ホラー短編集

松井 理以

  1. 少女と血
  2. 善良な市民
  3. どうして大人なのに
  4. 少年と軽蔑 (凍ったカリフォルニア)
  5. ドリームハウス
  6. 部屋の中の生き物
  7. ズボン下ろし
  8. 運命の人

少女と血


 少女は悩んでいた。少年としたあの行為がどうにも間違っているような気がして仕方がなかった。これは少女の生まれ持った鋭い勘が告げていることで、これと同じような予感で間違っていたことは一度もないのだった。
 少女と少年は近所に住んでいる子ども同士で、親ぐるみの長い付き合いがあった。友人と呼ぶには性別の違いがそれを隔てていたけれども、会えば挨拶をし、親しみのこもった世間話もした。お互いに憎からず思っていることは明らかだった。それが単純な友情としてか、思春期の芽生えかけた淡い恋情なのかは分かっていなかった――その二つの区別すら、分かっていない年分だったのだ。
 少女は“あれ”を反芻する。例のあの日、少年は思いつめた様子で少女に言った。
 「やってみたいことがある。でも、ほんとうに出来ることなのかわからないんだ」
 「ほんとうに出来るかわからないって、どういうことなの?」
 少年は目を伏せて答えた。
 「そんなもの、ほんとうはないかもしれないんだ。でも、あるような気がする。ぼくはあるような気がしてならない。だからそれがほんとうにあるのかどうか、確かめたいんだ」
 きみも協力してくれないか、と、あまりにも真剣な顔でいうものだから、少女は頷くほかなかった。少年のことが好きだったし、少女で助けになることならば断る理由はなかった。
 そして少年の家の暗い倉庫の中であの行為が行われた。二人ともまっぱだかになり、少年と少女のいちばん“ちがうところ”をいじくったり、すりつけたりした後、少女の側のものすごい痛みと共に、少年と少女は”いっしょになった”。
 少女は痛みにしばらくの間耐えた後、気のせいのように微かな心地よさが産まれて何度か行き帰りするのを感じた。そちらに集中して目を閉じていると、少年はようやく動きを止め、その行為は“終わった”。
 こうなれば、少女も心地よさはすっかり忘れ、自らの股の間を流れる血に混乱と動揺を止められなかった。立ち上がって、裸のままむやみにぐるぐると歩き回った。
 「大変、怪我をしてしまったわ。手当てをしなくちゃ」
 少女はその時のことを思い出して、ぎりぎりと唇を噛んだ。あの人、わたくしが怪我をしているのに、手当てもさせてくれなかった。少年は手当てはきっと必要ない、すぐに止まると言いながら少女の体を優しく抱きしめたのだった。
 「やっぱり、あったんだ。ぼくの考えは正しかったんだ」
 少年はそんなことを言った。少女はそんなことより、自分の股から血がだらだらと出ていることが、恐ろしくて仕方なかった。
 あれは、あの人がわたくしに怪我をさせたのよ。あの人、最初からわたくしに血を流させるのが目的だったんだわ。
 ……でも、なんのために?
 少女にはどうしても分からなかった。



 その一週間後、少女の股からは止まっていたと思われた血が再び出始めた。
 また傷が開いてきてしまった。少女は布を当てて強く抑えたが、今度は血が止まる気配を見せなかった。それどころか、ますます量を増して流れ出ているようにも感じる。
 思いつめた少女は、思い切って母親に聞いてみることにした。
 「ねーえ、わたくしは遊ぶのが大好きでしょう。でも、数ある遊びの中にも、怪我をしてしまうような危ないものがあるわよね」
 何気ないそぶりを装って少女は話し出す。
 「駆けっこをしたら転ぶし、はさみを使っている時に手を滑らせたら切ってしまうわね。わたくし、近頃、遊んでいる時によく血を流すのよ。血が出るような遊びはやめるべきかしら?」
 「あなたが気をつければ危ないことにはならないはずです。しかしあんまりお転婆をしてはいけませんよ」
 少女の瞳を愛しげに見ながら、母親は言った。
 「はあい」
 「しかし、男の子と遊ぶ時だけはお気を付けなさいね。変な遊びをしようと言われたら必ず断るのよ」
 少女はどきっとした。
 「変な遊びって?」
 あなたのここを触ってくるようなことがあったら、駄目と言わなくてはなりません。母親は自らの下腹部に手を当てた。
 「それをしたら……ここから血が出たりするのかしら?」
 少女にはそれをまるで他人事のように言ってみせるだけのかしこさがあった。母親は少女の発言に少し目を吊り上げて、不快の色を顔に浮かべた。
 「あら、どこでそんなことを学んだのかしら。その通りよ。けれど、もしそうなったら、とても大変なことなのですからね。あなたには、まだあってはならないことなのよ」
 母親は諭すように言う。
 「もしそれをしたら、その人とは結婚をしなくてはならないのよ」
 母親は大人らしい愚鈍さから、少女の顔色が変わったことを見抜けなかった。少女は理知的な瞳に決意を灯し、回転の速い頭の上にある考えを巡らせていた。



 「お母様に聞きました。わたくし、あの日あなたにされてはならないことをされてしまったのね」
 次の日、あの行為をしたのと同じ場所で、少女は高潔な怒りを顔に張り付けて少年を責めたてた。彼女のすべらかな手には、細い縄とナイフが握られていた。
 「どうしたらよいのか、一所懸命考えました。それで、あなたにも同じ思いをしていただくことにしましたの」
 無自覚な負い目がある少年は、少女に自分の体を後ろ手に縛られるのを困り顔で見ていることしか出来ない。
 「あなたにも血を流して頂くわ。それが公平(フェア)というものよ」
 「やめてくれ。そんなことをしたら、死んでしまうかもしれない」
 少年は弱り切った様子で言う。しかし少女の手は止まらない。
 「ええ。胸や首を傷つけたら、人間はすぐに死んでしまうと聞いたわ。ですから、そこ以外から血を流してもらいます」
 少女は賢しげな口調を崩さない。
 「あなたを傷つけることが目的ではありませんから、私が流した血の分だけでかまいません。でも、血はあなたのせいで今でもここから流れ続けておりますのよ」
 それを聞いて、少年は罪悪感から顔をさらに歪めた。考えなしに少女に行為を強いたことを後悔しながら、観念したように体の力を抜く。
 気が付くと、少年は身じろぎも出来ない程きつく縛り上げられていた。
 「どこから切ればいいかしら」
 「どうしてもやるなら、痛くないところにしてくれ」
 「わかったわ」
 少女は、少年のズボンから露出した小さな足を白い手で握った。そのいたいけな、成長しきらない足の裏に、少女は試しに少しだけ2センチほどの傷をつけた。
 少年は唇を噛んで声を出すのを抑えた。傷口からはじわりと赤が滲み出た。少女は不思議そうに少年の足を掴み、血の鼓動を感じる。
 「どくどくと言っているわ」
 「もういいかい」情けない声。
 「いいえ、私が流した血はもっとたくさんなのよ」
 言いながら、少女は脹脛にナイフを軽く突き立てる。少年は苦痛の悲鳴を上げた。
 少女はその大きな声に慌ててナイフを慌てて抜く。真っ赤な血が後から後から湧き上がり、重力に従って床に垂れていった。
 「あら、痛そう。痛そうね」
 「ああ!」
 「ごめんなさい。こうすれば、痛みが引くかもしれないわ。お母様がわたくしが転んだ時に一度やって下さったの」
 少女はその場に跪き、少年の足の傷に口づけた。顔を上げた少女の唇が赤く染まっている。
 「ほうら、これでもう安心してよくてよ。すぐに効いてきて痛みもなくなるんですから」
 普段より少し大きくなった赤い唇で弧を描き、少女は微笑んだ。
 少女の慈悲深い笑みに、少年も力なく微笑み返した。男として情けないところは見せられないという少年の信念が、叫んだりむやみに痛がることを躊躇させていた。
 「さあ、もうこれでぼくを離してくれるね。こんなにたくさん血を流したんだから」
少女は不思議そうに首を傾ける。
 「そうはいかないわ。わたくしが流した血はもっと違う色をしていたの。どす黒い色よ。わたくしと同じ血を流さないことには、おんなじということにはならないわ」
 少年の顔は引きつった。片方が動かない足を懸命に動かし、少女から逃げようとするが、優しい抱擁で捕まえられてしまう。
 「ね、次はここを試してみましょう」
 吸い込まれるようにナイフの先端が少年の下腹に突き刺さる。少女は思い切り力を込めて、成長しかけの筋肉が侵入を拒む少年の腹に、ぐいぐいとナイフを押し込んだ。切れ味の悪いナイフに、刺したからには最後まで差し込まなくてはならないという少女の幼い律義さが相まって、少年の感じる痛みは比類なきものとなった。今度こそ少年は大声で叫んだ――泣きながら。
 「……血が出ないわ」
 少女は低い声で言った。
 「いたい、痛い……」
 「黙りなさい。血も出ていないのに、男がそんなに大声で泣くものではないわ」
 「熱い、熱いんだ。抜いてくれ…」
 少女は短く仕方ないわね、と言ってナイフを力を込めて引き抜こうとした。刺すのも抜くのも想像以上に力の要る作業で、少女の額には汗が滲んでいた。
 少年は苦悶の中に何かを考えるように表情を浮かべ、少女を制止した。
 「なんだか嫌な予感がする。やはり抜くのは止めてくれないか」
 「何を言うの、あなたが抜けと言ったのよ……」
 少女は言いながらナイフを一息に引き抜いた。ナイフという蓋を失ったそこから、血が噴き出すように溢れた。
 「いけない。今度は、出すぎてしまったわ」
 少女が狼狽える。その身体は返り血に濡れていた。
 少年は痛みというより、自身の体から抜け出る血の多さに驚き、「どうしよう、どうしよう、このままでは死んでしまう」と情けない声を上げた。
 「大丈夫よ。だってここは心臓や首ではないもの。死ぬはずがないわ。お母様もそう言っていたもの」
 少女は確信めいた口調で言った。母親は正確には「心臓や首から血が出たら死んでしまう」と言っただけで、他の場所から血が出ても“死ぬはずがない”とまでは言っていなかった。しかし、幼い少女ではそれが分からなかった。
 「……もう、耐えられない。早く病院につれていってくれ」
 少年が喘ぎながら言った。
 少女はすぐに返事をせずに、痛いと繰り返す少年の顔をじっと見つめた。首を傾げ、長い黒髪を揺らす。
 「私は血を流していますけど、不思議と痛みはないのよ。あなたばっかり痛いのは公平(フェア)ではないわね。わたくし、痛くした責任を取るわ。」
 少女は悲しそうに言う。
 「僕はそんなのはどうでもいい」
 「どうでもいいってことはないわ。……そうだわ。ここと同じ場所を刺して、痛い思いをすればおあいこになるわ」
 少女が場所を確認するように血を流す少年の傷に直接触れた。少年は痛みに呻いた。少女は鋭い目をしたまま自分の下腹に触れる。
 「そんなことはしなくていいから、はやく、……」
 「自分で自分に傷をつけるのはいやなの。だからあなたがやってくださる。お願いね」
 少女は無垢な目で懇願し、少年の手にナイフを握らせた。そのナイフはすぐの少年の掌から床へすべり落ちる。少年は最後の力を振り絞るように吐き出した。
 「病院へ…」
 「病院なら、あなたがわたくしのお腹を刺してくださった後に一緒に行けばいいことよ」
 少女のそのきっぱりとした物言い、そして瞬きもせずに少年を見つめる意志の強い瞳を見て、少年は自らの運命を悟った。
 少年は息も絶え絶えになり、少女がつけた傷が血と共に命を同時に抜いていった。少年の顔は青ざめ、体は氷のように冷たくなっていた。
 「…もう、殺してくれ。心臓でも、首でもいい。いっそひと思いに、殺してくれ」
 その喉から、年若い少年のものとは思えないしわがれた声がしぼり出る。
 「どうしてそんなことをおっしゃるの。わたくしはあなたを傷つけたいわけではないのよ」
 少女の花の蕾のような無垢さと無知こそが、少年の絶命に至る苦痛を長引かせているなどと少女には思いもよらなかった。
 少女は力なくうなだれる少年に、心からの同情を寄せた。
 「ああ、おかわいそうに。もう心配しなくていいのよ。もう充分です。あなたは私と同じだけ血を流してくれました」
 少年を抱きしめ、体を血に濡らしながら、励ますように、優しく声をかける。冷たい少年の額の上を何度も少女の可憐な赤い手が行き来する。
 少女は少年の冷たい頬に口で触れた。その唇から歌うように希望に満ちた声があふれる。
 「お母様が言っていたわ。こうなってしまったからには、わたくしたちは結婚しなくてはいけないんですって。ね、大人になったら結婚して、ふたりで幸せに暮らしましょうね……」



善良な市民

男は今年で42歳になる。
人生のほとんどの時間をあてがわれた六畳ほどの自室で過ごしてきた。誰かと言葉を交わしたことがないので、未熟な言語能力しか持たない。漢字が混じってくると読む速度が極端に落ちる。書くことは全くといっていい程出来ない。
しかし、彼は別に小説家になろうというわけではないので、その程度の能力があれば全く問題はなかった。

