puzzle eye
艶々とした真っ黒な水面に、注意深く白い液体を溢していくのが好きだった。
一般的な色であるはずなのに、意外と黒と白というその組み合わせを自分がつくることのできるシーンは日常に少なかったし、決定的にまじり合わないはずのふたつが莉緒の差し入れた、小さなスプーンで崩壊し融合しあうのをみるのは、どこか仄暗い喜びのようなものを感じさせた。
みんなこれが普通だって思っているけれど、そんなことない。溶け合ったっていいし、なんなら別の色だっていい。
融合し、溶け合い、さらにその液体が自分の口腔を滑り、温かく腑を満たしていくことに、莉緒は小さな満足を覚えるのだった。
「大学はもうお休み?」
「今日からです」
「そう、ゆっくり休めるわね」
莉緒のグラスに水を注ぎ、玲は微笑んだ。お礼を言い、莉緒は手のひらで包んでいたコーヒーカップから店内に目をうつす。莉緒がいる四席ほどのカウンターと窓際にテーブル席がひとつのこじんまりとした空間。ディスプレイされたアクセサリーや鉱物に版画。天井からのびた小さなアンティークのシャンデリアがモナコブルーの壁紙に陰影を描いている。
ー深海みたい。
この店にくるたび、莉緒は自分が深海に置き去りにされたような気分になる。静かな人気の少ない店内と、時代に置き去りにされた骨董品。複数の光源から重なる影。深海は夜に似ている。暗く、青に包まれ、存在しない他者の音を遠くで感じる。
「そういえば、先週入荷したわ。いつのだったかな、ええと」
「見たいです」
見惚れていた珈琲を放り出し、莉緒は立ち上がる。苦笑する玲がさしたケースを覗き、ため息をついた。てのひらに感じる小さな重み。
滑らかな白い表面が光を反射する。細く赤い糸の走る中央に描かれた二重円。内部の円は吸い込まれるように黒く、そこがみえない。何も映っていないはずなのに、誰かに覗き込まれているようで、莉緒は自分の底が―それが胸なのか、腹なのか、それとももっと奥なのかわからないーざわつくのを感じた。手のひらに重みが増す。
「綺麗」
莉緒が揺らすとその二重の円はシャンデリアの灯りに反射し、表情をかえる。内部の円の不可侵な底知れなさとは異なり、外部の円は四、五色から構成され、光の加減によって色あいをかえ、煌めく。アンバーにセピア、トパーズ、モーヴブラウン。幾多の色が反射しあい、全体をつくりあげるのは、莉緒にステンドグラスを思い出させた。
「そう、一八九〇年頃のものだそうよ、ドイツ、ラウシャ製」
「ラウシャ製?」
「そう、ドイツにあるラウシャ村という吹き硝子で有名な村ね。世間的にはクリスマスオーナーメントで知られているけれど、ラウシャ製というと義眼の中でももうブランドものね」
説明する玲の瞳を莉緒はじっと見つめる。ショーケースの中を見つめる視線の合わない瞳。伏せられた瞼と、その下に覗く黒い虹彩。虹彩と瞳孔がまじりあったような、深みを湛えた瞳だった。大切なものは奥底に隠し、静謐を保ち微笑む瞳。
玲はクロスを取り出し、ショーケースにならぶひとつの義眼をとりだす。白い手袋をつけた玲の手の平に乗る胎児のような硝子の塊。クロスで優しく撫で、莉緒の手のひらの中へそっと置く。
「この色珍しいの。好きかしら」
シャンデリアの橙色の光の下で莉緒は冷たく固い、小さな遺物を眺める。それは、潮の匂いがするような鮮やかな赤い色合いをしていた。静かな、深紅の放射状をじっとみつめていると、何かが動いた気がした。流れるように動くその深紅に莉緒は想像する。鮮血の色。漆黒、茶色、緑に青―瞳の色は幾多とあるけれど、そのすべての裏側にこれがあるのだと思うと胸が騒がしくなる。
「じゃないみたいね」
黙っている莉緒をみて、玲は言った。
「いえ」
小さく否定し、莉緒は黙る。すごく綺麗だ。ぞくぞくする。きっと本物に触ったら温かいだろう。生命そのものの温かみを持ち、濡れ、莉緒はその存在に耐え切れなくなるだろうと思う。これはすべての裏側だ。魅力的だ。ただ、私が本当に欲しいものは―
「すごく綺麗です。ただ、意外と球体のものってないんだなって思って」
