色溢れる四季、淡い青春

桐谷 迅

  1. 夏の炎天下は僕らを誘う
  2. 秋の紅葉に俺たちも染まる
  3. 冬の聖夜で俺たちは実る
  4. 春の花が僕らを攫っていく
  5. 終わる一年、巡る四季
  6. 桜舞う小道、香る一年
  7. 雨の行進曲は哀しみに浸る
  8. 夏祭りの花火は泡沫に揺れる
  9. 文化祭の騒ぎに物語は踏まれる
  10. 雪降る日に禁断の果実は芽吹く
  11. 続く一年、彩られた恋
  12. 拝啓、桜の花々が散り行く頃
  13. 純潔にも毒あり
  14. 永遠の愛は膨らみ始める
  15. また会う日を楽しみに
  16. 孤独の中、届かぬ祈り
  17. 真実の愛を、私を、忘れないで
  18. 花便りも届く今日この頃、どうか幸ありますように

夏の炎天下は僕らを誘う

 陽炎は揺れ、風は灼熱の炎と化し、僕らを焼き付けてくる。しかも、こんな雲一つない炎天直下の昼時はさらに憂鬱になるものだ。
 なのに、晴天の明日まで出掛けなければならないと知ると憂鬱さが増す。

 妹が友達と海水浴に行くらしいのだが、中学生女子だけとなると心許ないとかなんとかで、親から告げられたのは僕の強制同行。しかも、妹達は数秒足らずの協議の結果、あっさりとOKを出した。
 勿論、正直に言えば非常に困る。いや、困るどころの話ではない。そもそも僕の意見は? もういっそ拒否したい。なんてことは親の盾がある妹に言えるはずもなく、ただただ何方向からもかけられた圧力に屈するしかなかった。

✳︎

 当日。

 清々し過ぎて、むしろうざったいくらいの雲一つない快晴だった。挙句、稀に見る夏日だそうで予想最高気温は三十度を越していた。

「忘れ物ないな。水着と日焼け止め、替えの着替え持ったか?」
「お兄ちゃん、未来はもう中学生だよ? 一人で出来るっての」
「そうですか。てか、なんで僕まで水着を」

 昨日、いきなり妹が水着を買いに行くと言い出し、付き合わされた挙句、僕まで買えと言い始めた。最初こそ断ったが、母から僕の分もお金を貰ってるなんて言い出され、結局買ってしまったのだ。

「あー、それは、念のためというか……。まぁ、とりあえず送って、どっかで適当になんかしてくれればいいから」
「だったら、お兄ちゃんを置いて行ってほしいです」
「それは無理だよ」
「何でだよ」
「だって、父さんとの約束だし」
「あのなぁ、中学女子同士の遊びの場にお兄ちゃんがいると邪魔だろ?」
「まぁそうなんだけど」
「それに海なんて近場なんだからさ。それともお兄ちゃんに水着でも見てほしいのか? ブラコンか?」
「うっさい。とにかく来て。もう約束しちゃったし」
「何を、誰と」
「行ってからのお楽しみ」

 悪戯な笑みを隠しながら微笑む妹の姿は、どこか警戒せざるを得なかった。
 嫌な予感。だがそれは、気持ち悪い感じではない。言うなれば、誰かに上手いこと嵌められてるような感覚だった。



 二十分も揺れる日差しを浴びて、ようやく到着した。しかし、そこにいたのは、すでに着替え済みの中学生と思われる女子二人と、あどけなさこそ残ってはいるが、それでも大人びた少女だった。
 中学生くらいの二人は妹の友達と分かるが、もう一人は分からない。大体、年は僕と同じくらいだろうか。身長、ボディラインを見て、そんな印象を受ける。

「遅れてごめーん」
「大丈夫。でも、先に着替えちゃった」
「安心して。こんな事もあろうかと、未来は水着を着込んでいたのです」

 服を脱ぎ捨て、バックからビーチサンダルを出し、履き替える。遊ぶ準備は万端だ。
 と、例の少女が未来へと声を掛けた。

「ありがとうね未来ちゃん。助かったよ」
「未来は当然の事をしたまでです。さ、私たちは私たちで楽しむので、お兄ちゃんをお願いします」

 何だ? この会話……。何というか、大人のやりとり、だよな。
 突然、変な考えが過る。嵌められてるような感覚、そして、なんとなくだが見たことのある横顔。まさか。

「どうしたの? ジロジロ見つめちゃって。お兄ちゃんはあのお姉さんがタイプなの? まぁ、あのお姉さん綺麗だしねぇ」
「う、うるせぇな。……ただ、どっかで見たことあるなぁって」
「そりゃ、そうだよ。私の友達のお姉さんなんだけど、お兄ちゃんと同じ高校だよ?」
「はぁ?」

 あんな人いたっけ? 純粋に誰かを思い出そうとしているが、ダメだ。名前が分からないといまいちピンとこない。
 そんな時、彼女はこちらへとやってきた。

「未来ちゃんのお兄さん、でいいんだよね?」
「あ、はい」
「妹達は妹達で遊ぶみたいだから、私達は私達で時間、潰そっか」

 そんな事を言われるが、やはり彼女が誰か分からないせいか、うんともすんとも言えず、ただただ困惑してしまう。
 ただ、流石にその様子に気付かない人はいないだろう。

「あの……、えっと、私のこと、分かる? 去年、同じクラスだったんだけど」
「え、あ、その、えっと」
「そっか」
「そ、その、ごめん」
「別にいいよ。あんまり接点もなかったしね」

 会って数秒でこの気まずさはむしろ褒められるべきだと思う。もしかしたら、自己最速かもしれない。
 喉の渇きに水筒を取り出し、冷たい水で喉を冷やしていく。

「西条って覚えてない?」

 途端、彼女の口から放たれたその名前に驚き、つい噎せてしまった。

「ゲホッ、ゲホッ」
「大丈夫?」

 確かに去年同じクラスにいた。真っ先に気付かなかった理由としては、忘れていた事もあったが、なによりも水着である事と、髪型が変わっていたのが大きいだろう。
 そして、西条と言えば、その名を知らない者は少ない。
 おとしやか系の女子で生徒会副会長を務めており、顔立ちも悪くはなく、成績も申し分ないと言った優良物件であることは間違いない。ただ、彼氏持ちで、これぞリア充の代名詞と言っていいほどのラブラブっぷりを見せているという話を聞いたことがある。

「んで、お前か? 僕を呼んだのは」
「呼んだってわけじゃないんだけどね。うちの親が中高学生の女子だけは心配だって言ってね。それをうちの妹が、『未来ちゃんのお兄さんが来てくれるって』って言い出して」
「それで納得してくれたんだ」
「まぁね」

 約束とはこの事だったのか。
 つまり、妹は自分のためではなく、この遊びに行く予定のために連れてきた。計ってくれやがって。
 そんな気持ちは押さえ込んでおく。
 ふと見ると、早速妹達は海に入り、遊んでいる。楽しそうに見えるが、あそこまではしゃぐ気は無い。
 と、僕と西条の間に流れ始めた気まずさに耐え切れず、すぐに話し出す。

「あー、その、良いのか? 西条。夏休みだったら、彼氏と出かけたりとかしないのか?」
「実はね……昨日別れた」
「……なんか、悪い」

 こんな感じで西条は僕が話せるようなタイプの人ではない。それに、聞かなくていいことを聞いてしまったし。ただ、黙るのも更に気まずさが増すだけだ。何としても話題を作る。

「そういや、受験勉強はいいのか? 僕は指定校推薦貰えるだろうから大抵終わったようなもんだが」
「まぁ、息抜き程度だし。それについて来ただけだよ」

 話を聞く限り、西条の妹と僕の妹がたまたま友達で、それの付き添いで来たのだとか。

「へぇ、そんなこともあるんだな」

 しーん。

 ダメだ。続かない。ここは思い切って。
 勢い良く、この灼熱のビーチに癒しを求めて海に飛び込んだ。ふー、ほどいい冷たさが気持ちいい。極楽だ。
 その一瞬の気の緩みからか、背後から近寄る人に気づかず、水をかけられた。

「え、えーい」
「うわっ」

 勿論、不意を突かれたこともあり、驚きに声を上げてしまう。
 そして、未来辺りの悪戯だと思い、軽く怒りの表情を浮かべ振り向いた。が、そこに居たのは、未来ではない。あの西条だった。

「……ご、ごめん」
「こっちこそ。未来かと思って」
「ほ、本当にごめんね。びっくりさせちゃおっかなって思って」
「あ、うん。……てか、それは謝るところじゃないぞ?」

 そんなやり取りに、顔を真っ赤に染めた西条は、すたすたとどっかに行ってしまった。全く何が何だか……。

✳︎

 一時間ほど経った頃、ふと西条の方を見ると、側に人影が一つ増えた。
 シルエットからするに、女性だろうから心配する事もないだろう。そう思い、軽く散歩に出かけようとした時、大声が聞こえた。

「ちょ、やめ、やめてよ」

 紛れも無い西条の声だ。
 たまたま聞こえてしまったがために、体は勝手に動き出す。声の元に急いでダッシュしていくと、そこには西条に乗っかっている女子の姿があった。

「美奈ちゃん、ちょっと、やめてよ」
「いいじゃん別にさ。葉月のナイスバディを楽しめるチャンスだしさ」

 勿論、その少女には見覚えがある。
 川崎 美奈。
 去年と今年同じクラスで、彼女の周りは必ず明るくなるムードメーカー的存在だ。しかも、スクールカーストを気にせず、誰にでも接するいい人でもある。ただ、こうしてある女子にセクハラするのは玉に瑕なのだが。

「川崎、大勢の人の前で何してんだよ」
「ん? なんだ、お前も来てたのか」
「なんだじゃねぇよ。取り敢えず、人が集まる前にその態勢をどうにかしろ」
「へいへい」

 ひとまず、集まりかけた人を散らし、落ち着くのを待った。そして、頃合いを見計らい、話し出す。

「で? なんで川崎が来てんの?」
「逆になんでお前がいるの?」
「ひとまず、私に説明させれくれないかな」

 西条は、川崎に僕が護衛役を任されたこと、そして、僕にもともと川崎と海に行く予定があり、それを妹達の予定と合わせたこと、を説明した。

「こいつが護衛役? 心許ないな」
「そりゃ、どーもすいませんね」
「それでも男子だから」
「あー、まじ優しいわ。こういうのが好感度の違いじゃね?」
「うっさいわね。私が好感度低いとでも言いたいの?」
「まぁまぁ」

 そんなやりとりの後、不思議と可笑しさが込み上げてきて、互いに笑い合う。
 この感じだ。去年、同じクラスにいた頃、たまたまこの三人の席が固まったことがあり、こんな会話をしていた。
 ふと、ここしばらくの間、忙しさに見舞われたせいで忘れてしまっていた純粋な楽しさを思い出した。



 気付けば太陽は真上に昇り、腹も減り始めていた。
 お昼はBBQというリア充イベントが発生する。正直、僕の生涯で、縁が無いとものだと思っていたイベントの一つだったのだが、まぁ巻き込まれてしまっては仕方ない。諦めて、彼女達に従って動く。
 この海辺では、海の家近辺の特設スペース内ではBBQが出来るのだとか。そして、川崎の家がセットを持って来てくれているそうなので、機材待ちの間、食材を買いに行くことにした。
 のだが……。

「んで、誰が行くの?」

 その言葉に、誰もが僕を見る。
 まぁ、そうだよな。想像くらいはしていたが、これじゃあ、護衛役なんて格好だけの肩書きに過ぎず、ただの都合の良いパシリではないか。

「ほら、私は父さんが持ってくるのを受け取りに行かなきゃいけないから、誰か買い出し行ってきて欲しいんだけど、流石に水着の女の子だけだと何があるかわからないから……」
「分かってますよっと。何買ってくりゃいいんだ?」
「それなんだけど、お前だけじゃ心配だから、葉月、頼めるか?」
「えっ、あ、えっと」

 地味にその反応は傷付く。いや、そもそも僕一人だけで心配と言われるのも心外なのだが。
 ただ、西条が本当に困っているのにも気付き、なんとか切り返す。

「別にいいよ、一人で。それでも心配なら、兄妹ペアで行こうか?」

 と、妹に視線を送るが、スッと反らし、「それは女子的にまずいっていうか」とか呟き、軽く拒否されてしまった。

「あ、あの、行くよ」
「西条!? 無理しなくていいんだぞ。男子と二人ってのはアレだろうし」
「いや、大丈夫だよ」

 何故だろう。西条が逆に気を遣ってるように感じる。そんなに僕だけじゃ心配か? ここまで来ると、流石に自分の印象に少し不安を覚えた。

「西条、頑張ってこい」
「うん、美奈ちゃん。私頑張るっ」
「西条ちゃんのお姉さん、ヘタレな兄ですが、どうぞよろしくお願いします」

 いや、本当に僕を何だと思ってるんだ? とてつもなく心に刺さる会話に限界を迎え、心地よく吹き付ける海風に飛ばされるような感じがした。
 ていうか、なんか結婚前の挨拶みたいな感じになってるし。

 取り敢えず、違和感のないくらいに服を着て、これ以上変な方向に会話が進んでしまう前にと、西条の手を取り、歩き出す。
 「ヒュー」「マジか」「頑張ってくださーい」なんて声を背に、只管前だけを向いて、しばらく歩いた。
 ある程度海岸線を歩いたところで、少し立ち止まり、彼女の手を離す。

「すまんな、急に。なんかこう変な空気になっちまったからな」
「いや、私こそごめんね。なんか変なこと言っちゃってたかな」
「いやいや、悪いのは川崎やら、うちのバカ妹だから」

 何故か西条が悪いといった雰囲気が流れた途端、振り返り、誤解を解こうとする。
 と、こうして一対一で正面から向き合ったのは初めてだということに気がついた。と、また笑いがこみ上げてくる。でも、それは何というか、優しい微笑みだ。

「去年のことって覚えてる?」
「まぁ、なんとなく」

 珍しく西条から会話が始まっていった。
 去年、あんなことやこんなことがあったな、あの先生ってこんなことをしていたんだよ、なんて思い出話に耽る。まだ卒業していないというのに、出てくる話は尽きなかった。
 つい夢中になってしまい、片道十五分とかかるのに対し、体感時間は五分となかった。

 リスト通りに買い物を終え、パンパンなビニール袋両手に、来た道を戻っていく。
 今度は、誰がどこのを好きだ、誰が誰と付き合っている、なんて恋愛の話題が次々に上がってきた。勿論、意外だった事実や初めて知った事実もある。
 ただ、そんな話をしている内に歩き疲れてしまい、休憩がてらに浜辺に出た。
 少し行くと「よいしょっと」なんて言いながら西条は防波堤の上に乗り、また話し出す。

「そう言えば、西条は彼氏とどうだったの?」
「んー、どうだったって言われてもね」
「上手くいってたんじゃないのか?」
「実はね、正直、デートの一つもしたことない」

 その言葉に驚いたのは間違いない。でも、何故かすんなりと聞くことが出来ていた。

「基本、昼休みにお昼を一緒に食べるくらいしかなかったよ。あと、たまにある部活のない日に一緒に帰るくらいかな」
「それ、付き合ってるって言えるのか?」
「うーん、分かんないや」

 漣の音が気持ちいい。この辺は遊泳禁止なだけあり、人が少ない。雑音がない分、自然の音が独自の色を出し、鮮やかな風景を飾っている。
 いや、もしかしたらそう映っているのは僕だけなのかもしれない、なんてことも思ったりした。

「そう言えば、キスってしたことある?」

 突然、聞かれた質問に驚き、思いっきり咳き込んでしまう。

「ない、けど」
「私もないんだ」
「てか、唐突にどうした?」
「何でもない」

 高まる波音に合わせて、何故か鼓動も早まっていった。

「……してみる?」
「え?」

 ポンっと軽く降りた西条はすぐに迫り、一つ、唇を重ねた。
 たった一瞬、たったそれだけで心臓は破裂しそうになる。頭の中は軽い困惑だ。

「さ、そろそろ行かないと怒られちゃうよ」
「お、おう」

 促されるがままに、西条の後をついて行く。その間の沈黙は、今までとは少し違う緊張が包み込んでいた。その空気を噛み締めながら、歩いていく。
 こんな感じで、少しゆっくりとした買い出しを終え、戻った。

「遅いぞ、葉月。私のとこに集合」
「遅い、お兄ちゃん。未来のとこに集合」

 そう言われ、荷物を置いたや否や、未来に呼ばれ、少し離れたところに行く。

「ねぇ、どうだった?」
「な、何が?」
「何かあったの、って聞いてるの」

 そう言われても……。なんて、考えた瞬間、あの防波堤での出来事がフラッシュバックしてしまい、軽く顔を赤らめてしまった。しかも、しっかりと未来に見られてしまう。

「ふふーん、そんなことあったんだ」
「そ、そんなことって何だよ。あと、あんまりからかわないで欲しいんだが」
「別にいいじゃん」
「あのな、そろそろ兄離れでもしろよ。その年頃なら、兄をうざいって言うだろが」
「あぁ? いや、普通にうざいと思うけど」
「んだと、コラ。ったく、可愛くねぇ妹だよ」

 そう言い、とっととその場所を離れると、後ろから今までに聞いたことにない絶叫を聞いた。
 勿論、あらかたの察しはついてしまうが。

✳︎

 そうして一日遊んだ。それ以降、夏の憂鬱さは感じる暇もなく、とにかく楽しかった。知らず知らずの内にもう六時を回り、空は夕暮れに染まっていた。

 実は、お昼の後、西条が妹達に呼ばれ、遊んでいる間に川崎は僕にいろんなことを話してくれた。

「実はね、あの子、彼氏が好きだったわけじゃないんだ」
「そうなのか?」
「断れない性格って言うのかな? 多分、それのせいで積極的な彼にゴリ押しされてOK出しちゃったんだろうね」
「なるほど」
「でも、好きな人がいた」
「は?」
「今回別れるきっかけはあの子なんだよ」

 その一言で、ある程度分かった気がする。でも、多分、本当はこんなことは知るべきではなかったと思う。
 それでも、一言、礼は言わざるを得ない。

「ありがとな」
「ちゃんと、あの子の気持ちに答えてやんなさいよ」

 最後の一言はずっと脳内でこだましていた。
 それこそ、鈍感男ならどれほど良かったか、そんな風に思う。

 深い息をついた時、ふと見えた夕凪に揺れる彼女の髪はとても綺麗に見える。

「ちょっといいかな?」

 もう覚悟は決まっていた。
 呼ばれて、ほんの少し先に行く。川崎や妹達は片付けやら何やらで、こちらに気づいていない。

「何か用でもあるのかって……ま、聞くまでもないけど」
「せっかくだから聞いてよ」

 ぷくーっと頬を膨らませる姿は可愛い。

「でも良いのか? 別れたばかりで別の男と付き合って」
「別に良いよ。周りに話さなければ良いだけだし」
「そうかい」

 少しの空白、静けさに覆われたが、彼女は口を開いた。

「……神崎 結斗君。好きです。付き合って……ていうのは変か。そばにいて、じゃなくて、そばにいさせて下さい」
「西条 葉月さん。こちらこそお願いします」

 こうして、高校3年生の夏、初めて青春を謳歌したのだ。

秋の紅葉に俺たちも染まる

 残暑も通り過ぎ、少し寒さが目立つようになった十月。学力テストにうんざりする時期である。

「おい、テストの手応えはどうだった?」
「あんまりだったな」
「志望校の判定は?」
「C判定。ギリギリだよ」

 そんな会話も目立つようになっていた。
 一方の学校生活では、冬服移行期間に入り、夏服と冬服の生徒が混ざっていて、俺もどっちを着るか迷っている。
 さて、そんな時期に俺はある奴に目をつけられた。

「川崎、ついてくんなよ」
「良いじゃん。ほれ、書類運ぶの手伝うからさ」

 手伝ってくれることは嬉しいのだが……正直なところ、気があるだけにしか思えない。ただ、俺自身、西条のようなおとしやか系女子が好きなのだ。
 対して、川崎は誰にでも笑顔を見せるムードメーカーにしてスポーツ系女子。タイプとは全く別の女子である。
 直球でいうと好きではないし、付き合う気もない。ただ、話し相手としてならば、面白い奴で気に入っている。

「お前は受験勉強はいいのか?」
「私はもう推薦貰ったし。そっちこそいいの?」
「俺は志望校の国立大は安全圏なんだ。現状維持すればいいだけだよ」
「ふーん、ま、頑張ってね」

 受験本番が近づいてくることを実感し始める時期でもあり、ピリピリしている中、推薦組は目の敵にしてしまう。

「それにしてもお前の明るさは羨ましいな」
「そうですか。ま、私からしたらお前の学力の方が羨ましいよ」

 そこで川崎が見せた不自然な微笑みは何故かは知らないが、脳裏にしっかり焼き付いていた。
 しばらく歩いた先、職員室の前の扉前に到着する。

「ここまでで良いよ」
「いや、良いって。最後まで手伝う」
「二人で入るとアレだろ? ほら、早く乗せろ」
「うーん……分かった」

 そう言って、彼女から書類を受け取り、扉を開けようとしたが、重さと量のせいもあり、上手く開けれない。

「ほら。やっぱり手伝った方がいいじゃん」
「うるせ」

 そんな風にまた来て、扉を開けてくれたのにも関わらず、さっさと追い返してしまった。
 「失礼します。東出先生に書類を渡しに参りました」と言って職員室に入ったは良いが、当の東出先生は不在。一つ溜息を溢しながらも机の上に置いておき、職員室を出て行く。
 まぁ、こんな感じで仕事を終えると、さっさと教室に戻り、とっとと帰りの支度を済ませ、堅苦しい校舎を飛び出す。
 駆け足で駐輪場に行き、自分の自転車の影でバレないようにスマホをいじっていると同じサッカー部だった雪嶋が声を掛けてきた。

「いやー、お前も美人さんに目をつけられたみたいだな」
「うわっ、脅かすなよ」
「なんだ、スマホいじってたのか」

 すると、今度は雪嶋もスマホをいじり始めた。全く、二人揃ってるとバレやすくなってしまうというのに。

「そういや、お前彼女っていたの?」

 飛んできた言葉に、一瞬の戸惑いがあったが、すぐに答える。

「いたわ。ってか、なんで過去形?」
「いや、いなさそうだなって思って」
「うわ、ひっど。とか言いながら、最後にいたのって中学生時代だけど……」
「んじゃいいじゃん。丁度いい人がいるんだし。それにスタイル抜群じゃねぇかよ」
「川崎のことか?」
「あー、そうそう。そんな名前だっけ」
「つーか、お前はそういうとこしかみてねぇよな。彼女に嫌われるぞ?」

 まぁなんとも青春を謳歌しているものだ。こんなふざけ合っている時間がとても楽しい。人をネタにしてるのは、時々罪悪感があるのだが。
 それでも、こんな会話を出来るのは今のうちなんだろう。
 ただ会話している間も、あの時の川崎が見せた微笑みが気になっていた。



 それからと言うもの、川崎の絡みは相変わらず普段通りだった。勿論、周りに対しても、対応の変わりなんてどこにもない。
 ただ、なんとなく川崎のそれは気に入らなかった。
 理由は釈然としない。誰彼構わず好意を振り撒いているからか? いまいちよく分からないモヤモヤ感はどことなく俺を蝕んでいく気がした。

「で? 最近はどうなのさ?」
「どうって何が?」
「あの……川崎? そんな感じの名前の子」
「別に」

 昼休みはこうして俺が雪嶋のクラスへとやってきて、一緒に昼を食べている。

「そっちこそどうなんだよ。彼女と上手くいってんの?」
「まぁね」
「そうですか」

 適当に箸を動かしつつ、口も動かす。会話が途切れて、静まり返る方が俺たちにとって気まずくなってしまうのだ。

「そういや、聞いた? 西条って夏休みに彼氏と別れて、新しい彼氏を作ったんだってよ」
「ふーん」
「その彼氏は、お前んとこの神崎って奴らしいぜ」
「へぇ」

 神崎、か。別にパッとしないわけでもないが、かと言って静かなわけでもない。本当に普通の奴だ。何故彼なんだ? なんて疑問は誰に聞いてもはっきりとはしないだろう。本人に聞いてもだ。
 だから、別に思うところがあるわけでもない。

「あれ? 興味ないの?」
「人の恋沙汰を聞いて楽しい奴がいるかよ」
「あらぁ。自分だけ彼女なしだからって拗ねなくても良いんだよ?」
「うっせ。つか、どこで知ったんだよ」
「何を?」
「西条と神崎のこと」
「あー、神崎は中学校同じだし、去年は一緒のクラスだったからな」

 そんな接点が。意外、でもないか。
 神崎は俺と違い、相当フレンドリーで接しやすい人間だろう。成績は中の上だし、スポーツは俺よりも出来る。時々バカしたりと、高校生の中ではハイスペックな方なんだろう。唯一の欠点は、緊張に弱いことくらいだろうし。

「アレでしょ? 西条がタイプだったんでしょ?」
「タイプはな。どストライクだよ」
「まぁ、確かにタイプでも誰かに取られちゃえば、手出しできないしさ」

 その一言に雪嶋自身、悪意はなかったのだろう。ただ、あまり良いように聞こえないのは気のせいだからか? 心の底から湧き出てきたドス黒いものを抑え、気怠さを持った声で話題を変える。

「……あー、面倒くさいから、ここまでにしとこうぜ」
「へいへい」
「んで、部活は?」
「流石にねぇだろ。ただ、再来週くらいに一回はあってもおかしくないだろ」
「そうか。雪嶋、お前は出るの?」
「一応そのつもり」
「もしデートと被ったら?」
「勿論、デートに行く」

 呆れるくらいのバカっぽさに軽く笑う。
 ふと、教室の外を見てみると、見覚えのある横姿を見かけた、気がした。
 ショートだけど艶のある髪。絞られた体。思えば、それは女子の中でも中々いない美しさを持つ人だった気がする。そして何よりも、あのそばかす。川崎か?
 だが、気にするほどではないと思い、適当に話を続け、昼休みが過ぎ去っていくのを楽しんでいた。

 ✳︎

 自己推薦が本格的に始まる時期に突入し、併願を取ろうとする人が血眼で走り回る中、さらに忙しさは増していった。
 はー、こんな時期のくせに部活あるとかふざけてんのかよ。勉強が手につかねぇだろうが。
 昼休み。部活動連絡板を目の前に、溜息を吐いた。

