扉のナイ中庭 上

Sarasaflora 作

書肆彼方 訳

扉のナイ中庭 上
  1. 一 見つからない本と中庭
  2. 二 アリ行列
  3. 三 下に上がる階段
  4. 四 底なし部屋
  5. 五 キジ三毛のネコ
  6. 六 菖蒲の計画
  7. 七 契約書のありか
  8. 八 農夫たちの秘密
  9. 九 観客のいない芝居
  10. 一〇 興廃の丘
  11. 一一 王子さまの約束
  12. 一二 通路の消失点
  13. 一三 雨にぬれる教室
  14. 一四 そうぞうしい法廷
  15. 一五 通路の消失点Ⅱ
  16. 一六 待合所ときどき夏休み
  17. 一七 おつかい
  18. 一八 天体観測
  19. 一九 シロクジラ
  20. 二〇 記憶採取
  21. 二一 太陰潮
  22. 二二 金色あられ
  23. 二三 願いの像
  24. 二四 行商のウサギ

一 見つからない本と中庭

一 見つからない本と中庭

「鏡よ鏡、このおはなしのおしまい(・・・・)はなあに?」
 菖蒲(アヤメ)は窓のむこうの菖蒲につぶやきました。
 大きなビルの五階にあるこじんまりとした図書館は菖蒲のお気にいりの居場所です。赤いくつをぬぎ、いつもの丸いベンチソファに乗っかって、書棚(しょだな)と書棚にはさまれ本を読みふけっていました。
 学校が休みのある日、菖蒲は濃紺(のうこん)のそでなしワンピースと白いパフスリーブのブラウスにデイジーの髪飾(かみかざ)りをつけ、お姉さんと一緒にある(・・)本を探しにきていました。表紙があかね色に金の文字で、『干しわらになった王子さま』という本です。ふと手にして読んでみましたが、まったくおかしな物語でした。
「わらにされた王子さまがだれにも助けられず、いきなりおしまいって、なんてへんてこなのかしら。抜けているページもあるし、残りだって全部白紙になっているわ。それに、王子さまとの約束って……」
 菖蒲はつまらなさそうに本を書棚に押しこみます。けれど『干しわらになった王子さま』がどうにも頭から離れません。それで小学生の菖蒲は宿題の読書感想文に、この本がいかにへんなおはなしであるか、まとめることにしました。ところが図書館でいくら探しても、『干しわらになった王子さま』の本はみつからず、検さくしても受付に聞いてもそんな本はないというのです。たしかに棚から選び、ひらいて読んだはずなのに……
 じつはもうひとつ、ここには不思議な秘密がありました。といっても、それは図書館のことではないのかもしれません。菖蒲はその秘密に気づいてしまったのです。見つからない本を探すことより、見つけた秘密のほうが気になってしかたがなくなりました。
 丸いベンチソファにひざをつき、窓の外をじっと見つづける菖蒲に、お姉さんはとうとうおこってしまいます。
「アヤメ。あなたが本を借りたいってきたのに窓ばかりながめて。わたしもう帰るわよ!」
 でも、菖蒲は窓の下にある〝秘密〟から目が離せません。窓わくに手をかけながら黒い瞳をキラキラ輝かせ、お姉さんに〝秘密〟を打ちあけることにしました。
「ねえねえお姉ちゃん、窓をのぞきこんでみて。あの中庭、扉がどこにもないの」たしかにビルの一階にある、うす暗く青みがかった中庭の四方は壁にかこまれ、出入りするための扉はありません。「それなのに、ねえほら! あそこの木のそばに白いぼうしをかぶった人がいるわ。庭のお手入れをしているのかしら?」
 ビルの壁にそってリンゴの木がそれぞれ六本、庭一面にびっしりと張られた芝生(しばふ)のまんなかには白い井戸がありました。菖蒲の言うとおり、庭師がひとりでお手入れをしているのでしょうか、リンゴの木にふれているのがわかります。   
「あっ! こっちをみたわ!」
 菖蒲は身をのりだし、目を丸くします。はじめて見る人なのに、どこかであったような、なぜだかなつかしい気持ちになりました。
「なんであの人は扉のない中庭に入ることができたのかしら?」
 菖蒲が問いかけても、なにも返事はありません。
「お姉ちゃん?」
 ふりむくと、うしろにいたお姉さんはこつぜんと姿を消していました。
「もう! ちょっと窓の外を見ていただけじゃない。なにも黙ってうちに帰ることはないのに」
 長い黒髪をかきあげ、むすっとしながら図書館をでてエレベーターの前に立ちます。ところが、下にむかうボタンをいくらおしても反応がありません。上のボタンも同じです。エレベーター乗り場ドアの上部にならぶ表示灯もついていませんでした。もしかしてメンテナンスしているのでしょうか。
「まったくもう。きょうはついてないことばかりね」
 菖蒲は深いため息をつき、しかたなく階段でおりることにしました。

二 アリ行列

二 アリ行列

「おい、1051バン! レツをみだすな!」
「いいや! 1049バンがまっすぐススまないからさ」
「なんだと。オレはマエにならっている、1050バン」
 エレベータ横の内階段のおどり場では、どこからかこびとのひそひそ話が聞こえてきました。
 菖蒲は立ち止まって耳をそばだて、きょろきょろとみまわします。
 ザッドドザッドド、ザッドドザ、ザッドドザッドド、ザッドドザ
 声はリズムあふれる歌へ変わりました。

  イソげ! イソげ! ジョオウのモトに
  ススめ! ススめ! ジョオウへレツを
  ハタラけ! ハタラけ! ジョオウのタメに
  ハコべ! ハコべ! ジョオウにチエを

 くり返される歌は菖蒲の足もとで黒いつぶつぶがえんぴつの点線のように、図書館のほうから階段下へとつづいています。
 かがんで顔を近づけると、なんとアリの行列ではありませんか。あっちに行ったりこっちに来たり。こんなところでなにをしているのだろうと、菖蒲はだまって観察することにします。すると、もっとおもしろいことがわかりました。アリたちはちいさな紙片をせっせと運んでいたのです。ハキリアリは葉っぱを切って巣に持ち帰る話は本で読みましたが、紙を集めるなんて聞いたこともありません。そんなものを運んでいったいなにをするつもりなのでしょう。
 菖蒲の好奇心の水がめはもうあふれるほどで、思わず目のまえにいるアリたちに声をかけてしまいました。
「こんにちは、アリさん。わたしは菖蒲。アリさんはなぜ紙きれを運んでいるのかしら。巣に持ち帰ってなにをするの?」
 しかしアリたちは菖蒲の言葉など知らんぷりです。それでよけい、彼らについて知りたくなりました。こんな一生懸命運ぶのですから、働きアリにはよほどの理由があるに違いありません。
 そこで菖蒲は、なにも持っていないアリ行列の先頭を追ってみることにしました。
 アリたちのとなりをはって図書館へもどり、貸出カウンターをぬけ、児童書がならぶ書棚にむかって進みます。
「ああああっ!」菖蒲の目はぱっちり開き、図書館にいることなどすっかり忘れて口からサイレンがもれますが、すぐに手をあてました。
 なんとも不思議なことに図書館には誰も人がおらず、注意されたり、ひややかな視線を感じたり、せき払いされることだってありません。でも、菖蒲が思わずおどろいたのは公序良俗(こうじょりょうぞく)の集団にではなく、彼らの運んでいた紙片(しへん)がなにかわかったからです。それは『干しわらになった王子さま』の本でした。アリはこの本に群がり、紙をかじってはこまかくしていたのです。
 菖蒲はむかむかして、眉間にシワが寄ってきました。ずっと探していた大事な本だったのでそれも当然です。
「あなたたち、たいせつな本をこんなにしてダメでしょ!」
 菖蒲の怒号もなんのその、工事現場の横をするりと抜けるようにアリたちは見むきもしません。それで菖蒲式大型クレーンはガバッと本を取りあげ、こびりついた土砂をぶっきらぼうにふるい落とします。
「おい、なにをするんだ! ワレワレのシゴトをうばうつもりか」アリは菖蒲の周囲ににわらわらと集まり、いっせいに抗議(こうぎ)しました。「そうだそうだ!」
「ちがうわよ。あなたたちは本を壊そうとしているの。そんなのまちがってる」
 そんなの知るか、といわんばかりに鼻息あらく、自信たっぷりにこたえました。
「これはジョオウのメイレイである。ジョオウはカシコクなるため、ホンのカミでマクラをヨウイするようメイじられた。われわれのジョオウがまちがっている、とでもいうのか」
「ええ、そうよ。ダメに決まってるじゃない」と、菖蒲はますますおこります。「本はちぎったりまくらにするためのものではないもの。それにね、本をまくらにしても賢くはならないのよ。わかる?」
「ははあ、わかっていないのはキミのほうだね。ワレワレにとって、これがなんであるかがモンダイではなく、ハコぶことこそがジュウヨウなのだ。そもそも、キミはワレワレにメイレイできるケンゲンをもっているのかね?」と、監督アリ。
「そうだそうだ!」と、作業アリ。
「まあ!」あきらめないアリに、菖蒲はほとほとあきれます。「わかったわ。じゃああなたたちの女王さまに今すぐ伝えてちょうだい。これはね、わたしが借りたかった本なの、あなたが寝床にしようと考えるずっと前からってね」
「だから、ワレワレには〝ジョオウにつたえる〟というシゴトはない」
「それはワレワレデンタツアリのシゴト……」
 菖蒲はついにがまんの限界をこえ、こぶしをわなわなふるわせ「われわれわれわれうるさいのよ! どうでもいいからさっさと女王に伝えてきなさい!」
 あまりの気迫(きはく)の風にアリたちはふき飛ばされないよう地面にはいつくばります。ブルブルふるえて凍ったように固まってしまいますが、ハッとなり、互いをゆっくり見つめ、顔を合わせながら「おいおい、なんてこった」。
「あのでっかいのはジョオウよりこわいぞ」
「いやいや、あんなのよりずっとジョオウはやさしくておだやかだ」
「あんなキショウのあらいブシツケなカイブツ、ワレワレのアゴにだっておえんぞ」
 カイブツは「はあ?」と、威嚇(いかく)するように彼らを見下します。
「しょ、ショウチした」
 さきほどまでの強気な態度が一変し、たじろぎながらも体裁(ていさい)をたもとうと、「ではジョオウにそのむねつたえよう。しかし、なにが……」
 菖蒲はゆっくりと力をこめながら、「な・に・が?」
「ぜ、ゼンイン、たいきゃくー!」
 アリたちはそれはもう怖くてたまらなくなり、紙片を投げ捨てるようにして、雲の子を散らすように逃げさりました。一匹がみだれると、ほかのもなにごとかと、今まで整然としていたえんぴつの線はめちゃくちゃに、残ったのはひとすじの紙片だけになったのです。
 菖蒲は『干しわらになった王子さま』の本をわきにかかえると、しかたなくちぎられた紙片を一枚ずつていねいにつまんで本におさめ、田植えをするよう腰をまげ、ゆっくり図書館をでて階段を降りてゆきます。とちゅう、紙片はぷつりととぎれていました。菖蒲は首をかしげましたが、ほっとしてこういいました。
「よかった。もうかがめて歩かなくていいのね。それにしてもいつか女王アリに会ったら注意しないと。本をこんなにしてはいけないって」
 腰をトントン手でたたいて体をぐうっとのばしてから一階へとむかいました。

三 下に上がる階段

三 下に上がる階段

 すみからすみまで探したはずでした。それに学校が終わるとまっさきに図書館へよって、新刊コーナーのチェックもかかさずしていましたし、書架(しょか)のどこにどんな本があるかだってすべておぼえていたほどです。司書のお姉さんに、わたしより知っているとほめられたのはちょっとした自慢でした。
「それなのになんで、見つからなかったのかしら」
 菖蒲はボロボロにされた本のことをあれやこれや考えていると、ふと、なにかちがうことに気づきました。
 さっきまで灰色の冷たいコンクリートに囲まれていましたが、今は電球のようにあたたかみがあります。階段の手すりは木で黒光りするなめらかな曲線に壁は乳白色。なにもかもが変わっているのです。古い洋館みたいですが、そのように改装(かいそう)しただけかもしれませんし、いつもはエレベーターを使っていたので、気にしていなかっただけなのかもしれません。
「まあいっか」と、菖蒲は気にせず階段をおりることにしました。
 しばらくして、カサカサ、ノッソリノッソリ……
 カメがゆっくりとふみづらを歩いていました。カメの足の長さで階段なんておりられるのでしょうか。そもそもなんでこんなところにカメが? 菖蒲は緩慢(かんまん)なカメをじっくりながめていましたが、器用に階段をおりる姿があまりにおかしく、すわって話しかけることにしました。
「こんにちはカメさん、わたしはアヤメ。あなたはなぜここにいるのかしら?」
 カメはピタリと止まり(もっとも、動いているようにも見えませんけど)首をにゅうっとだして、眠たそうな目をこちらにむけます。菖蒲はカメという生き物がマイペースであることをよく知っていましたから、カメから話すのを待つことにしました。
 するとカメの口元がゆっくり動き始め、とてもちいさな声で、「彼女は……いたずら好きなのだ……わたしは彼女の……いたずらにつきあっている」
 菖蒲はあたりを見て首をかしげ、「彼女ですか? ここにはだれもいませんよ」
 カメはふたたび階段のほうに頭をゆっくりともどしました。菖蒲にはまったく意味がわかりません。どこにも女の人などいませんし、もちろん、ほかのカメだっているわけではありません。〝彼女のいたずら〟とはなんでしょうか。とても気になりますが、それにしてもカメと話していたら、おそらく明日になっていることでしょう。
「さようなら。カメさん、ありがとう」
 あふれる好奇心を胸にしまい、立ち上がってカメに手をふり、わかれをつげました。
「きっとどこかに待っている仲間がいるのね。ふふっ、でもいつになったら出会えるのかしら」
 愉快(ゆかい)な気持ちでしばらくいくと、カサカサ、ノッソリノッソリ……まさかのカメです。
 しかもさきほどのカメとそっくりで、やはり階段をおりようと歩いているではありませんか。でも、もしかするとカメのいう〝彼女〟かもしれません。そう思った菖蒲はカメに顔を近づけて、こういいました。
「こんにちは、カメさん。さっきあなたを探しているカメさんがいましたよ」
 カメはしばらくしてから菖蒲のにむかって頭をのばし、じいっとみつめ、とぎれとぎれに「彼女は……いたずら好きなのだ……わたしは彼女の……いたずらに……つきあっている」。
「あなた、もしかしてさっきのカメさん?」
 カメはそっぽむいて、なにもこたえてくれません。菖蒲と話すことよりも〝彼女のいたずら〟が大事なのか、それとも菖蒲になぞなぞをだしているのでしょうか。
 菖蒲はやはり階段をおりますが、それも意味のないことがわかりました。なぜならトコトコグルグル、いくら階段を下へ下へ進んでも、あのカメがいるからです。カメに追いつけないアキレスのように、菖蒲がいくらがんばっても、カメより先に階段をおりられないいのです。それでこんどは階段をのぼってみることにしましたが、やはりカメのいる階にもどってしまいます。
 階段を上がったり下がったり、菖蒲はくり返すうちに、グルグル目がまわって、ヘトヘトになり、ついにカメのそばにドスンと座りこんでしまいました。今、菖蒲がいるのは何階で、そもそもカメは階段を下がっているか、はたまた上がっているのか、いろいろカメに聞きますが、カメはあのなぞなぞしか語ってくれません。菖蒲はほおづえをついて、しばらく考えてみることにしました。まずは 〝彼女〟のことです。カメのいう〝彼女〟とはいったいだれのことなのでしょう。
「彼女のいたずらにつきあっている、ということはカメさんは今、そのいたずらをされているということよね」菖蒲は周囲をじっくり観察してみます。
「でも、わたしには彼女が見えないわ。そもそもカメさんがされている〝いたずら〟とはなにかしら」
 こちょこちょ、ぺんぺん、なでなで、ぐりぐり……思いあたるいたずらを考えてみますが、カメはなにもされていません。〝いたずら〟さえわかればきっと〝彼女〟が何者なのかわかるはずなのに。菖蒲はカメと一緒にのんびりと考えます。なにかヒントはあるでしょうか。
 しばらくして、「そうか!」という菖蒲の声が、静まり返った内階段に反響しました。
「彼女はわたしにも〝いたずら〟をしていたのよ。だっていくら階段を下がっても上がってみても、カメさんのいる階にもどってきてしまうんですもの。だからカメさんのいっている〝彼女〟は階段そのもののことね!」
 そう、菖蒲はカメと〝彼女のいたずら〟つまり下に上がり、上に下がる階段につきあわされていたのです。いたずら好きの彼女は、階段にやってくる人をこまらせていました。
 しかし、そんないたずらはだれも喜ばないので、階段に近づいてくれる人はだれもいなくなってしまいました。このカメをのぞいて。カメにはいくらでも時間がありましたし、このいたずらにはピッタリだったのです。のんびり屋のこのカメは、いたずら好きの階段にアリアドネという女性の名前をつけてあげました。それでカメは〝彼女〟といっていたのです。アリアドネは名前をつけられて、とても喜びました。そのかわりにひとつだけカメと約束しました。もうほかの誰かにいたずらをしない、と。
「じゃあアリアドネは約束をやぶって、わたしにいたずらをしたの?」
 するとカメは首を横にふり、菖蒲が手にしているあかね色の本をポンポンたたきました。
「この本? なぜこの本が関係あるのかしら」
 こんどはゆっくりとカメの視線が階段の下を指しました。
 階下のおどり場の壁には、さきほどまでなかったカカオたっぷり板チョコのようなドアがあります。そう、アリアドネはこの階段を通る人が進まなければならない道しるべの糸をたらしていたのです。
「もしかして、わたしにゆけと?」
 カメはしっかりそうだとうなずきましたので、菖蒲は立ちあがり、扉に近づきます。
「うんわかった。ありがとう、とても楽しかったわ」
 菖蒲は彼らに手をふり、はがれかかった金メッキのドアノブをまわしました。
 ドアをそおっと開けると、一寸先はなにも見えません。おそるおそる暗黒へ足をふみだしますが、すぐにゾッとするようなことがわかりました。地面(ゆか)がなかったのです。
 足を下ろしたときには「きゃあ」と、さけぶ()もなく、体ごとすいこまれるように底なし闇のなかへと落ちていなくなってしまいました。ダークチョコレートの扉が菖蒲をパクリと飲みこんで喉を鳴らし、満足そうに消えてなくなります。そんな様子をじいっとながめているのかいないのか、カメはなにごともなく、カサカサ、ノッソリノッソリ歩きだしました。
〝彼女のいたずら〟につきあうために。 

四 底なし部屋

四 底なし部屋

 もしここが明るかったなら、菖蒲はどんなにか怖かったでしょう。でも部屋のなかはまっ暗でしたし、いつまでたっても地面に足がつかないので、なんだか宙に浮いているようでした。
「それなら空から落っこちるのも、海底にしずむのだって同じ気持ちなのね、きっと」
 あっけらかんとしていましたが、ひとつ悲しいことに、せっかく手に入れた『干しわらになった王子さま』の本を落としてしまいました。転落の拍子に本は手から離れ、底なし部屋の下方でバラバラになります。働きアリがやぶった紙片だけかと思いましたが、ほかのページもスルスルほどけて闇夜に舞う粉雪のように散らばっていったのです。ちりぢりになった本のページは菖蒲のずっと下に消えるとやがて点々になり、それはまるできらきら星にも見えるので、なんだか宇宙にいるみたいでした。
「きっと、空から落ちるのも、海の底にしずむのも、宇宙にいるのも同じってことね」
 そう言って菖蒲は『ちいさな星の歌』を口ずさみました。

  ティンクル ティンクル、ちいさな星よ
  あなたはだあれ?
  世界よりずっと、ずうっと遠く
  夜空にちらばるダイアモンドみたい

  ピカピカ太陽はさってゆき
  灯りがみんな眠るとき
  ちいさなあなたがキラキラと
  一晩中わたしをてらしてる

  ティンクル ティンクル、ちいさな瞳
  あなたはなんてステキなの

 菖蒲は歌いながら泳いでみたり、宇宙遊泳をしているようにただよったり。そんなダイビング姿がおかしくて、お腹をかかえクスクス笑ってしまいました。やがて、楽しそうにしている菖蒲をみた、たくさんの魚のむれがぐるぐる周り、彼女をかこみ、こうたずねました。
「なにがそんなに楽しいの?」
 菖蒲は言います。
「こんにちは! はじめまして、魚さん。わたしの名前はアヤメよ。この部屋がなにかを調べていたの。そうしたらなんだかおもしろくなってきちゃった。だってどれもしっくりこないんですもの」
「どうだろう、そんなことを考えたことないや」魚たちは尾びれをグングンふります。「でもぼくたちが泳げるってことは、ぜったい海のなかだね」
「たしかにそうね。でも下をみて。星がキラキラとかがやいているわ。海に星はあるのかしら?」
「なんと!」魚たちは菖蒲の指す方をいっせいにみると、おどろきました。「これは知らなかった。もしかして深海に住むいきものだろうか。みんな、たしかめにいってみよう」
 竜巻のように走る魚のむれは菖蒲から離れ、かがやく星にむかっていきおいよく去っていきます。菖蒲は彼方へ消える黒い大きなかたまりに手をふりました。
 誰もいなくなると、つぎにわたり鳥のむれが菖蒲に近づきます。
 翼をぐんとのばしたわたり鳥は矢先のように隊列をくみながら菖蒲にたずねました。
「なにがそんなに楽しいのかな?」
 菖蒲は言います。
「こんにちは! はじめましてわたりの鳥さん。わたしの名前はアヤメよ。この部屋がなにかをたしかめていたの。そうしたらなんだかおもしろくなってきちゃった。どれもしっくりこないんですもの」
 鳥たちはぐるりと優雅(ゆうが)に曲芸飛行してからいいました。
「どうだろう、ぼくたちはそんなこと考えたことないや。でもぼくたちがこうして自由に飛べるってことは、ここはぜったい空だね」
「たしかにそうね。でも下を見て。星がキラキラとかがやいているわ」
 わたり鳥たちは笑います。
「ちがうよアヤメ。あれは街の明かりさ。ぼくたちはよく見るもの」
 菖蒲はひとさし指で上を指してから「じゃあ上をみて。まっ暗で星ひとつないの。もしここが空なら上に星がちらばっているはずじゃないかしら?」
 鳥たちは上をみるとおどろいたように、「なんと! これは知らなかった。もしかして上が黒いのは、ぶあつい雲ではないだろうか。よおしみんな、たしかめにいってみよう」
 先頭の鳥がふわりと上昇し、うしろもあとを追って順に上方にある闇へと消えていきす。
 菖蒲はばいばいと手をふりました。
 だれもいなくなると、こんどは流れ星が菖蒲のところにやってきて、こうたずねます。
「なにがそんなに楽しいの?」
 菖蒲は言います。 
「こんにちは! はじめまして、流れ星さん。わたしの名前はアヤメよ。この部屋がなにかをたしかめていたの。そうしたらなんだかおもしろくなってきちゃった。だってどれもしっくりこないんですもの」
 流れ星は光のつぶをパラパラはきながらこう言います。
「どうだろう、ぼくはそんなことを考えたことないや。でもぼくがいるってことはここはぜったい宇宙さ」
「たしかにそうね。でも下には星が輝いているのに上はまっ暗なの。もしここが宇宙ならまわりにも星がキラキラ輝いているはずよ」
「なるほど。でもアヤメ、宇宙には星がかがやけない、まっ暗なところもあるんだよ」
 菖蒲はそうかそうかとうなずいて、「まったく、流れ星さんの言うとおりだわ。でも、もしここが宇宙なら、わたしは止まっているはずよね。なぜ下に落ちているのかしら?」
 それを聞いた流れ星はおどろいたように、「じゃあアヤメはいったいどこに落ちているのだろうか? よおし、ぼくが見てこよう!」
 流れ星は菖蒲の落ちる底へと消えてゆき、菖蒲は流れ星に手をふりました。
 魚も、わたり鳥のむれも、流れ星もみんないなくなって、暗い部屋でひとりぼっちの菖蒲は、底なし部屋についてよく考えてみることにしました。
 りんごはなぜ木から地面に落ちるのでしょうか。雨はどうして雲から地上にふってくるのでしょうか。そして、この部屋で本を手離したとき、なんで菖蒲はどこかに落ちていったのでしょうか。
「そもそも落ちているのかしら?」
 菖蒲はずっと、まっ暗な部屋のなかを落下していると思っていました。もちろん、本は下に落ちましたし、菖蒲もそれをみたからです。でも、魚やわたり鳥のむれも、流れ星ですら自分が落ちているとはいいませんでした。
「ここは空や海や宇宙であって、そうでもない場所ってことかな」
 つまり海にしずんでいるのでも、空から落ちているのでも、宇宙をただよっているのでもありませんが、魚が泳ぎ、鳥は飛び、星が流れるということは……
「引かれているのね!」
 菖蒲はついにひらめきました。そうです、見えない力に強く引っぱられていたのです。 
 でも、何に? 
 彼女には答えがすぐわかりました。『干しわらになった王子さま』の本です。
 菖蒲が闇に本を放りだしたとき、それはちらばってキラキラ輝く星となり、彼女を招待していたのです。ぜひこっちにきてほしいと。でもそれがなぜかはもうすこしあとで知ることになります。
 底なし部屋のからくりを知った菖蒲は、ためらわず星にむかって両手をさしのべ、本の招待を喜んで受けました。だってこんなにもわくわくするのですから。これからなにが起きるのだろうと、うずうずしながら星の意のまま、白い光は菖蒲をつつみこみ、あまりのまぶしさに目を閉じてしまいました。
——————

