朽ち果つ廃墟の片隅で 第二巻
第1話 コンクール(中)
一巻からの続き
「琴音…」
「あ、律」
ゴールデンウィーク明けてからの、初めての土曜日。例に漏れず私たちの学園も、土曜日は四限目で終わる。正午を少し過ぎた辺りだ。
担任の志保ちゃんからの軽い連絡事項を聞いてから、放課後になり今に至る。
ここで少し、私と律のことに触れようと思う。前にも話したように、一年毎のクラス替えにより、残念ながら裕美と紫と藤花とは別々のクラスになってしまった。新しいクラスになってから、この時点で一ヶ月ばかり経とうとしていたが、少なくとも私が思う意味での新しい友達は、まだ出来ていなかった。元々昔から自分から進んで他人に話しかけるようなタイプでは無かった。人見知りという訳では無いと自分では思っている…現に、話し掛けられさえすれば、相手に合わせて対応することが出来た。ただ、よっぽどのことが無い限り、それはつまり相手に興味を持つという意味だが、自分から話しかけて、交友の幅を広げようって気になれなかったのだ。それは小学生時代もそうだった。その時にも話したと思うが、我ながら周りに助けられていたのだと思う。私から何かアクションを起こさなくても、いつも私の周りには人が何人か屯ろしていた。そのお陰で、一応側から見る限りにおいて、孤独では無かった。これは幸運と受け取り、感謝すべき事だと思うし、実際に感謝していた。
ここまでは私自身の事だったから細かく話せたが、私が思うに、多かれ少なかれ律も同じタイプだった。裕美がどこまで考えての発言だったか知りようも無いが、私と律が似ているというのは、あながち間違ってはいなかったようである。というのも、律も中々自分から人の輪の中に入って行くようなタイプでは無かったからだ。私が言うことではないかも知れないが、律も率先して新たな友達を作ろうという気概は無いように見受けられた。だからある意味自然にというか、ここ一ヶ月ばかり、ずっと二人は一緒に過ごしていた。具体的に言うと、音楽などの教室を移動する時も一緒に、そして教室に着いてからも二人がけに一緒に座る、典型的な例だが体育の時ペアを組む時にも、間違いなく一緒に組んでいた。まぁ尤も体育においては、クラスで一番背が高い律と、二番目に高い私が組むのは、ある種必然であったのかも知れない。そして昼休み。一年生の時には触れなかったが、それはわざわざ触れるまでも無いと判断しての事だった。
でもせっかくなので、ここで纏めて話してみようと思う。私たちの学園には給食が無かったので、それぞれが弁当を持参して来るか、購買部でパンなりお弁当なりを買ったりする。私たちのグループは、よほどの理由がない限り、それぞれが弁当を持参していた。昼休みになると、誰か…席替えが確か一年生の間に三度ほどあったので、それぞれの事について細かく挙げるのは避けようと思うが、取り敢えず窓際に誰か一人がいたら、その周りに集まって一緒に食べるといった感じだった。入学当初は、出席番号順に座っていたので、私と紫が窓際の席だったから、そこの周りに集まって食べていたのを覚えている。雑談が続くが、極たまに解放されている屋上の空中庭園で陽光の下、食べることもあった。まぁこれも、屋上が空いていたらの事だったけれど。それが今はクラスが別れてしまったのがあって、それでもたまに裕美たち三人が纏めてこちらのクラスに食事しに来ることがあったが、大抵は私と律二人で、どちらかの机の上にお互いの弁当を広げて、食べるのが習慣となっていた。
とまぁそういった具合で、二人でいつも過ごしていたのだが、この一ヶ月の間に、律にまた面白い一面があるのに気づいた。それは…これ言っても本人は怒らないと思うが、いつもこの仏頂面で石仮面を被っている律だったが、意外や意外に内面は凄く乙女だという点だった。幾らも例を挙げられるのだが、初めて律のお家に一人で遊びに行った時、部屋に通されて驚いた。部屋の壁紙が薄ピンクで、ベッドの布団もそのような色合いだった。枕元には、大きめなテディーベアーが鎮座していた。小学校に入るくらいまでは私も持っていたのだが、入ってからはテディーベアーどころか人形を持っていた記憶が無かったので、ついつい繁々と見てしまった。床はフローリングだったが、その上に大きめの赤い絨毯が敷かれていた。何だか甘い良い香りもした。この日は、あの文化祭の時に会った、律と見た目が瓜二つでも、性格が真逆のお母さんが留守だというので、私は別に構わなかったのに、お茶の用意をしに何処かへ行ってしまっていた。私は一人ぼっちで手持ち無沙汰だったので、こうして部屋を見渡し、クマを見つけたのだった。無意識的にそれを取り上げ、高い高いをしたりしていたら、ちょうどその時、半開きだったドアが開けられて、律がオボンにコップ二つとジュースの入ったペットボトル、そして小皿に入ったお菓子類を乗せて入ってきた。当然というか、流石の私もそんなキャラに似合わない、ぬいぐるみと戯れているところを見られて、恥ずかしいやら気不味いやら、自分でも分かる程に顔が火照っていたが、律も同じような反応を示していた。律は部屋の真ん中の真っ赤な絨毯上に置かれた、これまた薄ピンク色のコーヒーテーブルの上に、何も言わずに乗せたが、ふと耳が真っ赤に染まっているのが見えた。律は髪がベリーショートだから、耳が隠れる事が無いのですぐに分かる。そしてその前にストンと座ったので、私もならって、ぬいぐるみをすぐ脇のベッドの上に静かに置き、そして座った。すると、律はふと顔を私に向けた。表情は相変わらず無表情というか、凛としていたが、やはりホッペは軽く薄ピンク色になっていた。…凛としていたと言ったが、視線は少し泳ぎ気味で、たまにぬいぐるみの方にも流れていた。そんな調子なのに、澄ました調子を止めようとしない律が、途端に可愛らしく思えてきて、本人には悪いが思わず目の前で吹き出してしまった。すると、律は何も言わず目を大きく見開いたが、それからすぐ後に、フッと見るからに緊張を緩めて、綺麗に横に長く切れた一重の目元を気持ち下げて見せた。これが、律の笑みだった。私も微笑み返したが、少しして「…可愛いでしょ?」と恥ずかしげに言うので、私も「えぇ」と短く、そして少し意地悪げに返すのだった。前から藤花に『律ってすっごく”乙女”なの。少なくとも私たちの中では一番”純粋”だと思うわ』だなんて良く言っていたが、これは藤花なりの冗談かと思っていた。それが本当だというのが、この日に初めて立証されたのだった。それからは私の事、そして律の事についてお喋りした。
一年生の頃からの付き合いだったが、ここまで話を聞いてくれた人からは即座にツッコミが入るだろうが、このグループの中だと、私はどっちかと言うと無口な方だった。主に裕美と紫と藤花が色々と女学生らしい話題を振ってきて、それに対して受け身に回って聞き手に徹していたのだ。それは律も同じだった。それ故というか何というか、こうして二人っきりになれば、もう少し早くこのような関係になれたのだろうが、滅多にその機会がなく、大抵私と律以外に最低もう一人がいたので、第三者がいては出来ないような、裕美が言うところの”恥ずい”心を割るような話も出来なかったのだ。だからといって、少なくとも私の方では疎遠だとは思っていなかったし、大切な友人の一人だと思っていたが、この日を境に、グッと距離が縮まったのを感じた。
これが確かー…四月の真ん中辺りだと思う。そして今五月に入り、律が話しかけてきたという所だ。
「ほら、あそこ…」
「ん?」
律がふと顔を教室のドアの方に向けたので、私も座りながら顔を向けると、そこには裕美たちがドア付近に立ち、私たちに笑顔を向けてきていた。と、私と目が合うと、裕美たちがそのまま大袈裟に手を振ってきていた。時折、外に出ようとする生徒が迷惑そうにしているのを、苦笑気味に頭を下げて平謝りしていた。
「…ね?」
と律が言うので
…何が『ね?』よ?
と心の中でツッコミつつ、
「じゃあ行きますか」
と私は腰に手を当てながら、年寄り風な動きをして見せつつ、のっそりと立ち上がった。その様子を見て、律は僅かに笑みを浮かべていた。そして相変わらず他生徒の邪魔になっている裕美たちの側へと向かった。
「いやー、久し振りじゃない?」
そう声を漏らしたのは紫だ。
「…何が?」
と私はワザと惚けて返した。
ここは学園の目の前の、緑に囲まれた、何て言えばいいのか…一応は公園なのだが、線路に沿うように横に伸びていて、そして学園前の道路にも挟まれている関係で、かなり横幅は狭かった。公園というよりも、緑の多い遊歩道と言ったほうが正しいのかも知れない。ただここは、今説明したように細長い作りをしていて、ベンチが数多く設置されており、緑も多いとあって、気持ち良くて落ち着くと、私たちのグループの溜まり場になっていた。学園内で何かの事情で待ち合わせが困難な時や、気分転換で、ここでよく落ち合う事があった。そしてこのようにベンチの上に全員カバンをおいて、この後の予定などを組むのだった。私たちは気に入っていたが、他の生徒達は違うらしく、すぐ脇の道を、同じ制服姿の女子がゾロゾロと歩いているのを横目で見たりした。敷地内で制服姿は、私たちのみだった。個人的には、そんなところも気に入っていた。藤花が話してくれたが、自分たちも今ままでは素通りしていたとの事だった。すでに触れたように、藤花と律はいわゆるエスカレーター組で、幼稚園からずっとこの近所に触れていたわけだったが、中を通ることはあっても、遊具もないのにこうして立ち止まって何かをする事は無かった様だ。さて、大体予想がつくだろうが、ここを溜まり場にしようと提案したのは裕美だった。裕美は後で私と二人っきりの時に、やはりと言うか公園…いや、緑の多い公園が好きだと話してくれた。昔からの癖で、落ち着くらしい。私も感化されたのか、どこか雑踏をぶらぶらするよりも、よっぽど何もない公園内でボーッとしている方が楽で好きだった。でもこれまたやはりと言うか、私たちの中で最も典型的な”女学生”の紫は、いつまでもジッとしているのが耐えられないらしく、早く予定を立てようと急かすのだった。そこまでがいつもの流れだった。
この日も、紫が率先して口火を切った。
私が惚けて見せると、紫は腰に手を当てつつ、ジト目を向けてきながら返した。
「あのねぇー、私たち五人が全員集まった事がでしょ!」
「ふふ、冗談よ。そんなに怒らないでよ」
「…もーう」
紫はまだ不機嫌そうに見せていたが、徹し切れずに笑ってしまっていた。他の三人も笑っている。
「でもそうだねぇー」
と大きく腕を伸ばしつつ言ったのは藤花だった。
「確かに、何だかんだ全員が集まるっていうのは珍しいからねぇ」
「まぁ、最近ではゴールデンウィークに皆んなで集まったけれどね」
と裕美も、藤花の真似をワザとして見せるように伸びをしつつ言った。「うん」
と短く返すのは律だ。
ゴールデンウィークは、師匠に言われるままに、コンクールのことを忘れて束の間の休みを…取ったはずだったが、何だかんだいつも外をぶらついていて、毎日を忙しく過ごしていた。予定通り、裕美と一緒に絵里のマンションに遊びに行ったし、これは予定に入っていなかったが、ヒロと裕美三人でも地元で遊んだ。そして今話題に出た通り、この五人でお泊まり会をしたのだった。とても面白かったのだが、ここで細かく触れられない事を許してほしい。…いや、そこまで需要があるのかと、自分で言っておいて、自己反省をしてしまうのだが…。まぁとにかく、これも何か機会があったら触れてみたいとは思っている。今は軽くだけ話すとしよう。まぁ結論からいうと、結局紫のマンションでする事になった。誰の家にしようかと皆んなで考えた結果、取り敢えず事情が分かっている紫の家に、またお邪魔しようと相成ったのだった。
…これだけ言うと、随分図図しいように見えるだろうが、真っ先に手を上げてくれたのが紫自身だった。むしろ率先して来て欲しいと言ってくれたので、違う人はまた次回に持ち越しにして、またお邪魔する流れになったのだ。実質一泊二日の旅行みたいだった。まず紫の家にお邪魔して、荷物を先に置かせてもらってから、遊びに出た。平日も別に必ずしも規律に従っていた訳ではなく、放課後も直帰せずにぶらついたりはしていたのだが、それは本当にぶらついていただけで、ただ時間を潰していたという方が正しい言い方だろう。何度も言うように、私たちはそれぞれ個人で忙しくしていたので、それこそ暗くなる前の五時くらいには解散していたのだった。休日も、他のみんなもそうだったが、私自身もコンクールの関係でずっと毎週日曜日は師匠のお宅にお邪魔して練習していたので、尚更遊びらしい遊びをしなくなっていた。だから、このゴールデンウィークは、久し振りに思春期の女の子が遊ぶような事を、主に紫と裕美が中心になって計画を練ってもらい、それに私と律、そして藤花が付き従うという形で過ごした。
ここでまた、余談につぐ余談だが、ふとこう思われた人もいるかも知れない。『底抜けに明るい天真爛漫なキャラクターの藤花も、裕美達に混ざって計画したりしそうなのに』と。これは確かに入学当初、知り合って間もない時は私もそう思っていたが、褒めるようだが、これがまた藤花の人間性の深さと言えるかも知れない。
…大袈裟か?
それはともかく、藤花は律のことを『キャラに似合わず乙女』だと称していたが、それを言うなら私からしたら『藤花もキャラに似合わず硬派』だと称してあげたい。私はご存知の通り、藤花とは同じ音楽の芸という繋がりで、深く付き合いがあった訳だが、付き合っていく内に、意外に頑固で、ストイックで、完全主義者だというのが分かってきた。自分からは言わないから周りも触れなかったが、いつも学校やそれ以外にも水筒を持ってきていた。魔法瓶だ。私はそれでも気になって、ある時…そう、藤花の家にある練習場にお邪魔した時に、その中身を飲んでいるのを見て、思わず聞いてしまったのだった。初めのうちは、目を真ん丸くしたまま固まっていたが、フゥッと息を吐いたかと思うと、何故か恥ずかしげに話してくれた。
簡単にまとめると、中身は喉の炎症を抑えるハーブティーで、古来より歌などの喉を酷使する人々に愛飲されてきたものらしい。それをこうして普段から練習の合間に違和を少しでも覚えたら飲むとの事だ。それを聞いて本心から感心して見せたのが功を奏したか、まぁいいかと言いたげな呆れ顔で笑いつつ、今度は部屋の隅にある机と椅子の方へと近付いた。私も素直に跡を追うと、藤花はその机の上にある、何も書かれていないダンボールの箱に触った。縦横高さが同じ長さ、大体五十センチ程のサイズだった。実は初めてこの部屋に来た時から、密かにずっと気になっていたものだ。この練習部屋が、私の家のと同じで八畳ほどの広さがあったが、アップライトだがピアノもあったりと、色々な歌関係の機材がある中で、この机と段ボールの箱が異質に映ったからだった。私が見つめる中、藤花は中から何やら機械を取り出した。そして、また中から、病院などで見た事のある酸素吸入器の口当て部分の様なものを取り出し、置いて、そしてふとタンスらしき所を開くと、中から一枚のバスタオルと、これまた驚いてしまったが、ミネラルウォーターの入った二リットルペットボトルを取り出した。チラッと見えたが、中にはタオルと水の入ったペットボトルが積まれてしまわれていた。そしてそれを、机の上面に二十センチほど張り出した備え付けの棚に、サイズに合う様に折りたたみ敷いて、その上に先程出した機械なり水なり何なりをゆっくりと慎重に置いていくのだった。そして最後に機械から伸びるプラグをコンセントに挿した。藤花が何も言わずに、いつものといった調子で手際良く作業をしていくので、私はただ黙って見守る他に無かった。と、作業が終わったのか、一度後ろからでも分かる程に頷くと、軽い身のこなしで半回転してこちらに向いた。藤花の顔は、また普段の爛漫な笑みを浮かべていた。でも話す段階になると恥ずかしげに、たまに機械の方を振り向きつつ言った。
「これは吸入器でね、耳鼻咽喉科にある様な本格的な物ではないんだけど、これを使う事によって、喉に潤いを与えて、痛んだ部位を治すのに手助けしてくれるの」
そう言うと、藤花はまた机の方を向いて、水のペットボトルを手に取り、キャップを外したかと思うと何かに注ぎ入れていた。私がゆっくり近づいて見ると、ちょうど支度が済んだ様だった。
藤花はふと私の方を見て、一度ニコッと笑うと、吸入器の電源ボタンを押した。ピッと音が鳴ったかと思うと、次の瞬間、大量の蒸気がモクモクと次から次へと口あての部分から湧き上がってくるのだった。見るのが初めてだったので、ついついジッとその様子を見ていたら、藤花は少し愉快といった調子でまた詳しく説明してくれた。それを聞きながら、ふとさっき感じた疑問をぶつける事にした。
「今藤花の話を聞いて、理由とかはよく分かったけれど、じゃあ何であのハーブティーを学校にまで持ってきてるの?」
「えぇー、それ聞くー?…まぁ聞くよね、そりゃあ…」
と、藤花は電源ボタンをまた押し、吸入器を止めながら言った。そしてこちらにまた向けた顔には、苦笑いが浮かんでいた。そして照れ臭そうに、決まり悪そうに答えた。
「私ってそのー…自分で言うのは馬鹿みたいだけど、お喋りでしょ?でねー…お家に帰って、いざ練習しようとしたら、声が思った通りに出ない事がよくあったの。これは小学生の頃の話ね。すぐにね、あぁ、学校でお喋りし過ぎたからだって分かったんだけど、何とかそのお喋りな性格を治そうとしても、結局治んなかったのね?だから、もうそれは仕方ないから、せめてこうしてお茶を持って行って、なんか喉に違和感が出てきたなって思ったら、飲む事にしているの。まぁー…そんな理由!」
恥ずかしさを拭い去るが為か、最後は無理やり勢いよく言い切った。
私は言い終えても決まり悪そうにしている藤花に対して、その芸に対する態度…しかも小学生の頃からだと言うのに益々感心しつつ、それでも疑問調で話しかけた。
「でもだったら、最初に言ってくれればよかったのにー。私もそうだけれど、多分他のみんなも何だろうって思っているよ?」
「律は知ってるけどねぇ」
藤花は悪戯っぽく笑いつつ、例のハーブティーを飲みつつ答えた。そしてそれが入った魔法瓶を手に持ちつつ、また少し照れ臭そうに笑いながら言うのだった。
「だって…やっぱり何だか恥ずかしいじゃない。普段から何も努力とかしてなさそうな人が、何気無く…私の場合は歌だけど、歌った時に、周りの度胆を抜くっていうのが良いのよ。…私は最初は聖歌隊からだったけど、これだけのめり込んじゃって、パパやママにこんな部屋まで作って貰って…」
藤花はここで一度、愛おしそうに部屋をぐるっと見渡した。それに釣られる様に、私も見渡した。
「どうせだったら、その歌の道を極めたいって、パパとママ以外では、律を除いて大人子供問わずに話したことは無かったけれど、そう思って、恥ずかしさもあって今までコソコソとしてきたんだ。…何も、努力してる所を他人に見せる事は無いもんね?」
「…」
そう言い終えた藤花は、また意地悪目にニヤッと笑って見せたが、私はすぐには返せなかった。
今更だが、この日というのは、私が初めて藤花の歌を聞いて、それから初めて無理を言って行った日だった。それまでは、何かしらの努力があってのあの歌声なのだろうと、漠然とは思っていたが、私たち…少なくとも私の知らない所で、ここまで普段の生活から芸のために摂生をして生きてる人間が、同い年にいるというのに感動していた。義一じゃないけど、裕美という例外はいたけど、こうして何か一つのことに邁進しているのは、私くらいじゃないかって考えていただけに、藤花のことを知って、この時に自分が如何に浅はかな人間なのかを痛切に感じていた。
そんな私の様子に、今度は心配げな表情で声を掛けてきたので、私は慌てて微笑みを作りつつ、同意を示したのだった。
それでも何か異変を感じ取った藤花は、ツカツカとピアノの側により、カバーを開けて、
「何か弾いて聞かせてよ?」
と言ってきた。私が呆気にとられていると、
「…私の秘密を教えたお礼にさ?」
とまた意地悪げにニターッと笑いつつ言った。
それが藤花なりの気遣いだとその時察した私は、「やれやれ…」と口に出しつつ、ピアノの前に座った。
…何を弾いたかまでは覚えていない。それだけ当時、頭がいっぱいいっぱいになっていたのだろう。それでも覚えているのは、弾き終えた後恐る恐る振り返ると、藤花がさっきの様に真ん丸に目を開けて固まった姿だった。私が声を掛けると、ハッと気づいた表情を見せたかと思うと、途端にテンション高く、座ったままの私に抱きついてきたのだった。思い出補正かも知れないが、その時藤花は「琴音凄い!」と連呼していたのを覚えている。この話は以前に軽く触れた事だ。初めて藤花が私の名前を呼び捨てで呼んだ日でもある。
…余談のつもりで軽く触れるはずだったが、ついついこの通り事細やかに描写してしまった。いつも…特に藤花の話をする時は、毎回長くなっている様に…それは自覚している。まぁ…開き直るつもりは無いが、長くなる理由は何度もさせて頂いているので、今更何も言うことはない。ただ一重に、話を聞いてくれてる皆さんの心の広さに対して、感謝を述べたいとは思う。
話をググッと戻そう。
「さてと…。これからどうしよっか?」
「そうだねぇー…またあの御苑近くのに行く?」
紫に裕美が答えた。一年の時によく行っていた、御苑近くの喫茶店だ。一年生の間だけ、同じ学校の生徒や先生に見られない様にと、バレー部の律の先輩に教えて貰った”隠れ家”だった。当初は、一年生の間だけ一時的に使って、それ以降は学園の近所に行こうと話していたのだが、中々妙なもので、不思議と一駅分という微妙な距離にあるこの喫茶店に愛着が湧き、二年に上がった今でも、何かとここを利用していた。静かで落ち着きのある店内が、皆共通して気に入ってたみたいだった。
「そうしよ、そうしよ!」
藤花はその場で飛び跳ねるんじゃないかって程にテンションを上げ気味に言った。爛漫な方の藤花だ。
「うん、いいよ」
と素っ気なくボソッと言うのは律だ。
と、そう言い終えると、律は私に顔を向けてきた。何も言わなかったが、意見を求めてくる時の表情だった。気付くと、裕美も笑顔でこちらを見てきていた。…いや、結局皆して私の方を見てきていた。
さっきも言ったが、久し振りだったのですぐに返答しようとしたその瞬間、不意に頭の中に、コンクールの課題曲が流れてきた。それも、今まで自分の中で消化仕切れていなかったパートだった。私はすぐに口を塞ぎ、黙ったままそのメロディーに耳を傾けていた。他のみんなは、そんな私の様子を、キョトン顔で見つめてきていたが、それには気を止める事なく最後まで聞いていた。
…これは…
「…と、…ょっと、ちょっと琴音!」
「…わっ!な、何!?」
私は不意に強く揺すられたので、びっくりして声を上げた。私を揺らしたのは、裕美だった。私が気付くまで一瞬険しい表情を浮かべていたが、呑気な調子で返すと、裕美は大きくため息をつきながら、声も呆れ調で話しかけてきた。
「何?じゃないよぉー…どうしたの?急に惚けちゃって」
「え?あ、いや…」
何だか気まずくて裕美から視線を逸らすと、他の三人も私に心配げな、もしくは怪訝な表情を向けてきていた。
それを見てまた気まずく思い、裕美に視線を戻して言った。
「あ、いや、何でも無いんだけれどさー…あの、みんな?」
私は少し溜めてから、また裕美を含む皆に視線を回して、それから顔の前でパンと両手を打つと、目をギュッと瞑りつつ、如何にも申し訳無さそうな表情を浮かべつつ「ゴメンっ!」と声を張った。
「せっかくだけれど、今日この後用事があったのを思い出したわ」
それを聞いたみんなは、一瞬キョトンとした表情を浮かべていたが、
「…えぇー!」とまず紫が声を上げた。顔中に不満を表している。
「今更ー?折角良い調子で盛り上がっていたのにぃ」
「本当にゴメン」
私はまた顔の前で両手を合わした。
「本当だよぉー」
と次に声を出したのは藤花だった。藤花も藤花で、不満げな表情を作っていたが、正直出来は良くなかった。目の端と口元が、若干緩んでいた。そもそも、そういうタイプでは無い…のがこういう点からもよく分かるだろう。
律の方をチラッと見ると、律は表情を変えないまま、事の成り行きを静観していた。ふと私と目が合うと、律は片方の眉だけクッと上げて、何とも仕方ないって言いたげな苦笑を浮かべていた。何も言っていなかったが、一応私に同情してくれていた様だった。
「まぁまぁ、お二人さん」
と、律とはまた違った方式で今まで静観していた裕美が、ワーワー騒いでいる紫と藤花を宥めに入った。この瞬間、私は裕美に感謝をしそうになったが、どうやらそれは甘い考えの様だった。
何故なら、
「琴音の口からその訳を聞いてからにしましょうよ?」
と言ってから、私に意地悪そうにニヤケ顔を向けてきたからだった。
裕美ったらー…この裏切り者!
と心の中で悪態をついたが、この間に言い訳を考える時間が取れていたので、私は渋々それを話すことにした。
「聞いてからにしましょうって…まだ何かするつもりなの?まぁいいわ。実はねー…私の師匠、ピアノの先生ね、師匠に与えられた課題を済ませて無いのに気付いたのよ。明日の日曜がレッスン日なんだけれど、それまでに終わらせとかなきゃいけないの…。だから、今からお家に帰って、急いで済まさなきゃ…」
「…」
我ながら”らしい”言い訳を思いついたと思った。内容としても、殆どの嘘は入ってない。師匠の下りの所くらいだ。
私の話を聞き終えたみんなは、一瞬間が空いた後、それぞれ側の人と顔を見合わせたりしていたが、
「…それじゃあ、仕方ないねぇ」
とまたさっきの様に、まず紫が声を出した。一つ違ったのは、表情が苦笑気味の呆れ笑いだった点だ。
「そうだねぇー」
と続いて言った藤花の表情も、紫と似たり寄ったりだった。
「私も練習が佳境に入ると、ついつい籠りがちになっちゃうし…」
「…仕方ない」
と、律はようやく口を開いたかと思ったら、少し優しげな微笑みを見せつつそう呟いた。私は少し呆気にとられて、何も言わず苦笑で返すのみだった。
ふとここで裕美の方を見ると、私と目が合ったが、一瞬こちらに不審に思っている様な視線を向けてきていた。だが次の瞬間、裕美は紫と同じ様な表情とテンション、そして口調で私に話しかけてきた。
「…仕方ないなぁー、今日の所は許すけど、次からはもっと早めに言っといてよねぇ?」
と言い終えると、いつものニヤケ面を向けてきたので、私も冗談交じりに、また顔の前で両手を合わせて「ふふ、本当にゴメン」と返すのだった。
それからはみんなで一頻り笑いあった後、私を除いたみんなで取り敢えず喫茶店に行くと言うんで、地下鉄連絡口の階段の上から、皆が降りて行くのを見送った。最後はお互いに笑顔で両手を振り合ったのだった。
見えなくなると、私は一人息を吐き、それから普段の帰宅ルートに足を運ぶのだった。この頃には、すっかり裕美が一瞬見せた不審げな表情を浮かべていた事を忘れていた。というのも、見送った後で慌ててさっき頭に流れたメロディーを思い出していたからだった。私はホームに着くまで頭の中で反芻し、ちょうど電車が来たので乗り込むと、早速カバンからいつものメモ帳を取り出すと、簡単に五線譜を描いて、そこに音符を書き入れ、余白に解釈を書き入れたりしていた。ある程度、仮に後で間が開いたとしても思い返せば鮮明に思い出せる程度にメモした時には、気付けば地元の駅に降り立っていた。その事実に自分で驚いた。全く道中を、どう歩き、いつ乗り換えたのか、その記憶がアヤフヤだったからだ。それだけ良く言えば集中していたという話だが、よく考えたら色々と危なかったなと、駅から自宅までの道のりを、一人苦笑しながら帰ったのだった。
家の前に着き玄関を開けると、中はシーンと静まり返っていた。どうやら、お母さんはどこかへ出ているらしい。
私は特段感想を持たずに、早足で自室のある二階に上がり、気持ち早く普段着に着替えて、一階にある、防音を施されたグランドピアノの置いてある練習部屋に早速入った。
…いつだったか、私がこの部屋で練習している時に、内線を鳴らされて如何の斯うのといった話をしたと思うが、折角なので、少しだけ細かく触れようと思う。これはお父さんとお母さんに、それぞれ聞いた話だ。家自体はお父さんが建てたらしいが、土地に関しては私のお爺ちゃんの持ち物だったらしい。私が生まれるかどうかって時だった様で、つまりこの家と私はほぼ同い年という話だ。あまり話したくない話題だが、便宜上触れると、立地を言えば、地元でもそこそこのお金を持った人が住む地区だった。この家も大きく広かったが、周囲の家も大きめの家が多かった。それなりに車通りのある道が目の前なのも理由だろう。そうは言っても、夜になると車も疎らで、とても静かだった。何でこんな話をしたかというと、お父さんの趣味でも無いのに、なんで防音を施された一室と、グランドピアノがあるのかの理由を話さんがためだ。それは…お爺ちゃんが深く絡んでいる。というのも、グランドピアノは元々お爺ちゃんの持ち物だった。何十年も前に買ったもので、ここで細かく言っても仕方ないが、ドイツの名門老舗メーカーが作った一級品だった。他のピアノを弾いて見るまでは分からなかったが、とても強いクセを持っていた。軽く分かりやすいところで具体的な点を一つ述べると、鍵盤の一つ一つが異様に固いのだ。結構力を入れないと、思った様な綺麗な音を鳴らしてくれない。子供ながらに弾くのが大変だっただろうが、こんなものだと思っていたので、当時は気にしていなかった。師匠の所のピアノも、あれは師匠の所有する一つだが、アレも家にあるのほどではないにしても、中々に固い代物だった。まずは家ので練習して、それから師匠のを弾くと、力を入れなくても綺麗な音が鳴るから、力まずに具合良く脱力出来るので指がスムーズに動いて、思った以上に綺麗に弾けてしまうので、幼い頃は師匠の所で弾くのが楽しみだった。ただ勿論、強弱のつけ方に関しては、毎度毎度師匠に注意されていたのは言うまでもない。
さて、少し話を戻して、ここで下世話な点にも触れれば、当時のレートと今とでは違うから一概に言えないが、簡単に言えば、この一台と平均的な高級外車の値段が同じくらいだったらしい。義一が表現した様に、私のお爺ちゃんは粋人なのかも知れないが、それでもそんな高価な買い物をしてしまうなんて、その域を越えている事くらいは、いくらまだ幼い私でも分かった。義一が言うには、お爺ちゃんはピアノを弾けないって事だから、尚更理由を知りたくなったが、その訳を聞こうにもお爺ちゃんは既に亡くなっていたし、お父さんに聞いても、そして義一に聞いても、ピアノをわざわざ買った理由を二人とも知らなかった。
お父さんの話では、今では少し古ぼけてしまったこのピアノに対して深く入れ込んでいた様で、土地の所有権の移譲、相続税の減税などなど、そんなの聞いても私にはチンプンカンプンだったが、兎も角お父さんに都合の良い提案をする代わりに、新しく建てる家の一室に、このピアノの部屋を設けてくれと頼んだようなのだ。お父さんは『そこまでこのピアノが大事なのか…?』と呆気に取られたらしいが、条件はすこぶる良かったし、古ぼけていてもグランドピアノだから、持っているだけでそれなりの財産だろうと思ったらしく、快く条件を飲んだようだ。そのお陰で、こうして我が家に環境の整った部屋と、クセの強い頑固なピアノがいる訳だ。
話を戻そう。部屋に入ってからどれほど経ったか、メモ帳を取り出し、それを実際の楽譜の余白に書き込んで、それを実際に弾いてみたりした。この部屋は壁一面が防音してある関係か、一枚も窓が無かったので、今が夜なのかどうなのか直ぐには判断出来なかった。それでも一応時計が壁に掛けてあるので見てみると、七時半を指していた。まさか朝では無いだろうから、言うまでもなく夜だった。部屋に入ってからゆうに四時間が経つ計算になる。ずっと八小節の部分と、その前後数小節を何度も繰り返し弾いてのこの時間だ。我ながらよく飽きずに弾いたなと思ったが、自分で言うのもなんだが、とてもしっくりきて、抽象的で悪いが『これだっ!』と思える、珍しく自分で自分に満足のいく仕上がりになっていた。
一度指を休めて伸びをしながら、「一刻も早く師匠に聞いて貰いたいなぁ…」と独り言を言いながら、明日の事を色々と想定して妄想していたその時、部屋の内線のベルが鳴った。これが何時に鳴らされるかで、大体何の合図か分かるようになっていた。今回の場合は、ズバリ夕食の合図だ。
私は軽く鍵盤を専用の布で丁寧に拭いてから、細長いカバーを敷いて、蓋を閉め、これは私特有のクセらしいが、黒光りする蓋上面も、先程の専用の布で労わるように拭くのだった。
こうして練習後に拭いたり手入れをするのは、習いたての頃に師匠に言われた一番最初の教えだった。『道具を大事にするっていうのがね、上達への一番の近道よ』…そう言った後に『まぁ根拠は無いんだけど』と悪戯っぽく笑って見せていたが、まだ小学二年生に上がったばかりの私には、凄くその話が頭に残って、それ以来ずっと教えを守っているのだった。
拭き終えると、私はまた一度伸びをして、それから部屋を出て居間に向かった。
居間のドアを開けると、夕食の良い香りが鼻に入ってきた。と同時に、途端にお腹が空いてくるように感じた。考えてみたら、今日は土曜日だから弁当を持って行ってはおらず、裕美たちとご飯を食べにも行かなかったので、昼ご飯を食べていなかったのにこの時初めて気づいた。私はいつもピアノの練習の後は、手を洗うのが習慣となっていた。ピアノを弾くのに、ある意味ずっと指を動かすという、師匠に言わせれば指のスポーツでもあるので、少なからず手に汗をかくのだ。だから終わった後に拭くのもその為だ。この場合は食事前だから当たり前は当たり前だが、それ以外でも手を洗うのは、ただ単に汗が気持ち悪いという理由だった。それは兎も角、普段通りふらっと台所のシンクに向かうと、視界の隅にお父さんの姿が見えた。テレビの前のソファーに座っていたが、テレビは点けずに新聞を読んでいた。
「…あ、お父さん、お帰りなさい」
と一度足を止めて挨拶すると、お父さんは新聞を畳みながら「うん、ただいま」と表情は少なかったが、それなりに微笑みつつ返してきた。私はそれを聞くと、改めてシンクに向かうのだった。
週に平均して二度か三度ほどの、親子三人での夕食を終え、私は風呂に入る前に一度自室に入る事にした。何しろ早くピアノを弾きたくて仕方なかったので、ロクに整理をしていない事に気付いたからだ。
私のお母さんは、呉服屋の娘という家庭環境が作用しているのかどうだか知らないが、綺麗好きな上に整理整頓が行き届いていなければ我慢がならない性質だったが、それが遺伝したのか何なのか、私もこうして一つの事に気をとられると、ついつい散らかしてしまう癖に、散らかった状態を見るのが耐えられない性格でもあるので、ほっとくといつまでも頭にその事が残って、酷い時にはそれに頭が占められてしまうので、こうして予めに対処しておくのだった。
ベッドの上に散らして置いたカバンなどを整理し終えると、ふと目に、光を点滅させるスマホに気づいた。誰かが私に連絡を入れたようだった。開いて見ると、SNSには六通来ており、そしてこれが凄く意外だったが、義一から電話が来ていた。それも断続的に三度も。先に履歴を見てみると、夕方の五時あたりにして来ていたようだった。
何故だかこれを見て、漠然とした胸騒ぎを覚えたが、この時はとりあえず保留して、まずメッセージの方から確認した。開いて見ると、裕美たち四人からと、これまた意外に美保子と百合子からも来ていた。それも同時間に。義一の電話とも近かった。それで益々不安にも似た感情に胸が占められていったが、順番的に、まず四時あたりに一斉に来た裕美たちの方から確認した。見ると、四人ともにそれぞれの個性に沿った文面を送って来ていたが、内容的には共通していて、私がいない分楽しんでいるといった調子だった。私はそんな冗談混じりの文面を苦笑しながら見ていると、ふと画像ファイルが添付されていたので開いた。それはあの御苑近くの喫茶店で、パフェなり何なりという多種多様なスイーツにがっつく、四人の写真だった。四人とも写っているという事は、店員さんに撮ってもらったのだろう。その図々しさにまた呆れた笑いが自然と漏れたが、すぐに誰に撮ってもらったか理解した。あまり重要では無い情報だが、このお店には大学生の女性が一人バイトとして勤めていて、何とその女性は私たちのOBだった。向こうから親しげに話しかけてきた。私たちの制服を見て、この近辺ではまず見ないし、それ故に懐かしくなり思わず話しかけたとの事だった。それからは、たまたま彼女のシフトと私たちの都合があった時などは、お店が暇だという条件付きで、一緒にお喋りをしたりするのだった。今日はそんな日だったのだろう。それぞれがそれぞれのスタイルで、おちゃらけ気味にカメラ目線で写っていた。
私は四人それぞれに、冗談ぽく恨み節を書いて送り終わったちょうどその時、ふと電話が鳴った。表示されているのは『義一さん』の文字だった。
私はすぐには取らずに、ソッと忍び足でドアに近付き、静かに開けて、廊下を左右見渡し、誰もいない事を確認すると、またそっとドアを閉めて、ベッドの上に腰をおろし、ようやく取った。
「はい」
「あ、琴音ちゃん?今大丈夫?」
義一の声は心配げな声音だったが、それと同時に少し焦っているようだった。
「あ、うん…大丈夫だけれど、どうしたの?珍しいね、電話なんて」
「…うん、さっき夕方辺りにも電話したんだけれど、出なかったから、多分練習をしているのかとは思ったんだけれども」
「うん、その通り、その時はちょっと籠って練習してたんだ。…で?何かあったの?」
「…」
私がそう聞くと、電話の向こうの義一はほんの数秒ばかり黙り込んだ。そのお陰で、向こうの環境音も小さく微かにだが聞こえていた。テレビが点いているらしい。
義一は少し溜息を漏らすと、静かな口調で言った。
「…今君は家にいるの?」
「う、うん」
ヤケに真剣な口調なので、戸惑いつつ答えると、義一はさらに深刻そうな調子で続けた。
「…ちょっとテレビを点けて見てくれるかな?どのチャンネルでもいいから」
「え?…あ、あぁ、うん、分かった。じゃあ少し待ってて?」
私は万が一お母さんが部屋に入ってきても見られないように、スマホを引き出しの奥に隠してから、一階の居間に降りた。
テレビの前には、先程のようにお父さんがソファーに腰を下ろし、新聞をまた読んでいた。
「お、琴音…どうかしたか?」
「え?あ、いや、なんか暇つぶしにテレビでも見ようかなぁって…」
「ふーん…お前にしては珍しいな」
我ながら咄嗟に上手い対処が出来なかったのに心の中で苦笑いしたが、お父さんはそんな私を訝しむこともなく、軽く流した。
「暇つぶししてるなら、早くお風呂に入っちゃいなさーい」
と台所で作業をしていたお母さんの声がしたので、「後でー」と間延び気味に答えつつ、テレビの電源を入れた。しばらくすると画面一杯に画像が流れたが、丁度国営放送のチャンネルだった。
と、その時、流れている映像にも驚いたが、画面の端に踊る文字にも尚更驚いた。そこに出ていたのは『落語界の名人にして最後の鬼才、〇〇さん死去』だった。この〇〇には私に馴染みのある名前が入っていた。そう、”師匠”だった。
「…え?」
私はそう声を漏らすのが精一杯だった。
突然のこと過ぎて、この時初めて頭が真っ白になる感覚というのを体験した。私は前のめりになって画面を見つめた。
そこには昔の師匠の映像が流されていた。大体三十代から四十代くらいから、師匠自身が認めていた全盛期の六十代までの、数少ないテレビ出演部分や、高座の姿だった。国営放送のその番組は、師匠を偲んでという冠を掲げた臨時番組のようだった。VTRが終わるとスタジオに画面が移り、そこには私はよく知らないアナウンサーと、後は師匠と親交の深かった、師匠より少し後輩の落語協会の現会長が出ていた。アナウンサーがまず師匠が”心筋梗塞”で亡くなった旨を伝えると、その後に色々と如何にも台本通りだといった風な話を振っていた。すると現会長は努めて穏やかな笑みを浮かべながら、師匠の芸名の後に”兄さん”と付けながら、昔の思い出話をしていた。色々興味深いことを話していたが、『兄さんほどに芸を愛し芸に徹した芸人は、後にも先にも現れない』と力強く熱っぽく言った言葉が、特に当時の私の耳には残った。私はこの人の芸は口当たりが良すぎて、そこまで好きな芸人では無かったが、それでも師匠の方でも気に入って可愛がっていたのを、書かれた本などを読んで知っていたので、そんな会長の話を聞いていると、ふと目頭が熱くなるのを覚えていた。でも放送時間との兼ね合いがあったのか、アナウンサーが無情にも会長の話を途中でぶった斬り、そして自分でも感想を述べていたが、とても在り来たりな内容過ぎて、虫酸が走った。「落語界の宝がまた一人消えた」とか、そんな類のことを、仕事柄だからなのか、次から次へと言葉を吐いていたが、そのどれ一つを取っても中身のあるのが皆無だった。ただ言葉を垂れ流しているだけだった。
…私も終に高座を直接見る機会は無かったけれど、一度も落語を聞いたことすら無いくせに、恥も外聞も無く、よくもまぁここまでしおらしくそれらしくコメント出来るものだな…。
そう感想を持ちつつ、私は途中からイライラしてきていたが、ちょうどその辺りで不意に、
「…あぁ、こいつなぁー」
と、今まで黙ってテレビを見ずに新聞を読んでいたお父さんが、もう読み終えたのか新聞を折りたたむと、ソファーに深く座り直しながら声を漏らした。
「最近テレビで見ないと思ったが…まだ生きていたんだなぁ」
「…お父さん、この人の事を知ってるの?」
お父さんのそんな言い草に、益々イライラが募っていたが、なんとか抑えて、この際だからお父さんが師匠のことをどう思っているのか聞いて見たい衝動に駆られて、私も師匠の事を知らないフリをしながら聞いた。もちろん頭の中に、義一が言った、人を見る時の一つの指標の事を頭に浮かべながら。
「あぁ、知ってるよ」
お父さんはテレビとソファーの間に置いてあるテーブルの上から、晩酌用のコップに入ったビールを手に取り、一口飲んでから言った。
「昔はよくテレビで見ていたんだがなー…ここ十年以上テレビで見なくなったから、人気が無くなったんだろうねー…。色々と破天荒な事をやって見せたりしててな、何だか奇抜な事をして世の注意を引こうとするあの態度が、俺には我慢がならなかったよ。…何だか、そんなこいつの態度のどこに惹かれたのか、結構熱烈な信奉者もいたらしいが、まぁ”通ぶっている”奴らには、御誂え向きだったんだろう。…ふーん、享年七十八歳か…まぁ悪童世に憚るとはよく言ったもんだが、こいつはまぁ…このくらいで死んで良かったんじゃないか?…ん?どうした琴音、そんな怖い顔をして?」
「…え?」
突然話を振られたので、私は慌てて自分のホッペのあたりを大袈裟に撫でながら言った。
「そんな怖い顔をしていた?」
「あ、あぁ…。まぁ…何でも無いならそれで良い」
お父さんは少し私の事を奇異な物でも見るかのように見てきたが、それからは呆れ笑いを浮かべながら、チャンネルを変えた。しかしどの局でも師匠の死去について特集を組んでいたので、お父さんはフンッと不満げに鼻から短く息を吐くと、テレビを消してしまった。私はこの時、例の物体を胸の辺りに感じて、息苦しくなっていた。それでも何とか平静を装いつつ、「じゃあそろそろお風呂に入るね」と声を掛けてから居間を出た。そのモノの”重さ”は風呂に入っている間も続いた。頭は真っ白のまんまだった。
ほとんど夢遊病のように、無意識のままに寝支度を済ませ、最後にまだ居間に残っていたお父さんとお母さんに挨拶をしてから自室に入った。
そのままベッドに入ろうとしたその時、ふと義一との電話の途中だったことを思い出し、慌てて引き出しの奥を弄り、そこからスマホを取り出した。見ると電話は切れていた。それはそうだろう。あれからゆうに二時間は経っていた。と、メールが一通来ていた。義一からだった。
すぐに読もうと思ったが、まず美保子たちの方から見た。内容は予想通り、師匠の訃報についてだった。私は一応今情報に触れた旨を書いて、そして驚いたとの感想も入れて二人に返信した。そして次に義一からのを見た。要約すると次のような物だった。
師匠が亡くなった事、死因は心筋梗塞で、今朝中々起きて来ない師匠を心配して家族が寝室に行って見ると、既に事切れていた事、最初の報道があったのは夕方頃で字幕スーパーに流れた事、それにより義一たち含む関係者達も初めて知った事、葬儀は遺族だけで執り行われる事、お別れの会は別にするとの事、それには”数寄屋”に集う”オーソドックス”に所縁のある面子が出席するとの事等々、まだまだキリがないが、事細やかに書かれていた。
私はその文面を何度か見返し、義一にも返信しようかと思ったが、やはりそれはダメだと思い留まり、今度は私から電話を掛けた。さっきの様に周りに注意は払わなかった。
突然の電話だというのに、義一は呼び出し音が二度鳴ったくらいで出た。声は静かだった。
「…見た?」
義一は前置きを置かずに端的に言った。
私は見えていないのは重々承知で、その場でコクっと頷いてから返した。
「…うん、今見た…」
「そっか…」
義一はそう短く返すと、そのまま暫く二人の間に沈黙が流れた。私もそうだったが、こういった場合、何て言えば良いのか困っている様子だった。…いや、この場合の義一は、言葉は持っていても、それを私に掛けるべきかどうかで悩んでいるようにも見えていた。この様な時の義一の”優しさ”は、普段以上に暖かく感じられて、無言が流れる重々しい空気の中にいるはずなのに、少し緊張が緩むのだった。
それからはメールに書かれていた事を繰り返し聞かされた。新しい情報としては、お別れの会の内容は概ね既に決まっていて、平日の午後に、師匠の事を尊敬し慕っていた、当代きっての実力があると評価されている歌舞伎役者がホストを買って出て、歌舞伎座でやる事に、今日の今日で決まったらしい。義一も当然行くとの話だった。私は行けないのが心から残念だと訴えると、義一は電話口で力無く笑うのだった。この事については、改めて後日私の暇な時に”宝箱”で話し合う約束をして、電話を切ったのだった。
それからすぐにベッドに入ったが、中々すぐには寝付けなかった。
今日も目一杯練習したから体は疲れていのだが、頭…精神は興奮状態になっている様で、首の後ろ辺りが火照っているのを感じていた。胸に重くのしかかっていたアレは、今ではまた収まっていたが、相変わらず存在感だけは残していた。その代わりと言っては何だが、その隙間を埋める様に胸を深く冷たく占めたのは、如何ともし難い寂寥感だった。瞼を閉じてみても、あの数寄屋での師匠の様子が浮かぶばかりだった。どれも照れからくる苦笑いだったが、愛くるしく可愛らしい笑みだった。その様な表情で最初の方で『もう十分生きた…』と何気無く言った言葉だとか、最後の方で苦しそうに咳してから力無く繰り返し言った『もう良いんだ』という言葉も、繰り返し耳の奥で木霊していた。この晩は夢を見なかった。
「…うん、いいんじゃない?」
家に着くなり早速ピアノに向かい弾いて見せると、師匠は明るい笑みを零しつつ私に言った。
あの衝撃的なニュースから一晩明けての日曜日。私は寝不足なのも含めて、若干の気怠さを覚えつつも、こうして予定通り師匠宅にお邪魔している。挨拶もそこそこに、師匠も私と同じ様に若干眠そうにしつつ髪を後ろで纏めている間、私は塾に通っていた時から使っているトートバッグから楽譜を取り出し、早速新しく解釈を施した演奏を聴いて貰っていた。
師匠は今言ってくれた様に、その解釈を褒めてくれた。ここで技術的な話は置いとくとして、簡単に言えば『琴音らしい』との感想を頂いたのだった。ただコンクールの課題曲だったのに、この解釈で良いのかまでは言ってくれなかったが、演奏面だけではなく、師匠の”耳”に対しても絶大な信頼を寄せていたので、仮にこれでコンクールが上手くいかなかったとしても、それで満足だくらいには思っていたので、繰り返す様だが、嬉しかったと同時に安堵した。
何はともあれ、そこから何小節か試行錯誤しつつ弾いていると、あっという間にお昼になった。
この日は手抜き…と言っては悪いが、簡単に作れるシナモンシュガーワッフルを作った。前々回くらいにホットケーキを作ったのだが、その時のホットケーキミックスが余っていたとかで、それをタネに作ったのだ。とても簡単だったが、味は普通に美味しかった。ピアノの練習時もそうだが、こうして一緒にお菓子作りをして、ワイワイと食べてる間は落ち着く瞬間で、この日に限って言えば、師匠の事でナイーブになっていた気持ちが、薄らいでいたのだった。
だが…
「どうしたの琴音?今日はいつになく元気が無いわよ?」
「…え?」
今私たち二人は、ワッフルを食べ終えて、洗い物を済まし、午後のレッスンまでのひと時を雑談して過ごしていた時だった。
師匠から、どういった経緯でそんな解釈が思い浮かんだのか聞かれたので、 昨日たまたま不意に予期せぬ所でメロデイーが流れてきて、 折角の友達との親睦を深める機会を”犠牲に”して、 家に帰って改めて深めた旨を冗談ぽく話していた矢先に、ふとこう聞かれたのだった。
「…そう見えます?」
と少しおずおずしつつ聞き返すと、
「うん、そう見える」
と師匠は肘をつきホッペに手を当てながら、口元を緩めつつ言った。だが、目元は真剣そのものだった。本気で心配してくれている様子だ。
そんな視線に耐えられなかった私は、苦笑い気味に
「何でも無いですって」
と返すのがやっとだった。
「ふーん…」
と師匠は納得いかないと言いたげに、私にジト目を向けてきていたが、フッと表情を緩めたかと思うと、
「まぁ…私が少し”オチている”から、あなたまでもそう見えたのかしらねぇ…」とボソッと、中々真意が計りかねる様な言い回しで言った。
それを聞いた私はすかさず、
「…え?それって、どういう意味ですか?」
と質問した。
「師匠”も”…何か落ち込む様な事があったんですか?」
「…ふふ、”も”って、やっぱりあなたも落ち込む事があったんじゃない」
師匠は力無げだったが、それでも悪戯っぽくニヤケながら言い返してきた。
こりゃ一本取られたと、私も苦笑しつつホッペを掻いていたが、フッと師匠は寂しげな表情で笑いながら話しかけてきた。
「…まぁいっか。大人として、そして何よりあなたの師匠として、まず私から話すのが筋ってものかも知れないわねぇー…ちょっと待ってて?」
「は、はい…?」
私の返事を聞くか聞かないか微妙なタイミングで、師匠は不意に立ち上がり、居間を出て、家の何処かに行ってしまった。
この家は、私が小学二年生になりたての頃から来ているが、今だにこの家の全貌を知れていなかった。私が行った事がある…というよりしょっちゅう行っていたのは、レッスン部屋と、今いる居間と、師匠の五畳ほどの、義一の宝箱とは比べ物にならない量だったが、壁一面に本が並んだ書斎くらいだった。寝室や、別にあると聞いたことだけある師匠個人の練習部屋など、まだまだ未開のエリアがあった。当然というか、ここが私の下卑た点だが、好奇心が”無駄”に旺盛なせいで、何とかそういった師匠のプライベートエリアを覗いてみたいという衝動に駆られていたが、流石にもう師弟の関係になってしまったので、そう易々と頼める感じでは無くなってしまった。 こんな事なら、もっと早めに図々しく頼んでおくんだったと、思わなくもない今日この頃って感じだった。
それはさておき、何処かで物音が聞こえていたかと思うと、師匠が何やら紙の束を携えて戻ってきた。そしてそれを何も言わずに、二人分の紅茶が乗っているだけの食卓の上に、静かにその束を置いた。どうやら今朝の朝刊の様だった。スポーツ紙だ。
新聞だ…ってあれ?
師匠がゆっくりとした動作で座ろうとする間、私はチラッと見えた一面の文字に目を奪われ、思わず師匠に断る事無くその中の一つを手に取った。そこには、昨日テレビで見たのと同じ文句が一面にデカデカと載っていた。
『訃報 〇〇死去』
そう、”師匠”の事が一面全面を占めて載っていたのだ。
…っと、この呼び名では、私の師匠と違いが分かりづらいだろう。かと言って、いくら芸名とはいえここで述べるのは何だか引ける…。という事で、”ピアノの師匠”には悪いが、この間だけ”沙恵さん”と、まるでお母さんが言うように呼ばせて頂こう。弟子が気安く師匠の事を下の名前で呼ぶのは不敬だし、呼ぶこちらとしても呼びづらいといった弊害はあるが、少なくとも師匠は気にしないだろうし、それに仮に気にする様な性格だったとしても、訳を言ったら快諾してくれただろう。…若干ネタバレ感があるが、それはすぐ後の”沙恵さん”が話す内容から分かる。話を戻す。
沙恵さんは座ってからも、何故師匠が一面に載っている今日の朝刊を、それも一社だけで無く何社も買っていて、それをまた私に見せているのか、その理由を言い出さなかった。まぁ私の方で、まずそれぞれの師匠の写真が載っているのを一通り見てから、それから一社ずつ、すぐそばに沙恵さんがいるのを忘れかけて、ついつい細かく読み始めてしまったのもあっただろう。
そんな私の様子を、紅茶を啜りつつ眺めていたが、キリがなさそうだと判断したか、沙恵さんは苦笑気味に話しかけてきた。
「…ふふ、これは予想外の反応ねぇ。琴音、あなたまさか、この方の事知ってるの?」
「…え?」
私はこの時まで夢中で読んでいたので、瞬時に何を聞かれているのか分からなかった。が、すぐに慌てつつ、「え、あ、いやっ!」と言った調子で、しどろもどろになって返した。
そんな私の様子を見て、沙恵さんはまた愉快だと言いたげに明るく笑って見せた。
「ふーん…知ってるんだねぇ」
と今度はしみじみ言ってきたので、ある意味私は観念して「…はい」とだけ静かに返した。
「ふふ、そんな叱ってるんじゃないんだから、そんなしんみりしないでよぉ」
沙恵さんは”そう”思ったらしく、努めて明るくして見せながら言った。
「師匠”も”知ってるの?」
私はまだ頭が軽く混乱しつつ、ついつい師弟関係になる前に時折していた様に、タメ口になってしまった。
それを咎める事なく、沙恵さんは明るい笑顔のまま答えた。
「ふふ、また”も”って言ったわね?いくら成熟の度合いが高いっていっても、この辺はまだまだねぇー?…ふふ、さて、からかうのはこの辺にして…うん、そう、私はずっと昔からこの人のファンだったの。…今の琴音くらいか、もっと前からね」
沙恵さんはそう言うと、束の中から一紙を手に取ると、一面を愛おしげに目を細めつつ見ていた。そこには、紺碧の着物を着て、下にはグレーの袴を履いて、高座を終えた時なのだろう、中腰になって立ち上がりかけの時の写真らしく、顔には満面の笑みを浮かべていた。この間、短い間だったが深い話をさせて頂いた印象が強く残っており、まるでその写真の師匠が『どうでぇ、今日の出来は?良かったろ?』とでも言い出しそうに感じたのだった。
「琴音は、昨日のニュースを見た?」
「は、はい」
「驚いたよねぇー…って、私はまだ、あなたがどれ程にこの人に入れ込んでいるのか聞いてないけど、今は取り敢えず私の事を吐露させて貰うとね、うーん…そりゃ驚いたよ。昔…そうだなぁ、今から二十年も前だったか、”師匠”は何度か癌になってねぇ…何度も手術を受けていたのよ」
「…」
私は何も返さなかったが、紙面に目を落としつつ、大きく頷いて感心している素振りを見せていた。当然…というか、今沙恵さんが述べた情報は私も知っていた。それから…数年前に、とうとう喉に癌が転移して、周りが説得したのにも関わらず、腫瘍を撤去する手術だけは受けなかった事。何しろそれまで切除してしまうと、声が出なくなるのは必至だったからという理由を、何処かに書かれていた。声が出なくなるくらいなら、寿命が縮まっても構わないという信念を、ここ最近まで師匠の本を読み込んでいく過程で、感じたのだった。それなのに結局直接には関係なさそうな心筋梗塞で亡くなってしまうとは、これも人生って所なのだろう。
とここで、一つ…いや二つばかり驚いた事、そして同時に嬉しかった事を述べておこうと思う。まず一つ目は、ただ単純な事だが、尊敬している”沙恵さん”が、”師匠”の事を知ってて、それだけではなく”ファン”だと言った事だ。昨日、お父さんの反応を見た直後だっただけに、感動も一入だった。これに関係するのだが、もう一つの理由…それは、これまた単純だが、私と同じ様に”師匠”呼びをしていた事だった。これは別に私が便宜的に沙恵さんの言葉を編集したわけでは無い。そのまま”師匠”と呼んでいたのだった。
「それからは…あ、そうか、私は高校を卒業とともに、ドイツに留学してしまって、そのまま向こうに数年前まで行ってた話はしたよね?」
「はい、それで戻って着てすぐに、お母さんに誘われて、この教室を開いたと」
そうすぐに答えると、沙恵さんは微笑みつつ、人差し指をビッと勢いよく私に向けて「そして、その生徒の一号が琴音、あなた!そして、弟子一号って訳ね」と、ヤケに底抜けの明るさを演出しながらいうので、思わず私も微笑み返すのだった。
「まぁ一号って言っても、他に弟子とる予定もつもりも無いのだけれど…。いや、それはいいとして、そう、ドイツにそれから十年以上行ってたから、それから師匠がどうしていたのかという情報を得られなかったんだ。当時は今みたいにネットも発達していなかったし、向こうに行ってからも…自分で言うのは恥ずかしいけど、日本にいた時以上に修行に励んでいたからねぇー…日本人だからってナメられない様にってね?」
沙恵さんはここでウィンクしつつ、照れ隠しの意味もあるのだろうが、悪戯っぽく笑った。そして今度は、決まり悪そうに苦笑まじりに続けた。
「だから余計に見る機会が無くてねぇー…で、私のちょっとした不注意で日本に戻って来ることになっても、この家を借りる事になったりと、なんだかんだバタバタと慌ただしく忙しくしていたからねぇ…正直に言ってしまえば、ファンであった筈の師匠の事は、今の今まで忘れてしまっていたのよ…。ファン失格ね」
そう言いつつ寂しげに自嘲気味に笑うので、
「そんな事…」
と言いかけたが、その続きを述べられる程、まだ私には語彙が足らなかった。私が一人気落ちしていると、師匠は長い腕を伸ばし、向かいに座る私の頭を少し乱暴に撫でてから続けた。
「…あなたは本当に優しい子なんだからなぁー… 私の弟子にしとくのが勿体無いくらいに。 …ふふ、そんな変な顔をしないでよ?…さて、それでね、普段私は新聞なんて読まないんだけれど、”ある人”から昨日たまたま電話があってねぇ、その人も私と同じ様に子供の頃から師匠のファンだったって言うんで、海外に住んでいる人なんだけど、向こうでたまたまネットでニュースを見たらしくてね、それで私に電話して来たの。…夜中の一時にね。その人は時差とか考えなしに電話して来る様な勝手な人なんだけれども…」
「…?」
一体何の話だろうと不思議に思っていたが、それでも横槍を入れる事なく黙って聞いていた。沙恵さんは途中から呆れ笑いを浮かべていたが、口調やテンションからは不快さは見えずに、寧ろ愉快で楽しいと全体で表していた。
「でね、会話が終わろうとしたその時にね、不意にこう言ったのよ。『そういえば、何かとダメダメな新聞とかの大手メディアでも、アンタの話を聞く限りじゃ、まだドン底までは堕ちて無いみたいじゃない?何でも、夜のニュースでどこも”師匠”の特集を組むくらいだもの。…ん?あ、いや、何が言いたいのかっていうとね、もしかしたら全国紙、んー…少なくともスポーツ紙はどこも何かしら特集を組んでくれるんじゃ無いかしら?でね、アンタに頼みたい事があるのよぉー…。ほら、私今度近々日本に帰るでしょ?だからアンタに…あ、今日か、今日って日曜日よねぇ…?日曜でも新聞って出るのかしら?…まぁ分からないけど取り敢えず、今日の朝刊が出る辺りに、粗方の新聞を買い漁って欲しいのよ。ちゃんと後でお金は出すからー』ってね」
「へぇー」
へぇーっと思わず口から漏れた。沙恵さんの迫真の演技を見せてもらった感じだ。高飛車なところとか、捲し立てて話すところ、所々で自分で勝手に考え込み、そして自分で自分に突っ込んだりするので全体的に話が右往左往して纏まりが無い感じ…どれも特徴をよく捉えていた。
まぁ、それもそのはずだろう、何せその人と沙恵さんは、お互いにそれ以上の深い繋がりの相手がいないのだから。
…こんな調子で私が話すもんで、聞いてくれてる方の中にはもう察してくれてる人もいるだろう。そう、沙恵さんが説明しなくても、途中から既に、その人が誰だか分かっていた。それを助けてくれたのが、沙恵さんの演技にもよるのは言うまでもない。
「その人って…」
私は話がひと段落ついたと見計らって、口を挟んだ。
「もしかして…京子さん、矢野京子さんの事ですか?」
私がそう言うと、沙恵さんは一瞬満面の笑みを浮かびかけたが、すぐに呆れた様な笑みを顔一面に浮かべながら溜息混じりに答えた。
「そっ!本当にあの子ったら、自分勝手なマイペース女なんだからねぇ、いつも振り回されるこっちの身にもなってよって思うけど…でもまぁ今回に関しては、確かに”珍しく”良い提案をして来たからねー」
矢野京子。前に一度軽く触れたと思うが、ここでは詳しい話はしないでおく。…これを言うと、また軽いネタバレになってしまうかも知れないが、彼女については後々詳しく触れることになるので悪しからず。ただ一つ確認のために話しておくと、沙恵さんと京子さんは、色んなコンクールに一緒に出場して、トップで鎬を削りあったライバル同士でもあり、だからこそお互いの心根を分かり合える親友同士だ。その関係は今でも変わらない。
「…で、確かに京子が言ってたけど、今日は日曜でしょ?私も新聞を買わないから販売しているのか分からなかったけど、今のご時世で、私は未だにアナログ人間だから、考えてみればまずネットで、日曜に本当に販売されるかくらいは調べれば良かったのに、それをしないで、今朝はそうだなぁ…取り敢えず五時に起きて近所のコンビニに行ったの。そしたらこうして販売されてるし、それに京子の推測通り、どのスポーツ紙にも特集が組まれていたし、何よりも驚いたのは、新聞の表紙部分、一面を全部使っていたっていうのに益々驚いてね、嬉しさのあまり、何部かずつ買ってしまったのよ」沙恵さんは少しばかりはにかんでいた。
「その大量の紙の束をレジに持っていったら、店員さん、メンドくさそうな顔と、驚きの顔を織り交ぜた様な表情を浮かべていたなぁー…まぁそんなこんなで」
沙恵さんはそう言いかけると、ふと私に新聞の束を纏めて押し出してから
「私と京子の分以外にもまだあるから…良かったらあなたも貰っていく?」
「え?良いんですか?」
私はそう言いつつ、嬉しさのあまり答えを聞く前に束を纏めて両手で持った。
そんな様子を見た沙恵さんは、肘をついて呆れた顔を見せていたが、笑顔で応えた。
「えぇ勿論!…心配しないで?あなたからはお金を要求しないから」
「ふふ、ありがとうございます」
「いえいえ、どういたしまして」
そうお互いに言い合うと、一瞬顔を近づけて見合わせて、その後にはプッと吹き出すと、明るく笑いあうのだった。
とここで”師匠”は時計を見ると、ハッとした表情を見せて、レッスンの再開を宣言したので、私は頂いた新聞の束を丁寧に揃えると、それを取り敢えず食卓の上に置いた。後で帰る時に忘れない様に肝に命じながら。
レッスン部屋に向かう途中、私は思わず思い出し笑いをしてしまった。前を歩いていた師匠は振り返り「なに?どうしたの?」と半笑いで聞いてきたが、「何でもありません」と、こちらも半笑い混じりに返した。師匠は「変な子」と短く微笑みつつ言うと、また先を歩いて行った。その後を追いつつ、ある事を思い出していた。
それは、さっき師匠が京子さんを演じていた時、京子さんにも”師匠”と呼ばせていた事だった。恐らくこれも、さっきの私と同じで、別に勝手に師匠が編集した訳ではなく、京子さんが本当にそう言ったのだろう事を思うと、我ながら細かいところに目が行くなと思いつつ、またそんな所を発見して嬉しがるなんて、我ながら単純だなぁっという意味での”思い出し笑い”だった事は、内容が内容だけに師匠には言えなかった。
そしていつも通り、レッスン部屋に入るのだった。
あのレッスン日から数週間が経った今日、六月二日、とうとうコンクール本番を迎えた。まだ予選とは言え、これがコンクール初参加の私としては、朝から既に自分でも驚くほどに緊張していた。今日は日曜日。学校をわざわざ休む必要が無かったのは助かった。
私の出る中二以下の出番は夕方の五時半からだったので、午前中は本を読んだりとノンビリと過ごし、お昼を取り、それから一時間ばかり楽譜を確認しながら過ごしていると、そろそろ家を出る時間が近づいてきた。支度の為に自室に入り、フォーマルな服装に身を包んだ。その服は、初めてお父さんに誘われて行った”社交”の場に着ていった物だった。
やや光沢のある白いシャンタン生地の上に黒のレース生地を合わせた、大人っぽいドレスだ。因みに、そんな良いものでも無かったし、毎度代わり映えしない同じ様なものだったから”敢えて”触れなかったが、あれからも何度か社交に駆り出された。三度の一度は地元にある例のしゃぶしゃぶ兼懐石料理店だったが、それ以外には浅草だったり新宿だったりした。ただ食事の内容は同じ様なものだった。何度か参加した事もあって、顔馴染みになった人も何人か出来た。勿論、最も顔馴染みになったのは、お父さんの大学時代の後輩の橋本と竹下だったのは言うまでもない。 二人は毎回私の姿を認めると、笑顔で近づいて来て、馴れ馴れしく肩をポンポンと叩いたりしてきながら言葉を掛けてくるのだった。私は何とか笑顔を作って対応していた。…いや、何が言いたいのかというと、何度か出向く約束をする度に、何故かお母さんの方が反応を強く示して、同じ服装はアレだからと、私を連れて行きつけの洋服屋さんに連れて行き、そこで新しい外行きの服を買うのだった。だから、この手の服には困ってない…いや、この手の物に疎い私でも分かる程に、あり過ぎるほどにあった。何せ、この為に私の部屋に新たな洋服ダンスが置かれたくらいだったのだ。昔は…それこそ一番初めの頃、そう、法事に行った時にも軽く言ったが、小学二年生あたりまでは、この様な服を着ると、まるでお伽話のお姫様になったかの様な気分になれたので、他の女の子と同様に嬉しかったのだが、いつからか、日を追うごとに年を追うごとに興味を失っていってしまった。だから、お父さんに誘われる度に増えていく豪華な洋服たちを見る度に、溜息が漏れるのだった。
姿鏡の前で、クルッと一回転したりしながら最終チェックをした。
…よしっと。
私は鏡の中で頷く自分の顔をキッと見つめ返すと、足取り軽く自室を出て、私のメイクや髪型をセットする為に待つお母さんの元へと向かった。因みに今着ている服は、コンクール用のではない。その服は別にある。今は玄関先に置いてある、ローマ字で表記されたブランド名が、洒落て書かれた大きめな紙袋の中に仕舞われていた。今日行く予選会場には着替えるスペースがあるとかで、それならわざわざ家から着て行く事もないだろうと、お母さんが判断した。会場までの道中で、何かの拍子に汚れたら堪ったものではないとの考えらしい。まぁ、尤もと言えば尤もだった。
では何故このフォーマルを着ているかというと、それでもやはり普段着で行くのは筋違いだろうという、これまたお母さんの判断だった。まぁ…これは何度も褒めているから今更かもしれないが、こういった物関連の判断に関しては、全幅の信頼を寄せていたので、まるで着せ替え人形状態ではあったが、別段不満などは無かった。私自身に全くこだわりが無いのが良いのかもしれない。
それはともかく、パウダールームに着くと、そこにはもう準備を終えたお母さんが待っていた。今日のお母さんは着物姿ではなく、フォーマルなドレス姿だった。色はネイビーで、ジョーゼット生地のトップスには三段フリルが付いており、フェミニンな印象を与えると共に、Iラインスカートだったので、大人っぽい雰囲気を醸し出していた。今はまだ羽織っていなかったが、七分袖のブラックジャケットも側に掛けてあった。
私が入ってくるなり、早速お母さんに顔を洗う様に言われた。言われるままにヘアバンドをして洗い終えると、普段通りに自分の化粧水と乳液を付けた。
…ここでどこからかツッコミが来てそうなので、慌てて言い訳をさせて頂きたい。確かにこの様な事は、寝る前の準備の中でこなしている…キャラに似合わず。言わせて頂くと、私自身は全く興味が無いのだが、やはりこれもお母さんからの…大袈裟に言えば”命令”の様なものだった。私が小学校五、六年生の頃から続けている。これは正直面倒だったが、慣れや習慣とは恐ろしいもので、今ではこれらを済ませてからでないと、夜に眠れなくなってしまった。…いや、これはどうでも良い話だった。
私がそれらを済ませると、今度はお母さんが私を椅子に座らせ、自分は立て膝になり、顔を近付けてメイクに取り掛かった。
化粧下地をし、スポンジを肌の表面で滑らす様にしながらパウダー状のファンデーションを伸ばしていった。次にはチークをホッペに、ハイライトを所謂Tゾーンにのせていった。アイシャドウはスモーキーという、ややくすんだ、大人っぽい印象を持たせる色合いだった。クチビルは、お母さんが直に指で丁寧に塗ってくれた。その後は言われた通りに上下の唇を合わせて馴染ませた。
…とまぁここまで描写しておいてなんだが、本来はこんなにメイクの描写はいらなかったかも知れない。だが、それだけ手間を掛けてくれたお母さんの苦労を労う意味で、こうして事細やかに話してみた。話を続けよう。
最後の確認なのか、お母さんは真剣な面持ちのまま私の顔の両端を掴み、少し乱暴に右左と向かせた。そしてまた正面を向かせると、すくっと立ち上がり、腰に手を当てると力強く頷いた。
「…うんっ!完成!」
「…終わった?」
私は少しくたびれた調子で言った。
するとお母さんはニコーっと無邪気に笑うと、
「うん、完璧よ!鏡で見てみなさい?」
と言い、私の背中を押して鏡の前まで誘った。
メイクの間はずっと真剣な面持ちのお母さんとにらめっこしていたので、視界にはそれしか入らず、鏡はどうしても今まで見る事は叶わなかったのだ。それでこの時初めて見る事になった。
見てみると…なるほど、『これが私?嘘みたーい!』みたいな典型的な感想は持たなかったが、今着ている服ともマッチした、中々に大人っぽい”私”がそこにいた。自分で言うのは恥ずかしすぎるが、”淑女”といった風貌だった。 ヒロが見たら間違いなく“馬子にも衣装”みたいな、微妙にズレたことを言った事だろう。今ヒロは全く関係ないのだが、そんな事を思い浮かべていたのだった。
社交に出向く時も毎度お母さんが色々してくれていたが、ここまで本格的にメイクをして貰ったことは無かった。いつも普段から、女性としての品格なり作法なりを身に付けていたお母さんの事を、そういう意味では尊敬し誇らしく思っていたが、久々にこうした一面を見せて貰った気がした。
それからは、そのまま鏡の前で髪をセットされた。…いや、セットと言っても、メイクとは違い、こちらは右下辺りで結んで、髪を肩から前に垂らすだけのシンプルなものだった。だが、今の大人っぽいメイクと服装には、それがかえって程よく色気を演出していた。
こうして私の準備は終わった。本番に着る服は後でのお楽しみだ。…需要があるか知らないけど。
ここで一つ補足というか、ネタバレを一つさせて頂こう。私はこの時初めてこのメイクをして貰ったのだが、少しして気付いた。このメイクは、何度か見せて貰った、師匠がコンクールに出ていた時のメイクにそっくりだったのだ。これは後で師匠に聞いた話だが、お母さんが私の知らないところで、師匠にどういう格好を私にさせれば良いのか相談していたらしい。それを聞かれた師匠は困った様だ。何故なら、自分がプロのソリストとして活躍していた時のメイクなら教えれるが、子供の頃など、今の私の様に母親にされるがままでいたのだから、教えれる訳がなかったのだ。それでもなんとか答えてあげたかった師匠は、この間私に見せてくれた昔の写真をお母さんに見せて、そして何枚か貸してあげたらしい。 それを見てお母さんは、大袈裟に言えば私に内緒で研究して、それをこうして練習することなくぶっつけ本番で仕上げたのだった。
口では言わなかったが、一度も練習をしなかったのは、少しでも私のピアノの練習の邪魔をしない様にという、お母さんなりの気遣いだったって事は、十何年も娘をしているのだから、それくらいの事は分かった。その化粧の腕もさることながら、その想いについても、この話を聞いた直後には感謝をした。
…とまぁ、そんなこんなで、また少し鏡の前で姿を確認すると、嬉しさを表現するために満面の笑みを浮かべて「ありがとうお母さん!」とお礼を言うと、今度はたまたま家にいて、居間でくつろいでいたお父さんに姿を見せに行った。
「お父さん。…どう、かな?」
私は一度目の前でくるっと回って見せてから、少し溜めつつ聞いた。お父さんはいつもの様に、テレビの前のソファーでまた新聞を読んでいたが、ふと「…おぉ」と声を漏らすと、おもむろに新聞を畳み、それをテーブルの上に置いて立ち上がると、顎に指を当てながら舐め回す様に見てきた。この様な類いの事で声を漏らしたのは、私の記憶が定かであれば初めてだったので、その反応に少し戸惑っていたが、お父さんがまた例の如く写真を撮っていいかと聞いてきたので、頭の隅に『またお父さんの仲間たちに見せるのかな…?』と、ある種の嫌悪感を覚えないでも無かったが、それでもやはり実の父親に、こうして容姿の事とはいえ喜ばれたら、それに対しては悪い気がしなく、むしろ嬉しくもあったので、笑顔で了承したのだった。まぁ尤も、普段からお父さんは、私のことを貶しもしなかったが、褒めもしなかったので、その反動もあるのかも知れない。
お父さんが写真を撮っている間、ふとまた別の一つの情景が胸に去来していた。
それは前回に話した師匠との会話の後、別のレッスン日での一コマだった。その日も午前中の練習を終えて、何かしらのお菓子を作って食べて、午後のレッスンまでの間、また二人で雑談をしていた時のこと、ふと疑問が湧いてきたので、師匠に何気なくぶつけて見たのだった。
「師匠、師匠は何で今まで(落語の)師匠のファンだった事を、私に話してくれなかったんですか?」
私がそう聞くと、師匠は「え?…うーん」と首を傾げつつ悩んで見せたが、苦笑まじりに答えたのだった。
「何でって言われてもなぁー…まぁまず琴音、その事を話したところで、あなたが興味を持ってくれるか確信が持てなかったからねぇー…あなたとは色々な芸能について語り合ったりしてきたけれど、それは主に西洋の、向こうの話が中心だったしねぇー…まぁそれは、私たちがやっている音楽という芸能が、欧州由来なのが一番の原因なわけだけれど。まぁそんなわけで、知らず識らずのうちに、そんな話をしていく中で勝手にあなたが、落語を含む日本文化にそこまで今の時点では興味を持ってないのかな…?って思い込んでね、だったら、別に焦って急ぐ話でもないし、いつかは日本人なら興味を持って欲しいなぁー…今の所はって考えての事だったのよ。…まぁ、もっと単純なところを言えば、自分の好きなものを話したところで、相手が乗り気になってくれなかったら…悲しいじゃない?」
師匠は最後に悪戯っぽく笑って見せた。
師匠の話には、どこにもツッコミどころは見つからなかったので、
「なるほどー…」
と素直に納得して見せた。
そんな私の態度に対して、師匠は笑みを零して見せたが、不意に顔を曇らせたかと思うと、調子も低めに話し始めた。
「…うーん、これをあなたに話すのは躊躇われるけど…うん、あなたならちゃーんと誤解なく受け止めてくれると信じて、話してみようかな?…琴音、実はもう一つ…いや、むしろこれこそが、あなたに中々この事を話せなかった…いや、これに限らず、芸について”深い”話を、私の個人的な心情で話せなかった理由があるの」
「…え?それって…」
いつも快活にズバッと話す師匠が珍しく、口ごもりつつ躊躇う姿を見て、私もいつもと違う雰囲気を察し、合わせる様に真剣味を帯びせつつ声を出した。
「何ですか?」
そう聞くと、師匠はまだ少し躊躇っている様に見えたが、意を決した様に目をギンと力強く開けると、口調は穏やかに話し始めた。
「まぁー…誤解を恐れずに結論から言うとね?今まで言えなかった最大の原因は…あなたのお父さんにあるの」
「…え?私のお父さん?」
意外な人物の名前が出たので、黙って最後まで聞こうと思っていたのに、思わず声が漏れた。
「そう、あなたのお父さん」
師匠は力無く笑って頷くと、視線を私から少しズラし、遠くを見る様にしながら先を続けた。
「あれはー…そう、瑠璃さんに『この家を借りて教室を開けば?』ってお誘いを貰ってからすぐの事だったわ。 瑠璃さんに提案されたからって、この家の持ち主はあなたのお父さん、栄一さんだったから、後日に本格的に話し合って契約するために会ったのよ。栄一さんは最初から無表情で、奥さんである瑠璃さんが紹介する私の事を、まるで値踏みをする様に、遠慮もしないでジロジロ見てきたのよ」
師匠は珍しく嫌悪感を顔に表しつつ話していた。普段は誰かに対して、この様な態度を取るのを見た事が無かっただけに、師匠のその時の感情が余計に際立って感じられる様だった。
「まぁ頼む側の私としては、それに対して抗議出来るような立場では無かったから、されるがままでいたの。その間、瑠璃さんが大袈裟に私の事を紹介してたわ。ドイツを中心にヨーロッパで活躍していただの何だのってね…。それを聞く度に栄一さんの目が、益々強くなっていくのを感じて、私は正直居た堪れなくなっていったわ。瑠美さんの話を聞き終えた栄一さんは、一応表向きは快く承諾してくれたんだけれど…ふとこの時に、何で栄一さんが見ず知らずの初対面の私にそんな態度をとったのか、その訳を察したの」
「…それって?」
私は師匠の話を聞きつつ、その情景を思い浮かべながら、何故だか実際にその場にいなかったのに、まるで昔の嫌な思い出を思い出すかの様な、胸が何かしらの負のエネルギーに締め付けられる様な感覚に陥っていた。今までのお父さんへの想いが関係していたのは言うまでもない。
師匠はここでまた先を言い辛そうにしていたが、私が視線をそらす事なくジッと見つめると、諦めたかの様な笑みを零しながら先を続けた。
「うん…それはね、『あぁ…この人って、所謂”芸能”について関心なんか微塵もなくて、それどころか寧ろ”芸”と”芸人”に対して、生産性もないのに何の為に存在しているんだ?社会で何の役に立っているんだ?って小馬鹿にして、一段どころか何段も下に見てるんだ…』ってね、瑠璃さんの話の後、世間話の体で色々と私に略歴を聞いてきたんだけれど、表情からありありと見えてしまったの…」
「あぁー…」
私は思わず、同意の声を出してしまった。
私も事あるごとにお父さんから、今師匠が述べた様な事は随所で感じられていたからだ。
師匠はそんな私の反応が意外だった様で、ハッと目を見開いたかと思うと、その直後には苦笑を浮かべつつ、口調もそれに合わせた調子で言った。
「まぁそんな訳だったからねぇ…、その娘であるあなたに、中々本質的な”芸論”の様な事を話せなかったのよ。…本当は、前にも言った様に、あなたは私と似ていると初対面時から思っていたから、是非ともお喋りしたかったんだけれどねぇー…あなたと栄一さんが、別に親子だからって同じ性格だなんて、そんな短絡的な事を考えていたつもりは無かったんだけれど、それでも何だか気後れしちゃって話が出来なかったんだ」
「…」
私は何も返さなかったが、静かに微笑みつつ、ただ頷いて見せた。
今言った様な師匠の心情は、弟子ながらにヒシヒシと感じ取っていた。師匠は話せなかったと言ったが、確かに今まで話を聞いてくれた方なら分かるとは思うが、そんなに多くは無かったが、それは義一や数寄屋に集まる人々と比べてという事であって、ここぞという所で芸について話してくれていたので、別に皆無という訳ではなかったし、それに数々の芸に関する珠玉の古典を貸して読ませてくれた時点で、師匠の本心が分からないと言う方が無理があった。
私が頷いたのを見ると、ようやく師匠は明るい微笑みを顔に湛えて、悪戯っぽくため息混じりに言った。
「まぁ繰り返しになるけど、あなたが芸に対してただならぬ程に思いを強く持ってくれている事は知っていたし、それに(落語の)師匠の事を知ってるくらいに日本の文化に興味があったんだったら、もっと早く話してみれば良かったって今思うよ」
「…ふふ」
私はここで、何か気の利いた言葉で返そうと思ったが、特に釣り合った言葉を見つけられなかったので、余計な薄っぺらい言葉を吐くくらいならと、ただクスッと笑って見せた。師匠もそんな私の心情を察したか、同じ様にクスクスと笑うのだった。
一息ついて、師匠はコーヒーを一口啜ると、不意にニターッと意地悪げに笑うと声をかけてきた。
「しっかしなぁー、今更繕う事も無いだろうから素直に言うけど、あのご両親の娘なのに、よくもまぁそこまで芸に興味を持てるねぇー。何か取っ掛かりがあったのかな?」
「…えっ?」
私はドキッとした。
取っ掛かりは勿論、師匠自身にあった訳だが、それはどちらかと言うと”音楽”という狭い範囲の話であって、”芸能全般”という意味においては、勿論義一の影響が大きくあった。…いや、全てが義一由来といっても過言ではないかも知れない。 義一は色々な視点を見せてくれる、友達であるのと同時に知恵や知識においての”師匠”でもあったが、ある種”芸”についても”師”であったのかも知れない。私は”芸”においての師匠を二人持っていたという事になる。今思えば…いや、当時からこの事実に気づいた時には、その幸運に対して、何者かに対して感謝をしたのは嘘も偽りも無い事実だ。話を戻そう。
私はこの話をするとどうしても義一の話をせざるを得ない事に気付き、黙り込みつつ頭の中で話すべきかどうするべきか思い悩んでいた。
そんな様子を黙って見ていた師匠だったが、不意に食卓を挟んで向かいに座り、無造作にその上に投げ出していた私の手をそっと握ったので、少しビクッと反応を示してから顔を上げると、師匠は柔らかな笑みを浮かべつつ、静かに言った。
「…ふふ、まぁ無理して言わなくても構わないわ。でもね…これだけは覚えといて?私は何があっても、あなたの味方だって事…。恐らくあなたには、お父さんやお母さんなどの肉親相手にも話せない様な事があると思う…。まぁ、年頃の女の子なら、誰でも一つくらいはあるもんだけどね?…でもね、中には一人で抱え込むには大きすぎる事があると思う…自覚してなくてもね?そんな一人で抱え込み切れなくなりそうになった時は…その時は遠慮なく私に話してみて?あなたが私の事をどう思っているのか分からないけど、こう見えて口が固いのよ?…もし頼まれたならね?」
師匠はニヤッと笑って見せた。
「両親に話せない様なことでも、絶妙な距離感の私相手なら話せる事もあるだろうしね?だから…今抱えている事を話す気がいつか起きたなら、遠慮なく私に話してね?私は…あなたの師匠なんだから」
「…」
私は師匠の言葉に、ありきたりな感想で申し訳ないが感動していた。そしてその時、ふと義一の事を話しても良いかと思ったが、こうして師匠が真摯に話してくれたのに、そんな簡単に話して良いものかどうか、もう少しちゃんと自分の中で考え抜いて、それから話した方が良いんじゃないかと思い、
「…はい」
と、なるべく満面の笑みを意識しつつ応えたのだった。
師匠もそれ時以上は話す事なく、私の微笑みに微笑みで返すのみだった。
…とまぁ、回想が長くなってしまったが、繰り返すと、お父さんに自分のドレスアップした姿を見せている間、この時の事を思い出していたのだった。
お父さんに写真を撮られた後ちょうどその頃、四時になろうとしたその時、不意に家のインターフォンが鳴らされた。お母さんが応対して、玄関が開けられ、そしてお母さんに誘われて居間に入ってきたのは師匠だった。今日は師匠も、お母さんと一緒に付いて来てくれる手筈になっていた。師匠の格好は、お母さんとはまた別の意味で、大人っぽくシックに決まっていた。師匠が着ていたのは黒の、上下がひと続きの所謂オールインワンタイプのパンツドレスだった。今はアイボリーカラーの八分袖ボレロジャケットを羽織っていたが、下はノースリーブで、175ある高身長の師匠に、ますます色気と格好良さを際立たせていた。師匠はまずお父さんに気づくと、軽く挨拶をして、深々と頭を下げた。お父さんはそれなりに表情を緩めつつ、当たり障りない言葉を掛けていた。
そんな社交辞令な掛け合いがなされている中、私は私で視線は師匠の姿に釘付けとなっていた。師匠のそんなドレスアップした姿を初めて見たので、ついつい見惚れてしまっていたが、師匠は私の視線に気づくと照れ臭そうに「そんなに見ないでよぉ」とおちゃらけて見せるのだった。そんな師匠の様子をにこやかに見ていたお母さんだったが、ふと時計を見ると私と師匠の方に向き直り、若干明るめに和かに言うのだった。
「では、そろそろ行きましょうか?」
「いってらっしゃい」
「はい、いってきます」
お父さんが玄関先まで見送ってくれたので、私とお母さんと師匠は靴を履くと一度振り向いて、お父さんに挨拶してから出発した。
六月に入ったばかりで、もう梅雨の時期に入っていたから、天気の心配を軽くしていたのだが、今日に限っていえばこれ以上とない快晴で、オレンジ色に染まる空が頭上に広がり、時々黒い影を作りながら鳥の群れが寝床へ飛んで行くのが見えた。
私は普段使っているミニバッグと楽譜の入ったトートバッグを持ち、お母さんも自分のミニバッグを提げつつ、私の衣装の入った紙袋を持ち、師匠は一番身軽で、これまたミニバッグだけ手に直接持っていた。
仕方ないのだろうが、私とお母さんは、パッと見我ながらキマッていたと思うが、何気に大荷物だったので、チグハグ感は否めなかった。まぁ尤も、そんな事気にする私では無かったが。
会場は巣鴨駅のすぐ脇にある雑居ビル内にある小さなホールだった。なんでも、主催側が持ってるホールらしいが、伝統がある割には、外観からはとてもじゃないがクラシックの演奏がなされる様には見えないと、出演者側からは悪名高いんだと、行く途中の車中で師匠が呆れ笑い気味に教えてくれた。同じく東京出身の師匠も、同じ所で予選を戦った様だ。
その当時の思い出話をして貰っていると、気づくと最後の乗り換え、山手線のホームに着いていた。ここからは後三駅だ。
日曜日という休日にも関わらず、狭いホームは人でごった返していた。まぁこの路線は、平日も休日も関係ないという事なのだろう。
電車を待つ間、ふと師匠が周囲をキョロキョロ見渡したので、
「どうしたの師匠?」
と声をかけた。すると師匠は腰を少し屈めたかと思うと、若干背の低い私の耳に顔を近付けて、そして意地悪な笑みを浮かべつつ答えた。
「いやね、周りの視線を感じたから何事かと思ったら、皆して琴音の事を見ているもんだからねぇー…流石私の弟子、何もしなくても注目を浴びてしまうんだから!」
「あら沙恵さん?」
私がすかさず突っ込もうとしたその時、今度はお母さんが私に視線を向けつつ、これまた同じ様にニヤケながら返した。
「この子は私の娘でもあるんですからね?注目浴びてしまうのは私の功績でもあるのよ?」
「あのねぇー…」
私は堪りかねて、不満げを体全体で表現して見せつつ、ジト目を容赦なく二人に向けつつ言った。
「むしろ注目を浴びているのは、二人の方だからっ!」
…これを聞いた方は、何て下らなく退屈なエピソードなんだと思われたかも知れないが、私自身そう思うのに、不思議とこんな下らない出来事が鮮明に覚えているという事もあるのだ。それだけ、当日は神経が張り詰め、自分で言うのは馬鹿みたいだが、こんな事までずっと覚えているのが、その証拠だと言えなくも無いだろう…。
まぁこんな話はともかく、そんな取り止めのないやり取りをしていると、問題の雑居ビルの前に辿り着いた。
師匠が言った通り、外観はどこにでもある雑居ビルだった。ただ一つだけ違いがあるとすれば、その周囲に私と同い年くらいの、これまたおめかしした男女と、見るからに親御さんだと分かる大人達が、ビルの脇にあるエレベーターホール前で固まっていた事だった。事情を知らない人が見たら異様に映ったことだろう。その陣営へ私たちも入って行った。
ふとその数人が、少し驚いた様な表情でこちらを見てきていたのに気づいた。気づいたのは私だけで、師匠もお母さんも気づいていなかった様だが、私は少しばかり何故か気まずい雰囲気を感じていた。しかし、そんなことで負けてたまるかと、片意地張って俯きそうになる弱気をなんとか奮い起こさせながら顔をまっすぐ前に向けて歩いた。
エレベーターで三階まで上がり、ドアが開くと、すぐ目の前に受付が置かれていて、係員と思しきフォーマルなスーツを着た女性が座っていた。「出場者の方ですか?でしたらまず”参加票”をご提示ください」と言われたので、その通りにミニバッグから参加票を取り出し見せた。すると、係員の女性が今度は、受付のすぐ脇にある掲示板を指差し、「ではこちらで演奏順を確認して下さい」と言われたので、軽く女性にお辞儀してから、掲示板の前に立った。私以外にも、先ほど外で見た数人の男女が睨む様に見ていた。その気迫のこもった様子に少し気後れするのを感じつつ、この中では私が頭一つ分背が高かったので、一つ下がった所から見た。そこには私を含む五名の名前が出ていた。私はてっきりもっと多いものだと思っていたので、
参加者が五名だけなのか…まぁ、他の日にも他の場所でもするみたいだし、今日限定と考えれば、こんなものなのかもねぇ。
とため息も混じりそうになる感想を抱いたが、ふと演奏順を見た時に驚いた。何と私が一番最初になっていたのだ。少し細かく言うと、出場者の内訳としては私を含む女の子三人と、男の子二人という構成になっていた。私は他の子に負けないくらいに、ジッとその掲示板を見ていた。私としては一番最初と最後だけは避けたいと思っていたので、意味がない事と知りつつ見ていた訳なのだが、変化しない代わりに、他の参加者の男女の正体(?)が分かった。どうやら、私以外の子達は、このコンクールを主催している所でやっている、ピアノ教室の生徒達の様だった。それぞれの名前の横に、コンクールの名前のついた教室名の後に、様々な地域の名前が付いていた。
どうやら彼らの出身地の様だった。八王子なり何なりと、都内限定と言えども多岐に渡っていた。どうやら、彼らはそれぞれの教室の代表選手のようだった。当然のように、私の名前の横には何も書かれていなかった。つまりはそういう事なのだろう。
私はこの時に既に、何故私が一番手なのかを理解し、少しつまらないと思いつつ、師匠の元に戻ろうとしたら、何故か師匠は、これまたさっき下で見た、出場者の親御さんと思しき大人達に囲まれていたのだった。何やら質問ぜめにあっていた様で、遠くから見てもタジタジになっているのが分かった。
呆然とその情景を見ていると、師匠が私に気づいて、何か周りに言い訳をしながらかき分けて、私のそばまで歩み寄ってきた。
「ふぅ…参った参った。あっ、琴音、演奏順はどうだった?」
「え?あ、はい…一番手でした」
「え?…あぁ、そっかぁー…一番手だったかぁ」
師匠はわざわざ掲示板を見る事もなく、ただシミジミと天井を軽く見上げつつ言った。
「そっかぁー、まぁ私も部外者だったから一番手だったよ。だから、細かい事は気にせずに、ドンと行こうっ!」
そう言うと、少し強めに私の背中を叩いてきた。それに対して私が大袈裟に痛がって見せると、師匠は心から愉快だと言いたげに笑うのだった。その向こうでチラッと、お母さんが、先ほど師匠を取り囲んでいた大人達と談笑をしているのが見えた。
と、私が早速師匠に、何で取り囲まれていたのかを聞こうとしたその時、係員の声に阻まれてしまった。
「では出場者の皆さん、控え室に集まって下さい。今からコンクールを開催いたします」
「じゃあ私たちは客席で見てるから」
控え室の入り口で、お母さんが紙袋を手渡してきつつ声をかけてきた。
「力まずに”頑張るのよ”?」
「…うん」
私は微笑みつつそう返した。返事を聞いたお母さんも微笑み返し、何も言わずに両手を私の両肩に置いたかと思うと、すぐにその手を離して、こちらに顔を向けたまま後ずさりをして行った。それと入れ替わるように、今度は師匠が近付いてきた。師匠も微笑んではいたが、目付きだけは”マジ”だった。師匠はお母さんとはまた違って、片手だけを私の肩に置くと、静かに言った。
「…ここまで来たら、今更何も言う事は無い。…琴音、あなたはただ何も余計な事は考えずに、コンクールに特化した練習は約半年間という短い間だったけど、あなたはそれ以前からあれだけ練習し、今まで研鑽を積んで来たのだから、その日々を思い出し糧にして、後は指が流れるままに、悔いのないように弾ききって来なさい!」
途中までは静かなままだったが、途中から熱が入り出し、最後には明るい笑みまで浮かべつつ、そう言い切った。
その後で、「…自信を持ちなさい?何たって、私の弟子なんだからっ!」と茶目っ気を入れるのを忘れずに。
その様子に思わず私はクスッと一度笑みを零すと「はいっ!」と師匠に合わせるように返したのだった。師匠は笑顔で何も言わず、掛けたままだった手で肩を何度か上下に摩るのみだった。
私は自分が一番手というのもあって、少し慌ただしく準備をした。十畳ほどの控え室の中に、洋服屋にあるような簡易的な試着室が二つばかり置かれていたので、紙袋を持って中に入った。中には大きな姿見があって、教室の机くらいの大きさのテーブルが、物置として置かれていた。私は早速今着ている服を脱ぎ、時間が限られている中、私が一人暮らしをする準備として、お母さんに特訓されたのが活きたのか、急ぎながらも丁寧に折り畳み、そしてドレスを着込んだ。ドレスに関しては、何度か着てみたので、これも着るのに手間取る事は無かった。…別に誰も待ってはいなかっただろうが、ここでどんなドレスか紹介したいと思う。紙袋から取り出し身に付けたのは、ネイビー一色の、ロングAラインドレスだ。袖は肘より少し上まではあったが、レースで下の素肌が透けて見えて、可愛らしさと同時に大人っぽさを演出していた。同じネイビーなので遠目では分かりにくいが、トップスを中心に上半身部分を覆うように、様々な花が編み込まれたような複雑な柄の刺繍が施されていて、その控え目かつ大胆で凝った模様が、余計にまた大人っぽさを滲ませるのに貢献していた。
…とまぁ、そんなドレスだったが、ここでふと、こんな事を言う人もいるかも知れない。『結果をさて置くとしても、コンクールというものは晴れ舞台なのだから、ここぞとばかりにおめかししなくて良いのか?その様な、こういった場に於いては地味目気味の落ち着いた色合いの単色ドレスで良いのか?』と。これは、後で写真を見せる約束をしている絵里にも言われそうな事だ。確かに、私個人としてはそこまで服装はどうでも良いんじゃないかと思っていたけど、イメージとしては煌びやかな服を身に付けるイメージを持っていたから意外に思ったのは事実だったが、実はこのドレスを選んだのは師匠だった。四月の頭にコンクールに申し込んだ次の週に、私とお母さんと師匠三人で、コンクール用の衣装を買いに行った時のこと。案の定というか、お母さんも例に漏れずに、イメージ通りの如何にもな衣装ばかりを選んでいたが、ことごとく師匠に落第点を貰っていた。師匠曰く、本戦、決勝ならいざ知らず、まだ予選段階で服装ばっかり力入れても仕方ないだろうという、これはある意味で、師匠個人の美意識というか、こだわりだった。お母さんは、これといった具体的な反論をされなかったが故に、少しばかり頑張って説得しようとしたが、結局は師匠に頑固に押し通されて、その売り場にあった一番地味な色合いのこのドレスを買うことになったのだった。
でも一度私たちの家に一緒に帰り、そこで試しに着てみると、先程も述べたが、このドレスは中々に品があって、お母さんもその時になって初めて納得いったようだった。着たまま試しに練習部屋に行き、ピアノの前に座り、軽く師匠作曲のエチュードを弾いてみると、これまた殊の外普段着と変わらない感覚で弾くことが出来た。その事実に、今度は私がこのドレスを本心から気に入ったのだった。
だから、周りがどう思おうが、私には一番のドレスには違いなかった。確かに、私が会場の舞台袖に係員に案内される前に、少しだけ他の参加者が着替えて出て来た姿を見たが、どれもゴテゴテしていて、確かに可愛らしかったりしたが、私個人の感想として、とてもピアノが弾きにくそうに感じられた。…まぁ、余計なお世話だけれど。
もう一つ、その時に感じた余計な感想を述べれば、そんな可愛らしいドレスは、私には似合わないだろうなぁ…といった物だった。先程も軽く触れたように、少なくとも女子の中では、私が頭一つ分大きかったので、そういう点からしても似合わないだろうと客観的に思ったのだった。…まぁ、それだけだ。
係員に促されるままに、舞台袖に立つと、そこから客席がチラッと見えた。この時初めて会場を見たのだが、思ったよりも客席との距離が近いように見えた。袖口で、軽くどのような作法をしなくてはいけないのかを、付け焼き刃的に教えて貰い、出番を待った。
「では演奏番号一番、望月琴音さん、どうぞ」
どこからか声が聞こえて、名前を呼ばれたので、私は静々と舞台袖から会場に出た。
一瞬ライトに目が眩んでしまったが、改めて会場を見ると、何だか私の通う学園の教室ほどの広さしか無かったのに、今更だとは思うが、悪いと思いつつ素直な感想を述べれば、またしても規模の小ささに些かならず驚いた。予想よりも遥かに小さかった訳だが、私が想像する元になったのは、師匠の写真たちだったので、あれは全てが全国大会の写真だった事を、ここに来てまた改めて思い返して、気を取り直してピアノの前まで歩み出て、係員が教えてくれた通りに深々とお辞儀した。そして、これも教えて貰った通りに、ピアノのすぐ脇に設置された長テーブルの後ろに座る男女四人に対しても深々とお辞儀した。どうやら、彼らが審査員のようだ。私はまた一度改めて会場を見渡すと、ほとんどが出場者の関係者で埋め尽くされているのだろうが、その顔々が浮かべている表情は、どれも私を品定めするかの様に、少し顰めっ面の表情が目立っていた。それに気づくと、ここに来て初めて、今朝に感じていた緊張というものがまた湧き上がって来た。自分としては表面だけでも凛として立っていたつもりだったが、正直足がすくむ感覚に陥っていた。
このままの状態で、果たしていつも通り弾けるのかな…?
