火花

火花

 傷だらけの少女を抱えた少年が、今にも泣きそうな顔で縋る様に謝罪していた。
「どうか、どうかお許しください。お嬢様――わたしは取り返しの付かないことを!」
「良いの、良いのよ。ねえ、ロミア」
 震える手で少女が少年の頬を撫でる。
 もはや言葉ですらない音を喉から漏らす彼を窘める様に、彼女は二の句を告げた。
「最期に、一つだけ私のお願いを聞いて」
「最期などと、そんな哀しい事を――!」
「黄泉の国で見守ってるから。私が誇れるぐらいの、立派な騎士になって――」
 言い終えて事切れた彼女を抱き抱えながら、願いに呪われた少年は叫びの様な泣き声をあげた。

 嘗て騎士の国と謳われた旧ツェムリンスキー領は、荒廃した城下町だけを遺して寂れてしまった、有名な王国内の廃墟である。
 行き場を失った鼠やら野犬が巣くう彼の地は、過去の栄光と物々しい噂話だけが語り草である。曰く――幽霊が出ると。
 そこを、旅の若い男女三人組が練り歩いていた。
「ゆゆゆゆ――幽霊とかっ! 幽霊とか!」
「どうした」
 恐怖に震える女――バータに、貴族の青年メルンが尋ねる。
「幽霊とか!」
「だから、どうした。本題に入れ」
「出るわけないでしょ!」
「ああ、そうだな」
「冷たくない!?」
 他愛も無い会話を繰り返す二人を他所に、一人だけ先の方を歩いてた、もう一人の青年――ゴーシェが手を振りながら呼び掛ける。
「おーい! 二人とも、あそこあそこ! ほら、見えるだろ!?」
 彼が指差す方には、古びて朽ちた大きな木造建築の――城の様な館があった。
「旧ツェムリンスキー本家――つまり、幽霊屋敷だな」
 悪戯に笑いながら言ったメルンに、後ろからバータが蹴りを入れた。
 その後、何事もなかったかの様に彼女は、駆け寄るゴーシュに訪ねる。
「ねえ、本当にあそこでやるの? コンサート」
「まあ、良いじゃないか。俺達――マルクト楽団の初コンサートだ!」
「良かないでしょっ。あんた、絶対騙されてるわよ」
「えぇ? だって、ここに来る途中――旅の人に頼まれたんだぜ」
 腰を押さえながら起き上がるメルンが、興味深げに話題に入る。
「その旅の人ってのが怪しいんだがな――。宿を探していた俺は兎も角、直前まで一緒に居たバータも知らないんだろ?」
「ていうか、ゴーシェが勝手に迷子になって、そして何か持ってきた話なのよね。”初仕事の話が来たっ!”――って、それも」
「――なんと、除霊のお願いだ」
 誇らしげに胸を張るゴーシェに、バータが呆れた様な目線を送る。
「ほんと、あんたは……」
「何だよ。ほら、行くぞ」
「はいはい――って、本当に行くの?」
「行くさっ! 我らオーケストラの晴れ舞台だ。行かない理由が無い」
「ま、付き合ってやるか。ほら行くぞ、バータ。まあ、多分……大丈夫だろう」
 メルンがバータの背を押して、彼女を急かす。
「分かったわよ! 観念するわよ。……全く、知らないんだからね!?」
「何がさ」
 ――兎にも角にも、三人の小さな楽団は幽霊屋敷へと向かった。

 大荷物を背負った彼らは、巨大な館を訪れた。
 扉を開けた向こう側には、壊れたシャンデリアに照らされる――時が止まったまま朽ちた様な、凍り付いた世界。
 豪勢な装飾は所々が欠けており、少し錆びた騎士の鎧が訪問者を出迎える様に構えていた。
「やけに空気の澄んだ家ね」
「廃墟になってから久しい場所だからな。野鼠どもの住処になっているようだし、所々穴が空いて換気になっているのだろう」
 予想を立てるメルンにバータが質問する。
「ねえ、そういえば、この領って貰い手は出なかったの? それほど土地は広くないみたいだけど」
「幾人も居たが、結局――皆、手放したと聞いている」
「なんで?」
「呪い――だ、そうだ。まあ、愚にも付かん噂話だが……」
「おーい! 二人とも、こっちに寝室あるぞー!」
「……手の早い奴だ。行くぞ、バータ」
「はーい」
 先に進んでいたゴーシェに誘われて、バータとメルンが寝室のある二階へと登っていく。
 その裏で、風に吹かれたのか、開いたままだった館の扉が静かに閉まっていった。