「おーい、そんな浮かない顔してどうした」
「何だ雪ヶ島か。お前こそどうした? 俺に話しかけてくるって珍しいじゃねぇか」

 普段は俺からしか話さないのに、そんな違和感から、あらかたの察しはついた気がする。

「んなことより、これ。川崎から渡してくれって言われて」
「何? これ」

 便箋が折りたたまれたものだ。

「良かったな。これで、高校最後のイベントを楽しめるじゃねぇかよ」

 良かった、のか? その疑問は尽きない。
 確かに、この時期はクリスマス前でもあるから、こぞってカレカノ関係になろうとする人は多い。だが、気遣いが出来る川崎が、忙しくなる時期に? そして、思い付いた考えはたった一つだけだった。

 教室に戻り、便箋を開くと、いよいよそうにか見えない。その中に書かれた文字を見ても中身がないような文字だった。
 しかし、行かざるを得ないだろう。これを投げ捨てることほど思いを踏みにじる行為はない。

 取り敢えず動かなくちゃ。
 適当に同じ部活のやつを捕まえ、遅れることを話しておいた。
 そして、急いで教室へと向かう。

「神崎」

 のんびりと昼食を取っていた神崎は慌てている俺を見るや否や、驚いた。

「ちょっといいか?」

 そして、廊下に一旦呼び出す。

「西条は何処にいるか分かるか?」
「えっと、なんで僕?」
「お前が西条の彼氏だからだ。早くしてくれ」
「え、あ、あぁ、葉月は多分図書室にいると思うけど」
「サンキュ」

 それだけ言って置くと、すぐに図書室へと向かう。
 あまり長くない昼休みの半分はとっくに過ぎている。一分一秒と無駄にできない。ダッシュで図書室前に着くと、一旦落ち着き、ドアを開けた。
 この時期の図書室は人が少なく、特有の厳正さは静寂を呼んでいる。その中で、本を横に勉強している一人の少女を見つけた。

「勉強中にごめんね。西条さんで合ってる?」
「え? あ、うん」
「ちょっと、話がしたいんだけど」
「話?」
「確か、川崎と仲良かったよね」
「美奈ちゃん? うーん、まぁそうだけど」

 上がる息を落ち着け、早まる脈を整える。
 でも、どうしてだろう。こうしてこの人と二人で話してみたいと思っていたのに、いざ話をしてみればどうも思いもしない。

「あいつ、最近、変わった様子とかなかったか?」
「え? 変わった? うーん。ちょっと背が伸びた、とか?」
「そういうことじゃなくて」
「あーごめんごめん。ちょっとふざけただけだよ」

 こんな子でもふざけるのか。意外だな。ただ、今はあまりして欲しくなかったが。

「最近、ちょっと暗いんだよね」
「暗い?」
「うん。気のせいかもしれないけど、自分の気持ちを隠そうとしてる、みたいな?」

 その一言で、想像は確信のある予想へと変わっていった。

「そうか。ありがとう」なんてぶっきらぼうに言うと、すぐさま図書室を出ていった。

「あのバカ」

 つい気持ちは口から漏れ出してしまう。溢れておかしくなりそうな思いは硬く握った手にまで現れる。
 そうして受けた午後の授業は全く耳に入ってこなかった。



 放課後、遂に約束の時間になる。急いで走り、指定場所へと赴いた。

「あ、来てくれたんだ」

 その時もあの時の微笑みと同じだった。

「手紙見てくれたから要件は分かってると思うけど……」

 そこで確信に変わってしまった。震える声、俯けたままの視線、それはまるで返事を分かっていながらしている。その後、川崎が発した言葉はすぐに右から左に抜けていった。しばらくして川崎は口を閉じる。
 後ろから吹く風は、彼女に真正面に吹き付ける風は、とても冷たかった。乾いた空は、淡く、蒼い。
 覚悟を決めたのに、それでも怯えたような表情をした彼女の口は再び開いた。

「んで、返事は?」

 頑張って作る笑顔は、胸が痛む。

「……悪ぃが返事は出来ねぇ」
「……そ、そっか……」

 再び俯き、「だよね」って口が動いたのが見える。

「……なぁ、お前の本当の気持ちを教えてくれよ。らしくないことすんな」
「えっ」

 驚く彼女の手を握る。

「だた、ここじゃダメだ。ほら、行くぞ」

 そのまま、自転車置き場に走った。せっかくだからとびっきりの笑顔で。それが緊張で引きつっていたものかもしれない。だが、それでもいいと思う。

「行くって、どこに行くの?」
「とにかく後ろに乗れ」

 自転車の後ろに乗ったのを確認すると、「しっかり捕まってろ」といい、出来る限りの体力を使い、思いっきり飛ばす。 川沿いを通り、あそこへ向かって行く。
 時々フラつくのも御構い無しだ。

「ねぇ、どこ行くの?」
「落ち着く場所だよ。よし、さらに飛ばすぞー」

 その言葉を聞き、川崎がしっかり捕まって、身体は密着してしまう。だが、そんなのを気にしている余裕もない。


 走り始めてどのくらい経っただろう。
 きつい坂道を登り終え、紅葉に染まる山に着いた。もう日も暮れ、観光名所であるこの山は、ライトアップされている。

「川崎……無理すんな」

 そう言い、感情のままに彼女に抱きつく。そして、宥めるように頭を撫でた。

「な、何言って……」

 嗚咽。
 頬に河が出来てしまっている。それは彼女の溢れんばかりの素の感情であることを悟った。

「あのなぁ、焦らなくていいんだよ」
「はぁ?」
「振られるために告白するバカがいるかよ」

 何故そうまでして自分の気持ちにカタをつけようとしているかは、俺には分からない。ただ、とてつもなく無理をしているのは分かってしまった。

「それにどうして振るって思ったんだよ」
「……だって、西条のことがって」
「……聞いてたのかよ」

 確かに迂闊だったかもしれない。

「あのな、タイプと好きって言うのはイコールじゃねぇんだよ」
「でも、だって」
「そりゃ、タイプな人と付き合えるのは良いかもな」
「……ほら」
「でも、それと付き合って楽しいのかってのはまた別だよ」
「何……知ったようなこと言ってんのよ」

 彼女の表した素の表情は、とても可愛かった。
 彼女は多分、無理をしていたんだろう。そうして、周りを明るくしていたら、一層自分の気持ちにも素直になれない。それに、俺が川崎をいいように思っていなかったのはこれがあったからなんだろうな。今になって思った。

「考えすぎなんだよ。バカならもっとバカっぽくすれば良いじゃんかよ」
「う、うっさい。バカって言うな」

 もう、顔はぐちゃぐちゃになっていた。

「な、わざわざ無理しないでくれ。代わりに俺も手伝うからさ。素でいてくれ」
「うぅ……あ、ありがとう。和泉くん」
「悠でいいよ」

 しばらくの間、そのままでいた。

 夜の紅葉も、また近くの川も、星空も、そして彼女の素の姿も綺麗だった。
 この景色は、そう簡単に記憶からも消せず、脳裏にしっかりと焼き付いていた。

冬の聖夜で俺たちは実る

 すっかり日が暮れるのも早くなり、日に日に寒さが増してくるこの時期は、俺たちにとって最後の追い込みをかける時期でもあった。
 教室には、授業後でも休む暇なくペンを走らせる人ばかり。時々、聞こえてくる話し声も、今までとは比べ物にならないくらい疲れが乗しかかっている。
 そんな中、気休め程度ではあるが、癒しに飢えた受験生が勉強の隙間を使い、こぞって集まるイベントが迫ってきていた。

 クリスマス。

 それこそ恋愛に関して言うと、二人の関係は一線を越えるか越えないか葛藤に見舞われる程に接近してもおかしくない。
 ただ俺は、そんな時期に振られてしまった。

 あの人は「勉強のため」なんて言う名目で誰かに乗り換えだろう。以前から、噂は立っていたし、分かってもいたことではあったんだが、それでも辛い。
 しかも、恋人限定で行われるクリスマスツリーのイベントの予約券をかけた抽選に外れ覚悟で応募した結果、当たってしまったのだ。しかも、幾らか金まで払っておいて、予約出来たって言うのに……。ついてないというか、情けない。

「おい、雪嶋。振られちまったもんは仕方がないって」
「そうだよ、雪嶋君。それに、もう数ヶ月で高校生終わっちゃうんだから、な?」

 とか、俺を慰めてる神崎と和泉は彼女持ちなんだよなぁ。余計に凹む。
 「つーか、お前らは余裕かよ。もう期末前だぞ」なんて、話を逸らしてみるが、一向に慰めの言葉は絶えない。
 それでも零しそうな溜め息は、なんとか抑えた。

「まぁまぁ、元気を出してよ」

 あぁ、そうだな。……ん? こんな声音をした友達なんていたっけ? 思い返してみるが、思い当たる節はない。そもそも男子っぽくない。明らかにおかしい。
 あまりの違和感に後ろにいる高い声音の持ち主を見る。やはり、女子だった。しかも、天然で有名なあの子だ。

「うわっ」
「うわっ」
「うわっ」

 あまりにも自然と入り込んでいた彼女に気付き、認識すると、数秒遅れて、三人同時に驚いてしまう。

「おい、話聞いてたのか?」
「暁人君が凹んでるって聞いたから」

 流石は天然で有名な女子。あまり話さない男子のところに来て、いきなりファーストネームで呼んだ挙句、元気づけようとするとは。大分ダメージを食らった。勿論、いい意味で。

「割と元気そうでよかったよ。私はこれから用事あるから」
「お、おぅ」

 嵐のようにいきなり来て、いきなり過ぎ去っていく感じは嫌いじゃないが、突然すぎて頭の整理が追いついていない。

「なぁ、あの女子とどう言う関係だ?」
「知らねぇよ」
「でも、明らかに雪嶋君のこと……」
「は? んなわけないだろ。あいつ、いつも誰にでもあんな感じだし」

 彼女自身、クラスでは浮いてはいるが、さして悪目立ちなんかしたことはないし、悪い噂も聞かない。そのせいもあり、地味に好感度は高く、今年の修学旅行で行われた可愛い人ランキングでは、何人か彼女の名前を挙げていた程。
 美人、そう言われればそうなのだろう。少なくとも、悪くないと言うのが正直なところ。その辺は、個人間の好みになるのだろうが。

「あ、そうだ」
「な、なんだよ」

 ふと戻ってきた彼女にまた若干驚いてしまう。

 そして、「最後にとっても元気になるおまじないをかけてあげる」なんて、言いだすものだから、何かお祈り的な事でもしてくると思った。
 が、全くの見当外れだった。
 彼女はノーモーションで顔を近づけて、頬に自らの唇をつけてきたのだ。

「なっ」
「元気になったでしょ? 頑張ってね、暁人くん」

 正直、混乱している。何が起こった? 何で? どうして? ハテナばかりが頭の中をぐるぐると回っていく。
 やりやがったな、天然娘が。羞恥心のカケラもない精神年齢五歳の本気の天然は、俺にクリティカルヒットをもたらした。お陰で、もう思考回路は完全にショートしてしまう。
 ひたすらに思うところは、恥ずかしい。それだけだ。

「雪嶋、そういう仲なら早く言えよ」
「雪嶋君、流石にクラスでそれは……」

 ふと我に返り、教室中を見渡す。たまたま昼休みの割には人が少なかったが、いないというわけではなかった。
 そして、そこにいる人たちはこぞってこちらを向き、小声で何かを話している。はぁ、これは超スキャンダルものだ。それだけに噂が出回ってしまうのも時間の問題だろう。
 「じゃあね」と言いながら教室を出ていく彼女の背中を見て、つい溜め息を零してしまった。

「元気ってどころか、心配事が増えそうだ」

 とまぁ、出会いはこんな感じで、ある意味では最悪と言えるものだった。

 ✳︎

 期末試験も終わり、今年最後の模試も目前に迫る頃、告白も何もしていないと言うのに、周りは俺とあの天然娘をカップルだと囃し立てていた。

 本当に災難だ。

 最悪のタイミングで振られて間もなく、付き合ってもいないのにバカップル認定される、なんていうことがあれば、そう思うのも致し方ないだろう。
 不幸中の幸いと言えば、教師陣にはバレていないくらいか。まぁ、目を瞑ってくれているだけだろうが。
 結局、あれ以降、溜め息は止まると言うことを忘れたかのように吐き続けた。

「にしても寒ぃな」
「一応冬だし」

 一層寒さが厳しくなる中、雪が降らないだけマシだろう。とは言いつつ、この辺は二月にでもならない限り、降ることは滅多にない。

「今日は神崎来てないのか?」
「風邪だってよ。インフルじゃなきゃ良いけど」
「いやいや、インフルの方がいいだろ。アイツ推薦なんだから」
「まぁそうだけどさ」

 適当に会話を進める。今までなら、こっちが話しかけに行かなくとも、向こうから話しかけてくれていたが、今は違う。何となく、釈然としない不安のようなものがある気がして。

「んで、和泉はさ、彼女と上手くいってるの?」
「うーん、まぁ、いってるかな」
「なんだ、そのイマイチな反応は?」
「いや、勉強で忙しくてデートしてる暇もないんだよ」
「そうですか。ったく、彼女がいるだけでそっちはマシだっての」

 心の奥の黒い物体は何故か嫌味ばかりが出てきてしまう。ただ、それが何か分かっているだけあり、本当に情けない。

「っと、そうだ。雪嶋、悪ぃ。今日は図書室行かなきゃいけねぇんだ」
「なんかあんのか?」
「勉強」
「精が出るね。昼休みくらい息抜きすればいいのに」
「してる時間がねぇから行くんだよ」

 国立志望は五科七科目とかあった気がする。そりゃ、忙しいことで。

「ちなみに誰と?」
「あ? 別にいいだろ」
「え? 何? 彼女?」
「だから、別にいいだろっての」

 そう言い、去っていく和泉を見ているだけでも、嫌になってきそうだ。
 また、溜め息をついてしまった。
 それにしても、あいつが行ってしまった以上、俺はすることも無くなってしまう。ただ、だからと言って勉強する気にもなれない。

「暇なの?」

 寝ようとうつ伏せになった瞬間、後ろから掛かった声に驚いて、起き上がる。

「な、なんだよ」
「いや、さっき和泉くんが走って何処かに行くのが見えたから」
「俺は寝たいの。じゃーな」
「えー」

 分かりやすく避ければ何かを察してくれるかと思ったが、勿論、彼女にそんな常識は通用しない。
 彼女は前に回り、椅子に座るとこっちをひたすら見てきた。
 ここで反応したら意味がない、と更に手を引き、伏せる。と、不意に見えた彼女の足は小刻みに震えていた。何でこんな寒い中、素足なんだよ。しかも、よく見てみれば鳥肌まで立っている。
 はぁ。
 ポケットからカイロを取り出すと、彼女へと投げ渡した。

「寒いんだろ? これでも使っとけ」

 こんな中途半端な優しさはいけないと分かってはいるが、だからといって見過ごせないという矛盾。困ったものだ。

「え? あ、うん。ありがとう」

 それを受け取った彼女は、何故かすぐさま飛び出して行ってしまった。何が何だか。天然娘とやらは本当によく分からない。
 ただ、次の瞬間、自分がした行動を恥じてしまった。

「そう言えばさ、カイロ渡すって、好意があるっていう証拠なんだって」
「マジ? そんなの別に普通でしょ?」

 廊下から聞こえてきた会話を聞くや否や顔をつい赤く染めてしまった。この通り、自分でも分かるほど。
 今度こそ、顔を埋めかせ、高まる鼓動を必死に宥めた。

✳︎

 そして、クリスマス・イブの日、言わば終業式の日には、天然娘と友達として話をしていた。あのカイロの一件以降、彼女の方から執拗に訪ねて来ては、よく喋っていた。天然と言うだけあり、俺たちの常識が通じないのもまた面白さの一つでもある。
 勿論、周りからとやかく言われるのは好きではないが、いつの間にか、その熱りも冷めてしまったようで、酷くからかわれることも無くなった。

「それでだ、雪嶋。実際のところ、どうなんだ?」
「どうなんだ、とは?」
「あの天然っ娘の事、好きなのかどうか」
「別に好きってわけじゃないな」

 いきなり和泉から呼び出され、男子トイレの端で何故か対面している。
 ただ、強張らせた顔でどうなのかと聞かれても、それこそただの友達に近いとしか思っていない。それこそ、特別な関係でも何でもなかった。
 勿論、一般的に特別な関係の方が、良いことも多いのだろう。しかし、僕としてはこのままで良かった。このままが良かった。

 そして、……その日に避けたいことは起こってしまった。
 終業式も終わり、帰路につこうとした時、和泉が突然駆け寄ってくる。しかも、急いでいたらしい。

「おーい、雪嶋。お前宛だ。……まぁ、多分俺と同じタイプだろうけど。てか、今時これ、流行ってんのか?」

 確かに、今時はSNSを使って告白すらもある時代に手紙とは。書く手間も凄いだろうに。
 まぁ、送り主の名前を見ても、見当はついていたからか、さほど驚かずに済んだ。しかし、内容は予想とは少し違かった。

「えっと、『明日、一緒に出かけない?』だって。ってこの場所、あのクリスマスツリーの近くのショッピングモールじゃんか」
「へぇ。ってか、告白じゃないのかよ」
「まぁ、メッセージでも送ってくれれば……って、ID交換してねぇわ」

 スマホのアプリを開いて、ふと思い出した。
 ––––解せない。
 指定された場所は、俺が知っている場所。どころか、行きたかった場所だった。しかし、今となっては気が重くなってしまうような場所でもある。
 ただ、イベントの事は一切たりともあの天然娘に話した思い出がない。なら、何でだ。思考を巡らし、記憶を読み返してみる。が、考えるだけ無駄だろう。
 そのショッピングモールはこの辺じゃあ名の知れたデートスポットでもあるし、例のイベントは間近で見られる権利というだけで、見れなくはない。
 ––––偶々。
 収まるところはそうなった。

✳︎

 十二月二十五日。クリスマスで街は鮮やかに染まっていた。
 どこを見渡しても、サンタの衣装を着た店員や飾られたミニツリー、明るく彩られたイルミネーションばかりが目に入る。

 そして、まだ朝だというのに、人々はもう営みを始めている。
 にしても、こんな日にわざわざ仕事をするとは。儲け時なのだろうが、あまりハキハキしていないように思えた。

「来てくれたんだ、暁人くん」

 今までに聞いたことないような明るい声で俺を呼ぶ声が背後から聞こえた。
 ようやく来たか。時間を見てみると五分遅れ。
 溜め息をつきながら振り返ると、パッと映った視界の中で、あの天然娘が何処にいるのか分からなかった。

「ねぇ、どしたの?」

 そう言いながら、彼女の方から相当接近したところで、ようやく目の前にいる少女があの天然娘だということが分かった。途端、衝撃が全身に走る。
 大きめのコートに身を包ませ、冬にしては短めなスカートを履いており、主張が強すぎないマフラーをして、赤いリボンで髪を結んでいる。
 いつも合う姿がどれだけ校則に縛られ、きっちりとした服装をさせられているかよく分かる。まぁ、取り敢えず、彼女はとても可愛かった。
 それしか言いようがない。

「ごめんね。連絡先交換してなかったから、あんな形になっちゃって」
「まぁいいよ」
「本当は友達とが良かったんだけど、彼氏とデートっていうからさ。それに、来ようと思っても一人だと怖いし」
「それで俺を呼んだのか?」
「えっと、ダメだった?」
「え、いや、別に」

 そんな顔されて、その言葉は反則だろ。嫌味の一つも言えない。

「んで、どっか行きたい場所でもあるの?」
「色々」
「そうですか。んじゃ、付いて行きますよ」
「じゃあお願いしまーす」

 そうして、行き当たりばったりで、買い物を楽しみ、沢山の店を回った後、昼食を食べ、ゲームセンターで時間を潰した。
 その時の彼女の笑顔にはとても惹かれてしまった。
 自然と笑い合える関係、目的がなくとも会話がある関係、それで本当に良かった。

 なのに、俺自身は感じていた。
 ––––––––こんな時間が続いて欲しい。
 ––––––––もっと彼女と一緒にいたい。

 そんな気持ちが心のどこかにある事を。しかし、それは過ぎた願いである事もよく分かっていた。あるべき別れがもうとても近くなっていることですら。


 時間は容赦なく俺たちの都合を無視し、流れていく。そして、俺らもまた時間に流されて行った。
 いつの間にか十八時を回っており、後一時間もすればクリスマスツリーのライトアップイベントが始まる。
 行く予定すらなくなっていたはずのチケットを持っていたのは、多分、俺が何処かで想うところがあるからだろう。

「ねぇねぇ、そう言えばさ、この近くでクリスマスツリーのイベントがあるんだって」
「行きたいのか?」
「まぁね。それを見るために来たようなものだし」

 それでも、なんとなく良い気がした。何も良くないのに、それで、それが良いように思えた。

「あ、アレって。おーい」

 途端、彼女が大きく手を振った先を見た瞬間、見てはいけないと言うよりは、見たくないものを見てしまったのだ。
 視線の先で手を振る女性、見覚えしかない。

「ねぇねぇ、行こうよ」
「しょうがないなー」

 その瞬間に、全ての時間と音が止まり、色褪せた。
 そこにあったのは、嫉妬だろうか。それとも、悲しみか。トラウマか。怒りか。言葉に出来ないような渦巻く気持ちに立ち尽くす。

「暁人くん?……どうしたの?」
「……悪ぃ、何でもない。先に行ってくれ。すぐに追いつく」

 その言葉に彼女は文句や止める言葉一つなく、「分かった。先に行ってるね」と微笑んで、ツリーの方へ向かって行く。
 その姿を見送った後、俺はすぐにその場から離れ、思うがままに走った。とにかく走っていった。

 何もかもから逃げたかった。
 現実を認識したくなかった。
 ただ、変わっていくことだけが怖かった。
 それだけ、いや、それしか出来なかった。

 彼女と一緒にいた理由、単に一人になるのが嫌だったから。つまり、逃げるためだけに一緒にいた。
 そうだ、それだ。彼女といて、何も良くなかった理由。
 何もかもを忘れるために、俺は彼女を利用した。
 悪意のままに、寂しさを埋めるために。

 あぁ、ホント、何してんだか。

 息も切れ、見もしない場所で崩れ落ちる。夜風が虚しさに燃えた体を心地よく冷やす。水の流れていく音は負の感情に渦巻く心をそっと洗い流していく。
 ひたすらの疲労感に近くのベンチに寝そべった。

 多分、濡れていたのだろう。変に服が張り付く感じ。気持ちが悪い。でも、それすら別にどうでも良かった。
 目を瞑り、そっと胸に手を置く。

『私がいるよ。一人なんかじゃない』

 脳内で流れた音声に驚いた。空耳だろうか? 慌てて周りを見てみるが、人影は一切ない。
 何で?

