モナリザとセックスする夢

松井 理以

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1-1

 今日は少し前まで同居していたルームメイトの名前を思い出すのに五時間かかった。
 まず襲ってきたのはドンと心臓を突かれるような恐怖とパニック。エ? エ? どうして、思い出せないの。
白みがかった光に似た彼女の艶めいた髪も、やさしげな笑顔もはっきり覚えているのに、何故名前だけ修正液をかけたように抜け落ちているの。
 あ。ジ。ジ…ジ、だか、ビだか、確かそういうのがついた。二文字か三文字。長い名前ではなかったはず。
なんとか取っ掛かりをもがき取って、恐怖が少し落ち着いた後にやってきたのは、諦めだった。別に、どうでも良いではないか。思い出さなくったって、もうきっと二度とあの子に会うことはないのだから。
 私は記憶を探るのを諦め、変わり映えしない一日を過ごした。そうして夕食後、シンクに溜まる油ぎった皿の山を見ている時、急にポンと弾けるようにそれが浮かんだ。
 ジル。ジルだ。
 思い出せた安堵と喜びが瞬時に胸に湧きあがった後、すぐに、そんなことを思い出してもどうにもなりはしないという虚しさにとって代わる。
 それでも、失ったものをひとつ取り戻したという小さな高揚は私の体を動かした。私は中敷きが黒ずんだ古いスニーカーを履き、玄関から外へ出た。隣のガソリンスタンドはもう閉まっており、夜間に薄暗い明かりを放っている。
 お隣の塀と自宅の壁の間にはいくつもの蜘蛛の巣が輝いていた。右から左へ、上から下へ、様々な角度から折り重なっている。たくさん集まれば、毛糸のような素材になるのかもしれないと思った。
 私は手をぬっと突き出して蜘蛛の巣を殴った。
 柔らかい女の髪のようなもやついた感覚が拳に絡みつき、頬の当たりに苛立ちがピクリと走っていく。四、五匹の蜘蛛たちによる努力を全て無に帰すには、少し時間がかかった。だるくなった右手を下げて、ため息をつく。
 天災に逃げ惑う無力な蜘蛛らの比較的のんきな慌てようを前に、無感情な心を私は見つめた。私がこの世界で感じる刺激は、せいぜいこの程度のものだと思った。天国はここには無い。
 自宅前の交差点を渡った。規則的な四角い暖色の光が空の中にいくつも浮かび上がる。私は暗い空を眺める中にそのマンションを見つめる。この景色を何度見たか分からない。
 あのマンションの一番高いところから、私は飛び降りて死ぬ予定だ。
 あそこから飛び砕ける。なるべく早く。ふと横を見た時に、顔中が溶け汚れた歯をむき出しにして笑う男がいるのをもう一度でも見てしまう前に。そいつは初めは男ではなくて、イベットという美しい女だった。
 次にイベットが出てくるときは、私に巣を壊された蜘蛛たちの怨霊が顔に乗っているのかもしれないという奇妙な考えが浮かんだ。そう思ったことを恥じた。そして恥じたことにも、すぐにうんざりした。
 最近、朝目が覚めて、おかしいな、私はもう死んだのではなかったのかと拍子抜けすることが何度もあった。
 夢の中ではここ一か月だけでも、四回死んでいる。一回目は道端で見知らぬ人に殺されそうになり、「殺される!」となかば叫びながら起きた。二回目はよく覚えている、やたら不気味にニタニタ笑う中年の女にナイフで私自身と私の子供が刺されて死んだ(現実世界の私は独身で子供もいない)。三回目は、自殺志願者の友人が突然私の遊びに来ている時に、とち狂って水爆をいきなり爆発させ、無理心中的に私も死んだ。四回目は影絵のように白黒の世界の中で、つばひろの帽子を着た殺人鬼に殺された。
 ……あれ?
 空気を一つ吸えば、何のことを考えていたのだか、すっかり思い出せない。ジルの名前と違って、思い出したいとも思えない。
 私は踵を返して家への道を戻りながら、幻覚や幻聴がべつべつに浸透し、簡単な記憶すらあいまいになった脳みそで、ぼんやりと別のことを考え始めた。
 これが始まったきっかけが何だったのかと考えてみれば、やはりいちばんはじめに思い浮かぶのはジョニーの顔だった。
 あの日をよく覚えている。一年前のアメリカ独立記念日の夜、彼の肉体が天使のように白く発光しているのを見てしまった日。あの日から、私は同じ人間ではいられなくなった。
 私はジョニーを愛した。ジョニーを愛するとはジョニーを愛することだけではなく、単純ではない様々な要素が絡んでいた。ジョニーを愛する代償は高く、私は毎日その返済に追われている。
 生きる中で私がこの終わり方をするという暗示はいくらでもあった。この命は結局一本道だったのかもしれない。その一本道の最終目的地は、近所にあるという以外に縁もゆかりもないマンションから飛び降りることを夢見る、この今だ。
 そう、私の目の前にあったのはこの旅ひとつ。覚えていることといえば三か月しか傍にいなかった少年の低い鼻と、うつろな灰色の目だけの、この人生。両親への愛も、過去のルームメイトの名前も思い出せない壊れた脳。
 口の中に心地いい酸素を運んだ男たち。この終わりゆく人生のハイライトは彼らだ。彼らを愛する時、私はいつでも愛した彼らのうちの一人の拳が私を殺すのを夢見ていた。
 私がこれから終着点にたどり着くからくりはこうだ。彼らに期待し続けるうちに、あまりに年月が経ちすぎてしまった。すりきれた青春を前にいつまでも死ねないことについに業を煮やした私は、間接的な殺人者としてジョニーを任命することにした。この命が私の愛と完全に無関係になってしまう前に、愛の方に私を殺させることにしたのだ。
 悪魔染みた天使の童顔を苦々しく思い出す。薄暗い部屋に白いTシャツを着たジョニーがミルクシェイクを飲んでいた時を思い出す。あの時の息が詰まるような気持ちを思い出す。
 私は彼に殺されるのだ。ただ死ぬのではない。他でもない、彼に殺される。彼は私が死んだ後、誰にも知られることのない、誰にも告発されることもない、殺人者になる。
 本人にすら知られることないその罪に、彼の美しさがいっそう輝く光景が浮かぶ。彼の仮面のような笑顔に、殺人者の称号はきっとよく似合うだろう。
 そして彼が死んだ時は、私が彼の天国への道先案内人になる。私に最後の天国を見せた彼を、お返しに天国に連れて行くのは私の使命だ。
 もし神様が彼を入れるのを拒んだなら、私は、今度こそ、生前は一度も出来なかったことをしようと思う。
 アリを潰すとか蜘蛛の巣を殴るなんてみみっちいことはせずに、神の頬に拳をめり込ませ、ひりつく痛みを自分の骨に感じながら、「この子を天国にいれろ。そうでなくては、殺してやる」と脅そうと思う。そうしてこちらを振り返りもせずに天国の門をくぐるジョニーの背中を見つめながら、私の命はようやく完成するだろう。

 初めからこうも他力本願だったわけではない。目的を達するために、私が最初に試みたのは、自殺だったらしい。
“らしい”というのは、私自身がそれを覚えていないからだ。私の初めての試みは、両親の目を通じてしか自分の人生を観察出来ない、あの短い期間に起こったことだった。
 二十五年前のテネシーで、ある二才の幼子が世にも未熟な自殺を試みた。
 年若い母親が、誤って家のガラスを割った。近くにいたまだ幼い二才の娘がそれを見るなり、嬉々として、特攻隊よろしく剥き出しのガラスの破片に向かって突っ込んでいった。母親は年端もいかない娘の奇行に呆然としてすぐには動けなかったという。幼児はガラスの破片で大怪我をした。すぐに救急車が呼ばれ、病院に運ばれ緊急手術をした。
 現実への認識がまだ出来上がっていない幼児にとっては、ガラスの破片が美しい宝石のように見えたのだろうか。今も私の足には手術の跡が残っている。
ガラスの破片を用いての自殺は成功しなかったが、その試みが行われた時に私はまだ物心すらついていなかった。この物心という概念がそれが私の心の中に芽生えたそのまさしい一瞬を記憶している。
ビニール製の青く艶めいたボールを足に挟み内股でちまちまと進みながら、家事をしている母親と話をしていた。母親の何気ない質問に答えた瞬間、急にそれが起こって、私は青ざめた。
自分が幼児の高い声で言った言葉が、急に奇妙なほど完璧に「ほんとうの」意味で理解出来たからだ。前触れもなく、不可逆な変化が起こった。
私は無知という温かな水の中から、いきなり自分の頭が引っ張られ、水の中でぼやけていた声が聞こえ瞑っていた目を開けられるようになった。
始まった。私は血の気の引いた頭で思った。私は「始まり」を感じた。私はこの体を乗せた「乗り物」が走り出すのを確かに感じた。そしてスピードを上げ始めたそれの中で、もはや降りることは叶わないと感じた。
あれこそが恐怖の目覚めの時であった。死への恐ろしさ、嫌われることの恐ろしさ。一人になることの恐ろしさ。全てあの瞬間に生み出された。その証拠に、私は以降、ガラスの破片を使った恐れ知らずで無邪気な自殺を試みなくなり、次に自殺を試みるまでかなり長い間待たなくてはならなかった。それはひとえに、あの大きな力に逆らうのが恐ろしかったからだ。これまでに人生で感じた恐怖は、全てあの不気味な瞬間のレプリカである。
自分の考えを言語化することの出来なかった四才児は、頭の中でのみひたすらこう怯えた。
”始まった。何か、未知のものが今、始まってしまった。なにか大きな力で。もう私の力で止める事は出来ないんだ。そこが良い所であろうが悪い所であろうが、終点に着くまで、どうしても止まらない”


 …そして私の記憶は、あの夏まで飛ぶ。
 人生で始めて関わった”男”は、従兄弟だった。
 初めて私を“女”として扱おうとした人間でもある。七つ年上の彼を、私は兄ちゃんと呼んでいた。
 夏休みに東京を離れて両親の実家がある田舎へ連れていってもらうと、眼に映る全てがみずみずしく新鮮になった。
私はそこで遊ぶ友達がいなかった。会う同年代の少年少女達が私の喋り方をしきりに馬鹿にする理由も、その背後に都会への妬みが潜んでいる事情も、幼い私には知る由がなかった。私にとってはその場所こそ憧れだった。なぜ夏休みになると私は太陽が肌に痛く、緑輝き、電信柱の距離が長く、どこへ行くにも車に乗せてもらえるその場所へ行くことが出来るのか分からなかった。どうして私は夏の間だけでなく、ずっとここにいることが出来ないのだろうと思っていた。
 父の実家は昔ながらの木造の古い建物だった。建物を囲むようによく手入れされた大きな庭があり、緑の真ん中には池があり、中には鯉がいた。木々の緑はより青く、強い日差しは肩から肌を焼く音すら聞こえてきそうだった。蝉の声も、東京よりも元気だった。
 そこでは、まだ幼い自分の見慣れた手ですら、別のもののように見えた。
 もみじの手。やわらかくシミのない繊細な皮膚。すぐやぶれる半透明のビニール袋に水を入れた時のようなふくらみ具合。少しつつけば破れてしまうのかもしれない。
 二つあるもみじの片方はあの日、水彩ペンを握っていた。目の前の味噌汁とお茶漬けの昼ご飯をそっちのけで、余った黄色の安売りチラシの端に、つたない手つきでオチャズケという文字を書いた。
 「オチャズケ、やないで。オチャ“ヅ”ケや。」
 お茶漬けが入った茶碗を卓の上に置き、ペンを奪うと、従兄弟は“ズ”の所にバツ印を付けた後、すぐ横に“ヅ”と乱暴に書き足した。テストの採点のように。私は従兄弟の目を見上げた。
 「なんで? ズという音は片仮名ではこう書く、って学校で習ったよ」
 私はバツがつけられた“ズ”の字を指さしながら言う。
 従兄弟はまだ幼い私にどう説明したものかと考えたが、結局大雑把にまとめた。
 「とにかく、お茶漬けの時のズは、ズじゃなくてヅなんや。お前にはまだ早いし、今はそれだけ覚えとったらええ」
 田舎の少年らしく日に焼けた肌は、前の年の夏に会ったお兄ちゃんのものと何も変わっていなかった。お兄ちゃんはその年、確か中学三年生になっていた。
 私は神妙に頷いて納得した。兄ちゃんが言うなら、きっとそれが正しいに違いない。彼はずっと大人で、私みたいな子供では分からないことをたくさん知っている。釣りのやり方、海の中で体力を消耗させずにうまく泳ぐ方法。一度私が海に溺れかけた時などは、一分もせずに助けに来てくれた。東京でこれほど物知りな人はきっと一人もいないに違いないと思った。
 従兄弟の書いた「ヅ」の文字の端のインクが、彼の額から落ちた汗で滲んでいた。この家ではめったに冷房をつけない。
「二三(ふみ)、今日も上でヒーローズやりにいくか?」
兄ちゃんは二階への階段に向かって顎をしゃくった。階段を上った先には従兄弟の部屋がある。
 私はずっとこの一言を待っていた。
 恥ずかしくて自分からは言い出せなかったのだ。どれだけ楽しみにしていたかを悟られないように、なるべくさりげなく軽い仕草で頷く。
 スーパーヒーローズ。略してヒーローズ。小学生の私にとって、この言葉は口にするだけで赤面しそうな響きを持っていた。片思いの相手の横顔を密かに盗み見る時のような罪悪感と喜びが体じゅうに流れ込む。
 昼食を全て食べ終わった後、兄ちゃんの後を追った。彼の部屋に向かう階段は今にも壊れそうな古いものだった。私はキイキイと激しい足音を立てながらその階段を駆け上がり、途中にある半透明に濁った窓から差し込む陽の光を頰に感じ、勢いよく部屋の扉を開けた。ドアを開けた瞬間、埃の匂いが鼻につく。
彼の部屋は長い間放っておかれたような古い臭いがした。私には、それが何か魅力的な秘密を含んだ臭いなのだと思えて仕方なかった。部屋に長く入り浸ることで持病の喘息が悪化することにすでに気が付いてはいても、私は空気を肺いっぱいに吸い込みたいという誘惑にいつも負けていた。
 この部屋で彼と私はいつもTVゲームをやっていた。アメリカの人気アニメキャラクターが元となった格闘ゲームだった。そこは私の憧れた世界に没入できる秘密の場所だった。
 従兄弟はゲーム機の電源を入れてプレイを始めた。一つしかないコントローラーは当然のように従兄弟の手の中に納まり、私はいつものように彼の隣に腰掛けてひたすら画面を見つめた。
 「これはパワー・マウマウ・チャイナ」私は画面の中のキャラクターを指さして言った。
 「そうで」
 「これは、レッドマンだよね」
 ん、と私の言うことを聞いているのかも分からないおざなりな返事が返ってくる。いつものことだった。従兄弟はゲームに熱中している時は私に全く気を払ってくれなくなる。しかしそれはむしろ私にも好都合で、心おきなくスーパーヒーローズの世界に集中することが出来た。
 従兄弟は毎年同じゲームをやっていたので私はすっかりスーパーヒーローズの登場人物たちに詳しくなっていた。ゲームに出てくるキャラクターの名前は殆ど暗記していた。
 私は彼らが好きでたまらなかった。彼らの均整のとれた筋肉、大柄な体格に憧れていた。彼らは弱さを侵入させる余地を残さぬ男らしさで、理想的なヒーローを体現した体つきをしている。私もきっと大人になったら彼らのようになれるに違いないと、無邪気に信じた。
 テレビから音が響く。真夏だというのに、埃まみれの暗い部屋でゲームを並んで見つめている光景は奇妙だったかもしれないが、そこがまた非日常感を増して子どもを興奮させた。
スーパーヒーローズ。私は従兄弟がゲームをやっているのを見て、初めてこの作品を知ったのだ。
 初めて見た時。思い出すのは明るい色調だ。間の抜けた、日焼けした写真のような間抜けなゲームの色合い。ドットを基調としたぎこちなく味のあるキャラクター達の動き。しかし、私にとってそれらはそのような記号以上の意味を持っていた。彼らはテレビの画面を越えて雄弁に私の体に語りかけて来た。今も鮮明に覚えている。


 呆けるように私は画面を見つめていた。
 対峙する二人の異形の生き物がいた。一人がもう一人をひたすら殴り続けていた。
 軽快な音。もう一度、軽快な音。
 苦痛の吐息が連続して漏れる。
 殴られていた方が、力なく地に倒れ伏す。
 私は奇妙に神聖な気持ちになった。
 高鳴る自分の心臓がとても安全な場所に置かれるのを感じた。
 私は唐突に、死から最も遠い場所にいた。


その時、震える様な興奮が足元から這い上がって来た。
……小学校に上がってはじめての遠足に行った時、途中で止まったサービスエリアで大きな蛾の死体を見たことがある。蛾は踏まれて即死したが、踏みにじられた訳ではなく、まだ比較的綺麗な死体の腹から、濡れた白い綿のような中身がはみ出していた。傍にはその蛾を踏み潰した犯人と思しき中年男性が、バツの悪そうな表情で、固まって蛾を見つめている私を見た。「こいつが足にまとわりついて来たんだよ。振り払おうとしたら…」弁解めいた男性の声を私は遠い世界の出来事として聞いていた。
 私が蛾の死体を見つめたのは、それが純粋な力を持っていたからだ。 異様さとは、つまり、力だった。抗いがたい未知の引力だった。画面の中の彼らは私には知りようのない不可思議な言語を使い、会話をしていた。彼らはそれぞれが持つ太い腕を使ってお互いを殴り合っていた。かれらが腹の辺りに手を翳すと白い球状の光が生まれ、それが期を満ちれば手の中から離れ、相手に当たると激しい苦痛を与えるようだった。負けた者は、地に倒れる前、驚くほど無防備な顔で自分にとどめを刺す者の顔を見上げた。
私は目にした異様さを表す言葉を持たず、ただ呆けたように見つめるしかなかった。
男が戦い、傷つき、呻き、逞しい肉体を痛みに晒す姿は、彼らの理解の出来ない言葉の一言一句は、あまりに異様で、私はしばらく息の仕方を忘れた。
……これは一体、何をやっているのだ?
 始めの衝撃からやや落ち着いた私はそのように思った。恥ずかしくないのだろうか。このようなものを晒して。
 私は彼らを見る人間をどんな気分にさせているかもし知らないとしたら、純粋な親切心から彼らに教えてあげたいとすら思た。
 戸惑いと、むしろ軽蔑に似た思いを抱きながら、同時に涎が垂れそうなほど興味を唆られていた。
 私は隣でテレビ画面を見つめる従兄弟の顔を盗み見る。
 「え?」
 彼の表情には興奮の欠片すら浮かんでいなかった。
 彼の瞳はむしろ、空虚だった。豊潤な夏休みの一日を、学生の特権じみた投げやりさでゲームに注いでみているだけだった。私と同じ気持ちでゲームを見ていないのは明らかだった……そう悟った時、奇妙な羞恥に襲われた。
私はキャラクター達の名前も、境遇も、何故彼らがそれほどまでに激しくこの世の全てが懸かっているかのように殴り合わなくてはならないのかも分からなかった。私はただ太刀打ちしようもない純粋な引力に任せ、自分の心を強く惹かれるままにしていた。私がこれについて知る唯一の小さな知識がこだまのように頭の中に打ち付けていた。スーパーヒーローズ。スーパーヒーローズ、スーパーヒーローズ。私は底無しの力を持つ響きに逆らえなかった。
私はそれ以来、従兄弟とスーパーヒーローズのゲームをするのを心待ちにするようになり、その世界に属するもの全てを羨望の目で見つめるようになった。登場人物の鮮やかな色彩。金髪、赤髪、黒肌。不釣り合いな程小さな頭を乗せた横に広い肩。灰色のゲーム機。K県。埃臭い小さな部屋。
毎日従兄弟が強い情熱を持たずにゲームをする横に座って、テレビをかじりつくように見ていた。プレイをしている彼と私の間には100キロの距離があった。
 あの筋肉と筋肉がぶつかあう世界に魅せられながら、自分がまだその一部ではないのだという不満を感じていた。
 ……どれぐらい大きくなったら、私は、この世界に入ることが出来るのだろう?
 子供の美徳とは自分が何者になるか知らないところにある。彼らの前には未来という真っさらな紙がある。ここにいつか描かれるものが、理想の自分の姿である可能性を信じる。現実が見えていないわけではない。ただ彼らにとって、現実と理想は全く同じ次元で存在しており、どちらが優れているかなどとは頭に浮かばないのだ。もはや現実と理想を同じ次元に置かなくなるのが大人である。
 一度従兄弟にコントローラーを借りて、ゲームをプレイをさせてもらったことがある。選んだキャラクターのレッドマンはまるで私の思う通りには動いてくれず、不器用に画面の端を動き回った後、惨めに負けた。
 従兄弟の存在は、スーパーヒーローズの世界への案内人としての役割を帯びて、いっそう輝きを増した。中学生の彼は当時の私にとっては立派な大人であり、大人であるということは英雄であるということだった。
従兄弟を通してのみ、私はあの世界を垣間見ることが出来た。私一人ではどうやってゲームを起動させるのか、どのボタンを押せばあの闘いの場面まで行けるのかも分からなかった。私はスーパーヒーローズがもたらすあの日常から突き抜けた感情を味わいたい時、私はあの部屋に行って、従兄弟にせがむしかなかった。
 グロテスクな赤色の肉体のレッドマンは六つの腹筋を誇らしげに見せつける。私の子供らしい部分は彼らへの嫌悪を諦めずにいた。しかし、私が嫌悪しようとすればするほど、それはより一層私への誘惑を強めた。
 ゲームを始めてから一時間ほど経った頃、従兄弟は悪態をついてコントローラーを投げだした。敵に負けたのだ。続けて彼は私の顔に視線を移してこう言った。「な、次はかくれんぼ、しよか」
 「でも、二人だけでかくれんぼなんてつまんないよ」
 私は不満げに言った。かくれんぼなどではなく、私はもっとスーパーヒーローズをやりたかった。
 「出来る」彼は少し声のトーンを落とした。「ばあちゃん達が鬼になればええ。ばあちゃんや母ちゃん達がここに来て、俺たちが居なかったら驚くやろ。ほいたら、俺たちを探すやろ」
 私はしぶしぶ承諾し、従兄弟に手を引かれて部屋の隣にある倉庫の中に入った。雰囲気を煽る為か、お兄ちゃんは何度も「しーッ」と言いながら指を口に当てた。何か秘密めいたことをやっているような気分になり、私はだんだんと心躍らせ始めた。
 倉庫の中は、古い衣服や本、もはや賞味期限をどれほど過ぎているのかも分からない缶詰などが合わさって、なんとも形容しがたい古い匂いがした。私たちは狭い倉庫の中、声を潜めながらそっと座った。お互いの体を密着させながら。
 「しー、やで。しーッ」
 「分かってるよ」
 私は小さな声で言いながら何度も頷いた。従兄弟はそれを確認すると、いったん私の体から自分の体を離し、倉庫の扉に近づいた。倉庫の中についた小さな窓と出入り口の扉を交互に何度か見た。そして、扉に右耳をつけてじっと動きを止めていた。
 「何しているの?」私は小声で聞いた。
 「音。誰も来ちょらんか確認してた」従兄弟は呟くように言うと私の近くに戻り、今度はさっきよりもさらに私の体に密着させるように座った。
 従兄弟の息が心なしか荒かった。私は得体のしれない不安感を憶えながら「ねえ」と言った。生々しく大きな声が出た。途端に彼はまた、しーッと言った。
「見つかったら、いかんやろ!」
 「うん……」
 何も言えなくなった私の体に、お兄ちゃんは汗ばんだ手を伸ばした。
 最初は偶然のように服の上から胸元にさりげなく触れていたが、「なあ、ここ暑いやろ? 脱がん?」と聞きながら、私の返事を待たずに私の上着を脱がせた。
 従兄弟は私の胸の突起に触れた。それを十回ほど繰り返した後、今度は指先で摘み始めた。
 従兄弟の息は怖いほど荒かった。自分でも気が付いていたのか、息遣いをなんとかして抑えようとしていたのだが、逆にそれが呼吸のひとつひとつを熱くさせ、間をあけて何度も私の顔にかかった。
 「これは痛い?」従兄弟は私の胸の先を強めにつねった。痛みは感じなかったので、私は首を横に振った。
 「じゃあ、これは?」従兄弟は聞きながら、少しずつ摘まむ指を強くした。指の力が強くなればなるほど、彼の声は上ずっていった。従兄弟が私の乳首に爪を立てた時、耐えられなくなり「痛い」と言った。
 従兄弟はその言葉を聞くと乳首を触るのを止め、「分かった、じゃあ、こっち……」と言いながら私のスカートに手を伸ばし、パンツの上から尻の上を往復するように、何度も手を滑らせた。私が履いていたのはゴムで固定されるような幼い子供用の下着だった。従兄弟は一層呼吸を荒くさせながら私の足を開かせ、その子供用のパンツを左にずらした。そして、真ん中の左右対称の肉の襞を、交互に弄った。乳首を触っていた時とは違い、少しためらいがちな手つきだった。
 「何やってるの?」……そう言いたいのに、どういうわけだか言葉が出てこなかった。
 私はこの時場違いな痛みを感じていた。無理やり寄せられた下着が肌に食い込んでいた。触られている性器ではなく、その端の場所の方がずっと痛かった。
 でも、きっともうすぐ、もうすぐ終わるはずだと自分に言い聞かせながら私は耐えた。痛みから気を紛らわす為に、私は倉庫内に目を向けた。暗い倉庫の中に、小窓からぼんやりした光が差し込んでいた。時刻は昼間だった。
 蝉の声が遥か遠くから聞こえてくる。ミンミンミン。私は目を瞑って、セミの声に意識を集中させた。
 一体私は何故、こんな場所にいて、こんな変なことをしなくちゃならないんだろう。これは、やらなくてはならないことなのだろうか。はるか遠くの蝉の声にかぶさるように、今度はとても近くから、お兄ちゃんの切羽詰まった息遣いが耳に入ってきた。私はもうすぐ終わる、きっとあとちょっと、あとちょっと、と自分を励ました。
 「どこやろなあ……」
 お兄ちゃんは何やらそんな言葉をぶつぶつ呟きながら、少しずつ私のそこを弄る手つきを激しくさせた。私は彼の手つきを凝視した。
 骨ばった、大人の手の甲。それが、日焼けした、筋肉に彩られた二の腕まで続いている。私の小学生の細腕よりは、スーパーヒーローズのキャラクターの腕によほど良く似ていた。
 しかし、彼は私と対峙していなかった。彼はただ長い指を無駄にしていた。強い拳を作れる筋肉の盛り上がりを無駄にしていた。
彼の人差し指だけが、ちいさな蟻をせっかちに撫でるかのように、小刻みに動いていた。
 彼は荒い息遣いを無駄にしていた。この吐き気のする指遣いの為に、彼の美徳を全て無駄にしていた。私は、世にも大きな罪が犯されるのを目撃していた。何かが、切り取られようとしていた。私の持つ、太筆で書いた字のように力強かった、何かが。
 止めなくては。お兄ちゃんが性器の襞を強くつねった時、私は叫んだ。
 「やめてよっ!」
 自分のものとは思えないようなヒステリックな声が出た。兄ちゃんはすぐに手を止め、面食らったような顔でぼそりと小さく謝った。

1-2

 当時の私はその行為が何を意味しているのかを知らなかった。その代わり、終わった後にもの悲しい感情が湧いてきたのはよく覚えている。
 私は幼いながら、私の体の上で行われたことが暴力であったことを悟っていた。そして私は暴力を受けた事実よりも、自分に与えられた暴力の”種類”に落胆した。指先での暴力。私はその耐えがたい地味さの為に、私を触る手は、無駄にされていた。
 彼の男らしい手は、腕の筋肉は、戦士のように、拳を握り、突出し、人の力を奪うという行為のためにある筈だった。しかし、彼はそうせず、奇妙な動きで私に触れた。
 私のいる場所から、スーパーヒーローズの世界はずっと遠くにあるのではないかという仄かな予感がした。暴力は私の体に、”あのように”触れるものであり、私の体の中に宿るものではなかった。
 正当化された暴力が支配する妖しい世界に、私は入ることを許されないのだとしたら……?
 私はあの時、はっきりと心で理解した。
 「ケチ」
 私は思わず呟いた。あまりにケチだ、と思った。
 暴力とは筋肉のたっぷりのった太い腕、妥協を許さぬ、美学をのせた、核兵器でも戦車でも敵わないただ一つの腕でもって行われるべきだ。スーパーヒーローズの心揺さぶるあの姿。人間の握り拳とは、世界中のどんな兵器よりも強くあるべきだった。
 従兄弟は倉庫から私を連れ出して部屋に戻り、「ちょっと梨を取ってくるから待っちょれ」と部屋からそそくさと出て行った。一人で部屋に残された私は、床に転がった、ゲームのパッケージに映る私のヒーロー達をぼんやり見た。全て、兄ちゃんが操作していたキャラクターだった。
 強い戦士達が繰り広げる冒険の世界。私はこの短い間で、自分がこの世界に入る権利を失っていた。今はそうでなくても、いつか、いつかは、ここに入れると思っていたのに。唐突に、スーパーヒーローズは別世界の出来事のように遠くなってしまった。
 この出来事がきっかけで私は「兄ちゃん」となんとなく疎遠になってゆき、夏に田舎に赴いた時もぎこちない会話以外は交わさなくなった。同じようにスーパーヒーローズの戦士達の存在は曖昧になり、少しずつ私から遠ざかっていった。
 私はスーパーヒーローズのキャラクター達の性格も、彼らの目的も冒険も知らなかった。私が持っていたのは断片的な英雄のイメージだけ……小さな私が彼らに近づくには、従兄弟の存在が不可欠だったのだ。
 彼らへ続く鍵を永久に失い、私の苦く幼い夏は終わった。
 しかしこの後も、戦士たちへの憧れは曖昧な像として居座り続ける。鋼のような肉体。彼らだけの言語。あの力。あの暴力。……かつて愛した死者に思慕の念が続くように、その後も、私の無意識を圧迫した。

 次の記憶の中で、私は個人病院の待合室にいた。母の腰痛の治療か何か一緒に付き添って来ていたのだろうと思う。私は退屈のあまりしきりに貧乏ゆすりをしたり、腕の関節を無意味に折り曲げたり伸ばしたりしていた。
 病院とは何のために行くの、と母に聞くと、悪いところを治す為に行くのよと言った。そしてふと思いついたように、私が生まれる前、母がずっと若い頃に体に大きな腫瘍が見つかったことがあるという話をした。医者からは「これが悪性だったら終わりだ」と言われたという。
 「終わりって、どういうこと?」と私が聞くと、母は言った。
 「私はもう死んでしまっていたということ」
 母は冗談めかして言った。母は死の恐怖に怯えたが、結局その腫瘍は良性だったのだという。手術をして取り除き、母は今日まで健康に生き延びた。ざっと一時間ぐらいは待っていたのではないだろうか。その部屋には煙草の匂いが充満していた。灰皿の上に煙草の吸殻が残っていた。私は奇妙な匂いのするそれを手に取って、まだかすかに火種が残る先にそっと指先を近づけ、皮膚の上にじわりと広がる熱を楽しんだ。
 その次には町の小さな英会話教室にいた。濃い緑色の掲示板の上には、一文字一文字が異なる派手な色遣いで今月の予定が書いてある。日本語の出来ない英会話教師と、日本語しか話さない小さな子供たち。アメリカから帰ってきても英語が話せるようにと、両親が暫くの間私を子ども向けの英会話スクールに通わせていたのだった。
 金髪の男性教師の目はビー玉のように青かった。彼は眼鏡をかけていた。私は薄いレインボーのうねりを含んだ繊細なガラスを隔て、どこか遠く感じる彼の目をまじまじと見つめた。
 カードの山から一枚ずつ取ると毎回違う模様が出るように、強く興味を惹かれるものと、単なる背景がめまぐるしく交互に映る日々が続いた。
 混じりけのないときめきは、私のごく短い“少年時代”と共にある。
 私と同じく、自分の興味以外にはまるで無頓着な同級生たちに囲まれ、追いかけっこや缶蹴りに興じた。努めて無邪気な感性を追い求め、澄み切った子供に戻った。私はスーパーヒーローズへの毒に近い興味について、悪い夢を見ていたように思い始めていた。「スーパーヒーローズ」と口にすることすら恐れた。私は発芽しかけた幼葉を自らちぎり取り、知らぬふりを通して日々を過ごすことに決めた。
私のクラスでは定期的に行われる腕相撲大会というものがあった。
 みんな一緒にスタート、みんな一緒にゴール、という教育方針の中、子供たちの方が弱肉強食の論理を敏感に理解しており、勝ち負けがはっきりつくこの大会はよい興奮剤だった。
私はクラスの腕相撲チャンピオンであった。いちばん力持ちだったわけではないが、小技を使っていつも上位に上がっていた。
 その日も、私は今回も自分が優勝か準優勝をするだろうと思っていた。トーナメント式に試合が行われ、私は初め女子たちとの試合で連勝していた。
 次の対戦相手が、色白でひょろりとした体型の男の子だった。その大会では彼が一番はじめの男子の相手であった。
 大したことはない、早く勝ってしまおう。彼とは何度も戦ったことがあるが負けたことがなかった。
 審判のレディー、ゴーの掛け声で戦いが始まる。いつものようにすぐに私の腕が望む方向へ動かなかった。私は硬直した。私の焦りが高まるのと比例して、観客の熱気が高まった。相手の顔は赤く変わっていた。私が驚いている隙に、彼は私の腕ごと、絡み合った肉の塊を、机の上にねじ伏せてしまった。
 負けたのだ。悔しいという気持ちは沸かなかった。ただ、何かの間違いが起きたと思った。
 大丈夫、次に勝てばいい。
 それでも拭い去れない嫌な予感が、しつこく背筋を這いまわる。忘れようもないあの台詞を耳にした。
「フミちゃん、女子としては大健闘だよ」
 観客の中の誰かが言ったこの慰めは、ひどく侮辱的に響いた。
 実際に、嫌な予感は当たる。確かに間違いは起きていた。そして、想像よりずっと、大きな規模で起きていた。私はその後、相手の男子ほとんど全てに勝てなくなっていたのだ。
『女子一位』……結果として、これが私に新しく与えられた称号だった。
 それまで腕相撲チャンピオンであることに対して特に誇りを持っていたわけではなかった。私はものぐさで、どちらかと言えばこの恒例行事を面倒臭がっていたのだから。
 ムキになってその過去の称号を誇りにし、周囲に喧伝めいたものを始めたのは、皮肉にも初めて敗北した後からだった。私はこうすることで少しずつ本物の敗者になったのであり、過去の栄光を持つという意味で、齢十程度にして既に老い初めていた。女はこのようにして、男よりも早く老いを経験するように出来ている。
 しかしここで引きさがれる私ではなかった。腕相撲で負けたという屈辱を鎮めるため、私は代わりに指相撲を始めた。指先での戦いに力は必要なく、技術さえあれば強くなることが出来る。私は復讐のように腕相撲で負けた男子に指相撲を挑み、勝利した。
 「そんなものより、指相撲をやろうよ」
私はどこかで腕相撲が始まる度、強がって大きな声でそう言った。指相撲では、群がってくる同級生を相手に、性別に関係なく私は負けなしだった。 私は強いのだ。誰よりも強いのだ。しかし、気持ちは一向に晴れなかった。
 私がそうしてなけなしの自尊心を修復している時、ある日ふと思い出してしまった。
 ぐりんと大きく動き、今度は右へ左へ小刻みに動き、細かい瞬間を捉えようとする。小さな範囲の中でしか動きを許されない、その奇妙な……。
 自分の指の動きを見つめながら、思わず悲鳴を上げそうになった。前触れもなく、自分の性器に入ろうとした、あの日の従兄弟の指を思い出してしまっのだた。
 あの経験と腕相撲チャンピオンの王冠を失った事実が、ふしぎに矛盾なく繋がってしまったように感じた。
 この瞬間まで私はすっかり忘れていたのだ。従兄弟によるあの指先による行為を。苦痛も伴わぬ、激しさも伴わぬ、ただ煩わしい、あの静かな動きを。
 何故あんなことを思い出したのだろう?……私は恐らく、拳でなく指先に生きる運命と苦痛を予感していのだた。私は、ひょっとしたらこのまま、生涯、勝つことも負けることもしないのかもしれない、と。これは曖昧だが恐ろしい予感だった。
 なぜ、指相撲は痛快極まりない勝利や、あるいは胸を削るような敗北を、この胸に与えないのだろう?……私はすぐに指相撲を捨ててしまった。
私は早くも肉体的に少年でいることを許されない段階に来ていた。スーパーヒーローズの戦士たちのような理想としていた体を得る前に、人間の体にすらなれないのではないという恐れすら抱いた。(女が人間の一部であると理解するには私は幼すぎた。女体とは、性的に目覚めていない幼い脳の中には存在しない) この頃から、意思に反して女という生き物に変えられているという被害者意識に少しずつ苛まれるようになった。
 怒るかわりに、私はしばらく逃げを打つことにした。
 しばしば鏡の前で自分の力こぶを作った。皿のようなものが両乳房を多い、そこを基盤にして脂肪を蓄えていく様を無視した。体重測定の日は筋肉質であるために他の女子よりも大きな数字を出す体重が誇りだった。細身なのに体重が重い理由を尋ねる同級生に、元々の体質なのだと得意になって伝えた。
 逃げ場がないと感じた場所は女子更衣室だった。高学年に入り女子の体が丸みを帯びるようになってきた頃、体育の着替えのために女子にのみ更衣室が宛がわれるようになった。
 光がほとんど差し込まない、独特の湿り気を帯びた空間。唐突に異世界に来てしまったようだった。
 「パンツ丸出しで走り回るのやめなよ。ちょっとは恥ずかしいと思った方がいいよ、女の子なんだし。」
 「ねえ、お化粧ってしたことある?」
 更衣室の外とは微妙に文化を異にする会話のひとつひとつが空気となって狭い室内を満たしていく。ここに入る度に、私の力の一部が吸い取られ、その代わりに彼女らの言葉が強大化していくような気がした。
 入る時は決まって息を止めた。なるべくその空気を吸わないようにと、息を止めたまま着替え始めるものの、すぐに限界が来てぶはっと間抜けな音と共に息が抜けた。大げさに息を荒げる私を見て、そばにいた友達が笑う。
 「なにやってんの?」
 「息、止めてたの」
 私が意味もなく変なことをしていると勘違いした友人たちは笑った。私は気を抜くと蓋を破って湧きあがってこようとする不安を押し隠して笑い返していた。
 
 『絶対に、皆の嫌われ者のハナのようになりたくない』
 私の抵抗は、時に、子供の残酷さを根拠にしていることもあった。
 クラスメイトのハナという女子は大柄で、同級生の女子の中では抜けて身長が高かった。また縦にだけでなく、横にも図体が大きかった。彼女が歩く度に廊下からどしどしという音が聞こえてきそうなほどだった。
 テレビに出てくるアイドルのように大きく輝いた目と大きく広がったわし鼻がミスマッチな顔立ち。無頓着に伸ばされた髪の毛は油ぎり、ふけが浮いている時もあった。清潔感と程遠い外見は、敏感な年代の同級生たちを遠ざけるには充分だった。
 ある日、授業の終わりのチャイムを聞いた後、校庭に飛び出そうとする私を、大きな目を輝かせながらハナが引き留めた。特別楽しいことがあるわけでもないのに、キラキラと光を湛える大きな目がいつも苦手だった。
 「ねえ、フミはアレってはじまった?」
 ハナは言った。声を潜めながらも早口で語ることで、息がくるしそうになっていた。
 「アレ、って何?」
 「アレは、アレだよ」
 煮え切らない言い方をするハナに、私はわざと大げさに顔をしかめた。
 「……何の話かわかんないから、あたし、もう行ってもいい?」
 切り上げるようにまくしたてて、その場を離れようとする。彼女の曖昧な態度が本当に嫌だったわけではなく、単に彼女が馴れ馴れしく話し掛けてくることが気に食わなかった。
 「待って、待ってよ」ハナは私を引き留めた。「アレっていうのは、女の子が、大人の女性になるための、ギシキみたいなものなんだけど」
 背の高いハナのぬるい息が額のあたりにかかった。
 ギシキ。
 私はその言葉を心の中でおうむ返しをした。鳥肌が立つような響きだった。“儀式”の意味は幼い私には分からず、恐らくハナも分かっていなかった。しかし、彼女はテレビか何かで聞いたその言葉を、さも使い慣れた言葉のように声に馴染ませていた。
 世間から弾かれた子供の悲哀に満ちた瞳が、すがるように私を見ていた。
 「私、実は、この間始まっちゃったんだ」
 「……」
 私は無言のままハナの顔を見る。
 「他に同じ子がいないかって思って。フミがもしかしたらなってるかなって思ったの」
 彼女の髪をべたつかせる、洗い流しが足りないリンスの濃い匂いに混じって、かすかに甘い匂いがした気がした。秋初めの生ぬるい風のように、胸騒ぎがゆるやかに煽られていく。
 ハナの二の腕の脂肪の付き具合をちろりと見た。『丸い』という印象で、枝のように細い自分の腕とは対照的だった。
 その丸みに、理不尽な苛立ちを感じた。
 私はお前とは違うんだ、という激しい気持ちが湧く。歯のあたりに靄がかった無図痒さが湧いてきて、奥歯を音がするほど噛みしめた。
 強い目でハナを睨んでいると、いつも休み時間に駆けっこを一緒にしている友人が私を呼びに来た。
 「はやく校庭に遊びに行こう。ハナちゃん、フミちゃんは私たちと遊ぶ約束してたから、かえしてね」
 その子は私の腕をぐいと引っ張った。何も言えないハナを尻目に、強い力で私を校庭へ続く靴箱の方へ引っ張っていく。
 「フミ、ハナちゃんみたいな子と話すの、やめなよ。」
 ポツリと友人が言った。
 私はうん、分かっている、と頷く。そうだよね、あの子と一緒になったら、おしまいだものね……。心の中で言う。
 ハナを軽蔑することが許されていることに私は安堵していた。しかし、私はハナの姿が、何か別のものを覆い隠しているような気がしてならなかった。
 この子は?……私はふと、私を心配する女の子の顔をまともに見た。この子はまさか、無邪気な顔をして、私の知らないことを、知っているのではないか……。
 「ねえ、アレ、…」私は乾いた口を開く。「アレって、知ってる…?」
 「アレ? アレってなに?」
 彼女はきょとんとした顔で言った。私はその無垢な表情を見ただけでほっと息をつく。
 「ううん、なんでもない。ただ、ハナがなんか変なこと言ってたから」
 「あの子、本当にヘンだよね。あんな子の言うことなんか、聞かなくていいよ」
 彼女が取り残されたハナを軽く振り返りながら小声で言う。
 二十分の中休みは短い。ハナなどとの会話で時間を無駄にしてしまったと内心舌打ちをした。私は校庭に遊びに出た。胸にたまる正体不明の不安を、ハナという嫌われ者への軽蔑の中に溶かし込む。
 皆が嫌いなものを私も嫌う。 大丈夫なはずだ。大丈夫。
 その日私は何かから逃げるようにいつもより激しく校庭を走り回った。
 ハナと私は違うだろう。同じところなんか、一つもないだろう。
 駆け回る足が、額から弾ける汗が、休み時間が終わった後も残る手にこびり付いた校庭の土の汚れが、私の正しさの証明になると信じた。

 このように校庭を駆け回り、体を動かすことは得意でも、野球は唯一の例外だった。ゴールにボールを運ぶといったサッカーやバスケットの単純明快なルールと比べ、野球のルールは覚えることが多く、理解の遅い私はなかなか覚えられなかった。
 体育の授業で野球の試合が始まる前、先生から「ルールなんか分かっていなくてもいい。とにかく、打ったら走れ」という言葉に勇気づけられる。
 ウッタラ、ハシル。ウッタラ、ハシル。呪文のように何度も唱えながら、バッターボックスに入る。ふっと息を抜いて緊張を抜く。
私はダイヤモンドの中で事前に言われた「ウッタラ、ハシル」ことをだけやった。
 しかし、実際はそれだけでは上手く行かなかった。「走れ、走れ」と叫ばれた次の瞬間には「戻れ、戻れ」と言われ、混乱して右往左往走り回った挙句味方の攻撃が終わってしまった。結局最後までルールを理解しないままに私が入っていたチームは負けた。校庭から引き上げる時、責任を感じて思わず涙が出た。
 「お前のせいじゃないよ」
 同じチームにいた男子の一人が唇を噛む私の肩を抱いて慰めてくれた。優しい言葉に、胸の中に温水が注ぎ込まれるような穏やかさが広がる。鋭い自責の念を溶かして、無に帰してしまうような優しい熱だった。そのまま、彼が私の肩に回した手に、額を強く押し付けて、ただ黙っていたい欲にかられた。
 しかし。
 「ごめん。……」
 言いながら、大きな腕と共に彼の与える温かさを振り解いた。太陽を反射して目に眩しい校庭の砂の上に、濃い影が落ちているのを睨む。
 そのうち、ルールをきちんと覚えないとならない。そして次に試合に出る時は、きっと大活躍しないとならないと心に誓った。

 私は健康を絵に描いたような子供だった。休み時間も放課後も外で遊び、帰宅すると布団倒れこむように眠った。また、よく食べた。
 小学生の頃に学校で口にしたものは独特だった。時折クラスの不良が万引きしてきたと主張し、仲間意識を芽生えさせるためだけにガムを無理矢理食べさせられた。放課後に寄り道をして空き地の雑草から花の蜜を吸った。
 私は何でも良く食べたが、給食に頻繁に出てくるそうめんだけは好きになれなかった。
 そうめん、そうめん、そうめん。
 呪文のように心の中で唱えながら箸ですくい上げると、くすんだ色のスープの中から白いめんが現れる。
 一口目を口に運ぶ前に、私はどうか美味しくなりますように、と必ず祈った。祈りを捧げることで、何か魔法めいた作用が働き、そうめんの味が美味しく変化するのだと本気で考えていた。二口目も三口目も、そうめんはついに味が変わることがなかった。
 しかし、今回はたまたま魔法がかからなかっただけで、いつかは変わるのではと期待し続けた。世界にそんな不思議が溢れていたらいいのにと考え、日常の楽観的な夢に身を浸した。
同時に、この年齢になると、奇跡を信じられるものとそうでないものに、はっきりと分別がつくようになっていた。楽観的になれるものは、このそうめんの味のようにとりとめもないことばかりだった。そうした『どうでもいい』望みの裏に隠れた真の望みに思いを巡らせないようにした。スーパーヒーローズの戦士たちの肉体がいつも断片的に脳裏に浮かんだが、私はその度にそれを打ち消した。
……悲しみとは遅効性の毒なのだった。
 拒み続けるという叛逆が、私にある種の力を与えていた。私はもう一度その力でもって、私の歴史の中で最も理想に近かったあの存在として、薄暗闇の中で儚い光のような可能性を見る。それは、同級生の松田が見せた可能性だった。
 『ガキ大将』という肩書がよく似合う松田はクラスでいちばん体が大きい小学生だった。
 彼の言葉には、派手な話し方をしなくとも迫力があった。機嫌が悪くなると顔を歪ませたり舌打ちしたりして、相手を怯ませる。笑う時にだけ大きな前歯が完全に露出し、栗鼠を思わせる愛嬌が一瞬だけのぞいた。すでに大人のような体格だったが、いきいきとした目が精悍な男の顔に子供らしさを加え、それだけが彼が子供であるという申し訳程度の証拠だった。
 鮮やかなオレンジが記憶にこびりついている。彼はいつも同じオレンジのパーカーを好んで着ていた。レインコートのようなさらりとした感触の、安物のパーカーだ。
ガキ大将という人種は、おそらく多くの子供にとって、人生で初めて遭遇する恐怖の象徴だ。母親の暖かい乳に甘やかされた子供たちが、最初に目にする社会の理不尽。
 ガキ大将は恐怖で子分たちを圧倒する。彼との距離が近かろうが遠かろうが、ガキ大将は全ての子供にとって生活の中心になる。教室という閉鎖された空間の中で暴君の影響下から逃れるのは難しいからだ。松田は型でくり抜かれたクッキーのように典型的な暴君だった。彼は男子の全てを潜在的な支配下に置き、女子の全てから軽蔑されていた。
小学校高学年になった私たちはすでにお互いの顔に飽き飽きし始めていた。二十人ほどのクラスが二つだけという小規模な学校だったからだ。全ての生徒がお互いの性格と過去を把握し、幼い人間関係はもはや生産性を持たず、残りかすの消費へ向かっていくのみといった段階だった。
それでも松田の周囲にはいつも取り巻きがいた。彼の周りで耳をすましても、彼のいち早く声変わりの済んだ低い声が聞こえてくることはあまりなかった。「マッちゃん、これしようぜ」「マッちゃん、あいつって、ホントムカつくよなあ」代わりに取り巻きの男子たちの、期待半分恐怖半分の上ずった声ばかりが聞こえた。
彼は暴君であり、周囲に無意味な攻撃をしかけた。
 「あいつって、キモいよな」
 松田のこんな気まぐれな一声が、簡単に仲間外れやいじめを誘発した。彼はその様子を止めるでもなく涼しい顔をして見守る。彼は自分の影響力をよく理解しているのだった。
 しかし、なにもその力で周囲を皆殺ししようなどとは考えないらしく、攻撃を仕掛ける場所についてはそれなりに頭を使っていたようだった。彼の圧力は常にぎりぎりで耐えられる程度だった。彼は虐げるべき人間を的確に見抜き、それ以外の人間には友情と理不尽な攻撃をバランスよく与えていた。
 私は五年間で松田とは奇妙な友好関係を形成していた。中休みに校庭での駆けっこなどしている時、挟み撃ちをして共通の敵を捕まえるなど、私と松田はしばしば共闘することがあった。互いに憎まれ口を叩きながらも、深く干渉し合うことはなく、特別親しくない代わりに本気で憎み合うことはなかった。乱暴な松田を忌み嫌う女子の悪口に頷きながらも私は本気で同意することはなく、松田は松田で、女らしさに欠けると早熟な男子からは嘲笑の対象になっていた私の服装を笑うことをしなかった。
 よく喧嘩をしたが、本気で憎んでいたわけではなかった。むしろ親しみを感じていた。多くの女子の意見に流される形で彼を疎ましく思っていたが、この乱暴者のガキ大将の傍こそが私の心理的な避難所だった。彼の傍で、私は更衣室にいる時と逆の気持ちを感じた――清涼な空気を胸一杯に吸い込めるのだった。
 私の身体は変化を始めていた。私は不気味な何かに抵抗していた。得体の知れぬ不安の底なし沼へ沈むのを止めるために、松田の目が必要だった。
 彼の私を見る目は、無関心と受容の片方あるいは両方によって、透明だった。それは中性を見る目だった。彼の目を通して、成長を止める水の中に自分の体が浸かっているように感じた。その水の中で、私の髪は永遠に短髪で、細い枝のような手足はこれ以上丸くならないと感じたのだった。
 あの頃すでに周りの友人の頭の中では、私を置き去りにして「女子」「男子」という区別が進んでいたのかもしれない。ジョシ、ダンシ、この言葉は私が思うよりも前から流行っていたのかもしれない。松田との関係において、私に女としての魅力が少なかったことが上手く働いていた。松田は例に漏れず早熟で、性についての興味を隠しはしなかったが、私のことは決して女として扱わなかった。
 ある時、にやにやと怪しい笑みを浮かべながら、松田が一人の女子に近づいたことがあった。
 「お前って、ショジョ?」
 「……ショジョって?」
 彼女が聞く。私も分からなかったが、女(じょ)という響きから、女に関わりがあることだと予想した。
 「ショジョはショジョだよ。いいから答えろよ」
 その女子は、松田を適当にあしらうつもりで、「違うよ」と言った。否定しておく方が無難だと思ったのだろう。松田はその子の返事を聞くなり甲高い声になって、「なあみんな、こいつ、ショジョじゃないんだって」と叫び回り始めた。教室の中の生徒たちは、意味を理解しているためなのかそうでないためなのか、一様に困った苦笑いを浮かべながらその女子を見ていた。
 松田はこのようなからかいを私に対してはしなかった。その代わり、私をいつも温い惨めさで包む負け試合へと再び駆り立てた。腕相撲のチャンピオンの座から引きずり降ろされた傷がまだ癒えない私は、自分の負けが決まっているような男子との駆けっこなどを敬遠するようになっていた。
 しかし、惨めな戦いにだって、種類があるのだった。松田は何度も私を負かせた。あの透き通る目が私を何度でも勝負の場に連れてきた。その目で私を見る彼のそばにいる限り、たとえ負ける運命でも、同じ戦いの舞台に立っていられる気がしていた。
 体育の授業でする駆けっこは、出席番号順に行われており、私と松田はよくペア同士になった。
 松田は腕を伸ばし首を回し、入念に準備体操をしながら、すぐ隣で走るコースの確認をしている私に言った。
 「お前に負ける気はしねえよなあ?」
 彼は小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
 それはそうだった。松田は男子の中でもトップを争う走者だったし、二回りほど違う体格を考えても、私に勝ち目はなかった。
 「本気を出したら私が勝つかもよ。」
 そう言った時も、何も本気でそう思っているわけではなかった。むしろ、松田にそれを伝えておくことに意味があった。私はこれから真剣に戦う用意があると、彼に知らせる必要があった。
 「いや、普通に俺が勝つし」
 子供っぽくむきになる松田の、いつも私を見る透明な目が闘志の炎に傾く瞬間を見る。手加減しないで本気で行く。そういった、暗黙の密約が私たちの中で交わされた。
 「位置について。よー……い」
 笛が鳴ると同時に松田と私は走り出す。
 走る時はいつも時が止まっている。映画の特別なシーンで急に音の止まる演出のように、世界から音は消え、私以外の人間は止まる。ドッ、ドッと下半身から鈍い音が聞こえる。ついで、うなるような風の音が聞こえる。
 私以外にも、もう一人だけ、同じ世界で動いている人がいることに気が付く。松田が動いている。私は彼の背を追いかける。左右に軽く揺れながら走る松田は、近づけば近づくほど遠ざかる。
 ……もし、今、少しだけ私が加速したら、ひょっとしたら追いつくことが出来るかもしれない。
 太ももにもっと加速しろ、と命令をする。少しずつギアが上がっていく。
 ……ドッ、ドッ、ドッ、ドッという遠い音が大きく、激しく、間隔が短くなる。松田が近づき、そしてまた離れる。ああ。これは私が地面を蹴る音だ。そう理解したとき、私はゴールに着いていた。
 短距離を走り終わった後はいつも軽い記憶喪失になる。別の世界に行っていたみたいに、走った時のことを何も覚えていない。ただ脳裏に、松田の背中だけが焼き付いていた。
 松田は、真っ白になった私のはるか前で屈みながら、私を待っていた。
 「ほらな? まるで相手にならねえ」
 彼は息を整えながら私を挑発した。
  私は何も言わなかった。私は彼が本気で走っていたことを知っていた。脅威とみなしていなければ全力を出して息を切らす必要はない。
 彼の目に真剣勝負の残り火が宿っているのが見えた。私は満足だった。目を軽く細めて彼を見た。
 「そんなこと言って、追いつかれかけたくせに」
 松田はにやけた唇の先からふっと息を吐く。
 「いやあ。余裕だと思って途中で一瞬チカラ抜いたら、お前の髪がすぐ横に見えたから。ヤベエ、って思って」
 笑う彼の顎から汗がいくつもと流れ落ちる。松田の小麦色の頬は、いつもオレンジの日焼けが覆っていた。私の反応を試すように、松田はわざと頭を下げて、下から上目遣いをした。彼のこういう表情を見ると、自分が男に戻ったように感じるのだった。