 バサッとかわいた音を立て、クッションのようなものに落ちてしずみ、体がチクチクして麦わらぼうしのにおいがします。ゆっくりまぶたを開き、細くて黄色いストローをかきわけひょっこり顔をだすと、わら束がたくさんつんでありました。
「納屋?」
 なにがおきたかわからずしばらくぼーっとしますが、遠くのほうでゴトンゴトンと何かが動く音が聞こえましたので、上方についた半開きの窓から外をながめます。
 青空のもと、金色の麦畑が広がり、遠くには白壁に黒い屋根の風車が風をうけてまわっていました。
「あの風車だ!」菖蒲は干しわらの王子さまの世界にやってきたのだとすぐにわかりました。胸がドキドキと高鳴ります。ここが本の世界だから、だけではありません。
 なんと、干しわらの王子さまをおしりでふんづけていたからです。

五 キジ三毛のネコ

五 キジ三毛のネコ

 たくさんあるものから、これがそうだと、どうしてわかるのでしょうか。たとえば、袋にいろいろな味のキャンディーが入っていて、どれもまったく同じつつみだとしたなら、そのなかにあるたったひとつだけのキャラメルをどのようにみわけますか。ひとつずつ開いてみるしかありません。でも菖蒲はたくさんある同じわら束から、これが王子さまだと気づいたのです。なんで? と思うかもしれません。菖蒲もきっと答えられないでしょう。ただ胸がドキドキして、これは王子さまだと菖蒲に教えているようでした。
 しかし疑問がわいてきます。『干しわらになった王子さま』の本によると、王子さまは風車の地下室でわらに変えられ、王座にいるはずなのに、なぜだかここで横になっているのです。
「そのわら束は風車の地下で農夫がひろい、ここに投げてったのさ」
「だれ?」菖蒲はどこからか聞こえてくる声に返事をします。
「こっちだよこっち」
 納屋をあちこち見ていると、大きな両扉のそば、くま手を背にキジ三毛のネコがちょこんとすわっていました。
 ネコに近づこうと、たくさんつまれたわら山からおりようとしますが、うまく足がかけられません。「きゃっ」と声をあげ、なだれこむようにズルズル落ちてしまいます。
「なあお嬢ちゃん、もうすこし静かにしてくれないと。あいつが物音に気づいてやってきたらどうするんだ」
「ごめんなさい、キジ三毛のネコさん。わらの上を歩くのがこんなにむずかしいだなんて思わなかったの」
 やれやれとキジ三毛ネコはため息をつきます。
「まあいい。そんなことよりあのわらについてだ。お嬢さん、あれがなにかわかるのか?」
「もしかして、あなたも王子さまだって知っているの?」
「あの少年は王子だったのか」キジ三毛ネコはニヤリとします。「オレが風車の近くでネズミを追いかけていたときのことさ……」
 キジ三毛ネコは白馬に乗った少年が風車に入るのを見ましたが、白馬を残したまま帰ってくることはありませんでした。
「しばらくして大きな黒ヘビが風車から飛びだすと空高くまいあがり、勢いよく西にむかって消えたんだ」
 王子さまと相対した影のことでしょう。
「それからオレの主人である農夫が風車の地下で青い剣と赤い宝石の指輪の首かざりをかけたわら束を見つけて大喜びしてたな。いじわるで強欲な農夫め、主人を待つ白馬もすべて自分のものにし、街で売りさばいてお金にするつもりだぜ」
 それを聞いて菖蒲はひとつ思いつきました。王子さまの帰りを待つ白い馬に話を聞けば、干しわらになった王子さまについてもっと知ることができるでしょう。でも、キジ三毛の言うとおりならば時間はありません。
「白いお馬さんはどこにいるのかしら。はやく助けてあげないと」
 あわてる菖蒲にキジ三毛ネコはこう言いました。
「まあおちつけ。風車のちょうど裏手にあいつの家があって、すぐそばの馬小屋に白馬はつながれてる。なわは固くしばってあって簡単にほどけない。少年が持っていた青色の剣を使うといい。あの剣は固くてするどいから農具に使えるとあいつは喜んでたな。剣は農夫の寝室にあるはずさ」
 キジ三毛の話を聞いて、菖蒲はほっと胸をなでおろしました。
「ありがとう、でもなんでわたしにいろいろと教えてくれるの? あなたは農夫さんの飼いネコでしょ?」
「白馬には借りがあるんだ。黒ヘビが風車から出てきたとき、オレを……いや、まわりにあるものすべて呑みこもうとしてた。オレは必死に逃げたが追いつかれ、もうダメかとあきらめかけたとき、白馬がオレを口にくわえて助けてくれたのさ」
 それからキジ三毛はぷいっと目を横にそらし、「お嬢ちゃん、オレはあいつに飼われちゃいないぜ」
 菖蒲はキジ三毛の首を優しくなで、黒い刺しゅうの入った織物の首輪にふれます。
「そうだったの。じゃあなんで首輪を?」
 キジ三毛はすっくと立ちあがって菖蒲のまわりをすたすた歩きだしました。
「あの農夫と契約を結んだことがそもそもミスのはじまりだった」
 キジ三毛の説明によれば、農夫とキジ三毛ネコは仕事の契約を結びました。人間と動物が仕事の契約をすることはこの世界でよくあることのようです。ふたりは農夫の土地にいるネズミを一〇〇〇匹退治するまで宿と食事を用意する、という契約をかわしました。
「オレは〝するまで〟という文言に騙された。つまりネズミを全部退治しなけりゃあいつのもとから離れられない」
 農夫はネコと契約を結んでからすぐにネズミ捕りを置きだしたのです。これではいつまでたってもキジ三毛が契約を果たすことはできません。
「オレは旅ネコ。気ままで自由なくらしが好きなんだ。なわばりをウロウロするようなたいくつな連中とはちがう」
 キジ三毛ネコは立ち止まってうらめしそうに続けます。
「ここにも長居するつもりはなかった。なのにあのごうつくばりな農夫め、オレをだましやがって! はじめっからオレをこっからださないための罠だったのさ」
「そうだったのね。なんてひどいことするのかしら」と、菖蒲はまゆをしかめます。
「そこで、だ。お嬢ちゃんにたのみがある」キジ三毛はじっとりした目つきで菖蒲をのぞきこみます。「あいつは寝室のどっかに、オレと交わした契約書を隠したはずなんだ。それを持ってきてほしい。あいつの目をぬすみ、探したがどうにも見つからなかった。あの契約書さえやぶいてしまえば、この首輪をはずして自由になれるんだが」
 菖蒲はかわいそうに思い、うなずいて「わかった。探してみる」。
 その時、キジ三毛ネコの両耳がピクピク動き砂利をふみしめる音が納屋の外から近づいているのをとらえます。
「まずい、あいつだ。隠れろ!」
 菖蒲はおどろきあわてて、飛びこむように積んであるわら束の影に隠れました。
 足音はピタリと止み、大きな両扉がゆっくり開きます。
「おいキジ三毛、ここにいるんだろ! 昼飯の時間だ。とっととこい!」
 重たい沈黙。
「にゃあ」キジ三毛ネコはなで声をあげます。
 菖蒲は見つからないようにそおっと、こちらに伸びる人影の頭からたどっていきます。扉の前にはウェスタンブーツにデニムのオーバーオールと白シャツ、麦わら帽子をかぶった、いかにもたくましい口ひげの男がどっしり構えていました。
(あんな大男に捕まったら……)
 不安が菖蒲の頭をよぎり、口に手をあて肩をすくめました。
 すぐ大男はバンッと扉を乱暴にたたきつけ、菖蒲はびくりとします。
「行ったか……」キジ三毛ネコはわざとらしく独り言をはじめました。
「オレはこれからあいつの家に行く。あいつは昼飯がすんだらオレを連れて小麦を売りに街へでかけるはずだ。馬車が遠くに消えるのを合図に家に行け。安心しな、あいつはひとり身で家にはだれもいない。玄関はカギがかかっているが、二階の窓はオレがいつでも入れるよう開けっぱなしだ。そばの木をのぼって入るんだ。夕方、暗くなるまえにあいつはもどってくる。それまでにあれを探せ」
 キジ三毛ネコは農夫の後を追い、扉のすきまから走って去りました。
 静まりかえる納屋に残された菖蒲は、干しわらになった王子さまのそばにもどります。窓から遠くをながめ、これから実行する計画を自分に話しかけるように小声でまとめました。菖蒲はひとり会議が好きだったのです。本を読んでいる時も、感想をもうひとりの菖蒲に伝えていました。ひとりごとをぶつぶつ言いながらクスクス笑ったり、怒ったり泣いたりする菖蒲に「うす気味わるいからやめなさい」と、お姉さんからよく注意されたほどです。
「まず王子さまをここから助け出さなきゃ。だって、ほかのわら束と一緒に持っていかれたら大変だもの」
「いい考え。でも、どこに隠せばいいのかしら」
 そうです。そこらへんにほっぽって、だれかに盗まれたらいけませんし、動物にでもバラバラにされたら大変です。話し合いの結果、風車の地下にしました。きっとあそこに王子さまをもとの姿にもどすためのなにかがあると思ったからです。
「次に農夫さんの家のそばにある木をよじ登って、二階の窓から寝室へ」
「青色の剣とキジ三毛ネコさんの契約書を探す」
 菖蒲はのぼり棒が得意でしたので、木だって問題ありません。
「それから馬小屋にいき、白いお馬さんのなわを剣で切って助ける。うん、これでよし!」
 こうして菖蒲の〝ひとり会議〟では、万事うまくいきました。もちろん、だれでも頭の中はいつだってあれやこれや順調に進むものです。菖蒲はひじをついて寝そべりながら窓の外をながめ、完璧な計画を実行する時はまだかまだかとウズウズしながら待っていました。

六 菖蒲の計画

六 菖蒲の計画

 昼下がり、風車のむこう側から荷馬車が小麦畑へ出てきます。
 菖蒲は見逃すまいと目で追いますが、まだ行動は起こしません。計画には不足の事態があることを知っているからです。もしかすると忘れものを思いだし、農夫は引き返すかもしれず、そんなときに納屋から飛びだしてしまっては計画が水の泡です。この計画に失敗は許されないので、菖蒲は慎重に行動しようと決めていました。
 馬車がだんだん小さく、小麦畑の彼方に消えたの確認し、あせらずゆっくりと「いち・にぃ・さん……」
 六十まで数えてから、今だと、ずっしり重い王子さまを抱えあげ、急いでわら山からおろして納屋の扉を片方開け、外へでました。
 ここちよい風がササっとふき、菖蒲の長い黒髪と小麦をゆらします。眼前に広がる新しい世界にぽつんといるわたし。足をふみだす前に目をつむり、鼻から空気をいっぱいにすいこむと、どこか知らないはじめてする異国の香り。人生だって変えてしまうほどに、すばらしいなにかがはじまる前兆。本で読んだおとぎ話のヒロインがそうであったように、おさえきれない高揚を感じながら目をぱっと開け、回る大きな羽根を目印に、干しわらの王子さまと小麦畑へ走りだしました。
 むだにできる時間は少しもありません。この計画のむずかしいところはいつ農夫が帰ってくるかわからないことです。それで、菖蒲はできるかぎり速やかに寝室にいきたかったのです。
 小麦畑を無事に抜けると、菖蒲よりずっと大きな黒い風車がどんとかまえています。きしむ大きな音はまるでさけび声で、さっきみたあの農夫が腕をくみ、仁王立ちで菖蒲の前に立ちはだかっているようです。そんな想像が彼女の頭の中で風船みたいにふくらむと、恐怖でたじろいでしまいます。意を決してわら束をしっかり抱き、小さなドン・キホーテは風車に突進しました。
 ギギギギギーゴットンゴットン。木で組まれた歯車のこすれるにぶい音やテンポよい打音がやかましく騒ぎ立てています。菖蒲は風車の複雑なムーブメントにまきこまれないよう、気をくばりつつ進みました。
「あの本には王子さまは地下に続く階段を探したってあったわよね」
 しかし、いくら探しても階段などありません。
「〝探しまわった〟ということは王子さまはすぐにみつけられたかった……つまり、隠し階段だったのよ!」
 菖蒲は王子さまを置き、四つんばいになって木の床を一枚づつ指でなぞりました。すると、一箇所だけ床板に金色の回転把手がうめこまれていました。しめた、と金属のつめをひっくり返し、四角く切り抜かれた板を持ちあげると、なんと階段が薄暗い地下へ続いていたのです。階段の先には木製の古いドアがゆるく閉じて、ヒューヒューすきま風を感じながら菖蒲はためらうことなく進みます。
「たしかに、本に書かれたとおりね」
 菖蒲が立つ深閑とした部屋の内部は風車の地下倉庫などではなく、オレンジ色の灯火がいくつもゆらゆらゆれる壮麗な王の間でした。強国が滅んで歴史の針はポッキリ折れ、つもるほこりが空白の時間を知らせます。巨大な支柱を横目に、ピラミット状の石板と頂点には燃える影の言葉を借りるなら、血で汚された玉座がすえられ、天井からふりそそぐ光をあび、空位のまま、こちらをむいていました。それにしても、人っけのない廃墟ほど陰気なことはありません。菖蒲はこういう場所はなにかでるんじゃないかとびくびくしながら王座に近づき対面します。
 わらの王子さまをそっと王座に、「待っていて、かならずもどるから」と、耳のあたりで優しくささやきました。
 こんなところに王子さまを置いてきぼりにするなんて。菖蒲はとても悲しくなります。王子さまはこの国の王子ではありませんでしたし、なによりひんやり冷たくさびしいイスに、もし自分がひとりぼっちだったら、どんなにか心細いでしょう。でも今はこうするしかありません。
 うしろ髪をひかれる思いで最初の任務を終え、外でふうっと一息ついて次の計画にうつります。風車の裏手にまわると、よく手入れされた庭の先にわらぶき屋根の家、隣には馬小屋がありました。菖蒲は急いで門をくぐり、色とりどりの花が咲きほこる庭を通って農夫の家に近づきます。家のそばにグニャグニャうねるブナの木が空にむかってのびていました。菖蒲はくつとソックスをぬいで木の根元にかくしてから、ガバッと木にしがみつき、すいすいのぼっていきます。とちゅう、太い木の枝が屋根裏の窓にせりだしていたので、毛虫のようにぐねぐね枝をつたって進みます。窓に手をかけようとしたその時、地面が目に入り、あまりの高さにめまいがしてピタリと止まってしまいます。窓とこずえには少しばかり距離もあります。しかしためらっている時間などありません。菖蒲は下をみないように、呼吸を整えてからゆっくり腕をのばすと、なんとか窓はこちらに開きました。
「だいじょうぶ、わたしは飛べる。だいじょうぶ、わたしはあの窓に飛べる……」
 自分にそういい聞かせ、太い枝に手をあてて震える腰をあげ、こずえに足をつけます。
「鳥のように飛べる、蝶のように舞える……!」
 ケムシがサナギに、そしてチョウとなって飛ぶがごとく、菖蒲は意を決し、バッと勢いよく窓に飛びうつります。木の枝がたわんでバサバサバサ葉っぱを散らし、ヒバリがなにごとかと空へ逃げていきました。
 ドスン! 重いものが落ちるにぶい音。
「いったぁぁい!」
 屋根裏部屋はもくもくほこりが舞いあがり、斜光に当たってキラキラ輝きます。
 ムクリと起き上がってむせてコホコホせきをしながら「アヤメチョウ……着陸……失敗ね」。
 菖蒲は赤くなったおでこを手でおさえ、ズキズキを耐えながら、天井が低い屋根裏の物置から階段を降ります。かまどや料理道具、食器が整とんされている小ぎれいな台所に出ると勝手口に居間、もうひとつ階段のそばにほかの部屋へとつながるろうかに分かれていました。迷わずろうかを通って、サニタリールームの前に部屋を見つけましたのでドアを開けようとします。
 菖蒲はドアノブに手をかけますが、胸がうずきます。人の家にもぐりこんだだけではなく、大事な部屋に侵入するのですから当然です。もし、知らない人が自分の部屋を勝手にいじられたら、と考えはじめると余計に痛みます。でも、ここでやめたらわらになった王子さまを助けることができなくなるかもしれませんし、キジ三毛ネコもあのままです。気持ちがゆれ動きながらも「ごめんなさい」。小声でそういってドアノブを回しました。
 広い部屋には大きなベッドにつくえと棚、窓には刺しゅうの入ったレースのカーテンから陽の光がうっすら差しこんでいます。よくみがかれたマホガニー製のつくえのそばに両刃の剣が抜き身で立てかけられていました。
 剣を手にすると、美しい深青のガラスはターコイズブルーに色を変えます。剣は軽石みたいで菖蒲にも持ちあげられます。これは彼女にとってうれしい誤算でした。
「なんてきれいなのかしら……」 
 不思議な剣に見とれる菖蒲は計画をはたと思いだします。キジ三毛ネコの交わした契約書を探すため剣をつくえに立てかけると深青色にもどりました。
 ところで、計画というものはたいてい思いどおりにいかないもので、調整したり、あきらめたりするものです。菖蒲もそんなことはよく知っていましたし、もちろんできるだけうまくいくようにするのですが、どうしようもできない問題もあることをすぐに痛感することとなりました。

七 契約書のありか

七 契約書のありか

 王子さまの剣はすぐ見つかりましたが、キジ三毛ネコの契約書がどのようなものか菖蒲にはわかりません。紙に書いたのか、それともほかのなにかでしょうか。これは計画を成功させるうえで大きな問題でした。形が想像できないものを探すほどむずかしいことはないからです。
「ネコさんにちゃんと聞いておくべきだったわ」
 うらめしく思いながらつくえの引き出しに手をかけたとき、卓上にかざってあるポストカード立てが目に入りました。真ちゅうの額の中では白いキャペリンハットをかぶった金髪の女性が笑みをうかべています。家を見るかぎり、農夫のほかはだれもいないようですし、キジ三毛ネコも農夫はひとり身だといっていたはず。それにこの人どこかで……菖蒲は不思議に思いながらも引き出しを開けてみました。
 手紙が何通かあるだけで契約書らしい紙はなく、引き出しの奥をのぞいてもからでした。棚を探しても手がかりひとつありません。もしかしてキジ三毛ネコの勘違いなのか、それとも探すところが見当はずれなのか。いずれにせよ、時間だけがむだに過ぎ、刻一刻と日がかたむいてゆきます。
「どこだろう、どこだろう。いいえ菖蒲、落ちついて探すの。きっとあるはず。どこかにふとおいて、わすれてしまった自転車の鍵と同じよ」
 あきらめず部屋中行ったり来たり、引き出しを開けたり閉めてみたり。そもそもここの寝室だったのでしょうか。まさか別の部屋に? はたまた居間にあるのかも。いや、もしかして農夫のポケットに隠してあるのかしら。ごちゃごちゃ考えるとよけいにそわそわしてきて、ありそうでない、たった一枚の契約書がなんとももどかしく感じます。
 すると突然、外からガタガタガタと荷馬車の音が聞こえてきました。
 菖蒲は身体中に電気が走ったようにおどろき、頭がまっ白になります。契約書を探しているうちに時間が経過していたこと、思いのほか農夫が帰ってくるのが早かったのです。
 なんて最悪なタイミング! もし今この部屋を出ていったら農夫と鉢合わせになるかもしれません。しかも足音がこちらにずんずん近づいているではありませんか。
「どうしようどうしよう」かくれんぼのように数をかぞえる鬼の目から逃れるため、菖蒲は最適なかくれ場所をくまなく探します。棚にはもちろん入れませんし、つくえの下ではおしりが丸見えです。ベッドの中だってふとんをめくられたらおしまいでしょう。
 鬼は無情にもどんどん間合いをつめてきます。
「あぁぁぁ、まってまってまって」四方八方首をふりながらあわてふためいていると足音はついに寝室前で途絶え、カタカタカタカタカタ。ドアノブがこきざみにふるえます。
 ついにドアが開き、農夫はギシギシ床板をきしませながら窓ぎわへ、つくえの前で止まります。真ちゅうの額ぶちを持ち、さびしそうにじっと見つめてから部屋をあとにしました。
 とりあえず鬼の目をごまかしたことを知ると、菖蒲は肩の力が抜けて床板に頭をつけ、大きなため息をもらします。
 でも菖蒲はいったいどこに?
 それはベッドの下です!
 農夫が部屋に入る、もうすんでのところで、すべりこむようにもぐったのです。そして菖蒲の立てた計画はまさに机上の空論、もろくもくずれさりました。なお困ったことにベッドの下から身動きが取れなくなってしまったのです。かりに契約書探しをあきらめ、青い剣だけ持ちだすにしても、いつここから出ればよいのでしょう。農夫が家の外にいるとき、屋根裏、勝手口か居間の出入り口。いずれもばったり会う可能性があります。そもそも農夫は今、どこにいるかすらベッド下からではわかりません。様子を探るにはあまりに危険すぎます。もし部屋の窓からのぞいていたらどうしよう……いくら計画をねり直しても、考えれば考えるほど絶望的な計算結果がはじきだされます。
 あれこれ悩んでいるうちに日は落ち、寝室はまっ暗になりました。文字どおり出口の見えない菖蒲の不安はどんどん高まります。いっそのこと農夫の前に姿をあらわし、ありのまま話そうかと考えましたが、農夫は強欲というキジ三毛ネコの文言が思いうかび、街で売りとばされるのでは、と身がすくみます。時計の針はぐるぐる回り、うつぶしたまま、ついになにもできず夜中をむかえてしまいました。いっぽう農夫はというと、菖蒲の期待を裏切るようにその日は外出することもなく、農具の手入れや食事をして、家でゆっくり過ごしていました。
 深夜、足音は再び寝室へとやってきます。農夫の手にしたランプで部屋がうっすら照らされ、菖蒲はつくえにむかう足だけがみえます。ランプをつくえの上に置き、昼と同じようにポストカード立てを手にします。
「おやすみ、リリィ」農夫は絵にあいさつをしてランプをふっとふき消します。
 ベッドはきしみ、ふとんのすれる音。チャンスだと菖蒲は思います。今なら農夫が上で寝ているのがわかるからです。青い剣を持ってそおっと出てゆこう、そう考えたのです。なんてだいたんな計画なのでしょう。それでも念のため、農夫が深く眠るのを待つことにしました。さきほどまでどんどん過ぎた時間が、このたびはゆっくり、ゆっくりと経っている気がして、じれったく感じます。
 二段ベッドでもないのに上では農夫が熟睡、その下に少女がウツボのようにかくれるというおかしな夜。さあ今か、まだかとちいさなウツボが問答をくり返していると、グーグー大きな寝息がします。
 計画の再開です。菖蒲は音を立てないようベッドの下からもぞもぞはいでて息をころし、顔をそっとあげます。農夫はふとんにしずみ、ぐっすり寝ていました。ひざをついてそろそろと青い剣に近づきます。カーテンからもれでる月の光にあてられた剣は、まるで宇宙をかためた深い紺色のよう。
 菖蒲が剣にそっとふれると「んっんん〜」という農夫のうめき声。すぐ剣から手を離し、床にふせます。どうやら寝がえりをうっただけで起きてはいません。ところがつくえに立てかけられた剣がバランスをくずし、すべるようにスーッと勢いよく倒れようとしています。菖蒲は目をむいて、とっさに手をのばし——!
 夜風は麦をこすり、窓ガラスにあたってカタカタ鳴らします。
 菖蒲はぎゅうっと目をつぶり、息を止め、くちびるをかみ、剣をすんでのところで支えていました。腕はぷるぷるふるえ、バクバクと脈打つ胸が耳まで聞こえるほどです。片目ずつ開け、そおっと立ちあがりベッドをのぞくと……寝ている農夫は気づいていません。肩をなでおろし、鼻から空気を抜いて剣をしっかりにぎりしめ、すり足で扉に近づきました。
(お願い、起きないで。どうか!)
 頭の中で何度そう唱えたことでしょう。かくれんぼや鬼ごっこ、学習発表会に合唱コンクール。できるかぎり思いうかべましたが、これほど緊張したことはありません。息がつまる思いで寝室をあとにし、居間を通りぬけ、玄関をでました。
 戸外はしんしんとして月明かりに照らされています。木の根もとに隠しておいたくつとソックスを履き、剣を手に馬小屋へ走りました。計画どおりにはゆきませんでしたが、なんとか剣だけは手に入れました。契約書についてキジ三毛ネコには正直に話すしかありません。だっていくら探しても見つからなかったのですから。
 干し草のにおいで満たされた馬小屋の奥には月明かりに照らされた、どうどうと立つ美しい白金の毛なみの馬がこちらをジッと見ていました。
「はじめまして、お嬢さま。くわしいことはそこにいるネコに聞いています」白馬の高く澄んだ声がひびきます。
 白馬の横にギロリと目を光らせたキジ三毛ネコがいました。
「ごめんなさい、キジ三毛のネコさん。あなたのほしがっていた契約書はいくら探しても見つからなかったの」
 キジ三毛ネコはなんだかきまりわるそうですが、菖蒲は白馬に顔をむけてこう言いました。
「はじめまして。あなたを助けにきました。わたし、あなたに聞きたいことがあるの」
「わたくしもお嬢さまに話さなければならないことがあります」
「オレもその話、聞くことはできるのか?」
 背後から聞いたことのある低い声。菖蒲の顔からみるみる血の気が引いていきます。おそるおそるふりむくと、なんと寝ているはずの大男が角灯(カンテラ)を持って立っているではありませんか!
 菖蒲は言葉をうしない、ただ青い剣を両腕で抱きしめたまま固まってしまいます。たくさんのなぞが頭のなかをぐるぐるとかけめぐりました。
 いずれにせよ、計画は完全に失敗におわりました。このとき、菖蒲はたしかにそう思ったのです。

