君は、ただの

卒業したら、きっと私たちを繋ぎとめるものなんて、なにも無くて。それが疎ましい。

 【 君は、ただの 】



目から溢れる透明な水が残らず枕に滲み込んだとき、手首に巻き付いたぐしゃぐしゃのイヤホンと目が合った。きっと、これは私だった。発光する画面を見つめて文字を打ったし、言葉は震えていた。きっと震えていたのは私の瞳の中だったのかもしれない。
エアコンの風が足を撫でつける。手首の血管、瞳孔。君の歯を、私の指でなぞる夜。



 *

 「あのかき氷屋、潰れるらしいよ。」

ストローに歯型を付けながら言う。理江の声は水色だった。透けるようだった。それに少し声が小さいから聞き逃されやすい。言葉が零れ落ちないように唇を見つめる。

「え、私まだ行ったことない」
「行かなくていいよ、私の嫌いな子バイトしてるし」
「でも行ってみたい」
「そんなに美味しくなかったよ、やめときな」


それに、かき氷なんてそんなに特別なものでもないでしょ、なんて。ストローの口はもう閉じられているように見えた。口紅は付かない。だって、理江は女だから。
かき氷屋、誰と行ったの。聞けなかった。聞く意味も、無い。
夏は暑くて。駅前には時代錯誤の店が並んでは直ぐに空っぽになっていく。紙粘土みたいに柔らかくて、踏んだら足跡がそのまま残る。記憶には残らないけど。

「ね、今度連れてってよ」
「やあだよ」
「行くの。どうせ暇でしょ」

見たことのないお店のスタンプカードが理江の財布から落ちたとき、私たちって住む世界が違うんだって思ったよ。そうでしょ、理江。

「暇じゃないよ、私だって」
「彼氏できたもんね」
「え、なんでしってるの」

ネットワーク。秘密なんてあってないようなものだってこと、理江が一番わかってるはずなのに。というか、バレバレだったし。

「秘密にしてるつもりだったの」
「まあ、うん」

隠す理由なんて聞かなくてもわかっているつもりだった。人の気持ちなんて、好意なんて。慈しむことはできない。すべては虚像でしかない。愛されたいから愛しているというポーズをとる。どうせ、自分のことしか見えていないのに。

「いつがいいの」
「え、なにが」
「かき氷屋」
「行ってくれるの」
「まあ、どうせ暇だしね」

理江は今、なにを見ているんだろう。目の中を覗いたって景色が反射するだけでなんにも見えないじゃないか。なにを、どう見ているの? 私は、この目になにを映せば、理江、あんたのことがわかるの。



 *

 こんな紙切れ一枚半に授業一時間分の時間をかけるなんて、おかしい。狂ってる。退屈だよ。外、出たい。出たってやることないけどさ。

考えたってわからないから早々にペンを置く。理江の背中を少し睨む。少しだけ。カーテンは風に膨らんで、ビルの窓に反射する車、コペルニクス、理江の横顔。当たり前だけど合わない視線と。伝えなくてもわかるでしょ、ってことを重ねて、いつから私たち、なんでもわかるねって言い合ったんだろうね。そういうところは嫌いだ。

横顔が綺麗だ、と思った。少しだけ開いた窓から吹き込んだ風が回答用紙をひらつかせる。見せられない落書き。理江以外には見せられない。理江には、見せられない。
幸せより不幸せのほうが安心するから好きだって、いつか言っていたことを思い出す。
クロノスタシス。チャイムは、まだ鳴らない。

理江には、いま、彼氏がいる。関係がなかった。そんなことは。友達にいちいち報告するまでもないことを私だって騒ぐ気はない。私と理江は、友達だ。ともだち。理江の頬に私は触れるけど、指を絡めて手を繋ぐことは出来ない。それだけの話だった。
コンビニくじのラストワン賞を狙っている気分になった。しょっぱい。
誰なの、彼氏って。あー、なんだか、しょっぱいな。背中をいくら見つめても答えなんて聞こえない。そのほうがよかった。ねえ、誰なの、そいつ。顔なんて絶対見たくないけどさ。思考は炭酸水みたいにいつのまにか蒸発していく。空気になって、膨張していく。やっぱりチャイムは、まだ鳴らない。