1-3

私にとって、松田といえば血だった。
 切っ掛けは、彼が何の気なしに見せてきた転び傷だった。
 「なあ、さっき転んだとこ、血ィめちゃくちゃ出た」
 彼のしなやかな足、転んで傷口に入った砂が血の赤を覆い隠す不似合いな色合いに、私はうっと声を上げた――鼓動の高鳴りと共に、傷口をまじまじと凝視する。
 私の顔に恐怖の色が浮かんだのを見抜いた松田は嫌らしい笑みを浮かべた。
 「さては、血が怖いんだろう?」
 答えない私の顔を見てより面白がるように、松田は指に血を付けて私の目の前に持ってきた。
 「ほら、血!」
 見ろよ。泥の混ざった鮮やかな赤に、私は呻いた。
 この時の私のしかめ面に味を占めた松田は、それ以降、ことあるごとに私をからかうようになった。
 健康診断で注射をする時は「お前の体から、注射器で血がチューって脱け出していくのを想像してみろよ」などと言ってみたり、図工で絵具を使う時は赤い絵の具を腕にたらし、「ほらほら、血」と言って悲鳴を上げる私を追いかけた。
 幼い私の世界からは血の色は徹底的に排除されていた。テレビでもアニメでも、血を見せないように配慮されていた。あのスーパーヒーローズですら私に血を見せようとしていなかった。
 現実の生活の中でも、体から血が出ることは減っていた。高学年になると身体が重くなり、校庭でも無茶な走り方はしなくなった。擦り傷や切り傷は以前と比べて少なくなっていた。血とは幻想に似た遠い世界のものだった。
 人の体からしたたる赤い血とは、どんなものだろうか。松田は私に血を思い出させ、知らずの内に、私はこの未知の存在に魅せられていた。
 私が始めたのは子供の漫画のような想像だった。マスコットのような人間が、ただの一発殴られたら、血が頭から噴水のように噴き出したり、胴体から桜が散るように華麗に血が飛び、目は×印になり、くるくると回る。殴られる時の音は、あのスーパーヒーローズのゲームで、戦士たちに蹴りを食らわせる時の軽快な効果音で再生された。
 私は松田が私に血を思い出させるたびに顔をしかめた、彼はそんな私を見て喜んだ。こうした教室の中で異様な会話を聞きつけた仲良しの女子たちは心配して近寄ってきた。
 「よく松田なんかと仲良く出来るねえ」
 「仲良くなんかないよ」
 「でも、いつも友達みたいに話してるじゃん」
 友達。思いがけず甘く響いたその言葉に、私は頭を殴られたような眩暈を感じた。対等――という言葉がふっと浮かんだ。
 「ううん。……あいつ、本当に嫌な奴だから」
 私は言いながら、胸に溶けるような優越感を抱いた。
 他の誰も、目の前の女の子も、私と同じようには彼の傍にはいられない。
 私は誰とも違うのだと思った。女子皆が嫌っていた松田のことを、私だけは密かに慕っていたのだから。私は、学校の王様である松田が対等な友人として接する、ただ一人の女子だったのだから。
 体育の時間に他の女子とも競争することになった松田を私は遠くから見つめた。ジョギングのようにふざけて力を抜きながら、必死に走る女子の前を呑気に走る松田を見て、言い知れぬ喜びが腹の底に湧いてきた。
 
 失望の前触れはそのようにあちこちに散らばっていた。更衣室しかり、次々に私の身長を追い越していく男子しかり。しかしどれも決定打にはならなかった。ある知恵と共に最後通牒が告げられるまでは。
 保健体育の教科書の上に描写されていた。性を教える為にむしろ性を削ぎ落としたような、能面じみた二つの裸の肉体から伸びるいくつもの直線。
私はその、お行儀よく並んだ、向かって右側の方の体に近づいていく運命らしかった。これから私たちは例外なく、この丸い肉につつまれた得体の知れない生物に変わっていってしまうのだ。
 衝撃的な事実に、頭の方の理解が追いついていかなかった。その半信半疑な衝撃から抜けきれていない所に、嫌われ者のハナが伝えたかったであろう『アレ』を説明された。
 その後、同級生の女子たちの内緒話のような申請がポツポツと始まるようになった。
 『大人の女性になるための、ギシキ。』
 あの日”ハナ”が言った言葉。
 これはハナのこと。だから、馬鹿にされてしかるべきではなかったのか。
 でももし、そんな下らないものの為に、血が、使われるとしたら? 血とはもし、本当はそんなものだとしたら……?
 私は否応なく大きなうねりの中に放り込まれていた。周囲の女子は誰が『アレ』が始まったか、始まりそうなのかとひそひそと話しあっていた。その中には誤魔化しようのない張り合いの空気があった。
 「あの子は始まったんだって」「あの子はあんなに胸が大きいのにまだ始まっていないんだって、意外だね」この粘度に満ちた時間を嫌悪した。今度は、ハナの時と違い、誰もこの嫌悪を支持してくれなかった。
 戸惑う私を取り残し、周囲の女子は着々と「女」としての自覚を芽生えさせているようだった。
 「ねえ、みんなこないだ保健の授業でやったアレって来た?」
 体育の授業の後、更衣室の中で一人の女子が友人にこんな話題をふった。私はぎくりとして手を止めた。気が付くと聞き耳を立てていた。
 「私はまだ来てないよ」
 「私も」
 周囲の女子たちが口々に答える。殆どの女子にとってはまだ未知の領域であるようだった。
 「私は来てるよ」
 背が高く発育がいい一人の女子が答えた。周りの女の子たちは好奇心で前のめりになる。
 「どんな感じ?」
 「…めんどくさいよ。なんだか体がだるくなる」
 「私も、はやく来ないかなあ」初めにこの話を振った女の子が言った。「だって、アレって、オンナであることの証明でしょう」
 女子たちは、「早くアレが来てほしい」という願いを共有していた。未知のものに早く馴染んで安心したいという気持ちも、授業で教えられた「大人になった証」といったキャッチコピーへの漠然とした憧れもあった。
 「だから、そんないいもんじゃないって!」
 『アレ』が来ている女子はそう言いながら嬉しそうだった。周りの女子はかすかな反感のこもった目つきでその子を見た。
 「やっぱ、背も高いし胸も大きいもんね」
 「アレが来たら大変なんだろうなぁ…」
 彼女たちは極めて軽い口調で、口々に言った。
 着替え終わり更衣室から出ていく時、端の方でごそごそと着替えていたハナと不意に目があった。ハナは、妖しく口の端を釣り上げ、何か言いたげな顔で私を見つめる。
 『フミちゃん。やっとわかったでしょ、この間話したことの意味が』
 彼女の不気味な笑みの中に、親しみが籠っていた。背筋がぞっと凍った。胸の中の黒い塊が、ハナの視線を受けて、一秒ごとに爆発的に膨れ上がっていく。
 違う。違う、お前なんかとは違う。
 「トイレに行ってくる」
 私は叩きつけるように友達に宣言すると、更衣室から飛び出し、駆け出していた。ハナに話し掛けられたくなかった。ハナと一緒にいるところを松田に見られたくないと思った。
 ああ。イヤだ。
 この体に閉じ込められた私を誰が救ってくれるだろう?
 私は職員室近くの人が来ない女子便所に籠って、温度の下がったドライアイスを触るかのような慎重な手つきで、こわごわとそこを包み込んだ。息を詰めた。毛の一本も生えていなかったそこの皮膚は、他の場所よりも柔らかい。
 探るように動かし、指先の沈む場所を探り当てる。 ……ここから? 松田が私をからかった血と同じものが出るというのか?
 女子便所から出た私は、青い顔を隠しきれなかった。あのように教えられた種類の血が、自身の属する色だと信じることをひたすら拒み続けた。同じであるはずがない。同じであるはずがないのだ。

 その日はひたすら憂鬱だった。昼休み、チャイムの後に校庭に向かう足はかつてない程に重かった。校庭では友人らが野球を始めていたが、参加する気にはとてもなれなかった。木登りが好きだった私は、登りやすい低めの木に登り、枝の上に足を投げ出して専用の席を作った。
 そして、もう逃げるのは限界なのだろうか、とぼんやり考えた。
 頭の中に音程の狂った童謡が流れてくる。木の上からは皆が野球をやっている様子が良く見渡せた。空虚な目でその様子を見るともなしに見る。みんなの中心にいるのはやはり松田だった。
 松田には躊躇いがなかった。ボールを投げる手つきにも塁と塁の間を走る足にも自信が滲み出ていた。彼には弱味などなかった。彼は嫌われ者でありながら、みんなの羨望の的だった。
 松田は歪な私がなれなかったものに近づきつつあった。松田を見つめる私の目には、何か別のものが混ざりはじめた。暗いものが鈍い音を立てて体深くに染み込んだ。
 「おい、見ろ。あそこに変なサルがいるぞ」
 松田は葉の陰から少年達を見下ろす私に気が付き、にやけながら取り巻き数人と一緒に近寄ってくる。
 「野球やらないのかよ」
 「ルール分からないから。前やった時ボロ負けしたし」
 私は前に自分のせいで敗北した時、ルールを覚えて次は活躍するのだと誓ったことを思い出して涙が出そうになった。
 もう、二度とルールなど覚えようとするものか。野球など、二度とやるものか。
 彼の手の中にはボールが握られていた。小学生らしからぬ大きな手には、白球が十分に収まる。前に私が同じものを持った時は掌から零れ落ちそうだった。
 「別に分からなくてもいいだろ、やれよ」
 彼は背伸びをして、辛うじて届いた私の指先を無遠慮につかんだ。その思いがけない力の強さに、私ははっと手を引く。
 触らないで。………危うく、声に出しそうになった。指先に体温が残る。私は松田を睨んだ。
 「イヤよ」
 松田は怪訝な顔で舌打ちすると校庭へ戻っていった。松田は投手だった。ただ一人に視線が集中する仕組みになっているその特別な場所に立ち、悠々と球を投げ始める。
 しばらく見ていると、ビームのような松田の球がバッターの体に当たった。
 「気ィつけろよ、マッちゃん」
 体に松田にボールを当てられた子供が、地面に片膝をつき、横腹を抑えて苦しんでいる。
 松田は涼しい顔のまま二の腕で無造作に汗をぬぐった。額から滴るその汗が、一瞬、赤く見えた。私は目を薄く細めた。
 血を流す松田がいた。横腹をかばいながら塁に向かう男の子の苦悶の表情が見えた。松田に気まぐれに腹を切り付けられ、こぼれ落ちる血を抑えているようだった。
 試合中の松田は一層横暴だった。松田は味方が守備エラーをした時は、怒りを抑えようともせず叱りつけた。横暴に皆が耐えかねて、結託して松田に反逆したらどうなるのだろうか。松田の横顔は、嵐の前の静けさのように落ち着いていた。彼の横顔に動物園で見たライオンを思い出した。この顔が変形するほど殴られたらどうなるだろう。
 私は自分の顔が炎を当てたように火照るのを感じた。
  彼は残酷さと自由の象徴であり、怒れる民の革命を孕み今にも崩れ堕ちそうな危うい王国だった。革命が起これば彼の王国が血に染まる。私はその中に血まみれで横たわりながら、自分の赤色を上手く隠してもらいたかった。
 遠くからチャイムの音が響いてきた。その日のチャイムは、人生で一番のろく、長く感じた。ゆっくりと白昼夢が終わっていく。
 男の子たちは一点に集まり、松田はデッドボールを当てたバッターに軽く謝り、エラーをした味方に笑顔を向けている。彼らは革命の意志なんてみじんもなさそうに、松田に向かってすまなそうな愛想笑いをしていた。

私の『仲間』の体は女びて来た。教室でいちばん背の高かった女子は、いち早く『アレ』が始まったと噂されていた子だ。こけしの胴をミノで削ったような彼女の凹凸にあふれた体つきは、幼い私の目には迫力として映った。
 「腰が痛い」――体育祭の組体操の練習で、彼女は壊れたレコードのようにこの言葉を繰り返した。「痛い、痛い」私は彼女ともう一人の腰のあたりに膝を引っかけてピラミッドを作らなくてはならなかったが、彼女の訴えで私の足は固まった。
 「そこは痛い。もっと右のほうに膝を置いてよ
彼女の口調はいかにも苦しそうで、逆らえないような強い響きがあった。私はごめん、と何度も謝りながら、彼女が「痛い」と言わなくなるまで膝の位置を動かした。彼女は松田の持つ力とは種類の違う力を手にしていた。
 「……う、うん。ごめんね」
 私は彼女の言うとおりに膝を置き、彼女の為に無理な体勢をとりながら息を詰めた。
 ……一方、男子の体も、ますます大人のものに近づいていった。
 ある日、松田のパーカーのオレンジを見た時、あ、と気がついた。全てが意味をなした。世界が180度転換した。全ての景色に色がついたのが分かった。私は松田を好きだったのだ、とはっきり気がついた。新鮮な感覚でありながらも、これはいつも自分の心の中にあったのだという気がしていた。考えてみれば松田は私に影響を与えて続けていた。
 自転車がいい例だ。私は高学年に乗っても自転車を上手く乗りこなせなかった。バランスが上手く取れず母親にこう言われた。
「あなたの自転車さばきは本当に危なっかしくて、見ていられたものじゃない。もっと練習をしなさい」
 頑固な私は珍しく素直に頷いた。タイヤに棘が生えたバイクのような自転車を簡単に乗りこなしていた松田の姿が頭の中に思い浮かんだからだ。もっと自転車の練習をするといって、放課後の日課だったランニングをやめた。その前から走る度に重く感じる体も揺れる胸も疎ましく、やめてしまう理由をいつも探していたのだった。
 他にも様々な変化が訪れた。体育よりも音楽の成績が良くなった。出席番号順で席が決まる音楽の時間は松田の席の隣で、不器用な松田にリコーダーを教えていたら自然に上達していたのだ。
 私はまともに澄んだ音を出すことすら出来ない彼の不器用さを羨ましくさえ思った。彼は指先など使わなくて良い、どうかそのまま、不器用でいてくれと私は祈った。
 宿題の為にリコーダーを家に持ち帰った時、私はたわむれに鏡の前で自分の股間にリコーダーを充てがってみた。私の体には不釣り合いなペニスのあまりの下らなさに自分自身を鼻で笑いながら、私は鏡に向かって小声で囁いた。
 「私にはこれがないんでしょう。舌先でのスタッカート。指先で小さな穴を抑える細やかな動き。それが私にふさわしいことなんでしょう。……でも本当は、これでもいいのかもしれない」
 リコーダーを握りながら顔を上げると、狭い洗面所の天井を覆う大きなひび割れと、凶暴な蛍光灯の光が目に突き刺さった。もし松田が、私の為に、この胸を覆う雲の全てを殴りつけ、痛めつけ、血を噴出させ、殺してくれたなら。……

 放課後には家のすぐ傍の公園ではなく、松田のいる公園へ行くようになった。私は公園の池を眺め、喋りを中心とした女子のグループに混じりながら、野球や駆けっこをする松田と男子を必死に横目で眺めた。
 本を読むこともあった。私はサルのように木に登って見る代わりに、ベンチに座って行儀良くするようになっていた。
 ある日ふと、本の側面にアリが這っていることに気が付いた。引き剥がそうと息を吹きかけて促しても、それは頑なに動こうとしない。私はそれを救うことを諦め、そのまま本を読み続けることにした。
 本を読むという平和な行為は、アリの存在でにわかに緊張感の溢れる光景になった。ページを一枚めくるのにもアリを潰すのではないかと神経を使う。
 しかし、冒険小説が佳境に入り無いように引き込まれるようになると、私はだんだんアリの存在を忘れてしまった。本を読み終わった時にアリは死んでいたのだろうか。それとも本の縁にいて、助かったのだろうか。私はわざわざ確かめることをしなかった。私が本を閉じてアリを押し潰そうが、その感覚は羽よりも軽いだろう。何か月、いやひょっとしたら何年も後の下級生が、本の中に私の消極的な殺戮の跡を目撃したからといって、世界は一ミリたりとも動かない。
 
 "自由な動きを、自在な筋肉を、酸素を好きなだけ含んで一つ一つの部分が別の動きをしているような手足を、それを自覚しないが故にいっそう輝く汗ばんだ黒い肉体に宿る魂を、
 私はある力で押さえつけ、全ての美しさを根こそぎ奪ってやりたかった。生意気に美しい動きを止めてやりたかった。君は地面の上で哀れにも囚われの身になるのだ。これは君を力尽くで押さえつけようとする時こそ、君の自由な、世にも自由な肉体の俊敏さに、最も近づく、女の私の体。"

私は当時、こんなことをノートに書きつけずに済んだ。私の体はまだ、彼らとほとんど違わず動いていたからだ。また子どもという肩書の下、社会的な扱いに男女差はなかった。しかしこの思想の片鱗は、彼らを見つめる私の中に確かに生まれていた。
 私のなれなかったものになっていく松田を女として愛しながらも、兄弟のように愛されたかった。それがこの時の私の矛盾した望みだった。しかし、その一方で、松田が私も女なのだと気がつくことを密かに期待した。
松田が野球するのを横目で眺めた公園の緑の隙間から覗く光と、池の穏やかな波の上に乗る煌きは同じ色をしていた。その池の水面下深くで、私が松田を見る目は少女染み始めた。繊細で美しいヒーローを擁する夢見がちな女子漫画に憧れ、松田の持つ数少ない柔らかさにも惹かれるようになった。例えば松田の目は、母親譲りの薄茶色だった……私はその女のような茶色の目に少女漫画の夢を乗せた。
 松田は私の友人であり、彼の性格を知っていた。冷静に考えれば、彼が恋する幼い女の子にとっての王子になりえるはずがなかった。彼が女子を褒めて良い気分にさせるところなども想像すら出来なかった。それでも気が付くと夢想している。その有様を自分で軽蔑する。私の意地が体にも心にも遅れを取り、変化に頑固に反対しているようだった。

 私たちは小学校最後の春を迎えていた。
 スキ、キライ。
 廊下を歩いても教室で友達と話していても、この二つの言葉がひっつき虫のようにしつこくついて回るようになっていた。同級生たちは、異性の誰が特別に好きかで色めき立っていた。小学生たちの恋心は季節を選ばない。恋の話は男女問わず、通学中や休み時間には一番人気の話題だった。
 スキ、キライ、スキ、キライ。
 子どもたちにとって腹の中の秘密は、最も繊細であるゆえに、早く共有してほっと息をつきたいのと同時に、容易には握らせられない弱みでもあった。噂が広がると当人の評判に関わるからだ。
 そう為小学生たちは、会話の中で暗号めいた目配せを張り巡らせ、秘密を知る切っ掛けを得ようとした。
 この時に、誰の秘密であるかはそれほど重要ではなかった。多くを集めれば集めるほど持つ者に優越感を与える、ある種の勲章のような性質があった。
 「オレ、あいつの好きなヤツ知ってる」
 「へえ、可哀想だねえ、別の子が好きなのに」
 謎めいた仄めかしを口にして、どれだけ自分が情報通か、勲章を腰からぶらさげて誇るのだ。私は口の堅さが信用を得て、比較的多くの勲章を手にしていた。
 女子に最も人気だったのはサッカー部の内倉とクラスで一番足の速い田代だった。今彼らの顔を思い出そうとしても、不良品の粘土細工のように形を結ばない。目を思い出したと思うと口の方がどろどろに崩れてしまう、逆も然りだ。私が覚えているのは彼らの名前のみだ。私は内倉や田代のことを『スキ』で、何度も彼らの名を言ったからだ。何度、好奇心に目を輝かす友人らの前で、彼らの名前を、特別な響きを演出して打ち明けたかしれない。上ずった叫び声を同時に出す友人たちの、「やっぱりそうだったんだ」。
 ある時は田代と言い、ある時は内倉だと言った。どちらもスキだから、選ぶことが出来ないと言った時もある。
 「それじゃあユキちゃんもケイコちゃんもライバルだねえ」
 私の秘密を握った興奮で顔がほころぶ友人を前に、私は静かに、本物の方の秘密の重さに耐えていた。
 松田への気持ちは雨の日に水を吸った靴下のような重みを含み始めていた。軽々しく口にすることは出来なかった。
 スキ、キライ、スキ、キライ。……
 他の子どもと一緒に幼稚な花占いをやったこともある。あの原始的な恋みくじをやる時はいつも、内倉でも、田代でも、私の虚構の秘密を知る仲間に聞こえるように声高々に宣言した。私の本当の願いは、通学路でみんなと別れてからすぐの空き地で摘む花の上にかけられた。
 松田は私のことを、好き、嫌い、好き、嫌い……。
 又聞きの噂に聞く松田の好きな女子は二転三転した。彼が好きらしいのは、クラスでいちばん可愛いと噂の女の子であったり、転校生であったり、松田と関わりのないような大人しい女の子だったりした。
 反対に女子から彼の名前が出ることは決してなかった。『松田だけはありえない』……それが女子の彼への基本的な評価だった。
 暴力的。怖い。嫌がらせばかりしてくる。近づきたくない―――気にしていると悟られないようさりげなく理由を聞けば、彼が嫌われる理由はいくらでも出てきた。彼の悪口を絡めて語られる彼の恋愛対象としての『ありえな』さに、私はこれ以上ない程に首を大きく動かして頷いた。
 「おかしなこともあるもんだよなぁ」
 男子が野球に興じている時、女子が集まって松田の悪口を言っていた時、ボランティアとして不定期で野球を教えに来ていたOBがポロリと零したことがある。
 「好きにならない方がおかしいと思うけどね……アレ、一番かっこいいもん」
 日焼けした肌を輝かせながら野球にいそしむ松田を、OBの目はまっすぐ見ていた。
 「ひょっとして、松田のこと言ってるの?」
 なるべくさりげなく言おうとしたが、声が上ずりかけて、反対に不自然なほど低い声になった。
 「大人っぽさというより、男っぽさがスゴイよね。小学生であれだけの体つきだし」
 松田を見つめるこの大人ののっぺりとした横顔を私は疑り深く睨んだ。この大人は、ひょっとすると見透かしているのではないか。私の、松田への、気持ちを。この感情を。窒息しそうになりながら、その感覚を同時に楽しんでいるようなこの感情を。
 しかしOBは大人特有の無頓着な笑いで私の子ども特有の自意識過剰を吹き飛ばした。
 「いくら六年生のおねえさんっていっても、まだまだ女の子たちはみんな子どもなんだなぁ。もう二年もすれば、オレの言ってることも分かるようになるさ」
 私は納得がいかないというように首を傾げた。一つには彼が松田に関して言うことを理解できないように見られたかったから。もう一つには、実際に彼の言葉に違和感を覚えたからだった。
 そうなのだろうか?……
 私は特別大人で、その為に松田の魅力を理解していたのだろうか。私の同級生の女の子たちは、まだ子供であるのだろうか。そんなことはないと直感が告げていた。この何かが掛け合わない違和感は卒業するまで続いた。

 スキ、キライ。年齢が上がるにつれこの新しい玩具は学校中を好き勝手に浮き上がり飛び回り、それら同士の衝突が子どもたちの喧嘩の原因になることも珍しくなかった。
 自分の想い人と仲良くした同性に対する幼稚な無視やイジメにより、教室中が険悪になることもあった。嫉妬を素直に言葉に出来るほど子供でもないことがより一層状況を複雑にしていた。こうした喧嘩が始まると、台風を締め切った家の中で待つ時のように胸が甘くざわついた。私は嗅いだことのない血の匂いに似たこのトラブルの匂いを愛した。
 女としての私の人気はほとんど最低に近かった。それはごく自然なことだった。鏡の中に映る私の肩幅はあまりに広すぎ、体つきは細身だが筋肉質で女らしさがなかった。単発でズボンしかはかないこともあり、男の子と間違えられることもあった。
 「スカートとか履いてみたらいいかもしれんよ」
 どういう話の流れか、ある男子が一緒に帰っている時にこんなことを言った。白本という気弱で小柄な男子だった。私の方から自分が男っぽく見えすぎることを気にして相談でもしていたのかもしれない。
 「もともとの顔が男なわけやないし、格好の問題。隣のクラスの鳥居ちゃんみたいなスカートを、フミちゃんも履いてみたらいいんやない」
 白本は好きなサッカー選手が関西出身だということで、インタビューでの喋り方などを真似てムリヤリ関西弁で話していた。生まれも育ちも東京である彼の関西弁は、イントネーションが標準語だったり反対にイントネーションは関西風でも口調がそのまま標準だった。関西から来た転校生には馬鹿にされていたが、白本の方はあまり気にしていないらしかった。
 「ううん。似合わないよ、スカートなんて」
 「そんなことないって」
 「ああいうのは可愛い子が着るからいいものなんだよ」
 「そんなことないで、フミちゃんも結構かわいい…し」
 白本はだしぬけに妙なことを言った。言われ慣れていない言葉には喜びよりも先に戸惑いが湧く。
 「な、だから自信もちや」
 白本のヘタクソな関西弁と弱々しい笑顔。このお人好しな同級生を前に、はじめの困惑は次第に嗜虐心に変わっていく。
 「ねえ、そういえば白本の好きな人って誰なん?」
 私は白本のように関西のアクセントで聞いた。白本は自分もいつも関西弁もどきなのに、急に怯んだような表情を浮かべた。
 「え?」
 「ねえ、誰? 私にだけ内緒で教えて」
 白本の目が泳ぐ。『勲章』を多く持つ者の勘が語っていた、彼は今、特別に好きな女子なんていない。
 沈黙が続くこと一分。私からの圧力に負けて、ついに彼はおずおずと私を指さした。顔を赤くした彼の私を見る目から、素直な彼の心がどんどん自己暗示にかかっていく様がよく見えた。
 嬉しかった。異性から人気な女子は、情報という鍍金の勲章以外にも、こんな甘美な勲章を手にしていたのだ、と気が付いた。知らずうふふ、と声が出た。その笑い方に、自分で驚いた。
 「フミちゃんの好きな奴はだれなん?」
 白本の質問に私は内倉と答えたか、田代と答えたか。ただ、初めての本物の勲章の味にひたすら私は酔っていた。
 私の頭の方が、同級生の恋の匂いを嗅ぎつけては虫眼鏡のように拡大して見ていたのかもしれない。女になることを足踏みしながら横目で恋に興味を示す私はもはや隠し切れないほど矛盾していた。

1-4

 ……私がついに抵抗を諦めたきっかけはある事件だった。
 その日の体育の授業ではクラスを二つのグループに分けてサッカーの試合をした。どちらのチームにも同程度にチャンスが巡り、2対1で片方がもう片方に惜敗するという試合展開だった。体育の後は理科室への移動教室で、理科の授業も終わり、生徒たちが教科書やノートを片付けて教室を後にし始めた時に事件は起こった。
 松田が面倒臭そうにろくに書いていないノートを閉じるのを、私は二列ほど後ろの席でぼうっと見ていた。松田を目で追うのはすでに私の癖になっていた。無意識に松田のペースに合わせるように、前に座った誰かが机の下に付けたゴミを剥がしたり、のろのろと椅子を整列させてみたりしていた。既に先生も帰り、理科室にはぽつぽつと生徒を残すのみとなっていた。
 ふと、私や松田よりずっと前の席に座っていた白本が目に入った。思いつめたような表情で床に視線を落とし、机の上を片付けようともしない。おやと思っていると、彼は急に勢いよく立ち上がり、肩を怒らせて松田の方につかつかと近づいて行った。顔を真っ赤にしながら松田の前に仁王立ちする。
 一目見て只事ではないと分かる白本の様子に、松田も流石に口をつぐんだ。
 白本は長いこと沈黙した後、「なんでオレにパスしなかったんだよ」と震える声で言った。沈黙している間に怒りが勢いを増したように、やっと出た言葉には膨れ上がった怒りが乗っていた。
 「あ?何の話だよ」
 「さっきのサッカーの試合だよ」
 白本の舌がもつれる。緊張からではなく、激しい感情を制御し切れずそうなっていた。
 「オレに最後パスしてればよかったんだ。それで勝てたのに!」
 「うるせえな。あん時はあれで合ってたんだよ」
 白本は先ほどのサッカーの試合での松田の終盤のプレーに納得がいっていないようだった。松田の面倒そうな口調に更に煽られるように、白本の声が大きくなっていく。
 「お前はいつも野球がいちばんだとか言って、サッカーのことは何も分からないだろ!」
 海外のチームを応援しているという大のサッカーファンの白本と、リトルリーグで野球をプレーする松田は、以前にもこのように衝突したことがあった。取り立てて大事でもないはずの喧嘩は、お互いの好きなスポーツへの対抗心から、しばしば必要以上に加熱することがあった。
 「サッカーの何選手がどうとかいつもうるせえけど、いらねえ知識だらけで肝心のお前のプレーはド下手だろうがよ」
 松田は吐き捨てるように言った。
 「お前よりはマシや!野球以外まともに出来ん癖に!」
 白本の似非関西弁を松田はすかさず嘲笑する。
 「ていうか、そのみっともねえ関西弁モドキもやめろよ。みんな笑ってんぞ。関西弁を真似したところで、お前がその選手みたいにサッカー上手くなるわけじゃねえかんな」
 松田がそう言い終わる時、目を疑うことが起きた。小柄な白本が、腕を回転させるように助走をかけて、松田を思い切り殴ったのだ。
 まだ残っていた生徒たちがざわめく。
 不意打ちをうけてよろけた松田の顔が即座に歪み、瞬間、何か別の生き物の顔を貼り付けたように見えた。沈黙と沈黙の間に重々しい舌打ちが挟まる。白本の顔が固まり、軽い後悔の色が浮かんだ時には、遅かった。松田の拳の強打を食らい、白本はよろける程度で済まず、床に派手に倒れこんだ。
 鈍い頭が機能を停止し、状況が理解できない。私の両手は知らずに口元に運ばれ、強く押し付けて甲高い悲鳴をかき殺した。
 松田は白本の胸ぐらを掴み立ち上がらせ、もう片頬を殴っているところだった。鈍い音が理科室に響く。心臓が急に鼓動を打ち始めた。あ、と呻いた声が自分のものではないみたいだった。
 松田の顔は獣の顔だった。唇を顔の左右限界に広げている。犬のように歯がむき出しになっている。滑稽にすら見えるその表情は、息が止まりそうな迫力があった。

 …トク、…トク。
 耳殻でそのような音を聴きながら私の体はまた死から離れていった。私はこの不思議な音楽は何だろうと思った。
 床に膝をつく白本の頬は腫れ上がっていた。自分のされたことが信じられないというように、女がそうするように、そっと殴られた跡を抑えている。松田は相手の出方を見るように、冷たい目で白本を見下ろす。しかし、彼の体を衝動が今にも包み込もうとしており、薄いオレンジのパーカーの下に人を殴るための筋肉が熱く疼いて鼓動を打つのが目に見えるようだった。
 松田はまだ落ち着いてない。白本を助けないとならない。どこかで冷静にそう思う。しかし、常識的な脳が口に何かを言わせようとする前に、喉が固まる。
 言うな、何も言うな。
 その間、目は松田の動きの一つ一つを執拗に追っていた。
 じりじりと目尻を焼く熱いものがあった。私は唇を噛んでいた。松田を愛しているとはっきり思った。
 私は自分の気力が萎えてしまう前に、この生き物と何らかの関係を持たなくてはならなかった。この男がスーパーヒーローズの戦士のようになって、二度と私が触れられなくなる前に。
 松田が今度は白本の髪の毛を掴んでいる。
 中に入らないとならない。
 それは一応、理性的な要求とも一致していた。私は行動に移した。
 「やめて……!」
 どこか聞いたような、甲高く、泣きそうな、それでいて爽やかで、無知な賢さを孕んだ、女の声がした。
 それが私の選択だった。
 松田の体がゲームのストップボタンを押したかのように止まった。振り返って私の顔を見る。ああ、私は中に入れた、と思った。そう思った瞬間、急に涙が後から後から止まらなくなった。松田の目の中に隠しきれない狼狽が浮かぶ。
 「何でお前が泣くんだよ…」
 お前には関係ないだろ。言いながら、松田の表情からは毒気が少し抜かれていた。先ほどの鬼気迫る雰囲気は消えている。
 そう。それが問題なのだ。関係ないのだ。
 私は何も言わずに泣く。静かな興奮が止まらない。私は今、飛んだのだ。松田のように大ぶりな、腕を使った方法とは違う方法で。
 私はこれから、これに関係ないという立場で、一生これに関わり続けてやる。その為にどんな信念も正義も曲げて良いと思った。
 ……私は一生この迸る様な悦びを追いかけ、これの為に死のうと衝動的に決意していた。それが今日まで続く私の呪いだった。
 私は何も恐れず松田に大股で近づいた。大きな体の松田が私を見下ろす。私はその彼と私の身長差を憎み、愛した。魔法めいた力で、私は二、三度瞬きをした。目の玉がひっくり返るように彼を上目遣いで見つめた。水晶玉が私の目玉に宿ったようだった。その周りには薄い涙の膜が張られ、活き活きとした被害者の様を見せたに違いない。
 「なんで、白本をここまで殴るのよっ」
 私はその瞬間とても正しいことをしていると思った。
 愛している。私はこの男を愛している。
 私は大げさな仕草で白本の顔に目を向けて、彼の鼻の穴から垂れる鼻血の赤に見とれた。松田に視線を戻しその顔を睨む。睨むことで、あふれ出そうな愛を松田に告白したのだ。
 松田の顔の上に恐れが浮かんでいる。楽しいと思った。彼の顔に遣り切れなさが浮かんでいる。楽しいと思った。松田がこのように苦しそうで、楽しいと思った。
 松田は黙って唇を舐めた。
 「お前聞いてなかったのか? コイツの方が先に喧嘩売って来たんだぞ?」
 松田が地面に膝をつく白本を指さす。私は言葉では答えず、えぁ、と小さな声を上げて涙を零した。この涙の中に狡猾さを凝縮した時、女として参加することを表明したのだ。私は愛の為に、女になった。
 彼に私を殴ることは出来ないのだ。もう二度と彼とあんな真剣勝負の駆けっこは出来まい。
 松田は暴力を使い、血に染まった。彼は夢を生まれて初めて叶えてくれた人間なのだった。そうして私は急に、安心して女でいられるようになった。
 彼にはそういう力があった。私はずっと前からそれを感じ取っていたからこそ、彼が好きだったのだ。何十人という男女が彼の悪口を言うのを聞いた。私も言った。彼の強さのほんの一欠けらすら削ぐことは出来ないのを知ってのことだった。
 希望は急にその輪郭を増した。涙と高い声には力があった。
 「あんたは本当に最低の男ね!」
 そう叫んだ時、生まれて初めての快楽が身体中を巡っていった。松田は傷ついたような目で私を見る。
 溶けていく、武装が溶けていく。溶けて地に落ちて地面にすいこまれ、跡形もなく消えていく。全てが地に帰っていく。抵抗で歪んだ世界の全てをあるべき位置に配置する引力がこの目に見える。
 「フミちゃん、オレは平気だから……」
 よろよろと立ちあがった白本を私は眉を下げて悲しげに見た。私はこの劇を彩るその舞台道具を愛しく思った。
 私は何者だ? 私は被害者であり、同時に加害者であった。誰も知らない、私だけが知っている秘密だった。私は女であった。そして強大な力を持っていた。この私こそが、この世界の犯罪すべてを作り出したんだと確信した。松田を愛したこと。これからも命が続く限りそうし続けること。この罪のために戦争がはじまり、いつか人類は破滅するのだろうと思った。私はこの予感に震えるような興奮を感じた。
 「お前のせいで、ヘンなことになったじゃねえか」
 松田は私の罪も知らずに吐き捨てた。私は彼を恭しく、ひたむきに見つめた。
 「あんまり余計なことすんなよ!」
 大柄な体を揺らし、大股に歩いて出て行く。ちらちらと振り返りながら松田を追いかける取り巻きたちを眺め、松田の背中を眺め、理科室を眺め、両頬が青紫になった白本の顔を眺めた。舐めるように眺めた。この瞬間を、何一つ見逃したくなかった。狭い理科室の中に、一つ涼しい風が吹いたような気がした。自分が生まれ変わったような気分になっていた。

 私は結局、怪我をした白本を保健室に連れて行くことになった。ここの保険の先生は留守にしていることが多く、その時も保健室はがらんどうだった。
 私は丸椅子に白本を優しく座らせた。心配そうに白本の治療をしながら、ちらちらと乾ききった鼻血の跡や青くなった痣を何度も盗み見た。白本のことは少しも見てはいなかった。
 私は何度も何度も太鼓のようなあの音楽を反芻していた。
 …トク。…トク。
 音楽に合わせて自分がこう言っていたのを急に思い出した。

 「殴れ、殴れ。どちらか、死ぬまで、殴れ。命が、命を、吸収する様を見せろ。どちらかが、どちらかの、力を抜き取れ。目から光を奪え」
 いつか朱川の拳が私の顔を変形させ、校庭の隅の砂場に打ち捨てられたぼろのようになる私の死体を思っていた。私の罪の為に殺された善い人々の死体を思った。私の命は、今のために生まれてきたのだ。ようやく、口を開けて言うべき事ができたから。
 『松田を愛している』
 松田はテレビに映るロックスターに似ていた。私はコンサートが終わった後に余韻に浸っていた。
 「ヘンなことに巻き込んでごめん、許してや…」
 私は首を振った。
 「いいのよ。…それより、痛まない?」
 私は白本の頬の痣を近くで覗き込むふりをして、偶然のように掠めるように唇を触れさせた。白本の口の周りの柔らかな産毛が唇をくすぐる。ああ、松田。この傷の中に彼が確かにいる。この上ない甘い味がした。
 私のファーストキスは確かにこの時だった。この時以上のキスを、私は生涯で一度も経験したことがない。白本がどんな顔をしたのか私は覚えていない。なぜなら、彼はそこにいなかったのだから。
 私はこうして強烈な光景を生れて初めて現実のものとして目撃した。私は生きることを決意し、罪を犯し続けることを受け入れた。
 初恋。無意識に全ての希望を失った時に起こり、洗礼の如く女の信ずる道を決めるもの。これを受けて、私の抵抗はゆっくりと終わっていった。
 はっきりとした性の目覚めを経験し、私はかなり楽観的になっていた。従兄弟が女性器に触れたあの指の動きや、更衣室の空気の粘っこさが象徴するあの絶望を乗り越える為に、光を見つけたのだ。
 私は全てを受け入れていこうと思った。松田と白本の喧嘩は忍耐の前払いのようでもあり、耐え抜いた先に再びあれを与えられるという福音のようにも思えた。
 アクトク。
 悪徳。
 それは輝かしい響きだった。
 学級文庫の小難しい本の中にこの単語を見つけた時、私はその響きに魅了された。どこか懐かしく、正体を知っていたような気がした。それは松田を愛し始めた日の鼓動の音だった。
 アクトク、アクトク
 その音は私を魅了し、心臓の音になって私と一体化する。
 松田が白本を殴った時に聞いた音はこれであった。私は部屋に一人でいる時によく目を閉じて、世にも心地いいこの音を聞いた。
 私は松田を愛し始めてからますます無口になった。駆けっこやスポーツに打ち込むことをいよいよしなくなり、その代わりのように本を読むようになった。本の匂いや紙の手触りを愛した。特にその中に描かれている恋愛に強烈な憧れを抱いた。学級文庫に置かれる優等生のような本の中の、匂わすようなほのかな恋の場面を手垢が付くほど繰り返し読んだ。私はあの日以来、私は全く質の違う人間になってしまった。
 反対に、松田は変わらなかった。自分を王と思っているかのような尊大さで廊下を歩いている。私は胸を弾ませながら廊下の曲がり角で、出入り口にいちばん近い場所――教室の黒板の桟に腰掛け、彼を一目見ようと待っていた。彼は相変わらず私を見る度に血のことを話してからかった。小さな戯れが何よりも嬉しかった。
 彼の頬のそばかすや茶色の目が、彼の表情や言葉に合わせて形を変えるのを見つめた。今まで憎んでいた自分の小さな手を愛した。松田の骨ばった手と私の手の大きさを比べた時の、彼の指先の余りについて、うっとり一日中考えた。彼の大きな歯について、彼がいつも着ているオレンジのパーカーについて考えた。なんてセンスのない服を着ているんだろうとかつて馬鹿にしていたあの服について、食事も忘れて考えていた。
 音楽の授業に松田の隣で聞いた音楽が別の意味を持つようになった。それはどうやら世界で一番美しい曲のようだった。

 良い意味でも悪い意味でも私の人生はシンプルになった。算数にも国語にも意味はない、彼の子供ばなれした四角い頬こそが意味を持った。窓の外から匂ってくるプールのカルキの匂いを嗅ぎ、今ではいくつになってるかも分からない先輩が書いた机の古い落書きを指でなぞりながら、自分の未来に思いを巡らせることはなかった。
 ただ松田を見つめていたかった。松田が歯を見せて笑っている。松田と聞いた音楽が流れている。松田がオレンジのパーカーを着ている。私は学校に散らばったそれらを遠慮なくすすることにより、放っておくと萎えそうな元気を毎瞬取り戻して生きているのだった。私は穏やかな時、ただ彼と近所の花火大会を見に行きたいと願った。感情が高ぶった時、彼の太い腕が私を窒息させることを願った。
 相変わらず松田と走り合いをしたし、腕相撲大会がある時には戦う時もあった。しかし、これらの勝負も、あの事件以来今までとは全く別の意味を持つようになった。彼と真剣勝負をする為ではなく、私は彼に何度でも彼に『負かされる』快楽の為だけに何度も彼に突っかかった。
 彼が弱い私を鼻で笑うのを見ていた。負ける度に私は悔しそうな顔をしたが、心の中では喜んでいた。自分の非力さを、彼の数秒後にゴールする自分の足や、すぐさま地につけられる自分の右手を、素晴らしい贈り物のように思っていた。
 彼が野球をやるのを遠くから眺めるのはもはや欠かせない私の日課になっていた。私はもうルールを勉強しようなどという気も失せていた。そしてそのゲームのルールを知らないことにより、野球の勝負はいつもは私に都合のいい饗宴の場に変わった。松田が投げる球も、振るバットも、人を傷つける為だけのものだった。
 彼がに打席に入る時、食い入るように前傾でどこへでも動けるよう緊張を強める野手たちは、一瞬の隙を狙って彼を殺そうとしている戦場の豪傑たちに見えた。打った後に一塁に走る松田は、決死の覚悟で敵の懐に入り込む侍のように見えた。
 彼はただ他の人間を蹴り続ければいい。後ろを振り返らず、いつものように肩で風を切りながら、その歩を進めるべきなのだ。最も危機的な状況にいる時ですら、殺される時ですら、その目に力を込めるのだ。敵を睨むのだ。夢想の中で、松田は勝つこともあれば反乱軍の猛攻に遭い負けることもあった。しかし、最後はいつも同じだった。
 傷つけ傷つけられ殺し殺された松田が、私の前に膝をつく。彼は諦めたように、この世のすべてを拒絶するように目を閉じる。首を傾げるようにしてのけぞらせ首を露出させ、そこに充てられる剣の冷たい感覚を待っている。私はどこかから剣を持っており、力強い彼の命を血をもって抜き取る。生を諦めて全身の力を抜く夢の中の松田はスーパーヒーローズの戦士の格好をしていた。
 私は喜んで自ら平凡になり、多くの幻想を諦めた。私は弱くなった。あるいは、もともと持っていた弱さを隠すことが出来なくなった。それでも良いと思えるのが愛だった。自分自身を許す気になれるのが愛だった。
 松田は正直で暴力的な男だった。愚かでいられる美徳。露骨に顔をしかめて相手に突っかかっていく無鉄砲さ。それこそが彼の特権だった。
 彼が拳で喋ってくれれば、私は何も喋らなくて済むのだと感じた。何も喋らなくとも充分幸せでいられる。彼が私の代わりに雄弁に喋ってくれる。私は女で、私は思う存分、この世界の恐ろしい予感に怯えていられるのだ。


 その日、私は思い立ってある言葉の意味を聞いて回っていた。『ショジョ』という松田が女子をからかう時に使っていたあの言葉への好奇心がついに抑え切れなくなったのだ。
 甲高い声で騒ぐ子どもたちと、そこから一線引いて低い大人びた声で会話をする子どもたちが一緒に詰め込まれた空間の中、聞き回っていた私の肩を一人の女子が掴んだ。
 「ねぇ、松田の言ってた言葉でしょ」女の子は声をひそめて言った。「アイツ、そういうことにばっかり興味深々なんだよ。最近インターネットにハマって、変な言葉ばっかり検索してるんだって」
 この頃パソコンとインターネットは爆発的な普及が始まり、大変な厚みのある灰色のパソコンは一家に一台あるのが当たり前になりつつあった。松田の家はいち早く取り入れ、放課後に取り巻きの男子たちを招いては、インターネットでゲームや動画を見ていたらしかった。
 「ショジョっていうのは変な言葉なの?」
 「ちょっと、それ、あんまり大きい声で言っちゃだめだよ」
 女の子は大人を模倣したような言い方で私を制止した。そして私の耳に口を寄せ、秘密を教えるように言った。
 「……処女っていうのはセックスしたことない女子のことだよ」
 息を殺しながら、それでいて伝えるのを待ちきれないささやき声だった。
 彼女は早熟で、博識で、外見もとても女っぽかった。唇を赤い色つきリップで常に湿らせ、高校生向けのファッション雑誌を毎月買っているという話だった。
 「処女」とは違い「セックス」に関しては、ほんの少しだけ知識があった。たいした知識ではない。「何かいけないこと」「でも面白そうなもの」「大人の男女」といった、継ぎ接ぎのような曖昧なイメージだった。
 「セックスって、よく知らないんだけど…」
 「うそぉ、知らないの?」
 女子の声に、軽く見下すような色が差す。
 「うん。どういう意味なの?」
 「セックスは、男と女が裸でいちゃつくことだよ」
 男と女が裸でいちゃつく……内容の異様さと不釣り合いな軽い物言いだった。一瞬、消化が出来なかった。
 「何の為にそんなことするの?」
 小学生だった当時としては当然の疑問を口にした。
 「そう、そこなんだよね」彼女は頷いた。「私もそこが分からないの。裸でいちゃいちゃして、何が楽しいのかなぁ」
 彼女は「そこ」と言う度に強調しながら言った。
 「せっかくだから、今日、うちに来ない? みんなも誘ってさ。私の高校生のお姉ちゃんに直接聞いてみようよ」
 願ってもない誘いだった。彼女の家に着き、早速私と友人数人は彼女のお姉さんの部屋へ行った。初めて会った彼女の細い眉と粉で隠したニキビの跡には妙な生々しさがあり、そのせいで大人びて見えた。私はすっかり疎遠になっていた従兄弟のことを思い出した。今は彼は大学生になっているはずだった。
 「セックスは、子どもが作る為にするんだよ」
 お姉さんは言い辛そうに、しかしどこか楽しそうにセックスの意味を教えてくれた。話を一通り聞いた私たちは、震えあがっていた。自分には想像もつかないような行為がこの世界に存在しており、それを自分がいつか経験するのだという事実に衝撃を受けた。一人の友達は嫌そうな顔をして言った。
 「そんなの、絶対切れるじゃん」
 「うん、切れるよ。血も出るらしい」
 私は彼女の家からの帰り道をとぼとぼと歩きながら考えていた。セックスという行為がそれほどまでに生々しいものだったとは。
 他人事のようにぼんやり考えていると、ある考えが閃光のように浮かんだ。小学二年生の夏、従兄弟の兄ちゃんが私にしようとした行為。あれはひょっとして、『セックス』の準備だったのではないか?
 その考えに息が止まりそうだった。もう五時を過ぎており、夕闇が町にせまっている。紫と赤の溶け合った空から何かが襲いかかってくるような気がして、その日は早足で家に帰った。
 約一か月後、私にも月経がきた。
松田に殴られ、体を崩し、唾液と低い呻きと共に、白本の口から出たのではない血が、それとはあらゆる意味で異なる血が、私の下着の中心を汚したのを見た。両親は赤飯を炊いて祝ってくれたが、それは砂のような味がした。
 次の日の休み時間、トイレを出ようとした時に、あの家に招待してくれた女子が話しかけてきた。
 「うそぉ、もしかして、きたの?」
 私がナプキン用の小さなポーチを持っていたことに気付いたのだ。
 「うん…」
 私は頷いた。その子は半笑いを顔に貼り付けながら私をじっと見る。
 「やっぱ、身長とか関係ないのかな。身長が大きければ早いとかいうけど、フミは小さいしやせっぽっちなのにね」
 私の体を見るその子を前に、私は床に目を落とした。洗面台で手を洗いながら彼女は呟いた。彼女が手を洗い終わるまで待つべきか先に出るべきか分からず、「きっと、すぐに来ると思うよ」と言った。
 彼女の口に皮肉っぽい笑みが広がり、鼻を小さく鳴らす。
 「胸が大きい人が早くくるっていうよね。フミ、そんなに小さいのにね」
 彼女はいきなり私の胸に自分の両手を載せた。抗議の声を上げると彼女の手は離れ、彼女自身の胸に移動する。
 「私の方が大きいじゃん」
 彼女は意地の悪さを含んだ声で吐き捨てると、振り返りもせずトイレから出て行った。今のやり取りを見ていたのか、すぐに嫌われ者のハナが近づいてきた。
 「ねえ、どうしたの。なにかあったの?」
 ハナはいつでも、誰かが他の人と喧嘩して一人になったところに現れ、近づいてくる癖があった。
 「なんでもないよ……」
 私は何かを期待するように私を見るハナを睨んだ。相変わらず身体が大きかった。胸元は大きく成長し、もはや乳房というよりは腹の肉と同質のものになってしまっている。
 「うっとうしいから、話し掛けないでくれる?」
 私は先程の彼女と同じ口調で言った。
 誰が早いか、遅いか、これ・それをするのか、しないのか。これから私はそういった戦いの中に身を置く。血を欠いた、世界を動かすことのない戦いの中に身を置く。でも、これでいい。これでいい。自らに言い聞かせるように、体の奥に染み込むまで何度も心の中で呟いた。
 松田が白本を殴る強烈な光景がまだこの目に焼き付いている。私と同じ高さにある巨大な夕焼けの中に、あの映画の1シーンのような光景を鮮やかに思い出すことが出来る。
 これでいい。必要なら、私もあの子のように他の女子を見下そう。唇を赤く染めよう、幻想の中の喧嘩が激しくなるのと裏腹に現実の喧嘩を止めに行って涙を流そう。違和感に耐えよう。違和感とはごく仄かな痛みのことだ。傷の残らない痛みのことだ。白本のような激しい痛みは決して訪れない。鈍い、靴ずれのような違和感。従兄弟が私の女性器を見るために下着をずらした時の違和感。私は傷跡なく死ぬ。その代わり、あの日の天に登る悦びは私のものだ。
 
