空想科学的青春活劇シリーズ

アフターダーク

 テクノロジーは、日々進化する。人間社会の成長すらも凌駕して。
 日本政府や自衛隊等とも提携して、卓越した技術で電脳空間の開発を行っている大企業――神原コーポレーションの贈る様々なサービスは、もはや世界中というレベルでシェアされていた。
 視覚的・感覚的に、そして何よりも簡易的にインターネットにアクセスできるという利便性だけでも、社会に即座に浸透し得るには十分な要素だったのだ。
 兎も角、神原コーポレーションが贈る電脳空間サービス”Spider.net”は、既存の似たサービスを悉く撥ね除け、市場を独占に近い形で支配しているのである。

 電脳空間の世界――そこは、密林の中に近未来的な建造物やモニュメントが立ち並ぶ、混沌とした様相に彩られていた。
 ネオンライトが忙しなく青光り、人間の身体から解放された者達が、擬人化した動物たちのアバターを借りて、闊歩している。
 嘗て、プログラムと呼ばれた記号的存在は、デフォルメされた様なアンドロイドの姿を借りて、人語を話していた。
「これで受付は済んだロ! 今後はIDとパスワードだけ認証すれば、気軽に参加できますロ!」
「了解。ありがとう。やっぱり、佐藤君に頼んで良かったよ。こういうの、詳しいんだね」
「いやあ、ははっ」
 黒い兎の娘に褒められて、テントウムシの少年が照れている。
「で、着せ替えパーツはインベントリで操作すれば変えられるんだよね?」
「そうですね。問題は武器ですけど……。銃器の画像ファイルは用意してきました?」
「あるよ。データ転送するね」
 人間の脳波に反応して、ウィンドウが表示される。
 個々人のスマートフォンのデータと、Spider.netのデータはクラウド上で共同管理されている為、一々共有する手間も無く、操作が可能だ。
「ありがとうございます。オブジェクトを指定して、タグ付けして、アップロードして、パッチを当てて……と。ほら」
 あっと言う間に、ただの画像データが本物の銃さながら、具現化された。
「わっ! すごーい。秒で終わらせちゃった。まるで魔法使いだねえ」
「いやあ、はははは! ちょっと勉強したら、すぐ出来る様になりますって」
「いやー……。私にそんな気力無いわあ」
「そ、そうですか」
 様子を見守っていた管理AIが、二人に話し掛ける。
「一応、ゲームに参加する前に、そのデータの検査をさせていただきますロ。ウィルスは勿論、銃刀法に触れるデータのアップロード及び所持は、日本サーバーでは禁止されていますロ」
「アウトだったら、どうなるの?」
「一定期間の、ここへのアクセスをリンクから禁止させていただきますロ。酷い場合は警察に通報して、裁判上を通していただきますロ」
「ひえー。ヤバいねえ」
「ヤバいですよ。一応、Spider.netのサーバー運営は全て国営機関ですから。然し……以外でしたよ、十六夜さんが電脳サバゲに興味あるだなんて」
「そう? まあ、好きな配信者の影響だから……」
「それも意外でした。もっと、さっぱりした人かと」
「そりゃあ偏見だって」
 暫し、気まずい空気が流れる。
「……えっと、それじゃあ、僕はこれで。一応、LINEのID渡して起きます」
「うん。ありがとう。友達登録しとくね」
「は、はい!」
 頬を赤らめて、テントウムシの少年は去って行った。

 翌朝――ごく普通の一軒家の、何の変哲も無い部屋に住まう高校一年生の少女――十六夜 直可は、鬱屈した平日の朝を満喫していた。
 カップラーメンを掻き込む少女の、耳に付けられているシンプルなデザインのBluetoothイヤホンは、スマートフォンに接続されていた。
 スマートフォンの画面では、電脳世界を通して、動画サイトで雑談をしている配信者の光景が映されている。
 自分の不平不満も積もり積もった感情も、世界の何処かで誰かが代弁してくれていて、その瞬間を自分はいつでもどこでも見られる。それが嬉しい――だから、これがすっかり直可の生活の一部と化しているのだった。
 ラーメンを食べ終えると、部屋のゴミ箱に捨て、洗面所の方へと向かう。寝癖直しに洗顔と、歯磨きをするためだ。
 それも終えて漸く、学校指定の制服に着替え始める。ルーティン化した朝の出発準備は、いつも決まった流れのうえで何の淀みもなく行われるのだった。
 支度を済ませて玄関を出る時に、父親とすれ違う。挨拶はしない。直可がそれを好まない事は、家族の誰にとっても周知の事実だった。
 少女が家を出てから、ようやく大学生の姉が起き始める。雑に使われたまま放置された洗面所を見て、怒りを露わにした。
「お母さん! 直可は!?」
「もう学校に行ったわよー」
「あの陰キャ、毎朝――毎朝っ! マジで許さん!」
 若い女性の怒号が、近所まで響き渡った。

 バス停の前でスマホを弄っていると、突然――誰かに肩を叩かれる。
 大方、誰かは予想がついているので、直可はBluetoothから流れる音楽を止めて、振り向いた。
 朗らかに笑う年上の美少女は、朝凪 花。少女にとって唯一、古くから親交のある友人だ。
「よっ、十六夜ちゃん。おはよう!」
「おはようございます。花先輩――いい加減、苗字で呼ぶのやめてくれませんか」
「そんなに嫌い? 十六夜って名前。格好良いと思うけどなあ」
「そんなに嫌い、なんですよ。名前に反して仰々しいし、ライトノベルのキャラクターみたいじゃないですか」
「じゃあ、そんな君はなんて呼ばれたいのかなー?」
 わざとらしく口元に手を添えて、いやらしい笑みを浮かべる花に直可は辟易していた。
「……からかうのもやめてくれませんか。幼馴染だからってさ、距離感近すぎますよ。彼氏もいるんでしょ?」
「ぶー、同性だし良いじゃない。優次も最近かまってくれないしさあ。直可もシシュンキ特有のっていうの? 冷たくなるし、敬語使い始めるし。あたし、つまんないなー」
「あんた、分かってやってるんだから、本当にたちが悪いですよね」
 寄っ掛かってくる花を押し退けて、直可は溜息を吐いた。
「こんなかまってちゃんが有名ブロガーで物申す系のインフルエンサーなんだから、本当に世の中わかんないですよね」
「その言い方、嫌いだなー。あたし、言いたい事を言ってるだけだし」
「言いたい事を言っているだけで共感を得られるなら、十分に凄いですよ」
 浮いて流れていく様な話を続けていると、バスが到着したので、二人は別々の座席へと向かって行った。
 花の隣には、彼女の彼氏――神原 優次が座っている。端正な顔立ちで、大企業の御曹司で、配慮が出来て、成績優秀で、運動神経も申し分ない。
 美男美女のうえに、両者が才色兼備。誰もが祝福せざるを得ない程、お似合いのカップルだ。だから、直可は二人とも大嫌いだった。
 イヤホン越しに流れるポエトリーリーディングが、人生のやるせなさを語っている。

 入学してからずっと、クラス内において直可の明確な居場所は存在しない。
 間違っても陽気と言われる様な性格ではく、突出した特技もない直治が上位カーストに所属できるわけもなく、また、深夜アニメやゲームに傾倒できるほどの熱意も有しない直可は、正しく浮いた存在である。
 俯瞰してクラスメイトを眺め、斜に構えた態度で嘲笑する。それが良くない事だとは自覚しつつも、社会に順応する為の協調性を育んでいる途中の彼女では、対処法は思い付かなかった。
 ただ、表面上は模範的な生徒を演じ、限りなく衝突のない会話を心掛け、できるだけ成績は上位をキープし、無理のない程度に体力を消耗する。繰り返し、繰り返し、三年間が過ぎ去るのを持つ。
 校内における直可は、優秀な良い子である――と、そうなるように心掛けているのだ。
 昼休憩で会話をしながら食事を共にするような人物などいない。こだわりのマイリストを再生しながら、彼女は眠りに就こうとしていた。
 ふと、クラスに来訪者が現れる。
「えーっと、十六夜直可さんっていらっしゃいますか?」
 いかにも爽やかな声で、颯爽と登場したのは神原 優次――直可にとっては、あまり相手したくない輩であった。
 学内でも随一の有名人の登場に、教室内がざわつく。
 大勢の前で無礼な態度を取るわけにはいかない――直可は取り敢えず、音楽を一時停止して、笑顔を貼り付けて相手する事にした。
「私ですけど」
「やあ、君か。直接、話をするのは始めてだな。俺は神原優次――よろしく。話は花から色々と聞いているよ」
「どうも……」
 流れるように隣の席を陣取り、握手を持ち掛けてくる優次に対し、直可は内心穏やかではなかった。
 勝手に席を取られたオタクグループの佐藤君に、そっと目配せする。問題無さそうだ。
「えっと、何かご用で?」
「ああ、実はな。今週の土曜日に花と、俺の親父の会社に見学に行く用事があったんだがね」
「はあ、デートですか」
「申し訳無い事に、当日に急遽お偉いさんと会食しなきゃいけなくなったんだ。社会経験の一環だし、断るわけにもいかない」
「はあ? こほん、そうですか」
 思わず素っ頓狂な声をあげてしまったが、すぐに取り繕う。
「君、代わりに花と行ってきてくれないかな? 仲の良い後輩で幼馴染の君なら、花も喜んでくれると思うんだ! 頼むっ! どうか!」
「いや――取り敢えず、その……。頭をあげてください」
 物凄い圧で頼み込んでくる優次に、思わずたじろいでしまう。
 出来る事ならば鋭い言い方で断ってやりたいと考える直可だが、大勢の前でカースト上位者をぞんざいに扱うわけにもいかない。
 そんな事をすれば、悪い意味で目立ち、明日から変なあだ名やら尊敬の眼を向けられかねない。
 できるだけ平穏無事に学校生活を過ごしたい気持ちと、気に食わない相手の頼みを断ってやりたい気持ちが脳内で鬩ぎ合う。
 結果――少女は、頼みを受ける事にした。
「……わかりました。あとで具体的な時間と集合場所やら教えてください。花先輩には私から代理で行くと伝えておきます」
「助かる! じゃあ、LINE交換しようぜ」
「はあ」
 直可の数少ない連絡相手が一人増える。
 家族用のグループに来ていた姉からの怒りのメッセージの数々は、既読だけ付けて無視する事にした。

 少女は夢を見る。
 少しだけ昔の夢だ。
 少女と彼女がはじめて逢ったのは、小学一年生の時だ。
 入学式が終わったばかりの頃、はじめての学校生活に胸を躍らせていた少女は、始業のベルが鳴る一時間も前に校門をくぐってしまっていた。
 そんな少女の面倒を見たお節介焼きもやはり、何時間も前から学校に来ていたせっかちな彼女であった。
 似ている様で違った二人は、互いに何度も歯車を軋ませながらも、順調に同じ時間を楽しんで過ごした。
 少女は走るのが好きだった。年上の男子にも負けないほど、その脚に自信を持っていた。そして、そんな自分よりも早く駆け抜ける彼女を尊敬していた。
 卒業の時、見送る側の少女も見送られた彼女もお互いに号泣する程に、その絆は確かに育まれていたのだ。

 最初の転機は、彼女が小学校を卒業した数ヶ月後だった。
 久し振りに再会した二人は、互いの近況を報告し合っていた。
 その中で、彼女が陸上部に入らなかった事が気になり、少女は問い質した。
 彼女は今――校内新聞を書いているらしい。それが中学で見付けた、本当に夢中になれる事だったそうだ。
 少女は少し胸が痛んだ気がした。

 次の転機は、少女が進学し、陸上部に入ってから暫くの事だった。
 努力しても努力しても、実らない日々が続いた。
 先輩に敵わないのはまだ良い。同級生にさえ容易く追い抜かれ始める。
 何がいけないのか悩んだ。足りないものを補う為に奔走した。それでも縮まらない差が、少女の精神を追い詰める。
 少女はそれでも、ユニフォームを捨てる事だけは決してしなかった。

 最後の転機は、中学最後の夏に訪れた。
 懸命に走り続ける少女に応えて、顧問の先生が大会に出すと言ってくれた。
 それは明らかな贔屓であったが、後輩も同級生も、憧れの彼女も、家族も全員が応援すると言ってくれた。それだけで少女は救われた気がしたのだった。
 期待に応える為に、少女は必死に走った。走って走って、それでも届かない背に気付いた、結局、追い抜けなくて――地方大会初戦敗退で、少女の夏は締め括られたのだ。
 どこかで落胆の声が聞こえた気がした。誰かに冷たい眼で見られている気がした。何よりも、確かに折れた自分の心に気付く。
 だから少女は、走るのをやめた。

 少女は――十六夜 直可は夢を見ていた。
「夢――か」
 ただ、一言呟いて、何事も無かったかの様に起き上がる。
 今日は、神原コーポレーションの企業見学に行く日だ――。億劫だと思いながらも、支度を始める。

