党派の儚1️⃣
党派の儚1️⃣
-貴子-
息も絶え絶えの機関車が、北国山脈でも名だたる険峻な峠を登りきって、漸う、侘しい停車場に辿り着いた。
一人だけ乗り込んできた豊潤な女が、類の顔前に座るなり、「あなたしかいないんだもの。離れて座るのも不自然でしょ?」と、名前を告げた。
その貴子という女が、まじまじと類の顔を見つめて、「反骨の気質なんだけど、何れは大業を為すという、滅多にない相なのよ」「こんな人と会ったことがあるの。極め付きにいい男だったわ」と、続けて、「手相を見てあげようか?」と、言うのだった。
類の掌を妖しく愛撫しながら、「あなたにもただならぬ女難の相が出ているから、心がけをしないとね?」と、男の顔を覗き込んだ。
貴子は山腹の温泉に宿をとると言うと、男の全てを知り尽くした様に、「あなたも無謀な旅の疲れを癒せばいいんだわ」と、誘うのであった。
温泉宿で、交接の合間合間に、二人は互いの来し方を話したが、肝心な過去は虚偽や秘匿で彩られていた。
貴子は北国一の歓楽街の外れの路地裏に、五席ばかりの居抜きの小料理屋を買った。二階に住まいがついている。即金であった。詳細を明かさないままの類が曖昧に同居した。そして、間もなく、敗戦になった。
狂ったように蒸し暑いその日、夾雑にまみれたラジオの玉音放送を聞きながら、二人は、怒りと悔恨と希望を汗にまみれさせて、混沌と抱擁するのだった。類は、この時に初めて、その来し方の全容を語った。
「こんな陳腐な声の男が、あの御門だったの?」汗にまみれた重い乳房を揺らしながら、「正体見たり何とやらなんだもの。余りに馬鹿馬鹿しくて」「酒でも飲まなかったら、聞いてもいられないわ」と、立ち上がった。
居酒屋の二階の六畳一間である。窓は北側に、辛うじて切られているきりだから、風は入りようもない。
「こんな男のために、どれ程の人が死んだの?」「無駄死にだったって訳でしょ?」「あなたが徴兵を拒んで旅に出たのは、実に賢かったんだわ」「たった今からは空襲の心配もなくなったんだもの」
類がザラ紙に何事かを書き付けていた。
重たい乳房だ。
この時にも、まごうことなく覚醒している。
桃色の張りつめた肉の躍動だ。
血潮が駆け巡る神経の豊穣だ。
堅固な思惟の源だ。
すぐに男を迎え、やがて嬰児に含ませる命の本源だ。
はち切れんばかりの終戦の歓喜だ。
天皇の玉音など、女には幾何の感傷すら残さない。
大衆の明敏な確証に、愚劣な政治の敗北がようやく辿り着いただけだ。
この国の統一性はとうに破壊され、女は生物の本能とだけ生きる契約を結んだから、永劫の大地に立脚している。
つい今しがた、花火花の一陣の風を受け、女は類の摂理として発情した。
始原の雌がしたように、女陰を膨らせ、膣から沸き立つ狂おしい香気で、この国の貧相な神話を打ち倒す若者を戦地から呼び寄せるのだ。
盛夏の真昼だ。 歴史を孕むには絶対の刻限だ。
革命の懐胎だ。
だから、女の尻は豊かだ。
国家神道を圧倒するリアリズムだ。
男達を産み続けてきた堅牢な砦だ。
蒙昧な権力への決然の対峙だ。
女が宿命に彩られ、淫奔に身体を開く。
受胎を促進する快楽が世界を創る。
新しい女神こそが、新しい言葉で、神話を創れるのだ。
300万人の死霊を弔えるのは、豊潤な肉体に纏われた言霊しかない。
類は北国大学に入学した。社会主義に傾倒して運動にも参加した。とりわけ、関心を抱いたのは、先住の少数民族の研究と権利回復の運動だった。
-貴子と草也-
貴子の脳裏から離れることのない、ある忌まわしい記憶があった。
アカギの紡績工場が焼けて、貴子は北国山脈の山懐の実家に戻った。寒村の小作だから文字面を凌ぐ程の貧農である。決まった仕送りもしていたが、失職した女の居場所などはある訳もない。
思案の日々に、祖母の命日に墓参りに行った墓石の前で、最近になって荒れ寺に居着たという僧の道善ドウゼンに、貴子は犯されてしまったのである。
道善は、散々に蹂躙した果てに、貴子に占いを教え込んだ。道善は高利貸しもする極悪な男だった。
貴子は、何故、そんな男に諾諾と従ったのか。居と食と、道善から与えられるそれなりの報酬は、貴子にとっては不可欠なものだったし、何よりも、実家に身を竦スクめるよりは、僅かばかりでも、ましだったのである。そして、男の情欲に女の身体が如何に反応したかは、貴子にも判然とはしないのであった。
そんなある日に、雲水姿の男が訪ねて来たのである。男は草也と名乗った。道善とはサタケ刑務所で同房だった。