彼にあったのは逞しい腕の筋肉だ。二の腕や前腕に立派な筋肉がついている。そして、皮の厚い指があった。
男が生きていくにはそれで充分だった。文字通り、それだけで充分だった。

外に出て運動をするというわけではないから、その他の筋肉は限界まで弱っている。恐らく彼のいつも座っている床から立ち上がったら、その場で崩れ落ちてしまうというぐらいの細っこい足だった。
しかし、彼には腕の筋肉があるので、生きるのには問題などない。

毎日、部屋に配達される2つ以上の鉄の塊---大きいものも小さいものもあるが、見たこともないような不思議な形がほとんどだーーーを、ボルトとナットで繋ぎ合わせるのが男の仕事だった。

男がその逞しい筋肉で(腕の)ネジを締める。そうすると鉄の塊と塊が密着にくっつく。びくともしなくなるほど硬く締める。それが男の仕事。男が知る必要があるのはそれだけだった。

ネジを締める作業にそれほどの筋肉は要らない。「人並みの筋肉」があれば充分だ。しかし男は人並みの筋肉とはどれぐらいのものかも知らない。
真面目で向上心の強い男は、自主的にダンベルを使った筋トレに励んでいる。よいネジ締めの仕事をするためだ。しかし彼がどれほど筋トレに励もうと仕上がりは大して変わらない。

1日が終わると、部屋に備え付けられたテレビからこんな音声が流れる。
「今日も誇りある仕事をありがとうございました。明日もこの調子で頑張って下さい」
優しい女の声だ。この声を聞くのが男の癒しだった。疲れている日もこの声を聞くために頑張って仕事をする。
この声の人の顔を見られたらどんなに良いのにと思うこともあるが、人の顔を映像で見るのは禁止されている。

1日の終わり、「今日もお疲れ様でした」の声が流れた後は、必ずいかめしい中年男の声でアナウンスが続く。
「危険!ニンゲンカンケーに注意。ニンゲンカンケーはあなたの人生を破壊します。絶対に手を出してはいけません」

ちなみに同じ文章はテレビにも映し出され、ポスターで部屋にも貼られている(男にも読めるように全て平仮名だ)。
男はこういうものを毎日見聞きして過ごす。

「ニンゲンカンケーは、初めは多幸感や刺激をもたらしますが、次第に依存を高め、無しではいられなくなってしまいます」
「ニンゲンカンケーに手を出した人の映像をご覧下さい。ショッキングな映像も含まれますので予めご了承下さい」

テレビには、男が見たこともないような四角い場所ーー四方に柵がかかっているーーにいる見知らぬ男女が映し出される。
すぐにテレビに注釈が出て、「さくの外に出ると死んでしまいます」と説明された。分かりやすくて助かった。
顔を見るのは禁止されているので、顔にはモザイクがかかっている。
女の方が恐ろしい形相でわめき立てた。
「待ってよ。別れるってどういうこと」
その常軌を逸した様子に、男はぎょっとしてテレビから目を逸らしそうになった。
「だから何度も言ってるだろ。お前の束縛が鬱陶しいんだよ」
もう片方の男はため息まじりに言う。女の方ほど取り乱してはいないが、その声は聞いたこともない程疲れ果てた様子だ。人間関係の弊害の一つ、途方もない疲労感に当てはまるのだろう。
「あーあ、やっぱ。危険性の高いニンゲンカンケーになんて手を出さなきゃよかったんだよな……トモダチで満足しときゃよかった」
「なにそれ、ひどい。はじめに試してみようって言ったのはあんただったくせに……!」
女は男をその場所の端に追い詰めた。喚きながら柵を越える。
「あんたを道連れにして、私も死んでやる……」
「お、おい……やめろ」
もみ合いが続いた後、二人はその場所から一緒に落ちていった。少したった後、パーンと破裂するような音がして、男はびくっとした。今のは…なんだか分からないが、二人が死んだ音に違いない。この柵の外に出ると死んでしまうと言っていたし。

「今の映像は、ニンゲンカンケーの中でも最も依存性の強い、レンアイに手を出した人々の壮絶な最期です」
おごそかな男の声がそう告げる。
「二人はこの後即死しました。レンアイを始めとしたニンゲンカンケーには、一度手を出すと無しではいられなくなり、それを得るためには暴力などの反社会的行動を厭わなくなるのが特徴です」

「ニンゲンカンケー依存か……僕も、こんな人たちみたいにはなりたくないものだなぁ」
そんな風に思った後、男は自嘲気味にふっと笑った。
「そんなこと言いながら、僕も笑っていられる立場じゃない。だって、僕も軽度のコエ依存症だもの」
そう言って男は、リモコンについたボタンを押した。するとすぐに優しい女の声がテレビから響く。
「今日も良い1日ですね」
もう一度押す。
「お仕事ははかどっていますか?」
柔らかい、絶妙な高さの女の声。この声を聞くと、男の頭はぽーっとしてくるのだ。
「ニンゲンカンケーに依存性があるってのは想像出来るな。コエを聞くだけでこれだけいい気分になれるんだから、現実の人間と話したらどれほどの刺激だろう」
男は自分の給料の多くを、この声の再生に使っていた。
配信される声を聞く行為にも依存性はあるものの、成人しており適量を守れば許されることになっている。しかし、ニンゲンカンケーに手を出す入り口になりかねないと警告を発する人もいるようだ。
「それでも、禁止されているニンゲンカンケーに自分から手を出して、あんな風に取り乱すようなバカはしないぞ。コエは合法だし、僕は適量を守るようにしてるし」

男はこの部屋の外に自分以外の人間がいることは知っていた。顔をマスクで隠し他人と会話を交わさないという規則を守れば、外出自体は禁止されていない。しかし男は危険ニンゲンカンケーに手を出すリスクのある外にわざわざ出て行こうとは思えない。

…また、世界は信じられないほど広いらしい。ニンゲンカンケーの合法化を国に訴えているニンゲンカンケー中毒者もいるようだ。
確かにニンゲンカンケーに危険性はあるが、非常に有益な刺激・インスピレーション、苦痛の軽減などポジティブな効果も得られるのだというのがその主張だ。

それを聞いた時、男は鼻を鳴らして笑ってしまった。
法律を破って危険依存物に手を出している人間に、何を言う権利があるというんだ?きっと、あるもので自分の人生に満足の出来ず、ニンゲンカンケーなんていう危険物で苦しみをごまかすしかないかわいそうな奴らが負け惜しみを言っているだけだ。

過激派ニンゲンカンケー依存者が電波を違法支配して放送しているのを聞いたこともある。

男のような人々から毎日作っているのはエラいひとが使う建物の材料で、そこは男の自室なんかよりもずっと広い場所らしい。しかも、エラい人は国民には禁止しておきながら自分たちは毎日ニンゲンカンケーを乱用しているらしいとか。彼らには男の知らない機能や能力があって、ただでさえ最も危険と言われている依存物・レンアイの果てに、彼らの言うところの素晴らしいーーつまり超危険な依存物に手を出しているらしい。それはエラい人はみ~んなやっていて、男が繋げて作っている鉄の塊とはまた違うものをつくって、世界を回しているのだという。
残念ながらこの放送を聞いている男のような者たちは、その機能を生まれた時に強制的に除去されているという。
しかし、ニンゲンカンケーさえ体験すればみんなも考えを変える、広い世界に関わっていけるし、今作っているものよりもっと意味のあるものを作っていくことが出来る、と彼らは力説した。
重度のニンゲンカンケー中毒者の妄言を誰が信じるというのだろう、と男は笑ってしまった。

たとえそれが本当だったとしても、リスクを負ってまでニンゲンカンケーを体験したいとは思わない。なぜなら、それが禁止されているものだからだ。
エラい人がみんなニンゲンカンケーをやってるなんて根拠のないデタラメだ。それにたとえそうだったとしても、男の生きる空間を与えてくれているのはエラい人々だから文句なんて言えない。
だいたい中毒者たちはあの映像を見ていないのだろうか?レンアイに手を出すだけであそこまで我を忘れて人殺しまでしてしまうようなリスクがあるのに、どうしてやろうと思う?ニンゲンカンケーがどれほどの幸せをもたらそうが、あんな風になってしまうならやらない方がマシではないか。

男は自分の人生に満足している。
「やらなくて生きているなら、やらなくてもいいんだ」
男には仕事と、部屋と、ほんの少しの心の潤いがある。「今日もお疲れ様でした」
テレビからは、優しいコエが聞こえる。人生はこれで充分なのだ。

男は今日も善良な市民だった。


どうして大人なのに


大きな池のある神社があった。
頻繁に足を運ぶという訳ではなかったが、緑が多く落ち着いた雰囲気に溢れる場所で私は密かにそこを気に入っていた。
ある日、私はいつもの気まぐれでその神社に行くことにした。
木の集まる場所特有の湿った空気を吸い込みながら鳥居をくぐり、広い境内をゆっくり回り始めた時、どこからかこの場に似つかわしくない声が聞こえてきた。子供のはしゃぎ声だ。
もう失ってしまった遠い過去、私が小学生だった頃のようなことを思い出させる無邪気な笑い声が池の方から響いている。私の足は吸い寄せられるように池へと向かった。

池の中に子供たちが七、八人ほどが入って遊んでいた。保護者らしきものは見当たらず、遠足など学校の行事でここで遊んでいるというわけではなさそうだった。
陽が落ちかけていた。紫を含んだ蜜柑色の夕焼けが木の合間から覗いている。
おおかた、仲良しの友人同士で放課後に遊ぶことにしたといったところだろうか、と私は推測した。私は池から少し距離を置いたところで子供たちの様子を見つめる。

男の子も女の子もいた。手で水鉄砲を作って仲間にかける者もいれば、他の者を気にせず一人で泳いでいる者もいた。私の存在を気にかけている者は一人もいなかった。

水に入るということ自体がこの子たちにとっては非日常なのだ、と私は思った。私のような大人であれば市民プールに100円も払えば簡単に実現することが、子供たちにとっては珍しい経験であり、大きな冒険なのだろうと。
実際に子供たちの笑い声は純粋な喜びそのものだった。陽が沈んで影が落ち、どろりと黒い水の中で、子供たちの肌は眩しい程白かった。

なんとなく足を動かす理由を失ってしまい、私はポケットから煙草を取り出して火を点けようとした。

その時、突然池に異変が起こった。一人の男の子が溺れたように足をばたつかせ、「痛い痛い」と叫び始めたのだ。戸惑う他の子供たちよりも先に、私の足が動く。

急いで池に近づき、様子を確認しようとした。
大丈夫かと私が緊迫した声で怒鳴った時、事態はすでに悪化していた。はじめに叫んだ子供以外にもう二人が同じように「痛い」「助けて」と訴え始めていたのだ。

一人だけならばすぐ救出出来るだろうと甘く考えていた私は、一瞬で変わったこの状況に戸惑った。そして心に反応するように体も完全に動きを止めてしまった。
それでも目だけはしっかりと状況を追っており、どうやら池の中にいる何かが子供たちを傷つけているのだということを理解した。
…これは重症だ、と私は思った。池は子供たちの血で不気味なほどどす黒く染まっていた。

ふと、私から見て最も近くにいる子供たち二人が、「仲間を助けなくては」という決意をそのまま顔に貼り付けて溺れた子供たちの方へ向かっていくのが見えた。
その時、私の凍りついた思考はようやく動作を始め、二人の子供たちの腕をあらん限りの力で引っ張り、強い意志に突き動かされた足を止めることに成功した。

「駄目だ。行ったら駄目だ」
私は二人に低い声で言い聞かせる。
二人の子供たちは瞳に涙をいっぱいためていた。片方が消え入るような声で言う。
「でも、おじさん…」
「シゲくんが、みほが……」
私は二人の身体にさっと目を通した。よし、と呟く。この子たちは怪我をしていないようだった。

「君たちはもう池に入っちゃ駄目だ。そこで待っているんだよ。いいね」
私は半分怒ったように言いつけた後、袖をまくって池に向かって行った。
そうしてまたもや、池の前ですっかり足を止めてしまった。
止まった足の代わりというように、嫌になるほど合理的な思考が動作を始め、助けられそうな子供の人数を即座にはじき出した。

一人。一人の子供、短いかりあげ頭で、一重瞼がおっとりした印象の男の子が、「助けて、助けて」とこちらへと手を伸ばしていた。
他の子供は――生きてはいるが――“もう無理”だ。少なくとも、もう無理“かもしれない”。出血が多すぎるし、弱りすぎている。もう助けられないかもしれない。

私はせめてその刈り上げ頭の男の子だけでもと、池の中に飛び込もうとして、ふと天啓のように明瞭な声が心の中に響いてくるのを聞いた。
“どれほど痛むだろうか?”
一瞬にして何人もの子供たちに重傷を負わせた得体の知れないそれに噛み切られるのはどれほど痛むだろうか?
“そもそも、水はどれほど冷たいだろうか?”
私は水というものの冷たさを思い出した。はるか昔、私がこの子供たちと同じぐらいの年齢だった頃、プールの授業が嫌で学校をずる休みしたことを思い出した。
先程子供たちが池で遊んでいるのを見た時には少しも思い浮かばなかったことをはっきりと思い出す。そう、私は水が苦手なのだ。なんて不運だ。元々、水が苦手なのだ。……

