廃線と弁才天

FEVER fuh(ふぃば)

 この夏の体験をどう言葉にすればいいのだろう。僕にとっては大きな経験だったけれど、おそらく世間的には特に珍しくもない青春の一コマだ。
 今年の夏、僕はやりたいことをやりたいようにやれる人間になれた。自分のやるべきことに、全身全霊で打ち込める方法を学んだ。今後も苦しみや困難には何度も出くわすだろう。けれど少なくとも自分のやることに迷い、悩むことはないはずだ。自信がある。
 あれから三ヶ月がたった。記憶は昨日のように生々しい。あの時僕の中で起こった変化を、僕は今も明瞭に思い出せる。感情が明確な輪郭を持って息づいている。
 でも経験を語ろうとすると、指先が鈍る。的確な言葉が見つからない。結局はどうとでも解釈できる表現でしか、この体験を書き記せないと悟る。
 要するに僕は「大人になった」のか。
 だが「大人になる」とはなんだろう? 本当に「大人になった」か? そのとおりなのかもしれないし違うのかもしれない。価値判断が下せない。
 僕はタブレットのテキストアプリを閉じた。
 窓が濡れている。雨が降り始めている。雨は一ヶ月後には雪に変わる。一年で最も降水量(降雪量)の多い時期に入る。天気予報も悪天候が続くと言っていた。
 でもあいつの住む東京は晴れマークだ。
 僕は写真アプリを開いた。夏に撮影した一枚の画像をタップする。踏切と線路の写真。踏切のど真ん中に立って、線路の先へカメラを向けて写したもの。しかし踏切と線路の間には電車の通行をふさぐ柵が設置してある。
 廃線なのだ。
 写真を見ながら僕はふたつの名前を心に浮かべる。
 雪雄。
 夏樹。
 とても、とても特別な名前だ。僕自身やあいつの名前と同じくらい大切で、かけがえのない名前。口にすると僕は神聖な気持ちになる。胸がわくわくし、背筋も伸びる。
 僕は思い出す。夏の日差し。歌声。自分の中のビッグバン。すべてがみずみずしく、真夏の記憶なのに真っ白な初雪のように輝かしい。

 ――――

 七月。雪国は雪国であることを忘れる。
 町は地獄の釜のように煮え立ち、木々は青く盛り、セミの合唱が大地に降りそそいだ。もともと湿度の高い土地柄だけに、夏の暑さも猛烈だ。新潟の夏が始まった。
 雪雄にとっては夏休みの三日目だ。
 雪雄はバイパス下のほこりっぽい道を歩いていた。コンビニで買った棒アイスをなめながら、信越本線の線路を目指していた。アイスは数分で地面にしずくを垂らし始めた。
 心がだるい。
 信越本線を横切り、目当ての場所に着いたのは午前十時を回った頃だった。そこは踏切だ。遮断機はない。元からないのではなく、もともとあったものが撤去されている。
 雪雄は踏切のど真ん中まで進み、脇の柵に腰掛け、ぼんやりと線路の先をながめた。遠ざかってゆく入道雲のしっぽが彼方に見えた。
 前方の線路は東新潟駅と越後石山駅へ伸びている。もちろん両駅とも現役だ。
 背後の線路は今はもう使われていない沼垂(ぬったり)駅へつながる。ここは廃線なのだ。この場所はすでに役割を終えた旧踏切だ。雪雄がかけている柵も、部外者が線路へ侵入するのを防ぐために、線路と踏切の間に橋の欄干のように設置されているものだ。
 線路は夏草に覆われている。建物でも線路でも、人の手が入らなくなると植物が盛り出す。レールや枕木は遠目には腐食もなくて現役のように見えたが、まとわりつく緑の勢いは退廃的だ。
 その光景を雪雄は気に入った。
 雪雄が廃線と踏切を発見したのは四日前、夏休みに入る直前だ。遮断機のない踏切と、夏草の光景に心を奪われた。
 なぜか、その退廃的な光景に心を慰められるような気がした。
 その日は夕方までここで廃線をながめて過ごした。
 元々、信越本線のこちら側――東側は雪雄にとってなじみのない土地だ。線路までは家から徒歩十分もかからない。だが小・中学校の校区が線路を境界として東西に分かれていたので、友達が誰も住んでおらず、自然と足が向かなかった。高校のクラスメイトもほとんどが西側に住んでいたので、現在も特別な用事のない限りは踏切を越えない。
 だが四日前はまっすぐ家に帰りたくなくて、もうしばらく歩いていようと思ってうろついているうちに、こちら側へ入っていた。頭の中がぐちゃぐちゃで、気持ちを少しでも落ち着かせるために軽い運動(歩行)を必要としていた。雪雄は無目的に歩いて、なんとなく信越本線を越えていた。
 生まれて初めて通る、まったく知らない道を歩いた。西側と同じく古い家があり、新しいマンションがあり、小さな神社があり、パン屋や材木店や喫茶店があった。
 西側と大差なかった。だが町並みは雪雄の目に新鮮に映った。家の近所と言えば近所にすぎない土地、なのに知らない町。
 不思議な浮遊感と、重苦しい感情を抱えて歩いていたら、雪雄は廃線と旧踏切を発見したのだ。
 踏切は信越本線からかなり離れた位置にあったので、雪雄はいま自分がどの辺りにいるのかまったく見当がつかなかった。
 四日前の雪雄は今日の雪雄と同じように柵に腰掛け、線路をながめた。
 昔は商店街が踏切の前後に続いていたらしい。間口の大きな商家が目につく。ほとんどがとっくに廃業していて、ガラス戸の向こうには黒い布を広げたような闇が満ちている。――

 雪雄は四日前の記憶から顔を上げ、スマホを見た。もう十一時だ。
 暑い。だが心はしずやかだ。ひとりで廃線をながめていると、悩みを忘れて奇妙に超越的な気分になれる。
 雪雄は近くの木を見上げた。うるさいのにセミは見つからない。鳴き声が自分の内部で響いているような変な気持ちになってくる。
 最初、気のせいだと思った。セミの声の間に聞いた空耳だと思った。だがもっとはっきり耳にして雪雄は我に返った。
 足音がする。
 長い黒髪の若い女がこちらへ歩いてくるのが見えた。Tシャツに短パン、サンダルばき。遠目に見た感じは高校生くらい。服装が簡素なので近所の人間だろう。
 女が近づくにつれ、雪雄は彼女から目が離せなくなった。彼女も雪雄に気づくと怪訝そうに立ち止まった。
 女がぱっと表情を華やがせる。
「ユキちゃん?」と女がたずねた。
 雪雄はうなずき、返した。
「夏樹だよな?」
 夏樹はうなずき、雪雄のそばへ駆け寄ってきた。
 雪雄はあ然とした。目の前の光景が信じられなかった。幼なじみの夏樹だ。家が近所同士で、小さい頃は一番の遊び友達だった夏樹だ。なぜこんなところにいるんだ? 小学校まで一緒だったが、卒業と同時に夏樹は引っ越してしまった。それ以来、連絡も取り合っていない。
「ウソみたい。こんなことってある? まさかユキちゃんがいるなんて」
 夏樹は笑って言った。
 雪雄は柵から飛び降りた。
 夏樹は両手の指を組み合わせ、雪雄を見上げた。
「夢みたい。本当にユキちゃんだ。信じらんない」
「こっちのセリフだよ」と雪雄は言って微笑んだ。笑うのは四日ぶりだった。
「こんなところで何してるんだよ」と雪雄はたずねた。「いつこっちに帰ってきたんだ?」
「三日前、夏休み初日からだよ」
 夏樹は思い出したように雪雄を上下にながめた。
「大きくなったねえ、ユキちゃん」
「親戚のおばちゃんか」
 しみじみとした口調に雪雄は吹き出した。
「四年半振りだからな」
「もうそんなになるんだね。最後に会ったの駅だっけ?」
「いや……」
 雪雄は口ごもった。夏樹は小学校の卒業式の数日後に東京へ引っ越したが、雪雄は見送りに行かなかった。行きたい気持ちはあった。だが女の子の見送りに、女子たちに混じって行くのは恥ずかしかった。そういう年頃だった。
「最後に会ったの学校だよ。俺、見送りに行かなかったじゃん」
「そうだっけ?」夏樹は首をかしげた。「あの場にユキちゃんもいたような気がしたんだけど」
「お前こそ、変わったな」
 雪雄も夏樹の全身をながめ渡してから、ひやっとした。やらしい目つきだったかもと思った。夏樹の胸がそこそこ大きくなっていたので、なおさら。
 夏樹は自分でも自分の体を見下ろした。
「ユキちゃんがいるって分かってたら、こんなテキトーな格好しなかったのにな」
「いいじゃん夏っぽくて」雪雄は目をそらし、わざとぶっきらぼうに言った。
 夏樹の格好は見るからに部屋着だ。しかし足の指にはグリーンのペディキュアがきれいに塗ってあった。
「ユキちゃん、今も小説書いてるの?」と夏樹が聞いた。
 雪雄は不意打ちを食らって顔を上げた。少し黙ってから「うん」とうなずいた。
「書いてるさ、もちろん」
「ホント? うれしいな」
「なんで?」
「今でも時々思い出すんだよ」夏樹は目を細めた。「ちっちゃい頃、ユキちゃん、自分で考えたお話をわたしにいろいろ聞かせてくれたでしょ。すごく楽しかったな。ユキちゃんの話を聞いてると、いつも時間があっという間に過ぎたね」
 雪雄は頭をかいた。
「そんなことしてたよな……ガキっぽい、しょうもない話ばっかりだったな」
 夏樹は真剣に首を振った。
「素敵なお話ばかりだったよ。小学校の高学年の頃には「俺は将来、作家になるんだ」って言ってパソコンで書くようになったね。懐かしい。わたしにはユキちゃんのお話、全部面白かったよ。ねえ、いまのユキちゃんの小説も読んでみたいな」
 雪雄は曖昧に笑った。そんな話はしたくなかった。久しぶりに再会した幼なじみと、小説の話なんてしたくはなかった。
 雪雄は話題を変えた。
「夏樹も今でも歌ってるのか?」
 夏樹は目を大きくしてしばたたき、満面の笑顔になった。
「うん、今でも歌ってるよ! わたし、ずっと歌ってるよ!」
「へえ、すごいな」
 テンションの上がりっぷりに雪雄は面食らった。
「あの頃よりはうまくなったと思うよ」とはにかみ気味に夏樹は言う。夏樹は幼い頃から歌うのが大好きで、歌手になるのが夢だとよく話していた。
「こどもの頃は、わたしの歌なんてユキちゃんしか褒めてくれなかったね」
「ライブとかやってるのか?」と雪雄はたずねた。
「ううん、まだそんな度胸ない。でもいつかやってみたいって思ってる」
「じゃあどんなふうに歌ってるんだ?」
「ネットに投稿してるよ」と夏樹は答えた。「それに生配信もやってる」
「へーえ生配信」ちょっと興味をひかれた。「ネットでリアルタイムで歌ってるのか?」
 夏樹はこくりとうなずいた。
「すごいじゃん。度胸あるじゃないかじゅうぶん」と雪雄は感心した。
「ないよ、全然」夏樹は恥ずかしそうに首を振る。「ライブでお金を払ったお客さんの前で歌うのとは、やっぱり違うよ、逃げ場があるもん」
「逃げ場?」
「ネットの配信だったら、今日は喉の調子が悪いので中止します、とかまだ言えるし」
「ああなるほど」
「でもね、すっごく楽しいよ。その場で反応がすぐに来て、歌っててすごくエキサイティングな気分になるの……そうだ!」
 夏樹は大きな声を出した。
「ユキちゃん、今からうちに来て」

 踏切の近くの真新しい一軒家に案内された。夏休み中の里帰りだと思っていた雪雄は驚いた。
「ここに今いるのか?」
「うん、そうだよ。まだ建って半年しか経ってないの」
 夏樹の元の家は、雪雄の自宅マンションの近所の古い一軒家だ。そこには夏樹の祖父母が今でも住んでいる。
「勘違いしてたよ」と雪雄は笑った。「夏休みの間だけじいちゃんばあちゃんの家に遊びに来たのかと思った。お前、こっちに完全に引っ越したんだな」
 新しい家ということは、そういうことなんだろう。
「うん」夏樹は雪雄を見つめて、ニコッと微笑んだ。それからいそいそと玄関の鍵を開けた。
「線路のこっち側は全然知り合いがいないから、ユキちゃんと会えたのホントびっくりした」
 サンダルを脱ぎながら夏樹は言った。
「俺も」と雪雄も返す。「こっち側は友達もいないし、夏樹と会うなんて夢にも思わなかった」
「ユキちゃん、あんなところで何してたの?」と夏樹がたずねた。
「別に」雪雄は首を振った。「ただ、ぼうっとしてただけだよ」
「ふぅん?」不思議そうに夏樹はうなずいた。
 雪雄は階段を上りながら、目の前の尻に「おじさんとおばさんは?」とたずねた。
「うん」どこか心ここにあらずといった調子で夏樹は答えた。
「仕事でいないよ」
 じゃあ二人きりか。雪雄は不意に緊張した。しかし同時に心がおどった。急に目の前の尻が知らない女の尻に思えてきた。
「何を考えてるんだ、ガキの頃から知ってる夏樹じゃないか」と自らに言い聞かせたが、いや、夏樹はガキの頃「しか」知らない。成長してからは初めて会ったんだ。何も知らない女の子だ。
 顔面が熱くなった。
「座布団持ってくるから先に入ってて」
 夏樹が廊下の奥のドアを開けた。雪雄は冷気に包まれた。エアコンがつけっぱなしだ。
 エアコンの風を直に浴びると、顔も心もクールダウンする気がした。
 雪雄の横に座卓のような低いテーブルが置いてあり、ノートパソコンが乗っている。他はがらんとしていて、パソコン以外に物らしい物はほとんどない。色も装飾も乏しく、女子高生の部屋らしい華やぎが全然ない。先ほどのときめきがバカみたいに思われるほど拍子抜けな部屋だ。引っ越したばかりで荷を解いていないのかもしれない。
 パソコンの横には灰色の小箱のような機械が置いてある。オーディオ・インターフェースだ。パソコンで音の再生・録音を高品質に行うためのハードウェア。音楽制作を行う際には必須の機器だ。単純にパソコンの音響が抜群に良くなるので、音楽などやっていない雪雄も一台持っている。
 その上には琵琶を持った女神のぬいぐるみが置いてある。弁才天だ。
 あっ、と思った。こどもの頃雪雄がプレゼントした物だ。歌手を夢見る夏樹に、芸術の神である弁才天のぬいぐるみを誕生日に上げたのだ。小学二年生の時。弁才天は歌や踊りの神様なんだよ、と得意げにしゃべりながら手渡した記憶がある。
 雪雄はそわそわし出した。夏樹がなかなか戻らない。座布団を取りに行くにしてはずいぶん遅い。
 やっと足音がして、雪雄はホッとした。夏樹はレモンサイダーのペットボトルふたつと座布団を持っていた。
「待たせてごめんね、冷蔵庫に何もないんで買ってきたよ。はい」
 夏樹がサイダーを手渡してくる。雪雄は財布を取り出そうとしたが、夏樹にさえぎられた。
「いいよ、おごり」
「悪いよ」
「いいのいいの、その代わりちょっと変なことお願いしていい?」
「変なこと?」
「三十分くらい、声を出さないでいてほしいの」夏樹は唇の前に指を立てた。
「なんで?」
「ちょっとね、ユキちゃんに歌を聴いてもらいたいの」
「歌? お前の?」
 夏樹はうなずいた。
「いやだ?」
「別に、いやじゃないけど……」
「じゃあ、どうぞどうぞ座って」
 夏樹は座布団を置いた。雪雄は落ち着かない気分で腰を下ろした。
「準備するからちょっと待ってね」
 雪雄はレモンサイダーにひとくち口をつけた。強い酸味で口の中が引き締まる。なんというか、夏らしい味だ。雪雄は喉が乾いていることに気付いた。
 俺はやっぱり緊張してるんだ。
 夏樹は押入れからエアキャップに巻かれた小型のマイクスタンドを取り出した。エアキャップをはがしてパソコンの前に立てると、マイクと黒いコードをセッティングした。
 夏樹は最後にアコースティックギターを取り出した。雪雄は目を丸くした。
「弾けるのか?」
 夏樹は照れ笑いした。
「簡単なコードバッキングくらいならね。ややこしいことはできないけど……」
「すごいじゃん」
 夏樹は顔を赤くして首を振った。
「ああ緊張してミスっちゃいそう」
 夏樹は座布団にあぐらをかき、膝の上にギターを置いた。マイクの位置を調整すると、「告知させてね」と言ってスマホを手に取った。
「告知?」と雪雄はたずねた。
「うん、生放送やります、って」
「あ、放送するのか」
 歌を生配信するから声を出すなと頼んできたのだ。
「静かにしとくよ」
「うん、ごめんね」
 夏樹は指を何度か滑らせると、スマホを絨毯の上に置いた。途端にバイブレーションが始まった。途切れずにスマホが振動し続ける。たくさんの人が次々に告知に反応して、情報拡散しているのだ。
 夏樹はマウスを手に取って生配信サイトへ飛んだ。ディスプレイは配信者専用のページを映し出した。
「始めるね」
 放送が始まると、雪雄も見たことのある生放送の視聴画面が表れた。画面にはキャプチャした画像として、どこかのヒマワリ畑が映される。
 その画面上を視聴者のコメントが流れてゆく。放送が始まってすぐだというのに結構な数だ。
「みなさんお久しぶりです、『なつ』です。ひと枠だけ歌いますね」と夏樹は言った。「急に始めたので、五分ほど待ちます」
 しゃべっている間もコメントは増え続ける。放送開始をねぎらう決まり文句的なコメントもあれば、「なっちゃん久しぶりー」「なっちゃーん」と夏樹を呼ぶコメントも散見された。
 五十人を超える視聴者が集まった。一部の超メジャーな配信者には及ばないが、結構な数字だ。直前の告知以外、事前告知もなく唐突に始めたことを考えれば、なかなかの人気ぶりだ。
 雪雄は声をかけたくなったが我慢した。声を出さないと約束したこともあるし、単に邪魔をしてはいけないというのももちろんある。だがそれ以上に集客ぶりに少し怖さを感じた。
 これだけひとが集まるなら狂信的なファンもついているかもしれない。もし配信中に横から男の声が聞こえたりしたらどうなるだろう? きっと恐ろしいことになる。
「五分たったので始めますね」
 夏樹はボロンと弦を鳴らした。
「今日は緊張するなぁ」夏樹がこちらを見る。雪雄はしばたたいた。俺がいるから? と思う。
 夏樹は自分の左手に視線をやり、右手でアルペジオを弾き始めた。そしてすぐに腕をストロークし、歌い出した。
 雪雄の知らない歌だった。
 しかし雪雄は最初のワンフレーズでじゅうぶん衝撃を受けた。心を鷲づかみにされ、全身が粟立った。
 夏樹は別人のように上手くなっていた。
 声の張り、伸び、美しさ、力強さ、どこをとっても圧倒的だった。まるっきりプロじゃないか。
 雪雄は少しも期待していなかった。夏樹の歌になんの幻想も抱いていなかった。こどもの頃の夏樹は歌が下手だったからだ。
 誰よりも歌うことが好きだった。何をしていても無意識に鼻歌をかなで出していた。家でも外でも学校でも歌手になることを夢見て声を出してばかりいた。でも下手くそだった。雪雄や他の子どもたちの方が上手いくらいだった。
 サビのぞくっとする高音に聴き惚れながら、雪雄は幼い頃の夏樹を思い浮かべた。
 下手なのに歌ってばかりいた夏樹はちょっと抜けた子と周りから見られ、バカにされがちだった。反抗できないおとなしい性分だったのでその度、悲しそうにうつむいた。そんな夏樹を家が近所だった雪雄はいつもかばった。
 がんばって歌い続けていればきっとうまくなるよ。大人になったらなっちゃんはプロの歌手になるよ。
 そう言うと夏樹は泣き止み、満面の笑顔になってくれた。その笑顔を見ると雪雄もうれしかった。心からホッと安心できた。
「ありがとうございました」
 夏樹は歌い終えると、目線を動かした。ものすごい数のコメントが流れている。ひとつひとつを目で追うことなどできないが、ぱっと見、ほぼすべてが賞賛のようだ。
 夏樹の頬が赤く染まる。
「いっぱいのコメント、どうもありがとうございます。とってもうれしいです」
 その時だ。雪雄の中で予想外の反応が起こった。
 気持ちが急激に冷めていった。夏樹は次の曲を歌い始めたが、雪雄はその歌声にもう心奪われなかった。魔法が解けたように冷徹な気分に心を支配された。
 すっかり変わっちまったなと雪雄は思った。イラつく気分でレモンサイダーを飲んだ。
 窓の外には夏樹の歌声のような青空がある。ここは俺のいる場所じゃないと感じた。
 夏樹にイラ立つと同時に、自分自身が情けなくてやりきれなかった。自分でもこの気持ちがチンケなものだと自覚している。ここ数日、心にたまっている鬱屈した感情は、全部チンケなものだ。
 自分だけが置いてきぼりにされている。
 俺をみんな追い越して行っちまう。
 くだらない嫉妬だった。くだらなくてバカげていた。
 夏樹は楽しそうに歌い、時折視聴者のコメントを拾っては礼を述べた。雪雄は長い長い三十分を過ごした。
「今日はこれでおしまいです。次枠は、ごめんなさい、ありません。ひと枠だけです」
 画面には「お疲れ様」コメントが次々に流れた。最終的に視聴者数は三百を超えていた。
 放送が終わると夏樹は長く息を吐いた。それから雪雄を見て「ユキちゃん、聴いてくれてありがとう」と言った。
「うん」雪雄は夏樹の笑顔から目をそらした。
「生放送、やりなれてる感じだな」
 黙り込むのも不自然なのでぼそっと言う。夏樹はうれしそうにうなずく。
「一年くらい前から始めたんだよ。生放送だけじゃなくて動画の投稿もしてる。そっちはたまにだけど」
「ふうん」と雪雄は気のない声を出した。我ながら失礼な態度だと思った。
「ごめん、迷惑だったかな?」
 夏樹がやっと雪雄のそっけなさに気づいて、不安げにたずねた。
「迷惑なんてことはないけど……」雪雄は後ろ頭をかいた。何か言わないと。だがロクでもない言葉しか思い浮かばない。雪雄はギリギリのところでためらったが、逆に「言っちまえ言っちまえ」と背中を押す悪魔の声も聞いた。
 雪雄は息を吸い、考えなしにしゃべった。
「なんていうか、昔の夏樹の歌のほうが好きだったな。あの頃は純粋に歌を楽しんでる感じだったから応援してたんだよ。今は視聴者に歌わされてる感じがした。俺、素人だからよく分かんないけどすごくうまくなっててびっくりしたよ、最初は。でも聞いてる内に違うなって思ったんだ。こどもの頃の夏樹の歌はもっと感情がこもってた気がする。どんなにうまくても、うまいだけじゃ心は動かないよ。うまいってだけで気持ちが伝わってこない。俺には何にも伝わらなかったよ」
 しゃべる内に夏樹の顔から笑みが消えた。雪雄が言い終える頃には青ざめていた。
 雪雄の中に後悔が押し寄せたが、俺は間違ってない、と意固地に考えた。
 いや間違っている。全部うそだ。夏樹の歌には強い思いがこもっていた。ちゃんと伝わった。
「ユキちゃん、ありがとう」
 夏樹は震える声で言った。気を取り直して笑顔になる。だが雪雄の目を見ることはしない。
「ちゃんと聞いてくれてうれしいよ」と夏樹は言った。「そんなに深く聴いてもらえて、すごくうれしい。やっぱりユキちゃんは言うことが違うね。痛いところ突かれた。わたし、昔よりは上手くなったって思ってて、ユキちゃんにこんなに上手くなったんだよって自慢したい気持ちで歌ってた、うん。それじゃダメだよね。歌に心を集中させなきゃいけないよね。ちょっと調子に乗ってた」
 そんなことはないと雪雄は思ったが黙っていた。仮に調子に乗っていたとしても、それを差し引いてなお素晴らしい歌だった。もっと調子に乗ってもいいくらいだ。
「ありがとう、目が覚めた」夏樹は何度もうなずく。
「わたし、もっともっといっぱい歌ってユキちゃんを満足させるよ。もっともっとうまくなって、ユキちゃんに喜んでもらう」
「ああ、うん。がんばれよ」
 雪雄は短くうなずいた。