八 農夫たちの秘密

八 農夫たちの秘密

 その場がこおりついた時間。正直にすべて話してあやまらなければと菖蒲はおののきながら農夫に近づきます。
「お嬢さま、その剣を彼にわたしても、手からはなしてもなりません」
 白馬の思いがけない言葉に菖蒲はとまどいながら、「でもわたし、泥棒(どろぼう)みたいに農夫さんの家から」。
「あの白い馬の言うとおりに」農夫は菖蒲の声をさえぎります。「それにわたしはきみが家にいたことを知っていたんだ」
「ど、どういうことですか?」菖蒲にはもうなにがなんだかわかりません。
 農夫は困惑する菖蒲に優しい()みをうかべ、「そこにいるキジ三毛がきみをだましたんだよ。まあそれもみんな知ってのこと、なんだが」。
「おいおい、だましたなんてネコ()きの悪いこというなよ」キジ三毛ネコは不満げに言いました。「ごめんよお嬢ちゃん。でもしかたのないことだったんだ」
「そんなこと言われても……」菖蒲はまゆをしかめます。
 まったく理解できませんが、ひとつだけわかったことがあります。ここにいるみんなはことのしだいを知っていましたが、わけあって菖蒲だけがだまされたということです。 
 納屋でじっと待ち、木の上から家にしのびこんで必死に契約書を探したのに。きゅうくつなベッドの下で恐怖にふるえ、やっとここまで来たのはなんだったのでしょう。孤軍奮闘(こぐんふんとう)した計画はすべて微塵(みじん)となり掃除機(そうじき)で吸われてなくなると、ほっとしてきゅうに(はら)がたってきました。
「もおっ、なんなのよ!」菖蒲はほおをふくらませます。
「重要なのは闇に気づかれないことでした。闇はすべて監視しているのです」
 闇とは干しわらになった王子さまと対峙した黒い影のことです。白馬の説明によると、あの影は自在にその姿を変え、つかみどころがなく、黒い霧のように世界にたちこめているのです。三人は計画の本当の目的について菖蒲に話しました。
「青い剣はお嬢さまが持っているとき、特別な力で闇の目から隠してくれるのです。その証拠に剣をごらんなさい」白馬の言うように王子さまの剣は菖蒲が持つと深青からコバルトブルーに変色しました。「わたくしの主人である王子がこう申しました。『おまえのもとにかならず少女がやってくるだろう。その娘に青い剣をわたしておくれ』と」
「それだったら最初(はじめ)からそう言ってくれればよかったのに」まだまだ菖蒲は不満げです。
「どうか許してほしい。女の子がどこから来るのか、どんな顔なのか、オレたちにはわからなかったんだ。お嬢さんが味方になってくれるかどうかも知りたかった。これらを闇に気づかれず実行するため、まわりくどい方法しかなかった。いじわるしようとたくらんだわけじゃない」と、農夫は言いました。
「そう、オレは強欲な農夫にだまされ契約を結んだあわれなネコ役ってわけだ」と、キジ三毛ネコは言います。「それに契約書はちゃんと寝室にあったんだぜ。あの真ちゅうのポストカード立ての絵の裏にね」
「えっ?」まさかのこたえに菖蒲はあぜんとします。
「そのとおり。つまりオレたちは約束と秘密を守れるかどうかを試したかった。そうしたらお嬢さんはオレたちが思っていたよりもずっとすてきな女の子だったというわけさ。それにしても、昼間、わたしが寝室に入ったら剣が立てかけられたままで、だれもいなくてあわてたよ。もしかしてあの子じゃなかったのかって。でもまさか夜中にベッドの下からでてくるなんて」
「もうほんとうにこわかったし、どうしていいかわからなかったんですもの!」
 菖蒲の顔はまっ赤に染まり、みんなでクスクスと笑います。それから菖蒲は自分が図書館からやってきたこと、『干しわらになった王子さま』の本に招待されて納屋に落ちてきたことを彼らに話します。
「なるほど。お嬢さんはわたしたちの領域(せかい)のものではないということか」農夫が言いました。
「お嬢さまには理解しがたいことかもしれませんが」白馬はつづけます。「わたくしたちの領域(せかい)で約束は力を持っています。果たすのがむずかしい約束ほど力は強く、重いものとなります。でも約束は守らなければ大きな代償(だいしょう)がともないます」
 つまり剣にふれると闇から隠れる力をえたのは、ひとつに菖蒲が【キジ三毛ネコとの約束】を守ったからでした。キジ三毛ネコの願いを聞き入れ、王子さまを地下にもどし、青い剣を手に馬小屋まで持ってきました。契約書は手に入れられませんでしたが、正直にあやまったのです。もちろん、ほかにも理由があるようですが……
「そうだったのね。でも」菖蒲にはまだなにがなんだかわかりません。でもみんな王子さまの味方だとわかって安心しました。
 農夫は用心深げにあたりをみまわし、「夜ふけにこれ以上オレたちがここにいるのは危険だ。続きはまた明日にしよう」それから手まねきして、みんなは円陣をくむようにあつまります。「いいかい、よく聞くんだ。これから闇に気づかれないよう、ひと芝居うつ。内容はこうだ。お嬢さんは白馬を助けようとするが農夫に見つかってしまう。農夫は家に連れこみ、おどしてネコと働く契約を結ばせる、という台本さ。剣をオレにわたしたらすぐ開演だ」
 全員こくりとうなずきます。
 菖蒲が農夫に青い剣をさしだそうとしたとき、白馬はこう言いました。
「わたくしの名はアルビレオ、王子につかえる馬です」アルビレオは頭を深くさげます。
「わたしの名はモルト、山あいの国の王につかえる伝達役のネコです」モルトは頭を深くさげます。
「わたしの名はグレエン、国王につかえる風車の監視役(かんしやく)です」グレエンは一礼しました。
 みんなの名前を聞いたら胸がふわっとあたたかくて勇気がわいてきました。わからないことや不安なことがあってもひとりでなければなんとかなるものです。もうベッドの下にいたときのようなさびしさはどこかへいってしまいました。
最後に菖蒲は自信をもって仲間たちに自己紹介します。
「わたしの名前はアヤメ。外の世界からやってきた女の子です」

九 観客のいない芝居

九 観客のいない芝居

 菖蒲の芝居(しばい)はみごとなものでした。もし観客がいたなら立ちあがって万雷(ばんらい)拍手(はくしゅ)を送ったにちがいありません。
「ごめんなさい! どうか許してください!」と、泣きわめくアヤメ。
「げっへっへ。こんなところにいましたぜ、親方」彼女を裏切る大根役者のモルト。強欲な農夫グレエンは、か弱い少女アヤメの腕をつかんで居間にひっぱっていきます。
「さあこの契約書にサインしろ。そうしなきゃ町で売り飛とばしちまうからな!」
 あまりの迫力の演技にみんなリビングテーブルで顔を合わせると、うつむいて肩をふるわせます。闇が監視しているといってもだれかに見られているようなものではなく、まるで観客がだれもいない劇場で本番さながら歌いあげ、踊りきるプリマドンナのようだったからです。ましてや今は真夜中です。こんな時間にいったいなにをやっているのでしょう。あまりにもばかばかしくてみんな笑いがこらえられなくなりそうです。
 契約書を結ぶ場面が終わって、グレエンは青い剣が置いてあった寝室のベッドで寝るようふたりに命令しました。
「オレはここにいる。いいか、逃げようなんてバカなこと考えるな。もし逃げたりなんかしたらただではすまさんぞ。おいキジ三毛、その小娘を見張ってろ!」
 菖蒲はしょんぼりしながらモルトと寝室へむかいます。ベッドに入り、毛布を肩までかけて、ふんわりしたまくらに頭をあずけると、モクレンのいい匂いがしました。グレエンは彼女がここで寝るだろうと毛布を変えていたのです。菖蒲の胸がチクリとしました。自分はフカフカの大きなベッドなのに、グレエンは居間にある固いイスの上で寝ているなんて。
「アヤメ、あいつのことなんて気にすんな。早く寝ろ、明日からはいそがしくなる」そばにいるモルトはぼそりとそう言って目をつぶります。
「うん……ありがとうモルト」
 菖蒲はまくらを抱くようして目を閉じます。すると疲れがどっと押し寄せ、すぐ深い眠りにつきました。それもそのはずです。本を食いちぎるアリや下に上がる階段のアリアドネとカメ、ゆかのない部屋でひっぱられたと思ったら、あれよという間に干しわらの王子さまのもとにやってきて、さっきまで隠れていたベッドの上で寝ているのですから。でも、ほんとうはワクワクしっぱなしで、明日が楽しみで仕方がありませんでした。
 あくる朝、やわらかな光が菖蒲の顔を照らし、眠い目をこすります。大きなあくびをしてからカーテンをひいて窓をいっぱいに開くと風がすっとふきぬけ、草のにおいを運び、黒い髪がふんわりなびきました。体を思いきりのばして、まっ青な空を深くすいこみました。
「『やっぱり夢じゃないんだ』なんてわたしぜったいに言わない。だって、夢でもそうでなくっとも、すてきなおはなしだったらいつまでも見ていたいもの」菖蒲は夢でも目覚めないようそのままほっとくのが好きだったのです。
 居間には農夫のかわりにモルトがイスに乗っていました。
「アヤメ、あいつからの伝言だ。ふろをわかしておいた。そこに服も置いてあるから着がえたら庭にこい」
 そう言ってモルトはあいさつもせず、ぶっきらぼうに外へ走りさってしまいました。
 ラベンダーの匂いがするサニタリールームは花柄のトルコタイルに装飾(そうしょく)がほどこされた洗面台、白くてなめらかなバスタブがあります。色とりどりの花がうかぶお湯に目をかがやかせ、「こんなすてきなおふろに入ったことなんてないわ」と、すぐに服をぬいで湯につかります。「まあ、これはジャスミンのかおりね!」
 ふわふわのタオルで体をふいてから服を着がえるとすっかり気分もよくなって、かろやかな足どりで庭にむかいます。
 庭のちょうどまんなかのガゼボにグレエンとモルトが待っていました。ダマスク織りのテーブルリネンがしかれた丸テーブルには、カゴに入った焼きたてのパンと野菜スープ、プレートにはオムレツにサラダ、ピンクのティーポットまでならべてあります。
 つばの大きな白いぼうしをかぶり、レースのワンピースの菖蒲が近づき、グレエンは思わず気を許して顔がゆるみましたが、これはいけないと、つっけんどんに言いました。
「服、ぴったりだったな。でもぼうしはちょっと大きかったか」
 グレエンは立ちあがり、白い木のイスをひきます。菖蒲はうれしくてお礼をするため口を動かしますが、グレエンは静かに首を横にふりました。「きょうからすぐ働いてもらう。そのためにまずは飯をしっかりと食べろ」
 みんなで美しい庭をながめながらおいしい朝食をとることができました。のんびりお茶を楽しんでから農夫と仕事にでかけます。
 広くて大きな庭の水やりから、近くの畑の土を耕し、種を植えて収穫(しゅうかく)まで、グレエンは草花や果物、野菜についてつぎからつぎへと早口で教えてくれましたし、菖蒲もわからないことはなんでもおそれず質問してみました。菖蒲はそうするのがいちばん手っ取り早いことをもっとちいさいときから知っていたからです。
 菖蒲は最初に自分が落ちてきた納屋の方をみて「ご主人さま、あちらに広がる小麦畑はなにもしないのですか?」と、たわわに実った小麦畑を指さします。
「ああ、あそこはほっといてくれ。うん、気にしなくてもいい」
「そうですか……」すぐにも収穫できる小麦畑に興味(きょうみ)をしめさないことを不思議に思いますが、つぎからつぎへとやってくる仕事でそんなことはすっかり忘れてしまいました。
 夜になると農夫は馬小屋の見回りをするよう菖蒲に命令します。農具にまぎれた青い剣をさりげなく手に持つとみんながわらわらやってきて、闇を打ちやぶるための会議の始まりです。
「むかしむかし、ひとつの大きな国がありました」アルビレオは世界の歴史を大まかに語りました。
 世界を()べるほど強大な王国のもと人の領域(りょういき)はぐんぐん広がり、高層建築物(こうそうけんちくぶつ)の乱立、張りめぐらされる通信網(つうしんもう)など(すい)を集めた技術は生活をゆたかにしました。しかし進歩は心をなおざりにして、いつしか人々の間に疑念(ぎねん)の火種をまくようになったのです。小さな疑いは山火事のようにくすぶり、やがて燃え広がりました。各々自分の権利を主張し、それぞれの正義をふりかざします。結果として都市には城壁が、家にはカギがかけられるようになりました。
「そのような時、わたしたちの祖先(そせん)はある秘密を知って、だれも知らない山あいにうつり住むようになりました」と、グレエンが言います。
「ある秘密とはなんですか?」
「国の繁栄(はんえい)にはカラクリがありました。世界を統べる王は裏であの影と手を組んでいたのです。しかし長くはつづかなかった」
「すべてはたったひとつの嘘から人々の調和が失われ、約束は紙切れのように、血を血であらう(みにく)い戦争が世界をまきこみ、やがて荒廃をもたらしました。この世界の栄枯盛衰(えいこせいすい)の歴史です」アルビレオはつづけます。「この世界で約束が力をもったのはそれからです」
 菖蒲にはわかりません。なぜ王子さまはわらになったのでしょうか。そのことを知りたいと思い、本に書かれていたことをできるかぎり正確に話しました。
「なるほど、そのようなことがあったのですね……」グレエンは少し考えて、「風車の地下に行ったときは、なんでもない倉庫に赤い指輪をかけたわら束と青い剣しかありませんでした」
「わたしが王子さまを置いてきたのは本にあるお城の王座だったはずよ」と、菖蒲は言います。
「おそらく」グレエンはあごに手をあてます。「王子がわらになったことはアヤメさま、あなたと関係があるのかもしれません」
「王子さまと一度も会ったことも話したこともないのに」と、おどろく菖蒲。
「昨日、約束の力についてすこし話しましたね。青い剣のことです。菖蒲さまが剣を手にしたことで色は変わりました。もしかすると王子はアヤメさまも交えた大きな約束をだれかとしたのではないでしょうか。それでわらになった」と、アルビレオが言います。
「なるほど。だからアヤメさまが風車の地下にいくときだけ、闇と対峙した王の間につながるってわけか」あいづちをうつモルトですが、菖蒲はうつむいてしまいました。
「でもわたし、王子さまをもどす方法なんて知らないわ」
「知らない、といえばひとつ気になることがある」グレエンはモルトにむかって言います。「ヘレムなんて名前の子ども、山あいの国にいたか?」

一〇 興廃の丘

一〇 興廃の丘

 最初の馬小屋会議からしばらくして、菖蒲はグレエンとのくらしにすっかり慣れました。朝早く、ひだつきのエプロンドレス姿でブリキじょうろを手に、つるバラのアーチをくぐって庭のアガパンサスにあいさつをします。パンジーひとつひとつに名前をつけてみたり、庭のガゼボのそばに生えるお気に入りのギンバイカの香りにつつまれながら、つんだペパーミントでハーブティーを飲むことも楽しみです。庭のお手入れを終えると食事の準備に家のおそうじ、洋服を洗濯をします。どんなにいそがしくてもほがらかな菖蒲のことがみんな大好きになりました。もちろん〝観客のいない芝居〟は好評(こうひょう)上演中(じょうえんちゅう)で、菖蒲は主人の信頼を得るものわかりのよい(めし)使いとなっていました。
 馬小屋会議は週に一度、日曜日の夜に開かれます。しかし会議は平行線のまま、王子さまをもどす方法はわかりません。答えがわからなければ闇を打ちやぶることができないので、つぎの作戦が立てられないのです。
 菖蒲は風車に近づくことはしませんでした。闇に気づかれるかもしれませんし、今はグレエンとモルトのそばが安全だと考えたからです。でもひとつわかったのは、風車が風のない日も仕事を休むことなくうなり声を上げて回るということです。大きな時計がチックタクと時をきざむように。
 昼下がり、菖蒲はいつものように畑仕事をしているとグレエンはモルトと空を流れる雲をみつめていました。凝らすその眼は農夫ではなく、まるで城塞(ようさい)で見張りをする雄々(おお)しい戦士でした。菖蒲は彼がときどきそうすることを知っていましたが、今日はずいぶんとながいものですから、グレエンのそばにトコトコ近づいて顔をあげてみます。
「ご主人さま、お天気変わりそうですか?」
「よし!」グレエンがパチンパチンと大きく手をたたき、菖蒲はびくりとします。「いつもよくはたらくアヤメへのごほうびに、日曜日はみんなでとっておきの丘へピクニックにでかけよう」
「とっておき! なんてすてきな言葉なの!」
 天気の質問のことなどすっかりわすれ、菖蒲はくるくるまわりながら口を大きく広げて笑います。菖蒲がうれしかったのは、それが〝とっておき〟だっただけではなく、小麦畑のさきになにがあるのかぜひ知りたかったからです。闇に(おそ)われるからと、菖蒲は遠くに行くことができませんでした。喜びはしゃぐ菖蒲をみて、グレエンとモルトは顔を合わせ、ほほ笑みました。
 土曜日の夜。わくわくで寝つけないまま、菖蒲の目はぱっちり開いてまっ暗な天井をいつまでもうつしていました。「でも、楽しいことは楽しみにしているときがいちばん楽しいのよ、菖蒲」
 もうひとりの菖蒲は寝てしまったのでしょうか、部屋はしんと静まり、そばでまるまっているモルトのかすかな寝息まで聞こえそうです。青白い月明かりがレースのカーテンを抜けて床に窓の形をぼんやりえがき、ときおりゆらゆらとすきま風にゆられ、光と影がワルツを踊っているようでした。菖蒲は頭を起こし、ダンスをながめながら過ぎてしまった今日について思いめぐらしていました。
 コツンコツン。誰かが窓ガラスをたたいたか、それともなにかあたったのでしょうか。菖蒲はモルトを起こさないようにそおっとベッドから離れ、そばにかけたカーディガンをはおって外の様子をのぞいてみると、夜空をくり抜くまん丸の月に照らされた庭がすやすや眠っていました。
「気のせい、だったのかしら」菖蒲がささやいたちょうどその時、ガゼボのむこうから影絵がひょっこりあらわれました。菖蒲の目はひとりの少年の姿を追いかけます。
「わたしは菖蒲。あなたはだれ?」
 ひんやりした空気にちぢこむ菖蒲は、前に立つ影をじっと見つめていました。その影は月明かりに照らされてできた少年の(かたち)ではなく、少年そのものが影だったのです。濃いむらさき色の長い髪、左右の(ひとみ)には星が一点輝く美しい顔立ちの少年は菖蒲のことなど気にせず、地面の土にえがいた丸でけんけんぱをしています。
「けーんけーん、ぱっ」菖蒲は声にだしながら影のあとにつづきます。「ねえ、これだけじゃかんたんすぎよ。わたしがもっとむずかしくしてあげる」そう言うと、落ちている棒切れで丸をいくつか描きたしました。
 少年は菖蒲の作った丸を器用にこなし、こんどは彼が丸を増やして菖蒲がけんけんをします。ひとことも話すことなく、けんけんぱをつづけていましたが、ついに菖蒲はバランスをくずし、つまずいてしまいました。
「あーあ、わたしの負け。でも楽しかったわ。おやすみなさい」
 菖蒲は少年に手をふって家に帰ろうとします。
「わたしの名はイシュ。父をずっと待っている」悲しみをまとったはかなく透明な声。
 思わずふり返りますが、そこにはもう誰もいませんでした。

 とっておきの日は青空がいっぱいの天気で風もおだやかです。花がらチュニックにカプリパンツ姿で庭の仕事をいつもより早めにすませます。大きなバスケット持って、菖蒲とグレエンとモルト、それにアルビレオもつれてピクニックに出発です。
 小麦畑のあいだに走る小径をずっといくと、背中にある風車がどんどん遠くになり、やがて消え、かわりにまっすぐのびる黄緑色のポプラが整列しながらやってきます。ポプラ並木のさきには、くるぶしくらいの深さの小川が陽の光にあたってテラテラと輝いていました。 
 グレエンが川むこうにみえる雑木林を指さしたので菖蒲は靴をぬぎ、ゆるやかに流れる小川に足をつけます。目がさめるほどひんやり冷たくて「ひゃっ」と声をあげ、いそいで対岸へわたりました。白と緑のコントラストが美しいシラカンバの林は木もれ日がモザイクのようにしめった土をてらして、夜冷えた空気をあたためるため、うっすら蒸気をあげています。
 プチプチプチ、ポキポキポキ。地面に落ちる木の実や枝を足でふみつける音は、しずかな林になんともここちのよいリズムをあたえ、菖蒲は気分がよくなって歌を歌いはじめました。

