夏の魔物
君に一言「好きだった」、と言ってもらえたら僕は満足するのだろうか。
【 夏の魔物 】
吐き出した液体か固形かすらわからない物体にたまらなく自分の内側の体温を感じてしまうのは、最低に醜い呪いだと思う。きみは、こんな僕なんて知らない。
*
茹だる夏。学校の隅、ほぼミネラルウォーターしか補充されていない自販機。
「おはよう」
「おはよ、今日も暑いね」
「今日は何日だっけ」
「6日」
「まだ梅雨なんて始まってないのかもしれないね」
君は今日もきらきら輝いて、太陽の雑な照らし方とは似ても似つかなかった。太陽は、大雑把に照らしすぎる。大切なものだけ、それだけが輝いていれば僕はそれで十分だったんだ。
会話というにはあまりにも短い、挨拶というには少し長い、そんな会話もすぐに使い切ってしまう。
始業チャイムと同時にクラスは一斉に本を開く。
僕、君、クラスメイト。本の中に入り込める時だけ、僕は少し青色になれた気がした。
本のページをめくる君の手に僕の心臓が少し先走る。
血が少し泡立つ。好きは、呪いみたいだと思う。
君がどんな本を読もうが僕には関係がなくて、でも関係ないって言ってしまうのは堪らなく悲しくて。そんな取り留めのないことばかり考える僕の脳は、きっと、もう腐ってしまっているのかもしれない。
「ねえ、来週一緒に来てほしいところがあるんだ」
耳打ち、かかる息の感触は残ったまま。
そんな約束、忘れてしまったみたいに君は文章にのめりこむ。何かに夢中になる君の目は最高密度の絶望を孕んでいた。その目に捕まってみたいと、思って、呆れた。目が合いそうになって逸らした。僕はもっとマシな僕になりたい。なれないのに願うから僕は僕のままなんだ。まるで孵化しない蝶みたい。なんて言ったら君は「蛾だろ」って、笑うだろうか。
*
世界の中の僕なんていてもいなくても同じで、本当に大切なものは消費されてもう何も残っていないのかもしれない。毎晩のように同じことを考えて、少しだけ泣いた。君は僕のことをもう忘れただろうか。朝になったら、思い出してくれるだろうか。かけっぱなしの音楽はきっと今だけは、僕だけのもの。外から聞こえる声も聞こえないふりをして、君のことだけを考えても良いだろうか。僕にとっての世界にはいつも君が佇んでいる。なにかに飽和していたかった(君のことを考えすぎて、君のことで僕の脳は飽和しているけれど、やっぱり少し苦しい。これは大前提だから言うまでもないんだけれど)。
夜は、余計なことばかりを考えてしまう。穏やかな呪いが、僕の首に手をかける。窓を開けると風は生暖かったし星は流れていなかった。塗りつぶした夜の闇が、僕の記憶の中の君の瞳を塗りつぶしていく。本当は君なんて、少しも好きじゃないんだ。こんな夜、君が知らないから。君に届かないから成っているのに。僕は、君が好き。叶わない願い程気持ちの悪いものなんか無くて、そんなことももうわかっていた。
きみ、君、きみ。ディスプレイは夏になりかけた夜を映しこむだけだった。
明日世界がめちゃくちゃになってしまえばいい。そんな言葉を空に放った。
*
翌朝、始業チャイム。担任の途切れ途切れの声とともに、世界はあっさりと滅亡した。
人間って、あっさり死んでしまうものだ。何故か、昔捕まえたカナブンのことを思い出していた。草に纏わる節足が、脳にめり込む。グロテスクな妄想に吐き気がした。
教室は大袈裟なくらいに静まり返っていた。昨日の夜の闇だ。入り組んでいる。哀しさと涙と、そこに含まれるはずの感情や思い出。君の存在。全てを塗りつぶし続けている。
お前らみんな、泣いている自分に酔っているだけじゃないか。肩を寄せ合って泣く女子たちは君に掃除当番を押し付けた。わざとらしく君の机にまとわりついているあいつらは君と話したことの内容をどのくらい覚えているのか。そんなこと、もうどうだっていいのかもしれないけれど。
とにかく、ここで僕は一滴も涙を流すわけにはいかない。こんなところで僕は、僕を汚したくはない。
太陽の照らし方は、いつにもまして雑だ。もう照らすべきものなんて、なにも残ってやしないのに。
大袈裟にまるで芝居みたいに泣いていた彼女らはやっぱり少しも可愛くなくて。慰めている運動部の彼氏。君のために流した涙すらも興奮材料に今日も手を繋いで下校するのだろう。本当、気持ち悪いよな。こんなことを考える僕のほうが気持ち悪いって、頭の中、君が饒舌に話す。
