聖者の行進(3-1)

三ー一 ある男

 ある朝、D夫が起きると、死んでいた。や、やこしいなあ。どういうことや。つまり、こういうことだ。
「や、やかましい」
 D夫は、耳の中に飛びこんで来た大音響に目覚めたのだ。
「誰や。こんな、朝っぱらから、騒がしい奴は」と、言いながら、今が、朝かどうかはわからない。失業中の彼にとっては、毎日が日曜日。勤務を要しない日。勤務したいけど勤務を拒否された日。最近では、勤務することすら忘れてしまった日。勤務することがいやになった日。勤務したくない日。勤務という言葉が消え、ある日というだけになってしまった日。そう、彼にとっては、曜日の境目を必要としなくなったのだ。と、同時に、彼もある男となってしまった。
 そんな日が続くにつれ、彼は夜遅く寝て、おてんと様が、頭の真上に来る頃に目覚めることが多くなった。昼夜、逆転現象だ。たまには、西日の暑さで目が覚めることもある。つまり、夕方まで寝ていたということだ。そんな訳だから、彼には、今が朝なのか、昼なのか、夜なのか、分からなくなっている。だから、「朝っぱらから。じゃかましい」というのは、正確な言い方じゃない。もちろん、ここで、彼の言語表現の間違いを指摘するつもりはない。とにかく、彼にとってはうるさいことに変わりはないからだ。
 彼は思う。
「俺の睡眠を妨げるものは、何だって、許されるわけじゃない。俺が、誰かに頼んで、屋外ちんどん屋を頼んだ訳じゃない。う、う。まさか?ひょっとしたら、いつか飲んだ立ち飲み屋で、たまにしか会わない常連客(?)に、依頼したかも知れない。う、う、覚えていない。あ、あ、あ、あの時のことを思い出せ。もし、万が一頼んだとしたら、今、ここで、窓を開け、大声で「静かにしろ」と叫べば、相手に申し訳ないことになる。いくら、世間からつまはじきにされようが、義理人情に厚い俺様としては、例え、世間が非常識を常識としていても、俺の中での非常識なことはできない」
 彼は、布団を跳ね飛ばし、いや、跳ね飛ばすことなく、そのまま起き上がった。
「な、なんだ。これは。手品か、マジックショーか。俺の体が、布団をすり抜けてしまったぞ。窓ガラスを開けようとしたら、右手もすり抜けてしまった。なんじゃ、これは」
彼は、じっと手を見つめる。だが、確実に、彼の手だ。皺もある。彼は、左手で、右手を握ろうとした。ここでようやく、彼は真実を悟った。彼の左手は、右手を握れずに通り過ぎてしまったのだ。
「おお、なんてことだ。いつの間に、右手と左手がこんなに仲が悪くなったのだ。握手さえもできなくなったぞ。いや、待て。俺は何を馬鹿なことを言っているんだ。いくら仲が悪かったとしても、ぶち当たって喧嘩することぐらいできるはずだ」
 彼は、再度、両手を見る。どう見ても、糞は掴んでも、金がたまりそうな手ではない。唯一の誇りは、生命線の長さだった。
「おおおおっつと」
 再度、手相を観た。彼は安心した。生命線は、カーブを切りながら、手首まで繋がっている。彼はかつて、あまりの貧しさ、人生への見通しのなさに、「死んでやる」と叫び、一度、発作的に、手首を傷つけようとしたが、あまりに、手のひらの生命線が短かったので、逆に、傷をつけて、生命線を伸ばそうとしたこともあった。それ以来、他人に誇れるぐらい生命線が長くなった。
「つまり、俺は、死んでやるといいながら、生きたいわけだ」ということを悟る。いい話だ。
 さて、彼は、再度、手のひらを確認する。生命線は昨日のとおりだ。図書館で借りた手相の本を読んでから、毎日、日記を書く代わりに、手相を確認するのが日課となった。もちろん、手相を観たところで、昨日の長さと今日の長さを覚えている人はいない。
 だが、彼は違う。彼は彼なりの科学的証拠を探し求めた。そこで、彼が思い付いたのは手のひらの線作戦だ。
「何、もう一度、自殺をしたい、のかいだって?ブーだ。統計学的に、自殺を試みて助かったものは、もう二度と、自殺を試みないらしい。もちろん、何度でも、自殺を試みるものはいる。統計は、結果であり、総計だ。どんな世界でも、少数派は必ずいる。それが、俺だ」
話を戻す。彼の手のひらの線作戦だが、生命線の末端に、赤ボールペンで印を付け、前日よりも長くなっていないか、短くなっていないか、確認するわけだ。常識的に考えれば、日差しじゃあるまいし、生命線が伸びたり、ちじんだりするわけはない。だが、彼は強迫観念にかられて、毎日、手のひらを、生命線を確認するようになった。
 彼のモノローグが続く。
