メモを取りながら。
 要約するとこうだ。

 鶴丸和夫の息子で、宮城県内にある私立大付属中三年の和明君が、運動会の組み体操で頭を強く打ち、死亡した。騎馬が崩落し、上段の生徒の足が和明君の頭に当たった。運動会の日の二日後の夜、自宅で急に気分が悪くなり救急車で町内の病院に搬送されたが、脳内出血で死亡した。頭の血管が強い衝撃で破裂したとみられている。学校側は組み体操との因果関係は一貫して「ない」と否定しているため、学校側に抗議している。

 中田は取材が難航することを直感した。学校側が仮に組み体操の事故で死亡を認めたとしても、物的証拠がない。
 「で、鶴丸さんはどうしたいんですか」
 「中田さん、でしたっけ。中田さん、わたしは悔しいんですよ。原因ははっきりしないのはしょうがないにしても、学校側の誠意というか、常に逃げ腰で…」
 鶴丸は中田とテーブル越しにソファにもたれ、終始うつむき加減で話していた。
 「告訴しようと思ってるんです」
 中田は驚かなかった。想定内だ。
 「刑事事件は難しいでしょう。何罪で告訴するんですか。だれを…。お気持ちは分かりますが、感情的にならないほうが。それに半年後になってなぜ、記事に出したいと思ったんですか」
 「この前、組み体操のことでPTAの会合で経緯を話して保護者に協力を呼び掛けたいと校長に言ったんですよ。十二月初めだったっけな。そしたら『誤解を招きかねないから難しい、やめてくれ』って言われたんです。誤解って何ですかっ」
 鶴丸は興奮気味に続けた。
 「『事故だったという誤った情報を保護者に与えるから』とそう理由を言ったんです。しかも、話す内容を事前にペーパーに書いて渡したのに」
 鶴丸の声と身ぶりは大きくなっていった。
 「今までは脱力感でいっぱいでしたけど、これは戦わなきゃだめだ。和明のためにも、こういう事故をなくすためにも、と思ったんです。真心新聞に味方になってもらいたいんですよ」
 「PTAは? 味方になってくれなかったんですか」
 「学校にべったりですよ。相談しても、はっきりしない段階で学校には言えないって。突っぱね返される始末です」
 師走の支局は暖房を付けていても、寒さが身にしみた。港からの強烈な海風が原因だろう。
 中田は真実が何か強い力によって、つぶされたり、隠蔽されたりする社会こそ、変えなければならないという信念を持っていた。
 それこそが新聞の存在意義だし、その強い力にあらがえるのも新聞だと信じていた。
 「こちらも取材を続けます。ただ、訴訟にするには弁護士が必要だと思います。学校事故の専門の人がいますので、連絡先とか、メールしときますよ」
 中田は鶴丸のメールアドレスを聞いて、話を切り上げた。二十二時を過ぎていた。今の段階ではやはり書くのは難しい。
 鶴丸は中田と木山に深く会釈をして、支局を出た。
 「どう思う」
 「いやあ、書けませんよ。提訴まで待ちましょう」
 木山は石橋をたたいても渡れないタイプ。懸念したのは同じことを他社にも言っているかもしれない、ということだった。
 「とにかく、抜かれないように気をつけよう」
 中田は木山にため息交じりで話し、支局を出た。
 ■■
 鶴丸とのメールが続いている。子どもを急に失った親というのはここまで焦燥し、動揺し、取りつかれるものなのだろうか。
 中田には子どもがいない。だからだろう、この問題に余計に関心を持った。半ば興味というか、傍観者の冷めた目というべきか。
 子どもはリスクでしかない。
 ある意味で、自分に言い聞かせていたのかもしれない。
 大事に育てた子どもが突然、全幅の信頼を寄せていた学校で命を落とす。最初から産まない方がよかったんじゃないのか。
 子どもができない夫婦の恨み節だけでは片付けられない理不尽さが、そこにはあると中田は感じている。
 中田が結婚したのは三十二歳の時。相手は別の支局赴任中に知り合った一つ上の女だった。由起子という。
 もともと持病があり、子どもを産むのは難しかった。中田はそれを承知で結婚した。
 由起子は1型糖尿病を中学三年生の時に患った。以来、毎日四回のインスリン注射をしなければたちまち発作で倒れてしまう。
 中田より一つ上だが、見た目は若く見られることが多い。
 子どもをつくらない、できない前提で結婚した。そう、中田と由起子の結婚は子どもを否定するところから始まった。
 中田は仕事柄、転勤が多い。だが、由起子が急に倒れてしまう恐れがあるため、なかなか同居できない。
 結婚して十数年が過ぎるが、同居期間はその半分に満たない。だからこの町には由起子は週末だけやってくる。
 俗に言う週末婚だが、それでも会うと心強い。
 「子どもほしい?」
 仙台の本社にいた頃、由起子が聞いた。
 「別に。ほしくない」
 「幸せ?」
 「幸せだよ。どして」
 「だって、圭ちゃんに子どもをつくってあげられないからさ」
 「ばかなこと言うなよ。ほんとにほしかったら養子でももらうよ」
 「……」。目に涙をためながら由起子はうなずく。
 「ほんとに悪いなって」
 「キミが子どもみたいなもんだろ」
 こんな会話がこれまで何回も繰り返されてきたが、最近はなくなってきた。
 中田は、ようやく本物の夫婦になってきたように感じている。
 由起子は仙台の病院で栄養士をしている。中田が単身中は、病院から近い由起子の実家に身を寄せている。
 中田がその方が安心だからだ。

 中田様
 先日はありがとうございました。提訴に向けて準備しています。紹介していただいた弁護士と話をすることになりましたので、メールしました。I県の生徒のいじめ自殺問題で活躍した越智弁護士です。

 越智弁護士は学校事故・事件のエキスパートとして世間に知られていた。
 送ったリストの中の一人だった。連絡が取れたとメールで知らせてきた。
 提訴の段階で書けばいい。中田は他社には口外しないように念押しの返事をしてから支局を後にした。
 盆地に吹き込む風は冷たく、年明けの期待感や高揚感をいさめるような痛みを体に与えた。
 川べりを歩きながら一人の少年の死を考えた。持病があったからといって、いきなり夜に脳内出血で死ぬだろうか。
 どう見ても血管を破るきっかけがあったに違いない。だがそれを証明できなければ、裁判には勝てないし、そそもそも書けない。
 借り上げマンションに着くと由起子が夕食を作って待っていた。2DKの家は一人では広すぎる。
 十階建ての八階。夜になると、孤独の風が海からから吹き込んでくる。それさえ耐えられれば、快適な生活に違いなかった。
 ■■
 鶴丸から会いたいと連絡してきたのは、その後しばらくたってからだった。
 支局にノートパソコンを持参してきた。見せたいもの、聞かせたいものがあるという。
 組み体操で死亡したという証拠だろうか。中田は高揚した。鶴丸が見せたのはUSBだった。
 「坂本君の父親に会ったときの録音です」
 「坂本君って?」
 「騎馬の一番上にいた子です」
 「なるほど、その子の足が…」
 「そうです。坂本君の足が和明の頭に当たったんです。相当強い衝撃だったと思います」
 「でもなぜ、それが分かるんですか。騎馬が崩れないと足は当たらないですよね」
 「だから崩れたんですって!」
 いつも冷静な鶴丸がこの時、力を込め、声を荒らげた。
 鶴丸は息子の死後、すぐに坂本家を訪れ、父親と面会していた。
 組み体操で騎馬が崩れたかどうかを確認するためだ。ここにそのやりとりの一部始終が音声記録として残っている。
 疑問が残るのは、鶴丸も最初は病死で納得していたのではないか、ということだった。
 なぜ、事故死として自ら調査に乗り出すまでに至ったのか。
 中田はそのまま質問をぶつけた。
 「息子さん、病死ではなかったんですか。確かに、学校への不満はあると思いますが、事故であるとの確証はあるんですか」
 鶴丸は顔色を変えずに答えた。
 「坂本君が謝りに来たんですよ。和明がなくなった翌日に。こっちも最初は何言ってるのか分からなかったんですけど」
 「えっ、どういうことですか」
 「『僕のせいで和明君がこんなことになってしまった。ごめんなさい、ごめんなさい』って。妻や妻の友人がいる前で、泣きながら謝っていた。複数人が聞いていたから間違いないです」
 「上段の子が、自分の足が和明君の頭に当たったことを認めたんですか」
 「そういうことです」
 容易にこの悲しい物語の筋書きが読めた。

 九人構成の騎馬が崩れ、最上段の坂本君の足が和明君の後頭部を直撃した。痛みはあったが、和明君は乗り切り、普段の生活に戻った。ところが二日後、急に容体が悪化し、脳内出血で死亡した―。

