『したいがたり』

長岡まさ

『したいがたり』
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 ぼくはぽかんと口を開けていた。
 目の前の彼の前髪は、男にしては長すぎる気がする。そしてその前髪は、もっさりと積もるように彼の顔を覆っていた。鼻の穴の所も、半開きの口の上も、髪の毛は大人しく乗ったまま、ぴくりともしない。
 ああ、彼は、息をしていないんだ。
 恐る恐るにじり寄って、胸の辺りにそっと耳を近づけてみる。やっぱり、鼓動は聞こえない。
 時間という概念をまるごとそっくり手放してしまったように、彼はただそこへ、静かに横たわっていた。
「え、ねえ、死ん、でるの……?」
 その時、頭に浮かんだ言葉がそのまま、外側から脳内に侵入して来た。
 声だ、声がしたんだ。
 誰かの唇がぶるぶる震えながら吐き出した音。動いていない彼の口元をじっと見つめてから、ぼくは首を伸ばして周りを見た。
 ここに、ぼくと彼以外の誰かがいるんだろうか。
 四角い場所だった。天井にはむき出しの蛍光灯が一本。灰色の床はざらざら、土ぼこりや枯葉が隅っこにこんもり溜まっている。窓は、ない。扉は、この部分だろうか。壁の一方には空っぽのロッカーがいくつか並んでいる。
「ここ、どこ?」
 まただ。
 またぼくの考えたことが音になって、耳から入ってきた。
 何だか聞き覚えがある気がする、この声の主は誰だろう?
「ねえ、誰かいるの?」
 返事はない。
 あれ? もしかして。
「これ、ぼくの声?」
 ぼくは両手を自分の口に当ててみた。
「ざんろーえーいつあんぺーふどー」
 確かにぼくの唇は、頭に浮かんだ意味の不明な台詞と一緒に、うにうにと波打って動いていた。
 ああ、やっぱりそうだ。これ、ぼくの口から出ているんだ。
「あーいーうー、ああ、やっぱり。ぼくの声だ」
 頼りなさげで幼い、風が吹いたらかき消されてしまいそうな声。それを発することができる者はこの場所で、他にいない。
「自分の声すら、分からなかった。ぼくって、一体……?」
 分からない。なぜこんなところにいるんだろう。なぜ死んでいる彼の横にこうしてへたり込んでいるんだろう。なぜぼくのだと思われる声にさえ、こんなに自信が持てずにいるんだろう。
 死体の顔の辺りへ目がいく。彼のことだって、何となく知っている気がする。でも、思い出せない。
「何で、何で、何で? 分かんない、分かんない、分かんない」
 ぼくが誰なのか、彼が誰なのか。
 黒いクレヨンでぐちゃぐちゃに汚した画用紙みたいに、心も記憶も塗りつぶされている。どうしようもない失敗作だったんだよ、あの絵は、そうぼくの奥底で心が叫ぶのを感じる。でも同時にこうも聞こえる。これはクレヨンででたらめに塗っただけ、墨の入ったバケツに浸したわけじゃない。だから下地の色が所々に見え隠れしているんだ。これを拾い上げたら何かの絵になる。そうしたらぼくが誰で、彼が誰だか、思い出せるようになるんじゃないかな――。
「何を考えてんだ?」
 突然声がした。話しかけられた。
 ぼくからにじみ出る弱々しい感じじゃなくて、元気いっぱい好奇心いっぱいに思える明るい質問の言葉。
 心の中に浮かんでいた黒い画用紙を脇に追いやって、きょろきょろと視線をさまよわせる。でも見渡したって仕方がないことは既に知っていた。ここはさっき観察した通りの、誰もいない空間だ。
「誰もいない、はずなのに」
「誰もいないって? そりゃないぜ。目の前にいるじゃねーか」
「え? だって、目の前、死んでる人しか、いないし」
「死んだらしゃべっちゃいけねーのかよ」
 目が飛び出るかと思った、驚き過ぎて。「いけねーのかよ」と口にしながら、目の前の彼がむくりと起き上がったからだ。
 ギャーッと叫んだ。叫んだはずだった。
 悲鳴が響き渡るかと思ったのに、今度は声になっていなかった。きーきーとのどにつっかえたような空気の音だけがかすかにするだけで、辺りは静かなままだ。
「そんなに驚くかよ?」