  きまま きまま ネコはいつもきまま
  きまま きまま 風はいつもきまま
  きまま きまま 空はいつもきまま
  きまま きまま 草はいつもきまま

「なんだその歌?」グレエンが首をかしげます。
「オレがつくった歌さ。気ままなものを考えて歌うんだ。なんでもいい、そうするとずっと歌えるだろ?」モルトはいかにも偉大な作曲家のように自信たっぷりです。
「庭で水やりをしていると、わたしのとなりでいっつもモルトが歌うんですもの! 耳にのこっちゃった」
「中身のない歌詞だなぁ」と、グレエンはあきれます。
「だからいいのさグレエン。かこくな労働をしているときに、なんでもない歌をうたうと気がまぎれるだろ」
「モルト、おまえは菖蒲のそばにいるだけじゃないか」
「それはちがうグレエン、オレはアヤメが逃げないように目をひからせているのさ」
「ずいぶんとのんきなもんだ。でもアヤメはもう逃げることもなさそうだし、明日からはオレのそばで仕事するかい? モルトくん」
「ご主人さま、なんていい考えなんでしょう! そうしていただければ、わたしはもうへんな歌を聞くこともなくなりますわ」菖蒲はいたずらっぽく言います。
「きまま きまま ネコはきまま……」モルトはササっとみんなの先頭に走って歌いだしました。とぼけて大きくしっぽをふるキジ三毛ネコに菖蒲は目を広げて「まあ!」と笑いグレエンやアルビレオもくすりと笑みをうかべました。
 闇が監視しているのになんでこんなに楽しそうなのだろうと思うかもしれません。でも、はじめて会ってからしばらくたちますし、きょうは休暇、ということにしましたので、すこしなごやかな芝居をうったのです。
 シラカンバの小径をぬけたさきはあたりいちめん、あおあおとした草や野花が風でサラサラあざやかになびいていました。
「ここがとっておきの場所、興廃(こうはい)の丘だ」と、グレエンが言います。
「なぜ興廃の丘なんですか? これだけ美しいところなのに」
「この丘はむかしむかし、高い城壁にかこまれた都市があったが、大きな戦争でほろびたんだ。土地そのものが汚れていて、アリ一匹いない。だから、ゆっくり自然に()えるのを待っている」
 「信じられない……こんなすてきな丘で戦争があったなんて」菖蒲はまゆを寄せ、なびく髪に手をあてます。
「……妻はここで闇に()まれた」グレエンが遠い目で、ひとりごとのように話しはじめます。「あのとき、いつものようにふたりでこの景色をながめていた。とつぜん、風車の方角から、大きな黒いヘビが獲物(えもの)に飛びかかるような勢いでやってきた。俺はリリィの手をつかみ逃げようとしたのに、彼女は俺の手をふりほどいてヘビに立ちむかっていった。リリィはきっと覚悟(かくご)していたのだろう」
 リリィ……菖蒲にはだれかすぐにわかりました。寝室のポストカード立てにあった女の人です。彼女はグレエンと夫婦だったのです。
「風車や小麦畑、そしてあの家の秘密について今晩、最後の馬小屋会議でつたえることにしよう。もう時間はない」
 さびしそうなグレエンに菖蒲は胸がぎゅうっとしめつけられ、なにもこたえられません。
「おーい、しめっぽい顔したおふたりさん。はやくランチにしよう!」遠くからふたりにむかってモルトがせかします。
 みんな集まってピクニックシートを広げ、バスケットからコップやお皿を取りだしたらランチタイムのはじまりです。さっきまでのことはなにもなかったように、グレエンは野菜のサンドイッチをほおばり「おいしい」といくつも食べました。
 菖蒲謹製(きんせい)サンドイッチはもちろん食パンから手作りです。粉やイーストをまぜあわせてぬるま湯をいれ、まとまったらバターをもみこみ生地(きじ)をこねこね。発酵(はっこう)させて生地をくるくる丸め、四角い型に入れてもう一度寝かせてから石窯で焼きます。 なんどやってもうまくふくらまず、カチカチの石っころパンも、いまではふっくらと焼きあげることができるようになりました。庭でとれたきゅうりやトマト、ふわふわスクランブルエッグをはさみます。もちろんマヨネーズソースにマスタードも忘れずに。チーズをこんがり焼いたジャガイモのグラタンはグレエンの大好物です。グレエンやモルト、アルビレオだって菖蒲の料理をいつもたくさんほめてくれるのです。失敗したときはみんなで大笑いします。菖蒲はうれしくて、なにより楽しくて、もっともっとおいしい食事を作ろうとがんばりました。
 デザートのフルーツまで楽しんで、お昼は乗馬をすることになりました。アルビレオに乗れるのは主人である王子さまだけですが、特別にゆるしてくれたのです。
 グレエンが菖蒲を持ちあげ白馬の背にまたがります。まるでソファのようにふかふかな乗り心地で、かけだすとまわりの景色がひゅっとうしろにながれ、あっという間にグレエンが遠くにいました。
「きっと、アルビレオにはみえない翼があるのね。だってふんわり浮いているみたいなんですもの」
 菖蒲がそういうとアルビレオは笑います。
「わたしの父祖は天をかけていたと聞きます。でもアヤメさま、ほかの馬にまたがってはなりませんよ。かならず痛い思いをしますから」
 シロツメクサのかんむりをグレエンの頭にのせて王さまごっこもしました。アヤメ姫はお城でのくらしにたいくつしていましたが、騎士(きし)グレエンが白馬アルビレオと一緒に姫を冒険に連れていってくれるお話です。モルトは不機嫌(ふきげん)そうにこういいました。
「ちょっとまて、なんでオレはグレエンの従者なんだよ」
 ほんとうにわすれられない一日でした。菖蒲はこんなに楽しいことやうれしいことならずっとずっとつづけばいいのに、と思ったのです。しかし、わかれはむかえる(・・・・)のではなく、やってくる(・・・・・)ものだと、夜に知ることになります。

一一 王子さまの約束

一一 王子さまの約束

 菖蒲はこの世界で二ツの夢を見ました。どちらも悲しい夢を。一ツ目は、興廃の丘へピクニックにでかけた日の夜のことでした。このような夢です。
 一本のリンゴの木がみるみるうちに枯れてゆきます。菖蒲は木が枯れないよう懸命(けんめい)に水をやりますが、どうしてもうまくいきません。リンゴの木に枯れないでとお願いしても、抱いてやっても、なでてもです。リンゴの木がもだえ苦しんでいる様子にどうしようもなく、胸はしめつけられ、ただ涙を流すことしかできません。
 ついにリンゴの木は倒れて塵となり、そこから声が聞こえてきました。
「娘よ。どんなに()うても、おまえはたった一本のリンゴの木ですら助けることはできない」
 そこで目を覚まします。視界にあるうす暗い天井をぼんやりながめ、扉のない中庭が脳裏によぎります。
「わたしのもとに来て」。王子さまから呼ばれている気がして、いなくなったモルトのことなどそっちのけでベッドからすべりおり、着がえて家を飛びだしました。
「ここはどこ?」あまりの光景に菖蒲はひるみます。すべてが闇で覆われ、昨日まで広がっていた満点の星空はどこにもありません。かわりに四方が赤黒に染まり、みにくい大蛇があたりをうねっています。さらに断末魔(だんまつま)のさけびや慟哭(どうこく)、ときの声が菖蒲の耳奥をかきまぜ、まるでおぞましい戦争の渦中(かちゅう)に立たされているようでした。
「王子さまはこんなものとひとりで……」
 土ぼこりを舞いあげ地面をゆらす軍隊の足音に火薬と鉄、じっとりした血の臭気が鼻にまとわりつき、菖蒲は吐き気をもよおして両手で口を押さえます。
 一瞬、ギロリとにらみつける強い視線。肉食動物が今にもおそいかかろうとする恐怖にとらわれ「逃げなければ!」と、気持ちはあせるも、あまりのおそろしさに足がすくみ、体がまったくいうことを聞きません。
 大蛇は菖蒲にむかって口を大きく開け、するどい牙の先端から鮮血をしたたらせ、青白い手のような舌が彼女の首をしめあげると、ずんずん迫ってきます。
 もうだめ。菖蒲は覚悟(かくご)し全身を緊張(きんちょう)させ、目をギュッと……
 その時、小麦畑のほうから青い閃光(せんこう)が一直線に大蛇の赤い(まなこ)を刺し通し、菖蒲をつつみます!
「走れ! 走れ!」身をよじる大蛇のむこうに立つひとりの戦士がそうさけぶと、ふり落とされた菖蒲は彼の持つ青く光る剣が指し示す風車目がけ、夜陰(やいん)を切って一心にひたすら、ひたすら駆けました。
 なんとか風車に入りこんで扉を思いきり強く閉め、背にして寄りかかります。ハアハア息をあげ、ひたいからぼたぼたこぼれる冷たい汗をぬぐい、悪夢から遠ざかるようによろよろ奥の階段へ近づきました。
「アヤメさま」
 おどろいて肩をびくりとさせ、声のするほうに体をひねります。
「モルト!」菖蒲は胸をなでおろし「グレエンが……グレエンが外に! どうしよう!」
 モルトはうなずいてから「これを」と、口にくわえた首かざりを彼女にわたします。
 妖美に輝くガーネットの深い赤色。菖蒲はすぐにわかりました。本にあった赤い宝石の指輪がついた金の首かざりです。
「なぜわたしにこれを?」菖蒲はいぶかしげにたずねました。
「時はつきました。闇はわたしたちの国を、いいえ、この領域(せかい)を、なによりアヤメさまを消し去ろうとしています」
「でもわたしたち、闇に気づかれないよう芝居を!」
「あれは時間かせぎほどのまやかし。すでに闇はアヤメさまの存在に気づいています。ここにいればめちゃくちゃにされるでしょう。あの闇は冷酷無比(れいこくむひ)なのです」
「そんな……」
「よくお聞きください、アヤメさま。わたしたちはあなたにすべてをたくします。おねがいします、干しわらになってしまった王子をどうか、どうかもどしてください。そうすればかならず闇を打ちやぶることができるはずです。これはグレエンからの言伝です。〝赤い指輪はきっと菖蒲さまの役に立つでしょう。ただお気をつけください。指輪に大きな力がこめられていますが、使う人の大切な思い出を忘れさせる【忘失の約束】がかけられています〟」
 菖蒲は首かざりを身につけてモルトを抱擁(ほうよう)しました。モルトの毛は逆立ち、わなわなふるえています。モルトもあの闇が怖いのです。菖蒲とわかれたあと、ぞっとするような闇のなかを進まなければならないのですから。
「ああわたしの大好きなモルト。あなたに会えてほんとうによかった。わたしは約束する。王子さまをもとの姿にもどして帰ってくる。それまでおねがい、待っていて」
 菖蒲の赤らむほおをモルトの顔に寄せ、目を閉じ、ふっとひと息を吹きかけます。するとこわばるモルトの体がゆるみ、いつものおだやかな笑みにもどりました。
「アヤメさま、あなたに感謝します。毎日が不安でした。わたしたちにはどうすることもできないことだったから。でも、アヤメさまとの生活は闇など忘れてしまうほど楽しく、きらきらと輝くような日々でした。あなたはわたしたちのきらめく星、雲の切れ間からふりそそぐ()の光です。わたしも約束します。アヤメさまが帰ってくるまで信じて待つ、と」
 モルトは菖蒲の手から離れると外の闇に走り去り、菖蒲は地下扉を開けて王の間へむかいました。
 歩きながら闇がなぜ自分を呑みこまなかったのか考えます。もしみんなが言うように王子さまがわらになったことと自分が関係しているとすれば、闇はわたしをすぐにおそえたはず。黒い大蛇が大口を開けたあのとき、青い剣の光がわたしを守ってくれた。つまり、なにもしなかった(・・・・・)のではなく、なにもできなかった(・・・・・・)
 王の間は干しわらになった王子さまを王座にもどした日からピタリと時間が止まっているようでした。菖蒲は玉座につづく石階段をのぼり、明かりに照らされる王子さまを優しく抱きます。
「わたしの名はアヤメ。あなたとあなたの友だちを助けたいの。どうか教えて。あなたがした約束を」
 王子さまの耳もとでささやくと、首かざりについた赤い宝石の指輪はかがやきだし、あたりが白い光につつまれます。燭台(しょくだい)の炎がゆらゆらゆれ、目のまえには王座にすわった黒く燃える影と、青い剣をかまえる小麦色の髪をした少年が対峙(たいじ)していました。
——————
「むかし、おまえの国は(われ)とひとつの契約(けいやく)を結んだ。それは国の安寧(あんねい)と引きかえに王の子ひとり、国から追いだすこと。しかし追放する子どもに真実を伝えてはいけない。また子どもは自発的に国をでなければならない。そのひとりが干しわらの王子、おまえなのだ」
 燃える影の言葉に王子さまは不適(ふてき)()みをうかべて言いました。
「そう、そのためわたしはここにきた。つまりおまえを打ちやぶるために。(まこと)を教えられぬとも大義(たいぎ)を成すことはできるぞ、忘れたか世界を()べる王よ」
「なんだと」
「よく聞け! わたしは今からおまえとひとつの約束をする。干しわらとなり、かわききったわたしのくちびるを、この領域(せかい)のものではないひとりの少女が心の井戸から()んだ水によってうるおすであろう。そのとき、この青き剣がおまえを打ちやぶる力を得ることとなる」
「はっはっはっは!」燃える影は身を乗りだし、さげすみ笑います。「おかしくなったか愚かな若造が。その女はどうして干しわらのおまえがヒトだと、まして王子だとわかるのだ。仮に知ったとて、おまえのためにわざわざありもしない心の井戸とやらから汲んだ水をあたえるのか」
 王子さまは顔を輝かせ、菖蒲を見て目を細めます。
「だからこそ、この約束には大きな力があるのだ。どうした、疑いに呑まれ、信じることをやめた哀れな王。わたしが果たせぬとでも?」
「なんたる侮蔑(ぶべつ)。我がなにものか知ってのことか、追放の子め!」影は黒い炎をごおごお燃やし、王子さまをいまにも食いつくさんばかりです。「よかろう! その挑発(ちょうはつ)のった。しかし約束が果たされぬとき、この領域(せかい)も、女の領域(せかい)もすべて闇で燃やしつくしてやる。さあいますぐ干しわらとなれ!」
——————
 王の間はふたたび眠りについたように暗くなり、指輪はもとの濃い赤色になっていました。
「たしかにあなたの物語にわたしが、わたしがいたわ!」
 菖蒲がおどろいていると、さきほど入ってきた部屋の扉がきしんだ音を立てて開きました。なんと、その扉のさきは下へとつづく階段にかわっていたのです!
 不自然な本の空白、図書館の窓の下にあった扉のない中庭、そして王子さまが闇と交わした【干しわらの約束】。それぞれのパズルがつながり、菖蒲は干しわらになった王子さまを背に、下へとつづく階段をおりていきます。
 こうして、干しわらになった王子さまを助けるための菖蒲の長い長い旅がはじまりました。

一二 通路の消失点

一二 通路の消失点

階段をおりたら等間隔(とうかんかく)に窓がならぶ、白い壁の通路がずっと奥までつづいていました。あまりの長さでさきは見えません。いったいどれくらいあるのだろうか、菖蒲は思います。窓の外をのぞいても広がるのはただ白でした。
 しばらく歩いていると、うしろにあった階段もどんどん遠くなってゆき、やがて見えなくなります。
 どこまでも終わらない通路の中心はひとつの点のように、その点はいつまでも大きくなることがありません。菖蒲は点をじいっと見つめて、なんだか気持ち悪くなり、思わず右に目をそむけました。すると白い壁にちいさな文字が書いてあることに気づきました。
 このようにありました。

                      『ミエルモノガサキデワナイ
                        ケレドミエナクバサキニワユケナイ』

 菖蒲はふたたび通路の焦点をむいて目をゴシゴシとこすり、目をつぶってから右目だけをゆっくり開くと左側に点があります。こんどは左目だけを開けると右側に点があるのです。それからさきにみえる通路の点を手でふさいで歩きはじめました。
 ゴチン! にぶい音があたりにひびき、菖蒲の頭で星がチカチカしてよろけます。
「いったああい。んもう!」
 じんじんするおでこを手でおさえながらさきをみれば、いつのまにか通路の消失点はなく、木の扉が立ちはだかっています。
「『前方注意』をそえてほしいわね。まったく!」
 菖蒲はブツブツもんくをいいながら、その扉をゆっくり開けて進みました。

一三 雨にぬれる教室

一三 雨にぬれる教室

 窓の外は雨でした。
 通路は学校のようにコンクリートづくりのろうかで、しめった石の匂いがします。それぞれ部屋の入りぐちの上方に数字のない番号札がかけられ、クリーム色の引き戸は適当に開いていました。
 菖蒲はろうかを歩きながら教室をのぞいてもだれもいません。今日は学校が休みなのでしょうか。
 変わったことにひとつの教室だけ制服を着た男の子や女の子の大きなビスク・ドールがそれぞれカサ広げ、整然とならぶ座席にすわっているのです。しかも天井が抜け落ちたようにまるでなく、教室全体は絶えず雨にうたれていました。
 なんて悲しい部屋なのだろうと菖蒲はますます暗くなります。雨天の学校はジメジメしていて憂鬱(ゆううつ)なのに、天井もないなんて。
「きみが転校生かね」
 グレーチェックのスリーピースに濃紫(こむらさき)色のネクタイがぴんとまっすぐ、黒いカサをさしたフクロウが肩をそびやかしながら菖蒲のまえにあらわれ、声をかけてきました。
「こんにちは。わたしは転校生ではありません、フクロウさん」
「きみ、わたしのことは先生とよびたまえ。それに、きみが転校生でなければ、なぜここにいるのかね。さてはあたらしい学校にいくのがいやでウソをついているのではあるまい」というと、菖蒲をむりに教室へつれていくのでした。するとそこは陰鬱(いんうつ)だと思った、天井のない雨にぬれた教室です。
「ところできみ、カサは持ってきたかね?」フクロウの先生がたずねます。
 菖蒲はもちろんといった顔で、「いいえ先生。だって教室にカサは必要ありませんもの」と、こたえます。
「なんて横着(おうちゃく)な生徒だ。人生にむだなことなどないのだ。社会ではつねに備えをせよ」と、あきれながら、しかたなしに黒いカサを貸しました。
「ありがとうございます」
 フクロウ先生はまったく関心なさそうに雨にぬれた教室に入るよう命令します。菖蒲はかくごして雨の教室にかさを広げて入室、びちゃびちゃのゆかですべり転ばないよう注意しながら黒板のまえに立たされました。フクロウの先生も、ポケットに入れてある黒いおりたたみカサを取りだして広げると、つづけて教だんに立ちます。
生徒諸君(せいとしょくん)。今日からこのクラスに転校してきた生徒だ」フクロウ先生はかたい声で言います。「きみ、時間はない。手短に自己紹介を」
「こんにちは。わたしはアヤメといいます。よろしくおねがいします」
 もちろん、教室内の生徒はみんなビスク・ドールなので、菖蒲にはだれも聞いていないようにみえます。
「きみの席はあの窓ぎわ、まえから三番目だ」フクロウ先生はひとつだけあいているつくえをさします。
 菖蒲は一礼すると先生に催促(さいそく)され、窓ぎわのまえから三番目の席にむかってとぼとぼ歩きました。びしょぬれになったイスに腰かけるとおしりがじっとりしめり、ぞわぞわして気分がわるくなります。
「ああ、これまでの学校生活のなかで、もっとも最低な日がたった今、更新(こうしん)されたわ」
「さて生徒諸君、()に人生はふりやまぬ雨のようである。そのために教養をもってたちむかい、また……」
 フクロウ先生のつまらない授業は延々(えんえん)、ザーザーという雨音、パチンパチンと教室のゆかやつくえやカサにうちつける雑音によってほとんど聞こえません。さらに雨が服にしみこむ不快感によって、ついにがまんの限界をこえます。
 菖蒲は学校でそんなに目立つことのないおとなしい女の子でしたし、授業を聞くのだって嫌いではありませんでしたが、このときばかりはなにかいってやらなければと、手をあげ起立して、フクロウ先生にむかって発言しました。
「先生、雨の音でなにも聞こえません。それにカサをさしていても雨にぬれてしまいます。となりの教室に移動できませんか」
 フクロウ先生は、けげんそうに菖蒲を見てこう言いました。
「アヤメくん、わたしはきみに意見をもとめたおぼえはないし、立ちあがるよう指示もしていないのだが」
「でも……」
「わたしはね、〝でも〟という、いいわけがましい逆説(ぎゃくせつ)接続詞(せつぞくし)がこの世でもっともいとわしい言葉なのだよ。わかるかね」
「で……先生の声が聞こえなければ、生徒はだれも授業(じゅぎょう)についていけません」
 フクロウ先生は生徒たちのほうをむいてたずねます。
「生徒諸君、どう思うかね?」
 とうぜんのことですが、ビスク・ドールの生徒たちはなにもいわず、まるで雨音がヒソヒソばなしをしているようですらあります。
「いかがかね、アヤメくん。生徒たちに異論(いろん)はないようだが?」
「そんなのむちゃくちゃよ。だってみんなしゃべれないのに」
「アヤメくんは、はなはだ社会のルールがわかっていないようだ」フクロウ先生はあざけるような目で菖蒲をのぞみます。「わかるかね、教室には雨がふって、みなが一様にカサを手に授業をうける。これはまぎれもない事実であるのと同様に、わたしが先生できみは生徒だ。くり返すがわたしはきみに発言するようにも、立つようにも指示はしていない。きみのほか、全生徒に異論はない。ゆえにわたしのクラスでの通念はこれなのだ。それにもかかわらず、きみはなおもわたしの授業を妨害(ぼうがい)しつづけている」
 それからフクロウ先生は忠実な生徒たちにむけて、いかにも大げさに身ぶり手ぶりをしながら熱をこめ、大声でまくしたてます。
「生徒諸君! こういう無作法(ぶさほう)(やから)が法と秩序(ちつじょ)破滅(はめつ)させるのだ。おのが善と悪を他者に強制し、かつ大通りのまんなかで示威(じい)行為(こうい)をする。さらにたきつけられた火にまきをくべるがごとく主観的批判(ひはん)をくりかえす。諸君らも十分に気をつけたまえ!」
 菖蒲はふてくされた顔で、ずぶぬれのイスにすわろうとしますが、フクロウ先生はここぞとばかりにせめます。
「アヤメくん! 今後二度とわたしの指示にそむくことがないように。わかったのなら返事だけを」
「……はい、ごめんなさい」
 フクロウ先生は満悦至極(まんえつしごく)なようすで物言わぬ生徒たちに、「ところで、わたしはこの機会に、社会のルールというものがいかに至要(しよう)たるものかをきみたちに教えたいと思う。それをつぎの時限に話すことにしよう。では休憩(きゅうけい)とする」
 フクロウ先生は揚々(ようよう)と教室からでてゆきました。
 菖蒲はなんだか自分だけが悪者にされたみたいで不機嫌なり、学校の友達に話しかけるように、となりの女の子のビスク・ドールに愚痴(ぐち)をはきます。
「ねえ、ひどいと思わない? 人の話もちゃんと聞かないでさ」
 もちろん、ビスク・ドールはビスク・ドールなのでなんにも返ってきません。しかし耳をすますと内側から、コツコツとたたく音がしていました。はじめは雨にあたる音かと思いましたが、そうではありません。たしかにビスク・ドールのなかから音が聞こえるのです。
 なにかいる。菖蒲はカサをさすビスク・ドールをゆすります。コツコツ、コツコツ。菖蒲はどこかに穴があるのかと、重たいビスク・ドールを動かしながら上から下までくまなく探りました。
 そのとき、ガシャン! つぼがわれるような大きな音が教室中ひびきます。おもわず手をすべらせて、ぬれたビスク・ドールをゆかに倒し、粉々にくだいてしまったのです。だれかの大事なお皿を落としてこわしたときのように、どうしたものか菖蒲はあせります。もっとおどろいたことに、われたビスク・ドールのなかから一羽のスズメがひょこっとでてきました。スズメは菖蒲のもとにやってきて、お礼をいいます。
「いやあ、助けてくれてありがとう。じつを言うと雨宿りのつもりで飛んできたんだけど、だれかに閉じこめられてしまってね。暗いし、遠くではブツブツおかしなさえずりが聞こえてほんとこわかったよ」
「はじめまして、わたしはアヤメよ。もしかしてほかのビスク・ドールにもスズメさんがいるのかしら」
 まさかと思い、こんどはまえの席にある男の子のビスク・ドールを押したおしてみると……やはりなかから一羽のスズメがでてきたのです。
「いやあ、助けてくれてありがとう。じつはここに雨宿りのつもりで」
 菖蒲はさきほど助けたスズメと目を合わせます。これはもしやと、うしろのビスク・ドールも、そのまたうしろも順々壊していくと、すべてのビスク・ドールにスズメが一羽ずつ閉じこめられていました。それでもう雨など気にせず、教室中のビスク・ドールをかたっぱしから破壊します。はじめはわるいことをしてちょっぴり気がとがめましたが、だんだんスカッとしてきて、これはいいわと投げたり蹴ったり踏んづけたり。だってフクロウ先生の理不尽(りふじん)な授業があんまりにも退屈でしたし、くどくどいやみったらしく怒られたのですから。
 ビスク・ドールのなかに捕まえられていた合計二十九羽のスズメたちのために菖蒲はカサを集めて教だんに置きました。
「さてと。あなたたち、これからどうするかよね」と、菖蒲。
「雨がふっているとぼくたちは飛べないんだ。どこか晴れている空はないかな」スズメたちはこたえます。
 このままだと、きっとまたフクロウ先生がビスク・ドールに閉じこめてしまうでしょう。なにかよい案はないものか、菖蒲は教だんのあたりを探ります。すると、引きだしに手のつけられていない新品の十二色チョークが入った木箱を見つけました。
「これだわ!」
 ひらめいた菖蒲は、王子さまのつけていた首かざりから指輪をはずしてじぶんの右手の中指にはめると、赤い宝石は炎のように石のなかでまっ赤に燃えて輝きます。
「きまま 、きまま 、ネコはいっつもきまま 」菖蒲は口ずさみながら嬉々と新品のチョークで黒板に緑色の草やシロツメクサに青い空、白い雲、遠くには雑木林をえがきはじめます。興廃の丘でグレエンやモルト、アルビレオとピクニックにいったときの楽しかった思い出の絵です。
 えがき終えると、スズメたちのほうにむきなおり、こういいました。
「これはわたしのたいせつな思い出の丘よ。とってもすてきな空が広がっているの。ここならきっといつも晴れているわ」
 それから絵について、いきいきとスズメたちに話します。さっきまでフクロウが先生でしたが、こんどは菖蒲が先生になる番です。
 アヤメ先生のすてきな授業が終わると、生徒のスズメたちはすっかり感心していました。
「こりゃあいい、ここなら自由に飛ぶことも、あの林に巣をつくることだってできる」
「そうだね」
「よし、ここにきめた。アヤメ先生、教えてくれてありがとう!」
 スズメたちが満足そうに話しあう様子をみて、アヤメ先生は安心しました。
「そう言ってくれてうれしいわ。ひとつ、みんなにお願いがあるの。もしこの絵のどこかで、キジ三毛のネコと白い馬と大男の農夫をみかけたら、アヤメは元気だってつたえてもらえる?」
 スズメたちはいっせいに「もちろん、約束するよ」。
 それからスズメたちは黒板の絵にむかって元気よく飛びだしていきました。手をふって、卒業を見届けた菖蒲は指輪を指からはずし、首かざりにしてもどしました。そして学校と友だちのことをすっかり忘れてしまったのです。
「アヤメくん! なんてことをしてくれたんだ!」
 教室の入り口で憤然(ふんぜん)としたフクロウ先生が立っています。顔をまっ赤にして、くちばしをわなわなふるわせる先生に菖蒲は笑顔で言いました。
「よろこんでください、フクロウ先生。生徒はみんなぶじに巣立っていきました」
「きみはわたしのことをバカにしとるのかね」
「いいえ、先生。スズメたちはビスク・ドールに雨宿りをしてから大空へ飛び立ちました。みんなすてきな生徒たちです」
「なんてことだ。きみは彼らに無責任で奔放(ほんぽう)な自由をあたえた。だから無知が人をほろぼしたのだ。もし、彼らが捕食者(ほしょくしゃ)にでもねらわれたらどうするのかね。浅慮(せんりょ)によって他者をきずつけでもしたら、どのような責任をとるつもりなのだ。きみは仮定もせずに結論を導くつもりかね!」
「いいえ、わたしは自由ではなく意志を、結果ではなく可能性を信じたのです、先生。スズメたちは青い空を飛びたいと願い、それができる翼だってついています。わたしにはないすばらしい個性です。だからそれを発揮(はっき)できる場所を教えてあげたかったの」
 フクロウの先生は吐き捨てるように、「そんなもの詭弁(きべん)だな」。
「あら、そうかしら。先生もほんとうはそうしたいのでしょ」菖蒲の言葉にフクロウ先生は動揺(どうよう)しはじめます。「番号のない教室、つかわれていない十二色のチョーク、雨にぬれた黒板の前でむりしてスーツを着て、どこかで聞いた理屈をこねこね。先生こそなぜ、なれもしないものにむかって手をのばすのかしら」
「無礼者!」フクロウの先生は我を忘れて羽を大きく広げ、ツバを飛ばしどなりつけました。「きみのような生徒はここにはいらない。退学だ。即刻(そっこく)でていきたまえ!」
「さようなら、先生」と、菖蒲は手をふって退室しました。
 こうして雨にぬれた教室は、こなごなにちらばったビスク・ドールと教だんにはカサ、うなだれたフクロウ先生だけが立ちつくしていました。
 ついにフクロウ先生は顔をあげ、雨でとけ落ちる黒板の絵をさびしそうにながめます。
「彼女はああいったが、わたしには夢を信じるほどの希望がどれほどのこっているだろうか」
 ぽつりとそういってから、フクロウ先生はスーツをバッとぬぎ、引きよせられるように黒板にむかって飛びだしました。
 菖蒲のかいた絵は雨水とともに流れさり、消えてなくなります。
 やがて、ふりつづいた雨もやみ、教室ではビスク・ドールのかけらが陽にあたってキラキラと、水たまりに青空をうつしだしていました。