 久しぶりの再会だというのに、その後すぐ雪雄は夏樹の家を後にした。用事があるとかなんとか、自分でもよく分からない言い訳を口にしながらあたふたと部屋を出た。
 ちらっと見えた夏樹の顔は心底落胆していた。
 靴をはきながら「俺は何をやってるんだ、なんでこんなクソ野郎なんだ」と自分を責めた。だが夏樹には「じゃあな」の一声しかかけられなかった。
 夏樹の家が見えなくなるまで雪雄は足をゆるめず歩いた。旧踏切に差し掛かったところで足を止め、ゆっくり息をついた。
 線路を見た。
 汗が流れ、地面にしたたった。雪雄はぬぐいもせずに立ち尽くした。
 もっと楽しい時間を過ごせたはずなのに。夏樹のこと、俺のこと、いろんなことを話して笑い合えたはずなのに。夏樹の歌を素直な気持ちで聴けさえすれば。俺がくだらない嫉妬なんてしなければ。
 俺はなんでこんなにバカなんだろう。
 目の奥が熱くなり、雪雄は奥歯を噛んでこらえた。自己憐憫の涙、くだらない涙だ。泣くなんて本当にクソみたいだ。
 雪雄は再び歩き出した。耳の奥で夏樹の歌声が響いていた。

 翌日、雪雄は十時頃に起きるとすぐに外へ出た。今日も朝から暑かったが、アイスも買わずに信越本線を越えた。
 まっすぐ旧踏切を目指した。
 廃線と夏草をながめたかった。あの物憂い景色の中にいさえすれば、胸の鬱屈も少しは晴れそうに思えた。
 昨夜の夢にこどもの頃の夏樹が出てきた。夏樹は泣いていた。それを慰めるのはこども時代の雪雄の役目のはずだった。なのに夢の中の雪雄は黙って立っているばかりで、夏樹のために指一本、動かさなかった。
 起きた時、自己嫌悪で吐き気がした。家でじっとしていることはとてもできなかった。
 旧踏切が見えてきたところで雪雄は舌打ちをした。先客がいる。麦わら帽子をかぶり、柵にもたれてスマホに目を落としている誰か。
 帰ろうか、と一瞬思ったが、よく見たら先客はどうやら夏樹のようだ。かえって立ち止まれなくなった。
 近くまで来ると雪雄が声をかけるより先に夏樹が顔を上げた。一瞬こわばった後、その顔にパッと笑みが咲いた。雪雄の心がふと軽くなった。
 夏樹の顔面は汗みずくになっている。
「いつからここにいたんだ?」と雪雄はたずねた。
「七時くらい」
 雪雄は目を見開いた。
「熱中症になるぞ」
「ここにいればまたユキちゃんに会えるかな、って」
 雪雄は動揺した。目をそらす。
「うちに来ればいいだろ。親父やお袋も夏樹の顔を見たら喜ぶし」
 夏樹も線路の先を見た。
「なんか行きづらくて……」
 雪雄は黙った。それはそうだ、当たり前だよな。俺のせいだ。気まずいに決まってる。
「ごめんな」という言葉が出かかった。でも言えなかった。雪雄は言葉を探した。
「もし……その、俺が来なかったらどうしてたんだ」
「うーん」夏樹は空を見る。「お昼くらいにあきらめて帰ったかな」
 雪雄も空を見た。こんな炎天下に五時間もいる気だったのか。
 夏樹はTシャツに膝丈のスカートを合わせている。足もサンダルではなくしゃれたパンプスだ。よく見るとTシャツもよれよれの部屋着でなく、しっかりした生地のよそ行きだ。
「おしゃれだな」と雪雄は言った。
 夏樹は微笑んだ。
「昨日テキトーな格好で恥ずかしかったから、今日はちょっとだけがんばったの」
 俺のためにがんばったってこと? いやそうとも限らないか、アホくさ――雪雄は話題を変えた。
「他の友達にはもう会ったのか?」
 夏樹は首を振った。
「今のところユキちゃんだけ」
「連絡は取り合ってない?」
「うん、もうほとんど。それに……」
 夏樹は言葉を切った。
「……ううん、なんでもない」
 小さく笑う。
 なんだろう、と思ったが雪雄は追求しなかった。
「ねえ、ユキちゃん」夏樹は朗らかな笑顔に戻る。
「もし良かったら、今日もわたしの歌を聴いてもらえないかな?」
「え? うん」
 雪雄は虚をつかれて思わずうなずいた。そんな言葉は想像もしていなかった。昨日の態度が態度だから。
 夏樹は柵から背を離した。
「今度こそ気持ちを込めてがんばるよ」
 昨日もじゅうぶん良かった、と雪雄は心の中でつぶやいた。
「配信するのか?」と雪雄はたずねた。
 夏樹の顔がくもる。
「ユキちゃん、いやだった?」
「え、別に……」
 生配信することがいやなんじゃない。予想外にファンが多かったのがショックなんだ。嫉妬してるだけだ。
「良かった」夏樹はホッと息を吐いた。「夏休みはできるだけ毎日、放送しようって思うんだ。サボらず歌おうって」
 サボらず? 雪雄は違和感を覚えた。配信はともかく、夏樹は毎日当たり前に歌ってる人間じゃないのか?
「うちに行こう」
 夏樹が歩き出した。

 夏樹はうちに入るなり「シャワーしたい」と言い出した。
「汗だくだよ、歌の前にシャワーしてもいい?」
 雪雄は夏樹から目をそらした。
「お前のうちなんだから好きにすればいいじゃん」
 夏樹は台所へ入って、冷蔵庫からレモンサイダーを取り出した。
「ごめんね、部屋で待っててね。エアコンは自由につけて」
 雪雄は階段を上がりながら胸を高鳴らせた。
 こども時代の夏樹にもこういう自由奔放さがあった。しかし今はこどもじゃない。男を家に上げて(しかも今日もおじさんおばさんは留守のようだ)いきなりシャワーするやつがあるかよ。
 夏樹は多分、何も考えていない。特別な気持ちなどない。ただ汗ばんで不快だからサッパリしたいだけなのだ。夏樹は余計な他意のない人間だ。
 しかし雪雄は他意だらけだった。想像がエロティックになるのを抑えられない。
 夏樹の部屋に入った。開けっ放しの窓を閉めると蝉の声が消え、しんと静まり返った。エアコンをつけた。自由に、と言っていたので設定温度を最低にした。冷気を浴びながらレモンサイダーを飲むと、気持ちも落ち着いてくる。
 不意にもよおしてきた。一階の廊下の奥に確か、トイレらしいドアがあった。
 階下に降りて廊下を進むと水音が聞こえてきた。浴室だ。
 脱衣所の引き戸が開けっぱなしになっていてぎょっとする。本能的に奥へ目を向けた。シャワーを浴びる夏樹のシルエットがすりガラス越しに見えた。上半身だけだ。取っ手に真っ赤なタオルがかけてあって、腰から下を覆い隠している。
 裸体を見たわけでもないのに頭が熱くなり、雪雄は急いで脱衣所の前を離れた。トイレで用を足すと、すみやかに二階へ戻った。

 バスタオルで頭を拭きながら夏樹が部屋に入ってきた。
「待たせてごめんね。おかげでサッパリできたよ」
「あんなところに朝からいれば汗だくにもなるさ」
 濡れ髪から目をそらして雪雄は言った。濡れただけでどうしてこんなに色っぽくなるんだ、女の髪って。
「よしっ、やるね」
 バスタオルを放り、夏樹はギターを手に腰を下ろした。マイクなどはもうセッティング済みだ。
 ギターのチューニングをする横顔を雪雄は見た。真剣な表情だ。
 雪雄はせわしなくレモンサイダーを飲んだ。
 夏樹がスマホを手にとった。だがすぐに放り出してパソコンに向かった。
「告知しないのか?」と雪雄はたずねた。
「うん」夏樹はぎこちなく笑った。「今日は別にいいかなぁ」
 雪雄は胸を重くした。俺が「視聴者に歌わされてる」なんて言ったせいか? 人を集めるのを躊躇してるのか?
「告知しよう。もっとたくさんの人に聞かせよう」と明るく提案する自分が頭に浮かぶ。もし夏樹が俺の言葉を気にしているなら、あんなのうそだったんだよ、と打ち明けるべきだった。
 だが正反対のいじけた言葉が口をつく。
「俺、邪魔じゃないか?」
 夏樹は目を丸くした。
「え? どうして?」
 本気で驚いている顔で、雪雄は言葉に詰まった。
「邪魔なわけないよ」
 夏樹はぶんぶん首を振った。
「ユキちゃんに聴いてもらいたい。何年も会えなかった分、いっぱい今のわたしの歌を聴いてもらいたいよ」
 夏樹が目を伏せる。
「ユキちゃんが迷惑に感じてるなら仕方ないけど……」
「迷惑なんてことはないよ」
 雪雄は即答した。すぐに口を動かさねばならなかった。もたもたするとまたバカなことを口走ってしまいそうだったから。
 夏樹はホッと笑顔を見せ、放送を開始した。
 パソコンは生放送のページを映している。告知がないせいか昨日よりコメントがさみしい。と思ったのもつかの間、夏樹があいさつをしている間にみるみる視聴者が増え、画面はコメントでいっぱいになった。
 改めて人気を思い知った。ただ放送を始めただけでこれだけの人が見に来る。夏樹を「お気に入り」として登録し、放送や動画を待ちわびているファンが大勢いるのだ。
 またぞろ嫉妬心がわいてきて雪雄はうつむいた。
 夏樹が歌い始める。やはりすごい。伸びやかで厚みがあり、力強い。同時に繊細でもあり、色っぽく艶やかでもあって、倍音成分が七色に光っている。歌のイメージに合わせて、夏樹は艶女にも少年にも変幻自在に変身してしまう。
 本当にうまい。ど素人の俺にも分かる。プロの世界に入れても上位のレベル。音程も正確だし、感情の込め方も過不足ない。
 だけど――どうだった? と聞かれたら今日も素直に答えられそうにない。
 すごい、うまい、最高だよ、プロになれるよ、いやすでにプロレベルだよ、気持ちが伝わってくる、歌が胸に響いてくる――と雪雄は答えられない。
 素晴らしいボーカリストの生歌を特等席で聴いているのに。
 雪雄は早く生放送が終わらないかと思った。さっき迷惑だとはっきり言えばよかったとさえ思った。
 その時、画面を流れていくコメントのひとつに雪雄はハッとした。

『下手くそ』

 ウソだろ? 雪雄の頭がカッと熱くなった。
 バカか? 下手? 耳が腐ってるのか? 誰が聴いたって分かる。夏樹はうまい。ふざけてんのか? 何を聴いてんだ?
 怒りのあまり危うく、文句を口走りそうになった。
 歌い終わると夏樹が言った。
「下手コメントさん、ありがとうございます。もっとうまくなるよう、がんばります」
 雪雄は夏樹を見てしばたたいた。ありがとう? なぜそんなことを言う?
 慣れた配信者は「荒らしコメント」はスルーする。しかし夏樹はわざわざ罵倒を拾い上げ、言葉を返した。それも感情的に反論するのではなく、落ち着いて。にこやかな横顔は無理をしているようにも見えない。皮肉を投げつけている感じでもない。
 夏樹は何事もなく次の曲を歌い始めた。歌声に変化はない。
 そのまま放送は終わった。夏樹はギターを横に置き、すがすがしげに伸びをした。
「ユキちゃんお疲れ様。聴いてくれてありがとう」
「うん……」
 雪雄は少し迷ってたから言ってみた。
「うざいコメントしてる奴がいたな」
「いたね」
 夏樹は笑ってうなずいた。
「そういうコメントってスルーするものかと思ってた」と雪雄は言った。
「そうだね」と夏樹は答えた。「それが普通かも」
「イヤじゃないか?」
 雪雄がたずねると夏樹は考えながら話した。
「批判されるのってうれしくはないけど、わたしは天才じゃないから仕方ないって思ってる。みんなそれぞれ、いろんな意見や好みがあるものだし。世の中にはすごい歌を聴かせる人がいっぱいいるでしょ。わたしみたいな下手くそは誰かにたたかれながら、少しずつうまくなっていくしかないよね」
 下手? どこが?
 と思ったが、雪雄は黙る他ない。何しろさっきのコメントと同じようなことを、昨日の自分も言ったのだから。
「お前、別に下手じゃないし」
 雪雄は下を向いて言った。本当はそんな言葉じゃ足りない。もっと褒め倒していい。でも今の雪雄にはそれが精一杯だった。
「ホント?」夏樹は眉をはね上げ、聞き返した。「わたし下手じゃない? ユキちゃんそう思う?」
 雪雄は後ろ頭をかきながら、うなずいた。
 夏樹は頬を紅潮させてガッポーズした。
「やった! すっごくうれしい」
 雪雄は調子狂うなぁと思いながら話題を変えた。
「ああいう批判コメントってけっこう書かれるのか?」
「まあ時々は」と夏樹がうなずく。
「そっか」雪雄は一口レモンサイダーを流し込み、言葉を探した。「そういう鬱陶しいやつっているんだな。めんどくさいなネットって」
 夏樹は微笑んだ。
「わたし歌うのがすごく楽しいんだ」
 雪雄は夏樹を見た。
「楽しくて仕方がないから、たたかれるのも苦じゃないの。ヘコむ気持ちよりも歌う幸せのほうがずっと大きい。批判だって自分の燃料にしてやるって思えるくらい、気持ちが充実してるんだよ。だから前向きで鈍感でいられるのかな。こんな楽しいことやめられない。歌うの、楽しくってやめられない。わたしいつもそんな気持ちで歌ってる。今も」
 夏樹は雪雄をまっすぐに見る。
「ユキちゃんだけがリスナーだったあの頃も。何も変わらない」
 雪雄の胸の内をスッと心地よい風が吹き抜けた。夏樹の笑顔がまぶしい。裸眼で太陽を見上げたみたいに。


