Bloody Mary【改】

璃玖

「お前は最後の生き残りになる。いいか。
ひっそりと生き、ひっそりと死んでゆけ。そして

我ら一族の血を根絶やしにしろ」

Beginning

<Park>
セントラルパークの昼下がりはたいてい好天だ。ロザリーはご機嫌で遊歩道を歩く。
いつもの指定席に向かっていた。
キラキラ輝く木漏れ陽を浴び、大きな噴水の脇を通り、お気に入りの白いベンチへ…
「あら?」
勿論、指定席と言っても札を掛ける訳でなし先客が居ても文句は言えない。
それでも平日の日中からこんな場所でくつろげるのは子供か老人くらいだろう。
彼女がそこを指定席と決めてからこの方、他の誰かが居座っていたことなど無かったのだ。

今日は、一人の男が座っていた。
まるで一枚の絵のようだとロザリーは思った。光と静寂に包まれ、彼は手元の書物に目を落としている。
瞬間に目を奪われ、しばらくその男を眺めていた。
「…」
「俺の顔に何かついてるかい」
穴のあくほど見入っていた彼女の視線に気がつき、男が顔を上げて声を掛けてきた。
期待を裏切らない、良く通る低い声だ。
「…ううん」
「じゃぁ、何か用かな?」
しおり代わりにページを止める指の美しさにさえ、目を奪われてしまう。
ロザリーは相手の顔を改めて観察した。
青色とも緑色ともつかない、何とも深い色を湛えた両の眼。鼻筋はすっきりと通り、その下に薄い唇。
紛れもない王子様の容姿である。
ただし、憩いの時間を邪魔する相手であることに変わりはない。
「そこ、私の指定席なのよね」
「…」
相手は束の間きょとんとした顔をしたが、やがて小さく笑った。
笑顔と共に揺れる金髪(ブロンド)が、陽の光を浴びて輝く。
「これはこれは。大変失礼致しました、お嬢様」
すっと立ち上がり、取りだしたチーフでベンチの埃を払う仕草をする。
そして仰々しく彼女へ手を差し伸べた。
ロザリーは男の態度に若干いけ好かなさを覚えたものの、せっかく取り戻せた指定席を前に機嫌を直すことにした。
「ありがと」
つんと一言口にして、自らの本を開く。すると、涼しげな声が再び彼女を呼び戻した。
「―お嬢様は、アインシュタインのファンなの?」
「え?」
「『相対性理論』を読む女の子なんて、今時珍しい」
意外そうに覗き込む男に今度こそむっとしてロザリーは答えた。
「いけない?」
「いけなくなんかないよ。…ああ、気を悪くさせたかな?申し訳ない」
男はさっと笑顔を作って謝罪する。輝くその表情にはおそらく誰も敵わないだろう。
ロザリーもまた、今までの〝非礼〟を許してやろうと思ってしまう。
それに何故だか、彼女の鼓動は速まっていた。

「奇遇にも、俺も彼のファンなものでね」
「あら!」
そう言った彼の手元の書物もまた、件の物理学者が提唱した『量子論』らしかった。

きっかけなんて大した事じゃない。
そして、たくさんの偶然は一つの必然を呼ぶために集まってくる。
例えば、君と出逢うための。


「あなた、お名前は?」
パークからの帰り道、別れ際に彼女は訊いた。
あれから数時間、ロザリーはお気に入りのベンチを半分〝貸し与え〟、その美しい男と物理論を語り合った。

古文書のような古めかしい物理学の理論書など、今はほとんど誰も関心を持たない。
今の世界にたどり着くまでに、艱難辛苦を乗り越えて導き生み出された技術。
間違いなくそれらの『種』を探求した先人たちの功績だ。
それを大して知ろうともせず我々はただその上にあぐらをかき、のうのうと便利を貪って生きている。
偉大なる物理学者の名前をきちんと知っていた『同志』に、彼女は初めて出逢った。
逃したくない一心で彼女は自らの隣に相手を〝縛り付け〟、喋り続けたのだ。
男も嫌な顔一つせずに長話に付き合ってくれた。

その数時間、そう言えば彼の名前を訊いていなかった。
「知り合いはみんな、〝ブラッディ〟って呼ぶな」
「ブラッディ?」
「ブラッディ・メアリー」
「『血まみれメアリー』…何だか物騒な名前ねぇ」
確か、何処かの伝承のひとつにそんなものがあったような気がする。詳しくは思い出せなかった。
それでも、何故だか彼には違和感なく染みて行く気がする。
「通り名だからね」
「じゃぁ、本当の名前は?」
重ねて聞くと、ブラッディは少し視線を宙に彷徨わせて考える風をしたが、やがて諦めたように笑った。
「―忘れたな」
何処か他人事のように言い捨てる様子を見て、ロザリーは半ば呆れてしまう。
「おかしな人。自分の本当の名前を忘れちゃったの?」
もしかすると、言いたくない事情があるのかもしれない。誰だって、探られたくない過去の一つや二つ持っているものだ。
何処となくミステリアスな雰囲気の男に、今度はじわじわと別な興味が湧いてくる。
「ねぇ、君は?俺にばかり訊いてないで教えてくれないかな」
するりとかわして、ブラッディは矛先をこちらに向けてきた。
「私は、ロザリーよ」
「…ロザリー…か」
「ねぇ、また会えるかしら!私またあなたとお話したいわ、ブラッディ」

すると、彼は視線をゆっくりとロザリーに向けた。
それが今までの好感とは異質な色を秘めた色に見えて、彼女は寒気を覚える。
しかしそれもすぐに消え去り、再び輝くような笑顔で彼は答えた。
「ああ。君が会いたいと思ってくれるなら」
「そぉ!約束よ!」

こうして二人の接点は出来あがる。
嬉々とした彼女の足取りを見送りながら、彼はぽつりとつぶやいた。
「〝ロザリー〟…『防御策』かな」


<TARKUS>
50番街は街の中心とも言える繁華街だ。
最近流行りの大型ショッピングモールと、その先に伸びる広いアーケード。
所狭しと店が建ち並び、昼でも夜でも、様々な人間のニーズに応えている。

アーケード街の向かい側の通り、セントラルパークの並びにひっそりと構えるのが『TARKUS(タルカス)』だ。
特にカクテルやバーボンに力を入れて先代が始めた店だが、
料理上手の息子の代になってから徐々に定食めいたモノも出すようになった。少し風変わりなパブである。
古くからの常連、美味い食事にありつきたい労働者たちのお陰で、それなりに繁盛している。
営業は昼時と、夜の時間。基本的に年中無休だが、時折気まぐれで休みを取ることも常連たちはよく心得ていた。

古ぼけたレンガ造りのビルは先代がすべて買い取っている。
二階、三階は住居になっており、貧乏学生や芸術家気どりの単身者が何人か住みついていた。
現店主であるその息子自身も一部屋使用しており、彼の生活はほとんどこのビルの中で成り立っていた。


その夜も客入りはそこそこで、いつも通りテキトウに、酔っ払いの声高な主張や愚痴の相手をしていた。
店はそろそろ閉店の時間を迎える。看板を下げようと外に出た彼の視線の先に、ひとつ足音が近づいてきた。
「申し訳ないが、閉店の時間だよ」
そう言って足先から順に視線を上げて行き、彼は思わず目を見張る。
「売り上げは上々かな、〝ハニー〟?」

街灯の下まで歩み寄ってくると、美しい顔が照らされた。それは昔馴染んだ友人の顔だ。―いや、友人と言うより…。
「―アンタ…、ブラッディか?」
「もう誰もいないだろ?入れて貰ってもいいかな」
その台詞は至極日常的なものに聞こえた。まるで、昨日も彼の元へ顔を出していたような言い回しだ。
少なくとも、十五年近く会っていない人間のものとは思えない。

積年の恨みを晴らすかのように相手を睨みつけ、彼は悪態をつく。
「閉店だって、言っただろうが」
「何だよ、冷たいなぁハニー」
「誰が『ハニー』だ。…この放蕩者が」
「はは。相変わらず厳しいな、カルヴァン」
会話のテンポは以前とまったく変わらない。悔しいけれど、それがとても心地好かった。
それは他でもない彼自身が、男の帰りを待ちわびていたからだ。
しっくりとはまってしまう相手とのやり取りに、じんわりと胸の内が熱くなる。
勿論そんなこと、本人の前では死んでも認めないが。

彼は努めて仏頂面で言い放った。「―入れよ」
金髪を揺らして、相手はにっこりと笑う。
「ありがとう」
仕舞いかけの看板を持ち上げて足でドアを開けようとすると、すかさず手を貸してくれた。
相変わらず、そういう仕草も腹が立つほどスマートだ。
「…どうも」
ようやく口に出した礼の言葉も無愛想に吐き捨てる。
「なんの」男はそんな悪態を意にも介さず、もう一度笑いかけてきた。

…まぁ、
この笑顔の前で下手なごまかしをしたって、勝ち目がないことくらい解っている。


薄暗い照明を二つほど残し、店内はひっそりと暗闇の中に埋もれる。カウンターを挟んで二人の男が向かい合う。
「アンタ、この十五年のあいだ何処をほっつき歩いてた」
「別に。陸伝いに近所をブラブラ散歩しただけさ」
「…随分豪勢なお散歩だな」
恨みがましい視線を送り、彼は皮肉を言った。

「店は繁盛してるかい?」
グラスに注がれたブラッディ・メアリーを愛おしそうに眺めながら、問う。
「ああ、上々だね。今日は女好きの野郎が三人ほど相手を変えて出入りしてた。
その間に体制の愚痴を言い合う酔っ払いが四~五人入り浸ってたな。
後は、若い刑事みたいなのが独りで来て飲んでたぜ」
淡々と答える。
「刑事?」
「何となくな…、死臭がした」
「ふうん」
大して興味もなさそうに、グラスに口をつける。
少しの間、沈黙が続いた。

「カルヴァン」ブラッディはゆっくりと確かめるように、名前を呼んだ。
「ん?」
カルヴァンは自分の為に用意した水割りを口に含み、多少転がしてゆっくりと飲み込む。
空っぽの胃の中に、じっくりと熱が広がっていった。
「もしかしたら、『飢え』をしのげるかも知れない」
「え?」
グラスの中の赤色を見つめ、やがて視線を上げた彼がこちらと視線を合わせる。
涼しげな目元が柔らかく笑っている。昔から彼は特別だ。
会話などどうでもいい。その眼をずっと見ていたい衝動にかられた。

が、直後。そんな幻想を打ち破る言葉を投げ掛けてくる。
「『旧人種』の生き残りを見つけた」
「―ええ?」
「〝赤い血〟の生き残りだ」
「…本当か?」
「ああ。実際にお目にかかるのは百年ぶりくらいかな。それでも、特有の匂いは忘れていないみたいだ」
ゆったりとした時間の中で、生臭い会話が続く。
店内は真っ暗で、通りからはもうこの店の存在すら伺えない。
「名前を訊いて、確信した」
「何て?」
カルヴァンがグラスを揺らす度にカラカラと氷の音が室内に響く。もう一口液体を流し込み、気持ちを落ちつけようと試みた。
彼は少し躊躇う態度を見せたが、やがて静かに告げる。
「ロザリー」
「…『十字架』か。なるほどね」
言葉を口にするだけでも、いくらか効力があるのだろうか。その辺のところはカルヴァンには判らない。
ただ相手の様子を窺うと、
たとえ実質的な効果が無いのだとしても、精神に訴えかけられる何かはありそうだ。暗い室内でも、苦い表情が窺えた。

藁にもすがる想いで、その両親は名前を選んだのだろう。

「歳は十五、六ってところだった。可愛い女の子だよ。
…俺がこの街にいた頃、気付かなかったのも道理だ」
何処か楽しそうに回想する友人を見て、カルヴァンは背筋に冷たいものが走った。
自分の意思とは無関係に、緊張していた。

「―なぁ、ブラッディ」
間を置いて、呼びかけた。グラスはいつの間にか空になっている。
「もし、〝俺の血が赤かったとしたら〟…アンタは俺を襲ったのかな」
友人だと思い長いこと接している相手は、明らかに自分たちとは異なる種族の者だ。
同じ人間である…と思いたかったが、その〝特性〟以上に彼の美しさが、この世のものではないのではないかと惑わせるのだ。