 最終学年の中盤になると、曖昧ながら生徒の中にだんだんと違いが出るようになってくる。私立受験をする者と地元の中学に進む者の過ごし方が変わるのだ。私は前者、松田は後者だった。私は放課後に進学塾に通い、松田は地元の野球チームで本格的に野球をやり始めた。こうした生活の変化から、卒業のずっと前から私は別れの気配を感じていた。
 進学塾の中には学校とは別の文化があった。そこは文化人たちが寄せ集まったような場だった。四六時中一緒にいるわけではないから、純粋な相手への興味のみで友人関係が維持される。癒着と愛想笑いだらけの小学校の人間関係とは違う。
 私は自意識を苦しめたスーパーヒーローズを長年後ろめたい過去の恋人のように考えていた。ほとんどの友人がその存在を知らなかった。それは私にとっては自身の悪の種のように思えたから、誰にも知られていないことを密かに感謝していた。
 月経を機に性別の本格的な移行が起きていた。明るい子供時代を彩る健康的な記憶に混じり、松田への憧れが増すのと共に、何度もスーパーヒーローズのあの白く発光するテレビ画面が頭をよぎった。
 しかし、スーパーヒーローズが一般的に若い十代にとってどれほど童心を刺激される作品であるかも理解しつつあり、それに関心を持っていること自体が恥だと感じる自分がいた。月経が私の感じ方を急に改まって規定してしまったかのようだった。
 「スーパーヒーローズっていうアメリカのアニメはすごく面白いんだよ」
 不意を突かれて塾の仲間にこんなことを言われた時、私は頰が熱くなるのを感じた。秘密を急に丸裸にされたような気分だった。
 「スーパーヒーローズって、あのムキムキの男が殴り合うやつでしょう。私はそんなものを見たりしないよ。汗だらけだし、暴力ばっかりだし、気持ち悪いじゃない」
 成長するにつれて、内面とかけ離れた発言を本当らしく言うのが上達していった。私はスーパーヒーローズがいかに低俗かといった弁論をしながら、罪を隠す犯罪者のような気持ちだった。
 決してスーパーヒーローズを見たりなどしない。肉体を駆使する彼らの冒険の目的に興味を持ったりもしない。女だから。
 ……これからは紛うことなき女になる。
 そんな決意が湧いてきた。まだ馴染まないその感覚を、すぐに自分のものにしてみせる。子供にありがちな極端さと潔癖さで私は密かに誓った。

 受験がいよいよ近づいてくると、進学塾では来たる世紀末がにわかに話題に上がった。ある男子が、2000年を迎えればノストラダムスの予言が当たり、私たちはみんな破滅をするのだと尤もらしく吹聴し、他の生徒にもその考えが一気に伝染していったのだ。
 破滅を恐怖しながら待ち望む矛盾した心理、受験勉強からの逃亡を望む心境が一緒くたになって、私たちは熱心に『最後の時』の過ごし方を議論した。家族や友人と過ごすという子もいれば、富士山の頂点で最期の時を迎えたいというような強者もいた。
 私は他の子どもと同じように、世紀末を楽しみにしていた。
 『では、もう生きていかなくて良い』
 これは不思議に心躍る考えだった。
 しかし、その次の瞬間には大人になれずに人生が終わるやりきれなさが襲ってきたりする。純粋に怖くもあった。死ぬ瞬間は怖いだろうか、どれほど痛いだろうか。
 世紀末への恐怖と興奮は、シーソーのように片方に重心が傾けばもう片方が薄くなりながら、何度も心の中に上がってきた。恐怖が強い時は松田のことを思った。松田なら世紀末が来て死ぬ瞬間も堂々と、いつものようにふてぶてしくいるのではないか。
 当時に流行っていた映画の影響か、ゾンビが襲いに来る映像が頭にくっきりと浮かんだ。濁った眼をした恐ろしいゾンビに、みんなが体を食いちぎられてしまう。ゾンビが、吸血鬼が、黒い恐ろしい裂け目からやって来る。私たちは今、どんなに努力をしたって、みんな死んでしまう。
 ……しかし、松田とは離れずにすむ。
 さんざん考えを巡らせた後、落ち着いた結論は幼いロマンチシズムだった。
 『死んだっていい。世界が滅亡すれば、松田と別々の中学に行かなくて済む。』
 物事の重さを測る量りをまだ私は手に入れていない。死が分かつ永遠の別れよりも、別々の中学へ行く別れが重いものと感じていた。
 世紀末が来たって、何かの間違いで松田だけ死なないかもしれない。彼だけは生き残り、私のことをずっと憶えていてくれるかもしれない。そのように考えると恐怖は少しずつ薄れていき、シーソーは徐々に興奮の方に傾き、やがて、人類の滅亡を楽しみに待つようになった。
 しかし、1999年12月31日が終わっても、一日経っても、一週間経っても、世界は一向に滅亡する気配を見せなかった。予言は当たらなかった。それは、私と松田は予定通り離れることを意味していた。
 卒業の日には全く別れの実感が湧かなかった。バイバイと先生やクラスメイトを抱きしめて回りながら、彼らと離れるなど現実とは思えなかった。きっと何かの嘘に違いないとすら思った。
 寂しさを現実のものとして感じたのは、私が卒業後五日ほど経って、何気なく学校に立ち寄り校門の外から校庭を見に来た時だ。桜はまだ咲いていなかった。この白い校庭の中に、私は松田を全て置いてきてしまったと感じた。私の手元に残ったものはただ一つだった。
 『元気でな』
 彼らしいぶっきらぼうな文字で、書かれた卒業アルバムの寄せ書きコーナー。それが私に残された全てだった。すでにその文字の上を何度ひとさし指でなぞったか知れない。
 私は校庭を眺めながら、低学年であろう生徒が駆ける時に足元から立つ白い砂埃を見た。それがまとも口に入った時の生々しく懐かしい砂の感触を思い出しながら、私はもう一度だけ、ここで松田と真剣勝負を出来たらいいのにと思った。呆れるほど走った校庭で、松田と本気のかけっこをしたいと思った。
 私よりずっと足の速い松田は、追いついて、私の肩を掴んで引きずり下ろし、そこで私の力を奪う。もう来ないであろう世紀末のゾンビのように噛みつく。私は逞しい肩に押し潰されそうになり、ぼろぼろと泣きながら、あの輝かしかった未来を諦める。
 私は強い松田に言いたかった。スーパーヒーローたちを殺してくれ。金髪の主人公を殺してくれ。パンダを操る中国人のキャラクターを殺してくれ。赤い肌の怪人を殺してくれ。皆殺しにしてくれ、君の腕で。あの美しい肉体を持つ者を全部。
 そして小さな夢の全てが皆殺しにされた後、残された私は、愛を追いかけよう。もうここで出来る楽しいことは、それしかないようだから。血は不本意に私の股間から流れ出て、私は殴られても、血が出なくなってしまった。もう、駄目になってしまった。だから、今度は女になって、愛を見つける。……
 家に帰ると、耐えきれなくなって卒業アルバムや今までの写真引っ張り出して眺めた。リビング眺めていると、家事をやっていた母がそれに気が付いて、近くに寄って来た。
 「卒業してから全然学校のこと話さなかったけど、やっぱり少しは寂しくなってきた?」
 優しい声。
 「うん」
 私は松田が言うように、ぶっきらぼうな、突き放すような言い方で答えた。母は気にした様子もなく私の手元の写真を覗き込むと、松田の顔を指さした。
 「これ、松田くんだ。学校で一番やんちゃな子だったね」
 松田はいつも周り威嚇するように睨んでいた。しかし卒業写真の中、茶色の睫毛に縁取られた目の中には何の敵意も浮かんではいなかった。
 「嫌な男だったよ」
 私は切り上げるように言いながら、次のページをめくる。教室、プール、野球部の写真、課外学習で行った軽井沢などの美しい写真が次々と目に飛び込む。給食の独特の匂い、放課後に流れてくる放送部の音楽、教室に響くけたたましい笑い声を昨日のことのように感じる。私は目だけ写真のうえに残しながら、魂をはるか遠くに飛ばした。
 あの教室の中、彼を見つめた日々のことを思い出した。その記憶を目に浮かべたまま、私は母にも聞こえない程の声で呟いた。ずっと愛していたと。
 ……しかし、彼を愛するのは私が思っていたような限られた者の特権ではなかったことを、卒業後しばらくしてから知ることになった。皆が上手く隠していただけで、かなりの数の女子が密かに松田のことを好きだったのだと聞いた。
 私は心底驚いた。女子は皆、彼の悪口を言いながら、私と同じように密かに彼に惹かれていたということだ。
 『彼を好きなのは私だけだと思っていたのに。私は自分で思っていたよりも、ずっと平凡な女だった』
 その事実は初めに私をひどく傷つけ、その後は生ぬるい安堵をもたらした。良いではないか。むしろそうして平凡なのは今後の女としての人生の追い風になるかもしれない。
 私は卒業した後に一度、松田をスケッチに描いてみようとした。図工の授業でドーナツ型の瘤のある大きな木を描いた時、見たものを正確に写しとれた喜びに満たされたのを思い出したのだ。
 しかし、松田の影は、スケッチブックの上で曖昧だった。彼の特徴を掴めず、とってつけたような少女漫画風のハンサムな男を何枚か描いた後、苛立って破り捨ててしまった。あれほど毎日話していた彼は離れた瞬間から色あせ、ついには影さえ取り戻せないものになっていた。

2-1

 私はその日、思い立ってあの茶色のマンションを実際に上ってみようという気になった。そう決意した時から急に晴れやかな気分になり軽い口笛が口をついて出た。私はほとんどベッドに横たえるだけだった体を勢いだけで持ち上げた。
 Tシャツとジーンズに着替えただけで息が切れる痩せこけた手足を何とか動かし、電気のついていない部屋を後にする。
 例のマンションにはすぐに着いた。住人に不審に思われては計画が丸つぶれだ。私はマンションの周囲に人影がないことをさり気ない仕草で確認した後、そこの住民であるかのように堂々と中へ入っていった。
 エレベーターは使わなかった。階段を登って苦労すればそれだけ行くのにも価値が出るだろうという願掛けめいた考えだった。最後にまともに運動したのがいつだったかも思い出せない脳の指令を受け、最上階へと一段一段登っていく。三階と四階を繋ぐ階段の踊り場で微動だにしない緑のカメムシめいた虫を見つけ、何の気なしにそれを蹴ると、それは想像よりも軽い感触で飛んで行った。それはすでに絶命しているようだった。
 たっぷり十分ほどかけて、私はマンションの最も高い場所に着いた。空とマンションを隔てる白い柵は大体私の腰ぐらいの高さだ。
 冷たい鉄の柵を両手でまざまざと掴む。恐る恐る下を覗き込むと、流石の高さに太ももの辺りに痺れによく似た震えが広がって、そこから力が吸い取られるような錯覚に襲われた。
 隣のスーパーの大型看板の上辺とほぼ同じ高さで、視界を遮るものはほとんど無く、下は硬そうな黒いコンクリートだった。当日ここまで来たら、後はもう身を投げるだけだ。それで死ねる。
 完璧な高さだった。足がすくんで飛ぶ気力も萎えてしまうほど篦棒に高くもなく、飛び降りて無事でいられるほど低くもない。万一即死が出来なかったとしたも、絶命をしくじる可能性はまずないだろう。唯一気になることと言えば、飛び降りる軌道とは少し外れたところに、もろい屋根のようなものがあることだ。あそこに当たったら衝撃が緩和されてしまうだろう。本番では気を付ける必要が有りそうだ。
 緑の匂いを含んだ風が頬を撫でていく。それに揺られて軽く眩暈がした。地面に当たった時に聞くであろう骨が砕ける音を想像して怯えたり、死に場所をセッティングを完成出来た達成感を噛みしめたりしながら、しばらくその場に留まっていた。
 ふと、遠くの方からお囃子のような音が耳に入った。首を傾げる。始めは気のせいかと思うほどに微かだったその音は、こちらに向かって徐々に近づいてきているようだった。

 ココホレ、ココホレ
 ココホレ、ワンワン

 低い声で繰り返される奇異な響きに思わず軽く吹き出した。何の音だろうか、私はその音源を確かめるべく柵から身を乗り出す。すると丁度真下で、ココホレ、ココホレ、ワンワンと激しいお囃子を繰り返し歌いながら、大神輿の集団が前の道を通っていくのが見えた。
 こんなもの先程まではいなかったのにどうしたことだろう。そう思った時、急にその神輿が巨大な炎で燃え上がった。
 これほど高い所からでも、その炎を受けて瞳が熱を感じているのが分かった。燃える神輿をふんどし姿の男たちが運んでいる。ある者は近くで踊り狂い、ある者は必至で神輿を担ぎ、炎の周りを盛り立てている。
 しばらくその光景の異様さに呆然としていたが、我に返った。何のお祭りだか分からないが、あんなに大きな炎を無防備に運んでいたら火事になってしまう。携帯電話を取り出し、震える指で消防を押していた。
 『どうされましたか?』
 「火事、です…」
 私は曖昧に言いながら、神輿の集団をもう一度確認しようと下を覗く。
 「え?」
 息が止まった。ほんの数秒目を離した間に炎を積んだ神輿の集団は跡形もなく消えていた。
 『住所はどこですか?』
 右を見て、次に左を見る。いくらなんでもこんなに速くどこかに移動できる筈がない。では、あの神輿は?あの炎は…?
 『…もしもし、もしもし?聞こえていますか?』
 声が聞こえるが、耳から入る傍から抜け落ちていく。
 私は縫い付けられたように神輿のあった場所から視線を剥がせないまま、やっとのことで重い右手で電話を切る。
 そもそも、アメリカに御輿がある筈がない。なぜそれにもっと早く気が付かなかったのだろう。
 背中の全てが抜け落ちてしまったかのような心もとない感覚がした。私は階段に向かった。一段、二段とよろよろ階段を下る度、確信が強まる。
 あのアメリカ人の男の子の名前を、思い出せるだろうか。
 背中の後ろでそんな疑問が浮かんでいることに気が付いてしまったら、もう知らぬふりは出来なかった。体中から力が抜けていく。一歩一歩、踏みしめるようにして下りないと、今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだ。
 フ、フー。音の感じはすぐ思い出せた。長い名前ではない。フ、フー、というような二節の音。
 確信がない。彼の名前は確かにどこかにあるのに、霧の中にあるように遠く、掴むことが出来ない。
 ぬるい涙がぼとぼと数滴零れ落ちた。深呼吸をすると息が震えている。
 ざるの網目のように大切なものが簡単に抜け落ちていく。その内、彼がこの世に存在していたことをすら思い出さなくなるかもしれない。私が愛した彼は本当にいなくなってしまうかもしれない。いや、ひょっとしてはじめからあんな少年はいなかったのか。
 恐ろしさを振り切るように、階段を一気に駆け下りて行った。長いことまともに外出していなかった足の骨が軋み、酷使に悲鳴をあげる。
 涙が滝のように頬を濡らし、もはやこの生暖かい液体が自分の涙だとも感じられない。何か不気味な、液体だ。これは目薬を大量に点すか何かして零れたのだと信じることにした。悲しいことは何もない。何もない。たとえあったとしても、すぐに無くなる。すぐに無くなる。私はもうすぐ死体になる。死体は涙など流さない。
 「あ」
 ジョ、ニー、だ。キャッチボールの球のように、ごく緩やかな軌道を描いて記憶が戻ってきた。
 良かった。まだ、思い出せた。
 今度は安堵の涙が出た。
 お囃子の声がまた遠くから響いてくる。私を追いかけるように、少しずつ声は大きくなっていった。
 ココホレ、ココホレ。
 ココホレ、ワンワン。……


 中学へ入学する数日前、散歩中に小さな二人の兄弟が喧嘩をしているのを見かけた。
「おら、早く言えっ!」
 小学校四年生ぐらいの男の子がその弟らしい小柄な男の子に向かって怒鳴っている。大したことに怒っているわけでもなさそうなのに、兄の剣幕は凄まじい。兄は顔をしかめると、弟の肩を思い切り突き飛ばした。
 その瞬間、フラッシュバックのようにあの強烈な光景が蘇ってくる。
 松田はあの日、白本を殴った。世界の終りのように。……
 兄の方と目が合った。見られていたことに気が付いた彼の顔は強張る。弱い者に力を行使する甘美に酔っていた目から悦びが消え、兄はすぐに弟への暴力を止めた。
 ……蝋燭の火を消すように、血の色をした世界が消えた。
 卒業により松田という血への媒介を失った私の幻想はすっかり落ち着いていた。野球の時に二重の絵のように映し出された暴力劇も、かつて憧れて止まなかったスーパーヒーローズも、あまり意識に上って来なくなっていた。
 私はすっかり生まれ変わった気分でこれからの中学生活への期待を寄せていた。
 巷には恋の歌が溢れていた。それらが礼賛する愛という感情が成長する私を待っているはずだった。テレビの歌番組に耳を傾ける時、こんな歌を歌ってくれる男の子がいつか現れるに違いないと信じた。ひたむきに飼い主を見つめる犬のように信じた。
 そんな夢見がちな幻想は、中学に入学してすぐにくじかれることになった。
 中学での人間関係は小学校とはまるで様相を異にしていた。
 一番の違いは教室の中で男女がきっぱり二つに分かれていたことだ。男女は互いを過剰に意識し合い、気軽に異性に話し掛けることの出来ない雰囲気があった。まるで磁石のN極とS極が突然狂って同極しか引き付けなくなったようだと思った。
 「フミちゃんっていうの? よろしくね」
 「呼び捨てで呼んでもいい?」
 友人を増やそうと愛想を振りまく女子と話す間、男子とは一言も話せない。初めは偶然かとも思ったが、どうもそうではない。
 そこは奇妙な二重空間だった。半分は女同士で細い友情の糸を絡める社交界、半分は男という得体の知れない生き物の生息区域。言うまでもなく、二つの空間の間には透明な分厚い壁があった。
 私は仕方なく、ひたすらにこの「オトコ」という謎めいた生き物を眺めた。それが私に許された彼らとの関わり方だった。私よりも大きな体。バネのついた一回りもふた回りも太い脚。後ろから見ると盛り上がっている背筋。私は珍しいものを見る目で、一人一人を眺めた。特段目立つことのない男子の顔も眺めた。女とは機能が変わらない目からも、鼻からも、唇からも、ニキビからも、何か私とは異なるものを探ろうとした。入学してしばらくはそうして過ごした。
 その内、この透明なガラスを飛び越えている女子が少数ながらいることに気が付くようになった。彼女らには明らかな共通点があった。容姿が端麗であったのだ。
 男子を四六時中見つめていた私は、男子の女子を見る目にも自然に敏感になっていた。私が密かに男子を盗み見ていたように、男子もこれまでとは異なる目で女子を見つめていた。その目の中では、美醜というただ一つの基準がその女の価値を規定しているようだった。
 学級活動か何かで活躍した女子の容姿が悪かった時、男子は大声でこんな風に悪口を言っていた。
 「何なんだ、あいつ。ブスの癖に調子に乗って」
 またある時は、美しさが他の短所をいとも簡単に正当化するようだと知った。
 「あの女が好きなの? あいつ性格が悪いって評判だからやめとけよ」
 「可愛いから性格なんて何でもいいよ」
 どうやら、女として認められる為には、ただ性別が女であるだけでは不充分らしい。
 私の容姿は美人とは程遠かった。鏡を見る必要はない、決してこちらに向こうとしない男子の視線が全てを語っていた。男子にとって私は視線を向ける価値すらなかった。教室の中、私の立場は女ではなく、透明人間に近かった。


 学校の伝統行事の英語スピーチ大会の日は憂鬱だった。
 「より英語をもっと身近に感じよう」という安直な理由で毎年開催されていた不人気の行事だった。最も巧いスピーチをした者がクラスの代表として選ばれ、全校生徒の前で発表をさせられることになっている。私がアメリカ帰りであると知っている担任教師は、「お前は発音が外国人のように良いからな、クラスの代表になれるかもしれないぞ」などと言って肩を何度も叩いてきた。
 私は代表に選ばれるつもりなどなかった。英語が話せることで悪目立ちするのも気が引けたし、何より広い全校集会でスピーチをするなどと考えただけで気が滅入った。むしろわざとお粗末なスピーチをしてそれを避けようと目論んでいた。他の皆も考えることは同じで、前に立つ者立つ者、なるべく目立たぬよう、くぐもった声でスピーチをしていた。
 すぐに私の順番が来た。重い足をのろのろ動かして教壇に立つ。初めは緊張していたが、観客のほとんどは真面目に聞いていないことに気が付いてからは気が楽になった。
 大勢の前にいると、どこに視線をやっていいか分からなくなる。観客の中でただ一人だけ真っ直ぐに私の顔を見つめている女子がいるのが目についた。私は喋りながらその白い顔を印のようにぼんやりと見続けていた。
 休み時間に入ると、親しげな笑みを浮かべて近づいてくる者があった。スピーチの最中に熱心に私の顔を見ていた例の女子だった。名前は竹本といった。
  彼女は愛らしい笑窪を二つ見せて笑った。
 「さっきのスピーチ、すごかったね。外人みたいでかっこよかった」
 あっさりとしながらも心の籠もった物言いだった。こんな風に誰かに褒められたのは久しぶりだった。気恥ずかしさで何を言っていいか分からなくなる。
 「フミちゃんって、帰国子女か何かなの?」
 「……うん、一応、そうだよ」
 彼女は美人ではないが、人好きのする雰囲気を纏っていた。肌が飛びぬけて明るく、剥きたての茹で卵のように艶めいている。
 「じゃあ、ひょっとしてハーフなの?」
 「違うよ」 
 竹本は機関銃のように私を質問攻めにする。
 「どこの国にいたの?」「どれぐらいいたの?」「どうして行くことになったの?」……
 国際的なことに興味があるという彼女に圧倒されてしばらく話し込んだ。その内、竹本は声を少し落としてこんなことを打ち明けた。
 「……あたし、苗字も名前も日本人なんだけどさ、実は韓国人のハーフなの」
 その告白は軽やかだったが、相手の心を緩ませる不思議な響きがあった。休み時間が終わる頃には、私はすっかり竹本のことを好きになっていた。


 その日から、私はことあるごとに竹本と行動を共にするようになった。私たちはあっという間にお互いの親友のような存在になっていった。
 私たちには共通点が沢山あった。まずどちらも外国帰りだった。そして私たちはどちらもクラスの中で目立つ存在ではなかった。
 私達はあの透明なガラスを飛び越えるに足る華やかさに見放され、ぎこちない事務会話以外で男子に近づくことが叶わなかった仲間だった。それでいて、どちらも恋愛には人一倍興味があった。どのように男——あの近づきがたい私たちの『片割れ』たち――を人生の中に組み込んでいいのか、手探りしているところだった。
 私たちはクラスで人気の男子に二人にしか分からないあだ名をつけてきゃあきゃあと話したり、放課後は街に出て他校の男子生徒を眺めてかっこいいだのそうでもないだのと言って笑い合った。それは華やかな世界から無視され続ける私たちのささやかな抵抗だった。
 竹本は生来気さくでピンポン球のように軽やかな性格をしている反面、アイデンティティには強いこだわりがあった。この年齢で自分が何者かについて真面目に考える人はそう多くはない。竹本の場合は、彼女の体に半分流れる韓国人の血が『確かな』アイデンティティへの執着心を燃え上がらせているようだった。
 彼女はよく幼い頃に韓国で日本人であるゆえに受けた差別について語った。学校や道端で聞こえるように悪口を言われた。知らない人に喧嘩を売られた。よほど心に残っていると見えて、何度も同じ話を繰り返して話した。
 「その気持ちは分かるよ。アメリカから帰ってきたばかりの頃、日本語が話せなくて幼稚園でのけ者にされたことがあったから」
 共感を示そうとそう言っても、竹本はむしろ白けた顔で私を見た。
 「何よ、大したことないじゃんか。今は日本語喋れるし、血筋的には純日本人だし。これからもずっと韓国人にも日本人にもなりきれない私の気持ちは分からないよ」
 これには口を噤むしかなかった。
 「あなたは何人ですか? って聞かれた時に、フミだったら即答することが出来るでしょう。私は出来ないんだから」
 ……実際に、竹本のアイデンティティーは毎日のように揺れ動いた。
 「韓国では普通だから」と言いながら日本では常識外れなことをする。「この間連休に韓国に帰ったら親戚のオジサンがいきなり『竹島はどちらの領土だ』と聞いてきた」とうんざりした顔で話す。かと思えば、私が意見を求められて言葉に詰まると「何ではっきり言わないの? 韓国人だったらもっとストレートに言ってくれて気持ちがいいのに」と韓国を引き合いにして批判した。
 「日本人らしく」なったり「韓国人らしく」なったりと忙しい竹本は明らかに葛藤していた。それはいくら近くにいても私には理解することの出来ない葛藤だった。竹本は明るい話をしていても、急に遠い目をしてこう呟いたりした。
 「ハーフ、どこまで行ってもハーフ。どっちでもないのが私だ」
 また日韓の政治的な緊張が高まり、ニュースで連日報道されていた時、竹本はこんなことを言った。
 「いつか本を出版するの。私が韓国のハーフで、どれだけ辛い思いをしてきたかを書くんだ。絶対に成功して、こうした逆境を乗り越えてきたんだって書いてやる」
 竹本は自分が何者にもなれない事実に抵抗し続けることで、かえって揺らがない自分自身を掴みつつあるように見えた。竹本は親友の私についてはこう言った。
 「フミの性格って典型的な日本人だけど、アメリカ人っぽいところもあって、他と違う感じがする。英語も話せてかっこいいし」
 この評に私はほっとした。男子の前ではともかく、竹本の前では少なくとも透明人間にはならなくて済んだのだ。
 竹本と共にいて、アメリカ帰りの日本人という未熟ながら特別なアイデンティティを手に入れた。私はそれにしがみついた。私は竹本の言い方を真似して「アメリカではこうする」などと口にし、「アメリカ人らしく」振る舞った。
 若い私たちの話の種は尽きなかった。私たちは海外の通販サイトから輸入したアメリカや韓国の雑誌を広げて、毎日いろんなことを話した。
 「韓国の小学校では、日本人だというだけですごくモテたんだ。物珍しいからね。他のクラスからも『日本人がいるらしい』ってわざわざ見にくる生徒がいっぱいいたんだよ」
 「……モテた?」
 竹本の口から飛び出たその響きにどきりとした。私や竹本には縁のないように思えた言葉だったからだ。
 「告白してきた韓国人に一人かっこいい男の子がいて、一度だけいい感じになったことがあるんだよ。キスをして、ちょっと胸揉まれたんだ」
 竹本は大袈裟なジェスチャーで自分の胸に手を当てながら言った。
 「頭がぼーっとなって、気持ちよかったなぁ。エッチってあんな感じかなぁ」
 竹本の目に恍惚とした色が差す。
 頭がぼーっとなって気持ちいい。竹本らしい直接的で拙い表現がかえって私の胸にこびりつくようだった。
 あの、話すことも、触れることも叶わない男たちに触れれば、そんな感覚がするのか。
 ふいに、脳裏に静まり返った教室が浮かんだ。力なく教室中に倒れる無数の同級生の男子の死体がある。私はその死体を抱き起す。彼らが死んでいて動かないのをいいことに、私は彼らの体に触る。どう動かせばいいのか既に知っているように、私の手は筋肉のついた腕から、薄い腹を滑らかに通っていく。
 それは映画を見ているように止まらず、私は恐ろしくなって、縋るように竹本の顔を見た。竹本は美しい肌を輝かせて、流行の音楽について話し始めていた。


 ……悪い妄想は、主人の意識の空白を狙ってしばしば復活するようになっていた。
 望みどおりに進まない生活の鉄めいた重みと比例するように、私の頭には血が広かった。その赤く分厚いグロテスクな唇が、胸の中で脈打ちながら呼吸を押し殺す音に怯えた。
 ——私の中にはなんとか「女」として受け入れられたいという焦りがあった。竹本が私を一人の人間認めてくれたことは私の自尊心を満たしたが、私はどうしても「男」からの承認が欲しかった。
 男、男、男。
 私は本物のセックスを知らなかった。その為、純粋な好奇心と憧れだけが膨らんでいった。私はセックスに宝くじを買うときめきのような巨大な夢を見始めてていた。私は竹本との会話からその断片を輸入し、自分の血肉に落とし込んでいた。私もいつか。いつか……。
 私の体を滑稽に這った従兄弟の大きな手。憧れていた、スーパーヒーローズをプレイしていたあの手。セックスとあの体験が無関係でないことに薄々気が付いていたが、私には無知という大きな強みがあった。
 恐らく両者は川の如く根源を同じにしているだけで、すぐに二股に分かれ、まるで違う結末に私を連れて行くのだ。その片方、本当のセックスの方は何か天国めいた、心と体を鎮める万能薬なのだ。私はそれをした時に、初めて救われる。胸を食い破って出てこようとする凶暴さは成りを潜め、私は「女」になり、砂糖のように甘い女の特権を思う存分楽しむことが出来るようになる。
 部屋に一人でいる時に私の体の中心は疼き、私はその欲求の答えるように指を滑らせるようになった。
 その時頭に浮かんでくるのは血ばかりだった。男の筋肉から流れる血。完璧な男の体。私がどれだけ欲しくても得られなかったあの男の体が、頽れて命を失っていく様。想像が凶暴になればなるほど、私の手は早く、息は荒くなった。
 しかし最後の最後の瞬間は、暴力的な妄想は完全に頭の中から消えている。階段を全速力で上っていくような感覚の後、ひたすら白い巨大な空間に投げ出される。そこで浮遊しながら、さっきまで自分の考えていたことを、最も冷たく、無関心に振り返ることが出来るようになる。この時だけ、私はどこまでも純粋で、教室で呼吸するに相応しい、人に見られるに相応しい、いつかは男と恋愛をするに相応しい女に近づくことが出来た。
 ーーそれは到達する度に精神が浄化される特別な行為に感じられた。そして本当のセックスは、これ以上に素晴らしい体験に違いなかった。
 私のセックスの夢は少しずつ時間をかけて完成した。夢の相手の男の体はしなやかで、むしろ女性的といっていいほどだった。彼との交わりは、私の愛を宥めるように無に帰してくれる。淫らである筈の行為でもって、私をむしろより純粋に変えてくれる。
 まだ彼の顔すら、ぼんやりとしてはっきりとは見えなかった。ただ、とてもハンサムなことはよく分かった。彼の包み込むような、ひんやりと冷たい両腕の感覚に抱かれると、夢が叶う日も遠くはないと思えた。


 中学二年生の夏休み明け、私のクラスがアメリカからの交換留学生を一年間受け入れることになった。イベットという名のアメリカ人の女子だった。
 彼女は引力そのものだった。彼女は教室に一歩足を踏み入れた時から、掃除機が床の物を手当たり次第に吸い込むように、クラスメイトたちの視線、話題、関心を強烈な力で奪って行った。
 彼女は日本人とアメリカ人のハーフだった。白人系だったが、カリフォルニアから来たという彼女の肌は日本人よりもよほど焦げていた。スカートの中から延びる足は日焼による健康的な艶を湛えていた。背が低く線は細く、体型は他の日本人と変わらないが、その他の全てはアメリカ人の遺伝が強く出ていた。
 明るい土色の目の周りには立体感があり、目の間から持ち上がる大きな鼻を備えた顔立ちはいかにも白人的だったが、全体として見ればアジア人らしい涼しさも漂っている。日本人として見ても、白人として見ても、どこか違和感のある顔立ちだった。しかし違和感とは"思わず見てしまう"ということで、それ自体が魅力に他ならなかった。
 クラスメイト達は彼女の容姿に圧倒され、英語しかわからないのだろうか、日本語で話しかけても良いのだろうかと口々に噂した。しかし実際に彼女が口を開くと、助詞の間違いや言い回しの軽い不自然さがあるだけで、日本語もかなり流暢だということが分かった。
 イベットは自己紹介が終わった後、すぐに女の子のグループに囲まれ、困ったように眉を下げていた。そんな表情をしている割には、質問に対する受け答えはほとんど間髪なく、攻撃的と取られかねないなほどはっきりしていた。それを遠目に見て、ああ、確かにアメリカ人だ、と思った。私は自分が日本に帰国したばかりの時、はっきり物を言いすぎると何度も先生から注意を受けたのを思い出した。
 竹本がすぐに私の机に寄って来た。
 「なんか、すごい子が来たね」
 異質な彼女への警戒心と好奇心が混じり合った言い回しだった。しきりにイベットをちらちらと見る竹本に、焦りが胸を覆っていく。私はあのアメリカ人が来たことで竹本にとっての私の見え方が変化するのではないかと恐れた。
 「もう。じろじろ見るのやめなよ。国が違うってだけで珍しがられるの、自分は嫌だったんじゃなかったの。放っておいてあげなよ」
 もっともらしいことを言って竹本をたしなめる。
 「それもそうだね。韓国でニホン人、ニホン人っていつも言われるのすごいイヤだったもん」
 心根が素直な竹本はすぐに頷いた。
 「でも白人のハーフは流石に可愛いよねえ」
 「そうかな。アメリカじゃもっと派手な顔立ちした人いっぱいいるし。あの子って正直、アメリカにいたらかなり地味な方だと思うね」
 私の声は冷静だったが、滲み出る刺々しさを隠しきれていなかった。イベットは既にクラス中の視線を集めており、むろんその半数は私が触れることも出来ない男子のものだった。
 予想通り、一か月もせずにイベットは透明なガラスをいともあっさり超えていった。彼女は外見こそ周囲と違ったものの、日本語が出来ることから『部外者』のカテゴリーに詰め込まれることを免れた。
 まず、華やかな女子グループに続いて、おずおずと男子グループがイベットに話しかけ始めた。イベットの前では、女の容姿を好き勝手にこき下ろす毒気が嘘のように抜け、男子は礼儀正しい別の生き物になってしまった。
 どれほどの男子がイベットを好きになったか分からないが、彼女は男子の好意を巧く躱していた。噂によればアメリカにハンサムな彼氏がいるのだという。
 私はいつも遠くからその彼の顔を見てみたい、と思っていた。仲の良い何人かの女子は写真を見せてもらえたようだが、話すら碌にしない私ではその彼氏の顔を知りようがなかった。写真を見た女子の、「うそお、超かっこいいじゃん」という声を聞いていた。
 イベットが現れてから、男子を熱心に見つめていた私の目は少しずつ彼女に向くようになった。彼女はいつでも私の視界と意識の端を陣取っていた。彼女はただの混血のアメリカ人ではなかった。彼女を崇拝する同級生たちの存在が彼女をより高尚なものに変えていた。私は彼女をテレビに出てくる芸能人よりも遙か遠くに感じていた。それを公言する竹本よりも余程、彼女と距離を縮めたいと思っていたのは私の方だった。

2-2

 念願かなってイベットと初めて話したのは、英語の授業の時だった。
 席順でグループを作れと先生に命じられ、私の斜め前の座席に座っていたイベットと同じグループになった。グループのメンバーで机同士を結合させると、彫りの深いイベットの顔がまともに目に入った。イベットの顔を見て動揺してしまわぬ為だけに、普段は一瞥だにしない英語のテキストを食い入るように見つめていた。
 「さぁ、例文を使ってグループで話をしてみて。日本語を使ったら駄目よ」
 教師の指示通りにグループで会話を交わすうち、イベットがふいに私の目をまともに見て言った。
 「英語、上手いよね」
 「えっ」
 息が止まりそうだった。一瞬、聞いた言葉の意味が分からなかった。私はイベットに見つめられた衝撃で殆ど自動的に思考を放棄していた。
 「いや、そんなことないよ…」
 「上手いよ。だってあなただけ、ニホンジン英語じゃないんだもん」
 イベットは軽い口調のまま言った。私は、ありがと、と唇の先を弾くだけの小さな声で言った。イベットの髪から、ふっと懐かしいアメリカの香りが漂ってくる。
 ……これで会話を終わらせたくない。もっと話したい。
 私の喉には、言葉が溢れそうに出かかっていた。
 『ねえ、実は私もね、本当はアメリカからの帰国子女なの。だから話す時は英語でいいよ。難しい日本語をしゃべらなくたっていいんだよ。私なら英語が分かるから。他の日本人には分からなくても、私には分かるから……』
 『カリフォルニアから来たんだって? 私はテネシー出身なの。ほら、テネシーって、ド田舎でしょう。カリフォルニアにはいつも行ってみたいと思ってたんだけど……』
 言いたかった全ての言葉は喉の奥で雪のように解けて消えていった。イベットがすぐ隣の席の仲の良い女子に話しかけたからだ。緊張で頭が白くなっていた私には聞こえなかったが、何事か私について言ったらしく、女子は横目でちらと私を見た。「ああ、あの子ね。さりげなく帰国子女らしいよ」……私の口から言いたかった事実は、その女子から伝えられてしまった。
 最後に授業の締めにグループが一つずつ発表することになり、私はイベットの隣で背中を丸くして立っていた。すると教室のどこからか、小さな小さな呟きが耳に入った。
 「やっぱ外人は違うなぁ。イベットの隣にいると他の女、全員すげーブスに見える」
 ……殆ど誰にも聞こえなかっただろう、この言葉は私の心を突き刺した。
 私は彼女が来てから、やたらにアメリカ人ぶる癖を止めてしまっていた。代わりにイベットがアメリカの話を仲良しの女子としているのを、石のように固まって、不満げに、耳をそばだてて聞いていた。
 イベットはただ教室の中にいるだけで私の存在を窒息させた。化粧をしていないのに頬が自然にオレンジに染まったイベットが肌を艶めかせてそこに立っている。媚びた笑顔を作らなくても悩んで目を伏せた時にすら輝くイベットがそこに立っている。それだけで、途端に私は石ころ以下の存在になるのだった。
 私は教室という空間の中で漂いながら何も生み出さない存在だった。誰の目にも映らない、記憶にも残らない存在。
 しかし今や状況はそれより悪くなっていた。美しいイベットがそこに立っているだけで、私は透明人間どころか『醜い女』にまで身を落としてしまっていた。


 ある朝、いつもより早く学校に着いた私は後ろの席に座っていた男子から声をかけられた。
 「早いね。おはよう」
 彼が自分でない誰かに話し掛けたのではないかと、後ろを振り返りそうになった。私はそれほどまでに目立たず地味な存在だった。しかし今、彼の目は確かに私を見ている。
 「……おはよう」
 低い声が出た。
 彼の目に私が確かに見えているのだという事実、そして日に焼けた肌に浮く彼の白い歯が私を舞い上がらせた。頬が火照り、身体中に活力が湧いてくるのを感じた。
 彼はクラスでも人気がある岡野という男子だった。前後の席だったが、話したのはこれが初めてだった。
 それから私たちは早朝の教室で顔を合わせる度に、おはようという挨拶と一言二言交わすようになった。
 「おはよう」
 彼を見ると、私は息が出来るようになった。
 また息が出来る。また息が出来る。
 私は自分を無謀だとは思わなかった。
 「おはよう」
 突然愉快な気持ちになった。突然大丈夫な気分になった。
 この世に「おはよう」という言葉以上に美しい響きがあるだろうか? 私は中学に入学してから、これほど美しいと思える音を聞いたことがなかった。
 そしてある日帰りの電車の中で、ふと、重要な事実に気が付いた。誰の目にも留まらない、鬱屈した毎日の苦痛が半分になっていた。そして私は大丈夫になっていった。勢いよく大丈夫になっていった。
 教師から配布物を渡す時に岡野に触れる指先を、椅子をきつく引いた時に後ろに当たる机の固い感覚を、何よりも楽しんだ。私は岡野の日常の仕草や言葉が引き出す感情を逐一竹本に報告した。そしてどれだけそれを好きかを伝えた。
 「うーん、完全に恋してるね」
 竹本はにやけながらそう言った。
 私は間違いなく恋をしているのだ。嬉しかった。私は間違いなく女に近づきつつある。
 この恋の中に私は再び天国を見た。生き返った気分だった。すでに松田の時に知っていた通り、恋の味は素晴らしかった。窒息しかけた喉に酸素を運ぶのだった――その一点のために、私は女になることの素晴らしさを噛み締める。
 そしてもし、このような恋愛の果てにセックスに至れば、その素晴らしい行為にいたれば、私の胸に巣食う黒い靄はたちまち浄化して飛散してしまうだろう。彼を愛するということは、彼とセックスをする第一歩だった。恋が叶うかはどうでもよかった。私は、そのはじめの第一歩だけを、何度も、何度でも踏みしめた、私はそこへ向かっていると知る為だけに、彼をひたすら愛した。
 学校が教室の電球を明るく変えたのかと錯覚する程、教室が明るく見えた。世界中がこぞって私にセックスを示していた。黒板の上に見下ろすように佇む四角い時計は官能的な色を帯びた。授業中は艶めかしい男の四角い首に指を這わせるような秒針の動きを見ていた。こうして呼吸をする私のすぐ後ろに岡野がいて、私の姿が彼の目に入っているのだと思うと嬉しくて堪らなかった。
 一方で、岡野がもたらしたものは幸福だけではなかった。彼は今まで目を逸らし続けた真実への目覚めを促した。
 岡野に恋をしてからというもの、私は自分の容姿について頻繁に考えるようになった。多くの男の気を惹くのが容姿であるとすれば、岡野の気を惹くものもそれであるはずだった。こうして、自分の容姿というものが初めて自分事として女の私に迫ってきたのだった。 必然、鏡を見る回数が増えた。
 鏡に映った私はやはり美しくはなかった。瞼は腫れぼったく眠そうで、唇は厚すぎ、生意気な印象を与えた。前歯は飛び出していた、得意でない笑顔を作ると否応なしにその大きさが目に入り、ぎこちなさと相まってあまりに痛々しく見えた。鏡の中を覗き込み、どこか一つでも長所を探そうとしたが無駄だった。私は事実として自分は醜いのだと結論づけざるを得なかった。
 私はファッション雑誌を大量に買ってきて、紙面を埋め尽くす混血のモデル達と自分の顔とを見比べ始めた。モデルたちと私の顔立ちの違いは残酷なほどだったが、イベットは雑誌を飾るモデルの誰よりも美しかった。私は雑誌のモデルや芸能人などよりよほど、イベットのポスターを部屋に飾りたかった。
 雑誌とは特殊な本だった。買ってきた雑誌は読んだそばから老いていく。少し放置するとみるみる内に老いて、特別古くなくても皺だらけの老婆のようになる。紙面の上のカラフルな華やかさは、時間が経つと、白け切った何かへと変わる。私はその古さを嫌い、新しい雑誌を常に買い足した。新鮮さが命なのだ。いつも新しいものを取り入れて自分を着飾る。
 鏡を見るのに疲れるとすぐにベッドに潜り込んだ。
 私は頭が七つに分かれた、特撮番組の悪役と思われる醜いドラゴンの人形をいつも枕元に置いていた。雑な作りで、糸が何本も黄色の体から飛び出ていた。(子供の頃に父親が買ってきてくれたはいいものの、あまりに醜くて泣き出してしまった。捨てることも出来ずに私の部屋に残っているのだった)
 私はいつからかこの人形に親近感を抱くようになっていた。私の容姿より醜いと即答できるそれは、私の裏切らない友人だった。
 眠りにつく寸前は幸せだ。ほんの数秒だけ、私は完全に自由になれる。その数秒、私は死に向かっていた。セックスの夢と死の夢は不思議とよく似ていた。
 『ビートルズにリンゴという名前の人がいたらしい。みかんはいないのだろうか?』
 取り留めのない思考が湧いて来たら体が眠りにつく合図だった。
 『この体を空に投げ出してくれ。宇宙を漂う塵になり太陽を近くで見てから死なせてくれ』
 目を閉じると体が重くなる。自慰の時女性器に指を入れた時の心地いいうねり、遊園地から出る時のどうしようもない寂しさ、カラフルなアイスクリームが全部いっしょになった生物になった。全てが完全に溶けはせず独立して私の世界に存在し一つの生き物を作っていた。
 私は毎日眠るたびに死んでいた。少なくともそう信じた。


 死。
 若い私にとって、死とは老いと最も遠いところにあった。
 私は歴史の教科書の中でいつまでも若いまま生き続ける重要人物たちに憧れた。死んだ者にはある種の清々しさがある。もう二度と彼らの印象は更新されない。彼らには負けを認めた勝負師のような潔さがあった。
 私の教室で息をするイベットは、歴史の教科書に出てくる偉人よりも意味のある存在だった。私は授業中、イベットの顔をいつも盗み見ていた。黒板を見る上目遣いの目はしきりに瞬きをしていた。無邪気な顔は自分が誰からも見られていないと信じ切っていた。
 ある夜、見るともなしに見ていた点けっぱなしのテレビからレオナルド・ダ・ビンチのモナリザ特集をやっていた。モナリザの隠された謎に迫るなどと銘打った番組だった。
 ナレーションはモナリザの美しさについて色々と語っていたが、絶世の美女とか言われる彼女の顔はどうにもぴんと来なかった。能面のように表情が薄く死人のような顔をしたこの女より、私はイベットの方がずっと生気に溢れた美女だと思った。
 絶世の美女のモナリザより美しいなら、イベットより美しい女はこの世に存在しないはずだ。そう確信した時、私は奇妙にも誇らしかった。
 私はイベットを憎みながらどうしようもなく憧れていた。毎日彼女の凹凸の少ない体から波打つ息遣いを感じるほど彼女を眺めた。私は彼女になりたくて仕方なかった。
 イベットの話す日本語に私は魅せられた。英語の持つ独特のリズムを努めて平坦にしている跡がそこかしこに感じられる、ロボットのように聞こえる発音。自分の語彙への完全な自信を持てないせいか、難解な単語を口にする時は所々に声が小さくなる。感情的になる時は日本語に不釣り合いな抑揚が付き、口が縦に横によく動くようになる。イベットの唇を通ってくることで、その奇妙な響きは特別なものになった。
 あらゆる表情の中で、イベットのしかめ面が最も美しいと気が付いたのはいつのことだろう。教室に差し込む太陽の光を仰ぐイベットの栗色の髪は光に当たった部分だけ線がいくつも入ったように黄金に輝く。彼女は顔をしかめる。角度のはっきりついた形の良い眉を寄せ、前歯を軽く剥きだしてうらめしそうに光を見る。そこに感情は無い。純粋な無感情だ。
 彼女の日焼けした頬には無数のそばかすが浮いている。イベットの顔にただ一つ見つけられる、私の顔と共通の特徴。私はその共通点を頬ずりしたいほどに猛烈に愛した。そばかすは鏡を覗いた時に私が手放しで愛せる唯一のものになった。


 中学に入学してから数か月が過ぎた。始めは明確に分かれていた男女の壁も、それを超えていく人数は増え始めていた。
 生徒達が異性に対する妥協点を知り始めたということなのか、単純に同じ空気を吸うのに慣れてきたせいなのか、許される人数は明らかに増えた。嗜好品や重要な研究の成果が強い者の独占を経た後一般にも門戸が開かれていく歴史があるが、それに近い変遷だった。
 私は常に自分がそれを飛び越える機会を伺っていた。何でもないことのように男子と気安く会話するのは私の夢だった。
 私はより一層容姿を磨く努力をした。せっせとファッション雑誌から学んだ化粧や髪の毛のアレンジを模倣した。そうすることで、輝かしい青春の正当な取り分を与えられるのかもしれなかった。同じように、竹本の瞼の上にも微細な輝きの粒が加えられるようになった。それは毎日色を変え、私を緊張させた。新しい色を見る度、初めて彼女の顔を見るかのような気分になった。
 私たちの淡い希望に冷水をぴしゃりと浴びせるような事件はすぐに起こった。
 ある日、地味な女子がクラスで一番人気の男子のジャージの裾を引っ張っていくのをクラス全体が目撃した。すぐにほうぼうから冷やかしの声が投げかけられた。それは主に人気者の男子へかけられたものだった。彼は弱り切った、しかしどこか楽しそうな笑顔でそれに対応した。反対に地味な女子の方は口をきゅっと真一文字に結び、何かを決意したような表情を浮かべていたのが対照的だった。違和感のある組み合わせに、クラスメイトは皆好奇心を丸出しにして二人の行方を見守った。
 その後、地味な女子が人気者の男子に告白をしたのだという噂がクラス中に広まった。まるで威力の強い伝染病のようだった。その語られ方に真剣な色が含まれることは殆ど無く、大して関わりもないのに人気者に告白をした少女の愚かさを嘲笑する論調が主だった。
 彼女はそれ以降、クラス中の男子から酷い虐めに遭うようになった。彼女の隣りに座っていた男子は、両手で抱きしめるように自分の机を引き寄せ、彼女が汚物であるかのように思い切り彼女の机から離した。このようなクラスメイトたちの態度には、底の知れない恐怖が湧いてきた。竹本と私はこのような状況を目撃する度に、言葉少なに「怖いね」と言い合った。私は自分が岡野を好きだということを決して誰にも悟られまいと思った。
 またこんなことがあった。竹本と私にはリジーというお気に入りのアメリカ人の美人歌手がいた。二人で彼女の新曲が出る度にチェックし、放課後にはカラオケに行って延々と彼女の歌を歌い続けた。
 ある日の情報の授業でパソコンをいじっている時、竹本と私は二人で先生の目を盗みリジーのウェブサイトを見ていた。竹本は英語で彼女の情報を検索し、リンクを辿って私の見たことのないような海外のファンサイトの中にまで入り込んでいた。リジーの写真がたくさん載っている英語のファンサイトを眺めていると、”More Lizzy”というおどろおどろしい赤文字のリンクがあった。
 そこを何気なく竹本が押すと、唐突に赤と黒の画面に変わり、三つの写真がでかでかと現れた。どれも、幼いリジーと思われる少女の写真だった。その顔立ちが、現在の美しいリジーとかけ離れていた。丸くて縁の太い眼鏡をかけ、顔中ににきびがあり、鼻が今よりずっと低かった。
 「何これ……」
 竹本が呆然と呟いた。私はキャプションされた文章を読んだ。
 「……リジーの整形前の写真だって」
 竹本は三枚の写真の脇に再び出てきた”More Lizzy”の文字をほとんど自動的に押した。
 その度に別の写真でリジーの過去が暴かれる。竹本は何度も連続で、その悪意に溢れた”More Lizzy”をカチカチと押し続けた。
 「……いやだ」
 竹本は泣きそうな声で言った。竹本の声の中には衝撃と共に恐怖が宿っていた。その「いやだ」は、リジーという自分の偶像が醜かったことへの失望なのか、過去に容姿が悪かったというだけでこれほど残酷な仕打ちを受ける現実への恐怖なのか、私にはわからなかった。
 「私、もう整形しようかな…」
 ぽつりと竹本が呟いた。私は今しがた目にした毒に疲れ果て、無言のまま彼女の顔を見つめた。
 「韓国では普通のことだし」
 感情の読めない声で竹本は続けた。
 「お母さんも、叔母さんもみんなやってる」
 「ダメだよ。私たちまだ中学生だもん。まずは、メイクとかで頑張ってさ…」
 「…そんなの焼け石に水だよ。私、いつまでブサイクでいなくちゃいけないの?」
 竹本の声は彼女らしくない悲壮感に溢れていた。



 美貌のイベットや混血のモデルに憧れを抱きながら、それ以上に歯ぎしりするほど私が強く憧れていたのは、取り柄もない普通の女子たちだった。少しずつ透明の壁を飛び越えつつある「普通」の層だった。
 全ての女を不細工と美人の二つに一つでくくるなら、僅差で美しい方に入るであろう女子たち。自分の容姿が完璧から程遠いことを理解しており、それを補う為に決して手を抜かない女子たち。笑うと顔が崩れ、端正さから多少離れるかわりに、匂うように愛嬌がふっと浮かび上がる。劣等感に苛まれイベットを異様な目で盗み見るということもない、自分が女だと一度すら疑ったこともないあの女子たち。あの女子たち。
 ある日の休み時間、他の教室に教材を運ぶように頼まれた女子が唸りながら段ボールを運んでいた。
 「これ、重すぎる」
 「力無さすぎでしょ」
 彼女は荷物を下ろすと、顔を歪めて手を振った。その子の友達はそばにいるが、笑うだけで手伝おうとはしない。
 「良かったら私がやるよ」
 私は彼女に代わって段ボールを持った。大して重くない。片手でも軽々と持ててしまいそうだ。
 「すごーい、力持ちだね」
 「あ、そうだ。それからクラス番号を書いといてって言われたんだけど…」
 荷物で片手がふさがっていたので、歯でマジックを咥えて片手でキャップを外す。そばにいた別の女子はそれを見て困ったように笑った。少し間を置いてわざとらしい声で言う。
 「……かっこいーい!」
 その笑顔の皮を被った軽蔑の表情を見てようやく気がついた。女は普通、歯でマジックを咥えたりしないのだ。彼女たちは褒めるような形を取りながら、私をやんわりと排除していた。
 なんとも屈辱的だった。
 私が求めていたのはイベットの美貌ではなく、ほんの一匙の幸福、普通の女子として、普通の男子を愛するという体験だった。
 私は生まれる前に流産しかかった「女」というアイデンティティーを救う道を考えていた。男への扉はとっくの昔に閉ざされた。女としての扉は叩き続けても開かない。私にはいつも何か足りないのだ。
 くすくすと笑い合う普通の女子たち。非力でありながら強大な力を持つ、あの輪の中に私はどうしても入れなかった。それは女であること、ひいては、セックスから拒まれていることを意味した。


 夏が来ると、喉に切なくてかゆくて悲しくて愛おしいものがつかえた。それは湿った空気ではなく夏への期待だった。
 ……ひょっとしたら、私にだって夏は恋人が出来るかもしれない。学校では透明人間でも、他の場所で出会いがあるかもしれない。……
 こんな甘い期待があった。しかしその夏、私に恋は訪れなかった。代わりに私が手にしたのは、とっくに秋が来た後に部外者の立場から知る、無味乾燥なゴシップとしての夏の恋だった。
 私の片思いの相手である岡野とイベットは、お互い人気者同士ということもあり元々仲が良かったのは知っていた。夏休み明けにイベットと岡野が夏休みに泊りがけで旅行へ出かけたという決定的な噂が一斉に流れた。
 このスキャンダルは多くの生徒にとって寝耳に水だった。女子がそれを内緒声で話すのを誰かが聞きつけ、違うグループに伝えるのをそこかしこで目撃した。
 私はこの噂を不思議な落ち着きを持って受け入れた。岡野に恋をしていた筈なのに、このスキャンダルに対して胸の痛みは殆どなかった。私は他のクラスメイトと変わらない態度をとった。つまり、竹本といつものようにマクドナルドに籠りきり、二人が付き合っているのか、泊まった日に関係を持ったのかと下世話に噂した。
 岡野への気持ちを知っていた竹本は私に同情したが、彼女の慰めの節々には、イベットが相手では仕方がないという言外の窘めがあった。小さく短い棘が喉に刺さったような痛みを、セットメニューにつけたコーラで流し込む。(この頃ストレスが溜まるとコーラを出鱈目に飲み続ける癖がついていた。おかげで大量の虫歯が出来るようになった。イベットと岡野がセックスをしていたであろう夏休み、私は週に一度歯医者に行っていた)
 泊まり込みで旅行へ行くなんて、なんと大人っぽいのだろうと思った。スクリーン上のロマンスを眺めるような気分だった。笑顔の眩しい岡野と美貌のイベットが、緑あふれる公園でキスをする絵はどれほど美しいだろう? 私はその「絵画」に憧れた。それは高価な額縁に入っていた。
 その中に私も入りたいと願った。二人がキスする、体を繋げる、その場所に私もいられたらいいのにと思った。それは嫉妬ですらなかった。彼らの眩しさの欠片を手に入れたいという純粋な野次馬根性だった。
 私は二人を応援すらし始めていた。岡野への恋心の代わりに胸を覆ったのは、イベットと付き合うような岡野に身の程を知らずにも恋をしていたという恥の感情だった。
 しかしながら、イベットにとっては、このスキャンダルは彼女の地位を陥落させる結果に繋がった。クラスメイトに二人の恋を祝福するムードはなかった。アメリカに彼氏がいるのにどっちつかずのまま岡野と付き合うことを責めているのが表向きの論調だったが、実際には裏の理由があった。
 イベットの親友が岡野に片想いをしていたのだ。その恋破れたイベットの親友は、自分の気持ちをイベットには伝えていなかったが、彼女は当然イベットがその気持ちを分かってくれていると思っていたという。その期待が裏切られた時、友情は強烈な憎しみに変化した。
 イベットは急速に孤立しはじめた。
 彼女に密かな劣等感を抱いている者もあったのだろう。女子たちは掌を返したようにイベットを「本当は大して可愛くないよね」と僻み半分の悪口を言いはじめた。男子たちは変わらず——少々おろおろとしながら——イベットに話しかけるが、女子はそれを遠くから見ては「男好き」と意地悪く影口を叩くのだった。
 ひょっとすると、恋の相手としての岡野を失った悲しみはイベットへの憐れみによって相殺されたのかもしれない。私は肩を落とすことが多くなったイベットの小さな背中を憐れみながら、これまでと変わらぬ憧れで見ていた。苦悩のため息をつく時すらイベットは美しかった。
 私は小学校の頃女子更衣室が大嫌いだったが、この時にはすでに、女子更衣室で違和感なく呼吸するようになっていた。この部屋は無臭であった試しがない。誰かのヘアコロン、香水、汗の匂い、全てが混ざり合って独特の匂いを放つ。昔は息を止めねばならない程苦しかったのに、この溢れるほどの匂いを平気で吸い込めるようになっていた。
 私はよく着替えをするイベットの体を横目で盗み見ていた。イベットは例のスキャンダルの後、居場所がなさそうに、身を屈めるようにして端の方で着替えるようになった。私はこちらに向かないと知っているイベットの姿をより大胆に見つめるようになった。太ももから脹脛まで長さが同じ小麦色の脚、ほとんど板のような胸と尻。多くの生徒と似た体つきでありながら、それはイベットのものであるという点で、他のものとは全く異なっているのだった。岡野がこの体に触れたのだと思った。それは蝉の鳴き声を背景に、どこまでも澄み切った行為であったに違いない。
 イベットへの感情は複雑だった。私は変わらず彼女に憧れていたし、スキャンダルによって彼女を軽蔑することもなかった。しかし周囲から村八分にされ、居場所を失い続けるイベットを見て、だんだんと妙な感情が湧いてくるようになった。
 それは彼女をもっと貶めてやりたいという気持ちだった。とはいえ悪感情は微塵もなかった。私は憧れの存在の凋落をむしろ愛おしんでいた。彼女が私に近づいてきてくれている気がして喜びすらしたのだ。
 日本人としてのアイデンティティーが取ってつけたように湧き上がってきたのはちょうどこの時期だ。ナショナリズムの萌芽は奇妙な道を通って達成された。それはイベットの為、正確には、日本人ではないイベットを攻撃する為に始まった。私の日本人としての意識はイベットと自身を比べ彼女を見下すことによって強まった。私がこの場所でイベットよりも優っている可能性があるのは「より日本人である」という一点のみだった。
 歴史の授業や道徳の授業で戦争のことが扱われ始めていた。それを受けて、竹本の韓国人としての自覚もかつてないほど高まっていた。
 「それで日本人が韓国人にしてきた過去の酷い仕打ちを、フミはどう思ってるの?」
 竹本はこんな風に事あるごとに戦争の話を持ち出すようになった。
 「私がやってもいないことに対して私が罪悪感を持たなくちゃいけないの?」
 「フミはそれでいいよ。日本人だから、過去のことを忘れたってどうってことない。でも私の中の韓国人の部分は、過去のことだからって無視は出来ないよ」
 竹本は白い肌を赤く染めて強い語気で言う。
 「この気持ちは日本人のフミには絶対わからない。韓国人が日本人を嫌いなのは、日本人がそうやって関係ないみたいに被害者の気持ちを軽く無視するからなんだよ」
 この一見不毛な会話には意味があった。私たちはそのやり取りを繰り返すことで、お互いに日本人、韓国人という意識を強めていた。私たちはぶつかる以外の方法で自分のアイデンティティを確認する方法を知らなかった為、このような口喧嘩はお互いにとって必要なものだったのだ。私は急速に日本人になり竹本は急速に韓国人になっていった。
 「フミは、ホンット、典型的な日本人だよね」
 国が違えば同じ歴史でも見方は変わる。日本人の私にとって、戦争と聞いて栄光のイメージは湧かない。戦勝国から来たイベットにとっては、戦争とはあるいは栄光に輝いた王冠なのかもしれない。それとも、彼女の中の日本人の血がそう単純にはさせないのだろうか。少なくとも、私とは違う考えを持っているに違いなかった。私はイベットの考えを聞いてみたくて堪らなかった。

 イベットの中のその二つの血がまだ戦争をしている
 その戦いがイベットの体を引き裂く
 彼女の美しい体は二つに食い破られる

 私は四角い旗を背中に背負った
 兵士がやってきてわたしの背中をブスリと刺した
 私は前のめりに倒れこむ
 私の背中を男は踏んだ
 鼻で笑って蹴り飛ばしていく
 私は恍惚として死んだ
 日の丸を背負いながら

2-3

 日に日に立場が悪くなるイベットに、初めのうちは同情的だった男子の態度も変わっていった。
 「イベットもイベットだよな。彼氏がいたくせに、二股してたんだから」
 「やっぱりアメリカ人ってビッチなんだろうな」
 私には竹本という友達がいる。そして、イベットと違って日本人だった。私はイベットに石を投げるのに私なりのやり方で参加していた。私は一人きりのイベットを見下しながら愛していた。
 イベットが敵に回した元親友は陰湿な性格で、イベットを受け入れる者は誰であれ自分に反逆していると見做した。この女子の根回しによりイベットへの風当たりは強くなり、日に日に孤立していくようになった。
 イベットは悲劇の女だった。この上なく美しい意味で。イベットの瞳に膜を作る涙は美しかった。イベットが床に視線を落とす様は美しかった。村八分にされたイベットはクラスの輪を転々とした。一つのグループに定着しては、そのグループがあの女子からの報復を恐れてイベットを省く。また孤立する。この繰り返しだった。
 しばらくそれを繰り返した後、イベットはついに私と竹本のところへやってきた。
 「知ってるとは思うけど、あの子とああいう関係になっちゃったんです。お昼を一緒に食べる人もいないんです。仲直りできるまででいいから、一緒にいさせてもらえませんか」
 イベットは軽く頭を下げた。言い方そのものは淡々としているのに言葉遣いが場違いなほど丁寧だった。敬語が苦手なイベットの口調は、過剰に砕けているか、馬鹿丁寧かのどちらかだった。碌に口も聞いたことがなかった私たちに対しては丁寧な方なのだった。
 すぐに「いいよ」と快諾するつもりだった。気の毒な彼女を救ってあげたいという偽善以上に、彼女の絵画めいた美しさを間近で見たい欲望が勝っていた。私が口を開く前に、竹本がイベットの手を強く握り言った。
 「私、前からイベットちゃんと話してみたかったんだ!」
 ゴムのように派手に弾んだ竹本の声に、イベットが戸惑っている。
 「アメリカの話とか色々聞かせてね。私は韓国人のハーフなんだ」
 竹本はあっさりと自分の秘密を話すと、彼女らしい人懐っこさで古くからの親友のようにイベットと話し始めた。
 「……そういえばフミは帰国子女なんだってね」
 気遣うように私に話しかけるイベットの言葉は遠慮がちだった。
 彼女の方が背は高いのに、私を見る目が上目遣いになっていた。気を遣っていた。媚びていた。今度こそ捨てられないように、私の機嫌を取ろうとしている。
 私は自分の心が白けていくのを感じた。
 「それは何年も前の話で、今はアメリカとか関係ないから」私はきっぱりと言った。「私は日本人だから」
 正確には『もう』日本人だから。イベットが来る前は、私は日本人と言うよりは、相対的にアメリカ人であったのだ。それをあなたが変えたのだ。勿論イベットはそんなことは知りもしない。
 「そんなこと言って、本当はアメリカに憧れがあるくせに」
 竹本は言う。
 「……私はこんな顔だけど、私のお姉さんは、なんか超日本人みたいな顔してるんだよ。ほら、見て」
 イベットは長い爪で携帯を操作して写真を見せた。私と竹本は彼女が見せてきた姉の写真を見て驚いた。
 イベットと対照的に、アメリカ人の血が入ってるとは信じられない程日本人的な顔だった。教えられなければとても姉妹には見えないだろう。
 「それから私、実は日本名のミドルネームがあるの。優子。だからアメリカでも日系の友達には、ユウちゃん、ユウちゃん、って呼ばれていた」
 ふうん、あっそう! そんな言葉が口から出そうになるのを堪えた。
 私の心の冷えきっていた。私に媚を売る様なイベットの態度を軽蔑した。
 優子! よりによって優子とは。
 そもそもミドルネームとは何だ。一人の人間に名前が二つ必要なのか。要するに、そのミドルネームとやらで、私は日本人です、私は同類だと言いたいわけだ。
 ふざている、と思った。もし彼女が頼んできたからといって、私の持つ100%の日本人の一欠片すら、この小狡い女には渡したくないと思った。


 それから竹本とイベット、それから私のぎこちない友人関係が始まった。
 私はこの唐突な同行者が私と竹本の小さな『輪』に長く留まっていられるとは思っていなかったが、予想に反して人工的な友情は続いていった。それには竹本が一役買っていた。竹本の飾らず人懐っこい、彼女に言わせれば「韓国的」な性質が、イベットとの友情のでも大いに発揮された。竹本は英語スピーチ大会の後に私に近づいてきたのと同様に、イベットに好奇心のままにアメリカのことを聞き、よく笑い、初めは硬直気味だったイベットの表情を解した。
 対照的に私とイベットとの関係はいつまでもぎこちないままだった。私はイベットと一緒にいると無口になった。私はいつも一歩引いた所から、近くで息をするイベットの肌、髪の色、言葉の発音を観察していた。
 ある日の嫌いな数学の授業中、私は暇つぶしの為に竹本に手紙を書くことにした。他の女子がするように、私たちはいつも手紙を交換しあっていた。
 竹本は色とりどりのペンを使って凝った手紙を寄越した為、私も自然と同じような手紙を返すようになっていた。内容はいつも取り止めのないことばかりだった。次の体育の時間がだるい、この間聞いた音楽が良かった、教師の襟が曲がっている。
 ペン先をメモ帳につけようとした瞬間、ふと思い立ってこう書いてみた。
 「イベットへ」
 心拍数が上がった。イベットに手紙を書く。イベットがこれを目にする。そうだ、もしイベットに手紙を書くなら、日本語で書く必要すらない。私はもう一枚メモ帳を用意して書き直す。
 「Dear Yvette,」
 濃いピンクのペン先はすぐに固まった。書くことが何も思い浮かばなかった。私はイベットについて何も知らない。彼女がどんなものに興味があるのか。どんなことを書いたら喜ぶのか。
 私はイベットの日焼けした顔を思い浮かべた。
 何も書けなかった。彼女についてなら、いくらでも知っていることがあるのに。イベットの横顔や所々金色に光る茶色の髪がどれほど美しいか。彼女の無感情なしかめ面をどれだけ愛しているか。どれほど長い間その一つ一つを見つめてきたか。
 結局、手紙は完成しなかった。イベットの名前だけ書いた余白だらけの紙は、授業終了のチャイムが鳴った後、すぐにくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨ててしまった。

 
 お泊り会。秘密を打ち明けあって友情を深める、典型的な友情の確かめ合いのイベント。
 イベットが孤立を避けるための上辺の関係なのだから、私達にはそんなものは必要ないはずだった。しかし、シニカルな見方をする私とは対照的に、竹本はとにかくそういった水面下の計算というものに無頓着だった。
 「今度三人でお泊まり会しよう!」
 竹本がそう言いだした時、私とイベットは乗り気ではなかった。二人は曖昧な苦笑で提案を水流しにしようとしたが、竹本の行動力が上回った。その場で全員の予定を確認し、母親に連絡してすぐに日程を決めてしまったのだ。
 お泊まり会の当日、日本語が下手くそな竹本の母親の歓迎を受け、夕食をご馳走になってから広いとは言えない竹本の部屋に三人でぞろぞろと入った。全体的にピンクで統一された女子らしい部屋だった。
 大きな机が元々狭い部屋をさらに窮屈にしていた。寝転がると、お互いの肌がもうすぐで触れてしまいそうな距離になる。この日イベットは短いパンツをはいて日に焼けた足を剥きだしにしており、私はそれに自分の体が触れないように大層気を遣った。
 両親は離婚しているのだ、という竹本の話から入って、他愛もない会話が数珠のように繋がっていった。
 私はこの日イベットが笑うのを幾度も見た。その度に何故笑うのだろうと不思議に思った。竹本の言う下らない冗談に笑う。笑わなくていいのに。口を大きく横に開けて、眉を下げる。笑わなくていいのに。
 私はイベットのあらゆる表情を崇拝しながら、彼女の笑顔だけはあまり好きになれないのだった。
 「ねえ、イベット、岡野くんとは実際どうなの?」竹本は臆せずに聞いた。「アメリカには別の彼氏がいるんでしょう?」
 「ああ、そのことね。ウィルに……私の彼氏、ウィルっていうんだけど」
 イベットは少し黙った後、彼女がどれだけアメリカ人彼氏の『ウィル』に幻滅しているかを話し始めた。
 「ウィルの誕生日にプレゼントを贈ったの。綺麗なカード付きで包装も頑張って、誕生日に間に合うように速達で送った。でも、何も返事をしてくれなかったんだよ。超がっかりした」
 『ウィル』と呼ぶ所だけ、日本語の中に馴染まない英語の発音だった。私はそれに無性に苛立った。少しは日本語のように聞こえる努力を出来ないのだろうか? 私は幼稚園の時、必死に英語の訛りが出ないように矯正した自分自身を思い出していた。
 「……だから、私はウィルを気に掛けるよりも、日本での日々を楽しみたいって思ったの」
 それが竹本の質問に対する答えだった。しかしこれではまるで答えになっていない。二股をかけるけれど私は悪くないというただの言い訳だ。
 イベットは『ウィル』の写真を見せた。笑顔のイベットの横に並んでいたのは歯軋りをしたくなる程ハンサムな青年だった。私は溜息をつきたくなった。こんな恋人が手に入れられるならば——誕生日プレゼントがどうだとか御託を並べるのはやめて——その幸せを噛みしめればいい。何という贅沢な、甘ったれた女だろう。女とはこういう生き物だろうか。私も女になったらこんな風になるのだろうか。
 他愛無い会話の後、どういう経緯だったか、竹本は口を滑らせて私の岡野への恋心をイベットに教えてしまった。
 「えっ、フミって、岡野のことが好きだったの?」
 イベットはそう言って私を見た。すぐに竹本は目線でごめん、と私に謝って来た。勝手に話した竹本にはもちろん腹が立ったが、その時はどうでもよかった。私を見たイベットの目が、私を完全に打ちのめしてしまっていた。
 薄笑いを浮かべた口元と対照的に、イベットの目はどこまでも澄んでいた。私はイベットの目の中に、真っ直ぐに向けられた侮蔑を見た。驚きという名の侮蔑を見た。彼女の目にはある確信があった。
 この目だった。この目。この、栗色の、目。どこまでも大きい、傲慢な目。
 「好きというか…」
 やっと絞り出した声はしわがれていた。
 「勝手にかっこいいと、思ってただけだから……」
 これ以外に何と言えただろう。
 岡野の話題は時計の秒針の音とぎこちない沈黙を以て終了した。気まずさを埋めるように、イベットは竹本のピンクのクッションを抱きしめて「これ気持ちいい」など言ってみたりした。
 私は美しいイベットの横顔を見つめながら思った。
 イベットはかつてなく遠かった。
 ひょっとして、私の姿が見えないのだろうか? これほど近くにいるのに、私のことが見えないのだろうか。この女の目には? 教室の隅で、女のなりぞこないとして生きる私の呼吸が一度でも聞こえなかったのだろうか?
 イベットはベッドに体を投げ出しながら、気だるげに言った。
 「ああ、肩がこったぁ。誰かマッサージしてよ」
 「フミは怪力だからきっと上手いよ。こないだ腕相撲したら瞬殺されたし」
 竹本が冗談めかして言う。
 「へえ、そうなの? じゃあフミ、お願い」
 イベットは横たえたばかりの体を勢いよく起こし、パジャマを肌蹴て肩を露出させた。動悸が速くなる。「仕方ないな」と言いながら体をイベットの後ろにつけた。日に焼けたうなじが目に入り、Cの字を描いたまつ毛が背中側から良く見える。それが目に入った瞬間、体が張り詰め、血液が勢いよく全身に巡りだすのを感じた。
 私の太くて短い指が、イベットのなめらかな肩を這った。ぐっと力を入れると指が簡単に沈んでいく。日焼をしているからだろうか、皮膚が薄いような感触だ。その感触を確かめるために彼女の肩を幾度か撫でてみたかった。
 私は自分の色とイベットの色が重なる部分、その色の境目を見た時、悲しい驚きが私を打った。イベットの肌は健康を体現する黄金だった。私の肌はくすんだ色だった。途端に投げ遣りな気持ちが全身を覆っていく。私は肌をこれ以上密着させたくなかった。
 この肌に触れてはならない、この肌を汚してしまうから。……
 「ああ、気持ちいい」
 イベットはそう言いながら髪を軽く振り首を右に傾けた。
 「上手だねえ」
 イベットは無垢な声で言った。掌を通して感じる彼女の体温に、逃げ出したい気持ちになった。イベットは感触を堪能するように首をもう一度左に傾けた。その仕草が艶めかしい。
 イベットは、彼女の為に力を使う私の顔を一度も見なかった。終わった後にありがとうと言った時も私を見なかった。
 私は無意識に口の中にあった口内炎を噛みしめていた。喉の奥に溶けた炎を流し込まれたように呼吸器官が燃えていた。コーラやスプライトの空容器が転がる女子同士の泊り会が進んでいく。飲み干したコーラからは血の味がした。
 「ねえ、どうして日本人は笑う時に口を抑えるの」イベットが悪気のない、それ故に余計に質が悪い質問をした。「日本人てみんなそうだよね」
 私はどきりとした。私は鏡を覗き込むようになってから自分の笑顔にコンプレックスがあった。目は糸のように細くなり、口元は醜く歪む。歯並びも悪かった。何かのコマーシャルのような完璧な歯を見せられるイベットと私は違うのだった。
 「わかるう。韓国人はああやって笑ったりしないもん。違和感あるよねー」
 竹本が賛同する。
 「でも日本人で一番分からないのは意味もなく笑うところかなー」
 呼吸すら見えそうな程の近くから見るイベットの顔は、見ているだけで神聖な気持ちが後から後から湧いてきた。その度に、浮かれた自分を冷たい水に引きずりおろし、彼女を憎もうとした。
 「なんにも面白くもないのにヘラヘラ笑うところ。『どうして笑ってるの?』って聞くと、またヘラヘラ笑いが返ってくる。意味分かんないよ」
 イベットの言葉がナイフのように胸に突き刺さる。日本人であることだけが、日本で唯一イベットに「勝って」いることなのに、イベットの一言で自信はいとも簡単に揺らいだ。
 ひどく侮辱された気分だった。この女になど分かりはしない。面白いわけではない。笑顔は恐怖を隠す為だ。見た目よりも繊細な理由があるのだ。イベットには何も分かりはしない。この女は、どこまでも鈍感なアメリカ人なのだから。


 一夜が明け、私はイベットと共に帰路についていた。一緒に改札を通り、一緒に電車に乗り、他愛もない話をする。竹本とは毎日のようにやっていることでも、隣にいるのがイベットだと思うだけで全ての動きがぎくしゃくするような気がした。
 「アメリカでは、どこにいたんだっけ?」
 「テネシーだよ」
 「へえ……カントリー音楽とか有名だよね」
  イベットはさして興味もなさそうに言うと窓の外からの風景に目を向けた。
 「最近、映画とか見た?」
 「全然。何か見たいやつとかある?」
 私はアメリカの最新アクション映画を挙げた。
 「私としては、ああいう暴力的なやつは苦手。どっちかっていうと『犬と僕が出会った場所』とかが好きだから。ほのぼのできるようなやつ」
 私は舌打ちをしたくなった。その映画はいかにもお涙頂戴といった感動系の映画で、私の映画の好みとは正反対だった。
 『私もそれ見たいと思ってたんだよね。面白そうだよね』
 その程度の社交辞令さえも言えなかった。相槌を打つのが精一杯だった。
 『英語で話す?』
 急にイベットが英語でそう提案した。
 「え……」
 『喋れるんでしょ』
 私はまごついた。
 『うん…でも、最近全然喋ってないから忘れてきちゃってる』
 『それはわかる。私もアメリカ帰ったら日本語忘れそう』
 息苦しかった。口がうまく回らず次の言葉を紡げない。イベットと英語で話している。ずっとそうしてみたかったというのに。イベットはアメリカでの思い出話をいくつか聞かせた後こう言った。
 『一昨日、親友のブライアンからメッセージか来たんだ。もうそれで完全にホームシック。カリフォルニアに帰りたくなった。友達が恋しくてたまらない』
 ブライアン。男の名前だった。
 『ブライアンって、男だよね』
 『……そうだけど?』
 だから何、と言いたげにイベットは片眉を上げて訝しげな顔をする。
 『男の親友』。その違和感に、その違和感を感じている私に、イベットは気が付かない。あるいは気が付いていたとしても、きっとどうだっていいのだ。
 イベットは私に『ブライアン』の写真を見せた。他の沢山の男女に混じって、笑顔が爽やかな黒髪の好青年がイベットの隣に写っている。思わず正直な感想が口から漏れた。
 『……かっこいい人だね。私だったら、彼が同じクラスにいたらきっと好きになっちゃうと思う』
 『へえー、そうなんだ……私はブライアンは男としては見られないけど』
 イベットはあの薄笑いで言った。
 耳慣れない英語で話し続ける私たちに電車中から視線が突き刺さる。
 しかし、私は自分が特別ではないのだと知っていた。英語を話せるのは特別ではなくなってしまった。イベットが現れたからだ。
 そして私はイベットにとって特別ではない。彼女が私と話すのはただ孤立したくないからだ。
 「あのさ、でも、二つ母国があるって大変じゃない?」
 私は日本語で聞いた。
 「どうして?」
 「ほら、過去の戦争のこととかあるじゃん? 竹本なんか、韓国のハーフでしょう。だからいつも戦争の話になると必死になっちゃってさ……」
 私達はしばらくアイデンティティやナショナリズムについて話した。話が世界大戦に及ぶと、イベットは彼女のアメリカ人の祖父が日本兵と戦ったのだと話した。興味深く聞いていると、イベットは不意に何気ない口調で言った。
 『それから、あれは日本人を助ける為に落としたんだからね』
 『え? 何が?』
 『原爆だよ』
 これが決定打だった。
 私はイベットの美しい顔を見た。イベットはこの瞬間、世界に新たな現実を作り上げた。
 彼女はそれ以上どんな説明をも付け加えようとはしなかった。私を説得する必要などなく、彼女にはその現実だけで必要充分なのだと伝わってきた。
 私は何も言わなかった。
 この時、イベットの前で、私は一度も存在していなかったことが明らかになった。

 家に帰ってから、私はふらふらとベッドの上に倒れこんだ。重たいものが胸につかえていた。気分を落ち着けようと深呼吸をしようと数回試みるが、そうする力すら体の中に残っていないように思えた。
 マッサージをした時のイベットの肌の感覚がまだ掌に残っている。二つの肌の色が重なり合い、しかし決して交わることはなかった。黒く細い糸のような境界線。指に沿った境界線。
 弱い心は皮膚に守られないむき出しの臓器のようで、イベットのあの日焼けした指に触れただけで致命傷になった。
 ふと、自分が耐えられないほど傷ついているように思った。その考えは私を動揺させた。日本人であろうという努力も、鏡を見つめる日々も、全ては一つのシンプルな事実に集約されるのだとしたら、どうしよう——私はただ、傷ついているのだとしたら。
 私は声にならない唸り声を上げた。私は枕元の七つ頭のドラゴンを手繰り寄せ、思い切り拳で殴った。
 先程まで私の横にいたイベットを想像の中で引きずり出した。マジックで美しい顔に汚い言葉を書いてやった。もう見えなくなる程彼女の顔を黒く塗りつぶしてやった。考えうる罵倒を全てぶつけた。彼女の髪から、体型から、そばかすから、彼女にまつわる全てを罵倒した。
 余分な肉のない、鋭角な、針を思わせる顎を掴んでこちらを向かせてやりたいと思った。そして私の為に口を開かせてやりたい。あの女が、私の為に何か物を言う所を見たいと思った。
 私に話してほしかった。そして話してくれないなら、余計にそうさせたくてたまらなかった。口が開かないなら、手を突っ込んでやりたくなる。私の指が噛み千切られ血まみれになろうとも、私は彼女が口を開くところを見たいと思った。私の為に口を開くところを見たいと思った。
 いつか。いつか、と胸に下りてきた天啓のような言葉を絞るように握りしめた。
 いつか、あの女より美しくなってやる。
 そうすることで、私は彼女の最も深い、最も近い所に触れるのだ。岡野が触れたより深い所に。美しくなる以上に、イベットに深く触れる方法を思いつかなかった。
 私はイベットを見ていた。彼女がどこにいようが、何をしていようが、イベットを見ていた。私はイベットを見ていた、イベットの仕草を真似していた。イベットの喋り方を真似していた。そのうちそれが、使い物にならなくなったとしても、もはや踏み潰して粉々にしてやろうと思っていても、私はイベットになりたくて仕方ないのだった。
 そして私が美しくなる時、あの女の顔は溶けてなくなるのだ。
 いつか数学の授業で『完璧な円』という概念を教師が説明していた。彼が実際には存在しえない完璧な円という概念を、数式は紙上で実現できるのだと。私にとって、完璧な円とはイベットだった。その周りにたくさんの歪な円もどきがあった。その中で、一等に歪なのが私だった。
 彼女は笑い、私は笑わなかった。あの狭い教室の中で青春の残酷な光が私たちの顔を照らしていた。私はその日当たりの悪い一端に立っていた。
 いつか、イベットが独占していた極上の天国を味わう。
 そう誓った時、涙が頬を伝った。殴り続けたぬいぐるみはふてぶてしく醜い顔で、いつもと変わらぬ悪役らしい笑みを浮かべていた。


 竹本とイベットがお泊り会以降仲を深めていた。私は反対に段々と二人から距離を取るようになった。
 「なんか最近フミ私のこと避けてない?」
 竹本は何度も私の態度の変化に疑問をぶつけてきたが、私はそれに取り合おうとしなかった。初めはしつこかった竹本も時が経つにつれて段々と私を放っておくようになった。
 私は孤立した。イベットのように否が応にも視線を集める人間の場合、万一人気者でいることが許されない時には嘲笑や攻撃の対象になるリスクを負うことになる。その点、私にその心配はなかった。私は単なる透明人間であり、誰にも注意を払われない存在になった。
 こちらの方がずっと楽だった。無理にイベットの傍にいる努力は自尊心を切り刻み私を疲弊させた。
 「ねえ、竹本さんと仲がいいよね」
 ある日、クラスメイトの男子が緊張気味に私に話し掛けてきた。
 「彼女って、どういうタイプが好きなのか知ってる?」
 イベットの輝きは体から落ちる粉にでもなって、傍にいる竹本にも振りかかっているのだろうか?……私が最初に思ったのはそんなことだった。
 「どうしてそんなこと聞くの? もしかしてイベットのことが好きなの?」
 「はあ? どうしてイベット?」
  私は訝しむように聞くと、彼は私よりさらに怪訝そうな顔をした。
 「俺は竹本さんのことが聞きたいんだけど」
 私はその瞬間、複雑な気持ちになった。確かに、竹本はイベットと一緒にいる影響もあるのか最近垢抜けてきていた。
 長い沈黙の後、一つの質問が口から出た。
 「……竹本の、どういうところが好きになったの?」
 男子と話すことが久しぶりで、私の声は知らず震えていた。
 「うーん。どこって言われてもわかんないけど、いつも笑顔で可愛いと思ったんだ」
 この率直な答えは竹本の性格を思い出させた。確かに、彼と竹本なら上手くのいくかもしれない。
 竹本も壁を超える……彼が望む通りに仲人を努めれば、竹本はこの「男」に、望まれて会話を始めることが出来る。
 竹本が私の知らない場所へ行こうとしている。竹本がイベットと同じ、「女」になっていく。
 置いて行かれているという感覚は私の心の裡に狂気を育てた。比例して、自慰は麻薬的な悦びを持つようになった。
 私は無性に乾いていた。セックスという魔的な響きに、この燃え盛る劣等感を溶かしてほしかった。セックスは悪魔のような私を丸ごと受け入れた後、解放してくれるだろう。内臓全てを内側から締め付けるようなこの嫉妬を慈悲深い救世主のごとく、掬い上げて熱い炎の内に焼き尽くしてくれるに違いない。
 自分の裡の狂気から解放されるには、一度それをはっきり直視する必要がある。目的が神聖である為に、手段は正当化された。私は狂ったように自慰をした。夢の男の子の顔はまだ見えなかった。
 四連休中のある日、竹本が久しぶりにメールを送ってきた。
 『フミ、私は今韓国です。日本に帰ったらフミに告白することがあります』
 『何?』
 私はすぐに返信した。
 『次に会った時にすぐわかる。フミに言ったら怒られそうだから、今は秘密にしておくね』
 意味深な言い回しに嫌な予感がした。
 次に会った時、竹本の容姿は一見して変わっていた。竹本の瞼には太い紫色の線が横一文字に食い込んでいた。
 「えへへ、整形しちゃった。前からずっと考えていたんだけど、ついにやっちゃったよ」
 私は呆れて声も出せなかった。
 「……どうしてそんなことしたの。まだ中学生でしょう?」
 「韓国では普通のことなんだよ。友達もみんなやってる」
 「出た、『韓国では普通』!ここが日本なのが分からないわけ?」
 この時、私は必要以上に激高していたかもしれない。腫れが引けば、細かった竹本の目は綺麗な二重瞼になってしまう。
 「美しくなりたいと思うことがそんなに悪いわけ?」
 強い視線が私を睨んだ。私はどきりとした。
竹本は皮肉っぽく片頬を持ち上げた。
 「整形だって必要だよ。私はイベットみたいに美人に生まれたわけじゃないんだから」
 ああ、やはりイベットだ。私は思った。
 イベットと一緒にいるようになってから、竹本は整形したいと言う願望をよく口にするようになっていた。あの美しいイベットさえ傍にいなければ、竹本が整形なんかすることはなかったかもしれない。
 竹本が次に口にしたことは整形よりも衝撃的だった。
 「ああ。それからこの休みの間に、ナンパしてきた韓国人の男の子と最後までしちゃったんだ」
 どこか勝ち誇った声で、竹本は私を見つめる。
 私は絶句した。
 竹本がもう私の知る竹本ではなくなってしまったという感覚だけが強く残った。そして私はかつてないほど、濃度が強すぎて咽そうになる程、この私のままであるのだと感じた。
 ……私は、クラスの男子が竹本を気に入っていることをわざと伝えなかった。


 イベットの元友人たちによるイベットへの攻撃の手は半年もすればいつの間にか緩んでいた。単純に飽きたのか、許す気になったのか。はたまた、一年間の交換留学の終わり、イベットとの別れの日が近づいているせいなのか。
 また少しずつクラスメイトとイベットの会話が許されるような雰囲気になっていった。ただし彼女は今度は男子に話し掛けるのを一切やめた。『貞淑』になったのだ。それを女子は大いに喜んだ。イベットはもはや彼女らの立場を脅かすライバルではなくなったからだ。
 元のグループに少しずつ戻っていく彼女の顔には『日本人は意味わからない』と馬鹿にしていたあのヘラヘラ笑いが——不安を隠すための、意味のない笑顔が——頻繁に浮かぶようになった。
 イベットが痛ましいほどに『笑った』のは、男子が内輪で可愛いと思う女子トップ10ランキングをつくり、その順位の詳細が女子に漏れた時だった。
 イベットは二位だった。イベットは一位でなかったことに安堵しているとも、二位にまで浮上してしまったことに恐々としているとも取れる、泣き笑いのような固まった笑顔を見せた。自分の異性からの人気がどれほど女子の反感を買うかこの時には理解していたのだろう。イベットは目を伏せ、神経質そうににやつきながら、温度のない小さな笑い声を発していた。
 彼女が馬鹿にしていた日本人の表情をしているのを見て、私は幸せだった。彼女が日本人らしくなって行くのを見て、私は幸せだった。
 私は彼女が泣くことを願った。何度も何度も願った。イベットが再びいじめられ、もっと日本人らしくなることを願った。私は彼女が私を理解することを願った。いつか彼女が日本人が笑う意味を真に理解する時、私がここに確かに存在していたのだと知ることを願った。

 イベットがアメリカに帰る日は段々と近づいていた。私は英語の授業ではイベットと同じグループだったが、私はイベットにとって最後のグループ発表の日に学校をサボった。
 次の日に学校へ行くと、イベットは意外にも真っ直ぐ怒りをぶつけてきた。
 「そりゃ、体調不良なら仕方がないけど、休むなら一言言って欲しかった。他の子は英語さっぱりだし、フミを頼りにしてたんだから」
 私は見慣れないものを見るようにイベットの怒った顔を見た。眉間の皺が薄く刻まれた様子が美しかった。私は数秒黙った後、「ごめん」とだけ謝った。いかにも心が篭っていない、適当な言い方だった。次いで軽薄な言い訳が口をついて出てくる。
 「イベットがいれば大丈夫かと思ってさ。ごめんごめん」
 イベットは眉を顰めてこう言った。
 「……やっぱり、フミは意味不明だよ」
 クラスで開かれるとかいうイベットのお別れ会も欠席した。するとその日の夜中にイベットからメールが来ていた。
 『私のお別れ会があったの、知らなかったわけじゃないでしょう。どうして何も言ってくれなかったの? 友達なのに。』
 この返信には唖然とした。
 友達?
 信じられなかった。イベットが、私を友達だと思っていた。気を抜くと胸に温かいものが溢れそうになる。
 違う。イベットの傍で、噛み締めた口内炎から出た血の味を思い出す。
 何を、今さら。
 授業中にイベットに書こうとして、結局渡せなかった手紙を思い出す。
 違う。違う。友達なんかじゃない。あの女は、一度も私を見ようとしなかったじゃないか。
 私はその後イベットに直接謝ったが、彼女は無表情でうなずくばかりだった。それから殆ど話すことのないまま、イベットはアメリカへ帰国していった。
 イベットはいなくなった。私は美しい絵画と頭痛の原因を失った。

 「進路、どうしよう」
 姉が学校から渡されたという進路希望紙を見て、私が三年生になった時に書こうと考えたのは以下だった。
 『将来は死体になりたい。死体になって、その後死にたい、
 進路希望 第一希望:死体』

 イベットが日本を去って三か月が経っていた。わけも分からない憂鬱が胸中を覆っていた。
 ある夜、私は衝動的に自殺を試みた。幼児の時に試みた一度目から再び、死に向き合う時が来ていた。
 私が産まれた日は私のアンラッキーデーだった。あの日が一等、ついていなかったのだ。もっと早くこうしていれば良かった。
 私はそう思いながら衝動的に風邪薬をありったけ飲んだ。これで死ねればいいと私は布団の上で静かに目を閉じた。
 十分後、もの酷い吐き気を感じて、体を起こしてげえげえと吐いた。吐瀉物の匂いが充満する部屋に、私は急いで母を呼んだ。
 「どうしたの!?」
 母は悲鳴を上げて部屋を片付け始めた。バスルームに行ってそこでも吐き、便器の中に落ちる溶けかけの風邪薬をぼんやり眺めた。
 二度目の自殺は、派手に失敗した。
 「吐き風邪かしらね。明日も続くようだったら病院に行きましょう」
 母はそう言い早く寝るよう私に言って聞かせた。私は大人しく頷いた。
 まだ嫌な匂いの残る部屋で、私は新しいシーツの上に身体を横たえる。
 気分は最悪だったが、眠りにつく前はいつでも幸せだった。
 夢の中で、私は例の夢の男の子とセックスしていた。それは現実のセックスに無知ゆえに、結合部が白い靄に覆われて見えなくなっていた。内側から湧いてくる強烈な多幸感に包まれ、私はついに彼の顔をはっきりと見た。
 彼の顔は、イベットの顔だった。しかし、本質はイベットとは異なることを頭が理解していた。彼の正体は、モナリザだった。ルーブル美術館にかかっているはずのモナリザが私に触れているのだった。
 モナリザが女である常識は夢の中では重要ではなかった。彼は男だった。彼はイベットの顔をしたモナリザであり、私と夢のようなセックスをする男だった。
 次の日の朝、私は感じたことのない昂揚感と真っ白な感覚と共に目が覚めた。そして、まだ生きる意味があると悟った。
 死ぬには早い。そう。私はまだセックスをしたことがないのだから。
 私の指はまたそこへ向かっていた。
 イベットの顔をした、美しいモナリザ。その人が、必ず私を壊してくれる。直してくれる。
 私は達した。遠く、遠く、遠く飛んでいく。どこまで行くのだろうと思った時、上昇は止んだ。終わった。衝撃で目尻から涙が出た。
 私は自分が赦され、無敵であると感じた。
 イベットと二度と会うことは無くなった今、私とイベットの関係が完成され、永遠に固定されたのだ。
 もうここに平凡で無神経なイベットはいない。私の夢は完成した。
 彼女は美しい絵だったのだ。私はイベットという人間のことを何一つ知らなかった。知りたくなかった。彼女はどこまでも表面的で、それゆえに美しい。
 モナリザ。彼とのセックスはこの世で考え得る最も美しい行為だった。私は夢見る愛が完成した形を切に求めた。
 「これが私の欲しいもの」
 「これが私の欲しいもの」
 「これが私の欲しいもの」
 私は繰り返し呟きながら、幸福に泣いていた。今この瞬間、私が気にするものは表面的な魅力だろう。暴力も銃も血も意味を為さないだろう。
 暴力と密接したあの粘着いた感覚は、夢のようなセックスだけが満たし、完璧に消してくれる。
 この安心感を見よ! イベットはもういない。私は従順で、満たされ、何も不安に思わない。
 「セックスは、男と女が裸でいちゃつくことだよ」小学校でセックスについて教えてくれた同級の声。
 『頭がぼーっとなって、気持ちよかった』恍惚とした竹本の声。
 あの従兄弟の指の動き。
 いや、違う。セックスとは、それ以上の行為なのだ。そうでなくてはならないのだ。
 私は夢を持った。鏡を見ながら、教室で透けていきながら、美しい絵画を見つめながら、夢を持った。
 夢を見るのだ。生きていくために、果てない夢を。

3-1

それから五年の月日が経った。
 結局、現実は非常だった。中学三年間と高校三年間、私は結局まともに男子と会話をしないままに思春期を終えた。
 私の精神は年をとっていた。私は限りなく鈍感になっていた。この頃には鏡を見ては自分の醜さに肩を落とすようなことも、イベットを見つめた時のように異様な目で美人を見つめることもなくなった。私の上を素通りしていく男の目に傷つくこともなくなった。私は十九歳になっていた。未だに処女だった。
 しかし人生とは奇妙なもので、ほんの些細なことを切っ掛けに嘘のように物事が変転する時がある。私には手に入れられないものが沢山あった。イベットのような美貌、男子の視線。すでに諦めかけた時、私はいとも簡単にそれらを天から与えられた。
 大学に入学した。そこから私にとって正反対の力学が働きはじめた。
 入学式の日、大学の構内は春の陽気に浮かれた新入生で溢れかえっていた。桜の色が白く大学の地面を彩っていた。小さめのキャンパスの中、まだあどけなさの残る新一年生たちがごった返していた。
 「もうサークルは決めたかな」
 「うちのスキー部に入りませんか」
 キャンパスを歩いているだけですぐに声がかかる。どこで一年生と見分けているのだろう、親しげな笑顔を浮かべて私に近寄ってくる上級生の足取りは奇妙なほど確かだった。
 この大学のキャンパスの中で、まず同世代の男女が「大人」になり始めた。大人とは異性に対して不必要な羞恥心を持たず、セックスを自然に生活の中に取り入れる生き物のことだ。
 大人になった男女は、あの忌々しいガラスの壁を積極的に取り除いていった。大切に抱えてきた思春期の戸惑いを、こんなものを抱えていたのが間違っていたとでも言わんばかりに、急速に撤去していくのだった。こうしてあの忌々しい壁が私の前から取り払われた。
 私と同じように異性を話した経験が少ない男女でも、ともかく下手なりに互いに自然に話そうという努力がそこかしこで行われた。男と話したことすらない私にも、いとも簡単に「男友達」が出来た。まるで何十年も知っている親友のように、親しみを込めて仇名を呼ぶような異性が出来た。勿論、それは演技めいた人工の友情ではあったが、互いにそれに触れないでおこうという暗黙の了解があった。
 学校は私を教室という狭い空間に閉じこめるのをやめるようになった。私の居場所は増え、生きる社会は段違いに広くなった。
 こうした大学の新しい流儀に従いながらも、私は初め懐疑的な態度を崩さなかった。周囲の人間全員が演技をしているように見えて仕方なかった。
 しかしながら、疑いようもなく変化は起こっていた。気が付けば私にはたくさんの友人がいた。複数のサークルや勉強会に属し、活発に議論を交わしていた。同じレベルで議論をかわせる仲間と、話しても何も変わるはずのないことをこねくり回して自分の賢さを確認した。自分には世界に何らか関わるだけの能力があると改めて信じてみたりした。
 ーーそんな日々のことを、青春と言い換えてもいいかもしれない。つまり、あれほど手に入れたかった青春がようやく周回遅れの私の為に立ち止まったのだ。私は全速力で走ってそれに追いつき、二度と離さないとばかりに抱きしめた。そしてそれが私に一体何を与えてくれるのか問いかけ始めた。
 アルコールはすぐに気に入った。アルコールを身体に入れて頭のおかしいことを一通りやった。運命の男性に十夜立て続けで出会ったような気分になった。自分は完全に終わったわけではない、むしろ自分は素晴らしいなどと脈絡のない思考に酔った。何故か知らない飲み屋で政治家だと自称する中年男性と議論した。
飲み会に誘われることが増えた。皆何かにつけて酔っぱらう理由を探しているように見えた。

 ある日の飲み会の途中、トイレにならんでいる時に、「よう」と一緒に飲んでいたメンバーの一人に話し掛けられた。男の鼻から頬にかけては苺のように赤くなっており、かなり酔っぱらっているのが一目で分かった。
 「大丈夫? 飲みすぎなんじゃないの」
 未だに男と話すのは緊張するくせに、私はいかにも親しげな口調で軽くそう言ってのけた。
 「フミってさぁ……」
 男の方も男の方で、大して親しくもないのに呼び捨てにしてくる。私もそれを咎めたりせず、当然のことのように受け入れて彼の目を見るのである。
 「美人だよね」
 男の口から出た言葉は私を驚かせた。
 美人。
 それはじんと脳の中心に痺れるような響きだった。それが自分に向けられた言葉だと理解した瞬間、あたかも下腹部の辺りで風船が膨らみ、ふわりと身体が浮いていくような感覚に襲われた。
 「あら、何を言ってるの。酔っ払ってるね」
 歌うように機嫌の良い声が出た。
 「いや、実は、初めてあった時からかなりタイプだと思っててさぁ…あれに似てるよね、あの女優の…名前なんだっけ」
 男はうっとりと私を見つめながら、もごもごと何事かを続けていた。
 私はほろ酔いの状態で家に帰った。男が言った一言が鮮やかに心に残っていた。胸を高鳴らせながら鏡を手に取った。こんな気持ちで鏡を覗くのは生まれて初めてだった。
 すると、鏡の向こうから、見たことのない美女がこちらを見返している。輪郭が曖昧にぼやけた彼女は私に向かって微笑んでいだ。
 美しい。酔いが回っているせいか思考が単純・極端になる。とても美しい。世界で一番美しい。彼女を構成する全てが美しい。
 一体この女は誰なのだろう? 答えを知っていながら、私は知らぬふりをした。
 そのままこれ以上ないほど良い気分で眠りについた次の日の朝、私は再び鏡を見た。そこにら私がいた。鏡の中の私はまた笑った。昨晩見た時よりは少し落ちていたが、まだ十分な美人だった。
 見間違いではなかった。他でもない、私が美しいのだった。私は翌日も同じように鏡を見つめた。
 この日以降、自分の顔が今までにない特別な意味を持って目の前に迫ってくるようになった。自覚すればするほど、私は更に美しくなっていった。化粧を覚えたせいだろうか、服装に気を使うようになったからだろうか、年齢を重ねて顔が自然と変わったのだろうか、はっきりとは分からない。私の顔を不細工にしていたものは依然としてそこにありながら、顔の上で意味を真逆に変えてしまった。くすんだ肌色はエキゾチックさに変わった。厚すぎた唇は色っぽさに変わった。私は執拗に自分の顔を嫌っていたのと同じような熱心さで、今度は自分の顔を愛するようになった。あのイベットの顔ですら、今の私の美しさに比べれば霞むように思えた。


 美しさというギフトに慣れた私がはじめに考えたのは、もちろんセックスのことだった。これほど美しくなれば、私はようやく女として受け入れられる、セックスが出来ると感じた。
 今の私に触れられて嫌がる男はいる筈がない。気分が良かった。今まで散々私を拒絶したものが、私をあっさりと受け入れていく。私は早速行動に移すことにした。

 一人目。
 私は生まれて初めての恋人を作った。口下手で女慣れしていない他校の男の子だった。会話に魅力は無かったが惚れ惚れするほど体格が良かった。彼はいわゆるモテるタイプではなかったし、友人に自慢出来るような恋人ではなかった。しかしそんなことはどうでも良かった。私にとっては男の体を持っているだけで十分だった。
 夜遅くまで二人きりで過ごすデートを何度か繰り返した後、彼は歯切れの悪い口調で切り出した。
 「フミは何を考えているのかな、と思ってさ…」
 「どう言う意味?」
 「だからその、君としてはどうなのかな、と思って…最近は夜遅くまで一緒にいるし」
 彼は『セックスをしたい』と言うのにそれほど回りくどい言い方をしなくてはならないのだった。自分の欲望を恥じていたのかもしれない。もしくは硬派に思われたかったのかもしれない。私にとってはどちらでも良かった。上手く言えないらしい彼の為に、私が言った。
 「私はセックスしたいわよ、もちろん」
 その日のうちにホテルに入り、私は彼の前に体を開いた。
 彼の手が伸びて、私の腕を掴んだ。そして私の口に自分の口をくっ付け、私が何も言えないでいると、舌を私の口に入れてやたらめったらぐるぐる回した。観覧車かなにかを再現しているかのようだったが、回すスピードはジェットコースターのように早かった。
 最中に従兄弟にされたことが頭の中に何度かよぎった。私の体を触る拙い手つきがよく似ていたのだ。何度かの挑戦と諦めの後、ペニスがようやく中に入ると、痛みと共にぽっと快楽のかすかな明かりが灯った。その気を抜くと見逃してしまいそうな快を必死で追いかけている内に、初めての『セックス』はいつの間にか終わっていた。
 結果として、初めてのセックスは落胆を遙かに超えていた。それがもたらした快楽は快楽と呼ぶにも自信を持てないような微小なものだった。こんなものがセックスである筈がなかった。
 二人目。
 次は恋人という括りに縛られることをやめた。恋人になった後セックスをする、という行儀の良い手順を踏まないとすれば、事はずっと簡単だった。ハードルが下がり、より魅力的な相手とセックスが出来るようになる。今度は初恋の松田に似た男を選んだ。同じ大学に通う、野球に打ち込む男だった。
 彼は手慣れていた。日に灼けた彼の裸を見ると喉が渇いてきた。確かに自分が彼を欲していると分かった。初めての男は魅力に欠けた、だから上手くいかなかったのだ。今度はきっと大丈夫。
 彼が中に入った時、私は興奮に任せて口走った。
 「激しくしてね」
 「激しく?」
 「そうよ」
 彼は私の望むようにしてくれた。一度目の時より余程上手くいったが、それでも何かが決定的に足りない。
 ペニスが中に入っている時の、温泉に浸かるようなもったりとした快感と、男の側の動き、どこへも逃げようのない欲望をぶつけてくる必死さがどうにもかみ合わないのだ。クラシックに合わせて滑稽なダンスを踊っているのを見ているようないたたまれなさがあった。これも失敗であった。
 三人目。
 また別な男とセックスした。
 この時にはこちらが主導権を握るセックスを試してみた。筋肉痛になりそうな体勢で無理矢理身体を動かす。これは今までの中で一番早く失敗だと分かったーー体を動かすことに精一杯で快楽もへったくれもない。スポーツをしている気分だった。

 ーーーこうした幾度にも渡る実験めいたセックスの後、私は気が抜けていた。一通りの好奇心が満たされた後は虚しさだけが残った。試したセックスはどれもこれも理想に程遠かった。
 処女を失うのと同時に、日常生活からは鮮やかさが失われていった。大学に入学した時の浮き立つような気持ちも消えた。昨日も今日も、一か月前の一日も、全てがプレスで押し潰したように一緒くたになる。目にした物は多いのに、手に入れるものは少ない。生活は明らかに停滞しており、何らかの変化を必要としていた。
 そんなある日、学部の友人がこんなことを言った。
 「私、来年留学するんだ」
 「留学?」
 「知らないの? この大学は交換留学生のプログラムがたくさんあるんだよ」
 交換留学生という響きにイベットの顔を思い出す。苦い塊を胸に抱えた青春の日々を思い出すと、今の自分の美しさが一層素晴らしい贈り物のように感じられた。私はぼんやりと友人の顔を見た。
 「私も、留学しようかな…?」
 友人はこれを冗談と受け取ったのか軽く笑った。
 留学する。悪くない考えだ。より広い世界で見識を広める。グローバル化の時代に英語を磨く。社会人になったら海外に行く時間も余裕も無くなるのだから是非とも今行っておくべき。
 尤もらしい考えはいくらでも浮かんできたが、この思い付きの深い場所にはもちろん私の原始的な欲望が根を張っていた。まずイベット。今の自分はイベットよりも美しいと信じながら、未だにイベットへの執着は強く残っていた。あの美しさを作った彼女の故郷を見てみたい。そして、アメリカ産のスーパーヒーローズ。あの屈強な戦士たちのモデルとなった、男らしい体を持つアメリカ人の男を見てみたい。そして、彼らとセックスをしたい。実際のセックスを知ってから、私の欲望は治まるどころか加速していた。自ら自覚せぬままに、私の肉体はそのピークを迎えていた。
 私の目には昔から、無意識に同世代を目で追う習性が備わっていた。電車に乗る時も、道を歩く時も、中学生の私の目にはどこもかしこも中学生だらけだった。高校生になると高校生が増え、大学生になると大学生が増えた。世界は私の成長に合わせて同世代の人間を増やしているようであった。しかし、私の世界には今、不自然なまでに年下が増えていた。私は成長を明白に拒んでいた。
 ある日部屋の窓からぼんやりと外を覗いていると、大きなトラックに荷物を運び込む男の子の姿が見えた。高校生ぐらいに見える彼の両手は大きな荷物で塞がり、口には白いメモ帳のような紙切れが挟まれていた。その口元が、見惚れるほどに無防備だった。肉体労働に鍛えられた彼の体は汗と日差しによって輝いていた。くらりと頭を殴られたような衝撃が襲う。
 私はその子が去った後も、彼のことを考えた。彼のことを考えた。くり返し考えた。そして若い女性のつけまつげの中に、アルバイトを始めて間もないであろう喫茶店の店員の不器用な接客の中に、同じような美しさを見出した。
 私はセックスをしたかった。私は肉体を追い求めていた。セックスに適した若い肉体。それは私が今持っているものであり、時間の経過と共に少しずつ失われるものだった。
 私は焦っていた。季節はまた夏になっていた。例年よりも光の強い太陽を見て、これはカリフォルニアのの太陽が私に会いに来たに違いないと思った。眼に映る全てがアメリカに行くべきだと私に説得しにかかっているような気がしてならなかった。


 誕生日カードが部屋の床に無造作に転がっている。いつの間に私は誕生日を迎えていたのだろう。そもそも私はいくつになったのだろう。それすらも分からない。
 ニューヨークに友達と呼べる人は一人もいない筈だ。では一体、誰がこんなものをくれたのか。
 『親愛なるフミへ、
 お誕生日おめでとう。私はジョニーを愛している。なのに、彼をそんなに愛しているなら、なぜ彼から離れたの? なぜ彼の元を離れた、この寒いニューヨークになんかいるの、ジョニーのいない? ジョニーのいない? ジョニーのいない? ジョニーのいない? ジョニーを愛しているこの私は何故ここにいるんだろう? 何故帰らない? 帰らない? 帰らない? ジョニーのいるカリフォルニアに? お誕生日おめでとう。でも、ジョニーがここにいないのよ。』
 英語で書かれたその筆跡は確かに私のものだった。しかしいくら頭を捻っても、こんなものを書いた記憶はない。


 長いフライトの後、私はロサンゼルスのLAX空港に着いた。日本では嗅いだことのない香水と体臭を混ぜ合わせたような匂いの中を歩く。踏み出す一歩一歩から、足の裏を通じてアメリカの土地が身体に染み渡っていくようだった。
 私はアメリカに来ていた。
 この土地だ。この土地のどこかにある。
 そう心の中で自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、それが現実になっていくような気がした。
 惚れ惚れするような体型のアメリカの人たちに、早くも本能が吸い寄せられるのを感じた。
 この仲の誰かとセックスをしたい。今までの紛い物とは違う、本物のセックスをしたい。きっとどこかにそれがある。それを探す為にここまでやってきた。私は自分の行動力を賞賛したくなった。新しい土地に来たのだという実感が肺を満たしていく。
 私は空港へ迎えにきていた送迎タクシーで大学へ送られた。そこで大学から宛がわれた下宿先の主人が迎えに来ている筈だった。
 陽が落ちつつあった大学構内のほのかな明かりに照らされて、背筋の伸びた初老の女性が煙草を吸っているのが見えた。彼女の顔には皺がいくつも刻まれていた。大きな目、通った鼻、そういった派手な顔立ちの間を縫うようにしてくっきりした皺が通っていた。海苔のように黒い髪を無造作に一つにくくっており、髪先は腰にも届こうかという長さだった。若い着飾りが彼女の老いをかえって強調していたが、顔立ちは恐ろしく整っていた。私は瞬時に彼女の若き日の美しさを思った。
 じっと見つめていた私に気がついた彼女はこちらに近づいてきた。
 「あなたがフミね?」
 私は甲高い声ではい、と答えた。「はじめまして」と言ったきり、緊張でものを言えなくなった私を、彼女はきつく抱擁した。
 彼女は私を車に乗せると、私と間違えて他の生徒を家に連れ帰りかけたこと、あまりに長い間待たされたことで普段吸わない煙草を吸っていたのだと話し始めた。話が淀みがなく止まらない。私は頷くのが精一杯だった。私は体を縮こまらせ、両手を膝の上に置き、必要以上に行儀よくしている自分に気がついた。初めて会う女主人に良い印象を与えようとしていたというよりは、慣れない異文化の勢いに飲み込まれない為に、日本人という作法を強調して自分を守っていたのだった。
 連れられてきた一軒家は広かった。すぐにクリスマスの飾りつけから香っているらしい独特の甘い匂いに気がつく。良い匂いといえば良い匂いだが、鼻につくしつこさがあった。
 「あなたの部屋は二階よ。この重い荷物を運んでしまわなきゃね。アンドリュー! 来なさい!」
 女主人の声を聞きつけて二階から若い男が降りてきた。私の目はすぐに釘付けになった。カール気味の艶めいた黒髪をしていた彼は、若さをその肉体から迸らせているようだった。私は一目見た瞬間、彼の服を脱がせたいと強く思った。
 「はいはい。なんだよ、おばあちゃん」
 私は眩暈の中で彼を盗み見た。下宿先の女主人は彼、アンドリューを孫なのだと言った。いつもは離れて暮らしているが、休日になるとこの家に遊びに来るのだという。威圧的な体格をしているが、たれ目がちな緑の目は優しそうだったーー美しい顔立ちが女主人によく似ていた。私より年下だということだが、大きな体や雰囲気は既に大人のようだった。
 「今日からここに下宿するフミです、はじめまして」
 そう言ってアンドリューに握手を求めた時、彼の目から光が消え、うんざりとしたような、半分軽蔑しような目つきになった。彼の目はもう飽き飽きだ、と言っていた。耳にも聞こえてきそうだった。恐らく彼は留学生が来る度に何十回とこの会話を繰り返してきたに違いなかった。彼は本心を隠して笑顔を作った。
 「はじめまして」
 浅く握った後に彼の手はすぐに離れていく。
 二階の部屋に荷物を置いて落ち着いた後一階へ降りていくと、私の為の歓迎会の準備がされていた。机の上にはご馳走が並んでいる。女主人は沢山用意されたご馳走を見てフライドチキンとピザを指差した。
 「コレとコレは、すぐなくなるわね。美味しいから」
 アンドリューは反応するともなく、ん、とだけ答えて対応した。
 食事中、私は女主人とばかり会話をした。ほとんどアンドリューと口を聞くことはなかった。
 歓迎会が終わり宛がわれた部屋にようやく入ると、私は大きなため息をついた。長旅で疲れた体を一刻も早く休ませたかった。ベッドの上に横になると、すぐにあの若い男の姿が頭に浮かんだ。顔や体が熱かった。あれほどの男前と話したのは生まれて初めてかもしれなかった。
 

 次の日からは、美しい異国情緒の洪水に目を奪われっぱなしだった。私は日本で感じていた退屈をすぐに忘れた。見たことのないものを目にする度に、眼が喜んでいるのを感じた。
 アメリカの最大スーパーマーケット、ウォールマートはすぐに気に入った。あの場所には世界の全てが集まっているかのようだった。通路が広く、どこまでも無限につづく様な店内。歩いているだけで夢が何でも叶いそうな気分になってくる魔法のような場所だ。
 私は手当たり次第に物を買った。化粧品からは、南国のフルーツの味を無理矢理出そうとした薬品のような匂いがする。子供の頃に食べた懐かしいお菓子。日本とは違う大きさの、MサイズのTシャツ。ーー私はアメリカで目にする物全てに魅了された。
 その筆頭には勿論、アメリカの男たちがいた。テレビに出てくるような美しい男たちが当たり前のように道を歩いていた。そのような美しい男が、私に視線を送ってくる。賞賛と親しみを込めて。
 これが美しさの福利だった。歩く時に何気ない視線を感じる。他の人が受けられない特別な待遇を受ける。銀行や学校でちょっとした手続きをする際の、担当者の笑顔。授業で隣の席に座った男の子が私に向ける澄んだ目。下宿先の女主人は、格別私を可愛がった。私を今まで預かった生徒たちの中で一番美しいと誉め、将来は大金持ちと結婚しなさいと言った。
 私はこのような賞賛を遠慮なく受け取った。胸を包み込むかさ、守られているという圧倒的な安心感。戸惑いはしてもやはり嬉しい。誕生日でないのにもらえる誕生日プレゼントのようだった。
 キャンパスで一年生と思しき初々しい男の子が目を引いた。中学の時に好きだった岡野に似ていた。私は美術品を鑑賞するように彼を見つめた。彼は私の視線に気がつくと、一瞬目を丸くした後、慌てて視線をそらした。彼は気にしないように努めていたが、その後も何度もこちらに視線を向ける。
 あの時触れられないと思っていた美術館の展示品たちの正体は、実際は呆れるほど人間らしかった。美しくなった私はもはや透明ではなく、昔のように男の子を遠慮なく観察することは叶わないのだった。
 彼は特別美男子というわけではなかった。日に焼けた横顔、喋り方、歩き方、どれをとっても特別なものは見出せない。しかし彼は私が若かった時に、いくら手を伸ばしても届かなかった展示品だった。私は彼が羨ましかった。あの若さが、平凡さが、ありふれた希望が、彼の平凡な悩み、彼の平凡な恋愛が羨ましかった。
 彼が自分の持つ若さと凡庸さの価値に気付く日は来るのだろうかと思った。来ないかもしれない。一生。自分の美しさを特別に意識しない、しなくて済む、その態度の何と贅沢なことか。
 彼は私を見て顔を赤らめている。私はこの視線を既に知っていた。私があの教室という狭い箱の中、男の子全てに送っていた視線だった。それをまさか私が受ける側になるとは思わなかった。彼は一体なぜこんな美女が自分なんかを見つめているのだろうと混乱している。彼の頭の中は私の視線ひとつで興奮と混乱で滅茶苦茶になっている。私は世界にこれほど愉快なことはないと思った。


 下宿先の孫・アンドリューは留学生である私と関わりを持ちたくないというような態度をとっていたが、それが氷解するきっかけは意外にもあっさりとしていた。
 休日に勉強中に小腹が空いて一階に降り、キッチンに入ろうとした時、丁度そこから出てこようとしたアンドリューとぶつかった。
 「びっくりした」
 アンドリューは眉を上げて軽く笑った。彼とまともに目が合ったのはこれが初めてだった。
 「驚かせてごめん」
 笑いながら謝った後、沈黙が落ちる。アンドリューはぎこちなく体を私から離すように回転させて、その場を離れようとした。私が手を振ると、おどけたように手を振り返す。
 「アンドリュー、ちょっと待ちなさい」
 女主人の声が彼を引き留めた。世話好きの女主人はキッチン降りてきた私の姿を見つけ冷蔵庫からヨーグルトを二つ取り出していた。
 「あなた、まともに昼食べてなかったでしょう。これを食べなさい。若い人にはエナジーが要るのよ」
 アンドリューは世話好きの女主人にうんざりした顔を見せるが、慣れているのか何も言わない。
 「ちょうどいいからフミと一緒にヨーグルトを食べたら良いわよ」
 嫌だという理由もなかった。私たちは無言のまま同じテーブルについた。しばらくヨーグルトの容器とスプーンがぶつかる音だけが響く。
 「……学校はどう?」
 「普通だよ」
 沈黙を埋める為に質問をすれば、答えが返ってくる。素っ気無いが口調は冷たくなかった。今度はアンドリューが私に聞き返した。
 「そっちこそ、アメリカはもう慣れたの?」
 「まあ、ぼちぼちって感じかな。私の国とは違うから戸惑うことも多いけど」
 「えーと、どこの国から来たんだっけ?」
 「日本だよ」
 「ああ。カムサハムニダ、でしょ? 学校で習った」
 アンドリューは誇らしげに言った。
 「それは韓国語。私は日本、そこの隣の国から来たの」
 「んー……」アンドリューは気の無い様子で唸る。「韓国語と日本では何が違うの?」
 私は苦笑した。この質問を竹本が聞いたらどれほど怒るだろう。彼にとって中国と日本は殆ど同じもので、もし違うところがあるとすれば、片手で数えられる程少なく、説明しやすく、外側に分かりやすい違いだと思っている。挙げればきりがない程に全てが違うのだということ、またその違いは繊細な違いなのだということ、どこから説明していいか分からなかった。考えた挙句、「言語も文化も違うよ」という無難な返事に止めておくことにした。
 「ふーん、なるほどねえ」
 アンドリューはわざとらしく首を上下に動かして頷いた。興味がないことを悟られまいと必死な様子だった。
 会話は続いた。趣味は何なのかという話から、共通のアーティストが好きと分かって話が盛り上がった。ラップ音楽が好きな彼は、自分も趣味で詩を詠むのだと言った。
 「へえ、すごい。何についての詩を書くの?」
 「自分の体験についてとか。詩は感情を表に出す手段でもあるんだ。ネガティブな感情を内側に閉じ込めておくと不健康だろ。だから俺は詩を書くんだ」
 「読んでみたいなぁ」
 アンドリューは照れたように目を伏せた。「見せても別に良いよ」と呟く。
 「いいの?」
 「うん。部屋から取ってくる」
 アンドリューは小走りで戻ってくると、「今まで誰にも見せたことがない」と言いながら私にノートを手渡した。使い込まれているのが一見して分かるノートは手に取ると実際よりも重く感じた。中を開くと最初のページから文字がびっしりと書き込まれている。
 ラップを前提として軽快に韻を踏んだ詩は思いがけず暴力的だった。強い怒りの感情がそこかしこに溢れている。感情を反映するように、字が乱れている部分も多々あった。所々に補足をするような絵も描かれていた。花のように微笑ましい絵もあれば、銃やぐちゃぐちゃに塗りつぶされた棒人間など過激なものもあった。
 その中で一つの文章が私の目を引いた。

 『女どもは俺の弱点だ』
 
 恋をした時のフラストレーションを描いた詩の一文だった。乱暴な筆跡だった。私はその文を見つめた。軽い震えが背中に走る。女主人は既に自室へ戻ってしまっており、そこには私たちしかいなかった。
 アンドリューの呟きが私の顔を上げさせた。
 「……君ってよく見ると、すごく綺麗だね」
 それは初めて私に美しいと指摘した男と全く同じ口調だった。私を見つめる目に獣めいた光がある。この目にも見覚えがあった。年齢も国籍もバラバラだが、私が美しくなってから男が私に向ける視線には共通点があった。
 沈黙に耐えかね、アンドリューはジュースを一気に煽った。のけぞる喉は細く美しく、私は瞬間的に激しい欲望を抱いた。
 「困ったな。俺、君に恋してる気がする。彼女がいるんだけど」
 彼は言いながら私から目を逸らした。彼が目を逸らせば、私は反対に彼の顔に釘付けになった。
 「あんまり見るなよ」
 アンドリューは隠すように目を両手で覆った。しばらくするとその指が緩慢に動き、小さな隙間を作った。隙間から彼の目が覗いている。その視線は、無言の賞賛を私に降り注いだ。

3-2

 私はその後部屋に帰って自慰をした。扉を閉めた瞬間、すぐに鏡をひっつかむ。鏡の中から潤んだ瞳でこちらを見返す女は相変わらず美しかった。私は彼女の奴隷になることに決めた。私は息も荒く自身の湿った下着を脱ぎ、それを鼻に押し当てた。そして『彼女』を悦ばせた。アンドリューの熱い視線は私が女だと教えていた。ようやく女、存分に女なのだと繰り返し教えていた。それが私を高めたのだった。
 更に私を興奮させたのは、アンドリューの部屋のテレビだった。彼の部屋のテレビは常時インターネットに接続され、大手動画サイトを見られるようになっていた。彼がいないときに勝手に入ってテレビを見ても構わないと言われていたので、平日にたまに映画を見ていた。
 テレビをつけた時、私の目を引いたのは動画サイトの最新の検索履歴だった。『激しいファック』『デカい乳』といった検索の後に、こんな文字が見えた。

 『アジア人 年上』

 私は殆ど間髪入れずにそこをクリックした。すると、『アジア人 年上』の検索結果が表れた。あられもない格好をしたアジア人女性の動画がたくさん出てきて息を呑む。それまでは知らなかったが、このサイトは映画だけでなくポルノも扱っていたのだ。
 私は燃えるように欲情した。アンドリューが私とこれらの裸を結びつけていたのは明白だった。アンドリューの私への欲望は寸分違わず私のアンドリューへの欲望に変換された。
 見よ、ここに確かな証拠がある。私が女になったのだという証拠が。
 私はアンドリューの体を想像した。私は彼の性器を想像した。その形を想像した。その先端から迸る液体を想像した。それは宇宙の卵だった。私の目の裏で無数の星に変わり、宇宙に溶け込んでいく神秘的な生命体だった。
 男、男、男。
 彼らの目が全てを語っていた。私は女で、美しく、女という生き物が得られる最高のものを与えられているのだと。
 小さな頃、初めて公園に遊びに行った時、新しい世界を見た。社交の場が広がっている公園は新たな世界の入り口だった。大人になった私の公園はポルノだった。私はポルノを使った自慰に夢中になった。アンドリューに似た男が出てくるものがお気に入りだった。
 私は宿題をする時もアンドリューのことを考えた。アンドリューの唇が私の身体に押し付けられるところを想像した。アンドリューと唇を合わせられるなら、そのままグジュグジュと、ノロノロと、その感触に浸っていられるならどれほど良いだろうと思った。


 ある休日、女主人は遊びに来た家族と私を外食に連れて行った。予約しているレストランは車で一時間以上かかる場所にあった。家から出て待っていると、女主人は無邪気に一つの車を指差した。
 「フミはアンドリューとあの車に乗って行ってね」
 アンドリューは先に車の中に座って私を待っていた。私は密かに胸をときめかせながら助手席に乗り込んだ。高いヒールを履いていたから、その背の低い車に乗る時に屈まなければならなかった。アンドリューが短く注意する。「頭、気をつけて」
 車内には男物の香水とメキシコ料理のスパイスのような香りが充満していた。
 道中、私たちはきまずい沈黙と楽しい会話を交互に経験した。
 「もうちょっとしたら右手に綺麗な湖が見えてくるよ」
 「今の前の車みたいな運転、違法だと思う?」
 他愛もない会話でも、積み重ねれば空気は和んでくる。私は運転している彼の横顔を盗み見た。受け口気味で上品な口元を綻ばせると、白い歯が零れる。端正な顔だった。
 窓の外から見える景色は広大なオープン・ロードだった。土色とオレンジ色を足して割った色がずっと続いている。カリフォルニアの広大なオープン・ロード。乾いた大地。私はこの光景をずっと昔から見たかったのだという気がした。
 レストランに着く頃には、私たちはすっかり打ち解けていた。席に案内されるまでの待ち時間、私たちはずっと話していた。混んだレストランの喧騒の中で、背の高いアンドリューは私の耳に口を寄せるようにして話した。
 「メキシコでは蟻の卵を食べる料理があるんだって。グロいよな」
 「あら、私は人の食文化をジャッジ(偏見を持って見る)したりしないわよ」
 「そんなの嘘だね。人を全くジャッジしない人間なんかいるもんか」
 「まあ、そりゃ私だって少しはするかもしれないけど…」
 「あれ、さっきはジャッジしないって言ってたのに、どう言うことかな?」
 アンドリューは私の揚げ足をとった。彼はこのように人をからかって遊ぶのが好きなようだった。
 「はいはい。ジャッジはするけど、しないように心がけてはいます」
 「うん、だいぶ良くなったね」
 アンドリューはおどけた。深い緑の目に見つめられると深く満たされていく。周囲から見れば私たちはさぞ素敵なカップルに映っているだろうと思った。レストランの喧騒、ハンサムな男の子、カリフォルニア。今ここにあるものは私の欲しかった全てなのだという気がした。
 「そういえば君、銃は好き?」
 「銃? 別に。あなたは?」
 「俺は大好きだ」
 私は首を傾げるようにして彼を見たーー彼の顔は澄んだ輝きを放っていた。
 「俺の好きなものは違法で楽しいことだよ。銃は悪いっていう奴もいるけど、銃だって俺たちの自由の一つなんだぜ。他の国では銃を持つことは許されないだろ。でも俺たちアメリカ人は銃を持てるんだ」
 彼は悪と力への幼い憧れではち切れんばかりだった。私は目を細め、懐かしさに胸が締め付けられるのを感じた。
 帰りの道のドライブも楽しかった。帰り道もまたオレンジ、オレンジだった。私はアンドリューに好きな色を聞いた。青と緑という答えが返ってきた。
 「……で、君の好きな色は? ピンク?」
 彼は私がポーチから出したピンクのリップグロスを横目で見て言った。
 私は窓の外を見ながらオレンジと答えた。これからは、オレンジが私の一番好きな色だと思った。
 私はこの日、世界で一番幸せだった。寝不足の脳みそが映した鮮やかなオレンジ。隣にはアメリカ人の男の子がいた。それも一等、ハンサムの。私はアンドリューの車の中で、オレンジの夢の夢を見た。青い夢。空の青い夢。私たちしかいない巨大アメリカの道。
 この食事会以降、私とアンドリューの距離は縮まった。
 「よお。この間、酔っ払って叫んでたの、全部部屋から聞いてたよ。君ってどうも声を落とす気がないらしいからね!」
 彼は廊下ですれ違うと必ずこのようなからかいの言葉を入れてきた。私は腹を立てる振りをしながらそれが内心嬉しくて堪らなかった。
 この若い男はあどけなさを盾に遊びを迫る図々しさがあった。週末には必ず私の部屋をノックした。
 「一緒に映画を見よう」
 「ゲームをしよう」
 彼は毎回何か理由をこしらえてくるのだった。私はいつもアンドリューの話に耳を傾けた。彼の話は大抵とりとめもなかった。
 「前の家のことをよく覚えている。そこで昔、従兄弟が吐いちゃって大変だったんだ」
 「へえ」
 「それから…初めてカリフォルニアに来た時だけど」
 私は彼の話を熱心に聞いた。何一つ重要なことなど話してはいないのに、話をしているだけで心が満たされていくばかりだった。
 彼のいない時は彼の代用品として、彼の不存在を抱き締めた。彼の顔を思い出した。彼の腕が私を掴むところを想像した。彼の車の中に無造作に置かれていたヒップホップ歌手の白い香水を思い出した。あのメキシコ料理屋を思い出した。
 私は恋をしていた。十代に戻ったように。あの時に出来なかったことを取り返すように。私は人生の頂点にいた。私は明るい夢を見ていた。世にも明るい夢を。いつかアレックスと両思いになる。そしてセックスをする。それで全ては仕舞なのだと思った。不安は仕舞。これがまさしく、この世で得られる至高のもの、愛というものに違いなかった。



 アメリカ生活の中でタクシーの運転手との会話をささやかな楽しみにしていた。知らない人との会話なら、まず日本とアメリカの違いを聞かれるのが常であるから、私はいくつかの定型の答えを用意するようになった。
 「日本よりも自由だね」
 「堅苦しい日本人に比べたらアメリカ人はみんな陽気で羨ましいよ」
 その日の運転手は、眼鏡をかけた痩せこけた男だった。真面目そうなこの男は、興味深げにアメリカと日本の違いを聞いていたが、アメリカ人が陽気だと言うと彼は一笑に付した。
 「アメリカ人が陽気なんて幻想だよ。俺たちは明るく笑ってはいるけど、本当は不安でたまらないのさ。アメリカ人はパーティー好きだろ。でも実際、パーティーにいるやつの80%は緊張していると思う」
 「そうなのかな」
 「そうさ。それを隠すのが上手いだけだ。オレたちアメリカ人は孤独な存在なんだ。利益のみを求める価値観の島に、世界で一国だけ孤立させられている」
 タクシーから降りる前、彼はふと思い立ったように言った。
 「……オレさあ、副業でマリファナとかクスリの販売をやってるんだ。マリファナぐらいなら君もやったことあるだろう?」
 「ないわよ」
 私は戸惑いながら答えた。
 「やったことないのか?」
 言いながら男が笑うと、歯並びの悪い歯がちらりと見える。白い肌にヤニのついた歯が余計に黄色く見えた。男の口からは鼻につくマリファナの匂いがかすかにした。その嫌悪を催す匂いに、私は顔をしかめた。
 「まあ、いいや。良い子は良い子でいるのが一番さ。元気でな、お嬢さん」
 彼が口を閉じ、その醜い部分が隠れると、彼の外見には真面目そうな眼鏡、アイロンのきいたシャツだけが残った。とてもマリファナの販売をやるような男には見えなかった。
 タクシーの運転手は正しかった。アメリカには常に、眼に映る表面上の姿と、それと正反対の実質がある。この国では何一つ決めてかかることが出来なかった。あのタクシーの運転手がマリファナの売人であることだってそうだ。あり得ないことなど、この国では一つもないのだった。
 アメリカには嗅ぎなれない匂いや音が溢れていた。マリファナの匂い、異質な南米のスパイスの匂い。そこかしこから中国語やスペイン語が聞こえる。インド料理屋に入れば、天井からいくつも伸びた細い糸を手繰り寄せながらぐんぐん上がっていく、あの独特な進行の音楽が爆音で流れている。
 しかしアメリカについて知れば知るほど、この国の本質は、そのような混沌とは正反対なのだと理解するようになった。自分の五感で感ぜられる色と音と匂いの洪水はまやかしだ。むしろ、この国の本質は正反対の透明で無臭の何かだった。それは自由や平等といった普遍的な観念だった。他の国のような色や匂いのついた独自の文化ではなく、無味無臭で透明の『観念』を基盤としているのだ。インド人はインド人の匂い、メキシコ人はメキシコ人、中国人は中国人の匂いをさせながらアメリカにいるが、彼らの匂いのする身体を全て剥ぎ取れば、そこにはひどく透明で全く同じ形をした精神が見つかる。アメリカはその意味で、これほど表面的には物質主義の様相を呈しながら、実際は精神にその本質を備えた文化なのだった。


 土曜日に部屋でくつろいでいると、部屋がノックされた。そこには目の据わったアンドリューが立っていた。アンドリューは大木のように微動だにしないまま、数秒突っ立っていた。時間が止まったような沈黙の中、彼の突き出し気味の下唇が目に入った。
 私は異様な雰囲気に気圧されて無言になった。
 「一緒に映画を見よう……良い映画があるんだ」
 彼はようやく言った。歌でも歌うような鈍い口調だった。
 「良いけど……あなた大丈夫なの?」
 「大丈夫。ちょっとマリファナをやってただけ…」
 アンドリューは一人でマリファナを吸っていたのだと言う。私は驚かなかった。もっとハードなドラッグをやっていたとしても驚かなかっただろう。彼のうつろな目を見ていると、かなりの量をやっていたようだった。彼は緩慢な動きで私の手を引いて部屋へと連れて行った。
 暗い部屋の中、テレビからの青い光がアンドリューの横顔を照らしていた。
 「本当に大丈夫?」
 質問すると、彼は固まった。
 「……ん?」
 反応すべき時から数秒遅れて彼は漸く言った。
 「うん、大丈夫」
 彼は私の視線から逃れるように目を私の口に移した。沈黙の中でマリファナだけが香っている。
 「意識はしっかりしてるから……ただ、マリファナが効くと、一つの物にしか集中できなくなるんだ」
 アンドリューはなおも私の唇を凝視していた。不純なものが空気の中に香っていた。アンドリューの口からはマリファナの匂いがした。
 アンドリューは突然がばっと身を起こして私に抱きついた。そして細い声で言う。
 「ねえ、俺、君と二人で遊びに行きたいんだ」
 手でアンドリューの体をやんわり押し返す。私がもう行ってもいいかと聞くと、アンドリューは強い口調でダメだと言った。
 「君と一緒にいたい。君の美しさを表す為の表現を知らないんだ。美しい掛ける百? とか?」
 彼は私を大げさに褒めることで私を引きとめようとしていた。アンドリューの首に手を回した時、彼の褐色の首を親指と残りの指の二点で捉えた時、彼が「ふ」と鼻に抜けるような笑みをもらした。私はアンドリューの褐色の背中をなぞった。彼は擽ったそうに身をよじる。
 全てが生々しかった。私は、アンドリューを自分の意のままに出来る力を持っていると感じた。私は自分が手に入れた力を彼の上に行使しているのだった。松田が白本を殴ったのとは異なる、新たな暴力の形を私は手に入れたのだった。
 「そういえば、俺さ……、彼女と別れたんだよ」
 アンドリューはさりげなさを装ってそう言った。元彼女は別れて以来振る舞いがおかしい、もしかしたら自分のせいかもしれない、と大して反省もしていない声音で言った。
 「新しい彼女、作らなくっちゃな…」
 私に聞こえるようにつぶやく。見え透いたアピールに思わず微笑んだ。
 そこからは早かった。私たちは毎週末を二人で過ごすようになった。全てが自然に進んでいった。
 これこそが自然な愛の形だと思った。私たちは会話の相性もぴったりだった。深夜に彼の車で家を抜け出す。デニーズに行ってチョコレートがたっぷりかかっている吐き気がするほど甘いホットケーキを食べる。
 ある日アレックスは私を車に乗せると星を見に連れて行った。満点の星空の下で、私たちは何度もキスをした。私は完璧な恋愛映画を思った。あれ程憧れていた同級生の岡野とイベットですら、今の私とアレックスほど完璧な絵ではない。私は映画のシーンのように目に映るこの絵に音楽を付けたかった。このシーンのBGMにはこの旬なアーティストが歌っているからという理由以外にチャートの一位にいる理由が見当たらない曲が適している。
 なんと完璧な一瞬であろう。私達は世界中が憧れるカップルだ。私はため息をついてアレックスを振り返った。彼の身体はどこもかしこも太かった。太い肩、太い二の腕。この逞しい身体を私の好きに出来るのだと思った。
 しかし、そのことを考えると、急に私の体は凍りついたように固まった。どうしたというのだろう。幸せが重過ぎるのか。幸せが重すぎて、一歩たりとも歩けないということがあるだろうか。
 不穏な動悸がした。焦燥感が襲う。これが私の欲しいものであったのだと早く確かめてしまわなくてはならないと思った。私は車の中で彼のシャツのボタンを外した。すんでのところで彼の肩を押す。その手を未練がましく沿わせて首に触れた。彼は驚いたような顔をした。
 「……ここでするの?」
 私は頷いた。私たちはバックシートに移って激しくキスをした。二人分の吐息が充満している。
 しかし、私は興奮というよりは焦りから喘いでいた。早く。早く。はやく情熱が下りてきてほしい。これで仕舞なのだと確かめなくてはならない。
 音を立てながらアンドリューのペニスが中に刺さった時、確かに充実感は確かにあった。しかし彼がそれを抜き差しする動作を始めると、すぐに目の前に行き止まりが見えた。目の前が暗くなった。これ以上、先には進めない、という理屈抜きの圧倒的な感覚。これ以上の情熱はこの行為から搾取できようがない、というはっきりとした予感。
 順調に走ってきた。これで正しいと思っていた。こっちに走っていれば正しいはずだった。それなのに、突如として目の前に崖が広がっていた。
 私は彼が射精する前から、彼とセックスしている現実を忘れ、悲しい考えに浸り混んでいた。
 「俺、もしかして下手だった?」
 終わった後、無言のままの私に、アンドリューが気遣うように声をかける。
 「いいえ」
 「初めてなのに車の中でっていうのがマズかったかもな。今度はベッドの上でゆっくりしようよ」
 彼はまるで的の外れたことを心配していた。
 「言っておくけど、遊びでしたわけじゃないよ。僕は君が好きだ。君と結婚したっていい」
 ……結婚?
 この上なく耳慣れない、頓珍漢な響きが私の耳を打った。
 私はこれが始まるまで、この男を救世主のように思っていた。この男こそがこの虚しさを終わらせてくれる人だと。
 私は落胆と投げやりな気持ちで、軽く鼻を鳴らした。すると怯えたような、纏うような表情が、男の顔の上に浮かぶ。彼は傷付いたようだった。それを見る方が、セックスより余程気持ちが良かった。大声で笑いだしたかった。
 ……これでこの夢も終わりだった。私にははっきりと分かっていた。
 次の週末、アンドリューは会うなり小さな箱を私に向かって突き出した。
 「これは俺が買いたくて買ったんだ。だから受け取りたくないなら構わない」
 言い訳めいた口調だったが、決意を込めた固い口調で言った。
 「俺、きっと金を稼ぐ才能があると思うんだ。将来君を幸せに出来ると思う」
 どんな顔でそれを受け取ったのか思い出せない。しかし、自分がそれを望んでいなかったことだけはすぐに分かった。
 ずっと望んでいたと思っていたものは雪のように溶けて消えた。もう私はこれを望んでいなかった時のことを思い出せずにいた。
 私は無感動に薬指に指輪をはめた。女の喜びの象徴は滑らかで重かった。
 『願い事には気をつけなさい、手に入れてしまうかもしれないから』
 有名な諺が頭に浮かんだ。
 指輪を薬指にはめた左手は滑稽だった。シルバーの輝きが私の黄色い肌から光を奪っている。血管が老人のように浮き上がり、どの角度から見ても、私の左手は美しく見えなかった。


 虚しく、愉快だった。私があれほど憧れていた男に触れ、女という力の元、彼らより優位に立っている。アンドリューの顔をもう見たいとも思わなかった。彼がどれほど美しくても関係ない、彼にはまるで興味がなくなっていた。
 「君が嫌なら、やめればいいんだよ」
 ホテルの部屋に入った後固まってしまった私を、その男は冷めた目で見た。彼とはクラブでDJをやっている友人を通して知り合った。普段はバンド活動をやっているが、小遣い稼ぎに男娼をして稼いでいるのを友人がポロリと漏らし、私は自分が買うことは出来ないかと連絡を取ったのだ。
 間違ってもセックスの後に結婚などと言い始めない人間とセックスする必要があると感じていた。もう一度、最後にもう一度だけ、確かめて見なくてはならなかった。性を金で買っているという事実に後悔が生まれたが、その後悔でさえ、作り物だということは分かっていた。私は単に、純粋ぶったり悪女ぶったりしながら、少しでも真実に辿り着くまでの時間を引き延ばそうとしているのだと知っていた。
 作り物だ。私が体験したかったことを、若い男の子を使って追体験して、まるでそれが本物のように振る舞っているだけだ。タイプの異なる男の子をあちらこちらに配置して見ながら何か化学反応が起きて爆発が起きやしないかと期待をしていただけだ。それは稚拙な人形遊びに似ていた。
 「準備ができたら服を脱いでもらって…」
 彼のセックスへの態度は今まで見たどの男の子よりぞんざいだった。私は彼の中に自分を見た。
 「……シャワーは?」
 「シャワーは浴びなくていいよ。今日か昨日の夜浴びてきたんだったらOK」
 裸に近い彼の姿美しかったが、彼に欲情することは出来なかった。いつまでも服を脱ごうとしない私に迷いを見たのだろう、彼は言った。
 「……なんならお金抜きで抜きでしてもいいよ。君は素敵だから」
 彼の瞳の中に欲望が浮かんでいた。性懲りも無く自尊心が満たされる。
 「そんなことを言って、ただ自分がセックスをしたくなっただけなんじゃないの?」
  彼は少し笑っただけで否定しなかった。
 「……まあ、大体の男は女より尻軽だからね」
  私は無感動に裸になった。セックスの過程は効率的に、淡々と進んだ。
 しばらくの後、彼が射精したのがわかった。私は彼を見下ろす自分の目から力が抜けていくのを感じた。もはや目の前の彼は景色と同じ程度の価値しか持たなかった。コンドームの中の精子の白さに吐き気がした。この時はっきりと分かった。嘘っぱちだった。アンドリューが好きだなんて初めから嘘っぱちだった。
 「実は私、同い年の彼氏がいるのよ」
 私は服を着ながら切り出した。
 「アンドリュー。アンドリューが彼の名前。私、彼と結婚するの」
 「そりゃあ、おめでとう。じゃあなんで俺を買ったのか尚更わからないけど」
 私は皮肉っぽく笑った。
 「結婚前に他の男の子と寝てみたかったってところよ。最後の記念にね」
 くだらない嘘が口から溢れる。
 「最後の羽目外しってわけだな。わかった、彼氏には内緒にしておくよ」
 「ありがとう。幸せって不思議ね。到達すると途端に不安になってしまうものみたいよ」私は喉から苛立ちの塊を絞り出すように何度も言った。「本当に幸せなの…私は幸せなの…」
 私が幸せだというのは私が幸せでないことを除いては事実だった。
 『イケメンね。あんたって本当に幸せ者よ』
 アンドリューの写真を見せた時友人はみんなそう言っていた。私は幸せに違いないのだった。
 これで終わり? これがセックスなのか? これが幸せなのか?
 私は老い始めている。もうこの世のどこにも、私の望むものはないのかもしれない。モナリザとのセックスなんて、なんと馬鹿げたことを考えていたのだろう。あれは自殺未遂で朦朧とした頭が創りだした幻覚だ。この世にそんなものは存在しない。そして、私はまた、自分が何を望んでいるのか分からなくなった。
 私はホテルを出たその足でナイトクラブに行った。若い男の体と女の体が狭い箱の中に詰められて互いに絡み合うのを待っている。私もその一人だ。軽薄そうな男が私を見定めてすぐに近づいてきた。
 「お姉さん、めちゃくちゃイケてるね。彼氏と来てるの?」
 「え?」
 「乱交クラブがあるんだ。興味ない?」
 私はあっさりとその誘いに降伏した。
 私は奥の部屋へと案内された。男と女の体が狭い箱の中に詰められている。ダンスフロアとほとんど同じだ。体の距離がほんの少し近くなっただけだ。
 気がつくと、知らない裸の女の体が目の前にあった。私は妖しい圧力に負けて彼女の無抵抗な白い脚を大きく開かせた。左右対称のそこには神秘的な何かを感じた。私はくっと息を止めてそこにむしゃぶりついた。甘い味がする。その後を追いかけて嗅ぎ慣れた匂いが鼻を通り抜ける。
 頭から女の喘ぎ声が降ってくる。自分が同じものを持っているせいか女の体を喜ばせる方が面白さはあった。男とのセックスは穴を持って共に転がっているだけで成り立つのだから。
 それから、絶望を紛らわす為に何でもした。白昼夢の中で、パレットにぶちまけた赤い絵の具みたいに、血が飛び散るのをみる、冗談半分のような退屈さの中に生きていた。思春期の時に感じたいかにもおどろおどろしい暗闇はなかった。恐ろしいのはカリフォルニアの陽気と真っ白の太陽だった。見渡しても、新しいことなんてなくなってしまったのだと感じた。新しい音楽を聞いただけで嬉しくて涙が出るような絶望の中で生きていた。ひたすら浪費の時間が続いた。
 つまらなかった。私は欲しいと思っていたもの全てを手に入れ、どうしようもなく醜くなっていた。
 長い間泳ぎたいと思っていた子供が始めてプールに入る時、彼は大興奮する。しかし慣れた後は、急にプールにいる虫・他人のオシッコなどが見えるようになる。美しさに慣れた後は、その利益よりも弊害に目がいくようになるものだ。私は一言も話したことのない人から寄せられる好意にうんざりするようになった。
 その視線から解放される場所があった。クラスで友達になった二人のゲイの友人と遊びに行く時だった。ゲイが集まるイベントに繰り出す時、私は透明人間に戻った。美しい女であるのに疲れた時、私は彼らと朝まで飲み明かした。

 次に会った時、アンドリューの態度は明らかに冷たくなっていた。あれほど真摯な告白を受けながら、私がその後全く連絡をしようとしなかったからだ。
 それでいて、彼は私のそばから離れようとはしなかった。前回の別れ方の気まずさから私は彼から距離を取ろうとしたが、彼はある種の威圧感を出しながら私のそばをうろついていた。
 「……元気にしてた?」
 さりげなさを装って私のいるリビングで腕立て伏せをしていたアンドリューに、私はついに根負けして話しかけた。アンドリューは身体を上下する単調な動きをピタリとやめ、床にうつ伏せに身体をつけると、腕の力だけでしなやかに身体を起こした。
 「元気だよ」
 アンドリューは上目遣いで答えたが早いか、堰を切ったように饒舌になった。
 「そういえば、言ったっけ、俺、新しい彼女が出来たんだ。二日前に付き合い始めた」
 「……そうなの」
 アンドリューの目にはギラギラとした炎が宿っていた。彼は攻撃的に続けた。
 「その子は前の彼女と比べてすごく早く進むからね。前の彼女よりキスもずっと上手いし」
 彼の瞳の中には澄み切った復讐の意志があった。私を傷つける目的でそんなことを言いだしたのは明白だった。
 「それにすごく美人なんだ。良かったら写真を見せてあげる」
 ああ、勝手にしたらいい! 勝手にしたらいい!
 私は叫び出しそうだった。

 復讐だ。稚拙な。子供じみた。わざわざこんな遠くまで復讐しに来てくれたわけだ、どうもありがとう。なんという……この……わざわざ…わざわざ…わざわざ……この……なんと…なんと美しい顔だろう。これ以上に美しいものがあるなら見せてくれ。もっとこっちを見て……だって胸が…潰れる…胸が…胸が潰れて、死んでしまう。これ以上お前が口を開いたら。なんと嬉しそうな顔だ。傷ついた私の顔を見るお前の顔はなんと嬉しそうな……これほど大きな緑の目を私は……私の傷つく顔を見るためだけに……お前は、お前は、なんという……。

 面白いのは、怒れば怒るほど、身体が燃え上がっていたということだ。自分が彼の怒りに悦んでいるのは明らかだった。アンドリューの胸の痛みが、仲間を道連れにするように、私の胸の痛みを求めている。アンドリューはまだ私をこんなにも見つめている。アンドリューはこんなにも私の反応を待ってる。私を傷つけずにはおれない。愛してるから。アンドリューは私を愛してるのだ。
 私は泣いてみようかと思った。そうしたらアンドリューの顔からは急に覇気が失われ、弱り切った表情になるだろう。そして私をどれだけ愛しているか、聞かれてもいないのに長々と語るだろう。私にはそれが分かっていた。
 私が自分の部屋に帰った後も、アンドリューは私への復讐を諦めていなかったようだった。その日の夜、家にいる他の留学生が眉を寄せながら私に話してくれた。彼は腕を組み、空虚な目で私の部屋を睨んでいたという。そして、視線は私の部屋の扉のまま、聞かれもしないのに新しい彼女がいかに素晴らしいかを語り続けたのだという。
 彼のやり方はどこまでも稚拙だった。このやり方でしか私の注意を引く方法を知らないのだ。その未熟さ。ひょっとすると私には二度と手に入れることが出来ない類の若さ。私は彼に嫉妬していた。

 それからしばらくは学校の活動や課題が忙しくアンドリューのことを忘れていた。2カ月後、誰かが私の部屋をノックした。そこにはアンドリューが立っていた。
 「久しぶり。元気かなって思って…」
 彼の目が私の顔を見て、銃で撃たれた人間のように止まった。私の顔の前に彼の時間が止まっている。
 ああ、なんて綺麗なんだろう。
 彼の目がそう言っていた。アンドリューは私への復讐をすっかり忘れていた。久しぶりに見る私の美しさにあっさり降伏していた。それが私を落胆させた。
 コ、ロ、セ。
 アンドリューが話を途切れさせないようにと何事か必死に話す中、私は内緒声のトーンで囁いた。
 コ、ロ、セ。
 私は期待を込めてかつて私に反抗しようとした手を握ってみた。身体は凍ったままだった。まるで欲情しなかった。これ以上先に進んでも、私の望んだものは得られないことがすぐに分かった。
 「ごめんね、私、もう宿題をしなくちゃいけないから……」
 アンドリューは彼の輝きはそこに残り、全ての人がそれを知っている、彼の心は奥の深い迷路となり、光はぐんぐん奥に隠れたがり、彼の顔の上で皺で蓋された。
 「またね」
 彼を傷つけた。彼の純情はいっそ切ないような微量で彼の顔の上に残された。
 「ねえ、ちょっと、私を殺してみて……お願いだから」
 私が日本語で言うと、アンドリューは困ったように、ん、と言った。プライドがあるのだろう、分からないとは言わなかった。
 その後、リビングに飲み物を取りに行くとアンドリューの隣に別の男の子がいた。
 「なぁ、あの子、誰?」
 「……留学生だよ」
 アンドリューの友人は分かりやすく私に見惚れていた。彼はアンドリューに近づくと、気安くその肩を抱いた。アンドリューは微動だにしなかった。その手を跳ね除けるでもなく、肩に置いたままにさせている。まるで存在を意識していない。彼が存在しないかのようにそのままにさせている。私はこれ程自然な受容の形を見たことがなかった。あの手がもし、私の肩に載せられたものであれば、私が跳ね除けなければ、あの手はいつまでもあんな風に固まることなく、服の中に侵入してくるだろう。そしてアンドリューの肩に乗ったのが私の手であったなら、きっと彼の顔にはあの卑屈で幸福そうな笑顔が浮かぶのだろう。
 私はその後、アンドリューの部屋で一人でテレビを見ていた。ここにいると思い出が蘇ってくる。始めてアンドリューを見た時に欲情したこと。メキシコ料理店に行ったこと。
 失わないとならない。この希望の残骸を、失う必要がある。わたしはここに属していない。頭のてっぺんからつま先まで、どこもここには属していない。
 私はこの世の楽園にいた。この楽園の中には世にも美しい男の子がいた。楽園にいた私は幸せなどではなかった。
 体に大きく穴が開いていた。傷ではない、穴だ。昔は傷であり、それらしく痛んだが、今はただの巨大な穴だ。私はこれが埋まらないことを知っている。たとえ何人の男がペニスを入れたとしてもだ。
 私は部屋の中にあったアンドリューの詩のノートをこっそり開いた。一番新しいページに、乱れた殴り書きがあった。

 『女という生き物が分からない。俺のことを好きだと思っていたのに、今度は嘘みたいに冷たくなる。あの女を殺してやりたい』

 私は思わず微笑んだ。そこにはアンドリューが私を憎むほど傷付いているという事実だけが記されていた。これは私の絶望をほんの少しだけ緩和させた。これは女として手に入れられる最高の勲章だった。私は彼の胸の痛みを暫く見つめていた。
 セックスよりも強い快感が脳を焼いた。アンドリューの痛みがそのまま私の快楽に変わった。脚の間に熱い塊が押し付けられたような衝撃が走る。大きな光が脳の中で弾ける。
 ああ、あ。ああ。
 私は喘いだ。
 私はその場で粗相をする時のように股間を押さえた。そしてアンドリューの部屋のベッドの上で、アンドリューとのセックスよりもずっと大きい快感を味わった。彼の恋心をすすり、私は自分の体が蘇っていく錯覚を感じた。私はアンドリューの憎しみとアンドリューがこれから経験するショックを唯一の慰めに、家を出た。
 私は世話になった女主人に別れを告げた。
 「寂しくなるわ。アンドリューもとても寂しがるでしょうね」
 ああ、そうだろう。それこそが私の欲しいものだ。
 「私もとても寂しいわ」
 白々しい言葉を言った。
 家を出た後、私は大学の友人の家に転がり込み、週100ドルほどの家賃を払って居座り続けた。何かと気にかけてくれる女主人の庇護を失った私の生活は瞬く間に荒れた。掃除はせず、料理もせず、無口になった。成績は下がり、学校はさぼりがちになった。夜には宿題をせずにルームメイトと酒を飲んで朝まで音楽をかけて踊った。
 アンドリューから離れると、彼の形はいよいよあいまいになっていった。アンドリューの美しい顔は勲章めいた光を持って私を説得する。あの家に戻れと。あの男は素晴らしかったじゃないか、誠実だったし、お前を愛してくれた。それにハンサムだったじゃないか。あの家に戻ればいい。今ならまだ戻れるかもしれない。彼を愛していると信じていた時期は確かにあったのだ。
 しかし、あの何の快楽も生み出さないセックスの記憶は強烈だった。あれを思い出す度に白けた気分がしつこい偏頭痛のように何度も蘇ってきて、彼との未来をどうしても考えさせないのだった。
 私はまだ落ち着くわけには行かなかった。私の腹の底に冷たい水が貯まっていく。何かでこれを温めなくてはならない。
 恋心は男の夢と女の夢が重なり合う唯一の場所だ。私は愛を求めてより一層男の子と遊ぶようになった。セックスはしなくなった。セックスはその相手との関係の終焉に他ならなかった。男女は互いの神秘性を打ち消し合って生きている。私は彼らとセックスをしないことでセックスへの希望を繋いでいるのだった。
 私は鏡の前でかつてないほど美しかった。もう男の子を弄ぶなどわけのないことだった。疲れた私は言った。私が中学生の時に憧れた、教室にいた同級生たちに言った。
 「いい。もう君達の言うことは聞かないわよ。君達は何も知らないんだから。私が何も知らないのと同じように。君達はあまりに自信満々だから、私には決して知ることの出来ない何かを知っているのだろうと思っていた。しかし、もう君達の化けの皮は剥がれた。君達は私と同じ人間よ。私も君達と同じ人間よ。」
 私は初めてアンドリューに会った時、彼の体を1ミリ四方ごとに切り取り、保存したいと思っていた。彼の肉体はそれほど素晴らしかった。しかし、その無数の欠片が集まって彼をつくり、眉を下げて私を見たとき、私は途端にこれを受け入れられないと思った。私と寸分も違わない生き物だと気がついたからだ。
 私はデートの相手が私を殺してくれることを毎回密かに祈った。私を酔ったように見つめる男の目が憎しみに燃えることを祈った。
 だから私は代わりに願った。
 デートをしたら、別れる前に殺してくれ。もう怖くならないように。幸せになってしまう前に。幸せが何かこの私に似たものになってしまう前に。

4-1

 指針のない生活が続く中、私は鏡に映った自分に愕然とした。私は老い始めていた。しかし私は『老い』そのものに怯えたわけではない。上がっていたものが下がり始めたことに怯えたのだ。……



 「この国では、ゲイだろうが有色人種だろうが、自分で金を稼げば誰も文句は言えない。それがこの国の素晴らしいところよ」
 私の一時的な住処の中で、一番仲良くしていたルームメイトがそう言った。彼は中国から来た留学生で、同性愛者だった。
 「実力さえあればどんな人間でも認めて貰えるのよ」
 アメリカでは成功しなくてはならないというプレッシャーに皆常に晒されているが、日本にはその類のプレッシャーはない。そのかわり、皆と同じでなければならないプレッシャーがある。私がそう伝えると、彼は訳知り顔で頷き、中国も大体同じようなものだと言った。
 「アジアの良い所でもあり悪い所よね、全部お行儀よく同じにしようとするの。私のようなマイノリティーにとってはアジアは最悪。学生の時は女を好きなふりをしなきゃいけないのが一番最悪だった。初めて付き合った女とキスした時の、あのヌルッとした感覚を今でも覚えてるわ。マジで気持ち悪かった」
 彼は舌を突き出して不快を最大限に表現する。この野心に溢れたルームメイトはアメリカン・ドリームを強く崇拝していた。彼はアメリカに溶けこむ為に必要以上にアメリカ人らしく振舞っており、本物のアメリカ人よりもよほどアメリカ人らしかった。前述したように、アメリカ人の本質はあの透明な精神にあり、血筋や生まれが決める訳ではない。性的マイノリティーの彼にとって元いた社会への失望は深く、それがアメリカへの愛や忠誠心をより大きなものにさせていた。
 私は彼に影響を受けて、規定の留学期間を終えた後もアメリカに留まることを決意した。日本の大学から今のアメリカの大学への転校手続きを終えた時、私は久しぶりに晴れやかな気分になった。アンドリューと離れてから自暴自棄になっていた精神状態が少しずつ前向きに変わっていくようになり、自堕落な生活から漸く抜け出そうという気分になった。差し当たって、何よりも先に住む家を見つける必要があった。生活を立て直すなら、あまり長い間定住する場所もなく漂流するのは良くないだろう。
 インターネットのルームメイト募集のサイトで私は早速めぼしい物件を見つけた。学校の近くの町にて手頃な家賃で六十代の中年男性がルームメイトを募集している物件だった。ストレートの男性とルームメイトになることに対して警戒心がなかったといえば嘘になるが、学生にとって家賃の手頃さは何物にも換えがたい。私はともかく彼に連絡して会ってみることにした。
 その家は白を基調としたこぢんまりとしたアパートだった。アパート全体で共用であろう庭では鮮やかな色とりどりの花が咲き乱れ、隅から隅まで丁寧に手入れされている。
 「汚い場所だけど、ゆっくり見て行ってくれ」
 ゲイブと名乗った中年男は、卑屈さの見え隠れする笑顔で私を迎えた。私がリュックの二つのひもを纏めて片方の肩にかけているのを見て、彼は指摘した。
 「失礼だけど、君、アメリカ人じゃないね。アメリカ人はそんな方法でリュックを背負ったりしない」
 「はい、日本から来ました」
 「日本か。アメリカ人じゃないと言うだけで私にはプラスだよ」
 彼は外国から来た私に親近感を示したようだった。自分はアメリカ市民ではあるがチェコ生まれなのだと言った。恐らく彼のアイデンティティは母国の方にあるのだろう、続けてアメリカの悪口を言う彼の口は滑らかだった。
 「ヨーロッパ人と違って、アメリカ人にはマナーってものがない。自分のこと以外何も気にしちゃいないんだ」
 私はこの物言いを聞きながら、彼には愚痴っぽいところがありそうだと思った。彼は最近大きな病気の手術を受けたばかりで今は失業中だと話した。無職であるという事実が余計に彼を卑屈に・愚痴っぽくさせているのかもしれなかった。今回のルームメイト募集も金銭的な理由で始めたのだろうと想像がつく。
 私は絶対に部屋を汚さない、パーティーもしないし、マナーを守ると行ってゲイブを説得した。彼はすぐに私とルームメイトになることを承諾し、家でのルール等を一通り説明した後、こう付け加えた。
 「週に一度、私の息子が来るのを知っておいてほしい。まだ15才なんだ。離婚した元妻と一緒に住んでいて、私とは週一で会うことになっているんだが」
 「わかったわ」
 私が頷くと、ゲイブは急に慎重な口調になって聞いた。
 「……それから、君は普段は日本人の友達と一緒に遊ぶのか?」
 「え? いえ、アメリカ人と一緒にいることの方が多いけど」
 「その……、ラティーノ達ともつるんだりするのか?」
 私はすぐにピンと来た。この白人はスペイン系に偏見を持っているのだ、と。アメリカでは表向きには偏見を持ってはならないことになっているので、その人間に偏見があるかどうかは細かい仕草や発言で探っていくことになる。後々の衝突を避ける為、私はスペイン系の友達はいないと嘘をついた。
 私は次の日には旅行鞄3つほどの大荷物を持って引っ越してきていた。
 「しかし、若い女性がこの家に来るとなると鍵をもっと頑丈なものにしなくちゃならないな。この辺はあまり治安のいい地区ではないから」
 ゲイブは私を迎え入れた後、見るからに安っぽい作りの玄関の鍵を見ながら扉を開閉した。動かす度にきいきいと音をたて、かなり古くなっているようだった。
 「それから、落ち着いたら隣人のアルフレッドに挨拶してきたらどうだい?」
 「どんな人なの?」
 「……はじめは驚くかもしれないけど、悪い奴じゃあないよ」
 ゲイブの歯切れは妙に悪かったのが気になった。あの言い方ではきっと相当な変わり者なのだろうと思いながら隣をノックする。
 心の準備はしていたが、扉から出てきた中年男性は想像していた遥かに上を行く変人だった。栄養失調のように細い手足。彼は扉を開けた格好で静止したままぎょろりと出目金を思い出させる目。私はぎょっとした。
 「初めまして。今日からここに越してきたフミです」
 「ああ、そうかい……アルフレッドだ」
 恐ろしくゆったりとした、演技がかったリズムでその男は言った。ひょっとして馬鹿にされているのだろうかと思ったが、どうやらそれが彼の生来の喋り方らしかった。目を見開いた驚いたような表情のまま、彼は頭をグルンと二回高速で回転させた。私はその異様な仕草に圧倒され、少し後ずさる。
 目の前の男は、ただ私の目を表面だけ見ているだけで、私がどんな顔をしているかを気にしている様子はない。固まった表情の私をまるで意に介した様子もなく、無表情で続ける。
 「そうだ、庭を汚すのだけはやめてくれよ。それさえ守ってくれれば何の文句もない。私のことは放っておいてくれ。君もおそらく私のことは変な庭師としか思わないだろうし」
 「……え? 庭師さんなんですか?」
 「そういうわけじゃない!」アルフレッドは急に大声を出した。「私は庭が汚いままでいるのが耐えられないだけだ。私がやらなかったら、誰もやろうとしないからな!」
 ブツブツと何事か呟きながら奇妙な隣人は音を立てて扉を閉めた。さよならの挨拶すらない。私はあっけにとられて彼の消えていった扉を見つめるしかなかった。
 アルフレッドのおかげでーー家賃が安いところを選んだのだから当然だがーーこの辺りの住人は決して上品ではなさそうだというのがよく分かった。私は自分の家に戻ると、すぐにゲイブに扉の鍵を頑丈なものに変えてもらうように頼んだ。
 こうした初めの心配をよそに、新しいルームメイト・ゲイブとの生活は思いの外刺激的で楽しかった。自分よりはるかに人生経験の長い人との共同生活ということで、学ぶことは多くあった。彼は料理好きで、毎日私に新しい料理を教えてくれた。無線電波を試行錯誤しながら一緒に取り付け、ゲイブ車が壊れてしまった時には修理を手伝った。アメリカ人は修理もエアコンやドアノブなどの取り付けも全て自分で行う。ゲイブはこのような独立心は数少ないアメリカ人の美徳だと言い、私も日本での価値観と共にアメリカの価値観を必要に応じて取り入れるべきだと言った。この頃私はアメリカでの就職に向けてインターンシップを初めており、仕事でのアドバイスをくれる時もあった。
 このように父親的な面がある一方、最初の印象に違わず、ゲイブはとにかく愚痴っぽい男だった。都合の悪いことを全て他人のせいにする傾向があり、愚痴を言い出すと止まらない。そして話が長かった。現状への愚痴でも過去の思い出話でも、誰かが止めない限り日が落ちるまで話を続けかねない。しかし、そのような欠点を含めても、ゲイブは優しい人だった。お人好しと言い換えても良いかもしれない。私の新しい生活の中でゲイブの存在が大きな心の支えになっていたのは間違いない。
 そして、ジョニーだった。
 ゲイブは自分の息子・ジョニーの話を何度も私に話して聞かせていた。私は会う前から携帯のアルバムにあるジョニーの写真を全て見せられていた。赤ちゃんの時の写真、チェコにいた時の写真、中学の卒業写真。あまりにしつこく見せられるので会う前から顔を見飽きていた程だ。
 そして、ジョニーに初めて会ったあの忘れられない水曜が来た。
 その水曜日、仕事から帰ると部屋の中にゲイブの他に背の高い少年がいた。私はそれがすぐにジョニーだと分かった。
 「あ……ひょっとして、君がフミだね?」
 その美しい少年は私を見た。写真で見るよりもずっと男前だった。笑うと小さめの目が濃い灰色の黒目だけになって何とも愛らしい。
 「父さんからたくさん君について聞いてるよ、いいことばっかり」
 「初めまして、ジョニー」言いながら私は彼を軽く抱き締めた。
 「私もゲイブからたくさん話は聞いているわよ。すごく賢いんだってね?」
 「父さんは何でも誇張して話すからなあ、君に変なこと言ってないといいけど」
 彼は肩をすくめて困ったように笑った。いかにも若者らしい、軽々しい表情の動かし方だった。
 赤ちゃん。
 私はすぐにその単語を連想した。もし彼を見た人に一言で彼を表現させるなら、その単語が一番多いだろうと思う。赤ちゃん人形のように整った童顔。鼻が低く、唇が薄い。小柄で小太り体型のゲイブとモデルのように背が高いジョニーではまるで似ていないように思えたが、引いて全体で見てみると父親の雰囲気が微かに香っている。
 ゲイブは私とジョニーをショッピングモールモールに連れて行こうかと提案した。ジョニーの誕生日が近く、プレゼントの新しいギターを見に行きたいのだということだった。
 家の近くのモールに着くと、ゲイブはすぐに言った。
 「お腹が空いたな。とりあえず何か食べよう」
 「あそこにバーガーキングがあるね」私は見慣れたファストフードの看板を指差した。
 「フミはバーガーキングがいい?」ゲイブは聞いた。
 「ううん、そういうわけじゃないけど……」
 私は歯切れ悪く言った。私の悪い癖だった。何かを決めようとすると、即決することが出来ない。私たちは決定するのを先延ばしにしながら、だらだらと歩いた。
 「何でもいいんだよ。君が決めたらいい」
 「うーん……でも本当に何でもいいんだけど……」
 ゲイブと二人で迷っていると、大きなため息が私の言葉を遮った。そのあからさまな不満の色に私は弾かれたように振り返る。そこには後ろから携帯を弄りながらだらだらとついて来ていたジョニーの姿があった。彼は私やゲイブから目を逸らし、遠くを見ていた。その灰色の目には底なしの退屈が浮かんでいる。それを見ていると、手足がすっと冷たくなっていった。
 「じゃあ、昼は後にする? 私たちはジョニーのギターを探しに楽器屋さんに行くけど、君は他のところを見ていてもいいよ」
 「……じゃあ、私は服を見てくる」
 彼らに背を向けて歩き始めると、数秒して、後ろからジョニーの大きな笑い声が聞こえた。
 ……私は説明の出来ない奇妙な焦りに突き動かされた。私は服屋に入り、片っ端から服を手にとって鏡の前で体に宛てた。無性に苛立っていた。その服屋は若い女の子向きで、私の体に当ててもしっくり来るものがなかった。にも関わらず、私はその服屋で散財した。
 「……たくさん買ったなあ」
 三十分後、私を迎えに来たゲイブは買い物袋をいくつも持った私を見て呆れ半分に言った。ジョニーはゲイブの隣で無表情で佇んでいた。その手には携帯電話しか握られていない。
 「あれ、ジョニーは何も買わなかったの?」
 「うん」
 短い返答。会話が終わる。私は滑稽なまでの無邪気さを装って、ジョニーの背中を両手で軽く押した。ジョニーは私に素直に押されながら、声もなく笑ったようだった。背中からの振動に掌が震えた。
 結局私たちはバーガーキングで昼食を済ませた。帰りの車の中でジョニーは後部座席で無口だった。ゲイブだけがひたすら世間話をし続けて私とジョニーが気の無い返事を返す、その繰り返しだった。
 ゲイブは右手で操作してラジオをつけた。違うスタイルの音楽がいくつか短く流れていった後、80年代風の音楽が流れてくるとゲイブは手を止めた。すぐに後部座席から抗議の声が上がる。
 「ちょっと父さん、別のラジオにしてよ」ジョニーは後部座席から体を乗り出してまたチャンネルを変えてしまった。「こんなダサい歌は聞きたくない。ヒップホップを聴きたい」
 ラジオから流れてきた流行りのラップ曲は舌を噛みそうな早口と、同じフレーズの繰り返しだった。ジェネレーション・ギャップだろうか、私にはこの曲の良さが少しも分からなかった。
 ゲイブの運転はこの地域の人の例に漏れず荒い。大きな交差点を曲がる時に他の車に直前で気付き荒っぽく急停止したのを見て、私はたまらず声を上げた。
 「ちょっと、気を付けてよ、ゲイブ」
 「……怖いの?」
 ジョニーが聞いた。
 「うん、少しね。あなたのお父さん、本当にいつも運転が荒いんだから」
 「でも、ここはアメリカだよ、フミ。君もアメリカに来たなら、アメリカの車事情に慣れなくっちゃあね…」
 「あなたは運転するの?」
 「ううん。でも、来年になったら免許取れるから……」ジョニーは抑揚のない声で途切れ途切れに言った。携帯の画面を見ている為気の無い様子だった。
 「取れたら……そりゃもう、ハイスピードで運転しまくるさ」
 家に帰り着いた時、私は心底安心していた。どういうわけか、ショッピングモールに行った数時間の間で私は疲弊し切っていた。体力には自信があったのに、どうにも奇妙なことだった。
 家に入ると、ジョニーはずっと被っていた黒いキャップをゆっくりと外した。私はその様子から目を離せなかった。ジョニーからはキャップの演出する擬似的な男らしさが取り払われ、長めの髪の毛が額にかかり、女と間違うような端正な顔が露わになった。
 私は再び焦りに突き動かされ、自分の言うべきことを知らないまま口を開いた。
 「…あなたって、本当に可愛いのね」
 呆れるほど陳腐な褒め言葉が口から飛び出た。そんなことが言いたいのではなかった。こんな十人中十が言うような言葉ではない、何かもっと気の利いたことを言いたかった。
 「アイドルになれそう。今はやりの、女の子に人気な…テレビに出てきそうな……」
 しかし、何かを付け加えれば付け加えるほど、私の言葉はどうしようもなく平凡になっていった。私は祈るようにジョニーの顔を見た。彼は少しも動じていなかった。
 「……ありがとう。嬉しいよ」
 言われ慣れていると言うように、ジョニーは軽く肩をすくめ、マネキンのような笑いを浮かべた。その笑顔が引いていくと、彼は「ああ、疲れた」とため息交じりに言い、キッチンに入っていった。「父さん、アイスクリームは?」という子供っぽい声が聞こえてくる。
 ジョニーは眼に映るもの全てに飽き飽きした、恵まれたアメリカの若者だった。ジョニーは私の美しさになど少しも気がついていなかった。若い彼は退屈することに忙しくてそんなものには興味がないのだ。
 ……私はしたたかに殴られたような気がしていた。この日から、私はあれほど自信を支えてきた自分の美しさを忘れることが多くなった。一昨日の晩御飯を忘れるように、まるで重要ではないことのように、軽々に自分の美しさを忘れた。鏡に見とれることも激減した。美しさそのものが減ったわけではなく、美しさが私の世界での意味を失いつつあったのだ。それにあの少年との出会いが関係しているのは間違いなかった。


 大学の卒業が近づいてくるにつれ、将来という二文字はとてつもない重みを持ってのしかかって来るようになった。私はこの時期会う人皆に同じ質問をされた。
 「君のプランは? 君のプランは? 君のプランは?」
 人生のプランを立てろ、君の将来のプランを聞かせろ。
 私はプランを一つも用意していなかった。そういった俯瞰的な視点で人生を捉えたことが一度もなかったのだ。例えば私はあれほどセックスに執着していながら、それのもたらす結果、妊娠・出産について一度も考えたことすらなかった。
 私は長い間、人生を債権行使の場所と見做していたのだった。人生が私に借金を負っているという強い感覚があった。人生の方が支払いを渋る中、私はあらゆる手段を使って貸した分を利子付きで回収しようとしていた。セックスには多大な期待を寄せていたが、今のところこれからは多くの債権を回収出来ておらず、落胆している。
 プラン。人生とは、少なくとも大人にとっては、プランに基づき、一つ一つ達成していくものだというのだ! 積み上げていくものだと言うのだ!
 プランという言葉は、こうした私と世間の意識の違いを浮き彫りにした。幸いなことに私が殊更努力をしなくても、プランは体裁の良いように自ら整っていった。私の大学での成績は良好で卒業は確定していたし、既にインターン先の会社への就職が決まっていた。私は客観的には責任感ある社会人としての生活へ順調に滑り出しているかのように見えた。しかし、整っているのは表面だけで、私が本当に興味があるのは人生からの債権の回収だけだった。こうした人生への姿勢の根本的違いは、私が殊更に自分を主張しさえしなければ現実に問題を起こすことは滅多になかった。黙ってさえいれば、周囲はその人間が自分と同じ論理で動いていると想定するものである。

 ふと自分の置かれた状況に気が付く。私はもう若くない。人生中に張り巡らされたプランに基づいて生きている人間たちが私の未来を握っている。
 「準備が出来たら言ってね」
 彼らは笑顔でそう言った。それは殆ど脅しに近かった。私はいつでも準備が出来ていると言いながら、決して聞こえないように呟いた。
 「準備が出来る時はありません」……


 このプランを立てるという生き方を無視して生きているように見えるのは、私の知る限りではジョニーだけだった。無職である父親のゲイブもある意味ではプランに縛られずに生きているのだが、心の中ではプランある人生への復帰を切望しているので除外すべきだろう。
 ジョニーは掴み所のない自由な子供だった。彼は何も気にしていないように見えた。誰を受け入れようが何を拒絶しようが、まるで気にしない。彼の目からは信念やそれに似たものが感じられなかった。
 例えばまだ精神的に未熟だったアンドリューは私へのはち切れんばかりの興味があったし、ゲイブのように排他的な思想を持つ白人男性はある意味で非常に理解しやすい。しかしジョニーの場合は、外に向けている取っ掛かりというものが感じられなかった。
 彼の唯一の思想らしきものは、自分がアメリカ人であるという誇りぐらいだった。彼は度々アメリカのことを口にした。アメリカではこうだ。アメリカ製のものが好きだ。かと言って熱心な愛国主義者かと言われればそれも違う。彼は緩やかに、自分の心地いいようにだけアメリカを身に纏っていた。彼はいかにも自由な子供だった。
 ジョニーの愛国心は、少なくとも部分的には父親から来ているようだった。ゲイブは典型的な右翼で、彼のスペイン系移民への軽蔑は限りなく根が深かった。彼は不法移民たちの所為で自分のアメリカが汚されていくと繰り返し語った。ある水曜日ジョニーとゲイブと三人でピザ屋に向かう途中、ゲイブは軽蔑を隠そうともせずに言った。
 「あそこで働いている奴らはどうせみんなメキシコ系だろうな。奴らがちゃんと手を洗っていることを願うよ」
 ゲイブの差別的な物言いを聞いて、ジョニーが便乗するように意地悪く目を光らせる。
 「ナニタノマレマスカ?」
 彼はメキシコ訛りの英語を馬鹿にするように真似した。
 「フミが食べたいのなら日本食にする? あの、テッパンヤキ? でもいいし」
 ゲイブはたまたま目に入った日本料理の看板を読み上げる。
 「テパンヤキ!」
 ジョニーは響きが面白いのか繰り返してくすくすと笑った。その言い方はメキシコ訛りを真似した時と同じ、明らかな侮蔑を含んでいた。
 「ジョニー、日本語を馬鹿にするような言い方をするのはやめなさい」
 メキシコ人への差別は容認した割に急に大人ぶった口調でゲイブが諭す。おかしなことだが、ゲイブの中で日本人は白人と同じカテゴリーに属しているらしい(「一般的には黄色とかベージュとか言われてるらしいが、君たちの色は私たちと同じだと思う」と言っていたことがある)。一言に人種差別といっても、その形はさながら性格のように、人それぞれ異なっている。ゲイブとは逆にラテン系は白人として容認するがアジア人や黒人を差別するような層もいる。黒人と白人だけをアメリカ人として認め他の人種をまとめて差別する層もいる。もちろん、白人を差別する有色人種もいる。
 ジョニーは返事こそしなかったが、素直に口を閉じ日本語を揶揄するのを止めた。観察していてすぐに気がついたことだが、ジョニーはどうやら父親を心から慕っているようだった。生意気な態度を取ることも多いが、基本的にゲイブの言うことには逆らわない。これは意外だった。私から見れば、大人びたジョニーと子供のように愚痴ばかりのゲイブではどちらが親だか分からないと思う時すらあった。ジョニーにとっては、それでもこのうだつの上がらない無職の男は尊敬すべき父親なのだった。滅多に子供らしさを見せない少年の、『親を慕う』といういかにも無邪気な態度は、彼の掴みどころのなさに更に拍車をかけていた。
 ピザ屋についた時、ジョニーの携帯電話の待ち受けに漢字の『獄』という文字が目に入った。私はそれを覗き込みながら言った。
 「それ、漢字だね」
 「うん」
 ジョニーは無表情で顔を上げる。
 「意味は知ってるの?」
 「知らないよ」
 「じゃあなんでそれを待ち受けにしてるの?」
 「……さあ? かっこいいからかな?」
 彼はかすかに笑うと、すぐに再び携帯を弄ることに集中し始めた。

4-2

 前述の通り、私の住処は決して高級な場所ではなかった。壁が薄く、リビングやゲイブの部屋の物音は筒抜けで、よく眠れないことも多かった。朝はゲイブと変わり者の隣人アルフレッドの激しい口論で目が覚める。
 ところでアルフレッドといえば、奇妙な風貌の割にはかなり几帳面なところのある男だと分かった。私はその日、共同の洗濯機に自分の洗濯物を洗ったまま置き放しにしていた。後で慌てて取りに行くと、私の洗濯物は勝手に乾燥機にかけられ、下着まで全て畳まれ、横にちょこんと置かれていた。皺ひとつないその畳み方には、畳んだ主の性格が顕著に現れていた。ゲイブはこんなことをする筈がない。消去法であのアルフレッドがやったのだと気がついた時には流石に驚いた。
 怠け者の脳は人に優しい人だの怒りっぽい人だの一枚のレッテルを貼って終いにしたがるが、人間とは薄っぺらな紙などではないのだと否応なしに実感させられる。アルフレッドは間違いなく変人だが、ただの変人ではない。個性を持った変人なのだ。
 昼間から土のついたシャベルを片手に庭をせわしなく動き回っているアルフレッドに私は声をかけた。
 「洗濯物、ありがとう。でも、わざわざ畳んでくれなくても良かったのに」
 「別に畳んだのは君の為じゃない! 私が嫌なだけだ。洗濯物をそのまま放置して、シワシワになるなんてのはな!」
 いつも通りの抑揚のバランスを欠いた喋り方で、叩きつけるようにそう返してきた。愛想は皆無だ。感謝の言葉すら素直に受け取れないこの頑固さと、あの美しい畳み方はやはりどうしても重ならなかった。しかし、確かにどちらもが「彼」なのだ。私は人間の奥深さを見せつけられたような気分だった。
 私は家に帰りゲイブに洗濯物とアルフレッドのことを話した。
 「アルフレッドって本当に変わっているよね。仕事もしていないみたいだし、素性も謎だし……」
 「悪い奴でないけど、変わってるのは間違いないな。多分アル中か、さもなければ何らかの精神病だろうね」
 私は黙って頷いた。彼が何らかの問題を抱えているのは明らかだった。
 「彼女でも出来れば、彼も変わるんだろうけどなあ……」
 ゲイブはぽつりと零した。あの偏屈なアルフレッドに彼女が出来るところなど想像すら出来ない。私は冗談かと思って笑おうとしたが、ゲイブの顔は思いがけず真剣だった。その顔を見て私もふと考え直す。アルフレッドに彼女が出来る訳がないなんて、どうして分かるのだろうか。
 ここは自由の国アメリカだ。不可能が可能になる国だ。アルフレッドがとんでもなく美人の彼女と結婚する未来だってあるのかもしれない。このアメリカという土地の中では、そんな奇跡が起こる可能性だってゼロではない。私は本気でそう思えるようになっていた。なぜなら、私は真珠湾攻撃の日に生まれたのだった。日本にいる時はそんなことは知らなかったのだが、ゲイブに誕生日を教えた時に彼が教えてくれた。真珠湾攻撃の日に生まれた日本人の私がアメリカの独立記念日を祝う。そんな皮肉の効いた奇跡も、アメリカという土地で起こった小さな奇跡の一つだった。
 アメリカの独立記念日。
 次にジョニーが家に来たのはアメリカの独立記念日だった。その一週間ほど前から、町中で花火を上げる乾いた音が聞こえ、星条旗が町中そこかしこではためいていた。
 その日私とゲイブとジョニーの三人は家のリビングで寛いでいた。ジョニーは三人でいる時は大抵、無口だった。ジョニーと私は表面上はいかにも上手くいっているような態度をとりながら、お互いに対してまだ明らかな苦手意識があった。それはおそらく彼と私が年の離れた(そして離れ『過ぎ』てもいない)異性同士であることに関係していただろう。
 手持ち無沙汰なジョニーは細い体に似合わない大きな黒いギターを抱えて弾いていた。
 「ジョニー、せっかくだからフミにギターの弾き方を教えてあげたらどうだ」
 ゲイブが何気なく提案すると、ため息と笑いの丁度中間のような音がジョニーの口から漏れた。面倒臭そうな顔をしながらも、ジョニーは父親に逆らわない。
 「ここと、ここと、ここを抑える。これがCコードだ」
 ジョニーの手が私の指に触れた。私の手に重なるその手の滑らかさを認識した瞬間、喉からくぐもるような音が出た。
 「どうしたの」
 「いや……」
 愕然とした。私はこの手の柔らかさを知っていた。私の体に『かつて』ついていた手に私は触れていたのだ。私は老いはじめていた。ジョニーの幼い手と比べて、その事実を生々しく実感してしまった。
 汗の匂いと子供の匂いが混じるジョニーの体臭がふっと香ってきて、私は負の感情がふつふつと湧き上がってくるのを感じた。そういえばジョニーがもうすぐ歯の矯正を始めるのだとかゲイブが言っていたのを思い出す。きっとすぐに、彼の八重歯と所々整列を間違えた可愛いらしい歯は、よそよそしい、宣伝めいた完璧さに変わってしまうだろう。『僕はちゃんと中流階級以上出身の白人です』……
 それからしばらくして、ゲイブがこんな提案した。
 「せっかくの独立記念日だし、今日はパーティーをしようか」
 「いいねえ。じゃあ、フレッドをここに呼んでよ」
 ジョニーの目が微かに輝く。
 「フレッドって?」
 ゲイブを見ると、すぐに説明してくれた。 
 「フレッドは私がタクシー運転手をしていた時の仲間だ。アフリカ出身なんだが、アメリカ人の嫁さんをもらって今はアメリカ人だ。ジョニーはよく懐いているんだ」
 私たちは彼を待つ間、近くの1ドルショップに行って星条旗モチーフの玩具や飾り物を買い込み、パーティーの準備をした。約一時間後、派手な服装の一人の男性が家に到着した。ナイジェリアから来たというフレッドが私に簡単な自己紹介をしている間、ジョニーは暇そうにギターを鳴らしながら、こちらに近づいて来ようとしなかった。私とフレッドはゲイブを加えてしばらく三人で話していた。お互いの仕事の話にもなり子供であるジョニーには余計に入りづらい話題に違いなかった。
 「二人はどうして知り合ったの?」
 「仕事仲間だけど、ゲイブと俺は昔よくLAで遊んでだんだ。もう六年ぐらいの仲だよ」
 「へえ、仲がいいんだね」
 「仲がいいといえば、あそこにいるリトル・マンもそうだな。まだ小さいように見えるかもしれないけど、あいつは将来大物になるぜ」
 フレッドはそう言ってジョニーを指差した。ギターの音が止まる。
 「そうだ。コイツを持ってきたから、みんなでやろう」
 フレッドは大きな鞄から煙草とフラスコのようなものを取り出した。一瞬それが何だか分からなかったが、匂いからマリファナだということがわかった。
 「クサは好きか?」
 「別に……それほど好きってわけじゃない、かな」
 当たり前のように聞かれたので咄嗟にそう答えた。一度もマリファナをやったことがないとは言えなかった。フレッドは柔和な笑みを浮かべる。
 「でもヤクと違ってクサには害がない。そうだろ? ヤクは人を狂わせるが、クサはただ人をハッピーにするだけさ」
 「これを使うやり方は一度もやったことがないわ」 言いながら私はそのフラスコを持って左右に揺すった。
 「じゃあ、今日試してみたらいいさ」
 「そんなの、やったことない人にやらせたらダメだよ」急にジョニーがきっぱりとした口調で口を挟んだ。「きついやつだから彼女を壊してしまうかもしれない」
 無表情で言うジョニーに馬鹿にされたような気がして顔が熱くなった。私は負けじと無表情を作って言い返した。
 「あらまあ、たった15才の子供にそんなことを心配されるなんてね」
 私の言葉にジョニーは明らかに気分を害したようだった。憮然とした表情でこちらに近づいてくる。
 「じゃあ、やってみたらいいさ。俺がやり方を教えてあげるから」
 「あなたはやったことあるの?」
 ジョニーは椅子に座った私を見下ろしながら、二、三度軽く頷いた。私は彼のその顔を見た時に、躊躇いなく今、これをやらなくてはならないと思った。これまでパーティーの時にいくら周囲の友人に勧められても、アルコール以上のものには手を出さなかった。しかし、私はこの時ジョニーの灰色の目を前に、今までの信条をあっさりと手放す決意をしていた。
 「火をつけるから、そうしたら思い切りタバコの煙と同じ要領で吐き出す。ちょっと一回やってみて、まず練習で」
 私は彼の言う通りにした。
 「そう。今のは練習だ」
 運動部のコーチか何かのように、きびきびとした口調で指示する。
 「さあ、次、本番行くよ。準備いい?」
 私はフラスコの先端を咥えながら、上目遣いでジョニーを見た。
 「今。思い切り吸い込むんだ。Go」
 ジョニーは火を点けた。息を止めた私に、「吐き出せ、煙みたいに」と言った。私は彼に従い、ふうと音を出して煙を吐き出す。
 「そうだ。よく出来たね」
 脳の中心がじんと痺れた。よく出来た、よく出来た。この英語が頭の中で二、三度回った。
 「……これだけ?」
 「そう、これだけ。後は効いてくるのを待ったらいい」
 ジョニーはふっと悪い笑みを浮かべた。私はその顔に見とれた。日焼けをした目の淵から頬にかけての赤みが彼に少女のような繊細な印象を持たせている。先ほどギターの弾き方を教えた時より、今の方がジョニーはずっと楽しそうだった。
 私は恐る恐る深呼吸した。なんて事はない。初めてアルコールを試した時と同じだ。少しばかり、愉快になるだけ。私たちはウォッカやウィスキーを開けた。騒ぎながら安物の星条旗を戯れに振った。フレッドやゲイブと話しながら、私は如何にも慣れているかのような手つきで煙草をふかした。
 ……どれぐらい時間が経ったのか。
 気がつくと私は、ゲイブの目を見ていた。緑の絵の具に茶色の絵の具を雑に混ぜたような色。怒った時には微妙に色のニュアンスが変わるのだと前に言っていた。飴玉のようで綺麗だ。私は不思議なものを見るかのようにただ彼の目を見つめた。
 そうして何故こうも長い間私は彼の目を見つめているのだろう、と疑問に思った時、がくんと一段、全身が落ちたような音がした。左右から髪の毛を強く引っ張られたように、急に頭を引く力があった。私はその力に引かれて軽く頭を逸らした。そこから、全てのテンポが遅れ始めた。私のすぐ横でゲイブとフレッドが話している、その会話が急速に遠くなっていく。
 「俺は大学でリーダーシップってモノを学んだ」フレッドが強い口調で言っている。
 「ああ、そうかい……」気の無いゲイブの相槌。
 「そうだ。俺はリーダーなんだ、俺はリーダー…」
 強いアフリカ訛り。よく聞かないと何を言っているのか分からなくなってしまう。集中力を失った私の耳に、フレッドの演説はひたすらに遠い。
 私はのろのろと視線を動かして、ジョニーの方を見た。彼は少し離れたキッチンのシンクに軽く腰掛けてウイスキーか何かを傾けている。目に移る全てがゆっくりになっていく中で、彼だけが通常の速度で動いていた。
 「大変、全てがゆっくりしている…」
 途方に暮れてそれだけ言うと、ジョニーは笑った。異様な世界の中で、赤ん坊めいた顔が愛らしい笑顔を作る様子がよく見えた。笑った彼の頬に、えくぼで二重の線が出来ている。目には二重の線、目の下には濃い隈の線。こうした線・線・線で彩られた彼の顔を見ていると、眩暈がしている時のように彼の顔の輪郭がぶれて見えた。
 「……全てがゆっくりしてるって?」
 「うん」私は子供のように頷いた。「私、どうすればいいの?」
 「何もしなくて良いんだよ」彼は優しく言った。「この瞬間を楽しむんだ。難しく考えなくても良い。自分の人生についてとか、考えてみれば…」
 私は必死で頷いた。全ての音が遠く、正常に聞こえるのはジョニーの声だけだった。
 『マリファナって、なんて異様な感じだろう。ずっとこのままの状態が戻らなかったらどうしよう』
 恐怖が一気に加速し、目の前が暗くなっていく。地獄に引きずり込まれる穴が地面に空いているような気分になっていた。私は必死でジョニーを見つめた。纏うように。彼だけがこの世界で正常な速度で動いている。彼だけが私を助けられるのだと思った。彼が私にこれのやり方を教えたのだ、これからの逃げ方も、きっと彼が教えてくれるはずだ。
 『ジョニー。ジョニー。助けて』
 私は叫んだ。それなのに、声にはならなかった。
 「アイスクリーム、アイスクリーム」必死な私を嘲笑うように、急にジョニーが奇妙なトーンで唱え始める。「アイスクリームが食べたいな」
 その時、理不尽なほどの怒りが心臓を鷲掴みにした。生のロック音楽を聞くように、オレンジを素手で潰すように、脳の中で何かが弾けて派手に飛び散った。
 憎い、と強く思った。
 『ひょっとして、悪魔ではないか?』
 そう。悪魔。この少年は悪魔だ。私は確信していた。
 初めからそうだった。初めから気に入らなかったのだ。自分の美しさを鼻にかけて、人を馬鹿にして。よく日に焼けた、イベットと同じ肌の色をして。
 『お前は私の正体を見抜いているのだろう。一体どんな魔法を使ったのか知らないが、お前だけは知っているのだろう』
 突然襲ってきた怒りに混乱している一方、奇妙なほど冷静な自分もいた。見た目にだけは平凡な宴会が続いていく。
 「へえ、彼女がいるの? すごいわねえ。私があなたぐらいの年齢の時は、男の子と話すことすら出来なかったわよ……」
 アイスクリームを食べるジョニーに私は如何にも親しげに話していた。ジョニーはいつものように無表情だったが、少なくとも私が喋る時だけは私を見ていた。
 「前に一度家に連れてきたことがあったが、肌の露出度が多すぎる! あんな娘とは付き合うんじゃない。チェコにはあんなアバズレみたいな格好をした女の子はいないぞ」
 酔っ払ったゲイブがまた呪文のように長話を始めようとする。
 「父さん、ちょっと…」
 ジョニーが咎めるように声を出した。
 「そもそもアメリカは、貞操という概念を絶滅させようとしている! 男らしさ、女らしさもだ!」
 「ゲイブ! みっともないからやめろよ」
 凛とした声に鼓膜が震え、また意識が現実に戻ってくる。
 私はジョニーを憎んだ。眼に映る世界が全て面倒だった。ジョニーさえいなければ、私はこのまま眠れるのに。彼の高くも低くもない声が私を起こし、安らかに眠らせてくれない。
 ふと、ジョニーの目線が私の手に釘付けになっているのに気がついた。私は手首を捻ってペットボトルの蓋を開けようとしていたところだった。ジョニーとまともに目が合った。ジョニーは何かを言うように口が開きかけて、やめた。彼が唇を噛むと頰が凹み、意外なほど男らしい線が浮き上がる。彼は無表情のまま私から目を反らした。
 表面上には私たちは何も変わらない会話をしていた。私はずっとジョニーだけを見ていた。この悪魔を生かしておけないと、殺意を秘めながら、私はジョニーを見ていた。朝起きた時に、この生意気な少年が、世にも酷い拷問の果てに惨めに死んでいることを、本気で祈っていた。
 次に目が覚めた時、私は机に突っ伏していた。世界はまだゆっくり回っていた。体にはまだ明らかにマリファナが残っているようだった。
 「起きたね」
 キッチンで朝ごはんを作っているゲイブの苦笑いが遠い。
 「……私、昨日、あれからどうしたの? みんなで飲んでたことまでは覚えているんだけど」
 「いきなり気絶するみたいに眠り込んでしまったんだよ。もう生きてるのか死んでるのかすら分からなかったよ」
  二日酔いに苦しんでいるのか、眉の間を揉んでいるゲイブに、私はなるだけさりげなく聞いた。
 「……ジョニーとフレッドは?」
 「とっくに帰ったよ。ジョニーは朝から学校だ」
 私はため息をついた。そのため息が妙に熱い。まるでセックスの後につくため息のようだ。実際に、マリファナの快楽がまだ私の体を包んでいた。どこまでも水平に続く海のような平和な気持ちだった。下半身を温かいもので包まれているような感覚の中、床に無造作に転がった星条旗柄の安っぽいおもちゃを見ていると、昨日の記憶が少しずつ蘇ってくる。
 私は部屋のベッドに寝転がり、天井を見つめながら、記憶を少しずつ辿っていくことにした。それが正しい記憶なのか、全身を包む快感が作り出した妄想なのかは分からなかったが、私は幾分正常に戻った頭で、もう一度あの時を体験し『直して』いた。
 さながら嵐のようだった。私がいたのは地獄のような憎悪な世界だったはずである。しかし、私が強烈に覚えているのは愛の感情だった。
 「父さん。この子、大丈夫かな?」
 深海にいるような耳に、彼の声だけハッキリ聞こえた。
 私は顔を上げた。そこに世にも美しい人間がいた。彼も軽く酔っているのか、夢を見ているような目をしていた。輪郭のくっきりとした唇は半開きで、一点を凝視しているようで、同時にどこも見ていないようだった。今にも何かを言いたそうな、それなのに無表情な、奇妙で、この上なく魅力的な顔だった。
 私はその時、それを知った。それを知った。私は自分が彼に愛する近い未来を前もって悟った。暗い世界の中で、彼の日焼けした肌は発光して見えた。私は呆けたように彼を見た。その時、彼は私を捕まえたのだった。私は彼を愛しはじめたという陳腐な表現をやめなくてはならなかった。彼はただ私を捕まえた。私は抗えなかった。全身が息を吹き返す音が聞こえる。

 もう、いい。もうなんでもいいって。もうなんでもいい。もうこれからはなんでもいいって。もう完璧だ。もう、なんでもいいわ。どうしていいかわからない。これほどどうしていいかわからない時もない。だって私、これが、ずっと、ずっと、ずっとしたかったことなんだから。もう、満たされてしまって、何も、欲しくない。何も欲しくない。何も、何も、何も欲しくない。

 「……ハイになってるんだよ。放っておけばいいよ」
 ゲイブの声が聞こえる。私なら大丈夫、と言おうとしたが口が重くて動かなかった。
 世界の価値が全て入れ替わるようだった。悪は善に、天使は悪魔に、北は南に変わる。地上100メートルから突き落され、舞い上がる気持ちで落ちていく。彼を見ると世界に光が溢れるようだった。世界の重力がひっくり返った。
 ジョニーが私を見ながら何事か喋っている。ミュートのように音が遮断されて耳に入ってこない。口パクのように口だけ動かすジョニーはゆっくりと動いている。古い映画を見ているようだった。今起こった出来事は単純で複雑で理解する必要のないものだった。私は自分が彼を崇拝しだす瞬間を予知していた。
 「……だから言ったんだ。これは初心者にはきついんだってば」
 ジョニーの声は淡々としている。高くも低くも無い、男でも女でも無い、何者でもない人の声だ。
 私の唇は何かを言おうとした。しかし私は口をつぐむ。言葉など、言葉など、無意味だ。彼の姿はただ鮮やかだった。無造作に星条旗を持つ彼の立ち姿。彼が何かを静かな目で見つめている時、それだけで何か深い情熱を想像したくなった。彼の目の上には果てしない物語が広がっていた。彼の見つめるものはゴミですら金に変わるようだった。
 「じゃあ、俺はもう寝るから」
 ジョニーが去っていく。聖人のように白いローブを着ている後ろ姿。昨日彼はパーカーを着ていたはずだが、確かに記憶の中の彼は発光する白いローブを着ていた。宗教の逸話に出てくるような神秘的な佇まいだった。
 彼がそこから去った後も、彼はまだそこにいた。目に見えない彼がそこにいるのが分かった。私はそこに生まれた彼の姿を見て、懐かしさを覚える。彼と私には何のゆかりもないのに、私は彼の全てを知っているという気がした。落ち着いた幸福の波が身体中を満たしていく。私は彼を知っている。彼はただの肉ではない。彼はただの人間ではない。美しさそのものだ。彼といくら会話をして彼のことを知っても得られないようなことを彼について、すでに知っているような気がした。そしてそれは私に必要なすべてだった。私は自分の掌を見た。
 ……私はこの手に欲しいものを手に入れたという感覚を、生まれて初めて味わっていた。
 私は地獄を見て、天国を見て、今地上に帰ってきた。憶えているのは強烈な愛の感情だ。しかし、その時には確かに彼を憎んでいたことも『記憶として』覚えている。私は混乱した。その時は彼は悪魔だと確信したのに、もう一度記憶をたどり直してみれば、彼はどうしても天使としか思えない。
 どちらが正しいのだ? 彼は一体、何者なのだ?
 どれだけ考えても、私の頭では答えを出せそうになかった。
 


 それ以降、私の体から一切の性欲が姿を消した。私は不思議に思って自分の体に触れてみた。反応はするものの、『これをどうにかしたい』という強い衝動にはまるで繋がっていかない。火種を手取り早く消したくて、安っぽいアニメ画のポルノを使った。甲高い喘ぎ声、不自然なまでに胸とお尻の大きな女、興奮させるための要素がふんだんに詰め込まれている、安っぽいもので無理矢理自分を高めた。このような自慰をすると後で最悪の気分になる。食欲を埋める為だけに脂だらけのファストフードを胃に詰め込むような感じだった。自慰はもう私に必要なくなっているのだという確信があった。
 私は地上へ戻ってきていた。彼は私の前から消えた。地上に私を一人残して、私の前から消えてしまう。天国の味を知った私は地上の退屈さに耐えられなかった。会社から帰ってきては布団に潜り、何度もあの日の幸福を追体験した。大きな力が私の身体に流れ込み、受け止めきれず周りにも浸りきるぐらい溢れている。
 それから私の現実は真っ二つに引き裂かれることとなった。一方では今までと何も変わらない日常生活を送り、もう一方では、ジョニーという偶像に平伏し日常生活など心底どうでもいいと思っていた。私はどちらも器用に生きていったが、時折混乱が起こった。会社のパソコンに向かいながら、あの日の白いローブを着たジョニーの姿がちらつく。そうすると私の魂はあの日に飛ばされてしまう。今見ているこのパソコンが本当に現実なのか判断がつかなくなる。
 ジョニーへの愛は、今まで抱いたどんな愛とも違っていた。これは完全に未来を前提としない愛だった。彼を思う時、永遠に今が続いていくように錯覚した。
 欲しいものなんてない! 達成すべき目標もない! 私は今、彼を見ていたいだけだった。
 未来などどうでもいい! 若く、いつまでも若くありたい。永遠に若くありたい。それはアメリカ人の理想と重なっていた。いつまでも若くいたいと願わない人はいない。しかしアメリカ人はそれを恥ずかしげ見なく大っぴらに口にして、実現させようとしている初めての部族だった。アメリカは世間知らずだが抜群に行動力のある子供に似て、人目も憚らず不可能な夢を口にし、その為に一直線に邁進する。
 私はアメリカに触発される形で、自分の欲望にかつてないほど敏感になっていた。自分の欲しいものと、欲しいと思わされていたものの区別が残酷なほどつくようになった。私は美しくなりたいのではなかった。口紅はもう要らなかった。ファッション雑誌はもう要らなかった。香水をすりつけること。化粧をすること。全ては生きていると演出し、仲間に入れてもらいやすくする為だった。死に向かっている事実を隠し、永遠に生きていられると錯覚させる為のむなしい演出だった。
 まだまだ足りなかった。私は体にめり込む拳を夢見ていた。もう宥められる必要もなかった。私はただ強い男になりたかった。決して老いない男に。鉄の男に。スーパーヒーローに。ここでもアメリカの思想と私の望みは一致していた。
 「満たされなければよかった。満たされなければ、もう思い出すこともなかった。生まれた時から空いている穴に翻弄され、そこにペニスを入れることに躍起になってさえいれば、何も思い出さずに済んだ。でももういい。君がいるから。君がアメリカにいるから」
 子供らしく膨らんだ頬に、小さくするどい灰色の目に、あのたたずまいに、人生を全て投げ出したくなる魅力があった。
 私の前には今にも崩れ落ちそうな若さがあった。この世界の全てを見つくしてしまったような気分だった。見たものから順番に腐っていく。もう腐っているものがなくなったと思った時、とうとう自分の肉体が腐りかけていることに気が付いた。手が、足が、内臓が、腐り落ちていくのを感じる。その代わりに、私にはジョニーが与えられたのだった。
 「どうせ、そのルームメイトの息子のこと、好きなんでしょう?」
 昼休みに仲のいい同僚にジョニーのことを話していると、彼女は鋭い目つきで聞いてきた。言葉に詰まる。答えられずにいる私を見て、肯定と受け取ったのか同僚は笑った。
 「そうなんだろうと思った。別に何も言わないけど、もしどうしても付き合いたいんだったらちゃんと彼が18になるまで待つんだよ」
 私は曖昧に頷いた。私の彼への感情は、年齢差だの、付き合うだの、そんな単純な話ではなかった。彼と未来を共有をしたいとは思っていたわけではないからだ。ジョニーを愛するということは今を永遠にすることであり、未来を笑う行為だった。これは老いを否定することだ。不可能を信じることだ。同僚にそう伝えれば、私は完璧に頭のおかしい女だと思われることは分かっていた。私は賢く振舞う必要があったーー私はもうそれ以上何も言うまいと思った。
 家に帰ってくると、ソファーにジョニーが寝ていた。扉を開けた時の音に起こされたのか、ジョニーは薄っすらと目を開けた。私は無言で手を振った。ジョニーは寝ぼけ眼で、顔の前で腕を大きく動かすようにして手を振った。私は自分の部屋に入り、幸福に酔いしれる。ジョニーのいるこの家。ジョニーのいる水曜日。ジョニーのいるアメリカ。
 ジョニーが家に来た時に三人でドライブに行くのは恒例となりつつあった。私は三人でのこのドライブの時間、助手席でぼうっと窓から外を見るのが好きだった。カリフォルニアの道は速く動く。道ゆく途中にアメリカの国旗を見掛けると、私の心は満たされていった。
 まだジョニーの母親とゲイブが離婚する前に家族三人が暮らしていたと言う家にゲイブは連れて行った。そこは車で30分ぐらいの、庭に花が咲く豪邸だった。入り口には豪勢な門があり、近隣も見るからに高級住宅街という風貌だった。今ゲイブと私が住んでいるアパートとは比べものにならない豪勢な近隣だった。
 「昔は何もかも良かったなぁ。この家にいた時はアルフレッドのような変な隣人とやっていく必要もなかったし」
 冗談を言いながらも、ゲイブの目には隠しきれない感傷が浮かんだ。
 「今ではあの広い庭、素敵な家具、全てを失った。離婚して、ここを引っ越して、病気をして、職を失って、もう随分長いこと来たもんだ」
 あそこの窓から見た景色を覚えている。階段のところでジョニーが気分が悪くなって吐いたのを覚えている。覚えている、覚えている。断片的に、思いついた事をそのまま口にするといった様子で、ゲイブは何度も繰り返した。
 「……でも、過ぎたことをいつまでもぐちぐち言ってもしょうがないだろ?」
 長話が始まりそうな予感を察知して、ジョニーが嗜める。私は彼のこの子供らしい無慈悲な無関心が誇らしかった。
 「ジョニーはどうだ? ここに戻りたいか?」
 「戻りたいと思わないわけじゃないけど……」ジョニーはあらかじめ用意をしてあったかのように平坦に言った。「別に今更悲しいとは思わないよ。それが人生だから」
 冷たいのか温かいのか判断がつかない声だった。本心であるようにも強がっているようにも聞こえた。昔の家を見つめるジョニーの瞳は懐古に濡れたゲイブの目とは対照的に冷たい力強さで輝いており、それがジョニーを大人の顔にさせ、同時にその表情のせいでかえって彼の顔の幼い造りが目立つようだった。
 黙り込んだ対照的な親子と私を乗せて、車は帰路に着いた。
 「ミルクシェイク、ミルクシェイク」後部座席からジョニーの呪文が聞こえた。「ミルクシェイクが飲みたい。父さん、帰りにどっかに寄って買って行って」
 「仕方がないなあ…あそこの店でいいか? 行ったことないから美味しいかどうかは知らないけど」
 ゲイブは進路にあったファーストフード店を見ながら言った。
 「ああ、ここなら、前に来たことあるから大丈夫」
 「へえ。あの露出度の高い彼女と?」
 「違うよ」
 「じゃあ、誰と?」
 「俺の、母さん……と」
 ジョニーはギクリと止まった。ゲイブが黙り込む。気まずい沈黙の中、ドライブスルーの注文を聞く声が流れてくる。ミルクシェイクとドリンクを二つ頼んだ後、ゲイブは小さな声で呟いた。
 「……こんなに甘いものばかり食べる癖がついて、ジョニーの健康のことはどうするつもりんだ」
 ゲイブが遠回しにジョニーの母親を批判しているのは明らかだった。ジョニーは居心地悪そうな顔で黙っていた。私はその美しい顔を盗み見た。どこから見ても平凡な少年に違いなかった。ジョニーは私の見ている天使にも、悪魔にも、何の関わりもない。しかし、私の目に15才の少年は映らない。私は天使と悪魔を目の前にしながらまるで15才の少年を相手にするように振る舞わなくてはならない。
 ジョニーはどこにいるのだろう。他の人に本物のジョニーが見えるなら、何故私にはそれが見えないのだろうか。私はゲイブから手渡されたドリンク二つから、わざと間違えたふりをしてミルクシェイクの方を持つ。
 「あ、それ、僕の…」
 言いながら、素朴な顔立ちが笑顔を作っている。楽しそうというわけでもない、ただ口の端を持ち上げるだけの、かといって感情が全く籠っていないわけでもない、彼特有の、ごく薄い笑顔。私はこれを見たかったのだった。私は大人しくミルクシェイクを渡した。
 「ありがと」
 微かにうつむきながらミルクシェイクを受け取る。ジョニーはどこにいるのだろう。
 「そういえば、この間大丈夫だったの。かなりハイになってたみたいだったけど」
 ジョニーは独立記念日の時のことを聞いてきた。
 「ああ。あんなの、大したことないわよ」
 私は見栄を張った。大嘘だった。大したことない筈がない。あの日から世界の見方ががらりと変わってしまった、強烈な出来事だったというのに。しかし私は見栄を張った。このまま死ぬまで彼の前で見栄を張りたい。彼の前でずっと見栄を張るためだけに生きていたいと思った。
 「次はあんまりやり過ぎたらダメだよ」
 ゲイブが言うと、ジョニーが笑った。顔が熱くなる。
 私はこの正体のよく分からない少年に、私の栄光を話して聞かせたいと思った。ゲイブがよくそうするように、過去の話をくどくどと話してみたいと思った。私が持つものでジョニーが持たないものがあるとすれば、それは過去だった。
 私の人生にも過去があった。楽しい時というものが確かにあった。例えば高校生の頃に宿題を終えてベッドに倒れこみ、窓から差し込んだ光が私の顔にかかった時。これ以上幸せな時はないと思った。私には美しい青春などありはしないと思い込んでいた。華やかなものからことごとく見放された若い時。どうしてあの時の苦さが今になると甘く思い出されるのだろう。
 隙あらば懐古に浸るゲイブだけではない。私にも栄光があった。私の栄光も、私ごとき虫けらの栄光すら、それはそれは輝いていた。家族旅行で行った観光地の自然を見て、一度も話したことのない心の恋人と同じ風景をいつか見たいと願った。新しいクラスに初めて入る時の息の詰まる教室までの長い廊下。こうした私の過去のささやかな栄光をこの若い男に話してみたいと思った。
 ジョニーは困惑したように笑うだろう。彼は放課後に校舎裏で吸うマリファナのことも、友人と観た最新の映画のこともわざわざ話す必要がない。彼はただ饒舌な私の前で沈黙する。残酷な正直さで私を殴る。それが他でもない彼の栄光の証明なのだ。ジョニーには未来が見えていない。彼自身が未来だから見えないのだ。私の身体からは、もう未来が浮遊してしまった。私には未来が見えていた。残酷な未来が。
 その後、私たちはゲイブの提案で帰りに映画館に寄っていくことになった。映画は不死身の男を題材とした最新アクション映画だった。暗闇の中、右隣に座ったジョニーの白い顔が浮かび上がっているのを横目で見つめた。
 途中の濡れ場のシーンで、眠気が合わさり、私は短く幸福な夢を見ていた。夢の中で私はジョニーとキスしていた。
 ああ、未来とキスしてる。未来とセックスしてる。私は未来の唾液を口に入れてる。そうすることでその若さにあやかっている。死ななくていいのだ! 私は生きるのだ。死ななくて、死ななくて、いい。老いなくていいのだ!

