錆びた海馬の森で溺れる

日程

いつの間にか僕は、暗闇の異世界に迷い込んでいた。

気がつくと僕は見知らぬ野道にいた。車が一台通れるかどうかという細い道。辺りには雑草が自由気ままに生い茂っており、そのはるか先には左右ともかすかに黒い森が見える。太陽が照っていないせいで視界は薄暗く、よく全体が掴めない。ただひんやりと冷たい空気だけが体に感じられる。
自分がなぜこんなところにいるのかさっぱり分からなかった。
えーっと、僕は何をしていたんだ? まず僕の名前は田村……。
その後の思考が続かない。僕は愕然とした。僕はここに来る直前の記憶だけでなく、自分の名前までも忘れてしまっている。
思い出せることが断片的で気持ち悪い。記憶にぽっかり穴が開いたような心地だった。
それにどういうわけか、僕はスーツを着ている。スーツのポケットに手を突っ込んでみたが何も入っていない。ポケットだけでなく、僕は服以外には何物も持ち合わせていないようだ。このままでは仕方がない。僕はとりあえず野道を歩いてみることにした。
目は慣れてきたが、しばらくの間全くといっていいほど景色は変わらなかった。しかし歩き始めて1時間ほど経ったとき、ようやく1つだけ道の左手に提灯のようなものの光が見えた。近寄ると小さな屋台になっていて、つばのついた帽子を深くかぶったジャージ姿の男が一人腰掛けている。
「すみません、ここはどこですか?」
勇気を出してたずねると、俯いていた男はゆっくりと顔を上げた。
男の顔にはしわが刻まれていたが、不思議と老人、という印象は受けなかった。
「ここは業の溜まり場だ。自らの業を見つけるまであんたはここを出られん。それまで黙ってこの途を歩き続けな」
帽子の男はぶっきらぼうに言った。とりたて大きい声ではないが、遠くまで聞こえるような不思議な響きの声だった。
「あの、おじさんは何をしているんですか?」
「俺はお前らの業を集めて海を作る。その水は三途の川となり罪深い人間を浄化させる」
「えっと……」僕は危ない人に話しかけてしまったのかもしれない。話をやめるべきか、しかし今の状況の手がかりを少しでも掴みたいという心が勝った。
「その、業というのは一体?」
「お前さんの犯した罪のことだよ」男はぶっきらぼうに答えた。
僕は理解できずに黙りこくる。それを見た男は何かに気づいた顔をした。
「お前、もしや記憶がないな。たまに来るんだ、そんなやつが。先に言っておくが俺に聞いたって知らないぜ。俺の仕事はお前らの業を抜き去ることだけ。それ以外には一切関与していない。さあ、分かったらさっさと記憶をたどる努力をしな。でなきゃ一生ここに残ることになるぜ」
帽子の男は一気に喋ると、視線を落として元の俯き姿勢に戻った。
それからは何を話しかけても、男は聞こえていない風情で一切返事をしなかった。僕はもっと聞きたいことがたくさんあったが、埒が明かないので礼を言ってその場を離れた。
再び一人になった僕は、ともかく野道の先をゆくことにした。
歩きながら、こうなった経緯を必死で思い出そうとする。何も持っていない自分。しかしスーツ姿だということは会社にいたのか。
考えることは尽きずできれば全力で思考に没頭したい。しかし全く集中することができなかった。理由は簡単だ。こうして歩いている間に時々変な人間とすれ違うのだ。変といっても、帽子の男のような不気味さとはまた違う。たとえば、時代劇で見るような古めかしい髪型に服装をした、おしろいを塗りたくった女性。ズボンとシャツの境目のない、見たことのない素材の服をきた恐ろしく顎の細い男。ボロボロのズボンにぼさぼさの髪を振り乱して奇声を上げ続ける男。
見覚えもなければ理由もさっぱり分からず怖い。僕はそんな変な人たちと接触するたびに、目を逸らしてやり過ごすより無かった。おかげでただでさえまともに機能していない脳みそがさらにかき乱されて、まるで悪い夢でも見ているようだった。僕はこの道がいつか終わることだけを信じて歩き続ける。頭は疲れきっていたが、不思議と体に疲労は感じなかった。

 どのくらい歩いただろうか。時計もカレンダーもないこの場所では時を知る由はない。体感的には2週間、いやもっと長い時間がたっているような気がする。その間一心不乱に歩き続けていた僕は、相変
わらず自分のことについては全然思い出せないものの、この場所についていくつかの発見をしていた。
