ID論
プチトマトがグランドの隅に生えておりまして、ええ、隅と言っても逆上がりをするために設けてある鉄棒の横なんですが。プチトマトが緑色から赤色に変化している肌質を観察した後にふうとため息を吐いたんです。ところで僕は誰も居ないグランドを見張っていました。風が全然吹いていないので砂ぼこりもないですし、校舎の中で生徒が歩く黒い影さえもない、静かで無感覚な風景でした。はい。僕は段になっている縁石に座って炭酸飲料の飲み口を開けました。ぽしゅりと、空気が逃げました。グレープの香りが一瞬だけ漏れました。何故、プチトマトは緑色のままでいないのでしょうか? ずっと緑色であれば、赤色にならなければ、ヒトに食べられる事はないでしょう。鳥だって苦いのか甘いのか分からないトマトを食べる事は決してないでいしょう。
「直角なんてないんだ」
彼女は工業地帯に立っている看板に人差し指を向けて言う。
「何が?」
僕は空き缶の蓋を開けて答えた。空き缶はぽしゅりと音を鳴らす。
「この世界に」
彼女の指先の向こう側には埋め立て地である人工的に作られた直角の地図があった。
「あるじゃん」
僕はグレープ味の飲みモノをゴグゴグと飲んだ。
「ないわ。直角ってヒトが作ったんでしょ?」
「作ったら駄目なのかよ」
「駄目じゃないけど。でも気持ち悪いの。完全に直角のスギやアカマツが生えていたら? 直角のひまわりが生えていたら? 私、国と国を隔てている緯度とかも嫌いなの」
「そうか? でも僕は教室の黒板が波打っていたら気持ち悪いと思うぞ」
「それとこれは別よ」
彼女は言う。
「何が別なんだ」
僕は聞いた。
「教えない」
快速電車の中で君は片方のイヤホンを外して僕に質問した。
「君はどうして何時も宇宙服を着けているの?」
僕は困惑した。それから彼女の真面目な顔を見て質問した。
「何が? 僕はそんなものを着けたことはないよ」
「嘘じゃん」
「嘘じゃないさ」
「それならどうして何時も、何処にいても、何をしていても無感覚なの? 無表情でしょ?君? 無重力の月の廻りをぐるぐるしているの?」
「ぐるぐるなんてしていない」
「原っぱに座って景色を見て木々の隙間にある血管を感じる?」
「感じない。星が落ちてこないか怖いとか思っている」
「真夏の浜辺で輝くエメラルドグリーンの海を見て綺麗とか思う?」
「うーん。海底の底にある王冠とか拾えるのかな? と思う」
「雪景色とオーロラを見て温かさとか感じる?」
「もし磁場が見えたらオーロラよりも興奮するかなと思う」
彼女はため息をついた。
「君。宇宙服脱いだ方が楽しいわよ。たまには外の空気を吸いなさい」
消しゴムが千切れるように僕の肉体はまだ不完全で君の単純で利他的な精神はおそらく永久に知りえることはない。僕のベクトルは圧縮で君のベクトルは引っ張りで繋がる事はないんだ。でも羨ましく思う。
直線的な僕の視線と拡散的な君の瞳はミックスジュースよりも好きなんです。
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