と不安に思いつつ、我知らずに観客の中に知った顔がいないか探してしまった。と、会場が狭いせいか、すぐに見つかった。お母さんは、ここからでもわかるほどに、心配げな顔をこちらに向けてきていたが、その隣に座る師匠は、あくまで無表情を見せていた。
とここで不意に私と目が合ったことに気付いた師匠は、目付きだけは真剣な眼差しのままに、口元だけをフッと緩ませて見せた。
それを見た瞬間、自分でも確たる理由は分からなかったが、自分でも肩の力が抜けるのは分かった。そして、控え室の前で師匠が私の肩を撫でてくれた事を思い出し、ほぼ無意識にその部分を自分でも数度撫でてから、ピアノの前に座り、一度目を瞑って心を落ち着かせ、精神を集中させてから、静かにゆったりと鍵盤の上に指を置いた。そして指が動くままに演奏に没入して行ったのだった。…
第2話 コンクール(下)
「…うん、登録完了のメールが来てるね」
「はい」
私は、すぐ脇に立っている師匠に顔を向けて、パソコンの前で座りつつ返した。
ここは私の自室。初のコンペティションから五日後の金曜日の夕方だ。この日は学校が終わると、裕美たちに断って早足で帰って来たのだった。私が帰ると、既に師匠は居間で私の帰りを待っていた。私が帰ってきたのを確認すると、早速私は制服姿のまま、こうして二人してパソコン画面とにらめっこしていたのだった。因みに制服は夏服になっていた。
「…さて」
師匠は大きく伸びをしたかと思うと、私に明るく笑いかけながら
「じゃあ、下にいる瑠美さんに報告に行こうか?」
と言うので、
「はい」
と私も微笑み返した。そして、私がパソコンの電源を切ったすぐ後で、二人連れ立って一階に降りて行ったのだった。
…ここまで勿体ぶって溜める必要は無かったかもしれないが、察しの良い皆さんなら、もうお判りだろう。
そう、結論から言ってしまえば、無事に予選を通過する事と相成った。あの予選の日、私含めた同い年の男女五人が受けた訳だが、一時間ばかりかかったコンペティションの後、十分ほど待たされたので、着替えたりしていると結果発表の時間となった。発表の場は、演奏会場にて行われた。予選という事もあってか、思っていたよりもあっさりと発表が成された。審査員長と思しき老齢の女性が壇上に出てきて、淡々と勿体ぶらずに、まず優秀賞が二名いる事を知らせた。この優秀賞に選ばれると、次の本選にいけるのだ。私たち出場者は、客席の最前列に横並びに座らされて、固唾を飲んで見守っていた。私自身も勿論緊張をしていたが、ふと両隣にいる他の人を見渡すと、見るからに私以上に緊張しているのが見受けられた。私のすぐ脇に座る女の子なんかは、色が変わるほどに固く手を握りしめていた。保護者たちは一つ分列を離れた所で座って見ていた。まず名前が挙げられたのは、二人いる男の子の内の一人だった。スラッとした見た目で、顔の表情は少なく色白で生気の無い顔つきだというのが第一印象だったが、それでも名前を呼ばれた時には喜びの感情が表に現れていた。名前の後には、どこどこの教室の出身と付け加えられていた。すると両隣の子達が拍手をし出したので、私も何となく合わせる様に拍手をした。
男の子ははにかみつつ壇上に上がると、審査委員長から賞を受け取り、その後から小さな楯を受け取っていた。男の子は客席に向かって深々と一礼をすると、壇上脇にある二、三段の階段から降りて、元の自分の席に戻った。私は好奇心からなのか、特に意味もなく男の子の姿を目で追っていたが、そのすぐ後に、審査委員長がもう一人の名前を挙げた。それが、そう…何と私の名前だったのだ。その瞬間、会場からはため息にも似たドヨメキが起こった。私はボーッとしてしまったのか、すぐに気づかなかったが、不意に係りの一人が側に寄ってきて、無言で壇上に上がる用の階段を指差したので、少しオドオドしつつ、おっかなびっくり転んだりしない様に慎重になりながら、階段を上がって壇上に出た。そして審査員長の前まで行くと、その女性は微笑みつつ「おめでとう』と静かに言うと、私に賞状を渡してきた。私は前の男の子の見様見真似で慣れない調子で受け取った。何せ、賞状など貰うのは、小学校の卒業証書以外これが初めてだったのだ。流石の私も終始戸惑いっぱなしだった。次には楯を受け取り、これまた見真似で会場の客席の方を見た。強目のライトが向けられていたので、少しばかり目が眩んでハッキリとは見えなかったが、微笑んでいるお母さんと師匠の姿だけはしっかりと見えていた。それを見た瞬間緊張がほぐれたのか、自分でも分かる程に軽く微笑みを浮かべて、深々とお辞儀をし、そして壇上脇から降りて自分の席に戻ったのだった。
それからは簡単な事務的な話がなされて、お開きとなった。
終わると、私と男の子の周りを他の参加者たちが取り囲み、中には半泣きの子もいたりしたが、その子も含めて笑顔で讃えてくれた。それに対して、私ともう一人の男の子も笑顔で対応するのだった。途中からは私の話になって、どこから来たのかなどの世間話が中心になった。この辺りは、どこにでもいる普通の中学生といった感があった。まぁ本音は、ポッと出で何処の馬の骨だか分からないって所から、好奇心で聞いてきたのだろう。普段だったら少し煩わしく思う所だったが、私自身思っていたよりも喜びに興奮していたのだろう、心から楽しく会話を楽しんだ。その流れで、何故か師匠の話になりかけたのが印象的だった。みんなが師匠のことを知っていた。とその時、「琴音ー」と少し離れた所からお母さんに声をかけられた。
もう帰るとの話だ。私は名残惜しげに皆に別れを言うと、お母さんと師匠の側に駆け寄った。お母さん達はお母さん達で、出場者の親御さん達と楽しげにお喋りに講じていた様だった。私が近くに寄ると、途端にお母さんは目元をなんとも言えない感じで歪ませつつ、しかし何とか笑顔を作ろうとしているかの様な笑みを浮かべて「琴音やったわね!…おめでとうっ!」と言いながら抱きついてきた。私は咄嗟のことで呆気に取られてしまったが、周りの大人達が微笑ましげに見てくるのに気付いて、途端に恥ずかしくなりこの場から逃げたくもなったが、それと同時に、お母さんの体温を服越しとはいえ感じると、気持ち視界がボヤけるのを覚えた。それから数秒後にお母さんが離れたので、私も笑顔を作りつつ「うん」とだけ返したのだった。保護者の面々も口々に「おめでとう」といった類いの言葉を投げかけて来てくれた。その度に、私は恐縮しつつ、しかし笑顔で応じた。そんな中チラチラと隣の師匠の表情を伺うと、そんな私の様子を、何も言わずにただ微笑みをくれるだけだった。
それから私たち三人は、この場にいた人々の中では一番初めに後にした。エレベーターで下に降り外に出ると、すっかり夜の様相を呈していた。すぐそばのパチンコ店のネオンが、多種多様に眩い光彩を放ち、チカチカと辺りを照らしていた。
私たちはそのまま何処にも寄らず、ここまで来た道をそのままの順序を追う様に帰って行った。
日曜だというのに行楽帰りなのか、親子連れからカップルから何からで混み合う車中、誤解を恐れずに言えば門外漢のお母さんが、何故私が優秀賞を取れたのかと師匠を質問攻めしていた。師匠は私に笑顔を向けてきつつ、「ただ単に、この子の実力ですよ」と返していた。それを聞いたお母さんは、それをそのまま間に受けて、同じく私に微笑みかけながら返していた。私は本心から恥ずかしそうに照れて見せたが、その一方で、何故私が通ったのか、この時点で一つ思うところがあった。というのも、結論から先に言えば、私の演奏だけ途中で切られなかったからだ。
…急に何を言い出すのかと思われただろう。今から説明する。単純な事だ。それぞれ一人当たりの演奏時間が決められていた事は、随分前になるが話したと思う。要は、楽譜通りに弾いてたら、その時間内には弾き終えれない設定になっていたのだ。本来はあったらしいが、私はその旨を説明される様な会には出席しなかったが、その時点でも話されていたはずだったのに、正直今日見た感じ、優秀賞を獲ったもう一人の男の子以外は、それが出来ていなかった様に見受けられた。何故なら、ここでさっきの話に繋がるが、私たち二人以外の参加者は、途中で無情なベルがけたたましく鳴らされて、演奏を中止されていたからだった。でもこれは後で師匠自身に聞いた事だが、そう時間制限を設けられても、それを守れるのはまずいないらしい。殆ど全ての参加者は、演奏途中で切られる様なのだ。だから、一番手で弾いた私は、他の参加者の演奏を舞台袖で見てたりしたが、途中で切られても、誰一人として悔しげな表情を浮かべる事なく、何事もなくしていたのが、これまた印象的だった。私以外の参加者は、このコンクール関係の教室出身者だというのもあって、それを知っていたのだろうと、すぐに納得がいった。
で、何で私が部外者だというのに切られずに演奏を遂行出来たかというと…もう言うまでもないだろう。勿論、これは師匠のお陰以外の何者でもなかった。この半年間、私と師匠とで話し合いながら、課題曲の編曲をし続けてきたのだった。前回の放課後、裕美たちの遊びの誘いを蹴ってまで家に帰った事を覚えておられていると思う。その時に頭に流れたメロディーというのが、この時間内に収まりつつ、楽曲自体の”質”を損ねない様な短縮バージョンだったのだ。だから…勿論この様な事もあったりと、全てという訳ではなかったが、やはり出場経験者にして、しかも全国大会優勝者でもある師匠のアドバイスがあっての優秀賞だというのは、殊勝ぶっていう訳ではなく、本心からシミジミと感じて、ピアノを弾き終えた時、他の参加者の演奏を聞いてた時、そして授賞式で私の名前が読み上げられた時、こうして何気無く帰っている時ですら、ずっと師匠に感謝の念を抱き続けていたのだった。
地元の駅に着くと、途中までは三人一緒に歩いていたが、途中私たちの家と師匠の家との丁度別れ道に差し掛かった時、不意にお母さんが立ち止まったかと思うと、私の肩に手を置いて
「ほら、琴音、今日はここまで来てくれたのだから、ちゃーんと”師匠”をお家まで送って行きなさい」
と悪戯っぽく笑いつつ言った。師匠は、お母さんの口から”師匠”という単語が飛び出たのを聞いて、何だか気恥ずかしそうにしていた。
「うん、分かった」
私は迷う事なく当然の事だと瞬時に明るい調子で返すと、師匠に声を掛けて、一緒に行く様に促した。
師匠は苦笑を浮かべつつ、お母さんに挨拶すると、スッと帰り道へと足を進めるので、私も慌ててついて行こうとしたその時、お母さんが深々と腰を大きく曲げてまでお辞儀をするのを見た。その姿は、何故か今だに鮮明に脳裏にこびりついている。
師匠の家までの道、早速私は今日のデキについての感想を聞いていた。やはり緊張をしていたせいか、思った様には運指が上手くいっていなかった箇所が随所に弾きながら感じていたからだ。師匠もそこは見逃さずに聞いて見ていたらしく、率直に正確な箇所をズバッと指摘してくれた。普通なら、もしかしたらコンクールの直後、それも優秀賞を獲った後だというんで、建前でも辞令的な言葉を掛けてくる様な人もいるだろうけど、私の師匠はこんな時でもどんな場合でも関係なく、ダメな所はダメだったと言ってくれるのだ。他の人は、そんな師匠の態度をどう思うか知らないが、少なくとも私の場合で言えば、間違いをキチンと相手に気を遣わずに言ってくれるのが、とてもありがたかった。勿論、それが感情からくる見当違いな指摘では無いという条件付きだが、そんな心配は師匠には無用だった。普段からの師匠が自身の芸に対して真摯に向かう謙虚な姿勢、その態度、これら全ては私が師匠に対して信用を置くのに余りあるほどの物だった。…我ながら、弟子にして師匠をこうして値踏みする様な発言をするのは、不敬極まると苦笑もんだが、私の性格上、これが一番の賛辞なのだと納得していただく他に無い。
…くだらない話が続いた。話を戻そう。
演奏内容を話し合っていると、あっという間に師匠宅に着いてしまった。
私は玄関先で待つ間、師匠は鍵を開けると大きく開けたままにして、こちらに振り向き、
「今日はお疲れ様!」
と笑顔で言った。それを聞いた私は、お母さんのお辞儀を参考に腰を大きく曲げながら
「今日は有難うございました!」
と、夜のせいと少ない街灯のせいでほぼ真っ暗で静かな住宅街の中、思わず知らずに大きな声で挨拶をした。その瞬間、師匠は「シーーっ」と指を口に当てつつ息を漏らしたが、顔は笑顔だった。私も師匠を真似して口に指を当てて見せると、一瞬お互いに目を合わせると、次の瞬間にはクスクスと笑い合うのだった。
笑いが収まり、師匠に挨拶して帰ろうとしたその時
「…琴音!」
と背後から声を掛けられた。それに応じるために振り返った次の瞬間、何と師匠が私に何も言わずに抱きついてきた。元々普段から人通りの無い裏通りというのもあって、今は周りには誰もいなかったが、さっきお母さんに抱きつかれた時よりも驚いてしまった。そこには、呆気にとられる余地が無いほどだ。ただただ驚いていたが、お母さんよりもまた少し背が高く、これは本来は女性に言うべきことでは無いと知りつつ、褒め言葉として言わせて貰えれば、お母さんとは違ってピアノで鍛えた筋肉質な感触を味わっていた。考えてみたら、師匠に抱きつかれたのは、私が受験をするにあたっての、あの訴えの時以来だった。この時の私は、当時の私のことを思い出していたが、様々な想いが一気に胸に去来したせいか、これまたお母さんに抱きつかれた時には目頭が熱くなったくらいだったのが、気づけばホッペを一筋の温かな水が伝うのを感じていた。視界も滲んでいて、師匠の背後の玄関上の照明がボヤけて見えた。
どれほどそうしていたのか、暫くすると師匠が離れた。顔は若干逆光でハッキリとは見えなかったが、何となく戸惑っている様に見えた。師匠は何かを言おうとしているかの様だったが、口を軽く開けて見せるだけで、肝心の言葉が出てこなかった。他の人なら何かしら気の利いた言葉なり態度が示せたのかも知れないが、私は不器用にも、師匠の言葉をそのままの状態で待っていた。
と、ふと師匠の目が大きく見開かれたかと思うと、苦笑いを浮かべて、不意に私のホッペを優しく撫でながら声を掛けてきた。
「…ふふ、琴音ったら…何泣いてるのよ?」
「…え?あ、あぁ…」
変な言い方で申し訳ないが、この時初めてハッキリと自分が泣いている事を認識した。水がホッペを伝っている時点で気づきそうなものだと、自分でも思うが、それだけショックが大きかったのだ。
「…すみません」
私は何故か謝りながら、師匠に触れられていない、もう片方のホッペを撫でつつ言った。
すると師匠は、今度は愉快げに明るく笑うと、「何で謝るのよぉ?」と言うので、
「あ、いや…すみません」
と、今度は軽く狙って同じ様に謝って見せた。
すると師匠は今度は意地悪くニターッと笑いつつ、私の両方のホッペを軽く抓って引っ張りながら
「また言ってるーー」
と返してきたので、私は何も言わずにニヤケて見せると、師匠もニタニタと笑い返すのだった。
それからは、また改めて感謝と挨拶をすると、師匠宅の玄関前を後にした。曲がり角の所で振り返ると、真っ暗な路地の中、師匠宅の玄関の明かりだけがボーッと灯っていて、その下に人影が見えていた。こんな時でも、師匠はいつも通りに見送ってくれているらしかった。私は見えるのかどうか確信が持てなかったが、試しに大きく手を振ってみると、その人影も大きく振りかえしてくれた。私は一人でクスッと笑みを零すと、名残惜しそうにその人影を見つつ曲がり角を曲がったのだった。
とまぁ、以上が事の顛末だ。それで今に至る。
この日はコンクールの地区本選申込日開始の日で、前回と同様に、師匠にわざわざご足労を頂き、こうして申し込みが済んだのだった。地区本選は、七月下旬、夏休みに入ったばかりの頃に行われる。
今日は金曜日で学校があったので、放課後というのもあって、作業が済んだのは夜の七時だった。師匠は遠慮して見せていたが、お母さんが「是非夕食を食べてって!」と言うので、結局根負けした師匠と三人で食事をしたのだった。お父さんは今日は仕事で食事に間に合わないと言っていたのに、ついつい三人分作ってしまったから助かると、お母さんは師匠にサバサバと明るい調子で話していた。お母さんなりの、相手に気を遣わせない様にとの気遣いなのだろう、それが功を奏したか、見るからに師匠の肩の力が抜けて見えた。
食事終えても少しの間、雑談に花を咲かせた。内容は徐々に私のコンクールの話になっていった。
師匠はまたついて行く旨を話したその時、ふと苦笑を漏らしたかと思うと、そのままの調子で
「…次は目立たない格好で行かなきゃなぁー」
と漏らしたので、私とお母さんは顔を見合わせると、クスクスと笑い合うのだった。
一昨日に、たまたま私たち三人の都合が合ったので、夜、お母さんが企画して、地元の駅中のレストランで食事をする事になった。因みに義一や絵里、聡と行ったファミレスではない。普通の一般的な全国チェーンの焼肉店だ。そこで食事していた時に、何故あの時に囲まれていたのかを聞き出したのだった。
私が聞いた途端、私の隣に座っていたお母さんはニヤケながら向かいに座る師匠を見つめ、当人である師匠は照れ隠しに苦笑を浮かべつつ答えるには、どうも昔に向こう…細かく言えばドイツを中心とした欧州域内で活躍してたのを、流石のピアノファン、クラシックファンのコンクール参加者たちが知っていたらしく、それで見つかってしまったということらしい。師匠本人としては、私が小学生に入るか入らないかくらいの時に引退をしていたので、もうすっかり一般人の気でいたらしいが、今回の件で”懲りた”との事だ。私は初めて師匠に出会ってから、勿論師匠が現役時代にどんな演奏をしていたのかなど、興味が尽きなく、それこそ何度も映像なり何なりを見せてくれとせがんだが、その度に師匠は、他の事ではうるさくなかったが、こと私が師匠の昔の演奏の音源なり映像なりを見たり聞いたりするのは、固く禁じていた。当時は理由を教えてくれなかったが、ここまで私の話を聞いてくれた方なら察してくれると思うが、私は普通とはまた違った意味で人見知りだったのに、殊の外師匠にはすんなり心を開いたので、理由を教えてくれなくても何となく教えをこの時まで守っていた。まぁ尤も、わざわざ映像などを見聞きしなくても、目の前で毎回生演奏をしてくれていたので、そこまで必要性を感じなかったのもあった。だから誤解を恐れずに言えば、幼い頃から知る師匠が、人に囲まれて、しかも憧れの視線を浴びていたのが不思議に見えて仕方なかった。だから今回の件で、改めて昔の現役時代の師匠に興味が湧いたのも仕方なかった…だろう。
まぁそういう事で、師匠自身も何となく納得いっていない感じだったが自覚したようで、そのような決意表明をしたのだった。
因みに、この後すぐ、師匠に黙ってネットで試しに”君塚沙恵”と検索をかけてみた。すると、沢山の結果が現れた。何と、師匠のファンサイトまでがあった。試しに覗いてみると、引退宣言して大分経つので流石に過疎にはなっていたが、掲示板のようなものがあったので過去の書き込みなどを見てみると、最近にもチラホラと書き込みが見られた。その内容の殆どが、復帰を望む声ばかりだった。師匠本人では無いのにも関わらず、思わず胸が一杯になる様だった。
後でくまなく見る事にして、次に動画サイトに飛んで見た。幾らか削除されたりしていたみたいだが、それでも何件も検索に引っかかった。ほぼ全てが師匠のライブ映像だった。
ここで軽くでも感想を述べざるを得ないのを許して頂きたい。そのどれもが私には衝撃的だった。
前にも触れたように、師匠は手首を怪我した事によって、二十代後半にして自主引退をした訳だが、でも正直、弟子の私の意見としては、今の師匠の腕でも十分ソリストとしてやっていけるんじゃないかと素直に思っていた。記憶は定かではないが、恐らく私の事だから、師弟関係になる前に、軽い気持ちで『復帰したら良いのに』と軽い言葉を投げたに違いない。それくらいには思っていた。だが…現役時代の師匠の演奏を聞いて見ると、度肝を抜かれるのと同時に、色々と納得がいった。音は動画サイト上というのもあってか、そこまで良くはなかったが、それでもあまりがある程に、その音の”重厚さ”が伝わってきた。日本人女性にしては大分高めの身長を生かして、鍵盤上を縦横無尽に肩から指先にかけて躍動しているのが良く見えた。たまに師匠の顔も映された。今と何も変化が無く、最近の映像と言われても信じてしまうほどだったが、その師匠の顔は正に”鍵盤上没我”ってな具合で、集中し演奏に没入するあまり、下手したら狂気じみて見える程の表情を浮かべていた。激しいテンポはそんな様子だったが、ゆったりとした所では、これまた何かが憑依したかの様に身体が揺れていた。…ここだけ聞くと、師匠は前に私に避難して見せた、無駄に身体を動かして見せて、演奏内容が希薄なピアニストに自身もなっているんじゃないかと思われて突っ込まれそうだが、説明を代わりにさせて頂くと師匠の場合は、演奏のために余計な力が入らない様に、力を分散させるためにしている…というのは、恐らく弟子の私だから気付ける点だと思う。
それはさておき、ついつい幾つもの師匠の動画を一気に見てしまったのだが、思わずクスッと笑ってしまった事があった。この動画サイトにはコメント欄があるのだが、私が見た限りでは必ずと言っていいほど、あるコメントが賞賛の言葉と共に書かれていた。それは英語で”Japanese Witch”や、フランス語で”La sorciere du Japon”や、はたまたドイツ語で”Die Hexe von Japan”といったものだった。私は当然習ってもいないし学んでもいないので、そこまで海外の言葉を読めたり話せたりは出来ないが、これくらいの簡単なのなら分かる。そう、つまり、英語圏の人や、フランス語圏の人、ドイツ語圏の人が師匠を見て”日本の魔女”と称していたのだ。
私はこれを見た時、師匠がどう思うかは別にして『これだっ!』と思った。年齢不詳で、妖艶で、指先から奏でられる音のソレは魔法の様で、まさに”魔女”に相応しいかった。
…これはまだ、師匠には黙っておこう。
と心の中で一人誓い、その後は大体おすすめ動画として画面脇に出ている、これまた当然というか、師匠の親友で現役のピアニスト、”矢野京子”さんのもチラッと見たりした。
…何故チラッとだけなのかと言うと、そのどれもが少なくとも一度は見たことのあった映像だったからだ。というのも、師匠にコンクールに出たいと宣言したあの日、矢野京子と親友だと教えて貰ったのを覚えておられるだろうか。あれから師匠は、例の毎週日曜日のお昼休み、お菓子を作った後、食卓で二人仲良く食べている時に、師匠はおもむろにDVDを取り出し、セットして、テレビを点けて見せてきたのが、彼女の演奏映像だった。それこそ小学生時代から今に至るまでのものだ。何故そんなの持っているのかを聞くと、『だって、私は京子の一番のファンだもの!』と悪戯っぽく笑いながら戯けて返すのみだった。師匠はここだと自分が思う所を一々止めて、解説をするのだった。勿論彼女自体の演奏のクオリティが高いので、勉強になるのは間違いなかったが、何よりも師匠が本当に心から好きだというのが伝わってきて、毎度毎度何だか心がほっこりとするのを覚えていた。しかし…相変わらず自分の映像は頑なに見せてくれなかったが。
まぁそんなわけで、最近は久しぶりにというか、一つ新たな習慣が加わった。ピアノの練習、雑誌オーソドックス自体や数寄屋に集う人々の書いた物を含む義一から借りた本、そしてこの師匠のライブ映像をネットで見るというものだ。ますます私の”普通の中学女の子”としての時間が使えなくなったのは言うまでもない。
…おっと、折角オーソドックスの話が出たので、その話にも触れたいと思う。時系列的にも丁度良かった。
その話とは勿論、”落語の師匠”関連の話だ。コンクールの予選があったその週の土曜日、私は急いで制服姿のまま直接に義一の家に向かった。今日は数寄屋には行かないと言うんで、会う約束をしていたのだった。着いて合鍵を使い中に入ると、義一が丁度玄関近くにいて出くわし、それから軽く挨拶を交わすと二人連れ立って”宝箱”に向かった。
いつもの様に定位置の椅子に座ると、義一もいつも通りに紅茶セットを持ってきた。そして二人でまず何も言わずに一口啜るのだった。その後二人揃って深く息を吐くと、まず義一が笑顔で
「予選通過おめでとう」
と声を掛けてきたので、「ありがとう」と私も笑顔で返した。
あの日の晩、早速私は義一関連の連絡先を知ってる人々全員に結果報告をした。内訳としては、義一、絵里、聡、美保子、百合子の順だった。私からはただのメールだったのに、その直後、皆して電話を掛けてくれた。義一以外は、みんな私以上に興奮した気配を電話越しにも滲ませていた。百合子ですらだ。苦笑まじりに相手を宥めるのが大変だったが、そうしつつも心から嬉しかった。その時には皆空気を読んでくれたのだろう、師匠のしの字も言わなかった。そんな気遣いを私も察して、それには触れなかった。そして今に至る。
それからはお母さんから送って貰った当日の写真を見せたりした。いつだかの、私が中学に入りたての時、裕美たちと研修旅行に行った時に撮った写真を見せた様に、隣り合って私の手元のスマホを二人で見た。義一は一々私の姿格好を褒めてきたが、ふと師匠の写真の所で「…あぁ」と声を漏らした。私も手をそこで止めた。画面一杯に私とお母さんと師匠が写っていた。
因みに条件付きでというか、義一は”沙恵さん”の事を知っていた。小学生の頃、誰にお菓子の作り方を習っているかという話になって、その時にフルネームを教えたのだった。その時、義一は目をまん丸くして、そしてため息交じりに感嘆でもするかのように、「へぇー…」と私に返すのだった。今思えば、この時既に義一は沙恵さんの事を知っていたのだろう。何せあそこまでクラシックに造詣の深い義一のことだ、我が師匠ながらアレだけ活躍していたのだから、知らない訳が無かった。だが、当時の私はそんな義一の反応に対して何も思わず、そのまま素通りをしてしまった。まぁ仕方がないだろう。
先回り的にネタバレになってしまうが、この時に初めて義一が沙恵さんのことを知っていたのを教えて貰うのだった。
「…?」
義一が沙恵さんに視線を落として溜息を漏らしたかの様に見えたので、私は少し警戒しつつ、でも冗談風に義一に話しかけた。
「…ちょっと義一さん、私の師匠を見て、意味深な溜息をしないでくれる?いくら美人だからって」
考えて見たら…いや、考えなくても、沙恵さんを写真でだが実際に見せるのは、これが初めてだった。本当はもっと早く見せたかった気持ちもないではなかったが、そもそも師匠との写真が今までに皆無だった。あれだけ仲良く何年も付き合いがあるというのにだ。近くに居過ぎると、一緒の写真を撮らない事もあるのだ。そんな事例の一つだった。だから私自身、師匠の写真が手元にあるのがこれが初めてだった。
「…リアクションに困るなぁ」
義一は照れ臭そうに頭を掻きつつ言った。私はそれに合わせる様に意地悪くニヤケながら言った。
「ふふ、まぁいいわ。私の師匠の姿を見せるのは初めてだったよね?」
「え?あ、あぁ…うん、そうだね」
と義一が何故か歯切れ悪く返してきたので、早速私はソコに噛み付いた。
「え?何、その意味深な反応はぁ?気になるなぁ」
私はそう言いつつ、テーブルに肘をつき、隣に座る義一を薄目で見た。相変わらず照れ臭そうにしていたが、そのままにヤレヤレと言いたげな調子で返した。
「…うーん、まぁいっか。実はね、君から初めて君の師匠の名前を聞いた時に、ピンと来てたんだよ。『君塚沙恵…?どっかで聞いた事があったなぁ…』ってね」
「ふーん…」
師匠の容姿に反応した訳じゃないのね。
私は体勢を戻し、テーブルの上に置いたスマホの画面に映る私たち三人の写真を見つつ、感情を悟られない様に返した。
義一も私と同じ様に視線を落としつつ続けた。
「実は彼女の事は、君に教えてもらう前から知ってたんだ。CDも持っているしね。主にバイオリンとチェロとの三重奏の室内楽ばかりでね、…まぁそれは彼女が殆どそれしか出してないからなんだけど…」
「ふーん…」
相変わらず代わり映えのしないリアクションを取ってしまったが、胸中としては義一が師匠に対して興味を持っていて、そして好意的に述べているのを聞いて、毎度の事だろうと言われそうだが、自分のことの様に嬉しかった。
義一はここで子供っぽく無邪気な笑みを見せながら言った。
「それがいつの間にか表舞台から退いたとおもったら、まさか君の師匠になっているだなんて…いやぁ、世の中どんな縁が出来るかわかったものではないね」
「ふふ、そうね。私もまさか数寄屋の人達や、そしてあの”師匠”とも知り合えるとは思わなかったもの」
と私も笑顔でだったがしみじみと感慨深げに言うと、義一は見るからにハッとして見せると「あぁ、そういえば…」と口にしつつおもむろに席を立ち、庭に通づる大きな窓を背にしている書斎机に向かうと、上に置かれていた一般的な見た目の変哲の無いデジカメを持って戻ってきた。
そして座ると、何も言わないままに小さめの液晶を見せてきた。私も何も言わずに覗き込むと、そこには何処かの会場が映し出されていた。どうやら歌舞伎座の様だった。照明の落とされた客席から撮ったのか、強めの照明で照らされた舞台が余計に浮かび上がって見えた。舞台の奥には縦横二メートルくらいありそうなパネル一杯に、恐らく高座での写真なのだろう、自分でも納得のいく出来だったのか満面の笑みを浮かべる”師匠”の写真が出ていた。その手前には椅子が用意されていて、着物姿が何人か座っていた。彼らは私でも知ってる人達だった。一人は今回の会を開いてくれた歌舞伎役者の方だった。そして数人は”師匠”の弟子たちだった。その中には、数寄屋まで”師匠”に付き添って来ていた彼の姿もあった。とその中で異色な老人が一人座っていた。なぜ異色かと言うと、一人だけスーツ姿だったからだ。また周りの人々と比べると、一回りか二回りほど小さく見えた。数枚ある写真のどれを見ても、好々爺よろしく人好きのする笑みを見せていた。ここまで言えば分かるだろう…そう、それは神谷さんだった。写真だったので、何を話しているのかまでは分からなかったが、歌舞伎役者の方などとも心を割って話している様が見て取れた。故人を偲ぶ会ではあるのだが、まさに芸人らしく、神谷さんまで漏れることなく和かに明るく振る舞っているのが分かった。とても楽しそうな会だ。
その感想は正しかったらしく、私が普段して見せる様に、今回は義一が事細やかに一枚一枚を解説してくれた。因みに、この歌舞伎役者の事は、”師匠”を通じてだがよく知っていた。何かにつけ書籍や映像などで、”師匠”が彼を褒めるのを聞いたことがあったからだ。”師匠”自体は当代の彼のお父さん、つまり先代の同名の歌舞伎役者に可愛がって貰った縁で、その息子である彼を終始可愛がって面倒を見ていた様だった。そういう訳で、当代も当代で”師匠”を尊敬し付き合っていた様だ。
次号のオーソドックスで特集を組むというんで、その号が発売されたらまた私にプレゼントをする旨を言ってくれたので私はお礼を言ったが、ふとさっきから小さい事だったが疑問が湧いていたので、お別れ会の話に区切りがついたところで聞いてみた。
「ねぇ義一さん、そのー…こう言うのは失礼かも知れないけど、何で神谷さんが壇上に出ているの?」
「え?」
義一は新しい紅茶を淹れ直して戻ってきたところだった。そしてカップに出来たてのダージリンを注ぎつつ
「それってどういう意味?」
と何気ない調子で返してきた。
私は紅茶のおかわりにお礼を示しつつ続けた。
「うん。…何て言うのかなぁ、神谷さんって”一般人”じゃない?それが何で壇上に上がっているのかなぁー…って単純に疑問に思ったの。いや、ダメって言いたいんじゃなくて、ただ…神谷さんまで上がっていいのなら、他の人もいて然るべし何じゃないかなって思ったの。だって…この中で芸人じゃないの、神谷さんだけなんだもん」
私はデジカメの液晶に目を落としつつ言った。
それを聞いた義一は真向かいに座り、ゆったりとした動作で自分で淹れた紅茶をズズっと味わって一口飲んだが、一瞬微笑んだかと思うと、途端に意地悪くニヤッと笑いながら言った。
「…ふふ、君ってやっぱり今時の子とは一味も二味も違うねぇ。…今みたいなネット社会では、すぐに人の事を検索にかけたりするものだと思っていたけど。…まぁ、僕には言われたくないだろうけどね?」
「うん、あなたには言われたくない」
私は即座に間髪入れずに、なるべく顔にも声にも表情をつけない様にしながら返した。ほんの一瞬お互いに無表情で見合わせたが、次の瞬間にはどちらからともなく吹き出し、クスクスと笑い合うのだった。
笑いが収まると、義一が笑顔を絶やさないまま話し始めた。
「はぁーあ…あ、そうだねぇ、何から話そうかなぁ…うん、そうだ」
義一はふと立ち上がると、ティーセットの乗ったトレイを持ち上げて、何も言わずに”宝箱”内の本棚の無い一角にある、縦が五十センチ、横幅が一メートルほどの大きさの液晶テレビ前にある、円形の竹で作られたコーヒーテーブルの上に置いた。何も言わずとも、良くある事だったので、私もそのまま後をついて行き、テーブルの前にある二人がけのソファーに先に腰を下ろした。
…良くあると言ったのは、覚えておられるだろうか、何度かここで義一に何かしらの映像を見せて貰っていたという事を。それがこのテレビでの話で、私が初めて数寄屋に行った時に少し話した、物理学のドキュメンタリーも、ここでこれで見た物だった。テレビは真っ黒なシンプルなテレビ台に乗っており、一つ一つの棚にはDVDプレイヤーがセットされていた。台の両脇には縦長のスピーカーが設置されていて、そのまたすぐ脇には、天井に届くほどのDVDラックがあった。中には古今東西…いや、比率から言えば”古東西”と言った方が良いくらいの映画が、隙間無く詰められていた。義一に聞いても、本人でも把握しきれていないらしいが、取り敢えず少なくとも千本以上はあるとの事だった。それには、先ほども触れたものも入れたドキュメンタリーも含まれている。今まで機会が無かったから話していなかったが、本だけでなく、この中からも何本か借りたりしていた。
と、ここまでいつも通りだったが、今日は少しばかり違っていた。義一はDVDプレイヤーのセットされている棚のもう一段下に手を突っ込み、何やらゴソゴソしていたかと思うと、不意に中から無線のキーボードとマウスを取り出した。そしてそれをテーブルの上に置いた。呆気にとられると言うほどでは無かったが、不意をつかれた形になったので、取り敢えず私は黙って義一の行動を見守る事にした。義一は慣れた調子でセッティングを終えると、おもむろにテレビの電源をつけた。しばらくして画面が映されたが、そこに出てきたのは、パソコンの起動画面だった。まぁここまでお膳立てされれば、この様な展開は予測する事自体は容易だったが、ただ私達二人でパソコンを弄るというのは初体験だった為に、大げさな様だが新鮮味を覚えていた。義一は私の横に座ると、暗証番号を手際よく打ち込み、デスクトップ画面に飛ばした。そしてそのまま間髪入れずにネットの検索画面に飛び、そこでおもむろに”神谷有恒”と打ち込んだ。すると、すぐにズラッと沢山の検索結果が出てきた。ここまで私も義一も一言も言葉を発していなかったが、この時の私の心情としては、軽く驚いていた。もし検索をかけたところで、大した数では無いだろうと思っていたからだ。取り敢えず今は雑誌を出しているというんで、その関連で検索結果が出ることはあるだろうくらいの事は予測していたが、どうも目の前テレビのモニター一杯に出されている結果は、それだけでは無い事を瞬時に思わせるのには十分だった。私は思わず知らず前のめりになって見ていたが、ふと隣に座る義一が、気持ち愉快げに声のトーンを上げつつ話しかけてきた。
「…ふふ、驚いたかい?まぁこの通り、一番上にはオーソドックスが出てくるわけだけれど、その他にもこれだけ出てくるんだ。えぇっと…まぁ詳しくは、後で君が興味を持った時に見て貰うとして…」
義一は独り言を言うようにマイペースに目の前でアチコチとサイトを覗いて見せたが、ふと一つのサイトに目が止まると、そこをクリックして止めた。それは私の知らない誰かが作ったまとめサイトの様だった。アチコチに点在している動画サイトの中の動画をまとめている様だった。一つ一つサムネイルがあり、その脇にタイトルが出ていた。それぞれ違っていたが、共通していたのは全てに”神谷”の名前が出ていた事だった。私は自分でも分かる程に、もう気持ち半歩分前に前に乗り出して画面を見ていると、先程と変わらぬ調子で義一が話しかけてきた。
「このサイトの管理者は知らないんだけれどね、どうも昔から先生のファンらしくて、こうして昔にテレビに出ていた頃の先生の動画を纏めて載せているんだよ」
「へぇー…先生って、昔テレビに出ていたんだ」
ついつい義一の言葉に引き摺られるように”先生”呼びになりつつ、それを自分自身で気付かないほどに、変に感心しつつ返した。まぁ、これも普段通りの現象だ。
「先生本人は、それが恥だとか、汚点だと思っているみたいだけどね」
義一は悪戯っぽく笑いつつ言うと、おもむろに数ある中から一つのサムネイルをクリックした。するとその直後には、画面一杯に、あるテレビ番組が流れ始めた。そこに出てくる出演者たちの姿形や格好を見るに、今から二十年くらい前だろうと想像された。そのすぐ後には番組名の字がデカデカと表示された。この演出も古臭いものだった。因みに普段からテレビを見ない私でも、この番組の名前は知っていた。金曜日の深夜から、翌日の明け方まで生で放送される、いわゆる討論番組だった。司会進行の男性が何やら初めに話していたが、この人も知っていた。暫くはこの男性しか映っていなかったが、不意にカメラが切り替わったかと思うと、一人の長めの白髪頭の男性が映し出された。
私はすぐに彼が誰だか分かった。確かに二十年以上も前らしく、今と違って言ってはなんだが豊富な白髪を靡かせて、一風変わった見た目をしていて、胡散臭さすら漂わせていたが、顔の作り自体は何も変わっていないせいなのかも知れない。そう、この男性こそ神谷さんだった。五十代の神谷さんだ。今回は約五分あまり流していただけだったので、議論の中身はよく聞いていなかったが、今とは違って目がギラギラしていて、相手を食って掛かるような表情を見せ、口からは次から次へと止めどなく流れる様に言葉が紡ぎ出されていた。この頃から本人の言い方を借りれば多弁症だったらしく、司会が止めに入っても中々止めなかった。しかし、この時は繰り返すがキチンと聞いていた訳では無かったが、その発言には矛盾点は見付けられず、他の人がどう思うかはしらないが、私には発言が長く感じなかった。むしろ、もっと聞いていた気にさせられたのだった。
事あるごとに隣で義一が解説を入れてくれた。二十年前の一、二年の間、この番組の準レギュラーを張っていた事、討論の中での発言が当時の日本社会の中では異端だったので、その新奇さによって人気に火が着いたこと、その理由のために神谷さんが”黒歴史”と思っている事などだ。
「じゃあ、義一さんもこの番組を見ていたの?」
「え?えぇーっと…どうだったかな?」
義一さんはテレビとパソコンの電源を落とし、ソファーに深く腰掛けると、天井を見上げて考えて見せた。
「んー…まぁギリギリ見ていたね。先生は当時一緒に共演していた他の人達にほとほとウンザリしていたようでね、その番組のプロデューサーさんが必死に引き止めようとしたらしいんだけど、とうとう辞めてしまったんだ」
とここまで言うと、勢いよく私に顔を向けると、今度は無邪気な明るい笑みを浮かべて言った。
「それとほぼ同時に始めたのが…オーソドックスだったのさ」
「へぇー」
「さてと」
義一は私の返しに対してこれといった感想を言わずに、またトレイを持つと、いつものテーブルに戻したので、私もあとをついて行って座った。
「でね?」
義一はまた先程のように向かいに座ると、話を続けた。
「前に数寄屋で、先生自身が言ってた事を覚えてるかな?旧帝大で教授をしていたって話」
「うん、最後の教え子の一人が聡おじさんだって話だったよね?」
「そうそう、その通り。まぁ先生は初めからあんな感じだったらしくて、そもそもの所大学で教鞭を執るのにうんざりしていた時期だったらしいんだけれど、たまたまある問題が浮上してね、まぁある人物を教授に推薦するかどうかって話で、教授会の中で一悶着があったらしいんだ。まぁよくある話だし、大した話でも無かったんだけれど、先生は『これはチャンスだ』って思ったらしくてね、わざと他の教授たちとぶつかって、それでとうとう辞めてしまったんだ」
そう話す義一の顔は、呆れたような笑みを見せてはいたが、どこか誇らしげにも見えた。
「それでね、僕は当時まだ中学に入るかどうかくらいだったから知らなかったけれど、結構大きなニュースとして取り上げられたらしいんだ。でね、その騒動を引き起こした中心人物の先生をテレビに出せば、視聴率が稼げると計算した当時のプロデューサーが直接先生に出演依頼をしたらしいんだ。先生は勿論相手がどういうつもりで自分を誘っているのか分かっていたから頑なに断り続けていたらしいんだけれど、そのしつこさにとうとう折れて、一度だけって条件付きで出たんだ。その時の議題は女性問題についてでね、いわゆるフェミニスト相手に先生一人が奮闘するって感じだったんだけれど、先生が言うには、どうせこれが最初で最後だし、そもそも自分の名前は悪名高く全国に広まっているのだから、建前なんぞかなぐり捨てて、本音だけを話そうと思って、ズケズケと衒いなく話したらしいんだ。でね、その翌日、番組のプロデューサーから電話が掛かってきた…。先生が取るとね、相手がすごく興奮した調子で『先生、大変です!』って開口一番言ったらしいんだ」
「苦情の電話が沢山来てますって?」
と私が悪戯っぽく笑いながら返すと、義一も似た様な笑みを浮かべながら返した。
「ふふ、普通はそう思うよね?先生自身もそう思ったらしく『苦情ですか?』って聞いたらしいんだけれど、プロデューサーは益々興奮して見せて『いやいや、違いますよ!』って返した様なんだ。何でも、先生が出演された後、局の電話が鳴りっ放しになった様でね、それは視聴者からだったんだけれど、その半数以上が女性だったんだって。それでね、その電話の内容というのが、『今日出ていたあの人は一体どこの誰なんですか?今まで心の中では思っていたり考えていたりしていても、表立っては口に出来なかった事を、あの人は臆する事なくパァパァ発言してくれて、とても胸がすく思いがしました!これからもあの人を出してください。そうすればまた見ます』といったものらしいんだ」
「へぇー…」
当時は当然、義一が中学になるかどうかくらいだったから、そもそも私が生まれていないので知るはずも無いのだが、それでもその女性の気持ちはよく分かった。神谷さんもそうだが、義一に関しても言えた事だった。
「何となく、分かる気がする」
私がそう返すと、義一はニコッと目を細めて笑って見せると先を続けた。
「それでね、先生の弁を借りれば、本当は一度限りのつもりだったけれど、そんな風に言ってくれるのなら、もう一度くらい出てみようかなって思ったんだって。それで出るたんびに、そんな電話などが来てるって言われて、それでまぁ…嬉しくなったってんで、それでいつの間にか”準レギュラー”になっちゃったって恥ずかしそうに言ってたよ」
「…ふふ」
私は今の好々爺の神谷さんで想像したが、その照れ臭そうにしてる姿を思い浮かべると、何だか可愛く思えて思わず笑みが溢れた。
義一も私に微笑みをくれつつ、先を続けた。
「まぁ後は…さっきの話に繋がるんだけれど、それでもやっぱり嫌になって辞めて、また一人になったらしいんだけれど、テレビに出ていたお陰か、今まで疎遠だったある人から連絡が来たらしいんだ。その人が…そう、西川さんだったんだ」
「…あぁー」
ここでオーソドックスの筆頭スポンサーである西川さんの名前が出たので、すぐに察した。
「それでオーソドックスの発刊をスタートさせたのね?」
そう言うと、義一は満足そうに大きく頷いて見せた。
「その通り!これは君も話を聞いたと思うけど、丁度その頃西川さんもあの”数寄屋”の元になる廃れた店舗を見つけて思わず買ってしまった訳だけれど、丁度その頃にテレビで大学時代の先輩を見かけて、懐かしくて毎回見ていたらしいんだけれど、不意に出演を辞めると発表を聞いた西川さんは、本人曰くほとんど考えないままにテレビ局に電話を掛けて、先生の連絡先を問い合わせたらしいんだ。それで後日に先生と会って、もし今後予定が無いのなら、こんな事をしませんかって提案をして、先生も面白そうだと即座に乗った…これが、雑誌オーソドックスの誕生秘話だよ」
「なるほどねぇ」
私はそう呟くと、一口紅茶を啜った。義一も私に合わせる様に一口啜るのだった。
ほんの数秒間、久々に静けさが辺りを満たしたが、フッと短く息を吐いたかと思うと、義一はニタっと笑いつつ、少し小声で話しかけてきた。
「…琴音ちゃん、今の話、先生には内緒にしておいてね?僕から当時の話を聞いたって知ったら、怒られちゃうから」
「ふふ、分かったわ」
私は義一の様子がおかしくて、半笑いでそう返したが、ふと一つの考えが浮かんだので、すかさず義一にぶつけてみた。
「…という事は、義一さん、あなたがそのー…高校生になりたての時に聡おじさんに連れられて数寄屋に行った時って、何となくだけれど…まだオーソドックスが出来たばかりの頃?」
そう聞くと、義一は少し腕を組み考える”フリ”をして溜めて見せたが、ふと顔を上げると明るい笑みを浮かべつつ返した。
「…そう、ほんの数カ月ばかりはズレてる筈だけれど、雑誌の黎明期から僕はあそこに通っていて、先生や他の人たちに色々と教わってきたんだ」
「へぇー、そうだったんだ…」
と私が返したその時、廊下の向こうで不意にガラガラっとけたたましい音を立てて玄関が開けられる音がした。廊下へのドアが開けっ放しだったので、余計にこっちまでよく聞こえた。誰かが向こうで動く気配がしたかと思うと、足音がこちらに近づいてきて、そしてその足音の主が”宝箱”の入り口付近に立った。その人はノースリーブの白ブラウスに黒のパンツを履いていて、色白の腕は程よく細く色気を醸し出していた。片手にはお土産なのかケーキが入ってそうな紙箱を持っていた。顔の表情は目元は顰めっ面風味だったが、口元はニヤケている。その上には特徴的なおかっぱヘアーを乗せていた。もうお分かりだろう?そう、絵里だった。相変わらずちょっとした時でもお洒落だった。裕美が見たら、また興奮して見せるのだろう。
「…ちょっとー」
絵里はゆったりとした歩みで義一をジトッと見つめながら言った。不満げだ。
「私は今日四時くらいに行くって言ってたでしょー?なのに何で出迎えてくれないの?」
そんな事を言うので、ふと部屋の古ぼけた掛け時計を見ると、四時ピッタシだった。
「いきなりまた随分な言い草だなぁー…」
義一は苦笑しか出来ないって感じだ。
「ふふ、いらっしゃい絵里さん」
と私の家でもないのに、不意にそんな言葉が口から出てそのまま投げ掛けた。絵里はそれに対して何も思わなかったらしく、紙箱を私たちの目の前のテーブルに置くと、いつもの様に(?)座ったままの私にガバッと抱きついてきた。
「琴音ちゃーん!会いたかったよぉー!」
「はいはい、私も私も」
私は敢えて無感情気味に、絵里の背中をポンポンと子供をあやす様に軽く叩いた。私から離れた絵里は、先ほど義一に向けたのとはまた違う種類のジト目をこちらに向けつつ、非難めいた口調で言った。
「まったくー…相変わらずあなたは冷めてるんだからぁ…。あ、ギーさん?」
「ん?」
「はい、これ!」
絵里は一度テーブルに置いた紙箱を手に取ると、義一の前に腕をめいいっぱいに伸ばして差し出しながら言った。
「これ、折角私がここに来る前に駅前まで行って買って来たんだから、お洒落なお皿に盛り付けて来てよ?…あっ!」
とここで絵里は、テーブルに乗っていた飲みかけのティーセットに目を落とすと、また義一に顔を向けて「私の分の紅茶もね?」と付け加えた。
「はいはい…」と苦笑まじりに返しつつ受け取ると、そそくさと宝箱を出てキッチンに行ってしまった。
「やれやれ…」
そんな後ろ姿を見送りながらそう言うので、私は吹き出しながら話しかけた。
「…ふふ、やれやれって…それは義一さんのセリフだと思うけれど?」
「…えぇー、琴音ちゃんはアヤツの味方をするのー?」
絵里は子供の様な不満顔を晒しつつ、先ほどまで義一が座っていた場所に腰を下ろした。私は何も返さず笑顔でいると、絵里は一度ふうっと息を漏らすと、ここに来て初めて優しい笑みを見せたかと思うと、口調も穏やかに話しかけてきた。
「…琴音ちゃん、改めて予選通過おめでとう」
「…うん、ありがとう」
私もそう返しつつ微笑んで見せると、絵里は不意に大きく腕を天井に向けて伸ばして見せて、またさっきまでの調子に戻しつつ言った。
「…いやぁー、ギーさんがいる時、後でケーキを食べる時にでも言っても良かったんだけどさ、ほらー…やっぱり私としては、ちゃんと一対一の時に言っときたかったからね」
「うん、ありがとう」
「どういたしまして」
絵里は目をグッと瞑りつつ今日一番の笑みを私にくれた。…かと思うと、不意に廊下の方に視線を流すと、また不満げに言うのだった。
「…まったくー、いつまで時間をかけてるのかなぁ?客人を待たせるなんて、まったくなっちゃいないよぉー。出迎えも無かったし」
「ふふ」
因みに今更だが、何故今日この場に絵里が来ているのかと言うと、まぁ…言うまでもなく、約束したからだった。以前にも話した様に、絵里にもコンクールの結果を知らせたのだが、その時に大袈裟にお祝いしたいと言い出したので、初めはそんな大層な事じゃ無いからと断っていたのだが、不意に今回の事を思いついて、義一の家でなら良いよと返したのだった。すると今度は絵里の方が渋り出したが、そこは私が何とか我儘を言って、飲み込んで貰っての今日という訳だ。
「でもさー?」
と私はテーブルに肘をつき、少し挑戦的な視線を流しながら言った。
「別に出迎えが無くてもいいじゃない?だって、絵里さんもここの合鍵を持っているんだし」
「ぐっ」
絵里はまるで漫画にでも出る様な声を漏らした。しかしこれは演技では無く素の様だった。
これはいつだったか…今いる宝箱に絵里が何度も足を運んでいるという話は、初めて三人であのファミレスに行った時に出た事だ。その時の話が、何回か絵里の家にお邪魔した時に出た時に、ポロっと絵里が漏らしたのだった。その時はすぐに口を塞ぐジェスチャーを見せたが、もう遅かった。そこから私は何故合鍵を持っているのか根掘り葉掘り聞こうとしたが、結局最初に戻るばかりで、何も得られはしなかった。まぁ恐らく、内容自体は大した事では無いのだろう。義一も、絵里にならと軽い気持ちで渡したに違いなかった。
「…それってどういう意味よー?」
絵里は立て直したのか、意地悪げな笑みを向けつつ、私と同じ様に肘をついて言ってきたので、
「さあねぇー」
と音程を変えずに間延び気味に、視線をズラしつつ返した。
とその時、
「…ん?どういう意味って、何が?」
「え?」
絵里は驚いた表情を見せて声の方を向くと、そこには幾つかある小さなケーキを盛り付けたお皿と、絵里の分のティーカップを乗せたトレイを持つ義一が立っていた。そしておもむろにそれをテーブルの上に置きつつ、視線を私たち二人に向けながら「何の話?」と聞いてきた。
私は面白がって話そうとしたその時、絵里は少し動揺を隠せないままだったが、何とか意地悪風を保って見せつつ言い切った。
「何でもありませーん。私たち女だけの話でーす。男で部外者のギーさんは、気にせんでよろしい!」
「ふふ、何だよそれー…」
義一はまた苦笑いを浮かべつつ絵里のカップに紅茶を注ぎ入れて、それから座ろうとしたが、ふと自分の座る椅子が無いのに気づき、絵里に話しかけた。
「…絵里さん?今あなたがお尻を乗せているその椅子は、私の座るものなんですけど?」
「お尻って…」
言われた絵里は、肘をついたまま、そばで立っている義一にニヤケ顔を向けつつ言った。
「それってセクハラじゃないのー?今のご時世、五月蝿いんだからね?」
「はいはい」
義一は絵里からの忠告(?)には一切気を止めずに、手で虫を払うかの様にシッシッと動かして見せた。
これ以上は冗談が続けられないと判断したのか、絵里は途端に素直になって、
「へいへい、自分の椅子くらい、自分で取ってきますよー」
と不貞腐れて見せつつ席を立ち、キッチンへとトボトボと歩いて行った。そして、食卓にある椅子の一つを手に持って戻ってきた。
私がいない時は当然知る由も無いが、椅子が二人分しか常備していないので、こうして私がいる時は絵里自らキッチンから椅子を一つ持ってくるのだった。
絵里は自分の椅子を廊下側のドアを背にする様に置くと、そこに座った。
座るなりカップを手に持つと、私と義一を交互に見て、最後に私に笑顔を向けると、手を前に突き出して言った。
「さて、では琴音ちゃんの予選通過を祝って…かんぱーい!」
「かんぱーい」
カツーン
これもいつも通りというか、まるでお酒で乾杯でもするかの様に、各自のカップを軽くぶつけ合って一口飲んだ。義一と二人ではまずしない事だったが、絵里とはこの習慣は続いていた。
それからは、絵里が持ってきてくれたお土産のケーキを三人で仲良く食べた。その間の会話は、私の学校生活やコンクールの話に終始した。約束通りというか、どうしても見たがっていたので、義一に見せる時とはまた違った意味で恥ずかしがりつつも、絵里にスマホごと渡して見せた。絵里は一々オーバーリアクションを取りつつ一枚一枚見ていったが、ふとある写真の所で指を止めた。
「何?どうしたの?」と斜め向かいに座る私は、少し腰を浮かせて画面を覗き込んだ。それは、先ほど義一が見ていた私とお母さんと師匠の写真だった。
絵里はそんな私の様子には目もくれずに、元々クリクリっとしてる目を大きく見開かせながら凝視した。
しばらくして、私にスマホを返してきつつ、少し動揺している様な素振りを見せつつ話しかけてきた。
「ありがとう、琴音ちゃん…。ところでー…最後の一枚に写っていたのって…勿論あなたの関係者よね?」
「へ?」
私はホーム画面に戻そうとしているところだったが、妙なことを聞かれたと画面をそのままにして声を漏らした。そして、確認するまでも無かったが、一応その写真を一度見返してから「うん、そうだよ」と返した。
「これが私のお母さんで、こっちが私の師匠」
私は絵里に見える様に画面を向けつつ、指で一人一人指差して紹介した。すると、絵里の目はまた大きく見開かれた。そんな妙な様子に義一も気づいたらしく、何事かと言いたげな表情を浮かべていた。
そんな義一には見向きもせずに、絵里は何か困った様な表情を見せたが、今度は若干苦笑気味に私に話しかけてきた。
「琴音ちゃん…驚かないで聞いてね?」
「ん?何?」
何を話されるのか予想もつかないと、要領を得ないといった風で返した。すると、また何かを言い淀むかのようにワンテンポ間を置いたが、今度は少し目力強めに真っ直ぐ私の目を見てきて言った。
「この…あなたのお母さんだっていう女性ね…私、知ってる人だわ」
「…え?どういう意味?」
私はそう返したが、咄嗟に以前から漠然と思っていた事を思い出していた。絵里は私の質問に、間髪入れずに苦笑いのまま返してきた。
「あなたのお母さんね…私の実家の生徒さんだわ」
…やっぱり。
「…へぇ」
私はいうべき言葉が見つからず、とりあえず間を埋める様に声を漏らしてみた。
「それって…目黒の?」
今まで静かだった義一が、少し真剣な面持ちを絵里に向けつつ聞いた。
「そう」
それに対して絵里も、同じ様な表情を義一に向けつつ短く答えた。
その後は数秒ほど沈黙が流れたが、不意に「んー…」と義一が空気を変える様に大きく伸びをして呑気な声を上げると口火を切った。
「随分と世間が狭いなぁー…。瑠美さんが通っている日舞の教室が、まさか絵里の所だったなんて」
「…まぁ」
と私もそんな呑気な調子につられる様に苦笑いをしつつ言った。
「何となくそんな気はしてたけどねぇー…絵里さんとこが、目黒だって時点で」
「んー…私もそんな気はしてたんだけれど」
と絵里も何だか私たち二人が呑気な調子でいるのに納得いかないって言いたげな顔つきだったが、空気に合わせて苦笑気味に言った。
「絵里は今まで気付かなかったの?ほら…苗字で分かるじゃない?」
と義一が聞くと、絵里は少し不満げな顔を見せて、ジト目を向けつつ答えた。
「知らなかったよー…。だって、さっき知ってるとは言ったけれど、見かけた程度だったし…。私の生徒さんじゃなくて、多分…お父さんかお母さんの生徒さんだもの」
「そっかぁ…」
義一がそう漏らすと、また今度は重苦しい空気が流れた。勿論その訳は知っていたが、私も自分で思うよりも呑気に構えていたのだろう、早くこの気まずい沈黙が過ぎないかと、どう打開すべきかに頭を悩ませていた。
「…うーん、参ったなぁ」
ふと絵里が困り顔で耳の裏あたりを指でポリポリ掻きつつ、正面を向いてはいたが、視線だけ私に流して言った。
「これって、どう考えたら良いんだろう…?もしこの辺りで、私と琴音ちゃんが一緒にたまたまいる所を見られても、”仲の良い図書館司書”って事で、そこから先は追求されないかなぁーくらいに考えていたけれど…」
この話は、小学生時代に、既に絵里と口裏を合わせていた。
「まぁ…教室で数回たまたますれ違ったくらいだから、私が覚えていても、あなたのお母さんが覚えておられるかまでは確信が持てないけれど…こういった所から変に綻びが出て、終いにはギーさんの事を悟られ無いとも…限らないんじゃないかな?」
と最後に、今まで私に向けていた視線を義一に流して言い終えた。
「うーん…」
今の絵里の発言に、私もその可能性を吟味してみようとするあまり、自然と声がまた漏れたが、義一も同時に漏らしていた。
また暫く沈黙が流れたが、腕組んで考えていた義一が不意に顔をあげると、絵里に話しかけた。
「うーん…まぁ確かに、今回の発見はイレギュラーっちゃあイレギュラーだけれど…それって、僕の所まで及ぶ話かなぁ?」
「…それって、どういう意味よ?」
そう返す絵里の目は、先ほどにも見せたジト目ではあったが、側から見てても分かる程に、真剣に怒っている様にも見えた。敢えて私の感想は述べないが、これには色々な感情が含まれていただろう…。勿論、絵里個人の感情もだ。
だが義一はどこ吹く風といった調子で、淡々と返すのだった。
「どういう意味って…そのまんまだよ。今絵里、君自身が言った様に、そもそも瑠美さんは琴音ちゃんに”仲の良い司書さん”がいる事は知っているんだし、それが仮に自分の通っている日舞の教室の先生の一人だって知っても、その偶然に対して、さっきの僕みたいに世間が狭いと驚きつつ喜びこそすれ、そこから僕のことを連想するまでは行かないだろ?…別に、そんなしょっちゅう君と一緒に外を出歩くわけでも無いんだし」
最後にそう言うと、これまた淡々と紅茶を啜った。
「そ、そりゃあー…そうかも知れないけど…」
絵里は何か言いたげだったが、それを言っても仕方ないと思ったか、渋々と両手でカップを包み込む様に持つと、静かに紅茶を啜るのだった。
一連の流れを私は黙って聞いていたが、流石に”この手”の話に疎い私でも、義一に対してデリカシーが足りないなぁと言う感想を抱いた。なかなか難儀なもんだなぁ…
確かに絵里の言った通り、どこかで予測はしていたものの、こうしてハッキリと絵里とお母さんの間に関連性がある事が証明されてしまうと、途端に言い様のない不安感に苛まれた。だが、確かに義一の言う通り、今の所はそれがバレてしまった所で、そこから義一との関連性が疑われるとも…絶対に無いとは言い切れないとは思ったが、可能性は”今の所”無い様に思われた。…その事実を、絵里がどう思ったかは兎も角としてだ。
「はぁー…まぁいいわ」
絵里は表情から緊張を解くと、ため息交じりに苦笑気味に言った。
「確かにギーさんが言った通り、今の所この件についてアレコレ悩んで考えて対策練ろうにもしょうがない…か。その時になって見ないと分からないものねぇ…いい加減で悪いけど」
と最後に済まなそうに力なく笑いつつ私の方を見てきたので、私は若干アタフタとしてしまったが、フッと一度微笑んで見せてから、頭を座ったまま深々と下げて「…ごめんなさい」と声のトーンを落として、心からの気持ちだと伝わってくれる様に言った。
すると今度は絵里がアタフタし始め、「ちょ、ちょっとー、何もあなたがそこまで謝ることじゃ無いったらぁー」と言った直後に、これまた思いっきり不満げな表情を浮かべて、ジト目で義一を睨みつつ言った。
「全ては、この男がしっかりしないのがいけないんだから!」
「何だよー…」
と義一も不満げに返していたが、不意に照れ臭そうに笑いつつ頭を掻きながら「まぁ…否定が出来ないのが辛い所だな」と言うので、
「でしょ?」
と絵里が悪戯っぽく笑いつつ返した。その後は一瞬間が空いたが、三人顔を見合わせると、やれやれと言った感じで最初は苦笑い、途中からは明るく笑い合うのだった。
それからはコンクールの話もひと段落ついたので、今度は絵里が”師匠”のお別れ会の写真を見たがったので、義一はまた立ち上がり、書斎机の上に置いたデジカメを取ってきて、絵里に手渡した。絵里は一枚一枚丁寧に、私のコンクールの写真と同じ様に丁寧に見ていったが、一つだけ違ったのは、私の写真を見る時には明るい笑み、時にはニヤケて見せていたのが、今回の場合は終始優しげな微笑みを浮かべていた事だった。
…ここで軽く説明がいるだろう。そう、もうお分かりの様に、絵里も”師匠”の事を知っていた。…というより、私と同じくらいに”ファン”だった。きっかけも私と同じだ。つまり、義一から薦められたとの事だった。映画もそうだったが、何度か絵里のマンションにお邪魔した時に、ふと本棚に、”師匠”の書籍が並んでいるのに気付いた。その事に触れると、何だか気恥ずかしそうにしながら、実は落語が好きで、そのキッカケが、これまた義一だったと照れ臭そうに話してくれた。何だか自分の恥の部分を話すかの様に見せたので、その時私は満面の笑みを見せていたと思う。
とまぁ、そんなこんなで、”師匠”が亡くなったという報道が流れた時には、絵里からその事について連絡は無かったが、今こうして”師匠”の件について語り合うのだった。
「…そういえば私ね、”師匠”と直接話した事があるんだよー」
「えぇー、いいなぁー!…って、何で?どうやってそんな機会を得たの?」
「それはねぇ…」
私はここで義一に視線を向けて、無言のまま話していいかを聞いた。義一はすぐに察してくれた様で、微笑みつつ頷いてくれたので、絵里の質問に答える事にした。
「絵里さんは知ってるか分からないけど…義一さんがよく行くお店で数寄屋っていうのがあるんだけれどね、そこの常連の中に”師匠”がいたの。それでいつだか行った時に、たまたま鉢合わせてね、そこで色々とお話が出来たんだー」
ありのままを話しても良かったと思ったが、何と無くこの様にボヤかしつつ話した。
すると、絵里はまた不満気にジト目で義一を見つつ、口調も合わせるかの様に言った。
「…あぁ、なるほどねぇー…あそこに連れてって貰ったんだ?」
「…え?絵里さん、数寄屋を知ってるの?」
私がそう聞くと、視線を私と義一と交互に流しながら答えた。
「知ってるというか…まぁ、存在を知ってるって感じかな?…アレでしょ?…”オーソドックス”でしょ?」
「え?オーソドックスまで知ってるの?」
私はさっきよりも声のトーンを上げ気味に聞いた。意外に重なる意外だったからだ。正直、絵里とあの雑誌が繋がらなかったからだ。
そんな私のテンションとは裏腹に、絵里はあくまで不満げな態度を変えずにそのまま返した。
「えぇ…この男に薦められてねぇ…隔月で発売日になったら、送ってくれるのよ」
「へぇー…で?」
「で?って?」
「…」
私は絵里自身があの雑誌を読んで、どの様な感想を抱いているのか、編集者でもないのに凄く気になった。だから問いかけてみたのだ。
絵里は私の質問の意図を汲み取ろうと考え込んでいたが、それが無駄だと悟ったらしく、何故か若干苦笑気味に返してきた。
「まぁー…雑誌自体は面白く読んでるよ。まず他では聞けない様な話ばかりだしね。色んな道で活躍している”プロ”が、その立場からどのように世の中を見ているのか、みんな赤裸々に語っているのが興味深いし」
「でしょっ!?だよねぇー」
「え、えぇ、そうねぇー」
私が思わずテンション上げ気味に返したので、絵里は若干引きつつも笑顔で同意してくれた。
…そっか、絵里さんもそうなんだ…。
「ふふ」と思わず笑みが溢れてしまったが、その時絵里は、今日ずっとの気がするが、今回はどちらかと言うとからかい気味の笑みを義一に向けつつ言った。
「まぁ…普段から何を考えてるか分からんこの男の事も、少しは知れる気もするしねぇー…。何だっけ?最後の方に書いてるコラムみたいなの?アレを読むとね」
そう言い終えると最後にこちらに無邪気な笑みを向けてきたので、私もクスクスと笑って見せるのだった。
「また無駄に人を読ませる様な文才が下手にあるせいで、それがタチが悪いよ」
「あのねぇー…」
とそれまで黙って私と絵里のやり取りを、表情柔らかく聞いていた義一が、ここにきて絵里に対して相変わらずの呆れ笑いを向けつつ言った。
「それって、褒めてくれてるんだろうけど…もっと良い言い方無かった?」
「…えっ!?」
話しかけられた絵里は、座ったまま大きく仰け反って見せた。
そして次の瞬間には体勢を戻すと、テーブルに肘をついてニヤケつつ返した。
「褒めてあげたんだから、それ以上の事は求めないでよぉー。…私、どっかの誰かさんと違って”語彙力”が無いから、これ以上の褒め言葉を知らないのよ」
「ふーん…そっかい」
「ふふ」
義一が珍しく拗ねて見せたので、それが珍しく面白く、私はまた自然と笑いが出てしまった。それを見た義一と絵里もその直後に顔を見合わせると、その瞬間はジト目を向け合っていたが、クスッと笑い合うのだった。
それから少しの間、何故私が数寄屋に行く事になったのかを聞かれたので、正直そのままに話した。そこでした会話の内容なども掻い摘んで話すと、絵里は驚いた表情を見せたり、呆れた表情を見せたりと、百面相を演じて見せてくれた。私が話し終えた直後、また絵里が義一に説教しそうな雰囲気を出してきたので、その前にすかさず横槍を入れた。私が進んで連れて行く様に頼んだ事を話すと、一瞬何故か絵里は哀しげな表情を私に向けてきたが、その直後には、呆れともなんとも言い難い表情で笑いつつ、「あなたがそう言うなら、良いけど…」と言ったので、安心したのも束の間、その直後に絵里は意地悪くニヤケつつ指で私のおでこをツンと押すと、
「一人の女の意見として言わせて貰えれば…、この男の様になるのは、オススメしないな」
と言った。
私はおでこを摩りつつ、こちらもとびっきりのニヤケ面を晒して
「分かってるよ!」
と返した。
「何だよー、二人してー…」
と義一がまた非難めいた声を上げたが、それを尻目に二人してまたクスクス笑うのだった。
それからはまた”師匠”に対して、それぞれが想い想いの話をしていたその時、「あっ!」と声を出したかと思うと、義一は不意に立ち上がり、また書斎机の方へと歩き出した。そして、机の陰に隠れる様にしゃがんだので、私たちの位置からは見えなかったが、何だかガサガサ音を立てていた。暫くして立ち上がると、手に何やら紙袋を手に持って戻ってきた。そしてそれをテーブルの私に近い辺りに置くと、笑顔で言った。
「これなんだけれどね…?是非君にって」
「え?これって…?」
「ふふ、見てみてよ」
「う、うん」
私は薦められるままに紙袋をまず持ち上げようとしてみると、思った以上にズッシリ重くてビックリした。持ち上げられなかったのだ。私は諦めて床に置いたまま中身をみると、そこには古ぼけた文庫本サイズの本が、約三〇冊ほど入っていた。私は何が何だか分からないと顔だけ義一に向けると、義一は何も言わずこちらに微笑みかけてくるのみだったので、聞くのも無駄だと判断した私は、改めてまた中身を覗き込んだ。視界の端で、絵里もこちらを興味深げに見てきていたのも見えていた。
取り敢えず中から一冊だけ取り出して見た。それは相当な年代物らしく、ページの側面なり上面なりが真っ茶色に変色していた。古本特有の、表現するなら甘い香りが仄かにした。と、至る所に色んな色の付箋シールが貼られているのに気付いた。それは十やそこらでは聞かないほどだった。他の数十冊にも貼られていた。表紙を見た。そこには”ジョーク集”と書かれていた。
それを見た瞬間、数寄屋での情景を一気に思い出したので、聞くまでも無かったが、敢えて義一に聞いてみることにした。
「これってまさか…”師匠”の?」
「…うん、そうだよ」
義一は私の手元にあるジョーク集の一つを見つめつつ、優しい口調で返した。絵里一人だけが何の事なのか分からないって風で、私たち二人を交互に見てきていた。まぁ、当然というか、仕方のない事だろう。ある意味、遠回しに説明するためにも、思い出した”師匠”との最後の会話の中身を話した。そして言い終えると、一度また自分の中でその事実を噛み締めてから、ボソッと
「…あの約束、覚えてくれていたんだ…」と溢したのだった。
義一は大きく一度頷くと、静かな口調で言った。
「うん…。何でもね、”師匠”はもうあの数寄屋に行ってた時点で、もう死ぬ気でいたらしくてね、それで処方されていた薬をだいぶ前から飲んでいなかった様なんだけれど…」
「うん…」
今義一が話してくれた事を、私はしっかりと飲み込みつつ聞いていた。もしこの時初めて聞いていたら、動揺したかも知れない。…いや、下手したら泣いてしまったかも知れない。でもこの事実は、”師匠”の訃報が報道された時に義一に貰ったメールの中に書かれていたので、その時にはお父さんの事もあってショックは大きかったが、今は落ち着いて聞くことが出来ていた。
「もう死期が近いと察していたらしくてね、モタモタしてたら間に合わないと、あの後迎えに来たお弟子さんの一人に、『自分が死んだら、あの子に俺のジョーク集を全部上げてやってくれ』と頼んだらしいんだ。それで…」
義一はふと、紙袋に目を落とした。
「お別れ会の時に、そのお弟子さんに会ってね、これをお嬢さんにって渡してきたんだ…。それが、これさ」
「…なるほど…ねぇ」
私は一連の話を聞いていて、少しばかり目頭が暑くなるのを感じていたが、涙が溢れるまではいかなかった。ただシミジミと「そっか…」と何度も呟きつつ、おもむろに無意識的に何冊か紙袋から取り出し、ペラペラとページをめくった。
「…私も良い?」と神妙な面持ちで、控えめな口調で絵里が聞いてきたので、私はそっと微笑み返して小さく頷いた。
それから四、五分間は、三人で何となしに感想を述べながらスラスラと読んでいた。付箋が貼られている所を見てみると、知らないものが多かったが、高座で語られたジョークもいくつかあった。これはまた別の機会に、”師匠”の弟子の一人から聞いた話だが、付箋の色でA、B、Cとランク付けをしていたらしい。Aなら面白い、Bはまぁまぁ、Cは客が玄人だったらぶつけてみる…といったものだ。
初めて義一たちと軽く流して読んだ時には、そこまでは分からなかったが、これは無粋だと思い口にしなかったが、やはり”師匠”は落語を含むお笑いという芸能が誰よりも好きで、こうして飽くなく…これが無粋だが、研究をしてきていたのだなぁっと、深く感心し、そして、義一キッカケとはいえ、最後まで”師匠”のファンで良かったと一人で感傷に浸るのだった。
ここでふと誰ともなく時計を見ると五時間近だったので、リクエストはされなかったが、私がおもむろに「折角だから、コンクールで弾いたのを、何曲か弾こうか?」と言うと、すぐに義一と絵里が喜んで見せたので、義一の座る椅子の真後ろ辺りにあるアップライトピアノに歩み寄り、座り、蓋を開けてと準備を済ませ、ここでハッと気付き、一度立ち上がると、二人の顔をジッと見た後にニコッと微笑み、大きく一回お辞儀をした。コンクール仕様だ。すぐに察したようで、二人ともノリ良く拍手をしてくれた。顔を上げて、その拍手に笑顔で返すと、スッと椅子に座り、大きく伸びや指のストレッチを軽くしてから、一度深呼吸をして弾き始めた。
緊張をしてないせいもあって、本番でトチってしまった部分も改善して、完璧に弾いて見せることが出来た。弾き終えると、義一が拍手をしようとしたその瞬間、絵里が勢いよく立ち上がり、これまたその勢いのままに座る私に抱きついてきた。今回は前触れもなかったので、慣れてるとはいえ驚いてしまったが、今度は往なすような真似はせず、私からも抱きしめ返すのだった。その向こうで、満足そうに微笑む義一の顔も見えた。そんな土曜日の夕方だった。
午後一時の原宿駅。改札を出ると照りつける太陽が燦々と降り注がれて、風が吹いても熱気が巻き上げられるのみで余計に暑さを際立たせた。昔からお気に入りの麦わら帽子を被り直し、信号を渡り右手に切れて、土曜日という休日のせいか、この暑さの中だというのに人通りが多い中を、うんざりとした心持ちで待ち合わせ場所へと向かった。といっても、信号を渡ってすぐの、大きな木が植わっている喫煙エリアのすぐ脇だったので、人通りからはすぐに抜けることが出来た。と、その待ち合わせ場所に着くと、向こうで一人の長身な女の子が、何やらお姉さんに声を掛けられていた。濃い青色のサロペットを身に付け、その下には淡いピンクの緩めのタンクトップを着ていた。足元は黒のパンプスで、手に持ったミニバッグも黒だった。…ここまで引き延ばす必要は無かったかも知れない、そう、彼女は律だった。
私は自然と溜息を漏らしつつ律に近寄って、側の女性を無視しつつ話しかけた。
「…何してるの、律?」
「…あ、琴音」
そう挨拶してくる律の表情は、相変わらず変化に乏しかったが、口調からは安堵が見られた。
「いや…そのー…」
と律が何かを言いかけたその時、
「あのー…」
とまだ側から離れていなかった女性が、今度は私に興味津々な笑みを向けて来つつ話しかけてきた。
「お友達ですか?」
「え?え、えぇ…そうですが…あなたは?」
私は不機嫌さを顔中で表現して見せたが、女性はひるむ様子を見せない。そのまま”営業スマイル”を顔に貼り付けたまま、どこからか名刺を取り出すと、私に差し出してきつつ言った。
「私は〇〇という芸能事務所の者なのですが…芸能界には興味がありませんか?」
「…」
先ほどは狙ってだったが、今度は自然ともっと顔中に渋味を浮かべたと思う。
…これを話すと色々と誤解が生まれそうだが、あえて言わせて頂くと、このように見知らぬ人から話しかけれられるのは、今回が初めてでは無かった。私個人で言えば、記憶には無いのだが、小学生の頃に、ママ友達同士でのお茶の場で、お母さんがそんな話をしていたのを聞いていたのを覚えている。中学に上がってからは、何故かこうして律と二人でいる時に限って、普段以上に声を掛けられる事が増えていた。でもその分、変に慣れてしまった事もあって、あしらい方も心得ていた。
「すみません、興味無いので他を当たって下さい。…行こ?律」
「…うん」
「あ、ちょっと…」
私は深々と麦わら帽子を抑えつつ頭を下げて言うと、律の手を取って、女性が引き止めようとする声を無視してツカツカっと歩き出した。
女性が見えなくなった所で手を離し、それからは人通りの多い、明治通りまでの緩い坂道をトボトボと、周りの歩調に合わせて歩いて行った。
「…ふう、撒けたわね」
私が溜息交じりにそう言うと、隣で律がクスッと小さく笑ってから返した。
「…撒けたって言いかた…。まぁでも確かにそうだね」
「…ふふ」
ただでさえ晴天のピーカン照りの中だというのに、人混みの熱気のせいで、余計に暑さが何割か増しになっていた。
「…しょーがない。どっか喫茶店に入ろうか?」
「…そうだね、あの待ち合わせ場所に戻ると、またあの人に見つかるかも知れないし…藤花たちには悪いけど、場所を変更してもらわなくちゃ」
因みに今日は期末テスト後の、私たちの学園の言い方で言えば”テスト休み”、終業式までの約一週間、謎の休みがあるのだ。…って、これは前回にも話した事があったか。今日は私たち五人の予定が合ったというので、結構久々に集まって遊ぼうという話になったのだ。ただ内訳を話すと、午前中から時間があったのは私だけで、他の四人は何かしらの予定があった。まず律。律は今こうして私と一緒にいるという時点で、私と同じで暇だったんだと思われるかも知れないが、午前中は地元のクラブでバレーボールの練習をしていたらしかった。ただ、この連日の真夏日のせいで、熱中症対策というのもあって、早朝からの練習だったらしく、結構早い時間に終わったらしい。それで律は私と一緒に待ち合わせが出来たのだった。次に裕美。裕美も律と一緒で午前いっぱい地元の水泳クラブで練習をするとの事だった。
律の場合と違って、室内でしかも水の中というのがあるのか、この暑さでも関係なく普段通りの練習をするとの事だった。 当初の予定では一緒に来る予定だったが、練習が少しばかり長引いて、待ち合わせの時間に遅れそうだというので、「アンタまで一緒に遅れちゃ悪いよ」と、先に行くように言ってくれたので、こうして私は一人で来たのだ。因みに藤花も同じような類いだった。今がどうかは知らないが、明日日曜のミサに向けての練習をしてから来るとの事だ。最後に紫。今更こう言っても誤解は無いだろうと思うが、一応念のために言っておくと、一番女子中学生らしい様な”一般的”な理由があった。いつだか触れたように、紫の家庭は、お父さんが中央官庁に勤めている官僚で、お母さんが企業に勤めるOLさんという共働き家庭なので、午前のうちに家事を全て済ませてから来るとの事だった。紫も裕美たちと同じ時間に行くと話していた。ここで一つ雑談めいた感想を言わせて頂くと、私たち五人の中で一番紫が偉く思えた。私含めて他の四人は、大変とは言え自分で好き好んで選んだ道を、自分勝手にただしているだけだというのに、紫は親の都合でやらざるを得ない家事をするのに、これといった不平不満を述べる事なくしているからだ。知っての通り、私は一人暮らしに向けて着々とお母さんという先生の元、家事を覚えていっているのだが、手を抜けばいくらでも楽に出来るのだろうが、もし完璧さを求めたら、これほど大変なこともないだろうと、大袈裟ではなくそう思っていた時期だったので、尚更そう思ったのかも知れない。
…と、また話が大きく脇道に逸れた。話を戻そう。
午後一時に先ほどの場所で待ち合わせていた訳だったが、こうして離れてしまったので、早速他の三人に連絡を入れようとしたその時、私のスマホに電話が掛かってきた。紫だ。
電話の主が紫だと律に伝えた後、すぐに電話を取った。
「もしもし?」
「あ、出た!ちょっとー、どこにいるのー?」
紫の声は不満タラタラだ。
「今ねぇー…」
私はふと周りを見渡すと、そこは丁度明治通りに着いた辺りだったので、その旨を伝えた。すると
「何でそんな所にいるのよー?」
と間延び気味に同じ声音で聞いてきたので、勿論電話越しだから伝わるわけが無かったが、不意に隣の律に苦笑を送った。律もそれだけで察したらしく、同じように送り返してきた。
「まぁまぁ…訳は後で説明するから。今律と一緒にいるんだけれど…」
「あ、律も側にいるの?」
と紫の声が聞こえたかと思うと、
「律もいるんだー」
という、トーンが高めの特徴的な声が聞こえてきた。その声の主はすぐに分かった。
「あれ?藤花も側にいるの?」
「…ふーん」
視線だけを流してそう聞くと、律は気持ち私に寄りつつ声を漏らした。「いるよー」と、おそらく背後からなのだろう、紫よりも小さい声だったが、藤花の返事が聞こえた。
裕美がまだ来てないかの確認だけ取ると、まだだと言うので、取り敢えず今私と律が立っている場所を教えて、そこで落ち合う事にして電話を切った。側に雑貨店が並んでいて、その軒先が日陰になっていたので、そこに律と二人で逃げ込んだ。その間に裕美にメールを打って、それが打ち終わったその頃、丁度向こうから「律ー!琴音ー!」という声が聞こえてきた。見ると、藤花と紫がこちらに向かって来ていた。藤花は満面の笑みでこちらに手を大きく振っていて、隣の紫は、やれやれと言いたげな呆れ笑を浮かべていた。
藤花は、胸元に小ぢんまりとした柄が描かれたシンプルな白地のTシャツに、ハイウェストのデニム地のショートパンツを履いていた。ウエスト部分にリボンベルトをしていた。足には真っ白なスニーカーと、シンプルではあったが、ガーリーな部分が残してある、如何にも藤花に似合っていた。紫も色は白と一緒だったが、フロント結びのトップスに、下はギンガムチェックのフレアスカートだった。如何にも、オシャレに気を使ってますっていった風だ。
一通り挨拶をした後、当然というか予想通りというか、何で待ち合わせの場所から移動したのか訳を聞かれたが、取り敢えずこの近所に来たらよく行ってる喫茶店に行こうと説得して、特に渋々だった紫を引き連れて、その喫茶店に向かった。
そこはいわゆる裏原に位置する所に構えており、人通りの少ない所にあるせいか、休日でも人が混んでいても騒がしかったりしないので、とても重宝していた。座れなかったり、待たされない点も大きかった。さっき裕美にも、この店に来てと連絡を入れて置いたのだった。この日もすんなりと席に通された。
店員さんに、後でもう一人来る旨を伝えると、各々が飲み物だけを注文した。今回は皆してアイスティーを注文した。裕美が来るまでは我慢するとの共通認識があったのだろう。
店員さんが人数分のアイスティーを持って来ると、まずみんなで一口ほど飲んで落ち着いた後、早速紫が訳を聞いてきた。
律が中々話そうとしなかったので、その事態は想定内だった私が率先して訳を話した。
「…だからね、律が”また”スカウトに引っかかっていたから、私が助けてあげてね、その場から逃げ出したのよ」
「ふーん」
私の向かいに座る紫はストローを加えつつ、そんな生返事をしながら律に視線を送った。紫の隣に座る藤花は、ニコニコしながら私と律を交互に見ていた。
「…まぁ、助けてくれたって言えばそうだけど…」
と、不意に隣の律が、私に視線を向けつつ静かに言った。
「…琴音が来た後は、その人、琴音に興味が移って、最後の方はどっちかっていうと琴音が絡まれていたけどね」
「え?そうだっけ?」
私は本気で疑問に思いそう返すと、向かいの紫は大きく肩を竦めて見せて「想像できるわぁー」と言った。「確かにー」と、隣の藤花もニヤケ面で同調してる。
「いやぁー…それはないでしょ?」
私はまた孤軍奮闘しなくちゃいけない雰囲気を感じながらも、負けじと何か反撃の手段は無いかと、隣の律をマジマジと見つつ言った。
「律が声を掛けられるのは分かるよ。だって…今日の律の服、とても律自身に似合っているもの。それに…みんなもね?」
と最後に向かいの二人を見つつ言うと、三人揃って照れ臭そうに苦笑い気味の照れ笑いをしていた。
「前から裕美が言っていたけど、本当に琴音は恥ずい事を恥ずかしげも無く言うんだからなぁ」
「ふふ…まぁ、ありがとうとは言わせてもらうわ」
「…うん」
藤花、紫、律の順にそんな事を口々に言っていた。私はここで、何とか逃げ切れると踏んで、最後に追い討ちをかけた。…が、これが失敗だったらしい。
私は自分の着ている服を見渡してから、
「それに引き換え…私はこんな地味な格好をしているんだもん。…スカウトの人だって、こんな私に興味を抱く筈がないでしょ?」
実際この日の私の格好は地味だった…と思う。さっき軽く触れたが、今は脱いでるがお気に入りの麦わら帽子に、肩が出るタイプではあったが真っ白のTシャツに、七分丈の細身のデニムだったからだ。
そう言い終えた私は自信満々でいたのだが、まず紫が大袈裟に大きく首を横に振りつつ、ため息混じりに言った。
「やれやれ…これだから姫様は…。何も分かっちゃいないんだから」「ふふ、これが”素”なのがタチ悪いよねー」
「…ふ」
紫が言うのをきっかけに、藤花と律も続いた。…律に至っては、ただ優しげな笑みを零しただけだったが。余談だが、普段物憂げな律が時折見せる柔和な笑みは、女の私から見てもドキッとするような大人の色気があった。
そんな考えもあったので、それを突っ込もうと思ったが、多勢に無勢、紫が私のことを”姫様”と称した事も突っ込めず、「何よー…みんなしてー…」と膨れて見せるしか出来なかった。そんな私の様子を見て、他の三人は顔を見合わせつつ笑い合うのだった。
それから約三十分後、グレーのVネックシャツに、デニムのショートパンツを履き、腰に赤と黒のチェックシャツを巻いた裕美が店内に入ってきた。遅刻を詫びる裕美に対して早速、紫を中心に先ほどの話がなされたのは言うまでもない。案の定と言うか、裕美も全く他の三人と同じ反応を示したので、結局今回も、私一人の負けという結果に終わった。ただ一つ、裕美も私の事を”お姫様”と称してきたので、今度ばかりは突っ込んだ。最後の虚しい抵抗だった。むしろそれによって他のみんなの笑みが増し、それにつられて私も笑顔を零すのだった。
それからは普通の女子学生らしい雑談を楽しんだ後、竹下通りに繰り出した。先頭を裕美と紫が率先してどんどん先に進んで行き、一歩下がった位置に藤花が、そしてそのまた一歩下がった位置に私と律が並んで歩くという、普段平日の学園生活と変わらないフォーメーションを組んでいた。まず先ほどの喫茶店で結局何も食べなかったから、クレープで腹ごしらえをして、その次に私たちがよく行く雑貨店に行った。そこは、派手めな物が好きな裕美や紫、可愛いものが好きな藤花、大人っぽい渋めな物が好きな私と律という、それぞれ異なった好みのタイプを、その店では一遍に済ますことが出来た。幅広いジャンルの小物が売られていたので、常連と言うほどでも無いとは思うが、原宿に行く事があればまず足を運ぶのだった。この時は、実際買った人と見ただけの人とで別れたが、お互いに満足し、次には実際に買い物をするわけでも無く、何となしにブランド店の立ち並ぶ表参道を歩いたりした。そして最後に、また竹下通りに戻り、プリクラを撮り終えた頃には夕方の六時になっていた。
藤花が明日があると言うので、これでお開きになった。藤花は気にしないでと言っていたが、そもそもの予定がそのくらいの時間だったので、それだけの旨を伝えた。藤花と律は地下鉄で帰ると言うので、私と裕美も同じと、ここでJRで帰ると言う紫と別れた。別れ際、自分だけが一人だなんてイヤだと寂しがって見せていたが、私たち一人一人が大袈裟に肩を叩いたり、頭を撫でたり慰めてあげると、つり目の目元を若干緩ませ、自分からネタを振ってきたくせに恥ずかしそうにしながら、地下へと続く連絡口の上から私たちが見えなくなるまで見送ってくれた。角を曲がる時に、一度立ち止まり、最後にお互いに大きく手を振りあった。それからは残りの四人で地下鉄に乗り込んだ。座席は人数分空いていたが、もうすぐだと藤花と律が言うので、私と裕美が座り、二人の荷物を私たちで持ってあげた。地下鉄が霞が関に着いた時、ここで乗り換えると言うんで荷物を返し、それを受け取った二人はそそくさと周りの邪魔にならない様に降りると、ちょうど私たちの座る前の窓の向こうに立ち、藤花は満面の笑みで、律は控え目だったが仄かに口角を若干あげる様な笑みを浮かべて見せた。そして電車が発進した時、お互いに手を振りあったのだった。
それからは裕美と二人で今日あった事を思い返しつつお喋りした。裕美はどう思ったか知らないが、何だか懐かしい久しぶりな感覚を覚えていた。中学二年になり、クラスも離れてしまったので、以前ほどの付き合いでは無くなってしまっていたが、それでもお互いに都合が合う、週に三度ほどは待ち合わせて学校まで通ったりしていた。だから本来なら久しぶりと感じるのは不思議な事なのだが、この時は気付いていなかったが、この日は一週間後に迫っていたコンクールの本選の事を、一瞬とはいえ忘れる事が出来ていたのが大きかったのかも知れない。五人全員で遊ぶというのは久しぶりだったので、自分でも思いがけない程に楽しく過ごせたのだろう。
私は買わなかったが、裕美は例の雑貨屋で小物を買っていたので、それを見せてもらったりした。具体的に言うと、黒のエナメルのポーチだった。そして、最後にみんなで撮ったプリクラを二人で和かに笑いながら見せ合い、この場にいない事を良いことに、好き勝手な感想を述べ合った。慌てて付け加えると、別に悪口では無いのであしからず。
そうこうしているうちに、電車は私たち二人としては懐かしの、受験期間に通っていた塾の最寄駅を通り過ぎ、乗り継ぎの駅で降り、乗り換え、地元の駅に着く頃には七時になっていた。
「あーあ、結局混んでるんだもんなぁー」
いつも通っている帰り道。街灯が少ないので、ほとんど真っ暗だ。前から人が歩いて来ても、十メートル以内にまで近付いてやっと判別出来るほどだった。人によってはとても寂しい町だと言うのを聞いた事があったけど、私はこの寂しさが何だか好きだった。
裕美はそう言うと、クルリと私の隣で一回転して見せた。腰に巻いていたチェックのシャツがフワッと広がり、まるでスカートの裾の様に見えた。
「ふふ、そうね」
私はそんな裕美の様子を微笑ましげに見つつ返した。
「この辺りは、あの電車しか無いんだもんねぇ…そりゃ混むわ」
「はぁー…これも、この辺りで生まれ育った、私の宿命なのかぁ」
「…ふふ」
急に裕美が芝居掛かった動作をしながら言ったので、今度は軽く吹き出してしまった。それを見た裕美は、何故か満足げなドヤ顔をこちらに向けてきつつ、その後には私と同じ様に笑うのだった。
それから五分ほど歩くと、裕美のマンションが見えてきた。
とその時、ふと裕美が立ち止まったので、私も釣られて止まった。そこは、私たち二人にとって色々な思い出の詰まった、例の小さな公園の入り口だった。裕美は公園の中を見つめたまま黙っていた。
「…?裕美、どうかした?」
いつまでも裕美がうんともすんとも言わないので、シビレを切らして私から話しかけた。すると、裕美は一度ウンと頷くと、私の方に顔を向け、明るさと静かさを織り交ぜたかの様な調子で話しかけてきた。
「…琴音、アンタ…まだ時間大丈夫?」
「え?えぇっと…うん、大丈夫だけれど…」
私は一応腕時計で確認してから返事した。すると裕美は一度ニコッと笑うと
「…久しぶりに、少し寄って行かない?」
と、公園に少し顔を向けつつ、視線を私に流したまま言った。
私はすぐには裕美の真意を掴めなかったので、本心では戸惑っていたが、それでも確かに今日は久し振りづくめだったので、そのシメには良いかと「えぇ、良いわよ」と快く笑顔で了承した。
「そう?良かったー!じゃあ行こっ?」
裕美は私は返事を返す前に、ズンズンと公園の中に入って行った。
「やれやれ…」と私は一人ボソッとゴチながら後に続いた。
…さっき戸惑ったと言って、その理由も話したが、それ以上に他の理由があった。それは…公園から漏れる薄明かりの下だったから、ハッキリとは見えなかったが、裕美が見せていた笑顔の中で、唯一その目の奥が、真剣味を帯びた光を発していた様に見えていたからだった。それが私に少し身構えさせたのは間違いなかった。
「こっち、こっち!」
と一足先にいつものベンチに座った裕美が、明るい調子で声を上げつつ私に”来い来い”と手招きをした。「はいはい」と私も苦笑まじりに返し、すぐ脇にゆっくり腰を下ろした。見上げると、公園に植わってある幹が太い桜の木々の枝には、桜花の代わりに新緑の葉が繁茂して、ただでさえ小さな光源の灯りを遮っていた。
考えて見たら、裕美とこうして、この公園に立ち寄るのは繰り返しになるが久し振りだった。お互いに忙しいのもあって、桜の時期にも公園を横切ることはあっても、こうしてベンチに座ってゆったりと過ごすことが無かったのだ。記憶が間違いでなければ、小学校の卒業式以来かもしれない。前回からそれだけ月日が経っていた。
私が頭上を見上げたので、裕美も同じ様に見上げた。暫くは、こうして薄暗がりのせいでロクに色合いを感じられない真っ黒の葉っぱを見つめていたが、不意にそのままの体勢で裕美が話しかけてきた。
「…しっかしアンタ…今日もまた街で絡まれたのねぇ」
ここで裕美がこちらを見てきている気配を感じたので隣を見ると、案の定裕美は私にニヤケ面を晒してきていた。
私は大きく溜息ついて見せてから、呆れ笑を含めつつ
「あのねぇー…だから違うって言ったでしょう?あれは律が一人でいた時に…」
と返すと、裕美は手で”ハイハイ”とパタパタ動かして見せつつ「分かった、分かった」と、ニヤケ顔をそのままに返すのだった。
「何が分かったって言うのよぉ?…何も分かってないじゃない」
「いやいや、ちゃーんと分かってるってー。…アンタがモテるって事は、小学生の頃からね」
「あぁー、言ったわねぇー!」
と私が肩を裕美の肩にぶつけると、裕美は明るく笑いつつやり返してきた。一通りやると、一瞬顔を見合わせて、その直後にはまたお互いに笑い合うのだった。何だか小学生に戻った様な心持だった。裕美もそうだっただろう。
「はぁーあ…ってそういえば」
一頻りジャレ合い笑いあった後、裕美に気を落ち着けつつ聞いた。
「今私を公園に行こうって誘ったのは何で?いや、久し振りだったし懐かしさもあって良かったんだけれど…まさか、こんなクダラナイ話をする為だとは言わないでしょうねぇ?」
「んー…まぁ、それもあるんだけれど…」
「あるんかい」
私は思わず突っ込んでしまったが、いつになく裕美の顔に真剣さが差しているのに気付いていた。
裕美は一度小さく息を吐くと、先ほどまでの様な明るい調子で話しかけてきた。
「アンタ…明日って暇?」
「…へ?」
思わぬ問いかけに、気の抜ける様な生返事をしてしまった。明るい調子ではあったが、先ほど見せた真剣さが抜け切れていなかったせいだ。そのせいで無理しているのが見え見えだったのだ。…まぁ、これは長い付き合いの私だから分かった事かもしれないけど。
「んー…あっ」
私はちょっと考えたが、明日の日曜日は重要な予定が入っていたのに気づいた。そう、来週の水曜日に開催されるコンクールの本選に向けての最終確認を、師匠宅でする予定になっていたのだ。
私はこの時点で、裕美が何のつもりでそんな話を振ってきたのか分からなかったが、少し気まずそうな素振りを思わずしつつ言い辛そうに返した。
「いやー…」
「いやー…?いやー…って何?」
裕美は何故かまた真面目な顔つきになって、ベンチに両手をつき、私にズイっと体ごと寄らせてきた。そのあまりの勢いに、私はその分ベンチの上を横滑りした。
私はすぐに返せなかったが、裕美の方でも何も言わずに真剣な眼差しを向けてくるのみだったので、私は仕方ないとホッペを掻きつつ口を開いた。
「いやー…そのー、ね、明日は先客というか…私に師匠いるの知ってるでしょ?その師匠の家でレッスンをしてもらう約束をしていたからー…明日は暇じゃないわ」
「ふーん…レッスンねぇ」
裕美は今度はジト目気味に私を見つつ、最初に座っていた位置に座り直した。私も元の位置に戻った。
「レッスンねぇー…」
そうまた一度呟くと、裕美はガバッと私の方に勢いよく振り向くと、今度は少し意地悪げにニヤケつつ話しかけてきた。
「アンタ…そこまで練習熱心だっけ?」
「…え?どういう意味?」
今度は私の方が少し裕美の方に体を寄せつつ返した。だが、裕美の方では引くことも無く、何故か自信満々な笑みを浮かべていた。
「どういう意味?そのままの意味よ。アンタは確かに、初めて出会った頃から熱心にピアノの練習をしていたよね?ただ…最近のアンタ、何だか以前よりも余計に熱が入っている様に見えるのよ」
「…え?」
ぎくっとした私は、先ほど裕美に詰められた様に少しばかり身を引いた。何を今から話されるのか、予測は少しは出来たが、そのまま言われるのを恐れていた。
そんな私の心中を知ってか知らずか、裕美はふと正面を向くと、また明るい調子に戻して続けた。今度は自然だった。
「明日暇かと何故聞いたかというとね、実際に明日アンタが暇かどうかが重要ではないのよ。…まぁ暇だったら、久し振りに二人っきりで遊ぼうかなくらいには思っていたけれどね?私は暇だったし…」
「…」
『へぇー、そうだったんだ』くらいには思ったが、それを口にする事なく、ただ黙って先を待った。
「そう話を振ったのは、この事を聞きたいが為のフリ…」
そう言うと、裕美は今度はゆっくりとこちらに振り向いた。その瞬間は無表情だったが、その後には優しげな笑みを浮かべていた。そしてその表情のまま、口調も柔らかく言った。
「アンタ…今コンクールに出るんで、特訓してるんでしょ?」
「…」
一瞬何を言われているのか分からなかった。…いや、頭が理解するのを拒否したと言う方が正しいかも知れない。先ほど以上…いや比べ物にならない程の予期せぬセリフに、呆然としてしまった。
暫くして「…え?」と返すのが精一杯だった。
そんな私の反応は想定内だったのだろう。裕美は表情を崩す事なくそのまま静かなトーンで続けた。
「…ふふ、何で分かったのかって顔してるね?実はねぇ…」
そう少し溜めると、今度はニヤッと笑って見せつつ言った。
「私の母さんから聞いたの。アンタのお母さんから聞いたってんでね」
「…え?私のお母さんから?」
「そう!テスト期間に入る前だったかなぁー…夕食食べてる時にね、母さんが話してくれたの。『そういえば琴音ちゃん、今コンクールに挑戦してるんだってねぇ?今回が初出場らしいけど、こないだ予選を通過して、近々本選に出るらしいじゃない。偉いわねぇー』ってね」
最後にニコッと目を細めて笑って見せた。
…あぁ、そういえば、お母さんに誰にもこの事話さないでねと言ってなかったなぁー。
などとこの時にして、やっとツメの甘さに気づいた。この分だとヒロにも伝わっているかも知れない。
それが何だかすごく面倒な気がして、想像するだけで気が滅入ってきていたが、それを察したか…いや、流石にこれは察してはいなかっただろうが、裕美は愉快げな調子で言った。
「あはは、そんな表情しないでよー?このこと知ってるの、少なくとも知る限り、私だけだったから。それとなしに周りに話を振って見たけれど、何のリアクションも無かったから間違いないよ」
「そ、そう…?」
私はその根拠について後になって凄く気になったが、この時はそれよりも、この自体をどう収拾すれば良いのかに気を取られていて、それどころでは無かった。
とここで裕美は突然また正面に向き直ると、「んーーん!」と声を漏らしつつ、大きく伸びをする様に両腕と両足を大きく前に伸ばした。そしてストンと足を地面に下ろし、腕も元の位置に戻すと、一度私の方をチラッと見てから、投げやりな調子で声を出した。
「…あーあ、何でコンクールの事を私に話してくれなかったのかなぁー…」
そう言うと、今度は靴をベンチの縁辺りに起きつつ、片膝を抱える様にして、こちらを見つつ続けた。
「初めに聞くのが親経由って…それはそれで、流石の私でも寂しかったし、少し傷ついたんだぞー?」
と少しおちゃらけて見せたが、目は薄暗がりでも分かる程に真剣さが宿っていた。
「え、あ、いやー…そのー…」
「…まぁ、理由は分かるけれどねぇー…何となくだけれど。何せ、そこそこ長い付き合いだからね!」
私がどう返して良いものかと思いあぐねていると、裕美は片方の足を地面の上に戻し、こちらにとびきりの笑顔を向けて来つつ言った。それからまた正面を向くと、若干顎をあげて、目を瞑って見せ、淡々とした調子で続けた。
「…でもやっぱり、それでも琴音、アンタの口からキチンと聞きたいなぁー…何でそのー…”親友”の私に話さなかったのか…をね?」
「…ふふ」
裕美は途中まではその調子だったのが、”親友”と言うところで急に辿々しくなり、そのまま元に戻らず最後まで話きったのを聞いて、何も変わっていない裕美が嬉しくも面白くて、ついついクスッと笑ってしまった。「何よー?」とまだ照れ臭いのか、苦笑いを浮かべつつ言う裕美に対して、「んーん、何でもない」と私は自然な笑みをこぼしてから、気持ちを落ち着けて答えることにした。
「…あなたも知ってる様に、私は人前に出るのを極度に嫌っているわよね?それは今も変わらないんだけれど…。でも、そのー…裕美、あなたと知り合えて、自分以外にも何か一つのことに打ち込む人がいるんだって気付かされて、それでまた中学に入って、藤花たちとも出会えて、また他にもそれぞれで頑張ってる人がいるんだって知らされたんだ。そしたら…何だかいてもたってもいられなくて、それで今まで断っていた恥を忍んで、師匠に思い切ってコンクールに出たいって言ったの。師匠は何度も私に本気かと聞いてきたけれど、その度に意志を示したら、今度は途端に喜んでくれてね?それが…去年の十一月くらいで、それから今までずっと、これまでのただ単純に芸の腕を磨くってだけじゃなくて、コンクール用の特訓をし続けてきたの。で、そのー…その事について話せなかった訳はね、師匠に対してもそうだったけれど、裕美、あなたにも何度も人前に出たくない訳を話していた手前、中々言い出せなかったし、それに…何だか、先をずっと行ってる気がするあなたに、やっとスタート時点に立ったばかりの私が、コンクールの事を話すのが、そのー…単純に気が引けたのよ。…話としては、こんな感じ…何だけれど」
私は話しながら、所々で自分の吐いたセリフに自分で恥ずかしくなりながらも、何とかこれまでの経緯と思いの丈をつらつらと述べていった。その間裕美は正面に植わってある桜の木の幹をジッと見つめるかの様な体勢のまま静かに聞いてくれた。
私が話し終えると、ほんの数秒ほど沈黙が流れたが、
「…いやー」
と急に声を漏らしたかと思うと、裕美はこちらにゆっくりと向き直った。その顔は先ほど以上に苦笑いだった。
「…私から聞いたんだし、それなりに予想はしていたんだけれど…実際に面と向かって話されると、そのー…やっぱり恥ずすぎる!よくもまぁ、そんな恥じらいも無くスラスラと思いの丈を話せるわねぇ」
こう字面で見ると、中々に厳しい事を言ってる様に見えるが、実際は普段の呆れ笑気味でため息交じりの”裕美調”だったので、
「…ふふ、私だって流石に今回は”恥ずかった”わよ」とお返しとばかりに、呆れ調で返すのだった。
「あははは!」と裕美は声を上げて笑って見せたが、少しすると何だか少し顔の表情を曇らせつつ、何だか言い辛そうに言うのだった。
「はぁーあ、いや、ありがとう。キチンと何も隠す事なく話してくれて…。アンタはやっぱり強いね?」
「え?」
「アンタは強いよ。だって…そこまで自分の弱さを自覚して、それをしかもその相手に向かって吐露出来るんだもん。…私には出来ないよ。それに、アンタは今私の事を褒めてくれたでしょ?それはとても恥ずいながら、とっても嬉しかったんだけれど…でも結局、今年の大会も、三位に終わっちゃったしさ」
「…」
そうなのだ。あえて触れる事は無いだろうと思いそのままにしていたが、覚えておられるだろうか、去年の五月のゴールデンウィーク、久々に裕美は大会に出た訳だったが、結果は三位に終わった事を。その時の裕美は明るく次までに研鑽を積み、優勝すると所信を披瀝していた訳だったが、結局努力は実らず、前回と同じ様に三位に終わったのだった。しかも上位二人は、去年も負けた相手だった。この時もヒロと一緒に観に行ったのだが、大会が終わっての裕美の、何処と無く諦めが滲んだ笑みが今でも忘れられない。
その事に裕美は触れていたのだった。
私が返す言葉が見つからず黙っていると、「んーん!」と、裕美は先ほどの様に大きく伸びをして見せて、淀んだ空気を入れ替えるかの様にテンションを上げて見せつつ言った。
「湿っぽくなっちゃったなぁー…そんなつもりは無かったのに。取り敢えず、何が言いたかったのかというとねぇー…アンタのそのコンクール、本選っていつなの?」
「…え?えぇっとー…来週の水曜日だけど…?」
と私は思わず、最後を疑問調にして返してしまった。
一体何の話だろう…?