4-3

 「そう、それでね……その子……ジョニーはゲイなんじゃないかと思うのよ」
 「どうして?」
 「どうしてって……なんだか他の人とちょっと違う感じがあるから」
 「彼女はいるの?」
 「いるみたいだけど……」
 「彼女がいるんならストレートなんじゃないの? どうしてそう勘ぐるのよ?」
 「分からない。でもそうじゃないと私は耐えられないような気がするの」


 ゲイブはジョニーが赤ちゃんの時から現在までいくらでも彼に関するエピソードを知っていた。ゲイブはあの日から、私のルームメイトではなく『ジョニーの父親』に変わってしまっていた。私はジョニーのことを話すようさりげなくゲイブを誘導するようになっていた。ゲイブの過去の話や愚痴を聞くよりはジョニーの話を聞く方が私も楽しめるに決まっている。幸いなことに、ゲイブはジョニーの話になると何よりも饒舌になった。
 ゲイブがジョニーのことを話している時は、彼の母親である元妻の話に繋がっていくことが多かった。ゲイブはジョニーを溺愛する一方で、母親のことは徹底的に口汚く罵った。
 「ジョニーの母親は、本物の悪魔だ」
 彼女は保険金目当てで料理に毒を盛ってゲイブを殺そうとしたとか、ゲイブと一緒に住んでいたジョニーを誘拐したのだとか言った。話の真偽は分からないが(少なくともゲイブの性格を考えればかなり誇張はしているだろう)、ジョニーの養育権を巡ってはかなり醜い法廷争いを繰り広げたようだった。
 「そこまでの悪女なら、どんな顔をしてるのか気になるわ」
 私がそう言うとゲイブは自分の部屋から小さく分厚いシルバーのアルバムを持ってきた。その表紙を見て私は息を呑んだ。幸せそうな新郎新婦が並んで微笑んでいた。結婚式の写真だった。今よりも皺が薄く髪の毛が濃いゲイブと、彼より遥かに背が高い女性が写っている。その白い顔には見覚えがあった。
 ………ウエディングドレスを着た美しい花嫁は、なんとあのイベットに瓜二つだったのだ。急に動悸が速くなった。ページを捲ると彼女とゲイブの色々な思い出の写真が出てくる。家で撮った写真。中東かどこかの観光地と思われる遺跡の前で撮った写真。白い雪をバックにスキーウェアを着ている彼女は殆ど化粧をしておらず、素朴な茶色の目をしている。
 「……彼女、あなたと同じチェコ人なの?」
 これほどイベットに似ているのだから、ひょっとするとアジア人の血が入っているかもしれないと思って私は聞いた。
 「一応そうだけど、チェコの血はほとんど入ってないよ。血筋的にはアルメニアやロシアがほとんどだし」
 「そうなの……」
 なるほど、ジョニーの母親のエキゾチックな容姿は恐らく東欧から来ているのだろう。ジョニーは意外にも国際的(インターナショナル)な血を持っているようだ。彼女はまるでイベットの双子のようだったが、確かによく見るとジョニーにも似ていた。彼のすらりとした体型や整った顔立ちは彼女から受け継いだのだとすぐに分かる。
 写真の中からジョニーの母親、いや、イベットがこちらを見てあざ笑っているように思えた。彼女は美しかった。相変わらず美しかった。憎らしいほど。
 イベット。
 私はその場で唐突に中学生に戻っていた。日本の制服を着ていた。私はジョニーと同じ年になっていた。イベットが呆然とした私の目の前に立っていた。
 「まだ私を追いかけていたの?」
 イベットは日本語で私に聞いた。脳に意味が伝達する速度が英語より格段に早くて動揺した。日本語をしばらく聞いていなかったから、相手が言った言葉をすぐに理解出来る感覚を忘れていたのだった。
 「アメリカにまで私を追いかけてきて。まさかそこまでするとは思わなかった。私がいつあなたにそんなことしろって言った?」
 忘れていた、イベットのこの喋り方。わざと抑揚を殺した、ロボットのような喋り方。バイリンガルというものはおかしいものだ。英語で同じことを言ってもそうは感じないのに、日本語で言うとどうしようもなく鼻につく。私はむきになって否定した。
 「あなたの為じゃない。あなたになりたかったわけじゃない。今なら分かる。私はジョニーに出会う為にここに来たのよ。ジョニーとこの国を分かち合う為にアメリカを愛したのよ」
 イベットは眉をひそめた。
 「アメリカは"私の"国よ。それにジョニーは"私の"息子よ」
 淀みないイベットの口調に私は怯んだ。イベットの前で私は再び救いようもなく醜かった。
 「また振り出しに戻るんだね。もう若くもないのにさ……」
 そうだ。私は老いたのだった。私の手は若さを失っていた。熱も消えてしまった。もう力尽きると思った時、ジョニーに出会った。ああ、まだだ。まだ若くいたい。まだ怒っていたいのだ。私の壊れた夢の為に、まだ怒っていたい。私はまだ怒っていたい。私の夢は壊れた。私の夢は壊れた。私はその為に怒っていたい。
 「……あの女、ジョニーのペニスの写真を撮っていたんだ」
 衝撃的な言葉に、私の意識は一気に現実に引き戻される。
 「…は?」
 私は思わず間抜けな声で聞き返した。
 「だから、ジョニーの母親だよ」ゲイブはアルバムを横目で見ながら言う。「この女はジョニーがまだ幼稚園の時、水浴びをしているジョニーのペニスを何枚も写真に撮っていたんだ」
 私は絶句して写真の中の花嫁を見る。世間知らずそうな、若く美しい花嫁だ。
 「……何の為に?」
 「知らないよ。言っただろう、あの女は頭がおかしいんだ」
 ゲイブは憎々しげに言った。
 「私は彼を連れてチェコに逃げたんだが、ジョニーはその頃、ひどく不安定だったんだ。一度精神科に連れて行ったぐらいだ。ジョニーは事あるごとに『ごめんなさい、ごめんなさい』と仕切りに謝っていた。あの女がジョニーに酷い扱いをしていたからに違いないよ。医者に妻のことを話したら、まずソシオパスに違いないと言っていたよ」
 私はお人好しでおどおどとしたゲイブには似ても似つかないジョニーのあの凜とした立ち姿を思い出す。あれは母親に似ているに違いない。
 ああ、それならば、ジョニーはやはり天使ではない、悪魔だ。生まれながらにして悪の血を受け継いでいる。私は、残酷な悪魔を愛しているのだ。 
 「でもそれを望んでいたんだよね?」
 またイベットの声がする。
 「あの女が私の人生を壊した。今考えればあいつは初めから計算していたんだ。結婚してジョニーを産み、私の財産を持っていくプランだ。ジョニーを妊娠している時には次の男を見つけていた。おかしいじゃないか、人生で一度も働いたことがないのに、あの女は今までずっと裕福な生活をし続けている」
 ゲイブは止まらなかった。人生への後悔とジョニーの母親への憎悪が一緒になって彼は感情的になっていた。
 「ジョニーが生まれた後、私はキャリアを諦めた。今はこんな生活さ。あの女が全部壊した。でも良い、良かったんだと思っている。あの苦しみの中で、ジョニーという美しい生き物が生まれたのだから」
 ゲイブは言った。ゲイブは自らの人生を諦め、ジョニーに自分の全存在を賭けているのだった。私は感傷的な気持ちでゲイブを見つめた。私は彼を老いた自分自身だと思った。
 「あの子は人を惹きつける力があるんだ。一度、あるパーティーにジョニーを連れて行ったことがあるんだ。そこで一人の女性が近づいてきた。ジョニーから比べればおばあさんと言ってもいい年齢だ。なのに、『この子はなんて可愛いの、テレビに出るべきよ』ってジョニーを見て目を潤ませているんだ。不気味なものがあったよ、おばあさんが孫のような年の男の子を少女のような目で見ているんだから。だから私はジョニーにいつも言っているんだ、『頼むからその生まれ持った魅力を人を利用する為に使わないでくれ』って。親権はあの女に取られたが、あの女に少しでも似ないように教育しているんだ」
 ゲイブの目は潤んでいた。
 「……でもあの子は大きくなって自分の魅力に気が付きつつある。私はそれが恐ろしいんだ。ジョニーはもうチェコ語を忘れてしまった。あの子は日に日にアメリカ人になっていっている。あれほどいつもチェコ語を聞かせたのに。あれほど自分のルーツを忘れるなと教えたのに」
 ゲイブはため息交じりに携帯をいじって動画を再生した。「ほら、見てくれ」
 ジョニーは私の聞いたことのない言語で何事か叫びながら友達とはしゃいでいた。年齢は8才ぐらいだろうか。私の知らないヨーロッパの言語を話すジョニーはエレガントだった。それでも、『アメリカ語』を喋るジョニーの方が私には魅力的だった。
 「ゲイブ、嘆くことはないわよ」
 私は励ますように言った。
 私はここで外国人という異質な存在のはずだった。それなのに、何者でもない私はアメリカで呼吸をしている。チェコやロシア、いろんな国の血が混じっているらしいジョニーだって本当はそうだ。私たちはアメリカにいる。どういうわけかここにいて、ここで、何人でもないことを許されている。
 「だって、アメリカはジョニーを愛しているから」
 そして私もジョニーを愛している。ジョニーが何者でも良い。私の魂はジョニーを作り出す。私は生きる為にジョニーにすがる。私の胸はジョニーを使って生きる情熱をひねり出す。私は娯楽を生み出してその中で一人で踊っている。


 この近隣の治安は想像以上に悪かった。スーパーから買い物をして、家の扉の前にほんの数分放置していただけで全て盗られてなくなっていたこともあった。また、ギャングめいた風貌の不審者が家の庭に侵入する事件があった。ゲイブと二人で声を潜めて銃を握り、扉に向かって銃口を向けながら震えていた。結局何もすることはなくその男は庭から出て行ったが、恐怖を拭うことは出来なかった。
 友人は皆口々に引越しするように勧めた。私はその度に今は難しい、落ち着いたら…といった誤魔化すしかなかった。ここから出ていくことは始めから選択肢にない。そうしたら、ジョニーにもう会うことが出来なくなってしまうからだ。
 劣悪な環境。鏡の中のにきびだらけの自分の顔。死んだような目をした近隣の人々と話していると、上昇志向が根こそぎ奪われていく。この近隣での生活は惨めだった。しかし惨めであればあるほど心の中のあの男の子はより輝いていく。そして彼に会える水曜日、その週の全ての苦しみは報われるのだった。最後の審判でようやく天国にあげられる信心深い貧乏男のように。
 ある日、ジョニーは彼のトレードマークである帽子を忘れていった。初めて会った時にしていたのと同じ、中央に蝶の刺繍のあしらわれた黒の帽子だ。
 「ジョニー、気がついたら、きっと怒るだろうな。これお気に入りのやつだから」
 ゲイブはそう言いながらそれを何気なく机の端に置いた。私はその帽子に磁石のように視線が奪い取られた。
 翌日、会社に行く準備をしながらも帽子から目が離せなかった。帽子の置かれた机の前を、恐々と、体を固まらせながら、ぎこちない動きで通り抜ける。意味もなく何度もその前を通る。何度も、何度も。その日ゲイブは仕事の面接に出かけており、家には私しかいなかった。
 何十回目かの往復の後、私はついにその引力の前に降伏した。情けない嘆息を漏らし、その机の前に膝を折った。会社に休む連絡を入れると、上司の心配そうな声が返ってくる。電話を切った時、私の手はすでにジョニーの帽子を取っていた。
 震える手でそれを顔の前まで運んだ。赤ん坊のような、果物のような、世にもいい香りがした。目を閉じると楽園にいるような気分になった。この世界にはジョニー以外存在しないという気がした。すぐに恍惚とした感情に飲み込まれていく。
 私はこの家に残されたジョニーの足跡を辿ることにした。彼が笑う仕草が私の耳元に蘇る。ジョニーの眠ったソファの美しさ、そこに落ちているジョニーが食べていたポテトチップスの欠片。私は跪き、そこに恭しく頬ずりした。
 新しいギターを買ってもらったからもう要らないと言っておいて行ったジョニーの古いアコースティックギターの前に座る。長いこと触られていないギターの上には薄く埃が被っている。私は指で直線を描き、人差し指についた埃を、その灰色と茶色を混ぜ合わせたような色を飽きることなく眺めた。
 何も見えない。あの少年の美しさが見える。あの子の眩しさだけが見える。ジョニーが触れたギター。彼の肌の色。彼のピンクのTシャツ。乾杯した時に私を見た濃い灰色の目が見える。その全てが幻のように、私の前に現れる。この宝石のような幻の一つ一つを砕いて海にまけば、水面はこの上なく輝くだろうと思った。
 「……フミ! フミ!」
 ……どこか遥か遠くの世界から、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。しわがれた、耳に鬱陶しい声だ。
 私はノロノロと顔を上げた。半分開けっ放しになっていた玄関のドアから、隣人のアルフレッドの顔が見えた。彼の顔に浮かんでいたのは困惑の一色だった。
 「ゲイブの郵便物が間違えて私のところに入っていたから届けに来たんだ。そこにいるのに、何度呼んでも反応しないからどうしたんだろうと思ったよ…」
 「ごめんなさい、何でもないの」
 私は半分夢にいるような状態で謝った。アルフレッドは怪訝そうな顔で私の目を覗き込む。
 「……大丈夫なのか?」
 いつも言っていることと一致しない不可解な表情ばかりしていたアルフレッドは、この時今まで見た中で一番"まとも"な表情をしていた。アルフレッドにこんな表情が出来るとは知らなかった。彼はおかしなことばかり言うおかしな人だとばかり思っていたのに。
 「まあ良いさ。元からこのアパートは変人だらけだが、今日から君もその仲間入りみたいだな」
 この近隣で一番の変人であるアルフレッドがそれを言うのだろうか。私は笑おうとしたが、何か重いものが喉に引っ掛かった。私は急に真顔になってアルフレッドを見つめた。
 ………説明のつかない心細さが襲ってきた。森の中で迷った子供になったような気分だった。私はアルフレッドを見つめた。何か大きなものを失いかけているという予感がした。
 思わずアルフレッドを引き留めそうになる。ちょっと待って、行かないで。
 しかし、一体何の為に? 彼を引き留めてどうなる?
 私は何とか自分を制止して、簡素な礼を言った。
 「……わざわざありがとう、アルフレッド。またね」
 アルフレッドは返事を返さなかった。ひょこひょこと上に飛び跳ねることで前に進む、独特の足取りで帰って行く。彼が隣の家に入るのを見届けてから扉を閉め、ソファに座り息をつく。今の嫌な予感は何だったのだろう。
 ……しかし、ジョニーの帽子を手に取ると、考えはすぐに飛散していった。あんな変人のことなどどうでも良いではないか。ジョニー以外に労力を割くのは面倒臭い。それよりもジョニーのことを考えたかった。
 付けっ放しだったテレビからスポーツの中継が聞こえてきた。二人の黒人選手の汗で艶めいた体がぶつかり合うのがスローモーションでリプレイされている。何度も彼らの体がぶつかり合う。それを見ながらジョニーのことを私は考えた。アルフレッドの来訪でせっかくの時間を邪魔をされた気分だ。うっとりした気分が消えてしまわないように、ジョニーに関する記憶を手繰り寄せる。
 「ジョニーは将来は宇宙飛行士になりたいと言っているんだ」 
 ……そういえば前に、そんな事をゲイブが言っていたことを思い出した。
 宇宙飛行士か。それはいい。ジョニーと一緒に宇宙に飛んで行って木星の上で踊りたい。宇宙を漂流したい。宇宙に遊びに行こう。遊園地に遊びに行こう。永遠に遊園地で遊ぼう。見たことのないものを毎日見よう。ただ毎日を生きる。楽しくて楽しくて堪らない毎日を生きる。
 そう言えば、ずっと昔、宇宙人の男の子と恋に落ちてみたいと思ったことがあった。

 でも、どういうわけか、ある時から、全てが予測可能になってしまったような気がして…。血が通ったドラマは幻想だった。もしくはもう出血多量で死んだのだそうだ。

 気がつくと、外は暗くなっていた。自分の体が冷たくなっていた。私は知らず震えていた。世界は記憶の中で笑うジョニーの目のように冷たい。大きな太陽が輝いたと同時にそれ以外の世界が真っ暗になってしまった。ジョニーは私の心の冷たい水が流れるところにすっかり棲みついてしまった。
 この体の底を支えている暗い水。ジョニーの笑顔に世界が凍る。
 『巨大なカリフォルニアが凍るーー。』
 そんな言葉が急に浮かんだ。
 私は目を見張った。未来にカリフォルニアが凍ることを確信した。それはどういうわけか、どういうわけなのか、それは本当に起こることだという気がした。
 同時に、頭のどこかでこんな考えが横切った。さっきまでここにいたアルフレッドの顔。彼の奇妙なぎょろついた目。あの究極の変人といっても過言でないアルフレッドは、地獄の中の蜘蛛の糸だったのかもしれない。私は与えられた最後の救いから自ら手を離してしまったのかもしれない。
 『カリフォルニアが凍る』
 一体、この不気味な予感はなんだろう。私は笑い飛ばそうとした。そんなのはただの妄想だ。アルフレッドだって、今も隣の家にいる。いつだってまた会える。それほど不安ならば、隣の扉を叩けばいい。お菓子でも持って、「さっきはわざわざありがとう。良かったらこのお菓子食べて」と言えばいい。そうすれば良い。さあ……。
 しかし私にはそれがどうしてか出来なかった。そして、嫌な予感は結果的に当たった。アルフレッドとはこの日以降、二度と会う事はなかった。


 二重生活は続いていた。カリフォルニアが凍るという考えは私の頭から去っていなかった。世界は明らかに変わったというのに、もうすぐカリフォルニアが凍るのだというのに、私は変わらず会社に行って仕事をする以外の人生の過ごし方を知らないのだった。コピーを取る手、キーボードを叩く手に氷が落ちてくる。会社は急に無人になったかと思えば、またすぐにいつもの風景をわざとらしいまでに私に見せつけた。
 そんな時、突然に上司から呼び出された。彼は私が部屋に入るなり、ストレートにこう切り出した。
 「実は、君に異動の話が出ているんだ」
 糊のきいたスーツを着た上司を前に私は言葉を失った。
 「東京の支社に行くかニューヨークの支社に行くか選んで欲しい」
「そんな、急に言われても……」
 なかなか言葉が出てこない。上司はきつい目をしながら私を無言で見つめている。私はこの上司のこの痛いほどプロフェッショナルな、冗談の通じなさそうな雰囲気が苦手だった。
 「それ以外の選択肢はないんですか? 私はカリフォルニアが好きなんです。せっかくここでの生活にも慣れてきたところだったのに…」
 「申し訳ないとは思うけれど、もう決まったことなんだ」
 当然、この話をされた瞬間からジョニーのことが頭に浮かんでいた。私はどうしても愛する彼のいるカリフォルニアから離れるわけにはいかなかった。
 「お願いだから、考え直してください」
 普段職場で滅多に反抗などしない私が食い下がった。しかし、上司の結論はどうしても変わらないようだった。
 「とりあえず、時間をやるから考えてきてくれ」
 私は空虚なまま家に帰ってきた。アルフレッドが整えた整然とした庭に出て、ぼうっと木を眺める。ニューヨークか、東京か。どちらにせよこのカリフォルニアを去らなくてはならない。ジョニーと離れなくてはならない。あまりに突然で、まるで現実感がなかった。
 アメリカに来るのを決めた時も東海岸は選択肢にはなかった。ニューヨークに行くなど考えたこともなかった。東京には前に住んでいたのだから、普通に考えれば東京を選ぶのが自然なように思えるが……。
 考えながら、ジョニーが傾けたのと同じ角度でペットボトルを傾ける。ジョニーと会って以来、ジョニーのように振る舞うのは私の癖になっていた。腕を組む仕草。かがむ時に胸のあたりを抑える気取った仕草。彼の仕草のひとつひとつを取り込んで真似していた。
 前にこの庭でジョニーとゲイブと三人で飲んでいた時の記憶が蘇る。お酒が入っていつものようにめそめそと愚痴を言い始めるゲイブに、ジョニーは嗜めるように言った。
 「父さん、そんなこと、どうだっていいじゃないか。ほらこの木を見て。この枝が芸術的に空に広がっている様子を見てよ。心癒されるじゃないか? 嫌なことは忘れて、この瞬間を楽しまなくちゃ」
 少し酔って演説めいた口調になっていたジョニーを覚えている。いくらでも出てくる彼の思い出に胸の辺りから熱い塊が込み上げる。
 私はジョニーが言った背の高い木を眺めた。胸が打たれるような鮮やかな緑をたたえていた。
 その木の下にいつの間にかジョニーがいた。見慣れない灰色の服を着ている。驚いたことに、それは私が学生の時に着ていた日本の制服だった。堅苦しいだけで決して好きではなかった制服は、アメリカ人のジョニーに意外なほどに似合っていた。男前は何を着ても似合うものだと感心する。
 そのすぐ横にはお揃いの制服を着た15才の私がいた。その顔には当時悩んでいた悩んだニキビもない。顔立ちはどちらかといえば成長した今に似ていた。存在しない私がジョニーと一緒にいる。二人には私が見えていないようだった。二人は仲がいいようで、笑い合っている。恋人のように指と指を絡めている。
 しばらく私は見とれていたが、少し考えを巡らせている間に、その知らない二人はいなくなっていた。木は石のように凍りつき、二人のいた場所には赤黒い血が残されていた。
 ……静寂の中で鳥の声が聞こえる。
 私はどうしてもアメリカにいなくてはならないと思った。彼らがアメリカ以外の場所で生きていけるとはとても思えなかったからだ。
 頭の中からアメリカ、アメリカ、という柔らかな囁き声が聞こえてくる。それが今にも消えそうな警音と重なり合って不協和音を奏でていた。どうしてもアメリカからは離れられない。私はジョニーと同じ土地にいる。アメリカにいる限り、ジョニーと私には共通点がある。
 ジョニーのその美しい身体は、美しい性悪女が騙されやすい中年男の財産を半分強奪するための道具としてこの世に生み出されたのだという。彼は腹いせのように彼らしく生き、その過程で私の心を空っぽにした。ジョニーの前で今まで抱いた欲望や苦しみが結合して不思議な形を作る。アメリカが、カリフォルニアが、私を侵食していく。蒸し暑さに包まれて彼が私と一つになる。ジョニーのいるこの世界で、楽観的な絶望が肺を満たす。
 「永遠に若くあれ」
 不可能なことを口にすると、体の内側から滲み出るようにみるみるエネルギーが湧いてくる。私はもう一度だけ信じることにした。成し遂げたことがないことを成し遂げる可能性、それがこの世のどこかに、見えなくてもあると、口にすることで、あることに出来ると。私には、私にだけは、見えないものが見えると。そう信じることはもはやこれが最後だろうと思った。
 「アメリカとジョニーに、神のご加護あれ」
 ジョニーは生きる。彼は生きる。生きる、生きる。馬のように強く。彼は大人になどならない。ここにずっといる。そして私はジョニーを通じた世界しかもう要らないのだった。
 私はニューヨーク行きを決めていた。
 私はアルフレッドが整えた綺麗な庭で、花を摘み、ハワイの人のように耳に挟んだ。そして茎で自分の指輪を作って自分の薬指に巻いた。次の日には気付かぬうちに薬指から抜け落ちているだろう指輪。永遠をかけるダイアモンドの硬度のない指輪。
 ジョニーは天国にいる天使であり、悪魔だった。彼は死そのものだった。それでいて彼は生の象徴であり、私は彼を憎むことから始まり、愛することに妥協した。
 私は物凄い速度で落下していた。愛の頂点と人生の転落点は同じ場所にあった。ジョニーのことを考えると、どこにも逃げ場がなくなる。私はまさしく終着点にいると悟った。私はこれより先に行かない。行きたくない。私は永遠にここで飢えている。私は彼を見つけた。だからもう戦う必要はない。
 私は世界に伝えに行こうと思った。カリフォルニアは凍るのだと。もう暑いカリフォルニアは要らない。美しいイベットが生まれ育ったカリフォルニアは要らない。今、カリフォルニアは凍るのがトレンドなのだ。私の大好きだったファッション雑誌にもきっとそれが書いてある。私はタクシーを拾って、一番近くのビーチに行った。
 私はビーチを一人で歩いた。
 『カリフォルニアが凍る』
 水着姿の人々がそこらじゅうに腰を下ろしたり歩いたりしている。美しいアメリカの人々は笑っている。太陽は凶暴な眩しさだ。汗が額から流れて目に入る。
 そうして私の望み通り、前触れもなくカリフォルニアは凍った。そこらじゅうのものが凍った。人々も凍った。その場から固まって動かなくなった。蝋人形のように。目の前で手を振っても動かない。
 世界は止まった。今日、ここで止まった。
 車がいたるところで玉突き事故を起こす大きな音がした。私にはどうでもいいことだった。海も凍っていた。私だけは凍らずに動いていた。太陽は依然として輝いている。全てを凍らせる気温は不思議に私には調度よかった。私は凍った男性の手に握られたココナッツジュースを奪って飲んだ。都合の良いことに、ジュースは凍っていなかった。世界は静かで、太陽は輝き、私はここにたった一人だった。
 私は凍りついた海を見た。あの海の上を歩いて旅に出よう。海老や魚の死骸を食べながら世界一周でもしよう。
 そうだ、何か一つだけ、この世の思い出を持って行こう。
 私はすぐにジョニーの母親が撮ったという、ジョニーのペニスの写真のことを思い出した。ゲイブがその写真のことを私に伝えた時はなんとひどいことをするのだろうと思ったが、今考えると美しいものを写真に残したいという気持ちは理解できるような気がする。
 私はそれを見たかった。それを見たくて見たくて堪らなかった。暑いカリフォルニアから持っていくのはそれだけで構わない。思い出のためにそれだけを持って旅に出る。
 ふと、髪に差していた花が、もうしおれかけている事に気がついた。そして中から小さな黒い虫が這い出て来た。すぐに消えていったそれを目で追おうとするが、どこにも虫などいなかった。当たり前だ。虫など、この気候では全て凍死してしまっていなくてはおかしい。
 私のニューヨーク支社への異動は滞りなく決まった。そうしてジョニーに会える最後の水曜日がやって来た。家に帰ってくるなり私は息を弾ませてゲイブに聞いた。
 「ジョニーはどこ?」
 「私の部屋で寝てる。昨日のパーティーでかなりキツい薬をやったみたいで、ものすごく気分が悪そうだよ」
 よりによって、最後の日なのに、薬でダウンとは。ベッドの上で横になったジョニーは、気怠げに携帯電話を弄っていた。私に気がつくと、軽く右手を挙げた。普段より幾分とろんとした目が私を捉える。
 「元気?」と聞くと「うん」とぼんやりした返事が返ってくる。
 「パーティーで薬をやったんだってね」
 「うん」
 「なんて言うやつ?」
 ジョニーは目を擦りながらいくつかの種類の薬の名前を答えた。薬については何も知らないのに、いかにも知っているかのように私は神妙に頷いた。
 「……ダメよ、あんまりハードなやつをやったら。あなたはまだ子供なんだから」
 ジョニーは半分寝ているような無防備な顔をしていた。私はすぐに言うべき言葉を失ってしまった。それにしても、ジョニーはいつも通りの態度をとり続けるつもりなのだろうか。お喋りなゲイブが私のニューヨークへの引越しをジョニーに伝えていないとは考えづらい。
 『ゲイブから聞いていると思うけど、私もうすぐニューヨークへ行くから。今日でお別れなのよ』
 私は口を閉じた。そんなことを言ったとしても、彼は「そうなんだ。寂しくなるよ」とお決まりの台詞を言ってあの作り笑顔を浮かべるに決まっている。
 ジョニーには見えないものが、私には見えていた。ジョニーには見えない。どこまでも慈悲深く残酷なこの悪魔が見えない。彼が鏡を見ても、私に見える彼の姿は見えない。
 沈黙が続いた。ふと、ジョニーが最近ジムに入り浸って身体を鍛えているとゲイブが教えてくれたのを思い出す。
 「……そういえば、かなり鍛えてるんだってね?」
 「まあ、ものすごくってわけじゃないけど。俺も男だから」
 私は少し考えた。ジョニーがもし、スーパーヒーローズの戦士たちのような体になったら、私は彼に対する見方を変えるのだろうか。いいや、そんなことはないだろう。彼がどんな姿をしているかは関係ない。彼はもはや目には見えないのだ。彼にだけではなく、私にも彼は見えていないのだ。彼を愛した時から、彼はどこにもいないのだ。
 私は気まぐれに彼の腹筋を指で突いた。ジョニーは緊張したように軽く息を詰めた。掌で包むように軽く手を動かしても、固まったまま抗議の声を挙げない。
 「ふうん、悪くないんじゃない……」
 私たちの目が合った。私は微笑んだ。ジョニーは目を細くして微笑み返した。静かで優しい笑みだった。私は微笑みの中に痛ましい思いを込めた。本当に彼を失いたくないという思いを込めた。私は沈黙をジョニーの髪の毛を掻き回して誤魔化した。猫の毛のように柔らかい髪は、アジア人とはまるで質が違っている。
 「ねえ。信じられないかもしれないけど、私もそれなりに強いのよ。腕相撲で勝負してみる?」
 「……いいよ」
  ジョニーは少し興味を唆られたように言うと起き上がった。私たちは近くの机を使って腕相撲をした。彼の掌は前に触れた時と同じ、やはり温かかった。非力そうな細腕からは想像つかない程、ジョニーの力は強かった。私は唸りながら無駄な抵抗をした。
 勝敗は明らかだったが、ジョニーは私に止めを刺さなかった。硬く握られた私たちの手が宙に浮く。私は自分に出せる全力を出している。彼はいつでも私を負かせることが出来る。彼はついに苦笑しながら力を抜き、私の手の好きなようにさせた。すぐにジョニーの手の甲が机に付く。
 「やった、私の勝ちね」
 「別に、そういうことでいいよ」
 「それから、日本には指相撲っていうのがあってね……」
 私は彼に指相撲のルールを説明した。
 彼の長い親指は私の親指を追いかけて、巻き込んで押さえつけた。
 ……その時、私はジョニーに欲情した。彼とキスしたいと思った。若い女の体がもう一度、死ぬ前の最後の一息のように一瞬だけ生き返ったようだった。
 もしジョニーとキスしたら、満足するどころか渇きが増す一方だろう。密着した唇をそのままに、彼の肩を掴み、ベッドに押し付け、そこから彼の生命を飲み干すまで終わらないだろう。ふと、ジョニーが私を見つめているのに気がついた。彼らしくない弱気な表情だった。
 「……後で、父さんに自慢しようかな。何をやっても君に勝ったって」 
 「ああ。本当に生意気で嫌な奴ね。あなたなんて、初めっから今まで、ずっと嫌いだったわ」
 そんな言葉が口から出た。自分が本心で言っているのか分からなかった。ジョニーは冗談なのか決めかねているように笑った。私はジョニーの目に迷いが浮かぶのを初めて見た。彼はどんな表情をしていいかを迷っていた。彼は耐えた。『ごめん』か、『どうしてそんなこと言うの』か、何か弱気な言葉が口から飛び出そうになるのを、瀬戸際で堪えた。
 「でも、僕は好きだったよ」
 ジョニーは偶然出てきた言葉にしがみついたといった様子で、いかにも軽くそう言った。私は何も答えなかった。
 「……そう言えばさ、あなたってゲイなの?」
 「はあ? 違うよ。彼女だっているし…」
 「なら、ゲイじゃないって証明してよ」
 「はあ?……」ジョニーは眉をひそめた。「どうして……、どうやって……」
 彼の視線が落ちる。彼は私の胸の谷間を見た。呼吸が止まる。時が止まる。私は彼の前で裸になった。そんな気がした。
 ……ジョニーとはそれが最後だった。私が部屋から出た後、薬の影響で彼は眠りこけ、朝になっても起きてこなかった。私が仕事から帰ってきた時は、彼はすでに自分の家に戻っていた。
 「……さよならも言わなかったわよ、あなたの息子」
 私はジョニーがいなくなり、本質的にどこまでも空っぽの家を見つめながら、未練がましい言い方でゲイブを責めた。
 「前から思っていたけれど、本当に失礼な子ね」
 「君は知らないだろうけど、ジョニーは君がいなくなるんですごく寂しがっているんだよ。ジョニーは君が好きなんだ」
 ゲイブのこの言葉は虚しくもあり、小さな救いでもあった。自分を振った男が言う感謝の言葉のようなものだった。
 それから短い最後の日々を、私はカリフォルニアを目に焼き付けるようにして過ごした。巨大な牛の顔が二つ並んだような電線。カリフォルニアの夕日はオレンジと黒が絶妙に溶け合う。黒いフライパンの上でスクランブルエッグを作っている時も、私はいつもカリフォルニアの夕日を感じた。腕時計の日焼けの跡がいつまでも消えないようにと願った。
 家に転がっているジョニーのギターや家具の一つ一つが泣いているようだった。この土地が死ぬほどなつかしく、悲しく、ジョニーがここにいたという事実がつらい。ここにいて、確かに私たちが会話をしたのだという事実がつらい。私はジョニーとの別れを悲しむことによって、自分の残り少ない若さを堪能した。
 ……私が去った後、カリフォルニアは凍ったのだろうか。

4-4

 「そんな大荷物を抱えて恥ずかしくないのかい、あんた」
 これが、ニューヨークに到着して初めてかけられた言葉だった。小綺麗なスーツを着た中年の男にすれ違いざまにかけられた。薄ら笑い含みの小馬鹿にした言い方だった。私はこの種類の意地の悪さには免疫がなく、思わず呆けたように男の去っていく背中を見ていた。彼の足は迷いなく前に進んでいく。
 すごい人だ。あんなに早足で歩きながら、通りすがりの知らない人に嫌味を言って、そのあとは何事もなかったかのようにテンポを変えずに歩き続けているのだから。しかしよく見ると周りにいる人の歩きも同じだった。足を緩めたり一秒でも立ち止まったら死んでしまう呪いでもかけられているように、一定の速度で歩き続けている。
 これが大都会と言うものなのかもしれない。高層ビルや曇った空、新天地は目に映るもの全てが灰色だった。あるいはニューヨークを見る私の目が既に濁っていた。初めからこの街を好きになれる気がしなかった。
 私は大荷物を抱えてため息をついた。凍ったカリフォルニアとは真逆で、誰もが高速で動くこの街で私だけがただ一人立ち止まっている人間であるような気がした。ここには世界の全てが集まるのだとか言う。しかし、私は超高層ビルの集まりに特に興奮はしなかった。
 私は職場に近いということでニューヨーク郊外の地区に住むことになった。ザッと見たとことろ住人はアフリカ系で、私はほとんどたった一人のアジア人だった。予想していた通り、人種差別の速洗礼を浴びた。アジア系の多いカリフォルニアでは一度でも遭遇せずに済んだが、ここでは全く事情が違う。
 「なぜこんなところにいるんだ、さっさと自分の家へ帰れ」「ここから出て行け」……これ以外にも、若い女ということで道を歩いているだけで下卑た野次が飛んでくる。なるほど、アメリカは弱肉強食の世界だった。その醜い面を今一気に見せつけられている。私はこれまでアメリカの競争社会のいい面をしか見てこなかったのだ。
 嫌悪は言葉ではなく凝視という形をとることもあった。視線は人を愛する為ではなく裁く為にあった。私を見つめる目に無言の賞賛はない。ここで人に見られているということは、粗探しをされているということだ。何か失敗をしないか、何かこき下ろす場所はないか、ひたすらに見つめられ続ける。
 生活は緊張の連続となった。私はここで息を殺して生きることを学んだ。
 『私は何故ここにいるんだろう? 愛するカリフォルニアではなく、このニューヨークに?』
 この街に着いた瞬間から、私は間違えた選択をしたのだと気がついていた。しかしそれを変える気力も今更湧いてこなかった。私はただ流れに身を任せて無抵抗のままだった。ジョニーに出会ってから、私は自主的な力というものをすっかり失った。力とは全てジョニーを通して私に与えられるものであり、自分でそれを生み出す元気はもう残っていなかったのだ。
 ニューヨークに引っ越したばかりの頃、私は耳の病気をして専門医にかかった。健康保険に入っていたにも関わらず、法外な治療費を請求された。
 「でも、保険に入っているのよ! あなたの病院はネットワークに入っているはず。私が全額負担するなんて馬鹿げた話でしょう」
 「君はニューヨークに来たばかりなんだろう。君が日本に帰ってしまわないとどうして分かる? 保険としてもらっておかなくてはならないのさ」
 「……ひどい話だわ」
 怒りで震える私に、歳をとったユダヤ人の医者は皮肉たっぷりにこう言った。
 「お嬢さん、ニューヨークへようこそ!」


 引っ越してから三ヶ月もしないうちに私はニューヨークを親の仇のように憎んでいた。ニューヨークの方も私を憎んでいたに違いない。ニューヨークをカリフォルニアのように愛せる日は来ないだろう。それでも私たちは何とか一緒にいられる。職場での薄っぺらな人間関係のように、付かず離れずの関係で、うまくやっていけるはずだった。
 私のニューヨークでの休日は優雅さに欠けた。休日が来ても新しい環境に体も心も疲れ切っており、友達もいなかった。出来ることはあまり多くない。仕方なく家の近所のショッピングモールへと行く。買い物をして気晴らしの一つや二つしたかったのだが、肌の上に注がれる視線からはどこへ行っても逃れられない。アフリカ系コミュニティーでアジア系の若い女であるということはそういうことだった。遠巻きから送られるじっとりした視線、そのくせ近くにいって実際に話すと目線すら合わせてくれない。私が距離を取れば、品定めをする視線がまた注がれる。
 道を歩く十代の男の子を凝視するのは私の殆ど無意識の癖になっており、なかなかやめられなかった。自分が見ている人間がジョニーではないことは百も承知だ。しかし、生命力に溢れた美しい少年を見つけるとやはり懐かしくなって見てしまう。私はこの懐かしさという痛みを愛していた。ニューヨークという街で感情を麻痺させることを学んだ後では、なおさら痛みが愛おしいのだった。
 そんなある日、ゲイブから電話があった。
 「ゲイブ、急にどうしたの? 元気にしている?」
 私は声を弾ませて電話に出た。今の私にとってゲイブはジョニーとの唯一の繋がりだ。
 「元気だよ」
 彼の声は重苦しかった。彼らしからぬそのトーンに少し面食らう。無理に言葉だけ繕ったというような様子でゲイブは聞いた。
 「ニューヨークはどう? もう新しい職場には慣れたかい」
 「正直、好きとは言えないけど、なんとかやっていっているよ」
 とってつけたような短い近況報告が終わると、長い沈黙の後、ゲイブは本題を切り出した。
 「……実は、君が去った後、アルフレッドが死んだんだ」
 私は自分の耳にしたことがとても信じられなかった。アルフレッドは白髪混じりではあったが、年齢的にはまだ若かった筈だ。少なくとも前触れもなしに突然死するような年齢ではない。
 「死因ははっきりとは分からない。風呂で一人で死んでいたんだ」ゲイブは暗い声で続けた。「ある時、しばらく彼を見ていないことに気がついた。これはおかしいと思って、近所のみんなで扉を叩いて大声で呼んでも出てこない。それで……数日したら、その…、文字通り、『匂って』くるようになって……」
 人の死体の臭いなど、考えただけで吐き気がする。それが知り合いのものなら尚更だ。ジョニーは大丈夫だったのだろうか。
 「警察やら掃除屋やらがしばらく隣を出入りしてた。君がここにいなくて良かったと思うよ。彼は天涯孤独だから、葬式ももちろんやらないそうだ。彼の遺体がどうなったか、私も知らない」
 私は自分の溜息の出た方向と同じ下を向いた。アルフレッドの不器用な態度と痩せっぽっちの体を思い出す。人はこれ程あっさりと死んでしまうものなのか。ほんの少し前まで、会ったら挨拶をしていたのに。夕食を作りすぎたら分け合って食べていたのに。私は彼を変人だと思っていたが、決して彼のことが嫌いなわけではなかった。
 ……意外な程几帳面なアルフレッドが、美人の彼女と幸せな余生を過ごす未来はもうやって来ないのだ。もし私がいつかカリフォルニアに戻っても、もうあの整然とした庭は戻ってこないのだ。アルフレッドが手入れをしなければ誰もあの庭の手入れなどするはずがない。次に行った時は、草がぼうぼうに伸び放題になっているだことろう。あのアルフレッドの性格を反映したような庭は、二度と見られない。もうあの庭は、同じ庭ではないのだ。
 アルフレッドが死んだ。アルフレッドの死の匂いがジョニーにもかかる。そんなのは耐えられない。溶けていく。私もいつか死んでしまう。そしてジョニーも、あれほど若いジョニーでさえ、いつかは死んでしまう。いつまでも若くいられる夢は単なる幻想だ。アメリカン・ドリームが溶けていく。そして何か醜くて見慣れたものに変わっていく。
 「分かった?」
 背後からイベットの声がして、私はびくりと肩を震わせた。恐る恐る振り向くと、そこにはニヤついた彼女がいた。イベットの顔は相変わらず美しかったが、どこか違和感があった。目がほんの五ミリほど下に垂れているのだ。
 「あなた……、そんな顔をしてたっけ?」
 「顔が溶け始めたのよ。アルフレッドの死体がこんな風に風呂の中で溶けたからね」
 イベットは事もなげにそう言った。
 「こんなのは、まだ序の口よ。これからは全てが溶けていくわ」
 私は弱々しく嘆息した。イベットの人を見下したような口調に反抗する気力も湧いてこない。イベットは笑い声を残して去っていった。
 どうかしている。しかし、どうかしているのは私の頭だけだったはずだ。カリフォルニアが凍ったと信じたのも、こんな場所にいるはずのないイベットが見えるのも、どうかしてる。しかし、アルフレッドが死んだのはどういうことだろう。まるで私の中の狂気が現実にも侵食したかのようだった。私はニューヨークに来る前、アルフレッドがジョニーへの夢の中で泳いでいた私を、一瞬でも現実に引き戻してくれたことを思い出した。あの時の嫌な予感がまさか現実になるとは思わなかった。
 それからイベットは以前にも増して頻繁に私の前に現れるようになった。その時期や頻度は予測できない。突然現れ、一言か二言嫌味たらしい言葉を囁いては笑って消えていく。見る度に、少しずつ、気がつくか気がつかないかの程度で、顔が溶けていっているのが分かる。初めは目が垂れ下がっていき、その後鼻と口も続いていった。垂れ下がり切り、顎と一体化したような大きな口は、もはや笑うのも困難なようだった。くぐもった低い声で、呻いているのか笑っているのか判断つかないような奇妙な音を出す。
 私はその様子を面白いとさえ思っていた。今度出て来る時はどれ程顔が溶けて不細工になっているのだろうと、密かに楽しみにすらしていた。可笑しいのだ。こんな幻覚が見えるのは不幸だ。悲劇だ。私が正気を失いつつあるのは悲劇的だ。しかし悲劇はいつの時も可笑しいものだ。思うに、人間は完全な悲劇には耐えられるように出来ていないのだろう。最悪の状況下でもどこか冷静な部分が残り、その中からユーモラスな部分を探そうとしてしまうのだ。
 例えば、交通事故で人の体が吹き飛んでいく様はコミカルで面白いかもしれない。その人の死と言う悲劇が背景にあるとしても、いやそれがあるから余計に、あの漫画のようなとんでもない吹き飛び方が可笑しくて堪らなくなる。アルフレッドの死だってそうだ。殆ど骨と皮だけの彼の体は生きている時から死体のようだった。生きている時から死んでいるような風貌をしていたアルフレッドが本当に死んだというのだから、不謹慎だが可笑しいではないか。しかしそれはわざわざ笑いとなって顔の筋肉を動かしたりはしない。単にその可笑しさを認識するのみだ。遥か遠くで"誰か"が笑うのをはっきりと想像出来るだけだ。
 薬を売る生き方以外でまともなお金を手に出来ない人生も、薬以外に癒しのない人生も悲劇の一つだ。私に悲劇を与えたのはジョージという名前の男だった。ジョージはニューヨークに越してきてからのルームメイトで、背が200センチもある大男だ。彼とは越してきてからもしばらく話すらしなかった。私はいつも目深にフードを被りあまり物を言わないルームメイトの一人のことを密かに不気味だと思っていた。
 彼と初めてまともに喋ったのは出勤前にキッチンで出くわした時だった。
 「小さなエスキモーが来たぞ」
 彼は私を見るなりそう呟いた。目でどういうことかと問いかけると、彼は蟻の足を思わせる黒く長い指で私の帽子を指差した。寒さ対策の為に被ったフェイクファーの帽子だった。大きな帽子は私の頭から耳から殆どを覆い隠している。
 「ああ…そういうことね」
 彼は声を出して笑った。彼は口が大きく、すぐにそこに目が行った。健康そうな薄いピンクの歯茎に包まれ、恐ろしく綺麗な並びの歯が輝いている。その口から出る声は足まで響いてきそうな程低かった。
 「そうだ。これ俺の作ったブラウニーなんだけど、よかったら食えよ。ここに置いてあるからさ」
 彼は銀色のトレイの中に入った大量のブラウニーを指をさした。
 「あら、ありがとう…」
 彼が駆け足で家を出ていった後、私は遠慮せずにそのブラウニーを食べた。
 その日家に帰ってくると、玄関の前で煙草式のマリファナを吸っているジョージがいた。
 「……やるか?」彼は言いながら私に一本それを差し出した。
 「いいえ」
 「良い子なんだな」
 「ブラウニー美味しかったわよ、ありがとう」
 そう言うと、ジョージは少し目を丸くした後、可笑しそうに笑った。
 「出勤前に食べたのか? あれ、何が入ってるか知ってたのか?」
 「どういう事?」
 「あれ、マリファナ入りだよ」
 私は絶句した。そういえば、今日は一日仕事中に集中力を欠くことが多かった。
 「そんなの、知らなかったわよ! あなたがあんなに簡単にブラウニーを勧めたんだから、その中に何かが入ってると思うわけないじゃない」
 「そうだよな。あはは。ごめんごめん……」
 私が睨むと、彼は情けなく笑った。恐ろしげな大きい図体とは裏腹に、子供のような二つの目ははっきりと私を恐れていた。私を怒らせたくないと願っていた。しかしその目には好奇心混じりの狡猾さも見え隠れした。私の機嫌を伺うような視線は次は何を話そうか、何を言えば私を引き留められるかと必死で考えを巡らせている。
 私はその独特な目を飽きるほど見たことがあった。もはや食傷気味だった。もうこれ以上のこの目を見たいとは思えなかった。想像通りそれ以降彼は事あるごとに私に話しかけるようになったので、私はいつも忙しいなどと言い訳して出来るだけ彼との接触を避けた。
 ある日家から帰ると、見知らぬ二人の子供が家の中にいた。一目で兄弟だとわかるよく似た二人は、居間のソファの上で我が物顔でくつろいでいた。私は驚きを飲み込み、極力優しい口調で話しかけた。
 「……あなたたち、どこから来たの?」
 「お父さんを待ってるんだ。お父さんの仕事の間、俺たち、その間ここで待ってろって言われてるんだ」
 金髪に染めた髪を頭に編み込んだ十歳前後の兄の方が大人びた口調で答えた。私はピンと来て聞いた。
 「お父さんの名前は?」
 「ジョージだよ」
 幼い弟が答える。ジョージは随分若く見えるのに二人も子供がいたとは驚きだ。見た目よりも年齢がいっているのか、極端に若い年齢で子供が出来たのか。
 彼らの拙い言葉を総合すると、彼らは普段は離婚したジョージの元妻と住んでおり、今日は父親との面会だということが分かった。ジョニーが週一でゲイブに会いに来ていたのと同じシステムになっているのだろう。ともかくジョージがこの幼い子供達を夜まで放ったらかしにしているのは間違いない。
 私はどうしたらいいものかと思いながら二人を見た。四歳ぐらいに見える弟の方は、私が話しかけた時から片時も視線を外さずに私を見つめ続けている。水分を多く含んだ幼い目の中にいくつも小さな光が散らばっている。元気なアフロの髪を長く伸ばし放題にしており、初めは女の子かと思った。
 「ねえ、一緒にゲームをやろう?」弟は急に弾けるような声で言った。「お父さんの部屋にゲームがあるんだ。ボク、すごく上手いんだよ」
 「ばか言えよ。お前なんか、操作方法すらまともに分かってないくせに」
 兄の方が呆れたように言う。
 「おいでよ!」
 弟は兄の言うことを聞いていなった。弟に半ば引き摺られるようにして私はジョージの部屋の中に連れ込まれた。コンセントにまみれたテレビの前に最新のゲーム機が埋まっており、兄の方は慣れた手つきで電源をつけた。
 その画面を見た時、私は自分がタイムスリップでもしたのかと思った。何の因果だろう、テレビ画面に映ったのはあのスーパーヒーローズの格闘ゲームだった。ドットで描かれた2dから実写のようにリアルな絵に変わっているという違いはあるが、ゲームの本質は何も変わっていない。変わらない、男たちの殴り合い。耳に懐かしい独特の必殺技の名前。
 しばらく呆けたようにその画面を見ていると、弟がどうしたのかと私の服を引っ張った。
 「敵が来たらここのボタンを押して、ここのゲージが溜まったら必殺技が繰り出せて…」
 面倒見のいい兄は私が理解するまで丁寧にやり方を教えてくれた。弟は目を輝かせながら私と兄が対戦している画面を見たり、いきなり立ち上がってパンチやキックの真似をしてみたりと楽しんでいでいた。
 プシューという非現実的な破裂音と共に蹴りが繰り出される。懐かしくて涙が出そうだった。戦士が戦士を押さえつけ、殴る。鋼のような固い体がぶつかり合う。男の苦痛の喘ぎ。あの陶酔。私の初めての欲望。スーパーヒーローズは、私の未来を含み、遠く、遠く、私を連れて行ってくれた筈の世界だった。
 兄は涼しい顔をしてどんな戦士たちでも上手に操り、下手くそな私を倒した。大人を負かすのが嬉しいらしく彼は誇らしげな顔でどうだと言わんばかりに私を見た。
 急に髪が後ろから引っ張られる感覚がして振り向くと、弟が私の髪を小さな手にいっぱい掴んでいる。
 「すごーく真っ直ぐだ。ボク、この髪の毛だーいすき」
 「ありがとう。あなたの髪も素敵よ」
 弟は無邪気に笑った。悪気はないのだろうが、強く撫でられた髪が痛かった。私は弟の手を優しく掴むと、手を開かせて髪の毛を引き抜いた。弟は拒絶と受け取ったのか、泣きそうな顔をして私に抱きついた。私は苦笑して彼を抱きしめる。私に体を預けた弟は、不思議そうに耳を私の胸の膨らみに押し付けた。頭を左右に動かし、彼は急に目の前に現れたたわみに夢中になった。彼の仕草に、私は自分の体を思い出した。
 ……スーパーヒーローズはどこまでも遠かった。あの日から、私の体は彼らの体から遠ざかる一方だった。
 結局ジョージが帰ってきたのは夜遅くだった。私たちのいる部屋に入って来るなり、ジョージは目を釣り上げて子供達を叱った。
 「何をやってるんだ、お前らは! 勝手なことをして!」
 放っておいたら子供に手を挙げそうな剣幕だった。私は慌てて制止する。
 「私がいけないのよ、放っておいたら可哀相だと思ったの。あなた子供がいたのね」
 「ああ……本当に手に余るやつらなんだ」
 それはジョージが彼らを放っておいたからだ。こんな年齢の子供達を何時間も放っておいて、勝手なことをするだなんて、よく言えたものだ。
 「おい、二度とフミを困らせるなよ」
 ジョージは言うと、仕置きのつもりなのか兄の腕を思い切りつねった。兄の顔が苦痛に歪む。
 「お父さん、ごめんなさい」
 兄が泣きそうな顔になりながら言うと、小さな弟も彼の表情と言い方をそのまま真似して、「ごめんなさい」と謝った。
 「ちょっと、出て行けよ、お前ら。リビングにいろ。父さんはフミと話があるんだ」
 ジョージは高圧的に言い放った。彼の表情は氷よりも冷たかった。二人は父親の方を何度も振り返りながら部屋を出て行った。私が小さく手を振ると、弟の方が嬉しそうにブンブンと手を振った。それを見てジョージは「早く出て行け!」と再び怒鳴った。
 「何もあんな言い方をしなくてもいいのに」
 「君はあの子達を知らないんだ。本当にわがままでどうしようもないからな。あれぐらい言わないとわからないのさ」
 「素直に謝っていたのに、あの子達がわがままだって言うの?」
 私はジョージを睨んだ。私の責めるような口調にジョージは緊張したように笑い、従順な態度に変わる。先程の高圧的な男とは別人のようなシャイな男が私の前にいた。
 「なあ、そんなことより、今度二人で遊びに行こうよ。映画でも、ショッピングでも良いからさ…」
 ああ、始まった。私はため息交じりに言った。
 「私より、息子たちにその時間を使ってあげたら良いのに」
 「あいつらはいいんだよ。俺はそれより君のことをもっと知りたいんだ」
 私は浮足立った様子のジョージを軽蔑した。なぜほんの少しだけでも自分の息子に関心を示すことが出来ないのだろう。私は彼の誘いには乗らず、別の提案をした。
 「……みんなで夕食を食べない? どうせあの子達も、まだ食べてないんでしょう」
 ジョージは明らかにうんざりとした顔をしたが、私が「お願い」と言うと渋々承知した。私たちは冷蔵庫に残っていた食事を解凍してテーブルに着いた。
 「どこから来たの?」「どうしたらそんなサラサラの髪になれるの?」……食事中、弟は何度も私に話しかけた。その度に間隔を開けず「いいから黙ってさっさと食え」とジョージの怒号が飛ぶ。「もう少しだけフミとゲームをやってもいいでしょう」と言う兄の言葉は無視した。少ししてもう一度「ねえ?」とおずおずと聞くと短く 「ダメだ」と答えた。
 食べている最中、弟が上手に口まで食べ物を運ぶことが出来ず、ボロボロと零してしまった。
「マジで手のかかるガキだな……」
 ジョージは小さく呟くと、弟の手から強引にスプーンを奪い、ぐいぐいと口の中に押し込むようにして食べさせた。その乱暴な手つきに、弟は食べたものを口から吐き出してしまった。
 「ケイデン、大丈夫か?」
 すぐに兄が弟のそばに寄っていって背中をさすった。弟は涙ぐんだまま、うっ、うっ、と何度か口を閉じたままえずく。ついに堪えきれず口を開くと、それまでに食べたものも全て吐き出してしまった。吐瀉物は、弟の体と、近くにいた兄の服も汚した。
 ジョージの顔がみるみるうちに険しくなった。それを見て兄の顔から血の気が引いていく。兄はすぐに弟の代わりに謝罪する。
 「ごめんね、ごめんね、お父さん。許して」
 その謝罪には悲痛な響きがあった。殆ど哀願に近かった。ジョージは聞こえなかったふりをした。ジョージは無言で二人を引っ張ってバスルームに入れると、思い切り扉を閉めた。
 「綺麗に洗うまで絶対に出てくるな」
 「お父さん! ごめんったら!」
 バスルームの中で兄が叫ぶ。私は慌ててジョージを押しのけてバスルームの中に入った。
 「大丈夫だからね…」
 弟の服を脱がせ、風呂の中に入れる。兄の方は服だけ脱がせて下着だけにさせた。弟は頭を撫でてやれば少し機嫌が良くなったが、兄の方は違った。父親を怒らせてしまったことにショックを受けて放心状態になっている。バスタブに腰掛けた兄は空虚な目で宙を見つめていた。力の抜けた無防備な表情。計算では出せない愛らしさ。この顔は私にはもう出来なくなってしまった。
 「あなたのせいじゃないわ。気にしちゃダメよ」
 私は兄に囁いた。慰めようと頰に軽くキスをする。すると兄の頰に涙が後から後から伝った。その涙は液状の宝石のように輝いていた。
 兄の露わになった上半身を見て、私はその男らしさに気が付かずにはいられなかった。彼の褐色の二の腕と胸元には既に脂肪ではない厚みがたたえられていた。彼は十年もすればスーパーヒーローズに出てきても違和感のない逞しい体になれるかもしれなかった。
 彼は男なのだ。これだけ小さいのに。
 「ね……ほら、いいから、私を見なさい」
 私は父親のことばかりを考える彼の注意を惹きたかった。
 私は自分の手が彼のペニスに下着越しに触れるのを見た。無意識の動きだった。ほとんど感情のない、力の抜けた流し目が私の目を捉えた。
 私は手の中のそれを思い切り握った。彼の目が大きく見開かれて揺れる。同時に、何かが私の手を温めた。私は何か感嘆か驚愕の中間のような声を上げた。兄は声もなくすすり泣いた。染みを作った彼の下着を、私は大きな感情と共にいつまでもいつまでも眺めていた。

