明瞭な夢を暮らす(曖昧さ回避)改

物書き子

明瞭な夢を暮らす(曖昧さ回避)改
  1. 明瞭な夢を暮らす
  2. 必死だった私と、見捨てた私 : 幼少期のこと
  3. しあわせサンプル
  4. 人間ではない
  5. 母のこと①
  6. 母のこと②
  7. 母のこと③
  8. 母のこと④
  9. 母のこと⑤
  10. 母のこと⑥
  11. 母のこと⑦
  12. 母のこと⑧
  13. 母のこと⑨
  14. 母のこと⑩
  15. 家族 : 私と父①
  16. 私と父②
  17. 私と父③
  18. 知らなかったことを知る : 取り込みたい
  19. 幾つであっても
  20. 明暗
  21. 花毒
  22. 銀賞
  23. 春霖
  24. 燃焼
  25. きっかけと出会った人たち、創作熱 : 崎山蒼志のこと①
  26. 崎山蒼志のこと②
  27. 崎山蒼志のこと③
  28. あむくんのこと①
  29. あむくんのこと②
  30. あむくんのこと③
  31. あむくんのこと④
  32. あむくんのこと⑤
  33. あむくんのこと⑥
  34. おわりに : 宝石箱

明瞭な夢を暮らす

この現から醒めたらば。──インクブス・スクブス/京極夏彦

私のはぜんぶ夢でした。夢のように他人事で、それでも間違いなく私の人生なのです。



非常に個人的なことを書いてしまおうと思う。
誰も興味はないだろうし、別に役立ちもしないだろう。でも私は文章として残して、顔も知らない誰かにひっそりと見てもらいたかった。そういう欲がある。
家族のことと、私の性質、夢中になったこと。愛すべき人たち。
書きやすい部分から、好きに書いていこうと思う。

現は夢。夢は現。私の今生きるこれは夢なのかもしれないと、度々思うことがある。生きる実感が何だかはっきりせず、薄い膜が張っている世界に暮らしているように感じたのは一体幾つのときからだったか。自分の年齢をきちんと自分の年齢として扱えたのはいつまでだったか。
寂しいような、諦めのような、諦めていっそ心地良いような。私が暮らすのは音量音質明瞭度が曖昧な繭の中。水の中。あるいはその両方のような。ぼんやりと苦しかったような、寂しかったような。
けれど振り返ってみればその歩みは決して全部が苦しさや寂しさ絶望だけではなくてところどころ途切れずプツンと目立つ煌めきがあって、それが淡水パールのネックレスのように愛らしく連なるので、結局その全てがいとしい。いとおしい。私の人生が結局は愛おしい。

色んな人がいる。だから私だけが特殊とも、可哀想とも思わない。それでも私にとって一番特別なのはやはり私の人生だ。この夢のような、あぶくのような人生でも書き残して振り返りたいと思うくらいには特別なのだ。
“人間”になろうと努力していたいじらしいわたしへ。
踏み出すことをずっと恐れていた臆病なわたしへ。
けれど正しさと優しさを愛す、強いわたしへ。

戻って来ないすべての過去の**ちゃんへ。


落ち着いて見渡してみれば、きっと世界は

必死だった私と、見捨てた私 : 幼少期のこと

どこから話したらいいのかわからない。皮膚の痒みを感じるのに、具体的にどこが痒いのか探り当てられないようなもどかしさがある。何を話しても的を得ているような気がするし、全くの的外れのような気もする。

私は虐待を受けたのだろうか。わからない。辛い経験をしたのだろうか。わからない。
だけれども、物心ついたときにはすでに厭世的だった。
どうして私は生まれたんだろう。
何か手違いで間違って生まれてきたんじゃないかな。
私はぜったい子供なんか産まない。だって、こんな思いをするんだったら、こんな。
こんなに苦しいんだったら。
私みたいなおかしい子が生まれてきたりしたら、かわいそうだから。
お母さんになりたくない。大人になるのが怖い。
幼稚園生のときひたすらこんなことを考えていたのを覚えている。
子どもは死にたいという気持ちに自覚的でない。そういう語彙を持ち合わせていない。でもきっと、私はあの頃からずっと死にたかったんだな。

多分、愛情深い家庭の子だった。なのにどうしてこんなことを思ったのだろう。どうして両親に対して、自分が生まれてきたことを申し訳なく思ったのだろう。
繊細すぎる性質だったのだろう。そうとしか言いようがない。
けれど、私の繊細さを私は愛している。その性質は私に生きづらさをもたらしはするが同時に生きる喜びも与える。感受性をフルに用いてそれを表現として外に出すとき、自分の性質がこうで良かったと、そんな風に思えるのだ。

記憶は三歳くらいからあると思う。自閉的な子どもだった。母に「はっきりしない子」、よそのお母さんに「おとなしい子」と言われるとごめんなさいという気持ちになるけれど、だからといって快活な子になるにはどうしたらいいか分からない。臆病で、よく泣いて、のろまで過集中なところがあって周りのことが見えていない。でも触れたものごとは深く考えて理解しようとしていた──と思う。
一人が好きだった。考え事に集中できるからだ。あの頃の記憶はいつも春だ。社宅のアパートの外で雑草を摘んで集めて、何か複雑なものを作ろうとしていた。そんな風には見えなかっただろうけれど、そういうつもりだった。時間の概念がなかった。だから突然幼稚園に通うことになったとき、急に忙しくなって息苦しくて、ついて行けないと感じたことを覚えている。あの生活にもう二度と戻れないと理解したとき、この先のことを思って恐怖した。

入園前は自由にやっていたけれど、幼稚園生活を始めて、「私は普通にしていたらみんなとずれちゃうんだな」と自覚した。実際はどうだか知らないけれど、そう感じた。活発さが違う。社交性が違う。絵の描き方や歌い方が違う。外見がおかしい。みんなが出来ることが出来なくて、みんなが理解できることも分からなくて、お漏らしの癖は治らなくて。自分の存在が恥ずかしい。だから自分の好きなものも、自分の好きなことも恥ずかしい。見られたり知られたりしたら恥ずかしいこと。

いい子になりたい。普通になりたい。
毎日泣かないようにしたいな。お漏らししないようにしたいな。
そうしないと私はきっと捨てられてしまう。こんな私だもの。

これが前提である。私はそういう子どもだった。

しあわせサンプル

情報過多だったのだろうと思う。

たとえば情報が砂のような質感のもので、それがざらざらと常に流れているのだとしたら、ひとりひとりの受容体はザルのようなものだと考える。私のザルの網目はおそらく平均より細かい。なので少しずつしか受け止められない。多すぎたり、流れが速すぎたりすると目が詰まったりキャパオーバーになってしまう。
自覚はなくとも身体は訴える。泣き虫やお漏らしや鼻詰まりは精神的なものが原因だったと思うし、小学校入学と共に毎日悩まされた頭痛もそうだったのだろう。子どもって痛みを感じる鋭さが特に強いのだろうか。あの頃の頭痛は今思うと小さな体でよく耐えていたなと思うような強い痛みだった。

何しろ、人生の初心者なので分からない事だらけだった。母や先生やクラスメートが「あなたが悪い」と言えばそれは真実となったし、私も執拗に自分を責め続けた。
「考えてごらん。どの環境でも、誰とでもトラブルになるということは**が悪いんだよ」とよく言われたものだった。私自身もその考え方が俯瞰的で理にかなっているように感じられた。
甘えた、自分贔屓な考え方はしたくはない。物事を正しく判断したい。私は悪い子で、問題だらけ。どこへ行ってもいじめられる。だから私にはきっと何かとても不快で大きな欠点があるのだろうと思ったのだけれど、それが何であるのか皆目見当がつかない。分かりさえすれば、一生懸命直すのに。それを知る為に人の心が読めたらいいのに。切実だった。
──どうやったらいい子になれるのかな。
子どもってどこまでも健気だなと思う。今はとてもそんな風に頑張れない。自分の限界も考慮に入れず、文字通り壊れるまで頑張ってしまう。虐待を受けて最終的に死んでしまう幼い子がいるけれど、そういう子も似たような思考だったのではないかと思っている。自覚のないままとことんまで自分を追い込んでしまう。
でも、頑張れたのは希望があったからなのだろう。今すごく頑張れば、とても素敵ないい人間になれるのでは、愛されるのではと思っていた。

私はいつでも姉だった。だからなのか、自分がまだ甘えてもいい小さな子どもだという意識が薄かった。私が「小さな子ども」だったとき、二歳年下の弟は常に「もっと小さな子ども」だった。比較すると、私はどの年齢でも「手のかからない大丈夫な子」に分類されることとなる。実際はまるで頼りなかったのだけれど。
どうして私はいつも漠然的に「ごめんなさい」と思っていたんだろう。その一方で時々小爆発のように「私のことを分かってよ! 」と泣いては母に当たってしまったんだろう。


これぞ私の欲しかった幸せ、というモデルケースのような思い出がある。
五歳だか六歳だかのときに、家族四人でアスレチックへ出掛けたことがある。雲梯(うんてい)を渡っていたとき、手が滑って一番高い位置から私はぽとりと落下してしまった。幼児だったし、下は柔らかい土だったしでちっとも痛くはなかったのだけれど、両親が顔面蒼白になってこちらへ駆けて来てくれるのが見えたら嬉しくなってしまった。
とりあえず心配してもらおうと思って大袈裟に泣いた。父が私を抱き上げてくれて、私は父にしがみついて一層泣く。物凄く贅沢なことをしている感覚があった。母も私に「どこが痛いの? どこを打ったの? 」と一心に聞いてきて、私はそのとき両親の注目の的だった。弟より自分が優先されているのが嬉しく、その日のレジャーも中止となって私のために即病院に行ってくれたのも嬉しかった。あのときの腹の底からの幸せ、あの感覚を私はもう一度味わいたいのかもしれない。

きっと、愛され気遣われたことは幾度もあったし、今訊いたとしても両親はそう言うだろう。私が気付かなかったり、甘えだったり、求めていた形でなかったり。あるいは忘れてしまっただけなのだろう。
ちょっとした事に傷付きやすくて、愛情の受容能力がひどく低いのは自覚している。
分かりにくい子とか難しい子とよく言われて、それもまた傷ついたのだけれど、まあそうだろうと自分でも思う。優しいけれど扱いの難しい繊細すぎる子。でもちょっと、あれは誰にもどうにもならなかったな。


大人になったとき、父が「お前は不幸だったな」と言ったことがあった。実の父親から太鼓判を押される不幸な子ども認定。でも私、その言葉が何だか嬉しかった。多分父のあれは「ごめんね」という意味なのだ。

全然いいよ。まるで無かったことのようにされるより、ずっと嬉しい。

人間ではない

自分がなぜおかしいのかずっと考えていて、「人間ではないのだな」と結論づけたのは小学二年生の頃だった。それが一番しっくりくる答えのように思われた。

家に「あかちゃんがうまれるまで」のようなタイトルの絵本があり、小さい頃からよく読んでいた。卵子が“あかちゃんたまご”、精子が“あかちゃんむし”と言い換えられていて、物凄い熾烈な競争のなか、一番最初にあかちゃんたまごに辿り着いたあかちゃんむしがそこに取り込まれ、一人の人間が育っていくのだと。あなたもそうやって生まれてきた一人なのだと、そういう説明の仕方だった。
絶対におかしい、と思ってしまった。
いつも人に遅れをとってしまう積極性の薄い私がそんな(はげ)しい競争を勝ち取れるはずがない。そうすると、何かのイレギュラーが発生して私をかたちづくる精子が意図せず偶然取り込まれてしまったのではないかと。
もしくは私の命は人間用の命ではなくて、本来は虫のようなか弱い生命として生まれる用の命だったのではないかと。
生まれて来るのなら私でない誰かの方が絶対絶対良かったに決まっていた。母は私たち姉弟に「お母さんがお父さんと結婚しなかったら、二人とも生まれて来なかったんだよ。だからお父さんと結婚して良かったんだ」とよく言った。母を悲しませたくなくて、言われる度にこにこしていたけれど、心は押しつぶされそうだった。
なぜ産んだの。お母さん。
あなたは、よく考えて子どもを持とうって決めた? 私みたいなのが生まれて来るって想像していた? 私みたいな難しい子が。あなた好みでない、かわいくない私が。私にしてみれば、母が別の人と結婚して、別の子を産んでいたほうがずっと良かったのにな。こういうとき、ヨブのような気持ちになる。“私の誕生した日は滅び去ってしまえ”。
裏口入学的な後ろめたさがあった。本来ならば存在するべきでなかった私が何かの手違いでここにいる。それを漠然と一言で表す言葉がきっと「ごめんなさい」なのだった。
──生まれてきてごめんね。クラスにいてごめんね。でも学校は絶対通わなきゃいけないところだから、許して。
本当に考えが飛躍しすぎ。私の中では結論が固く決定していて、それを裏付ける理由をこじつけたいが為の歪んだ思考である。
愛情をかけて私のために苦労してくれる人たちに対して、とんでもなく失礼な考え方だなと思う。感謝に欠けているよな。でもやはり、どうしてもそれが本心なのだった。

ジブリ映画「平成狸合戦ぽんぽこ」を見たとき、強く共感したシーンがあった。映画の終盤、狸と人間との共生の妥協案として、狸たちは人間の姿に化けて本物の人間に紛れ社会人として生活することを選択する。けれどそれは狸たちにとって常に負担のかかる状態らしく、なにか疲れていたり気を抜いたりした一瞬に、ふっと本来の姿に戻ってしまう。それはまるで日々を「普通に見えるように」と気を張って暮らしている私のようだと思った。私には、そんなふうに見えた。
家での私は狸だった。全ての場所で人間のふりはやはり無理があった。学校では何があっても穏やかで人に優しく、決して泣かないよう、常ににこにこしているようにと気をつけていたけれど、家での私はわがままで、よくめそめそ泣いていた。弟への当たりもきつかったのだと思う。今思えばアスペルガーめいたところや場面緘黙(ばめんかんもく)、HSP的な気質も影響していたのかも知れない。

ちゃんとしたい。ちゃんとしたいけど、出来ないな。
ただみんなと同じように振る舞うだけのことが、どうして出来ないんだろう。どうしてただリラックスして同年代の子と他愛ないお喋りをしたり、不自然に思われない仕草をしたり、自分の意見をはっきり言葉に出して言ったり、そういう当然のことが出来ないんだろう。自分は生まれるべくして生まれて、親には愛されて当然でという、そんな考えを持てないのだろう。
人よりずっとエネルギーを使って暮らしているような気がする。みんなの自転車のギアは「平」なのに私のは「軽」になっている気がする。タイヤのインチが小さい気がする。


転機は突然訪れた。
高校に入学して環境が変わったら、急に知らない人にでも自然な笑顔で自然に話ができるようになった。初対面の子と一緒に帰って、コンビニに寄って、同じ飲み物を半分ずつ分け合うような、そんなことがストレスなくできるようになって驚いた。ああいうのはどうすればいいかなんて考えるものじゃない。今までみんな自然にそれをやってきたんだな、努力なしに。
そんな基本的なことを十六歳にして初めて知った。
そうして思った。
なんだ、私はちゃんと人間で、みんなもただの人間で別に“人間様”じゃない。
私の人間年齢は十六歳から始まったと思っている。人より十六年遅れて、やっとスタート地点に立った。だから私の精神年齢は多分実年齢−16なのだ。

母のこと①

私と母との関係を一言で表すならば「癒着」だと思う。

他の人と私との人間関係には大抵、適切な距離感が存在している。でも私と母にはきっとそれが無かったのだろう。私たちは、互いの境目が分からないほどに癒着していた。
母の強すぎる母性と私の生存本能が最悪の形で作用していた。母はきっと私のプライバシーに踏み込み過ぎていた。個人としての尊厳という考えがそもそもない。無意識とはいえ私の個人的領域に入り込んで支配しようとしていたのだと思う。
母が本当の意味で私のことを愛していないというのは、知っている。きっと自分でも良く分かってはいないと思うけれどね。母が愛しているのは母自身なのだ。“自分の産んだ自分の子ども”が好きなだけで、それはべつだん私でなくても誰でも良い。
ねえ、私のこと、自分の延長だと思っているでしょう。自分の延長だからこそ、自分の好きなように扱ってもいいのだと思っているのでしょう? そして思い通りに行かないから不満なんでしょ。傲慢ね。

砂のような“情報”と、ザルの網目のような“受容体”の話をしたけれど、母の網目はかなりざっくりとしているのだと思う。
自分の発した言葉で相手がどんな気持ちになるのか考えられない。相手の気持ちを想像できない。思い込んでしまったらそれ以外の可能性が考えられず、決め付けてしまう。そうして、全く悪気なく、“自分が間違っているかも知れない”という可能性を考慮できない。だから、私の目の細かい気持ちは母の受容体からぼろぼろと零れ落ちてないもののように扱われてしまう。

父と母の結婚式の話(あるいは誰かの結婚式に出席した時の話かも知れない)を聞かされるとき、度々笑い草として出てくるエピソードがある。 
披露宴で出て来たご馳走の中に、殻が金色に着色されたゆで卵があったそうだ。剥くと白身部分が茶色で、みんな味付けされた煮卵だと分かったそうなのだけれど、母はその可能性を考えられず「白身が白くない→おかしい」と即座に判断して「この卵、腐ってますよ! 食べない方がいいですよ! 」と出席者に言って回ったのだという。
これはただの笑い話だけれど、全てにおいて母はそういう人だ。

普通のことを普通にするのが苦手な私は、だから母にとっておかしな子なのだった。
私を私として見てくれず、「子どもはこう」という母基準のテンプレートに当てはまらない私に彼女はよく「異常」という言葉を使った。「意地悪な子」「卑怯な子」「裏表がある」「出来ることをわざとやらずに手を抜いている」。
「異常だよ」という言葉、今でも傷つき続けている。私のこれは異常なんじゃないか、おかしくて恥ずかしいんじゃないか、とつい自分に疑念を抱いてしまう。それが私のスタンダードとなっている。
どうして私の話も聴かないで勝手に結論付けてしまうんだろう。
どうして私の動機を善意に捉えてくれないのだろう。複数の可能性を考慮しないのだろう。でも言えない。私はうまく言えない。言い方が分からないし、どこに違和感を感じるのか分からない。
知っている。母には悪気はない。だから(たち)が悪い。
「コーラは毒だよ! 」「漫画は不健全だよ! 」「金髪は不良だよ! 」「ダイエットなんて見た目ばっかり気にして不健康だよ! 」「はっきりしないのは悪だよ! 」
母はいつも強くて過激な言葉を使ったけれど、きっと自分自身がそういう強い言葉を使わないと理解ができない人だったのだろう。でも子どもの私にはその言葉は強すぎて怖かった。母の愛情表現の言葉でさえも脅迫的に聞こえた。彼女はいつも強い口調でこう言うのだ。
「お前は! 大事な娘だよ! 」
動物みたいな恐ろしく強い母性を示す人だった。私は恐怖で支配されていた。だってこの人から捨てられたら、私は死んでしまうもの。私のお母さんはこの人しかいないもの。

私はどうしても母を愛することが出来ない。親には敬意を払いたいのに、母を思うとき自然な温かさや感謝を抱くことが難しく、ことごとく情報止まりになっている。
母と私のことをできるだけ詳細に書き記したいと思って色々書き留めたのだけれど、私の中で母への愛情があまりにも欠けているので単に母に対する誹謗中傷のようになってしまいそうで、やめた。


だから出来る限り簡素に記すことにする。私が母を見限った経緯(いきさつ)について。

母のこと②

後々気づいたことなのだけれど、私が私特有の個性を発揮することが母には不快に感じるようだった。

大人しくて繊細すぎるところ。すぐ自分の世界に入ってしまうところ。はっきり発言出来ないところ。そして私の描く絵。
弟はいかにも子どもらしい素直な子だった。思ったことをそのまま言う伸び伸びとした性格は母には分かりやすく、可愛らしく映るのらしかった。
母に好まれる私になりたかった。それは私にとって死活問題だった。
今日気に入られても、明日はどうだか分からない。ひと月後は分からない。何かわがままを言って、おねだりをして嫌われるのが怖い。とにかくひたすら「申し訳ない」という強迫観念に囚われていて、自分独自の“良い子ポイント”のような概念を作り出してコツコツ貯めるような感覚で暮らしていた。

弟は母を困らせるようなことを言った。でも私はしない。
良い子ポイントひとつ。
母の定めた決まりをきちんと守った。
良い子ポイントひとつ。

ポイントの分だけ、愛される根拠が増えるのだと思っていた。振り返ると、何かしらの決まりを守ることや母を煩わせないことによってそれを貯めようとしていたのだろう。私が母に甘えるとか、嬉しそうにすることによって喜ばれるなんて考えもしなかったな。自分は存在自体がマイナスポイントで、出来るだけ迷惑をかけない良い子になることが一番喜ばれると信じていた。どうしてだろう。
何が原因か、私には絶対的に「誰かに愛されている、その資格がある」という感覚が不足している。
ネグレクトではなかった。種類はどうあれ程度の差はあれ、愛されていないわけでもなかった。衣食住に困ったこともない。気紛れで捨てられるはずもなかったのに、なぜそれを固く信じて恐れていたんだろう。母の機嫌の良し悪しは敏感に感じ取れる癖に、愛情を感じ取る力はどうにも薄い。いつもどこか淋しい。
母に話したなら、きっとこう言うことだろう。
「いやあ、つくづく人間はゆりかごから墓場まで愛情を求めるんだねえ。人間っていうのはそういう生き物なんだねえ」
全くの他人事である。

良い子になりたいと願っていた割に、私は全然良い子にはなりきれなかった。学校ではガチガチに緊張していたために出来ないことが多くて、迷惑をかけっぱなしだった。お喋りが出来なさ過ぎて、他の子の会話に耳を(そばだ)てては暗記して、こう言われたらこう返すんだなとシミュレーションしたりとか。出来るだけ目立たないよう、クラスの他の子たちから浮かないようにと意識し過ぎて、トイレに行くとか花に水をやるとか教室の本を借りるとか、とにかく自主行動的なことが出来なかったりとか。情報量が多くて混乱してフリーズして、自分のやりたいようにやるという、ただそれだけのことが私には高すぎるハードルだった。
私にとって、“学校に行ってその環境にとどまっている”ということそのものが、かなりのエネルギーを要した。私の情報容量はあっという間に限界値に達してしまう。それを超えると頭痛がしてくる。そんな訳でほぼ毎日頭痛で、下校の頃にはぐったりしていた。
家では相変わらずよく泣いていた。泣くのが癖になっていたとかそういうことでもなくて、一回一回が本当に辛くて悲しかったからなのだけれど、それにしてもしょっちゅう泣いていたなと思う。母が不快に感じているのは知っていた。「うるさいからやめて」とよく言われたものだった。
私が泣くのは昔からただひとつの理由のみ。
自分の存在が、おぼつかない。


勝手なやり方で母に尽くしていた。「尽くして」なんて言われてもいないのに。母好みの私になりたくて、自分の好みも意見も態度も母に受け入れられるものに変形させていた。
母は子どもの頃から何でもかんでも私に話していた。父の愚痴から、よそのお母さんの中傷、自分の思ったこと、教育的なあれこれ。学校から帰ると私が学校でのことを話す間も無く、母は浴びせかけるように自分の話したいことを語り始める。私の周りで起こったことや、自分の気持ちは話せない。受け止めるのに精一杯で、母に同調するしかない。むしろ母の言うことは全て正しいのだと信じて疑わなかった。その中に、弟の話題があった。
二つ下の弟は、私が小学三年生の頃入学してきた。しばらくして、弟はクラスメートにいじめられるようになった。弟はすぐ母に泣いて訴えて、母はそれをなぜか私に“相談”するのだった。
「メガネをかけてるからね、“メガネザル”って言われるんだって。給食の牛乳のストローの袋に付いてる糊を、メガネになすり付けられるんだって。可哀想にねえ」
「うん」
「体も小さいからねえ。一年生になったばっかりなのにねえ」
「うん」
「**くんは本当に悲しそうな泣き方するでしょ。可哀想になっちゃう」
母はしきりに可哀想に可哀想にと言っていた。
聞きながら、傷付いていた。弟がいじめられているのは可哀想だ。でもなぜそれを、私に相談するんだろう。弟と同じ、子どもであるはずの私に。同じく一年生からいじめられて今年度から三年目になる私に。なぜ真っ先に父に相談しないのだろう。私にそれを言って一体何になるというのだろう。
押し潰されそうに苦しかった。
あのね、私まだ九歳だよ。言われた私はどんな気持ちになるか、重荷になりはしないかと考えてはくれないの。私にはそういう配慮はしてくれないの。
ねえお母さん、じゃあ、私が自分もいじめられていると打ち明けたら同じように「可哀想に」って言ってくれる? 同じことを言ってくれるかなあ。もしどうしようもなくなって、耐え切れなくなったら、やるべき事をやっても八方塞がりみたいになったら、私もお母さんに言ってもいいかな。「可哀想に」って慰めて、抱っこしてくれるかな。

ここでも「良い子ポイント」が発動して、私は自分もいじめられているのだと言うことが出来なかった。ただ、少し希望になったのは、母は自分の子がいじめられたことに対して“可哀想に”と言ってくれるという発見だった。可哀想にと言ってくれて、母が味方になってくれたなら、私は学校でどんなに辛い目にあっても心強さで頑張れるかも知れない。でも、それは本当に自分で出来る限り頑張って、どうしても駄目だと思った時にしよう。なるべく自分でなんとかしよう。
私は「母親にいじめられていることを相談して助けを求める」ということを最後の手段、希望の光みたいな場所に据えてしまった。

いよいよ本当に駄目だと思った時、思い切って母に相談して後悔した。
母は味方してくれたのだろう。実際私がいじめられていると知って、彼女が何を思ったか分からない。第一声目は何だったろうか。「担任の先生に手紙を書きなさい」だったかな、それとも「弱そうにしてたらなめられるよ」だったろうか。
いずれにしても、“私に落ち度があって、対処の仕方が悪い”と言われているように感じて、気持ちの持って行きどころがなかったのを覚えている。
「よく相談してくれたね」「よく耐えてたね」「可哀想にね」。
端的に言えば、私はこの言葉だけで良かった。それだけで、私のぎりぎりの心は救われる気がしていた。
いじめなんて人の心から発生する。先生が注意したって、私が毅然としていたって、人の心を押さえつけることなんか出来ない。であれば、私は心の支えになる味方が欲しかった。
お母さん、**くんみたいに、私のことは「可哀想」とは言ってくれないの。私がいじめられるのは私が弱くて異常だからなの。お母さん。
以降、母は私のために良かれと思ってか、いじめの主犯格の女の子のことを見下したり小馬鹿にして笑うようなことを度々した。あの時は何となくもやもやしていたけれど、今なら分かる。いじめをしていた子だってあの時たった九つで、幼く不安定な子どもだった。よその家庭の大事な娘だった。それを分別も力もあるはずの大人がからかうなんて、絶対にしてはいけないことだ。母は根本的にいじめっ子と同じことをしていた。だからあたかも自分がそれを受けているようで傷付いたのだ。
私、いじめてきた子のことなんて全然恨んでいないのに。だって相手は人間様で、生まれるべくして生まれた人で、一方私はすごく変なんだもの。されたことは悲しかった。だけどいじめられた事といじめてきた人は私の中で分離していて、苦しさが除かれればそれで良かったんだ。母に優しい言葉をかけて貰えなかったことの方がよっぽど苦しかった。

いじめの延長と言うべきか微妙だけれど、学校で描いた絵は人に取られてしまいがちだった。
子どもの絵だし、特別上手いわけでもなかったけれどクラスメートから「ちょうだい」と言われることが多く、「うん」としか言うことのできない私は大抵家に自分の絵を持ち帰ることが出来なかった。でもあるとき持ち帰れたことがあって、母に褒めてもらうを楽しみに下校した。
母から肯定の言葉を貰った記憶はない。しばらく私の絵を眺めて、それから
「悪いけど、邪魔になるから捨ててもいい? 」
と言われたことだけ覚えている。
「うん」
と私は言った。そう答える他にどうしたら良かったのだろう。頭が真っ白になって、その返事しか思い付かなかった。

私の絵は母から憎まれているような気がずっとしていた。母自身も絵を描く人だった。
もっと幼い頃は母と私と弟で、花かなにかを真ん中に囲んで写生大会をしたものだった。でもあるときから母は「絵を描いて」とねだっても描いてくれなくなった。「**の方が上手いから」と適当なことを言ってはぐらかしてしまう。好きなように描いた絵も、「もっと子どもらしい自由な絵を描いたらいいのに」と言われてしまう。
以降、私は持ち帰れた自分の絵は母に見せずに弟と私の子ども部屋に自分で貼って飾るようになった。

高校生くらいの頃「お母さん私の絵好きじゃないんでしょ」と言ったことがある。母は肯定した。「だって暗いし、目に輝きがないんだもん」。

それから私は目に光を入れないで描くのが怖くなった。

母のこと③

母のいいところは何だっけな。

何だったろうな。やってもらったことは沢山ある。私は母のどういうところが好きだったのかな。きっとあったんだと思う。でもすっかり忘れてしまった。あんなに話したのに、コミュニケーションを取れた感じが全然しないの。いつもずれていて、糠に釘といった感じで、体力ばかり異様に消耗する。食品のクリームを化粧品のクリームの話と勘違いをして食い違うみたいなの。


