天正6月2日 第1章
少女の夢と狙撃手
天正十年(旧暦)六月二日 早暁 明智光秀、京都四条西洞院本能寺にて、
主・織田信長を襲撃に成功、これを討つ。
雨だ。
凍りついた時間に―――雨だけが動いている。空気が刃のように冷え、景色は闇に溶けていく。手を伸ばせば、もやのように闇は空間を融かして、どこまででも届きそうに思える。幼いあざみ以外は、何物も存在しない世界がそこにある。
実体を伝えるのは、板葺き屋根から―――軒を伝って落ちる雨の音だけだ。横殴りに降る雨が、見えない針のように、この虚ろな世界のどこかに一晩かけて降りそそいでいく。飛沫が撥ねるその音だけが、確かにここにいるはずのあざみの意識を打ち醒まそうとしていた。
そうだ。わたしも、ここにいるんだ。
小さなあざみは猫のようにうずくまって、雨が去る朝を待っている。父も兄も、夕刻出て行ったまま、まだ戻っていないのだ。この雨で、河の堤が心配なのか―――随分と急いだ様子で支度をしていった。母も姉もえらく不安そうで、気もそぞろになっている。もはやこの家では誰も口を利くものがいなくなって、早く寝ろと半ば強制的に寝床に就かされた今、雨の音だけが、あざみの相手をしてくれている。
こんな日は、この世に自分以外誰もいなくなったような気がする。
幼いあざみはそんな空想が怖くて、息苦しくても布団から手足すら出せずにいた。もし片足でも外に出れば、無間の闇は、穴に逃げた鼠の尻尾をつかんで捕えるみたいにして、あざみをどこか遠い、想像もつかないほど遠い場所へ持ち去ってしまうような、そんな気がしてならなかった。でも、
(手足を出さない限りは、大丈夫なんだ)
そんな他愛のない信仰だけが、小さな自分を護ってくれる。
(・・・・・それに、あったかいし)
数日の長雨で空気が冷え切っているのだ。夜具に包まれるのは、シン、と張り切った人のいない部屋の空気から、あざみの身体の安全を保障してくれる唯一の手段だった。
あざみが闇の中で根拠のない空想を恐れる背景には、もちろんそう言う恐怖をどこか愉しむ気持ちも反面あったりする。恐怖や不安を隔てた皮一枚で、何かに包まれていると言う安心と実感を、いつもより強く味わうことが出来る―――あざみのような甘えん坊の空想家には、今夜みたいな晩は、ちょっぴりわくわくするものでもあった。
母と姉は、土間で眠らずに待っていた。やがて家族が全員戻れば、この寝間は暖かい家族の温もりで満たされるだろう。布団を巻き取って床の隅にうずくまり、あざみもまた、こっそりとこの部屋の空白を埋めてくれる父と兄の帰りを待っている。
叩きつける雨粒の飛沫の音が変わり、誰かが戸口に立つのが分かった。
(・・・・・・帰ってきた)
あざみは布団を引いたままそろそろと身を乗り出し、指先を使って音が出ないように薄く、木戸を開けた。
どんどんと乱暴に、出入り口の戸板を押し叩く音が響いている。この雨の中の強行軍で、一刻も早く休みたいのだろう。急かす感じの叩き方だ。はいはいと囲炉裏端から返事をして、母と姉が立ち上がっていく気配がする。
母は父の、姉は兄さまの名前を呼びながら、歩み寄っていく。あざみは自分も飛び出したいのを押さえて、時を待った。
(今だ)
やがてその扉が乱暴に押し開けられたとき、運命は変わった。
ぶるっと、あざみは肩を震わせた。
寒い雨の夜はもうここにない―――代わりに鼻と唇の周りに、濃密な夏の気配が貼りついていた。あの晩とは、なんだか別の意味で息苦しかった。なにより暑い。
耳を澄ますとどこかで、時を焦って鳴き始めた夏蝉のざわめきが潮のように響いてくる。
はっと息を呑んだあざみは、ぱっちりと目を開けた。
しばれる空気も、雨の気配も、家族のいる空気の残滓も―――消えている。頭は幼児の思考に戻っていたが、熟した卵黄のように鮮やかな比叡山から上る朝陽が、あざみを十五歳の今の自分につなぎ直してくれた。
「・・・・・・あ・・・・・・」
しまった。
確実に、数分間は意識を失っていただろう。うとうとと夢寐に漂っていた時間も含めたら、もっとかも知れない。上げかけた悲鳴をあざみは、あわてて飲み込んだ。動転している場合じゃない。時間切れならもうその時点で万事休すなのだ。
行かなきゃ。床に手をついて立ち上ろうとすると、まどろんでいた足がもつれた。
東の空にはもう、太陽が昇りかけている。熱帯夜の濃密な暑気も今ではなりを潜め、明け方の涼しげな夏風が、急いで物見に登ったあざみの赤く光るおくれ毛をそよがせた。
稚児髪くらいに短く切り上げた髪が朝陽に赤銅色に輝いてふわふわと揺れたが―――額に冷や汗の浮いているあざみにとっては、今、朝陽どころの話ではなかった。
まぶしい視界を手で庇いながらあざみは、西の彼方を望んだ。彼方に見えるのは、京都所司代の村井貞勝屋敷。そこから堀川通りを挟んだ道の向こうに、あざみが見張るべき場所がある。
四条西洞院本能寺。
本能寺はまだ、明け方のまどろみの中にいる。幸か不幸か、朝もやに煙る境内や広場には、動いている影はまだ見られなかった。最後の人の出入りがあったのはもう丑の刻(午前二時)辺り、あざみが憶えている限りでは二条御所の周辺に五百の兵を構えて入京した、織田信忠一行の姿を見かけたときだ。
信長は朝の馬廻りに出るのが日課だと言う。だが、眠りにつくのがかなり遅い今晩に限っては、もしかすると朝方の遠乗りはないかも知れない。
織田信長を撃つ。
これまで幾人のものが、しくじってきたことか。
あざみにはいまいち、実感が湧かなかった。
第一、本当にそんなことが可能なのだろうか。あざみは計画の一部でしかないからもちろん、文句を言う立場ではないが、想像がつかないことをしようとしているこの感覚はどうにも表現しにくい。
動機と言うなら、あざみにも動機はある。
信長を殺すのは、あざみの半生を占める目的でもあったからだ。
その生きる目的を与えてくれたあざみの師はもういない。でも信長を殺せば、師は恐らく喜んだだろう。だからこそ、この企みに参加した。物見と脱出役を買うあざみと本能寺にいる狙撃手の夷空(いそら)、ことはたった二人の暗殺者の手によって、突如起こる。
それが、今朝である。
銃声はいつ起こるのか/果たして起こらないのか。
そのときどう動けば?
よしんば上手くいって、逃げたらこれからどうなる?
あざみは、絡みつく無数のパターンの思考を振り払った。
(まず、落ち着くんだ)
何かあっても、そのときは、そのとき。考えるべきなのは、常に次の一瞬以外にない。
分かっている―――しくじれば死ぬだけの話だ。
そして、この年で死んでも―――別に悔いに残ることはない。
(でも、夷空と約束した。わたしは、わたしの役目を果さなきゃ)
そう考えていると、やがて、自分の出番が来ることだけが無性に気になってきた。
(・・・・・変だ)
物見台の上で動いた微妙な空気の胎動を、あざみは不審に感じはじめていた。この時間、野良仕事に畑に出る郊外の農夫たちを除いては、街は眠りに沈んでいる。動くものの気配が絶えた場所では、空気も、もやのように滞留する。それがなぜか今、大きく動いている。
どうもなにかが―――おかしい。
すぐにそれを言葉にしろと言われても、到底不可能だ。ただ危険な場所での物見に慣れたあざみには、この空気の微妙な変化が、朝晩の寝静まった戦場で突然の展開を予兆するものだと言うことが、経験で分かっていた。
例えば味方の陣に紛れ込んだ伏勢が、一斉に動き出すとき。ひそかに動き出した空気の持つ濃密な緊張感は、そんな、予想外の事態を如実に予見したりする。ひとつ対応が遅れれば全滅につながる大混乱へと進む前兆を、あざみは肌で感じることが出来た。
思えば悪夢がこの嫌な予兆を運んできたのかもしれなかった。
(・・・・・来る)
予期せざる何かが―――この街に迫ってきている。
あざみは南の方角に目をやった。この南蛮寺のあるだいうす町から、四条町の辻あたりにかけては、戦乱著しい京都にあっていち早く復興した市街地の中心にあたる。物売りの姿や見世棚のない大通りは、昼夜の寒暖差を象徴するもやが立ち込めて、まるで目鼻のない顔を見るようにひどく寂しげなはずだった。
しかし、今やその大通りの雰囲気は一変していた。
「あれ・・・・・・」
今、なぜ。
誰も答えをくれないはずの疑問を、あざみは口にした。
「どうして寄せ手が・・・・・?」
その大通りだけではない。この街を連綿と巡る錯綜した路地と言う路地から、まるで黒山のように甲冑を着けた男たちが雪崩れ込んで来ている。それは溝に墨汁を流し込んだかのように、透明な流れを漆黒の暴虐でみるみる侵食していった。
「ひっ」
茫然自失のあと、あざみは低い悲鳴を呑みこんだ。
無理もない。
低く垂れこめたその白いもやがほとびて、筋になって流れていく。それは、無言で進行する寄せ手の圧倒的な質量が、よどんだ空気を蹴散らして、目標に迫ってくる緊張感のせいだ。幾千万の死をもたらすものたちの圧迫感がそうさせる。
もうもうと湧き上がる砂埃とともに今や男たちの漏らす死の吐息は、鉄製の甲冑がこすれる音とあいまって、街中に地響きのような、毒々しいどよめきの渦を作り出していた。それはまさに殺意の壁だった。ひとつの禍々しい意志を持つ巨大な怪物が、この京都を呑みこもうとしていた。文字通りなすすべもなく、あざみは立ち尽すしかなかった。
なぜ?
誰が、一体、こんなことを。
答えのない疑問符に追い立てられるようにして、あざみは奔った。不幸中の幸いと言うべきなのか、念入りに練り上げた遁走路が、この予想外の事態に思わぬ役に立った。殺気立った槍先を掲げる軍勢の目をかいくぐり、何度か転びそうになりながら、あざみは目的の場所を目指していた。
(早く、早く報せなくちゃ)
本当の緊急時の場合には、狼煙をあげる地点が異なるのだ。昨晩から本能寺に潜入中の夷空にことを知らせるためには、西北の東屋から合図をしなければならなかった。すぐ逃げるためにわざわざ、遠い場所を確保してしまったことが、今さら悔やまれた。
突然の進攻部隊は四手に分かれ、京都市街の封鎖をほぼ完了しつつある。四つの大路小路を一列に延びて進軍する最後尾は、山陰道からの京都への入り口、丹波口である。
藍地に白抜きした桔梗紋の幟(のぼり)を、窒息しそうにあえいで目を白黒させながらも、あざみは確認した。この場所から上ってくる軍勢は丹波亀山十二万石、信長股肱の配下の一人、明智光秀(あけちみつひで)だ。
本来は友軍のはずだった。現在、近江の羽柴秀吉(はしばひでよし)に二万余の軍勢を動員させて行わせている中国毛利との侵略戦に援軍を送るため、一万三千の軍勢を動員すべしとの命令を受け、光秀は急遽、自分の所領に帰国していた。
この命令が、本当に突然のものだったと言うことは、あざみも聞いている。本来なら光秀は、三河から上洛する徳川家康の歓待役に駆り出されており、連日の饗応や堺見物の段取りなどを取り仕切っていたからだ。もっとも、その際のもてなしに計上した費用が莫大なものになり、野放図な濫費(らんぴ)を信長に咎められ中途解任されたとも聞くが、ともかくも、噂はあてにならないものだ。
ただ、光秀が国元で整えた遠征部隊が、出征前に信長の前で馬ぞろえをするとも考えにくい。進行中と臨戦態勢の空気感が異なるのはもちろん、実質的に部隊が戦闘準備体制に入っていることは、あざみが見てもすぐに分かることだ。
例えば鉄砲方(てっぽうがた)だ―――彼らは、短く切った火縄に点火し、白煙を上げた状態のものを、複数個ぶら下げている。これは即、射撃体勢に入れとの下知が出た証拠だ。また、徒歩の兵たちや馬が使用する遠征用の沓などが道端に切り捨てられているのも散見できる。
(謀反だ)
攻撃目標の本願は、本能寺だが、一手は二条御所方面に進攻していっている。これは分宿する信長の嫡男、信忠の首を狙っているのだ。突然の謀反を決意した光秀の意志は、どうやら本物のようだ。一戦で織田家を完全に根絶しようとする明確な意志が、兵のはしばしにまでよく伝わってくる。
信長は、確かに何度も命を狙われていた。この畿内でも、大小の謀反や暗殺計画は頻発していた。しかしいずれも、突発的にして散漫な不発弾に終わっている。散漫なのはそのほとんどが、信長のやり方に耐え切れなくなっての感情的な蜂起だからなのだが――――光秀ほどの男が決意したとなれば、場当たり的な攻撃でいいとは考えていないはずだ。
に、してもまさか―――それが今なんて。
看板の下りた梅酒屋の角に手をついて、あざみは足を停めた。これ以上、北に進むのはどう見ても無理そうだった。小さなあざみの容量の少ない残り体力を勘案しても、遠くの東屋に入った後、脱出路の手はずを整えるのは、現状では得策と言えなかった。それなら直接夷空のところに行って、脱出の手引きをした方がまだ望みが持てる。ただそれにしたって、博打は博打になるだろうが、同じ命の危険を冒すなら一人よりはましかも知れない。
(・・・・・・どうしよう)
湯気が出そうに火照った顔に、湧き上がる蒸気のような息を鎮めながらあざみは、後方にあるはずの本能寺を振り返った。無数の棟の彼方に、彼女の相棒はいるはずだった。
女海賊夷空
夷空は東の厩(うまや)が見渡せる、南側の塔頭(たっちゅう)の屋根に息を潜めていた。いつまで経っても、当の信長が、姿を現さないことに苛立っていた。昨日は夜中まで人を呼んで語らいをしていたようだから、それも無理はないこととは言え、当てにしていたことが外れるのはなんとも忌々しいものだ。
軽く舌打ちをして眉根をひそめてから、夷空は気持ちを立て直した。ゆっくりと大きく息を吐き、凝り固まった身体から筋の力を抜いていく。
狙撃者は待機する時間で、もっとも体力を消費するものだ。引き金を落とすのは、ほんの一瞬だがその一瞬を得るために、彼らは膨大な待ち時間を浪費する。腹ばいになって狙う伏せ撃ちがもっとも命中率を高めるための姿勢だが、集中を崩したくないがために狙撃者によっては、寝たまま排便まですることも珍しくはない。
夷空はあざみと違い、成熟した大人の女だった。年齢は三十前後、狙撃の邪魔にならぬよう、太やかな長い黒髪をきつく引っ詰めて後ろで縛り上げている。下ろせば腰まで流れるほどの長さの髪は日に映えると、深い鳶色の光沢を含んだ。
髪型のせいもあってか瞳は吊り上り気味だ。生え際を削いで整えた眉と同様、意志強く黒目が潤んだ瞳は切れ長の鋭い印象を与える。首は長く女としての姿も悪くないのだが、褐色に焼けた身体は大柄で、筋肉質の身体に一目見て分かるほど大小の傷を負っていた。
彼女は、たまたま堺に寄港した一人の倭寇(わこう)だった。
倭寇と言うと、中世、朝鮮半島沿岸や中国の港に上陸して住民から略奪した日本人の海賊と言うイメージがあるが、この時代の倭寇は、東シナ海全域を荒らしまわった無国籍の海賊商人集団と言うのが、その実態である。
中世の日本近海を荒らしまわった無数の盗賊団には当時この近海に利害関係を持ったあらゆる人種、イスパニア、ポルトガル、オランダ、さらには被害者側のはずの明人もいれば、朝鮮人もいた。彼らは日本人であると偽装するために月代を剃り、日本刀で武装して仕事をする。もちろんその中には実際、生粋の日本人も多く、同じアジア人種ならその見分けはつきにくい。
夷空は、信長に対しての個人的な恨みは一切持ち合わせていなかった。無論、この国のことも、織田信長のことも商売柄よく知っている。だがまさか、その信長を撃つことになるなどとは、夢にも思いはしなかった。
彼女は堺で、違法に武器を売る仕事を主にしていた。堺港が信長の占領を受けて封鎖されたことで軍需物資の途絶えた東国の大名に売り手を見つけては、シャム産の鉄や、火薬の原料となる硝石などの禁制品を横流しをしていたのだ。
ちなみにシャム産の鉄は日本で重宝だが、当時の禁輸出品である。
夷空の場合、今のこの状況は不可抗力の結果だった。率直に言って脅迫を受けたのだ。確かにもともとの、すねに傷を持つ身ではあった。積み荷と船員を人質に取られれば、事前になんの説明がない依頼でも、夷空にその仕事を拒否できる理由はない。
仕事を頼んだものが何者で、どんな意図を持ってわざわざ京都で織田信長を狙撃させるのか、彼女は何も知らされていなかった。すべては、すでに用意された計画なのだ。夷空はその一部でしかない。そしてそれはもっとも危険な一部であった。
さすがに彼女も回避できないこの役回りがもっとも割に合わないものであることが知っている。夷空自身、今は深く考えたくはなかったが、自分の命の保証は―――この狙撃が成功するかしないか、それとはまた、別のことだ。
史上、狙撃を実行した犯人と言うのは真相をひそかに口に含んで、謎の死を遂げたがるものだ。誰もが死ぬ気ではないにしても、それが暗殺の代価であるように、その死に方はほぼ一様である。
彼女の三百年あと、遠いアメリカで八番目の大統領エイブラハム・リンカーンを暗殺した舞台役者ジョン・ウィルクス・ブースは、リンカーンの左耳の穴に拳銃弾をぶち込むと、何度も高らかにこう叫んだと言う。
「暴君は常に、かくのごとし(シク・センペル・ティラニス)」(当時ヴァージニア州の標語)
今の夷空にとっては、その信長が暴君かどうかはこの際どうでも良かった。もっとも重要なのは、一刻も早く人質を取り戻して、この国を覆う巨大な黒のしがらみから、自由の大海へ漕ぎ出すことだった。それを可能にするのは持参した愛用の、一丁の銃だけだ。すべてはこの一弾にかかっている。だがその一弾だけでことは終わりそうにない。狙撃の瞬間を待つ夷空は色々なことを考えている。そのどれもが彼女の鼻先五センチの彼方に霧散しては消えていく。
額にびっしりと浮いた汗を拭い、夷空は不快げに肩にかかった髪を払った。
五尺一寸―――全長約・一五三センチ。日本のものに比べ靴底の形に似た床尾が長いその銃には、夷空の左肩から胸にかけてある刺青の柄と同じ、蛇の女神が彫金されている。
彼女は、エキドナ。
それは常に、夷空の守り神である女神の名前だった。
彼女は夷空と何もかもが同じな、ほぼ完全な写し身だ。二人の姿で違うことは、エキドナの褐色の裸体がびっしり隈なく漆黒の鱗で覆われていることと、彼女には傷ひとつない、新しい肉体の準備が永遠に約束されていることくらいに過ぎない。
女神の裸身は完璧な肢体をまとってそこにある。
エキドナの幻影に心を惑わされるとき、夷空は首にかけた小さな十字架を取り出して、それをそっと口に含む癖があった。
時々の日に映えて落陽の色に似た、とろけるような黄金の輝きを放つ十字架の素肌には、ごくかすかに小さな歯型の跡が認められる。夷空はそれに自分の歯を押し当てて目を閉じると、深く息を整える。そうしているといかなる雑念も、真夏の気まぐれな通り雨のように掻き消えていく気がするのだ。
エキドナを駆る夷空は女ながら、海賊仲間でも知られた鉄砲放ちだった。上下左右に揺れる船の上でも、五十メートル以上の距離で敵の心臓に鉛玉をぶちこむことが出来た。
当時の火縄銃の有効射程距離は約五十メートル、最大射程は、約百メートル。命中精度はかなりの上達者でも七割前後だ。平地の五十メートル、エキドナでなら、頭部を狙う自信が夷空にはある。売り手が女と知って足元を見た買い手も、夷空の射撃を前にすれば、ほぼこちらの言い値で荷を引き取っていく。
日本製の火縄銃の方がこの時代、携帯の便利さや性能の面でもヨーロッパのものより遥かに優秀だったが、夷空は長い床尾を肩で固定して撃つ、このエキドナをもっとも信頼していた。
この蛇の女神にかかわらず、当時の銃は扱いが繊細だった。同じ型の銃でも、自分の手に馴染むものは、一度失えば、めったにめぐり合うことは少ない。また、現在の銃の弾丸と違い、弾丸と火薬を別々に入れるのだが、その火薬の調合が万全でないと、狙撃どころか銃身自体が暴発する危険性も見過ごせない。
エキドナは時に夷空の許容範囲を超えて、気分屋で我がままだ。
その点、依頼筋が唯一手配してくれた、あざみと言う少女は若いのに大した腕だ。気難しいエキドナも彼女が調合した火薬が珍しく、ことのほかお気に入りの様子だった。
渡された弾薬は、紙製の筒に弾丸と火薬が一体となって封じられている。早合(はやごう)と呼ばれるこの包みは、発想は現代の銃弾の構造に通じるが、早くから日本に存在する。これがあれば、格段の速さで射撃体勢を作ることが可能になる。
信長自身も、天正三年の長篠合戦では、甲斐の武田騎馬隊相手にこの早合を装備した鉄砲隊を動員して勝利を収めている。上手く使えば、火薬に点火せず不発弾を出すことも防げる逸品である。
夷空はあざみの弾薬を使って、エキドナの試射を済ませていた。あざみが調合したものは、強薬にしても不思議と銃身が暴れず、着弾もぶれることが少なかった。
女神もここ数日は、底意地の悪い性根を見せなかった。ただ、低体温体質で生理不順の彼女は火付きが悪い分、一度荒れると手に負えない。今はなりを潜めていても、一気に反乱を起こす悪癖があった。エキドナが荒れると、夷空の運命も荒れたりするから厄介だ。例えば何か、不測の事態が起こらなければいいが―――夷空はひそかに危惧をしてはいた。
夷空にも、不穏な空気が孕む危険性は、敏感に察知できた。
ただ、危険に際しての反応は、あざみとは少し違っていた。そのとき彼女は厩の見渡せる塔頭から移動して、信長の宿所である主殿の濡れ縁が一望できる式台の屋根の上に潜んでいたのだ。
途中、本能寺の包囲作戦をとる急襲部隊の動きを夷空は確認した。幟の桔梗紋が本来友軍の明智勢だと言うことくらいは、夷空にも分かった。彼らは行軍する部隊を分け、四隊で本能寺から水も漏らさぬ封鎖体制を引くつもりなのだ。
緊急時の場合の行動については、あざみと綿密に打ち合わせてはある。しかしそれは、計画が事前にばれたことが分かったときや、急遽の中止や変更があったときのためのもので、謀反があったときには、どうすればいいのかまでは話をしていない。
(謀反か)
やはり、と言うか、まさか、と言うか。夷空としては苦笑以外でそれに応えようがない。
織田政権のほころびは、ここ数年堺財界でも、折に触れて出る話題のひとつだった。日常茶飯事とまではいかないが、信長への謀反や暗殺はこれまでにも起きている。噂話となればこれは数限りないし、具体的な大名の名前なども挙がることも少なからずあったから、堺商人の間では取引を警戒する織田傘下の大名については、誰にともなく、注意を払っていたはずだ。
例えば明智光秀などは、朝廷や幕府をはじめ織田以前の旧京都政界と水面下で密接な関わりのある男だ。なんの後ろ盾や勝算もなしに、ことを起こすとは、まず思えない。
光秀の旧主であった前(さきの)室町幕府将軍、足利(あしかが)義(よし)昭(あき)も毛利氏に身を寄せてなお、天下の代表者気取りで織田政権の切り崩しに謀略をめぐらしていると言うから、今度のことはそれとも関係あるのかも知れない。その毛利は、羽柴秀吉の侵攻を受け、現在、備中高松城にまで占領される勢いだ。複数の工作には、すでに手を染めてはいるだろう。無能な旧主義昭の言うことを、今の光秀が聞くかどうかは別としてだ。
だからと言って、今日この日に謀反を実行されてもこっちは困るのだ。どうせなら一日待ってくれれば、夷空はなんらかの結果を出す自信はあったのだが、よくよく考えてみれば、大軍を率いず上洛した信長に今が好機と手を打つのは、夷空の依頼主だけではない、それこそ無数にいると考えるのが自然だと思う以外にないと自分を慰めた。
どうする? 夷空は海賊で、忍者ではない。いずれにしても、この囲みから一人で逃げる手段は思いつきそうになかった。だからもし今日が千載一遇の早い者勝ちの日だと言うなら、せめて信長を狙撃してから、どうするか決めるべきだと、考え直したのだ。
エキドナはエキドナで、波瀾を愛している。しかしこんなときには割りと、予想外の活躍をしてくれることもあるのだから、文句も言えない。それに時には、持ち主の夷空と意見とテンションが一致することだって、年に一度くらいはあったりするのだ。
(・・・・・やるか)
用意の火縄に、夷空は点火しておいた。寄せ手がこの主殿を取り囲めば、信長本人が顔を出すこともあるかも知れない。
この式台の屋根から、濡れ縁の辺りまでは撃ち下ろしで長くても四十から、五十メートル前後。まだ空気の動きの少ない今なら風も小さいし、騒ぎに乗じて狙撃は十分可能だ。
ただひとつ残念なのは、夷空が信長の顔を直接見たことがない、と言うことだがそれは、装束や人の動き方で判断するしかあるまい。なにしろ、二度とは来ない大物なのだ。
あざみはもう、逃げただろうか。脱出地点に先に到達したら、そこで狼煙を上げるように申し合わせてあった。まだどこからも狼煙は、上がった気配はなかった。そう言えば彼女だけが、信長の顔を知っていた。集中を乱されたくなかったので、外で物見に回ってもらったことが、今さら悔やまれた。
もし失敗しても若いあざみには、捕まって欲しくはなかった。信長を狙撃した男の末路を、夷空は人づて聞いて知っていたからだ。
十二年前の狙撃犯・杉谷善住房(すぎたにぜんじゅうぼう)は、千草峠で信長の狙撃に失敗した。
三年を隔てて捕縛された彼は切れ味の悪い竹の鋸で首の肉をこそがれて嬲り殺しにされたと言う。ここ数日の短い付き合いとは言え、年の離れた妹ほどの彼女をそんな目に合わせるかも知れないと考えれば、引き金を絞る指先もおのずと鈍るだろう。
雲霞のように群がる足軽たちの気配が、やがて境内に満ち満ちてくる。誰かが火をつけたのか、水気を含んだ生木が燃える音や、湿っぽく焦げくさい匂いも風に乗って混じってきた。
夷空はその不穏な空気に合わせるように呼気を浅くすると、身を低くして移動し、目指す標的の姿を捉えようと視界をめぐらす。眼下には朝焼けに黒光りする甲冑を鳴らしてうごめく寄せ手と、平服姿の本能寺方が入り乱れている。信長を取り巻くのは、最小限の身辺警護を担当する小姓たちだろう。彼らの動きを目で追えば、目指す信長に到達するかも知れない。夷空は目を凝らした。
信長を狙って
「夷空」
呼ばれるはずのない名前を耳元で叫ばれ、肩を掴まれて、夷空は身体を強張らせた。
「あざみか・・・・・何をしているんだ、こんなところで」
「・・・・・夷空、それわたしの言うこと」
あざみは夷空が追っていた下の惨状を目で追ってから、
「もう、逃げようよ。火の手が回ったら、この囲みも余計抜け出しにくくなっちゃう」
「なんだ、わざわざ、迎えに来てくれたのか?」
意外にいいところがあるんだな。そんな風合いを夷空が流し目に織り交ぜると、
「わたし一人で、この辺り歩けるわけないでしょ。夷空がいないと、わたしも死ぬから迎えに来たんじゃんか」
で、一緒に死にに来たわけか? そんな軽口が夷空の頭を掠めた。だが、さすがに口に出すのは控えた。
「ここにいても助からないぞ。大体よく、忍んで来れたな」
「死ぬんなら焼け死んだほうが、まだ、少しはましだってば」
あざみは吐き捨てるようにそれに応えた。
「ねえ、早く行こう。手遅れになったら、ひどいことになるよ」
「一緒に逃げる気なら少し待ってくれ。せめて一度くらいは、大物を手にかけてみたい」
「どうせ信長は助からないって。無理だよ、この囲みじゃ」
「どうせ私たちも袋の鼠さ。いいだろ、一発遊ばせてくれても」
次の言葉を言わせず、あとは口を閉じてろ、と言うように夷空は人差し指を縦にして自分の唇につけた。
ちょうど、屋根の庇で隠れている濡れ縁の辺りから飛び出した征矢が階段に足をかけた雑兵の頸を撃ち抜いたのだ。夷空は視界の隅で発射地点を確認している。重量感たっぷりの肉に叩き込まれた柳葉型の鏃は、トーン、と高い打突音を立てて、押し開けた穴から手早く命だけを持ち去っていく。
「見ろ・・・・・あれは死神の憑いた矢だ」
確かに、射手は、出色の弓勢の持ち主だ。武装した標的の急所を的確に見極めて、一矢の無駄射ちもない一撃を放ってくる。入り乱れる小姓の群れは、やはりある一点を取り巻いて動いていた。後ろに誰がいるのかは、それこそ言うまでもないことだ。
「あざみ、お前、やつの顔を知ってるな? あそこの奥だ、すぐに確認してくれ」
夷空はいぶかるあざみの襟を掴んで、屋根の上に引き出した。
「どこ?」
黙って夷空は、エキドナの巣口をその方向に振り向けた。両手に二つの太刀の切っ先を使って、鎧武者たちと渡り合っている若小姓がいる。その動きは迫り来る敵兵と切り結ぼうとしていると言うよりは、背後にある何かを庇っている風情に特に見える。夷空が視た死神の矢は、やはりその辺りから放たれていた。
「いた」
夷空の耳元で、あざみは言った。
「・・・・あれが信長か?」
木綿の白い寝巻きをまとっている男の姿を、夷空の目も遅れて捉えた。
「ここから、狙う気なの?」
半ば唖然としてから、あざみは聞いた。ここからあそこまで、撃ちおろしで二十メートル前後だろう。距離的には問題はないが、めまぐるしく動く標的を狙って仕留めるのは難しい。常に信長を遮る何者かが、エキドナが急所を狙うのを妨げていた。
「どうやらなんとか届きはしそうだ」
銃床を肩に固定して、夷空は座り射ちの姿勢をとった。狙撃でもっとも命中率の高まるのは臥撃ちだが、この場所では無理そうだ。それに狙撃手の位置がばれたらすぐに逃げる準備をしなくてはならない。
「どこを狙うの?」
「この位置だと頭だ」
夷空でなくてもこの距離なら、着弾を顔面の急所付近に集めることは十分可能だ。エキドナに装てんされている大型の六匁玉なら頭蓋ごと、脳みそを吹き飛ばすことも出来る。
「・・・・・難しいが、やるしかないだろう」
いずれにしても、勝負は一発だ。短く切って両端に点火した火縄を挟むと、夷空は火蓋を切った。エキドナは異国の血の匂いを嗅ぎつけてか、鉄製の地板の上で妖しく微笑んでいる。巣口に孕んだ銃弾が白煙を炸裂させて飛び出し、弓を引いて半身に開いた信長の左の目じりと鼻梁の間に入り込んでいくイメージが、夷空の脳裏で色濃く煮詰まってくる。
五十を目前に控えた織田信長の生身は、いぜんとして捕食動物としての身体の衰えを見せない。猫科の肉食獣のばねを持った、薄くのびやかな筋肉によろわれた褐色の肉体は、自分の身体の一部のように二メートル強の長弓を駆る。
エキドナの乳房についた煤をひと撫でして―――夷空は引き金を絞った。
あざみの調合した弾薬が、ひと際甲高い轟音を上げて炸裂する。エキドナの独特の風切り音は、殺し合いの混沌の中でも時を止めるほどの禍々しさを持っていた。
「わっ」
あざみの目には、弾丸は信長の顔に飛び込んで身体ごと吹っ飛ばしたかのように見えた。しかし、信長の巨体は一メートルほど後方に押しのけられただけで、その二つの足が動物的な平衡感覚で立ち位置を変えて踏ん張り、想定外の衝撃を後ろに逃がしきっていた。
弾は、信長の持っていた弓の姫反りを滑ってつるを断ち切り、頭蓋を避けて右に流れたのだ。
信長は背後の木戸に支えられながら、仰向けに転倒することを免れて、危うく立っている。その瞳も死んではいないし殺気も衰えていない。額を掠めた弾丸で脳震盪くらいは起こしているのかもしれないが、戦闘の緊張によるアドレナリンの分泌のせいか、意識を断ち切るにまではいかなかったのだ。
まもなくつるの切れた弦を叩きつけ、信長は立ち上がった。血煙と硝煙で潤んだ瞳は、すぐに木戸に突き立ったエキドナの噛み跡を発見した。そのとき夷空は、屋根の上にほぼ全身をさらして茫然としているあざみに注意を与えたが、ときは遅く、信長は一瞬もあやまたず、この場にいるはずのない狙撃者の影をその目で捉えた。
「馬鹿、見つかったぞ」
あざみは今、自分が撃たれたかのように硬直してしまっていて夷空の制止を聞かない。その間にも信長は空を見上げて咆哮し、傍らで愕然としている小姓の襟を引きつけて、なにやら指示を下している。替りの弓を用意させているのだ。
夷空は急いで、次弾の装てんを開始した。エキドナは、次は外さないと息巻いている。いたずら好きのはずのエキドナも、やはり今の展開には納得がいかなかったようだ。
獲物は、猛獣の本性をさらけ出し、狩るものと、狩られるものが入れ替わる―――攻守逆転だ。信長の弓が一足早い。準備の速さと有効射程距離においては、この時代の鉄砲は、弓に叶うものではない。あざみの赤い髪と白い肌は、遠目にも絶好の標的となる。火蓋を切る前に、信長の強弓が、うなりを上げた。
用意の征矢は、鏃に威嚇用の笛穴が開けられていたのか、女の悲鳴に似た風切り音があざみの前髪をかすめて、遥か天を掃いた。あざみは目の前を通過した鏃が、雀蜂の禍々しい羽音に唸り声を変えて吹っ飛んでいくのをはっきり聞いた。まだ生きている。次弾を諦めた夷空が、あざみの襟首を掴んで前に引き倒したのだ。
「や・・・・いそらぁ」
「ばかっ、死ぬ気か、お前なにを考えてるんだ」
我に返ったあざみは泣き声をあげて夷空にしがみつこうとした。
「死にに来たんなら、どこか別の場所で死んでくれ」
吐き捨てるように言いあざみをのけると、夷空は巣口を下に振り向けた。信長も第二矢をこちらに向かって番えている。あざみより、標的の大きな夷空に次の狙いを定めたのだ。
夷空はあざみを後ろに隠し、わざと階上に全身をさらしている。
エキドナの絶叫が、弓の鋭い射出音を呑み込んだ。弓の射程は銃より長いと言っても、初速は比ぶべくもない。
弾丸は弓を放った直前の信長の左の肘を貫通した。血肉が炸裂し、弦が吹き飛ぶ。日本の長弓は射出直後、左回りに弦を振って狙いを修正する必要がある。左手の乱調で二の矢は右に大きくぶれ、矢は式台の屋根の縁にすら届かなかった。
肘を負傷した信長は反撃の牙を喪い、咆え狂った。手負いの獣は、たけり狂うだけ的が大きい。早速、とどめを放とうと夷空は準備をしたが、周りにいた三人の小姓たちがおおわらわで負傷した信長を庇い、ほとんど無理やりに弾丸の届かない奥に運び込んでいく。しかも、信長の様子から屋根の上の狙撃者に気づいた明智方の寄せ手が鉄砲衆を繰り出して、夷空を撃ち落とそうとして準備しだした。
「ちっ」
とっさにエキドナは標的を変えて発射された。やや欲求不満気味のエキドナの第三弾は、大声を上げて発射を指示する明智方の物頭の面(めん)頬(ぼお)の奥に喰い込んだ。夷空のような孤独な狙撃者とは違い、すべての鉄砲足軽は、装てんから発射まで組頭の下知に従う。これで明智方の鉄砲衆の迎撃を受けるまでに少し間が出来るだろう。
「逃げよう」
エキドナとあざみを引き上げると、退き際を察して夷空は言った。
「ここまで来たからには、手はずは整えてあるんだろう?」
あざみは蝋人形のように硬直して、瓦にしがみついている。
「・・・・・おいどうしたんだ、目を覚ませ」
信長の鬼気迫る殺気に当てられたのか、あざみは完全に生気を失っている。色を失った唇が細かく震え、瞳孔が散大した。
「しっかりしろ」
夷空はあざみの頬を平手で張った。すると血の気の引いた頬に赤みがさし、非常停止を解除したようにあざみの意識が再起動した。
「な、なに?・・・・・や・・・・・夷空?」
あざみは目を白黒させて、夷空の顔を見つめた。
「極楽じゃなくて残念だ。私もお前もまだ生きてるぞ」
そうなの? と言うようにあざみは辺りを見回す。
「どう言うことなの?・・・・・いま」
「・・・・ここがどこかとか、一から説明はしないぞ。私を逃がしてくれるんじゃなかったのか?」
逃げる? その言葉に反応して、あざみの記憶が繋がった。
「分かった、今から逃げるんだね?」
「そうだ、どうすればいい?」
「荷物持ってこっちに来て」
あざみがてきぱき動き始めて夷空も胸を撫で下ろした。二人で長局の屋根から竹やぶの中、サイカチの木の枝に女物の小袖がまとめて帯で括りつけてあるのを引っ張り降ろす。
「どうしたんだ、これは」
「・・・・長局(ながつぼね)に這入って、盗んできたの」
長局とは、本能寺に詰める女たちの宿所のことだ。あざみの盗んできた着物類は、それだけでひと財産にはなるかもしれない上物だった。辻ヶ花模様の小袖に、贅沢な色合いの内掛けまであった。
「はい、こっち夷空の装束。長局から脱出する女房たちに化ければ、たぶん関所も通過できるはずだよ」
「・・・・・信長の女房衆に化けるのか」
やや気重そうな声で夷空は言った。あざみも何か言いたげな顔で、はるか上にある夷空の顔を見上げる。あざみが小柄なことを差し引いても、夷空の上背は当時の大柄な男性並みに背丈があるのだ。
「ばれたら夷空のせいだからね」
「努力はする。大体、本当に女は女なんだから大丈夫だ」
「・・・・・そう言う問題じゃないと思う」
具足を脱ぎつつ、出ている部分をやけに強調している夷空をあざみは白けた目で見てそう言った。冗談ではなく、あざみは現実的にかなり不安なようだった。服を脱ぎ捨てると髪を下ろし、夷空は人相を分かりにくいくらいに前髪を振り乱す。あざみが持参した墨を顔に塗り、小袖や内掛けも同じように踏みつけて汚した。
これで煤煙の中を押し通れば、焼け出された女たちに紛れ込める。
「銃は置いていって。見つかったら言い訳できないし」
「それは無理だ」
夷空は頑なに首を振った。
「こいつを手放すわけには行かない。それに私は他にめぼしい武器がないんだ。逃げるのに、こいつは必要になる。お前だって何か武器を隠しているんだろ?」
「じゃあ、銃だけだよ」
あざみはため息をつくと、金の刺繍の入った袱紗(ふくさ)の適当に長い袋を夷空に投げ与えた。どうも、弓を仕舞う袋のようだ。
「装備は別の場所にも予備があるから、ここに置いてってね」
夷空はエキドナの煤を丁寧に払うと、袋の中に仕舞いこんだ。
「で、見つかったらなんて言うの?」
「亭主の形見だ」
「分かった。母さま、わたし、父親のいない娘だね?」
しれっと言うあざみにため息をついてから、夷空は合わせた。
「ああ、そうだ。せいぜい、二人で思いっきり嘘泣きしよう」
信長は死んだのか
冷たいはずの朝の風に、脂や煤を含んだ、ねっとりとした熱気が入り混じってきた。口の中の渇きとは裏腹に、いやに唇がべとつくのは燃える生木に、人間の脂が混ざり始めてきたからだ。あざみは、つい昨年起きた伊賀の乱のときのことを思い出していた。
いくさ場の風景はいつも変わらない。生木が含んだ水気が爆ぜる音、柱や梁が崩れ落ちるたびに響く地鳴り、追い立てる男たちの怒号、女の叫び声が木霊す。同時進行で多発する、終わりなき悲劇の始まり。誰もが熱に浮かされ、泳いだ視線と、おぼつかない足取りで地獄を入り乱れる。この混沌の中では却って、自分たちが完全に部外者だと言うことを認識しているあざみたちにとっては、冷静に物事が見極められる際になる。
「・・・・・ばれてないね」
あざみは、背後の夷空に向かって囁きかけた。この騒ぎで一度では聞き取りにくいようだ。夷空は切れあがった眉をひそめてから、
「当たり前だ」
と、ちょっと不服そうな声で返した。殿中に仕える女房にしては馬鹿でかくて、いやに浅黒い夷空だが、乱れ髪に派手な色の蝶柄の小袖をまとうと、それなりに見れなくもなかった。ただ裾が短いので足首まで届いていないのが本人も気にはなっているようだ。
「・・・・・でかいと苦労するね」
夷空の隠れないふくらはぎに視線を落として、あざみは言った。
「ちんまいのより少しはましだ」
「あ、そ。よかったね、男みたいにおっきくて」
あざみは頬を膨らしてそっぽ向いたが、女一人で生きていくには押し出しが強そうな高い上背が、本当は少し、羨ましかった。
「信長は死んだのか?」
気になっていることを夷空は訊いた。
「・・・・そうみたいだね」
逃げる女たちの話の落穂を、あざみは丁寧に拾い集めている。二人に声をかけてくれた尾張訛りの強い小女は、女どもを集めて逃げるよう指示をしたのは織田信長であり、その当人はその直後に、奥の納戸に籠もって自害を図ったと言うことを教えてくれた。
「・・・・・つまり、ちょうどあの後だな」
「うん」
「そうか、仕留め切れなかったか」
ほぞを噛む夷空の言葉を、あざみは半分否定した。
「でもたぶん、あの後すぐ信長は死んだよ」
信長は左肘に怪我を負い、戦闘の継続が困難になり自決を選んだらしい。女は槍傷ではないかと言っていたが、それは明らかに夷空の背に負われているエキドナによるものだ。あざみが言うように、信長の自決を後押ししたと言う意味では、成果は半分かもしれない。
「ははうえっ」
「・・・・・おい」
ちょっとわざとらしいが迫真めいて言うと、あざみはいきなり夷空にしがみついてきた。さっきあざみが話を聞いた女房がこちらに顔を出したからだ。
「なにしとるで、おみゃあらも早う来い」
女はせかした。向こうで足軽どもが、無断で関所を作り始めているようだと言う。
「今、行くよ。でも、この子が泣き止まないんだ」
上ずった女声を作ると夷空はしがみつくあざみを、切なげな顔で揺すぶってみせた。女も小さな子でもいるのかも知れない。実に痛々しそうな表情になると、二人の様子に心痛めながら先に奔った。
「行った?」
嘘泣きをやめて、あざみは顔を上げた。
「ああ、そのようだ。それよりどうするんだ、関所があるらしい」
「大丈夫、あの人たちとは、そろそろ別行動しようと思ってたし」
「・・・・・そうか」
「行こうよ、さっきの人戻ってきたら面倒だし」
嘘泣きすらしていなかったかのように、あざみはけろりとしていた。数日前会ったこの小さな相棒のつかみ所のない部分の扱いに、時折、夷空は戸惑うことがあった。
「さっきはありがとね、夷空」
「なにがだ」
「さっき助けてくれなかったら、本当に死んでたと思う」
「・・・・ああ」
あのことか。
夷空は言われて今さら、思い出したようにつぶやいた。
「たまにあることだ―――死に魅入られるのはな。迫ってくる危険に十分注意しているつもりでも、身体の方が自然と動かなくなる」
「でも、全然憶えてないんだよ。さっきのこと全部」
「矢を射る信長の眼を見ていたようだったな。たぶん、その信長の眼には、あざみ、お前の姿が映ってたと思うが」
その瞬間あざみは、はっとして息を呑んだ。
「どうかしたのか?」
「ううん、なんでもない。・・・・・ちょっと忘れてたことを思い出しただけ」
「変な奴だな」
不思議なあざみを、夷空はいぶかしんだ。
(・・・・・そうだ)
大したことじゃない。夷空の言うように、旅立つ信長の置き土産を受け取っただけだ。ただ、それだけのことだ。
(でも、胸騒ぎがする)
何かもっと、大事なことを忘れている。あのとき、視たこと。
(わたし、まだ何かが思い出せてない)
奔りながら、あざみは小さな胸を抱え込んだ。
洞ヶ峠(ほらがとうげ)で、あざみは狼煙を上げる手はずになっていた。もうすっかり、日が昇っている。沢の畔の猟師小屋で、服を着替えた。汗と煤に汚れ、火災にあてられた肌は火ぶくれしている。
夷空はさっさと着物を脱ぎ捨てると、沢から汲みだしてきた水で身体を拭い出した。朝方の山中には人影は見えないが、もともと海の女の夷空はさばさばしたものだ。躊躇なく裸になると、桶に汲んだ冷たい水で汗を流しきる。
あざみも全身を拭って着替えはしたが、狼煙の準備を始めた手をとめてから、しばし呆然としていた。夷空はあえて追及しはしなかったが、その様子をさっきからずっと不審に思ってはいたのだ。
「少し、休んでからにしたらどうだ」
夷空は声をかけた。あざみは今夷空が入ってきたことに、初めて気づいたように後ろを振り返った。
「なに?」
「一回、息をついた方がいい」
夷空は言い直した。
「お前、なにかが取り憑いたような顔をしてるぞ」
「そうかな」
怪訝な表情をしたが、あざみの顔はそれを否定していなかった。
「やっぱりなにか気がかりがあるんじゃないのか?」
袋を外したエキドナを抱えてあざみの目の前に座りながら、夷空は静かな声で訊いた。
「お前はずっと変だ。たぶん、あのとき目覚めてからな」
「・・・・・夷空は?」
あざみは逆に聞き返した。
「どう言うことだ?」
「わたしの意識が飛んだとき、夷空はすぐ傍にいたでしょ?」
あざみは聞きたかったことを口に出した。
「あのとき、何かあった? わたしそのとき何か見たみたいなの」
「何か見たというなら、それは信長しかいないが」
巣口から女神の身体をひと拭きすると、夷空は銃身を立て、
「お前はこいつが初弾を外してから、次の間まで、じっと標的の信長を見ていたはずだ・・・・それから私がエキドナに次の弾を込めて、やつの左肘を撃ち抜くまで、お前はずっと目を離さなかった。私はそれに間違いないと思うが」
「うん、確かにわたし、そこしか見てなかった」
「言っとくが、死ななかったのは奇跡だぞ。だがまさか全部憶えてないのか?」
あざみは小さくかぶりを振った。
「だから、思い出せないの。そうだってことは何となく分かるし、夷空に言われれば納得はするんだけど、そのときのことが、どうしても」
「無我夢中になり過ぎて、記憶が飛ぶことはあるさ。私だって、たまに狙撃に集中しすぎると、自分がどこにいるのか分からなくなったりもする」
「・・・・・でも、そのせいで何か重要なことを忘れてる気がするの。絶対に思い出さなきゃならないことがあるのに」
「どうも私にはぴんと来ないけどな・・・・・」
夷空は首を傾げると、傍らのエキドナに手をやり、
「ただ、今でも合点が行かないことはある。言い訳に聞こえるかもしれないが、少なくともあの初弾は、外しようがなかった。エキドナは信長の頭を確実に捉えていた」
そこで何かに気づいたのか、あざみはあっと声を上げた。
「なんだ、どうしたんだ急に」
「夷空、聞いていい? 最初の弾はどこを狙ってたの?」
「信長の顔の真正面から左眼と鼻の間だ。私たちから見れば、右側になるが・・・・・・」
あざみは夷空の言葉を遮るように勢い込んで言った。
「あのときわたし、信長がこっちに何か叫んでたのを聞いてた」
「なにを言ってるんだ、いきなり」
半ば呆れ顔の夷空に対して、あざみは真剣な顔で、
「最初の弾を外してから、次を撃つまでまだ間が合ったでしょ? 立ち上がって、弓をつがえて、こっちが二発目を撃つ前に信長が先に撃った」
「その間になにか言ったのを聞いたのか?」
なにを言い出すんだこいつ、と言う顔で夷空は肩をすくめた。
「あの距離であの騒ぎの中でだぞ?」
「わたしよく、いくさ場では物見をやらされてたんだ。目がいいから、あれくらいの距離なら、唇が読めるの」
あざみは自分の唇に人差し指を当てると、
「だからあのときも夷空が見てるから自分も信長から目が離せなくなって、たぶん、無意識に唇も読んだんだと思う」
「そのときお前は何かを聞いたんだな?」
うん、とあざみは肯き、
「二言三言だと思うけどね。それが今、ずっと気にかかってることだったんだけど」
「思い出したのか」
「ううんまだ完全じゃない、でも最初の一言はね。夷空の最初の弾が放たれた直後だったと思う」
「やつはなんて言ったんだ?」
ふーっ、と息をつくと、あざみは毒を飲み下すように言った。
「やはり、この仕掛けか」
「確かにそう言ったのか」
あざみは確信に満ちた顔で、深く肯いてみせた。対して夷空は、どうにも腑に落ちない風情だ。
「お前の言いたいことは分からないでもないが、それは・・・・」
「夢とか、勘違いとかじゃない。やはりこの仕掛けかって、あのとき確かに信長は言ったよ」
「そう言われてもな」
夷空は眉根をひそめると、両腕を組んで黙り込んだ。
「夷空だって、最初の一発は外しようがなかったって言ってたでしょ? もしかしたら信長は、夷空みたいな鉄砲放ちがいることに前から気づいてたんだよ」
「・・・・・考えすぎだ。だったらなぜ、昨日の晩のうちに、私のことを召し捕って始末しなかった?」
的を射た夷空の反論に、あざみは一瞬言葉に詰まった。
「それは夷空が上手く隠れてたからだよ」
「私の知る限りでは朝の襲撃が起こるまで、本能寺ではなんの警戒態勢も引かれてはいなかったぞ。それに昨夜は、宵の口まであの屋敷では公家衆を招待して饗応を行っていたんだ。狙撃手が潜入していると言う確定的な情報を得ていたのならすぐに、信長は手を打ったはずだ」
「うん・・・・・夷空の言うことわたしも分かるけど。でもさ」
あざみは急に自信がなくなったのか、口ごもった。
「それにだ」
夷空は畳み掛けるように、話を続けた。
「予定外の明智勢の乱入で、信長はもう死んだんだ。まあ私の手では直接、やつを葬ることは出来なかったが、結果的に自害することになるその直前まで、私たちはやつの姿を見届けていたはずだ。信長が私たちのことを事前に察知していようといまいと、すでに私たちには関係ないことじゃないのか?」
「うん・・・・・そう言われたら何も言い返せないけど」
徐々に自信がなくなってしょげてきているあざみを見て、さすがに夷空も言いすぎたと後悔したのか、
「まあ、私たちが仕留め切れなかったことも、事実は事実だ。心残りに思う気持ちは分からないでもない。ただこの一件、曖昧には出来ないんだ。私には人質の身柄が掛かっている」
「うん、だからわたし余計なことは言わないよ。夷空の仲間の命が掛かってるんだもんね」
とは言いつつもあざみの、表情の曇りはずっと晴れることはなかった。
(・・・・信長には知られていた、か)
そう言う夷空自身も気がかりなことはあった。信長を撃ったのは彼女である。うすうすはそう感じていたことを、あざみに指摘されて、一瞬どきりとはした。
やはり、この仕掛けか。
信長はそう言ったらしい。エキドナが必殺の初弾を外した直後か。そう言われれば確かにそんな気もする。見ていたと言う以上なら、あざみよりもあの瞬間は、夷空の方が信長のことをよく見ていたはずなのだ。
信長は、すべてを知っていたのか?
(まさかな)
しかし、もし唇が読めたとしても、あの距離ではっきりと相手の発言を認識できるはずがない。あざみは信長の末期の殺気にあてられて、完全に我を失っていたのだ。
(ただ逆に考えれば、あの瞬間、あざみは信長のことしか見ていなかったことにもなるが・・・・・)
ふと夷空は思いなおしてから、
(きりがない、やめよう)
極限の状況下だった。見てはいないもの、錯覚を真実と誤認してしまう可能性はいくらでもあり得ることだ。
それに、今となっては、それを裏付ける材料も、否定する要素も検討しようがないのだ。まあ、だからこそ疑心暗鬼が暴走して、要らぬ詮索や勘繰りをしてしまうのだろうが、心を強く持たなければまだまだこれから先の局面、乗り切れるものではない。
(信長は死んだんだ。弱気になるのが、今は一番まずいんだ)
言い聞かせるように自分の心に刻むと、エキドナにはない、疼く生身の心臓と傷ついた乳房を夷空は強く握り締めた。
女海賊のねぐらへ
洞ヶ峠から、半日歩き通して堺へ入る。夷空たちは市女笠を目深に被り、色合いの派手な小袖で熊野の歩き巫女のようになしていた。この格好なら、西近江から伊賀を越えてきた傍観者のように思わせられる。二人は詮索を避けるために本能寺の急報を人づて聞いて驚いたふりなどしながら、上手く雑踏に紛れこんでいた。
「意外と早く着いたな」
一息つくと、夷空が言った。日暮れ、鈍色(にびいろ)の闇がざわめく町並みにもゆっくりと落ちていく頃である。
「お前はこれからどうするんだ?」
夷空は、傍らのあざみに尋ねた。
「別に、なにもないよ。親方の丹右衛門(にえもん)から小遣いもらうのは明日だし、とりあえず適当に夜をしのげる場所探して、朝までよく寝たいな」
「この陽気なら、橋の下も具合がいいだろうが、どこにいても若い女一人は物騒だぞ」
言わされたくないことを言わされたというように、あざみは唇を突き出してから答えた。
「ちびなら誰も手は出さないよ」
「お前ぐらい若くて女なら、かどわかせばいい金になる」
不快そうに眉をひそめて、あざみは訊いた。
「夷空たちって、人(ひと)市(いち)にも顔を出すの?」
「昔、売られたことがあるんだ」
あざみと同じ表情になって、夷空は言った。
「たぶん、母親と姉が一緒だった。今のあざみより、はるかに幼いときさ。今となっては、ほとんど憶えていないけどな」
「大明で?」
「博多だ」
夷空の告白に、あざみは驚いた声を出した。
「へえ、夷空って、倭人なんだ」
「そうだ。気づかなかったか?」
あざみはまじまじと、夷空の顔を覗きこむと言った。
「・・・・夷空だから、唐の人かと思ってた」
「まあ名前がそうだからな。・・・・でも、本当のところは元の名前も知らないし、どこの出かはよく分からないが、私はお前と同じ倭人だ。だから、お前ほどじゃなくてもこの国のいくさの残酷さはよく知ってはいるつもりだぞ」
「じゃあ、いくさの乱捕りに遭ったんだね」
「・・・・ああ、まあ、そうだろうな」
記憶の薄いように、夷空は努めて曖昧(あいまい)な言い方をした。
「・・・・・乱捕りに人狩りは付き物だからな」
戦国時代の戦争は、領土拡張よりむしろ、他国への略奪行為が主な目的なのが一般的だった。農閑期に暇な農民を動員して行う戦闘行為は、常に、彼らのいくさに対してのモチベーションの維持が必要だったからだ。普段は農民でしかない末端の足軽たちは、戦闘時や戦闘後の略奪を何より楽しみにしていたようだ。
『雑兵物語』は江戸期に書かれたものと言われているが、いくさの心得としてまず、敵地域の田畑があれば作物は残らず引き抜いて簒奪し、あとは再生不能なように火をかけろと説いている。
乱捕りと言われるこの行為は、本来厳格な部隊の統率者である大名が公認し、よほどの場合がない限りは中止されることはない。無理に制限を加えれば、自分の田畑を放ってまで来た足軽たちの不満を高めることになり、次の出兵が出来ないからだ。またいくさを主導する大名衆ですらも、戦費の調達に略奪品の売却代金をあてるのだ。自然と早い者勝ちの無差別略奪行為になる。
持っていくものは、例えば寺の戸板ですら引き剥がして持っていくほどの凄まじさだ。当然、人間もその例外ではなかった。いくさ後の城下などでは、広く人身売買を行うための人市が立ち、周辺の物持ちのみならず、遠隔地での売買の仲立ちを行う人商人なども集まってきたと言われる。
人商人はそれを最寄の中心都市に連れて行きそこで大口の顧客を見つけて取引する中間業者だ。博多や堺など、国際貿易が盛んな港町などでは、奴隷として遠く呂宋(るそん、フィリピンのこと)や安南(あんなん、ヴェトナムのこと)、シャム(タイ)などに売り渡されるケースもあったと言う。
「女子供は特に足弱と言って、人市での値段も若い男の五割り増しになる。私が買われた本当の値は知らないが、もしかしたらいい値がついたのかもな」
「ふうん」
浮かない顔で、あざみは相槌を打ってから気づいたように、
「じゃあ、夷空って名前は自分でつけたの?」
いや、と夷空は複雑な顔で首を振った。
「半分はそうで、半分は違うな。この名前は、私を買ったイスパニアの貿易商人がつけたんだ」
と、夷空はほぼ他人事のように説明を続けた。
「その商人がその市で競り落としたのは、私を含めて三人だった。一人が琉球人の女、もう一人は同い年の呂宋人の少年、そして私の三人しかいなかったんだ。だがそれでもイスパニア人はもとの名前を覚えようとせず、自分の呼びたいようにしか呼ばなかった」
夷空は、今でも憶えている。女は浦添(うらぞえ)、少年はマニラ。それぞれ買った港の名前がつけられていたと言う。
「で、お前はジパング、このいまいましい島国の女だ」
その商人の口調を思い出して真似しているのか、顔をしかめてやや厳めしげに夷空は言った。
「だからお前は『島』だ。お前を今日から島と呼ぶ。今から、もとの名前は忘れろ。・・・・・・イスパニアで『島』のことを、イスラと言うそうだ」
「呂宋も琉球も確か、島なんでしょ?」
「まったくだ。どうして私だけ、ただの『島』なんだろうな」
「夷空って、最初はイスラだったんだね」
考えてみればどうでもいいことなのだが、やけに感心したようにあざみは言った。
「どうやらそうらしいな。この名前に、特に思い入れも感慨もないがもう二十年近く、それで通してる」
少し笑ってから、あざみはもとの顔に戻った。
「ねえ、で、もとはなんの話をしようとしてたの?」
ああ、と気づいたように、笑顔を取りやめて夷空も言った。
「話は、人市が立つような場所にはあらゆる人間があらゆる人を求めてやってくるってことだ。これから仕事の予定がないのなら、私の仕事を是非手伝って欲しいんだ。・・・・・・ちょうど今、言おうと思ってたのはそのことさ。もし、うんと言ってくれるなら、このまま私の屋敷で寝泊りしてくれて構わないがどうだ?」
「うん、いいよ」
あざみは驚くほど、あっさりと肯いた。
「夷空が雇ってくれるなら嬉しいな。わたしも、この町来たばかりで、ほとんどなんの伝手もないから」
「それなら決まりだ。うすうす分かっていると思うが、今は緊急事態で、猫の手も借りたいときでな」
「待って」
「なんだ」
思わせぶりに間を置くと、あざみは言った。
「じゃあ今日からわたし、海賊になるってこと?」
「私の一味になるならそうだ」
夷空は微笑むと、同じ表情をしたあざみの前に、自分の手を差し出した。
夷空の屋敷は、今の四天王寺界隈にあった。堺筋では夷空の屋敷のように、南蛮趣味の蘇鉄を植え込んだ邸宅が多い。近くにある信長の御用商人を務めた今井宗及(いまいそうきゅう)の屋敷や、もとは魚屋である千宗易(せんのそうえき)の屋敷なども、そのように調えてある。
「ねえ、誰、あれ」
入り口まで来たあざみが不審そうな声を上げた。
「倭人?」
あざみの第一印象を夷空は言下に否定した。
「バスク人さ」
そこに、南蛮服を着た不思議な男が立ってじっ、とこちらを見ている。豊かな黒髪をなびかせた男はそう背は高くはないが、倭人ではないようだ。彫りの深い瞳や大ぶりな鼻、腕の甲の産毛の毛深さなどは、人よりは犬狼の眷属を思わせる。
「もう夕方だ」
男は夷空を見ると、言った。やけに流暢な日本語だった。
「思ったより遅いお帰りで、パトロン」
「お前に旦那と呼ばれる筋合いはないぞ、ガルグイユ」
ガルグイユ。呼びにくい名前の男は大げさに肩をすくめた。
「なあ堅いことは言いっこなしだぜ。おれもあんたも一日働いてきたんだ・・・・・・でもまさかそっちの小せえのに、歩幅を合わせてきたわけじゃねえよな」
狼に似た風貌の男は鼻の頭にしわを寄せる勢いで、あざみの顔を覗き見た。
「だったら、どうかしたのか?」
いらだちを露わに、夷空はガルグイユを睨みつけた。
「番犬を飼ったつもりはないぞ。鼻が利くつもりなら、もう少し嗅ぎまわってきたらどうなんだ? 一味に入りたいのなら、力を示せ。お前をまだ誰も一味と認めてはいないぞ」
「一味か。またどっかで聞いたような、懐かしい言葉だ」
言われてもガルグイユは怯まずに、不遜な態度を変えなかった。
「初めに言ったはずだぜ。おれが欲しいのは、ちんけな分け前をくれる仲間なんかじゃねえ。・・・・・・・パトロン、あんたの心とその身体だけさ」
ガルグイユは言うと意味ありげに片目をつむって見せた。ひげを剃れば少しは甘い顔をしているが、毛だらけの男がウインクすると、それだけで獣に顔を舐められたくらい居心地が悪い。その仕草の意味が分からなくても、他人事でも、あざみは背筋が寒くなった。だが夷空は慣れているのか、しらっとした顔だ。この男がいきなり全裸になっても、夷空は平気でいそうだ。
「あんたを愛してる! いずれあんたがおれの取り分になる」
人目を憚らず、無茶な要求をするその南蛮人を、それ以上なにも言うことはないというように夷空は呆れた目で見つめてから、
「宗十は戻ってないのか? 戻ったら真っ先に状況を打ち合わせて、話を先に進めたいと言ってあったはずだ」
「やつなら港だ。さっき出たのさ。すぐに戻ると言ってた」
「そうか」
あざみを連れて夷空はその横を素通りしようとした。
「そっちのおまけは?」
ガルグイユはあざみに向けてあごをしゃくった。
「新入りだ。私が惚れ込んで連れてきた」
「そんな倭人のガキが?」
「お前よりはましだ」
「がぐっ」
まさにお預けを食らった犬のような顔を男はしてから、
「いいか、バスクの男は諦めが悪いんだ。あんたのことは絶対に諦めないからな」
「行くぞ」
捨て台詞を完全に無視して、夷空はあざみに声をかけた。
「一味?」
「だったら、ここにはいない」
「だって、ついてきてるよ?」
来ないのかと思えば、ガルグイユは半歩下がってついてくる。
「今、使える手駒はあいつくらいしかいなくてな」
なんとも言えないため息をついてから、夷空は言った。
「だが見ての通り、あいつはあてにならない。この状況では、本当にお前だけが頼りなんだ」
「・・・・・わたしで大丈夫なの、本当?」
来た早々から不安が隠しきれないあざみだ。
「ああ、お前は目もいい、鼻も利く。それにエキドナも、お前の扱い方を気に入っているようだしな」
すぐ背後を歩くガルグイユの声が追いすがる。
「なあパトロン、おれだって一日番犬やってたわけじゃねえんだ」
「成果があるなら、与太話より先にそっちを報告しろ。私はあざみと少し休むから、宗十が来るまでに、まともに話を出来る状態にしとけ。忘れるな、役に立たないと思ったらいつでも叩き出すぞ」
夷空のガルグイユの扱いは徹底したものだった。ぴしゃりと言い捨てると、あざみも顧みずに、衣装を解きながら奥の間に入っていってしまった。
「ったく、なんて女だ」
舌打ちすると、噛み締めるようにガルグイユは言った。あざみはよくこの獣のような男が怒り出さないものだと思って、その顔を見ていた。憎悪を吐き捨てたかと思ったのだが、ガルグイユはどちらかと言えば、嬉しくてたまらないと言う表情で顔を紅潮させた。
「ひでえもんだ、最高だぜ、畜生」
白い目でそれを眺めながら、あざみは聞いた。
「夷空が好きなの?」
「見てわかんねえか?」
お楽しみを邪魔されたと言う風に口元を歪めると、ガルグイユは言った。
「ちゃんとお給金もらってる?」
「馬鹿言え」
強くかぶりを振ると、ガルグイユは大げさな仕草で十字を切った。
「聖書を読め。神への愛は、いつでも無償奉仕だ」
「馬鹿じゃない」
「馬鹿だと? 余計なお世話だ」
呆れて言葉もないあざみに、ガルグイユは吠えついた。
「うせろ。切支丹でもねえお前みたいな倭人のがきんちょに、大人の愛の奥深さが分かってたまるか」
「暑いな」
湯殿を使ったらしい。ゆったりとした浴衣をまとった身体からかすかに湯気を漂わせながら、夷空は出てきた。
「変な南蛮人」
まだ庭をうろうろしているガルグイユを見て、あざみは言った。洗い髪を梳きながら、夷空は物憂げに外を一瞥すると、
「下関で関わってしまってな。行きがかり上、拾うしかなかったんだ。腕は立つが、重宝すると付け上がるから買い叩かないとな」
「扱い方は心得てるってこと?」
「・・・・・まあ、そんなところだ」
さすがに抜け目ないとあざみは思った。
「でもあいつ、どうしてわたしたちの言葉を話せるの?」
一瞬話しにくそうな複雑な表情をすると、夷空は声をひそめた。
「・・・・・・ある事情があって、必死で憶えたそうだ。お前のために言っとくが、やつの身の上話は聞くなよ。聞かなければよかったと、あとで絶対に後悔するからな」
「うん、胆に命じとく」
「パトロン」
男は耳がいいか、異常に鼻も利くらしい。大声で言った。
「宗(そう)十(じゅう)の野郎が帰ってきたみたいだぜ」
「宗十?」
あざみは聞いた。
「この屋敷の家主だ。古馴染みで、堺での取引にはほとんどの場合、仲立ちに入ってもらってる。ここでは色々世話になってるのさ。今度の人質解放の相談にも一役買ってくれてるんだ」
「なんや、えらいことになったのう」
やがてえらく色の黒い、小柄な男が顔を出した。こちらも倭人の言葉を話す呂宋人かと、あざみは疑った。
「田中宗十。これでも生粋の倭人だ。堺で手に入るものなら、この男に頼めばすぐに手に入る」
「こいつは?」
宗十は長いあごをあざみにしゃくった。
「あざみだ。例の周旋屋の紹介で、色々と段取りをとってくれた。もとは渡りの火術師に弟子入りして働いていたらしい。若いが、なかなか貴重だぞ。エキドナの調整が出来る。火薬の調合や狼煙、爆弾作りなどもお手の物だ」
「ほお。ちんまい割りに自分、貴重やな」
宗十は目を剥いて屈みこんだ。だがその背丈は見るところ、あざみとそれほど変わりはないのだ。あざみはどうも釈然としない。
(お前だってちんまいじゃないか)
「・・・・・よろしく」
言われ、あざみは自然に手を差し出した。南蛮人のする握手の習慣は、夷空に聞いてどうにか納得していた。ただ、夷空の買いかぶりで、宗十だけでなく、ガルグイユの目の色まで変わったので、あざみは居づらくなってきた。
「じゃあ、早速話を始めよう。宗十、悪いがよろしく頼む」
海賊たちの食卓
話は夕餉の膳を囲んで行われることになった。酒は夷空が用意し、酒肴は宗十が運び込んだものを下男に調理させたものだ。食材がもれなく運び込まれ、台所はほどなく、てんやわんやになった。
山育ちのあざみは見たこともない新鮮な魚介類が調理されていく様子に、目が離せなくなっていたのだ。
江戸期の多様な調理法とは比ぶべくもないとは言え、この頃すでに食べられていた食材も海山ともにかなり豊富で、食べ方もそれなりに工夫があるものだ。
例えば今は柚子を刻んだ三杯酢などで和えて、冷やしたグラスで先付けに盛り付けたりする海鼠(なまこ)や、魚の腸を使った塩辛なども、上代すでに都の献上品や饗応料理などに数えられていたようだ。
中世には明石の豊富な漁場が、中央にも注目され始めてきた頃らしい。宗十が持ち込んだのは、これからひと月ほどが旬の鱧(はも)に、現在でも明石沖のものが最上品とされる蛸、見事な石鯛だ。
鱧は生命力の強い魚だ。冷凍輸送のないこの時代、陸路で都に運んでも、なお死ぬことはなかったらしい。縦割りにした緑の色味の強い胡瓜と酢であえて、今夜は、はもきゅうにする。
合わせて出された鯛や蛸はまずは刺身だ。この頃、庶民が魚の生身に和えて食べたのは、酢味噌のほかは煎り酒、梅干の果肉を潰したもの。醤油はひしおのようなものがあったが、言うまでもなく、権力者のみぞ知る貴重品だった。
鯛のあらや蛸の余った部分なども、酒や味噌で煮つけて別に調理する。あざみは生まれて初めて見る海の食材の行方に目を奪われて、磯のいい匂いのする調理場から、ずっと離れられなくなってしまった。二度も夷空に襟髪をつかまれて、しぶしぶ居間に戻る。
居間では酒盛りが進んでいた。呑まないと部屋中すでに酒臭いのがわかるくらい皆、酔っている。本来はあざみも含めて打ち上げのはずだが、正直あまり居たくはなかったのはそのせいだ。
「呑めるだろう?」
夷空は杯を差し出した。白くもやがかった濁り酒はこの国のものかと思えば、中東原産の蒸留酒、アラックだと言う。日本では荒木酒と称する。当時の東シナ海では米などの穀物を使っても造られていたようだ。アルコール度数は日本酒よりはるかに強い。
「いらない。もともと嫌いだし、お師匠が仕事の話をするときは絶対酒は飲むなって」
「ご立派な心がけだ。おれの国なら末は修道女だな」
「麦焦がしでも作らせるか?」
宗十が言った。続けて、ガルグイユが毒を吐く。
「大人の時間だ。寝ろよ。もともと、餓鬼はお呼びじゃねえ」
「お前は飲みすぎだ。少しはあざみを見習え。使えないなら、まずお前から叩き出すと言っておいたはずだぞ」
相変わらず容赦のない一言を浴びせて黙らせると、夷空は気を遣ってあざみを自分の隣の入り口付近に座らせた。皿に遠くの料理を取り分け、宗十にはすぐに飯の支度を頼む。
「まず知ってると思うが、予想外の事態が起きた」
「ああ、こっちにも話はすぐに伝わってきた。惟任(これとう、光秀のこと)がな。まさかこんなにあっさりと謀反が成功するとは思わんかったが」
宗十は酒臭い息で嘆息してから、言った。
「わがままな船長はいずれ、船を降ろされるもんだ。寝てる間に運び出されて、離れ小島に置き去りにされたりとかな」
「明日の朝、最初の交渉に向かう手はずになっていたんだが、こうなった以上どうなるか予想もつかないところだ。そこで今のうちに、こっちの出方も整理しておきたい」
軽口を叩くガルグイユを受け流して、夷空は宗十に聞いた。
「港に行ってきたんだったな。様子はどうだった?」
「まず、今まで通りやな。確かに都から焼け出されてきた女やら、武家やらがなにやら渡し場で騒ぎ立てとったこともあったようやが、目立って不審な動きをした船は見当たらんかったようや」
「私たちが帰るまでに、相手から特別な連絡は?」
「今のところはまだ、ないな。お前の周旋をした関の丹右衛門も、本業の人足出しやら船荷の預かりやら、手広くやっとるし。それに今回のことで、そっちに影響も出とるやろしな」
「あざみ、丹右衛門には直接会ったことはあるのか?」
麦飯の入った飯茶碗を引き寄せるあざみに、夷空が聞いた。
「うん、堺の人足寄場で会ったよ。お師匠が死ぬ前に、もし生き残って伊賀を出られたら、関の丹右衛門を頼れって言われてたから」
「私たちの船は二十人も乗れない。大きいものじゃないが、積荷も含めて、乗員全員を監禁しておくには、少なくとも離れ小島のひとつも用意するだろうし、そこに人質をとどめておくなら、頻繁に補給や連絡をするだろうと踏んだんだがな」
長い髪をかき上げて頭を掻くと、やや忌々しげに夷空は漏らした。
「夷空、お前の見方は間違ってはないとは思う。ただ、なにしろ急なことや。助け出すにはもう少し、時間みてもらわんと」
「・・・・・分かってはいるつもりだ」
ぐいっと夷空は杯を煽った。あざみが見ていると、夷空は意外と呑む。見ていると、ひとりで一瓶は開けそうな勢いだ。立て膝にした右足の横に置いたかわらけの杯がどんどん渇いていく。
「ガルグイユ、お前も動いてきたんだろう? 何かあるんだろ」
「さあな」
ガルグイユはしけった音を立てて鼻を鳴らして、肩をすくめた。どうやら頼りにされるよりは、怒られないと物足りないらしい。意味ありげに、あざみの方を見てから、
「だが、名案はあるぜ。こっちも、人質をとるんだ」
それがなにを意図しているかに気づいた夷空はにべもなく言った。
「・・・・・確かにお前にしては名案だが、あざみは丹右衛門とはほとんど関係がない。それにこの国では、私たちが圧倒的に不利だということを忘れるなよ。丹右衛門の後ろには、堺でも有力な商人がついている可能性が高いんだからな」
「黒幕が分からなきゃ手も足もでねえならおれの出番はねえな」
酒臭い息を吐いて、ガルグイユはあくびをした。
「丹右衛門の依頼筋を突き止めれば、本人と交渉するよりも話は早いと言ってるんだ。私があざみを連れてきたのは、もしかしたら、その黒幕につながる手がかりを持っているかもしれないからだ」
「手がかりやと?」
宗十が聞いた。
「あざみは信長が最期に言った言葉を聞いてるんだ」
夷空の一言で全員の視線が一斉に集まって、あざみは少し気後れがした。
「信長が仕掛けた相手のことを知ってたと言うことやな」
「・・・・・ああ、どうやら私のような鉄砲放ちの存在に、信長は以前から気づいていた可能性が高いようなんだ」
「ほう」
あざみは促され、その言葉を聞いた状況から語り起こした。明智勢が乱入してくるまでの、本能寺の人の出入りや町の様子、その後の経過まで、あざみはよく把握している。
「やはり、この仕掛けか、とはな」
酒で温まったため息をつくと、宗十は頬杖を突いた。
「て、言うかそれだけか? それじゃあ何もわかりゃしねえ。王様ってのはおれたちと同じ、狙われるのが商売なんだぞ」
「前後のほかのことはよく憶えてるんだけど、あの一瞬のことだけがまだよく、思い出せないの・・・・だから、もっと思い出せることがあったらいいんだけど」
「そうでもないさ。その言葉や状況ひとつ取っても、推定できる要素は多い。・・・・・・例えば、あのとき、信長は確実に私とあざみを認識したはずだ。あざみはともかくとして、私の風体を見て自分と同じ倭人だとは、普通は思わないはずだ」
「つまり、夷空みたいな倭寇を雇って、狙撃をさせるようなものは何者か、信長にはすぐにぴんと来たってこと?」
あざみの言葉に、夷空は深く肯いた。
「そうだ。それに、狙撃と言う形で自分の命を狙おうとするのは何者か、と言うことにあの一瞬で信長が気づいた点も見逃せないところだ」
「確かに、今回の一件、丹波の光秀のように、信長の宿所を大勢をもって急襲するやり方をとってもええねやからな」
「ああ、だが私の依頼筋はその方法を取らずに、信長だけを一気に殺害する計画を立てた。もしかすると恐らくは取れなかった、と言うのが実のところだろう。あの状況で、信長のいる京都に大勢を率いて急襲作戦を実行できるのは、位置的に見ても、丹波亀山にいる明智光秀をおいては、他にいなかったはずだ」
「・・・・・この状況下での軍事行動は、危険を伴うものやしな。実際してのけた明智にしても、これから前後左右の敵と戦わなければならなくなるのは明白や。夷空に依頼した人間が政権内部か、それとも外側か、いずれにしろ少なくとも相手は中々手が込んどる」
「光秀よりはな」
夷空は、ほんのり染まってきた頬に貼りついた髪を手で払って、
「たぶん、軍勢で本能寺を襲撃するよりは、大掛かりでなく、それほどの手間も掛からない。発覚して私たちが捕まっても、黒幕を話しようがないわけだからその点でも安心だ。地縁もなく、ほとんど行きずりの私たちは実に体のいい、捨て駒だったと言うわけだ」
「ごめんね、夷空、あんまり役に立たなくて」
あざみは本当に済まなげに言った。
「気にするな。私が買ったのはあくまでお前の腕だ」
大分呑んだはずなのに、夷空はほとんど乱れていなかった。不安と緊張のせいもあるが、無論、それはおくびにも出さない。それに引き換え、意外に下戸なのか大酒を飲んだせいか、ガルグイユなどは真っ赤な顔でいびきを掻いている。下男は暇を告げてさがり、宗十はそのガルグイユを連れて自室に戻った。あざみだけはせめて、宴の後片付けを手伝うことにした。
「明日は予定なら、夕刻までには丹右衛門に会えるだろう」
「うん、そうだね」
やや興なげな声で、あざみは言った。
「なあ、本当によかったのか? 私が強引に誘ったといえ、お前は今日中に丹右衛門から報酬が出たんじゃないのか」
足元に転がる空瓶を並べながら、夷空が聞いた。
「ねぐらと次の仕事の方が第一だよ。前にも言ったかも知れないけど、わたし、この街で独りぼっちなの。丹右衛門には必ず夷空を連れて来いって言われてたけど、それが終わったら次の仕事も探さなきゃだったしさ」
それに。そう言いかけて、なぜかあざみは止めた。夷空もあえてその先を突っ込んで聞こうとは思わなかった。ただ、かすかな躊躇と戸惑いは、空気感の中で夷空に伝わってしまっただろう。
「もう寝るね。わたし、どの部屋で寝ていいの?」
「私の寝間を使ってくれ。二人寝るぐらいの広さはあると思う。起こさないように、後でそっと入るよ」
綺麗に片付け終わると、あざみも下がっていった。緊張の連続から開放されて目蓋がいかにも重そうで、あくびも長く尾を引いて聞こえた。夷空もひどく疲労していた。なのに、頭だけがひどく冴えてまだ眠れそうにない。押し寄せる事実が、攻め立てる灯火のような時間の間隙にまだ気持ちが戻ってこれない。そう言えば狙撃を実行してから、それほど時間が経っているわけではなかったのだ。
夷空が丹右衛門に声を掛けられたのは、明石で積荷の船を待って堺港に入ってから、ほどなくのことだった。
そのとき、早ければその日の明後日には一味の船は、夷空の足跡を追って港に着く手はずがついていたのだ。
ここ数日の天候は良好で、航路に不安はなかった。土地の海賊どもともすでに話がついており、隠し荷は夷空から中間業者を経て、遠く東北の大名衆の発注元へ売り渡されるはずだった。
戦乱の海を駆ける密輸業者には、協力者の契約不履行や裏切りも含めて水面下で予想外のトラブルが起こるのがむしろ一般的だ。特に海上の天候に左右されるために長期間長距離を連続して移動できない当時の輸送船は、目的地に到達するまで沿岸部の大小の港に停泊する。そのため、そこを支配する海賊たちとの複雑な利害関係の調整が、最大の課題になってくるのだ。
夷空は宗十の船に乗り、積荷の船に先行して到着し、売り手との最終交渉や航路の安全のための顔つなぎを探していた。
関の丹右衛門と言う男、元は鳥羽海賊(とばかいぞく)だとの噂があった。
鳥羽は堺とは反対側、紀伊半島の東海岸、現在の三重県沿岸部である。伊勢湾に臨み、上古から東海道諸国と関西の物流をつなぐ海路の要所だ。あの織田信長も元は、この海域の津島と言う港の、港湾事業を保護する豪族の息子だった。
丹右衛門についてはかねて、堺以東の海賊たちには特に顔と名前が利くことを聞いていて、以前から一枚噛ませてもらうために宗十に働きかけをしていた。
伊勢沿岸は古来、沿岸部の利権をめぐって乱立した小豪族たちが争い、早くから守護大名の権威が失墜していた無法地帯だった。小競り合いから、やがて九鬼嘉隆(くきよしたか)と言う男が国を追われ、尾張から織田信長の後ろ盾を得て戻ってきてから、情勢が激変したのだ。
信長は割拠する豪族たちを、ごみのように掃き飛ばして沿岸を制圧した。
そのやり方は強引そのものだ。信長は伊勢で支配権を確立するために、すでに没落した室町幕府公認の守護、神部(かんべ)氏の係累を探し出してそこに自分の息子・信孝(のぶたか)を送り込んだ。神部に養子に入った信孝を使い、信長は一気に国内の支配権を簒奪したのだ。まさに財力と腕っ節に物言わせた吸収合併だ。言うまでもなく、反対するものはすべて追い出された。
彼らの多くは西海岸に流れ、信長に敵対した大坂本願寺や毛利などの西側勢力と結ぶと、あくまで徹底抗戦を続ける途を選んだ。丹右衛門は鳥羽で一度、さらに大阪湾で再度、信長の水軍を率いる九鬼嘉隆に敗れ、今の境遇に身をやつした男なのである。
小柄でいかにもはしこそうな、胴の太い男だ。
例の二度の敗戦のどちらで負ったものか、左手首から先がなく、その切り口と同じ角度に左眼の上から、鼻筋をまたがって唇の上辺りまで、無惨な刀傷を刻んでいる。
度胸と目端の利く頭で、敗残者から復権したこの男に、夷空は過去にこだわらない第一印象を受けていた。名前と素性を隠し、あらゆる港湾の裏事業に与することで今やこの堺港で隠然たる一大勢力を持つに至ったと言うのが決して公然とは出来ない、丹右衛門の職歴だったからだ。
過去を棄て、生きねばならない今がある人間は、過去の汚点にはすでに一顧だにしないものである。信長に対する晴らせない恨みはいぜんとして胸にわだかまっているにしても、もともとそれほどの恨みを鬱々と持っている雰囲気ではなかった。
「段取りも含めてあと五日や、つまり六月三日までに片をつけろ」
そう、丹右衛門は言った。三日がなにを意味しているものか、政治的な配慮なのか、それとも狙撃の条件のよさを勘案して言っているのか、そのときは後者だろうと、夷空は思ったものだ。
夷空のような無国籍の、いわゆる不逞な素性を持つ狙撃者を雇い入れたのも、京都という畏れ多い場所での犯行が、発覚時にどれほどの影響を自分にもたらすものなのか、十分に理解した上での人選と言える。
つまり、王都を穢す暴挙を偲びなく思う者の差し金なのだ。
丹右衛門のごとき卑賤の男にそのような配慮があるとも思えない。
(人身御供か)
倭人とみなされない夷空は、そのせいで選ばれた。では、あざみは? 信長のせいで天涯孤独になったとは言え、年端も行かない少女―――だが、もはやどこにも身寄りもなさそうだ。信長が死んだ今、彼女はどうするのだろうか?
(・・・・・私の知ったことではないな)
ふと考えた思案を眉をひそめて振り払い、夷空は打ち消した。
「夷空、大丈夫か。無理にでも少し寝たほうがいいぞ」
閉じない目蓋を、夷空が持て余していると、宗十が入ってきた。彼は酒に酔い、軽くまどろんだようだった。だが満足には眠れていまい。腫れぼったい顔が蝋燭明かりの中、まだ心もち赤黒かった。
「お前もな。ここ数日、お前も寝てないんだろう?」
板の間に寝転んだまま、顔にかかった長い髪を払いもせず、無為な時を過ごしている。そんな夷空を見て、宗十はなんともいえない苦笑を浮かべているだけだ。
「どうや、一味の頭目っちゅうのは骨が折れるもんやろ」
と、その傍らに座り込む。
「そうでもないさ」
海藻のように広がる黒髪の中から、夷空は言った。
「色んな意味で、お前にも感謝してるよ」
「ここへ来て、こんなことになるまではか?」
「馬鹿」
宗十の苦笑に、夷空は熱っぽいため息で応じて、
「こんなときに冗談は通じないぞ。お前には本当に感謝してる。今の状況に不満は無いって言ってるんだ。もともと悪いのは私だ」
「お前こそ馬鹿か。今強がったって一銭の得にもならへんぞ」
「言うな」
今度は夷空が苦笑する番だった。
「強がってなんかいないさ。ただ、こう言う立場でいるだけで、忘れていられることだってあるから、それで満更でもないと思うようにしてるんだ」
「そうかい。お前が堺へ流れてきたこと、後悔して無いならそれはそれでええがな」
「残ってるぞ」
手を伸ばして瓶の鶴首を掴むと、肘で起き上がりながら、夷空は言った。底にまだ少し、中身が残っているのだ。宗十は苦笑すると、黙って杯を拾い上げた。
「お前のせいじゃない」
注ぎながら、夷空は言った。
「たぶん、こう言うことになったのはな」
「だが、それもお前のせいばかりとも言えんやろ」
自嘲気味に笑うと、夷空は座りなおした。
「そう思いたいが、下手によくも知らぬ場所で、欲を掻いた結果がこれだと思えば、諦めもつくだろ」
「だからまだ、諦めてもろうては困る、と言うてるんや」
ぬるい酒を飲み干すと、宗十は言った。
「それに今回のことがどっちの責任か、お前と争うつもりは端からない。借りやったら、おれは最低一つはまだ、お前に持っとるつもりやからな」
「なんのことだ?」
「・・・・まだ残っとる」
残りを注ぐと、宗十は夷空に杯を返して、
「果たしてないことがある。お前を堺に呼ぶとき、おれが約束したことがあったやろ」
一瞬分からなかった。彼女は思わずはっと顔色を変えた。
「なんだ、あれのことか」
すかさず苦笑する。酒量が本音をさらに紛らわしてしまう。
「そのことは私の我がままだ。あれは別に、忘れてくれたって構わないと、何度も言ったはずだ」
「嘘つけ」
「嘘は言わない。ふんぎりをつけるためさ。もう、祖国とは言えない国に戻るんだ。私だって何か思い切ったきっかけがいる」
「それでも約束は、約束や。それも、ちゃんと手配してる。それをやすやすと忘れてもろうては困るな」
「忘れはしないさ。ただ、今は別にどうでもいいんだ」
「まあ、強がるのだけはただやからな」
と、夷空とおのれの過去を手繰り寄せるなんとも言えない苦い笑いは、明日を想う遠い目に変わった。
「もう寝るぞ。お前もええ加減にしとけ」
宗十は立ち上がった。
再び寝そべった夷空はそわり、と言う衣擦れの音を頭の上で聞いた。
「なあ、宗十」
出際、夷空は聞いた。
「お前、どこまで乗ってくれる?」
言うまでもない。そのように肩をすくめると、宗十は言い捨てた。
「お前がこの国を出るまでやな。どの道、お前がぽしゃったら、おれも終わりやさかい」
あざみの思いつき
それから結局、夷空は眠ることなくそこで、朝を迎えた。いや、意識が醒めていただけで、明け方に少しまどろみはしたのかも知れない。その代わりなにか悪夢を見て、気がつくと全身にびっしょり冷や汗を掻いていた。
これ以上はと諦めて身体を起こしたのは、空気が白んできた頃だった。薄霧が町辻をぼやかして、目鼻にまとわりつく空気も冷たく潤っている。深く息を吸うと、女海賊は泥のようにけだるい自分の身体の物憂さを振り払おうとした。
(だめだな・・・・・これじゃ)
どうも、気ばかりが急いているように思える。
もともとの期限として提示された、約束の時刻は夕方だが、昨日時点で丹右衛門側からは取り立ててなにも言ってこない。宗十の言うように、非常時の対応に追われて夷空と連絡がつかずじまいでいるのか―――あるいは今の状況ですらもともと織り込み済みでことは進んでいるのか。
屋敷に投げ文する程度の手間を取れないわけがないから、予定変更はない。どうも、後者が有力だろう。
(・・・・・と、なると日にちを指定したことも生きてくる)
丹右衛門がこの仕事の期限をはっきりと六月三日までと明示したことだ。彼らは光秀の計画を事前に知っていたとするならば、この日までを仕事後の最終交渉の期限と区切るのは、妥当な線である。
ただ、そう考えると、謀反を知ってわざわざ狙撃者を仕立てた意味が判らなくなる。
少数の刺客を使って成果を挙げることは一見合理的に見えて、その実さまざまな危険を孕むものだ。夷空もあざみも、依頼者になんの義理立ても縁もない。だからこそ捕まっても腹は痛まないとは言えるが、実際の信長の生死を知る上で、夷空たちの存在は彼らにとっては重要なはずだ。でなければわざわざ刺客を派遣すると言うリスクを犯した意味がない。跡形もなく消そうと言うのなら、夷空たちから情報を得てからの話だろう。
(まだ生きる途はある)
信長の生死について議論百出する今、夷空たちの証言は客観的にもっとも信憑性が高い。彼女たちが信長の狙撃をしくじったと言うことを差し引いても、である。
夷空があざみを引きつけておくようにしたのはその意味もあった。刺客のどちらかが不用意に情報を漏らせば、彼女たちの価値はそこで終わるのだ。
(・・・・・あざみから目を離さないようにしないとな)
色々な意味でこれから彼女が切り札になる。
あざみ自身もまだ、腹の読めないところがある。気は抜けない。
夷空が覗くと、あざみは部屋にいなかった。布団が丸めて畳んである。中に手を差し入れてみると、そこから体温はかなり失われていた。下男が飯炊きに起きる頃だが、屋敷内にもその姿が見えない。
(どこに行った?)
下足箱にも、履物が消えていた。朝もやの霧の彼方を見つめながら、嫌な予感が胸中をよぎる。逃げた? 夷空はまだ視界の悪い表通りに飛び出して辺りをうかがった。
(・・・・・まさか)
あざみから夷空はそれとなく目を離してはいない。なにかをする機会があるとしたら、真夜中だが―――その間に彼女に丹右衛門から何か、接触があったのではないか。
しまった。今、あざみに逃げられたら打つ手はない。夷空は息を呑んだ。
そのときだった。
後ろから伸びてきた手が、夷空の肩に触れた。
振り返る左肘にその腕を引き込むように下に落とし、夷空は相手の体(たい)を崩す。右袖に仕込んだ鮫の牙に似た形の匕首を抜き、すかさず相手の喉元に向けて切っ先を構えた。
「わっ」
そこに、あざみが立っていた。短く悲鳴をあげ、背筋がまっすぐに張るのと一緒に、小さな喉がぴくりと震えた。その拍子に右手に抱えていた笊から、黒い小石のようなものがまとめてざらざらと落ちた。
田螺(たにし)のようだ。
「おはよ」
あざみは言った。さすがに、その声が引き攣っている。
「なにしてたんだ?」
「そっちこそ」
じろり、とあざみは上目遣いして、
「夷空って・・・・・いつもわたしが言いたいこと先に言うよね」
昨日の浴衣のまま、髪も梳いていないのだ。そんな女が刃物を持ってうろついていればどちらが怪しいかは、自ずと結論が出る。あざみの目はそのことを言いたげだった。
「田螺だよ。朝、土地の人に聞いて近くの田んぼに入れたから、採ってきたの。ご馳走になってばっかじゃ悪いし」
「外に出れたのか?」
夷空は訝しげに眉をひそめる。当時の堺の町は、深い堀と土塁で囲われ、いたるところに町木戸が設けられている。この木戸には番士が置かれ、門限外の外出を許さない仕組みになっているのだ。
「驚くことないでしょ? それで、京都からもちゃんと脱出できたんだから」
あざみがしゃがんで砂にまみれて濡れた貝を拾い出したので、夷空も仕方なくそれを手伝うことにした。
「逃げたりしないよ。わたしだって夷空と同じようなものだし。丹右衛門とは手はずどおり夕方、会う約束なんでしょ?」
「そうだ」
「じゃあ、それまでに人質がどこにいるか突き止めないとね」
「出来たらな」
「なにか心当たりは?」
眉をひそめ、夷空は肩をすくめた。
笊を抱えなおしたあざみは無言で立ち上がってから、
「言おうと思ってたんだけど、堅川の橋の辻で人市が立つみたいだよ。丹右衛門の息のかかった人商人が顔を出すかも。人質を拘束しておけるような場所、誰か知ってるんじゃないかな」
「どこでそれを?」
「このいくさで人商人が堺に集まってきてるし、なにかあったんだと思って。昨日、夷空に役に立つことなにも話してあげられなかったし、ちょうど思い出したから」
「・・・・・そうか」
「無駄だと思ったら別にいいよ。わたしもただの思いつきだし」
少し間を置いたあと、夷空は言った。
「ありがとう。行き詰っていたところだ、本当に助かったよ」
あざみは口元だけで微笑むと、中に入っていった。
夷空は乱れた前髪をかき上げると、ふうっ、とため息をつく。
「妙な真似はするなよ。お前の場合は本当に刺すぞ」
背後からガルグイユが忍び寄ってきていた。音もなく近づいてきた彼は、夷空を抱きすくめようとしたのだろう。両手を広げた不恰好のまま、引きつった笑顔で硬直していた。
「じょ、冗談きついぜ」
「冗談のうちにやめておくことだ」
「神にも慈悲があるだろ。裏切りには報いを与えるように」
含みを持ったガルグイユの言葉に、夷空の眉がぴくりと動いた。
「なにか掴んだのか?」
意味ありげな微笑を、狼は片頬に浮かべた。
「まあな。聞きたきゃあんたはおれに自分の耳を貸すんだ」
「人市か」
宗十は即座に手を打った。
「確かに、悪い考えではないかもしれん」
朝の膳は昨日の鯛のあらを煮付けたものと、菜っ葉、それに田の泥を吐かせた貝の味噌汁だ。ガルグイユが器用に箸を操って食うのを、あざみは自分の箸を止めて眺めている。
「だがよ、時間がねえんだ。丹右衛門の息が掛かった人商人とやらに、目星はついてるんだろうな」
「その点は問題ない」
あっさりと、宗十は言った。
「人市に顔が利く人間と中に入れば、あとはどうにでもなるやろ」
「どう言うことだ?」
話が通じにくいガルグイユに、傍らのあざみが耳打ちした。
「・・・・・ああ、そうか、そいつはいい。丹右衛門の使ってる人商人を見つけりゃ、あとはそいつを締め上げればいいわけだ」
「時間がない。多少の荒事は止むを得んやろ」
「いや、むしろ望むところだ。場合によっては派手にやる」
夷空が重い口を開いた。
「拷問は得意だ。派手にやってもかまわねえんだろ」
「好きにしろ」
(・・・・・どうしたんだろう)
昨日の深酒のせいか夷空は食がなく、ここまでの口数もあざみがおかしいと思うほど少なかった。タイムリミットが迫っている緊張と不安のせいだろうか。身のこなしもどこか投げやりだ。
「じゃあ、宗十は先に人市に言って、渡りをつけておいてくれ。あとで合流しよう」
「分かった。お前らが来るまでにようやっとく」
「それまでわたしたちはどうすればいいの?」
不思議に思ったあざみが訊ねた。
「心配ない―――別に寄る場所があるんだ。準備出来次第、出よう」
夷空の愛するもの
正直なところ、夷空は帰趨を決めかねていた。あざみのことだ。彼女が外に気脈を通じているのなら早めに手を打たねばならないが、それも中々難しい。
あざみは夷空も知らない情報をまだ握っている可能性がある。あのとき、中継小屋で漏らした言葉はあれがすべてではなさそうだ。まだ完全に思い出していない。彼女はそう言っているが、言葉通りに受け取らないにしても、現時点であざみを手放すことは、夷空にとっては唯一の生命線を手放すことに等しい。
「朝早くあいつは誰かと会ってた。そいつはまず間違いねえな」
ガルグイユは今朝、あざみが町木戸の裏手に掘られた抜け穴から出てきたところを目撃したといっているが、その様子は尋常なものではなかったと言う。
「で、こいつは、屋敷の板塀に挟んであったもんだ」
赤い色紙で折られた百合の花である。これはあざみが戻ってきたあともそのまま、板塀の狭間に刺されてあったと言う。なんらかの合図に使われたものと見て間違いないだろう。
もともとあざみは、忍びの娘だ。情報工作員と言い替えてもいい。必要ならば喜怒哀楽ですら自在に操ることが出来るのは、行動をともにした夷空が一番よく分かっている。
「このことは忘れろ。まずはわたしに任せておいてくれ」
逸るガルグイユを抑えて夷空は言った。
「勘づかれたと悟れば、あいつはすぐに消えてしまうに違いない」
「甘いぜ、主人(パトロン)」
ガルグイユもさすがに折れなかった。
「今、手を打っておくべきだ。あいつが腹に隠していること、洗いざらい吐かせるんだ。田螺に泥を吐かせるみたいに方法はいくらでもある。あいつは人市に行こうとあんたを焚きつけたみたいだが、すでになんらかの手を打ってる可能性だってあるんだぜ」
「・・・・・お前の主張することも、確かにもっともだ。だがとにかく、このことはわたしに任せてくれないか」
あざみの提案に乗ったのは、それを確かめるためでもある。そのために宗十を先に、様子見にやらせたのだ。
「わたしは、あの娘を見極める。その間に宗十が人市の安全を確認しておく。なんにせよ、今は様子を見よう」
「分かった」
しぶしぶと、ガルグイユも話を呑んだ。
「こいつは貸しだぜ。それにその件だが、土壇場になりゃおれはおれで見極めさせてもらうぜ。そんときゃ、あんたでも邪魔は許さねえ」
とは言え、あざみの表情は読みにくい。同じ倭人の夷空でさえそうなのだから、バスク人のガルグイユにとってはなお更だ。顔を合わせて勘繰ることさえ物憂いに違いない。不承不承ながら、指示にもとることはこれでないだろう。
「ねえ、わたしたちはどこに行くの、夷空?」
無邪気に、あざみは聞いてきた。
「人質救出の手配をする。船が見つかっても、わたしたちが動けないのでは話にならないからな」
「助っ人だよ。おれらだけじゃ、どの道人手が足りねえ」
不満が顔に出るガルグイユは、心なしかあざみと視線が噛まないようにしている。
(大丈夫なのか、こいつを連れていって)
代わりに、しきりに夷空を目でせっついてくる。
「心配ない」
二人に違う意図を向けて、夷空は言った。
「交渉はわたしがする。二人は適当にしていればいい」
今井宗久の屋敷の長い塀を通り過ぎ、三人は一軒の商家の前に立った。唐物造りの屋敷の提灯には、『南海屋』の屋号が打たれている。夷空が中に入ると、話はついているらしく、手代が中へ取り次ぐ。
言葉つきや風体からも、その手代は倭人ではなさそうだ。
「ここは、抛銀屋(なげがねや)だ」
物珍しげな様子のあざみに、夷空は言った。
「なげがねや?」
「金貸しさ。わたしたちみたいな海のごろつきに金を出してる」
いわゆる、海外投資信託だ。自己資金で貸し出しもするが、いい話があると方々から金を集めて、貸し付けてくれる。
「宗十の紹介でわたしはここから仕事に必要な金を借りてる」
「仕事っていかがわしい?」
「まあな」
お前が言うか。そんな顔をして夷空は肯いた。
「夷空サン」
ふいに奥から声が上がった。
漆黒の大男がぬっ、と顔を出した。南蛮人が連れている黒人だった。胸から上が鴨居に隠れるくらい背丈があった。あざみは悲鳴を上げることも忘れている。闇に浮き立って光る、無機質な真っ白な二つの眼があざみを見下ろしていた。
「ランパ、頭目はもう着いてるか」
「奥へ来てください。すぐに話、進める」
ランパと呼ばれた黒人は静かな声で話した。不思議と染み入るような低音だ。和語の発音はかなり怪しいが言葉は達者だった。さっきも夷空さん、と言ったのか、夷空様と言ったのか、あとの音が流れて判別しにくかったが、意思の疎通は十分だ。
しゃなりと、夷空は奥へ上がった。
「チビ、おれらもあがるぜ」
身長差は一尺できかないが、ガルグイユは恐れ気も見せない。
「チビって言うな。そっちだってチビじゃんか」
「お客人もどーぞ」
足先に引っかかった草鞋を投げ捨てて、あざみはどうにか夷空に追いついた。
檜の廊下は磨かれて、飴色に光っていた。庭は山水の趣をなして作られていたが、淡い人肌色に薄紅を滲ませて咲き乱れる花見月といい、緑の強い蘇鉄といい、南蛮の樹木が小ぶりな造成池の周りを彩っている。夷空と動くようになってからまるで異世界に来たようにあざみは現実感をなくす瞬間があるが、ちょうど今がそんな感じだった。
「エリオは元気にしているか?」
傍らの黒山に向かって、夷空は尋ねた。
「問題ない。うちの頭目預かってる」
「エリオって?」
夷空が答えるまでもなく、前からあざみより小さな何かが駆け寄ってきて、夷空の身体に抱きついた。淡い栗色の髪をたゆたわせた五、六歳の少年は、明らかにイスパニア人だ。飢えた鳥の雛のように、ばたばたと足踏みをして彼女にしがみつくと、きぜわしげに上目遣いの視線を投げかけてくる。どうもこの女海賊に訴えたい何事かが沢山あるようで、嬉しくて仕方がないというようにしきりに身をよじる。
「誰?」
聞いたが、ガルグイユは不機嫌そうに舌打ちするだけだった。
少年が話しているのは舌足らずの南蛮の言葉だろうが、あざみにはもちろん、まったく判らなかった。でも、彼と夷空の関係がどんなものかは、夷空が少年を眺める視線の温かさを見れば、なんとなくうかがえそうだ。
少年の額に散り掛かった前髪を、夷空はいとおしそうにかき上げてやると、あざみに向かって紹介した。
「息子だ」
「息子?」
あざみは目を丸くして、夷空とその子を見比べた。
「誰の子?」
「私のだ」
文句があるかと言う風に、夷空は断言した。ガルグイユはよほど面白くないのか、ふん、と鼻を鳴らすと、駄々っ子のように眉をひそめてついにそっぽを向きだしていた。
「エリオと言う。いいかエリオ、あざみだ。わたしの仲間」
夷空は文節を区切って和語でゆっくりと、発音した。少年は母親が連れてきた得体の知れない仲間に躊躇を見せることなく、ふわりとした笑みを浮かべると、あざみを見つめた。
「な、か、ま・・・・・あ、ざみ?」
「そう、あざみだ」
はっきりと紅く色づいたバラ色の頬に、金銅のように輝く栗色の髪の少年はあざみの前で、人形のように首をひとつ、傾げてみせた。
「あざみだよ。えっと―――よろしく」
夷空に自分の息子を抱え上げ血色のいいその頬に軽くキスをすると、あざみに手渡した。
「しばらくこの子の相手をしていてくれないか。その間に話をつけてくるから」
奥の間の障子の背後には真っ黒に日焼けをした和服の老人と、口髭の濃い筋骨たくましい南蛮人がその様子を見守っている。南蛮人が夷空に何事か告げ、彼女もそれに答えた。どうやら早く話に入れと言うように急かしているらしい。
「けっ」
行くぞ、と言う風にガルグイユが肩をそびやかす。あざみがエリオの手を引くと、彼はぴったりと寄り添ってきた。
「おい、なにを見てるんだ。とっとと行くぜ」
振り返ったあざみの視界に立ち塞がるようにして、ランパが立ちはだかる。ガルグイユはその様子を抜け目なく確認していた。
「生きて戻ってこれたようだ。まずはそれを喜ばねばならんな」
黒糖で塗り固めたようなその老人は、おもむろに口を開いた。宗十と同じ、倭人とも呂宋人ともつかない男の顔立ちは確かにアジア系で暗い色の小袖をまとっていたが、話す言葉はもっと変則的なものだった。
「祝うのはまだ早い。でも契約どおりエリオを預かっていてくれたことは感謝する」
夷空も同じ言葉で応じる。
「礼には及ぶまい。受けた恩は忘れないのは、私たちの掟だ」
二人が交わす言葉は、ラッパのような陽気な響きのイスパニアの言葉に響きはもっとも近いが、それとも少し違う。この時代の海の眷属が仲間内だけで交わす、独特の言語であった。海賊たちはこれを密談するときなどに使った。
緋毛氈のペルシャ絨毯が敷かれた一間には、テーブルと椅子が一そろい。夷空の前に最初に言葉を交わした老人と口髭の南蛮人の二人が座り、夷空と向かい合っている。
「いいか、イスラ。まず、はっきりさせてもらおうか。あんた、どうする気なんだ?」
夷空の名を、もとのイスラと呼んだ―――次に口を開いたのは、夷空の旧知のオレステと言う名の男だった。
「おれたちはあんたに恩がある。この爺さんは知らねえが、おれはあんたに対する敬意を忘れたことはねえ。だからこそ安心して、あんたに人を預けたんだ」
「分かっている。積荷と人質については今日中に解放のめどをつけるつもりだ。あんたへの補償は、私も責任を追う」
「―――今日を無事に過ごせるつもりでいるらしいな」
揶揄で肩をそびやかすオレステの言葉に、夷空も憮然とした。二人は無言で睨み合った。
「熱くなるな、オレステ。私たちは、この件で夷空を責めるつもりはない。お前だってそれを承知して集まったはずじゃないのか」
「だといいがな。いいか、ケツに火がついてるのは、あんただけじゃねえんだ。昨日の今日で堺が不穏になってる。おれたちも不安だ。なにしろ、情報が足りねえ」
「情報と言えば今、重要な情報源をこっちは握っている。わたしたちはその死に立ち会った。信長はわたしへの依頼筋が誰か、見当がついている様子だった」
「町を仕切る会合衆の連中はこぞって何かを隠しているようだ。あんたを匿えば、この先面倒も大きくなるかもしれない。その情報とやらを使って、あんたは生き残るつもりなんだろう?」
「この港から逃げるめどがつけば」
老人の目を見て、夷空は肯いた。オレステは唇を歪めて鼻を鳴らし、老人はなんとも言えないわびしい顔になった。
「出来る限りあんたを助けてやりたいが、今、あんたに頼まれた以上のことはどうにもならん。力になれずに済まんな」
「人質と積荷の救出に手を貸してくれれば、あとは自分でやれる。わたしが頼みたかったのはそのことだけだ」
苦しげにため息をつくと老人は懐から一枚の書簡を出して、夷空に進めた。
「これは?」
「紹介状だ。話の分かる宣教師団がある。この『南海屋』から話は通しておく。これぐらいのことはさせてくれ。何かあったら頼るといい。隠れ場所くらいは用意してくれるはずだ」
好意をありがたく、夷空は受け取った。
「おれもあんたを見捨てる気はねえよ。今、ランパも手が空いてる。自由に使ってくれてかまわねえ」
「恩に着る。エリオのことも引き続き頼む」
会談を終えて外に出ると、外庭であざみとエリオが石蹴りをして遊んでいた。二人の会話の所作は拙いながらも、打ち解けてはいる様子だった。
「行こう。すぐに移動しないと時間がない」
「もういいの?」
夷空の姿を見つけると、エリオは転げそうになりつつも、まっすぐ走ってその腰に抱きついてくる。
「ああ、あとはランパが人を動かしてくれる。わたしたちはなるべく早く、宗十のところに行こう」
「なにか手がかりが、見つかるといいね」
エリオの巻き髪を細長い指で梳いてやりながら、夷空は肯いた。
「ちょっと待て、イスラ」
ランパと打ち合わせをしていたオレステが呼んでいる。
「お前にはまだ話がある。あともう少し面貸せ」
「どうするんだ?」
ガルグイユが焦れたように、あごをしゃくる。
「先に行っていてくれ、すぐに追いつくから」
そのとき夷空は目顔だけで、ガルグイユに合図を送った。
「おい出るぞ。また、おれらに分からねえ話だとさ」
気づかぬふりをして、ガルグイユはあざみを促して先に出ていく。自分の太い首筋を親指でなぞって、オレステはあごをしゃくった。
お前を雇いなおす
夷空たちが行くと橋の袂にはすでに人が群がり、売買が始まっている。
「遅かったな。・・・・どうやら首尾よういったみたいやが」
宗十がそう言ったのは、夷空たちの中にランパが加わったせいだろう。わざわざこちらから探さずとも、褐色の肌の背の高い大男が目印になって、手間が省けるのだ。
「お前の方も、首尾よく捕まったみたいだな」
夷空は宗十の連れを一瞥して言った。人市の人だかりの前、宗十が達磨のように福福しい男を連れて立っている。
「次郎矢を捕まえた。この辺の人市の流れはこいつに聞けば、大抵のことは分かる」
次郎矢は新潟生まれの北越商人だと宗十は紹介した。応仁の乱以前から、北越は冷害のせいで凶作が続き、身売りの人が絶えない。中には家族丸ごとが売買されるケースも珍しくなく、この男はそうした一家を連れてきて、堺から方々の港に売り渡す。いわゆる中間業者の一人である。
「よろしゅう」
次郎矢は商売人にしては牛のように重い口と頭で、軽く挨拶を返した。青銅製の仏頭そっくりのどこかありがたい男だ。口が回る男よりも、誠実で訥弁のこう言う男の方が、人間相手の商売では上手くいくことが多いようだ。人売りに限ったことではないだろう。
「様子はどうだ?」
「昨日の今日ですが、やはり足弱のもんが多く出とりますな」
次郎矢は、淡々と市況を語った。
「・・・・・いくさがありますと、どさくさに紛れて無茶する輩も増えますさかいにな」
聞くと売り渡されたものたちの中に一先ずは、夷空たちの仲間はいないようだ。
「だが、丹右衛門の息のかかった人商人が顔を出してはいるみたいや。次郎矢は顔が広い、見つけたらすぐ紹介してくれると」
一行は人垣を分け入り、売り場に入った。
今は、年頃十歳前後の姉弟が売りに出されている。腰縄をつけられた彼らは焼け出されたのか、裸足で、すすで汚れた掻い巻き姿のままだ。二人とも心身ともに疲労の極に達しているのか、なにかに酔ったように、現実感のない眼差しをしている。
「大丈夫か?」
競りの様子に釘付けのあざみの袖を引き、夷空は聞いた。
「うん、なんでもないから」
「あれは素性はどうか、わからしまへん。なんせ昨日の今日や。たぶん汚した掻い巻き着せて、それらしく見せとるだけですわ」
次郎矢が言った。どうやら夷空が人市に売買に出向いたと、勘違いしているらしい。そう言えば堂々とした体格のランパなど品定めするように、まじまじと見ていた。
「で、その人商人はどんな男なんだ?」
ため息をつくと夷空は、前の話題を打ち消した。
「投売(なげう)りの五郎(ごろう)左(ざ)言う男らしいな。もとは丹右衛門と同じ鳥羽の人攫いで、明石近海の小島に根城を持っとるらしい」
夷空は後ろで歯を見せているガルグイユに、目配せをした。
「そいつに取り次いでくれるのか?」
「ええ、まず一段落したら一席設けるよう取り計らいますさかい」
「・・・・・それからはおれらで何とかすると言うわけや」
「一段落するのはいつごろだ?」
「まあ、少なく見積もってまだ半刻ばかりかかりましょうな」
「あれ・・・・・おい、あざみはどうした?」
と、宗十が異変に気づいた。どうやら移動する列から漏れたようだ。夷空は最後尾のガルグイユに非難がましい視線を送る。
「あいつ、チビだからはぐれたんだ。赤毛で見つけやすいと思ったんだがな」
「・・・・・見張ってろと言ったはずだぞ」
人並みを掻き分けて、夷空は後尾を見渡した。暖色系の人群れの中では、あざみの赤い髪と着物は目立つはずだった。が、なぜかそれがどこにも見当たらない。
「いないのか」
「人ごみでかどわかされたかもしれまへんで」
「あとを頼む」
夷空はさらに混雑に踏み出した。あざみが立ち止まっていた最前列に出たが、やはりそこにも彼女の姿はなかった。
(逃げたのか)
それとも本当にかどわかされたのか、どっちだ?
判断に迷い、夷空はいたずらに視線を泳がせた。
「おい、いたぞ」
ガルグイユの声がした。
彼は夷空の肩越しに、群集の外を見ていたのだ。
確かにいた。
早足に、あざみは歩いていく。あざみの髪の色は本当に目立つ。柄巻きの古い野太刀を一本だけ差した、人足風の男がその先で促している。
「おい、夷空待てっ」
宗十の制止の声。
それも聞かずに、夷空は人並みを押しのけ後を追った。
あざみは気づいていない。夷空は思わず声を荒げて呼び止めようと思ったが、自分の軽率さに気づいて自重した。あの男とのつながりを突き止めた方がいい。あれは、丹右衛門の手下だろう。朝方、あざみと秘密裏に接触したのはあの男だ。
「ランパ」
夷空はランパに言付けをした、
「作戦中止だ。戻って宗十に引き上げろと伝えてくれ」
こちらの動きは筒抜けなのだ。あの場にいれば、それだけで身に危険が及ぶ。
「こっちもばれた」
ガルグイユが声を上げた。あざみが尾行に気づいたのだ。男もこちらを向いた。すると、顔に向こう傷が見えた。男と二人、潮が引くように、みるみるその姿が消えていく。
「どうすんだ!」
「わたしたちだけで後を追おう。二人の身柄だけでも押さえる」
こんなときは、冷静でいられるはずがない。知らず知らずのうちに熱くなる。夷空はなりふり構わずに駆け出していた。ガルグイユがそのあとを牧羊犬のように追いすがる。
あざみは逃げなれている。撒き方もさすがだ。幾度か、夷空は姿を見失いかけた。路地から路地、人並みを縫い、男を誘導しつつあざみは巧みに町をすり抜けていく。
いつのまにか人影はすっかり絶えていた。
路が細かい白砂になり、夷空たちはいつのまにか海際に出た。背の高い松林だ。林立した木立の向こう、青々とした苔に古びたお社が置かれているのが見える。
「どこに行きやがった」
ガルグイユのしわのよった鼻の頭に、汗の玉が浮いていた。太陽は中天を過ぎたばかりだが、入道雲の制止をかいくぐって刺すような光を放っている。首筋に照りつける白熱が二人の冷静な判断力を奪っていた。そのためか、彼らは見落としていた。追うものは逆に、追われる可能性を含んでいることを。
「・・・・・こう言うわけか」
辺りを見回して、夷空はひとりごちた。いつのまにか二人の逃げ道を塞ぐようにして背後に三人、得物を手にした男たちが飛び出て取り囲んでいた。
「逃げてるようで、おびきだしてたってことだな」
社の影のひと際太い杉の大木からあざみがさっきの男と出てくる。
「あざみ」
あざみは応えず、視線を合わせることが出来ない。顔を伏せたところを向こう傷の男が回りこんで、その頬を張った。
「なにを血迷って先、飛び出しとんのや―――段取り通り動かへんから、こういうことになんねやろうが」
向こう傷の男は肩をそびやかして、夷空たちを見た。あてが外れたか? 拉致るつもりが拉致られて。いかにも、そう言いたげだ。
「こう言うわけや」
芝居けたっぷりに両手を広げて見せ、向こう傷は口を開いた。
「誰のどう言う用件かは察しがつくやろ。・・・・・・あんたはおれらとの約束を破った。泳がせるのはここまでや。お前ら、このままこっちに来てもらう」
「あんたが投売りの五郎左か」
袖に隠したナイフの柄を握りつつ、夷空は聞いた。
「だったらなんや。どさくさに紛れて人質かっさらおうなんて、こすい真似しくさって」
「こすい真似はお互い様だ」
五郎左はへっ、と鼻を鳴らすと、足元に唾を吐き棄てた。
「話はあざみから聞いてる。仕損じた人間が、偉そうなことぬかすな」
夷空は目を向けるが、あざみは何も答えない。硬い表情をして黙っているだけだった。
「まず持ってるもん、こっち渡してもらおうか」
「知るか。まずガキをこっちに寄越せ。おれたちの話がまだ終わってねえんだ。人質なんざどうでもいい。もともと、おれはそのガキに用事があるんだ」
「犬畜生は黙っとれ。おれはお前の飼い主と話ししとんねや」
ガルグイユに向かって五郎左は吠えた。それに合わせたように、後ろの三人の男が犬を取り押さえようと、前に出る。五郎左はあごをしゃくって左右に命じた。
「そいつから大人しくさしたれ」
「犬だと? おれは犬じゃねえぞ」
勝手にしろ。すでに殺気立っているガルグイユに、彼女はそう目配せしてある。
「ガルグイユの言葉の意味を知ってるか? これはな、喉笛って意味なんだよ」
「あ?」
馬鹿じゃねえか? 両端にいる男たちが侮蔑した表情で目を剥いたとき、狂犬はその牙を剥きだしにした。背後に交差した両手を、彼が腰をねじりながら遠心力で解放すると、ターン、と湿った音を立てて、二つの手首が舞い上がった。すべてが一瞬の出来事だ。二人の男が、ガルグイユの驚異的な腕力で腕を切り離されたのだ。
「えっ・・・・・」
狂犬の得物は片手に二本ずつ。
それは鉈のように太い刃渡りを持った、二つの短い剣だった。腰に取り付けられた革のシースから解き放たれたそれは、中華包丁に似た使い方をする強靭な、一種の鈍器だ。
刃物としての切れ味よりも、海上で武器や防具ごと、相手の骨まで叩き割るための粗暴な犬歯である。先端には切っ先の代わりに拳大の鉄球が鋳つけられている。
この凶器で二人の男をガルグイユは一気に跳ね飛ばした。体重の乗った一撃は速く重く、手首ごと顔面も叩き割った。恐ろしい威力だ。先端が顔面に喰い込んだ男たちは、いずれも吹き飛んで気絶している。あっけにとられている真ん中の男の眉間にガルグイユはそのまま頭突きを打ち込んで、倒れこんだ喉笛に喰らいついた。自分の血肉で顔中を濡らした野獣にもはや反撃するどころではない。
「ひいっ」
パニックで悲鳴をあげる相手の顔を鉄球で叩きつぶして、
「こっちは終わったぜ」
「上出来だ」
そのとき五郎左は夷空に組みつかれ、首に鋭利な匕首を突きつけられていた。刀を抜く暇も与えない。目をそらし、あざみに言う。
「逃げるなよ」
あざみは逃げもしなかった。ガルグイユの凄まじさに気おされたのか観念したのか、青ざめた顔で夷空を睨んでいる。
「まずはお前だ。人質の居場所を話せ」
あざみを脅すかわりに五郎左の鼻の頭に切りつけて、夷空は聞き質した。
「よせ・・・・・ほんまに知らんのや」
「なら丹右衛門について知ってることを話すんだ」
ぶるぶると五郎左は首を横に振った。今度は匕首の柄で、さっきつけた鼻の切り傷を殴りつける。
「そいつはらちがあかねえ。ガキを締め上げよう」
「こいつに聞いたほうがいい。無駄な真似はやめろ」
「そうかよ」
残忍な目であざみを睨みつけたあと、ガルグイユはまだ息のあるもののとどめを刺す作業に移った。
「次は右目をえぐる。二度目だ。人質の居場所を話せ」
「しゃべる・・・・・だから離してくれ。苦しくて声が出ん」
ガルグイユが負傷者に容赦なく引導を渡す。不気味な打突音に反応して、五郎左はいちいち目を剥いて視線を散らせた。
「目はもう一つあるし、しゃべれるやつはもう一人いる。今の姿勢でしゃべれないなら無理しなくてもいいんだぞ」
「・・・・・今日中にあんたの身柄を確保しろと言われてた」
細い声で、五郎左は白状した。
「それは最初から丹右衛門の命令だったのか?」
「違う。話が・・・・変わった。本当は仕事が終わったら、なにもかも後始末するって親方から請け負ってたんや」
「どの道おれらを始末する気だったってわけか」
「い、今は違う。生け捕りにして、殺すなと言われてた。だから、信じてくれ、人質かてまだ、生きてんねや」
「どうして気が変わった?」
目を剥いたまま、五郎左は首を振った。
「分からん・・・・・あんたがしくじったってことは、朝、あざみから初めて聞いた。けどその前からあんたを殺さず生け捕りにすることは決まっとったんや。・・・・・この話はもともとの出元がでかすぎるって・・・・・・おれらもそれなりの策を打っておかなきゃならんって、親方が言い出して」
「・・・・・なるほどな」
「どう言うことだ?」
「つまり、始末されるのは私たちだけじゃないってことだ」
「わしらかて、こんな際どい仕事を請け負うはめになるとは思ってへんかった。他に仕様がなかったんや。親方やおれたちの素姓が堺奉行から安土に知れ渡れば、この港をわしらは締め出される。いや、この堺からも生きて逃がしはしないやろ。やつらは・・・・・」
「堺の会合(えごう)衆(しゅう)か」
五郎左は即座に肯いた。
ありえないことではない。会合衆とは、この都市の自治政治組織である。堺を代表する豪商たちが集まって組織されている。この堺が信長によって占有され、堺奉行によって統治されるまでは彼らが、堺の行政組織そのものだったのだ。
「その絵図を描いているのが会合衆の誰だかは言えるのか?」
「待ってくれ、それだけは話せん」
五郎左は必死にかぶりを振った。
「替わってくれ」
夷空は五郎左の相手をガルグイユに任せると、ゆらりと立ち上がった。途中、放り出したエキドナの革袋を拾い上げる。
「逃げてもいいぞ」
夷空は声をかけた。あざみは腫れた側の頬を少しだけ動かした。
「逃げないよ。どうせ、逃げ切れないし」
「話したらどうだ。お前の本当の事情を」
袋からエキドナの銃口をのぞかせると、夷空は言った。
「さっきお前が人市から駆け出したりしなければ、わたしたちはこいつの張った罠にとり籠められていたはずだ。だが、お前は寸前で奔った」
「なにがあったか聞きたいの? 大したことないよ、ただあてが外れただけ―――こいつが、わたしをだましたから」
その表情から感情を封じ込めると、あざみは冷たい声で答えた。
「なるほど、あてが外れたわけだ」
夷空は、こなたに顔を向けた。五郎左はガルグイユの両腕の中にがっちりと首を組み込まれて、締め上げられている。あざみの醒めた視線と苦悶に裏返ったその目が一瞬、交差する。
「この仕事のお前の本当の報酬はなんだ?」
「姉(ねえ)さまの身柄」
言うと、あざみは懐から一枚の紙切れを投げ出した。中身をこちらに開いてみせる。
「身曳き証文か」
身曳き証文とは、人身売買の契約書である。人を商品として扱う場合、もっとも重要な書類がこれだった。普通の物品と違い、奴婢は自分の意志で逃げるためにしばしば、所有関係を明らかにしておく必要があった。たとえ地の果てまで逃げたとしても、場合によってはこの証文ひとつで、奴婢は所有者のもとに戻らねばならない。
「姉さまとわたし、三河の小さな村の出身なの。兄さまと父さまがいない晩に、わたしたちは押し込んできた野盗にかどわかされて、てんでに売り払われた。母さまは東国、姉さまは尾張の須賀口って言う色町に引き取られたって聞いてた。わたしは堺から遠国に売り渡されるところを・・・・・・・前のお師匠様に連れ出してもらえたんだけど、自由の身になってあとで戻ってみたら、母さまは北国で亡くなって、姉は行き方知れずになってたの。それが」
「丹右衛門の手に渡って、この堺の人市で売り出される手はずになってたってことか」
こくり、とあざみは肯いた。
「この仕事の報酬にまず、証文だけは返してもらった。夷空をあそこに連れてきたところで、夷空たちとこの証文で、姉さまの身柄と交換する約定で」
しかし、あの場にいるのは子供ばかりであざみの姉の姿はない。あざみは五郎左にことの次第を問いただすために、手はずを外れたのだ。
「話はよく分かった」
「ああ、よく分かったぜ。泣かせるな。おれらを売った金で、こいつから身内を買い戻そうって話だ」
「・・・・・はやめがお前の姉の名前か」
「うん」
歩み寄ると、あざみの手から夷空は証文を奪い取った。彼女は抵抗するそぶりも見せなかった。
「お前に同情はしないぞ」
「別にそのつもりで話したわけじゃないよ」
夷空はひととおり、その書類に目を通すと、
「返すぞ。お陰でお前の本当に欲しいものが分かった」
あっさりと、それをあざみに返した。
「え?」
「お前の姉がまだ丹右衛門の手元にいるとするなら、監禁されている場所は私たちと同じ場所だろう。お前が知っていることをすべて話すなら、その証文の通りにしてやる。それでいいか?」
あざみは目を丸くしている。
「返事をしろ」
「わたしはいいけど、夷空はそれでいいの?」
夷空は意に介した様子も見せなかった。
「あいにく今、そんな場合じゃないんだ。お前は私に正体を知られた。少なくとも目的のものが手に入るまでは、裏切ることはなさそうだ。だから雇いなおす。話はそれだけだ」
「変だよ、夷空の考え方」
あざみは当惑し切っていた。しかし夷空はこともなげに言った。
「よく言われる。でもこれで、困った覚えはないからな」
女海賊の信頼
「分かったぞ。人質が軟禁されているのは、六郎島だ」
地図を広げる夷空に宗十は念を押して訊ねた。
「そこにいけばほんまに、人質がおるんやな」
「そうだ。首を賭けてもいい」
「こいつのな」
ガルグイユは片頬を歪めて言うと、後ろ手に縛られて蹴転がされている五郎左の首を踏みつけ、唾を吐きかけた。
遺骸の始末をすると夷空たちは五郎左を引っ立てて、南海屋の庭先に戻ってきたのだ。宗十とも上手く連絡がついたらしく、急報を聞き、自邸に帰る前にすぐに落ち合えた。
「あざみが奴に気づいてくれたお陰で、話が見えてきたんだ」
夷空は五郎左を見つけた経緯を、宗十にはそう説明した。
「船の用意は出来てるな?」
「ああ、ランパが手配してくれていると」
「時間がねえ。イスラ、そいつの話は信用できるんだろうな」
オレステが言った。
「ああ、間違いない」
「本当だろうな」
「嘘だったら、おれが直接舌を噛み千切ってやる」
やりかねない雰囲気の狂犬に恐れをなしたか、五郎左はぶるぶると震えながら、訴えた。
「う、嘘やない・・・・・・ほんまや。あすこは親方の他は、おれはじめ、昔からの仲間しか知らん。・・・・・織田方の追っ手からおれらが隠れとった秘密の島なんや」
正午を過ぎ、いつのまにか日が翳っている。
風は凪いで、微風が頬を時折なぶる程度だ。六郎島には沖合いから小舟で十分いける距離にある。夷空は人員をいくつかに分けると、小さな小舟に分譲して、ひそかに迫る方法をとった。
海賊たちは職業柄、船足の速く機動性に富むこの種の小舟の扱いに慣れている。入り江に潜む鮫の群れのように、音もなく緩やかな波を分けながら、目指す六郎島に迫っていく。
夷空の船には、ガルグイユとあざみ、それに漕ぎ手のランパのメンバーだ。宗十は陸で、次の逃げる手はずを整えている。
「浮かない顔だな」
エキドナの弾薬の包みを調製しているあざみの顔を覗きこんで、夷空が言った。
「どうして庇ってくれたの? さっきもわたしが裏切ったこと、皆にも話さなかった」
夷空は大きく息をつくと物憂げだった。
「お前ら火術師の世界がどうかは知らないが、私たち海賊はすべて合理的に考える。生かしておくべきやつは生かす、そうでないものは早めに始末する・・・・・船に余分な荷物は載らないからな。だからこれからもこの世界で生きていたいなら、お前が私たちに必要とされるかどうかは、自分で考えろ。私はお前に、機会だけは与えたつもりだ」
「ありがとう。でも、分からないよ。そうやって言われたことないから。夷空にわたしが必要かどうかって・・・・・・どうやってそれを示せばいいの?」
「なんて言えばいいかな」
夷空は耳の脇の髪をかき上げると、眉をひそめて、
「一度お前は私に示してくれただろ。本能寺のことだ。お前が一人で逃げていたら、わたしは死んでいただろう。だからさっきは信じた。本当にそれだけなんだ。だからそんな風にこれからも、はっきり行動で示してくれればそれでいい」
そうこうしているうちにあざみの手の中で、早合の包みが組みあがった。夷空はそれを取り上げると、
「どうだ、見えてきたか?」
「見えた。夷空、あれが六郎島か」
櫂を操るランパが、いち早く言った。ほぼ岩礁のような島だ。
「誰かいるか?」
「さあ」
ガルグイユに遠眼鏡の筒を渡して、夷空は様子を見させた。
「入り江に物見が立ってるぜ」
眼鏡を借りてみると確かに岸壁の岩陰に一人、物見が立っている。
「分かった」
夷空は立ち上がると、エキドナを取り出した。
「弾は強(つよ)薬(ぐすり)にしてあるな」
こくり、とあざみは肯いた。下手をすれば暴発の危険性があるぎりぎりの分量を籠めたことを告げた。
「いいか、突入は銃声を合図にするぞ」
他船に向けて、そう、合図を送らせた。夷空は銃を構える。波の上で手元がぶれる上に撃ち上げ、標的は姿を現しているとは言え、射程ぎりぎり、人差し指くらいの大きさだ。
「よし、行こう」
躊躇いなく、夷空は引き金を落とした。
轟音。
舟全体がぐらりと揺れるほどの衝撃がそれに続いた。黒い火薬の煤があざみにも容赦なく、びりびり掛かってくる。潮騒のどよめきを縫って、銃声は乾いた高音を響かす。標的はぐらりと影を傾けて、白い渦の中に頭から落ちていった。
「夷空」
あざみははっとした。今、あざみの作った弾丸で彼女は無造作に、命を賭けてみせた。
「次だ」
微笑した夷空はエキドナについた煤を払うと、あざみに言った。
海上からの援護射撃を受けながら、迂回した舟が二つ、島へ上陸する。紺碧の海と岩肌を渡って男たちが駆け出していく。どの男たちも丈の大小を問わず手足が発達しており、猿のように身軽だ。
その機動力と手際のよさはまさに、海賊のいくさである。赤、黄、青、色とりどりの布を頭に巻きつけた男たちが意味不明の絶叫を上げながら、砦方の男たちを蹴散らしていく。
「畜生、向こうの船に乗ってりゃよかった」
待ちきれないのかガルグイユが不満そうにひとりごちた。
五郎左の話によれば六郎島は海賊の隠れ家になる前は海上の監獄だったらしい。上陸可能な入り江は少なく、岩場の細い道を縫って各所に拠点が立てられており、一本道に敵をとりこめて攻撃を集中することが出来るように作られている。
奇襲は成功した。海際の物見を、夷空がエキドナで上陸前後に仕留めていったため、各個持ち回りへの連絡がつかず状況が把握できないでいるうちに、総崩れになった。まとまった迎撃体勢を作れぬまま、丹右衛門の手下たちは思い思いの武器を手に、抵抗した。
「あざみ、お前は離れるな」
夷空のエキドナには銃剣が装着されている。しかし、今のところ乱闘は小規模で、攻撃は射撃のみに限った。近接武器を持たないあざみは、夷空のあとにぴったりと寄り添っている。
「丹右衛門が見えるか?」
「ううん、でも」
あざみは、西の岩陰を指した。塩枯れの松の枝が、岩にうがたれた穴から天を掃くように突き上げている。その真下。石を投げて応戦する男たちの真ん中に丹右衛門に似た男の姿がちらりと見えた。
「難しいな」
あの岩陰の隙間を縫っては、あれは狙えそうにない。
「でも弾は届くでしょ?」
あざみは懐から焙烙玉を取り出して、夷空に目配せする。
「分かったよ、よく狙え」
準備が出来ると、あざみはそれを放り投げた。目標はあの松の木だ。放物線を描いて落下するその玉を、エキドナが撃ち抜く。
手投げ弾は男たちの頭上で、大音量を立てて爆発した。
焙烙玉には、焼け釘や唐辛子の粉、石くれなどが仕込んである。熱い破片を顔に浴び、男たちはたちまちパニック状態になった。顔を出した順に、エキドナが撃ちぬいていく。
三連発。速射しても的を外さない。
「・・・・・すごい」
あざみは思わず口に出していた。さっきの船上射撃もそうだが、あざみの経験からしても、あの状況で当てられるものなど早々居はしない。
「信長のときはわざと外したの?」
「馬鹿言うな」
夷空の顔は真剣だった。やはり外したのは、偶然ではないと言うことなのかもしれない。
「行くぞ。丹右衛門を捕えなきゃな」
夷空とともに、あざみは駆け出した。
(やっぱり)
突然、確信した。あざみは思った。
(あのとき、夷空は外さなかったはずなんだ)
間違いない、十中八九。
(信長は夷空のこと、分かってたのかもしれない)
血と悲鳴、そして硝煙の匂いが、あざみの封じられた記憶の扉を激しく殴打する。
やはり、この仕掛けか。
信長の声だ。
乱れ、うねる雑音の中でもその声は、はっきりと響く。
甲高い、刺すような声。信長の相貌をはっきりと思い出させる。その肌は女子のように滑らかで、唇が切りそいだように薄いのだ。
あ・・・・じ・・・・たえ・・・・け。
信長は言った。確かに、聞いた。
「おい、落ちるぞっ、あざみ」
「わっ」
ぐいっと襟首をつかまれて、蹴り足が宙を掻いた。
「馬鹿、チビ、なにやってんだ」
ガルグイユが奥から怒鳴っている。
「おい裏切り者、おれは許したわけじゃねえからな」
「どうかしたのか?」
「信長の声が聞こえた」
「思い出したのか?」
夷空は思わず身を乗り出した。
「やつはなんと言ってた」
だが、あざみは切なげに顔をしかめると、残念そうに首を振った。
「まだだめ・・・・・やっぱり、もう一つの言葉が思い出せないの。ぼんやりと聞こえるんだけど、二度目にあの男がなんて言ってたか、どうしても分からない。曖昧(あいまい)で・・・・・」
「怪しいぜ。本当に大事なことなんだろうな」
「たぶん・・・・・だから、伝えなくちゃと思った、あのとき、夷空に・・・・・」
「無理はしなくていい。でも早く教えてもらえると助かる」
「うん。努力してみる」
だが、と、あざみの小さな肩に手を置き、夷空は言った。
「焦らずにやるんだ。とにかく、本当のことを話してくれ」
(記憶は)
不可解なものだ。夷空にも経験がある。
(思い出さなきゃと思うことほど、思い出せない。・・・・・なのに、思い出したくないと思うことほど思い出してしまう)
記憶をまっさらな自分に刻み込まれた傷とするなら、たぶんどちらともそれらは、深い、傷跡なのだ。痛みは同じ――でもそれはその傷がどこかを探り当てることが出来ないもどかしさを伴うものと、過去と言う膿を噴き出して、生き血を流し続けるそれと対面する苦痛を伴うものに分かれている。
疼くのはいつも、血を流して警告してくる過去の傷跡だ。なぜ? 知っている。正体はいつも形を変えた、現在の危機感なのだ。
「よ、寄るな」
岩屋の入り口に、丹右衛門を追い詰めた。その手下のほとんどはすでに討ち取るか、捕縛してある。数名の手下とともに、大勢の男たちに丹右衛門は取り囲まれていた。
「牢の鍵を出せ。これが最後だ。今なら命だけは助けてやる」
「ぬかせ。このアマ、大人しゅうしとったらつけあがりよって」
古い刀傷の上に破片を喰らった丹右衛門の風貌は、血にまみれて凄みを帯びている。噛みつくように吠えると、片手の太刀の切っ先を向けた。
「投げ売りの五郎左から事情は、聞いた。お前も消される仕掛けになっていたとな。協力すれば、まだ逃げられるんじゃないのか」
「やかましい」
丹右衛門は足もとに唾を吐き捨てた。
「おのれなんぞに誰が頭下げるかっ。やるのかやらんのか、はっきりせんかい。やるなら、力づくや」
「上等じゃねえか」
舌なめずりするガルグイユを押しのけて、夷空はその切っ先に立った。エキドナをあざみに渡して、素手だ。
「死んでも後悔するな」
血に飢えた男たちが逸る。
「いいぞ、ぶちのめせっ!」
「なめくさりよって」
片手殴りに丹右衛門が切りつけてくる。身体ごと体重の乗った渾身の一撃だ。夷空は冷静に切っ先だけを見極めている。夷空がそれを半身でかわすと、丹右衛門は前にのめった。
「おのれっ」
膝立ちに起き上がり、返しの横薙ぎに移ろうとする片手を左脇に抱きとり、横殴り、鼻を削ぎ取るように右の掌底打。
「ぶっ」
鼻骨を砕かれ、新たな鮮血を噴き出した丹右衛門を男たちが一斉に囃し立てる。
海賊たちはこうした余興に慣れている。二人を遠巻きに円になって取り囲み、二人の攻防が交差するたび、波のような歓声がどよめく。あざみはその異様な雰囲気に呑まれた。いつのまにか丹右衛門の手下でさえ、それに加わっていたのだ。
「くそったれめ」
肩で息をして、血まみれでうめく丹右衛門は瀕死の闘牛のようだ。丹右衛門の大太刀は、一度たりとも夷空の肌をかすらない。打ち込みの単調さを、夷空は見抜いていた。
(馬鹿は疲れさせるだけだ)
丹右衛門は早くも、腰が落ちてきた。数回空振りをすれば体力も尽き果てしまう。やぶれかぶれに出たところを刀を持つ手ごと投げ飛ばされ、顔に容赦なく掌底と、折り畳んだ肘を叩き込まれた。
挑発するように、夷空は肩をすくめてみせた。観客の興に乗ってやるのも戦術のうちだ。逆上した相手はいつしか雰囲気に呑まれる。
ついに刀を捨て、丹右衛門は組み合いの勝負に出た。猫足立ちのふわふわとした動きに翻弄され体力を消耗したが、所詮相手は女、組み敷けば、なんとかなると思ったのだろう。低空姿勢で露出した夷空の長い片足に組みつこうと前に出る。鼻に膝をもらいながらも、体重と腕力でついに彼女を捕えたとき、丹右衛門はようやく勝機を捕えたと思った。しかしそれがそもそもの間違いだと言うことに、すぐに気づかされる。
後ろに倒れながら、丹右衛門の手首がついている方の腕を両手でしっかりと抱きとめた夷空は、全身のばねを使ってそれを引き伸ばし、身体ごと裏にねじりあげた。
それが娯楽になるほど喧嘩慣れした、海の男たちの間で鍛えた技だ。とりこぼしはない。猿のような膂力を持つ丹右衛門が渾身の力で振りほどこうとしても、巧みに逃がして夷空は離れない。
もはや完全に技は極まっていた。丹右衛門の右の肩口には今や、夷空の長い足が蛸のように、がっちりと絡みついている。苦悶にあえぐ丹右衛門の腕は一面青筋が張って、伸ばされた肘の関節が白っぽくくすんでいる。夷空は無論、ここでこの男を赦すつもりはなかった。手首をひねると、そのままねじ切った。バツン、と靭帯の切れる音と肩が外れる音が響き、それにかぶって丹右衛門の血の出るような絶叫が決着の合図になった。
「手当をしてやれ」
夷空は大きく息をつくと、丹右衛門から体を離して立ち上がる。ついでに身体をまさぐり、岩屋の牢獄についている錠前の鍵を背後のあざみに放ってよこした。
警鐘
記憶にはいつも、入口が設けられている。若いあざみも年相応に、それを知っていた。夷空に逢って二度目のいくさで、封印された記憶の蓋が開いた。でもどこに、その穴が開いているのかいまだにそれが分からない。
「残念だったな」
そのことで夷空は、あざみを責めることはしなかった。
「うん。でも、姉さまのことは今はいいよ。この後のことを考えないと」
人質の群れの中にあざみの姉の姿はいなかったのだ。
あるのは空の証文だけ。
「こいつはお前ごと、お前の師匠から買い取ったもんや」
丹右衛門は言った。あざみの師はこう言って、丹右衛門の購買意欲を誘った。この証文さえあれば、この娘をどうにでも出来ると。いざと言うときのため、あざみの人買い証文すら、丹右衛門は買い取っていたのだ。
「これもお前に返しておこう」
夷空はそれもあざみの手元に返してくれた。
「こんなもの、もうとっくに始末してると思ったよ」
あざみは苦笑した。切ない笑顔だ。ため息に、それが混じった。
「まあ、人の性は分からないものだ」
そのようなことを言っただけで、夷空はあとは何も言わなかった。余人が立ち入るべきではない。あざみと亡師との、問題である。
「姉さんの証文はとっておけよ。いざと言うとき権利が主張できないと、身請け出来ないからな」
「うん」
とは言うものの、あざみは納得しようとしていた。そのことはもう、決めてある。今はいなくなった姉よりも、なんの縁もないのにここまでしてくれた夷空にこそ、あざみは報いたかった。
「人質と積荷の確認、終わった」
オレステとランパだ。ランパはエリオを連れている。
「イスラ、お前、本当に国を出るつもりか」
「ああ、こうなった以上は仕方ないだろう」
夷空は残念そうに言った。エリオがその腰に、陽射しを避ける庇を求めるかのように、飛びついていった。母親の事情を知らない少年はただ、夷空が自分のところに無事で帰ってくることを無条件に喜んでいた。
「畿内は出よう。とりあえず、九州あたりに身を隠そうと思う」
「戻ってくるつもりなんだろう?」
オレステが訊いた。
「ああ、この子の父親の問題があるからな」
オレステは夷空と半身を分かった血族の面影を確かめるように、エリオに視線を落とし、
「・・・・・・リアズのことか」
「まあな」
夷空は、切なげに瞳を細めた。その話をするとき、夷空はふっ、と頼りない表情になる。事情を分からないエリオも彼なりに、それが心配になるのだろう。ぎゅっと力をこめて、母親の手を握った。
「大丈夫?」
「あ、ああ」
あざみにも様子を心配され、夷空はあわてて取り繕った。
「あざみ」
夷空はあざみがそのことで何かを話し出す前に、話を切り出した。
「宗十に船を用意してもらって、これから博多へ渡る。いつここに来れるか分からないが、ついてくるだろう?」
「うん。夷空が連れて行ってくれるなら、どこでもいいよ」
「アザミ?」
エリオがあざみを指差した。あざみも来るの? たぶん、問いたいのはそう言う内容だろう。破顔して夷空は肯いた。
「博多も悪くない港だ」
エリオとあざみに、夷空はそう呼びかけてから、
「これからこの辺りもいくさ三昧になるだろうからな。信長が死んだ後で誰がこの港を牛耳るかは分からないが、そうなればなったで私を気にするものなどいなくなるだろう。すぐに戻ってくるさ」
「しかし、お前をハメた連中のことだが、ついに分からずじまいだったな」
「ああ、だが今のところ、私にとってはどうでもいいことだ。それより、遅くとも今夜じゅうにはここを離れたい」
大坂湾に西日が入りこみ、熟した柿の実を溶かしこんだように水面が染まっていく。あと半刻もすれば、夜の帳も落ちるだろう。
「ところで、こいつの始末はどうする?」
オレステがあごをしゃくった。向こうからガルグイユが歩いてくる。腰縄を打った丹右衛門とその一味の列を連れていた。
「いいさ。逃げるなら、勝手に逃げろ。どうせやつらも同じ、堺にはいられない身だ」
べっ、と丹右衛門は血の混じった唾を夷空の足もとに吐いて、
「けっ、どうせならバラしていかんかい。お前らごとき根なし草に情けをかけられる謂れはないわ」
「お前らが逃げれば、時間稼ぎにもなる。このまま堺奉行所に突き出すのもひとつの手かもな」
「阿呆、お前らも逃げられはせんわい」
やけくそ気味に、丹右衛門は吠えた。
「五郎左から聞いたこと、忘れとるようやが、こたびのことわしらに依頼したんは、この堺を取り仕切る大物の会合衆じゃ。やつらはみな金で、お前らみたいな倭寇くずれやろうが、伊賀落ちの草のものやろうが、手の中で踊らしとる。お前らなんぞ、船出す前にこの街で御陀仏や。みんなお終いなんじゃ」
「終いついでなら、最後に聞く。お前を雇った会合衆の直接の依頼主は誰なんだ?」
「宗易」
名前が出た途端、夷空の顔色が変わった。
「宗右衛門町の千宗易が、わいらが依頼筋よ」
驚いたか。そう言わんばかりに吠えたてる丹右衛門の首を、ガルグイユが掴みあげた。
「でたらめばかり歌いやがる。やっぱりバラした方がいいんじゃねえのか?」
「よせ、やめろ」
とめると、夷空は丹右衛門を見降ろし、
「なるほど、大物だ。もう、どこへ逃げても無駄かもしれないな」
ふん、と鼻を鳴らし、丹右衛門は顔を背けた。
「今さら勝手に逃げろと言われてもお前は困るか。だが、お前は連れてけないな」
「誰がお前にそんなこと頼むかい」
「オレステ、悪いが、ここはお前に任せる。宗十の屋敷のものにもある程度事情を話しておかなくちゃならないからな」
「ああ。任せろ。こいつらの処分はこっちで、適当にやるさ」
「待て、こら。わしを殺していかんかい」
「行こう」
夷空はもう、丹右衛門の話を聞いてはいなかった。
あざみについてくるように促して、その場所を去った。
「疲れたな」
屋敷に戻るなり、夷空は風呂を使った。さすがに、限界が来ていた。髪を下したあと、ふーっ、と言う長いため息をつくと、夷空の表情から驚くほど精彩が失われた。
「先でいいか?」
あざみは肯いた。エリオと二人で入るのだ。夷空はエリオの両脇を抱え上げると、中に入っていった。
すぐに戸の隙間から、甲高い声が漏れてくるのをあざみは聞いた。羨ましいとはまだ思わないが、それを聞いていると微笑ましかった。人手を渡ってきたせいか、エリオは子犬のように人懐っこい。あざみに年の離れた弟がいたとしたら、こんな感じなのかとちょっと思ってしまう。あざみには母親の記憶は今やほとんどない。血を分けた肉親と触れ合うことが出来ると言う意味では、あざみはエリオが羨ましいのかもしれない。
じゃあ同じ女としてはどうなんだろう? いつかは夷空のように自分も子を持つようになるときが来るのだろうか。たとえばこの先もずっと、似たような生活が続くにしても?
(・・・・・今のわたしじゃ考えてもわかんないな)
夷空はどうして、あの子を人に預けてでも、危険な海賊稼業を続けるのだろうか。これしか食べていく術を知らない、と言われればそれまでだが、たぶん何か、他に理由がありそうだ。
琉球や唐を横行する夷空のような倭寇が瀬戸内海を渡って、わざわざ堺を根城にして危険な仕事をするようになったのには、それなりに事情はあろう。縄張りを意識する海の男たちの社会で、自分のねぐらを替えてまで生業を続けていくのは、容易な覚悟で勤まるものではない。
たぶん夷空は、あざみが聞いたとしても話したがりはしない。なんとなくはぐらかしているところが彼女にはある。それはもしかしたら、あの子とも、何か関わりのあることだからなのか。
「あざみ、悪いが薪を足してくれないか」
夷空の声がした。
「うん」
今は誰も屋敷にいないのだ。あざみは湯殿の裏手へ回った。
夕暮れの空。入道雲が黒く、茜色に焼かれている。まだ明るくて星は見えない。でももう、山の端辺りなら空が鈍い紫色に、くすみだしているに違いないと、あざみは思った。
「すまないな」
格子戸から湯気が立ち上っていた。外で火加減をみるあざみには、中の熱気は汗ばむ以上に息苦しい。
「いいよ、別に。今はこの屋敷に誰もいないんだし」
「どう思う?」
夷空がいきなり聞いてきた。質問の意図が分からない。
「生きてこの港を出られると思うか?」
「わかんないよ、そんなこと」
本気であざみは言った。さっき丹右衛門が黒幕が宗易だと言ったことについて、夷空は思い悩んでいるのだろう。
「何度も言ってると思うけど、わたし、堺に来たばっかだし。みんなが言うこともあんまり分からないよ。そもそも誰なの?・・・・・宗易って」
夷空が答えるまでに少し間があった。
「堺の千宗易と言えば、信長の御用をつとめる武器商人の筆頭のうちの一人だ」
堺の会合衆は、もとを正せば信長に追従した商人衆の集まりである。その中でも、織田政権との取引の受注は、信長が堺に侵入した最初期に近づきになった一握りの商人が一手に引き受けている。
「まずその中で筆頭は今井宗久」
この男はもとは甲冑に使用する皮革で財をなした商人だが、永禄十一年の信長初の上洛の折、いち早く信長に取り入り、会合衆をとりまとめて、堺を織田政権に協力的な経済都市に作り上げることに尽力した人物だ。当時、矢銭(軍用費)二万貫の供出を会合衆と取りまとめた功績で信長から信頼を得て、堺に一大勢力を築くことに成功した。
「これに次ぐものが二人いる。津田宗久、そしてもう一人が千宗易だ。この三人の誰かに睨まれたら、堺での仕事はまず出来なくなると考えていいだろう。問題は、彼らがどうして信長を殺そうと考えたかだ。会合衆どもは確かにその利権を信長に圧迫されてはいたが、ある意味では重要な取引先として保護を受けてもいた特権商人だったからな」
「それなのに信長を殺さなきゃいけない何か理由があったってことでしょ?」
「理由はこの際どうでもいい。事実、やつらは刺客を仕立てて、その計画を練ったんだろう。気になるのは、この件が宗易の独断か否かと言うことだ。独断なら、この堺ではそれほど露骨に私たちを始末しようとはしないはずだ。・・・・・もしそうでなければ」
「そうじゃなかったら?」
苦笑が混じった。
「私たちはもう終わりだ。今のうちに身を清めておくことだな」
「でもさ」
と、あざみは口を挟んだ。
「その宗易は独断で信長を殺す理由はあるの?」
「分からないな。思い当たることはなくもないが、さっき挙げた三人は商人である以前に、同じ門下の人間だからな。抜けがけを画策するとするなら、よほどのことがないとな」
「夷空はどうしたいの?」
エリオの嬌声が混じった。急に夷空は口ごもった。
「どうしたいって?」
「いや・・・・夷空って、どうしてこの国に来たのかと思ってさ。夷空は倭人だけど、それほどそれに思い入れがありそうじゃないし。エリオを人に預けても・・・・・堺で、知らない国で危険な仕事をしてるから」
「何か理由があるんじゃないかってことか?」
あざみは肯いた。そっと、格子戸の向こうをうかがう。
吹き上げる蒸気に上気した、夷空の顔が見えた。濡れた髪が貼りついている。いつものひっつめ髪より下ろした方が女っぽいが、目元が隠れるため、表情は余計にうかがいにくくなる。
「話してもいいが、その情報はただじゃないぞ、あざみ。今回だってそうだが、自分の身元の事情一つ掴まれるだけでこんな目に合うんだ」
それで察しろと言うことだろう。やはりエリオのことなのだ。あざみはそれ以上は追及しはしなかった。
「今度のこと、お前には気の毒だったが少し辛抱すれば、必ず堺に戻る機会はある。だから少し、待ってくれ」
「姉さまのことでしょう? 大丈夫。思ったほど、がっかりしてないから」
「でも、諦めたわけじゃないんだろ?」
「まあね。でもそれで足元を見られることもあるでしょ」
あざみは影のない笑顔を見せた。
「本当は諦めてるところもあるの。わたしたち、もうお互いに死んだと思いなさいって言われて別れてるし」
「あざみの家は借財で潰れたのか?」
「違うよ」
自分でも判らないのだろう。訝しげな顔で、あざみは首を振った。
「違うと思う。うちはもの商いもしてたし、人の出入りも多くて、暮らしむきも悪くなかったから。父さまはお城とも親しかったし、こんなことが起こるなんて思ってもみなかったの。でもある日、父さまと兄さまがいなくなって」
そこまで話して、あざみは口ごもった。
あの晩のことは幼いあざみでもよく憶えている。豪雨に村が呑み込まれた。夜半に父と兄が、血相変えて出かけて行った。村中総出で、堤を直す手伝いをしにいくのだと訊いていた。しかし、いつになっても、二人は帰ってこなかった。
「で、夜になって押し入ってきた人たちが家に火をつけて、わたしたちを袋に詰めてさらっていったの」
「・・・・・渡りの野伏せりかな」
いつのときも火事場泥棒は現れる。女ばかりになった留守宅を狙った野伏せりだって、珍しくもあるまい。
「どうかな。分からないよ。でも違うみたいだって、姉さまや母さまが何回も言ってた。そいつらは、入ってきたときにもう、わたしたちの身曳き証文を持ってたんだ」
「手が込んでるな。お前らをかどわかすために用意してきたものじゃないのか?」
夷空の問いかけに、あざみは首を振った。
「尾張の町に逃げてきたとき、隙を見て世話をしてくれる人のところに逃げ出したの。でも、証文ですぐに追い返された。あれは本当にきちんとした証文だったんだ。だって父さまの筆跡で、血判まで押してあったんだって」
エリオが急かしている。夷空は手桶のお湯を背中にかけてやり、持ち上げて湯船に入れると、
「じゃあ、その身曳き証文に書かれてるのは、二つとも父親の名前なんだな?」
「ううん、わたしのはお師匠の名前だし、姉さまのは、最初に売られた須賀口の妓楼の主人だと思う。わたしは、その身曳き証文を直接見たわけじゃないし、まだ七つだったから、本当はよく知らないんだ」
「よく話してくれたな」
「・・・・・でも、役に立つような話じゃなかったでしょ? わたしの身曳き証文はもうないし、もうあんな空手形じゃ、わたしは動かせないしね」
あざみはため息をついた。自分としてはせいせいした感じだった。父親に売り飛ばされたことを鬱屈する気持ちはもう薄れていたが、それでも処理しきれないやり場のないわだかまりと言うのは、吐き出す機会もそうはなくなるものだ。
「・・・・交替しよう。汗だくになったろ」
格子戸から夷空が消えた。湯殿を代わると言うことだろう。さすがのあざみもじっとり汗で身体が濡れていた。
「入ってくれ」
身体を拭いながら、夷空が出てきた。エリオと二人、裸だ。あざみは息を呑んだ。夷空の引き締まった身体が外からは想像がつかないほど、傷だらけだったからだ。形のいい臍から、乳房の下まで水滴を拭うと、どうだ、と言う風に夷空は顔を上げて見せる。
「ひどいだろう?」
「・・・・うん」
反射的にあざみは首を振った。夷空に言われるまでもなく、何か口を開いて感想を言うとしたら、その言葉しか見当たらなかった。
傷は歴戦の証と言うのだろうか。いや、だけではない。どうやら、それ以外にも何も説明しない夷空の表情をうかがうと、何かがありそうだった。見てくれ、と言うように夷空がじっとしているので、あざみは上下にその身体の傷を確認した。そこには肉体につけることが可能な傷と呼べるものの、あらゆる種類のものがあった。無惨なものだ。傷がなければ、夷空はしなやかに均整の取れた、誰もが美しいと言う身体に違いないのに。
「それ―――鱶(ふか、サメのこと)に齧られた跡?」
「いや、違う」
夷空は視線を落とした。ひと際ひどいのは、右の乳房につけられた噛み痕だった。そこはまるで、蒸し過ぎた黒糖饅頭を押しつぶしたように、どす黒い縫い目が斜めに走っている。ちぎり取られたのか、あるはずの乳首は名残もなかった。夷空はエリオを、完全な左の乳房だけで育てたのかも知れないとあざみは思った。
夷空はやがて、ふーっと長く息をついた。
「昔、ひどい目にあってな。もうたぶん、私はエリオ以外には子を孕むことは出来ないだろうな。ずっと親子二人なんだ。だからせめて、この子のいなくなった父親を探してやりたいと思ってるのさ」
傷だらけの女。褐色の肌は、湯滴をよく弾き、南洋の雨にしっとりと育まれたたわわな果実のはち切れそうな曲線を思わせる。恐らくその身に刻むなにかを背負わなかったら、夷空にも、もっと違う人生があったに違いなかった。
「夷空は・・・・・それで日本に?」
あざみは訊いた。夷空は黙って、肯いた。
「エリオの父親って、どんな人なの?」
「エリオの父はイスパニアの伝道師だ。・・・・・少なくとも私はそう信じてる」
「少なくとも?」
夷空は口ごもった。話しすぎたか。今の表情にはその後悔がうっすらと浮かび上がっていた。
「いいよ、それ以上は話したくなければ。ともかく、エリオのお父さんは、この日の本の国のどこかにいるんでしょ?」
「ああ、その通りだ。私は父親を探しにこの国まで来た」
あざみに譲るために、夷空は道を開けた。身体を拭いたエリオの尻を押して、着替えのある部屋まで走らせる。
「見つかるといいね」
「お前もな」
二人は笑った。そう言えばよく似ていた。途方もなさそうな人生の目標に、それがあることを喜びつつも、時折諦めることを覚えた人間の顔を二人はしていた。
誰かが帰ってきた。服を着替えた夷空はエリオの濡れた髪を梳いてやっていた。顔を出したのは、ガルグイユだった。
「なんだ、お前か」
「おれ以外に誰がいるんだ?」
慣れすぎてこの男、夷空の皮肉も、まったく堪えない。
「指示通り、やつは放してきてやったぜ」
「御苦労。夜までだ。ゆっくりしたらどうだ? 風呂は今、あざみが使ってるが」
「あいつ、まだいるのか?」
と、ガルグイユは、音を立てて夷空の横にあぐらを掻くと、
「はっきり言ってあんたは甘すぎるぜ。物心ついたときから、海賊稼業やって暮してきたおれが言うが、二本足の蛸以上に、あんたはありえねえ。あんたも分かってるだろうが、船に乗せられるものは限られてるんだ。無駄なものは乗らねえ。裏切り者は赦さないのが、生き残る秘訣なんだ」
「物心ついたときからなら、私も同じだ。その話なら、余計な御世話だと言うだけだ」
でも珍しく、ガルグイユは諦めなかった。
「おれもたまには忠告する、いくら愛する女に好き勝手やらしてやりたいと思っててもな。この国に来てからこっち、へまばかりしてるあんたをこれ以上見るのは、正直堪えられねえ」
「不安ならここを去れ。お前の言うとおりかもしれない。へまばかりしてる私にはもう見込みはないのかもな。だがそうなら、見限ればいいだけの話じゃないのか」
「おれは宗易ってやつが誰かは知らない。だがあんたがずっと、その誰かの手の上から抜け出せないでいることが分かる。どうしてだか分かるか? あんたの指示した船の進路が読まれてるからだ。協力するふりして、あんたをはめこもうとしてるやつが、おれらの中にずっといるんだよ」
「あざみは被害を受けた側の人間だ。私たちと立場は変わらない」
平行線を悟ってか、ガルグイユは暗い顔になった。
「・・・・・このまま沈ませはしねえぞ」
半ば自嘲気味に笑い声を立てると、夷空は立ち上がった。
「沈んでも、次の船を捜せばいい。お前なら生き残れるよ。お前を拾ってくれる船ならいくらでもあるはずだ」
裏切り者はここに
(―――裏切り者か)
分からなくもない。ずっと、その影は感じてきた。この港に流れてきたことも、関の丹右衛門のことも、最初から、一人の人間がお膳立てしたことならば、誰が。言うまでもなく、あざみに、その力はない。ならば。凝った肩を縦に回して、夷空は目頭を押さえた。不安を紛らわすように、首にかけた金の十字架をそっと噛む。考えたくもないが・・・・・・
「・・・・・夷空」
今度は宗十が帰ってきた。仄暗い戸の向こう、夕陽は沈みかけている。半分開いたままの戸から、焼け焦げのような影が色濃く這い出していた。
「オレステから首尾は聞いた。上手くいったみたいやな」
「船は手配できそうか」
宗十は答えなかった。逆光が作り出す影で、夷空の方からは表情が読めない。
「夷空、九州へ行く気か」
「ああ」
「あの小娘も一緒に?」
「甘いか?」
宗十は肯いた。
「甘いのは、分かってる」
「そう言うことやない」
宗十は言葉を被せた。息をつぎたくなかったのだ、次の言葉を続けるために。
「悪いが、もう逃げれらんぞ。夷空、宗易に会ってもらう」
「・・・・・最初からそのつもりだったのか?」
宗十は、無言であごをひいた。
「お前の名前を出したのはおれや、別に弁解はせん。お前なら必ずやってくれるやろうと思ってたからな」
「悪かったな、しくじって」
緊張した気配が伝わったか、宗十は少し下がった。
「そのことはいい。だが、お前らの話、宗易に聞かせてもらう。今まだ、本能寺の一件は終わっとらんでな。だが来ないなら、ここでおれと死んでもらうことになる」
「お前とか?」
夷空は、はっきりと殺意を見せた。しかし、今度は宗十は退いたりはしなかった。
「この屋敷下には、爆薬が埋まってる」
宗十は親指で下を指すと、
「おれが合図すれば屋敷周りの手勢が動いて、ここに火をかけることになってる」
「言うとおりにしないと、お前も道連れってわけか」
夷空の背後に、いつの間にかガルグイユが出てきている。宗十は気づいているが、夷空から視線は外さなかった。
「いいだろう、だが少し待ってくれ。中の人間にも事情を話す」
「そう長くは待てんぞ」
「あざみが湯を使ってるんだ」
彼女も必要だろう? 言うように、夷空はあごをしゃくると、
「信長の生死を知りたければ四半刻待てと、外の宗易に伝えろ」
湯殿に入って湯気の匂いを嗅いだ直後、あざみはすでに異変に気づいていた。
(囲まれてる)
板塀の向こう、殺気を帯びた人の気配が控えている。隠しようのない露骨とも言えるその空気は、この屋敷を包囲する人数が刺客程度の最小限度のものではないことを如実に物語っている。
ちょうど、あの日の本能寺のように。
(宗易だ)
夷空に伝えなくちゃ。あざみは濡れた身体を拭いもせず、籐籠の着物を胸元に抱えあげた。身体より先に心が、奔った。
その刹那だった。
足の裏から首筋を貫いて、冷たい電流が身体の中を駆け抜ける。思い出した。いくさ場、殺気の坩堝で響いた、信長の声。
「聞いてっ、いそらっ」
濡れた裸足で廊下に出ると、夷空がすでに待っていた。
「支度をしろ」
夷空は短い言葉で言うと、あざみに新しい小袖を投げ、
「外で宗易が待ってる。私たちと直接、話がしたいそうだ」
「待って」
自分も着替えようとしている夷空の腕をあざみは捕えて、
「話があるの。思い出した、信長の言葉」
夷空の顔色が変わった。
「話してみろ」
小さく肯くと、あざみはそれを夷空に耳打ちした。
「・・・・・確かにそう言ったのか?」
夷空の視線を反らすことなく、あざみは首肯した。
「まだか」
玄関口から宗十の声が上がる。あざみは出て行こうとして、夷空に首を掴まれた。
「話すな。お前の話を聞くのは、私だけでいい」
「え・・・・・」
「裏切り者はお前だけじゃなかったんだよ」
苦り切った口調で、ガルグイユが言った。
「討って出るなら、日が落ち切ってからのがいいぞ」
「話をするんだ・・・・・宗易と」
夷空はその言葉を遮った。
「でかした、あざみ。生き残れるかもしれない。少なくとも、この場は切り抜けられそうだ」
「どう言うこと?」
「火薬を用意して行け。あと、何か、お前の得物が必要だな」
と言うと、夷空は自分の手荷物の中から重たい音のする何かを取り出して、投げ渡した。
黒幕宗易
裏切り者。
田中宗十の顔を、あざみは出ていく戸口で見返した。
「すまんかったな、お前にも」
どす黒い顔―――裏切り者同士だ。つながりはないのに、つながっていた。そのせいか、あざみにはこの男を責める気にはどうしてもならなかった。だからすまなかったと言われても、返す言葉がなくて、結局は無言でこの男の気配を無視することにした。
夷空が言った。
「行こう」
日はすでに沈んでいた。昼間の暑さはやんで、頬をなぶる風は涼しかった。風向きは決して悪くはない。火薬を使う武器には、相性が悪い夜ではなさそうだった。
松明が焚いてある。
ぶすぶすと燻ぶる黒煙がうす曇りの暗天に流れていた。四人は外へ出た。
宗易の手勢が見守る中、門を出た四人は松明の明りに照らされて、誰もすでに死人であるように、鈍い顔色をしていた。先頭は、夷空。
彼女は革の胴衣をつけ、裸のままエキドナを背負っている。臨戦態勢は崩していない。半分は威嚇だが、発射するのにそう、手間はかからないようにしてある。
続く、ガルグイユも腰に挿した不気味な武装を隠そうとはしなかった。
二人とも彫の深い眼差しに影が射して、皮膚下の頭蓋骨の形が透けて見えそうだ。
あざみは短時間でエキドナの弾薬と爆弾を作った。床下に隠されていた爆薬のいくつかを失敬したのだ。それらは工夫して目立たないように、服の中に隠されている。さっき渡された得物もだ。夷空にもらった新しい小袖はどっしり型崩れして、しかもたった一瞬で、煤まみれになっていた。
宗十があごをしゃくると、武装した隊列が動き出す。
屋敷に具してきた人数は二十名ほどだった。全員が真新しい朱塗りの当世具足で身を固め、槍先を天に揃えている。鉄砲を携えたものたちもいた。
いずれも規律正しい訓練を受けた手勢と考えるべきだろう―――それが二十人。屋敷を枕に三人で防戦したとしても、夜明けまで支えることが出来たかどうか。
夷空たちは隊列に取り込まれながら、阿倍野の林の中を黙々と歩いた。松明の火明かりは、三人を人気のない場所に連れていく。このまま殺されて赤松の林に埋められても、誰も気づくことなく遺骸は土の中で朽ち果てていくに違いない。
あざみの頭の上で夷空は、前だけを見ている。上下する胸や肩の動きからも、息は乱れていない。場慣れしているのだろう。屋敷にいるとき、あざみはあそこを枕に討ち死にする気もなくはなかったが、今は穴倉から引き出されて、急に死ぬことが怖くなっている。
いくさ場の経験を思い出していた。不思議なものだ。敗戦が濃厚になって脱出が不可能と来ると、誰もが争って建物の中へ中へ、籠もり出す。火をかけられれば終わりと知っていても、自己防衛本能と現実逃避の感情が冷静な判断を逆に誤らせるのだ。
夷空がどう思っているのか、突然あざみは気になった。
「オレステはどうしてる?」
夷空は聞いた。それで気づいた。彼女はずっと、目の前の宗十の様子を眺めていたのだ。
「手荒な真似はしとらん」
「まるで女を扱うような言い草だな」
夷空は笑った。宗十は、にこりともしなかった。
「話がまとまれば、あいつらにはエリオを預かってもらう。その方がお前には安心して仕事に集中できるやろ。もちろん、監視はつけさせてもらうし、この堺からも出す気はないがな」
「宗易とお前の関係は?」
肩越しに、宗十は夷空を振り返った。その仕草で何かを察しろと言うことなのか。しばらく何も答えなかった。
「宗易はおれの親父や―――母親が呂宋人の奴隷のせいか、正式に認められてはおらんがな。堺に来てからはこう言う汚い仕事を、もっぱらやらされとる。おれはあの男の影みたいなもんや」