 坂本君の言質がとれたのだから完璧だ。学校が認めなくても、記事は書けると思った。
 もちろん、坂本君に直接、裏取りをしなければならないが。
 明るい光が入ってきたような気がした。
 ただ学校は「騎馬は崩れていないし、事故もなかった」と事故の存在自体を否定している。これを崩すだけの証拠がやはり必要だ。
 とりあえず坂本君の父親に会った時の音声記録を聞くことにした。
 坂本君の「謝罪」を受けて、鶴丸夫妻が坂本君の父親に会いに行ったのだ。その時に録音していた。
 三十分ぐらいだろうか。中田はその場で鶴丸と一緒に聞いた。聞きながらメモを取っていた。
 最初、坂本君がドアを開けたが、すぐに父親が坂本君を後ろにやったらしい。
 「何のご用でしょう」。口調からけんか腰なのが分かる。少し酔ってもいる。
 鶴丸が訪問の目的やこれまでの経緯を話した後、坂本君が謝罪しに家を訪れた真意を尋ねた。坂本は演説するように答えた。
 「息子がお宅に謝りに行ったのは事実でしょう。それは。だけど、息子も友達を亡くして動揺していた。突然のことで。今は、本当に足が当たったかどうかよく覚えてないって言ってるんですよ。だからそれをもって、息子を犯人扱いするのはおかしいし、やめてほしい。あくまで学校の問題だし、学校の管理下で行われた。息子もショックで最初はよく寝れずにいた。そっとしておいてやってほしい」
 坂本も、息子を守るために鶴丸、いや世間と戦うつもりなのだ。ただ、息子が鶴丸家に謝りに行ったことは認めた。
 「責めるなら、学校を責めてくれ」
 そう聞こえたし、言いたいことはそういうことだった。それはそれで正論だと中田は思った。
 しかし、騎馬を構成するメンバーで直接、和明君と体が接触し、衝撃を与える可能性があるのは坂本の息子だけだ。
 坂本君が勇気を持って真相を話してくれたら、それで問題は解決する。中田はそう思った。
 中田は坂本君の父親のことを知っていた。町の幹部だからである。あのいつも冷静な人がこんなにも戦闘的になるのか。
 坂本家は市内の高級マンションに住んでいる。坂本君は一人っ子で、母親は小さなスーパーへパートに出ている。
 共働きのため、手伝いを雇っている。夫妻は息子をかわいがった。遅い子だったから余計だ。
 ここでも子どもの名誉を守る父親の姿があった。
 坂本君の父親に取材の申し入れをしたが、「いま話はしたくない」と断られた。
 坂本は鶴丸とは対照的に、背が高く体育会系。声も大きい。
 坂本君にも直接取材しようとしている。佐川デスクはまだ首を縦に振ってくれない。編集局長の指示という説明だ。
 ■■
 二人の父親を想像した。自分でも同じ行動をするだろうか。鶴丸も坂本も我が子の名誉を必死に守ろうと戦っている。
 子どもがたとえ、間違ったことをしても、世間から非難されるようなことをしても、父親が我が子を守るため立ちはだかる。
 自分でもそうするだろう。
 でもオヤジだったら―。中田は自分の父親のことをふと思い出した。
 泣きながらでも息子を裁きにかける。実際に涙を見せることはないだろうが。
 罪は罪と愚息に償わせる。時間がたったら酒でも飲もうと腹をくくるだろう。典型的な昔気質の父親だった。
 中田の父親は中田が二十九歳の時にがんで死んだ。由起子と結婚する前だった。
 中田は自分の親にしては面白い父親だったと思っている。罪と言えばニヤニヤしながらいつもこんなことを言っていた。
 「圭介よ、罪を犯してもいいけどな、つまらない罪でつかまるな。国を転覆させるとか世界を変えるとか。どでかいことやれ」
 思春期の中田はことあるたびに父親に激しく反抗し、衝突した。高校時代、取っ組み合いになって家の模造刀を喉元に向けられたこともあった。
 中田は何かに恐れていた。
 中田は今、父親とよく似た人間になっているとつくづく思う。それを恐れた。
 こうなることを。父親と同じような人生を歩むこと、思想や生き方が似ることを。
 でも、血にはあらがえない。素直に受け入れるしかない。
 父と子は、一定の距離が必要だ。中田はそう思っている。近すぎてもよくない、離れすぎても悪い。
 わが子はかわいい。かわいくてしょうがない。どの父親もそうだ。
 だが今の子どもはその愛から逃げることもしないし、そのすべも知らない。そのままを受け入れ、期待に応えようとする。
 中田は自分が子どもの時と比べるしかなかった。和明君も、坂本君も、きっと親の期待に応えようとした。
 「中学最後の運動会で頑張る」。そう思って組み体操に臨んだのだ。
 中田は自分だったら、わざと親の期待を裏切るような真逆のことをするだろう。いや実際にそうしたことがあった。
 三十年前の運動会。中田が中学三年生の時のことだ。和明君や坂本君の年齢とちょうど重なる。
 中田は小学生の頃から足が速かった。だいたいリレーの選手に選ばれ、アンカーを任された。中学最後のクラス対抗リレーでもアンカーだった。
 「高校に行ったら、もうリレーで走りたくない」。そう思っていた。親や周囲からの期待をプレッシャーに感じていたから。
 もう、最後にしたかった。あの日、そんなことを感じながら出番を待っていた。
 運命はまるで一級のコメディーだ。そういう時に限って一位でバトンが渡される。
 異常なほどの緊張と周囲の歓声、秋とはいえ暑く晴れ渡った空。風で、汗ばんだ肌がひんやりした。
 歯を食いしばり、バトンを受け、前を向いた。
 そこから記憶が飛んでいた。気付いたら自宅にいた。自宅で、クラスの担任と話していた。
 「圭介。がっかりするなよ。キミのせいじゃない。明日からはちゃんと学校へ来るんだぞ」。今まで聞いたことがない優しい声だった。
 中田は途中、走る振動で落ちてきたタスキが両足に絡み、転倒したのだ。悲鳴と静寂が校庭を包んでいた。
 静まりかえった大観衆の見守る中、ゆっくりと起き上がり、ゆっくりとゴールした。そう後から同じクラスの友だちから聞いた。
 タスキが落ちてきたら上げればいいだけのことだ。こうなることを半ば望んでいた。プレッシャーから解放されたかった。
 「ありがとうございます。ご心配おかけしました」。受話器の向こうの担任に頭を下げた。
 内心、ほっとしていた。これでもう頑張らなくていいんだ。そう思った。
 父親が見に来ていたことは分かっていた。父親はいつも校庭の陰から見ていた。運動会でも部活のサッカーの試合でも。
 来てほしくないと告げていても見に来た。姿は見えなかったが、どこからか中田を見ていた。
 中田は父親の期待を裏切ることに完璧に成功したと確信したが、結局のところは無駄な抵抗だった。
 中学を卒業してもその圧力から逃れられることはできなかった。
 高校時代は髪を金色に染め、にわか不良になった。なったつもりでいた。
 酒とたばこを覚え、父親から「距離」をつくろうとした。しかしそれも失敗した。
 「よぉ圭介、飲もうぜ」
 父親は中田の素行を注意するどころか、むしろ楽しんでいるかのように、中田少年に寄り添い、一緒に歩もうとした。
 中田は一種の息苦しさを茶髪とたばこと酒で表現するしかなかった。
 進学校に上位で入学したものの、ほぼびりっけつで卒業した。やっとの思いで地元の大学に滑り込んだ。
 中田は、和明君も運動会ではプレッシャーを感じていたと思った。「付属」は進学校を目指す中高生が集まる学校。
 鶴丸は地域でも評判の教育熱心な父親。だからこそ和明君は一生懸命頑張った。疲れていても痛くても、諦めなかった。
 なぜわざと転ばなかったのだろう。なぜ頭の痛みに耐え続けたのだろう。
 父親の顔が浮かんだに違いない。鶴川に認めてもらいたかったのだ。父親に「よくやった」と言われたかった。
 今の子どもは逃げることを知らない。中田に、怒りにも似た感情が込み上げてきた。
 ■■
 中田は、父親がなんとなく死ぬと思っていた。別れは真心新聞に就職した時に告げた。息子は父親の元を離れる。
 それが父子であり、男子が大人になる重要で欠かせない過程だ。いつまでも親元にいては成長はない。男になれない。
 そして究極の別れが親の死だ。親は先に死ぬ。遅いか早いか、それだけの違いだ。
 覚悟はできていたが、さすがに知らせを聞いたときは滑稽なくらいに動揺し、ショックを隠せなかった。死に目にも会えなかった。
 六十一歳だった。
 中田は遺体の額に手を当てた時の冷たさを生涯忘れられない。冷え切っていた。
 まるでコンクリートのように硬く、色が黒ずんでいた。石像のようだった。
 「これが死」
 中田は斎場で確信した。死ねば言葉も、魂も、何もない。あるのは物体だけだ。
 ついさっきまで温かく、笑顔を見せていた人間が突然、無になる。家族の死ほどの悲しみはない。
 中田は最近、ふと思う。がんによる病死には違いないが、本人は病状をだいぶ前から知っていた。なぜ、放置したのか。
 中田は父親が自ら死を選んだのではないかと疑っている。
 「もうこの辺でいい」。自ら生を停止させた。時を止めたのだ。
 何がつらかったのか。あるいはつらいことがなくなったのか。父親の役割を終えたからか。それとも老いに希望が見えなかったか。
 まるで分からない。分かりたくもない。聞くこともできない。
 父親の死は今尚、中田を支配している。逃れることはできそうにない。中田は和明君の死からも逃れられないでいる。
 「もう、取材やめたら?」
 ある日の晩、由起子に言われた。
 「また、めまいで倒れたらどうするの」
 「そんなことはないよ」
 「でも、圭ちゃんと鶴丸さんとは何も関係ないでしょ。家族でも何でもないじゃん。何か取りつかれてるみたい」
 由起子は、この問題にのめり込んでいる中田が心配でしょうがなかった。何か、不吉な空気を感じ取っていた。
 めまいで倒れてから、週末になると一週間分の作り置きをしてくれる。
 単身生活で不足する野菜を大量に購入し、ゆでたり炒めたりしてパックに保管する。
 野菜だけではない。肉や魚を手軽に食べられるように料理して小分けして冷凍する。
 「あんまり難しいこと考えるのやめて、もっと楽しいこと考えようよ」。由起子の口癖だ。
 だが、中田は和明君の死と父親の死を重ねていた。
 鶴川と自分も。和明君の死の真相を突き止めない限り、だれよりも中田自身が救われないような気がしていた。
 その晩、由起子とひさしぶりに肌を合わせた。中田が上にかぶさると、由起子は苦しそうな顔をする。激しく腰を動かすと、町中に聞こえるぐらいの声が響いた。
 由起子の乳房は今まで抱いた女の中で一番形がいい。顔を胸の谷間に埋める。
 こうしている間は、だれも中田を追ってこられない。だれも追及できない。責められない。シェルターの中に隠れることができる。
 ただ、静かなマンションではセックスする時も気をつかう。そんな小心の自分が嫌でたまらなくなる。
 ■■
 実父と、鶴丸、坂本。三人の父親が眼前から離れない。子どもがいたら、見方も変わっただろうか。
 鶴丸と坂本は結果的に自分の息子を守ることができなかった。
 鶴川の子は死に、坂本の子は疑いの目を生涯、向けられることになるのだから。
 生き残った方も、死ぬまで十字架を背負うことになるのだ。
 生前、中田の父親は、東大生で活動家だった樺美智子さんたちと安保闘争を経験したことを誇らしげに語った。
 「六〇年安保」は生き方を変えた。その生き方は自由だった。だれからも支配されず、だれにも脅威を与えない。
 東北大を出てから何年かまともに働いたがその後は会社を興したりして大好きな日本酒と気ままに生きた。
 中田は汗水垂らして父親が労働したところを見たことがない。世間にあえて背を向け続けた。
 中田はそんな父親を見てきたから、自然に学校や会社、教師や上司という父親的存在への疑心と反発が強くなった。
 そう育ってしまった。
 死後、多額の借金だけが残り、家庭裁判所に財産放棄の手続きをした。
 中田は子どもの頃、たんすや鏡台に差し押さえの紙がペタペタと知らないおじさんの手で張られているのを間近で見たことがある。
 今となってはいい社会勉強になったとオヤジに心から感謝している。
 おふくろには生涯頭が上がらなかったな。そう言えば、こんなこともよく言っていた。「よく覚えとけ圭介。世の中なんて、怖いものなんて一つもない」
 だが、鶴丸と坂本は真面目に世間と向き合っている。何よりも気質である。
 ■■
 「あの子、少し変なんですよ」
 以前、鶴丸が坂本君のことをそう言っていたことを中田は思い出していた。
 「ヘン?」
 「人の言うことをあんまり聞かないみたいなんですよね」
 「それって、どういうことですか」
 「組み体操の練習の時でも、我流で、勝手に上から飛び降りていたみたいなんですよ。何度も、何度も。騎馬のメンバーが注意しても言うことを聞かなかったそうです」
 「先生はちゃんと指導していなかったんですか」
 「どうも、ここの学校ではあまり先生が干渉しないみたいで。三年生は友人同士、二年生は三年生、一年生は二年生から指導を受けるんです」
 「坂本君は学校も手に負えなかった、ということですか」
 「まぁ、そういうことです」
 「だけど、事件性はないでしょう? 何も和明君に恨みがあったわけでもないでしょう?」
 「そう信じたいんですが。坂本君は学校で浮いていました。有名な話です。友達もいなかったみたいです」
 「いじめに遭ってたとか?」
 「その可能性はありますよ。うちの和明がしていたとは思いませんが」
 坂本君は友だちとのコミュニケーションが下手だったようだ。
 ただ仮にそうだとしても、そのことが故意に和明君の頭に膝蹴りをすることと結びつかない。
 和明君がだれからも好かれていた少年だったからだ。
 中田は、この学校の組み体操には不自然な点が多いと思った。
 事前の練習で、だれも坂本君の危ない飛び降り方を注意しなかったのだろうか。
 指導をそもそも放棄している学校にこそ責任があるではないか。坂本君の学校での評判や素行を調べる必要があった。
 ■■
 中田は坂本君の同級生に話を聞くことに成功した。同級生は坂本君と同じクラスメートの男子だった。
 知り合いの議員から親を紹介してもらったのだ。
 やはり、いじめはあったのか。学校近くの車の助手席にその男子生徒を招き入れ、メモを取った。
 その同級生は緊張している様子は微塵もなかった。どこかニヤニヤした横顔を見せ、何かを隠しているようにも見えた。
 「坂本君って、どんな人なの? 真心新聞の中田と言います。例の、組み体操の件で取材しています」
 「僕もよくは知らないんですけど、変なヤツですよ。人の言うことをあんま聞かないんです。自分のことばっか話すんです」
 「それって、よく分からないんだけど、わがままってこと?」
 「そういうレベルじゃないですね」
 同級生は明らかに坂本君を心の中で嘲笑していた。
 「病的、ということかな」
 「そんな感じです。理科の授業で班に分かれて実験して発表するじゃないですか。一人ずつ意見を言うんだけど坂本君だけしゃべり続けるんですよ。『おまえ、もういいだろ』って言われても。先生が注意することが度々ありました」
 「空気読めないってやつ?」
 「そんな感じです。それがなんか、繰り返しあるから、変なヤツだなって」
 「それで、いじめはあったの?」
 「僕は知らないです。正直。あんま、友達はいないんじゃないかな」
 「和明君は? どんな人」
 「いい人でした。頭いいし。クラスの人気者って感じで。事故の後、わざとやったんじゃないかってうわさがありました」
 「どういうこと? 坂本君が和明君の頭にわざと膝蹴りを入れた?」
 「うわさですよ」
 「仮にうわさとしても、動機は何かな」
 「分かりません」
 ■■
 中田はもっと同級生の話を聞く必要があった。故意の可能性があるなら、問題は事件に発展する。
 だが、なかなか子どもたちは正直に話してくれない。取材に応じてくれない。
 中田はネットを使おうことにした。高校生になりすまし、クラスメートの友達になり、証言を引き出す。
 木山からアドバイスをもらって試してみると、坂本君の友達に簡単にアクセスできた。ツイッターで探し当てた。
 なんとなく、いじめてそうな、意地悪そうな空気がこれまでの文面から伝わってくる同級生を突き止めた。
 中田は話し掛けた。
 「この前、坂本と駅でばったり会った。あいつ相変わらず変だったよ笑」
 「?? おまえだれよ?」
 「Aクラスの●●だけど、忘れた? まあいいけど。ひさびさで付属のこと思い出したよ。あいつが蹴り入れたヤツでしょ?」
 「蹴りって? 何」
 「中学ん時の組み体操で、死んだじゃん。その話」
 「ああ、あれ事故って話じゃなかったの。先生は病気で死んだって」
 「でもいじめられてたじゃん」
 「よく知らない。知りません」
 「ウソ言えー、言うこと聞かないからボコってたろ笑」
 「忘れました。そんなこともあったのかなー」
 「しょうがないよ。話が通じないもん。足引っ張られちゃ、俺らが迷惑」
 「忘れたね笑」
 「先生の言うことも聞かなかったろ」
 「まあ。だから俺らが代わりにやった。言うこと聞かせるためだよん」
 「アホはボコってもなおんないね」
 「だからボコらずに『お食事の罰』。おいしい食べ物を与えて慰めてあげましたん」
 「それってなんだっけ」
 「忘れました」
 返信を最後にやりとりは途絶えた。中田は高校生の言葉には苦労したが「お食事の罰」が引っ掛かった。
 やはり坂本君は同級生からいじめの対象になっていたらしい。ツイートの主は、当時のクラスメートの●●と後で判明した。
 坂本君は確かにいじめに遭っていた。暴力も受けていたようだ。ただ、なぜ和明君になぜ膝蹴りを食らわせたのかが分からない。
 想像してみる。

 からかいの対象になっていた坂本君は、最後の運動会を「決行日」と決めた。花形で伝統の騎馬の退場で、復讐を遂げる。自分を嘲笑してきたクラスメート、いじめを無視してきた先生や学校。人気者でリーダー的存在だった和明君を「殺る」ことで、その復讐は完結する。騎馬の解体を狙い、わざと膝蹴りを食らわす。そのために、何度も飛び降りの練習もしてきた。メンバーに文句を言われようが耐えてきた。

 中田は可能性はあると思っていた。ただ和明君を犠牲にする動機がまるで分からない。
 なぜなら、和明君は坂本君のむしろ味方だったから。
 ■■
 中田は鶴丸が言う筋に違いないと思っている。だが騎馬の崩落を証明するものがない。
 坂本君に直接話を聞くことができないし、仮に聞いたとしてもウソをつかれたらそこで終わる。
 あの時、大勢の保護者がいたはずだ。証拠はあるはずだ。
 何度も鶴丸に聞いてみた。
 「騎馬が崩落した映像はないんですか。だれか知り合いが持ってるとか」
 「それが、ないんです。知り合いに片っ端から当たりましたが、いざ学校を敵に回すとなるとみんな腰が引けるみたいで…」。鶴丸は孤立感を感じているようだった。
 中田は、すぐに木山に電話し、保護者に当たるように頼んだ。木山の方が知り合いが多い。S支局に来て四年が過ぎている。
 映像が手に入ったら、その時点で提訴がなくても記事は書ける。「組み体操で死亡」の見出しが出たら世間は驚くだろう。
 組み体操の事故でけが人は多く出ているが死者まで出たケースは最近は皆無だ。
 中田は、スクープへの野心に火がついていた。一方で、それは抜かれる恐怖との戦いでもあった。
 いずれ知られる。この手の話は保護者から保護者へ伝わりやすい。中田は映像探しを急いだ。
 ■■
 S支局は小さい。席が三つあり、奥に支局長席、出入り口寄りに二つ席がある。
 木山と中田の間に仕切りがあり、木山は中田と話すとき、立って仕切りの上から顔をのぞかせる。
 「五人当たりましたけど、だれも撮ってませんでした」
 やれやれ。
 運動会には毎年、学校関係者だけでなく多くの地域住民が集まる。だれか、組み体操の崩落現場を押さえているはずだ。
 中田は、鶴丸にメールした。

 鶴丸様
 真心新聞の中田です。映像の件ですが、保護者の口がかなり堅いです。逆にマスコミがこの件で動いていることが学校側に筒抜けでしょう。鶴丸さんのルートでなんとか入手できないでしょうか。ご一報お願いします。

 残念ながら新聞には日々の紙面を埋めるという恒久的な使命がある。
 支局の場合、芋掘りから訃報まで。細かいネタを読者に提供しなければならない。
 この問題だけを追っかけているわけにはいかない。
 中田はこれまでの経緯をメールと電話で佐川デスクに報告した。
 「提訴まで待った方が無難だよ。先走ってもし病死だったら責任とれんよ。でしょ? 弁護士と連絡したうえで、提訴の段階で書こう」
 予想していたとおりの返事だった。デスクとはそういうもの。まず責任、だ。
 読者より会社を見る。ミスリードした場合は逆に訴えられるケースもあるからか。
 現場は今にも情報が他社に漏れてもおかしくない状況なのに。悠長なものだ。
 木山はよき理解者で中田がぼやくといつも横で相づちを打ってくれる。
 提訴となると、今更ながら弁護士との接点をもたなくてはならない。
 遺族がOKと言っているのに、まだ時間をかけるのか。中田はやる気が徐々にそがれていった。
 いったい何のためにスクープを書くのだろうか。抜かれたらそれまでのこと。力が足りなかったということだ。中田はそう割り切ることにした。
 中田は本社社会部時代、震災での行政の不作為やハウスメーカーの施工不備など、行政や企業の不祥事系の問題を数多くスクープしてきた。
 ただ真心新聞がいくら頑張っても、大手のX紙やZ紙にはかなわないという妙な劣等感を持っていた。
 劣等感を唯一、はね返すすべがスクープだった。
 中田の記事は大手紙をいつも意識した。自分が引いたネタでX紙やY紙の記者にそれを追わせ、屈服させる。
 それこそが中田の存在意義であり、逆に言えば劣等感の裏返しでもあった。
 スクープへの焦りと強迫観念が他の記者よりも大きいことが、かえってモチベーションになっていた。
 真心新聞は、じっくりとテーマを追う企画型の記事を得意としている。
 不正や社会悪を告発し、暴き、ただす昔ながらの古きよき新聞とかけ離れている。
 やさしいのだ。自分の追い続けたことがまるで認められていないのではないか。支局を希望した理由はそこにあった。
 公私とも孤立感を抱いていた中田だった。唯一、部下の木山だけは気が合う、ように思えた。思うしかなかった。
 自分が指示したことを的確に動く。中田は支局の窓の先にある港の水面をぼんやり見ながら、次の手を考えた。
 ■■
 鶴丸からメールが届いたのは、この問題を諦めかけた頃だった。
 