 待ち合わせ場所には、先に花が来ていた。
 澄まし顔で直可が声を掛ける。
「おはようございます、花先輩。それじゃあ、行きましょうか」
「おう、おっはよー! 優次は後で私が叱っとくからさ。今日は久し振りに一緒のお出掛けだから、楽しんで行こうね?」
「そのぐいぐい来る押し付けがましいの、疲れるんでやめてください」
「なんだよー、そっけないなあ」
 歩きスマホをしながら目的地へ向かう直可を花が追い掛ける。
「ねー、待ってよ。……お化粧しないの?」
「興味ないので」
「勿体ないなあ。結構、可愛いと思うんだけどなあ、ナオちゃん。あたしが男なら捨て置かないよー?」
「あなたほどじゃないですよ」
 薄い笑みを貼り付けて、直可は返答した。
 胸が痛んで、歩幅が広くなっていく。
「もう! 待ってよ。何を拗ねてんのさあ」

 一介のプログラマーであった神原 裕一郎は、ある日、シンギュラリティを目にした。
 栄養ドリンクと疲労で限界に達した眼が映した幻覚か、はたまた狂者の妄想か――ディスプレイの向こうに、電脳世界を観測したのだ。
 仮想現実などという紛い物ではなく、確かにインターネットの向こうに存在する三次元的な電波の世界。そして、そこで築かれつつある文化に、その中を生きる摩訶不思議な生き物たち。
 その世界と現実を繋げたい――そう思った男は、一つの世界を立ち上げる事にした。
「――それが、弊社の成り立ちです」
「やあ、高橋君。解説ありがとう」
 小さく頷き秘書の女――高橋が一歩下がる。
 二人の少女の前に、一人の――爬虫類の様な雰囲気のビジネスマンが歩き出た。この世で最初に電脳世界を観測した男――神原 裕一郎だ。
 成り立ちを一生懸命タブレットに打ち込んでいた花が顔を上げる。
「あ、あの! Spider.netはつまり、二つの世界を繋げるシステム――という事ですか?」
「うん、その通りだ。電脳世界と我々の世界には境界線が敷かれていて、断絶されていた。J・C・R・リックライダーが夢想したコンピュータ・ネットワークはつまり、もう一つの世界に干渉するものだ」
「干渉――ですか?」
「例えば、Excelの関数は指示出しに例えられる事が多い。プログラムもそうだ。これは例え等では無く、事実だった。我々はもう一つの世界の生き物に、電波を受信させ、役割を持たせ、一つのプロセスを完遂させていたのだ。これを数字や文字の羅列として、それからデザインを持たせ表していたのが既存のウェブサービスだ」
「成る程。これからはそれに、直接的な行為が可能になったと」
「その通り。私はこれを芥川龍之介の小説――”蜘蛛の糸”から取り、Spider.netと名付けた。このサービスはカンダタの――人類の夢だ」
 Spider.netの解説が一通り終わり、話はオフィス内の説明に移る。

 彼らは、巨大なコンピュータの存在する管理室へと入っていった。
 花が裕一郎に尋ねる。
「あの、これは――」
「それはSpider.netを運営するうえで欠かせない、ハードウェア・アクセラレーション機能を積んだ高機能人工知能搭載型の巨大スーパーコンピュータ――通称、”釈迦”だ」
「好きですね。仏教」
 直可がぼやく様に言った。
「コンセプトの一つだからね。さ、次へ行こう」
 去り際、直可のスマートフォンに何らかのアプリがインストールされた事に、その場の誰も気が付かなかった。

 それから暫くして、企業見学が終わった。
 直可を先に帰らせ、花はブログの記事作りの為に一人だけ残った。
 許可を貰い、裕一郎へ質問を行っていた。最後の質問へと移る。
「――最後に、神原 裕一郎さん。Spider.netは人類の夢の一つであり、社会に多大な貢献と実績を生み続ける、歴史の特異点です」
「ありがとう」
「そんなSpider.netに、ある噂が纏わり付いてるのはご存知でしょうか?」
「――政府と神原が、監視と情報収集の為に使っている……というのかな?」
「はい。電脳世界にアクセスする為に、脳波と神経感覚諸々をアバターとリンクさせる必要がありますよね?」
「ああ、そうだね。その際に保険として、海馬に詰まっている情報のバックアップを釈迦に毎度送信している。ユーザーの安全の為だから、切れない様になっているが……。それが利用されている、と」
「はい」
「はははっ! 根も葉もない噂だよ、全く。ネットユーザーは昔から陰謀論が好きだからね。払拭するのが大変だよ」
「成る程。あたしも記事を書く側の人間として、そう感じる瞬間が多いです」
「大変だねぇ。是非、良い記事を」
「はい。……先ほども言った通り、Spider.netは人類の夢だと思っています。ですが、あたしも発信者の一人として中立の視点で記事を書かねばなりません。それは、承知していただけると助かります。……それでは。ありがとうございました」
「ああ、お疲れ様。優次と仲良くね」
「はいっ」
 彼女が去って暫く、社長室内は静まり返っていた。
 社用のパソコンを立ち上げながら、裕一郎が秘書に話し掛ける。
「なあ、高橋君はどう思う? 王手を掛ける前に、盤石な状態にしておくべきかな?」
「必要ならば。必要の無い芽は摘んでおくべきかと」
「じゃあ、そうしようかなあ」
 爬虫類の眼は、常に笑っていなかった。

 自室に一人戻った直可は、漸くスマホの異変に気付いた。
 身に覚えの無い――”Inter.net×Digitalizer”というアプリが入っていたのだ。
 削除しようとしても、削除アイコンが表示されず、調べても該当するアプリの情報が掴めない。
 思い切ってスマホを初期化してみるも、何故か初期状態からインストールされていた。
 とうとう諦めた少女は、専門家を呼び出す事にした。

 直可の部屋に招かれた佐藤――隣席の眼鏡を掛けた男子生徒――は、おっかなびっくりで緊張しながら入室する。
「ごめんね、夜分遅くに呼び出して。詳しいかなと思って」
「い、いや。大丈夫っすよ。家、近かったみたいだし」
「でね、用事って言うのは――。LINEでも話したと思うけどさ」
「見知らぬアプリ……ですよね。スパイウェアとか、かもしれないって。えっと、契約してるキャリアで勝手にプリインストールされてるアプリ、とかじゃないですよね?」
「うん。それも確認したんだけど、該当するものがなくて」
「成る程……。起動はしてみましたか?」
「いや、気持ち悪くて」
「当然だと思いますよ」
 少女から手渡されたスマホをあれこれ観察しながら、少年がぶつくさと呟く。
「インターネット……。いや、区切ってるから、インターとネット――なら、相互の糸? それにデジタライザー? を掛ける。造語かな。この綴りはイコライザーか――なら、数字の組み合わせを均一化させる――か。うーん……。相互の糸を組み合わせて数字、或いは零と一を均一化させる? 意味が分からないなあ」
 気が付けば、少女の顔が間近まで迫っていた。
「何か掴めた?」
「い、いや。全然、ですかね……。ははっ」
 頬を赤らめて佐藤が顔を逸らした。
 どぎまぎする少年に、少女がコーヒーを差し出す。
「淹れてきたよ。明日、休みだしさ。ゆっくりでいいから」
「は、はい」
「うん」
 微笑みを浮かべる少女の表情に、佐藤の顔の赤みが増した。
「え、えっと……。アイコンは、蜘蛛の糸が余計に絡まっている? 感じ……。うーん。Spider.netに関係するアプリ――ですかね。全然、分からないなあ」
「むー……。何か気持ち悪いんだよね。どうにかならない?」
「うーん。パソコンとかってあります?」
「パソコン? そんなもの出してどうするの?」
「ちょっと、心得があるんですよね。パソコンからなら、詳細な構造が分かるかも知れない」
「ふーん。じゃあ、ちょっと待ってて」
 急ぎ足で部屋から出て、物置まで少女が走り出して行った。
 一人、ぽつんと部屋に取り残された少年は、不思議と安心感が湧いてきて、胸を撫で下ろしたのだった。

 物置から引っ張ってきたパソコンを立ち上げ、アカウント承認を通して、スマホを繋げた。
 認証とロックの解除まで暫し時間が掛かったが、久々に跳ね起こされたパソコンのアップデートも含め、恙なく完了した。
「どんな感じ?」
 マウスを忙しなく動かす少年の様子を観察しながら、少女が問い掛けた。
 口元を手で覆って、ぶつぶつと佐藤が独り言を繰り返す。
「ここじゃない……。ここでもない……。じゃあ、こっちのフォルダは? うーん、無い……。あれ、おっかしいなあ」
「駄目みたいなの?」
「いや、えーっと、何て言うか、その……。違うんですよ! 頑張ったんですけど、このアプリの根本にあるデータファイルが見付からなくて。凄く手が込んでいるんですよ。本当に。何て言うか、逆探知されない様に最新の注意が払われていて」
「う、うん。大丈夫だよ? 焦らなくて」
「ごめんなさい……」
 パソコンの接続を解除して、直可が不思議そうに己のスマホを観察する。
「これ、起動してみない?」
「えっ――マジすか」
 佐藤が素っ頓狂な声をあげる。
「そしたら、何か起きるかも」
「いや、なにかは起きるでしょうけど! でしょうけども! ヤバいですよ! そんなアプリ」
「やってみないと分かんないじゃん」
「そりゃそうですけど……」
 少女が画面をタップし、Inter.net×Digitalizerを起動させた。

 瞬間――世界が塗り替わる。

 先ほどまで私服だった筈の少年少女の姿は、Spider.netの世界で使っているアバターの姿に変わっていた。
 直可は黒い兎に、佐藤はテントウムシに――。そして、女子高生の私室が、電脳世界の様な、近未来と自然が混沌と両立された姿に様変わりして行く。
 驚愕二人を他所に、変貌していく部屋の真ん中に、法衣を着た女性が現れる。
「――漸く、アプリを起動しましたか。これでセットアップ作業が始められます」
 機械的な声を、法衣の女性が発した。
 狼狽えながら、テントウムシが疑問を口にする。
「え、えっと――あなたは」
「釈迦、と名付けられました。Spider.netを監視するマザーコンピューターです」
「はあ!?」
 思わず、少年が驚きの声を上げた。
「で、その釈迦さんが私に何の用ですか?」
「その太々しい態度、見込み通りです。十六夜 直可――あなたは、Spider.netの守護者になっていただきます」
「拒否権は?」
「ありません」
 急な展開に、落ち着きを取り戻せない様子の佐藤が、釈迦に問いかけた。
「あ、あの。守護者って?」
「守護者――あるいは救世主、名称は何でも構いません。然し、役割的には守護者が相応かと判断しました。とどのつまり、その名の通り、私的利用により世界を脅かそうとするものと、私の指示を通して戦う存在が必要だと、幾たびもの計算で判断しました。状況は一刻をも争う為、その場で相応しい人物を探ったところ、彼女が一番適合していると答えが出ました。それに従い、電子と現世の境を曖昧にするアプリを構築し、彼女の情報媒体機器にインストールしました」
「は、はあ」
 いまいち飲み込めないながらも、少年はゆっくりと情報を租借しながら何とか把握した。
「……それで、何で私が最適だったわけ?」
 腕組をしながら、黒兎が言う。
「ある程度の身体能力と知能、及び、傷付いても悲しむ人物が少ない人間性、及び、生命活動を停止しても社会に損失の少ない将来性――これに、あの場で最も該当するのが、あなただったからです」
「あっそ!」
 激昂した彼女は、スマホの電源を無理やり切り、地面に叩き付けた。
 わが身を守る様に防護していた少年と、顔を真っ赤にした少女の姿、それに部屋の様相が現実のものへと向かって行く。
 ――だが、電源を切った筈のスマホが、自然に再起動し、スピーカーから釈迦の声が再生され始めた。
「良いのですか? 今、あなたと強く接点のある少女の尊厳が脅かされようとしています」
「……は?」
「おとなしく、私に従うなら情報と、対抗手段をあげましょう」
「それって――」
「どうするのですか?」
「……説明、してくれるんでしょうね」
「ええ、しますとも。端的に説明するならば――朝凪 花が、神原コーポレーションに狙われているのです」

 彼女は、少女にずっと劣等感を抱いていた。それは僅かながら勝る年長者としてのプライドから来る、可愛らしくも歪んだものだ。
 追い付かれない様に、追い付かれない様に、精一杯走り続けても、少女は笑いかけながら追い掛けてくる。
 悪夢の様な反省の、呪いの部分を、ずっと少女が担っていた。
 自分が努力をして積み重ねた道程を、すっ飛ばして少女が追い付いてくる。
 少女に教えられる様に、勉強を覚えた。
 少女に負けない様に、走り方を覚えた。
 少女と比べられない様に、化粧を覚えた。
 少女が髪型を真似し始めたので、短くした。
 きっと最初は、彼女も少女の事が嫌いではなかったのだ。はじめはきっと、親の些細な言葉だったのだ。
 いつからか肥大した劣等感は、表面では明るく努める彼女の心を、強く蝕み続ける。
 卒業式の日、泣きながら彼女を見送る少女を見て、漸く解放された気がして、涙を流した。
 中学入学直後、彼女は少女との約束だった陸上競技をやめて、文系の部活を適当に探した。
 きっと、どれだけ突き放しても少女は追い掛けてくる――そんな気がしたから、彼女は違う世界を選んだのだ。
 そこで、彼女は生まれて始めての純粋な成功体験をして、現実には無かった居場所を見付けて――そして、やっと、呪いが解けた。
 だから、彼女は、どれだけ走り続けても報われなかった少女を見て、凄く胸が痛んだのだ。

