奇想短篇小説『ヘミングウェイ』
If you should ever leave me
Though life would still go on believe me
The world could show nothing to me
So what good would living do me?
God only knows what I’d be without you
(The Beach Boys “God Only Knows”)
もしもきみがぼくを置いていったとしても
それでも人生はつづいていくんだ
けれども信じてほしい
世界はもうぼくには何も示してくれなくなる
そんな所で生きていても良いことなんてあるんだろうか?
きみがいなくなったらぼくはどうなってしまうんだろう
でもそれは神様だけが知っているんだ
(ビーチ・ボーイズ『神様だけが知っている』)
私の取るに足らない退屈な日々のなかにも、それなりにささやかな楽しみがきちんとある。誰にだってそういうものが一つや二つくらいなければうまくやっていけないはずだ。もしも日常のなかで楽しみがほんのわずかでも見当たらなければ、それはつまりその生活のどこかしらに間違ったところがあるということだ。その間違いは仔細に点検され、しかるべき時にしかるべき修正を加えられなければ、その間違ったところのある生活はあらぬ方向へと流されていき、最後は滝壺やら崖やらライ麦畑から落っこちることになる。けれども、そこにほんのわずかでも、それがたとえアリが運ぶ砂糖菓子のかけらくらい小さなものであっても、その生活のなかで自分なりのささやかな楽しみをきちんと確保できてさえいれば、きっとそんな結末にはならない。それが私がこれまでの生活のなかで培ってきた小さいけれども確かな経験則のひとつだ。そして私の生活のなかのささやかな楽しみはいつも週末に訪れる。
週末の朝がやってくると私はまず、こんがりとトーストした食パンにたっぷりとピーナツバターを塗り、カリカリに焼いたベーコンと輪切りにしたバナナをそこに挟んでエルヴィス・サンドを食べる。食材の組み合わせがすこし珍しいかもしれないが、実際に食べてみるとその良さがきっとわかるはずだ。そして週末の朝に食べるエルヴィス・サンドの味はちょっとうまく他の言葉では形容できないくらいこれがまた格別なのだ。
それから身支度を整えて、近所の家具屋に行く。けれどもその家具屋でソファーやらテーブルやらカーテンやらを買うわけではなく、自分が気に入った椅子にただ座って日が暮れるまで好きなだけ本を読むのだ。一般的に考えれば、私はずいぶんとハタ迷惑な珍客とみなされてもおかしくはないのだが、私がいつも行くその家具屋ではそうはならない。というのもじつはその家具屋の店長と私は昔からの知り合いで、ありがたいことに彼は一言たりとも文句を言わずにいつも私の好きなようにさせてくれるのだ。ときどきではあるが、そのお礼の代わりに自宅に余っている貰い物のせんべいやクッキーの詰め合わせを持っていくこともある。要するに親しき仲にもきちんと礼儀がなければならないということだ。店長も私もお互いに物静かな性格なので口をきくことはほとんどないのだが、われわれ二人の間にはいつも穏やかで親密な雰囲気がたんぽぽの綿毛のように漂っている。いや、そんなに美しいものではないかもしれない。水墨画に描かれている淡い霧くらい地味な色合いのものかもしれないが、とにかくそこには不穏な空気は一切ない。あとそれに加えて、こんなことはあまり言うべきではないかもしれないが、その家具屋にはいつもほとんど客というものが来ない(いったいどうやって経営を成り立たせているのかが前々から気になっていた)。だから私が売り物の椅子に座ってどれだけ本を読んでいようとも特に誰かに迷惑が掛かるわけではないのだ。そして私がその家具屋を気に入っている大きな理由のひとつは、静かな店内にいつも小さな音でクラシック音楽が流れていることだ。誰にも邪魔されることなく、座り心地の良い椅子に座って、ほどよい音量でドビュッシーやサティーのピアノ曲を聴きながら読書ができる。これほど本を読むのにうってつけの場所はちょっと他を探してもなかなか見つからないんじゃないかと思う。週末の過ごし方としてはあまりまともとは言えないけれども、私はとにかくそういうふうに週末はいつも朝から夕暮れまで家具屋でゆっくりと本を読んでいる。