一四 そうぞうしい法廷

一四 そうぞうしい法廷

「セイシュクに! セイシュクに!」
 裁判(さいばん)官は、そうぞうしい法廷(ほうてい)内を静めようと声をあげます。しかしなかなか話し声はやみません。砂場をほりぬいてかためたような法廷では裁判がおこなわれているのです。そのうしろで働きアリたちはせわしなく、きょうも女王アリのために食糧(しょくりょう)や部屋をととのえていました。
 ここはアリの巣のなかです。
 菖蒲は傍聴(ぼうちょう)席にすわって裁判のゆくえをながめていますが、なにがあったのかわかりません。そもそも、だれがだれなのかすらわからないのです。ひとつわかるのは、この法廷内にいるのはみんなアリであるということだけでした。
 原告らしい集団のなかにいる一匹のアリが裁判長にむかって訴えかけます。
「わたしはジョオウのためにずっとハタラキつづけてきたし、これからもそうするつもりだったんだ。それをショクムホウキのヒトコトでカタヅケられてたまるものか!」
 そのうったえに、ほかの原告アリたちもいっせいに「そうだそうだ!」と、同調します。
「わたしたちのジョウキョウもまるでリカイせず、いきなりカイコはフトウではないかといっているのだ」
「そうだそうだ!」
 すると被告アリが冷静に言いました。
「ではなぜ、まずデンタツアリにつたえなかったのだ。タイレツをみださず、シレイアリのメイレイをまってからコウドウするのがルールのはずではないのか。それをおまえたちハタラキアリはカッテにレツをみだし、ホカのハタラキアリのイノチをキケンにさらした。セキニンはヒジョウにおもいとみなされてもなんらフシギではない」
 ここで働きアリがわの弁護(べんご)アリが異議(いぎ)をとなえはじめました。「あきらかにコウセンテキなテキにレツをみださずまつというのは、われわれにジメツしろといっているようなものだ。このさいはっきりいわせてもらうが、われわれハタラキアリと、キミたちシレイアリとのタイグウがあまりにちがうということだ。われわれはイノチをかけてゼンセンでシゴトをしているのに、キミたちブルジョアリーといったら、やれメイレイだとかルールばかりしいている」
「そうだそうだ!」
「シッケイな」被告(ひこく)アリはふんっと鼻息をあらくして、ふんぞりかえり、「われわれもジョオウのためにこのミをササげている」。
「しかし、リスクとイノチのおもさがじつにケイイではないか。きみたちはジョオウのおきにいりだからとコザかいているのではないか」
「そうだそうだ!」
 働きアリがわの弁護アリのようしゃない反論に被告アリはさきほどの冷静さをうしない、身をのりだして原告アリ席にむかって、「なんと、ワレワレをブジョクするのか!」
 すると、働きアリがわの弁護アリもあらっぽい口調で被告アリに対して言います。
「ぶじょくといったらキミたちのほうだろう!」
「いいやキミたちだ!」
 このような調子で、法廷内は原告アリや弁護アリ、被告アリのいいあいは、いちだんとさわがしくなります。
「セイシュクに! セイシュクに! ここはホウテイですぞ。ヒンイをかくことのなきように!」
 裁判官らしきアリが木づちをトントンとたたき、けんめいに静聴をうながすものの、いっこうにさわぎはおさまりません。
 菖蒲はそばで傍聴しているアリに、なぜこんなにさわがしいのかをたずねます。するとアリはこう言います。
「クビになったハタラキアリが、シュウダンでソショウをおこしたんですよ」
「なぜ仕事をやめさせられたんですか?」
「ヒエアリキーってやつですよ。ジョオウにメイレイされたことをスイコウしなかったことがゲンインのようで」
「女王の命令、ですか?」
「ええ。こちらのコロニーのジョオウがあたらしいネドコとして、ホンというものをショモウされたのです。なんでも、それでネるとチエがエられるとか。それでハタラキアリはホンをとりにいったようですが、ほえたけるおそろしいキョダイカイブツにおそわれ、イノチからがら、にげてきたらしいのです」
 菖蒲にはなんだか身におぼえのある話です。まさかあの図書館のときのことでしょうか。
「それでジョオウはオカンムリ。ハタラキアリゼンインカイコし、べつのアリをやとうとサワギはじめたのです。われわれアリはコロニーでショクをうしなうと、ベツのコロニーでサイシュウショクするのはムズカシイのです。それに、ジョオウにジキソすることはできないので、こうしてサイバンショにウッタエテいる、というシダイです」
 傍聴アリの言葉に、菖蒲はいまひとつ納得(なっとく)いきません。
「そんなのおかしいわ。ちょっと命令がうまくいかなかったからって、なにもコロニーをおいだすまでしなくても」
「いえいえ、ここのコロニーはまだドウリのあるほうですよ。ほかのコロニーはこうしてソショウをおこせるサイバンショがあることがめずらしいですし、ジョオウのメイレイがスイコウできなければモンドウムヨウでシケイなんてジダイおくれもハナハダしいコロニーもまだケッコウありますから」
「そ、そうなんですか!」
 菖蒲は目を大きく、おどろいてしまいました。アリの世界がそんなにきびしいものだと思っていなかったからです。それにしても、ニンゲンのセカイとおなじで、アリのシャカイもなかなかやっかいなもののようですね。
 傍聴アリは説明をつづけました。
「ここもムカシはそうしたコロニーだったのですが、プロレタアリによってヘンカしたんですよ。ジダイのながれとでもいうのでしょうか。それにサイキンはジョウホウカのナミがきて、キュウタイイゼンとしたタンジュンなシュジュウカンケイはふるくさいとかんがえる、わかいアリもすくなくないようです」
 となりの傍聴アリの得意げな説明はいまいちよくわかりませんでしたが、目のまえでおきている裁判は、おそらく菖蒲自身にも関係があると責任を感じましたので、なんとかしようと考えます。それでまず傍聴席を立って裁判官アリにむかって言いました。
「あの〜みなさん、お話しのところすみません」
 いくら声をかけても、みなじぶんたちの発言に夢中で、菖蒲のことなど見てすらいません。
「みなさん! いいですか!」
 ありったけの声が法廷内でビリビリとひびき、しーんと静まると、アリたちの視線はいっせいに菖蒲にむきます。
「たぶんこの裁判、わたしも関係していると思うんですけど」
 一匹の原告アリが菖蒲をじいっとみて思いだしたように興奮(こうふん)し、彼女に触覚(しょっかく)をむけてこう言いました。
「あぁぁっ! このカイブツです、サイバンチョウ! ワレワレのシゴトをボウガイしたハンニンは」
「ハンニンみずからやってくるとは、なんてふてぶてしいカイブツだ!」
 菖蒲は犯人だときめつけられ、すこしムッとして「ずいぶん失礼な物言いね。だいたいわたしからするとあなたの女王さまのほうが悪いのよ」
 女王を侮辱(ぶじょく)されたとおこったアリの裁判官は強い口調で菖蒲に命じます。
「ワレワレのジョオウをワルモノあつかいするとはブジョクザイにトわれますぞ! ではよろしい、ショウゲンダイにたつように!」
 菖蒲は裁判所の中央にすたすた歩き、みんなのまえで立って証言をはじめます。
「わたしはあなたたちにではなくて、あなたたちの女王にいいたいことがあるの。わたしが借りようとした本を寝床にするため破ってバラバラにしていいわけないでしょ。本は読むためにあるものなのよ。わかるかしら?」
 アリたちはただ冷ややかな視線を菖蒲に返し、あれだけさわがしかった法廷内にしばらく気まずい沈黙(ちんもく)がおとずれました。
「なによ、なんで黙ってるわけ?」
 裁判官アリは二、三回せきばらいをしてから、「キミ。いいたいことはそれだけかね?」
「そうよ。だから、そもそも女王の命令がよくないってことよ」
「ハンケツ!」裁判官アリはトントンと木づちを強く打ちならします。「ハタラキアリはゼンイン、カイコとする!」
「ちょっ、ちょっとまって。だから言ったでしょ、そもそも働きアリさんたちへの命令がまちがっているの。なんでそんな判決になるのよ!」
 裁判官アリはあきれたようにこたえます。
「キミのショウゲンはね、ゲンコクアリがジョオウのメイレイにそむいたケッテイテキなショウコになったのだよ。そもそもこのサイバンはメイレイがまちがっているのではなく、メイレイにそむいたことでキソされたのだ。カリに、もしキミのくだらないシュチョウがとおるならコンゴ、ジョオウのメイレイにホカのアリがそむくリユウができてしまう。そうなったらコロニーのキリツはどうなるか。キミはコロニーのルールをめちゃくちゃにしたセキニンをとることができるとでも?」
「そんな……わたしは……」
「キミがどんなカンガエをもっているのかはシらんし、キミのクニではそれがユルされるのだろう。しかしこれイジョウ、ここでミガッテなドクジのセイギをシュチョウすることがコロニーにスむアリたちのキリツをどれだけミダすことになるのか、カンガえたことはあるかね? フブンリツとして、コロニーでショクをうしなうことはイきるイミをうしなうこととドウギなのだ。ショウジキなところ、ジダイのチョウリュウだとか、ワシにはカイモクケントウがつかんし、キョウミもないが、チマタでさわぐジショウ・チシキアリのメンドウなシュギシュチョウのおかげで、ワレワレのコロニーもフンキュウしてつかれているのだよ。ワシだってこんなチャバンにまきこまれるくらいなら、コロニーのカクダイにセイをだしていたほうがどんなにケンゼンだろうか」
 菖蒲はなにもいえなくなってしまいました。ほんとうは女王に伝えたかったことですが、目のまえにいるアリたちは、もう生きる目的を失い、ぬけがらのような表情で、なんともいたたまれなくなったのです。一匹のアリは力なく深いため息をついて、「だったら、キョッケイのほうがまだよかったのに」などという始末です。
 裁判アリはやっと終われるといわんばかりに大きな声でこう言いました。
「ヘイテイ!」
 だれもいない裁判所には職をうしなったアリたちと菖蒲が残っていました。重くるしい雰囲気(ふんいき)のなか、菖蒲はやっと口を開きます。
「ごめんなさい。わたしのせいであなたたちの仕事がなくなってしまった」
「キミがあやまってもしかたないさ。そもそもジョオウのメイレイをムシしたのはワレワレのセキニンだ。どのみちトウボウしたとき、ワレワレにはこうなるケッカがともなっていただけのこと」
「これからどうするつもりなの?」
 法廷からとぼとぼ立ちさろうとするアリたちに菖蒲がたずねますが、彼らはため息まじりに「キミがそのことをキいてどうする? ムショクアリがどれほどミジメかクチにしろ、とでも?」
 菖蒲はアリたちになにかしてあげられないかすこし考えてみると、すばらしい方法を思いつき、アリたちの丸まった背中にこうこたえました。
「じゃあ今からわたしがあなたたちの女王になるわ。ダメかしら?」
 たがいをみあわせる働きアリたちは、菖蒲をバカにしたように大笑いします。
「キミがかね? コロニーもないくせに、なにをいっているんだ! それに、キミがジョオウとなってワレワレになにをしろと? キヤスメのジョウダンにしては、ずいぶんワレワレをバカにしているな」
「あるわよ。というよりもこれからつくるの。あなたたちがね」
「はっはっは! われわれが? どこにつくるんだ?」
 菖蒲は自信たっぷりにこたえます。
「わたしの知っている丘に広大な土地があるんだけど、そこはアリ一匹住んでいないくらい汚れているの。だからあなたたちがそこにゆき、自由にコロニーをつくってきれいにする仕事よ。もしその仕事が成功したら、そのコロニーはすべてあなたたちのもの。なんたってほかのアリはだれも住んでいないんですもの」
「そんなツゴウのいいバショ、あるのだろうか」と、アリたちは疑います。
「約束するわ。でもわたしはまえの女王とちがって、なにかを命令したり要求はしない女王よ。あたなたちが考えて仕事をしなければならないから、やりがいはあるけど、ここより大変かもしれない。でもあなたたちがそうしたいなら、いますぐその場所を紹介してあげる。どうかしら?」
 働きアリたちはわらわらあつまって、話し合います。
 しばらくして一匹の働きアリが代表で、「ワレワレはまだまだハタラキたいというイヨクがあります。つきまして、イマからあなたをワレワレのジョオウとミトメます」
 そういうとアリたちは菖蒲のまえに整列して頭をさげます。
 菖蒲はほっとしてうなずき、「よかった。交渉成立(こうしょうせいりつ)ね」。
 新しいアヤメ女王はさっそく金の首かざりにある指輪をはずして右手の人差し指にいれます。赤い宝石は炎のように石のなかでまっ赤に燃えてかがやきはじめ、人差し指を地面の土にブスリとつきいれると、なんと深い穴となったのです。アヤメ女王はアリたちに言いました。
「この穴は、とても美しい丘につながっているわ。でもお願いがあるの。あなたたちのように仕事を失ったアリたちをみかけたなら、優しくむかえ入れて、いっしょに仲よくみんなで仕事をしてほしい。けっして争わず、だれかに命令したり要求してもだめよ。それと、もしむこうの世界でキジ三毛のネコと白馬と大男の農夫をみかけたら、アヤメは元気だって伝えてもらえるかしら」
 働きアリたちはこう言います。
「ワレワレのあたらしいジョオウ。あなたのコトバ、たしかにタマワリました。ワレワレのようなものたちをカゾクとしてウケイレ、ミナでナカよくシゴトをタッセイし、けっしてアラソッタリ、メイレイせずヨウキュウもしません。それからジョオウのアイサツをつたえます。かならずヤクソクをオマモリします」
 そうしてアリたちはきれいに一列になり、とっとこ穴に入っていきました。菖蒲は彼ら全員を見送ってから人差し指でその穴を閉じました。指輪を指からはずし、首かざりにしてもどすと、育った街のことをすっかり忘れたのです。
 菖蒲は満足しながら裁判所からでていくと、だれもいなくなった法廷のうしろでは今日もせわしなく、アリたちが女王のためにせっせと働いていました。

一五 通路の消失点Ⅱ

一五 通路の消失点Ⅱ

 階段をおりたら等間隔(とうかんかく)に窓がならぶ、白い壁の通路がずっと奥までつづいていました。あまりの長さでさきは見えません。でも菖蒲にはおぼえのある光景です。
 しばらく歩いていると、うしろにあった階段も遠くなってゆき、やがて見えなくなります。
 どこまでも終わらない通路の中心はひとつの点のように、その点はいつまでも大きくなることがありません。菖蒲はもしやと思い右をむくと、やはり白い壁にちいさな文字が書いてあるのです。
 このようにありました。

                      『ミエルモノガサキデワナイ
                        ケレドミエナクバサキニワユケナイ
                         ゼンポウチュウイ』

 そんなことわかってるわよと鼻先で笑い、通路の消失点を手でふさいで前方の扉に注意しながら歩きはじめました。
 すると固いなにかにつまずき、思いきり地面にたおれます。
「いったぁい。んもう!」
 いつのまにか通路の消失点はなく、こんどはゆかに扉がありました。どうやらその扉の把手につまずいたようです。
「つぎは『足元注意』もそえてください!」
 だれもいない通路で大きな声をあげて訴え、扉を引き開けて下をのぞきます。
 鉄のはしごが下へ下へ、どこまでつづいているのかわかりません。
 菖蒲ははしごに手をかけ、ふみはずして落っこちないよう、ゆっくりおりました。

一六 待合所ときどき夏休み

一六 待合所ときどき夏休み

 はしごをおりたら、そこは海でした。
 しめった生ぬるい潮風が菖蒲の髪をなでます。くすんだ灰色のコンクリートに足をつけ、ぐるり見回すと、まるで海にポツンとうかぶ、ひなびた駅のようです。ところどころさびた駅名標にベンチ、木製の照明柱から電線が赤瓦屋根の待合所にだらりとのびていました。
 ここはどこなのだろう、菖蒲は駅名標のまえに立ちます。

『行きさき・気のむくまま
  時刻・ついたら』

「なんていいかげんな駅なのかしら」と、首をかしげながら木造の建物へむかいます。
 入りぐちでゆれる藍色の麻のれんをくぐり、ひき戸をカラカラ引いて入りました。
 なかは駅の待合所というより、ちいさな町にある食堂といった雰囲気で、カウンター席が三つと窓ぎわにテーブル席ひとつ、席奥の台所では深い寸胴なべからふつふつと湯気がのぼっています。
「いらっしゃい」
 白い割烹着に三角巾をつけた年配の女性は、カウンターごしの台所からひょっこり顔をだして菖蒲をまじまじと見つめました。
「へえ、女の子かい。めずらしいね。さあさ、そこの席にすわってくださいな」
 菖蒲はおばあさんに言われるままカウンター前のイスに腰かけます。
「はじめまして。アヤメといいます。あの、ここはどこですか?」
 おばあさんは手ぬぐいをひょいと渡してからこたえました。
「ここかい? まあみてのとおり海の駅で、いちおう待合所ってところかね。食堂みたいだけどさ」
「まあ!」菖蒲はおどろきます。「ではもしかして電車がこの駅にとまるのですか?」
 おばあさんはすこし考えてから「電車、というかバスというか船というか生き物というか、まあきてみればわかるだろうけどさ」
「はあ」
「そんなことよりさ、おなか、すいてないかい?」
 そう言われてみれば、グレエンの家を離れてからなにも食べていませんし、いろいろな出来事があったので、食事など意識にのぼることすらありませんでした。菖蒲のおなかはおばあさんの問いかけに応じるように、ぐうっと大きく鳴ります。
「おなか……ペコペコみたいです」
 恥ずかしそうに顔を赤らめる菖蒲に、おばあさんはニコニコして、「じゃあ食事つくろうね。でも、うちはすば(・・)しかないよ!」
「ありがとうございます。でもわたし、お金もっていないんです。だから……」
 おばあさんはポカンとした顔でながめ、「おかね? おかねってなんだい、おしんこか?」
「いいえ、ものを買ったり売ったり、交換するためにつかうものです。知りませんか?」
「はぇー」おばあさんはいよいよ目を丸くし、ゆーっくり首をかしげます。「アヤメちゃんのいるとこではそんなめんどくせぇもんがあるわけだ。まあいいや、そのおかねってもんいらんから、すば食べてきな」
 おばあさんはちぢれた麺をばんじゅうから取りだし、てぼざる(・・・・)に入れてから、ぶくぶくふっとうした寸胴なべに放りこみ、トントンまな板のうえで小ネギを切りはじめます。
 菖蒲は手際よく料理するあばあさんの顔をながめながらこう言いました。
「おばさまはずっとここで食堂をされているのですか?」
「おばぁでいいよ。そうさ、ずっとここでやってる。ときどき、アヤメちゃんみたいな客がふらっとやってくるんだ。あとほとんどはイルカやカモメとかさ」
 菖蒲はクスッと笑います。
「アヤメちゃんはどうしてここにきたんだい?」
「わたし、探しものがあるんです。それをいそいで届けなければいけないのですが、まだみつかりません」
 おばぁは気にするわけでもなく、「そうかい、見つかるといいね。まあ、探しもんはだいたい、ふとしたときに見つかるもんさ」と、こたえました。
「はい。できたよ」
 おばぁは厚みのあるどんぶりを菖蒲の前に置きます。湯気たつどんぶりのなかは透明なあたたかいスープにちぢれた平うちの麺と白いふわふわしたもの、小ネギがぱらりとのせてありました。
「とってもいいにおい! こんぶですね」
「そのとおり! アヤメちゃんよく知ってるねえ。白いふわふわしたのはゆし豆腐さ、だからこれはゆし豆腐すばね。おこのみでそこにあるコーレーグス、すこしかけるといいよ。それと、あついからゆっくり食べて」
「はい。いただきます」
 木箱を開けて箸を手にしてから、まずはスープをひとくち。こんぶダシの優しい風味が舌に、それからほんのり塩味のゆし豆腐がふんわり口いっぱいに広がります。麺をふうふうしながらすすりはじめると箸はもうとまらなくなり、スープがなくなるまで、もくもくと食べつづけました。
「ごちそうさまでした」菖蒲はふぅ、と一息ついて箸をおき、満足そうに顔をあげます。「とってもおいしかったです。おなかいっぱいでポカポカ」
「よかったねぇ、いまさんぴん茶もだすから」
 菖蒲はどんぶりと箸を持って台所で洗います。おばぁは「はい」と、こぶしくらいのサーターアンダーギーをわたしてからこう言いました。
「そっちのテーブル席がとっておきだよ。景色ばつぐんだからね」
〝とっておき〟の席で食べる揚げたてあちこーこーかりふわサーターアンダーギーのあまりのおいしさに思わず、山盛りくださいと言いたくなりましたが、菖蒲は「甘くてステキ」という言葉だけお上品に、さりげなくそえました。
 窓ぎわの花瓶にはかわいらしいテッポウユリに、空は青と白い雲のくっきりとしたコントラスト、波はおだやかでコバルトブルーのグラデーションがどこまでも広がっていました。
「外でながめると景色で、窓からのぞくと絵画みたい」
「へぇ、アヤメちゃん詩人だねぇ。そんなふうに考えたことなかったよ」
 むかいにすわるおばぁがそう言いました。
 菖蒲はすこし照れながらしゅわしゅわ気泡ガラスコップを手に、さんぴん茶を口にします。ジャスミンのかおりにすっかり落ちついてしまい、ふたりはほおづえをつきながら絵画をのんびり鑑賞しました。
 なんとなく、ここにいて飽きてしまうことはないのか、おばぁに聞いてみたくなって、菖蒲はすこし顔をゆらします。
 ヘーゼル色の目はキラキラとかがやいて、目尻が折り重なり、くちびるのそばに豊かな山をえがくほうれい線はおばぁの顔をいっそう美しくかざります。わたしをお店に招き入れたように、やってくる日々がはじめての客人で、いつまでも待つことを楽しめる端正な横顔。
 こちらを見ている菖蒲に気づいていたのか、自由をながめたまま、おばぁが口を開きました。
「空とね、海の色はおなじ青なのに、なんでまざらないのか考えるのさ、いつも」
 なにもこたえられません。でもそれでいいと思いました。こたえをもとめていない質問だからです。
 ときおり海風が窓にカタカタと、陽は波をなでテラテラと。青からあかね、オレンジに染まり、やがて今日と共に去りゆく空は、おばぁのいうとおり、いつまでも、いつまでも海の青とまじることはありませんでした。
 まったくふしぎな駅の待合所です。結局、なにかが到着することなく、出発したわけでもありません。でも、なぜだか安心できる場所。時間がこんなにゆったりと静かで、なにも求めてはいないことを思い返せるお店というのでしょうか。
「ねえアヤメちゃん。うちにとまってくかい?」おばぁはポツリと言います。
「……うん」
「じゃあ、外にかけてあるのれん、おろしてもらおうかな」
「うん」
 菖蒲はすっかり気が抜けて、夏休み、田舎のおばあちゃん家へひとりで遊びにきているような返事をしました。