 大きな寝室にそれぞれの荷物を置いたゴーシェとメルンは、それぞれ別行動を始めた。
 ゴーシェは一人で食料庫と浴室の状態を確認しに、メルンとバータは件の噂話に興味を持ち、書斎へと向かった。
 紙の色が褪せた古書を積み上げながら、メルンはバータの協力の下、旧ツェムリンスキー領の情報を集めていた。
 その中で、奥の棚にあった一つの日記に行き着く。
「見ろ、バータ。この日記の――このページ、面白い事が書いてある」
「何よ……」


 3月18日 春

 娘の世話係をクビになった見習い給仕が、風の噂で騎士になったとは聞いていた。
 が、よもや私に刃向かってくるとは思わなんだ。
 どの面を下げて来たのかと怒鳴り散らしてやろうかと思ったが、どこで嗅ぎつけたのか私の汚職をちらつかせては責め立ててくる。
 仕事を辞めさせられた件で逆上しているのだろう。どうやら、意地でも私を領主の座から引き摺り下ろしたいと見える。

 所詮、元給仕の騎士の真似事。大した剣の腕は持っていないだろう。
 我が領でも指折りの、歴戦の騎士との決闘を取り付けた。勝負次第では話を聞いてやるとは言ったが、負けるつもりは毛頭無い。
 公衆の場で恥をかかせてやろう。そして、あわよくば――娘の敵の首、今度は比喩などではなく刎ねてくれる。


「これ、領主の日記?」
 バータがメルンに尋ねる。
 考え込む様な素振りをしながら、メルンは忌憚なく答えた。
「名前は何処にも書いてないが、恐らくは――だが、そうすると、面白い事が見えてくる」
「面白い事?」
「この領に纏わる怪談――黒騎士の伝説が、史実に基づいているという……まあ、予測だ」
 仰々しく言い放ったメルンに対し、首捻ってバータが応えた。
「つまり――どういう事?」
「ああ……。まあ、そうだな。黒騎士の伝説っていうのは、貴族の間ではちょっとした寓話として有名なんだ」
「へえ。怪談なのに?」
「そういう事もある――というか、あえて怖がらせる事で苦手意識を持たせ、反面教師にさせる。なんていう手法だろう。色んな地域の童話や民間伝承なんていうのは、そういう作りのものが多い」
「成る程」
「で、本題――この黒騎士の伝説っていうのは、岩盤事故で領主の娘を守れず、クビになった元給仕の少年が主人公だ。それで、彼は死に際の娘との約束を懸命に守り、努力して騎士になる」
「ふうん。そこまではよくある騎士道物語みたいな感じね」
「そうだな。……それで、青年となった彼は、ある任務で森を捜査した際に、妖精に出会うんだ」
「ファンシーね」
「妖精は彼に、こう語り掛ける。”力が欲しいかい? 古い古い約束を守り続ける為の力が。君が望むなら、オイラは君に力を授けよう。だけど、その代償は覚悟し給え”――と」
「それで、彼はどうしたの?」
「力を願った。そして彼は、あらゆる真実を暴く妖精の眼を授かり、その力を試すために、因縁の地へと向かった」
「この日記――」
 メルンが溜息を漏らす。
「まさか、いやまさか――。冗談のつもりだったんだが、こんなものが見つかるとはな」
「ねえ、何処が何処まで本当だと思う?」
「こんなの全部正しかったら、俺達はとんでもない世界に住んでる事になってしまうだろ。当然、寓話にするために付けられた尾ひれだってあるだろうさ」
 メルンは日記を閉じて、棚の奥へと戻した。
 その後、書斎を出ようとする彼にバータが話を振る。
「ねえ、続き――読まないの?」
「……その後、どうなったと思う? ヒントは今、この領で見られる惨状だ」
「領主の騎士は負けた。……不正は暴かれ、黒騎士の首は繋がった」
「だろうな。読むまでも無い」
「じゃあさ、何でこの領は呪われた土地みたいな扱いを受けているんだ?」
 いつの間にか書斎にいたゴーシェが、突然メルンに話題を振った。
 驚いたバータが怒りを露わにする。
「ちょっ――音消して入って来ないでよ!」
「食料庫は駄目だった。浴室は……水はあったけど汚れてて使い物にならない。野営するしかないかもな――でさ、メルン。何で、呪われた土地なんだ?」
「……決闘に勝利した黒騎士は、その後もツェムリンスキー領に住み着き、数多の不正や汚職を暴き続けた。何十年も、何百年も――妖精から力を授かった彼は、既に人間を逸脱した怪物になっていたんだ」
 バータが喉を鳴らして、生唾を飲み込む。
「”決して手を汚す事なかれ、正義の執行者は罪人を断罪する”――そういう、寓話だ」
「それが本当なら――」
「俺達なら、事実確認できるかもしれないな?」
 皮肉る様にメルンが言った。