「え、だ、だ、だ、だって、てっきり死んでると、思ってて、その、動くと、思ってなくて」
「ん? いやいや、そもそも驚くとこそこじゃねーだろ」
「え、ええ?」
「つーか、こうやってしゃべるの、何か新鮮でいいな」
 顔にかかっていたぼさぼさの髪の毛が横に流れて、彼の楽しげな瞳がのぞく。あまりに落ち着いた彼の雰囲気。髪をかき上げ、座り直すようにあぐらをかく様子に、拍子抜けする。
 ぼくは瞬きを二十回ぐらい繰り返してから、肩に入っていた余分な力を抜いた。
「ええと、ぼくと君は、知り合い? なの?」
「は?」
「何か、ぼくのこと、知ってるみたいな感じ、だから」
「知ってるも何も、ってまさか誰だか分かんねーのか?」
「う、うん。ごめん、なさい」
 今度は彼が目を丸くした。青白い顔がもっと白くなったように見える。
「お前、今自分の名前も分かんねーんだろ」
「う、うん」
「ここがどこかも?」
「うん」
「何でこんなとこに閉じ込められてるかも」
「うん」
「あー、そっか」
 彼は口元に人差し指を当てながら、何やら考え込むように俯いた。
 見覚えがある、その噛んでしまってぎざぎざした親指の爪の先も、小指の付け根にあるまだ治りかけの火傷の痕も。でも、誰だっただろう。
「あ、あの、その……」
 沈黙に耐え切れなくて、何か言わなくちゃときょどきょどとしていたら、唐突に彼は手を叩いた。
「ま、いーや」
「え?」
「どーせ誰でもいいし、そんなことどーでもいーわ」
「そんな、だって」
 慌てて言葉を探す。でも何を言ったらいいのか分からない。思い出すまで待って、と言おうか。でも本当に思い出せるんだろうか。そう言って思い出せなかったらどうする?
「なあ。思い出せないってことに、意味があると思わねーか?」
 え?
「きっと今、自分がどこに立ってるのか、何者なのか分かんねーのはさ、切り離すことが必要だったからだと思うんだよね。一旦切り離さないとやってけなかったから、とかさ。なら、無理に元に戻ろうとしなくていい。その記憶が必要になったら、その方がいいってなったら、きっと自然に思い出す」
 彼の言葉には温度があった。あったかくて、心地良くて、すっと胸に入ってくる、人肌の温度。やせて青白い、死人みたいな顔色とは裏腹に。
「あ、ありがとう」
「礼を言われることじゃねーけど、ここは素直に受け取っとくな。どーいたしまして。でも何かこそばゆいな」
 にっと彼が笑う、歯が何本か見当たらない口で。よれよれの無地のTシャツに、シミだらけのフード付きパーカー、綻びが目立つジーンズ。彼はきっと訳ありなんだろう。
 知りたいな。彼は今のままでいいと言ってくれたけれど。側にいることに不思議と違和感を感じない、彼のことを知りたい、思い出したい。
 どこまでなら、触れても許してくれるかな?
「あ、あの。聞いてもいいかな? 君の名前は?」
「俺? 俺はまあシタイだな」
「したい、君? どういう字を書くの?」
「死んでるの“死”に、カラダの“体”」
「え、ちょっと、それじゃ死体だよ」
「だから死体なんだって。ほら心臓、動いてないだろ?」
 右手をぐいっと引っ張られ、彼の胸に当てられる。服の上からでも、異様に浮き出た肋骨の感触が伝わった。本当にそこはじっと黙ったまま、微塵も動いていなかった。
「え、な、なんで……」
「それは何に対する疑問だよ?」
「だって死んでるのに、う、動いてるし、しゃべってる……」
「だーかーらー、最初に言っただろ。死んだらしゃべっちゃいけないのかよって」
 あれはそういう意味だったのか。ぼくは一体、どこに迷い込んでしまったんだろう。彼はいわゆるゾンビ? とかいうやつなんだろうか。それならうっすらと、映画か何かで見たことがある気がする。彼はもしやぼくを食べたりするつもりなんだろうか。
「言っとくけどな、ゾンビじゃねーぞ」
「え、今、ぼく、声に出してた?」
「やっぱゾンビって思ったのかー。声に出てはねーけど、考えそうなことはだいたい分かる。ま、ある意味長い付き合いだからな」