 中田様
 お探しの映像がありました。こんどそちらにうかがいます。いつならよろしいでしょうか。

 数日後、支局に訪れた鶴丸はだいぶやつれたように見えた。いつものノートパソコンを出した。またスーツ姿だった。
 「これを見てください」
 体操服に身を包んだ生徒が騎馬をつくり、勇壮な音楽に合わせ退場している。
 九人構成の騎馬が五つか、六つほどが順番に退場門を出ている。
 校舎の屋上から撮ったのか、小さくて崩れたかどうか確認できない。
 「小さすぎて分かりませんね」
 「まぁ待ってください。次の―」
 鶴丸は、「拡大バージョン」というタイトルが付いた同じ映像を見せた。
 カットは同じだが、拡大されている。複数の騎馬の中で和明君や坂本君の騎馬に矢印まで入っていた。
 「これは…。どうやったんですか」
 「実は弁護士の越智先生に頼んだんです。先生の知り合いにテレビ局の人がいて、拡大してもらったんですよ」
 「テレビ局に漏れることはないんでしょうね?」
 「大丈夫です。先生がいいと言うまでは絶対表に出さないようにしましたから」
 すると和明君の騎馬が退場門から出ると、上段の坂本君の姿がストンと下に落ち、消えた。明らかに落下している。
 全体が崩れたかどうかは前後の騎馬でよく見えなかったが、坂本君と二段目にいた和明君ともう一人は明らかに崩れている。
 少なくとも騎馬の一部は崩落しているのが確認できた。
 「これ、だれのですか? どこから入手したんですか」
 「実は、あったんです。わたしが前に、学校ともめる前に学校から資料をくれって言ったら、ビデオの映像くれてたんですよ! 小さくてこんなの使えないと思って置いていたんです。越智先生に相談したら何と、崩落シーンが映ってたんです!」
 決定的な証拠だった。越智弁護士に電話して提訴の前に書こう。
 学校は、騎馬の崩落は否定している。だれが見ても、騎馬が崩れた映像だ。
 学校は映像を拡大されると思ってなかったろうし、ここまで鶴川とこじれると当初は考えていなかったのだろう。
 傍観していた保護者のビデオ映像より、断然説得力がある。訴訟になっても証拠能力は高い。
 中田は木山や佐川デスクにも、その映像を見せた。しかし、佐川デスクはなぜか、逆に態度を硬化させた。
 「それは、ものの見方だよ。遺族から見たら崩落している。でも、学校側から見たら崩落ではなく、こういう着地の方法だったと言い張るかもしれない。崩落はあくまで見る側の主観だ。提訴まで待つんだ」
 「もちろん、学校の主張も取り入れます。双方の主張を並べて、あとは読者に判断してもらう。それでもだめですか? 提訴は遺族がすると言っているんです。そのための弁護士でしょう。書かせてください」
 中田はムキになっていた。意地と焦りがそうさせた。
 「もし学校とトラブったら、真心新聞が説明すればいいんじゃないですか。わたしがします。事実に基づいてるんだから問題ないんじゃないんですか」
 少しの沈黙の後、佐川が返した。
「うちは責任はとれんし、とらん」
 冷静だった。中田とは真逆の氷のような口調だった。答えは分かっていたが、佐川の男気に期待した自分がバカだと思った。
 ミスリードは組織の責任。書いた記者は結局、責任は取れない。いつまでたっても成長できない子どもの気持ちだった。
 微妙な問題にあえて色を付けるのは時期尚早、ということでその場は納得するしかなかった。
 ■■
 それでも中田はまだ諦め切れなかった。越智弁護士に電話してOKを引き出そうと考えた。提訴の前に世へ出したかった。
 それはそれで理由があった。いざ裁判になったら自由に書けなくなる。
 選挙とよく似ている。告示や公示になるやいなや法律に引っ張られ、行数も内容も自主制限してしまう。
 それに裁判で真実が明らかになるというわけでもない。裁判も絶対ではない。いや、むしろ無力だ。
 神が裁くのではない。とりわけ民事は原告、被告の主張の「落としどころ」を探すプロセスに過ぎない。
 中田は自宅から電話することにした。越智弁護士は大阪の事務所にいる。支局だと客が入って中断を余儀なくされることがある。
 「もしもし、初めまして。真心新聞S支局の中田と言います。鶴丸さんの件でお話がしたいんですが」
 「ああ、話は聞いているよ。今のままじゃ証拠が足りんで、負けるで」
 待っていたかのような返事だった。
 「ビデオで撮影した映像があります」
 「そんなんじゃ弱いな。証言もとらなあかんし。子どもたちの。もっと言えば、先生からも」
 「そこで越智さん、今の段階で『提訴準備』の記事を出したいんです。双方の主張を入れる形で記事にしようと思うんですが」
 「そりゃあかん。こまる! 君な、そんなんされたら裁判どころじゃなくなるで」
 「しかし、鶴川さんは最初にうちに記事を書いてほしいと相談しに来たんです。遺族がいいと言うならいいんじゃないですか?」
 「頼んでんねん、書いてくれるなって。それでも無理いうんやったら勝手にしろっ」
 ツーツーツー。
 なんて自分勝手な。
 中田は電話を突然切られたこともさることながら、記者を軽く見る態度に憤った。
 弁護士と記者は協力関係にないとハードルは越えられない。出稿への道は完全に絶たれたように思えた。
 もし、提訴以降の記事だったら裁判であったことを追っていくしかない。
 ましてや子どもが絡んでいる。スムーズに進まないことくらい容易に想像がつく。
 こちらが主導権を取って真相に迫りたい。そう考えて何が悪いのだろうか。それが報道のあるべき姿じゃないのか?
 ■■
 「付属」のことを宮城県内で知らない人はいない。市役所や企業の幹部の子弟が通う。
 鶴丸も会社の社長をしている。商工会議所のメンバーでもある。
 中田はいま一度、鶴丸の知り合いの保護者を片っ端から取材した。しかし、実のある話はとうとう聞けずじまいだった。
 結局、鶴丸自身も次第に問題を公にすることにちゅうちょし始め、弁護士の言うとおりに動くようになっていった。
 中田はこの問題から離れようと決め、他社に情報を漏らさないこと、提訴の際は一番に情報提供することを鶴川に約束させた。
 それでも一抹の不安はあったが、佐川デスクもそれで満足した。
 「提訴した」と連絡があったのは、秋も深まった頃だった。
 ちょうどその頃、中田は都内にいた。組み体操や部活動などの「学校問題」を研究していた横井教授に取材をしていた。
 「問題なのは、組み体操が死因につながったかどうかより、学校側がこの組み体操を危険と認識していたかどうか、ではないでしょうか」
 横井教授は騎馬の形状を厳しく指摘した。通常、ピラミッドは四つん這いで固定され、笛に合わせて首だけ動かしたりする。
 ところが付属中は、移動式で下段が立ち、中段、上段が四つん這いになっている。
 「崩れる可能性が大きいということですか」
 「もちろんです。下段が歩行すれば、中段は大きく左右に揺れ、上段はもっと不安定な状態になります。それに高さです」。
 「確かに、下段が立った分だけ、高くなりますね」
 「これでは固定したタワーと同じ高さです。極めて危険な状態だったと言わざるを得ません」
 中田は騎馬の特殊性と危険性を学校が認識していたとは到底思えなかった。
 なぜなら最初の取材で学校は「伝統的な組み方でこれまでもやってきたし、問題はなかった」と自信満々に答えていた。
 横井教授と大学研究室で話している最中、携帯に鶴丸からの着信があった。
 いつもメールでのやりとりだったので「もしかしたら」と横井教授の取材を中断した。
 「もしもし、真心の中田です」
 「中田さん。きょう、提訴しました」
 「……。ついにやりましたかっ。本当によかったです。記事にしますので、訴状をメールできますか」
 「もちろんです。お待たせして申し訳なかったです。弁護士がなかなかOK出さなくって」
 「まあ向こうもいろいろあるんでしょう。プロですから」
 奇妙な信頼関係が生まれていた。少なくとも中田はそう感じていた。同い年でなんとなく似た同級生もいた。
 もの静かだが、ねちっこいタイプ。約束を守ってくれたことが何よりもうれしかった。
 中田はすぐに佐川デスクに電話を入れた。
 「ついに遺族が提訴しました。きょうです」
 「やったじゃないか。粘り勝ちだな。何行ぐらいにする?」
 「本記六十行で、サイドを専門家の話で七十行と、それと騎馬のイメージ図を付けます」
 佐川は二つ返事で了解した。
 記事に、和明君が亡くなった翌年の運動会から、学校が騎馬をするのを取りやめたことと、入場門そばに混雑を避ける柵を設けたことを書くように中田に指示した。
 学校が危険性を自ら認めた確固たる証拠だからだ。記事は社会面のトップを飾った。

 宮城県内の私立●●大付属●●中三年の男子生徒が死亡したのは運動会の組み体操が原因として、遺族が学校を運営する●●大に●万円の損害賠償を求め地方裁判所に提訴した。生徒は運動会の二日後に死亡。学校が十分な安全対策を講じなかったと訴えている。

 スクープ前夜というのは複雑な気持ちに駆られる。まだ世の中のだれも知らない情報を一人独占していることに酔いしれる。
 一方で苦しかった時間の終わりを告げ、虚脱感に襲われる。虚無感といっていいだろうか。
 何年かぶりにこうした気持ちを味わえて、記者になって本当によかったと中田はつくづく思った。
 この麻薬のような中毒性が、いい意味でも悪い意味でも書くことをやめられない理由なのだろう。
 ■■
 翌朝。
 目覚めると、木山に電話した。木山は支局から歩いてすぐのところに家がある。
 「他紙をチェックしてくれる?」
 朝の弱い木山は「折り返します」と電話を切った。まだ朝の七時を回ったばかりだ。
 「どこにも出ていません。うちのスクープです。中田さん、やりましたね」
 「これからが大変だよ。裁判もフォローしなきゃならないし。当面続報も考えなければならない」
 ネットのニュースも「『組み体操が原因』で遺族提訴」と目立つ位置で後追いした。
 まさに今、宮城の付属中のニュースが全国を駆け巡っている。
 「各社、裏が取れたみたいですね。でもあしたの他紙は提訴どまりだと思います。こっちは学校が事故を認めず、再調査もしない、という内容で続報を書きます」。中田は佐川にそう伝えた。
 完璧なスクープだった。記者会見の案内が県警の記者クラブから回ってきた。町内で開くという。
 ■■
 前年の十二月に鶴丸が支局へ来て以来、約十カ月。ようやくネタをものにした。ただ中田はこれからが本当の勝負だと思っていた。
 裁判の被告は、学校ではなく大学だ。おめおめと引き下がる相手ではない。この地元の私立大学は真心新聞にも出身者が多くいる。
 「身内に弓を向けるのと同じことだよ」
以前、社会部の先輩に半分冗談で言われたことを思い出した。
 中田はまだ、冗談にしかその時は聞こえなかった。記者会見の記事の出稿予定を本社に伝えると、佐川デスクではなく、社会部長が電話に出た。
 「中田君か。連日そんなに大きくいかなくていい。三十五行に絞って、絞って。写真は落ちるかもしれん」
 どういうことだ?
 急に扱いがトーンダウンし始めた。中田は領収書記事だからしょうがないとその時は納得するしかなかった。
 ちょうど鶴丸が初めて支局を訪れてから一年がたっていた。
 スクープは何かの一線を越えたらしい。その「何か」に気付くまで、多少の時間がかかった。
 付属中にも取材を申し入れたが、返事はノー。「訴えられている大学の方に問い合わせてください」とのことだった。
 中田は提訴以降、ずっと沈黙している大学に今後の対応を聞かなければならなかった。
 大学は仙台にあった。電話をしても担当がどこかもはっきりしない。OBでもある木山に大学に行ってもらうことにした。
 「この問題については副学長が最高意思決定者みたいなんですけど、研究室には全然いないみたいですね」
 木山は一日中、副学長を探し回ったが、見つからなかった。
 大学は何を守ろうとしているのだろう。この私立大学は、キャンパスを宮城県内のA市から仙台に移して、まだ間もない。
 。キャンパスは広く、OBの木山でさえも移動にてこずった。
 A市はいわば大学の町といってよい。大学が町をつくり、大学とともに歩んできた。真心新聞の社員の出身大学もここが1割ほどいる。だれでも知っている私立大学だ。
 真心新聞とも強い結びつきがある。大学のPR記事をふつうに一面や社会面に掲載している。
 これも両者がお互いに生き残るための知恵なのだ。
 副学長は機敏な動きをする。なかなかのやり手のようだ。まるでこっちの動きが見えているみたいだった。
 中田は木山を戻らせた。中田たちはその後も大学への取材を試みたが、のらりくらりと逃げられ結局話を聞くことができなかった。
 ■■
 中田はとうとう、学長の定例記者会見に乗り込むことにした。そこで一連の問題を取り仕切っている人物がだれなのかを知る。
 定例会見は、月に一度大学内で開かれた。内容は告げず、S支局長が出席するとだけ当局に伝えた。
 学長は事前に配布していた大学の新規の取り組みを紹介した後、質問を受け付けた。
 「真心新聞の中田と申します。S支局長をしています。ここにわたしがなぜいるかと申しますと、付属中での組み体操の問題です」
 中田は正面から切り出した。
 「ご存じの通り、生徒が一人亡くなりました。この問題でそちらの大学は被告になっています。何度も取材をお願いしましたが、取り扱ってもらえませんでした。直接、ここに来たというわけです。他社の皆さんには、申し訳ございません」
 「質問は受け付けますが、手短にお願いしますね」
 学長の後方から、立って答えた人こそ、真心新聞OBの内田さんだった。
 そうか。この人が「付属」をコントロールしていたのか。確かに現役の頃は医療問題をずっと追っていた。詳しいわけだ。しかし、こんなところで再会するとは!