『待ってるよ』

 再び脳裏によぎる言葉は、何かを必死で俺に訴えかけているようだ。そう思った途端、時計を見る。

 ––––––––二十時半。
 あれから気づけば二時間以上も経っており、もうイベントも終わっているはずだ。でも、まだ彼女はそこにいる気がした。



「はぁ、はぁ……もういない、か……」

 急いで戻ってきたが、もう二十一時半を回っており、彼女と離れてから三時間半は経っている。
 必死に駆け回って彼女を探す。がしかし、大人達はまだ沢山いた。更にツリー付近では、ライトアップを写真に収めようと混雑しており、見渡しが良くない。
 でも、ここまでひたすら周ってみても彼女の姿が見当たらないということは、多分帰ったのだろう。
 そんな推測に、安堵のような不安のような良く分からない感情が立ち込める。

 刹那、ツリーの下で彼女が待っているような気がした。呼んでいる、のか? 人波をかき分け、思い思いにツリーの下へ行くと……。


「遅いよ暁人くん」


 そこには、彼女––三井 朱音がいた。

「全く……イベント終わっちゃったじゃん。せっかくこれ渡そうと思ったのに」
「え……それって……」

 ふと差し出された人形のキーホルダーに驚く。

「ほら、お揃い」
「あ、うん」

 息を整えながら、頭の整理をする。

「ねぇ、一つだけ。いい?」

 唐突に放たれた言葉にいきなり緊張し始める。

「暁人くん。君が好きです」
「えっ?」
「だから、付き合ってください」

 いきなりの告白に驚くが、何よりも、この大衆の前で、クリスマスツリーの下で言われたことに驚く。
 と、静けさは波紋のように広がり、周囲の人々はこちらを一斉に向いた。まるで、俺の答えを待っているかのように。

 ……計ったな、天然娘。

「こちらこそ」

 答えを口にした瞬間、一斉にざわつき始める。
 「青春ね」「若いもんはいいな」なんて所々から聞こえてきた。
 ふと、彼女は油断を狙い、いきなり抱きついてくる。

 そして、大勢のざわめきに消えた「ありがとう」の声を聞き漏らすことはなかった。



 帰りしな、時間も時間だけあり、家まで送ることになった。
 満員電車に揺られ、しばらくすると、目的の駅に着く。ふと時間を見てみれば、もう補導時間間際だった。彼女の手を引き、駆け足で改札を出て、交番前を出来る限りの速さで駆け抜けると、人通りが少ない住宅街へと入っていった。
 そこからは息を整え、足並みを揃えながら歩いていく。

「でも、よくOKしてくれたね」
「それは、その……」
「あそこでして良かったな」

 ふと、その言葉が引っかかる。

「ん? ……まさか」
「何? まさかって」
「それじゃあ、あの時のキスは……」
「あれは、落ち込んでいる暁人くんを励ましてあげたかったんだよ。ただ、それだけ。でも、その後話しててさ、いつの間にか好きになっちゃったみたいでね。だから、途中から計算してたんだ。この日のために」
「なっ……」
「でも、やっぱり大勢の前での告白って、恥ずかしかった」

 はぁ、なるほど。最初っから、彼女の術中にハマっていたわけか。最後の大勢の前での告白も、そう考えれば納得がいく。
 ということが分かった途端、あの時に逃げ出してしまったことはさらに罪悪感が増してくる。

「ご、ごめん……」
「まぁ、仕方ないよね、あんなもの見ちゃったんだから」
「知ってたのか?」
「そりゃ、そうだよ。それに、私だって同じだと思う。でも、遅くはなったけど来てくれたのは嬉しかった。それでね……」

 ––––––––ずっと前から好きでした。

「……俺も、同じ。後さ、待たせちゃって悪かった」
「もうホントだよ? でも、それも計算のうちだったかな」
「朱音は天然なのかずる賢いのか分かんないな、本当に」

 そして、俺達の恋はそのクリスマスツリーの下で実った。



 かつて、そのツリーの下で恋を実らせた一つのカップルは赤い糸で結ばれたそうだ。それ故に、飾られているのは赤いリボンが中心となっている。それ以来、そのツリーは、赤い運命の木と呼ばれるようになった。

春の花が僕らを攫っていく

 時間は風の如く通り過ぎていく。誰も望んではいないのに、勝手に進んで行ってしまう。それは、絶対不変の真理で、理不尽な事実。誰にも、どうしようもないものだった。



 寒さもようやく落ち着き、日も長くなり始めたこの時期は、ほんの少しだけ憂鬱になっていく。
 そう、もう別れのシーズンへ入ってしまい、あと一週間も経たないうちに僕たちは卒業してしまうのだ。あと一週間と経たないうちに、僕らの青春は一度区切りを迎えることになる。
 あっという間の三年間。この学び舎で過ごしている時は、とても一日一日が遅くて焦れったいのに、こうして卒業を前にし、振り返ってみると一瞬だった。

「はぁ~。落ちちまった……」

 なのに、見事な不幸に見舞われてしまったのだ。

「ったく、そんなに落ち込むなって。滑り止めはしっかり受かったんだろ?」
「いや、まぁ、そうだけど」
「あのなぁ、この社会の中で第一志望に行けてる奴が何人いると思ってんだよ」
「そうだけどさぁ。だって、安全圏だったんだぜ? それで落ちるって辛すぎるっつーの」

 教室。その隅に置かれた席にだらんとしながら、前の席の雪嶋と駄弁っていた。

「お前は受かったからいいじゃん」
「運が良かっただけだよ」
「運、ねぇ」

 正直なところ、合格発表の日以来、親、友達、先生に片っ端から励まされている。だが、どんなに励まされても、心の中ではずっと引きずっていたのだ。
 合格発表の日、その日のことがまだ鮮明に頭に残ってしまっている。
 届いた封筒を緊張しながら開け、そっと取り出し、折りたたまれた紙を開くと、大きく『不合格』の字が真っ先に飛び込んできたのだ。
 模試では安全圏入りしていたし、センターの自己採点でも問題はなかった。倍率もさして高いわけでもない。それなのに、ものの見事に不合格。
 正直、受かる自信があっただけ、不合格の事実は重かった。

「はぁ。どうしよっかな」
「つか、滑り止めってどこよ?」
「あそこ」
「はぁ? あそこ? ……って、おいおい。志望校より上が滑り止めでどうする」
「え? 何が?」
「お前、滑り止めの意味分かってる?」
「志望校行けなかった時に行くための奴でしょ?」

 溜息を吐く雪嶋を見て、疑問が飛び出していく。別に何も間違ったことは言っていないはずだが。

「それ、絶対に先生の前で言うなよ。後、志望校と滑り止めの大学の名前もだ」
「なんで?」
「いいから。ったく、このアホ天才が」

 またそのあだ名。
 誰が言い出したかなんて知らないが、いつの間にか広まっていて、定着していた。理由はアホっぽいのに勉強は出来るからだそうだ。別にそんな認識は一切無いし、どころか志望校に落ちているという事もあるからか、今は余計にうざったく感じてしまっている。
 出来れば、止めて欲しいものなのだが。

「てか、なんで今日は午後まであるのさ」
「知らねぇよ。卒業式が近いからじゃねぇの?」
「別に予行の時に全部やればいいじゃん」
「だから、知るかっての。って、そうだ。朱音のとこ行かなきゃ」
「彼女、だっけ?」
「そうだよ。それがどした?」
「いいなぁって」
「お前だって彼女がいるじゃんかよ。そいつに構ってもらえ。じゃな」

 急ぎ目に立ち去って行く雪嶋の背中を見て、また溜め息が溢れてしまった。

 確かに、彼女はいる。いるのだが、秋頃から互いに忙しくなり、学校でたまに顔を合わせて、話すぐらいしかしていなかった。

 色々とあり、もうぐったりする。
 机の上に伏せ込み、ゆっくりと瞼を閉じた。

「はぁ」

 一つため息を吐く。そうして、大きく息を吸い込んだ。

「ほーら、めそめそするんじゃないよ。あんたも男でしょ?」

 途端、背後から声が聞こえた。その数秒後、全身に走るような痛みと、とてつもなく華麗で、程いい音が教室全体へと響き渡る。

「痛っ。……おい、誰だよ」
「あたしだよ。全く……これだから男子は」

 そのやりとりに一喜一憂していた教室に大きな笑いが起こる。
 そして、俺を叩いた張本人であるその女子までも笑みを浮かべて、僕の後ろで仁王立ちをしていた。

「これで元気になったでしょ?」
「なるか、アホ」
「何でアホなのよ」

 さらに一発。

「痛って~、何すんだよ」
「アホって言うからよ。アホ」
「アホにアホって言われたくないね」

 なんてやりとりを交わす。
 この暴力女。いつまで経っても変わりようがないな。

 去年、簑沢 雪と付き合い始めた頃、その友達であるこの暴力女とも知り合った。最初こそ、互いに遠慮しがちだったのだが、同じクラスでもあった暴力女とはすぐに意気投合。それこそ仲良くなったどころか、雪へのサプライズを一緒に計画するなんて事もした程だ。勿論、幾度か衝突もあったが、その度に雪は仲直りをするよう促し、この三人の関係はとても上手くいっていた。
 だが、受験本番に突入した頃、雪と会う機会が減っていた。ただ、同じクラスである暴力女との会う頻度は勿論減らず、いつの間にかこっちと話す事も多くなっていたのだ。
 だからだろうか、雪はさらに僕と距離を取るようになっていたのだ。
 でも––––。

「あ、そうそう。雪から『今日も二人で帰らないか』ってさ」
「あいはい」

 受験が落ち着いて以来、雪は打って変わって、僕との二人を好むようになっていた。

「っと、そろそろ移動しなきゃ」
「マジ? そんな時間?」
「じゃ、先行くね」

 そして、この暴力女も少し変わり、前ほどの干渉は見られなくなってきた。

✳︎

 長く、眠たかった卒業式の練習もようやく終わったのだが、更に一時間教室に拘束され、眠くなるような話も終わると、ついに放課後になった。
 机の上に散らばった筆記用具をしまい、引き出しからファイルを取り出すと、全てバックの中に詰め、帰りの支度を済ます。

「ねぇ、宮河君。ちょっといい?」

 ふと聞こえたその言葉を聞き、手を止め、声のする方を向いた。

「なんだ、お前か。何か用でもあんのか?」
「当たり前でしょ?」

 いつもは着崩した制服をしっかりと着て、改まった表情をしている。あまりの豹変ぶりに少し驚きながらも、一人の女子としてではなく、ただの暴力女として捉えた。

「なら早く済ませてよな? 雪が待ってんだから」
「ハイハイ。……これ、いる?」

 その女子は、何故か俺に御守を渡してきた。書かれているのは有名な縁結びの神社の名前だ。理由こそ知らないが、別に受け取らない理由もない。

「ん……貰っとく」

 そう言い、貰った御守をかばんに入れようとした時、ふと耳を塞ぐ感覚がした。

「おい、何すんだよ」

 すると、柔らかで切ない声が右耳を擽る。

「ちょっとそのままでいて欲しいんだよ。……独り言を言いたくてさ。別にいいでしょ? 少しくらい聞いてくれたって」

 すると、右も塞ぎ、彼女は体を密着させる。
 苦しいほどに哀しさに見舞われた声音、涙が溢れそうな目、色褪せた体温、心を覆う靄、彼女のその全てが服越しでもよく分かる。

「おい、これじゃあ何も聞こえねぇじゃんか」
「いいの」
「え? 分かったんなら早く外してくれよ」

 振り返ろうとしても、振り返れない。ただ、彼女は何かを打ち明けていることだけがよくわかった。

『あたしさ、ずっと我慢してきたんだよね。

 まぁ、羨ましかったんだよ、あんたの隣にいる人が。

 でも、そこは親友の雪がいてさ。応援するのが精一杯だったな。

 なのに、あの子は良かれと思ってあたしまで誘うって、本当に意地悪だと思った。

 たまに考えたりもしちゃうんだ。「もし、そこにいるのがあたしだったらな」って。

 でもね、それを考える度に胸が苦しくなって……。分かってるハズなのに。

 最後に一つだけ言わせてよ。
 あんたがずっと好きだったんだよ』

 何も聞こえない状態であったが、何故か落ち着いてしまう。

「ありがと、宮河君」

 急に手を離されると、まずは後ろ向いた。

「ったく、なんだよ。何か……って、どうした? 何で泣いてるんだ?」
「心配ないよ。ほら、雪が待ってるんでしょ? 行きなよ。残り少ないんだから、下校の時でも楽しまなきゃ損でしょ?」
「お、おう」
「ほら、シャキッとする」

 バシッといい音が響いた。やっぱり痛い。

 でも、察した。さっき、言っていた独り言、何も聞こえなかったし言っていたことまでは察せない。だが、何かを伝えようとしてくれたことは分かった。

「……了解。楽しんでくるわ」
「そうしな。ほら、早く行きなさいって」
「言われなくても、分かってるよ」

 かばんを持ち、教室から出る。十分と経っていにのに、数時間経っていた気分だったのだ。急ぎ足で扉を潜り、曲がっていった。
 その際にあることを思い出し、かばんを開ける。すると、今一度教室に戻る。

「そういや、ホイ。これ、僕のなんだけど、効果なかったからやるよ」
「別にいいよ、いらない。……って、ちょっと」

 もう、面倒くさくて思いっきり投げつける。それをキャッチしたことを見届けると、一言。

「さっき、何言ってたかは分からんが……なんかあるんなら言ってくれ」
「全く、他の女子と仲よさそうに話してたら浮気と思われるわよ。雪、何かと嫉妬深いんだから」
「ん……、じゃあな」
「分かったよ。…………バカ」

 最後の「バカ」って言葉にどんな意味が込められていたのかは分かり得ない事だ。だが、何故か切ない感じがしてたまらなかった。

「ったく。美優の奴、気狂わせんな、っつーの」

 だが、自然と軽い笑みと、その言葉が出てきた。
 思い返せば、小学校の時から一緒だったらしい。それこそ同じクラスでもなかったし、部活、委員会と会うことは一切なかった。だからこそ、面を合わせ、話したのは高校が初めてである。
 なのに彼女の口ぶりは、初めて会ったにしては違和感があった。まるで、僕を知っていたかのように。

 ✳︎

 校門で雪と会うと、一緒に帰り始める。
 二人だけ。それは意外にも新鮮で、もの悲しかった。

「なぁ、どこか寄る?」
「うん」

 その程度しか話すことはない。

「……なぁ、どうして二人なんだ?」
「…………」
「なんか、あったのか?」
「まぁ、ね。……美優と絶交したんだ」

 その表情からは後悔と、憎悪しか読み取れない。でも、雪は思いっきり絞り出した声で話し出した。

「千歳 美優がね、この前、私に『あんたの彼氏、貰うから』って言ってきたの」
「え?」
「私にも何でか分からないんだけど、突然、真剣な顔で言ってきたんだ。『本気だ』って。……いつも一緒にいたから、嘘じゃないって分かったの。だから、ね」

 瞬間、全てが繋がる。

 今日の美優の行動、最近の雪の行動。その全てを合わせた時、初めて美優がしたかったことが分かった。分かってしまった。
 本当は多分、気づいてはいけなかったのだろう。それが美優のためだったはずだ。そう思う。
 そして、これから僕が言う事も、本当は彼女のためにならないのは知っている。
 でも、絶対に、ここで切り捨ててはいけない。

「……なぁ、仲直りって、出来ないのか?」
「仲直り、して、欲しいの?」

 雪の表情はとても曇っている。でも、それは僕に対しての恐れではない。きっと、何も出来なかった自分に対してなのだろう。

「また三人で、って思ったんだよ。その時の雪の方がいいや」
「え?」

 あの三人でいた時の雪の自然な笑みはとても可愛かった。

「誰かを弾くなんて筋違いじゃないかな」
「でも……だって」
「まぁね。でも、それって、雪のためじゃない?」
「私の?」
「僕もよく分かんないんだけど、雪を後押ししたかったんじゃない? 受験終わっても中々会ってくれなかったし」
「……ごめん」
「あ、えっと、そう言う事じゃないんだけど。……ただ、そう言う事だと思う」
「美優が……」

 本当に、らしくないことをしてくれる。

 でも、それは、僕が望む形じゃない。

 いくつもの想いだってあって当然だ。友達が大切なのは良く分かる。でも、だからと言って、自分の気持ちを捨てていいことにはならない。そんなルールなんてあってたまるか。
 あいつに、美優に思うところがいくつもあるのは知ってる。
 それでも。

 詰まりそうな想いを燃料に、走っていく。
 まだ美優は教室にいるはずだ。まだ、まだ、まだ、居てくれ。
 切れた息、縺れそうな足、重くのしかかかる荷物、忘れかけていた大切なこと。その全てを握りしめ、なんとか学校に着く。
 教室に走り込み、扉を開けると、まだそこに彼女はいた。

「おい、美優」
「えっ、なんで? 漣、が」

 涙の跡がくっきり浮かんでいる。

「ほら、一緒に帰るぞ」

 少しばかり力尽くで手を取り、引っ張っていく。

「ちょ、ちょっと」
「美優。いいか? お前がどうするのも、お前の勝手だと思う。だけど、誰かのために自分が憎まれ役になる必要はないんだよ」
「はぁ? だから、何言って……」
「ほら、分かったら行くぞ。雪が待ってる」

 途端、顔色が変わる。

「…………バカ」

 そして、少しずつ顔はぐちゃぐちゃになり始めた。

「ったく、泣くな。ほら」
「ありがとう」

 そして、また三人並ぶ日がやってきた。
 ピンク色の風が僕らを攫う頃、流れた涙は落ちる度に淡く輝き、その分だけ距離は縮まった。

終わる一年、巡る四季

 梅が鮮やかに咲き乱れる頃、快晴の中で卒業式は行われた。

 中には卒業証書を渡された途端に、泣いた奴もいる。そして、高校生活最後のHRでは先生までもが泣き、生徒の多数は半泣きしていた。

「それじゃあ、また機会があれば会いましょうね。号令」
「起立」
「気を付け」
「礼」
「さようなら」

 最後のチャイムを背に、昇降口前で解散していく。

 その後、サインを求める後輩や、写真を撮る生徒もいた。友達と一緒に帰る生徒もいれば、別れを告げあう生徒もいた。

「じゃあね」

 その一言が、体の奥まで寂寥を感じさせるが、これもまた新しい出会いへ、自分の道へ進むためなのだ。



 そして、様々な思いが交差したその校舎では、また新しい話が始まろうとしている。

「あの……好きです。付き合って下さい」

桜舞う小道、香る一年

 新年度の始まりを告げる桜並木は世界で一番美しい雨を降らせていた。
 その下を傘もささずに歩く人々はきっと、期待に胸を踊らせ、希望に心を踊らせていることだろう。

 しかし、きっと誰も知らない。
 桜の木の象徴するものを。
 桜の花の持つものを。

 だが、人間も対してこの桜とは何も変わらないのだ。
 それは誰よりも自分がよく知っているはず。この門を潜る誰しもが知っているはずなのだ。
 散る花々が問いかけてくる。

 一体、どのくらいで行けば、君に追いつけるのだろう。

 どのくらいで進めば、君を追い越さないのだろう。

 どのくらいで走れば、君に先にたどり着けるだろう。

 どのくらいで歩めば、落ちていかないのだろう。

 一つ一つの想いが交差をする学校では、全てが全てうまく行くわけではない。
 美しく見える花があると言うことは、既に散り行く運命にもあると言うこと。
 なら、どうすればいいのか。
 答えはきっと単純で、分かりやすい。でも、難しい。
 そうとは分かっていても、終わりきらない運命。

 結ばれない想いを背負い、始業式の鐘をここにいる全員が噛み締めていた。

雨の行進曲は哀しみに浸る

 傘に降りつける雨粒の音はとても心地のいいものとは言い難いが、なんだか不思議と落ち着く。それは例えるなら、不協和音に沈んだ協奏曲。互いが同じリズムを奏でているのに揃わない矛盾。しかし、それは一層深い味を持つ。まぁ、分かる人しか分からないが。
 大きく息をしながら歩いて行った先、そこにある少し古びた喫茶店が僕のバイト先だ。
 アンティークなドアを開けると、コーヒーの香りがツンと鼻を刺す。

「いらっしゃい」

 真っ先に奥から飛んできた声は、もう聴き慣れてしまっていた。

「ども」
「って、西川君か」
「いつもの席に座っときますね」
「はいはい。あとで行くね」

 そのまま入って一番奥の列、右端、窓際。そこが僕の特等席でもある。何故かここだけ誰も座らないのかは、きっとお客さんが彼女達目当てだからだろう。
 そして、その彼女達の片割れがやって来た。

「……ご注文は?」

 汚物を見るような目、緩むことを知らない口元、なのに整った顔。ただし、無愛想。それが、彼女––杉山妹だ。
 彼女はバイト仲間の一人。聞くところによれば、同い年で同じ学校なのだと言うが、一度も彼女を見たことはない。と言うか、クラスを教えて貰ったこともない。いや、それどころか、ここで働き始めて今まで、名前すら教えて貰っていない。
 結果、苗字に妹と付けて呼ぶしかないのだ。

「じゃあ、いつもので」
「……いつもの、とは?」

 って、そうか。いつもは姉の方が注文に来てくれるんだった。ふと、杉山妹の奥にもう一人、女性のシルエットが見える。

「はい、セットAとオリジナルブレンドのブラックですね」

 なるほど、今日は姉も対応に回っていたのか。
 杉山 薫。いつも笑顔の絶えない人で、まぁ、なんというか女性的な包容力を持つ美人さんだ。杉山妹とは真反対なわけである。因みに、現在は大学三年生。
 そして、薫さんはここのオーナーでもある。つまり、僕の雇い主というわけだ。

「で? 結局、注文は?」

 視界に入ってきた杉山妹の顔を見て、ふと我に帰る。

「あー、えっと、薫さんにそう伝えてくれたら大丈夫だよ」
「……分かりました」

 杉山妹が厨房へ行き、オーダーを渡して、他に回るのを見届けると、一度グルっと店を見渡した。
 それにしても、お客さんが割といるなぁ。この時間帯はどこの飲食店も客足が減るのだが、ここはさして大きな客足の減りは見られない。となると、朝やお昼、それから休日なんかは言わずもがな、と言うわけである。

 取り敢えず、バックからノートとペン、それからタブレット端末とイヤホンを取り出した。
 タブレット端末の電源を入れ、イヤホンを着用すると、アプリを立ち上げる。ノートを開き、シャーペンをノックした。
 大体の準備が整うと、ペンを一度回す。それが僕のスイッチの方法でもある。短く大きな息を吐くと、タイマーのスタートボタンを押し、作業を始めた。
 ペンを走らせ、時々タブレット端末に指をかける。そんな作業の繰り返しだ。

 一分……二分……五分……十分……。

 ようやく十五分経ったところで、いきなり足元に衝撃が走った。
 あまりの痛さに手を止め、イヤホンを外し、痛みの方を向く。すると、お盆を持った杉山妹が立っていた。

「おい、蹴ってまで何の用だよ」

 軽く睨みつけてみるが、全く微動だにもしない。

「……コーヒー」

 ようやく口が動いたと思えば、コーヒーカップを机に置いた。

「あ、はい。ありがとう」

 と、ふと目線を足元に向けてみると、明らかに足が出ていた。やっぱり蹴ったな、こいつ。しかも、客に向かってだぞ。

「では」
「おい待て。なんで蹴った?」
「……気付かなかったから」
「気付かなかったからって蹴っていいのかよ」
「……いい」
「いや、良くねぇよ」

 悪びれる様子もなしかよ。

「ったく、そのまんま置いていけばいいのに」
「……じゃ」

 しかも、謝罪もなしかよ。
 厨房へと戻っていく杉山妹の背中を見て溜め息を吐くと、残る痛みに耐えながら、作業を再開した。



 気付くと、タイマーが鳴り響き、二時間も経っていたことを示す。

「さてと」

 ペンを置き、イヤホンを外して、軽く伸びる。たった二時間でも同じ体勢では体が凝り固まってしまう。

「……もう仕事の時間?」
「うわっ」

 いつの間にか隣に誰かいることに驚き、ハッと横を見るが、そこには私服の杉山妹が座っていた。

「え? あれ? もう上がり?」
「……いや、姉ちゃんが休憩入っていいって」
「はぁ? 休憩でフロアに来る奴があるか」
「……別にお客さん少ないし」
「そういう問題じゃねぇよ」

 なんて言うものの、出勤前にこの店に客として来ている僕が言えた義理ではないのだが。

 取り敢えず、荷物を片付け始めていく。
 ダブレット端末の電源を切り、イヤホンをケースに入れ、散らかしたものの数々を次々とカバンの中に放り込んでいった。あとはノートだけ。と、手が滑り、落としてしまう。

「……何? これ」
「あ、おい。取ってくれたのはありがたいんだが、早く返してくれんか?」

 そう言ったにも関わらず、杉山妹は勝手にノートを開き、平然と中身を見回していく。恥ずかしくて止めて欲しいが、止めようとするもんなら、一蹴されて終わる。物理的な意味で。
 諦めて、少し待つことにしたが、数十秒後には何か話しかけたそうな目でこちらを見ていた。

「なんだよ」
「……ねぇ、これ、ピアノの楽譜?」
「ん、あぁ、そうだけど」
「……手作り?」
「そうだよ。何か問題でも?」
「……写真撮っていい?」
「はぁ? なんで? ピアノ、弾けないんでしょ?」
「……今は弾けないけど、パソコンに打ち込めば聞ける」
「えぇ。それ、商品になるかもしれないのに」
「……ダメ?」

 うわっ、いきなりの上目遣い。次女っぽいおねだりの仕方だ。なんて、本当は拒否したいのだが、それを出来ないのが男の性というものだろう。

 「他の人に言わないんだったら」と念を押したところで、杉山妹とノートを置いていくと一度外に出る。
 右側へと進み、一本先の角を曲がって、裏路地にある職員用のドアから入り、すぐ右手のロッカールームへ入る。そこにある自分の名前が書かれたところを開け、中に入っている制服を取り出すと、バックを無理にでもぶち込んだ。
 その手で、ものの数秒で制服に着替えると、時計の秒針を確認して、ぴったり時間通りにタイムカードを押した。
 これで準備完了。
 厨房にいる先輩に挨拶をすると、そのままフロアにいる薫さんのものへと向かう。

「時間ぴったりだね」
「はい、薫さん」

 やはり、声音もいい。これだけ美人さんがオーナーだなんて、そりゃ客足が止まらないし、常連も逃げていかないわけだ。
 それに対して……こちらをひっそりと壁の陰から見つめる杉山妹を見る。全く、あっちはまるで猫みたいだ。

「今日って何時までだっけ」
「あー、閉店までですね」
「そっか。厨房にいる赤塚さんはもうちょいで上がりだから、今日は二人だね」
 二人。なんていい響きなんだろう。

 途端、ゾワッと背筋が凍るような悪寒がした。さりげなく振り返ると、杉山妹はしっかりと嫌な目をしながらこちらを見てくる。
 いや、本当に何考えてるか分からない。

「じゃ、取り敢えず、片付けと皿の方は任せていいかな?」
「はい」

 そして、指示されるがままに働くこと五時間、今日の仕事は最後の客が扉を出たと同時に終わった。
 ほんの少し、フロアの清掃を手伝い、時間ぴったりにタイムカードを押してから、ロッカールームで着替えを済ませ、帰りの支度を始める。

「ふー、疲れた」
「そうかい。お疲れ様」

 あの好きな声音が背後から聞こえた瞬間、驚きに飛び跳ねそうだった。

「あ、お疲れ様です」

 無理に出した声は、自分でも分かるほど変になってしまう。
 そもそも、この時間帯に薫さんがロッカールームに来るなんて珍しい。普段は売り上げ計算やら仕込みやらをしている筈なのに。
 いや、それにしても、本当にびっくりした。

「んで、お疲れのところ申し訳ないんだけどさ、ちょっとご飯食べに行かない?」
「ご飯、ですか?」
「そう。ちょっと行きたい場所があって」

 ご飯か。親に許可さえ取れば……。って、ちょっと待った。薫さんとご飯? それってもしや……。
 いきなり膨らむ妄想に、鼓動は無駄な高まりを見せた。

「何か用事とかある?」
「ない、ですけど」
「そう。良かった」

 すると、手招きされ、慌てて荷物を持ち、付いていく。
 厨房の脇にあるドアを潜り抜け、階段を登り入っていったのは、杉山家宅だった。そして、さらに進み、右奥の部屋に入っていく。
 真っ暗闇を白い電球が照らした瞬間、驚きと感動が全身へと広がっていった。

「ここって……」
「びっくりした? 衣装部屋だよ」
「衣装部屋?」

 並べられた煌びやかなドレスやシワのないタキシードのような服。色や形こそ様々だが、どれも共通して言えることはただ一つ。

「これって……」
「そう、ピアノの演奏用だよ」
「やっぱり。でも、発表会とかそういうんじゃないんですよね」
「正解。まぁ、正確にはバーとかで弾く用のやつ」

 なるほど。ここまで来てようやく薫さんが僕を誘った意味が分かった。

「で。どうする?」
「はい、喜んで。……でも、なんでですか? もっと腕のいいピアニストならいくらでも居るんじゃ……」
「腕だけ、ならね」

 腕だけ? その言葉に不思議と違和感を覚える。ピアノを弾く腕では絶対に足りないものがある? だが、それが僕にある? 思考回路を巡らせるに巡らせたが、イマイチピンとこない。

「この前、君が作った楽譜見せてくれたじゃない?」
「あぁ、そう言えば」

 確か、あの時は休憩中に、ある曲の最後の仕上げをしようとした時だったっけ。その時に、偶々薫さんがロッカールームに来て、見られてしまった、なんていうことがあった。そして、その時に初めて薫さんがピアノを弾けることが分かったのだ。
 以降、ちょくちょくうちに来て貰い、僕の曲を弾いてもらったこともある。

「それでね、今回のお仕事で頼まれたのが二人での演奏なの」
「二人? ってことは二重奏?」
「うん。ただねぇ、基本的に私はあぁ言うところで弾くと調子乗っちゃって、アレンジしちゃうんだ」
「アレンジ、ですか」

 まず普通のピアニストやら厳格な人なら絶対にしないことだろう。それこそ腕の立つ人ほどそれを嫌う場合が多いと聞いたこともある。

「それで、リハやった時にめっちゃ怒られて、辞めるって言われちゃったんだよね」
「それでまさか」
「そう。ただ、アレンジの癖は治らないから、逆にそれに付いて来れる身近なピアニストを探してた。そして、見つけた」
「なるほど。それが僕なんですね」