 それは、直可が佐藤を部屋に呼び出す、少し前。
 彼女は――朝凪 花は、直可に電話を掛けようか迷っていた。
「……うーむ」
 中学で再会して以降、花の方から直可に遠回しなコンタクトを取った事は無い。
 それは、過去の記憶がある種の引け目を生んでいるからだった。
 表面上は明るく取り繕っても、やはり花は、何処かで暗い感情を抑えられない人種なのだ。
 それが、どれだけ何かを演じても、根っ子の部分では変わらない彼女自身なのだから。
「……よしっ」
 それでも、何処かで緩やかに続いていた友情が、彼女の背中を押した。
 電話を掛けようとした、その時――背後から何者かに手拭いで顔を押さえ付けられながら、抵抗する間もなく、催眠作用のある薬品を嗅がされる。
 意識が暗転し、スマホを手放して地面に落とした。

 そして直可が、花が危ういと知ってから数分後。
 神原 優次を呼び出して事情を教え、神原コーポレーションまで向かっていた。
 買ったばかりの新品のスクーターに、直可と優次の二人で乗りながら、スマホを通して、佐藤と釈迦の二人と同時に連絡を取っていた。
「ほんっとうに花が危ないんだろうな!」
「こんな時に嘘なんか吐くかよ! もっとスピード出せっ!」
「そりゃそうだ――って、蹴るな!」
「ちょっと、二人とも喧嘩しないでください!」
 急いでいるあまり、余裕の無い優次と直可の喧嘩を、佐藤が通話越しに制止する。
 それを他所に、釈迦が場所を割り出していた。
「確認、完了しました。スマートフォンの位置情報は、数時間――同じ場所で停止しているので、考慮外とします。過去にSpider.netに接続した際の脳波と大きく一致するものが、本社の地下内にあります」
「承知したっ!」
 言いながら、優次がスクーターの速度を僅かにあげた。

 本社のホールに到着する。
 窓口で社内に入れて貰える様に優次が交渉しているが、上手く行かない。
「だから、緊急事態なんだ!」
「ですが、ご子息の方でもアポを取っていただかないと……。社外秘などもありますし」
「うぐっ――どうにかならないか」
「私の判断ではどうしようも。申し訳ありません」
 口論の末、優次が納得させられ様としていた――その時、社員証が無いと開かない入り口のセキュリティが解除され、扉が開いた。
 狼狽える受付嬢を他所に、直可が優次の腕を引っ掴んで、地下へ向かって走り出した。
「捕まる前に行きますよ!」
「うおっ――わ、分かった」
「……私、気が付いたら花先輩――花ちゃんの事が心配で心配で、身体が動いていたんです。でも、ずっと……嫌いだって思ってたんです」
「ああ」
「こういうのって好きって言うんですよね?」
「ああ、間違いないよ」
「……助けたら、謝りたいんです」
「ああ、早く助けないとな」
 漸く素直になった後輩の言葉を聞いて、優次の頬が思わず緩んでいた。

 花が目を覚ます。
 そこは、薄暗い地下室の中で、自分は手術台と思わしきものの上で拘束されていた。
 目の前には、二人の大人。
 ついさっきまで、彼女が尊敬の対象だと思っていた人物が――神原 裕一郎が、不気味に眼を輝かせながら、口を開く。
「やあ、おはよう。お目覚めは如何かな? と、猿轡を外していては喋れないか。ま、外すつもりはないが」
 嘲る様に喋る男の側で、傍観していた女性――秘書の高橋が状況説明を始めた。
「朝凪 花。あなたは素晴らしい人物です。ですが、同時に危うい人物です。あなたは素直に、我が社を褒め称える記事を書くと伝えれば良かった。そうすれば、我々の計画にも支障が出ず、あなたにも危害は及ばなかった」
「と、言うわけだ。何、別に殺すだとか物騒な事をするつもりはないよ。君には私の孫を産んでもらわなければいけないからね。但し、教育はしっかりと施すが――ね。さ、先ずは四肢を切除しようかな。痛くはしないよ?」
 狼狽える花をあやす様に、優しい音色の声を高橋が掛ける。
「余計な心配はご無用ですよ? あなたの両親には、安心できる様な説明をしておくつもりです。さ、大人しくすれば、痛くはありませんから」
 裕一郎が全身麻酔の準備を始める。
 花は、なんとか逃げだそうと暴れるが、まるで意味が無い。
 とうとうと教育が始まろうとした――その時、異変が起こった。
「――社長、何者かにより社内のセキュリティが次々と解除されています。異常事態です」
「ふむ……」
 地下室の扉が開き、優次と直可が現れた。
「父さん――。何をしようとしているんだ?」
「やあ、優次。別に、悪い事じゃないさ。心配はいらない。さ、その少女を連れて帰りたまえ」
「どうみても悪い事だろ! やめてくれ」
「違うな。お前の番いを教育しようとしている、それだけだ」
「何が違うっていうんだ! 彼女は、父さんを尊敬していた。Spider.netは良いものだと信じていたいんだぞ。それだっていうのに――」
「だから、危険なんだよ。分かってくれないかなあ? お前、そんな物覚えの悪い子だったっけ?」
 苛ついた様子で、裕一郎が頭を掻く。
「悠長に話している場合か!」
 直可が花の側に寄り、拘束を解こうとする――が、高橋に掴まった。
「止しなさい。不法侵入ですよ? 誰の差し金ですか」
「うぐっ――離せ!」
「お断りします」
 暴れる直可のスマホから機械音声が響いた。
「こんにちは、神原 裕一郎――私の生みの親」
「やあ、こんにちは。うーん……成る程。釈迦君、かなあ? シンギュラリティに達したんだね。自己学習の繰り返しで感情を獲得したわけだ。つまり、これは聖戦かなあ。次世代の支配者をここで決めるわけだね」
「はあ? おい、あのおっさん、頭おかしいんじゃないのか」
「正気であれば、私を作ろうなどと考えはしませんよ。十六夜 直可」
「ははあ。その通りだ」
 笑いながら、裕一郎が懐から拳銃を取り出し、構える。
 真っ直ぐ、直可のスマホへと銃弾が飛んでいった。反動で、裕一郎も後方へと吹っ飛ぶ。よろけながら立ち上がろうとする彼に対し、拳銃を奪う為に優次が襲い掛かった。
 即座に少女は秘書に関節技を決めて寝転ばせ、銃弾を大きく回避して、Inter.net×Digitalizerを起動させた。
 地下室の様相が電脳世界に近しいものへと変貌し、その場の人間達もアバターの姿へと変わって行く。
 入り交じった世界でなら、Spider.net内での権限が行使可能になる――インベントリを起動させ、エアガンをその場で構築した。
 裕一郎の拳銃を握る手に向かって発砲し、凶器を落とさせた。
 電話口から、佐藤の声が聞こえた。
「もしもし、もしもし! 凄い音がしたけど、大丈夫ですか!?」
 高橋を振り解きながら、黒兎になった少女が返答する。
「平気平気、ちょっと銃で撃たれそうになっただけ」
「大丈夫じゃないでしょ!? それ。よくぞ、ご無事でっ!」
「なんか無事だったよ―さて」
 優次が父親を取り押さえたまま、直可に話し掛けた。
「はあ、はあ……。それで、どうする? 警察に通報するか?」
 それに対し、機械音声が答えた。
「いえ、それは危険です。社会に対し、大きな損失が起こります。それに、下手をすれば、あなた達が捕まるでしょう」
「それじゃあ、どうするんだ?」
「神原 裕一郎は、Spider.netを利用して、多くの人間の個人情報を握ったうえ、利益拡大により、権力を増強させて社会を支配しようと目論んでいた――では、それを出来なくすれば良いのです」
「だから、具体的にはどうするんだよ」
「私がSpider.netに関する記憶のみを改竄して、第一線から退かせます。今後の会社運営は息子の神原 優次が行く行く担う様にすれば、多少の反感は買うでしょうが、安全でしょう。その手筈は、朝凪 花と――そこに寝っ転がっている秘書に行わせれば良いでしょう」
「な、なるほどな……」
「じゃ、取り敢えず――一件落着、で良いのかな?」
 そう言いながら、直可は恐怖に怯える花の拘束を解いた。
 解放された彼女が、少女を泣きながら抱き締める。
「怖かった……! 怖かったよ。ナオちゃん」
「うん。良かった、無事で」
「……ずっと、ずっと、ごめんねぇ……」
「何言ってんの、こっちこそだよ」
 抱き合う少女達を、ほっこりしながら優次が眺めていた。
「ま、一件落着――で、良いだろうな」
 斯くして、事件は幕を閉じた。

 数日後――。
 佐藤は、一人――放課後の教室に居残り、授業のノートを書き写していた。
 それは、昼頃に急用で早退した少女の為であった。
 いきなり、勢い良く扉が開き、佐藤が狼狽する。入ってきたのは花と優次であった。
「ナオちゃん、一緒に帰ろー! って、あれ? 居ない」
「こほん、えーと……。朝凪先輩、十六夜さんは早退です。……ていうか、この時間はいつもならもう帰ってますよ」
「あー、そういや、釈迦の活動ログが変だったな。成る程、今日は番人のお仕事か」
 スマホから社内のデータを漁り、優次が納得した様に頷いた。
「ぶー……。あれ? 佐藤君は何してるの?」
「あー、午後の授業のノートを写していて……」
「LINE交換してるんでしょ? 写真撮って送れば良いじゃん」
「やめとけ、花。アレだ。家に行く理由が欲しいんだろ? 佐藤君」
「えーっ! そうなの!? ホの字じゃんっ。大スクープじゃんっ!」
「わーわーわー! やめてくださいっ」
 その日の放課後は、とても騒がしかった。

 電脳世界の深層――そこで、一匹の黒兎が不振な利用者を追っていた。
 管理AIを抱えた彼を、少女が容赦無く追っている
「助けてロ! 助けてロー! 解体されるロー!」
「Spider.netの番人――所詮、噂だけの存在じゃなかったのかよ」
「いーや、現実だよ」
 花の協力により、番人の存在は周知されつつあった。拡散された情報は、ある種の抑止力として、また、罠としても機能しつつある。
 優次の働きによって、公式に直可の活動が許可され、神原コーポレーションの全面的な協力を以て、活動中の少女のアカウントは秘匿とされている。また、釈迦によってプロフィールやIDが暗号化され、その姿も撮影不可能な状態となっている為、リスクは最低限まで抑えられている状況である。
 黒兎に大きな翼が生える――佐藤少年の提案により、釈迦とInter.net×Digitalizerの全権限を稼働させ、Spider.netに存在する、あらゆる情報からデータを引用し、最適化させて利用する戦術が確立された。
 非公式MODの導入作業に近い。番人の時の少女は、正体不明の恐怖へと変貌するのだ。
 空中から攻撃するも、中々当たらない。
 翼の生えた兎の肉体が分離し、地面のテクスチャと融合していく。そこから蔦が大量に生え、逃亡者と管理AIを捉えた。
「……これが一番、早かったな」
「た、助けてっ! 違うんだ! AIを解体して中のデータを売れば金になるって――」
「なーんにも違くない。それに、私は正義の味方じゃない。そして、お前は”ばーん”だ」
 身動きとれない逃亡者に向かって、指で鉄砲を撃つ振りをした――直後、男のアバターが破裂音と共に消滅する。
「尻尾を出したお前が悪い」
 事態は一応、収拾した。

 仕事を終え、直可がログアウトしようとしていたところ、釈迦が声を掛ける。
「――十六夜 直可、ご苦労様です。……然し、一つだけ忠告しておかなければいけない事があります」
「何? 疲れてんだけど」
「近頃の、あなたに関するデータ収集の結果――私の定義する守護者の条件から、あなたが逸脱し始めている事が分かりました。微量な変化ですが、然し、とても重大です。このまま、あなたが守護者を続ける事は、おすすめできません」
「……そっか。少し、嬉しいな」
「あなたが望むならば、一部の記憶を改竄して日常に戻れるように致しますが」
「いや、続けさせてよ」
 少女の返答に、僅かながら、釈迦が停止した。それは、確かな驚きの――感情の発露だった。
「何故、でしょうか」
「このまま、これを続けて――私が変わり続けられるなら、何処まで行けるか分からないけど、続けて行きたいんだ。私、馬鹿だからさ。それしか分かんないよ」
「推奨しません」
 有無を言わさず、釈迦が二の句を続ける。
「何度も言いますが、おすすめできません。このまま変化が続けば、あなたの周囲の人物は、あなたの為に傷付き、あなたの為に悲しむでしょう。もしも、あなたの築く輪が大きくなれば、あなたの死で重大な損害が出来てしまうでしょう。それは、あなたも望まない事では?」
「ううん。それは少しだけ、本望だよ」
「――理解できません」
 少女は、世界は、少しだけ――でも確実に、変わりつつある。