 中田は、ビラミッドの頂を下から見上げているような錯覚を覚えた。
 内田は中田が駆け出しの頃、別の大学病院で実施された移植手術の取材の応援に駆け付けてくれた。
 何かと助けてくれた恩義があった。まだその頃のことは鮮明に覚えている。
 木山を連れてくるべきだったか。
 支局を空にするわけにもいかないので、単身乗り込んできたが、弱気になっている自分がそこにいた。
 「学長に聞きます。提訴をどのように受け止めていますか。なぜ、再調査をされないんですか」
 「付属中で生徒が亡くなったことは大変遺憾に思っています。残念でなりません。ただそれがご遺族が主張しているように組み体操が原因だったのかどうか。学校の主張もあります。だからこういう結果になったと思います」
 まるで人ごとだ。学長は新しいタイプの私立大学を目指し、よく真心新聞にも登場している人物。
 新しい事業をどんどん打ち出す好印象の人だったが、その期待は一瞬にして崩れた。
 「だからこそ、再調査して遺族や保護者の不安を解消すべきではないんですか」
 「調査は、学校が適切にやったと聞いています。ただ保護者に不安があるようであれば説明会は開いてもいいと思っています」
 中田は、説明会のことだけ記事にした。実際、不安の声が上がっていた。「裁判になるのに何の説明もない」と。
 「そもそも、学校の判断は大学が決めていた、と校長から聞いています。こちらでは学長が決めていたと判断してよろしいですか」
 「学校の動きは、その都度その都度、報告を受けていました。実務は副学長がしていたと…思います」
 「そろそろうこの辺でいいでしょうか。後の質問もありますので」。内田が質問をさえぎった。
 会見終了後、学長が中田のそばに歩み寄ってきた。
 「大学としても誠意ある対応をしてきたんです。ご理解していただきたい」
 「しかし、現に訴訟が始まろうとしています。誠意ある対応をしていれば、こんな結果にはならなかったんじゃないんですか」
 「……」。学長の顔は硬直した。
 「中田君、ちょっと」
 内田が間に入り、手招きした。学長は軽く会釈してその場を立ち去った。
 「中田君。久しぶりだね。元気だった?」
 「どうもこちらこそ。内田さんは大学で何をされてるんですか」
 名刺を差し出した。副学長とあった。
 やはり、この人だったか。この人を相手にしていたのか―。
 中田はがくぜんとした。
 内田さんは医療問題のスペシャリストだ。
 ここの私立大の医学部を卒業して真心新聞に入社。五年前に退社して大学に幹部として迎えられた。
 いまは学長の右腕になっている。校長の報告もこの人が受けていたのか。
 中田はやるせなさが込み上げてくるのを抑えようとした。どう内田と向き合えばよいのかも分からなかった。
 「これは病気の可能性も否定できないよ。組み体操で頭を直撃したとしても、場所にもよるでしょ。当たった場所。そりゃあ、遺族の気持ちを考えれば分かるけどね。こっちとしても、派手な争いは避けたいんだよ」。
 こっちか。もう記者じゃないのか。
 中田は、今にも崩れ落ちそうな不安定な崖の上に立っているようだった。頭がクラクラする。めまいが再発したか。
 「和解をするつもりなんですか」
 「いや、それはこっちからは言えないよ。だって訴えられてるんだから。ただ、気持ちはそういうことだよ」
 和解をしたら真相はどうなるのだろうか。鶴丸が必死になって集めた証拠や証言はどうなるのか。真実は闇に葬られるのか。
 そんなことをさせるわけにはいかない。
 中田は久しぶりの再会を喜ぶふりをしたつもりだが、ひきつった笑顔のまま内田と別れた。
 その一カ月後だった。異動の内示が中田に伝えられた。
 ■■
 記者といえども会社員に違いない。会社員である以上、会社の命令は絶対だ。中田は内田より、社長の顔がちらついた。
 学長が頼んだか。「中田を外してほしい」。よくある話だ。地元との付き合いを優先させる。
 それにしても露骨ではないか。今までの動きは全て筒抜けだった可能性もある。佐川デスクや社会部長も信用できない。
 「中田さん、僕が引き継ぎます。裁判、しっかりフォローしていきますから」
 「ああ、頼むよ。でも、もう無理することはない。あったことを淡々と書いていけばいい」。
 昼下がりの支局。
 内示を受けた中田に木山が笑顔で話しかけた。新しい支局長は経済部にいる後輩だ。
 「新しい支局長とうまくやってくれ」
 「会社ってすごいですね。こんなわかりやすい人事するんですね」
 中田の異動先は整理部。内勤と呼ばれ、記者が記事の見出しを付けたり、レイアウトをしたりする部署だ。
 記事は一切書かない。もちろん、書くテーマも決められない。あくまで送られてくる記事の編集に徹する。
 「中田さん、整理部初めてですよね」
 中田は二十三年目にして初めて整理部に行くことになった。
 理由はあえて聞かなかったが、左遷であることに違いない。入社以来、初めて敗北を感じた。
 まさに崩れ落ちる騎馬のようだ。勇ましく相手を威嚇し、敵を打ち負かす。その騎馬が崩落し、姿を消した―。
 スクープの代償か。
 異動のうわさは小さな町を駆け抜けた。
 「中田君、本社に戻るんだってね。後任は田中君だって? またよろしく頼むよ」
 内田副学長からの電話だった。
 「ああと、それから。肝心なこと忘れていた。付属中のこと。保護者への説明会の件なんだけど、やっぱりなしになった。すまん。学長には言ったんだけど。裁判中だからやめようということになった。こらえて」
 「ええ、それだったらしょうがないですよね。また、何か動きがあったら教えてください」
 中田は電話を切った。
 異動は定期で、決してイレギュラーなものではない。ほかの支局や本社でも対象者はもちろんいた。ただ、中田の場合、タイミングがよすぎた。
 鶴丸とはそれ以来、電話もしていないし、メールも途絶えた。
 ■■
 あれから二年の歳月が流れた。中田はまだ整理部にいる。
 中田が本社に戻った半年後の異動で、木山も整理部に来た。二人そろっての整理部。笑ってしまう。
 今は同じ部内でのんびり仕事をしている。二人でたまに飲みに行くと鶴丸のことを話す。和解に応じないのだろうか。
 裁判は、三回目の弁論が終わった後、弁論準備が続く。
 大学は主張らしい主張はせず、遺族の訴えを否定するにとどめている。和解を待っているかのようにも見える。
 坂本君やあの騎馬を組んだ生徒も、もう高校三年になっているはずだ。きっと大学進学に向け勉強に励んでいることだろう。
 ふと思うことがある。もし、坂本君が和明君の頭に足が当たったことを隠さず、父親も認めていたらどうなっていただろうか。
 中田はよくそのことを考える。多分、裁判はなかった。鶴丸は裁判を起こしていないだろう。
 なぜなら坂本君が全ての罪をかぶり、罪のありかを問わなくてすんだからだ。
 しかし、坂本君が罪を全てかぶるのもおかしい。もし、殺意を持って足を鶴川君にぶつけたならわざわざ謝罪には来ないだろう。
 まだ、罪のありかは問われ続けている。
 少年は確かに天に召された。だれの責任で亡くなったのか。その答えは出ていない。裁判でその答えが出るとも思えない。
 整理部に移ってから聞いた話だが、提訴の報道があった時、和明君がいた騎馬のある生徒が「なぜ、悲しいことを思い出させるようなことをまたするのだろうか」とツイッターでマスコミを非難したらしい。
 似たような反応は保護者にも見られた。「もう、そっとしておいてください」。何人かに説明会のことで話を聞いた時の返事だった。
 少年の死の罪はどこにあるのか。中田は正直なところ分からなくなっている。
 学校、大学にはもちろんある。坂本君の告白を隠そうとした父親は? 息子が吐くかすかな、弱い声が聞こえていなかった。
 それは声にならなかった、なっていなかったかもしれない。でも息子の必死の告白を受け止めることはできた。
 結果的に、鶴丸の味方になれなかったPTA、運動会に過度な期待をしていた地域の住民たちも、果たしてなかったと言い切れるだろうか。
 そもそも真実はあったのか。真実なんて、この世界のどこにも存在しないんじゃないのか。真実を追い求める意味さえも!
 ■■
 坂本君本人から支局に電話があったと後任の支局長から聞いたのは、冬になってからだった。
 「真実を話したい」。そう新しい支局長に伝えたという。中田も整理部にいながら取材に同席することを申し出た。
 たまたまその日は休みだった。本当は休みをもらった。何年か前、初めて鶴丸が支局に訪れた日を思い出した。
 あの日も、寒い日だった。師走の静かな夜だった。
 キリッとした表情をした好青年に見えた。地元の都立高校の制服を着て、支局のソファに座っている。
 「坂本と申します」
 中田は今まで聞いていた少年のイメージが違っていたと感じた。しっかりとした口調と姿勢、まるで好青年だ。
 「推薦で大学に受かりました。それで、来年春に東京に行くんです。その前に、中三の時の例の…事故のこと、話しておこうと思ったんです」
 「わざわざ来てくれてありがとう。こちらは事故を取材していた中田。わたしは支局長です」。後輩が中田を紹介した。
 「知ってます。うちの父が中田さんのこと話していましたから」。坂本君は少し笑顔を見せた。
 「あれは事故じゃないです。僕が膝を崩れる瞬間に和明君の頭にわざと当てたんです」
 「……」
 「あれは…」。坂本君は目線を下にやり、表情をこわばらせた。
 「君が故意に膝をぶつけたと?」
 「そうです」
 「でも、なぜ和明君を。君のことをかばってた。味方じゃなかったの?」。中田は、後輩の質問を遮るように身を乗り出した。
 「はい。和明君は。僕の憧れでした。頭も良くて、運動神経も良くて、みんなから好かれてて、先生からも。自分がみじめだったんです。いじめられてましたから」
 「殺そうと思ったの?」
 「殺そうとまでは思ってません。分からないように、けがをさせようと…。本当にごめんなさい。和明君に… 本当に悪いことを。本当にごめんなさい…」
 「僕たちに謝っても。しょうがない」。後輩の支局長は中田に目をやった。
 「それで、どんないじめを受けてたの。話したくなきゃいいけど」。中田が聞いた。
 「僕は、軽度のアスペルガーなんです。医者にもそう診断されました。だけど、学校ではだれも、だれにも言ってないから、いじめの対象になったんだと思います。殴られたりひどい時はイヌのウンチを食えって言われたこともありました」
 「それを、どうした」
 「無理やり、皿の上においしいものがあるからごちそうしてやるって。嫌がると無理やり口の中に入れられました。吐いたら腹を蹴られたり…。髪の毛捕まれて…机に頭ぶつけられたり。ひどかったです。いじめは遭った人じゃないと分かりませんよ」
 「…。でも、なぜ、和明君を?」。今度は支局長が尋ねた。
 「たまたま…です。たまたま、僕の下にいたからです。和明君じゃなくても、別の人だったら別の人がけがしてたと思います」
 「だれでもよかったのか」
 「……」。坂本君はうなずいた。
 「和明君、頭に病気があったのは知っていたの?」
 「あとで聞いてびっくりしました。知りませんでした。本当に、本当に…死ぬと思っていませんでした」。坂本君は涙を浮かべながら下を向いた。
 中田と支局長はうつむいたままだった。やはり復讐するためだった。
 だが、いじめた人間ではなく、なぜ、和明君が犠牲にならなければならなかったのか。
 ■■
 支局は、港からの風のせいだろうか。冷気が漂っていた。三人は沈黙していた。
 砂の上を走るような不安定な騎馬の上で、練習の成果をひたすら待っていた坂本君。中田は坂本君の心情に正直、これ以上迫ろうと思えなかった。
 「線香を、線香あげてってよ。和明君のとこ行ってさ」。中田が口を開いた。
 「はい」
 「今のことは、胸にしまっておきなさい。殺意がなかったとしても、結果的に和明君は亡くなってしまった。かげがえのない友人を―失ってしまった。その罪は償わなければならないよ。父親にはちゃんと、話すんだ。父親にはね。いいね」
 「分かりました」
 その後、坂本君が父親に話したかどうかは分からない。確認したわけじゃないから。
 中田は、記事を出すべきかどうか迷っていた。坂本君の告白はスクープに違いない。今度はだれも止めないだろう。
 もう、いいか。
 中田は、支局長に書くのをやめるよう伝えた。この問題からも手を引くように。
 もう、とっくに第一線から退いているが、記者に戻らないことも決めた。
 なぜだか分からない。苦しいわけでもないし、楽しいわけでもなかった。ただただ、潮時だと思った。
 そう、坂本君が何もかも終わらせたみたいに。中田も何かの終わりを感じた。
 ■■
 中田は休みを取り、ひさしぶりに「付属」の周りをゆっくり歩いた。
 町並みは空き地が目立ち、まだ震災の爪痕が残る。一度死んだ町の独特の空気は、都市伝説の舞台にはふさわしい。
 フェンス越しに見える校庭は、生徒の姿はなく閑散としていた。強く吹き込んでくる風は今は心地よい。昼休みだろうか。「G線上のアリア」が流れ始めた。
 「もっと、もっと、生きたかったよ」
 中田の弱気をいさめるように、どこからともなく和明君のかすかな声が聞こえた。学び舎から漏れる子どもたちの声ではない。
 確かに校庭の、騎馬がいた校庭の、あの黒い陰になっている辺りから繰り返し聞こえてくる。
 声は小さくなり、やがて消えていった。しばらくして「G線上のアリア」がまた耳に返ってきた。まるで死を悼む哀歌(エレジー)のように。
 こんど裁判の傍聴にでも行ってみるか。中田は鶴川との再会を心に決めた。
 海風が体の中を通り抜けていった。