道善は露悪な性向の男で、貴子を苛む度に、草也に聞こえよがしに、嬌声をあげさせた。会った時から、草也に悪い印象がなかった貴子には苦痛の極みだった。草也にしても、道善の底意などは承知していたから、忌ま忌ましさが募っていた。
この地では稀な、台風が近づいていたその日の宵紛れ、凌辱の最中に、遂に耐えきれなくなった貴子が、見たこともない性具を挿入されながら、大声で草也に助けを求めたのである。駆けつけた草也が傍らの仏像で一撃を下すと、道善は呆気なく息を引き取ってしまった。
大型の台風が直撃した暴風雨が荒れ狂う夜半に、濡れ鼠になりながら、二人は苔むした土饅頭を掘り起こして遺体を投げ込んだのである。そして、道善が隠し持っていた一千万を分けあって、草也は払暁に消えたのであった。
残った貴子が道善の失踪を本山に通報すると、直ぐに、派遣の僧がやって来た。道善の悪行は本山にも告発されていたのであった。
大型の金庫を開けると、現金はなかったが、大量の借用書と夥オビタダしい性具が出てきたから、僧が顔を歪めた。こんな不祥事が明らかになれば本山の権威も失墜しかねない。貴子は固く口止めをされて実家に帰された。
すぐに、本山から任命された新しい住職が着任すると、駐在所に道善の失踪届けを出したのである。本山から根回しがあったのか、それ以上の捜査は行われなかった。
所轄署の定年間際の刑事の伴内は、偶然に、この失踪話を耳にして不審を抱いた。借用書から推察すると多額であろう現金が、跡形もなく消えていたのが最大の疑念だった。彼はこの集落の出で、道善の犯罪紛いの行状を聞き及んでもいた。調べると、最後に関わったのが貴子であることも容易に判明した。
貴子に不審を抱いた男がもう一人いた。貴子と国民学校の同級生で、恋心を抱いていた男、赤麻である。
実家の兄嫁から貴子の居場所を探り当てた男は、探しだした貴子を脅迫して抱いた。
一九五〇年の晩秋。類は大学四年で、就職も県庁に内定していた。
貴子は、類に出来ることは全てし終えたと、思った。これ以上は、類の迷惑ばかりか、障害にもなりかねないのである。貴子は決断した。
-初江と類の一夜-
貴子が自裁したいきさつが、類には全く思い至らないのであった。僅かばかりの遺品の中に、幾つかの性具の他に陰毛の一房を忍ばせた紙包みがあって、類は号泣したが、手掛かりとてなかった。
失意に囚われて、類が初江に長い手紙を書くと、時を経ずに、訪ねて来た。初江は、夫が事故死して半年ばかりばかりだった。
一九四四年の厳冬の夕間暮れ。
薪ストーブが燃え盛る、裏列島の港町の停車場には、煙草を燻らす類しかいない。
やがて、未だ八時前だというのに、最終の下りの汽車が滑り込んできて、ただ一人降りて来て歩み寄った女がストーブに手をかざしていたが、「煙草を頂けないかしら」と、言った。
女は、「社用でセンダイに行った帰りで、家はここからバスで三〇分も分け入った山脈の深奥なの」と言い、「これから駅前の旅館に宿をとるが、今夜の泊まりはどうするの?」と、聞く。黙したままの男に、「ここで一夜を明かすなんて、いくら若くて頑健でも無茶なのよ」「それに、お腹も空いているんじゃない?」と、顔を覗きこんだ。
雪明かりに照らされて、女の身体は熱かった。「こんなに心が揺り動かされるのは初めてなのよ」「残り火が燻る身体が疎ましいわ」と、言った。
女の豊穣な尻の片側には、竜胆リンドウを象カタドった痣が、くっきりと浮かび上がっているのだった。
朝方の別れ際に、紙幣を握らせた初江が、「困ったら、いつでも連絡するのよ」と、涙を浮かべた。
-北国山脈-
類は県庁を断念して初江の会社に入社した。肩書きは営業課長だった。初江が社長である。主要幹部は初江の父の代から仕えている。
初江の橘山林木材は杉とヒバの広大な山林を所有して、製材所も営む。県庁所在地に材木卸会社と材木市場を持つ。タクシー会社も経営して多数の貸家も所有していた。ナンブの出の婿の父が辣腕で事業を拡大したのだ。首府に材木卸小売りの支店も出している。総勢ニ〇〇人の従業員がいた。初江は地元紙の取締役にも名を連ねて、橘家はこの地方の名家だった。
山頂が近づく山道で、突然、初江が小さく叫んだ。類が振り返ると、「見て」と、声を潜めて指を投げた。すると、杉の大木の根方に、三メートルもあるだろう、金色の蛇が鎌首をもたげて、二人と対峙しているのである。「この山の守り神なの」「三度見ると願いが叶うのよ」「私はこれで三度目なの」と、喜色で囁く。大蛇は、暫く二人を睥睨していたが、やがて、林海に消えた。