一七 おつかい

一七 おつかい

 つぎの朝、空にのびる鉄のはしごはこつぜんと消えていました。
「まあいっか」菖蒲はあっけらかんとして菖蒲に言います。「ここは駅だし、そのうちなにかやってくるはずよ」
 あのあと、こじんまりした寝室でおばぁとたくさんおしゃべりしました。自分のことや干しわらの王子さまのこと、いままでにみてきたことや感じたことすべて。おばぁの耳は秘密の小箱につながっているみたいで、つぎからつぎへと飛びだす菖蒲の言葉をひとつひとつ胸にしまい、あいづちを返しました。おばぁがうなずくたびに菖蒲はすっきりと軽くなって、布団にもぐったら風船のようにプカプカ浮いてしまうのではないかと心配したほどです。
 おばぁに呼ばれていっしょに豆腐づくりもしました。一晩水につけておいた大豆をすりつぶして呉汁(ごじる)にしてから、布でしぼってできた豆乳を中火で泡をとりながら煮ます。火をとめて、ニガリと塩をまぜた水をいれ、木しゃもじでさっと切るようにまぜてから、しばらく待つとかたまってきます。それをまんなかに優しくよせていくと完成です。朝ごはんはきのうのお昼と夜とおなじ 〝ゆし豆腐すば〟でした。でも菖蒲がつくったせいなのか、きのうとは味がすこしちがうような気がします。
「おんなじ料理でもおんなじ味にはならないのさ」おばぁは菖蒲のつくったゆし豆腐を味見します。「いいかいアヤメちゃん。どんなもんでも〝おなじ〟だから〝おなじ〟だと、かんちがいしてはいけないよ」
 菖蒲はプラットホームギリギリをはだしで歩き、(はし)までついて足をチャプンと海にいれます。おばぁの水中メガネを頭にかけて海中をのぞくと、色とりどりの魚がたくさん泳いでいるのがわかります。菖蒲はうれしくなって魚たちに手をふってみます。菖蒲に気づいたいたずら好きのちいさな魚たちは、たがいを見合わせうなずくと、菖蒲の足をいっせいにつつきはじめ、あまりにもくすぐったくて、おもわず足を水からひっこめました。
 菖蒲は大急ぎで服をぬぎすて、魚たちをおいかけるため海にもぐります。学校のプールで泳ぐのは得意でしたが、もちろん魚たちのほうがずっと速いので、まるでおいつけません。魚たちが近づいてはくすぐって菖蒲の口からゴボゴボ水泡が逃げていきました。
 しばらく泳いでいると、みごとなサンゴ礁の街並みが広がっています。ショッピングを楽しむコバルトスズメ、ホテルで優雅(ゆうが)に寝ているカサゴやフラダンス中のチンアナゴ。遠くにはひらひらマンタの影だってあります。菖蒲は時間を忘れ、水族館をひとりじめしていました。
「アヤメちゃーん!」
 遠くでおばぁの声が聞こえましたので、じゃぶじゃぶ泳いで駅までもどります。
「アヤメちゃん、ちょうどいいや。泳いでるところわるいんだけど近くの島にいるおじぃのとこまで、豆腐もってってくれるかい」
「あばぁ、わたし豆腐をもって島まで泳いではいけないよ」
「だいじょうぶ、イルカのバンちゃんがつれてってくれるからさー」
 すると、ハンドウイルカがすいすいと近づいてきました。
「こんにちは、はじめまして。わたしはアヤメよ」
「やあ、はじめまして、アヤメちゃん。ぼくはバンドウ。ぼくの背びれをつかめば、島まであっというまさ」
 そう言ってイルカのバンドウはすばやくしなやかにクルンとまわりました。
「ゆし豆腐はこの大きなふろしきにつつんであるから。それと、島にいったら布づつみを広げてパレウにするといいよ」
 菖蒲は頭にふろしきをくくりつけ、バンドウの背びれをしっかりつかむと、マリンジェットのようにしぶきをあげながらぐんぐん海をきって進んでいきます。バンドウのいうとおり、すぐに島がみえてきました。
 バンドウはスピードをゆるめて、「あそこの島におじぃがいるんだ。ぼくはこのあたりで待っているから、帰るとき、またきてね」。
「ありがとうバンドウさん」
 菖蒲はバンドウの背びれから手を離すとすぐ、やわらかい砂に足がつきましたのでザブザブ浅瀬を歩いて島に近づきました。
 島の周囲はサラサラの白い砂浜にヤシの木が、おいしげった森と切りたった岩山が遠くにのぞめます。おばぁからわたされた大きな花がらの布ふろしきを広げ、両端を胸もとでむすび、うまい具合にワンピースに着がえてから森のほうへ足をまえにだしますが、ピタリと立ち止まってしまいました。
「どうしよう、おじいさまのお(うち)がどこか、おばぁに聞いていなかったわ」
 考えあぐねていると森のなかからしば犬がバサっとでてきてあたりをきょろきょろ、砂浜で立ちつくす菖蒲をみつけ、しっぽをふりふりやってきます。
「こんにちは、きみがアヤメちゃんだね。おばぁから聞いているよ。ボクの名前はシバ。さっそくだけど、先生の家まで案内するからついてきて」
 シバはそういってからささっと歩きだしました。
「わかった」菖蒲はシバを見失わないよう、早足でついてゆきます。
「ねえ、教えてシバ。わたしの名前をどうして知っているの?」
 シバにそう聞くと、「ああそれはね、さっきカモメがおばぁのところからきて教えてくれたんだ。砂浜にアヤメちゃんという女の子がくるってね」
「まあ、おもしろい!」カモメと会話しているところを想像して菖蒲はクスッと笑います。「それにしても、おじいさまはなんでこの島の森でくらしているのかしら」
「先生はむかし、冒険家だったんだよ。世界各地を探検していたんだけど、いよいよだれもいけない前人未到の地にでかけるようになったんだ。でもあるとき、おばぁのゆし豆腐すばを食べたらこの島で腰をすえることにきめたんだって。ボクは先生のアシスタントだけど、この島に住むといわれたときはびっくりしたよ。まあ先生は自由な人だからなれっこさ。ボクもここを気に入っているしね。もちろんおばぁも大好きだよ」
「おばぁのゆし豆腐すばの力はすごいのね」
 シダ植物の森をぬけてから原野にでると、ちいさな石づくりの家が一軒みえます。シバはためらわずさっと入ってゆきますが、菖蒲はまるでロビンソンクルーソーの世界にまよいこんだような気分になって、ちょっぴりドキドキしながら「おじゃまします」と、半開きになった扉を引いて家に入ります。
 板ばりの部屋はふりこ時計のチクタクチクタク、それにスパイシーな異国のかおりで満たされていました。ぎっしりつまれた本やみたこともないようなブロンズ像、こっとう品や絵画、世界地図とコンパスなどが雑におかれ、まるで博物館のようです。
「先生! 先生! アヤメちゃんをつれてきましたよ」シバは机にむかう男性のそばによりました。
「ありがとう。助かったよシバ」
 男性はそういってシバの頭をなでてからゆっくりと顔をあげ、こちらをむいて立ちあがりました。白いえりつき半そでシャツと深藍の半ズボン姿で、白髪にたくわえた豊かな口ひげは重ねた経験をうかがわせます。
「はじめまして、アヤメといいます。おばぁのお豆腐、持ってきました」あいさつをしてから、ゆし豆腐の入ったホーローの四角い器をわたしました。
 おじいさんはそれを受けとると菖蒲に右手をさしだし、あく手します。
「ありがとう、よくきたね。そうかい、きみがおばぁのとこにおるアヤメちゃんか。ほうほう、おばぁのいうとおりとてもかわいい娘だ」
「おじいさまは……」
「おじぃでいいよ。アヤメちゃん」
「おじぃはここでどのようなことをなさっているのですか?」
「ふむ、まあわしもよくわからんな。いろいろみたもんを書きのこしてる感じかの。それとも、わしのことをロビンソンクルーソーかなにかと期待していたのかね?」おじぃが目くばせすると、菖蒲の顔はハイビスカスの色に染まり「すこしだけ」と、うなずきました。
 おじぃは口を大きく開けて笑い、「わしはレミュエル・ガリヴァーの冒険のほうがファンタジックで好みじゃけどな」
「どちらも奇人ですわ」
「そんな奇人のところにおとずれるアヤメちゃんはもっと、かの?」
 ふたりとも肩をふるわせ、大笑いします。
 おじぃは菖蒲のことをすっかり気にいって「まあまあ、すわんなさい。いま茶をだすから」と、上機嫌で居間にあるアンティークの赤と金色のソファに案内します。
「とてもごうかなソファですね」
「こんなみすぼらしい家には合わないだろう? むかし、ある大きな国へ旅したとき王さまと仲よくなっての。いらんからくれると無理やり押しつけられたいわく付きの品よ。もちろん、わしだっていらんかったが、もしそんなこといったらなぁ……」
 おじぃは手で首を切る仕草をします。
「冒険で生きて帰る秘訣はなんといっても、カメレオンみたいにうまぁくとけこむ適応能力ってやつか」
 ローテーブルにおいてある動物らしいかわったおきものをながめていると、おじぃは花柄にうわ(・・)絵つけされた白磁のティーセットと、ナッツやドライフルーツがたくさんもられた皿をシルバーのアンティークトレイにのせてやってきました。
 カップにそそがれた紅茶の華やかなにおいが鼻をくすぐり、菖蒲の目は自然と輝きます。
「とってもいいかおり。フレーバーティーですね。なにが入っているのかしら」
「ふむ。わしはコーヒー派なんだがな、たまにくるおばぁが飲めんもんで特別に用意してあるんだよ。しかしほかに客なんてこんからほとんどへらんな。さあさ、飲んでみてごらん」
 菖蒲はふふっと笑い、「いただきます」。
 ペカンナッツとマカダミアにカシューやアーモンド、パイナップル、ブルーベリー、イチジク……すてきなおやつも残さずつまみながら、おじぃとしばらく旅の話に花を咲かせました。
「ところでなアヤメちゃん」おじぃはコーヒーカップを置きます。「扉のない中庭について、だが」
「なんでそのことを?」菖蒲はたいそうおどろきます。
 おじぃは軽くせき払いをして、「ふむ、おばぁから聞いた」。
「……もしかしてカモメさん」
「そう。で、わしは若いころ中庭に行ったことがある」
「ほ、ほんとうですか!」
 菖蒲はいよいよ目を大きく開き、身をまえにのりだします。扉のない中庭を知っているだけではなく、行ったことあるとは。でも、どのようにして?
 おじぃは菖蒲のはやる気持ちをくみながらも、まあまあとゆっくり思いだすように話しはじめました。
「中庭に行ったというと語弊(ごへい)があるか……正確に表現すれば中庭に近づいた、といえばいいのかな」
「どういうことですか?」
「ふむ、わしのようにあの中庭の近くまではいけないこともないが、中庭に入ることはできない。そもそも出入りするための扉がないから〝入る〟という表現が正しいのかもわからん」
「でも、たしかにわたしはあの中庭をこの目でみました」
「ほう、庭をみたと。知覚すらできないのだが。いや、あるいはだれかがなんらかの方法で視覚化させたのか……」
 おじぃは菖蒲から目をそらし、あごひげに手をあてて黙考をします。
「おじぃ、わたしにはわかりません。でもわたし、扉のない中庭にある井戸の水を汲んでこないといけないんです。そうしないと干しわらの王子さまが……」
「わかっとる、わかっとるよアヤメちゃん。そんな悲しい顔しなさんな。すこしずつ、ゆっくり考えていこう、なあ」
「ごめんなさい」
 うちしずむ菖蒲におじぃは優しくうなずいて、笑みをみせます。
「まず、むずかしい表現をすると扉のない中庭は形而上(けいじじょう)のもの、形で表せない空間ということになる。つまり扉のない中庭は『有るが無い場所』といえるかもしれん。ところでアヤメちゃん、心はどこにあると思うかね?」
 菖蒲は目をそらし、それからこうこたえます。
「それはわたしの(うち)にあって、胸のあたりでしょうか。でも考えることは頭のほうにあるような」
「はっはっは。とても直感的でいい答えよ。(うち)にある、とはおそらく正しい。でも頭は心と呼ばれるものを認識しているにすぎん。また多くの場合、胸のあたりに影響を与えたりもする。とどのつまり、心は()るには()るが実際にどこにあるか、そもそもあるかどうかすらだれも知らん、たとえば生命もそういえるかの。アヤメちゃんのいきたい中庭はまさに神秘的な園なんだよ」
 おじぃはコーヒーで口をぬらし、ソーサーにのせます。
「そこで、だ。若い時分、中庭に入るため記憶からたどってみることにした。心が『存在する空間』として、つまり扉のない中庭そのものを心、中庭の壁は時間軸内におけるあらゆる記憶と仮定する。まったく記憶のない、いわば無垢(むく)の状態から心にゆけるか、わしはアプローチしてみた。結果としては近くまで、といった具合よ」
 菖蒲はすっと目をつぶります。遠くに聞こえる王子さまの声。
『よく聞け! わたしは今からおまえとひとつの約束をする。干しわらとなりかわききったわたしのくちびるを、この世界のものではないひとりの少女が心の井戸から汲んだ水によって潤すであろう。その時、この青き剣がおまえを打ちやぶる力を得ることとなる』
 闇は約束をあざ笑いましたが、王子さまは菖蒲のことを信じていました。なぜでしょうか。わかりません。でもやることはただひとつだけです。
「おじぃ。わたし、中庭の近くであってもいってみたいんです。そこにいけばなにかわかるかもしれない。でも、いけないからとここで足を止めてしまったら、前に進むことすらできない。わたしは王子さまの信頼にこたえたいの」
 菖蒲の強い意志を感じる口調に、おじぃはするどい顔をむけます。
「アヤメちゃんが好きだからはっきりいうが、先はかなりつらいぞ? もしかするとアヤメちゃんの大事なものまで失うかもしれん」
「それでも、これはわたしにしかできないことです。仲間にだって王子さまをもどすと約束しました。今わたしができることをしたいんです。それがわたしの願うおしまいでなくっとも。だってわたし、わたし……」言葉をつまらせた菖蒲はひざの上でこぶしをにぎりしめ、うつむきます。
「わるかった、わるかった。ほんとうにアヤメちゃんは優しい子だ。もっとも、そんにわるい人なんかおらんがな」
 おじぃは柔らかな手で菖蒲の頭をなでます。
「シバ、悪いがおばぁとバンドウにアヤメちゃんが帰るのおそくなるとつたえておくれ。それから島の主にもよろしくな。わしらはこれから岩山のてっぺんにゆく」
 シバは耳をひくっとうごかし、なにもいわず起きあがってササっとでてゆきました。
「さてと。では菖蒲ちゃん、これから天体観測(てんたいかんそく)にでかけよう」
「天体観測、ですか?」
 出発の合図を知らせるかのように、部屋のアンティークふりこ時計がボーンボーンとお昼の時間を鳴らしました。

一八 天体観測

一八 天体観測

 ふたりはうっそうとした森の小径を歩き、島の中央にそびえる岩山へむかいます。道中、おじぃがめずらしい動植物や昆虫をみつけては菖蒲に紹介し、まるで休日のハイキングみたいに切り立った岩山の頂上を目指しました。
 山頂はたいらで視界をさえぎる草木もなく、たいへんみはらしがよいので、菖蒲は絶景をながめようと崖っぷちに立ちました。つめたくおだやかな潮風がさらさらと、見渡すかぎりのオーシャングリーンに点在するサンゴ(しょう)、ちいさくおばぁのいる駅まで発見して、手を大きくふってみます。
 風が途切れて空はだんだんまっ赤に、やがて夜の帳がおりると、こんどは月が濃紺の夜空にくっきりうかび、海を照らします。まったりした静けさと精彩の芸術に菖蒲はただひたりました。
 さて山頂には小屋があって、ふたりの目的地はそこです。窓に電球色のあかりがパッとつき、菖蒲を呼ぶ声がしましたので小屋のなかに入りました。
 それほど広くない部屋はインクで書かれた奇妙な数式や図形が壁のいたるところに貼っており、つくえには万年筆や黒いインク入れ、しおりがたくさんはさまった本やノートがちらばっています。とりわけ目につくのは、まん中にある大きな天体望遠鏡で、一段あがった円形の台の上にどっしりかまえ、先っぽは屋根の外にむかってつきでていました。
 おじぃは望遠鏡をのぞき、ハンドルを手際良く手まえや奥にぐるぐるまわしてから止め、こちらにくるよう手まねきしました。
「さっそくだがアヤメちゃん、ここをのぞいてごらん」
 おじぃが席をたち、菖蒲は望遠鏡の接眼レンズをのぞきこみます。
「うわぁ、これはなんですか!」
 おどろいたことに、みえたのはよくあるふつうの星ではなく、カレイドスコープをのぞいたときのような幾何学模様でした。赤に青に黄色、むらさきやみどり。まるで宝石をちりばめたあめ玉というのでしょうか。
「これはアヤメちゃんの領域(せかい)でいう月といったところか。まあ、あの衛星はいわゆる月としての役割ではないのだが」
「なんともふしぎな星ですね……ああっ、おじぃこの星にだれかいる!」
 万華鏡のような星にはちいさな黒い豆つぶがひとつ、じっとみなければわからないほどですが、ゆっくりうごいているのです。
「よくみえたのぉ、アヤメちゃん。あれは記憶収拾をしている」
 菖蒲は望遠鏡のレンズから目を離し、おじぃに顔をむけて、「記憶収拾とはなんですか?」
「くわしくはあそこにゆけばわかるだろうが、端的にいうと、記憶を結晶化して加工するため断片を拾い集めること。それを生業にしているものがいるんだよ」
 菖蒲はふたたび望遠鏡をのぞきます。
「あっ! 月になにかぶつかった」
「それが記憶の断片。記憶が流れ星となってあの星にふりそそぎ、たくさんたまって、きらびやかな色の星になったというわけだ」
 よく観察していると、たしかに色とりどりの流れ星が月にあたっては光を放ち、やがて消えてゆきます。
「扉のない中庭にいくためには、あそこへゆかねばならない」
「あの星にですか? でもどうやっていけばよいのでしょうか。宇宙にはロケットで飛ばないといけないのに」
「いや、あの星は宇宙にはない。シロクジラに乗っていくんだよ」
「シロクジラ、ですか?」
「うむ。そのシロクジラがやってくる駅がおばぁのいるところだね」
「そうだったんですね! わたし、てっきり電車や船が止まるものだと思っていました。でもシロクジラさんは空を飛べるのでしょうか?」
「はっはっ。アヤメちゃんの言うとおり、あの駅にはいろんなものがくるから、それも間違いではないがな。それとクジラは空を飛べないし、あの星はわしらの上にあるわけでもない」
 おじぃがなにをいってるのか菖蒲にはまったく想像できませんが、つぎの目的地は空に浮かぶ月で、そこにいくためにはおじぃのいう〝シロクジラ〟の助けを借りなければいけません。
「まずあの星で王子の記憶を探し、それを結晶化してもらい、びんに加工する」
 おじぃは菖蒲のそばにあるハンドルをすこしまわすと、のっていた円形の台がゴリゴリ音をたててうごきだします。望遠鏡の方角をかえてレンズのピントをかるく調整しました。
「もういちど、のぞいてみなさい」
「はい」といって菖蒲が望遠鏡をのぞくと、ぽっかり穴があいたようにまっ黒です。
「そこが『闇の門』で最初の難所。扉のない中庭に近づくためには門をくぐってから『常闇の平面』をずっと歩いて『薄暗い階段』をおりてゆかねばならん」
「でも暗くてなにもみえません」
「そう、光がとどかぬ闇が支配する領域(せかい)だからの。階段をおりたさきがおそらく『中庭にもっとも近い場所』。ここが最大の難所。なぜならわしもいっとらんからわからん」
「どうして、いかなかったのですか?」
 おじぃは肩をちぢめ、思いだすように身震いしました。
「本能的な恐怖、というのが正しいのか。無垢な記憶になるということはいわば自己の喪失。自分を失い中庭を侵したとて、中庭にいる理由もわからなくなったら、なんの意味があるか。さらに、生まれたての赤んぼうは自己もしくは外界を母親はじめ、他者などによって徐々に知覚する。どうやって自己認識の条件を瞬時に満たし、かつ中庭から脱出するのかまったく解決できなかった。わしはなアヤメちゃん、好奇心と無謀は結びつかん性格なのだよ」
「この先つらいとおっしゃったのもそれが理由ですか?」
「うむ。だからアヤメちゃんにもういちど聞くが、まず中庭に近づくまでも難儀な旅。さらになんらかの強大な力で無垢となり、王子の記憶で作ったびんを持って井戸の水を汲まねばならない。それと同時に扉がない中庭から出るため、自分の記憶も取りもどす。だれも助けてはくれまいができるか?」
「……」
 おじぃは口をつぐむ菖蒲の目をみてからため息をつき、彼女の肩をポンポンと優しくたたきます。
「天体観測はこれぐらいにしようか」
 ふたりは小屋の外にでてから、オレンジがかった電球色に灯っているおばぁの駅を静かに見つめました。夜空にうかぶ少しかけた月は望遠鏡でみるとキラキラかがやく宝石あめでしたが、今はよくみる青白い星でした。
「ここから月へいくためには」おじぃは月を指さし、海にうかぶ月までなぞります。「海面にくっきり丸く月がうつりこんだとき、ひと月後にシロクジラは月の道からおばぁの駅に止まる。くわしい時間はわからんから日がおちるまえから駅で待っていなさい」
 そこへシバが走ってきてます。
「先生、準備ができました。彼が下の浜で待ってますよ」
 おじぃはシバの頭をなでて、「ありがとうよシバ。ではアヤメちゃん、足もとに気をつけてもどろうか」。
 おじぃは天体観測所の明かりを消してから角灯を手に、みんなで岩山をくりぬいたような階段をおりて、昼間の砂浜へむかいました。
 夜の砂浜にはなんと菖蒲よりずっと大きなウミカメが待っていたのです。いったいどれくらい生きたらこんな巨大になるのでしょう。まさに島の主、といった風格です。
 おじぃはどっしりかまえるウミガメとあく手して、「アヤメちゃん。ウミガメのスルフファー氏でおばぁのところに帰りなさい」。
「おじぃ、シバ。ありがとうございました。わたし、扉のない中庭にどうやっていくのかわからなくてすこし不安でした。でもなんとか前に進めそうです」
「気をつけてな」
 菖蒲はふたりに抱擁のあいさつをしてからスルフファーのこうらに足をかけてのぼり、みえなくなるまで手をふりました。
「先生、アヤメちゃんは中庭にいけるのでしょうか。それとも」
「ふむ……わしは彼女の覚悟を秘めた顔が忘れられんの」おじぃは遠いなにかを思いだすように星をあおいで、「なあシバ、人はときにおどろくべきほどの力を発揮するものよ。とりわけ愛する人のためならば」
「先生、ボクはあなたのそばでそれをみました。だからきっと」
「はっはっは。まあそういうことじゃな。シバ、帰っておばぁの豆腐でも食べようか」
 そういってふたりは森へ歩いていきました。

 スルフファーがザブンと海に入り泳ぎだすとスピードをあげ、みるみるおじぃの島が遠ざかっていきます。海上にはスルフファーのこうらがぷっくり黒い小島のように、月が島民の菖蒲を照らし、その影が水面にゆらゆらとゆれていました。
 菖蒲はおじぃからいわれたことをひとつひとつ思いだしていました。これからじぶんがなにをしなければならないか、順番にひとつずつくり返し、もうひとりの菖蒲にいい聞かせるように。
 やがて、駅舎の外灯と待合所の明かりがこちらに近づいてきました。
 駅ではおばぁがベンチで待っています。
「ただいま」
 スルフファーをおりて菖蒲がまっさきにおばぁを抱きしめると、おばぁは耳もとでそっとこういいました。
「アヤメちゃん、山の上からこっちに手をふってくれただろう」
「おばぁはわたしのこと、もうなんでも知ってるのね」
「あぁわかってる、わかってるよ。アヤメちゃん」
 おつかいを終え、家でいつものすばをすすって、まくらに頭を乗せたら、今宵はなにも心配せず、ぐっすり寝ることができました。

