しょうりょう
木々が夏に向けて青々と茂る5月のある日、1人の尼が陽光の照る細道を歩いていた。道の両脇には水の張った田が広がっており、白鷺の群れがその細い足を泥に突き立てている。その向こうを遠く仰ぎ見れば、田のある平地を取り囲むように小高い山々が延々と連なっており、ただ山を突っ切る峠道だけが細い切れ込みのように一直線に続いている。
かれこれ1刻ほど歩いたであろうか、足腰はもとより丈夫でなかったため既に疲労は限界に達していた。やっとのことで峠道の入り口までくると、大人数人分もあろうかというほどの巨木が小休憩には十分すぎるほどの陰を荒れた地面の上に落としていた。女は座るのに適した岩を見つけると腰を下ろし、額に滲んだ汗を肘で拭った。村から寺での道のりは三里、年老いた女が誰の助けも借りることなく覚束ない足で通うには遠い、けれども人に教えを説く身である、その身を投げうってでも為すべきであると自らに言い聞かせ、老体に鞭打ってなんとかここまでやってきた。辺りは鶯の声がしきりに聞こえ、鳴かぬ間の方が珍しいほどであった。
峠の方から誰かがやってきた。母が幼子を背負って細い道をゆっくりと歩いていく。紅色の着物を袖までまくり上げ、頭には白い頭巾を被っている。背中の幼子は髪を頭の上で結われ、不思議そうな目で辺りを見回している。母親はこちらに軽く会釈をすると再びゆっくりと田の道を進んで行った。
女にも子がいた。可愛い女の子であった。その才気あふれる色艶のある歌は自分に似て、まさに我が子たりとの思いであった。自らの失態続きの人生にも優しく寄り添ってくれる健気さにどれほど救われたことか。そんな娘もたった25の歳で死んだ。そして、世の無常に打ちひしがれた女は仏門に入り尼となった。
世の中の全ては移り変わることで成り立っているのだ。雲一つない晴れと思えば大粒の雨が降る。昨日まで良しとしていた決まりがなんの前触れもなく今日改まる。天皇の御代も例外ではない。そして人の生き死にも当然そうなのだ。心の中で理解しているつもりだった。飢饉や疫病で死んでいく大勢の民を目にしてきた。しかし、まさか自分の身近に無常の禍が降りかかろうなどとは露程も思わなかった。
日は頂を過ぎ後は沈むのみであった。相変わらず辺りは長閑という他ないほど平凡な時間が過ぎている。女は先に旅立った娘の辛い記憶を思い起こすたび、同時に過去の幸せな記憶も思い出すことにしていた。そうでなければとうの昔に破滅の道に身を落としていただろう。
昔女の愛した男、とりわけ冷泉院の第三皇子であった為尊親王との愛のやりとりは、女にとって特別な地位を占めていた。婚姻はしてもお互いの心ははるか遠く離れていた夫とは違い、毎日枕を濡らすほど孤独だった私を絶えず慰めそして愛してくれたあのお方。身分違いの許されぬ恋とは知りながらも、そのような誰が決めたとも知らぬ古い慣習など脇に捨て、一心不乱に恋に落ちていたあの甘い日々。今思い返せば狂気ともいえる自らの傾倒ぶりに寒気すら覚えるほどである。しかしあの当時確かに幸せであったことは疑いようがないのだ。その後まもなくして、あのお方は亡くなってしまった。
この世はつくづく思い通りにいかないものだ。
木漏れ日差す木蔭で物思いに耽っていると、疲労で重かった身体がいつのまにか軽くなったような気がした。さて再び歩き出そうと腰を上げ立ち上がろうとしたその瞬間、女は目眩を覚えた。ざわざわと風になびく無数の若葉が、まるで色とりどりの万華鏡のような色彩を持って女の目に映った。それらは絶えず変化し、鮮やかな緑にも、沈んだ青色にも見え、終いには様々な色合いの景色に変わっていった。
目眩が治まった後も、女は先ほどの目まぐるしく変化する光景に心を奪われ我を忘れて直立していた。心臓は歩いていた時よりも激しく脈打っている。女の心に何事かが芽生えたようであった。
しばらくして、女は再び峠道を歩き出した。寺へはあと1里の道のりである。
しょうりょう