まず1つ目に、ここにいる間、疲れを感じたり眠くなったり腹が減ったりのどが渇いたり、そういう当たり前だった人間の欲求が全部なくなっているということ。それから2つ目に、僕はこの野道の外に出ることが難しいということ。なぜかは分からないが野道の外の草原に一歩足を踏み入れた瞬間、とんでもなく嫌な気配がする。口では説明できないが、この先に進んではならないと感覚的に感じられるのだ。たった一歩であったが、もう二度と足を踏み入れたくない、そんな気分にさせられた。3つ目に、この野道自体に終わりがないということ。これは野道で通りすがった比較的まともそうな女の人に聞いたことだ。僕が『どちらの方向に行けばこの道から出られますか?』と尋ねると、『この道から出られるわけが無いじゃない、あなた何言ってんの』と、けらけら手をたたいて笑われたのだ。僕が驚いた様子を見せると女は、何でそんなことも知らないのかしら、と訝しい顔をして僕から逃げるように早足で離れてしまった。このときは失礼なやつだと思ったものだが、女が不審がるのも当然で、この道には思っていた以上に変な人間が多い。これは思ったことの4つ目なのだが、変というのは服装だけにとどまらず、その表情や仕草から近寄りがたいと思ってしまうような感じがするのだ。ここにいる人たちは、なにかわけがあってここに集められているのではないかという気がした。
ともかくこの野道の全貌についてはまだまだ分からないことに満ちていた。
僕がすれ違う人に始めて声をかけられたのはそんな頃のことだ。
「ねえ、いつからここにいるの?」
急な人の声にぎょっとして顔を上げると、ジーンズに白いパーカー。今となっては懐かしいような、よく見慣れた格好の少女が立っていた。少しやせ気味に見えることを除けばごく普通の女の子だ。
まずは少しだけ安心する。
「えー、どちら様ですか?」機嫌を損ねないよう丁寧に。
「私はサチって名前。こんなところでまで敬語使うのやめて」
「……ごめん」
サチという少女がうんざりした顔をしたので、僕は慌てて言葉を切り替える。
「えっと、たぶん3週間くらいかな、よくわかんないけど」
僕がそう答えると、サチはとても驚いた顔をした。
「へー、じゃあめっちゃ新しいね。見ててなんとなく不慣れだなーって思ったのよ。どの時代?何年から来たの?」
甲高い声でまくし立ててくる。
「何年ってどういうこと?」
「そのままの意味よ。今年の西暦を教えて」
「そりゃあ……」僕は訳が分からぬまま今年の西暦を口にした。
「うわっ。あたしより50年以上前じゃん。まじかあ、もっと近いと思ったんだけどなー」
困惑する僕をしり目に、サチは残念そうな顔をする。
「ちょっと待って、何言ってんのかよくわからない。50年以上前とかどういうこと?」
「え、なんで知らないの? まあいいや、教えてあげる」
サチは出来の悪い生徒に教えてあげるような口ぶりで言った。
「この野道ではね、時間ってものが存在しないの」
「うん、それはなんとなく気づいてるけど」
「いや、たぶんまだ分かってない。野道に時がないだけじゃなくて、そもそもここに来てる人全員が、違う時間軸からやって来てるの」
「……ん、あ、なるほど」
サチのいった意味がじわじわと飲み込めてきた。そうか、僕が出会ってきた人たちは同じ時代の人じゃなくて過去や未来から来た住人だったんだ。そう考えると見慣れない謎の服装にも合点が行く。
「分かった? つまりある一定の区域で死んだ、天国へ行けない罪人は、時代に関わらず皆ここに集められてるってわけ。多分この世界には、ここと同じような野道がいっぱいあるのよ」
またサチが訳の分からぬことを言う。せっかく飲み込めかけていたものがそっくりそのまま外に逃げてしまった。
「待って。ここにいる人はみんな死者なの?」
そう聞くとサチは目を丸くした。
「え、呆れた。自分がもう死んでるってことも分かってないの?」
理解を超えた話に立ちくらみがする。しかし僕にはもう一つ確認しとかないといけないことがあった。
「罪人って、もしかして僕は何か罪を犯したの?」
「もちろんそういうこと。本当に何も知らないんだね」
少女は心底呆れたという顔をした。ある程度予想していた答えとはいえ、僕はやはりショックを受ける。
「僕は今自分がどうしてここにいるのか、自分がこれまで何をしてきたのか、全然わからない。そもそも自分の名前さえも思いだせないんだ。何かわからない?」
祈るような目でサチを見つめる。サチは難しそうにうーんと唸ると同情した調子で言った。
「きっと死んだときの衝撃で記憶が飛んだのね。ほんとはあたしがさっき言った話も全部、死の記憶と一緒にみんな頭に入ってるはずなのよね。しばらく一緒に居てあげるからもっとしっかり自分のこと考えてみなよ」
「でもサチは僕と逆方向に向かってたんじゃないの?大丈夫なの?」
「この道に終わりはなくてどこに行っても一緒だから。それにちょうど私も話し相手がほしかったところ」
サチは勢いよく僕の背中を押すと一緒に歩き始める。
彼女は、僕に生前のことについてたくさん質問してきた。人との会話というのは不思議なもので、答えを一所懸命に探そうとするうちに一人であれだけ考えても思い出せなかったような事柄が、つかえが取れたようにするすると思い出された。
……絵里。そうだ、僕はここに来る前まで絵里と一緒に居たんだ。確か夜遅く。そうか仕事終わりだ、だから僕はスーツを着ている。えっと、それからどうしたんだっけ?
