銭湯

夕暮れどきの交差点に、信号待ちをしている人々がかたまっていた。お喋りに夢中の学生たちや、眠たげなサラリーマン、子供を抱いた主婦に混じって、古風なスリーピースのスーツを着こんだ白髪の老人が立っていた。
信号機はまるで赤く点灯したまま死んでしまったかのように動かなかった。老人はちらりと時計を見た。そして自分が本能的にそういう動きをしたことに気がついてかすかに苦笑いした。もう何年も前から待たされて困る用事など一つも持っていないことを思い出したからである。
老人のすぐ脇にたらいを手にした若者が立っていた。若者の手にしたたらいには、タオルが何枚か乱暴に押し込まれている。銭湯に行くのだな、と老人は思った。半世紀近くこの街に住んでいて、銭湯なんてあったことすら気がつかなかったが、昔からあったのだろうか?それとも最近できたものかもしれない。いずれにしろ老人の行動範囲は実に狭いものだったから―知っている道といえば以前通勤に使っていた道と、駅の周辺、それからお気に入りの散歩のルート―気づかないのも無理はなかった。
 その時、若者が何かに気づいたようにさっと集団から離れた。どうやらここで渡るのは諦めたらしい。百メートルも歩けば歩道橋があるから、そっちを渡るつもりだろう。このチャンスを逃したらこのまま一生自分は銭湯の場所を知らないままかもしれない。そう考えた老人は、こっそり若者の後をつけてみることにした。
 
白茶けた太陽はすでに地平線に落ちかかっていた。街全体がぼんやりとした空気に包まれている。家路に着く人々の顔は心なしかみな眠そうである。
老人は若者の姿を見失わないように、なおかつできるだけ目立たぬように後を追っていた。そういえば子供の頃探偵に憧れていた時もあったっけ。少年探偵、赤マント、怪しげな老人、謎の暗号、懐かしい記憶を辿っていると、老人の顔に知らず知らずのうちに笑みが浮んだ。やっぱり散歩は夕方に限る、と老人はひとりごちた。
老人は夕方の散歩が好きである。それが一番の楽しみといってもいい。といってもあちこち歩くわけではなく、ほとんど決まったルートを歩くだけなのだけれども、それでも良かった。もともと冒険は好まない性格だ。勤めた会社も一つだし、付き合った女も一人だ―それが妻。転職をしたこともなければ、浮気をしたこともない。退屈な男だと自分でも分かっている。生前、妻もそんな彼をからかって、あなたは石橋を叩こうとすらしない、とか言ったものだが、今日の彼はいつもとは違っていた。ねえ君。おれだってたまには冒険をすることもあるんだよ。
老人が夕方散歩をするようになったのにも理由がある。もともとは朝散歩をしていたのだが、厳しい顔で仕事場へ出かけて行く人々の姿を眺めていると、自分だけ何もしないでいることに強い罪悪感を感じるのだった。だからといって死ぬまで現役で働いていたいわけでもなかった。
そういうわけで老人は夕方しか散歩をしなくなった。午前中はたいてい家で本を読んで過ごすか、テレビを観ている。最近はめっきり視力が下がったので、テレビを観るほうが多い。子供は作らなかったし、親せきとの交流もほとんどないので、めったに客が来ることもない。
 
古ぼけた団地の側を歩いていた。初めて見る場所だった。随分遠くまで来てしまったようだ。銭湯は思いのほか遠いらしい。若者が少し歩く速度を上げたようだ。それとも、老人のペースが落ちたのかもしれない。おそらく後者だろう。さっきから膝がじんじんと痛むのだ。
実はそろそろ歩くのが苦痛になってきていた。また接骨院に通わなければなるまい。でも、あの若い医師には会いたくなかった。医師は、老人の顔を見るたびに「随分間が空きましたね」とか、「自分で治そうとしない限り、治るものも治りませんよ」などと説教じみたことを言うのである。毎度毎度カチンと来るので、今日こそは嫌みの一つでも言い返してやろうかと思うのだが、いざとなると勇気が出ない。
昔からおれはストレスを溜め込むタイプなのだ。妻もそれを心配してたっけ…。やっぱり、あそこに行くのはやめよう。そう心に決めた。
 