 第2部
 Mの罪



 「一人二役ってやつですね」
 木山が唐突に言葉を発した。
 「ん? なんて? 聞こえなかった」
 中田は支局の固定電話を切って席を立ち、仕切りの上から木山をのぞき込んだ。
 「Mのことですよ」
 「ああ、なんだ。それより例の組み体操の件で鶴丸がこれから来たいと言ってきた。同席してくれるか?」
 「ええ、もちろん」
 「こっちが先だよ、組み体操のほう。Mの話は年明けからスタートしよう」
 「分かりました」
 師走のS支局。中田の気持ちは実家のある仙台にもう飛んでいた。同級生や親戚と酒を飲むのが待ち遠しい。
 M町長の問題は考えるだけでも嫌な気分になった。田舎のゴミ処理業者が町長になり、今までバカにしてきた奴らを見返している。
 小さな話だ。中田は心底そう思った。
 M町長が、町内の自宅近くに廃棄物処理業を始めたのは大学生の頃だというから、かれこれ半世紀も前の話になる。
 M町長は外面はいい、中田だけでなく周囲はみなそう言う。
 中田がS支局に赴任して真っ先にM町長に新任あいさつに行くと、ものすごい歓待ぶりで三十分も時間を取ってくれた。
 ■■
 そのM町長が、目の前で糾弾されている。3月の町議会の定例会。反町長派と言われる町議に突き上げられているのだ。
 「ここに書かれているA社というのはM町長、あなたの妻の会社ですね」
 「そう思って結構です」
 記者席にも配られた表は議員の見ているものと同じだった。
 アルミ缶などの資源ごみを業者が買い取って町へ申告した量と、町が売った量がそれぞれ示されていた。
 「なぜ、A社が町に申告した量と、町がA社に売った量とにこんだけ差がでているんですか!」
 「町が売った量に間違いはありません」
 「では、A社が申告した量が間違っていたと?」
 「それは……分かりません」
 「分かりませんじゃないでしょ。食い違いがある以上、どちらかがウソをついてることになる」
 「ごみの計量にミスがあったかもしれません」
 「は? 町がこんだけ売ったと言っている量と、A社がこんだけ買ったと言っている量が明らかに違うんですよ」
 「それは承知しています。ですが、買い取った量と言うのが、町の施設の計量ではなく自社の計量でやっているもので…」
 議会は紛糾を極めていた。
 今までおとなしかった反町長派の議員は急に元気になり、M町長を責め立てた。
 ただ、答弁は全て環境部長の鈴木が代わりにしていて、M町長は腕を組み、横でだんまりを決め込んでいる。
 中田はこの問題の構図がよく飲み込めなかった。休憩になったのを見計らって、担当の課長に資料の説明を聞きに行った。
 課長はイライラしながら屋外でタバコを吹かしていた。
 「課長、真心の中田です。確かにA社だけ量のズレが大きいですね。なんでこういうことになったんですか」
 「知らんよ。今回の資料は町が出したやつだから間違いはないよ」
 「んじゃ、A社が申告した量が間違っていると?」
 「A社に聞いてよ」
 「A社は町長の奥さんが社長しているとこでしょ。いいんですか。町長に矢を引くようなもんでしょ」
 「……。鈴木部長に聞いてくださいよ」
 「結局、この量の差、額にするといくらになるんですか」
 「多分、この後で出るから」
 課長は終始、貧乏揺すりをして口の端に白い泡みたいなものをためながら、早口で話していた。顔色が悪そうだ。
 議会は再開した。
 反町長派の議員が口火を切った。
 「先ほど、町が示した資料に基づいて質問を続けます。A社の申告量と町の出荷量の差額は金額にするといくらですか。年間ね」
 「およそ五〇〇万です」
 「五〇〇万円。これは本年度の記録、ですよね。前年、前々年度はどうなってるんですか。何十年もウソの申告を重ねて、不当に利益を得ていたんじゃないんですか? 町はそれを知ってて知らんぷりしてたんですか」
 「町長に聞いてんだ。部長じゃない」。ヤジがひな壇に飛んでいった。
 しばらくしてM町長が出てきた。
 「これは一度、町のほうでも調査をしたいと思います。この資料の信頼性ということもある。あらためて調査して判断を仰ぎたい」
 それほど難しい話ではないようだ。
 資源ゴミ(アルミ缶)を買って、リサイクル業者に売るビジネスを巡る不正な取引。これが問題になっている。
 ただ、その業者が売り手である町のトップの会社、町長の会社というのが問題を複雑にしている。
 もっとシンプルに言えば、売り手と買い手が同一人物になっているのだ。
 町のトップとA社のトップが同じ人物なのだ。厳密にはA社の社長は妻だが、創業してここまで育てたのは町長にほかならない。
 議会はいつまで続くのだろう。また休憩に入った。中田は外に出た。
 「佐川さんですか? 中田です。議会の原稿入れたいんですけど入りますか」
 「ああ、何かあった?」
 「ええ、町長の会社の不正疑惑が浮上してるんですよ」
 「なんじゃそりゃ。そこの町はいろいろあるなあ」。甲高い笑い声が中田をいらだたせた。
 「反町長派の議員が出させた資料で炎上してます。一言で言うと、資源ゴミの不正計量です。町に、ゴミの量を過少に申告して出費を抑えて浮かしていたという話です。年間500万円だからなかなかのもんですよ」
 「その資料にはそのことが書いてあるのかい」
 「ええ。資料と議会のやりとりで書けますが、A社に当たらないと」
 「きょう、会社に行ける時間がなければ電話でいいからコメントはいるな。なければ出稿は見送ろう」
 「分かりました」
 午前十時から始まった議会は、午後四時を回っていた。
 中田はA社のコメントを取るため、いったんS支局に戻った。が、町長の妻は留守のようだった。
 ■■
 真心新聞S支局がある宮城県のこの港町はゴミの処理業者と言えばA社の名前がすぐに出てくる。M町長の会社だから。
 M町長は大学生の頃、リサイクルをビジネスにしようと思いついた。
 故郷のこの町へ夏休みに帰っては、リヤカーいっぱいに空き缶を拾い集める「バイト」をしていた。
 「Mは、地元では評判はよくなかったですよ。表と裏の顔がある」
 A社で働いてたことのあるMと遠縁の男がS支局を訪れたのは、この問題が明るみになった三月から二カ月ほどたった頃。
 新聞を読んで、昔のことを思い出したという。
 「ある大きなミスをしたことがあるんですよ。わたしがね。その時、Mが社長だったんですけど、そりゃすごかったですよ」
 「何がすごかったんですか?」
 「みんなの前で正座です。正座させて、怒鳴り散らすんです。しまいには脚を思いっきり蹴られてしまって…」
 「みんなというのは?」
 「社員です。取引先の人もいたかな。ひどい男ですよ」
 中田はこの男が片方の脚を軽く引きずりながら入ってきたのを思い出した。
 「まさか、蹴られたせいで?」
 「そうです。あの時のけががきっかけで今もこうです。ひどい、最低の人間です。ほんとにMは!」
 年齢は八十というから、Mより十歳も年上だ。
 まあ、あの町長ならやりかねないな。中田はそう思った。
 中田は、ゴミを巡る利権の闇は深いとその時感じた。A社だけが町の仕事をもらっているわけではない。業者は複数ある。
 アルミ缶や鉄くずなどの資源ゴミは町の所有物で、資産になる。言い換えれば、町民の財産だ。
 その資産を有効活用させるため、買い取り業者がリサイクル業者に売る。町→買い取り業者の流れで疑惑が浮上した。
 町長の会社が、アルミ缶の量を実際より低額で買っていた疑いが浮上した。
 ■■
 議会はまだ続いている。
 「町長、さっき鈴木部長がね、A社は町長の会社だって認めたんですよ。説明責任あるんじゃないんですか」
 「その件に関しては、さきほど町長からも答弁がありましたが、きちっと調査した上でご報告したいと思います。ご理解たまわりますようお願いします」
 「議長、議長、町長に言わせて」。またヤジが飛んだ。
 「M町長」。議長が町長の名前を呼ぶ。
 「再調査する、ということ以外に答えることはありません」。鈴木部長が答弁を繰り返した。
 質問の急先ぽうに立ったのは、自由民政党に所属している谷本議員。もともとM町長とは懇意だったが、別の問題でたもとを分かった。
 震災後の復興予算がらみで、もめた。谷本議員は新たな会派をつくり、勢力を伸ばしている。
 中田はM社長の妻に電話するため、閉会を待たずにS支局に戻っていた。
 まだ体調も万全ではない。めまいの不安は常につきまとっている。
 「これは長引きそうですよ」
 「まあ、ウオッチしていこう。奥さんはどんな人だった? Mの奥さん」。佐川デスクが聞いてきた。
 「地味な普通の主婦って感じの人でした。もともと、会社もM町長が若い頃に創業しているので、名義だけ、みたいです。実態は息子がやってるようです」
 「A社のコメントを付けて、出稿してください」
 「了解」
 議会でのやりとりは初報として地方版に載った。それほど大きな扱いではなかったが、町民の反響は大きかった。
 ■■
 翌日の午後。
 「中田さん。お話ししたいことがあるんですけど、いいですか」
 産廃業者のB社社長、諸脇からの電話だった。諸脇の会社は業界の「老舗」であり、ニューカマーのA社を疎んじていた。
 いわば総元締のような存在で、もちろんM町長とも敵対関係にあった。
 中田は、今回のアルミ缶の計量不正の疑惑も、諸脇一派が黒幕だと思っていた。
 「どうぞ、支局で待ってますよ」
 諸脇社長が支局を訪れたのは午後六時を回っていた。
 諸脇が入ると、キツい香水の匂いが一気に充満した。中肉中背でいかつい印象。
 中田は別の取材で名刺だけ切ったことがあった。三代目で年は中田と変わらない。
 「中田さん、A社のことですが、これは少なくともMが町長になってから常態化していたようです」
 「本当ですか。じゃあ、自分の会社に利益を与えていたことになる。ただし、知らないって言われればそれまでですが」
 「年間五〇〇万円ずつ浮かして、それを選挙資金に充ててたんじゃないかっていううわさです」
 「何年間だろ。少なくとも今、二期目の二年目だから五年間は浮いてる計算ですね。二五〇〇万円。まあ、さもありな、ですね」
 「うちが町の記録を入手したんですよ。請求して。町もM町長に不満な人がいるってわけです。鈴木部長なんか筆頭株ですよ」
 諸脇がテーブルの上に広げた資料は、町がA社にアルミ缶を出荷した量と、A社が町に申告した量の過去十年分の数字の推移が記されていた。
 そこには誤差の量と額も明記されていて、M町長が就任した五年前から、だいたい年間500万円の差額で推移していた。
 「分かりやすい資料ですね。しかし、こんなことがあるんですかね」
 「町が作った資料ですから信頼性はあります。まさか偽造しているとも思えません」
 「これが本当だったら、A社がM町長に、買い取ったアルミ缶の量を過少に申告していたことになりますね」
 「その通りです」
 「町はおかしいと思わなかったんですかね」
 「そこです。そんたくしたんでしょ。M町長に」
 「大問題ですよ。A社は不正にアルミ缶を計量していて、M町長は自分の会社に便宜を図ったことになる」
 諸脇は首を何回か縦に振った。
 「警察はこのことを知ってるんですか」
 「きょうの新聞でこういう問題が話題になっている、という程度でしょう」
 「まあ、S署の署長も町長とツーカーですしね」
 「中田さんが書く、書かないはお任せします。わたしたちは不正はよくないと。今まで業界のルールできちっとやってきた。ところが、Mが町長になるやいなや、こういう体たらくです。元に戻さないといけないと思ってるんです」
 ■■
 中田は窓を開け、三月のまだ肌寒さが残る外の空気を支局の中に入れた。
 Mにとっては打撃だな。なぜなら四月には再選をかけた町長選が控えているから。
 既存の産廃業者たちが、反町長派をたきつけて議会で暴露したとしか思えない。
 「アルミ缶ってどうやって買い取るんですかね」。木山が独り言のように中田に問い掛けた。
 「どうも町の処理工場で処理されたやつを業者が買い取るらしい。そんな商売があること自体、初めて知ったよ」
 「こんなやつですか?」。木山はネットの画像で示された処理済みのアルミ缶を中田に見せた。プレスされ、立方体に圧縮されていた。
 「これから現場に行って確認してくる。それほど遠くないだろ」
 不燃物の処理工場は、町の中心部から山の中腹にある。車で三十分ぐらいで行ける。
 ただ、山道はくねくねと曲がり、相当の運転テクニックがいるのだ。
 中田は、めまいの不安からは脱していた。ぐんぐん山道を上ると、目立たない門が見えてきた。工場の入り口である。
 アルミ缶の処理場はすぐ分かった。ピラミッドのようにいくつものプレス済みのアルミ缶のブロックが野積みされていたから。
 遠くから見ると、そのピラミッドは物体が意思を持っているかのように、キラキラと太陽を反射させ、輝いていた。
 まるで宝のようだった。車から降りると、その美しさは裏切られ、ゴミの悪臭が漂ってきた。
 工場はプレス場だけでなく、分別場、粉砕場など決して広い敷地とはいえない土地にいくつかの処理スペースがあった。
 「どなたかいらっしゃいますか」。中田は管理事務所のドアを叩き、中へ入ろうとした。
 「どちらさま?」。工場長と思われる町の職員が座ったまま暇そうにしていた。
 「真心の中田と申します。あのー、工場を取材したいんですけど」
 「ああ、あの問題ですか。いいですよ」。意外とあっさりと許可が出た。
 「写真、いろいろ撮ってもいいですか」
 「どうぞ」
 中田は野積みみになってはいるが、まるでゴミとは思えない、何かのアート作品のようなプレス済みのアルミ缶を撮りまくった。
 近くまで行くと、ビールやジュースなど多種多様でカラフルな缶がつぶされている。
 飲んで飲んで飲みまくって捨てられ、つぶされたさまは、何かの救いを求めているようだった。
 中田は分別場へ足を運んだ。
 分別場といっても、ベルトコンベヤーの前に四、五人が等間隔で立ち、運ばれてくるゴミを手作業で選別しているだけだ。
 屋根はあるが、屋内ではなくまだ冷たい風が直接、ここで働く人に容赦なく吹き込んでくる。
 何よりもベルトコンベヤーが回転する「ゴー、ゴー」という機械の騒音が永遠に耳の中に飛び込んでくる。
 過酷な労働現場だ。
 この町の不燃物処理工場で働く人はB社の社員である。諸脇の会社だ。工場の仕事を独占していた。
 分別場も何枚か写真を撮り、工場を後にした。
 ■■
 支局に戻った中田はすぐに佐川デスクに電話を入れた。
 「背景に業者同士の争いがあるのかもしれません。A社がM町長の権力を盾にしゃしゃり出てきたので、つぶしてやろうと思った。もしくはお灸を添えてやろうと」
 「それで議会でヘンな資料を唐突に出させたってわけか。選挙前に打撃を与えようと画策したってわけか」
 「まあ、推測ですが。そう考えるのが普通だろうと思います」
 「どうする。続報」
 「やはり計量の誤差が何年も続いていたいう話を出そうと思います。工場の写真を入れます」
 「分かった。まあ、責められるのはA社だけど町の計量の仕方にも問題がありそうだしな。だってそうでしょ。なんで何年も気付かなかったんだろ。おかしいよ」
 「それは、忖度したのか、どうか」
 「いちいち町は自分とこの計量は見てなかったのかもしれないな。業者が上げてきた申告をそのまま信じていたんじゃないか」
 「そうだとしたら、ずさんな管理と言わざるを得ません。業者が申告した分を何も疑わず金を払っていたということになります」
 中田は、近くの町役場の鈴木環境部長を訪ね、計量の実態を詳しく聞きに行った。
 「部長、ゴミの計量を町はどういうふうに管理してたんですか」
 「燃物処理工場で計量してるんですよ。業者がトラックで持って帰るときに。アルミ缶のブロックを荷台に載せて計量する」
 「その記録は見てるんですか」
 「記録は記録だが、正直、しっかり見ていなかったと言わざるを得んな。まさか、こんなに業者の申告と差が出るとは想像もしていなかった」
 「じゃあ、やっぱり申告した量の金額を払っていた? ということですか」
 「そうなる。あしき慣習だ。こっちも悔しいんだよ。ずっと業者を信頼してきてこれまでやってきたからね。まるで想定外だった。分量をごまかすなんて」
 「議会では再調査するって」
 「一応するけどこちらにも否がある以上、なかなかA社だけを悪者にはできん」
 「しかし、向こうは認めていませんが、これはれっきとした詐欺ですよ。量をだまして不正に利益を得ている」
 「そこなんだよ。ただ再調査はきちっとやらんとな。結果は先になるが、ちゃんと公表しますから」
 続報は地方版だった。しかし、続報が出てからS支局に読者から反響の電話が増えてきた。
 それはほとんどが「追及して」という内容ばかりだった。
 ■■
 「中田さん。ツー・ハーツという電気設備会社をご存じですか」
 反町長派の谷本町議からの電話だった。
 「名前だけは聞いたことありますが」
 「接待漬けなんですよ」
 「どういう意味ですか」
 「ここらへんの町議とか市議とか、接待に連れてって取り込んで、役所の仕事をもらってるんです」
 「それって買収ってことじゃないですか」
 「まあ、でも実弾が飛んでるとかどうかは分かりません」
 「だれか町議で接待受けた人知ってるんですか」
 「私がそうです」
 「えぇっ? でもM町長とは敵対、してますよね」
 「厳密に言うと、声を掛けられたんです。しつこかったですよー、それは。選挙前にM町長が取り込もうとしてたんでしょう」
 「それでどうしたんですか」
 「断りましたよ、もちろん。それから声掛けられなくなりました。けどMはそれから露骨に敵視するようになりましたね」
 「小学校のクラスみたいだな」
 「中田さん、笑うかもしれないけどそんなものです。クラスメートのグループと同じですよ。議会はレベルが低すぎる」
 「しかし、なんでMとそのツー・ハーツでしたっけ。その社長と仲いいんですか」
 「私もよく知らないんだけど、前の選挙でMが応援を受けた。社長は在日コリアン。どうも、そっち系のつながりみたい」
 「そっちって在日系?」
 「うん。例の廃棄物業者との関係もあるんじゃないか。業者が多いんだそうな。そっち系の人の」
 「なるほどね。仕事でのつながりか」
 中田は不穏な空気を感じていた。
 タブー視してきた世界にこれから入っていくような胸のざわつきを感じた。
 「だれか業界に詳しい人、知りませんか」
 名前は知ってるけど、話したことない。だってMの参謀だもん。選挙のね。佐々木って言うよ」
 谷本との電話を切ると、中田は早速、佐々木と会う約束を取ることにした。
 Mの選挙をこれからも、これまでも取り仕切ってきた実動部隊の一人だ。
 不正計量の問題が発覚したことで、中田のことをよく思っていないことは容易に想像がついた。
 ■■
 「ああ、キミが中田君ね。よく書いてるじゃないか」
 スーツ姿で短髪の初老の人物はパリッとした風貌で中田に握手を求めた。
 既に不正計量の記事を出した一、二週間後の昼下がりの支局。硬い表情で待っていた中田は拍子抜けした。
 ソファに座るやいなや、数字で埋め尽くされたペーパーを広げてみせた。
 「中田さん、これがうちの、いやいやA社の計量表なんですよ。よくみてもらいたい。正しい数字が入っている」
 「これはA社が買い取ったアルミ缶の申告量ですか」
 「そうそう。細かい数字を積み上げてるから間違いはない」
 「しかし…、議会で町の数字と誤差が出てると指摘がありました」
 「そこなんだよ。町のほうが偽造したんじゃないかって」
 「えっ。そんなことってあるんですか」
 「あるよー。向こうだって人間が作ってんだから。ちゃんと計量しているかどうか調べてごらんなさい。ずさんだよー」
 「計ってる工場、行ってきました。ちゃんと事務所にも職員が常駐してるんです。あれで間違いはおこらないかと…」
 「中田君。私たちは公平に見てもらいたいんだ。なぜ、町の言うことが正しいと思うの? 絶対ですか? 役所の言うことは絶対? そうじゃない。もう一回、工場へ行って調べ直してほしい」