と頭を巡らせていると、裕美は思いっきり驚いて見せて声を上げた。「えぇっ!もう一週間も無いじゃない!」
「え、えぇ…そうだけど」
「うーん…来週の水曜…終業式の次の日かぁ…」
私がまだ戸惑っているのを他所に、裕美は腕を組んで何やら考えて見せた。私は何事かとジッとその様子を伺っていたが、ふいに裕美は顔を私に向けると、明るい表情を浮かべつつ、声のトーンも上げ気味に言った。
「…よし!私もその時、観に行くよ!」
「…へ?」
私はますます呆気にとられてしまったが、そんなのに気を止める様子無く、裕美は一人でテンションを上げつつ、私にまたグッと身を寄せてきつつ続けた。
「アンタのそのコンクールって、親とか先生以外にも観に行っていいの?」
「え?えぇっと…」
私は言われるがままに、予選の時の光景を思い出していた。
「…えぇ、大丈夫だと思ったけど」
「そう?良かったぁー!じゃあ…」
と裕美はここまで言いかけると、ふと私の両肩に手を置き、その後に満面の笑みを浮かべて
「応援に行くから、楽しみにしててよー!」と言った。
私はここでも少しばかり呆然としていたが、ようやく事の流れが把握出来たのか、自然と嫌嫌そうな渋い表情を浮かべると、不満げな声とともに言った。
「…えぇー、いいよ別にー…そんな観に来なくたってー…。面白くも何とも無いよ?」
私は今さっき裕美に”言えない理由”を話したばかりだというのもあって、本選とはいえまだまだの段階の時に、裕美にその姿を見せるのは、何だか気が引けたのだ。いくら裕美が、自分の事を謙虚に評価したとしてもだ。
「えぇー、何でよぉー…別にいいじゃなーい。…アンタ、忘れた訳じゃ無いよね?」
「え?何のこと」
裕美がおちゃらけ気味に不満を表現していたかと思うと、今度はまた意地悪な悪戯っぽい笑みを浮かべて続けた。
「ふふ、忘れた?お互いに小学生だった頃、立場は逆だったけど、アンタが私の大会を観に行きたいって言って、実際に観に来たこと」
「…あぁー」
この瞬間に、裕美が何が言いたいのか察したが、あえて何も言わずに、話の続きを待った。
「ふふ、思い出した?私が『いい』って言うのを制してまで、観戦にきた時の事を。だーかーらー…」
裕美は背筋を伸ばして座り直し、正面を向いて一度溜めてから、私に向き直り、明るいながらも静かな笑みを浮かべつつ続けた。
「今度は私の番。借りがある私が観に行く分には、何も文句は無いでしょ?尤も…文句を言われて止められてたって、どっかの誰かさんみたいに無理矢理にでも観に行くけどね?」
結局最後までその表情は止めることが出来なかったらしく、最後はまたニタっとニヤケつつ言い切った。
そんな豊かな表情の変化に、思わず知らず吹き出してしまい、
「何よそれー…」
と苦笑気味に返したが、狙ってやったかどうかは兎も角、少なくとも私の緊張を和らげる効果を発揮し、それと同時に安易に決断を誘発してくれた。
私は見るからに呆れたと言いたげな大きな溜息をして見せると、苦笑い顔をそのままに裕美に話しかけた。
「しょうがないなぁー…いいよ、裕美、あなたさえ良ければ是非観に…っていうか、聞きに来てちょうだい」
「…あ、本当に良いの?…やったー!」
裕美は私の言葉を聞くと、さも意外だと言いたげにすぐには受け止めなかったが、その直後には急に勢い良く立ち上がったかと思うと、両腕を天高く上げて万歳する様な動作を見せつつ声を上げた。チラッと見えていた公園の時計を見ると、八時ちょうどを指していたが、その時間でもこの辺りは薄暗く静かで、水泳をしているのと関係があるのか分からないが、よく通る裕美の声が辺り一面に広がって行く様に感じられた。
「ちょ、ちょっとー…大袈裟ね」
私は慌てて制しようとしたが、すぐに無駄だと悟ると、ただ呆れ調でそう言うしか無かった。裕美は顔だけを器用にベンチに座る私に向けると、またニターッと笑って見せ、そしてベンチに座った。今日ここに来て、一番近い距離だった。
「ふっふーん」
と裕美は座るなり、意味のない声を漏らしつつ、私にじゃれついて来たので、初めの頃は裕美の体に手を当てて押しのけようとしたが、結局は私も一緒になってじゃれ合うのだった。こういった所も、小学生時代と何ら変わっていなかった。我ながら成長しないのに苦笑もんだったが、今の所はそれで良いのかなっと思ったのだった。
それからは軽くまた雑談をして、それから笑顔で裕美のマンション前で別れた。
本選当日。朝の八時半。まだ朝だと言うのに容赦無く紫外線を降り注ぐ太陽の下、私とお母さんと師匠三人は、裕美のマンション前にいた。待ち合わせよりも十分ばかり早かったのに、既に裕美はエントランス前に立って待っていた。裕美もこの日ばかりはドレスアップしていて、まさに”余所行き”といった趣きだった。ハリのある生地で光沢の美しいネイビーのドレスで、光の当たり具合によっては濃いブルーにも見えるような綺麗な色合いだった。袖のパフスリーブやドレスらしいフィット&フレアのシルエットが、大人らしいのと同時に可愛らしく、水泳で鍛えられたスタイルの良い裕美によく似合っていた。腕には純白のミニバッグを下げていた。ショートボブの髪も、上手いことアップに纏められていて、それがまたドレス姿に合っていた。
裕美は私たち三人に気づくと、明るい笑みを浮かべつつこっちに手を振ってきた。私もそれに手を振り応じた。
「今日もあっついわねぇ」
開口一番、裕美は手でパタパタと顔に向けて仰いで見せながら、渋い表情で言った。
「本当ね」
私も短くそう返しつつ、マジマジと裕美の姿を見つめてから続けた。
「…ふふ、あなたの余所行き、初めて見たけど、よく似合っているじゃない?」
「そーお?」
裕美は私の前で一回転して見せた。ドレスの裾がフワッと広がったのがまた綺麗だった。
裕美は前屈みになると、目をギュッと瞑って見せると「ありがとう!」と言ったので、「どういたしまして」と私も笑顔で無難に返したのだった。
「あらホント!裕美ちゃん、そのドレス可愛いわねぇー。よく似合っているわよ」
ふと私の背後からお母さんが裕美に話しかけた。
すると裕美は、お母さんの姿を、私がさっきしたみたいに見渡した後、明るい笑顔を浮かべて言った。
「ありがとうおばさん!おばさんも、良く似合っているよ」
「ふふ、ありがとう」
今日のお母さんの服装は、前回の予選の時に着てきたのと同じ物だった。色は裕美と同じネイビーだったが光沢は抑えられていて、ジョーゼット生地のトップスには三段フリルが付いている、Iラインスカートのドレスだ。
「母さんが、よろしくと言っていました」
「ふふ、任されました」
お母さんは微笑みつつ裕美に返した。
裕美が本選を観に来る事が決まった後、そのすぐ後にはトントンと手筈が進んでいった。その流れで、一度裕美のお母さんも交えた食事会をしたのだが、その時は一緒に来る話になっていた。だが、急にどうしても抜けれない用事が出来たとかで、昨日の夜にわざわざ家まで来て、私に一緒に行けない旨を伝えたのだった。まぁ尤も、この為だけではなく、何かの用事ついでに立ち寄った様だったけど。逆にこっちが恐縮してフォローを入れたのは言うまでもない。
二人して軽く笑いあった後、裕美は私の姿も改めてマジマジと見ると、何故か一度長めに息を吐いて見せてから、呟くように言った。
「アンタは…ホント、この手のドレスがやたらに似合うのねぇー…ふふ、小学校の合唱コンクールで弾いてた姿を思い出すわぁ」
「やたらって…ふふ、褒めてくれてありがとう」
私は若干の棘が含まれていたのが気になったが、ここは素直に感謝を述べた。私の格好も、お母さんと同じ様に変わらず同じだった。やや光沢のある白いシャンタン生地の上に黒のレース生地を合わせた、大人っぽいドレスだ。化粧や髪も朝早くに起きて、お母さんに一からセットをしてもらった。化粧も以前と同じだったが、ただ髪型だけは前回と違っていた。
予選の時は、右下辺りで結んで、髪を肩から前に垂らすだけのシンプルなものだったが、今回は去年の花火大会の時にしてもらった様な、三つ編みをいくつか作り、ゴムで縛っては軽く引っ張り崩す、この繰り返しで作り上げていく様な、いわゆる編み込みヘアーだった。私は同じにしか見えなかったが、お母さん曰く、少し品を持たせたコンクールバージョンとの事だ。
「…あっ、でもね、実際弾くときは、今着てる服じゃないのよ」
「あ、そうなの?」
「えぇ。それは…」
私は語尾を伸ばしつつ、視線をお母さんの手元に流した。それに釣られる様にして裕美も見た。お母さんの手元には、予選の時と同じ様に紙袋が握られていた。
「今お母さんが持っている、あの紙袋の中に入っているの」
「あ、そうなんだー…へぇー」
裕美がしげしげと見ていると、お母さんはフッと気持ち高めに紙袋を持ち上げて、ユラユラと得意満面の笑みを浮かべつつ揺らして見せていた。
「本番は違うのねぇー…ねぇ、本番では、どんな衣装を着るの?」
「え?それは…本番になってからのお楽しみ!」
と私が勿体ぶって言うと、裕美は私の肩を軽く指先でツンと指しながら「ケチー」と不満げに返してきた。だが、その直後にはお互いに顔を見合わせて、どちらからともなく笑い合うのだった。
「…ふふ、琴音のそんな様子は、何だか新鮮だわぁ」
とここで、今まで黙って微笑みつつ見守っていた師匠が口を開いた。私が咄嗟に師匠の方を向いたので、裕美も合わせて顔を向けた。初めて見るからか、少し顔に緊張を漂わせていた。師匠は、前回を反省して、地味な格好を試みようとしていた様だったが、場が場なだけに、それなりのドレッシーな格好を余儀無くされて、結局は前回と同じ格好に相成った。黒の、上下がひと続きの所謂オールインワンタイプのパンツドレスだ。炎天下の中でもアイボリーカラーの八分袖ボレロジャケットを羽織っていたが、下はノースリーブだ。メイクだけ前回と違って普段通りのナチュラルメイクをしており、クラシカルロングの髪も、少し高めの位置で束ねているのみだった。コソッと教えてくれたが、マスクを用意しているらしい。それが精一杯の変装の様だった。
裕美は、微笑んできている師匠に対し、ピシッと背筋を伸ばしたかと思うと、深々とお辞儀した。そしてすぐに起き上がると、顔を真っ直ぐ師匠に向けて挨拶した。
「初めまして。私は琴音の小学校からの友達の、高遠裕美と言います」
「あらあら」
師匠はそんな裕美の挨拶に、若干苦笑気味の笑みをこぼすと、途端にあっけらかんとした笑顔を見せつつ返した。
「そんな堅苦しい挨拶は無しにしましょう?…ふふ、アナタの事は琴音から良く聞いていたわ。今日は会えて嬉しい。…よく付いて来てくれたわね、歓迎するわ」
と言い終えると、目をギュッと瞑った無邪気な笑顔を見せたので、 裕美はその瞬間は戸惑い気味に「あ、い、いえ…」と返すのみだったが、初対面にありがちなある種の緊張がほぐれたのか、師匠に合わせた様な明るい笑みを浮かべて
「はい、今日はよろしくお願いします!」
と元気に返すのだった。
「うん、こちらこそよろしく!」
「…何だか、あなたの方が気合い入ってるわねぇ…」
と私が苦笑いで言うと
「あんたが気合入れ無さすぎなのよ」
と裕美は裕美で、ジト目を向けてきつつ、口元はニヤケ気味に返してきた。
そんな私たち二人の様子を、師匠とお母さんは微笑ましげに黙って見ていたが、ふと腕時計に目を落としたお母さんが声を挙げた。
「…っと、そろそろ行かないとね。では行きましょうか」
お母さんの合図の後に、私たち四人は地元の駅に向かった。出勤ラッシュのピークは過ぎていたが、それでも近くの人と肩をぶつけあわなければならないほどだった。
予選の時は夕方からだったが、本選は朝の十時半からだったので、この時間に出発した。今日の会場は、合羽橋にある固定300席のシューボックス型コンサートホールだ。予選時は平均的な教室くらいのサイズしかなかったのが、急にホールサイズに格上げだ。今回は事前に師匠に付き添って貰って、実際に会場に足を運んで見た。建物自体は近代的な作りをしており、正面の壁は一面がガラス張りになっていた。中に入ると、吹き抜けの構造になっており、天井が三階分ほど高かった。会場となるホールは、音の反射を考えて作られた木質のパネルが敷き詰められていて、外観とは違って、何だか温かみのある内観をしていた。見上げて見ると、天井も吹き抜けで、軽く十メートル以上はありそうだった。いくつもの照明が取り付けられていて、光を燦々と降り注いでいた。師匠はホールの中で周囲を見渡しつつ、
「自分の時にはこんなホールが無かった、もっと古びた所でやったなぁ」と、少し羨ましげに言っていたが、当の本人としては、急に大舞台に立つことになったので、ホールの奥の舞台を見たその瞬間だけ物凄く緊張した。だが、一度見ておいて正解だったと思う。自分で言うのもなんだが、当日を迎えた私の心持ちは、その時予想したよりかは落ち着いていた。ただ、なんとも言いようの無い、一口に言えば軽い興奮状態にあるだけだった。何だか無性に体を動かしたくなるアレだ。騒ついているとも言えるが、それは心地の良い類いのものだった。まぁそんな心理状態は、裕美には伝わっていなかったらしいが。
ついでと言ってはなんだが、聞いておられる中で、ある事について気になっている方も居ようと思うから、先に軽く触れておこう。
そう、それは…紫たちには伝えなかったのかという事だ。勿論その話は、裕美とあの公園で話している時にも出た。だが、正直胸の内を裕美に話すのがやっとだった私は、そのままなし崩し的に紫たちにも話すという気にはなれなかった。言うまでもないとは思うが、何も依怙贔屓してのことでは無い。ある意味、今の関係を大事に思うからこその態度だった。…まぁもっと露骨に恥を忍んで言ってしまうと、裕美が今回聞きに来るとまで話が進んだ後に、紫たちの事を考えると、何と言うか…憂鬱な気持ちになったのだ。裕美一人でさえ、ここまで動揺する程なのに、何の心の準備が出来ていないまま、他の三人を招待する気にはなれなかったのだ。恐らく、演奏どころでは無くなるだろう。…ここで、こんなツッコミが来るかも知れない。『お前だって、藤花の独唱を、何の前触れもなく聞きに行ったじゃないか』と。確かに、あの時は、藤花が自分がそんなに歌うことに対して真剣に取り組んでいる事を話していなかったのに、急に驚かせる結果になったが、ここで慌てて自己弁護をさせて貰うと、私個人でだが、正直何も知らされずに来て貰った方がありがたい。何故なら、本番のその時は、何も気にせずに演奏に集中出来るからだ。今回私が危惧しているのとは、大分条件が違うのだ。それだけは言わせて欲しい。
…何だか余計な話をしてしまったが、今のような事を、裕美にも話した。裕美は私が言ったことに理解を示してくれて、取り敢えず紫たちには内緒にしてくれると約束してくれた。
だが、一つだけ条件を出してきた。それは…”もし全国大会に出場することになったら、ちゃんと紫たちにも話すこと”というものだった。私はすぐには返さなかったが、その条件は当然だとすぐに思えたので、快く承諾したのだった。
…別に興味がある人はいないだろうが、本人が拗ねると面倒なので、一応触れておく。ヒロの事だ。ヒロに関しては公園での会話で出なかったのだが、その翌日に、裕美から連絡を入れていたらしい。師匠との最終チェックをした帰り道、裕美と落ち合って、またあの公園でお喋りした。裕美がどうしても会いたいからと連絡して来たので、結局昨日の今日でまた会ったのだ。その会いたい理由が、その件を直接話したかったかららしい。それを聞いた私は、練習後の疲れも相まって、物凄くウンザリした表情を浮かべたのは言うまでもない。裕美はそんな私の様子を見て愉快げにニヤケていたが、次の瞬間には軽く落ち込んだ表情を見せた。なんでも、コンクールの話をしたら、ヒロは凄く興味を持って、すぐにいつなのかを自分から聞いてきたらしいが、裕美が日程を伝えると、見るからにテンションを下げて、『その日は部活だわ…』と残念そうに呟いたらしい。と言う訳で、ヒロは本番には来れないということだった。それを聞いた私が安堵したのはそうだが、裕美はそのまま残念そうな面持ちのままだった。この時の私は、てっきり私に泡を吹かそうとした魂胆が実らなくて、それに対してがっかりしているものだと思っていた。それはさておき、しばらくそんな表情でいたのだが、ふと何かを思い出したような顔つきになり、私にニヤケ面を晒しながら、「そういえば、頼まれごとがあったんだ』と言った。それは何かと訝しげに聞くと、『出来る範囲でいいから琴音の勇姿を写真かなんかで撮ってきてくれ』と頼まれた事を、意気揚々と言った。それを聞いた私は、それについて渋々了承しつつも、またウンザリ顔を向けたのは言うまでもない。…とまぁ、そんなこんなで今に至る。
そのまま若干混み合う電車に揺られる事十五分、途中で地下に潜ったので、余計に息苦しさを味わいつつ、会場の最寄り駅に着いた。あまり人が降りなかったので、周りの人に断りつつ押し退けて、やっとホームに降り立った。少し皆して服装を直してから改札を出て、地上に出た時には、本選開始時刻の四十分前だった。
ここから会場まで十分ほどなので、ちょうど良い頃合いに辿り着けた。それからはほぼ一本道の道筋を、私は裕美と、お母さんは師匠とお喋りしつつ歩いていると、会場に着いた。一度見た時と、当然ながら外観は変わっていなかったが、正面玄関付近には、私たちの様にドレスアップした人々が大勢ひしめき合っていた。
予選の時とは雲泥の差ねぇ…
などと呑気な感想を持ったが、まぁ当然だろう。何せ今日は、東京に限って言えば、西東京と東東京とで別れている中の、私が入っている東東京地区の本選だったからだ。因みに裕美も、水泳でだが、東東京地区に入っていた。…まぁそれだけだが、本選のエントリーカードが届いた時に、表にそう書かれていたので、不意に裕美を思い出し、その共通項に一人にんまりしたのだった。話を戻そう。
「わぁー…凄い人ね」
裕美は御上りさんの様に周囲をキョロキョロ見渡しながら声を漏らした。
「うん…私も、こんなに多いのは初めて見た。…やっぱり東京ってだけでも、これだけの人がいるのね」
自分でも分かる程に、若干声が強張りながらそう返すと、ふと私の肩に手を置いてくる人がいた。師匠だった。
師匠はいつの間にかマスクをしていたので、なんだか今着ているドレスとチグハグで、私の目から見ると、余計に悪目立ちしそうな見た目をしていた。だが、これは余計な事だと判断して、黙ったままでいた。裕美が横目で、怪しい人を見るような目つきで師匠を見ていたのが印象的だった。
師匠はマスク越しからでも分かる様な、意地悪風な笑みを向けてきながら、置いた手を動かし、肩を揉みつつ言った。
「こーらっ。演奏する前から、そんなのに飲まれてどうするのよ?ほーら、リラックスしなさい」
「…はい、師匠」
その無邪気な子供の様な笑みを向けられて気が緩んだのか、自然な笑みを零しつつそう返した。
それからは、正面玄関に立っている係員の指示に従って、まず参加証を見せて、その次に他の参加者と関係者でごった返す掲示板の前で、四人揃って演奏の順を確認した。予選の時には、人数が少なかったせいか無所属の私が一番手だったが、本選ともなると、私以外にも無所属の参加者が幾らかいるらしく、無所属の中での一番最後だった。厳密に言えば五番手だ。その後には、予選と似た様なもので、このコンクールを主宰している所の教室に在籍している人の名前が書かれていた。
その中には、私と一緒に予選を通過した男の子の名前があった。姿は見ていないが、おそらく会場のどこかにいるのだろう。
参加者と関係者が別れる廊下のT字路に着くと、まずお母さん、そして師匠の順に軽く私に声を掛けてきた。お母さんは相変わらず「頑張ってね」と言った調子だった。そんなお母さんと入れ替わる様に師匠が近づいてくると、相変わらずマスクをしたままだったが、ふと周りを確認すると、マスクを顎の下辺りまで下げた。現れた表情は神妙な面持ちだったが、途端に先程私の肩を揉んだ時の様な笑みを浮かべて、また同じ様に肩に手を置くと、明るい口調で話しかけてきた。
「…琴音、さっきも言ったけれど、何にも心配のあまり緊張する事なんて無いのよ?間違ったって良い…本番で間違う事は、プロだって良くある事なんだから。もちろん、手を抜いていたという理由での失敗は論外だけれど、あなたは、今までこれだけの練習を積み重ねてきて、良くも悪くも手なんか抜けないような”完全主義者”なんだからね…誰かに似て」
ここで師匠は満面の笑みを浮かべた。そしてすぐ後に照れ笑いをするのだった。気を取り直すように、ワザとらしくコホンと咳払いを一度すると、また表情を戻して続けた。
「取り敢えず、観客がいないものと思って、思いっきり弾いてきなさい。もし舞台に上がって、観客が目についたら、その時は…昔ながらの手垢まみれな言い方だけど、客席を畑だと思って、そして観客自体を”かぼちゃ”だと思えば良いのよ…分かった?」
自分でも予め言ってはいたが、それでもいざ話してみると、そのテンプレートな言い方が恥ずかしかったらしく、その直後にはまた照れ笑いを浮かべていた。それを見た私は、かぼちゃ云々はともかく、師匠のそんな様子自体に励まされた。会場の外でのとはまた違った感じに緊張が解れた私は、「はい」と笑みを浮かべて返したのだった。
師匠と入れ替わりに、最後に裕美が私の前に来た。
裕美は会場の雰囲気に飲まれていたのか、師匠みたいな神妙の面持ちで一瞬私を見つめていたが、次の瞬間、ニターッと笑ったかと思うと、軽く前傾姿勢気味になり、
「…じゃあ、私、客席で見てるから。…私は、アンタも知るように”門外漢”なんだから、素人の私でも分かって、そんでもって楽しめる演奏をしてよね?」
と顔だけ近づけるようにしながら言った。
私はあまりのクダラナイ注文に、呆気にとられてしまったが、これが裕美流の緊張をほぐしてあげようとしてくれている気遣いなのは分かっていたので、
「何よそれー…別にあなたの為に弾くわけじゃ無いのよ?」
と苦笑気味に返した後、自分でも意図しないままに自然と柔和な笑みを浮かべつつ、色んな意味を含めた「ありがとう」を言った。その中身を知ってか知らずか、予想通り裕美はアタフタと動揺して見せて、私の”恥ずいセリフ”に対して抗議をしてきたが、それでも最後には「どういたしまして」と笑顔で返してくれた。そんな私たち二人の様子を、お母さんと師匠が微笑ましげに見てきている気配を感じていた。
それからは、お母さんから着替えの入った紙袋を受け取り三人と別れて、私はまず女子更衣室に入った。更衣室があるのも、予選とは違った所だった。ロッカーには他の参加者の女の子たちが、それぞれ着替えていた。私は避けながら、自分の参加証に書かれている番号のロッカーを探した。見つけると、通路の真ん中に設置された長椅子の上に紙袋を置き、まずロッカーを開けた。それから紙袋の中から、今日着る衣装を取り出した。軽く触れたように、予選とはまた別の、新たに師匠とお母さんとで買いに行った、さらな衣装だった。それは鮮やかなネイビーブルーのティアードロングドレスで、チュール生地を惜しみなく使って仕立てた豪華な4段のティアードスカートが、シックな色合いの中でも可愛らしさを演出していた。
裾にはテグスが通してあるらしく、たっぷりとボリュームがあった。光が当たると星屑のように輝くラインストーンが、胸元に散りばめられていた。腰には、ドレスの色と合わせると控えめに映る、大きめな黒のリボンがアクセントになっていた。
これは買ってもらった時から、あまり服に興味がない私でも大変気に入った一着だった。この日は、それをようやく着れるという喜びもあった。
着替え終えて荷物をロッカーにしまうと、控え室に向かった。入るとそこは、壁と天井が真っ白な、清潔感はあったが無機質な部屋だった。床はグレーの絨毯が敷き詰められていた。予選会場ほどの広さで、部屋の奥には天井から大きめのテレビが二台吊り下げられていて、そこには舞台が映されていた。
そんな様子だったので、第一印象としては、学校の視聴覚教室みたいだというものだった。そんな感想を抱きつつ、いくつか用意されているテーブルの、空いている所に座ると、少し離れた所に見たことのある顔があった。それは、そう、予選で一緒に勝ち上がった男の子だった。と、ふと目が合ったので、こちらから会釈をすると、向こうでも無表情だったが会釈を返してくれた。そして視線をテレビに向けるのだった。しばらくの間、部屋のドアが開けられるたびに、無意識的にその方向に顔を向けたりしていたが、ある程度人が集まってきた頃、係りの人が参加者の番号と名前を読み上げていった。一人、そしてまた一人と、徐々に参加者が消えていった。
死刑囚の気持ちって、こんな感じなのかな…?
などと、自分でも不謹慎だと思うような感想を抱きつつ待っていると、また係りの人が入ってきて、私の番号と名前を読み上げたので、「はい」と小さく返事をすると、席から立ち上がり、ゆっくりとした足取りで後を付いて行った。
案内されるままに付いて行くと、そこは舞台袖だった。真っ暗だったが、すぐそこに眩いばかりの照明が当てられている舞台があったので、そこか漏れてくる光が僅かに差し込んできて、全く見えないほどでは無かった。そこにはパイプ椅子がいくつか用意されていて、既に私よりも先に呼ばれた参加者四人が、緊張の面持ちで座っていた。私もそこに座った。
しばらくこの場には緊張感のある、張り詰めた空気が流れていたが、不意にブーーーっとブザーがけたたましく鳴り響いたかと思うと、どこからか放送が流れた。それは、コンクール本選開始の合図だった。
アナウンスに呼ばれる度に、一人、そしてまた一人と椅子から腰を上げて、のっそりとした足取りで、光の中へと消えて行った。
この時の私は目を閉じて、頭の中で師匠の所で弾いた曲をさらっていたが、自分で言うのもなんだがよっぽど集中していたのだろう、他の参加者の演奏が耳に入らないくらいに没入していた。
不意に側で立ち上がる気配がしたので隣を見ると、私の一つ前の出番の女の子だった。彼女が舞台に向かうその後ろ姿を、何ともなしに見つめていたが、この時ふとある事を思い出し、私も立ち上がった。そんな様子を見た係りの人が、慌てて近寄って来ようとしていたが、私はそれに構わず、どこか寄りかかれる壁はないかと周りを見渡し、お手頃なのを見つけると、そこまで歩いた。係りの人を含む他の裏方の人達も、何事かと興味の視線を私に向けてきていたが、普段だったらついつい恥ずかしがってしまうのだが、この時は気合が入っていたせいか一切気にならず、それからは時間をかけて、自分の出番になるまで入念にストレッチをした。壁に手を当ててする様な腕や手首のストレッチだけではなく、スカートだというのに屈伸やふくらはぎを伸ばすストレッチまでした。その様子を、周りは暗がりだというのにもかかわらず、驚いている表情が見てとれた。
…もうお気づきだろう。そう、これは、師匠の親友の、京子さんが子どもの頃から欠かさず続けて演奏前にしているという習慣を真似したものだった。師匠の所でレッスンを受ける前には、ストレッチと、指を温めるためにエチュードを何曲か弾くといった話をしたと思うが、このストレッチに関しては京子さん由来だと教えてくれた。それらを含めて思い出し、こうして実践してみたのだ。し終わって分かったのは、普段の時にはストレッチをする意味は、そのままの意味で、ただ単に身体の部位を伸ばすだけの為だと思っていたが、実はそれだけではなく緊張を緩める効果もあるというのに、身を以て知った。どこかしらで聞いたことのある事ではあったが、これは思わぬ誤算だった。私は一人でクスッと笑っていると、ちょうどその時に私の番号と名前がアナウンスされたので、気持ち足どり軽く舞台へと出て行った。
舞台袖から出ると一瞬目が眩んだが、そのままピアノの側まで歩いた。そして客席の方を向くと、思ったよりも暗闇に包まれているのに気づいた。人の姿が見えるのは、一番前から二、三列といった所だった。ただ何となく、暗闇の中に人のいる気配だけはヒシヒシと感じていた。
…こんなに見えないんじゃ、かぼちゃ云々どころでは無いわねぇ。
と、不意に師匠の言葉を思い出し、そんな事を思った瞬間思わず笑ってしまいそうになるのを堪えて、深々とお辞儀をし、顔を上げて客席を見渡し、結局見つけられなかったが、裕美たちがいる事を頭の片隅に過らせつつ、スッとピアノの前に座ると、一度大きく息を吐いてから、しーんと静まり返る会場に向けて、第一音を鳴らしたのだった。
第3話 数寄屋 B
「さて行くか」
「うん」
聡の声に、私と義一が同時に返事をした。それと共に、聡の車は義一の家の前を出発した。
今日はコンクールから十日後の八月頭の土曜日、いつも通りというか、お父さんとお母さんが例の慰安旅行に行っているので、こうしてまた”懲りずに”自分から進んで数寄屋に行きたがり、車中の人となっている。
「そういやまだ言ってなかったな…」
聡はふと、運転をしながらだったので前方を見つつだったが話しかけてきた。
「琴音…決勝進出おめでとう」
「…うん、ありがとう」
普段のガサツな口調ではなく、ある種情感のこもった声音で言われたので、少し戸惑いつつも、素直に感謝の念を返した。助手席に座る義一は、後ろを振り向きニコッとただこちらに微笑んでいた。
…不意に聡に”ネタバレ”をされてしまったが…そう、自分でもビックリなのだが、何とと言うか…無事に全国大会に、東京東地区代表として進出する事と相成った。…コンクールに初出場で、しかも決勝進出だなんて、そんな小説の様な旨い話があるのかと突っ込まれそうだが、当人の私ですらそう思っても、事実は小説よりも奇なりって事なのか、何と言われようとこの現実が事実なのだから仕方がない。今だに、私自身がその事実を受け入れられずにいた。だから、今の聡のように祝られても、自分の事のようには深くは喜べないのだった。
ここで、前回の続きを述べたほうがいいだろう。与えられた四十分ばかりの持ち時間を丁度全て使い切るように弾ききった後、控え室に戻って、着替える事なく他の参加者の演奏に耳を傾けていた。ここでもまず直ぐに気付いたのは、本選まで勝ち進んだ参加者たちの殆どが、予選の時のように途中で演奏を切られていた事だった。そしてこれも同様に、参加者たちはそれに対して何も思わないといった風な無表情で、ただ淡々と課題曲をこなしていくのだった。結局演奏を止められずに弾ききれたのは、私と、予選で一緒だったあの男の子と、あと一人か二人程度だった。全ての参加者の演奏が終わると、係員の指示に従ってまた舞台へと上がった。演奏の時とは違って、客席の照明が点けられていた。チラッと見ただけだったが、今回は直ぐにお母さんたちの姿を見つけた。何故なら、裕美がこちらに向けて、何度か手を胸の前で振っていたからだ。会場の中で、手を振っているのは裕美だけだったので、いくら控えめだったとしても舞台上からは軽く目立っていた。私も一度軽く手をあげて見せて、それに応えた。舞台上には、演奏中には無かったパイプ椅子が、ピアノの後ろに人数分ズラッと並べられていた。演奏順に行儀よく並んでここまで来たので、必然的にその順で端から座った。客席から見て、右端から五番目が私の座り位置だった。それから恐らくお偉いさんなのだろう、フォーマルな格好をした膨よかなオールドミスが、マイクスタンドの前で何やら在り来たりな挨拶をした後、その直ぐ後に、そのまま受賞者の発表となった。本選からは賞が三つほど用意されていて、一番上が決勝進出賞、次に優秀賞、そして奨励賞となっていた。
係員が何人かで準備をしていた。具体的にはテーブルを出したり、その上に何やらゴチャゴチャと物を置いたりしていた。そして女性の側には、いつの間にやらこれまたスーツでビシッと決めた壮年の男性が立っており、指示をジッと待っていた。女性はまず奨励賞の発表からする旨を言った。下から順に発表するらしい。…まぁ、下からと言っても、三位なのだから上位には違いないのだけれど。
数秒ほど間を空けてから、所属の教室名と名前を読み上げられたのは、最後の方で演奏をしていた女の子だった。その子は明るく返事をすると席から立ち上がり、ツカツカっと女性の前に出て行った。その間、客席からは拍手が沸き起こっていた。参加者の方でもみんなで拍手をしていたので、私も見よう見まねで拍手した。暫くして鳴り止むと、女性は男性がおもむろに静々と手渡してきた賞状を受け取ると、それを淡々と読み上げた。そして、それを手渡すと、女の子は深々とお辞儀しつつ両手で受け取った。そしてその後は、流れるように男性が盾やらトロフィーやら渡してきたのを、女性はそのまま丁寧に女の子に笑顔で渡していった。女の子の手元は一杯になり、抱えるような格好になっていたが、それでも満足そうな笑みを浮かべていた。そして客席の方を向くと、受け取ったものが落ちないようにしながらだったので、ちょっと不恰好だったが、深々とお辞儀をして、そして自分の席に戻って行った。そして次に女性は、優秀賞を発表する旨を宣言した。今度は十秒ほど間を空けて見せて、それから名前を読み上げられたのは、あの同じ予選を勝ち抜いてきた、あの男の子だった。
拍手の音と共に、ゆっくりとした動作で立ち上がった男の子の表情は、無表情ながらも、少し上気している様に見えた。 それは何も、照明で熱せられただけのものでは無かっただろう。それからは、男の子は前の女の子と同じ様に、賞を含む記念品を受け取り、客席にお辞儀をし、そして席の戻って行った。記念品は、先ほどのものよりも、一回りか二回りほど大きかった。そして次にまた女性は…今度はこの時点から少し間を空けて勿体ぶって見せてから、決勝進出者の発表をする旨を宣言した。客席の方でも、ここで軽く拍手が沸き起こった。鳴り止むと、女性は今度は二十秒近く溜めたので、その間は会場を沈黙が支配した。全体の緊張感が一気に高まるのを、ヒシヒシと感じた。そして読み上げられた名前は…っと、ここで別に溜めることはないだろう。そう、もう既に聡がバラしてしまった様に、初めに”無所属の”という枕詞を付けてから、私の名前が読み上げられた。その瞬間、今日一番の拍手が沸き起こった。参加者たちも一斉に、先ほど受賞した女の子と、あの男の子も合わせて私の方を見て、それから笑顔で拍手をしてきた。みんな好意的な顔を見せてくれていたが、当の本人である私としては、何が起きているのか分からず、端的に言えば頭が真っ白になっていた。まさか、自分の名前が読み上げられるとは思っても見なかったからだ。それは初めの方でも話したから、分かるだろう。『ほら、行かないと』と、右隣の、私と同じく無所属で出場した参加者の女の子が、微笑みつつそう話しかけてきたので、私は自分でも分かる程にぎこちなく立ち上がると、まるで薄氷の上を歩くかの様に慎重にゆったりと女性の前まで行った。まるで自分の体の様な感覚は薄れて、何かロボットでも操縦しているかの様な錯覚に陥っていた。女性の眼の前まで来ると、女性は男性からまず賞を受け取り、それから客席に向かって話し始めた。
「今年の審査は、困難を極めました。ご存知の通り、我々のコンクールは採点式で、それぞれの項目で加点していくのですが、進出者の望月さん、優秀賞の〇〇さん、規定で点数は言えませんが、この二人でとてもせっていて、ギリギリの攻防でした。何が言いたいのかといいますと、望月さん、彼女は只今紹介しました通り、無所属で参加されまして、その無所属の方が決勝に上られるのは、我らがコンクールの過去の歴史で見ても珍しく、少なくとも東京エリアから出るのは、約二十年振りという快挙なのです。 ご本人、または親御さん方、そして、表には出てきてくれていませんが、彼女の様な素晴らしいピアニストを育てて下さいました指導者の方を前にして恐縮ですが、こうして紹介がてら、賞賛の言葉を述べさせて頂いた事をお許し頂けると有難いです。…では改めて」
とここで、女性は器用にマイクから口を離さない様に私に振り向きつつ、「望月琴音さん、決勝進出おめでとう」と笑顔で言うと、また客席から拍手が起きたので、この手のマナーを知らない私でも察し、取り敢えずその場で立ち上がり、ペコッと大きくまた深々とお辞儀をしたのだった。
それから皆して控え室に戻ると、今回の参加者全員が私の周りを取り囲み、決勝進出を祝ってくれた。男の子は握手を求めてきたり、女の子に至っては、握手だけではなく、中には抱きついてくる者もいた。その抱きついて来たのは、先ほど舞台で私にアドバイスしてくれた無所属枠のあの子だった。そして最後の方になると、まず奨励賞を貰った女の子からは、演奏の良さを褒められたので、私も同じ様な返しをした。…まぁ、ここだけの話、彼女の演奏はよく聞いていなかったのだけれど、でもそれでも褒めてくれた分のお返しはした。そして一番最後に優秀賞を獲った例の男の子。彼は私の前に来ると、一瞬眉間に皺を寄せたかに見えたが、次の瞬間、今まで…と言っても今日で二度しか会っていないから知ったかぶるのはどうかと思うが、見たこともない様な笑みを浮かべて握手を求めてきた。私がそれに応じると、奨励賞の子と同じ様に演奏を褒めてくれたが、少し違ったのは、その後に師匠の事を褒めてきた事だった。私はそれに対してもお礼を返していたが、師匠の名前が出た瞬間、場にいた参加者全員が、眼の色を変えてこちらを見てきた。その変貌ぶりに驚いていると、その時控え室の扉が開けられて、その直後には参加者の関係者がなだれ込んで来た。入るなりそれずれの元へと一目散に向かい、ほうぼうで健闘を讃えていた。最後の方になって、お母さん、師匠、そして裕美の順に入って来た。そして私の姿を認めると、三人とも笑顔を見せて、そしてゆっくり近づいて来るかと思いきや、途端に裕美が私の元へ駆け寄って来た。そしてそのまま私にガバッと抱きついた。
私はそのあまりの勢いによろけてしまい、たまたま壁を後ろにしていたのが幸いして、何とか倒れずに済んだくらいだった。
「ちょ、ちょっと裕美…?」
と、壁に押し付けられる様な形で、思わず苦笑いを浮かべつつそう漏らすと、身長差的に胸に顔を埋める形になっていた裕美は、顔を勢いよく上げると、私の両肩に手をかけて腕の力で勢いよく体勢を戻すと、今度はその掴んだままの肩を大きく揺らしながら「やったね!琴音!」と声を張り上げていた。
「あ、ありがとう」私はそのハイテンションに戸惑いつつ返しつつも、視界の端に見えていた、他の参加者と関係者がこちらに向けて来る微笑ましげな表情に恥ずかしくなり、何とか抑えようとしたが、無駄だった。
「凄いじゃない!決勝進出よ!」
「ちょ、ちょっと、裕美?それくらいにして…」
他の参加者が気を悪くするんじゃないかと気が気では無かったが、周りを見渡してみると、そうでもないらしい。相変わらず苦笑気味だったが、微笑んでいるのには違いなかった。奨励賞の子と優秀賞の子も同じだった。
他の人が良いならいいかと、しばらくそのままにされるがままでいた。
裕美が落ち着くと、それを待ち構えた様に、今度はお母さんが私に抱きついてきた。裕美と違い、お母さんは私よりも身長が高いので、今度は私の方がお母さんの胸に顔を埋める形になった。
「おめでとう琴音!本当におめでとう!」
私から体を離してそう言うお母さんの目は、若干潤んでいる様に見えた。…いや、もしかしたら一度既に涙を流した後なのかも知れない。そうだろうとは思ったが、それについてなにか言うほど、それ程には無粋では無かったので、それには触れず「うん」と短く、でも飛び切りの笑顔で返した。お母さんも笑顔でうんと頷くと、チラッと後ろを振り向いた。そこには師匠が黙って立っていた。キチンと(?)マスクをしたままだ。お母さんが何も言わずに笑顔で横にずれると、師匠はゆっくりと私の前に出た。
師匠はほんの数秒ほどだったが、何も言わずに私をただ見つめてくるのみだったので、私も同じ様に見つめ返していた。今までにないパターンだったので、この師匠の様子にどう対応したらいいのか思い倦ねていると、不意に師匠は前触れもなくマスクを外した。そこには、柔和な笑みを浮かべた師匠の顔があった。私もつられる様に微笑み返そうとしたその時、ふと師匠の両目に涙が溜まってきたかと思うと、その涙が溢れるか溢れないかというその瞬間、ガバッと私に抱きついてきた。 そして押し込んだ様な小さな声で、「よくやったわね…よくやったわね…おめでとう」と繰り返し耳元で囁くのだった。師匠はお母さんよりも更に大きかったので、似た様な状況になったが、その涙を見たせいか、私の目にも自然と涙が溜まって行くのを感じた。私からも師匠の背中に腕を回し、同じ様に小さな声で「はい」とだけ返すのだった。これは後でお母さんに聞いた話だが、その様子を見て、自分と裕美が涙ぐんでしまい、ふと二人目が合うと、照れ臭そうに笑い合っていたらしい。とまぁ、この時ばかりは先ほどと違って、周りの目が気にならないほどに、色んな意味で一杯になったのだった。
それからは予選の時と同じ様に、軽く雑談などをしていたのだが、結局師匠は他の参加者や関係者に囲まれてしまっていた。師匠は私から離れるなりまたマスクをしたのだが、それでも例の男の子が私の師匠をバラしてしまったが為に、変装しても無駄になってしまった。この時の師匠は、その経緯を知らなかったので、何でバレたのか訳が分からないといった調子でオロオロと狼狽えて、私の方を見て助けを求めるかの様な視線を送ってきていたが、弟子だというのにそんな師匠の様子を面白おかしげに、微笑ましくただ見ていたのだった。隣にいた裕美も同じくその光景を見ていたが、何のことだか当然分かっていなかったので、呆然と見てはいたが、それでもどこか好奇心に満ちている様な、何とも言えない笑みも覗かせていた。ふとお母さんの方を見ると、丁度私と目が合い、一瞬ただ見つめ合ったが、その直後にはお互いに微笑み合うのだった。
後は参加者みんなと挨拶して、励ましの言葉を貰いつつ一番先に部屋を後にし、決勝進出者はこの場でエントリーをしなくちゃいけないというんで、まず衣装を着替えてからその後受付に向かい、エントリーシートに名前を書いたのだった。ちょうどその時、舞台で賞を渡していた女性が受付に顔を見せて、私に気づくと改めて、今度はくだけた調子でお祝いの言葉をくれた。それに対して感謝の言葉を返すと、激励の言葉もくれたので、それにまた応じると、不意にシートに書き込む私の背後に立っていたお母さんたちに視線を移すと、笑顔で深々とお辞儀をして、私に掛けてきた言葉と同じ様な内容を掛けていた。
それに対し、裕美も含めた三人が私とこれまた同じ様な返しをしていたが、ふと女性がお母さんに 「あなたが師匠さんですか?」と聞いたので、お母さんは「いえいえ、私はこの子の母親です」と返した。それに対して女性は勘違いを詫びつつ改めてお祝いを述べると、お母さんはそれに対してまた繰り返し感謝を述べた。それから私の友達だと裕美を紹介したので、裕美が軽く笑顔で一度お辞儀をすると、今度は師匠の肩に軽く手を触れつつ「この方が、娘の師匠ですわ」と紹介した。この時には紙に必要事項を書き終えていたので、係りの人に内容を確認してもらっている間、振り向き師匠の方を見た。師匠は紹介されると、少し気まずそうに、本人もあまり意味がないことは知っていただろうが、マスクを気持ち上に上げた。それを見て、思わずにやけそうになるのを我慢して、事の成り行きを黙って見ていた。「あぁ、あなたがそうでしたかー」と女性はここで一番テンションを上げて師匠に握手を求めた。師匠はマスク越しでも分かる程に苦笑いしつつ応じた。女性は手を離すと、まず私の事を褒め称えつつ、その指導についても褒め称えた。それに対して、相変わらず押され気味に戸惑いつつ返していたが、この時ばかりは少し口調もハッキリ目に「いえいえ、私は何もしていません。全てはこの子の力ですよ」と返していた。それを聞いていた私の気持ちは、言わなくても分かるだろう。女性はそんな謙遜な態度をまた褒めつつ、調子を変えないまま、「何故指導者登録をなさらないのですか?」と聞いていた。私自身、この時まで知らなかったが、このコンクールには”指導者賞”というものもあるらしい。これは、教え子が優秀な成績を残すと、それと同時にその指導者にも褒賞を与えるというものだった。一口に言ってしまえば、賞金が出るのだ。下世話な話だが、ここまで話したのだから仕方ない、具体的な金額を言えば、五万円ほどだった。これについて、高いと思うのか安いと思うのかは、聞いて下さっている方々にお任せする。
それはともかく、そう聞かれた師匠は、うーんと軽く悩んで見せたが、これは長い付き合いの私には分かった。何も今この瞬間に考えているのではなく、話そうかどうしようか悩んでいる様子だった。だが、結局マスクをしたままだが、視線をハッキリと女性に向けつつ、また少し意志を示す様にハッキリとした口調で返した。
「先ほども申し上げました通り、この結果は全てこの子の実力で得られたモノなので、 一介の私ごときがこの子の努力の結果に乗っかる形で出しゃばるのは、そのー…私の主義ではないので、それで届け出てないのです。…あ、いや、別にこちらのコンクールにケチをつけたいのでは無いんですが…」
途中から少しマズイと判断したのか、師匠の口調に焦りが混じったまま言い終えた。その間、女性は無表情で師匠の事をまっすぐに見つめていたが、話し終えた後、ほんの数秒ほど何も言わずに黙っていたが、途端にまた先ほどまでの笑みを戻したかと思うと、今度は断りも無く不意に師匠の手を握ると、明るく話しかけた。
「いやー、素晴らしい!今時そんな考えを持った方がいらっしゃったんですね!いやー、今時ない様な師弟関係です。感銘いたしました」
「あ、いや…」
私から見てもそうだったが、師匠からしても意外だったらしく、見るからに戸惑っていたが、それには関心が無い様子で、その後もツラツラと師匠の事を褒めちぎっていた。
それからしばらくしてようやく解放されると、四人揃って会場を後にした。夕方の四時ごろだった。その後は四人で適当なお店を見つけて入り、そこで夕食を摂ると、地元に帰り、今日はみんなお疲れだからという事で、裕美のマンション前で裕美と別れ、その後は師匠を師匠宅まで送るという、予選の時と同じ流れに相成った。別れ際、師匠に対して、女性に投げかけていた言葉に対して、何か自分でもハッキリとはしなかったが、無性にお礼を言いたかったのだが、心情に当たる言葉を見つけられず、そのまま無理に言葉にしても、嘘になり、かつまた不要に軽くなってしまうのを恐れた私は、最後に玄関前で大きく深くお辞儀をして、「今日は有難う御座いました」と誠意を示すために、これ以上ないくらいな挨拶をした。師匠はそんな私の仰仰しい態度に苦笑いを浮かべたが、師匠の方でも深々と頭を下げて、そして顔を上げてから笑顔で「どういたしまして。…こちらこそ有難う」としみじみ言うので、これには少し動揺してしまったが、その直後にクスッと笑って見せたので、私も合わせる様に笑い返すのだった。
…とまぁ、相変わらず長すぎる回想を述べてしまったが、これが事の顛末だ。ついでに話すと、その週の土曜日、今度は裕美のお母さんを合わせた五人で会って、私のお祝いと称して、予選を突破した時にも行った地元の焼肉屋さんに行ったのだった。それでその次の週の土曜日…一番最初に戻る。
最初に自分から進んで数寄屋に向かう車中の人とは言ったが、軽くネタバラシをすると、厳密には違っていた。コンクールを終えた日の晩、私は早速義一、絵里、美保子、百合子に結果を報告した。皆して前回と同じ様に手放しで喜んでくれて、わざわざ電話をくれたのだった。美保子に至っては、アメリカにいたというのにだ。シカゴは朝の七時だったらしい。ちょうど来週に日本に戻るというんで、その流れでお祝いをしたいと言ってくれた。私は初めは「別にいいよ」と返したのだが、有り難く好意に甘えることにした。それからはなし崩し的に話が進み、義一や百合子にも話が通り、最初にも言ったがちょうど両親が慰安旅行に行く日とも重なって、それで今日数寄屋に行くことになったのだ。これは聡に聞いたが、今日はたまたま私がまだ面識の無い他のメンツも来るというんで、それでも良いかと珍しく不安げに聞かれたが、それはそれで私にとっては願ったり叶ったりだったので、快く返したのだった。それで今に至る。
「…ちょっとー」
ふと、車に乗ってから静かだった私の隣に座る女性が、漸く口を開いたかと思えば、明らかに不満げな口調で声を漏らした。
「後どれくらいで着くのよぉ?」
「ふふ、どれくらいって…」
義一はわざわざ体を捻って、真後ろに座る女性に向かって苦笑いを向けた。
「絵里、まだ出発したばかりじゃないか」
「だってぇ」
「…あははは!」
と今度は聡が愉快げに豪快に笑いつつ言った。
「相変わらず堪え性のない、落ち着きの無いお嬢さんだ」
「…ふん、おっさんは黙っててよ」
「おっさんかぁ…ひどい事言うなぁ」
そう返す聡の口調からは、落ち込んだ様子は微塵も見られない。
そのアンバランスさに私が思わず「ふふ」と笑みをこぼすと、絵里はこちらを見て、これまた今にも溜め息つきそうな笑みをくれるのだった。
…ここで、何で数寄屋に行く車中に絵里も同行しているのか、当然説明がいるだろう。また軽く触れるはずが長くなってしまうかも知れないことを予め謝っといてから、訳を話そうと思う。
発端はかなり最近の事、幸いにも夏休み中だというんで、平日の水曜日の昼間に”宝箱”を訪れたのだった。
普段の事もあったが、この時は勿論コンクールの結果を直接話すためでもあった。この時も、予選の結果を話したときと同様に、絵里も来ていた。駅前でスイーツを買ってきてくれたのまで同じだ。全体の内容もほぼ同じだ。お母さんにスマホに送ってもらった写真を、三人で仲良く一緒に小さな液晶を覗き込みつつ見た。義一も絵里も、それぞれ個性のある表現をしてくれた。絵里の事で言えば、取り敢えず始終「可愛い!」といった感じだ。…自分で言ってて恥ずかしい。
それはともかく、それからは前とは違いすぐにピアノで本選そのままに、課題曲を弾いて見せた。義一も絵里も手放しで喜んでくれた。人に褒められると、それを素直に受け止めずに、その意図から考えてしまう癖のある私だが、この二人からの賞賛は素直に受け止められるのだった。これは今更言うまでも無いだろうけど。
それから暫くは歓談していた。勿論というか…まぁ言うと、先ほどの美保子の様に、お祝いしたいという内容だ。どうしたら、私みたいな面倒な境遇にいる…いや、自ら陥れている子を、何処かに連れ出して祝えるのかという事だった。まさに今話したその通りに絵里がズバッと言ったので、私も義一もただ何となく照れ臭そうに苦笑いを浮かべるしか無かったのだが、ふとその時、玄関がガラガラっと喧しい音を立てて開けられた。この時は宝箱のドアを閉めていたのだが、それでもよく聞こえた。ミシミシと廊下の古い木々を言わせながらガサツな足取りで近付いてきたかと思うと、バンとこれまた前触れもなく乱暴に開けられた。そこに立っていたのは、何と聡だった。聡はポロシャツにジーンズと、まぁ普通の格好をしていたが、少しサイズが小さめなのか、出っ張ったお腹が強調されていた。
「おーい義一来たぞー…って、あれ?」
聡はワザとらしく驚いて見せて、私たち三人の顔を見ると、声も驚きを隠せない体で言った。
「琴音じゃねぇか!なんだ来てたのか、奇遇だなぁー…っと」
聡は今度は絵里の方を見ると、ジロジロと遠慮なく舐め回すように見てから、意地悪げな笑みを浮かべつつ、口調もネットリと言った。
「琴音とここで会うとは意外だったが…もっと意外な奴が来ているな。絵里じゃねぇか」
「…久しぶりだね、聡さん」
絵里も目付きはジト目だったが、口元は若干緩めつつそう返した。
「おう、久しぶり。…なんだぁ?相変わらずその変なおかっぱ頭をしてんのかよ?折角の美人が台無しだぜ」
「ふふ、褒めてくれてありがとう。…聡さんは、ますます”おっさん”らしさに磨きをかけているね?そのお腹とか」
と絵里がお返しとばかりに聡の姿を舐め回すように見てから、大きく出たお腹に指をさしつつニヤケて言うと、聡は角刈りの頭をポリポリ掻きつつ苦笑いで答えた。
「なんだよー…こっちが褒めたんだから、お前も俺を褒めるところだろ普通ー」
「あら?褒めてなかった?」
「あのなぁ…」
「ふふ…あっ」
いきなり目の前で息の合ったやり取りを見せられて、また思わず吹き出してしまったが、当然の事として一つの疑問が湧いたので、すぐさま聞いて見ることにした。
「ねぇ、二人って知り合いだったの?」
「え?」「ん?」
私がそう言葉を投げかけると、絵里と聡はほぼ同時に私に顔を向けた。そしてお互いに顔を見合わせると、その直後にはまた揃って私に顔を向けた。でも時折お互いの方に視線を流しつつ。
「知り合いっていうか…まぁ知り合いか」
「そうね、そこにいるギーさん繋がりで」
と絵里が言いつつ義一の方を見ると、当人は我関せずといった調子で、呑気に紅茶を啜っていた。それを見た聡は見るからに呆れて見せつつ、
「そういや俺にも何か出してくれよぉ…炎天下の中歩いて来たから、喉乾いちまった」
と言うと、義一は「はいはい」と如何にもやる気無さげにゆっくり立ち上がると、大きく伸びをして見せ、そしてのっそりとした足取りで部屋を出て行った。
「やれやれ…客人に対しての態度がなっちゃいねぇんだからよ」
「誰が客人なの?」
とすかさず絵里が意地悪く突っ込むと、聡は無駄だと判断したのか、何も返さず頭をポリポリと掻くのみだった。
一連の流れをまた笑って見ていたが、さっきの続きを聞くことにした。
「三人はじゃあ長いの?」
「ん?んー…どうだったかな?」
「え?そうねぇー…まぁ少なくとも、私とギーさんが大学生だった頃からだから、長いとは言えるかもねぇ」
「そうなんだー。キッカケとかあるの?」
「キッカケ?…ってなんだっけ?」
「一々私に振らないでよぉ…んー、何だっけ?ギーさん?」
「…え?何?なんの話?」
義一はちょうど片手に氷入りのスポーツドリンクで満たされたグラスを持って戻って来たところだった。
「はい」と義一が手渡すと「お、サンキュー」と聡は呑気な声を上げつつ受け取り、すぐさまそれに口を付けた。
「アレよアレ」
「…いきなりアレって言われても」
と義一が苦笑気味に返しつつ座ると、聡が会話に横槍を入れてきた。「そういや、俺の席は無いのか?」
「聡兄さんの席?それなら…」
義一はそこで切ると、何も言わずに開け放たれて見えている廊下の方に指をさした。
「あっちにあるよ」
と悪戯っぽく笑いつつ言うと、「へいへい、自分で取ってきますよ」と不満を隠そうとしないまま、しかし口調は愉快さを滲ませつつ部屋を出て行った。
「やれやれ」
「…ちょっと、ギーさん?」
「あ、あぁ、ゴメンゴメン…。で、何だっけ?」
「もーう、アレよアレ!」
「だから…アレって言われても分からんよ」
「え?あ、あぁ、そっか…。ほら、私たち…聡さんとも長いけど、聡さんと私って、何がキッカケで知り合ったんだっけ?」
「え?あ、あぁ、その事かぁ…んー、覚えてないな」
「…なーんだ」
私は本人たちはその気はなかっただろうが、何だか話を引っ張られた挙句にこんな結末だったので、すっかり肩透かしを食らった気分になり、不満タラタラに声を出した。
「結局誰も覚えてないのね?」
「んー…そうだね」
と義一が照れ笑いを浮かべつつそう返すと、
「…まぁ、人間関係なんてそんなものなのよ!」
と絵里は逆に、妙に明るいテンションで開き直り気味に言うのだった。何だか勢いで誤魔化された気がしないでも無かったが、それでこの場は引き下がることにした。
聡が絵里のように食卓から椅子を持ってくると、正方形のテーブルの空いてる一辺の前に置いて座った。絵里の時も感じた事だったが、いつも二人で過ごしていたせいか、ほんの一人か二人が来ただけで、何だか急に部屋が狭く感じた。とても賑やかになったようだった。これは絵里と聡のキャラクターだけでは無かっただろう。
それはさておき、何だか恒例になってしまったが、絵里が急に自分のカップを手に持つと、「では、お疲れー!」と言いながら前に突き出したので、私を含む他の三人は慌ててそれに合わせて互いのグラスとカップをぶつけ合った。流石の聡も前触れもなく突然されたので、軽口で突っ込む余裕が無かったようで、そのまま付き合うのだった。
そして皆して一口飲むと、途端に聡が苦笑気味に絵里に声を掛けた。「まったく…お前のその”乾杯グセ”は相変わらずだなぁ」
「え?別にいいじゃなーい?それに、厳密には乾杯じゃないよ?杯を乾してないんだから」
「はぁーあ、減らず口も変わらねぇな。そもそも自分で『かんぱーい!』って言ったんじゃねぇか…」
そう返す聡の表情は明るかった。
と、聡はふと他の三人の手元のカップを見ると、絵里に意地悪げなニヤケ面を見せつつ言った。
「…しっかし、義一、お前も相変わらずだなぁ。こんな凝った茶器を出してもてなすなんて…どっかの誰かよりも、よっぽど女子力が高いぞ?」
「あらぁー?」
それを聞くなりすかさず絵里は、思いっきり目を細めて不満を露わにしつつ、テーブルの上にまだ置かれたままの、ケーキの残骸に目を配りつつ返した。
「ここにあるケーキは誰が持って来たと思ってるのー?私がわざわざ持ってきた物なのよ?」
「あ、これ、ケーキだったのか?」
聡もテーブルの上を見渡しつつ言った。
「なーんだ…だったらもっと早くに来るんだったぜ。そしたら俺も食べれたのに…」
「ちょっとー?ちゃんと私の話を聞いてた?」
「…ふふ」
私はまた同じように、目の前で繰り広げられていた軽口合戦に吹き出して笑ってしまった。それを見た絵里と聡、そして私と同じ様に黙ってやりとりを見ていた義一も、合わせる様に明るく笑い合うのだった。
「はぁーあ…しっかし、さっきも言ったが、ここで会うのは珍しいなぁ…お前、何で義一の所に来てんだ?…あ、まさか、お前ようやく素直に…」
「…ちょっと聡さん?何を言おうとしてるのかしら?」
絵里はすかさず口を挟んだ。字面にすると上品な感じだが、実際は若干慌て気味に、そしてドスを効かせた声音を使っていた。
「いーや、何でもねぇよー?」
とそんな絵里の様子を介する事なく、聡は呑気に間延び気味に返すのだった。絵里は誤魔化したつもりだったろうが、流石の私でも今のやり取りの意味が分かったので、横目でチラッと義一の表情を伺ったが、当人は相変わらずと言うか、先ほどの軽口合戦をしていた二人に向けていたのと同じ、和かに微笑むだけだったので、実際にはしなかったが、心の中で大きく溜息をついたのだった。
「そう、何でもないよねぇー?…って、私からも質問だけれど」
絵里はまだジト目を聡に向けたままだったが、そのまま聞いた。
「聡さん、あなたこそ何で今日ギーさんの所に来たの?タダ水を貰いに来ただけ?」
「おいおい…”タダ飯”ってのは聞いたことあるが、”タダ水”ってのは初耳だぞ?…あ、あぁそうだった。おい…」
聡は呆れ気味に絵里に返していたが、ふと何かを思い出した様で、今度は義一に話しかけた。
「そういや先生から…というよりも、浜岡さんから伝言なんだが、進捗状況を聞いてこいって言われたんだが…どうだ?」
「…え?あ、あぁ…」
とここで義一はふと書斎机の方に視線を流しつつ答えた。先ほどは触れなかったが、机の上は普段見ている時よりも乱雑になっていた。少し具体的に言うと、色んな十何冊ばかりの本が雑多に置かれており、プリントの束のような物も上部を埋め尽くすが為のように置かれていた。
「うん、まぁまぁってところかな?」
「そうか。…まぁ、いつも通りちゃんと間に合うようだって伝えとくよ」
「うん」
「…それって」
と私も義一に倣うように机の方に視線を流しつつ聞いた。
「毎年のアレと関係があること?」
「あ、うん、そうだよー」
義一は私に微笑みつつ答えた。
「…ちょっとー」
と今度は絵里までもが、机の方を見つつ、少し不満げな声で言った。「本はもうちょっと慎重に扱ってよねぇ?あの中に、うちから借りてるのもあるんでしょ?」
「え、あ、うん…気をつけます」
義一は悪戯が見つかった子供のような笑みを浮かべつつ返した。
すると聡が絵里に向かってニヤケつつ「まるで司書みたいだな?」と声をかけると、すかさず絵里は「司書ですけど?」と無表情で返したかと思うと、今度は絵里の方がニヤケつつ聡に「…それに引き換え、聡さんは全く教師に見えないね?」と返した。
聡は「余計なお世話だ」と苦笑気味に返すのみだった。
「…で?」
と、仕切り直しだという風に聡が一口飲んでから言った。
「今日のこの集まりは結局何なんだよ?」
「それはねぇ…」
義一は待ってましたと言わんばかりに、私に視線を向けつつ笑顔で言った。
「琴音ちゃんがピアノのコンクールで全国大会に出場する事が決まったから、そのお祝いと健闘を祈ってというんで、何か出来ないかを話し合っていたんだ」
「…へ?そうなのか?コンクール?」
「あ、う、うん…」
あ、そういえば…連絡先知っているのに、聡おじさんには何も話していなかったなぁ…
とこの時になって初めて気づき、一人で気まずい思いをしていたのだが、当の聡はそれには思いが至らなかったらしく、「なるほどなぁー…」と一人呟いていた。
「んー…あっ」
とここで不意に声を上げたかと思うと、私に話しかけてきた。
「琴音、今週って、数寄屋に来れるか?」
「え?う、うん…元々行くつもりだったけど」
その旨は義一にはすでに伝えていた。
「そっかー…んー…うん!」
聡は私に返答を聞くと、軽く考えて見せたが、ウンと大きく頷くと、今度は絵里に話しかけた。
「絵里、お前…今週の土曜日暇か?」
「え?何?藪から棒に…暇かはともかく、図書館のシフトは入ってないけれど…?」
絵里は何を聞かれているのか分からないといった風で、少し不審げに返した。それを聞いた聡は、絵里とは真逆に明るい笑顔を浮かべると、口調も明るくまた声をかけた。
「じゃあよ、大した予定も無いんだったら、お前…俺たちと一緒に数寄屋に来ないか?」
「え?」「は?」「え?」
絵里、義一、私は同時に驚きの声を上げた。聡はそんな三人の反応が面白いのか、ニヤニヤしている。
「…何言ってんの?」
まず声を出したのは義一だ。見るからに戸惑いを隠せないといった調子だ。
「それ…本気で言ってる?」
「おう、本気も本気よ」
聡は相変わらず呑気な調子を崩そうとしない。
「何でまたそんな事考えたんだよ?」
と義一が今度は目を細めて聞くと、聡は悪戯っぽく笑って見せ、まだ驚きっぱなしの私と絵里の顔に視線を流しつつ言った。
「だってよぉー…要はお前ら、琴音を祝う為の”場”が欲しいんだろ?その場なら、どこよりも数寄屋がうってつけだろうよ。料理の腕にしたって、あのマスターとママ…この二人以上っていうのは、ちょっとやそっとじゃみつからねぇし、それに何より…」
とここで聡は、顔を私に直接向けて言った。
「琴音自身、あの場が気に入ってるんだから、喜んで俺の案を受け入れてくれるだろうよ。…どうだ、琴音?」
「…え?え、あ、う、うん…」
初めは何を言い出すのかと思ったが、今の聡の話を聞くと、途端に良さげな提案に思えた。…後は、絵里がどう思うかだけだった。
すぐに答えるのも何だと思ったので、少し溜めてから返した。
「…うん、確かに悪く無い提案だけれど…」
とここで言葉を切って、ふと絵里の顔を見た。
と、絵里もこちらを見たので目が合った。絵里は相変わらず戸惑っている風な表情を浮かべていた。
「絵里さんがどう思うか…どう、絵里さん?絵里さんさえ良ければ…一緒に来てくれると嬉しいんだけれど…」
「琴音ちゃん…」
とここで不意に義一が私に声を小さく掛けてきたが、この時の私は気づかなかった。その顔に、戸惑いの表情を浮かべていた事にも。
「…んー」
私に声を掛けられて、絵里はようやく口から声を漏らした。顔も伏せ気味で、考え込んでいるようだった。とここで、絵里はチラッと義一の顔を覗くような素振りを一瞬見せた。顔色を伺うようだった。この様子はこの時にも私は気付いたが、特に深い意味があるとは思わなかった。
絵里は一度大きく息を吐くと、私にため息交じりに言った。
「はぁー…琴音ちゃん、前にここで会話した時の事覚えてる?その時の私の言い方で察してると思うけど、あまりそのー…あなたがそこに入り浸るのに対して、良いとは思ってないのよ。でも、これも言ったと思うけど、あなたが自分で進んで、そこに集う人々と付き合って、お喋りしたりして過ごしたいというのなら、その考えを尊重したいとも思っているの。…あ、いや、何が言いたいのかっていうとね?んー…」
絵里はここまで、とても言いにくそうに、普段の竹を割ったような口ぶりとは程遠い、辿々しく言葉を紡いだが、ここでフッと優しい笑みを零すと、口調も穏やかに言った。
「琴音ちゃん、あなたがどうしても一緒に来てと言うのなら…私はそれでも喜んでそのお誘いに乗るわ」
「絵里さん…」
私は、その言葉の裏にある色々な配慮を感じて、胸が一杯になるのを覚えつつ、笑顔で静かに「ありがとう」と言うのだった。
それに対して、絵里も「どういたしまして」と、今度は満面の笑みで返すのだった。
と、絵里はここで一瞬寂しげな笑みを見せたかと思うと、義一に顔を向けて言った。
「ギーさんも…私が行く事に、文句はないでしょ?」
「…文句ってほどの事は無いけど…」
声を掛けられた義一は義一で、何だか顔に影を差したような様子を見せていたが、フッと見るからに力を抜くと、静かな笑みを見せて
「…絵里、本当に良いんだね?」
と聞くと、
「えぇ、私は構わないわ。…ギーさん、あなたが良ければね?」
「…そっか」
「…?」
この一連の二人の会話を聞いて、何だか数寄屋…いや、数寄屋に関連する何かについて、この二人の間に何か大きな問題が横たわっているんじゃ無いかと、この時私は思ったが、この雰囲気の中でその中身を聞くほどには、流石に良くも悪くも肝が座っていなかったので、この場はそのまま流す事にした。
義一はフッと絵里に笑みを向けると、私にもチラッと見せて、それから聡に声を掛けた。
「まぁ…こうして二人が言うんだったら、僕は何も言う事ないよ。じゃあ今週の土曜日、四人で数寄屋に行こう」
「よし、じゃあ決まりだな!」
聡は今までの会話を聞いていたはずなのに、何だかそんな暗い空気が流れていたのを無視するかの様に明るく振る舞った。
それからはコロッと話題が変わって、私のコンクールの話を中心に雑談し、聡が自分で学が無いと断りつつも、それでも私の演奏を聴きたいと言い出したので、仕方ないなと取り敢えず予選の時の課題曲を弾いて見せたのだった。
とまぁそんなこんなで今に至る。先に断った通り、やはり長めの回想になってしまったが、ここからが本編だ。
車は毎度同じルートを辿り、都心の繁華街を抜けて例の駐車場に着いた頃には夕方の5時半になっていた。まだ勢力の強い西日が差し込み、ジッとしてるだけでも汗がじんわりと肌の上に浮き上がるのを感じた。車から降りて周りを見渡すと、見覚えのある車が何台か停まっていた。それはマスター夫婦のものと、後百合子のものだった。どうやらもう来ているらしい。絵里は初めてだからだろうか、まるで私の時と同じ様に、ただの変哲の無い駐車場だというのに、周囲を興味深げに見渡していた。…いや、ここに来る途中も、どうやら思っていたのと違っていた様で、一通だらけの住宅地の中を車が入っている時も、窓の外をジッと眺めていたのだった。
「さて…行くか」
車に鍵をした聡の一声で、私たちはゾロゾロと歩き出し、すぐ脇の数寄屋へと向かった。
店の前に着くと、絵里はまた私の時と同じ様に、「ふーん…」と声を漏らしつつ、店の外観を舐める様に見渡していた。
聡と義一は、そんな様子の絵里を苦笑い気味に微笑みつつ見ていたが、聡が不意にドアを開けたので、それを合図にまたゾロゾロと中に入って行った。絵里は私の後ろから付いて来た。最後尾だ。
「あら、いらっしゃい」
入るなり明るい声で出迎えられた。ママだ。ママはシンプルかつ洗練された例の制服に身を包み、セッセと飲み物の用意をしているところだった。
「お邪魔するぜ」
「今日もよろしく」
聡、義一の順にママに返事をしていた。私もそれに続こうとしたのだが、それは叶わなかった。何故ならママに先手を取られてしまったからだ。
「おっ、今日の主役のお出ましだ!」
ママは私の方を見ると、さっきまでの表情も笑顔だったというのに、ますますその度合いを強めて、両手をナプキンで吹いてから、ワザワザカウンターの外まで出て来て、私に握手を求めてきた。
「いらっしゃい琴音ちゃん!今言うのはアレかも知れないけれど…決勝進出おめでとう!」
「あ、ありがとう」
ママが私の手を乱暴に振りつつ言うので、若干引き気味に返してしまったが、ちゃんと笑顔で返事が出来た。
ママはウンウンと一人満足げに頷くと、いつもの様にカウンター内で何やら料理の下ごしらえを黙々しているマスターに声をかけた。
「ほーら、あなた!あなたからも何か声をかけてあげてよ?」
「…あ、あぁ…」
私の位置からは手元が見えなかったが、何やら道具を置いた音がしたかと思うと、マスターは無表情でこちらを見た。それからほんの数秒間、何も言わずにいたので軽くにらめっこしている様な形になったが、ふと口角を軽く持ち上げて見せて、「…おめでとう」とボソッと言った。
「…もーう、あなたったらぁー…ゴメンね琴音ちゃん、ウチの人があんなんで」
とママが顔をマスターに向けながら呆れ口調で言うので、
「え、あ、いえいえ!そのー…ありがとうございます」
と私が声を掛けると、作業に戻っていたマスターだったが、こちらを見ないままにコクンと頷いてくれた。私には、それだけで十分だった。
「まったく…あ、あなたは…」
ママはため息交じりにこちらに向き直ったが、ふと私の背後に視線を向けた。私も後ろを振り向くと、先ほどから店内を見渡していた様だったが、声を掛けられた絵里は丁度笑顔を軽く浮かべて挨拶するところだった。「あ、わ、私は…山瀬絵里と言います。この子…琴音ちゃんの友達です。今日はお世話になります」
そう言い終えると、頭を一度深く下げるのだった。
「あらあら、これまたご丁寧に。…ゆっくりしていってね?」
ママは何だか大袈裟に驚いた様な動きを見せていたが、すぐに柔和な笑みを浮かべて言った。
「はい」と絵里も同じ様な笑みで返すのだった。
それからはすぐに店の奥、濃い赤色のカーテンをズラし、そこに現れた両開きの磨りガラスの扉を聡が開けたその後を、また順に入って行った。
と、中に入るなり聞き覚えのない男の声が聞こえてきた。
「おっ、義一じゃないか!久し振りだなぁ」
「武史も元気そうだ」
背中越しだったので分からなかったが、心なしか義一の声から少しオフザケムードが漂っていた。どうやら心安い間柄らしい。
義一がそんな挨拶を交わしつつずっと動かないままでいたので、横にスッと動いて前を見た。例のテーブル席、向こう側の定位置には美保子と百合子が座っていたが、以前に聡が座っていた辺りには、スーツ姿の見慣れぬ男性が座っていた。普通に座っていたらドアを背後にする形だったので、わざわざ体を捩りつつコチラに顔を向けて、義一にニヤケ面を見せていた。座っていたので、この時はどれほどの体格の持ち主かは分からなかったが、顔は義一とはまた別のタイプの童顔で、義一を女顔タイプだと分類すると、この男性はあえて例えるなら、何だか小動物系…もっと具体的に言うと、リスに似ていた。目がくりくりしている所なんかもソックリだった。
それからは聡がまず動きだし、
「おぉー、久し振り…って、そこは俺の席じゃねぇか」
「えぇ…別にいいじゃないですか」
そう言いながら男性は約一人分のスペース分横にズレた。聡は普段から座っている辺りに腰を下ろし、それから美保子たちにも挨拶を交わした。
聡と男性のやり取りの間、義一はじっとしていたわけではなく、何も言わずに、男性が一人ぶん横にズレた為に、義一も一人分横にズレた位置に座った。細かく言えば、聡、男性、義一の順だ。
私も何気なく義一の後に付いて行こうとしたが、「琴音ちゃーん」と不意に大きな声で話しかけられた。その声の方を向くと、すでにその時には、豊満でふくよかな身体に捕らえられていた。つまりは抱きつかれたのだ。そう、言うまでも無いだろう。美保子だった。
「おめでとーう!良くやったわね!」
「く、苦しい…」
私は冗談ぽく呻き声をあげて見せた。まぁ…実際に息苦しかったのは内緒だ。
「あははは!ゴメン、ゴメン!」
そんな私の声を聞くと、途端に勢いよく私から体を離すと、底抜けに明るい笑顔で、豪快に笑いつつ言った。
私はやれやれと苦笑いを浮かべて首を横に振ったが、そのすぐ後で優しく微笑みつつ「うん、ありがとう」と返した。
美保子はそれには何も返さず、ウンとそのままの笑顔で頷くのみだった。
美保子は私の腰に手を当てて席に連れて行こうとしたが、その時ふと後ろを振り返った。私も振り向くと、そこには当たり前だが絵里が立っていた。因みにここで言うのもなんだが、絵里にしてはかなりラフな格好をしていた。私と同じ様な格好だ。上が無地のTシャツに、下がスキニータイプの七分丈のジーンズ姿だった。聡に宝箱での会話の後、最後に絵里のその時の格好を見て、「数寄屋に行くときは、変にオシャレして来ないでくれよ?簡単な格好で来てくれ」と言われたのに対して、忠実に守った結果らしい。ついでと言っては何だが、美保子も、そして向こうにいる百合子も相変わらずラフな格好で来ていた。百合子は私と似た様なものだったが、流石に美保子には無理だったのか、ダボダボのヨレたTシャツに、ブカブカのパンツ姿だった。…失礼な物言いに聞こえたかもだが、これは私と美保子の間だから許される言い方だ。
それは置いといて、相変わらずまた部屋に入るなり辺りを見渡していた絵里だったが、ふと美保子と目が合うと、自然で静かな笑みを浮かべつつ、小さくぺこりと頭を下げた。美保子も釣られるように一度頭を下げた。それからほんの数秒間、美保子はおもむろに絵里の様子を上から下、下から上と視線を何往復かさせつつ見ていたが、なぜかここでニコッと笑うと、
「…なるほど、あなたが絵里さんね?」
と声を掛けた。
「…え?え、あ、は、はい、そうです…けどぉー…何で」
知ってるんですか?と言い終える前に、美保子が今度はにやけつつ口を挟んだ。
「何で知ってるのかって?それはねー…」
美保子はここでもう着座して何やら男性と談笑している義一の方をチラッと見てから続けた。
「…”誰かさん”に何度も話を聞かされているからね!」
「は、はぁ…」
絵里は納得いくようないってないような生返事をしつつ、軽く義一の後頭部に視線を流した。と、絵里はここで少し慌てつつ、また一度軽く頭を下げつつ、
「…あっ、私は山瀬絵里と言います。琴音ちゃんの友人です」
と最後に、側で突っ立ったままの私に視線を向けつつ言った。
美保子もそれに釣られるように一度私を見たが、すぐに顔を絵里に戻し、少し苦笑気味に返した。
「…ふふ、そんなに畏まらなくても良いよ?なんて言われてここに連れて来られたのか知らないけど。…ここでは歳の差とか肩書きとか、厳密にはそんなの関係無いんだから。…まぁ、親しき間にも礼儀ありって事で、最低限の節度さえ守ってくれたら、それで良いんだから。…おっと、そう言う私も、自己紹介されたのにいつまでも返さないのは、礼儀違反ね?いかんいかん…コホン、私の名前は岸田美保子。いわゆる”ジャズ屋”をしていて、あなたと同じ様に琴音ちゃんの友達よ、よろしくね!」
「…ちょっと?」
とここで、ふとテーブルの向こうから声を掛けてきた者がいた。百合子だ。百合子は普段から薄目がちだったが、それとは別にジト目を美保子に向けつつ言った。
「美保子さん…何で勝手に自己紹介をしちゃうかなぁー」
「ふふー、早い者勝ちよ!」
「何が早い者勝ちよ」
と百合子が呆れ笑いを浮かべると、美保子はただニコッと笑い、その直後には不意に素早い動きで私と絵里の背後に回ると、片手ずつ私たちの背中に手をやり、そして席まで押していくのだった。
「さぁお二人さん、好きに座って」
そう声をかけると、美保子は定位置の百合子の隣に座った。
「…ふふ。ほら絵里さん、絵里さんは私の隣に座って」
と私が義一の隣に腰を下ろしつつ言うと、「う、うん…」と戸惑いつつ、私の右隣に座った。一番端に座る形で、向かいには百合子がいる。
「お、二人とも、今頃になってようやく座るなんて、今まで何をしてたんだい?」
と、今の今まで男性と談笑していた義一は、不意にこちらに顔を向けると、そう聞いてきた。義一の顔の向こうに、男性の顔が覗いていた。何やら興味津々といった調子の笑みを向けてきていた。
「何って…熱烈な歓迎を受けていたところよ」
「…ん?あははは!」
絵里が視線だけを向かいの美保子に向けつつ、苦笑交じりにそう答えると、美保子は豪快に笑って見せるのだった。
「さてと!」
タイミングを計るならここだと思ったのか、不意に聡は明るく声を上げた。そして一同を軽く見渡してから先を述べた。「まだ約一名来てないけれど…乾杯をしてしまうか!」
「さんせーい!」
男性と美保子がほぼ同時に賛意を示した。絵里と私以外も、それに同調する様に和かに頷いた。
…あれ?そういえば…
私も聡と同じタイミングで見渡したが、確かに一名いない事に気付いた。そう、神谷さんだ。
義一の話では、どんな集まりでも、少なくとも数寄屋での事ならば来てる様なことを聞いていたので、意外に思っていたのだが、今の聡の発言を聞いて疑問は解消された。
…そうか、先生は少し遅れて来るのね。
「じゃあ…」
チリーン
普段は神谷さんが座っている目の前に置かれている呼び鈴を聡が鳴らすと、そのすぐ後に扉が開けられ、ママが顔だけ覗かせて来た。
「聡君、飲み物?」
とママが笑顔で第一声に聞くと、聡も笑顔で「おう、お願いするよ」と返していた。
ママはコクっと頷くと、一瞬はけたかと思えば、次の瞬間には手に”喫茶店”のメニューと、高級感溢れる赤茶色の革表紙のメニューを抱えて入って来た。そして喫茶店の方を私に、無地の革表紙の方を絵里に渡した。
「二人とも、好きな物を頼んでね?」
とママが無邪気な笑みで言ったので、絵里は「あ、ありがとうございます…」と戸惑いつつもゆっくりとメニューを開いた。私はもう決めていたので、開く事なく「アイスティー下さい」と言った。それを聞いたママは、「何でー?別に他のを頼んでも良いのよ?今日はあなたが主役なんだから」と何故か不満げに見せてきたが、「ありがとうございます。でも私は、これで良いんです」と笑顔で返した。
「そーお?まぁ、琴音ちゃんがそう言うのなら、私は別に構わないけれど…で?」
ママは仕切り直しといった感じで声音を代えると、今度は絵里の方に顔を向けた。
「どうお嬢さん?何か飲みたいもの、もしくは気になるものとかあった?」
「あ、は、はい…いやぁ、種類が多すぎて何が何やら…」
絵里は苦笑いを浮かべてホッペを掻いていた。
考えてみたら、この店に来て初めて、お酒のメニューをじっくり見てる人を見た。まぁ私もまだ此処に来るのはこれでまだ三度めだが、それでもみんなはもう飲むものが決まっているらしく、メニューを見ることもなく注文…いや、もう勝手にママが聞かないうちにもう出しているといった調子だったので、何だか新鮮だった。このお酒のメニューも、私が初めて来た時に、ママが私に出して来た時に見て以来だった。
「ふふ、わからない事があったら遠慮せずにママに聞いてね?」
ウンウン言いながらメニューを睨み込んでいる絵里に向かって、不意に美保子が明るい調子で声を掛けた。
「ママは”ちゃんとした”修行を積んで、格式高い所で勤めていたソムリエさんだったんだからー」
「”ちゃんとした”は余計よ」
とママはすかさず悪戯っぽく笑いながら突っ込んだ。美保子はただニヤニヤ笑っている。
「そ、そうなんですかぁ…えぇっと」
そう言われても絵里はまだ煮え切らない様子だったが、ふと一同を軽く見渡したかと思うと、誰に言うでもない感じで声を出した。
「皆さんは何を飲まれるんですか?」
「え?何でそんなことを聞くの?」
と途端に返した美保子の顔は、笑顔のままだったが、不思議だと言いたげな表情も混ざっていた。隣にいた百合子も同様だ。私は試しに男性陣の方を見てみたが、こちらは何も変化がなかった。
「え?えぇっと…」
『何で?』と聞かれるのは想定外だった様で、絵里はすぐには答えなかったが、絵里も何故こんなことを聞かれるのかと言いたげな表情を浮かべつつ返した。
「いや…皆さんと同じ様なお酒を頼めば、皆同じ様に楽しめると…思いまして?」
と最後は自分で言ったのにもかかわらず、何故か疑問調になっていたのが証拠だ。それを聞いた美保子と百合子は一度顔を見合わせたが、どちらからとも無くクスッと笑うと、二人揃って絵里に笑顔を向けてきた。そしてやはりというか、美保子が笑顔のまま話しかけた。
「あははは!あぁ、いや、ごめんなさいね?笑ったりして。悪気は無いのよ。何せ…このお店に集まる人で、場の雰囲気を壊さない様に気を使う様な人なんか、一人もいないもんでね。…”外”ではあなたの心使いが普通なんでしょうけど、此処では無いからそのー…新鮮でね、意外すぎて何だか愉快になってしまったの。…ね?」
と美保子が百合子に話しかけると、百合子もコクンと小さく頷き返し、絵里の方に向くと、微笑みつつまた小さく頭を下げて「ごめんなさい」と言うのだった。
言われた絵里は「いえいえ!別に謝られる謂れは…」と慌てて返していたが、すぐに落ち着いて、何も言う言葉が無かったのか、ニコッと色んな意味を含めた笑みを向けた。それに対し、美保子と百合子もただ笑顔で返すのだった。私も自然と笑みが溢れた。
「…っと、そうだねぇ…私と百合子はいつも同じ赤ワインを頼んで…」
美保子はまだ微笑みを残しつつそう言った後、ふと義一たちの方に視線を流しつつ続けた。
「で、男どもは皆してビールを飲んでいるよ」
「そうなんですか。じゃあ…私も赤ワインを下さい。そのー…ママさんのオススメのやつを」
と絵里がメニューを渡しつつ注文すると、ママはワザとらしく”無い”自然な喜びの表情を浮かべて「はーい、では少しの間待っててね?」と陽気な声音で言いながら、部屋を出て行った。
ママが出て行った直後、美保子はふとハッとした様な表情を浮かべて、少し決まり悪そうな顔つきで絵里に話しかけた。
「…そういえば、さっきも初対面で”絵里さん”だなんて軽々しく下の名前で呼んでしまったけど…悪く思わないでね?」
「え?…ぷっ、あははは!」
そう声を掛けられた絵里は、一瞬きょとんとしたが、その直後には何故か明るい笑い声をあげたのだった。これには流石の美保子も、そして百合子、私も呆然としてしまったが、笑いが収まった絵里は微笑みに近い笑みを向けつつ「はい、私は下の名前で呼んで頂いても構いませんよ」と言ったので、美保子も合わせる様に笑顔に戻ると「そう?よかったー。じゃあよろしくね、絵里”ちゃん”」と言った。絵里は”ちゃん”付けに対しては特に何も言わなかった。まぁ、相手が歳上なのだから、ちゃん付けくらいするだろうという風に察したのだろう。
そんなこんなやり取りが終わるその頃、ママが普段通りカートを押して部屋に入って来た。「まずは主役から!」と、ママはまず私の前にアイスティーを置くと、それからはそれぞれの前にコースターを置き、その上にお酒を置いていくのだった。ママは絵里の前に赤ワインを置きながら「これ…まだそんなにお喋り出来てないから印象でしか選んでないんだけれど…」と最後まで言い切らずに言うと、絵里は顔を上げてママの方を向き、笑顔で「いえいえ、選んで下さってありがとうございます」と返した。するとママは「だからほらー…まだまだ堅すぎるってー」と苦笑気味に声を上げたが、すぐに笑顔で「どういたしまして!」と付け加えていた。
「ではごゆっくりー」
と声を掛けつつママが部屋を後にすると、それとほぼ同時に聡はビールジョッキを片手に立ち上がり、一同を軽く見渡した。
「ゴホン…では改めて、皆さん飲み物を」
「ほら、絵里さん」
「あ、うん」
絵里は私に促されるままに、右手にワイングラスを持った。
聡はまた一度周りを見渡すと、ジョッキを高く掲げて音頭を取った。「それでは…かんぱーい!」
「かんぱーい」
私たちはそれぞれ近くの人とグラスを軽くぶつけ合った。
「絵里さん…ん!」
と私がグラスを前に突き出すと、一瞬苦笑を浮かべたが、そのすぐ後には普段の明るい笑みを浮かべて「うん、かんぱーい!おめでとう琴音ちゃん!」と言いながら、ワイングラスをぶつけて来るのだった。
「うん、ありがとう絵里さん」
「おめでとう、琴音ちゃん」
と今度は右隣から、義一がジョッキをこっちに向けてきつつ笑顔で声を掛けてきた。「うん、ありがとう義一さん」私もグラスを前に突き出してジョッキに当てた。
カツーン。
当て終わると、ふと義一が私の背後に視線を向けたので、私も思わず振り向くと、そこには当然の事ながら絵里がいた。絵里も義一に静かな視線を向けていた。お互いにほんの数秒だが見つめ合ったので、何事かと挟まれた私は漠然とも思ったが、フッと力を抜く様に義一は微笑むと、「絵里もお疲れ…まぁ、来てくれて嬉しいよ。…はい」と最後の方は何だか恥ずかしげに言い、ジョッキをまた突き出した。私の顔の前に来る形だ。するとそんな様子が面白かったのか、絵里は大げさに吹き出して見せて、「…ふふ、もーう、本当よー。わざわざ付き合ってあげたんだから感謝してよね?…ん」と絵里も、何だか気恥ずかしそうにワイングラスを前に突き出した。ぶつかり合ったジョッキとワイングラスから鳴らされた音は、小気味の良い音色を出していた。
この時恐らく気付いたのは私だけだろうが、この二人の様子を、この場にいた全員が微笑ましげに見ていた。あのまだ名も知らない男性までもだ。
それからはいつも通りにことが進んで行った。聡からもお祝いのコメントと共にグラスをかち合った後、向かいに座る美保子ともグラスを当て合い、また改めて声を掛けてくれたので、また同じ様に感謝を述べた。美保子はそのままの流れで隣の絵里としている時、百合子が静かな笑みを浮かべながら、何も言わずにワイングラスを前に突き出してきたので、私も同じ様に応対した。
「…誰かさんのせいで、何だかタイミングを逃しちゃったけれど…決勝進出おめでとう琴音ちゃん」
「うん、ありがとう」
「誰かさんて誰のことよー?」
と絵里とは済ませたらしい美保子がソファーに腰を下ろしながら百合子に声を掛けた。
「さぁねー?」と百合子はとぼけて見せていたが、ふと絵里に顔を向けると、先ほど私にくれた様な静かな笑みを浮かべつつ口調も穏やかに話しかけた。
「初めまして、えぇっと…」
「あ、いや…はい、私は山瀬絵里と言います。琴音ちゃんの友人です」
絵里は来た当初と比べると大分場に慣れて来た様で、率先して自分から話そうという気持ちが見えていた。
百合子もそれが助かった様で、また微笑み度合いを強めつつ言った。「山瀬…絵里さんね?初めまして、私は小林百合子って言います。…よろしくね?」
「はい、こちらこそ…ん?小林…百合子?」
「え?どうかした?」
絵里が急にマジマジと遠慮もなく百合子の顔を見だしたので、私もその様子に驚きつつ聞いた。
「あ、いや…あのー…つかぬ事をお聞きしますが…」
「は、はい」
百合子も絵里の態度の変わり様に少し押され気味に返した。
「もしかして…女優の小林百合子さんですか?」
「は、はい…女優をしていますけれど…?」
「…わぁー!」
百合子の返事を聞いた途端、絵里は急に顔中に笑みを浮かべて声を上げた。それに対して、百合子は上体を軽く仰け反らせて引いて見せたが、それには御構い無しに絵里は続けた。
「わ、私、小林さんのファンなんです!いやぁー、こんな所で会えるなんて思いもしなかったわ!」
「そ、それはどうも…」
絵里のテンションの高さに、相変わらず引いていたが、徐々に慣れて来たのか百合子は笑顔を見せていた。
と、ここでようやく自分が一人ではしゃいでいて、浮いてしまっているのに気づいたらしく、気持ち肩をすぼめて見せながら気まずそうに声の調子も戻して言った。
「…って、あっ…す、すみません、ついついテンションが上がってしまって…」
「ふふ、良いのよ」
そう返すのは、百合子ではなく美保子だった。美保子は悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。
「中々素直に感情を表に出すのねー…気に入ったわ!それに…ここ十年ばかりはマスメディアへの露出がゼロに等しいってのに、久々に百合子のファンを目にしたしね?」
と最後に百合子に視線を流すと、百合子も目はジト目だったが口元をニヤケさせつつ返した。
「そうねー、私のファンなんて今時絶滅危惧種だものねー?…あっ、いや、絵里さんの事をどうこう言ってるんじゃないのよ?この人が余計な事を言うもんだからー…って」
とここで百合子は、ふと一人気まずそうな表情を作ると、絵里に話しかけた。
「絵里さんって言ってしまったわ…。今更だけど…あなたの事、絵里さんって呼んでいい?」
「へ?」
絵里は隣に座る私からも分かる程に、鳩が豆鉄砲を食らったかのような表情を見せたが、途端にニコッと明るい笑みを浮かべると
「はい、勿論です!小林さんに名前でそう呼ばれるのは、光栄ですよ」
とまた先ほど見せたテンションで返したので、百合子もまた同じように「あ、ありがとう…」と苦笑を浮かべたが、こちらもこちらで途端に美保子ばりのニヤケ面を見せて返した。
「…じゃあ私も、ここでは皆に下の名前で呼ばれているから…百合子って呼んでね?」
「は、はい」
この提案に対して、絵里は意外だったのかすぐにテンションを戻したが、笑顔で返事を返すのだった。
それからは絵里、美保子、百合子の三人で軽く雑談をしていた。これには、このあと話す事情で混ざらなかったが、それでも片耳で聞こえて来ていた会話を軽く述べると、「頑なに義一の事には触れずに、執拗に琴音の友達を強調していたね?それは何で?」といったものだった。これもチラッと見ただけだったが、それを聞く美保子と百合子の表情は、何か意味深な笑みを浮かべていた。それに対し、何だかきょどりつつ、ちょくちょく義一に横目で視線を送りながら絵里は苦笑気味に相手をするのだった。
で、私はというと、義一と聡と乾杯をした後で、流れとしては当たり前だが、名も知らぬ男性に乾杯をせがまれていた。
「おめでとーう」と声を掛けてきつつジョッキを突き出してきたので、「あ、ありがとうございます」と私も合わせてグラスをそれに当てた。そしてその後、お互いに一口ずつ飲むと、男性が笑顔で話しかけてきた。
「義一から聞いたよー?何でもピアノのコンクールで全国大会に出るらしいじゃないか。それも、僕でも知っているくらいに大きなのに」
「は、はい…ま、まぁ…」
こういう場合、何と返せばいいのか分からずに、結果として何だか辿々しく返してしまった。
すると「ほら武史ー…」とすかさず義一が男性を嗜めるように見つつ言った。
「言ったよね?この子はそんじょそこらの子と違って、自分の功績を盾に偉ぶる様な子じゃないって。そんな褒められ方をされたら、この様に困ってしまうんだよ」
「あ、悪い悪い」
男性は義一に平謝りをすると、そのまま私にもしてきた。
私は何とも思ってない事を示すが為にニコッと微笑んで見せてから、ジト目気味に義一に言った。
「それで言うなら…今の義一さんの言い方も該当する様だけれど?」
「え?あ、…そうかな?」
と義一が惚けて見せたので、私は大きく肩を落として見せつつ
「はぁ…まぁ今に限った事じゃないけど」
とため息交じりに返した。
と、その時「あははは!」と、私たちのやり取りを見ていた男性が笑い声を上げた。
「中々に息の揃った夫婦漫才じゃないか」
「え?」
「だろう?」
私が戸惑い気味に返すその横で、義一が胸を張ってそう返すので
「何が『だろう?』なのよ…?」
と呆れ気味に返すと、そのどこが面白かったのか分からなかったが、義一と男性は顔を見合わせて笑っていた。その様子を冷めた視線を向けていたのだが、結局は絆されて一緒になって笑うのだった。
「おっと…そういえば!」
とここで、不意に聡が声を上げた。それによって今まで歓談していた一同が一斉に視線を向けた。
聡はゴクッとビールを一口やってから、男性と絵里に顔を向けてから、口を開いた。
「まだこの中で、皆が皆知ってる訳じゃない人がいるよな?…なぁ、絵里と、武史。二人には悪いが、一応この集まりの儀式みたいなもんで、軽く自己紹介をしてくれよ」
「え?」
と絵里は声を漏らしたが、男性は一度大きく息を吐くと、少し不満げに、しかし笑顔で言った。
「はぁ…やっぱしなきゃダメなんだな?”今日は”先生いらっしゃらないから、しないで済むと思っていたのに」
「…?」
ん?先生…がいらっしゃらない?