私は空想の世界に過剰に没入してしまうタイプらしい。
割とほとんどいつでも、ひとり頭の中でごっこ遊びをしていた。絵を描きながら、リカちゃん人形を用いて、通学中、そして寝る前に。鼻が詰まって寝付きの悪い子供だったから、演じなかった夜は多分ない。
私は何処かの国の美しいお姫様の役をして、ひたすら優しい王子様のシナリオを考える。お姫様の本当の気持ちも動機も、口下手で上手に言えない彼女に先回りして分かってくれる。うまく言えないからとその動機を勝手に判断して「狡い、卑怯だ」と詰ることはない。
『お母さん』が満たしてくれないものを、私は『王子様』に求めた。そうして無条件に愛される疑似体験をした。私の本当に求める王子様は、お母さんだったのかも知れない。そうして自分で自分を抱きしめた。可哀想ね、可哀想ね、**ちゃん、**ちゃん。そして母はいつも来なかった。

それから一人の時間がどうしても必要で、子供部屋でリカちゃんを用いて『世界名作劇場』ばりの壮大な物語を組み立てて演じているとき、絵を描いているとき、不意に部屋の襖を開けられるのを酷く嫌った。自分の世界を誰かに見られるのは恥ずかしく侮辱される感じがして、私はよくパニックになって大声で泣いた。個人の領域を侵される感覚がしたのだ。

私が泣くことを母はいつも“拗ねている”と表現した。
『拗ねている』って、便利な言葉だなと思う。泣いている私を拗ねている事にすれば、母は私に対する責任を放棄して、小馬鹿にして非難すれば良い。母の解釈に則れば、私は『傷ついている』のではない。意地を張っているだけ。その本音を探って、心に寄り添う必要は生じない。
ああそうだ、それで「**は自分を大事にしすぎる」と言われたんだ。感情なんか大事にするんじゃないよって。母の図式では感情的=泣くことという括りになっていた。

小学五年生くらいの頃、こんな事を言われた。
「引っ越しの時にさ、荷物運びを手伝ってもらって、もし誰かが『この段ボール傷付けちゃった、ごめんね』って言ってきたら『そんなの良いよ、段ボールだし』って言うでしょ。でももしそれが宝石箱とかだったらそうは思えないでしょ。**は自分のこと宝石箱だと思ってるんだよ。自分のことが大事大事だから、すぐ泣くんだよ。自分は段ボールと思ってれば良いんだよ」
そうだ。そう思わなくっちゃ。
私は段ボール、私は段ボール、私は段ボール。
馬鹿なのか、いじらしさなのか、あのとき私は母の言葉は正しいと受け止めた。そして自分が段ボールだと思うよう、努力していた。とにかく良い人になりたかったのだ。
そのおかしさに気付くのはやっと今更だ。
お母さん。私ちゃんと思っていたよ。段ボールどころか、自分のこと人間じゃないってずっと思っていたよ。
自分だけ特別と思わない方がいいよと、半ば馬鹿にするようなニュアンスで母は言う。でもその一方で私のことを異常と言う。結局どっちなんだろう。

母も母なりの基準できっと優しい。でもあの人の優しさは物をどっさり与えたり、外食に連れて行ってくれるという示し方だった。真ん中が空洞なのに周りだけ賑やかに飾り付ける感じ。私はそれをされると何だか馬鹿にされたような、申し訳ないような気持ちになってしまう。


親に敬意を払いたかった。感謝を出来るだけ表したかった。それは当たり前で正しい事で、私にはそれが全然足りていないのを自分で分かっていた。
悲しくて、煮え切らない気持ちは勿論あった。でも、親は絶対的に敬うべき目上の存在だ。私はなんだかんだ言って養ってもらっている身だ。
そして、“お母さんはいつか絶対分かってくれる”という盲目的な信仰を抱いていた。いつか私の思っていたことも、密かに耐えていたことも全部分かってくれるんだ。そして私に目を向けてくれるんだ。大人になって、家を出るまでにはきっとそうなるんだろうな。
そういう未来を勝手に想像して、それが私の希望となって、だから頑張れたのかも知れない。

母のこと④

家族のボスは父ではなく声の大きい母で、母が家の決まり事を取り仕切っている。

母には自分独自のルールというのが強くあるようだった。
勿論効率の良い家事の仕方や生活パターンというのはあるだろうし、誰にでも多少こだわりは存在するのだろうけれど、その融通の利かなさは一般より強いように私には思えた。予定外を楽しむことが苦手なのだ。
子どもの扱いにしてもそうで、母は私の選択や行動を自分で管理しなければ気が済まないようだった。
母の世界には善と悪、白と黒しか存在しないようなところがある。「これはこうすべき」「こう考えるべき」「この道へ進むべき」と、母はいつもすでに決定したことのように自信たっぷりに言う。それ以外のことは悪。そして私の身に危険が及ぶことに敏感だった。

高校生になっても、文化祭の準備期間などで夕方六時くらいまで学校に残っていたりすると、母が電話をかけてきて校内放送で呼び出されてしまう。怪我や病気の時も大袈裟に騒いで心配した。そのくせ感情の分野には無頓着で、私含め人を断罪し批判するような事を平気で言う。その傷つきは全て「わがまま」括りにされてしまうのが酷くちぐはぐだった。
自分の基準が全く正しいとなんの疑いもなく思ってしまえる人だったので、私を支配しているつもりはなかったのだろう。むしろ善意で私の道を整えようとしているのだった。けれど私は母の粘土人形ではない。性質も好き嫌いも感情も違う。それに、母は私の内面の事情を知るつもりがなかったのだから食い違いが生じるのは当然のことなのだった。
その一方で、私は母を尊敬してもいた。私はまだまだ子どもで、母は年長者だ。経験があるからその分視野も広いはずだ。だから、母が私のためを思って言う意見に全く耳を貸さないのも愚かだという気もしていた。自分が反抗期と呼ばれる時期のさなかにいる事も承知していた。無根拠な反抗はしたくはなかった。“反抗期だから反抗していい”なんていうのは自分をコントロール出来ない、未熟な人間のすることだ。

ただひとつ、私が一貫して主張して衝突の元になったのが「私の気持ちをちゃんと聞いてよ」ということだった。この手の話になると私は幾つになっても感情の調整が出来ずに激しく泣いてしまう。その都度母はうんざりした顔をする。慰めてくれることがあるかと思えば、余計傷付けられるパターンもある。撫でたその手でつねるようなことをする。
「私のことを分かってよ!」
と言えば
「**だってお母さんのこと分かってくれないじゃない」
と返される。
「なんでそんなに嫌そうな顔をするの、感情移入をしてくれないの」
と泣いて訴えれば、深刻な話なのにずっと微笑んで聞いていたりする。そして「あ、洗濯物を取り込む時間だ! ごめんね! 」と相談が唐突にお開きになってしまうことも珍しくなかった。
洗濯物の取り込みなんて、幾らでも手伝うのに。少しくらい取り込むのが遅くなっても、「ちょっと冷たくなっちゃったね」と言いながら私と一緒に取り込んだら良いのに。予定外を受け入れられない。私と向き合わない。
「空が青いねぇ」
と母はよく言った。不自然に話題を切り替えようとするときに用いる常套句だ。いつも躱される。逸らされる。そしてそれ以外はありったけ自分の話をする。
昔から自分の興味のない話はスルーして、時には軽蔑したりして、自分のことを話題の中心にして話す人だった。それを思いやりのないやり方とさえ思っていない。目に見えるもので判断する。その割に自分の価値観もころころ変わりやすくて、辟易する。

美術系の趣味に長けている人がいて、私がその人との会話内容を話したときのこと。その人が見せてくれた作品のあれこれについて詳しく尋ねて細かな技術や事情を教えてもらったことがある。たとえ自分に興味のない分野でも、詳細まで聞き込むことによってその人を知ることができるし、学ぶことも多い。けれど母はその話を聞いて一笑に付した。
「えー! その人のこと、そこまで持ち上げてあげなきゃ駄目なんだ。そこまで踏み込んであげなきゃ駄目なんだ! 面倒臭い! 」
不信感は少しずつ、じわじわと私の中で積み重ねられていく。母は、自分も絵を描く人のはずなのに、他の人の技術に敬意を払わない。技術がいくら高くても、好みに合わなければ平気で馬鹿にしたりする。

『そこまで踏み込んであげなきゃ駄目なんだ 』って。
そうよ、駄目に決まっているじゃない。そうでなければ本当の意味でその人の事を知ることが出来ないじゃない。特にそれって親子には必要なことではないの?
少なくとも私は必要性を感じていたよ。だってここは、私の本拠地なのだから。私の本当のこと、出せるのは世界でここだけなのだから。
つまり母は、私の人間性についても“そこまで踏み込んであげなきゃ駄目”なんだとは微塵も思っていなかったらしい。思いつく自分の話をひたすらすれば、それを面白おかしく語って私が笑えば、それで私はここが安心出来る満たされる場所と思うはずと決め込んでいたらしい。深い話は、どこでもしてはいけないらしい。
母は私の外側だけ整ってさえいればそれで良い。健康で安全でいればそれでいい。私が何を考えているかなんて知りたいとも思わない。知る必要性を感じていない。
泣いているのは『拗ねている』ことで、私の気持ちを正確に伝えようとする努力は『難しい事をごちゃごちゃ言っている』と捉えられる。私は私の感情をどこまで押し込めればいいのだろう。
いまだに母親から与えられた淋しさに上回る淋しさを経験したことはない。
日本の家庭ではありがちなことなのかも知れないけれど、家族なのにずっと互いと深いつながりが持てない、深い話ができない聞けない聞いてもらえないというのはやっぱり不幸だったよなと思うのだ。それが子供の頃から何年も続いたんだもの。不幸だと思っても良い。結構みんなそうだよと言われたとしても、それは不健全な家族のあり方だ。


かなりの年齢まで、私の伝え方が恐ろしく下手だからそうなんだと思っていた。悪いのは結局私で、もっと色んな方法を試みなきゃ、努力しなきゃと思っていて疑いさえしなかった。

母のこと⑤

小さな我慢は積もり積もって、私を卑屈にならせているのだった。

十九のときに一人暮らしをすると決めた。理由は複数あったが、親にいつまでも迷惑をかけたくないという気持ちもそのひとつだった。
世間知らずだったのでどうやって部屋を借りていいのか分からず、情けないけれど母と二人三脚のような形で計画して、結局実家からそれほど遠くない距離にあるアパートに入居することとなった。
多分その頃だったのではないかと思うけれど、私が休みの日、母は毎週のように一度も行ったこともないレストランやカフェを開拓しては、私をランチに連れて行ってくれた。多分それは母なりに私が喜ぶことをしたいと思ってのことだったのだろう。子どもの頃から母の“ご褒美”のやり方はそうだった。
スーパーで一緒に買い物に行ったとき「今日はご褒美! 好きなもの買っていいよ! 」
レストランへ連れて行って、デザートまでつけて「ご褒美だよ! 沢山食べな! 」
これは本当に私の落ち度なのだけれど、そういう時私が受ける感覚は嬉しさより申し訳なさとある種の緊張の方が(まさ)った。「お母さんが私を喜ばそうとしてる、喜んでるって分かりやすく表現しなきゃ! 」というプレッシャーと、お金を使わせている申し訳なさ、子どもの胃袋なので沢山食べなと言われても食べきれないこと。
私が本当に欲しかったのは母からの是認と興味と安らぎで、そのためにコツコツと“良い子ポイント”を貯めていたはずだった。
それを思うとなんだか無性に淋しくなってしまった。
ああ、この数回の食事の権利の為に私は今まで母に尽くしてきたんだっけ。これが母から私への愛情の総決算なんだろうか。
感謝しなければと思っていた。甘えた考えだとも思った。でも、ぼんやりとそんな事を考えていた。もらうべきものをもらい損ねてしまったというような感覚が残った。
誰からであってもそうなのだけれど、「物」をもらうことに対して私は嬉しさよりも苦痛──申し訳なさとプレッシャー──を感じてしまう。
口では勿論「ありがとう」とは言う。でも本心は違う。優しくして貰っているのに素直に感謝出来ない、喜べない。面倒な人間だなと自分でも思う。

実家近くのアパートを選んだことが後々弊害になった。
一人暮らしを始めたものの結局私と母の距離感は以前とあまり変わりなく、知り合いや友人も母と共通の人が多かったため、生活から母を排除することが出来なかった。いや、排除しようなんて思っていなかった。感謝すべき、敬うべき、大切なお母さんだったのだから。私を深くは理解してはくれなかったけれど、自分の子を強く想う気持ちはあの人の中では今もずっと変わっていないのだろう。
周りに「母に感謝しています」「尊敬しています」といつも言っていた。本当にそう思っていたし、身内含め誰かを中傷したくなどはなかった。 
けれど(これは後から気付いた事なのだが)、定期的に母と接触することによって私の情緒はひどく不安定になるのだった。

たとえば、安定したメンタルを保つことが出来ないので何かを長期的に継続することが難しい。「よし長編小説を書くぞ! 」と思っても母と接して気持ちがうち沈み、何もかもがどうでも良くなって毎日続けようと思っていたことが出来なくなる。平安な気持ちが四日続けば良い方だった。
自分に自信を持つことも難しかった。母はよく他人の言動を批判的に決めつけてそれを私に話して聞かせた。母の中では自分が絶対正義だった。「女性的」「お父さんに似てる」というのは母基準で好ましくないことだったし、誰かに気に食わない言動をされたときは相手が悪いと決めつけては私に話した。私は愚かだった。真剣に聴いた挙句、その内容を半ば信じていた。人の中傷は心をすり減らす。母が人の悪口を話す度、私の自尊心は傷ついてゆく。
そうすると、正しい基準というのが何なのか段々分からなくなっていく。私の数少ない自分の好きなところとして、人の魅力に気づきやすい、というのがある。“自分は人間ではない”と思っていた時代の副産物なのか、私には「自分より相手の方が上」という考えが根付いていた。その人の短所なんて私の至らなさに比べたら全く取るに足りないもので、それよりもこういうところが凄いな、素敵だな、敵わないなと自然と思うことができる。でも母はそういう人の悪口も平気で言っていて、私には見る目がないのかも知れないと混乱してしまう。
それらの会話を「**は長女で頼りになるから何でも話せるなぁ」というおべっかで全部包んで、実際はごみ箱のように私に毒毒しいものを投げてよこすのだった。多分、無意識。酷いことをしているなんて、母は思ってはいない。


割愛するが、そういう日々の中で私はすっかり参ってしまった。もともと自尊心もなく、生きている意味がよく分からないでここまで来た。自分の生存を喜ぶ人もいないように思われた。家族は──あれは、私が家族だから関わろうとしてくれるだけだしな。そのままの、ただのいち個人としての私なら、誰の興味にも引っ掛かりはしない人物だろう。

私は余裕のあるときに人に助けを求めることが出来ない。苦手なのではなく、出来ない。まだ余裕がある段階で助けを求めるなんて甘えだと思ってしまう。相手の予定を考えてしまう。やり方がよく分からない。なんと言えばいいのかも分からない。だから「助けて」と言うことは滅多にないけれど、その代わりそれを言う頃にはかなり切羽詰まった状況になっている。学生時代にいじめられていた時と同じだ。そして、それを言える相手は母しかいない。だって私は誰かに助けを求められるような価値のある人間じゃないから。一方母は少なくとも私を誕生させたのだから、責任は少なからずある。
普段業務連絡でしか使わないけれど、思い切って母に電話をかけた。母はすぐ出てくれた。
「**か。どうした? 」
母の声を聞いたら堪らなくなった。
「お母さん、あのね。私、もう駄目だ……」
それ以上は何も言えなくなってしまった。母はしばらく次の言葉を待っていたようだが、やがて盛大な溜息をついた。
「お前は、またそんなこと言ってんの? 」
続けて矢継ぎ早に色々なことを言っている携帯電話を耳から離して、そっとベッドに置いて枕で埋めた。しばらくして取り出したら、電話は切れていた。
私はどうして黙って静かに死ねないのかな。馬鹿なのかな。甘えた考えだからかな。何で死ねないかって、怖いからだよね。
幼い自分が大嫌い。突き詰めて考えれば誰のせいでもない、私が悪いからこんな風になっているんだよ。

後日、夜に母が部屋に来て言い争いになった。「どうしてお母さんは人に対してそんな酷い態度を取れるの、どうして相手の気持ちを知ろうとしないの」といういつものお決まりの論争だ。私は母を酷く責め立てた。母も追い詰められていたのだろう、初めて私にこんなことを言った。
「だってお母さん、人の気持ちとかよく分かんないんだもん! 」
母は続けて言うのだった。
「**やお父さんみたいにさ、自然に人の気持ちを察するとか出来ないんだもん。分かんないから“人間観察”とか言って頑張ってよく見てみるけど、お母さんそんな普段から自然に出来るわけじゃないんだよ」
普段決して自分の弱みを語らない母である。それがそんな事を言うものだから、驚いてしまった。
それから、どういう風に話が転がったんだっけ。どうなったんだっけ。そもそも同じ日だったのかも定かではない。でもとにかく、私に対して攻撃的な事を母が延々と言っていたような気がする。
聞きながら、思っていた。どうしてこの人はいつも強烈で破壊的な言葉を使うのだろう。どうしてそういう言葉を使うのが平気なんだろう。私には何を言っても構わないと思っているのだろうか。
あまり覚えていないけれど、会話の終わりはこうだった。
「お母さんは、私のことを一体何だと思っているの」
私は床に直接座って泣いていて、母は椅子に座っていた。私を見下ろした母の顔は無表情で、呆れているように見えた。
「娘だよ」
突き放したようなその言い方を耳にしたとき、不思議なことが起こった。
部屋の明かりをパチンと消したみたいに、何かが途絶えた感覚がした。
ふっと目の前が暗くなったような、冷静になって我に返ったような、感情を失ったような。
立ち上がって、母を置き去りにしてアパートの部屋から外へ出た。道にも畑にも雪が積もって固まるような真冬だった。コートを着るのを忘れたけれど、どうでもいいような気がした。
どうでも良くて、人がひどい泣き顔の私をどう見るかも構わなかった。人の家の畑の真ん中を足跡をつけて横切った。その畑のきわの掘建て小屋で、どうすればいいのか途方にくれた私は、そのまましゃがみ込んだ。
──明日から私はどうするのかな。
明日、朝が来たら私はいつも通り仕事へ行くんですか。社会人としてきちんと振る舞わなければならないのですか。穏やかににこにこして、お腹が空いたらご飯をたべて、人の話に相槌を打って談笑するのですか。本当に?
なんのために。
“地球から見たら個人の悩みなんてちっぽけだ”と母はいつも言った。けれど、生きて行くにはそのちっぽけなことすら変えられずにそのちっぽけな事をこなして耐えて生きてゆかねばならないのです。変えられないのです。死ぬことすら簡単ではないのです。


夜更けに部屋に戻ったら母はいなかった。
以降現在に至るまで、私は母とまともに会ってもいないし、話してもいない。

母のこと⑥

電気がつけっぱなしの誰もいない部屋へ戻ったらすっかり脱力してしまった。

身体は芯まで冷えていて、頭は混乱していてとても眠れそうになくて、無性に誰かに慰めて貰いたくなった。
時間帯も考慮せず、私は初めて用事もないのに声を聞くためだけに他人に電話をかけた。ひろこさんという、同い年の友達のお母さんだ。互いが互いを親子ぐるみで見知っている。ひろこさんは起きていて、電話に出てくれた。
「遅くにごめんなさい。今日お見かけした後ひろこさんの車が(わだち)にはまっちゃったって聞いたから、大丈夫だったかなって思って」
素直に“こんなことがあって辛くなって電話しました”とは言えなかった。ひろこさんを純粋に心配して電話した風を装った。
「それでわざわざ電話してくれたの? ありがとねえ」
「いえ……」
「最初ちょっと焦ったんだけどね、近くのタイヤ屋さんのおじさんが気付いてくれてね」
「うん」
「それでね、『ここはまる人多いんだわ』って手伝ってくれてね、それからね……」
「うん」
ひろこさんの声を聞いたらなんだかほっとして、うん、うん、と相槌を打っているうち涙がぼろぼろ出て止まらなくなった。穏やかな声を聴いているだけで癒された。少し気持ちが落ち着いて、なんとか眠れるような気がした。
ひろこさんは私が泣いていることに気付いたのだろうか。一通り話してから、「それで、**ちゃんは何かあったの? 」と訊いてくれたので驚いた。母と話してもそういう流れになったことはない。“なんか元気ないね、どうしたの? 話聞くよ”という気遣い方をこんなにスムーズにされるのが新鮮で嬉しくて、思わず声が詰まった。
「あの……」
あの、と言ったきりかなり長い間黙り込んでしまった私を急かさずに、ひろこさんは辛抱強く付き合ってくれた。
私の途切れ途切れの要領を得ない話を聞き終えたとき、ひろこさんは
「よく話してくれたねぇ」
と言ってくれた。それから「よく生きててくれたねぇ」とも。
翌日ひろこさん親子に会って、ひろこさんの娘ののぶちゃんが黙って私を抱きしめてくれた。
母を部屋に入れることも、実家に帰ることもそれきりやめた。
一度母が人の大勢いるところで「**、この間はごめんね! 」と大声で言ってきたので「それは分かったから後でね」と返したけれど、その後母から「あの時のことについて話したい」と言ってくることはなかった。



自分で自分のことを「伊勢谷友介に似ている」と言ってしまえる自称“ダンディ”の田中さんという人がいて、ダンディ田中さんにも話を聞いてもらった。というか、あちらの方から近づいて来てくれた。彼は実際ダンディというよりかは頭脳派のインテリ系で、理解力や分析力に長けている。作った原稿を彼にチェックして貰うのが私の常だった。
彼は話をひと通り聞いて、「でもそんな事は私が円熟していないからいけないんだろうな、私が駄目だからだな、という結論に結局落ち着くんです」と言い添える私に彼は言った。
「うーん、どっちかっていうとお母さんの方に問題があるんじゃない? そういうこともあると思うよ」
「……本当ですか? 」
他人からそんな事を言われるのは初めてだった。いくら苦しくても、親は敬うべきで、耐えられない自分が幼いのだと思っていた。田中さんは続けて言う。
「お母さんとも話したんだけどさ。**ちゃんは“自分のここが悪いのかも知れない”っていう話し方をするでしょ。でもお母さんは“あのときはこうだったから”って言い訳をしたり“**のここがおかしいんじゃないか”っていう言い方をするんだよね」
「はあ……」
「いいんじゃない、しばらく距離を置いても。悪いことでもないと思うし、別に」
それから「ギリギリになる前に人に助けを求めること」と念押しされた。

私に出来ることはなんだろう。
とりあえずは、母と距離を置く。でも決して憎まない。憎むと自分が消耗するし、精神衛生上良くない。憎まないためには和解すること、さもなくば許すことだ。
和解する為に母と面と向かって話し合う精神力はもう私にはないように思われた。というか、何年も母と分かり合おうと試みた結果が今の状況だった。人を変えることなんか出来ないし、変えようとするなんて思い上がった考えだ。だったら自分を変えていく。自分の心の持ちようを変えていく。
「許す」ってなんだろうと思って調べてみた。
許す事とは忘れること、手放すということ。許したからといって、その問題が大したことはないとか、傷付きが癒えるとかそういう事ではない。ただ、水に流す。問題を蒸し返さない。
手紙を書こうと思った。
私が母と距離を置く理由、それから今までの感謝と謝罪、私が母のことをどう思っているのかを。私はもう大人だった。だから大人同士として、きちんと意思を示して、きちんとした手紙を書こう、そう思った。

『お母さんへ

お母さんに感謝したいことが沢山あります。
一生懸命育ててくれたこと。三十六色の色鉛筆をプレゼントしてくれたこと。まだ妹も生まれていない小さい頃、親子三人で写生大会をしたこと。そういう温かい思い出は私の中にずっと残っています。それから私に大事なことを色々教えてくれました。本当に感謝でした。

私はお母さんにとって難しい、大変な子だったのかも知れません。きっとお母さんをイライラさせたことも多かったと思います。不満も沢山言って困らせました。それは私の駄目なところです。
ごめんなさい。

私は正しく生きたいです。生きるならきちんとしたいと思っています。
拗ねているわけではないのですが、私には極力接触しないで欲しいです。私の今までの傷つきが大きすぎたためです。そのことだけは分かって欲しいと思います。

ただ、お母さんを責めるわけではないですが、ずっとお母さんに自分を見て欲しかった、認めて欲しかったと思ってしまうのはそんなにいけないことだったのでしょうか。今はそんなことばかり考えてしまいます。

まだまだ寒いのでお身体に気をつけてお過ごし下さい。

**より』

もっと上手な書き方があったのかも知れなかったけれど、いざ書いてみたらこれだけでもう私の精一杯だった。たったこれだけを書く作業に、驚くほどのエネルギーを費やした。母のことに関わるたびに、私はすっかりくたくただ。
母に出す前にひろこさんにチェックして貰った。嫌味になっていないですか。敬意を払えていますか。後半の言葉は含めても良かったですか。
「いいんじゃない」とひろこさんは言った。
「ちゃんと分かりやすく書けてるし、後半のここ、ちゃんと自分の本音を言うの大事だよね。これ大事だと思う」

手紙を出した。出してとりあえず責任は果たせたとは思ったけれど、途端に気持ちが軽やかになった訳でもなかったし、悲しみや苦しみや憎しみを手放せたかと言えばそうでもなかった。理不尽さはずっと感じてしまっていたし、いつ突発的に母が訪ねて来るかと思うと恐ろしかった。自分を責めなくて良いと言われてもうまく出来ず、ギリギリになる前に人に頼ることについては今も出来ていない。
当時は特に混乱していて「とにかく許さなきゃ、許さなきゃ」という思いでいっぱいだったのだろうと思う。

しばらく経ってから、母から手紙の返信が来た。

母のこと⑦

『**へ

**、手紙ありがとう。この前はごめんね! 
お母さんは、**の事を大切に思っているよ!!

お母さんも病気のことについて色々調べてみました。うつは脳の病気なんだよ。だからそうなってしまうんだよ。**は悪くないよ。

人は誰もが不完全です。欠点に注目するのではなくて、お互いを許すことが必要になってきます。意地を張らないで人を許すこと、これがとても大切だと思います。
お母さんは**のことが大好きだよ!

お母さんより』

母からの手紙は全部捨ててしまったので正確ではないし、もっと色々書いてあったと思うけれど、文面と大体の内容はこんな感じだったと思う。
母の特徴的な四角い大きな丸文字の鉛筆書き。“大切に思っているよ”“脳の病気”など強調したいと思われる箇所には赤鉛筆で波線アンダーラインが引いてある。封筒は無し。紙はいつも使っているレポート用紙で、しかも真っ直ぐ切れていなかった。私は一番素敵なレターセットを選んで書いたんだけどな。

正直、とてつもなく色々ずれていると感じた。
母は自分の勝手な判断で私を鬱病にした事で落ち着いたようだった。確かに過去に調子が悪くなったとき、心療内科に診察にかかった事はある。結局鬱の診断は下らず、そのときの先生の話を母に報告はした。けれど彼女の思い込みの激しさで、彼女の中では私は鬱病ということになっていたらしい。母としては自省するより、噛み合わなさの原因を病気と私の未熟さのせいにした方が都合がよかったのだろうと思う。そこであっと気付く。ある時期、知り合いの方から突然手をぎゅっと握られて「**ちゃん……。頑張ってね! 」みたいなことを言われて戸惑った経験が数回あった。あれは多分、母が勝手に勝手なことを言いふらしたんだな。そういう事例は一度や二度でない。病気自体に偏見はないけれど、やはり事実と異なることを広められるのは嫌なものだ。

離れて段々、母のおかしさが見えてくる。
たとえば対人トラブルの多さ。それを対人トラブルだと気付いておらず「おかしくて可哀想な人がいて、なぜかお母さんは一方的に嫌われている」と私に話して聞かせる。
謝ることの出来ない(かたく)なさ。「お母さんすぐ謝れる人だからさ! 」と彼女は自分を評する。確かにぶつかったとか食器を割ったとかならすぐに謝れる人だ。でも、やはりここでも人とのトラブルに弱い。自分が折れるということを知らず「事実はこうで、経過はこうだ。だからこう。仕方のないこと」と変な理屈を持ってきて結局謝らない。謝ったとしても、幼稚園児がするような「ごめんね! 」「いいよ! 」のようなやり取りで全て事足りると認識しているのらしい。私に対してしてきたのは、それだった。
いつも人を上から目線で小馬鹿にするところ。自分が善で相手が悪と思ってしまえる尊大さ。
そして母の具体的な欠点を直接指摘すると開き直ってしまう。「そうだねぇ、完璧な人間は一人もいないからねぇ! 」といった具合に。即座にそんな反応をするものだから、上手いなぁと感心してしまうほどである。
母はいつも謎に自信満々なので、私などはすぐに母の言動をそのまますっかり信じきってしまう。子供のうちは信じていられた。
でも今は考えるほど、これまでの不可解なさまざまが繋がってしまう。
小さい頃に見聞きした言動を当時は分からなくてもずっと憶えていて、大人になったときふっとその意味を悟ってしまう、と書いたのは誰の言葉であったか。
母はあんな性格だけれど愛情深い人だし、私の言いたいことを理解してくれると信じていた。でも実際は一筋縄ではいかなかった。こんなに思考が拗れている人だなんて思っていなかった。

母は相変わらず私に執着していた。
距離を置きたいという私の希望も、母には響いていなかった。何事もなかったように話しかけてきたり、私のアパートの玄関前に野菜や食べ物をどっさり置いて行ったりする。相手の都合を考慮せず自分のやりたいようにやる。きっと分かって貰えると一瞬でも期待してしまった自分にうんざりした。こういうことをされると恐怖と怒りでいっぱいになる。
やめて欲しい。本当にやめて欲しい。こういうの、ひどく消耗するから。
これは駄目だと思ってもう少し詳しく長い手紙を再び書いた。お願いだから勝手な“プレゼント”はやめて欲しい。それよりも接触しないで欲しい。あの日私は“母親”を失ったのだと思っている。私はあなたのことを諦めて、母は死んだも同然ということにしている。一方あなたも私を失った。私という娘はもういない。見えて動いて喋りはしても意志の疎通が出来ないテレビの中の人とでも思ってください。
もしどうしてもというのなら、とりあえず向こう五年は一切の接触をして来ないでください。
書いて、その内容を田中さんに報告したら彼が動いてくれたのか、接触は三分の一くらいには減少した。
手紙に毒々しい感情を含めないようにするのに苦労した。いくら責めたい事があったとしても失礼なことは書かない。母の中傷を周りに広めない。最低限の敬意は払う。でも、私の悲しみや傷つきは怒りと複雑に絡み合っていた。許すとか許さないとかの前に、ただただはちきれそうな感情をなんとか抑えている状態なのだった。


私の中の小さい女の子が暴れだしたのはその頃だった。
あの子は突然やって来る。ふとした事がきっかけで、子どもの頃に受けた痛みがフラッシュバックしてしまう。
たとえばほんの小さなこと──小さい子がお母さんと仲良く手を繋いでいるだとか、逆に蔑ろにされているだとか──を目にしたとき。感情を制御する力が弱まる夜中の時間帯。生理前のPMSの時期。夜中寝ているときに泣いて飛び起きることもあった。
外出先でも仕事中でも気が緩むと泣けてきそうになって困った。
家にいて気が緩むともう制御がきかなかった。衝動に身を任せて泣くより他なかった。
私本人が泣いているというよりか、閉じ込められた子どもの私が内側から騒いで喚いて、私はその子に乗っ取られて泣いているという風だった。コントロールがまるで利かないのだ。
私の中の、化け猫みたいに肥大して歪んだ、執念深い子どもの私。
彼女は大人の私の足に縋り付いて歩行を妨げる。そして泣きながら搾り出すように言っている。

お母さん、どうして私のこと好きじゃないの!
お母さん、助けて! お母さん、助けて!
置いてかないで! 私のこと置いてかないで!