「そうね、全て実用で使われていたものだし、そうなると球体ではないわね」
「たしかに、球体だったら入らなそう…」
小声で御礼をいい、莉緒は玲に義眼を返す。赤い虹彩は玲の手袋をつけた白い手によってケースに戻されていく。
玲の漆黒の瞳の焦点が莉緒に合う。
「なかなか難しいと思うけど、球体がはいったら連絡するわ」
ドール用の眼球であれば、色彩の幅も広く、ほとんどが球体だ。玲が言っているのは、実際に義眼として使われていた骨董品であることを莉緒は知っている。誰かの空洞に入り、そこを埋め、眼球のかわりとなり、話者の視線に耐えてきた硝子玉。素敵だと思う。それは莉緒の欠落を簡易的に埋める。簡易的に。そう、莉緒がほしいのは、偽物ではなく、潤み、饒舌に感情を語る本物の眼球―
金色の帆立貝のような会計皿にお札を乗せると、玲は訪ねた。
「年末年始はどこかにでかけるの?」
「いえ、私は実家住まいだから特に」
「家族団らんね」
「あ、でもこれから従姉の家に泊まりに行くんです」
「そう、じゃあ楽しんできてください」
玲の白い手袋をはめた手によってドアが開けられ、莉緒は肩を縮めた。入店したときは昼過ぎだったのに、外はすっかり暗くなっていた。冷たい風がロングコートの裾から入り込む。
「ありがとう、良いお年を」
中目黒で乗り換えて、綾の住むマンションへ向かう。東京へ通学するようになって二年になるけれど、あまり南側にくることはない。普段はつくばエクスプレスに乗って、秋葉原で中央線、市ヶ谷という通学だから、たまに知らない街に行くとお洒落でなんだが場違いな感じがしてしまう。モダンなカフェのテラス席で顔を寄せ合って笑いあう世間話、あか抜けたファッションで颯爽と並く人。すれ違う人達はお洒落な街を舞台に、自分という物語を華やかに謳歌しているのに、莉緒だけが間違い。
駅徒歩5分のマンションのエントランスを抜け、莉緒はインターフォンを押す。レンズの位置から、自分が大きすぎず、でも人がいることぐらいにはわかる距離感で。
「久しぶり、よく来たね」
インターフォン越しに声は聞こえず、いきなり空いたドアから、顔をのぞかせて綾は笑う。顔全体で嬉しさを伝えてくるような気取らない笑顔に莉緒は少し安心する。広げられた両手には身を引く。
「グローバルなのはちょっと…」
「あれ、そっか、ごめんごめん」
半年ぶりに近い綾の家は家具も、食器もほとんど変わっておらず、莉緒は勝手知ったる手つきでカップを取り出しティーパックでお茶をいれる。キッチンの棚に一緒に並んでいたのはインスタントコーヒーとカップラーメンで、莉緒はそっと裏側の賞味期限を確認した。湯気のたつカップを渡すと綾は悪びれない口調で申し訳ないね、と言う。
「今日はどこかによってきたの?」
「御徒町の骨董屋さんにいってきた」
「骨董屋?」
興味ぶかそうにする綾をソファーに促して、莉緒は骨董屋の話をする。
天井からさがる白い繊維で包まれたペンダントライトの光が綾の虹彩に差し込む。
この位置。
そう、この位置がいちばん、綾の瞳を明るく映すことを知っていた。鋭利に切り込む目頭から杏仁形に開かれた内部。薄く覗くピンク色の粘膜に包まれた青白い球体。濃密に白いその表面の奥は透けず、あまりの重量に溶けだしてしまうのではないかと思う。きっと溶けだした液体はねっとりとしていて、口に入れたら甘く、莉緒の舌にまとわりつき、口腔の粘膜を、そして莉緒自身を甘美に痺れさせ、脅かすのだろうと思う。
「面白いな、そんな店あるんだ。集客難しそうだけど、資金調達どうしてるんだろう。あ、でも立地悪くてもネットでマネタイズしているからそっちで収益あげてるのかな…」
考え込む綾に応じて、虹彩が揺れる。白い海にくっきりと浮かんだ正円。雨上がりの樹肌のように濡れた深い色をした淵と包まれた薄茶色の虹彩。割れた宝石を搔き集めたかのように透きとおる虹彩は濃密な白目と対比的だった。宝石片の凝縮、右の虹彩に二つ、左の虹彩にただ一つある黒点は、微細な黒曜石の結晶のよう。
「莉緒、疲れてる?」
いつの間にか黙り込んでいた莉緒を綾は気遣う。細められ、目の下の影がくっきりとしたことで、莉緒ははっとした。