 翌日の昼過ぎ、雪雄は自転車で家を出た。所属する文芸部の会合に出席するためだ。
 安い喫茶店でコーヒーを飲んで、ただだらだらするだけの集まりである。夏休み中は部員が顔を合わせる機会がないので、部長の高梨がこの会を呼びかけた。週に一回は集まろうと高梨は言ったが、面倒だという部員もいたので夏休み中に三回開くという話になった。今日がその一回目だ。
 雪雄も別に反対する気などなかった。反対どころか数日前まで、文芸部はどこよりも居心地のいい場所だったのだ。
 栗ノ木バイパス沿いを走りながら、雪雄は最近読んだ本をいくつか頭に思い浮かべた。会合では当然、読んだ本の話か現在書いている小説の話になる。
 だめだ。少しも気持ちが盛り上がらない。本の話などしたくない。執筆中の小説(現在そんなものは一本もないのだが)の話をするのも聞くのもいやだ。
 馬越(うまこし)の交差点で信号に引っかかった。ため息が出た。会合に出たくない。みんなに会いたくない。特に――東に。
 だが出なかった時、みなが自分についてどんな話をするか。想像するとひどく不快になる。
 東の新人賞の件で、みんな俺のことをバカにするのではないか。
 いやバカにされるならまだいい。「かわいそうに」「気の毒に」「さぞくやしいだろうな」。などと哀れまれていたら、こらえがたい屈辱だ。
 目の前を栗ノ木川が流れている。両脇に桜が立ち並んでいる。夏の陽が緑の葉に降り注ぎ、並木全体が輝いている。
 雪雄は苦しかった。こんなに世界はまぶしいのに、自分だけ雪原に取り残されたような気分だ。
 のろのろと笹口方面へ自転車を進めた。
 交差点を渡ると左手に住宅メーカーの真新しい建屋が見えてくる。こどもの頃、ここはちょっとしたショッピングモールだった。雪雄が中学生になった年に完全に閉店したが、それ以前からテナントのほとんどが抜けて、末期にはメインのスーパーマーケットさえなくなり、百円ショップだけががらんどうの建物内でポツンと営業していた。
 小学校低学年の頃にはまだにぎやかで、親に連れられて何度も来店した。買い物を終えるとスーパーのすみの小さなフードコートで、ミントアイスを食べるのが楽しみだった。
 帰りたい、と思った。めんどくさい。気が重い。
 こどもの頃の俺だったら夏樹のこと、大はしゃぎで褒めただろうな、と雪雄は思った。
 夏樹、お前めっちゃうまいじゃん! 天才だよ!
 夏樹の顔が思い浮かぶ。「何も変わらない」と言った真っ直ぐな目。
 ますます部のメンツに会いたくなくなった。
 新潟駅の交差点の手前にコーヒーショップがある。そこが集合場所だ。雪雄は駐輪場に自転車をとめた。
 中に入ると、雪雄が最後だった。すでに他のメンバーは奥のテーブル席に腰掛けていた。
 テーブルをふたつくっつけて八人が座っている。雪雄も空いたイスにかけた。
 高梨部長がみなを見回した。
「全員揃ったので会合を始めよう」
 何人かがクスクスと笑う。高梨も笑みを浮かべる。
「話し合わなきゃいけない議題なんてないけどな。とりあえずみんな元気そうでよかった」
 元気じゃねえよと雪雄は心でつぶやいた。ちらっと斜め向かいの東を見る。東は背筋を伸ばし、こぶしをももの上にきちんと乗せている。一年生だから緊張しているんだろうか。一見活発そうなショートカットの女子だが、体の華奢さはいかにも文化系だ。
「これは改めて話しとこうか」と高梨が言った。
「もう知ってるだろうけど、東の作品が例の新人賞の二次選考を通った」
 自然発生の拍手がわき起こった。雪雄も手を叩く真似をした。
 東は恥ずかしそうに頭を下げた。
「ありがとうございます。自分でも信じられません」
「応募総数はどれくらいだったの?」と部員の一人がたずねた。
「七百ちょっとです」東が答える。
「一次を通ったのは七十ちょっとだ」と高梨が付け加えた。「この時点でかなりのもんだよな」
「一次で一割なんだ、すごいね」と部員の一人が感嘆した。
 一割とかそういう問題じゃないだろ物を書くって、と雪雄は思ったがもちろん口には出さない。こっそりため息をつく。自分でも嫉妬しているだけだと分かっている。
 去年、雪雄も同じことを言われたのだ。それを心の底から喜んだ。ついこの間まで、その一割に入れたことを人生で一番の誇りに思っていた。
「二次もさらに減って、たったの二十作」
 高梨が言うと、
「二十? すげー」
「すごい、あり得ないよ」
「すでに選ばれし者って感じじゃん」
「文芸部が始まって以来の快挙でしょ」
 雪雄も衝撃を受けてしまった。二十。そんなに少なかったんだ……
 東は真っ赤になり、恐縮しきりといった感じに笑っている。
 雪雄はテーブルを見た。無性に喉が渇いた。
「部長、飲み物頼もうよ」と雪雄は言った。自分の声のとげとげしさに、我ながら一瞬ヒヤリとした。
「そうだな」と高梨は笑った。「俺たち、いやな客だな」
 雪雄は甘いものが欲しくてココアを注文した。他のメンバーはひとりをのぞいてコーヒーを注文した。
 東だけが雪雄と同じくココアを頼んだ。
 部員のひとりが「師弟で味覚も似るのかもね」と言った。
 東はおかしそうに笑い、雪雄を見た。雪雄はやっとの思いで口元に笑みを浮かべ、表面を取りつくろった。
「今回は本当にユキ先輩にお世話になりました」と東が言った。
 高梨がうなずき、雪雄を見た。
「ユキはえらいよ。お前があんなに面倒見のいいやつだったなんてな」
「別に……」話を振るなよ、と思いながら雪雄はうつむいた。
「大したことはしてない」
「大したもんだよな?」
 高梨が東にたずねる。
「ハイ。春の時点でわたし、作文のルールさえよく分かってませんでした」
 東は真面目に答え始めた。
「物を書くということについて何も知らない人間でした。本を読むのは好きだったけど、書くことはさっぱり。文芸部に入部したのも書きたいからじゃなくて、小説を書ける人たちにあこがれていたからです。まさかわたしが書くようになるなんて、想像もしなかったです」
「すごい速度でうまくなったよ。才能があったんだな」と高梨が言った。
「いえ才能なんて……よく分からないです」
 東は首を振って謙遜する。
「ユキ先輩にいろいろ教わったから」と東は続けた。「おかげでなんとか書けるようになりました」
 そのとおりだった。東に小説の書き方をひととおり教えてやったのは雪雄だ。
 東は春の時点で、新一年生も含めた部員中、ただひとり小説を書いた経験がなかった。入部あいさつで「わたしも「わたしの作品」と言えるものを書いてみたい」と言った彼女の教育係は、自然と雪雄という雰囲気になった。
 その理由は雪雄が、今回東が二次選考を通った賞の一次選考を、昨年突破した人間だからだ。
 一次を通るだけでも難しい賞だった。突破できたらいいという願望はあったものの、リアルに突破できるとは雪雄自身、思っていなかった。自作に自信はあった。でも新人賞とかプロになれるとか、そんな段階にはまだ全然達していないと自己評価していた。だからびっくりしたし、部の仲間は自分以上にびっくりしてくれた。俺の小説はそれなりのものなんだと自信を持てた。仲間たちも持てはやしてくれた。
 以来、雪雄は部で一目置かれた。部長の推薦はめんどうなので断ったが、高梨も雪雄のことは常に尊重してくれる。創作に関して何かあれば必ず雪雄に意見を聞いてくれる。そんな環境が雪雄は心地よかった。
 だから東に書き方を教授してやるのも自分がふさわしいと、雪雄自身も思ったし、部の仲間もそう思ったはずだ。
 春から梅雨入りにかけて、短い短編をいくつか書かせて指導した。東はみるみる腕を上げ、雪雄は舌を巻いた。俺には人に小説を教える才能もあるのかなどと思い、雪雄は自分に酔った。
 それなりに書けるようになると、東はひとりで長編に挑戦した。完成したのは今回の賞の応募締め切りの直前だった。雪雄はその作品を読んでいないが、それまでの短編の出来栄えから判断して、一次を通るとまでは思わなかった。
 腕を上げたと言っても所詮は初心者だし、長編を書ききる筆力はまだないと思った。投稿は東にとって記念受験のようなイベントごとで、腕試しですらないと雪雄は考えていた。
 ところが東は一次を突破した。
 その時点でも雪雄には余裕があった。かわいい弟子が自分と同じく、新人賞の一次を突破したのだ。成長を喜ぶ余裕のほうがあせりを上回った。
「レトリックもそうだし、いらない言葉を削って読みやすくすることもそうです」と東は話を続けている。
「それに物語の構成にも一定の法則があって、ただ思いついたことをだらだら書けばいいわけじゃないと教わって、一気に世界が広がりました。作品の完成度が格段に上がったのが自分でも分かりました。本当に書くことが楽しくなりました。ちょっとした思いつきだってなんだって、きちんと読める物に仕上げられるんだ、わたしにも書けるんだって、すごくうれしかった。こどもの頃からわたしの頭の中にあった、もやもやしたアイデアの原型のようなものに、形を与えられるようになったんです。心がおどりました」
 東は改めて頭を下げた。
「全部ユキ先輩の指導のおかげです。本当にありがとうございました」
 そこまで言われたらうれしいだろ普通、と雪雄は胸の内で自分に突っ込んだ。
 少しもうれしくない。針のむしろだ。
「お前がすごいんだよ」と雪雄はぼそぼそ言った。
「ユキは謙虚だな」と高梨が言う。「師匠としてでかいツラをしていいのに。なあ?」
 他の部員たちもうなずく。
 雪雄はただ首を振った。
 東は二次を通った。
 俺は二次で落ちた。
 追い抜かれた。
 それ以来、雪雄の心は濃いもやに覆われた。一時も心が晴れないまま夏休みが始まり、旧踏切で汗だくになったり、久しぶりに再会した幼なじみの人気っぷりにさらなるダメージを受けたりして今日、ここにいる。
 自分でも情けないと思う。後輩を素直に祝福してやれないクズ。自分の心のせまさに頭を抱えたくなる。
 だが苦しいものは苦しい。妬ましいものは妬ましい。自分にウソはつけない。指導を褒められれば褒められるほど、皮肉を言われているような気分になる。お礼を言われるたびに遠回しにバカにされているような気分になる。
 クソッタレ!
 話題はみなの新作の執筆状況に移っていった。雪雄はまったく会話に入らず、ぼんやりとテーブルの端っこをながめた。
「雪雄はどうだ?」と高梨が話を振った。「新作、また新人賞に出すんだろ?」
「え?」
 雪雄はしばたたいた。まったく話を聞いていなかった。
「先輩の新作、すごく気になります」
 東がきらきらした瞳を雪雄に向ける。
「うん、まあ……」雪雄は適宜な返しを探した。
「今はまだ……構想中なんだ。全然ひとに話せる段階じゃなくてさ。完成はだいぶ先だと思う」
「お前も進学するんだろ? 受験勉強が佳境になったら書いてる暇なくなるぜ?」
 高梨が言った。
「ああ、まあ、そうかもな」
 雪雄は投げやりにうなずいた。
「先輩の作品、今までのも全部面白かったです」と東が言った。「次のもすごく楽しみです。完成が卒業後になっても、ぜひ読ませてください」
「ああ、うん」
 雪雄は東から目をそらした。
 お前には読ませたくない。絶対いやだ。もしも上から目線で批評的な意見を言われたら……想像するだけで背筋が凍る。
 だが東にはモノ申す資格がある。何しろ立場は逆転している。あれこれアラを指摘されても反論できない。勝者が敗者へ教えをくれているのだ、ありがたいことじゃないか。ここがダメ、そこがダメ、あちこちダメ出しされて、先輩もがんばってくださいねなんて笑顔で言われたら発狂だ。そんなの絶対にごめんだ。耐えられない。
 雪雄は残りのココアをあおった。すっかり冷え切っていて、甘ったるい。
 あのレモンサイダーがふと恋しくなる。
 レモンサイダーとセットで夏樹がいる。夏樹の横顔を思い浮かべる。
 逃げ出したい。
 ここにいるのはつらい。いたたまれない。分かってる。俺がアホなんだ。嫉妬深いクズ野郎なんだ。でもつらいものはつらい。夏樹の歌を聴きながらレモンサイダーを飲んで、ぼんやりしているほうがまだマシだ。ここよりは平和だ。
 夏樹にも俺はさんざん嫉妬して、悪態をついて、こいつの歌なんか聞きたくないって思ったくせに。俺は一体何なんだ。どれだけ自分勝手なんだ。
 雪雄は自分の思いに沈んだ。
 昨日の夏樹の態度が効いていた。荒らしコメントに対する対応を雪雄はすごく好ましく感じたのだ。
 もしも俺だったら――自分の小説を罵倒されたら本気で怒って落ち込んで、言葉を失うだろう。嘘でも感謝の言葉を口にするなんてできない。
 雪雄はもう一度、夏樹の顔を思い浮かべた。
 この会合はいつまで続くんだろう、と思った。落ち着けない。悲しいが、俺はこの場で完全に異物だ。
 夏樹に会いたかった。

 翌日から雪雄は夏樹の家に通い始めた。
 取り決めたわけではないのに、夏樹はいつも旧踏切で待っていた。午前十時頃、夏樹はそこにすでにいた。柵に寄りかかって廃線の先をながめていた。暑いんだから家にいろよと雪雄が言うと、ユキちゃんの顔が見えるのを待ってる方がワクワクすると夏樹は言った。
 落ち合ったらすぐに家に行って放送することもあれば、気まぐれに近所を散歩したりもした。この辺は雪雄にとってなじみのない土地だから、見ず知らずの町を歩く楽しさがあった。
 そう、楽しいのだ。夏樹とぶらつくのには新鮮な面白さがあった。
 古いアパート、神社、町内会の掲示板、ラーメン屋、バイパスのコンクリート壁、空き地。夏樹と一緒だと、何てこともない風景がお気に入りの映画のワンシーンのように雪雄を刺激した。
 すると時々、不意打ちに文章を書きたい欲求がわき上がったりもした――実際に書き出すには至らなかったけれど。エンジンはかかったが、実際に走り出すにはガソリンがまだまだ足りなかった。
 でも不思議とあせりはなかった。夏樹のとりとめのない話――夏樹の歌の話や、夏樹と同じように歌や音楽を投稿したり放送している人たちのこと――を聞きながら歩いていると心が安らいだ。自分が立ち止まっていることをやましく思う気持ちが、なぜか薄らいだ。
 小説の話はしなかった。雪雄もしたくなかったし、夏樹もそれを察したみたいで、「新しい小説は進んでる?」と一度聞いた以外、その話題は出なかった。
 生放送を横で聞くのにも次第に慣れて、三十分を楽しめるようにさえなった。嫉妬心は時折よみがえったが、喉をなでるちょっとした小骨の刺激にすぎなかった。
 踏切の夏草はますます勢いを増した。夕立の後には、濡れた草と土のにおいが濃く立ちのぼった。
 呼吸を止めたように踏切は静かだった。二人で並んで廃線をながめていたある瞬間、雪雄は「俺の夏休みがやっと始まった」と不意に思った。

 一週間がたった。日曜だった。
 夏樹が歌い始める。視聴者のコメントが画面にあふれる。雪雄ももう見慣れた。
 だがその日は様子が違った。また荒らしがいたのだ。
 荒らしは「声が平凡」とか「ビブラートがしつこい」とか「音程感が甘い」とかいい加減な――雪雄にはいい加減としか思えない――非難コメントを次々に書き込んだ。
 すぐいなくなるかと思ったが、今回の輩は粘着質だった。長々とコメントを書き込み続けた。
 すごく腹が立った。どうすることもできないからこそ余計に。でも夏樹は気にするふうもなく歌い続けた。
 そのうち他の視聴者が耐えられなくなってきた。何人かが荒らしに反論し出した。
 それからはひどいものだった。画面には荒らし以上に、夏樹のファンたちによる反論と暴言があふれた。
 すると今度は「スルーしろよ」と、荒らしに反応する視聴者をいさめる者が現れ出した。さらにそれに対する反論まで出だして、もうめちゃくちゃだ。
 雪雄は唖然とした。平和な放送は一分もたたずに暗転。画面は乱暴な文字列で真っ白に染まってしまった。
 さすがの夏樹も黙り込んでしまった。画面を見つめて数秒、ぼう然とした。それから急に雪雄を見てぎこちなく笑った。この場の雰囲気をやわらげようとしたのだろうが、痛ましいだけだった。
 声を出せないから雪雄は慰めの言葉もかけられない。
 やがて夏樹は弾き語りを再開した。コメントの罵倒合戦には一切触れずに。
 五分もするとコメントも落ち着いてきた。真夏の通り雨を連想させる荒れ方だった。
 夏樹の横顔は最後まで晴れなかった。歌声も心なし張りつやがないように思えた。
 放送を終えた夏樹は疲れた様子だった。
「すごいことになっちゃったな」と雪雄は言った。
 夏樹は微笑んだ。
「放送したり動画を上げたりしてればコメントが荒れる時もあるよ。受け入れなきゃね。たくさんの人に聴いてもらえるようになれば、そういうことも増える。当たり前のことだもんね」
 夏樹は自分に言い聞かせるように言った。
 雪雄が言葉を返せないでいると夏樹も黙り込んだ。ギターのネックをぼんやり見つめる。雪雄がいることも忘れたような内省的な表情。
 雪雄は迷った。自分の中の意固地な部分、撤回することの恥ややましさ、それらの感情が雪雄を押しとどめる。
「夏樹」
 だが雪雄は思い切った。
「え? なに?」と夏樹が雪雄を見た。
「俺この間さ、なんか……」雪雄は言葉を探した。「変なこと言っちゃったよな……お前の今の歌は良くないとか何とか。あれ、ウソだよ」
 夏樹はきょとんとした。雪雄の顔面が熱くなった。
「正直に言うよ。俺、お前が人気者になってるのがこたえたんだ。お前が遠い存在になった気がしてさ。俺、いじけちゃったんだよ。それで嫉妬して、心にもないこと言ったんだ。ダサいよな」
 夏樹はじっと雪雄を見る。
「本当にごめん」
 雪雄は謝り、続ける。
「今のお前の歌、俺は好きだよ。本当にすごく好きだ。最高だよ。プロにだって負けない。胸に響いてくる。夏樹はすごいよ。すごいボーカリストだよ。今日のことなんて気にすんな。放送が荒れるのなんて大したことじゃないんだ。お前の歌のすごさに比べたらちっぽけなことだよ。お前の歌声、最後までちっとも揺るがなかったじゃん(実際には揺らいでいたが、褒め通すことにする)。ラストまで素晴らしかった。だからそのなんていうか、元気出してくれ」
 夏樹が立ち上がった。
「……うれしい」
 ぽつりと言うと、いきなり満面の笑顔でジャンプした。
「うれしい!」と夏樹は叫ぶ。「すごくうれしい!」
 雪雄は度肝を抜かれて夏樹を見上げた。
「すっごくうれしい!」と夏樹は言った。「やばい、幸せ。夢みたい! 幸せすぎて変になりそう! 今日は最高!」
 あまりの喜びように雪雄はちょっと引いた。
 夏樹は雪雄に身体ごと顔を近づけた。
「ありがとう、ユキちゃんに褒めてもらえて憂鬱な気持ち吹っ飛んだよ。わたし幸せだよ」
「そりゃ良かった」
 雪雄は眼前へ迫る夏樹に身体を熱くした。夏樹の肌はきめ細やかで薄桃色に色づいていた。やわらかそう。こんな近くで女の肌を見るのは初めてで、心がこんがらがる。
 雪雄は動揺を悟られないために話題を変えた。
「そういえばおじさんとおばさんって仕事忙しいのか? まだ一度も会えてないけど」
 たずねてから、そんなこと聞かないほうがよかったと後悔した。二人きりなのをことさら強調するような質問じゃないか。
 夏樹の反応はちょっと予想外だった。笑顔が引っ込んで、ひるんだような無表情が顔面に走った。
 でもすぐ笑顔に戻り「うん、すごく忙しくて……」と答えた。
 雪雄は一瞬、懸念どおり誤解されたのかと肝を冷やしたが、嫌がっているふうでもない。不意を突かれたためにちゃんと反応できなかったという感じ。
「そういえば今日はラムネがあるんだ。夏らしいでしょ? 持ってくる」
 夏樹は雪雄の答えを待たずに部屋を出て行った。階段を降りる音を聞きながら雪雄は「なんだよ……?」と思った。
 夏樹は冷えたラムネの瓶を二本持って戻ってきた。雪雄に一本渡すと「空気の入れ替えしていい?」とたずねる。雪雄はうなずいた。
 カーテンと窓を開けるとまばゆい陽が差し込んだ。ラムネの瓶に陽があたって、床に薄青い影が描かれた。
 雪雄は玉押しでビー玉を落とした。炭酸が弾ける。一口飲むとビー玉がガラスにぶつかる音がした。こどもの頃、このビー玉が取り出せないのをもどかしく思ったものだ。今はこの音を耳に心地良く感じる。中にビー玉が入っていて飲むたびに音が鳴る――それこそラムネだと思える。
 夏樹はラムネを飲む雪雄に背中を向け、黙って外をながめていた。

 何か隠してる。
 自室のベッドに寝っ転がって雪雄は考えた。夏樹がいつもひとりっきりなのは何か理由がある。おじさんおばさんが単に忙しいから、ではないと思う。今日の夏樹の変な態度でそう感じた。
 本人に聞かなきゃ分かりっこないが、どうも聞く気になれなかった。もし雪雄の勘どおり何か理由があるとして、普通に話せる内容なら夏樹のほうから話してくれそうなものだからだ。話してくれないのはその隠し事が、夏樹にとって愉快なことじゃないから――なら聞かないほうがいいかもしれない。そのように考えてしまう。

 雪雄は六時頃に目を覚ました。
 部屋の暗がりを見つめてぼんやりしていると、今日は空気がすずしいのに気付いた。
 そっと部屋を出て、台所でトーストと牛乳で簡単に食事を済ませた。歯をみがき、ひげを剃って外へ出た。
 かなりすずしい。くもり空で陽がさえぎられている。
 踏切に着いた時点でまだ七時だった。夏樹の姿はない。
 雪雄は草と廃線をながめた。夏樹が来るのが十時ちょっと前として三時間。ひるむ気持ちはわかない。この景色を見て過ごす間、退屈とは無縁だ。景色は俺の心と直につながっている、と感じるからだ。
 線路は見える限り、ひたすらまっすぐで少しの湾曲もない。その先は分岐器を越えて越後石山駅につながっている。上沼垂(かみぬったり)信号場の分岐器は二度と切り替わらない。この線路と踏切は撤去される日まで、ひたすら朽ちてゆくばかりだ。
 景色に自分を投影すると慰められた。センチメンタルだなと我ながら思う。でも慰められている事実を否定することはできない。中毒のように何時間でもこの景色を、まるで自分の心の内部をながめているかのように、雪雄はながめていられる。
 三十分したあたりで道の先で動くものが見えた。今日、初めての通行人だ。
 夏樹ではない。自転車に乗っている。
 人物の顔がはっきり分かると雪雄はギクリとした。向こうも同じくらい驚いていた。
 東だった。
「先輩」
 東は自転車を踏切の直前でとめ、言った。ハッとして自転車を降りて「おはようございます」と頭を下げた。
 滑稽な礼儀正しさに雪雄は笑った。それで心の圧力が少し下がった。
「おはよう」と返した。「こんなとこでどうしたんだ」
「朝の散歩です」上下スウェット姿の東は雪雄へ近づきながら答えた。浮かない表情だ。
 浮かないのは雪雄も同じだ。どこよりも落ち着ける場所で、誰よりも落ち着けない人間に会ってしまった。
「家、こっちなのか?」
「はい。もう少しあっちですが」東は来た道の先を指した。「赤道(あかみち=県道4号)の方」
 雪雄は憂鬱になった。なら今後もここで顔を合わせるかもしれない。
「あの、先輩」
 東はおずおずと言った。
「なんだ?」
「新人賞の中間発表が出たの、見ました?」
「いや……」
 自分が投稿していない賞の結果など見ない。
「わたし……」と言うと東はうつむいた。「三次選考、落ちちゃいました」
「あ、そうなのか」
 瞬間雪雄の心はパッと晴れた――情けないが本当のことだ。
「結構期待してたんですよね」と東は笑った。「ここまで来たら受賞できるんじゃないかって盛り上がって、ひとりで。あーあショック。すごくショックです。バカみたい」
 雪雄は黙る。東は笑っている。少なくとも皮膚と筋肉は笑いの形に引きつっている。
 だが痛ましい笑顔だった。こんな痛ましい笑顔を雪雄は見たことがない。――いや、雪雄の心にもない罵倒を浴びた夏樹が、やはりこんな笑みを浮かべていた。
「バカだなんて思わない」と雪雄は首を振った。
 一瞬表情がゆがんだが、東は笑顔を堅持した。
「受賞したらまっさきにユキ先輩に報告しようって思ってました」と東は言った。「その場面を何度も思い描いてワクワクしました。わたし、こんなに立派になりましたよって伝えたかったです。一緒に喜びかった。喜んでもらいたかった。ホント甘ったれで世間知らずで自信過剰ですみません」
 雪雄はもう一度首を振った。
「お前はじゅうぶんがんばったよ。立派だよ」
 あれほど妬んだ東だが慰める他ない。
「二次まで突破したってだけで誇れるよ。入部した時のこと思い出してみろよ、信じられないスピード出世じゃないか? 次はもっといいものが書けるさ」
 東は鼻をすすり始めた。
「おいおい」
 雪雄は東の真ん前に立った。どうすればいいのか分からない。
 東はついに声を上げて泣き出した。そして前のめりになり、雪雄に抱きついた。
 雪雄の鼻孔に甘ったるい香りが流れ込む。シャンプーの匂いかと思ったが、違う。香水だ。すごく濃くて大人っぽい香り。
 東がこんな香りをまとっていることに混乱する。全然そんなイメージじゃない。
 雪雄は東の背中に腕を回した。それが自然だと感じたから。
「簡単に賞なんて取れるわけないのにバカみたい……」
 東は声を震わせて言った。
「けど、くやしい……くやしいんです。わたし、こんなに自分に自信持てたことなかった。小説を書くようになるまでわたし、誇れるところなんて何もない人間で、やっと自信の持てることを見つけたんだってうれしくて……舞い上がってた。身の程知らずのバカ。傲慢なバカ女。頭悪い後輩でごめんなさい。泣いてごめんなさい」
 しどろもどろな言葉があふれた。
「くやしい……! 本当にくやしい……! 取りたかった! 取りたかった! くやしいよ!」
 雪雄はただぼう然と東を抱いた。まさか東がここまで賞に入れ込んでいるとは思わなかった。大したやつだ、と雪雄は感心する他なかった。俺なんて一次選考を突破しただけで満足して喜んでいたのに。二次で落ちても「そんなもんだろ」ぐらいにしか感じなかったのに。
 東は心の底からデビューしたいと必死だったのだ。雪雄の胸を濡らす涙が、その感情の強さを物語っている。なぜそんなに受賞に入れ込んでいたのかは分からない。だが、とにかく東は本気で新人賞を取る気だったのだ。
 東の背中をさすりながら、俺とこいつは次元が違うと悟った。受け入れるしかない。東は小説家だ――少なくともそう名乗っていい。実力的にも気持ちの上でも。きっと誰も文句は言えない。だけど俺はそうじゃない。小説家だなんて冗談でも名乗れない。東は俺のような中途半端な奴が嫉妬していいレベルの相手じゃない。
 細い肩と柔らな胸に雪雄はめまいを覚える。抱きすくめた東はいかにも「普通の女の子」だった。だがその心の内では強烈な夢が燃えている。欲望といってもいいかもしれない。それは少なくとも、今の雪雄にはほとんど理解不能な感情だった。
 二人が密着していたのはほんの数分だ。東の涙で雪雄の胸はぬるくなっていた。
 東はゆっくり顔を離し、雪雄の服の染みを見て決まり悪そうに笑った。
「ごめんなさい」と東は言った。「なんだか気持ちが盛り上がってしまって……泣いちゃいました」
 涙に濡れた頬がバラ色に色づいている。雪雄の胸が高鳴った。景色が遠くなり、東が目の前に浮き上がった。
「先輩、受賞したら言おうって決めてたことがあります」不意に東は目を伏せた。「受賞できなかったけど言わせてください」
 東は雪雄を見上げた。
「ユキ先輩のことが好きです」
 雪雄は目を見開いた。
 東は真っ赤になった。でも雪雄から目をそらさない。
「わたしと付き合ってください」
 雪雄の頭は真っ白になった。一呼吸置いてから反射的に「ごめん」と断った。
 東の表情は変わらない。ただゆっくりうつむき、目を閉じ、静かに雪雄の答えを飲み込んだ。
「俺、他に気になる人がいるんだ」
 雪雄は言った。言いながら自分でも自分の口を突く言葉に驚いた。俺は何を言ってるんだ。
「それなら仕方がないですね」東は顔を上げた。そしてすがすがしい笑顔で続けた。
「先輩、お願いがあります。これからも今までどおりの先輩後輩のままでいてください。わたしが言ったことは先輩の胸にしまってください」
 雪雄はうなずいた。東はふうっと息を吐き、頭を下げた。
「わたしは帰ります。色々とご迷惑をおかけして本当にすみませんでした。でもすごくスッキリしました。ありがとうございました」
 東は自転車にまたがり、もう一度小さく頭を下げると来た道を戻っていった。
 雪雄は遠ざかる東をぼんやりと見送った。後ろ姿が見えなくなると、息をはいた。香水の残り香が鼻腔をくすぐる。後悔する気持ちがちらっとわく。東を抱きしめた感覚がよみがえる。オーケーしていたらもっと強く抱けたんだ……想像力が豊かになる。
 頭を振った。汗のしずくが飛んだ。柵にもたれ、線路の先をながめた。
 告白の瞬間、雪雄はとっさに受け入れようと思った。でも言葉を発しようとしたら夏樹の顔が思い浮かんだのだ。そしたら断ってしまった。
「顔を合わせにくいな」と思いながら夏樹を待った。