この期間がとても長かった。子どもの頃の私の我慢は、その時きりのものとしては済まされなかった。無意識に自分の能力以上のものを抱え込んでいたのだろう。あのときは“喉元過ぎれば熱さを忘れる”だと思っていた。もっと頑張れるはず、私はもっと苦しい目に遭わなきゃ良い人になれないという自罰的なところがあった。
でも、何年も経って大人になった今、複雑性PTSDのような症状となって子どもの**ちゃんの苦しさが跳ね返ってきた。
母と離れて、目の前の母への対応をしなくていいようになったから本来処理すべき私の中の悲しさがやっと溶け出して出てきたのだろうと思う。ある意味解毒なのだった。解毒なのだった、なんて今だからこそ呑気に言えることなのだけれど。


やがて父の実家に必要が生じて、両親はそちらで同居することとなった。今までより母と距離が離れることに、私は心底ほっとしていた。

母のこと⑧

アブサロムのようになろうと思った。

聖書に出てくる、古代イスラエルの王ダビデの子、美しい王子であるアブサロム。彼はその立場や能力、美しさゆえに思い上がって勝手な行動をした結果、父王の怒りを買って王宮から離れた土地に逃亡することを余儀なくされる。その間アブサロムの心に生じた変化は何か。物理的に離れて生活しているうち、親に対して抱く自然な愛情が彼の中ですっかり薄れてしまったのである。

彼のように反逆的な人物になりたいとは思わなかったけれど、母のことを想ったり期待したりするのにはすっかり疲れてしまった。私は母に対する情をすっかり捨てて忘れ去ってしまいたかった。
手紙にも書いた通り、物理的に死ななかったというだけで私はあのとき母に殺されたようなものだった。私の中でも母は死んでしまった。自分の母親は既に死んだと思うよりなかった。そうでも思わないと母親の愛を獲得したいという強すぎる気持ちを手放すことが出来なかった。

子どもは大人が思うよりずっと命がけで生きている。心を全開にして、何もかもあけっぴろげて。だから裏切られたと感じたときに、無防備に晒したその柔らかい部分ごと、魂ごと削り取られてしまう。瀕死の子どもの私は、いびつな形のまま成長出来ずに大人の私の中に取り残されてしまったのだろう。

非常に残念ながら、私のおかあさんは死にました。

死んでしまったのだから今さら何にも届かない。小さい頃からの願いも決して叶わない。頑張れば得られるはずと思っていたものは、本当はいくら頑張っても得られるものではなかったんだよ。期待してはいけないものだったんだよ。実際本当に私の歳で物理的にお母さんが死んでしまった人だって沢山いる。そういう人だって強く生きてるじゃないか。私ばっかり甘えてはいられない。
他人から見たら、単に母と娘のよくある(いさか)いに見えたかもしれない。でも私が闘っている相手は母本人ではなかった。私は、生存権を獲得するために闘っていた。

友達が本当によく助けてくれた。
数はそんなに多い方ではないけれど、大人になって世界が広がってから私は良い友達に恵まれた。にぎやかな場所に行ってわいわい騒ぐというようなことはあまりしないのだけれど、一緒にご飯を食べたりお互いじっくり話し合ったり何かを創作したり、そういう時間を持てると満たされる感覚がする。
まどかちゃんという、人間的に尊敬している思慮深い友達がいる。自分の美しさを知っている上であそこまで浮ついたり思い上がったりしない人を私は他に知らない。
彼女は私が弱っているといち早く気が付いて、そういう時にこそいつにも増してそばにいてくれた。「だって苦しい時にこそ一緒にいるのが友達だよ」と彼女は言う。そうしてまずは私に好きなだけ喋らせる。泣いたりしても咎めない。それから、押し付けがましくない言い方で私を強めてくれるのだった。
私が自分の中のインナーチャイルド──私の中の子どもの私──がしがみついて、泣かせて来て参っていると話した時もまどかちゃんはよく聞いてくれた。
「……もう終わった事なのにね、昔のことをいつまでも思い出させるの。いつまでもそこにこだわる自分もやだなと思うし、でも小さい頃苦しかった私がずっと消えないの。纏わり付いて来る感じで、もうどっか行ってくんないかなって思うの」
まどかちゃんは穏やかに相槌をうって、それから私に問うた。
「でも、じゃあさ、**ちゃんは現実にわんわん泣いてる小さい女の子が目の前にいたとして、その子に対して“うるさいからどっか行ってくんないかな”って思う? 」
「思わない……」
実際の母は、その状態の小さい私にそう言ったのだけれど。
「だよね。逆になんとかしてあげたいって思うでしょう。安心させて慰めてあげたいって。**ちゃんの中のその子にも、そうしてあげたらいいんじゃない」
私は聞きながらただただ情けなく泣いていた。
逆に、別の友達のこまちゃんは私のプライベートな事情は追求せず、ただただ私を自分の部屋に呼んで猫を触らせてくれたり、一緒に外にご飯を食べに行ってくれたり、面白い話をして私を笑わせてくれた。彼女といるとリラックスして飾らないで過ごす事ができた。
北島のおじいさんは私の日記も小説も余すことなく読んでくれて、過剰な程に褒めてくれた。実は、見知っている人に自分の文章を読んでもらうというのはとても嬉しい。私は喋ることがいまいち上手くないから自分のことを認識の誤差が少なく知ってもらえるような気がして。そして私の文章は、私の魂のようなものだから。それに真摯に向き合って貰えるというのはかなり癒されるのだ。


 

ひろこさんが、行きつけの小児科の先生が信頼出来て、メンタル的な相談も受け付けているから話だけでも聞いてもらったらどう、と提案してくれた。週に一回は大きな病院で心療内科も担当してる人だからさ、と。面倒臭いしお金がかかったらやだな、と思ったけれど、一回だけならと思ってひろこさんに付き添ってもらって行ってみることにした。
ゆるい雰囲気だった。
個人の小さな医院だし本来は小児科だしで、内装があまりにかわいい。ぬいぐるみや絵本がずらりと並んでいる。

先生本人はアロハシャツを着ていた。水色の。

母のこと⑨

何かの助けになるかと思って、母とやり取りした手紙と直近の日記を持ち込んだ。
いつもそうなのだけれど、相談事というと私は何をどう話したら良いのかが分からなくなる。それが診察も兼ねているとなると尚更で、一体何から話したものかと少し戸惑った。


結局最初は「ホルモンバランスの乱れか生理前のPMSがきつくて、毎月のことなので感情の浮き沈みの激しさについていけない、精神的な安定を保ちたい」というようなことを訴えた。普段は抑えられていることも、その時期には感情の波立ちが抑えきれないこと。仕事中にもそうなってしまって困っていること。
「それは具体的にどういう風になるの? 」
「子どもの頃のこととかを、ばーっと思い出してしまって止まらなくなって泣いてしまったりとか。良くないことだと分かってるんですけど、今になって母への怒りが抑えられなくなったり、死にたくてたまらなくなったりだとか」
メンタル的な苦痛を話すとなると、どうしても子ども時代のことに飛んでしまう。その流れでやはり幼少期のことを尋ねられる。
「それは、たとえばどんな? 」
「何から話せば良いか、ちょっと漠然としてるんですけど……。親に対して、ずっと申し訳ないと思っていて。この家の長女が私でごめんなさいって」
「何歳頃から? 」
「多分最初から、物心ついた頃からだと思うんですけど」
「そうなの。うーん、そう」
うーん、あのね、と先生はやたら唸ってからこう続けた。
「子どもの頃からの違和感って、先天的なものである可能性が高いのね」
「先天的? 」
「うん。子どもってさ、本来もっとわがままだよ。申し訳ないどころか、自分は居て当たり前とか思ってるよ」
確かに、弟や妹を見ているとそう感じることはあった。自分が何をやっても嫌われたり捨てられたりしないという無根拠な自信を謎に持っているように見えた。自分の好きなこと、やりたいことを恐れずに主張していたっけな。
自分がどこかしらおかしいという自覚は早くからあった。だから高校生の頃から「私は何かの病気なんじゃないか、障がいがあるんじゃないか」と思って色々な本を読んだりして調べてはいた。
“よりによってなぜ私だけがこんな目に”という言い草を時折耳にすることがあるけれど、私の思考は逆なのだった。例えば、「〇人に一人の確率で発症する病気」だとか「飛行機が墜落する確率は〇パーセント」とかいう情報を目にすると、私はその数パーセントに該当する存在なのだと自然に考えた。私は「クリアランスセール! 全品値引き! 」と銘打っているのにもかかわらず手に取った商品をレジに持って行くと「こちらはセール対象外です」と言われてしまう商品ような存在だと。そんなわけで自然と自分の異常性を疑っていた。
AC(アダルトチルドレン)、場面緘黙症、高機能自閉症やアスペルガー症候群、醜形恐怖症などがその候補だった。その中で先生が指摘する“先天的”という括りで絞ると、高機能自閉症とかアスペルガー症候群なども含まれる『自閉症スペクトラム』が当てはまる。
私も一時期自分が自閉症スペクトラムなのではないかとかなり強く疑っていた。コミュニケーションの取り方がさっぱり分からなかったこと。誰かの行動を見てそれをその通り真似ようとすること。すぐ自分の世界に没入してしまうところ。そういった子どもの頃の違和感を説明しつつ、気になっていることにも触れた。
「でも、調べるほどどうしても“人の気持ちが読めない、分からない”っていう点が違うなって思って。私は逆に人の気持ちを知るのが好きで、考えすぎるくらいだと思っていて。セルフ診断みたいなのをやっても、子ども時代の状態と大人になった今とでは診断結果が違っていて。毎回結構微妙なラインになるんです」
「うーん。僕も専門家じゃないから詳しくは分からないんだけどね……。ちなみに、僕自身はアスペルガーなのね。**さんが急に話せるようになったっていう現象、僕は中一の時に来たの。それが嬉しくて逆にお喋りになっちゃったんだけどね。なんか僕と通じるものがあるなぁと思って」
「そうなんですか」
そういう経験を持つ人が自分以外にもいるという事を聞くのは初めてで、新鮮だった。
「聞いてるとACは二次障害っていうか、大元の原因が自閉症スペクトラムでそうなっちゃったていう感じがするなぁ」
「はあ」
「あとね、自閉症スペクトラムは遺伝の要素が強いっていうのは知ってる? 」
「えっ? 」
何度も調べたはずなのに、その情報は初耳だった。
「お母さんの手紙見せてくれたでしょ。読ませてもらって思ったんだけど、あの書き方、お母さんの方も感覚が鈍いのかも知れない」
ずっと自分を責めていた。私がおかしいのは私ただ一人のせいだと思っていた。難しい子である自分が、申し訳なかった。
「ちゃんとしたところで診断しないと何とも言えないけどね。**さんが日記に書いていた“ちょっとだけ違うからこそ苦しい”っていうの分かるよ。参考になるかも知れないから、この本読んでみるといいよ」
こうして私は診察を終えた。「薬で症状を抑えたいというよりかは、自分が何者なのか知りたいんです」と伝えたら、薬は処方されず、診察代のみの請求額は数百円だった。
「自閉症スペクトラムは遺伝の要素が強い」という情報は私の中で貴重だった。気遣って診察を勧め、付き添ってくれたひろこさんに感謝した。
そしてふと思う。母には、心から尊敬や信頼が出来る友達というのはいたのだろうか。あの人は、人生の中で全幅の信頼を置ける、心温まるような友情関係を体験したことがあるのだろうかと。
常に他人を見下して笑うようなことをしていたから、自業自得だとは思う。でも、切ない人だなと思った。


私は診察内容を早速ノートに書き留めた。
それから、自閉症スペクトラムについてもう少し掘り下げて調べてみることにした。
私の目は節穴だった。今まで調べていたつもりでも、見落としていた情報が幾つもあった。勿論全ての情報を鵜呑みにするのは危険だ。特にネットの個人ブログの記事のようなものはどうしても信憑性が薄くなる。専門家の意見だとしても、学術的な論評だとしても100パーセント信じられる情報というのは基本的にない。最新の情報なのか確かめねばならないし、信頼の指数は書籍→雑誌→新聞の順で低くなると聞いたことがある。ネット情報であればその指数はさらに低くなるのだろう。ただ、それらの情報を出来るだけかき集めて並べて比較してみると、偏りのない結論を導きやすくなる。例えばひとつの意見に対して正反対のことを述べているような記述がどこかにあった場合、それに関する他の中間的な見解も集めてみたりする。自分の導き出したい意見に偏りたい気持ちを抑えて、そのようにひとつの事象に対して複数の見解を集め並べてまさにスペクトラムの環にしてみると、「これはここに焦点を当てた場合の意見だったのか」と見えてくる瞬間がある。
私が特に無知だったなと感じたのは、「アスペルガー症候群には幾つかの型がある」と知った時だった。ひとくちにアスペルガーといっても、その出方は人それぞれで、中でもざっくり四つに分けられる型があるということだった。
積極奇異型、受動型、孤立型、大仰型。
それぞれの型の特徴は、やはり本やサイトによって微妙に違ってはいたけれど、これも集めて総合してみた。
端的に纏めると、積極奇異型は相手との距離感をぐいぐい詰めて一方的なものを押し付ける傾向。受動型はとにかく受け身で自分から動けないきらいがある。孤立型はひとりの殻に閉じこもって黙々と作業しがち。大仰型は堅苦しいほどの自分ルールがあり、それを乱されるのを酷く嫌がるタイプ、と分けられるようだった。
母にも、私にも大いに当てはまるような気がした。
受動型の特徴に関する記述で、はっとするようなことが書いてあった。

“・一見軽度と思われがち。いつもにこにこしていたりする。
・アスペルガーといえば一般に空気が読めない、マイワールドな言動が多いという印象だが、受動型の人は逆に空気を読みすぎている場合が多く、周りを必要以上に気にしてしまい、それがコミュニケーションの弊害となる。周囲を見て何とか合わせようとしていく人が多い。
・アスペルガーであることをなかなか分かってもらえない。普通(定形発達)の人と同じことを求められてしまうがそれが出来ない。”

私が子どもの頃苦しかったのは、まさにこの特性ゆえではなかったか。色々なことを考え過ぎて動けなくなり、周囲に馬鹿にされたり母に「出来るくせに手を抜いてズルをしている」と詰られたのではなかったか。
その母が特に当てはまるのは積極奇異型ではないかと思えるのだった。

“・不相応に大きな声で話したりする。話す距離が近すぎる。
・知っている知識を一方的に話し始める。
・根底にあるのは想像力の欠如。
・相手の立場に立って考えたり、合わせるということが難しい。”



借りた本を返すついでに、もう一度診察を受けに小児科へ行った。
借りた本の共感した点/出来なかった点と私なりに調査をして立てた予測を先生に伝えた。
「強さの程度は分からないですけど、私と母はそれぞれ型の違うアスペルガーの傾向があるように思えました。色々混じっているなと思ったんですけど、母は積極奇異型、私は受動型の傾向が強いのかなって」
先生は熱心に私のまとめたノートを見てくれた。
「そうだねえ。専門家じゃないけど、そんな感じするね。自閉症スペクトラムは発達障害だけど、言ってしまえば個性で病気じゃないからね。だから治るとか治すってものじゃ無いけど、経験によって定形発達の人たちに寄せていくことも出来るものだから。**さんは今ほとんど克服できているんじゃない? その点で言うと、話を聞く限りお母さんの方がアスペルガーの傾向が濃そうだね」
ざっくりと言ってしまえば私は「社会性の障害」、母は「想像力の障害」。私は対人関係の形成が難しい傾向にあり、母は柔軟性に乏しく変化を嫌う傾向にある。
人に気持ちを伝達するのに難しさを感じる私と、人の気持ちを感じ取るのに難しさを感じる母。“だって人の気持ちとか分かんないんだもん”と吐き捨てた母。小さい頃は、母は自分の思う通りに出来た。私の話を聞きもせず、一方的に自分の話を私に浴びせていられた。私はそれを受け止めるのに精一杯で、自分の気持ちを言葉で上手に伝えられなかった。
「最悪の組み合わせだね! 」
と先生は笑った。
「ほんとそうですね! 」
私も思わず笑う。本当に最悪。潔いくらいに最悪だな。
「この組み合わせはさ、とにかく子ども側が苦しいの。これが逆の組み合わせだったらまだ良かったんだよね。お母さん考えるから」
どうしてあんなに思い込みが激しいのか。どうして大人のくせにあんな幼い文面の手紙しか書けないのか。
傷つけられた、その事実は間違いないのだけれど、母も別に意地悪でそうしている訳ではなかったのだな。あれはおそらく母にとって不可な分野だったのだ。

友人のこまちゃんとの会話を思い出した。確かあの時私が「私だってそんなに絵が上手いわけでもないから、別に楽々描けてる訳じゃないんだよね。でも時々“あなたならチョイっと描けちゃうんでしょ”みたいに思われることがあってもやもやする」とこぼしていたんだっけ。そうしたら彼女にこう言われたのだ。
「確かにそうなのかも知れないけど、本当に描けない人からしたらそういうレベルのことを言ってるわけじゃないと思うんだよね。絵を描くことそのものが無理っていうか、“不可”っていうか」
「不可……! 」
「字とかなら、頑張れば綺麗に書けると思う。絵もお手本があれば真似出来ると思う。でも、無から何かを創造することは不可みたいなね。そういう能力が無ですみたいなね」

私は無意識にピンポイントで母にとって不可な分野を執拗に求めて追い詰めた。母も子どもの頃から私の不可な部分を責め立てて攻撃した。そうやって知らず知らずに互いが互いを追い詰めていたんだな。
これが母。そしてこれが私だ。ぼろぼろのすかすかの欠点だらけで、傷付けて苛つかせて、それでもそれが互いの本当の姿。異常な親子関係の痛ましさだ。


私は確かに異常です。けれどあなたは更に上をいく異常で、だけど本当は、全人類が異常です。

母のこと⑩

私のお母さん。あなたはもうすっかりお婆さんでしょうか。早く弱ってくれたらいいなと、非情なことを思います。

時折ひどく意地悪で時折ひどく優しかった私のお母さん。
あなたを愛しきれなくて、あなたを憎みきれないの。
許して、期待して、縋ってを繰り返していた。そして手酷い傷を負った。
あなたが私を憎むか愛すか、どちらかだったらすっぱり離れられたのにね。ひどいよね。

ひどいよね。



単純なもので、強情なまでの母の変化のなさが「歩み寄る気持ちの不足」ではなく「能力的に調整不可な事案」である可能性が高いと分かったら、母に対する憎しみや怒りの分量をぐんと減らすことが出来た。
母は人の内面や感情を読み取るのが苦手な人だった。情報は外側から読み取るしかなかった。だからあんなに見た目に執着したり、その人のたった一言だけで判断を下したりしたのかと。カッとなりやすいのもそのせいだと思う。おそらく理由や可能性を何パターンか考えるということが出来ないのだ。いろいろが紐解けてきた。
その段になって初めて、私が母を許そう許そうと思いながらも怒りを捨てきれなかった原因は、無意識に母を高く評価していたからだということが知れた。
言い方は悪いけれど、「なんだ、この程度の人間だったんだ」と相手の評価を下げてしまうと無理なくすっと怒りを捨てることができるのに気が付く。正しいやり方なのかは不明だが、ある意味自分が優位に立てる思考なのだった。
感情的にも身体的にも、傷がついたら痛いに決まっている。その痛みを軽視して、痛いと感じてはならないとか、早く正常な状態に戻らなきゃとか焦ったところで即座に傷が塞がるわけではない。傷付いた直後に「そんなことより早く許そう」と焦るのは無理のあることで、痛いときには素直に痛がる期間を設けてあげても良い。それは甘えなんかじゃない。今になってそう思う。
正式なアスペルガーの診断はしないことにした。
まず第一に、高額。そして高額な割に私の場合メリットが少ないように思われた。仕事に支障が出る程に特性の現れ方が顕著な人には必要な診断なのかも知れないが、私はその点ではまあまあ普通に仕事ができる程には順応出来るようになってきている。社会性も育ってきていると思う。そうすると、「ただ自分自身を納得させるため」という要素が大きな割合を占める。
自分なりに調べてみて、私はおそらくグレーゾーンにいるように思われた。定形発達にもなりきれず、かといってアスペルガーの特性もそれほど強烈な訳でもない。自分で気付いていた通り、たぶん“ちょっとだけ違う”という立ち位置。
もう、それでいいと思った。

「少なくとも五年間は接触しないで欲しい」と宣言していたその五年が経過していた。けれどその間、驚くほどに母はそれを破っていた。彼女の中では約束を破っているという感覚はなく、私はいつまでも機嫌を損ねて拗ねているというような認識でいるのだろう。
信じられないような言動やトラブルも色々あった。色々あったけれど、端折る。
とうとう北島のおじいさんが家族間に割って入ってくれて、どうしても連絡の必要が生じるときはお互い彼を通してする、ということになった。にも拘らず、母はしばらくして私に直接メールをしてきた。即ブロックしたけれど、母の気配を感じるだけで私の手足は震え、情緒は途端に安定を失う。
北島のおじいさんにそれを報告しただけで、私はぼろぼろ泣いてしまった。

けれどそれから母から受けた痛みは快方に向かっているようだった。徐々に幼少期のことを突然思い出すことが少なくなっていき、夢中になれるものに出会って心がそれで満ちるようになったらPMSの精神不調も随分と楽になった。私の中にいたはずの小さい女の子はそういえばもうずっと出て来ていない。そうなると、泣く回数がぐんと減る。
恥ずかしながら、丸一ヶ月いちども号泣せずに過ごすという経験を初めてした。二ヶ月、三ヶ月と記録は更新されていった。気持ちを安定させて、一つの目標を定めて取り組むことが劇的に容易になった。感情の安定は、人をこんなに生きやすくさせるんだな。
そうしてある時ふっと、私はもう母の顔をはっきりと思い出せないことに気が付いた。母への興味が失せていた。それに気がついた時、にわかに心が軽くなった。


何ヶ月かのちに北島のおじいさんが偶然母と直接顔を合わせる機会があった。そのとき、母は「**はメールしても何の反応もしてこない」とこぼしたそうだ。
「え? 約束が違くないですか? 」
私の報告を受けていた北島のおじいさんがそう返したら、母は
「それってまだ有効だったんですか! 」
と答えたそうだ。「だって解除しますなんて言ってないですよね」と言われて初めてはっとなったそうで、想像を上回る母の思考に呆気に取られてしまった。以前アスペルガーは遺伝性質が強いということを軽く伝えた際も、即座に返ってきた言葉が「じゃあおばあちゃんから遺伝したんだ! 可哀想に! 」だったのにも相当驚かされたけれど、家族外の人が対応してもそうなるのか。
「いやぁ、お母さん思った以上に難しいと思ったよ。“**のために頑張る!”って意気込むから一見騙されちゃうんだけど、全然分かってないですよ、全然」
普段周りを気遣って和やかにさせる、誰に対しても優しさに富んだ対応をする北島のおじいさんが私以上にきっぱりと「全然分かってない、全然駄目」などと険しい顔をして言うので驚いてしまった。
母はその性質上、目に見えるものを重視する傾向にある。だから北島のおじいさんのような権威ある人の言葉は効果的なようだった。
家族という閉じたコミュニティに歪みが生じている場合、第三者が介入するという方法はとても効果的だと感じた。問題のある家族関係は、個人経営の会社に独自の不可解なルールがのさばっているのと似ている。是正は、外側からでないとなかなかされない。
母は「**に手紙を書きたい」と言ったそうだ。北島のおじいさんはそれを制した。
「**さんに今必要なのはそれじゃない、それは**さんを余計苦しめる事だって伝えてね。今出来ることは、何もしないでいることだって言ったんですけどね。どうしても何かやりたいみたいで」
「すごい情熱ですね……」
「そうなの。そして何日後かに本当に手紙を書いてきてね。チェックして下さいってね……。いやぁ、でも全然駄目だったけど」
彼は続ける。
「ほとんど駄目な内容だった。**さんを責めてたり、同居してるお姑さんを責めてたり、アンダーラインが引いてあったり。それ以前に、なんていうか文章力がこう、子どもみたいというか……比べちゃいけないんだけど、失礼ながらどうしてこの人からこんな文豪が生まれたんだろうって不思議に思っちゃった」
私への手紙の添削を依頼する母とそれを受ける北島のおじいさん。この歳になって人に厳しく叱られる経験をする母。なんというか、二人とも私のために頑張ってくれて……という奇妙な気持ちになった。
「母からの手紙、私も最初に見たときは身内だから適当な書き方なのかな、私のことを馬鹿にしてるのかなって思ったんですけど、違うんですね。今思えばそういう書き方しか出来ない人なんですね」
私のためにそこまでして下さって本当にありがとうございます、と言ったら「もしきちんとした手紙が書けたとして、そうしたら読む気はある? 」と問われた。
「ごめんなさい。読まないと思います。言い方は悪いですけど、ある意味私は母をもう見限ってしまっているんです。今後話すつもりも会うつもりもないですし、私の中では決着が着いてしまって。でも、母は対人トラブルが多い人なので、今回のことは母にとって凄くいいことなんじゃないかと思います」
子どものことでそこまで出来るって偉いなと思うよ。でも、あなたはあなたで頑張って。私とは無関係で頑張って。そんな気持ちだった。
「お母さん、かわいいよね」
真っ直ぐでさ、と北島のおじいさんの奥さんのともこさんは私に言った。
「本当熱心で真っ直ぐですよね。母のへこたれなさ、凄いなと思いました」

大方の傷が癒えたとしても、人格形成の時期に受けた幼少期の傷つきや空虚さは、きっと生涯そのままなのだと思う。
色々な人の体験記などを読んだり経験を聞いたりしても、子供の頃抑圧された経験というのはすっかり染み付いてしまうものらしく、生活環境が改善されても、親から自由になってもそれは残ってふとした瞬間に影を落とすものらしい。苦しさがすっかり消滅することはない。それは仕方のないことで、受け入れていくしかない。でも、少なくとも受け入れ方が分かった。北島のおじいさんは“訳もわからずとりあえず大人になってしまったので大人として生きる**さん”ではなくて、“蔑ろにされて放っぽり出されたままの**ちゃん”を気遣ってくれたのだ、だから母に怒りを感じて叱ってくれたのだ。そう思った。

私の強すぎる母性はおそらく母譲りだ。
私はそれを厭うている。強すぎる母性は人を盲目的にならせるから。親子関係を歪め、圧迫して縛り付けるから。母と子の境目も分からないくらいになって自分の所有物のように扱ってしまうから。
言ってしまえばあれは本能で、決して利他的な清い気持ちから生じたものではない。自分に湧き上がるものに忠実であるだけだ。
心から「母を尊敬しています」と言える人間でありたかった。でも出来なかった。私は自分で思っているよりずっと優しくない。

私、やっぱり人としてお母さんのことを好きとは思えないな。

私は「私」として母から愛されなかったけれど、母も私から愛されなかったのだな。幼かった私は母を愛していたのではなく、生きるために縋っていただけだったのだから。
「北風と太陽」の寓話のように、“愛情らしきもの”の強引な押し付けは恒久的に見ると逆効果になる。結果的に相手は自分から離れていってしまう。
今でも母は私の意向を無視して元の関係に戻りたいと希望している。
でも、元の関係に戻りたいって何だろう。お互いあんなに不快な思いをしたというのに、あの異常な関係性を再び復元したいのだろうか。あの関係は、私が私を押し込めて無理をしていたから成り立っていたものだ。
そうだね。私がまた多少無理をすれば、物理的に全く不可能では無いかもね。でも過労死した人って、全く不可能なわけではないから出勤して働いたんだよね。でも最終的にその人は死んだ。
そういうことだよ。あなたの望んでいることは。




さようなら、お母さん。今後会うことはないし、すがるような事はもうやめるよ。やめているよ。
なぜならあなたは無意識に、私が全く価値がない人間のように言い続けてきたのだもの。私はそのもとにいてすっかり疲弊してしまいました。
私はとびきり素晴らしい人間ではないけれど、それなりの美点もあるはずです。だから私はそれを愛したいし、伸ばしたいのです。そのために関わらないと決めました。一緒にいるならやる気が出て嬉しくなって、互いに成長していける人と居たいと思うのが当然のことでしょう?