「ううん、ええと、ストックとか、シナジー?とわからなくて」
「そうだよね、ごめんごめん。私も考えこんじゃった。お腹すいてるでしょう、適当にして待ってて」
綾がキッチンにいったので、莉緒は部屋の中を見回す。部屋の隅におかれているスーツケースと、机の上に広げられたパソコンには、大量の数字がはいったExcelが開かれている。綾がどんな仕事をしているかは詳しく知らない。最近シンガポールから帰ってきたばかりで、半年前に会ったときはマニラから帰ってきたばかりだったように思う。莉緒も来年になったら、大学の先輩たちのようにどこかしらで働き口を探さなければいけないけれど、何もできる気がしないので、なんとなく先延ばしにしている。
ビジネス書に並んで、英語の本が並んでいる棚を見て、大学でも綾は国際系を専攻していたと聞いたことを思い出した。莉緒の大学にも英文科はあるけれど、莉緒が苦手な大学生の中でも英文科は莉緒が一番苦手なタイプの学生が多かった。明るくて、自信に満ちていて、軽薄な学生たち。本当にそうなのかは莉緒にも判断できないけれど、彼女たちは自分が本物だと根拠なく信じ込んでいるみたいだった。
綾の作ったミートソースパスタを一緒に食べ、莉緒はカーペットに寝転ぶ。
「綾ちゃん、大学、楽しかった?」
「ええ?急だなあ」
綾は少しびっくりしたようにニュースを読んでいたタブレットから顔を上げ、ルームシューズのつま先で莉緒の背中をつついた。
「莉緒は楽しくないんだ」
「少し」
「そっか。退屈?」
「授業は嫌いじゃないけど、大学生が無理」
あはは、といきなり綾が声をあげて笑ったので、莉緒は綾を睨む。
「莉緒だって大学生なのに」
「私も含めて、無理。友達いないし」
そう、と柔らかな声と一緒に莉緒の頭に手が伸びてくる。綺麗にマニュキアの施された白い手に撫でられ、莉緒は綾を見上げる。袖口から覗く腕に小さな傷がついている。
「大学よりは今のほうが楽しいかな」
綾ちゃんでもそうなんだ、と莉緒は思う。
「だって、大学生だったら、自分で自分の生活を選べないでしょう。社会人のほうが自由。拘束されない」
「綾ちゃんだね」
莉緒だったら、自分で自分の生活を選びたいなんて思えない。友達もいないし、そもそも数少ない知り合い以外の人と話したくなんてない。そんな自分が社会で生きていける気がしないし、自分で選べなくていいから、学校には行きたくないけど、学生でいたい。今は嫌だけど、未来だって嫌だ。大学の華やかな生徒たちや綾ちゃんが楽しいというものを、莉緒が楽しいと思えないのは、自分には決定的になにかが欠けているからだと莉緒は思う。
母親が切った鍋用の野菜を丸く平たい陶器に盛りつける。叔母が蟹に包丁をいれるのを恐る恐る眺めていると、居間から呼ばれたので、一升瓶を抱えて持っていく。ようやく準備が終わったので、父親が叔父が日本酒を酌み交わしている長机に莉緒も腰を下ろす。既に半分くらいになっている数の子に莉緒は箸を伸ばす。
「優太はもう就活生か」
「そう、3月解禁。まあ、でももうリクルーター面談いってるから、既に選考始まってるようなもんだけど」
「内定はもらえそうなのか」
「やだ、お父さん、優太は大丈夫よ」
「まあ、お前は安心だな」
「いけるいける、うちの部先輩もいいとこいってるし」
豪快に笑って、従兄は蟹の足をしゃぶる。ラグビーで鍛えたという筋肉質な巨体と響く声量をもつ従兄が莉緒は苦手だ。話がこっちにこなければいいなと思いながら、そっと黒豆に手を伸ばす。
「莉緒ちゃんは就活なにか考えてるの?」
叔母さんの馬鹿、心の中でそっと毒づく。
「えっと…」
「まあ、莉緒はまだ2年生だもの」
「そう、まあ女の子は焦る必要ないかしらね。大学は何を勉強しているんだっけ」
「近世日本史です」
「史学だと学芸員になる人が多いのかしら」
従兄のご飯をつけながら叔母は言う。
「学芸員って働き口ねえだろ」
横やりを突っ込んできた叔父に莉緒は気圧される。
「ええと、先輩だと一般企業で事務として働く方が多いみたいですけど…」