 寝室に一旦置いていた荷物を再び持って、三人は館を出て野営する事にした。
 バータが先導を切ってドアノブに手を掛けたが、何度開けようとしても出入り口の扉はうんともすんとも言わない。
 痺れを切らしたメルンが代わりに開けようとするも、やはりびくともしないのだった。
 入った時とは打って変わって、妙な強固さを見せる扉に対して、バータが不安げに意見を漏らす。
「も、もしかして閉じ込められたんじゃ……」
「壊れたんじゃ無いのか?」
 苛立ちながらメルンが返した。
「で、でも――」
「窓から出れば良いんじゃないの?」
 名案だ、とばかりにゴーシェが言う。
 埒が明かないので、二人は従う事にした。

 それなりに壊れている一階の窓を見付けた三人は、椅子で内側から硝子を割って、順番に出る事にした。
 先に荷物を全て外に出してから、見張りとしてメルンが真っ先に出る。
 続いて身長の一番低いメルンを二人で支えながら出してやり、最後にゴーシェが館を脱出する筈だった。
 ゴーシェが窓を超えようとしたその時、鎧の騎士が闊歩する音が聞こえた。
 段々と近付いてくる、それを感じて、バータが恐怖に身を捩る。
「こ、これ……まさか」
「おい、ゴーシェ! 速くしろ!」
 間近まで音が迫った時、ゴーシェは――脱出せずに、音のする方向に飛び掛かった。
 冷たい鉄の感触を覚えた彼は、外にいる二人に向かって大声で呼び掛ける。
「館の近くから離れるな! 警戒は怠るな! 必ず生きて再会しよう!」
 確かに頷いたメルンが、バータの手を取って駆け出して行った。
 飛び掛かられ、僅かに身を逸らしていた黒騎士が大剣を振るう。
 間一髪で避けたゴーシェは、そのままの勢いで館内を走り出した。

 端の窓辺から食堂まで来たゴーシェは、ゆっくりと迫ってくる黒騎士に対し、テーブルクロスを思い切り引っ張って、何年も放置された食器群をぶつけて妨害する。
 だが、敢え無く降り懸かるフォークやら皿やらは突破され、甲高い破損音だけを残して散っていった。
 少し振り向いて様子を見ようとした彼は、難無く対処されたのを確認し苦笑いを浮かべ、食堂から廊下へと瞬く間に通り過ぎて行く。

