居場所

 空は紅を端に追いやりながら、暗く染まっていく。日差しが辛うじて踏ん張る紫の境界線をぼんやり見つめつつ、機械的に足を前へ進めた。ついてくる早回しのレコーダーみたいな声が左から右へ抜けていく。
 ――それでね。浦和湖にはそれまでに自殺してきた地縛霊が、夜になるとさ迷ってるんだって! 生きてる人間を見つけると、仲間を増やしたい余りに、崖から手を引っ張って湖に引きずり込むんだってさァ……
「へー」
 抑揚のない返事をした。以前は気を使ってリアクションを取ったりしたものだが、最近、その必要が無いことに気づいた。お喋りのアイザワは、自分が気になることをただ喋りたいだけの自己中女だ。空気も読めない。だからクラスの皆から嫌われている。相手にされなくなって、同じく白い目を向けられている私にひっつくようになった。正直鬱陶しいが、突き放す気力も無い。怒りを向けられると面倒くさいし、何だかんだ言っても、指示された時ペアになれる相手は欲しいのだ。
 やっと分岐点に辿り着いた。アイザワの話はまだ終わってないようだが、片手を上げてそれを制す。
「じゃあ、また明日」
「うん、明日続き聞かせてあげるから!」
 満面の笑顔にさっさと背中を向けて、眉を顰める。
 『あげる』って、あんた何様?
 そして、歩調は遅くなった。やかましいという促進剤が抜けると、途端に足に重力がかかる。ああ、どうしよう。今日はどこを歩こうか。
 日光は力負けして、地平線の向こうへ逃げた。闇が空に広がり、その中に、細い月がぽつんと孤立してる。只でさえ冷気がスカートの下や服の隙間から忍び込むというのに、景色まで寒々しいなんて。だから冬は嫌いだ。あっという間に夜が来て、さあ、家に帰る時間だぞ、いつまでもほっつき歩くなと、戒めるように身を凍えさせてくる。
 帰りたい家なら、走ったっていいけれど。生憎私は、自分の『帰りたい』の感性とは真逆な家庭に生まれてしまった。
 嫌味ったらしい母親が、だんまりの父親が嫌いだ。母が、さも独り言かのように不満を吐き捨て、聞こえているはずの父が眉一つ動かさずリビングに座り続けて、部屋の温度が下がっていく様は大嫌いだ。冬の空気よりも身体の中心がひやりとして、肺を凍りつかせ、息苦しくさせる。
 誰が住んでいるのか見当もつかない住宅街を歩いていく。希に、車が無関心に横を通り過ぎていく以外は、人の気配は全て壁の中だ。焼き魚の匂い、零れる暖かい光、甲高い子供の声――私とは無縁の場所。
 ようやく腰を落ち着けたのは、公園のベンチだった。腕を組み、肘の中に感覚のない手をしまい込む。時計の短針が9を指す。そろそろ諦めないと尋問されることになると、頭の片隅ではちらつくのに、身体を動かすエネルギーとしては足りない。
 誰か、連れ去ってくれればいいのに。痛くされないならどんな変人でも構わない。ここでは無いどこかへ、行きたい。
 どれくらい、そうやって念慮していたのか分からない。視界に光が揺れて、私は現実に戻された。段々大きくなる眩しい輪の先は誰なのか、目を細める。街頭が紺色のズボンを浮き上がらせた。
「君、大丈夫?」
 警察だ。
 身体に電気みたいな緊張が走って、上半身が背もたれから離れた。咄嗟にうつ向けた鼻先を、白い光が掠める。このまま補導されて、大人しく帰る? いや、送られるのは氷より冷たい箱の中。そして待ち受けるのは――
 舌打ちをして睨めつけてくる母。我関せずとこちらに後頭部を向ける父。イメージがふっと頭に浮かんだ瞬間、あれだけ怠けていた私の身体は驚くぐらいの力を出した。ベンチの背を飛び越え、公園を囲うフェンスに向けて走る。
「あっ! 待ちなさい!」
 厳しい声と靴の音が耳でぐわんぐわんとこだましている。迫られる焦りは、より一層、フェンスにかけた足と、身体を引き上げる腕を素早く動かさせた。おかげで、足首を掴まれることなく乗り越え、反対側に着地する。そのまま、怒鳴り声に追い立てられるようにして、精一杯走った。
 暗い夜道に、ローファーの硬い靴音だけが響く。さっきまでは寒すぎたくらいなのに、今では風が撫でる耳の先さえ熱く感じる。
 どうしよう。どこへ行けばいい?
 無我夢中で走っていると、鬱蒼とした木立に隠れる、ひっそりした小道を見つけた。カラーコーンが雑に2個置かれていて、禿げた看板が、これまた2つ、斜めに突き刺さっている。
『危険! 立ち入り禁止』
『浦和湖 この先300m』
 スマホをポケットから引っ張り出して、迷いなくコーンの隙間をすり抜けた。ライトをつけて、先に進んでいく。最早後ろから、追ってくる気配はしない。そう分かると、足取りも心臓も、段々本来のスピードに収まっていった。
 携帯が作る白い丸以外は、全てが黒色だ。そこから、木の葉が風に揺らされる音が、かさ、こそ、と降ってくる。
 警察は、捜索するだろうか。誰かは分からなくても、学校なら制服から割り出せる。高校には知らせるかもしれない。どのみち、これから見つからないように帰宅すれば、家庭内のプチ事件で終わる……。
 だけど。
 私の足は着実に前に進んでいく。ライトの先に、別の世界が広がっていて、そこへ逃げ込もうとするみたいに。
 やがて、光の中は、雑草が散らばる土から、コンクリートへ移り変わった。少し傾斜がついたそれを、やっぱり進んでいくと、地面は平になり、錆びた鉄の柵を見つける。ライトで辺りを照らし、得た景色で周囲のイメージがついた。
 鉄柵は身体の両側方向へずっと伸びている。その向こうは切り立っていて、下は恐らく湖だ。ざらざらした柵に手を置いて、ライトで下方を照らしてみる。しかし、光を吸収しているみたいに、水面の反射さえ返ってこなかった。
 闇、闇、闇。巨大な、底無しの洞穴。
 ここなら、誰にも見つからなくて済むのだろう。家に連れ戻されることも、そこで針のような言葉をチクチク胸に刺されることも、学校でクスクスした笑い声に耳を塞ぎたくなることも、無くなる。
 静が、訪れる。
 ずっと見つめていた。充電が底をついたのか、ライトが突然、ふっと消える。真っ暗闇。掌の冷たい鉄と足裏のコンクリート以外は、何も無い。
 最後にこれを手放したら、どこかへ行ける。
 直感した。そしたら、躊躇はなかった。
 重力に任せ、冷気を身体で切り裂いていく刹那、口早な話し声を思い出す。
 ――生きてる人間を見つけると、仲間を増やしたい余りに、崖から手を引っ張って湖に引きずり込むんだってさァ……
 いいや、違う。湖はそこにあるだけだ。きっと皆、押しやられ、どこへも行けなくて、辿り着いて、分かった。ここが自分に相応しいのだと。
 ばしゃん、と音がして、世界は静かになった。

居場所

居場所

短編です。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-02-18

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