日が沈んで、暗がりが増えるにつれて、すれ違う人の数はどんどん減っていった。老人の視線の先では、信号機が点滅するように、若者の姿が消え、街灯の灯りで浮かび上がり、また闇に消え、そうしてまた現れた。眼鏡を持ってくればよかった。暗闇でものを見るのは苦手だ。老人はもう何度も若者の姿を見失いかけていた。だからといってこれ以上近づくわけにもいくまい。さすがにそれは怪しまれるだろう。
気づかれた様子はまだない。意外に自分には尾行の才能があるのかもしれない、と老人はほくそ笑む。それとも、この若者が鈍いのかな。いや、そうとも言えまい。わき目も降らずに一生懸命一つのことに熱中できるというのは、若者の特権なのだ。などと考えていると、ふと、若者がたらいを持っていないことに気がついて、ギョッとした。
たらいはどこへいった?いつ別人と入れ替わったのだ。なぜ?訳がわからない。老人の鼓動が早くなる。ああ胸が痛い。
おお、なんだ。やっぱり若者はたらいを持っていた。老人の早とちりだった。ただたんに持つ手を変えただった。たまたまそれが影になっていただけだった。老人はほっと胸をなでおろした。そして、あまりの自分の慌てっぷりに恥ずかしくなった。
妻も言ってたっけ。あなたは一見しっかりしているように見えて、その実そそっかしいところがあるって。たぶん妻の言うとおりなんだろう。今日はやけに妻の顔が浮かぶな。
しかし、この早とちりがきっかけで、老人の心は一挙に懐疑的なところに落ち込んでしまった。そしてまた新たな疑念が生じた。
もしやこの若者は、これから銭湯にいくのではなくて、すでに銭湯に行った帰りなのではないか?
なぜ今ごろになってそんなことを?しかしあり得ない話ではないのだ。むしろ十分あり得る。
再び老人の鼓動が激しくなった。まるで胸の中で鎖で繋がれた犬っころが飛び跳ねているようだ。ああ胸が痛い。
だが待て。あの時、あの交差点で彼を見かけた時のことを思い出せ。あの時タオルは濡れていたか?髪の毛はどうだった?
濡れていなかったはずである。それに、もし濡れていたとすれば、いくらなんでも気がついたはずだろう。とは言っても、老人は先ほど早とちりして大いに慌てふためいたばかりである。自信喪失も甚だしい。認めたくはないが、誤信ということも十分あり得る。だがもしそれが事実だとすると、おれはなんて無駄なことをしているのだろう…。
 若者は老人の惑いなどまるで知らん顔で歩いている。なんて落ち着いた足取りだ。あれがこれから銭湯へ行く男の歩き方だろうか?まるで王様のように自信たっぷりではないか?  
それにしても一体やつはどこまで行くつもりだろう?
老人はだんだん帰り道が心配になってきていた。葛藤は深まる一方である。だが老人にも意地がある。今さら後にはひけない。そして、銭湯に行くのだか、自宅に帰るのだか知らないが、とにかくあの若者の行く先を突き止めてやろう、そう決心した。毒をくらわば皿までだ。いや、皿をくらわば毒までだったか?
しかしそうはいっても尾行という慣れない行為は、どうやら想像以上に老人を疲れさせたようである。先ほどから老人は全然思考がまとまらなくなっていた。糖分が足りていないのかもしれない。今日は少し頭を使い過ぎたのかもしれない。考えれば考えるほど深みにはまっていく気がした。思えば思うほど世界から遠ざかっていく気がした。どんどん曖昧になって行くのだ。そもそもこの旅は目的が曖昧だ。銭湯に行くのか?どこへ行くのか?道も曖昧だ。さっきの古ぼけた団地のようなものも、まるで曖昧だったし、この掲示板も曖昧だ、あの松の木も曖昧、どこもかしこも曖昧だ。私はいったいどこへ行くのだろう。
老人は疲労困憊だ。混迷は深まる一方だった。やがてどういうわけだか老人は、旅の唯一の道案内であるこの若者が怖くなってきた。この若者はさっきから一心不乱に歩いていた。だが一体何を考えながら歩いているのだろう。もしかして気づいているのではないだろうか?そして私をどこかへ連れて行こうしているのではないか?
ほら、昔話にもあったはず。ハーメルンとかなんとか言ったっけ?とにかく笛を吹いて子供達をさらっていく話だ。やつは老人のこともさらうのだろうか?老人なんてさらってもなんの得もないだろうに。
それにしても、この膝の痛みは酷い。どうやって帰ったらいいのだろう。こんな時妻がいてくれたらいいのに。妻がいてくれたらおれはきっとこんなふうに弱音を吐いたりもしなかっただろう。おれはもっと強い男でいられただろう。だがそれもこれもみんなおれの自業自得なのだ。
ああ妻に会いたい。妻は最後におれを許してくれただろうか?死ぬ瞬間の彼女は、痛かっただろうか?苦しかっただろうか?なぜもっと大事にしてやらなかったのだろう。仕事なんてあいつの命に比べたらどうでもいいだろうに。おれはいつも気づくのが遅い。あいつには老後なんてなかったのに、なぜ旅行のひとつでも連れて行ってやらなかったのだ。悔やんだところでしかたがない。けれども死んでしまったら終わりなのだ。二度とやり直しはきかない。人生はなんて残酷なんだ。残酷でおまけに訳が分からない。
ふと、我に返ってみると、青年の姿はどこにも見えなかった。老人は声をあげて泣きたかった。でも泣けなかった。おとなだから。けれども誰かにこう言われている気がした。好きなだけ泣けばいいさ。おまえの人生なんだもの。そうだ。おれの人生だもの。おれが泣かないでだれが泣いてやるのだ。そして彼は、少しだけ泣いた。自分のために泣いた。それから妻のために泣いた。泣きながら思った。この人生は金太郎飴のように、どこをどう切り取ってみてもおれの人生そのものなのだ。おれはあの若者にはもうついていけないし、銭湯にもどこにもたどりつけはしないのだ。
 なんだか疲れがいっぺんにやってきて、老人はこれ以上我慢できずにその場にへなへなと腰を下ろした。そして膝を擦りながら、痛みがひけるまでしばらくこうしていようと思った。目を閉じていると、いつのまにかそのまま眠ってしまったらしい。
 