お互いがお互いのことで嫌な思いをしたよね。だったら、なぜ再び会う必要があるのかな。
あなたは私を傷つけているつもりなんかなかった、とさぞ驚くでしょう。だから、そう思っていてもいいよ。あなたの好きに思っていていいの。何をしていても、それはあなたの自由だよ。
「あなたのせいで私はこうなった」というのは言うつもりはないし、それは頭の悪い考え方だと思っています。何があっても、これが私の人生です。
あなたは今までも、今でも自分の子供たちのために頑張ってくれているよね。会いたいとも、元気でいてとも思えないけれど、あなたなりに日々を過ごしてもらえればなと思います。

私もまた、正しい道からそれないように、自分独自の考え方にさえ毒されないよう気をつけなければと思っています。

**より。

家族 : 私と父①

父がどのような人であるか、私はきっとほとんど知らない。



父の若い頃の写真を見たことがある。
私は自我のない赤ちゃんで、その赤ちゃんを肩に乗せて嬉しそうにしている父の写真。父親というより“兄ちゃん”といった佇まいで、当時流行していたくるくるのパーマをかけ、Tシャツにジーパン姿の若者としての父の姿だった。
よく父に抱っこしてもらっていた記憶がある。食事に出た何かが気に食わないだとかで、ごく幼い頃癇癪を起こして父に抱っこしてもらって宥めてもらった断片的なものだけれど。小さい子が好きなのだな、と振り返ってみるとよく分かる。

‪父は内気で無口で冒険はしないが、堅実できちんとしている人という印象だった。物持ちが良くて、自分用の小さな引き出しの中身はいつも整然としていた。趣味で買うのも毎月刊行されていた『将棋世界』くらいなものだったのではないだろうか。私はその雑誌の4コマ漫画を毎月楽しみにしたものだ。
公務員ではなかったが、父の職場は全国に名が知られている大きな会社で、倒産の心配はまずない。実質公務員のようなものだった。住んでいたのは社宅だった。父は労働組合に所属していたので昇進も転勤もなく、あまり優遇されていないのらしかったが、それでも今思えばとんでもなく恵まれていたのだと思う。事故物件ではあったが家族五人で暮らす3LDKの新築一年のアパートが月二万。私の一人暮らしの部屋の家賃よりはるかに安い。職場は徒歩五分の距離にあり、父は必ず八時前には家を出て、寄り道できる距離でもないので基本的に十七時半には帰宅した。父と過ごせた時間は、だから一般の子よりも長かったのではないかと思う。


私が今も嬉しく感じるものとして、父が私と弟のために続けてくれた朝晩の日課がある。いつまでだったか定かでないが、父は朝食前の散歩と就寝前の本の読み聞かせをかなり長い間続けてくれていたように思う。子どもの感性にとって各三十分ほどのその時間はとても貴重で満たされるものだった。少なくとも私はそれによって精神的に安定できた。
朝の散歩のたびに通る、チョコチップが混じったみたいな模様のよその家の塀、道端の側溝の深さ、人懐っこい茶色い犬、季節が来ると香る金木犀や沈丁花(じんちょうげ)。私はそれらを事細かに豊かに憶えて、創作用に蓄えている。頭の中は半分空想、半分現実の世界にいて頼りない足取りでふらふらと歩いた気がする。あれで、自分の住んでいる環境がどんなところなのか知ることの出来る安心感も大きかった。
夜は、子どもたちの就寝は二十時と決まっていた。時間になると父は私たち姉弟を子ども部屋へ連れて行く。並んだ布団に各々が入って、その真ん中で父がどちらかが選んだ本を読み聞かせてくれた。
朗読の上手な人だった。声に表情を乗せて、夢中になれるような調子で読んでくれる。その際、時々お得意の寄り目を披露してくれたりして私たちはよく笑ったものだ。
父は学力向上や教育的な訓話として「お話」を用いることはなかった。ただ純粋に自分の楽しかった読書体験を如何にも楽しくわくわくした体験として話して聞かせてくれた。
「お姫様と木こり」の童話を聞いてチーズパンが大好物になったこと。「十五少年漂流記」を読んでドノバンの安否にハラハラしたこと。そういう事を心から話されると物語というものがとても魅力的に感じられる。私は本を読むのが大好きになった。

父の毎朝のルーティンに、ドラムの練習というのがあった。
朝の散歩と同様、一日も欠かさずきちんとやる。六畳の和室にピアノ用の椅子とメトロノーム的なものをセットして、膝当てを装着した上からドラムのスティックでリズムを取って練習らしきことをしていた。まるで毎日漢字の書取りをやるとか、日記をつけるとかみたいな律儀さで。あまりに日常の風景に溶け込んでいたものだから、物珍しく思うことさえなかった。そういうものなのだと思っていた。
そしてそれをお披露目するのは年に一度の会社主催の催しものの時だけで「生オケ」と銘打った職場内のバンドのドラム担当として父は駆り出されるのだった。
歌う人はあまりなく、私たち子どもは客席で駄菓子を食べながらそれを眺める。ただ、“ツルちゃん”という毎年張り切って歌うおじさんが一人だけいた。ツルちゃんは見たところ四、五十代で、信じ難いほど調子っ外れの「北酒場」を毎回気持ち良さそうに歌うのだった。漫画みたいな音痴さが物珍しくて、私は父のドラムよりツルちゃんにいつも注目していた。
父がミュージシャンという印象はまるでなかった。私の中のミュージシャンのイメージと父とはかけ離れたものだった。でも、よくよく振り返ってみると音楽の好きな人だったのだろう。ドラムは昔からやっていたようだし、ひょっとしたらギターも弾けたのかも知れない。音楽の趣味も私の知る限り若くて柔軟だったし、確か若い頃は会社のコーラス部に所属していたのではなかったか。私に熱心にピアノのレッスンをつけてくれたのも父ではなかったか。車の中ではいつもジャズがかかっていたし、ジャズコンサートに何回か連れて行ってもらったこともある。ということは、小さい頃から私は音楽的素地には比較的恵まれていたのだったか。ただ、つい最近までそのことをすっかり忘れていたくらいには興味がなかったのだろう。
父と芸術は無縁、とずっと思っていたけれど、案外そんなこともないのかも知れない。それなりに音楽を、芸術を楽しんでいたのかも知れない。でもなんというか、父のベースはやはり“きちんと、コツコツ”であった。

父が“良い父親”になるべく努力してくれていたのは、知っている。父自身の家庭環境は私の目にはあまり恵まれたものでないように思えたから。あの家庭は個人的な感情を話す場がまるでない。祖母のお気に入りは性格が自分とよく似た叔父の方で、その差の付け方が孫の私にもはっきり分かった。子ども時代、父は特に淋しい思いをしたのではないかと思う。
一度、母と父との会話で「俺、子どもの頃母ちゃんが親戚の〇〇おばちゃんでも良いなと思ってたよ。〇〇おばちゃん優しいからさ」などとさらっと言っているのを聞いて驚いてしまった。
どんな親であったとしても子どもにとって自分の親というのは特別で、代わりなど決していないと思っていた私には衝撃だった。ひどく鈍感でも粗暴でも、振り向いて欲しいのは優しい他人ではなく自分のお母さん──私はそのように思っていたけれど。

私は父を語るとき、どことなく傍観者となってしまう。優しく真面目な人だったけれど、私は子ども時代、父と膝を突き合わせて本音を語りあった憶えがない。「家庭内での父親は空気だった」という言葉をよく聞くけれど、私の父もややそれに近かった。
きっと幼い頃はただただ可愛がっていられた。けれど、健全な愛情溢れる家庭に育った経験のない父は、中途半端に成長した子どもたちとどう接したらいいのか、単に分からなかったのではないかと思う。

でも段々に分かって来る。父がどんな人物で、どんな理念で動いていたか。今更になって知ることがある。

私と父②

両親は同い年で、自分の父母のことを「父ちゃん、母ちゃん」呼びしていた。子どもの頃牛やヤギを飼っていたり、ハンバーグやケーキは未知の存在だったという。乳母車は鉄製だった。それだけで物凄い年代の差を感じたものだ。全く別の次元の、全く別の時代から来た人たちみたいだった。


父はお酒に弱くて少し飲むだけで顔が真っ赤になった。ものを美味しそうに食べる人だった。お菓子やアイスなどの甘いものが大好きでよく食べるのに、スリムだった。
夕食は十八時と決まっていて、父は夕食後さっと入浴を済ませてしまう。それから夜の自由な時間だ。食卓に父の実家の(はね)出しりんごを持ってきては家族分剥いてくれたり、スルメイカを焼いてくれたり、アイスを食べたり、そんなことをしながらテレビを観る。組合や共産党の広報のようなものを書いたり『将棋世界』を読んでいることもあった。
父の絵を見ることができる機会はごく稀だった。稀というか、恐らく一度きりだ。絵というより子どもの頃ひたすら練習したというアニメキャラクターの模写で、ガンダムとかオバQとかニャロメ(?)とか。ひたすら練習したとあって、線に迷いはなかった。父独自の絵は見たことがない。ゼロから何かを創作するということは得意でなかったのかも知れない。

根は真面目で家族想いの父であったが、一方で卑屈なところもあって、時折家族含め人を小馬鹿にして笑うような発言をすることがあった。器の大きさからしたら、それ程大きなほうではないのかも知れない。意地悪なことを言って子どもたちを困惑させて、それを楽しんでいたりした。子供たちがはしゃいでいたり調子に乗ったりしていると、それまで黙って無関係を決め込んでいたのに突然怒鳴って来ることもあってしばしば驚いた。
父の外見はトータルで見ると、バランスが良く格好良い人だと思う。身長は平均よりやや高く、体型は細身でシュッとしていて祖母に似た色白小顔だ。顔は薄いが綺麗な配置だと思うし、髪は硬くて多くて禿げるタイプではない。いつもきちんとしている父は服装もきちんとしていて、大抵襟のあるシャツにベージュのスラックスという清潔感のあるものだった。それなのに父本人は自分や自分の外見にコンプレックスを抱いているようだった。
そのコンプレックスが裏返って、格下と判断した人には冷笑的な態度を取る。若い女性店員に対しては面と向かって敬意の欠けた失礼な物言いをするし、同僚やご近所さんの話題を出すときは決まって中傷的な内容だった。それから、自分が不公正な扱いをされることにひどく反発する人だった。共産党の活動をしていたのも組合に入っていたのもそういう理由からなのだろうと思われる。
自分の弱さを認めたり、さらけ出したり、気持ちをストレートに伝えることが苦手。人を褒めるのも苦手。自分の弱さを隠すために他者を攻撃して責任転嫁していたのだと思う。
両親共に他人を見下して小馬鹿にする傾向があったが、その土台は各々違っていたのではないかと思う。
母は無自覚な無神経さと思慮不足から。父はコンプレックスを拗らせた卑屈さから。自分の能力のない部分をどこかで分かっていて、でもそれを認めたくはない故に虚勢を張る。ただ、感情ををストレートに表現出来ないのは環境──ある程度の県民性もあるのかも知れない。

幼い頃は小馬鹿にされ笑われるのと手放しで褒めてくれるのと、半々の分量だった気がする。成長するにつれ、父から私へのコメントは段々と冷淡なものになってきた。認めるときは黙って是認するというスタイル。単に照れ臭かっただけなのだろうが、その時は分からなかった。私は父との会話をどうやってするのかという方法さえ分からなかったが、父は私以上に分からなかったのかも知れない。
父に、母と私の(いびつ)な関係に介入して欲しいとずっと思っていた。‪私が人生の中でぎりぎりまで身を削って努力したのは絵でも小説でもなく、母に愛され捨てられないようにすることだった。人生であそこまで逃げ場がなく、人格を歪めてまであれほど頑張ったことは他になく、その割に得た成果は皆無で、でも、この先あれ以上の辛い思いをすることはもうなかろうと思うとその免疫が収穫か。
明らかに思慮の欠けた思いやりのない母の言葉を父は聞いていたはずで、私がひどく傷ついていたのも知っていたはずだった。けれども父はいつもいじめの傍観者宜しく外野を決め込んで、助け舟を出してくれることはなかった。
助けて欲しかったし、事情や気持ちを聞いて欲しかった。

近すぎる私と母の距離感に対して、私と父の距離感はとても遠い。

でも、ずっと憶えている父の言葉がある。
高校生の頃、居間のホワイトボードに私が適当な落書きをしたことがある。誰がどう見ても適当だと思うはずのシンプルな棒人間みたいなイラストだったけれど、父がぼそっと「上手いなあ」と言ってくれた。私が笑って「こんなの全然適当に描いたやつだよ」と返したら、父は「それでも上手いよ」と茶化しもせずに言ってくれた。
私は自分のイラストのレベルを自覚している、つもりだ。明らかに“絵の能力がずば抜けていて美大にも行けるレベル”の腕の持ち主ではない。本当に絵の上手い人とは根本的に違う、ただ情緒と感情と雰囲気のみでそれらしく見せているタイプだ。
だけど父が私のそれを揺るぎなく“才能”として認めてくれたのが嬉しかった。普段はそんな事を言わない人だから余計に。



私は欠点だらけの人間で、‪父にも母にも長所短所がある。なのになぜ根本で抱く感情が異なるのだろう。‬
‪色々あったのになぜ真っ先に出て来る想い出が異なるのだろう。
子どもの頃、泣いて流れた涙が寝転がって横になるともう一方の目に入った冷たさの話をしてくれた父。ランドセルを忘れて身ひとつで下校してしまった話。カレールー節約のために小麦粉で嵩増しをしていたのが自分の家庭だけだと発覚して恥ずかしい思いをした話。学校行事で初めて鯖味噌の缶詰を食べた感動。
そういう話が全てきらきらしたもの、心地好いものに感じたのはなぜだろう。‬

私と父③

一人暮らしを始めた間もない頃、職場と自分のアパートの中間地点に実家があって、寂しさが募った私はつい実家に寄ってしまいがちだった。甘ったれな私は母に「どうしたの? 」「何かあったの? 」と訊いて欲しかったのだけれどそれを言えず、今考えると母に不可能な事を無言で要求していた。流れで夕食をそのまま食べたりということが続いたあるとき母が、
「お父さんも言ってるよ。“**はいつまでうちの食費を当てにしてるんだ”って。。**には直接言わないけど。お母さんも甘やかしたと思う。うちに寄る回数、もうちょっと減らして」
と言われてしまった。そんな風に思われていたんだというショックと母の捉え方と、妹にも毎回煙たがられていたので実家からは徐々に足は遠のいていった。精神的に疲弊するので年末年始にも帰らなくなった。



そんなこんなで滅多に実家に寄りつかなくなり、実家そのものも無くなった──というか、両親が社宅を出て父の実家に移ったので私は幾年も父と会わなくなった。ただ、父は子供たちの生活を心配してか、いつも自分のボーナスの中から幾らかを家を出ている私と弟に分けてくれていて、お礼のメールのやり取りだけ続いていた。

あるとき、出掛けようとしたら見知らぬおじさんが大きな荷物を持ってアパートの階段下に佇んでいた。へぇ、こんな年配の人が住んでたんだ、と思いながら「こんにちはぁ」と呑気に挨拶したらそれが父だった。歳の離れた末っ子──妹のため“お爺ちゃんに見えないように”と白髪混じりだった髪を染めて若作りしていたのもいつの間にかやめていて、全体的にひと回り小さくなってしょぼんとした感じになっていた。お父さん、こんな小さかったっけな。もっと格好良かったのにな。こんなどこにでもいる初老の人みたいになっちゃったんだ。
父は相変わらず不機嫌な口調で
「**か、ろくに帰りもしないで、元気にやってるんか」
とまくし立てた。
「うん元気にやってるよ」
「米と野菜持ってきたぞ」
「ありがとう! 」
「米足りてるんか」
「大丈夫だよ! 」
父は一貫して私のことを案じる優しい内容を口にするのだけれど、いかんせん口調も表情も怒ったようにぶっきらぼうだ。それでも父は結局私を甘やかす。父と一緒に米を部屋に運び込んで、そうしたら父は仏頂面で「じゃあ元気にやるんだぞ」と言ってさっと帰ってしまった。

心配をかけているのだなと思った。母とのことで、二度と“一家全員大集合”みたいなことはしたくはなかったけれど、母が私の帰ってこない理由を父にどう説明しているか分からなかったし、せめて私の口からきちんと説明して父を安心させなければならないなと感じた。
困ったな。
父に上手に説明出来る自信はなかったし、簡単にシンプルなメールで事情を説明する事にした。

“お父さん、お母さんのことでちょっと相談があります。聞いてくれるだけで良いんだけど、もうお母さんには今後関わりたくないと思ってるんだ。そのことを理解してもらいたくて”

確か日曜日で、父も私も休日だった。父はすぐさま返信をくれた。

“今どこにいるの”
“そっち行くから待ってて”

父の反応と行動力に驚いてしまった。私のお父さん、私の事情でこんなふうに動いてくれるんだ。こんな人なんだ。
三兄弟の中でなぜか実績の伴わない“しっかり者でちゃんとしている長女”という評価をつけられていた私は、勉強でも生活面でも「**は大丈夫だから」となぜか放っておかれがちだった。母とのことでも助けてはもらえなかった。実情は全然大丈夫なんかじゃない。なんとか人間に見えるようにと必死だっただけだ。
私の部屋に文字通り“駆けつけた”という風な父は変わらず怒ったような口調で話し、口も挟めないほどに一方的にまくし立てたのだけれど、私の母に対する気持ちを尊重してくれた。後日祖父の葬儀でどうしても母と接触しなくてはならなかったときは盾になってくれた。
父はただ、愛情や気持ちを外に出すのが恐ろしく下手なのだ。
そして、本気の話をしようとすればする程話し下手になって、その焦りから相手の発言さえ遮るので、聴き手としても下手だ。

でもいい。もういい。
そんな事は些末なことだと、私のなかの(わだかま)りはすっかり溶けてなくなってしまった。

以前、母にもっと直接的に「私もう駄目だ」と助けを求めたときは突っぱねられてしまった。でも、父にはもっと軽いニュアンスでメールしただけなのにあんな風に駆けつけてくれた。行動で私がどんなに大事なのか示してくれた。
もう全然いいよ、お父さん。あの一回でそれまでの不満も不信感もなかったことのようになってしまった。全部許せてしまった。私は、父から貰うものを充分貰えたように思えた。
「色々あるけど、やっぱり親には感謝すべきだよね」という言い回しをよく聞く。その言葉に素直に同意出来るレベルの親子関係というのは、きっとこの辺りのラインなのだろう。父とならその理屈が分かる。この感じの親子関係しか知らない人には、きっと私と母の不和が単なる我が儘に映って見えるのだろう。母とはそのラインを超えてしまって、馬鹿になって伸び切ったゴムみたいに弾力を失ってもう戻りはしないけれど。

父は決して口には出さないけれど、子ども時代からの父の淋しさ苦しさというのが私には何となく感じ取れる。卑屈になるのも仕方のないほど抑圧された年功序列の農家の拡大家族だ。
「お前は不幸だったな」と父は言ってくれたけれど、父もきっと不幸だったよなと思う。それでも誰よりも親孝行な父の忍耐強さは、私には到底及ばない。

父はボーナスと一緒に手紙らしきメッセージを書いてくれるようになった。だからこそ気付いたけれど、文章だけなら父はとても優しい。口で言っているのと内容は変わらないのだけれど、不機嫌な顔とぶっきらぼうな言い方が排除されると、父の言葉は甘やかしに近いほどただただ優しくストレートに伝わる。こちらが申し訳なくなるほどだ。

“親にとって子供はいつまでも心配なものなんだよ。自分ばっかり貰ってるって遠慮せずに、困ったときはいつでも頼っていいんだから”

私はメールで返信した。

“お父さんいつもありがとう。感謝です。受け取りました。
きちんと対応したいと思うんだけれど、私は受け取った情報を文章にしてまとめないと駄目な人間です。近いうちにまとめると思うので、そうしたら読んでね”

“**は駄目じゃないよ。小さい時から文章力もあるし絵の才能もあるし、自信を持っていいよ”

父に私の小説を見せた事はなかった。見せたといえば精々小学二年生の時に宿題で書いたものくらいだ。でも、母とどうしてこうなってしまったのか詳しく知ってもらう為に文章を通して知ってもらうのが最適と思われた。お互い文章でやり取りする方が意思の疎通がスムーズだ。話し下手な親子だな。ちょっと笑ってしまう。
このエッセイはだから父に読んでもらうために書き始めたもので、全てではないが必要な箇所だけ送って読んでもらった。手紙も添えた。
感想はいいと書いたが父は短い返信をくれた。

“読んだよ。
自分の内面を自分で分析するのって自分を認めるのにすごく大事なことだと思う。お母さんは思い込みが強く、自分の意見を強く主張し母性が強いと思う。**にはそれが合わなかったんだね。楽しいことを見つけて気楽にいこうよ。確かにこれはお母さんには見せられないね。

どういう生活をしてるのか心配だったけど、信頼できる人たちがそばにいて安心しました。イラストや文章の才能を発揮したり、外にも目を向けてるようなので良かったです。
親はいつでも子供の心配をしてます。また連絡下さい”


とはいえ、父に手放しで甘えるのは難しい。頼るのも難しい。それ程の密な関係を築いてこなかったからだ。父が小出しに本音を話してくれるようになったのも今更という思いはあるけれど、特に恨みなどは持ってはいない。父を思うとき、自然に湧き出てくるのは温かい思い出としみじみとした感謝だ。頭で必死に「母にだって感謝しなければならないところは沢山ある」と自分を納得させようとする思考とは大違い。‪‪
似ていたんだな、と思うことにしておく。こうされたら嬉しい、と思うポイントが父と私は似ていたんだな。だから素直に愛情として受け取ることが出来たのだろう。母だって愛情そのものは溢れんばかりだったのだから。

親との折り合いの悪さは、人生の負債のようなものだ。マイナスからゼロにするまで、私は十数年費やした上、そこからの解毒にさらに短くはない年数を費やした。‬
‪あれは結局どうにもならない。もがいてもがいて、のたうち回って苦しんで、無力感や自己嫌悪や希死念慮にどうにかなりそうで、けれどそれを早送りすることなどできない。甘受するほかない。‬
でもいいんだ。それでもいいの。痛みは、人を思いやれる内面の広さを培う要素になるし、だからといって自分からは中々痛みに飛び込むことは出来ないものでしょう。

父は不思議な存在だ。近いはずなのに、どこか他人。どこか不可解、今でも。きっと父が生きているうちに父のことを分かりきれない。でも最近ちょっとは分かった。
とりあえず今はそれを喜んでおこうと思っている。




お父さんへ


いつも気遣ってくれてありがとう。
文章を書くのは好きですが、正直手紙は苦手なので、上手く書けるかどうかわかりませんが、頑張って伝わるように書いてみます。

お父さんが子ども達三人を大事にしてくれていること、伝わっています。特にお父さんは小さい頃からひとりひとりを個性のある人間として扱ってくれているように感じて、嬉しく思っていました。小さい頃してくれた子ども時代の話をよく覚えているし、朝晩必ずやってくれた散歩と読み聞かせは、私の情緒の安定や想像力を育てる点でとても大きなものでした。私はあれで読書が大好きになったし、色々なきらきらした想像力を培いました。あの時の体験が、今小説や絵を描くときの土台となっているように思います。

それから、家族の幸せを願っているために私の宗教に関して心配してくれてありがとう。確かに、宗教ひとつで人生計画も方向も価値観もガラッと変わってしまうので、心配するのも無理のない事だと思います。思い込みや盲信は恐ろしいし、賢いことではないと私も思います。お父さんはきっと私たちに「普通の安定した幸せな人生」を送って欲しいという気持ちなのだろうなと思っています。
でも、私としては、そこに宗教は大して関係ないと思っています。私はその部分でお父さんと論争するつもりはありません。もしそれでもお父さんの中で宗教の事が気になるというならば、それはもう“家族と宗教”ということではなく、単にお父さんが個人的に“その宗教が好きではない”ということなのだと思います。それは個人の感情ですから、私が踏み込むことではありません。

私が家族の中で感じていたのは、コミュニケーションの不足でした。家族間の問題というなら、私にはそちらの方が余程重要で深刻な事のように思えます。
反省点なのですが、私は長いことお父さんと生活していたのにもかかわらず、お父さんがどんな事を考えている人なのかをほとんど知りません。互いの心の奥底の考えを、予想や観察ではなく対話という仕方で話し合った記憶がないのです。
「私はこう思う。あなたはどう考える?」というのは、シンプルですが人間関係にはとても必要なことで、そうやって初めて互いの事を理解出来るんだなと今更になって気が付きました。
お母さんはそういうことが元々不得手な人だというのは知っています。そして、私は昔から(愛情がどうとかの問題ではなく)お母さんと上手くいっていませんでした。お父さんはその事に気付いていたでしょうか。
お父さんに介入して欲しいと思うこともありましたが、私もまた、言えませんでした。

家族と上手くやれないのは、家族の誰が嫌いとか悪いとかではなく私の性質のせいなので、心配しないでくださいね。
基本的にのんきに楽しく暮らしています。最低限の仕事はしていますが、今はあらゆる事に力が抜けてしまってちょっと困っています。
多分お父さんの願う“私の幸せ”と私の願う幸せは違っているのだろうと思いますが、ごめんなさい。私は創作をしている時が一番生きていて嬉しいと感じます。

そしてお母さんには今後何があっても会わないつもりでいます。
理由は手紙だととても伝えきれないので、長いですが時間があれば私のエッセイを読んでもらえたら嬉しいです。お父さんのことも書こうと思ったのですが、意外と難しくすぐには無理そうだったのでとりあえず書いてある分だけになってしまいました。
私視点の主観的な内容ですが、嘘偽りなく自分の感じた事を書く必要性を感じたので、そうしました。理解や納得はしてもらえないかも知れません。それでいいと思っています。これが私で、そのままをただ書きました。

お父さんを信用していますが、特にお母さんには決して話したり見せたりしないようにお願いします。知ってもらうのが目的なので、特に感想などは大丈夫です。

長々とした文章を読んでくれてありがとうございました。


いつも感謝しています、**より。

知らなかったことを知る : 取り込みたい

人の魂を見たい。渇望に近い。

誰かの表現を見るのが好きだ。既に知っている人ならばなおのこといい。あるとき友達が小説を書いていることを知ったとき嬉しくなってしまって「読ませて」と少し強引に頼み込んだ事がある。女の子が主人公の、ティーン向け小説のようなきらきらとした青春恋愛ファンタジーだった。描写の中に、主人公の女の子が美容室でイメージチェンジをするシーンがあった。彼のお姉さんが働いている美容室と同じ、席を移動せずにシャンプーが出来る設備の描写があって、微笑ましくて嬉しくなった。
私は彼の原稿を受け取ったその夜に、姿勢を正して読んだ。人が心血を注いで創りだしたものに出来る限り敬意を払いたかったのだ。小説作品なんてほぼその人の内面だから。適当な扱いはしたくなかった。私に読ませてくれたのが嬉しかった。

人の心なんて分からない。分からないから不安になるし、分かりきれないと知ってはいても知りたくて、知らない感性に触れたくて、そして信じたい。出来るだけ優しい方向に信じたい。
ではどうすればその人の内面を少しでも垣間見ることができるか。

古代ギリシャで哲学がもてはやされた時代、哲学かぶれだった人々の挨拶は「こんにちは」ではなく「悲しいではないか、友よ! 」だったのだとどこかの資料で読んだことがある。変な挨拶だなと思ったのだけれど、羨ましくなってしまった。
最初の挨拶が「こんにちは」だと、続く言葉は当たり障りのない話題になりがちで、もっと言えば「こんにちは」だけで終わってしまうこともざらだ。最初の挨拶が「悲しいではないか」だと、続く話題が深い内容に移行しやすい。
そして「悲しいではないか!」の挨拶が不自然となった現代、深い話題に移行しやすい装置というのが芸術とか創作ではないかと思ったのだ。
芸術ならば、年齢差も性別の違いも飛び越えられる。ただの人と人として相手を深く知る事ができるのは嬉しい。
個々の「自分はこんな事を思っている」を知りたいだけなのに、その難しさ。私自身のコミュニケーションの取り方の下手さ、不器用さ。
どうして「知りたい」と思う相手がたまたま異性だったりすると、恋愛感情みたいに見られてしまうのかな。仕方ないのかも知れない。でもそれが時折強烈に淋しいと感じてしまう。人間であるという点では変わりないのに。
どうして本音を語り合う関係になるのにこんなに年数がかかるのかな。

表現活動はその点で好きだ。完成品も見たいけれど、同じくらい過程を見たい。なぜそれを創ろうと思ったのか、表現しようと思ったのかも訊きたいし、あわよくば自分でもその技術をものにしたい。
好きな絵はあるけれど、買いたい欲しいとか飾りたいという欲求はあまりない。
好きな小説、好きな歌はあるけれど、手元に置きたいという欲もあまり無い。
そう、私の基本的な欲求は自分の中へ取り込むことなのだろう。
というか、人の内面が知りたいのだろう。