 「まあ、それは検討します。しかし、ですね。A社に不正が疑われています。問題なのは町長の会社だってことです」
 「今は奥さんがやってるよ。Mはもう全然タッチしてないと思うよ。会社のことは。奥さんと息子に任せてる。そりゃそうでしょ。町長の仕事も結構、忙しいんだよ。暇そうに見えるけどな」
 豪快に笑う佐々木に嫌みはなさそうだ。
 「疑われている以上、疑念を晴らすことがやはり求められます。町のトップですから」
 「だから、数字を持ってきて潔白を証明してるんじゃないですか。あんまり、この世界には首を突っ込まない方がいいと思うよ」
 「どういうことですか」
 「この業界はヤクザより怖い部分がある。まあ、社会から嫌われてる仕事だからね。底辺の人たちが一生懸命やってる。私もMの選挙の仕事を手伝ってから初めて知ったんだけど、在日が業界を牛耳ってる」
 「在日って在日朝鮮人のことですか」
 「そう。あとは想像通り」
 「なるほどね」
 「中田君、仙台だっけ。出身」
 「はい」
 「ならよくわかんないかもしれないけど、田舎は仕事がなくてね。だれもしないような仕事が彼らに回るんだ」
 「A社もそうだと」
 「それはわたしも知らない。いずれにしてもここまでにしていた方が無難だよ。悪いことは言わない」
 ■■
 中田はあの工場へ再び車を走らせていた。佐々木が突きつけた数字は、町議会で示された数字と何ら変わっていなかった。
 むしろ、町が出した数字に問題があると言う。
 どちらの言っていることが正しいのか―。中田は工場の事務所にもう一度、聞かなければならなかった。
 工場は、相変わらず異様な臭気が漂っていた。この場所で毎日、朝から晩まで外気に当たりながら働いている人がいる。
 「また来ました。真心の中田です」
 「今、忙しいんですよ」
 答えたのは工場長の室住だった。こちらに背を向けたままデスクワークをしている。
 「工場長、この前A社の関係者に会ったんですけどね。こっちの言うことの方が正しいんだって言うんですよ」
 「ならそうなんじゃないんですか」
 「町の計量が間違ってるってことですか」
 「何も言うことないんですよ。役場の部長に聞いてくださいよ。鈴木部長に」
 「間違いを認めるってことですか」
 「そんなことは言ってません」
 「取材に協力してください」
 「だから何も言えません。部長にお願いします。忙しいんです」
 中田は、室住の素っ気ない態度が少し滑稽見えた。わざとらしいのだ。
 怒る気になれなかった。こんな場所で時間を費やし、神経をすり減らしている自分がたまらなく嫌だった。
 「だんまりは世のため、人のために結局はならないと言わせていただきます」
 「……」
 中田は分別場へと歩いていた。
 場内はゴミの刺激臭とともに、ビニール袋の切れ端やペットボトル、よく分からないプラスチック片が至る所に散らかっている。
 時折、風が吹くとそれらが宙に舞い、体にぶつかりそうになる。中田は、ゴー、ゴーと鳴り響く分別場に入った。
 やはり、数人の従業員が作業をしている。若い女性がフツーに、ただもくもくと作業している。手を休めることをしないので、声は掛けられずじまいだった。
 A社の疑惑はM町長の疑惑そのものだ。もし疑惑が事実なら、町の仕事を私物化し、不当に利益を得ていたことになる。
 「佐川デスクをお願いします」
 中田は佐川に電話し、町とA社の言い分が食い違っているという内容の記事を送ることを伝えた。
 帰りの車中、工場を運営するB社の諸脇社長の香水の匂いを思い出した。
 キツいかんきつ系の匂い。工場の臭気をかき消すには、香水の匂いだけでは足りないような気がした。
 ■■
 「Mに当たらなくていいんですか」
 木山がぽつりと話し掛けてきた。
 「まだ早い」
 「そうですか。でもこの話の中心はMですよね。やっぱりMに直当たりしたほうがいいんじゃないかと」
 「当たっても議会の答弁と同じことを言うだけさ。問題なのはMの会社がMの仕事をもらっているという構図だよ」
 「自治体のトップが自分の会社に取引させてるってことですか」
 「そういうこと。不正とか違法とかが問題じゃない。それは後から付いてくる。政治倫理の問題だよ」
 「議会は、反町長派はまるで事件のように言ってますが」
 「選挙があるからさ。事件になりゃ一発アウトだからね。でも問題の本質はそこじゃない」
 「Mに政治倫理とか言っても無駄じゃないっすか」
 「無駄だろうが、新聞は言わなきゃならないんだ」
 「僕も協力します。知り合いの人がこの件で怒ってるって言ってるんで、会ってきていいですか」
 「どの人よ」
 「市民団体の代表らしいんですよ」
 「取材して」
 町長選が迫る中、いよいよ周囲の動きがせわしなくなってきた。
 東北の田舎町の話は決して例外的な話ではない、中田はそう思っていた。小さい田舎町だからこそ起こりうる、利権の闇だ。
 小さく、端っこに追いやられているだけに世間の目が届きにくい。
 ■■
 議会は続いている。三月頭に始まったが、紛糾しているためか、傍聴席はいつもより多くなっている。
 春はその年度の予算を審議するため、行政側は慎重な対応に終始する。
 それがこれだ。本会議のみならず、委員会でも厳しい質問の矢が放たれた。M町長も疲弊気味に見えたが、演技にも見えた。
 閉会後、反町長派の谷本町議が指で中田を議会棟の廊下に招いた。だれもいない応接室に中田を招いた谷本はこう言った。
 「四月の町長選に出ようと思う」
 中田はある程度は想定していたが、驚いたふりを見せた。
 「告示まで二週間ですよ。準備は」
 「いや、これから」
 「本気ですか」
 「本気だよ」
 「書いても大丈夫ですか」
 「いいよ」
 「ここじゃまずいのでS支局に後から来てください。顔写真も撮るのでお願いします」
 S支局に来たのは午後五時頃だった。中田は必要な最低限の要素で記事にした。
 翌日。
 「中田君? ああ佐々木だけど、谷本が出るって?」
 「そうみたいですよ」
 「ははは。選挙となればこっちも手加減はしないよ。まあ、お手並み拝見と言うとこかな」
 谷本の出馬会見は一週間後に設定された。告示の一週間前だ。既にMは前の議会で立候補表明していて、会見も別にやっている。
 現職のMと新人の谷本との一騎打ち、という構図が固まった。
 木山も支局に見知らぬ人たちを支局に連れていた。
 男性二人と女性一人。一番若い男性がリーダーのようだった。市民団体のメンバーとすぐに察しがついた。
 「私たちは署名を集めようと思っているんですよ」。代表の男が木山につぶやいた。
 「何の署名ですか」
 「町に真相究明を求める署名です。というのも町に集まる不燃物ゴミは私たちのものですから。いわば財産なんです。だからその財産をネコババしようものなら、詐欺だし、横領ですよね?」
 「財産ね。ゴミが」
 「もちろんです。それがなければ動きません」
 「署名を集めてどうするんですか」
 「町に調査してもらいます」
 「それでも白だったらどうするんですか。結局分からなかったとか」
 「そうしたら、もう警察に頼むしかないですね。刑事告発します」
 「刑事告発? だれを、何の罪で」
 「明確に分かりませんが、A社を詐欺罪か業務上横領かで」
 「選挙が近いんですけど、それ絡みじゃあ…ないですよね」
 「どういうことです? そんなこと考えてませんよ。Mのやり口が許せないんです。やり口というかやり方というか」
 「分かりました。署名集めを始めたらまた教えてください」
 木山は市民団体の代表たちを見送ると、中田に向かって苦い顔で首を振った。
 「どした」
 「いやあ、選挙目当てですよ。明らかに」
 「絶妙なタイミングだし、谷本ともつながってるだろな。でも署名とか告発とか、マジな感じもあるから記事にはしよう」
 「分かりました」
 ■■
 町の役場はS支局のそばにある。
 中田はいつもより少し緊張しながら、町長室の前を行ったり来たりしていた。どうしても告示の前にMへ直当たりする必要があったためだ。
 告示となると、公選法を意識しなければならなくなる。報道も立候補者と大差はない。その前に記事を出すためだ。
 事前に佐川デスクとはやりとりを重ねていた。
 今までの経緯や問題点をあぶり出す長めの記事。最後にMの言い分を聞く必要があった。
 これのまでも議会でさんざん指摘を受けてきたが、調査するとしか言っていない。ばかげた話だ。一番の当事者なのに。
 中田は緊張から怒りに感情が変わっていくのが自分でも分かった。
 Mが秘書とともに町長室から出てきた。
 「中田です。例の件で少しだけお時間いただけませんか」
 M町長は秘書を先に行かせ、廊下の隅に案内した。
 「これから会議なんです。手短に」
 「A社との不燃物ゴミの取引のことです」
 「うん」
 「A社は町長の会社ですよね?」
 「妻が社長をやっておるんだが、一切関係ないんですよ。私は」
 「関係ない? でも奥さんですよね」
 「そうだが、任せっきりでタッチしていない」
 「では町の立場で聞きますけど、A社は町の方が計量の数字が間違っていると言ってます。どちらかが間違っているんですか」
 「だから調査をするんです」
 「いつするんですか」
 「近々やりますよ」
 「親族企業との取引で疑惑が出ているんです。それについては?」
 Mは急に顔色を変えた。
 「疑惑、疑惑って、あんたらそう言うけどね。もし、疑惑がなかったらどうするんですか? 責任取れるんですか?」
 「疑惑を持たれること自体、問題では」
 「それはおかしい。もし、こちらが正しかったら新聞を訴えますよ!」
 中田は「こちら」がどっちなのか正直分からなかった。
 「私たちは、町の仕事を町長の親族企業が取引していること自体、問題があると指摘しています」
 「勝手にしろ」
 「どうも」
 Mは興奮気味なのか、息が荒くなっているのが分かった。中田は直接話して確信めいたものを感じた。
 記事は社会面のトップを飾った。M町長の政治倫理を糾弾する堂々の記事だった。
 その後、不思議なくらいにMも佐々木も静かだった。選挙準備で忙しかったのかもしれない。
 ただ読者からの反響はすさまじかった。支局には好意的な電話がひっきりなしにかかってきた。
 中田はMの本性が少しだけ分かってきたような気がした。根はヤクザ気質なのである。
 不利な圧力がかかれば、暴力で封じ込めようとする。暴力とは、権力であり、脅しであり、金の力だ。
 中田は録音を木山にも聞かせた。
 「中田さん、怒らせましたねー」
 「バカ言え」
 木山はうれしそうに話した。
 中田は佐川デスクにも全て報告したが、相変わらず能面のような返事だった。
 ■■
 選挙が始まると、谷本陣営は「アルミ缶疑惑」としてM町長への攻撃を強めた。
 選挙のビラも谷本の決して若くないその風貌でも、横にある激しい糾弾の言葉のおかげで、若々しく活動的に見えた。
 谷本の選挙事務所は、できたてのホヤホヤといった感じで、反町長派の企業の社員や議員、市民団体メンバーたちが集っていた。
 短時間でかき集めたようで、あちこちで大きな声が飛び交っていた。かみ合っていないさまが中田を楽しませた。
 選挙は序盤は圧倒的知名度でM町長が優勢とされていたが、徐々に谷本が追い上げてきていた。
 町長選はわずか五日間。あっという間である。
 「順調みたいだね。たまにはうちの事務所にも来てよ、中田君」。佐々木からだった。M町長の陣営は木山に行かせているのに、わざわざの電話に佐々木の性格を感じた。
 「いやあ、めちゃくちゃ引き締めてます。実弾飛んでるっぽいですよ」。
 事務所回りから支局に帰ってきた木山がいつになく興奮気味に話し掛けてきた。
 「そうか。アルミ缶?」
 「そうですね。中田さんまで警戒されてますよ。まるで敵視です」
 「いや、それでいい。木山がしっかり信用されていればいい。向こうからすればここで情報共有していることはよく分かってないはずだからな」
 「はい。佐々木さんはよく教えてくれますよ」
 「食い込んでくれ」
 町長選は「アルミ缶疑惑で揺れる選挙」というフレーズで、宮城県内ではそれなりに注目を集めていた。
 結果は、再選を目指す現職が「負けるわけがない」とされた。
 相手は一週間前に立候補表明した町議。四日間の出口調査では、有権者の七割がM町長を支持していた。
 潮目が変わってきたのは最後の一日からだった。朝目覚めると、ポストに大きな力の入った谷本陣営のチラシが入っていた。
 そこには、議会で取り上げられたアルミ缶の不正計量を証明するようなデータ、議会答弁、おまけに新聞記事が載っていた。
 「木山? 見たか」
 「はい。参りましたね」
 「支局に上がって本社に、佐川デスク宛にすぐにファクスしといて」
 佐川からの連絡はなかった。昼になって、これとは別に投票当日の出口調査の人繰りの話で電話がかかってきた。
 ■■
 投開票日。M陣営とは対照的に谷本陣営は活気づいていた。
 もしかすると―。中田は、僅差での新人勝利の可能性もあるかと勘ぐった。出口の結果が場所によって谷本が上回っていたから。
 この町の有権者は二万人。投票率六〇%として一万二千人。六千を上回れば勝ちだ。
 開票場には仙台の本社からも応援が来てくれた。票の積み具合をオペラグラスで脚立に乗って見る役割だった。
 続々と町営体育館に集まる人の中に、B社の諸脇社長やツー・ハーツの稲田社長、工場長の室住までいた。
 疑惑の関係者全員がその場に集結していた。
 当確はすぐには出ず、もつれにもつれた結果、日が変わる前に出た。
 六〇二三票対五九〇二票。わずか二一票差だった。投票率はちょうど六〇%。
 ツー・ハーツの稲田が外野で急に叫びだした。
 「ほらみろ! 正義は勝つんだぁ」
 中田は、陣営に張っていた木山からM町長の万歳を終え、これからテレビのインタビューに入る、との電話を受けた。
 M町長が再選した。
 中田を脅したMが勝った。
 中田は暗い気持ちになった。これが選挙であり、政治の現実だ。
 ただ、選挙に勝ったからといってMから疑惑が消えたわけではない。
 佐々木から着信があった。折り返すと「中田君、ごくろうさん。おしかったね。でも谷本も善戦したんじゃないのか」
 「ええ、そう思います」
 翌日の紙面は、木山の署名ばかりが目立った。
 ■■
 谷本派は意気消沈するどころか、選挙に負けたことでかえって勢いを増していた。
 市民団体は署名を集め、ついに当選したばかりの町長に不正計量の実態解明を突きつけた。
 署名数は有権者の三分の二を超えていた。選挙の結果は、この問題だけが争点だったらMは完敗だったに違いない。
 「当面は六月の議会までに調査を終わらせるよう、動くつもりです」
 電話の相手は市民団体代表の玉木。本当に市民団体か、と疑うほど穏やかで物腰が柔らかい。
 「で、町長のところに行ったんですか」
 「ええ、選挙終わって間もないですけど負けたらすぐにと思って出す準備をしていましたから」
 「三分の二集めたって?」
 「そうなんですよ。ことのほか皆さん、関心が高くって。いろいろ調べたらよくある話らしいです」
 「計量不正?」
 「ええ。今回の場合、過少請求じゃないですか。過大、水増し請求とか。まぁ、こっちの方が分かりやすいですけど。でも事件になる前に行政が処分して終わってますね」
 「そうなんですか」
 「だいたい同じパターンなんですけど、議会の監査で指摘を受けて、行政側が調べて業者を処分するって感じです」
 「なるほど。こっちは次は行政がどこまで調べて対応するか、というところか」
 「その通りです。だから早く署名を出しておきたかったんですよ。もう選挙は関係ないです」
 「確かに。政争の具は避けるべきですね。それで、調査はいつから着手するって言ってましたか」
 「いや。はっきりとは。ただ次の議会で報告できるようにしたいって言ってました」
 「玉木さん、ありがとうございました」
 「いえ中田さん、記事、期待してます」
 ■■
 六月。また議会の季節が巡ってきた。
 事前取材では最大会派の代表質問で調査の結果を明らかにする、という段取りになっていた。
 選挙を通じて、町長派と呼ばれる町議が一人、二人増えたらしい。
 だからといって疑惑が晴れたわけでもないし、下手な多数派工作はかえってM自身の首を絞めることになる。
 三月とそれほど変わらない空気が議場に流れていた。
 記者席は珍しく仙台から全国紙の記者やテレビのカメラも入っていて、真心も木山と二人でS支局総出の陣容だ。
 議事に入ると、記者に調査結果のペーパーが渡された。
 「不燃物ゴミの計量誤差についての調査結果報告書」と長ったらしいタイトルで四、五枚あった。
 最初の要旨のところで「A社が不正に計量している確証が得られなかった」との文言が目に飛び込んできた。
 この瞬間、中田は役所が「逃げた」と思った。
 Mにそんたくしたに違いない。いや、Mの支持かもしれない。議会最大会派がそうさせたのかもしれない。
 いずれにしても、結論を示さなかった。
 「M町長、確証が得られなかったとはどういう意味ですか」。質問のトップは谷本派を継いだ町議だった。
 「私の方からお答えします。A社にも聞き取りをしたところ、どうしても申告した通りの数字しかない、ということでした。私どもの工場の数字ももちろん、何度も調べましたが間違いございません」。環境部長の鈴木は申し訳なさそうに答弁した。
 「あなたね、それで町民が納得すると思いますか? これじゃあ、結局調べたけど何も分かりませんだしたって言ってるようなもんじゃないか。何をしてたんですか」
 「町としては、調査に限界があります。また、業者と取引している当事者でもございます」
 「警察に告発する考えはあるか」
 「いま現時点でそういった考えはございませんが、必要ならば否定はしません」
 こうしたやりとりが一人の議員にだいたい三十分はかかり、ほぼ一日を費やした。
 ■■
 夜になって市民団体の玉木から電話がかかってきた。
 「あす、警察に告発状持って行きます。記事にしてくれますか?」
 「あした? ですか。きょう、調査結果が出たばかりなのに」
 「ああなることは想定済みです。結果を受けて出す準備はしていました」
 「分かりました。で何罪でしますか」
 「詐欺です。弁護士と相談したらそうなりました。あした、署で会いましょう」
 「担当は木山ですので、木山に行かせますよ」
 告発の記事は木山が書いた。社会面のベタだったが、疑惑はさらに深まった印象を与えた。
 M町長は再選を果たした直後から、疑惑の目を向けられている。むしろ、それは選挙前よりも厳しくなっていた。
 不思議な現象が起きた。
 この年の計量から、町とA社の数字がピタッと合致し始めたのだ。
 中田は、町もグルで同罪だと感じた。町を私物化したM本人が一番の罪だが、それを許してきた職員も同罪だ。
 ■■
 一年後。
 中田は、整理部にいた。この問題の後に発覚した組み体操の死亡事故でスクープを出した直後の内示だった。
 整理部で、中田は「不正計量疑惑でA社不起訴」の記事を見た。
 理由は嫌疑不十分。嫌疑はあるが不十分。公判のための証拠があまりに少なかった。
 不正計量は刑事事件ではなく、政治倫理の問題だと中田はずっと主張してきた。
 だから刑事事件にしてMを排除しようとした谷本派や市民団体も視点がズレてると思っていた。
 こうして不正計量の疑惑は、疑惑のまま止まった。疑惑のままMは、町のトップとして君臨し続けている。
 もちろん、町民にはニコニコ顔を振りまきながら。
 「人間の支配欲って際限がないのさ」
 「Mのことですか」
 整理部で仕事をしていた木山が近づいてきた中田をきょとんと見上げた。
 中田が新聞を差し出し、記事を指すとがっくりきた様子でこう言った。
 「事件じゃない。政治家のモラルの問題ですよって言ってるようにも見えます」
 「人間の権力欲はすさまじい。Mは若い頃相当苦労したんだろうな。リヤカー引いて。それで世間を見返そうと思ったんじゃないのかな」
 「でも中田さん、明らかに町とA社は共犯ですよ。やはり事件です」
 「いや共犯じゃない。単独犯だ」