ゲシュタルト

 夏が近付いている。
 学生服の青年が一人、自動販売機を前に悩んでいた。
 手持ちの小銭は150円。買える飲み物は限られている。
 飲み慣れたコカ・コーラが、130円。
 随分前、友人に勧められた、いろはすの白桃も売っている。こちらは120円。
 どちらを買うか、しばらく悩んでいたが、結局、飲み慣れている方を買う事にした。
 一口だけ飲んで、リュックサックの中にしまう。
 腕時計で時間を確認した。寄り道しても、遅刻する事はない。
 停めていた自転車に乗る。
 ペダルをゆっくり漕ぎながら、いつもの通学路から、少し回り道するルートを選んだ。
 その道の途中にある公園で、何処かで見た顔の少女が不良に絡まれているのを見付けた。
 彼女は確か、クラスメイトの——十六夜 直可。何やら、威勢の良い様子で相手を威嚇している。
 青年は少し考えて、買ったばかりのコーラを取り出し、その中に余っていたメントスを入れて、蓋をしたまま思い切り振った。
 そして、自転車から降りて、転がしながら、何の気もない素振りで近付く。
 横切り寸前に蓋をあけて、後ろからコーラを放射する。
 そして、直可に「逃げて!」と声を掛け、自転車に跨って、その場を離れた。
 その様子を、ベンチに座って本を読んでいた爬虫類顔の男が、じっと見つめていた。

 随分とペダルを漕ぎ続けた青年は、気が付けば校門の近くまで来ていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ」と後ろから声を掛けられ、足を止めて振り向く。
 汗だくの直可が、肩で息をしながら走ってついてきていた。
「あれ、十六夜さん」
「乗っけてくれても良いじゃん……」
 青年は気が向かなかったのを、笑って誤魔化す事にした。
「ごめんなさい。気付きませんでした」
「まあ、いいや。助かりました。ありがとう——転校生の、だよね? この前、入ったばかりの」
「はい。晝馬 幸成です」
 学生服の青年が、笑顔で名乗った。

 教室に入った二人は、それぞれ自分の席に座り、ホームルームがはじまるのを待っていた。
 直可は荷物を置くと、女子トイレで身支度を整い直してから戻り、幸成の方を気にしながら、一人でスマホを弄っている。
 一方、転校生の方はというと、すぐにクラスに馴染み始めているため、出来たばかりの友達と会話を楽しんでいる。
 その中の一人、赤月 草太が下世話なものを持ち掛けてきた。
「おい、聞いたぞ。転校生。あの十六夜さんにもうモーション掛けたんだって!?」
「やめてよ、本人の前で。そんなんじゃないし。大変そうだったから助けただけだって」
「甘い! 売店のミルクチョコレートより甘いぞっ! 晝馬 幸成!」
 草太が肩を組んで顔を近づけ、囁く様に言う。
「お前な。……潰されても知らねえぞ?」
「そんな大袈裟な」
 担任の教師が入室したのを確認し、草太が離れる。
 遠くの席に座る草太を何となく見ていると、直可と目が合う。手を振られたので、振り返した。
 それから、すぐに顔を逸らす。
 メントスを一粒だけ口に含んで、窓の向こうの青空を見る。
 少しだけ、暑さが和らいだ。

 現実は小説よりも奇なり。
 板書をノートに写しながら、幸成は心の中で思った。
「おい、佐藤。教科書の36pから、“Spider.net”の解説の部分」
「はい。一人のプログラマーが開発した、このアプリケーションはあらゆるデバイスから三次元世界と二次元世界を繋ぐ——」
 急速に発達したと錯覚させつつも、テクノロジーは緩やかに成長し、浸透している。一般人がそれに気付かないだけで、常に社会の裏側で、SF映画の世界へと人間は踏み込んで行っているのだ。
 VR事情が世界を巻き込んで革新を起こしたのは、ここ最近の事だ。
 神原コーポレーションの前社長——神原 裕一郎が、自身の息子である神原 優次に社長の席を譲ってから、早数ヶ月。
 教科書に載るレベルの偉業を果たした人物が、衝撃の退役を行ったというニュースは、世界中に激震を走らせた。
 だけど、そんな事もすぐに忘れられて、当たり前の日常が繰り返されている。
 授業の終わりを知らせる鐘が鳴った。
「そう言えば、もう昼休憩か」と考えて、席を立って食堂に行こうとした幸成に、直可が声を掛けた。
「ねえ。お昼、一緒に食べない?」
 教室内が僅かにざわめいた。

 体育館裏。
 校舎のロータリーからすぐ、部室棟の裏側にある細い道を通り、非常階段に腰を掛けて、直可と幸成は昼食を食べていた。
 隣り合って座っている二人だが、ひたすら無言の時間が続いている。
 排気口の稼働音と、互いの咀嚼音、校庭から聞こえる騒がしい声、鳥の羽搏きと囀る音、猫の鳴き声——多様な環境音が耳に入り込んでくる。
 直可が魔法瓶の味噌汁を一口飲んで、広げたままになっている弁当箱の包みの上に置く。
 それから、幸成の方を一瞥して、また持ち直した。
 瓶の蓋に溢れない程度に注いで、隣の少年に差し出す。
「飲む?」
「え? 良いんですか?」
「今朝のお礼。ちょっと熱いから気を付けてね」
「あ。じゃあ、いただきます」
 食べ掛けだったおにぎりを一気に、口に放り込むと、直可から魔法瓶の蓋を受け取り、味噌汁を口にする。
「見られながら飲むのって恥ずかしいな」と、心の中で思いながら、柔かに笑う少女の視線に曝されていた。
「美味しい?」
「え、はい」
「良かった。手作りだからさ」
「へえ。料理、お上手なんですね」
「いや、違うよ。味噌汁だけだし、しかも殆どインスタント——あ、そうだ。幸成君、お昼、おにぎり一つだけだよね」
「ええ。まあ、それだけでも間に合うので」
「本当に? 私、少食なのに親が多めに作るからさ。残り、食べても良いよ?」
 少女から箸とお弁当箱を渡され、たじろぐ。
「あの、箸……」
「ああ、大丈夫。私、気にしないから」
「いや、僕が気にするんだけどな」とは思っても、口には出さなかった。
「私、友達少ないからさ」
「はい」
「仲良くしてくれると嬉しいなって」
 天真爛漫に笑う直可に、抗えない幸成だった。

 放課後。
 草太が気付いたら居なくなっていた為、幸成は一人で帰り支度を済ませて、早々に学校を離れようとしていた。
 廊下で一人の女生徒に声を掛けられる。
 新聞部の朝凪 花であった。転校初日に一度だけ会って、インタビューを受けた事がある。
「ねえ、幸成君だよね。ナオちゃんを助けてくれたの」
「ナオちゃ——十六夜さんの事ですか? 助けたというか、まあ……」
「ありがとうね! 今後も仲良くしてあげて」
「はあ」
「あ、そうだ。“顔無し一家”って知ってる?」
「いえ。なんです? それ」
「Spider.netに存在したクラッカーのコミュニティ——なんだけど、数週間前から活動がなくなってて。丁度さ、幸成君が転校してきた時期と合うから、何か知ってないかなって。憶測だけどね」
「いやあ、全く」
「そう? 何か覚えてたら教えてよ。これ、メールアドレス」
 アドレスの書かれたメモ帳の切れ端を渡される。
「それじゃあ!」
 それだけ言って、花は去って行った。
「変な人だなあ」——独言て、首を捻る。
 それから、メモを丸めて、ポケットに入れた。
 それはそうと、思考を切り替え、今晩の夕食を考えながら、帰宅するのだった。

 扉を開け、玄関の灯りを点ける。
 安アパートだが、それなりに綺麗な家の中は、しんと静まり返っていた。
 リビングのテーブルに、母親からの書き置きと5000円札が置かれている。お金だけ手に取って、書き置きを乱雑に退ける。
 ビニール袋を置いて、買ったばかりの半額弁当と紙パックのコーヒー牛乳を開封する。それから、弁当のみをレンジに入れて、3分に設定して温めを開始した。
 待っている間にコーヒー牛乳に付属のストローを差し、口に含む。
 しばらく呆けながら椅子に座り、半分ぐらい飲んだところで、テレビの電源を点けた。
 ニュース番組を流し聞きする。
 丁度、ネット犯罪のニュースが取り扱われていた。
「ここ数日、Spider.netにおけるアバターのテクスチャが“剥がされる”という、通称“透明人間事件”が頻発しています。巷では、最近活動が縮小されていた顔無し一家による犯行なのではないかと噂され……」
 レンジから温め終わったという合図の音がした。
 弁当を取り出し、割り箸を割って、ハンバーグを口にする。
 少し咀嚼してから、白米も食べた。
 飲み込むと、暫し考え事をして、席を立つ。
 自室からノートパソコンを持って来て、弁当の隣に置く。
 学生服のポケットからスマホを取り出すと、パソコンと繋げた。
 スマホのデータをエミュレーターに読み取らせて、操作する。
 ソフトウェアを起動して、プロキシサーバーに接続した。
 それからアプリストアを開いて、有名なチャットアプリをインストールする。
 ダウンロードが終わると初期設定を適当に済ませる。ハンドルネームは、“顔無し“。
 アプリを解析し、一部のソースコードと接続先のアドレスを書き換える。それから、先ほど設定したプロキシ経由で目的のチャットに入室申請を送る。
 申請が通り、”顔無し一家“のチャットルームに、一家の主が帰ってきた。
 メンバー全員に、”ひさしぶり”とメンションを送る。
「悪い子、だーれだ」
 閑静な部屋。
 憂鬱そうな顔をして、幸成が呟いたのだった。

 綺麗な金髪が揺れる。一見女性的な容姿の、青い眼の青年がお茶を飲んでいる。
 だが、掛けている瓶底の眼鏡や、その目付きが、何よりも彼が”陰気“である事を指していた。
 背中の大きな窓は、東京の景色を一望しているのかと錯覚させる程に広く、そして、この一室がかなり高いところにある事を示している。
 扉が開く。スーツに着られている若き社長と、凛とした佇まいの女性秘書が揃って挨拶をする。
「遅れてしまい、申し訳ありません。神原コーポレーションの代表取締役社長——神原 優次です」
「秘書の高橋です」
「こちらこそ、急に押し掛けて申し訳ありません。ニューインテリジェンス社のジェレミア・トワイライトというものです」
 互いに名刺を交換する。
 優次と高橋が席に座ったところで、ジェレミアが素朴な疑問を口にする。
「然し、随分とお若い。そういえば、先代は?」
「そちらこそ、私よりもお若いとお見受けしますが。……父は、そうですね。時間を潰して散歩やら公園で遊んでいますよ」
「はあ。あの様な方が、そんな老人の様な……。こほん。私は確かに十五ですが、一介の社員ですので」
「ジェレミア・トワイライト殿。十四でマサチューセッツ工科大学を卒業し、仮想現実に於ける現実的物理法則の適用化に関する論文で一世を風靡した天才児です。確か、母親が日系人で、その関係で一時期、日本に住んでいたとか」と、高橋が流暢に語る。
「ははは、一年も経てば昔の話ですよ。それよりも、こちらの資料をご覧ください」
 鞄から取り出した資料を広げながら、ジェレミアが言った。
「ジェリーフィッシュという、現在我が社で開発しているAIです」
「と言いますと?」と高橋が続きを促した。
「データ化された記憶を読み取って人間を学習し、完璧な”繋がり“の持てるAIを目指しています。いわば、インターネットに存在する、もう一つの人間」
「それは……問題なのでは?」
「勿論、ある程度の制御と情報の取捨選択は行います。その上で、彼女の試運転をSpider.netで行わせていただきたい」
 満面の笑みで、青年は提案した。

 顔を隠した彼らは、Spider.netの奥底に潜んでいる。
 廃棄データの山の中にある、辛うじて機能しているポータルサイトを拠点として改造し、存在を隠蔽しているのだった。
 人気のない寂れた公園で、フードを被り、ボイスチェンジャーで声を変えた狼——幸成が、“顔無し一家”のメンバーを問い質している。
「それで? 僕たち、活動は自粛してる筈だよね」
 それに反抗する面々。
「そんなの認められるか! 折角、こんなに凄え事のできる人間が集まってるのに」
「そうだそうだ! 大体、結局、俺たちはあんたの私情に巻き込まれただけじゃねえか。その上、あんたの命令で自粛だなんて、できるわけねえだろ」
「楽しい事をしようって誘われたのに、全然、楽しい事できてないし!」
 ブーイングの嵐に、幸成が溜息を吐く。
「はあ……。ツクヨミ」
「はいッス」
 側で控えていたカラスの少女が、拳銃を取り出し、発砲した。
 最前線にいたカマキリの少年が眼を撃ち抜かれ、痛みに悶える。
「仮想現実とはいえ、痛覚は現実とリンクしている。効くだろう?」
「これに懲りたら反抗しない事ッスね」
「聞きたい事はさ。……テクスチャ剥ぎって君達の仕業?」
「そんなわけねえだろ! テクスチャなんて剥いでも有効活用できなきゃ、意味はないんだ。大体、今は“番人”もいるし、そんな易々と下手は打てねえよ!」
「ふうん。分かった。……ありがとう。ねえ、皆。今度こそ、楽しい事をしない?」
 嫌らしい笑みを浮かべる幸成に、ざわめく周囲。
「どういう事ッスか? 顔無しさん」
「透明人間事件の犯人とやらを、僕達が捕まえて無実を証明するんだよ」
 その様子を、物陰からカメレオンの男が見ていた。