 長い付き合いと言われて、胸が痛む。申し訳なさと一緒に悔しさが込み上げてくる。
「だーかーらー、んな顔すんなって。せっかくこうやって話せんだからさ、もっと有意義な話をしようや」
「ゆ、有意義って? 例えば、ここはどこか、とかそういうの?」
「ここはまあ、ガレージだな」
「ガレージ?」
「そ。普段は車しまっとくとこ。そっちの波打ってる鉄板の方が上に持ち上がる」
「あ、じゃあ、そこから出られるんだね」
「いんや。出らんないように細工されてるから無理だな」
 そういえばさっき、閉じ込められていると言っていた。
「誰が、ぼくたちを閉じ込めたの? その、君のことを、その……」
「その、の続き、何だよ?」
「う、その、君のことを死体にした人が、閉じ込めたのかなって……」
 彼は一瞬真顔になったが、すぐに呆れたように口を尖らせた。
「俺はさあ、有意義な話をしようっつったじゃん。それって有意義かよ」
 確かにして楽しい話ではないけれど、死んでいるという彼と一緒に閉じ込められているとなったら、気になる。疑問を解決することは有意義に入らないだろうか。
「もっと前向きな話しようぜ」
「前向き?」
「そ。こんなもん食ってみたいなーとか、あのゲームやってみたいなーとか、あのセリフ言ってみたいなーとか。そーゆー、したいことないの?」
「こ、ここでそんな話するの?」
 どう考えても場違いだと思うんだけど。
「そんな話ってこたあないだろ。重要なことだ。あ!」
 突然の大声に驚く。
「な、何?! どうしたの?」
「死体と語るしたいこと。『したいがたり』なんてどうよ」
「したいがたり……ダジャレにしては、その、悪趣味だと思うけど」
「んなことねーよ。あれだよ、色々忘れてるから変に思うだけで、死体が動いたり、死体がしたいこと語ったりすんのも一般常識なんだって」
「そ、それはさすがに嘘だあ」
 それが普通じゃないことくらいは、今のぼくにだって分かる。
「いーじゃん、そういうことにしてさ。で? 何かないの? したいこと」
 したいこと? ぼくがしたいこと。
 塗りつぶされた真っ黒な記憶の画用紙。そこから彼に関する色を探したい。それをつなぎ合わせて形にしたい。
「君のことが知りたい、かな?」
「俺? なんかそれ、新手の口説き文句だな。全く嬉しかねーけど。そーだなー、あー、まー、んーと」
 彼は苦笑いをしながらしばらく唸っていたけれど、そのうち一人で納得したようにうなずいてこちらを見た。
「いっか、それだって、そういうことだもんな」
 ん?
「えっと、じゃあ俺の何が知りたい? 聞かれたことには答える」
「名前は?」
「それはさっき言っただろ、死体だって」
「それ絶対、名前じゃないよ」
「俺は死んでるんだからさ、いわゆる物、物体な訳よ。だからもう固有名詞とかそういうのは必要ないってこと」
「呼ぶのに、不便だよ」
「死体君でも、キミでも、何でもいいだろ」
「そんなあ」
「ほい、んで他に知りたいのは?」
 彼の身なりのことや、死んでしまった経緯については、触れてはいけない気がした。デリケートな話過ぎるし、第一明るい話題でないとまた文句を言われるだろう。ガレージに細工をした人についても、彼の本名についてもはぐらかされてしまった。そうなると全く関係のない、前向きなことと言ったら?
「じゃあ、仕方ないから、さっき言ってたやつ。食べたいものとか、やりたいゲームとか、言いたいセリフとか」
「仕方ないって言うなよなー。ま、賢明な判断ってやつだな。えーと、まずは食いモンな。そーだな、あれ、あれ食べたい」
「あれじゃ、分かんないよ」
「あれだよ、食パンに目玉焼き乗っけるやつ」
 頭の中でびっくり箱を開けたみたいに、ぽんとイメージが飛び出す。
 オフホワイト、厚切りの食パンの上にででんと乗った目玉焼きの白身だ。パンにがぶりと歯を立てると目玉焼きだけがつるんと取れてしまう、そんな情景。でもこれはぼくの体験じゃない。浮かんでいるのはどこかで見た、アニメのワンシーンだ。ぼくは、そんな美味しそうなトースト、生まれてこの方食べたことがない気がする。