そんなささやかな習慣を続けていたある日、昼間に見える薄い月のようにほんの少しばかり奇妙な出来事が私の生活のなかに入り込んできた。私がいつものように例の家具屋で気に入った椅子(その日はマホガニー製のものだった)に座って本を読んでいたところに突然「ここでヘミングウェイを読まないで下さい」と若い女性の声がしたので、私はびっくりして反射的にハッと顔をあげた。そこには端正な顔立ちの黒髪を後ろに束ねた女性店員が立っていた。彼女の声のトーンと顔の表情からすると、べつに怒っているようでも迷惑がるようでもなかった。二十代の後半くらいだろうか。見慣れない顔だった。おそらく新人のアルバイトだろう。それにしてもきれいな女性だ。
そこでふと何かが私の頭の中で引っかかった。
「ここでヘミングウェイを読まないで下さい」
彼女はさっきそう言った。普通なら「ここで本を読まないで下さい」と言うはずだ。しかし彼女は〈本〉ではなく〈ヘミングウェイ〉と言った。あるいはそれは私のたんなる聞き間違えだったのかもしれない。けれども、たしかに私はそのときアーネスト・ヘミングウェイの短編集を読んでいた。奇妙ではあるが、彼女の言っていることは間違ってはいなかった。しかしだからといってなぜ彼女はそんな風変わりな注意をわざわざしたのだろうか。もしも私がそのときカズオ・イシグロの本を読んでいたら、彼女は何と言ったのだろう。本の背表紙をわざわざ確認してから作家名かあるいは作品名で注意をするのだろうか。彼女が文学にずいぶんと精通していて、書物に対する偏ったこだわりのようなものがあるのだとすれば、そういうことになる可能性もある。しかしもしそうだとしたら、彼女も、朝食にエルヴィス・サンドを食べてから家具屋で一日じゅう本を読んでいる私と同じくらい、あるいはそれ以上に変わっている人間だ。ひょっとするとこの家具屋には店長も含めて、まともな人間なんてひとりも来ないのかもしれない(取り扱っている家具はどれもありきたりなものばかりなのだが)。
唐突に変な注意をされた私は、しばらく呆気にとられてぼうっとしていたが、すぐに我に返って、急いで本を鞄に仕舞ってから彼女に謝り、その日は帰ることにした。
その翌週末はマーク・トウェインの文庫本を携えて家具屋へ赴いた。そしていつものように気に入った椅子(先週と同じマホガニー製のもの)に腰かけ、読書に没頭した。
そして日が徐々に暮れ始めたところで彼女がこちらへやってきて、はっきりとこう言った。
「ここでヘミングウェイを読まないで下さい」
それからも毎週末、家具屋に赴き、夕暮れ時になると私は彼女に例の風変わりな注意をされつづけることになった。しかし、不思議なことに私は何度注意されてもまったく悪い気がしなかったし、彼女に対して怒りや嫌悪感のようなものを抱くこともまったくなかった。きっと私の独りよがりな考えにすぎないのだろうが、むしろ彼女との間には親近感のようなものさえ芽生え始めていたようにも感じられた。一方で彼女のほうもその風変わりな注意がいつの間にか、ちょっとした挨拶代わりというか、私と彼女との間だけの秘密の暗号のようなものになっていった(たぶんおそらくきっと)。けれども、その挨拶のようなあるいは秘密の暗号のような奇妙な注意の他には、我々ふたりの間に会話らしい会話というほどのものはまったくなかった。
私は(案の定)いつしか本を読むためではなく彼女に会うために家具屋へ行くようになっていた。彼女に惹かれていくうちに、胡散臭いワインのソムリエのようにこれまで私がこだわってきたその日に座る椅子やその日に聴くピアノ曲やその日に読む本などについてはまったく関心がなくなり、どうしてそんなつまらないことに今まで拘泥してきたのかが自分にもよくわからなくなっていた。そして気がつけば、すべてが彼女を中心にして回っていた。朝のエルヴィス・サンド、ありきたりな家具、窓の外の景色、緩慢に流れる雲、陽の光に隠れた星々、遠くの銀河で始まった新たな生命、そういうもののすべてが彼女の承認を得てから創造されていった。