一九 シロクジラ

一九 シロクジラ

 おじぃとの天体観測からひと月後のこと。朝にいつものゆし豆腐作りをして、すばを食べてから海で仲よしのバンドウと泳いだり、おばぁとさんぴん茶片手にあの(・・)席でぼんやり夕景を鑑賞します。
 なんにもない時間、ゆっくりできる居場所。まいにち食べあきないゆし豆腐すば。なにより落ち着ける大好きなおばぁ。世界一偏狭(へんきょう)な駅が、いまや菖蒲にとっていちばんお気にいりの、そしてかけがえのないお(うち)になりました。
 ほんとうに安心できる家とは、そこがどれほど広いか、またどれだけ快適か、などではありません。心を許せる人とともに過ごすちいさな部屋は、ひとりぼっちで住む豪奢な邸宅よりどれほどすばらしいことか、菖蒲は知ったのです。
 日が沈み、夜がやってくると、街灯がチンチロ点滅しながらつきます。ふたりはプラットホームのベンチに腰かけ、海に映える丸い月を黙ってながめていました。
 風もなく、しめった空気に潮がまじる、しんしんとした月夜の香りがすうっと鼻に抜け、まるですべてがコトッとはまったかのような、そんな時間。
 めずらしくおばぁが口を開きます。
「つぎはみんなでこれるといいねぇ」
 つぎ、なんてあるのだろうか、菖蒲は思います。
 夏休みのおわりに友だちと遊んだかえり道、共有していたものがすべて思い出になってしまうあのとき。ふと、あおいだ雲がいつもよりすこし高く感じる切なさや、声にもらして友人との記憶がどこか遠くに飛んでいって、シャボン玉みたいになくなってしまいそうで、どうしようもなく、さびしさがこみあげてきたのです。
「またね」といって、また会えるのだろうか。いつまでそばにいられるのだろう、あと何回、あと何度、あと、あと……いけないとわかっていても指折り数えてしまい、たまらないほど悲しくなります。
 それくらい菖蒲はおばぁとこの駅のことが好きでしたし、待合所は彼女をちょっぴりおとなにしました。
 菖蒲は過ぎ去る時をかみしめ、ただ甘えたくなって、おばぁの肩に頭をあずけます。
「わたし、おばぁとずっとここにいてもいい」
「でもアヤメちゃん。王子さまとの約束、果たさんとね」
「約束……果たせるかな。こわいの」
「果たせるから約束なんだよ」
「どうやって果たすのかわからないのに?」
「そう、結婚だってそうさ。愛しあうふたりがどうやって誓いを果たすか、なんて考えるかい? でも約束を信じるんだよ。本当の愛はまったく信じて疑わない。そもそも果たせないのにした約束は約束じゃなくて、でまかせっていうんじゃあないかい?」
「そっか……」
 しばらくふたりは夜空にある満月に言葉をゆだねます。
 それから、おばぁはなにげなくこう言いました。
「アヤメちゃん、王子さまのこと好きだろう?」
『好き』。その言葉は菖蒲の静かなはずの波を急にさわぎたたせ、周囲がおかしくゆがみます。心臓がドキドキ鳴りだし、おなかのあたりはポカポカして顔まで熱く、機関車のように頭のてっぺんから蒸気までふきだしそうです。
「おばぁ、そんなのわかんない。だって会ったことも話したこともないし、それに、それに、男子のことなんてよくわかんない!」
 菖蒲はおばぁの肩に顔をぐいぐいうずめます。
「たしかにそうだ、なんせ〝干しわら〟だからねぇ」
 静かな海にひびくおばぁの笑い声。
「……おばぁのばか」
 海のむこうから月あかりを照り返した白いなにかがゆっくり、ゆっくりとこちらに近づいてきました。
「アヤメちゃん、そろそろ時間だね」
 菖蒲は顔をあげると、目のまえには大きなクジラがいました。あかりを反射してクジラは白くかがやき、駅に停車する電車のように()まり、だれかが上にのるのを待っているようです。
 ふたりは立ちあがると、菖蒲はおばぁをぎゅうっと強くだきしめました。いつまでも離そうとしない菖蒲に、おばぁは彼女の背なかをポンポンとたたいてから優しく、なんどもなんどもさすって、耳元でそっと歌いました。

  月ぬ美しゃ 十日三日
  女童美しゃ 十七ツ
  ほーいちょーが
  東から上がりょる 大月ぬ夜
  菖蒲ん菖蒲ん 照ぃらしょうり
  ほーいちょーが

「おばぁ、ありがとうございました。あっという間の夏休みだったけど、もうずっとここで過ごしていたみたいです」
「そうさアヤメちゃん。大切な一瞬をすくいとれば、人生は思ったより長く、ややこしい時間すら(いと)おしく感じるものさ」
「わたし、おばぁのようになれるでしょうか?」
「いい大豆と水とにがりがあれば、ね」
「もぅ……」
 菖蒲はシロクジラに乗車して、おばぁに手をふってわかれようとしたとき、遠くから声が聞こえてきました。
「おーい、まってー!」
 海のむこうから巨大ウミガメ・スルフファーとそのこうらの上には、しば犬のシバがしっぽをふっています。スルフファーはシロクジラと反対側のプラットホームに停車して、シバが菖蒲のもとにかけよってきました。
「シバ! 急にどうしたの?」菖蒲はおどろきながらシバの頭をなでます。
「まにあってよかった。先生からアヤメちゃんと月で王子さまの記憶探しを手伝うよういわれたんだ。だからボクもアヤメちゃんと一緒にシロクジラにのるよ」
「まあ! それは心づよいわ。ありがとうシバ」
 そういって菖蒲はシバのほおにキスをしました。
 シロクジラ発車の時間。菖蒲はおばぁに手をふり、おばぁも手をふり返します。すこしずつ駅が遠くになり、やがて街灯はオレンジ色の星となって消えてなくなります。菖蒲は胸に手をあて、それをずっと見つめていました。

「ところでシバ、おじぃから聞いてる? シロクジラさんはどうやってあの空に浮かぶ月へいくのか」
 シバは首をかしげ、なんともふしぎそうな顔で菖蒲をながめます。
「なにをいっているんだいアヤメちゃん。ボクたちがこれからいくのはあの夜空にうつる月ではなくて、海に浮かんでいる月だよ」
「どういうことかしら?」
「水面にある月が空にうつってるってこと」
 すると車掌(しゃしょう)のシロクジラが低い声で案内をはじめます。
「本日はご乗車ありがとうございます。つぎの駅は記憶の星、記憶の星でございます。スピードをあげますので、ふり落とされないようどうぞおつかまりください……と、もうしましても、つかまるところなどございませんが」
 自嘲(じちょう)気味なアナウンスが終わり、シロクジラはいきおいをまし、水面の月にむかって潜水艦(せんすいかん)のように沈んでいきます。
「ちょっ、ちょっと待って。まさかほんとうに海にもぐるの? わたし、息できないわよ!」
 たじろぐ菖蒲などまるで無視して、海にもぐるシロクジラ。菖蒲は落っこちておぼれないようツルツルのシロクジラにへばりついて必死にこらえます。覚悟して息をいっぱいすって、ほおをふくらませ目を閉じたら……閉……じた……ら……
————
「あれ?」
 おかしなことに、いつまでたっても息苦しくならず、おぼれることもありません。菖蒲はおそるおそる顔を上げてみると、おどろいたことにそこは海底ではなく、まるで星がちりばめられた宇宙のようで、遠くには望遠鏡でのぞいた幾何学模様の丸い大きな月がありました。
「これで意味がわかったかい? アヤメちゃん」
 シバはニヤニヤしながらそういいますが、菖蒲は腕をくみ、まわりの景色をぼう然とみつめ、首を横にふってこうこたえました。
「いいえシバ。何回説明されても、わたしにはまったくわからないわ」

二〇 記憶採取

二〇 記憶採取

 世界中で語られたおとぎ話(メルヘン)は人々の記憶に(きざ)まれ夢となります。朝、夢から目覚めると、語られたおとぎ話はその人から離れて長いあいだ宇宙をさまよい、やがて月とも呼ばれる『記憶の星』へひ引き寄せられます。それで、この星では人々の記憶が細片となって地面にたくさんちらばり、ステンドグラスのようにいろどり豊かに輝いていました。流れ星はあちこちでシャンシャン(すず)を鳴らし、地表に衝突してはガラスのわれる()んだここちよい音色を聞かせます。
 菖蒲とシバがシロクジラに感謝して記憶の星におり立つと、地面はパリパリという薄氷(はくひょう)をふんだときのような音をたて、きれいな虹色に発色します。ふたりは次の停車地にむかうシロクジラに手をふり、星散策(さんさく)をはじめました。
 ふと、河原で百二十万年前のクルミをにぎりしめた少年たちが改札口へ急いでかけてゆき、汽車の窓にみえる面影(おもかげ)はだんだんと消えいるようで、菖蒲は恍惚(こうこつ)と言いました。
「なんだかプリオシン海岸にいるみたい」
 流れ星はときどき菖蒲やシバにぶつかってはじけます。
「不思議ね、シバ」菖蒲は落ちてくる記憶を手で捕まえようとします。「ほら、消えてなくなっちゃう。さわっている感じもしないわ」
「たしかに。あたっても全然痛くないや」と、シバ。
 突然、菖蒲が思いたったようにうつぶして頭を横にしました。
「どうしたの? アヤメちゃん」
「ねえ、足音が聞こえない?」
 シバは耳をピクピクさせ、「たしかにパリパリ、パリパリって聞こえる。こっちだ!」
 さっとかけだしたシバを追い、しばらくして棒をもつ人が遠くに立っています。むこうも気がついたのか、警戒(けいかい)した様子でこちらをうかがっていました。
「シバ、ちょっと速すぎよ。置いてかれたらわたし迷子になっちゃう」と、息をあげる菖蒲。
「ごめん。うれしくってつい」
 ふたりのまえにいたのは(あい)色の作務衣(さむえ)を着たバクでした。菖蒲とシバにすこしおどろきつつも落ち着いた声で「やあ」と、右手をあげます。
「ここにやってくる旅行者はほんとうにひさしぶりだよ。ぼくの名前はメレ」
「はじめまして。わたしの名前はアヤメでこちらはシバ。メレさん、あなたはここで記憶の収拾をしているのですか?」
「いかにも。よく知っているね。ちかごろは聞かれることもない仕事さ」
「さっそくですがわたし、ある人の記憶がほしくてここへきました。どうすれば見つけられるのでしょうか」
「この星でだれかの記憶を探すだって! そんなのむりだ」メレはますますおどろいてから笑い、腕を大きく広げます。「まわりをごらん。この星にはいったいどれほど記憶の断片があると思うんだい。しかも毎日毎日、こうして流れ星が絶えず落ちてくる。それだけではない、落下した記憶の細片だって採取するのはとてもむずかしいんだ。ためしにさわってごらん」
 メレにすすめられるままひざをかがめ、落ちていた黄色のガラス片にふれてみます。するとガラスはつまんだだけで粉々にはじけとび、消えてなくなりました。大きく平たいもの、厚みのあるもの、ほかのどんなガラス片でもおなじです。
「記憶にふれると、どうしてすぐになくなってしまうのですか?」
「それは共振(きょうしん)するからさ。人から離れた記憶はこの星に落下するまでのあいだ、どんどんちいさく、はかなくなっていく。アヤメがもつ記憶と記憶の断片が()れあってもろい記憶が粉砕されるんだ」
「ではどうやって記憶採取をするのですか?」
「これさ」と、メレは手にしている無色透明のガラス棒を見せます。()が1メートルとすこしくらいで、先端は四角い皿型になっていました。
「この星とおなじ鉱物でできている。このスコップで記憶をこわさないようにやさしくすくってあげるんだ。それでも記憶の断片はうごかすと、みるみる消えていくから、いそいで工房にもっていき、結晶化させる」
 メレはガラススコップを地面につき入れ、カシャーンという透明な音をひびかせます。いくつか細片をすくいあげても記憶は消えることなく、にじ色の火花をパチパチちらしながらスコップの上でおどっていました。
「近ごろの記憶はとてもうすくて弱いんだ。しかも無色や灰色が多いね。それで良質な記憶を採取するのはむずかしくなっている。だからこの星にはもうぼくしかいない」
 メレは過去を懐かしむように遠くを見つめます。
「なぜ採れなくなってしまったのですか?」
豊潤(ほうじゅん)な記憶が落ちてくるまで長い時を()なければならない。たぶんむかしの人は夢より日々を、おとぎ話よりパンについて語っていたのだろう」
「夢、ですか?」
「そう、夢は記憶にいろどりをあたえるんだよ」
 菖蒲はしばらく考えます。それにしても、どうすればこれほど多くの記憶のなかから王子さまの記憶を探しだすことができるでしょうか。
 すると、シバがなにげなくこう言いました。
「王子さまの匂いがわからないから探すことはできないけど、流れ星で落ちてくれば、さっきみたいにボクが走っておいかけられるのにね」
「それよシバ!」菖蒲はぱっとひらめきます。「王子さまの記憶をふらせればいいのよ。落ちた星をシバがおいかけてわたしがひろう」
「へえ、干し(・・)の王子さまってわけかい?」と、シバはニヤニヤします。
「そんなのむりだ」メレはあきれたように言いました。「だれかの記憶を流れ星にしてふらせるなんて都合がいい話、聞いたことない。まして記憶に名札がついてるわけでもないし」
「どうかしら」と、菖蒲は金の首かざりから赤い宝石の指輪をはずし、「約束の力をつかえば」。
「うわあ、その赤い宝石!」メレは目を大きくして、「まえにぼくの工房で加工した奇跡(きせき)の結晶!」
「ええっ! どういうことですか」
 メレの言葉に菖蒲もおどろきを隠せません。
「その赤い指輪は青い剣と(つい)でつくられたんだ」メレは奇跡の結晶について、いきいきと語りはじめました。「びっくりする光景で、なんともふしぎな時間だった。そう、あのときもいまみたいに突然、ふたりはシロクジラでやってきて……」

二一 太陰潮

二一 太陰潮

 シロクジラを背にする新婚の夫婦は秘めたる思いでこの星にやってきました。
 メレがいつものように記憶採取へでかけ、ふたりの美しい姿に気づいたとき、それは蜜月(みつげつ)な夫婦ではなく切迫(せっぱく)したような、互いに強い決意を抱く高貴な生まれの男女にみえたのです。
 ふたりは自分たちの記憶で指輪と一振(ひとふ)りの剣をつくりたいと頼みますが、メレは新婚旅行のお土産にしてはずいぶん過ぎたものだと笑います。ぼうだいな記憶の山から誰かの記憶を選び取ることなど不可能ですし、まいにち、絶え間なく流れ星が落ちているからです。それに、自分から離れた記憶の断片がふたたび自分の手元にもどってくるなどという話は聞いたことがありません。
 しかし夫婦はあきらめず、なんどもバクにお願いをします。そこまで言うには、なにかよほどのわけがあるのだとメレは聞きますが、ふたりは多くを語りません。ただひとつ、妻のおなかにいる赤んぼうが()まれるまえにそれらを完成させたいといいました。実際に採取してみればわかるだろうとメレは承諾(しょうだく)し、もし望む記憶を拾ったなら工房で加工することも許します。こうして、ふたりはメレのもとですぐに仕事をはじめました。
 記憶採取の方法と結晶化させ加工していく技術。夫婦はメレの話を聞き逃すまいと一心に模倣(もほう)し、おどろくほどの速さで熟達していきます。そしていつも星中歩きまわってはどこからか希少な記憶の断片を採取して工房に持ち帰り結晶化させ、見事に加工しました。
「あなたたちのように美しい作品を仕上げる人はマイスターにだってなかなかいない」と、メレは敬意をこめて評しました。
 夫婦が記憶の星にきてからしばらくのこと。妻のおなかもだんだんと大きくなり、もうすぐ新しい命が誕生することはだれの目にもあきらかでした。国に帰って子供を連れてもどってくるようメレは提案しますが、ふたりはまったく聞き入れません。それでは間に合わないというのです。
「ではこうしよう。次にシロクジラがやってくるまでにあなたたちの欲しい記憶が採取できなければ故郷(くに)に帰りなさい。そうでなければぼくの工房はつかわせない」
 それからふたりはいつにもまして真剣に星をめぐりますが、どうしても見つかりません。
 とうとうシロクジラがやってくる前日。あきらめず記憶を探し続ける夫婦にメレは深いため息をつきました。もう無理だろうと、せめてふたりが希望していた指輪と剣を似ている結晶でプレゼントするため工房に向かいます。
 しばらくして、バクは外がずいぶん静かなことに気づきます。しかしそんなはずはありません! 絶対にありえないことだったのです。なぜならこの星は流れ星が毎秒落ちてくるので鈴の音と地面にぶつかる澄んだ音は()むはずがなかったのですから。
 なにごとか様子が気になって、バクは工房を飛びだします。
 遠くにみたこともないほど美しい尾をひく星がふたつ、燃える赤と深い海の底をうつしとった青はたがいにからみ合ったり離れたりしながら黒い宙を舞台に、さながらバレリーナのような気高(けだか)優雅(ゆうが)で、気品(きひん)にあふれ、くるくると舞いおどっていたのです。
 メレはなぜ流れ星たちがふたつ星に近づくことをやめたのかわかりました。エトワールのパドドゥのために軌道をゆずっていたのです。一対の星があるべき場所にとどくまで、祝福と少しばかりの羨望(せんぼう)をそえて、コール・ドは星の外縁(がいえん)でまたたいていました。
 やがて流れ星はたがいの手をにぎる夫婦の手にそれぞれ着地しました。
 メレは美しくも神秘的な流星の舞踊(ダンス)を目にやきつけます。人から離れ、意思を持たないはずの記憶が星となり、自分の手元に帰ってくる話などいままでにありませんでしたし、これからもないだろうと思ったからです。
 夫婦は赤と青の記憶をもってバクの工房へ、すぐに結晶化させ、妻は指輪の宝石を、夫は諸刃(もろは)の剣に加工してゆきます。バクは工程すべて固唾(かたず)をのんでみまもっていました。
 ここちよい沈黙(ちんもく)のおとずれは記憶がまるで自らの役割を知っているかのように彼らの手のなかで自然と形作られてゆき、ほかとはまったくことなり、あきらかに結晶化されてもいきいきと輝いていました。さいごに夫婦は作ったものをみてほしいと、内側からこうこうと燃える赤色の指輪にゆらめく紺碧の剣をメレにさしだしますが、ていねいにことわりました。妖美な魅力に思いがすいとられそうで、ふれるのがこわくなったのです。
「もっとも美しい結晶は、結び合わされるふたりの約束がともなった最初の愛だ」メレは師に教えられた言葉を思いだします。「まあ、それほど貴重な記憶を手放す愚かなものはだれもいないだろうがね」
「先生はそれを手にしたことがあるのですか?」
「おまえがみえるかどうかは知らんが」と、師は笑いながら「母の左手薬指の外側にあるのは知っているだろう」。
 目的を達した夫婦はメレに感謝をのべてからシロクジラにのって故郷(こきょう)へ帰ってゆきました。
 わかれぎわ、メレはふたりにこうたずねました。
「あなたたちは初めから自分の記憶が流れ星となって手のなかにもどってくることを知っていたのですか?」
 夫婦はたがいをみつめ、笑顔で【手つなぎの約束】について教えました。
「いいえ、わたしたちは永遠につながる手を通して相手の星が引き寄せられることをまったく信じたのです」

二二 金色あられ

二二 金色あられ

「彼らは婚約の記憶で指輪と剣を加工したんだ。いつも手をつなぐのは約束の力によって自分たちの星を引き寄せるために——」
 メレが話し終えると、菖蒲は赤い宝石の指輪を右手の小指にはめました。赤い宝石は緋色に燃えてかがやきだします。
 たくさんの流れ星は突如(とつじょ)としてどこかへ、ただ不気味な静けさがあたりを覆い、メレとシバはこれから何がおこるのだろうかと好奇心に恐怖がいりまじった面持(おもも)ちで空をあおぎます。
 しばらくして、遠くのほうから無数の星がチカチカ数回またたきました。
「なにかくるよ!」
 シバが言うが早いか、たくさんの金色の流れ星がまるであられ(・・・)のように、こちらにむかってどっとふりそそぎ、パチパチあたってはすぐに消えてなくなります。
「なんということだ、これほど美しい星がたくさんも!」メレはあまりの出来事にたじろぎます。
 しかし結晶としてはあまりにちいさい断片です。菖蒲は目をつぶり、金色の星にお願いをしました。
「王子さま。わたしはあなたの記憶がもっともっと知りたいの」
 金色の閃光は願いに応えてますます強く、周囲がまっ白になるほど輝いて、バクとシバはあまりの光に顔をそむけました。
 菖蒲だけはゆっくりと目を開き——————
「ヘレム! ヘレム!」男子の声。
 草をかき分け、深い森の斜面をかけおりている。ここは山あいの国かしら。
 苔をまとった巨木がそびえたつ。何年も、何百年も鎮座(ちんざ)し、山にどっしり根を張る老樹(ろうじゅ)。そのもとにはがっしりした体躯(からだ)褐色(かっしょく)肌をした男が立っていた。
「ヘレム、きょうはなにをしよう。どんな遊びをぼくに教えてくれるの?」
「王子、あなたの手をここにのせなさい」精悍(せいかん)な顔つきの男ヘレムはそういって長旅で労したのだろうゴツゴツした手を差しだし、浮き足立つ少年は迷わず白くやわらかな手をヘレムの手の甲にかさねた。
「王子よ、約束するように。今から話すことは来たるべき時がくるまで口外しないと」
「ヘレム、ぼくは【口止めの約束】を守ってあなたのことを誰にも、父上にも母上にだって告げてはないよ」
 ヘレムは満足そうにうなずく。
「ちいさな約束を守ることは大きな力となることを覚えておきなさい。そしていつか、大きな力を必要とする時がくるだろう。そのために今から秘密の約束を教える」
 ヘレムが両手で少年の手をがっしりつかむ。
「この世界のものではない少女が心の井戸から()んだ水によって影にとりつく邪悪な王を打ち負かす強大な力をおまえに与える。その少女とは」
「少女とは?」心を射抜(いぬ)くようなするどい眼光に少年は声をふるわせた。
 ヘレムはさらに顔をぐっと近づけ、目をのぞきこむ。
 王子さまの? いいえわたしの目を、わたしの、わたしの眼を!
「そうだ、アヤメ」
 景色はぐんぐんうしろへ流れ、美しい森からせせらぐ川、夕日に映える湖畔(こはん)、牧歌的な村で子どもたちが犬とかけまわり、朝にやけるこおばしいパンのにおいまで鼻にのぼる。そして城の屋上に立つ美しい王さまと王妃さまは手をつなぎ、わたしに微笑(ほほえ)みかけ、こう言った。
「わたしたちはあなたのことを信じています」
 言葉と共に大地をこえて宙へ。王子さまの記憶から(ほお)りだされてくるんと(さか)さま、今度は月の手にひっぱられ、シバとメレとアヤメが、わたしがいる——————
「シバ! 王子さまの記憶が北に()ちる。追いかけて!」
 金色あやれはすでにやみ、菖蒲が指さす方角に金色の星が()をえがくようにすさまじい速さで落下します。
 シバは地面をけりあげ流星めがけて全速力でかけだし、遠くうしろではメレも鼻息荒くついてゆきます。残された菖蒲は指輪を指からはずし、首かざりにしてもどすと、住んでいた家のことを忘れました。
「アヤメちゃん! ここだよここ!」シバが大声で呼びながら金光のまわりをぐるぐると走っています。菖蒲はかがみ、ためらうことなく記憶の断片に両手を近づけました。
「だめだアヤメ! 手でさわったら断片は消えてしまう」
 メレにこたえて宇宙の静けさを顔にたたえた菖蒲は首を横にふり、「もしこれが王子さま記憶でなければ」。
 金塊をひろいあげても記憶の断片は消えず、金粉をパチパチ散らしてかがやき続けました。
「シバ、ありがとう。メレさん、あなたの工房で記憶を結晶化させてもよろしいでしょうか?」
 メレはあまりの出来事にすっかり感心してしまいます。
「きみたちにはおどろかされることばかりだよ、まったく」