「襲われたかったのか?」
ブラッディは敢えておどけるようにして言った。さっきまでの異様な空気が一変する。
「馬鹿言え。そんな趣味はない」
カルヴァンの握りしめていたグラスの中で、氷が溶けて崩れる。
そうだ。一方で彼は今、かけがえのない自分の友人なのだ。けれど…

鼓動が早くなるのは、彼への思慕の情か…それともやはり恐怖心だろうか。
金髪の友人は、相変わらず微笑みを湛えながら言う。会ってから何度、彼はそうして自分に笑いかけてきただろう。
「そうだな…
出逢うタイミングに寄るかもしれない。今、お前さんは俺の大切な友人だ」
臆面もなくそんな事が言ってのけられるのも、何処か俗世間に浸りきっていない〝異質のもの〟だからなのかも知れない。
カルヴァンは何となくそう感じ、少し羨ましくも思った。

張りつめた空気を和らげるように、ブラッディは静かに言葉をつなぐ。
「いろんな事情があって、お前さんには何も言えなかった。独りで辛い思いをさせちまったな…すまない」
それは紛れもなく、昔から知っている友人としての言葉。父の代からの、旧知の仲の。
「…今更何言ってやがる」
カルヴァンには、こんな皮肉でしか受け止める事が出来ない。
そんな優しい言葉をまともに浴びたら
きっと、自分は泣いてしまう。

すべてを了解している様子で、ブラッディは再び笑顔を作る。
先のものとは違う、極めてシニカルなものだった。
「また、しばらく厄介になるよ。〝ハニー〟」


<Rosary>
雨が降るかもしれないけれど、ロザリーの気分は上々だった。
深緑の影を落とす遊歩道をスキップしながら抜けて行く。
今日は、人が少ないわね。
噴水を横目に見て、『指定席』へ。また会えると約束したブロンドを期待していた。
「あら…」
が、その場所に願う姿は見当たらない。
なぁんだ。
ふっとため息をつき、ベンチに歩み出そうとしたその時。
「お嬢様、俺をお探しでしたか?」
「ブラッディ!」
ロザリーは嬉しさの中に驚きを隠しきれないでいた。

いつの間に、こんな近くにいたのだろう。
彼女の背中越し二十センチほどの距離で声を聴いた。その瞬間まで、全く気付かなかったのだ。
気付いて振り返った途端に、柔らかな花の香りが彼女を包み込む。
「ああ、びっくりした!いつの間に来てたの?」
「君を驚かせようと思って、隠れてたのさ」
言うと涼しげに笑顔を作り、ロザリーの頭を軽く撫でる。子供扱いされたようだと思うと少し不満だった。
「今日はいないかと思ったわ」
眉尻を下げて言う彼女に、右眼にかかったブロンドをかき上げながら彼は答えた。
「約束は守るよ。会いたいと思ってくれてたろ?」
よくもまぁ、そんなキザな台詞が吐けるものだ。
ロザリーは、彼の腰まで伸びた美しい髪が風を受けて流れる様をまじまじと見つめた。
まぁ、板についてるから許してあげるわ。声になるかならないかの言葉を呟く。
「え?」
「何でもない」
ロザリーは彼の腕を取り、指定席へと誘(いざな)った。

Memories

<Rosary>

幼少の頃は、それなりに可愛がられていた。
友達もたくさんいて、みんなでよく遊んでいた。
大声を出して、走り回って。

「きゃっ!」
つまずいて転ぶなど、日常茶飯事だ。
その些細な出来事で、自分の境遇が転換してしまうなど
子供心に想像出来るはずもなかった。

「いたーい…」
いつもより派手に転んでしまった彼女の周囲に、友達が集まってくる。
「ロザリー!」
「大丈夫?」
「うん、…いたた」
すりむいた膝小僧から少し血が滲んでいた。
「―あれ?」
一人が気付いて声を上げる。「ロザリー、血が出てる?」
「そうみたい…」

子供の発言はいつだって、容赦なくて残酷だ。
「ロザリーの血は、どうして赤い色してるの?」

初めて聞いた。
自分の内なるものへの疑問、否定。それが当たり前だと思って、確かめもしなかった。
「え? だって…みんなそうでしょ?」
「ちがーう」
「僕もけがしたことあるけど、こんな色じゃなかったよ」
「ねぇ、どうして?」
一旦火が着いてしまえば、口々に刃を吐き出す子供たち。
ロザリーにはもう、一つひとつの言葉は聞こえなくなった。
どうして?
どうして、私だけみんなと違うの?

「こんなに赤い血、気持ち悪―い」
誰かの言い放った最後の言葉が、暗く深く彼女に突き刺さる。
そうして少しも経たないうちに、彼女の周囲には誰もいなくなった。


幼いあの日、家に帰って両親に問い質した。
泣きじゃくって大声でわめいて、しまいには何を言っていたのか
両親が何を言い聞かせてくれたのかさえ覚えていなかった。
ただ、一つだけ。
「ロザリー。他の誰が何と言おうと、父さんと母さんはお前を愛しているよ。
誇らしいウィロウズ家の一人娘だ。
私たちは命を懸けて、お前を守りたいと思っているよ」

その両親をある『事故』で失ってしまう。それはあの日の約束通り、彼らがロザリーを守ってくれた末のことだった。
幸い彼らの残してくれた財産は結構なもので、それらと古くから仕えてくれた乳母が一人、その時の彼女を支えてくれた。
「ロザリーお嬢様、この乳母が出来る限りのことは致します故。
お独りでも勉強はなさりませ。ご自身で得られた知識や経験は、どんな味方よりも強いはずですよ」
たくさんの書物を読み情報を収集し、少しずつ確実に知識を蓄えた。
彼女は努力した。何よりも、彼女本人がそれを必要だと思ったからだ。

私は、何も知らなかった
私の生まれた環境も、私の持つ血の色の意味も
世界は決して、彼女の味方ばかりではないのだということも
知らなかったからこそ、たくさんのものを失ったのだ。

老齢だった乳母とも別れた時、彼女は、自分が本当に独りになったと悟った。
それ以来、彼女には隣人に微笑みかける事はおろか、話をする事さえ叶わなくなった。

あのパークで、美しいブロンドに出会うその時まで。


「いいかい、ロザリー。
お前には少しだけ、みんなと違う血が流れている。その事で何か言われるかもしれない。
だがお前の持つ血の色は、先祖から受け継いだ誇り高き赤色だ。
忘れちゃいけないよ
いつだって、父さんと母さんは お前を誰より愛していると言うことを」

彼女はこの両親の間に生まれた事は誇りに思っている。
だが、一族の血に誇りを持てた試しはなかった。

すべてを知った時、少女は改めて 世界のすべてを呪った。


<Library>
セントラルパークの向かい側にあるのが、中央図書館。大きな構えの施設内には蔵書も多い。
閲覧室や併設されたカフェのお陰で、日々利用客が絶えない。
閲覧スペースは陽の当たる窓際に広く取られ、真っ白なテーブルに掛け心地の好い椅子を組み合わせてあり、
目指す書物が無くても雑音の少ない憩いの場として、子どもだけでなく老人や独りを好む者も訪れていた。
街の中心にある、市民に愛される施設のひとつだ。

白いテーブルの前で日向ぼっこも兼ねながら、隣でロザリーが分厚い一冊と格闘している。
そのタイトルと内容量を窺い、少し背伸びをしているのではないかな…とブラッディは思いながらも
何処か微笑ましく眺めていた。
それは額の広い、神経質を画に書いたような相貌の物理学者の理論書だ。
「…理解してるのかな?」
聞こえないようにつぶやいてみたが、しっかり聞き取ったらしい。キッとこちらを睨み返して彼女は言う。
「理解したいと思う心意気も大切なのよ」
「…ごもっとも」つまりは、よく解っていないのだ。

理論に深く理解を持てなくとも、あるいは文字を追う事で何処か別の世界へ飛んで行けるような感覚が楽しいのだと思う。
少なくともブラッディは、そういう観点で書物を選んでいた。もっとも、理解力の方は彼女より少しだけあるつもりだが。
小難しい書物の世界に没頭してしまえば、辛い現実から逃避出来る。
書物は読む者に分け隔てなく知識を提供してくれる。
たとえ当人が、世間でどれだけの迫害を受けようとも。

「…でも、ガラスに閉じ込めて毒ガスを入れて、その中に猫を入れとく実験って、どれだけ悪趣味なのかしら」
ロザリーが独りごちて、眉をひそめる。
「まぁ、思考実験だけどね…。確かに例えはあまり気持ちのいいものじゃないね」
ブラッディが苦笑する。怒られるだろうからあえて言わないが、何と言うか、女の子らしい着眼点な気がした。
「猫にも意思があるわ。生きて行く権利もあるわよ」
「―…」
もしかして、自分と重ね合わせていたりするのだろうか。
「シュレーディンガーだって、悪気があった訳じゃない」
「悪気が無いなら、何をしても許される訳じゃないわ」

ロザリーが何を思い答えるのか、おおよその見当はついていた。
我ながら冴えない事を言ってしまったとブラッディは後悔した。
「…そうだね。すまない」
「何故、貴方が謝るの?」
釈然としない風の彼女の視線を受けて、彼は更に後悔する羽目になる。
やがて、苦し紛れに告げた。
「俺が必要だと思ったからさ。受け取ってくれれば有難いな」
そう言って、彼は自分が持ち出してきた書物に目を落とした。


どのくらい時間が経っただろうか。少し頭を切り替えようと席を立つ。
隣では相変わらず、ロザリーが『シュレーディンガーの猫(不確定性原理)』と〝戯れている〟。
もう少ししたら、カフェでお茶でも飲もう
つぶやいた彼の声が、宇宙の果てあたりを旅している彼女の耳に届いたかどうかは判らなかった。

「すっかり日が暮れちゃったわねぇ」
ようやく中央図書館を後にすると、街はすっぽりと夜の藍色に包まれていた。
ロザリーは何冊か借り出した本を大事そうに抱え、肩をすぼませた。意外に肌寒い。
「家まで送って行こうか、お嬢様」
ブラッディは着ていたジャケットを脱ぎ、彼女の肩に掛けてやる。「あら」
「ありがと、ナイト様」

何気ない彼の仕草は、一つひとつ板について気品に溢れている。元々育ちが良いのだろう。
他の輩ならともかく、ブラッディに施されると 本当に自分が〝お嬢様〟になった気分になるのだ。悪くない。
「家は、ココから遠いの?」
ジャケットの中にわずかに残る花の香りに酔いしれていると、ポンと頭に手を置かれた。
彼が時折子供扱いすることだけは、少し気に食わないのだが。
「そうでもないわ。丘のふもとの辺りよ」
そう言ってロザリーが指示した先に、大聖堂が見えた。

薄暗闇の中、ただ黒い影が居座っている。
街の東側は繁華街になっており、夜でも明るく賑わう。
一方で西側は、閑静な住宅街と大聖堂の丘が主体で全体的に暗い。
ブラッディは少しだけ恨めしそうに、その黒い影を一瞥した。
「女の子を独りで帰すには、少し暗い通りだね」
「そぉ?もう慣れっこよ」
お嬢様は気丈に振舞う。ブラッディは彼女の頭に乗せたままの白い掌をポンポンと、もう二、三度かるく跳ねさせた。
「油断大敵。さ、行くよ。案内して」


三、四ブロック進むごとに灯りが少なくなってくる。人気も無いので、やはり独りで帰さなくて良かったとブラッディは思った。
緩やかな上り坂にさしかかる。右側に大聖堂の黒い影が、先ほどよりも大きく見えた。
「あの先の家よ」
ロザリーが言う方向には、何とも立派な門構え。その奥には更に立派な邸宅が、静かに主の帰りを待っていた。
「へぇ。ホントにお嬢様なんだね」
大仰に感心した様子でブラッディが口にする。こうして時折挟んでくる彼の皮肉にも、だいぶ慣れてきた。
「今はもう器だけよ。さぁ、どうぞ」
「…いいの?」
ブラッディが意外そうな表情で聞く。

