なんでもなかった日

 窓の外には、小学生が描いたみたいな夏が広がっていた。チューブからそのままつけて描いたような色合いの街並みと、空には入道雲。正体を知っていても、今もなお乗れるような気がしている。
 僕らはオアシスからその様子を見ていた。クーラーの設定温度は18度といったところだろうか。
 全席で喫煙ができる今どき珍しい店内は、あちこちで煙が上がり、いつか刑事コロンボに出てきたヴィンテージなバーを思い起こさせる。ここは彼女が指定してきた場所で、僕は来るのがはじめてだった。日替わりランチもコーヒーもおいしくて、彼女がもう来ないというなら行きつけにしたいくらい居心地がいい。
「見て、あれ」
 彼女の指の先には、リュックを背負った少年がいる。バス停の細い影に体の形を合わせ、少しでも涼もうと悪戦苦闘している。
「滑稽?」
「別に、そうじゃないけど」
 だったらなぜ見せたというのか、彼女は頼んだメロンソーダフロートを吸いながら、少年がバスに乗るまでじっと見つめていた。
 ランチの肉を切りながら、彼女との距離感を探る。添えられているハッシュドポテトは生クリームの味がした。
「行っちゃった」
 その後も彼女の目線は窓の外にあった。ノースリーブの袖から伸びる二の腕に、掻いたのか、赤い線が3本浮かんでいる。
「寒くないの?」
 尋ねる。彼女の荷物は何も入らなそうな赤いポシェットひとつで、上に羽織るものは持っていないようだった。赤い線を指摘すると、彼女も自分の二の腕を見て、反対の手で1度撫でた。
「そう見える?」
 彼女は気取って言った。足を組みなおす時、テーブルの向こうに膝小僧が見えた。一緒に住んでいた頃は、もう少し生地のある服を着ていた気がする。
「たぶんだけど、イスラム教徒だったら怒られてるよ」
「でも、イスラム教徒じゃないから」
 僕の方をチラッと見て彼女は言う。
「あなただって同じじゃない」
 指の先にはフォークに刺さった肉。
「無宗教でよかったわね」
 彼女は勝ち誇った顔をしてふんぞり返った。完敗のように思われたが、僕が食べているのは牛肉でイスラム教の人が食べられないのは豚肉だったはずだ。牛肉禁止はヒンドゥ教とかその辺だったような。
 彼女らしい、と僕は思う。訂正はしなかった。僕の口から正しいことなんて聞きたくないだろうと思った。ひとつ、あくびをする。続いて彼女もそうして眠そうに目を擦る。
「あー、おいしくて涼しくって、こんなに幸せなことはないわ」
 そう言うと僕の顔を見て、一瞬不機嫌になる。彼女の方から呼び出しておいて、その反応はどうかと思う。念には念をとアイロンがけしたシャツが急に恥ずかしくなって崩す。要件を聞こうと口を開くと、被せるように話し出した。
「ねえ。なんでもひとつ叶うならなにしたい?」
 唐突に投げられた質問は、どの文脈から出てきたというのか。真意が見えない。彼女は既に夢物語の中にいるようで、斜め上を見ながら僕には見えないなにかを見ていた。そのほったらかされた状況に、また懐かしさに襲われる。文脈を無視した的外れな話題提起は、彼女の個性でありやさしさだった。
「なんでもいいの?」
「うん。いくらかかっても、何日かかっても」
 言いながら陶芸みたいに手を広げ、空に浮かぶ球を触るみたいにする。彼女のことだからきっと、それに地球を見ているのだろうと思う。
 バーテンダーが灰皿を入れ替えに回って来たけど、僕らはどちらも吸わないのでスルーして行ってしまう。金色に光る分厚い灰皿。「これで煙草を吸うと刑務所から出してもらえるよ」って言ったけど、彼女はどうやらコロンボは見ていないらしい。
「話をそらさないで」と急かされ考える。でも、考えれば考えるほど数が出てきて決まらなくなっていく。
 お金はほしいが、時間も大切だ。空も飛んでみたいけれど、生きていくためにはもっと重要なことがあるような。僕だけのために使って、誰かに怒られはしないだろうか。だとしたら、どこまで誰まで救えばいいというのか。
 保育園に入れないちびっこたちや、跡取り問題に悩む職人たちの顔が浮かんだ段階で、僕は考えるのをやめた。人生、ずっとこうやって、取り越し苦労をして生きてきたような気がする。
「これは、今日中には出ないな」
「どうして」
「ひとつだけだから、慎重に決めたいんだ」
 彼女も”そのこと“を思い出したようだった。「スッと出せばいいのに」
 グラスにスプーンを雑に突っ込むと、フロートの部分をパクパク食べ始める。荒々しい所作から、機嫌の悪さを察する。
 申し訳なくなった僕が「君はどうする?」と聞くと、彼女の手が止まり「そうね」と遠くを見た。しばらく考えて、「あっ」と声。思い出したように言う。
「北海道って行ったことある?」
 北海道?
「ないよ」
「わたし行ってみたいの、ずっと」
 へぇと返しつつ、ちょっと狼狽てしまう。ずっとっていつからだろう。僕らは何度か旅行を計画し実行したけど、そんな話聞いたことがなかった。
 動揺を隠すように、コーヒーカップを持ち直す。
「北海道に行きたいって、それが答え?」
「そうよ」
 平然とした顔。
「なんかどっかで見たの、北海道の本屋はバカみたいに広いって。カフェもついてたりして1日中いられるらしいし、取り扱ってる本も100万冊っていうの。100万冊。想像できる?」
 テーブルの上に指で何個か四角を並べて描いた。カフェの間取りだと推理した。北海道に行く理由にしてはちょっと弱いのではないかと思った。
「本をたくさん見たいなら、国会図書館があるじゃないか」
 最後の一口を楽しみながらそう言うと、彼女はポカンとした顔をする。
「なにそれ、本気で言ってるの?」
 僕の言葉が冗談じゃないとわかると、彼女の眉間に皺が寄る。どうやら思いもよらないタイミングで失望させてしまったようだ。
「本屋の本は誰のものでもないのよ」
 その威厳に、そうかそうかと彼女のペースに乗せられそうになって、ちょっと待てよと口を開く。
「それは、これから買われるから、まだってこと?」
「まあ、そうね」
「だったら、誰にも買われることのない図書館の本の方が自由なんじゃない?」
 僕の指摘に、彼女は怯まなかった。
「可能性だけ見て、不自由なんて決めつけないで」
 寂しそうな声だった。だから、わからなければいけないと思った。今までの会話を身振り手振りしながら整理していると、彼女は子どもを見守る母親のような顔で僕を見ていた。時たま機嫌を損ねまいと笑いをこらえようとする様子が伺えたが、クッと声が漏れ失敗に終わっている。僕は、君より少し頭が悪かった。
「ちょっと難しいや」
「ふふ。ほんと、わかってない」
 なにが可笑しいのか、少し下を向いて口を押えてまた笑う。その「わかってない」に、ふとあの日を思い出す。たしか雨が降っていた。あの日も彼女はただ「わかってない」を貫いて、何をわかってないのかは教えてくれず仕舞いだった。
「まあ、北海道なんていつでも行けばいいよ」
 彼女はくしゃっとした顔のまま「たしかにそうね」と言って、底の緑を音を立てて吸い上げると、グラスをテーブルの隅に寄せ、手をあげた。僕はその間羽田と成田のどちらから便がでているのか、そのことばかり考えていた。