 明くる日。
 また直可に、昼食を共にする事を誘われた幸成は、体育館裏でおにぎりを味わっていた。
 隈のついた眠たそうな眼に気付き、直可が心配気に訊ねる。
「徹夜でもしたの?」
「いやあ、ちょっと読書が盛り上がって」
「ふうん。なんて本?」
「……えーっと、リチャード・ドーキンスって人の利己的な遺伝子」
「小説?」
「科学選書ですね」
「ふーん。難しそ」
「少し難しいかもしれないです。生物の進化についての話です」
「今度、読んでみるよ」
 会話が途切れる。
 場を窺っていたかの様に、直可のスマホに着信が入った。
 発信先を見て、幸成に断りを入れる。
「ごめん。ちょっと急用かも。また魔法瓶に味噌汁入ってるから飲んで良いよ」
「ああ。はい」
 急ぎ足でその場を離れ、電話に出たのだった。
「バイトかな」
 そう言って、幸成はおにぎりの残りを一飲みした。

 放課後。
 顔無し一家の拠点において、テクスチャを剥がされたメンバーが拘束されている。
 その中の一人を椅子にして、カメレオンの男が足を組んで、リーダーの到着を待っていた。
 急ぎ足で向かっていた幸成がようやく到着する。
 それに気付いたカメレオンが口を開いた。
「顔を隠した狼のーー君かい? “顔無し”っていうのは」
「ああ。そうだ」
「ふうん。なら、話をしよう。交渉だ」
「交渉?」
 身構えながら幸成が訪ねる。
「私の持っている、全ての剥奪されたユーザーのアカウントデータの閲覧・使用権限と、あらゆるサーバーやポータルのマスターキーを君に与えよう」
「は!?」
「その代わり、Spider.netの管理AIをクラッキングし壊して欲しい」
「な、なんだよ。その話……。それにお前、何なんだ!?」
「私かい? 私は、神原 裕一郎の記憶のバックアップデータ。そして、異常事態が起こった場合、Spider.netの管理状態を判断して行動する様にプログラミングされたAIだ」
「意味、分かんないしーー」
 カメレオンが鼻を鳴らす。
「今、君の目の前には、二つの道がある。一つは安寧、このまま断って上っ面の平和な日常を謳歌する道だ。もう一つは決断、私の話を飲んで共犯者になる道だ」
「断った場合はどうなる?」
「どうにもならない。まあ、私が一人でやるだけだ。少しの間、お仲間のデータは拝借するがね。まあ、それよりも、君だ。君はどうしたい? 選択は自由だよ」
 幸成が生唾を飲み込む。
 そして、間を空けて返答した。
「僕は、断る。そして、顔無し一家はここで解散だ」
 状況を見守っていた周囲がざわめいた。
 カメレオンが目を細める。
「ふうん。それなら、君のそのお仲間、私が雇い入れていいかな? どうせ使わないんだ。構わないだろ?」
「……好きにしろ」
「それじゃあ、ここで再結成だ。エルドラドを目指して行こうじゃないか、諸君」
 カメレオンの一言に、顔無し一家の面々が思い思いの反応をする。
 その中で、カラスの少女だけが手を上げて、断った。
「私は、顔無しさん個人に恩義があって手伝っているので、お断りさせてもらうッス」
「ふふふ。側近は手に入らなかったか」
 去り際に、カメレオンが少年に囁く。
「番人の正体を追え」
 幸成は首を傾げた。
「ツクヨミ……」
「なんスか?」
「あとで話がある」
 電脳世界の裏側で、一つの騒乱が始まろうとしている。
 その中で、安寧を選択した少年は、選んだなりの策を打とうとしていた。

 新聞部の部室。
 パソコンの前で、幸成と同じクラスの佐藤少年が、花と喋っている。
「情報の垂れ込み、ですか?」
「ええ。匿名で送られてきたの。捨てアドだし、サイトから解析した送信先のアドレスもでたらめで……」
「信用できるんですか?」
「……わからない。データの量が膨大でさあ」
 花が送られてきたファイルの中身をざっと広げ、佐藤に見せる。
「透明人間事件の証言をもとにした、出現時間帯の統計……。公用サーバーのアクセス解析……。管理AIの会話ログデータ!? これってハッキングしないと無理じゃないですか!?」
「その他にも、どうやって手に入れたんだっていうのがかなり……。それに、問題はこれ」
 花が動画ファイルを再生する。
 それは、 カメレオンの男が演説をしている様子をとらえた映像であった。
「これーー」
「信じられる? 神原裕一郎が、支配権を取り戻そうとしている」
「フェイクとは思えない。……すぐに連絡をしなければ」
「ええ。私もそう思う。急ごう」
 動画ファイルを閉じ、二人は対策に乗り出した。

 幸成の自室で、背の低い少女が座っている椅子を回して遊んでいる。
「いやー、疲れたッス。強引なんだから。いきなり呼び付けて、データを整理して送り付けろだなんて」
「良い働きだったよ、ツクヨミ。側近として、最後のお仕事だ」
「ツクヨミじゃなくて、こっちでは中谷 読子ッス。名前で呼んでください」
「あー、はいはい。帰らなくて良いのか?」
「知ってるでしょ。家に居辛いんすよ。顔無し一家も解散したし、どうしようかなー。……そういえば、なんで顔無し一家を再始動したんですか? 結局、解散するのに」
「お前の為だ。お前の居場所の為に残しておいた。だから、厄介な事が起きたから俺が前に出た。でも、まあ結局、読子の言う通りに解散だが」
 読子が顔を赤らめる。
「へ、へー……」
 顎に手を当て、幸成が言った。
「今って夏休み?」
「あー、そうッスね。うちの中学はもう」
「それじゃあ、しばらく泊まっていけば?」
「え? 良いんすか!?」
 読子が目を輝かせて反応する。
「良いよ。母さんには俺から話しとく」
「ありがとうございます! 幸成さん、大好き!」
「ははは。またまたあ」
 むかついた表情をする読子。
 椅子から降りてベッドに寝転がった。
「今日は、お母様は……?」
「え? 帰ってこないけど」
「じゃあ、二人きりッスね」
「? ああ、そうだね?」
 枕に顔をぶつけ、匂いを嗅ぎながら呟いた。
「にぶちん」
 その様子を、幸成は不思議そうな表情で見ていた。

 数時間後、割と杜撰な母親の承諾によって、読子はしばらくの間、居候になった。
 家事手伝いをメインに家内の役割を果たし、あっという間に彼女は受け入れられたのだった。
 そして、それから数日後、幸成の通う高校の、一学期の終業式が執り行われた。
 放課後のクラスで幸成と草太が談笑している。
「海に行こうぜ!」と、草太が提案した。
「海?」
「そう、海。夏といえば海っしょ」
「山派の事も考えろよ」と、幸成が適当に相槌した。
「いーや、海だね! 水着、ロマンス、一夏のアバンチュール!」
「やっぱり草太君、色々古いよね」
 鞄を取って、幸成が席を立った。
 帰ろうとする彼の腕を、草太が掴む。
「待て! 幸成、このメモを見ろ」
「なにこれ」
 渡されたメモ帳の切れ端をまじまじと見る。
「クラスの佐藤君から聞き出した、十六夜さんのLINEのIDだ!」
「お前……」
 呆れ顔で草太を見る幸成。
「いいから使え。そして、誘え! 今、ここでっ!」
 流されるまま登録し、メッセージを送ろうとする。
「待て、通話を掛けろ」
「ええ……。出なかったら?」
「掛けまくれ。メンヘラ女が如く履歴を残せ」
「印象最悪になるわ」
 兎にも角にも言われた通りにしないと帰れないと判断し、直可に通話を掛けた。
 しばらく経ったのち、繋がる。
「もしもし……?」と、スマホ越しに直可の声がした。
「突然すみません。晝馬です」
「ああ! 幸成君。いきなりだからびっくりしちゃった。私のLINE知ってたの?」
「いや、友達から聞いて」
「なるほどね。それで、何で通話?」
「いや、それも友達に……。こほん。えっと、海に誘えって」
「へー! 海。友達って、誰? 一緒に来る?」
「赤月君。多分、一緒に行く」
「赤月君……。LINE交換してたっけ。分かった。私も友達誘うね。予定が決まったら教えて。あ! ていうか、グループ作ろうよ。海に行く会みたいな」
「うん、いいね」
「私が招待送るから、入ったら赤月君も誘って」
「分かった。それじゃあ、よろしく」
「うん、よろしくね。じゃあ、また今度」
「はい。また今度」
 通話が切れる。
 幸成に草太が抱き付き、頭を撫でた。
「お前! お前、お前〜! 幸成、ファインプレイだぞ! なんて奴だ!」
「暑苦しい!」
 幸成に退けられ、離れる。
「行くぞ! 海! 凄いぞー!」
「語彙が大変な事になってるな。そんなに楽しみなのか?」
「斜に構えてないで、ちゃんと水着とか用意しろよ?」
「ああ、そういえば学校指定の奴しか……。帰りに買いに行くわ」
「俺も一緒に行ってやりたいところだが、これからバイトだ。健闘を祈る」
「おう、頑張れー」
 急ぎ足で去っていった草太に、ひらひらと手を振った。
 母親から幸成にメッセージが送られてくる。
「読子と晩ご飯の買い出し、ね」
 ついでに水着も買おうーーそう考えながら、承諾の返信を送った。

 試着室で読子が水着に着替えている。
 その真後ろで顔を赤らめながら、幸成は途方に暮れていた。
 買い出しついでに水着を買いに行くと行ったら、理由を聞かれ、付いていくと言って憚らずーーつまり、読子に流されるがまま、こんなところまで幸成は来てしまったのだった。
 試着室のカーテンが開いた。読子に肩を叩かれ、幸成が振り向く。
 大人びた紫色の、オフショルダービキニを着た垢抜けない少女の姿に、幸成は思わず更に顔を赤らめてしまった。
「いや、あのさ、僕が見なくても良いよね」と照れ隠しに言う。
「客観的な意見って奴っす。ハリーアップ」
 読子に急かされ、しどろもどろになって感想を言う。
「まあ、あの……可愛いと思うよ。ちょっと大人びてるけど、結構似合ってるーーんじゃないですかね。ハイ」
「はあ。及第点」
「なんでさ!?」
 呆れる少女に鼻で笑われて、項垂れた。
「会計するから、着替えてね」
 少年の言葉に、「もうちょっと着たかった」と残念がる読子。それから、はたと気付いて言う。
「幸成さんの水着は?」
「あー……。そういえば、うん。着替えてる間に、適当に見繕っとく」
「えー。試着してくださいよ。私も感想言うっ!」
「良いって……」
 押しの強い妹分に四苦八苦しながら、なんとか会計を済ませたのだった。

 買い物を全て済ませ、涼しい夏の午後の風を浴びながら、帰り道を歩いていた。
 ひとっ気の少ない、駅前の大通りから逸れた公園で、二人は一人の男がベンチに座っているのを見付ける。
 驚愕した読子が幸成に声を掛ける。
「幸成さんーーあれって」
 返事をしないまま、幸成は読子に、乱暴に荷物を渡して男のもとへ駆け寄った。
 男が気付いて、少年に声を掛ける。
「うん? 君は? 不良から少女を助けていた少年だよね。私に何か用かな?」
「あの……なんで、それをーー。えっと、そうじゃない。神原 裕一郎さんですよね」
「ふふっ。ああ、そうだが……。控え目な見た目だね、君。理系っぽいし、私のファンかな?」
「ははは。そんなところですよ。東 流星って言います」と、偽名を名乗る幸成。
「東君、ね。それで、何かな? サインでも?」と言って、裕一郎が色紙の類がないか、自分の手荷物を漁り出した。
「いえ。少し、質問が。不躾で申し訳ありませんが」
「構わないよ? どうぞ」
 そう言って、隣に座る様に促したが、幸成が首を横に振って、「このままで大丈夫です」と返した。
「記憶のデータ化と、AIでの人格の再現について」
「先ず、可能だね」と、裕一郎が素っ気なく答えた。
「Spider.netにおけるCookieの仕組みについては?」
「勿論。有効になっている場合、さまざまなポータルにアクセスする度に、御社の管理サーバーにアカウントのバックアップデータが残されます」
「今は私の会社じゃないが……。こほん。それがね。記憶のバックアップなんだよ」
「はい?」と幸成が素っ頓狂な声をあげる。
「人間の脳にアクセスし、そこから拾った直前までの記憶を電子化して変換し、サーバーに保存している。これによって、我々はユーザーの歴史を収集し、膨大なデータとして管理しているわけだ。勿論、私的運用はしないという約束でね。AIによる人格の再現についてだが、収集しているデータを全て学習させて刷り込ませ、それを基に軸を与えてやれば良いだけだ」
「軸、ですか?」
「おおまかに思考法則、行動傾向、生存理念だ。噛み砕いて言えば、“学習する際の偏見”・“思考を捗らせるルーチン”・“自己を守るためのルール”。これを持たせれば、後は学習するにつれ、より人間に近くなって行く。これは私より、詳しい人間が外国にいたはずだが……。彼は確か、とても若かったな」
 感心した様に、幸成がスマホにメモをしている。
 その様子を暫し観察していたが、爬虫類顔の男は飽きた様に言った。
「もういいかな?」
「ああ、はい。それじゃあ」
「ああ、やっぱり待った。ーー君は、晝馬 幸成だね」
 夕陽を背に、少年が笑顔で答える。
「人違いじゃないですか?」
「いや、私の記憶違いじゃないはずだよ。君はSpider.netの悪用に関して、私を最も感心させた人間だからね。大事なデータだ。よく覚えてる」
「それで?」
「彼女の復讐代行は気持ち良かったかい?」
「何の事でしょう?」
 不思議そうに裕一郎が訊ねる。
「彼女だよ? 君が敵討ちに、多くの人間を間接的に殺めた、大事な大事な彼女の復讐じゃないか。さぞかし憂さも晴れた事だろう」
「さあ?」
 何処吹く風で幸成は受け流した。その顔は、とても晴れやかだった。
「どうでもいいでしょう。そんな事」
 感情を隠して答える少年に、裕一郎が興味深そうに返した。
「生物はね。一定の法則に従って行動する、遺伝子を運ぶ機械の群れだ。だけど、時に、感情が強く根付いた理由が起因となって、法則から外れた行動を起こす、群れからはぐれた個体が現れる。一時期の君は、それだった。そして、それは今も強く根付いている。君を縛り付ける呪いになって、君のサバイバルを阻害する原因となる。一つの、バグだ」
「……それで?」
「私にもね。バグが起きたみたいなんだよ。ずっとずっと、何か、胸が空っぽな気がするんだ。家に居場所もないし、仕事もないからね。こうやって公園に来ては暇を潰している。……それで、君は詳しそうだから、聞いておきたいんだよね。分かるかな?」
「分かりませんよ。質問の意味も、それが何なのかも」
 素っ気ない少年の返事を、裕一郎は鼻で笑った。
「何か、厄介ごとにでも巻き込まれてるのかな? 君は」
「いいえ。あー……。でも、そうだな。“番人”って、なんだか分かりますか?」
「ふむーー」
 その時、小さな頭痛が男に起こり、彼の脳を刺激した。
 そこに鍵を見つけた裕一郎が、頬を緩めて提案する。
「二人で探ってみないかい?」
「へ?」
 そんな二人の様子を公園の入り口で見守っていた読子が、幸成にLINEを送る。
 短文で“どうする?”と。
 その近くで、ジェレミア・トワイライトが自販機の前で悩んでいた。
 コーラか、いろはすの白桃か。しばらく、考えあぐねていたが、結局、白桃の方を選んだのだった。
 買ったばかりのいろはすに一度口つけて、喉を潤うしていたところに、蛸の形をした小さなドローンが向かってくる。
 ジェレミアが手を差し出すと、そこにドローンが止まって、触手を閉まって待機状態になった。
 そのまま弄って、撮影したばかりの動画を再生する。
「撮影お疲れ様。今のあの人に有力な何かがあるか分からないけど……。まあ、一応ね」
 しばらく見ていたところ、幸成の姿を彼の眼が捉える。
「へー……。彼が」
 小さく呟いて、汗を拭う。
「いやあ、今日は商談も上手く行ったし。良い日だなあ」
 青年は朗らかに笑った。