「メイドも執事もいないけど。私だって、お茶くらい入れて差し上げられてよ」
ロザリーはひと睨みして、大きな門を押し開いた。


<Bloody>
旧き良き西欧を彷彿とさせる館の中に招き入れられると、ブラッディにはだいぶ古い記憶がよみがえってきた。
忘れたいと願う程感傷にも浸らないが、特段楽しい思い出もない。

大きな玄関の割に照明は最低限のものしか無さそうで、天井の隅の方までは灯りが行き届いていない。
あの隅っこの方になら、ちょっとした異世界の何かが潜んでいてもおかしくなさそうだ。
…なんて、自分の事を棚に上げてる気がするな。彼は独りで苦笑した。
「どうかして?」
不審な挙動をロザリーが見つける。
「ああ、いや別に」
咄嗟に笑顔を作り替えた。

「私の部屋は二階なの。階段を左へ上がってすぐの部屋よ」
お先にどうぞ、と手を差し伸べる。
玄関の真正面に大きな階段が据えられており、踊り場から上段は左右に分かれる。
「君は?」
「お茶を入れてくるわ」
「そう。ありがとう」
ロザリーはくるりと踵を返し、奥へ進んで行く。おそらくキッチンがあるのだろう。
その背中を見送って、ブラッディは階段に足を掛けた。

踊り場の中央の壁面にくっきりと跡が残っている。
何か額縁を掛けていたのだろう。色褪せた壁色の中に、大きな長方形が白々しく浮かび上がっていた。
何となく、哀愁を感じてしまう。

その昔は家族がいて、使用人がいて、此処にはきっと先祖の誇らしげな肖像でも掲げられていたのだろう。
栄えていた過去と、取り残された現在。
そこに、自分と似たような境遇が転がっていた。

『飢え』をしのげるかもしれない
そう思って近づいた彼女になかなか手が掛けられないのは…そのせいか?
種族最後の生き残り。
繁栄する事を許されず、散りゆくその日を待ちながら
ただ、時間を積み重ねるだけの命。

「あら?まだこんな所にいたの?」
見るとロザリーが、既に盆を持ってやって来ていた。紅茶の葉の匂いがした。
「ココに、何か掛けてあったのかなぁと思って」
ブラッディが指差して言うと、ロザリーは眉をひそめて
「うちの当主だったと思うけど…、もう忘れちゃったわね」
そう言い捨てた。


彼女の部屋は殊更シンプルで殺風景だ。窓際に大きなベッドが置かれ、真ん中に小さな丸いテーブルが一つ。
事務机の上には、ノートパソコンと古いラジカセの様なモノが見受けられる。
窓以外、周囲はほとんど本棚だ。ワードローブなど、申し訳程度にひっそりと配置されている。
不躾だとは思いながらも、ブラッディは一つひとつ興味深く眺めていた。
「何とも…、機能的な部屋だねぇ」
「誉めてるつもり?」
「一応ね」

ロザリーが手慣れた要領で紅茶を入れてくれた。手渡されると、カップからじんわりと温度が伝わってくる。
良く見れば、カップもポットも上品で繊細で高そうな品だった。
「―見てくれだけよ。この家も、このカップもね」
彼の考えを見透かしたような言葉だった。
「ずっと、独りでココにいるのかい?」
紅茶なんていつぶりだろう。懐かしむように一口含んでみた。
遠い過去の味と同じかどうかは思い出せないが…やっぱり、美味いな。
「そうよ。三年前に乳母が亡くなってから、ずっと部屋で本を読んでいたわ」
ロザリーは自分のカップに二つ程、茶色い角砂糖を落とす。
そのまま小さな気泡を出しながら落ちていく様を眺めていたが、やがてスプーンでかき混ぜて溶かした。

「両親は私が学校へ上がる前に、事故で亡くなったの」
「乳母と別れてからは、ずっとひとりだったわ」
「…」
「これでも昔は友達もたくさんいたのよ。結構モテたんだから」
「だろうね」ブラッディが笑う。
「私が、他の子たちと違うって知ったのは…五、六歳の頃だったかしら。
みんなで走り回って遊んでて」
どうしたんだろう。
ロザリーは少しずつ、吐き出すように、絞り出すように、自らを語り出している自分に気がついた。
「ある時、私…転んでしまったのね」
口にするつもりも無かった事だ。もう二度と、口外するなと言われたから。
何故、彼に話そうとしているんだろう。
「思ったより傷が深くて」
ブラッディは何も言わない。ただじっと彼女を見つめ、話の続きを促している。
その目がまた、あの冷たい色をしているような気がしてロザリーは視線を外した。

「血が滲んでいたの。
そしたら…誰かが言ったのよ…。ロザリーの血は、どうして赤い色してるの?って―」
語尾に涙が滲む。思い出せば今でも、傷口から血が噴き出してくる。
忌々しい赤色の。
「おかしいでしょ。私、赤い血を持つ種類の人間なんですって。みんなと違うの。
―貴方とも違うのよ、ブラッディ」
「…」
「子供の口に蓋は出来ないわ。噂はすぐに広まった。
周囲は一斉に私を、家族を警戒し出した」

「両親は最後まで私を守ってくれたの。だから私も応えたかった」
ロザリーの言葉も涙もとめどなく流れては落ちていく。
堪えてきた箍(たが)が、外れる音を聞いた気がする。
「父さんは血の色に誇りを持てって言ったわ。
その色は気高き種の色だって。お前は特別なんだって。
けど…
私にはそんなもの、何の意味も持たない」
肩にかかる程の彼女の髪は、俯けばさらりとその顔を覆い隠す。
普段はすまして大人ぶっていても、白く細い指先はまだまだ子供だ。
その指の間から掬いきれない涙が溢れてくる。

カップを置いたブラッディはすっと立ち上がり、
「私は、みんなと同じがいいのに…―」
「解った。もういいよ」
彼女の言葉をさえぎるように言うと
今までの言葉をも包み込むように、彼女を抱きしめた。
少女の震える肩をしっかり抱き留めてやると、しゃくりあげるのも次第に収まってくる。

「もう、いいんだよ」
もう一度、静かに言った。



ロザリーの邸宅を後に、ブラッディは暗い住宅街を元居た繁華街に向かって歩き始めた。

一族の最後の生き残り、という観点からすれば
彼女は自分にとって一番の理解者になってくれるかもしれなかった。

だが。
同時に彼女は、自分が長年の飢えをしのぐための糧でもある。
おそらくは、二度とお目にかかれない。
彼女の血で、彼の生涯分の飢えは満たされるだろう。必要以上に酒の力を借りる事も無くなる。
けれども、彼はどうしても
ロザリーを捕食しようと言う気になれなかった。

彼女を救ってやりたい。そんな気持ちさえ浮かぶ。
誰よりも自身が一番、自分の心情の変化に戸惑っている。

Rewinding

<Rosary>
「…あら?」
ロザリーが目を覚ました頃、外は既に明るくなっていた。
明け方もまた冷える。気がつくと布団から肩がはみ出していた。

ゆっくりと起き上がり、自分がいつの間に眠ってしまったのか思い出そうとする。
部屋の真ん中に置き去りにされたカップは二つ。
そう言えば昨晩、あのブロンドと一緒に居た気がするのだが。

泣き疲れて眠ってしまったのだろうか。瞼がだいぶ重たかった。
ブラッディはいつ、帰ったのかしら…。
ベッドを抜け出し、カーテンを引き開けた。
「…ん?」
何となく外が騒がしかった。
早朝の時間に関わらずモノ好きな野次馬らしき住民と、それをさも鬱陶しそうに制御する制服警官。
パトカーが緊急ランプを照らし続け、事態を物語る。ランプの列はどうやら、丘の上まで続いているようだ。
「事件かしら…」

目に見えるものが、遠い記憶を呼び覚まそうとする。
脳裏に焼きつく記憶の像にフタをすることなど出来ないが、
それでも、ぎゅっと目を閉じた。
彼女の全身で、その忌むべき記憶の扉に鍵を掛け直した。


外は細かい雨が降っていた。
玄関を開けて、ロザリーはまず一つ息をついて空を見上げる。
外で過ごすには少し肌寒い。図書館の方へ行ってみよう。
それでも、いつものパークを抜けて。


<TARKUS>
彼の父親は、科学の途を志していたらしい。
彼の母親は、文学少女を画に描いたような女性だった。
他の会話はまったくかみ合わなさそうな二人は唯一、音楽の趣味だけはぴたりと合っていたようだ。
彼は、その両親が好きだった。

その男は、彼が物心つく前から家に居た。ほとんど家族と言っても構わないくらいだ。
両親は二人とも、その男に対して何処か狂信的にも見えるほど親しんでいたようだが
初め、彼はその男が好きになれなかった。
〝あたり〟は柔らかく優しいが、何処か謎めいた雰囲気が子ども心を無性に不安にさせたのだ。

男は彼と一緒に居る事が多かった。彼も次第に男を受け入れるようになってきていた。
そうやって一緒に居るうち、ふと疑問に思う。
「ねぇ。アンタ、ずっと若いままに見えるんだけど…
もしかして、歳をとってないの?」


目が覚める。

カルヴァンは天井を見つめ、その後目覚まし時計に手を伸ばした。朝と呼ぶにはまだ少し早いだろうか。
左側にかすかな気配を感じる。横目で確かめて、ため息をついた。
まだ熟睡している様子の姿が見える。
暗がりでもぼんやりと明るいのは、もしかしたらこの男の輝くような金髪のせいかも知れない…寝ぼけ頭がそんなことを考える。

昨夜、いつものように閉店後の店に入り浸り寝込んでしまった彼をかつぎ上げ、仕方なく自分の部屋へ上げて来たのだった。
彼の自宅は街外れにあるらしかったが、きちんとそこへ帰る日があるのかどうか疑わしい。

そっと起き上って、二人とも昨日の格好のまま寝ていたことに改めて気が付く。
「あ~あ、しわくちゃだ…」
自分のシャツとズボンをつまみ、ため息をつく。
人の心配をする余裕も無く、カルヴァン自身も部屋に上がるなりベッドに倒れ込んだのだろう。
ここの所、何となく気疲れしてたからなぁ…
大きな要因である金髪をじっとりと睨みつけた。

相手は起きる気配がないどころか、微動だにしない。
眠っているのか死んでいるのか判らないくらいだ…などとよぎった途端、空恐ろしくなった。
じっくりと観察すれば、僅かだが規則的に寝息を立てている。ひとまず安堵した。

帰って来てから、随分と酒の量が増えているみたいだ。
飲酒は〝本来の〟食欲を抑制するため…などと聞いたような記憶もあるから致し方ないのだろうが…

カルヴァンは静かに寝息を立てる金髪に、何気なく指をからめた。
緩やかなカーブは、巻きつけた途端にするりと滑り落ちていく。流れるような、という形容がまさに相応しい。
昔からこのブロンドに(だけは)憧れていた。幼い頃から、こうやって悪戯したものだ。
やがて指を放し、自分の巻き髪をかき上げる。
「…」
歳を取らない美しい友人を、暗闇の中でしばらく眺めていた。


ブラッディが起き上がってしっかり目覚めたのは、それから二時間くらい後の事。

窓の外はすっかり明るい。今朝方まで降っていた雨も上がっていた。
先ほどの(と言っても二時間前だが)カルヴァンの視線には気づいていたものの、身体が言う事を聞かなかった。
彼がベッドを出て行ったのを確認して、また寝入ってしまったらしい。
彼が自分を案じていることはよく解っている。
「雨のせいかな…」
夜半からしとしとと細かい雨が降っていた。彼は、雨が苦手だ。
ベッドを出て窓辺に向かう。遮光カーテンを引き、窓を開けてみた。雨は上がっているようだ。冷たい外気が顔に当たる。
さすがにまだ湿気っぽさは残っているな。
それでも、通りには少しずつ陽が当たってきていた。

「…何だ、起きたのか」後方から友人の声がした。
「〝おそよう〟」
「…」ニヤニヤしながら皮肉を言うカルヴァンを、ブラッディは黙って睨み返す。
「起きたんならそのまま服を脱げ」
「―は?!」
「馬鹿だな、何だよその情けないツラは。アンタの〝アルマーニ〟がしわくちゃだから洗ってプレスし直してやるってんだよ」
「…ああ、そう」
ブラッディが心底ほっとした表情をしたのが、カルヴァンは無性に可笑しかった。
「ついでにシャワーでも浴びてくれば、目ぇ覚めるぞ」