不思議な注意をする不思議な女性の登場により、太古の昔に沈んだアトランティス王国が呪縛を解かれて海底から急浮上してくるように、私のささやかな生活はこれまでにないほど劇的にそして大胆に改変されていった。
そんな新たな生活が始まってから数ヵ月が経過した。いつものように私は彼女に会いに家具屋へ出かけた。店内で椅子を適当に選び(それが何製だったかなんてまったく覚えていない)、それからそこに腰かけて適当に自宅から持ってきた文庫本をぱらぱらと読んだ。それから彼女のことを考えているうちにあっという間に時間が過ぎ、ふと窓の外を見ると、いつもと変わりなく日が西の空に向かってゆっくりと降りていこうとしていた。そろそろ彼女が来るころだった。いつものあの風変わりな注意をされるのを私はそこでじっと待っていた、ちょうど月あかりの美しい夜になると牛車にのってやってくる公家の男に想いを寄せる平安時代の女性のように。しかし、そんな私の切実な想いは届かなかったのか、いつまで経っても彼女は姿を現さなかった。いったいどうしたのだろうか。何かあったのだろうか。風邪でもひいて休んでいるのだろうか。大丈夫なのだろうか。けれどもとにかくその日は彼女は店に来ていないようだった。私は彼女に会えなくてひどく落ち込んでしまったのだが、来週にはきっとまた彼女に会えるだろうと思い直し、その日は大人しく自宅へ帰ることにした。
彼女の安否を確認するために翌週も家具屋を訪れたが、その日も彼女は店にいなかった。それからその次の週もそのまた次の週も彼女はいなかった。
彼女を見かけなくなってから一ヵ月近く経っていたので、私は心配と不安で我慢ができなくなり、家具屋の無口な店長に「この前までここで働いていた若いアルバイトの女性はもう辞めてしまったんですか?」と私は遠慮がちに尋ねた。無口な店長は無言のまま眉間に皺をよせ、腕組みをした。どうやら店長にも詳しい事情がわかっていないようだった。
「彼女から何も連絡はなかったのですか?」と私は今度は遠慮せずに尋ねた。
「何もない」と無口な店長は簡潔に答えた。
「連絡も何もないまま彼女はある日突然、店に来なくなってしまった。ということですね?」と念を押すように私は尋ねた。それから無口な店長は眉間に皺をよせたまま、ゆっくりと頷いた。私以上に無口ではあるが、この店長の険しい表情からすると、彼も彼なりにいろいろと彼女を探す努力はいくつか試みたようだった。
若い世代の人たちのなかには無断で仕事を休み、それからまったく音沙汰がなくなってしまうということはわりによく起こることだと私も聞いたことがあったが、あの不思議な彼女には一般的な若者とは何か異なる妙に落ち着いた雰囲気があったし、無断欠勤というあまりにも無責任な行動をとるような人柄にも見えなかった。きっと何かよからぬことが彼女の身に起きたのかもしれない。あるいは、私が想像している以上に複雑な事情がそこにはあるのかもしれない。
それにしても、彼女に関する情報も手掛かりもろくに無いとなると、彼女をゼロから捜し出すというのは私のような一般人にはほとんど不可能なことのように思えた。あるいはもしかすると、彼女も他の若い世代の人たちと同じように、ただ単に〝なんとなく〟アルバイトが面倒くさくなって、そのまま〝なんとなく〟辞めていっただけかもしれない。そういう可能性だって充分あり得る。ベテランの刑事なら長年の経験と鋭い勘で瞬時に、この件は誰かに連れ去られたというような刑事事件の可能性は極めて低いという判断を下すかもしれない。たぶんそうだろう。それに、ほんとうに事件性があるのだとしたら、彼女の家族や友人が警察にちゃんと捜索願を出すに違いない。あるいはもうすでに提出しているかもしれない。だから私のようなたんなる家具屋の奇妙な常連客(店内で本を読んでいるだけなので客ですらないのだが)が勝手にあくせく彼女の行方を捜そうとしたところで何も意味がない。