「**ちゃんって、本の世界にぐっと入りきってしまって凄く影響を受けるタイプなんだね」
そう言われた事がある。言われて初めて自覚する。本の世界は私の知らない世界の擬似体験で、先人の知恵で、著者や筆者の頭の中だ。私は馬鹿みたいに影響されて、信じきってしまう。
少し危険だな。でもやはり自分でも同じようなことをやりたくなる。「気がついたらその世界にいた」というような、そんな文章を書きたくなる。馬鹿みたいに影響を与えるようなものをつくりたいと思ってしまう。

幾つであっても

父の実家には古い振り子の時計があって、時折ネジを巻かないとそれは機嫌を損ねて正しく機能しなくなった。父が子どもの頃からずっと茶の間にあった代物で、振り子時計のネジを巻くのは子ども時代の父に割り当てられた仕事だった。
時計のガラス戸を開けそこに置いてあるネジを取り、二つあるネジ穴に刺してギッ、ギッ、と巻いていく。巻いた直後時計が途端に元気になって時間の刻み方まで早まるような気がして面白い。
父が小さい頃はネジ穴に背が届かず、踏み台に乗ってネジ巻きをしていたそうだ。
それが、中学生くらいになったある頃、踏み台を使わなくてもネジ巻きが出来ることに気付いたそうだ。父が自分のことを「大人になった」と感じたのはその時だったそうだ。
「なんだ、大人じゃねえかと思ってな。もう何でも出来るし、婆ちゃんより力もあるし、大人の世界ってこんなんかって、何でも分かったような気になってな」
と笑い話として父は私たち子どもに話して聞かせる。
思春期特有のある種の万能感。手が届かないと思っていた大人の“当たり前”が出来るようになった時、急に世界が開けるような感覚にその年齢の子たちは驚き惑うのかも知れない。
私はいわゆる“普通の子ども”ではなかったから中学生時代にはその感覚を得られなかったけれど、初めてアルバイトでお給料を貰った時、自分の銀行口座を持った時、一人で電車や新幹線に乗って遠出できる立場になった時に感じた驚きと新鮮さは鮮やかに覚えている。
私にはもうそういう事が許されている。私は大人になったんだ。社会的に一人前と見なされたような不思議さだった。
 

一方でちゃんと覚えてもいる。自分が子どもだった時のこと。
もうこんなに長い間生きているのに、まだ自分が子供の年齢であるのが不思議だった。一年って、人生って長いなと思った。
大人が思うほど中身は子どもじゃないのも知ってた。十二歳くらいの頃、自分がまだ“子ども”のカテゴリに入れてもらえる事が不思議だった。本当に純粋な子どもって七歳くらいまでじゃないかと思っていた。
色んなことを考えた。こんなに色々思って考えて、気を遣っているのに、よその大人たちは特に、小さい子に対するような話し方をする。

忘れてはいない。覚えているよ。
そしてあの時いつでも必死だったこと。全力だったこと。

でも、やはり今振り返ってみたら、私はあのとき結局子どもだったのだ。世界が狭く、出来ないことが多過ぎた。自分で自分を養って、行政手続きを踏んで生活することすら出来なかった。もっと単純なこと──毎日ご飯を作るとか洗濯をするとか、そんなことさえ親任せだった。
社会の仕組みなんて全然分かっていなくて、仕事ってどうやってするのか判らなくてそれ故に怖かったりして。
不思議だな。
大人になりたくなかった。自分は子どもだからぎりぎり存在が許されているのだと思った。
でも私はちゃんと大人になってしまって、あんなに怖く大きく見えた十代の子たちが子どもに見える。私だって、中身は未だに子どもなのだけれどね。

重圧や忙しさに追われさえしなければ、大人はもっと魅力的になれると思うの。ずっと自由で、ずっと無邪気になれると思うの。
大人も、子どもも好き。もっと言えばそういう括りなんか無しにして、その人はその人だと思う。幾つになっても。

明暗


(カラス)みたいに、きらきらしたものを見ると大喜びで飛びついてしまう。

自分にそうした傾向があると気がついたのはつい最近のことだ。 
私にとって魅力的な人に、私はすっかり没頭してしまう。こういうところでも過集中は発揮されるのかも知れない。
冷静に振り返ってみれば今までの人生でそんなことが幾度もあった。懲りずに、自覚もなく繰り返していた。
私はその輝きに最初から気付けている訳ではない。穏やかさだったり賢さだったり考え深さだったり才能だったり、惹かれやすいのはそういう内面の部分だからだ。多少の引っ掛かりはあるものの、ある期間の観察と接触がないと確実には分からない。だから自分がその人に夢中になっているのだと気付くのは半年後とか一年後とか、そのくらいのタイムラグがある。その頃には外の世界ではすでに別れの季節になっていたりするから手に負えない。
尽くすべき誰かがいる、というのも生きるエネルギーに繋がる。妹がそうだった。私は無意識のうちに夢中になってしまう。だから、母が「自分はお母さんになって良かった」と言うのもよくわかる。大変な思いをするし、余計な労力を使うのだけれど、それが結局自分が生き生き暮らす糧になる。
そう、自分が。

きらきらに夢中になっているときの私はまるで薬物中毒者だ。驚くほどの多幸感とエネルギーに溢れて、それがその後の人生もずっと続くのだと根拠もなく錯覚してしまう。その期間は自分もきらきらしていられるのだけれど、別れのあとは自分でも異常だと思うほどに、すっかり塞ぎ込んでしまう。まるで薬が切れたみたいに。
高校生のとき、夢中になった人がいた。あの人のおかげで、痛いような眩しいような、愛おしい日々を過ごしたけれど、高校卒業後の精神的虚無感に私はやられた。
卒業したって会おうと思えば会える、と言われるかも知れないが、私は好きな人に自主的に会うのがひどく苦手だった。どんな服で、どんな顔で、どんなテンションで会うのが正解なのだろう。
“相手も自分が好きだから会おうとするのだ”と自分に檄をいれて最初は頑張って会おうとする。でも、自尊心のなさがブレーキをかける。相手に迷惑じゃないのかと、いやそんな風に思ってはいけないと都度自分を修正することに疲れてくる。“会うために会う”という行為はひどく消耗する。私があの人を大好きなのがおおっぴらになるからだ。結局自分を蔑むのは、楽だからなのだろう。「私はあの人が大好きで、あの人も私のことが大好きで、会えることを嬉しく思っている」と自然に滑らかに思うことができたらな、と思うけれど。
“理由もなく定期的に会える”というのがどんなにか恵まれていることか。そこに行けばあの人がいると分かっていて、それが当たり前になっている日常の贅沢さよ。学校という、どちらの所属物でもない場所だったからこそ気兼ねなかったわけで、それを喪ってしまった私たちはきっと既に消滅してしまっているのだ、そう思った。
その後もそういうパターンに何度か陥った。誰かと深く仲を深めてきらきらと虚無を繰り返す。終わった後は深い会話が慢性的に不足したまま日々を暮らす。健康に悪いに決まっている。辛くなると架空の世界に逃げ込んでしまう癖がある。小説を書くのがライフワークなのは、そういう訳だ。

うずくまったまま泣き溶けていたい。
いつまでもただそうしていたい。

やがて悲しみが薄れても、自分の力だけで再びエネルギーに満ちてやる気のある日々を送るのは難しい。時折多少のさみしさを感じつつ、無難に穏やかに過ごすのみだ。

私は穏やかな幸せではなく、息を呑むほどの激しい幸せが欲しい。

見境もなくきらきらに飛びつく癖に臆病で、自尊心は極微量で、私は自分が嫌になる。
うっかり嬉しくなっちゃってさ。それで反射的に飛び付いて。なのに恐れ(おのの)いて。ばかだよな。
生活の中からあなたがいなくなったら、私の内面の彩りはどうなるんだろう。何のことはない、元の状態に戻るだけなのに、あんまりあなたが眩しくて、与えてくれるものが嬉しくて、臆病な癖に欲をかいてしまった。

『アルジャーノンに花束を』みたいな上昇と下降。高揚と沈滞。
一時的な煌めきに魅せられて私は知らずに吸い寄せられてしまう。蛾の火に赴くが如しである。気付いた頃には手遅れで、終わりは燃え殻のみである。

私は傲慢だ。
そして自制すべきだ。優しいふりして、結局のところ大事にしているのは私自身で、一番傷ついているのは私自身なのだから。自分の傷つきに他人を勝手に投影して見下しているのだから。


ひとをすきになると、いつも淋しい。
ひとをすきになると、必ずのちに塞ぎ込んでしまう。
考えて考えてその結果距離をおこうと努めて、自分の輝きのなさに悲しくなって、勝手に一人になりたくなる。
一番最初に母に好きになってもらいたくて、でも応えてはもらえなくて、そのはじめの経験がたぶん、自分で認識しているよりもずっと悲しかったのだと思う。あの淋しさを、慢性的な淋しさを思い出してしまう。

表面の肌がふやふやに揺れて、不思議だな、わたしは小さな女の子に戻ってしまう。ほら、私はなんにも出来もしなかったあの小さな淋しい女の子だよ。

花毒

顔を寄せれば藤の香の
縁に赤みが差す君の

耳朶(じだ)の薄さの(はね)の如しよ
リラは重みに重なりつ

一朶、ニ朶と(ようよ)う積のる


まぶたを閉じたり開いたり蝶の羽休めのようにぎこちなくはたはたやっていたら、やがて開く力がなくなった。
ここはたぶん野外なのだと思う。だけどあんまり心地よくって、警戒心がうすくなる。

眠い、眠くない。眠い、眠くない。

自分の夢に出演している。
この世界は澱んでいるのに、澱んだ世界に生きるあなたは美しいのね。
美しいので、澱みの世界の継続を願ってしまうこの葛藤。この矛盾。やがて自身も惰性で緩々(ゆるゆる)と淵から深みへおちてゆく。汚らしく濁っていて生暖かで、でも一度浸かってしまったらもう何も構わなくなる。
時折ちらとのぞく華奢な背中がある。この角度からでも、長い睫毛はしっかり見て取れるからあなただと分かる。
飾っていない美しさというのはどうしてこうも求心力があるのだろう。私はにこりとも笑わずに息を詰め監視している。あなたと対を為すように私は、醜い。
なぜ醜いか。
なぜ醜いかなんて、そんなもの。
そんなものは生まれつきに決まっているじゃあないか。
程よい重みのある水の中のような世界で、私はそこの主となった。
毒性が脳を冒して徐々にあなたを憎みはじめる。
この世界で生きるには、あなたは優し過ぎる。
あなたは本来、もっと美しく澄んだ世界に生まれるべき者だったのだ。それが憎い。
突如、あなたが振り返る。白目の影が青く、赤みのさした血色のよい肌は健やかさのしるしである。けれど、あなたを輝かせている根源はあなたの生命力そのものだ。こちらに気付いたらしく、躊躇わずに笑いかけてきた。私は嘘がとても上手なので、笑顔で滑らかに返す。
「こんにちは」
警戒も全くなしに、あちらからするするやって来る。
「こんにちは」
私の方ではあなたが憎いのに。でも、同じくらいに慕わしい。自分の片手に持った何かを後ろ手に隠して一歩前に進もうとしたら、

目はそこで醒めた。頭を上げたら、積もっていた何かが次々落ちてきた。この香り。甘くて、しつこいくらいで。落ちて来たのは、大きな花房だった。
リラ、藤、ライラック、ウィステリア。そのあたりの種類の花なのだと思うのだけれど、植物に疎いものでどの名がどれを指すのか判らない。三角の房に果実が実るようにして付く花弁。この種の植物のどこかの部位には、軽い毒性があるらしいと聞いたのだけれど。
──苦手な香りだな。
お婆ちゃんの古い鏡台に仕舞い込まれた古めかしい香水みたいな香りだ。新鮮な生花なのに(いにしえ)の気配を感じる。
せっかく夢から醒めたのに、夢よりも夢のようなシチュエーションだった。花に埋もれて眠る女。整えられた庭園。ミツバチの翅が唸る音が聴こえる。景色はもやもやと、不自然なほどに(けぶ)っていて全体像が曖昧だ。
ただ、花に埋もれて眠る女──私──は先程の夢と(たが)わず美しくはなかった。夢の中でくらい美しくあってもいいものを。
じんわりと残る麻酔のように、私の身体は痺れたように重く、緩慢な動きしか出来ないのだった。ここはどこだろう。
見ると、私の腕は剥き出しで、黒い虫が幾匹も肌を喰いちぎって侵食してきている。体の半分が私の肌に埋まるほどだ。悲鳴を上げて走ったら空気の重みが妙で、分かった。これもまた夢だ。怖い。

またあなたに会った。あちらは私の前方にいて、見られていることに気付いていない。
透明色の髪を綺麗にまとめあげて、頭の形に沿わせている。それは畝りながら這う蔦植物のように自然で、まるで芸術作品のような様子なので見蕩れてしまう。
でも、耳に化粧しないのはなぜだろう、あんなにはだかなのに。耳は、もっとずっと、飾っていなくては駄目だ。いけない。
挿したい。あなたの耳に挿したい。先程の夢に見たあの、重くて華々しい房花の群を。
何故飾らない。
いいえ。あなたは飾らないから美しいのに。飾りの無さが、あなたの飾りなのに。
でも気付いてしまう。私は夢を跨いで右手に幾房もの花をしっかりと掴んでいた。

あなたに刺した、気がする。鋭い茎部分を突き立てて耳を攻撃した気がする。毒を、毒が行き渡るようにと念じた気がする。
翅のように繊細な皮膚は、すぐに穴が開いたので簡単に重たい生花を引っ掛けられた。香りが強くてくらくらする。私はすぐさま(いにしえ)へ向かう。あなたが痛がったのか、気がついたのかどうかすら記憶があやしい。




知っている? 小説書きなんて嘘つきよ。存在しない世界の、存在しない人間の話をさも実話のようにまことしやかに語るのだから。その人たちに感じる必要のない苦しみをわざわざ与えて、重みで動けないようにしたりさえするの。私を喰っていた虫みたいにね。私にとって、嘘の世界なんて簡単よ。そういうのとても得意なの。自分の感情に嘘をついて生きてきたの。がっかりした?
がっかりしてよ。
がっかりしないと泣いてしまうな。泣いてしまう。
私のこと、おとなだとおもわないで。私はどこもかしこも未完成のままだよ。おとなみたいに見えるでしょう。でも違うの。どうしようもないの。

そうしてね、私なんて結局書くことしか出来ないの。悲しみも苦しみも喜びも愛しさも、書くしかない。その方法でしか出せない。でもそれさえ後悔したり、不意に閉じたくなったり。その繰り返しだ。
世界は私視点でズームになっている。周りが見えない。ズームになっている。ズームになっている。ズームになっている。
あなたはひどく罪深い。憎くて慕わしい。どうして良いかわからなくなる。
とても、口には出せない。出してはいけない。
言えなかったし、言ったら駄目だった。駄目という決まりだった。

だから書く。私は滑らかに嘘をつき続ける。

銀賞

どれだけあなたが忘れた世界でも僕は憶えているの
憶えているの
かたちをなくした日々の背骨と、記憶の熱が
あなたを忘れさせてくれないのと、図鑑の中で僕はもがいている ──図鑑 


どうしてだろう。
どんなに幸せだと感じる時でも、死にたいという気持ちが消えたことがない。

きっと私のそもそもの思考が「幸せに生きたい」ではないのだろう。“生きたい”という意思がひどく薄い。自分はどこまで行っても余所者だと感じる。
勿論死に伴うであろう痛さや苦しさは怖い。今この場で頭上から危険物が落ちて来たなら私は咄嗟に身を庇うことだろう。けれど、そういう事を言っているのではないのだ。
基本的には呑気に生きている。毎日暗い気持ちで泣き暮らしているわけではない。昔と比べてずっと生きやすくはなっているし、絵や小説を書くとき、サイクリングや一人旅をするときは生きている喜びを純粋に感じる。
幸せにはなりたい。
ただし望んでしまうのは「幸せに死にたい」なのである。
その気持ちは、外側で何があっても微塵も動かない。

「将来のことを考えている」という意味の違いにあるとき気付いたことがある。多くの人は“将来をちゃんと生きる”ために今を精一杯生きている。そのために車を持ったり結婚したり家を建てたりするのだな。歳をとっても安心して暮らせる手筈を整えるのだな。
私も、将来のことを考えて生きているつもりでいた。でもそれはどうやら一般の“将来を考えている”とは違うようだ。今を精一杯生きているのに変わりはないが、それは“将来の死を見据えて”のことなのだ。いつ死んでも大丈夫なようにという準備の仕方なのだ。だからこれからも生きねばならないような手続きをするのがひどく億劫で、そういう理由で車とか家族とか家を持つのに抵抗があるのだなと気が付いた。死と結びつけてしか、私は将来の計画を立てることができない。ちゃんと遺せて死ねるようにと死の準備を見据えて私は小説を書いた。自分がまるで覚悟なく夢の中でふわふわと生きていると感じる所以だ。

十代の頃は特に死を強く望んだ。罪悪感が強烈で、今すぐにどうにかして何とかしてというような切羽詰まった思いがあった。でも、私の生きた形跡を何も遺せずに死ぬのは嫌だと思った。
十代を通り越して随分と経っても、死にたい気持ちが消える気配はない。幼少期の頃から自然と抱いていた私のその思考は、思春期の一時的なものではなかった。このままでは死ねないという焦りがあって、そうすると私の思考はすぐ小説へと結び付く。
まだ書きたい小説作品を書けていない。伝えたいことを伝えられていない。書けるまでは、死ねない。
そういう思いで書いたのが『金魚邸の娘』という長編小説であった。拙い私の筆だ、傑作ではないかも知れない。でも、力作なのは間違いのないことだった。
これを書き切ったことによって私の心の重みは一気に軽量化した。私には『金魚邸の娘』がある、だからいつ死んでも大丈夫、という自由が手に入ったような気がして驚く程に安心した。誰に読まれなくても良い、とにかく遺せたという自己満足が重要なのだった。同時に、人生の気が抜けたような状態に陥ってしまったりしたけれど。

一昨年の夏、交通事故に遭った。気が動転して、怪我の痛みも感じなかった。そして後から考えた。ああ、これがもっとどうしようもなく酷い事故だったとしても、私は痛みもその他色々なことも感じなくて済んだのではと。自殺と違って自分は可哀想な被害者で、覚悟も無いまま気がつけば死んでいて、遺したいものはもう既に遺せていて。そういう死に方っていいなと思った。それが酷く羨ましくなってしまった。
のちに、そういう思い──事故で偶然死んでしまう可能性のある幸福や、今が幸福だからこそ死にたいという気持ち──を短編小説『蝶を封じる』で描いた。

聖書によると永遠の命は賞なのだという。賞であるとパウロは述べている。
「命は賞」か。確かにそうだ。でも、永遠の命が金賞だとするならば、私にとって死は銀賞だ。銀賞もまた良い。それだって充分魅力的な報いだ。というか、私はこれまでの人生で賞といえば銀賞を貰うことが多かった。決して頂点にはなれない、いつも二番目。私にはそれくらいがお似合いだ。一番良いものは取り逃がすくらいが私らしくて丁度良い。
だから、下さいと思ってしまう。とびっきりの優しさでなくて良いのです。私には他の人よりちょっと少なめの優しさを、下さい。私には穏やかで優しい、幸福な死をください。私の一番欲しいものは何だろうと考えたとき、そこに行き着いてしまった。
考え方としては良くないものだと承知している。でもどうしても変えられない。たとえどれだけ誰かが私を愛そうと、どれだけ私が誰かを愛そうと、どれだけ幸福が降りかかろうとも、遺したいものを遺せてしまった私の抑止力にはならないのだと思う。
人に話したら叱られるかも知れない。あるいは同情されるかも知れない。けれど、そうされたところで思ってしまったことは思ってしまったことだ。怒られても泣かれても、心が動いて気持ちが変わるわけでもないしなぁと思えるのだ。
勿論生きているうちは精一杯生きたい。人に優しくしたい。正しい基準を守りたい。
けれど、生が継続することについての怖さはいつもついてまわる。私は継続が怖いと思ってしまう。永続が信じられない。いつか飽きられてしまう、捨てられてしまうという恐怖がどうしても拭えない。

許して欲しい。

もう生きられないことを許して欲しい。
生きたい希望を抱けない私を、許して欲しい。

大好きな人たちの将来を見れなくても良い。あの人達は、私がいなくったって全然幸せだ。妹に至っては、むしろ私が存在しない方が彼女の幸福なのではと思ってしまうほどだ。幸せでいてくれさえすればそれで良い。彼らに私の死の影響は微塵もないのだから。ただ、私があなたに与えることの出来た嬉しかったことだけ憶えていてよ。それを時々思い出しては、嬉しい気持ちになってよ。私のこと、大好きなままでいて。
みんなみんな幸せでいて下さい。私含め、幸せになってください。そのために私に幸福な死を下さいませんか。

どうしようもなく歪んだ私はそんなふうに切望してしまうのである。

春霖

春霖(しゅんりん)、という言葉を知った。つい最近のことだ。春の穏やかな長雨のことをそう呼ぶのらしい。

(ながめ)」とは長雨の意味合いを持つ字である。霖雨(りんう)ともいう。
季節ごとの表現として春霖、梅霖(ばいりん)秋霖(しゅうりん)などと細かに分けられている繊細さが、如何にも日本人的な感性だ。
私は意図せず繊細な人間として生まれた。感受性が豊かである代わりに世の中を図太く生きていく器用さを持たないHSP(ハイリーセンシティブ)気質である。

そんな私が一体今までどうやって生きてきたのかというと、自分のことを取るに足りない、ぞんざいに扱ってもいい人物なのだと周りに明示することでそうしてきた。自らおどけ役を買って出たりして、私の事は(わら)っても一向に構わないですよというメッセージを自ら発信していた。どうしてそんな結論に至ったのかわからない。でも、どうしても確固とした態度で自分が価値のある人間だと主張することはできなくて、自分でもそうは思えなくて、誰かに好かれることを私は早くから諦めていた。
基本的に、周りは私のことが嫌いで不快で目障り。私は人ではないし、人だとも思われていない。自分を自分で貶めるというおかしなやり方で、私は私なりに自分を守っていたのかも知れない。
それが私を取り巻く当たり前の環境で、おかしいなんて思わなかった。母も父も私をとろくて頭の足りない子だと思っていたし、失敗したり失言したりすればその話題を面白おかしく取り上げた。学校ではもっと露骨だった。そういう時の私は周りと一緒に笑うか、じっと黙っているかのどちらかだった。
腹を立てることはなかった。腹を立てる、という思考回路を知らなかった。
そうしてやっと、大人になって気がつく。
ああ私、本当は誰かに蔑ろにされる都度傷ついて来たのだ、と。そうして出来上がった私は「自分が誰かに好かれている」ということを頑なに認めることが出来ない。こんなにも、出来ない。
私、否定的なことを言われた? 言われていない。無視された? されていない。なのに、私は怖い。自分を認めることがあまりにも怖い。
私は後退している。なぜか。何かショックなことがあったとか、そういうことではない。それはオプションでしかない。真の原因は、摩耗だ。
私の尊厳は長い時間をかけてざりざり削り取られていって今、神経や骨までもが露出している。
見下げられるのは当たり前のこと。それは当然のこと。だからそこに異議を唱えるなんて、おかしいのにね。


不本意に、不本意な場所で私は知ってしまった。
私が私としての尊厳を保って、蔑ろにされない場所を意図せず持ってしまった。実際に対面するような環境では情報量が多くて混乱しがちな私も、言葉なら自由に泳げる。絵なら、一瞬で人の心を射止められたりする。驚くべきことだった。
何でみんなして私のこと「凄い人」扱いするんだろう。どうしてきちんとした人間として敬意ある話し方をしてくれるんだろう。誰も彼も、私としての存在を大事に扱ってくれた。私も私で、相手が励ましたり慰めたりしようとしてくれるのを不思議と感じ取って反応出来たりした。
そういう温かな交流が、正直嬉しかった。
私の絵が好きで、泣いてしまったという人。書いた物語に思いを馳せてくれた人。私の存在が貴重で大事と言ってくれた人。
“尊敬しています”、“貴重な存在です” と言ってもらった時とても嬉しくて、どうして嬉しいのだろうとしばらく考えていた。
考えて漸く気がついた。尊厳や敬意を示してもらったこと、それが嬉しかったのだと。そこには温かさも含まれていたので、正確に言えば「愛情の籠もった敬意」である。
よく“男性は敬意、女性は愛情を相手に求める”と聞く。でも改めて考えれば、どちらもきっとそれ単体を求める訳ではないのだと思う。比率は違えど、両方含まれてはじめて心地良いものとなるのだろう。
“愛情のない敬意”はどちらかというと権威者に示すような社会的なものだし、“敬意のない愛情”はペットに対するような自分本位のものだ。
特に敬意のない愛情は、愛ではあるのにそれが向けらるときどうして傷付いてしまうのだろう。いわゆる毒親と呼ばれる人の愛情は多分それに類するもので、故に子を傷つける。反発されると「こんなに愛情を注いできたのに」と驚くのは、自分が示しているのは自分本位の愛情であることに無自覚だからで、そういう尊厳の含まれない愛情がいかに人を痛めつけるものなのか知らないからだ。
今になって、自分が愛というより敬意を示されたのが嬉しかったのだと知って驚いた。本当はずっと敬意を渇望していたのだ。

今更気付いてしまう。自分が傷ついてきたことを気付かない振りをしてきたことに、気付いてしまう。
ただシンプルなこと。私は私を、人として扱って欲しかったのだな。
多分今の世の中、そう感じるのは私だけでは無いはずだ。ここは個人の尊厳が剥奪されて傷ついた人が溢れかえっているような世界だ。

──ねえ、あなたは決して、軽く扱われていい人間じゃない。蔑ろにされていい人間じゃない。誰にだって尊厳があって、大事に扱われる必要がある。

言い聞かせる。目頭とも目尻ともなく、溢れていく。
ああ、私が子どもの頃から漠然と死にたかったのは、それゆえのことではなかったか。誰もが私を要らない者と判断したと感じ、自分の価値が、自分の尊厳が感じられぬゆえではなかったか。“どうせ自分が死んでも誰も大して騒ぐまい”との諦念から。

ありがとうね。
私とあなたは、とても良い友情関係を築けていたと思う。互いに敬意を払い、感じ方を知りたいと思い、元気に過ごしてくれたらいいと思った。それらを素直に言葉にできた。あなたは私の考えを尊重してくれて、決して存在を軽く扱うことはなかった。
そこを揺るがされてしまうと、今更そうされると、分からなくなってしまう。こんなふうに存在そのものを貴重なものみたいに扱われたら。
これは何だろう。肌が湿っているのは感じたけれど、気持ちは穏やか、不快には感じなかった。きっと流れているのが雨だからだ。
あなたがくれたのは春霖、優しい春の雨なのだ。
それは冬の雪をも融かして循環させる。融けて染み込んで地下に蓄えられて。
やがて流れる──止めどなく。


薄ぼんやりとは分かっていた。けれど、はっと目覚める時みたいに自分がどれだけ蔑ろにされた扱いに慣れきっていたのかに気がついた時、耐えがたい程泣きたい気持ちになった。知ってしまった。

つい最近のことだ。

燃焼

「この景色に、憧れたの。この町を飛び出したくて電車に乗って、そしたら真っ暗になった夜の町に灯りががきらきら光ってて。あんまり綺麗で悔しくて羨ましくて。でも憧れた。“隣町銀河”って名前つけて。梅渓さんに羨ましがられるような事じゃないの。私、多分取り憑かれたんだ。隣町銀河に取り憑かれた」── 隣町銀河



銀河のようだったので、心の内で(はしゃ)いだ。

魅力はなぜ光に喩えられるんだろう。ぴかぴかとか、きらきらとかさ。そういう表現が多い気がする。びかびかだと、あまり光量が強過ぎる。でも「強烈だから近寄るのはやめておこう」なんて、出来ないみたいだ。

『溺れるナイフ』という漫画を読んだことがあるが、不思議な話だな、と思った。絵柄は少女漫画だが、内容は文学的。多分あらすじとしてきれいに纏めようとすると野暮になる、そういうストーリーだった。
一巻のラストが好きだ。
主人公の少女、夏芽は十二歳の頃強烈なびかびかを目の当たりにする。同い年の少年“コウちゃん”だ。コウちゃんは田舎の普通の少年のはずなのに、最初から最後まで得体が知れないようなところがある。
──なぜ彼だけが発光して見えるのか。
──コウだけ光って見えるんよ。
彼は度々そのような表現をされる。実際に光っているというわけではないのだが、コウちゃんは何か選ばれた人間でもあるかのように特別なオーラを纏っている。奔放で傲慢で身勝手で、優遇されているようでいて恐ろしい程の黒さも抱え込まされているような。
眩しい。魅入る。怖い。後ろ暗い。
一巻のラストは、地元の夏祭りの夜、子どもが参加することを禁じられている危険な行事に顔を隠して参加したコウちゃんを、夏芽が目撃するシーンで終わる。
縦横無尽なコウちゃんは超然とした存在であるかのように煌々(こうこう)としていた。その時の夏芽の強烈な衝撃と衝動。
私だって。私だって。
──私だってあんな風に。

“コウちゃんが欲しい”と感じた夏芽だったけれど、それは具体的にはどういう意味でだったのだろう。
夏芽は自分でも何かわからない大きな感情に惑い、それを“恋”として置き換えて自分を納得させてみてはいるものの、しっくり来なかったんじゃないだろうか。私にはどうもそう思えた。私自身があまり恋愛好きではないからかなのも知れない。
あれはそういうのではなくて、何というか“びかびか”と表現する他ないようなもののように思えた。その衝動で、夏芽も夏芽にしか出来ない表現を開始している。