君が死んだって、世界は終わらない。そんなことはわかっている。それでも、僕の世界は終わったんだ。こんなことなら君が生きているうちに、僕の世界がなんとか形成できていたうちに氷河期でもなんでもぶつけて、君がいた時のまま。君が最高密度だった時のまま、残らず凍らせてしまえばよかったんだ。きみは、僕と話した会話も忘れてしまっているかもしれないけど。世界が君を忘れても忘れなくても、僕は君を忘れない。
*
本当は、本当はなんて。そんな単語を付けなければ語れないような僕なら最初から存在していなければ良かったのかもしれない。思ってもないことを思う。断片的な、会話だけ。まるでショートケーキの苺がじくじく傷むみたいに心が駄目になっていく気がした。僕はいつからこんなにつまらないことばかり考えるようになったのだろう。
僕が欲しかったのは、どうしようもない君との現実だった。君は知らない、どうせ聞こえてもいない。
好きだよ、なんて。ありきたりな言葉じゃ説明し尽くせなかった。本当はもっと単純だったのかもしれないけど。言葉を重ねたくなるのはどうしてだろう。そんな思いは僕の中に重く居座り続けていた。こんなに好きで、どうしてくれる。
*
夏は透明だ。夏を透かして君を見ていた。
君が魚だったら良かったのに。そんなことを思った。淡い。
水槽の中から見下ろす君をただ、呆けた顔で見上げるだけだったなら。君のことを、少しは。それとも君は小さな命を持て余すように、掌で、僕を。魚をいたずらに転がしては笑うだろうか。そっちのほうがいい。そう思うのは、あくまで僕の妄想だからだ。そんなことよりも僕が僕を脱ぎ捨てられたら。君が、僕のことを忘れた夜に少しだけでも僕を思い出してくれるだろうか。
夏は、君がいなくても消費されていくよ。手首の爪痕。見せられない、そんなものばかりだ。こんな気持ちも拭い取って、君が手を取ってくれたら。
「夏の蜃気楼がね、」、言った君の横顔がとても綺麗で。伝った汗さえ覚えていたけれど。蜃気楼の意味さえ知らなかった僕は、昔、星座の名前がわからなかった頃に付けた星座観測のレポートみたいな。そんな小さな惨めさを喉の奥に残した。君が眩しくて、堪らなくて。僕は手首を強く握る。立てた爪の痛みだけで何かが保たれていた。肌の白、何もかもが中途半端だ。
あの時、君の中で僕は生きていただろうか。伝う汗と同じように、君にとって僕は鬱陶しかったのか。それとも、君の頬を撫でる風みたいに少しでも君に。いや、そもそも僕のことなんて気にも留めていなかったに違いないけれど。月の満ち欠けみたいに、君にとって僕は、あったらあったで、なかったらなかったで、良かったのかって。ぐるぐる脳を混ぜ合わせる。もしかしたら三日月のほうが鋭くて、満ちた月なんて僕のエゴでしかなかったのかもしれないね。自分の心にまた圧をかけた。
もうきっと、教室で泣いていたクラスメイト達は君の声も表情も。知らないままの体温も、思い出せないのかもしれないね。
*
「期待なんかするな」って、炭酸抜けかけたラムネみたいに言葉は空に漂った。君は残酷で、でも当たり前にそれだけじゃなかった。
夏の一歩手前。君が不機嫌そうに睨んだ太陽を、僕も睨んでいる。
ねえ、僕はもう何も残っていないし、死ぬことばかり考えているんだ。印象付けられて、そっちのほうが良いかと思って。もうよくわからない。僕が死んだって、どうせ得るものも失うものも無いだろ。
足は、すんなりどこか、遠くへ向かう気がした。生きることにこんなにも執着していなかったんだ、って少し自嘲すらできる気分だった。本当はまだ生きていなかったけど、、どうせ生きていたって君はいないし、天界からなにか慈しむような目線を向けられても僕は少しも嬉しくない。僕が欲しかったのは。理想を口に出そうとして、喉に押し込んだ。叶わない願い程、滑稽なものは無い。
もう、いいんだよ、全部。
最初からゴミ箱の中みたいな頭の中を、もう、捨ててしまえるね。
「なにやってんの」
「は」
多分この聞きなれた声は、僕の幻聴でしかなくて。
「幻聴なんかじゃないって。その小さい目見開いてよく見てみろよ。」
まぎれもない君の形をした君が居た。君は君のままだった。
「まだ妄想だとか言うわけ。ほんっと、つまんないよな、お前って」