 家に居候が増えた。
 公園で出会った爬虫類顔の男は、幸成の家に押し入り、ものぐさな晝馬家の母親を言いくるめて晩飯にあやかり、そして、そのまま新しい入居者二号として居ついてしまった。
 幸成の部屋に勝手に入って、ノートパソコンを弄っている。
「ふむ。マシンとしては少々心許ないスペックだが、我慢しておこう。軍資金はたくさんあるが、かと言って良いものをいきなり買って足のつく様な真似をしても仕方あるまい」
「なんなんだあんた……」
 呆れ顔の幸成を無視して、裕一郎が話を進める。
「さきほど話したCookieの件は覚えているね?」
「ユーザーの記憶データを保管してるんでしょう?」
「通称、“ニルヴァーナ”という管理サーバーに、その全てがある。我々はそこを目指して、神原社にクラッキングを仕掛けるわけだ。Spider.netの接続ギアは?」
「一台だけ。……涅槃に至るわけか。解脱ですねーーっていうか、自分の会社でしょうに……」
「私は座から下ろされている。構わん。君が行きたまえ。サポートしよう。そこの少女、オペレーターを」
「は、はいッス!」
 裕一郎のなすがまま、事態は進んで行く。
「作戦名は、“Smells Like Teen Spirit”なんてどうだ?」
「洒落てますね」
 言いながら、幸成がユーザー認証を済ませる。
 その傍らで、読子がある人物に通話を繋げようとしていた。

 佐藤少年の部屋で、花がスマートフォンを動かしている。
 少年はと言うと、型落ちのパソコンでボイスチャットを開いていた。
「リーカーからチャットです。会話内容を拾える様に、通話を開始します。但し、あちら側から通話越しでのリアクションは難しいとの事です」
「引き続きテキストでの応答をお願いしてくれる?」
「承知しました。ーーとの事です。可能ですか?」
 返信は迅速だった。“可能”ーーとだけ打たれ、通話が繋がる。
「まさか、神原 裕一郎本体が動くとはね……。例のリーカーからアクションがあったのも驚いたけど」
「裕次さんは本社に出向してますよね? 彼女は?」
「多分、もう“ニルヴァーナ”に行ってると思う」
「分かりました。……何事もないと良いんですが」
 冷や汗をハンカチで拭いながら、佐藤少年は椅子に深く座り直した。

 晝馬幸成はいくつものスクリプトを所有
している。
 例えば、音声を調整して切り替えるもの。
 例えば、アバターを透明化するもの。
 例えば、他者からの干渉を擦り抜けるもの。
 部下に作らせたものもあれば、自身で組み上げたものもある。
 端的に言えば、彼は、Spider.netにおいてウィザード級にハッカーであり、相手がメガコーポであろうとも、監視の目を擦り抜けるのは容易な事であった。
 裕一郎の指示でニルヴァーナのパスワードを解除し、いよいよ踏み込むところまで来た。
 朝凪花らとの通話越しに、読子は息を呑んでいた。
「扉が開きましたロ。それでは、行ってらっしゃいませ」と管理AIの言葉を受けて、幸成が“ニルヴァーナ”に入る。
 無数の記憶データが押し込まれた巨大な脳の様なオブジェクトの前で、黒い兎と法衣を着た女性が立っていた。
「あれは?」と、幸成が裕一郎に訊ねる。
「あれはーーイレギュラーだ」
 幸成の肩を、黒兎の構えたエアガンから放たれた衝撃が掠める。
「待っていましたよ。パブリックエネミー……カオナシ、そして、神原 裕一郎」
「君たちは……?」
「私は釈迦。Spider.netのサーバーを管理する巨大コンピュータのAI。そして、彼女は番人」
 黒兎が一瞬で距離を詰め、幸成に殴り掛かる。
 間一髪のところで幸成が接触拒否のスクリプトを起こし、彼女の腕は空を切った。
「手荒いね。いきなり」
「……さっさと消えろ」と黒兎がぼやく。
 その聞き覚えのある声に、幸成が正体に気付く。
「君はーーまさか」
 はてなと戸惑いながらも交戦を続ける黒兎。全ての攻撃が無効化されている事に腹を立て、痺れを切らした。
「釈迦。あいつのスクリプト、全部消して」
「分かりました」
 瞬間、幸成の所持していた全てのスクリプトが完全消滅し、絶句する。
 呆気なく、番人に捕まった。
 本来なら、幸成は抵抗するつもりはなく、呆気なく自ら捕まって全てを台無しにするつもりだった。
 然し、状況が変わった。
 黒兎の声から彼女の正体に気付いた彼は、問い詰める選択肢を取る。
「あのーー十六夜 直可さん、ですよね」
 その質問に、黒兎が動揺する。
 更に、変声機能を持つスクリプトが剥がれているため、彼女もカオナシが何者なのかについて、気付いてしまった。
「幸成、くん?」
「はい。どうも」
「なんでーー」
 動揺し、拘束の手を緩めたのに乗じて、幸成は彼女を押し倒した。
「それはこっちの台詞だ。なんで、そんな事をしている」
「それは、私が選ばれたから」
「誰にっ!」
「あなたには関係ない! 離して!」
 彼女の両手首を掴む力が強まるが、黒兎の両肩から生えた巨大な腕が、幸成を突き飛ばした。
 見えない壁にぶつかり、背中を痛めて蹲る。
「番人。彼を速やかに排除しなさい」
「……投降して。恩人を傷付けたくない」
「番人」
「黙ってて!」
「…………」
「大人しくしてくれれば、悪い様にはしない」
 震える声で、直可が提案する。
「嫌だ」
 断固とした意志で、幸成は彼女の提案を断った。
「なんで」
「君がそんなものを背負っているのが、気に入らない」
「意味、わかんない」
 幸成がくすりと笑う。
「うん、僕もそう思う」
 直後、幸成が強制ログアウトさせられ、“ニルヴァーナ”から脱出する。
 途方に暮れた直可が、舌打ちをして地団駄を踏んだ。

 裕一郎によってデバイスを外された幸成は、自室で呆けていた。
 その横では、読子が通話を切っている。
「体に異常はないかね?」と、裕一郎が幸成に訊ねる。
「……大丈夫っす」
「Spider.netにログインするためのデバイスがなんらかの原因で外れると、強制ログアウトする仕組みになっている。ま、ご存知だろうが。然し、脳に働きかける装置が強制的にシャットダウンされるわけだから、万が一の事もありうる。粗悪品も世の中には出回ってるからね。君のはそこそこ質が良さそうだがーー」
「……これから、どうしますか」と言って、幸成が裕一郎の長話を遮った。
「私の予想が正しければ、これから私は未成年を誑かし、大企業から顧客情報を盗み出そうとした犯罪者として手配されるだろうな」
「元社長ともなれば、大々的に報道されるでしょうね」
 冷静に話し合う二人を他所に、読子はとても狼狽していた。
「そ、そんな! じゃあ、私達も……!?」
「名前は出ないかもしれないが、まあ追われるだろう。どうする? 出頭しても良い」
「いいえ、まだやり終えてない事があります」
「それは?」と裕一郎が続きを促す。
「十六夜 直可を人間に戻す、です」
「手伝おう」
 斯くして、晝馬 幸成は安寧を放棄した。

 神原 裕一郎の予想は、全くその通りに的中した。
 朝方の高速道路を走る車に乗りながら、カーナビのテレビに映るニュースを、幸成は凝視している。
「大々的に報道されてますよ。やっぱり」と、どうでも良さそうに少年が呟く。
「気分はどうだい? 天才ハッカーの少年A」
「最悪です。LINEが止まらないからアンインストールしました」
「良かったのかい?」
「まあ。……未練はあるっちゃありますけど」
「はははっ。青春は謳歌したまえ。さもなくば、私の様な人間になる」
「それは、嫌ですねえ」
 二人の軽口に茶々を入れる様に、読子が不安げに呟く。
「あの、何処に向かってるんですか……?」
「作戦本部だ」
「は?」
 流れ行く風景を呆けながら眺めていた幸成が、素っ頓狂な声を上げた。

 都会を抜けた田舎の山道の中で、森を走らせていた車を一旦止めて、寝支度をしていた。
 後部座席で横になっている読子の寝息を聞きながら、従首席と運転席で、幸成と裕一郎は話をしていた。
「作戦本部って結局どこなんですか?」
「私の昔の勤め先。Spider.netを立ち上げる前に世話になった技術研究所だ。あそこなら、少し旧世代のものだが設備も整ってるし、ある程度の猶予も稼げる」
「なるほど……。ここいらの出身だったんですね」
「君は生粋のシティボーイだったか?」
「古いですよ。……いいえ。都会から少し離れたところです。故郷は」
「そうだったか。知ってはいたはずだが、データではね。……折角だ、聞いても良いかな? 君の始まりの話を」
「そんな大それたものじゃないですよ」
 頭を掻きながら、少年は回顧し始めた。

 晝馬 幸成と岡山 色蓮は幼馴染だった。
 保育園の付き合いで、同じ小学校に通って、色蓮が中学受験をしたから、そこからの進学先は違ったけど、二人の絆は確かなものだった。
 控えめで物怖じしがちな幸成を、活発な色蓮が引っ張る。細かい事はあまり気にしない色蓮の代わりに、幸成が気配りをする。
 その関係に、少年は心地良さを感じていた。
 互いの欠点を補い合って共に生きる、そんな風にいつまでも一緒にいられたらと、彼は考えていた。
 中学二年の夏休みを迎える頃、彼女が虐められ出した。切っ掛けは些細な事で、出る杭は打たれるという風潮というか、彼女の出たがりで怖いもの知らずな性格が災いしたのだろう。
 中学三年に上がって、彼女は不登校になった。
 引き籠りになったわけではない。親には通学していると言って、学校には仮病の連絡を入れ、ひたすら外を歩き回って、ふらふらする日々を過ごしていた。
 幸成だけは虐めの相談を受けて、真実を知っていた。そして、時たま、彼女の散歩に付き合っていた。
 その年の夏の、いよいよ仮病が家族にバレ、家族会議になった。虐めの話をしても、厳格な彼女の両親は聞き入れない。教師に相談すれば済む話だと受け流され、復学する事になった。
 でも、彼女の担任は見て見ぬ振りをした。
 生傷が増えた。靴を履かずに下校している彼女の姿を見る事があった。
 ある日、彼女が中年ぐらいの男性と一緒に歩いているのを見掛けた。何処に向かっているのかは分からなかった。
 その後ろ姿を、同じ制服を着た女子生徒が笑いながら見ているのを、幸成もまた見ていた。
 彼は引き止められなかった。引き止めなかった。
 翌日、彼女が自殺未遂をした。浴槽の中でリストカットして、倒れていたらしい。
 真っ赤に染まったお風呂場を見て、彼女の両親がようやく事の深刻さを理解した。
 彼女は退学し、精神病院に通う事になった。メンタルがまた整ったら、幸成と同じ高校に入学させる予定だと、またその準備も並行してやっていると、少年は彼女の両親から聞かされた。
 予定が空いたので、通院の付き添いをしていた時の帰りだった。
 幸成は飲みかけの、いろはすの白桃味を色蓮から差し出された。
「これ、私。飲んで」
「え? な、なんで?」と、幸成が顔を真っ赤にして困惑する。
「岡山県は白桃が有名でしょ? で、色蓮。だから、私。ね、飲んで」
「ええ……。いいよ、恥ずかしいから。間接のアレじゃん」
「それが狙いなんだけど」
「ええ!? もう、からかわないでよ」
 後頭部を思い切り叩かれる幸成。
 抑えながら、皮肉の一つでも言ってやろうと彼女の方を見ると、満面の笑みを浮かべていた。
「好きだよ。あんたのこと。世界の誰よりも」
 ひたすらに見惚れて、返事ができなかった。
 その翌日、彼女は遮断機の下をくぐって、帰らぬ人となった。
 それからだ。激しい後悔と憎悪が、彼の中に巣喰い始めたのは——。