──光って見えるんよ。

まさにそれ。光って見えた。

あれは何だったのだろう。あのすべもなく絡め取られる強烈さは。
少し様子を見てみようとかちょっと距離を置こうとか、そんな風に気を付けようがない。その時点でもう只中に入っているのだと、のちで気がつく。
強烈な光の周りに群がるのもまた大小様々な輝きで、まるで概念的な隣町銀河だった。私は左記子宜しく飛んで火に入る夏の虫だ。

あれは何。表現者というのはどうしてあれほど魅力的に見えるのか。どうしてあんなに美しかったり格好良かったり輝いているように見えるのだろうか。あんなに強烈な衝撃と魅力を携えてやって来て、なんて卑怯なんだろう。
そして私にはその輝きを感じ取って感動できる人も同じように輝いて見える、生命が燃えだすような。あれが不思議で仕様がない。


自分でもそうとは思っていなかったのだけれど、私は割と情熱の人なのだと思う。口数も少ないしぼうっとしているしで、そんな風には見えないのだけれど。
特定の分野では、衝動を抑え込めないほど情熱的になる。美しい美しい呪いである。
ああ、光って見えた。純度高く他と馴染まず、本来の自然な上昇を無視するような跳ね上がり方で。それだけ後から来る反動も大きいのかも知れない。急激な上昇の後にそれをキープ出来ず、緩やかに下降してゆく物悲しさだ。

私自身の表現も静かに燃える。
私は言葉で人の心を燃やしたい──なんて、今まで何度言ったことか分からないけれど。
自分が飛び抜けた才能を持っているとは思わないけれど、それでも私は物書きとしてのプライドがあるみたいだ。「物書き」なんて自分で勝手に言ってる。だけどやはり言葉を扱う人間として、私の言葉が少しでも力の宿るもの、価値のあるものになっていて欲しいと願ってしまう。
書くのを続けるとかやめるとか、そんな風に考えたことはない。文章を、努力して書いているというつもりはない。共に生きているという感覚だ。出さなければ堪らず苦しくなってしまうという、そういう種類のものだ。
それでも私のこれも、いつか下降する時が来るのだろうか。それは一体どんな心地なのだろうか。ちょっと恐ろしくて考えたくはない。



私はいつも知らずに燃えてしまう。ぎらぎらの吸引力には抗いようがない。

そうしてその終わりは燃え殻のみなのだろうか。

きっかけと出会った人たち、創作熱 : 崎山蒼志のこと①

私が崎山蒼志(さきやまそうし)というミュージシャンを知ったのは2018年の七月あたりだったと思う。

YouTubeにたまたまおすすめで上がってきた動画をクリックしたのは、ただの気まぐれだった。
高校生がオリジナル曲を披露し、それをゲストやプロミュージシャンが審査して優勝者を決めるという主旨のバラエティ番組。そこでピックアップされていたのが崎山蒼志という名の十五歳の少年だった。
冴えない学生服に眼鏡、内気そうな雰囲気に緊張のせいか不明瞭にぼそぼそ喋る声。この子が歌うの? 大丈夫なの? と心配してしまうほどに彼はいかにも頼りなく見えた。続く「自転車に乗れないのが悩みです」という天然ボケなトークに、完全にお笑い系の展開を予想していた。
しかし、突如として始まったギターのストロークとともに、オリジナル曲『五月雨(さみだれ)』を歌い出した彼はその瞬間豹変したのだった。

妙だ、と思った。曲調が妙。発声が妙。ギターのヴォリュームが妙。なのにこれが自分のスタイルだと言わんばかりの揺るぎのなさ。先程のあのおどおどした少年はどこへ行ってしまったのだろう。
「ラミ、レミ、レミレミレミレレド」という音程で初っ端から激しく始まるテイストの曲なんか知らない。耳慣れない。ただ妙だ、妙だ、何だこれはという感じ。
正直、初めて聴いたときは脳が追いつかなかった。
凄いとも凄くないとも、良いとも悪いとも判断がつかない。そういう次元のものではなかったと言ったほうがいい。聴いたことのない異国の何かようで正体が掴めない。確かに音楽ではあるのだが、私の乏しい音楽の概念を超えている。そんな音楽のやり方があったのか、ギターってそんな弾き方があったのか、という目から鱗の衝撃であった。
その動画は強烈な違和感を残してあとを引いた。
訳の分からない不思議なものをいきなり見せられて、正体を把握せずにはいられない衝動に駆られた私は、気が付くとYouTubeに上がっている彼の演奏動画を片っ端から見てまわっていた。それが始まりだった。

なぜその時期に動画を見ていたのか、なぜ七月だったのかというのにも理由がある。私はその年の六月まで長編小説『金魚邸の娘』を執筆していた。一年がかりの執筆だった。力を込め過ぎた反動か、完結後ほっとした気持ちと共にどこか空虚な思いに襲われて力が抜けきってしまい、それで無為にYouTubeを見たりして過ごしていたという経緯だった。
小説を書き終えると喪失感に襲われるというのは物書きにありがちな症状ではあったけれど、特に『金魚邸の娘』を書き切った今、次に何をすれば良いのか、ひいては何のために人生を生きるのか分からなくなってしまっていた。
数年前から私は余生を生きていた。人生経験を重ねるにつれいろいろな痛みが和らいで生きやすくなったは良いが、要は感性が鈍ってしまい、何かを受け取って吸い込んで表現する力が弱くなったということなのだと思う。
私の青春は痛みの伴うものだった。でもその痛みは、何かをしたいという思いを常に掻き立てる発奮剤のような役割を果たしていたのだと、過ぎ去ってみて初めて知る。あの痛みは、痛みではあるけれど同時に甘やかなものだったのかと。本を読んだり旅行をしたり、今は何を試してみてもあんなに強く心の動くことはない。だから『金魚邸の娘』で最後の最後に残った感性を搾り取って何とか形を与えて、それが出来たらいつ死んでも悔いはないように思われた。
絵も、ずっと描けていなかった。思いつくままの落書きは相変わらず途切れずしていたけれど、“下描きをして画用紙にトレースして画材を使って描く”というような本格的な絵は機動力が必要で、二年以上描いた記憶がなかった。
私の感性はもう戻らないのだと思っていた。戻らないままの感性を徐々に受け入れつつ、子どもの頃からの願いも通じないと明かになった今、空虚さとともに力なく生きていくのだと思っていた。


崎山蒼志動画巡りの二つ目で、早くも「この子は本物だ」と確信した。曲も歌詞も、決して雰囲気だけで作っている訳ではない。

“虫のように強く、果物のように美しい”

『夏至』という曲のこの歌詞を目にしたとき嫉妬した。私も使いたかった、小説でこんな言葉を使いたかったのに。だけれどこの言葉は、歌詞として使うからこそ生きるのかも知れない。
私は文学寄りの人間だ。だから真っ先に歌詞に注意が行く。彼の詞はどれも文学的だった。言葉遣いが印象的かつ美しい。
“とか”“など”という接続詞が音楽と一体となって効果的に用いられているというインパクト。“何にも感じる事のなき”のような古風めいた表現や、“内面的な感性を受け入れた”などの哲学的な語彙。最初に聴いた『五月雨』だけでは彼の作詞能力を測りかねたけれど、これはもう言い訳が出来ないなと思った。歌詞だけで引き込まれる要素としては充分だったけれど、恐ろしいことにギターも曲も声も唯一無二だった。それを組み合わせて表現するのだから、破壊的な効果をもたらすに決まっていた。
まず、ギター演奏が未知である。四歳からギターを始めたという裏打ちされた熟練性もあるのだろうが、多分それだけではあんな風にはならない。音の厚みがギター一本とは思えない。あんな複雑な音を聴いたことがない。人の手が演奏しているとは信じ難い。
音楽性が不可思議である。どのジャンルに当てはまるのか分からない。一番二番、AメロBメロという構造になっていないので次にどんな展開が来るのか予測がつかないのだ。サビもひとつだけではなかったりもする。すでにオリジナル曲が三百を超えているという楽曲制作の熟練性と試行錯誤の結果なのか、「曲ってそんな作り方をしてもいいのか」という目から鱗の驚きがあった。
そして、震えと舌足らずさと唸りを含んだような独特の高音。インパクトの最大の要因はここだった。最初に聴いたときは音程が合っているのかさえ分からなかった。確かに初見のあの動画で彼はことに緊張しており、思うように発声できていなかったのだな、と今改めて見ると分かる。けれど、音痴というのとは違った。彼は何かが明らかにずば抜けていた。
センスの世界。
全てが彼のセンスだけで成り立っている。動画は彼が十二歳の頃のものから直近の十五歳のものまで見ることができたが、驚くことに私の中では「これはいまいち」と思う楽曲が存在しなかった。ただ一回聴いて分かりやすいかそうでないかの違いがあるだけで、どの曲でもひりひりした焦燥に駆られ、心を深く抉られ、次は次はと貪るように聴き漁りたくなる。聴けば聴くほど中毒になる。はじめは妙だと感じていたところが却って癖になる。
こんなことがあるだろうか。
この種の衝撃は、初めて宇多田ヒカルを知ったときや小説家の京極夏彦、絵本作家の酒井駒子を知ったときに匹敵した。日々の暮らしの中で、そこまで衝撃を感じる人というのはそうそういない。そして、全作品が良いと感じたのは崎山蒼志が初めてだった。無名の、浜松の素朴な少年に感じたのが初めて。
正確に言えば、多分私は音楽に(はま)ったのではないのだろう。崎山蒼志に嵌ってしまった。好みのテイストの音楽とかどうだとか、そんなものは知らない。あまりに繊細で攻撃的で優しい歌詞に、思いもよらないギター演奏に、音楽性に、この少年を丸ごと知りたいと思ってしまったのだ。

その日から私は来る日も来る日も崎山蒼志の動画を探しては聴き漁ることにのめり込んだ。何しろ彼はプロミュージシャンではない。ただの地方の高校生だ。ライブも地元のささやかなもののみだし、音源配信もCDもない。それで、縋るように動画を探るしかなかった。見落としがないように、ひとつも取りこぼさないように。
この情熱は自分でも驚いた。まるで熱に浮かされているように夢中になっている日々のなか、あるとき気づいた。
この高揚と焦燥は思春期と同じだ。
何かに焦がれて、夢中になって、痛くてそして輝いて。
堪らなく何かをしたくなる。何かを掴み取りたくなる。このままでは駄目。私はなにか、なにか。

戻って来た。

私にとって、『崎山蒼志』は劇薬だった。あんなに足掻いて取り戻せなかった感受性を、いとも簡単に目の前に差し出してくれた。

崎山蒼志のこと②

少年であるという、ある種の信頼性があった。

音楽だけでなく、歌い手の人間性そのものに強烈に惹かれたというのは初めての経験だった。こうすれば聴き手に受けるだろうという打算的なものは一切感じられない。ただ音楽が好きで、そこに自分のフラストレーションをぶつけて表現するだけ。少年だからこその純粋さ。素朴さと謙虚さ。彼の嘘のなさは時折胸が痛くなるほどだった。そしてその姿勢はプロになった今でも同じ、ただ音楽が好き、良い音楽を作りたいという根本は変わっていないのが嬉しくて愛おしい。

聴くどの曲も、気楽な気持ちで聴くことなぞできないのだった。BGMになり得ない。読書のような集中力を要する。あの夏、私は毎日部屋の片隅で、息を潜め膝を抱えて眉間に皺寄せ聴き入った。彼の創り出す世界は私にとって痛くて仕方のないものだった。剥き出しの、まだ塞がってもいないヒリヒリした傷口をざらりと触れられるような直接的な痛み。歌う姿を瞬きを惜しむほどに見ていたいのに、一方で目をぎゅっと閉じて耳を傾けていたくなる。
なんていう歌い方をするんだろう。あんな、子どもが癇癪を起こして泣き喚いてでもいるように、なりふり構わず。
“ねえ、きみの話はなに どう答えてもいいから”
母に、一度でもいいからそんな風に真剣に寄り添ってもらいたかった。そう思ってしまったらもう他人事として聴くことができなくなった。

‪人がそれを『良かった』と感じる根底には、たぶん深い共感があると思う。‬
‪崎山蒼志の得体の知れぬ“世の中に対して感じる違和感”の重さを思い知った。どれだけ愛されても感じる世界の悪さと異常を憂う感受性を、きっと彼は手放したくはないだろう。それを愛して表現し続けたいんだろう。だけど、同時にそれはとても痛く、感受性の知覚過敏みたいに事ある毎に染みてくる。そういう人が周りと馴染んで健全に生きるには、消費するエネルギーが半端ないのを、私もまた知っている。‬
‪息切れせぬように願う。私だけのために勝手に願う。きっとそれは的はずれで、もしかすると杞憂なのだろうけれど。‬
‪鈍感ならば生きやすい。でも、求めるのは恐らく生きやすさではないのだ。‬
‪幸せが『痛みを感じず満たされること』と定義されるのなら、この世界での幸せには二択しかない。自分が鈍化するか、世界が浄化されるか。‬
‪刷り込み続けられた“幸福”に疑問を感じてしまったならそこで生きることはそれ自体が苦痛となる。‬
‪鈍さはある意味幸せで、でもきっと彼は自分の精度の高い感受性を手放したくはないと思っているだろう。自分の鈍化ではなく世界が浄化される方を願って生き、それを歌う。ただ真っ直ぐにがむしゃらに。体当たりでもするように。‬
こんな音楽など知らなかったし、こんな少年など知らなかった。多分、同じ楽曲を他の誰かが歌っていても違う。崎山蒼志に限って言えば、あれは「音楽」だけでは言い表せない「音楽以上」と分類したくなる。聴きたいよりももっと奥深い何か。知りたい、理解したいに近い何か。

私は音楽に関して無知である。
今まで特定のアーティストに入れ込んだことなどなかったし、CDだって一枚も買ったことがなかった。歌うことは好きだし絶対音感もあったけれど、音楽に対して「どうしようもなく特別に好き」のような気持ちを持った(ためし)がない。だから、本当に戸惑ったのだ。
どうしよう。どうしよう。私はどうしたらいいのだろう。走り出したくて仕方ない。何かを始めたくて堪らない。
そうしないといられない。

彼のことを知るにつけ、不思議な人だなという思いが強まった。彼にはどこまで掘り下げても把握しきれないような得体の知れなさがあった。
一見、飄々としていた。眉の上で真っ直ぐ揃えられた前髪にどこかしらがぴょんと跳ねた無頓着な髪型や、首がダルダルのTシャツに足首の覗くゆるいパンツ姿という素朴な出で立ちの崎山蒼志は、知った当時まだ隣にひょいと腰掛けてあれこれ話が出来そうな気安さがあった。実際、動画で知ることの出来る彼のMCと演奏時のギャップは凄まじかった。何かに取り憑かれたように情熱的に歌い演奏する一方、終わった瞬間変身が解けたかのように、内気で話し下手な飾りない少年になってしまう。
それもあってか、デビューしたての頃よく『普通の高校生』と形容されることが多かった。でも実際よく観察してみれば、普通の高校生のレベルをとうに越えているのは明らかだった。卓越した能力を持ちながらひけらかさず、自分の格好悪いところも笑いに変えて苦手なところもさらけ出せる余裕がある。
弱冠十五歳ながら、多分思春期の全盛期は中学生時代に置いてきて、今はもう達観の域に入っているのではないのだろうかという気持ちにさせられるのだった。

彼の詞は、確実に内面を描いているのに閉じていない。拓けた世界が拡がっている。なのにどの曲も暗さや痛みや不満に(まみ)れている。
なぜ彼の感じる不幸や苦悩が、こんなにも深く衝撃的な程に響くのだろう。なぜ積極的で明るく優しい希望の歌より、こちらの方に私は深く惹かれてしまうのか。それでも、苦悩から生みだされたその作品が別段不健全とも思えず、むしろ健全に思えるのはなぜだろう。
考えた末、はっとした。
──優しいからだ。
人生の意義について想いを馳せたとき、それとこれとがかっちり嵌った気がした。
本来、人間の生存のコンセプトは生きることを純粋に楽しむためであったはずだ。ただ幸せで、嬉しさと感謝にあふれてきらきらと日々を過ごす。それが正常な人の営みで、苦悩は本来異分子なのだ。ここは異常だらけの世界なのだ。その異常さから正常に戻りたい強さが、自分や他人の感じている苦悩が、彼の優しさゆえ彼に痛みを生じさせる。だから表現せずにはいられないのだろう。その表現が、同じように感じる人に強い共鳴を生むのではないかと。

“楽しい音色で笑えるまで、切ない歌で溜まった涙を流させて”

楽しいことに共鳴するには私の中には悲しさが詰まり過ぎている。それをまず溶かし切るまで幸福や希望の歌はきっと私に素直に浸透してくれない。
崎山蒼志は痛みを敏感に感じ取ってしまう性質の人々の苦悩を代弁してくれていたのではないかと、私は勝手に解釈したのだ。だからきっとあんなに救われた。
“千切れるほど(いだ)いた不平不満を愛しているの”と彼は言う。不平不満を愛しながらも、彼はきっとその向こうの幸福を無意識に望むのではないだろうか。
──なんかずっと淋しいんです。子どもの頃からずっと淋しいんです。
インタビューで包み隠さず言ってくれたその言葉が忘れられない。そういう感覚があると断言してくれたことがどんなに嬉しかったか。

才能に恵まれながらも、きっと孤独。埋まらない淋しさ。天才特有の、感覚を共有出来る人間の圧倒的少なさ。そして生まれつきの優しさ。
私は彼のことが分からない。分からないに決まっている。それは歩み寄りが足りないとか、そういうちょっとした隔たりではなくて。
彼は歌い出すと向こう側へ行ってしまう。
途端にバリアが張り巡らされてしまうので、私は届かない。
何だろうといつも思う。自分が何をどう欲しているのかよく分からない。友達になれればいいという訳でも、話ができればいいという訳でもない。あれこれを執拗に聞き出して困らせたいというのでもない。
私の求めているのはきっと、彼の歌詞の言うところの“本の中ダイブする 、感情に入る”のようなことなのだ。一緒に泳がせてよ、そっちの世界に連れてってよという、そういう種類のものなのだ。
ああ、ずるいな。独りでどこか別の世界に行ってしまって。そこへは誰も連れて行く気はないんでしょう。掴めるかというところまで来ても、すんでのところできっと躱してしまうんでしょう。
だけど私は出来るだけこの優しくて繊細な少年の内面と一緒に泳げはしないかと試みるのだ。
それから私も走らせて。あなたの表現に心を(くじ)られて、でもそれを座って待ちわびているだけは嫌なのだ。
私も表現がしたい。表現がしたくて苦しい。



崎山蒼志はずるい。ずるくないのにずるい。そして意地悪じゃないのに意地悪だ。歌であんなに訴えるくせに、当の本人はけろっとしておりそこにはいない。

崎山蒼志のこと③

小説のコンテストのために登録だけして長らく放置していたTwitterのアカウントがあった。コンテスト受賞をきっかけに数ヶ月前から細々と日々の雑記やら自作小説の宣伝やらをしているのみだったが、そこで『崎山蒼志』と検索してみたら、彼のアカウントを見つけた。

七月に私が最初に見つけたあの動画はネットテレビのバラエティ番組だったらしく、放送は二ヶ月前の五月だったのだと知った。そこから瞬く間にTwitterで話題騒然となり、有名人のツイートも手伝って短期間の間に話題の人となったらしい。そして既に自作楽曲二曲をリリースしていて、駆け出しのアーティストとしてのスタートを切ったところだった。
ちょうど私が彼をTwitterで追い始めたのは、サマーソニックの無料ステージに出演した辺りの時期だった。
誰かの投稿してくれた動画の、大きなステージに不慣れでてんやわんやの可愛い様子と演奏時の貫禄のギャップがたまらなくて何回も見た。
ずっと過去の動画を巡って来たので、今現在の崎山蒼志の姿と活動を見ることが出来るのは新鮮だった。
崎山蒼志の呟きはかわいい。でも知性を感じる。彼を知ると、内気=消極的ではないのだなと考えを改めさせられる。おどおどしていても、もじもじしていても自分の世界観を貫いて披露することは出来る。その佇まいが却って愛される。彼の繊細さと鈍感さ、こだわりの強さと無頓着さのバランスが本当に好きだ。

Twitterは恐ろしい。
本人のアカウントからその人となりや直近の様子、何に興味があるのか、交友はどうか、過去はどんな様子だったのか簡単に知ることができてしまう。そして、私の他にも同じように崎山蒼志にひとかたならぬ衝撃を感じた人が大勢いたことを肌で感じることができ、(あまつさ)えその人達と交流出来てしまう。
おおたりおさん、という人がいた。
彼女は崎山蒼志より二歳年上の高校三年生で、静岡のシンガーソングライターとして彼と交流の深い人だった。彼女のことはよく見知っていた。『造花的sutekiな夜』という楽曲を崎山氏と共同創作して、一緒にステージで歌っていた。その動画を何度となく見ていたのだ。
私は彼女のことを密かに、そして勝手に心配していた。
ずっと互いに切磋琢磨し合い、一緒に地元で活動して来たのは同じ。それなのに突然彼の方だけが一躍有名になった。彼女は自分の音楽活動に自信を無くしはしないだろうか、傷付いてはいないだろうかと。
彼女のアカウントを見て、その心配は無用だったのだと知った。
彼女は心から崎山蒼志の躍進を喜べる心のある人だった。同志であると同時に、一番のファンだったのかも知れない。その妬みのなさに惹かれた。
りおさんの「アーティスト写真を撮ってもらいました」という画像付きツイートを見かけて、私の創作熱に完全に火がついた。可愛らしくて儚い、でも強い意志を持つ少女。
久し振りに画材を使って彼女の絵を描いた。りおさんから直接お礼コメントが返ってきて驚いた。すると連鎖反応のように崎山蒼志ファンである大勢の人達から反応を貰えて、地元で彼をずっと支えてきたような人たちとも交流するようになった。静岡の県民性か、人懐っこさとストレートに人の良いところを褒めてくれる態度に驚いた。いつの間にか私はTwitter内の崎山蒼志ファン界隈の輪の中に入ってしまっていた。
崎山蒼志の絵を描きたいが為に、女の子しか描けなかったはずが少年も描けるようになっていた。気づけば私のポジションは“崎山蒼志ファンの、絵を描く人”になっていた。

走り抜けるような夏だった。今までの人生でこんなに彩り豊かな時期があっただろうかというくらい。崎山蒼志の情報だったら何でも知りたかった。彼の一片でも見逃したくなかった。その躍進スピードといったらなかった。そして、その異常なほどの熱はどうやら私だけではなかったらしい。
どうしてこんなに人の心を強く捉えて情熱へ向かわせるのだろう。崎山蒼志の音楽に反応する人というのは、どこかしらに共通点があるように思われた。
音楽活動をしている人、ダンサー、写真家、詩人、建築家。分析、推察に長ける人、絵を描く人。皆思いのままに表現していて、それぞれが魅力的だった。感受性が強くクリエイティブ気質、そして考え深く優しい。気難しい感じの人もあまりいなかった。そういう性質の人が崎山蒼志の音楽に触れると、聴くだけでなくて自分も何かせずにはいられない効果があるらしい。さらに、今まで知らなかった他のアーティストの音楽にも触れてその魅力を知っていく。音楽って素敵だな、と今更ながら知った。
私は一気にレベルの高い芸術に日常的に触れられる環境に身を置くこととなった。

Twitterというツールは当初私が思っていたのよりずっと人間味があるのだと知った。適正に使えば、リアルの人付き合いの延長だった。
気をつけなければならない面も勿論ある。でも、面と向かっての対人関係では中々話題に出来ないこと、聴き役ばかりで会話の主導権を取れない人でも、タイミングを考えずに「呟き」として本音を投げられる。私などは話下手で、絵や文章に気持ちを託した方が自分を理解してもらいやすい実感があるので、なんだか救われた気持ちになってしまった。下手をすると、実際に見知っている人よりもずっとその人の芯の部分、繊細な部分を知れて、ずっと深い会話ができてしまったりする。会ったこともない人との強い絆が発生してしまう事がある。あまり深入りしてはならないと思いつつも、寂しさが溶けてゆくようで引き込まれてしまう。外側からではなく内側から自分を知ってもらうというのは私が切望しているものだった。
勿論SNSだけではその人の全てを知ることはできない。普段の雰囲気、話し方、生活環境は見えない。でもネット上で偽りの人格を演じているかどうかは案外その人のツイートを一定期間観察するうち分かってしまうものだ。さらに年単位で過去の投稿を遡ってみれば、その人の本質のようなものが割と見えてしまう。


崎山蒼志ショックの熱は冷めやらず、創作熱は高まるばかりで界隈の中には本格的に表現者として活動する人も出始めた。それを見る度わくわくした。

私も文章活動やイラストと並行して、意図せず新たな創作に取り組むこととなった。

あむくんのこと①

僕がこれほどあなたに執着しているのは、多分あなたを自分で勝手に作り上げているからだ。──サン・テグジュペリ


まず、これは全くの私側の視点で、あむくんが私の事をどう思っているかどうかは分からない。否定的な言葉を貰ったことはないが、好感を持たれているという確証はどこにもない。
ただ、私にとって彼は得難いものを次々与え続けてくれる、特別で眩しい存在なのだ。



あむくんの存在を知ったのはいつ頃だったか。遡ってみたら、2019年になったばかりの冬だった。
初めて見た彼のTwitter動画には、たしか天井しか映っていなかった。そして聴こえて来たのは明らかに幼い子どもの歌声とギター演奏。崎山蒼志の十二歳の頃の楽曲だった。歌っている彼自身も十二歳なのらしい。ギターの巧みさとあの年齢でしか出せない澄んだ高音に心を奪われた。まるであの頃の崎山蒼志が蘇ったかのようだと思った。八月に崎山蒼志を知って大衝撃を受け、そこからギターを始め約半年。シンガーソングライターを目指しているのらしい。
“十二歳のアカウント”というのに戸惑いがあって、動画が投稿された三度目くらいにやっと「すごいですね!」のような簡素なコメントをした。すぐに可愛らしいお礼コメントが返ってきた。

年端もいかない子どもが自分のアカウントを持ち、Twitterを利用する。その事に私はあまり良い印象を持ってはいなかった。SNSのバランスを保った扱いは大人にだって難しい。私自身は低年齢のうちから少年少女をネットの世界に触れさせるべきでないという考えを持っていた。そういった子はだいたいが平均より精神的に幼くて、綴る文章も視野が狭く稚拙、親に放任されているというイメージがあったのだ。正直「まだ小学生のこんな幼い子を無防備に危険も孕むインターネットの世界へ飛び込むままにさせるなんて」とその家庭環境を訝った。
けれど、私の予想とは裏腹に本人は極めて礼儀正しく、謙虚な受け応えをする純粋そうな子なのだった。彼は誰かがぽろっとこぼした何気ないどんな感想でもいつも真摯にコメントを返していた。応援には必ずお礼を述べていて、またその文面も大人っぽく、きちんとした家庭の子だということを窺わせた。
その後もしばらく遠巻きに見ていた。十二歳という年齢が私を怯ませた。彼は守られるべき未成年だった。実社会では、親の存在を全く把握せずにじかに小学生と触れ合って親しくなるなんてことはまずない。だから、近づくのには自ずと慎重になった。
ただでさえ少なかったやり取りの中で彼の絵について感想を送ったことがある。年齢にそぐわない程の上手さだったので、純粋に驚いてコメントした。ギターの腕前もイラストも人並み以上で、自分で作詞作曲もする。多才だなと思ったのだ。彼はお礼と共に逆に私の絵を褒めてくれて、そこにも驚いた。私が同年齢だったらそんな返しはできなかった。
「昔漫画を描いていたんです。驚くほど下手ですが……」
君にとっての“昔”っていつなんだ、と思わず突っ込みつつ彼の見せてくれた自由帳を見るとやはりハイレベルなイラストが描かれていて、でも描いている内容はどことなく可愛らしくてコロコロコミックみたいな絵柄で、嬉しくなった。元々他人の落書き帳を見せてもらうのが好きだったというのもある。少しだけ、その人の心を覗ける気がして。少しだけ、私に心を許してくれた気がして。

小学校最後の春休み、あむくんが私に何かしたいと言い出した。なぜそんな気持ちになってくれたのか、いまだに真意は分からない。でも、最初は匿名でその提案をしてくれたところを見ると、きっと勇気の要ることだったに違いない。
「物書き子さんに何かしたい……。そうだ、小説の主題歌を作るっていうのはどうですか?! 」
驚いた。一方で、嬉しい申し出ではあったけれど、心配の方が勝った。つい自分が十二歳だった頃と重ねてしまう。私の小説の対象年齢は幾つだろう。少なくとも児童文学ばかり読んでいたあの頃の私には、今の私が書いた小説を読んで理解するのは、長さ的にも内容的にも難しいのではないかと思われた。あと数日で中学校生活が始まるというこのタイミングで、余計な負担を増やしたくないという思いがあり、思わず躊躇した。
「大丈夫ですよ。どの小説でも精一杯作らせていただきます! 読み込むので! 」
あまりにもきっぱりとそう返すので半ば無茶振りで、では『金魚邸の娘』をとお願いしたのだった。
翌日の昼頃、連絡が来た。曲のさわりの部分だけ出来たので、この雰囲気で良いかどうか聴いてくれないかという。
憂いを含んだ美しい旋律とそれにそぐわないような作者の幼い声。内容を的確に踏まえた大人びた詞。ちょっと感覚が麻痺しそうだった。この子はなんて軽々とやってのけるのだろう。
まず、もう読んだのか。あれを。一気読みしても四時間ほどかかる『金魚邸の娘』を。大人だって読み切ってくれる人とそうでない人の確率は半々だというのに。コンテストで最終選考に残ったことのある作品だから文章的に読みづらいということはなかったと思うけれど、マイナーな内容の、共感性の低い物語である。決して少年が好みそうな心躍る冒険譚などではない。しかも二日後には完成して、その出来に、才能と聡明さに驚くばかりだった。当初一番しかなかった『金魚邸』というタイトルのその曲は、のちにコンテスト用に二番も加えられ、完成形となった。