「絵里っていう女の人と居たことだけは思い出した」
「ふーん。その人は奥さんか何か?」
「まだそうではないけど、結婚も考えてるくらい大切な人だ。今はまだご両親に挨拶とかはできてないんだけど」
「へーそうなんだ。じゃあさ、大方あなたはその女性を殺してその後自殺したんだと思うよ」サチはこともなげに言う。
これにはさすがに僕も腹を立てた。
「僕が絵里を殺すわけないじゃないか。なんてこと言うんだよ」
サチはやれやれとため息をつく。
「さっきも言ったけどさ、この場所に来るのは罪人だけなんだよね、それも相当深い罪の。たとえあなたが人殺しそのものはしてなくとも、人殺しを手伝ったり、半殺しにしたり、精神を壊したりして、誰かの人生を滅茶苦茶にした事は間違いないのよ」
「そんなこと、どれも僕はやっていない」
「さあ、本当のところはどうなんでしょうね」
サチは僕のいうことを少しも信じていない様子だ。
「まあどう思うかはあなたの勝手だけど、その格好でその年で死んだことは確かだからあまりポジティブに考えない方がいいと思うよ」
「今の自分は死んだときの格好なのか……」自分のよれたスーツを見て呟く。それならば僕が罪を犯したのは仕事帰りとは限らない。
思い出さなければいけないことが増えて頭が痛い。
だから僕は気分を変えるために違う話を振った。
「なあ、ここにあらゆる時代の死者が集められるにしては人が少なくないか?」
サチの言っている通りここが死者の住む場所ならば、いくら狭い地域の人間だけだとしても、もっとぎゅうぎゅうになるくらい人がいたっておかしくないはずだ。
だが実際は時たまにすれ違う程度である。
しばらく考える素振りをしていたサチは、自分の経験じゃないんだけど、と前置きして言った。
「自分の罪を心から反省したらね、自分の罪に関係するものが突然パッと手元に現れるらしいの。それは凶器じゃなくて、なんというか罪に深く影響を与えたもの。その出てきたものを海流しに渡したらその人は消えちゃうの。その後のことは誰にも分らない。この世界はそういうルールらしいの」
「海流しって何?」
「この野道の所々に現れる、屋台みたいなのしてる変な男のこと。ずっと歩いてたらそのうち会えるよ」
そう言われて僕は最初に話しかけた奇妙な男のことを思い出した。おそらくあの男の事なのだろう。あの時は何を言っているのかさっぱりわからなかったが、そういえばそんな説明をしていたような気がする。
この世界の仕組みがなんとなくわかって、それからふと気になって僕は尋ねた。
「サチはいつからここにいるの?」
「さあ、もう全然わかんないな。ずーっと前だよ」
「君のその、罪に関係する物っていうのは現れないの?」
「たぶん一生出てこないよ。あたしは自分がしたことを全く反省してないから」
サチは表情も変えず、淡々としている。
「一体君は何を……」僕が言いかけたその時である。
「静かにして!」
突然サチは唇に手を当て鋭くささやいた。同時に姿を隠すように僕の背後に回った。前から人が歩いてくる。
近づいてきた人影は白髪の老婆だった。僕たちはペースを変えず同じように歩き続ける。僕はなるべく老婆のほうを見ないようにしながらも、好奇心からついつい様子をうかがってしまう。
老婆は下を向いて歩いており、視線は主にその手に握られたタンポポに向けられていた。頬はこけ、茶色い肌を無数のしわが刻んでおり、眼窩のみが深く抉れてギョロギョロした目がむき出しになっていた。老婆の影が横に並びすれ違った瞬間、僕は老婆と目があったような気がしたが、そのまま何事もなく老婆は前をゆっくりと通り過ぎていった。
そして老婆の姿は完全に見えなくなる。
「ふう……」大きく息を吐いてからサチは僕の隣に戻ってきた。
「どうしたの?急に」
ずいぶん待ったがサチは何も答えなかった。僕がもう一度尋ねようと息を吸いこんだとき、やっとサチは口を開いた。
「あのババアね、あたしが殺したの」
「……」吸った息の吐き場がない。どう返せばいいのか分からず、自然となじる調子になる。
「はあ?どういうことだよ」
「そのままの意味よ、あたしはあのババアを殺して自殺したからここに来ちゃったの」
「それじゃあなんでその婆さんがここにいるんだよ」
「さあね、どうせろくでもないババアだったんでしょ。あたしが殺した時もそうだったから」
サチは口調は完全に開き直っていて刺々しい。
僕は当然、彼女の過去に興味がわいてきた。
「サチがここに来る前の話、詳しく教えてくれない?」
「……なんの面白みもない話だけどいい?」
「いいよ、聞かせて」