「だからこそ、長生きすると確信していたのに、一体、このざまは何だ。もちろん、俺も、本だけの知識じゃ信用できないから、占い師に相談したことがある。○○の母だっけ。母と言っても、俺の実母じゃない。確か、自らの存在を誇示するかのように、全ての肉塊が外に溢れ、津波か土石流のように、他人の人生までも飲み込もうとしている体型だった。俺は、圧倒された。毎日、ろくなものを喰っていない俺にとって、土偶が化粧をしたような○○の母は、思わず仰ぎたくなるとともに、なんかちょうだいと、手を差し出したくなるほどの風格を備えていた。
 それなのに、「はい、三千円」と○○の母(長い風雪が、彼女の心を黒く汚してしまい、清音から濁音がついたババになってしまったのだ。何と、嘆かわしい)が手を出す。俺もすかさず、手を出す。先に見てくれ。後だしじゃんけんは厭だ。ババも手を出す。先に金を出せ。見た途端、ダッシュで逃げる客だろう。お互い、声にはを出さないけれど、腹のうちはこう思っている。まずは、手相。まずは、金。互いに譲らない。小さな台の上に四つの掌が上を向く。もちろん、手のひらの上には、たなからぼたもちも、二階から眼薬も落ちて来ない。うーん、いやになっちゃう。
 互いに、手のひらを見つめる四つの眼。緊張しているのか、周りの空気が冷たいのか、手のひらか湯気が沸き上がる。「うーん、見えた」無言の戦いの中で、先に声を発したのは占いばあさんの方であった。やはり、金が欲しいらしい。
 ばあさんが叫ぶ。「あんたは、死ぬまで生きられるぞ」俺はガクッとした。当り前じゃ。そう、心の中で突っ込みながら、大きく肯く俺。ばあさん曰く。「わしは、手相だけじゃなく、人間の体から発せられる体温や息、呼吸などから、その人の人生が占えるんじゃ。日本では初めて、いや、世界でも、この占いができるのは、わしだけじゃ」と、今、思い付いたようなことを自慢げにおっしゃられる。「名付けて、「オーラ占いじゃ。どうじゃ」
 どうじゃと言われても答えようがない。反対に、「オラオラ、ふざけやがって」と占いばあさんのしなびた胸倉を掴みたくなりそうだ。だが、ばあさんの一言「心配しなくても、あんたは、長生きするよ。ほら、見てごらん。手首まで生命線が伸びているじゃないか。長生きの証明だよ」と、何の根拠もないけれど、力強い応援の言葉をいただいた。もちろん、長い生命線は人工物のものだが。
そうだ、それなのに、何故、俺は死んだんだ。じっと手を見る俺。観相料は三千円を二千円に値切った。千円分ケチったのが原因なのか。それで、千円分早く死んだわけか。そうすると、俺の命は一秒、一分、一時間、一日、一月、一年当たり、いくらになるんだ。その程度の価値しかないのか。
 おおおおおっ。今、気がついた。俺の生命線のまん中ほどが途切れている。そう、つながっていないのだ。これが原因で、俺が死んだのだ。くそっ。占いばあさんめ。生命線の最後尾だけ確認して、真ん中を見逃しやがった。中抜けだ。これも、千円ケチったせいか。
それじゃあ、生命線が途切れた後の、生命線はどうなるのだ。糸が切れた凧じゃないけれど、生命線だけが生きられるわけはないだろう。後半部分の生命線は、何の意味があるんだ。まさか、単なる皺なのか。それとも、後半部分が、俺の死んだ後の、生命線なのか。死後の生命線。死命線。そんなものあるのか。なんだか、馬鹿馬鹿しい。
 まあ、兎に角、俺は、死んだことだし、今さら、ばたばたしても仕方がない。ここは、じっくり、死後の世界を生きるしかない」
D夫は、自分が死んでいることを確認させていただいた、あのじゃかましい音の存在を見ようとした。窓を開けなくても、体が勝手に外に出る。
「しまった。ここは、二階だ。下に落ちてしまう。何を隠そう、いや、隠しているわけではないが、俺は、高所恐怖症なんだ。そのくせ、旅行に行ったら、お城の天守閣や高層ビルの展望室に上がり、街の全景や真下を眺めたがる。豆粒ほどの車や人を見ると、地面に吸い込まれそうな感覚になる。足ががくがくする。だが、ぎりぎりまで窓際に近付いていく。目の前のガラスを突き破って落ちたらどうなるんだろうか。死ぬのに決まっている。自分が落ちていく様子を頭の中で想像する。地面に激突したら死。その死ぬまでの間の浮遊感覚。一体、どんなものだろう」
 D夫は遠い目から近い目に切り替えた。
「なんだ。こいつら」
 D夫が見たのは、本当に、この世に生きていた時に、この街で住んでいたのか、と思わせるような奴らばかりだった。