「まあ、女はそうだろうなあ。仕事より家庭を守れるかどうかが大事だ」
のほほんとして言う父親の横に並ぶ一升瓶の中を莉緒はそっと目で測る。少し充血した瞳はアルコールに侵され、潤んでいる。莉緒は正座した足の上で、小さな手のひらを広げる。骨董店で莉緒がこの手で包んだ、美しい義眼。そして、橙色の照明に光る、綾の黒点をもつ眼球。
目の前の父親の目を見ていられなくて、莉緒は目線を手のひらに落とす。想像の中で、莉緒の手のひらの中の眼球はしとどに濡れ、温かく、鼓動するように脈打ち、その透きとおるような虹彩を煌めかせながら莉緒を魅了する。
母親に英語のテストが近いからと言い訳をして、莉緒は綾の家に泊まりに来ていた。テストが近いからというのはあくまで言い訳で、大人になるまでの休暇といわれる大学生活の中でもいちばん怠惰な冬休みに甘え、なにをするでもなく、綾の正月旅行のお土産をつまんでいる。綾は正月いつもどこかしらに旅行に行っていて、莉緒は親戚の集まりで綾を見たことがない。
「きび団子美味しい?」
「うん」
「そう、よかった。湯河原、最高だったな。温泉久しぶりだったし、旅館も綺麗だったし」
床に広げた横幅一メートルはありそうなジグソーパズルのピースを眺めながら、思い出すように綾は言う。ジグソーパズルは三割程度埋まり、パッケージに描かれた見本とパズルとを見比べながら着々と埋めていく。パッケージには小さい花々の中で抱き合う男女の絵が描かれている。莉緒もピースに手を伸ばす。空白が徐々に埋まっていくのを見ているのは、見ていて気持ち良いものがあった。
欠落を埋めていく作業。私もこうやって簡単に埋まったらいいのに。
黙々と穴を埋めていく綾をちらりと見る。俯いた綾の睫毛に隠された瞳を思う。白い球体。舌の上で甘い白玉が滑る。あの、綺麗な眼球も、口にしたら、あまく弾力があるんだろうか。嚥下し、それが莉緒の中に溶け込んだなら莉緒のピースは埋まるんだろうかと考える。
「綾ちゃん」
「なあに」
虹彩が莉緒に向く。捉えられる。
もっと近くでみたい、近くでずっと眺めたい。その色で、あなたのその完璧な模様で、湿潤で、満たしてほしい。
「綾ちゃん、お化粧したい」
『お化粧』はたびたび莉緒が綾にせがむ儀式のようなものだった。
金色のジグソーパズルの海の中で、莉緒はその瞳と対面する。わずかに動く虹彩は角度に応じて色を変える。地中で眠り何百万年もの時を越える琥珀、海洋をあてもなく放浪するシーグラス、真冬の白い陽光にまばゆく光る木枝。
わずか三十センチ程度の距離。眉に化粧筆があたる感覚を感じながら、けれどそれを忘れるくらいに莉緒はその瞳に魅入られていた。わたしの瞳がもし、こうだったら、勉強だって、友達関係だって何もかもうまくいくはずなのに―熱く欲するものは目の前にあるのに、手を伸ばす手段を莉緒は知らない。その隔絶を超越することなんてできない。
「はい、可愛い」
にっこりと笑って綾は言う。
「莉緒ちゃん?」
「あ、うん、ありがとう」
莉緒ははっとしたように答える。鏡を見ておいでと背中を押されたので、莉緒はしかたなく洗面所に行く。北側の洗面室は薄暗く、寒々しい。莉緒は電球をつけ、いわれたとおりに鏡をみつめる。
ピンクベージュの口紅は綾が普段つかっているものよりも薄く、ナチュラルな印象で莉緒に似合っていた。知的な綾らしく色の統一感やニュアンスを莉緒にあわせて、施してくれたことがわかる。裾にフリルのついたトップスと、ジーンズ。癖のある黒髪。化粧でいつもよりも大人っぽくなっているとはいえ、あか抜けないと思う。莉緒はため息をつく。
「莉緒ちゃん、ティッシュもってきてもらっていいー?」
「はーい、ちょっとまってて」
化粧が落ちないように、そっと目の下を拭い、綾は洗面所の戸棚に手を伸ばす。石鹸や洗剤やトイレットペーパーなどが並ぶ戸棚にボックスティッシュが見当たらず、奥に紙袋があったのでポケットティッシュでもないかと思い、手を伸ばす。ジャラリと金属質な音がして、莉緒は不思議に思い、中を覗く。