この際もうつまんないとか、そういう勝手な君が吐いた僕への勝手な失望は見なかったことにしておく。大丈夫、あとできっちり傷ついて、一人で部屋で泣いておくから、だから。
「なんか言えよ」
*
「まあ、一回死ねば口も悪くなるね」
「そ、そういうものなのかな」
「お前は死んだことないからなあ。でもさ、お前みたいにお人好しだかノロマだかわかんないような奴にはわかんないかもしれないけど」
そういうと、何が楽しいのかまた笑った。
「戻そうか」
「なにを?」
「口調」
「できるの?」
「できるさ。ごめん、怖がらせた?」
「いや、うん。気は動転してるけど」
「ゆっくりでいいよ。待ってやるから」
*
きっとこれは全て僕の夢だ。 記憶の中の幸せだけを掬って、おいしいねって君と笑いたいだけだった。正直、結末とかそういうものには飽き飽きしていて。薄雲に塗れた月に少し同情しながら君のことを思い出さないようにしていた。
「変な夢見てたろ」
「え」
君はいつも余計なところだけは鋭かった。わかってほしくないところはわかるくせに、わかってほしいところは少しもわかってない。
「見てないよ」
「あ、また」
君の目線が僕の手首に移る。
「お前嘘つくとさ、手首握るんだよ。爪も立てるよな、やめろよ」
ほんと、余計なところばっかりわかってやがる。
「別に、」
「紅くなってる。なに、そこまでして逃げたいの」
「変なゆめかどうかはわからないけど夢は見た。それだけ」
「今そんな話してない」
「してたよ」
「さっきまでな」
「もう、いいから。やめようよ」
また、手首に力を込めようとして、君に腕を掴まれていたことを思い出す。じわりと、視線が刺さる。僕はいつだって弱いから、いつだって逃げ出したかったのかもしれない。
僕は僕を客観視していた。逃げるなよ、なんて、当事者の僕が言うんだから君もやっぱり苛立ってしまうんだと思う。
「話せよ」
「離せよ、」
「なにそれ、かけてんの。はなせよって」
こういうところも嫌いだ。
「もういいから、もういいよ」
腕を小さく払い除けた。そうやって、僕はいつだって逃げてしまう。
心臓が不規則になったみたいだった。君ってさ、本当に。
「やっぱり君って、僕なんかいなくてもいいんだ」
「そうだよ、って言ったら泣くくせに」
「君って本当にどこまでも意地が悪いんだ」
「お前よりはましだよ。そんなことないよ、って台詞を期待してそんな質問するんだ」
「そんなことない」
「じゃあ必要じゃないって言ったら、お前、どうするんだよ」
「君のことなんか忘れるよ」
「できないくせに。できもしないこと言うなよ。」
この手を、僕が喉元にかける日はそう遠くないと、他人事みたいに小さく思った。
嫌いは、きっと好き。嫌いすらも、好きになって。
好きはいつの間にか嫌いにすり替わって、それすらも好きになる。 君のこと、やっぱり、
*
手首には結局、赤い線が残った。
爪を走らせたら、すぐに一瞬白くなって。そのあとに赤くなって、痛みを自覚するのがいつの間にか癖になっていた。
僕の世界はいつだって小説になり得る。 君の瞳も横顔も。笑ったときに少し目元による皺も。教室のごみ箱に入ったコンドームの袋、道路にこびりついた鳥の残骸、更ける夜明けてほしくない朝。君、どうしても僕を好きになれない僕。 どれもこれも、僕じゃない僕の小説の中の情景にしてしまえば他人事みたいになんでもない顔ができてしまう気がした。手首に爪を走らせるのは、上書きとか、新規保存とか、リセット修正執筆削除に値するのかもしれないね。
「悪趣味」
「え、」
「なんだかんだ理由つけても僕は納得しない」
「別に納得なんかしなくていい」
「ふうん」
「嫌いに、ならないでね」
「は、なにそれ」
それだけの意味だった。
「ほんとお前ってなに考えてるかわかんないのな」
「それ褒めてる?」
「褒めてもないし貶してもない」
沈もうか迷っているみたいな太陽が、僕と、透ける君を照らしつける。
いつか君と食べたアイスが腕を伝ったように、いつか君の目が僕を捉えて離さないでいてくれたみたいに、僕はきっといつか知ることになる。
「なんで僕の前なの」
「なにが」
「わかってるくせに」
「煩いな、とっとと言えよ」
「なんで、僕の前に幽霊になってまで会いに来たの」
僕のこと、少なからず、いや、一番特別に思ってくれてるから?