「君、名前は?」
私は水に飛び込む代わりに、かりあげ頭の男の子に尋ねた。それが非常に緊急のことで、どうしても今知る必要があることであるように怒鳴った。
「たけし」
男の子は水面であっぷあっぷしながら答えた。目はひたむきに私を見つめている。
「よし、たけし。ここまで泳いで来られるか」
私は心がけて説得力のありそうな、強い調子で言った。たけしは頷く。

「大丈夫。君は助かる。ゆっくりでいいから、こっちへ泳いで来るんだ」
「でも、みほはどうなるの?」
たけしは泳ぎながら、遠くに浮かんでいる死にかけの女の子へと視線を向けた。私は思わず舌打ちをしたくなった。
今はとにかくさっさと泳ぐべきなのだ。まったく子供という生き物は、事態の緊急性を判断する能力に欠けているらしい。
心の声が私の顔に出ていたに違いない。たけしは私の表情を見て顔を曇らせた。

「ねえ、みほは?俺、せめてみほだけは助けてから上がるから…みほは女子だし……」
今度は本当に舌打ちが出た。いけない。
すぐにひきつった笑顔に戻し、辛抱強く声をかけた。
「みほちゃんはあとでおじさんが絶対に助けるからね。まずはたけしくんが上がっておいで」
「でも……」
たけしは死にかけの女児と私の顔を困ったように見比べた。
その時。
「たけしーーっ!」
背後から甲高い叫び声がして、私は後ろから強い力で突き飛ばされた。前につんのめったが、ぐっとこらえて水に触れるのだけはなんとか回避する。

あっと言う間に、救出した二人の内の一人の男の子が、池の中に飛び込んでいた。
「たけし!みほ!ケン!はやくこっち来い!」
その子は、もう生きているか死んでいるかも分からない女児―みほ―の方へと水を掻き分けて進んでいく。
私は指ひとつ動かせず、自分の顔に脂汗が浮かぶ感覚を、ただ“感じて”いた。…

男の子には勇敢な輝きがあった。
たけしは私を見ている時よりよほど安心した様子で男の子を見ていた。
英雄…ナポレオン。そんな言葉が浮かぶ。私は男の子の力強い背中を、隔絶された世界から野次馬のような気持ちで見つめた。
それから五秒―あったかないか分からないが、私は他にすることがなかったので、勇敢な少年のこれまでの人生とこれからの人生について考えていた。
きっと生まれつき、彼にはこんなリーダーシップや行動力、勇気があったに違いない。迷わず池に飛び込んでいった背中の頼もしさよ。
泳ぎに慣れている様子を見ると、水泳が得意なのではないか。この分なら他のスポーツも得意だろう。クラスでは人気者、女子にももてるだろう。

では、将来は何になるだろうか。スポーツ選手?もし才能があれば…。いや、たとえそんな華々しい肩書がなくても、たとえ平凡極まりない会社員だったとしても、きっと周囲から慕われることにかわりはないだろう。自分の危険を顧みず、人の為に動ける、この子なら……。

そうしてまた一瞬だった。名も知らぬ男の子は、輝かしい未来ごと、水中からそれに襲われて水の中に沈んでいった。それを見て恐怖の叫び声を上げたたけしも続いていった。先程よりさらに赤く染まった池に、静寂が戻った。

「…エイジは?」
鈴を鳴らしたような声が隣から聞こえた。いつの間にか、私が救出したもう一人の女児が私の隣に来ていた。
無垢な声に私は涙が出そうになった。女の子の声がみるみるうちに震えていく。
「みほは?たけしは?ケンは?どうなったの?エイジは?どうなったの。ねえ、おじさん、どうなったの?」

私は責めるように私を見る大きな瞳から、思わず目を逸らした。
「助けるって言ったじゃん。みんな、どうなったの?」
私は黙っていた。何も言うことが出来なかった。
「どうして。どうして。どうして、大人なのに答えてくんないの……」
池の前で足がすくんだ時のような明晰な(と思いたかった)思考はもう戻ってこなかった。かわりに、痛ましい後悔と自責の念がこみ上げてくる。私は何故、少しも動けなかったのだろうか。

隣から、サイレンのようなかん高い音がした。生き残った女の子が声を上げて泣き始めたのだ。
「ひどい、ひどい、ひどい」
彼女と私は、程度は違えど、きっと同じ痛みの中にいるのだと思った。
慰めるように頭を撫でようとして、私は止めた。
一時の感傷的な気持ちが消え去り、また頭の中に声が響いてきたからだ。
“全く、どれほど私の心が痛んでいるか、この子は分かっているのだろうか?”“私が出来ることを精一杯やったと、この子は分かっているのだろうか?”

……私には彼女と同じように感じる資格はなかった。
私はなんとか無難に聞こえる言葉を喉から絞り出した。
「でも…君だけでも生きていてよかった。おじさんは嬉しいし、君も…、運が良かったと思うべきだよ」
「…ねえ、おじさん」
私が言うと、女児は涙を残した瞳で私の目をまっすぐ見て、存外冷静な声で言った。
「これって、私のせいじゃないよね?」
「え?」
思わず聞き返す。予想とはあまりに違う言葉が出てきたからだ。
「私、もともと池で泳ぐなんて嫌だったんだよ。なのに、みんなが強引に誘ってきたんだよ」
私はその温度の通わない口調に、またそのことに全く気付いていない彼女の鈍感さに、背筋がぞっとするのを感じた。しかし、少ししてそのように感じる資格が自分にはないことに気付く。
「ああ。君のせいじゃないよ」
私は女児の肩に手を置いた。
「君は大人になるんだよ。…彼らの分もね」
私は、この子だけが生き残っているのは、偶然ではないのかもしれないと思った。
池の周りには漆黒の闇が落ち、血に染まった池を隠す。どこかでカラスが鳴いていた。


少年と軽蔑 (凍ったカリフォルニア)


 全部、リンダがいけないんだ。
 26度、暑くもも寒くもない快適な温度に保たれたカプセルの窓から、少年は外の豪雪を見ている。横顔は精悍でかすかに大人へ向かう予感を漂わせながら、尖らせた唇がまだ少年の顔を少年たらしめていた。
さあ、早く、早く謝りに来い。
少年はそう思いながら、自分よりも大人のリンダの顔を思い描いた。
リンダと少年が出会ったのは一年前のことだった。
山奥の蜜柑の名産地の小さな村が、少年の出身地だった。
ある時、オーストラリアからの外国人客リンダが訪れた。片言の日本語で村の慣習を聞いて回る愛らしい茶髪娘はすぐに村の人気者になった。大学で日本の文化についての研究をしているとかで、村に一か月滞在することになった。
村には大きくはないものの良い湯を出すと評判の温泉があり、少年は学校の後によく一人で浸かりに行っていた。観光客用の男湯・女湯以外に、村の住民用の料金が割安になる男女の区別のない小さな家族風呂じみた湯があり、少年はいつもその湯に入るのだった。
そこに、リンダが現れた。
村には年寄か小さな子供しかおらず、今まで混浴でも人の裸を気にしたことなどなかった。しかし、この時、少年の目はリンダの年若い白い裸体に釘付けになった。
リンダは少年が先にいたことに少し驚いた様子だったが、混浴もある日本の文化を充分に理解しているのか、にっこり笑うと風呂の中に一緒に入ってきた。
少年はあわててスペースを空けようとして、焦るあまり頭の上に載せていたタオルを湯の中に落としてしまった。
「落としたわよ」
リンダは屈んでタオルを拾い、絞って渡してくれた。リンダの笑顔は女神のように美しく、少年は頭がぼうっとするのを感じた。
それから毎日少年は温泉へ行った。リンダは来る日もあれば来ない日もあった。リンダが来ると天国にも上る気持ちになったが、来ないと、これだけ待っているのに、と理不尽に腹が立つのだった。
リンダが国へ帰ってしまう日は、涙で前が見えなかった。きっとメールを送るようお願いし、何度も手を握って抱きしめて別れを告げた。リンダも少年のひたむきな好意に胸を打たれ、緑の目を潤ませていた。
約束通り、リンダと少年は何度も手紙やメールのやり取りを続けた。
他方、少年は小さな村では非凡な勉学の才能を開花させていった。それは県外でも評判となり、中学に上がる折、都会の中高一貫学校から寮の費用や学費を全て賄う奨学金の申し出を受けて入学を決めた。
その学校は多岐にわたる発明品に力を入れており、才能ある若い学生は研究者・ビジネスマン等として年齢に関わらず世界的なプロジェクトのチームに参加させるという、先端的な制度を導入している学校だった。
 少年は発明において大きな才覚を見せ、15才で早くもあるプロジェクトに参加し、研究の中核を担う存在へと成長していた。
少年の参加するプロジェクトは、気温を自在に操れる機械の発明だった。そのカプセルの容器を大きくしたような機械は、その内部以外の気温を自在に操ることが出来る。まだ試作段階だったが、理論上は地球を氷河時代に変えることも灼熱の地に変えることも可能になっていた。地球の異常気象に対応することができ、使い用によっては強力な兵器にも出来る、画期的な発明であった。
研究に打ち込む少年の心にはいつもリンダがいた。都会に出てからもメールのやり取りはかかさなかった。少年はいつも研究の僅かな合間にジュースを飲みながらこう思っていた。リンダなら、頑張っている俺にこう声をかけてくれるだろう、泣いている俺をあの天女のように美しい微笑みで慰めてくれるだろう。リンダは少年の心の支えだった。



時は経ち、少年はアメリカはカリフォルニア州に移っていた。試作品が完成し発表に向けての追いこみという段階に入っていたので、プロジェクトを主導するスポンサー会社の本社に移るよう言われたのだ。
少年はこのプロジェクトリーダーのデイビス氏が嫌いで仕方なかった。自分は能力も平凡で、大して研究に貢献していないのに、プレゼンテーションに雄弁に語り周囲に勿体つけた言い方でチームの発明品を説明するのだけは得意だった。少年は真の才能の持ち主であった為、才能もないのに口が上手いだけで大きい顔をしているデイビス氏を誰よりも軽蔑していた。
少年が何よりも嫌いだったのはデイビス氏の笑顔だった。記憶の中のリンダの美しい笑顔とは正反対の、とってつけたような、一目でそれと分かる作り笑顔。口をどれぐらい開けるか、どのタイミングでどの高さで笑い声を漏らすかまで計算され尽くされた笑顔、ずらっと並んだ白い歯。
程度の差はあれ、大人はみんなこの笑顔をすると少年は知っていた。少年はこの笑顔を見かける度に潔癖なまでに軽蔑し尽くし、その度にリンダの笑顔を思い出した。
さらに時は流れた。少年はついに念願叶ってリンダと再会できることになった。少年の発明の試作品の発表会と、リンダのカリフォルニア旅行が重なったのだ。見に来てくれるのだという。少年はふだん祈らない神に感謝し、笑顔のこぼれる口を引き締められなかった。
ずっとずっと会いたかった女神にもうすぐ会えるのだ。
少年の心の澄み渡ることは比類がなかった。世界中が自分の味方をしてくれているように少年は思った。
そして迎えた発表の日。デイビス氏は作り笑顔を浮かべ、いつも以上に雄弁に語った。
「この若きチームクルーは、最年少の15才なのです。年齢は関係なく優秀な人材を起用している先進的な会社だということがお分かり頂けるでしょう」
少年は舌打ちをしたくなった。少年がカプセルの中に入ってデモンストレーションをする役になったのも、これほど年若い研究者がやるという話題性を考慮した結果だ。少年はデイビス氏のこのような計算高い所が嫌いで仕方なかった。
しかし、デモンストレーションを見ているリンダを観客の中に見つけて少しささくれたった心がゆるむ。
大きなガラス張りの水槽にカプセル式の機械を入れ、水槽の中を氷河期にしてみたり灼熱にしてみたりする。カプセルの中はいつも快適な温度が保たれているので、中の少年に影響はない。
発表会は拍手大喝采の成功に終わった。

「リンダ!」
少年はデモンストレーションが終わるなりリンダに駆け寄った。リンダは驚いた顔をするが、抱きとめてくれる。
「パーティーの場で淑女に抱きついたりするものではないよ」
すると、ワインを片手にデイビス氏が近づいてくる。口元からは胡散臭い白い歯が溢れている。
お前なんて、俺のことを商売の道具としか思っていないくせに。リンダと口を聞くのもおこがましいと思え。少年は心の中で毒づいた。
「もっと大人らしい振る舞いを見に付けなさい。我々のチームの一員なのだから」
デイビス氏が、遠慮がちに、決して気が付かれない程度に――リンダの体を見たのが分かった。服の下には顔や腕より白い艶やかな肌が広がっているのを少年は知っている。
リンダはデイビス氏に向かって笑顔を向けた。……しかし、それは全くリンダらしくない笑顔だった。
少年は息が止まりそうになった。
あの笑い方だった。少年の大嫌いな。
リンダ、こんなに会いたかったのに。
俺を見もしないどころか、あいつなんかと同じ顔をして……。
少年はふらふらと二人から離れ、黙ってあの機械を水槽から取り出した。デイビス氏とリンダは作り笑い同士“お似合い”で何の意味もない会話をし続けていて、少年がいなくなったことにも気がついていない。少年はわざと大きな音を立ててカプセルの扉を閉める。
少年は、苛立ちに任せ、カプセルの中の温度計を操って気温を思い切り下げた。
これはリンダへの罰だ。