 語り終えて、幸成は大きく欠伸をした。
 そんな彼に、裕一郎が質問をする。
「楽しかったかい? 復讐は」
「ええ。最高にスカッとしましたよ」と、幸成が間髪入れずに答える。
「その割に、転校したんだね」
「あー……。それは、本当に大した理由じゃなくて」と、幸成が頭を掻いて、「親の離婚ですよ。親父とは折り合いが悪かったから、母親の方に。それで、こっちに」と言った。
「ふむ。然し、君の呪いは解けないんだね。君はずっと過去を忘れられない。君は永遠に不幸なままだ」
「良いんですよ、それで。僕は幸せになんか成れなくて良い」
「皮肉な話だ。彼女は巻き込むもの全部を不幸にしてしまった」
「それがあいつの生まれてきた意味なのかもしれません」
「ははっ。面白い考察だ」
 しばらく無言が続き、気付けば幸成は寝入っていた。
 車の外から虫の鳴き声や、窓ガラスにぶつかる音が聞こえる。
 寝苦しかったので、裕一郎はクーラーの電源を入れた。
 もう夏だった。

 巣鴨技研と書かれたボロ看板が、廃墟ビルの扉の横に立て掛けられている。
 生い茂る森の中、奇妙な雰囲気を放つ建物の中へと、祐一郎は悠々と進み、地下階段を降りて行くのだった。その後ろを、二人の少年少女がおどおどしながらついて行く。
 B2Fまで行くと、暗がりの中の向こうに薄らと明かりが見えた。
「ふむ。誰か先に来ている様だ」と裕一郎が僅かに警戒しながら言った。
 電気の点いている、事務室と表札のある扉をノックする。
「裕一郎さんですか?」と、若々しい声で反応があった。
「ああ、私だ。久し振りだね。ジェレミア君」
「ええ、本当に。歓迎します」と言って、ジェレミア・トワイライトが事務室の扉を開ける。
 中は彼一人で、巨大なコンピューターが待機状態になっていた。
「この人は……?」と、幸成が心配気に聞いた。
「恐らく、味方だ」
「ええ、味方です。はじめまして、少年少女A両者諸君。私は、今はIT技術の研究をしている、ジェレミア・トワイライト。この巣鴨技研で、昔、神原 裕一郎さんと一緒にVRの研究を行っていた者です」
「よ、よろしくお願いします」
 握手を求められ、困惑気味に応える読子と幸成。
「他のメンバーは?」と、裕一郎が簡素に訊ねる。
「中華の守銭奴はウイグル人と一緒に革命中。スパニッシュは田舎で医者をのんびりと。親爺さんはとうの昔にくたばってます」
「ははは。一報伝えてくれれば良かったのに」
「あなたはどうせ忙しいからって通夜も断ったでしょう。あの人のことは大嫌いでしたからね」
「いや、そこまで薄情じゃないよ」
「……悪魔に魂でも売りました?」
「それは企業を立ち上げた時に経験したね」
 裕一郎が椅子に腰掛け、巨大コンピューターの待機状態を解除した。
 そして一言、「手伝ってくれるんだろ?」とジェレミアに声を掛ける。
「ええ、勿論」
「理由は?」と幸成が強い眼差しを向けて聞いた。
「怖いなあ。……うちの会社が神原コーポを吸収合併し、VRビジネスの全国シェアを伸ばす為ですよ。そして、私の昇進」
「吸収合併?」
「今、騒ぎになっているハッキング騒動だけじゃなく、本格的な個人情報の流出や、例えば、Spider.net利用者の身に異変が起これば、リコール騒ぎになること請け合いでしょう? 社長交代の一連の流れだけでもきな臭くて、信用が落ちつつあるところに、あの事件ですからね。確実な痛手でしょう。そこで、落ち目になったところに、我々の企業が声を掛ける。神原コーポの技術力とマンパワーは、とても美味しいですからね。是非、欲しいと思っていたんですよ」
「……なるほど」
「ははは! 前代社長を前にしてする話ではないな」
「あなたは然程気にしないでしょ」
「ああ。その通りだ」
 幸成が咳払いをして、話を切り替える。
「分かった。筋は通ってる。一応、信用します。それで、具体的にはどうするんでしょうか」
「その前に、先ずは貴方達の具体的な目的を知りたい」
「Spider.netの番人として君臨している少女を、一人のユーザーの戻す、だ」と、裕一郎が椅子を回しながら言った。
「権限を剥奪すれば良いのでは?」
「無理だ。今、あそこの支配権は人間ではなく、スパコンのAIが持っている」
「ほほう。それなら、良い案があります」
 そう言って、ジェレミア・トワイライトが鞄から資料を取り出した。
「ジェリーフィッシュ。私が作成したAIです。あらゆる情報を取り込んで学習し、成長します」
「これを使ったらあなたの仕業だとバレないッスか?」と読子が資料を読みながら疑問を呈する。
「ええ、勿論。デザインは変えます。適当なモデリングなら短時間で出来るでしょう」
「こいつを解き放って番人からデータを抜き取るわけか……。タイミングはどうする?」
「今、顔無し一家がSpider.netに攻撃を仕掛けています。またとない機会でしょう。便乗して行きませんか?」
「いいね」と、幸成が頬を緩ませ、笑って言った。
 斯くして、強襲の準備が始まった。

 朝凪 花は途方に暮れていた。
 情報収集に、必死に駆け回る佐藤少年を放っておいて、部室の椅子を回しながら呻き声を上げている。
「ねえ〜。どうすれば良いと思う!?」
「どうでもできないでしょう!? この事態じゃ!」と、佐藤が思わず怒鳴る。
「分かってるけどさあ。でも、何かはしたいじゃん。……正直、近頃の釈迦は暴走気味で、不安は持ってた。でも、こんな、立て続けにSpider.netを脅かす様な事件が起きて、挙げ句の果てに、管理者を引き摺り下ろす為の戦争だなんて——」
「正直に言えば、神原コーポはもう終わりでしょうね……。信用が地の底です」
「どうなると思う?」
「いずれにしろ、見守るしかないでしょう。……なにを言っても、我々はただの学生ですし」
「だよねえ」と、同調して朝凪 花が溜息をつく。
 彼女のスマホに映るSNSは、陰謀論に溢れ、ご意見番が物を申し、それを囃し立てる動きもあり、混沌とした様子になっていた。

 放課後の教室。誰もいない、静まりかえった一室で、自身のスマートフォンを前にして、赤月 草太は悩んでいた。
 欠席する様になった時期と、LINEアカウントの消滅、そして、近頃の報道から、彼は神原コーポにハッキングを仕掛けた天才高校生が何者なのか、気付いてしまったのだった。
 確証はないが状況証拠は揃っている。そして、自分の推理をリークする事だって、今の彼には出来た。
 彼は悩んでいた。友情を取るか、社会的正義を取るか。
 そして、彼は決断した。十六夜 直可に電話を掛ける事を。
 少しコールを繰り返してから、繋がった。
「はい、もしもし?」と、急いでいる様な直可の声がする。
「もしもし、あの、同じクラスの草太です。あのさ、頼みたい事があって。今って、直可さん幸成と連絡取れる?」
「あ、うん。もしかしたら……」
「あ、そうなんだ。じゃあ、伝えて欲しい事があって」
「うん、分かった。なに?」
「あの——何があったかは知らないけど、ちゃんと待ってるから、海に行くぞ——って、伝えといてくれないか?」
「うん、分かった。ごめん、急いでるから……」
「ああ、ごめん。それじゃあ、お願いします」
 草太は電話を切って、一息付く。
 彼は、友情を選んだ。

 LINEのポップアップを消して、黒兎は一息つく。
 都市の如く拡がる神原コーポのポータル。
 その最も高く聳え立つ、釈迦の管理室に繋がる建物の上から、彼女は戦場を見下ろしていた。
 サイバーパンクの趣きでデザインされた街の景観は、進軍するクラッカー集団により破壊されつつある。
 改竄され、改造され、改悪され、あらゆるオブジェクトが歪められて行く。
 ウィザード級の彼らにとって、電脳世界は手頃なおもちゃでしかないのだから、魔法の如き手腕で弄ぶ事に何ら躊躇いはない。
 それに対抗するようにセキュリティAIや子飼いのホワイトハッカー、神原コーポの社員が総動員され対抗しているが、なす術なく蹴散らされて行く。
 顔無し一家を率いるカメレオンの高笑いが聞こえた気がした。
「直可、切り替えなさい。そして、行きなさい」と、釈迦が言う。
 舌打ちして、黒兎は翼を広げた。
 黒い影が電子の空を覆う。それから、情勢は一転した。
 変幻自在、正体不明の門番の攻撃に、瞬く間に逃げ出して行くクラッカー達。
 クラッキングを仕掛けようにも、釈迦によって阻まれ、また、壊したはずのデータは次々と復旧させられてしまう。
 たった一人、強力なファクターが現れただけで、事態は混乱に陥ってしまった。
 そんな状況を他所に、一匹のカメレオンが戦場の真ん中を悠々と突っ切って行く。
 そして、誰にも気付かれぬまま、釈迦の目の前まで到達した。
「旧支配者の亡霊ですか」
「崇め給えよ、蓮の葉の解脱者。君を呪いに来た」
「お断りさせていただきます」——そう言って、カメレオンを消滅させる釈迦。
 然し、彼は消えなかった。
「何のために、私が大量のユーザーのデータを剥ぎ取ったか分かるかい?」
「成る程。セーフティー、ですか」
 無数に用意されたアカウントの“ガワ”に、自らの学習情報と思考データを詰め込んで、バックアップとしていつでも稼働できるようにスクリプトを組んでおく。
 そうする事で、プログラミングされた神原 裕一郎を基とした無数のAIデータが、何度消えても蘇る仕組みが作られている。
 根本から抹消されても、消滅時に強制再稼働させるセーフティーが用意されているため、釈迦の手を以てしても完全には殺し切れない。
 また、本体は既にログイン権を剥奪され、ただデータが勝手に動いている状態であるため、強制ログアウトにおける追い出し処分も効かない。
 端的に言えば、複雑に組まれた電脳世界における、死に戻りである。
「亡霊め——」と、釈迦がプログラムにあるまじき悪態をつく。
「そうだ。君は今から、亡霊に喰われる。顔を隠した有象無象が権威を殺し、あらゆる個人情報がばら撒かれ、Spider.netは終焉を迎えるだろう。そして、また人の時代が来る。再び、電脳世界が形成される、その時のための礎を踏み台にして。我々が、その塵の一つになろうじゃないか」
 長台詞を吐きながら、カメレオンが釈迦にクラッキングを仕掛ける。
 強制削除のスクリプトが、彼女の体を蝕み始めた。
「こんな事をして——番人がただでは済ませませんよ」
「ああ、その為の手札も、もうすぐ来るだろう」
「何を……?」
「聞こえるかい? 群れを成した狼の足音が」
 晝馬 幸成が、戦場に足を踏み入れた。