問題用紙の余白は落書きで埋まる。高校生なんて所詮そんなものだった。密度の高いようで低い、そんな文字を並べていたら、いつの間に用紙が重くなっていく。水が滴っている。
髪の毛が鬱陶しく首に絡む。夜中にスマートフォンの高度を下げた指。自分の素足をシーツの上に滑らせて得る快感と同じ。同じ夜、同じ朝、同じ顔。私の起こす行動はすべて私の自己満足なんだって、その証拠に、理江は振り返らない。今何考えているのかな。私のことだったら、いいのに。


 *

 「今日、どこか寄り道して帰ろうか」

軽く引っ張られた制服の裾。爪の色は透明。

「いいよ、なにしたいの」
「なんでもいいよ。映画見てもいいし、なにか食べてもいい。公園でCD聴くのでも」
「雨、降りそうだけど」
「濡れたっていいじゃん。雨に濡れるの嫌いじゃないって、冴、言ってた。」
「そういうことだけ覚えてるんだね」
「なんでも覚えてるよ」
「なんにも覚えてないよ」

理江は、私のことをなんにも覚えていない。私の思い込みなのかもしれないけど。そうに違いなかった。そう思わないと、やっていけなかった。
雨が降りそうに陰ったり、太陽が雲をかき分けて顔を出したり。気温すらも、私たちみたいに安定しない。
私たち、という言葉を使うときに胸がざわつくのは、理江。理江が、私と、なんにも同じじゃないからだ。

「駅前行こう、時間どうせ余るから。そしたら次は理江が決めなよ。」
「わかった。じゃあ、放課後ね」


 *

ショッピングモールを選んだ理由なんて聞かないでほしい。ちかちかするくらいのLEDの中じゃないとだめだと思ったからだ。直感的に。理江の唇が光る。今日はグロス。青みがかったピンク色。税込み、2376円。

「ねえ、冴。さえ見て、これ、かわいい」
「なにそれ、かわいい」

かわいいなんて言葉、見下していないと使えない。

「なんだろ、これ。わかんないな。でもかわいい」
「買って帰る? 」
「うーん、かわいいけどなあ。金欠だし。かわいいけど、かわいいだけだから」
「やめとく? 」 
「うん」

かわいいけど、かわいいだけだから。

「ねえ冴」
「なに、どうしたの」

不意に立ち止まって振り返った理江。
ショッピングモールは雑多で、掃き溜めだ。家族連れ、中学生のカップル。手を繋ぐ女子たち。よくわからないBGMなんて、まるで聞こえていないみたいだ。理江には。理江、だけには。

「冴はこんなところに来たかったの」


 *


帰り道は、平行で。自転車のペダルなんて簡単に踏み外してしまえる。交通事故の看板、目撃者。私の走馬灯に、理江以外って映るんだろうか。理江の走馬灯に、私って、映るんだろうか。

「結局公園来ちゃったね」

空にはやっぱり雲が留まっていた。私の手にはビニール袋が掛かっていた。食べきれないくらいに沢山買い込んだ製菓、アイスクリーム。

「食べたいの全部買っちゃったね。なんか、高校生ってかんじ」

高校生なんてものは考えなしで浅はかで、馬鹿であるべきだ。

「理江なに食べたいの」
「食べたいものなんてなんにもないよ。」

その通りだった。私たちはただ、コンビニのカゴをいっぱいにしたかっただけだ。
空っぽのカゴに甘いものを少し乱暴に投げ入れる。生クリームが喉に絡みつくのは大嫌いなまま。コンビニのBGM。防犯カメラの目には、私たちは、どう映っていた?
誰も教えてくれない。なんにも。