 (やぐら)のように高く組まれた掘削(くっさく)機と細長い煙突(えんとつ)を目印にメレの工房はありました。ななめに掘られた穴に丸い木の扉がはめられ、『外出中』の札をひっくり返すと『キオクザイクコウボウメレ』と書かれていました。工房内はモザイクタイルが前面にしかれ、ステンドグラスの丸い天窓、大胆にカットされた一枚板のダイニングテーブルを中心に、加工されたガラス細工が壁かけの木棚にいくつもならべてあります。
 菖蒲はぐるりひとつずつ鑑賞し、とりわけ美しい花びんに目をうばわれました。
「なんてステキなのかしら。とってもなめらかな曲線にすきとおった桃色、ほころぶ花のように金やらでんがみごとにちりばめられてる」
「ああそれは」と、バクは花びんにふれます。「くだんの夫婦がはじめて採取から加工まで仕事をした作品だ。ほかのはすべて行商にゆずったけど、これだけは記念に残しておいたんだ。結晶に金彩(きんさい)が入るのはとてもめずらしいし、なによりはじめてとは思えない景色の品だから。これをながめるといつも思うんだ。この星にはまだまだたくさんの美しい記憶がのこっている、とね」
 さらに進むと記憶を結晶化させたり加工するための作業部屋があります。棚には(かたち)となる前の記憶の結晶が皿に乗せられていました。赤いレンガ壁に囲まれて白い坩堝(るつぼ)が口をななめにむけて強い光を放っていました。
「記憶の断片を結晶化させるためはこの坩堝(るつぼ)に記憶の断片を入れる」
 あまりの輝きに菖蒲は目をしばたたかせながら坩堝(るつぼ)のまえに立ちます。それからメレに言われたとおり、王子さまの記憶をためらわずになげ入れました。
「ガラスをとかすためには高い温度が必要だけど、記憶を結晶化させるには強い光を集めなければならない。この星の中心は光そのもので、地下から水を吸いあげるように光をくみあげ坩堝(るつぼ)で一点に集めている。それにもうひとつ」
 メレは茶色い紙袋に入ったあまいにおいのする虹色の金平糖をスプーン小さじ1杯ほどすくい、坩堝(るつぼ)に入れました。
「光が核とするならば、これはマントルをけずった星の(もと)ってとこかな。結晶を安定させるためのに使う」
 菖蒲はメレの説明を聞いて、なぜここで断片を加工しなければならないのか少しだけわかりました。つまり、落ちてきたはかない記憶の断片をすぐに結晶化するための場所と素材がここにしかないからです。
 しばらくすると坩堝(るつぼ)にある王子さまの記憶は、周囲の光に反応して強くかがやきだしました。
「記憶は星の素と融合(ゆうごう)し、炉のなかの光に反応して実体となる。それを坩堝から取りだし一気に結晶化してゆく。結晶化させるまでにやらなければならないなのが」
 バクは近くにたてかけられた長尺の攪拌棒(かくはんぼう)坩堝(るつぼ)にいれて、ぐるりかきまぜると、サラサラサラ、サラサラサラ——砂のこすれた音が工房中に聞こえました。
「記憶・星の素・光の三つが均一になるようこうしてゆっくり優しくまぜてあげるんだ。砂の音がだんだんとちいさく、まったく聞こえなくなるまで」
「メレさん、わたしがまぜてもいいですか」
「もちろん。でもこの棒、アヤメには重たいよ」
 メレはずっしりとした棒を菖蒲に手渡します。
「人によって結晶のできあがりが微妙(びみょう)にかわるんだ。攪拌(かくはん)作業は技術よりも思いに作用される」
 坩堝(るつぼ)のなかはパウダー状の砂に金平糖がコロコロ転がり、まるで大鍋の砂シチューをつくっているような、ふしぎな感触でした。
「もし、つかれたら呼んで。いつでもかわるから」
 「はい、わかりました」菖蒲はうなずくとメレは台所へいってしまいました。シバは菖蒲のじゃまをしないよう遠くでうずくまり、様子を見ています。
 王子さまの記憶が結晶化するのはメレが思っていたよりずっと時間がかかりました。その力強い記憶はほかのなにかになることをこばむかのように、必死に抵抗していたのです。それでも菖蒲は坩堝(るつぼ)の前で、だまってぐるぐるかきまぜまていました。
 菖蒲は王子さまのことをもっと知りたいと願いました。これほどまでに美しい金色なのですから、さっきのぞいた王子さまの記憶にはたくさんの素敵な思い出や夢、おとぎ話があると思ったからです。王子さまはそれらを大事にしていたにちがいありません。菖蒲は約束の力で引き離してしまった王子さまの記憶が自分を信頼し役割を教えてくれるまで、根気づよく、ゆっくり待っていたのです。

 一日、二日……なん日もなん日も寝食を忘れて坩堝(るつぼ)のそばで腕をまわす菖蒲にメレは心を打たれ、遠くでうしろ姿をスケッチしました。それから小声でシバにこう話しかけます。
「ねえシバ。ぼくはこの仕事、ほんとうは人間がいちばんうまくやるのではないかと思う。アヤメの仕事をみて師が伝えてくれた言葉の意味を理解できたんだ。〝いいかい、真の結晶は記憶に混ぜ手の気持ちがのるものだ。よりよい結晶がほしければ、その記憶を知ろうとつとめ、多くの時間をかけなさい〟」
 そのときはついにやってきました。砂の音はなくなり、まぜても空気のようになんの感触もありません。
攪拌棒(かくはんぼう)をひきあげてごらん」
 メレの言われたとおりにすると、棒の先には線香花火のようなちいさい火花がパチパチときれいにはじけています。わたあめにも見える火花は棒のせんたんにまとまって白くにごり、てろりとたれ落ちようとしました。
「こっちの台の上に棒の先を」
 メレは木製の作業台に重なる白磁の平たい小皿を一枚持ってきて、菖蒲がその上に攪拌棒(かくはんぼう)をむけます。すると水滴がぽとりと皿の上に落ち、白くにごっていた水滴はみるみるかたまって、まるでおいしそうな水まんじゅうになりました。
「きれいな金色だったのに透明になったね」
 シバがそう言うと、メレはいぶかしげに首をかしげました。
「おかしい。あれだけ良質な記憶がどうして透明な結晶になるのだろう。あるいはアヤメの思いが強すぎた? でもそんなはず……」
 メレは腕をくみ、結晶化された王子さまの記憶をまじまじと見つめます。
「ねえ、アヤメちゃんはどう思う?」
 シバが菖蒲に顔をむけますが、彼女は作業台そばのイスにこしかけ、攪拌棒(かくはんぼう)に寄りかかるようにしてすうすう眠っていました。

二三 願いの像

二三 願いの像

 菖蒲がうっすら目を開けるとベッドに横たわっていました。包帯(ほうたい)がまかれた両手は血がにじみ、小きざみにふるえてうまく力がはいりません。それで転がるようにベッドをぬけ、作業場にむかいました。
 だれもいない工房のテーブルには無色の丸いビードロが白磁の皿にのせてあります。菖蒲はイスにすわってながめていると、シバがやってきました。
「アヤメちゃん起きたんだね、よかった。あれから三日くらい、ずうっと寝ていたから心配しちゃった。でもメレがあれだけがんばったんだからって。アヤメちゃんの手に特製の軟膏(なんこう)をぬって包帯もしてくれたんだ」
「ありがとうシバ。わたしそんなに休んでいたのね。ところでメレさんは?」
「記憶採取にいっているよ。メレは結晶化させた王子さまの記憶に色がないことがわからなくて、ずっとなやんでいるみたい」
 そのとおり、王子さまの記憶は金色のはずでした。しかし目の前にある結晶はなんで透明なのでしょうか。もしかして菖蒲がまぜたから? それともなにか失敗したのでしょうか。菖蒲はすこし不安になります。
「アヤメのせいではないよ」記憶ひろいを終え、帰ってきたメレが菖蒲に言いました。
「ではなぜ色がないのかしら」菖蒲はまっすぐな疑問を返します。
「それがぼくにもわからないんだ」
 メレはいかにもこまった様子で記憶採取スコップをたてかけてから作業台そばのイスに腰かけました。
「アヤメが寝ているあいだ、ぼくの師がつけていた作業日誌を調べてみたけど、そもそも色付きの記憶から無色の結晶になるなんて記録がまったくなかった。無色の記憶に多少の色をつけるっていう技法はあるんだけど」
「採取した王子さまの記憶はもともと無色だったってことかしら」
「いいや、どうかな。あのときぼくは金色の断片をみたし、夢抜けした透明な記憶は一般的に価値がないとされている。なにせそこらに落ちてるガラスとみわけがつかないんだから」
 みんな言葉をつまらせ、視線を集める王子さまの結晶について、なにがしかの原因を探ろうと低い声でうなります。もしやほんとうに価値のないたんなるガラスだったのでしょうか。
「でもわたしはこの結晶、王子さまの記憶だと思うわ」どんよりした空気をふき飛ばす、さわやかな声で菖蒲は言います。「たとえ、これがなんてことないガラスとおなじ価値しかなくても、だれにも見分けられなくっとも。だってあんなに美しい金色の流れ星からうまれたんですもの」
 そうです、菖蒲にとってこれはたくさん思いがこもった宇宙でたったひとつの結晶でした。道でひろった石ころに名前をつけ、みがいてテカテカにしてお菓子のカンカンにしまうように、まわりの人がどのような値打ちをつけても彼女にはだいじな宝物です。この結晶で中庭にある井戸の水を汲み、王子さまを助けてあげたかったのです。
 メレはうなずいてイスから立ちあがり、透明の結晶がおいてある白磁の皿を持っていいました。
「わかった。アヤメが満足しているなら加工の工程に移ろう。〝仕事には敬意を、達成には賞賛(しょうさん)を〟師からの言葉だ」
「なんせアヤメちゃんが必死に結晶化させたんだからね」シバは言いました。
「じゃあアヤメの手が直ってから……」
「ほら」菖蒲は手をゆっくり開いたり閉じたり。「ちゃんと動くわ。今すぐに加工しましょう」
「しかしまめだらけの手では……」メレはためらいます。
「メレさん、お願い」
「わかった」とだけ、メレはそれ以上なにも言わず、記憶を結晶化させた坩堝がある作業場のとなりのせまい加工部屋に菖蒲を連れていきます。そこには陶芸に使う()ろくろが置いてありました。
「アヤメ、ろくろのまえにすわって下をけるんだ」
 菖蒲はワンピースの(すそ)をまくりあげ、ろくろのまえにどっしり腰かけると、メレが皿にある王子さま結晶を円形台の上に落とします。透明な結晶はまるでおもちのようにぺちっと台の上にくっつき、ゼリーのようにふるふるゆれました。それから足元の(ばん)をおもいきりけって台は反時計回りにくるくると、上にのっていたゼリーも回転しはじめます。
「加工にとくべつな技術はいらない。ただ両手を結晶をさわって思いうかべるんだ。そうすれば結晶は(かたち)になる。でも気をつけて、結晶から手を離すと二度と像をかえたりもどすこともできないよ。だからはじめは落ちついて手をおくんだ」
 そういってメレはすぐに部屋から離れました。加工は思いがみだされると取り返しがつかないことをよく知っているからです。刺激的でワクワクしますが、とても神経をつかう作業なのです。メレはろくろと向き合う菖蒲に、結晶の加工を許されたあの日の自分を重ねて苦笑しました。
 師からの課題で茶わんを形作ってみるよう言われた弟子(でし)のメレは、緊張(きんちょう)しつつろくろをまわして結晶にふれます。ぼんやり丸い器の表象(ひょうしょう)がわき、しだいにととのった茶碗の形がくっきり、もうすこし体裁(ていさい)をよくしようと名匠(めいしょう)が焼きあげたおごそかな陶器の茶わん、さらにはだれも考えたことのないすぐれた像がつぎつぎに、まるで古今東西、博物館を旅しているような気分です。
 自分の世界に陶酔(とうすい)した若い加工師はひとりニタニタしていると長い鼻をひくひく、どこからか焼け()げたいい香りが。すると偉大な芸術家メレ作にして宇宙中のディーラーやコレクターが(のど)から手がでるほど欲しがった至高(しこう)の茶わんにおにぎりがひとつ。じんわり染みこんだおしょう()は炭火でじっくりあぶられたのでしょう、食欲をそそるテカテカの焦げ茶に、パリパリの表面を割れば、なかはふっくら白米の甘い蒸気(じょうき)につつまれます。これには味噌汁とぬか漬けがなければ。そうだ、きょうのお昼ご飯はなんだっけ。カレー、ラーメン、チャーハン、サンドイッチにお寿司までありとあらゆる大好物におぼれる姿はまるでヘンゼルとグレーテル。メレのおなかがぐぅっとなって、思わず「あっ」と声をだし、結晶から手を離してしまいます。バクのはじめての作品は、三角の(かたち)をしたそれは見事な焼きおにぎりでした。
「焼き目がじつにすばらしい!」うちは(・・・)を手にした師は満足そうに作品の感想を述べました「自然な願いこそ最高の(かたち)なのだよ、メレ」
 やがてベテランの職人になると思いどおりの(かたち)にできますし、だれかが描いた絵やアイデアでも自由に象ることができるようになります。バクが画用紙に絵を描いていたのも、加工しているときに理想像を具体的にイメージできるようにしておくためです。詩や音楽にするなど、加工師たちはそれぞれ自分流のイメージわかせる方法をもっていました。
 ずっとむかし、豊かな色をもつ流れ星が落ちていた頃は分業制で、記憶採取、結晶化そして加工する職人がそれぞれいました。そして加工の工程は記憶採取をするものたちにとっていわば花形だったのです。でも、いつからか透明のもろい星が落ちるようになり、職人達は仕事を捨ててほかの星へ旅立ち、工房はひとつまたひとつと少なくなって、ついにメレの工房だけになりました。
「できた」菖蒲の声が加工部屋から聞こえます。
「ずいぶんとはやく終わったね」シバがそう言うとメレは、「ふつうはじっくり時間をかけるものだけど」。
 ろくろの上におかれた菖蒲の作品をみて、メレはたまらず笑ってしまいました。
「これはおどろいた。あれだけ美しい金色の星から象られた作品はなんとも質素(しっそ)な」
 たしかにそれはなんのへんてつもないただの()ビンでした。もしほかのガラスビンとならべたら、見分けがつかないでしょう。
「それでいいんです」菖蒲は完成した透明の小ビンを持ちあげて言います。「王子さまをもどすために水を入れるだけですから」
「なるほど失礼した。宇宙でアヤメだけがこの小びんの価値を知っているというわけだ」
 コンコンコン。工房の入り口の扉をたたく音がして、シバが菖蒲たちのもとにやってきます。
「だれかお客さんがやってきたみたいだよ」
「そうだ!」メレは急に思いだしたように、「きょうは行商がやってくる日だった」。
「行商って、なにかをここに売りにくるのですか?」
 菖蒲は玄関へむかいながらバクにたずねます。
「いいや、行商に加工した記憶をゆずるのさ。かわりに食べものや日用品とか、たまにめずしいものをもらったりする。たとえばアヤメの手に塗った即効性ナンデモキクリームとか」
「わたしの手、だいじょうぶかしら」菖蒲は心配そうに両手を見ます。
「やあ、ひさしぶりだねメレ!」
 玄関扉が開いてはつらつとした一声が部屋中に広がって、菖蒲はどこかとキョロキョロ見まわします。
 軽いせきばらいに「レディ、あごを少し引いてごらん」という男の低い声。
 言われるまま目線を下げると、そこに立っていたのは青いふろしきをかついだグレンチェックのスーツにオレンジ色のちょうネクタイをつけたシロウサギでした。

二四 行商のウサギ

二四 行商のウサギ

「ねえねえ、アヤメちゃん」
 シバはテーブルに置かれた小ビンをじっとながめ、おにぎりをほおばる菖蒲に話しかけました。
「なあに、シバ?」
「アヤメちゃんの加工した小ビンなんだけどさ。もしかして……」
「しょう油さしよ。おばぁのお店にあったガラスのしょう油さしを思いうかべて加工したの」
「やっぱりそうだよねぇ。いやあ、どっかでみたことあると思ったんだ。でもさ、あれだけ大変な思いをして手に入れた結晶だから、おかしなこといってはよくないと思ってね」
「なんで?」菖蒲はあっけらかんとしてお茶をすすります。「加工しているときになんだかおなかすいてきたの。これはいけないと必死に王子さまのこと思いうかべてたら、なんだか納豆ご飯がでてきてしまって」
「まさか、カサカサ干しわらからのネバネバわら納豆からのしょう油からのおばぁってこと?」
 菖蒲は身を乗りだして目を丸くするシバの耳もとに手をそえ、小声でヒソヒソ「そのまさかよ、シバ」。ふたりはしばらく遠くに目をうつし、ぷっとふきだしてクスクス笑います。どんな(かたち)の小びんでもよかったとはいえ、おばぁの家にあるしょう油さしと同じものだとはだれも考えつかないでしょう。このことは菖蒲とシバだけの秘密になりました。
 メレとシロウサギは仕事の話を終えて菖蒲のところにもどってきますが、ふたりがあんまり肩をゆらしているものですから、まゆをひそめます。
「ふたりともどうしたの。なにかおもしろいことでもあったのかい?」
 菖蒲はあわてて両手をふり、「いいえ、なんでもないわ。ね、シバ!」
「う、うんなんでもないよ。ね、アヤメちゃん!」と、シバは首をふります。
 考えれば考えるほどばかばかしくてお(なか)をおさえる菖蒲とシバのへんな顔。メレはどうしたものかと首をかしげました。
「アヤメ、こちらは行商(ぎょうしょう)のシロウサギのアルネヴだ。彼とはながいつき合いで、加工した結晶や、まえに話した夫婦の作品のいくつかをゆずった。彼は物をみる目も最高だし、なによりすばらしい顧客をもっているから信頼してまかせられる友人さ」
「はじめまして」背すじがピンと伸びたシロウサギは菖蒲のまえに立ち、手をさしだします。「わたしはサトウと宇宙をまたにかけ行商をしているシロウサギのアルネヴです。ご入り用の品がありましたらいつでもおっしゃってください。当店では宇宙の(ちり)からわく星にいたるまで、できるかぎりお客さまの所望する商品をすばやく提供いたします」
 そう言ってあく手を交わしてから、いかにも自信ありげな表情で会釈(えしゃく)しました。
「はじめまして、わたしはアヤメです。メレさんから聞いていると思いますが、金色の記憶を結晶化させたら透明になったんです。その理由がどうしても知りたくて。よければみていただけますか?」
「もちろんですとも。わたしもたいへん興味があります。金色の結晶などなかなか目にすることができない博物館級の品ですから」
 菖蒲はさっそく加工した透明の小ビンをアルネヴに渡しました。
 アルネヴは小ビンをまじまじと見つめ、しばし考えこみます。
「うむむ。これはとてもむずかしい品だ。どこからどうみてもガラスの小ビンにしかみえない。しかし材質は記憶の結晶であることはまちがいない。金色の星といわれなければ、まあよくでまわっている色抜けした結晶でしょう」
「そうなんだ」メレはうなずきながら、「でも、ぼくはいままでみたこともないような美しい金色の記憶の断片をこの目ではっきりとみた。それに、結晶化するところまで立ち会っているからほかの断片がまざりようもない。もっとも、ほかの記憶とまじったら記憶どうしがふれてしまい、結晶化されず消えるけど」
 結局、だれも透明である原因がわからず、「うーん」と、うなり声が聞こえる始末。しかしそびえる難題の壁を最初にやぶったのはまさかのシバでした。
「そのしょうゆさ……」
「シバ!」
「ごめんごめん。その小ビンについてもっとくわしいことを知っている人はいないかな? たとえば、先生に聞いてみるとか」
「シバ、それはいい考えね!」と、菖蒲が相づちをうちます。
「なるほど!」アルネヴも言います。「それならどんなものでも見定めるベテランの鑑定士がいますよ。その鑑定(かんてい)士にみてもらえば、あるいはなにかわかるかもしれない」
「アルネヴさん、よければわたしを鑑定士さんのところまで連れていっていただけませんか」
「もちろん」と、アルネヴは快諾(かいだく)します、「わたしもその小ビンの秘密について、ぜひとも知りたいのでね」
「よかったねアヤメちゃん。これでボクの役目も果たせたよ。あとはおじぃの家に帰ってみたことを報告しなきゃ」
「ありがとうシバ、ほんとうに助かったわ」菖蒲はシバをだきしめ、頭をなでます。「あなたが一緒にいてくれたおかげで王子さまの記憶を見つけることができたんですもの」
「いやいや、こちらこそ久しぶりに旅ができて楽しかったよ。それにボクたちだけの秘密もできたね」
 それから菖蒲はメレにも感謝を伝えました。
「こちらこそ貴重な体験ができてよかった。アヤメをみていて記憶採取がずっと深い仕事であることも知ることができた」
「よし、ではさっそく鑑定士の住む星へむかおう。少し長い旅になる。ミス・アヤメ、わたしについてきて。仲間を紹介する」
 アルネヴは菖蒲を工房の外につれだすと、おどろいたことに、とても大きな白いザトウクジラが(そら)で待っていたのです。シロザトウクジラの背なかには箱型の家がぽつんと、そこから(なわ)はしごが地面までたれさがっていました。
「サトウ、これから鑑定士の星までともに旅をするミス・アヤメだ」アルネブはシロザトウクジラの顔に菖蒲を近づけます。「こちらがわたしの旧知の仲にして商売の相棒、シロザトウクジラのサトウだ」
「はじめましてアヤメといいます。サトウさん、これからお世話になります」
 サトウの目がのっそりとうごき、菖蒲をとらえて目をほそめ、大きな口はゆっくり開きます。
「はじめましてぇ、サトウでいいよぉ。とってもかわいいむすめだねぇ、よろしくぅ」
 かんたんなあいさつをすませてから「こちらへ」と、アルネヴは縄はしごをすいすいのぼり、サトウの背中にある箱型の家に入ってしまいました。
 菖蒲が手をこまねいていると、ロープでくくった四角い木箱がゆっくりおりてきます。
「どうぞお乗りください! ミス・アヤメ」と、アルネヴの声。
 滑車(かっしゃ)のついた木製エレベーターは菖蒲をのせてカラカラと屋上まで引き上げ、アルネヴは彼女の手を優しくつかみ、「ようこそわが家へ」と言って箱型の家にエスコートしました。
 天井の抜けた部屋の床には見事なペルシャじゅうたんが、その上にシックな黒ぬり木製ダイニングテーブルとイス、周囲の壁はいくつもの大きなつづら(・・・)で仕切られ、ハンモックまでぶらさがっていました。
「小旅行は街のホテルに泊まれるけど、長距離はここで寝とまりするんだ。なれると居心地もよくなるものさ」と、アルネヴは言います。
「すてきな(かく)()ですね」と、菖蒲は言います。
 するととつぜん、テーブルの上においてある銀のペントレイやガラスのアルコールランプがカタカタ鳴ったかと思うと、部屋全体がぐらっとゆれて、菖蒲は転げないよういそいで近くのイスに手をかけました。
「これは出発の合図だ。さあこちらへ」アルネヴは手まねきし揚々(ようよう)と部屋をでて、菖蒲もふらつきながらアルネヴをおいかけました。
 サトウの頭上はぐるり一望できる展望台で、地上に大きな影、そしてちっさなバクの工房とシバやメレをみつけて手を大きくふってみます。
 湾曲(わんきょく)した地平線はみるみる球体に。王子さまの小びんをにぎりしめる菖蒲は(はる)かな衛星(えいせい)に逆再生された打ちあげ花火をアルネヴとながめます。幾何学模様の大きな月には、ささやき夢みたおとぎ話が宇宙をさまよい果てて流れ星となり、毎日やむことなくふりつづけました。
 なんだか月と流星はだれかの思いで()かれているようにも見えます。それは月が望んでいるのか、流れ星の願いなのか、相思相愛なのかわかりません。月と流れ星には意思もなく言葉もないからです。でも意思がないとか、言葉がないとか、最初に決めたのはどこのだれでしょう。
「ねえアヤメ。大砲じゃなくクジラで月までいけるってヴェルヌが聞いたらきっと腰抜かすわよ」と、菖蒲は言いました。
 やがて月は甘納豆のように、だんだんまわりの星とみわけがつかないほどつぶつぶになります。
「ミス・アヤメ」アルネヴは菖蒲に腕をさしだします。「そろそろティータイムなんだが、きみがよければわたしの招待をうけてもらえるかい?」
「ええ、よろこんで!」


「いやはや、ほんとうにすごいものをみた」遠くのシロザトウクジラをあおぐメレは言います。「しかも二度も。それなりに長くこの仕事をしているけれど、わからないことはまだまだあるもんだ」
「でもね、メレ」と、バクの背にシバはこう言いました。
「ボクの先生がよくいうんだ。〝二度あることは三度ある〟って」
 メレは大笑いしてから肩をすくめ、工房に消えていきました。

扉のナイ中庭 上

Playlist
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1『Canzone popolare (Francia 1500 ca.)』Ludovico Einaudi
2『La sérénade interrompue』Claude Debussy
3『Lydia's Dream』Lydian Collective
4『The Star』Ann Taylor & Jane Taylor
5『Let Me Count The Ways』Lyle Mays
6『The Most Beautiful Sky』Stephen Bennett
7『Haim』Bartolomey Bittmann
8『Indaco』Ludovico Einaudi
9『Eva』Kan
10『Aoibhneas』Lúnasa
11『Jelszó』Lajkó Félix & Balazs Janos
12『Walking Song』Meredith Monk
13『Rain』George Winston
14『After a Rain』Preston Reed
15『Hips Dance』Meredith Monk
16『WATER FALL』Gontiti
17『Chava's Song』Michael Hedges
18『Dream Beach』Michael Hedges
19『月ぬ美しゃ』八重山民謡
20『星めぐりの歌』宮澤賢治
21『Lunar Tide』Pierre Bensusan
22『Ascent』Meredith Monk
23『Hidden Voices』Alex de Grassi
24『シャ・リオン』河井英里

扉のナイ中庭 上

アヤメがのぞいた扉のない中庭とは————

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-03-19

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