……もうどれぐらい時間が経っただろう。
早く謝りに来てほしい。
ずっとリンダに会いたかった。俺と同じで、ずっと会いたかった、俺に会えて嬉しいとさえ言ってくれたら、あんな嘘つきの笑顔じゃなくて、リンダらしい本当の笑顔を見せてくれたら、すぐにでも気温を上げてあげるのに。
リンダのことばかりを考えていたら、ふっと温泉で見たリンダの裸が脳裏に浮かんだ。少年は顔を赤らめて、頭を振った。違う、俺はそんなものより、リンダの笑顔を見たいんだ。
今やカリフォルニア全土が凍っていた。その中の生きとし生けるものは全て息絶えようとしていた。少年はそんなことも知らず、窓を眺めながら、リンダが謝りに来るのをひたすら待ち続けていた。


ドリームハウス

私は『ドリーム・ハウス』という施設で働いている。
ここは末期ガン患者、老衰が避けられない人々、脳死となっている人々が入居するいわゆる“終の棲家”だ。
75歳以上になれば誰もがここの入居を申請することが出来る。それ以下でも、一定以上のお金を出し、精神的・肉体的に“死が近い”と判断される理由があれば入居が可能だ。
死が近い、という表現は正しくないかもしれない。実際には、ここにいる人々はもうすでに死んでいるといってもいいのだ。もう社会復帰することもなく、他人と会話をすることも出来ないのだから。
先ほどドリーム・ハウスを家と言ったが、家と言うよりはむしろ工場のような寒々とした印象の建物だ。私が従事する仕事もまた、工場での作業を彷彿とさせる。
『ドリーム・ハウス』……その寒々しいネーミングは、少しもこの施設の冷たい雰囲気を緩和させることに役立っていない。タチの悪い冗談のようだ。
…しかし私は、ここをおおむね良い場所だと思っている。入居者にとってではなく、私にとって、だ。私はこの場所を心から好きになれる、非常に稀有な人間だった。

私は始業のタイムカードを押した後、控え室の椅子に座って宙を見つめている後輩が目に入った。寄せられた眉から、滲み出るような苦悩が伺える。
「おはよう」
私が挨拶をすると、後輩はしかめ面を溶かして、年相応の幼い笑顔を見せた。
「おはようございます。先輩、今日もお早いですね」
はきはきした喋り方が好感を与えるこの後輩は、今年入社したばかりの新入社員だ。入社してそろそろ三か月になるが、この『ドリーム・ハウス』での勤務の中で、彼女は少し変わった。
彼女は最近、ため息をつくことが多い。話し掛ければ愛想笑いを見せるが、その裏に常に影が付きまとう。入社前にここで死が近づく人々の役に立ちたいんですと言っていた、若者らしい純粋さは身を潜めてしまったようだ。…無理もないと思う。
「どうだい、仕事は。慣れたか」
煙草に火を点けた後、意図的に軽い口調で尋ねる。後輩は、慌てて灰皿を手渡してくれる。細かいことによく気が付く、心優しい子だ。
「はい!なんとか…先輩も、みなさんも、…良くして下さっていますし」
仕事について聞いたのに、後輩が仕事内容には触れなかったことに私は気が付いた。
「業務の方では、何か悩みはないか」
触れられたくないであろう部分を、わざと詳しく聞いてみると、後輩の顔がみるみるうちに曇っていく。何かを言いたげに唇が軽く開いた後、作り笑顔が取って変わった。
「いいえ…ありません」
私は後輩がどんな気持ちでいるか、よく理解できた。ここで働く誰もがぶつかる壁だ。
「君、悩んでいるんだろ?『ドリーム・ハウス』の理想と現実が違いすぎて…」
後輩は顔を上げた。影のある表情の中にも誠実さが浮かんでいる。この子は、まだ割り切れていないのだ。
「実は、少し。私、『ドリーム・ハウス』で働けることを光栄に思っているんです。人の役に立てる仕事に就けて良かったって思っています。ただ……どうしても時々、自分のやっていることが正しいのか疑問に思えちゃって…」
一度口にすると、後輩の言葉は止まらない。何度も一人で悩んできたことだったんだろう。私は葛藤している後輩が愛おしかった。
「そういう風に感じるのは自然なことだ。私も、同じ悩みを持っていた時期があった」
「えっ、先輩もですか?」
後輩は意外そうな顔をして私を見つめる。
私は心の中で笑った。真っ赤な嘘だ。私は彼女のようにに悩んだことは一度もない。
「続きは歩きながら話そうか」
私は制服にネームプレートを付けて、手をアルコールで消毒した。マスク越しに話す。
「どうせ、この職場では“他の人”に声を聞かれることはないしね」
ここの入居者は、人ではないからな。
私は後輩に聞こえないようにそう呟いた。

私たちは、『ドリーム・ハウス』の心臓部に入った。ここに、入居者の住居がある。ここで彼らは美しい夢を見ているのだ。
私は重い鉄の扉を開けた。錆びついていて、開閉する度に悲鳴のような音を出す。
この部屋に入って、まず気が付くのが糞尿の匂いだ。それもただの糞尿ではない。その匂いを覆い隠そうとする為に、様々な薬品を振りまいている。悪いことに、花のような匂いの加工つきだ。
良い匂いと悪い匂いが混じると、悪い匂いだけよりも更に趣味の悪い匂いが出来上がる。これは経験をしたことがある人ならきっと分かるはずだ。私は二度と、花の匂いを純粋な気持ちでは嗅げまい――必ず糞尿の匂いをセットで思い出す。
ここで何十年と働いていても、一番はじめにここに入る時は毎回思わず息を止めてしまう。
「まず、『ドリーム・ハウス』って名前の場所とは思えないこの匂いだね」
「ほんと、毎日気が滅入っちゃいますよね……ア、すみません」
こんな風に、先輩相手にも本音がぽろりと出てしまうのはこの子の若さゆえだ。私が得ることの叶わなかった、爽やかでまぶしい…若さだ。
「いくらこの人たちが見ているのが最高の夢だからって、人間の身体から排泄物が出なくなるわけじゃないからな」
匂いの次は、様々な音量・音階のうめき声に気が付くはずだ。うっとりしたため息のようなうめき声。低く笑うようなうめき声。全員が全く異なるお経を異なるペースで唱えているかのような不協和音。
「それと、このお経だな」
「お経って、先輩」
後輩は思わず噴き出した。私を先輩と呼ぶ響きが、まるで十代の少女のような言い方だ。もし私が普通に学校に行っていたら、後輩からこんな風に呼ばれたりしたのだろうかなどと考える。
「あ、チーフ。おはようございます……」
先に仕事に入っていた同僚が、通路を歩く私たちに挨拶してくる。
「おはよう」
挨拶を返しながら、その顔をちらりと伺うと、彼の目はもう疲れ切っていた。この職場に慣れ、全てを諦めてしまっている。
それは、そうだろう。普通の人間にとって、ドリーム・ハウスで働くのが楽しいはずがない。
そんな風に思いながら通路を歩いていくと、いよいよ入館者とご対面になる。いや、実際は目も見えないし、対面という感じでもないのだが…。
「うーうー、あー、ぁー……なぁー……」
うめき声をあげている人々は、カプセルのような形をした特殊な機械の中に入っている。尿管に管を通し、おむつを履き、頭には目元と脳を完全に覆う機械が装着されている。彼らはリクライニングチェアにようになったカプセルの中に座り、それぞれに異なる体験をしている。
「このおじいちゃん、どんな夢を見ているんでしょう」
後輩が一人の老人を指さした。老人は口をすぼめるようにして何度もチュッと音を出している。
「“そっち”方面に決まっているさ」
彼のように、性的な映像を見る入居者は多い。
「おかーさん、たのしーねえ……」
そのすぐ横の老婆の口からはそんな言葉が出る。子供の頃に母と遊んだ記憶か何かだろうか。

無数に、一列に、まるで工場の商品のように並べられる“死を待つ人々”の頭についた機械。
これは装着した者の脳を直接スキャンして、記憶の中で最も幸福度の高かったエピソードを自動抽出し、繰り返し追体験させる装置だ。その再現率はほぼ100パーセントに近いもので、これを付けたものは誰でもその時に戻ったような気分になれる。それが、この『ドリーム・ハウス』の提供する“夢(ドリーム)”だ。
……実はこの技術が生まれた時、同時に記憶にない夢を新たに作り出す試みもなされた。しかし残念ながら、全く新しい夢を見る場合、自分の記憶をベースにしている夢ほどのリアリティーは産みだせなかったのだという。
そこで、『虚構の夢』の方の技術はあくまで映画やゲームのような娯楽の延長として普及することになった。この装置をつけて、例えば「見知らぬ素敵な女性とデートする」「大富豪になって豪遊する」とか色々な体験が出来るわけだ。こちらは私のような一般人でも簡単に享受できる娯楽だ。
これに対し『ドリームハウス』で提供されるような記憶をベースにした夢――『記憶の夢』は、依存性が高すぎるため、一般人の使用は許可されていない。一度つけると夢を現実だと思い込み、なかなかこの装置から離れられなくなってしまうのだという……『記憶の夢』は『虚構の夢』に比べて体感10倍ぐらいのリアリティーがあるそうだ。そういえば近々、死刑の代わりにその者にとって忌まわしい“記憶の夢”を見せ続けるのを刑罰にする案も考えられているらしい。
『ドリーム・ハウス』に関しては、家族の勧めで入居する者もいる。自らこの道を選ぶ者もいる。一つだけ言えるのは、『記憶の夢』を見る人間たちは全員死に向かっており、未来はもうないということだ……。

「私、頭では分かっているんです」
後輩が言う。
「この人たちが、今、本当に幸せだって。もはや未来に希望が無くなった人々にとって、過去の記憶で生きる方が、どんなにか幸せだって。……この“夢”技術が出来た時のこと、覚えています?」
「革新的な技術として大騒ぎになったよな。当人の脳に残っている記憶を再現させるなんて」
「はい。この機械が出来たのは、私が10才の時でした。ニュースで見て、世の中にこんなすごい技術が出来たんだって、子供ながらに興奮して、憧れて……今ここで働けるのも、本当に嬉しいんです。でも……」
後輩は俯いた。
「……この人たちがこうやって夢の中で生きることが、正しいのかどうなのか分からなくなっちゃって」
私は後輩がそう言うだろうと分かっていた。私はこれまで、何人も同じように悩む従業員を見てきたのだ。
「だって…こんなの、寂しいじゃないですか。過去の夢だけ見て生きていくなんて……」
私は肯定も否定もしなかった。
「過去の方が輝いて見えるのは当たり前だけど、未来にも良いことがあるって信じられるのが人間だと思うんです。でもこの人たちは…まるで……」
“生きながら死んでいるみたい”…きっと、このようなことを言いたいのだろう。私はつとめて静かな声で、事実を告げる。
「たとえ今、機械を外しても、この人たちは元の生活には戻れない。私たちはもう、死体を相手に仕事をしているようなものなのさ」
「でも、この人たちは、まだ生きているじゃないですか…」
後輩は涙声でそう言う。この子の真っ直ぐさには、毎回胸を打たれる。
彼女の心を軽くしてやりたかった。だから私は、いつものように嘘をつくことに決めた。
「私もね、入社したての時に、同じことに悩んだんだ」
「本当ですか?」
私を見上げる後輩の目の縁に涙が溜まっている。
「…私は入社する前、役立たずな奴だった。学生時代は取り柄もなくて、ぱっとしなくて」
これは本当だ。というより、実際には、もっと悪い。
私がまともな学生だった時期はほとんどない。私は学校生活で落ちこぼれ、長い間引きこもりになっていた。どれほどテクノロジーが進もうが、学校という制度はなくならないし、私のような落ちこぼれもいなくならない。
若い頃を全て家で過ごした私には、いわゆる青春の記憶が無かった。そういう悲しみを、『完璧な青春を体験する』という“虚構の夢”で埋めようとしたこともあったが、リアルさに欠けていてすぐ飽きてしまった。皮肉なことだと思う。死にかけの人間には夢を与えても、今を生き延びる人間に救いを与えてはくれないのだから。
そうして私は劣等感を抱えたまま大人になり、いやいやながら『ドリーム・ハウス』に就職した。……
「ここで働き始めた時は拷問かと思った。こんな半分死んだような人の世話で一生を終えるのか、“ドリーム”なんて名ばかりじゃないかってね」
これも嘘じゃない。
「でもある日、あるおばあちゃんのおむつを替えている時に、彼女が夢うつつのまま『ありがとう』って言ったんだ。とても穏やかな声で、手を合わせて。私に言ったとは思っていない、きっと夢の中で言ったのだろう」
これも、実際にあったことだ。
「……でも私は、それを聞いた時無性に嬉しかったんだ」
……さあ、ここから先は真っ赤な嘘だ。様々な従業員に何度も繰り返し語ってきた台詞なので、よどみなく言葉が口から出てくる。
「役立たずだった私が、こんな風に“ありがとう”で言われるのは、幸せなことだって気付いた。私はそれから、この仕事が好きになった。バカみたいなきっかけだろう。でも、こんな単純なきっかけで、私はこの職を好きになることが出来たんだよ」
私が嘘を雄弁に語るのを、真剣に見つめる後輩の視線が気持ちいい。
……実際にはその逆だった。私は、たとえ見た目には死人のようでも、良い夢を毎日見られる入居者たちが妬んでいた。
それに仕事については、好きになったというより、元々向いていたという方が近い。精神を病む従業員が多いこの職場の中で、淡々と働く私は自然と出世していった。そしていつの間にかチーフになり、後輩を指導する立場になった。
……ここに来る従業員は“人の”役にたちたいというような優しい人が多いのだ。私ははじめから入居者たちを生きた人間とは思っていなかったから、この後輩のような葛藤に苦しむこともなく淡々と仕事が出来たのだと思う。
「その後、君のような後輩を何人も指導してきた。辞めていく者も多いが、ゆっくり時間をかけて、あるいは私のようにちょっとしたきっかけで、この仕事を好きになってくれる時がある。そういう時、私はすごく嬉しいんだ。君もきっと、いつかこの仕事を好きになれるよ」
「はい…、そう信じて頑張ります。ありがとうございます」
後輩は力強く頷いた。彼女は今、私を尊敬の念と共に見ているに違いない。
こうして下の者から頼りにされるのは心地いい。学校生活で躓き落ちこぼれた私でも、この生きた死人だらけの職場では居場所を作ることが出来た。私には、ここが一番の居場所なのだ。……
「…先輩、自分がこのカプセルのお世話になるかもって考えたことありますか?」
ふと、後輩が思い出したかのように聞いた。
「私はまだそんな年じゃないよ」
「それは分かってますけど」
「君はどうなんだ?入るとしたら、どんな夢を見ると思う」
「私だったら、きっと中学の時、バレー部のレギュラーになれたことを夢に見るんだろうなあ。あの時は幸せだったなあ」
無邪気にそう語る後輩に、少し胸の傷がうずく。今に満足しているといっても、彼女の経験したような青春は私には取り戻せない。
「…先輩だったらどうですか?」
「そうだな。私だったら…」
私は少し考えるふりをした。答えは考えずとももう決まっているのだ。
「ひょっとしたら……」