「アイス食べなきゃね。溶けちゃうよ」
「うん」

もうすでに溶けかけているアイス。べたべたする水滴が指に触れる。

「もう溶けてるかも」
「砕けてる」
「冴の自転車、運転荒いからだよ」
「理江だってそうじゃん」
「私は立ち漕ぎなんてしないよ」

溶けかけたアイス。棒から滑り落ちて、もうシャーベット状だった。

「飲んじゃえ」

理江の顔に水滴の線が走る。少し、水色。

「私、髪切ろうと思うんだよね」

髪の毛を指先に括りつけながら言う。光を透かして見ても、理江の髪は真っ黒だ。

理江は嘘を吐くのがうまかった。でも、その嘘の小さな粗を見つけるのが好きだった。全部を知っていないと嫌なんて、そんな傲慢なこと。

「髪切るのってさ、」

知りたいけど知りたくないなんてことを。

「好きなんだって、短いほうが。ショートにしてって言われた。だから切るの」

次いで、理江が話す。悪びれもせずに。

理江は、私の顔を見ている? いや、私をすり抜けて。お前、何を見ているの。

「笑っていいよ」
「笑わないよ。短いのも、きっと似合うよ」
「思ってないくせに」

大体、全然面白くないし。
靄が掛かってよく見えない。私の好きだった理江は誰かのことを好きだった理江なのか。私が今まで見てきたものは理江が理想をつかむために作った偶像。それの断片的な、完成された面ではないもの。

「冴なら笑ってくれるかと思った」
「言っとくけど、全然笑えないから」

理江の顔は笑っていない。当たり前だった。

体育の着替えの度に見える華奢な腰が好きだった。捕まえて、折ってやりたいと思った。

「食べなよ、日が暮れるよ」
「うん」

空はいつの間にか光度を落として、足元はいつの間にか藍色になっていた。このまま、青くなって、境目なんてなくなってしまえばいいのに。

「生クリーム好きだったっけ、理江」
「いや、食べらんない。」

袋の中の沢山の生クリーム。食べていないのに喉が塞がれるみたいだった。バタークリーム。レジ袋を内側から叩いている。

「理江、」
「なに」

風が喉を撫でた。ゆっくり、首に手をかけて、次の言葉を口に出さないように、押し留めているみたいだった。

「彼氏のこと、好きなの」

首にかかった手が、指が。するすると動くのがわかった気がした。理江はコーンアイスの包装を破っていた。小さな爪。

「ねえ、本当は、どうなの」

耳も塞いでくれれば良かったのに。
私は。答えが聞きたかったんじゃない、ただ問いたかっただけなのに。どうせ望んだ答えなんて返って来やしないのに。自分が望む答えすらわからないのに。高校生なんて、そんなものなのに。

「好きだよ」



 卒業したら、きっと私たちを繋ぎとめるものなんて、なにも無くて。それが疎ましい。理江。理江はそんなことを考えたこともないんだろうけど。血が、泡立つ気がした。横顔を覗く。呪いみたいだ。

なんであの時、理江が泣いたのかわからない。わからないままだった。

長い睫毛。濡れて、黒々と光って見えた。私、そんな風に、泣けない。泣けないよ。理江は涙を押し出すみたいに泣く。綺麗か汚いかだと、汚い泣き方をする。それがどうしようもなく好きだった。抱きしめたいと思った。さめざめと泣く理江なんて、見たくなかった。
割れたアイスとコーン。両手。このままずっと泣いていてほしい。本気でそう思っていた。私だけが理江の泣き顔を知っていればいい。

理江の考えていることが全てわかったら、どんなによかっただろう。

「なんで理江が泣くの」

夏は、容赦なく私たちを追い越していく。

ねえ、理江、私たち。卒業したらきっと、どうせ会わなくなるよ。

理江はただの女の子だった。嗚咽、鼻水を啜る音。コーンアイスが溶けて、理江の指先に絡まる。


帰り道の自転車。ペダルを漕ぐ。きっとこれは走馬灯。街頭を追い越す、コンビニの明かり。コンビニって、永遠だと思う。コンビニ以外に永遠っていえるものを私たちは知らない。ペダルを踏みつけた。理江を追い越す。ずっと、届かなかったんだ。隣にいても、どこにいても。背中をなぞってみても、頬を突いてみても。触れなかったんだ。
理江と並ぶと自分が凡人だってことがよく分かった。長い手足も、身長も。光に透かして見ても真っ黒なままの髪の毛も、小さな爪。内緒で開けて、直ぐに塞いだピアスの痕。
なににも、届かなかった。なににも、届けなかった。

理江は、ただの女の子だった。

永遠みたいなコンビニ。街頭の中の微かな青色。ローファーのつま先。
全部、触れないままでよかったのに。
理江の涙は水色だった。手首につけたゴム。

私たち、きっと。明日会えばいつものように挨拶をする。教室のなか。いつも通りだ。

なににも触れないまま私たちは透明になっていく。永遠とか、一生とか。どれだけ言葉を並べてみても本質的に縛ることは出来ない。プリクラもSNSの文章もただのデータでしかない。わかったうえで言葉にする。それって、ねえ、安心したいだけだよ。