 ようやく理解がいく。しかもここに連れてきたということは、断らないってお見通し済みか。
 もし、それが僕の持ってる想いを利用したものだとしても、今はただ薫さんに従っておこう。それで距離が縮まるなら良しとしよう。
 そう心に決め、「分かりました」と頷いた。

「よし。そうと決まれば、先にお風呂入んなきゃね」
「お、お風呂、ですか?」
「いや、流石に、ねぇ」
「あ、まぁ、はい」
「あと、親にも連絡しときなさいね。明日は休日だから少し遅くなってもいいと思うけど、もしかしたら十一時過ぎるかもしれないから」
「あ、はい」

 お風呂に入ること自体の意味は未だ分からずだが、促されるまま脱衣所に向かい、親に帰りが遅くなることを伝え、お風呂を借りることにした。

 髪を洗い、体を洗い、タオルで全身を拭いていく。
 そして、タオルを腰に巻きつけ、風呂場を出た。
 刹那、目に入ってきたものに衝撃が走る。

「なっ……」
「ちょ……」

 杉山妹、何故ここに。しかも、何故誰かが入っていることを知りながら、上服を脱いでいるんだ。
 その衝撃に速攻で風呂場に戻り、扉を閉めた。

「な、なんで、なんであんたがここにいんのよ」
「あ、えっと、それは、その」
「マジありえない」
「え、えぇ」

 扉越しに浴びせ続けられる罵詈雑言に今はひたすら耐えるしかなかった。というか、僕の方は何も悪いことはしていなかった様な。
 ため息をついた時、ふと脱衣所の扉が開く音がする。

「ねぇ、まだ……って、なんであんたは風呂に入ろうとしてんのさ」
「ね、姉ちゃんには関係ない」
「いや、よく見ろよ。私はさっき会ったし、誰かが入っているのも、分かるだろうし、ここに明らかな男性の服があるだろうが」
「いや……それは、そうだけど」
「ごめんね、西川君。こいつどけるから」
「ちょっと、姉ちゃん」
「いいから早く退いてなさい」

 とまぁ、こんなドタバタ劇が繰り広げられた後、風呂から上がると、そのまま渡された衣装を着て、髪もセットして貰う。
 女性にこうして色々してもらうのは新鮮な気分になる。しかも、想い人となると、なんとなく嬉しい様な、恥ずかしい様な、変な感じだ。

 そうして僕の準備が終わると、楽譜を渡され、今度は薫さんが準備をし始めた。
 待つこと三十分。
 ひたすら机を叩き、楽譜もほとんど頭に入った頃には、薫さんも準備を終えていた。

「それじゃあ、行こうか」

 最初に薫さんの姿が目に入った瞬間、取り敢えず驚きを隠すことは出来なかった。
 美しい。
 何というか、女性の魅力の全てを引き出したような妖艶な雰囲気と、それに合う程よい大人びた微笑み。
 冗談で「綺麗です」なんて言えないほどだった。

 そうして、下に降り、店の入り口前に行くと、まだ雨は降っている。全く、せめて夜くらいは雨が止んでくれていると思ったのだが。
 ふと見た先、そこには黒塗りの高級車とも取れる車が止まっていた。

「え、これに乗るんですか?」
「そうよ。一応、店の方からはビップ扱いになってるしね」

 ただのBGMにしかならないピアニストをその扱いとは、余程気に入られているのか、演奏の腕があるのかどちらかだろう。いや、あるいは、その店自体のランクが相当高いとか。
 想像のつかない世界に一気に緊張してしまう。

「さ、乗って」
「あ、はい」

 雨に打たれぬよう、急いで車に乗り込むと、すぐに発進する。しばらく走り、目的地に着いた頃には既に八時を回っており、もう真っ暗だ。なのに、雨はまだもの悲しそうに冷たく降り注ぐ。
 その一瞬の憂鬱を噛み締め、気持ちを一気に切り替えた。

「リハは要らないよね?」
「え、は?」
「もう本番の時間だから」

 リハなし、しかも調整もなしか。本当に、無茶言ってくれた。ただ、今更引けない。

「……分かりましたよ。でも、あまり暴れすぎないでくださいね」
「はいはい。じゃ、早速」

 車が止まると、そこは割と大きなビルを前にした道路だった。
 「ほら、急ぐよ」なんて促されるがままに店に入ると、大人な雰囲気を醸し出す空気に飲まれそうになった。
 程よいアルコールの匂いに、食欲そそる香り、クラっときてしまうような暗く淡い照明、聞こえてくるのはピアノの旋律。
 ここだけ時の流れが違うような錯覚まで起こしてしまう。

「さてと、まずはマスターに会いに行こうか」
「マスター?」
「ここのオーナーよ」

 着いて行くと、カウンターに立つ一人の男性がいた。見た目からして、よくものを知ってそうな感じ。年は、六十前後だろうか。時々、見える白髪がそれをよく物語っている。

「マスター。今日もよろしくお願いします」
「あ、薫さん。こちらこそ。それで、そちらは?」
「今回の助っ人です」
「ほぅ。まだ、青いですな」
「でも、腕は多分」
「成る程。一流のピアニストが言うのならば、そうなのでしょうな」
「えぇ」

 一流。確かに、家で弾いてもらった時はとてつもない技量を感じたが、思い返せば、薫さんが賞を取った、とか、プロをしているなんて話は聞いたことがない。
 まぁ、素人や僕ら凡人からすればどれも一流なのだろうが。

「じゃあ、お願いしますね」
「分かりました。最高の演奏をさせていただきます」

 礼をして行く薫さんに続き、頭を下げ、そのまま付いていく。
 そして、薫さんは向かい合う手前のピアノ、僕は奥のピアノの前に座った。そして、目を合わせ、頷き合うと、大きく息を吸い込んだ。

 ピアノの音が鳴り始める。

 僕の役割は基本的に補佐。メインは薫さん。下の旋律を一瞬も外すことなく弾くのが今回の役目。
 機会的に書かれている音符通りに弾いていく。

 最初はパッヘルベルのカノンから始めていくのだが、初っ端からアドリブ入り。挙句、五小節目で既にリズムはがた崩れ。テンポはバラバラ。そのくせに、オシャレに整っている。

 そんな中、あくまで邪魔しないように、正規のリズムとテンポを奏でていく。
 と、一瞬、薫さんの演奏が止まった次の瞬間、弾き始めたのは別の曲。

 ショパンのピアノ協奏曲第一番。

 こんなにもいきなり切り替えた? 追いつこうとメロディーをだんだん変えていく。
 ただ、薫さんはこちらを向き、ピアノの音で僕の方に訴えかける。

「まだまだ固いよ」

 途端、ジャズ風にアレンジされて行き、最後には原型が少し面影がある程度までになってしまった。
 こんなのは曲の演奏じゃない。

「さぁ、いくよ」

 そうとでも訴えかけんばかりに、旋律に勢いを増し始めた。挙句、全く違うメロディーを弾き始める。もう、既存の伴奏だけでは完全に置いて行かれてしまう。
 なるほど。これは、前任が放り出したわけだ。
 そして、これが薫さんが僕を選んだ理由。

「付いて行きます」

 そんな風に勢いよく言うかのように、テンポを崩し、薫さんの弾く旋律に合うように弾いていく。だが、同時に主張もし始めた。
 主旋律を乗っ取ってしまうかのように強さを増し始めるが、勿論場所の空気に反しないように。

 これは発表会でもなんでもない。フリーダムに弾けるが、あくまでBGMのもの。心地いい程度に、それでも自由に弾き続ける。
 互いに音を聞き、譲り合い、競い合い、共鳴していく。
 ただ、その時に感じてしまったのは、切なる恋心だった。それも、僕のものだけではない。
 自分、相手が持つ感情が一致した時に、音は最高の音を奏で合う。想いが強ければ強いほどに。

 演奏終盤では、久々の長時間演奏と連打に指が疼く。

「最後、合わせるよ」
「分かりました」

 最後の一小節はしっかりと余韻を残しながら、薫さんと息を合わせて、最後の一音を叩いた。

 気付けば、もう数十分と経っており、一応メドレーは引き終えている。
 緊張が一気に解けたせいか、大きく息を漏らした。そして、薫さんに合わせ、誰も見ていないながらも礼をし、下がっていく。
 そのまま進んで行った先は、カウンターテーブルだ。

「お疲れさん、西川君。久々じゃない? これだけ弾いたのは」
「そうですね。でも、こんなところであんな風に弾くのは初めてですよ」
「そうだろうね」

 適当に喋りながら、席に座ると、奥の方からマスターと呼ばれている男の人が出てきた。ただ、何か持って来ていた。

「あれ? 今日はちゃんとしたサービスしてくれんの?」
「えぇ。良いものを聞かせてもらったので」

 下からグラスを取り出し、そこに鮮やかなピンク色の液体が注がれていった。

「いや、今日は送迎アリだったから、お酒飲めるのよね」
「まぁ、こちらとしては、送迎やサービス代なんて、今日の大物相手に比べれば安いものですよ」
「なら、食事代も」
「それはちゃんと払ってもらいます」
「へいへい。分かりましたよ」

 途端、疑問符が飛び交わされる会話に付いていった。
 送迎あり? サービス? 大物?
 そんな疑問が顔に浮かび上がっていたのか、マスターと薫さんは、察したかのように話し始めた。

「そう言えば、詳しいことは一切話してなかったね」
「杉山さん。まさかこの子って飛び入りだったんですか?」
「まぁね。すごいでしょ?」
「はぁ。無茶なことをしましたねぇ」

 この人にも話していなかったのか。全く、この人はどこまで計算していたのやら。

「実は私、普段、時々ここに一人で来て一人で弾くんだよ。その時は、車を使ってるから、サービスしてくれてもちょっとした料理だけなんだ」
「ただ、今日は特別なお客様がいらっしゃる予定でしたので、せっかくなら杉山さんの妹さんと一緒に弾いてもらう予定だったんです」

 妹? 妹って、あの杉山妹だよな。でも、確かピアノは弾けないって言っていたはず。嘘をついたのか?

「でも、あの子がね、やってらんないって投げ出しちゃったのよ」
「投げ出したってどういう事ですか?」
「そのまんまです。一度、リハーサルでお見えになった時は、昔よりも随分と腕が落ちたご様子で、一度弾き終えると『私には無理だ』と言って帰ってしまったのです」

 そうか。「今は弾けない」って言っていたのは、そういう事だったのか。だが、その割には手を使っていた跡があったと思う。単に喫茶店での仕事柄なのかと思っていたのだが、多分そういうことではないだろう。
 まぁ、思い返してみればの話ではあるが。

「それで、君にお願いしたわけ」
「いや、しかし、よくまぁ飛び入りであそこまで杉山さんに合わせれましたね」
「ね。大分、アレンジしちゃったけど、よくやってくれたよ」

 もうアレは笑えてくるレベルだった。あの暴れ馬っぷり。冗談で済む話じゃない程危なかったのだ。しかも、中盤以降は、殆どがアレンジだっただろう。元の曲を踏まえてはいたが、完全に別の曲だった。
 だが、これは即興云々ではなく、おそらく曲調を捉えて合わせられるかと言うところだろう。それは、作曲者が持ち合わせる能力。
 本当に計ってくれたものだ。

「おっと、向こうのお客様に呼ばれてしまいましたので」
「はいはい」
「お料理の方は持って来させます。では、ごゆっくり」

 そうして、マスターは一度裏へと消えて行き、何処からか、大きなテーブルへと歩いていっていた。
 二人だけになった時は、勿論、しばらくの静寂に包まれる。どうやら、僕はここの空気に酔ってしまったらしい。少し収まらない高揚感でどうにかなってしまいそうだ。
 一方で、グラスを飲み干した薫さんの頬は赤みを帯びていた。

「……ねぇ」
「あ、はい」
「ピアノ、しばらく弾いてなかったみたいだけど、どうしたの?」
「えっ……」

 突然、突かれた図星に驚く。ただ、冷静に考えれば、不思議な話でもない。
 あれだけの腕を持っていたのだ。例え、オーケストラなんかで世界を股にかけるようなプロに劣ろうとも、一流は一流。分からないはずもない。

「実は、ちょっと、……まぁ、色々あったんです」
「ふーん。それって、自分には才能がないって思ったってこと?」
「……分かるんですか」
「まぁね」

 すると、薫さんは立ち上がり、カウンターの奥においてある物を取った。そこにはご丁寧に、『杉山さん用。ご自由にお使いください』と張り紙がされている。
 そこから、グラスに注ぐと、今度は緑色をした液体が出てきた。
 それを一口。

「私もね、ピアノ、辞めようとしてた時期もあったんだよ」
「薫さんが、ですか?」
「うん。……妹に追い抜かされてさ、褒められるのはいつもあの子。私は怒られてばかり。まぁ、辞めたくもなっちゃうよね」
「そう、だったんですか」
「しかも、丁度その時にさ、両方の親がいなくなっちゃったんだよ。……だから、私がお金を稼がなきゃいけない。タイミングが良かったのか悪かったのか」

 少しずつ消えていく液体は、どこか哀愁さを物語っている。

「それで、父親がやってた店を引き継いで、やってるんだ。まぁ、最初の方は厳しかったけど」

 その顔は、話に似合わぬ表情をしている。

「ある程度上手く行き始めると、ネットで記事が作られて一気に人気になって、人手が足らなくなった時に、前からここが好きでいた君を見つけた」

 あの時、求人募集の紙を見つけて入ることも、お見通しだったのか。

「そんな時に君が書いた曲を見つけてね。弾いて、喜んでもらえた。私は、それだけで良かったんだよ」

 頬杖をつき、想い気に語る。意外な一面、とでも言うべきだろうか。

「賞をとったり、褒められたりするよりも、単に喜んでもらえる。まぁ、君からしたら作ったものを弾いてくれる人なら誰でも良かったのかも知れないけど、私はそれで、それが良かったんだ」

 そして、グラスの液体も飲み終えた頃、どうやら完全にお酒が回ってしまったらしい。顔が随分赤くなっている。

「……ねぇ、私とさ、付き合ってくれない?」

 え。

 困惑した。

 勿論、お酒の勢いだろう、酔いのせいだろう、なんてことは分かっている。分かっているのだが、それがお酒のせいで言ったのか、それともお酒の勢いで言ったのかは分からない。

「付き合うって……」
「そのまんま。私を彼女にしないって言ってるの」
「え、ちょっ……」
「ふふっ。私はお酒には強いから、酔ったから言ってるわけじゃないよ?」

 混乱した。

 何が答えなのかが分からない。僕はどうしたいのか。ただそれを口にするだけなのに、上手く声に出来ず、それがとてつもなくもどかしくて仕方がなかった。

「あまり焦らして欲しくないんだけどなぁ」
「あ、そ、その」
「うん」
「は、はい。こ、こちらこそ」
「……ありがとう」

 その瞬間の薫さんの頬は一層赤るんだ。

 丁度タイミングでも見計らっていたかのように料理とお水が運ばれてきた。
 その後は、食事を楽しみながら二人の時間を過ごし、マスターが戻ってくると、帰りの手配をしてもらい、杉山家に送ってもらった。ただ、なにかと二十三時を回ってしまい、結果泊めてもらうことになった。

 雨の夜。月も隠れ、街灯の光も乱反射し、夜の街を不思議な世界へと変えている。
 そんな中、寝静まる頃に何があったかなんて言うまでもないだろう。

 そうして、一夜を過ごした。



 翌朝。

 まだ昨日の雨は止んでいなかった。

 今日もバイトが入っているのだが、一度帰ってまた来る手間を考えると、面倒になってしまい、このままいさせてもらうことにした。

「裕太くん。私は色々やることあるから、ここで色々やっていていいよ」
「ありがとうございます」
「じゃあ」

 正直、昨日のことが気になっていた。薫さんはお酒のせいじゃないとは言うが、やはりどこか疑問を覚えていたのだが、明らかに距離は今までとは違っていた。呼ぶ時も名前になっていて、妙に親しい。
 昨日のことは本当だったということだろう。嬉しくもすぐったい気持ちに浸っていた。

 さて、一息ついたところで、バックを開け、筆記用具、タブレット端末、イヤホンを取り出した。ただ、何か足りないような。

「あ、ノート」

 今まで作ったものを全て書き留めてあったノートがない。
 血の気は引き、一気に焦ると、色々なところを探してみるが、思い当たるところに行ってもなかった。なんとか昨日のあったことを思い浮かべながら探していくが、やはりどこにもない。

 若干、窓に降り付ける雨の音がうざったく聞こえた時、ピアノの音が聞こえた。
 それは、痛いくらいに切ない旋律、雨の伴奏が哀愁のあるメロディーを余計に引き立たせた。

「雨の幻想曲……」

 聞き覚えどころか、これは僕が書いた曲なはず。それがなぜ他人の手によって演奏されているのか不思議でならなかった。
 ただ、分かるのははち切れそうな悲しさが旋律に乗っていること。

 激情。

 感じるのはそればかり。

 釣られるがままに音がなる方へと歩いていく。そして、音源と思われる部屋を見つけた。
 ただ、そこには『椿の部屋』という札がかけられている。
 惹かれてしまうほどの音が聞こえてくる中、一瞬躊躇ったが、ドアを開ける。
 誰がこれを弾いているのか。
 あまりにも魅力的で、気になってしまった。
 そして、中で弾いている人を見た瞬間、何故か不思議にチクリと胸の奥に刺さるものを感じた。

「杉山、妹……」

 そうか、確か昨日、杉山妹に貸して以来、返してもらっていなかった。それでなのか。ただ、弾いていたのも彼女だ。
 ピアノの音はそこで止まり、杉山妹はこちらを見つける。
 すると、見てしまった。泣きながら弾いているところを。
 息を呑んだ。
 何かとてつもないものに魅せられてしまった気がして。
 だが、彼女は表情をぐちゃぐちゃにしながら、こっちに歩いてきて、僕のノートを投げつける。そして、更に近寄ってくると、僕の頬を一つ叩いた。

「……バカ」

 加えられた力に、後ろに仰け反っているうちに、勢いよく扉を閉めた彼女は部屋へと引きこもっていった。
 今の行動に何の意味があるのか。それは、分からない。分かりたくもなかった。

 ノートに書かれた『ありがとう』の文字と、その下に書かれている『杉山 椿』の名前。
 雨は冷たく降った。世界から色を奪ってしまっていくように。

 灰色に褪せた彼女の部屋に残る虹色の旋律。

 その気持ちはきっと。

夏祭りの花火は泡沫に揺れる

 夜も蒸し暑さを感じるようになってきたこの時期、納涼祭もあちらこちらで目立ち始めていた。

 人の海に飲まれてしまうこの商店街はどうにも慌ただしい。それなのに、どこか賑やかにも見える。そんな空気は嫌いではない。
 だが、今の僕達にはどうしてもそれを楽しむことは出来なかった。

 人だかりを離れ、しばらく進んだ先、あそことは打って変わって物静かな神社の奥の雑木林の前。
 そこにあるベンチに座っていた。
 明るくも暗い月光に照らされた彼女の浴衣姿は美しく、綺麗で、それでもって切なかった。

「陽ちゃん、大好きだったよ。そして、これからもずっと大好き」

 彼女の頬は既に濡れていた。僕には何も言葉にできないという無力さについ俯いてしまう。
 幼さ故、そんな言葉で終わらしていいものだけど、それが出来ないのが今を生きているということなのだろう。

「陽ちゃん、せっかくの告白なんだからそんな顔をしないで」
「だって、僕は何も……」
「ううん、陽ちゃんは私に沢山のことをくれたんだよ」

 浮かぶ涙は月を映し出し、輝く瞳は僕の姿をしっかりと捉えていた。



 思い返せば、幼馴染みである彼女のことがずっと好きだった。
 幼稚園の頃からご近所さんとしてよく一緒に遊び、よく一緒に登校し、よく一緒に下校していた。そう、何をするときも大抵は一緒だったのだ。

 彼女はとても気の強い女の子で、いつも僕がいじめられている時に助けてくれる。泣き虫だった僕の唯一の味方。側にいてくれるだけでも嬉しかった。

「ほら陽ちゃん、泣かないの。私が側にいるから」

 それが彼女の口癖。泣いた僕の頭を撫でてくれたりもした。
 一体どれくらいの時間を過ごしていたのか、今となっては昔過ぎてよく覚えていないが。

 でも、ある日から変わってしまった。

 小学四年生の頃だったか。いつしか彼女は素っ気ない態度で僕に接し、僕を避けるように生活をし始めていた。
 遊ぶ時は友達と、登校する時は友達と、下校する時は友達と。そこでようやく気がつく。僕らの間にあったのは、人間と人間、男子と女子という強く深い溝だったのだ。
 長らく忘れていたそれはきっと幼さ故、なのだろう。そうだと思わざるを得なかった。

 やがて「おはよう」なんていう何気ない挨拶ですらしなくなった。まてや、近所のくせに顔を合わせることさえ珍しいほどにまで。

 そのまま時が経ち、中学を卒業。高校へと進学した。ただ、何の偶然か、彼女と同じ学校だったのだ。
 こっちは単純に成績圏内へ一直線。それこそ、直前まで迷ってさえいた程。何処かの少女漫画ではあるまいし、偶然にもほどがあると思う。

 ただまぁ、正直、関わりもさほどのものでもなかったし、気に留めるほどでもなかった。

 それでも、一つ言えることがあるのだとすれば、彼女の態度にはどこか苛立ちを覚えてしまった。何というか、あの時の言葉が嘘だということが分かってしまったからだろうか。

 兎にも角にも、好きな彼女に対し、少なからず怒りを抱えているのは、きっと僕の醜いところなのだろう。



 ある日の放課後、週番だった僕は日誌の空欄を思いつく繰り返しの言葉で埋めていた。そんな中、何がきっかけだったかまでは覚えていないが、あるクラスメイトと夕焼けに染まる教室、そのど真ん中の席で話しもしていた。

「なぁなぁ。三上、お前って好きな奴いる?」

 いきなり聞かれた質問に疑問は感じたのだが、さして何も思わず、「いないけど」なんて答える。
 この年頃は恋沙汰で賑わうもの。そんな話どころか、噂が立たない人間を面白がらない連中は、ついに僕にまでふっかかってきたのだ。

「お前、幼馴染いるんだって?」
「え? あ、うん」
「それって、同じクラスの……」
「そうだよ」
「じゃあ、その子と付き合ってるって噂、知ってるワケ?」
「まぁね」

 なんて、適当に答えるが、別にどうだっていい。最早、彼女の存在自体意識することも無くなってしまい、会話の余地なんてないのだ。
 それに、噂は所詮噂。いつしか熱は冷め、跡形もなく消えてしまう。なら、わざわざ動いて傷跡を残すよりは、適当に乗り切った方が得策だと、そう判断した。ただそれだけのことに過ぎない。

「で? その噂の真偽の方は?」
「嘘嘘。あんな美人が僕みたいなより十分いい彼氏持ってるだろうし」
「へぇ、何? あの子付き合ってるの?」
「知らね。ただの幼馴染の憶測だよ」

 脊髄反射だけで話している間にも、窓の施錠といった最後の雑務を終わらせていて、荷物をまとめ始めた。
 オレンジ一色だった教室も青さが刻々と広がってきており、頃合いを見計らうと、早く出るように催促し、教室の鍵も閉める。

「ちなみ、お前って好きな奴は?」

 その質問には一瞬動きを止めてしまう。脳裏に過ぎるのは––––––––。
 でも、信じたくもないものだと一蹴し、「いないよ」なんて笑顔を見せ、鍵を片手に教務室へ返しに行き、そのまま帰路へとついた。



 もう少しで家だといういつもの信号。ここはどうしても引っかかってしまう。
 よくまぁこんな狭い住宅街の道にこれだけの車が通るなという程、忙しなく行き来は繰り返される。
 轟音、時々漏れ聞こえる音楽、流れが止まると聞こえるカラスの声、白白しい街灯。

 そんなのを横目に歩いていると、電柱の影に女子の影が見えた。暗闇潜みながらも、よくよく見れば、うちの制服だということくらいは分かる。勿論、それが誰かも。

 そこを通り過ぎようとした時、何かに掴まれるような感覚に足を止めた。

「ねぇ。誰か分かってて通り過ぎようとしてたよね?」

 言われた言葉に、歯を食いしばり、袖を掴む彼女の手を振り払おうとする。

「ちょっと。……これ、返したいだけなんだけど」

 何かビニールの擦れる音が聞こえる。でも、別にどうでも良かった。
 心の中では好きだ好きだといっていたくせに、いざ会うことになってみれば、下らない怒りが無性に湧いて出てきてしまう。

「別にいい」

 素っ気なく吐き、歩いて行く。そこに理由はない。ただ一つ、胸の奥にチクリとしたよく分からない痛みが走った。
 途端、背中に衝撃が走る。

「私だっていらないわよ、こんなもの」

 なんて聞こえた次の瞬間、彼女は走って行く足音だけ残して、その姿を夜闇に眩ましてしまった。
 投げつけられた物、そのビニールに入っていたのは––––––––。

 家に帰り、その日の夜、初めてその真意を知る。

「深雪さんのお宅、引っ越すんだって。確か、親戚の家に住むらしいの」

 晩餐の席で親がそんな話をしていたのを聞いた瞬間、察した。
 彼女がどんな思いをしていたのか、彼女がどんな想いでいたかを。
 下らない。下らない、下らない。本当に下らない事ばかり抱えやがって。

 また膨らむ怒りはもう抑えようがなくなってしまっていた。



 翌日。

 わざわざ違うクラスまで行き、彼女への手紙を預け、一日を過ごした。
 夏休みも近くなる時期、さして詰め込まなければいけないとかいう授業もなく、緩やかな一日だった。だが、そのせいで余計に長く感じてしまう。

 焦れったくて仕方がなかった。

 待ちに待った放課後、一目散に走り、帰り道にあるうちの近くの公園、そこのベンチに座る。
 この時期は、緑が生い茂り、いい景色とは言い難いが、吹き抜ける風は好きだ。

 鞄を置き、それを枕に横になる。
 涼しいここの空気の所為だろう。疲れものしかかった眠気には勝てず、重い瞼を閉じる。そのまま、深い呼吸は寝息へと変わり、そっと意識は夢のその奥へと飛んで行ってしまった。


 目が覚めた。瞼を開くと、入ってくるのは鮮やかに焼けた空だった。
 どのくらい寝ていたのだろう。

 そっと体を起こそうとすると足元に重さがあることにようやく気がついた。

「ようやく起きた」

 聞こえた声に不思議と納得してしまう。

「なら、なんでお前まで寝てんだよ」
「別にいいじゃん」

 体を起こし、隣にいる彼女の顔をよく見る。
 ––––深雪 理沙を。

 浮かべた笑みの奥にあるもの、そこにひたすらに隠してる気持ちをどうしても知りたくて。

「なぁ。……引っ越すんだって?」
「あぁ。知ってたんだ」

 崩すことのない表情、その下にある凍った何か。
 きっと僕はそれを知るべきだったのだろう。でも、目を背けた。ただ、彼女の所為にして。

「……なぁ、ごめんな」
「……何が?」
「気付いてやれなくて」
「え?」

 日が暮れても暑い中、間を通り過ぎたのは凍り付きそうなほど冷たい風だった。

「し、知って、る、の?」

 震える声。

「……いや、知らない」

 震える手。

「な、なら、何に?」

 震える心。

「お前の心に」

 その全ては、僕の所為なんだ。全て僕の所為。

 彼女が怪我をしていた時、「転んだ」なんて嘘だと思っていたのに。彼女が体調を崩した時、「風邪を引いた」なんて嘘だと気付いていたのに。
 彼女が最後に僕と顔を合わせて話した時、「嫌い」なんてなんて嘘だと知っていたのに。

「……ごめん、何も出来なくて」

 彼女の頬を伝う涙は、きっと色んなものが含まれているはずだ。
 出そうにも出ない感情の全て。叫びたいのに出来ない悲鳴。

「……バカ」

 彼女の辛さなんて分からない。でも、知ることくらいは容易だったはず。

「ごめん」
「なんで、なんでそれをあの時に言ってくれなかったの」

 絞り出される声。

「私は、ずっと待ってたの。ずっと前から」

 力の入る手。

「私はただ、助けて欲しかった。でも、誰も助けてはくれなかった」

 傷だらけの心。

「陽ちゃんだけが、私の支えだったのに」

 僕が抱いた怒りの何倍もの怒りを感じたはずだ。互いが互いを裏切るなんて、そんなバカなことはあるはずもない。でも、そうして僕らの距離が生まれた。

「バカ」
「ごめん」

 飛びつき、抱き締める。

 知らない。何も知らないんだ。
 いろんなことを気付いていたのに、僕は何一つとして彼女を知らなかった。

「本当にごめん」

 散々泣き散らかす理沙をしっかりと抱き締める。彼女が強くあれた意味、それをこうしていると理解かったような気もする。

 本当に。本当に––––––––。

「素っ気ない態度をとってごめんね。でも、そうした方がいいと思って……」

 僕の手から離れ、涙を拭う。

「陽ちゃんはね、私に沢山のことをくれたんだ」
「僕は何も……して、ない」
「うん。そうかもしれないね。でも、形にはないものだってくれた時もあった」
「僕は、助けてもらった、ばかりで」
「ほら、泣かないの」

 いいや、たっぷり泣きたい。
 無力さ。愚かさ。それらがどれだけ人を傷つけてしまうのか。
 悔いるしか出来ない。

 ひたすらに僕らは泣いた。沢山泣いた。吐き出せなかった想いを泣き声に変えて。
 ふと見上げた空は、もうとっくに淡い青に染まり始めていた。

「ねぇ陽ちゃんはお祭りは好き?」
「……そんなことより、引っ越しは明日じゃないの?」
「お祭りは、好き?」
「あ、うん」
「良かった」

 すると、鞄から見覚えのある袋を取り出す。

「荷造りしてたら着物を見つけてね、今日着て行っていいんだって」
「何で?」
「何でもいいじゃん。それで、陽ちゃんの家で着替えて、一緒に行きたいんだけどいい?」
「……分かったよ」

 彼女の言われるままに動く。動力はないのだが、自然とその公園に引っ張られるように家へと行き、彼女は浴衣に、僕は甚平に身を包んだ。
 そして、二人肩を並べてお祭りのある神社まで歩いて行った。



 にぎやかな場所だった。屋台が並び、沢山の人が右往左往している。そんな人混みの中を一生懸命進む。もう十九時を回ろうとしているのだ。一番ピークの時間帯なのだから、この状態は頷ける。

「流石に、大変だね」
「ちょっと脇道でもしようか」

 大通りから外れ、人通りの少ない道なんかも使いながら、神社の前の大通りをぶらつく。この地域だと、結構大きい祭り。知り合いなんかがいてもおかしくはない。

「離れ、ないでね」

 そんなことを気にするどころか、御構い無しに彼女の手を取り、人混みをかき分け進んで行った。

 屋台をはしごして、沢山のものを買っていく。焼きそば、リンゴ飴なんかも食べた。
 しばらく歩くと、金魚すくいの屋台を見つけ、心のゆくままに楽しむ。
 もう、さっきまであったモヤモヤなどは吹き飛んでしまうくらい、はしゃいだ。
 彼女は金魚すくいに夢中になっていて、軽く袖は濡れているみたいだった。
 そんな彼女の横顔は、とても楽しそうで、とても輝いていた。嘘偽りのない純粋な笑顔。最高に綺麗だった。

 小さい頃もこうして近くのお祭りに行き、楽しんでいた。その時も金魚すくいしたっけ。綿菓子を買い、美味しそうに頬張る姿はあのときと変わっていない。
 だが、時折見える切なさは彼女の笑顔を曇らせてしまっていた。

 射的なんかもして大体の屋台を回った。時刻は八時を過ぎる頃、沈黙のまましばらく歩く。

「ごめん。ちょっとトイレ行ってくる」

 そう言って彼女はどこかへ行ってしまった。ただ、追いかけはしない。それがいいというよりは、そうしなきゃいけない気がして。

 そのままひたすら待った。どれだけ待っていても、理沙が現れる様子はない。
 気がつくと、花火が打ち上げられるまで後一分程度だった。
 だが、僕の隣には彼女の姿がなく、無慈悲にもそのまま花火が打ち上げられる。手に握られた携帯の画面には『現在繋がりません』の一文が表示され続けており、メッセージにも何の反応もなかった。

 ただ、なんとなくだが、そんな気はしていた。もうアレで終わり、あの時に終わったのだと、そう思わざるを得ない。
 俯く視線にも花火の鮮やかな光は目に入る。色も形も様々な花火。だが、泡沫の煌めきだからこそ美しく見えるものだ。

 数十分に渡った花火も終わった頃、携帯を見ると一件のメーセージが届く。
『神社の奥に来て』
 その一言だけが送られてきた。



「陽ちゃん遅い。十分も遅刻だよ?」

 そんな声が何故か愛しく、儚く思えた。

「遅刻したのはどっちだよ」
「ご、ごめん。……ねぇ、花火を見逃しちゃったからさ、ここで線香花火でもしよ?」

 そうした彼女の足元には水が入ったバケツにロウソクとライター、彼女の手には線香花火が握られていた。

「綺麗だね」
「……そうだね」

 パチパチと弱い光を放ちながらも、鮮やかな火花を散らせ、消えてゆく姿で虜にするのは、きっと打ち上げ花火もこの線香花火も変わりはしない。

 でも、何かが違った。さっきから感じる切なさの正体は未だ掴めていない。やはり、そんなときに動くのは彼女だった。

「陽ちゃん、大好きだったよ。そして、これからも大好き」

 彼女の頬は既に濡れていた。僕には何も出来ないと言う無力さに俯いてしまう。

「陽ちゃん、せっかくの告白なんだからそんな顔をしないで」
「だって……僕は何も……」
「ううん、陽ちゃんは私に沢山のことをくれたんだ」
「何も出来なかった……」
「私を助けてくれたんだよ、私が大変だったときに陽ちゃんは助けてくれた」
「………」
「だからね、お礼を言いたいんだ。ありがとう」

 瞳が潤んだ彼女は僕と唇を重ねた。

「じゃあね、陽一くん」



 その日の出来事はもう遠い夢の中にしまわれた。

 どうしてだか、最後にあったときに貰った言葉は今もしっかりと残っている。

「好きだよ」

文化祭の騒ぎに物語は踏まれる

 夏休みも開け、再び始まった学校生活に体が慣れてきた頃、俺たちを待っていたのは、文化祭だった。
 学生が本気になれる行事の一つで、個々の才能に関わらず、誰でも主役になれるという最高の行事でもある。

 それこそ学校によって、どんなことをするのかは違うだろうが、少なくともクラス単位で出し物をするのが普通だろう。
 一番人気なのはお化け屋敷。定番は飲食店。ちょっと変わったところで、ジェットコースターやら縁日といったもの。様々なものがある。

 その一方で、少し目立つもので言えば、演劇だろう。
 この学校では、沢山あるクラスの中から抽選で二つだけ選ばれ、体育館満員の前で披露するという超難関種目である。勿論、その分だけやりがいもあり、楽しくもあるものだ。
 さて、そんな演劇をやるクラスは、一つ上の学年から一クラス、そして、もう一クラスは俺たちのクラスだった。



 決まったのは、梅雨も明け、期末テストが終わった頃。正直、誰一人として当たるなんて思わずに過ごしていた分、衝撃はとてつもない。
 全員が驚きと歓喜に満ちた中、演劇種目を第一希望にオリジナル、第二希望にロミオとジュリエットを入れ、提出したところ、第一希望が通り、オリジナル劇を行えることとなった。

 さて、一番の問題はこれからにある。

「台本を書く人と、役をする人を決めたいと思います」

 黒板に書かれた、『台本役』を見た瞬間、何となくは察していたが、あまりそうなって欲しくはないと思う。
 ただ、勿論なのだが、司会者をしている学級委員も、周りの奴らも俺を囃し立てる。

「台本は……えっと、お願いできる?」

 言わずもがなとでも言わんばかりにアイコンタクトを取ってくる。いや、女子にお願いされたからといって、素直にうんと頷けるわけもない。
 ため息をつきながら、「誰かやりたい人はいない?」なんて声を出してみるも、誰一人として動く者はおらず、どころか「お前以外に出来る奴はいねぇよ」「まぁ、妥当っちゃ妥当よね」「いいものを期待してるぜ」なんて余計に囃し立てられるばかりだった。

「分かった。やるよ」

 その一声で、黒板に名前が書かれる。その気持ちに、少しばかりため息をついてしまった。

「じゃあ、どんな劇にしたいかとか配役は任せるね」

 そう言われ、今度は俺が前に立ち、学級委員は仕事を終えた感を醸し出しながら席に着く。

 はぁ。
 まぁ、言われたからにはやるしかない。

「じゃあ、まず劇のジャンルとテーマを決めたいんですけど、アイディアのある人」

 すると、次々に声が上がっていく。
 普通ならこういうところで声を出す人は少ないと思っていたのだが。まぁいい。そっちの方がやりやすい。

「で、上がったのは、恋愛劇、コメディーとそんなもんですが、多数決で決めても大丈夫ですか?」

 少々ざわつきこそあったものの、何とか多数決を取ることが出来、結果は恋愛劇になった。
 そして、次いで決めたテーマは、『歌』だ。

 歌、か。そうしたら、ミュージカル調が良いか、それとも何か歌手を主題にしたものが良いのか、少し迷ったが、歌に決まった理由を考えた瞬間、ある程度シナリオを決め、頭の中でプロットを立てた。

「では、台本は作っておきますが、配役はもう決めちゃいましょう」

 そんな破格なことを言っても、誰一人として驚かない。まぁ、それはきっとここに演劇経験がない人ばかりだからなのだろう。
 その反応に少しの不安を覚えつつも、黒板を一旦消し、役名を次々に書いていく。

「さて、こんなもんです」

 右から『主人公』『ヒロイン』『主人公の親友』『主人公の幼馴染』『教師』『友人A』などある程度、定番の配役を並べた。

「それで、決めていきたいんですが、すいません。ヒロインの枠は俺が埋めても良いですか?」

 そこに異論はなく、書き込んだ名前にも批判は一切出なかった。

「白石 杏姫さん。お願いできますか?」

 目線を合わせた先、そこにいる女子を指名する。この演劇のテーマが『歌』に決まった最大の原因でもあるその女子に。

「は、はい」

 自然と出た拍手が鳴り止むまではほんの数秒だったのだが、その間にその女子が見せた笑顔は何となく心をくすぐるような不思議な力を持ってるように思えた。

「では、ここからは挙手制にしていきますね」

 そうして枠を埋めていくのだが、最後の一つ、主人公の枠だけは決して埋まることはない。「誰か主人公お願いできますか? 出来れば、男子がいいんですが」なんて言っても、誰一人として声が上がることもない。
 その状況に少し困ってしまった。

 すると、一つ声が上がる。

「あ、あの……小野くんにお願いしたいんですが」

 それは、ヒロイン役である白石さんからのものだ。
 勇気を振り絞った声、そこに隠された意味なんて、相当な鈍感野郎でない限り気づかない筈もなかった。
 そして、その気持ちは一人の人間として汲み取らざるを得ない。

「小野。お願いできるか?」
「まぁ、別にいいけど」
「じゃ、頼むぞ」

 そうして黒板に名前を書き込むと、全てがなんとか埋まりきり、一度写真を撮ると、再び消し、裏方を決めていった。
 とまぁ、なんとかホームルームの一時間内に全てが決め終わり、「出来る限り早く台本書き上げますので、出来次第、皆さんに配ります」なんて、言ってこの時間を締めた。



 それから家に帰っては、パソコンと向き合い、キーボードを叩き続け、早一週間。
 ようやく台本を書き終えた。

「タイトルは……。主役に決めてもらおうか」

 最後、タイトルの部分は鉤括弧だけ書き、中身を空白にしておく。それをUSBに移し、学校に持っていって、印刷してもらい、台本は完成した。
 そして、ホームルームの時間に配布し、世界観、大まかなストーリーなどを話すと、読んでもらう時間を設け、それ以降は意見交換の時間にしておく。その間に、主役を集めた。

「で、この話はまだタイトルがないんで、この四人で決めて欲しい」

 それだけ告げると、今日の仕事は終わり。あとは、裏方には道具の作成に入ってもらい、役者には練習をしてもらうだけだった。

 そうして入った夏休み。
 連絡で時々進捗具合を確認しながら、適当に過ごしていき、もう終わりに差し掛かった頃、ある奴から連絡が入ってきた。

「で? 用ってなんだ? 小野」

 主人公役である小野が突然、俺の家へとやってきたのだ。
 まぁ、以前まで部活が同じだったということもあり、こうして話すのには違和感もなく、決しておかしいことでもなかった。

 だが。

「なぁ。俺が主役やっていいのか?」
「はぁ?」

 いきなり飛んできた意味不明発言にとんでもなく呆れた。
 最初は冗談のつもりで言っているとは思ったのだが、真剣な表情で沈黙している姿を見ると、笑えなくなってしまった。

「つまり、何が言いたい?」
「役を代わって欲しい」
「……そうか」

 目立ちたがらないくせに、実力と才能があるせいで誰からも妬まれる存在でもあった。勿論、俺も例外でない。隣に居たくせに、俺は正直妬んでいた。
 だから、今回のこの申し出、どうしてやりたいかなんて言うまでもない。

 だが、俺はあえてそうしなかった。

「分かった。代役を探そう」
「マジか。ありがとう」
「ただし、役を投げ出した奴に居場所はないぞ」
「……お、おう」

 それを話し終えると、すぐさま小野を家から追い出す。

 わざわざ憎まれ役をしなきゃいけないとは、俺も随分な大役を受け入れてしまったものだ。
 ため息混じりに携帯を取り、あの人に連絡をする。
 きっと全てを知った上でないと受け入れてくれない。そう思い、普段はメッセージで済ますのをわざわざ電話をした。

「……悪いが、受け入れて欲しい」

 電話越しにでも頭を下げる。

 くそっ。なんで人の恋愛にこうして手出しをしなければいけないのか。しかも、よりにもよって白石と小野の。
 思いっ切り殴った壁にはくっきりと凹んだ。



 そうして、代役は見つかることなく、代わりに俺が主人公役を演じ、練習をして、今に至る。
 何かともう文化祭まで一週間を切ってしまっていた。

「小道具隊は?」
「ほとんど完成したよ」
「大道具隊は?」
「生徒会の許可は取っておいたから、後は色塗りだけ」
「衣装隊は?」
「採寸も済んで、データは送ったから、後は発注を待つだけ」

 進捗は問題ない。

 強いて言うなれば、役者たちは一切の揃いもない事くらいか。
 セリフは間違え、タイミングはバラバラ。気持ちは合わないし、動きもめちゃくちゃ。これでどうしろって言うんだよ。そんな風に愚痴ってやりたいばかりだ。

 そして、当の小野もただクラスの端に居座り、見てることしかしていない。本当にどうしようもない奴だことで。

「そこ、間違えてる」「違う。それは後」「掛け合いと様子を見て」

 飛ぶ声に段々と苛立ちが入っていってしまうのが途轍もなく気持ち悪い。だけど、どうしようもない状況が本当に嫌だった。

 もう直前まで来ているというのに、この様では本当に失敗に終わってしまう。そんな気持ちに追い打ちをかけたのは、先輩たちの演劇だった。

 種目はロミオとジュリエット。
 まとまりだけでなく、気持ちまでこもている。ステージに立つのは、紛れも無い本物の役者だ。そこで描かれているのは、本物の劇。
 こんな凄いものの前に披露すれば、俺たちの劇は単なる引き立て役にしか過ぎなくなってしまう。
 そんなのは許される問題では無い。

 帰り道、ひたすらに最善解を模索し続けた。何をどうすれば今の状況を打破できるか。
 暖かさも段々忘れ去られてきた風が頬を掠める。

 小野は何故役を断ったのか。すれ違いの想い。人目を嫌う理由。

 役者の気持ちが何故合わないのか。一つにならないベクトル。まとまらない理由。

 そこから導かれる打開策。出てきたものはたった一つだけだった。



 全ての布石を投じ終えた放課後、後は衝撃を与えて、一気に回収するだけとなった。
 そして、それが今からの出来事全てである。

 人目に付かず、それでも人が最も容易く隠れられてしまうような場所。そんなところ、この学校内では体育館の裏だけだった。そこに白石さんを呼び出す。
 二人対面する形で立ち、大きく息を吸い込んだ。

「あの、好きです。付き合ってください」

 放った一言。勿論、真剣だ。言葉に詰める思いは本物。隠していた想い、それは叶うはずもなかった片思いに他ならないものだった。
 しかし、結果の分かり切った告白なんて意味は皆無。どころか、ただ傷付くだけだ。

「え、その、ごめんなさい」

 あぁ、知っている。

「そうか……。ちなみに、好きな人とかいるの?」
「え?」

 だから、引けるところまで引き出す。

「断ったんだから、それくらい教えてくれてもいいじゃん」
「あ、その……。小野くんのことが好きなんです」

 知っていた。知っていたんだ。殆どの人が知っている事実。だけど、それを敢えて、白石の口から引き出したのだ。

「じゃあ、主人公役をお願いしたのも?」
「……うん。一緒にできたら、嬉しいなって。ねぇ、このことは黙っててね」
「……分かった。ごめんね、時間とらしちゃって」
「あ、ううん。こっちこそ、ごめん」

 そうして、白石が立ち去っていくのを見届けた。
 知っていたのに、告白なんてしてバカだよな、ホント。それをわざわざ妬ましいあのクソ野郎のために無駄に傷ついて、チャンスをなくしちゃうなんて。

 でも、泣くにはまだ早い。
 この憎まれ役はまだ終わってもいない。

 ここからすぐ立ち去ると、向かった先は教務室。訪ね先は、うちの担任だ。
 色々な資料の作成で慌ただしそうにしている中、少しだけお邪魔する。

「先生。一つお願いしてもらってもいいですか?」
「何?」
「これの印刷ってお願いできますか?」

 差し出したのはUSBカードだ。

「何のデータ?」
「台本を変えたいんです?」
「……それ、この時期に変えて大丈夫?」
「えぇ」
「あのねぇ。文化祭はあなただけじゃないの。だから、クラスの人と相談して……」
「あの状態で言えますか?」

 少しだけ意地を見せないと、保身に走る教師はきっと動いてくれない。

「道具とか衣装に問題はないんですが、演技の方は全く駄目です。だから、せめてやりやすい方に変えようと思いまして」
「それも含め、クラスの人と……」
「役に関わる人には既に伝え、了承をもらってます」
「でも、時間がないんだ」
「もう今、変えた方で練習してるんですが、紙がないと出来ないんです」

 嘘ハッタリ上等。
 学校の方で印刷すれば、費用やらがかからないだけでなく、なくす可能性もない。何よりも、先生を通したという確実性が出てくるのだ。
 今はそれがないと何も変えようがない。

「……分かった。すぐ印刷して欲しいの?」
「はい。お願いします」

 そして、渡された鍵を手に、印刷室へと向かい、側のパソコンに差し込んで、いくつか操作し、印刷を終える。
 その新台本を持って、教室へと向かった。
 ドアを開けた瞬間、こちらを見る目線が刺さってしまうが、それも御構い無し。

「これ、新しい台本」
「は?」

 挙句、教卓の上にボンッと投げ捨てるように置いた。これもまた全て演技。

「おい、もう数日しかないんだぞ」「こんな時に台本変更とか」

 そんな声が少し上がってくる。

「変えたのは最後だけ。問題ないだろ」

 そんな風に吐き捨てるように言うと、段々とクラスの苛立ちは高まり始める。

「問題あるよ。衣装とかどうするの?」
「衣装、道具は変えない。会話と終わり方を変えるだけだから、役者の人しか関係ない」
「はぁ? 練習時間ももうろくに取れないんだぞ」

 そんな風に誰かが言うとそれに続いた。

「そうだよ。自分が書いてるからって自分勝手すぎる」「全然駄目なのにどうするんだよ」「余裕なさすぎる」「ふざけんなよ」

 そう言う声は、全てまとまらない原因だ。
 それに一喝。

「ふざけてんのはお前たちだろ」

 続けて、怒鳴りにいく。

「あのなぁ、時間がないだと。どっちがだよ。いいか? この台本は最後の複雑さを取り除いたんだ。つまり、簡単にしたものなんだよ。お前らが台本をしっかり覚えて、掛け合いが出来たら、その必要がなかったんだ」

 渦巻く沈黙に、嘲笑う表情で声を張り上げる。

「どのみち、台本覚えてないんだからいいだろ? だって、覚えてるんなら、一週間で最低限の掛け合いは出来るよな? なぁ、白石」

 極め付けの一言に憤りを覚える人は多いが、決して間違いない事実に動きを見せる奴は誰一人としていない。
 そう思い、少し鼻で笑った瞬間、左頬に強い痛みと衝撃が走る。そのまま勢いに吹き飛ばされ、黒板へと激突した。

「お前、ふざけんじゃねぇよ」

 拳を突き出していたのは小野だ。

「あぁ? んだよ」

 睨みつける。

「調子乗ってんじゃねぇよ」

 そう言い放ったことに、初めて心から憎いと思い、躊躇いなく本音を吐き出していく。

「調子乗ってんのはどっちだよ。あぁ? 役投げ出して、何を言うかと思えば。なら答えてみろよ。お前が居たら、ちょっとはマシになってなんじゃねぇの? なぁ」

 一瞬、後ろに仰け反ったところに畳み掛ける。

「こんな状況に持って行ったのは、紛れも無いお前なんだよ。言ったよなぁ。お前の居場所はないって。さっき俺に浴びせてきた罵詈雑言、全部俺の着せられた濡れ衣なんだよ。……お前が全部悪いんだ」

 そこまで言ったところで、さらに一発右に衝撃が加わる。

「図星だからって、暴力か。お前、俺をどれだけ痛めつけてるか知ってんのか?」

 もう一発。

「……流石、役を、投げ出す、クズだな」

 一発。一発。一発。
 そのどれかが丁度顎を掠めたらしく、俺は意識を失ってしまったらしい。

 目を覚ました時、ベットに寝ていた。起き上がろうとすると、疼く顔に再び寝転がる。

「お、起きたね」

 そうして視界に現れた白衣の女性を見て、ここが保健室だと理解もした。

「階段から転げ落ちたって聞いたけど、大丈夫?」
「え?」

 階段から? 意識があったのは、殴られている時。以降はない。記憶が飛んだことを疑ったが、決してそんなことはない。

 となれば、嘘をついたのか。
 飛んだ、クズだな。

「でも、軽症で良かったね。まぁ、顔に痣があるけど」
「あ、はい。もう大丈夫です」

 適当に流すと、痛みに耐えながら起き上がる。

「ちょっと。いくらなんでも意識を失ってたんだから、駄目だよ」
「どうせ母にも父にも繋がらないですよね? 迎えに来れないそうです。なので、どのみちここにいるんなら、文化祭の準備を」
「いや、でも、頭打ってるかもしれないでしょ」
「打ってたら、外傷の一つあってもおかしくないんじゃないですか? なんで、大丈夫です」

 無理にでも言うと、逃げるように扉を開け、「失礼しました」だけ言うと、教室へ向かって行く。ただ、流石に痛みに耐えかね、箇所箇所で休みながらだ。
 教室のある校舎の一階の階段付近まで来たのだが、また休む。

 ため息をつくと、偶々現れた白石と目が合ってしまった。

「大丈夫?」
「あ、うん」

 近くまで来た彼女から色々聞いてみた。あの後、何があったのか。
 男子が慌てて、急いで保健室に運んだこと。小野が口も聞かず、帰って行ったこと。それを機に次々と帰って行ったこと。残ったのは、白石だけだということ。

「なるほど。で、俺を保健室に運んだ奴らは階段から落ちたってさ」
「え」
「ま、そのまんまさ。流石だよな、クズを庇うなんて」
「…………」
「いいか? 小野は面倒だからって言って役を投げ出したんだ。そんで挙句、俺を都合のいい悪者に仕立てあげるだろうな」

 そのまま根も葉もないであろう悪口を連ねて行く。止まることを知らないほど。すると、ある程度言ったところで、白石の目に涙が浮かんでいたことに気がつく。

「ねぇ、酷いのは君だよ。小野くんが役を降りた代わりにどれだけのことをやったんだと思う? それに役を降りたのは君のためなんだよ。そんなことも知らないで、なんでそんな酷い事言えるの?」

 ひどく訴えかける目は、俺の胸をまっすぐに見つめる。

 そんなこと……。

 白石は駆け足で階段を登り、消えて行った。
 そうして俺は目標を達成したのだ。だが、その代償はあまりにも大きかった。ただ、それだけだった。

 ……知ってたよ。



 翌日以降、打って変わり、主人公役は小野がしっかりと努め、代わりに俺が教室の端に居座っていた。

 そりゃ、俺が代役でやったらバラバラになって当然でもあった。だからか、小野に変わった瞬間にまとまりは現れ、一人一人は一気に本物の役者になる。道具や衣装は最後の仕上げも一気に進み、完璧と言えるほどの仕上がりを見せた。

「よし、こんな感じいいだろう。明日、本番も頑張ろう」

 そんな声を背に帰り道をノコノコと歩いて帰る。
 勿論、噂は風の如く広がり、俺の学校生活は底に着いてしまった。
 本当に、バカだよな。こんなしょうもないことで自分の評価を地の底へと押し付けるなんて。しかも、一切俺に何の得もないとは。

 あれ以降、台本は新しい方を受け入れられたが、小野の提案で、俺の名前を台本係から消し去った。まぁ、飛んだクズっぷりだ。あれだけしてやった友に仇で返すとは。本当に後悔しかない。

 あの時のことだって言えば、いとも容易く小野を退学にさせることも出来る。
 が、今はしない。この先こそ分からないが、少なくとも文化祭が終わるまでは抑えることにした。

 そして、当日。想像以上の賑わいに後者は包まれた。

 そんな中、風のように時間は流れ、いつの間にか発表の時間がやってきていた。
 勿論、俺は邪魔者扱いでステージ袖にも入れてはくれず、客席からの見物となった。

『二年六組の演劇です。演目は「天使の奇跡」。クラス全員で作り上げました』

 そこに俺は含まれていないらしい。どこまでもクズな奴らだ。
 ただ、黙って、劇を見始めた。

『とある女子高校生はとても歌が上手かった。誰よりも透き通った声で、誰よりも綺麗な声音で。』

 そんな風に始まる。
 その少女を演じるのは白石。流石だ。

 この学校の歌姫とも言われるだけあり、その天使のような歌声で俺の書いた詩に色を与えていく。メロディーはピアノが描き、鮮やか過ぎるほどにまで色づいている。

『その女子高生はある一人の男の子に想いを寄せていた。』

 小野がその役者。
 ただ、俺の想像とは遥かにかけ離れている。いや、作品からも遥かにかけ離れていた。演技も主人公像も。

『しかし、その男の子は幼馴染に好意を示す。』
『その幼馴染は別の男子と付き合っていた。』
『付き合っている男子は、歌の上手い女子に一目惚れしてしまう。』

 絶対に未来のない四角関係のお話。誰も報われるはずがない、なのに、釣り合ってしまう不思議な関係。そこにあるのは、交差し合う想いが描き出す人間ドラマ。
 それをこの小さなステージの上で物の見事に演じて見せていた。本当に醜く、綺麗で仕方がない。

 ミュージカルではないが、いくつかのシーンごとに歌が入れらている。正直、こんなのは演劇として反則に他ならない、なんて言われてしまえば、返せる言葉もないのだが。

 文芸作品を評価され、演劇での脚本を評価され、いつの間にか『素晴らしい作品』を生み出すこの手には丁度いい機会でもあったのかも知れない。

『そんな日々の中、ある一人の男子の介入で全てが崩れてしまった。』

『均等が取れなくなり、互いに合わない想いの矢印は空回りを繰り返すばかり。』

『揺れるに揺れた想いは最後、告白という形で吐き出される。』

『無駄を分かった上、傷付くことを分かった上での告白。』

 青春に流れて行く人間ドラマは、どこか切なく、どこか儚く、どこか美しい。
 俺はこんな風でいたのか。報われないながらも輝けたのだろうか。
 そんな心のまま、劇を見て行く。

 そして、突入した最後のシーン。
 俺の最初に書いたのは、主人公とヒロインはすれ違い、行先も別れてしまう。それを嘆き、悲しげに歌い、それでも先へと進むという終わり方をした。

 だが、変更した物語では、最後の最後でヒロインは主人公に想いをぶつけ、報われないながらも、満足げな笑みを浮かべる。そして、涙を流しながら歌う。そんな終わりを描いた。

『好きだった。好きだったけど、もうこれでいい。このままでいい。』

 最後、歌い上げ、照明が消えて、幕は閉じた。

 会場は、いまいちしっくりこない終わりに未だ混乱を見せ、静寂を装うが、『これで二年六組の演劇は終わりです』とのアナウンスが流れた途端、ハッと我に返ったように拍手が起きた。

 それだけ聞くと、会場からそっと抜け出す。
 扉の近くの教師に「トイレに行きたいんです」なんて嘯き、逃げ出すように走っていった。
 向かう先はあの体育館裏。
 必死に想いを堪え、辿り着くとあの時の状態で立ってみる。

 大きく息を吸い込み、吐き出した。
 ……報われた。

 たった拍手の嵐で良かった。作品を讃えるその拍手だけで。それだけで、ここの生活を最低なものにしてもいいと思う。俺にとっては、アレが最高の価値なのだ。そのためには何もいらない。
 俺にとって、賞状もトロフィーもお偉いさんの評価は何の価値も有しない。ただ、観客が見て、楽しみ、そこに感動を有した拍手さえあれば良い。
 それだけで、あんな馬鹿みたいなことをする意味はあった。

 溢れそうな想いをひたすらに我慢し続け、心の器はもうヒビだらけ。もう、泣いてもいいんだよな。
 一つ頬を伝ったその涙をきっかけに、一気に抑え込んでいたものは涙になって溢れかえる。

 これでいいんだ。これで。
 そう何度も心に訴えかけ、俺の文化祭というステージは幕を閉じ、憎まれ役は終わった。
 俺も飛んだクズだよな。



 閉会式も終わり、ある程度片付けも終わると、クラスは打ち上げだの、後夜祭だので盛り上がっている。
 一方、お呼びでない俺は、バックを持ち、帰路に着こうと教室を出た。

 そうして、下駄箱へと続く階段を降りようとした時、前から登ってきたのは白石だった。

「宮野くん。あの……」
「あ、そうだ。小野が呼んでたぞ」

 遮るように、話を逸らす。

「ねぇ、翔くん」
「じゃ、俺帰るから」

 これで良い。何もないことにしてくれたほうがいい。いっそ悪者に仕立て上げてくれ。
 ただひたすらにそれを願うばかりだ。

「……ごめん」

 ボソッと聞こえたその声と反対へと向かう足音を聞くと、階段を降りてく。
 役者というのは、本当に大変だ。
 演じた役柄が印象になってしまう。
 憎まれ役を演じただけなのに、こう終わってもその役柄の印象は俺にぴったりひっついてしまった。

 それでいい。

 心に渦巻く怒りをなんとか割り切りながら、銀杏散り行く文化祭の帰路に着いた。

雪降る日に禁断の果実は芽吹く

 久々に降る雪の日に、感慨深く写真を見つめる彼女。どうして俺はそんな様子に見惚れているのかは分からない。でも、惹かれるところがあるのは事実だった。

「さ、行こっか。お兄ちゃん」
「はいはい。戸締りは?」
「オッケー。ほら、早く」

 リビングの電気を消し、廊下に出て、バックを拾い上げる。それにしても、学期末試験前というだけあって、いつもの倍くらいの重量をしている。これを持って四十分の道のりを、それも雪道を歩くとなるといよいよ気が滅入りそうだ。
 まぁでも、行くしかない。

「鍵は?」
「持ってるよ。早く」
「はいはい」

 革靴に足を入れ、かかとを合わせる。そして、鏡の前に立ち、タイを軽く締めると、大きく一息して玄関を飛び出した。

 今年は珍しく霙にもならず、雨なんかが降らなかったせいで雪が積もってしまっている。
 車通りの多い辺りは言わずとも除雪がなされているのだが、ほんの少し人通りの少ない脇道に入ると、ザクザクした感触が足を着ける度に襲うような白銀一色だった。

「久々だね、こんなに積もってるなんて」
「だなぁ」
「お祖父ちゃん家を思い出すね」
「そうだな。あそこ、山奥の田舎だから余計に酷いし」

 笑い合いながら、ゆっくりと歩いて行く。
 雪に足元を救われる危険性なんて、祖父母の家の近くで嫌と言うほど身に染み付いている。それに、靴は防水仕様に変更済みなのだから、何も慌てる必要性もない。
 ただし、気になる事はあった。

「んで、なんで俺らは回り道してんの?」
「へ?」

 いつもと違う道、それも見たこともない道、未知の道だ。てか、上手いこと言ったな。
 ただ、いつもの倍くらい右折や左折を繰り返していることはよく分かる。

「いや、どう考えてもいつもの大きな道の方が早いだろ? こんな田舎道通るよりさ」
「はぁ」

 溜息だ。溜息吐かれた。妹に呆れたような溜息吐かれた。全く、どれだけ無礼なことをしているのか分かってるのか、こいつ。

「あのねぇ、こっちの方が早いの」
「えっ」
「お兄ちゃんは知らないかもだけど、角のいつもパン屋に寄るために回り道してたの。普通に考えて、こっちの道の方が圧倒的に早い」
「はぁ? なんで?」
「なんでって言われても、こっちの道が近いからに決まってんじゃん」
「えぇっ」

 はぁ。
 こいつに道を任せておくんじゃなかった。まぁ、こいつ任せにしていた俺が言える話でもないが。

 そんな下らない話をして、適当に歩いた。四十分なんて、こうしていればあっという間。勿論、いつもは自転車での登校だから、倍以上の時間がかかっていることは間違いない。ただ、話すことが尽きない以上、体感時間なんて変わりはしない。
 とまぁ、そんな感じで、いつの間にか校門前まで着いていた。

「んじゃ」
「はいはい。また下校の時に」

 一旦の別れを言い、バラけて下駄箱へ向かうも、まあ顔が合わないはずもない。
 彼女は同じ学年なのだ。同じエリアに下駄箱があるのは必然と言っても過言ではない。一応、クラスは違うが。

「ヤッホー、颯太っち」

 上履きに履き替え、革靴を取り、下駄箱にしまおうとして背を丸出しにした瞬間、思い切った全力の張り手が背骨のど真ん中に繰り出された。
 パンッ。
 それはそれは甲高く、いい音が鳴った。勿論、それ相応の威力があったわけである。
 次の瞬間、全身に走る衝撃、巡る神経に走る電撃、情報が集う脳、その全ては等しく重大なダメージとして換算される。それに耐えかねた体は喉から出る嗚咽に最期のSOSを残し、全機能を停止した。

「……って、死ぬとこだった」

 何とか踏ん張り、機能を回復させた後、すぐさま後ろを振り向く。

「おいコラ、晶」
「何?」

 そこには、呑気な雰囲気の中で満面の笑みを浮かべている人物がいた。
 偶々中高と同じ学校で、現同じクラスである仲井 晶。この女子は同じ部活だということや同じ趣味をもっているなど、俺との共通項の多い人物で、唯一話が出来る人でもある。
 ただ一点、暴力的なのを除けば良い奴なのは間違い無いが。

 そんな奴と改めて朝の挨拶を交わし、昨日配信された動画の話なんかで盛り上がりながら教室まで歩いて行く。
 俺自身もつい熱くなってしまい、ふと気付けば周りの視線はしっかりとこちらへと向いていた。

「今日もお似合いで」「相変わらずだね」「なのにねぇ」「良い夫婦だことで」

 そんな野次にもならない話し声までしっかりと飛んでくる。
 なんとも恋愛沙汰にうるさい人達だことで。まぁ、何よりもこんなことを言われていても尚、動じない晶も晶だが。

 教室に着くと、自分の席に座って朝の支度を終わらす。ついでに午前中の科目の教科書も揃え、引き出しに入れておいた。
 そして、ようやくゆっくり無駄話が出来ると思えば、生憎ながら担任のご到着。無論、チャイム付き。
 結局、退屈な学校生活の一日がまた始まってしまった。

 朝のショートホームルーム。長い話が終わり、ほんの少しのトイレ休憩を挟んで、退屈極まる古典の授業が一発目。地味に寝不足な今日に限って。ついてない。

 何とか寝ないように、ほんのちょっと外を見てみると、軽く息を飲む。
 こっちでは中々見ない白銀世界。

 やはり例年とは違い、雨もみぞれも無かったせいか、本当によく積もっている。いや、単にここから見えるのは車通りの少ない農地ばかりだからだろうか。
 とにかく、綺麗な事は間違いない。

 はぁ。

 それに今日の雪、あまり汚れが多くないとは。本当に珍しいことばかりだ。
 そんな中、不意に脳裏を横切る記憶の数々。それはきっと、今日があの日とよく似てるからだろう。

 ✳︎

 それは風花舞う朝の事だった。

 俺と父は二月のある三連休に、長野に住む祖父母の家に帰省していた。そんな時に、俺は「新しいお母さんと妹が来る」と言われた。しかも、それが当日の朝起きたばかりの話。
 訳も分からないまま着替えさせられ、「しっかり名前を言うんだぞ」「行儀良くしろよ」なんて言付けられた。

 そして九時を過ぎた頃、俺と父の前に一人の女性と、その女性の影に隠れる一人の少女が現れた。

 玄関で、彼女らは「これからよろしくお願いします」なんて父に向かって言い、お辞儀を一つした。「こちらこそ、よろしくお願いします」なんて言った父はお辞儀をして返す。それに合わせて俺も頭を下げた。

 いくら小さかったとは言え、物心がない訳じゃない。正直言えば、複雑な心境ではあったんだと思う。だからだろうか、とにかく不機嫌だった。

「そちらがお子さんですか」なんて、その女性は視線を逸らしているこちらの顔を覗き込んでくる。それに気付いた俺はさらに顔を伏せた。

「えぇ。ほら、挨拶をしなさい」

 そうやって背中を押され、促されるが、凍り付きそうな空気に呼吸を切らし、軽く咳き込んでしまった。

「あっ、うんと、無理しなくて良いのよ」

 その女性が言い放ったこの一言が何故だか気に食わなかった。どうしてだろうと考えても、やはり何となく不機嫌だったとしか言えない。
 ただ、変にムキになり、「颯太。三ツ井 颯太」なんてぶっきら棒に口にする。

「こらっ。挨拶するときはちゃんとしなさいって言っただろ?」

 それでもそっぽ向く俺に頭をポンと叩いた父はすぐに「すいません。うちの子が」なんて謝った。でも、その意味はよく分からない。

「大丈夫ですよ。まぁ、いくら子供でも、そりゃ思うところくらいあるでしょうし」
「いや、でも、本当にすいません」
「本当にいいんですよ。うちの子も、ほら。今はこんな状態ですから」

 ひんやりとした空気が暖かい部屋から追い出された様に流れ込んで来る。それのせいで余計に苦しくなり、また咳き込んでしまう。
 更に、玄関の見えない隙間から染み出して来た冷気も相まって、その寒さについ足が震えていた。

「挨拶はこのくらいで十分ですね。さぁ、寒いでしょう。早く上がって下さい」
「え、えぇ。ほら、行くわよ」

 女性に引っ張られる様にして少女は靴を脱ぎ、玄関を上がっていく。そして、その少女が俺の横を通り過ぎようとした時、彼女と目が合った。途端、反射的に彼女の手を掴み、「こっちに来て」なんて言って、軽く引っ張った。

 勿論、その少女やその女性も驚いただろうし、父だって目を丸くしていた。でも、何よりも俺が驚いた。何でこんな行動に出たのか分からないのだ。
 俺自身、あまり父を困らせたり、怒らせたりするのは好まない。いやむしろ、そこまでして何かを為そうとしたことはない。なのに、こうして絶対怒鳴られるような事だと分かっているのに。それでも、なんとなくそうしなきゃいけないと思ったのだ。

 すると、彼女はうんと頷いて、しがみつくようにその女性の袖を握っていた手を離し、俺の手を取って、俺の行くままについて来たのだ。

「こらっ、颯太」
「まぁまぁ。彼、確か同い年なんですよね?」
「まぁ、そうですけど」
「なら、良いじゃないですか。一番懸念していた問題がこうも早く解決してくれるなんて」
「はぁ」
「あの子達はあの子達なりに話し合うんだと思います。ですから、私達大人は大人の話をしましょうか」
「……分かりました。では、こちらに」

 そんなやり取りを背に、逃げるように階段を上がって、俺の部屋へと入ると、鍵を閉める。ただ、必死だったということもあり、これだけで流石に息を切らしていた。

 まぁ、俺がこれだけ疲れているのだから、彼女もだろう。なんて気持ちで用意したジュースを手渡そうとすると、彼女は顔色一つ変えず、ただ部屋を見渡していた。

「……はい、これ」

 それでもせっかく用意したのだ。渡さないわけにはいかない。

「ありがとう」

 意外にも、彼女はすんなりと受け取ると、一気に彼女は飲み干して、また部屋をキョロキョロと見渡す。でも、なんとなくそれが普通の反応なんだろうと感じた。
 そんな切り出し難い空気を踏ん張って払い退け、口を開き、声を出す。

「ねぇ、君は嫌じゃないの?」
「…………」
「ねぇってば」
「……君じゃなくて、由実」
「ゆみ?」
「うん。私の名前」

 困惑。でも、飲み込む。

「分かった。……で、由実ちゃんは嫌じゃないの?」
「何が?」
「ほら、父さんとのこと」
「嫌? なんで?」
「なんでって。ほら、由実ちゃんのお父さんは?」
「いない」
「いないって」
「死んじゃったの」

 戸惑い。それこそ、一瞬自分の軽率さを恥じた。

「ごめん」
「いや、いいの。父さんが悪いから」

 彼女はそれ以上喋ろうともしなかった。そして、俺もそれ以上は聞こうとはしなかった。

「じゃあ、なんで俺について来たの?」
「来てって言われたから」
「え?」
「だって、来てって行ったでしょ?」
「いや、そうだけど、でも、もし俺が怖い人だったらどうするの?」
「別に。その時はその時」

 呆然とした。ただ「来て」の一言で見知らぬ人について行くなんて。そんな時に、俺は何を思ったか、変な正義感を前にぶら下げ、説教を垂れたのだ。
 見知らぬ人について行ってはいけないだとか、危ないだとか、そんな台詞を並べて、勝手にお兄さん面して声を上げた。

 そんな俺に、勿論彼女は泣いた。
 瞳に澄んだ涙を浮かべ、出てくる息は嗚咽混じり。彼女は両手で涙も鼻水も拭くが治りはしない。流石に引け目を感じた俺は、その時に一番大事だった自作の手拭いをあげ、なんとか泣き止んでもらった。

 そんなのが彼女との出逢い。
 それからというもの、痴話喧嘩こそあったものの、大きな喧嘩なんてなく、それこそ仲睦まじいなんていう言葉が合う程、仲が良かったと言う。ただ、俺からしてみれば、妹の方が一方的に甘えて来たように見えただけだったのだが。

 ✳︎

 そんな過去の記憶を窓に浮かべていると、あっという間に午前中が終わった。

 いつもに奴らと下らない話に花を咲かせつつ、お昼休みを経て、眠さが一向に増す午後の授業へと突入する。
 これがまた倫理の授業で、眠さ紛れにまた外を見る。

 はぁ。

 あぁ、そう言えば、あの日も雪だったっけ。

 ✳︎

 確か、一年生の時だったと思う。

 その日は雪ともみぞれとも取れるようなあまり良い天気ではないかった。ドス黒い雲に覆われていたその日、放課後に晶が俺を屋上へと呼び出したのだ。
 勿論、天気の悪い日に屋上に行く馬鹿なんているはずもない。だからこそだったのだろう。

「好きです。付き合ってください」

 いざ行ってみて、最初に言われたのは、たった一言だけ。それからしばらく続いた沈黙の後、俺は決まり切った答えを無慈悲にも口に出す。

「ごめん」

 晶自身、成功すると思っていたのだろう。彼女がその言葉、意味を認識すると顔の血の気がみるみる引いて行くのが、見ていてもよく分かった。

「……そっか」

 濡れ髪を揺らすように吹き付ける雨風は俺と晶の間を勢いよく通り抜けて行く。

 それでも、彼女は続けた。

「好きな人、いるの?」

 その質問に、俺は答える。

「まぁ」
「誰かと、付き合ってるの?」
「うん」
「そう、なんだ」

 晶は段々とこの天気に染まるような顔色を見せると、さらに続ける。

「折角だからさ、応援したいな。誰?」

 その質問に、俺は答えなかった。

「ねぇ、何で教えてくれないの?」
「……悪りぃ。言えない」
「だから何で?」

 そう言って詰め寄って来る冷気に満ちた晶の眼には黒く濁った涙が浮かんでいる。そして、何かに気付いたらしく、肩がプルプルと震え始めた。

 次の瞬間、一言。

「そう言うことか。……なら、言っておいてあげる。血が繋がってないからって、兄妹でなんて気持ち悪いよ」

 何故、それを知っていたのか、そんなこと分かりはしない。だが、その口振りを見るに、察したことが出来事出来事を繋げたんだろう。

「……何でよ。どうせ結ばれることなんて永遠にないじゃん。応援なんて……」

 はち切れそうな声で呟く。でも、それはしっかりと俺の耳にまで届いている。ただ、この気温のせいか、頭は冷め切ってしまっていて、登る血も熱くはならなかった。
 悪化の一途を辿る天候の中、晶は俯いたままだ。

「……何とか言いなさいよ」

 それでも俺は口を開かない。

「あっそ」

 すると、曇り切った眼のまま、俺の頬に一発。
 痛い。辛い。
 急に雨に変わった天気は容赦なく叩き付け、冷たさを押し付けてくる。そんなのは御構いなしで「じゃあね」なんて言うと、晶はその場から姿消した。

 控えめに言って、最低な日だった。

 ✳︎

 ふと我に帰った時、早くも今日の全ての授業は終わっていた。

 はぁ。

 テスト前の貴重な授業だというのに、眠気覚ましと言ってぼぅっと授業を過ごしてしまうとは。失態だ。

 大きく溜息を零すと、すぐさま担任が教壇に立ってしまい、帰りの支度も出来ていないまま、帰りのショートホームルームを受ける。
 授業中に眠気を我慢したせいか、今になって押し寄せる眠気は倍近い。お陰で欠伸をしてしまい、大声で名前を呼ばれ、みっちり怒られてしまった。ついでに、軽い笑われ者決定だろう。

 はぁ。

 今日は幾度溜息をついたことか。その分だけ幸せが逃げるんだとすれば、一体何ヶ月分の幸せが飛んで行ったことか。
 そんな上な空で長ったらしい話を聞き流し、ようやくとも思える帰りの挨拶で、今日は終わった。

「なぁなぁ、颯太。今日部活は?」
「何言ってんだよ。テスト一週間前だぞ」
「うちんとこはあるけど? ないの?」
「あー、晶んとこみたいな強豪部活じゃないからな」
「弱小部活、乙」
「おい、笑うんじゃねぇよ」

 晶はあの日以降でも、何事もなかったように接して来る。
 勿論、俺自身には抵抗があったことは否めないが、そんなことも冬に置いて来たかのように、進級した頃には忘れてしまっていた。

「じゃあね」
「じゃあな。部活頑張れよ」
「はーい」

 見送った後、また大漁の教科書類を鞄に詰め込み、階段を降り、下駄箱で履き替え、校門へと向かう。

 流石に完全防水でないのと、単純にこの低気温というのが綺麗に交わり、靴の感触は最悪だ。それに耐えながら、赤い傘を探す。ただ、目立つ色なだけあって、さほどの時間も掛からず見つけられたが。

「おーい、由実」
「遅いんだけど」
「ごめん。てか、うちの担任に文句言ってくれよ」
「はいはい。んじゃ、帰ろ?」
「ん」

 校門を出てしばらく行った先、二つ目の信号を渡った後は俺たち以外の生徒は通らない。
 無論、しっかり後ろを確認しておき、信号を渡って進んだところで、傘を左手に持ち変える。
 軽く視線を送り、手袋を右手だけ外すと、彼女の左手を取った。

「寒いな」
「だね」
「ちょっと急ぐ?」
「いや」
「そっか」

 血縁でなくとも、俺と彼女の間にあるのは兄妹。絶対に他の関係は入らない。そんな事、承知の上なのだ。

 絶対に報われない恋。

 いつか、どこかで必ず終わると知っていても。強く握る手がいつか離れると知っていても。

 寄り添う二つの影は雪の白さの向こうに消えていった。

続く一年、彩られた恋

 絶対に報われない恋。

 それは多分、儚く切ない。そして、この世で最も美しいものなのだろう。
 そんな訳も分からない理想論を噛み締め、ほろ苦い想い出と共に最後の終業式を迎えていた。

 これからは受験という壁に阻まれるだろう。だが同時に、大切な思い出も欲しくなる。
 その葛藤は人生で一度きりに他ならない。
 大学受験を前にした時だけに、高校三年生という肩書がある間だけに起こり得るもの。
 青くも淡い、春よりも鮮やかな一年間だけに生まれるお話。

 そんな事が待っていようとも知らぬ子らは、目の前の課題に追われていた。



 誰も知らない中で、再び桜は舞い始めた。

 散り行く花さえ美しいと価値をつける。消え行く花火でさえ美しいと嘆願する。枯れていく葉にさえ美しいと言葉に詠む。解け行く雪さえも美しいと鑑賞する。
 そんなのが人なのだ。

 そうであるならば、この桜吹雪の向こうにある恋はきっとより美しく見えるのだろう。

 誰にも知られないごく普通の恋の物語。

 そして、そこにある儚さこそが人生だった。

拝啓、桜の花々が散り行く頃

 寒さに眠る季節も超え、一度全てに終止符が打たれていくこの時期。僕もまた自らの想いに終止符を打とうとしていた。

 桜の雨の中、傘も差さずに歩いて行く。いつかの誰かさんと同じようにしてここを歩くなんて、僕も随分と彼女に影響されてしまったらしい。
 そんな事を思いながら、鞄から一つのキーホルダーを取り出す。その中には青い花が散りばめられていた。
 彼女からの最後の贈り物。

 この花って確か……。


「勿忘草。花言葉は『私を忘れないで』」


 そんな事を最期に教えてくれたんだっけ。彼女の声を思い出すだけでも、不思議と胸が暖かくなった。
 全く、随分なロマンチストなことで。こんな小洒落たメッセージを残さなくても僕は忘れないと言うのに。

 差す陽光に目を細め、流るる水の音に耳を澄まし、時より髪を揺らす春風に想いを募らせた。

 あれからもう二年が経つのか。
 彼女の隣にいたその時ばかりは、一年、一ヶ月、一日、一時間、一分、一秒、一瞬、刹那の時間が長く感じられたと言うのに、今となってはそれもあっという間だった。

 僕らは否応なしに時の流れに流されてしまっている。多分、もう彼女が知ってる僕とは随分かけ離れてしまったのだろう。
 もしまた会うことができたのなら、伸びた身長、増えた体重、少し伸びた髭、大人びた顔立ち、その全てに驚かれてしまうに違いない。いや、それとも空の上から見てくれていて、全て知っているのだろうか。

 思う所は沢山ある。伝えたい事だって山の様にある。
 そんな事を頭で整理しながら、一歩、また一歩と歩んでいく。

 本当だったら、バイクで行った方が速いに決まっている。わざわざ、お昼前に家を出る必要だってなかった。
 でも、どうしてもあの日と同じ様にしたかった。特に、今年は桜の咲いている時期は短くなる分、壮大に咲き誇っているのだと言うのだから、余計にそうしたくなってしまったのだ。


「ねぇ、知ってる?」


 不意に蘇る声。
 ハッと周りを見渡してみると、『桜下橋』と書かれた橋のたもとに寄りかかる影が視界に映る。だが、一度瞬きをしてみると、影は消えた。

 あぁそうだ、ここで一旦休憩したんだっけ。
 その時に、彼女は桜について一つ教えてくれた。


「桜の花言葉って『純潔』とか『美しい女性』なんだけどね、江戸時代までは『死』を象徴する花だったんだよ」


 そう言って浮かべた悪戯な笑みの奥に秘めた本当の表情があった。それはきっと、泣いていたんだ。まぁ、そんなことに気付いたところで今更なのだが。

 大きく息を吐くと、また一歩、一歩と踏み出した。
 足音は記憶と重なり、街の音は彼女の声に重なる。それでも、歩き続けた。

 気付けば、空はオレンジ色を追い出す様に青が迫って来ている。

 四つ目の橋の向こう。桜並木を外れ、すぐの場所。
 ここにやってくるのは、これで五回目だ。とは言うものの、一昨日に一度訪れたばかりなのだが。

 ここには至る所に、様々な形の石が沢山置いてある。
 その中で僕は、『宮下 花奈之墓』と書かれた立派な石が置いてある前に立つ。まだ残る線香の香りが漂い、左右には色鮮やかな菊の花々が供えられてある。

 ここは、彼女のお墓だ。
 僕自身、正直、こんなところで彼女が眠っているとは思ってない。だが、きっとここで言った言葉は届くのだろうと信じている。

 そして、ここにきた理由は、渡すものがあっただけである。
 一昨日は三回忌法要を行い、彼女に挨拶はしたのだが、その時に渡せなかった物があった。ただそれだけのために、こうしてきた。だが、それは僕らにとっては大切なことでもある。

 鞄から取り出した小瓶に組んできた水を入れ、そこに小さな花を挿す。そして、手を合わせ、目を瞑り、言葉を口に出す。
「返事はここに置いておきます」
 それだけで目を開き、荷物を拾い上げ、帰路に着いた。


 夕暮れに染まる彼女のお墓には小瓶に挿された胡蝶蘭の花が鮮やかに咲いていた。

純潔にも毒あり

 川の音が聞こえるこの小道は桜一色に染まっていた。雲一つない快晴の下に咲き誇る花々はとても美しい。その美しさと言えば、見るものを魅了し、時間さえも忘れさせてしまう程。まるで、桃源郷へ続く道にも思える。
 そんな風景の一瞬を切り取り、フィルムに収めていた。

 この春、僕は高校生になった。と言っても、入学式はつい数日前のこと。
 ここしばらくは、オリエンテーションやら説明やらばかりで、午前中には学校が終わってしまう。
 だからこうして帰り際に制服のまま、そろそろ時期も終わる桜を撮りに来ていた。

 幾度もシャッターを切っていたが、不意に吹いて来た風に少し手を止めた。

「ねぇ、そこの君」

 風に乗って、飛んで来たかのような声に振り向く。

「知ってる? 桜の花にはね、毒があるんだよ」

 桜の雨の中、物思いに耽るように桜の木を見つめる少女が立っていた。春風に靡く透明な髪、白いレースのスカートは舞う花弁のように揺れている。
 彼女が持つ美しさは、桜そのものに感じた。

「美しく咲き誇るために、自分の根本にある小さな命を刈り取るって理由でね」

 そう言う彼女は、意味深げに呟く。
 つい、そんな様子に僕は、見惚れてしまっていた。

 勿論、彼女の正体なんぞ、この高校に通っていれば誰もが知っていることで、「貴女は誰?」なんて、聴くまでもない。

「宮下 花奈先輩、ですよね?」
「私のこと、知ってるの?」
「まぁ。同じ学校ですし」

 これだけの美人で、花に詳しく、淡いピンク色をした桜の髪飾りをしている人なんて、彼女の他で聞いたことはない。

 それにしても、実際に会ったのはこれが初めてだが、噂に違わぬ美人さに少しくらいは驚いている。ただ、さして態度に出すほどでもなかったが。

「君、名前は?」
「高野 光輔です」
「光輔くんね。よろしく」

 そう言って、こちらに見せた笑顔はとても可愛くて、惹かれてしまった。大人な顔立ちなのに、浮かべるのはあどけない笑顔。それは相対するものなのに、綺麗だった。

「ねぇ、今お花見してるんだけど、これも何かの縁だし、ついて来てよ」
「え? は?」
「ねぇ、ほら」
「ちょっと」

 彼女は急に近寄るや否や、僕の手を取り、半ば強引に引っ張り、歩き出した。
 勿論、困惑や気後れこそはあったものの、別に悪い気はしない。むしろ、男子とすれば、それこそ願ってもいない絶好の好機に他ならないのだ。なんて、ちょっとの下心も持ちながら、彼女の背後を歩き始める。

「クラスは?」
「一年四組です」
「へぇ、新入生か」
「はい」
「じゃあ、これから面白い高校生活が始まるのか」
「まぁ」

 時折、通り過ぎる車の音に苛まれながらも、花見をして行く。その内、気が付けば、彼女の速度にも慣れ、一緒に歩いていた。

「そのカメラ、写真部希望?」
「いや、取材、みたいなものです」
「取材? 何の?」
「絵です」
「ふーん。絵を描くんだ。じゃあ、美術部?」
「いえ、今のところ部活には入らない予定です」
「なのに、なんで写真なんか撮ってるの?」
「趣味です」
「へぇ。いい趣味してるね」

 それにしても、彼女は初対面である僕に対して、何の抵抗もなく話をしていく。
 何故だろう? そんな疑問は最初こそ抱いていたが、暫くして仕舞えばどうでも良くなってしまっていた。

 それから、何気ない会話を交わしていくうちに、足並みは自然と揃っていた。
 時々、薫る春の花を横目に、色々なことを教えてくれる。花の色や芽吹く時期から花開く季節まで。それから、花言葉なんかも。

 そんなこんなで、いつの間にか時間は経っており、空も緋色に焼け始めていた。
 そんな時、彼女はふと足を止める。

「ねぇ、最初に言ったこと、覚えてる?」

 最初に言ったこと? 思い返してみるが、ついさっきのことだと言うのに、映像は浮かんで来るのだが、決して彼女の言葉だけ抜け落ちているように感じた。

「まぁ、そんなもんだよね」

 そんな彼女の顔には、呆れも失望も浮かんでいない。そこにあるのは、どこかやるせなさが籠もった笑顔だけだ。

「あのね、こんな綺麗な桜の花にも毒があるの」

 そう言って、桜色の花風は二人の間を吹き抜けていく。

「綺麗な薔薇にはトゲがある様に、こんな綺麗な花にも毒があるんだよ」

 僕はまた、つい魅せられてしまった。
 淡々と並べていく言葉の裏にあるのは、何なのか。
 浮かんでいる表情の裏にあるのは、何なのか。
 美しい彼女の裏にあるのは、何なのか。

「それってさ、人間みたいじゃない?」

 哀愁に染まった声で、投げつけられる内なる想い。
 それがどんな意味を持っていたのかなんて、一瞬で理解出来てしまう。でも、僕は何も出来なかった。

「自分を綺麗に見せるために誰かを蹴飛ばして、自分を美しく見せるために誰かを踏み滲んで」

 込められているのは憎しみなんていう醜い感情ではない。
 誰かを恨むような目でも、誰かを嫌悪するような声音でもないのだ。
 何か、運命やこの世の摂理が間違っているとでも言いたげな様子だった。

「君は、どう思う?」
「僕は––––」

 それは、決して難しい話ではない。けど、簡単な答えなどどこにもない。
 ある種、迷いのような感情に押し潰されてしまった。

「無理に答えを出さなくて良いよ。けど、代わりにさ、最後まで付き合ってもらってもいい?」
「……はい」

 すると、彼女は淡いピンクの道を降りて、アスファルトの道を歩いていく。それに黙って僕はついて行った。

 少し進んだ所、そこにあったのはお寺だった。

 敷地に入り、本殿を通り過ぎた先、そこには小さな霊園がある。見えるのは、苦労なく数えられるほどの墓石。ただ、そこそこな良いものばかりが揃っていた。
 そのまま少し奥の方へと進んでいくと、彼女は立ち止まり、そこにある墓石を指差す。

「ここが私のお墓。死んじゃったら、ここに入ることになってるんだ」

 そこに刻まれているは、『宮下 花奈之墓』の一言。それを見た瞬間、息を飲んだ。その時の彼女の顔は強張っている。
 詰まる息、流れる汗、全身を駆け巡る鳥肌。
 何故か、僕は軽く仰け反ってしまう。

「あのさ」

 絞り出した彼女の声にほんの少し驚くが、それでも向き合った。

「……出会っていきなりでびっくりしたよね。でも、一つお願いしたいの」

 止まる風、静寂な街、沈む太陽、迫る暗闇。

「私の最期の最後まででいいからさ」

 彼女の声色は澄んでいて、そして、真っ黒だった。

 恐怖。

 彼女の言の葉に込められた重みは、今までの何よりも辛く、苦しく、胸の奥を締め付けるような、そんなものだ。
 なのに、彼女の表情は––––。
 そんな様子に僕は、呆然としてしまっていた。

「……私と付き合ってくれないかな」

 でも、彼女の目に映るのは、細やかな希望。きっと、僕だ。
 何故だろうか。この人には、不思議と惹かれ、心を許してしまう。まだ、今日が初めて会った日だと言うのに。
 そして、彼女の細く透き通った腕、しなやかなで繊細な手を繋ぐ人が、どうしても僕でないといけない気がして。

「お願い、します」

 勿論、未だに整理が付くはずもない。あまりにもいきなり過ぎたのだ。
 それでも、奥底に秘めた心の叫びを聞いて尚、知らん振り出来るような強さも生憎と持ち合わせていない。
 何よりも、真直ぐな彼女の目は、僕しか見ていなかった。

 僕は……。
 僕は––––。

「よろしく、お願いします」

 そう言って、柔らかで、暖かい彼女の手を握った。
 逢魔時、揺れる陽光に包まれて結んだ僕らの仲。この出会いの最初。その全てが、何処へ向かい、どんな結末を迎えるのかを暗い影の中に示していた。

 散りばめられた、瞬く星々。浮かんでいる淡く、遠い月。風の赴くままに、何処へとも知らず流される雲。昏き夜中でも、鮮やかに咲き誇る桜。
 そんなものの下で、僕らの運命は回り始めた。



 翌日、彼女は学校で僕と接触し、以来、まるで僕の恋人のような振る舞いをした。だが、あくまで僕は彼女に合わせるだけ。
 彼女が「したい」ということに対して、それを手伝い、「やりたい」ということに対して、一緒にした。

 流石に定期試験があったり、彼女に至っては模試が立て込んでいるということもあり、幾度か離れる時期があった。ただ、それが功を奏したのか、距離感は縮まらず、また離れず、そこそこな距離感を保てている。
 こんな関係のまま、桜は緑色へと衣を変え、アヤメが咲く時期も過ぎ、気づいた頃には梅雨も明けていた。

永遠の愛は膨らみ始める

 木漏れ日がまだらに浮かぶこの小道は、日に日に高まる暑さを和らげてくれる。すぐ隣を流れる川のせせらぎは、鬱陶しい蝉の音を掻き消してくれていた。

「それで? 絵の進捗は?」
「まぁまぁ、ってところです」

 適当な会話を交えつつ、歩いていく。
 初めての期末テストという山場を越え、結果の返却も終わったこの頃は、午前中下校が大半となっていた。
 お陰で、先輩とこうして一緒に下校が出来る。まぁ、家は反対方向なのだが。

「あ、ツユクサだ」
「ツユクサ……って確か、“懐かしい関係”でしたっけ?」
「うん。ツユクサの花言葉だね。でも、まだ足りないなぁ」
「うっ、勉強不足でした……」

 最近、彼女と一緒にいるせいか、花に関心を持ち、色々調べてみたり、絵を描いたりしている。僕の机の上には、そうした植物図鑑や花言葉辞典が山積みとなっているのだ。

「ツユクサはね、葉っぱの上の水滴の“露”って言う字と、葉っぱの“草”って書くんだよ。その由来は、朝露を受けて花開き、昼になったら萎んじゃうからなんだよ」
「へぇ、なんか朝顔みたいですね」
「そうそう。英語なんかではディフラワーって呼ばれてるらしいよ」
「なるほど」

 そんな会話もちょくちょく挟みながら、さらに歩いていく。

「そう言えばさ、うちに来たことあったっけ?」
「いえ、ないです」
「そっか」

 唐突に言われた言葉に、思春期男子として一瞬ドキッとはした。だが、よくよく考えてみれば、彼女の家が植物園であってもおかしくない。
 ただ、いずれにせよ興味があるのは事実。

「じゃあ、折角だから来る?」
「はい」
「よしっ、じゃあ急ごうか」

 すると、悪戯な笑みを浮かべた先輩はちょっと駆け足で僕の先を行く。「早く早く」なんて僕を急かし、それに合わせて僕も駆け足で追いかけた。

 淡く青い空の下、緑の草木を揺らしながら吹き抜ける風。何本とある木の下、幾度と踏まれながらも凛と咲く野花。
 その全てを横目に、過ぎ行く時間に身を任せて、僕らは日常を満喫していた。
 永遠とないこの日常を。

「よ、よし、あともうちょい、だよ」

 先輩がそういう頃には、緑があまり見当たらない住宅街の一角に来ていた。ただ、時間も時間なだけあり、随分と静かだ。

「はぁ、はぁ、あ、あともう、ちょい……」
「ちょっ、一旦落ち着いて下さい」

 それにしても、はしゃぎ過ぎだ。先輩はものの見事に息が上がっている。
 まぁ、受験生にありがちな運動不足の解消としては良いのだろう。が、この人、自分の状況を分かっているのか、なんて心配になってしまう。
 肩を貸しつつ、進んで行くと、二車線もある少し大きな通りへと出た。

 そこを沿いながら、コンビニを横目に先へと進む。暫くしたところで、十字路の信号に引っ掛かり、行き交う車を見ながら待つ。
 その頃には、ある程度先輩の体力も戻ったらしく、いつも通りの笑顔を浮かべながら「ありがとう」なんて言って、僕の調子を狂わせる。

 坂を下ったところにある歩道橋を超え、小道に入っていった先。

「ふぅー、到着。ここが私の家」

 そう言って指を指したのは、焼けたような赤色をしたマンションだった。
 ざっと見て、八階建て。さして古そうには見えない。まぁ、交通の便があまり良くないことを除けば、いい物件と言えるようなところ。

「さ、早く」

 先輩は不意に僕の手を掴み、強引に引っ張っていく。まるで、出会ったあの日のように。
 連れられ、入り口を抜け、直ぐに左を曲がり、手前から三つ目のドアの前で止まる。
 そして、先輩はそのドアを開けると、「さぁさぁ、入って入って」と躊躇いもさせてくれないまま、強引に押し込まれた。

「お、お邪魔します」

 靴を脱ぎ、廊下を抜け、リビングへと出た。

「今は親いないから、気楽に居てもらっていいよ」
「え? あ、はい」
「適当な椅子に座ってて貰って良い?」
「はい……」

 促されるまま、椅子に座るや否や、先輩は隣の部屋へと消えていってしまった。

 それにしても良い香りがする。
 多分、花の香りなんだろう。なんとなく、そんな感じがするのだ。まぁ、ただ勘というか、先輩の人柄から察しがつくというか。
 でも、女子の部屋っていい香りがするとかなんとかって、クラスの誰かが言っていたような……。

 なんて、考えているうちに、先輩はティーカップを二つ持ってきた。

「ねぇねぇ、ハーブティーって飲んだことある?」
「ハーブティー、ですか?」
「そう。カモミールとか、ラベンダーとか。聞いたことない?」
「いや、ありますけど……飲んだことはないですね」
「そっか、なら良かった」

 再び奥へと消えていったかと思えば、ティーポットを手にして、来た。
 そのまま、慣れた手つきで紅茶を入れ、テーブルの真ん中の籠からお菓子を幾つか摘み、小皿に移すと、僕の前に置いてくれた。

「ありがとうございます」
「良いよ良いよ、そんなに畏まらなくて」

 ティーカップから溢れ出す湯気は、顔の近くまで立ち昇る。
 ん?
 良い香り。
 突然、ほんの少し緊張していた体は和らぎ、とても落ち着く感覚に見舞われた。

「良い香りでしょ? なにせ、私が直接ブレンドしたんですから」
「へぇ、凄いですね」
「まぁね」

 ただ、僕に褒められたのが嬉しかったのか、割と熱いハーブティーを少し多めに口に含んでしまい、先輩は軽く悶絶してしまった。
 そんな様子につい笑ってしまう。

「ちょっ、笑わないでよ」
「ご、ごめんなさい」

 らしくなく照れている様子が可笑しく、また笑ってしまう。

「それで? もう期末テスト返ってきたんでしょ?」
「あ、あまり聞かないでください」
「全く……。絵が好きなのは分かるけどさぁ、勉強もしなきゃ」
「は、はい」

 そうして、お茶とお菓子は、いろんな話が飛び交っていく間にその量を減らし、気付けば、なくなっていた。

「って、もうこんな時間だね」

 時計の針を見てみると、十七時過ぎを指している。いつしか、この部屋も、茜色に夕焼けていた。

「あ、そうだ、見せたいものがあるんだ」
「見せたいもの?」
「そうそう。ちょっと来て」

 手招きされるまま、ついていくと、小さい庭のような場所へと出た。

「これこれ」

 そう言って先輩が指を指したのは、花壇に咲く紫の花だった。
 綺麗に咲いている。葉っぱには日焼けが見当たらないし、花も小さくない。それに、雑草も生えておらず、どころか落ち葉のような物で土を覆いかぶせているようだ。
 凄い手入れだ。

「この花って」
「桔梗だよ」
「でも、桔梗って、秋の花じゃないんですか?」
「まぁ、昔の野草はそうだったみたい。でも、今じゃあ初夏に花が開いて、夏を経た上で、秋に散るんだよ」
「そうなんですか」

 なんだか、鮮やかな紫が夕焼けに染まっている姿は美しく、見惚れてしまった。

「桔梗は英語でバルーンフラワー。その由来は––––お、あった。これだよ」

 指を指したのは、まだ蕾の桔梗の花。
 それは、花弁が分かれておらず、ピッタリとくっつき、まるで紫色をした風船のようだった。

「面白いでしょ?」
「はい」

 そこから、隣に植えてある紫陽花なんかも見て、先輩は色々物知りげに話していく。
 でも、そんなに悪い気はしない。
 むしろ、何故か、どうしても僕が側に居てあげないといけない気がする。
 そんな感覚だった。

「じゃあ、戻ろうか」
「はい」

 そして、また部屋へと戻ると、先輩は何か思い出したように別の部屋へと消えると、若干焦りながら出てきた。
 「はいこれ」なんて言いながら、僕の前に出したのは、しおりだった。

「私、押し花を趣味でやってて、折角だからあげる」
「良いんですか?」
「勿論」

 と、見てみると、紫色の花弁が綺麗に挿されている。この花って。

「桔梗の花。さっき話してなかったけど、花言葉は––––」
「“永遠の愛”ですよね」
「う、うん」
「まぁ、なんとなくそんな気はしてましたけど」
「なっ……。うっ、不覚……」

 表情豊かな先輩は、しおりを持つ僕の手を握り、一言。

「あのさ、これからも、よろしくね」

 何か隠している顔だ。それでも、僕に縋り付くような顔。
 そんな先輩に、彼女に僕は答えずにはいられなかった。

「はい」

 この先に、どんなことが待ち受けていようとも。



 空は焼けた赤が藍色に追い出され始めていた。

 逢魔時。

 まだ昼の暑さが残る中、僕は彼女の家に背を向け、帰っていった。

また会う日を楽しみに

 ザ・夏。
 ジリジリと照り付けてくる中、僕と先輩は夏を満喫した。

 色々な納涼祭へ行っては、人の波に揉まれつつも、綺麗な花火を見たり。海へ行っては、先輩は泳がないくせに、やけに気合の入った水着を着てきたり。大都市へ行っては、ネットで評判なお店というお店を回り、財布を空にしてしまったり。

 そんな夏を過ごしたのだ。勿論、楽しくないはずもない。
 それでも、時は過ぎ行くもの。
 夏の暑さも収まらないまま、学校は新学期へと突入してしまった。



「それで、夏の課題の確認テストで、百点だったはずが名前を書き忘れて零点。しかも追試って」
「うぅ、ついてないです」
「ふふっ。でもさ、それも自分のミスでしょ?」
「いや、まぁ、そうですけど。……って、ちょっ、先輩。笑い事じゃないですよ」

 いや、こっちは本当に萎えているんだから。
 夏の課題の確認テストがつい昨日あり、今さっきの授業で返されたのだが、まさかの零点。
 原因は、名前の書き忘れ。て言うか、マジで試験監督の先生は何をやってたんだよ。

 はぁ。
 つい漏らしてしまう溜息に、先輩は大爆笑していた。

 そんな帰り道。やはり、こんな感じがとても落ち着く。
 色鮮やかさこそ道端からは消えて行くが、また巡る季節に乗せて命の輪が繋がれて行くのだと思うと、何となく悪い気分ではない。

「あ、そうだ」
「どうしました?」
「そう言えば、絵は完成した?」
「はい」
「そしたら、見せてよ」
「えぇ」

 正直、嘘だろ? なんて言いたかった。
 ここからおよそ倍くらいの時間をかけてうちに来るなんて無茶無謀を先輩にさせるわけには行かない。

「ダメに––––」
「と言うと思って、もう親に連絡しました」
「って、何の、ですか?」
「え? 泊まりの」
「なんで?」

 いや、平然と真顔で返されても。
 時々、この先輩は自分の状況を顧みず、心の赴くままに身体を酷使させてしまう。全く、こっちがどれだけの苦労をしているのかも知らないくせに。
 なんて、心ではボヤきつつも、一度目をキラキラさせてしまった先輩はどうやっても止められない。

 一応、「寝る場所も布団もないので、僕と同じベットですよ?」なんて言ってみるも、制止の役目は果たされない。どころか、「本当? 嬉しいな」なんて、からかい返されてしまう始末。

 まぁ、仕方がないか。
 割り切れないまま、溜息を零すと、相変わらずのクスッとした笑い声が聞こえてくる。

「ほら、そんなに溜息ばっかり吐いてたら、幸せも沢山逃げちゃうよ」
「誰のせいですか、ホント」
「さぁ? 誰のせいでしょう」

 なんて言いながら、この小道を降り、住宅街を抜けて行く。来た道をそのまま戻るのも何だし、それこそ遠回りになってしまう。
 夕焼けに沈む中、溺れぬよう笑い合って進み、愚痴り合って歩いていた。
 学校を出てから、時計の短針が一周しようとしていた頃、藍の空の下、明かりが灯らず、しみったれた家へと着いた。

「あんまり綺麗なところじゃないんで、期待しないでくださいね」
「はいはい。っと、お邪魔します」
「あ、うちも親がいないんで、気にしないで下さい」
「そうなの? いつ帰って来られるとか分かる?」
「帰って来ませんよ」
「あっ––––」
「ほら、どうぞ」

 客人用のスリッパを出すと、先輩の荷物も持ち、部屋へと案内した。
 部屋の明かりをつけ、「好きなところに座って下さい」と言うと、一度部屋を出て、飲み物を取りに行く。
 暗がりの中から冷蔵庫の柔らかな明かりに照らされつつ、コップに冷たい麦茶を注いでいった。二つ分終わると、冷蔵庫の扉を閉め、お盆にそのコップとお菓子をいくつか乗せると、戻って行く。

「すいません、お待たせ……って」

 ドアを開け、視界を部屋へと移した瞬間、全身に電流が迸る。同時に背筋がとてつもない勢いで凍っていくのが分かった。

「な、な、何やってるんですか」
「何って、着替えてるんだけだけど……あー、ダメだった?」
「部屋主不在の間に……。いや、寛いでいて下さいって言ったのは、確かに僕ですけど。どうして、そう羞恥心って言うものがないんですかねぇ」

 また溜息を吐いてしまう。
 ひとまず、僕の机の上にお盆を置き、ある程度片付けると、着替えを取り出した。

「じゃあ、着替えてきます」
「えぇ、私を置いていくの?」
「えぇ、着替えさしてくれないんですか?」
「別にここで着替えればいいじゃない?」
「嫌ですっ」

 速攻で切ると、廊下奥の角で急いで着替え、制服をハンガーにかけると、すぐに戻る。

「お待たせしました」
「お待たれされていました」
「先輩、それどう言う意味っすか?」
「え? いや、そのままの意味だけど」

 まぁいいや。
 ベット下にしまってある機材と道具一式を取り出し、棚から白紙のキャンパスを取り出した。
 ついでに、もう一つ奥からキャンパスを取り出す。そして、先輩の前に置いた。

「これが、頼まれてたやつです」
「へぇ、綺麗だねぇ。ありがとう」

 その言葉だけ受け止めると、すぐさま視線を準備へと向けた。
 ベット脇の机を隣に立て、タブレット端末をそこに置くと、電源を入れ、一枚の写真を表示させる。
 そして、鉛筆を取るや否や、早速下書きを始め、輪郭を描いていった。

 走る鉛筆にあとを追う黒い線。浮かび上がるは一輪の花。水辺に浮かんでいる一輪の蓮の花。
 流れ行く線はやがてその形を描き終え、鉛筆は知らず知らずのうちに相当擦り減っていた。

 下書きは、このくらいか。
 ふと、時計を見てみると、もう七時を指そうとしていた。

「終わったの?」

 聞こえた声にハッとなり、完全に先輩を放置してしまったことを思い出す。

「あ、ま、まぁ」
「よしっ、じゃあ、そろそろご飯でもする?」
「あ、そうですね」

 って、何で先輩がそういうことを言うのかな? なんて思ったことは秘密にしておく。
 ひとまず、要望を聞き出してみたが、返ってきた言葉は「なんでもいい」のみ。どころか、嫌いな物やアレルギーもないと言うのだから、余計に絞り込めずに、頭を抱えてしまった。

 悩みに悩んだ末、結局、元々の予定に合わせ、バターライスのオムライスにすることに決める。

「あ、私も手伝う」
「えっ? いや、待っててもらって平気ですよ」
「うーん、でも、もう待つのも飽きたしなぁ」
「はいはい、分かりました」

 画材を端に除けると、「こっちです」と台所へと案内し、冷蔵庫から色んな食材を出していく。
 そして、先輩には食材の下拵え、僕はバターライスの調理へと取り掛かり、あっという間に二つのオムライスが出来上がってしまった。
 それにしても、先輩は中々な手際の良さを見せつけてきた。全く、流石過ぎる。

 ケチャップとマヨネーズを端に、真ん中に二つのオムライスを乗せた皿を置いて、箸を添えると、僕の部屋へと移動し、奥に眠っていた机を拭き、そこに置く。飲み物を再び空になっているコップに注ぎ、これで準備は終わった。

「いただきます」
「いっただっきまーす」
「……先輩は子供ですか」
「ん? なんか言った?」
「い、いえ。なんでも」

 ケチャップをかけると、早速右端から崩して食べていく。
 うん、美味しい。やっぱりバターライスにして正解だった。ただ、出来立てな分、ほんの少し熱いが。
 箸は止まることなく、次々とオムライスを口へと運んで行き、気付いた頃には、もう皿の上にはケチャップと半熟な卵の残骸しか残っていなかった。

「ご馳走様でした」
「ご馳走様。いやー、美味しかったね」
「ですね」

 お皿をシンクの上に乗せ、洗剤につけている間、お風呂を掃除し、早速湯船を貼り始める。

「先輩、先にお風呂、入りますか?」
「あー、うん。そうするね」
「分かりました」

 そう言って、脱衣所へ案内し、バスタオルを準備すると、僕は食器を洗いに台所へと戻る。
 水でさっと流すと、水切り籠へと丁寧に並べていく。まぁ、勿論だが、こんなことにはさほどの時間は要さない。
 先輩がお風呂を上がるまでの残りの時間は、ちょっと先輩を驚かす準備を始めた。

「おーい、上がったよ」

 そんな声が聞こえることには、こっちも準備を終え、下着と寝巻きを手に、脱衣所へと向かう。

 ふぁあぁぁぁ。
 そろそろ地味に眠たくなってきてしまった。割と食べ過ぎた感があるのは否めない。

 それでも、ハッと目を見開くと、出来る限り早く、徹底的に綺麗、を心がけながら体を洗い、ササっと湯船に浸かってはすぐ上がり、体を念入りに拭いて、着替え終わると、洗濯機を早速回しておく。

 急いで風呂場と脱衣所の電気を消し、台所へ戻ると、ティーポットにタイミング良く湧き上がったお湯を注いだ。
 それとティーカップを持ち部屋へと戻って行く。

「お待たせしました」
「早いね。って、お、何? 紅茶?」
「あ、いえ。違いますよ」

 僕のベットで寝転んでいたのが、ドアを開けた瞬間、飛び上がり、こうして僕の持っているものに興味を示す感じ……。さては、何か変なことでもしてたな?
 一旦は気にしないことにして、ティーカップにポットの中身を注いでいった。

「ん? この香り––––まさか、ハーブティー? それも、ラベンダー?」
「おぉ、流石ですね。うーん、でもちょっと惜しい」

 意地悪気に告げると、六割くらい注いだティーカップを渡し、僕も手に持って、一口含んだ。ほんの一瞬だけそのままでいた後、グッと飲み込み、香りも味も堪能すると、一息吐いて、また口を開く。

「これは、ラベンダーとカモミールのブレンドです」
「おぉ。ブレンドまで覚えたんだ」
「まぁ、一番簡単なものですけど」

 先輩も一口飲み、美味しいと呟いた。

「ねぇねぇ、それ、蓮の花を描いてるの?」
「え? あ、はい」

 指差されたキャンパスを見て、答える。

「なんで描いてるの?」
「なんで? って。えーっと、単純に水面に浮く一輪の花っていうのが綺麗だなって」
「ふーん」

 すると、先輩はティーカップを机の上に置くと、キャンパスへと近づく。

「これはお昼の蓮だね」
「お昼?」
「そう。蓮の花は昼に咲いて、夜に萎む。だから、花言葉には『休養』っていうのもあるんだよ」
「へぇ」
「でも、私はあまり好きじゃないんだけどね」

 なんて、少しばかり顔に影を残しつつ、ベットに戻ると、また一口ハーブティーを飲む。

「蓮の花の花言葉は知ってる?」
「あ、えっと、確か『神聖』と『救済』と……」
「『離れていく愛』だよ」
「あっ」
「そう。これも花の特徴からきてるの。花が散る時、外側から一枚、また一枚と散っていくの。勿論、次の命へと繋ぐためなのは知ってる。でもね、やっぱりちょっと切ないかな」

 淡々と語っていく様子は、まるで出会ったあの日のようだ。そして、やっぱり何か隠しているような感じで、顔を俯けていた。
 それでも、どうしても、僕は怖気付いてしまう。

「……ねぇ」

 しかし、先輩は––彼女は違った。

「描いてもらったこの花、知ってる?」
「い、いえ。写真しか貰ってなかったので」
「この花はね、ネリネっていうの」

 一思いに全てを吐き出していく。

「あのねっ」

 でも、覚悟は決まっていないようにも見えた。

「この前の検査で、悪くなってるってことが分かってね。入院しなきゃいけないんだ」

 その言葉に戸惑う。

「しばらくは学校にもいけない。光輔君とも会えない」

 突然告げられた言葉。

「だから、この花を描いてもらったの」

 でも、気付いていた。いつかこうなることくらい。

 彼女が病気だということは、それも命に関わってしまうほどの病気だということは、出会ってすぐに知らされた。だからこそ、単に、早いか遅いかの違いだけだったのだ。
 そして、それが予想の何倍も早かった、と言うだけのこと。
 そんなこと、頭では十分理解していた。

「ネリネの花言葉は『また会う日を楽しみに』だよ。この絵があれば、頑張れるよ」

 そう言う彼女に、僕は我慢ならなかった。
 出会ったときに言えなかった一言。すべきだったけど、出来なかったこと。
 思いっ切り彼女の方へと寄り、抱き締める。

「なら、そんな顔しないで下さいよ。花奈先輩」

 涙滴る彼女の顔は、みっともないくらいにぐちゃぐちゃになっていた。



 ふと、時計を見てみると、短針はもう少しで十一を指そうとしていた。

「そろそろ寝ますか?」
「うん」
「じゃあ、そのベットで寝てもらって良いですよ。僕は布団を……」
「待って」

 すると、先輩は物悲し気な顔をすると、僕の目をしっかり見て、口をゆっくり開く。

「一緒に、寝たい、な」

 それは僕の心のど真ん中を射抜いてしまった。そのあまりの可愛さに、軽く怯んでしまった挙句、断るという選択肢を失ってしまう。



 電気の明かりが消えたこの部屋。入る光は淡い月光だけ。
 そして、僕は寝てる先輩の背中に向かって一言。

「月が綺麗ですね」

 それは、告白や好きということを表さない。
 ただただ、別れの挨拶に、恋を表す言葉に他ならないことを後で知った。

孤独の中、届かぬ祈り

 あの日の翌日の朝。目覚ましに起こされ、僕が目を覚ますと、まるで夢だったかのように、先輩がいた跡は綺麗すっかり消えていて、先輩の匂いがベットに少しあるくらいしかなかった。

 そして、一応登校での待ち合わせ場所にしばらく待ってみるも、先輩が現れることはなく、どころか、昼休みも、下校時も、先輩の姿はどこにもなかったのだ。
 そう、その日以降、先輩が学校に来ることはなかった。



 それから、色々な行事を僕は一人で過ごして来た。

 だが、そんな間にいつしか、僕の見る世界から色が消えてしまっていたのだ。
 蓮の花を最後に、どんな物を見ても、色褪せていて、モノクロ映画にいるかのように錯覚している。
 これが映画のように、フィクションだったらいいのに。
 そんなことさえ思いながら、今日も葉さえもついていない桜並木を通りながら学校へと登校していた。

 まぁ、クラスに特別仲のいい人も居らず、憂鬱感残るまま誰とも話したくないといこともあり、ずっと一人で音楽ばかりを聴いている。

 授業も、上の空のまま受けているせいで、期末テストは最悪。

 やがて、芸術の授業で僕の目に異常があることが発覚し、すぐさま受診した病院では、心因性の色覚異常だとかなんだとか。

 別にそんなことはどうでもいい。
 ただただ、また絵が描ければいいのだ。

 そればかり唱えてみたが、速攻で精神科へと回され、話はカルテの中だけに残され、解決方も教えてくれないまま、言われたことは「辛かったね」と「また次も話を聞くから」だけ。
 一応、学校から言われていることもあり、通うだけ通っているが、いつになっても変わらないことに、いい加減、僕も耐え切れなくなってしまう。

 あぁ、もしかしたら僕は本当に、どこか異常なのかもしれない。そう思いながら、毎日、何粒もある薬を一日に三度と飲んでいる。

 次第にキャンパスに下書きを描くだけ描くと、すぐに色を塗り、完成するとすぐに壊して、を幾度も幾度も繰り返した。お金をドブへとひたすらに捨てたのだ。



 それからカレンダーは次々と新しい日を刻んで行き、冬休みも越し、三学期が始まって、いつしか雪の季節も終わりを迎えようとしており、風には新しい春の香りが乗り始めている。

 だが、進むことを忘れた僕の部屋は、ゴミと化したキャンパスはもうどこにも収まり切らなくなっていた。
 そんなある日、二枚だけ色の付いた写真を見つける。

 一つは白で星のような形をした花。もう一つは鮮やかなピンク色をした小さな花の塊。
 勿論、何故なのかは気にならないはずもなく、ひとまず検索エンジンにかけてみる。

「アングレカムと、エリカ?……」

 ふと、思い出したように僕の机の端にある花言葉図鑑を手に取った。
 ここしばらく触りすらしていないせいか、埃被っていて、日が当たっていたせいか、紙までも軽く変色していた。
 だが、そんなことお構い無しに、後ろの索引からページを探し出し、開く。

「アングレカムは……って、全く、何の偶然だよ」

 そこには『孤独』という文字が大々的に書かれている。あまりの偶然に、もはや運命、いや必然まで感じてしまう。

 大きなため息を溢すと、続けてエリカを探した。

「エリカは……『届かない祈り』ねぇ」

 なるほど。
 納得さえしてしまうような内容でもあった。
 けれども、本心の何処かには認めたくないという気持ちがあったのもまた事実である。

 これ以上何を失えばいいのか。どれ程の痛みを味わえばいいのか。
『孤独』と『届かない祈り』の二つを見て、そう思い返す。

 そう言えば、母が死んだ時もこんな感じだっけ。
 父は母が死んで以来、人が変わってしまい、酒を飲んでは暴れ、タバコを吸っては苛立ち、やがて麻薬に手を染め、警察に捕まった。
 だが、弱っていた上で麻薬を服用したと言うのもあり、直ぐに病院に送られたと思えば、数日中に死んでしまったのだ。そして、僕には衰弱死だとしか伝えられなかった。

 あまりの呆気なく捨てられたことに絶望感を覚えざるを得ず、まるで暗闇に迷ったかのように過ごしていたんだよな。

 あれ? そう言えば、その時はどうやって立ち直ったんだっけ?
 ふとした疑問に、何故か僕は重要性を感じてしまう。
 そして、必死に探した末、記憶の底に眠っていた一つの大事な映像が蘇る。

「そうだ。そうだ」

 目線は自然と僕の鞄のキーホルダーへと吸われる。
 一つは、前に先輩から受け取った桔梗の押し花。もう一つは、青い花が描かれているもの。あれ? 青い花?

「あぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁ」

 青い。そうだ、青い。
 色褪せた世界で、鮮やかな青色をしている花のキーホルダー。
 どうして忘れていたのだろう。

 アレは貰い物だ。あの子からの。何のプレゼントだったかまでは思い出せないが、それでも貰い物だと言うことははっきり覚えている。
 ん? あの子、あの子って誰だっけ?

 鮮明に蘇っていくシルエット。そして、あるものを思い出した瞬間、すべてが繋がった。
 途端、僕はいてもたってもいられず、着替えると、ある場所へと出かけて行く。学校なんかサボってしまって。

 この時、僕は図鑑に載っていた青い花のページを見ていなかった。

真実の愛を、私を、忘れないで

 自転車に跨り、全力でペダルを漕いで行く。
 早く、もっと早く、もっともっと早く。
 貪欲に、強欲に、力を最大限まで振り絞るが、普段運動していない分、呼吸は苦しいし、全身は痛いし、疲れは半端じゃない。
 それでも隣を走りゆく車に負けじと、ひたすらに漕いで行った。



 そして、着いたのは、『宮下』と書かれた表札が確かにある。秋に訪れた所で間違いはなさそうだ。
 インターフォンを押し、ほんの少し待っていると、「はーい」と聞こえた。

「すいません。宮下 花奈さんと同じ学校に通っている高野 光輔です。花奈さんのお見舞いをしたいのですが、良ければ病院を教えていただけますか?」

 そう伝えると、間を空けず、直ぐに玄関が開いた。すると、奥の方から、先輩の母親らしき人が現れる。
 途端、その人は、僕の元へと寄ってきて、何か慌てているかのように喋り始めた。

「ねぇ、高野って、あの高野さん?」
「え、えっと」
「あ、あぁ、ごめんなさい。あなたのお母さんって高野 美幸さん?」
「え、あ、はい。そうですけど」
「そうなんですか。あぁ、良かった。こんな所で会えるとは」
「す、すいません……」
「あ、そうだった。花奈のお見舞いに行きたいんだっけ。なら、うちの乗って。丁度行こうとしてた所だったの」
「は、いや、その––」
「後のことは車で話すわ」

 なんて、マシンガンのような喋りに圧倒されると、半ば強引に車へと乗せさせられる。
 はぁ、そうか。先輩の強引っぷりは親譲りというわけか。

 拒否することは諦め、「では、すいません。お言葉に甘えさせていただきます」と言い、助手席に乗せてもらうことになった。
 そして、直ぐにでも出発し、少し長い道のりをその人と話して過ごしていた。

 そこで、母が亡くなったこと。父が亡くなったことを話した。

「そうだったんだ。……私ね、美幸ちゃんとは少し縁があったんだ。同じ教師としてだけじゃなくって、人としても凄く好きだった。それに雅人さん––君のお父さんも良い人だったしね」
「そうだったんです、か」

 母が教師? 初めて聞いた事実だった。
 確かに仕事が忙しいとは言っていたし、日中は家にいることが珍しいほど。考えてみれば、当然と言えば、当然でもある。
 しかし、父が良い人? 正直、そこは考え難くもあった。

「でも、そうだったんだ……。残念。……っていうか、何も言わずに死んじゃうって美幸、何してんのよ」

 でも、多分、お世辞なんかでこの人が父を言い人呼ばわりするはずもない。そう思えた。

「あ、そう言えば、君、光輔って名前よね?」
「あ、はい」
「なるほどねぇ。君が花奈の彼氏くんか」
「か、か、彼氏?」

 その言葉に、ついむせ返ってしまった。
 流石にその言葉の重さは尋常ではなく、あまりにも驚きが詰め込まれすぎている。まぁ、確かに彼氏でないなら、一体どんな関係? と聞かれたときに、良い答えが見つからないのもまた事実であるが。

「––––ごめんね、あんな子の最期の我が儘に付き合わせちゃって」

 ただ、先輩の母親からそんな言葉が出たことに、一番驚いた。

「実は、もっと昔から病気のことは言われていてね。成長していく度に、悪化しちゃってさ」
「え?」
「本当は、一昨年の十月かな。余命宣告を受けてたんだよ。もって半年くらいって。いつ倒れてもおかしくないって」

 瞬間、何かが、物凄い音を立てて、崩れていったような気がした。

「それでも一年も持ったんだし。あの子は十分頑張った。それに、まだ意地張って生きてる」
「そう、ですか」
「だからさ、あの子の我が儘、許してやって欲しい。多分、あの子と一緒にいればいる程、気持ちを持っちゃうのは分かる。でも、最期の、本当に最後の我が儘だから、最後まで聞いてやってくれないかな?」

 そういう先輩の母親は、泣いていた。

「……はい。最後まで」
「頼んだわよ」

 車内に流れるラジオの物悲しいクラシックは、より雰囲気を作り出し、そんな中、決まり切らなかった覚悟を遂に決めた。



 到着するや否や、受付を済まし、直ぐにでも先輩の病室へと向かう。
 そして、先に先輩の母親に入って貰い、会う準備をしてくれるのだとか。

「お待たせ。入って。私は受付の所で待っているから。気が済むまで話して良いからね」

 そう言って先輩の母親は、僕と交代するように出て行く。ただ、やはり、その背中は、どこか泣いているかのようにも思えた。

 一度、力一杯拳を作り、大きく息を吐くと、扉を開け、真っ白な部屋へと入っていった。

「花奈、先輩」
「光輔君」

 明るい陽の差す部屋は、一先早く春の香りで満たされている。
 先輩は腕に何本もの管を通していて、よくドラマで見るような心電図を測る機械が隣で動いていた。
 そんな中でも、先輩は上半身を起こしていた。

「今日はどうしたの?」
「ちょっと聞きたいことがあって」
「うん」
「先輩はどうして最初にあった時、僕に最後まで一緒にいて欲しいって言ったんですか?」

 すると、先輩は今までとは全然違う笑顔で、語り始める。

「その答えはもう気付いてるんでしょ?」
「……はい」
「偶々、あの桜並木にいた君のバックについてあるキーホルダー。それが私があげたものだって分かったから」
「…………」

 全ては、僕の忘れていた過去にあった。

「昔、私はある男の子と会ったんだ。小学五年生って言ってたっけ。でも、その子はずっと暗い顔していて、遊ぶようになってからも、全然心を開いてくれなくてね。それでも、私がなんとかしなきゃって。色んな人に助けられながら生きてる私が、今度は助ける番なんだって」

 そう。青い花のキーホルダーをくれたのは、桜の髪飾りをしていた年上のお姉さんだった。
 そのシルエットは彼女とぴったり重なる。

「だから、文字通り命一杯遊んで、話して、笑って。そうしているうちに、その子は心を開いてくれた。でも、そんな時に私の病気も悪化しちゃった。なんて、タイミングが悪いんだって思ったよね」

 そして、最後に遊んだその日の夕方。帰る場所という場所がなかったが、帰らなきゃいけない時間。
 夕焼けした空を背後に、沈みかけた太陽を横目に、逢魔時に。

「その時に渡したのが、キーホルダー。その時の私が精一杯の技術を振り絞って作ったもの」
「これ、……だよね。花奈ちゃん」

 ポケットから、取り出したそれを見せる。青く小さい花が散らされたキーホルダー。
 僕の一番の宝物。そして、彼女と僕を繋ぐ最高の物。

「そう。––––その花、名前知ってる?」
「え?」
「その花は勿忘草って言うんだよ」
「わすれ、な、ぐさ?」
「そう、勿忘草。花言葉は名前通りで、『私を忘れないで』。あと、『真実の愛』」

 そして、先輩の頬から一粒、また一粒と涙が滴り落ちていく。
 それでも、先輩はとびっきりの笑顔を浮かべていた。

「あの時、もうこれで光輔君とは会えないかと思ってた。でも、また会えた。何かの奇跡だと思った。でも、私に残されてた時間は過ぎちゃってたんだよ。だから、最初はちょっと話しただけで諦めようとした。だけど、出来なかった。だって、光輔君は優しすぎるんだもん」

 苦しいほど切ない声が部屋中を埋め尽くす。辛かった心の内、その全てを。

「どれだけ我が儘言っても聞いてくれるし、無茶しようとしたら支えてくれる。どんな時だって心配してくれてた。気にかけてくれてた。あー、もう。もし死んでも、光輔君への未練が残って、この世に留まちゃったらどうするのよ」

 つられて僕も涙を浮かべる。いや、違う。
 僕は想像してしまったのだ。先輩がいない世界を。そこで独りでいる自分を。
 そして、飛びつくように彼女を抱き締めた。

「先輩……––––」
「光輔君……––––」

 すると、彼女も手を後ろへと回し、僕を抱き締めた。

「約束。このキーホルダーをずっと持ってて。あと、『私を忘れないで』」
「はい。絶対に忘れません」

 こうして、僕は心に決めた。
 その約束を、今度こそ果たすと。



 以降、僕は出来る限り、彼女の元を訪れるようになっていた。
 日に日に弱っていく彼女を笑わせてあげることしか出来ない。そこに無力さを感じながらも、花の話をしたり、描いた絵を見せたりした。
 話題を作っては、幾度となく話しかけて行く。
 その努力は届いたのか、次第に先輩は元気を見せるようになってくるようになり、会話が出来るほどまでになっていた。
 その様子に、医者さえも驚いていた。それをクスクス笑ってみたりもしたっけ。

 だけど、そんな日々もいつか終わりは来るもの。

 ある日、学校に突然連絡が飛び込み、僕は急ぎ先輩の元へと呼ばれ、駆けつけた。

 聞くと、一度心臓は停止し、何とか蘇生は出来たが、次はないとの事だった。

「花奈、花奈」

 先輩の両親の呼びかけにも、応じず、もうないかと思った。でも、やっぱり最後の言葉くらい聞きたい。
 そんな思いからか、気付けば、僕も声かけてた。

「花奈先輩。花奈先輩」

 僕は賭けた。
 昔で終わっていたはずの僕と先輩を、花奈ちゃんを繋げてくれたこのキーホルダーに。

 脳裏に浮かぶのは、僕に向けてくれた笑顔。
 どれだけ苦しかったのか、どれだけ辛かったのか、そんなこと考えるまでもない。
 僕も、そんな彼女を命懸けで支えた。

 だから。

 だから、だから。

 だから、お願いします。

 先輩の本当の最後の我が儘です。僕のお願いです。

 手に持ったキーホルダーを握り締めながら、一心に願った。たった一度の、最後の奇跡を。

「……ぅるさぃなぁ……もぅ」

 掠れた声が聞こえた。先輩の声が。

 流石に、首を横に振っていた医者や目線を落としていた看護師達も、この時ばかりは奇跡でも見たかの様に、目を見開いていた。

「花奈」
「花奈」

 弱々しくも挙げられた腕を先輩の両親は強く握りしめる。

「……ぉ父さん、ぉ母さん……ぁりがとぅ……」
「あぁ、よく頑張ったな、花奈」
「おやすみ、花奈」
「……まだ、夜、じゃあ……なぃ……よ……」

 消えかける命の灯火。それは誰にも求めることなんて出来ない。
 それでも、最後の最後まで燃やし尽くそうと、全力を尽くして最大級の光を放っているのだろう。

「……光、輔……君……。……約束、守……て……ね……」
「うん、守る。守るよ」
「……破っ、たら……怒、る……から……ね……」

 涙で濡れた視界に映る先輩は美しかった。

「もぅ……行か、な、きゃ……」
「あぁ、行ってらっしゃい。花奈」
「気をつけてね。花奈」
「先輩。またいつか」
「……うん……」

 ––じゃあね––

 命一杯振り絞って、最後の力を全部振り絞って、先輩はその人生に幕を閉じ、新たな道へと旅立っていった。

 先輩の両親、そして僕は、泣きながら彼女を見送り、無慈悲なまでの機械音をしばらくの間、聞いていた。

 窓の外では、あの日の桜が舞って行った。
 彼女の命を乗せた風とともに。

花便りも届く今日この頃、どうか幸ありますように

 あれから何度もここの桜の雨が降るのを見てきた。
 一体、何回見たんだろうか。もう数えきれない程見てきた。

 僕は高校を卒業し、無事に大学へと進学することが出来た。ただ、私立大学と言うこともあり、奨学金制度を利用しているため、将来は厳しいものになるのだろうと、不安ばかりが後へと残ってしまう。

 そして、時間の出来たこの大学生の間に、僕は母と父について、色々調べてみた。
 母はどうやら中学校の先生をやっていたらしい。科目は国語。それはそれは生徒達から良く慕われていた何て言う話を良く聞いた。
 それに、何の偶然か、僕も今こうして国語教師になろうと教育課程を受講中である。

 一方、父は高卒という肩書を持ちながらも、ひたすらな努力で上へと登っていった努力家の真面目人間だったという。
 それがあんなのに成り果てるなんて、誰も思わなかったらしい。
 でも、今なら少し分かる気もする。死ぬほどの努力をして、それを支えてくれていた人が亡くなってしまったら自暴自棄になってもおかしくない。
 まぁ、それを理解するのは到底無理な話だろうが。



 それと、年に二度、僕は彼女の元を訪れている。

「誕生日おめでとう」

 毎年の一度目は、春先の命日。そして、今日がその二度目。九月の終わり辺りの先輩の誕生日。

 来る度に、墓石周辺の清掃をして、挿されてある菊の花の確認をしている。そして、端に置かれた小さな瓶に入っている花を入れ替えていた。
 毎回毎回、新しい花を持ってくる。
 まぁ、今でこそ、そうしているが、いつしか全部の花を持ってきてしまうだろう。その時はどうしようか。そんな事を考えるのも悪くはない。

 取り敢えず、挨拶と近況報告。それを済ませると、時々、軽く愚痴も笑いながら溢していた。

「またね」

 毎回、そう言って立ち去る。
 人間、何時何処かで突然の終わりが来てしまうかもしれない。でも、そう言っておけば、またここに来れるような気がして。
 だから、そう言う。



 移ろいゆく季節。その度に、色んなものを僕達に見せてくれる。
 短き花の命は永遠に。長き星の命はいつか終わりに。
 そんな中で、僕達は季節に生きている。
 芽吹く様々なお話。十人十色の恋愛模様。
 あなたは、どんな季節にどんなお話を紡ぐのか。



 ––––花便りも届く今日この頃、どうか幸ありますように。––––

色溢れる四季、淡い青春

色溢れる四季、淡い青春

春夏秋冬。 青春の間で巻き起こる想いの交差、そして、それぞれの季節が織りなす、切なくも甘い短編の恋愛小説を集めました。 どうぞお楽しみください。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-02-18

CC BY-NC-ND
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