「今この時かもしれないな」
先ほどからずっと呻き続けていた老人が、急にはっきりした口調で言った。
「うわっ…」
無機質な機械で頭を覆った老人のおむつを替えていた若い男は、驚いて一瞬のけ反る。彼は勤務中の『ドリーム・ハウス』の従業員だった。
老人は再びむにゃむにゃと意味を為さない言葉を続ける。その口元には、薄い笑みが浮かんでいた。



部屋の中の生き物


その部屋は薄暗く、嫌な匂いがした。
そこらじゅうにティッシュやインスタント食品の空箱が転がっている。

部屋の押し入れの中からに生き物がぬっと顔を出した。身体は汚れきっており、胴に巻きつけられていた紙が異臭を放っていた。
生き物は押し入れの外の眩しさに顔をしかめた。暗い部屋だったが、それでも押し入れの中に比べればずっと明るかった。
ベージュ色のひだの向こうから、かすかに明るさが入ってくる。この馬鹿でかいひだを捲ればもっと明るく出来るのだということは、今の生き物の頭では考えもつかない。

彼は押し入れからすんなり出られたことで緊張していた。普段なら、すぐあの「よく動く大きいもの」がやってくる。生き物の住む世界の中で、動くものはあれだけだった。あれがやってくると、嫌な甲高い音と、痛い感覚が頭上から大量に降ってきて、また押し入れに押し込められる。しかし、時たま、その甲高い音と痛い感覚…と共に、胴を縛り付ける気持ち悪いものから解放され、先程よりも幾分ましなさっぱり快適なものに縛り直される時もあった。気持ち悪いものが体から外される感覚が、生き物は好きだった。その気持ち良さは、人間ならば、窮屈な靴下を脱いだ時に同じように感じるようなものだ。

でも、ヘンだ。生き物は思う。このように出て行ってあのうるさい音が聞こえなかったことはただの一度もないのに…。
生き物は恐る恐る外へと這っていった。這うよりも効率の良い移動手段があったが、ものすごく疲れるので今それを使う気力はない。生き物はとにかく疲れていた。そして、必要なものがあった。

とにかく部屋の中を這って回る。こんな風に押し入れの外にいるのが見つかったら、きっと「よく動く大きいもの」と、胸が悪くなるような匂いが近づき、頭ががくんと強制的にゆらされるのと共に、痛い感覚が降ってくる。見つかる前に、早く戻ってしまわなくては。
生き物は焦りに突き動かされ、必死で動き続けた。
三十分たっぷりかけて、部屋中を見て回った。そして途方にくれた。
生き物が欲しているものは無かった。この部屋のどこにも無かった。

生き物はまだ「よく動く大きいもの」と痛い感覚を恐れていた。
生き物は体を這わせて、押し入れに戻った。暗闇の中で、彼は少しだけ安心した。ここで大人しくしていれば全て安全だという固い信念が、長年の経験から彼の中に根強く居座っていた。
しかし、生き物は同時に言いようのない不安を感じていた。今回ばかりは事情が違う。何かが違っている。
甲高い音、あの匂い、良い匂いかと思って近づくと鼻を直接殴られるような強烈な悪臭に変化するあの匂いが、いつまでもやって来ない。痛い感覚も。いつまでたってもやって来ない。

生き物は少しうとうとした後、目を覚ました。かぎ慣れた、湿った匂いがする。胴を締め付けるものは濡れていて、いまだに気持ち悪い。いつまで経っても必要なものがやってこない。
生き物は今度こそ、痛い感覚が全身を襲うことを覚悟で泣いた。思い切り泣いた。声が枯れるまで泣いた。頬をつたって口の中に入ってくるものに、少しだけ心が慰められる。
生き物は泣き疲れ、もはやもう口を開かなくなった。今までだって泣いて得られたのは痛い感覚だけ。今は痛い感覚についてくる少々の利点がない分、もっと悪いのだ。

生き物は、もはや誰も自分を助けないことを悟った。
生き物はふらふらと押し入れの中から這い出した。もう痛い感覚を恐れる必要はないのかもしれない。
それよりも、もっと悪い事態が生き物の生命に近づいてきていた。生き物は未発達な心で危険を感じ取っていた。
怪物のように太くて背の高い茶色の障害物に何度か邪魔されながら、最も匂いが強い一角へと這っていった。そこに自分の欲するものがあるかもしれないと本能が告げていたのだ。
生き物はそこで、ひときわ白く輝くものを見つけた。
生き物の体の半分ぐらいの大きさで、つやつやと神々しいまでの光を放っている。生き物はこれを見かける度にいつかこれに触ってやろうと思っていたことを思い出した。これを見られる時は稀だった。最後に見たのは一体いつのことだろうか。これが存在していたことを、すっかり忘れてしまうところだった。もう今を逃せば、この「白いつやつや」に触れる日は二度と来ないかもしれないと思った。

生き物は一瞬のあいだ本来の目的を忘れ、純粋な好奇心から、「白いつやつや」に触った。つるつるとしている。そして心がほっとするような温かさ。
生き物の目に輝きが浮かんだ。やっとこれに触ることが出来た。面白い感覚だ
しかし、生き物はこの「白いつやつや」の本当の目的は触られることではないと見抜いていた。もっと何か新しいことが起こるはずなのだ。前に見たことがあるはずなのだ。あの痛い感覚を運ぶ「よく動く大きいもの」がこれで何かをしていたのを。
……生き物は「白いつやつや」を闇雲にいじくり回した。

十数分の格闘の末、生き物はついに目的を果たした。そして同時に、「はじめての感覚」の洗礼を受けた。
それは「白いつやつや」の上にあった。押せば動く箇所があり、生き物は自分の体重のすべてをかけて、そこを押したのだ。
そして、生き物の身体に、「はじめての感覚」がやってきた。やってきたというよりは、支配されたというのがもっと近かった。
それは今ついさっきまで生き物の心と体と心を支配していた全ての感覚――とてつもなく何かが必要だという感覚・胴についたものの気持ち悪い感覚・また過去に生き物が経験した全ての良い感覚――痛い感覚の後にたまによせられる温かい感覚・頭に何かをすりつけられる優しい感覚を、あざ笑うかのように、いとも簡単に薙ぎ払い、虐殺し、存在自体を震わせるような圧倒的な力で生き物の胸を支配した。
それは痛い感覚によく似ていた。しかし、これは痛い感覚とは違う。全然違うものだ。これは、何だ。これは何だ。
その感覚の、あまりに長く続く支配に耐えかねて、生き物は自分でも生まれて初めて聞くような激しい音を立てた。痛い感覚がひっきりなしに襲った時だって、こんな音を出したことはない。そんなことをしたら痛い感覚がさらに降ってくるだけだから。
生き物は甲高く、切羽詰まった、悲痛な音を立てた。生き物は床に倒れこみ、のたうちまわった。胸を押さえてひっきりなしに叫んだ。叫んだ。しかしやはり、助けは来なかった。

地獄のような数分間が過ぎた。生き物は息すら出来なかった。口を開けば悲鳴がもれるので、呼吸すらままならないのだ。
呻きながら、生き物はふと、自分の寝転がる床にさっきまで自分が求めていたものがあることに気が付いた。それはキラキラと輝いていた。触ると手に一部が吸い付き、くっついたままだった。何度も手にのせると、ぴちゃぴちゃと音がした。
生き物はそれを舐めた。のどの奥に甘いような感覚が広がる。
一瞬、生き物は胸の痛みを忘れた。床の上の「ぴちゃぴちゃしたもの」を生き物は全て吸い尽くした。その後も飽き足らず、「ぴちゃぴちゃ」を載せていた冷たい固いものを舐め続けた。
生き物は少し元気が出て、あるいは胸のこの感覚を取り除いてほしいと切羽詰まって、部屋の中を這いずりまわった。その泣き声は、はるか遠くまで響くほど大きかった。

カタン…と部屋の隅から小さな音がした。生き物は即座にそちらに目を向ける。部屋の両片隅にある、触り心地の悪いベージュの薄いひだのところから聞こえた。
生き物は触りたいと思っていた「白いつやつや」に触ったこと、自力で「ぴちゃぴちゃしたもの」を得たことで度胸がついたのか(その代償である「はじめての感覚」は最悪だったけれども)、そちらに近づいて行った。
良く見ると、ひだの裏から、茶色く固い角のようなものが見えている。生き物はひだをめくった。
それは、さらに大きな四角の一角だった。生き物の大きさと変わらない、大きな大きな四角。その中に、薄茶色のものが入っていた。それが生き物の目を引いたのは、それが動いていたことだ。小刻みに震えている。これも「動くもの」だ。
生き物は、首を傾げ、まじまじとそれを見た。よく見ると、小さな輝く黒い光が二つついていた。
その光を見た時、生き物は本能的に、薄茶色のそれが自分と同じ存在であると悟った。
生き物が恐る恐る薄茶色のものに触れると、柔らかい感覚がした。ふわふわとしている。生き物はすぐにこの感覚が気に入り、つねったり叩いたり撫でたりした。

しかし、「薄茶色のふわふわ」はあまり動かなかった。ただ黒い光で見つめてくるだけだった。生き物はどうしていいか分からなかった。「薄茶色のふわふわ」の方も、もし自分と同じなら、触り返すべきなのにそうしなかった。
ひょっとすると、これは、厳密には自分と同じではないのかもしれない。でも、同じの部分があるのだと、生き物はそう思った。
「薄茶色」が生き物の手に湿った感触を与えた時、生き物は、輝かしい、生まれてはじめての知的ひらめきの瞬間を得た。
それはもし生き物の生かされ方がごくまともだったならば、幼児用パズルで遊んでいる時に得たであろうものと同じ種類のひらめきだった。
(これは自分と同じ。だから、自分と同じものを欲しているのだ。「ぴちゃぴちゃ」を欲しているのだ)

生き物は、「薄茶色のふわふわ」をなんとか四角から出すと、先程の「白いつやつや」のところへ行った。
「白いつやつや」を目にすると、生き物の口から出る音が大きく激しくなった。あの「はじめての感覚」には耐えられない。
でも、この「薄茶色」と自分が生きる為には、やらなくてはならない。薄茶色の目の輝きに見つめられると、今までに感じたことのない勇気に満たされるのを生き物は感じた。
生き物は恐ろしさで目をつぶりながら、慎重に距離をとって上の部分を押す。
あの感覚はまた生き物を襲った。…しかし、先程のように胸に大きく降ってくるのではなくて、こまごまと腕、顔、足…と体中に降ってくるといった感じだった。距離をとっているからだった。
これなら、普段生き物が受けている痛い感覚と大差ない。
先程生き物がそうしたように、薄茶色のふわふわは、すぐによろよろと「ぴちゃぴちゃ」にしゃぶりついた。自分の仮説が正しかったのだと生き物は確信した。生き物も同じように、それを舐めた。