「まだそんなこと考えてんの」
「考えるよ、だって」
「だって?」
「…僕にとっては、大事なことだし」
「偶然だよ」
「え」
最低な答え。
「とか言ったら、傷つくんだろ」
「もういいよ、聞かなきゃ良かった」
「あれ、怒ったの」
「別に怒ってない」
舌にまとわりつく、ざらりとした絶望を。君の口の中にねじ込めば僕の気は晴れるだろうか。
「変なやつ」
「どっちが」
「君に決まってるだろ」
「なんで」
「死んでまでなんでもない奴の前に出てくるくらいには変だし馬鹿だってこと」
久々に出した大声は、やっぱり少し上ずって、やっぱり僕ってこんなのだから、やっぱり誰からも大切にされない。
「別にどっちとも言ってないだろ」
「特別とも特別じゃないとも言ってない、それになんとも思ってないとか、そんなこと言った覚え無いけど」
「そうだけど」
「言ったってなにも変わらないんだから。それに、理解なんかしきれないだろ、聞かなくていいよ、そのうち話したかったら話すし」
*
鮮やかな自己嫌悪午前1時55分。
結局君の名前を呼べずにいる、最低だと思う、他でもない、僕が。 窓を開けると生暖かい風が頬を撫でた。
惨めさとか、死にたみとか、多分きっと理解なんかしてもらえないだろうし、とか。常温で放置した水はやっぱり少し不味かった。
夏は怖い。
君としたいことも話したいことも言いたいことも僕の命みたいにだらだら尽きないくせに、君はやっぱり僕の特別だ。
青春は炭酸じゃ剥がれないことを知る。僕は僕で夏の日差しに殺されそうになりながらゾンビみたいに暑苦しく日々を浪費するしかないんだろうし。
床に叩きつけたはずの絶望に飲み込まれそうな深夜。程よく沈んだ心を窓の外に投げつけて怒鳴るみたいに君の名前とか、呼べたら、良かったのかも。いや、それより迷惑とか考えずに電話とかかけたりして。教室で下世話に騒ぐデリカシーの欠片も持ち合わせていない奴らみたいに、人の感情とか、勝手に、ミキサーにかけて。好きとか嫌いとかそんな綺麗にわけられない、僕はそもそもクラスの宿泊研修で夜にトランプができない側の人間だった。スクールカーストとか、年齢を重ねるごとに無視できなくなっていて、それに押しつぶされそうな僕は。
月の満ち欠けみたいに、君にとって僕はあったらあったで、なかったらなかったで、良かったのかって、ぐるぐると脳を混ぜ合わせる。
もしかしたら、三日月のほうが鋭くて、満ちた月なんて、僕のエゴでしかなかったのかもしれないね。なんて、また僕は僕の心に体重をかけた。こんなことしか考えられないなら、もう、壊れてしまえよ。また手首に爪を立てた。僕はもっと、マシな僕になりたい。
僕が君を必要とするように、君が他の何者でもない僕を、必要として、一緒に時間を咀嚼できたなら。
ねえ、やっぱり僕考えて気づいたんだけれど。
馬鹿な僕が気付いてしまったんだけど、やっぱり君が死んだなんて、嘘だよ。
うそ、嘘だ。だってじゃないとおかしいもの。
僕が生きていて君が死んでいて、そんなこと、あるわけないもの。
思考が溢れて眼球から零れ落ちた。
それでも僕は、いまは、今だけは、思考をやめるわけにはいかない。
やめたら、君が本当に消えてしまいそうだったから。君は生きている。
空になったペットボトルみたいに空気を入れては吐き出す肺が、ふつふつと呼吸のリズムを乱していく。まだ、まだだ。酸素を取り込んでいく、汚していく。
君はどこにいる、いつかの君の汗ほど清々しくはないけれど、僕だって十分に生きていた。そのつもりだった。だから君が死んだなんて馬鹿みたいな知らせが教室の空気中にまるでハウスダストみたいに言葉になって漂ったときも、僕は信じなかった。