と私は今男性が言った言葉にとっさに反応したが、それは口には出さなかった。一応空気を読んだ形にはなったが、実際にはただ単純にそのすぐ後で聡が「そうは問屋が卸さねぇよ」と男性にニヤケつつ返して、それに対してまた男性が瞬時に反応したからだった。
「そっかー…改めてこんなに見知った人らの前で自己紹介するのも恥ずかしいなぁー…あのー?」
「…え?あ、私…ですか?」
急に男性が何故か絵里に声を掛けたので、掛けられた絵里はまさか話しかけられるとは思っても見なかった様で、少し慌てつつ返した。すると男性は頭を掻きつつ照れ臭そうに言うのだった。
「あ、いや、あのですね…先にあなたから自己紹介をしてくれませんか?レディーファーストという事で…」
「…何がレディーファーストなのよ?」
と途端に向かいに座る美保子からツッコミが入った。
それに対して男性は手で”どうどう”と、興奮気味の動物を宥めるような仕草をして見せつつ返した。
「まぁまぁ…」
「何がまぁまぁなのよ?」
「あ、いや、別に構いませんよ?」
このままではラチがあかないと思ったのか、絵里は笑顔を作って二人に割って入った。
「そーお?…まぁ、絵里ちゃんが良いならそれでいいけど」
美保子は相変わらず男性にジト目を向けていたが、絵里には笑みを向けていた。…一々付け加える事も無いだろうが、別に険悪な雰囲気になっていた訳ではないので悪しからず。
絵里は座ったまま一度一同を見渡してから、笑みを浮かべつつ静かに言った。
「えぇっと…この中の何人かには既に済ませましたが、改めて…私の名前は山瀬絵里と言います。しがない図書館司書をしています。ここにいる琴音ちゃんの友人です。後…」
絵里はおもむろにここで話を切ると、私を挟んだ向こうの義一に一瞥を投げてから、「…そこにいる”義一さん”の…大学時代の後輩です」とウンザリした風で付け加えた。この時ふと向かいの席を見たが、美保子も百合子も、先ほどの様な意地悪げな笑みを絵里に向けていた。絵里はその後また笑顔に戻ると、「今日はお邪魔させて頂いてありがとうございました」と言って話を締めた。と、その直後に「だから堅いってばー」と美保子がニヤケつつ突っ込むと、絵里は苦笑気味にホッペを掻きつつ照れ笑いを浮かべて、その後は一同の間で和かな笑みと共に拍手が沸き起こった。
「…あぁ、あなたが絵里さんか」
とふいに男性がふと独り言の様に言った。
「え?」
と絵里がそう漏らすと、男性は照れ臭そうに笑いつつ、隣の義一の顔を覗く様に見ながら返した。
「あ、いえね?よくこの男から君の話を聞いていたものだから、何だか初めて会う様な気がしなくてね」
「おいおい、何を言い出すんだよ?」
と義一がすぐに苦笑まじりに反応したが、それを聞いた絵里は、クスッと笑ったかと思うと、男性に返した。
「ふふ、どうせロクでも無い話でしょ?」
「いやいや、そんな事は無いよ?いつもこの男は君の話をする時…」「…武史くん?」
と、男性がまだ言いかけていたその時、声にドスを効かせて義一が割って入った。顔は笑顔だったが、声音とのギャップに、変な威厳を生じさせていた。
「もう酔っ払ってるのかな?」
という義一に対して、男性はまた「悪い悪い」と陽気な平謝りをして、その後何故か大げさに着ているスーツの身だしなみをチェックして見せてから言った。
「さて…次は僕か」
と男性はそう漏らすと、一口ビールを煽ってから、絵里に倣う様に一同を見渡し、そして最後に私に顔を止めて、ニコッと笑いながら言った。
「んんっ!えー…僕の名前は中山武史。京都の大学で准教授をしています。専門は政治思想を中心に…って、これはいらないか」
とここで、中山と名乗る男性は不意に隣の義一の肩に手をかけると、そのまま続けた。
「義一とはもう…何だ?十年くらいの付き合いになるのかな?…そっか、で、歳は今年で三十八になります…ってこれもいらないか。呼び方は、ここの慣例通り、名前呼びでいいよ!取り敢えずヨロシク!」
「は、はい…ヨロシクお願いします」
最後の方は、何だか私に向けて言われた気がしたので、ついそう返すのだった。
とその時、ふと武史の名前に聞き覚え…いや、正確には見覚えがあった。
…そうだ、こないだのオーソドックスの最新号で、対談していた中の一人だ。
私はそのまま、武史にその旨を話して見る事にした。
「…あぁ、武史さんって、あのー…シュペングラーの話をしていた…」
「え?」
と先程までニコヤカな笑みを浮かべていた武史がキョトン顔を見せたので、私は慌てて「あ、いえ…何でもないです」と返した。
すると武史はまた一転して満面の笑顔を見せて、義一に話しかけた。「…クク、義一、お前が言うように、本当にこの子は変わっているなぁー。いくら読んだからと言っても、シュペングラーなんて覚え辛い名前をポンと出すなんて、そう簡単な事じゃないよ」
「ふふ、そうでしょ?」
と義一も笑顔で、口調はどこか誇らしげに返していた。
そのやり取りを、今度は私が目を見開かせて聞いていたが、ふと武史は私に顔を向けると、笑顔で話しかけてきた。
「いやー、琴音ちゃん、僕の…ていうか”僕らの”だけど、対談をそこまで読んでくれてありがとう、嬉しいよ。でだけど…」
と武史はここで話を一旦切ると、少し俯いて見せて考えるふりをして見せたが、その直後バッと勢いよく顔を上げた。
「僕らの会話は…君の目から見てどうだった?そのー…面白かったかい?」
「…え?えぇっと…」
さっきまで笑顔だったのが、少し真剣味を帯びた表情を滲ませてきたので少し呆気に取られてしまったが、
「…えぇ、とても面白かったです。それにとても勉強になりました」と微笑みつつ答えた。すると武史もニコッと笑いながら「そっか…それは良かった」と返すのだった。
「…あぁ、確かにどっかで聞いたことがあると思ったら…」
とここで不意に隣の絵里が会話に入ってきた。
絵里はマジマジと武史の顔を見つつ続けた。
「そうそう、ギーさんから毎号貰ってる雑誌の中で、結構なページを貰っている人だ」
と何だか不躾な調子で、言いながら自分で確認するかの様に言うと、「…ギーさん?」とほぼ同時に、武史と美保子から声が漏れた。私と絵里は示し合わせたわけでもないのに、これもほぼ同時に武史と美保子の方を見た。武史も美保子も何だか興味津々な子供の様な表情を見せていた。肝心の”ギーさん”は苦笑とも照れ笑いとも何とも取れる様な、言いようのない笑みを浮かべているのみだ。
絵里は”しまった!”と慌てて口を塞ぐ様な素振りを見せたが、無かったことには出来ないとすぐに察したか、どうして義一に対してそんなあだ名を付けたのか、その経緯を少し照れ臭そうに説明した。義一の”一”部分が、伸ばし棒に見えない事も無いから、それで”ギー”と読む事にしたといった事だ。私と義一、聡の様な事の経緯を知っている人以外は、絵里のその話を興味深げに聞いていた。そして聴き終えると、まず美保子が「いいアダ名じゃない!」と一声を上げると、その後に続く様に一同が美保子に続いて口々に同意の意を示した。それを見た絵里は気を良くしたのか、今度は自分から美保子たちに向かって「やっぱり良いですよねー?」と言った調子で声を掛けていた。
私も一緒になって同調していたが、ふと当人の方を覗き見てみると、義一はやれやれといった調子で頭をゆっくり、しかし大きく横に振りながら苦笑いをしていた。
「私たちもそう呼ぼうかしら?」と美保子が意地悪な笑みを浮かべつつ言うと、「それだけは勘弁してくださいよぉ…その呼び名は絵里で十分です」と義一が疲れ果てた様子を見せつつ返したので、一同はそれで益々笑いが大きくなるのだった。
笑いにひと段落がつくと、ふと何かに気づいた様な表情を浮かべた美保子が絵里に話しかけた。
「あれ?でも今聞いた感じだと絵里さん、あなた、義一君から私達の雑誌を受け取って読んでくれてるのよね?」
「え?は、はい…まぁ一応…」
絵里は何だか歯切れ悪く答えた。
「ならさぁー…」
絵里のそんな様子には気を止めずに、美保子はまたニタァーっと悪巧みをしてる様な笑みを見せると、隣に座る百合子の肩に手を乗せて続けた。
「この集まりに、百合子さんがいる事は想定出来る事じゃなーい?だって、毎号とは言わなくても、年に二度ほどは寄稿しているんだから。小林百合子名義で」
「そういえば…」
と肩に手を乗せられたまま、百合子も通常通りの薄幸な笑みを見せつつ絵里に視線を送った。すると絵里は痛いところを突かれたと言いたげな苦笑を浮かべると、少し言い辛そうに答えた。
「いやぁー…勿論ここに集まる皆さん方というのが、あの雑誌関連である事はギーさんに教えられたりして知っていたので、そのー…その皆さんの前で言うのも何ですが…要は、そんなにちゃんと読んでいないんです」
「…」
絵里の独白を、一同は静かな表情で見つめながら聞いていた。
絵里はその視線が痛かったのか、不意に顔を逸らし、その先にあった義一の顔を見つめると、少し落ち着いた様子を見せて、そのままの体勢で先を続けた。
「大体そのー…ギーさんの所を最初に読むんですけど、そこで力が尽きてしまい、他の皆さんの所はー…軽く読み飛ばしてしまってるんです。だからえぇっと…百合子さん、あなたがここに寄稿されてた事自体、今まで気付かなかったんです。そのー…すみません」
絵里はそう言い終えると、座ったまま深々と頭を下げた。そして顔を上げると、相変わらず一同は何も言わずにジッと絵里の方を見ていたが、沈黙に耐えきれなかったのか、「…ぷっ」と噴き出す者がいた。見ると、やはりと言うか…それは美保子だった。
美保子は吹き出した後は「あははは!」と一人で豪快に笑い声を上げたかと思うと、笑みを絶やさぬまま絵里に話しかけた。
「はぁーあ、よくまぁ私達本人の前で正直に言ってくれたねぇー?…ふふ、いや、さっきも言ったけど、パッと見常識人に見えて、結構ズカズカと言うタイプなんだねー。変わっているよ」
「ふふ、そうね」
とそれに答える形で百合子も、口元に手を添えつつ上品に笑みを浮かべていた。
「確かに!」
と次に声を上げたのは武史だ。やはり笑顔だ。
「僕たちの書く文章ってのは、無駄に内容が難しい上に、誰も彼もが良く言えば個性的、率直に言えば悪文っていう、いわば全く人に読ませる様な文章でも無いし、それを読み飛ばさず読んでくれていっても無理があるよなぁー」
「そうそう!」
とすかさず聡も同調する。義一は一人黙っていたが、表情はとても柔らかな微笑を湛えて、静かにビールを煽るのみだった。
何度かここに来て、ここに集まる人の性質をそれなりに分かっていた私は、今のこの状況は想定内だったので、ただにこやかに楽しんでいたのだが、当の絵里は当惑した表情を見せて一同を見渡していた。
「あ、あのー…」
と絵里がおずおずとした調子で小さく声を出した。小さかったのにも関わらず、皆は一斉に口を閉め、顔には笑みを浮かべつつ黙って先を待った。
「いやぁー…自分で言っておいて何なんですが…気を悪くされなかったんですか?」
「え?”気”ー?…気ねぇー…どう?」
と美保子がまた百合子に話しかけると、百合子は「んー…」と声を漏らし、可愛らしく人差し指を立てて、その先を顎に当てつつ応えた。
「別に…ねぇ?」
「ふふ、絵里さん」
と不意に武史が、優しい微笑を湛えつつ絵里に向かって口調も柔らかく言った。
「僕を含むここに集まる人種っていうのはね、言うなれば、大昔…そう、それこそ幼少期からずっと少数派として世間に受け入れられないままに生きてきたんだ。それを今更…自分たちの書いたり言ったりする事について、読み飛ばされたりしたくらいで、『まぁ、そんなもんだろう』ってな感想しか持たないんだよ。だから怒るだなんてそんな…むしろ、大体において無視されることの方が多いのに、読み飛ばすってことは、少なくても読んではくれているって事だから、むしろ感謝をしたいくらいだよ。…皮肉じゃなくてね?」
そう言い終えると、ニコッと悪戯っ子風に笑って見せた。最初の方で描写した様に、女顔の為に年齢不詳に感じる義一とはまた別の意味で、リス顏のお陰で年齢不詳の武史がそう笑うと、益々顔が幼く見えた。
武史がそう言い終えると、義一を含む一同が、絵里の方を向き、ただ黙って笑顔で頷いて見せていた。
「そ、そうなんですか…」
「…ふふ、絵里さん?」
とまだ一人納得がいってない様子の絵里に向かって、百合子が小さく微笑みつつ言った。
「次からは…私を含む他の人のも読んで欲しいな?」
「は、はい」
と相変わらず動揺が隠せない様子だったが、それでも絵里は笑顔を見せてそう返した。とその時、ふと美保子がまた口を開いた。
「そんなことよりもさぁー?」
その表情は、また意地悪げな笑顔だ。
「それでも義一くんのパートは、ちゃーんと読んでいるのよね?…それは何で?」
「…え?」
と絵里はさっきとは違った意味で戸惑いつつ、ただそう漏らすと、それを聞いた百合子もウンウンと頷き、美保子と同じような笑みを浮かべて、黙って答えを待っていた。
「…あっ!」とここで何かを察したか、絵里は急に声を上げると、義一に横目で視線を送りつつ、「いやいやいやいや!」と両手をバタバタ振りながら返した。
「み、皆さんが思われている様な理由ではありませんから!」
「皆さんが思われてるって?」
とここで何故か義一が、呑気な声音で横から入ってきた。
「皆んなが何を思うって言うんだよ?」
と義一が言うと、「え、あ、いや、その…」と直後には相変わらずアタフタと慌てて見せていたが、しばらく義一の顔を見ていると、その呑気さが影響してきたのか、徐々にテンションが落ち着いてきて、終いには顔に呆れた感情を見せたかと思うと、口調もそれに合わせる様に言った。
「はぁー…あなたには一生分からないわよ。朴念仁にはね?」
「朴念仁か…」
それに瞬時に反応を示したのは武史だった。武史も絵里に合わせてなのか、顔に呆れ笑いを浮かべつつ、義一に視線を流しつつ「違いない」とだけ言った。その直後、ドッとまた一同が同時に笑い声を上げた。わたしもつられる様に笑った。隣を見ると、絵里も明るく笑っていた。「何だよ皆んなしてー…」と義一一人が不平を漏らしていたが、顔には笑みを覗かせるのだった。
まだ笑いが収まりきらないその時、不意に部屋のドアが開けられた。
ドアを開けて入って来たのは、ジャケットにネクタイとカジュアル気味の正装をした老齢の男性だった。真夏日だというのに、その老人はジャケットの下に同色のベストを身に付けていた。年齢はおそらく六十を越えてはいるのだろうが、頭髪は豊かで、ロマンスグレーを真ん中で分けていた。これだけ聞くと、何だか初めて来た時にお見かけした小説家の勲とそっくりに感じるだろうが、実際はかなり違っていた。勲は目をギョロつかせる様な、ある種異様な雰囲気を醸し出していて、言ってはなんだが近寄りがたいオーラを身に纏っていたが、こちらの老人は目元がずっと緩みっぱなしで、目の周りのシワが良い具合に強調されて、神谷さんとはまた別の種類の好々爺といった風情だった。髪型も、勲さんはストレートのお陰か頭蓋骨の形そのままにピタッとしていたが、少し癖っ毛なのか、この老人の場合は何とか撫で付けてるつもりなのだろうが、少しふっくらと膨らみを見せていた。とまぁ、そんな外見だった。
もちろん初めて見た人だったので、思わずジーッと老人の一挙一動を見守っていた。
老人は座る一同を軽く見渡すと、やれやれと笑顔で顔を横に振りつつ声を出した。
「やれやれ…いや、ごめんなさいねぇー?もっと早く用事が済むはずだったんだけれど、何だか長引いちゃってねぇ」
そう話す老人の声は、外見からも明るい人なんだろうとは予測していたが、実際はそれ以上に声のトーンが高く、そして所々で裏返ってしまっていた。声帯はそんなに強くないらしい。
「おぉー、久し振りですな寛治さん」
聡はおもむろに立ち上がると、手招きしながら老人を呼び寄せた。
老人は笑顔を絶やさぬまま、聡に促されるままにこちらに近づいてきて、そして聡の左隣、いつもなら神谷さんが座っている位置から一席分ズレた位置に座った。そこがおそらく普段からの座り位置なのだろう。
老人は座ると、まだ笑顔のまま聡に返した。
「うん、久し振りだねぇー。僕自身、なかなか日本に帰って来れないせいなんだけど…あっ!」
と老人は、ふと美保子の方を見ると、ますます笑顔の度合いを強めて声をかけた。
「おやおや、美保子さんも来てたんだぁ。お互い普段はアメリカにいるとは言え、なかなか会うこともないからねぇ」
「…ワザとらしい」
とそう返す美保子の顔は、悪戯っぽい笑みで満たされていた。
「私が今日ここに来る事は、事前に話してたじゃないですかぁー」
「あれ?そうだっけ?忘れてたよぉー」
「まったくー」
と、こんな具合なやり取りを見せられつつ、やはり第一印象通り、なかなかに茶目っ気のある老人だなぁ、といった様な感想を抱いていると、ふと老人が私と絵里の方に視線を向けてきた。
そして数秒間私と絵里の顔を見比べていると、不意に義一に話しかけた。
「で、えぇっとー…?見知らぬうら若き女性が二人もいるけれど…どちらが噂の琴音ちゃんかな?」
「え?」
急に”噂の琴音ちゃん”だなどと名指しされてしまったので、すぐには何だか名乗る気になれずに、ふと隣の絵里に顔を向けたが、その時丁度絵里の方でも私の方を見てきていた。おそらく私もだろうが、絵里もキョトン顔をしていた。
「あはは。琴音ちゃんは…」
義一は軽く笑って見せてから、ふと私の背中に手を触れて、
「…彼女ですよ」
と顔を老人に向けたまま答えた。
「へぇー…この子がねぇ」
先程までとは打って変わって、目を大きく見開きつつ、手で顎をさすりながら、遠慮もなしに私のことをマジマジと見てきた。私は何だかデッサンされている様な気にさせられたので、微動だにせずにいたが、老人は満足そうに笑顔を浮かべてウンウン頷いて見せると、私と義一の中間辺りに顔を向けつつ言った。
「なるほど。いや、神谷先生には事前に年齢の事だとか聞いてはいたんだけれど…お二人とも何だか歳がパッと見では分からなかったから、すぐに気付けなかったよ」
「いやいや、そんなぁー」
とここで絵里が照れ臭そうにホッペを掻きつつ声を漏らした。私個人の見解だが、ここにきてようやく絵里の緊張の糸が緩んだ様だった。その証拠に、こうして初対面の老人に対して自分から話しかけたからだ。
「お世辞がお上手ですね?中学生の彼女と、三十路の私なんかで迷われただなんて」
「いやいや、お世辞じゃないよ…って三十路?」
「はい」
老人のその様な問いかけに、絵里は満面の笑みで答えた。
一般的にはこんな事を聞かれては、少なくとも良くて苦笑くらいは浮かべるところだろうが、普段から義一と付き合っているせいか、もしくはここの不文の仕来りや空気に慣れてきたのか、もしくはその両方か、まぁ元々気にするタイプではないのだが、満面の笑みで答える絵里の様子を見て、何故だか心の中に嬉しさとしか言いようのないものが溜まるのを感じた。
そう返された老人は、何かを察した様で、ふと義一に顔を向けると笑顔で話しかけた。
「…あぁ、彼女かね?よく君が話す絵里って子は?」
「え?」
と声を漏らした絵里の表情は、何だか表現しにくいものだった。先程も武史に振られた話題ではあったが、それは予め義一との仲良さげなやり取りを見ていたのもあって、歳の近いもの同士、そんな話もするのかも程度には予想が出来たのだろうが、今回は少しばかり違った様だ。
「え、あ、まぁ…そうですね」
と義一も、何だか言いにくそうに、少し躊躇いがちに答えた。
「どうせ…」
とここで気を取りなおす…いや、空気を変えるためか、急にニヤッと笑いつつ
「その話というのは、私についての悪口なんですよね?」
と絵里が老人に言った。それに対して
「いやいやー、悪口なんてそんな…いつも彼から聞いてる話は…」
とここまで老人が言いかけると、
「別に大した事は話してないよ?」
と急に義一が横から入り込んできた。絵里に向けたその表情は、目だけ細めて、口元はニターッと意地悪くニヤケさせていた。
「普段の、ありのままの、等身大の絵里の事を話していただけさ。…一年先輩であるはずの僕に対しての仕打ちだとかね?」
「えー?何よそれー?」
と絵里も負けじと同じ様な表情を向けて返した。
「ギーさんみたいな変人に対して、私ほど優しく慈悲深く接してあげてる人もいないと思うけど?」
「…あれで?」
「…ギーさん?」
ニヤニヤしながら二人のやりとりを眺めていた老人がそう漏らすと、すかさず隣に座っていた聡が耳打ちで教えてあげていた。
その間もまだ二人の軽口合戦は続いていた。
「私のありのままの姿を話してくれたって事は、余程良い内容なんでしょうねー」
「…はぁ」
とここで義一は見るからに大きく肩を落としてため息をついて見せた。そして絵里に対して、憐れむかの様な視線を向けた。
「絵里は本当に幸せなんだなぁ」
「…?どう言う意味よ?」
「だって…」
とここでまた先程までの表情に戻ると、おどけて言った。
「仮に実際とは違っても、それだけ自分の姿をよく妄想出来るっていうのは、とても幸せじゃないか?」
「…?…あっ!って、あのねぇー…」
絵里は初めのうちは言われた事をすぐには飲み込めなかった様だが、ハッとあからさまに気づいた様子を見せると、途端にジト目で不満げな声を上げた。
「…ふふ」
と私はここにきてこらえきれずに、思わず吹き出してしまった。
この数寄屋に絵里がいるという非日常、それにもかかわらず、普段からよく展開されている様な軽口合戦という日常を見るという矛盾、それが何だか面白くてついつい笑ってしまったのだった。
すると、それを合図にしたかの様に、一人、また一人と笑いをこぼしていくと、遂には義一と絵里も、一度二人して私の顔を見て、それからお互いの顔を見合わせ、ほんの一瞬見つめ合ったかと思うと、プッとほぼ同時に吹き出し、そして笑い合うのだった。
とその時、
「もしもーし?」
と背後から声が聞こえた。振り向くと、ドアのところにトレイを持ったママが、こちらに呆れ笑いを向けつつ立っていた。
「そろそろ皆さん、お喋りも良いけど、お食事にしません?」
「はいどうぞー」
「あ、ありがとうママさん」
ママに笑顔で差し出された飲み物を受け取りつつ、老人は笑顔で応じていた。その飲み物は、照明が薄暗いせいでハッキリとした色は分からなかったが、少なくともお酒には見えなかった。何かしらのジュースに見えた。
「さてと…じゃあ食事を」
とママが行きかけたその時、
「あっ、ちょっと待ってくれ」
と聡が呼び止めた。
「いや、まだ寛治さんの自己紹介が終わってないから、大体でいいから、その頃合いを見計らって持ってきてくれる?」
と聡が言うと、ママは一度一同を見渡してから、フゥと一度息を吐いて、「はいはい、分かりましたよ」と呆れた笑いを見せつつ部屋を後にした。
ママが出て行った後、老人は苦笑いを浮かべて言った。
「…あぁ、そんな習慣もあったねぇー…ここ最近、新顔が来てなかったから、すっかり忘れていたよ。…でもー」
と、ふと神谷さんがいつも座っているあたりに目を落としつつ続けた。
「今日は先生がいないんだし…しなきゃダメかな?」
「ダメですよ?」
とここで瞬時に口を挟んだのは武史だった。武史は口元をニヤケつつ続けた。
「僕だってしたんですから、寛治さんだけ無しってわけにはいけませんよ」
「あぁそっかぁ…君もしたんだね?いやー…見知った中で改めて自己紹介をするというのは、恥ずかしいんだけれど…」
と老人は、これまたさっき武史がボヤいたのと全く同じ内容を漏らしていたが、諦めをつける様に一度息を吐くと、私と絵里の方に顔を向けて、笑顔で話してきた。
「えぇー…僕の名前は佐藤寛治と言います。普段はアメリカのワシントンでチョコチョコと動き回って過ごしています。えぇっと、他に何を言えばいいのかな…?あ、あぁ、歳は今年で六十三になります。んー…まぁ、そんな感じでよろしくね」
どんな感じだ?
と思わず反射的に突っ込みを入れたくなる様な自己紹介だったが、「はい、よろしくお願いします」と一応笑顔で返すのだった。
ただ情報が何だかあやふやだったので、ついついあの悪いクセが発動しそうになり、口から言葉が漏れそうになったその時、横から義一がまるで私の心を読んだかの様に、寛治の話に付け加えてくれた。
「ふふ、寛治さんは謙遜を含めてあゝ話したけれど、僕から少し詳しく言うとね、ワシントンというアメリカの首都で、その政治の中枢まで入り込んで、向こうの高官レベルの人と対等に議論を交わす様な人なんだ。これは違う人から聞いた話だけれど、この先生、アメリカの悪口ばかりを言うから煙たがられてはいるんだけれど、その反面とても面白がられてるって話なんだ」
「へぇー…じゃあ寛治さんって、政府の人なの?」
と私が当然の帰結としてそう聞くと、寛治は一瞬目を見開いたかと思うと、「ヒヒヒヒ!」という、声を裏返しつつとても特徴的な笑い声を上げた。あまりにあっけらかんと笑うので、思わず一緒に笑ってしまうほどだった。
寛治はその笑みを絶やさぬままに答えた。
「いやいや、僕みたいな好き勝手喋る様な輩は、とてもじゃないけど、今の日本政府の中には入らせて貰えないよ。…偽善で凝り固まった”ポリティカリーコレクトネス”を尊重する様なね」
「”ポリティカリーコレクトネス”っていうのはね?」
と、私が質問する前に義一が横で注釈を入れてくれた。
「まぁ…”政治的正しさ”くらいな意味だよ」
「そうそう!」
とさっきからヤケにハイテンションで寛治が応じていたが、ふと私の中でまた”なんでちゃん”が目を覚まし起き上がった。私個人としては当たり前の疑問が湧いたのだ。
ただ本来ならすぐに質問をするのだが、今回は少しばかり勝手が違っていた。何せ今日は…言うまでもなく絵里が同席していたからだ。
私が小学生の頃に絵里が言った事、『質問をする前に、取り敢えずでも構わないから自分の意見をまず持ってからでなきゃダメ』というアレだ。私はこれまでも何だかずっと胸の中を占めているこの言葉、質問する度に胸に去来しないことが無かったが、それが今回はその元が隣にいるのだ。自然と少し構えるのも無理はないだろう。…まぁもっと単純に言えば、絵里に突っ込まれるのを恐れていただけなのだが。
それはともかく、絵里を横目でチラッと覗くと、絵里も丁度私の方を微笑みつつ見てきていたので、間に合わせに微笑み返した。取り敢えずこの場は引き下がることにした。
何も慌てて今聞くこともないだろうと判断したからだった。
とその時、ふとドアが開けられ、それと共に食欲をそそる料理の薫りが今座っている席まで漂ってきた。それに誘われる様に後ろを振り返ると、いつもの様にママとマスターがそれぞれ二つのカートを押して入ってきた。
ママと目が合うと、ニコッと私に微笑んで、それから一同をそのままの笑顔で見渡してから言い放った。
「そろそろ頃合いでしょう?お食事の時間ですよ」
第4話 数寄屋 b
普段と変わりなく、マスターとママがテキパキと効率よく大皿に乗った多種多様な料理と、人数分の小皿などを配膳していった。途中からはマスター一人に任せると、ママは一人一人に飲み物のお代わりを聞いていった。皆はお代わりを頼んでいたが、種類は変えずにいた。これもいつも通りだ。私も相変わらずのアイスティーだ。
「えぇーっと…絵里さん、よね?」
私の注文を聞き終えた後、ママは笑顔のまま絵里にもお伺いを立てた。
「え、あ、は、はい…絵里です」
と絵里は何だかぎこちない調子で、顔も合わせたかの様な笑みを浮かべて返した。
そんな様子が面白かったのか、ますます笑顔雨の度合いを強めつつ、絵里の前に置かれた空のワイングラスを指しつつ聞いた。
「どうだった、そのワインは?お口に合ったかしら?」
「え、えぇ…まぁそのー…」
とまだ拙いままに返していたが、
「えぇ、お世辞じゃなく本当に私好みの味でした!」
と、途中から普段の調子に戻って返事した。
それを聞いたママは笑顔で腰に両手を当てて「そっか、それは良かった!」と満足げにウンウン頷いていた。
「流石はソムリエさんですねぇー。初対面の私の好みを、ほんの少しの会話なりから察して、合ったワインを出せるんですから」
と絵里が自然体で心から感心している風で言うと、「ふふ、ありがとう」とママは初めのうちは明るく返していたのだが、その直後、途端に何だか気まずそうな、照れ臭そうな笑みを浮かべたかと思うと、横目でチラッと、寛治や武史達と談笑している義一の方を見つつ、絵里の顔の側まで自分の顔を近づけて、今度は悪戯っぽく笑い、
「何でそこまで分かったのかというマジックのタネは、食後にあなただけに内緒で教えてあげる」
と言い終えると、最後にウィンクをした。
「は、はぁ…」
絵里がまた戸惑いの表情を見せたが、それには構わず、ママは足取り軽やかに、自分の押してきた今は空になったカートを押して部屋を出て行った。
それからは何食わぬ顔で注文された飲み物のお代わりを持ってまた入ってきて、それを各々の前に置いて、配り終えると「ではごゆっくりー」と、これまた毎度の間延び気味の声と共に、無言のマスターと共に部屋を後にした。
「さて、皆に飲み物と食事が渡った所で…」
聡は一同を見渡しながらそう声を出したのも束の間、途中で寛治に視線を移し、
「では今日は、年齢順ということで、ここは寛治さんに音頭を取って貰いましょう」
「えぇー、僕ー?…仕方ないなぁ」
寛治はいかにも面倒だという感情を惜しげも無く顔中に浮かべていたが、それでもわざわざその場で立ち上がり、飲みかけの野菜ジュースの入ったグラスを高く掲げ、私の方をチラッと見て、ニコッと笑ったかと思うと明るく声を上げた。
「では…今日の主役は琴音ちゃんの様だから、そのー…取り敢えず、琴音ちゃんの前途を祝して…かんぱーい」
「かんぱーい」
カツーン
それからはまた一同からお祝いの言葉を貰った。そして、最後に寛治からも「おめでとう!」と短かめのお祝いの言葉を貰った。それに対して私も短く「ありがとうございます」と同じ様に短く笑顔で返すのだった。
それから暫くは、出された料理に皆して小皿に思い思いに取りつつ、雑談しながら食事した。料理の内容は、やはり幾らかの小品に変化はあったが、大体前からと大きな変化は無かった。尤も、私は今回で三度目だが、メンバーもほぼ同じなのだから仕方がない。ただそれは、メンバーが変われば料理も変わるという事なので、大皿に乗った料理にも品が少しばかり増えていた。具体的には三品だ。寛治の側に置かれたお皿の上には、ズッキーニとシイタケをオリーブオイルで炒めて、塩、胡椒、砕いたパルミジャーノチーズを入れてさっと混ぜあわせた物だった。武史の側には、餃子と、パッと見つくねに見えるが、鳥の挽肉にシソと生姜を加えて、それをラップでソーセージ状に丸めて包み、冷蔵庫に暫く置いたそれを熱したフライパンで焼いた、所謂皮なしのソーセージが乗っていた。そして私と絵里の側には、私の好物である鳥の唐揚げに、それと共に下ごしらえを施した鳥の挽き肉を粘り気が出るまで捏ねて作った肉ダネを、ピーマンに詰め込んで、熱したフライパンで焦げ目がつくまで焼き、その後は弱火で蒸し焼きにした、通常のよりも少し凝ったピーマンの肉詰めが乗っかっていた。
私と絵里の好物は被っていて、特に肉においては、何を置いても鳥肉が好きだというのが共通していた。だから前回までの食事にも、何かしらの鳥肉料理が出されていたのだった。絵里については、それをどこで知ったか、ママとは別に、マスターはマスターでしっかりと好物を把握していた。
私の分は、普段は義一が選り分けてくれていたのだが、今回は絵里が何も言わずとも率先してしてくれた。
「はい、琴音ちゃん」と絵里が渡してきたので、「うん、ありがとう」とお礼を言いつつ受け取ると、美保子がテーブルの向こうから「絵里ちゃんって、案外女子力高いのねー」と悪戯っぽく声をかけてきたので、すかさず「”案外”は余計ですよ」と絵里は突っ込んでいた。その二人の様子を見て、私と百合子は顔を見合わせて微笑み合うのだった。絵里はすっかり初対面にありがちな”壁”が薄れた様で、傍目からみると普段通りに見えた。
それからは美保子、百合子、絵里、そして私の女四人で、取り止めのない話をした。
「へぇー、絵里ちゃん、日舞の名取なんだ」
美保子が声に感心している様な雰囲気を持たせつつ言った。
「まぁ…それこそ名ばかりですけれどね」
と絵里は照れ臭そうに、私にチラッと横目を向けつつ少し恐縮しつつ答えた。それに対して私は意地悪っぽくニターッと笑い返すのみだった。
絵里が私に向けた視線には、少し恨みがましさが滲ませてあった。まぁそれも然もありなんといったところだろう。何故なら、誰にも聞かれていないのに、私がポロッと絵里の正体をバラしてしまったのだから。絵里は基本的に自分が日舞の家庭だというのを伏せたい体らしかったが、これは私の勝手な我儘だと知りつつも、ことこの数寄屋に集う様な美保子や百合子といった、芸に通じている人に対しては、バカにしているつもりは無いが一介の図書館司書としての絵里よりも、日舞の名取としての絵里を紹介したかったのだ。
それからは美保子と百合子の質問ぜめが始まった。私はそれをニコニコしながら聞いていたが、話の流れの中で、この時に新しい情報が手に入った。実は百合子は二十歳までバレエに真剣に取り組んでおり、わざわざパリの養成スクールまで行こうかというところまでいっていたらしい。これを聞いて、話に夢中になってる百合子の顔を見つつ成る程と思った。身長は今年でとうとう追い抜いてしまったが、それでも女性としては背が高い方の百合子のスタイルは、どのパーツも程よくシュッとしまっており、パッと見細身に見えるのだが、どこかしなやかな筋肉が内在されている様にも見えていたからだ。恐らく十代の頃までに培われたものが、今の百合子を支えているのだろう。ここでは軽くしか触れられないが、以前にマサさん経由で教えられた様に、一五歳の時に女優デビューしているわけだが、その理由というのも元々はそれが何かバレエの役に立つのでは無いかとの考えからの様だった。これは本人が恥ずかしそうに話していたが、何でも街を歩いていたら、律や私が遭遇した様なスカウトに勧誘されて、一度は断ったらしいが、その道をよく通っていた百合子の顔をスカウトの方が覚えていて、見かける度に同じ様に話しかけてきたらしい。繰り返しそんな事が起きると徐々に百合子の方で考えが変化していって、まぁそんなに言うのならと折れてこの世界に入ったというのが本当の様だった。ここからは百合子本人は絵里に対して苦笑いを浮かべて、しかしあっけらかんと言うところによれば、結局バレエダンサーへの道は険しく、高い壁に阻まれたというんで、二十歳になるかならないかという一時期は自暴自棄になっていたらしいが、名前は出さなかったが、デビュー作以来会ってなかったマサさんと不意に再会し、そこで意気投合してタッグを組み、それからは数々の作品を作っていく過程で、徐々に傷ついた心が癒されていったという話だった。
初めのうちは、私が秘密を漏らした事で少し不満げに不機嫌な様相を示していたが、次第に百合子のそんな話に飲み込まれて、最後は自分から日舞について話をし出すまでになっていた。
百合子の話が終わり、今度は絵里が自分の日舞の経歴について話をし出そうとしたその時、ふとさっき沸いた疑問があったことを思い出した。
横目でチラッと絵里を見ると、とても楽しげに夢中で話をしているのを確認して、今まで体を若干女グループに向けていたのを、反対の男グループにクルッと向きを変えた。
ちょうどその頃、義一、聡、武史、寛治の四人は、近況報告が終わった辺りのようだった。
とこの時、ビールに口を付けていた武史と目が合った。
武史はジョッキから口を離すとニコッと笑いながら、ジョッキを軽く持ち上げつつ話しかけてきた。
「…おっ、琴音ちゃん、楽しんでるかい?」
「は、はい」
「そっか!」
とここで武史がおもむろにジョッキを私に近づけてきたので、恐らくその事だろうと、私も手にグラスを持ち、それをカツンとぶつけた。
「お、分かってるねぇー」
武史はそうまた笑顔で言うと、グビッと一口やるのだった。私も倣ってストローから一口分啜った。
「でも何だか感慨深いなぁ」
と何の前触れもなく口を開いたのは寛治だった。
寛治はお酒を飲んではいないはずだったが、心なしか顔が上気している様に見えた。口調も若干ふわふわしている。
寛治は私にニコニコと人好きのする笑みを向けてきつつ話しかけてきた。
「君のことは大分前から、そこにいる義一くんから聞いていたんだよ。何かにつけて外見と内面を褒めちぎってくるものだから、せめて写真だけでも見せてよって頼んでも、それは頑なに見せてくれなかったからさぁ…こうして今日実際にお目にかかれて光栄だよ」
と何だか最後に大げさに仰々しく言われたので、影で私の話をした事について、さっきの絵里の様に意地悪く突っ込もうかと思ったが、興が削がれてしまい、「あ、いえいえ…」とだけ返した後、そういえばまだ寛治に対して自己紹介をしていない事に気づき、この時に慌ててしたのだった。
自己紹介を終えると、寛治は「うん、これからも、雑誌共々よろしくね」と笑顔で先ほどの武史の様にグラスをこちらに差し出してきたので、「はい、お願いします」と私も同じ様に前に突き出して合わせた。
そしてお互いに一口ずつ飲むと、おもむろに義一が私に顔を向けて口を開いた。
「寛治さんは、僕らの雑誌の黎明期から寄稿されていてね、ずっとアメリカ政治の事とか、それに加えて世界情勢についての話を書いて貰っているんだ」
「へぇー」
「寛治さん…ってあれ?寛治さんはアメリカに行ってどれくらいになるんでしたっけ?」
と義一が聞くと、寛治は「うーんっとねぇー…」と語尾を伸ばしつつ考えて見せたが、息が切れるちょうどその時、ハッとした表情を見せると、笑顔で答えた。
「確かー…ワシントンには三十年くらいになるのかな?…って」
とここで、寛治は私に向かって何だかバツが悪そうな表情を見せると、
「僕みたいな変なおじさんの経歴なんか聞いても、面白くも何ともないよね?」
照れ臭そうに言ったので、私はこの時正直どう言う態度を取ろうか悩んだが、一度義一にニターッと意地悪く笑って横目を流し、視線をそのままに顔を寛治に向けると、生意気な調子で返した。
「いえいえー、変人なのは、ここにいる義一さんで慣れていますので。むしろ…そんな人のお話をお聞きしたいです」
「ヒドイなぁ」
と隣の義一は苦笑いを浮かべつつそう突っ込んできたが、それには相手をせずに、寛治の反応を待った。
寛治は私の返しを聞いた瞬間はぽかーんとしていたが、すぐに例の「ヒヒヒヒ!」という特徴ある笑い声を上げた。
「いやぁー、なかなかの跳ねっ返り具合だねぇー…気に入ったよ!」
寛治は益々声を裏返しつつ言ったが、ここで一度クールダウンをする様に一度大きく息を吐くと、笑みを湛えたまま話し始めた。
「んー、何から話せば良いかな?…ま、そっか、時系列で述べるのが一番手っ取り早いね。神谷先生の話もしやすいし。僕はね、十八の時に駒場の経済学部に入ったんだけれど、その時ちょうど、神谷先生が准教授として入られたんだ。でね、先生はゼミを持たれていたんだけれど、それが結構人気があってねぇ…自分で言うのも変だけれど、昔から天邪鬼なところがあって、それなりに勿論興味があったし正直ゼミに入ってみたかったんだけれど、人気があったから結局やめちゃったんだ。だから、僕が先生と知り合うようになるのは大分後なんだけれど…って、こんなグダグダと話していて良いのかな?」
「琴音ちゃん、どう?」
まず寛治がまた苦笑いを浮かべつつ聞いてきた後に、すかさず何故か駄目押しをする様に義一も問いかけてきた。私は笑顔を浮かべて、「えぇ、構いません」と返した。
寛治は「そうかい?」とまだ表情を変えないままでいたが、そのまま話を続けた。
「じゃあいっか。でね、その時いつも連んでいた友達がいてね、今も関係が続いているんだけれど、そいつが神谷先生のゼミを受講していてさ、何かとその中身の話をしてくれたんだ。そいつの名前は佐々木宗輔っていうんだけれど…」
「佐々木宗輔…あっ」
どこかで聞いたことがあると思えば、それは雑誌オーソドックスの顧問の一人だった。因みに顧問という肩書きが付いているのは、神谷さんと佐々木って人の二人だ。
「雑誌の中で、いつも神谷先生の隣に書かれている人の事ね?」
と思わずそう声を漏らすと、寛治と義一、そして何故か武史までもが私に笑顔を見せた。
「そうそう、良く見て覚えていたね」
と義一が話しかけてきた。
「う、うん、まぁ…」と、それに対して何と返せば良いのか分からず、取り敢えず間を埋めるためだけにアヤフヤな返しをすると、今度は寛治が話を続けた。
「そうそう、雑誌で先生と一緒に顧問をしてるヤツ。アイツはね、実質先生の一番弟子でね、要はそこにいる聡君の兄弟子って事になるのかな?」
「いやぁー、照れるね」
聡は一人何故か照れ臭そうに笑っていた。
「それでね、奴は今は京都の旧帝大で人間社会学の教授をしているんだ」
「へぇー…随分と息の長い師弟関係なんですね」
「うん、そうだねぇ」
「そう!」
とここでまた義一が口を挟んだ。顔には悪戯っ子の様な笑みを浮かべている。
「僕と違って、正式な弟子って感じなんだよ。まぁ…たまに雑誌の企画で東京に来られる事もあるんだけれど、僕でも滅多には会えないんだ」
「ふーん…って、あ!」
段々話が逸れてきている気はしたが、持ったが病で、思いついた事を言わずにはおれない浅ましい性分が故に、私から武史に話しかけた。
「ということは…武史さんは、その佐々木さんと何かしら関係があるんですか?そのー…同じ大学に所属してますし」
そう私が聞くと、「おー!」と武史は大袈裟に声をあげて見せたかと思うと、ニコッと笑ってから「そうだよ」と返した。
「もうね、関係があるのかっていうか、大有りだよ。何せ僕は佐々木先生の弟子なんだからね」
そう言う武史は、気持ち胸を張って見せていた。
「なるほどー、という事は神谷先生にとっては孫弟子という事になるんですね?」
「そう、そういう事」
武史はまたニコッと笑った。ただでさえベビーフェイスなのに、この様に無邪気に笑うと、何割り増しか益々実年齢よりも幼く見えるのだった。
「まぁ何だか脱線しちゃったから話を戻すと」
寛治はまた穏やかな笑みを湛えつつ言った。
「宗輔はそのまま先生の元で勉強をしていたんだけれど、僕は卒業してアメリカに渡ったんだ。僕も一緒に勉強しないかって誘われたんだけれどね」
「…どうしてその誘いに乗らなかったんですか?」
私はまた頭に浮かんだ疑問をそのまま投げかけた。すっかりすぐ脇に絵里がいるのを忘れてしまっていたが、この時は運良く突っ込まれる事は無かった。まぁ突っ込まれなかったが為に、拍車がかかったとも言えるけど。
初対面に等しい私の遠慮ない問いに、寛治は嫌な顔を一つせずに、答えた。
「うん、それはねー…んー…少し込み入った話をしても良いかな?」
答えてくれるものとばかり思っていたのに、急にここに来て初めて少し真剣味を帯びた表情を見せたので、これまた急だなとあっけに取られてしまったが、ハッと思い付くと、ミニバッグからいつもの癖でメモ帳を取り出し、ペンを手にして「はい」と短く返した。
そんな私の様子を見て、宗輔だけではなく武史も一瞬目を丸くしたが、すぐにフッと力が抜けた後の様な柔らかな笑みを浮かべて見せた。これは私は気付かなかったが、後で聞いた話では、この時女三人組の雑談に一区切りがついた様で、絵里を含めた三人共が、私たちの方に注目していたらしい。
それはともかく、寛治は私がメモを用意した事には触れずに、口調も柔らかく、相変わらず所々声がひっくり返りながら話した。
「今でもそうなのかなぁー…うん、今の日本の政治状況を見る限り変わってないんだろうけど、僕が通っていた駒場にはね、教養学部っていうのがあったんだけれど、その中に通称アメリカ学科というのがあったんだ。正式名称は、今ちょっと思い出せないけれどね。僕はさっき言った通り経済学部に在籍してたんだけれど、他の学部の授業も受講出来たから、試しに入ってみたんだ。まぁ昔の経済学というのは、いわゆる”マル経”か、それとも無きゃ今もだろうけど学ぶのはアメリカ仕込みのモノだって相場が決まっていたから、そのふた通りしかないのなら仕方ないと、アメリカンな方を選んだけど…って、いやぁー…こんな話、話すのはー…」
とここまで話したところで、不意に寛治は語尾を伸ばしつつ、まず私、そしてその後に義一の方を見て、何だか顔色を伺う様な顔を見せたが、私の位置からは表情が見えなかったが、義一は一度大きく頷くと、「この子は大丈夫です」と短く、しかし何だか口調に自信を滲ませて返した。
それを聞いた寛治は、一度こちらの方をまた見たが、私が表情を変えずにまっすぐただ視線を返すと、「…そっか」と、フッと息を短く吐いた後に言うと、そしてまた穏やかな表情で先を続けた。
「でね、アメリカ仕込みの学問を学ぶなら、まずそもそもアメリカってどういう国なのかって根本のところを学ぼうって思って受講したんだ。そしたらね…いやぁ、酷かったんだ」
そう言う寛治は、顔中にウンザリさ加減を全面に打ち出していた。口調にも感情がこもっていた。
「何が酷いってね、教授たちが皆して、何かにつけて融和がどうのとか、みんなで話し合えば世界平和が実現するんだとかって話ばかりするんだよ。でね、具体的に言うと、第一次世界大戦の時にアメリカで大統領をしていたウッドロウ・ウィルソンってのがいてね、こいつが国際連盟なんてへんてこりんな物を作って、そこで全世界の代表が集まって話し合えば、戦争の無い世の中が訪れるはずだって言ってたんだ。そんな理想主義をね、駒場の教授たちはこぞって何かにつけて口にしてたんだ」
ここまで話すと、寛治は一度ジュースを口にして一息入れると、少し何だか呆れたと言いたげな表情を浮かべて続きを話した。
「僕はね、何かにつけて平和だ平和だ言う教授たちの話を聞いてね、理屈はまだ分からなかったけれど、直感的に違うんじゃないかっていう違和感を覚えたんだ」
「それは…?」
と私が合いの手を入れると、寛治は途端に悪戯っぽい笑みを浮かべて返した。
「それはね…琴音ちゃん、さっき君が自己紹介をしてくれた中で、古典…特に一九世紀のヨーロッパ・ロシア文学が好きだって話してくれたけど、実は僕もそうだったんだ。僕も十代の頃は頻りにそんな本ばかり読んでいたんだけれど、それらの作品が頭に入っているとね、当時教授たちが話す平和が成就するという理想論には与する事が出来なかったんだ。あまりに現実的じゃなくて」
「…それは分かります」
私は思わずそう返した。今の様な具体的な事例では議論したことが無かったが、本質的には散々義一としてきた事だったからだ。
「今寛治さんから聞いただけですけど…知ったかぶって言うのじゃないんですけれど、そんな私でもそれが単なる机上の空論によって生まれた理想論っていうのは分かります。だって…まだ中学生の私ですら、世の中がそんな綺麗事でうまく収まるだなんて、微塵も思わないですもん」
こう話している間、この時に初めて隣から痛いほどの視線が浴びせられているのに気づいたが、それには目もくれずに、今目の前の議論に集中した。
寛治はここ一番の真剣な表情で私の話を聞いていたが、話し終えると、寛治は「はぁー…」と、感嘆とも呆れとも取れる様なため息を一度吐くと、私と義一を交互に見てから口を開いた。
「琴音ちゃん…君ってまだ、自分で言ってたけどまだ中学生なんだよね?いやはや…あ、ハハ、義一くん、そんな目で僕を見ないでくれよ。君に予め言われた通り、下手に褒める様なことは言わない様にするから。まぁ気持ちは山々だけどね…。さて、琴音ちゃん、まさに今君が言ってくれた通りの事を、僕も当時思ったんだ。そんな事を大学時代四年間ずっと、何度先生を変えても同じ事を言われ続けてね、言われるたびに僕の中で疑念がますます膨らんでいったんだ。もう膨らみ過ぎていてね、もうすっかり経済学の事なんか興味はすっかり無くなってしまってて、その代わり所謂”政治学”の方に関心が移っていったんだ。それでね、アメリカというのが本当に教授たちがいう様な国なのかを確かめたくなって、それで大学を卒業と同時に渡米して、それで今に至るんだ」
「はぁー、なるほど…よく分かりました」
私は少し恥ずかしながらも隠す事なく話してくれた寛治にたいして、笑顔でお礼を言った。寛治は言葉には出さなかったが、ただまた人懐っこい笑みを浮かべて応えてくれた。
と、ここでふと今の寛治の話から、要点になりそうな所を拾い上げてメモしたものをチラッと見て、一番聞いて見たかった事を思い出した。話の流れからも不自然ではないだろうと確認して、早速寛治にぶつけて見た。
「あのー…」
「ん?何かな?」
「今の話に関連して…一つ質問してもいいですか?」
「あぁ、良いよ。何かな?」
「そのー…」
私はここでもう一度手元にあるメモに目を落として確認してから、顔を上げて、寛治にまっすぐ視線を送りつつ聞いた。
「寛治さんは先ほど、日本政府の事を”偽善的なポリティカリーコネクトネス”って揶揄してましたけど、そのー…”偽善”って何ですかね?」
「え?」
寛治は、この私の質問は想定外だった様で、目をまた大きく見開きこちらを見てきた。それは、義一の向こうに座る武史も同様だった。と同時に、先ほどから左隣から注がれていた視線が強まっていたのもヒシヒシと感じていた。絵里も少し驚いた様子なのは、付き合いが長い分見なくてもわかった。
寛治はフゥッと一度息を吐くと、義一に一度苦笑を漏らして、それから私に声をかけた。
「いやー…義一くんに前情報をもらっていたとは言え、実際こうして容赦の無い質問を掛けられると、驚いてすぐには返せないものだねぇー。いや、何も文句を言いたんじゃ無いよ?むしろ…こんな質問をされて、僕はとても嬉しいんだ。武史くんだってそうでしょ?」
そう話を振られた武史も、ニコッと私に笑顔を向けてきながら「えぇ」と短く返していた。
「中々ねぇ…あ、いや、少し話が逸れちゃうかも知れないけど、今日僕はここに来る前に、ある大学に呼ばれてね、そこの教授がこれまた僕と駒場時代からの友達だから、その繋がりで講演を頼まれて、少し今のアメリカと、それに関連した世界情勢について話してきたんだ」
「その大学はね…」
とすかさず義一が注釈を入れてくれたのは、三田にある、有名な私立大学だった。
寛治は義一に同意する様にコクっと一度頷くと、そのまま話を続けた。
「一時間ちょっと話した後に、質疑応答の時間があったんだけれど、まぁ話題が話題だから仕方ないかも知れないけれど、何だか今のアメリカの状態についての質問に終始してね、今君がしてくれた様な、もっと本質的な所を突いてくる様な質問者はいなかったんだ。…さて、遠回しに君を褒めることに成功したところで、議論をしてみようか?」
そう言う寛治は、とても子供らしい無邪気な笑みを浮かべていた。
「さて、偽善かぁ…。まぁさっき僕は日本政府を揶揄したけれど、これは日本に限った事じゃなくて、アメリカでも…いや、いわゆる先進国に蔓延している現象とも言えないこともないんだよ。それでもまぁ…日本がとりわけ酷いのはそうなんだけれど…。まぁそれは置いといて、偽善…これって定義をするのは難しいよねぇー…そういった仕事は、今はここにいないけど神谷先生や、ここにいる武史くん、そして義一くんに譲りたいけれど…今の話に沿わせて言えば、要は誰の為にその行為をしようとしているのかに尽きると思うんだよね」
「それってつまり…”善”と”偽善”の違いって事ですか?」
「そう、その通り。善と偽善…。琴音ちゃん、君はこの二つの違いについて聞かれた時、君ならなんて答える?」
「え?うーん…」
そうだった。何も絵里が側にいようといまいと、このお店での議論では、まず私みたいな若輩相手にすら、キチンと考えを聞いて来るのがある種の慣習になっていたのだ。それが頭にあれば、初対面とはいえ、雑誌オーソドックスに集う一人である寛治が私に対してそんな質問を投げかけてくる事くらい予測していなければいけなかった。まぁもっとも、これは言い訳ではなく、その現実をしっかり分かった上で、先程来ずっとたわいも無い会話をしている時ですら、頭の片隅で考えてみた事ではあったが、これという事は思いつかず、ある一つの事しか思い浮かばなかったので、取り敢えずそれを言ってみることにした。
「私も考えてみたんですけれど…今寛治さんが言われたことにも関連するんですが、昔から言われている慣用句の一つに”情けは人の為ならず”というものがありますよね?」
「うん、あるねぇー」
そう返す寛治の顔には、既に私が何を言いたいのか気づいた色が見えていたが、そのまま先を話す事にした。
「これを中には、情けを人にかけてはならないと斜めの方向に解釈している人が稀にいるらしいですが…まぁそれはともかく、これってつまり、字引的な言い方をすると、『情けを人にかけておけば、巡り巡って自分に良い報いが来る』てな具合になると思うんですけれど…ちょっと話が脱線しますが、この解釈もちょっと間違ってるんじゃないかって思うんです」
「うん、構わないよ。面白いから続けて?」
寛治に、まるで神谷さんとダブる様な返しを貰い、それによって少し勇気を貰った私は先を続けた。
「は、はい。それというのも、もし今私が言った通りだとすると、こう突っ込まれると思うんです。『なーんだ、報いが来るのを期待して誰かを助けるのか。じゃあ、報われる期待が全く無ければ、情けをかけなくてもいいんだな?』って」
「…くく」
とここで吹き出したのは、武史だった。
武史はニヤつきながら私に顔を向けると、「その通りだな」と同意を示した。私は何も言わずに、その同意に対してただニコッと笑顔で返すと、先を続けた。
「でもこれって、この慣用句を誰がいつ作ったのか知らないですけれど、本来の意図では無い気がするんです。皆さんの前で出しゃばって言うのはアレだけど…こうして現代人が解釈することが、如何にも上っ面の表面しか、目に見えるものしか信じない様な浅薄の、悪しき功利主義の弊害の結果だと思うんです」
「それはあるねぇー」
とここで不意に声を出したのは、美保子だった。
私がそちらの方を見ると、美保子はワイングラスを揺らし、中の赤ワインを揺らめかせながら滔々と言った。
「その話と関係あると思うんだけれど、よく今時の若い人が努力しないって言うじゃない?まぁそう言ってる年寄りが努力してきたとは到底思えないんだけれど。まぁそれはさて置いて、人に聞いた話だけれど、何で努力しないのかって若い人に聞くと、『どうせ努力したって無駄だ』って答えるらしいのね?『努力したって報われなければ意味ない』って。でもこれは、こう言ってる人が、全く努力というのを勘違いしているって事だと思うの。…ふふ、琴音ちゃん、あなたに質問される前に、先回りして私の考えを述べればね、まぁこれは一応少なくともここに集う人たちの間では何度も議論を重ねて同意を得られた定義だから、私だけの意見って訳じゃなく”オーソドックス”の総意と受け取って貰っても構わないけど、それはこうなの。『努力というのは、世間が言うように、ただ人に課題を与えて貰って、それを期日以内にひたすら片していくようなものではない。自分にはもしかしたら不可能かも知れないと思うけど、それでももしそれをこなす事が出来たら確実に自分が一歩成熟出来ると思える課題を見つけて、それを己に課し、一生かかってでもそれに必死に取り組み続ける…これを努力というんだ』とね。これについては琴音ちゃん、まぁ、予め私たちの総意って前置きを置いといて卑怯だけれど、率直に言ってどう?この意見に対して、何か疑問はあるかな?」
美保子がそう問いかけると、その隣にいた百合子も含めた一同が、それぞれ各様の静かな笑みを浮かべつつ私の反応を待った。
色々と美保子が気を使った言い方をしていたが、そもそもこの話も、私は私で義一と宝箱で何度か議論をし合ったので、答えるのは容易だった。
私は微笑みつつ、しかしやっぱり少し意地悪さを加味して「うん、私もそう思う」とだけ返した。
「そう?良かった」と美保子は胸に手を当てて、大げさにリアクションをとって見せた。その直後に何やら百合子に突っ込まれていたが、ふと寛治に話しかけられたので、意識はそっちに取られた。
「思わぬ流れで同意を得られたところで、話を戻そうか。…うん、本当に君は中学生かって問い質したくなる程に、難しい言葉を無理に使うのでも無く、慎重に言葉を運んでくれたねぇ。…うん、僕もそれには同意だね。人に情けをかけるというのは、得するとか損するとか、そんなクダラナイその時の気分で容易に左右にブレる基準の元での損得勘定でするものでは無いよね?でもこういう反論をすると、すっかり頭の先まで薄っぺらい功利主義に染まった人ならこう返すと思う。『じゃあ逆に聞くけど、どんな他の理屈があって人に情けをかけなければならないんだよ?』とね。これに対しては、君ならなんて答える?」
「うーん…まず直感としては、そう言う人物に対して侮蔑の情が湧いて、虫酸が走りますけど…」
私はそう言いながら、両腕を交差させて両手を二の腕に触れさせ、まるで寒がっているかの様に摩って見せた。
「結局やっぱり浅いレベルでの功利主義なんですよねぇ…私ならこう答えます。『理屈じゃないんだ。これは遥か昔から人々がこれが”善”だと思って培ってきたものなんだ。それを高々今しか生きないロクな基準を持っていない現代人が、何の権利があってそれを踏みにじる必要があるのか?その理由を教えてくれ』と。…まぁ、質問に対して質問で返すという、ある意味最悪な返しですけど…」
と私は一人照れ隠しに苦笑まじりにそう言い終えると、その直後に「いや、本当だよなぁー」と合いの手を入れてくれる者がいた。
声の方を見ると、それは武史だった。武史は目を瞑り腕を組みつつウンウンと頷くと、少し座り位置を前にして、私と顔が良く合う様にすると、笑顔ではあったが若干の苛立ちを交えた様な表情を見せつつ言った。
「何の資格があって言うんだって。大体いわゆる括弧付きの功利主義に毒されている老若男女問わず多くいる連中ってのは、そもそも品が無いよなぁ…琴音ちゃん、今君が言った通りにね?しかもそれを言って恥とも思わずに、しれっとしてるんだからなぁ。つまりは道徳がないって事なんだねぇ」
「私もそう思います。…って生意気ですけど」
とここで何だか武史の話し振りから、そうしても悪く思われないと判断して、少し悪戯っぽく舌をチロっと出して見せた。
するとその目算は正しかったようで、武史もニターッと笑い返してくれた。
「だよなぁー。…人生において、何で道徳が必要なのか、それすらも白髪頭の年寄りには分からなかったりするから…あ、いや、寛治さん達は違いますよ?」
「ヒヒ」
と寛治はまた例の笑い声を上げた後、すかさずジト目を武史に向けて、口元をニヤかしながら言った。
「フォローを入れる事で、余計に嘘くさくなってるから」
「そうですかー?」
と武史もチャラけてそう返したが、私に視線を戻すと、表情はまた静かな笑みへと変わっていた。
「もしかしたら義一と話したことがあったかも知れないが、敢えて簡潔に簡単にいえば、道徳が必要だという大きな論拠の一つは、何が善くて、何が悪いかの基準が無ければ、人生の目標も立てられないって事なんだよ。つまり道徳が無ければ、世の中の大多数みたいに、目先の儲け…いや、これも結局その場しのぎ的な物だから、結果として儲かってるのかも疑問だけど、それを目標にしてるから、繰り返しになるけど浅いレベルの功利主義に足元を掬われるんだなぁ」
「…はい、全面的に賛成です」
と私は、武史の推測通り、宝箱での義一との議論を思い出しつつ、はっきりとした口調で返した。それに対して、武史は如何にも満足そうにウンウンと頷き、たまに義一にも視線を流しつつ笑みを浮かべた。
「まぁ大体議論がまとまってきたところで」
とここで寛治は、空気を変えるように口調も明るく声を発した。
そして私に朗らかな笑みを浮かべつつ話しかけてきた。
「さて、君からの疑問に、僕が思う善と偽善の違いについての考えを述べてみようかな?いいかい?」
「はい」
私はいつもの様に、メモの上に手を置くという臨戦態勢を取って返事した。
「うん、じゃあ言うとね…正直僕が思うに、この二つを分ける大きな理由はこれしか無いと思うんだよ。それはね、その行為をどの目線で見て判断してしてるのかって事」
「…なるほど、その”視点”が大事って事なんですね?」
私はそうメモしながら返すと、寛治は一度ニコッと目を細めてから応えた。
「そう。つまり結論から言っちゃうとね、善というのは、人の目を気にせずに、何と周りに思われようと、何度も繰り返し考え考え抜いてみて、どう考えても正しいと思われる事を成す事だと思うんだ。じゃあ偽善は何かというと、その逆で、自分自身がどう考えているのかは二の次で、それをした事によって、周りが自分のことをどう評価してくれるのか、それに比重を置いて行為する事と称したいんだ」
「ふんふん…」
と私がメモに寛治の話した内容、それについての私の感想を書き込んでいると、「…なるほど、でも…」と不意に隣で今まで静かにいた絵里が口を開いたので、私はあまりに意外に思ったために、バッと勢いよく顔を上げると、絵里の顔をまじまじと見た。
絵里はそんな私の様子には目をくれずに、そのまま寛治の方を真っ直ぐ見ながら、顎に手を当てて考えてる様子を見せつつ続けた。
「今寛治さんが言われた事は、結構すんなり入る様な気はするんですけど…善についてのところ、それは聞き様によっては何だか唯我独尊というか…何だか独りよがりで独善的だと思われないですかね?」
「ふーむ…」
それを受けた寛治も、絵里と同じ様な態勢を取りつつ考え込んで見せた。この時私はというと、ふと視界の隅に笑みが見えた気がしたのでチラッと向かいの席を見ると、美保子と百合子が普段私に向けてくる様な、見守っている様な微笑みを絵里に向けていた。
「確かに…」
と暫くして寛治が今度は絵里に柔らかな笑みを浮かべつつ応えた。
「今えぇっと…絵里さんだったね?絵里さんが言われた様な反論はくるだろうねぇ。それに対しての反論は、実はここに集まる様な人種の間では共有しているのがあるんだ。それはね…」
寛治はここで一度話を止めると、武史や義一の方をチラッと見てから先を述べた。
「さっき武史くん達が話していたけど、要はここでも道徳が出てくるんだ。そう、何も僕らは今あなたが言われた様に、何も独善的に独りよがりでいるのを肯定しているんじゃない。むしろ真逆で、道徳的観点から善を選び取って行動する事と善を定義したかったんだ。…ひひ、まだ納得いってない顔だね?」
と寛治がニコッと笑うと、絵里は少し恐縮した様にアタフタして見せたが、すぐに収まると少し声の調子を落として、小声で言った。
「え、えぇ…その道徳というものが、その人自身、その人個人の感覚のものとしたら、やはりそれは独善なのでは無いんですか?」
「…ほーう」
寛治はそんな様子の絵里とは真逆に、その返しに対してますます見るからにご機嫌になっていった。
ここでふと絵里の顔を見ると、気持ち眉間にシワが寄っていたので、口にはしなくても若干イラついているのが分かった。絵里は結構顔に感情が出るタイプなのだ。
寛治の方でもそれに気づいたか、笑顔のままだったが慌てて返した。
「いやいや、別に馬鹿にしたつもりはないんだけど、もし癪に障ったのなら謝るよ。いや何せね、久しぶりにこうして”らしい”反論をされたものだから、何だか嬉しくて楽しくなっちゃってね、それでついついはしゃいじゃったんだ。…ごめんなさい」
と寛治は座ったままその場でペコッと深く頭を下げると、今度は途端にまた絵里が見るからに恐縮して、今度は直接言葉を投げかけた。「あ、いや、そんな、頭を上げて下さい!」
そう言われた寛治は、頭をゆっくりと上げて絵里を直視した。その表情はパッと見無表情だったが、よく見ると好奇心を隠しきれてない、キラキラとした眼をしていた。
それに気づいているのか無いのか、絵里は一度溜息をつくと、力が抜けた後の様な笑みを浮かべつつ言った。
「まぁ…少し嫌な気がしなかったと言えば嘘になりますが、それで気を悪くする程ではありません。何せ、良いのか悪いのか…」
とここでふと義一に視線を流しながら続けた。
「ここにいるギーさんで慣れっこですしね?」
そう言い終えると、絵里はニコッと目を細めて笑って見せるのだった。
絵里の習性を当然初対面の一同は知らないので、恐らく本気で絵里が気を悪くしているのだと思っていた様だったが、絵里を知る…いや、そう簡単に言ってはいけないか、少なくともここにいる面々よりかは遥かに知っている私としては、これくらいで機嫌が悪くなる様な器では無いと分かっていたので、何の心配をする事なく成り行きを眺めていたのだった。
絵里の笑顔を見て安心したのだろう、実際には起きなかったが、今にも大きなため息が出そうな雰囲気が場に流れていたが、ふと寛治が元の笑顔に戻って言った。
「いやぁ、ありがとう絵里さん。…義一くん、君は普段から絵里さんのことを、”一般”代表として紹介していたけど、いい意味で彼女は一般では無いんじゃないかい?」
「そんな事を言ってたのー?」
と寛治がニヤケつつ言った後、その直後に絵里がすかさず義一に突っ込んでいたが、それには相手にせず、義一は苦笑まじりに絵里に視線を送りつつ「そうですかねぇ」と返していた。
そのやりとりを聞いていた絵里は、一人何かを考えていた様だったが、途端にハッとした表情を浮かべると、その直後にはニヤケ面を義一に向けて言った。
「そうよー?普段から言ってるでしょ?私の心が広いからアナタに付き合ってあげれるんだから、今寛治さんが言われた様に、もっと感謝しなさい?」
「…え?いつ寛治さんが、君に感謝しろって言ったの?」
「似た様な事を言ってたでしょ!」
「えぇー?…そうだったかな?」
…この様な、二人には悪いけど不毛なやり取りが数度繰り返されたが、他の一同は止めに入る事も無く、ただ笑顔で二人を眺めていたのだった。勿論その一同には私も含まれている。
そのやり取りが終わると、寛治が「コホン」と一度咳き込んでから話を切り出した。
「話を戻しても良いかな?…うん、ありがとう。さて、今の絵里さんからの反論、それに答える方法として、『そもそも道徳というのは何か、果たしてそれは一人一人それぞれ好き勝手に持っていいのか?』という話をしてみたいと思う。いいかな?」
「はい」
と絵里は和かに返すのだった。
私はこれを見た時少しホッとした。私が言うのも何だが絵里はとても常識的な、一応括弧付きでの一般人なのに、こんなややこしい、大多数なら逃げ出すような話題だったし、それでいて私としては数少ない好感を持てる女性だっただけに、そう応じながら顔には影を帯びせるのかと思ったからだ。それをすぐさま笑顔で返してくれたのに対して、絵里は何も思惑など無かっただろうが、私は心の中で少なからず感謝した。
「ありがとう。では話を続けよう。…確かに例えばただ一人部屋にこもってジーッと考え続けて出た結論なら独善と言っていいと思うけど、僕が言ったのは違うんだ。むしろ、過去に散々し続けられてきた道徳についての議論、結論が出るのか見通しもついていない議論を引き継いで、それを…」
寛治はおもむろに店内を見渡しながら続けた。
「このお店で夜な夜な繰り広げられている様に、色々なジャンルで研鑽積んでいる人たちが、あれやこれやと延々と議論を続けて、そしてそれをまた…」
と寛治は今度は私の方に視線を向けると、笑顔を浮かべつつ続けた。
「ここにいる琴音ちゃんの様な次世代に同じ様に引き受けてもらう…その行為そのものが道徳であり、その行為こそが善とも思うんだよ。…どうかな?」
「え?…」
と絵里は少し考えて見せたが、私はそれがブラフなのは分かっていた。具体的にはと聞かれたら困るが、ただ言えるのは、絵里の纏う雰囲気の変化とだけだ。柔らかとでも言うのか、本気で考えるときには、目に見えて緊張が現れるのだ。それが今回は無かった。
それを実証するかの様に、絵里は顔を寛治に向けると、先ほど見せたのと同じ和やかな笑みを浮かべて
「はい、それなら私も分かります」
と返した。
「…私も」
と、先程来から久し振りに道徳についての議論が交わされていたので、前にも言ったが宝箱での義一との議論を思い出していた私は、思わずポロっと同意の意を示した。
とここでふと視線を感じたのでその方角に顔を向けると、絵里が私に柔らかい笑みを何も言わないまま向けてきていた。若干呆れを交えながら。私はその意味を問うこともなく、同じ様に笑顔で応えるのだった。
「その話の流れから言うと…」
とここで武史が口を開いた。
そして私と絵里の方に顔を向けつつ続けた。
「偽善の事もかなり分解しやすいなぁ。つまり何が言いたいのかっていうとね、善の人というのは言ったり行動したりする事にブレが出ないって事。それにひきかえ偽善の人というのは、基準が周りの意見に準じるから、いわゆる風見鶏的になって、言動に一貫性が無く、ふわふわとしていて地面に足が付いていない事が多いんだよ。…これは僕ら以外の一般人からしても同意を得られると思うんだけれど、偽善者というのは、大体において”軟派”な奴が多いんだよなぁ」
「あぁー…それはとても分かる気がする」
「うん、私も」
絵里が同調したのと同時に私も声を漏らすと、また二人で顔を見合わせたが、今度の絵里の顔には、普段の屈託のない笑みが広がっていた。
「そうそう」
とここで会話に入ってきたのは義一だ。
義一も武史と同じ様に私たち二人に顔を向けつつ言った。
「今の武史の話で思い出したよ。近代保守思想の父と称されるエドマンド・バークって人がいるんだけれど、その人が面白いことを言ってたなぁー。…それはね『偽善者は素晴らしい約束をする。それは…守る気がないからである』ってセリフなんだけど」
「あぁー、ズバリだね」
と絵里が私に話しかけてきたので、「うん」とただ短く返した。
本当はもっと何か付け加えて返すつもりだったのだが、不意にあるワードが出てきたために、頭をそれに占拠され、そうした態度になってしまったのだ。
私は一度一呼吸を置いてから、寛治、武史、そして義一がまとめて視界に入る様に目線を置くと、静かな調子で質問した。
「前々から気になっていたけれど、そのー…保守って何なの?」
「え?」
「…あぁ、そっかぁ」
私の問いかけに、寛治と武史はまたまた目を丸くして見せたが、義一だけがしまったと言いたげな表情を浮かべていた。
「また随分…」
と寛治が苦笑まじりに口を開いた。
「難しい議題を持ち出したねぇー…。これこそ僕の専門外だから、神谷先生の弟子の中でもホープの二人に答えてもらおう」
と寛治に笑顔で大袈裟な動作付きで振られた二人は、お互いに苦笑いを向け合っていたが、武史が恨みがましそうな口調で言った。
「ずるいなぁー…。僕らだって、そんなの簡単に説明できないよ…なっ?」
「え?あ、うん…あっ!」
振られた義一もチラッと私に視線を送りつつ返していたが、ふと何かに気づいたらしく、途端に明るい笑顔になって私に話しかけた。
「そもそもそれこそ、今寛治さんが言ってくれた様に、僕らにとっての実質の師匠である神谷先生に答えてもらうのが一番なんだけれど…考えてみたら、今日先生、そのテーマでなんかテレビ局に呼ばれていなかった?」
「ん?…あぁ、そういえば!」
「何の話?」
と私がすかさず突っ込むと、義一が笑顔のまま教えてくれた。
何でも、今日神谷さんがこの場にいないのは、BSのとある二時間枠の生放送番組に出演しているからとの事だった。以前義一が話してくれた様に、神谷さんは今から二十年くらい前に出たのを最後にしばらく出演依頼があっても受けなかったらしいが、実はここ二年くらいにちょくちょく引き受けて出てたらしい。ただ言った手前、恥ずかしくて話せなかったという話だ。
「それでね、今日先生が呼ばれた理由というのが、先生が今生きている中で、最大の保守思想家と見られているからなんだ」
そう言い切る義一の顔は、ハタから見てても凄く誇らしげだった。
「まぁ…、テレビ局はどんなつもりで呼んだのか分からないけど、少なくとも先生の事をそう認める人は、かなりの少数派だろうけどね」
と続けて話す武史の表情は一転して、苦虫を噛み潰すかの様な渋い表情を見せていた。
義一はそんな武史の表情を微笑ましげに見てから、私と絵里にまた顔を向けると言った。
「二人は…まぁ絵里は元から興味ないだろう。琴音ちゃん、君は君で世相に対して、僕と同じで興味がない分知らないかもしれないけど、一応今の日本は、”右傾化”してるって言われてるんだ」
「右傾化…?」
と私と絵里はほぼ同時に、ほぼ同じ様な相槌を打つと、義一はコクっと一度頷いてから続けた。
「そう、右傾化。…これは僕らの見解とは、あえて言わせてもらえれば真逆なんだけれど、どうも右傾化イコール保守化らしくてね、それで話を聞くならって先生が呼ばれたらしいんだ」
「まぁ先生も、そんなクダラナイ理由で呼ばれたことは百も承知で今日出張っているわけだけれど…」
と武史は相変わらず苦々しい表情を浮かべつつ言った。
「勘弁して欲しいよなぁ、そこで一括りにするの。今義一が言った様に、いわゆる”右”と”保守”は真逆の思想なのによ」
「…あれ?でも…」
とここで絵里が口を開いた。そして義一と武史に視線を向けつつ続けた。
「でも一般的には同じと見られているよね?…勿論私もそう思っていたけど。だって確か…フランス革命後の議会で、右側に座ったのが旧体制派で、左に座ったのが確かー…ジャコバン派とかいう進歩的な人たちが座っていた事から始まるんでしょ?」
「よく知ってるねぇ?」
と義一がすかさずニヤケつつ突っ込むと
「馬鹿にしないでよ、あったりまえでしょー?」
と絵里も同じ様にニヤケつつ返した。もうすっかり普段の二人だ。
「あなたと同じ大学に通ってたんだからねぇ。これくらい高校の頃、受験勉強でやったわ」
「あはは!」
とここで武史が満面の笑みを浮かべつつ絵里に言った。
「いやいや、受験勉強なんてものは、それこそ受験のためにするものであって、終わった瞬間に忘却しているのが殆どなのに、それだけ覚えているのは偉いよ」
「それって…喜んでいいのかな?」
絵里は一度周りを軽く見渡すと、先ほどから変わらないニヤケ面を武史に向けて言った。
「だって…それだと遠回しに、私もここの皆さんと同じで”変わり者”と認定されてしまった様なものでしょ?」
「ん?…あははは!なかなか鋭い事を言うねぇー」
武史がそう言うのを合図にしたかの様に、私含めた一同でドッと沸くように笑い合うのだった。
ひとしきり終わった後、武史がまた静かな表情に戻ると話を続けた。
「まぁさっき義一が言った様に、詳しくは神谷先生に話して頂いた方が良いとは思うけど、それでもまぁこの話くらいだったら僕だって出来るから話すと…うん、確かにそれから所謂右派と左派とで区分けされる様になっていくんだけれど、この手のものにありがちな、初めの考えが上手いこと継承されずに、大体もう二世代後くらいから既に道が逸れていってしまったんだよ。…両陣営共にね。まぁ、ひたすら進歩や革命を言っていた左派の方は、ある意味何も考えなくても単純な理論だから、一般大衆にも受け入れられたんだけれど、それは右派もそうだったんだ。まぁこの話はしだすとキリがないから、結論だけ言ってしまうとね、我々保守側と、いわゆる右派左派陣営との決定的な違いは…人間をどう見るかによるんだ」
「それって…さっきみたいな視点の話?…あ、御免なさい」
私は思わず口を挟んでしまったが、それと同時にタメ口になってしまったのに気づいてすかさず謝った。
内容までは触れずにただ謝っただけだというのに、武史はほんの数秒ほど考えてみせたが、すぐに察してくれた様で「別に僕は構わないよ?」と笑顔で言ってくれた。
私がそれに対してお礼を言おうとしたその時、途端に意地悪くニヤケ面になると、美保子たちや絵里などに視線を向かわして、
「それに…僕だけタメ口じゃないのは寂しいしね?」
と、また私に顔を戻して言った。
「ふふ、分かりまし…あ、いや、うん、分かったよ」
と私が笑顔で返すと、それまでを黙って見ていた寛治が口を開いた。
「…その理屈からいうと、僕だけが今だに仲間はずれじゃないか」
そう言う寛治の顔は、膨れた子供の様だった。
「いやいや寛治さん…」
と武史がすかさず突っ込んだ。
「流石に年が離れすぎてて、琴音ちゃんもそれは無理だよ…ね?」
と私に話を振ってきたので、冗談の流れなのは分かっていたので、若干済まなそうな表情を作って「はい…」と、これまた力無げに返した。
これは偏見だろうが、三十年もアメリカに住んでいた”悪弊”なのか、やたらに大きく肩を落として見せる様なリアクションを取りつつ、「なーんだ、つまんないの」とボヤいていた。
「ふふ、寛治さん」
と今度は義一が話に入ってきた。
「還暦越えたらダメですよ。だってこないだも、マサさんや勲さんたちに対してもタメ口ではなかったんですから」
「あ、そうなんだ…」
とここからもっと話が逸れていきそうだったので、気づいた武史が無理やり話を遮り、本筋へと進めた。
「さて話を戻すと、うん、今さっき君が言ってくれた通りだよ。要は視点の問題さ。この話の場合で言うとね、人間を”性善説”として捉えるか、”性悪説”として捉えるかの違いなんだ。…って二人とも、漠然とでもいいからこの二つの意味は分かるかな?」
と武史が聞いてきたので、メモを取っていた私はふと顔を上げて
「う、うん…読んで字の如しでしょ?ね?」
と武史に返した後絵里を見ると、絵里も何も言わなかったがコクっと頷いた。
「そうそう」
武史は笑顔で同意を示すと、また表情を落ち着けて先を続けた。
「何で今こんな事を言ったのかというとね、単純化の弊害で少し補足を後で入れなくちゃいけなくなるんだけれど、要は性善説に立っているのが右派左派両方で、保守が性悪説に立つということなんだ」
「ふーん、つまり…」
とここで絵里が口を開いた。
「一般的に言われている右左は、根本的なところでは、人間が善だというのを信じてる点で同じで、そのー…保守?その保守の立場から見ると、人間を悪だと信じているから、そこが違うって意味なのね?」
…ここで改めて言うことでもないだろうが、すっかり絵里も私よりも早い段階でタメ口になっていた。
「でもそれって…」
とここで絵里は少し表情を曇らせつつ、横目でチラッと義一を見つつ言った。
「要はあなた方は、人間が元々”悪”だと言いたいわけよね?いやまぁ、私だって人間が皆が皆立派であるだなんて事は思わないけど、それでも根本的と言うからには生まれてからって事でしょ?生まれ落ちた瞬間から悪とまで言ってしまうのは、それは何だか…極論に聞こえるし、そもそもそれだと人間不信に陥ってしまうと思うけど…?」
私はそれを聞きながら、思わず頷いてしまった。
というのも、ふと小学生時代を思い出していたからだ。私の小学時代はご存知の通り、ひたすら周りから浮かない様に、両親を失望させない様に良い子を演じ続けていた訳だが、それと同時に知らず知らずの間にある種の人間不信に陥っていた事に、今更ながら絵里の発言から知らされたのだ。ストンと腑に落ちた。これも今更言うまでもないことだが、結局小学生時代で心を許していた同世代は、ヒロと、それと裕美だけだった。
この時の私はまだこの後、また別の機会で議論を組み回す前だったので、ただ単純に、普段から何かと義一が保守思想家という枕を入れて金言や名言、考え方を教えてくれたりしていたので、恐らく義一はソッチに傾倒していたのだろうとアヤフヤながら推測していた私は、何だか義一と共有する価値観を見つけれた気がして、ほんの少しだが一人喜んでいた。
絵里のそんな反論を聞いた武史は、「んー…」と苦笑いを浮かべて唸ったかと思うと、早速絵里に返した。
「まぁやっぱり今の話を聞くとそう思っちゃうよね?うーん…やっぱりちゃんと一から説明しなくちゃだな」
武史は最後の方は自分に言い聞かせる様に独り言ちると、私と絵里の方にまた視線を戻し、静かに話し始めた。
「性善説に関しては、今絵里さんが言ったので大体良いと思うけど、性悪説に関してはちょっと説明をさせて欲しいんだ。…コホン、今君が説明した、”生まれ落ちた瞬間から悪”…ある意味これは、キリスト教的な考え方だね。というのもね、まぁ厳密にはキリスト教に限らず、聖書に関係した三大宗教には多かれ少なかれ根底に流れている考え方だけど、それはつまり…“原罪”ってこと」
「原罪…」
と私がいつもの様に口で呟きながらメモを取ると、武史は途端に慌てて付け加えた。
「あ、あぁ、いやいや、こんな宗教の話こそ、僕なんかの若輩が簡単に足を踏み入れていい領海じゃないから、軽くだけ触れるからね?…うん、まぁ簡単に言えば、今絵里さんが言ったような意味だよ。二人とも聞いたことはあるだろ?神様のお膝元のエデンに暮らしていたアダムとイブが、蛇に唆されて食べてはいけない禁断の果実、リンゴをまずイブが食べて、その後にアダムも食べてしまい、それが神様にバレて、罰として楽園を追い出されて地上に降り立った…って話」
「あぁ、うん…あ、ということは、原罪というのはアダムとイブが禁断の果実を食べてしまった事ね?それで、その子孫である私たちにはその原罪が付き纏っているってこと」
と私が言うと、武史は笑顔で「そう!」と返し先を続けた。
「主にキリスト教ではその考えが根強くて、ルネサンス期まではその考えが続いていたんだけれど、それが段々と啓蒙の時代になってくると、理性が大事なんだ、人間が思い付いたことは善い事なんだという考えが出てきて、元からあったはあった性善説の様なモノを膨らませていく事になったんだ」
「でもそれだって」
とここで義一が合いの手を入れた。
「理性がなんだと言い出したデカルトだったり、スピノザ、それにフランス革命の原動力の一つだと言われているルソーの思想だって、一般に言われているのとはだいぶ違うモノだったりするんだけどね」
「そうそう!…って」
義一の相槌に対して余計にテンションを上げて返そうとしていたように見えたが、ふと私たち二人の方を見た武史は、何だか先を言うのを躊躇っている様な顔を見せたが、ふと義一に視線を流した後、軽く息を吐いて、それからまた元の調子で先を続けた。
「まぁそれはともかく、元々強かったはずの性悪説が薄れていったわけだけど、それはフランス革命後も続いた。つまり、右左と争っていたわけだけど、結局根本のところではお互いに”人間は理性的な動物で、神様だとか宗教だとか面倒なのに頼らなくても、人間性を解放していけば世の中が良くなっていくんだ”という考え方を持っていたんだ。左は自覚的に、右は恐らく大半は無自覚にね。ここで軽く、そうだなぁー…ここは質問をしてくれた絵里さんに聞くのが筋だろう。さて、フランス革命後の議会の右に座った連中、彼らは簡単に言えば、どんな連中なのかな?」
「え?あ、はい。んーと…」
突然話を振られた絵里は、当然のことながら少しまごついたが、すぐに返答した。
「まぁ当時の事までは分からないけど、今の右と呼ばれる人たちのことで言えば、簡単に言って、伝統を大事にしろって主張する人達の事…なのかな?」
「そう!そこなんだよ!」
絵里が言い終えるかどうかという辺りで急にテンション高く武史が返してきたので、「…え、えぇ」と絵里は引く他に無かった。
私も少なからず驚いたが、そんな二人の様子は気にも止めない様子で言った。
「確かに右と呼ばれる人達は伝統がどうのと言うもんだから、それで僕らと一緒に思われてしまうんだ。…でもここで大きな違いがあるのを指摘しなければならない。さっきの性善説か性悪説かの話も絡めてね」
話しながら徐々にクールダウンしていった武史は、言い終えたときにはまた話し始めのテンションに戻っていた。
武史はここで一度ビールを一口煽り、それから話を続けた。
「彼らは何かにつけて伝統が大事だなんだと言うんだけれど、そもそも伝統と習慣の違いが分かっているのか疑問なんだ」
「…うん」
と私はメモしつつふと意味のない声を漏らした。前回にここで、伝統について話したことを思い出したからだ。その流れで不意に”師匠”の事も思い出していた。
隣にいた絵里、そして義一もその声に反応して私を見てきていたが、私はメモに夢中で顔を上げなかった。
武史も別に良いと思ったのか、特に話しかけて来ずに、ふとここで義一に話しかけた。
「あれ誰だっけなぁ…ほら、そんな話をした人がいただろう?」
「え?…あ、あぁ、うん」
「それを話してくれよ?」
「いいよ」
義一はそう短く応えると、私たちの方に顔を向けて、穏やかな表情で言った。
「僕ら…って、僕らと同じように言うのはアレなんだけど、文学者にして戦後の保守思想家で有名な小林秀雄が短い文章の中で言ったことがあるんだけれど…」
とここで一度区切ると、ふとずっと今まで黙って、好奇心から来るのか軽く微笑みをたたえつつこちらを見てきていた美保子、百合子、そしてこれまた静かに話を聞いていた寛治、聡の順にぐるっと見渡し、またこちらに戻してから続けた。
「これは本人は言ってなかったと思うけど、おそらく元ネタと思われるモノがあって、それを話した方が他のみんなも面白いと思うから、そこから引用しようかな?その人はね、十九世紀のフランスで活躍していた…これまたね、なんと紹介すればいいのか…小林秀雄も文学者と紹介したけれど、それに収まらない活動をしていたから、その点でも似ているんだけれど…」
「ちょっとギーさん?」
とここで、周りを無視して一人で思考にダイブする癖を起こしていた義一に、私の背後に腕を伸ばして背中をトントンと叩いて言った。
「そんな所で急に一人で考え込まないでよー?」
「え?あ、あぁ、ゴメンゴメン」
と義一が素直に照れ臭そうに謝ると、「もーう、気を付けてよ」と絵里はため息交じりだったがかすかに笑みを浮かべて言った。
二人は気づいていたかどうか知らないが、二人以外の私を入れた一同で、同じような笑みでそんな様子を眺めていたのは言うまでもない。
義一は一人で気を取り直すと先を続けた。
「じゃあ話を戻すとね、昔のフランスにまぁ文学者かなぁ…ポール・ヴァレリーって人がいてね、その人が伝統と習慣の違いについて書いてるんだ。正確な引用じゃないけど、『習慣というのは過去から現在まで続けられてきた活動だが、それは善悪問わずであることが多く、中には悪習と呼ばれ得るものもある。その習慣の中で、これこそが後世に引き継ぎたい、これこそが善いものだろうと、掬い取って大事にする事、それが伝統なんだ』とね」
「なるほどねぇ」
と絵里が感心した様な調子を声に混ぜつつ言った。
「何でもかんでも過去の物だからと引き受けるのは伝統じゃないって事ね?」
「うん、そういう事」
「あ、そういえば」
とここで私も同じ様な話をしていた音楽家がいた事を思い出し、義一と違って、初めてここに来た時に話したなと思ったが、まぁその時にいなかった寛治と武史、それに絵里もいるというので、心ではそれでも躊躇いはあったが、口が既に動いてしまっていた。
ここでは繰り返しになるから詳細はいらないだろう。一応軽くだけ触れれば、その音楽家というのはマラーのことで、『伝統とは博物館に飾られた過去に燃えていたナニカの後に残った灰を拝むことではなく、寧ろ現在の種火で新たに火を灯す事だ』というセリフだ。
これを話すと、先に触れた三人ともが興味深げに感心して見せた。考えてみたら、絵里にこの話をすること…いや、そもそも芸について話したのが初めてだった。
去年の夏に絵里が私と裕美に、自分が日舞の名取だというのを教えてくれた訳だったが、それからは特にその事について深く話す機会は無かった。今思えば不思議だ。何故なら言うまでもなく私は厄介な”なんでちゃん”な上に好奇心が有り余るあまりにそのまま直情的に色々と質問ぜめをしそうなモノなのだが、軽い表面的な話はしても、それについて絵里が何を思っているのかまでには発展しなかった。おそらく絵里の方で踏み入らない様に気を付けていたのだろう。それに今になって気づいた訳だが、特段何も悪い気持ちにはならなかった。それだけは言っておく。
それは置いといて、それからは当然の流れというか、前回にも話した”伝統は伝燈から来ている”という話を義一が軽く触れていた。これには絵里が一人でまた、義一相手だというのに素直に感心して見せていた。こういった所も、数多くある絵里の可愛いところの一つだ。
「でまぁ、ここにいる義一と、そして琴音ちゃんのお陰で習慣と伝統の違いが浮き彫りになった所で」
と武史が今がその時だと判断したのか、本筋にまた話を戻した。
「話を続けようか。そう、ここでまた結論を言うと、彼ら右派というのは、悪戯に何でもかんでも長い間続いてきたものだからと、無闇矢鱈に古いモノを守ろうとするんだ。それが何も悪いと言いたいんじゃないけど、ただ彼らは今僕らが話した様に習慣と伝統を分けないが為に、ある種の原理主義に流されてしまって、それに対して否定的な僕らのことを、彼らは”左派”だと称するんだ」
「え?何でそうなるの?」
と私はすかさずツッコミを入れた。
武史は一瞬笑みを浮かべたかと思うと、それに呆れ度を多分に含めつつ答えた。
「それはね、僕らみたいなのが改善すべきところがあるんじゃないかと言うと、全否定された様に感じるらしいんだ。それで、さっきも言ったけど、原理主義になってしまってるから、反対意見を受け入れないんだ。これは右派左派問わず両陣営に言えるね。特に神谷先生は、それで両陣営から猛反発を入れられてきたんだ」
「ふふ、まぁ僕たちの孤独具合を武史に説目して貰ったわけだけど…」
とここで、武史がネチネチと愚痴に入りそうになったのを察した義一が脇から入った。
「まぁ繰り返しになるけれど、さっきも言った様に保守について語るにはまだまだ僕らは若すぎるから生意気に言うのは憚られるんだけれど、それでも何か言って欲しいと言われたらこう答える事にしてるんだ」
「うん…で?」
と私は自分でも気付かぬうちに隣の義一にお尻半分ぶん近寄った。
それを見た義一は両手で私を制する様なポーズを取った後、コホンと一度咳払いしてから言った。
「たいそうな事じゃないよ。さっき武史が言ってくれたけれど、要は左派と言われる側からは右翼と言われて、右派と呼ばれる側からは左翼と呼ばれる、そんな人の事を保守というんだってね」
「そうそう」
とここですかさず武史が割り込んできた。顔は例の悪ガキの様な笑みだ。
「我々の先生の様にね」
と視線を、普段神谷さんが座る位置に流しつつ言うと、また一同が穏やかな笑いを起こすのだった。
と、その雰囲気が収まらないその時、
「…なるほどねぇ」
と周りがニコニコしている中、一人顎に手を当ててウンウン頷いていた絵里が声を上げた。
そして義一に顔を向けると、これまた普段見せる悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「ギーさんもそんな感じだわー」
「え?それってどう意味?」
と私がすかさず突っ込むと、絵里は目をギュッとつむって見せつつ笑って答えた。
「煮ても焼いても食えない奴って事!」
「違ぇねぇ!」
とここで今まで静かだった聡が絵里に満面の笑みで同意して見せると、そこでまたドッと場が沸いたのだった。
「何だよぉー…」
と義一一人で苦笑まじりに一人ボヤいていたが、まだ場の盛り上がりが冷めやらぬ時に、私に笑みを向けてきつつ話しかけた。
「まぁだから琴音ちゃん、今の時点ではそこまで深い議論をする事は出来ないけれど、次何かの時に、先生も側にいる時に改めて議論をして貰う事にして、今の所は僕のところにある一般的に保守思想家と目されている人々の本を…もし興味がある様だったら、今までの本と一緒に喜んで貸すけど…どう?」
これまた義一らしい、分かりにくく遠回しな言い方に思わず吹き出してしまいつつ、その後にはさっき絵里がした様な笑みを義一に向けて返した。
「ふふ、どうも何も、そもそも私から話を振ったんだから、興味があればって聞くのが愚問よ。…えぇ、是非とも貸して欲しい。お願いね」
と最後には何の含みもない自然な笑みを向けると、義一もこちらに微笑んできつつ「うん、分かった」と短く応えるのだった。
「ではここで一つ話を区切るためにも、纏める頃合いかな?」
と武史が私たちに微笑みを向けてきつつ言った。
「コホン、右派と左派の両陣営は性善説に基づいていて、保守陣営は性悪説に基づいているって言う僕らの説ね?…うん、つまりはこうなんだ。左派はいうまでもなく、右派も漠然と過去から続けられてきた習慣に対してこれといった疑問を持たずに、盲目的に執着して見せる…これっていうのは、過去の人々の人間性を不用意に礼賛して、これを言うと右派からは反発を食らうだろうけど、習慣イコール正義みたいに思い込んでいるんだ。でも、さっきの議論でも出たように、そもそも習慣と伝統は違う、伝統は習慣の中にある善いと思われるモノを守ろうとする事というのは皆で同意出来たね?それを悪習が含まれている可能性のある習慣と伝統をごっちゃ混ぜにしてる時点で、僕ら保守の立場とは右派は相容れない。この違いがどこから来るのか…?んー…」
と武史はここまでは快調に飛ばしていたが、ふとここで止めると神谷さんの席をチラッと見て、そしてその後に義一に目を向けた。
「…なぁ、先生の説…性悪説に関して説明する為に、少しだけ触れても良いよな?」
と問いかけれられた義一は一瞬考えて見せたが、すぐに若干苦笑気味に「…うん、まぁ仕方ないね」と答えた。
それを受けた武史は笑顔で頷くと、また私たちに視線を戻して続けた。
「だよな?…さてお二人さん、ようやくここにきて話が戻ってきたけれど…特に琴音ちゃん、ほんの少しだけ話の流れ上、僕らの師匠の思想を弟子の僕らが軽くだけ話してみるね」
「うん」
とさっき義一に言われた時にはお預けだと思っていたのが、ふと少しとは言え話してもらえるというので、同年代の女子から見たら異端中の異端だろうが、とてもワクワクして続きを待った。ここで隣は見なかったが、恐らく絵里はまた私に呆れ笑いを送っていた事だろう。呆れられても仕方がない。自分で言うのは少し気恥ずかしいが、今更言うことも無いだろうけど、日を追うごとに、たくさん本を読み、知識を身につけ、物の見方のバリエーションが増える度に、この様な頭が沸騰するような難しいけど普段は聞けないような、こういった話が大好きで、それが悪化の一途を辿るのだが。
「よし、じゃあ軽く触れてみるね?…先生は色々な保守思想家と認知されている人々の著作を網羅されているんだけれど、その中の一人に二十世紀の政治哲学者で保守思想家、マイケル・オークショットって人がいてね、この人の説を引用して、先生は保守の三原則と呼ばれる物を定義したんだ。それはね、”不完全性”、”有機体”そして”漸進主義”…この三つから保守は成ると言うんだ」
「んー…」
私は今武史が言った三要素をメモに書き込み、これが後にも大事だと直感して、その三つの下にペンで何本か線を引いた。
「でもここで三つとも話す時間もないし、そもそも先生の説なんだから、先生がいらした時にでも話して貰うとして…今はこの中の一つ、不完全性に絡めて、性善説と性悪説について話してみようと思う」
「…良かったぁ」
とここで不意に絵里がため息交じりに声を漏らした。
「いきなりまた難しそうな話に入りそうになったからどうしようと思ったけれど、ちゃんと戻ってきたのね」
「あぁ、勿論さ」
武史は最後に意地悪く笑う絵里に対して、何故か誇らしげに胸を張って返していた。武史はどうかは分からないが、すっかり絵里の方では心の垣根が下りているように見受けられた。
義一は普段から絵里に対して、一歳上とはいえ、その分一応一年先輩なのに、それ相応の接し方をされていないとボヤいていたが、義一よりもまた三歳年上の武史に対してもこんな調子なのだから、もう諦める他に無いな…という”どうでもいい”感想がこの時に何故か沸いたのだった。
「ここはせっかくだから、義一に話して貰おうかな?」
「え?」
ここで話を振られるとは思わなかったのか、義一は惚けた声を上げて武史を見た。
そんな様子の義一には構わず、武史は笑顔を絶やさぬまま言った。
「ほら…性悪説といえば…」
「あ、あぁ…。じゃあ」
と義一は私と、そして位置的に私の後頭部の後ろにあるであろう絵里の顔を見つつ、少し気まずそうな笑みを浮かべつつ言った。
「もうこれで小難しい話は終わりだから、もう少しだけ辛抱してね?…うん、今はまぁ簡単にだけ触れて、琴音ちゃんがもしそれで興味を持ったら原著を貸そうと思っているけれど…でね、何が言いたいかっていうとね、昔の中国に荀子という人がいて、この人がいわゆる性悪説を唱えたというんで有名なんだ」
「じゅんし…」
と私が呟いてメモを取ろうとすると、義一が何も言わずに私の手からペンを取ると、”荀子”と書き込んでくれた。
「いわゆる孔子からの流れのうちの一人なんだけれど、その性悪説を唱えたというんで当時から、本来同じ流派に属する人達からも攻撃されるような人だった。これは今も続いているんだけれど、原著を読んでみると非難されるような事は書いてないんだよ。…一般的に言われるようなね」
「さっき私が言ったみたいな事?」
と絵里が何の含みも持たせずにスッと口を挟むと、義一の方でも素直に受けてコクっと頷いた。
「そう。…でね、荀子が実際に言ってるのはどういうことか、これを単純に言ってしまえばこうなんだ。『人間というものは不完全な代物なんだ。その不完全なままでいるのを良しとするのは”悪”だけれども、人間というのは自身の不完全性をしかと見つめた上で、もしかしたら無駄かも知れないとどこかで直感的に知りつつも、不完全をどうにか改善しようとするものだ』とね」
「…あぁ」
と私はメモを取り終えると、これに限らずいつもの事だが腑に落ちたのを自覚したのと同時にスカッとした気分になり、こうしてため息混じりの声を漏らしたのだった。
「これは普段、義一さん、あなたがよく言ってる事だね?」
と私が声をかけると、義一はまた照れ臭そうに頭をかいて見せていたが、ふと顔に浮かべていた笑みに少し気まずさを滲ませつつ言った。
「まぁ…今手元に原典がないから、少し僕のバイアスが掛かっちゃってるかもしれないから、実際に見て確認してほしいけれど…まぁそうだね。僕なんかまだまだ保守”見習い”だけれど、目指しているものは所謂”右”などではなくて、”保守”なんだ…っていや、それは今関係ないね。だから何度も出てる結論をまた言えば、少なくともこの雑誌、オーソドックスに集う皆んなで共有している保守についての考えは、まず人間は不完全な代物だというのをしかと認識して、それで終わるんじゃなく、何とかそれを改善できないかと足掻く事、その態度だって事で…こんな所でいいかな、お二人さん?」
と最後に一度区切ってから、私と絵里に目を配ると、まず私がいつものように、勿論異論がないかを確認した上で笑顔で「えぇ」と短く返した。