“川たちは海と化し青に染まる
きっと魚は炎に()べる
百年、千年と時は過ぎていくから
私の存在する意味探すべきだ”

曲ひとつで紛れもない文学作品。もう、彼を私の勝手な物差しで子ども扱いするのはやめようと思った。彼の魂は彼のまだ幼い容れ物と酷く不釣り合いだった。
以降私の中で、あむくんは尊敬すべきクリエイターとなった。
そして、なにより純粋に嬉しかった。『金魚邸の娘』は私にとっても特別思い入れのある作品だったから。そして、ずっと密かに主題歌が欲しいと思っていた。

Twitterで公開したあむくんの『金魚邸』は反響を呼んだ。「崎山蒼志のカバーを歌うギターの上手な子」からの脱却を果たし、本人も充分にソングライティング能力のある「ミュージシャンあむ」という位置づけに周りの認識が変わったような手応えがあった。そのきっかけが『金魚邸の娘』なのはこの上なく光栄なことだった。私は特に何をしたでもないけれど。

あむくんのこと②

わたしはヘトの娘たちのことで自分のこの命をたいへん厭うようになりました。──創世27:46


妹を(うしな)った。

他人から見たら、あるいはもっとフラットな視野を持てればそんな事はないのかも知れない。でも私にとっては喪ったも同然だった。
十二歳から決意して努力し続けたことを全く的外れの無駄事だと突き返されたような気がした。未熟な私はその衝撃に耐えうるほどのしなやかさを持ち合わせてはいなかった。喪ったというよりかは妹に「お姉ちゃんいらない」宣言をされたのに近かったのかも知れない。妹のために、そもそも私は最初からいない方が良かったのではないかという思いに繰り返し苛まれる。彼女のことで占められていた私の内面のその箇所は、不在の穴となった。生命力がすり減っていた。


ダイレクトメールにあむくんから連絡が来たのはちょうどそんな気持ちの帰り道だった。金魚邸が好評を博してから二日ほど経過していた。
「こんばんは。夜分遅くにすみません。物書き子さんにご提案があります。単刀直入にいうと「歌詞を書いてみませんか?! 」ということなんですが……。金魚邸の評判が良くて、コラボ第二弾の声も聞こえて来たので。書き子さんの文章能力をお借りしたいのです」
読んでまず、頭の良い文章の書き方だなと思った。それから嬉しさがこみ上げ、ずるいなという気持ちも混じった。
誰に必要とされているのか分からない現実生活のこの状況で、私にしか出来ないことを求められ頼られる。しかも心惹かれて仕方のない創作の分野で。
ぽっかり空いた喪失の穴は思っていたより大きくて、だからこそ慕ってくれるあむくんが可愛くて仕方がなくなってしまった。このタイミング。喪った妹のいた場所がちょうどすっぽり埋まるようにあの子は難なく入ってきてしまう。私は弱い。心を許してしまう。才能が眩しく、自分もまた影響を与えられた事実が嬉しくて。愛しい賢い弟のようで。

エネルギーがみなぎるようだった。しかし私には歌詞を書いた経験がなかった。おそらく小説を書くのとは勝手が違うだろう。
「すごい! わくわくしますが、私歌詞を書いたことがない全くの素人なんですが大丈夫ですか? あむくんはどうやってあんな風に雰囲気ある作詞をしているのですか? 」
創作には真剣に取り組みたいというのが私のスタンスだった。低レベルのものをお遊び感覚で創りたくはない。それから、この少年の才能と世界観の足を引っ張りたくはなかった。
私の返信に彼はどうコメントするだろうか。ふんわりとしたフォローのみが返ってくるのだったら、ちょっと困ってしまう。しばらくして返信が来た。
「僕なんかが言えることじゃないですが、歌詞作りのアドバイス(?)です。
・世界観を決め、そこから言葉を引き出す
・感情(自分)と自然(周り)を書く
・歌詞の韻を踏む(Aメロ、Bメロ、サビを決めてそれぞれ文章の文字数を合わせるだけでも良い)
・伝えたい事をしっかり決める
と、いう感じです。物書き子さんなら僕より言葉も知っているし、表現力もあると思うのできっと出来ます! 」
この子はいつも私の期待を軽々と超えて驚かせる。これは、芯からクリエイターである人のアドバイスだ。私と同じ気持ち、真剣に良いものを創りたいと望んでいる人の言葉だ。そこに年齢差など存在しない。私の歌詞がいまひとつだったらきっと駄目出しもしてくれるだろう。実のある、信頼感が増すアドバイスだった。
同時に彼は自分の価値観ややり方を押し付けることなく、自由にやらせてくれた。‬それが心地良かった。
創作はまず私からということになった。音楽も何もない中でとにかく歌詞を書く。そういう作り方は“詞先”と呼ばれるのだと先日知った。私は言葉を集め始めた。幸い、言葉なら何年分も持っている。使えそうなフレーズをかき集めて、上っ面にならないように自分の感覚を研ぎ澄ませて組み立てる。分からないことだらけだった。どんな言葉で組み立てても様になるような気もするし、そうでない気もする。直接的な分かりやすい歌詞にするのか、多少意味をぼかして謎めいた感じにするのかとか。全く意味のない言葉を入れるのもありなのではないかとか。インパクトのあるフレーズは冒頭、あるいはサビに持って来た方が良いかなとか。
また、リズムが全く未定のまま詞だけを書くのは意外と難しいのだなとやってみて分かった。曲との一体感が想像しづらい。どこにどの程度まで言葉を詰め込んで良いのか分からない。曲の変化をどこでどうつけるのか自分で設定出来ない。その状態で言葉を連ね書くのは手探りで、何も掴めず闇雲にやっているように感じることも間々あった。
既存の曲の歌詞に注目、分析してみるなどもした。
初めて崎山蒼志の歌詞に触れたとき、大変な衝撃と「ずるい」という思いが湧いたのを思い出した。歌詞はずるい。歌詞だからこそ出来る表現がある。負の感情も負の感情のままにして、無理矢理着地点を見つけて結論づけなくても良い。歌詞だからこそはっとさせられるような言葉がある。私も作詞に携わりたいと、思っている節はあった。けれどいざ本気で取り組もうとしたとき、思い知った。
繕えない。
絵より、小説よりずっと。歌詞を作って公表することの、いかに覚悟が要ることか。しかもこれは共作で、だから自分一人の世界で完結させることが出来ない。
私だけが気にしているだけかも知れなかったが、正直、自分よりかなり年下の少年に普段誰にも見せないような心の内を開示するというのは勇気が要った。私の幼さも弱さも歪みも寂しさも全部露呈してしまう。でも結局、本当に良いものを作ろうとするならば、私の場合そのやり方をするほかないのだった。人の心を動かすような厚みのあるものを創るにはそうしない訳にはいかなかった。それに、すでに彼は私の小説を読んで深く理解してくれていた。そういう点では信頼があった。覚悟を決めて相手に私のまるごとの心を委ねるしかない。大袈裟と笑われるかも知れないが、全てを手放して、心から信頼しなければそんなことは出来ないのだった。
それでも私は自分が取り組んだことのない創作分野に携われる高揚と幸福で満たされていた。私の作った詞はきっと未熟で拙い。あむくんも困るかも知れない。でも、この時点で私の持つものを全部持ち寄って、出せる限りを出してやった。本来やるべき事もせずにそんな事をやっていた。でも、それが嬉しかった。

結局私の提出した歌詞候補は四つとなった。
「あむくん、歌詞を書いてみました。全く手探りなので厳しい事を言ってください」
あむくんの返信文章はいつも丁寧で思慮深い。
「とても良いです……! 出来たら、歌詞の意味とかイメージを教えていただけませんか? 」
私は歌詞の元となった小説未満のネタや覚え書きメモを見せてあれこれ説明する。真剣に作りはしたし自分では気に入っていたけれど、その出来がいいものなのかそうでないのか、そもそも見るに耐え得るものなのか、その判断がさっぱりつかない。訂正やアドバイスも覚悟していたが、あむくんは私の歌詞に対して消極的な事を最後まで一言も言わなかった。優しさなのか年下ゆえの遠慮なのか、と今でもたまに頭を過ぎったりするけれど、彼の創作への姿勢を知っているので、私は私の歌詞レベルは及第点に達していたのだと半ば強制的に自分を認めることにしている。最後に提案した歌詞で、『リュトロン』という題のものがあった。
「……うん、そうですね、どれも凄くいいですが、リュトロン良いですね。リュトロン気に入りました! まずはこの歌詞から曲を作ろうと思います! 」
あむくんはこの(かん)中学生としての新生活が始まっていた。慣れない環境に四苦八苦していたらしく、コラボ曲の件が重荷になってはいないだろうかと随分気を揉んだ。
こちらは曲がない状態での歌詞作りに難儀さを感じたりしたが、あむくん側でもやはりそうだったのだろう。もう出来ている詞にどう音を嵌め込むか、苦心したに違いない。私から見ても明らかに苦心していた。
リュトロンが完成したのは七月のことだった。
本人は「遅くなってごめんなさい」とか「言い訳も出来ません」などと恐縮していたが、そんな風には思わないで欲しかった。同時に、自分に厳しいその言い方や考え方が普段の私のやり方や感覚と重なった。だから、そう言わずにはいられない気持ちも分かるような気がした。
たった四か月ほどの中学校生活で、彼は随分大人びていた。少しずつ声は低くなり、ギターは更に上達した。やり取りする文章も簡素になったり絵文字が減ったりして、そこは少し寂しく思ったけれど。

それはそうと、リュトロンは期待に違わずレベルの高い素敵な曲に仕上がっていた。聴くたび胸がじんとなってしまう。あむくんのギターは人の心を突く。リズム感と音楽センスがずば抜けているなといつも思う。
自分の歌詞はいまだ気恥ずかしい。でも、やはり嬉しい。埋もれさせないで私の為にしばしば歌ってくれるあむくんは、やさしい。

私のひりひりするような青春が、もう一度始まったような気がした。創作は愛しい。一緒に創作してくれるパートナーはもっと愛おしい。私の中身ごと揺すられて、きらきらと走り出すような気がしたのだ。堪らないほど眩しい日々となった。

あむくんのこと③

アナンは、私の宝です。──アナン/飯田譲治

アナンという小説がある。類稀な才能を持った捨て子の男の赤ん坊がホームレスに拾われて、その能力を見出され羽ばたいてゆくというストーリーなのだが、過程で出会い交流するさまざまな人達がいる。作中に、たびたび思い出す台詞がある。



「絵を描いて欲しいです」と言って貰ったことがあった。
アイコンに使いたいので僕をイメージした男の子の顔のカットを、とのことだった。私はあむくんの顔を見たことがなかった。上げられている写真はどれも顔が隠されている状態だったが、平均より華奢で小柄な体つきと輪郭の感じ、髪質と頭の感じは見て取れた。加えて、浜松のライブであむくんと会ったことのある方が以前「見た目はすごく幼くてめちゃくちゃ可愛い子でしたよ。でも喋ると賢くてコナン君みたいでした」と教えてくれたことがあって、そのヒントを頼りに何パターンか描いてプレゼントした。しばらくタイムラグがあって、「書き子さんもしかしたら僕の顔知ってます? 描いていただいたイラストの顔が、あまりに現実のあむとそっくりだったので……」と訊いてきたのには笑ってしまった。

「これはお知らせしておかないといけないと思いまして」と演奏動画を見せてくれたのは、その一月程後だったろうか。あむくんは度々ミュージシャン向けのイベントで歌っており、その度に律儀に『金魚邸』の録音を送ってくれていた。ライブハウスも兼ねているカフェのようなところで歌っている動画だった。横からのアングルのみだったが顔は隠されていなかった。
一回目はまともに見ることが出来なかった。
素直に「格好良いな」と思った。外見だけなら予想よりずっと幼い子ども。まだニキビも無いふくらかな頬に傷みのない豊かなまつ毛。でも、あんなに堂々と喋って、あんなに真っ直ぐな目をして歌うんだ。まなざしが強い。崎山蒼志に憧れて中学校入学祝いに買ってもらったという赤いオベーションギターが体に不釣り合いな程大きく見えて、でも手の動きはまるで淀みがなくて、数あるオリジナル曲がある中で歌っているのは金魚邸で。


高校生の頃、堪らなく好きだったクラスメートのことを思い出していた。
初めて快い共同創作をしたのはその友人とだった。私は彼女しか持たない魅力に自分を見失うほどに憧れて、敬愛していた。‬彼女の立ち振る舞いと、考えの深さと賢さと、読書好きという同じ趣味と。そこに創作が絡んだらもういけなかった。
美術部だった彼女に便乗して、部員でもないのに文化祭の共同作としてそれぞれの画風の金魚を散らして合作をした。私の金魚はいつも水に溶け込むように滲んでいて、彼女のは精密でどっしりとしていた。創作過程の幸福感や、金魚の個性のコントラストにうっとりとした。
それまで私は本気で良いものを創ろうとするのなら自分一人でやるしかないと思っていた。誰かに遠慮して創作のクオリティを下げてしまうくらいなら、とことんまで自分の思うようなやり方で気兼ねなく、自分の世界観を突き詰めてしまおうと。それもひとつの幸福ではある。けれど相手との相性やセンス、レベルによっては、自分ひとりで手がけたなら決して出来ないような素晴らしいものが出来るのだと知った。
クリエイター×クリエイターは剥き出しになる。‬
自分を全開にしないと良いものは創れないし、互いの核に触れざるを得ない。‬
当たり障りのない会話をすっ飛ばして、いきなり相手の柔らかいところに触れられてしまう芸術のこわさ。‬幼い頃の友情関係のように、繕えない魂と魂でぶつかるみたいなことが、出来てしまう。‬
創作というのは全然頑丈な殻に包まれていなくて、ただただ、柔らかくて、
それを公衆の面前で晒す開き直りなのだ。なにも纏っていない魂なのだ。
プロは、それを晒して報酬を得る。無意識であってもガチガチに装備された作品なんてない。
本気であればあるほど閉じてはいられない。普段は見せない、触れさせない部分をお互い開けっぴろげて一心に没頭する。弱くてデリケートな部分を晒して委ねなければならない。そして多分私は心を開き過ぎてしまうのだ。こちらからもあちらが見えてしまう。だからどうしても、深入りしてしまう。

あむくんの音楽活動が以前にも増して本格化しだした。地元のストリートジャズフェスライブに出演者として合格し、そこで演奏する様子を撮った動画をTwitterに上げてくれた。「知られるのは時間の問題だから」と、もう顔も隠していなかった。ひと月前に見せてもらったカフェでの演奏動画も実は別のオーディションの一次審査の時のもので、それに合格して二次審査も控えているとのことだった。
あんなに可愛いのに、やはり演者としてステージに立つ様子は大きく見える。可愛いから格好良いにすり替わる。ちょっと目を離すだけですぐ大人っぽくなる。声もまた低くなった。
ジャズフェスで歌ったのは崎山蒼志のカバー曲と、オリジナル数曲。リュトロンも入っている、金魚邸はトリだ。その歌うさまに、目が離せなかった。文学と音楽の融合、小説書きとSSW(シンガーソングライター)のコラボレーション。ゾクゾクする体験だった。
彼はギターを始めて一年の間にもはや単なるギター少年ではなく、聴衆を魅了して聴かせるいち奏者の立場になっていた。歌うのを見るたび堪らない気持ちになる。聴衆は彼の歌に釘付けになっている。その歌は、私の小説から作られたものだ。知らない街で知らない人に、私の想いが灯るのだ。

アナンという小説がある。類稀な才能を持った捨て子の男の赤ん坊がホームレスに拾われて、その能力を見出され羽ばたいてゆくというストーリーなのだが、過程で出会い交流するさまざまな人達がいる。上巻末はその一人である歳上の少女の独白で終わっている。
『アナンは、私の宝です。
アナンは、私の希望です。
アナンは、私の命です。』
彼女はアナンの才能に魂を揺さぶられ、それによって救われた人間だった。やがて彼女自身も自分の特性を生かし活躍するようになる。
彼の才能、彼の内面を知る毎にアナンとその少女のことを思い出す。
曲がりなりにも創作をしている私にとって、心が痛いくらいに震えることがどんなに貴重か得難いことか、あの子にはどれほど伝わっているのだろうか。あの子のしてくれたことがどんなに嬉しかったか、ちゃんと分かっているだろうか。
私はいつでも魂の動く感覚を喉から手が出るほど欲している。あなたが与えてくれた切っ掛けから、いつのまにか私の中身は一心に走り出していた。日常が変わり、私の色彩を豊かにして、新しいことを始めさせた。
これが欲しかった。こういうのが。何かを掴み取れるような感覚が。本来形にできないものをなんとか形にして残すような。いたくて、まぶしい。
『金魚邸の娘』の主人公、果穂子が自分の想いを残したかったように、親友の昱子がそれを導いてくれたように。
同じような経緯を作者の私自身がなぞっている不思議さ。ひっそりと書かれて埋もれたあの小説を、あむくんは外の空気に触れさせた。私の行ったこともない街角で、聴衆が聴き入り見守るなか力いっぱい歌ってくれる。私の代わりにあの子が歌う。
言葉すら浮かばない。どうして良いのか分からない。‬

私は執筆スピードの速い方ではない。しょっちゅう自分の馬鹿さや能力不足を目の当たりにするし、視野は狭いしで至らないところだらけだ。‬
だけどやりたい。本気でやりたいのだ。プロになるとかそういうのじゃなくて。どれだけ自分の魂みたいなものを掬い取って提示出来るかをだ。
時間がかかってもいいから、取り出したかった心を失いたくない。惰性で外側だけ整ったものを出したくない。‬馬鹿みたいと思う人もあるかも知れないけれど、そう思う。幾つになってもそう思うのだ。
閉じかけていたその気持ちを昨夏、崎山蒼志にこじ開けられた。突貫に近かった。彼の創作にただ焦がれて待ちわびるだけは嫌だった。自分も行動を起こしてなにかを生み出したくて堪らなくなった。‬
今年はあむくんがそんな気持ちにさせてくれる。全然ひとところに留まっていない。本気でやってる。だから私も本気でやりたくなる。小説を、絵を、かきたくなる。誰かの魂を揺さぶるような。
自分の人生の暗さと明るさがひどく眩しい。今の私は正しいことをやっているとは思えない。だけど、どうしてこんなにきらきら輝くのだろう。強烈なほどに幸せで、でも同じ深さでかなしいのだろう。幼少期からの死にたい気持ちはずっと継続しているのだろう。同時に存在する幸福と不幸は寿命の近い蛍光灯のように瞬いて、瞬いて、それから急に命が絶えるのだろうか。


伝えたい、残したい、伝えたい、残したい。
沁みていって。深く。どこかの誰かに。私のような、誰かに。
あなたは、私の希望です。あなたは、私の宝です。
めいっぱい幸せでいて。ずっと歌い続けてよ。たくさんの人に愛されてよ。そんな風に思ってしまう。
アナンは、わたしの、


わたしの

あむくんのこと④

頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな ──汲む/茨木のり子


あの子の中の、自分の才能に自分の身体が追いつかないもどかしさ。
かと思えば不意打ちで時折覗く不安定さ未熟さ生意気さ、透明なあどけなさ。

実際に絵を描くとしみじみ思うけれど、十代前半の子の身体つきって男女問わずなんてしなやかなんだろう。なんて細い首、華奢な身体の厚み、無駄な肉付きのない伸びやかな腕や脚。頬のラインは幼くて、体毛はまだ柔らかく光る産毛である。
でもその時期は短くて、儚い。けれどつややかな野生動物のように美しい。

あむくんを子供扱いしない、常に敬意を持って接しようと決めたものの、やはりまだティーンエイジャーにもなっていない中一のあむくんを可愛いと思う気持ちは完全に拭うことは出来なかった。あの子はたったの十二だった。それが剥き出しでぴかぴかで、どうすべきなのか私はときおり躊躇した。
最初はただただ愛らしい子供の歌声だったのが、ちょっと低くなって、でも完全に野太くはなくてなんだか不思議な色っぽさが加わってきた。
男の色気とは違う。かといって女の色気でも勿論ない。それは少年の色気としか言いようのないもので、つまりは成長途中の無防備な危なっかしさということか。
触ることも躊躇われるような、羽化したばかりの透明な蝉のような。
その歌声を聴いて「クールビューティな声」と誰かは評した。
でもきっと、自分自身がそのさなかにいるときは気付きはしないだろう、ただ夢中で。

少年の思春期を知らなかった。自分が少女だったとき、周りには幾人もの少年たちがいたはずで、おまけに二歳年下の弟までいたのにまるで意識を向けることがなかった。弟の声変わりはいつだったろう。私自身が思春期の少女のさなかにいて必死で、日々変化している自分にさえ意識を向けたことがなかった。あの頃、私にとって少年とはただ怖い存在でしかなかった。
だから今、大人になって、少年をひとかたまりではなく一人の人間と見られるようになって、その変化の眩さにはっとなるのだ。
あむくんとあむくんの成長を目の当たりにするたび私はなぜかひりひりする。成長して欲しくない訳ではないのに、なぜだろう。
あまりに速いその目まぐるしさに心がついていかないのだろうか。自分のゆるやかな成長速度と比べて焦りを感じるからだろうか。あの共作体験は私にとっては大きく大事なものだったけれど、怒涛の勢いで前進するあむくんにとってはそうでもなくて、ただの通過点と思っているように感じてしまうからなのか。今この瞬間だってすぐ過去になって、近いうちきっとどこかへ行ってしまう。もしかするとそれを予感する寂しさなのだろうか。

性格的な部分も段々に見えてくる。
まず目立つのは勘の良さだ。勘がいいから賢いし、立ち回りが上手い。俯瞰的理論的に物事が考えられるのもそれのお陰だろう。
度胸があって少し強気、少年らしい無邪気さもある。頭の回転が早くはきはき喋るので、クラスでは目立つタイプの子だろうか。
その一方で、時々ひどく繊細な一面を覗かせる。人生の意味や世の中の不思議について深い考え方をする。自己肯定感が高いのか低いのかはいまいち分からない。どちらかが極端に感じられることがあるからだ。
感性の鋭さには目を(みは)るものがある。日常の思い煩いは確かにあるようなのだが、それを理性に落とし込んで冷静に分析し、作品として昇華してしまう。
軽々やっているように見えるけれど、中一でこれをさらっとやってのける人ってどのくらいいるんだろう。色々なことを思う人はたくさんいるかもしれないが、それを言語化して心に響く歌詞にして音楽に乗せることが出来る人はどれ程だろう。

“この世の中
悪くないってほど良くはない
あなたすら嫌になっちゃうくらい
だから憂鬱を食べて死ねるのだ
ゆえに争いを吸い血を流す”

こんな詞を十二歳が書いて、ここは十二歳にそんな詞を書かせてしまう世界なのか。
豊かな感受性のおかげで才能を発揮して、豊かな感受性のせいで痛みや理不尽を人一倍感じやすい。分析癖のおかげでどういうテイストの自作曲が好まれるのか抜け目なくリサーチして、分析癖があるからつい自分に厳しくなってしまう。

あむくんがオリジナルの新曲を二曲同時にYouTubeに上げたことがあった。対照的な曲調で、その表現の幅広さに驚いて感想を送ったところ、お礼と共に「この二曲を上げたのは、どっちの曲調の方が再生回数が伸びるのかという、実験的な意味合いもありました」などと返すのでさらに驚いた。曲を作ること自体でいっぱいいっぱいではないのか。
なんという余裕だろうと私は信じられない思いだったけれど、直後「自分のことしか分からない、自分のことすら分からない」とあの子は言った。

時折改まってあむくんが“ありがとう”と発信するときがある。
僕の曲を好きと言ってくれてありがとう。いつも応援してくれてありがとう。
その直前は決まって、思い悩んだり落ち込んだりしている様子に見える。
彼が感謝を口にするときというのは悩み苦しんでいる時なんじゃないかと勝手に思っている。そういう時、ぐるぐると考える特質があるのだろう。考えて考えて、不満にも折り合いをつけて、結局いつでも“感謝しよう”というような結論を出す。だから自分に言い聞かす意味合いでも「ありがとう」が言葉として出てくるのだろうか。予想に過ぎないけれど。
私はというと、落ち込むとき似たような思考を辿るものの、最終的な結論は“自分は必要のない存在だ”となってしまう。感謝の念に欠けている私は、そこで自分の歪みにはっとする。

年齢に釣り合わないほど大人びていたり、かと思えばあまりに繊細で心がまっさら過ぎたりで、胸が痛い。なんというアンバランスさだろう。

信じて見守ることは難しい。手を差し伸べるよりずっと。出来ることは何でもやりたいのが本心だけれど、そんなことをしてあむくんに何のメリットがあるだろう。当人がそれを求めてもいないのにいちいち介入する必要はないし、それをしたなら「あなたは自分では何も問題解決できない未熟な人だ」と言っていることになる。それはただのお節介、信頼していないのと同じだから。そして、妹のときの二の舞になってしまうから。

あまりにも極端な少年のおぼつかなさ。無邪気で気楽に構える一方覗かせる不安定さ。触れてはいけない。ただ、見守る。でも、生み出した曲たちの良いところは、創作者の端くれとして私にも具体的な感想を言わせて欲しい。全力で応援させて欲しい。

“何も知らないのと何もかも知っているの、どっちが幸せだろうな

どうすれば正解なの
教えてよ、ねえ

ねえ”

あむくんのこと⑤

一本の扇子のように初めと終わりは折り重なってひとつとなる。──絵小説/皆川博子


時系列は前後するが、“繋がった”と思ったことがあった。

誘われるままなし崩し的にあむくんとの距離を詰めてしまっていた私だけれど、罪悪感を感じていないわけではなかった。そのひとつが互いの立ち位置だ。少し前の時代なら考えられないような、越えるべきでないボーダーを私はとっくに踏み越えていた。あむくんとのやり取りコラボ全てに於いて、私は親御さんの許可を得ていない。親がどんな人か、どんな教育方針なのか、私のことをどう思っているのか把握しないままに勝手に未成年と繋がる。そんな経験はしたことがなかった。だからこそ、前情報のないまっさらな状態のまま純粋にあむくんの人となりに集中できたといえばそうなのだけれど……。Twitterで成人が未成年とやり取りすること自体は犯罪ではないのかも知れないが、それでも一歩間違えれば私は加害者になりうる強者の立場にいるのだと思った。
私の立ち位置は大抵弱者であった。立場の弱さから、受ける害については考えても、加えるかも知れない害についてあまり考えずに来た。
以前ある男性が自嘲気味に「赤ちゃんとか小さい子とか大好きなんだけど、僕が笑いかけたりお菓子をあげたりすると不審者っぽくなっちゃうから我慢してる」と呟いているのを見たことがある。あたたかな気持ちで自然に振る舞うだけでも、立場ゆえに発生してしまう疑惑ってあるのだな、大変だなとその時は他人事のように思ったけれど、私とあむくんの立ち位置はまさにそれだった。私にとって彼は全く危害を加えられる恐れのない、ただただ可愛い男の子だったけれど、彼にとって私は充分加害者になり得る存在なのだった。熱心な応援や過度なコンタクトをあむくんが重荷に、恐怖に感じる可能性がないわけではない。
未成年といっても相手が高校生くらいだったならそれほど気にすることもなかったように思う。でも、金魚邸やリュトロンのコラボで密なやり取りをしていたあの時期、あむくんは小学校を卒業したばかりだった。
彼のご両親は、彼のTwitter活動をどの程度把握しているのだろうか。私との共同創作をどう思っているのだろうか。『金魚邸』を作ってくれたとき、「母も『金魚邸の娘』を読んでくれた」というようなことを言っていたから、少なくともお母さんの方はあむくんが何をしているのか了知していてその上で止めなかった、というのは把握出来たのだが、家庭環境がいまいち不透明であることに変わりはなかった。

九月頃、ひょんなことから彼のお父さんもTwitterアカウントを持っていることを知った。どうして知ったのだったか。やたらあむくんのツイートをリツイートする人がいて、不思議に思ってそのアカウントを覗いたとかそんな切っ掛けだったように思う。
アカウントを辿って、少しだけあむくんのお父さんについて、あむくんの家庭環境について見えてくるものがあった。アイコンはギターを持った男性で顔は見切れている。ヘッダーは同一人物と思われる男性がバンド形態でステージで歌っている写真だった。おそらくこの人があむくんのお父さん本人なのだろう。プロフィールを見ると、Rolling Stonesのカバーバンドのボーカル&ギターをやっているとある。なるほど腑に落ちた。
幼少期からピアノを習い、ギターも家にある。DTM(デスクトップミュージック)も用いるし、自分用のオベーションギターも買ってもらえる。イベントにはどうすれば出られるのか知っている。この恵まれた環境はあむくんのお父さん本人が音楽活動をしていたからなのだったか。どうやらあむくんが崎山蒼志に憧れてギターを始めたことも、その音楽活動も、お父さんにとって喜ばしいことのようだった。そして、ほっとした。きちんとした、愛されている家庭の子だとはっきり分かったからだ。