ブラッディが窓も閉めずに、その場で無造作に衣服を脱ぎ出したのにはさすがのカルヴァンも慌ててしまった。
…いや、俺がそう言ったんだけど。

外ではどう見えてるか知らないが、この人は割に大雑把だ。
体裁とかそういうものを一切気にしない。(もしかしたら、意識的なものかも知れないけれど…)

少し前によぎった憂いの気持ちを吹き飛ばすような、ブラッディの不敵な笑顔と目が合う。
「じゃ、宜しく。大事に扱ってくれよ」
「自分のこと棚に上げてよく言いやがる」
「このバーゲン品を〝アルマーニ〟って言ったのはお前さんだろう」
会話するうちに目が覚めてきたな、とカルヴァンは思った。
「五分で朝飯だからな!溺れるんじゃないぞ!」
「お前さんじゃあるまいし!」
悪態を返してくるのは忘れない。カルヴァンは声を上げて笑った。



父親は、店の仕事や他の諸々で忙しくしていることが多かった。
「カルヴァン、遊びに行こう」
そう言う男をあまり信用していなかった彼は、まず母親の顔を見る。
彼女はあまり多くの言葉を発しない。ただ、黙って微笑んでいるだけだ。
元々、あまり体が丈夫ではないみたいだった。

行っておいで
そんな風に言っている笑顔に見えた。

彼の母親はいわゆる『深窓の令嬢』というやつだ。
生まれも育ちも奥ゆかしい性格も、その姿形もまた言葉に相応しい。
彼にとって、彼女は優しい母親である前に
手の届かない高嶺の花のような存在でもあった。
肉親だという気がしなかったのである。

母親は、その男に対し夫以上の信頼感と親近感を持っていたように見えた。
二人の雰囲気に特別なものを感じ取っていた。
本当のところを、今以て〝当人〟に確かめる事が出来ていない。

彼の母親が亡くなったのは、彼がまだ学生だった頃だ。
ある種の疑念を感じながら、カルヴァンは自らの母親を送ったのだった。


<Bloody -rewind>
「この講義が終わったら、気晴らしにでも行かないか?」

真面目にノートを取る前の席の彼女の耳元でこっそり囁いた。
ぴくりと肩を震わせた彼女が愛おしい。例えばその反応ひとつで、ブラッディは至福に満ちるのだ。
後ろを振り返る事はせず、しかし彼女ははっきりと頷いた。


「エディ!」
教室から外へ出ると、友人の姿を発見した。黒縁眼鏡の秀才肌が振り返って笑んだ。
「お疲れ」
キャンパス内には、この国では珍しい桜の木々が花を咲き誇らせる。
暖かい春風が学生たちを包んでいた。
「この後、暇か?」
ブラッディはちらと後ろを気にしながら言葉を掛ける。
視線の先に、彼女が花の美しさをまとうように立っていた。
「ああ…いや、これから研究室だ」
「―お前さんの兄貴と、か?」
「ああ」
エディは眼鏡を指であげながら答える。ブラッディは大袈裟にため息をついた。
「こんな陽気の中で浮かれないのは、お前さんたち兄弟くらいだよ」
そして、ぼそりと付け加える。
「あんまり放っておくと、ルカは俺が貰っちまうぞ」
「―それは、聞き捨てならないな」
穏やかに笑っていたエディの視線が厳しくなった。
ブラッディはそれを確認してほくそ笑む。
「たまには俺の相手もしてくれよな」
一笑して肩を叩く。それから踵を返し、彼女の方へ戻っていった。
桜とは別の、花の香りが鼻腔をくすぐるのを感じた。

ふわりと揺れるブロンドが花吹雪と溶け合うようで、友人ながらつい見惚れてしまう。
その中に、自分はどうしても相容れない気がして
春の色の中、二つの美しい影が遠く離れていくのを
成す術なく見送る事しか出来なかった。



街の北側、市の境目の役割を果たす小さな山がある。
トレッキングをするのにはちょうどいい高さで
休日ともなると、人出が多い観光地でもあった。
地下鉄と沿線を乗り継いでブラッディはルカを連れ、登山口のロープウェイに乗る。

さすがにウィークデイであれば静かなものだ。
街を見下ろしたいと彼女が言ったので、ブラッディは此処を選んだ。
大聖堂のある丘陵からも充分な眺望が提供できるが
あの場所の神聖な空気は、彼の精神に影響をもたらしてしまう。
どうしても踏み込む勇気が持てなかった。

多少の高度の差で低地では真っ盛りな春の植物も、まだ少しまどろみ気味のようだ。
「寒くないか?」
気になって、聞いた。彼女の真っ白な肌にはあまり体温を感じない。
自分なんかよりも体感温度が低いのではないかと案じてしまう。
彼女は静かに首を横に振った。
ブラッディは微笑むと、ルカの細い肩を抱き寄せた。
彼女はうっとり寄り添い、ゆっくりと流れる外の景色を眺めた。

山の中腹辺りの展望台につくと、更に冷たい風が二人の間をすり抜けていく。
「大した差はないと思ってたけど、やっぱり随分違うもんだなぁ」
半分は独り言だ。元々が口数の少ない彼女に、無理に話題を振ろうとも思わない。
ただ、隣に居てくれるだけで充分なのだ。
「でも、何となく気分が引き締まるな」
柄にもなく、生ぬるい春の陽気に浮足立っている気がする。
そうでなければ、彼女をこんな場所まで連れてなんて来ない。

二人きりになるのは、〝危険〟だからだ。

ブラッディは、自らの『本能』をひたすら抑制して生きている。
いくら気付かないふりをしても、もうとうに気が付いている。
何故、これ程までに彼女に惹かれているのか。

手すりに腕をかけ、半身を少しだけ乗り出すように
ルカは小さくなった街の眺望を楽しんでいる。
「…」
ブラッディは、その麗しい髪に触れ
華奢な背中に腕をまわし、彼女を振り返らせた。

ルカは小首を少しだけ傾けて笑んだ。
柔らかな笑顔の周りだけ、春の空気をまとっているかのような。
風の色さえ目に見えるようだ。
彼女の頬から顎の線をなぞるように指先を這わせ
思わせぶりに間を置いた後、そっと唇を重ね合わせる。

繊細で薄い作りのガラス細工を思い起こさせる彼女のすべてが、
自分が触れることで壊れてしまうのではないか

血に飢えた手で、真っ白に輝く雪花に触れる。
きっと、汚してしまうだろう。
抑え込んでいる欲求が、今にも噴き出してきそうだ。
解っていたのに…
それでも、我慢が出来なかった。

思っていたより、彼女の唇には温かさが宿っていた。
思っていたより、彼女の鼓動が激しく聴こえてくる。
血の通う音が、聴こえてくる。

ほんの少しの、鉄の匂いがブラッディの脳を揺さぶってくる。
ダメだと言い聞かせる程に
その甘美な誘惑が、自らの本性を呼び覚ましていく。

「…」
彼女が、意外にもわずかに唇を開いたのでブラッディは隙間に舌を滑り込ませた。
花弁の様な形の好いルカのそれを愛しむことで、本能をねじ伏せようとした。

やがて惜しむようにゆっくりと唇を離し、視線を上げる。ルカの潤んだ瞳とぶつかった。
「―すまない」
自然に口をついて出てくる。
どうして?
彼女は小さな声で問うた。
「…いや」
ブラッディは視線を外し、彼女の白い首筋にも唇をつけた。
ルカが、弾かれたように反応する。
そこに発生した感情が
愛情なのか 恐怖なのか 疑念なのか
彼には確かめる勇気が無かった。

それでも、精一杯の自制をもって
彼女の首筋に自らの牙を立てる事はしなかった。
ただひとつ、〝あの友人にも見えるように〟その愛の痕跡だけを残しておいた。



遠い記憶が呼び覚まされる。

彼女の姿は、忘れかけていた『あの人』を彷彿とさせる。
そうだ、思い出した。

俺が彼女に手を掛けられない大きな理由。
血族の最後の一人としての哀愁や同情も確かに感じているが、
何よりも何処かで『あの人』を思い起こさせる。
今も一番近くで俺を気に掛けてくれる友人の

母親だった、あの人だ。

Outbreak

<Park>
太陽の柔らかな光線が少しずつ西に傾き出してくる頃。
セントラルパークの遊歩道をゆっくりと歩く。
何となく懐かしい気分で、ロザリーは木漏れ日を見上げた。

いつもの、お気に入りのベンチが見えてきた。
「―あ!」
望む姿を見つけたのは、そのすぐ後。
初めて逢った時と同じく こぼれる光を身にまとい、男はそこに座っていた。
沈んでいた気持ちが一気に浮上し、彼女は駆け出さずにはいられなかった。

相手もその気配に気がつき、顔を上げた。そして輝くような笑顔を投げかけてくる。
「待ってたよ、お嬢様」
「ブラッディ!!」
ロザリーは駆け寄り、勢いもそのまま彼に抱きついた。
「ぅわ! 元気そうじゃないか、お嬢様」
ブラッディが苦笑しながら彼女を受け止めてやる。
「良かったぁ。何だか、もう会えないんじゃないかって気がしてたのよ」
「君はそうやって、いつも心配してるね」
「貴方が心配させるからよ」

麗しい花の香りがロザリーの鼻腔をくすぐった。だいぶ慣らされた、彼独特の香りだ。
「俺だって君が心配だったよ。 ―昨夜、大聖堂で事件があったろ?」
胸元に顔を埋めていたロザリーが、弾かれたように視線を上げた。
「ええ!そうなの…、びっくりしたわ」
その表情に覆い隠せない程の恐怖が見て取れる。
ブラッディは怯える瞳を見つめて、ゆっくりと彼女の髪を撫でた。
「…怖かったわ」

ロザリーは自分にも言い聞かせるように、もう一度つぶやいた。
「いえ、今だって…恐ろしいのよ」



「お嬢様、今日はうちに来るかい?」
夕闇が彼らの背中に迫る頃合い。セントラルパークも次第に人影が無くなり
ブラッディが、ロザリーにそう声を掛けた。
「いいの?」
彼女は少しだけ逡巡する表情を見せたが、すぐに嬉しそうに笑んだ。
「ああ。以前にご招待を受けたからね。フェアじゃないだろ?」
冗談交じりに答えると、長いブロンドが風に揺れた。
「…それもそうよね」
少女も精一杯背伸びして応じた。

本当は、怖くて独りで家に帰りたくなかった。
優しいブロンドが彼女の気持ちを汲んでくれたことは、ちゃんと解っている。


<the Room>
53番街の外れ、少し歩くと海に出てしまうくらいの場所にブラッディの部屋はあった。
基本的にカルヴァンの部屋に入り浸っているので、普段はあまり使っていない。
心持ち久しぶりに鍵を開ける。小さく音を立てて扉は外側に開いた。彼は何となく、ホッと息をつく。
「どうぞ。狭くて汚いけど」
誰でも、他人を自室に上げる時に言う決まり文句だ。
果たして彼の部屋も殺風景ではあるものの、狭くも汚くもないとロザリーは思った。
「ありがとう。お邪魔しますわね」
お嬢様気取りで振舞ってみせる。ブラッディが苦笑しながら扉を閉めた。

「素敵!海が見えるのね」
窓際に駆け寄ってロザリーが歓喜した。
灯りをつけない室内が暗い分、部屋の奥に構える張り出し窓からの自然光が景色を一層美しく魅せる。
そこからは青い海が見えた。
「この部屋唯一の自慢」
ブロンドを揺らして、ブラッディも答える。
「羨ましいわ。うちから見えるものと言ったら、丘の上の十字架くらいよ」
「敬虔な気持ちになっていいじゃないか」
大して本気で思っていやしないことは、ロザリーも承知していた。
「じゃぁ、貴方が住めばいいわ」
意地悪く睨んで切り返すと、ブラッディは降参の意を込めて肩をすくめた。