その少し後で絵里の方を見ると、絵里は一瞬考えるポーズをして見せたが、ニターッと意地悪く、そして呆れ気味に笑うと「えぇ」と絵里も返すのだった。
「そっか…」
と義一が静かな笑みを浮かべつつ返したその時、ふと部屋の扉が開かれた。その先にいたのは、カートを前にしたママだった。
ママは笑顔で一同を見渡してから言い放った。
「さて皆さん、会話は一区切り着いたかしら?そろそろ片しますよ?」
皆がそれに同意すると、ママがまず入って来て、その後すぐにマスターも入室し、テーブルの上の、会話しながらでも綺麗に平らげられた食器群を手際良く片していった。その合間合間でママがまた、飲み物のお代わりを聞いたので、これもいつも通りというか、皆して同じ物を頼むのだった。絵里もそうだった。ただ一つ違うのは、いい意味で絵里の態度から気後れの様なものが消えていた。
片して貰っているその間、ふと今まで静かだった美保子が寛治と雑談を軽くしていた。内容としては、いつ日本に帰って来たのか、そしていつまたアメリカに行くのかといった話だ。
ここで私も何となく、図々しくもその会話に入って見ることにした。
「お二人って…」
「ん?何?」
私が声をかけると、真っ先に美保子が反応した。好奇心に満ちた笑顔だ。
「そのー…気を悪くしないで欲しいんだけれど、何だか二人は親しいようだけれど、何だかパッと見共通点が見つからないの。だって、片やジャズシンガーでしょ?もう片方は国際政治の世界に身を置いている人…ある意味真逆じゃない?この二人が知り合うってのがまず難しいと思うんだけれども…」
と何となく上目遣いを使い、二人の顔を交互に見つつ言うと、私の隣の絵里も「確かにー」と話に入ってきた。その声からは、”無駄”に小難しい話が続いた後の一息を入れれるという安心が現れていた。
「ん?」
美保子と寛治はキョトン顔で顔を見合わせていたが、そのすぐ後で「あははは!」と美保子が底抜けに豪快に笑った。その声にかき消されてしまっていたが、寛治も例の特徴的な笑い声を上げていた。
「確かにねぇー、まぁお互いに普通の生活をしていたらまず接点は無かったと思うよ?ただねぇ…まぁもったいぶる事も無いんだけれど、ただ単純に共通の友人がいたのねぇ…で、その友人というのが」
美保子はここまで言うと、寛治にニヤケ面を向けて言った。
「…彼の奥さんなの」
「へぇー」
と私と絵里が顔を見合わせつつ同じ様なリアクションを取ると、寛治は「まぁね」と短く照れ臭そうに言うのだった。
「彼の奥さんはアメリカ人なんだけれど、私の事務所で働いている人だったの。まぁ友達と言ったって、何も私が紹介したわけじゃなくて、私が彼女の事務所に入る事になった時には既に結婚していたけれどね」
「ヒヒヒヒ!そりゃそうだよ。僕と君とじゃ年齢が全然違うんだしね!」
とここで寛治はますます笑い声を張り、そして喋りながらも収まる気配は無かった。既にわかっていた事だが、どうも彼はとても笑い上戸らしい。
美保子は寛治をそのままにして、でも本人も笑みを絶やさずに続けた。
「そもそもね、この店に来る様になったのも、彼、寛治さんの紹介でなの」
「へぇ」
「まぁオーナーの西川さんにしても、この店を一見様お断りとまでは敷居を高くするつもりは無かったかも知れないけれど、まぁ店の特性上、誰かの紹介無しでは来れない感じだからねぇ」
「そう」
とここで笑いの収まった寛治が合いの手を入れた。
「僕が彼女をね、えぇっと…初めて来てからどれくらい経つっけ?…もう十年以上前になる?そっかー…うん、彼女をそれくらい前に連れて来たんだ。今美保子さんが言ってくれたけれど、妻のお陰で知り合えたんだけれどね、話してみるとその内容が面白いから、丁度その時、神谷先生から誰か面白い人がいたら紹介してって言われてたから、早速紹介したんだ。で、今に至るんだ」
「なるほど」
「ちなみにね?」
私が感心してる風に美保子をチラッと見ると、ふとまた寛治が話し出したのでそちらに顔を向けた。
「多分話の流れで察しがついてると思うけれど、一応話すと、僕はさっき話した通り大学時代には先生と認識が無かったんだけれど、ある時さっき話した僕の友達の今京都の大学で教授をしている宗輔がアメリカの僕のウチに来てね、『先生に君の事を話したら会いたがっているから、ちょっと来ないか?』だなんていうもんだからさ、初めは唐突だったんで呆気に取られたんだけれど、これもさっき言ったように、僕自身、神谷先生に対しての興味はずっと学生時分の時から薄れていなかったから、快く了承して今に至るんだ」
「…でね」
寛治が話し終えるのと同時に、今度はこれまた今まで静かにワインを飲みつつ話を聞いていた百合子が口を開いた。
「私は琴音ちゃんの前では触れたかも知れないけれど、そこには絵里さんがいなかったから言うと、美保子さんがここに来るようになって数年後に、マサさんに連れられてここに来たの」
「そうそう」
百合子がそう言うと、さっきまで寛治に体を向けていた美保子は、ぐるっと豊満な腰を反対に身軽に回して百合子の方に正面に向けた。
「マサさんが言っていたよー、『パッと見物静かなんだが、演技に入ると身の毛がよだつ様な存在感を見せる奴がいて、しかもそいつは俺に負けず劣らず演劇に関して見識があるから今度連れて来る』ってね」
「もーう、恥ずかしいから本人を前に言わないでよそういう事ー」
と百合子は普段の美保子の言う物静かな表情を豹変させ、まるで思春期の幼さ残る女学生風な笑みを見せつつ、美保子に体をぶつけて見せた。偉そうに知ったかぶって言えば、流石は女優といった感じだ。
とここで絵里が何気無くマサさんのことを質問したので、百合子が”石橋正良”の事だと言うと、絵里は初めて百合子さんのことを知った時の様にまた興奮して見せた。細かくは描写しないが、「まだ今も組んでいるんですね!」だとか、まぁそんな所だ。それからは私の知らない百合子の、マサさんが脚本を書いた過去の出演作を列挙して見せていた。
それを傍らで聞いていた私は、ふとある事を思い出したので、ボソッと「絵里さんも昔、私と同い年くらいから何年か、演劇部に所属していたのよね?」と口を挟んだ。
「あっ!ちょ、ちょっと琴音ちゃん…」と絵里は私を慌てて制しようとしたが遅かった。絵里の勢いに苦笑い気味に対応していた百合子が、今度はこっちの番だと言わんばかりに、絵里に質問ぜめをしていた。
これは直接聞いた訳ではないのでハッキリとは言えないが、恐らく事前に絵里が日舞の名取だと知っているのが大きかったと思う。実際、百合子は日舞がどう演劇に通じるものがあるのかどうかと質問していた。誤解を恐れずに言うが、たかだか部活動の範囲内で演っていた絵里に対して、そこまで百合子が熱く聞いてくるというのも変わっていて、絵里もそれには苦笑いしつつも、好きな女優に直接アレコレと深い所で会話する事自体は嬉しいらしく、戸惑いつつも真摯に答えていた。
ふとこの時、昔絵里が話してくれた、演劇部の先輩に入部する様に誘われた時もこんな感じだったんだろうなと思ったのは勿論だ。
丁度その頃、マスターとママ達の後片づけも終わったらしく、これも普段通りにエプロンを取って部屋に入ってきて、自分たちのお酒を作って、隣のテーブルに座って二人で乾杯をしていた。
私はその頃また寛治さんと雑談をしているところだった。
内容としては、私がまずどうやってアメリカの高官達と議論を組み交わす様な立場になったのかを聞いて、それに対して寛治が答えてくれたのを紹介するとこうだ。
「僕はアメリカのことを知ろうと、大学を卒業とともに渡米して、まず向こうの大学に入って国際政治を勉強したんだ。何故かって?今は相対的に弱まったけれど、アメリカが世界の警察だなんて嘯いていた頃だったから、その国際政治を勉強したくなったからなんだ。それで卒業後にある政策会社…まぁ、色々と政治家たちに『この様な政策がありますよ』みたいな事を進言する、日本から見たら結構特殊な会社に勤めたんだ。これを聞くと変わっていると思うだろう。何せ外国人である僕の意見を政治家が聞くんだからね。これはある意味”自由の国”アメリカの弊害の一つだと思うね。まぁ…その弊害のお陰で、僕は飯に困らなかったんだけれど」
そう最後に言った時の寛治の顔は、まるで童心に帰った様な笑顔だった。
その後は端折るが、要はそのまま二十年近く勤めた後、日本人にしては珍しく政治政策面で評価されて、自分が卒業したアメリカの大学に職を持ちつつ、今も高官クラスの人間達と議論を戦わしているという話だった。
ついでだからこの時に出たエピソードの一つを話そうと思う。
私が先ほど寛治が言った”ポリティカリーコレクトネス”の事について聞いた流れで出た話だ。
「向こうの高官と話しているとね、あれやこれやとある種の本音を話してくれるんだ。僕みたいな、日本人とは言っても日本で一切影響力のない奴だったら、本音で語って良いだろうと踏んでる様なんだ」
そう言う寛治は、残念がるどころか、例の笑みを含ませつつ時折声を引っくり返しながら言うのだった。
「それでね、彼らが言うので今思い出した出来事が二つあってね、まず日本人の議論を聞いていると凄くクダラナイと言うんだよ。まぁ僕は全面的に賛成なんだけれど、それというのもね、まるで五歳児と九歳が喧嘩してる様だって言うんだ。それはどういう事かと言うとね、まず五歳児。まだ物心が付いたばかりで右も左も分からない幼稚園児な訳だけれど、この子はまだ世界がどれだけ悪意に満ちていて怖いものなのかを知らない、駄々をこねれば全てが思いのままに動くと思っている…要は現実を見ない、さっきの議論で言えば”左派”という事になるんだ。でね、次は九歳。この頃になると何となくだけれど、小学校に通いだしたりして集団行動を学び、そして授業とかでこれまた何となく世の中は怖いものかも知れないと思う様になる。でも自分で立ち向かおうとは思わない。そこでどうするかというと、力を身に付けようとは考えずに、『確かに世の中生きて行くには危ないかも知れない…でも僕は大丈夫。だって僕には強いパパ、アメリカという強いパパがいるんだから、パパの後ろに隠れれば大丈夫』という…まぁこれも例えれば”右派”という事になる。つまり、戦後日本における言論空間というのは、アメリカの高官たちに言わせれば、五歳と九歳が喧嘩してるだけだと言うんだよ」
と寛治がそう言い終えるのを待っていたのか、すぐさま義一が私の背中に手を当てて、私の小学時代の頃の話をし出した。これには参った。ただただ私は何だか気恥ずかしくて、少し俯いてやり過ごしていた。この頃には一同皆が寛治の話に耳を傾けていたので、必然的に義一の口から吐き出される私の過去をも聞いていた。よくは見ていなかったが、おそらく皆…これには絵里と聡も含まれるが、興味津々に聞いていたのは察せられる。…これだけ言うと自意識過剰に思われそうだが、事実だろうから仕方ない。この手の事で予想を外した事が、残念な事にまだ無かった。
そんな私以外の間に和やかな空気が流れ、ついでにと言うか、絵里までもが美保子と百合子相手に私の話をしていたが、寛治は話がばらけていくのを特段気にせずに話を続けた。
「それでもう一つというのはね?その繋がりで思い出したんだけれど、ある仲良くしている高官が僕にこう言ったんだ。『寛治、お前はいつもアメリカの悪口ばかり言ってて、正直その度にムカついているんだけれど、少なくともお前の言ってることは分かる。でも、日本の政府から派遣されてくる官僚なり外交官と会話してると…何を言ってるのか全然分からないんだよ』とね」
途中から例の笑い上戸が出て、笑いながら話すものだから、かなり愉快な内容だと、何も知らない人が見たら思ったかも知れない。
「要は同じ位の筈の高官なのだから、裏方同士で真剣な実務の議論をしようと思っているのに、日本の高官はそこでも”ポリティカリーコレクトネス”な会話しかして来ないとボヤいていたんだ。まぁそもそも…日本の一流大学を出たところで、ある種の思想哲学を一切学ばず、本もロクに読んでないから一般教養もからっきし無い、そういう本来なら本人達が恥に思わなければならないレベルでいるのにも関わらず、厚顔無恥にやって来るんだ。だから…」
寛治は途中から渋い顔つきで話していたが、ここにきてまたニヤッと笑うと続けた。
「だから僕は向こうにいる時に、相手が日本人を馬鹿にし、悪口を言い出しそうになる前に、僕の口から日本人の事を罵倒するんだ。外人に言われるよりかは、自国民の僕が言った方が良いと判断しての事だけれど、後は…いやこれが本心かな?わざわざ言われなくても、僕自身がそう思っているからね」
「そうねぇー」
とここで不意に美保子が口を挟んだ。
「私も向こうに行ったばかりの時は、『日本人…いや、ジャップごときにジャズが分かるのか?』ってな具合にジロジロと見られたから、それに頭がきて、今寛治さんが言ったように、私も私で『確かに日本人が分かってるかどうかは怪しいけど、そんな変なのと私とを同じにしないで貰える?』って強めに反発したら、そしたらそれからは向こうの人達も、私のことを認めてくれたのか、アジア人だという色眼鏡を外して、私自身の芸を見たり聞いたりしてくれる様になったのよねぇ」
「それを聞いた僕の妻が、美保子さんを紹介してくれたのさ」
と寛治がすかさず口を挟んだ。顔はニヤケ面だ。
「…あなたと同じで、日本人なのに日本人らしく無い、パァパァ好き勝手言う奴がいるってね。…そう、向こう…というか一般的に欧米社会では、勿論礼儀もなく中身もない事を好きかっていうのは許されないけれど、少なくともキチンとした信念を持った人の意見は、意外に人種関係なく聞いてくれるものなんだ。でも日本人のほとんどは、相手の顔色ばかり伺うことばかり考えて、実質何も話す内容を持ってない事が多いから、だから向こうの高官は『何を言ってるのか、いや、何が言いたいのかさっぱり分からない』って感想を持たれちゃうんだよね」
「私もなんだか分かる気がします。…何となくですけど」
と私は、寛治が話した今の内容がすんなり頭に入ってきて、感想を言わずにはおれずにそう呟いた。寛治はそんな私の言葉に笑顔で頷いた。
とここで、もうそんな話をするタイミングでも無いだろうと私自身察してはいたが、持ったが病でついつい口を滑らしてしまった。
「あのー…寛治さん?」
「ん?何かな?」
寛治はお代わりに貰った野菜ジュースを、見るからに美味しそうに味わいつつ飲んでいたところだった。
「えぇっと…さっきの話の中で、要はアメリカ人は日本人の事を子供だと思っているわけですよね?いや、私が言うのはおこがましいんですけど、確かにそんな気がするんです。私たちって成熟してないなぁって。普段から義一さんともそんな話はするんですけれど、ふと今思った疑問で、そのー…大人って何ですかね?」
「え?」
問われた寛治は、今日一番に目を見開いた。私はこのとき見渡しはしなかったが、どうやら私以外の一同、マスターやママも含めて目を丸くしていた様だった。
ほんの数秒間沈黙が流れて、空調の音だけがしていたが、ふと寛治が苦笑気味に口を開いた。
「いやぁ…聞きしに勝る、無理難題を突きつけて来るお嬢さんだね。見た目はそんなに可愛らしいのに。…ひひ、いや、僕が答えるにはちょっと荷が重いなぁー…そうだ、ここは責任を持って義一くんに答えて貰おう」
「え?」
突然話を振られた義一は情けない声を漏らしたが、絵里をも含めた皆が自分に視線を向けて、それで何を話すのか興味を持っているのに気づいた後、私に向けたその顔には苦笑いを浮かべていたが、優しい目をこちらに向けつつ話しかけた。
「…ふふ、いや、君がそんな疑問を呈するのは想像ついていたけれど…まぁ、これは僕が中々その事に関して、君が納得行く様な答えを持っていなかったばかりに先送りにしていたのが悪かったねぇ。…うん、実は今日話すつもりは無かったけれど、僕なりに納得のいく一つの説明をついこの間思い出したから、参考までに聞いてくれる?」
「…ふふ」
義一の相変わらずの分かりにくい話の導入部からの、最後のこれまた分かり辛い言い回しに、これぞ義一だというのが聞けて、思わず笑みが溢れてしまった。
「…うん、お願い」
私が微笑みつつそう返すと、義一はコクっとこれまた笑顔で頷くと話し出した。言うまでもないけど、流石の絵里も、内容が大人についてだったせいか、子供の私に対して、まず自分の意見は?と言った様なツッコミはしてこなかった。むしろ、本人は違うと言い張るだろうが、やはり何だかんだ絵里は私ほどでは無いかもしれないが、義一の、義一ならではの人と違った物の見方に対して面白みを感じている様だった。まぁだからこそ、ここまで十年近く付き合って来れた大きな要因の一つだろう。…まぁ他にもっと大きな要因があるだろうとも思うけど、これ以上冗長ではいけないので話を進めよう。
「うん。これは僕個人の考えだけれど、精神心理学の世界で戦後最大と言いたくなる和光大学で名誉教授でいらっしゃる先生がいるんだけれど、その人が大人と子供の違いについて語っているんだ。『自分の行動規範をどれほど認識し、相対化しているか、その通用する限界をどれだけ知っているかにある。これが大人だ』とね」
「という事は…」
と私はメモをし終えてから顔を上げ、義一に言った。
「その行動規範というのが…前々から私たちが話している文化だとか、伝統って事になるのかな?」
「そう、その通り。あえて確認の意味も含めて言えば、行動規範…規範って言うくらいのものだから、元々ある筈のもので、今から作る様なものではない。それは過去の何処かに内在されているものの筈。そうなると、今日の議論の中にも出たけれど、ただ単に習慣からではなく、その中にある伝統から汲み取れるような物が規範と成り得ると思うんだ」
「うん」
「だからまぁ…また我田引水に過ぎて卑怯な様だけれど、これは保守の態度と同じとも言えると思うんだ」
「だから…」
とここでふと武史がニヤケ面で話に割り込んできた。
「大人になるって事は保守的になるって事で、逆に言えば保守というのは大人な態度とも言える訳だな」
「なるほど…」
と私は軽くまたメモを取りつつそう漏らしたが、ふと顔を上げて義一と武史に視線を配り、そして武史に負けじとニヤッと笑いながら返した。
「確かに…我田引水に感じなくもないけれど、でもまぁ、何も反論の余地も無いから、大人についてという疑問に対しての返答は、それで今日のところは納得してあげる」
「お、変に長ったらしくそう生意気に返すところなんざ、どっかの野郎と同じだなぁ?」
「ふふ、ありがとう」
武史と義一が、それぞれの態度で返してくれたその時、ふと腕時計を見た。時刻は九時半になろうとしている所だった。
ここでふと私は顔を上げて、一同を見渡し口を開いた。
「あのー…私からちょっといいですか?」
これに対して一同は「何?」とそれぞれのやり方で示したが、それに構わず私はその場で立ち上がって続けた。
「今日は私のコンクールでの全国大会進出を祝うためだけの為に、わざわざ集まってくれて有難うございました」
私はここで一度大きく深くお辞儀をした。義一や絵里、そして聡も含めた一同は呆気に取られてしまっていたが、この様な挨拶をしようという計画は、こうしてお店に行く事が決まった時点で思い浮かべていたのだった。
そして顔を上げて、まだ少し呆気にとられたままの一同を見渡し、マスターとママの方向で一度顔を止めると、続けた。
「マスターさん達も、今日はわざわざ私の好みの物の品数を増やして下さって、有難うございました」
と言い終えるとまたお辞儀をすると、「いいえー、どういたしまして!」とママは笑顔で返してくれた。顔を上げてマスターの顔を見ると、相変わらず表情があまり変わらなかったが、口角が気持ち上に持ち上がっていた。視線も微妙に柔和だったと思う。
それを確認すると、今度はチラッと部屋の隅にあるアップライトピアノの方に顔ごと向けてから、一同をまた見渡し、この段階にまで来ると、何故か今更急に気恥ずかしくなりつつも続けた。
「で、ですねぇ…もし良かったらですけれど、そのー…私がコンクールで弾いた曲を、今この場で演らせて貰っても良いでしょうか?お返しになるかは分からないけれど…」
最後の方では顔を上げたままでいることが出来ずに、若干俯き加減になりつつ言い終えた。
どれくらいだったのだろう?実際は十秒も経って無かったかもしれないが、長く感じる沈黙が流れた後、真っ先に口を開いたのは、こう言っちゃあ何だが意外にも百合子だった。
「…そんなの、言うまでもなくお返しになるに決まっているわよ」
そう言う百合子の顔には、静かな透き通る様な微笑みを見せていた。「…ね?」
「…ね?じゃあないよぉー。その役割は私じゃないの?」
と美保子は何故か不満げに百合子を見てから、私に明るい笑顔を見せて続けた。
「百合子ちゃんに先を越されてしまったけれど、そんなの良いに決まっているじゃない!お返しだなんて、むしろお釣りを返さなきゃいけないくらいだわ」
「…ふふ、それは流石に美保子さん、大げさ過ぎ」
美保子の言い分に、私は思わず笑みが漏れてしまった。
「そうそう」
と武史も私にニヤケ面を向けてきつつ言った。
「初めの頃に言ったけど、僕でも知ってるくらいのコンクールだし、前々から気になってはいたんだけれど、当然というか、関係者しかそのコンクールを聞きには原則行けないからねぇー。こうして決勝に出るほどの人の演奏を、こうして生で聞けるだなんて嬉しいの一言だよ」
「そうだね」
と寛治も短く同意してくれたその時、
「そうやって琴音ちゃんに変なプレッシャーをかけないでくれよぉ」と武史はすかさず義一に突っ込まれていた。それに対して武史はただ笑うのみだ。
その様子を見てまた自然と笑顔になっていたその時、ふと背中に温もりを感じたので隣を見ると、絵里がただ静かな穏やかな笑みをこちらに向けて、手をそっと背中に当ててきていた。私は同じ様に何も言わずに見つめ返し、そしてニコッと笑い返すのだった。
武史の相手が終わった義一は私に向き直り、「じゃあ、お願い出来るかい?」と聞いてきたので「うん」と返し、ふとマスターとママの二人の方に顔を向けて「ピアノをお借りしても良いですか?」と遅まきに我ながら間抜けなタイミングで聞くと、「勿論良いわよー」とすっかりほろ酔いのママが間延び気味に答えた。
それを聞くと私は立ち上がり、ピアノの方に向かうと、ふとマスターが立ち上がり、私よりも先にピアノに近づき、底に付いているキャスターのブレーキを外すと、少し移動させた。止めたその場所は、皆の位置から私の姿の右半分が見える所だった。コンクールと同じだ。マスターはその後で椅子を持って来て、最後に蓋を開けてくれた。
「有難うございます」
と私が言うと、「…調律は大丈夫なはずだから」とぶっきら棒な調子で言ってから席へ戻って行った。
「はい」と私は短くお礼のつもりで返事をすると、すぐそばの壁に手をつき、軽くストレッチをした。
そして少し離れた位置に固まって座る一同に振り返り、本番さながらにお辞儀をして見せると、皆は一斉に拍手をくれた。
これは本番とは違っていたが、そんな細かい所には気を向けずに、そこから密かに編曲した課題曲を、三十分かけて弾いたのだった。
「もうすぐで車が来るから」
ママがそう言うと、カウンターの中に入って行った。
ここはお店の”喫茶店部分”。例のごとくまだ私が未成年ということで、こうして足早にお店を後にすることと相成った。ただ普段と違うのは、言うまでも無いことだが絵里が同伴している事だった。今日は三人で帰ることとなる。聡は普段通りもう少しここにいる様だ。
私の演奏が終わったのは、予定通りの十時丁度だった。弾き終えて私がまたお辞儀をすると、まず真っ先に美保子が駆け寄って来て、そしてそのまま豊満な体を押し付ける様に抱きついて来た。
「琴音ちゃん、すごく良かったわよ!初めてあなたの演奏を聞いたけれど、本当に惚れ惚れとしたわ。演奏内容だけでなく、その弾く姿にもね?…いやぁ、人前に出たくないってその言い分も分からないことも無いけれど、勿体無いわぁ」
「ふふ、有難う美保子さん」
私は少し苦笑まじりにだが、それでも本心からお礼を返した。
美保子の私への言葉は、他の人がもし言ったら下手するととても嫌な気持ちになるだろう事が予想されるけれど、こと美保子からだと素直に純粋に嬉しかった。その理由はもう単純なことだ。初めて会った時から美保子の音楽という芸に対する、偉そうな言い方で恐縮だが”本気度”が分かっていたので、そんな真剣に私よりも先に生まれて取り組んでいる美保子にそう言われたら嬉しいのは言うまでもないだろう。
それからは百合子、武史、寛治の順にそれぞれの分野からの視点から褒めてくれた。そのどれもがユニークで、嬉しさと同時にとても参考になった。そして後は、聡、義一、絵里の順にまた褒めてくれた。私のサプライズに対してもだ。
絵里が感想を言い終えた後、義一はおもむろに時計を見て、いつも通りに一同に挨拶して今となる。
私、義一、そして絵里はそれぞれ皆と別れの挨拶をした。
絵里に至っては、美保子と百合子と連絡先を交換していた。
絵里は二人から求められた時は最初は戸惑っていたが、それでも側から見ていて快く応じてる様に見えた。
私は私で、美保子と百合子と挨拶した後、今回初対面の武史と寛治と、その内また会いましょう的な会話を交わし、そして最後にまた改めてマスターとママにご馳走のお礼を言い終えたその時、お店の前に一台のタクシーが停まった。
「いやぁ、驚いたよ」
地元に向かうタクシーの中、助手席に座る義一が正面を向きつつそう漏らした。
「まさかあんなサプライズを用意してたなんて」
「ふふ」
私は、相変わらず街灯の少ない世田谷の住宅地をノソノソと行くお陰で真っ暗な車内で、相手に見えるかどうか考えないまま満面の笑みを浮かべつつ返した。
「あの後ずっと計画練ってたんだー。ちゃんと三十分前後に収まる様に編曲してね」
「それでもキチンと原曲を損なわずに弾いてたね」
「流石だわ、琴音ちゃん!」
と私のすぐ隣にいるはずだが、暗闇の中で顔は見えなかったが、絵里が笑みを浮かべてそうな声を掛けてきつつ、シートの上に無造作に置いていた私の手を握ってきた。
それに対して振り払うこともせずに、されるがままに
「うん、ありがとう」
と返した。
「でもなぁー…」
と絵里は私の手を離すと、少し不満げな声を漏らした。
「せっかくの琴音ちゃんの決勝進出祝いと、決起集会を兼ねてたはずなのに…アレで良かったの?」
「え?どういう事?」
私は何も深読みしなまま、ただ絵里の言葉の意味がよく分からなかったので、素直な気持ちで問い直した。
すると、隣から絵里が顔を私に向けてくる気配を感じた。
「いや、なに、あの集まり自体には何の文句もないのよ?…そもそも、私は部外者だしね?でも、それでも、結局あの場で過半数占めていたのは、そのー…ほとんどが小難しい会話ばかりで、何だか…言い方が難しいんだけれど、んー…琴音ちゃんが主役じゃなかった様な気がしたのよねぇ」
「んー…」
私は、絵里が私を想うあまりに、アレコレと試行錯誤をして話してくれた形跡を、その辿々しさから見出したので、何と返していいものやらと戸惑っていると、「ふふ」と助手席の方から小さな笑みが聞こえた。
「絵里…君だって分かってるだろ?琴音ちゃんは、変に持ち上げられて持て囃されるよりも、あぁして普段通りに一緒に過ごしてくれてる方が嬉しいんだよ」
「…分かってるよぉ」
絵里は前方をキッと睨みつつ、若干恨めしそうな口調で返した。
この時の私としては、これが初めてなら『なにを本人を前にして、あれこれ言ってるのよ』と思ったり、もしくは口に出して突っ込んだりしただろうが、これも日常茶飯事…まぁ絵里が私たち…本人の口癖をそのまま借りれば私の為を思ってというのと、義一の考えの浅さ加減に対して、普段から口に出して叱ってくれていたので、なにも思わないと言うと語弊があるが、そのまま流すことにした。
「でもやっぱり私としては、もうちょっと琴音ちゃんを祝いたかったなぁ」
「ふふ、気持ちだけで十分だよ。…ありがとう、絵里さん」
と私は最後のセルフに情感を込めつつ、今度は私から絵里の手を握った。夏場だと言うのにひんやりとしていて、心地よかった。
「…もーう、ズルいんだからなぁ」
と表情は見えなくとも口調から苦笑いなのが伺えた。
「まぁ…あなたが良かったのなら、それ以上なにも言う事なんか無いわ」
絵里も先ほどの私の様に情感を込めた口調で言うと、私の手を握り返してきた。私は「ふふ」と小さく笑うのみで、私からもほんの少し握る力を増したのだった。
「まぁそれに…」
絵里はそっと私の手を離しながら言った。
「今日はギーさんの習性の本質的な部分が垣間見れた感じもあったし、それなりに収穫はあったかな?」
「ふふ、何だよー、人を動物の様に言って」
義一は前方を見ながらそうボヤいていたが、声の色からは不満と言うよりも、愉快さの方が優っていた。
絵里もそれに乗っかる形で続ける。
「だって、もうかれこれ十五年の付き合いになるのに、今日ほどハッキリとあなたの内面を見れた気がした事は無かったからね。結構口が回る癖に、何だか確信の所に近づくと、ケ・セラ・セラと逃げるんだから」
「あぁー…それは分かるかも」
と私が笑いを含みつつ言うと、「でっしょー?」と絵里も同じ調子で返した。
「何だよー…二人して僕一人にかかって来るのかい?」
と義一は苦笑しっ放しだったが、今度は口調に意地悪げを混ぜて返した。
「今日話した様な内容は、ここまで深く掘り下げなくても、結構会話の中で出てるはずなんだけれどなぁー。それに…僕らの雑誌を読んでくれてるのなら、今日の様な話も出てたと思うけど?」
「まぁねー…でもさ」
絵里は思いがけず素直に返し、そのまますんなりと滞りなく続けた。
「やっぱり、字で読むよりも、こうして直接話してくれた方が、スッと頭に入ってくるものなのよ」
「いや、だから、昔から何となしに織り交ぜていたはずなんだけれど…」
「…ふふ」
と、普段通りの二人のやりとりを聞いて、自然と笑みが溢れたが、絵里の言う事には全面的に賛成だった。
また改めて言うこともないだろうけど、義一からこの時点で五百冊近く本を借りて読んでいた訳だが、確かに一人でジッと読む時も、また義一が貸してくれる本自体の魅力も手伝って、新しい発見が次々と現れてくるのを見れる喜びは感じれていたのだけれど、やはりその後での義一との感想の言い合いこそが、最も面白かった。まだ私が中学生で未熟だというのもあるのだろうけど、それを補足してくれる度に、ただプラスされていくというよりも、感覚としては足し算ではなく掛け算くらいに理解が大きく膨らんでいく様に感じて、それは至福のひと時なのだった。
最近義一がようやくというか、思想哲学の本も貸してくれる様になって、この頃はプラトンを中心に読んでいたのだが、その中で、ソクラテスがさっき絵里が言った様なことを、『何で本を書かないんですか?』という問いに対して答えていたのを思い出していた。
それからはその繋がりというか、主に百合子の話を中心に、絵里が色々と熱のこもった感想を述べていた。私は途中から義一たちと議論をしていたので内容までは聞けてなかったのだが、この時に初めて知れた。細かく話す余裕は今は無いが、絵里は絵里でかなり今回の会合を楽しんでくれた様が見れて、ホストでもないのに、大袈裟な言い草の様だが嬉しさが込み上げてくるのを感じるのだった。
タクシーが夜も深まっているというのにまだ賑わいが引かない都内の繁華街を抜ける頃、義一が「今日の神谷先生のテレビ出演部分を録画してるから、今度見せてあげるよ」と言ってくれた時、私が感謝を述べると、絵里が苦笑していた場面があったり、義一は義一で恐らく狙ったのだろうが、それに付け加えて、寛治がお店に来る前に講演して来たという三田の大学の映像も、「それは大学のホームページにあるというんで、それは興味があったら見てみてね」と追い打ちをかけたので、絵里が一人「あー、ますます琴音ちゃんがギーさん臭くなっていくー」と、それこそ演技臭くボヤいていたが、ふと私の方に顔を向けると、優しい笑顔を浮かべて言った。繁華街を通っているせいか、車内も若干光度を増してよく顔が見えた。
「でもまぁ…一番初めに見た時のお人形さんの様なあなたよりも、今の若干ギーさん臭のする変わったあなたの方が魅力的だわ」
「え、あ、うん…あ、ありがとう」
私は唐突に褒められたのでしどろもどろになったが、すぐに意地悪な笑みを作って返した。
「そのセリフ…もしこの場に裕美がいたら、『そんな恥ずいセリフ、言わないでよぉ』って突っ込まれてたね?」
と声真似までして言うと、「あははは!」と絵里は底抜けに明るく笑った後、「本当そうね!」と返すのだった。
それからは取り止めのない話で盛り上がっていると、いつの間にかタクシーは私の家の前に停まった。毎回そうだが、日が沈んでからもしばらくは、私の前の通りはそこそこ車通りがあるのだが、夜も更けてきたせいか、一台も走っていなく、そもそも来る気配も無かった。
今回は絵里がいるというイレギュラーだったが、それでも普段と変わらず、義一と絵里は一度降りてきて、私と挨拶をした。そして二人がタクシーに乗り込み、ゆっくり走り出す時も、車内から二人が笑みを浮かべてこちらに手を振ってきたので、私も同じように返した。そしてタクシーの赤いテールランプが、一つめの曲がり角を曲がる事によって見えなくなるまで見送るのまでが一つの流れだった。
見えなくなると、私は誰もいない家に入り、シーンと静まり返った中で淡々と寝支度をした。
いくら大人ぶって見せて…いや当人としてはそんなつもりは無いが、おそらくそう思われているかも知れないが、もし何もなく一人で家にいたとしたら、正直とても寂しかったとおもう。何せ言ってもまだ中学二年生なのだ。いや、他の同年代はどうかは知らないが、少なくとも私はそうだった。ここ最近は数寄屋に行かずに、ひたすらコンクールの準備をしていて、毎回では無かったが両親がいない時に、それは実感として持っていたのだ。だが、数寄屋から帰ってきた時は、その日にした会話や議論が頭に甦り、それを反芻しているといつの間にかベッドに入っているのだった。だから寂しさを感じる暇など無かった。こんなところでも良い影響が出ていた。
この日も気づけばベッドの中に入っていた。普段以上に頭を使うせいか、大体横になってしまえばものの数分で寝落ちしてしまうのだが、この日はふと数寄屋を後にする直前の風景を思い出していた。
そして思わず「ふふ」と一人、思い出し笑いをするのだった。
それはこんな光景だった。
「今日はごちそうさまでした」
と絵里がマスターとママに挨拶をしていた時のことだ。
マスターとママは私にするのと同じ要領で返していたが、ふとママが何かを思い出したような顔つきになると、次にはニヤケ顔で絵里の耳元に近寄って何か囁いた。ハッキリとは聞き取れなかったが、内容としては、何でママが絵里の好みのワインを当てられてのかの種明かしだった。そしてそれはどうやらというか、まぁ想像通りだったが、情報源は義一だったらしい。絵里も一緒に数寄屋に行くという段取りになって二、三日しか間が無かったはずだったが、あの時そんな素振りを見せずに飄々としていたのに、裏ではちゃっかりこうして手を回していたという訳だ。これはのちに誰だったか…まぁおそらくママからだろう、聞いた話では、中々すぐには手に入りにくいワインだった様で、結構無理をして取り寄せたといった話だった。
ここから何を察するかは皆さんに任せるにして、この情景を思い出して何で笑みが溢れたかというと、この後の絵里の反応のせいだった。何の変哲も無い反応ではあったのだが、絵里はそれを聞くと、ふと少し離れたところで寛治と武史と談笑していた義一を見つめて、「ギーさんがねぇ…」と短い言葉を漏らしたのだった。
確かに短いのだが、その時の絵里の表情、その言葉に込められた深い情感、とてもじゃないけれど言葉に表しきれないナニカがある様に見えた。そして別にこの時が初めてでは無かったが、照れ隠しに誤魔化さない、ありのままの絵里の本心が改めて見れた様な気がした。
それを最後に私は静かに眠りに入っていった。
第5話 大広間
…ッタ…スタッ…スタッ…
…ん?
気付くと私は暗闇の中を、一定の速度を保ちつつ歩いていた。
…いや、真っ暗などではない。手元にある例のカンテラが足元をボーッとオレンジ色の柔らかい光で照らしていた。
…あぁ、来たか。
私は一度足を止めて、後ろを振り返って見た。そこは前方と変わらぬ暗闇が広がっていて、試しにカンテラを高く掲げてみたが何の変化も無かった。相変わらず何者かの気配は感じていたが、前回にみた夢の時に出会った、名も知らぬ骸の姿は確認できなかった。
暗闇というのもあるだろうが、仮に明るくても、何だかもう既に消えて無くなっているのではないかという、根拠は無いが確信に近い自信があった。
「…はぁ」
私は音が聞こえるのか確かめるためにも、声に出してため息を吐いてみた。しっかりと聴覚は生きていた。
嗅覚は先程からこの暗闇の中で一番に機能していた。前回までと変わらぬ埃っぽい匂いだ。しかし埃っぽいと言っても、むせたり咳き込む気配は無かった。
「さて…」
と私は寂しさを誤魔化すように声に一々出してまた新たに歩を進めた。
普通に考えたら暗闇の中で余所見をあちこちにしていれば方向感覚を失いそうなものだが、不思議とそれには困らなかった。
まぁこれが夢だといえばそれまでなのだが。
それからどれくらい歩いただろうか?
時折側を何者かが走りすぎて言ったるする気配を、ソレが起こしているであろう風によって察していたのだが、それ以外は何も起きない状態が続いた。前回のような骸にも、一度も出会えずじまいだ。
ただただ手元のカンテラだけが、飽きもせず煌々と静かに何も言わずに光を放ち続けている。燃費がどの程度なのか、夢の中だというのに、そんな変にリアリティのある心配をしてみたりしたが、すぐにその心配はいらないと”感じた”。…感じたとしか言えないのだから仕方ない。ただ、何だか前にも思った事で繰り返しになるが、このカンテラからは、勿論おとぎ話の様に突然顔が現れて話し出したりはしないが、それでも漠然と意思の様なものを持っているように”感じる”。この退屈な”散歩”に挫けそうになる度に、その光を見ると、何だか励まされているようで、それでまた前に足を踏み出せるのだった。
とその時
「…あれ?」
急に目の前に、緑色に発光する、よくあるタイプの非常灯のような明かりが見えた。
その柔い明かりの下には、その柔い光に浮かび上がるように、あの初めの部屋にあったような、赤く錆びたような扉がデンと現れたのだ。
余所見せずにただ前だけを見て歩いていたのだから、突然そんなものが目の前に現れるなんて現象は、不可思議でしかなく、常識的には説明がつかない事なのだが、しつこいようだが、夢だという事でただ納得する他になかった。
大体十メートルほどだろうか、その手前で立ち止まり、突然現れた懐かしい赤錆びた扉を眺めていた。
ここがまた変にリアリティがある所で、現実の世界と同じように、心臓が早く鼓動を打っているのが分かった。
私自身の夢にも関わらず、どんな事が起きるのだろうかと若干…いや、かなりビクつきながら、すり足でゆっくりと慎重に近付いた。
手の届くところまで来ると、一度上から下までそのドアを見渡してみた。最初の部屋のドアもそんなにじっくりと眺めた訳ではないから、勿論自信などは無いはずなのだが、アレとコレが同じ種類の代物だという事が分かった。
何度か顔を上下に動かし眺めていたが、これ以上していてもラチがあかないという事で、まだ内心ではビクついていたが、それを何とか抑えつつ、これまた錆び付いているせいか表面がボロボロの取っ手に手を掛けた。そしてゆっくりと回してみると…
何と、一度めにして開いた。
…何でそんなに驚いているのか、ここまで私の夢の話なんかに付き合ってくれた方なら、もう察しているだろう。
そう、初めの部屋にあったあの扉は、二、三度この夢に訪れなければ開かなかったからだ。
私は一度めに開いた事で待ち惚けを食らわないで済むと、胸の”半分は”喜んだが、もう半分はただただ得体の知れない”不安”が満ちるのだった。さっきも言ったように、仮に前回と同じだとすれば、一度めで開く事は無いだろうとたかを括っていただけに、これは驚くべき事だったのだ。
ここが私のヘタレな所なのだろうが、私がこの扉の前でまた足止めを食らう所でこの夢が終わるものだと思っていたから、折角開いたドアをそのまま開ける勇気が湧いてこないのだった。
私は取っ手に手を掛けたまま、指一本分ほど開いた扉の前で固まっていた。
…あ、そうだ。
と私は思い出し、他力本願だが手元のカンテラの光に勇気を貰おうと見てみると、これは現実に話したらバカバカしい事この上ない事だが、…いや、今までもそうだったのだが、心なしかカンテラの方も”緊張”しているように”見えた”。
このような事は初めてだった。
私は思わずカンテラを少し持ち上げ、顔の近くに寄せた。
カンテラは言うまでもなく火による明かりだから、そんなに近くに寄せたら熱くて仕方ないのが普通なのだろうが、このカンテラからはそのような猛烈な熱さは感じない。熱が出ているには出ているのだが、例えるなら羽毛布団を頭まで被って、それによって顔に感じる暖かさといった所なのだ。…分かり辛い喩えだろうが、要はとても心地の良いものだということだ。
カンテラの中身の火は、周りを隙間なく耐熱性のガラスで覆われているから、本来はあり得ないと思うのだが、火が風にでも吹かれているかの様に、あちこちと不規則に揺れていた。
それを見ていた私はまた少し不安の度を増したのだが、とその時、フッと一瞬強めに光ったかと思うと、今までよりもほんの少しだけ、光度が強まった様に見えた。オレンジ色の光に、少し黄色が混ざってきた様にも見える。
相変わらずゆらゆらと揺れるのは変わらないが、それでも私には充分だった。
「…ふふ」
とその時何だか急に”懐かしい”感覚を覚え、思わず笑みが溢れた。
私はすぐその後、今まで扉の取っ手をつかんでいた手で思わず口に手を当てた。
…人間として生きている限り、思わず笑ってしまう事など何の珍しい事では無いのだが、この時ばかりは自分で自分を不思議に思った。原因は、一緒に憶えた”懐かしさ”だった。
…?何なのかしら、この感覚は…?
私は首を大きく傾げて考えたが、特に何もその原因に思い至る事はなく、考えても仕方ないと、一層心が軽くなった事を喜びつつ、また取っ手に手を掛けて、ゆっくりだったが確実な意志を持って扉を押して、今までいた空間におさらばした。
…!
扉をくぐった次の瞬間、強い光を当てられたかの様に目の前がホワイトアウトして、その眩しさにしばらく目が開けられなかったが、その後ゆっくりと目を開けると、どうやら今までいた所と比べたら、遥かに光が満ちていた。カンテラの光が必要ないほどだ。
ようやく視覚がまともに機能する様になったと本来なら喜ぶべきなのだろうが、正直目の前に広がっていた光景に、驚愕するとともに、何だか…気持ちがどんよりとさせられた。
まず何故驚愕させられたか?
それは、今までに見たことの無いような、ゴシック建築様式で凝らされた空間が広がっていたからだった。
…いや、これは私の夢なのだから、イメージの力で現実に見たことの無いものが出現する事はありえる事だとは言っても、それは元の物をそれこそ想像力で膨らませたり縮めたりしての結果な訳だが、起きてる世界でそんなに見たこと無いのに、ここまで現実に沿った物が現れたのは、どう考えてもいくら夢でも説明がつかない。
…まぁ未だに謎だが、結局は意識的には覚えていないだけで、実際は何かの拍子に目に入ったのだろう。
それはさておき、私は相変わらず扉の前で立ち止まっていたが、この場合は仕方ないだろう。取り敢えず動かずに、目で取れる情報を片っ端から取っていくのに専念した。
まず目を惹いたのは天井だ。天井は典型的なゴシック様式の尖頭アーチ型で、それが隙間を作らんばかりにばかりに広がっていて、夢だというのも忘れてただただ見惚れてしまった。視線を下に戻すと、それらを支える為か、列柱もいくつも並んで立っていた。尖頭アーチの端と列柱の間には、葉形模様の装飾が施されていた。
ふとこの時、今更ながら何処に光源があるのか疑問に思い始めた。見た感じ、現代にある様な電化製品がある様には思えない雰囲気だったし、そもそもこの場には似つかわしくなかった。
しかしその疑問もすぐに解消された。こんな事を言っても分からないだろうが、私の通う学園の校庭ほどもありそうなこの部屋の壁の至るところに、縦に長い控えめな窓がいくつもあって、そこからおそらく外だろう、自然光が差し込んできていた。その中の一つが歩いて数歩の所にあったので、ようやく私は重たい足を前に踏み出し近づいた。
その時に初めて気づいたが、この窓にはステンドグラスがはめられていた。…こう言うと、このゴシックの雰囲気なども話したから、まるでヨーロッパの教会にある様な、様々な色彩で彩られた物を想像するだろうが、実際は違った。細かく趣向は凝らされていたが、何の色付けもされていないガラスで、下手に細工しているせいで曇りガラスの様な効果を発揮し、私の身体の幅程しかない窓からは外を見る事は叶わなかった。
さてもう一つ、何故気持ちがどんよりとさせられたかについてだ。
何も外の景色が見えなかったせいでは無い。もっと根本的な事だった。
それは…ここに出てから目の前の景色が灰色一色しか無いということだ。先ほど私は視覚が回復したと言った。実際回復しているのには違いない筈なのだが、どうやら突然私の目が灰色しか感知出来なくなった訳ではなく、そもそも色合いがそれに統一されてしまっているらしい。それを証拠に、この灰色の景色の中で、唯一多様な色を放っているのは、私自身と身に付けている物、そして…手元で灯を放つカンテラがあったからだ。思わず自分の身体とカンテラを確認して、それで安心したという次第だ。
…と、色々描写してみたが、後は特段触れるものは無い。
天井はそんなのだし、仮初めでもステンドグラスがあって雰囲気は良いには良いのだが、全てが灰色に見えるという理由も手伝って感動は半分以下に抑えられてしまい、その感動も慣れていってしまうと、どんよりとした気持ちが優って心を占め始めるのだった。
このまま呆けていてはやられてしまうと、何処かの世界遺産に来た気持ちで部屋の中をグルグルと回った。しかしこのだだ広い空間には、何も物が置かれていなかった。
その分ますます広さを思い知らされていたのだが、部屋の隅に階段らしきものと、屈めば入れそうな程に大きいかまどを見つけたその時、
コツ…コツ…コツ…
と突然足音が聞こえてきた。どうやらすぐ近くの階段を降りて来るらしい。足音は徐々に大きくなっていった。
私はこの夢を見てから初めて自分以外のあからさまな”人”の気配に驚き、少しの間、蛇に睨まれたネズミの様に微動だに出来なかったが、次の瞬間、私は足音をなるべく立てない様に駆け出し、出てきた扉の近くまで行き、その側の列柱の一つの影に身を隠した。
ちょうどその時、その足音の持ち主はこの大広間に降り立った様だ。足音が止んだ。
私は扉を開けるときとは比べ物にならないくらいにドキドキしていた。鼓膜で隔てた内側で、心臓が脈打つ音が大きく聞こえた。外に漏れていないか心配になる程だ。
ザッ…ザッ…ザッ…
何やら掃いている音がしてきた。箒の擦れる様な音が、この広い空間にこだまする。
しばらく、まるで人が出しているとは思えない程に規則正しく鳴り響く音に耳を傾けていたが、次第に恐怖よりも好奇心が勝ち、覚悟を決めてそっと柱の陰から顔を覗かせた。
音の持ち主はカマドの前でホウキを持ち、何かを掃いていた。どうやらカマドの掃除をしているらしい。
…いや、そんな事は音から大体察せられたのだが、何よりも驚いたのは、その者そのものに対してだった。
その者は全身を修道服の”様な”者に身を包んでいて、まさしくこの空間に馴染んでいた。…いや、だったら何も驚く事はないと思われるだろう。…そう、勿論これが理由では無い。というのも、この者は、周りの風景と同じで、灰色一色だったからだ。
おそらくあの者も私と同じ様に人間だと思われるのだが、前にも話した様に、私自身は色合いを残しているのに、すっかり周りの風景に溶け込んでいた。これはゴシック建築と修道服の組み合わせ以上に、学の無い私にとってはもっと馴染んで見えた。修道服の様なと言ったのも、この色合いのせいだ。
そのせいか、次第にその者が何だか人間でなく思えてきて、いや、むしろ”有機体”にすら思えなくなり、すっかりまた好奇心よりも恐怖心に占められていき、顔を引っ込め、その場にしゃがみ込み、膝を抱える様にして、両腕に顔を埋めるのだった。
その間も、耳には規則正しい一定のリズムを刻むホウキで掃く音が聞こえていたが、ふとその時、目を瞑っていたにも関わらず、徐々に視界が狭まっていくのを覚えた。
それに対して私は心から安堵した。
何故なら、これは夢から現実に戻っていく時の現象だったからだ。
それと同時に音も徐々に遠ざかっていった。
第6話 (休題)とある番組内からの抜粋(神谷)
琴音が数寄屋で祝られていた頃、
その裏で神谷がとある生番組に出演していた時の一コマ。
司会はテレビ局の政治部担当記者と女子アナウンサー。
神谷のお相手を務めていたのは、当時都知事だった男性。
番組全体の議題は”保守とは何か”。
話は大戦後日本社会、そして世界について議論が交わされた。
東西冷戦を軸に、日米同盟などの話などが話された後、
ふと司会の男性に、「神谷先生にとって、戦後日本を保守の立場から見ると、どの様な評価になりますか?」と問われ、それに対して答えるところだ。
神谷「それを話すとちょっと長くなるし、これは生番組だから時間も無いし…」
男性「いえ、時間はたっぷりありますから大丈夫です」
神谷「昔から保守思想…その大元であるイギリスの保守の考えには、それこそ三原則があってね。まず一つ目は、英語では”fallible”と言うんだけれど、これは日本語にしたら”可繆性”といって、つまり『人間というのは不完全なものなのだから、その時その場の気分で思い付いた理屈だとか理論なんかに自ら埋没するな。”爾自らを疑え”というのが第一テーゼでね」
男性「なるほど」
神谷「で第二テーゼだけれど、これは社会を”有機体”と捉える考え方で、例えば木とかの植物を傷付けてしまうと枯れてしまったりするでしょ?これは人間社会にも言えて、何せその社会を構成しているのは、生まれも育ちも性別の違う個々人がそれぞれの過去を引きずっている、必ずしも合理的には生きていない代物の集合体なわけだからね。だから第一テーゼとも絡むけれど、過去の事例を無視する様な思いつきの机上の空論なんかで、無闇に改革をしてはいけないという事。でー…少し触れた様に全て関連性があるんだけれど、今までの話の結論として出てくる第三テーゼは、”gradualism”つまり”漸進主義”。要は頭でっかちな右派の様に頑固に過去のものに固執するのではなく、時代が流れれば否応無く変化は逃れられないのは自明なことだけれど、でもそれを息急き切って先頭に立って突っ走るのではなく、一番最後尾からゆっくりと慎重についていく態度、また一番後ろにいるお陰で全体の流れを落ち着いて観れるという美点もあるから、最後尾にいるもんで、もしかしたら先頭に向かって『方向が間違っているよ』と声をかけても届かないかもしれないけれど、それでも飽くなく声を発し続ける…とまぁ、冗長になってしまったけれど、これがまぁイギリスの伝統的な保守主義なんです」
男性「はっはぁー、なるほど…」
神谷「でまぁ、ここで質問に改めて答えるとね、五十年体制とかいってずっと与党に居続けたあの党は、冷戦期はずっとアメリカに擦り寄って、それでずっと過ごしてきた訳だけれど、でも冷戦が終わって、パクスアメリカーナとでも言うのか、アメリカ一強時代が九十年代の間だけ続いたけれど、結局それもポシャって、アメリカはもう世界の警察を辞めるとまで言い出した。…まぁそもそも、日本とごく一部の国以外は、アメリカが世界の警察だなんて認めていないけれども。何せ、今世紀に入ってから、アメリカは傍若無人に我が物顔で偉そうにイスラム諸国に攻め込んで侵略している訳だしね。…いや、何が言いたいかっていうと、アメリカ自身がそろそろ自分の力が落ちてきたことに徐々に気付き始めて、それを認め始めているというのに、この日本ときたら、今だに”冷戦脳”の連中が、政治家、経済界、官僚、そして教育の分野の中にいて、そんな人らが国の行方を左右し、たまに何かし出したなと思えば、改革だのなんだのと、何を血迷ったのか偉そうに、たまさか今産まれて生きているだけの人間が、過去二千年近く続く日本の社会に施そうとして、実際に施してきた訳ですよ。それも、自称保守党と名乗っている政権与党が。…まぁ長くなりましたけど、結論としては、戦後日本では、ポツポツと小さくはいたけれど、大まかに見たら影響力が全く無かったという意味でも、保守というものが無かったということですね」
第7話 (休題)とあるフォーラムでの質疑応答から抜粋(寛治)
三田にある有名な私立大学でのフォーラム。
寛治は数寄屋に来る前に、講演をする様に頼まれて一時間半ばかり話した後、少し休憩を挟んで、また約一時間ばかりの質疑応答の時間を持った。
数人から現在のアメリカの内政についての質問が出て、それに答えた後、どこか別の大学で教授をしているという、寛治よりも歳上…そう、だいたい神谷と同い年くらいの人から質問を受けた。
「…とまぁ、日本政府というのは今に始まった訳では無いですけど、腑抜けにもほどがありますよね?首相、政治家、そして外交官…これらの状態を、アメリカに住む佐藤さん(寛治の事)から見て、どういった感想を持たれているのか、是非開かせて頂きたいです」
それを聞いた寛治は、見るからにイラついて見せつつ答えた。
「僕はー…日本で保守と自称している人達が大っ嫌いで、…あ、いや、神谷先生は違いますよ?神谷先生は、このフォーラムの最初の方で紹介しました様に、本当に僕と仲良くして下さって、僕の方でも駒場の学生の時から尊敬を申し上げていたので、今こうして仲良くしているのが未だに不思議な感じなんですけれど…っていや、何が言いたいかっていいますと、神谷さんは僕から見ると”リアリスト”なんですよ。国際政治学の中で僕が所属しているのは、十九世紀以来の、数カ国の間でパワーバランスを保ち勢力均衡するのがノーマルな状態だと考える”リアリストスクール”という学派なんですけれども、神谷さんもこっちなんですよ。まぁ、神谷さんはご自分を保守だと仰ってますから、僕なんかが否定するなんて事は出来ませんので、そうなんだと受け入れている訳ですけど、そうなると、まるっきりタイプが違うのに自分を保守だと名乗る人が多過ぎるんですよねぇー…ってまた逸れちゃった。何が言いたいかといいますと、日本の月刊誌の外交欄や政治欄とかを読むと胸がムカムカしてイライラしてくるので読まないことにしているんですね。日本の自称保守派というのは、南京問題とか慰安婦問題とか、首相が靖国に行くかどうかになると頭がカーッとなるでしょ?そんな瑣末な事をしている間にも世界情勢は刻一刻と動いている訳ですよね?でね…本当に頭が痛くなるけれども、イラク戦争の時、彼らはアメリカの”ネオコン”に賛成したでしょ?ネオコンみたいなバカな連中に賛成しときながら、保守マスコミ人は中国とか韓国、朝鮮人に対しては威勢が良いんだけれど、アメリカに何か言われると、ピューっと何処かに逃げちゃうのね?『…何だこいつら?』と。アメリカが例えば今世紀に入ってやった侵略戦争に対しておかしいと言わなかったじゃないですか。日本でアレに対してオカシイと論陣を張っていたのは、僕が知る限り神谷先生と、その周りのお弟子さん含む関係者の極一部だけだったんですよ。とにかくもう…日本の自称保守は全然ダメですね!故人なら名前を言っても良いだろうと…まぁこのフォーラムは、大学のホームページでしか見れないらしいから、生きてる人の名前を言っても良いんでしょうけど、岡崎久彦だとか、渡部昇一だとか勘弁してくれって感じでね、全然考えてないよねあの連中ね!もうねー…いや勿論首相含む政治家のレベル、外交官を含む外務省も酷いけれど、言論の自由が許されているはずの言論人がこの低レベルな訳ですよ。アレで知識人と言えるのかと。んー…七十年代に僕がまだ日本で大学生をやってた頃は、田中美知太郎とか、小林秀雄とか、福田恆存なんかがいて、とても立派な事を書いたりして論陣を張っていたんですよ。でその後僕は八十年代はアメリカに行ってまして、その十年間は日本の書籍や雑誌を一切読まなかったんですよ。で、それがあるきっかけで神谷先生と付き合う様になりまして、それをきっかけに九十年代に入って日本の保守雑誌を読み始めたんですよ。そしたらもう…繰り返しますけれどヒドイのね!?もうね、バカみたいなことばかり書いている訳でしょ?彼らにとっては左翼の悪口を言ったり、中国人や朝鮮人の悪口を言っていればそれで済むんですよ。そういうもう…大衆に受けそうなゴミみたいな事を書いて人気稼ぎをしている訳ですよ!それによってますます保守論壇の知的レベルが、どんどん落ちていく訳ね?…ちょっと自己宣伝になってしまうかも知れませんけど、僕も寄稿している神谷先生が顧問の雑誌”オーソドックス”は違いますよ?」
「ははは」
「だからもう平和主義でお花畑の左翼がバカなのは分かってますけれども、だからといっていわゆる保守陣営の知的レベルの貧困化は…本当にヒドイですよ!」
もう一人、最後の質問者の男性だ。
「先ほど先生はネオコンの事を話されました。前のお話の中でも、ネオコンのバックにはウォール街がいて、それらが色々と好き勝手やるたびに、アメリカ社会に徐々に歪みを与えてきたという話だったと思います。それはよく分かりました。で、ですね?ついこないだの大統領選挙で、保護主義を訴える人が当選した訳ですけれど、これはもうグローバリズムに疲れたというアメリカ人の本音が現れた結果だと思うんです。それでですね、何が言いたいのかというと、それなりにアメリカでの選挙で、民主主義が働いたのかなと…。でも問題はこの後で、今までの勢力…ネオコンも含めてですね、この新大統領を何とか引き摺り下ろそうという流れが出来ると思います。そうなると、もしそれでこの大統領が辞める様なことになると、そもそも民主主義が機能しなくなっているというので、私はそれをかなり危惧しているのですが…先生はどうお考えでしょう?」
そう問われた寛治は、少し苦笑を浮かべつつゆっくりと口を開いた。「んー…ちょっと根本的な事を言ってしまいますけれど、僕はー…民主主義に対して悲観的なんですね。だからー…僕がアメリカに対して批判的なのは、僕自身が民主主義に対して好意的ではないからだと…。でもだからといって戦前の様に軍国主義や天皇主義に戻せなんて事は思わないんですけれど。あのー…トクヴィルが”democracy in America”を書いて、アレは1835年に出た上巻と、1840年に出た下巻とがあるんですけれど、この二つは全く違う本なんですね。僕は1840年に出した本の方が優れていると思うんですね。でもその本は、1835年に出した本の十分の一しか売れなかったんですよ。で、ところが最初に出した本の方は一年くらいで書き飛ばして、それがベストセラーになったんですけど、下巻の方は五年間試行錯誤して苦労して書き上げたんですけど売れなかったと。それにガッカリしたトクヴィルに、友人だったえっと…そうそうJ.S.ミルが『下巻の方が良いよ。大体ね、昔から良い本というのは売れないんだから』ってね」
「ははは」
「で皆さんご存知の通り、下巻の中でトクヴィルは有名な”the tyranny of the majority””多数者の専制”と、そこまで言ってるわけですよ。要は、少数の意見を聞こうとしないで、ただ多数決で全てを決めていこうとする事。トクヴィルが書いているのは、普段大衆というのは仕事をしたりと忙しくて考える時間がなくて、いくら自分たちで意見を持ちましょうと言われても結局持てずに、多くの意見が集まる方に吸い寄せられていく…その状態を危惧していた訳です。政治が大衆のその時の気分に流されてしまい、物の考え方の自由まで終いには無くなってしまうだろうと、そこまで書いてる訳ですよ。それだけ大衆社会というのは怖いものだと。で、トクヴィルというのは、あのフランス革命とかいう馬鹿騒ぎの後で外務大臣をやった訳ですけど、その当時のフランスですら民主化が進みすぎていて、その国民世論を気にせざるを得なくて、まともな外交が出来なくなっていったんですよ。外交というのは言うまでもなく、数年先どころか、二十年、三十年、いやもっと先のことを考えてするものですけど、大衆なんていうのは、その時その時の気分で動くものですから、世論なんてものなんかに振り回されたら、まともな外交なんか出来ないんですよ。それに民主主義の外交政策というのは、好き嫌いで進んだりするんですよ。『あの国は嫌いだからやっちまえ』だとか、『最近あの国が経済発展して生意気だから、懲らしめてやろう』ってな具合で。だから民主主義と、まともなプロフェッショナルな人らがやる外交政策というのは相性が悪いんですよ。両立しないんだと。もうその事実が、1840年の時点で問題提起されている訳ですね。で、僕はあの冷戦構造を作った大外交官のジョージ・ケナンが大好きで、日記なり何なりまで書籍しているものは、ほとんど全て読んでいるんですけれど、その中身を見てみると、やはりアメリカ人で、そんな政策のトップにいた様な人でも、民主主義についてボロクソに書いているんですね。せっかく色々と将来を見据えた外交の道筋を立てても、世論に誑かされた議員さん達が勝手に進路を変えたりして、その度に自分たちがその尻拭いをして、そしてまた新たに道筋を立てると。でね、んー…だから僕はー…これは言っちゃいけないよと言われているんですけど、まぁこういった場なので敢えて言ってしまうと、僕は本当は民主主義が大嫌いなんですよ。大嫌いなんですけれど、それは言っちゃいけないという建前で普段は何も言わない様にしているんですけど、ズバリ言ってしまえば、民主主義を続ける限り、まともな国家運営は期待出来ませんね。これで終わります」
第8話 コンクール(終)前編
「…ってことで、いよいよ明日ね?」
「えぇ…」
「…ふふ、声から既に緊張が見えるよ?…大丈夫だって!何の心配も要らないんだから、普段通りにね?」
「えぇ…それは分かっているわ」
「そう?なら良かった。じゃあまた明日ね?お休みー」
「えぇ、お休み」
ツーツー
私から切る前に、裕美が先に切った。私たちが二人電話をすると、大概こうなる。
今は夜の十時を過ぎた辺り。既に寝る準備は済ませ、自室に入り、ふと寝ようとした所に裕美から電話があった。
九時半ごろに来たはずだから…約三十分ほど会話をした事になる。
私はベッドの上に座り、大きめの低反発クッションを抱きしめつつ、その体勢でずっと電話をしていた。
何故裕美が電話をして来たのかというと、それは…明日遊ぶ予定なのを確認する為だった。そこには他にも、律、藤花、紫も来る予定だ。明日からは所謂お盆休み。大抵の大人たちもこの時期に少しばかりお休みを取る時期だ。まぁそれと私たち学生とは関係が無いが、そんな時期に久し振りに皆で集まる予定が組めたのだ。
…察しの良い方なら、何をそんなに先延ばしにして話しているんだと思われただろう。裕美の電話の意味を言うのに躊躇気味な点を突いて。
…その推理はズバリ当たっている。そう、明日は私にとってだが、ただ単に遊ぶだけでは無いのだ。
覚えておられるだろうか、裕美との約束を…?
そう、『もしコンクールで決勝まで進出出来たら、今度は私だけではなく、紫たちにもキチンと話すこと』というアレだ。
私の予想に反して、初出場にして何の因果か、全国大会にまで歩を進める事になったので、この約束を果たさなければならない。
勿論、ここまで来れたこと自体は喜ばしい限りなのだが、今まで黙っていた分、明日あの子たちにこの事を話す事を思うと、胃に何か重石が入れられたような気分になるのだった。
私のウジウジと考えすぎる性格上、話した後で、今まで黙っていた事でアレコレと非難されたらどうしようとか、その時はどう弁解しようかなどと思い巡らし、そして今裕美との電話の時も、その事について軽く相談したりしたのだが、裕美はそんな私の心配を他所に、底抜けに笑いながら「気にせず、ドンと行こう!」といった調子で言うのだった。まぁ、そんな能天気な裕美の話ぶりで、今こうして電話を切った後も、そんなに気分が重くは無いのは感謝すべきだろう。
私は夏用の薄めの布団に潜り込もうとしたが、またふと思いついて起き上がり、ベッドからも出て、明日の準備を済ませた遊ぶ用のカバンの乗る机まで近づき、そしてそのカバンの中から一冊の雑誌を取り出して、それを持ったままベッドに戻った。
そして先ほど裕美と電話をした時のように、ベッドボードを背にして座り、そしてパラパラとページをめくった。この雑誌には私自身が付けた目印用のシールが貼られており、今もその部分を開いて見た。そこには見開きに大きく、ドレスアップした私がデカデカと写っており、ピアノを弾いているのと、大きく客席に向かってお辞儀をしている写真だった。
これは当然説明するべきだろう。これは先週に届いた、コンクール主催元が出している月刊紙だった。私は、こういうのが存在しているのを全く知らなかった。私は本屋を用事もないのに見て回るのが好きなタチなのだが、いわゆる雑誌コーナーでこの雑誌を見かけた事が無かったのだ。これが家のポストに入っていたのを見つけて驚き、早速その中身を見てみたら尚更驚いた。
こんな事を言っては何だが、”オーソドックス”よりも遥かにしっかりと”雑誌然”としていたコレをペラペラ捲ると、あるページから”コンクール特集”というものが組まれていて、何とそこのトップページに私が載っていたのだ。私は思わず自分でも分かる程に目を大きく見開いた。そして動揺したまま私の写真と共に載っている、誰が書いたか知らない文章を読んでいった。色々書いてあったが、要は私に対しての賞賛の記事だった。読んでいて、こそばゆいというか、私の性格をご存知ならば予想がつくだろう…そう、終始一人で苦笑しっぱなしで記事を読んだのだった。
すっかり面を食らった私はその後、次のレッスン時にこれを携えて行くと、師匠自身もコレの存在を忘れていたらしかった。まぁそれなら私自身が知らなくても仕方ない。
それでレッスンの中休みに、お菓子を食べてから師匠の書斎のパソコンで見てみると、『決勝進出者は、私たちが刊行している雑誌に特集される事があります』と、なかなかデカデカと分かりやすい形で説明文が載ってあった。この時まで正直、勝手にこんな風に、言ってはなんだがマイナー雑誌とはいえ、こうして特集を組むなんぞ言語道断だと一人静かに怒っていたのだが、これを見た瞬間一気に怒りは収まっていった。
そしてすぐに一人…いや、師匠と共にお互いの顔を見合わせつつ苦笑いをしたのだった。
これは何度見ても慣れなく、もう何度目になるかと分からなくなるほどだったが、今だに自分の大きな写真を見ると、苦笑いを浮かべずには居れなかった。
何故寝る前に、確認する様にまた見たか?いや、そもそも何故その雑誌が、明日遊びに行く時に持って行くカバンの中に入っていたのか?
…そう、もうお分かりだろう。私のことを説明するのに、これを持って行って見せるのが、一番手っ取り早いと思ったからだ。
…正直本当はこれをあの子たちに見せるのは、考えるだけでも赤面モノなのだが、背に腹は変えられないと、ある種決心して持って行くのだ。ちなみに裕美には、この雑誌が存在している事自体知らせていない。驚かせるつもりはないのだが、言い出せないまま今日になり、結果的にはサプライズになるだろう。
私はため息を吐きつつ雑誌を閉じ、立ち上がり、机の上のカバンに仕舞い、そして戻り、今度こそ布団に入り部屋の電気を消した。
ベッド脇のナイトテーブルに乗せてある、柔らかく仄かな明かりを発する間接照明を点けるのを忘れずに。
次の日の正午、私と裕美は普段通りにマンション前で待ち合わせ、軽く挨拶を交わした後は、そのまま地元の駅に向かった。
今日も太陽が燦々と照り、アスファルトからは陽炎がまるで湯気のようにユラユラ蠢いていた。お盆だからなのか、それとも単純に暑いからなのか、いつもよりも気持ち人が疎らに見えた。
私は普段通りの麦わら帽子をかぶり、後は無地のTシャツとスキニーパンツという格好だったが、正直裕美の格好はよく見ていなかった。取り敢えず私と違って、相変わらずの可愛いお洒落をしていた事は確かだった。帽子はしていなかったと思う。
…正直、この後何を他の三人に話そうかとそればかりに気を取られて、裕美のファッションどころでは無かった。…裕美には悪いけど。そんな私の心中を知ってか知らずか、いや態度で上の空なのが出ていたのだろう、それにも関わらず裕美は果敢に私に色々な話題を振ってきた。まぁ必然と今度の決勝の話に終始した訳だったが、それでも気を楽にしてあげようという気持ちが伝わってきて、実際に裕美と話すだけで気が楽になるのだった。
今日の待ち合わせ場所は、例の新宿御苑脇の喫茶店だった。
学園からは近いのだが、私と裕美の住む場所からは、都内だというのに、一度の乗り換えの時間を含めてだが、五十分もかかる位置にあった。前にも軽く触れたように、一年生の時だけ利用するつもりだったのが、何だか愛着が湧いて、二年生になった今でもそこで、休日でも関係なく、そこで落ち合う率が高かった。次に高いのは、以前にも話した裏原のお店だ。
それはともかく、よくもまぁ五十分もかけて行くものだと呆れる人もおられるだろう。勿論、このグループの中では圧倒的に私たち二人が時間をかけて来る計算になる。確かに改めて所要時間を聞くと遠いなと思うが、それでも私…いや、おそらく裕美も同じ気持ちでいてくれてるだろう、正直こうして二人で待ち合わせの場所に行く時間が、何だか上手くは言えないが、好きな時間だった。
一年生の間もずっと同じ様にはして来たのだが、ご存知の通り、今は裕美とは別のクラスになってしまった関係で、必然と以前と比べてこうして二人で過ごす時間が減ってしまっていた。私自身が忙しくなった理由もその一つだが。それは置いといて、一年生時も二人仲良くお喋りをしていた筈だったが、感覚で言うと、今の方が前よりもお喋りして過ごすのが楽しくなっている気がした。何が違うのかと言われると困るが、何だか同じ楽しいの中に他のプラスな要素が含まれている様な気がするのだ。…あくまで気がするだけなのだが。だがその気がするお陰で、五十分もの道のりが全く苦痛では無いのだった。勿論、休日のお陰で座って行けるというのと、これは流石の私でも言うのは”恥ずい”が…その長い道のりの先に律たちがいると思えば、余計にそんなのは足らぬ問題だと気付かされるのだ。
…毎度の様に、どうでもいい事で時間を割きすぎた様だ。話を戻そう。
その長い道のりの間、会話にひと段落が付いた頃を見計らって、本当は喫茶店で一気に見せるつもりだったのだが、やはりそうもいかないだろうと、話題提供の気持ちもありつつ、おもむろにカバンから例の雑誌を取り出した。「何それ?」と思った通り瞬時に裕美が食いついてきた。顔には好奇心を滲ませている。
私はその質問には答えずに、恥ずかしいのを噛み殺した結果として何も言わないまま、裕美に手渡した。
「何よー?」と少し不満げな声をあげたが、すぐさまページをめくっていった。
…が、昨夜も言った様に、目印のシールを貼っていたので、裕美もそれが重要な箇所だと察したか、すぐ様そのページを開いた。
すると、見る見るうちに目が横から見てても大きくなっていき、それと共に口元がニヤケて行くのが見えた。
そしてギュンッと勢いよく私に顔を向けると、大きく見開いた目をそのまま私に向けてきつつ「何これ…これってアンタよね?」と聞いてくるので、「…えぇ」とやはり改めて確認されると恥ずかしくて、やっとの思いでボソッと返すと次の瞬間、「凄いじゃなーい!」と声を上げながら私に抱きついてきた。私は抱きつかれながら周りを確認した。乗客が疎らなのが幸いした。…いや、そうでも無いか。この車両には十人前後しか乗っていなかったが、それでも何人かはこちらに視線を向けて、半分は何事かと、もう半分は渋い表情を浮かべていた。
それらの視線が痛くて、「ちょ、ちょっと裕美…」と声をかけつつ、少し力任せに裕美を引き離した。流石はスイマー…いや関係してるのかどうか分からないが、取り敢えず引き離すのにも一苦労だった。
「どういう事ー?」
とまだ興奮の冷めやらぬ裕美が聞いてきたので、何だか肩の力がふいに落ち、気を落ち着けて先ほどの様な経緯を端折りつつ説明した。聞き終えた裕美は、腿の上に置いた、私の写真が思いっきり大きく載っている見開きのページに目を落としつつそう呟くと、不意に顔を上げ、そして私に何かを察した様に目を大きく見開きつつ言った。
「…あ、じゃあ、アンタが今日これをわざわざ持って来たのって…”そういう事”ね?」
「…えぇ、まぁね」
と私が答えると、「ふーん…そっか」と一人で、ホッとした様な、もしくは何だか語弊を恐れずに言えば”つまらなそう”なため息交じりにも聞こえたが、この時には何でそんな態度を一瞬見せたのか分からなかった。だが、それに対して強く疑問を持ち、そしてそれに突っ込もうとした時には、既に裕美が話題を変えてきていたので、そのまま流れてしまった。だが、特段それにこだわるつもりも無かった私は、それで良しとして、裕美の話に合わせるのだった。
午後一時少し前。私と裕美は御苑に一番近い地下鉄連絡口に出た。
当たり前の様に燦々と太陽が照っていたが、何だか地元にいる時よりも暑く感じた。まぁ感覚的にそう感じるのも致し方ないのかも知れない。
なんせ地元の駅からここまでは、時間が掛かるとはいえ一度の乗り換えのみで済み、しかも地元を通るこの電車は途中から地下鉄に接続しており、乗り換え時もずっと地下を通って行く訳で、灼熱の地上とは大袈裟に言えば疎遠になっていたのだから。
身体はある程度は冷えていたはずだが、地上に出た次の数瞬後には、至る所で汗が滲んでいくのを感じるのだった。
「あっつーい!」と私と裕美は苦笑気味にお互いに顔を見合わせて声を上げると、少し早足気味に例の喫茶店を目指した。
三分ほど歩くと店の前に着いた。いわゆるチェーン店なので、何も特に描写する所がない。まぁ皆さんが想像するソレで間違い無いと思う。
自動ドアが開き中に入ると、まず鼻腔内がコーヒーの匂いに満たされた。このお店はチェーン店ではあるのだが、コーヒー豆などにかなりこだわりを見せていて、淹れ方もサイフォンを使っているらしかった。いわゆるチェーン店の中ではマイナーなお店なのだが、それ故知る人ぞ知るといった感じがあった。…少し言いにくいのだが、その分このお店は他のと比べて、プラス百円以上値が張る。そのせいなのか、生意気言う様だが客層も少しばかり洗練されていて、前にもちょろっと紹介した様に、店内はいつも落ち着いた雰囲気で満たされていた。…本来学生時分の私たちがたむろするには財布が厳しいはずなのだが、そこはまぁ…私たちみんなの”ご両親”に感謝をしなければならないだろう。私の親も含めて、皆も別に親から何も言われていないらしいから、流石は”お嬢様校”といった所なのだろう。
「いらっしゃいませー…ってあらいらっしゃい!」
と、私たちが入った瞬間、カウンターの中から声を掛けられた。
「あ、今日って里美さんだったんですね!」
と裕美が明るく返すと、それに負けずに女性は「まぁね!」と同じ様に返していた。
「琴音ちゃんもいらっしゃい!」
「お邪魔しますね」
私にも声を掛けてきたので、麦わら帽子を取りつつ、微笑み返した。この女性が、何度か軽く触れた、この喫茶店で私たちに親しくしてくれてるその人だった。
里美さん。私たちはそう呼んでいる。これも私の周りでのありがちなパターンで、下の名前でいつのまにか呼ぶ様になっていた。しっかりと喫茶店の制服の胸元に名字が書かれているはずなのだが、里美さん呼びに慣れてしまってからは、誰一人として名字がなんだったか思い出せずにいた。
現に今こうして話しながら思い出そうと試みたのだが、結局思い出せず仕舞いだ。
見た目もこう言っては何だが、これといった特長の無い、ごく一般的な女子大生って感じなので、何か話すべきことも見つからない。とまぁこう言うと悪口に聞こえるかも知れないが、ある意味で紫にタイプが近く、歳が離れているのにも関わらず、ただOBってだけで親しくしてくれて、でも変に馴れ馴れしく無い、丁度いい距離感を保たせてくる点を、先輩相手に何だが、とても評価をしていた。
「…じゃあ後で持ってってあげるね」
「はい、ありがとうございます」
と私と裕美で返すと、里美さんは一度ニコッと笑顔を見せてから、二階に続く階段を軽く指差し言った。
「もうみんな来てるからね?」
「あ、おーい!こっち、こっち!」
私たちが階段を上がり切るかどうかの所で、遠くから声を掛けられた。見るとその声の主は紫だった。大きく腕を伸ばし、こちらに手を振っている。いつもの窓際のテーブル席だ。視線を逸らすと藤花と律も来ていた。藤花は満面の笑みで紫ほどでは無いにしろ、腕を大きく伸ばしていた。律も気持ち口角を上げて、胸の前でヒラヒラと手を小さく振っていた。大きく腕を伸ばし、こちらに手を振っている。
私と裕美はほぼ同時に手を振り返しながら、テーブルに近づいて行った。
「こらこら紫、声が大きいよ」
と私が苦笑気味にそう返すと、紫はシュンとした表情を作って見せて「はいはい…姫様の仰せのままに」と言いつつ、ゆっくりと腕を降ろした。
「誰が姫じゃ、誰が」
と、すっかり出来上がってしまった一連の”習慣”(これを悪習と言いたい)を済ませると、私、裕美の順に紫側の長椅子に座った。
「それに、仮にそうなら姫に対して”はいはい”って二度続けるのはどうなのよ?それなら”はい”って一度で済ませるものでしょー?」
とまた私が突っ込むと、紫は「はぁ…」とため息をつきながら首を横に大きく振った。
「ホント、このお姫様には、母さんというか、口うるさい小姑までが同居しているんだからねぇ」
「何か言った?」
「なーんも!」
と私がジト目を向けて言ったのにも関わらず、当の紫は悪戯っぽい笑みを浮かべて冗談まじりに返してきた。その瞬間、私以外の四人が同時に笑い合うのを見て、根負けした様に私も一緒に笑うのだった。ここまでもが良くある流れだった。
他の四人はいつ来たのかだとか、今日も暑いねなどといったような話をしていると、里美さんが私と裕美の分の注文した飲み物が運ばれて来た。「ごゆっくりー」と里美さんは座る私たちの顔を見渡しながら言うと、「はーい」と私たちの返す返事を背に受けつつ、スタスタと軽い足取りで階段を降りて行った。
「…おほん、では…」
里美さんの後ろ姿を見送った後、おもむろに紫が手に抹茶のフローズンドリンクを手に持ち声を出した。それを合図に、何も言わずともそれぞれが手に自分の飲み物を持った。
この時点で既に私と裕美以外の皆は注文を済ませていて、テーブルの上に並べていたのだった。
ついでに他の注文は何だったかを話しておこう。
まず藤花。藤花も紫と同じようなフローズンドリンクだったが、種類は抹茶ではなく、ストロベリーだった。上には生クリームが乗っている。何というか、藤花の雰囲気に合っているものだった。まぁ当人は別にキャラとか関係無く、好きなもの、飲みたいものを注文しているだけなのだが。それを言うなら、紫も抹茶が似合っていた。何と言うか…何と無く和風な雰囲気が。
次に律。律はこれまであまり触れてこなかったが、大体においてアイスコーヒーを頼むことが多かった。毎度というわけでは無い。一年生の頃などは、アイスティーと半々だった筈だ。しかし二年生に上がってから、特に私なんかは律と過ごすことが格段に増えたのでよく分かるのだが、何かにつけていつもコーヒーを飲んでいた。私と同じで、渋味が好きらしい。これに触発されてというか、ついでに私の注文したのを紹介すれば、律と同じようにアイスコーヒーだった。これはハッキリ言って、律の影響があったと言わざるを得ない。繰り返しになるが、目の前で何度もコーヒーを飲まれると、何だか興味が湧いてきて、一度何かのキッカケで飲んでみてからハマってしまった。だから最近のこういう店に来てからの注文の配分は、ほぼアイスティー一択だったのから、アイスコーヒーとの半々になっていた。因みに私と律の違いを言えば、律はシロップのみ、私はミルクありといった点だ。最後に裕美を言えば、単純にアイスティーだった。裕美もよく紫や藤花のように、凝った”可愛い”飲み物を頼む傾向が強いのだが、この日はアイスティーの気分らしい。
では話を戻そう。
紫は皆が手に飲み物を持ったのを確認すると、コクっと一度頷き、そして高らかにグラスを掲げて声を上げた。
「じゃあ…かんぱーい!」
「かんぱーい!」
カツーン
紫の合図の後、一斉にテーブルの上でお互いのグラスをぶつけ合った。そして一口ずつストローで吸うのだった。
…ここで察しの良い方ならお分かりだろう。そう、この習慣は絵里由来のものだった。
あれは初めてだったか何度目かだったか…私たちが一年生の頃だ。
初めの頃は各々が注文した後、出て来た順に他の人を待たずに
それぞれのタイミングで好きに飲んでいたのだが、ある時ほぼ同時に五人分の注文したものが出て来た時があった。
その時だ。何の気もなしに、確か裕美からだったと思うが、ふとこちらにグラスを向けてきたので、私も思わずグラスを近づけてカツーンと当ててしまったのだ。それを見た他の四人が「何それ?」と食い付いてきたので、私と裕美で顔を見合わせて”しまった!”とお互い内心思いながらも、こうなったら仕方ないと、絵里のことはあやふやにしつつ、事の経緯を説明した。それを聞いた四人は尚一層「何か私たちだけの”特別なナニカ”が欲しかったのよねぇ」と食いつき、それからはバラバラに注文が出てきても、最後の一人が出てくるまで待ち、出揃ったところで乾杯をするのが習慣となっていったのだった。
何かこうして一つに纏まれてるような、一体感を与えてくれる”儀式”をくれた絵里に、感謝すべきなのだろう。
「…ふぅ、生き返るわー」
とまず裕美が声を上げた。「そうね」と私もすかさず同意を示してから、ふと隣の紫と藤花の前にある飲み物を見比べてから、さっきのお返しとばかりにニヤケつつ言った。
「…しっかし、律はまだしも、藤花と紫が注文したそのー…フローズン系?」
「うん」
藤花が合いの手を入れる。
「それってさー…私はまだ食べた事ないんだけれど、溶けたらマズくなるヤツでしょ?それをよくもまぁ…私と裕美がいつ来るかも分からないっていうのに、頼めるわねぇ…」
と図らずも少し嫌味っぽく言ってしまったが、言われた紫と藤花は向かい合わせに座っていたので、そのまま正面を向きお互いの顔を見合わせていたが、クスッと二人して笑うと、まず藤花から声を出した。
「だってねぇー…さっきも言った通り、私と律が来たのは十分前だったし、紫も同じくらいだしー…ね?」
藤花は答えになっていない事を笑いを含みつつポロッと口に出すと、紫に話を振った。
振られた紫は、一度その抹茶をズズッと啜って見せると、意地悪く笑いながら言った。
「そうそう。…まぁ確かに、あなたが今言った通り、溶けてしまったらどうしようもないんだけれど、そもそもあなた達二人は…遅刻したことが無いからね!だから早めに注文しても良いと思ったのよ」
「そうそう、それが言いたかったの!」
とすぐさま藤花も紫に乗っかった。
それを言われた私は何と返せば良いのか困って、ただ苦笑いを浮かべて見せたが、ふとここで裕美がクスッと笑った。すぐ隣の裕美の顔を見ると、紫のような意地悪げな笑みを浮かべていた。
裕美はその表情のまま、私の顔越しに紫に声をかけた。
「それを言うなら…みんなでしょ?」
そう言うと、裕美は背を伸ばして、向かいに座る藤花と律にも顔を配った。
「考えて見たらそうね…」と私がボソッと呟くと、それが面白かったのか、ただのキッカケだったのか、また皆してクスクスと笑い合うのだった。これには私も初めから参加した。
まだ笑いが収まりきらない頃、紫が私と裕美に視線を配りつつ、ニヤケ面で付け加えるのだった。
「もし仮に遅刻でもして来たら、ペナルティーを負ってもらうからねー?食べ物の恨みは怖いんだから!」
そんな紫からのダメ押し(?)があったせいで、余計に笑い合う時間が伸びたが、その後しばらくは、お互いに会わない間、どう夏休みを過ごしていたのかについてお喋りをした。
…少しネタバレっぽくなるが、ここで不意に裕美が場を仕切り出した。私は何度も言うようにテレビをそんなには見ないのだが、それでも敢えて例えれば、バラエティー番組で出演者に話を振る司会者の様だった。キャラ的には裕美に合ってはいるのだが、実は今まではそんなに表立って仕切るようなタイプでは無かった。それはどちらかと言うと、紫の方がその気があった。だがそれも言挙げするほどではない。強いて言えば紫がまとめ役だというだけの事だ。これも以前に話した通りだ。一年生の頃から変わらない。
…いやそれはひとまず置いといて、だからこういう話になる時は、紫が皆に話を振るのが流れだったのだが、今日だけは違っていた。
繰り返しになるが裕美が場を回し出した。
当時はそこまで深くは分析出来なかったが、あやふやと漠然とはいえ違和感を覚えつつも、雰囲気は和気藹々としたものだったので、その雰囲気に飲まれていた私は、すぐに薄っすらと湧いた疑念を頭の隅に追いやり、会話を楽しんでいた。
まず初めに振られたのは紫だ。振られた紫は「んー…」と少し何だか苦笑気味に声を漏らして、メガネをクイっと直してから話し出した。
「まぁー…私はいつも通りよ。去年と同じ。今年の文化祭でも私の所属してる管弦同好会で演奏をするから、その練習。あとは…あなたたちと会わない時は家で涼んでいたわよ。たまにクラスの友達と…そうそう、裕美と藤花もその場にいたね?遊んだりもしたけれど…藤花は?」
「私?」
紫に振られた藤花は、斜め上に視線を泳がせて考えて見せた。
因みにこれは藤花が何かを考えたり思い出したりする時の癖だ。
「んー…私もいつも通りかな?夏休みだろうと何だろうと、毎週日曜日にはミサがあるしね。それの練習したりだよ。後はー…たまに律と会ったりしてたねぇー。まぁそこは、家が近いもの同士の強みかな?」
「…うん」
と律は、声を掛けられた訳でもないのに藤花に反応した。
これも今更な情報かも知れないが、藤花と律の家は利用する最寄駅が一駅ズレていた。だがだからといって、駅が違うだけで家自体は徒歩五分圏以内だった。もし幼稚園からの一貫校である私たちが通う学園に通ってなくても、地元の小学校で一緒になっていたかも知れない。
律はそのままの流れに乗って話し始めた。
「…私も藤花と紫と大して違わないよ。早朝にクラブに顔を出して練習して、それからは…うん、ほとんど家にいたかな?」
「ふふ、確かに色が白いものね」
と、程よく日に焼けた裕美が、向かいに座る律がちょうど手と手首、そして二の腕の一部をテーブルの上に投げ出していたので、自分の腕を重ね合わせた。確かに律の腕は透き通るような白みを帯びていた。
「う、うん…」
と律が見るからに恥ずかしがりつつ腕を引っ込めていたその時、紫も腕をテーブルの前に投げ出した。考えて見たら、今日の皆の格好は、肩までチラッと見える程の半袖姿だった。まぁこれだけ暑いのだから、似るのは仕方ないのだけれど、私以外は誰に見せるのでもないのに前回の様にお洒落をするタイプだったから、少し意外だった。
それはともかく、紫は見るからにウンザリしたような素振りを見せつつボヤいた。
「私もなぁー…すっかり日に焼けちゃったよぉ。…考えて見たら、日に焼けてるの、私と裕美くらいじゃない?」
「あ、そうね」
と裕美が呼応するように腕をテーブルに投げ出したのを見て、示し合わせた訳でもないのに、それぞれが同じように腕をテーブルに投げ出した。皆片腕ずつだったから計五本の腕がテーブルに乗っていた訳だが、はたから見たら異様に映ったことだろう。
皆が揃ってそれぞれの腕を見比べていたので、私も思わず皆のと自分のを見比べた。確かに、裕美と紫以外、ほんのりとは焼けてる様に見えなくもないが、私を含めた他の三人は物の見事に色白だった。
「まぁ…」
と私は苦笑いを浮かべつつ隣の紫に視線を送り言った。
「私たち色白組はインドア派だから、色白なのも仕方ないでしょ?」
「えー?藤花はともかく…律も?」
「…ふふ、そうね」
とまだ納得していない様子の紫の言葉の後で、すかさず藤花が笑みをこぼした。
「なかなか難しいけど…体育会系とはいえ、室内競技だからインドアっちゃあインドアなのかな?」
「確かにね」
と藤花の言葉に律も納得したかのような力強い同意を示した。
「それならさぁ…」
とまだ引き下がろうとしない紫は、私越しに裕美に顔を向けると言った。
「裕美はどうなのよぉー?裕美だって室内競技でしょー?泳ぐと言っても室内なんだから」
「私?…まぁそうだねぇー、確かに私は普段は室内で泳いでいるけれど…」
と声を掛けられた裕美は、ここで一度言葉を切るとニヤッと笑って続けた。
「私の所属してるクラブで八月の頭くらいに合宿に行って、太陽の下、海で二日ほど泳いできたからねぇ」
そう。確かに裕美はそんな事を言っていた。合宿といっても、日程が合う行ける人だけ参加という、聞いた限りでは、なかなかに緩い類のものらしい。大きな大会もしばらくないというので、親睦会というのが本当の所のようだ。たまに雑談の中で裕美から聞いていたので、私を含む皆はそれを聞いて「あぁー」と声を漏らすのだった。
「私もそういえば、裕美と同じ時期に合宿に行ったわ。クラブの…」と律がおもむろにそう呟いたので、「そういえばそうだね!」と藤花が明るい調子で応えると、暫くは裕美と律の合宿話に花が咲いた。と、まだその場がそんな空気であったのにも関わらず、それを遮るかの様に、
「そりゃ焼けるでしょ!」
と紫は声を上げたかと思うと、行儀悪く上手いこと器用に、テーブルの上の自分の飲み物を避けつつメガネをしたまま突っ伏した。
「あぁー…私は海にも行ってないのに、何でこんなに焼けちゃってるかなぁー」
「…ふふ、もーう紫は…」
とボヤきつつ私は、紫のこの態度が演技なのを知りつつ、慰める体でそっと腕に手を添えた。それと同時に紫が顔だけ私に向けてきたので、苦笑交じりに声を掛けた。
「いいじゃない紫。それだけ私たちよりも夏を謳歌してるって事よ?羨ましい限りだわ」
と最後に大きく笑みを作って見せた。
すると紫はゆっくり体勢を元に戻すと、メガネを直し、苦笑気味…いや、それは一瞬で、次の瞬間には例のニヤケ面を向けてきながら言った。
「なんだかなぁ…いつもあなたのその言い回しに騙されてほだされている気がするんだけれど、でも何だか妙な説得力があるからヤラレちゃうのよねぇー…それに、何だか今の言い方にも棘が含まれてそうだったけれど?」
「え?ソンナコトナイヨー」
と私はわざと顔を逸らしつつ棒読み気味に言った。
「まったく…」
と紫が腰に手を当ててため息をつくと次の瞬間、私たちは一斉に笑い合うのだった。紫も満面の笑みを浮かべていた。
さていよいよかと私が口を開けようとした次の瞬間、紫に先を取られてしまった。
「…で?裕美は結局合宿に行って…それからは?」
「え?ええっとねぇー…いやそれ以外は皆とどっこいどっこいだよ。練習してるか、後は何も無かったかなぁ…あっ!」
「え?」
裕美が何気なく私の顔を見た時にハッとした表情を見せたかと思うと、急に声を上げるものだから、私もつられて声を出してしまった。そんな私の反応をよそに、裕美は一瞬私に笑みを浮かべたかと思うと、今度は私同様に何事かという表情を見せている皆に視線を配ってから、意味深な笑みを見せつつ言った。
「いやいや…そういえば、ここ最近では一番面白く、楽しく、そして何よりも感動的な事があったのよねぇー」
「えー、何よそれー?」
とまず藤花が声を上げた。
「そんな意味深な言い方されたら気になるでしょ?」
と紫も続く。
「…うん」
と律も、相変わらずこういった時でも変化に乏しかったが、それでも好奇心を見せているのは分かった。
ただ私一人だけ分かっていなかった。…いや、分からないふりをしていたと言うべきか。
「勿体ぶらずに言いなさいよー?」
と紫が追い打ちをかけると、裕美は両手で場を収める様な動作を見せると、すっと私の肩に手を置き、顔はそのまま皆に向けて言った。
「その事については…当人であるお姫様…いや、琴音から自分の口で話して頂きましょう…ね?」
「え?」
既に私は裕美に肩を触れられた時に一瞬ビクッとしてしまったのだが、この裕美の言葉からは逃げ道を塞ぐ意図が見え隠れしていた。そのためもう少しこの件については先延ばしにして置こうと算段していた計画が、脆くも崩れた瞬間でもあった。
だが裕美の顔を見た時、その顔には裕美が時折見せる、こちらを慮る様子が見え隠れする静かな笑みを見せてくれていたので、その瞬間裕美の計らいに感謝しつつ、ゆっくりと頭の中身を整理していた。頭の中身がまとまったその時、ふと不思議なことが起きているのに気付いた。先ほどまで会話で盛り上がっていた中で生じていた音が、一切聞こえなくなっていたからだった。不思議に思い周囲を見渡すと、何と皆して私の方に、さっきの裕美と同じ系統の笑みを向けてきているではないか。不機嫌そうに見せていた紫までもそうだ。皆は何も言わなかったが、その表情からは私の言葉を心待ちにしている心中がありありと見えた。
この様子に少しギョッとしたが、一度息を吐き
「まぁ…私が前にあなた達と会ってからの間にしていたことなんだけれど…」
とボソボソ言いながら、椅子の下にある荷物を入れるためのバスケットケースに手を突っ込みカバンを取り出し、そこから例の雑誌を取り出した。実際には見ていなかったが、見なくとも向けられていた好奇の視線が強まるのを感じた。
それにもめげずにテーブルの上に置こうとしたその時、飲み物の入ったグラスや、その周りに付着した水滴によって若干濡れていたテーブル表面を、裕美から始まり、最終的には私以外の皆でそれらを片付けてくれた。そのお陰でテーブルの真ん中に出来たスペースに、印をあらかじめ付けておいた例のページを開き、閉じない様に癖がつくほどに何度か強く押してから、テーブルの上に広げた。
それと同時に裕美を入れた皆が一斉にかぶりつく様に、そのページを覗き込んだ。皆中腰になっていた。
ほんの数秒ほど経っただろうか、先ほどまで静まり返っていたのが嘘の様に、誰彼ともなく「えぇー!!」と皆一斉に声を上げた。
「シーーっ!」
と私は皆の反応に驚きつつ、口に指を当てて制止つつ周りに視線を向けた。
運が良いことに、周囲には私たち以外には一人客が二、三人いた程度だった。前にも言った様に、このお店は普段からさほど混む様な事は無かったが、お盆の時期のおかげか、お店の周りはオフィス街というのもあってか、いつも以上に空いていた。そんな所がこのお店の長所の一つだ。
とは言っても、少ないながらもいた他の客達がこちらをチラッと見てきていたので、私は軽く申し訳なさげに会釈をして、また皆に身体を向けた。
「これって…琴音よね?」
とまず声を出したのはまた紫だ。紫はピアノを弾いている写真の私の顔あたりに指を置き、そして私本人の顔を覗き込む様に言った。
「すっごく綺麗なドレスを着ているねぇ」
と藤花が呑気な調子で写真を見ながら呟いた。
「…うん」
と律は変わらず口数が少なかったが、顔の角度は下にしたまま、視線だけを私に向けてきたので、必然的に上目使いでこちらを見てきていた。
私を含めたそんな様子をしばらく眺めた後、裕美は努めてしているかの様に、明るく何でもないといった調子で言った。
「…そう!私がこの夏休みで何が一番楽しかったかって聞かれたら…そう、ズバリこれ!琴音がピアノのコンクールに出場して、見事に地区大会で優勝するところを見れた事なのよ!」
「…え?地区大会?」
「…で優勝?」
「え…」
紫、藤花、律の順にそう呟くと、三人はまた雑誌の紙面に釘付けとなった。私はそんな様子に対してどう対応したら良いのか戸惑い、ふと裕美の方に顔を向けると、裕美はただ若干苦笑を滲ませた、だがやはり静かな笑みを浮かべるのみだった。
少ししてふと紫がまず顔を上げて、私と裕美の顔を交互に見てから口を開いた。その表情は何だか呆気にとられているかの様に見えたが、実際は当然違っていただろう。
「へぇー…って、これまた急に見せられたから、まだ頭が追いついていかないんだけれど…今裕美、あなたこう言ったよね?『地区大会で優勝する所を見れた云々』って?」
「えぇ」
裕美は態度に変化を見せずに淡々と返す。
この時には、藤花と律も顔を上げて、向かいに座る私たち三人の顔を黙って見ていた。
「って事は…」
と紫はここで静かなトーンに声を変え、私に視線を移すと、気持ち瞼を細めつつ言った。
「つまり…裕美以外、琴音がコンクールに出ているのを知らなかったって事だよね?…二人は知ってた?」
「んーん」
と声をかけられた藤花は首を大きく横に振った。顔は珍しくと言っては何だが、こういう場ではあまり見せない落ち着いた表情を浮かべていた。
「…私も初めて聞いた」
藤花に続いて律もそう言うと、私に静かな、しかし真っ直ぐな強い視線を向けてきていた。私はますます肩身を狭める他に無かった。
とその時、「まぁ…」と裕美が落ち着いた調子で口を開いた。
「私も正直、初めて見たのはこの地区本選からで、予選段階では知らされていなかったんだけれどねぇー…」
と言い終えると、テーブルに肘をつき、顔を手に乗せつつ私の方に顔を向けて、すました様な笑みをこちらに見せてきた。
ある意味挑発的ではあったが、これは私と裕美の間柄での話、それによって背中を蹴飛ばされた気がした。
私は一度また大きく深く息を吐くと、静かな面持ちのままの皆の顔を一通り見渡してから、ゆっくりと口を開き話し始めた。
「…みんなごめんね?黙っていて…。みんなからしたら、今まで黙っていた事で、騙されていたのかとイヤな気になった人もいると思う…。でもこれだけは信じて?別にみんなに話すのがイヤだって事では無かったの。んー…上手く言い訳出来るか分からないけれど…」と結局話がまとまらないままツラツラと話してしまい、尻すぼみになってしまっていたその時、
「まぁ…みんな?」
と、ふとまた裕美が私の肩に手を置きつつ、他のみんなに声をかけた。
「姫様もそう言っているから、取り敢えず言い訳は聞こう?