声を掛けるきっかけが出来たのは、あむくんがジャズフェスの動画を投稿した日だった。迫るオーディションの二次審査は人気投票も審査の対象になるそうで、その投票を呼びかけるにあたって名乗ってくださったようだった。私はそのツイートにコメントをした。

“「薄々お父様じゃないかなと思っていたのですが、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。息子さんには本当に素敵なものを貰ってばかりです。あむくんが生き生き活動されているのは優しいお父様の支えがあってこそだと思っています。あむくんを心から応援しています」”

“「こちらこそ、いつも息子がお世話になりまして、ありがとうございます。『金魚邸の娘』は僕も読ませていただきました。情景や場面の気温、湿度までが伝わってきました。
『金魚邸』を作った頃は「きっかけになるイベントがないと歌詞が浮かばない」と本人も悩んでいたところでした。物書き子さんの世界にインスパイアされて、新たなステップに進めたように思います。今後とも、よろしくお願いします」”

やっと親御さんに挨拶が出来て、その返信を読んではじめて心の荷が下りたように思う。叱られても仕方のないことをしていたにも拘らず、こんなにきちんとした文面で、しかもお礼を言われるとは思っていなかった。後に、ダイレクトメールで改めてなかば手紙めいたメッセージを送らせていただいた。その後しばらくやり取りが続いた。

“「……この恐ろしいほどの成長スピードとセンスはどこから来るのだろうと驚かされていましたが、あむくんの音楽ルーツはお父様が基盤になっているのですね。
最初に目立ったのは音楽のセンスでしたが、それはきっと彼の持っているものの一端が表出したに過ぎず、根本にあるあむくんの本当の魅力は、『考えの深さと俯瞰力、勘のよさ』なのではないかと思っています。それはきっと人への優しさや思いやりにもつながるものだと感じます。
私はtwitter上だけで、あむくんの全てが見えているわけではありませんが、発信する言葉にはっとさせられることがあります。
以前、ちょっとした認識の違いからあむくんが大人の方から優しく諭されるということがありました。あむくんはその方に真摯に謝罪して、その上で自分の真意をきちんと説明していました。それから全てのフォロワーさんに向けて「僕に未熟な点があったら遠慮なく指摘してください」というような内容を呟かれていたので驚きました。きちんと“ごめんなさい”が言えること。その上で誤解を巧みに解くこと。それから自分自身を省みること。大人でもなかなか出来ないことです。年相応の可愛らしさを持つものの、「一を聞いて十を知る」というか、本当に尊敬できる美点を持つ子だなと感心しました。そういう点では私の方が未熟かも知れません。
この性質はクリエイターとしても十分生かされるものだと思っています。表面的なものでないので、作曲にしろ作詞にしろデザインにしろ、どんどん新しいことにチャレンジしてゆける可能性を感じてわくわくします。何かに触れれば豊かに吸収し、自分のものとして昇華して発信できるはずです。ギターを始めて一年程で観客に歌を聴かせる立場になっていることを考えると、あむくんのこれからを期待せずにはいられません。
でも何より、それができるのは心から安心できる場所があるから、等身大の十二歳の自分も、SSWとしての自分も受け止めてくれるご家族がいらっしゃるからこそだとも感じています。
息子さんの活躍を見せてくださるお父様とお母様に心から感謝しています。
私事ですが、私の魂も創作に関わるとき最も輝きます。自分自身も走り出したくなるような衝動は、どんなにお金を払っても得られるものではありません。あむくんが与えてくれたものは、私にとってかけがえのない宝です。親御さんも通さず色々勝手にやり取りしてしまい、失礼しました。大切な息子さんとコラボ創作することまで許してくださってありがとうございます。」”

“「……親としては、最大限サポートしたい!との思いから、今まで自分が身につけてきたノウハウやら演奏する上での心がまえみたいな部分をセガレに伝えてきました。
自分のプロモーションまで含めて自分でしたいと考えているようです。
twitterで励ましてくれるみなさんの言葉を心の支えにしている部分も大きいのだと思います。その中でも書き子さんは、セガレの演奏面のみならず内面についても深い理解を示してくださり、親としてはいつも感謝している次第です。
……中学生なのにすごいと言っていただけることが多く,有難いことではありますが、それでも年少者としての身の丈を忘れないようにと話しています。その一方で、親バカにはなりますが、モノの考え方の点でセガレはどこか大人びたところがあると感じているのもまた事実ではあります。
ギターに関しては何のことはない、食事や生活の最低限のこと、そして宿題以外の時間をほぼ全て費やしているために、あのような感じになっています。好きなことにカーッと夢中になる部分は僕も身に覚えのあるので、良し悪し含めて口出しをしています。
家庭環境についてお褒めの言葉をいただきました。素直に感謝の気持ちしかありません。
でも、世間一般の家庭では、子どもがどうであれその存在をそのまま愛している中、我が家はいつまでも子どものような僕が、好きなようにしているだけではないのかな?という反省も常にあります。
親子の会話が、ギターや音楽の話題しかないのも、ある意味不幸なことかもしれない。
セガレは自分を認めてもらいたいがために親と同じ趣味を必死に続けているだけじゃないか?と。
昔から「有名になりたい!それも、できるだけ若いうちから」と言う子であり、それだけに崎山くんの存在はセガレのヒーローです。 
そして、今年の1月からいよいよ自分の携帯を持ち、ネットでのやりとりを始めました。
「親を飛び越えてのやりとり」なんて、ご心配なさらないでくださいね。
まだまだ子どもであるセガレを一人の人間として認め,クリエイターとしての手ほどきをしていただけたことに感謝しております」”

やり取りの中で、またお父さんご本人の呟きから分かったことが幾つかあった。

まず、あむくんのTwitter利用に関してだ。
親御さんはあむくんのツイート内容をきちんとチェックしている。ダイレクトメールの内容までつぶさに読んでいる。今思えば私が知らないだけで、Twitterを始めるにあたっておそらく親御さんとの細かい約束事があったのだろう。礼儀正しい文面も、本人の性質に加えて親御さんのきちんとした指導があったというわけか。Twitter利用はもしかすると『早く有名になりたい』という本人の願いが焦りとなって、親に無理を言ってお願いした経緯があったのかも知れない。
生まれた頃からインターネットが身近にある世代の感覚がどういうものなのか完全には分かりきれないけれど、あむくんにしてみたって、ひょっとするとTwitterの世界に飛び込むのは怖かったのかもしれない。以前「一気にフォロワーさんをフォローバックするのは少し怖い」というようなことを言っていたなと思い出す。私は長いこと大人だから気が回らなかったけれど、ネット上とはいえ、十二歳の子が大人を大人と一括りにせず、きちんと対等な人間関係を築いていくって、相当気を遣ったのではないだろうか。どうして今まで思い至らなかったのだろう。そう考えると、得体の知れないこんな私を個人として信じて認めてくれたことが、改めて嬉しく思われた。

それから、『金魚邸』制作裏話。私の『金魚邸の娘』はご両親とも読んでくれていたということ。
“「先日、書き子さんが息子の曲をひとつの文学作品のようだとおっしゃってくださいました。僕には、十五秒のCM映像のように思えます。ネタバレしないよう、でもエッセンスは外さぬよう」”
“「セガレの音楽を今のレベルに引き上げてくださったのは、紛れもなく『金魚邸の娘』です。本など滅多に読まないセガレが、全てを理解しきれていたのかどうか分かりませんが、強烈にインスパイアされたことは、メロディの欠片のいくつかを聴かされ間違いないことだと思いました」”
私に敬意を払って、こんな嬉しいことを言ってくれる。

お父さんご自身のお人柄についても知る程に親しみを感じた。
やり取りをしてすぐに、あむくんの賢さはお父さん譲りなのだと知った。視野が広く、自分贔屓ではなく、理論派。文章も読みやすく、こと楽器関連にはマニアックな程にずば抜けた分析力を有している。あむくんと接しているとひりひりとした高揚を感じるが、お父さんと接するとほっとするような包容力を感じるのだった。
あむくんがなぜ赤いオベーションをねだったのか、なぜそれが中学入学祝いだったのかというのも、そのツイート内容で謎が解けた。それから代々芸術分野に長けた家系であること、ギターに興味を持ち始めた年齢、その前は漫画を描くのに夢中になっていたこと、音楽に明け暮れた学生時代。やんちゃで、ちょっと目立ちたがりで、感受性豊かで。好きなことにはがむしゃらに突き進む少年の姿が見えてきて、それを眩しく感じたのはあむくんと同じだった。あむくんの興味はお父さんのそれをそっくりなぞっている。ああ、繋がっている、と思った。
お父さんはしばしばご自身のことを“生来の出しゃばり気質”と評した。私はそのようには感じなかったし、むしろ観察眼の鋭い分析力のある人という印象を受けた。自分の子育てに盲目的な自信を持たず、「自分の願望を息子に押し付けているだけではないのか」と思うことの出来る柔らかさは素敵だった。私のことについても決して決めつけるような言い方はせず、敬意を払って「よく知りもしないくせに差し出がましいことをすみません」と言ってくれる人だ。けれどきっと、自分で言うくらいなのだから、その性質を自覚していてひときわ振る舞いに気をつけておられるのかも知れない。若い頃は今よりもっとその要素が強く、何かしらの失敗を経験したという可能性もある。お父さんと話していると、あむくんにも通ずるものを感じることがある。出しゃばりというのは多少乱暴な言い方なのかも知れないが、度胸やハートの強さという長所の裏にはそういう特質が付き物なのかもしれない。どの性質にだって良し悪しがあるのだからそれはもう仕方のないことだ。そして十二歳にあらゆるものを求めるのは酷だ。本来ならば自分のことしか見えないような年齢なのだ。

人が生まれて、生きて、その性質が脈々と受け継がれるということ。年齢差なんて生まれた時代の誤差に過ぎず、ただひとりびとりの魂だということ。‬
むしろ互いの人生が同じ時代に重なったという嬉しさと、繋がっているという偶然の不思議さとは、なんと驚くべき幸福だろう。

あむくんのこと⑥

みんな寂しいし、みんな自己中なんだ。寂しいから会話するし、自分のために優しくする。
でも結局それでいいと思う。
これは決して諦めとかではなくて、それでそれぞれが幸せになれるのなら、結果的に自分のために生きることが周りのために生きることなのだと僕は思うんだ。──


あむくんが十三歳になった。
なんという濃い一年だったのだろう。声が変わって見る間に大人びるので、知り合った頃のことがもう随分昔のことのように思われる。
崎山蒼志の衝撃に始まり、続いてあむくんと、彼らの日々を自分の一部に取り込んで過ごした日々は紛れもない青春、濃く長い月日となった。
けれど近く、手放さねばならないだろう。どうしてもそうしなくてはならない。それが堪らなく寂しい。

“「個人的なことですが、『金魚邸の娘』は私が生きているうちにどうしても書きたい物語でした。持っている能力ゆえ筆力の及ばないところもありますが、それでも遺したい一心で、果穂子と同じ動機で書いたものです。図書館で読み継がれる古い名作が羨ましくてたまりませんでした。だからこそ、あむくんが素敵なギター演奏に素敵な歌詞を乗せて作ってくれた『金魚邸』は何にも変えがたい宝物です」”

『金魚邸』は本当に嬉しいプレゼントで、私の中で長年「嬉しかったプレゼント」第一位に君臨していた36色の色鉛筆を越えてまさに「宝物」となった。あむくんには彼の年齢を丸無視してあまりにも自分の本心の部分を語ってしまった。迷惑だったかも知れない。

あむくんは、賢いのに()ねていない素直さを持つのが良いところ。基本的に前向きなところも好き。それらを歌で表現してくれるのが嬉しくて、根っからの音楽の人なんだなと思う。
あむくんは、あまり多くを語らない。語らない代わりに、さりげない優しさを行動で示してくれるのを知っている。気づいていた。
“愛情を与えれば愛情が返ってくる”なんてよく言われるけれど、私は愛情の表現と受容にも相性があると思っていて、お互い幾ら努力してもすれ違いになってしまう組み合わせがあると感じている。母と私、妹と私の相性は良くなかった。互いが幾ら愛情を投げてもどうにも的外れで、すっかり疲弊してしまった。父と私、弟と私の組み合わせはタイミングが合わなかったりパワー不足といった感じ。
だから、こんなにすとんと敬意に敬意、愛情に愛情が返ってくると驚いてしまう。バトミントンのラリーのお手本のように、綺麗な放物線を描いて適切に真っ直ぐに返ってくる。
こんなことがあるんだな、と思った。

あの子を私の生きる理由にしてはいけない。決していけない。だって私達は所詮他人で違う人生を歩んでいて、過度の執着は不健康な依存へと繋がるから。あなたはあなた、私は私として各々の道を邁進してゆかねばならない。本来癒されるべきでない場所で、私は不本意に癒されてしまった。だからこんなにも後ろ髪を引かれる。
私はいつも必要以上に感じとってしまうのだ。囚われてしまう、溺れてしまう。人の心を知りたいあまりに、吸い込まれて、呑み込まれて、誰か心惹かれた人に引っ張られ過ぎてしまう。
ずっと自分は人に興味がない自閉的な人間なのではないか思っていたけれど、本当はそんな事はないのだろう。寧ろ人以上だ。表面上だけの付き合いは苦手だけれど、人の奥深くの心には強い興味がある。そこに触れたいと願っている。‬
はじめにあまりにもあむくんと軽い気持ちで無防備に関わってしまったことを今更後悔する。共作を後悔するのではない。問題は私の心の影響されやすさなのだ。アマチュア時代、崎山蒼志さんと共作をしたおおたりおさんの気持ちが、今少し理解出来るような気がする。彼がメジャーデビューしたての頃の彼女の前のめりの応援っぷりといったらなかった。最後の共演のときは耐え切れず泣いていた。心の奥を開示した相手はどうしたって「特別」になってしまう。それはもう仕方がないことだ。

痛みは眼球の打撲のように鈍く来る。

心の深い交流と、クリエイティブな活動を共にすること、それが私の青春の正体だった。
忘れていいよ。
私のことなぞ重荷にしたりせず、忘れて行って構わないよ。色んな人と関わって新しいことをして活動を広げてコラボして、そんな風にどんどん躍進して欲しい。私は寂しいけれど、それは私が処理すべきことだから。大好きで、大事なのに怖い。同世代のようにいかない。同性のようにいかない。
崎山蒼志を知ったとき、彼を十二歳の頃から知っていたらどんなに良かったかと思った。そうしたら彼のことをもっと深く知れたのではないかと。あの繊細さを深く間近に感じたかった。どんなことを思ってこの歌詞を作ったのか、普段どんな事を考えているのか気兼ねなく訊けるのかと思った。でも実際同じように才能のあるあむくんが現れて、十二歳の頃から身近に交流出来ても、何でも根掘り葉掘り訊ける訳でもないのだなと知った。(まま)ならないものだ。

私はきちんとしたい。きちんと敬意を払いたい。味方だよって、尊敬しているし応援しているよって分かってもらいたい。嬉しく思ってもらいたい。
精一杯の言葉を尽くし尽くして、そうしたら伝わって欲しいけれど、一方で別に伝わらなくてもよくて。
でも、そう思うのはあむくんに対してだけではないな。私は誰にだってそうだ。私はいつも、誰かを大事に思えば思うほど比例して自分の価値のなさを突きつけられて、怖さが募ってしまうのではなかったか。


他人への優しさは詰まるところ利己心で、でもきっとそれで良いのだとあむくんは哲学めいたことを言う。結果的にそれで幸せの連鎖が起こるのならば、と。
昔からずっといい人になりたかったけれど、いい人って何だろう。優しさとは何だろう。どんなに自己犠牲の皮で包んでも、たとえ自分で気がつかなくてもその本質がエゴであることに変わりはなくて、でも結局それしかやりようがなくて。利他心が利己心を何パーセント上回れば優しさなのか自己犠牲と言えるのか、私のやっているこれは果たして善なのか、そんなことを考えてしまう。
私はあむくんのように「それでいい」という境地にすら至っていない。そうやって折り合いをつけられるあむくんよりずっと幼い。精神年齢では既に超えられているのである。
クラスメイトとは話が合うのかと心配になるほど、彼の感性や能力は抜きんでている。自分に厳し過ぎるように見えるその姿勢を見ると無意識の(おご)りと母性が作用してときおり心配になる。
でも、あなたが「こんなに幸せでいいのかなぁ、っていうくらい今幸せです」としみじみ口にしてくれたとき、とても嬉しかったのは本当。賢くて感受性豊かなあなたがそう言い切ってくれたからこそ、深く嬉しいと思ったのだ。

“願いが願いのまま終わるなんて嫌だな
でも僕はそれを感じながら生きていくんだろう”

『アンデュレーション』という崎山蒼志の音源化されていない曲がある。そのどきりと刺さるような歌詞はいつも私を急き立てる。あむくんのお父さんとのやり取りで、こんなことを書いたことがあった。

“「あむくんの行動力、心から尊敬しています。「夢見ること」と「行動すること」の間には大きな隔たりがあると思っています。
夢を語る人は山ほどいるけれど、それを早くから実際に行動に移せる人ってどのくらいいるんだろうと考えたりします。傷つくことを恐れない勇気ってどれほどだろうと。
あむくんがカバーで歌う『アンデュレーション』が好きなのですが、あむくんならきっと願いが願いのままにはならないよ、と感じています。オーディションに受かるとか落ちるとかそういうことではなく、あむくんの芯の部分というか、真ん中にあるものを信頼しています。この人の土台ならきっと大丈夫と思えるのです。ただ、願いが叶うのが何歳になるのかわからない、というだけのことで」”

「若いうちから有名になりたい」「日本を代表するようなアーティストになりたい」という願いが叶ったら幸せなのか、ふさわしいことなのか。誰に教わったのでもない生まれついての願いは、なぜと訊かれても答えようがない。私が生まれついて「いい人になりたい」という願いを持つのと同じように。あなただけの魂の渇望に私は答えを持たない。それは私が抱いたことのない願いだ。



今回の体験は特に夢のような感触が強かった。まさに“明瞭な夢を暮らす”という感覚そのものだ。 
その夢の中で、自分について知ったことがある。
思う以上に音楽が好きだったということ。
無意識に創作活動をずっと我慢してきたのだということ。
誰かを好きになるのに年齢や性差の括りはなく、私はたぶん、その人の生命を愛するのだということ。
そして互いを尊敬しフィーリングの合う、創作パートナーとなる親友が欲しいのだということ。崎山さんと、同じく音楽家の君島大空さんとの関係を見ているといつも羨ましくなる。私もああいうのが欲しい。

あえて自分を鈍化させていたけれど、私、ずっと悲しくて寂しかったんだな。そしてその上で、全部全部諦めていたの。
何にもどうにもならなくて、どうするつもりもなくて、いつまでもこのままじゃいられないのは知っていて、そもそもがひどく不自然で。
だけど断ち切るのは苦しい。ずっと私がいることを嬉しいと思っていてよ。私が離れていったら、寂しいって思ってくれる?
 “忘れていいよ”なんて言っておいて、ひどく矛盾している自分の心に笑ってしまう。

ああ、そしてこれを書いていてやっと今気づいた。どうしてあむくんのしてくれたことがあんなに嬉しかったのか。
私と全くの他人のはずのあなたが、たった十二歳のあなたが、何の打算もなく私に「何かしたい」という気持ちになってくれたのが嬉しかったんだ。“家族だから”“仲間だから”という土台無くしてただ個人としての私に言ってくれたその言葉は、ひねくれ者の私の心を通過して、すんなり届いて信じられた。
ごめんなさい。私はどうしてもあなたを子ども扱いしてしまうね。でも、子どもの言ってくれた言葉だから信じられたのかも知れない。今あなたはもう一年前のキンキン声の子どもじゃない。私より余程器の大きい、外面も内面もずっと大人びた若者だ。



あむくん。あなたのことを尊敬しています。
私があなたに惹かれたのは、ただ見た目の可愛い少年だったからという訳ではありません。
惹かれたのはあなたの卓越した才能と、それに甘んじない謙虚さとひたむきさでした。崎山さんに憧れて、ギターに夢中になって着実に力をつけていくその姿がきらきら輝いて見えました。それは、こちらまで何かをしたいという気持ちにさせる力を持っているのです。あなたが言っていたように、あむくんが自分のために生きることで私は確かに温かな幸福を感じたのです。
もし、弱気になったり迷いが生じたりしたときは思い出してください。苦手分野も含めて、自分にできるあらゆる分野をあなたはやってきたと。不安や恐怖や傷つきを乗り越えて、とにかくやってきたのを知っています。証明する人が幾人もいます。
試しに、箇条書きにして可視化してみてください。両手で数えきれない数になるはずです。環境に恵まれてご両親のサポートもあるけれど、それを感謝して受け入れるのだって立派なことです。元々才能はあるけれど、あなたは才能を上回るほど行動しているのではないでしょうか。小学校生活から中学校生活へと慣れない変化もあった中でです。
だから、行きたいところへ行けるよ。
今感じているあむくんの幸せが、ずっと途切れず続く幸せならなと思います。ずっと満ちていて。ずっと優しいままでいて。



届くはずのないこの場所で、私は(いたずら)に綴っている。

おわりに : 宝石箱

色んな人がいる。だから私だけが特殊とも、可哀想とも思わない。


自尊心の補充を他人頼みにしているようでは駄目だ。

そうしたらいつまでたっても不安定だからだ。自分の足で(しっか)と立っていなくては、誰だって私のことを負いきれない。私は病的な依存を嫌悪する。頼れる仲間を頼らないというのではない。それとは別の意味で、本当の意味で、自立できるかどうか。
自分が自分を愛するすべを身に付けることが理想なのだけれど、言うほど簡単なことではない。

数年前、周りにも話して本気で自尊心を高める計画を立てた。
私が何をするにも毎回それを阻害するのは自尊心の無さなのだと気付いたから。その歪みさえなくなれば、私はかなり自由に軽やかになれるのではないかと思ったのだ。そういう関連の本や情報を読んで実践したり、適度に人に頼ろうとした。消極的な思考回路を修正しようと、積極的なことしか書かない“いいこと日記”をつけたりもした。
でもあれは結局断念したんだ。
いつも利き手でやっている事をそうでない方の手でやっているような苛立ちがあって、却って混乱した。悲しさや苦しさを文章ですら出せないというのは辛かった。良いことだけ選りすぐって書くのはさほど楽しくはなく、嘘をついているような心地になった。私には向いていないやり方だったのだろう。
手強いな、と思った。自分で思っていたのよりずっと。

もうやだなって。
こんなに生きてきたのに、どうして誰も『もう十分生きたよ』って言ってくれないのって。
だってさ、子どもの頃からだよ。すごく長かったよ。

歪みの元をたどれば、一切合切淋しかった子どもの私に起因している。
自分がそんなに傷ついているという自覚はなかった。でも実際は傷ついていたのだろう。「そんなの全然平気だよ、傷つく方がおかしいよ」と自分に言い聞かせてきたのだけれど。
私は弱いので、やはりどうしても悲しかった。“その程度のこと”が積み重なって、人間性まで(ひしゃ)げてしまった。
無理は響く。思いもしなかった分野で、後から響く。残念ながら私はそんなに強いわけでも、容量が大きいわけでもないみたいだ。
昔よりずっとうまく生きているのに、どうしてあの頃よりも生きる意欲がどんどん薄くなるのだろう。もう“すごく痛い”がしょっちゅう来るわけでもないのだけれど、ひたすら薄くなってゆく。明瞭な夢を暮らしている。
なんてな。「そういうのダメだよ」と私を叱ってくれた人を、また心配させてしまう。

けれど、最近こうも思うのだ。こういうものを書けているというのは、徐々に癒されているからなのかも知れないと。
このエッセイで母のことが書けた。幾分誹謗中傷めいてしまったけれど。父については少しだけあった(わだかま)りもすっかり解けている。学生時代のおかしかった私についても記すことが出来た。妹に関しては、まだ書けない。
生々しい傷のうちは書けなくて、書けるようになっているものというのはある程度の振り返りと俯瞰が出来てほとんど癒されているものごとではないかと、何となく感じ始めている。
自尊心の分野に関しては多分、私自身ではないところからじわじわ溶かされ始めているのかも知れないと思う。そんな気がする。


もうやめてしまったけれど、SNSをやっていた。SNS疲れで病んでしまう人も多いのらしいけれど、私は人に恵まれたのかとても楽しめていた。要は単に「友達が増えた」という感じ。そして創作の手段と可能性が拡がった。
繋がり手段がどうあろうと、生身の人間であることに変わりはない。
心根の優しい人が多かった。
なんていうか、仲のいいクラス仲間の大人バージョンという雰囲気だった。寛容で排他的な空気はないし、くだらないことでもわいわいみんなで騒いでいた。その中でも特によく喋る親しい人が各々いるという感じ。興味や情熱の行先は同じだし、だから色々共有しやすかった。
そこで出会った人達があんまりまるごと私を認めてくれたから、他人頼みではいけないと、あれ程満たそうと足掻いていた自尊心を、自分でも気づかぬうちに満たしてもらっていたのだと思う。

母親に「自分のこと、宝石箱じゃなくて段ボール箱と思っていればいい」と言われた話。
あれは母がどこかで聞いた話の受け売りだったのかも知れない。多分深くは考えていなくて、他意はなくて、自分が感銘を受けた話を私に話しただけ。受け取る相手や状況で思いきりニュアンスが異なってしまう言葉だけれど、母は特質的にそういうことに気を付けられる人間ではないのだし。
本当に悪気はなくて、ただただ、粗雑だったのだ。
母はぬいぐるみを洗濯機で他の洗濯物と一緒に普通に洗う人だった。ゴシゴシコース一択で、ネットやおしゃれ着用洗剤なんてもちろん使わない。
だからすぐに型崩れしたし、目は取れるわ綿は飛び出すわで酷い有様だったのだけれど、彼女はそんな事気にも留めていないようだった。耐久性のないぬいぐるみの方が悪い、見た目よりも清潔さが大事、と言って。あまり損傷したものは躊躇なく捨ててしまった。
私も、そういう扱われ方をしていたのだと思う。

与える人と吸い取る人というのがいる。良い人悪い人の区分なく、付き合うとどうしてもこちらがくたくたになってしまう人というのが。依存傾向だったり義に過ぎる人だったり、相性だったりするのだろうか。まだ掴みきれない。
私の周りに居てくれたのは与えてくれる人達だったのだ、と思う。
どうしてだろう。消極的なことを全く言わない訳でもなかったし、いつでも絶好調な訳ではないのは誰しも同じだった。けれど、吸い取られる感覚というのはほぼなかった。
私の絵が、文章が、本気で好きと感じてくれる人がいるんだと思った。私の創り出したものが人を嬉しくさせる力を持っているというのが嬉しかった。
受け入れてくれた人、元気づけてくれた人、感謝してくれた人、褒めてくれた人。諭して叱って、駄目なことは駄目と言ってくれた人。私の尊厳を認めて、大事に接してくれた人。
支え合うけど、ベタベタしない。ちゃんと自立している。
やり取りから学ぶことも多かった。
褒めるときは闇雲にではなく根拠を提示すること。
自分の知らない事情が相手にはあると考慮すること。
褒められたら変に謙遜するより真っ直ぐ受け止めて喜ぶこと。
分かりやすい言葉で率直に伝えること。
人の多様性を認めること。

私はあそこで宝石箱のように扱ってもらっていたように感じている。段ボールでなくて。
大人になってから宝石箱みたいに扱ってもらうって、凄いことだと思う。大事大事にしてもらった。大袈裟だね、と笑われるかも知れないけれど、私はそんな風に感じて確かに嬉しかったの。「大人としてきちんと感謝しなくちゃ」ではなくて心から湧き上がるように「感謝したい」と思えたの。
どうしてだろう。実際に見知っている周りの人だって良い人たちばかりなのに、SNS繋がりの人たちからは、ひしひしと愛情が伝わりやすかった。もしかすると私は文字から情報をより鮮明に受け取りやすい性質なのだろうか。それとも他の要素が関わっているのだろうか。
ある人から「あなたと近しい人との関係は、密度が濃くてのっぴきならないっていう感じがするね」と言われたことがある。本当にその通りだ思う。
私の長所であり短所でもある。人の深部が知りたいと願い、人の魅力に気が付きやすい。深い話がしたい。そういう特質なのだからそうなってしまうのは当然のことだ。

最初からSNSに長居するつもりはなかった。決めていたルールだ。むしろ長居し過ぎたくらいだ。あんまり居心地良くて、離れるとき結構寂しくて少し参った。でもその決定は正しいと確信している。
自尊心の圧倒的低さとか、見捨てられるのが怖いと思う癖とか、自分は異常だと決めつけてしまう癖とか、それは一朝一夕にぱっと消えて無くなるようなものではないのだけれど。この先も自分が信じられないと思うことが幾度もあると思うのだけれど。
それでも確実に“存在そのものに対して愛情を受けた”という経験は私の中では大きかった。だから完全に元の状態に戻ったわけではなかった。それから、火を貰った。轟々(ごうごう)と燃えるような。




非常に個人的なことを書いてしまおうと思った。

淀んだ部分も、淡水パールのような煌めきも、精神的に幼い私の人生を曖昧さを回避してどうしても書きたいと思った。父のためでもあり、自分のためでもあった。私は書かずにいられない性質だから。
書き始めたのは年末で、ここまで約半年。自分でも思わぬような成長や気づきがあった気がする。眠っているような、急に目覚めるような、ふわふわとした夢の中の世界にいるような、この(うつつ)


──この現から醒めたらば。


明瞭な夢を暮らす(曖昧さ回避)改

明瞭な夢を暮らす(曖昧さ回避)改

  • 随筆・エッセイ
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-02-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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