分かった、そう呟くとサチは語り始めた。

 あたしね、自分の住んでる世界が嫌いだったの。みんな機械ばっかり使って会話して、機械が話すことを信じ込んで。当たり前のように存在するものすごい数のSNSが生理的に無理だった。人が普段隠してるエゴがむき出しになってて、めちゃくちゃ気持ち悪い。何でみんながこんなものに夢中になってるのかホントわけ分かんなかった。そんな性格だからぜんぜん友達がいなかったのかもしれないけど。あたしさ、それでも同級生に好きな人ができたの。あたし思い切って告白したんだ。彼は考えさせてくれって言ってそんな悪い気はしてそうじゃなかった。だけどその人のこと、里奈っていう同じクラスの中心グループにいた子も好きだったみたいで。
学校でもあたしが告白したことバレたみたいで、なんかひそひそ言われたけど、それよりもネットでその子の友達たちに『なんかサチは違うよね』とか『里奈がかわいそう』とか呟かれて。そのうち、身に覚えのない言動が勝手に悪口みたいに言われるようになって。そしたら他の男子たちも『それは最低』とか便乗しだして。あたしだけが悪者にされて。それで結局告白した男子にも振られたの。たぶんネットを見て誰かの意見につられたか、孤立するのが怖くなったのよ。
それからあたしいじめられるようになって。表面上はなにもないの、ただ無視されるだけ。だけどネットではあること無いことすき放題書かれてさ。
え、なんて?ネットなんか見なきゃいいって?フフッ、やっぱ時代古いんだね。ネットなしでどうやって授業受けるのよ。いやそんな話は別にいいわ。ともかくね、ノリだけの悪口をたくさん浴びせられてさ、あたしもう嫌になったわけ。そんなときにね、ふとあのババアのことを思い出したの。あいつは昔からあたしの家の近所に住んでた頭のおかしい人。ボロ小屋に住んでて、なぜかずっと家の周りにタンポポの花を植え続けていた。ちっちゃい時は怖くて仕方なかったんだけど、だんだん慣れてきて最近には気にも留めなくなっていた。そのババアが急に頭に浮かんでさ、からかってみたくなったのよ。あたしは友達がいなくて孤独だったけどあのババアはもっと孤独だろうから。自分より下を見つけて馬鹿にしたかったんだ。
ある日あたしはもしもの時のための包丁だけを鞄にいれて、ババアの家に向かったんだ。
ババアの家にはさび付いた門があったけど鍵は壊れてて、構わず入るとすぐに庭でタンポポを植えているババアが見えた。
あたしは庭に入って少し離れたところからそれを眺めて『おい役立たず』って声をかけたんだ。
そしたら思いっきり無視されて。耳が遠いのかな、と思ってもう一回言ったんだ。したらさ、ババアはあたしのことを振り返りもせずに言ったの。『どうでもいい、あたしはあんたに興味はない、帰れ』
ほんとにあたしのことを気にする素振りなんかまったく無くてね。そのときなんかものすごく腹が立って。あたしはこんなババアにさえ相手にされてないんだ、って。あたしはどうしてもババアを振り向かせたくて、包丁を目の前に出してできるだけ凄んで言ったの。
『おいババア、調子乗ってたら殺すぞ』
それでもババアはこっちを振り向かなかった。少しも動かずにあたしを煽ってきたの。
『誰にも相手にされないのかい?悲しいね。あたしとちっとも変わりやしないよ』
ババアは心の中を全て見透かしたように笑って。あたしもう悔しくて、恥ずかしくて仕方なくて。だってババアのいう通りなんだもん。
それを自分で認めるのが辛くて、全部見抜いたババアが憎くかった。
『うるさい、黙れ、なあマジでやめろよ』
あたしそうやって取り乱して叫んじゃったの。ホントにこれ以上何も聞きたくなくてさ。気付けばあたし、包丁をババアに振りかざしてた。そしたらババアが急にこっちを振り返って悲しそうに。
『ちょっと待った。あんたの話を聞かせてくれ』って言ってきたんだ。
そこでサチは急に口をつぐんだ。
僕はもちろんその先を促す。
「それで?それで婆さんとはどうなったの」
「どうもなってないわ。そのまま殺しちゃったから」
僕はさすがにひどいと思い、手を振りあげて非難した。
「なんでそんなことしちゃうんだよ。その婆さんだって何かサチに話したいことがあったかもしれない。そもそも婆さんは同級生と何の関係もないだろ。それに……」
「うるさい!」
突然サチは金切り声で叫んだ。
「そんなことあたしだって分かってるよ。ババアは確かにクラスとは関係ない。じゃああたしはどうすればよかったのよ。あたしは最底辺のババアにも馬鹿にされてすごすご帰ればよかったの?