「それ、いいね、ぼくも食べたい」
「だろ? それからあれも。見た目食いモンぽくなかったけど、ピンク色のさ、粉みたいなやつを弁当にかけんの」
「ぴんくの粉?」
 ふんわりとイメージが浮かぶ。
 桜色、その鮮やかな粉をスプーンですくって、ご飯の上にさっさっと並べるように乗せていくシーン。あの目を引く色彩と一緒に、ほっと安らぐような温かさと、えぐられるような痛みを感じたのを、ぼくの心臓の辺りが覚えていた。
「桜でんぶ、だ」
「そう、それそれ。何であんな色してんのかね? 美味いのか分かんねーけど、あったかい家庭の弁当って感じがさ、羨ましかったんだよなー」
 そうだ、そうだった。
 あれは夜だ、それも金曜日の。たいていテレビの前に座っていた。真っ暗で冷たい部屋の中、画面から刺すように放たれる、青白い光。抱えた自分の膝小僧にあごを乗せながら、そのシーンを見た。あれが本物のお弁当ってものなんだ、ぼくには縁のない他の世界の食べ物なんだ、どんな味がするんだろう。そんなことを考えていたら急に鉄の味が口の中に広がって、膝に食い込んだ歯形がじわっとにじんでいた、あの赤とも黒ともつかない痛み。
 食べ物のことを考えると、無意識に口元にあるものをかむ癖が、ぼくにはあった気がする。
 そう言えば、あの時もがりがりと歯を立てた。食べたくて仕方がなかったあのシーンで……
「魚入りの、パイ」
「お、いいとこ目付けたな。だよな? パイっつーと甘いイメージだったけど、魚入ってんならしょっぱいんだろーな、多分。焼きたてあっつあつのやつをさ、でかいバスケットに入れんの」
 きつね色、こんがりと焼けたパイ。バスケットを受け取った女の子がパイは嫌いだと言い放った時、殺意にも似た怒りを覚えた。いつもお腹をすかせていたぼくには、温かい食べ物を、食べられるものを、嫌いと言うその感覚が気に食わなかった。きっとあの子は、ゴミ袋に放り込まれたレトルトパックの底にかすかに残るカレールーを、夜中にこっそりすする少年の気持ちは、死んだって分からないんだろう。
 ああ、うんざりする。
「したいことっていうより、したかったこと、だよね。できなかったこと」
 声に苛立ちが混じってしまったのが分かった。そんなぼくに柔らかく微笑む顔が、触れられる距離にある。
「何で過去形?」
「じゃあ、こう言えばいいんでしょ。永遠にできないこと。これなら過去形じゃない」
 ああ、ぼくが思い出し始めていることに、目の前の死体は気が付いている。いや、そうなることを見越して、話を誘導しているのかもしれない。
「ほいほい。すねんな、すねんな」
「すねてる訳じゃないよ」
「ま、食いモンの話はこんくらいでいいだろ。んじゃ次は」
「ねぇ、もう、いいよ」
「えーとゲームだろ、あと、言いたいことだろ、それと」
「だから、いいってば! もう」
 最初の言葉の通りだった。切り離すことが必要だったから失ったんだ。もう見たくないから真っ黒に塗りつぶしたんだ。絶望しかない現実を、せっかく切り離した記憶を、思い出すような真似を続けてどうなる? だって頭の中にちらついただけで、こんなにも醜くて息苦しいんだ。拾い集めて元の絵に辿り着いたところで突き落される、そんなのは、ごめんだ。
「なーに、泣きそうになってんだよ」
 頭のてっぺんをぽんぽんと叩かれる。死体に優しさが常備されているなんて、聞いたことがない。伸びてきた手首がパーカーの袖の中へ引っ込む瞬間が、ぼくの視界に焼き付いた。そのほとんど骨と皮だけの部分、それでも懸命に、折れずに、しおれずにある部分。
「まあ、いいから聞け。騙されたと思って」
「だますって。これ以上、だませる訳、ないのに」
 もうほとんど、ごまかし切れない生々しさしか、目の前にはないのに。
「ま、そうだろうな。でも騙されろ、無理にでも」
「無理にでも?」
「そ。まずもってさ、死体と会話できるっつーミラクルが起きてんだからさ。もっとラッキーなミラクル起きたっていいだろ?」