茶色い紙袋の中には、黒い分厚い皮でできた腕輪のようなものがはいっていた。二つの腕輪をつなぐ、頑丈そうな金属のチェーン。莉緒はそっと音をたてないように腕輪にさわる。ファッションにしては、それはあまりに実用的すぎた。使い古されているのか、一番小さいサイズの金具をはめる穴が広がっている。ふたセット、そして莉緒がみたことがないような大きい首輪。慌てて袋に戻し、莉緒は戸棚をしめる。
鏡にうつった自分の目が見開いていた。莉緒は目をぎゅっとつぶってから、開き、深呼吸をして、笑顔をつくる。
部屋を暗くしてみていた映画が終わり、エンドロールが流れる中、莉緒はソファでクッションを抱きしめる。映画は努力家の若い女社長が、年配の男性の教えをアドバイスをうけながら仕事もプライベートも充実させていく内容だったが、お洒落な印象をうけただけで、莉緒は内容が頭にはいらず、DVDが終わった後もぼうっとタイトル画面が表示されているテレビを眺めていた。
「眠くなっちゃった?」
戻ってきた綾が莉緒に聞く。隣に座るとふわっと甘い香りがした。
「綾ちゃんバニラの匂いがする」
「え、あ、石鹸新しいのに変えちゃった」
ちょっと甘すぎるよねえと笑い、綾は飲んでいたグラスに口をつける。
「主人公可愛かったね」
「うん、目が大きい美人さんだった」
「莉緒ちゃんは目がぱっちりとした人が好きでしょう」
「そうなのかな」
正面を向いたまま、莉緒は肯定とも否定ともとれない返事をする。テーブルの上にサラダやクラッカーの食べかけが放置されている。綾がもつグラスのわずかに残った氷が静かに音を立てる。深夜の怠惰な雰囲気に二人とも片づけも、部屋の電気をつけることもせず、映画のタイトル画面の光を眺めている。
「だって、目が綺麗な人が一番きれいだと思う。目は口ほどにものを言うっていうし」
「私はその人の目よりも話し方がいちばんわかるな」
「話し方?」
「語彙の選択、何を先に話して後に話すか、トーン、速さ」
ぱちぱちと瞬きをする莉緒をみて、綾は笑う。
「そう言われると意識しちゃって話せなくなっちゃうでしょう。でも、莉緒ちゃんの話し方は素敵だと思う。柔らかくて、配慮してくれてるんだろうなと思う」
「でも内気だって言われる。綾ちゃんは優しいからほめてくれるだけ」
「強いばかりが正解じゃないよ、完璧なんて存在しないでしょう」
眉を少し寄せ、考えるように目線をそらす莉緒に綾は言う。
「莉緒ちゃんの目は優しそうだね」
莉緒が最後に綾の家でとった朝食は七草がゆで、それは藍色の陶器のボウルをなみなみと満たし、莉緒は少しずつ冷ましながら口にした。
「パズル終わる前に仕事はじまっちゃいそうだね」
「完成させるためじゃなくて、つくるために買ったからいいんだ」
冬の和やかな日差しが綾の目に差し込んでいる。明るい茶色い瞳が楽しそうにしている。
鮮やかで雄弁な虹彩、底知れない瞳孔。
莉緒は瞳孔が穴だということを忘れていた。
帰り道、莉緒は行きつけの病院による。数か月に一回いかなければいけない定期健診に大学が始まる前にいっておきたかった。看護師に名前を呼ばれ、診察室に入る。
「調子はどう?」
「痛みもないし、順調です」
「外してもらえるかな」
莉緒は人差し指を瞼に、親指を眼孔の淵に添え、目を開く。もう片方の手で、眼球―ではなく、義眼を取り出し、トレイに乗せる。医者はライトで莉緒を眼孔を照らし、診察する。眼孔には小指の爪ほどの大きさで莉緒の本当の眼球があるが、それは未発達で視力がないため、莉緒は眩しさを感じない。
「岡本さん、もう成長期も終わりだし、義眼のサイズ変更しなくていいかもね」
「本当ですか」
「うん、ほらこれまではどんどん大きくしてきたけど、今後はずっとこのサイズでいいと思う」
莉緒はトレイの上に置いた義眼を観る。白い艶やかな表面と、濃いブラウンの虹彩。物心ついたときには莉緒の右目は使い捨てだった。幾つの瞳と交換してきただろう。けれど莉緒の瞳は今後、生涯ずっと一緒に過ごしていく莉緒の瞳なのだった。
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