そのあと部屋に引きこもってまた泣いてたらそれでよかったの?
ねえ、全部あたしだけが悪いの?結局あたしがいなければよかったの?」
サチの肩が大きく震えている。手のひらで顔を隠して俯くサチ。その後ろ姿に僕は何も言うことができず、しばらく気まずい時間が流れた。
冷たい空気が、僕たちの心までも冷やしてしまいそうな気がする。
「そういえば婆さんが持ってた、光ってたタンポポは何なの?」
雰囲気を変えようとやっと僕は一つ質問をする。
するとサチは少し無理して、何事もなかったように言った。
「たぶんあれババアの罪物なのよ。あれを持って海流しの所に行けば、たぶんここから出られるんだよね。なのにあいつ、いつまでもここにいて、あたしあいつとすれちがうの、もう6回目なのよね」
「そんなに同じ所を歩いてるのかよ」
「この道はよくわかんないからね。真逆の方向に進んでてもすぐに同じ人とばったり出会うことだってある」
そこでサチは一息ついた。
「ていうかあたしの話はもういいでしょ。あたしはあんたの話が聞きたいのよ、さあ、なんか思い出して」
「そういわれてもなあ」
「そうやってなんでも頭だけで考えようとするからだめなのよ。そのエリさんって人のこと話してよ」
「絵里は僕にはもったいないくらいいい子だった。育ちが良くて品もあって優しかった。誰もが振り返るほどの美人ってわけじゃないけど、清楚という言葉が彼女ほど似合う人はいないと思う」
僕は自信満々に言った。
「あっそう、ずいぶん褒めるのね」サチは小馬鹿にしたように呟いた。
「当たり前だ、なんか悪いか?」
「いーや別になんにも。それよりエリさんとの馴れ初め教えて?」
「えーっと。確か……そうだ、出会い系、絵里とはネットで知り合ったんだ」
「へー、それはなんで?どうして?」
サチは少し食い気味に尋ねてくる。
「社会人になってから働き詰めで、ずっと彼女ができなくてそれで」
「あーなるほどね、よかったじゃん」
「ほんとだよ。しかも絵里のお父さんは大手会社の重鎮でお母さんは昔モデルをやってた人で、絵里はその一人娘。僕にはもったいないくらいだ」
「ふーん、なんか案外普通。幸せそう」
サチがつまらなさそうに言った。僕はそれをほっといて、サチと会話をする内に思い出した絵里との記憶を反芻する。
一緒に色んなところに行った。動物園、遊園地、ショッピングモール……。どこに行っても絵里の目はキラキラしていて本当に楽しそうだった。絵里の反応は普通の女の子とちょっと違って僕にとっても新鮮だった。絵里はかわいいものが大好きでキャラもののキーホルダーやぬいぐるみをあげるとすごく喜んだ。タンポポで思い出したが、彼女は花も大好きだった。一緒に公園に行ったときは、嬉しそうに原っぱに咲いてる花の花言葉とやらを教えてくれた。彼女はとても博識なのだ。お花で僕に首飾りを作ってくれたこともある。
毎日が楽しかった。絵里と過ごした日々は間違いなく僕の宝物だ。
しかしそういえばどうして会社帰りなんかに絵里と会ったんだろう。えーっと……。頭の中に靄がかかったようにそのことだけはどうしても思い出せない。
いつのまにか僕はサチを放って自分だけの思索に戻っていた。
そのせいで僕は、サチの思いつめる表情にも気が付かなかった。
「ねえ、一緒に森へ行こうよ」
唐突なサチの声。僕はやっと我に返る。
「はあ?何言ってんだよ」
彼女の発言の意図が分からず困惑する。
「そのままの意味よ。あの森を抜けて一緒にここから出よう」
「森って……無理だよ。理由は分からないけど野道の外はどう考えたっておかしい。サチだってあの森が普通じゃないことくらい分かってるだろ?」
僕は冗談だと期待してサチを見たが、彼女の目は気味が悪いくらい真剣だった。
「だってあたし一生こんな所に居続けるの嫌だもん。このまま永久に何もない世界を彷徨うなんて信じられない」
「それなら君が自分の罪を反省したらいいじゃないか。少なくともここからは出られるんだろ?」
サチは一瞬声を詰まらせて、それから振り切るように言った。
「いまさら反省なんか言われても無理よ。できることならとっくにそうしてるから」
サチは僕の手を強く引っ張って、決意を固めるように野道の外へと足を踏み出す。