二人は顔を見合わせる。初江が唇を求めた。類が吸うと舌が応えて、「こんな風に、私の願いが叶ったんだわ」と、囁く。初枝の微笑みに木洩れ日が煌めいて、「あの夜からなのよ。きっと、あなたとはこうなりたいと、ずうっと願っていたんだもの」
「ここで、しましょう」と、初枝が両の手を杉の大木で支え、腰を折って豊満な尻を突き出した。「二人っ切りなんだもの」類が登山ズボンを引き下ろすと、張りつめて湿った桃色の尻がむき出しになる。類を迎え入れると、初江の妖しい嬌声が森に流れた。
山頂は西に開けて、眼下に杉林が広がり、遠く北国山脈の山麓にまで繋がっている。
五月の風が吹き渡って来る。
「類」と、初江の木霊が返る。「大好きよ」絶叫が果てしもない北の山脈に溶け込んでいく。「誰に聞こえてもいいわ」と、笑い捨てて、「この絶景が、みんな、私達のものなのよ」と、言った。
木陰に布を敷いて、ウィスキーを飲みながら初江が用意した弁当を食んだ。済むと、並んで寝転がる。
類は暫く眠ったような気がしたが、気がつくと、初江の手が股関で熱いのである。弄び、やがて、陰茎を吸う。そして、艶かしい悶えを憚らずに、再び、交合した。嬌声が山脈の遥かに流れた。
帰りは別の山道を辿って下りる。初枝が、林道を外れた少し奥に小さな泉があると言う。「薄暗くて気味が悪いから見たことはないんだけど、何だか、今日は気になってならない」と言い、鬱蒼とした一角の泉に着くと、一陣の湿った風が杉林を吹き抜けてきた。すると、「今、誰かが死んだに違いないわ」と、呟くのであった。
事務所に戻ると騒然としていた。類を拒否しているあの古参の幹部が脳溢血で倒れたと、言うのだ。医者が駆けつけていたが、間もなく息を引き取ったのであった。喧騒の中で、初江が類の手を強く握った。
初江は賄いの女だけに、あの金色の大蛇と泉の話を打ち明けたのだったが、この不可思議な予知に満ちた希代な話は、様々な思惑に彩られて、瞬く内に広がったのであった。
-雪子-
女の口から萎えた陰茎を外して、「実にけしからん」と、吐き捨てて、興味津々の女の尻に手を回した男は、初江の亡夫の勇二郎の兄、代議士の菊田臣太郎である。
女は女学校で初江の同級だった雪子で、老舗旅館の若女将だ。昼日中の不倫の情事である。
「あの男の事は、すっかり調べ上げた。イワキの豪農の次男で、ダテ家の重臣の流れだというんだ」「ダテはあなたの宿敵でしょ?」と、混ぜ返す女には答えずに、「親とは折り合いが悪かったようだ。因縁は父親の後添いだ。連れ子もいる」女が陰茎をしごく。「だが、旧制中学を出てからの数年がわからん」女が足を絡める。「だから、徴兵逃れの噂がたったそうだ」「戦後は北国大学で、社会主義に気触カブれたらしい」陰毛を撫でる。「今では何事もなかったように振る舞ってはいるが。あの思想は麻薬みたいなものだからな。そう容易く転向などは出来るものでもあるまい。必ず猫を被っているに違いない」女が陰嚢を探りながら、「でも、初江との姦淫の確証は、未だ、ないんでしょ?」「しかし、火のないところに煙はたたんのだ」「初江とあの若造が出来ているのは間違いない」雪子が萎縮を握りしめて、「勇ニ郎さんが亡くなって、一年ばかりだというのに。初枝ったら-。昔から淫靡な女だったんだもの」
いつの頃からなのか、菊田家と橘家は、反対党を支持して悉コトゴトくに対立を続けてきたのであったが、初江の両親の事故死を機に、菊田臣太郎が弟を婿に入れて、和解を装って勢力拡大を狙ったのだった。その弟が、突然に事故死してしまったのである。「あの女は、あの噂通りに、呪われているのか」と、菊田は舌打ちした。
類の経歴は、概ねは菊田臣太郎が調べた通りだったが、しかし、隠された秘密がそれ以上にあったのである。
草也
労働運動に従事していたが、03年に病を得て思索の日々。原発爆発で言葉を失うが15年から執筆。1949年生まれ。福島県在住。
筆者はLINEのオープンチャットに『東北震災文学館』を開いている。
2011年3月11日に激震と大津波に襲われ、翌日、福島原発が爆発した。
様々なものを失い、言葉も失ったが、今日、昇華されて産み出された文学作品が市井に埋もれているのではないかと、思い至った。拙著を公にして、その場に募り、語り合うことで、何かの一助になるのかもしれないと思うのである。
被災地に在住し、あるいは関わり、又は深い関心がある全国の方々の投稿を願いたい。
党派の儚1️⃣