 夏樹は九時頃に現れた。雪雄も驚いたし、夏樹も雪雄がすでにいることに驚いた。
「いつもこんな早く来るのか?」
 夏樹は首を振った。
「もっと遅いよ。でもなぜか今日は早く目が覚めちゃったの。六時くらいに」
「なんだ俺と一緒じゃん」
 雪雄は意味もなく大声で笑った。
「俺も六時起きだよ。近所のガキンチョとラジオ体操でもしようかと思ったわ」
 軽口がスルスル出てくる。言葉が心を上滑りしている。
「わたしもすぐ出ちゃおうかなって思ったけど」と夏樹も笑いながら言った。「さすがに早すぎかなって思ってやめたよ」
 雪雄は心からホッとした。あんな場面、絶対に見られたくない。

 夏樹の家には今日も誰もいなかった。
 雪雄は自分の内に沈みがちになった。夏樹や東についての無定形な思いで頭がいっぱいだ。声をかけられても生返事になる。
「ユキちゃん、何かあったでしょ」と夏樹に指摘された。
「え、ないよ」と雪雄は嘘をついた。
 夏樹は微笑んだ。
「隠し事、下手」
 雪雄は黙って肩をすくめた。思い切って言ってみることにした。
「さっき部活の後輩と踏切で会ったんだよ」
 夏樹はマイクをセットしながらうなずいた。
「そこで告白された」
「え?」夏樹は手を止めて雪雄を見た。「好きって言われたの?」
「うん」雪雄はうなずく。
 夏樹の顔がパッとほころんだ。
「すごいじゃん。踏切で告白されるとか青春映画みたい」
「ああ、うん」
「へーえ、びっくりした。ユキちゃんモテるんだね」
 夏樹はニコニコしている。
 正直、傷ついた。なんとも思わないのかよと思った。夏樹の笑顔にショックの影は見えない。動揺するのを期待していたのに。
「オッケーしたの?」と夏樹が聞く。ため息をこらえて雪雄は首を振った。
「えー、どうして?」
「気の無い相手だったから」
 お前のことが気になってるからなんてとても言えない。
「そっか……仕方ないね」夏樹は残念そうにうなずいた。
 付き合えば良かったかなと雪雄は思った。涙できらめく東の瞳を思い返して後悔する。
 いつもどおり生放送が始まった。しかし出来栄えはいつもどおりではなかった。
 オーディオインターフェースのファンタム電源をオンにし忘れる。歌詞を間違える。演奏をとちる。十分もすると夏樹の顔から余裕が消えた。あせりながら視聴者に何度も謝った。ごめんなさい、なんか今日は調子が悪くて……。視聴者がはげましのコメントをたくさん書き込んだが、夏樹の調子は戻らない。
 結局ボロボロのまま放送は終わった。
 雪雄は夏樹を三十分間じっとながめていた。
 都合のいい判断は下せない。本当のところは夏樹にしか分からないのだから。たまたまうまくいかない日だってあるだろう。
 だがやっぱり雪雄はうれしさを抑えられなかった。自分の話と夏樹のミスを繋げて考えずにはいられなかった。
 雪雄は何か声をかけようとした。だがそれを上回る早さで夏樹が口を開く。
「ユキちゃん」
 ボロボロの放送内容にはまったく触れず、大きな声で夏樹はたずねた。
「明日、新津(にいつ)のお祭りなの。覚えてる?」
「え? 新津?」
 唐突な地名に雪雄はきょとんとした。
 旧・新津市はかつて新潟市の隣町だった。現在は合併によって新潟市の一部になっている。
 新津祭り、正しくは「にいつ夏まつり」は掘出(ほりいで)神社の例大祭で、夜店もたくさん出るし大勢の人出もある。
「そうだっけ? 行くことないから分からないな」
「こどもの頃、一度だけ一緒に行ったよね」
 言われて思い出した。
「行ったな」
 小学校低学年の雪雄と夏樹は親に連れられ、新津方面の電車に乗った。珍しく電車に乗ったのと(普段の移動手段は車だ)、夏樹が派手なピンクの浴衣を着ていたのを覚えている。他に記憶はない。お参りしたはずの神社がどこにあるのかも分からない。雪雄にとって夏まつりと言えば、歩いてでも行ける蒲原(かんばら)神社の蒲原まつりだ。こちらは毎年冷やかしている。
「急なお願いなんだけど」と夏樹は続けた。「わたし、新津祭りに行きたいの。明日一緒に行ってくれない?」
「新津まで?」雪雄はしばたたいた。
「だめ?」と夏樹が問う。
「いや、全然いいけど」雪雄は首を振った。「ただ意外だなって。新津の祭りなんて俺、ぜんぜん意識になかったからさ」
「こっちに戻ってきたらね、お祭りに行きたいなってぼんやり思ってたの。夏だし」
 夏樹はギターをケースにしまいながら言う。
「蒲原まつりは終わっちゃってるから、ほかに何かないかって思ったら新津のお祭りのことを思い出したんだ」
「ピンクの浴衣、着てたよな」と雪雄は言った。
 夏樹は目を丸くし、うれしそうに微笑んだ。
「ユキちゃんよく覚えてるね。懐かしいな。お祭りの時は必ずあの浴衣だった」
 今の夏樹がピンクの浴衣を着たらちょっと微妙だ。もう少し落ち着いた色の方が似合う。
 明日、浴衣を着てくれたらうれしいな、と雪雄は思った。

 翌日の午後五時頃、雪雄と夏樹は新潟駅のホームから信越本線・長岡行きの電車に乗った。
 雪雄は電車に乗ること自体が久しぶりだった。新津までとなると、それこそ小学生の頃に祭りへ出かけて以来だ。
 夏樹は淡い青の浴衣を着て、髪をセットして来た。一目見て雪雄はときめいた。その気持ちを素直に伝えたかったが、できなかった。綺麗だよ、素敵だな、似合うじゃん――褒め言葉は照れ臭くて、言葉にも顔にも表せなかった。浴衣を着てきてほしいと願ったのに、願いがかなっても気の利いた言葉ひとつかけられない。雪雄は自分にちょっと失望した。
 夏樹は会った時からうきうきしっぱなしで、切符を買う時さえ笑顔だった。
「ユキちゃんとお祭りに行くなんて思わなかった。うれしい」
 夏樹はなんて素直なんだろう。電車を待ちながら雪雄は感心する。俺も夏樹と祭りへ行けてうれしい、くらいのことどうして返せないんだ。なぜ声に出そうとすると心臓がはね上がって、無言になっちまうんだ。
 車内の座席は埋まっていたので、出入り口脇に向かい合って立った。夏樹の浴衣にはツバメの柄が染めてある。飛翔する様子をデフォルメしたデザインは、可愛らしくてシャレていた。
 紫竹(しちく)という住宅地にある上沼垂信号場に差し掛かったところで、ふと雪雄は言った。
「ここにさ」夕暮れのきざす窓の外を指差す。「駅を作るって話があったの、知ってるか?」
「ほんと?」
 夏樹も外を見た。幾つもの線路(ひとつはあの旧踏切につながっている)と上越新幹線の高架が見える。
「ぜんぜん知らない、そんな話」
「俺も最近までそんなこと忘れてたんだけどさ。こどもの頃、親と線路沿いを歩いてる時に親父かおふくろのどっちかが言ってたんだ。最近ふっと思い出して調べてみたら、実際ずっと前からそういう要望が住民から出てて、一応行政でも鉄道会社でも検討はしてるらしい」
「してる? 今も検討中なの?」
「その辺はよく分からなかった」雪雄は首を振った。「そういう要望が出たのはずっと昔のことだから、いまさら作ることはないんだろうけど」
「そうなんだ……」
 電車はすでに信号場を過ぎ、新潟バイパスもくぐり抜けている。風景は紫竹卸新町(しちくおろししんまち)の倉庫や工場に移り変わった。夏樹は真剣な眼差しを外へ向けている。
「もし紫竹に駅ができてたら、風景もぜんぜん違ってたかな」
 夏樹が言った。
「違ってただろうな」
 雪雄は上沼垂信号場に「紫竹駅」があるのを想像した。雪雄の自宅も夏樹の実家も紫竹にある。
「紫竹一帯って地味な住宅地だけど人口はそこそこ多いじゃん。もし駅ができたら駅前商店街もできて、にぎやかになってたかもな。いいなあ、そうなったら楽しいだろうな。この辺はほんとなんにもなくて退屈だから」
 自分の住む町がにぎわうのを想像するのは楽しい。
「駅ができれば便利だからって引っ越してくる人も増えて、ますますにぎやかになって。越後石山とか東新潟よりもずっと発展して、ビルとか建って。知らない街みたいになってかもな」
「うん、知らない街みたいになってたかもね。人がいっぱいで……」
 夏樹は力の抜けた声で言った。雪雄はしばたたいた。
「どうかしたか?」
 夏樹はつぶやくように言う。
「東京は今でも知らない街みたいだよ」
「え?」
「ずっと新潟にいたかったな。引っ越しなんてしたくなかった。こっちにいたかった」
 夏樹は悲しそうな眼差しで車窓を見る。
「でも帰ってきたじゃないか、新潟に」と雪雄は明るく言った。
 夏樹は雪雄を見上げて「そうだね」とうなずいた。朗らかな笑顔に戻る。雪雄は作為を感じた。急な笑顔は不自然だ。