「バスに乗るまで、見送ってほしいの」
 会計を済ませドアを開けると、熱がぶわっと僕を襲う。眩しくて、目が慣れない。小学生たちは、白を出しすぎてしまったらしい。
 外気が店内になだれ込むのを防ぐように慌ててドアを閉める。オアシスから放り出された僕らは、別れ際だと言うのにまだどこかぎこちなく、バス停を目指して歩き出す。
「さようなら、さようなら!」
 前から来た黒と赤のランドセルが、誰彼構わず別れの挨拶をしている。明日また会えるだろうに、何度も何度も別れを確認して。
「小学生の頃のこと、覚えてる?」
「覚えてない」
「わたしも」
 さっきリュックの少年が立っていたバス停前は、コンクリートの照り返しで余計に暑く感じた。彼がバスが来るまでの数分でさえも影に縋り付いていたのもわかる。
 額から汗が垂れ、顎からコンクリートに落ちる。彼女は頬を赤くしながらボーっと前だけを見ていた。いつもの彼女なら暑いからなんとかしろと、神様もお手上げなことを言って僕を困らせるところだというのに。
 近くの自販機で水を買い差し出すと、彼女は熱さでやられたのか異常なテンションで、サンボマスターをちょっと歌ってCMみたいにした。
「世界を変えさせておくれよ!」
 半分ほど減ったペットボトル片手に、内なるドラマーを披露した後、疲れたのかバス停の横でしゃがみこみ膝を抱える。地面についた赤いポシェットをそっと拾い上げてやると、彼女は僕を見上げた。
「そろそろ思いついた?」
 手で顔を仰ぎながら、彼女は言う。
「スッと出せばいいのに」とさっき彼女は言っていた。
 なんでもひとつ叶うなら。
「僕はこの国をよくするよ」
 口から出たのは、抽象的でロマンチックな答えだった。じぶんでも驚いた。サンボマスターに引っ張られたのだろうか。「僕もみんなも、幸せでいられるように」綺麗事だった。本気で言ってるの?って、笑ってもらえると思った。
 彼女は僕の顔をただじっと見ていた。「そうしてよ」哀れんでいるようにも乞うているようにも見えた。立ち上がり、おもむろに僕の肩に手を置く。胸が跳ねる。これは破廉恥なことになる、そう思ったのも束の間「今日はありがとね」と言う彼女の儚げな表情にハッとする。初めて見る、なんとも言えず、どうとでも言える顔だった。
 向こうからバスが来て止まる。赤い字でノンステップバスと書かれた車体も、心なしか汗をかいているように見える。
 乗り込もうとする彼女の背中に、僕は問いかける。
「今日、ほんとうはなんだった?」
 こっちを向いた彼女が、まっすぐに答える。
「また教えてあげるね」
 その顔を、よく見ておけばよかったのに。僕はグーグルに近くの本屋を探させながら、その道の行方を、バスが見えなくなってからもずっとずっと見ていた。

 彼女に赤紙がきていたことを知ったのは、その数ヶ月あとだった。

なんでもなかった日

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

なんでもなかった日

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-03-18

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