…ほら、皆覚えてる?いつだか、この姫様が折角私たち五人が集まれたのに、一人さっさと帰っちゃった時のこと」
と裕美が最後の方で意地悪げに笑いつつ言うと、数瞬の間他のみんなは首を傾げていたが、ほぼ同時に思い出した様で「…あぁー」と声を上げつつ、私の方に一斉に視線を集めた。
因みにと言うか、当然私も思い出していた。そう、遊びに行こうとした時に、ふと頭の中でコンクール用の編曲が思い浮かんだあの時だ。
皆は声を上げてからまたしばらく、私が話すのを待つ様に黙っていたので、私はまた一度息を吐いてから、さっきよりかは落ち着いて整理をして、ゆっくりと話し始めた。
とはいっても何から話そうかまだ纏め切れていなかったので、結局何故ピアノを弾き始めたのか、その辺りの話から話し始めた。勿論端折って。
でもこれは皆にとっては何度か聞いた話だろうから、退屈な話ではあっただろう。何せ一年の時の”研修旅行”の時が最初だったが、その後も何度かこの手の話をしたりしてたからだ。
「…でね、私は音楽という芸能自体は大好きなんだけれど、それを人前で演るというのには、凄く抵抗があるって事も話していたよね?まぁ色々長々喋ったけれど…もう簡単に言ってしまうとね?ただ単純に…そんな話をしていた私が、自分から進んでコンクールに出ようって考えて、実際出てしまった事実を、そのー…知られるのが…恥ずかしかったの。そう…それだけ」
私がようやく話し終えると、また窓際の一角にあるテーブル席に沈黙が流れた。遠くのスピーカーから、小粋なジャズが流れてきている。
どれ程経っただろう?まぁ毎度の様に実際は十秒にも満たなかっただろうが、その何倍にも感じられていたその時、
「確かに…」
と口を開いた者がいた。話し終えてから軽く俯いていた私が顔を上げると、向かいに座る、優しい笑みを浮かべてこちらを見てきていた藤花と目が合った。
目が合うと藤花は途端に笑みに苦笑を交えつつ続けた。
「琴音が今言った事…何となく分かるなぁー…。みんな覚えてる?一年の時に行った研修旅行。そこで皆して移動中だとか、食事してる時だとか、布団に入ってからも色々とお喋りしたよね?…でもその時、私は自分の話を全ては話していなかった…」
「…」
皆は、いつもの”キャピキャピ”と天真爛漫な藤花の様子とは180度違う様相を見せられて、その効果故か、私含めて藤花の話に引き込まれていった。
「でもそのすぐ後、ここにいる律が皆を誘って教会に来たでしょ?あの時ねぇ…終わった後みんなして私のそばまで駆け寄って来てくれて、いや嬉しくはあったんだけれど、どんなに驚いたか分かる?」
藤花は時折隣に座る律にジト目を流しつつ、しかし口元はニヤケつつ話していた。それを受けた律は、表情は少なかったが気持ち済まなそうな笑みを見せていた。
「…っていや、何が言いたいのかというとね?本当は、私が歌が好きな事だとか、教会に通って賛美歌を歌っている事だとかを、みんなに知られるつもりは正直…無かったんだ。いや、でも何かの拍子にバレることもあるかな程度には思ってたから、結果オーライではあるんだけれど…想像していたよりも、ずっと早くバレちゃっただけでね」
「…」
「まぁ…だからさ!」
と藤花は、また普段通りの無邪気な笑顔を見せると話を続けた。
「そういう点では私も琴音と同類!まぁ確かに本選が終わった後で、こうして結果だけ知らされるのは、寂しい気がしないでも無いけれど…でもホントのホントの所は、琴音おめでとうって気持ちしかないよ!」
「藤花…」
藤花の屈託のない笑みを見た瞬間、胸に何かが込み上がってくるモノを感じたが、それをそのままに「藤花、ありがとう」と自然と浮かんだ笑みで返すのだった。「うん!」と藤花も表情をそのままに返した。
「そうねぇー…」
と間合いを図っていたのか、紫が”良いタイミング”で、肘をつく先程の裕美と同じ格好を取り、私に視線を送りつつ言った。顔には呆れてるともなんとも言えない表情を浮かべていたが、笑顔ではあった。
「今藤花が言った通り、後から知らされるのはとても寂しいし、琴音、あなたが自分で言った事だけれど、何だか騙された…というか、騙された”様な”心持ちになったのは確かだけれど、でも…」
とここで紫は、不意に私の肩に手をかけると、笑みから呆れ度合いを少し引っ込めてそのまま続けた。
「今の私の気持ちも、地区優勝おめでとうってのしか残ってないよ」
「紫…」
この後にも何か言葉を付け加えようと思いはしたのだが、結局何もふさわしい言葉が見当たらなかったので、そのまま黙って見つめ返していた。紫の、少しツリ目のせいか少し性格がキツめに見える目の奥には、既に普段の思いやりに富んだ光が戻ってきていた。
「ほら…律は?」
「え?」
藤花に話しかけられた律は一瞬戸惑っていたが、さっきまでの私の様に一度息を大きく吐くと、こちらにまっすぐな視線を向けてきつつ、静かにゆっくりと話し始めた。
「まぁ…琴音?…私たち二人が同じクラスになってから、何かにつけていつも一緒に行動してたよね?…うん。…少し話が逸れちゃうかも知れないけど…正直あなたや藤花がしている”芸能”っていうの?それに対して、そんなに良いイメージを持っていなかったの。…いえ、それは今も何だけれど…。それは何故かって言うとね、そのー…テレビだとかで出てくる芸能人と自分で言っている人たちが、あまりにもナンパに見えたからなの」
「えぇ…」
私はただそう短く返した。
律からこの様な話を聞くのはこの時が初めてだったが、何となく律の普段の態度や言動を見ていたから、そんなことを考えているんじゃないのかと思っていた所だったので、その推測が立証されただけのことだった。
私はただ静かに律の続きを待った。
「勿論藤花は違うのよ?普段からどれほど努力を絶やさなかったのかを知っている…まるでアスリートみたいにね。そんな姿を、それこそ…小学生の頃から見て来ているし…」
「ふふ、お互いね?」
と藤花が満面の笑みで相槌を入れた。律もコクっと頷いて見せる。
「でもそれは藤花が特別なだけで、他のいわゆる文化系はカッコばかり付けるだけで、やっぱりナンパなイメージは消えなかったの。そこで現れたのが…そう、琴音、あなただった」
律は話の途中から私の方に視線を戻していたが、ここまで言うと、フッと力が見るからに抜けて見えて、珍しく微笑を湛えていた。
「初めの自己紹介の時に、あなたが『”軽く”ピアノ何かを弾いたりしています』だなんて言うもんだから、『なんだ…この子は軟派な子なんだ』って思っちゃったんだ」
「え?私そんなこと言ったっけ?」
と思わず私が皆の顔を見渡すと、「言ってた、言ってた」と、裕美と紫、そして藤花がニヤケ顔で一斉に突っ込んで来た。
私は肩をすぼめて見せたが、これはさっきと違い冗談だ。
「ふふ…」と律も小さく笑うと、そのまま先を続けた。
「でもね…見てたら全然”軽く”じゃなかった。さっき藤花は非難交じりに言ってたけど、試しにあなたを含めたみんなを誘ったのはね、勿論藤花の晴れ舞台を見てもらいたかったってのはあったんだけれど…もう一つはね、琴音、あなたが藤花を見てどういう感想を持つのか、それが聞きたかったからなの」
「…へ?」
今律が言った内容は、流石に想定外だったので、思わず間抜けな声を上げた。…いやそれは私だけではなく、裕美と紫も同様だった。ただ藤花だけが一人苦笑いを浮かべていた。…いや、律本人も気付いたら苦笑いだ。
律はそのままの笑みで、少しすまなさげに話を続けた。
「ごめんなさいね、試す様な真似をして…?」
「え、あ、いや…別に私は…」
「ふふ…うん、自分でも何でそんな真似をしたのか今だに分からないんだけれど…ただ言えることは、単純にあなたに興味が湧いていて、それを裏付ける何かが欲しくて、その為に私が信頼している藤花の姿を見てもらって、その反応次第で見定めようと思っていたのかも知れない…本当にごめんなさい」
とここで律が頭を下げたので、私は慌てて「ちょ、ちょっとやめてよー」と声をかけたが、ここで何でこんな腹の中の晒し合いをしているのか思い出し、思わず「ふふ」と吹き出してしまった。
それと同時に、関係あるのかどうだか知らないが、律のお父さんはどこかの大学で物理学の教授をしていて、その論理的な思考の片鱗が垣間見れた気もして、一人でこんな会話をしていると言うのに感心していた。
それはともかく、その声に反応して律が顔を上げたので、
「さっきも言ったでしょ?何とも思っていないって」
と微笑みつつ声をかけると、「うん」と律も小さくだがほほえみ返していた。
「話を戻すと…そう、あれから何かにつけて、藤花についてアレコレと私に聞いてきたよね?その場に本人がいたのにも関わらず…。それからすっかり藤花の独唱の時には必ずと言っていいほど教会に顔を見せて…ふふ、そうそう、終いには自分の師匠まで連れてきだしてたよね?…紹介までされちゃった」
「ふふ、私もー」
と藤花が悪戯っ子のような笑みを私に送ってきた。
「あ、そうなんだー」
「私も見たかったなぁ」
と、裕美、紫の順に続けて明るい声を上げた。
「ふふ…うん、まぁ…ね」
と私は何だか気まずい思いに駆られて、苦笑交じりにそう返していた。
律は少しの間、私たちの方を微笑みつつ黙って見ていたが、そろそろ頃合いだと判断したか、またゆっくりと話を続けた。
「その頃から…いや、あなたが自分の師匠を連れて来る前からだったけれど、最終的にこう思ったの。『あぁ…この子って、本当に音楽が好きなんだなぁ…』ってね。正直藤花と同じくらいに見えるほどに、芸能にのめり込んでいるあなたの姿を見て、もうすっかり最初の値踏みをする様な気持ちは消えちゃって、勝手な言い方で…いや、ずっと勝手な言い方をしてきたけど、でも言わせてもらえば、私の方ですっかり心を開いていたの」
「ちょっと律ー?」
とここで藤花が苦笑気味に横槍を入れた。
「それは流石に…聞いてる私たちが恥ずかしすぎるよー」
「ほんと、ほんと!」
と紫も同じ様な笑みを見せつつ藤花に乗っかる。
それを受けた律は、自分でこの時に気付いたらしく、凛とした表情を保って見せてはいたが、真っ白な肌の下が薄っすらと赤みを帯びている様に見えた。
と、その時、
「ふふ」と裕美が急に吹き出したかと思うと、私の方にまた手を掛けて、ニターッと何かを企んでいそうな笑みを浮かべつつ言った。
「やっぱりね!”恥ずい”事をスラスラと話せる所まで、琴音と律…あんたたちソックリだわ!」
「ウンウン!確かにー」
と裕美の言葉にすぐ藤花と紫が同調して見せた。裕美は誇らしげに胸を張っている。
他の三人のその様な反応を尻目に、私と律は顔を見合わせると、クスッと二人で小さく微笑み合うのだった。
「まぁそれはさておき…」
と、まだ赤みが引かないままに、律は表情だけ戻して先を続けた。
「それからしばらくして…琴音、あなた、急に何だか忙しなくしだしたでしょ…?例えば…土日がメッキリ予定が空かなくなったり…」
「え、えぇ…」
「その時辺りからね…」
とここで律は他のみんなに目配せをした。私もつられる様に見ると、皆はそれぞれウンと一度頷いて見せていた。
「琴音が裏で秘密に何かしているんじゃないかって話していたんだ」
「え?」
と私は思わず声を上げて見渡した。これも想定外の一つだった。
まぁ確かに今律が言った様に土日が空けられなくなったのが多くなったのは事実だったが、それ以外はそれなりに隠し通せていたと思っていたからだ。
そんな私の様子を他所に、
「まぁそれを真っ先に指摘したのは…裕美だったけれどね」
と律が言ったので、私が今度は裕美に顔を向けると、裕美は何故か照れ臭そうに首元を掻いていた。
「もーう…その事はもう少し後で話す予定だったのにー」
と不満げな声で、表情はニヤケつつそう言った。
私がおそらくキョトン顔を晒していたのだろう、裕美は私を見るなり、急に優しげな笑みを浮かべて話し始めた。
「…うん、そうなの。琴音…あんたが急に忙しくしだしたものだから、よくこの四人で話したりしてたのよ。…あ、勘違いしないでね?別に悪口じゃないから」
「…ふふ、聞いてもないのに言うと、急に嘘っぽくなるよ?」
「あらそう?…ふふ、でね、でもみんなで話した結果はいつも同じだったの…。『琴音が私たちに話さないのは、何か訳があるに決まっているから、取り敢えず本人が話すまでは置いておこう』ってね」
「そうそう。…でもさぁ」
とここで紫がまた私越しに裕美に声をかけた。
「なのに,あなただけ結局本選を観に行ったんでしょー?…やっぱり、藤花と律の二人と同じで、何だかんだ心配で一人抜け駆けしたのねー?」
と紫が意地悪げな笑みを浮かべて言うと、裕美は一瞬慌てた素振りを見せたがすぐに落ち着いて、しかし苦笑気味に返した。
「あんたねぇ…これまた随分答えづらい話を振ってきたわねえー…。それに対しての答えはしないとして、実際はね…」
と裕美は事の経緯を説明した。私のお母さんから裕美のお母さんに伝わった経緯などだ。それを時折こちらに視線を流しつつ話した。
し終えると、三人は「なるほどー」と納得の声をあげていた。
それを微笑ましげに見ていた裕美だったが、ふと何かに気付いた様子を見せると、律に視線を移し、少しニヤケ面を晒しつつ話しかけた。
「…で、結局、律は琴音について何か言いたい事は無いの?他の三人みたいに」
「…え?」
律はフリじゃなく本気で何を言われたのか分からない様子だったが、裕美の言葉の裏の意味を察したらしく、律にしては珍しく悪戯っぽい笑みを浮かべると、私に顔を向けて言った。
「…あぁ…ふふ、そんなの言うまでもないから言わなかっただけだよ…。うん…私から言えるとしたらただ一つ…琴音、おめでとう」
「…えぇ、ありがとうね、律」
律がまた普段のアンニュイな表情から一変させて大きく慈愛に満ちた微笑みを向けてきたので、若干ドキッとしつつも、私も負けじと微笑みを向けて返した。
「…さて!もうこの話はおしまい!」
ここで不意に紫が空気を変えるための様にパンっと両手を打った。
「じゃあ改めて…琴音が全国大会で良い成績…いや、もっと欲を言って優勝するのを祈って乾杯しましょう!」
「賛成ー!」
紫のこの提案に、最初の方は藤花一人が瞬時に反応をしたが、それに釣られる様に、裕美と、そして律までが声を大きく言うのだった。
「良いよそんなー…」
と私は苦笑まじりに制して見せたが、この時は本気で止める気などなく、ただ言って見ただけだった。他の客の冷たい視線も気にならなかった。
「よし!さてと…ってあれ?」
紫は何かを言いかけたが、ふと皆の空になったグラスを見渡した。
そして大袈裟に肩を落として見せると、ため息まじりに苦笑いを浮かべつつ言った。
「…お代わりをしようか!」
私たちはその案にすぐに賛成し、皆でわざわざレジに行く事も無いだろうと、誰と誰が注文しに行くか決めた。藤花と紫に決まった。
そして皆で飲み物を決めている間、皆が何も事前に打ち合わせをしていたわけでも無いはずなのに、急ピッチで皆で私の飲み物代を出し合う話になっていった。私は当然の様に遠慮をしたが、聞き入れられず、皆の注文を聞いた藤花と紫は意気揚々とレジのある一階へと降りて行った。その後ろ姿をため息まじりに見送る私の事を、裕美と律が何も言わずに、微笑みつつアイコンタクトを交わしていた。
普段よりも時間が掛かっているなと思いだしたその時、
「お待たせー」
と良く通る高めの藤花の声が聞こえたので、その方向を見ると、何と二人の後ろをOBの里美さんが付いてきていた。飲み物自体は藤花と紫が運んでいた。
一瞬何事かと思ったが、たまたま腕時計に目がいったので時刻を見ると、二時半に差し掛かる所だった。他の喫茶店は知らないが、ここをよく利用している私たちから言わせれば、このお店はこの時間になると急に暇になる時があった。まぁ尤も、毎回というわけでは無かったが。その暇になる時に、里美さんはよく手に布巾を持っていたり、それかモップを手にして二階に上がってきて、空いてるテーブルの上や床などを掃除していた。その合間に、ほんの数分くらいのものだったが、私たちの雑談に混じったりしていた。
だから今回のパターンもそれかと思ったが、近付いてくるにつれ、どうも様子がおかしかった。何故なら、掃除用具を一切手にしていなかったからだ。
そんな私の心境をよそに、まず藤花と紫はテーブルの上に注文の品を置いていった。今回は私と律はそのままアイスコーヒーのお代わりを、そして他の三人は同様にアイスティーだった。紫と藤花は前に飲んだ物が余りにも甘かったのか、サッパリするのが欲しかったらしい。
「ありがとー」と持ってきてくれた二人に対して各々がお礼の言葉を軽く言うと、その後で私は皆に笑顔を向けて「ごちそうになります」と座ったままお辞儀をして、ワザとらしく仰々しく言った。
「いいって、いいって」と裕美が真っ先にそう返してきたが、またそのすぐ後で「ちょい待ち!」と声を上げた者がいた。紫だった。
何事かと他の三人で藤花と紫を見ると、二人は顔を見合わせてクスッと笑い、そして二人は後ろにずっと立ったままの里美さんを振り向き、紫が声をだした。
「その事なんだけれどねぇ…実はここにいる里美さんに出して貰っちゃったの」
「え?」
「へっへーん」
里美さんは誇らしげに鼻の下を指ですする様な、今時漫画でもなかなか見かけることが無い仕草をした。
「琴音ちゃーん、聞いたよ?」
里美は明るい笑みを私に向けてきつつ声をかけてきた。その間に藤花と紫は自分の席に戻った。
「ピアノの都大会に出て、優勝したんだって?」
「…え?」
私はそう声を漏らすと、席に着いた藤花と紫の顔を交互に見た。二人共、満足げな笑みを浮かべている。
ここで敢えて本当のところを言うのも無粋に感じ、「え、えぇ…まぁ」とあやふやながらも返した。
すると里美さんは益々笑顔の度合いを強めると、通路側に座っていた裕美の後ろに体半分入ると、私の肩に手をポンポンとリズム良く叩きながら言った。
「凄いじゃなーい!…あ、失礼しました」
自分で思わず知らず大きな声が出てしまったことに、言ってしまった後で気づいたのか、慌てて店内の他の客に向かって会釈をした。
しかしまだ興奮が冷めやらぬ様子で、小声ながら手で叩いてくるのは変わらなかった。
「…優勝するなんて。しかも他のみんなであなたの分をおごってあげる話を聞いて、それに関しても感心しちゃってねぇ…思い切ってここはOBの私も何かしなくちゃって思ってさ?それでそのー…これは私からのお祝い」
先ほどの反省を引きずっているのか、里美さんは最後の方で照れを見せると、そのまま恥ずかしげに私の目の前のアイスコーヒーを指差した。
そんな様子が年上でしかも先輩である里美さんであったが、ふと可愛く見えて、少し吹き出しつつ「は、はい、頂きます。ありがとうございました」と丁寧にお礼を言った。
その何で他人行儀なフリをしたのかをすぐに察した里美さんは、すぐにいつもの屈託のない笑みを見せてくれた。
そんな私たち二人の様子を見て、他のみんなも、さっきの里美さんに倣う様に周りを大袈裟に見渡したりしつつ、コソコソとではあったが、お互いに顔を見合わせて笑いあったのだった。
里美さんが仕事に戻った後、今度は裕美の音頭で乾杯をした。
それからしばらくは私が持ってきた例の雑誌に皆して食らいつく様に見ていた。
あぁでもない、こうでもないと言いながら。
皆それぞれに個性的な感想を話してくれたので、とても興味深く、時には吹き出したりしながら楽しんでいた。
時折同じジャンルだというので藤花にも話が集中したりしていたが、藤花自身も今までの私と同じで、この手のコンクールなどには出たことが無いらしく、「知らなーい」の一点張りだった。
後先ほどは私自身、申し訳なさがあった為に突っ込まなかったが、裕美含む全員が、何かにつけて私のドレスアップした写真を見つつ”姫”がどうのこうのと言うので、この時はひたすら一々それらに突っ込んでいったのは言うまでもない。その度に皆が一斉ににこやかに笑うのだった。私も笑った。
それから皆が雑誌の中の私の写真を携帯で撮っていいかと聞いてきたので、もうどうにでもしてくれといった気分になっていた私は、快く(?)承諾をした。それを合図に一斉に、皆が上からページを押しつぶす様にしていたのですっかりペタッと見開きになっていたのを自分の携帯で撮っていくのだった。
それを苦笑いで見ていた私は、ふと池によくいる鯉か何かが、人が投げ入れた餌に一斉に群がる様子を思い浮かべていた。
それもひと段落が着くと、ふと藤花が私に話しかけてきた。
「…そういえばさぁ、そのー…全国大会っていつだっけ?」
「え?えぇっと…そうねぇ」
私は自分の事だというのにすぐに思い出せず、ページが開かれたままの雑誌を手に取り、自分の記事の部分を慎重に吟味した。
その間、他のみんなでまた盛り上がっていた。
「全国大会かぁ」
と紫が軽く中空辺りを見つめながらボソッと言うと
「私はまた観に行くよ」
と裕美がストローを口元で弄びつつ言った。
「…やっぱり、来る気満々なのね?」
と私が嫌々げにそう言うと、「もちろん」と裕美は無駄にハキハキと答えた。
この事は、本選が終わった後の裕美のお母さんも交えた食事会で聞いていたので、驚くこともなかった。…口ではこう言ったが、内心ではとても嬉しかったのは否めない…が、それを口にする訳にもいかないので、こうして裏返しな反応になってしまうのだった。
「あ、行くんだ!」
と紫は何故かテンション高めに、テーブルに少し乗り出してから、裕美の方を向いて言った。
そしてすぐにまた着席すると、まだ私が雑誌の中から情報を探しているというのに、話しかけてきた。
「それってさぁ…なんていうか、部外者も行っていいもんなの?」
「あ、それ気になるー」
と藤花も話に入ってきた。
私は一度雑誌から目を話すと、まず二人に視線を流してから答えた。
「んー…多分。予選の段階では、見渡す限り関係者しかいなそうだったけど、本選の時はすごく大勢の人が来ていたから…うん、大丈夫だったと思うよ。何も裕美が不正を犯して来た訳じゃなくね」
「何よそれー」
「そうなんだー」
「えぇ…っと、あった、あった」
また雑誌に視線を戻していた私は、ようやく全国大会の旨が書かれている箇所を見つけた。
「なになに…あ、来週の水曜日だ」
「なになに…」
私がまた雑誌をテーブル中央に戻したので、他の皆がまた身を乗り出しつつ、その箇所を見た。
そして誰彼ともなくまた椅子に正しく座ると、紫がまた中空に目をやりつつボソッと言った。
「来週の水曜日かぁ…ねぇ」
と今度は私に話しかけてきた。
「それってさぁ…やっぱそのー…”らしい”服を着て行かなくちゃいけないの?…観客も」
「え?あ、え、えぇ…まぁそうなんだろうねぇ、見渡した限りではそれなりの格好をしていたし…」
「私も”らしい”格好をして行ったよ」
と裕美が何故か誇らしげに脇から入った。
「あ、そうなんだ」
と藤花が食いつくと、裕美はおもむろにスマホを取り出すと、液晶部分を見せつつ、
「この中に写真もあるから、後でみんなにも見せてあげるね」
なんてことを言っていた。
それはともかく、なかなかに要領を得ない紫の話に、若干首を傾げつつ付き合っていたのだが、ここで不意に紫がこちらに勢いよく顔を向けると、少し戸惑い気味にだったが、口調自体はある種ハッキリとした調子で言った。
「あのー…さ、そのー…私も琴音のに行っても…いいかな?」
「え?」
と私が紫の言葉に驚いていると次の瞬間、「ずるーい!」と藤花が向かいの席から不満タラタラな表情を浮かべつつ声を上げた。
「私もそれ聞こうと思ってたのにー」
「へっへー、早い者勝ちよ」
「ちょ、ちょっと…」
私はとりあえず、私自身も含めて一度落ち着けようと制しようとした次の瞬間、「…うん、私も」とボソッと律が言ったのをキッカケに、すっかり力が抜けていくのを感じた。
そんな私の様子を、何とも言いようの無い、見ようによっては優しげな笑みを浮かべて見ていた裕美だったが、すぐに他のみんなに同調するようにテンションを上げて混ざっていった。
「あ、いいねぇー!じゃあみんなで行っちゃう?」
「さんせーい!」
「ちょ、ちょっと待って」
もうここしかないと判断した私は、何とかテンションの違う中に入り込むことができた。
「み、みんな…本気?」
と戸惑いげに問いかけると、それにはすぐに答えず、ある者はスマホを眺め、ある者は手帳を開き、ある者は考え込む姿を見せていた。
「…あ、私、大丈夫だ!」
「…私もー」
「…私も」
と、紫、藤花、律が顔を上げるとそう口に出した。そして三人…いや裕美を入れた四人で顔を見合わせると、何も言わずに微笑みあっていた。
その様子に溶け込めないままの私は、一人ただただ戸惑っていたが、それを他所に裕美は一度コクっと大きく頷くと、私の方に向き直り、今度は正真正銘の優しい微笑みをたたえつつ口を開いた。
「まぁ…みんなもこう言ってる事だし、勿論アンタやアンタの母さん、それにアンタの師匠さんにも話を通さなくちゃいけないだろうけど…でもここに集まるみんなは、何も冷やかしに行きたいんじゃなく、ただ純粋にアンタの演奏を聴きたいのだし、弾いてる姿を実際に見てみたいのよ。…こんなドレスアップした姿のね?」
「そうだよ?」
と、裕美が最後にいたずらっ子の様な笑みを見せながら言い終えると、順番を待っていたかの様に、良いタイミングで藤花が口を開いた。その顔には普段の天真爛漫な笑みとは違い、そこにはあのレッスン部屋で見せるもう一つの顔が見え隠れしていた。
「私だって、何度も目の前で演奏を聞かせて貰っていて、それも良かったんだけれどさ?やっぱり…大舞台で弾いてる琴音の姿も見たいよ。それに…私ばかり見られるっていうのもフェアじゃないしね?」
と藤花が最後にまた屈託のない笑みを浮かべながら言い終えると、「うん」と短く律が力強く頷きつつ同意を示した。言葉はそれだけだったが、律の場合それだけで雄弁だった。
「ま、そういう事」
と紫が口を開いた。その顔には苦笑いとも何とも言えない、難しい(?)笑みを浮かべていた。
「藤花以外は大抵そうだろうけどさ?門外漢の私だけれど、そんな私でも分からないなりにでも、やっぱあなたが実際に大きな舞台で弾いてるところを、そのー…ああ!やっぱり上手いこと言えないけど、ただ単純に見たいのよ」
「…ふふ」
最後に紫が、自分の中に渦巻いている想いを何とか纏め上げようとして、何とか絞り出す様に話してくれた事に思わず笑みがこぼれた。
…正直、この提案には”当然の様に”戸惑った。何せ裕美一人が見に来るってだけであれだけ中々踏ん切りがつかなかったのに、それを今度は他のみんな一遍だというので、その事実に一気に混乱してしまったのだが、それでもこうして私が何か言う前に、それぞれが、それぞれの形やり方で、その端々に私への気遣いが見られる様な言葉を紡いで話してくれたお陰で、知らず知らずにうちに覚悟の様なものが生まれ、すっかりその事態を受け止められる態勢が出来上がっていた。
「はぁー…もう、分かったわよ」
と私は一度大きく息を吐いてから、苦笑交じりに言った。
「私の演奏姿で良いなら…うん、是非来て」
「本当?」
「えぇ。まぁ、お母さんや師匠にも聞いて見なきゃだけど…」
「やったー!」
私以外の四人はテーブルに乗り出すように前のめりになりつつ、互いに握手や何やらをし合っていた。
「ちょ、ちょっとー…」
と私はまた慌てて周囲を見渡しつつ制しようとしたが、いつの間にか他の客がはけていた時で、私たちしかいないというのにこの時に気づき、結局は苦笑いを浮かべながら眺めていたのだった。
とその時、他のみんなとジャレ合いつつ、時折裕美が私の方に目を配ると、一瞬だけフッと優しげな表情を見せていたのが印象的だった。
それからは、「お母さんたちにも言わなきゃ!」だとか、「どんな服を着て行けば良い?」という質問にも答えて、その流れで裕美とついでに私がスマホで撮った当日の写真を見せたり喋ったりしていたら、この日はそれでまるまる潰れてしまった。
本来は「夏休みも後半に入ってきたから、また皆で集まって遊ぼうよ」と、私と裕美が呼び掛けて成った集会だったが、出る時に里美さんにお礼と挨拶をして外に出て、寄り道せずに地下鉄の連絡通路を歩いている時に、誰一人として折角の集まりが私の話でほとんど潰れてしまった事に文句や不平を述べたり、言わなくとも表情にすら見せなかった。
今日の事については、思ったよりもすんなりと事が運んで、上手くいきすぎて引っかからない事が無かったかと言われたら嘘になるけど、でも取りあえずは私にしては珍しく、この和やかな空気にそのまま流されて置こうと思った、西日が沈みかけているというのに汗ばむ程にうだるような暑さの中の夕暮れだった。
第9話 コンクール(終)中編
スピーカーから流れ出ていた、ピアノの最後の一音が鳴り終わった。
「…うん、良いじゃない?」
先ほどまで目を瞑って聞いていた師匠はゆっくりと目を開けると、明るい笑みを浮かべて言った。
「…はい」
私も師匠と同じように瞑っていたのだが、目を開けて目を合わせると、笑顔を浮かべて返した。
今日は、紫たちと会って数日後の土曜日。午後のレッスンだ。
今は私が弾いたコンクールの課題曲を録音したものを、こうして師匠と二人で聞いていた所だった。これはコンクールと関係無く、師匠の元で習い始めて、ある程度弾けるようになった頃からの習慣だ。
これをその日のレッスンの最終確認代わりとし、それでお開きとなる流れだった。今日も例外ではない。
レッスン部屋にある時計を見ると、五時に差し掛かろうとしていた。師匠も時計をちらっと見ると、「うーん」と大きく伸びをしながらこちらに顔を向けて
「今日は少し早めに終わったから、少しだけお茶でも飲んでいかない?」
と言うので、そのお誘い自体が嬉しかった私は何も考えないまま、
「はい、頂きます」
と意気揚々と返した。
それから二人はレッスン部屋を出ると、揃ってあの中休みにお菓子を作って食べてる居間へと向かった。
入ると二人揃ってシンクで手を洗い、師匠がお茶の準備をし出したので、私も慣れた調子で食器棚から茶器を取り出した。何年も頻繁に来ているお陰か、我が家のように勝手知ったる何とやらだ。
「では頂きます」
「はい、頂きます」
師匠がまず声を上げて、それを合図に私も返して、それから飲むのも習慣だ。
尤も、このようにお茶をするというのは中休み時に限っていたことだったのだが、最近…コンクールに向けての練習をするようになってからは、レッスンが終わった後もすぐには帰らず、師匠にこうして誘われればそのまま快諾し、三十分から一時間ほど長居をさせてもらって、芸談や日常会話を楽しんでいた。
「来週の水曜日の本番…」
師匠はそう言いかけると、ここで意地悪げな笑みを浮かべて見せてから続けた。
「楽しみだわねぇー…琴音の友達が大集合するんでしょ?」
「…ふふ、もーう。それって私よりも、師匠の方が楽しみにしてません?」
と私はわざと不平気味の口調を使い、呆れとも苦笑とも取れる笑みを浮かべつつ返した。
「ふふ、かもねぇー」
「それに、大集合って程のもんでは無いですよー。こないだの裕美や、師匠も知ってる律も入れて四人ですから」
「四人もよ!」
私がそんな生意気な調子でぼやくように言うと、師匠は同じ笑みのまま少し口調を強めに言った。
「私の時は決勝まで行っても、観客席には友達がいなかったもの」
師匠がおそらく気を遣ってくれてだろう、そう何気無い感じでサラッと今のような事を言ったので、私は変に畏まらなくて済んだのだが、それでも気の利いた返しは思い付かず、ただ静かな笑みを浮かべて、コクっと小さく頷いて見せてから、ズズッと唇を濡らすがためのごとく紅茶を啜った。そんな様子を見た師匠も、「ふふ…」と柔らかく笑うと、同じように紅茶を啜るのだった。この空間には、時折家のそばを通る、恐らく小学生くらいだろう、子供数人が声を上げてはしゃいでいる声以外には、静穏な、しかしとても居心地の良い空気が流れていた。
とその時、ガラガラ…と家の中にいても聞こえる程に鳴り響く、キャスターのついた何か、恐らくスーツケースだろう、特徴のある音が聞こえてきた。
…それだけなら、何も不思議に思うことは無いと思われるだろう。よくある生活音だからだ。私も初めはそう思って、特に気に留めていなかったのだが、その音が徐々に近づいて来たかと思うと、どうもこの家の前で足を止めたようだった。
ここでふと何気無く師匠の顔を見たのだが、師匠もこの足音に耳を傾けていたらしく、そして家の前で止まったのも感じたのか、一瞬だけ眉毛をピクピクとさせていた。この時は単純に、私と同じ思いをしていた故の動きかと思っていたのだが、あとで知れるように、その予想は少しだけズレていたのだった。
ピンポーン。
と不意に一度インターフォンが鳴らされた。
今まで静かだった空間内で急に大きな音が鳴らされたので、正体が分かっていてもビクッとしてしまったが、それと同時にまた師匠の顔をチラッと見ると、何事も無かったかのように紅茶を啜っていた。
「…?」
ピンポーン。
またインターフォンが鳴らされた。また私は師匠の方を見たが、一向に動こうとしない。
ピンポーン。ピンポーン。
またまたインターフォンが鳴らされた。その主の姿を見ていないので定かでは無いが、その音の鳴らし方から苛立ちの色が見えていた。
「あ、あのー…師匠?」
出ないで良いんですか?と言いかけたその時、師匠は不意に優しげな笑みを浮かべて、手元のカップの中を一度覗き込んでから、
「琴音、この紅茶おいしいでしょ?」
と聞いてきたので、「は、はい…お、美味しいです?」と若干呆気に取られてしまったので、何故か最後に疑問調でそう返した。
ピンポ、ピンポ、ピンポ、ピンポーン。
何度も連打をしているのだろう、鳴り止む前にまた押している様で、音が切れ切れに鳴っていた。
「はぁ…」とここでようやく師匠が、先ほどまで和やかな表情だったのを一変させて、心の底からウンザリだと言いたげな表情を見せたかと思ったその時、
ガチャっ。
と玄関の方で解錠した音がしたかと思うと、次の瞬間には玄関が開けられる音がして、ゴソゴソと何やら動いている音がしていた。時折例の、カラ…カラ…とまるで車輪がついているものがある様な気配もあった。
そんな事が起きているのにも関わらず、師匠はそのまま渋い表情で黙々と紅茶を啜っていたので、私も黙って事の成り行きを見ている他になかった。
足音が廊下の方に鳴り響き、居間のドアの前で止まると、間を空けずにその人は中に入ってきた。
その人物は女性だった。ネイビーのつば広帽子を頭にしていて、その下から出ている長めの髪にはウェーブがかかっていた。後ろは軽く纏めていた。服装は、青と白の細いストライプ柄のシャツワンピだった。長さは膝あたりまであり、ダラリとゆったりとしたシルエットだ。胸元は深めに入ったスキッパーデザインで、涼しさを演出している。ワンピースの下からは、スキニータイプのジーンズが覗いていた。
女性は部屋に入ってくるなり、一度グルっと辺りを見渡していたが、私は私でこの女性に釘付けになっていた。何故なら…私はこの女性をよく知っていたからだ。
「ちょっとー…」
女性はふと師匠に顔を向けると、帽子を脱ぎつつ不満タラタラに言った。
「何で何度もチャイム鳴らしたのに、出てくれなかったのよぉ?」
「…だって」
そう声をかけられた師匠も、居間のドアを背にして座っていたので、体を軽くよじりつつ、背もたれに腕をかけながら、負けじと不満な様子を隠そうともせずに返した。
「あなた…今日来るなんて言ってなかったじゃない?そもそも、空港まで迎えに行ってあげる約束までしてたはずだけれど…?」
そう返された女性は、途端に子供のような明るい笑みを浮かべると、口調も朗らかに言った。
「あはは!驚かせようと思ってね?…驚いた?」
「驚いたというか…呆れたわよ」
そう返す師匠の顔には、私が今までに見たことの無いような、屈託のない笑みを見せていた。
「あはは!」と女性はまた声を上げて笑うと、笑みをそのままに続けた。
「ただいま、沙恵」
「まぁ…お帰り、京子」
…ここまで引っ張ることは無かったかもしれないが、こうして当人たちが挨拶を交わしたので紹介すると…そう、彼女こそが、師匠と幼い頃から鎬を削ってきた、ライバルでもあり、かつ互いに唯一無二の親友である矢野京子その人である。
背丈は師匠よりも若干低かったが、私よりかは高かった。スタイルも師匠に負けず劣らずスラッとしたスレンダー体型だ。若干肩幅がある所まで似ている。
…何故ゆったり目の服装なのに分かるのか?それは普段から良く師匠に彼女の今の姿なり何なりを見せてもらったりしていたからだ。ただ声のトーンは、いつもではないが基本的に師匠の声は落ち着いた調子なのだが、それとは反対に京子さんの声はいつもハキハキしている感じだった。
「んーん…ってあれ?」
大きく伸びをして見せていた京子さんだったが、ふと私に視線を向けると、途端に好奇心に満ちた笑みを隠すことなく前面に押し出しつつ言った。
「この可愛い子ちゃんはどなた?」
「あ、あぁ、その子はねー…」
と師匠が答えようとしたその時、「あぁ!」と急に大きな声を上げた。
「あなたが例の沙恵のお弟子さんね?確か名前は…そうそう!琴音ちゃん!」
「は、はい!琴音です!」
あまりにハイテンションな京子さんに釣られるようにして、私も思わず声を上げ気味に返したが、それだけではいかんだろうと思い、スクッとその場で立ち上がると、一度息を整えてから頭を下げつつ「弟子の望月琴音です」と挨拶をした。
するとなかなか反応が返ってこないので、少し不審に思いつつ頭を上げると、京子さんは目を合わせた瞬間まではキョトン顔をしていたが、すぐにまた笑顔を浮かべると、今度は師匠に声を掛けた。
「…ふふ、沙恵ー、アンタが言ってた通り、今時珍しく”弟子弟子しい”振る舞いをする、面白い子だねぇ」
「ふふ、そうでしょ?」
師匠も京子さんに同じ調子で笑顔で返した。
そんな会話を目の前で繰り広げられていたのだが、正直私の頭はまだこの時、混乱したままだった。
それはそうだろう。先ほどもチラッと言ったが、京子さんは私の数少ない、いわゆる芸能人という枠組みの中でのファンの一人なのだ。これはいつだったか言ったが、勿論すでに知ってはいたのだが、師匠と縁の深いという事を知ると、我ながら単純だと思いつつも、ますますファン度が強まってしまったのだった。その人が突然に、前触れもなく目の前に現れて、そして気軽に私に話しかけてくれている…緊張するなという方が無理な話だろう。…そう、もう亡くなられた落語家の師匠と突然数寄屋で出会ったのと、似たような…いや、それ以上に緊張していた。
そんな私の心中を知ってか知らずか、少しばかり師匠と軽口を言い合った後、京子さんはまた私に顔を向けると、目を細めるようにして、まだ立ったままの私に声を掛けてきた。
「って、あぁ、そうだった!琴音ちゃんが名前を名乗ってくれたのに、私はまだだったね?コホン…私の名前は矢野京子。あなたの師匠の友達よ、よろしくね?」
「は、はい!よろしくお願いします…や、矢野…さん?」
私は返事をしようとしたのだが、不意に何と返せば良いのか分からず、結局は名字に”さん”付けをしてみたのだが、それでもしっくりとこず、遂には疑問調になってしまった。というのも、普段師匠と会話している中では、気安く”京子さん”と下の名前で呼んでいたからだった。咄嗟にアドリブが効かなかった。
そんな私の妙な様子から察したか、京子さんはテーブルをグルッと回って私のそばまで来て、帽子を持ったのと反対の手を私の肩に乗せ、ポンポンと軽く叩きながら「固いよー」と冗談交じりに声を掛けてきた。そして肩に乗せた手で座るように促してきたので、私が着席すると続けて言った。
「京子で良いよ、京子で!私は確かにあなたの師匠の友達ではあるけれど、私たち二人の間には師弟関係は無いんだから、もうちょっとリラックスして、気軽な感じで接してくれると嬉しいな?」
と京子は言い終えると、戯けながらウィンクをして見せたので、今まで雑誌や映像で見たまんまの、そして師匠から話を聞いたまんまの、そのままのイメージ通りの姿を見せられて、私は思わず「ふふ」と笑みが溢れてしまい、この瞬間から自然と緊張がほぐれていった。
そしてその笑顔のまま「はい、京子さん」と明るく返したのだった。
「ウンウン」と京子は満足げに頷いていたが、
「そうよー、琴音」と、ここで師匠が会話に入ってきた。表情はニヤケ面だ。
私はこの時、少なからず驚いていた。普段から冗談を言う支障ではあったが、これほどまでに辛辣なのは聞いた事がなかったからだ。
「いくらあなたが京子のファンだからってね、普段は何てことはない、どこにでもいるお調子者の三十越えた一人の女なんだから、気遣いは無用よ」
「ちょっとぉー、随分な言い草じゃなーい?」
と京子はジト目で師匠を睨んで見せていたが、口元はニヤケていた。と、ここで不意に私に顔を向けると、何だか決まり悪そうな表情を浮かべつつ話しかけてきた。
「…って、あ、そうなんだ…。琴音ちゃん、あなた…私の、そのー…ファン、なの?」
流石のサバサバしたキャラの京子も自分では言い難いのか、少し辿辿しげに言うので、それが伝染したのか、私も何と答えたらいいのか迷ってしまったが、気の利いた言い回しが思いつかず、結局は素直に「は、はい…」とだけ短く返した。
「そ、そっかぁー…いやぁー」
京子は照れ臭そうにホッペを掻いていたが、「それはー…ありがとうね?」と返してくれた。それに対して私も照れながら「は、はい…」と、先ほどと全く同じ返しをしたが、この空気に耐えられなくなったのか、「何の話か分からなくなっちゃったなぁ…」と独り言ちたかと思うと、途端に京子は努めて明るく声を上げつつ、今までの流れをニヤケつつ黙って眺めていた師匠に話しかけた。
「アンタの弟子にしては、不思議なくらいに人を見る目があるじゃない?」
「”しては”は余計よ」
師匠は軽い抗議をしたが、表情は緩めたままだ。
と、ここで不意に、テーブルを挟んで座る私に視線を流しつつ、顔は京子に向けたまま言った。
「まぁでも…確かに、私には”出来過ぎた”弟子なのは違いないわね」
「あ、あの、その…」
不意にまた師匠と京子が私の事を褒めてきそうになったので、何とか押しとどめようとしていたその時、京子はふと自分の体を見下ろしてから師匠に声を掛けた。
「…ていうかさぁ、いつまで私を立たせたままにしておく気ー?これでも私はお客様なんだけれど」
「…ふふ、誰もあなたを今日招待していないけれどねー」
そう口にしながら師匠は、やれやれと重たい腰をゆっくりと上げると、
「じゃあテキトーに座ってて?今お茶を淹れてあげるから」と口にしつつキッチンに向かった。
「ありがとうー」と師匠の背中に声を掛けると、京子は師匠が今まで座っていた隣に腰を降ろした。
「琴音ー、あなたもお茶、お代わりいるでしょー?」
と師匠が声を掛けてきたので、
「はーい、いただきまーす」
と、同じ部屋にいるのに、船を見送るような声で返した。
「では頂きます」
「はい、頂きます」
「いただきまーす」
師匠がまた号令をかけると、私、そして京子が声を揃えるように言い、そして一口ズズッと啜った。
「京子、今日泊まっていくんでしょ?」
「えぇ。ていうか…二週間ばかり日本にいるつもりだから、その間は泊まらしてよ?」
そう京子が言うと、師匠は見るからに嫌そうな表情を浮かべつつ言った。
「えぇー…毎度毎度、ほんっとうに勝手なんだから…。まぁいいわ、良いよ、こっちにいる間泊めてあげる。何のお構いも出来ないけどね」
「あはは、ありがとうね」
「まったく…実家があるんだから、たまには帰ってあげれば良いのに」
「だってー…神戸って遠いじゃない?もちろん、一回は顔を見せに行くけどね」
「で、また戻って来ると…」
「えへへ。よろしくね」
「はいはい」
こんな二人のやり取りを見ている間、私は美保子と百合子のことを思い浮かべていた。実際には見た事が無かったが、おそらくこういったやり取りを、毎度のように繰り広げているのだろう事は、想像するのに難しく無かった。
私は黙って自然と笑みを浮かべながら二人の顔を見ていたが、元から少し垂れ目がちの師匠の目元が今は釣り上がり気味なのに対し、普段はツリ目気味…そう、考えて見たら、目元は紫にソックリ…いや、話すのを忘れていたが、今京子はメガネをしているのだが、そのメガネも所謂”ざますメガネ”なせいか、余計に似ている事に、この時初めてハッと気づいた。…いや、そんな事を言いたかったのではなく、ツリ目気味の京子の目元は打って変わって終始ニコニコしているせいか、若干緩んでいて、この二人の目元の違いに気づいた時、ますます吹き出しそうになるのだった。
それからは、師匠と京子の二人が、友達同士で繰り広げられる内輪の話を軽くした後、不意に京子は私に顔を向けると、ニコーっと笑いながら話しかけてきた。
「そういえばさー…琴音ちゃん、いよいよ本番ね?」
「はい?」
何の話かと私は気の抜けたような調子で返してしまったが、それには意に返さずそのまま続けた。
「ほら…コンクールの事よ!あなた…決勝まで行ったんでしょ?」
「は、はい…」
呆気に取られたままの私をよそに、京子はここで今日一番の笑みを浮かべて言った。
「…それ、私も観に行くからね!…応援こみで」
「え?…えぇー!」
私は思わずその場で立ち上がって声を上げた。そんな様子の私を京子はニコニコしながら見ていたが、片や師匠は隣に座る京子を横目でジロッと見ていた。
…まぁ正直のところ、京子が目の前に”このタイミングで”現れた時点で、頭のどこか片隅によぎらなかったと言うと嘘になるが、それでもやはり実際に言われると驚いてしまった。
私が思わず立ち上がってしまったのを、若干恥ずかしく思いながら椅子に腰掛けると、「はぁー…」と師匠が深くため息をついてから京子に話しかけた。
「やれやれ…。京子、あなたがこの子を観に来ることは、当日まで内緒にしておくつもりだったのに、よくもまぁ早々にバラしてくれたわね」
「えー?…あぁ、あんたもサプライズを用意してたんだ。…琴音ちゃんに」
京子は顔は師匠に向けたまま、視線だけ私に流しつつ言った。口調からは愉快げな感情が見えている。
「そう言ってくれなきゃー」
と何故か勝ち誇ったような表情で言う京子に対し、師匠はやれやれと首を横に振ったものの、その直後にはフッと息を吐きつつ「それもそうね」と言って、そのまたすぐ後で、今度は私に顔を向けた。
その顔には半分照れ、半分は気まずさが混じったような笑みを浮かべていた。
「…まぁ、バレてしまっては仕方ないか。琴音、今京子が言った通りよ。そうねー…こないだの本選が終わった直後くらいかしら?その時に京子と連絡を取り合っていた時にね、あなたの話になって、コンクールはどうなっているかって話になったの」
「私から話題を振ってね?」
京子が、出された紅茶を啜りつつ合いの手を入れる。
「そうなの。…これもあなたには内緒にしていたんだけれど、あなたの事をね、芸の事も含めて、色々と話をしていたんだー。そのー…私の弟子になる前からね?」
「え?そ、そうなんですか…?」
私は途端に、今までのここでの自分の行いを、思い出せる範囲で思い返していた。何か恥ずかしいことをしていないか、といった辺りだ。
私の頭がフル回転している時に、京子がまた明るくニコニコした笑みを浮かべつつ話しかけてきた。
「聞いたよー?”師匠”の事、好きなんだってね?」
「”師匠”…?」
とここで私は、向かいに座る師匠に視線を流すと、その瞬間京子は「あははは!」と声を上げて笑ったかと思うと、その笑顔を絶やさぬまま続けた。
「違う、違う。ほら…」
と京子が名前を挙げたのは、そう、先日亡くなった、落語家の”師匠”だった。「あぁー」と私は声を出してから、「はい」とだけ短く返すと、京子は今度は好奇心に満ちた笑みで、私の顔を覗き込むようにしながら言った。
「本当だったんだねぇー。いやー…そもそも、あなたの年代で、”師匠”の名前自体を知ってる人が稀だと思うんだけど、知ってるばかりか、好きだって言うんだからねぇー…ふふ、いや、ただ不思議がってるんじゃないのよ?とても”センス”が良いって言いたかったの。…その歳にしてね?」
「は、はぁ…」
何だか話の展開が早く感じて、とてもついていけてる気がしなかった。何とか返答をするだけで精一杯といった感じだ。
「”師匠”がテレビに出ていた時でさえ、私たちはこの子よりも遅めだったものねぇー…魅力に気付くのが」
と師匠が言うと、京子は腕を組みつつ「ウンウン」と口に出しながら頷いていたが、ハッと何かを思い出したような顔つきになると言った。
「そういえばさ、師匠の記事、ちゃーんと取っといてくれた?」
「えぇ、ちゃーんと取っといてあるわよ。…朝に早起きして買ってね?」
「ふふ、それはそれは、ありがとうございました」
と京子が深々と頭を下げると、師匠は苦笑交じりに「どういたしまして」と返していた。
と、京子が体勢を戻している間、師匠はまた私に顔を戻すと
「まぁそういう訳なんだけれど…琴音、ごめんね?勝手に色々とあなたの話を京子にしちゃって」
と少し声のトーンを落としつつ言ったので、
「え?あ、い、いえいえ、そんな!私は別に…」
と私は慌てて返した。この時はこれで終わってしまったが、『むしろ、師匠だけでなく、好きな京子さんにまで私のことを認知してくれていたなんて、それだけで嬉しいです』くらいの事を言えれば良かったなぁくらいには思っていたが、当時の私にはそこまでは気が回らなかった。…いや、変に口が回る方が嘘っぽく見えたり聞こえたりしたかもだから、結果オーライだったかも知れない。
「ついでと言ってはなんだけど…」
と師匠はまた苦笑交じりに付け加えた。
「瑠美さん…あなたのお母さんにも話は付けてあるから」
「え?」
これには私も苦笑いをする他になかった。尤も、他には何の感想も持たなかったから、この話はこれで終わった。
それからは私のコンクールの話に終始した。師匠はここで録っていた練習音源を京子に送っていたらしく、簡単にだが、京子は色々と私にアドバイスをくれた。元々帰り支度を済ませていた私は、すぐそばにカバンを置いていたので、咄嗟に中からノートを取り出し、自分なりに纏めて書き出していった。
この時の私はメモするのに必死だったので実際には見ていなかったが、後で師匠が言うのには、私がわざわざカバンからノートを取り出したのを見て、この時初めて目を丸くして驚いて見せていた様なのだが、その直後には隣に座る師匠と顔を合わせて、師匠が一度優しげな笑みを浮かべつつコクっと一度頷くと、京子も微笑み返した様だった。
…まぁそれは置いといて、京子が色々と師匠とはまた違った見方を示してくれたので、とても面白くメモを取ることが出来た。
その後は軽く師匠と京子の”当時のコンクール秘話”に話が向かいそうになったその時、「あっ」と師匠が声を上げたので、その視線の先を見ると、掛け時計が時刻六時半を示していた。師匠の所での最長滞在時間だ。
「じゃあ取り敢えず、今日はこの辺りでお開きにしましょう」
「あ、琴音ちゃん。連絡先を教えてくれない?お近づきの証として」と京子が戯けつつ言ってくれたので、私は咄嗟のことで驚き慌てつつも喜びを隠せぬままに笑顔を浮かべてスマホを取り出した。京子も私とほぼ同時にスマホを取り出しながら言うには、普段は全く使わないが、日本用の携帯を一応持っているとの事だ。まぁ余談だけど。
そのやり取りが終わると、それから私は一人身支度をし、そして玄関に続く廊下に出た。その後を、師匠と京子が付いてくる。
玄関に着くと、すっかり暗くなった辺りを明るくするために、師匠が灯りをつけた。すると、すぐ近くに見慣れない真っ赤なスーツケースがあるのに気づいた。
…なるほど、さっきのカラカラ音が鳴っていたのは、この音だったのか。
と私は視線をスーツケースに向けたまま靴を履いていると、その間、師匠も私の背後で見ていたらしく、感想を述べていた。
「京子、またそんなド派手な色合いのスーツケースを使っているの?」
「ド派手って…ただの赤一色じゃない?」
「それがド派手って言ってるのよ。暗い色合いならともかく、原色に近いじゃない?」
「もーう、ほっといてよ」
こんなやり取り背に支度をしていたのだが、何だか親友同士というよりも、親子の様な会話だったので、思わず知らず「ふふ」と笑みが溢れてしまった。
そして靴を履き終えた私が立ち上がり振り返ると、師匠と京子二人ともが、何だか決まり悪そうに照れ臭そうに笑みをこちらに向けてきていた。一瞬間が空いたが、私が何も言わぬまま自然とニコッと微笑むと、それを合図にしたかの様に、二人も私に笑いかけてくれた。
「気をつけて帰ってねー」
と二人が揃いも揃って同じ言葉を私に掛けてくれた。そして二人揃って玄関先まで出てきて、私が例の曲がり角でまた振り返り見ると、街灯が少ないのもあってハッキリとは見えなかったが、ボンヤリとした明かりの下にいる二つの影が私に手を振ってくれていたので、私も二、三度大きく手を振り返し、名残惜しげにゆっくりと角を曲がり、日中と変わらぬ暑さの引かない夜道だというのに、足取り軽く家路を急いだ。
「…あはは。バレちゃったのねぇ?」
お母さんは手に持った茶碗を一度置いてからにこやかに言った。
自宅の食卓。テーブルの上には煮魚などの和食の品々が程よく並べられていた。もう慣れたものの、お母さんとの二人きりの夕食だ。
家に帰ると、まずお母さんに「何故今日はこんなに遅くなったの?」と聞かれたのだが、今までの経緯を説明すると、悪戯を見つかった子供の様な笑みを浮かべて「あはは」と笑って誤魔化していた。お咎めなしだ。私もそれに対して何も反発を覚えず、取り敢えず苦笑で返すのみに終わった。
因みにこの日の夕食…いや、慌てて付け加えさせて貰うと、だけではなく、最近はお母さんの料理を助手する事が当たり前になっていた。そう、これも近い将来、一人暮らしをする時に向けての”修行”の一環だった。見せられなくて残念だが、この煮付けは私が作ったものだ。
…っと、それは置いといて、
「もーう、驚いたよー」
と、私も行儀悪く口に箸を咥えながら返した。
「だって、いきなり矢野さん…いや、京子さんが目の前に現れるんだもの」
「ふふ、それに関しては私も驚いたわ。話では決勝の日の前日か何かに来る予定だって聞いてたから」
と私が悪戯っぽく付け加えると、お互いに顔を近づけてクスッと笑い合うのだった。
それからは二人で食器をシンクの方に運び、それぞれ役割分担をして手際良く片していった。
そしてこれも普段通りだからと何も示し合わせる事無く、私は冷蔵庫から家で作ったチョコチップクッキーを取り出すと、 それをレンジに入れてスイッチを入れて、その間にお母さんはこれまた慣れた手つきでお茶の準備をし出した。 時間帯にもよるが、寝支度を始めるには早い時などは、大抵こうして食事を終えても居間に残り、こうしてお茶を飲みながら団欒をするのだった。
レンジで温めた、ワザと柔らかめに作ったクッキーを皿に乗せテーブルに戻ると、丁度お茶の準備も終わっていた。
私とお母さんの二人は、夕食の時とは違って何も挨拶を交わさないままに、気ままにクッキーをチビチビと齧りながらお茶を啜るのだった。因みにこの日は、急須で入れた渋目の緑茶だった。私好みだ。
それからは二人で、チョコクッキーチビチビと齧りつつ、渋い緑茶をズズッと啜りながら、夕食時の会話の続きを楽しんだ。お母さんからは私の知らない、師匠と出会う以前の京子を含む話、私からは如何に京子が凄いのかの話をし合った。とても心身ともに充実したひと時だった。
「そうなんだ、師匠さんの友達がねぇ」
「えぇ、そうなの」
と私は向かいに座る絵里にそう返すと、出してもらった紅茶を啜った。
この日は月曜日。例のごとく(?)というか、結構久しぶりに絵里の家にお邪魔している。お昼下がりの二時半あたりだ。
「前からあなたが話してくれていた、好きだって人でしょ?」
「うん。だからもう…びっくりしちゃった」
「あはは、そうだったんだねぇ…琴音ちゃんの驚く姿見たかったなぁ」
などと絵里がニヤケ面を向けてきつつ言うので、
「あー、それ何か感じ悪ーい」
と私もワザとらしくイジケテ見せながら返した。その後一瞬顔を見合わせたが、その直後にはクスクスと笑い合うのだった。
因みに、久しぶりに絵里の家に行くというので、裕美も誘ったのだが、この日はクラブがあるとかで来れなかった。とても残念がっていたのは言うまでもない。何せ裕美”も”絵里の事が大好きだからだ。
一頻り笑いあった後、ふと絵里は「そっかー…」とため息交じりにボソッと言ったかと思うと、不意に時計にチラッと視線を送った。
私も釣られる様に視線を合わせていると、「…うん」と絵里は一人で何かを覚悟したかの様にコクっと頷くと、テーブル挟んで向かいに座る私に真っ直ぐな視線を送り、そして、先ほどまでとは違って顔に真剣味を負わせつつ口を開いた。
「そういえば琴音ちゃん…唐突なことを聞く様だけれど、今日ってお家にお母さんいるの?」
「…え?」
絵里が自分で言った様に、実際唐突な問いかけだったので若干驚いてすぐには思考が定まらなかったが、聞かれている内容自体は単純な事だったので返した。
「んー…多分いると思う…よ?家出る時、何も聞いていなかったから」
何故絵里がそんなことを今聞いてきたのだろうかとアレコレ推測しつつ答えた。
それを聞いた絵里は「そっか…」とまたため息交じりに言ったかと思うと、座っている椅子をテーブルに気持ち近付けて、姿勢も一旦真っ直ぐに伸ばした後に、私に近づく様に軽く前傾になると、顔は真剣なまま口を開いた。
「…琴音ちゃん、驚かせる様で悪いけど…今日この後、あなたのお家に行ってもいいかな?そのー…挨拶の意味で」
「…へ?」
とこれまた予想だにしない、意外な提案をされたがために、今度は気の抜ける様な声を思わず上げてしまった。そして絵里の顔を穴が置くほどに凝視した。何か思惑が見え隠れしていないかと判断する故でもあったが、結局絵里の真剣味を帯びた表情からは何も知れなかった。
で、結局「…な、何で?」と聞くのが精一杯だった。
すると、今まで無表情に近い顔をこちらに向けてきていた絵里は、今度はフッと見るからに力を抜いたかと思うと、少し口元に微笑みを浮かべつつ、静かに話し始めた。
「何でって…ふふ、何も今思いつきで言ってるんじゃないのよ?これまでも…うん、琴音ちゃん、あなたが初めてここ、私の家に遊びに来てくれた時あたりからずっと考えていた事なの。…だってさ?」
とここで絵里はテーブルに肘をつき、手を自分のホッペに当てる体勢を取り、リラックスした様子で話を続けた。顔はますます緊張の度合いが緩んできていた。
「ほら、いつだったか…あ、そうそう、その時に、あなたとギーさんの事について色々と話したでしょ?」
「あ、うん…」
私はこの時瞬時に、あの時の情景を思い出していた。
自分で言うのはとても恥ずかしい…いや、絵里にとっても若しかしたら恥ずかしい思い出なのかも知れないが、私のことを想うばかりに涙ぐみながら、私と義一の…そう、両親に黙って、コソコソ隠れる様にして会っている事について、本気で心配をしてくれたあの日だ。私自身もそんな絵里の態度に、視界がゆがんだのは話した通りだ。
私が覚えていることを暗に示すと、絵里はフッと一度笑みを漏らしたかと思えば、今度は私から一度視線を逸らし、斜め上の方に顔ごと視線を向けると、若干ウンザリげに言った。
「まぁ…ギーさんにアナタ達の話を聞いた時から、何となく考えていた事ではあったんだけれど…」
とここでまた絵里は私に顔を戻すと、今度は少しニヤケ気味に言った。
「あの時のアナタとの会話で、私の中ではその時初めてハッキリと腹が決まったのよ…」
ここで絵里はまた真剣な面持ちになりながら、気持ちを込めるかの様に力を貯めつつ言った。
「…ギーさんがどうしようと構わない。あの人はあの人なりに、真剣に琴音ちゃんを想って行動しているとは思うから。でも、私はやっぱり、同じやり方は出来ない。だって…このままアナタに、こんなまだまだか弱いアナタに、この嘘をつき続けて欲しくはないから…」
「…!」
私はここで一瞬ビクッとしてしまった。何故なら、無造作にテーブルの上に置いていた私の手に、自分の手を重ねてきたからだ。
私がまだ驚いているのも束の間、絵里は態度を変えずにそのまま続けた。
「でも、これでも、あなた達二人の言いたい事、やりたい事をわかっているつもりなの。あなたも、それに…ギーさんに対しても、それなりに尊敬の念を持っているしね?」
”ギーさん”の名前のところで一瞬苦笑して見せたのが印象的だった。
「でも…少なくとも、私の所にこうして遊びに来ている事自体は、これ以上嘘を重ねることはないだろう…って思ったのよ。そう…ギーさんに初めて”数寄屋”に誘われた、あの日にね」
「…」
私はこの時点ですぐに、絵里が何について言いたいのか察した。
そう、私の本選突破を記念して、お祝いしてあげるという事で一緒に行くという話をしたアレだ。途中で聡が来て、その様な話になったわけだったが、絵里が言いたいのは、その前の三人での会話の中身についてだ。
私がコクっと一度頷いて見せると、絵里は絵里で私の心を読み取ったらしく、それについて詳しく言わないままに先を続けた。
「…うん、あの時ギーさんとも話したでしょ?そう、あなたのお母さんが、私の実家の日舞の生徒さんだって事。…それから私のことがいずれ知られて、芋ズル式にギーさんまで行くんじゃないかと思ったけれど、確かにあやつの言う通り、今の所はそこまで関連性が見出されないっていうのに気付かされてね?だったら…」
とここで絵里は、私の手の上に乗せていた自分の手で、今度は気持ち強目に握ってきつつ言った。
「繰り返しになるけど、ギーさんとの事についての嘘はともかく、私との話は隠す事も無いんじゃないかって思うんだけれど…どう?」
「え…?ん、んー…」
あまりに突然の提案だったので、私は思わずすぐには返事出来なかったが、今絵里が話した様なことは私も何と無くだが考えていた事だった。例の会合以来というのも同じだ。今絵里は言わなかったが、私がお母さんに、よく行く図書館の中の司書と仲が良いというのも知られているし、その事を絵里も知っていたのが大きかった。だいぶ前になるが、話をした通りだ。
図らずもだが、ある意味お膳立てはしっかりと出来ていたのだ。
私はすぐに返すのも軽薄だと思い、少し溜めてから、一度絵里の手を退かせてから、改めてその上に今度は私から手を被せて答えた。
「…うん、私もそんな事考えてたんだ。…いいよ、一緒に私の家に行こう?」
「琴音ちゃん…」
と絵里がフッと先ほどまで作っていた真剣な面持ちを緩めて、優しげな視線をこちらに向けてきたが、私はというと、ここで意地悪げな笑みを浮かべて見せて
「それに…友達をいつまでもお母さんに紹介しないってのも不公平だしねぇー…裕美はすぐだったし」
…実際は、裕美の水泳大会を観に行く時になって初めて紹介したから、”すぐ”でも無かったのだが、そんな私のセリフを聞いた絵里は、普段通りの明るい笑顔を見せると、ドヤ顔の私のおでこを指で軽く小突いてから返した。
「あははは!そんなまた”友達”だなんてワードを使ったら、その裕美ちゃんがこの場にいたら『恥ずいっ!』って言われちゃうよー?」
「ふふ、違いないわね」
それから二人はクスクスと笑い合うのだった。
しばらくして…と言っても、ものの十数分だろうが、私たち二人は各々で外に出る準備をした。言うまでもないが、私は帰り支度だ。
マンションを出ると、まだ昼から夕方にかかる辺りの三時半ごろのせいか、ある意味夏の日中内で一番暑さの厳しい時間帯であった。
私はいつも通り、例の麦わら帽子を被っていたが、絵里は何も被っていなかった。燦々と照る太陽の光に、絵里の頭に乗っかってる”キノコ”が反射して、典型的な天使の輪を作っていた。普段から思っていた事だが、変な髪型の割に、やはりそれなりに気を使っているらしく、髪質自体は女の私から見ても上質なものらしかった。下はカーキ色の幅のあるパンツを履いていたが、上は真っ白なノースリーブシャツ、その上に薄手のサマーカーディガンを羽織っていた。聞いても無いのに絵里が言うのには、『あなたのお母さんに初めてお会いするんだから、いくら暑いとはいえ肌をなるだけ晒すのは良くない』という理由かららしい。私は何とも言えず、ただそれに対して苦笑したのみだった。
絵里のマンションから私の家まで大きな通りを通る事は無いのだが、それ故にいわゆる街路樹が無い上に、身長の低い民家ばかりなので、程よい日陰が得られず、緑が少ないくせに蝉の鳴き声がけたたましく辺りを占めていた。
そんな中、道中ずっと、着いてお母さんに会ったら何を話そうかという打ち合わせに終始した。最初の方は意気揚々と話していた絵里だったが、徐々にテンションが目に見えて落ちていった。普段からは想像出来ないが、それなりに緊張していた。
「もーう…言い出しっぺなんだから、もうちょっとシャキッとしてよ?」と私が生意気に笑いつつ言ったお陰か、その分だけ和らいではいた。五、六分歩くと、ついに家の正面玄関に着いた。
「へぇー…ここかぁ」
絵里は着くなり、家の外観を色んな角度から眺め回していた。
私は車とは別の、人が出入りする様の鉄製の門扉に手を掛けていたが、そんな様子の絵里に苦笑気味に声をかけた。
「ふふ、もーう絵里さん?ウチに来たのって初めてだっけ?…って、前にすき…あ、いや、例の所に行った帰りに寄って来なかったっけ?」
思わず”数寄屋”と言いそうになったのを何とか既のところで留めた。もう自宅前だ。どこで誰が聞いてるかも分からないところで、それを聞いたところで知らないかもしれなくても用心に越した事は無いだろうという、自分なりの最大限の配慮だった。
絵里もそんな私の態度から察したか一度フフっと笑うと、その直後には普段通りの笑みを浮かべて言った。
「確かにあの時、前までは来たけれど真っ暗だったでしょ?それに直ぐにおさらばしちゃったし…しっかし」
絵里はここまで言うと、一度家の方を眺めてからシミジミ続けた。
「本当に琴音ちゃんは、お嬢様だったんだねぇ」
「も、もういいから!は、早く行こう?」
私はこの時途端に恥ずかしくなって、空気を入れ替えるためかの如く、反応を見ずにそのまま門扉を開けて、家の玄関前まで続く数メートル程のレンガ調のアプローチをズカズカと早歩きで行くのだった。その後ろを、絵里が微笑みながらゆったりとした調子でついて来た。…たとえ振り向いて見なくとも、そこそこ長い付き合い、絵里がどんな態度をとるのかは直ぐに分かる。
私は私でここまで来るまで緊張を少なからずしていたのだが、さっきのやり取りのお陰か、すっかりいつもと変わらぬ調子で鍵穴に鍵を差し入れ、間を置かずにそのまま半回転させた。
ガチャ。
その音と共に解錠したのが手元の感覚からも伝わり、そのまま玄関を開けて中に入った。
「ただいまー」
入って開口一番声をかけてみた。普段、お母さんがいようといまいと、これは習慣の様なものだった。お母さんがいればそのまま挨拶になるし、いなくとも言葉を投げる事によって、家に誰かいるのか判断出来る故に、その便利さに気付いてからは、意識的にやる様にしていた。で、この時は…
「あら、おかえりー」
と居間の方角から耳慣れた声が返ってきた。お母さんの声だ。やはりと言うか、今日はお母さんはそのまま家にいたらしい。
この時ふと下駄箱近くの時計を見てみたが、時刻は三時半に差しかかろうとしていた。どうやらまだ夕食の買い物には行ってなかったみたいだ。
ガチャ。
と居間のドアが開けられて、そこからお母さんが廊下に出て玄関に近づいて来た。相変わらずお母さんは、何も外に用事がない様なこんな日でも、質素では当然あったが、身なりをきちんとしていた。無地ではあったが清潔感のあるTシャツに、下は膝下まである紺のロングスカートだった。
別にこの時、そこまで頭を働かせたわけでは無かったが、約束無しの突然の来訪でも、私のお母さんだったらダラシのない格好はしていないだろうという確信があったので、急の絵里の提案にも乗れたというのもあった。もうこの時期の私は、もうそんな見てくれのことなど、小学校低学年時ほどには何も感じなくなっていたのだが、それでも、なんだかんだ言って一般の他のお母さんたちと比べても、その立ち居振る舞いに凛としたものがあるのは、密かに誇りに思っていた事だった。
…何だか、何が言いたいのか自分でも分からず、また聞いてる方でもよく分からなくなってしまっていると思うが、まぁ”いい加減”に感覚で感じて頂けると助かります。話を戻そう。
「今日は結構早めじゃない?もう少し遅くなると思って…あら?」
お母さんはこのような事を言いながら玄関まで歩いて来たが、目の前まで来ると、まるで今絵里の存在に気付いたかのようにハッとして見せた。
「こちらの方は…どなた?」
と、お母さんは、玄関先でまだ靴を履いたままでいる私と絵里の顔を何度か交互に見ながら聞いてきた。
「あ、うん、この人はね…」
と私が慌てて答えようとすると、
「初めまして」
と隣にいた絵里が不意に頭を大きく下げると、口調に真剣味を負わせつつ応えた。
「私、琴音ちゃんが足繁く来てくれてる図書館で司書をしています、山瀬絵里と言います。そのー…突然お邪魔してすみません」
「え?図書館の司書…?あ、あぁー」
それを聞いたお母さんは、私に顔を向けると、目は気持ち大きく見開きつつだったが言った。
「この方なのねー?あなたが昔からよく言っていた、仲のいい司書さんというのは?」
「う、うん、そう!」
私自身よく分からなかったが、何だか何かを誤魔化すかの様に若干食い気味に返した。
「ふんふん」とお母さんはそんな私の心中は知らずにか、一人納得いってる風に大きく何度か頷くと、今度は絵里の方に向いて、顔には愛想の良い笑顔を浮かべて声をかけた。
「顔を上げてくださいな?えぇーっと…山瀬さん、だったわね?」
「は、はい」
と絵里は畏まりつつもゆっくりと顔を上げた。それを見たお母さんは笑みを崩す事なく続けた。
「わざわざ来て下さってありがとうね?取り敢えず、こんな所で立ち話も何だし、良かったら上がっていきません?大したお構いも出来ませんけど」
「は、はい。で、では…お邪魔…します」
「どうぞー」
お母さんは陽気に間延び気味にそう声をかけると、スタスタと居間の方に歩いて行った。その途中で「琴音ー、山瀬さんにスリッパをお出ししてねー?」と言うので、「はーい」と私も返事をしてから、いくつかあるスリッパの中から来客用のを出して、絵里の前に差し出した。
「あ、ありがとう、琴音ちゃん」
と絵里はここにきてまた少し緊張の度合いを強めて見せていたので、私は自分の分のスリッパを出してから、絵里の背中にそっと手を置いて「どういたしまして!」と笑顔で返した。それが功をそうしたのかは、そこまで自惚れていない私からは何とも言いようがないが、その後に絵里はフッと力の抜けた自然な笑みを見せていた。
因みに余談だが、というか今更かも知れないが、我が家では来客以外でも、友達などの心安い人なども含めて皆がスリッパを履くことになっていた。それは家族も例外ではない。だから私も普段から自宅ではずっとスリッパを履いている事になる。まぁ余計なつまらない補足だ。話を戻そう。
「テキトーに座ってて下さいねー?琴音、あなたが案内しなさい?」とお母さんはドアを背にして支度をしていたというのに、私と絵里が居間に入って来たのを察したのか、こちらに声を掛けてきたので、「はーい」と私は返事をして、普段夕食や家族団欒時に使っているテーブルの方に案内して、そして私がいつも座る椅子の隣の席に絵里を座らせた。普段はお母さんが座る位置なのだが、来客がありテーブルの前に座って貰う時には、そこに座らせるのが習わしになっていた。最近では師匠がうちに来る度にそこに座っている。お父さんがいる時にはまた違うが、大体まずいないし、その場合はお父さんの定位置にお母さんが座るのだった。
絵里は私に促されるままにおずおずと座ると、少し遠慮深げに視線だけでキョロキョロと居間を見渡していた。私はその横顔を面白げに眺めていた。
元々絵里がウチに来た理由が理由なだけに、もう少し私の方でも緊張感を持っていた方が良いだろうとは思っていたのだが、この時の私の心境としては、言いようの無いワクワク感が胸を占めていた。
何だろう…?分かりやすく言えば、凄く好きな友達を初めて自宅に招待した時の様な、何だかアレコレとお節介を焼きたくなる様な、そんなアレかも知れない。…って、この状況と寸分と変わらない時点で、例えにはなっていなかったか。まぁ良い。
そんな心境でいると、お母さんがまだ支度をしながらまた声を上げた。
「山瀬さーん、あなたはコーヒーと紅茶、どちらが良いのかしら?」
「あ、そんな、お構いなくー」
と絵里が遠慮がちに言うので、すかさず私が脇から入った。
「茶菓子にもよるだろうけど、絵里さんは大体紅茶だよー」
「あら、そうなの?」
お母さんは一度手を休めると私たちの方に向き直った。
「じゃあ琴音、私は紅茶を用意してるから、あなたは自分でこないだ作ったワッフルを冷蔵庫から出して、少しレンジで温めてくれる?」
「ワッフル?」
「うん、分かった。絵里さん、ちょっと待っててね?」
「え、あ、うん」
絵里のそんな辿辿しげな反応を背に冷蔵庫から、ラップに包まれたシュガーシナモンワッフルを取り出した。中身をチラッと見ると、女三人分くらい丁度の量だった。
それをそのままレンジに入れてスイッチを入れている頃、お母さんは紅茶を淹れつつ絵里に話しかけていた。
「ご存知かも知れませんけれど、うちの子、お菓子作りに凝っていましてね?それでまた、下手の横好きではなく、ちゃーんと美味しく作るんですよー。召し上がって上げて下さいね?」
「もーう、お母さん?そんな話はいいから」
と私がすかさずツッコむと「何よ照れちゃって?」とお母さんはおちゃらけ気味に返した。
「…ふふ」
とその一部始終を見ていた絵里は、ふと吹き出す様に笑みを零した。それを見た私とお母さんは一瞬顔を見合わせると、次の瞬間には同じ様にクスッと笑い合うのだった。
「どうぞー」
「はい、頂きます」
最初来た時の様な緊張と比べるとかなり和らいだ様子で、絵里は口調を丁寧に返した。
「いいえー」とお母さんが椅子に腰かけようとしていた時、今度は私が温めたばかりのワッフルの入ったお皿をテーブルの中央に置きつつ言った。
「どうぞ私からも、召し上がれ」
「うん、ありがとう琴音ちゃん」
「ん!」
と私は口を結んだまま答えると、絵里の隣にまた腰を下ろした。
それを見たお母さんは、明るいトーンで声を上げた。
「では頂きます」
「頂きます」
「え、あ、い、頂き…ます」
当然と言えば当然だが、突然我が家のルールでお茶会が始まったので、少し面を食らったのか、若干オドオドしつつ絵里も後から続いた。
それからは三人揃ってカップを手に取り一口ずつ啜ると、すぐさまお母さんが絵里に話しかけた。
「どうかしら山瀬さん、紅茶の方は」
「あ、はい、美味しいです」
「そう?良かったー」
「絵里さん」
私はお皿を少し絵里の前に寄せて見せてから言った。
「このワッフルも食べてみて?自信作なの」
「あ、そうなの?じゃあ、お言葉に甘えて」
絵里は中から一つを手に取ると、一口ワッフルを食べた。
「どう?」
と私が聞くと、絵里は無言でモグモグと勿体ぶって見せたが、パッと勢いよく目を開けると、
「うん、とっても美味しいよ」
と満面の笑顔で答えてくれた。
それに釣られる様にして私も笑みを零しつつ「良かったぁ」と返す、そんな私たち二人の様子を、お母さんは口元に微笑みを浮かべつつ、ズズッと紅茶を静かに啜るのだった。
「いやぁ、ほんと、よく来てくれたわねぇ絵里さん…って、あ、あなたの事を絵里さんと呼んでも構わないかしら?この子から良くあなたの話を聞くものでね、その度に絵里さん絵里さんって言うもんだから、すっかり私の中でも絵里さんで固まっちゃってるのよ」
「ふふ、えぇ、勿論です。そう気軽に呼んで頂けると、私としても嬉しいです」
「ふふ、ありがとう」
「本当にでも、突然お邪魔してすみません。迷惑ではありませんでしたか?」
「え?…」
お母さんはふと居間の壁にかけれられていた時計に目配せをした。
「…いーえ、まぁ確かに一時間ほどしたら夕食の買い出しに行かなくちゃいけないのだけれど、まだそれまで時間があるしね?気にしないでよ」
とすっかり打ち解けた調子でお母さんは返した。我が母ながら、人との付き合い方の上手い人だと感心させられる。娘の私とは真逆のタイプだ。
「なら良かったです」
と絵里も笑みを浮かべつつそう返し、ワッフルをまた一口頬張り、その後で紅茶をズズッと啜った。
それから暫くは、お母さんからの質問ぜめに絵里はあっていた。と言っても、私との出会いだとかそんな話だ。絵里は流石に私に話す様には軽い調子で話せていなかったが、それでも本人を前にしてだというのに、止めどなく流れる様に話していった。…ここで自分で言うのはとても恥ずかしいのだが、おさらいの様に話すと、元々私の容姿に惹かれていて、それが声をかけてみて話していくうちに、その惹かれる要因が見た目だけではなく、本人の中身から由来しているというのに気づいて、ますます私の虜になっていった…とまぁ、そんな話を恥じらいも無く話して…いや、語っていた。
それを隣で聞いていた私は、まるで話が聞こえていないかの様に振舞いつつ、若干肩身が狭い思いをしつつ黙々とワッフルを食べ、紅茶を啜っていたのは言うまでもない。
…それだけなら、まぁ普段からもそんな調子だからすぐに突っ込んで終わりなのだが、この日ばかりはその話にお母さんが悪ノリをしたので、暫くその話題で盛り上がってしまっていた。ここまで来ると、流石の私も無表情でいられなくなり、最後の方は苦笑しっぱなしだった。
とまぁ、私と絵里の馴れ初め(?)の話にひと段落がついた時、ふとお母さんは何か思いついたかの様な表情を見せると、少し今までとは声のトーンを落としつつ、絵里に話しかけた。
「なるほどねぇー…って、そういえば今更だけれど、今日はまた何で突然ウチに来られたの?」
「え?あ、それはー…ですね?」
今まで和気藹々と私の話題(?)で盛り上がっていた絵里は、このお母さんからの急な問いに対して、思わず苦笑いを浮かべつつ声を漏らした。この苦笑いには、色々な意味が込められていそうだった。絵里は一度紅茶で喉を潤してから、ふと隣の私に顔を向けて、それまで緩めていた表情を固くすると、またお母さんに顔を戻し、声にも真剣味を帯びせつつ言った。
「…あ、いや、先ほど急にお邪魔してすみませんとお詫び申し上げましたが、それ以前に、今までの非礼に対して、キチンと謝罪をしたかったんです」
「え?」
急に真面目モードになった絵里に対して、お母さんは驚きを隠せないと言った調子で声を漏らした。こんな話になるとは想定していなかったらしい。
ちなみに私も若干面を食らっていた。勿論絵里がそれなりの覚悟で来てくれたことは分かっていたつもりだったが、具体的な話はここまで来る道中でも知らされていなかったので、ただただこの時は、絵里の身体から発せられる緊張感に感染したかの様に、同じ様に体が畏まってしまっていた。
お母さんが声を漏らした後で特に言葉を続けないというのを確認すると、絵里はまた静かに話し始めた。
「…はい、それは…私の様な何処の馬の骨とも取れない様な人間が、大事な一人娘である琴音ちゃんと頻繁に会っているというのに、これまで一度もこちらに顔を見せなかった、その非礼に対してです」
「…」
お母さんはここで何かハッとした様な、口を軽く”あ”の形に開いたが、そのままで声を発することは無かった。絵里は続けた。
「…本来でしたら、初めて琴音ちゃんに、友情の証として、名前で呼んで貰った約二年前、琴音ちゃんがまだ小学五年生の時に、こちらに伺うのが筋だったのは分かっていたんですが…今までも、これからも話す内容が言い訳でしか無いのですけど、そのー…」
とここまで話すと、不意に絵里は私に顔を向けると、フッと寂しげな笑みを漏らして言葉を続けた。
「もしこの子のご両親に嫌われて、もうあの様な女とは付き合ってはいけませんと言われてしまって、それで金輪際会えなくなったらと思うと、そのー…それで結局今まで引き伸ばしてしまったんです」「…話は分かりました。でも、それで…」
と、絵里の雰囲気に合わせてか、お母さんもすっかり真剣モードになって、声のトーンも落とし気味に言った。
「それなのに、何故今日こうして足を運びになられたの?」
「はい、それは…」
そう問いかけられた絵里は、不意に今度は私の背中にそっと手を当てて、そのまま答えた。背中に伝わるのは、何と無く覇気の無い手の感触だった。
「私…今もこうして変わらずに琴音ちゃんと付き合わせて頂いているんですけれど、私なりに琴音ちゃんの習性を分かっているつもりだったんです。それが…今、この子、コンクールに出場されていますよね?…はい、私も初め聞いた時には驚きました。会話の中で、彼女がピアノにのめり込んでいる事は知っていたんですが、それでも人前に出るのを極度に嫌がっているのも同時に聞いてたんです。それが、中学に上がってしばらくして、こうして自ら進んでコンクールに出てみる気を起こしたのを聞いて、そのー…」
絵里はここまで所々詰まりながらも口調はハッキリと話をしていたが、ふとここで一度溜めてから、私の背中から手を離し、気持ちまた一段と口調をハッキリと続けた。
「私も…いつまでもウジウジとしていちゃあ、この子の前で…恥ずかしいと思ったんです。まだまだ若輩ですけど、この子よりも歳上という点で大人ですし…友達としても」
絵里はここで一度私に視線をくれてから続けた。
「能書きが長くなってしまいましたが…琴音ちゃんのお母さん、いきなり不躾な事を聞く様ですが、そのー…私の事、見覚えないでしょうか?」
「へ?」
今度はお母さんが麺を食らう番だった。流石のお母さんも想定外の言葉に目を丸くしていた。
「それってどういう…」と呟きながらも、少し遠慮がちに絵里の顔を、体勢も前屈みにジッと見つめていた。
…遠慮がちと言っても、結構な時間眺めていた様に見えたが、お母さんは少し訝しげに体勢を戻しつつ呟くように、
「言われて見たら、確かに何だか見覚えが…って」
と言ってからここで一度切り、
「それって、私が絵里さんと一度出会っているって事よね?…ごめんなさい、言われて見たらってレベルで、ハッキリとはそのー…思い出せません」
「あ、いやいや!」
お母さんがすまなそうにそう言うのを聞いて、絵里は慌てて手を胸の前で大きく振りつつ返した。
「ち、違うんです!…あ、いや、違うと言いますか、そのー…私の話の切り出し方がおかしかったですね。こちらこそすみません…。いや、私が話したかったのはですね?そのー…驚かないで聞いて欲しいんですが…」
「は、はい…」
絵里がやけに溜めるのを聞いて、お母さんも若干身構えていた。
「…目黒の〇〇って日舞の教室、ご存知ですよね?」
「…へ?…いや、まぁ…はい」
お母さんは、今度はさっきよりもより一層驚いた表情を作りつつ、それでも何とか返していた。私の方でも、すでにこの時、絵里が何を切り出そうとしているのか察していたので、お母さんとは違う意味でドキドキしていた。
「あそこの師範代が実は…私の、実の父なんです」
「…え?って事は…?」
お母さんはそれ以上には驚きのレパートリーが無かったのか、そのまま変わらぬ調子のまま声を漏らした。
絵里は一度大きく頷いて見せると、意を決したようにゆっくりと口を開いた。
「はい…あそこは私の実家でして、そして一応私も…名取として、たまに父や母の手伝いをしています」
「…あ、あぁー!」
絵里がいい終えた後、今度は遠慮もなくマジマジと顔を眺めていたお母さんは、見るからにハッとした表情を浮かべると、目を大きく見開いたまま言った。
「確かに、何処かで見たことがあると思ったら、それでー…って」
とお母さんは一人感心したように独り言ちていたが、絵里の視線を感じたからか、途端にバツが悪そうな苦笑いを浮かべて言った。
「本人を前にしてというのに、すみませんね?」
「あ、いえ」
「しかし…妙な縁もあるものねぇ。琴音、あなたが足繁く通っている図書館の、そのまた仲の良い司書さんが、私の通う日舞の教室のご子息で、しかも名取だなんて」
「ま、まぁ…そうだね」
私も相槌がわりにそう返したが、何だか話が逸れて行きそうな気配を感じた。絵里も同様らしく、お母さんが日舞の話に持って行きそうになるのを何とか修正を試みるように、無理やり口火を切った。
「そ、それでですね?そのー…琴音ちゃんからコンクールの話などを聞く中で、その時の写真を見せて貰っていたんです。そしたら…見覚えのある方がいるなぁと思った次の瞬間、私の実家に通われている生徒さんだと気付いたんです。その後すぐに琴音ちゃんに確認して見ると、お母さんだと仰りました。…今までの話で何が言いたいのかと言いますと、繰り返しになりますが、琴音ちゃんの変化、その意志に影響されたのも大きいのですけど、こうしてこの子のお母さんが、私と実はこんなに大きな繋がりがあったのを知って、それを後々でひょんな事から知れるような、そんな知れ方がどれほど失礼かを感じたら居ても立っても居られなくなってしまって…それでこれまで挨拶が遅れた非礼をお詫びする意味でも、こうして馳せ参じた次第…です」
絵里がそう言い終えると、辺りはシーンと静まり返った。
絵里は言い終えた直後、視線のやり場に困ったのか、まだ残りのあるカップの中身を覗き込んでいた。お母さんは静かな表情で、少し目を細めつつ、向かいの絵里を見ているのかどうなのか定かでは無い様子を見せていた。そんな二人を、私はただ時折交互に見るしか無かった。…心の中で絵里の話を反芻している間、また絵里が私からしたら不用意な、私を持ち上げる様な事を話していたのを思い出して、この雰囲気の中思いっきり苦笑をしていたのだが、流石にそれを顔に実際浮かべる様なヘマはしなかった。我ながら、少しは成長しているらしい。
どれくらい経ったか、不意に「ふふ」と吹き出す声が聞こえた。
その方角を見ると、その主はお母さんだった。
絵里も私と同様に、声がしたのと同時にお母さんの方を見たので、お母さんは少しバツが悪そうに笑いながら口を開いた。
「…あぁ、ごめんなさい、吹き出す様な真似をして。悪い気がしたのなら謝ります」
「あ、いえ…」
と絵里がまだ硬い表情のまま、声もそのままに返すのを見て、「ふぅ…」と一度息を吐くと、お母さんは苦笑まじりに言った。
「…もーう、絵里さん、余りにも固すぎるわぁー。その流れで、あまりに唐突にカミングアウトするものだから、必要以上に驚いてしまったしね?…勿論、あなたなりの誠意の示し方なのは分かっていますし、それを茶化す気など微塵も無いのですけど…ほら、さっきまで、アレコレ和かに話していたのに、突然そんな風に真剣に話されたら…こちらとしても困っちゃうわ」
「え、あ、いや、そのー…すみま…せん?」
と絵里はお母さんのそんな態度が予想外だったのか、見るからに呆気に取られていた。語尾が疑問調になっているのが、その証拠だ。
お母さんもそんな絵里の様子から察したか、ますます普段通りの明るい調子に戻しつつ続けた。
「あははは、ほらー、謝らないでよー?…ふふ、絵里さん?」
「は、はい」
お母さんが今度は優しげな笑みを浮かべて、声のトーンも抑え気味に話しかけてきたので、その百面相ぶりに、時折私に流し目を寄越してきつつ返事をした。
「…わざわざ来てくれてありがとうね?そんな事を話してくれるために…。あ、いや、今のは皮肉に聞こえちゃうかな?…誤解があると困るから慌てて弁明させて欲しいのだけど、寧ろ今私はあなた…絵里さんの態度に感心し、大袈裟じゃなく感動しているの」
「え?」
「だって…今時、いくら大人と言ったって、こうしてわざわざ挨拶に来る人って稀でしょ?しなくちゃいけないと仮に思っていたとしても、実際に行動出来る人もね?そりゃあ、学校の先生なり何なり、家庭訪問という形で来ることはあるけど、それはある種の義務みたいなもので、ある種仕方なしな所があるでしょ?」
「は、はぁ…」
大分前から、お母さんは絵里に対して、持ち前の対人力の高さを活かして、かなり馴れ馴れしく話していたのだが、ここにきて、絵里はますますそんなお母さんにただただ押されているらしく、生返事をするのがやっとに見えた。
こんな会話の最中だというのに、同性相手…いや、それに関わらず絵里が他人に押されているのを初めて見た私は、興味深げにシミジミと絵里を眺めていたのだった。
「だからね、そんな人が多い中で絵里さん、あなたはこうして誠実にもこの子の母親である私の元に足を運んでくれた…それだけで、あなたに対して何もそれ以上に望むものは無い…んですよ?なので…」
ここまで話して切ると、お母さんは満面の笑みを浮かべて
「これからも、この子、琴音と仲良くしてあげて下さいね?」
と言った後、顔がテーブルにつくんじゃないかというほどに頭を下げたので、絵里はまたアタフタと慌てて恐縮した様子を見せたが、すぐに同じ様に頭を下げつつ「こ、こちらこそ…よろしくお願いします」と返した。
それを聞いたお母さんはゆっくりと顔を上げて、それに合わせて絵里も顔を上げたが、数瞬互いに顔を見合わせ、まずお母さんが「ふふ」と笑みを零すと、その直後に目を細めて意地悪げに笑いつつ
「琴音だけではなく、私もついでによろしくお願いしますよ?先生?」
と言った。何の事かと絵里はキョトンとしていたが、すぐに日舞関連だと気付いたか、それにつられる様にして絵里も同様に笑みを零しつつ「はい」と明るく返事をした。その直後に「とはいっても、私はまだただの名取なので、指導する事は出来ませんが」と苦笑交じりに付け加えるのを忘れずに。
その後はまた二人揃って和やかに笑いあっていたが、その雰囲気に飲まれてか、ずっと黙って一部始終を眺めていた私も笑みを零すのだった。
「あ、紅茶のお代わりいる?」
とお母さんがすっかり馴れ馴れしい口調で話しかけると、絵里は一度カップの中を確認してから恭しく
「は、はい…頂きます。琴音ちゃんのお母さん」と返した。
まだ声からは緊張が覗いていたが、顔の表情はいつもの絵里に戻っていた。
「はーい、じゃあ待っててね?」
お母さんはそう言うと、慣れた調子で手際良くまたお代わりを取ってきた。その間、私は自作のワッフルを絵里に薦めていた。
「ありがとう、美味しいよコレ、本当に」
「ふふ、それは作った私がよーく知ってます」
と私が得意げに胸を張りつつ返すと、絵里は意地悪げな笑みを浮かべつつ「あ、生意気ー」と言いながら自分の肩を私の肩に軽くぶつけて来た。
「あはは!…あ、ありがとうお母さん」
「あ、ありがとうございます」
トレイにお代わりの紅茶の入ったカップを人数分持って来たお母さんが、それらを私たちの前に置いていったので、それぞれがお礼を言った。
「いーえ」
お母さんはゆっくりとした動作で席に着いたが、ふと私と絵里の顔を見合わせると、クスッと一度笑ってから口を開いた。
「いやぁ…本当、あなた達二人は仲が良いのねぇ。…あ、昔、あなたが言ってた事、思い出したわ」
「え?何のこと?」
と私が聞くと、お母さんは私と絵里の顔を見比べるようにしてから、ニヤケつつ答えた。
「ほら、あなた覚えてない?昔、あなたがまだ小学生だった頃言ってたじゃない?仲良しの司書さんがいて、まるでその人が自分の本当のお姉ちゃんみたいだって」
「え?」
「…あ」
思い出した。そう、流石に覚えておられる人はいないだろうが、昔、初めて絵里の家に遊びに行く時に、地元の駅前で待ち合わせをしていて、不意に絵里が私に人の往来が多い所で私に抱きついてきたのだ。それをお母さんの知り合いか誰かが見ていたと言うんで、その晩、お母さんにその女性が誰かと聞かれたのだ。その時に初めて確か司書さんの事を話したと記憶しているのだが、その流れで『お姉ちゃんみたいな人』と言った…?ような気がする。
私は隣で「え?」という反応が聞こえたので嫌な予感がしていたのだが、ゆっくりと顔を横に向けると、案の定、絵里がこちらに満面の笑みを浮かべていた。
「あ、あのね、絵里さん、これには深い訳が…」
とすぐに言い訳をしようとしたが無駄だった。
「琴音ちゃーん!」
「わっ!」
絵里が突然私に抱きついて来た。相変わらず、炎天下の下を歩いて来たというのに汗臭くなく、寧ろ鼻には衣類から香る柔軟剤の匂いしかしなかった。
「ちょ、ちょっと…」
私は視線だけお母さんの方に向けた。
お母さんは一瞬絵里の行動に驚いていたようだったが、すぐに微笑ましげな様子でニコニコとこちらに笑みを送っていた。
「私のことをそんな風に話してくれてたのー?」
「いや、それは、その、何かの誤解で…って、ほら、絵里さん」
「ん?なーに?…あ」
絵里は私が目だけで合図を送って見せると、そっちの方角に顔を向けた。そこにはニコニコと何も言わずに笑っているお母さんがいたので、途端に自分のしている事が恥ずかしい事だとようやく気付いたか、それでもゆっくりとした動作で私から体を離すと、ホッペを掻きながら「いやー…」なんて声を照れ臭そうに漏らしていた。
何が「いやぁー」よ…。
と私は心の中でツッコミつつ、絵里にジト目を流していたが、その直後、
「あははは!」
とお母さんは目を思いっきり細めつつ明るく大きく笑い声を上げた。あまりに豪快に笑うので、私と絵里は顔を見合わせてキョトンとしていたが、すぐにその笑い声につられて、私たち二人も笑うのだった。
それからは、先ほどとはまた違った点で絵里はお母さんから質問攻めに遭っていた。勿論、日舞についてだ。
その勢いは、絵里の幼少期からの話を聞き出そうとする勢いだった。…いや、実際にそれは質問していて、それに関しては私も興味津々にお母さんに乗っかったが、それはまた今度にして下さいと上手くあしらわれてしまった。
その代わりと言ってはなんだが、絵里が今私の通う学園のOBだというのを二人のどっちから漏らしたか、その話になると、日舞の話を流されて若干不満げだったお母さんは、それに多大な興味を示して、結局絵里が帰る算段になる頃まで、その話で終始した。
「さて…ってあら」
とお母さんは居間の時計に目を向けると、私と絵里に視線を戻し、笑みを浮かべつつ言った。
「もう五時半かぁ…結構経ってしまったわね。今日はこの辺りでお開きにしましょう」
お母さんのその言葉をキッカケに、私たちは身の回りの整理を始めた。お母さんは買い物するか、それとも今日がお父さんが夕食までに帰ってこれない日だというので、仕方なしに駅前で外食にしようかと口に出して考えていた。その流れでふとお母さんは絵里に、「もし良かったら、夕食を共にしない?」と誘っていたが、絵里は丁重に断っていた。私はこの時、何気なく絵里の横顔を見たのだが、お母さんがお父さんの事をチラッと漏らした時に、一瞬顔を曇らせたのを見逃さなかった。
それには気付かなかったらしく、お母さんは「ならまた今度ね」と約束とも言えないような言葉を吐いて、そして私たちは揃って外に出た。
夏真っ盛りの八月下旬といっても、この時間になると流石に空は暗闇が目立ち始めていた。ただ、暑さだけはしっかりとしつこくまだ残っていた。
「じゃあ折角だから、私、絵里さんを送っていくよ」
「え?別にいいよー」
「あぁ、そうね、そうしなさい。よいしょっと」
ガチャンの音と共に、お母さんはママチャリを出した。
お母さんはこの後、駅前のスーパーに行くとの事だ。
「じゃあ絵里さんを送ったら、あなたも後でスーパーに来なさいね」「うん、分かった」
ガチャン。
私も自分の自転車を出しながらそう答えた。
「じゃあ絵里さん、また近いうちにお茶でもしましょう?」
「えぇ、是非」
「じゃあ…」
とお母さんはサドルに跨がりかけたが、「あっ、そういえば」と声を漏らしたかと思うと、また自転車の横に戻った。
何だろうと私はお母さんのことを見ていたが、お母さんは絵里に笑顔で明るい口調で声をかけた。
「今更ながら思い付いたけれど、絵里さん、あなた、今度の水曜日空いてる?」
「え?水曜日ですか?えぇっと…」
突然話を振られた絵里は、空を見上げつつ必死に予定を思い出していた。
それを見たお母さんは「あはは」と一度笑ってから、また話しかけた。
「いやいや絵里さん、今急に聞かれても困るだろうから、無理してすぐに答えてくれなくてもいいんだけれど、ほら、琴音から聞いてないかしら?その日がね…コンクールの決勝の日なのよ」
「あ、あぁ、なるほど!」
絵里は私に顔を向けながら、力強くそう返した。
「そうなの。でね?何が言いたかったのかというと…あなた、良かったら、この子の決勝…私たちと一緒に応援に来てくれないかしら?時間に都合がつくようなら」
「あ」
と私が声を漏らしたのも束の間、「え?良いんですか?そのー…私なんかが行っても?」と絵里がまた先ほどの真剣味を負わせた会話の時のように若干強張りつつ聞いた。
すると、お母さんはまた一層笑顔を明るくしつつ言った。
「ほらー、またそんなに硬くなっちゃってぇー…。ふふ、勿論良いに決まってるじゃない!だって、絵里さん、あなたは琴音の大事なお友達なんですもの」
「る、る、…瑠美さん」
絵里はぎこちなく、何度か最初の一文字を言ってから、何とかお母さんの名前を呼んだ。それに対して、お母さんは満足げに何度も頷くのだった。
…これはさっきの雑談の中で出来た約束だった。そう、絵里がお母さんの事を”瑠美”と名前で呼ぶというものだ。いつまでも絵里が”琴音のお母さん”と、ある意味当たり前だと思うのだがそう呼ぶのに業を煮やしたらしく、「そんな長ったらしい呼び方じゃなくて、気軽に下の名前で呼んで」とお母さんが頼んだのだ。普段は私や裕美に対して自分がしていた事を今度は頼まれた側に回ったわけだが、流石の絵里も少し恐縮していた。…これを機に、少しは私たちの気持ちも考えて見て欲しいものだ。
…っていや、そんなことはともかく、何度か押し引きがあった後、結局は絵里が折れて、名前で呼び合うことが約束されたのだった。
「琴音はどう?」
「え?」
急に話を振られたので、咄嗟に返せなかったが、その短い言葉だけで、何を聞かれているのかはすぐに分かった。
私は一度絵里の顔を見た。絵里は不安げとも言うのか、ただ単に戸惑いの表情だったのか判別の難しい顔つきをしていたが、私の心は一瞬にして決まっていたので、絵里には一度微笑んでからお母さんに向き直り答えた。
「どうって…勿論、私は大歓迎だよ!」
「琴音ちゃん…」
「そっか…うん、じゃあ決まり!」
お母さんは元気よくハキハキとそう言うと、またサドルに跨がり、
「じゃあ絵里さん、すぐじゃなく、遅くても当日でも構わないから、時間があったり都合がついたら、是非ともご一緒しましょう?遠慮しないでね」
「は、はぁ…ありがとうございます」
と絵里がお母さんの勢いに負けつつそう返すと、「じゃあ琴音、後でね。車に気をつけて来るのよ?」
と言うと、ペダルに足をかけ力強く前に押し出して行ってしまった。「分かったー」
と私はその走り去る背中に声を掛け、呆気に取られたままの絵里に笑顔で声を掛けた。
「じゃあ、私たちも行こ?」
「しっかしまぁ…」
絵里はため息交じりに声を発した。
「琴音のお母…瑠美さん、正直言って、琴音ちゃんと正反対って感じの人だったね?」
「まぁ結構明るい性格ではあるよね。私みたいな根暗と違って」
と私は自転車を手で押しながら、ニヤケつつ返した。
「まぁでも何と言うか…誤解生みそうな言い方だけど、裏表があるよ。さっきみたいに子供っぽいところを見せるかと思えば、凛とした様子を見せたりするし」
「ウンウン、さっき話していて、その凛とした感じ、よーく伝わってきたもん」
絵里はワザとらしく両肩を大きく落として見せた。
「慣れないこととはいえ…もう少し上手く話せなかったもんかなぁー…」
「え?結構上手く話せていたと思うけど?」
本当はここで、また私のことを美化し過ぎに話したことを突っ込もうと思ったが、今日ばかりは私のことを想っての行動だというのが痛いほど分かっていたので、いらぬ茶々を入れて冷やかすのは自重した。
絵里はそんな私のフォローに対して、一瞬自然な笑みを見せたがすぐに苦笑に変化させて言った。
「いやいや…偉そうなことを言いつつ、結局なんだか嘘を解消できないままに、中途半端に終わった感が強いもの」
「んー…」