生き物の心の中に優しい満足感が生まれた。胸の上の強烈な痛い感覚が消えたわけではなかったが、そのさらに奥が満たされた。
生き物は白いものから十分な距離を取って何度も押した。その度に二つの生き物の命の渇きは満たされた。薄茶色の生き物の存在が、肌色の生き物の心を強くした。
……そして、「白いつるつる」から、どんなに押しても叩いても欲しいものが出なくなった。

肌色の生き物は疲れて座り込み、薄茶色の生き物を優しく撫ぜた。薄茶色の生き物も、親しげに手に身を寄せてくる。
これ以外にも、まだ必要なものがある。それを自分たちに与えなくてはいけない。肌色の生き物の胸には使命感が芽生えていた。生き物は一体どうしたらよいかと考えた。
あの存在だ。押し入れを開ける存在。「よく動く大きいもの」。嫌な匂いのする、痛い感覚を与える存在。
肌色の生き物にはない、黒く不気味な長いものがついていた。それが時たま見える黒い二つの光を―生命の光を覆い隠していた。好奇心にかられて「黒く長いもの」を触ってみると、不気味な見た目とは裏腹にとても気持ち良かった。さらさらとしていた――その後、いつもの痛い感覚が飛んできた。

あの存在。「よく動く大きいもの」。自分や「薄茶色」とは同じようで違うあの存在がここに現れると、押し入れの外が明るくなっている。
……あの眩しさ。二つの生き物たちに必要なのはあの眩しさだった。
生き物は、立ち上がり、あの存在が通る道を歩いていった。
どういう仕組みなのか、ここに立つとあれが消えるふしぎな場所へ行かなくては。あの存在が消えると、匂いも、甲高い音も消え、部屋には静寂が訪れる。平和が訪れる。
しかし今生き物が欲しいものはつかの間の平和の中にはなかった。

生き物は目的地に向かい、部屋の他の場所とは異なる、冷たい感触を足の裏に感じた時、妙な段差を感じた時、自分が禁忌を犯している恐怖におののいた。
自分は本来なら押し入れから一歩も出てはいけないはずだ。それがいまや、そこから一番遠い場所に来ている。あの存在がいつも消えていく場所――生き物が生きる世界の“最果て”――に自分が立つなんて。自分がここから消えることを望むなんて。あの存在に頼ることなしに、光を望むなんて。
しかし、生き物には薄茶色の仲間がいた。生まれて初めて自分と同じ存在を見つけたのだ。あの存在がもう何も与えてくれないのなら、自分で手に入れなくてはいけないのだ。
肌色の生き物は、あの存在が消えていく壁に体当たりをした。薄茶色の生き物はその様子を不思議そうに見ている。肌色の生き物は体当たりをした。体をぶつけると胸が痛む。「はじめての感覚」は「痛い感覚」と違ってなかなかひかない。しかし、止まるわけにはいかなかった。
何度目かの挑戦で、その壁は前触れもなく動いた。生き物は勢いあまって前につんのめる。

光が部屋の中に差し込む。そこには、見たことのないものがいた。
あの存在―「よく動く大きいもの」に似ているは違う。二つの黒い玉は、「薄茶色のふわふわ」と同じく、肌色の生き物をまっすぐに見つめた。「よく動く大きいもの」にも黒い二つの玉はついていたが、そこに光はなく、一度も生き物をまっすぐ見ようとはしなかった。
「タイヘン」
「…オクサン、イナインデスカ」
「ヒドイケガ…コレハナニ?ヤケドジャナイ」
理解の出来ない言葉が聞こえる。肌色の生き物は抱きしめられたのを感じた。目の前の「よく動く新しいもの」は「薄茶色」にも目を向けた。そのことを確認してから、ようやく肌色の生き物は体の力を抜き、自分を包む温かさに身を任せた。
勝利の感覚が生き物を満たした。
光だった。…生まれて初めて自分の力で得た光を目に焼き付けながら、幼児はゆっくり目を閉じた。