 階段を駆け上ったゴーシェは、両脇で出迎えてる装飾用の鎧の片方を落とし、上ってくる騎士にぶつけた。
 今度は、騎士が僅かにたじろいで動きを止める。その隙を突いて、青年は二階の寝室へと向かった。
 寝室内の、壊れかけの衣装ダンスの中に隠れたゴーシェは過呼吸になりながら、追ってきた騎士が通り過ぎるのを待っていた。
 古びた時計の針がゆっくり回る音と、静かに息を吸う音と、破裂しそうな心臓が脈打つ音と、鎧の軋む足音が忙しなく鳴っている。
 ふと、少女の透き通った声を、ゴーシェの鼓膜だけが捉えた。
「あら、お兄さん。お久し振りね。あ、声は出さないで。息を潜めて。そう、しーっ」
 いつの間にか、ゴーシェと同じく衣装ダンスの中に、彼と半分ぐらいの背の、ピントのぼやけた様な色合いの少女が入り込んでいた。
 驚いた事に、彼女は彼を見知っており、彼もまた彼女を見知っているのだった。
 そう、彼女は街で青年に、この幽霊屋敷でコンサートをする様に依頼した張本人なのだ。
 意味不明な状況に対し、愕然とした表情を浮かばせながら、少女を凝視する。
「あ! 安心して。ロミア――彼、黒騎士のことね? ロミアは私の存在に気付けないから」
 言葉を発せないゴーシェは、静かに頷いて応えた。
「それで、ねぇ。ロミアはね、悪い人しか裁かないの――彼は、見える人だから。そして、私は罪を認識してる人の前にしか現れないの。そう定義された、そういう存在なの」
 ゴーシェの顔から表情が抜け落ちる。
「さっき逃げていった二人をロミアは追わなかった。そうよね? ねぇ、お兄さん――あなたは、どんな悪い人?」
 少女の首に向かって伸びた己の両手を、青年はすんでのところで制止した。
 動悸が速まる。
「偉いわね。珍しいのよ? 止まれる人。久し振りに見たかも」
 騎士が寝室から去って行く音がした。
「ねぇ、お願いがあるの――お兄さん。前にも言ったわよね。彼の為に鎮魂歌を奏でてくれないかしら。そうしたら、私達は漸く眠れる」
 懇願する様に、少女がゴーシェを仰ぎ見る。
「声を発して、言葉を作って、そうやって答えて欲しいわ――約束を違えない様に。大丈夫よ、どんな返事でもあなたは私が逃がす」
 僅かばかり少女を見詰めてから、青年は思いの行く末を探るように、過去を想起し始めた。

 貧民街に生まれたゴーシェ少年は、父親が母親を虐げる音を聞いて育った。
 一種の偏愛であるそれは、彼に愛に関するコンプレックスを抱かせるには十分すぎる程の要素であった。
 物心付いた頃には、両親のそれが、お互いの感情を再確認させる為の歪んだ癖であると知る。
 そうして、両親を見捨てた十にも満たない少年は、独り貧しい家を立ち去り、異臭のする喧噪と人混みの中へと消えて行った。
 雨曝しのまま行く当てもなく、ただ嵐が過ぎ去るのを待ち呆けていた彼を拾ったのは、貴族向けの服飾屋を営んでいるバンナマン一家であった。
 バンナマン家の父母は、結婚するのが遅く既に歳を取り過ぎていた為、一人娘のバータしか育てていなかったのと、元々の人柄の良さもあり、少年を義理の息子として迎え入れる事を決める。
 そうして彼は、血の繋がらない家族のバータと、服飾屋を贔屓にしていた領主の息子――メルンと出会う。

 三人が幼馴染になってから暫く、奇妙な人間関係は順調に、良好に育まれていた。
 メルンの家に度々招かれるようになったゴーシェとバータは、メルンの習い事に影響されるように、音楽に傾倒する様になって行った。
 優雅に弾かれるメルンのピアノの旋律を、引き立たせる様にゴーシェが鳴らすチェロ。それに色を足す様に、バータが様々なパーカッションの音を提案する。それは小さく、然し完成された、子供達のオーケストラであった。
 新しい年の訪れを知らせるように、春が到来する。
 彼らの住むメルベルク領に、新興貴族の一家が引っ越してきた。元々持っていた土地を政治的に奪われた彼らは、メルンの父親の情けでメルベルク領に住まう事を許されたのだという。
 最初にゴーシェが彼らの事を知ったのは、興奮気味に慌ててやってきたメルンに聞いてからである。曰く――”天才が来た”と。
 そして、ゴーシェ少年は、嬉々とした表情のメルンに引っ張られて、新興貴族レッケル家の才女――”エリーゼ”と初めて出会う。
 さて、彼は悲しくも美しいピアノの音に聞き惚れ、そして何よりも、それを奏でる、気品溢れる少女に一目惚れしてしまった。
 その日の帰り道、誰も居ない野道を歩きながら、夕焼けを見上げて彼は独りごちた――「ああ、俺はちゃんと人を愛せる」、と。