「ブラッディ」
「ん?」
少女は迷いながらも、感謝の気持ちを口にする。
「どうもありがとう」
「何が?」
彼にも何となく、少女の気持ちは解っていた。
「私が、今日独りで家に帰りたくないって…知っていたのね」
かすかな夕暮れの光に反射して、ロザリーの目は碧く(あおく)潤んでいた。
ブラッディは柔らかい笑みを湛えて答える。
「お嬢様は正直だからね。…それに」

そうして白く長い指先を、少女の髪から首筋へと伸ばしていく。
「俺も、君を帰したくなかったんだ」

彼の本能が否が応でも目覚めて動き出す。彼女の濃くて赤い血の匂いが誘発させるのだ。

「ブラッディ…?」
首筋に差し伸べられた白くて長い指先が、異常に冷たい。
ロザリーに、大好きな相手に触れられる幸福感よりも
言い知れぬ恐怖心を感じさせた。
「…」
彼女が今自分を恐れている事は、ブラッディにも解っている。
信じて疑わなかった者への恐怖心、そして猜疑心。
それでも、彼の本能は収まろうとしなかった。

彼の手はロザリーの首筋から肩へと流され、驚くような力で彼女を抑えつけた。
「っ?!」
ロザリーが苦痛に顔を歪め、視線を相手に向けた。
「やめて」と懇願するその視線は、次第に涙で溢れてくる。
彼の眼は鈍く光り、既に眼前の相手を認識していないように思えた。
獲物を前にした、獣の眼。ロザリーにはそう見えた。

と。
視線がぶつかった直後、彼は頭を下げ
獲物の首筋に自らの唇を近づけた。
開かれた口から、鋭い牙と真っ赤な舌がのぞく。
少女にその様相を見る事は叶わなかったが
行為が何を意味するのかは、嫌でも想像がついた。


「ロザリー、気を付けなさい。
『あの一族』が、いつお前の目の前に現れるか分からないから」
まだ生きていた頃、彼女の祖父は言っていた。
「奴らは、お前の濃い血の匂いをたどってくる。
だから、気を付けなさい。必ず、お祈りの言葉を口にして…」
そう言って聞かせていたのは、彼女の祖母だ。
けれどロザリーは本気にしていなかった。今更祈りの言葉なんて、覚えちゃいない。

違う。これは、そんな因縁めいた話じゃない。

これは、昔よく読んだお話の中の場面だわ。
そんな事が現実に
ましてや自分の身に降りかかるなんて、一体誰が想像出来て?

そうよ。これはきっと、あの悪夢の続き。

そうであるに違いない。


<Rosary>
次に気がついた時には、窓から朝陽が射し込んでいた。
いつもと違う方向からの光に、ロザリーは瞬間的に自分が何処にいるのか把握出来なかった。
大きな窓から、海が見える。ココは…ブラッディの、部屋?

昨晩の出来事を思い出そうとした。
けれどある時間以降から、自らの恐怖心が支配してなかなか思い出せない。

彼女は室内にたった一人残されている。家主は一体何処へ行ったのだろう。
ゆっくりと起き上がる。
部屋の隅に置かれていたベッドに寝ていた。…寝かされたのだろうか。
「…」
服は、着たままだった。
「ブラッディ?」
ベッドを抜け出ようとして動き出すと、ふわりと花の香りが彼女を包み込んだ。
「?」
彼女が動いた拍子に床に滑り落ちた
彼のジャケットについた、残り香だと悟った。

彼の部屋 彼の痕跡はあるのに
当の彼だけがいないのは、何故?
ロザリーは途端に、胸が締め付けられるような寂しさに襲われた。
「何処に行っちゃったのよ…」
視界が緩んで世界がぼやける。
キラキラと輝く朝陽を含んで、彼女の涙はぽたぽたと床にこぼれ落ちた。

「また、私だけ…置いてきぼりなの?」
呟いて抱きしめた彼のジャケットに、…何か入っている。
「…」内ポケットに一つだけ。
「『タルカス』…」
店の名前と電話番号、簡単な地図が記された宣伝用のマッチだった。

ロザリーはしばらく眺め、ブラッディが普段煙草を吸わない事を思い出す。
そんな彼のジャケットに、どうしてマッチなんて入っているのだろう。
彼女はようやく見つけた手がかりから懸命に推理する。

―コレがもし、彼からのメッセージなんだとしたら?

この店に行ったら、たとえ会えないとしても…
彼に関する何かが分かるかもしれない。
「…」
何も無いよりは、ずっとマシだ。悩むよりも、まずは動いてしまおう。
彼女生来の前向きな行動力が後押しする。
ロザリーは涙を拭って立ち上がった。
朝陽も、だいぶ昇り始めてきていた。

Connection

<TARKUS>
店の外に人影が見えて、カルヴァンはドアの鍵を開けた。
「―あ!」
開店前と知ったからか、中へ呼びかける事をためらっていた客人は 
予想外にドアが開いたので驚いたようだった。
この店の客としてはあまり似つかわしくない、小柄な少女が立っていた。

赤みがかったブロンドの髪は肩のあたりで切り揃えられ
真ん中に収まる顔立ちにはブラッディにも負けず劣らず、と言った気品が見て取れた。
深い藍色をした瞳は、この上なく不安そうな様相だ。

「ええと、うちに何か?開店は十一時からだけど…」
表情から見るに、道にでも迷ったのだろうか。
店に用がありそうな雰囲気でもなかったが、カルヴァンは一応説明した。
「あの…」少女はまず、何をどう伝えたらいいものか迷っていた。
が、それも少しの間で
意を決したように再び顔を上げた時には、不安な表情が払拭されていた。
「私、ブラッディ・メアリーという人を探しています。
彼の持ち物の中にコレがあったので…こちらに伺いました」

差し出されたマッチのケースを見るや、今度はカルヴァンの顔色が変わる。
それだけで、状況が把握できた。
「…君は、もしかして…ロザリー?」
そう、確認する。直後、ロザリーは驚いた顔をして頷く。
「! ええ、そうです!…私を知ってるの?!」
そうか、この子が…。
カルヴァンは表情を緩め、店のドアを大きく開いて彼女を促した。
「ブラッディからちゃんと聞いてますよ。
僕は、彼から貴女を迎えるように言われています。さぁ、どうぞ中へ」


昼の開店まで、まだ少しだけ時間があった。
カウンター席には、ロザリーが座っていた。
「ダージリンで良かったかな?」
あまり使う事のないティーカップを差し出してカルヴァンが言う。
ロザリーはゆっくりと笑みで答えた。
温められたカップを手に取り、程良く色づいた紅茶を注ぐ。少しずつ店の雰囲気にも慣れてきた。

ブラッディの足跡をたどって来られた場所だ。
やっぱり、処々で優しさを感じる。店の中も、店の人も。
縮こまって不安ばかりだったロザリーの気持ちが、紅茶の湯気に紛れて解けていくようだった。
「どうもありがとう」
ようやく口にする事が出来た。カルヴァンも微笑んで応えてくれる。

「君の事、ブラッディはよく話してくれてたよ。
すごく素敵な友達が出来た…って言って」
嘘では無い。実際彼は彼女の話をする時、嬉しそうだった。
それは、『糧』としてよりも 
友人として彼女をみていたからではないかとカルヴァンは考えていた。

若干の沈黙が流れる。カルヴァンは次の言葉を探している。
その間にロザリーが問うてきた。
「ブラッディは、よく此処へ来るの?」
「ああ!〝よく〟なんてもんじゃない、殆ど毎日さ!
酒を飲むのも好きだからね。ヘタすれば朝まで居座りやがる」
カルヴァンは大げさに身振りして答えた。
「あらまぁ」
「付き合わされる身にもなって欲しいね。アイツは翌日も寝てりゃいいだろうが
俺は昼の仕込みもあるし、寝ていられないんだからさ!」
「困ったものねぇ」
ロザリーもつられるように大げさに言って、笑う。
彼女の笑顔を見つめて、カルヴァンはほっと息をついた。
とりあえず、元気は取り戻してもらえそうだ。

ほんの些細な所作からも解る育ちの良さ
どんな表情の時でも変わらず窺える意志の強さ
見た目以上に、内側から滲み出るものが
彼女の魅力を引き立てる。

ブラッディが気に入ったのも、道理だな。
そして、彼女をカルヴァンに託してきたことも。

少し前に、いつものように酒を飲みながら
ブラッディはカルヴァンに頼み事をしていた。

もし、ロザリーが店を訪ねてくることがあれば
彼女を守ってやって欲しいと。

それはおそらく、ブラッディが自身の『理性の消失』を恐れているのだろうと
カルヴァンは考えていた。

本能が先行して、赤い血を求める時がきっと来る。
そうなった時、俺は彼女を救うどころか 殺してしまうだろう
だから、お前さんが守ってやってくれないか
排他的な社会の眼から
そして、何より 俺の手から

そう言って、寂しそうに笑んだ友人の顔をカルヴァンは思い出す。
それこそ、彼女を『素敵な友人』として想っている揺るがない証だろうと思うと
苦しくて、悔しくてたまらない気持ちになった。



<Rosary-rewind>
その家に生まれた待望の子は女の子で
少し赤みがかった髪色の、何とも可愛らしい子だった。
『ロザリー』と名付けられた子供は、家族の愛情を一身に受け順調に育っていった。

「ロザリー、ちょっと痛くするけど 我慢しておくれ」
一歳の誕生日を迎える頃、父親は娘の白い肩に小さな傷をつけた。
ペーパーナイフでほんの少しだけ、皮膚を切りつける。
細い線が出来た。
「…」
母親も祖父母も、そして乳母も固唾を飲んで様子を見守っていた。
やがて細い線は赤い色を施し、みずみずしい液が溢れる。
「―おお…」
祖父がまず感嘆の息をもらし、祖母が涙ぐんだ。
「美しい赤い血だ…」
誇らしくつぶやく祖父の言葉に、父親も母親も若干の違和感を否めなかった。
「ええ、誠に美しい」
祖母と乳母も顔を見合わせて頷く。
そして、流れ出た無垢な血液を脱脂綿で掬いあげる。白地に鮮やかな色が染み渡った。
乳母が、その傷口に包帯を巻いてやった。

「確かに、純粋な赤い色は誇るべき血の色だ。
しかし…それがこの子にとってどれだけの意義がある?」
夜半、寝静まる家の中に一か所だけ明りが点っている。若い夫婦の寝室だ。
ロザリーを寝かしつけた妻が寝室に戻ってくると、夫は静かに言葉を落とした。

娘の赤い血を見てからずっと、考えていたのだろう。その気持ちは、母親も同じだ。
「むしろ、今の世の中では災厄を呼ぶ恐れもあるわ。
血の色が周囲に知られてしまえば、間違いなく好奇の目にさらされる」
「それだけではない。血の匂いを嗅ぎつけて『あの一族』が動き出してくる可能性も…」
「まさか…奴らは滅びたはずではないの!少なくとも、この街にはいないはずだわ…」
忌々しいものを思い出して口にした夫に対し、妻はすぐさま反論をする。
だが、夫は黙ったまま首を横に振った。
「断定は出来ないだろう?」
「…」
「ともかく、警戒するに越したことは無い。その為に、この名を選んだのだから」
「ロザリー…」
子供部屋で眠る愛娘を思い浮かべ、その名前を大切に、愛おしく声に出した。
聖なる力を信じ選んだ名前に、どれだけの効果があるかは判らない。
それでも、すがりたいと思う切実な親心がそうさせた。



世の中の仕組みが知らぬ間に変わって行くように
科学技術や医療技術の発展により、人体の仕組みも〝当事者〟たちが知らぬ間に変わっていた。
この時代の人間は、旧来の『赤い血』を持たない。
高度な医療技術等による完璧な健康管理のお陰で〝外側〟からの『生命維持』が可能になった。
繊細で重要な役割を持つ『赤い血』を、自らで生成する必要がなくなったのだ。

今、人間の体内に流れているものは薄い紫色をした液体だ。
もはや水分を保つ役割を果たしているくらいと言っても過言ではない。
ヒトの〝外側〟の発展は、〝内側〟を退化させてしまうという結果を招いた。
だが、この事を認識している人間はほとんどいない。
自分たちの中を流れている頼りない液体は、昔から不変のものだと思い込んでいる。