 新津駅のホームは驚くほどの人出だった。人波に押されながら雪雄と夏樹は改札を通った。
 駅前広場も祭り客で埋め尽くされていた。雪雄が想像していたよりずっとにぎわっている。
「前来た時、こんなに人すごかったっけ?」
「よく覚えてない」
 夏樹は軽く息の上がった声で答えた。
「とりあえず夜店、冷やかそうか」
 だが道も人でぎゅう詰めだ。二人はすぐに翻弄され始めた。人の流れに右へ左へと振り回される。
 一度、雪雄は夏樹を見失いかけた。青くなって振り返ると、無数の祭り客の向こうにツバメの浴衣が見えた。雪雄は必死に手を伸ばした。夏樹がにぎり返す。雪雄は夏樹の手の熱さに驚いた。人波に抵抗してその場にとどまり、夏樹が目の前に戻るのを待つ。雪雄に引き寄せられた夏樹は息を乱している。
 はぐれないようぴたりと体を寄せ、たずねた。
「ひどい混みようだな、大丈夫か?」
 どこからか祭囃子が聞こえる。
 か細い声で夏樹は「ごめん」と言った。雪雄は夏樹の唇に耳を寄せた。
「ちょっとつらい」
「一旦、通りから離れよう」
 近くの脇道へ二人は入った。そちらはひと気もなく、薄暗い。建物と建物の間の路地だ。先には公園らしい開けた土地が見える。
 雪雄は夏樹を振り返った。夏樹は苦しそうに背を丸め、息を整えている。
 手はつないだままだ。雪雄はやっと意識した。手つなぎデートになってるじゃないか。
 夏樹の手はそれにしても熱い。
「はーあ、つらかった」夏樹は言い、苦笑した。「ここまで混んでるとは思わなかったね」
「このまま歩こうか?」
 雪雄が聞くと、夏樹はうなずいた。
 手をつないだまま路地を歩いた。雪雄は急に気まずくなった。手をつないでいる必要はもはやないはずだ。だが離すタイミングを完全に見失ってしまった。わざわざ手を離すほうが不自然に思えてどうにもできない。
 暗い道で夏樹の表情はよく見えない。うつむきがちで、困っているふうにも照れているふうにも見えた。
 無言だった。夏樹も何も言わなかったし、雪雄も一言も発しない。
 長い路地を抜けると住宅街だった。
 雪雄は夏樹の手を引き、目の前の公園に入った。ひとまずこの無言の行軍を止めたかったし、息が上がったままの夏樹を休ませてやりたかった。
 二人は手を離してベンチに腰掛けた。夏樹は長い息をはいた。
 雪雄は言葉を探した。しかし何か言わなけりゃと考えるほど頭が白くなる。
 目の前には大きな木が立っている。勢いよく伸びた枝では桃色の花が咲いている。雪雄は木がサルスベリであることに気づいた。あ、と思った。こどもの頃にもこの公園に立ち寄ったことがある。この木を、このベンチから見上げた記憶がある。
「ここ前にも来たよな?」と雪雄はたずねた。
「そうだっけ」
 夏樹はだるそうに返した。電灯に照らされた顔が幽霊のように青い。
「全然覚えてない、ユキちゃん記憶力良いね」
 二人でサルスベリの枝を見上げた。
「その時もあんなに混んでたのかな」
「びっくりしたな」と雪雄は応じた。「前来た時はもっと空いてた気がするんだけど。夏樹を見失った時あせったよ」
「ありがとう」夏樹は雪雄を見た。「わたし、はぐれるところだったね」
「危なかったな」
 雪雄は笑った。
「ごめんね」夏樹は謝った。
「何が?」と雪雄は問うた。
「お祭りから離れちゃって。わたしから誘ったのに」
「気にするなよ」
 夏樹はふうっと息をついた。
「人混みはやっぱり苦手だなぁ」
 雪雄は夏樹の横顔を見た。
「東京なんて毎日こんなんじゃないのか? 竹下通りとか渋谷駅とかすごいんだろ?」
「場所によってはすごいよ」
 夏樹はうなずいた。それから弱く笑った。
「いまだになじめないよ」
 雪雄はしばたたいた。
「人の多さにも都会の雰囲気にも慣れない」と夏樹は続けた。「引っ越して何年も経つけど、ちっとも東京のひとになれないや」
 雪雄はじっと夏樹を見た。
「新潟にいたかったな、ずっと」とまた夏樹は言った。
「夏樹」雪雄は意を決して呼びかけた。「何か隠してることがあるんじゃないか?」
 夏樹は目を細めた。その目元がふとゆるむ。
「分かるよね、やっぱり」
「話せることなら何でも聞くよ」と雪雄は言った。
 夏樹はうなずいた。
「実はね、新潟に戻ってきたのウソなの」
 雪雄は何も返さずに夏樹を見た。夏樹はサルスベリを見上げた。
「ただ夏休みの間、里帰りしてるだけなんだ」
「あの家は?」と雪雄はたずねる。
「いとこのうち」と夏樹は答えた。「新婚さんなんだけど、夏の間外国の知り合いのところへ夫婦で仕事に行ってるんだ。留守番させてもらいたいって、わたしから言ったの」
「そうか……」
 納得がいかない。なぜ最初からそう言わなかった?
「どうしてウソを?」
「うん……」
 夏樹は目を伏せた。
「いとこの家だって言ったら、どうしておじいちゃんおばあちゃんの家に泊まらないのか、ユキちゃんが不思議に思うんじゃないかって……」
「そりゃまあ」
 それがどれほどのことだと言うのだろう。
「そこを突っ込まれたら、なんて答えればよかったのかな……」夏樹は小首をかしげた。「うん、答えようがないというか……本当のことをきちんと答えるのがつらかったんだよ。だからウソついて、そのことには触れられないようにしたんだ。わたしのことをユキちゃんに話さずに済むように」
 夏樹は微笑む。
「意味分かんないよね? じれったい言い方になってごめん」
「元の家に泊まれない理由でもあるのか?」と雪雄は聞いた。
「ひとりになりたかった」
 独り言のようにポツリと夏樹は言った。
「え?」
「誰にも会いたくなかった」と夏樹は続けた。「夏の間だけでもぜんぶ忘れてひとりで過ごしたかった。余計なこと考えずにダラダラしたかった」
 雪雄はうろたえる。らしくない落ち込んだ様子に戸惑ってしまう。
「つらいことがたくさんあったの」と言って夏樹は目を伏せた。「わたし東京で、もう半年くらい引きこもりに近い生活をしてるんだ」
 雪雄は目を丸くした。
「マジか?」
 夏樹は穏やかな表情でうなずいた。
「わたし、向こうの生活にも学校にも全然なじめなかった。人と会うのがすごく怖くなって。今日は学校休もうって毎日思ってるうちに、学校へ行くどころか、外へ出ることもできなくなったよ。体が動かないんだ、どうしても。玄関のドアを開けようとしても、外に人がいると思うと足がすくんで一歩も踏み出せない。部屋に引っ込んでカーテンも締め切って……そんな感じで毎日過ごした。パパやママとも気まずくなって……。わたし孤独だった。自分はひとりぼっちなんだって痛感した。悲しくてさみしくてつらかった。学校には今年の春から一日も行けてない」
 夏樹は淡々と話した。
「わたし、クラスで浮いちゃってたんだ。友達も全然できなくてボッチだった。無理して登校してた時も、不登校になって引きこもるようになってからも、わたしいつもね、新潟のことばっかり考えてたよ。こどもの頃のこと。歌ってばっかりいて、それをユキちゃんに聞いてもらってた頃のこと。あの頃が懐かしかった。戻りたいって思った」
 雪雄は黙ってうなずいた。
「ある日、歌を歌うことも苦しくなったの。歌しかの能のないわたしがだよ? 自分でもびっくりしたよ」
 夏樹らしくない皮肉っぽい言い方だ。
「歌だけがわたしに残された唯一の楽しみだったのに」と言って、夏樹は唇を噛んだ。「あ、わたし無理に歌おうとしてるって気がしたの。歌もやめてしまったらわたしはもう完全に終わってしまう、だから歌だけはやめずに続けなきゃ……そんなふうに思いながら歌ってた。それに気づいたら、歌うことも無理にやらされてるみたいに思えていやになっちゃった。ただ好きで、歌うのが楽しくて歌ってたはずなのに「わたしは今、努力して歌おうとしてる」って思ったらもう……もうダメだった」
 夏樹は雪雄を見た。雪雄も夏樹を見る。
「泣いたよ」と夏樹は言った。「こどもの頃みたいにいっぱい泣いた。こんなに泣いたの何年ぶりだろうってくらい。学校に行けなくなっても孤独でたまらなくなっても泣いたりはしなかったのに、歌がもう好きでなくなってるって思ったら耐えられなかった」
 夏樹はサルスベリを見上げた。
「それが夏休みの始まるちょっと前のこと。その頃にいとこのおにいさんが夫婦で海外に長期滞在するって話を聞いて……夏休み中だけって約束でわたし、ひとりで新潟に帰ってきたの。懐かしい新潟で、何もせず、歌も歌わず、誰とも会わずに過ごそうと思ってた。わたしには休息が必要だった」
 夏樹は目を潤ませた。
「それが帰ってきた理由」
「つらかったな、夏樹」
 雪雄はショックだった。あんなに楽しそうに歌っていた夏樹に、まさかそんなことがあったなんて。
 夏樹はうつむいた。その際にさりげなく目元をぬぐった。
「ユキちゃんに会うとは思わなかったよ」夏樹は少しだけ笑顔に戻った。「ひとりでダラダラする計画、いきなり丸潰れ」
「ホントだな」雪雄も遠慮がちに笑った。
「ありがとうユキちゃん」と夏樹は言った。
「なにが?」
「ユキちゃんに会ったら、昔の気持ちがわーって戻ってきたんだよ」夏樹は影のない笑顔を浮かべた。「ただ楽しく歌ってた、こどもの頃の気持ち。ユキちゃんの顔を見て、少しおしゃべりしたらよみがえってきたの。自分でもびっくりした。胸が熱くなって、すごくテンション上がったよ。頭が変になりそうなくらい歌いたいって思った。ユキちゃんに聞いてもらいたい。魔法にかかったみたいにまた歌いたいって気持ちになった。ユキちゃんのおかげだよ」
 雪雄は笑い、頭をかいた。ありがたがられているが、自分の何が夏樹のやる気を引き出せたのかさっぱり分からなかった。だがとにかく夏樹がまた歌い出してくれたのは本当に良かった。
「ウソついたこと、ごめんなさい」と夏樹は続けた。「本当のことは話せなかった。もし全部話したら心配かけたり、同情されたりしそうで……そうしたら昔の関係じゃいられなくなりそうで」
「大丈夫だよ」
 雪雄は言った。
「昔のままの俺だよ。心配するなよ」
 雪雄は自分のことも話したいと強く思った。今度は俺の番だ。夏樹に聞いてほしい。
「俺もウソついてたんだ」と雪雄は言った。
「実はいま小説なんて書いてないんだよ」
「えっ」
 夏樹は表情を失った。
「なんの文章も書いてないんだ。一文字たりとも書く気が起きないんだ」
 話しながら雪雄は、夏樹の表情の変化に目を見張った。本気でショックを受けている様子だ。
「部活の後輩に告白されたって話をしただろ?」と雪雄は続けた。「部活って文芸部なんだけどさ――小説とか詩とか書くのが好きなやつらが集まって、作品を読ませて感想をもらったり、みんなの作品を集めて部誌を作ったり、そういう活動をしてるんだ。で、その後輩ってのがさ、入部した頃は小説の書き方なんて知らない奴で、俺が一からやり方を教えてやったんだ。俺はそいつの師匠みたいなものなんだよ」
 夏樹は真剣な顔で聞いている。雪雄は続けた。
「ストーリー作りもキャラクター作りも文章作法も、小説を書くのに必要な知識や技術はまったくなし。部内では自然と俺が教育係を務めるって雰囲気になった。俺、去年ちょっとした新人賞で一次選考を通って、部の中で一目置いてもらえてたから」
 夏樹はうなずいた。うれしそうに小さく笑った。雪雄は力なく笑い返す。
「ところがだよ。後輩のやつ、めきめき力をつけてさ、すごい勢いで書けるようになったんだ。才能があったんだろうな。あっという間にいっぱしの物書きって感じになって、面白い短編をいくつか書き上げて……俺はうれしかったよ。優秀でかわいい弟子に恵まれてさ。六月に、俺が去年出したのと同じ新人賞に後輩も長編小説を送ったんだ」
 夏樹の顔からゆっくり笑みが消える。オチが読めたようだ。
「あいつは二次選考も通った」
 雪雄はサルスベリを見た。
「自分でもいじけてるだけだって分かってる。くだらない嫉妬だって分かってる。でも俺は本当にショックだったんだ。すごく落ち込んで苦しかった。自分が虫けらになったような気がした。あいつが「二次選考を通りました!」って報告してきたとき、頭が真っ白になった。他の部員はうれしそうに笑ってるのに、俺は笑えなかった。一ミリも喜べなかった。真っ暗闇に真っ逆さま突き落とされた。でもまさか自分がそんな反応をするなんて、自分でも予想してなかったんだ。後輩が上達していくのを俺は本当にうれしく思ってたんだ。でも追い越されたんだと思った途端、そんな余裕は吹っ飛んだよ。俺のプライドなんて粉々に崩れちまったよ」
 夏樹は悲しげにうなずいた。
「みっともないよな、こんな妬み」と雪雄は続けた。「ホントにチンケな話だよ。自分で自分がいやになる。自己嫌悪だ」
 夏樹は大きく首を振った。
「違う。チンケじゃない。絶対に違う。わたしにも分かる。誰だってひとと自分を比べて落ち込みたくなんてないけど、比べてしまうことってあるよ。ユキちゃんの立場に立ったらヘコむのもしかたがないよ。だって、だってそんなのつらいもん。わたしにはちゃんと分かるよ」
 慰めてくれるかも、ぐらいの期待は正直あったが、ここまで熱く共感してくれるとは思わなかった。夏樹には嫉妬なんていかにも縁遠そうに思えた。そういうじめついた感情とは無縁の人間だと思えた。
 いや実際にそうなのだろう。夏樹は歌っている間、きっと他者との比較などしちゃいない。別次元の境地で楽しんでいる。歌と自分しか存在しない世界に没入している。
 だがそこに至るまでにはいろいろなことがあったはずだ、と雪雄は思った。長年表現活動を続けていれば、他人と自分を比較して落ち込んだり、非難されて傷ついたり、つらいことは多々あるだろう。理想と現実のギャップに人知れず悩むことだってある。
 だって夏樹は天才ではないのだ。雪雄は知っている。もともと歌が下手くそな人間だったことを。ある日突然生まれ変わったわけがない。下手くそがいきなり上級者になるなんてあり得ない。夏樹は今の夏樹に急になったわけではない。
「ありがとう」と雪雄は言った。「分かってくれてすごくうれしいよ」
 夏樹の表情がゆるんだ。雪雄も笑った。
「俺さ、もう一個ウソついてたじゃん?」
 夏樹がしばたたく。
「はじめてお前の生放送を聞いたとき、お前の歌が嫌いだって言ったこと。前にも言ったけど」
 夏樹はうなずいた。
「繰り返しになるけど俺、お前にもホントに嫉妬したんだぜ」
 雪雄は苦笑した。
「お前にたくさんファンがいるのを知って、すごくつらくなった。後輩に追い越されたと思ったら、今度は幼なじみまで……なんて。恥ずかしい話だけど、自分だけ置き去りにされてるような気持ちになったんだ。勝手に落ち込んで、素直にお前の歌を褒めることができなかった。俺は劣等感の塊になった」
 雪雄は夏樹を見た。
「でももう一回言うよ。全部ウソ。俺はお前の歌にほれ込んだよ。再会した日からお前の歌に俺はやられたよ」
「ごめん……」と夏樹が謝った。
 雪雄は笑った。
「なんで夏樹が謝るんだよ」
 夏樹はしょげた様子だ。
「わたしデリカシーなかったよ。ユキちゃんがそんな気持ちになってるなんて知らないで良い気になって……ごめん」
「夏樹、それは違うよ」雪雄は首を振った。「お前は少しも良い気になんてなってない。大丈夫だよ。お前にファンがつくのは当然さ。素晴らしいものに人がひかれるのは当たり前だろ? あれだけの歌を聴いたら誰だって応援したくなる。むしろもっと誇っていいくらいだよ。もっと良い気になった方がいいくらいさ。俺だってもし夏樹だって知らずにお前の歌を偶然聞いたら、すぐにファンになった。歌い手の「ナツさん」に入れあげてたよ」
 夏樹がまっすぐに雪雄を見た。雪雄は夏樹の視線を受けとめ、頭を下げた。
「ウソついて本当にごめんな。お前の歌が嫌いだなんて言って本当にごめん。俺はお前の歌が大好きだよ。大ファンだよ」
 夏樹は戸惑いの混じった笑顔を浮かべる。
「ユキちゃん、うれしすぎてやばい、どうしよ」
「ホントにやばいよ。一発で俺、心つかまれたもん。ホントすごい」
 夏樹は真っ赤になった。ブンブン首を振る。
「でもねユキちゃん、わたし、ユキちゃんに厳しいこと言われたの別に嫌じゃなかったよ。ホントありがたいって思ったくらいだから。わたし天才じゃないから、もともと歌下手くそだから、厳しいこと言ってもらえるくらいでいいと思うの。ユキちゃんは謝らないでいい。わたし、本当に気にしてないからホント。大丈夫だよ。ユキちゃんからもらった指摘は、なんだかんだでパワーだったからわたしには」
 早口に言う夏樹を、雪雄は幸福な気持ちで見つめた。
「そっか。でも悪いな夏樹」
「え? 何が?」
 夏樹はしばたたいた。
「もう厳しいこと言ってやれない。だって俺、お前の歌が大好きだから。ガキの頃からずっとお前の歌が大好きだったからさ」
 夏樹はすっと息を吸い込み、下を向いた。その一瞬、夏樹の顔がくしゃっとなるのが見えた。
「泣くなよ、褒めてるんだから」
 今日は落ち着いていられる。昨日東に泣かれたのは良い予行練習になった。
「うれしいんだもん」
 鼻をすすり、夏樹は声を震わせた。おずおずと腕を動かし、細い指を夜の闇に滑らせた。夏樹の手は雪雄の手に重ねられた。
 手が触れた瞬間、雪雄はドキッとするよりギクッとした。さっきより熱い。異様な熱さだ。
 雪雄は夏樹の顔をのぞき込んた。瞳から涙が一筋、頬を伝う。雪雄は夏樹の頬に左手を当てた。夏樹は目を丸くして硬直する。
 熱すぎる。
「夏樹、熱があるんじゃないか」
「え」
 夏樹はしばたたき、バツが悪そうにうつむいた。
「うん。昨日の夜からちょっと調子悪かったの」
 だからあんなにつらそうだったのか。
「無理しなくてよかったのに」
 雪雄が言うと夏樹は弱々しく苦笑した。
「どうしてもユキちゃんと、お祭りに行きたかったの」
 夏樹の身体が揺らめいた。あわてて雪雄は受け止めた。浴衣越しの柔らかさにドギマギしながら、二日続けて女の子を抱きしめるなんて夢かよと思った。
「だってさ……だって」
 夏樹の声は別人のようにかすれている。
「だって、なんだ?」雪雄はたずねた。
「だって……」夏樹は雪雄の背に腕を回した。
「わたし、ユキちゃんが好きなんだよ」
 雪雄は息を止めた。夏樹が口にした言葉を頭の中で繰り返した。
 うれしいというよりホッとした。じんわり身体が熱くなる。抱きしめる夏樹の体温ではない。自分自身の熱。
「こどもの頃から好きだったよ」夏樹は続けた。「ユキちゃんのことがずっと好きだったよ」
「夏樹」
 何度も口にしたはずの名前が初めて聴く音楽のように新鮮だ。
「俺も好きだ」
 雪雄は顔を離し、夏樹を間近に見た。ぼんやりした表情だ。まさか風邪のせいではないだろう。
 夏樹は恋に落ち、その恋を成就させた。無敵の喜びのただ中にいる人間の顔つき。雪雄は思った。俺、こんなに夏樹のこと好きだったんだ。そして夏樹はたった今、自分の彼女になったのだ。とんでもない――とんでもないとしか思えない事実に震えた。
 雪雄は唇を近づけた。夏樹はゆっくり目を閉じ――不意に目を開いて言った。
「あ、ダメ」
「え?」
「風邪、うつしちゃう」
「うつせよ」
 構わず雪雄はキスをした。

 余韻にひたる間もなく立ち上がった。夏樹は病人なのだ。とっとと帰ろう。
 公園のある住宅街を抜けて駅へ向かった。表通りと違い、誰ともすれ違わなかった。雪雄は夏樹と二人だけの時間を過ごせた。
 会話らしい会話はない。夏樹がつらそうで無理に話しかけなかったのもあるが、会話なんて必要ないんだとも感じた。
 雪雄は夏樹の背をさすったり、夏樹の身体を引き寄せたりすれば幸福だった。それは自然な行為で、今までそうしなかったのが不思議に思えた。
 駅は相変わらず大勢でごった返していた。決死の思いで階段を上った。ホームにも人があふれている。二人は身を寄せ合って電車を待った。やがて新潟駅行きが到着し、祭り客がたくさん吐き出された。乗り込む客はほとんどいない。電車は一気に空いた。
 二人は座席に並んでかけた。雪雄は夏樹と顔を見合わせ、どちらからともなく微笑んだ。
 雪雄は夏樹の手に手を重ねた。

 新潟駅からバス乗り場へ歩く間、夏樹の足元は頼りなかった。でもずっと夢見るように微笑んでいた。
「ゆっくり歩くか?」と雪雄は聞いた。
「うん、ありがとう」と夏樹は答えた。

 夏樹を家まで送り届けると、ゆっくり休めよと言って雪雄は家路についた。看病していきたいくらいだったが、さすがにそれは申し訳なさすぎると夏樹が断った。気を遣わせても何なので、雪雄も素直に引き下がった。
 踏切で足を止めた。夏草が真っ黒な影となっている。その中を白い光の線が遠くへ延びている。街灯の光がレールに反射していた。
 夜空では星がまたたいている。
 雪雄には風景が信じられないくらい美しく思えた。見慣れた廃線のはずなのに。絶佳な絵画のようにはかなく、鮮やかに見えた。

 翌朝起きると心が軽かった。高級な羽毛のようにウキウキしていた。鬱屈のない朝。本当に久しぶりだ。俺は回復したんだ、と思って雪雄はうれしくなった。
 時計を見た。八時。目覚ましが鳴るまで三十分ある。いや、じっとしていられない。上半身を起こした。
 いきなり部屋が揺らいだ。雪雄は頭を押さえた。重い。脳みそが石になったみたいだ。そしてめまい。もう一度寝転がりたくなる。
 二度寝したって構わないのだが、雪雄は耐えた。せっかく自分の中に生じている喜びを、二度寝で無駄にしたくなかった。
 くしゃみが出た。三度連発。鼻の奥や喉も痛い。
 完全に風邪だ。本当にキスしたせいかは分からないが、夏樹にもらったのは確かだろう。
 しかし心のエネルギーはあふれ返っている。だるくてたまらないのに元気いっぱいだ。
 雪雄の心は、すでに夏樹の(いとこの)の家へ出発していた。寝ている場合ではない。
 雪雄は部屋を出た。キッチンで母が洗い物をしていた。おはようの声ですぐに風邪とバレ、まだ寝てれば、と言われたが「全然大丈夫」と答えて洗面所に入った。
 鏡の中の顔色は悪くない。むしろ血色が良く、活き活きとして見える。しかし顔を洗うだけで息が切れた。
 息も絶え絶えひげを剃って部屋に戻ると、スマホに夏樹からのメッセージが入っていた。
『ユキちゃんおはよう。昨日は本当にごめんなさい。せっかくのお祭りだったのにグダグダになっちゃって……この埋め合わせはいつかちゃんとするよ。
 告白、受け止めてくれてありがとう。すごくうれしかった。布団に入ってからも気が変になっちゃいそうだった。もしユキちゃんに嫌がられたらどうしようってずっとずっと怖かったよ。でもユキちゃんもわたしのことを好きと言ってくれて、幸せで胸がいっぱいになったよ。今後もよろしくお願いします。大好きです。
 風邪は一晩寝たら完璧に良くなったよ! もうなんともないんで今日も生放送やるね!』

 外へ出る。最初の一歩目からふらふらだ。なのに最高潮の活力が体の奥底からあふれてくる。気温はもう三十度近い。危険かもしれない。だが身体は止まらない。
 旧踏切を越え、夏樹の家に到着する。
 病み上がりだから無理するなよとメッセージを送ったので、夏樹は素直に家にいた。Tシャツに短パンの部屋着。見慣れた格好なのに愛おしい。夏樹ははにかんだ笑顔でそわそわしていた。
 夏樹は「なんか不思議」とつぶやいた。
 声も動きもしっかりしている。確かに風邪は完治したようだ。
 雪雄は自分も風邪をひいてしまったことを黙っていた。申し訳ない気がした。夏樹が責任を感じて歌を中止し、看病を始めそうだったから。
 雪雄はレモンサイダーを飲んだ。少し味がおかしい。風邪のせいで味覚障害が起きている。
 夏樹はマイクをセットしたりポップガードをスタンドに付けたりしている。その横顔がいつもより華やいで見える。
 雪雄も同様だ。だが同時に体調不良も絶頂だった。
 夏樹は生放送を始めた。いつもどおりのあいさつ、いつもどおりのたくさんのコメント。いつもどおりの歌声。いつもどおりだった。でも夏樹と雪雄にとって今この時間は、他のどんな瞬間より特別だった。
 ある夏の日、夏樹はギターをかき鳴らし、歌を歌う。雪雄は彼女の歌を聴く。歌は素晴らしく、夏樹は愛おしく、エアコンは涼しく、レモンサイダーはちょっと味が変だが清涼。
 こんな特別で贅沢な時間が他にあるだろうか。
 一曲目が終わると夏樹は雪雄を見た。今日の歌はどう? 雪雄は微笑み、うなずく。夏樹はうれしそうな笑顔を返す。
 毎日聞いている歌声だ。確認なんてするまでもない。でも確かめたいのだ、好きな男に。毎日振舞う手料理でも「おいしい?」とたずね、そしておいしいと言ってもらいたい。
 夏樹は二曲目を歌い始めた。アップテンポな曲だった。それがいけなかった。雪雄は曲に合わせて体を揺する癖がある。
 ギターのカッティングに乗って肩を揺らすうちに、頭が激烈に重たくなった。自分の頭が自分の頭でなくなるようなめまいに襲われた。
 畳が目の前に迫る。
 夏樹は仰天して歌を中断した。
「ユキちゃん!?」
 雪雄は数秒置いて、自分が昏倒したことに気付いた。夏樹を驚かせてしまった。あせった。そして雪雄はすべてを見失った。「大丈夫」と大きい声を出した。夏樹を心配させないために。
 言った瞬間、意識がはっきりした。血の気が引いた。
 夏樹は膝立ちで硬直している。どうすることもできずに、ただ真っ青な顔でパソコン画面と雪雄を交互に見ている。画面には放ったらかしにされた視聴者のコメントが続々と流れている。
『今の男の声なんだよ』『家族?』『兄弟とかか?』『ひとりっ子って言ってただろ』『そばに男wwwwwww』『信者ざまあwwwwwww』『何が起こってるの』『説明しろ』『なに黙ってんだよ』『彼氏かよ』『炎上確定wwwwwww』『彼氏はべらせて歌ってんのか』『彼氏いたのー?』『信者発狂wwwwwww』『なんとか言えよ』『死ね』『ふざけんな』『ビッチ』
 敵意に満ちた文字で画面が埋まった。
 雪雄は説明しなきゃと思った。俺の責任なんだから俺がどうにかしなきゃ。雪雄は口を開けた。途端に激しくせき込んだ。目の前に昔のテレビの砂嵐のようなものが現れた。なんだろうと思う間もなく視界が暗転して、意識を失った。

 気を失っていたのは十分程度だったが、目覚めたときにはちゃんと仰向けにされ、枕をあてて寝かされていた。
 冷たいタオルを夏樹が額に乗せてくれた。夏樹の顔を見てなぜか雪雄は天国にいると思った。
 パソコンを見た。画面は真っ暗で電源が切ってある。やっと何をしでかしたか思い出して、とっさに夏樹に謝ろうとした。黙っているという約束を破ってしまった。でもできなかった。吐き気もあり、口を開くと謝罪とともに胃の内容物までぶちまけてしまいそうだった。
「体調が悪くて……」と言うので精一杯だ。
 夏樹は「ううん」と首を振った。「ユキちゃん、ゆっくり休んだ方がいいよ。無理しないで」
 雪雄は無理してでも家に帰ることにした。この場の居たたまれなさに比べれば、炎天下に出るほうがまだマシに思えた。真夏の太陽の下、いっそ溶けてしまいたかった。
 夏樹はうちで休んでいってと言ってくれたが雪雄は拒んだ。せめて送っていくという申し出もカラ笑顔で断った。本当は夏樹の言うとおりにするべきだった。体調の問題ももちろんあるし、夏樹の前から逃げてはいけなかった。
 しかし夏樹の部屋にとどまるのは、肉体も精神も耐えられそうになかった。
 帰り際に夏樹が手をにぎった。驚いたふうに目を丸くしたのは熱のせいだ。昨夜と立場が逆転していた。
「今日のことは気にしないでね? わたしは平気だから。ユキちゃんが気に病んだりするようなことじゃないからね」
 雪雄は朦朧とうなずくことしかできなかった。
 ほとんど帰路の記憶はない。
 這うように自宅にたどり着き、玄関ドアを背中で閉めたらその場に崩折れそうになった。
 両親共に仕事だ。家は静まり返っている。
 夏樹のところで素直に休ませてもらえばよかった、と雪雄はいまさら後悔した。夏樹は甲斐甲斐しく看病してくれただろう。布団に寝かせてくれ、氷を用意し、おかゆを作ってくれて、恋人みたいに食べさせてくれて――あ、恋人だったな。風邪薬を用意し、額の汗をふいてくれただろう。頼めば耳元で子守唄も歌ってくれただろう。最高の贅沢。夏樹の生歌で寝かしつけてもらえるなんて。
 雪雄はベッドに汗だくのまま寝転がった。
 目の前で夏樹の生歌を聴く贅沢。俺は毎日その贅沢を堪能してたわけだ。ハハッ、最悪だよ。
 雪雄は咳き込んだ。
 ああ、とんでもない贅沢だ。夏樹の熱狂的なファンならいくら金を出しても惜しくないだろうな。
 雪雄はうなった。とんでもないことをしてしまった。
 ファンたちはどうするだろう。すぐ近くに男がいたことを知って、夏樹に冷めてしまうだろうか。夏樹から離れてしまうだろうか。
 それどころか恨むだろうか。夏樹にだまされていたように感じて、怒るだろうか。ファンの何パーセントかにとって(もしかするとほとんどにとって)人気の生放送主や動画投稿者というのはアイドル的存在だ。女性アイドルの純潔を心の片隅で信じるアイドルファンのように、夏樹には彼氏なんていないと信じる=望むファンは一定数いるだろう。そいつらが敵に回ったら。
 雪雄は急激な眠気に襲われた。いま寝たら間違いなく悪夢を見てしまうと思い、目を見開いて眠気に抗がった。
 明日から夏樹の放送はどうなる。さすがに休止するだろうか。でも夏樹は毎日放送したいと前に言っていた。やるんだろうか。そうしたら口汚い罵倒コメントが画面を埋め尽くすのか。きっとそうだろう。目に浮かぶ。説明要求をするコメントもたくさん来る。温かいコメントはわずか。
 雪雄はあきらめて目を閉じる。
 全部粉々にぶち壊しちまった。
 夏樹の心からの楽しみを台無しにしちまった。