 幼馴染に新しく一人の少女が加わって数年、彼らが子供と大人の境目に入り始めた頃、ゴーシェがバータから一つの人生相談を受ける。彼女がメルンに特別な感情を抱いている、という話を。
 それからまた別の日、今度はメルンから違う相談を受けた。彼もまた、エリーゼに恋をしていたのだ。
 それはゴーシェにとって、とても良くない事実であった。何よりもエリーゼの事を思い続け、恋心を拗らせていた彼は、いくら兄弟同然の幼馴染であろうと、愛する少女を奪われたくなかった。
 そして、少年少女の関係が壊れ始めてから暫くして、少年にとって都合の良い報せが来た。ここ数年寝込んでいたメルンの母親が病死したのだ。
 どうせ手に入らないのなら、メルンにも手に入らないようにしよう――そう折り合いを付けて、エリーゼとの未来を諦めたゴーシェは、出世欲が満たされず焦っていたレッケル家にある話を持ち寄った。
 メルベルク家の当主とエリーゼを結婚させるのはどうか、と――。

 それから数年、斯くしてゴーシェの画策した婚約話は成立した。
 メルンは恋破れながらも現実を受け入れ、新たな家族が出来た事を歓んだ。
 バータもまた、幼馴染がより深い関係になれた事を、そして自分の淡い恋に実る余地ができた事を喜んでいた。
 だが、ゴーシェだけは苦い顔をしていた。自分が手に入れられず、しかも家の事情で結婚させられた筈の少女が嬉しそうな表情を浮かべているのだ。
 結婚祝いのパーティが終わったあと、ゴーシェとエリーゼが二人きりになり、少女は少年に駆け寄り、お礼の言葉と、いつか大人になったら、四人で何の柵みもないオーケストラをやろうという約束を述べた。
 少女は幼馴染の少年のどちらでもなく、領主に恋愛感情を抱いていた。だから、結婚の話を親に持ち込んでくれたゴーシェに、誰よりも早く感謝の意を伝えたかったのだ。
 人を愛せる筈の少年は、それが何よりも許せなかった。

 エリーゼを不幸にする為に、ゴーシェは貧民街に頻繁に出入りするようになる。
 突然現れ、名誉を手にした貴族家を僻んでいる人間を見繕って、領主の新たな妻を強姦させようと目論んでいるのだった。
 計画は成功したと、ゴーシェは後に協力者に聞いた。だが、彼の陳腐な想像による軽率な行動を超えて、不幸は降り懸かっていた。
 数日間、部屋に塞ぎ込んでいたエリーゼを案じて扉を開いた領主が見たのは、首を吊ったまま冷たくなった少女と、子供を身籠もって膨らんだお腹であった。

 結局、ゴーシェが裏で動いていた事は誰にも知られず、貧民街の闇に消えた。
 少女が自殺した原因は望まぬ結婚と領主の所為だという事になり、メルンは父親と疎遠になり、荒み始める。
 突然の親友の死と思い人の変化に、バータが心から笑う機会が減り、作り笑いが多くなった。
 自分の行動が起こした悲劇の波紋に、ゴーシェは恐怖していた。
 せめてもの償いに遺留品の整理を手伝っていた彼は、生前にエリーゼがつけていた日記を見付ける。
 自殺する寸前に書かれていたのは、自分に向けられた、有りっ丈の憎悪と呪言であった。自殺した少女だけは、全てを知っていたのだ。
 少女の日記が燃えるのを眺めながら、少年は自分が決して許されてはいけない存在なのだと自覚する。死すら生ぬるいと自戒し続けながら、彼は少女との約束だけは守り続けるのだった。