ズボン下ろし

私が高校に入学して1か月ほど経った頃、「ズボン下ろし」という男子生徒のズボンを引きずり下ろす遊びが流行りました。
誰が何の為に始めたのかは知りません。それに今となってはあんな遊びの何が面白かったのかも分かりません。しかし、当時は箸が転げても可笑しい年頃というものだったのでしょう、男子生徒の下半身をパンツ一丁にするという、単純な遊びがおかしくてたまらず、みんながやっているからという理由もあったのでしょう、暇があればしょっちゅうやっていたのです。
私は、厳密に言えば、その遊びに初めの頃は参加していませんでした。「ズボン下ろし」には口では語られないルールがありましたから。いや、ルールといってもそう大層なものではありません。“女子は参加出来ない”という、ただそれだけです。
当たり前といえば当たり前かもしれません。たとえば女子が男子のズボンを下せば、男子は仕返しをしようと思いますね。仕返しはこの遊びの大きな醍醐味でした。スボンを下された子が「よくもやったな」と隙を見て、やった子に仕返しをする。仕返しされた子は「してやられた」と、また仕返しの機会を伺うんです。想像して頂けるでしょう。しかし、女子と男子では下半身を丸出しにすることの重みが全く違いますから、男子はやられても仕返しが出来なくなるわけです。それを避けるために、女子はこの遊びに初めから参加しなかったのです。
私たち女子は、「子供っぽい男子たちの、下劣な遊びには付き合っていられない」と馬鹿にした風を装っていましたが(もちろん本気でそう思っていた子もいたとは思いますが)、内心羨ましく思っていたのです。だってそうでしょう。男子たちはそこかしこで大笑いしながらやっていたのですから。この遊びの楽しさは、下半身を露わにさせられるという辱めを通して、何とも説明しがたい連帯感を育むことが出来る点にありました。
誰かのスボンを下すという行為自体が、その人への親しみを表す手段でした。それを(怒りながら)笑って許すというのもまた、親愛の行為なのです。
この遊びはウイルスのように爆発的に流行し、私たち女子は嫉妬しながら、思春期の女子なら多かれ少なかれ経験するどうしようも出来ない男女の差を嘆くエピソードのひとつとして、飲み込んでいくはずでした。
私は先ほど、親しみを表す遊びとしての「ズボン下ろし」と言いましたが、私の所属していた1年C組では事情が全く違いました。親しみどころか、人を蔑む道具として「ズボン下ろし」が使われていたのです。
1年C組にいた不良、武田という男がその流れを作りました。武田はキレやすく暴力的な男で、怒らせたら何をするか分からないと、生徒たちは怯えていました。武田自身がそのことは熟知しており、恐怖政治的にクラスの人間関係を仕切っていたのです。私は入学1年目から酷いクラスに当たったと嘆いていたのを憶えています。
武田は「ズボン下ろし」の流行を受けて、気に入らないものを辱める道具として利用しました。武田に逆らった生徒は、クラス全員の見ている中で、ズボンを下げられる。しかしこの遊びの本来のあり方とは違い、武田に仕返しすることは出来ません。
「やめろよ」と苦笑いするか、羞恥で俯くかのどちらかでした。
そうしてズボンおろしをされた子たちは心に誓うのです。武田には決して逆らうまいと。
武田と対等な立場にいる生徒はいませんでしたが、それにかなり近い子がいました。武田の妹分、古谷さんという女の子です。古谷さんは垢抜けた雰囲気の子でした。田舎に埋もれている美人だがおぼこい女の子を「ダイヤの原石」と呼ぶなら、古谷さんは「限界まで磨き上げられた川原の石」といった感じでした。特別はっと目をひくような美貌ではないけれど、恐らく意図的に焼いていただろう小麦色の肌、見え方を計算しつくしたスカートの長さ、見事なスタイル、香水の匂いのする髪の毛、笑った時に見える白い歯……それらが見事に調和して、他の女子にはない存在感を生み出していました。
武田と古谷さんは、入学して三日後にはもう互いに意気投合していました。「もう俺たちは、兄妹みてえなもんだから」――いつか武田がそんな風に言っていたのを思い出します。それも、入学してひと月も経たない内のことだったとおもいます、それほど二人の相性が良かったということでしょう、二人が仲良くなる理由は、何となく理解できるような気がしました。二人に共通点が多かったからです。学校側が掲げる「正しい制服の着方」にことごとく逆らうような着こなし、下から数えた方が早い成績順位…共感を感じる要素はいくらでもあったでしょう。
しかし、私は、どれほど仲良くしようとも、古谷さんは武田ほどの悪ではないだろうと、密かに考えていました。
私は一度だけ、古谷さんと一緒に登校したことがあります。
「あ、同じクラスの……」駅でばったり出くわした時、思わずという感じで彼女は呟きました。言った直後に、「しまった」というような苦い表情が彼女の顔に浮かびました……特に親しくもないのに、話し掛けてしまった、面倒くさいなあ……といった顔です。あまりに分かりやすくて、私は思わず笑ってしまいました。とても正直な子だったのです。
向かう先は同じだったので、仕方なくといった感じで私と古谷さんは一緒に歩き始めました。同じクラスとはいえ、まともに話したのは初めてだったので、お見合いのようなぎこちない自己紹介から会話が始まりました。
古谷さんが私よりはるかに垢抜けており、別世界の人のように思えたからか、私は会話中始終緊張していて、何を話したのかよく覚えていません。しかし一つだけ覚えていることがあります。恐らく趣味の話から始まって、彼女が音楽好きだと知り、何のアーティストが好きかと聞いた時です。
彼女の瞳が突然星のように輝き、中堅インディーズバンドの名前を答えました。はっとするほど澄んだ笑顔でした。子供が好きな料理を聞かれてカレーと即答する時のような明快な答えと、答えることへの誇らしさがそこにはありました。
彼女はそのバンドの音楽がいかに素晴らしいかを私に語りました。そのバンドについて話す時、湧き出る泉のように、語ることは尽きないようでした。
私が、武田と古谷さんに違いがあると思ったのは、古谷さんの中にそのような純粋な光があったからでした。
しかし、残念ながら、武田とつるんでいる以上、彼女も全く潔癖というわけではありませんでした。武田が気に入らないクラスメイトにズボン下ろしをしている間、いじめに加わりはしないものの、笑ってそれを見ていましたし、たまに「かっこ悪い」「気持ち悪い」と侮蔑の言葉を投げつけることもありました。
私はバンドのことを夢中で話していた時の彼女の笑顔が忘れられず、それ以来、武田の隣にいる彼女の姿を見る度、何か釈然としないものを感じていました。
彼女には、ある種の暗い影がありました。それは武田も同じく持っているもので、それこそが二人を結びつけているのだろうと思いました。
しかし、武田がその中にどっぷり全身浸かっているなら、古谷さんは、少なくとも一部は、そうではない部分があるように思えたのです。しかし、脱け出すには、あまりに多くの割合をそれに浸されており、その枠組みの他へはどうしても出ていけないのだろうと。
私は少し、悲しい気持ちで彼女を見ていました。武田の暴力は基本的にどれも理不尽なものでしたが、松山くんという子に対するいじめはほとんど不可解といってもいいものがありました。
松山くんは、大人しい、いたって平凡な生徒でした。強いて特徴を上げるなら、自信なさげで、おどおどしたところがあるぐらいでしょうか。それでも人を不快にさせるようなものではありません。そんな彼の何が武田の気に障ったのでしょう。武田は、松山くんをこれ以上ない程敵視していました。
顔が気持ち悪い、喋り方がムカつく、歩き方が女みたいだ、松山くんの一挙一動を攻撃の対象にしました。
そして、「ズボン下ろし」です。武田は気の毒な松山くんのズボンを、ほとんど毎回、休み時間の度に下ろして恥をかかせました。
松山くんの太ももの白さ、パンツの種類、その中のものの小ささ、武田は松山くんを罵ることが使命であるかのように、彼を見下して、嘲笑いました。
松山くんは、言い返すこともなく、下を向いていじめに耐えていました。私も他の生徒も、みんな松山くんに同情していましたが、何もしてあげることが出来ませんでした。古谷さんも、武田が松山くんをいじめるのを黙って見ていたと思います。
武田が松山くんに腹が立っていた理由の一つは、松山くんと古谷さんが前後の席だったことでした。それは出席番号順で席順が決められるからで、決して松山くんのせいではないのですが、武田は松山くんが古谷さんの近くにいることをまるでストーカー犯罪であるかのように口汚く罵りました。
松山くんにとって、そして古谷さん、私たちにとって転機が訪れたのは、夏休みに差し掛かる一学期の終わりでした。
武田が交通事故で足に怪我を負ったというのです。命に別状はなかったものの入院を余儀なくされました。夏休み明けまで出てこられないということでした。私や他のクラスメイトたちはみんなひそかに喜びました。武田の普段の暴政を考えれば自然なことです。
古谷さんは、クラスで一番の仲良しがいなくなったことで、孤立しました。彼女自身が選んだことだったと思いますが、昼休みに一人でいる古谷さんは少し寂しそうに見えました。
松山くんもまた、友達がいませんでした。武田の一番の標的となっている彼に近づこうというクラスメイトはいなかったのです。武田が学校を休んでいる間は、ぽつりぽつりと誰かと話しているのを見かけることもありましたが、依然として一人でいることの方が多いようでした。
そこで、奇妙な化学反応が起こったのです。そう、まさに化学反応と呼ぶに相応しいものでした。古谷さんと松山くんが仲良くなったのです。
武田が学校を休み始めた頃は、まだ武田の幽霊が教室で古谷さんを見張っているかのように、古谷さんは松山くんに冷たい態度をとっていたように思います。例えば、前後の席ですから授業のプリントなど手渡しするのですが、古谷さんは意図的に乱暴な仕草で松山さんに渡していました。
それがそういうわけなのか、少し時間が経つと、二人がぽつぽつと言葉を交わすようになりました。その後、一週間と経たないうちに、休み時間に楽しげに笑いあう二人を見かけるようになったのです。これには私以外のクラスメイトも、驚いたと思います。世の中には不思議なこともあるものです。
黙っていても派手さのある古谷さんと、無口で大人しい松山くんが話しているのを見て、共通点を見つけられる人はなかなかいないでしょう。少なくとも傍観者の立場からすると、二人は正反対に見えました。
私は二人を遠くから見ていただけなので、どのような経緯で親しくなったのかは分かりません。しかし二人の会話の断片から察するに、古谷さんが目を輝かせて語ったあのバンドを、松山くんも好きだったらしいということが分かりました。ほぼ間違いなく、それが会話のきっかけだったのでしょう。
古谷さんはバンドについて話せる友達が出来たからか、もしくは松山くんと単純に気が合ったからか、武田のそばにいる時よりもずっと楽しそうに見えました。松山くんも、口数は少ないながら、笑っていることが多くなりました。
そんな状態で、学校は武田不在のまま夏休みに入りました。私は高校一年目の夏休みにすっかり浮かれ、松山くんや古谷さんのことはほとんど忘れていま した。
そして二学期初日、私は目を丸くしました。夏休みの間に、松山くんと古谷さんが恋人同士になっていたのです。
松山くんの外見は、夏休み前とはすっかり変わっていました。表情を覆い隠していた量の多い前髪を整え、メガネをはずしていました。何よりも、表情は変わっていました。前のおどおどした様子が消え、背筋もすっと伸びていたのです。控えめに言っても、大変身でした。
武田はまだ学校に出てきていませんでした。武田が学校を休み始めた頃は、まだ武田の存在を意識している生徒もいましたが、長い夏休みを挟んだこともあって。みんなだましだまし、武田のことを忘れて大胆に振る舞うようになりました。
松山くんや、古谷さんに話し掛けるようになったのです。
松山くんの素顔は、気さくな人でした。古谷さんも、恋をしている幸福感からか、一学期の時の影のある様子が消えていました。二人はお互いに良い影響を与え合っていました。そしてその影響は、クラス全体にも広がっていきました。
ある日、松山くんと親しくなった男子生徒の一人が、松山くんに「ズボン下ろし」をしたのです。
「おい、やめろよ」松山くんは、親しみのこもった笑顔で言うと、その生徒を追いかけ、「ズボン下ろし」の仕返しをしました。パンツを丸出しにした様子がおかしくて、クラス中にくすくす笑いが起きました。むろん、馬鹿にするような性質の笑いでは決してありませんでした。近くにいた古谷さんは顔をしかめながら、「いやだあ」と言いました。これも同じく、本気で思っているのではなく、可笑しさを隠して言った言葉でした。
このクラスにもようやく、本物の「ズボン下ろし」の流行が訪れたのです。残酷な遊びから、親しみのある遊びに変わったのです。しかも、私たちのクラスの「ズボン下ろし」は、さらに一歩進みました。女子も参加できるようになったのです。
きっかけはやはり、古谷さんでした。古谷さんがある日の昼休み、気まぐれでいきなり後ろから松山くんのズボンを下ろしたのです。
松山くんは、そのころにはすっかり増えていた男友達の一人がやったことだろうと思ったに違いありません。振り向き、古谷さんの姿を認めた時、松山くんは目を丸くしました。古谷さんはいたずらっぽく笑いました。
松山くんは仕返しに古谷さんのスカートをめくっても良かったはずですが、かわりに仕返しとして彼女をくすぐったのです。
私は遠くからそれを見ながら、松山くんの行動に感動しました。もし古谷さんがズボンを下したのが武田だったらどうでしょう。武田なら面白半分に古谷さんのスカートをめくったかもしれません。
古谷さんが松山くんのズボンを下ろした理由は、たとえズボンを下されても、松山くんなら、全く同じ方法で仕返しをしないでいてくれるという信頼があったからでしょう。
紛れもない信頼があってのことだったのです。私はまだ若く、そんな信頼がこの世に存在すること自体に感動しました。特に武田のような独裁者の恐怖政治の下で長いこと、人々が侮辱されてきたのを見た後では、まるで奇跡のように映りました。
私たちは奇跡のおこぼれにあずかりました。古谷さんが松山くんのズボンを下すようになったので、女子も仲のいい男子のズボンを下ろすようになったのです。男子は、松山くんに倣って、くすぐるなり、おいかけるなりの方法で女子に仕返ししました。「ズボン下ろし」は男子にしかできないという常識が、私のクラスではいともあっさり覆されたのです。私ですら、仲の良い男子のズボンを下ろして遊びました。
その時のクラスの空気を一言で表すなら、“穏やか”でした。クラス全体が、緩やかに繋がっていきました。共通点のない生徒同士が仲良くするようになりました。私も、話したこともなかった隣の席の子と話すようになりました。
休み時間はズボン下ろしがどこかで起こって、男子も女子も笑い転げていました。私もたくさん笑いました。お腹が痛くなるほど。楽しかったです。誰かが何かを間違えても、責める人はいませんでした。高校生活を振り返っても、あれほど穏やかで幸せな時期はありませんでした。
しかし、その時間は続きませんでした。武田が帰ってくることになったのです。誰だって、武田の存在を忘れていたわけではありませんでした。しかし、武田のいないクラスがあまりに心地よくて、みんな考えまいとしていたのです。
武田が帰ってくる前の日、古谷さんも松山くんも、やはり浮かない顔をしていました。放課後、うつむく古谷さんと松山くんの周りに、仲の良い友達が集まっていました。深刻そうに見える彼らは、武田のことを話していたに違いありません。慰めるように古谷さんの背中に手を置いている女の子もいました。
私は古谷さんに何か声をかけたいと強く思いました。松山くんと付き合いだしてから、古谷さんは明るくなりました。私は古谷さんに、バンドのことを話した時のような目をいつもしていてほしいと思っていました。松山くんといることでそうなるならば、武田がなんと言おうと、松山くんといることを貫いてほしいと思いました。
私は古谷さんと松山くんに感謝していたのです。
穏やかな時間、優しい空気、私にも参加できるズボン下ろし、全て二人のおかげでした。
しかし、そんな気持ちを古谷さんにどう伝えればいいというのでしょう。私は古谷さんとも松山さんとも仲良くありませんでした。「武田に負けないで」「二人を応援してるよ」こんな感じでしょうか。
そんな言葉では、なかったのです。そんなぐらいなら、言わない方がマシでした。かといって、こんな気持ちを長々と説明するほど、私は二人と仲良くもありませんでした。私は彼らを遠くで見つめながら、口を開かないことに決めました。
次の日、武田が登校してきました。午後からの登校です。クラスに、久しぶりにピリピリした空気が漂いました。武田の方も、何か違和感を感じていたよ うです。
話し掛けても生返事しか返さない古谷さん、見ないうちに垢抜けた松山くん。武田は、休み時間に松山くんをからかいに行きましたが、松山くんは何か言われる前に武田を睨みました。武田は一瞬怯みましたが、すぐに松山くんの胸ぐらを掴んで凄みました。「何だ、その目は?」その時は教師が入って来たので、喧嘩にはなりませんでしたが…。
放課後。恐れていた瞬間がついにやって来ました。まだ教室に多くの生徒がいる中、古谷さんの女友達が、武田に告げたのです。
古谷さんは今、松山くんと付き合っているので口出ししないであげてよ、と。
それを聞いた瞬間、武田は呆れたような顔をしました。冗談か何かだと思ったようです。しかし、古谷さんと松山くんが何も否定せず、お互いを慰め合うように見やっているのを見ると、武田もなにかただならぬものを感じたらしく、顔を歪めたかと思うと、いきなり松山くんを殴りました。倒れる松山くんの傍による古谷さんを見て、武田は確信したようでした。自分の妹分だと思っていた古谷さんが、最も馬鹿にしていた松山くんと付き合いはじめたことを。
武田にとってはまさに悪夢だったに違いありません。
武田は庇おうとする古谷さんを突き飛ばし、尚も松山くんを殴ろうとしました。古谷さんが、武田の腕を必死で掴んで止めます。
「お願いだから、やめて!」
「何の冗談だよ、これは」
「松山と、付き合ってるんだよ!お願いだからこんなことやめてよ!」
古谷さんがついに認めました。武田はその瞬間、静止しました。教室が一瞬、薄気味悪い程の沈黙に包まれました。
「付き合ってるっていうのはどういう意味だ」
「そのままの意味だよ」古谷さんは泣きそうな声で言いました。
「そのまま、じゃねえだろ。どういう意味かってんだよ。言え!」
「だから…松山は、私の彼氏なんだよ」
武田は、むしろ薄笑いを浮かべていました。しかし、彼の震える声がほとばしりそうな怒りを湛えていました。
「彼氏? こいつが? 冗談はやめろよ。こんなダサくて気持ちわりい奴が?」
「私だって、最初はそう思ってたよ。でも信じて。松山は本当にいい人なんだよ。松山といると、自分が全然マシな人間になったように気がするんだよ。幸せになれるような気がするんだよ…」
古谷さんは涙ながらに訴えました。不器用で、たどたどしく、本心から出た言葉でした。
「いつからお前、そんな腑抜けたこと言うようになった。俺たちにはそんなもん必要ねえんじゃなかったのかよ」
武田の言葉もまた、本心のようでした。どういうわけか、私にもそれが伝わってきました。武田からは強烈な孤独が伝わってきました。
「変えられねえこともあるんだ。いくらこいつら腑抜け野郎どもに馴染んだって、結局俺たちは俺たちにしかなれねえんだよ」
武田は古谷さんの胸ぐらをつかみ揺すりました。古谷さんは武田の目をまともに見られず、目を逸らしていました。武田と古谷さんの間にも、他の者には分からない結びつきがあったのでしょう。
「ふざけんな。何、勝手なこと、してんだよっ!」
松山くんと何人かの生徒が慌てて止めに入ろうとすると、武田は怒鳴りました。
「野次馬は外出てろ。松山もだ。これは俺とこいつの話だ」
私や他の死とは慌ただしく準備をして、外に出ざるを得ませんでした。
松山くんはもちろん、古谷さんの為に残ろうとしましたが、古谷さんが大丈夫だからと言い、仕方なく外に出ることになりました。
私は閉じた教室の扉を呆然と見ていました。二人の激しい言い争いの声が外まで響いてきます。私は当時、仲の良かった友達と目を合わせて、「武田、怖いね」とか「古谷さん大丈夫かな」とか、そんなことを言いあっていたような気がしました。
松山くんは近くの階段に腰掛け、教室の方を心配そうに見ていました。変えるためには、その階段を通らなくてはならないので、私と友達は、自然な流れで松山くんに話し掛けました。
「松山くん、大丈夫?」
おそるおそる、私は聞きました。松山くんは頬を腫らしながら、笑ってくれました。
「うん。…大丈夫」
「保健室に行った方がいいんじゃないの?」
「平気。彼女が気になるから、ここにいるよ」
松山くんは険しい顔で教室の扉を睨みました。古谷さんが心配で仕方ない、そんな様子でした。
「……大変だね」
ぽろりと、言葉が口をついて出ました。そんなこと言うつもりはなかったのですが。
私は続ける言葉を探しました。しかし、どんな言葉も結局は陳腐に聞こえてしまうだろうと残念に思いながら、自分の本心に近い言葉を探して、さんざん迷った後、「きっと、上手くいくよ。今は大変だけど、きっと最後には全部、上手くいくから…」―――と、結局一番陳腐な言葉を言いました。しかし、他には何も思い浮かばなかったのです。
今私があの場所に戻ったとしても、これ以上のことが言えるとは思いません。こんな言葉でさえ、友達が隣にいたから言えたのです。今私はこの物語を語っていますが、それほどこのお話の主人公たちとは距離がありました…。
松山くんは私の目を見つめました。
「ありがとう」
その目には温もりがありました。古谷さんが好きになったのも頷ける、優しい目でした。古谷さんと付き合い始めたことで松山くんは垢抜けましたが、古谷さんが好きになったのは外見とは全く関係のないところだったのでしょう。
物語は、この三日後に、事実上の結末を迎えます。
武田と古谷さんは、次の日からそろって学校を休み始めました。松山くんは登校していましたが、終始浮かない顔をしていました。
そして三日後、松山くんは下校中に、通学路で待ち伏せをしていた武田に背中を刺されて怪我を負いました。命に別状はありませんでしたが、精神的なダメージがひどかったらしく、休みがちになり、留年した挙句、高校を中退しました。
武田はすぐに矯正施設に送られました。古谷さんは、学校を辞めました。新宿のカラオケ屋で働いているとか、キャバクラでナンバー1になったとか、いろいろな噂が飛び交いましたが、真偽は分かりません。ただ、松山くんと古谷さんが別れたのだけは間違いないようでした。
どんな劇的な展開があったのか、私には知る由もありませんでした。クラスのみんなはあることないこと噂しました。…古谷は武田に従って松山くんと別れ、武田と共に松山くんを刺したのだ。いや、古谷さんは松山くんへの愛を貫き、怒った武田が松山くんを刺したのだ。
当事者たちは、誰も何があったのか語ろうとはしませんでした。真実は謎のままです。傍観者の私には知りえません。
古谷さんには今でも幸せでいてほしいと思っています。松山くんにも。古谷さんと松山くんはお似合いの二人でした。二人が続いてくれたら一番だったのに。しかしそれも、私の立場から見た一つの考えにすぎません。
私は古谷さんのことも松山くんのことも…それから武田のことも、何一つ知らないのですから。
私の目には、古谷さんと松山くんは素晴らしいカップルで、二人を理解しない武田は薄汚いいじめっ子に見えました。でも事実がそんなに単純なら、もっと話も単純になっていたはずです。恐らく古谷さんと武田の間にも、それが何であれ、他の人には分からない何らかの絆があったのでしょう。
本当は、物語の結末をこうして語りたくなどなかったのです。私は「ズボン下ろし」についてお話しようと思っていました。クラスに穏やかな雰囲気が流れていた時があったのです。ズボン下ろしという遊びが流行っていて、女子である私ですら参加出来た平和な時代があったのです。古谷さんと松山くんの築いた平和でした。私は、あの時間が好きだったのです。
私は悲しい物語を語るつもりはありませんでした。あの穏やかな時間、優しい時間、あの理想郷のことを話したかったのです。
古谷さんと松山くんが付き合い始めて、全く違う風がクラスに訪れた時、私は、大げさかもしれませんが、奇跡を見たと思いました。しかし悲しいことに、奇跡は嘘のように呆気なく消え去ってしまったのです。