それを言われてしまうと、当事者の私としては困ってしまうが、それでも何かを返さなくてはと思ったので、私も苦笑交じりに言った。
「まぁ…私が言うのも何だけれど、正直私と義一さんとの関係がある限り、今日以上の成果は見込めなかったと思うよ?そんな面倒な事の中で、ここまで最善を尽くしてくれて、そのー…」
と私はここで足を止めたので、絵里も同じく足を止めた。
私は、すっかり私の方が背が高くなった関係で、少し見下ろす形になってしまっていたが、両手で自転車を押さえたまま大きく頭を下げて言った。
「…絵里さん、今日は本当にありがとう…ございました」
「琴音ちゃん…」
絵里は私の頭上からそう声を漏らしたが、「ふぅ」と言葉にして息を吐いたかと思うと、私の肩に手を乗せた。
私が顔を上げると、絵里は顔に思いっきり意地悪な笑みを浮かべて見せていた。
「本当だよー。こんなややこしい事に巻き込まれて…。でもまぁ、琴音ちゃん、それに…ついでにアヤツも入れてあげて、この二人と付き合うその面白さと比べたら、こんな苦労も軽いもんだよ」
「ふふ、何それー」
「あはは!」
と絵里が笑いながら急に歩き始めたので、私も後から早足で追いかけた。
「…あ、そういえば」
「ん?どうかした?」
「あ、いやね、意外だったと言うか…」
「何が?」
「ほら…絵里さんとお母さんが面識なかったのが」
「え?いや、ほら、それはさぁ…もしあるにしても教室で精々すれ違うくらいで」
「あ、いや、日舞の事じゃなくてさ。ほら、前によく言ってたじゃない?」
「ん?何を?」
そう絵里が聞き返すのを、私はニターッと笑いながら返した。
「ほらー…私のお父さんを指してよく言ってたじゃない?『あの高慢ちきが…』どうのって」
「え?…あ、あぁー」
絵里はすぐに思い出したらしく、顔全体に参った表情を見せていた。それに対して私は何故か得意満面な様子で続けた。
「だからさ、絵里さんと私のお父さんが面識あるのなら、お母さんともあるのかと思って…さ…」
とここまで話したところで、今更ながらふと都合の悪い事に気づいた。考えてみたらすぐに気づく事で、我ながらのんびりしてると言うか何というか、察しが悪すぎると思わず苦笑いをしてしまった。
そう、もし仮に絵里とお母さんの間につながりが無かったとしても、今日こうして繋がりができてしまった訳で、そこからお父さんに話が遅かれ早かれ話が行く事は時間の問題なのは火を見るよりも明らかだ。絵里が頼んだ事とはいえ、それについて絵里を責めることはできない。何せこれは、私と義一、そして主にお父さんとの問題なのだ。
それを厳密には当事者では無い絵里に文句を言うのはお門違いというものだろう。そんな事は言うまでもない。提案された時に拒否をしなかった私が全面的に悪いのだ。
といったような事を、自分で話しながら思いつき考えてしまったのだが、そんな私の様子を見ていた絵里は、また一度息を吐いて、何も言わずとも全て知ってる体で話しかけてきた。
「あぁ、なるほどねぇ…。ふふ、大丈夫だよ」
「…え?何が大丈夫なの?」
と私が自分でも分かる程、不安を隠しきれない調子で聞き返すと、絵里は優しげな笑みを浮かべつつ、しかし口調はハキハキと言った。
「だってね、多分あなたは勘違いしてる…ってまぁ、キチンと今まで話したことが無かったから仕方ないけれど、瑠美さんと顔を合わせたのは本当に今日が初めてだよ。これは本当。で…そう勘違いしちゃったのは、私が余計な軽口を言ったせいだろうけれど…」
とここで絵里は、少し照れたような様子を見せつつ先を続けた。
「確かに、あなたのお父さんにして、ギーさんのお兄ちゃんである”あの人”とは面識があるっちゃあるんだけれど…それはね、今から大体十五年くらい前の話なの」
「…へ?」
「それも一度だけね」
「い、一度…」
「うん。確かー…詳しくは私自身も覚えていないんだけれど、私が大学に入ったばかり…そんでもって、ギーさんと出会ったばかりの時くらいにね、何がきっかけだったのか全然思い出せないんだけれど、多分大学構内かな?たまたまギーさんとお兄ちゃんが居るところに、私が鉢合わせたの。その一度きり」
「…はぁー」
私は一気に力が抜けていくように感じた。…いや、実際に気を抜くと地べたにストンと腰を落としそうになるほどだった。ある意味自転車を押しているお陰で、倒れずに居れたのかもしれない。
「その一度だけなんだ…」
「そう、その一度だけ。しかも居合わせただけだから、自己紹介もロクにしなかったし、ギーさんが私のことを後で話さなければ、今も私のことを名前すら知らないんじゃないかな?…顔すらも覚えてないかも。その時はまだこの頭じゃなかったし」
絵里は得意げに頭に乗るキノコを何度か撫でた。
「なーんだ…じゃあ何で、高慢ちきがどうのって言ってたの?」
と私は呆れた心中を隠そうともせず、むしろ大ぴらに見せつけるようにしながら聞くと、絵里は何故か愉快げに答えた。
「ふっふー、それはね…まぁ、そもそもそのほんの一瞬しか実際には顔を合わせなかったんだけれど、何だか良い印象は持たなかったのよねぇー…って、実の娘の前で言うのも何だけれど」
「ふふ、本当よ」
と私が悪戯っぽく笑うと、絵里も同様の類いの笑みを見せつつ言った。
「まぁ、私と琴音ちゃんの仲だから言える事だけれどねぇー。何度かあなたのお父さんについて話しているし…。いや、それでね、その後で聡さんと話したんだけれど、その時の印象をそっくりそのまま話したらさぁ、聡さんが言ったんだよ。『アイツは高慢ちきな所が玉に瑕なんだよなぁ』ってね」
「あぁー、言いそう…って、元ネタは、聡おじさんだったんだね」
「そう、その通り!…って、おっと」
と絵里がわざとらしく見上げると、その先には絵里のマンションが建っていた。気付かぬうちにもうここまで来ていたらしい。
「今日は送ってくれてありがとうね?」
「いーえ、どういたしまして。っていうか、私こそ、ありがとう」
と私がまたお礼を言うと、「もーう、良いってばぁ」と照れを隠すようにちゃらけて見せていた。
慣れた手つきで番号を押してオートロックを解除すると、自動ドアが開いた。
「じゃあまたねぇー」
と中に入って行きかけたが、絵里はふと立ち止まり、私に振り返ると、笑みを浮かべて声を掛けてきた。
「コンクールってさぁ…やっぱりドレスコードあるよね?」
第10話 コンクール(終)後編
「でね、いよいよ明日な訳だけれど、この子の応援に来てくれる人で大所帯になりそうなの」
「ほう」
今日はあれから次の日の火曜日。明日の水曜日はいよいよ全国大会だ。
今は久し振りにお父さんが早めに帰って来たので、こうして親子水入らず夕食を摂っていると言う次第だ。
話題は当然のように、明日の事に終始していた。
「で…」
とお父さんは、お母さんの隣に座る向かいの私に話しかけてきた。
「その大所帯というのは、具体的にはどれ程の人数なんだ?」
「え?えぇっとねぇ…」
お母さんが事前に大所帯だなんて言うもんだから、お父さんがどれくらいの人数を想定しているのか分からず、別にどうでも良いといえばどうでも良いのだが、本当に大所帯なのか自分でも確認したくなり、馬鹿正直に数えてみる事にした。因みに、最初の頃は裕美一人が見に来ることすらあれ程アレコレ悩んでいたのだが、この段階まで来ると、良くも悪くも開き直れていた。
えぇっと…まずお母さんと師匠でしょ?それに裕美、それから律、藤花、紫…あぁ、後土曜日に来られた京子さん。後は…あ、そうそう、直前で決まった絵里だ。
「んー…お母さんと師匠、そして京子さんを含めると…七人かな?」「京子さん…?」
とお父さんが疑問を呈すると、
「ほら貴方、沙恵さんのご友人で、ヨーロッパで活動していらっしゃる…」
とお母さんがすかさず説明を入れた。
それを聞いたお父さんはすぐに思い至ったらしく、「あぁー…」とボソッと漏らしてから、私とお母さんを同時に視界に入れる様な視線を向けながら
「ほーう…それで八人もか」
と、食事を終えて熱い緑茶を啜っていたお父さんは、心なしか感心したかの様に口にした。
「ね?結構な人数でしょ?」
と何故かお母さんは誇らしげに胸を張らんばかりに言った。
「この子、昔から自分から進んで人付き合いをする様な子じゃなかったから、こういう時にはどうだろうと思ってたんだけれど、いざそうなってみると、意外や意外に、こうして時間を割いてまでこの子の応援に来てくれる友達がこんなにもいるっていうんだから、有難いよねぇ」
「もーう、うるさいなぁ」
私は不機嫌な様子を作りつつ拗ねて見せると、「ごめんごめん」とお母さんも態とらしく慇懃に謝ってくるのだった。
「ふふ…あ、そういえば」
とお母さんは何かを思い出したらしく、少しだけ目を大きく見開きながら話しかけてきた。
「その人数には、絵里さんも入ってるのよね?」
「え?あ、あぁ…うん、もちろん」
絵里の名前が出た瞬間ギクッとして、チラッとお父さんの顔を覗き見つつそう返した。
絵里が来るというのはだいぶ早めに決まった。何せ、絵里とお母さんが初めて出会ったあの日の夜、寝支度をすませて、まだ目が冴えていたから義一から借りた本を読もうとした所、絵里から正式に行くという電話を貰ったのだった。
前回のことを覚えておいでの方は、今更と思われるかも知れない。何せマンションの前での別れ際、絵里がコンクールの観覧時の衣装について聞いてきたのだから。だがあの後は「結婚式だとか、その辺りのレベルの正装で良いと思うよ」と軽く話しただけで終わったのだ。だから正式にという訳では無かった。絵里なら進んで観に行くと言ってくれるものだと心の片隅では期待していたのは事実だったが、それでも繰り返す様だが急も急だしどうかと心配していたのだ。それがこの結果だ。電話口で、驚きと喜びのあまり、調子が外れてしまうのを押さえるのが大変だった。こういう時は、お互いの顔が見えない電話というのは有難い。後は軽くまた衣装の話をして、参考にしたいからと私の演奏時の衣装が見たいというので、渋々ながら幾つか送ってあげる約束をして切ったのだった。因みにというか、裕美のお母さん、そして律のお母さん達まで、私の応援、それにコンクールという中々普段生活している中では味わえない特殊な空間に出向いて見たいという好奇心を含めて、行きたいという話になっていた様だったが、流石にそれだと十人を超える人数になってしまうというので、”今回”ばかりは自重して頂く事になった。…”今回は”というと、次回があるみたいだけれど。
話を戻そう。
この時ちょうど私とお母さんも綺麗に食べ終えたので、またお父さんの号令のもと、ご馳走様でしたの挨拶をして、お母さんが鼻歌交じりに片付けをしている間、ふとお父さんが私に話しかけてきた。
「そういえば…絵里さんって誰だ?」
「えっ!」
何とかあのまま何となしに流れると思って安心していた所で、不意に、しかもお父さんの口から絵里の名前が飛び出したので、さっきとは比べ物にならない程に驚いた。
でもそれは何とか持ち前の”演技力”を屈指して、動揺を悟られない様に気を落ち着かせようと苦心していたその時、洗い場からお母さんが会話に入ってきた。
「ほら貴方、前に話したけれど覚えてない?琴音が小学生の頃、この子、良くあの区立図書館に行ってたでしょ?まぁ今も良く行ってるけど」
「あぁ…で、それが?」
「ほら、この子、そこの司書さんの一人と仲良くしてるって話をしてたじゃない?それが絵里さんなのよ」
「ほーう…それが例の司書なのか。で、どんな人なんだ?」
「え?えぇっとねぇ…」
間にお母さんが割って入ってきてくれたお陰で、心を落ち着かせる時間を稼げた私は、まだ少しぎこちなさが残るものの、何とか平静を装って答えようとしたのだが、私たちを背に洗い物をしていたお母さんには、お父さんが私に質問したのが分からなかったらしく、私に代わって答えるのだった。
「可愛い人だったわよー。何というか、顔は小動物系って感じでね、でもその可愛らしさの中に、どこか清廉された綺麗さを秘めてる様な一瞬を見せてね、それが上手いこと混ざり合って良い効果を生み出していたの」
と、絵里がこの場にいたら顔を赤くしてモジモジとしそうな言葉を淀みなくツラツラ話したお母さんは、洗い物が終わったのか、トレイに私と自分の分のお茶を乗せて、私たちのいるテーブルに戻ってきた。
「それが絵里さん。…ね?」
とお母さんがお茶を私と自分の席の前に置き、そして急須からお父さんの陶器の湯呑みにお代わりを注ぎ入れながら話しかけてきたので、「はは…ま、まぁ…ね」と苦笑まじりに返す他無かった。
「あぁ、ありがとう…」とお父さんはお母さんにお礼を言ってから続けて言った。
「でもまぁ、瑠美がそう言うのなら、よっぽどの女性なのだろうな」「えぇ、本当に美人さんでしたよ。ただ…」
とここでお母さんは自分の席に着くと、ニヤッと意地悪く笑いながら、私に顔を向けつつ言った。
「折角の美人さんだというのに、髪型がねぇ」
「髪型?」
「ね?琴音?」
「え、あ、うん…まぁね」
と相変わらず苦笑のままの私はそのまま返した。
「どういう事?」
とお父さんが聞いてきたので、
「頭にね…キノコを乗せてるの」
と私は言いながら、自分の頭を触って見せた。
それを聞いたお父さんは珍しく大きなリアクションを取りながら
「キノコ…?」
とだけ呟いた。そんな私のセリフを聞いたお母さんは、少し間をおいてから、その後に「あははは!」と大きく笑い出し、口調もそれに乗っからせる様にして言った。
「『キノコを乗せてる』ねぇー。面白い表現するじゃない琴音」
「ふふ、これってね、実は裕美が絵里さんを初めて見た時に、私に言ってくれたセリフなの」
「あぁ、そっかぁ、裕美ちゃんも絵里さんの事知ってるんだもんね」「うん」
そう、裕美も絵里の事を知ってるという話は、初めの方の雑談の中で出たことだった。
「なるほどな…」
とお父さんはすぐにいつも通りの冷静な様子に戻ると、一度お茶をズズッと啜ってから言った。
「結構変わっている人らしいが、それでも琴音が好きだというのなら、悪い人ではないのだろう」
「うん」
お父さんの言い回しに何か引っ掛からなかったかと問われたらないとは言えなかったけれど、それでも少なくとも悪い印象は持たれていなかったという点でホッとしていた。
…いや、もっとホッとしていたのは、絵里という名前が出た時に、お父さんが何も引っかからなかった点だった。これは言わずもがなだろう。絵里は確かにあの後二人でマンションまで歩いていた時に、ほんの一瞬顔を合わせただけで、自己紹介すらロクにしなかったと言っていたから、それなりにそれを信用して安心していたのは事実だったけれど、それでもやはりこうして実際にお父さんの前でその様な話題になったとなると、緊張が増すのは当然の摂理だ。
だがそれも心配はいい意味で徒労に終わった様だ。何せ、絵里と私の関係についての話題はこれでお開きとなり、それからはずっと、実は絵里が自分の通っている目黒の日舞教室のお嬢さんで、しかも名取だったという話を、お母さんが延々とお父さんにしていたからだ。これには流石のお父さんも、”キノコ”とは比べものにならない程に驚いて、お父さん自身も興味深げにお母さんの話を聞いていた。お母さんが「あの清廉さは、間違いなく日舞から来てるわよね?」だとか何だとか、一々私に確認を取ってくるので、また私はずっと苦笑まじりに同意する他になかったが、そうしつつも実は私自身、絵里と出会ってからずっと、何だか話そうとしてもすぐに義一を連想してしまい、勝手にブレーキがかかって、なかなか切り出せなかったのが実情だったが、こうして家族で絵里について和気藹々と会話が出来る事に、大げさに聞こえるかも知れないが、喜びを感じていた。こうして全国大会前日の晩は、何だかんだリラックスして過ごす事が出来たのだった。
本番当日の朝。時刻は六時半少し前。
自分で思っていたよりも緊張していたのか、普段から目覚めは良い方なのだが、いつも以上に早起きをしてしまった。二度寝しようかと一瞬頭を過ぎったが、すぐにその考えを捨てて、ベッドから抜け出て大きく伸びをした。厚手のカーテンを引くと、まだ日も昇ってそんなに時間が経っていないだろうに、もう既にその日差しからは容赦の無い熱量を感じていた。
身体が気持ち硬くなっている様に感じていた私は、ただの伸びから、本格的なストレッチに移行していった。そう、京子から師匠経由に伝わった例の方法だ。予選や本選時にもしたが、確かに肉体だけではなく、心をもほぐしてくれるのに貢献してくれた。
「さてと…」と誰に言うでもなく一人ごちると、何となしに自室を出た。
出た瞬間、耳に小気味良い音が聞こえてきた。どうやら階下、一階から聞こえてきているらしい。どうやら包丁で何かを切っている音だ。もうお母さんはとっくに起きていたらしく、言うまでもないが、朝食の支度をしている様だ。階段をゆっくりと降りて行く度に、徐々に鼻腔を、かつおダシ特有の食欲をそそる香りが刺激してきた。同時に味噌の香ばしい匂いも漂っている。
居間に入ると、お母さんは割烹着を着て忙しなく、しかしあくせくと言うよりも手慣れた感じで優雅に見えるほどの手際でこなしていた。
ほんの数秒ほどその様子を眺めていたが、ワザと少し気怠げな口調で声をかけた。
「おはよー…」
「あ、おはよう。今日は早めね?」
お母さんは一度手を止めると、顔だけ後ろに振り返りつつ私に挨拶をした。
「うん…まぁね」
と私はまだ気怠げな様子を続けつつ、冷蔵庫に近寄り、中から牛乳を取り出すと、作業をしているお母さんの背後を器用に通り抜け、食器棚からコップを取り出すと、その中に今取った牛乳を流し込んだ。
「早めに起きて身体を起こしてあげた方が、本番までに調子を持って行きやすくなるからねー」
と私はその場で立ちながら、たまにお母さんの手元を見つつ、もっともらしい言葉を吐いて見せた。
「ふふ、そうなんだ」
とお母さんは手元に視線を置きつつ、何だか面白げな様子を見せつつ言った。
「まぁ…師匠の受け売りだけれどね」
と私も今度は悪戯っぽく言ってから、流し桶の中に空になったコップを入れて、それから何か言われる前に習慣として、今度はお皿なりの準備をした。
今はまだ姿が見えないが、今日はお父さんが一緒に朝食を取れるというので、三人分の支度をした。
テーブルの上に普段通りにすませたその時、ちょうど何処からかお父さんが居間に入ってきた。お父さんも寝る時は寝巻きなのだが、すでにスーツをビシッと着込んでいた。いつでも出勤できる態勢だ。
他のお医者さんがどうかは知らないが、少なくともお父さんに関して言えば、こうして自分の物である病院に出勤する時には、いつもこうして綺麗にクリーニングされたスーツをビシッと身に付けて出勤するのが普通だった。だらしない格好を見た事が、少なくとも私は今までにない。『先輩がこんなキマった格好で来るもんだから、我々としても気を抜いて普段着で行けないんだよ』と冗談交じりにボヤいていたのは、大学時代からの付き合いだという、私が受験する事になった遠因の橋本さんの弁だ。
「あ、お父さん、おはよう」
と自分の仕事が終わった私が自分の定位置に腰を下ろしつつ声を掛けると、お父さんは何故か一度私の事をジロジロと眺め回してから、これまたいつもの様に気持ち目元と口元を緩めつつ「あぁ、おはよう」と低い声で返し、そしてスタッと椅子に座った。
「…?」
私は普段の流れの中で、ほんの少し違う事があったのに気付き、思わず今度は私からお父さんをじーっと見つめてしまっていたのだが、その様子を、今度は出来上がった朝食を大皿に乗せて持ってきたお母さんが勘づき、聞くまでもなくその理由を、テーブルの上に並べつつ説明しだした。
「…ふふ、琴音、あなた今日はまだ家を出るまで時間があるでしょ?」
「え?あ、うん」
と私はお母さんが並べるのを手伝いつつ返事した。
因みにお父さんがいる時は、まず最初にお父さんから支度をするのが習わしになっていた。他の家庭が見たらどう思うか知らないが、いくら今時古風にも程があると言われようと、これが我が家での普通なのだから仕方ない。
「ふふ、お父さんたらね」
と不意にお母さんは、お父さんに目配せをしつつ、ニヤケながら言った。
「本選の時は朝早かったから、おめかしをした琴音の写真を撮れると喜んでいたのに、今日は午前にゆとりがあるからって説明したら…ふふ、お父さんったら見るからにガッカリしてたのよ」
「おいおい、お母さん?」
とお父さんにしては珍しく、若干狼狽して見せながら口を挟んだ。
「そんな事、話さないでくれよー…」
「あらあら、お父さんったら、照れちゃって」
とそんなお父さんの様子を面白がりつつ、お母さんは私の隣に座った。いつの間にか割烹着は脱いでいた。
「そうだよ、お母さん」
と私もすかさず突っ込んだ。勿論、苦笑交じりだ。
「その話…何気に私まで辱めてるじゃないの?」
「あら、そう?…もーう、親子揃って恥ずかしがり屋なんだから」
「そういう問題?」
と私が突っ込みつつ向かいのお父さんと顔を合わせると、次の瞬間にはお互いにやれやれと首を横に振りつつ呆れ笑をするのだった。
そんな様子を見て、お母さんただ一人だけが愉快げに明るく笑うのだった。
その後はまた普段通りに戻り、お父さんの合図の元、朝食を取った。食べ終えると、私は後片付けを手伝ったりしていたが、お父さんの出勤時間になると、私とお母さんは揃って玄関までお父さんを見送った。因みにというか、これは毎度というわけではない。毎度なのはお母さんのみだ。今回は何となく私も見送る事にしたのだ。ただの気分だ。
「では、行ってくるよ」
「はい、いってらっしゃい」
「いってらっしゃーい」
お母さん、私の順に声をかけると、お父さんは何も言わず一瞬微笑みを見せたかと思うと、玄関の取っ手に手をかけた。
そのまま出るのだろうと思っていたその時、中々お父さんがそのまま出ないので、少し訝しげにお父さんの背中を眺めていたのだが、ふとお父さんは一度私たちの方に振り返り、そして何だか心配げな様子を見せるとお母さんに話しかけた。
「あ…瑠美」
「え?何?何か忘れ物?」
とお母さんが返すと、お父さんは”誰かさん”みたいに、照れた時の癖、頭をぽりぽりと掻きながら言い辛そうに言った。
「いや、忘れ物…って程では無いんだが…」
「じゃあ何ですの?」
お母さんは何故かここで少し気取って見せて返した。
ここまでお父さんとお母さんのやり取りを見ていただいた方なら感じただろうが、お母さんはその時の自身の気分で、お父さんに対して丁寧語になったり、くだけて言ったりするのだった。娘の私でもまだその”法則性”は掴めずにいたが、それでも何かしらの考えがあるのは間違いなかった。…いやどうでもいい話をしてしまった。話を戻そう。
そう返されたお父さんは、チラッと今度は私に視線を流しつつ、しかし相変わらず辿々しく言った。
「ほら…今日の琴音の、そのー…」
「…あ、あぁ!ハイハイ!アレね?」
とお母さんはハッと気づいた様子を見せたかと思うと、今度は終始にやけながら言った。
「ふふ、分かってますよ。しっかり、この子の勇姿を撮ってきますから」
とお母さんは、私の背中に手を置きつつ言った。
するとお父さんは苦笑いを浮かべて「まぁ…頼んだよ」とお母さんに返すと、今度は不意に私に近寄り、私の手をおもむろに取ると、優しげな視線を向けて来ながら「じゃあな…」とだけ、短い言葉だったが感情を練り込んだような深みのある口調で言うと、私の返事を聞く事もなく、今度はサッと外に行ってしまった。しばらくして、お父さんの愛車のエンジンかかる音がしたかと思うと、その直後には音が遠のいていくのが聞こえたのだった。
…ふふ、『じゃあな…』って…お父さんらしいや。
「ふふ」
「ん?何よー?」
と、私は不意に笑みを零したのを不振がったお母さんが声を掛けてきたのを、「何でもなーい」と間延び気味に返しつつ、そそくさと居間に戻るのだった。
それからほんの数十分ばかりノンビリと過ごしたのだが、その後はまた例の如く、お母さんの命令通りに支度を始めた。
ます自室に入り、昨夜のうちに出しておいた余所行きの服に袖を通した。聞いておられる人はどう思うか…まぁどうでも良いと思っている人が大半だと思うが、一応念のために言うと、予選、そして本選の時と変わらぬ服装に落ち着いた。例の、光沢のある白いシャンタン生地の上に黒のレース生地を合わせた、大人っぽいドレスだ。本来は…特にお母さんが、折角決勝まで行ったのだから、新たにそれなりの服を用意したかった様なのだが、本選から決勝までの時間があまり無かったというのもあって、結局渋々と同じ服装に収まった。私としてはどっちでも良かったのは言うまでもない。と言っても、結局本番時に着るドレス自体は、少ない時間の中で暇を見つけて、新たに一緒に買いに行かされたのだから、お母さんも少しは妥協してくれないと困る。…って、これも当人の吐くセリフでは無いのだろうけど。
それはともかく、もう何度か…そう、予選、本選の時だけではなく、例のお父さんの社交仲間との食事会に引っ張り出された時などによく着ていたので、もう慣れたものだった。
着替え終えると、またこれも慣れたもので、お母さんにパウダールームに連れて行かれて、そこでお化粧なり髪型のセットなりをされた。
お母さんは今回に関して、髪型について一番頭を悩ませていたらしいが、今日着るドレスに合わせて、予選の時と同じ、右下辺りで結んで、髪を肩から前に垂らすだけのシンプルなものになった。
私の支度が終わると、お母さんが自分の支度をすると言うので、その間に、私は一旦自室に戻り、これまた昨晩のうちに準備をしておいた持ち物を持って居間に戻り、そこでお母さんの準備が終わるのを待った。時刻は九時半になっていた。
「いやぁー、あっつい」
外に出た瞬間思わず口から飛び出したセリフがそれだった。
上を見上げると、雲一つないまさに晴天日和だった。青がどこまでも突き抜けていってるように見える。
「本当に暑いわねぇ」
と鍵を閉めたお母さんも思わず声を漏らした。そしてその言葉のすぐ後にすかさず日傘を差すのだった。
「あなたも差しなさい」
「はーい」
と私もカバンから日傘を出して、それを差した。
お母さんが紺色ので、私のは若干桃色の入った白だった。
普段はお母さんはともかく、私は日傘など差さないのだが、今年の夏…そう、本選が終わった後、新しくドレスを買いに行くついでに、その流れでお母さんが買ってくれたのだ。私は最初遠慮していた。なんせ同年代で、日傘を差している子など見たことが無かったからだ。”お嬢様校”の生徒ですら見たことがない。しかし別にお母さんが私を困らせようと買い与えてきたわけではない事くらいは分かっていたので、今日こうして初めて外で差すのだった。
「さて、行きますか」
お母さんの言葉と共に、私たち二人は歩き出した。
今日の予定としては、まず会場が銀座にあるのだが、そこに出場者は十一時までに来るようにとの事だったので、こうしてそれなりに余裕を持って家を出た。その途中、まず本選の時と同様に、まず裕美と合流し、三人でそのまま銀座まで出る予定だった。着いたら、あらかじめ決めていた改札口で、そこで律、藤花、紫と落ち合う手筈になっていた。とここで疑問に思われる人もいるだろう。そう、師匠と、それに京子さんはどうしたのかと。本来は私の家で会う話になっていたのだが、前日に京子さんの用事に連れ回されたとかで、二人とは現地集合と相成ったのだった。
私とお母さんで軽く雑談しながら歩いていると、すぐに裕美のマンション前に近づいてきた。すでにエントランスの辺りに、見覚えのある余所行きの服装をした女の子が見えていた
私は思わず自分から”おーい”と声をかけようとしたその時、ふと裕美の横に、これまた見慣れぬ正装をした坊主頭の男の子の姿が見えた。何やら裕美と和かにおしゃべりをしている。
…まさか。
嫌な予感と共に、瞬時に分かりたくもない事の次第を察して、思わず足を止めてしまったその時、
「…あ、琴音ー!」
と裕美がこちらに顔が向いたかと思った次の瞬間、すぐさま大きく腕を振って声を掛けてきた。と、その直後、
「おー!琴音ー!」
と部活で鍛えたかなんだか知らないが、よく通る大きな声で、隣の坊主頭もこちらに向かって声を掛けてきた。
…そう、奴の為に引き延ばすことも無いだろう。察しの通り、この坊主頭の正体はヒロだった。正装はしてはしていたが、小学校の卒業式の時と同様に、着せられてる感が半端なかった。この点で、ヒロが全く成長していないという事が証明された。…まぁ、前に行った通り、背丈は抜かれてしまったけれど。
「おっせぇーじゃねぇか!」
「『おっせぇーじゃねぇか』じゃ無いわよ全く…」
と私は見るからにテンションを落として見せつつ、ため息交じりに言った。そして、さっきからニヤケっぱなしの裕美にジト目を送りつつ聞いた。
「…これって、どういう事?」
「ふふ、どういうことって…」
と裕美は、何だかしてやったり顔を私に向けてきつつ、それに伴って口元を緩めながら答えた。
「ほら…私が本選を観に行った時に話さなかったっけ?その時にヒロ君にも声をかけたって」
「…あぁ、言ってたわね」
「ふふ、その時にね、あんたには悪いけど実は一つ約束をしててさ。もし琴音が決勝にいける事になったら、その時には何とか調整して一緒に応援に行こうって。で、晴れて今日を迎えたワケよ」
「そういう事」
とヒロは無邪気な満面の笑みで合いの手を入れた。
「なぁー」「ねぇー」
ヒロと裕美は顔を向かい合わせて、仲良さげに声を上げていた。
「ごめんねー琴音」
とお母さんが口調を申し訳無さげに声を掛けてきたので顔を見ると、表情はとても悪戯っ子のような笑みを覗かせていた。
「私ね、実はこれも裕美ちゃんのお母さんから話を聞いてね、本当はあなたを動揺させまいと、予め話しておいたほうが良いって思ったんだけれど、その後にヒロ君に言ったら『アイツなら大丈夫です!』って言うもんだから」
「アンタ…」
と私はお母さんの話を聞くと、すぐさま又ヒロの方にジト目を向けた。が、先ほどよりかは呆れた感情が表に出ていただろう、自分で言うのもなんだが、表情自体は柔らかくなっていたと思う。
「まぁまぁ、そうカリカリすんなよ」
と当事者であるはずのヒロは、呑気に笑いながら言った。
「お前、裕美と何度か俺のチームの試合見に来てくれてただろ?なんつーか…俺だけ観られるってのも不公平だしよ、今度は俺の番って事で、観に行く事にしたんだ」
「不公平…って、これはあなたのセリフね?」
と私はすかさず裕美に声をかけると、裕美はただ何故か得意げに笑うのみだった。
そんな私を他所に、ヒロは今度は急に少し照れ臭そうに、しかし若干真面目成分を増しながら言った。
「まぁいいだろ?色々言ったけど、単純に観に行きてぇんだよ。そのー…ダチとして」
最後の方で、照れ隠しに頭を掻きつつ言うその姿が、そのー…自分で焼きが回ったかと思ったけど、何だか可愛らしく見えて思わず知らず微笑みが漏れてしまった。それをヒロに悟られるのが直後に恥ずかしくなって、それを誤魔化すが為に大きく溜息をつきつつ返した。
「はぁー…まぁいいわ、招待してあげるわよ。そのー…ダチとして」
言い終えた後に前屈みになり、悪戯っぽい笑みを向けると、「おう!」とヒロも満面の笑みで返した。
「これで決まりね!」
と裕美も明るい笑顔で言い放つと、私の肩に腕を回して来た。私はそれに対して、ただ笑顔で返すのみだった。
と、この一連の流れを微笑ましげに見ていたお母さんは、ふと腕時計に目を落とすと、空気を入れ替えるように”お母さん”らしい口調で言い放った。
「よし、では皆そろってしゅっぱーつ」
それから四人で地元の最寄り駅に向かうと、私たちにとって馴染み深い駅前の時計台の下に、これまたキメに決めた良く知る女性が佇んで立っていた。時折側を通る男性が振り返り見てるのが見える。
と、その女性は時折手首の腕時計に目を落としていたが、私がパッと腕を上げて手を振ると、視界に入っていたのか、その女性はこちらに顔を向けると途端に笑顔になって、同様に大きく振り返してきた。…ここまで引っ張る事も無かっただろうが、予想通り、そう、絵里だった。
「あ、琴音ちゃーん!おっそーい!」
「ふふ、ゴメンねー」
と、私は思わず駆け寄ってから声をかけた。
絵里はまず私の格好を執拗に何度も品定めをするかの様に見た後、途端にニヤケ面を大いに作って口を開いた。
「いやぁー…今までも可愛い格好を見てきてたけど、今日はまた格別ねぇ」
「もーう、大袈裟なんだから…。まぁ褒めてくれてるみたいだから、お礼は言っておくよ」
「あら、生意気ー」
と絵里はいつもの様に私のホッペを触ってきそうになったが、すんでの所で手を止めた。どうやら今日はお化粧をしているというのが分かったせいらしい。絵里は絵里なりに気を使ったのだろう。
私はそれに対しては特に触れず、
「何せ見ての通り、ちょっとしたサプライズがあったものだから」
と後ろを振り返りつつ言うと、「サプライズ?」と絵里は口に漏らしつつ、私の視線の先に目を向けた。
そこには数メートル離れた所で立ち止まる、裕美とヒロが突っ立っていた。顔には驚きの表情が出ていた。お母さんは当然(?)の様に笑顔でいる。
「絵里さん、おはよー…って」
裕美たちがまだ動かないでいる時、お母さんも私達のそばに近付いてきた。そして絵里の姿を上から下まで舐め回す様に見ると、明るい笑みを零しつつ言った。
「あらー、とても良いお召し物をしてるじゃない?流石ね!」
今日の絵里は、私も見た事のないお召し物をしていた。生地をふんだんに使った、動きに合わせてサラリと揺れるシフォンがとても可愛らしい、濃い紺色のパーティーワンピースだった。一色だったのでシンプルといえばシンプルだが、二つか三つばかりのパールのネックレスをしているせいか、地味すぎず、また華やか過ぎずという絶妙なバランスを生み出していた。袖は丁度二の腕が隠れるほどの長さで、結構ゆったり目のワンピースだった。
「え、あ、いやぁ…」
と絵里は自分の服に目を落としつつ照れ臭そうに返していたが、今度はお母さんの服装をお返しとばかりに褒めていた。
とその時、トントンと肩を叩かれたので振り返ると、そこには薄目で私を睨んでいる裕美の顔があった。
「ん?どうしたの?」
と私がニヤケながら惚けて見せると、裕美はその表情のまま恨めがましげに言った。
「…ちょっとー、絵里さんも来るだなんて聞いてなかったんだけれど?」
「ふふ、驚いたでしょ?これでおあいこよ」
と、一人手持ち無沙汰になっていたヒロの方に視線を流しつつ言うと、「もーう…」と裕美もヒロの方を見つつため息交じりに返した。
と、ここで裕美はまた私に一度視線を戻すと、今度はお母さんと談笑をしている絵里の方に視線を移した。
「…ところでさ、いつの間にアンタの母さんと絵里さんが知り合いになってたの?」
「あ、それはねー…」
と私が返事をしようとしたその時、
「あら、裕美ちゃーん!」
と不意に絵里が裕美に声をかけてきた。
その声に反応して二人してそっちの方を見ると、絵里がこちらに明るい笑顔を向けていた。その隣で、意外だと言いたげに、お母さんは絵里と裕美の顔を交互に見ていた。
「あらー、今日はまた普段と違った可愛い格好をしてるじゃない?」
「う、うん。ひ、久しぶり」
とまだ動揺が引かない裕美は辿々しく答えた。
「ふふ、驚いたでしょ?」
「そりゃ驚くよー」
なんてやり取りを繰り返していたが、徐々に普段の二人に戻っていった。
その様子を笑顔で見ていたが、
「あら、ヒロ君?」
とお母さんはふと、少し離れた所に立っていたヒロに声をかけた。
「ほら、そんな所に立ってないで、こっちに来たら?」
「は、はい…」
とヒロはおずおずとこちらに歩いて来た。
その姿をお母さんは和かに見ていたが、今度は絵里が目を真ん丸に見開き驚いていた。次の瞬間には私にそのまま視線を移して来た。何か言いたげだったが、私は苦笑をする他に無かった。
「ほらヒロ君、今日ご一緒してくれる一人の…」
とお母さんが手を絵里に向けたその時、
「…ひ、久しぶり…で良いのかな?」
と絵里が苦笑交じりに割り込んで言った。
絵里の言葉にまた軽く驚いた表情をお母さんは浮かべていたが、それを他所に「お、お久しぶりです」とヒロも、流石に意外だったのかバツが悪そうに返していた。
「どうなってるの?これは…」
とお母さんは一人狸にでも化かされたと言いたげな表情でいたから、仕方なしと私が皆の代わりに答えた。
「まぁ…これもお母さんに言ってなかったけど、実はヒロも絵里さんの事は知ってるの。…あ、いや、ヒロはこれでまだ二度目かな?」
と私が振ると、少し考えて見せたが「おう」と、裕美ほどの衝撃はなんだかんだ言ってなかったらしく、平静のまま答えた。
「あらま…」
とそれを聞いたお母さんは、一瞬訝しげな表情を見せたが、すぐに苦笑を浮かべると「世間は狭いわねぇ」とつぶやく様に言った。それに対して、私と絵里は顔を見合わせつつ、同じ様に苦笑いをするのみだった。
…これが普段だったら、もしかしたら根掘り葉掘り聞かれてたかも知れない。それだとちょっと危なかったと、内心冷や汗をかいていたのは本当だ。実は今日の事について、予め絵里と軽く打ち合わせはしていた。何についてかというと、『何で裕美ちゃんと絵里さんが知り合いなの?』と聞かれた時の対処についてだ。予定では、今さっき言った様な事から初めて、それで済まなかったとしたら、軽くあの去年の花火大会の事について触れる予定だった。あの時も家を出る時に、『友達と見に行ってくるね』と言っただけだったから、そこには裕美以外の友達が来る余地が生まれていたので、後からその場に絵里がいたと分かったとしても、お母さんが深くアレコレ細かく聞いてくる心配は無いと、我が母ながら分かっていたのだ。最悪、絵里の家で見たというのも、大きな嘘をつく上では、小さな嘘がバレても仕方ないと判断していた。それがまさか、ヒロというイレギュラーがあるとは考えても見なかったので、それで少し…いや、もしかしたら大きく予定は狂ったのだが、結果としてみると、今の所はさざ波程度で済んだ様だ。
それからは、ある種絵里が色々と察して空気を読んで、お母さんの詮索が裕美とヒロに及ばない様にするためか、進んでお母さんと二人っきりになっていた。その姿をチラチラ見つつ、絵里が同行する件について色々と裕美とヒロから質問攻めにあっていたのだが、その間、心の中は絵里への感謝の気持ちで一杯だった。同時に当然として、大きな罪悪感を覚えていた。
考えてみたら、ある意味ここまで危ない橋を渡るのは、義一との再会以来初めてだった。例の、たまに私の胸に存在感を表し、ズンと物理的に息苦しくなるほどに重さを増してくる”ナニカ”とはまた別種の、胸がキュッと締め付けられる様な感覚に陥っていた。
挨拶もし終えると、それから一人加わった五人は駅構内に向かい一路線しかない電車に乗ると、約三十分ばかり揺られていた。…いや、平日とはいえ、もう朝ラッシュはとうに終わっていたので、片方には絵里とお母さん、もう片方には裕美、私、ヒロといったフォーメーションで仲良く横並びに座って行けた。
車中はずっと私たち子供三人で近況報告をし合っていた。久しぶりと言うほどでもなかったが、当然学校が違うので、しょっちゅう会うということは無くなっていたので、何となく久々感があり、それで結構話し込んでしまっていると、気づけば銀座に到着していた。
ホームに降り、会場に一番近い方の改札に向かうと、流石に都心というせいか、正午でもないというのに人でごった返していたが、それでも改札の向こうで、これまた他所行きの服に身を包んだ一群の少女たちの姿が見えた。すぐに誰だか分かった。そう、律たちだった。
向こうでも私たちに気づいてあからさまにハッとした表情をこちらに向けて来ていたが、軽く笑みを向けてから、周りの人の流れの邪魔にならないように、まずはスムーズに改札を出る事に注意した。
まず私が改札外に出ると、まず紫が駆け寄って来た。顔はすでにニヤケ面だ。視界の端で、後を追うように藤花と律が近寄ってくるのが見えた。
「おっそーい!少し遅れてるじゃないの」
紫はジト目気味に時折手首に目を落としつつ言った。実際にはしてなかったが、腕時計を見ている体らしい。
「いくらお姫様だからって、遅刻は許されないんだからねぇー」
「姫はやめてってばー。…ふふ、ごめんごめん、ちょっとした”イレギュラー”があってね」
と私は苦笑しつつ、本物の(?)自分の腕時計に目を落としながら言った。
「イレギュラー?」
と紫は訝しげに声を漏らしたが、その直後には藤花と律がすぐそばまで来ていたので、二人にも挨拶をした。二人が来たタイミングで裕美も加わり、私と同じく挨拶を交わした後、それぞれお互いに服装を褒めあったのだった。
一応というか何というか、折角のお洒落を皆して着て来たのだから、紹介してあげようと思う。
まず裕美から。裕美は本選を観に来た時のと同じ格好だった。ハリのある生地で、光の当たり具合によっては濃いブルーにも見えるような光沢の美しいネイビーのドレスだ。腕にはこれまた前回と同様の純白のミニバッグを下げていて、ショートボブの髪もアップに纏めていた。
お次は先に駆け寄って来た紫。黒地に小さな薔薇がたくさん散りばめられた様なワンピースだった。袖部分は裏地がついておらず肌が透けて見えて、今日の様な真夏日にはもってこいといった感じだった。この面子の中では一番良い意味で普通の女学生な紫は、普段から裕美と同じくオシャレに気を使っていたのだが、こうしたフォーマルな格好を見るのは初めてだった。それがとても新鮮で、さっきもチラッと紹介した様にシンプルではあるのだが、お世辞じゃなくよく似合っていた。 紫は元々若干の天然パーマ気味のボブヘアーなのだが、それには手を付けず普段通りにしていた。外に毛先が跳ねている髪型なのだが、それが今着ているワンピースにも合っていた。
次に藤花。藤花はこれまた自分の見た目がよく分かっているなといった服装だった。第一印象は、私が好きな昔の映画に出てくるお嬢様が着ていそうな、クラシカルな装いだった。紫と同じ様に黒地のワンピースではあったが、柄モノではなかった。胸元にはドットチュールの上にコットンレースが施されていて、その周りをフリル状にしたレースで縁取っていた。パフスリーブの袖口にもレースがあしらわれていて、藤花の背の低めな見た目からくる、キャラ通りの愛らしさとマッチしていた。背中には幅広のリボンが存在感を示していた。似合っているかどうかをここまで話した上で言うのは無粋だろう。髪の長さは私と同じ程なのだが、普段は単純に低い位置で纏めてるだけなのが、今日は高めの位置で纏めていて、簡単に言えばポニーテールにしていた。
最後に律。律もこれまたまさに見た目のキャラ通りの格好だった。上はゆったり目のノースリーブシャツに、下もこれまたゆったり目のサロペット、上下共に黒一色に纏められた、紫以上にシンプルな物だった。前にも触れた様に、律は実際の中身はこのグループの誰よりもガーリーな趣味を持っているのだが、それでも格好については冷静に自分の見た目のバランスを考えて、大人っぽい服装を普段からしていた。とはいえ、胸元にはアクセントとして白パール二連のネックレスをして、後ライトベージュの総レース袖付きストールを羽織っていた。髪型はベリーショートなので、そのままにしている感じだ。
…とまぁ、皆元から持っていたのか、それともわざわざ今回の為に短い期間の間で繕ったのか知らないが、繰り返しになるがそれぞれがよく似合っていた。
とふと簡単に挨拶し、軽くおしゃべりしていると、ふと他の人たちのことが頭を過ぎった。他人行儀な言い回しで恐縮だが、お母さんとヒロ、そして絵里だった。
ふと視線をズラすと、お母さんと絵里は先程から微笑ましげに私たちの事を見ていたが、ヒロの姿が見えなかった。どこに行ったのかと周りを見渡すと、ヒロは一つ離れた柱の下でコチラにつまらなさげな視線を送って来ていた。
「あ、こんにちわー」
とその時、会話にひと段落がついた紫たちは、まずお母さんに挨拶をした。文化祭以来、お母さんと紫たちは面識があったのだ。
「今日はよろしくお願いします」
と三人は声を揃える様にして言うと、「よろしくねー」とお母さんも明るい笑顔で返していた。
「お母さんからも、よろしくとの事でした」
の様な事をまた三者三様に言うと、「はいはい、任されましたよ」と、お母さんはまた同様な調子で返していた。
裕美含むお母さん方とは既に話が通っているらしく、それの確認だった。
「あ、そうそう!」
とここで急に裕美は絵里の元に駆け寄ると、有無を言わさず律たちの前に引っ張って来た。私と絵里含めて、皆して何事かと裕美を見ていると、裕美は絵里の手を離し笑顔で言い放った。
「みんな、紹介するね?この人が、いつも私が話している絵里さんだよ」
「え?」
と絵里がキョトン顔で声を漏らしたその時、私以外のみんなが一斉に絵里の周りに群がった。
「へぇー、この人が」なんて事を各々が口々にしていた。
と、絵里が何もリアクションを取らないのに気づいたみんなは、ジロジロと見すぎたのを反省してか、一歩づつ絵里から離れると、少しバツが悪そうにまず紫が頭を軽く下げてから口を開いた。
「あ、あぁ、すみません。いつも裕美や琴音から話を聞いていたものですから、何だか初めてお会いする気がしなくて…」
と紫がとても”いい感じ”なセリフを吐くと、「ウンウン」と藤花がすぐさま合いの手を入れた。律は黙っていたが、ウンウンと頷くのは同じだった。
「あら、そうだったの?」
と絵里はもう既にいつもの調子に戻って、普段図書館で児童を相手にする様な様子で応えていた。
それからは皆がリラックスした状態で各々お互いに自己紹介をし合っていた。絵里が「こんな私みたいなのがお邪魔してゴメンね?」だなどと言うと、藤花たちは一斉に首を振ってフォローを入れていた。そもそも裕美がチラッと言ったが、普段から確かに絵里についてよく話しており、その流れで当然絵里が自分たちの通う学園のOBだというのも既に知っていた。
話の流れでひょんなとこからそんな話になると、益々絵里は砕けた調子になり、”学園あるある”で盛り上がっていた。
絵里を含めたそんな集団を、また和かに眺めていたお母さんだったが、チラッと時計を確認すると口を開いた。
「さてと、そろそろじゃあ行きますか!…って、ほらヒロ君、そんな所にいないで、一緒に行きましょう?」
とお母さんが声を発すると、他の私たち全員が少し離れた所にいたヒロに顔を向けた。
「はいはい…」
とヒロは何だか照れ臭いのか何なのか、坊主頭を掻きつつこちらに近寄って来た。そしてこれまた何故か私の右隣に陣取り、立ち位置からすれば一番端に控えめに立っていた。
何なのこいつは…?
と普段のヒロとキャラが違うのに違和感を覚えつつ周りを見渡すと、何と裕美を除く他のみんなはヒロの事を、恐る恐る、しかし興味が尽きないといった様子で、直接じっと見ると言うよりかは、チラチラと盗み見ているといった感じだった。
…?
これはどういう事だろうと一人頭を傾げていたが、そんな私たちの様子を他所に、お母さんはズイズイと歩き始めてしまったので、私たちも慌てて後を追った。
人でごった返す地下道を、お母さん一人を先頭に二列に並んで歩いて行った。お母さんの真後ろには私とヒロ、その後ろに裕美と絵里、そしてそのまた後ろを律たちが歩くといった調子だ。歩きながらまだ裕美たちは話に夢中になっていた。
「ヒロ、今日はどうかしたの?」
と私がジト目を送りつつヒロに声をかけた。
するとヒロは顔を進行方向に向けつつ、時折視線を背後に向かわせながら、何だか煮え切らない感じで返した。
「お、俺?…いや?いつも通りだろ?」
「そう…?」
と私は訝しげつつ、ヒロが後ろに視線を向けたので、改めて私も後ろの裕美たちに顔を向けた。
視線があった裕美はこちらに笑顔を見せていたが、藤花たちは依然として何だか戸惑った様な表情を見せていた。
と、私が不思議そうな顔つきでいるのでそこから察したか、裕美が私にも聞こえる様にか口調をハッキリと口を開いた。
「どうしたのよみんなー?何だかテンション低いよ?別に今日は琴音の大会であって、みんながそこまで緊張する必要ないじゃない?」 裕美の”大会”というフレーズから、何だか体育会系の匂いを感じ、思わず私は笑みを零しつつ、裕美のその話に乗っかることにした。
「そうだよみんな。当人の私よりも、みんながそこまで緊張する必要ないじゃない?それともアレ?普段着ない服装だから、それで固くなってるの?」
と後ろ向きで歩きつつそう言うと、「いやぁー」と他の三人は顔を見合わせてそう呟いた。
が、ここでふと紫が、「だってぇ…」と苦笑いを浮かべつつ言った。「…他にも誰か来るなんて聞いてなかったからさぁ」
「そうそう」
「うん」
と紫に続く様に、矢継ぎ早に藤花と律も口を開いた。その視線は裕美にというよりも、ヒロの背後に行っていた。ヒロは後ろを振り返らなかったが、ちゃんとこの会話は聞こえているだろう。
「絵里さん…で良いんでしたっけ?」
と紫が絵里に遠慮がちに声をかけると
「モチのロンよ!」
と、当時小学五年生だった私に対してと同じ調子で返していた。
その反応に若干苦笑気味に、しかし面白そうに紫は続けた。
「絵里さん…は、まぁ裕美から色々聞いてるし…ね?」
と紫は隣を歩く藤花に話を振った。
「…え?あ、う、うん、まぁ…ね?」
と藤花も何だか煮え切らない調子だ。
「絵里さんはまぁアレなんだけど…」
「アレって何よー?」
と絵里はおどけて見せている。とその時、
「まぁ…さ」
と律があからさまにヒロの背中を直視しつつ口を開いた。
「皆驚いているんだよ。そのー…同年代の男の子が急に現れた事について」
「え?」
と私は思わず声を漏らした。この言葉に反応してか、ヒロも若干顔を横に向けていた…が、元々このような膠着状態に我慢出来るようなタチでは無いので、我慢出来ないといった調子で勢いよく後ろを振り返った。
その瞬間、紫たち三人は見るからにビクッとして見せた。
そのまた後間が空いたが、ヒロが頭をポリポリと掻きつつ照れ臭そうに口を開いた。
「いやぁー…なんかスマンネ?女ばかりの所に、俺みたいな男が急に入り込んできて。っつーかよぉ」
とここでヒロは裕美にジト目を向けつつ言った。
「何で俺も観戦に行く事を、この人らに内緒にしてたんだよ?」
「だってぇー」
と裕美はおどけて見せていた。反省の色なしだ。私はというと、ヒロの言った”観戦”というワードが何故かツボに入り、一人クスクスと笑っていた。
「『だってぇー』じゃねぇよ、全く…」
とヒロが裕美の声色を真似して言ったその時、
「そうよ裕美ー」
と紫もジト目を裕美に向けつつ言った。
「さっき律が言ったけれど、事前に何も言われないままに、急に男子が現れたら、元々共学出身の私でも驚くわ」
「うん、ホント、ホント」
と藤花も加勢に入った。が、藤花はジト目というよりも苦笑いだった。
「私も今日まで知らなかったけれど…」
とついでとばかりに私も話に入った。
「まさか他のみんなにも内緒にしてるとは思わなかったわ」
と呆れ気味に言うと、当の裕美は何も悪びれる気配を見せないままに笑顔で言った。
「まぁまぁみんな、中々みんなでこんな風にお洒落する機会なんて無いんだからさ、女子校に通う私らだけど、男っ気が合ったほうが色気があるでしょ?」
「色気って…」
と他の三人は三様に苦笑いを浮かべていたが、
「男って…こいつの事?」
と私はヒロのことを薄目で見つつ言った。
「うーん…男は男だけれど…」
「な、何だよ?」
私が屈めて下から顔を見上げるように見たので、ヒロは少したじろぎつつ声を漏らした。
と、私は体勢を元に戻すと、裕美にため息交じりに話しかけた。
「裕美…コヤツじゃその期待には添えないよ。男は男だけれど、色気要員にはどう見ても役不足だからさ」
「な、何だよー」
とヒロがあからさまに、いつものといった調子で拗ねて見せると、少し間が空いた後で、誰からともなくクスクスと皆して笑い出した。
「ちょっと琴音ー、それは失礼なんじゃなーい?」
「琴音、言い過ぎ」
「…ふふ」
藤花、紫、律はそう私に非難めいた言葉を投げかけてきたが、顔の表情や口調はとても愉快げだった。
ヒロは一瞬きょとんとしていたが、場の雰囲気が和んだのに気づくと、やれやれといった様子で笑うのだった。
「はぁーあ、ほらヒロ君」
と笑いの収まった裕美がヒロに話しかけた。
「そろそろ自分の正体を、私と琴音の学園での友達たちに自己紹介をしてあげて?」
「お、おう」
「ヒロに自己紹介なんて出来るの?」
と私がまた軽口で茶々を入れると、また藤花たちはクスッと笑みを零した。
「もうそれは良いんだよー…ったく」
とヒロは私にうんざりして見せてから、改めて自己紹介をした。
それからは、私たちの配列も入れ替わり、お母さんが先頭なのは同じだったが、その後ろに私と絵里が、その後ろを裕美とヒロに変化した。
案の定というか何というか、矢継ぎ早に堰を切ったように、私と裕美とヒロの関係について質問が飛び交っていた。
…流れでだったが、私は絵里の隣になって良かった。何せ他の三人の勢いといったら、とてつもない熱気だったからだ。自業自得とはいえ、裕美は三人の質問に答えるのにてんやわんやになっていた。まぁ仕方の無いことだ。私はその様子を、ただニヤニヤしながら眺めているのみだった。
途中からヒロが野球部に所属している事が知れると、今度は律がヒロに強烈に興味を示し出していた。しかもだいぶ前に話しで触れたが、律とヒロの二人に運動系ってだけでは無い共通点があったのも大きいのだと思う。それは、学校のクラブだけではなく、地元の元々小さい時から所属している地域のクラブにも所属していて、それを今だに継続しているという点だ。律の勢いに最初は押され気味のヒロだったが、途中からエンジンが掛かったか、”運動バカモード”の律と対等に渡り合っていた。その間は裕美と紫と藤花は顔を見合わせて苦笑して見てるだけだった。もう色気どうこうの話では無くなった。
とまぁ何やかんやあって、地下道を歩いて行く中で皆が何だかんだ打ち解けたその頃、数多くある地上連絡口の一つから漸く地上に出た。十分も歩いてなかったはずだったが、内容が内容なだけに、もっと長く歩いた気になっていた。
地上は相変わらず”無駄に”張り切ってる太陽の光が降り注いでいて、気のせいかも知れないが、アスファルトの焼ける匂いがする気がした。
お母さんに促されて日傘を差すと、まず裕美たちにからかわれた。「流石お姫様は違う」といった類のものだ。私は勿論すかさず「誰が姫じゃ」とツッコミ返した。
「何お前、学校でお姫様やってんの?」
とヒロが思いっきり引いて見せつつ言うので、
「んなわけないでしょ…?」
とツッコミ疲れた私は力無げに答えた。
だいたい予想がつくだろうが、その直後には裕美が「そうだよー」なんて言葉を発したのを最初に、すっかり打ち解けた調子で、紫たちが”無いこと無いこと”をヒロに吹き込んでいた。「はぁ…」やれやれと一人首を振る私の姿を含めて、お母さんと絵里は時折顔を見合わせつつ笑いあっていた。
ついでにというか、後でどうでも良いことを聞かされたので、それを何となしに付け加えると、地元にいる時点でも私は日傘を差していたのだが、その時は裕美もヒロも、私を驚かすのに頭を持って行かれていて、その姿をからかう余裕が無かったらしい。因みに絵里もそんな事だったようだ。
…本当にどうでも良い事だった。話を戻そう。
何のフォローか知らないが、散々からかっていた後に、それぞれがそれぞれの言い方で、私のそんな姿を頻りに褒め出してきたので、それにもウンザリしつつやり過ごしていると、ようやく決勝の会場前に辿り着いた。
そこは日本を代表する楽器メーカーの名前を冠したビルディングだった。中央通りに面して、銀座と新橋のほぼ中間地点に位置していた。前の建物が老朽化により一時閉館、つい数年前にリニューアルオープンしたらしいが、それだけあって確かに建物の外観も近代的だった。何と表現すれば良いのか、実際にはガラスなのだが多様な色合いのタイルが、これでもかとばかりに外壁に敷き詰められているといった様相だった。私が見た第一印象は、ロマン派以降の幾何学的な模様を屈指した近代絵画のソレだった。
ビルの外でも同じだったが、内部に足を踏み入れると、その密集具合は比べ物にならなかった。私と同じように、余所行きの服装に身を包んだ同年代の男女で既にひしめき合い、実際の今いる一階のホールは、まるで何処かの一流どころのホテルのロビーと見間違うほどに絢爛としていただろうが、人が多すぎて何が何だかよく分からないというのが実情だった。そんな中ふと時計を見ると、まだ会場が開くまで二十分ばかり時間があった。
その異様な雰囲気を私含めた全員が、その熱気を前に固まって一度足を止めて眺めていると、
「おーい、琴音ちゃーん!こっちこっち!」と声をかけてくる女性の声がした。
あまりに人が多いので、すぐにはその主を見つけることが出来なかったが、ツバの大きな麦わら帽子を被る、若干背の高めの女性二人組が見えた。この時見えていたのは頭だけだったが、片や黒と白のシンプルな、片や紫にピンクの大きなリボンの付いた派手めなのだったが、ツバ広の麦わら帽子という点では共通していた。また二人とも室内だというのに、顔の半分を覆うほどのサングラスをしている。
…とまぁ今見えてる分だけ描写してみたが、すぐにこの二人が誰だか分かっていた。
「あ、師匠ー!」
と私は姿を見つけた瞬間二人目掛けて駆け出していた。
そしてすぐ近くに寄ると、派手めな帽子の方の女性にも声をかけた。
「京子さんも、こんにちわ」
「うん、こんにちわ」
とサングラス越しだからよく見えなかったが、優しげな視線を送って来てくれてるのは感じた。
「ちょっと…」
とここでシンプルな黒の麦わら帽子をした師匠が、周りをキョロキョロ伺いつつ、少しうんざりげに京子に声をかけた。
「こんな人通りの多い前で声を上げないでよぉ…。前にも、ついさっきも言ったでしょ? 表に出てない私ですら顔がバレちゃってめんどくさいのに、あなたなんか現役なんだから、もう少し控えめにしてもらわないと…」
「あらー?」
とそんな師匠とは対照的に、京子は堂々と周囲を見渡しつつ明るく返した。
「私は全然構わないわよ?元々目立つのは好きな方だし。…バレて困るのは沙恵、あなただけでしょー?」
と口元をニヤケつつそう言うと、師匠はサングラスをしてても参った様子を見せていた。タジタジだ。お母さん以外の人相手にタジタジになっているのを見るのは初めてだったので、意地悪な言い方だが新鮮で面白かった。
因みにというか、お二人の格好について軽く触れようと思う。
…とは言っても、実質紹介するのは京子だけになるのだけど。何故なら、師匠は結局予選、本選の時と全く同じ格好だったからだ。黒の、上下がひと続きの所謂オールインワンタイプのパンツドレスのアレだ。流石に今日は気温が高めというので、アイボリーカラーの八分袖ボレロジャケットは羽織っていなかった。だからノースリーブからは色白の腕が丸出しになっていた。メイクも前回と同様に普段通りのナチュラルメイクをしたが、今回は帽子をしていたせいか、クラシカルロングの髪を束ねる事なく、軽く低い位置で纏めているのみにしていた。京子も帽子の下から、緩やかなパーマ質の髪が艶っぽく流れ出ていた。京子はフレアデザインのゆったり目の黒ワンピースだった。下はノースリーブらしいが、その上からライトベージュの七分袖のボレロを羽織っていた。見た瞬間に思ったのは、よく似合っているなというのと同時に、絵里と若干被っているなという点だった。
私たち三人が軽く挨拶をしていると、少し遅れて「沙恵さーん」とこちらに声を掛けてきつつお母さんたちが近づいてきた。
「あら、京子さん!お久しぶりねー!」
「あはは、瑠美さんも相変わらずで!」
お母さんと京子は、言い方が悪いが年甲斐も無く女学生のようにキャッキャ言いながらじゃれ合っていた。直接は聞かなかったが、その様子から、京子が海外住みというのもあって仲が良くても中々会えてなかった様子がうかがえた。
と少しばかり手持ち無沙汰になった私は、ふと裕美たちの方に顔を向けると、向こうでも私と同じで、どう見知らぬ大人たちに接したら良いのか困惑している様子を見せていた。絵里やヒロですらそうだ。
と、大人の直感が働いたか、私と同様に少し暇になっていた師匠はふと裕美たちに視線を移すと、一瞬ギョッとした表情を浮かべたが、すぐに笑顔を見せつつ自分から近寄って行った。
「皆さんが琴音のお友達の皆さんね?…随分初めに聞いていた人数と、老若男女の比率が違っているけれど?」
「あはは…」
実は私もこれは想定外です…と返そうと思ったが、何と無く押し留めた。
そんな反応を示す私を置いといて、師匠は改めてヒロと絵里を含めてぐるっと見渡してから明るく声を発した。
「一、二、三…へぇー、六人もいるじゃない?四人って聞いてたけれど…お久しぶり、裕美ちゃん」
「琴音の師匠さん、お久しぶりです」
と声を掛けられた裕美は明るく笑顔で返事をした。
「今日はよろしくお願いします」
「ふふ、こちらこそ。で…あ、藤花ちゃんと…りっちゃんだよね?」と今度は藤花と律に声を掛けた。
藤花は何故か一瞬自分の胸元に目を落としてから、裕美と同種の笑みを浮かべて「はい!」と明るく返事をした。
「いつも教会に足を運んで下さって、ありがとうございます」
と藤花が軽く頭を下げると、師匠は何だか照れ臭そうにしつつ「いやいや…」と返した。
「教会にっていうか…あなたの歌を聴きに行ってるだけだから、不敬にも程があるんだけれど…」
「あはは!」
と藤花が笑うその側で、律が何も言わずにただ頭を下げた。そして頭をあげたが、その無表情に見える顔からは穏やかな笑みが見え隠れしていた。律とも何度か面識のあった師匠は、それに対して何も言わずに、同様の笑みを浮かべて「りっちゃんも、今日はよろしくね?」と話しかけていた。因みにこの”りっちゃん”は、師匠のオリジナルな呼び名だった。律もそう呼ばれて満更でもないらしい。のちに聞くと、律の小学生時代の呼び名だったようだ。だが中学生…いや、小学校高学年の時点で、背の事も含めて周囲と比べて大人びた雰囲気を身に纏い出した律に対して、気軽に”りっちゃん”と呼ぶ人が減っていったらしい。下の名前を呼び捨てにするのが、藤花を含めてデフォになっていた。それがこうして懐かしい呼び方をされて、繰り返しになるが本人も嬉しかったようだ。
「この人が、あなた達が話していた、見た事のある琴音の師匠さんなのね?って、あ…」
と紫が、恐らく頭に浮かんだままを口に出したのだろう、言い終えてしまった後すぐに自分で言うべき言葉では無かったと反省をして、「すみません…」と師匠に謝って見せていたが、顔を上げた紫に向って、師匠は首をゆっくりと横に振り、そして暗い雰囲気を払拭するが如く底抜けに明るい声を上げた。
「あははは!良く気の使える子だねぇー。良いの、良いの、別に構わないよー。あなたにはまだ自己紹介がまだだったよね?コホン、私は琴音の師匠をしています、君塚沙恵っていいます。師弟共々よろしくね?」
と最後に満面の笑みを浮かべると、言われた紫も緊張がほぐれたか、笑みを浮かべて自己紹介をしていた。
「あ、そうそう」
と私は絵里とヒロの手を取って、師匠の前に連れ出した。
「おいおい」「ちょっとー」
とヒロと絵里は苦笑まじりに声を上げていたが、私はワザとガン無視をした。
「師匠、今ままで何気なく話に出していた友達を紹介しますね。彼女が司書の絵里さんで、コヤツが腐れ縁のヒロです」
「コヤツって何だよー…あ、こんちわ」
と初めの方は私に薄目を向けて来ていたが、師匠と目が合うと、ペコっと視線を合わせたままお辞儀をしつつ挨拶をした。
すると師匠は顎に指を当てつつ少しだけ考えて見せていたが、ふと何か思い出したようにハッとなり、何故か意味深にニヤケつつ声を掛けた。
「…あぁー、ヒロ君ね?小学生の頃からあなたの話を、よく聞いてたよ」
「よ、よくですか?」
「…師匠ー?」
ヒロが何故か戸惑いげに声を漏らしていたが、私はというと、そんなヒロの様子には構わずに、ジト目を向けつつ師匠に言った。
「よくって…そんなしょっちゅうは話に出した事無いじゃないですか?」
「あら、そうだったっけ?」
ふふふと愉快そうに笑みを零していたが、ふと絵里に視線を移すと、今度は大人向けの穏やかな笑みを浮かべつつ声を掛けた。
「で、えぇっと…絵里さん、でしたよね?」
「え?あ、はい、そうです」
と絵里の方は笑顔を作ってはいたが、何処かぎこちなかった。
師匠はその様子を微笑ましげに見ると、今度は私に視線を向けてきつつ言った。
「絵里さん…って、気安く呼ぶのもどうかと思うんですけれど、あなたについて”も”、普段からよく話を聞いていたし、その度に”絵里さん、絵里さん”だなんてこの子が言うものだから、名字も知らずにそう言わざるを得ないんだけれども」
「”も”って何ですか?」
と私が虚しいツッコミをしている間、そんな師匠の言い訳(?)じみた話を聞いた絵里は、一瞬呆気にとられていたが、その次の瞬間には「ふふ」と明るい普段の笑みを吹き出すように漏らすと、予想通りというか何というか、絵里は急に私の背後を取り、そして両肩に手を乗せてくると意地悪げな口調で声を掛けてきた。
「琴音ちゃーん?そんな前から私の話をしてくれてたのー?」
「…ほら師匠ー?」
と私は私でされるがまま、また師匠に非難めいた薄目を向けつつ言った。
「言ったじゃないですかー?この人は、こんな風な過剰スキンシップキノコなんですよ」
「…ぷっ」
と私の声が聞こえたのか、藤花達とおしゃべりしていた裕美が吹き出す声が聞こえた。
「そんな事言ってたのー?」
と絵里は今度は目を細めて私に非難の意思を伝えてきたが、相変わらず口元はにやけたままだった。
師匠は師匠で、まだサングラスをしたままだったから断定は出来なかったが、視線はおそらく絵里の頭のキノコに向いていただろう、それからその後でクスッと小さく笑った。
が、その後、申し訳なさげにえりに話しかけた。
「…あ、ごめんなさいね?何せ、琴音から聞いた通りの、イメージ通りの女性だったものだから」
「ふふ、今の琴音ちゃんの反応を見るに、良いイメージでは無さそうですけれど」
と絵里もすっかり初対面の人に対しての緊張がほぐれたのか、軽くニヤケつつ師匠に返していた。
師匠は師匠で「いやいや、そんな事無いですよ」と笑顔を湛えつつ和かに絵里に返していた
そのままの笑顔で返した。
とその時、絵里はハッとして見せると、今度は屈託の無い笑顔を見せつつ師匠に言った。
「あ、そうだ。まだ私たち自己紹介をしてませんでしたね?私は山瀬絵里。区立図書館で司書をしています」
「あぁ、あそこの」
と師匠は知っているという意思表示を示してから、軽く佇まいを正して自己紹介をしていた。二人は私が普段から話していたせいだが、何も言わずとも歳が二つ違いでしか無いというのを知っていたので、これからはお互いにタメ口で、下の名前で呼び合うのが決められた。と、その時、
「沙恵ー?何一人で勝手に友達作ってんのよー?私にも紹介して?」と京子がいつのまにか師匠の背後に立っており、肩越しに絵里を見つつ言った。
…ここは端折ろうと思う。何せまた同じ事の繰り返しだったからだ。絵里は京子とも師匠と同じような約束事を作って、それから軽く私の目の前で私の話を三人でしだしたので、一足早くその場から抜け出し、裕美達の中に入っていった。
とその時、拡声器を持ったスーツ姿の男性がホール入り口付近に設置されていた台に乗ると声を発した。
「お待たせいたしました。出場者の皆様と保護者含む二名だけ、どうぞ受付にお進みください。その他の関係者はすみませんが、そのままもう暫く思いおもいにお過ごしください」
私と後二人だけと言うので、お母さんと師匠だけが付き添ってくれた。去り際「何だよー、俺らも行きたいよなぁ?」とヒロが、すっかりもう打ち解けた様子で律たちにそう話しかけると、「こらこら少年、我慢なさい?今は取り敢えず、これだけの美人どころを、あなた一人が独り占めに出来てる、そのハーレム感を存分に楽しみなさいな?」と、直接見た訳ではないが、恐らく京子が悪戯っぽく笑いつつヒロに言っていた。それに対してヒロは何か慌てて返していたようだが、その部分は会場の雑音に掻き消されてしまった。まぁ後で個人的に裕美あたりに聞いて見ることにしよう。
受付の前には、私たちと同じように親子と先生と思しき組み合わせが、静かに整列して順番を待っていた。後ろを振り返ると誰もいなかったので、どうやら一番最後らしい。
と、順番を待つ間、今更ながらジワジワと時間と共に緊張感が湧き上がってきていた。というのも、ここに来るまでの話を聞いてくれた方なら分かると思うが、とてもじゃないが緊張を覚えるような暇など、良くも悪くも無かったのだ。ヒロが待ち合わせ場所にいたということに始まり、数々のてんやわんやがあり、何だか今日は皆勢ぞろいで、どこかに遊びに来たかのような感覚に陥っていたのだった。それが急にコレだ。隣を見ると、お母さんは尚のこと、師匠もシンとした表情で、前方に視線を向けていた。私もまた視線を前に戻したが、ふとまたここまでの事を思い出すと、ついさっきまで体が固くなっていくのを感じていたのに、何だか肩から力が抜けていくような感覚を覚えた。
…これは後になって気づいたが、恐らくあのようなグチャグチャした出来事のお陰で、結果として必要以上に緊張せずに入られたのだろうと思う。裕美やヒロを始めとして、誰一人としてそれを狙っていた訳では無いのだろうが、取り敢えずまぁ、感謝すべき事なのだろう。
それはさておき、ついに私たちの番になると、まず番号札が渡された。見ると五十一番だった。何と最後から数えて二番目だった。
とは言っても、それほど余裕がある訳では無い。今日は午前と午後と分かれており、半分は朝早くこちらの会場に来て、順に既に決勝が行われていたのだった。一階があんなに混み合っていたのも、午前の部を終わらせた人々が外に出ず、そのまま留まっていたのも一つの原因になっていたのだ。
話を戻すと、午後の部という枠組みの中で考えると、私は実質二十五番目だった。この順番も、出場者の知らないところで大分前に決められていたらしい。
それからは受付の人からこの後の流れを聞き、そして別の係の人に促されるままに、決勝の舞台となるホールの中へと三人で踏み入れた。
中に入ると、まずその天井の高さに圧倒された。本選の時のホールにも感動したが、ここはまたひと回りもふた回りも高く見えた。先ほども触れたようにこの建物は所謂ビルディングなのだが、どうやら建物の高さの半分ほどを使っているようだ。具体的には五階分の高さがあった。いくつものライトから煌々と光が降り注がれていた。「ほー…」とおもわず声を、師匠も揃って声を漏らすと、係の人がこちらに微笑みかけてきながら、本番時は今いる客席側の照明は落とされる旨を教えてくれた。それを聞きつつ壁面を見ると、これまた凝ったつくりになっていた。壁面は全て斜め格子のウッドパネルで覆われており、これまた建物の外壁の様に近代チックで有るのと同時に、木の温もりが伝わってきそうなウッドブラウンの優しい色合いが、とても目に心地よかった。実際、何度も頻繁に取り替えられているのか知らないが、このホールに入った瞬間、芳醇な木の香りがしたのが印象的だった。この壁は舞台にまで及んでいたが、舞台自体はライトベージュといった趣で、上から注がれるライトが強いせいか、パッと見真っ白に見えた。
係員に連れられて三人でゆっくりと舞台に近付いて行くと、一番前の列に、私と同年代の男女が行儀よく横並びに客席に着席しているのが見えた。
その視線の先には、舞台を背にしてまた別の係員が立っていた。
と、その係員が私たちに気付くと、「あ、最後の方ですね?どうぞ右端にお座り下さい」と言うので、言われるがままに私一人が既に座っていた子の隣に座った。保護者はまた別に何列か離れた位置に席があるらしく、お母さんたちはそっちに座った。
それからはコンクールの流れについて説明を受けた。こう言ってはなんだが、予選、本選と比べると、格段に丁寧に説明をしてくれていた。
約三十分ほどだっただろうか、説明が終わると更衣室に案内すると言うので、そこで師匠たちと一旦分かれた。お母さんから着替えを受け取るのを忘れずに。
更衣室に入ると、ロッカーがあり、それぞれに番号が振られていた。勿論全く同じというのはあり得ないが、それでもここでは本選を彷彿とさせられた。本選の様に、自分の番号”五十二番”と書かれた場所を見つけて、ロッカーを開けた。その時ふと周りを見渡すと、どの女の子も真剣な険しい表情を浮かべて、誰にも顔を合わせんとするかの様に、黙々と視線を動かす事なく作業的に着替えていった。私もそれに倣い、早速紙袋から本番の衣装を取り出し、それに着替えるのだった。
まぁ興味が無いかもしれないが、何だかんだ予選、本選とどんな衣装を着ていたのか話してきたので、今回も話してみようと思う。
それは、スカート部分が艶やかな光沢が綺麗な濃い紺色のタフタの上に、チュール三枚を重ねて使用されたAラインロングドレスだった。そのスカートの裾部分は、これまた綺麗な三巻き仕上げだ。内部にはパニエを二段縫い付けてあるらしく、程よい広がりの華やかなシルエットを演出していた。胸元は水色に少し灰色の混ざった様な下地の上に、淡い色合いの金色の花柄が象られたレースが上品に映えて見え、優美さを醸し出していた。肩や鎖骨がガッツリと露出するベアトップ、もしくはベアショルダータイプだった。
本選の後、また師匠を伴って衣装を買いに行ったのだが、相変わらずお母さんが今来ている様な露出度高めの派手なドレスを選んだのだが、今度ばかりは師匠もこれに賛成した。以前にも軽く触れたが、本選までならいざ知らず、もう全国大会という晴れの舞台にまで進出したとならば、これだけ派手でもむしろ行くべきだと力説された。
まぁ今紹介した様に、色合い自体は落ち着いていたので、渋々試着をしたのだが、上体がかなり露出していたので、恥ずかしくてそもそも試着室から中々出れなかった。そんな状態でいるというのに、お母さんと師匠はその姿を見た瞬間、これでもかとばかりに誉めそやしてきた。あまりの勢いに押されて、仕方なしに同意をしたという経緯があった。まぁ自分には、露出が多い分動きやすいんだと理屈をつけて無理やり納得させた次第だ。でも流石にずっとこのままなのは恥ずかしいと訴えると、何とか肩の上から羽織る、スカートと同色の大判ストールも買ってもらった。着替え終えた今はそれを羽織っている。
支度が終わると、先ほど係の人から説明を受けた通りに、またさっきいた一階の広場に出て行った。
相変わらずガヤガヤしていたが、先程とは違い、明らかに空気がピリピリとしていた。
順番的にも私が一番最後に出てきてしまったが、その瞬間「琴音ー」と声を掛けられた。その方角を見るとお母さんだった。その後ろにはみんなもいて、ゾロゾロとお母さんの後をついて行く。
私の目と鼻の先に着くなり、お母さんは真剣な眼差しで上下、前後ろと何度も往復させながらジロジロと見てきたが、満足したのか背筋を伸ばすと、優しい笑みを浮かべて「よし!」と言った。
「今回のは中々着るのは難しいと思ったけれど、流石我が娘、しっかりと身に付けてるわね。…似合ってるわよ」
「うん、ありがとう」
と私も同様の笑みを浮かべて返すと、お母さんはふと「ほら琴音、これ持って行きなさい?」と言いながら、ずっと手に持っていたのか、私に常温のお茶の入ったペットボトルを手渡してきた。受け取るとそれは、私の今ハマっている玄米茶だった。
「ありがとう」とお礼を言うと、早速その場でキャップを開け、一口分飲んだ。
そんな私の様子を微笑みつつ見ていたお母さんだったが、ふと口を開けたかと思ったその時、
「琴音ー!」
と裕美、紫、藤花、律たちがお母さんの脇から私の前に出てきた。律も含めた四人して顔は明るい笑顔だった。
この人数の発言を一々今拾い上げるのは流石に余裕が無いので、裕美たちには悪いけど割愛させて頂く。まぁ言い方が悪くて恐縮だが、それぞれの表現の違いはあれど、皆して同様の反応だったからだ。
…自分で言うのはとてつもなく”恥ずい”のだが、四人共が私の今の見た目について、これでもかというくらいに褒めちぎってきた。…『流石姫様だね』といった様な、余計な言葉を添えて。
…まぁ、本人達には言わなかったが、そんないつものノリのお陰で、緊張が和らいだのは本当だった。これはこの会場に来たばかりの時に言った通りだ。ロッカーを出て今いる広場に出てくるまでに、やはりと言うか流石にと言うか、他の参加者の緊張が伝染したのもあるのだろう、すっかり身体が縮み上がっていたのだ。それを意図せずとも緩和してくれた事には、繰り返しになるが密かに感謝をしていた。
散々からかわれた後、裕美が不意に一歩前に出てくると、フッと力を抜いた自然な笑みを浮かべると
「でも本当に似合っているよ。…みんなで、客席で観てるから」
と途中で後ろを振り返りつつ言うので、私もその方向を見ると、さっきとは打って変わって、他の三人が三様に今の裕美の様な静かな笑みをこちらに向けてきていた。
「…うん」
と私も静かに微笑みつつそう返すと、ほんの数秒そのまま微笑みあったが、ここで不意にガラッとまた先ほどの様な”からかう空気”に一斉に戻ると、誰からともなく「ほら!」と裕美を除く三人が何やら後ろから誰かを前に引っ張り出してきた。
「おいおい…」と戸惑いつつ出てきたのは、ヒロだった。
立ち位置的には裕美のすぐ脇といった所に立った。
ヒロは私に目の前に来たのは良いものの、何も声を発しないので、いつもの軽口ばかり叩くヒロらしく無い様子を見せられ、私は私で黙って眺めていると、やれやれと溜め息をつきつつ隣の裕美が、ヒロの背中をバシンと強めに叩いた。とても良い音がなった。
それによって、気持ち半歩ほど裕美よりも私に近い形になった。
「いってー!何すんだよー?」
とヒロが大げさに背中を摩りつつ痛がって見せていたが、裕美はそれには付き合わずに、私に視線を流しつつ声をかけた。
「ほらヒロくん、いつまでもボケーっとしてないで、琴音に何か…さ?」
そう言われたヒロは、「お、おう…」と声を漏らすと、何故かこっちには体を向けず、真横を向いて中々視線を合わせてくれなかった。この時内心では、普段のスパッと気持ちのいいヒロとは真逆の様子だったので、若干イラっとしていたが、その間にふとその後ろを眺めると、これまた何故か紫達が口元をニヤかしつつこっちの様子を伺っていた。
その様子を不思議に思いつつ見ていると、ようやくチラチラと視線が合ってきたかと思うと、何だか煮え切らない調子で口を開いた。
「そのー…なんだ、琴音、今のそのー…」
「何よー?はっきり言いなさいよー?」
と私はストールがずれ落ちない様にしつつ、前屈みになって下からヒロの顔を覗いた。するとヒロは変に驚いて見せて、バッと勢いよく私から一歩分離れた。そんな予期せぬ反応にキョトンと呆気にとられていると、ヒロはなんだか照れ臭そうに頭を掻きつつ言った。
「そのー…よ、…よく似合っているぜ」
「え?何て?」
最後の方が蚊の鳴き声の様に消え入りそうな音量だったので、ガヤついている今の広間ではよく聞こえなかった。
ヒロはそんな私の返しに、今度は私に代わって呆気にとられて見せたが、「はは…」と苦笑まじりに笑みを漏らすと、途端に普段通りの悪戯っ子のような笑みを浮かべつつ言った。
「だからよー、馬子にも衣装って感じで似合ってるって言ったんだよ!」
「…アンタねぇー」
と私も”いつもの”といったノリで、腰に手を当てつつ目を細めて返した。
「アンタ、それしかボキャブラリーが無いの?前にも言ってたじゃない?」
「は?ボキャブ…ボキャブラ…?って何だ?」
と本気なのか冗談なのか見分け辛いリアクションをとってきたので、「はぁ…もう良いわよ」とため息交じりに返した。しばらくその後は互いにジト目で見つめ合ったが、大概の場合にらめっこの様になってしまい、この時もどちらからともなく吹き出して笑い合うのだった。
「はぁーあ、まぁ琴音、俺が応援してやるんだから、敵をぶちのめしてくるんだぞ?絶対に勝てよ?」
と鼻息荒く何故か自信満々にヒロが言ってきたので、
「あのねぇ…何を勘違いしているのか分からないけれど、今日のはその手のものじゃないのよ?」
と私が呆れつつそう返すと、ヒロは何だかムキになって
「わかってら!」
と返してきた。そんなヒロのムキになった表情を見ていると、益々緊張から縁遠くなっていくのを覚えつつ、それにも密かに感謝しているという意を込めて
「まぁ…ありがとうね」
と実際にはやれやれといった調子で言った。
それに対してヒロは「おう!」と先ほどの不機嫌はどこに行ったのか、小学生の頃から変わらない笑顔で応えてきた。
…余計なことかも知れないが、この一連の流れを、裕美は笑顔で見ていた。が、それは何かその裏に大きな秘密を宿している様な影を差していた類のもので、私の位置からも視界の隅にそんな裕美の様子がチラッと見えていて、何だかそれが印象的だったのを付け加えとく。
それはさておき、ようやくというか何というか、今度はまたお母さんと、そして師匠、京子が三人並んで私の前に来た。それから一歩下がった所で絵里が控えめに立っていた。そんな様子を見兼ねたお母さんに背中を押されつつ、絵里が前に出てきた。
絵里は私の顔を見ると、何だか照れ臭そうにホッペを掻いてるのみで、中々口を開かなかった。私はというと、自惚れも甚だしく聞こえるだろうが、いつものパターンからいくと、てっきりテンション高く私の見た目を褒めちぎってくるものと思っていたので、何というか拍子抜けだった。
と、そんな私と絵里の様子を見ていた京子は、不意に絵里の肩に自分の肩を軽く当てると、口調も明るく言った。
「ほら琴音ちゃーん、見てよー?何だか絵里さんと服装が被っちゃって、良く言って仲の良い姉妹、普通に言って昔の漫才師みたいじゃない?」
「ちょ、ちょっと、京子さん…?」
と絵里が苦笑まじりに声を漏らしていた。それを見た私は、自分の見ていない間に何でこんなに打ち解けてるのかと単純な疑問を持ったが、次の瞬間には「ふふ」と自然と笑みをこぼしていた。
「言い得て妙だね」
と私が笑顔で返すと、「またそんな難しい言葉使いをしてぇ」と京子を手で軽く押し退けつつ絵里が言った。京子のお陰(?)か、その顔にはもう妙な照れ臭さは無くなっていた。
「まぁ…何だろ?」
とそれでもやはりいざ口を開く時にはまだ照れが残っていた。
絵里は時折視線を何処かに流しつつ、何か言葉を探している風だったが、「はぁ…」とふいに一人溜息をつくと、こちらに微笑みを向けてきつつ口を開いた。
「いやぁ…やっぱり、気の利いた言葉を思いつけないなぁー…。まぁ、琴音ちゃん?」
「うん」
と私が合いの手を入れると、絵里は一人コクっと頷き、それから笑顔で腰に両手を当てつつ「まぁ、楽しんできてね!」と言い放った。
この時、私はまずどこか懐かしい気持ちにさせられた。なのでその直後に何でか思いを巡らせたが、その出所を思い出した。
そう、あの入試当日の朝、あの日は義一と絵里がメールをくれた訳だったが、絵里がくれたメールが今言ってくれた『楽しんできてね』の一文だったのだ。
我ながらよく覚えていて、しかもよくもまぁ瞬時に思い出せたなと感心していたが、いかにも絵里らしい物言いに、何だか心がほっこりした様な気持ちを覚え、言い終えた後に何故かバツが悪そうにしている絵里に対して「うん!」と力強く笑顔で返したのだった。
「よし!」と絵里も同じ調子で応えてくれた後、絵里は笑顔のまままた一歩後ろに下がったその時、目の前に師匠が出てきた。
相変らずつば広の帽子と、サングラスをしている。本人はバレない様に目立たない様にしているつもりらしいが、正直結構目立っていた。その証拠に、師匠自身は気付いてないらしいが、すれ違う人が時折好奇心の眼差しを向けてきているのに私は気付いていた。だが、何だかその様子が面白くて、今まで何も言わないでいたのだ。我ながら、本当に不貞の弟子だとつくづく思う。
「琴音…」
と周囲を一度確認してから、おずおずと慎重にサングラスを外した。表情は静かだったが、私の知る師匠の顔と比べると、若干強張っている様に見えた。それを脇で京子が口元を緩めつつニヤニヤして見ている。
「ほら師匠?」
と京子が師匠の背中をバシッと強めに叩くと、師匠は「何するのよまったく…?」と背中をさすりつつボヤいていたが、その顔からは強張りが消えていた。
それを自覚してるかしてないかともかく、師匠はフッと柔和な笑みを浮かべると、私の両肩に手を置き、口調も静かに言った。
「琴音…。決勝まで上ってきたあなたに、今更師匠として何か助言出来ることなんか一つも無いわ。そうね…予選と本選の時も言ったけれど、この半年間…いや、あなたが小二だった頃から数えたら約六年間、ずっと私からのムチャな指導にもキチンとブー垂れる事無く着いてきてくれて、それであなた自身の努力のお陰でここまで来た…。まずそれ自身に誇りを持ってね?」
「…はい」
「そして…これも言ったけれど、技術面で言えば、間違ったって良い…プロだって本番で間違う事あるんだから」
「そうよー?」
とここで京子が無邪気な笑顔を浮かべつつ口を挟んだ。
「私ですらね?」
「…京子?」
と師匠が呆れ笑いを浮かべつつ顔を向けると、「あ、ごめんごめん」と京子は両手を顔の前で合わせて平謝りをして見せた。
「もーう…まぁ、後はさ?」
とすっかり興を削がれた形になった師匠は先ほど京子に見せた笑みを浮かべたまま、今度は絵里をチラッと見つつ言った。
「さっき絵里さんが言ってたけれど…折角の大舞台、日本でも屈指のホールなんだから、思う存分楽しんで弾き込んで来なさい」
「はい」
と私は師匠と絵里に視線を流しつつ、微笑みを浮かべて返した。
師匠も微笑み返してくれたがその時、
「さてと…」
とさっき絵里にした様に、師匠の肩に自分の肩を軽くぶつける様にして、京子はサッとサングラスを取った。勝気そうなツリ目は若干緩んでいた。
隣で「あっ…」とサングラスを取ったのに対して師匠が目を丸くしつつ声を上げたが、それには目もくれずに京子は、一度振り返り、他の皆を見渡してから話しかけてきた。
「いやぁ、お母さんや、これだけの大勢の良いお友達、それに弟子想いの師匠…琴音ちゃん、とても恵まれてるなぁと嬉しい反面…」
とここで一度区切ると、上体だけ倒して私の顔に自分の顔を近づけると「やっぱり…どうしたって緊張するよね?」と言った。
言われた私は、癖でまずその言葉の意図を考えていたが、「は、はい…まぁ」とだけ取り敢えず相槌を打った。
それを聞いた京子は勢いよく上体を戻すと、人差し指だけを天井に向けつつ、まるで講義をする風に構えつつ口を開いた。
「だよねー?そこで、現役の私、京子先生からの一口アドバイス!」「は、はぁ…」
「始まった…」
何が何だか分からず戸惑う私の脇で、師匠が苦笑いを浮かべつつ声を漏らしていた。
と、何だか突然ちゃらけて見せた京子だったが、途端に先ほどの師匠のような柔和な笑みを見せると、口調も穏やかに言った。
「琴音ちゃん…?緊張しないように、しないようにって思うほど、ますます緊張しちゃうもんだよね?…うん、まぁ一般的には緊張はなるべくしない方が良いって言われてるし…。でもね、勿論極端には良くないけれど、程ほどには緊張した方が良いのよ?…いや、緊張出来た方が良いと言うべきか…」
「それって…どういう意味ですか?」
先ほどの謎のキャラが吹っ飛ぶほどの京子の話ぶりに惹かれて、私は前のめりになりつつ聞いた。
「それはね?さっき、あなたの師匠、沙恵があなたに言ったでしょ?今までの努力が云々かんぬん。…そう、日々そうやって努力すればするほど、上達の実感があればあるほど自信がついていくけれど、それと同時に失敗を恐れるようになる…。だって、失敗しちゃったら、じゃあ今までしてきたのは何なんだろうって思っちゃうからね?」
「…」
京子の話を聞きつつ、確かに身を以て、こうしている間にも身体がまた強張っていくのを覚えていた。
「ちょっと、京子…?」
と師匠が何かを感じたか口を挟もうとしたその時、京子はニコッと一度目を細めて笑って見せてから話を続けた。
「でもね、それはどんなジャンルでも、必死に努力してきた人には平等に訪れるものなのよ、その類いのプレッシャーってね?…私もそう。私ももうデビューしてから数え切れない程に演奏してきたけれど、今だに本番前は凄く緊張するの」
「…え?京子さんでも?」
「えぇ、京子さんでもね?…ふふ、でもその緊張ってさ、今まで話した通り、必死に努力してきた者にしか訪れないものでしょ?逆に言えば、努力をせずにグータラで生きてれば、私、それに今あなたが感じている緊張を体験出来ない訳じゃない?だからね、何だかこんなつもりじゃなかったのに長々と喋っちゃったけれど…」
とここで京子は照れ臭そうに帽子から漏れ出ていた、パーマのかかった髪を指で弄びつつ、若干苦笑気味に言った。
「まぁ何が言いたいのかっていうとさ、今感じている緊張を無理に排除しようとしないで、むしろそれを含めて楽しんでやろうって気で行こう!ってことさ」
何だか最後は早口になっていたが、本番直前とは言え、不意に現役のソリストである京子から深めの芸談を聞けて、何か大事な事を身に付けられた感覚を覚え、これは意図していなかっただろうが、京子の言葉が頭を支配したのと同時に、先ほど新たに湧いてきていた緊張が少しほぐれていた。
「はい、ありがとうございます」
と衒いもなく、軽く頭を下げて色々な意味を込めたお礼を言うと、「いえいえー」とまるで照れを誤魔化すかのごとく、京子はまたおちゃらけて見せつつ応えた。
「もーう、京子は…」
と師匠はまたさっきと同じ呆れ笑いを浮かべつつ京子に話しかけた。「これから本番に臨むって子に、そんなまた言葉をかけて…」
「えー、別に良いじゃない?」
と顔は師匠に向けたまま、視線だけ私に流しつつ返した。
「私は何も、誰も彼もこんな話をする訳じゃないわ。それに値する人に対してだけするの」
そんな京子からのアドバイスが終わった辺りで、また台に同じ係りの人が立つと、拡声器を使って出場者と保護者一組に控え室に行くように言った。それを合図に、広場で散り散りになって関係者と歓談していた出場者と付添人たちがゾロゾロと案内に従って一斉に動き始めたので、「いってらっしゃい」というような言葉を背に受けつつ、私とお母さんで控え室に向かった。
本選までは出場者のみだったが、決勝は保護者同伴と予め知らされていた。私の場合お母さんだが、お母さんは私の演奏を、控え室で聴く事となる。
入るとそこは、本選時の様な会議室のような部屋だった。が、少しだけ違ったのは、四面ある壁の一面が、照明付きの鏡で占められていた事だった。前回にもあるにはあったが、こんなに場所を取っていなかった。私たちよりも先に入室した出場者の何人かが、早速鏡の前の椅子に座って身繕いをしていた。鏡ごしに番号が見えた。どうやら早番の面々らしい。
私とお母さんは慣れない雰囲気に戸惑いつつ、軽く室内をぐるっと歩いてから、幾つか設置されている長テーブルの一つに近寄り、その端の一角にあった椅子に座った。
控え室は程よく温度調節をされていたが、重々しい空気が充満していた。保護者がそれぞれ一人ついているはずなので、単純計算で四十人ほどいるはずだったが、時折ひそひそ声が聞こえるのみで、その他に聞こえるのは天井から冷気を送り込んでいる空調音だけだった。それが尚更この場に異様さを与えて深めるのに貢献していた。とても息苦しかった。お母さんに貰ったペットボトルのお茶を飲もうにも、蓋を開ける音、それを飲むに当たって鳴る喉越しの音、体内で鳴ってる音だから本人には実際どれほどの大きさか知れないのだが、何だかそんな単純な行為ですら気を遣わせる雰囲気だった。
だが、係員が部屋に入ってきて、五、六人の出場者の番号と名前を呼び、該当者が外に出て行き、しばらくして出場者達が控え室の正面に設置された、天井から吊り下げる式の大きなモニターに映し出されて演奏が始まった時は、その音で急に賑やかになり、先ほどまでの重々しい空気は緩和されていった。
…なるほど、確かに師匠が言ってた通り、その当時と変わってなければだけど、この雰囲気の中、誰か見ず知らずの他の参加者に、しかもこうして保護者がそばにいるというのに話しかけられるとは、夢にも思わないなぁ…。
と、すでにコンクールが始まり、いわゆるライバル達が演奏を繰り広げているというのに、我ながら抜けてるというか何というか、待つ間、いつだったか、師匠が話してくれた、初めて京子と出会ったエピソードを思い出していた。
…まぁ、師匠の当時の先生も、おそらくコンクールが終わってからの事を言いたかったんだろうなぁ…京子さんというイレギュラーは、想定外だっただろうし。
隣に座ったお母さんを見ると、お母さんは姿勢をピンと真っ直ぐにしたまま、正面にあるモニターを凝視していた。一人、また一人と演奏していき、そして終わるたんびに拍手が送られているのを聞く度に、胸がキュッと締まる思いをしていた…と、後日お母さんから直接聞かされた。
そんな心中など知るはずも無い私は、相変わらず頭の中で、当時の師匠と京子の様子を勝手に妄想しながら過ごしていた。
演奏が終わった出場者達は、またこの控え室に戻って来たが、そのどの顔もやり切ったような、無表情の中にも少し明るみが差している様な、見方によっては微笑んでいる様にも見えた。
暇を持て余した私は、途中から一人で何も無い壁を見つけると、それを使って念入りに、戻ってくる彼らの表情を時折眺めつつストレッチをしていた。お母さんはそんな私の様子に一瞬戸惑いの表情を浮かべていたが、一度フッと微笑んだかと思うと、それからは私とモニターを交互に眺めていた。まだ出番が終わっていない出場者は相変わらず閉じこもっていたが、終わった人らは興味深げに私の様子をチラチラと盗み見てきていた。…というのも、お母さん情報だ。周りのそんな様子が気にならない程に、それだけ集中していた。
そしてようやく、私を含む最後の組が呼ばれた。
私は一度テーブルの前に戻り、肩に今まで下げていたストールを脱ぎ、お茶を一口飲み、それをまた戻すと、その手をふとお母さんが取ってきた。私は一瞬ビクッとしてしまったが、お母さんの顔を見ると、見た瞬間は強張って見えたが、途端にフッと微笑んできたかと思うと、次の瞬間には真顔でコクっと頷いて来たので、私もまず微笑み返してから、真剣な表情を作ってコクっと頷き返した。
そしてそっとお母さんの手を退けると、それからは後ろを振り返らず、係りの誘導に従って、他の数人と共に外に出た。
ほんの少し廊下を歩いた所で、真っ暗な場所に通された。
本選を経験しているお陰で、すぐにそこがどこだか知れた。舞台袖だった。真っ暗ではあったのだが、今通って来た廊下や舞台からの光が漏れてきていて、厳密には暗闇では無かったので、それほど周りに気を使う事は無かった。
これも本選と同じだったが、パイプ椅子が五つほど置かれていて、誘導に従い、番号順、つまりは演奏順に座らされた。
それからは一人、また一人と目の前で出場者達が舞台に出て行って演奏していくのを、流石に控え室の時の様に妄想するほどの余裕は無くなっていたらしく、我ながら神妙に耳を傾けていた。
…うん、傾けてはいたはずだったが、自分でも不思議なのだが、聞いてるはずなのに、どんな演奏をしていたのかを聞き取る事が出来ていなかった。何を言ってるのか分からないだろう。それもそのはず、こう話す私自身も今だにその時自分がどんな状態だったのか、ハッキリと断言出来ずにいた。まぁ一般論から推測するに、それだけやはり緊張していたのだろう。この時もそう自分で思ったのだが、ふと同時に、控え室に行く直前に、京子が話してくれた事を思い出していた。思い出した所で緊張は消えなかったが、背中を冷や汗が伝っている様な感覚、体温が頭から下に向けてサァーっと引いてく感覚を覚えていたのが、そのお陰か、徐々にまた血気が戻ってくる様に感じた。
私の一つ前の人が舞台に出たのと同時に、我知らず「ふふ」と小さく笑みをこぼすと、椅子から立ち上がり、これまた本選の時と同じ様に、ストレッチをした。これを話すのも何度目かになるが、このストレッチも緊張を程よく緩めるのに貢献してくれた。後から思えば、京子様様だ。
それはともかく、ブーーっとブザーが鳴ったかと思うと、舞台の方から番号と私の名前が呼ばれた。
私は最後の締めだと、腕と手首のストレッチを終えてから、ゆっくりと舞台袖から外に出た。
少しの間暗い所にいたせいか、急に照明が強くたかれた舞台上に出ると、一瞬目の前がホワイトアウトしたが、歩みは止めなかった。
ただ耳には、客席の方から割れんばかりの拍手が聞こえてきていた。モニターで見ている時より、また、袖にいる時とは比べ物にならない程の音量だった。
私は舞台中央に置かれているグランドピアノを目掛けて最短距離で近寄った。そして椅子の真横に着くと、一応頭の中で、着物を着た時の、凛としたお母さんの振る舞いをイメージして、それらしく振舞いつつ客席に身体を向けた。観客席はやはり真っ暗で、またそっちからも照明を向けられていたので、全く人々の顔は見えなかったが、それでも大勢いるという感触が、視覚以外からヒシヒシと感じた。
この時、自分でも不思議に思ったが、我ながら全く硬くなっていなかった。眩しいながらも、堂々と会場を見渡していた。緊張感はキチンとあったのだが、心はしんと静まり返っていた。言葉一つない、物心ついてから初めて『無』と呼べそうな感覚に陥った。鼓動も一定だ。これはストレッチした事や、お母さんを思い浮かべただけのお陰では無いだろう。
頭を深く下げると、客席からまた一度拍手が湧き、頭を上げると早速ピアノの前に座り、一度両手を腿の上に乗せた。
そして一度数秒ずつかけて深呼吸をしたが、その時の心境としては、先ほどの”無”とは打って変わって、早く演奏したくてウズウズしていた。要は、とてもワクワクしていたのだ。この感覚は、そう、ピアノを習い始めて、ようやく基本的な運指が出来かけてきて、今まで弾けなかった曲が弾ける様になり、それを延々と弾いていた頃のに近かった。注意してないと、思わずにやけてしまいそうになる程だ。それを抑えるためにもまた一度深呼吸をして、それからそっと鍵盤の数センチ上に両手を浮かせて、ワンテンポ置いてから慎重な手つきで第一音を鳴らした。
第11話 コンクール(終)結
最後の一音を弾き終え、自分でも少し余韻に浸ってから椅子から立ち上がり、来た時と同じ位置に立ってお辞儀をすると、出てきた時よりも大きな拍手をもらった。
とここで遅ればせながら、予選、本選とこの二つでは端折ってしまったが、決勝ともなると紙面を割いて触れない訳にもいかないだろうと思い、軽くでも触れることにする。クラシックファンしか興味を惹かないだろうが、一応私が決勝に選んだ曲目を披露すると、モーツァルトのソナタ KV330 第2楽章、ハイドンのソナタ Hob.ⅩⅥ:34 第1楽章、大バッハのフランス組曲 第6番 ホ長調 BWV817より クーラント、そしてショパンの練習曲 Op.10-4 嬰ハ短調の四曲を、約十五分程かけて演奏した。
仕方ないとはいえ所々で演奏しながらも分かる程度の失敗はあったが、それでも持てる実力を出し切った感があったので、この時ばかりは変に卑屈にならずに、客席からの拍手を素直に受け止めて、まだ鳴り止まぬ間に静々と舞台袖に引っ込んだのだった。
控え室のドアを開けて、お母さんがいた位置にすぐ視線を送ると、お母さんはその瞬間に椅子から立ち上がり、まだドアの前で立ち止まる私に早足で近寄ってきた。
一メートルも無いほどの位置で立ち止まると、お母さんは何とも言えない様な少し強張りのある様な表情を見せていたが、フッと側から見てても分かる程に緊張を緩めると、「…お疲れ様」と言って、私と同じ体の向きになり、背中にそっと手を添えてきた。
さっきも言った様に、私はそんな心持ちになっていたので、無心のまま「うん」と自然な笑みを零しつつ返した。