人間の生態や歴史に関しては、一部の研究者が極秘裏に調査・研究を続けている。
彼らの間ではこの紫色の血液を持つ人間を『新人種』
古くからの赤色の血を持つ人間を『旧人種』と呼んで区別していた。
もっとも、研究者自身も言わば『新人種』であり
実際に『旧人種』の鮮血を目の当たりにした事のある者は、皆無と言って良かったのだ。
有識者の間ですら、そんなものは伝説に過ぎないと思う声が高かった。


彼女の家は、『旧人種』の一族である。
事実を知る人間は家族のほか、長く仕えている乳母と先祖の代から懇意にしている町医者くらいだ。
ロザリーの母親には、少し『新人種』の血が混じっている。故に、初め彼らの結婚は両親に認められなかった。
だがもはや純粋な赤い血を持つ他の家など無くなっていた。
辛うじて赤い血の混じった家系を確かめた後、ようやく彼女はその家に入る事を許された。
夫であるロザリーの父親は、彼女と結婚することで〝完全に閉ざされた〟古い一族の血の色を断ち切りたかった。
残されているのは捨てきれない誇りだけで、今更、赤い血を持つ事に何の価値も無いと思っていたのだ。
『異端』と言う枷をして生きていかねばならない子が事実を知った時、心から幸福になれる事はないとも思っている。

しかし、ロザリーは鮮やかな赤い色を持って生まれた。
せめて自分たちが守れる間だけでも、この子には何の不安も心配も感じさせない幸福な時間を作ってやろう。
私たちは、その為だけに生きていけばいい。
すやすやと寝息を立てる我が子の寝顔を眺め
希望に満ち溢れた張りのある頬をそっと撫で、夫婦は固く誓い合ったのである。

世間に事実が知られてしまう危険性を孕んでいるものの
両親は、娘に普通の生活を送らせてやりたかった。
たくさんの友達と遊ばせ、皆と同じく学校にも通わせてやりたいと考えていた。
だがやはり子供の行動は、致命的な結果を生んだ。

あの家の娘は、赤い血を持っている
近所の噂話が研究者たちの耳に届くまでにそう時間はかからなかった。
ロザリー自身にだけは心無い手を触れさせまいと、両親は身を呈して娘を守った。

そして、彼らはその心無い手によって 殺されてしまうのである。



「…」
ロザリーは、自分が泣きながら目を覚ました事に気付いた。
目頭が重ったるく感じられ、そのままもう一度眠ってしまおうかと考えた。
閉めきられたカーテンの隙間から差し込む陽の光を横目で確認する。
もう、朝だ。起きて、カルヴァンを手伝わねば。
遠い過去の思い出を引きずっていても、
今、自らが置かれている状況はきちんと把握している。

ベッドから抜け出すと、裸足を床につけた。ひんやりとした感触が彼女の頭を冴えさせる。
窓際まで歩み寄って、一気にカーテンを引き開けた。途端に部屋の中が明るくなる。
目の前には、賑やかな50番街の通り。朝のラッシュが始まる前で、散歩やジョギングをする姿がちらほらと見えるだけだった。
ロザリーは今までとは違う景色、違った環境に身を置いている事を実感した。


階下で朝食の支度をしていたカルヴァンが、降りてくるロザリーに気付いた。
「よ、おはよう」
「―おはよう」
とてつもなくいい匂いがロザリーの鼻腔をくすぐり、途端に腹が鳴った。
カルヴァンには聴こえていないだろうが…それでも彼女は顔を赤くする。
「どうしたの?顔が赤いよ。熱でもある?」
彼もそこには気付いたらしい。慌てて首を振り、とびきりの笑顔ではぐらかした。
「いいえ!何でもないわ!
ごめんなさい、遅くなってしまって…手伝います」
「ああ、いいよ。もう出来上がるから、お嬢様はお掛けくださいな」
おどけるカルヴァンの言葉に
ふと、ブラッディの面影がよぎる。途端に胸が痛みを訴えた。
ロザリーはカルヴァンに気付かれないように振舞いながら、カウンターに駆け寄った。

「ちゃんと眠れた?」
自らはコーヒーを入れ、ロザリーの為に紅茶を入れながらカルヴァンが言う。
皿に盛られたみずみずしいフルーツを頬張るロザリーが頷いた。
「ええ、とっても」
「その割には…、目が赤い」
彼女の顔を覗き込むようにして、紅茶のカップを置いた。
ああ、と思い出したようにロザリーは自身の目頭をさすった。
「夢を見たの」
「どんな?」
「昔の夢よ。父がいて、母がいて。世界が楽しい事に満ちていた、子供の頃の」
「…そう」
カルヴァンが優しく微笑むと
今度はそこへ、彼女の父親の影が重なった。
今朝はどうも感傷的になっている
ロザリーは小さく首を振って自嘲した。

「カルヴァン」
「ん?」
そして、ナーバスな自分を払拭しようと表情を切り替えて呼びかけた。
「お陰で思い出したの。私の話、聞いてくださる?」



ロザリーが自らの血の色が他の子供たちと違う事に気付いたその後から、彼女の身辺には少しずつ変化が出てきていた。
赤い血を待ち望み歓喜した祖父母はとうにおらず、家には、ロザリーの両親と乳母がいるだけだ。

彼女の両親が危惧していた
『異端を排除しようとする』地域の動きが徐々に見えてきていた。
そしてそれとは別に、予期せぬ方向からの凶兆が彼らを襲う。

いつ頃からか、何処から来たのか当時は分からなかったが
何だか偉そうな大人たちが、入れ替わり立ち代わり訪れるようになった。
両親の反応を見るに、あまり歓迎された客人ではなかったようだ。
「少ししてから乳母に聞いたのだけど、あれは大学病院の人間だったらしいわ」
「へぇ?」
「あの頃は、そんな人たちがどうしてうちへ来ていたのか想像も出来なかった。
…でも、ようやく解った」
語り続けるロザリーの視線は、カルヴァンではなく
当時の自分を見つめているのだろう。
その証拠に、彼女の真正面にいても視線が合わない。
「―私の血が、欲しかったのね」
乾いた声音が、室内に響いた。

もはや都市伝説とも言うべき『旧人種』については、
様々な尾ひれのついた噂話が密かに、しかし確実に浸透していた。
それは
旧人種の赤い血には、どんなウィルスをもはねのける程の効力があるだの
彼らの赤い血を飲めば、不老不死となることが出来るだの、そういったとんでもなく胡散臭いものばかりだ。

もちろん、たいていの人間は一笑に付してしまうのだが
ごく一部の研究者たちには、まことしやかに語り継がれていた。
たとえそれらが単なる噂話だったとしても、その『赤い血』が実存しているとなれば如何様にも研究の対象になり得る。
そうして、一家 ―特に新世代であるロザリー― は狙われたのだった。

それまで大学が調べ上げた旧人種のデータを隠滅してしまえば
我々が存在するという記録が無くなりさえすれば
娘だけなら、何とか逃げおおせるかもしれない…
幸いにして、娘はまだ直接大学側の人間に会っていない。彼女の顔は知らないままだ。

父親は、娘を巻き込まないことを条件に、自ら『サンプル』として身柄を預けることを申し出る。
丁重に招待された先は、院内の隔離病棟。彼はそこへ幽閉されたのである。
しかし、それは夫婦の思惑通りでもあり
敵の懐に忍び込み、内側から研究データを消失させようという
彼らの目的を後押ししてくれるものでもあった。

研究者たちの度重なる採取や測定、尋問などを〝こなす〟間に
父親はついに、旧人種のデータが保管されている研究棟を発見する。
そして面会に来た妻の手筈で、研究棟に火をつけた。
「―それって、もしかして…」
カルヴァンは思わず、ロザリーの言葉をさえぎって聞いた。
「覚えているかしら。当時、割と大きな報道になったから」
「十年前の大学病院の火事…火元も犯人も、被害者さえ不明って騒がれたヤツだね?
…ああ、覚えてるよ」
「平穏な街に起きた、随分とセンセーショナルな事件だったものね。
―でも私、この頃の記憶にずいぶん頑丈な蓋をしていたみたい。今朝、夢を見るまで忘れていたわ」

その当時、そして今でも引きずる傷の深さが計り知れない。
カルヴァンは、ロザリーが抱える闇と『宿命』にいたたまれない気持ちになる。
同情よりも、恐怖が勝った。

ロザリーの両親が放った火は院内の一棟を全焼させた後、消し止められた。
地上階に保管されていた研究書類や資材はすべて消失したが
地下に保管されていた分は、多少すすける程度で残されていた。
彼女の両親が、命を賭して消し去りたかった旧人種の資料も後者にあたる。
結局のところ、彼らの『計画』は 失敗に終わってしまったのだ。


ロザリー自身は、両親が焼かれた病院の炎を見ていない。
覚えているのは
騒ぎ出した警察やメディアや近隣住民が
彼女の家を取り囲んでいた、悪夢の様な光景だけだ。

「―事件後少しすると、報道が厳しく規制された。大学側の計らいかしらね。
当時の記事や資料ももうほとんど残っていないはずだわ。
明るみに出せるような研究ではないから、向こうもうやむやにして終わらせたかったんでしょうね。
結局は研究員による失火ってことにでもなったんじゃなかったかしら。
でも…
あの時はマスコミも世間も、うちが絡んでいるって解っていたのよ」
ココは大きな街だ。東側と西側では情景も情勢もだいぶ違う。
事件自体を知ってこそいたが、その詳細や真相など当時のカルヴァンには興味も関心も無かったのが正直なところだ。

それから後近隣の住民も様変わりし、事件のことを口にする人間も、一家のことを知っている人間も徐々に減って行った。
嵐が過ぎゆくのを、彼女は乳母と共にじっと待っていた。
「それっきり、大学側が私に関わることもなかったし、乳母は私を家から外に出さなかった。
近所でしばらく続いた嫌がらせも、私たちからの反応がないので飽きたんでしょう。
二年も経たないうちに、何事もなかったように静かになったの。
学校にこそ行けなかったけれど、それでも少しずつ外出が出来るようになったわ」

そう言ったロザリーの表情は少し明るいものであったが
カルヴァンは、彼女の指先が細かく震えているのを見逃さなかった。
彼の視線に気づき、ロザリーはうっすらと微笑みを浮かべた。彼女の気持ちが痛いくらいに伝わってきて、やるせない。
「改めて思い出してみると、今でも震えが止まらないみたいね。
そう、あれはまるで…中世の魔女狩りみたいだったもの」

いくら技術が発達して世界が発展したとしても、
人間の本質は基本的に変わりようがないのである。


「―急にこんな話を聞いたら、私のことが恐ろしくなった?」
ロザリーが投げやりに微笑み、尋ねる。カルヴァンは静かに首を振った。
「いや、まったく。実を言えば俺も、そういう話をまるで知らなかった訳じゃない」
「…そう、なの」
「そもそも、その人の人間性は血の色で決まるもんじゃないさ。君は君、だろ」
それは、目の前の少女だけに向けられた言葉ではない。
あの友人に対してだって、ずっと考えてきたことだ。
少女は大きく見開かれた瞳を少し潤ませて、それでも気丈な笑顔を見せて答える。
「…ありがとう」
今度の笑顔には、卑屈な感情は見て取れなかった。
「当然のことだよ」
カルヴァンも微笑んで応えた。

けれど少女は、それでひとつ確信した。

しばしの沈黙に、お互いが次の言葉を投げ掛ける為の思案を重ねる。
店の外の音が漏れ聞こえた。元気な子どもたちの笑い声とパタパタ走りゆく足音。そろそろ、通勤や通学のラッシュになる。
目の前で冷め始める紅茶のカップに手を伸ばし、一口をゆっくりと飲み込んでから
やがてロザリーがポツリとこぼした。
「―ねぇ、カルヴァン」
「…ん?」

カルヴァンには何となく、彼女が何を言い出すのか理解出来ていた。
それは自分が危惧していた事態を呼び込むような、不吉で悲劇的な台詞かもしれない…
カルヴァンにはそんな予感が拭い去れないでいた。
ロザリーの潤んだ瞳が更に大きく揺れ、彼女自身がもっとも認めたくなかったことを
口にしようとしていることに気づいたからだ。