「なんで、理江が泣くの」

言葉は空気に触れて、壊れて溶けてしまった。

理江が何か言ったけれどわからなかった。唇を見つめていないから言葉を取り逃す。
一度手を離したらもう触れもしなくなる。この時期の女子の友情なんて、あってないようなものだ。細い指の間から水が零れるように、炭酸が空気に溶けるように。さっきまで感じられたものも、実体がないなら、すぐに消えてしまう。それだけだよ。
永遠なんて、やっぱり信用できなかったね。

「泣きたいのは、こっちだよ」

涙を流さないのは視界がぼやけるからだ。

「なんで彼氏なんか作っちゃうの、理江」

視界がぼやけると、理江の顔までぼやけていく。

「私の代わりなんて理江は直ぐ見つけられるんだよ。じゃなかったらそんなの、作れないよ。私にとって理江は、理江だけだったよ」

理江が私に彼氏ができたことを言わなかったのは、私がきっと理江の中で特別だったからだ。手を繋いだら絵の具を水に溶かすみたいになにもかも台無しになってしまう。なにも知らないままでやさしくできるわけがない。

「理江は私のことを代替品くらいにしか思ってないんでしょ」

全部知って、相手が自分のものになったと、確信しないと愛せなんかしない。相手が自分よりも劣っていると思っていないのにどうして私たちは軽々しくかわいいだなんて言葉を吐けるのだろうか。

「好きだったんだよ、理江のこと」

涙が目に留まらないように押し出す。涙の圧でこの眼が流れ出てしまったらどんなに良いだろう。それくらいしないと、私は理江の顔を忘れられない。声が震えるのが馬鹿みたいだった。いっそ、そうだよ代替品だよ って言ってくれればよかった。水色。脳だってスポンジみたいに絞れたら、余分なことは考えずに済んだのに。

「それくらい、理江だってわかっていたでしょう」

言葉にしたならきっと明確にしないといけなくなる。だからとうとう今まで黙っていたのに。
理江が握りしめていたアイスはもうとっくに地面に落ちていた。どろどろした、ピンク色。粘膜みたいだ、私の手首を切ってみても、そんなかわいいだけのピンク色は流れていない。

「ごめん、もう帰ろう」



どうやって家に帰ったのか、ベッドに沈み込む前に何を考ええいたのか。なにも覚えていなかったのはなにも考えていなかったからだ。

足の爪はキラキラする水色だった。いつも、ずっと。剥がれても塗り重ねてきた。

言わなくてもわかるなんて、全部嘘だ。言葉にしたって伝えたいことが零れ落ちていくだけなのに。いっそ脳を切り開いたりして見せられたならよかったけど、私たちが切れるものなんてせいぜい手首とケーキくらいなもので。
忘れたい思い出すら画面を叩くだけで誰かと共有できてしまう。インターネットの海は飽和している。真夜中の海は静かに凪いでいるなんて嘘だ、ヤンキーたちの掃き溜め。SNSばかりが発達してしまって言いたいことの一つも言えやしない。発達していなくても言えないことは言えないままだったはずなのに、そんな主張すら画面の中に打ち込む。ディスプレイの中の文字にも理江の思考にも指一本触れられないままで。何もかもが終わっていく。エモいなんていう言葉で片付けられない思い出の重さに耐えかねる。

別れなんて、あってないようなものだ。

明日教室で、理江、あんたに会ったとしても私はなにも言わないだろう。水色の教室、空気は濁って、水槽の気泡の中みたいだ。なにも触れない。理江はきっといつか髪を切ってしまう。彼氏のために。透明な爪にはいつかきっと色が塗られるはずだ。私には関係がなかった。私と理江は他人だ。触れないから触らない、伝えられないから伝えない。わかってほしいことなんて本当は、これっぽっちもなかった。断絶、価値観の相違。私たちはそういうものを理解している。いつか、手放しに愛とか希望とか、話せるようになれたらいいよね。

眼から溢れる水は枕に吸い取られる。震えているのは私の中の全てだ。走馬灯を見るには早すぎるけれどなにかが死んだ夜。指で暗闇に何かを書いて、そのまま消す。水色の夜、足の爪の色は、もう変えてしまった。

君は、ただの

君は、ただの

  • 小説
  • 短編
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-03-08

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