 夕方まで眠っていた。西日がまぶしくて雪雄は目覚めた。
 喉は変わらず痛んだ。全身が汗ばんでいるのは熱のせいか、今まで見ていた夢のせいか。
 ひどい夢だった。
 旧踏切にいた。空はどんよりとくもり、粘っこい空気が体にまとわりついてくる。そこには夏樹がギター片手に立っている。全身を震わせ大泣きしている。
 雪雄は黙って立ち尽くしていた。
 夏樹の背後では夏草が茶色くしおれている。全部だ。一本一葉残らず枯れて地面に倒れている。枯れ草や枕木の間からはぐねぐねと幹のゆがんだ、気味の悪い木が生えていた。木はずっと遠くまで線路に沿って生えていた。
 夏樹がふと泣きやんで、いきなりギターを投げ出した。地面にぶつかるが音はしない。雪雄はかがんでギターを拾う。夏樹へ手渡そうとするが夏樹は大きくかぶりを振る。雪雄はギターの持って行き場を失い、「ごめん」とつぶやく。
「歌、やめる」と夏樹が言う。
 雪雄は驚愕して夏樹を見る。夏樹は涙を流しながらも微笑んでいる。
「もうやめる。いやになったよ。何もかもいやになった。全部やめて東京に帰る。もう歌わない。生放送もしない。全部嫌い。もうやだよ……」
 やめてほしくない、と雪雄は強く思った。これからもずっと歌ってほしい。
「やめるなよ、夏樹。やめないでくれよ」
 懇願する雪雄を夏樹は無表情に見ている。まったく心動かされていない顔。雪雄はひるむ。だが続ける。
「俺が悪かった。本当にごめん。いくらでも俺を恨んでくれ。俺を罵倒してくれ。それで気が晴れるならバカとか死ねとか叫んでくれ。でも歌うのだけはやめちゃダメだよ。夏樹、それだけはやめないでくれよ。お前は歌わなきゃいけないんだよ。お前が歌をやめるのは宇宙の損失なんだよ。いや――」
 雪雄は首を振った。違う、宇宙とか、そんなことはどうだっていいんだ。そんなこと知ったことじゃない。じゃあ何がどう損失だっていうんだ? 俺にとって? それは確かにそうだ、間違っちゃいない。俺はこれからも夏樹の歌を聴きたい。でもそれさえ一番大切なことじゃない。そうじゃない。夏樹が歌をやめることは、誰よりも……そう、誰よりも――
 夏樹が不意に口を動かす。しかし声は聞こえない。なんて言った? 雪雄はひどくあせって、とにかく叫んだ。
「やめちゃダメだ!」
 そこで目を覚ました。
 夢を思い返してみたら雪雄は突然泣きそうになる。でも泣きたくなんてない。泣くなんてふざけるな。
 涙の波を遠ざけるために、雪雄はわざと軽い口調で独りごつ。
「ひどい夢だなぁ」
 声は我ながら情けないほどかすれている。口中の水分がかれきっていた。
「大げさだな、ほんと。夏樹が歌をやめる夢なんて……いくらなんでも、ん――っ」
 雪雄は激しく咳き込んだ。無理にしゃべるからだ。咳き込みながら自分は本当にバカだと思った。
 パソコンの画面をなすすべもなくながめていた夏樹を思い出す。胸が締め付けられる。また泣きそうになる。
 雪雄は泣く代わりに苦笑した。
(夏樹に嫉妬してたくせに)
 目を閉じる。
(あいつの人気をぶち壊すようなことをして、今は罪悪感でどん底だ。あいつの人気を心の底から憎たらしく思ってたくせに)
 雪雄は目を開けた。だるかったが起きることにした。
 体も頭も重い。怖いくらいふらつく体を支えて着替えた。シャワーを浴びる気力はわかないが、汗ばんだTシャツとパンツくらいは替えた。
 ベッドに腰を下ろし、それからやっと枕元のスマホを見た。起きてまっさきに通知を確認しなかったのは、無意識に避けていたからだ。
 スマホには夏樹からのメッセージが届いていた。
『ユキちゃん、体調はどう? 今日は無理をさせてごめん。ユキちゃんの調子が悪いの、わたしが風邪をうつしたせいだよね。昨日、わたしがおとなしくせずにユキちゃんをお祭りに連れ出したせいだよね。本当にごめんなさい。お大事にね』
 夏樹は「放送事故」について一切触れていない。雪雄は返信した。
『心配かけてこっちこそごめんな。体調はあんまり変わってないかな。とりあえずおとなしく寝てたよ。今日はびっくりさせて悪かった。いきなり倒れるなんて尋常じゃないよな。ほんと夏樹のせいなんかじゃないよ全然。全然気にしないでいいから。ほんと全然大丈夫だから。気にしないでな』
 夏樹が触れない以上、雪雄も触れることはできない。心の底からたずねたくてたまらなかった。まさか歌を止めたりしないよな。夏樹からしたら「何言ってるの?」という感じの質問だろう。そうであってほしい。飛躍しすぎの質問であってほしい。放送事故が起きたからって歌自体をやめる必要なんてない。でも雪雄は恐ろしかった。恐ろしくて聞けなかった。もし――もし万が一に、悲しい返信が来たら立ち直れそうになかったから。

 翌日は六時頃に一度目が覚めたが、雪雄はベッドから降りず、そのまま目を閉じていた。目覚めた瞬間、熱がほとんど下がっていないのが分かったからだ。
 昨夜は目覚ましもあえてかけてなかった。つらければ一日中寝てようと思った。
 夏樹の顔を思い浮かべた。
 逃げているわけじゃない、と雪雄は思おうとした。無理をして風邪を長引かせるほうがダメだ。
 客観的に見てそれは賢明な判断だった。昨日の醜態を思えば、今日も夏樹の家へ行くなんて正気の沙汰ではない。
 そう分かっていても雪雄は「俺は夏樹を避けてる、逃げてる」という呵責から逃れられなかった。
 七時少し前に仕事が休みの母と、出勤前の父が雪雄の顔を見に来た。だるいんでこのまま寝てると両親に言った。
 更に三十分ほどうとうとしたところで少し空腹感を覚えた。思い切って起きることにした。母におかゆを作ってもらい、フルーツの缶詰を食べた。
 雪雄は風邪薬を飲むと部屋に戻り、クーラーをぬるめの温度設定にしてベッドに寝転がった。
 夏樹のことは努めて考えないようにした。考えても不安な気分になるばかりでどうにもならない。夏樹が歌をやめるのではという心配は、まだ妄想のように頭にこびりついていた。幸い薬が効いたのか、またすぐに眠りに落ちた。
 昼頃、母が「ねえねえ雪雄ー、あんた起きてるー?」とやたら楽しげにドアをノックした。
 雪雄は「あに(なに)?」とあくび交じりに問いかけた。
「起きられそうなら起きて。びっくりするお客さんが来たから!」
 ピンと来た。雪雄は重い身体を起こし、ドアを見た。両親には夏樹のことは、なんとなく話していなかった。母はだからなにも知らない。自分のすぐそばにいるのが、息子の初めての彼女だとは知らない。
「どうぞ」と雪雄は風邪でかれた声で言った。
 ドアが開くと、ニコニコした母と、心配そうな顔の夏樹が立っていた。

 雪雄はベットにあぐらをかいた。
 夏樹はベッドの脇に腰を下ろしながら、「横になっていていいよ」と言ってくれた。
 言葉に甘えて雪雄は寝転がった。夏樹と目の高さが同じになった。夏樹は夏空のような青いワンピースを着ていた。
「ユキちゃん、お加減はどう?」と夏樹が聞いた。
「まだつらい」と雪雄は答えた。「熱がかなり出ちゃってさ。でも昨日よりはだいぶマシになったよ」
 夏樹がゆっくり手を伸ばした。細い指が雪雄の額に乗った。袖口からつるりとした脇が見えた。雪雄の頭の中の意味あるものが吹っ飛び、体が風邪とは別種の熱に包まれた。
 体調が悪くて助かった。劣情に身をまかせる体力もないのだ。
「すごく熱い……」と夏樹は言って手を離した。心配そうに雪雄を見つめる。
 雪雄は唾を飲み込み、ますますかれる声で「平気だよ」と答えた。しかし何ひとつ平気ではなかった。夏樹を強く抱きしめたい衝動で頭が変になりそうだった。
 雪雄は素早く目線を動かした。腹から膝あたりまで、程よくシワの寄った形でタオルケットが被さっている。安心する。何しろその向こうでは、もうひとりの雪雄が雪雄からの独立を宣言し始めている。
 夏樹は俺の彼女なんだ、と雪雄は強烈に意識した。昨日までは恋人になったことをうまく実感できなかったが、たったいま全身全霊で実感した。夏樹の潤んだ瞳に、感情が高ぶってしまってたまらない。
 二人は黙っている。別に気まずさは感じない。ただもどかしかった。同時に雪雄は幸福でもあった。夏樹を見ていると愛情がこみ上げた。
「ごめんな」と雪雄は言った。
 夏樹はただ、首を振った。穏やかで落ち着いた表情。
「つい声出しちまった。約束してたのにな。本当にごめんな」
「ううん、本当に気にしないで。わたしはユキちゃんの体の方が心配だよ」
「俺は大丈夫」と反射的に答えてから、雪雄は笑った。「じゃないよな、どう見ても。こんなに高熱出したの何年ぶりだろ? 正直に言うと、結構きつい」
「無理せずに身体を休めてね」
 夏樹は雪雄の肩をそっとなでる。それから雪雄の目を見て、口を開けたまま固まった。何か言おうとして迷っている。
「どうした?」と雪雄は聞いた。
「うん、あの……わたしの方こそ、ごめんなさい」
 雪雄は眉を上げ、しばたたいた。
「え? 何が?」
「だってさ……」
 夏樹はうつむき、指をそっと折り曲げる。雪雄の肩は強い感情のこもった細い指につかまれる。
「昨日は、ユキちゃんを嫌な気分にさせちゃったでしょ」と夏樹は続けた。
 雪雄には意味が分からない。
「ユキちゃん、ショックだったよね?」と夏樹は続けた。「あんなにコメントが荒れちゃって、気分悪くなったよね? すごくつらい気持ちになっちゃったよね。ごめん」
「え? いや……それはお前のせいじゃないじゃん」
 雪雄は困惑しながら返した。
 夏樹は目をそらす。
「でも……わたしが生放送をユキちゃんに無理に聞かせたりしたから、こんなことになったんだよ」
 夏樹は鼻をすすった。
「わがままだった。そんなこと、するべきじゃなかったんだよ。歌を聴いてもらいたいだけなら、放送なんて無関係に、ただ目の前で歌えばよかったのに。ユキちゃんに面倒をかけて、わたし、ホントバカ」
「いやいや全然面倒なんかじゃないよ」夏樹が何を悲しんでいるのか分からず、雪雄はあわてた。
「俺、お前の生放送、目の前で聞くのすごく楽しかったよ。少しも気にしなくていいよ。お前、何も悪くないよ」
「ユキちゃん……」夏樹は怯えたように上目で雪雄を見る。
「ありがとう……でもやっぱりわたし、いい気になってたんだよ。嫌なやつだった。心のどこかで「わたし、こんなにたくさんの人に聞いてもらえるくらい、歌うまくなったんだよ、すごいでしょ?」って自慢したい気持ちがあったんだよ。うまくなったのを知ってほしいなら、ユキちゃんにだけ歌えばよかったはずなのに……なのに……」
 ついに夏樹は涙をこぼした。
「おいおい、夏樹」
 雪雄は思わず起き上がった。めまいを覚えたがかまっていられない。
 夏樹は顔を覆い、肩を震わし、声を上げる。
 雪雄は彼女の肩に手を置いた。どうしたらいいのか分からないまま、先ほど夏樹がしてくれたようになでた。
「夏樹」と優しく呼びかける。「お前は悪くない」
 気の利いたセリフも思いつかない。雪雄は思っていることをシンプルに言葉にした。
「お前はなんにも悪くない。そんな気持ち、誰にだってあるよ。俺は全然気にしてないから泣かないで」
「ユキちゃん……ごめん……ありがとう……」
「夏樹、俺本当に何にも気にしてないから。お前が悪いとか一ミリも思ってないから。な?」
 雪雄は困ると同時に体を熱くした。泣きながら謝る夏樹を心の底から愛らしいと感じた。
「ユキちゃん、わたしのこと、嫌いにならない?」
 涙でびしょびしょの顔で夏樹はたずねた。
 雪雄はきょとんとした。
「なるわけないじゃん。お前のこと大好きだよ」
「本当に? 本当の本当に?」
 雪雄は何度もうなずく。
「本当の本当」
「良かった……」
 夏樹はまた泣き崩れる。
「昨日からずっと不安だった。わたし、ユキちゃんに嫌われたんじゃないかって、ずっとずっと不安だったよ」
 雪雄はびっくりして、思わず笑いをこぼした。そんなこと気にしてたのか。
 そして同時にハッとした。
 あれ? なら俺のほうこそ「約束破って夏樹の人気を台無しにして、嫌われたに違いない」と思って当然だよな?
「俺、バカだな……」と雪雄はつぶやいた。
 夏樹は不思議そうに雪雄を見る。
 雪雄は苦笑した。
「俺も、夏樹に嫌われたんじゃないかって心配しなきゃおかしいよな。だって俺が声出したせいであんなことになったんだもん。お前の生放送をぶち壊してさ」
「そんなこと、気にしてないよ」夏樹は涙をふきながら首を振る。「ユキちゃんがそんなふうに考えてるなんて思わなかったよ。そんな余裕もなくて……」
「実際、思わなかったよ。俺さ」雪雄は再び横になる。やはり寝転がっているほうが楽だ。
「別のことが心配で、気が気じゃなかったんだ。お前が、今回のことがショックでもう歌をやめるんじゃないかって」雪雄は自分の言葉をかみしめた。「すごく不安だった」
 今度は夏樹がしばたたく。雪雄は夏樹をまっすぐ見た。
「お前は歌が大好きってこと、もちろん分かりきってる。でももしかしたら、って考えたらさ。もう歌うのが嫌になるかもしれない。考え始めたら気持ちがどんどん沈んじゃって。不安でたまらなかった。俺が放送を台無しにしたせいで、夏樹が「歌なんてやめる」って言い出したらどうしよう、って」
 夏樹は真剣に聞いている。
「俺、そんなこと絶対いけないって思ったんだ。そんなことはだめだ絶対に。だってお前は……うまく言えないけど、歌うことをやめちゃいけない人間だからさ。誰かのためとかじゃなくて、なんだろう……お前自身のために歌うことをやめちゃいけないひとなんだよ」
 雪雄はふと、心配になってたずねた。「俺、意味分かんないかな?」
「ううん」夏樹はブンブン首を振った。「分かる」
 雪雄は続けた。「もし夏樹が何かつらい経験のせいで歌をやめる気になったなら、夏樹がかわいそうで、そんな悲しいこと絶対に起こってほしくない。お前が歌うのも歌わないのも、お前の自由だけど……でも俺には分かる。お前がどれだけ歌うことが好きな人間か……」
 夏樹は泣きはらした瞳のまま、うなずいた。
「ユキちゃん、心配ないよ。わたし、やめない。やめたいなんて少しも思ってないよ」
 雪雄もうなずいた。良かった、と思った。
「不安にさせて、ごめんね」と夏樹は続けた。「わたしね、今すごく幸せだよ。ユキちゃんが全部理解してくれてて、すごく幸せ」
 夏樹は身を乗り出し、横たわる雪雄に顔を近づけた。
「わたし、やめない、歌うことが好きだもん。改めて分かった。毎日生放送してみてよく分かった。わたし、歌が好き。本当に心の底から大好き。やめられないよ、こんな楽しいこと。やめられるわけない」
 夏樹の声は確信に満ちていた。
「歌っている間、わたしは歌の世界に入りこんで全身が熱くなるの。この世界から自分がいなくなって、自分が歌そのものになったような気分。歌えば歌うほどわたしは楽しくなって、ますます歌えることがうれしくなってきて、今いる現実とは違う場所に魂が飛んで行ってしまう。心込めて歌っていると時々ね、歌と自分が完全に一つになれたって思えるときがあるんだよ。そういうときは、歌詞や音で描かれる風景とは違う、もっと深くて言葉にできない境地が見える気がする。曲を作っていたときの作者さんの心の風景を、ありのままに見てる気分になれるの。それって、すごくない? たまらなく楽しいんだよ」
 夏樹の熱っぽい語りを聞いていたら、ふと雪雄の頭に弁才天のぬいぐるみが思い浮かんだ。
「夏樹、こどもの頃にプレゼントした弁才天のぬいぐるみ、今も大事にしてくれてるよな」
「え? うん」
「弁才天は何の神様か、覚えてるか?」
「芸事の神様」と夏樹は答えた。「もちろん覚えてる。あれからずっと、あのぬいぐるみはわたしのお守り」
「お前は弁才天そのものだよ」と雪雄は言った。「お前は本物の芸術家だよ、夏樹。もう弁才天になってるよ。冗談で言ってるんじゃない。本気でそう思ったんだ、お前の話を聞いてたら」
 話しながら雪雄は理解した。自分に足りないものが何か。はっきりと分かった。
「俺、お前がうらやましい」と雪雄は言った。夏樹は小首をかしげた。
「俺はお前みたく、自分だけの純粋な喜びとか欲求とかのために表現ができる人間じゃないんだ。俺はひとに認められたい、誰かにすごいと言われる小説を書きたい、って気持ちで書いてる人間なんだ。俺にはそれしかないんだ。自分の楽しみや喜びのために書く――そんな感覚、俺の中からなくなっちゃったんだ」
 夏樹は黙って聞いている。雪雄は続けた。
「俺も小説を書き始めたときは――いや、お前にでたらめな物語を話してたときもそうだ、もうただただ楽しくてさ、オハナシが次から次に頭からわいてくるのがたまらなく面白かった。物語をつむぐのが楽しい。ただただ楽しい。それ自体が俺にとってはエンターテイメントで、物語を考えるだけで俺も現実とは違う場所へすっ飛んでいけたんだ。物語を物語るだけで。ただそれだけで俺は幸福だった。この世に不安なんかなにもないって気持ちになれた。でも今の俺は、そういうのを失くしたんだよ。そんなのおかしいんだ本当は。自分より誰かの方が優れてるからって、やる気や希望を失うなんて、やっぱ変だよ。自分より先に後輩が認められたからなんだってんだ? 他人よりすごいとか、ひとより上に立ちたいとか、嫉妬心とか承認欲求とか……そりゃ人間だからそういう感情だってあるさ、そんなものないって言ったらウソだ。だけど物を作ることの喜びに比べたら、ちっぽけなことじゃないか。ひとと自分を比べて一喜一憂するなんて本当にバカバカしいんだよ。そんなの創作や表現の本質とは何の関係もない。小説を書くことが楽しければそれで完璧なんだ。たとえひとが先に認められようが自分が遅れをとろうが、――まあ少しは悔しいと思うだろうけど、そのせいで小説がまったく書けなくなるなんて絶対に間違ってるんだよ」
 我ながら、熱に浮かされた病人のうわごとだった。心に浮かんだ思いをただ思うままにしゃべっているだけだった。
 でもだからこそ雪雄は、自分は正しい場所へ足を踏み出していると確信した。
 夏樹は雪雄をじっと見つめている。
「俺、夏樹がうらやましいよ」
 雪雄は手を伸ばした。夏樹の頬は柔らかい。
「俺もお前みたいに、好きなことを心の底から楽しみたい」
「楽しめるよ、ユキちゃんなら」と夏樹は応じた。「絶対に楽しめるよ。また聞かせて。ユキちゃんのオハナシ、またわたしに聞かせて。聞きたい。わたし、いまのユキちゃんがつむぐ物語を聞きたいよ」
「うん」
 無理をしすぎたか、頭がぼんやりした。まぶたが重い。あくびまじりに雪雄は言った。
「楽しみにしててくれよ……俺いまなら何でも、いくらでも書けるよ……必ず聞かせるから……いや、長い小説になるだろうから……読んでくれ……」
「うん、読ませて。ユキちゃんの小説、読みたい。読たくてたまらない。楽しみでしかたないよ。書いて、ユキちゃん」
 夏樹が顔を近づけた。唇が触れる直前、雪雄はハッとした。
「ダメだ」
「え?」
「今度は俺がうつす」
 夏樹は小さく笑った。
「わたしがうつした風邪だから大丈夫だよ」
 ああそっか、と動く唇に、唇が重なった。
 夏樹が唇を離すと、雪雄はふと何かを感じて目を開いた。
 夏樹が微笑んでいる。その右手には透き通った琵琶がにぎられている。どこからか差し込んだ光が琵琶の透明なボディに当たって反射し、夏樹の全身を輝かせる。雪雄は驚かなかったし、納得した。夏樹はやっぱり弁才天なんだと腑に落ちた。夏樹は左手に空のラムネの瓶を持っていた。振ると、中のビー玉がガラスにぶつかる心地よい音がした。
 雪雄は満ち足りた思いで目を閉じ、眠った。

 熱が下がるまで四日かかった。夏樹は毎日見舞いに来てくれた。おかげで寝込んでいても退屈せずにすんだ。特別、新しい話題があったわけでもない。とりとめのない話や、もうすでにした話を繰り返した。それだけのことが楽しくて、幸せだった。
 話すことが思いつかなければ二人とも恐れず口を閉じた。無言で過ごす時間を気詰まりとは感じなかった。夏樹がいるだけで雪雄は不思議な安心感に包まれた。腕を伸ばし、夏樹に触れる。手、頬、髪、肩。どの部分も未知の種類の温かさにあふれていた。夏樹は雪雄が触れる度に笑みを浮かべ、雪雄の手に自分の手を重ねた。

