北研究棟16号室にて

蓮水とばり

 研究所は光が差さない場所にある。そんなところで生活しているから、子供たちはもうずっと太陽を見ていない。
 被験体“永遠”が今朝死亡した。
 生前の彼女に与えられていた部屋は獣が暴れ回ったあとのような惨状で、事実、被験体“永遠”は死の直前に怪物になった。異形の化け物へと変貌した。投薬の副作用だ。
 荒れ果てた狭い部屋の隅で、亡くなった彼女と相部屋だった少女は壊れたベッドに腰かけたまま俯いている。少女の名前は、被験体“後悔”という。
「やあ、迎えに来たよ。そろそろ検査の時間だ」
 開け放たれたドアの向こうから、大人びた表情の少年が声を投げた。少年は愛想よく微笑んでいたが、少女の反応が返ってこないことを確認すると、しばらくしてまた声をかけた。
「永遠も気の毒だったと思う。彼女も結局、ほんとうの永遠にはなれなかった」
 後悔には、少年の言葉遊びに付き合う気力は残っていないようだった。虚ろな目で部屋の中心あたりを見つめては、ただじっと膝を抱えている。簡素だが清潔だった彼女たちの部屋はフローリングが裂け、木材の破片やノートのページが散乱し、壁には文字通りの爪跡が刻まれていた。永遠がどのように怪物になり、そのとき友人と過ごしたこの場所でどれだけ苦しんだかを物語るようだった。
 少年は黙って反応を待つが、後悔の返事はない。やがて諦念した少年はひとつため息をつき、足の踏み場もない床を大股で進んで、後悔が蹲るベッドへ無遠慮に座った。
「後悔、後悔。泣いているのかい」
 そうしてすぐ隣から声をかけることで、後悔はようやく少年を見た。小さな口から「博愛」と少年の名前が零れる。
「そうだ、被験体“博愛”さ。君を迎えに来たんだよ」
 顔を上げた後悔の瞳に、開いたままの入り口から差す人工灯の光が揺れた。揺らいで、雫になって溢れた。
「死んでしまいたい」
 はらはらと涙が零れ落ちる。博愛はただそっと、うん、と頷いた。
 永遠は、胸が痛くなるくらいの善人だ。善人だった。最期まで、無邪気で快活な子供だった。彼女が笑えば、薄暗い研究所にいても心に明かりが灯るような気がして、後悔は永遠の笑顔を愛していた。
 研究所は光が差さない場所にある。そんなところだから、死者に手向ける花も咲かない。
 実験の犠牲となって亡くなった仲間を弔うこともできなければ、被験体には墓が用意されないために手を合わせることもできなかった。誰が死のうと研究が止まることはなく、何も変わらずに実験を受けて薬を飲まなければならないのだと、後悔はここへ来たばかりの頃に悟った。
「昨日、永遠はまだ人間として笑ってたんだ。『検査抜けて探検に行こう』って。私、永遠に、行けないよって言っちゃった」
 後悔は声を震わせる。
「あのとき私が、いいよって、永遠について行ってあげたら、いま何かが違ったかもしれないのに」
 抱えた膝に顔を埋めて、後悔は静かに泣いた。博愛は後悔の手を握ろうとして、少し迷ってから、結局、伸ばした手を下ろした。
 被験体は投薬の副作用でいつか必ず怪物になる。怪物になれば研究員に連れて行かれて、どこかで処分される。その繰り返しの中で、友人の死を悲しむ暇は許されていない。
「俺たちのように死を望む者ばかりが生きて、生きていたい者ばかりが死んでいくものさ。いつだって死神に愛されるのは善人の方だ」
 寂しげに微笑んで博愛は言う。後悔はもう一度博愛の顔を見た。目を合わせたら博愛の笑顔がひどく空虚に感じられて、どうしようもなく心臓が締めつけられた。
「ここはおかしなところだから、君が苦しむのも仕方がない。こんな場所に来たくなかっただろうし、叶うなら逃げ出したいだろうと思う」
 後悔は博愛から視線を逸らして、再び目を伏せた。元々博愛の作り笑いは苦手だったのだが、今日は余計にそう思ったからだ。
 子供たちが研究所に来る理由は主にふたつに分かれる。何らかの事情で親に売られた子供と、保護という名目で研究員に拾われた孤児だ。後悔は前者で、永遠は後者だった。博愛に関しては、後悔には何も分からない。