そんなはずはない、と否定したかった
でも、目の前で見てしまったから

ようやく次の言葉を吐き出そうとするロザリーの唇が震えていた。

「―ブラッディも、私の…赤い血を欲しがっているんでしょう?」
「―」
カルヴァンは何と答えたらいいのか分からず、押し黙るばかりだ。
けれどそれは、ロザリーが自身の疑問を肯定するのに
充分過ぎるほどの確証にしかならなかった。

彼女はもう一度ゆっくりと、自らに言い聞かせるように呟く。
「…彼は、吸血の一族の人間なのね」

カルヴァンは、まるで自分の胸が抉られたような痛みを感じ
思わず彼女から顔をそむけた。

Footsteps

<Carvin>
閉店まで残っていた常連客たちをやんわりと追い出し、『タルカス』の看板を下げようとカルヴァンは店の外へ出た。

夜風がだいぶ冷たい。シャツ一枚で出てきてしまった事を後悔するくらいだ。
慣れた手つきで手早く撤収しようとしていたカルヴァンは
ふと、誰かの気配を感じた。
「!」
この時間、この暗闇に紛れてやって来る奴に充分心当たりがある。
ゆっくりと振り返り、名前を呼ぶべきか迷っていた所で
「‥俺の気配に気が付けるのは、お前さんだけだよ」
暗がりでも輝いて見える、懐かしい金髪の影が見えた。
とは言え、彼が姿を消していたのはほんの二週間ほどの事だが。

「…何処に居たんだ」
いつもなら店の脇の街灯の下に出て、正体を明かして見せるが
今夜の彼は声と影だけで、一向に姿を見せようとしなかった。
「なに、ずっと自宅に引きこもっていたのさ」
半ば冗談のように言ってみせる。

姿を見せないのは恐らく、ロザリーに見つからないようにとの意図だろう。
と言う事は、俺だけに伝えたいことがあるのか‥
カルヴァンはそう察し、さりげなく周囲を見回した後出来るだけ声を落として告げた。
「‥何処か外で話そう」
いつも通り店内に招き入れては、ロザリーに話を聞かれる可能性も大いにある。
彼は少し思案した後、答えた。
「アーケードの西の端に『サテン・ドール』って喫茶店がある。あそこなら夜通し開いてるよ」
カルヴァンが分かったと返事をすると、消えるように彼はいなくなった。
こういう時の彼は、本当にこの世の者では無いような身のこなしだ。
カルヴァンがぶるっと肩を震わせたのは、肌寒さのせいだけではなかったろうか。

看板を店内に収納し、上着に袖を通して外に出ようとしたが
思い直して、紙とペンをつかんだ。
カウンターに一枚メモを残して、改めて外に出る。


昼間は街の中心を彩る賑やかなアーケードの中も、深夜を回れば開いている店はほとんど無い。
さすがに人通りもまばらで、
『タルカス』のように深夜手前で閉店する店から追い出された酔客たちが、千鳥足で次の目的地に向かうくらいだ。
家に帰る者もあれば、次の店を探す者もある。
薄暗い照明だけのアーケードは、まるで魔物が大きな口を開けているような不気味さがあった。

千鳥足たちをかわしながら、カルヴァンは指定された店を探す。
西の端‥って言ってたな
『タルカス』がある50番街からは一番遠いエリアだ。…意図的だろうか。
「‥あ、あった」
レンガ造り風の店の外観に、ツタが絡まる演出。お洒落な老舗喫茶店の典型的な装いだ。
壁に埋め込まれた看板に、少し薄れた文字で『サテン・ドール』とあった。
重厚そうな扉を開けて、カルヴァンは店内に入って行く。扉は重そうに見えたが、意外と軽く開いた。
薄暗い店内は客の居るテーブルの所にだけ照明が灯り、低い音量でBGMが流れていた。
店のコンセプトはジャズか‥センスが良いな
飲食店に入ると一通り品定めしてしまう。職業病というやつだろうか。
明かりのついているテーブルを確認するだけでも、意外と客がいる。
こんな時間でも需要があると言う事だ。

「いらっしゃい」と小さいがよく通る声で、店主らしき男性がカルヴァンを迎えた。
店主の方へ視線を向けると、その更に奥の席に彼を見つけた。
軽く会釈をして店主のいるカウンターを通り過ぎ、
ついでに「バーボン貰えますか」と告げて席に着く。店主は静かに頷いて応じた。

ようやく明かりの下に出てきた金髪が、嘘くさい笑顔をカルヴァンに向ける。
「久しぶりだなぁ、ハニー」
たかだか二週間ぶりだが、ブラッディの気障な台詞がひどく懐かしい。
少し安堵するような気持ちを押し隠し、カルヴァンは努めて冷ややかな視線を投げる。
「…で? 何の用だ」
「何だよ、冷たいなぁ」
ブラッディが苦笑した。笑う度に見事な金髪が揺れる。
陽の光の下とは違う艶やかさに、カルヴァンはつい見惚れてしまうが
今はそんな事を考えている場合ではない。
「‥おい」
「ああ、解ってるよ」
勿論、彼にだって解っているのだ。

どうぞ、とカルヴァンの前にグラスが置かれた。
傾けられたグラスから、氷のぶつかる小さな音が聴こえる。
ブラッディの前にも、同じグラスが置かれた。
「あれ」
それは既に二杯目のようだったが、今日はブラッディ・メアリーを飲んでいない。
「たまには、お前さんに合わせてやるよ」
仰々しくグラスを持ち上げ、カルヴァンのものに合わせる
カチン、と涼やかな乾杯の音を立てた。

「‥ロザリーはそっちに行ったかい?」
「ああ、来たよ。今は二階に泊めてる。昼間だけは店を手伝ってもらってるよ」
「…そうか」
「いい子だな。可愛くて頭もいい」
カルヴァンが感心したように呟き、ブラッディも同意して頷く。
「好奇心も旺盛だが、冷静な判断も出来る。俺が残した〝メッセージ〟を受け取ってくれたようだ」

あの時彼女に残しておいたのは、自分のジャケットに忍ばせた『タルカス』のマッチだけ。
そこから推理して、見事にカルヴァンの元へたどり着いた。
果たしてそれは、ブラッディの思惑通りだったのだ。


カルヴァンのグラスに二杯目が注がれ、ブラッディは早くも三杯目のオーダーをした。
その間にいくつもの取り留めのない会話が続き、初めこそ呆れ顔をして応じていたカルヴァンも次第に気が付く。
―彼は、まだ何かを迷っているのだ…と。

三杯目のオーダーは、いつも通りのブラッディ・メアリー。一口含んでから、大儀そうに言葉を吐き出した。
「―街を出ようと思うんだ」
「…何だって?!」
そうして一言こぼしたきり、また黙り込んでしまう。じれったくなって、カルヴァンが尚も続ける。
「だってアンタ、戻ってきたばかりじゃないか…。ロザリーのことだってあるのに、」
勢い込んで言い終える前に、思いのほか鋭く遮られた。
「―だからだよ」
「…え」
出し掛けた言葉を引っ込めたカルヴァンの耳に、再び店内のBGMが届く。
ふと合わせたブラッディの視線はいつになく鋭利で、それでいてこの上なくやるせない。
カルヴァンはそこでようやく、彼の意図を理解した。それを察したように、ブラッディの視線が柔らかいものに変わる。
長いつき合いだ。彼の人となりも知り尽くしている。
多くを語らずとも、その目を見ればお互いの気持ちは痛いほどに伝わるのだ。

「彼女を大切な友人と思えば思うほど、俺は彼女のそばに居てはいけないのさ」
自嘲するようにこぼした。
「…ブラッディ、…」
カルヴァンが二の句を継げずにいる間に、今度はブラッディが話し続ける。
「―こないだ、彼女に手をかけた」
「―!」
端的な物言いが、カルヴァンに相応の衝撃を与えた。
その反応を確かめるように呼吸を置いて、彼はまた言葉を繋ぐ。
「…正確に言えば、それは〝未遂〟であったようだが…
ただ俺には、その時の記憶が無いんだ」
カルヴァンは必死になって、言うべき台詞を探す。
「…じゃぁ、〝未遂でなかった〟可能性もあるってことか?」
挙句、口にしたのはそんな言葉。これではまるで、彼を責めているみたいじゃないか。
俺が言いたいのはそんなことじゃない。
カルヴァンの葛藤を知ってか知らずか、ブラッディは無感情にああ、と頷く。
そして付け加えた。
「記憶はない。けれど、『赤い血』を摂取していたとしたら…
今頃、俺の理性はこうまで保たれちゃいないはずだよ」
「―…」

思わず息をのむ。少し前に聞いた話を思い出した。
あの時、正直なところカルヴァンはそれを本気で聞いてはいなかった。
―本能が先行して、赤い血を求める時がきっと来る。

言わば彼は、長いこと『空腹』の状態だ。そこへ待望の『食事』をする。
それは鈍っていた本能が『覚醒』する行為に等しいはずだ。
とは言え…
彼の理性など、ほんの表層の部分で辛うじて保たれているに過ぎないということなのか。
長い間カルヴァンが親しんでいる彼と言う人格は、そんなにも脆く薄っぺらくいものなのだろうか。

言葉を失うカルヴァンに、彼は優しく笑いかけた。
それは今までに見たこともない、柔和で慈愛に満ちた表情だった。
今の彼に向けられるには、あまりにも温かすぎて、残酷だ。
何で、そんな顔するんだ…
アンタはきっと、これからろくでもないことを言い出すに違いない
聞いてなんかやるもんか
聞いてなんか、やるもんか…

しかし次にブラッディが口にしたのは、少し意外な話だった。
「俺が理性をなくしかけた相手が、ロザリーの他に…過去にもう一人だけいた」
「…え?」
「ロザリーは、少しだけ彼女に似ていたんだ」
懐かしい、美しい想い出を語るような彼の口調は、何処か恍惚としたものにカルヴァンには感じられた。
そして、脳裏に思い当たる人物が…ただ一人。
魅了されたのは彼だけではない。息子だった自身さえも、清楚で崇高な存在として憧れていた。

「―もしかして…、それって…」

その問いに、はっきりとした答えはなかった。彼はただ、笑ってみせただけだ。
ブラッディ・メアリーの最後の一口を飲み干し、やがて静かに告げる。
「お願いだカルヴァン‥どうか彼女を、守ってやってくれ」
その言葉が、彼の決意と共に 彼との決別を意味するものだと
その時のカルヴァンは、どうしても信じたくなかった。


<Rosary>
目が覚めて、ロザリーはとても不思議な気持ちになっていた。

ブラッディが、会いに来ていた気がしたのだ。
夢でも見たのだろうか あまり覚えていない
けれど、こないだみたいな泣きたい気持ちではなくて
何と言うか…とても穏やかな気持ちで目が覚めた。
「…」
何処かで微かに、あの花の香りがした。

着替えをして部屋を出ると、珍しく二階の廊下にカルヴァンの姿があった。
「―カルヴァン、おはよう」
ロザリーが背中越しに声を掛けると、彼ははっとしたように背筋を伸ばして振り返る。
「ああ、おはよう」
少し目が赤いように見えた。そう言えば、と思い出して何気なく尋ねる。
「昨夜は遅かったの?」
カルヴァンは瞬間的に焦ったような表情をした。

―何か悪いことを聞いちゃったかしら…
昨夜ロザリーは一度目を覚まし、たまたま店に降りてきていた。そこで、カルヴァンのメモを見つけたのだ。
少し出掛けるからと言う書き置きで、おそらく彼女に宛てたものだろうと思ったのだが。
「ああ…、うん、ちょっとね」
カルヴァンの返答は明らかに鈍く、何かを隠していそうだったが
彼女は敢えて追求しないことにした。
私に聞かせたくないこともあるでしょうし…
何より、彼女は今とても穏やかな気持ちだ。細かいことを気にするのはやめよう。
「そう。じゃぁもう少し休んだら?朝ごはんくらいなら、私にも準備出来るわ」
にっこりと微笑んでそう言った。
カルヴァンが今度は何故か泣き出しそうな笑顔を作って、答える。
「―ありがとう、でも大丈夫だよ」
そして、ロザリーの頭にポンと手を置いた。
こういう所が、彼はブラッディによく似ている。
ロザリーは、そこに確かに 金色の面影を認めていた。