 第3部
 感染湯



 仙台と違ってこの港町は遊ぶ所がない。
 「圭ちゃん、ドライブでも行く?」
 最近、由起子は外に出たがる。
 「ああ、いいね」
 「なにそれ。気のない返事」
 「ちょっと疲れてる」
 「私も毎週、仙台から来てんのよ?」
 「別に無理する必要はないよ」
 「無理なんかしてないけど…」
 週末婚が続いている。それだけは結婚して以来、変わっていない。
 変わったのは、この冬、中田がめまいで倒れ、九日間も入院したことだ。
 いつまで行ったり来たりの生活が続くのだろうか。仙台までの交通費だけでもバカにならないのに。
 単身生活を満喫するつもりでS支局に来た中田だったが、週末に由起子を連れて行く場所が見当たらないことに気付いた。
 大きな本屋もなければ、デパートもなければ、カラオケもない。
 せいぜい三陸の沿岸をドライブするか、ようやく再開した温泉に行くかだ。選択肢は限られている。
 この温泉は三陸の海が一望できるロケーションと海鮮料理を出すレストランが人気で、家族連れやお年寄りが多く訪れる。
 中田は仕方なく、この温泉に行くことを選んだ。
 「ドライブがてら行ってみようか」
 「うん。久しぶり。運転するよ」
 「いや、いいよ。やってみるよ。助手席にいてくれたら安心だし」
 「いやあ、まだ無理よ。もう少し時間置いた方がいいんじゃない?」
 中田は、めまいの後遺症をひどく恐れていた。運転中にめまいが再発したらどうしようか。そんな不安が常につきまとった。
 「んじゃ、悪いけど任せる」
 「分かった。任せなさい」
 由起子が頼もしく見えた。
 入院するまで頼もしく思ったことは一度もなかった。むしろ、心配でしょうがなかったのは中田の方のせりふだ。
 由起子は、中学三年の時に1型糖尿病を患った。免疫異常が原因で膵臓(すいぞう)から全くインスリンが出ない恐ろしい病だ。
 よくまあ、ここまで二人やってこられたもんだ。中田は身支度をしながら思った。
 ■■
 中田は仙台で由起子と知り合った。きっかけは合コン。記者仲間とよく通った居酒屋兼レストランのママがセットしてくれた。
 中田は当時、二十代後半で独身。実家は仙台だが、一人暮らしで自由気ままな生活を送っていた。
 ただ、人肌が恋しかった。やはり彼女の一人ぐらいは人並みにほしかった。
 合コンは三対三。中田は、別の新聞社とテレビ局の後輩を誘った。
 初対面のことを今でもよく覚えている。
 由起子は、白いコートを着てさっそうと中田たちの前に現れた。
 一六五センチある背丈と、色白で知的な面持ちは中田の好み。一瞬で彼女にしようと思った。
 六人は、テレビや映画の今昔の話とか、新聞の仕事なんかの話をみんなでした。
 特に盛り上がったわけでもなく、つまらなくもなかった。
 普通に大人の対応で、その場を楽しもうという空気がよかったし、うれしかった。また飲みたいと思い、三人の連絡先を聞いた。
 中田は一、二週間たって、由起子を食事を誘った。こんなにモテそうな女が何で独身なんだろうと不思議に思った。
 その疑問は、付き合い始めて何カ月か経たなければ分からなかった。病気が原因だった。
 一線を越えるかどうかのタイミングで、ちゅうちょしている中田にメールを送ってきた。
 「私は1型糖尿病という病気を持っています。でも、普通に生活できるし、仕事も続けています。中田君がこれ以上の付き合いが無理なら、この辺でやめとこう」
 「だれでもハンディは持ってるから、付き合いは続けたい」
 中田はそう答えた。
 結論から言うと、その後、そのまま結婚したが、披露宴から婚姻届を出するまで二年間も待たせた。
 中田は、籍を入れるのにちゅうちょした。
 子どもが難しいためだった。それと仕事との両立に不安があったためだった。
 その不安は、今も解消されたわけではない。むしろ、はっきりと確信に変わったことで諦めがついた。中田はそう思っている。
 結婚してから十数年がたった。中田は、今は由起子が元気で幸せかどうかの方がよっぽど大事なのだ。
 そう思えるようになったのも、めまいで町の病院に入院した時、つきっきりでいてくれたからだった。
 ■■
 「この車洗ってる?」
 「雨が流してくれる」
 「は? ちゃんと洗ってください」
 「はいはい」
 暗くなった三陸の沿岸を車が走る。
 温泉は家から三十分。日中に行こうと何度も説得を試みたが、由起子は夕飯をレストランで済ませたかったらしい。
 温泉の名前は「さんりく温泉」。
 海岸線を進むと、巨大な建物が見えてくる。建物も昭和の空気が漂い、嫌いではない。
 一代で創業した。島守という九十歳にもなる爺が出身のこの地に温泉を掘り当て、観光地としてここまで発展させた。
 今は、孫の坊ちゃんが支配人として実質的な経営を任されている。
 建物は大きく二つあり、温泉施設と宿泊施設。中田は由起子と温泉施設の中にあるレストランへ直行した。
 三階にあるレストランからは海が見える。オーシャンビューだ。ただ、夜だったので黒い闇が広がるばかりだった。
 「圭ちゃん、何にする」
 「海鮮セット」
 中田たち以外にも家族連れが何組か来ていた。レストランには宿泊客もいて、浴衣を着ながら酒を飲む姿もあった。
 めまいで運転できないことをいいことに、冷酒を頼んだ。後は温泉に入って家に帰るだけ。なんとも幸福な週末だろう。
 中田は、ほぼ唯一と言っていいこの町の娯楽をかみしめた。
 風呂もジェット風呂やジャクジー、露天などいろいろ種類があった。
 少しだけ、ニオイが気になったが、そういう温泉なのだろうとその時は思っていた。
 ■■
 「支局長? 合わせたい人がいるのよ。今から言っていい?」
 「いやいいですけど。だれですか」
 「うちの、若支配人」
 「ああ、さんりく温泉の」
 「いろいろ、宣伝してもらわんとね」
 「まあ、ものにもよりますが」
 「んじゃ待ってて」
 浜家からの電話だった。温泉に行ってから一、二週間たった頃だ。
 浜家は島守グループの顧問をしていた。島守会長の信頼が厚いことで知られていた。
 興行師みたいな仕事をしていて、温泉のイベントを一気に引き受けていた。
 例えば、演歌ショー。外国人のダンスショーも。若い、といっても二十代後半くらいの女性演歌歌手を連れてきては、歌わせる。 これが客にうけてるみたいで、温泉客の呼び水にもなっているようだった。
 「中田さん、入るよー」
 「ごぶさたです」
 「こちらが支配人の中村」
 「どうも中村です」
 名刺を差し出す男はすらっとした長身で、いかにも坊ちゃん然としていた。
 「中田です。よろしくどうぞ」
 最近、イベントに力を入れていること、世代交代を図って新しい温泉を目指したいことなどを中村は熱っぽく話した。
 まるで父親みたいだな。中村支配人に寄り添う浜家を見ながらそう思った。支配人はまだ四十歳という。
 中村は時折、神経質そうに黒縁眼鏡を触りながら目を何回もパチクリさせた。内面も線が細そうに見えた。
 浜家の大きな声と態度とは対照的だ。後から電話で浜家に聞くと、中村は島守会長の孫らしい。
 姓が違うのは島守の娘の子どもだからだという。娘は結婚しているが、温泉の仕事を一部任されている。
 「あそこの家、複雑なんだよね」
 浜家はよく電話をしてくる男だ。
 頼んでもないのにいろいろ情報を教えてくれる。島守グループのほかも、M町長の交遊、飲み屋街のことなどいろいろだ。
 「複雑って何がですか」
 「いやね、息子じゃなくて娘のほうをかわいがってよ、それであの若さで支配人だよ」 「息子さんは何してるんですか」
 「グループの系列の会社で社長してる」
 「いいじゃないですか」
 「いいって、宮城にはいないよ」
 「えっ、どこいるんですか」
 「東京。オヤジと仲悪いらしいよ」
 「オヤジって島守会長」
 「そうそう。似てんだろ」
 「何が、性格?」
 「うん。キツいよ。二人とも」
 「浜家さんは、息子さんとも会ってるんですか」
 「まあね。しっかりしていて、切れ者。本来ならあれが支配人になって仕切ってる。それが実質、まだ島守がやってる」
 「後継は中村支配人ということですね」
 「ま、そういうこっちゃ」
 ■■
 中田は、さんりく温泉がさまざまなイベントを打って、温泉客を増やしているというちょうちん記事を短く書いた。
 それからしばらくたった夜。
 自宅で酒を飲みながら夕飯の準備をしていると、携帯電話の着信に佐川デスクの履歴に気付いた。
 嫌な予感がした。だいたい夜八時を回った後の着信はろくな電話がない。
 「もしもし。すぐ出てよー。まあいいや。さんりく温泉でレジオネラが出たって県が発表したみたい。とりあえず本社が書くけど、一応温泉のほうに当たってくれる?」
 「え? この前妻と行ったばかりですよ。いつ、だれが感染したんですか」
 「えっと、なんか年寄りが一人か二人かな。いつかは分からない。菌に感染してもすぐには症状が出ないみたいよ」
 「いやあ、まじですか。この前、支配人も来たばかりなのに」
 「どこに」
 「S支局ですよ」
 「なら話は早い。支配人に聞いてよ」
 中田はそれまで、「レジオネラ」という言葉をほとんど聞いたことがなかった。すぐに自宅からS支局に戻り、電話をかけた。
 「もしもし真心新聞の中田です。中村支配人ですか」
 「はい」
 タイミングよく携帯電話の番号を聞いておいてよかった。中田は内心ほっとした。
 「中村支配人? 中田です。なんか大変なことになってると聞きました」
 「ええ。参ってます」
 「感染者は何人なんですか」
 「今の段階で二人です」
 「何歳」
 「八十代と七十代です」
 「どういう状態で」
 「発熱で入院してもらってます。咳とかもあるみたいで…」
 「いつ風呂に入った人なんですか」
 「一、二週間くらい前ぐらいと。ちょっとはっきり分かりません」
 中田は由起子の顔が浮かんだ。二人で温泉に入ったのもちょうどその頃だったからだ。
 「そうですか……。二人の症状は軽いんですか」
 「ええ、それほど重症ではないと聞いてるんですけど。よく分からない状況です」
 中田は過去の感染記事を見てみると、それほど大きな扱いではなかったので安心した。
 中村支配人とのやりとりを佐川デスクに報告して、その夜は帰宅した。
 ■■
 翌日。朝一番にまた佐川デスクから電話があった。
 「あのさ。また県から連絡があって、感染者が十人に増えたってさ」
 「え? あらら。こんどはこっちが書きます。いやな感じですね」
 「菌の潜伏期間があるから、ズレが出てるんだろうけど、一、二週間前か。感染の期間が長ければもっと感染者は増えるぞ」
 「どこで感染したんですかね」
 「そりゃ、温泉でしょ」
 支配人に聞いてみます。
 中田はすぐに中村支配人の携帯に電話してみた。
 「中村さん? 中田です。真心の」
 「ああ」
 「また感染者が増えたみたいですね。これまでもレジオネラ出したことあるんですか」
 「ええ」
 「いつ」
 「二、三年前です」
 「その時は発表してないんですか」
 「ええ。感染源がよく分からなかったんですよ。もともと体調が悪かったかもしれなかったし。一人だけでしたし」
 「……。役所にも報告してなかったんですね」
 「はい」
 中田はこの温泉の危うさを感じた。安全への意識の低さというより、都合の悪い問題を隠蔽しようという体質にだった。
 感染拡大の簡単な記事に、以前にも感染者を出していたことを付け加えた。
 二、三年前といえば、中村が支配人になりたての頃だ。浜家がそう話していた。
 由起子にも電話をしたが、特に体調の変化はなかった。持病があるので、心配でしょうがない。
 「だいじょぶよ」
 「ちょうど一、二週間前に入ってたからさあ。俺も危ない」
 「圭ちゃんはだいじょぶよ。免疫力あるし。感染しても分からなさそう」
 由起子はのんきに応えた。
 ただ、次の日には二十数人、次の次の日には四十数人まで感染者が膨らんでいった。そしてその翌日の夕方―。
 佐川デスクからの電話で目が覚めた。休みで家で酒を飲んでいた。
 「死亡者が出たって。レジオネラで」
 ■■
 一気に酔いが覚めた。
 ついに死者が出た。
 「分かりました。支局で書きます」
 「木山にも連絡して現場でサイド書いてもらってくれる?」
 「了解しました」
 ちょうど飲み始める前だった木山に連絡して、さんりく温泉へ向かってもらった。
 「人、少ないですよ」
 現場に着いた木山は、珍しく不安そうな声で電話をかけてきた。
 「出てきた人か、場合によっては中に入っていいから、声を集めてほしい」
 「分かりました」
 午後八時を回っていた。
 中田は県の担当課に電話し、亡くなった利用者の話を聞いていた。亡くなったのは五十代の男性だった。
 一面と社会面へ出稿を終えたのは午後十時半で、早版の降版ギリギリだった。
 最終的には、さんりく温泉に入った五十三人が感染し、うち一人が死亡した。
 いったいどの風呂場で、何が原因で感染したのだろうか。
 「中田さん? ああ浜家だけど。俺もびっくりしてんだよー。会長は会見した?」
 「いや、まだです。いずれするんでしょうけど」
 「こりゃ、事件だよ? 内部の人間に聞いたんだけど、ほとんど風呂場、掃除してなかったみたいよ」
 「どういうことですか」
 「人がいないんだか、いても言うこと聞いてなかったか、現場がめちゃくちゃだったらしい」
 「なるほど。会社がガタガタだったと」
 「そうそう」
 「支配人はちゃんとマネジメントしていたんでしょうか」
 「それが、だめだったんだって。ほとんど現場に来てなかったみたいよ」
 「現場って風呂場?」
 「風呂場とか、宴会場とか」
 「普通、見回りとかするんじゃないんですか」
 「まだ日が明るいうちに家に帰ってたみたいよ」
 「家って自宅に? またなんで」
 「どうも体調よろしくないんだよ」
 「メンタルか」
 「うん」
 「なおさら別の人を支配人にすべきじゃなかったのかなぁ。そりゃ会長の責任でもあるんじゃないんですか」
 「会長が跡継ぎにしたかったんだよ。中村を。娘の子を」
 「しかし、それで掃除しないで汚くして菌を発生させて、結果人一人死なせた。それは跡継ぎとかそういう問題じゃないですよ」
 「そりゃそうなんだけど」
 浜家は顧問という立場から島守会長の周辺情報をよく知っていた。
 中田はなぜ、ある意味身内の恥を赤の他人、しかも記者に言うのか分からなかった。
 「ありがとうございます。これから町とか県も調査に入ると思います。もしかしたら警察も動くかもしれません」
 支局で電話を切った。中田はどの風呂場が感染源なのか気になっていた。
 自分のこともそうだが、由起子のことが頭から離れなかった。
 ■■
 中田は、この温泉を運営する会社に問題があると感じていた。
 従業員が会社に何らかの不満を抱え、風呂場の清掃をサボタージュしていたのか、そもそも十分な体制になっていなかったのかもしれない。
 浜家から電話で聞いていた、元従業員の男と接触することにした。田中と言って、温泉で二十数年働き、今は別の会社にいる。
 「田中さんですか。真心新聞の中田と言います。例のレジオネラの件で会えませんか」
 「ああ、浜家さんから聞いてますよ。会うのはちょっと。電話ならいいですけど」
 顔を出すのがいやらしい。
 「分かりました。なら電話で。風呂場を清掃していなかって本当ですか」
 「本当です」
 「故意にしていなかったんですか。それと人手が足りてなかった」
 「両方あると思います。もうギリギリの状態でやってるんですよ。中にいる人に聞きました」
 「人がいない?」
 「ええ、それに加えてあるバカ支配人。従業員はうんざりを超えてますよ」
 「どういうふうに」
 「だれも言うことなんて聞いてません。もともと先代の会長が開業した温泉です。今でも会長の言うことはみな聞きます。私も何か頼まれれば動きますよ」
 「若支配人じゃだめなんですか」
 「あまりに現場をなめてます。みんな怒りながらやってましたよ」
 「田中さんが辞めたのもその理由ですか」
 「少しはあるかな。ここはもうダメかなって思ったんです。法律に触れてますもん」
 「働かせすぎってこと?」
 「給料安いし。それはいいんですけど、労務管理が全然できてない。人の入れ替えも激しい。めちゃくちゃです」
 「以前もレジオネラの感染者を出していたって聞きました」
 「実は、それはお客さまですけど、うちの従業員でもいたんです」
 「は? どういうことですか」
 「だから従業員が自分の働いている温泉で感染したんですよ」
 「そんなことって……。その人は今は」
 「もうだいぶ回復していますが、まだ万全じゃないみたいです」
 「というと、今回の集団感染の一人ってことですか!」
 「そうです」
 ■■
 中田は電話を切り、教えてもらった携帯に電話した。その女は四十代でなんとレストランに勤務していた。
 いつも仕事帰りに風呂に入ってから帰宅していた。それで感染したらしい。幸い、軽症で仕事にはもう復帰している。