むしろ彼女がこんな変な常連客と毎週のように家具屋で顔を合わせていたという情報を警察が知ったら、真っ先に私が容疑者の最有力候補に挙げられてしまうことになるだろう。あるいはそのまま逮捕されるかもしれない。それだけは絶対に避けなくてはならない。私は刑務所の暮らしなんて御免だ。朝にピーナツバターとベーコンとバナナを挟んだエルヴィス・サンドも食べられないだろうし、座り心地の良い椅子に座って品のあるクラシック音楽を聴きながら優雅に読書なんてまずさせてもらえないだろう。しかしそれがなければ私の生活のなかの唯一のささやかな楽しみが消え失せてしまうことになる。そして最初の話に戻るが、私の小さいけれども確かな経験則から言わせてもらうと、生活のなかにささやかな楽しみをほんのわずかでも見出すことができなければ、やがてその生活はあらぬ方向へと流され、最終的には崖から落ちてしまうことになる。残念ながらそこにはサリンジャーの小説のようなライ麦畑の崖から救い出してくれる人間は誰もいない。ただ底のほうまで落ちていって、それでおしまいだ。
そんなふうに自宅に帰ってからいろいろと私なりにさまざまな可能性を並べ立ててみた、ちょうど海外ドラマの捜査官がホワイトボードに顔写真やら証拠品やらを貼り付けて、その間に赤い線を結びつけていくように。そしてとにかく結論としては、私個人では彼女に対して何もしてあげられないので(何かしようとすると面倒なことになりかねないので)、産卵を終えたウミガメが大海へ引き返していくように、私はこれまで通りの退屈な生活に向かって、寄り道はせずにただまっすぐ戻ることにした。
彼女がいなくなってから数年が経ったが、それでも私は彼女が無事であることを願いつつ、あの家具屋に通いつづけた。店内で本を読んでいたらそのうちにひょっこりと彼女が何事もなかったかのように戻ってきて、あの時と同じように夕暮れ時にまた秘密の暗号のような風変わりな注意をしてくれるかもしれない、と私は心のどこかでいつも思っていた。
それからさらに月日が百代の過客のように過ぎ去っていったある日、私は大学時代の友人の結婚式に出席するために、生まれて初めて電車を乗り継いで長崎へ行くことになった。
六時間ほどかけて長崎駅へ到着したが、結婚式までにはまだあと五時間も余裕があった。私はそこそこの心配性なので不測の事態に備えてなるべく早く到着できるようにしておいたのだ。しかしさすがに五時間もあるうえに、その日はやけに外が冷え込んでいたので、私は会場に行く前にどこかの喫茶店でココアでも飲みながら時間をつぶすことにした。
私は駅から十分ほど歩いたところにある狭い路地裏にこじんまりとした小さな喫茶店を見つけた。入口のドアを開けると、カランコロンと小気味の良い音がした。静かな店内には古いジャズが小さな音で流れていて、私はすぐにその喫茶店の雰囲気を気に入った。私は外の通りが見える窓側の二人掛けの小さなテーブル席についた。温かいおしぼりで手を拭いてから、さっき使ったのとは逆の面で顔全体も拭いた。それで長崎までの長旅の疲れが少しだけ取れたような気がした。それからメニューをひと通り吟味し、エスプレッソとココアのどちらかで迷ったがやはりココアを注文した。
私はココアが来るまでぼんやりと窓の外の寒そうな景色やほんのりと暗い落ち着いた雰囲気の店内を眺めていると、奥のテーブル席に見覚えのある女性がひとりで静かに本を読んでいるのが見えた。よく目をこらしてみると、それは間違いなくあのとき忽然と姿を消したあの不思議な女性だった。しかし彼女の失踪はずいぶんと前のことだったので、彼女のことをようやく忘れかけていたのだが、今こうして目の前に突然彼女が現れたのをきっかけに、私のなかで眠っていた彼女に関する記憶が一瞬で呼び覚まされた。彼女は少し痩せたようにも見えたが、やはりあいかわらずきれいだった。家具屋以外のところで彼女を見るというのは変な感じがした。彼女の裏側をのぞき込んでいるような感覚があった。それはちょうど、隠れた森の奥で小さな妖精たちがひっそりと茶会を催しているところを目撃してしまったみたいだった。妖精たちは誰かに見られたことに気がついた途端に小さな光の粉となって風の中に消えていってしまう。喫茶店にいる彼女もこちらの視線に気がついて、家具屋から突然いなくなったあのときと同じように、また私の前からふっと音もなく消えてしまうのではないか、という闇夜のインディアンたちの襲撃のように唐突で救いようのない不安に私はあっという間に包囲された。