彼の仕草に紛れて、花の香りが舞った。

Bloody Mary

<Bloody>
誰もいない自分の部屋に戻り、ブラッディはひとまずほっと息をつく。
部屋に入るのは、あの夜以来だった。
ロザリーを襲った、あの夜だ。

もしかしたら同士として
もしかしたら、理解し合えたかもしれない。
実際、ロザリーの方にはその感情が見て取れた。
問題なのは、自分の方だ。
錆びかけていた厄介な本能がまだ、己のうちにこびりついていたのだと思い知った。

自らの血の色は、変えられない。彼女とて、それで悩み苦しんでいた。

暗くなり始めた部屋の中で、彼はぼんやりと窓の外を眺めた。
断片的に思い出す記憶を頼りに、自分の考えを整理しようと試みる。



そもそも、『それ』はどこから発生したものなのか
いつから存在しているものなのか、今となっては知る術もない。
彼もまた父親がいて母親がいて、世に出てきたのだろうか。
当時の記録や当人の記憶はまったくなかった。
「気が付いたら、存在していた」そんな表現が当てはまる。
厳格な父親と優しい母親、祖父母や使用人たちがいる大所帯の家庭。
その真ん中に彼はいたらしいのだが、まるで植えつけられた記憶のように 
それは実感に乏しかった。
自分は本当にそこにいたのだろうか…疑わしかった。

はっきりと覚えているのは
定期的に集まる縁者たちが、決まって彼に言い聞かせる言葉だ。
当時〝今よりも少しだけ若かった〟彼は、大人たちから口々に言い聞かされていた。

「お前は、一族最後の生き残りになる。
―いいか。ひっそりと生き、ひっそりと死んで行け。
人々の記憶や記録に残ってはならない。
我々は、〝一般的な人種〟にとっての悪しき存在
いわば、悪魔なのだから」

実際、彼は一族最後の生き残りとして静かに生きた。

教わった『食事』の方法にあまり違和感を覚えなかったのは、彼がまだ世の中を知らなかったから。
人間というものは、あまねくすべて〝他人の生き血を糧にして生きている〟と思っていたからだ。
彼が本当の世界を知り、
自分が異端であることを知るのは、もう少し時が経ってからのこと。

己の存在に驚き悲嘆した彼は、移住を決意する。
かつて住んだ家と財産をすべて売り払い、充分過ぎる額の金を手にした彼はそれまでの生活を捨て、海を渡った。
もう誰の生き血も糧にはすまい
そう誓い、せめて誰も自分を知る者のいない街で死んでいこうと思ったのだ。

そこは大きな街で、明るく近代的で
古い伝説に出てくるような『怪物』の存在など、かけらも信じないであろう街。
相手の素性をかんぐらない
隣人に無関心な点だけでなく、彼はこの大きな街がとても気に入った。

いつの間にか、人間は体内の組織が変貌し
彼が糧としていた『赤い血』を持たない類の人間が、世界を占めるようになった。
誓いの通り、彼の〝本来の〟食事は移住後一度もなされていない。
通常の食物から栄養を摂り、酒やカフェインで本来の食欲を麻痺させ
一般の人種と同じように、生活出来ている。

それでも、忌まわしき本能はその匂いを求めてやまない。
彼の嗅覚は無意識のうちに、しかし確実に、獲物を捕らえていたのである。

学校へ行くことの出来なかった彼は独り、街の図書館へ通った。
大きな窓に真っ白なテーブル、明るく風通しの良い中央図書館は蔵書もなかなかのものだった。
当時は日々のほとんどを此処に居たと言っていい。

そんなお気に入りの場所で彼は、ある少年に出逢う。
『運命』と言えば大仰だが
その後の彼に、大きな影響をもたらす出逢いだったことには間違いない。


少年は勉強好きで、特に理科や数学を好んで学んでいた。
家の書物で足りない分を補う為に、図書館に通い詰めていた。
そこで、不思議な出逢いをする。

背中まで流れるブロンドを揺らし、白く細い指で本の頁をめくる姿。
年恰好は自分と同じくらいに見えるが
かもし出す雰囲気がもっと年上の男性にも、あるいは女性にも見える。
そんな姿が目の前に現れたのだ。
あまりの美しさに目を奪われ、しばらくその場に立ち尽くしていた。

相手が彼の視線に気づき、ふと目を上げる。その色は深い青も含んだ緑色で、吸い込まれそうな魅力にあふれていた。
その姿を取り囲む風景が、まるで一枚の絵を観ているようだった。

見たことのない顔だ。
何か話しかけたかったが、思うように言葉が浮かばず
その時は決まり悪く立ち去ることしか出来なかった。

その後も何度か同じ時間、同じテーブルで顔を合わせた。
「…君も、本を読むのが好きなの?」
それからようやく声を掛けたが、必死に考えた割には、簡単で唐突な挨拶だ。
口にした先から後悔し、そこで覗いた彼の手元の書物に今度は歓喜する。
「―物理が好きなのかい⁈」
『量子論』を読んでいた美しい彼は初めこそその勢いに驚いたが、すぐに笑顔になった。
「うん」

カルヴァンの父・エディとブラッディのつきあいは、ここから始まった。

お気に入りの物理学者や理論の話をするエディの声音は
決して大きくはなくとも涼やかでよく通り、ブラッディにはとても好感が持てた。
二人が打ち解けていくまでに、そう時間はかからなかった。

やがてエディの勧めで大学受験の資格を獲得し、二人して同じ学校へ進学する。
そこで知り合った女性・ルカを巡って、静かな攻防が繰り広げられたこともあったが
…結果的に彼女の気持ちを射止めたのはエディの方であり、やがて結婚した二人は新しい生命(いのち)を授かる。

生まれた子どもはカルヴァンと名付けられ、彼は両親とその〝奇妙な友人〟に見守られて育っていく。
カルヴァンがよちよちと歩き始める頃、父・エディは繁華街の真ん中で店を始めた。
『タルカス』というその店は、
酒と食事と音楽が楽しめる地元の憩いの場所として、その後息子の代まで引き継がれ愛されていく。

そこはエディが、妻となったルカの為に作りたかった『城』だ。
「彼女の愛する音楽と共に、彼女を囲んでみんなが楽しめる場所を作りたいんだ」

店が軌道に乗って繁盛し、カルヴァンが中学まで上がるのを見届けた頃
ブラッディはそっと、家族の前から姿を消した。


―やはり、〝彼女〟に手をかけることは出来なかった。
僅かにまとう『赤い血』の匂いに、いつまた自分の本性が表れるか判らない。
自分は、この幸せな家族と共にいてはいけない存在なのだ。

彼女は恐らく気づいていたのだ
俺が、彼らに関わり続けていた本当の理由を
あるいは、彼女は待っていたのかもしれない
『宿命』に身を任せ その血を我ら一族に〝施す〟その日を


恐らく、この身もそう長く持つものではあるまい
ならば今こそ、唯一与えられた使命を果たす時だ
ひっそりと生き、ひっそりと死んでゆけ
我々は、この世界にとっての悪しき存在
いわば 悪魔のようなものなのだから


<Carvin>
カルヴァンは、あの時何故彼が自分たちの前から姿を消したのか
そして今、何故彼が再び自分たちと別れなければならないのか
その理由に、ようやく気が付いた。

ロザリーだけではない
彼は、俺の母さんや あるいは俺自身の中にも
『赤い血』を嗅ぎ取っていたのだろう

彼が俺たちに寄せた親愛の情が、
彼の『本能』とまったく無関係だったと言い切れるだろうか。
…いや、別にそれでもいい
実際、彼は俺たちを捕食しなかった。最後の一歩を踏みとどまったのだ。

たとえそれが彼の『本能』によって引き寄せられたものだったとしても
彼は、充分過ぎるくらいに悩み 苦しんだのだ

そうして導き出した答えが、彼の『理性』と『人格』を裏付けている。
それが、俺たちが愛した〝ブラッディ・メアリー〟だ。



<Park>
セントラル・パークには、細かい雨が降っていた。
赤い傘から顔を覗かせて、ロザリーはその場所を確認する。
彼女のお気に入りのベンチもまた、ひっそりと雨に濡れていた。

かつて彼と出逢った、お気に入りの場所。

けれど、やっぱり
探している姿は、見当たらなかった。
「…」
灰色の空は、まるで彼女の心の表れだった。
決して激しく降る訳でもなくしとしとと だが、止む気配のない雨だ。

小さくため息を落とした彼女はふと、背後に気配を感じて無意識に身を固くした。
「おっと、ゴメンよ」
聞き慣れた声だ。振り返る前に相手が判ったので一気に警戒を緩める。
「…お店、空けちゃっていいの?カルヴァン」

ロザリーの背中から五メートル程距離があったろうか。カルヴァンが立っていた。
そんなに近くに居た訳ではなかった。
いつの間にか、少し警戒心が強くなってしまったような気がした。
彼が初めに謝ったのは、そんな彼女の様子に気づいたのだろう。

振り向いたロザリーに歩を進めながら、カルヴァンが笑った。
「留守番を置いてきたから、平気さ」
ロザリーは、そう…と微笑んで応える。
その笑顔がやはり寂しそうで、カルヴァンは胸が締め付けられる思いをかみしめた。

「―まったく、何処行っちまったんだろうなぁ…」
パーク内に人の声はほとんどせず、通りを走る車がはねる水しぶきの音が遠くに聞こえるだけだ。
街は、いつも通りに動いている。

「ブラッディとは、ココで初めて逢ったのよ」
独り言のような声量で、ロザリーが話し出した。
彼女の視線を追いながら、カルヴァンも応じた。
「…ああ。聞いてたよ」
その先に見えたのは、誰も座っていない くたびれたベンチだ。
彼女には、その時の彼の姿が見えているのだろうか
じっと据えたまま、視線を外す事はなかった。

「初めは、いけすかないヤツだと思ったわ」
少しだけ乱暴な言葉遣いはぎこちなく
だがカルヴァンの耳に、不思議な心地好さをもたらしていた。
「気障(キザ)で、何処か偉そうで
すべて見透かされているみたいで、ちょっとムカついたのよ」
「ハハハ、違いないね」
カルヴァンが差した藍色の傘が笑い声に合わせて揺れる。
たまっていた雨の滴がぽたぽたと落ちてきた。

隣の傘からも、滴がこぼれる。
「…」
それは静かに落ちて、地面に吸い込まれていく。
土にとっては、それが雨であろうが
人の涙であろうが、まったく問題ではない。
「ロザリー」
カルヴァンは、掛けるべき言葉を探していた。
しかしどれを取っても、陳腐な慰めにしかならない。
逡巡した後、自分の傘の中から彼女の方へ滑り込み
その震える肩を強く抱きしめた。

ロザリーはカルヴァンの胸にしがみつき、肩のあたりで声を上げて泣いた。
子供の頃にもしたことがないくらい、大きな声で泣いた。

これまで我慢していた分
ブラッディに逢う前から、ずっと ずっと
泣く事を我慢していた その分だ。
カルヴァンは、彼女を抱く腕に力を込める。

公園内は、そこだけが世界から切り取られたように
人の気配も 他の雑音も無かった。
あるのは 止まない雨の音。
そして、カルヴァンの腕の温もりだけ。

ブラッディが残していってくれた 優しさのような気がした。

「―大丈夫、いつものことさ。あの人のことだから
また、フラっと帰ってくるよ」


まとわりつくような細かい雨はいつの間にか止み、
辺りには少しずつ、明るい日差しが戻ってきていた。
◆◆

Bloody Mary【改】

長編物語の骨組みだけを抜き出して、極めてシンプルにまとめた簡易版です。
本編はもう少し込み入ったお話になっています。鋭意執筆中。

Bloody Mary【改】

ヒトが『赤い血』を持たなくなった世界の吸血人種と『赤い血』を持つ少女のお話。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-03-16

Copyrighted
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Copyrighted
  1. Beginning
  2. Memories
  3. Rewinding
  4. Outbreak
  5. Connection
  6. Footsteps
  7. Bloody Mary