「したいがたり?」
 ぼくは小ばかにするつもりで口にしたけれど、当の死体は嬉しそうに笑う。
「そ、したいがたり。分かってんじゃん」
 黒いのに、光を失っているはずなのに、輝く瞳。こんな目をぼくはしたことがあっただろうか。幸運を強引に引き寄せるかのような、前進を強く望む瞳を。
「で、ゲームだけどさ。この際聞くけど、見当ついてんだろ?」
「うん、あれでしょ、カレンダーの」
「やりたかったこと、とか過去形で言うなよ? 今、この瞬間もやりたいだろ」
「え、今? ここで?」
「そ」
 ごそごそと何やらパーカーに付いたポケットへ手を突っ込む様子を見ていると、右のポケットからは輪ゴムでまとめた紙の束が、左のポケットからは極太マジックペンが出てきた。
「よく持ってたね、それ」
 紙の束とマジックペン、これはぼくの夢のセットだ。
「今日は金曜だからな」
 金曜? 金曜日が何か理由になるのは……何でだっけ? のどの所まで出かかっている感じなのに、それはまだ思い出せない。もやもやする。
「で、何描くの?」
「ちょっと待てよ、そーだなー」
 透明、カレンダーゲーム。なんて、今とっさに名付けてみたけれど。正直言うと、ゲームというのはおこがましいほど、夢見がちな子どもの遊び。
 食事も満足に与えられないぼくに、まさか遊び道具を買ってくれる大人がいるはずもなく。だから自分でゲーム機をつくった、それが始まりだった。
 ある時、保険外交員さんが玄関ポストにつっこんだカレンダーを、こっそりくすねた。そして、その裏紙の真っ白なキャンバスに携帯ゲーム機の絵を描いた。その機械だって、実物を見たことはない。金曜日、唯一誰も帰ってこないぼくだけの夜に、ちらりと流れたテレビCMの記憶だけが頼りだった。
 一枚目の真っ白なキャンバスに巨大なゲーム機を描き、画面部分を四角く切り抜く。透明な窓、何でも映すことができて、何にも映すことができない空間。二枚目以降の紙はその画面の大きさに合わせて切って、ゲームの内容を描く。しょうもない紙芝居みたいなものだ。
「くそ悩むなー。いっちばん、予想を裏切りにくい相手だかんなー」
 こちらとじっと見ながら考え込む姿は、なぜか楽しそうだ。
「予想を、裏切る?」
 そうだ、この遊びは途中で、オプションが追加されたんだった。追加の参加者が現れたある時から。
 ネズミ色、曇り空。あれも金曜日だ。ぼく専用ゲーム機を持って、こっそり家から抜け出したその日。伸び放題の前髪で顔を隠して、ばくばく音を立てる心臓辺りの服を右手で握りしめながら下る坂道。地面ばかり見ていたぼくは、その人に気が付かなくて、ぶつかった拍子にひっくり返った。わきの下に挟んでいたはずの紙の束を、辺り一面にぶちまけて。
 くすんだ肌色、差し出された誰かの左手。その日からこのゲームに、「相手の予想の斜め上をいく画面を作る」という、新機能が追加された。
 ああまた、ゲームが引き金になって、あの色を思い出した。
 薄紫、しみの一つもない厚手のカーテン。両親に関する一番古い記憶だ。
 それは庭にやってきた猫の鳴き声に気が付いたぼくが、カーテンに手を伸ばした瞬間から始まる。
 絶対に家から出てはいけないと、あの人たちからきつく言われていたのに。「見るだけ、猫を見るだけ」。カーテンにほんの少し触れた右手がねじりあげられる。「ごめんなさい、ごめんなさい」。しつこく振り上げられるハンドバッグの、オレンジ色と、金具の輝く、金色。顔の半分が倍くらいに腫れ上る。「どうしてっ、いつもいつもっ、言うことが聞けないのっ」。視界がぐわんぐわんと歪んで、歯がぐらぐら揺れて、しみ渡る鉄の味。
 どうしたらよかったの?
 少し大きくなって、知恵がついて、子どもはみんな学校に通うものだと何となく分かった時も、ヒステリックな金切り声を上げながら暴れる女に殺されかける日々が、そんなぼくを道端の石のように気に留めない男が、普通じゃないと知った時も、ぼくにはどうしようもなかった。
 どうしろっつーんだよ?