「おい、やめろよ」僕の声を気にも留めずに、サチは無理やり前に進もうとする。そして僕の体が完全に野道の外に出た。
すぐに空気が変わる。全身に寒気が走った。前にも味わったこの感覚。何といえばいいのだろうか。破滅の予感、あるいは暗闇の助長。一歩進むごとにその嫌な感覚が強くなる。だがサチは僕の手をがっちり握って離そうとしない。
そして僕らは無機質な茂みをずんずん進んでいく。
一生辿り着かなさそうに見えた森が、ついに目の前に迫っていた。
おぞましい空気が一層強烈になる。
僕らを狙う、得体の知れないものの息遣いを全身で感じて肌がひりつく。尋常ではない。
これ以上進んではダメだ、僕の五感が告げていた。
その瞬間僕は決断した。
「戻る!」そう叫んでサチの手を強引に振りほどくと、野道に向かって一目散に走り出す。
「ちょっと、待って」
焦る彼女の声。僕を追いかけようとしている。だがその声はすぐに悲鳴に変わった。
「ぎゃあ、何なの、やめて、離して!嫌だ嫌だ、助けて!お願い、助けて!助けてたすけて……」
心臓がバクバクと音を立てている。僕は一度も後ろを振り返らずに無我夢中で走り続けた。息を切らして、意識がもうろうとする。
何も感じない、何もわからない。ただ、足を動かすことだけはやめなかった。
我に返ったとき、僕はいつのまにか野道に戻っていた。冷汗が止まるまでじっとして、それからようやく後ろを振り返る。しかしそこには先程と変わらない静かな草原と森が広がっているだけだった。
サチは消えていた。
僕は何も考えることができず、野道の真ん中で立ち尽くした。スーツが背中から噴き出す汗でじっとりと冷たい。
サチ。なんとなくだが2度と会えないような気がした。変な女だったかもしれないが、いなくなってみるとものすごく寂しい。頼れるのは僕一人なのだ。それにこの世界に対する恐怖も強くなってきた。
風に揺らめく草、至る所の道の暗がり、ひんやり冷たい空気。先ほどまでなんとも思わなかった、世界の一つ一つに慄きを感じる。
この世界から早く出たい。僕は怖さをかき消すように、ひたすら絵里のことだけを考えるようにして野道を歩く。
絵里は僕にとって特別な人だった。僕はどうして会社帰りなんかに絵里と会ったんだろう。僕と絵里は半同棲していたからわざわざそんな時間に外で会う必要はなかったはず。一体なぜ。思い出すんだ。見方を変えろ。その日の前の日は何をしていた?
そうだ、あの日の前は日曜日。僕と絵里は僕の家の近所で遊んでいた。確か一緒に服を買いに行って、そのあと絵里がよく友達と行くという高級カフェに行って、それから……。頭の隅で何かが引っ掛かる。
それから、僕らは公園に行ったんだ。僕はこの日に花の首飾りを作ってもらった。この花は、何だっけ?……あれだ、思い出した、タンポポだ。『タンポポの花言葉は永遠の愛』なぜか自然とそんなことが思い浮かぶ。なぜだろうか?そうだ、絵里が僕に教えてくれたんだ。
それだけの話。そんなはずの他愛もない言葉が妙に海馬にこびり付く。なぜだ?どうして僕はこの出来事が引っ掛かるんだ?
思索に没頭してした僕は、森の気配にもすれ違う人々の様子にも全く気を向けないようになっていた。
だから野道の海流しにも、その隣に立って自分を見つめている人影にも、すぐ近くに行くまで気が付かなかったのだ。
ようやく視線に気づいて顔を上げる。
人影の手には光り輝くタンポポの花が握られていた。
「いっくん、ごめんね、ごめんね」
涙の混じった声。
そして僕を見つめるその縋るような目つき。脳みそに電流が走り、沈められていた記憶がフラッシュバックする。
あの日も彼女はこんな目をしていた。

 その日、僕は上司に誘われ、仕事終わりに歓楽街の居酒屋に行った。僕は早く家に帰りたかったのだが、上司の気持ちはそうではなかったようで、結局居酒屋をはしごすることになった。陽気な酔っぱらいの声と、店の煙が飛び交う通りを、僕は上司の自慢話に相槌を打ちながら歩く。そんなつまらない夜だった。
しかし僕はそこで、いつもと違う派手な格好で歩く女性、絵里を見た。
今日彼女は実家にいるはず、それが一人で夜の街へ。一体なぜ?
