海の街、雨降りの日

大きく羽を伸ばした鳥が、そのまま体を傾けて、緩やかに磯の岩へと降りた。彼が止まったのは盗人狩と呼ばれるところである。ここは三浦半島の南の先。晴れた日ならば釣り人で賑わう奇形をした岩の連なりも風が強い日だと静かなもので、あたりにはその鳥くらいしかいなかった。なんでも大陸の方から台風が来ているようで、午後からは雨も降るらしい。

風に煽られた海は緩やかなうねりを持って磯へ押し寄せる。大きな波が彼のいる磯の方までやってきて、ついに磯にぶつかった。水がそれぞれ大きく打ち上がって飛沫をあげている。先端が白く細かくなった海を鳥は高く飛び上がって避けた。それでも当たるかという勢いであった。鳥はそれから涅色の羽を一度羽ばたかせてピーヒョロロと鳴いた。その鳥は鳶であった。海に似合う、景気のいい声を盗人狩に残して、鳶は西の方へと向かった。西には三崎という街があった。



鳶は普段、慈雲寺の毘沙門堂に住んでいる。そこは盗人狩からは少し東に位置するお堂で、海を臨んだ森にある。実際には、勝手気ままに伸びている木々か綺麗に耕された土くらいしかない陰気なものであった。境内へあがる階段のそばに寂しく立っている案内板には、これは三浦半島を守る七福神の一柱、毘沙門天を祀ったものだと記してある。ここの管理は慈雲寺という寺がやっていて、それはもう少し内陸へ行ったところにある。そこに祀られた薬師如来などと、この毘沙門天とではずいぶんと扱いに差があるようで、お社は寂れて、境内の土も昨晩の雨で泥濘みきっていた。まるで人が立ち寄ることなどはじめから想定されていなかったかのようでる。そんなところを住処にしている鳶が二匹いた。野放しにされた自然は鳶にとっては餌の宝庫で、住みよい場所であったのだ。

今しがた盗人狩をたった鳶には、そんなところを出てわざわざ三崎の方へ向かう理由があった。

三浦七福神には、当然のことながら毘沙門天の他にも六柱の神がいる。彼らは東に西にと方方に散りばめられていて、ここらの毘沙門天や恵比寿尊、大黒天といった神々をまとめているのが三崎の海南神社に祀られている弁財天であった。九月のはじめ、七福神は海南神社に一堂に介して話をしなければいけない。旧暦の十月、神無月の頃になると出雲へ出向かう決まりになっていて、そこで行う大国主大神への一年の報告のためである。

境内の上空で、二匹の鳶がピーヒョロロ、と甲高く鳴きあっていた。

「毘沙門様が今年も会議は行かないそうで、その報告をしてこいだとさ」

 「またか。あのお方はすっかり出不精になってしまって」

 ぞんざいに扱われた毘沙門天は、いつしかやる気を失って、毎年の集まりにも鳶を使いにやることで欠席していた。毘沙門天はここ数年、正月三日の酉の刻くらいしか働いていない。

 「それでも行くしかないからな、お前行ってこいよ」

 「まあ、いいけどさ。なにもこんな天気の日にやらなくたっていいのに」

 そういった運びで、鳶が一匹三崎の街へと向かっているのであった。

 鳶が県道沿いに風に揺られていると、拓かれた土地の中に雑木林が現れた。西武鉄道所有地、と大きくかかれた看板に鳶はとまった。雑木林の中央にはぽっかりと空間があいている。そこにマグロのカマほどの石が等間隔に配置されていた。それぞれに文字が彫ってあり、おもての端には昭和幾年、大正何年と年号が記されてある。そして中央に大きく牛頭やら馬頭やらと書いてあった。毘沙門天の使いとしてやってきた鳶からすれば、難儀なことだというふうであったが、何も本当に鬼やら物怪やらがいるわけでもない。人気もないその辺りは修行僧だっているはずもなく、彼の取り越し苦労というやつである。しかし、石のそばには鬼の代わり猫が一匹。それも迷っている様子であった。

 ピーヒョロロ、ピーヒョロロ、と猫に向かって鳶が鳴くと、シャー、シャーと鳶に向かって猫が鳴いた。

 鳶はべっこう色の毛を逆立てて威嚇する猫の周りを穏やかにまわることで宥めようとした。思惑通り、猫は次第に警戒を解いて、今度はナーと鳴いた。そうしてから、今度はぺろぺろと舌を出し始めた。どうやら腹が減っているようであった。

 「腹も減ったし三崎の街に行きたかったけどどっちがどっちか分かんなくなった」

 「バカな猫だな、仕方ない。三崎ならちょうど向かっているところだからついてきたらいい」

 そうして、鳶は猫を連れることになった。これは本当に難儀なことだと鳶は思った。その小さな体でわざわざ地に足をつけて歩くのは、鳶にしてみればもどかしくて仕方がなかった。一度地面に降り立って首のあたりに嘴をやった。咥えて持っていってやろうと考えたのだ。しかし、猫はそれをとても嫌がって、走って自動車道路を駆けていった。

 猫はどうしてここにいるのかがわからない様子であった。しかし、三崎の街のことは覚えていた。猫というのはそんなにのんきないきものなのかと、鳶は逆に感心してしまう。猫というのはとにかく飯の在り処だけはよく覚えているもので、それ以外はからっきし。何にも縛られない気ままな生き物なのである。

 仕方なしに猫の歩みに合わせて上空で風に揺られることにした。大きく広げた羽に目一杯風を浴びて猫の少し先を旋回した。そして、時折猫が道を外すと正しい方を教えてやった。例えば、長くなだらかな坂を上り切ると、風車のある公園があった。猫はそこで水を飲むようだったから、鳶は風車の支柱にとまって様子を見守った。風車がよく回って幾度か鳶の視界を遮った。気づくと猫は草原のトカゲを追いかけ回していた。鳶がぐんと急降下してそのトカゲを食べてやると、猫は憎いような悲しいような目で鳶を睨んだ。そうしてまた道へと戻っていくのだった。

 しばらくすると、宮川大橋という陸橋に差し掛かった。すると、猫が突然フェンスから飛び退いて車道の真ん中に出た。鳶はなにがあったのかを不思議に思って地面まで降りると、横からうまく吹けなかった口笛のような音がスィースィーと大きく鳴っている。猫はこの音に驚いたのであった。猫はこの陸橋をさっさと渡ってしまおうと走った。フェンスの先に見える磯で煽られた水がそこかしこに渦を巻いていた。絶え間なく変化するそれを見ていたかったが、鳶は走っていく猫を追いかけることにした。

 ぽつりぽつりと柔らかい雨が降ってきた頃、二匹は道程の半分ほどまで来ていた。雨風をしのぐのと、長い旅路に疲れたのがあって、猫は稲荷社に雨宿りすることにした。鳶にしてみれば、これくらいは風に揺られていればどうということはない距離だったから、付き合う義理はなかったが、それでも猫についていった。

 目をうとうとさせている猫を見ながら、なぜこいつはあそこにいたのだろうかと考えた。猫の縄張りというのは大きくてもせいぜい三百平方メートルほどだという。本当はこの地域の猫でないのかもしれない。自分がいらないお節介を焼いてしまったのではないかと思って、鳶は少し胸を痛めた。それだから、晴れ間が出てきて猫が再び歩き始めたとき、鳶は一緒に地面を歩いてやることにした。

 歩くというのが初めてで、まずどこを向いていいのかがわからなかった。左右や後ろは前がどこかわからなくなるからよくなかった。いつもの調子で下を向くと一面アスファルトで、なんともつまらなかった。逆に上を向いた。上を向くというのはなかなか珍しいことだった。普段ならば上を向いたところで空くらいしかない。雲が流れていればまだいいほうで、今日みたいな空が雲で敷き詰められた日は特に退屈で仕方がない。ところが、地面から見上げると存外建物が空を遮っていて、それが鳶には楽しかった。やがて空に近づきたくなって、最後にはやっぱり羽を伸ばして飛んでいた。遠ざかった地面では猫が歩みを進めている。鳶は勝手ながらに物憂いように感じるのだった。

 地面がアスファルトの黒からタイルの赤に変わったところで人がちらほらと見えるようになった。人の縄張り。街についたのである。

 猫は足を止めることなくどこかへ向かっているようだったから、旅はまだまだ続く様子だった。窓を開けて涼んでいる親父や、飲食店の暖簾を下げるおばあさんが猫に餌をやっていった。ほとんどがマグロの滓だった。鳶もそれを食べたかったが、人間を怖がらせては猫が将来生きにくいだろうと考えて遠慮した。

 電信柱伝いに道を行き、遠くの少し傾斜のあるところに鮮やかな赤の鳥居が見えた。海南神社だ。鳶はそれを見るまで自分が毘沙門天の使いであったことを忘れていた。猫を見やると、猫は人間から一通り餌をふんだくったところで、海を離れて山を登っていった。ちょうど海南神社の方だったから、鳶はまたついていった。

猫が海南神社についたところで鳶の旅は終わった。境内には大勢の猫がいて、それまで一緒に旅をしてきた猫がその中に混ざっていったのだ。手水舎のあたりで鳩や猫に餌をやる男がいて、そのあたりにたくさんで群がっている。男は無作為にパンくずをばらまいている。猫も、鳩も、男も、その場にいる全ての生き物が互いがなんであろうと構わないというようだった。空から下を望む鳶の目には猫のべっこう色をした毛が輝いているように見えていた。猫は鳶のことなどすっかり覚えていない様子だった。鳶はそれでも幸せな気分だった。

お社へ行き弁財天に毘沙門天が今年も来ない予定だという旨を伝えると、弁財天は不思議そうにしてこう告げた。

「今年は会議をやらないことにしたと猫に伝えさせたのだが、どうやら伝わってないみたいだな。たしかべっこうの猫だった。ほら木陰で寝入っているあいつみたいな。いや、まさにあいつだ。もしや行ってないんじゃないだろうか。全く、猫というやつは」

鳶は、全くですねと答えてから海南神社を飛び去っていった。

涅色の鳥が遠くでピーヒョロロと鳴いている。雨の日の三崎は静かだった。

海の街、雨降りの日

海の街、雨降りの日

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-02-18

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