 ――やっぱり、こんなもの全部、塗り消してしまえばいい。
「おっし、決まった!」
 大声に弾かれるように、はっと記憶の渦から舞い戻る。
 明るい黄色、裏面の文字がうっすらと見えている薄い紙。得意顔で向き合う青白い顔に、ほんのりと黄色が反射して見えた。
「この時期まだカレンダーには早えかんな。パチンコ屋の広告じゃ、ちょっと紙質びみょーだけど。って、あ」
「どうしたの?」
「ダメだ、出ねえ」
 マジックのペン先が紙をこすり、きしゅきしゅと乾いた音を立てている。
「まじかー。こうなったら仕方ねー。ほい」
「え?」
 急に紙の束と、それとは別にした一枚を手渡される。
「何? どういうこと」
「インク出なきゃ書けねーし」
「それは、そうだけど、どうして渡すの」
「まずは書くもん探さねーといけねー訳じゃん」
「うん」
「で、このガレージにはそーいうもんはない訳よ」
「うん」
「で、俺は死体な訳じゃん」
「……うん」
「探せない訳よ」
「うん。まあ、そうだけど」
「だから」
「え、だから、何? 分かんないよ」
 ここはガレージで、ここに予備のペンはなくて、ぼくは今、閉じ込められている。
 そう、閉じ込められた。
 今日は金曜日。
 金曜は一週間の中で唯一、心を落ち着けることができる曜日。仕事へ出かけたあの人たちが、明け方まで帰ってこない日、のはずだった。それが習慣になり過ぎて、すっかり油断してしまって。それまでいつも徹底していた、あの人たちの手帳を盗み見ることをうっかり忘れていた。
「ねぇ、ここがどこか分かってるの?」。「ご、ごめんなさい」。「ねぇ、何で外にいるの? 出ちゃダメだって、いつも言ってるよねぇ? 何? その持ってる紙」。「ご、ごめんなさい。これは、ちがくて、ちがくて」。「ごめんなさいじゃないでしょ? 来なさい」。「ごめんなさい。それは、ねえ、ごめんなさい」。「あぁ、もうお母さん、頭に来ちゃったなぁ。こぉんな悪い子だったなんて」。「ごめ、ごめんなさい。もうしない、もう出ないから、外出ないからああ」。「もういいから、おうち入らなくていいから、こっちでいいから」。「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ」。「あぁ、もうお母さん、こぉんなに頑張って育ててるのに、そういうことするんだもんねぇ」。
 まだ午前中なのに、何で? 痛い。ああ、そうか、泊りがけで出かける前の日、仕事を休むとかなんとか話していたっけ。あれが今日だったの? 痛いよ。でも朝から車なかったし、仕事に行ったんじゃないの? 痛いのに。近くに買い物しに行っただけだったのかな? 痛いから。なんだ、そうか、そうだったのか。
「もうダメ、だって約束守らないんでしょう?」。「守る、今度は守るから、守るからあああ」。「嘘ばっかり、こんなできそこないな子はもうダメ」。「いい子になるから、だからあ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ」。
 できない、息が、苦しくて、苦しくて、悔しくて、たまらなくて――。
「おい、大丈夫か?」
「あ、え?」
「顔真っ青じゃん。死体より顔青くしてどうすんだよ」
 頭の中を駆け巡る色の洪水に、圧倒されそうだ。胸の真ん中あたりの服を強くつかんで、気持ちを落ち着ける。手が震えているのが分かった。
「深呼吸しろ、深呼吸」
 真っ黒で、ぐちゃぐちゃで、怖くて、憎くて、悲しくて。よみがえりかけた苦しさをごくりと飲み込むように、のどぼとけを上下させた。深呼吸なんておかしな話だ、この状況で無茶ぶりにもほどがある。
「とにかくだ。ゲームがしたいなら、考えろ」
「別に、したいなんて」
「したいんだよ、絶対」
「絶対?」
「そうだ、絶対だ。今ここで語ってんのは、したいことだ。したかったことでも、できないことでもねーの」
 ああ、全く。ぼくになんて重いものを持たせようとしてるんだ。
 全部思い出した。
 ぼくの中にあったのは立派な絵を描くための画用紙じゃなくて、角がよれよれになったカレンダーの裏紙。クレヨンなんて最初から存在しない。ぐちゃぐちゃになんて塗りつぶしてはいない。あるのはインクを大事に使い続けた、極太のマジックペン一本。描かれているのは、ぼくだ。
「忘れんなよ。俺らは一人だけど、ひとりぼっちじゃない」
 全部思い出してもまだ、死体に諭されるなんて。こんなに頼もしい人間だったなんて、こんなに前向きな人間だなんて知らなかったよ。何がひとりぼっちじゃないだよ、かっこ悪いなあ、笑っちゃう。笑いすぎて、涙が出そうだ。