 自分の罪を回想し終えたゴーシェは、答えを決めた。
「約束するよ。俺はまだ生きなきゃいけない。生きて生きて、悪夢を見続けるんだ」
「そう、お兄さんはとても自分勝手なのね。……うん、ありがとう」
 そう言うと、少女はゴーシェに対し、小指だけを立てて小さな手を向けた。
 少し躊躇ってから、彼も反対の手で同様の形を作り、お互いの指を絡めた。
 彼らは約束を結んだ。
「眼を閉じて。大丈夫よ、怖くはないわ。あなたの友達のところに連れて行くだけ」
 優しい声音の言いつけ通りに、青年が眼を閉じる。

 気が付くと、ゴーシェは館の外に居た。
 寂れた森の中で、一人佇んでいると、とても急いだ様子の足音が近付いてくる。
 彼を見付けたメルンとバータが慌てて駆け寄ってきた。
「ちょ、ゴーシェ!? 本当に――本物!?」
「……無事だったのか」
 頬を抓るバータを放って、ゴーシェは約束を果たす為に一つの提案を述べた。
「じゃあ、演奏しに戻ろうか」
 提案者の頭を、バータが思い切り引っ叩く。
「あんた、馬鹿ぁ!? それとも死にたがり!?」
「冗談じゃない。本気だぜ」
「理由があるんだろうな」
「幽霊との約束だ。ちっちゃい女の子だぜ? 守らなきゃ男が廃るね」
「……とち狂ったか?」
「全部、本当だし――さっきも言った通りに、本気だ」
「はあ……。行くぞ、バータ。……メルンは、何の為にもならない様な嘘を吐く男じゃない」
「ちょ、待ってよ! メルンっ!」
 荷物を背負って、幽霊屋敷に向かって歩き出すメルンの背を、バータが追っていく。
 一人置いて行かれたゴーシェが、表情の抜け落ちた顔で独りごちた。
「そりゃあ、誤解だよ」

 姿の見えない少女の前で、幽霊屋敷のフロアで三人は演奏を始めた。
「そう。約束を守ってくれたのね、お兄さん」
 安堵した表情の透明人間が、オーケストラに混じった黒騎士の歩く音に気付く。
「ほら、お客様のご来場よ」
 少女の言葉で、ゴーシェも察知した。
 ゆっくりと剣を構えて向かってくる騎士に対し、彼はそれでも演奏を続ける。
 ただ、贈る言葉だけは伝えなければいけない――ゴーシェはそう思って、口を開いた。
「なあ、俺達みたいな呪われた人間にとって、死は救済だと思うんだ。……でも、あんたは曲がりなりにも正しい側の存在だったと思うし、もう十分にさ、苦しんだだろ? ほら、振り向いてみなよ」
 動揺した黒騎士がすんでで剣を止める。
 ゴーシェの言葉に乗って、彼は振り向いてしまった。
 ――そこには、先ほど見えなかった筈の少女が居た。
「お嬢さん。彼は約束、ちゃんと守れたかい?」
「ええ、十分よ。おやすみなさい、ロミア。一緒に眠りましょう」
 忠義の騎士は主に礼を尽くして、跡形も無く消え去った。赤黒く錆びた鎧と剣だけが、廃墟に横たわっている。
 そして地縛霊の少女もまた、思い人と共に眠りに着いたのであった。

「――斯くして、旧ツェムリンスキー領の悪霊は消え去った。そして、これはマルクト楽団の栄光への道への偉大なる一歩であ~るっ!」
「なんだそりゃ」
 歩きながら仰々しく喋るバータに、メルンが突っ込みを入れる。
 何歩も先を歩いているゴーシェを他所に、歓談は続いた。
「こっそり旅の日記つけてるのよ。ほら、後で呼んでね」
「あっそ」
「……ぶー」
「豚か、お前は」
「それで、次は何処行くの? ゴーシェ、何か言ってた?」
「近くの山岳地帯を抜けると王国の城下町があるだろ? デカい場所で演奏がしたいってさ」
「ふーん」
 廃墟を後に、彼らの旅は続いて行く。
 呪われた彼も、誤解し続ける彼も、舞台に上がれない彼女も、子供のまま約束を守り続けて――。
 物語の終わりは、まだ遠い。

火花

火花

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更新日
登録日
2020-03-08

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