酔いは急速に冷めていった。僕はもう上司の話は上の空で、絵里の足取りだけに注視する。
すると絵里は間もなくある一軒の店の中に入ろうとした。だがその店はどう見てもまともな店ではなかった。
僕は上司に断り、その返事も待たずに絵里に駆け寄った。
「絵里、こんな所で何してんだよ」
叫ぶのと同時に掴んだ絵里の肩が、びくっと上下する。振り返った絵里はその相手に気づくと怯えた表情をした。
「いっくん。なんでこんな所にいるの?」
「それは俺が聞いてんだよ。何やってんだよ」
「いや、ちょっと外に出てただけだよ」懸命な作り笑顔。
僕は真剣な眼差しで言う。
「なあ、お願いだ。本当のことを言ってくれ」
「……」
「頼む。絶対に怒ったりしないから」
「……」
「なあ、ってば」
道の喧騒も、上司が呼ぶ声も、何も聞こえない。
「……ごめんなさい」絵里は消え入りそうな声で呟いた。
「私、全部嘘なんです」その声は震えている。
「私、全然金持ちなんかじゃないんです。お母さんは毎日パートに出てるシングルマザーです。お父さんなんか私が生まれた頃からいないんです。家はいつもお金がなくて。だからいっくんには実家には来て欲しくなかった。友達と高級カフェなんて行ったこともないし、花は大好きだけど詳しいのはいっくんとデートする前に調べてただけ。私、お金を稼ぐために働くしかなかったの。いっくん本当にごめん。ネットにうそを書いたのはほんの軽い気持ちだったの。それがいつのまにか言えなくなって。私、いっくんにずっと悪くて、苦しくてしょうがなかったよ」
絵里は僕の両手を掴んですすり泣く。
「いっくん、お願い。許して」
僕は額を手に押し付ける絵里を無感情に見つめていた。
そう、実際の彼女は友達の少ない孤独で貧乏な女性だった。
僕の彼女は、誰もが羨ましがる、清楚でお金持ちで、ほかの女とは違う女性ではなかった。どこにでもいる、少しだけ不幸なありふれた女だった。
なんだ、つまらない。
体の芯が、急速に冷めていく心地がする。今、僕の前にいるのは、僕を失いたくなくて同情の押し売りをする女。触られるのも汚らわしかった。
一呼吸ついて、自分でも驚くほど冷たい声で僕は言った。
「もういいから、別れよう」
すると絵里は真っ赤な目を僕に向けた。
「ねえ、なんでよ。許してくれるって言ったじゃん。ねえ、待ってよいっくん、好きだから」
「許すとは一言も言ってない」
僕は強く言い返すと、絵里の手を振りはらった。こうなってはいっくんと呼ばれることすら耳障りで鬱陶しく感じる。
「もう会いたくない。二度と連絡もしないでくれ」
少し大声を出しすぎた。数人のギャラリーがこちらをチラチラとみていた。まったくなんで俺がこんな目にあってんだよ。僕は無性に腹が立ってくる。
「ねえ、いっくんお願い。見捨てないで」
耳障りな声とべたべたした手が僕の腕を掴む。
それが、さらに苛立ちを高めた。
僕は絵里を乱暴に振り切ると自分の鞄を開けた。
そこには昨日絵里が作ってくれたタンポポの首飾りが入っている。鞄に入れたら潰れるかもしれないことも分かっていたが、それでも嬉しくて嬉しくて今日一日大切に鞄にしまっていた首飾り。
僕はそれを絵里に投げつけた。
「何が永遠の愛だよ」
地面に落ちた首飾りを見つめる絵里は、見たことがないくらい暗い表情をしていた。
さすがに気の毒になる。いや、そもそも僕をだました絵里が悪い。
押し寄せる罪悪感を振り払うように僕は早足で歩き去る。
いやな記憶だ。
何もかも全て忘れてしまいたかった。
僕を見つめる無数の視線が煩わしい。僕はひたすら前だけを見て歩くようにする。だがその視線が突然どよめきに変わった。
なんだ?そう思った刹那、後頭部に凄まじい衝撃が走った。
視界が歪み、世界が暗転する。それからなにもかもが分からなくなる。
そして次の記憶は、この野道だった。
前の世界に飛んでいた記憶が、徐々に今へと戻ってくる。
人影¦¦老婆を僕は茫然と見つめた。
「いっくんごめんね、いっくんごめんね」
呪文のように何度も同じ言葉を繰り返している
「絵里」
呼びかけるように声が出た。冷汗がまるで生きているかのようにずっと体を伝っている。
老いた絵里と目が合う。だが彼女は僕に答えようとはせず、光り輝くタンポポを両手で海流しに渡した。海流しは表情一つ変えず慣れた様子でそれを受け取った。