4-5

 私はその日以来、すっかりジョージを軽蔑するようになった。自分の子供にあのようなぞんざいな態度を取る親がいるだろうか。ジョージとはなるべく家の中で出くわすのも避けたかったし、言葉も交わしたくなかった。彼は相変わらずしつこかった。私は彼が近づいてくる度に適当な言葉であしらい続けていた。ジョージはいつも照れたように笑い、私に怯えながら執着していた。しかしある日、リビングで会った時、私の服の袖を引っ張ると私を強引に引き止めた。
 「なあ、どうして俺と話してくれねえんだよ」
 「…私と話す時間があるなら、子供たちと少しでも遊んであげたら?」うんざりとしてそれだけ吐き捨てる。「あなた、父親としては最低の部類よ」
 「俺が最低の父親ならあいつらも最低の子供さ。いつも手間かけさせやがる」
 私が何も言わないと知ると、気まずげにその場をうろついた後、私に背を向けて何かごそごそとしていた。彼は私に向き直ると、きらきらと輝く金の液体を載せたスプーンを差し出した。
 「そうだ、この蜂蜜、新作なんだ。少しだけ舐めてみろよ。この間のマリファナブラウニーなんかよりずっとキクからさ」
 「遠慮しておくわ」
 一瞬、ジョージの顔が般若のように歪む。息子たちには向けていた恐ろしく冷たい目が私を捉えた。
 「少しだけだって、言ってるだろ」ジョージは私の手首を掴むと脅すように激しく囁いた。「君が食わないなら、ガキどもに食わせるからな。それでも良いんだな」
 彼の長い指は私の手首を緩く、しかし簡単には解けない強さで握っている。絶句した私に、ジョージは声を和らげる。
 「ああ、もう、冗談だって。な、食ってみろよ。そう悪いものじゃないから」
 いつもの機嫌を伺うような笑みに戻っているが、威圧感はそのままだ。口の前にまでスプーンが突き付けられる。ジョージの薄ら笑いの裏に隠された凶暴な顔を恐れて、スプーンを少しだけ舐めた。
 「あーあ、舐めちゃったぁ……」
 イベットの声がする。視線だけ動かすと、イベットは半分以上溶けた顔をジョージの背中から覗かせていた。
 初めは気のせいかと間違える程微かな幸福の予感から始まる。その後考える事考える事全て次々に前向きに変換されていき、最終的には"考える"なんて何と馬鹿げたことをしていたのだろうという楽観思考の極地まで行き着く。私は堪えきれず笑い出した。笑いながら私は聞いた。
 「ねえ、ちょっと、これ、何なの? 何の薬なの?」
 「名前なんて知らなくていい。ただ楽しくなれるやつさ」
 確かに楽しかった。そして安心していた。この上なく慈悲深い母に抱かれているような安心感があった。これは緊張の連続だったニューヨークで、恐らく初めて味わった安心感だった。
 私は笑いながらジョージの体を叩いた。その指をジョージの指が捕まえる。その顔を見て、私は思った。
 まあ、この男、なんてハンサムなのかしら!
 彼の黒い肌は発光していた。光の筋が入っているように黄金に輝くその肌を美しいと思った。この男を軽蔑していたとは信じられなかった。ジョージはジョニーと同じ天国の欠片を持っているように思えた。
 そうだ、ジョニー。私は愛していたジョニーのことを今思い出したような気分だった。
 ジョニー。ジョニー。ジョニー。
 彼の名前を呼ぶ度に、切なくなって喉が空気を求めた。私はこの甘い風邪シロップを飲んだ時のような幸福な一時的窒息を楽しんだ。
 「何だよ?」
 ジョージは嬉しそうに笑っていた。私はジョニーの名前を呼んでいたのに、ジョージは自分が呼ばれたと思っているようだった。しかし、どちらでもいい。勘違いをしたいだけすればいい。それに実際、ジョニーもジョージも大して変わらないのかもしれないという気がした。
 気がつくと、私はこの上なく上機嫌でジョージとすっかり話し込んでいた。大して中身のある会話をしていたようには思えないが、やたらに会話が愉快で、矢のように時間が過ぎていった。
 「またやろうよ。君の為に、俺が何でも持ってきてやるから。軽いヤツでも、ハードなヤツでも」
 「ありがとう」
 ジョージの整った歯並びを見て、彼は誰よりも信頼出来る男なのだと思った。
 「ふふふ」
 素っ頓狂なトーンの含み笑いが聞こえる。イベットがまたどこかで笑っているのかと思ったら、それは私の笑い声だった。
 ジョニーの美しさを忘れない。忘れるものか。
 それにまたすぐにジョニーに会える。そんな根拠のない自信が湧いてくる。この世界には、やはり素晴らしいものがある。どこかに楽園のように素晴らしいものがあるに違いない。
 私は愉快になって踊り出した。ジョージの目は私の動きに釘付けだった。私はスキップして窓を勢いよく開けた。意識が幸福に朦朧としている時、どこまでも冷たく見えたニューヨークの灰色の空がジョニーの目の色と重なった。
 「あら、ジョニー?……そこにいたの」
 想像よりずっと早くにジョニーに会えた。この灰色の空の中にジョニーがいる。
 笑っているのは今度こそイベットだろうか。浮遊する意識と裏腹に、体が本当は疲れていることもよく分かった。私は力尽きてソファーに腰掛けた。そのまま、指一本動かすことが出来ない。ソファが軋む音がして尻が下に落ちる。そして何か生温いものが私の唇を覆った。私は最後の力を振り絞って笑った。これでいいと思った。もう決めたじゃないか、私はもう前には進まないと。
 それからは彼を邪険に扱うことは出来なくなった。『ジョニー』を持ってくる人間がいなくなったら不都合だからだ。私が薬に依存するのと比例するように、ジョージは目に見えて私への執着を強めていった。
 私の部屋で一緒に薬をやっている時、ジョージは私の手の甲へのキスをした。私は無表情でそれを受け入れた。すると彼は私の肩に大きな手を乗せ、滑らせるようにして頰に触れた。彼の面長な顔が近づいてくる。私は顔をしかめてそれを払いのけた。
 「……もし君が逃げるなら、俺はストーカーになって追いかけるぞ」
 「本気で言ってるの?」
 「それが報われない恋人のすることなんじゃないのか?」
 恋人という思いがけない響きに私は失笑した。自分の息子たちにあれほど残酷な仕打ちが出来る男が、甘ったるい夢を見ているのだ。

 背の高い男ジョージには夢がありました。それはアメリカン・ドリームを体現する夢、貧乏から抜け出し、成功して、私のように美しい女を妻に迎え入れる夢でした。

 そんな物語があった。私はまだ辛うじて生きているらしいこの男の夢を叶えてやろうと気まぐれに思った。そうすればこの世界に一つは美しい夢が生き永らえることになる。
 「さあ、もっとやれよ」
 「うん」
 私はジョージの持ってきた名前も知らない薬を吸い込むと、そのままジョージに好きなようにさせることにした。セックスは久しぶりだった。ジョージは譫言のように呟く。
 「キミは本当に白い。ああ、本当に白い。夢みたいだ。天使みたいだ」
 薬の効き始めは目に映るもの全てが輝く。彼のダークチョコレート色の腕を心から愛しく感じた。彼と自分の肌の色の違いを私は愛した。違う色が重なり合うということは素晴らしいと思った。このように寛容な世界の中、あの日私とイベットの肌が重なっていれば良かったのにと思った。
 「ああ、君は白い、君は白い。信じられないよ」
 ……そうか、私はそれ程白かったのか。
 彼からすれば、私は白く、ジョニーと同じ色なのであった。私はジョージの黒い肌をもって、ジョニーになるのだった。ジョニーになる。私はジョニーになる。
 私はいつもより遥かに長い階段を思い切り駆け上っていた。ここで終わりだと思っても、まだまだ上に続くようだ。私は行けるところまで行ってみようと思った。遠くに、遠くに、遠くに、どこまでも高く飛んでいく。大きくなった塊は急に前触れもなく思い切りよく弾け、体から全ての力が抜けた。二の腕と太腿の辺りに心地よい痺れが残り、それきりだった。
 私は終わったが、ジョージの体はまだ動いている。私は不思議そうにそれを見つめた。この大きな塊は何だろう? 不気味に単調な動きを繰り返す、この黒い塊は何だろう?
 ムードを出す為にジョージがいつの間にか点けていたキャンドルの灯りが揺れる。その時、隣の部屋から賑やかな子供たちの声がした。あれはジョージの二人の子供たちの声だ。
 「お兄ちゃん、お父さんいないよ」
 「お父さん、何をやってるの」
 彼らの走るどたどたという音が聞こえて、この部屋のドアが何度も叩かれた。一気に血の気が引いて、ジョージの顔を見つめる。
 「いいんだ。無視すればいいさ」
 ジョージは荒い息の中で言った。父親を慕う子供達の声が、快楽に夢中になる男には届いていない。
 しばらくすると、子供達の声に混じって、テレビゲームの音が聞こえてきた。あれはスーパーヒーローズのBGMだ。ヒーローたちの声がする。私が憧れたヒーローたちの苦痛の呻きが、勝利の雄叫びが聞こえてくる。彼らは執拗なまでに戦っている。私には一生知りようのない、何か大きな、大きくて素晴らしい目的の為に、目の前の敵を蹴散らしている。
 私は何をしている? この、股に刺さったものは何だ?
 私の体に覆いかぶさる塊が動く度に、遠くから戦士が戦士を殴る音が聞こえる。水音と破裂音が混じる。混じって、混じって、不協和音を作り出した。これは暴力のように見えて、そうではない。私の夢が揺さぶられているのだ。ああ、私の美しい戦士たちが遠ざかる。これはセックスではない。ニュースだ。ある一つの不幸なニュースだ。
 ……もはや限界だった。逃げられないと知っていた。その時は近かった。初めから知っていた真実を私は改めて知らされようとしていた。
 ゲームの音と無邪気に盛り上がる子供達の声。ジョージが舌打ちして裸のままベッドから起き上がり、乱暴に扉を開けて出て行った。すぐに「うるせえ!」という声と共に何かを叩く高い音が二回した。その音の生々しさ。戦士が戦士を殴る音とはまるで違う。兄の泣き声混じりの愛の告白が聞こえた。
 「お父さん、ごめんなさい……愛してるよ」
 「でも、お父さんは何をやってるの。どうして僕たちと遊んでくれないの」
 弟は兄につられて大声で泣き始める。ジョージはそれを無視して私のところへ戻ってきた。それでも子供達の悲痛な質問は止まらない。
 「お父さん、何をやってるの」
 「お父さん、何をやってるの」
 ジョージは遠くの子供達の声を無視して私の足首を無遠慮に掴む。
 お兄ちゃん、何をやってるの。ねえ、何をやってるの。
 知らない子供の声が聞こえる。あの兄弟の声ではない。日本語だ。なぜ日本語がここで聞こえる。
 ジョージの汗が私の額に落ちる。彼が動くと、全身に痛みを感じる。痛い。にわかに恐怖を感じた。
 怖い、とても怖い。これは違うでしょう。これではないでしょう。その、みんなの言う『セックス』ではないんでしょう。これは何か違うことなんでしょう。ねえどうかそうだと言って。怖くてとても聞けないから、早くそうだと教えて。
 痛みに耐えられなくなった私はジョージに懇願して更に薬を入れる。薬が効いてきて、私はさっきよりも高く高く上に舞い上がった。階段などというケチ臭いものではない、もう私は宙を飛んでいる。身体から解放されて、高く高い場所で飛んでいる。モナリザが下にいた。いや、ジョニーか? イベット? それともアメリカン・ドリーム? 何でもいい、とにかく何か美しいものが下にいる。そして上にいる私とへその緒のような細い糸で繋がり、混ざり合っている。一つになっている。私は美しい。美しい。美しい。美しいはずなのだ。
 そうそう。そう。これこれ。
 美しいものがセックス。モナリザとのセックスがセックス。そうでなければ、私は生きて行くことが出来ない。そうでなければ、私は生きて行くことが出来ない。
 だから言って、言ってよう。本当は人生は美しいのだと言ってよう。嘘でもいいから言ってよう。
 「いつまで飛んでんだよ? さっさと続きやるぞ」
 ジョージはまた私を組み敷いた。
 そして私は真実を直視した。より正確に言えば、思い出した。考えただけで真黒な地獄の穴に沈み込んでいくような恐ろしい真実だった。
 私。性格も、過去の経験も、フミという名前すら取り去った、剥き出しの私。私。生まれた私。怯えた私。私がここにいた。私が目の前にいた。
 私は、初めからこの私が嫌いで仕方ないのだった。
 どんな言葉でも誤魔化せない。美しさでも地位でも繕えない。何も揺るがすことの出来ない圧倒的な嫌悪感。
 私は死ぬのだった。私はいつか死ぬ。いつか死ぬ。この心細さ。この弱さ。この無力な私。恐ろしかった。どこまでも、どこまでも、孤独だった。私は死ぬ時に必ず地獄へ行くだろうと確信した。それが私には相応しいと思った。私は私が嫌いだった。ずっと昔から、これが始まった時から。
 私は私を嫌い、そして私は私に嫌われていることを嫌った。私は否定の濁流の中にいた。
 「おいっ、急にどうしたんだよ!?」
 私は答えずに彼を突き放した。彼のペニスが私の中から抜け出る。空っぽになった私の体をジョージから遠ざける。
 「待てよ!」
 ジョージの長い腕が私を簡単に捕まえると、思い切り私の頭を殴った。きっとさっき子供達のこともこのように簡単に殴ったのに違いない。私は必死でジョージの腕を振りほどいた。私が逃げようとするのを見て、ジョージは私を再び殴った。
 「ちょっと優しくしてやれば、調子に乗りやがって……」
 衝撃が連続して顔に降り注ぐ。不思議と痛いとは感じなかった。痛みを感じている余裕がなかったのかもしれない。私は手で顔を庇い、これ以上殴られないように自分を庇うだけで精一杯だった。
 ……こうして私はジョージの暴力に怯え、次の日すぐにこのアパートから出て行くことになったのだった。新しいアパートのベッドの上、私はまだ痛む体を横たえて目を閉じた。
 しかし再び目を開けると、私はまたジョージの部屋に戻っている。確かに引っ越してきたのに、何故だろう。私は自分の両手を見た。そうだ、これは夢だ。夢なら、痛みを感じるはずだ。私は両手を思い切り握って爪を食い込ませた。痛い。ではこれは、夢ではない?
 もう一度瞬きをすると、今度は懐かしい場所にいた。私は目を丸くしたまま左右を見渡した。ここは、あの埃だらけの従兄弟の部屋だ。
 私はこわごわとあの倉庫へ向かっていった。あの忌まわしい倉庫へ。そこで、白いタンクトップを着た小さな背中が見えた。それは従兄弟だった。大きく見えた彼はこんなに小さかったのだ。その痩せた少年の体が、小さな女の子供を犯している。
 「ああ……やめて……」
 悲鳴混じりに言うのは私だけだった。子供は何も言わない。何も言わずに、唇を噛んで耐えている。
 私は泣いているあの子供を救うことが出来ない。お兄ちゃんが小さな私を犯している。『セックス』をしている。そしてまたあのゲームの音が響いている。気がつくと、ジョージがまだ私を殴っている。私の大好きだったゲームの音に合わせて、私を殴っている。目の前が拳の大きさの白で、みるみる内に塗りつぶされていく。私は気が遠くなりそうな程の長い時間、ジョージの拳に耐えていた。



 次の日、目を覚ますとジョージはそこにいなかった。だるい体を引きずって鏡の前まで来て息を呑んだ。あれほど激しく殴られた筈なのに、顔には痣一つなかったのである。
 部屋から出ると、二人の少年が顔を腫らしてリビングに佇んでいるのが見えた。
 「大丈夫なの?」
 私が彼らに聞こうと思っていたことを、兄の方が私に聞いた。二人とも心配そうな顔で私を見つめている。私は確認せずにはいられなかった。
 「ねえ、私の顔に、痣はついてる…?」
 「え…? ついてないよ」
 何かの間違いで私にだけ痣が見えないと言う訳ではないのだ。ジョージは昨日私を死ぬほど殴った筈だが、もはや今となっては分からない。本当は何が起きたのか、分からない。円をかいて回っている。被害者と加害者と被害者の家族が私の中でひたすら円をかいて回っている。
 私は二人のいたいけな子供たちを見た。私はジョージの虐待を警察には通報しない。これからもこの子供二人は事あるごとに理不尽な理由でジョージに殴られるだろう。私はそれを止めない。これは罪だ。私は罪を犯している。
 私は腫れ上がった弟の顔に触れた。
 「これ、どうしたの?」
 「パパがやったの…」
 弟が答えた。ひょっとすると、この子達が私の代わりに殴られたのかもしれない。それでも私は彼らを救わない。
 どっと急に体が鉛のように重く感じた。しかし、体が動くうちに早く荷物をまとめてしまわなくてはならない。私はここから出ていくのだから。私は助走をつけて体を振り回すようにして何とか荷物をまとめ、玄関へ移動させた。何かを察したのか、兄弟がを私に寄って来る。
 「……どこに行くの?」
 「ねえ、どこに行くの? また今度一緒に遊べる?」
 弟が哀しそうな黒い目で私を見上げていた。
 「ううん…もう遊べないの。私、ここから出て行くから。ごめんね」
 私は弟の小さな体を軽く抱きしめた。すると彼の無垢な手がそろそろと私の胸に伸ばされる。その小さな手が膨らみを掴もうとした時、私は彼を思い切り突き飛ばした。彼の小さな体がバランスを失って床に着く。
 「おい、ケイデンにひどいことするなよ!」兄が私に震える声で言った。
 兄は薄く涙を目に溜めながらも果敢に私を睨みつけていた。私はその勇気に嫉妬を感じた。
 「弟を守りたいなら、私に向かってくればいいのよ」私は挑発的に言った。
「さあ、私を殴ってみなさいよ。スーパーヒーローズでいつもやっているでしょ」
 そう言っても兄は勿論私を殴ってはくれない。小さな子供は、可哀想に、恐ろしい悪役でも見るように怯えている。
 「あなたのお父さんは助けてくれないわよ。あなた達のことなんてまるで興味ないんだから。あの男は私とファックする方がずっと楽しいらしいわよ。アレをちょん切って女になったらどう? そうすればお父さんは遊んでくれるんじゃない?」
 乾いた笑いが堪えきれずに次から次から出て来る。恐ろしげに私を見る兄の目が、ジョニーの美しい灰色の目とかぶった。
 私は傷ついた二人の子供を残して家を後にした。駆け込むようにして引越した場所はそう遠くもない、またもニューヨーク郊外のアフリカ系居住区だった。アジア系が歩いているだけで冷やかしと野次が飛んでくる場所。もっと良い環境の家はいくらでもあるはずだが、ここを離れようとは思わなかった。私は私を傷つけるこの場所に囚われていた。麻薬と同時に私はこの殺伐とした空気に依存していたのだった。



 マリファナのきつい匂いのするストリートを歩きながら左腕に目をやると、愛用の腕時計が四時間ほど狂っていた。秒針は涼しい顔で完璧に一秒を刻んでいるように見えるが、いつの間にこれ程狂ったのか。時計が狂う決定的な瞬間を見たことは一度もない。狂っている時はいつの間にか狂っている。
 それからのことをよく憶えていない。まるで頭の中に大きな石が入って邪魔しているかのように、思考が纏まらない。
 そして私の人生からは過去が少しずつ失われていった。初めは携帯の電話番号を思い出せないことに気がついた。不審に思って自分の記憶を点検してみると、信じられないほど多くの穴が空いていた。遠い親戚の名前、好きだった映画の内容。全く思い出せない訳ではない。ただ遠い。遥か遠く、霧のかかっている中に、ぼんやり浮かんでいるようなイメージだ。思い切り手を伸ばすと、小さな取っ掛かりを感じる。その尻尾を必死で掴み、渾身の力で引き寄せ、ようやく少しだけ思い出す。
 私の目を盗んで、イベットが私の記憶を一つずつ消しているに違いなかった。イベットはいつも気まぐれに現れては、私がすでに忘れていた過去を気まぐれに耳元で囁く。
 「あの日、運動会で活躍したかったのに、最後のクラス全員リレーでバトンミスしたわよね」
 「もうあの失敗を取り返す術はない。もう二度と運動会に出ることはない」
 私の目に映る彼女の顔はもはや原型を留めていない。もう皮膚がでろでろになってしまっている。
 イベットが語る過去は痛い。比喩ではない、体の上で感じる程痛む。もう二度と戻れない、それ故に痛くて堪らない過去を彼女は淡々と語る。
 私はストリートを歩いていた。
 私はなぜこの道を歩いているのだろう。時間は早いが、仕事に行くためだろうか。それとも仕事から帰ってきているんだろうか。そう言えば、上司に「今日はもう帰りなさい」と告げられたことを思い出す。しかしそれは今日のことだっただろうか、昨日だったような気もするし、もう一週間以上前の記憶のような気もする。手の感覚が無くなっている。握ってもそこにあると感じられない。
 赤信号が灯る歩道を私は渡った。二歩ほど踏み出したところで唐突に思い出した。赤信号とは、止まれの合図だ。私はそれをすっかり忘れていた。私は横から来た車に危うく轢かれそうになった。
 「何やってんだ! 死にたいのかよ!」
 去っていく車の運転手に吐き捨てられる。
 ンンンンン。
 その言葉が口から出てこない。リズムは思い出せるが、何だっただろう、あれは。こういう感じの状況に言うべきあの言葉は。
ごめんなさい。
 ようやく出て来た時には、もう言うべきタイミングをはるかに過ぎてしまっていた。車はもう見えなくなってしまっている。
 私は重い溜息をついた。ああ、家に帰りたい。数えきれないほどそう思ってきた。しかしどのぐらい思ったかは思い出せない。本当は数回程度なのかもしれない。もしくは、10歳の時から一億回以上思ってきたことなのかもしれない。思い出せない。どちらのようでもあるような気がした。家に帰りたい。それだけが確かだ。でも家がどこか分からない。それが地上にあるのかも分からない。ブルーかピンクかも分からない。
 ようやく新しい家に帰ってきて、鍵を入れ開かない扉の前で右に左にノブを回している時に気がついた。
 そうか、それでは会社から家に帰ってきたのだ。やはり、今日は早退したのか。しかしそれでは何か辻褄が合わない。会社に言っていたならビジネス用の鞄を持っているはずだが、私の右肩にかかっているのは小さなハンドバッグだった。
 そうしてよく考えてみれば、仕事をもうとっくに辞めていたような気がしてきた。遥か昔だったのか最近だったのか、上司に退職を申し出た時の彼の渋い顔が遠い世界の絵のように微かに浮かんでくる。この絵が現実に起こったことなのか自信が持てない。しかし、起こったような気がするのだから、おそらく現実なのだ。


 「おい、気をつけろよアジアのビッチ! そんな小さい目じゃ前がよく見えねえだろう?」
 ストリートではどこからでも下品な野次が飛んでくる。私は歩きながら悪口に女性名詞が多いのは何故なのだろうと考えた。ビッチ(アバズレ)。サノバビッチ(アバズレの息子)。コックサッカー(ちんぽ好き)なんてそのまま女への言及だ。アスホール(馬鹿野郎)は中性か。
 「ゴージャスだね、お嬢さん。ジーンズが最高に似合ってるよ」
 好意的なヤジも飛んできて少しだけ気分が上向きになる。私は胸を弾ませながらすぐに近くのショーウインドウに目をやった。色あせた空色のジーンズの上に、どんな素晴らしい美人が映るのかと思ったら、ショーウィンドウには諦めるのが似合う女の顔が映っていた。

4-6

 楽しみを超えた後は悲しみしか生み出さないのは知らない人との会話だ
 公共図書館はホームレスのおしっこの匂いだ
 ペンを発明したのは私の知らない人だ
 あと2時間もしたら私はノートを閉じてストリートへ戻るだろう
 私にはこれを愛する以外の選択肢がないのだ



 赤く染まった長い爪を見ていた。艶めいて、不自然な程長いが、それが女らしさを強調している。同時に先端に向かって細くなる鋭い様子が、悪魔のようにも見えた。
 「綺麗」
 私はため息交じりに言った。赤い爪の色と黒い肌が強い色で主張し合っていて、その手は心奪われる存在感を放っている。
 「私はダンゼン、派手なネイル派だね。やりたいなら、ウチの店に来なよ。安くやってあげる」
 目の前にいるスタイルの良い女の子が誰なのかは分からなかったが、私はそれをおくびにも出さずに親しげに笑った。視線だけを動かして周囲を見た。ここは私の新しい家だ。それなら家の中にいる大学生ぐらいの女の子、彼女は私のルームメイトに違いない。そういえば、ここに越してきた時にこの子に挨拶をしたような記憶がある。
 トイレに行くと、バスタブに切り取られたちりちりの黒い髪の毛が落ちていた。その代わり、上の方のシャワーカーテンのかかる棒には緩いカールの金髪のエクステンションが不気味なオブジェのように置かれている。艶めいたゆるいカーブの髪を見て想像するのはどうしたってあのルームメイトではありえない。この髪の持ち主は通常ならば白人女性だ。あの子はそれ単体では決して自分を想像させることのない髪型のかつらを頭につけて、強い顔をしてストリートを歩くのだ。それは滑稽で、どこか悲しかった。しかし、それは確かに一つの選択には違いなかった。より生き抜きやすい身体に擬態するのは太古の昔から生物が繰り返してきた処世術だ、私たち人間がそれを応用できないはずがなかった。
 そしてどれぐらい時間が経ったのだろう、私は立派な黒人になっていた。週に何度もビーチに行って肌を焼き、それでも飽き足らずタンニングスプレーで肌を黒くした。これでストリートを歩く時に争いを避けることが出来るようになった。鏡に映る私はアジア人にはとても見えない。いつの間にか音楽はラップしか聞かなくなっていた。一定のリズムで破裂音を打ち、ともすれば怠けそうになる私の心臓の代わりに鼓動を刻んでくれる。そういえば遥か昔、ジョニーもヒップホップが好きだと言っていただろうか。
 「ジョニー」
 ジョニー。私は彼のことを思い出した。彼のことを考えるのは数億年ぶりのような気がした。私にはまだジョニーがいる。何を忘れても、まだ彼を忘れていないから大丈夫だという気がした。ジョニー。もうこれ以上に言えることはない。君の名前。この世にこれ以上に美しい響きはない。
 あの時、ジョニーは私の胸の谷間を見て固まっていた。
 「やっぱりねえ、あなたゲイだったのよ。……本当はね、初めて会った時からそうじゃないかと思っていたわ」
 私は勝ち誇ったようにジョニーに言った。私は彼の両手をとって私の胸に置いた。ジョニーの重い手は私のされるがままになるばかりで、ピクリとも動かない。
 彼は初めからゲイだった。それなら全て納得行く。だって、ペニスを愛しながらこれを愛せるわけがない。
 「そうでしょう?」
 あなたはゲイ。ゲイじゃなきゃね。
 彼のシャツの第一ボタンが濡れたように輝いていた。今にも外して欲しそうに、脱がして欲しそうにその存在を主張している。
 私は慰めるように彼の腰に手を載せ、自分の身体にぐいと押し付けた。ヘソのあたりに固いものが当たるのを感じる。ジョニーの服ごしにでもはっきりと分かった。あれ、考えが違っていたのだろうかと思った。しかし、私のペニスも固くなっているのを見て私は満足した。やっぱりそうだ、彼はゲイなのだ。
 彼の手は躊躇いながら、私の体に付かないように細心の注意を払いながらも、私の腰のあたりに恐々と回された。その手は私の体を拒もうとしているようにも、引き寄せようとしているようにも見えた。
 私はその手が私の体に付くことを願った。それはペニスが私の穴に入るよりもずっと意味があることだろう。この手が、この小さな手が、私の体にくっつくことを願った。
 彼は凍りついていた。やはりカリフォルニアと一緒に彼まで凍ったに違いなかった。私は焦れて自分からジョニーに触った。そしてそのまま彼と体を重ねた。顔に降り注ぐ彼の荒い呼吸を確かに感じた。彼の唇付近の髭のそり跡の感触が意外な彼の男らしさを伝えて、私の体を熱くさせた。
 私は夢から醒めた。
 今のはどうだろう? 現実だったのだろうか。それとも私の願望か妄想か。
 もしこれが現実だったならば、私はその時、ジョニーを殴って犯したのだろう。おそらくそうに違いない。暴力を含めなければ、いかなる方法でも彼と私の体がくっ付く想像ができないからだ。既に明らかな通り、暴力は不可能を可能にする魔法の杖だった。私は生まれてから今日までずっと夢見がちな少女で、それゆえに暴力を熱烈に愛し続けていたのだ。


 夜は終わった。朝が起きた。太陽はまだ見えない。街へ出たい。買い物をしたい、嘘だと言ってほしい。本当は全てうそだと言ってほしい。こんなのは全て夢だと言ってほしい。
 「もうそろそろ刑務所に行かないとね」
 男の声がした。それは知らない男の声だったが、私にはイベットだとすぐに分かった。彼女の顔はもはや醜く溶けるどころか、男になっていた。その笑顔はいよいよ恐ろしい。
 私は居ても立っても居られずつんのめるようにしてストリートに出て行った。道で太った婦警が立っているのを見て、思い切りそこへ向かって走っていく。私は息を整えながら彼女に言った。
 「私を逮捕してちょうだい」
 「は?」
 「私は未成年の男の子と寝たのよ。逮捕してちょうだい、さあ」
 私は両手首をぬっと突き出した。ここに手錠をかけられることを願ったが、婦警は怪訝そうな目で私を見るだけだった。
 「それに子供を殴ったわ。そして小さな子供のペニスを写真に撮ったのよ!」
 私の叫ぶ様な声にざわざわと周囲が騒がしくなっていく。この婦警は真面目に話を聞く気はなく、ヤク中の戯言だと思っているようだった。
 「あんたの言ってることが本当なら逮捕しなくちゃいけないんだろうがさ、私も暇じゃないんだよ」
 彼女が冷めた目で私を見るのを見て、泣きたくなった。
 「逮捕してよ、逮捕してよ、お願いだから……」
 その時、野次馬の中で妙にはっきりと聞こえてきた声があった。
 「お前さん、病気なんだよ。まだ若いのに残念なことだな」
 私はこの私的にはっとした。そうか。病気。どうして今まで気が付かなかったのだろう。私は刑務所ではなく病院に行くべきだったのだ。私は早速その場から離れると、近くの病院へ出向いた。
 医者に現状を説明し、嘆願して脳の検査をしてもらうことになった。
 「多分ねえ……私の見立てでは、検査で異常は出てこないと思うんですが。まあ、患者さんに安心してもらうのが一番ですから」
 必死な私を横目で見ながら医者は言った。
 検査結果を待つ間、どういうわけか入院中の患者のいる大部屋に通された。ベッドの一つに腰掛けて待つように言われ、大人しくそれに従う。初老のやせ細った男性がベッドに横たえた体を起こして私に話しかけてきた。
 「お嬢さんはどこの国から来たんだ?」
 「……日本です」
 「そうか。遠い国だな。ワシはガイアナと言う国から来たんだ」
 彼がどんな病気を患っているのかは知らないが、見るからに先は長くなさそうだった。しかし彼の体からは強烈に生々しい生き物の匂いがした。見渡せば、そこらじゅうからその匂いがしている。私からも微かに匂っている。私はその匂いに強い嫌悪感を抱いた。
 「やはり何の異常もみられません。見るからに健康な若い人の脳と言った印象です」
 三十分ほど後、丸い脳の画像を見せながら医者は淡々と説明した。
 「あなたの症状の原因はわかりませんが、この種類の病院で出来ることはないというわけです」
 これでもうどうしようもなかった。病院でも何も出来ないのだ。極限の場所で何とか保たれ続けてきた気力がここでぷつんと切れてしまったのを感じた。私は失意の中家に帰ってきた。これまでの人生で抱いてきた希望や感情の死体があちこちに転がっている。葬式に出す金がなくてそのまま放置していたら、それらは腐って異臭を放ち始めていた。
 私はストリートに出ていくのをやめた。家に引きこもり、比較的入手が簡単な大麻に溺れ始めた。
 私は楽園に行きたかった。哲学でも宗教でもいいからその楽園への行き方を教えてほしかった。ジョージの渡した薬はその一部を果たした。それからジョニーは私の脳をのみ楽園に連れて行ったが、私の肉体は依然として地球に縛り付けられていた。肉体を駆使してこの地球(ストリート)を生きる私たちには、残った肉体がかえってつらい。私は死にかけた身体の息の根を完全に止めて欲しいと思うようになった。
 私は朦朧とする意識の中でジョニーの声を聞いていた。これも奇妙に現実味がある妄想だと思ったら、実際に私は彼の声を聞いていた。ゲイブが電話をしてきていたのだ。
 誰か知らない女とゲイブが親しげに話している。何も問題はないというように、完璧な記憶と確実なアイデンティティーを持っている私ではない女が電話ごしにゲイブと話している。
 「ジョニーはどうしているの?」
 私はその女にを押しのけて、遥か遠くにいるゲイブに向かって言う。大声で。これほど離れては声など聞こえないのではないかと思うぐらいに遠くにいるのだから、大声を、大声を出さなくてはならないのだ。
 「私に聞くんじゃなくて、直接話したらいい。ここにジョニーもいるから」
 そしてジョニーが電話口に出てきた。
 「……元気?」
 「うん。まあまあだよ」
 ジョニーの声は弾んでいた。ジョニーの声だけは近くで聞こえる。いつもそうだ。
 「この子供、よく自分をレイプした女と普通に話せるものね」
 イベットがもう片方の耳に囁いた。彼女の(とは言っても男の)声がうるさくてジョニーの声に集中できない。
 「彼女とはうまくやってるの?」
 「ああ。前のとは、別れたよ。今はシングルライフをエンジョイしてるさ」
 「すぐに新しい彼女が出来るわよ」
 天使の声が聞こえる。知らない人とジョニーは楽しそうに話している。その後ろで、私も笑っていた。これほど幸せな気分は久しぶりだった。
 「今あんたが会話してるのは、悪魔だよ」
 イベットのねっとりした声が首筋を舐めまわして、せっかくの良い気分を台無しにする。
 「仕方ないよ。あんたが悪を愛したから、こんな仕打ちを受けているんだよ」
 膝から崩れ落ちそうだった。それでも私の口は開き、何かくぐもった音を発していた。
 「しっかり勉強するのよ。またね、ベイビー」
 私は自分の言った言葉を、数秒後にやっと理解した。言えた。まるでなんの問題もない大人のように、ジョニーに別れを言うことが出来た。
 「またね、ベイビー」
 イベットが私の口調を真似る。目の前に現れたイベットは歯をむき出しにしてニヤついている。この男は去っていかない。彼女は馬鹿にするように繰り返した。私は泣いた。涙が頬を伝っていく。しかしその感触は自分のものにしてはあまりによそよそしかった。他の人の涙が私の目を代理母にして出てきたみたいだ。確かに悲しいはずだが、台無しになった生活を嘆いているはずだが、湧くべき感情は沸いてこない。人生に起こっている全てがまるで他人事のようだった。



 私は疲れ果てていた。日が経つにつれて、思い出せないものが次第に増えていく。記憶障害は重要なものにまで及んだ。自分の行っていた小学校の名前が思い出せない。祖父母の名前が思い出せない。
 私が現実との共通点がいよいよなくなってきた。私が属する文化だと感じるのは自分の夢の中だけであり、現実とは何か曖昧な、遠くで再生されている速度の遅い無声映画だった。この人生、メチャクチャになった時間を全部脱ぎ捨てたいと思った。脱ぎ捨てたい。私の身体を頭のてっぺんから地面に垂直に貫いているその名前は悲しみだった。私の目は宙を見つめる。いつこの戦いは終わるだろうか。
 今や過去は恐ろしく美しい箱庭のように見える。私は外からそれを見つめる。その中には入れない。中にいた時は、それがどれほど美しいかわからなかった。ひりつくように懐かしい。希望を確信しているがゆえに生まれる虚構の絶望。あの拙い自殺。世界が狭いゆえに虚構とも気がつかず孤独に苦しみもがく、若さゆえの特権が。
 夢は叶わなくとも持つだけで素晴らしかった。自分からは逃げられないという現実、本当は自分を許すことなど到底できないと言う現実を受け止めなくてすむ。目を覚ましたら、枕元には生涯幸せにならぬと決意を固めた無言の自分が座っていて、もはや説得のしようもなく、友人やテレビを見つめる意識の間隙に、それと対峙し続けなくてはならない未来に気付かずにすむ。私はあの時、絶望という青春の副産物を楽しんでいた! あれほどくだらなかった輝きが、私の最後の輝きだったのだと私は今更ながらに悟った。
 重苦しい憂鬱を基盤としながらも、他人事のような感情は上がったり下がったりと忙しかった。私は観察者のように一歩引いてそれを見つめた。
 「うわっ、ちょっと、あんたハイになってるだろ? クサの匂いがすごいよ」
 リビングへ行くと、ルームメイトの女の子が私を見るなり顔をしかめた。 
 彼女は片膝だけ上げた格好で椅子に腰掛け、紙袋からクッキーを取り出しては頬張っていた。脂がぎとぎとに染み出した紙袋からそのまま。彼女はいつもピザだのクッキーだのを無頓着に頬張っているが、完璧なスタイルを保っていた。お尻など、重力に逆らっている。
 「いる? 私バンドやってて、ファンの子が差し入れしてくれたんだ」
 「でもそれ、もし……」
 私は言い淀んだ。でも、もし、毒でも入っていたらどうするの。他人から貰ったものなんて何が入ってるか分かったものじゃないでしょう。私は言葉にするのを自重し「いらないや」とだけ言う。
 毒入りのクッキーは彼女の世界には存在しないようだ。クッキーを無邪気な顔で頬張る彼女の顔を見ていれば明らかだ。私の世界には当たり前に存在する。私は彼女の年齢を聞いたことがなかったが、かなり若いのだろうと思った。私は彼女と私の間には深い崖が存在する。彼女の肌はアイロンで伸ばしたように皺がなく、そういう化粧をしているのかいつも艶めいていた。
 「前から聞こうと思ってたんだけど、あんた仕事は何してんの? いや、別に私が気にすることじゃないんだけどさ、大丈夫なのかなと思って……」
 「うん……大丈夫……」
 遠慮がちに問われ、私は笑って誤魔化そうとした。しかし自然な笑顔を作れない。無理に笑おうとすればわざとらしくなり、それで今度は力を抜こうとすればもうそのまま疲れて目を閉じてしまいそうになる。
 私は彼女の食べているクッキーの中に致死性の毒が入っていることを心から願った。私のことを心配している人を一人残らず殺せば、私は何の問題もない人間になれるだろう。
 ……しかし、問題を無くしたいなら、もっと簡単な方法があると私は気がついていた。それは私の方が死ぬことだ。
 「私、出かけてくるね」
 「ああ。気をつけなよ……」
 喋り方は荒っぽいが、根が優しいのであろう彼女は手を軽く振って送り出してくれた。私はイヤホンを着けてストリートに出て行った。心地よいラップが鼓膜を打ち続ける。私は日本の文学を愛するのと同じぐらいヒップホップを愛していた。これ以上に痛々しく、美しい音楽はかつてないと思った。

 あなたの悲しさには底がない。私は愕然とストリートの真ん中に立ちすくむ。この悲しさを埋めるために怒りを拵えて塗りつぶしてきたあなたの構造を見るにつけ、面食らった後、もっと悲しくなる。もっと悲しくなる。あなたは自分が崩壊する理由を常にこさえているんだ。あなたが歴史の中で感じてきた悲しみともうたくさんだという諦めをこの肌の上で感じる。

 自転車を漕いでいく二人の学生が目の前を横切った。その、黒く艶めいた棒のように細い足を後ろから見ながら、自転車から引きずり降ろしたいと思った。そして、今私が音楽を聴いているイヤフォンを引き抜いて、鞭のようにしならせて、あの細い首を絞めたいと思った。
 ふとサングラスをかけた私を、無機質な目で見ている男が視界の端にいるのに気がついた。目の動きが見えないから、私からも彼を見られるのだと気がついていないのだ。私を感情の見えない目でじっくりと見つめている。人は相手に見られていないと思っている時は、こんな目をするようだ。私は、ひょっとしたらこの目と全く同じように、今の学生を見ていたのかもしれないと思った。
 さらに歩いていくと、前を歩いていた子供が振り返って私の顔をじっと見つめてきた。アジア人の顔が珍しいのかもしれない。子供は足を止め、その好奇心に満ちた目は私から離れることがなかった。
 「あらあら、ごめんなさいね。この子ったらあなたが素敵だから魅了されてるのよ」
 眉を八の字にして謝る母親は私と同じぐらいだろうか。私は子供を見た。その前に広がる未来を奪って私のものにしたいと思った。
  親子の横を通り過ぎてしばらくしてから、私はぽつりと呟いた。
 「……私、きっとジョニーを産みたかったんだと思うわ」
 私はジョニーの産みの親であり、ジョニーそのものでもあった。
 「彼の人生が欲しかったの。もし彼を産んだのでなければ、彼はきっといずれ私を置いていくわ。そして私の見たことのない楽園の門を通るのよ。そんなのを許すわけにはいかない」
 私のジョニーはカリフォルニアが凍った時に死に、私のジョニーに関係のないジョニーはそこで生きている。いつかその人は女を抱くだろう。彼の服が当たり前のように脱がされる日が来るだろう。彼が張り詰めた息を吐く時、私は彼の前にいない。
 イベットは答えた。
 「命は伝染病よ。誰かを産んで移せば、自分はそれから解放されるの。それだけよ」
 「……さてはあなた、イベットじゃないわね」私は思わず笑った。「彼女がそんな哲学的なこと言うわけないもの」
 「じゃあ、私は誰だと思う?」
 私は視線を落とした。地面に規則正しく並んだ四角のタイルの上に、カクカクの文字が浮かび上がる。私は首を振った。
 「違わないよ。これがあんたの求めていた私じゃない」
 イベットは、ジェニーは、いや、ジェニーとは誰だろう。彼女は制服を脱ぎ、呆然とする私の目の前で壁に腰を押し付けた。真昼間の道の上で、あの間抜けで原始的な動きが繰り返された。彼女のペニスは跳ねながら壁と愛し合った。しつこく、ゆっくりで、容赦のない動きだった。私は強い嫌悪感を抱きながら、しかし、嫌悪感とは欲情の前触れなのだと既に悟っていた。
 限界が近くなった彼女は自分の右手を使い出した。もうそのことしか考えられないというように扱いた。苦痛とも快楽ともつかない呻きと共に、ペニスから白い液体が飛び出た。その射精の様子は、血が飛び散る様にそっくりだった。


 ……時折、成し遂げられなかった口づけを思い出すことがある。しなかった口付けはした口付けよりも遥かに気持ちよかった。同じように、出来なかった射精が、私にとって最も気持ちの良い絶頂に違いなかった。
 美しいのはあの少年だけだ。崩壊する生活の中で、この惨めさの全てが、この身をわざと泥にまぶし、ジョニーを相対的な神に祭り上げ、崇拝の恍惚を老いゆく身体でもう一度だけ感じる為の策略だったのだと私は知っていた。ジョニーは死神であり、私はジョニーに期待をしていたものと寸分たがわぬものを受け取っている。


 それから何日経っただろうか。もう時間感覚など残っていない。霞みがかった頭の中で、私は計画を少しずつ進めた。私はいつの間にかまた引っ越していた。ここがニューヨークなのかも分からない。アメリカではあるだろう。私の残った肉が焼け、コンクリートから血の染みが抜ければ、生のこびり付いた生臭い死はより純粋に変化する。天国でジョニーに似た天使を見ることを慰めに、私は準備を進めて行った。
 その日が来た。私は再びあのマンションの屋上に上がっていた。階段を登るたび、性懲りも無く心臓が早鐘を打つ。スイートハート、もうすこしだからね。もう少しで休んでいいんだよ。私は自分の心臓に声をかけた。太ももの辺りに鉛を入れられたかのような痺れが襲う。体が自分のものでなくなる感覚が、絶頂する時に似ていると思った。
 私は地面を覗き込んだ。恐ろしかった。殺される。これから私がするのは自殺というよりは殺人だ。これがこの世で私に与えられた数少ない暴力の種類だ。私は悪だ。私こそが悪だ。最高の悪の気分だ。
 ふっと地面が3dメガネをかけたかのように浮き出て迫ってきた。
 時が止まる。行こう、と思う。
 身体から余計な力が抜けていく。
 私は飛んだ。凄まじい快感が手足に広がる。体が軽い。空を飛んでいる。空を飛んでいる。空を飛んでいる。浮遊している感覚はあるのに、確かに落ちている。私のすぐ横を並走するマンションを見ると、目を見張るような速さで光る四角が入れ替わっていく。シャッとカーテンを引くように視界が暗くなり、私の体が衝撃になった。
 足が砕けた。はっきりとそのことがわかった。息とも声ともつかないものが口から押し出された。
 地上に落ちた私は振り返った。足が投げ出され、他人の足のように曲がっている。それを見た瞬間、痛い、と気付いた。しかし、死んでいないし、まるで死ぬ気配がない。足は見るからに重症だろう、しかし、命に別状はない。生存に関わる場所に傷がついた感覚が全くないのだ。
 ちょっと、冗談でしょう。言葉にならなかった。
 私は蛇のように這った。這うたびに苦痛の呻きが漏れる。あ、も出なかった。い、も出なかった。え、も出なかった。お、も出なかった。う、という音だけが出た。くぐもった醜い音だ。う、う、と呻いた。
 私は最後の最後まで希望に生きていたらしいことがようやくわかった。私を救った幻想が何一つ現実にはならないことを悟った。甘い死はもはや私のものではなかった。今まで失った夢と同じように、また失ったというだけだった。
 私は苦笑した。ヘッヘ、という卑屈なような、苦しんでるような笑い声が漏れる。例にもれず、この状況は面白かった。
 可笑しい。笑えないような状況は、やっぱり笑える。
 しかし、その笑みも長くはもたなかった。
 失敗したのだ。いいや、違う。失敗したのではなく、最後まで変わらなかったのだ。
 これしかないのだ。これしかないのだ。この現実。痛いのだ。これほど痛いのだ。痛みとはとにかくこのように痛いのだ。痛みは痛み以外のものではないのだ。これ程までに痛いのだ。あれはやはりセックスだった。あれがセックスだった。本当は初めから知っていたというのに。
 まだ出来る質問がもう一つだけ残っていた。
 でも、これからは? これからはどうする?
 汗が吹き出る。何か力強い風が私からその質問を奪った。私は這った。細い腕を前に伸ばし、前方の地面を掻き寄せるようにして這う。誰でもいい。助けを求めに行かなくては。これ以外にはないのだ。これ以外には。
 幻聴より力強い言葉が全身を回っている。雲のない空のように頭が冴えていた。
 これ以外にはないのだ。これ以外には。


 結局私はその後たまたま通りかかった通行人によって助けられた。そしてその時の怪我で足に障害を負った。歩くことは出来るものの歪な歩き方になり、走ることはもう一生出来なくなった。
 「小学生の頃、あれほど足が速かったのにね。それを誇りにしてたのにね。もう走れないね。松田とかけっこ出来ないね」
 私は彼女がそのようなことを言うのではないかと待ったが、あの日から彼女はついに現れることはなく、今日まで沈黙を貫いている。



モナリザとセックスする夢

モナリザとセックスする夢

……私は彼女がそのようなことを言うのではないかと待ったが、あの日から彼女はついに現れることはなく、今日まで沈黙を貫いている。 ※性愛をテーマとした青春小説。自殺や薬物などのシリアスなテーマを含みます。私の経験を脚色を加えた半私小説的な物語です。登場人物にはすべて実在のモデルがおり、三島由紀夫『仮面の告白』に強い影響を受けています。

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登録日 2020-03-02

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