「『したいがたり』、だもんね」
「おうよ、『したいがたり』。だからこっちの一枚の方は、なくさねーようにしっかり持ってろ」
 そうだね。一枚は別にして、残しておかないと。
「うん。じゃあ、たくさんある方で」
「そうだ。その束の紙を使って、ペンのありかにたどり着け」
「なんか、これ自体、脱出ゲームになってるね」
「いやいや、脱出ゲームじゃゲーム機の画面に入りきんねーからな。ちゃんとペン見つけたら、残しといた一枚の方に、さっき思いついたゲーム描けよ?」
「さっき思いついたって、それ、本気で言ってるの?」
「当たり前だ。分かってんだろ?」
「ほんとに、ぼくが思ってるのと一緒かな、そのゲーム」
「一緒に決まってんだろ」
「でも、それじゃあ、予想は裏切れなかったね」
「ま、自分の予想を超えんのは、難しーわな?」
 とか言っちゃって。笑ってら。こんなに頼もしくて前向きで、ちょっと不謹慎でもお構いなしな性格だったっけ、ぼくは。もう十分予想を裏切られてるんだけど。
「もう言えるか? 名前」
「それ、もう聞いちゃうの? 言ったら終わっちゃわない?」
「さーな?」
「さねやす、だね。呼ばれたことなんかないけど」
 漢字だと、志泰、だったはず。
「だからシタイなんて言ったの?」
「いや、どー見たってシタイだろ?」
「それってどっちのシタイ?」
 笑っている、笑ってしまう。
「ここはうちのガレージで」
「だな」
「ここへ閉じ込めたのは、ぼくを産んだあの人だ」
「ま、閉じ込めたっつーより、とりあえず置いといたって感じだろーけどな」
「今、車がないってことは、やっぱり出かけたんだね、あの人たち」
「だろうな」
「子どもの首を絞めてさ、死体をガレージに放り投げて、旅行とか行けちゃうもんなんだね、人って」
 その人間と同じ血が流れていると思うと気がめいりそうになる。でも、そんなこと悩んだってどうしようもない。選べない画材の質を嘆く暇があるなら、そこに何を描くか、どんな風に描くか、一生懸命考えた方が有意義ってやつな気がする。
「何日くらいだっけ? 旅行」
「どーだったかなー。二三日くらいじゃねーの? あの人らが仕事休めんのって」
「二日くらいじゃ、死体って腐ったりしないのかな?」
「わっかんねー。見たことねーかんなー」
「まあ、今ここにあるけどね」
「この死体はさー、腐らしたらマズいだろ?」
「まだ腐ってない?」
「腐ってない、多分。心臓止まってからそんな経ってねーはず」
「そこはたぶんじゃなくて、絶対って言おうよ」
「おう、そうだったな。絶対腐ってない。よし、言った」
 さっきから視界がだんだん、定まらなくなってきた。今、ガレージの奥に向かって左を向いているのか、右を向いているのか。
「今日は金曜日だもんね」
「ああ、金曜だな」
「まだお昼前かな? まだあのじーちゃん、来てないかな?」
「だろうけどな」
「さっき、まだ自分の顔が、どんなだか忘れてる間にね」
「おう」
「ゲーム、一緒にやってくれる人こと、ぼんやり思い出して。あの時、差し伸べてくれた、しわしわの手とか。それで、あれ? 今目の前にいる死体の正体って、あの時ぶつかった相手かなって、途中まで思ってた」
「はは、それ面白いな。運命の出会いをした二人が密室に、みたいなの、テレビでやってなかったっけ?」
「うん、あった気がする」
「てかいやいや、そんなしおれてねーだろ、この手。さすがにじーちゃんのと間違えるとか」
「いやいや、残念ながら、けっこう老人っぽいよ? 栄養足りてないし、しょっちゅう色々ぶっかけられるからカサカサだし」
「まじかー」
 ああ、死体の姿は見えなくなってきた。もう、そろそろ終わっちゃうんだな、このミラクルってやつは。
「こないださ、うちに調べに来た人、いたじゃん。この家にお子さんいらっしゃいますか的なこと、聞いてきた人。あれって、あのじーちゃんが呼んでくれたのかな?」
 だったら悪いことをしてしまった。きっとじーちゃんの方が、ボケていると思われたに違いない。この家に、あの人たちに、子どもはいないことになっているから。ぼくの名前、志泰は、ぼくを産んだと言う人物の古い日記のずーっと前の方に、何回か書いてあっただけだから。そのあとから最近まで、ぼくを指す言葉は、あれ、だった。
 あの金曜日。坂の途中でぶつかったのは、近所に住む老人だった。杖をついて歩く練習をしているんだと聞いた。正確に言うと、じーちゃんがそう書いたものを読んだ。