「俺は、こいつらと同じ空気を吸い、同じ街に住み、ひょっとしたら、どこかのスーパーや商店街、喫茶店、駅、バスの中、開店前のパチンコ店の前、酔い倒れた地下街のベンチの前で、会っていたかもしれない。だが、覚えてはいない。しかし、何か、匂い、そう、何日も風呂に入っておらず、乾いた汗の上から、また、汗を掻き、汗が何層にも積み重なり、結晶がかさぶたとなったような汗だ。また、服も、下着から始まって、シャツやズボンは着替えられず、汗が瞬間接着剤のように、皮膚と衣服をひっつけ、亀の甲羅や爬虫類の皮膚のように同化している。へたに引きはがそうものなら、血だらけになってしまいそうだ」
 D夫が見た霊たちは、この狭い町に折り重なるように座りこんでいた。まさか、自分が生きている時に、こんなに多くの霊がこの街に住んでいる(?)とは思ってもいなかった。だが、現実に、霊たちはいる。街を循環するバスの屋根の上に座り込み、足をぶらぶらさせたり、ハトと並んで電線にぶら下がっていたり、どこへ行くあてもないのか、道路の上で正々堂々と横たわっていたりする。その体の上をトラックやバス、商用車のタイヤが踏みつけていく。霊たちは、タイヤにお腹を踏まれるたびに、頭と足をV字型に持ち上げ、腹筋運動を繰り返している。その数、何百、何千、何万だ。まさに異様な光景だ。この世の地獄だ。
 D夫は、自分は死んでいるんじゃなく、夢を見ているんじゃないかと、頬をつねる。痛くない。「やっぱり夢か。それとも死んでいるのか。よくわからん。まあ、どちらでもいい」D夫は自分の部屋から出ようとした。ドンドンドン。扉を叩く音がする。
「誰だ」
「D夫さん。D夫さん」大家さんの声だ。
「俺ならいるよ」返事をするが、相手には聞こえないらしい。
「あたしが開けます」「お願いします」大家さん以外にも誰かいるらしい。ガチャガチャガチャ。鍵を回す音。このおんぼろアパート(安い家賃で借りているくせに、大家さんごめんなさい)は、元々建て付けが悪いせいなのか、古くなって歪んできているのか、D夫が乱暴に取り扱ったのか、ドアの開閉がしづらい。ドアをちょっと斜めに持ち上げながらでないと開かない。このちょっとしたコツが、長年住んでいる者でないとわからないのだ。どうだ、すごいだろう。これこそ、学校では習わないけれど、社会で生きて行く知恵なのだ。(そんな大げさな)。
 D夫は、大家さんがドアを開けるのに苦労しているので、助けてあげようとドアに近づいた。
「開いた」ドアが急に開き、D夫の顔面にぶち当たる。だが、大丈夫。ドアは素通りした。勢いよく入って来たのは、大家さんと警察官二人。D夫の体に近づき、「D夫さん。D夫さん」と大声で叫んでいる。
「そんなに叫ばなくても。聞こえるって言うのに」D夫は、後ろから大家さんの肩を叩こうとしたが、手は通り過ぎ、一回転して舞い戻った。片手クロールだ。だが、空気を掻いても前には進まない。そんな彼の一人芝居に誰も気づいてはくれない。
「こりゃあ、死んでいるね」一人の年配の警官が呟く。
「殺人事件ですか?」大家さんが恐る恐る聞く。
「外傷はないから、違うね」
「じゃあ、自殺?」
「うーん。検視してみないとわからないけれど、手首を切った跡もないし、薬物を飲んだ様子もないから、心臓麻痺かなんかじゃないですか」
「心臓麻痺ですか」
「なんかとは何だ。十把ひとかけらみたいに、人の死を扱いやがって。だけど、死因は心臓麻痺か。どうりで、最近、胸が苦しいと思っていたんだ」
 D夫も三人の横に並ぶ。掛け声をすれば、一、二、三、四。そう、ぴったし、四番目で死だ。
 D夫は失業してから、金がないため、ろくな物を食べていない。もちろん、病院なんて行けるわけがなかった。
「この後、どうしましょうか?」大家さんが尋ねる。
「とりあえず、死因を確認する必要がありますので、検視します。今からお医者さんを呼びます。何にも触れないで、このままの状態にしておいてください。それと、この方に身内はいますか?」
「さあ、わかりません」
「賃貸契約書に保証人が書いていませんか?」
 もう一人の若い警官が質問する。
「うちは、安アパートなので、そんなものはありません」
「そうですか。まあ、少し、部屋の中を探してみて、手紙か何か手掛かりになるようなもの見つけましょう」
 警官二人と大家はD夫の部屋の中の荷物を探し始めた。
「探したってなんにも出てやきないよ。俺は天涯孤独なんだ。それに、いつまでも、ここにいても仕方がないから出て行こう。あばよ。これまで、ありがとうな」
 D夫は、自分の肉体にお別れをすると、二階の窓から外に飛び出した。

聖者の行進(3-1)

聖者の行進(3-1)

死んだ者たちがかつて生きていた街を行進し、どこかへ向かう物語。三ー一 ある男

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted