Fate/Last sin -34

「セイバー!」
 このたった六日間のうちに、何度叫んだか知れない名前をまた叫ぶ。だが、これ以上は不可能だった。容赦なく体を締め上げる大蛇たちのせいで、肋骨が軋み、肺が潰されそうになる。このまま圧死するかもしれないという恐怖さえ脳裏に過る。
 そんな楓の様子を少しも気に留めることもなく、アルパの白い背は既に遠い、泥の海の上に小さく見えるばかりだ。
けれど、セイバーは絶対に来てくれる。ここがどんな悪夢の中だろうと、必ず。――楓にはその予感があった。予感というより、それはほとんど確信に近い。
 その確信に応えるように、突然、右手の甲が激しい熱を帯びた。
「―――っ」
 令呪が、ひとりでに火花を散らしていた。熱い、と思う間もなく、弾けるように三画、空中に消えたあと、楓は不意に自分の身体が揺れているのを感じた。
 アルパも揺れに気がついたのか、泥海へ進む足を止めて、一瞬、こちらを振り返る。
その時だった。

 地が、二つに裂けた。

「……!」
 楓は咄嗟に顔を背けた。浜辺を覆いつくしていたおびただしい量の大蛇が一斉に恐れをなしたかのように逃げ出すが、それも間に合わず、胴が二つに分断された。或いは、裂け目から噴き上がってきた炎に焦がされて塵になる。
地の底から噴火するように上がる赤と金の炎は、純然な魔力の塊だった。
「セイバー!」
 楓が涸れかけた声で叫ぶのと同時に、体を拘束していた大蛇が力を失ってずるりと崩れ、楓は巻き込まれるより先に抜け出した。眩いほどに燃え上がる炎の中から飛ぶように現れた人影に、手を伸ばす。
 その手の甲に、セイバーを繋ぎとめていた令呪はもう無い。けれど、楓は地に這う蛇を蹴り、火花を払いのけながら声高に言った。
「壊して! あの聖杯を、あなたの宝具で―――!」
 炎の壁が裂け、黒赤色の剣を握って立つセイバーと、確かに目が合った。その目は何の躊躇いもなく楓の命令を了承したが、その瞬間、脳裏にとある疑念が頭をもたげた。
(待って)
 本当に、これでいいの?
 これで、間違ってはいないのか。本当に聖杯を壊していいのか。令呪は三画、セイバーを呼び戻すためだけに全て使い切ってしまった。もうセイバーと楓を繋ぐ楔は無く、つまり、セイバーが宝具を撃ってしまえば間違いなく、彼は消滅する。聖杯は? ―――あれには、器となった彼女―――クララの、意思は残っていないのか。認めたくないけれど、アルパは確かにそう言ったのだ。だとしたら、あのまま、聖杯を破壊することは、まごうことなくクララを手に掛けることではないのか。
(また奪うことになる。セイバーの宝具で、よりによって、あのひとの妻を)
 視界に、ゆっくりと揺らぐ炎がうつる。一瞬の内に大量の思考を重ねたせいで、周囲の光景が遅く見えるほどだった。そのほんの僅かの時間に、楓はこれから失うものと、奪うものと、奪われるものの全てを数えて、身動きが取れなくなる。
 差し伸べていた手を引こうとした瞬間、その細い手首を掴む何者かの手があった。
「怯えるな!」
 一喝される。目の前に、熱風に揺らめく金の髪と、炎を映して紅玉のように輝く灰色の双眸があって、彼の手はいつだかのように楓の手をしっかりと握りしめていた。
 目の前に立ったセイバーは、真っ直ぐに楓を見据えて言う。
「失うことに怯えなくていい。 失った次には得ることしかできない。俺が欠けようが、他の誰が欠けようが、時には自分を損なおうが――進むしかないんだ! 進まなくては、失わなくては、その先を得ることはできない!」
「……っ」
 言葉に詰まる。心臓が、頭が、熱くて張り裂けそうだった。
 たった一人の姉を失うことが恐ろしくて仕方なかった。たった一人のサーヴァントを失うことが、身を斬られるより辛いと思った。自分には、それしか無かったから。それを失ってしまえば、この先、どうやって生きていくことが出来るのか分からなかったのだ。
けれど、セイバーの言葉に、楓は唇を噛んだ。零れて乾ききった頬に落ちる涙もそのままに、セイバーの腕を強く、強く握り返す。そこには確かに人の温度があった。
「―――わたし、償えるかな」
 姉の遺志を裏切る罪を。愛情を無下にする罪を。人の幸福を壊す罪を。
 楓の言葉が抱えたありとあらゆるものを、セイバーはただ一つの首肯で認めた。
「当然だ。この私――ベルンの王、騎士王ディートリッヒ・フォン・ベルンが証明しよう」
 握られた手首から、不意に燃えるような魔力が伝わってきた。それは楓の閉じて冷え切っていた魔力回路をこじ開けるように、或いは不要なところを焼き捨てるように皮膚の下を進み、繋いでいた右腕全体に熱が籠る。確かに焼けるほど熱いはずなのに、不思議と痛みは無かった。まるでそうあることが自然であったかのように、その回路は楓の身体に馴染む。
 楓は目を見開いてセイバーを見た。
 熱風をはらんで、楓の長い髪が乾いた音を立てる。その隙間から覗く藤色の双眸から、躊躇や怯えは消え去っていた。
「……ありがとう」
 静かに、どこまでも穏やかに楓は告げた。ひとつ息を吸って、今度は、短く鋭い声色で叫んだ。
「行って!」
 セイバーは風のように駆けだした。


 海が燃えている。
 聖杯の内側は、もう取り繕うことをやめたようだった。風見の景色は残骸程度にしか見られず、代わりに一面の黒い海と、それを覆うように燃えている炎、ただ口を開けた暗黒だけが鎮座する空虚な天ばかりが広がっている。
 セイバーは間合いの遥か遠くにアルパの白い姿を認めながら、泥海の水面が太腿半ばまで迫る場所で、足を止めた。途端、粘度をもった液体が下肢に纏わりつく。
 一息で剣を抜いた。熱くしたままの金属のような刃の切っ先で、虚空の聖杯を見据える。
 滑るように、鼓動の奥から言葉が溢れる。久しく忘れていた、宝具のための詠唱だった。
「―――人の、幸のために」

「―――邪を絶ち、悪を穿つ。
物語る民に祝福を、
永劫の王に喝采を、
贖えない罪に結末を、
始まりの剣に光明を!」
 剣が、鮮烈な炎を噴き上げてその真の姿を露わにした。
 虚ろな天に、一条の光が向かっていく。紅玉のような炎を纏ったそれは、セイバーの最後の魔力の全てを注ぎ込まれ、天そのものを斬るかのようにどこまでも高く、鮮やかに輝いた。
 光が、一閃する。

「『不滅の楔(ナーゲリング)』―――――!」


   *


 不意に、周囲の魔力の流れが奇妙なうねり方をしたのに気づいた。
 香月は燃え盛る街を貫くように伸びる道路の、小さな陸橋で、顔を上げて海の方角を見る。不穏な気配を漂わせたまま海面に突き刺さっている泥の巨人像は、変わらずそこにあった。だが、何かがおかしい、と香月の魔術師としての勘が訴えかけてくる。
 異変は、すぐに起こった。
「な―――」
 どろり、と像が溶けたのだ。表面の剥げ落ちた部分から、魔力がとめどなく漏れ出る。聖杯の姿は小指の爪ほどにしか見えなかったが、泥一色のそれが目を見開き、あらぬ方向へ手を伸ばすのが見えた。
「……ッ、アーチャー!」
 香月が声を上げると、彼はすぐに跳んできた。両手にはすでに赤の弓と白銀の矢を携え、神妙な顔つきで香月の元に現れる。
「南側は壊滅だ。泥の津波で覆われ、燃え尽きるのも時間の問題だろう」
「それより―――」
「海に面した街の住民は、みな逃がしただろうな」
 気を急く香月に、アーチャーは頑なに問いかける。香月は一つ頷いた。
「あれが、あなたの言っていた好機ですか」
「そうだ。あれを逃して何になる」
 アーチャーは口の端でいつもの鷹揚な笑みを浮かべたが、すぐにそれを引いた。
「……宝具を撃つ。下がっていろ」
 香月は首を振った。
「ここに居ます。……最後まで見届ける」
「マスターを危険に晒すような真似は、サーヴァントとして受け入れられねえな」
「構いません」
 香月は頑としてアーチャーの言葉を受け入れなかった。アーチャーはため息を吐き、陸橋の上から海面を見やる。
 彼方の泥の巨人は、ゆっくりと崩壊していく。その巨躯から泥が流れ落ちるたび、海面が白泡を立てて波打つのが見えた。うねる高い波は、ひっきりなしに湾岸へ打ち付ける。膠着した泥が徐々に、しかし確実に街を侵食していた。
「内側からいくら突き刺しても、あれが限界だ」
 アーチャーは高く弓を掲げるようにして構えた。矢を番えているのだ。
「泥を焼き払う。街中に仕込まれた、あの魔方陣の力が邪魔だ。令呪を貸してくれ」
 強弓の弦が、ギリギリギリと鈍い音を立てて、目いっぱい引かれた。アーチャーの目は遥か彼方の巨人と海を捉えて離さない。
 香月は頷く代わりに瞼を閉じ、二画の令呪が残った右手を差し伸べる。
「―――令呪をもって命ずる」
 彼女は躊躇わなかった。

「宝具を以て、聖杯を破壊しなさい」

 キ、と甲高い音が聞こえた気がした。
 限界まで張り詰めた魔力が、対魔術の結界に風穴を開けた気配だった。
「―――宝具再演。
 勅命にて九日没落。九烏皆死、故一陽を留めん―――」
 詠唱と共に、魔力が引き絞られるように矢先に集中する。赤の弓が激しい熱を帯びて金色に輝き、白銀の矢は魔力を纏って冷たく冴えわたる。矢羽根を掴むアーチャーの指が、じり、と音を立てて焦げついた。
 遥か遠くから矢を射かけられようとしている泥の巨人は、何を勘付いたのか、寸前で、溶けた顔をこちらに向けた。その瞬間、アーチャーは張り詰めていた弦を手放した。

「是即ち―――『墜其羽翼(ついそのうよく)落日弓(らくじつきゅう)』!」

 轟音が響く。
 アーチャーの手から放たれた矢は、確かに一本だった。けれどそれが香月たちのいる陸橋を離れ、街を超え、海へ到達するときには、既に九本の光の矢へ変貌している。一瞬遅れてやってきた衝撃波に身体を煽られ、香月は思わず陸橋の柵にしがみついた。その柵も、香月が掴んだほんの数十センチ先は、宝具の熱で焼けただれ、溶け落ちている。
 気づいた時には、掴んだ柵ごと後ろへ吹き飛ばされていた。ややあって、コンクリートの道路に打ち付けられる。すんでのところで受け身をとり、すぐに顔を上げた。
「……ッ!」
 海の方角から、突風が吹きつけている。
 瞼を開くのもままならない強風の中、香月はそれでもやっとの思いで泥の巨人―――聖杯を振り返った。
「……燃えて―――」
 全てが燃え盛っていた。あの湾岸が蒸発したのではないかと思うほど、激しい炎の海に内と外から苛まれ、聖杯はすでに崩壊を許している。太陽を九つ射抜いたという矢に穿たれ、生き残っていたセイバーの宝具に焼かれ、いかな聖杯と言えど形を保てるものではない。
 岸辺を覆っていた泥は一瞬の内に蒸発していた。街の臨海部を大いに巻き込んで、聖杯は悶えるように、残った泥の身体をうごめかせている。それも徐々に崩れ、焼け落ち、最後には一握りの灰となる。
 跡形もなく聖杯と泥が燃え尽きたあとには、静かに残り火を燻らせる街だけが夜明けを待っていた。

   *


「――――……」
 薄く、目を開く。辺りは、酷く静まり返っていた。さざ波の音と、背中にひたひたと迫りくる冷たい海水、むせ返るような潮の匂い。ぼやけた視界には、黎明の色をした空がうつる。
 楓は小さく咳き込んで、その岩礁に身を起こした。―――生きている。頭痛がするし、右の足首は青く腫れ上がっている。体はあちこち掠り傷だらけだったが、それでもあの崩壊から何とか生き延びたらしい。
 辺りを見回した。そこは確かに見慣れた風見湾の岸辺のはずだったが、周囲の様子は一変している。砂浜の向こうの街は未だに火の手が上がっていて、空は焦げつきそうなほど黒煙を吸っている。
 けれど、あの聖杯の姿はもうどこにも見えなかった。
 ―――終わったのだ。すべて。たった七日間の儀式は、既に幕を下ろしていた。
「……」
 バシャ、と水音を立てて、楓はそろそろと岩礁の上に立ち上がる。足が痛い。誰かに手を貸してもらいたかったが、縋る手はどこにも無かった。真冬の夜明けの風が、容赦なく海で冷えた体の熱を奪っていく。
 アルパはどうしただろう。セイバーは。アーチャー達はもう行ってしまったのだろうか。考えても、辺りを見渡しても、暗く荒れ果てた浜以外なにも目に映らない。
 楓は、ようやくひとりで岩場に立った。
 その時だった。

「あれは―――」

 立ち上がった瞬間、今まで岩に塞がれていた視界がひらけ、紺碧と黄金のグラデーションをつくる空が見えた。その広く冷たい天の上を、小さく鳥のように何かが駆け抜けていく。―――鳥ではない。それは確かに四つ脚の、黒馬だった。馬は夜明けの空を、風よりも速く駆け抜けていく。その馬の背には、見慣れた人影がある。
 楓は思わず、涸れた声で叫んだ。
「セイバー!」
 黒馬と騎士は、遥か彼方にいる。声が届いたかどうかは分からない。それでも、楓は痛む身体を堪えて手を振った。助けを乞うためではなく、ただ、別れを告げるために。
 ひとつ、甲高い嘶きがあって、黒馬はいっそう速度を上げ、海のかなた、雲の向こうへ消えた。楓はその姿が見えなくなってもなお手を振っていたが、やがて海から目を離し、背後の荒れ果てた街を振り返る。
 その街へ続く砂浜を、ひとり、歩き始めた。


 

Fate/Last sin -34

the end.
thank you for reading.

-あとがき

実に2年間という、書き始めた時は想像もしていなかった時間が流れていて驚いています。
本当に、本当に長くなってしまいました。2年前ちょうど進学したのもあって、私生活との兼ね合いに非常に苦労しました。ここまで月に一回程度の更新をきちんと追いかけてくれていた読者の方にはひたすら頭が下がります。
しかもまだ書き足りない話もあって、こんなに魅力的で掘り下げがいのあるキャラクターを作ってくれた読者兼友人達には何とお礼を言ったらいいのか分かりません。
2年も経つと、初めの方に書いた伏線とか拾いきれなかったり、前と後で登場人物の言動が矛盾していたりなどありそうで、正直何度も筆を投げようとしました。でもそのたびに「あんたのペースで書きゃいいんだ!」と支えてくれた友人たちのおかげで、きちんと、ひとまず、物語を閉じることが出来ました。私が物を書き始めて以来、まごうことなき最長記録です!
このLast sinを書こうと思ったきっかけはFate/Zeroを視聴したことなのですが、Fateの魔術師って本当に業が深いなと、UBWとは違った魅力に触れてしまいました。なのでこの物語を通して、Fate世界の魔術師観をじっくりと考察できたような気がして、非常に満足しています。
ですがやっぱり書き足りない話もあるので、それはのちのち番外編ということで出したいと思います。
ともかく、こんなに長い間、最後まで拙作にお付き合いいただいて、本当にありがとうございました!

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〈キャラクター考案〉敬称略

〇サーヴァント
セイバー/ディートリッヒ・フォン・ベルン……ピザ村
アーチャー/后羿……たちばな
ランサー/マルクス・ウィプサニクス・アグリッパ……玲
ライダー/東郷平八郎……埴輪
キャスター/クリスチャン・ローゼンクロイツ……ナク
アサシン/シャルロット・コルデー……ささだんご。
バーサーカー/リチャード1世……あら

〇マスター
望月 楓……ささだんご。
文 香月……あら
御伽野 蕾徒……ナク
ラコタ・スー……ピザ村
ムロロナ・ルシオン
クララ・ルシオン……玲
白石 杏樹……たちばな
空閑 灯……埴輪

アルパ(アスクレピオス/望月 花)……オサム(作者)


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Fate/Last sin -34

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-03-02

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work