 毎週金曜日、お昼過ぎから坂を登って、うちの前を通って、五件先の児童公園入口まで行ったら、降りて来る。ぼくはそれをうちの前、道路に面したガレージの横の縁石に座って眺める。じーちゃんは往復ワンコースを三回繰り返したら、帰って縁側でお茶を飲む。ぼくも並んで座る。ゲームの相手は、その時にしてくれる。
「じーちゃんの右半分って、何で動かないんだろう? 目はいいんだよね。漢字もいっぱい知ってて頭がいい。新聞、それもすっごく難しそうなやつ、毎日隅から隅まで読むんだってね。しゃべれないのも、耳が聞こえないのも病気のせい、なのかな? どうやって調べに来た人、呼んだんだろう。あの時、勇気を出してさ、玄関に飛び出してたら、それか、じーちゃんにきちんと言えたら、ぼくは変われる? かな」
 返事はない、もう。
「ゲーム機、残ってるかな。もう捨てられちゃったかな」
 残ってるだろ。丸めてゴミ箱につっこまれていたら、拾い上げてしわをのばせばいいだけだ。
「だね。うん、きっとじゃなくて、絶対、残ってるね」
 行けるだろ、言えるだろ、今度こそ。
「うん、今日こそ、言うんだ。走っていって、言うんだ」
 そうだ。言いたいことを、ずっと言いたかったことを。
「助けてって、ぼくを助けてって」
 ぼくは、目を開けた。今までもずっと開けていた気がするのに。まぶたが重かった。
 空気を勢いよく吸い込む。
 ひゅっと音がして、むせる。苦しい、ああ、苦しい。けれど、息を吸っている。今度こそ深呼吸ができる。
「書く、もの」
 早くしなくちゃ。
 右手の人差し指の爪の横にあった、ささくれを思いっきり勢いをつけて引っ張った。皮がむける。痛い。けれど、こんなケガくらい、どうってことない。
 赤、瑞々しい血がじわりと浮き上がってくる。
「た」
 黄色い、一際目を引くパチンコ屋の広告の裏紙に、文字を書く。
「す」
 全然足りない。爪を差し込んで、傷口を大きくする。ジクジクする。
「け」
 火傷の痕をひっかいて、皮膚を強引にはがす。痛い、でもこのくらい大丈夫。
「て」
 これを、紙の束が尽きるまで作る。ガレージのシャッターの下の隙間からでも、紙の薄さなら余裕で外へ出せるはずだ。たくさん並べよう。黄色いから目立つかな? じーちゃんは目がいいから、見つけてくれるかな? シャッターから道路までの距離は、ぼくの歩幅で一歩半。
 ああ、音が聞こえる。耳を澄ませてじっと聞く。コツコツという音。坂の下からじーちゃんが登ってくる杖の音だ。急がなくちゃ、これを外へ。一枚でも多く外へ――。

 学校からの帰り道、スケッチブックを小脇に抱えたまま、坂を駆け上がる。本当は真っ直ぐに帰ってくるようにって児童養護施設の先生には言われているけれど、今日はちょっと悪い子になるより仕方ない。
 そういうのって、実はわくわくする。
 空色、咲き誇るアジサイが道の両側を彩っていた。その中央をぐんぐん進んでいくと、やがて視界が広がる。
 茜色、夕陽に照らされた大きな病院。じーちゃんがいるのは入院病棟の三階、三〇八号室だ。
 エレベーターは使わない。ほいほいと一段飛ばしで階段を上る。病室の前まで辿り着き、息を整える。
 ちゃんと忘れずに持ってきたんかよ?
「大丈夫。抜かりないって」
 スケッチブックを広げて、一ページ目を出す。そこには巨大なゲーム機の絵があって、画面部分が四角く切り抜かれている。何にも映っていない真っ白に見えて、何でも映すことができる夢の空間。そして次のページには、黄色でよれよれの紙が挟まっている。
「じーちゃん、これは解けねーだろーな」
 だろーな。
「悪趣味な上にさ、おれにしか解けないんだから、そもそもクイズとして成立してねーけどな」
 いーや、これはクイズじゃなくてゲームだし。じーちゃんの予想を超えりゃ、こっちのもんだ。
「とか言って、案外じーちゃん解いちゃうかもな?」
 にっと所々欠けた歯で笑い顔を作ってから、三〇八号室のドアをノックする。勢いよくドアをスライドさせると、空いていた窓の方から廊下に向かって、風がびゅわっと駆け抜けた。
 油断した手元のスケッチブックから、黄色いパチンコ屋のチラシがひらりと宙に飛び出す。


 あ! やせいの
 なんもんが とびだしてきた!

 試五衣如坐先
 行体帯是作義
 錯投不我進後
 誤地解聞退利

 ゆけっ! かこのぼくと みらいのおれ!

『したいがたり』

『したいがたり』

ぼくが出くわしたのは――とある死体だった

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-03-13

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