「お父さんとお母さんは、どうして私を売ったんだろう。どうせ売ってしまうなら、どうして私を産んだんだろう」
 涙を流すまま、後悔は呟いた。後悔、と博愛が呼ぶ声すら、遠い背景音楽のようだった。
「私の命の責任なんて持ってくれないくせに、どうして世界に産み落としたの……」
 震える言葉は呪いに似ていた。こんな世界なら滅んでしまえばいいと願った幼い日の記憶が、今も後悔の瞼に焼きついて離れないでいる。
 後悔は家族のことをほとんど覚えていない。唯一忘れることができないのは、研究所に売られた日、追い縋ろうとする自分に振り向きもせず去っていった両親の後ろ姿だった。そのとき知った絶望よりも、彼らに抱いた憎しみが消えずにいることが、後悔には何より恐ろしかったのだ。
「ああ、ああ、怪物になったのが、私だったらよかったのに。永遠じゃなくて、私だったら」
 醜い感情ごと消してしまいたかった。誰かを呪う度に、自分への嫌悪が募っていった。
「産まれてこなければよかった。産まれてきたくなかった」
 後悔が吐き出した声と同時に、どこかで時計が鐘を打った。二回、三回と響き、低い音が鼓膜を震わせる。
 検査の時間を知らせる鐘だった。行かなくちゃと、後悔はぼんやり考えて、虚ろな瞳でベッドを降りようとした。細い足を床につけたとき、博愛の手が後悔を遮った。
「検査は、行かなくていい。どうせ一人や二人足りなくても研究員は気にしないさ。昨日だってそうだった」
 呆然とする後悔をその場に留めて、博愛は立ち上がり部屋の入り口へ向かう。後悔は思わず「行かないで」と言いそうになって、腕を押さえ、口を閉ざした。
 ところが博愛はドアを閉めると、内側から鍵をかけて、廊下から差していた青白い光を遮断した。目をこらさなければ障害物も見えなくなった部屋を、博愛は来たときと同じように大股で進んで戻ってきた。後悔の隣に腰かけると、壊れたベッドから木材の軋む音が鳴った。
「俺がどんな言葉をかけても、この生活は変わらない。君を励ましてみたところで、君の苦しみがいつか終わる保証もない」
 博愛は言った。
「だからこれは俺のエゴだ。後悔。お願いだから、そんな悲しいことを言わないでくれ」
 シーツの上に力なく置かれた後悔の手を、博愛は今度こそ握る。後悔が博愛の顔を見ると、そこにはやはり後悔の苦手な作り笑いがあった。永遠の笑顔とはまるで違うのに、呼吸が重いほど胸が痛くなる。
 時計の鐘で乾いた涙が溢れそうになって、博愛の手を握り返すことで後悔はそれを堪えた。
「産まれてこなければよかったなんて言わないでほしい。どうか、君の命を呪わないでほしい。俺は……俺は、君が怪物になっていないことを、君が今日も生きていることを、嬉しく思うよ」
 近くにいないとお互いの表情すら曖昧な暗闇の中で、博愛の作り笑いだけはいつも通りに見えた。後悔にはそれがひどく寂しいことに思えて、少し俯いて、首を横に振った。 
「わからない。わからないよ……」
 後悔は声を絞り出す。
「いいんだ。俺が、勝手に思っているだけだ」
 博愛は目を細めて、手を握る力を僅かに強めた。その深い悲哀を湛えた瞳の奥で、一瞬、透明が歪んだことに後悔は気がつく。
 彼もずっと心の底で泣いていたのだと、後悔は初めて知った。
 少女が後悔であるように、少年も博愛であったのだ。博愛が博愛である限り、何を思い、何を嘆き、何を望もうと、ただ微笑みを作ることしかできないのだろう。今更になって気づいたところで、後悔はあまりに無力だった。
「ここにいてくれ、後悔。お願いだ」
 博愛はぽつりと呟いたきり目を瞑ってしまう。それから二人は言葉を交わさなかった。
 繋いだ手の熱が悲しくて、永遠の声が恋しくて、後悔はまた泣いた。今度は声を上げて泣いた。博愛の分まで、泣いた。

北研究棟16号室にて

北研究棟16号室にて

ある研究所で交わされる、少年少女の苦痛と悲哀。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-02-14

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