 熱が下がった夜、雪雄は「明日は行けそうだけど、どうする?」というメッセージを送った。どうするべきなのか本当に分からなかった。このまま放送はやめたほうがいいか。少なくともほとぼりが冷めるまでは、フェードアウトしておいていいんじゃないか。
 でも決めるのは夏樹だ。
 夏樹はすぐに返信した。
「じゃあ明日からまた生放送するね」

 雪雄が到着すると、夏樹はすぐに準備を始めた。表情は固く、手の動きもどこか緩慢だった。見舞いでは笑顔を浮かべ、あれこれおしゃべりしてくれた口も今日は閉じがちだ。
 つられるように雪雄も黙りこくった。何の話題も浮かばない。夏樹の心を少しでも軽くしてあげたいのだが、言葉が思いつかない。
 炎上状態になるのは目に見えている。一体どうはげませというのか。
 ノロノロした動きで、しかし決して手を止めずに夏樹はマイクをセットし、準備を終えた。
 雪雄の胸が高鳴る。
 夏樹はギターを抱え、座布団に腰を下ろし、ゆっくり息を吸って吐いた。
 そして放送を始めた。五日ぶりの「ナツ」の弾き語り生配信。
 開始と同時に、たくさんのコメントが書き込まれた。雪雄は目を覆いたくなった。罵倒コメントばかりだ。ひどい。
 夏樹はあいさつもせず、自身をののしる大量のコメントをながめた。
 これは予想以上だ。いきなりの大炎上。
 時間を置いたことが悪い方に影響したのだ。雪雄の声を放送してしまったあと何の説明もなく「雲隠れ」したために、視聴者の不満を煽ってしまった。
 もちろん夏樹は雲隠れしたわけではない。雪雄の看病と見舞いを優先しただけだ。雪雄だって逆の立場ならそうした。大好きな恋人なのだから当然だ。でも夏樹の心の片隅にはそれを、放送を避ける口実にする心理も正直あっただろう。
 視聴者は空白の五日間を「逃げ」ととらえた。雪雄はコメント群をながめながら、改めて五日前の自分を呪った。
「お久しぶりです」と夏樹は口を開いた。落ち着いた、静かな声だ。
「まず五日ぶりの放送になってしまったことをお詫びします。申し訳ありません。心配してくださった方もいらしたと思います。今日は歌う前に、少しお話をさせてください」
 夏樹がしゃべる間も、罵倒の言葉が次々と書き込まれる。
 雪雄は自分が攻撃されていると感じた。大勢に殴られているような痛みを全身に感じた。
 夏樹は表情を変えず、話し続ける。
「五日前の放送で聞こえた声についてお話しします」と夏樹は言った。「気になっている方もいると思います。あの人はわたしにとって誰より大切な人で、恩人です」
 雪雄は背筋を伸ばし、夏樹を見た。
「こどもの頃、わたしは歌が下手でした。歌うことは大好きで、将来は歌手になりたいと夢見ていたけれど、残念ながらすごく下手くそで、歌うたびにバカにされるようなこどもでした。家族でさえ、わたしの歌なんてまともに聞けたものじゃないと言っていました」
 夏樹はちらっとこちら見て、微笑んだ。雪雄は息を吸った。穏やかな笑顔だ。強がっているようには見えない。余裕がある。
 雪雄は息を吐いた。夏樹は冷静だ。浮足立っていない。
「そんな中で、いつでもわたしの味方をしてくれて、わたしの歌を聞いてくれて、褒めてくれて、ナツは歌手になれるよとはげましてくれたひとがたった一人いました。それがあの声の人なんです」
 夏樹は滔々と話した。
「わたしが今も歌い続けていられるのは彼のおかげです。彼がわたしの歌を認めてくれたから、わたしは自分の歌を嫌いにならずにすんだ。歌う自分を好きでいられた。わたしはこれまで、もう歌をやめようと何度も思いました。でもギリギリのところで踏みとどまれたのは、記憶の中の彼のはげましの言葉が、わたしを崖っぷちから救ってくれたからです。「ナツは歌手になれるよ」。わたしにとって、こどもの頃に彼に応援してもらった思い出は、本当に大きな勇気でした」
 雪雄はコメントを追うのも忘れて、夏樹の言葉に聞き入った。
「わたしは歌うことがバカみたいに大好きで、四六時中なにをしてても歌を口ずさんでいるような人間です。誰かのためではなく、わたし自身が歌うのが楽しいから歌っている、という自分勝手な人間です。でもそんなわたしでも、やっぱり時には歌うことに倦んで、やる気を見失って、ダメになりそうな時というのはありました。でも彼の言葉を思い出せば、気持ちが再び盛り上がって、歌うことの喜びを取り戻すことができたんです。たったひとりでも認めてくれた人がいたから、わたしは誰にバカにされても、歌をやめず、自信や夢を失わず、そして「歌うことはとても楽しいことなんだ」という単純明快な幸福を忘れずにいられたんです」
 夏樹は一息ついて、続けた。
「小学校を卒業すると同時に、わたしは新潟から東京へ引っ越しました。その彼とは、そこでお別れになりました。連絡を取り合うこともなく、もしかすると再会することは永遠にないのかもしれない、と思っていました。でも心の中には彼の「ナツは歌手になれるよ」という言葉がいつでもありました。目を閉じると、あの時の彼の声が今でも鮮明に思い出せる。その言葉を忘れなければ、なんとかわたしはやっていける。卒業式の後、新潟に別れを告げたわたしはすごく不安だったけど、彼を思いながら東京行きの新幹線に乗っていました。あの日、窓の景色をながめながら自分がどんなことを考えたのか、ほとんど思い出せないけど、何度も彼の言葉を頭の中によみがえらせたことだけははっきり覚えてます」
 雪雄は思い浮かべた。新幹線の車中、自分が何気なくかけた言葉だけを頼りに、不安に飲み込まれずに耐えている十二歳の夏樹。
「中学は普通の公立校に通って、特に何事もなく過ごしました。そして高校は私立の女子校に入りました。わたしはなじめませんでした」と夏樹は続けた。なじめませんでした、という一言には、少しだけ自虐的な笑いが含まれた。
「入ってしまったのは、いわゆるセレブ校ってやつでした。わたしは全然セレブでもなんでもないのに、何を間違っちゃったのかな」
 雪雄もはじめて聞く話だ。
「お金持ちのこどもばかり通う女子校に、わたしは何も考えずに入ってしまった。完全に場違いでした。将来歌手とかアーティストになりたい、なんて言ってるのは、わたしの他には誰もいませんでした。そもそも将来、働く必要なんてないような人たちばかりでした。わたしには周りが理解不能の宇宙人ばかりに思えたけど、周りにとっても、ただの庶民で、音楽の道へ進みたいなんて夢を持つわたしは異分子だったと思います。
 わたしはクラスで完全に浮いてしまって、最初から居場所がなかった。疎外感でいっぱいでした。クラスのみんなに夢を話したら、笑われ、プロになんてなれっこないと馬鹿にされ、仲間外れにされ、陰険な悪口をいっぱい言われた。教科書やノートを隠されたり捨てられたり、カバンや制服をカッターでズタズタに傷つけられたり、暴力も振るわれた。ゴミ入れの中に放り投げられたこともありました。あの時は体から臭いが取れなくて、教室にいるのが本当につらかった。
 わたしは二年がんばったけど、そこで限界でした。これ以上無理に学校に通い続けたら、わたしは気が狂っていたかもしれない。今年は一日も学校に行けていません。父も母もみんなわたしに心を痛めてる。苦しくてつらくて悲しくて、春くらいから大好きな歌もなんだか気持ちが入らなくなってきました。どんなにいじめられて気持ちが暗くなっても、今まではなんとか歌だけは続けられていたのに。歌うことはわたしにとって聖域でした。それさえ、心の苦しさやみじめさにぐしゃぐしゃにかき回されて、楽しくなくなってしまった。春からはずっと部屋に引きこもって、歌もまったく歌わなくなって、どん底に沈んでいました。歌う気分になんてなれなくて、でもそんな自分がすごくショックで……。わたしは自分が歌うことを楽しめなくなる時が来るなんて想像もしなかった。歌っても、気持ちが全然乗らないって分かった時、その時が最悪の瞬間だった。わたしにとってたったひとつの大好きなことさえ楽しめない。わたしは本当にみじめで哀れだ、って自覚してしまった。苦しくて、もうダメだと思いました」
 夏樹は淡々としている。表情も落ち着いている。荒れ続けるコメントへの動揺もない。
 だが雪雄は涙ぐんでしまいそうだった。東京での日々が想像を超えて悲惨だったこと。それが夏樹から歌う喜びさえ奪いかけていたこと。雪雄が見た夢はある意味で本当のことだったのだ。雪雄には想像するしかない。自分と再会した時、満面の笑顔を浮かべた夏樹の心の中。たったひとり新潟へ戻った夏樹が、あの時抱えていた苦悩。
「わたしは今、生まれ故郷の新潟にいます」と夏樹は続けた。「新潟は楽しい思い出がたくさんある町です。新潟に住んでいた頃、わたしはすごく幸せだった。部屋に引きこもり、歌も歌わず、ダメになりかけていた時、わたしは何時間も新潟のことを思い出して、長い一日を過ごしました。帰りたい、戻りたい、とずっと思ってた。もちろん一度過ぎ去った時間は、二度と元に戻らないことは分かってます。わたしが新潟に帰ったところで、こどもの頃の幸福な日々を繰り返せるわけじゃない。けれど、きっと最悪な今よりは、真っ暗闇の中で立ち上がれなくなっている今よりは、きっと、絶対に、少なくともマシなはず、とすがるように毎日思いました。
 新潟に戻ってみよう、完全に引っ越すとかは無理でもまとまった期間、里帰りしてのんびり過ごしたい。来る日も来る日もそう考えた。新潟へ帰るわたしを想像して、わたしはどん底の日々を耐えた。心の中の平和な新潟を思い描くことでわたしは、自分にはまだ希望が残ってるんだ、最後の手段がわたしにはまだ残されてるんだ、と思い込むことができたんです。それはとっても大きなことだった。とても心強かった。わたしの歌を褒めてくれた人がいる町。あの町に帰れば、きっといろんなことがうまくいく。――でもまずは、ひとりでゆっくり新潟の空気を吸いたい。とにかくそれだけでいい。心をすり減らすものを全部忘れて、羽を伸ばしたい。そうすればわたしはまた戻れるかもしれない、歌を楽しく歌えた自分に。きっと戻れる。
 いま思い出すと、ずいぶん都合のいい考え方だなって思います。だけどあの時は本当に必死で、そんな考えにでもすがらなきゃ、頭が変になりそうだったんです」
 雪雄は唇をかんだ。
 再会した日、自分が投げつけた言葉の数々。自分で思っていた以上にあれは残酷な行為だったのだ。つまらない嫉妬から出た否定と罵倒。夏樹がどれだけショックを受けたか想像すると、消えてしまいたくなる。
 雪雄は書き込まれ続けるコメントを見つめた。たったいま荒れた言葉を打ち込んでいる人々。それは雪雄自身だった。ヒマワリの静止画を覆いつくす憎悪と悪意は、雪雄の心の暗い部分の似姿だった。同じ汚物がそっくりそのまま、雪雄の中にも存在するのだ。
 もうあんなことはしたくないと雪雄は強く思った。こんな醜い真似はもうたくさんだ。ナンセンスな非難やわがままな暴言、自己満足の揚げ足取り、不必要な批判、何の役にも立たない罵詈雑言。そんなクソのかたまりを、好きなことを好きなように楽しんでいる人やがんばっている人に――いや、そういう人に対してだけじゃない、どうしようもない最低野郎に対してだって、俺はもう絶対に投げつけたくない。そんなことができる人間でいたくない。そんなひどいことのできる人間でありたくない。
 雪雄は子羊のように夏樹の横顔を見た。拝みたくなるほどに目の前の光景は奇跡的に思えた。逆風を真正面に浴びながら、堂々と話し続ける夏樹は神々しかった。ネット炎上の釈明放送とは思えないくらい、夏樹は光り輝いていた。
「新潟に帰ってきて、結果的にわたしは歌う喜びを取り戻しました。ううん、取り戻したどころじゃありません」と夏樹は続けた。
「いま、わたしは歌うことがこれまで以上に楽しいんです。新潟で歌を再開してみて、わたしはさらに一歩、歌の深淵に踏み込んだと感じます。聞いてくださる方からしたら以前とどこが変わったのって感じかもしれないけど、わたしの中でははっきり変わりました。新潟に戻る前よりもわたしは、ますます歌の虜になっています」
 雪雄はなんとなく居住まいを正した。いまや自分も一視聴者になったかのような気分だった。
「わたしは新潟に帰った初日に、恩人に再会しました」と夏樹は続けた。「連絡を取り合ったわけでもないし、彼の家の近くにいたわけでもない。まったくの偶然にまた会えたんです。彼はやっぱりわたしの心の中の彼のままでした。もちろん記憶の中より大人になっていたけれど、わたしにとってスターであるという意味では何も変わっていなかった。わたしを正しい場所へ導いてくれる一等星に違いはなかった」
 そりゃ言い過ぎだ、と雪雄は苦笑し、照れに身をよじった。
「新潟に戻った時点で、わたしは歌う気なんてありませんでした」と夏樹は続けた。「一応、機材一式は持ってきていたけど、まだ歌に取り組むのは無理だと思っていました。歌おうとして、でもやっぱり歌えないと思い知るのは、何度経験してもつらいです。再挑戦しようとは全然思ってなかった。けれど彼と会って少し言葉を交わしたら、気持ちが火山のように盛り上がってきたんです。歌いたい。成長したわたしの歌声を、わたしの味方をし続けてくれた恩人に聞いてもらいたい。そして喜んでもらいたかった。わたしがずっと大切にしてきた歌う喜びを彼と共有したかった。そして彼は――わたしに思い出させてくれました。歌う喜びを、以前よりも大きく、強く」
 雪雄は夏樹を見つめた。
「新潟に帰ってきて生放送を再開して以来、彼にはずっとわたしのすぐ近くで歌を聞いてもらっていました。マイクの前にわたし、そしてその横に彼。一番の特等席で聞いてもらいたかった」
 直後、一気にたくさんのコメントが書き込まれ、画面が白く染まった。画数の多い文字と少ない文字の密度の差が、波浪のようにうねった。
 ひとつひとつのコメントを、雪雄はもう読み取ろうとはしなかった。
「わたしは恩返しがしたかった」と夏樹は続けた。「それが恩返しになるのかは分からないけれど、「あなたがくれた勇気のおかげで、わたしは歌う喜びを失わずに今日まで来られました」と伝えたかったんです」
 夏樹がこちらを見た。雪雄は深くうなずいた。ああ、ちゃんと伝わった。恩は山盛りで返してもらった。
「ショックを受けた人もいるかもしれないし、裏切られたような気分になった人もいるかもしれません。わたしを批判したい人も大勢いると思います。わたしにそれを止めることはできません。でも」
 夏樹はギターを抱え直し、弦を押さえる左手の指を確認した。
「でもわたし、この放送をやめません。わたしは今後も歌を歌い続けます。歌うことが大好きだからです。こんな楽しいこと、やめられるわけがない」
 夏樹は微笑んだ。視聴者に向けてのようにも見えたし、内なる自分に対してのようにも見えた。
「どうもありがとうございました。残り時間は少ないですが今日もできるだけ歌います」
 夏樹はギターを弾き、歌い始めた。
 雪雄は鳥肌を立てた。すごかった。夏樹の歌は今までよりはるかに凄みを増していた。間違いなく、今までで最高のパフォーマンスだ。
 画面には同情や理解のコメントもあったし、夏樹の経験に単純に驚いているコメントもある。そんなこと知らねーよ、ファンよりそいつひとりが大事なのかよ、そんな環境で夢なんかいちいち話しちゃうのがバカ、クソビッチ、などの罵倒も多い。しかし中には「今日の歌は一段と凄い」「歌すごいぞ」「さらに上手くなってる」などのコメントも散見された。何人かにはちゃんと伝わっている。夏樹のすごさはちゃんと伝わっている。
 雪雄は聞き惚れた。釈明会見も夏樹のいじめ体験も荒れるコメントも、雪雄の中から消し飛んだ。ただ歌だけがそこにあった。
 残りの放送時間で歌えたのは二曲だけだったが、その時間の濃密さは普段の生放送一本分を優に超えた。
 放送を終えると夏樹は放心した様子で何もない空間を見た。頬は紅潮し、目は恍惚としている。
「すごかったよ」と雪雄は言った。「お前の歌声、今までで一番すごかった」
 褒め言葉がシンプルに出てくるだけだった。放送が荒れたことはもはやどうでよく思えた。神がかった歌声に比べたら小さなことだった。
 夏樹は雪雄を見て笑った。
「なんか、しゃべってたらいろんな感情がどんどんわいてきたの」と夏樹は言った。「それを全部歌に乗せるような気持ちで歌ったら、いつもよりすごく気持ちよかったし、今のわたしは今ままでのわたしと違う、こんな自分をわたしは知らないって思えたんだよ。自分でも意味分からないくらい深いところから声が出る感じなの。こんなのはじめてだよ。自分の中で何が起こってるのかわからないけど、でも何かが起こったんだよ。ユキちゃん、わたしこんなに歌の中に入り込めたの生まれてはじめてだよ」
「入り込んでた」雪雄はうなずいた。「お前、歌の中に完全に入ってたよ。でも俺もなんか……入り込んでた気がする」
「え?」と夏樹がしばたたく。
 雪雄は下を向いて考えながら話した。「今まではただ「お前の歌すげえ」みたいな気分で聴いてただけだったんだ。もちろんただ聞くだけで夏樹の歌はすごいんだけど、今のお前の歌はそういう次元も超えてたと思う。うまく言えないな……もどかしいよ。だけど俺にもはっきり分かった。夏樹は今までの夏樹より確実に一段上へ登ったと思う。夏樹、聞いてるこっちまで歌の世界に引っ張り込んでた。お前の歌が、俺を歌の世界に一緒に連れていってくれたんだ」
 雪雄は自分の言っていることが伝わっているか不安になった。
「俺、変なこと言ってるかな?」
 夏樹は首を振った。
「ちゃんと分かる。すごくうれしい。最高にうれしい」
「とにかくすごかった」と雪雄は続けた。「お前が歌ってる間……俺、すごく幸せだった」
 夏樹は雪雄の言葉を噛みしめるようにうなずいた。
「わたし分かった」と夏樹は言う。「今まではわたし、つらいことや苦しいこと、悲しいことって、歌を邪魔する感情だと思ってた。けどそうじゃないんだよ。人間の感情はなんだって歌なんだよ。全部歌にできるんだよ。うれしいことも嫌なことも全部、声に乗せられるの。いま歌ってみてやっと分かった。心の中が全部外へあふれていく感じ。わたしも歌いながら幸せで爆発しそうだった。わたしが生きてることのすべて、みんな歌の糧になるんだね。苦しみだってこうやって栄養にできるんだね。わたしもう何もこわくないよ。ユキちゃん、わたし、もうなんだってできるよ。なんだって歌えるよ」
 雪雄は何度もうなずいた。同時に雪雄の中でも巨大な熱の塊が生じた。
「分かるよ。お前の言ってることの意味、俺には全部分かる」
 そうかいいんだ、と雪雄は思った。自分の嫉妬心や心のせまさ、そういうクソみたいな部分だって表現していいんだ。それだって創作のネタにできるんだ。俺も自分のちっぽけさ、くだらなさに目を向けて、作品に昇華してもいいんだ。小説に書いてもいいんだ。なんだって小説の栄養にできるんだ。無駄なものなんて一片たりともないんだ。
「夏樹の話聞いてたら小説が書きたくなってきた。やばいよ。こんなに気持ちが高まったの久しぶりだよ」
 マグマのように意欲がわいてくる。今なら書ける。なんだって書けるぞ。潮目に来た。やりたいように好きなように書ける。やる気を奪っていたゴミクズみたいな感情は消えた――いや違う。ある。嫉妬心もみじめさもちゃんと心に残っている。でもそれでいいんだ。むしろ大歓迎なんだ。全部、ネタにできるから。小説に書けるから。
「俺、書くよ」と雪雄は言った。「新しい小説を書く。今日から書く」
 夏樹は笑顔で応えた。
「書いて。ユキちゃんの書いたもの、読みたい。すごく読みたいよ」
「書き上がったら、最初に読んでくれ」
 夏樹は大きくうなずいた。
 雪雄の中に生まれた「書きたい」という欲求に、他者の影は存在しなかった。読みたいと言ってくれる夏樹さえ、実はいなかったのかもしれない。書けばきっと誰かに読んでもらいたくなるだろうし、できればそれを楽しんでもらいたいとは当然思うだろう。だが雪雄は、自分こそがまず楽しみたいと思った。楽しみたい欲望で胸も張り裂けんばかりだった。ものを書くのを想像するだけでワクワクしてくる。なんなら無人島でだって書けるかもしれない。たとえ誰にもかえりみられなくても、書きたいものを書きたいように書ければ、書き手としての自分は幸福でいられる。きっと。いや間違いなく。