*
「お前って本当に幸薄そうな顔だよな」
「失礼だよ」
夏のアスファルトに照らされても尚、爽やかな。
「幸せに嫌われてそう」
「君は幸せだろうね」
「どこが」
「どこがって、」
「死んでるんだし、今更幸せとか、そんなのないだろ」
「あるよ」
「君は、僕以外の誰かとでも幸せになれるんだろうね」
「だから、」
「ああ、間違えた。なれたんだろうね。」
だって、君が僕を選んだことなんてただの一度もなかった。自分で言った言葉に自分が一番傷つくのは、本当に馬鹿だなと思う。でもこうしていないと、消えてしまいそうなんだ。
なんて、じゃあ消えろよ、って。
「気持ち悪いやつ」
そんなこと僕が一番知ってる。
*
走らなければ死んでしまいそうだった。君と食べたかった昼ご飯が、君と一緒に居たかった放課後が、追いかけてくるみたいだった。もっと、名前を呼びたかったんだ。
夏のどす黒い雲の裏側が、僕の足元に渦巻く。
永遠なんてないって、知っていた。
だってそう思ってないと、惨めで本当に僕が死にそうじゃないか。
君に一言「好きだった」、と言ってもらえたら僕は満足するのだろうか。わからない。でも、嘘でもなんでもよかった。君が僕に何かをくれるならそれで。
全て僕の妄想だ。本当は君の顔も、声も。もう覚えていない。きみは、僕が都合よく作った虚像でしかない。虚像でしかない。
部屋の窓から見下ろした。街頭に照らされたアスファルトがきらきら光って。君という存在を勝手に脚色していた僕を見る。君は、きっと君なんかじゃなかった。僕は、君を。僕は君を知らない。
*
自転車のペダルに体重をかける。僕は海へ向かっていた。
錆びた自転車が耳障りな音を立てた。朝の光が纏わり付く。
君がいなくたって、僕は、どこにでも行けるんだよ。
君と一緒に行きたかった海。君はどんな顔をするだろうか。
そのままで居てほしかった。
.
いつまでも変わらないものなんて、あるだろうか。
反射する光を見て、綺麗だと思った。
「ねえ、覚えてた? 」
「なにが」
話しかけても居ないのに、君は都合良く現れた。
前は、僕が追いかける側だったのに。いつのまにか僕達は、変わってしまったみたいだ。
「海へ行こうって約束したこと、覚えてた? 」
「ああ、うん。覚えてたよ。約束くらい、覚えてる。 」
君は何一つ僕のことを覚えていなかったのに。
制服のズボンが波に濡れた。水を含んで、少しだけ、鬱陶しくなった。
「僕、本当は。君のことなんてなにも覚えていないんだ 」
君は今なにを見ているだろうか。僕にはわからない。君が見ているものと同じものを同じ速度で見られたらまだ僕は立ち止まっていられたかもしれないのに。
砂浜に足が埋まる。引っ張られているみたいだ。
「君が僕のことをどう思っていたかとか、なにを考えていたとか。わからないよ、なにもわからない。ずっと、わからなかったんだ 」
君は黙ったままだった。
「ごめん、 」
「本当は、僕のことなんて好きじゃなかったんだろう」
君は、いつもわかったような口を聞く。
「わからないよ」
「わかるさ」
君の手が僕の頬に触れる。
「お前のそういうところ、僕はずっと覚えていたよ」
君の手が僕の首に滑り落ちる。
「好きだったよ、ずっと言えなかったけど 」
砂浜には僕の影だけが残った。笑える、そう思った。
君は、夏に僕が見た幻だ。海はいつまでも凪いでいた。
僕は、きみがいなくなっても僕でいられるだろうか。
僕は、僕のままで。永遠なんて無いことを知る。
君の名前、君の仕草。ずっと覚えているつもりだった。
好きは、やっぱり呪いだ。
濡れたズボンをもう一度水に浸けた。
夏の魔物