 女と連絡を取り、レストランで話を聞くことにした。
 「お体大丈夫ですか」
 「まあまあです。一時入院してました」
 少しきゃしゃな普通の主婦という印象の女性従業員だ。
 「いつ風呂に」
 「二週間ぐらい前でしょうか」
 「いつも日課、というか毎日入られてたんですか」
 「いえ、週に二、三回です」
 「どの風呂場に入ったんですか」
 「いろいろですけど、私ジェットが好きなんでジェットが長かったかな」
 「ああ、あのすごい勢いで泡がでるやつですね。なんか変わった感じはありませんでしたか」
 「うーん、それが全然なかったんですよ」
 「例えば、ニオイが気になったとか」
 「それもないですね。うちは高齢者が多いんで、結構湯船の中でもらしちゃったり」
 「どっちを」
 「両方。ウンチしちゃったりもあるんですよ」
 「それだけで集団感染しますかね」
 中田は一通り話を聞き、佐川デスクに連絡してから記事を送った。
 身内の感染は衝撃的だったらしく、スクープとして社会面に載った。
 忙しさから由起子に電話をしていなかったので、掛けているのだがなかなか出てくれない。少し心配になり、義母に電話をした。
 「お義母さん。中田です。由起子さん入院とかしてないですよね。全然電話出てくれないから」
 「圭介さん。ここ二、三日バタバタしてたから申し訳なかったんだけど、由起子入院してるんです」
 「は?」
 「仙台の病院」
 「まさかレジオネラに?」
 「ええ。でも安心して。軽症でもう回復してる」
 「……」
 由起子が一緒に入った温泉でレジオネラ菌に感染していた。
 中田は、申し訳ない気持ちと、この運営する島守グループに対する怒りが込み上げてきた。
 もともと体が弱く、それで温泉に行ったのだ。その温泉が原因で入院なんて本末転倒もいいところだ。
 中村支配人のニヤけた顔が浮かんだ。賠償請求もんだな。翌日、由起子と電話した。
 ■■
 「笑っちゃうけど、感染してた」
 由起子はバツが悪そうに笑った。
 「なんで連絡してくれなかった」
 「圭ちゃんも忙しいから」
 「でも、まさかだな。体はどうなのよ」
 「いいよ。最初は熱が出て、咳も。肺炎みたいな症状なんだって」
 「なんだってって。今は」
 「今はぜんぜん、なんともない。割と少なかったんじゃないかな」
 「何が」
 「菌が入ったの」
 「悠長だなあ」
 「ほんと。アハハ」
 「キミはいいたかないけど、持病があるんだから、人一倍気をつけてほしい」
 「分かってるよ」
 「週末、仙台に戻るよ」
 「いいよいいよ、もう退院するし。親も来てくれてるし」
 「退院はいつなの」
 「あさって。とりあえず実家でもう少し休んで仕事に復帰します」
 「戻るよ。今週末」
 中田はすぐにでも戻りたかったが、週末まで待つことにした。また死者が出ないとも限らない。
 由起子の感染はショックだった。免疫力が健康の人より弱い。温泉にもリスクがあることをもっと知っておくべきだった。
 由起子はジェットのような風呂場にはほとんど行かず、普通のやや熱めの風呂場につかっていたという。
 どこから感染したのだろうか。
 由起子は、小学三年の時に1型糖尿病というやっかいなものにかかった。これも一種の「感染」といってもいいかもしれない。
 原因不明と言われるが、インスリンを出す膵臓が何らかの原因で攻撃を受けて、インスリンが全く出なくなるのだ。
 そうすると、血糖値を人工的に下げなければならなくなる。それは、薬ではなく注射で補う。毎日四回だ。
 自分なら無理だ。中田はいつもそう思いながら、そばで由起子が注射を打つ姿を見守っている。
 由起子は、同世代の女とよく自分を比較する。
 健康で健全な女と比較したがる。でも、この世の中に健康健全な人間がどれほどいるだろうか。
 生まれたての子どもならまだしも、五十前の女に持病の一つや二つ、当たり前ではないか。
 中田は、気後れする由起子の心情の揺れがよく分かる。
 特に、人が多く集まる場所で何を見て、何を感じているのか―。
 ブランドの服や毎週行く美容院も、「敵」との比較に勝つためなのだ。勝たなければ、自分が惨めで、哀れでしょうがなくなる。
 中田は付き合いだした頃は、由起子がなぜとんがって、突っ張って生きているのかよく分からなかった。
 結婚して十数年たち、ようやくその根底に病があることが分かってきた。
 ■■
 町が動きだしたのは、感染が発覚してから何日かたった後だった。原因究明のため、担当課が立ち入り調査に入ったのだ。
 記者会見でそれを明らかにしたのは、さらに数日たった後だった。
 会見には、東北のこの田舎の港町に全国から多くの記者が詰めかけた。
 健康生活課の吉川が説明した。
 「さんりく温泉でのレジオネラ集団感染についてですが、感染源は配管設備の菌の除去や水を抜いての清掃を怠っていた可能性があり、衛生管理の不備が原因とみられます」
 記者A「それはようするに汚くしてた、ということですか」
 「はい。レジオネラ菌は衛生的でない風呂で繁殖します」
 記者B「風呂場はいくつかありますが、どの風呂場で感染したのですか」
 「まだはっきりと分かりませんが、ジェットなどで飛びちった菌を吸い込んだ可能性が考えられます」
 記者C「重症患者はいますか」
 「はい。まだ数人いますが、いずれも快方に向かっていて、命には別条はないときいています」
 記者A「この温泉は以前にも感染例が出ています。町はきちっと立ち入り検査などして再発防止を指導したんですか」
 「いえ…それは」
 記者A「チェックをしてなかった?」
 「以前の感染例については実は報告を受けていませんでした」
 記者A「町は何も知らなかったと言うのですか」
 「はい」
 中田はここでもまた、行政のずさんな対応を垣間見ることになった。
 事前に指導できていれば死者を出さず、集団感染を防げたのではないか。
 それはもちろん、温泉の運営会社がやらねばならぬことだが、あまりに甘い管理体制ではないか。
 ■■
 「ごぶさた。元気?」
 浜家からの電話だった。相変わらす声がでかい。
 「どうもどうも。うちの妻がやられたんですよ」
 「レジオネラにでも感染したか」
 「まさにそれです」
 「冗談だろ」
 「ほんとですよ。軽症でしたけど。私は当事者です」
 「笑えねえじゃねえか。でも笑える」
 「で、何か情報でも」
 「いやいや様子伺いだよ。町が会見したって?」
 「ええ、無責任な会見でした」
 「Mと島守会長の話は知ってる?」
 「ん? どういう」
 「じっこんだってこと」
 「なーるほどね。それで緩かったか。わかりやしぃーな! この町は」
 「それと生き残りをかけてね。やばいらしいよ。町の観光。こんな港町、だれも外から来やしねえ。温泉しかないんだよ」
 「それがダメになったら困るわけだ。町にとっては」
 「それだけじゃないよ。スポンサーなわけだ。Mの。会長が。ずっと応援していた」
 「選挙とか? これから選挙があるけど全然きかないなあ。そんな話」
 「表に出ないのがスポンサー。大金はたいてるよ、これまでも。これからもね」
 「いやらしいね。やることが。もしかしてレジオネラのことも前から知ってたんじゃないのかな。町は。だけどM町長が島守を守ってた?」
 「十分考えられる。調べてよ、中田さん。この町はなんか腐ってるよ。このままだと、死人がまた出るよ」
 島守が姿を現したのは、警察が中村支配人たちの事情を聴いている、とのうわさが出始めた頃だった。
 問題発覚からほぼ一カ月が過ぎていた。
 ■■
 S支局に島守グループから記者会見の案内が来た。会長以下、ようやく幹部が説明をするという。
 会見は、さんりく温泉であった。
 中田は、初めて島守会長を見た。もはや、町では伝説になっていた。
 もともとは、キャバレーで仙台の町ににぎわいをもたらした。
 もう半世紀も前の話である。その後、東北地方の各地に店を出し、いつしか「キャバレー王」と言われるまでになっていた。
 中田は佐川デスクから送られてきた島守の自伝書を読んだ。キャバレーで富を得て、いずれ地元に恩返ししたいと考えたと時、温泉を思いついたという。
 子どもの頃はとても貧しかった。高校を出てすぐに国鉄職員となり、それから退職して店を出した。
 全盛期の頃、息子と衝突したらしい。跡取りとして帝王学を学ばせていたが、どこかで歯車が狂った。
 そうしているうちに、娘の息子を引き立てるようになった。絵に描いたような家族経営だ。
 本人もここまで成功するとは思ってなかったのではないか。
 齢九十の会長だが、見た目は若々しく、髪の毛も黒々していた。
 あいさつにも切れがあり、決して孫に経営を譲るような感じには見えなかった。
 「このたびは皆さんに多大な迷惑を掛けまして、本当に申し訳ありませんでした」
 直立し、頭を下げた。
 「会長は、集団感染の原因は何だと考えていますか」。中田が先陣を切った。
 「私はね、甘い管理だったと思ってるんです。あれだけ、厳しく衛生管理をやりなさいと指示していた。それがうまくできていなかった」
 「それではなぜ、管理が徹底できていなかったのでしょう」
 「私もここ何年かは、現場に行くことはなくなってましてね。支配人に任せていた。まだまだ若い分、甘さがあった」
 「組織的に衛生管理のマニュアルみたいなものはなかったんですか」
 「口頭では言っていたのですが。文書としてはなかったと思います」
 「物理的に人員が足りていなかったということはありませんか」
 「それはありません。確かに一時に比べたら人手が足りてない部分もあるが」
 記者A「設備の問題はどうですか。だいぶ老朽化していたと町が検査結果について説明していました」
 「それは確かにあると思います。実は今、別の場所で温泉を掘っている。それに何億かかかっていて、そちらに資金を回している」
 記者B「お金をそちらに回してるからと言って、衛生管理のコストを抑えるのとは、話が別ではないですか」
 「それは……、そうですが」
 記者A「理由にならない気がします。やはり、それとこれが初めてじやないそうじゃないですか。最初に感染者が出た時、なぜもっと再発防止に取り組まなかったんですか」
 「……」
 記者C「処分は考えてますか。ご自身をはじめ、支配人以下の」
 「ええ。支配人は役職を外します。総務付けということに。あと衛生部門の責任者も外します」
 「会長は?」
 「私ももうだいぶ年ですが、この問題が収束するまでは会長職にいて残務処理をしなければなりません」
 「会長は何も変わらず?」
 「そうです」
 会場にヤレヤレというようなどよめきが起きた。これでは多分、この温泉は何も変わらないだろう。
 下手をしたらまた、感染者を出すかもしれない。中田は心底思った。
 何より、由起子を危険な目に遭わせたこの会社、島守を許すことがどうしてもできなかった。
 「中田さん、今から家宅捜索が入るそうです」
 午前八時。木山からの突然の電話だった。中田は自宅で起きたばかりだった。
 「マジかよ。間に合うか」
 「もう着いてます」
 「各社は?」
 「来てますよ。テレビも。新聞はうちだけみたいですけど」
 「さすがだな。支局長にも言うなって言われたか」
 「ま、そんなところです」
 中田は木山がS署から信頼されていることを内心喜んでいた。家宅捜索が終われば、次は早い。書類で送るとなると時間は無制限だが。
 「温泉へ家宅捜索」のニュースは昼間、一斉にローカルで流された。容疑は業務上過失致死傷だった。
 この捜索を境に、これまで比較的緩かった町民の温泉への視線が急に厳しくなっていった。
 温泉は新しい支配人が就き、一新された。温泉は営業が停止され、宿泊施設だけが動いていた。
 メインの温泉で収入がないので、会社にとっては大打撃に違いない。
 ■■
 警察の捜索が入ってから、島守会長がめっきりと元気がなくなったと浜家が知らせてきた。
 このまま温泉がつぶれるんじゃないか、とも心配された。
 中田はこの後、M町長の親族企業との不正取引疑惑、組み体操の死亡事故などに忙殺される。木山もそうだ。
 さんりく温泉の集団感染事件は、それから話題にならなくなる。中田は、事件の結末を見ずに仙台の本社へ帰ることになる。
 事件が動いたのは、整理部へ行った後のことだ。
 「中田さん、ニュース見ましたか」
 整理部に戻ってきた木山が近くでささやいた。
 「見てないよ。きょうは外で昼飯食ったから」
 整理部は出社が夕方になってからで遅い。外勤みたいに逐一、ニュースが気になると言うこともない。
 「さんりく温泉、支配人が書類送検されましたよ」
 「ほんとか! 中村が?」
 「ええ。容疑を認めているそうです」
 「衛生管理の不徹底で、一人を死なせ、五十人に感染させた」
 「うちの奥さんもそのうちの一人だ」
 「そうでした。結局、温泉は再開したけどこれじゃ、どうなるか分からんですね」
 「人もあんまり戻ってないだろうな。だって入りたい? 俺はやだよ。二度と行くか」
 「僕もです。ロケーションはいいんだけどなぁ。もったいない」
 「木山はあの町が好きだったもんな」
 「まあ」
 さらに半年が過ぎた頃、中田はさんりく温泉が閉鎖になるとニュースで知った。
 聞いた話だと、またレジオネラ菌を出したらしい。
 ■■
 「木山、なんで俺たちここにいるんかな」
 「そりゃあ、大学を訴えたからですよ」
 「あれは俺たちじゃなくて、遺族がしたんでしょうが」
 「でも半分は中田さんが誘導したでしょ。中田さんが支局長じゃなかったら、訴えを起こしてませんよ。鶴丸さん」
 「理由がよく分からない。ゴミの問題でもMに嫌われたからか」
 「いやあ、それはないでしょう。よくやったという声を聞きましたよ」
 「なぜだろう」
 中田は自分がなぜ整理部にいるのかいまだによく分かっていなかった。ただ、以前より気力を失っているのだけは確かだった。
 「会社も察したんじゃないですか」
 「何を」
 「中田さん、もうずっと走り続けてきたじゃないですか。記者一本で。もういいよ、ということになったんじゃないですかね」
 「なんじゃそりゃ」
 「僕にはなんとなく分かるような気がします。なんか見ていて危ういんですよ。いいかげんさというか、遊びの部分がないから」
 「分かったような。奥さんかキミは」
 「いえいえ、ま、もう戻ることもないですし、整理でやっていましょう」
 中田は、S支局にいた時のように朝早く目覚めることがなくなっていた。この習慣は入社以来、ずっと続いてたような気がする。
 それだけでも進歩だ。
 「組み体操も、Mもまだ決着が付いてないけどな」
 「多分、どっちもつかないですよ。つかないような問題をあえて追うからですよ」
 「そうしないと新聞の意味なんてない」
 「そうですかね」
 「白黒はっきりつきそうなやつは、警察に任せとけばいいんじゃないのか。俺らは警察じゃないからな」
 隣に座って話していた木山は、そそくさと自分の席へ帰って行った。
 ■■
 整理に戻ってよかったのは、由起子とようやく同居できるようになったことだ。食事が一気に健康的になった。
 「仙台はいいよ。あの町とは違う」
 「私は田舎も案外よかったけど」
 借りていたマンションでようやく二人の生活は戻った。結局、S支局の赴任中は、中田も由起子も入院した。
 入院してお互いの信頼はより高まった。夫婦らしくなにった、と中田は思っている。
 「いいよね。二人って」
 「まあね」
 「幸せ」
 「俺も」

 それから二年の月日がたった。
 中田はまた、別のD支局の支局長をしている。今度はS支局よりももっと田舎の村。宮城県内にある。
 希望したわけじゃない。ただなんとなく書きたいという気持ちが残っていた。
 S支局みたいに部下がいるわけでもない。デスクからもしょっちゅう電話がかかってくるわけでもない。
 でも、一人も結構いいもんだ。
 また単身。由起子を仙台に置いてきた。
 佐川デスクは文化部長に昇進した。木山はまだ整理部にいる。中村元支配人は執行猶予付きの有罪判決を受けた。島守会長は静かに余生を送っているようだ。
 浜家からそう聞いた。温泉は消え、町の観光名所は静まりかえっている。
 Mはまだ町長をしている。ゴミの疑惑は、もう追及する議員もいないらしい。
 組み体操の裁判はまだ判決が出ていない。鶴川は、どうも中田に会いたがっているらしい。           200枚(了)

【S支局発】スクープ

【S支局発】スクープ 中崎紫紅

【S支局発】スクープ

【S支局発】スクープ 中崎紫紅

  • 小説
  • 中編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-03-19

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著作権法内での利用のみを許可します。

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