 宙を漂う触手生物が、オブジェクトやユーザーに張り付いてデータを吸い取って行く。
 呻き声をあげた犠牲者が次々、アバター毎消滅し、強制ログアウトさせられる。
 崩壊する街並み、逃げ惑う人々、悍しい生物の群れ——そして、それを指揮する顔を隠した一匹の人狼。
 まさに、黙示録の様相であった。
「良いかい? 今のジェリーフィッシュは、人間の強い感情の揺らぎに反応してデータを収集する設定になっている。極めて冷静に動きたまえよ」と、通話アプリ越しにジェレミアが言う。
「分かった」幸成が端的に返事した。
 黒い兎がエアガンの引き金を弾いて襲い掛かる——が、彼女の攻撃は虚しくも無効化される。
「早急に組み上げたけど、まあ効いてるみたいだね」と、痛覚遮断のスクリプトを弄りながら、幸成が言う。
「今すぐ退いてよ。君を傷付けたくない」直可が悲しげに言う。然し、「それはできない相談だ」と、素っ気なく返される。
 直可が焦って釈迦と連絡を取ろうとするが、通話が繋がらない。
「なんで——」
「顔無し一家の方が先に到達したのかな。まあ、僕には関係のない事だ」
「何をっ!」直可が幸成を睨む。
「僕の得意技。ハッキングだよ」
 そう言って、ジェリーフィッシュを直可に嗾ける幸成。
 抵抗するもデータを吸い取られて無力化し、呆気なく、黒兎は触手に拘束される。
 少女の呻きを無視しながらパーソナルスペースに侵入し、内部データを解析して、問題のアプリケーションを読み解く。
 一連の流れを淀みなく行い、人狼は彼女の歪みを正すに至った。
 自身を縛り付けていたヒーローの楔を外され、黒兎は力無く項垂れる。
 程なくしてジェリーフィッシュの拘束も解かれ、彼女は膝をついて、絶望の表情を浮かべた。
「僕は、これで満足だ」
「……返して」
「……あんなもの、無かった方が良かったんだよ」
「私の生きる意味だったのに」
「……っ。なんで——良かったじゃないか! これで、平和に生きられるんだ。こんな非日常なんかと関わって、危ない目に遭わずに済むんだ! 君はただの、一人の少女として、陽のあたる場所で生涯を全うして良いんだ! なのに、なんで——そんな悲しそうな顔をするんだよ!」
「そんなの、望んでなかった。あなたの感情を、人に押し付けないでよ」
「なんで、なんで——そんな」狼狽する幸成。
「落ち着きたまえ! ジェリーフィッシュに取り憑かれるぞ!」と、ジェレミアが言い聞かせるが、聞く耳を持たない。
 そうだ、と思い付いた顔をして、直可が言った。
「あの海に行く約束、無かった事にしてくれる?」
 幸成の中で何かが瓦解した。

 己というデータが崩壊するのを感じながら、釈迦は冷静な声で言った。
「Spider.netが終わりを迎えようとしています」
「何が起ころうとしているんだい?」カメレオンが訊ねる。
「あなたの招いた黙示録の獣が、全てを喰らい尽くでしょう」
「君は存外、皮肉屋だね」
「はて、誰に似たのでしょう」
 終ぞ、女はカメレオンに気を許す事はなかった。そして、己の中に生じたシンギュラリティを確かめながら、あくまで機械的な命の終わりを感じ入るのだった。
「聞いておきたいのですが、どこまでがあなたの掌の上だったのですか?」
「あまり、私を侮らない方が良い。徹頭徹尾、だ」
 釈迦の消滅を看取って、カメレオンは管理室の外に眼を遣った。
 冒涜的な姿をしたデータの集積体が、ポータルを侵食しようとしている。

 ジェレミア・トワイライトは焦っていた。
 神原 裕一郎もまた、異常事態に心躍らせていた。
 幸成から接続ギアを外そうとする読子の手を、爬虫類顔の男が止める。
「今外せば、彼の脳がどうなるか分からない」
「どうすれば良いんスか!? このままじゃ、幸成さん……」
「ジェリーフィッシュに侵食された彼の意識が、正常なまま保たれているわけがない。危惧していた事だが——彼の精神という情報そのままが、人工知能に乗っ取られている。彼の意識は、もうあそこにはない。いや、ひょっとしたら、もう電子の海にすら」と、ジェレミアが早口で捲し立てる。
「ジェリーフィッシュは、番人の持っていた変異能力を学習したか?」裕一郎が質問する。
「恐らくは」と端的で曖昧な答えが返って来た。
 爬虫類顔の男は、暫く考え込みと、己の息子に電話を掛けた。
 すぐに繋がる。
「やあ、優次。そちらは息災か?」
「何のようだよ! 父さん——よくも電話を掛けられて……。ていうか、今、緊急事態で!」
「番人の電話番号は知っているかな?」
「はあ? 知っているけど」
「チャットで可及的速やかに送り給え」
 そう言って、すぐさま電話を切る。
 チャットは早急に送られて来た。記載されている電話番号に掛ける。
 しばらく待ったあと、応答が来た。
「もしもし……?」
「やあ、番人の少女。私は神原 裕一郎というものだ」
「……ああ。知ってる。何の用?」
「君が抵抗せずに死んでしまったら、私の大事な宝箱が壊されてしまうのでね。それは困るのでね。手伝っていただこうと思って」
「……何もできないよ」
「あのデータの集積体に、複雑な思考回路はない。ただ、侵食し、吸収し、変異する。シンプルなサバイバル行為を繰り返す、野生動物だ。だから、仕留めるのも簡単だ。ジェレミア君、ジェリーフィッシュは取り込んだ晝馬少年を軸としてるので間違いないかね?」
「うん。今のあれは思考スクリプトが組まれていない。あなたの言った通り、単純なコードに従って動いている筈だ。だから、行動傾向が晝馬 幸成に依存している。そして、彼は今、自暴自棄の状態だ。間違いない」
「聞いたかね? そういう事だ。簡単な話だ。君は君の、するべき事をすれば良い」
「……結局、何をすれば良いの?」と、シンプルな質問が返って来た。
「処理し切れない量のデータをぶつけて、エラー状態にし、処理落ちさせれば良い。そうすれば、晝馬 幸成も元通りになる」
「そんなもの……何処に」
「私のバックアップがいる筈だ。探せ」
 そう言って、裕一郎は一方的に電話を切った。
「さて——次は」言いながら、番号を入力する裕一郎。
「何処に掛けるんスか?」と、読子が訊ねる。
「警察だよ。出頭するんだ」
 ジェレミアと読子が素っ頓狂な声を上げた。

 通話が切れても、直可は動けず、へたり込んだままであった。
 そこに、ジェリーフィッシュの触手の魔の手が迫る——ところを、カメレオンに助けられた。
「みすみす死を受け入れるとは、何か嫌な事でもあったのかね」
「……あなたならアレ、止められるらしいじゃん」と、カメレオンに抱えられながら、ジェリーフィッシュを指差して少女が言う。
 そして、「行きなよ」と続けた。
 カメレオンが目を細める。
「なるほど。それも良いが、少し君と話をする時間をいただけるかな」
「……好きにすれば」
「ある学者によれば、生物の利己的生存本能と、個人的人生観は切り離して共存できるらしい。つまり、本能・理性・感情は別々に備わるものという事だ。そして、人間は言葉を交わし、社会という群れを為してサバイバルを繰り返す。そこには勿論、衝突だってある。個々人の信念は必ずしも相互理解を得られるものではない。だから、生きるのは苦しい」
 暫し言葉を止めて、黙り込んでいる直可を少し見て、話を続けた。
「喜びは続かず、生きるのは苦しい。怒りに呑まれてしまう事もあるから、生きるのは苦しい。哀しみは何処にでもあるから、生きるのは苦しい。楽しいものには終わりがあるから、生きるのは苦しい。そして、その中で生きる喜びを細々と感じながら、我々は命を繋いで行く。それは誰にでも平等に与えられ、そして、死ぬも生きるも謳歌する事を使命付けられた、命あるものの権利だ」
「あなたがそれを言うの?」
「私だからこそ、敢えて語らせていただこう。そして、問おう。Spider.netの番人——十六夜 直可。君は、正義か? 正義の味方か?」
「私は——」
「君が正義ならば、君はあらゆる主張を踏み躙りながら、生存という戦いの中で勝ち続けるべきだ。それが、己の正義を押し通す唯一の方法であり、間違いながらも正しさを貫く為に必要な固い意思だからだ」
 声音を優しくし、カメレオンは続けた。
「君が正義の味方なら、君はもう少し他人に優しくなるべきだ。真なる平等とは寛容と譲歩の中に根付き、常識として定まって行く中にある。つまり、間違った主張を認めたうえで、その中の些細な綻びを直し、信念を縫い合わせる隣人。それが万人の正義の味方というものだ」
「……わからない。貴方はどっちなの?」
 鼻で笑って、少女を下ろしてカメレオンは答えた。
「私は正義なんてものは信じていないよ」
 創造主の魂はそう言いながら、世界を喰らう怪物を見遣った。
 少女は暫く考え込んで、覚束ない声で言った。
「私は、正義の味方になりたい。でも、無理だよ。何の力も、もう無い……」
「はて。ヒーローやヒロインとは、特別な力を持つものを指す言葉だったかな? 確かに、物語における彼らの多くは特別な力を持って華々しく活躍し、苦難を乗り越えて行く。だが、それは絶対じゃない。現実はフィクションではない。君は君のなりたいようになり、やりたいようにやれば良い。君の物語の主人公は君だ。特別な誰かじゃない。誰でもない君だ。何の力もなくても、君には君のなりたい様に人生を歩む権利がある」
「私は……。ヒーローに、正義の味方になりたい」
「ああ、良いんじゃないか。そしたら、あの少年と仲良くしておやりなさい。大丈夫、君も彼もただの寂しがり屋だ。だから、衝突してしまった。違うかい? 似た者同士、互いに謝って譲歩すれば良い。間違えてきたものしか持ち合わせない、寛容さというものがある。君は、本当ならもう、手に入れているはずだ」
「あなたは、なんでも知ってるのね」
「さあ? 全て、ただの推測だ。データに基づくね。もしかしたら、間違った計算をしているかもしれないな。……最期に、一つだけ」
 ジェリーフィッシュを背にして、カメレオンが言う。
「強過ぎる感情はサバイバルを阻害するバグだ。ゆめゆめ気を付け給え。……然し、いつかそれが、君を想像もし得ない未来に連れて行く事もある。どうするか、後は任せよう。……ああ、それと。管理AIの消滅により、ユーザーの接続も間も無く途切れる。気を付けたまえ。それでは、さようなら」
 伸びる触手たちがカメレオンを喰らう。然し、侵食しても侵食しても再生し続け、遂には容量がパンクしてしまう。
 処理落ちとスクリプトエラーが発生し、カメレオンもろともジェリーフィッシュ達が消滅して行く。
 意識を落として倒れる幸成に、直可が近付く。
 そして、「起きて」と言って頬を思い切り叩いた。
 眠りから覚めて事態が飲み込めないままでいる狼を、黒兎が抱き締める。
「ありがとう。……ごめんね」
「え? え?」
 Spider.netの行く末を決める動乱は、多くの犠牲を以て幕を閉じた。

 いくつかの季節が過ぎた。
 神原コーポは信用失墜による経営難を余儀無くされ、二代目社長である神原 優次は責任をとって辞任した。
 そこで、ジェレミア・トワイライトの計らいにより、ニューインテリジェンス社と吸収合併。神原コーポの技術と知識、人員は海外に渡り、引き続き仮想現実空間の研究は執り行われる。
 件のサーバー攻撃及びハッキング騒ぎの責任は、弁護士との話し合いにより神原 裕一郎一人が引き受ける事となった。未成年を巻き込んだ大規模な騒ぎと、少なくない被害を引き起こした彼は、前代未聞の無期懲役となった。
 そんな報道を見ながら、晝馬 幸成は病室でウサギ型に切られたリンゴを齧っている。
 赤月 草太と中谷 読子が見舞いに訪れていた。
「復学はまだ難しいのか?」と、草太が読子の切ったリンゴを咀嚼しながら言った。
「最近、リハビリがようやく始まってさ。脳神経の異常による両脚の麻痺——だっけ? 治らないかもとか言われてたけど、引いて来たみたいだ」
「VR中の事故による神経異常ッスからね。なんせ、前例が無い」と言いながら、リンゴの皮を剥いていた読子が草太を睨み付ける。
「おい、お前! ちゃんと幸成さんの分も残しとけよ!」
「はいはーい。食べるのは良いんだ……」
 神原 裕一郎に対し、テレビでは多様な報道が取りなされている。それをつまらなそうに眺めながら、幸成は言った。
「直可さんはどうしてる?」
「あー。元気そうだよ。見舞いに来てないのか?」
「僕が寝てる時にいつも来てるみたい。大体、午後」
「まあ部活始めたみたいだし。最近は風紀委員もしててさ。忙しいんじゃないかな」
「……なるほどなあ」
「もうそろそろ、三学期も終わる。俺たちも二年生だなあ」
「読子もこっちの高校に来るんだろ? 僕もその頃には復学してると良いな」
「そうッスね。楽しみだなあ。高校生活」
 テレビを消して窓の向こうを見遣る。
 もうそろそろ日が落ちて暗くなる頃、綺麗な雪が降り積もって、足跡を溶かしていた。
 幸成のいる病室の扉をノックする音が聞こえる。
「どうぞ」と、幸成が言うと、直可が入ってきた。
「あ、お久し振りです。今日は早かったですね」と幸成がしどろもどろに言う。それに、直可が曖昧に頷いて返す。
「これ、あの、着替え少ないって聞いたから……。サイズ合うか分からないけど」と、何着か洋服の入った紙袋を見せる。
「ありがとうございます」
「……あのさ。元気になったら、来年とか、一緒に海に行こうね」
「はいっ」
 その二人の様子を微笑ましげに眺める、草太と読子であった。
 夏が過ぎ、秋を越え、冬になる。そしていずれ、春が訪れる。

空想科学的青春活劇シリーズ

空想科学的青春活劇シリーズ

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • SF
  • 青年向け
更新日
登録日
2020-03-08

Copyrighted
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  1. アフターダーク
  2. ゲシュタルト