「田中は、宗易の棄てた姓か?」
「ああ、この海に棄てたもんはなんでもただやさけな」
夷空も聞いたことがある。宗易のもとの名は田中与四郎と言う。堺のひなびた、魚屋(ととや)の主だった。男は足利の同朋衆の娘と結婚し、忘れられた名家の姓、千家を名乗った。以後公式には二度、嫁を迎えているが、名を変えるたび、その身代は太っていく。
「知らないものだ。長い付き合いだが、初耳だ」
「ああ、意外と世間は狭い」
同じタイミング―――二人は自嘲気味に乾いた声で笑った。
「お前らも、誰かに動かされている。背後にいるのが誰か、お前は知っているのか?」
「夷空、お前はどう思う?」
夷空は、片頬を歪めた。
「知れば命はないか?」
「宗易にお前を殺す気はない。今の状況から考えて、お前を殺したところで何か得があるわけではないからな。だがこの話、もともとお前が乗って損な取引でもない。天上人が変われば、堺も変わる。ただそれだけのことや」
その言動で察しろと言っているようなものだった。宗十は何もかも分かっていて、この陰謀に夷空をはめこんだのだ。
「さすが、宗易の影働きをするだけはあるな」
皮肉げに言った言葉に、宗十は肩をすくめた。
「信長の世が続けば、おれら武器商いをする人間は喰うには困らん。だが如何せん、この国のこの港ではもはや一つの構図が決まりすぎとる。この先いくら気張っても、後から来たおれらの稼ぎは知れたもんや」
「お前の言いたいことは分かる。つまり、信長を殺して今井宗久を退ければ、宗易がここを仕切る時世が来る」
宗十は鼻を鳴らした。否定も肯定もしないと言う意味だ。
「よそ者にしては、お前はよう分かっとるし、飲み込みも早い。初めから打ち明けとったら、また雲行きは違ったかもな」
「それでも本能寺へ行って信長を狙撃をしないことは確かだ。私が危ない橋を渡る謂れはない。第一、割に合わなすぎる。あれは阿呆のすることだ」
「リアズの情報があるとしても?」
ぴくりと、夷空は眉を動かした。
「分かりやすいな、お前。欲しいものがはっきりしすぎとる。おれにしてみればそう言う人間はめこむのは、一番楽やったぞ」
「やり口は回りくどすぎたがな。私に真実を話さなかったのは怖かったからか? 私がその気になれば裏切り者のお前に報復するだけなら、そう難しいことじゃないからな」
上下に揺れる松明に顔の翳が揺れる。二人の間に、先ほどの緊張が再び流れたのをあざみは感じた。宗十の顔はどす黒さを通り越し、闇で塗りつぶしたかのようだった。
「今度はお前から乗ってもらう。生きてこの国を出たいならな」
夷空―――あざみは見た。火の気にさらされて、あざみの右頬は熱く火照っていた。夷空の潤んだ白目だけが、ほの灯りに滲んでらんらんと光っている。
松林の奥に野陣が敷かれ、簡潔ながら幔幕が下がっている。槍を下げた歩哨が入口に立ち、戦場さながらの緊張感が辺りに立ち込めていた。この奥でこれから一方的な虐殺が行われたとしても、誰も不思議には思うまい。
「入れ」
夷空はその様子を見上げると、大仰なため息をついてみせた。
武張ったやり口だ。さすが千宗易も、切羽詰まってるときにはゆったり茶室で話す余裕もないと見える―――夷空の仕草はそう言いたげだった。
宗易をはじめ先に挙げた三人はすべて、武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事した茶の湯の高弟である。初期の茶の湯は、産地当ての闘茶と言われる競争遊びや大規模な酒宴などの、座興のような娯楽的な色合いが強かった。それを形式からすべて全面的に変えたのが、宗易である。
だが、徹底的に無駄を排した茶室の造りや、主と客の一対一の簡素なもてなしを主眼とした形式を整えたのも、茶人としての宗易が革命的でありながらも、そこには政治的な野心家としての意味合いが強かったとも言える。
奥まった場所での二畳に満たない狭い茶室に、主と客の向き合い方を重視した、その形式―――それは表向きに出来ない商談や政治的な密談をするのには最適だったのである。宗易はやがて、千利休としての方の名で茶人として不動の名前を知られていく。
「宗易はすでに中で待ってる。茶では侘びしかろう、酒くらいのもてなしは出るやろ」
「・・・・・なんだ?」
ふと、夷空は違和感を口にした。香を焚きしめているのか、中から異様な匂いが漂うのだ。幔幕をくぐると、中は陣立てどころかがらんどうで、目の前のひと際大きな松の木がある。その根元に一面金箔でぎらついた衝立が設置されていて、奥から怪しげな長細い煙の香が一筋、二筋と流れ出している。まるで異界に迷い込んだような、この不可思議な色と香りは、その異様な根城に、夷空たちを誘っている風にも見えた。
「・・・・・・・・」
宗易は衝立の蔭にいるのだろう。茶を点てて待っているのか、
じっ・・・・・・・
と、たぎった釜に水を差すかのような湿気たくすぶる音が、魔性の篝火が道を作る松林の森に、わびしく響いてくる。それがいつしか、この世とあの世のあわいを踏み越えて魔物のねぐらに連れてこられたような、そんな錯覚を演出した。
あざみは不安げに、夷空を見た。
「いるのは宗易だけか?」
「話が済んだら、おれを呼べ。夷空、あざみ、お前らの他は邪魔やそうや」
夷空は宗十の言葉に秘められた意図に気付き、少し驚いた―――なんと。宗易は自分たちとたった一人で、相対する腹積もりなのか。
「あんたとおれ、あとの連中は外だ」
宗十はガルグイユの肩を押す。狼は不満げに、夷空を見返った。
「待っててくれ」
夷空はあざみを連れ、衝立の裏に回った。そこには茣蓙がひかれ、野で点てる茶の工夫がなしてあるように見えた。しかしそれは違った。あったのは香炉だが、そこに焙られている茶色い物体は香木などではなかった。
紫煙に巻かれ、衝立のふちで。
ちょうど顔色の黒い老人が一人端座して、煙草をふかしていた。だらり、と弛緩した顔だ。千宗易―――千年も年老いた岩場の亀のようなその男の二つの瞳は薄く濁って、心持あごを持ち上げると、虚空を睨んでいた。意外に大柄な男だ。しかし今、そのがっしりとした身体からは力が萎え、まるで魂が抜けたように座りながら溶けていた。
「おう」
老人は低い声で言った。酒と強い潮の気で焼けた海の男の声である。千年前の弦楽器のように、複雑な和音を含んで鈍く掠れていた。
「姐さん、あんたが夷空か」
宗易の挨拶は和語ではない。夷空たちが使う海賊の言葉で言った。
「あんた、博多の倭寇やろう・・・・・王直、のことは残念やったなあ」
「王直?」
あざみが聞いた。
「大昔の、倭寇の大元締めさ。明人だ。そうか、あんたは王直を知っているのか」
「まあな」
呆けた顔で二人を見つめると、宗易は蕩けるように口元を綻ばせた。
「あいつは死んだんだろう?」
「そう、聞いてる」
夷空は答えたが訝しげだった。なぜ今、その話をするのだろう。夷空に対して、と言うよりも、夷空を見たことで湧いてきた己の追憶を楽しむような口調だ。
「王直の足下だった男の船団で働いていたことはあるが、直接の面識はない」
夷空は答えると、
「宗易殿、連れも仕事をする。悪いが倭人の言葉で話をしてくれるか」
返事はなし。ただ、松の根で千年生きた蛙のような面差しで、肺に溜めた紫煙を吐くことしかしない。地味な色合いの袖なし羽織に頭巾。商家の旦那風の服装をしているが、篝火に照らされて目に宿らせた暗い色合いは男の、壮絶な半生を匂わせた不気味な倦怠感をほのめかしていた。
「やるか」
と、話すのも物憂げに、夷空の前にその細い葉巻を差し出した。舶来物の大麻だ。マリファナや阿片は、古来から鎮静効果のある薬用として用いられてきた。日本でも当時、高級品の薬用として公家や関西の上流階級の間でひそかに伝わり始めている。
「頭が鈍る。仕事の前にそいつはやらない」
夷空は愛想笑いすらしなかった。宗易の前に座をとりつつ、
「あんたもそんなものに浸ってる時間はないからこそ、今日ここに来たはずだ」
「こいつは、まあ・・・・・ただの好意なんだがなあ」
間延びした声で宗易は言った。今度はあくの強い声音の日本語。夷空の答えに満足したかのように目を細めた後、ぎょろりと目を剥いて、鎮座する二人の顔を覗く。
「私とあんたの間には色々と誤解があった。今から腹の中身突き合わせて仕事の話をするのに、これじゃあ遠すぎる。ほぐしてやろうと思うたまでよ。あんたの話ぶり、この老人の耳には、やや固うてな」
「話が固いのは性分だ。宗易殿、あんたが欲しいものを私が持っている。ただそれだけのことだ。それにあんたのせいで、私はこんな目に合ってる。今さら昔馴染みのようになし崩しに取引を進めようとしても無理な話だ」
「だから詫びの印に、こちらも腹の内を明かしとる。嘘で繕った私と、今さら話などする気はないんやろ」
夷空は差し出された葉巻を受け取り、手慣れた仕草でくわえると深く肺に入れた。
「悪くはないやろ」
どや? 溶けるような笑みで顔を崩して、宗易はつぶやいた。
「この国で育った麻じゃあ、毒気が抜かれて話にならん。あんたもよう知っとるやろ。琉球から呂宋、安南、美味いもんはみな、南の果てから来る」
「私の話をしているのか? それともあんたの息子のことか」
息子の宗十の百倍は喰えない男だ。夷空は思った。茶など点てずに大麻を用意したのも、こちらの気構えを解くと同時に、文字通り都合の悪い話の矛先を煙に巻くつもりでしたことだろう。
宗易は完全に丸腰だし、どう見てもこの松林に伏兵を埋没している気配はなかった。覚悟を決めると夷空は傍らにエキドナを置き、その敵意を見せない姿勢に一定の敬意を表した。
大麻をふかす妖しい煙が夷空の身体の周りを流れる中、あざみもおずおずとその後ろに座ったのが気配で分かった。
「どちらか、とはまた難しい質問をする」
ゾウガメの仕草で宗易はのっそりと身体を伸ばし、
「両方やな。徐々に先が分からなくなっていく。右府めが死に、それでもこの乱世、まだまだ転ぶ。今や何が嘘やらまことやら」
「信長は死んでなどいない」
言葉を切ってから、夷空は反応を試すように相手を見据え、
「しかも、あんたたちの尻尾を掴んでいる。だとしたら?」
「仮定の話は嫌いだ。情報の掛け売りはよしてもらおう」
「このあざみが聞いている。信長はお前らの主に伝えておけとことづけたそうだ」
聞こう、と宗易はあざみを睨み、あごをしゃくった。
「・・・・・いずれ会いに行く。・・・・・主の猿めに伝えおけ」
あざみの言葉に、たゆたっていた宗易の双眸が凍りついた。
「あんたの主は、中国の羽柴秀吉だな?」
「ああ」
大して間延びもせずに、宗易は答えた。
「羽柴様とはあのお方が、この堺の奉行をしていた頃からの付き合いでな。信長づれにむざむざ飼い殺されるは惜しいと思うて、こちらが手を貸したまでのことよ」
「あんたたちの政権内部での泳ぎ方には興味はない。あんたたちが恐れた信長は、まだどこかで生きているかも知れないと言うことだ。私が思うに」
「あんたがあの男の生死を知ってる?」
肩をすくめると、宗易は話を遮った。
「とんだお笑い草だ。やつが生きているかどうか、あんたに何が分かると言うんだ。あんたはただ、やり損なっただけで、私たちにやつの死を売ることが出来んかった。その補てんはしてもらう。あんさんらの命ひとつずつの代わりにな。今日殺さずにここへ呼んだのは、ただ、それだけのことや」
「私たちに何をさせたい?」
「京都へ戻れ。今すぐに信長の生死を確認し直せ」
宗易ははっきりと要求を言うと袂から新たな葉巻を出して火を点け、糸のように細まった瞳をぎょろりと剥いた。
「そこで事情を知るある男を、京から助け出してほしい。その男なら確実に、信長の生死を判断することが出来るやろう」
「本当か?」
色のない瞳が、夷空を見た。嘘かまことか、お前に証明する必要はないと言うように。
「あのことが起こる以前から、私と羽柴様は独自に内通者を送り込んでいた。明智のことも無論織り込み済みや。あの男が信長を逃す愚はすまいとも思うが、信長は、明智以上に食えぬ男や。ま、確かにその意味では今の状況はいわば自然の流れではある。ただ自然を必然にするために、あんたらをはめこんだのに、あんたらは信長を取り逃がした。この借りは大きい」
「あんたに何も借りたつもりはない。あんたが一方的に奪って、私たちを脅しただけだ」
「私はお前らに命を貸してる。とっくに不要になったのに殺さないでいる人間もいるのは、私が商人としては義理固いたちだからだとは思わないか?」
「また人質をとる気か? 物は言いようだな」
「なら、やる気にさせてやろう。こんな話はどうや。リアズ・ディアスの消息を教える」
夷空は不快げに、眉をひそめた。
「宗十から話を聞いたか?」
巌のような重量感の頭が左右に、ず、と動く。
「やつに聞かずとも、教えてくれるものはこの堺に沢山いる。ここ数日やが、中国にいる羽柴様に中々こちらの近況が届かない。陸路は無論だが、海路に何かと邪魔が入る。仕手筋はどうも毛利の村上海賊衆ばかりではないそうや。この堺の近海では、お前ら南蛮人系の海賊が、意図的にうちが放った密使を拿捕しておる。・・・・・話では、一部宣教会が裏で糸を引いているとのことや」
「まさか」
夷空は顔色を変えないように苦心した。
中で、直感的な連想が働いていた。南海屋が逃亡に協力的な宣教会を紹介してくれると言った。まだ国内での資金力が不十分な彼らは、布教の大分を信長に頼っていた。彼を殺した下手人を匿う謂れはない。ガセネタだろう。そう思い、半ば黙殺していたのだが。
「どうかしたか」
「いや・・・・・堺にリアズがいると言う保障があるのか?」
「少なくとも畿内にはいるかも知れない。あの男の動きは過激だ。それとなく眼はつけるようにしていた。協力すればあの男の情報をお前に流す。どや。悪い話ではないはずだ」
「いいだろう。どうせ他に選択の余地はない。だがことが終わった後で、私たちの命の借りとやらは棒引きにしてくれるのか?」
「ああ、それはもちろんや。信長の生死を確認し、生きているならやつに、再びとどめを刺してくれるものならな。七日後には、中国路から羽柴様の軍勢が帰り、京の明智勢と雌雄を決するやろう。私たちが欲しいのはいくさの名分だけ。いずれが信長を殺したにせよ、これは信長の、正式な弔い合戦の形をとらなければ何にもならぬのよ」
京都へ戻れ
幔幕の外で、宗十とガルグイユが夷空たちを待っていた。
「どや、話はまとまったか?」
「まあな。私とあざみ、支度を整えてすぐにでも京へ発つ」
「待てよ、おれはどうなるんだ?」
夷空は宗十の目を見据えて言った。
「リアズ・ディアスの消息を探してもらおう。それが、依頼の条件だ」
「分かった」
ごく短いセンテンスで、宗十は応えた。
「詳細は南海屋に聞け。リアズは、この堺周辺の南蛮人の海賊衆とつながりを持っているかも知れないそうだ。南蛮人の荒事ならガルグイユか、ランパに頼めばなんとかなるだろう」
「夷空、リアズってもしかして・・・・・」
あざみが追いすがって聞いてきた。彼女は同席したが、京都へ逆戻りすると言う経緯以外は、話が読めなかったのだ。
「エリオの父親だ。もちろん、探すのには別の意味合いもあるが」
(やっぱり)
そうだったのだ。夷空が探す男が堺にいるかも知れない。それなのに夷空はまた、堺を離れねばならないのかと思うと、彼女の問題ながら、あざみは切なかった。
「あの・・・・・あと、これは?」
「なんだ、持ってきたのか」
衝立を出るとき、火の点いたままの大麻煙草をあざみも宗易に渡されたのだ。
「だって、渡されたから」
あざみの手からそれを受け取ると煙を吸い込み、夷空はうっとりと眼を閉じてみせた。
「上物だぞ。よかったら、あざみも吸ってみろ」
「・・・・・こんなの吸ったことないよ」
夷空や宗易があまりにも気味の悪い顔つきで話し合いをしているから、あざみには気持が悪くて仕方なかったのだ。意を決して、あざみは吸い口に唇を乗せると、
「辛い・・・・・」
次の瞬間、げほげほ咳きこんだ。
「どうだ? なんか、ふわっ、としてきただろ?」
「そんなの、いきなり言われてもわかんないよ・・・・・」
煙たさに、あざみは涙ぐんでいる。
「煙を肺に入れて溜めるんだ。そうするとだんだん、苦しくなくなってくる」
本当? ぶつぶつ言いながら、あざみはその通りにしてみた。
「どうだ?」
「え?・・・・あ、ほんとだ・・・・・・・なんか、へんな感じしてきた」
あざみの目も、夷空のように少し眠たげに溶けてくる。
「貸してみろ」
ガルグイユがひったくって、思い切り煙を吸う。
「どう?」
「馬鹿か、お前」
ぼんやりした顔をしているあざみをガルグイユは小突いた。
「これただのタバコじゃねえか」
「だましたっ! ひどいっ、嘘つき、夷空」
「お前が人のこと言えるか」
全員が爆笑したので、あざみは顔を真赤にして怒っている。
「そもそもあんなもの吸いながら、こんな物騒な話が出来るわけないじゃないか」
いつしか宗十も、涙目になって笑っている。
「喰えないじじいやな、あの男」
「まったくだ」
衝立の裏、すでに宗易の影はない。いつのまに消えたのか、もしかするとあれは本当に、松の木の洞に棲みつく魔物だったのかも知れない。夷空は背筋が寒かった。
「探すのは阿弥陀寺の下男で、幸吉と言う男だ」
それと、と宗易は言いにくそうに眉をひそめると、
「これは出来たらでええが、羽柴様の命を受けてあの前日に都入りした者が、いまだに京から戻ってきておらんそうや」
「名は?」
「藤堂高虎(とうどうたかとら)」
「また随分と、立派な名だな」
「もとは、近江武士だ。浅井長政の子飼いやった」
話してから、浅井と言っても知らないだろうと言う風に、宗易は顔を背けた。だが、夷空にとって意外とそうでもない。
織田政権における近江の勢力図は琵琶湖を挟んで湖西を秀吉が、湖東を明智光秀が領土としていたが、以前はこの辺りは、信長の強い抵抗勢力であった浅井・朝倉の両氏が割拠していた。彼女もそれくらいのことは知っていた。だから浅井長政の勇名は知らなくても、高虎が、その浅井傘下の武士だったと言う構図は理解できる。
自身も大柄、勇猛で知られた当主の浅井長政は、武力に優れた男たちを広く評価していた。高虎はその中にあって、若干十四歳で長政から感状を受けた槍仕であると言う。
「そんな男に密偵が務まるとは思えないがな」
「いや、それがなかなかに喰えぬ男と言う話や」
長政が信長に滅ぼされたのち、高虎は諸国を放浪し、何度も主君を変えたのちに秀吉の実弟、羽柴秀長のもとへ仕える。
「長い放浪生活の果て、渡りのものにも顔が利くそうな。まあ、生半可な武士よりは長生きしとるかもしれん」
「そうならいいがな」
「見つからなければそれでええ。だがことによると、お前らより先に幸吉を匿って逃げてくれておるやも知れんからな」
(そう言うことか)
夷空は宗易の魂胆をすぐに見抜いた。このいくさが終わるまで、畿内周辺の情報ソースはすべて自分が握っておきたいのだ。状況によっては、話を上手く組み替えて、どっちの陣営にも働きかけることが出来る。狡猾と言うか、姑息と言うか。いや、むしろこれはもっと単純に特権商人独特の利益の独占意識の表れからなのかもしれない。
「堺に着いたら、迎えを出す。上手くいったら手はず通りの場所で、定刻、きちんと狼煙を上げてくれ。期限は・・・・そうやな、三日や。それまでにこの和泉に帰って来い」
天正6月2日 第1章
いかがだったでしょうか。女の子(夷空は三十前後の女の人ですが・・・)を主人公にした本格時代小説、と言うことで考えていたのですが、なんとか読み物としては成立してる、といいんですが。
ところで実はこの作品、ちゃんとした時代小説とはちょっとずれてるし、他の歴史をテーマにしたラノベ作品とも微妙にずれてます。あえて色々な要素を取り込みつつ、セオリーっぽいつぼを外してみようとしたので。しかも長いので中々読んでいただけることが少なく。なので、手直しを重ねつつ、随時ここに置かせてもらうと言う形で出してきたいと思います。お目汚しかと思いますが、一人でも読んで頂ける方がいてくれたら、これにかわる喜びはありません。