運命の人


イヤホンから流れてくる音楽が止まった。たった今、男はアルバムを一つ聞き終わった。

スーツのポケットに突っ込んだ音楽プレーヤーをわざわざ取り出し、次に聞くアルバムを探しすのが面倒くさい。男は思った。特に、いちばんはじめのポケットから音楽プレーヤーを取り出すというプロセスは骨が折れる。

なぜなら男は空いても混んでもいないJR山手線、空いている空席といえば一車両に一席程度、立っている人がぽつりぽつりの車両の中、人と人の間に行儀よく座っていたからだ。
暗黙の了解的に両隣の人と腕を触れ合わせ、申し訳程度に肩を自分の身体の方に入れ込み、文字通り肩身を狭くして座っている。この体勢からポケットを探るのはあまりに難儀だった。

そんな風にもぞもぞ体を動かしたりすれば、もし隣に座っている人が万一怖いお兄ちゃんだったらば、いやなため息つかれたり、悪くすれば舌打ちされる可能性がある。あまりに危険すぎる。

もう、音楽を聞くのは諦めざるを得なかった。男は一人肩をすくめて目を閉じた。

ふと、どこからかシャンプーの香りがしてきた。清潔感漂う石鹸のような、それでいて甘いような。とにもかくにも良い香り
近い。どうやらすぐ隣からきている匂いのようだ。
男はまぶたを閉じて、目には見えない世界を見た。くらくらする圧倒的な女の香り。鼻をくすぐる甘い匂い。それから耳には、かすかな音楽が。
音楽?男は首を傾げる。音楽を聞くのはつい先ほど諦めたはずだが。

男のイヤホンからではなかった。なのにものすごく近くから音楽が鳴っている。少し後、隣に座っている人のイヤホンの音漏れだと気付く。
絶え間ない音の洪水は、むせ返るようなシャンプーの匂いと化学反応し、男のまぶたの裏に奇妙な世界を映し出した。

そこは小さなバスルーム。1LDK部屋のバスルームといった感じの広さ。そこで、裸の女がシャンプーをしている。たっぷりのお湯を浴び、女は髪に指をかき入れる。……
ふと、男は小骨が喉に引っかかるような違和感を覚える。音漏れの洪水は相変わらず続いているが、これはシャワーの音とは似ても似つかない。

三秒後、男はドラマティックな驚きと共に、隠されていた偉大な真実に気が付いた。男は流れている歌を知っていた。
これは、あの歌だった。「ダンシング・クイーン」だった。
この歌が特別好きだったわけではないが、何しろ有名な歌だ。メロディーやサビの歌詞は当然知っていた。確か、洋楽にかぶれはじめた大学生の時に聞いていたのだったか。

ダンシング・クイーン。煌びやかな音のローテーション。ダンシング・クイーン。男は唐突に、この歌がどれだけいい歌だったかに気がついた。
なんと完璧な歌。欠点の一つも見つからない、美しすぎる歌。

男の閉じられた瞼の裏、先程シャワーを浴びていた女が、踊りやすそうなジーンズとキャミソールに着替えていた。
彼女は、ダンシング・クイーンだった。彼女が踊る度、シャンプーの匂いを振りまいた。ダンシング・クイーン。17才(セブンティーン)のダンシング・クイーン。

夢見るダンスの世界が終ったあとは、ガタンゴトンと電車の音が聞こえるのみ。
世界が沈黙した。相変わらず強いシャンプーの匂いは、夢の残り香だった。

しばらくすると。
また、メロディーが響いてきた。男は目を閉じながら、神妙な顔、私は真面目な社会人ですよという顔を一ミリたりとも動かぬよう注意しながら、心の中で小躍りした。

次の歌は、ダンシング・クイーンよりは大分アップテンポだ。指でビートを刻みたくなるのをぐっとこらえる。
男は辛抱強く待った。しかし、待っている瞬間がたとえ訪れなかったとしても、もはや気にしない心構えだった。もう男の世界の中ではさっきの女がダンスを始めている。

果たして、その瞬間は来た。男はこの歌も知っていた。
これは……えみちゃんの歌だった。小学生の頃好きだったえみちゃんが歌っていた歌。他の子より色白で髪が生まれつき茶色だったえみちゃん。あの娘が歌っていた、女児向けアニメのオープニングソングだった。

三十差し掛かったいい大人が子供っぽく声を作っているに違いないムリのある歌声。子供の頃は、そんなことには気付かなかった……これを歌っているのは男と同じ小学生だと無邪気に信じていたものだ。
これを録音した時の歌手と、今の男が同じぐらいの年齢であるだろうから、この歌手は今頃…いくつになっているんだ?想像もしたくない。

しかしそんなことはどうでもよかった。
男は小学生の時、えみちゃんが好きだった。
男はえみちゃんに気に入られたくて、夕飯のカレーを食べながらこのアニメを見たのだった。女子の見るものなんて興味もなかったが、せめて彼女の話に相槌ぐらいは打てるよう、キャラクターの名前だけは何とか全員分覚えたのだ。  
 ファンシーなんちゃらだのプリティーなんとかだのややこしい名前が多かったが、社会の授業でやったセーレーシテイトシよりは容易に憶えられた。

また、男の想像の世界では。はっきりしなかった女の顔が、えみちゃんが成長したらこうなっているであろう美しいものになっていた。
えみちゃん。えみちゃん。すごくきれいになったんだね。男は思わず声をかける。ずっと会いたかったんだ。でも、機会がなくて。卒業してから、えみちゃん、君に、どれだけ会いたかったか。

えみちゃんと感動の再会を楽しんでいると、音が大きくなった。それと同時に、肩に重みを感じた。ずっしりした感覚。隣の人が、肩に寄りかかっているのだと気付いた時、男の心は震えた。大げさとは思ったが、閉じた目に涙が滲みそうだった。
人間の頭とはなんと重いものか。ここに命が、知恵が、人生の喜びが詰まっているのだ。そして、男にもたれかかっている頭は温かかった。人間の体温とはなんと心地よいものか。
男はふと、こんなことを思った。
この人は、僕の運命の人かもしれないと。
こんなに優しい温かさを持ち、こんなにいい匂いがして、えみちゃんの好きだったアニメのオープニングテーマを聞いている。
これが運命でないというなら、一体何だというのか。

男の瞼の裏で踊っていたえみちゃんに似た女は、ふと動きを止める。隣からの音漏れが、胸のすっとするようなピアノの旋律に変わったからだ。
男は息を止めた。
二度あることは三度ある。男はこの歌も知っていた。
これは童謡だ。中学の頃に、音楽の授業で習った歌。音楽の授業は退屈だったが、これはなかなか良い歌だと感動した記憶がある。

音楽室の窓際の席で、男はこの歌を聞きながら。ひたすら窓の外を見ていた。校庭の土と、空の青と、トラックを走っている名も知らぬ女子生徒の乳の揺れを見ていた。
しかし、あの時に男が見ていたものは目に見えるものだけではなかった。未来だった。空の向こうには果てしない未来が広がっていると、本気で信じていた。あの時だって、今と同じ、自分に何も特別なものなどないことには薄々気づいていた。それでも。中学生の時には、まだ、明るい未来を素直に信じられるだけの力があった。

僕は今まで、何をしていたんだろう。
男の心はもう電車の中にはなかった。あの音楽室の窓の外から、はるか遠く、宇宙の彼方へ旅立っていた。美しいピアノの音。余計なものをそぎ落とした歌詞。未来に希望を持とう、そんなことを言っているだけのありがちな童謡。こんな素朴な歌詞が、なぜあんなにも心を打ったのか。

この人は、僕の運命の人だ。
男は確信した。
男は今はじめて、目的のないこの人生で、自分が生きている意味、毎日あくせく平凡な仕事に従事している意味を知った。男は、隣の人がどんな人であろうと、一生をこの人に捧げるべきなのだと悟った。稼いだお金、自分の時間、全てをこの人との幸せの為に使おうと思った。
たとえ彼女が美人でなくても、かまいはしない。
男は決意し、頭の中のえみちゃん似の美しい女を消した。容姿などはどうでもいい。いや、どうでもいいなんて、投げやりなものじゃない。この人でないと駄目なのだ。この人こそが、僕の運命の人なのだ。

男は想像の世界から決別し、大いなる決意と共に目を開けた。
新たな人生を祝福するかのような眩しい光がさしこみ、男は目を細めて、二三度まばたきをする。
明るさに慣れて、今度は目をしっかり開ける……男はすぐに、視界の端に何か見慣れないものを見た。何だ。これは。
男は、視線だけを動かして、自分に頭を預けている右隣の人を見た。いや、人というか……、肌色。

肌色。
それが禿げ頭だということを理解して、男は……先ほど固めた大いなる決意にたがわぬ、思い切った結論を出した。「禿げていようが構わない。この人こそ運命の人なのだ」と思うことにしたのだ。

しかし、0.1秒後、その決意は呆気なく崩れた。禿げた右隣の人は、どう見ても男だった。
なま温かな頭を無防備に男に預け、偶然にも全て男の知っている歌を聞いていた人は確かに、この人だった。そして、中年の男だった。

ぷうんと甘いシャンプーの匂いがした。左隣のOL風の女が座席から立ち上がった。彼女の長い髪が、ずっと甘く香っていたのだ。

「…………」
男は降車しようとするOLを、反射的に引き止めようとした。
決意を早々に放棄した後ろめたさを埋めるように、今度はこのOLこそが運命の人だと信じ直してみようとしたのだ。が、それでも、0.2秒後に挫折した。男の勇敢な心は、もうしわしわに萎えきってしまっていた。

右隣からは相変わらず、小さな音で童謡が流れている。男はしばし、心の中で歌詞を口ずさんだ…。今も昔も変わらず、良い歌だった。
ガタンゴトンと電車が揺れる。変わったことなど何もない、のどかな午後だった。

運命の人、か。
男は苦笑した。
とっくの昔に死んだ純心と、白昼夢の中で図らずも再会したようだった。
運命の人。
そんな言葉を冗談でも使うのは、ひょっとしたらこれが人生最後になるのかもしれない。

疲れているのか、禿げた男はまだ肩に頭を預け、すやすやと眠っている。それを見た男は、自分もこの平凡極まりない毎日を生き抜くのに、本当はとても、とても疲れていたことを思いだした。……

男はあくびをひとつすると、口を開け、肩の力をだらりと抜く。ほんの少しだけ、子供のように眠ることを、自分に許してやることにした。



ホラー短編集

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  • ホラー
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更新日
登録日 2020-03-04

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