そっと、老人の肩に誰かの手が触れた。「お疲れ様でございました」とその誰かが言った。その声はなんだか妻の声に似ていた。老人ははっとして目を覚ました。
我が目を疑った。間違いなく自分の妻が立っていた。彼は膝の痛みも忘れて立ち上がった。そしてまじまじと彼女を見つめた。
彼よりもずっと若い。あの頃と全然変わらない妻がいた。驚きのあまり口がきけないでいると、再び妻が口を開いた。
「ほんとにお待たせを致しました」
彼はなんとか言葉をかき集めた。「お、おまえ、死んだはずじゃなかったのか?」
「はい。死にました」と妻が答えた。
「ですからこうして私、あなたをお迎えに参りました」
老人が首を振って再び「分からない。ど、どういうことだ?」と聞くと、妻が言った。
「先ほどあなたが信号待ちをしていたところに、トラックが突っ込んだのでございます。むごい事故でございました。怪我人が大勢出て、運転手は幸い無事でしたが、あなたとあの若者は即死でした。ほら、あのたらいを持った若者でございます」
「そんな、そんなばかな。トラックなんて来なかった。来なかったはずだ」
「はい。私、あなたに痛い思いをさせるのがしのびなくて、トラックが来る前にあなたを呼びに来たのでございます。ほんとはそれはいけないことだと止める人もおりましたが、でも、あなたは昔から痛いのは苦手でしょう。私、だから無理を言って来させてもらいました」そういって妻は老人の手をとった。妻の手は昔と変わらず温かかった。懐かしさがこみ上げてきて、老人はまた涙が出そうになった。
「あの若者は?」涙を隠して老人が問いかけると、妻が答えた。
「あの若者のご家族の方と一緒に参ったんですけど、可哀想に、どうやらあの方にはまだもう少し時間が必要なようですね」そう言った妻の視線の先には、あの若者がいた。家族らしき人たちに囲まれてはいるけれども、若者はまだ我が身に何が起こったのか理解できないでいるらしい。手にはあのたらいを握っていた。
「これからわたしはどこへ行くのだろう。まさか地獄ではないのだろ?」と彼が尋ねると、妻は「もちろん、いいところでございます」と答えた。
「そうか。なら、そこには銭湯もあるのかい?」と思わず自分でも間抜けな質問が口を出たと思ったが、妻は気にせずに答えた。
「もちろんありますとも。ほら、あそこ、見えますでしょうか?」
おお、なるほど、さっきまでなかったはずのところに、いつのまにか銭湯が建っていた。
なんだかあの世は思った以上に不思議な場所らしい。
「よし、それならまずひとっ風呂浴びて、それから出かけようか」と老人が誘うと、妻が嬉しそうに返事をした。
 

銭湯

銭湯

老紳士に訪れた不思議な出来事。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-03

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