生きる鍵
きみの記憶から僕だけが消えたら世界はきみだけのものになるし、僕だけのものにもなるかもしれない。だけれど、僕の記憶からきみがいなくなることはないから、生きている限り僕が世界を視認することはきっとないだろう。きみと僕の記憶の重なっている部分がその世界の入口だとしたら、きみが死んでしまったいま、その入口は浮かんだり沈んだり点滅したりしているだろう。
いつか、僕はわすれることも愛情のひとつだと言った。それは生きているひとに対してとは限らなくて、死んだひとに対してもそう。むしろ、そっちのほうが僕には大切なことだ。死人をわすれる人間は、いま生きているひとのことを本当の意味で愛することなどできやしないと、そう自分に言い聞かせながら僕は蜃気楼のように揺らぐ入口を見失わないように、見殺しにしないように、記憶を書き起こして鍵をつくった。死ぬまで手放さずにいると決めたその鍵はきみそのもので、時々僕の目や耳に話しかけてはきみが好きだった歌をきみが好きだった季節に流してくれる。喉の真下で足跡を辿りながら、ひとえに反芻する。生き方をおしえてくれたきみを、僕は決してわすれはしない。
もうすぐきみがいなくなってから一年が経つ。きみの嫌いな季節が近づいている。僕はいま梅の花をみながら歩いている。鍵は失くしていないし、錆びてもいない。生きている限り鍵は増えていくだろう。鍵が増えるたびに僕は孤独にみられるだろう。だけれど僕は孤独こそがひとが真に愛するべきものだとおもっている。入口で逢うことはできなかったけれど、出口でひとはみんな同じすがたになる。
殺されない限り、僕は死ぬまで死ぬつもりはない。
生きる鍵