「さあ、別の世界に飛ぶよ」
海流しが野太い声を出した。
するとタンポポが光を失いあたりが急に暗くなる。
同時に絵里が消滅した。
僕はそこに一人取り残される。
不意に、荒れ狂うような感情の波に襲われた。
そうか、絵里はずっと苦しんでいたんだ、辛くて辛くて心が壊れそうで、痛々しいくらいに「誰か」を求めていたんだ。そこに突如現れた似非救世主。僕は何も、理解してあげられなかったんだ。
その場でうずくまって嗚咽する。
記憶を失くしたことで、汚い自分を真っ向から見てしまった。
絵里は来るのかもわからない僕に謝るために、ずっとこの野道で待っていたんだ。僕はなんてことをしたんだ。後悔が波のように押し寄せてくる。僕はこの野道で思い出した。僕は絵里が好きだったんだ。愛しくて仕方ないはずだったんだ。それが何してんだよ。何考えてんだよ、どうしてなんだよ、俺は。
涙がこぼれ、こぶしを地面に叩き付けた。
その時だ。
僕の目の前に光る物体が姿を現した。地面にひらひらと舞い降りるそれは、最近では珍しい白いタンポポだった。
『タンポポの中でもシロバナタンポポは稀なものだから摘まないで』
首飾り作りを手伝おうと、嬉々としてタンポポを引っこ抜こうとした僕に絵里は言った。『私を探して、そして見つめて。なかなか見つけられないシロバナタンポポには、そんな花言葉があるくらいなのよ』絵里はひときわ大切そうにそれに触れる。
「私を探して、そして見つめて」それは僕の罪だった。絵里を愛していたなんて言う資格は自分にはない。それでも僕は絵里がかつてそうしていたように大切にシロバナタンポポ触り、それからそっと持ち上げる。
「お前も別の世界に行きたいかい?」海流しが僕に尋ねていた。
僕は一瞬頷きかけて、それからかぶりを振った。
「まだ、やめておきます」 
「そうかい」
何も変わらないぶっきらぼうな口調。僕はゆっくりと立ち上がる。
手に持った、暗闇に光る白いタンポポを凝視した。
やらねばならぬことがあった。僕はサチのことを想起する。
自ら消える道を選んだサチ。彼女はきっと僕に止めてほしかったのだろう。絵里と同じように僕に何かしらの助けを求めていた。それを僕はどうした?僕は心のどこかでサチを軽蔑していた。自殺した馬鹿な女だとみくびっていた。
サチは僕に全てをさらけ出してくれていた。それなのに僕はサチを少しも信用せず、少しも大切に思っていなかった。心の奥ではどうでもいいやと思っていた。サチが消えて最初に感じたのも自分の不安だけ。自分の仕打ちはすべてかき消そうとした。もし僕がサチにもっと寄り添ってあげられたら、きっとこんな結果にはならなかった。
自分を大切にしてくれて自分だけに大切なことを打ち明けてくれる人間に僕は非情すぎる。手に入ったらそれでいいのか?もうそこでその人間の価値はなくなってしまうのか?いやそんなわけはない。考えてみれば、僕は昔から母や祖父母にも、とても冷たい男だった。本当は一番大切にしなければいけない相手なのに。
そして絵里は、一番守らなければいけない相手だったのに。
ほかの人間がどう考えようと知らない。
絵里は僕が殺した。今はそう思っている。
それなのに僕は以前の世界にいた時と少しも変わっていない。クラスでのサチの地位が低くなったことだけで、彼女を振ったという男の子と同じ類の、いやその何百倍もひどいことを僕はしてしまった。
絵里のことは、いくら悔やんでももう元には戻らない。だからせめて、僕はサチだけでも救わなければいけない。
白いタンポポから目を離し、僕は黒い森に目を向ける。
サチはこの世界はおろか、もうどこにも存在しない、そうとも思う。
しかしそんなこと誰にわかる?ここではないどこかに世界があって、そこでサチがたった一人で寂しがっていないと、誰がどうしてそう言い切れる?
もう同じ後悔は繰り返したくない。
全てを包み込むような、光も希望もない暗黒の森。
僕はそこへ向かうための一歩を力強く踏みしめる。

錆びた海馬の森で溺れる

錆びた海馬の森で溺れる

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更新日
登録日 2020-03-16

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