 残りの夏休み、夏樹は毎日生放送で歌い、雪雄は新しい小説の構成を練って過ごした。
 夏樹の歌は「釈明会見」以降も高まったレベルを維持していた。あの日だけのまぐれ当たりではなかった。本人が「なんだってできる気がする」と語ったのは真実だった。夏樹は確実に大きな手応えをつかんでいた。
 罵倒・非難コメントは日に日に減っていった。視聴者数も一瞬がくんと落ちたが、こちらも徐々に回復した。夏休みの終わり頃には「炎上」前と変わらない状況へ、「ナツの生放送」は戻っていた。
 みんな炎上騒動に飽きただけなのかもしれない。実際それもあるだろう。でも雪雄はそれだけじゃないと信じていた。
 夏樹が人気を取り戻せたのは、夏樹の新たな歌声に改めて大勢の人が惹かれたからだ。
 一時的に「炎上」に嫌気がさした後、戻ってきたファンに、新規のファンも加わっているはずだ。視聴者数は炎上前より増しているのだ。当然だと雪雄は思った。今の夏樹の歌により多くの人が心奪われるのは、自然なことだと思えた。
 そして雪雄もまた、小説への情熱と手応えをしっかり取り戻していた。そのやる気は「東事件」以前の自分をも、はるかに凌駕するものだった。小説を書き始めて以来こんなに気力がみなぎったことはない。毎日当たり前のように小説を書いたりアイデアを練ったりしていた過去の自分さえ、今の雪雄にはちっぽけに思えた。あの頃の自分は最高の形で小説に取り組めていたと思っていたが、それは勘違いだった。書くことの喜びにはさらなる深みがあった。そして雪雄はその深みに今、足を踏み入れていた。
 もし夏樹と再会しなかったら……と想像すると本気で怖くなった。きっとこんな気持ちにはなれなかっただろう。情熱は二度と取り戻せなかったかもしれない。深みへいたるどころか、そんな深みがあることにさえ死ぬまで気づけなかったかもしれない。
 夏樹の「釈明会見」の日の夜、帰宅して気持ちも少し落ち着いた雪雄には、ちらっと心をかすめた不安があった。
 ――これは一時的な興奮に過ぎないんじゃ?
 これまでも良いアイデアが浮かべば、その瞬間だけはやる気と希望で満ちあふれた。でも興奮が冷めれば、そういう情熱はあっさり去ってしまった。
 だが今回は違った。翌日も翌々日もそのまた翌日も、雪雄の中の熱は下がらなかった。心配性の雪雄もその辺りでようやく確信した。夏樹と同じく、俺の中でも何かが大きく変わったんだ、そしてその変化は恒常的なものなんだ、と。
 昼間は夏樹の家で夏樹の歌に聞き惚れ、放送が終わると恋人同士の甘い時間を過ごし、そして夜には自宅でひたすら書いた。書いている間、それまでの書く感覚とは明らかに違う感覚が何度も去来した。明確に、雪雄は以前の自分と今の自分が違っているのを自覚した。小説の文章の背後にあるストーリーの流れの、そのまた背後にある「本質」的な、形のないものの形が手に取るように理解できた。
 そう。それは目に見えなかった。だが確かにあった。
 表面的な文章やストーリーを取っ払った奥に存在する、作品の核。小説の印象や「手触り」を決定づける骨格。「愛」とか「友情」とか「喜び」、あるいは「悲しみ」や「憎悪」のような、目には見えずとも人間の生に深く関与し、一瞬一瞬の、同時に人生全体のクオリティをも左右するエレメントが、自らの小説の裡に生じているのを雪雄は感じた。
 それを真正面に見据えながら雪雄は書いた。そこから離れさえしなければ、何をどのように書いてもきちんと一本筋の通った作品になると確信していた。それに囚われているのに――いや囚われているからこそ雪雄は自由だと感じた。「囚われている」がゆえに、好き放題やってもぎりぎりのところで独りよがりにならず、あるべき形におさまるのだ。自由すぎてめちゃくちゃになる可能性を恐れて萎縮する必要は、もうなかった。
 雪雄は自分の作品の中に没入した。今までのどんな深度よりも深い場所に降り立っていた。夏樹へデタラメなお話を聞かせていたこどもの頃の感覚に、近いと言えば近かった。
 どこか現実とは隔絶された場所で、何かとてつもなく重要な仕事にたずさわっている。そういう感じがした。その感覚がどこから来るのか自分でも分からない。やっていることは以前と何も変わらないのに。
 ただ文章を書く。しかるべき場所にしかるべき言葉を置く。それだけだ。
 雪雄は書くという行為に、これまでとは比較にならないほどの充実感を覚えていた。書く喜びが、自分を未知の場所へ導いてくれている。そんな手応えが確実にあった。
 それは主観的な感覚で、雪雄には自分に何が起きているのかを客観的に説明することはできなかった。が、別にひとにうまく説明する必要もないと思った。これは作り手本人だけが理解していればいい事柄だった。それが結果として小説のできばえに反映されれば、受け手にも届くはずだ。それで良かった。
 書くことが楽しすぎて、雪雄は「今書いている小説を書き終わりたくない」と思った。これまでは「早く! 早く書き終えてこの作品を完成させたい」と、息切れするような気分で書いていたのに。でも今は違う。ずっとこの小説を書き続けていたい、書き終えることでこの作品との交流を終わらせてしまうのが惜しい。
 ずっと小説の中に入り込んでいたい。
 書いてる間ずっと、雪雄は多幸感に包まれた。この宇宙にとって自分が小説を書くという行為は欠くべからざる要素なのだ、という確信が訪れた。
 自分でもわけが分からない。ちょっと狂気じみている。雪雄はただの素人・アマチュアだ。ファンを抱えるプロ作家ならいざ知らず、好きで書いているだけの雪雄の小説のどこが「欠くべからざる要素」だというのか。でもそれは強烈な感覚で、自分の感じていることは間違っているかもしれないだなんて、一ミリも考えなかった。
 雪雄は自分の直感を素直に信じた。俺は何かを書くためにこの世に存在しているんだ、と無根拠に信じられた。そしてその確信もまた、他者に理解してもらう必要はないのだと思った。どうあがいたって正確に理解してもらえるはずのない話だ。実際に感じた人間にしか分からない。この深みまで降りることのできた人間にしか分かりようがない。
 雪雄は自分の作品を世界で一番面白い小説だと本気で感じることができた。自己欺瞞でも独善でもない。改善すべき点はほとんど無限にあるとちゃんと自覚している。だが批判点をも超えて雪雄は自作を好きだと感じた。何しろそこには雪雄の内部の奥深くの、雪雄の魂としか呼びようのない「真実」が書かれているのだ。
 たとえ自分以外のすべての人間に非難され、かえりみられず無視されたもしても、雪雄はかまわなかった。自分だけは心から自作に合格点を与えられると思った。
 同時に、自らの作品を好きになれると、他人の作品をも好きになれるということに雪雄は気づいた。
 この世には実にたくさんの作品や表現があふれていた。それらも今の自分と同じような気持ちで書かれたものなのかもしれない。そう考えると、それまで目についていた他者の作品のいろいろなアラがあまり気にならなくなった。ともかくなんらかの作品をこの世に生み出す原動力がその作者にはあったんだ、という「すごみ」に意識が向いた。
 心のうずきや躍動、書かずにはいられない何か、そういうものがあった。それはすごいことだ。何があったのかは作者本人にしか分からない。でも何かがあったのは確かなのだ。ひとつの作品を生み出すほどの何か。そのひとが作らなかったらこの世に存在しなかった作品を、作らせるほどの何か。その作者の心に雪雄は敬意を抱いた。悪い部分より、好ましい部分・良い部分を自然と楽しめるようになった。
 雪雄は東の作品が読みたくなった。東もきっと今の俺のような気持ちで作品を書いたに違いない。次に研究会のメンバーと集まる時に読ませてくれと頼もう。

 夏休み最終日。
 いつもどおりの朝、道、旧踏切。しかし雪雄の目には違う景色に映る。
 繁茂する草、空は透き通る青、現役のように彼方へと線路は伸びている。それらが今までと違って見える。見る者の気持ちで景色はがらりと様相を変える。明日には同じようにこの道を通っても、その先の家に夏樹はいないのだ。
 家に着いた。夏樹がドアを開けてくれる。いつだったか熱中症になるから家にいてくれと言ったら、夏樹は線路で待つのをやめた。
 次に夏樹と会うのは多分東京だろう。仮に新潟で会うにしてもその時には夏樹のいとこが海外から帰ってきているから、この家とは永遠の別れだ。
 夏樹はレザーバッグひとつを用意して待っていた。大きめの荷物や衣料品はすでに宅配便で東京の自宅へ送っている。弁才天のぬいぐるみもだ。
「荷物それだけ?」と雪雄は聞いた。なんとなく大荷物を予想していた。
「うん」夏樹は雪雄の横に立った。「旅行に行くわけじゃないから」
 そうか、夏樹は家へ帰るだけなんだよな。雪雄はここを夏樹の家だと当たり前に感じていて、一気にさみしくなった。
 夏樹が雪雄の指に指をからめる。
「ユキちゃん、行こうか」
 雪雄はうなずいた。
 二人はバス停へと歩いた。新潟駅行きのバスには雪雄も一緒に乗る。今度はちゃんと新幹線のホームまで見送りに行く。
 昨日の夜は、東京へ帰る夏樹をはげますために無理にでも楽しい話題をしゃべろう、と思っていたのに、夏樹の顔を見たらさみしくてダメだった。雪雄は何も言えずに無言で歩いた。
「ね、ユキちゃん」夏樹がうつむきがちに言った。
「え? なに?」雪雄はハッと笑顔を作る。
「実はね」
 夏樹は妙に勢いのある顔つきで言う。
「昨日、ライブに出ないかって知り合いの歌い手さんに誘われたんだ」
「おおっ」と雪雄はうなずいた。
 夏樹がその歌い手の名前を言う。雪雄でさえ聞いたことのある有名な配信者だ。
「すごいじゃん夏樹、大物じゃないか」
「一応、オーケーしたんだけど……」
「オーケーだよ絶対。絶対出たほうがいいよ夏樹」
 夏樹は少し困ったような笑顔を浮かべる。
「ちょっと不安なんだ。わたし、ホントにライブの経験なんてないから上手くできるかなって」
「大丈夫だよ、夏樹ならできる」雪雄は即座に言った。「お客さんもきっと大満足だよ。間違いなく主催者の人を食っちゃうだろ。主役になれるよ」
 夏樹がライブに、しかも有名な人が主催するライブに出ると聞いて、雪雄は自分のことのようにうれしかった。
 夏樹は苦笑して首を振る。
「ないよーいくらなんでも。主役なんてなれないって」
「なれるって間違いなく。遠慮なく「わたしのライブだ」くらいに思って出ろよ。そのくらいの実力があるんだから夏樹には」
 お世辞なんかではない。無理にはげまそうとしているわけでもない。心から出た言葉だ。
 夏樹は主役になるべき人間だ。世界の中心に収まれる力と才能を持っている。雪雄は心底から思っている。この世にはそういう資質を持って生まれた人間というのが確実にいる。本人が望もうが望むまいが、自然と人々の輪の中心に躍り出てしまう人間。夏樹もその一人だ、間違いなく。
「夏樹のライブ、きっと素晴らしいものになるよ。俺には分かるよ。絶対見に来た人たち全員が驚くよ」
 雪雄の興奮した口調に、やっと夏樹も素直な笑顔になった。

 二人は旧踏切に差し掛かった。雪雄は少し足を止めたくなったがそのまま歩いた。夏樹と並んで踏切を通り過ぎた。
 もう旧踏切には用がない。そう感じる。
 夏樹が帰京した後、わざわざ来ることももうないだろう。学校も始まる。旧踏切による慰めを、雪雄はしばらく前から必要としていなかった。夏樹の「釈明会見」以来――雪雄の中で創作への取り組み方や意識が変化して以来、旧踏切への興味はほとんど失われた。
 だからと言って、旧踏切に対する愛着は少しも減らない。一時期の雪雄にとって旧踏切は、毎日を生きる上で欠くことのできない相棒だった。この場所でただぼうっと過ごす時間。自分のチンケさに失望する雪雄を、不思議にいたわり、慰めてくれた場所。
 後輩に嫉妬し、勝手に傷つき、地面を失ったように落ち込む自分をぎりぎりで救ってくれたのは、この電車の来ない踏切だった。
 感傷的になっているだけなのだろうか。風景が人の心を癒したり落ち着かせたりするのは特段珍しい話でもない。雪雄は今後この踏切のことなんて、少しも思い出さないかもしれない。
 だが雪雄は思う。夏休みのはじめ、俺はこの踏切を確実に必要としていた。そして踏切はそんな俺を受け入れてくれた。
 停留所に着くとちょうどバスが来た。雪雄たちは二人がけの座席に腰掛けた。手はつないだまま。ライブの話がひと段落したら、二人の口数はまた少なくなる。
 駅に着かなければいいのに――雪雄はむなしく思った。
 バスはスムーズに運行した。道も空いているし、新たな客も乗り込まなかった。駅にはあっという間に着いた。
 駅ナカを歩きながら、わざと軽い調子で雪雄は言う。
「ホームに着いちゃうなー」
 夏樹も「着いちゃうねー」と笑う。笑いの後の横顔にさみしさがこびりついていた。
 雪雄は緑色の券売機で入場券を買った。初めて見る入場券は新幹線の切符とそっくりだった。
 ホームは思ったより混雑していた。雪雄は夏樹の手を引いてすみの壁際へ移動し、スマホを見た。まだ少し時間がある。夏樹の体を引き寄せ、彼女の髪の匂いをかいだ。夏樹は顔を雪雄の胸に押し当てて息を吐く。
「ライブ、必ず見に行くからな」
 雪雄の言葉に、夏樹はうなずいた。
「きっと来てね。わたし、がんばって歌うから」
「約束するよ」と雪雄は言って、続けた。「夏樹、俺もがんばるよ。お前のライブまでに今書いてる小説、完成させる」
「楽しみ」夏樹は夢見るような口調で返し、雪雄の背をゆっくりなでた。「わたしに一番に読ませてね」
「もちろん」
 雪雄は夏樹を見た。夏樹の目は真っ赤だ。でも幸福な笑みを浮かべている。
「少し元気が出てきた」夏樹は言った。「次に会う時、ユキちゃんの小説が読めるんだと思ったら、前向きな気持ちになれるよ」
 雪雄もうるっとくる。
「俺もだよ。次はライブ会場で夏樹の晴れ姿に会えるんだ。楽しみで、元気が出るよ」
「待っててね、ユキちゃ……」
 最後の方は涙にまぎれた。雪雄は夏樹を抱きしめた。
 新幹線が音を立ててホームに入ってくる。雪雄は顔を上げた。一瞬、あの旧踏切に電車のやってくる幻を見た気がした。

 ――――

「END」と書き込んで僕はスマホを投げ出し、ベッドに寝転がった。
 終わった。僕はしばらく呆然と余韻にひたった。疲れと達成感が体の隅々に満ち満ちる。特別な時間だ。書き手だけが味わえる、他の何物にも代えられない最高の時間。
 僕は書き終えることができてうれしかった。まずは何よりも先に、それだ。でも同時に(この作品内でまさに書いたように)終わってしまって残念でもある。推敲で何度も原稿を読み返しはするつもりだが、ひとまず雪雄と夏樹の物語はこれにて僕の手から離れてしまうのだ。
 夏休み終盤から毎日少しずつ書き進めて、脱稿に三ヶ月ちょっとを要した。スマホのテキストアプリを起動して雪雄と夏樹について書くのは、親しい友人に会いにいくような感覚だった。同時にそれは、たったひとりで自室にこもり、自分の内部とひたすら対峙する孤独の時でもあった。
 僕は雪雄と夏樹を描写する記録者であると同時に、彼ら自身でもあった。僕と彼らは不可分で、にもかかわらず面と向かい合えない遠い存在同士だった。僕は心から満足だった。この小説を書けて――彼らのことを書ききることができて幸せだった。
 僕の心に去来するものが他にもある。ひとつは「ありがとう」という思い。何に対する感謝なのか自分でもよく分からないが、「ありがとう、こんなに楽しく小説を書かせてもらって」と誰かにお礼をしたくて仕方がない。自分で成し遂げたことだが、自分だけの力で成し遂げたようには全然感じられない。あいつのおかげだろうか、それとも小説の神様のような存在に助けてもらったのだろうか。
 僕は、最初から最後まで一秒も倦むことなく執筆を楽しめた。あんな満ち足りた気持ちは今まで感じたことがない。執筆中、僕は異常なほど強烈な多幸感を何度も味わった。自分は何か言葉にできない素晴らしい行いを為しているんだと何の根拠もなく思った。それは強烈な感覚だった。確信的な直感だった。
 僕以外のひとが読んでこれをどう評価するか、そんなことは僕には分からない。僕は僕以外の何者でもなかった。でも僕にはひとつ、確かだと言えることがある。
 他でもない僕自身がこの小説を好きだ、ということだ。誰になんとけなされようと、僕にとって自作の価値が下がることはない。僕は誰よりもまず僕自身に対して、一切ひるむことなく「この小説は面白い」と言える。僕はこの小説において、僕にしかなし得ないことをなし得た。
 この小説のコアの部分は僕の心の生き写しだ。この小説はまるで人間のように心を持っている。それは僕の心の分有によって生じた。
 心を込める、とはこういうことなのだ。それは作品のクオリティとは別個の問題だ。技術とは別のベクトルで達成せねばならない。表現者にとっては「クオリティ」と同じくらい――あるいはそれ以上に重要な工程だ。
 この世には真に心のこもった、血の通った、実在するひとりの人間と同じくらいの価値を持った作品が存在する。それを僕は自らへと証明した。分かってしまえば簡単なことだった。
 客観的に見れば他愛もない達成感に過ぎないのかもしれない。実際、ひとから見て僕の小説など他愛もないものだろう。僕はただの素人で、まさにこの小説の主人公同様プロの作家などではまったくない。これを例えばネットなどに公開したって何人のひとに読んでもらえるか。そもそもひとりにだって読んでもらえない可能性もある。誰にも知られていない場所で、誰にも知られていない小説を、誰にも知られていない人間が趣味で書いた――ただそれだけのことなのだ。実際に起きたのはその程度のことだ。
 そんな微々たる達成であることを意識しても、しかし僕の中の自信や喜びは揺らがない。たとえ誰にもかえりみられずとも構わない。だって僕はそれでもじゅうぶんにハッピーだから。小説を書くだけで、そして書けたというたったそれだけのことで、僕は幸せでいっぱいだ。書くこと――それも心の底から何かを為すという意味で書くこと、それさえ自由にやらせてもらえたら僕は宇宙一の幸せ者でいられる。究極、紙とペンさえあれば僕はどこにいたって笑顔で暮らせるだろう。
 芸術家と呼ばれる人たちには「何をいまさら」と笑われるかもしれない。自分のやりたい・やらずにいられないことをやれば幸福だなんて、アーティストなら当たり前だろう、と。いや、それでいい。諸先輩方は笑ってくださって結構。遠回りしつつも、とにかくやっとスタート地点に僕は立てたのだ。幸運な話じゃないか。
 僕は長い間、小説をうまく書けないこと以上に、今後の長い人生で小説を書き続けていけるか、ということが不安でしかたなかった。だってそれまでの僕にとって書く行為は、喜びより苦痛の方が大きかったから。書いたものは自分でなく、他人に評価してもらうべきだと考えていたから。
 常に0点からスタートの加算式だった。僕は自らの作品に対し、自ら点数を与えられなかった。自作を好きになるのは独善だと思い込んでいた。作品とは客観的な評価によってのみ、存在する権利を獲得できるのだと信じ込んでいた。それこそなんの根拠も、考えを裏支えする強靭な思想もないままに。
 いつだって他者の基準(それがなんなのかはさっぱり分からない)で生き、他者の基準で失望し、他者の基準にイラ立ち、他者の基準で自己評価を下方修正した。その繰り返しだった。うんざりだ。なんてストレスのたまる人生。なんて苦痛にまみれた人生だ。今までそんな考えのもとに小説を書き、生きていたと思うと恐ろしくもなるし、バカバカしくもなる。
 僕は今なら自作に自分で及第点を与えられる。例えば、そう、七十五点くらい。百点までの残りのポイントは他者の評価によって埋められる。決して他者からの評価を軽視しようと思っているわけではない。そんな気持ち、僕には一切ない。ひとに面白いと言ってもらえれば、喜びで打ち震えるほどに幸福だ。そんなの当たり前である。
 しかし万が一、他者からまったく評価されなかったとしても、赤点はもはやないのだ。すでに自分で高得点を与えているのだから。
 僕はやる気を失わなくなる。みんなに無視され、軽んじられ、非難ばかりされたらそりゃがっかりはするだろう。だがやる気のすべてを失うことはありえない。書くこと自体が嫌になることはもうあり得ない。自身の内的な評価が心に息づく限り、僕はそれを燃料にして書き続けられる。
 そう、僕はいつまでも書き続けられる。自分だけの喜びを糧にして、死ぬまで書いていられる。
 僕は開眼した。

 僕は改めてアプリを開く。指を滑らせ、各シーンを斜めに読み返す。自分自身をモデルとした主人公は「雪雄」と名付けた。新潟↓雪という単純な連想だ。あいつをモデルとした歌い手は、その反対のイメージで「夏樹」。
 壁のカレンダーを見た。ライブは明後日の土曜。推敲には一日しか使えない。でもまあいいさ。読みにくい部分も大いにあるだろうが、ほぼプレーンなテキストを手渡してしまおう。
 早く読んでもらいたい。あえて内容については何も知らせていない。自分がヒロインのモデルだとあいつはすぐに気づくだろう。そしたらどんな顔をするかな。
 僕はあいつの顔を思い浮かべる。明後日、会えるなんてとてつもないイベントだ。大げさなようだが本当にそう思う。夏以来なのだ。僕らが会えなかった間に季節は変わり、秋もすでに深まっている。初めての彼女なので、遠距離恋愛をするのももちろん初体験だ。小説のおかげで毎日は楽しくてたまらない(学校の文芸部も元どおり居心地の良い場所に戻った)が、それでも恋人と簡単に会えないのはさみしい。
 あいつと会えるというだけで心がおどる。しかもその日は、あいつがボーカリストとして初舞台を踏む記念日なのだ。
 会いたい、早く。メッセージのやり取りは毎日しているし、通話もするし、生放送も毎回視聴している。だが何を持ってしても、あいつを隣で感じたい、あいつの歌を目の前で聴きたいという思いは慰められない。
 僕はテキストアプリに戻った。時間の許す限り推敲をしよう。少しでも良いものを読んでもらえるよう、がんばろう。
 小説「廃線と弁才天」を、僕は最初から読み返し始めた。(了)

廃線と弁才天

廃線と弁才天

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-03-13

Copyrighted
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