しかし幸運にも彼女は私の視線には気がつかないまま、手元の文庫本に目を落としていた。長崎の路地裏にある小さな喫茶店で彼女はいったいどんな本を読んでいるのだろうか。やはりヘミングウェイの本なのだろうか。きっとそうに違いない。彼女は〈本〉ではなく〈ヘミングウェイ〉と何度も注意していたくらいなのだから。いやしかし、あれはもう何年も前のことだし、彼女も私と同じようにその何年分かをそれなりに生きてきたわけだから、いくらヘミングウェイがいちばん好きだからと言っても、さすがにヘミングウェイ以外の作家の本もあれからたくさん読んできたに違いない。普通に考えて。あるいはひょっとするとヘミングウェイなんかもう好きでも何でもないということになっていてもおかしくはない。人間の趣向なんて輪ゴムを指でぴょんと跳ね飛ばすくらい簡単に変わってしまうものだ。けれども私は、彼女には普通の考えというものはほとんどまったく通用しないようにも思えた。
私はそんなふうにあれこれと考え事をしながら彼女を見ていたところ、注文したココアがソーサーをかたかたと鳴らしながら運ばれてきた。店員にどうもありがとう、と礼を言い、ココアをマドラーでかき混ぜた。それからココアを一口すすった。とても濃くておいしいココアだった。それでますますこの店のことを私は気に入った。
そこでふと視線をココアから彼女が座っていた奥のテーブル席のほうに移すと、そこには彼女の姿がなかった。その瞬間に心臓が急に変な音を立ててから鼓動がとても速くなり、私は水から打ち上げられた淡水魚のように息苦しくなった。まさか。そんなはずはない。私がココアを飲んでいるほんの少しの間に、彼女は本当に森の奥の妖精のように消えてしまったのか。普通ならありえないことだけれども彼女ならあり得る、と私は思った。私にとって彼女は、言うなれば、かぎりなく現実に近いフィクションのような存在だった。だから光の粉になって風に消えたって何も不思議じゃない。
しかし、よく見ると彼女が座っていたテーブルの上には彼女がさきほどまで読んでいた文庫本が閉じた状態で置かれていた。彼女はまだこの喫茶店にいる。お手洗いに行っただけだ。きっとそうだ。そしてあの文庫本はやはりヘミングウェイなのだろうか。テーブルの上に置かれている文庫本を見つめていると、だんだんその本の中身がいったい何なのかが私は気になって仕方がなくなってきた。今ならトイレに行くふりをして向こうのテーブルまで行き、本のタイトルを確認することができる。チャンスは今しかない。と考えているときにはもうすでに私は席を立ち、彼女が座っていたテーブル席のほうへと歩き出していた。細かく震える手(私はどうして自分の手が震えているのかがよく理解できなかった)でテーブルの上に置かれていた文庫本をためらうことなく私は手に取った。
それはアーネスト・ヘミングウェイの『移動祝祭日』だった。この本は1920年代のパリにおけるヘミングウェイの苦悩と悦びに満ちた修業時代を綴った追想記だ。やはり彼女が読んでいたのはヘミングウェイだったのだ。それを知って私はなぜだか涙が出そうなくらい無性に嬉しくなった。そして不思議とこれまでの自分のつまらなかった人生を丸ごとぜんぶ肯定されたような気分になった。気がつくと私は訳がわからないまま、声にもならない小さなかすれた声で、ありがとう、とつぶやいていた。私はヘミングウェイの文庫本を手にしたまま放心状態で彼女のテーブルの横に突っ立っていた。
やがてトイレから彼女が戻ってきた。そして彼女はぼうっと立ったままの私の目を見て「それ、いい本なのよね」と私が手にしていた文庫本を指で示しながらそう言った。
たしかにいい本だ、と私も思った。
奇想短篇小説『ヘミングウェイ』