それからは待ち時間にしていた様に、全く同じ位置に親子二人並んで座って、最後の出演者の演奏を見ていた。一々眺め回した訳では無かったが、それでも皮膚感覚で感じていたのは、控え室の雰囲気が以前と比べ物にならない程に軽くなっていた事だった。勿論ガヤガヤとでは無かったが、至る所で雑談を含む会話が聞こえてきていた。まぁ何せ歴史のある、全国に教室がたくさんある様なコンクール、そういった所から横の繋がりがキチンと形成されているのだろう。時々聞こえる会話の中身も、お互いの教室についての話などが多い様に感じられた。
私が最後から二番目というのもあって、一人演奏が終わると、私たちはモニター越しだったが、これで取り敢えずコンクールの終了という宣言が音声でなされた。
これから審査を始めるというので、その待っている間は休憩時間だと、観客席の人々はゾロゾロと会場から外に出て行く様子が画面越しに見えた。
客席が空になった辺りで控え室に係員が入ってきて、これから授賞式のリハーサルをすると言うので、お母さんたちを残したまま、出場者が揃って舞台袖に戻った。そこは本番とは違って明かりが灯されており、既に午前に終わらせていた他の出場者がスタンバイをしていた。そして間をおく事無く、全員纏まって礼儀正しく自然と列を作りながら舞台に上がった。
いつのまにセッティングされたのか、ピアノを奥に移動させて、その前に五十二ものパイプ椅子がズラッと並べられていた。
ふとその時会場を見渡すと、すっかり照明が戻っており座席がハッキリと肉眼で見える様になっていて、何だかついさっきにここで自分が演奏していたのが夢だったんじゃないかという錯覚に陥りそうになっていた。
それはともかく、実際はキチンと係りの人の誘導に従って自分の座り位置や、名前を呼ばれた時の作法など、軽く説明を受けた後、倍に増えた出場者と共に、一斉にゾロゾロと控え室に戻って行った。
控え室にも見知らぬ大人達が増えており、すぐに午前の部の関係者だと察した。
戻ってから四、五十分、雑談しつつ待っていたが、この時何と無く妄想していたのは、やはり師匠と京子の事だった。
こんな和気藹々とした雰囲気の中で、話してくれた様な事が起きただなんてねぇ…
などと、感銘を受けたのか、ただ呆れていたのか自分でも判断しかねる感想を持っていると、ようやく受賞者の発表の旨を知らせる放送がスピーカーから流れた。
保護者は観客席から見るというので、そこでお別れをして、私たち出場者はリハーサル通りに手順を踏んだ。
舞台袖に着くと、係りの人が胸元に付けた番号札を確認して配列の整理に追われていた。私と最後に演奏した子が先頭に立つ事となった。
会場に鳴り響く司会者の声に促されて、ふと隣の子に目配せをして、初対面で、しかもまだ話したことの無かった二人だったが、お互いにコクっと頷くと、少しぎこちなさを残しつつ舞台上に歩み出て行った。その瞬間、会場からは割れんばかりの拍手が鳴り響いていた。本番の時とは比べ物にならない程だった。それに加えてまた一つ大きく違っていたのは、会場からフラッシュによる光の点滅がチカチカと瞬いていた事だった。たまたま客席に目を移していたので、その光に目が眩みつつ、リハ通りの自分の椅子に腰掛けたのだった。舞台一番端、二列に並べられた椅子の前といった位置だった。
出場者が全員座り終えるまで、普通にしていたら顔が客席にいくものだから、何だか気恥ずかしくなってキョロキョロと視線を泳がしていた。以前と違ったのは、前は観客席で手を振る裕美を見つけられたが、今回は結構大所帯であったにも関わらず、チラ見しただけだったがそれでも皆を見つけることは叶わなかった。
…とまぁこんな具合で事が進んで行ったのだが、ふと一人の正装した男性の老人が舞台脇からノソノソと出てくると、中央に既に置かれていたマイクスタンドの前に立ち、一度咳払いをした。
すると、会場は先程までの賑わいが嘘の様にシーンと静まり返った。どうやらプレゼンターは、本選の時のふくよかな女性とは違うらしい。私の位置からはほんの一瞬しか顔が見えなかったが、何処と無く見覚えがあった。だが、まだ誰かまでは思い出せずにいた。
老人は背をまっすぐに、何とも落ち着いた口調でゆっくりと話を始めた。まぁ言ってはなんだが、初めの方はコンクールの歴史なり何なりを触れるのに終始していたので、ここでは割愛させて頂く。
「えー…では早速、本日、金賞、銀賞、銅賞を見事勝ち取られた三名の名前を読み上げたいと思います」
と老人が言い終えると、係員が数人出て来て、本選の時とはまた幾分か多くの荷物を携えて老人の脇に立ち、その中の一人が持ってきたテーブルの上に、それらを丁寧に置いた。そして一人を除き、他の数名は早足で舞台から退場した。残った一人は、テーブルと老人の中間地点に微動だにせずに立っていた。
「えー…では、総勢52名の決勝進出者のうち、まず三位に輝きました方のお名前を読み上げたいと思います…」
と老人がどこからか出した紙を覗き込み、少しの間沈黙した。何となくだが、こんな時はドラムロールなどで空間を埋めるものなのかと思っていたが、この間は何も物音がせずに、私たち出場者、そして観客席にいる関係者一同がジッと老人の次の言葉を待っていた。
幾らか間が空いたその時、呼ばれたのは、私の座るところから一番離れた位置に座っていた女の子だった。
その瞬間客席側から拍手と共にピンスポットライトが当てられ、戸惑いの表情を浮かべている女の子を際立たせていた。女の子は思わずといった感じで既に立ち上がっていたが、私の様な遠い位置にいる者からも、口元を両手で覆いつつ涙ぐんでいるのが見えた。
出場者たちが笑みを浮かべつつ拍手をしていたので、私もそれに倣ってしていると、女の子はどこか危なげな足どりで老人の元に向かった。
そして前に立つと、老人はまず客席に向かって、彼女の演奏がどれだけ素晴らしかったかを力説していた。そこで初めて、さっきから彼女のことが見覚えなかったのだが、その理由が知れた。まぁただ単純に、午前の部に出ていたという訳だった。
私からは、老人に関しては背中しか見えなかったが、それ越しに見えていた女の子の表情は、緊張している様な、もしくはどこかホッとしている様に見える顔つきをしていた。ただ、目の下にライトに反射してか、光の筋が二本ほど見えていた。
「おめでとう」との言葉と共に、側に立つ係員から手渡されるがままに、まず賞状、次にメダルを首に老人自らが女の子に提げさせ、最後にトロフィーを手渡した。相変わらずこうして客観的に見ると抱える様な感じになって一杯一杯に見えたが、それでも女の子はようやくここで満面の笑みになり、何とか片手を空けて老人と握手をすると、最後に客席に向かって深くお辞儀をし、拍手の音が大きくなる中自分の席に戻って行った。
座る瞬間、また別の係員が一時的に今貰った物を預かる為に出てきていたが、それを待たずして、また老人は客席に体を向けると、またゆったりとしたペースで話し始めた。
「…さて、お次はいよいよ銀賞の発表になりますが、ここで一つ少し触れさせて頂きたいお話があります。それは…今年度の、この中学生の部のレベルが、近年稀に見るハイレベルだったということです。いや…この決勝に限りません。私自身は残念ながら体験出来ませんでしたが、全国のどの地区でも、誰を決勝の舞台に立たせようか、これほど難儀したことは無いという悲鳴を、各地の審査員から聞いてました。…ふふ、それはとても嬉しい悲鳴です。そしてその嬉しい悲鳴は今日、私も含めて同じ様に上げることと相成りました。特にこの…今年度の金賞と銀賞、この二人の演奏はタイプこそ真逆でしたが甲乙つけ難く、実際に選りすぐりの審査員が個別に点数を付けたというのに、結果としては過去に異例の無い程の僅差となりました。…」
…何だか、本選の時にも同じことを聞いたなぁ。
などと、初めの方ではあんなに緊張して固くなっていたというのに、もうすっかり慣れてしまって、他人事の様にそんな下らない感想を覚えつつ、老人の話に耳を傾けていた。
と、ようやくお話が終わると、老人は見るからに佇まいを正し、また一度咳払いをしてから
「…では、そんな中でまず銀賞を見事獲られた方のお名前を読み上げたいと思います」
と言うと、さっきよりもまた幾らか間を作って見せた。その間同じ様にこの場にいる人全員が固唾を飲んで老人の次の言葉を待った。
と、老人は少し俯いていたのだが、これまたゆったりとした動作で顔を上げると、感情を込めて一人の名前を読み上げた。
「…東京都出身、…エントリーナンバー五十一番、望月琴音さん」
そう言い終えた瞬間、目の前がホワイトアウトした。まず最初に戸惑ったのはソレだ。何が起きたのかすぐには分からなかった。どうやらさっき銅賞を受賞した女の子が受けていたライトが、私に向けられたせいらしい。
「…え?」
と私はようやく目が慣れると思わず声を漏らし、自分でも意味が分からず取り敢えず周囲を見渡した。すると他の出場者の男女が笑みを向けてきつつ、手元では頻りに拍手をしていた。
ふと老人の方を見ると、老人もこちらに笑みを向けて拍手をしていた。ついでに隣に立っている係りの人もだ。
ここでようやく、大袈裟ではなく聴力を取り戻した様だ。どう言う意味かというと、ここにきて客席の方からも大きな拍手を向けられている事に気付いたのだ。
ここまで実質数秒足らずだろうが、私の感覚では少なくとも一分程に感じていたが、何だか自分のではなく他人の身体でも操縦するかの様な、何とも言いようの無いぎこちなさを覚えつつ、やっとこさ立ち上がり、我ながら照れてるのか何なのか分からない感覚に包まれつつ、老人の前に出向いた。
何だかまだ足に力が入ってない様な感覚を覚えて、きちんと真っ直ぐ立てているのか自信を持てないままジッとしていると、何か老人はまたさっきの様に客席に向かって何か話していた様だったが、何も耳に入ってこなかった。だが、変な所は冷静になっていたらしく、その間ずっと老人の顔を眺めていたが、ふとその時、なぜこの老人の顔に見覚えがあるのかを思い出した。
…あ、そうだ、この人…京子さんがエッセイを書いている、私が毎月読んでいる雑誌でよく見る人だ。
そう、彼は前に京子の事に触れる中でチラッと触れた雑誌に連載を持っている御仁だった。この時はうる覚えでしか思い出せなかったが、確か国内の有名な交響楽団で首席指揮者だったと思う。後で知ったが、このコンクールの理事も務めているらしい。それで今回この役回りをする事になった様だ。
とまぁ、そんな事に気を向けていると、ふと老人が私に向き直り、
「望月さん…おめでとう」と穏やかな口調で言いながら、前と同じ様に係りの人から受け取った賞状を私の前に差し出した。
「あ、ありがとうございます」
と私は自分でも分かる程声を震わしつつ、カミカミでそう言いつつ丁寧に受け取った。この時ふと思ったのは、『私の声がマイクに乗らなくて良かった…』という単純でくだらない事だった。
それからは流れ作業的に、銀色のメダルを首から提げて貰い、トロフィーを受け取ると、さっきの女の子の行動を思い出し、それをそのまま真似て客席に向かって深くお辞儀をすると、自分では早足のつもりで席に戻った。座る前に、いつからいたのか係りの人がスタンバイしていたので、何も言われなかったが、今受け取った賞品を全てそのまま手渡した。
それからの事は…正直よく覚えていない。当然流れとしては次に優勝者の発表があったはずなのだが、勿体ぶるのでもなく本当に記憶になかった。
ただ辛うじて頭に残存しているのは、ハタから見てどうかは兎も角、座っている間、感覚的には興奮のあまりか小刻みに震えていた事、顔が異様に火照っていた事、それに…これは後で誰かに聞いた話だが、座っている間私は無表情ながら涙を流していたらしく、それを仕切りにメイクが崩れるのを気にする素振りも見せずに何度もゴシゴシと擦っていた様だ。
発表が終わった後、老人の合図とともに皆一斉に立ち上がると、その場で深く頭を下げて、そしてまた出てきた時と同じ様に舞台袖に引き上げるのだった。
と、控え室に戻る途中、係りの人から賞状、メダル、トロフィーを返して貰っていると、廊下で他の出場者に口々に声を掛けられた。男女問わずだ。皆して同じ様な笑顔だ。皆して私の演奏を褒めてくれて、そして銀賞、準優勝をした事についても喜んでくれた。
…もちろん、コンクールは言うまでもなく戦いの場だから全員では無い。むしろこうして声を掛けてくれた人は全体のうちの少数だった。だが、それでもその少数のこの子たちの口の端からは、何か卑屈な物だとかそんなのは感じなかった。ただ単純に、お互いに精一杯持てる力を出し切っての今だと、そういうやり切った後の清々しさとでも言うのか、上手く言えないが、その様な感じを受け取っていたので、私も素直に何か理屈をこねる事なく「ありがとう」と自然と笑みを零しつつ返した。
…っと、ここで一応慌てて付け加えると、別にこうして私に声をかけて来なかった多数に対して何か言いたい訳では無い。それだけはハッキリと言っておく。
とまぁそんなこんなで、本来は数分で行けるものを、こうして挨拶を交わしていたら、通常の何倍も時間をかけて控え室に着いた。
私と、それと銅賞の子と優勝した子も同様に挨拶攻めに遭っていたので、この三人が最後に入る形となった。
中に入ると、すでに他の出場者は各々関係者と抱き合ったりなんなりしていて、私はぼーっと少し眺めていたが、
「琴音ー!」と通る大きな声で呼ばれたのでその方角を見ると、そこには満面の笑みを浮かべたお母さんと、それと静かな笑みを浮かべて目を細めている師匠の姿があった。
「お母さーん!」
と何も考えがないままに、無心のまま体の赴くままにお母さん達の元へと駆け寄った。
「琴音ー!やったわね!」
と途中からお母さんからも私に駆け寄り、不意にガバッと腕を広げると、次の瞬間にはガシッと力強く抱きついてきそうになったので、私は慌てて
「ちょ、ちょっと、お母さんってばー…」
と私は手元の賞品三点セットに目を落としつつ苦笑交じりで言うと、「あ、あぁ、そうね?」
とお母さんもさっきの勢いは何処へやら、側のテーブルに私と手分けしてそれらを置いてから、「やったわね!」と少し落ち着いた様子で声を掛けてきつつ、改めて私に抱きついてきた。
私も身長が伸びているとはいえ、今だにお母さんの方が身長が高かったので、上手いことスポッと収まっている感覚を覚えていたが、
「うん!」
と私も胸の中でコクっと力強く頷きつつ返した。
その直後、お母さんはガバッと勢いよく私の肩に手を置いて体を離すと、満面の笑顔ではあったが、時折目元を指で軽く擦りつつ、
「琴音…あなた…頑張ってたものね…頑張ってたもんね…」
と若干涙声で何度もそう呟くのを見聞きして、普段はアレコレと複雑な想いがある為に、その様な姿や言葉を聞いても我ながらかなり冷めた気持ちを覚えていたのだが、この時ばかりは眼鏡なくお母さんのその言葉を丸々受け止めたせいか、この時初めて自覚的に涙がホッペを伝うのを気づけた。
そして私からも「うん…うん…」と同じ回数分答えていると、ふと視界の隅に師匠の姿が映った。
ふとお母さんに目配せをすると、何も言わなかったが伝わったらしく、フッと微笑んだかと思うと、視線だけを師匠の方に流したので、数歩分離れた師匠の前に出た。
師匠は今だにつば広帽子とサングラスをしていて、暫くこちらジッと見つめてきていたが、突然何も言わないままに、お母さんと同じ様にガバッと抱きついてきた。その瞬間、あまりの勢いでか、帽子が師匠の背後に落ちていくのが最後に見えた。
「し、師匠…?」
なかなかそのままの体勢のまま変えないでいるので、私は少し戸惑い気味に声を漏らすと、また同じ様に勢いよく私から離れて、床に落ちた帽子を軽くはたき、そしてそれを被り直すと、コンクール前とは打って変わって、周囲を気にする様子を一切見せないまま、今度はサングラスを取った。その下から現れたのは、長い付き合いの中でも見たことの無いような、一番の柔和な微笑みを見せてくれていた。
と、それも束の間、これもお母さんと同様に私の両肩をガシッと掴んだかと思うと、
「よくやったわね!よくやったわね琴音!本当によく…」
と初めの方は明るい笑みを浮かべつつ繰り返し言っていたのだが、途中からは段々と語気が弱まっていき、終いには涙を堪えるためか、苦悶をしている様な表情と、それでも気丈に笑顔を作ろうとする、その二つが同居した様な顔を向けてきていた。
「もうダメね…」
師匠は私の肩から手を離すと、目をこするんでも無く、ただ目元に指の側面をそっと添えつつ、照れ笑いを浮かべていた。
「師匠としてキチンと弟子の功績に対して、オタオタせずに声を掛けてあげようと思ってたのに…」
「…師匠!」
と私は、一人で何故か反省を始めた師匠を見ていて、色んな感謝の言葉が心の中を渦巻いていたが、それを一度に口にする事が困難だと分かった次の瞬間、考えるよりも身体が動いて、気付いた時には師匠に飛びかかる様な勢いで抱きついた。
「おっと…」
と咄嗟のことで声からも驚きを隠せていない様子が聞き取れたが、流石は私の師匠(?)、そのまま後ろに倒れる事なく、キチンと私を受け止めてくれた。
私は師匠に飛びついたまま、その胸に顔を埋めたまま身動き一つせずジッとしていた。何でそうしていたのか分からない。ただこの時は、時間の許す限りずっとそうしていたかったのは紛れもない真実だった。
「…ふふ、もーう」
と顔は見なかったが、師匠は明らかに呆れた風な口声を漏らしていた。
「私の弟子がこんなに甘えん坊だったなんてね…?」
と囁く様に言うと、師匠の方からも、さも壊れ物に触れるが如くに、そっと優しく包み込む様に抱きしめ返してくれた。
どれほどそうしていただろう?どちらからともなく体を離して、私と師匠が顔を見合わせて微笑み合い、そしてそのままお母さんとも微笑み合っていたその時、不意に一人の男性が控え室に入ってきたのが目に入った。その瞬間、控え室の空気が変わった様に感じた。その男性の姿を見て騒めき立っていた。
まぁそれもそのはず、その男性というのが、そう、先ほど舞台上で私たちに賞を受け渡していたあの老人だったからだ。
まぁそもそもこの老人に対してざわつくのは何も今日の審査の責任長だからという理由だけではない。先ほども言った様に、この老人は日本でも有数の交響楽団の首席指揮者を勤めていたので、音楽ファンなら色めき立って不思議では無かった。
とここで老人の姿を見た瞬間、師匠はハッと大きく目を見開いたかと思うと、慌ててサングラスをして、そして帽子を目深く被り、そして軽く顔をソッポに向けていた。
何だかその反応が過敏に見えて、またそれが面白く感じ、私はジッとそんな様子を笑顔で眺めていたのだが、老人の方は視線が一斉に注がれているのには構わずキョロキョロと辺りを見渡していたが、ふと私と視線が合うと、「あぁ!」とこっちにまで声が聞こえる程に声を上げると、一直線に私の元に歩いてきた。それと同時に師匠は私から数歩離れた。
私がその姿に対して、流石にと面白がるのを通り越して不思議がっていると、老人が笑顔で私に話しかけてきた。
「あぁ、いたいた。いやぁー、本来は舞台上で発表する流れだったのだが、何せこうしてこちらのコンクールに関わらせて頂くのも久しぶりだったから、段取りをとちってしまってねぇー…って、あ、いや…」
と開口一番一人でペラペラとまくしたてる様に話すと、今度はそんな自分に対して苦笑いを浮かべつつ、
「望月さん…だよね?」
と聞いてきたので、私はすっかり呆気にとられていながらも「は、はい…そうです」と返した。
すると今度は満面の笑みを浮かべたかと思うと、私に右手を差し出してきながら、
「今日はおめでとう!」
と言葉を掛けてきたので「あ、ありがとう…ございます」と返した。…もうこの時点で、私は早くこの場から逃げ去りたかった。何せあれだけ控え室に来てからずっと注目されていたこの老人が、ずっと私に構ってくるために、必然と他の人々の視線が私に集まって来ていたからだった。恥ずかしすぎて、穴があったら入りたい気分だった。
と、そんな私の心中など知る由もない老人は、次にお母さんに握手を求めていた。お母さんは持ち前の社交性で程々に明るく対処していたが、次の師匠はそうはいかなかった。
師匠も握手に応じていたが、サングラスをしたままで、それに顔を若干背けていたのを見た老人は、訝しげにジッと真顔になりつつ眺めていたが、フッと短く息を吐くと、私の事、そしてその指導に対して褒めた後に、また私の元に戻って来た。
「…さて、望月さん、私が今ここにわざわざ来たのはね、ある事を君にお願いしになんだ」
「あ、ある事…ですか?」
急に何を言い出すのか、そして何をお願いされるのかと身構えつつ返すと、老人は「あはは!」と愉快げに笑って見せてから続けた。
「ほら君…プログラムか何かで見なかったかな?このコンクールの決勝の後には、”後夜祭”があるって」
「え…あ、あぁ、はい、知ってます」
と私は一瞬何を問われたのか判断出来なかったが、冷静に記憶を手繰り、すぐに思い至ったのでそう返した。
これは今老人が言った様に、プログラムにも書かれていたし、それ以前にホームページ上にもデカデカと載っていたので、流石の私でもそれは目に通っていた。
「そうかい?良かった…なら話が早い」
老人は人好きのするニコニコ顔から、ふと柔らかい笑みにギアチェンジをして見せたかと思うと口を開いた。
「望月さん…この後の後夜祭、ソリストとして、私のオーケストラと共に演奏してくれないかい?」
「…へ?」
あまりに突然の、そして予想だにしなかった提案に度肝を抜かれ、自分でも分かる程に目をまん丸に見開かせながら老人の顔を眺めた。それから私は何だか気が落ち着かないままに、まずお母さんの方を見ると、お母さんも私ほどではなかったが驚きを隠せない様子だった。次に師匠の方を見ると、師匠は私と同じか、いやもしかしたら私以上に驚いて見せていた。サングラス越しでも分かる程だ。ついさっきまで身を隠す様に小さく目立たない様にしていたのに、正面から老人を見据えていた。気づけば辺りも静まり返り、それによって尚更突き刺す様な視線を肌にヒリヒリと感じる様だった。
これほど驚くのも無理はないと了承してほしい。何せこれは大分前にも触れたが、師匠と私とでどこのコンクールに出ようかと話し合っていた時に、最終的に今出てるコンクールに決めた大きな要因の一つがコレだったのだ。勿論このコンクールが、師匠と京子の初出会いの場というのもあって、私も間接的に関わりたい意味も込めて出てみたかったのは事実だったが、その時にも言ったが、私に密かな夢、オーケストラの中でピアノを弾いてみたいという大きな夢があったのだ。ピアノが実感として上達し始めた頃からのだ。ホームページを眺めていた時に、『決勝に進出した者のうち、成績如何ではオーケストラとの共演があります』と載っていたのを見ていたのだ。だからある種私はこれを目標に頑張ってきた所があるのだが、成績如何と書かれている以上、それは暗に優勝しなければその資格を得られないものだと思い込んでいたのだ。
…ここでまた少し話が逸れるのを許して欲しい。私は先ほど表彰をされた時、舞台上で座りつつ思わず知らず涙を零し、そしてこうして控え室でお母さん、そして師匠と抱き合いつつまた涙を流した訳だが、これには理由があった。
何を今更と思われるかも知れないが、最後まで聞いてほしい。
勿論初のコンクール出場にして、我ながら上手く決勝の舞台にまで昇り詰め、そして最終的な結果として何と全国の中で二位になれた、その嬉しさのあまりに涙を流したのは本当だ。だが、それと同時に、これはそこまでこの時に覚えた感想では無かったが、そうは言ってもやはりどこかで、優勝したかったという想いが強くあったのだろう。私自身はその所謂”名誉”面に関しては冷めた見方をしていると自分で分析していたのだが、意外と”熱い”部分もあったらしい。
これは余談だが、後日にお母さんや他の人に準優勝について誉められるたびに、「優勝したかったなぁ」と嘯いてみたり、師匠に対しては一度真剣に、本当は優勝したかった旨を話したりした。
…っと、何で今こんな話をしたのかと言うと、さっきも言ったように、優勝者しかその後夜祭のメインイベント、オーケストラとの共演というのが出来ないと思い込んでいた私は、もう一つの夢が破れたという点でも悔しくて泣いたんじゃないか…という自己分析を披露したかったのだ。…まぁそれだけだ。本筋に戻そう。
私は頭の中身を整理するのに精一杯だったが、やっと今言われた提案が私の中で現実味を帯びてくると、何とか嬉しさのあまり飛び上がりたくなる衝動を抑えつつ
「…はい、私でよければお願いします」
と老人に返した直後、お母さんと、すっかり私の真横に近寄って立っていた師匠に「…いい、かな?」と聞いた。
お母さんはまだ何が何だか事態を把握しきれていないようだったが、
「あなたがしたいなら、そうしなさい」と笑顔で言ってくれた。
「うん!で、あのー…」
と隣の師匠の顔を下から覗き込むように見つつ遠慮気味に声を掛けると、少し想像とは違って、師匠は間を空ける事なく満面の笑みを浮かべて返した。
「ふふ、何を躊躇うことあるの?あなたのコンクールよ?そして、あなたが自分の力で手にした機会、それをどう活かそうがあなたの自由なのよ?…やって来なさい!」
「…はい!」
と私が師匠に同じ類の笑みで返すと、気のせいかも知れないが、その瞬間また控え室に活気が戻ったように感じた。
「よし、じゃあそうと決まれば…」
と老人はまた人懐っこい笑みを浮かべつつ言った。
「これから何十分か、打ち合わせとリハーサルをしなくちゃ…あ、お母さんとお師匠さん?」
「は、はい」
とお母さんが返事をすると、老人は同じ笑顔のまま言った。
「他にも、もし望月さんの応援に来られた方がいらっしゃるのなら、私たちが打ち合わせをしている間に声をかけてあげて下さい。今会場は人々が掃けて空になってますが、もし良かったら後夜祭が始まるまでの間、そこでリハーサルをしますので、その合間に一度顔を合わせた方がいいでしょ?心配しているでしょうし、どうぞ会場内に案内してあげて下さい」
「は、はい、ありがとうございます。…じゃあ後でね、琴音」
「うん」
お母さんと師匠に見送られながら、出口まで他の参加者たちに声を掛けられながら老人と二人で外に出た。
「本当はねー、会場内での記念写真とかは、後夜祭が終わってからして貰う事になっているんだけれどねぇ?」
と廊下を歩いつつ老人が話しかけてきた。舞台とは反対方向だ。
「こうして後夜祭に出場するのが決まった人にだけ、特別にその関係者のみなさんも含めて許す事になっているんだ」
と老人は言い終えると、真横を歩く私に笑みを向けてきた。
「は、はぁ…」と若干の緊張を覚えつつそう返した。
それもそうだろう、半分以上諦めていた所でのこの状態、そして驚きが引かないままに今度はそのオーケストラの皆さんと打ち合わせをして、今日のうちに演る事になるだなんて、それこそ思いもしなかったからだ。
そんな本番とはまた一味違った緊張を孕みつつ老人について行くと、とある両開きのドアの前で立ち止まった。それから老人は間髪入れる事なくそのドアを開けた。元から音は漏れていたが、開けた瞬間Aの音、ドレミで言う所の”ラ”の音が大音量で鼓膜を振動させてきた。
と、老人が入った瞬間、その音は一斉に止んだ。
「やぁやぁ、お待たせー。ほら、望月さんも入って」
「は、はい…お邪魔します」
中に入ると、入口からでは分からなかったが、中々に広い空間が広がっていた。壁の一部は鏡張りになっており、顔をいくらズラしても映る自分と目が合った。どうやらリハーサル室のようだ。
もう既に入っていた三十人ちょっとの老若男女が、目の前に譜面台を置いて、それぞれ自分の楽器を持って半円形に座っていた。
その中央には指揮者台もあった。その脇…コンマスのすぐ近くにはグランドピアノも設置されていた。
みんなカジュアルでは無かったが、私ほどにはフォーマルでは無かった。
と、一同が皆して私に一斉に注目しながら多様の笑顔を向けてきたので、何だか気恥ずかしく身を小さくしていると、それを他所に老人が明るくそれぞれに声を掛けていた。
「やぁ、待たせてしまったかな?」
「待ちくたびれましたよー」
と、コンマスの位置に座る初老の男性がニヤケつつ返していた。
とここで不意に目が合うと、コンマスは笑顔を浮かべて「ようこそ」と穏やかに声を掛けてきたので、私は慌ててその場でお辞儀をしつつ「よ、よろしくお願いします」と返事をした。
すると何処からともなく「ふふ」と優しげに微笑む声が楽団内から聞こえてきたかと思うと、「うん、よろしく」とまた皆を代表してか、コンマスがその場で立ち上がると握手を求めてきた。
それに対して少し恐縮しつつ応じると、それを合図に他の皆も順々に私に握手を求めてきた。皆言い方こそ違っていたが、大体似たようなものだった。私の本番での健闘を讃えてくれたりした。その合間に老人が「この人らはね、私が指揮を振っている楽団の皆さんなんだ」と紹介してくれた。その中の精鋭だという補足も忘れずに。
流石に人数が人数だったので、軽くとは言っても数分ばかり時間が掛かったが、最後の一人とし終えると、老人が私にピアノの前に座るように言うので、素直に従って座った。
「さてと…」
老人はいつの間に用意していたのか、指揮者台の脇に置かれたパイプ椅子に座ると、私に話しかけてきた。
「望月さん、これから後夜祭のリハをする訳だけれど…急も急だから、そのー…突然のことで驚きもするし、それに伴って緊張もするよね?」
「は、はい…まぁ」
と私は照れ笑いと苦笑を同居させたような笑みを浮かべつつ答えた。すると老人は「ははは」と明るく笑うと言った。
「だよねぇー。まぁ、これも毎年恒例ではあるんだけれど、取り敢えずはね、今までの人もそうやって緊張してしまってるから、それをほぐす意味でも、少しばかり会話をしてるんだよ。何せ…折角のお祭りなのに、その主役であるはずの当人が緊張のあまり楽しめないで終わっちゃ、勿体無いからね」
「主役って…私のことですか?」
と自分でも場違いな返しだと思ったが、そう思った時にはもう口から出ていた。
それを聞いた老人はキョトンとしてみせると、次の瞬間にはまた「ははは」と明るく笑い、その表情のまま言った。
「そりゃそうだよー。…さて、この会話というのも、まず主役の人から質問を受け付けるんだけれど…何かある?」
「え?えぇっと…」
これまた急に質問があるかと話を振られて少し戸惑ってしまったが、根っからの”なんでちゃん”…もう中二にもなって”ちゃん”付けは”イタイ”気がしないでも無いが、そのなんでちゃんからしたら、それはもうずっと前から聞きたくて仕方なかった事が胸の中を渦巻いていたので、実際は遠慮がちにだったが質問してみることにした。
「そうですねぇ…あのー」
「ん?何かな?」
老人は好奇心に満ち溢れた笑みを向けてきていた。
「はい…そのー…何で私が選ばれたんですか?」
「…というと?」
そう聞き返す老人の表情は、想定内だと言わんばかりに顔つきに変化は見られない。
「だってそのー…私は今回の結果は準優勝でしたし、そのー…よく知らないんですけれど、こういうのは優勝者が選ばれるものだとばかり思ってたものですから、まさか私が選ばれるだなんて思っても見なくて…」
と私は照れ隠しにホッペを掻きつつ、失礼を承知で途中から視線を明後日の方角に飛ばしながら言った。
と、すぐに反応が返ってこなかったので、ゆっくりと視線をまた戻すと、老人は私に向かって子供のような悪戯っぽい笑顔を向けてきていた。そして目が合うと、口調もそれに合わせる様に言った。
「…ふふ、君は緊張をしていると口では言ってたけど、なかなかにどうして、キチンと筋道だった話をしてくれるじゃないか?それに…中学生とは思えない程の言葉遣い…君らならできる?」
とここで老人は楽団の皆の方に顔を向けた。すると一同はクスッと笑ったかと思うと「いいえー」と呑気な調子で返していた。
「いえいえ、咄嗟には無理ですよ。それに中学生だといったら尚更です」
と最後にコンマスが明るく返すと、老人はウンウンと頷いて見せていた。そんな空気の中、どう反応をしていれば良いのか判断出来なかった私は、微動だにせずに成り行きを見守っていた。
と、そんな私の様子に気づいたか、老人は若干申し訳無さげに笑いつつ言った。
「…あ、いやいや、ごめんごめん!主役をほっといて勝手に盛り上がってちゃいけなかったね?…ゴホン、ではその質問に答えようか。まぁ細かい話はともかく、確かに何で自分が選ばれたのか知りたいよねぇ?…とその前に望月さん、そもそもの所、どうやって選定されると思っていた?」
「え?それはやっぱり…今言いました様に、そのー…成績順かと」
「うん、そう思ってたって言ってたね。でも実際は優勝者でなく、準優勝者の君が選ばれた…って、準優勝でも十分凄いんだけれど」
アハハと老人は自分で言った直後に笑っていた。
「はぁ…。あ、そうそう、でも実際は違うよね?じゃあ、どうやってるのかと言うとね…」
とここで老人はふと楽団の方を向き、ぐるっと全員を見渡してから続けた。
「ここにいるみんなに選んで貰うんだ」
「…え?」
それを聞いた私も、思わず老人に倣って一同に顔を向けた。皆して私に色んな種類の笑顔を送ってくれていた。
私がまだ視線を戻さない間に、老人は愉快げな口調で先を続けた。
「まぁ、少数精鋭とはいえ、それでもこの人数だからねぇー。全員という訳ではないけれども、何人かは密かに観客に紛れて客席で演奏を聴いたりしてね、それ以外はこの部屋で聴いて、それで、”誰と一緒に演奏してみたいか”を多数決で決めるんだよ。…私も含めてね」
最後の方で私は老人の方に顔を戻したのだが、老人は最後に目を瞑った笑顔を見せた。
「なるほどー…」
と、本当に自分でも納得したのか何なのか定かでは無いのに、間を埋める為だけに声を漏らした。
「ふふ、さっきも舞台で言ったけれどねぇ」
と老人は今度は優しく微笑みつつ穏やかな調子で言った。
「コンクールの審査は彼らとは別に、この場にはいない審査員と協議の上で決めたんだけれど、その時も言ったよね?なかなかに僅差だって」
「は、はい…」
と、まだアレが今日の出来事だったのかも怪しく思うほどに記憶が曖昧だったが、そう返した。
「その中身は今も言えはしないんだけれど…まぁ端的に言って、君と優勝したあの子では、タイプが丸っきり違っていて、それ故に好みが大きく分かれるんだ。まぁ、それが今に繋がるわけだけれども…つまりね、まず結論から言っちゃうと、今回の後夜祭の出場者は、満場一致で君に決まったんだ」
「え?」
と私は先ほどから代わり映えのしない声を漏らして、またこれも同様に楽団の方に顔を向けた。皆は目が合うと笑みを浮かべつつ頷いて見せていた。
「これは結構珍しくてねぇ?まぁ毎度、優勝者と準優勝者の二択で分かれることは良くあるんだけれども、今回の様に満場一致する事は珍しいんだ。それをね、皆を代表して私が訳を説明させて貰うと…」
とここで一度老人は溜める様に言葉を切ってから、一度視線だけ軽く楽団に流すと、それから私に微笑みつつ言った。
「君の演奏からは、この手のコンクールには珍しく、型に嵌っていない、いや、そう思わせつつ、どこか何か色んな側面を見せられてる様な、一口だけ食べただけなのに、色んな味わいを感じさせてくる様な、そんなイメージを持たされたんだ」
「…い、いやぁー」
と、私みたいな未熟者が、プロの演奏家達の前で口を挟むのはどうかと思ったが、持ったが病で、どうしても反応せずには居れなかった。
「そ、そうです…か、ねぇ…?」
「…ほら先生?」
とここで不意にコンマスが口を挟んだ。口調に笑いが混じっている。「そんな面と向かって褒められたもんだから、彼女、困っちゃってるじゃないですか?」
「あ、そっか。…すまんね、望月さん」
「あ、いえいえ…」
老人がコンマスの言葉を受けた後、苦笑まじりにそう言うので、私はまた慌てつつ返した。
「とまぁ、そんな訳でね」
と老人は気を取り直して続けた。
「優勝した子も、それはそれは上手かったんだけれど、何というか…まぁ、コンクール仕様って感じだったんだよ。あ、いや、別にこれは貶しめる意図は無いんだけれどね?それはそれで一つの個性だろうし。でもまぁ…どうせこうして一期一会、いつまた何処で一緒に演奏出来るか分からないと思った時に、君のような今時珍しい、角度を変えて見れば見るほど違う側面を見せてくれるような、そんな面白い人と、是非こうしたお祭りの舞台でご一緒したいなー…って、ここにいるみんなが同様に思ったのさ」
「…ふふ」
老人が言い終えた後に、また無邪気に笑って見せたので、釣られたのか私も思わずクスッと笑みを零した。この老人が身にまとっている雰囲気のお陰か、自分でも分かる程にリラックス出来ていた。
「褒めてくださってありがとうございます」
と気後れなく自然にお礼の言葉を言うと、「如何いたしまして」と老人も笑顔で返してくれた。
「さてと、場も和んできたところで…」
そう言いながら老人はのそっと立ち上がると、指揮者台の上に登り、そして譜面に目を落としつつ言った。
「お祭りとはいえ、手を抜いて良いって事じゃないからね。本気で楽しむには、それなりに準備をしなくちゃ…」
老人のその声と共に、楽団員全員がゴソゴソと譜面を見たり楽器の準備をし出した。
このスイッチの切り替えの早さもプロのうちなのかな?
などと知ったかぶって感心しつつ、私も何となくそれに倣って、既に置かれていた譜面に視線を向けた。
「望月さん、譜面を見てくれてる?」
と老人が声をかけてきたので「はい」と短く、しかしハッキリと返した。
すると老人はニコッと一度微笑むと、
「ところで、その曲だけれども…君はそれ知ってるかな?」
と聞いてきたので、正直一瞬見ただけで分かってはいたのだが、それでも一応もう一度確認してから「はい」とまた返事をした。
「では、この曲、知ってるだけじゃなくて、そのー…弾けるかな?」と声の少し心配げな様子を混ぜつつ聞いてきたので、これはどこか私の何かに引っかかったのか、思わずムキになりながら、しかしそれでも笑顔で「はい」と力強く答えた。
…というのも、この曲は散々繰り返し師匠の家で弾き込んでいた曲だったからだ。
その曲とは、ショパンのピアノ協奏曲第1番ホ短調だ。短調というだけあって、曲通して少し哀愁や暗さを滲ませるような曲なのだが、その感じが私は大好きだった。
師匠のところでよく弾いていたとは言ったが、言うまでもなくこれはオーケストラと一緒に演奏するものなので、実際は音源を流して、それに合わせて弾くといった感じだ。曲が始まって最初の四分ほどは出番が無いが、それからはピアノがメインに曲が展開していく。まぁこの曲について説明をし出すと長くなるし、曲自体も軽く三十分は越えるので省かせて頂くが、なかなか弾くのは難しいのだが、それでも上手く弾ききれた時の嬉しさったらないものだった。
とここで一つ、これは直接聞いた訳では無いから定かではないが、恐らくそうだろうと言う話を付け加えさせて頂く。というのも、何で老人も含めて皆さんが、数ある協奏曲の中でこの曲を選んだのかという事だ。これは想像するに、事前に私がこの曲を弾ける事を知っていたからだと思われる。何故そこまで自信を持っているのかというと、ネタバラシをすれば、このコンクールに申し込むに当たって、アンケートを取らされたのだ。
その中の数ある質問の中で、『協奏曲では何か弾きこなせる、もしくは弾き慣れたものはあるか』というのがあった。アンケートに答えている時も側に師匠がいたのだが、師匠に私が何の曲なら答えて良いかを相談したところ、師匠は色々と何曲も言ってくれたが、その中から抜粋して三曲ほど答えた中の一曲がコレだったのだ。
「そうかい?では…」
と老人もそれ以上深く何も言わぬまま、合わせるのが難しい所を中心にリハーサルを重ねた。…といっても、実質三十分ちょっとくらいか、私はこんな簡単に終わらせていいのかと心配したが、それが顔に出ていたのか、老人は笑顔で「まぁさっきは手を抜かずにとは言ったけど、煮詰め過ぎてもキリが無いから、後は本番、どれだけ気を楽に楽しんで演奏出来るかだけだからさ?まぁ、よろしく頼むよ!」
と握手を求められたので、「は、はい」と私も苦笑いを浮かべつつ応じた。
それからは楽団の皆と一緒に支度を済まして、ぞろぞろと部屋を出て舞台に向かった。
舞台に出ると、そこには本番時とは違って、ピアノ以外にリハーサル室にあったような物が、そのままそっくり設置されていた。
ここまで楽団の皆と一緒に列をなして来たのだが、最後尾を老人と共にしていたので、舞台上には一番最後に入る形となった。
私が入る頃には、楽団員は皆自分の定位置に座りゴソゴソと準備をしていたが、ふとその時
「あ、琴音ー!」
と、最初の方は一人の声しかしなかったが、途中から何人かの声が混ざって私の名前を呼ぶ声が客席からした。流石、音楽に特化したホール、実際はそれほど大声では無かっただろうが、こちらまでよく声が響いた。
この時初めて客席を見た。老人が言った通り、本番時、そして表彰時とはまた別、人もまばらな客席は照明が点けられ、隅々までよく見えた。その私のいる舞台上から数列ほど離れた位置に、ある集団が固まっているのが見えた。その中の余所行きの装いの、私と同年代の子供たちが私に笑顔で手を振っている。そう、裕美たちだった。「あ、裕美ー。みんなー」
と私も声を上げると、裕美たちは笑顔で早足にこちらに近づいて来た。
とこの時、私はふと老人の方に目を移した。何も聞かされていなかったが、後もう少しで本番、最後に何か確認をしたりするんじゃないかと、裕美たちと絡んでいて良いのかと顔を覗いた。
指揮者台上で何やら準備をしていた老人は私の視線に気づくと、一瞬無表情だったが、すぐに笑顔になり、こちらに向かって来る途中の裕美達の方に視線をチラッと流してから言った。
「…ふふ、まだ本番まで時間があるから、ほら、あぁしてお友達が来てくれてるんだから、相手をしてあげて?さっきも言ったけど、今この会場には誰もいないでしょ?本当なら、出場者も含めて記念撮影とかは、後夜祭まで終わってからしばらく会場を開放して、その時にして貰う形式なんだけれど…結構その時は皆一斉にするもんだから、なかなか落ち着いて出来ないんだよ。だから、こうして大会と後夜祭の合間に誰もいない時にやれるのは…後夜祭に出れる者の特典なのさ」
と最後に例の無邪気な笑みをこちらに見せてきたので、「なるほど」と私も笑顔で応えた。
「ほら、行っておいで」と老人が言ってくれたので、「はい」と私は答えると、もうすぐそばまで来ていた裕美達の方に顔を向けた。
そして一つだけある三、四段ほどの階段を使って舞台袖に降りると、その瞬間、「琴音ー!」との掛け声と共に、裕美たちが一斉に私に抱きついてきた。その声はまたもや会場によく響いた。
「おっと…」
私はその勢いに思わずよろけてしまい、苦笑まじりに声を漏らしたが、その抱きついてきた裕美たちと一歩離れた所で立っていた律と目が合うと、次の瞬間、律がこれまた一年に一度か二度見れるかどうかの微笑みをしてみせたので、それが最後の決め手になったか自然と笑みが溢れた。
「ふふ、ちょっとみんなー?」
と私は我に返りまた舞台の方を見ると、老人含む楽団の皆は同様の微笑みを向けてきていた。
「ふふ、構わんよ」
と何も言ってないのに老人が微笑みつつそう言うので、私は小さく会釈をすると、もう頭からは遠慮の字が薄まっていった。
そんなやりとりを目の前で見ていたというのに、裕美たちは興奮した面持ちで、それぞれの見方による個性的なやり方で褒めてくれた。
…この場面を端折るのを勘弁してほしい。何せ皆して一斉に言うものだから、今上手く当時のことを話せないと言うのと、…これこそ身勝手な話だが、上手く話せない分、裕美たちの言葉は私の胸の中に閉まっときたいと思うのだ。
それはさておき、私はそれに対して一つ一つ丁寧にお礼を言っていったが、この時ふと、皆の瞼が若干腫れぼったく見えたのだが、当初これを、いくら照明がつけられたとは言っても、軽く薄暗かったので、その成せる技かと漠然と思っていた。だが、この後しばらくしないうちに、誰かさんによって訳をバラされる事となる。
一通り裕美たちと会話を済ませると、それまでジッと空気を読んでなのか、まだ裕美たちが私のそばを離れない時に、絵里、ヒロ、そして京子さんがゆっくりと近づいて来た。京子はサングラスは外していたがつば広帽子をしたまま明るい笑みで、絵里は何だか愁いを感じさせる今まで見た事のない類いの笑み、そしてヒロも何だか不機嫌なのか、照れ臭いのか、そのどれとも取れるような表情を浮かべていた。と、ふとその後ろにお母さんと師匠の姿も見えた。数歩離れた位置にいる。師匠もサングラスはしていなかったが、帽子を目深に被っていた。
「琴音ちゃーん!」
とまず話しかけてきたのは京子だった。そしてその直後にガバッと力強く抱きついてきた。
「おめでとー!」
「わっ!」
と私は咄嗟のことで思わず声を上げてしまったが、直後に胸に去来したのは、先ほどの控え室での一コマだった。
「あ、ありがとうございます」
と京子が体を離した後に、私が苦笑まじりに返すと京子は何も言わずにウンウンと笑顔で頷くのみだった。
「ほら、二人も」
と京子は不意に一歩後ろにいた絵里とヒロの隣に立つと、絵里の背中を軽く押して前に出るように促した。
「あ、はい…」
と絵里は何だかしおらしく反応して私の前に来た。
私はそんな絵里の様子に何とも言い難い不安に襲われたが、ふと絵里の瞼も若干腫れているのに気づいた。
「え、絵里…さん?」
と私が恐る恐る声をかけた次の瞬間、絵里が何も言わずに、これまた京子と同じ様に抱きついてきた。…いや、同じではないか。
細かい話だが、京子は私よりも大きく、また控え室での一コマでも、お母さん、師匠共に私よりも背が高かったので感触は違った。若干私よりも低い絵里が抱きつくと、自然と私の鎖骨あたりに顔が行っていた。
「え、絵里さん…?」
抱きついたまま何も言わないので、さっきとはまた違う意味でオドオドしたが、数秒ほどそうした後、絵里は勢いよく顔を上げて、両手をむき出しの私の両肩にかけた。少し震えていた。
顔を見ると驚いた。満面の笑みを浮かべていたが、両目からは大粒の涙を零していたからだ。
「え、絵里さ…」
と芸もなくまた繰り返し名前を呼ぼうとしたその時、
「おめでとう!琴音ちゃん!…お、おめでとう…」
と最後の方は涙声で、しかし気丈に笑顔を保とうとしつつ言った。
「え、絵里さん…」
と私はそれに驚きつつも、同じに胸に一気に膨らむ様々な思いに締め付けられる様な感覚に襲われて、それのせいなのか、私の視界も滲んでいくのを感じた。
本当は色々と言いたいことがあったのだが、場が場なだけに自重しようという、我ながら冷静な判断が働き、ただ一言
「…うん、ありがとうね絵里さん」
と、鏡などで見てないから定かではないが、おそらく絵里と同様であろう笑みを浮かべて返した。
「うん!」
と絵里が明るく装い言葉を発すると、
「…ふふ、もーう」
とここで裕美が苦笑を浮かべつつ言った。
「絵里さんったらー…またそんなに泣いちゃってー。琴音、絵里さんたらね、アンタの演奏が終わった後も、”誰よりも”先にポロポロと涙を零してねー?」
とここで絵里に意地悪げな視線を向けつつ続けた。
「受賞の発表の時なんか、また”いの一番”にまた泣いてたのよ」
…”誰よりも”だとか、”いの一番”という言い方にすかさずツッコミを入れたくなったが、裕美がそう言い終えると、今度は絵里が泣き腫らした顔でニヤケながら返した。
「…あらー?それを言っちゃうの?どっかの誰かさんだって同じじゃなかったっけ?…そんな目を腫らして」
と絵里が自分の目元に指を当てつつ言うと、
「うっ!うーん…」
と裕美は言われた瞬間大げさにバツ悪げな反応をして見せた後、私に視線をチラチラと流しつつ、照れ臭そうに首筋を掻きつつ笑っていた。ふと側の藤花たちを見ると、裕美と同様のリアクションを取っていた。それを見て私は、ただただ微笑むだけだった。
この時は誰も言葉を吐かずに、皆して微笑む中、「あははは!」と京子一人が豪快に笑っていた。
「そ、それはさておき!」
と裕美がアタフタとぎこちなく、急に声を上げた。
「何をさておくの?」
とすっかり普段通りの調子を取り戻していた絵里が冷やかしていたが、裕美はそれに対してジト目で一瞥をくれただけで、先ほどから絵里よりもまた一歩離れた所にいたヒロに声をかけた。
「ほらヒロ君、そんな後ろにいないで前に来なよ?」
「え?お、おう…」
ヒロは何だか渋々といった調子でトボトボと前に進み出た。
途中で絵里に微笑まれつつ背中を押されていた。
「…ヒロ」
腕を伸ばせば手の届く距離まで近づいた時に声をかけたが、何故かヒロは中々私に顔を合わせようとしなかった。
私は絵里の時とはまた違った、これまた普段通りでないヒロに対して苛立ちにも似た感情を覚えていたが、ここで何故かふと、何だかヒロがそんな態度をしているのを見て、徐々に何だか恥ずかしさに似た感覚を覚えていった。
…?
これには我ながらに驚いた。ヒロとはもう小学校入学時からの付き合いなので、この中ではお母さんを除いて一番付き合いが長いのだが、今までの内でヒロと一緒にいてこんな感覚に陥るのは初めてだった。こんな所で出所の不明な訳わからない感覚に襲われるのは想定外だったので、思わず自分の胸元に手を当ててみたりした。
と、その時「うーん…」と、呻き声にも似た声が側から聞こえた。その主は言うまでもなくヒロだった。
「うーんと…よ?」
「な、何よ?」
と、まだ恥ずかしさから抜け出せていなかった私は、この場にはふさわしくないとは思ったが、それでも思わず喧嘩腰な物言いで返した。この時までさっきから周りを見てはいなかったが、見なくとも皆してこちらに向かって良くて微笑んでるか、まぁ大体はニヤケ面を向けてきているだろう事は想像できた。…何故か。
と、そんな私の返しにヒロは目をキョトンとさせていたが、次の瞬間「プッ」と一度吹き出すと、苦笑まじりに言った。
「…ったくー、何でお前はこんな時でも喧嘩腰なんだよー?」
その様子が普段のヒロそのものだったので、この時になってようやく出所不明の恥ずかしさから解放されて、自然とニヤケつつ返した。
「…何を今更言ってんのよ?これが私の”地”じゃない?」
するとヒロは大きく溜息ついて見せながら返した。
「なーんだ、ガキの頃から何も変わってねーじゃねーか。せっかく俺が褒めてあげようと思ったのによ」
「お互い様でしょ?それに…いつからあなた、誰かを褒めれる程に偉くなったの?」
「…何か言ったか?」
「聞こえなかった?もう一度言ってあげましょうか?」
と二人で無駄な時を浪費しつつ軽口を言い合って、ここでお互いに無言で顔を突き合わせると、どちらからともなく吹き出すように笑みをこぼし合うのだった。
「ねぇ裕美?ヒロは何も成長してないよね?」
とあくまで軽口の延長で、これも普段から三人でしているノリのままに裕美に振ると、私と目が合ったその瞬間、何だか一瞬真顔でこちらを見てきていた様に見えた。
がしかし次の瞬間、
「え?あ、うんうん!何も成長もしてないし、変わってもないよ…アンタら二人ともね?」
とニヤケつつ言うので、
「おいおい!このへんちくりんと一緒にしないでくれ」
「ちょっとー、こんなお猿さんと一緒にしないでよー」
と私、ヒロがほぼ同時にそう返すと、
「あははは!」
と裕美は明るく声を上げて笑うのだった。それにつられる様に、波状的に笑いが広がっていった。最終的には、一度ヒロと顔を見合わせてから、初めは苦笑から、最終的には明るくお腹の底から笑うのだった。…そう笑いつつも、やはりどこか納得いかない点を残して。
皆と会話が終わった頃、老人がそろそろ良いかと聞いてきたので、「はい」と答えて舞台に戻ろうとした時、
「あ、その前に…」
と老人は舞台袖にいた係員の女性を呼び寄せた。
そして何か耳元で声を掛けたかと思うと、女性は舞台から降りて来ようとしたので、私は登ろうとしたその足を引っ込めた。
係の女性が私の脇を通り過ぎるのを目で追ってると、老人が声をかけてきた。
「さてと!そろそろ後夜祭の始まる時間が近づいていますが、その前に…もし良かったら、この舞台を背に写真でも撮りませんか?皆さんの」
「…え?良いんですか?」
と今まで静かだったお母さんが遠くから返した。
すると老人は無邪気な笑顔で返した。
「えぇ、もちろんですよ。…これも後夜祭出場者の特典です」
と老人は言い終えると、舞台下の私にウィンクをしてきた。
「そこにいる女性が、写真を撮ってくれますので、撮って欲しい方は彼女に写真機なり、携帯なりを渡して下さい」
「どうぞ?」
と係の女性が笑顔で手を差し伸べたので、初めは逡巡して見せたお母さんだったが、「ではお願いします」と笑顔でカメラを手渡した。と、次の瞬間、裕美たちが一斉に女性に駆け寄った。そして自分の携帯を我先にと手渡すのに躍起になっていた。これには流石の係の女性も、私の位置からも分かる程に苦笑い気味だった。
結局一人残らずお母さん以外は師匠や京子まで携帯を手渡したので、女性は側の座席の上にそれらを纏めて置いた。
その間、老人に促されるままに私、お母さん、裕美たち、絵里、ヒロ、師匠、京子の順に舞台に上がった。裕美たちやヒロ、絵里は興味深げに舞台上を見渡していたが、ふと師匠の方を見ると、何やら老人に絡まれていた。いつの間にか帽子を脱いでいた。師匠は何でか照れ臭げで、それとは対照的に京子は満面の笑みで対応していた。そんな様子に気を取られていると、
「では撮りますよー?」
と係の女性が声をかけてきたので、私を囲む様に、ああでもないこうでも無いと言いながら場所どりをした。
最終的に舞台に向かって右から、律、藤花、紫、裕美、中心位置のお母さんと私、師匠、ヒロ、絵里、京子という順に立った。
そろそろ時間だといいつつ、お母さんのカメラを入れて個数分撮らなければならなかったので、何だかんだ時間が経った。撮られながらふと思い出したのは、中学一年生での研修旅行、東京湾上のパーキングエリアで、初めて今日来てくれた四人との集合写真を撮った事だった。後で皆に聞いたら、私と同じだったらしい。
撮り終えると、”本当に”これから本番だからというので、私を残して皆ゾロゾロと舞台を降りていった。その時に、私に「頑張ってね」的な言葉を掛けてくれた。
それに応じると、まず登場から始めるというので、老人含めた楽団員と共に舞台袖に引っ込んだ。
それと時を同じくして、会場に音声が流れたかと思うと、ゾロゾロと人々が入ってくるのが気配から感じた。
私は好奇心に駆られて舞台袖からそっと客席を覗き込むと、さっき写真を撮った時とは微妙に順序が違っていたが、最前列の客席に仲良く横並びに座っていた。
と、ここで不意に背中にそっと手を当てられたので振り返ると、そこには老人の笑みがあった。
「さて…楽しもうね?気楽に…でも気は緩めずに」
と声をかけてきたので「はい」と目つきは真剣に、しかし口調は朗らかに返した。そしてまた顔を舞台へと向けた。
と、ここで前触れもなく客席の照明が弱められたかと思うと、
ブーーーっ
というブザーが鳴らされた。これから後夜祭が始まる。
鳴り終えると、楽団員がゾロゾロと舞台へと出ていった。私の脇を通るたびに、無言ながらも笑みを浮かべつつ軽く握手をした。
そして最後に老人が舞台に出ると、老人は深々と客席に向かってお辞儀をした。その瞬間客席からは大きな拍手が沸き起こった。
この時初めて…と言っては失礼だと思うが、老人がクラシックファンにこれほど認知され、それと同時に人気があるのを知った。
この拍手を聞いたその瞬間、また体に緊張が溜まるのを覚えたが、すぐにその場で軽くストレッチをした。
とふとここで舞台上の老人と目が合った。私のそんな様子に対してだろうか、好奇心に満ちた笑みを向けてきていたが、しばらくして、『もう呼んでもいいかな?』と言いたげな視線を向けてきたので、私は力強く頷いた。
すると老人は、まだ拍手の残る客席に対して体を向けつつ、右手をバッと私のいる舞台袖に向けた。
私は一度「はぁー…」と深呼吸をしてから、コクっと自分に対して頷き、それから静々と、しかししっかりとした足取りで、舞台上に足を踏み出していったのだった。
第12話 沙恵と京子
「はぁ…ごちそうさまでした」
私は空になったお皿を流しに持っていき、既に他の食器類を洗っているお母さんに声をかけた。
「はーい」
とお母さんは私に笑顔を振りまきつつお皿を受け取った。
と、私の様子を見たお母さんは、やれやれと言いたげな表情を浮かべつつ「もーう」とため息交じりに声を漏らした。
「シャキッとなさい?今日から二学期でしょ」
「う、うん」
と私はそう言われてもまだテンション低めに返した。
それを見たお母さんは手をタオルで拭いてから、私の背中をポンと叩いて笑顔で言った。
「ほーら、今日朝礼があるんでしょ?シャキッとしなさい?」
そう、それがあるからこうして私は朝から気が重いのだ。
「はぁーあ…」
と私はワザとらしく大きく溜息をつきつつ、学校の支度をする為に自室に戻って行った。
…何でこれ見よがしに、ここまで大袈裟とも取られかねない程にテンションがダダ落ちなのか説明がいるだろう。それにはまず、あのコンクール後の、今日までの話に軽く触れざるを得ない。
まず後夜祭自体について。まぁ結論から言えば、周囲の本心はともかくとして、私自身はとても楽しめた。ショパンのピアノ協奏曲第1番ホ短調を、オーケストラの皆さんと共に演奏した訳だったが、この三、四十分間は至福のときだった。後になって色んな人に、演奏時の私の写真を見せて貰ったが、タイミングにもよったのだろうが、どの写真に写る私は笑みを零していた。自分でも気付いていなかったが、それほどまでにオーケストラと共演できる事が嬉しく、そして楽しかったのだろう。勿論ここで言い訳をさせて貰うと、急も急だったので失敗が無かっただなんて言わないが、それを抜きにして楽しめ、そして終わった後に、お祭りだからと贔屓目があったのだろうが、客席からは暖かく大きな拍手を頂き、そして老人を含むオーケストラの面々から先に、「今日の共演はとても楽しかった」というお褒めの言葉を頂いて、私からも慌ててお礼を言ったのだった。
後夜祭が終わった後は、しばらく会場に残り、裕美たちと写真を何枚か撮ったりして、会場の外に出た時にはもう夜の九時に近付こうとしていた時だったので、打ち上げはまた別の日のと約束をし、まず銀座で紫、藤花、律とサヨナラをし、そして残る面々で仲良く地元へと帰ったのだった。
…ここまで聞いた中では、どこにそんな落ち込む要素があるのだと不思議に思われているだろうと思うが、問題はこの後にあった。
決勝の日がそもそも始業式の十日前だったというのもあって、その間に裕美や絵里、ヒロなどの地元組、そこに師匠と京子、そして裕美とヒロのお母さんまでが加わって、駅中のそこそこ格式のある和食屋で食事会をしたり、これとはまた別に、律たちのお母さんなども加わった”学園”関係の皆ともまた別に食事会を催してもらったり、これはただ連絡したのみだったが、勿論義一に、そして美保子や百合子にも結果報告をして、それに対するお祝いの言葉などを受けたりしていたりと、何だかんだ忙しない夏休み終盤を過ごしていたのだが、始業式の二日前、不意に学園から我が家に電話がかかってきた。この時私は家にいなかったのだが、帰ってくると、お母さんがわざわざ玄関まで出迎えにきて、何故かテンション高く挨拶をしてきた。この時の私は不思議に思いながらも普通に挨拶を返したが、次の瞬間、衝撃的な話を聞かされた。
まず学校から電話があった旨を話したその後で、その要件を言うのには、何でもコンクールの主催元から連絡が入ったとかで、それを是非とも始業式で壇上で触れたいから、もしかしたら演壇に上がっても貰うことにもなるかも知れないとの内容だったらしい。
これを聞いた時、私は唖然とした。何でそんな大袈裟な話になっているのかと。と同時に、この時すぐ頭に思い浮かべたのは、私自身は覚えていなかったのだが、小学生時代、裕美が水泳で都大会を優勝した時に、朝礼で祝られていたという事だった。
「はぁー、許されるのなら朝礼にお邪魔して、琴音のその勇姿を見たいわぁ」などと言うお母さんの言葉を流しつつ、私は早速裕美にその話をした。
話を聞いた裕美は、電話越しにでも分かる程に愉快げに笑ってみせたので、私は少し膨れてみせつつ「笑いごとじゃないよぉー」と言った。すると裕美は、まだ笑いが収まらない様子で
「まぁ諦めるんだねー。アンタがそうやって変に目立つような真似をしたくないっていうのは、私くらいの付き合いがあればすぐに分かるけれど、でも大概の人にとっては、そうやって大勢の前で褒められたりするのは嬉しい事なんだから、まぁ…開き直って、なかなかない体験をすると割り切って行くしかないんじゃない?」とまるで他人事…いや、他人事なのだがそう軽く諭されてしまったので、私は渋々でも頷くほか無かった。まぁ、経験者の裕美にそう言われてしまっては仕方がない。
というわけで、始業式の朝、何も夏休みが終わってしまったことに対してブルーになっていたんじゃなく、この後に起きるであろうことに対してブルーになっていたのだった。
「いってきまーす…」の声と同時に、のっそりと家を出た。天気は私の気分に反してぴーかん照り、まだまだ余熱の残る夏の日差しだった。
「おーい、琴音ー!」と裕美のマンションの前で呼び止められた。私はまだ歩道にいたが、裕美がエントランスから笑顔でこちらに駆け寄って来た。これまた私に反して明るい笑顔だった。日差しにも負けていない。
「おはよう…」と私が肩を落とし気味に挨拶をすると、「おはよう!」とワザとなのか普段よりもテンション上げ気味に返してきた後で、「もーう、何でそんなにテンション低いのー?」とニヤケながら付け加えた。
「あなたねぇ…」とジト目で裕美の方を見た後、駅に向かって足を踏み出しつつ言った。
「…そりゃあテンションも上がらないわよ。この後の事を想像するだけで、気が滅入っちゃう」
「あはは」
と裕美は一度明るく笑い声を上げると、そのまま表情を崩さないで言った。
「私も小学生の頃、初めての時は確かにナイーブにはなってたけれど、今のアンタほどでは無かったわ。…私の小学生の頃に負けてるわよ?」
「うるさいわねぇ…」
と裕美のニヤケ面に一瞥をくれると、フッと息を短く吐いてから、今度は私から意地悪げな表情を浮かべつつ言った。
「私はどっかの誰かさんと違って、繊細なのよ」
「繊細ー?」
「何よ?何か文句でも?」
と私が聞くと、裕美はクスッと一度笑って見せてから言った。
「自分で繊細って言ってる人が、普段からあれだけ毒を吐くかね?」
「…私がいつ毒を吐いたって言うのよ?」
「え?…普段から」
と裕美はワザとらしくキョトンとした表情を見せつつ返してきたので、もうこうなったら仕方ないと諦め気味に苦笑をしていたが、ふとある言葉が浮かんだので、それを口に出した。
「…仮にそうだとしても、それはねー…コンプレックスの裏返しなのよ。それのなせる技なの」
我ながら上手い事を思いついたと思ったが、言われた当の裕美は、今度は心からのキョトン顔を浮かべて、何か吟味をしている風だったが、ふと今度は裕美が苦笑まじりに言った。
「…もーう、アンタはまたそんな分かるような分からないような、分かり辛い言い方をしてー…ほら、さっさと駅に向かうわよ?」
裕美と会話を楽しんだお陰か、良くも悪くも開き直りの心境に達していたが、乗り換えの秋葉原で待ち合わせをしていた紫と会うと、必然的に今日の朝礼の話になったので、また胃が重くなるのだった。そんな私を他所に…いや、巻き込みつつ、紫と裕美は四ツ谷に着くまで終始盛り上がっていた。
四ツ谷に着いて、学園までの通り道上にある地下鉄連絡口の方に向かうと、そこには既に藤花と律が立って待っていた。お互いにほぼ同時に姿を認めると、どちらからともなく手を振りあった。
私含めた五人が寄り合うと、挨拶はそこそこに、またしても私の話に終始した。以前にも話した通り、学園までの道を私たちは二列に原則並びながら歩いていくのだが、前方を歩く裕美、紫、藤花は何かを話す度に、こちらをチラチラと見てきながら笑い合っていたので、「ほら三人とも?道でそんなフラフラしてちゃ、回りに迷惑でしょう?」と保護者風なイジらしい抵抗をしてみたが焼け石に水だった。ふと助けを求めるつもりで隣を歩く律に視線を移したが、律は律で珍しく、目元と口元に若干の意地悪げな微笑みを湛えて見せていた。私はもう抵抗は虚しいと、一人大きく溜息をついて、学園までの道を足取り重く行くのだった。
学園に着き、いつものように中学二年のクラスが纏まって接している廊下まで揃って行き、また後でと声を掛けつつ私と律のクラスの前で別れた。
それから私と律と揃って教室に入ると、思ったよりも何の変化もなかった。
…何でそんな風に思ったかと言うと、てっきりもう既にクラス全員に今日のことが知らされていて、この時点でクラスメイトに冷やかされたりするものだと思っていたからだ。だが、時折挨拶をする程度で、一学期の時と何ら変化がなかったので、肩透かしを食う形となった。まぁもっとも、この時思ったのは、今時クラスメイトが朝礼で取り上げられる程度の事で、そんなに盛り上がったりするほど他人に対して興味が無いのかもと、聞く人によっては自虐に聞こえるかもだが、私としてはそれは嬉しい誤算であった。
チャイムと共に、私たちの担任である”志保ちゃん”が教室に入ってきた。学級委員の挨拶の後に続いて言った後、出席を取られ、そしてその流れのまま、朝礼や式典に使われている、軽く傾斜のつけられた斜面に沿って座席が設置されている講堂へ向かうために、ゾロゾロと廊下へ出た。最後の方で律と一緒に出ようとしたその時、不意に志保ちゃんに呼び止められた。
「何ですか?」
と私が聞く側を、残りのクラスメイトたちが通り過ぎて行った。最終的には、私と律だけになっていた。
「望月さん、今日の事なんだけれど…」
と志保ちゃんはそこで言葉を区切ったが、もうその時点で何が言いたいのか察した私は「はい」とだけ返事をした。
すると志保ちゃんは、ふとずっと私の側に黙って立っている律に視線を流したが、「…律は大丈夫です」と私がすかさず言うと、「そう?」と志保ちゃんは笑みを軽く浮かべつつ、今日の式の流れについて話してきた。
まぁ簡単に言うと、さっきも触れたが今から行く講堂というのが座席が設置された所なので、下手に奥まったところにいると、呼ばれた時にはその座席が邪魔をして中々容易に出て行けないという難点があった。なので、志保ちゃんが自分が案内する、今日みたいな時用に余分に用意してある最後尾の位置に向かうように言った。ついでに、律にも私の隣に行くように言われたので、律は短くボソッと「はい」と返事をした。
結局志保ちゃんに連れられて講堂に入ったのは、生徒の中では私と律が最後だった。
因みにこの学園は中高一貫だったので、それを一斉に集めるのは、校庭以外では無理だとの判断か、最初を中学生、次に高校生と分けて始業式が執り行われていた。
他の生徒たちはガヤガヤと自分たちの間で喋り合っていたので、誰も私たちに気付く者などいなかった。
最後尾の席に座ったその時、傾斜がついているお陰で良く見渡せたが、ふとたまたまだと思うが、裕美たち三人が固まって座っているのがチラッと見えた。
と、徐々に講堂の照明が弱められたかと思うと、その騒つく講堂の壇上に、老齢の女性がツカツカと演台の前に向かった。校長だ。と、その瞬間、生徒達は一斉に口を噤み、先ほどまでのザワつきがウソのように静まり返った。
自分たちを褒めるようで何だが、他の学校は知らないが、こういったところは所謂格式のある学園って感じだと思っている。
校長はツラツラと、ありきたりな話を五分か十分ほど話していたが、最後の方になってふと今まで堅持していた硬めの表情を緩めたかと思うと、口調も柔らかく口を開いた。
「…さて、本日の朝礼はこれでお開きにします…としたいところですが、実は我が校にとってとても嬉しいニュースが、この夏休みの間にもたらされたんです。…」
「望月さん…」
と不意に背後から小さく声を掛けれた。顔だけ軽く後ろに向けると、そこに居たのは微笑みを浮かべる志保ちゃんだった。
彼女が何を言わんとしているのかすぐに察した私は、「はい」と同じ様に小声で応じつつ、ふと隣の律に顔を向けた。
律は私と目が合うと、フッと一瞬目元を緩めてコクっと頷いて見せたので、私からもコクっと頷き返し、志保ちゃんに促されるままに立ち上がり、壇上までの通路に立った。
「…ではご本人にご登壇して頂きましょう。中学の部、二年一組の望月琴音さん?」
名前を読み上げられたので、私はおずおずと若干俯き気味に、ゆっくりとした歩調で演壇へと向かった。
歩いている途中、好奇の視線をヒシヒシと感じていたが、講堂の明かりが暗いのが助かった。自分でも顔が火照っているのを感じていたが、恐らく側からはそんなに顔が赤くは見えていなかっただろう。何となく裕美たちが見えた辺りを特に意識的に見ない様にして、何とか壇上に上がった。ここまで正味一分ほどだっただろうが、体感的にはその何倍にも思えた。
…この話は取り敢えずここで終わらせるのを許してほしい。
まぁ特段触れる内容も無いからだ。実際は壇上に上がると、校長の脇に立たされて、校長がマイクの届かない所で「何か一言話します?」と聞かれたので、私は慌てて「いえいえ!」と断った。次の瞬間、少し態度が悪かったかと思ったが、校長は「あら、そう?」とやんわりとした口調で言うと、私をそのままに、改めて軽く私のコンクールの話をした。その間私は視線をどこに向けたらいいのか分からず、最後まで定まらないままに目を泳がせていた。
「…。では望月琴音さんでした」と校長が私の名前をまた言ったので、私は取り敢えず深々とその場でお辞儀をすると、生徒側からは程々に拍手が送られた。
最後に校長と握手をすると、舞台下にいた先生の一人に誘われて、演壇から降りる小さな階段を慎重に一段ずつ降りた。
何せ足に力が思った様に入らなく、自分のモノとは思えない感覚だったので、衆人環視の中で転ぶ様な事があったなら、もう目も当てられないと、もしかしたらあの受賞の場以上に神経を張っていたかも知れない。
無事降りて、気持ち早足でさっき自分が座っていた最後尾まで緩やかな坂を登って行った。その間、行き以上に好奇の眼差しを感じていたが、そんな中ふとこんな場なのに、どこからか私の名前を小声で大きな音量で出そうとしている様なのが聞こえたので見ると、そこには裕美たち三人が笑顔でこっちに揃って手を振ってきていた。私は最初は無視してさっさと行こうと思ったが、まぁ応援に来てくれた事に対して大袈裟に言えば恩に着ていたので、見えるかどうかは度外視で、胸の前で小さく振り返してから、気持ちまたペースを上げて席に戻ったのだった。戻ってからは、律は何も言わずにただ微笑んでくるのみだった。
式が終わった後、教室までは律とまた二人で教室に戻ったのだが、その途中、クラスメイトたちにテンション高く一言二言話しかけられた。「ピアノやってたんだー?」だとか、「全国大会で準優勝でしょー?凄いねぇ」といった類いのものだった。まぁ初めから期待をしていないが、隣にいる律が助け舟を出してくれそうな気配が微塵も無かったので、私はただ苦笑まじりに「ありがとう」的な言葉で返した。
教室に戻って自分の席に着いてほっと息を吐いたのも束の間、すぐにまたクラスメイト達にぐるっと周りを囲まれてしまった。そして同じ様な質問ばかりしてきたので、必然とこちらとしても同じ答えをする事になる訳だが、初めはキチンと真摯に答えていたのが、何だか飽きてくるのと同時にうんざりしてきたその時、最後の方で話しかけてきた中で一つ面白い話があった。
まぁ雑談的に軽く触れると、その子は実は、私がこうして準優勝する前から、私がその大会に出ていることを知っていたと言うのだ。
「え?」と私が思わず驚きの余りに声漏らしたのは言うまでもない。まだ私の周りに固まっていた他の子達も同様に驚いていた。そして次の瞬間には、私の代わりにその子に皆が質問を投げかけていたが、それに答えるのには、何でも本選まで勝ち上がってきた女の子の中に、この子の友達がいたと言うのだ。それを詳しく話してもらってはたと思い出した。何とその友達というのが、本選での授賞式の時、呆気に取られて中々賞を受け取りに行こうとしない私に、笑顔で話しかけてきながら早く行く様に促してきたその子だった。
「あぁー…あの子」と私がボソッと言うと、その子は笑顔で「うん!」と大きく頷いて返した。
…これをこの場で私が自分で話すのはかなり恥ずかしいので、本当は言いたくないが、こうして触れてしまった以上最後まで話さなくてはいけないので、恥を忍んで言うと、この子は初めは私の事に気付かなかったらしいが、どこかで見た事があるなくらいには思ったらしい。そう思っていた次の瞬間、私の名前が読み上げられた時、すぐに私だと気付いたとの事だった。それで…ここからが恥ずかしい箇所なのだが、それまでは友達の演奏以外には興味が無くて、この子が言うのには退屈していたらしいのだが、その事があって、私の演奏を真剣に聞いてくれたらしい。それでそのー…とても感動してくれた様なのだ。コンクールが終わった後で、出場して惜しくも敗退した友達に、一応気を遣いつつ、私の事を聞いてみた様なのだが、その友達は笑顔で『とても良かった』と皮肉でも自虐でも無く素直に言ってくれたらしい。その話を聞いた瞬間、私が思わずその友達の度量の大きさについて褒めると、その子は急にモジモジと照れて見せたが、満更でもない様子だった。
私は気付かなかったが、本選が終わって会場内で談笑をしていた時に、私の姿を見たらしい。これも何かの縁だと話しかけようとしたらしいのだが、同年代の女の子、保護者らしき背の高い女性二人に囲まれて喋っているのを見て、何だか話しかけ辛く思い、その場で断念したと言っていた。私はそれを聞いて「別に話しかけてくれて良かったのに」と笑顔で言ったが、その子はただ私の言葉に照れ笑いを浮かべるのみだった。
それからまた話が盛り上がって行きそうになったその時、
「ほらー、いつまで喋っているのー?皆席に着いてー」と志保ちゃんが教室に入るなり、人だかりが出来ていたこちらの方に声を掛けてきた。それで取り敢えずのお開きとなった。
始業式の日というのもあって、軽く連絡事項を志保ちゃんから聞き終えると、今日はそれで学校はアガリとなった。
帰り支度をしている間、クラスメイト達が今だにチラチラとこちらを覗き見てきていたが、私は何とかポーカーフェイスを保ちつつ済ませ、それと同時に律が私の元に来たので、「帰ろうか」と声をかけ、去り際にクラスメイト達が普段の何倍も声を掛けてきたのでそれに一々返しつつ教室を出た。そして律と二人で学園近くの”いい意味で”何も無い例の公園へと向かった。そこには既に私達よりも先に裕美達が向かっているとの事だった。
私は知らなかったが、何でも律に藤花がその旨を伝えていたらしい。いつもみたいに廊下で待ち合わせるのは、今日に限っては難しいとの判断だった様だ。それを私はさっき律が私の側に来た時にボソッと教えてくれたのだが、その時は「そんな大袈裟な…」と苦笑いを浮かべたのだが、確かに自惚れでも無く、廊下に出てからも他のクラスの子からもチラチラと視線を向けられたり、中には話した事のない子にも挨拶されたりしたのだ。今にして思えば、藤花…いや、藤花達の判断が正しかった…のだろう。
その好奇の視線を振り切る様に早足で公園に辿り着くと、定位置と化したベンチの一つに、裕美達が固まってたむろっていた。
と、私から声をかける前に、向こうから私達二人に笑顔で手を振ってきた。
「…あぁ、こっちこっち!」
と藤花が相変わらずの所謂アニメ声で声を上げた。
「お待たせ」
と私が間を埋めるためだけの社交辞令的に言うと、まず紫が意地悪げな笑みを浮かべつつ話しかけてきた。
「おっと…お姫様のご登場ね?」
「誰がよ…?」
と私はため息交じりに返しつつ、手には拳を作り、それを紫の肩に押し付ける様に当てた。それに対して紫は大げさに痛がって見せている。
そんな様子の紫に対して、私はジト目を向けつつ
「夏休み明けでも変わらないのね、まったく…」
と呟くと、今度は藤花が無邪気な笑みを浮かべつつ言った。
「まぁまぁお姫様、今日は確かにお疲れだったと思うけれど…」
「えぇ、確かに今日は疲れて…って藤花?」
と私は思わずスルーして単に返そうとしたが、すぐさま今度は藤花にジト目を向けつつ返した。
「あなたまでその呼び方をするの?」
「えぇー、だってぇー」
と藤花は、何が”だってぇ”なのか説明しないままに紫に笑顔を向けていた。それに対して紫も同様に応じる。
その様子をやれやれと首を振りながら見ていた私の肩に手を置いた者がいた。振り向くと裕美だった。
裕美も私と同様に首を横に振りながら、同情する風に言った。
「まぁまぁお姫様、この子達には私から後できつく言っときますから…」
「…ちょっとー」
と私は肩に乗せられた裕美の手を、埃を払う様に振り解くと、今度は裕美にジト目で
「自然にお姫様呼びしないでよー」
と突っ込んだ次の瞬間
「プッ」
と吹き出した声が聞こえたので、裕美と共にその方を見ると律だった。
律は軽く握った右手の甲を口元に添えていたが、私の顔をチラッと見ると、スッといつもの表情少ない石仮面を被ってから
「…姫」
と呟いた。それからは二つほど間が空いた後、誰からともなく笑いが漏れていった。暫くは四人のその様子を薄目がちに眺めていたが、「やれやれ…」と心に思った事を思わず口に出し、次の瞬間には私も同様に笑いに混じるのだった。
笑いあった後、四人から平謝りをされて、そしてその後に、誰が提案するのでもなく、”これこそ”自然の流れで、いつもの御苑近くの喫茶店に行くことに相成った。
まぁ喫茶店での会話は、取り立てて話す事もない。普段通りの会話だったからだ。まぁ勿論向かう電車の中、歩く中、そして喫茶店に入ってからも、この日の朝礼での出来事に関してで話題は終始したが、まぁどれも私に対する”愛情のこもった”冷やかしばかりだったので、わざわざ取り上げるまでも無い。ただ、先ほど教室に戻ってからクラスメイトの一人に聞かされた話は面白いと、裕美達にそのまま話した。最後まで律まで含めた他の四人は興味深そうに聞いてくれた。
と、私が話し終えると裕美が口を開いた。
「…あぁ、その同年代の子って、私の事かー」
「そのようね」
と私が返した。
「まぁこの後話を続けようとしたら、志保ちゃんが教室に入ってきちゃったから、お喋りはそれでお開きになっちゃった。でも後で別に気軽に話しかけてくれたら良かったのにって言ったんだけれど」
「…うーん、まぁ分からなくはないかな?」
とここで紫が口を挟んだ。
「今話を聞いてる感じだと、今日までその子とそこまで親しく話してこなかったんでしょ?」
「え?うーん…まぁね」
私は軽く記憶を探ってみたが、思い出したのは事務的なやり取りくらいだった。
それを聞いた紫は肘をつき、隣の私に顔を向けながら言った。
「ならまぁ…それは話しかけ辛いでしょ?もしさぁ…そんな和気藹々と、自分と同年代の子…まぁこれは裕美だったわけだけれど、おしゃべりしている中に、そんな中にはなかなか度胸が据わってないと入って行けないでしょ?」
「そうだねぇ」
とここで向かいに座る藤花が合いの手を入れるように言った。
「よく話しているならともかく、そんなに話したことが無いクラスメイトを見かけて、勇気を起こして話しかけたとしても、もし相手が私のことを覚えていなかったらと考えると…ちょっと話しかけにくいよねぇ」
藤花は最後に、隣に座る律に話しかけるように言い終えると、律はただ静かに何度か頷いて見せた。
「なるほどねぇ」
紫達の話を聞いて素直に感心して見せると、途端に紫が呆れてるのか何なのか、取り敢えずニヤケながら言った。
「…ふふ、そんなに感心するほどの事だった?」
「え?」
「まぁ、私たちがそんな普通だと思うところで感心して見せたりする癖に、妙なところで引っ掛かって来たりするからねぇー」
と笑顔で付け加えるように言うのは藤花だ。
「…まっ!」
と間髪入れずにパッと言葉を差し込んだのは裕美だ。
裕美はさっきの紫の様に肘つき隣の私に顔を向けつつ、満面の笑みを浮かべて言った。
「そんな普通とズレたりしてるのが、アンタの個性的な所で、それが飽きなく面白い所なんだけれどね!」
「あはは!違いない!」
と紫が間を空ける事なく返すと、「ウンウン!」と藤花も応じた。律も笑顔を私に向けながら頷いていた。
私は一瞬漠然とした嫌な感じが胸の中に生じた思いをしたが、裕美の言葉を聞いて、小学生の頃、初めて裕美を誘って土手に行って、アレコレとお喋りした時を、情景を含めて思い出し、その思い出がそんな些細な事を瞬時に忘れさせてくれた。
「そのズレてる所がー…」
と笑いが収まり出した時に、紫がまたニタニタとしながら一度他の四人に視線を流して、最後に私に止めて言った。
「見た目と相まって、ますますお姫様っぽい!」
「まだ言うか」
と私が声に表情を付けずに、目だけ細めてつっこむと、また幾らか間が空いた後で、皆で笑い合うのだった。この時は私も初めから加わって笑った。
それからは、決勝のあの日にそれぞれが撮った写真を見せ合って過ごした。例の全員で舞台に上がって撮って貰った写真以外は、それぞれが思い思いに写真を撮っていたらしく、四人のどの写真も同じ物がなく、こんな所に目が行くのかと見ていてとても面白かった。
途中で裕美のを見ていると、その中でヒロとのツーショット写真があった。見た感じ、恐らく授賞式後に撮った物の様だった。ヒロはキャラ通りの呑気な笑顔をこちらに向けてきていたが、裕美は笑顔ではいたのだが、どこかぎこちなく見えた。軽く緊張して見えた。
私は思わずこの写真について裕美に突っ込もうかと思ったのだが、何だかこれに関して軽々しくからかってはいけないと、どこかでブレーキが働いた。それで最終的には、ただ単にいつどこで撮ったのかの質問のみした。裕美はそれに対して、淡々と、先ほどの私の推測通りの答えをして終わった。
…考えてみたらコンクール以降、ヒロ関係でそんな妙な事が続いているなぁ
と漠然と不思議がりつつも、このまま四人とお喋りを過ごした始業式の日の放課後だった。
「じゃあそれでお願いしまーす」
「はい、では少々お待ちください」
京子が声を掛けると、ウェイトレスは一度お辞儀をしてから下がって行った。
今日は始業式の何日後かの日曜日の午前。場所は羽田空港国際線ターミナルだ。今は出発ロビーのある階内の、駐機場が眺める喫茶店に、師匠と京子と来ている。
何故こんな所に三人で来ているのか。もうお分かりだろう。そう、京子が活動拠点のフランスに戻るというので、私と師匠とで見送りに来たのだ。当初はお母さんも付き添う予定だったが、急遽実家の呉服店を手伝わなきゃいけなくなったというので、こうして師匠と二人で来たのだった。
私と師匠はTシャツにジーンズとラフな格好をして来たが、京子も日本に帰って来た時と同じ格好をしていた。師匠のところで一度洗濯したらしい。
スーツケースはもう既に預けて、チェックインも済ませて今に至る。
ウェイトレスが持ってきた小ぢんまりとした焼き菓子を食べつつ、アイスコーヒーを三人揃って飲みつつ、フライトまでの時間を過ごしていた。
「まぁねー、分からんでもないけど」
と京子が向かいに座る私に笑顔で言った。
初めは京子があの後に実家のある神戸に、何日か里帰りをしていた話に始まり、今はコンクールの話から、私が何で今まで出場する事を拒んできたのかについて話が及んでいた。
「確かに、まぁ一般の人でもピアノ自体は常識の範囲内で知られているけれど、実際にそれに本気で取り組んでいる人間自体についての理解は、今も昔も乏しいのは確かねぇ」
私が話した事に対して、京子はこういった視点から話を始めた。私は当初これが本当に関係してるのか訝っていたが、すぐに師匠とはまた違った考え方を提示されてる事に気づき、私の中の好奇心お化けが目を覚ますのを覚えていた。
「でもね、琴音ちゃん?」
とここで京子はテーブルに両肘をつくと、気持ち前傾姿勢になって続けた。
「私もあなたくらいの時、周りに対して自分がピアノをしているのを話すのが、何だか躊躇われた時期があったわ。…何も悪い事をしているんでも無いのにね?」
「そうねぇ」
とここで私の隣に座って静かにしていた師匠が合いの手を入れた。
「何だかねぇー…まぁ誤解を恐れずに言えば、よく分かってくれている人からなら良いけど、よく分かりもしないのにそれで不用意に褒めてきたり持ち上げられたりするというのが、何というかー…嫌だもんね」
師匠はここまで言うと、ふと私の方に顔を向けて、そして明るい笑みを浮かべつつ言った。
「琴音、あなたもさっき、始業式での事を話してくれたけれど、私たちと同じじゃない?」
「…はい」
と私は何だか苦笑い気味の笑みを零しつつ答えた。
「あはは。まぁ、私もそうだったんだけれどねぇ…琴音ちゃん?」
と京子はここまでニヤケ気味の笑顔でいたのだが、ふと柔和な微笑みを顔に浮かべたかと思うと、口調も穏やかに言った。
「でも結局隠している事には変わりない…いや、そう私は感じていてね、どこかでいつも同級生と一緒にいても、大袈裟な言い方をすれば罪悪感みたいなのが仄かにあったのね?それで悩むって程ではなかったんだけれど、そんな時にね、ある人の書いた本の中で引用されていた一節に目を惹かれたの。それはね…」
とここで京子が名前を出したのは、先日亡くなったあの落語家の”師匠”だった。
その名前が出た瞬間すぐに察したか、「あぁ…」と師匠が隣で軽く笑みを浮かべつつコーヒーを啜った。京子は続けた。
「でね、あの師匠が引用した人というのが、戦後で一番と言っても良いくらいに有名な能役者の方だったの。その人も”師匠”と同じで、自分の帰属する芸能がこのままでは廃れる一方じゃないかと苦心して、一般向けに色々と本を書いていたんだけれど、その中にね、こんな話があったの」
京子はここまで話すと、区切りをつけるように一旦コーヒーを一口分飲んでから続けた。
「『ごく小さな子供の頃、装束を着せられて楽屋に待たされている間に、時としてふと嫌な気持ちにさせられた事があるのを、今でも記憶しています。これから舞台に出て、多くの観客の前に身を晒す、それが何だか自分を見世物にされている様な感じが時々フッとしたのです』」
「…あぁ」
と私は思わず声を漏らしてしまったが、それに対して一度ニコッとしたのみで、先を続けた。
「『また中学の頃は、自分が能の役者だというのを周囲の人に知られるのが大変に嫌だった…。それは、能が古臭い、現代の社会には通用しないと人々が思っていて、それを演っている人間などは異端に見られていそうな、何か気恥ずかしい感じがしていた』」
「分かるなぁ…」
と安易に同意をしてしまったかなと直後に反省していると、京子はここでまた先ほどまでの明るい笑顔に戻り言った。
「まぁ、この方の話はここから現代における芸談に話が進んでいくんだけれど、それは一旦置いといて、何がここから私が言いたいのかというとね?あなたを含め、そして私、あなたの師匠を含む芸に携わる人々というのは、今だけに関わらず、昔からそんな事を経験しながら生きてきた…その事実を知っている、自分だけじゃないという事実を知るだけでも、変に孤独感を味あわずに過ごせるんじゃないかって事なんだけれど…」
とここで京子が私の顔を覗き込む様にしてきたので、私は照れも含んだ笑みを浮かべて返した。
「…はい、よく分かりました」
と返すと、京子はまた姿勢を正して
「ふふ、よろしい」
と満足げな表情で言うのだった。
「もしその能役者さんに興味を持ったのなら、そこにいる師匠に本を借りるといいわ。確か持ってるはずだったから…ね?」
「え?…えぇ」
と師匠は何だかバツが悪そうな笑みを私に向けつつ応えた。
「そうね…琴音が読みたいと言うのなら、私はもちろん喜んで貸すよ」
「はい、よろしくおねがします」
と私が明るく師匠に応えるとその直後、
「物分りが良くて助かるわぁ…ねぇ、沙恵?」
と京子がふと師匠に話しかけた。
「ん?何?」
と師匠が聞くと、京子は私に視線を流しつつ、口元はニヤケ気味に言った。
「琴音ちゃんを私に頂戴よぉ?こんな出来の良い子、滅多な事じゃ見つからないし」
「あのねぇ…」
と師匠は苦笑気味だったが、目つきは若干キツ目に京子に返した。
「琴音は物じゃないんだから、あげたり貰ったりする類いじゃないでしょ?」
「分かってるわよそれくらいー…気を悪くしないでね?」
「ふふ、分かってます」
と私が笑みを浮かべて返すと、京子はまたニヤケ面を浮かべて、
「ほらー、よっぽど琴音ちゃんの方がよく分かってるじゃない?」
と師匠に言うと、師匠は「はぁ…」と私と京子に視線を向けつつ苦笑い交じりの溜息を吐いた。
「まぁとりあえず…そんなに弟子が欲しいのなら、勝手に自分で探しなさいな」
「何よケチー…琴音ちゃん?」
と京子はまた前傾になって、私の顔に自分の顔を近づけて、そして内緒話をする風に口元に手を当てつつボソッと言った。
「もし沙恵に何か意地悪をされたら、いつでも私に連絡してきてね?相談に乗るから」
「…ちょっと?聞こえてるんですけど?」
と師匠は薄目でジッと京子を見ながら言うと、京子は明るく無邪気に「あははは!」と笑った。
「いや、『あはは』じゃないわよ全く…」
と呆れる師匠の姿を含めて、その一連の様子が面白かった私はクスクスと笑うのだった。
それを見た師匠も仕方ないと鼻で息を吐くと、私と一緒になって笑っていた。
「…あっ」
とここで不意に師匠は伝票に目を落とすと、突然声を上げた。
「ん?どうかした沙恵?」
と京子が聞くと、師匠は何だか照れ臭そうな様子で答えた。
「いやね…この空港内のお店って、駐車券を見せれば、駐車代がタダになるでしょ?そのー…駐車券を車に置いてきちゃった」
「えぇー」
と京子も苦笑交じりに声を漏らした。
因みに今日は、師匠の運転する車でここまで来た。真紅のフォルクスワーゲン・ゴルフだ。
師匠自身は車を持っていなかったのだが、これはお母さんの所有車だ。昨日京子は師匠を伴ってウチまで挨拶に来たのだが、その流れでどうやって空港まで行くのかの話になった。京子は「荷物が少ないから電車で行きます」と返していたが、側にいた師匠に向かって「もし沙恵さんさえ良かったら、私の車を使って送って差し上げて下さらない?」とお母さんが聞いていた。その瞬間「いや、いいですって」と京子が遠慮して見せたが、師匠は師匠で「別に私は構わないんですけど…良いんですか?」とお母さんに聞いていた。するとお母さんは笑顔で「別に構いませんよ。沙恵さん、あなたが良いと言ってくれるならね?」と言うのを聞いた師匠は「では…」と京子を空港まで送るという任務を仰せつかっていた。その間私は側で京子の様子を眺めていたのだが、珍しくというか何だか恐縮しているのが印象的だった。
後でというか、ここに来るまでの車中で教えてくれたが、師匠は何度かこの車を運転したことがあったらしい。お母さんが同乗してがほとんどのようだったが、ただ単に師匠に貸すという事もあったようだ。
「京子、まだ飛行機の時間大丈夫?」
「え?…んー」
と京子は手首にしていた小ぶりの腕時計に目を落とした。
「…えぇ、まだ出発まで一時間以上あるけど」
「あ、そう?じゃあ…ちょっと二人ともゴメンね?」
と師匠は席を立ち上がりつつ言った。
「早足でちょっと取ってくるから」
と既に店の出口に向かう師匠の背中に向かって
「ゆっくりで良いわよー?迷子にならないようにねー?
と声をかけていた。
師匠の姿が見えなくなった頃、京子は一口分ストローでコーヒーを啜ってから言った。
「やれやれ…。あの子は相変わらずね。普段は本当にしっかりしているんだけれど、こういう所で間抜けなんだから」
そう言う京子の顔には、何とも言えない優しげな微笑みが見えていた。
「あ、あのー…」
とここで私は、ふと昔から漠然と持っていた思いを成就するには今がチャンスだと、少し遠慮がちにだが話を振ってみることにした。
「ん?何?」
「あ、そのー…」
と私はもう姿の見えない、師匠の消えた店の出口辺りに視線を向けつつ聞いた。
「師匠って…昔から今と変わってないんですか?」
「…ふふ、気になる?」
京子はテーブルの下で足を組むと、微笑みの中に若干のイジワル成分を混ぜつつ言った。
私は少しきょどりつつも、「は、はい…まぁ」と何だか我ながら煮え切らない調子で返した。
すると京子は数秒ほど私の目をジッと品定めをするかの様に見たかと思うと、フッと見るからに力を抜いて、その流れでため息交じりに口を開いた。
「…ふふ、まぁ沙恵もねぇー…中々自分の事を話さないからなぁ…で?」
とここで京子は肘をつきホッペに手を当てると、少し挑戦的な笑みを浮かべつつ「何が聞きたいの?」と聞いてきた。
「え?えぇっと…」
私は改めてそう問われて、本当に聞きたい内容が内容なだけに、こんな場で気軽に質問して良いのか少し逡巡してしまったが、本来は流す所なのだろうが”なんでちゃん”の本領発揮といったとこか、私は一度生唾を飲んでから質問した。
「そのー…こんな気軽に聞くのは何だと思うんですけど…」
「うん」
とここでまだ京子が笑みを絶やさずにいてくれたのが功を奏したか、私は勇気を奮い起こして言葉を続けた。
「…師匠がそのー…ピアニストとして、ソリストとしてのキャリアを引退したという話…何ですけど…」
とまぁ結局こんな感じで、辿々しく、ハッキリとは聞けない感じで、最後などは京子の顔が徐々に曇っていく様に見えた私は、その顔を直視出来ずに俯いてしまった。
「んー…」と私の話を聞いていた京子は唸っていたが、「琴音ちゃん、顔を上げて?」と声を掛けられたので、言われるままに恐る恐る顔を上げた。そこで見たのは、何とも言えない、あまりに参って笑うしかないと言いたげな苦笑いを浮かべる京子の顔があった。
ほんの数秒間見つめあった後、京子はその笑みのまま優しい口調で言葉を発した。
「まぁ…それこそ弟子としては気になるよねー?自分の師匠が何故引退したのか、その事情が」
「は、はい…」
「…うーん、それこそ本来は本人の口から聞くのが筋だろうけれど…どうしても聞きたい?」
とここで京子が、急に真面目な顔つきになって、射竦めるような視線を送ってきたので、その変貌ぶりに驚きつつ狼狽えたが、師匠のことを知りたいという気持ちは、生半可な、ワイドショウ的なたまさかの好奇心によるものと比べようの無いものだったので、私からもその視線に対して目を逸らさずに、「はい」とだけ短く、しかし自分なりに力強く返した。
それからまた二人の間に数秒間の時が流れたが、ここでフッと京子は短く息を吐くと、また先ほどまでの独特な苦笑いを浮かべて、トーンも戻して口を開いた。
「…そっか。そこまで言うのなら、私の知る範囲、私に関連している点からのみという条件付きで良いのなら、話してみようかな。…それで良い?」
「は、はい。お願いします」
「じゃあまぁ話すけど…もし遠くで沙恵の姿が見えたら、その時点でお開きだからね?」
と京子が、位置的には私の斜め後ろに位置する店の出入り口に視線を流しつつ悪戯っぽい笑みを浮かべて言ったので、私も思わず笑みを零しつつ「はい」と返した。
「よし!」と京子は目を細めてニコッと笑い言った直後、また表情を戻して、そしてゆっくりと話し始めた。
「まぁ…中々に暗めな話だから、私自身話すのが難しいんだけれど…。琴音ちゃん、あなたは何故沙恵が引退したのか、そもそもどの辺りまで知ってるのかな?」
「あ、は、はい…えぇっと…」
私は昔にお母さんから聞かされた話を思い出しつつ、そのまま京子に話した。これには少し苦労をした。
何せ最後に聞いたのが、師匠の元に通いたての頃、つまりは私がまだ小学二年生になったばかりの頃だったからだ。しかもその一度きりで、それ以降お母さんは自分の口からその話をする事は無かった。だが、その話をしてくれた時のお母さんの表情は今でもハッキリと覚えている。ハキハキと当時から話すタイプだったのが、この話をする時には表情を曇らせつつ遠慮がちに見えた。それを見た当時の私でも、幼心に深入りして質問するのは躊躇われて、それで今日まできたのだった。
内容はだいぶ前に触れたので、ここでは軽く流すが、要は師匠が何かしらの事故で手を痛めて、日常生活に支障が出るほどでは無かったが、繊細さを求められるピアニストとしてはこれ以上活動していくのは無理だと引退し、それ以降は自暴自棄になって日本に戻ってきて覇気なく毎日を過ごしていた時に、共通の友人でたまたま私のお母さんがいて、お母さんの強い勧めでピアノ教室を開く事になった…という話を、今話したよりももう少し端折りつつ答えた。
私が話している間、京子は興味深げに黙って聞いていたが、私が話し終えると、一度アイスコーヒーを啜ってから、表情は変えずに口を開いた。
「…うん、あらましとしては、今あなたがお母さんから聞いたって言ってたけれど、大体あってるよ。…うん、でもそっか…あなたが小学二年の頃に、沙恵が教室開いたのよねぇー…。って事は、もうあれから七年ちょっと経ったのかぁ…」
と最後に窓の外にふと視線を外しつつシミジミと言った。
「…」
私は下手な相槌は打つまいと、黙って京子の言葉を待った。
京子はゆっくりとまた私に顔を向けると、一度フッと寂しげな笑みを見せた後、また表情を戻して続けた。
「…ふ、自暴自棄…か。確かにあなたのお母さんが言ったように、あの頃の沙恵はそうとしか言い様のない感じだったわねぇ…。で、琴音ちゃん、あなたはその事をもう少し詳しく知りたいって事なのよね?」
と京子が最終確認をしてきたので、私はまた真剣な面持ちで何も言わずに力強く頷いて見せた。冷やかしではない意思を示すためにだ。それを見た京子も、私に倣ってでは無いだろうが、同じく一度頷くと、重たげに口を開いた。
「…じゃあ、話すね?…教室を開いたのが七年前よね?という事は…その一年前、つまり八年前になるのか、その時にね…沙恵は向こうで交通事故に遭ったの」
「…え?交通事故…?」
どこかで何かしらの事故に遭ったのだろうくらいの想像はしていたのだが、こうして改めて明らかにされると、思った以上の衝撃があった。
京子はまた一度コクっと頷くと話を続けた。
「そう、交通事故。自分で運転した時に、対向車にぶつけられてね?…これは勿論後で聞いた話だから、もし機会があったら本人に聞いてくれたら良いと思うけど…。まぁ、沙恵からは中々話してくれないだろうけどね?」
「…」
「まぁ事故自体はお互いに上手くハンドルをきったというか、結局接触はしたんだけれど、命に関わる大惨事にはならなかったの。で、警察が来て現場検証をした結果、相手側が不注意運転をしていたというので、沙恵はただの被害者として、慰謝料なりを受け取って、その時に病院に行って検査をしてもらったらしいんだけれど、幸いにもどこにも怪我は無かったようなの。でね?」
とここで京子はふと苦笑いを浮かべてから続けた。
「病院で検査が終わった辺りでね、沙恵から連絡を貰って、事故に遭っちゃっただなんて気軽に言うもんだから、当時の私は本当に心の底から驚いてね、大丈夫なのかを何度もしつこく確認したんだけれど、本人はあっけらかんとしたもんで、『大丈夫、大丈夫、今病院で診てもらったんだけれど、どこにも怪我は無いってさ』って言うのよ。私はその時はもう呆れっぱなしで、ネチネチと沙恵にしっかりしないとって説教しちゃったんだけれど…」
と京子はここまで話すと、急に表情を暗くして、声のトーンも数段落としつつ続けた。
「でもある時ね、それから一ヶ月…いや、一ヶ月も経たないくらいだったかな?沙恵が私にある日の朝電話してきたの。私が軽い気持ちで出るとね、受話器の向こうでずっと黙っていたの。たまになんかすすり泣きが聞こえるのみで、中々話さないから焦れったくなって『何?何なのよ?電話しときといて何も話さないのは?切るよ?』と、私と沙恵の間ならではの軽いノリで言うとね、沙恵がボソッと涙混じりの声で言ったの。『…きょ、京子…ど、どうしよう…手が…手が…動いてくれない…』ってね」
「…え?」
「うん、私も『え?』と突然の告白に驚いてね、『手が動かない…?ちょ、ちょっと沙恵、それってどういう事?』って聴き直したんだけれど、電話の向こうで沙恵は質問には答えずにずっと『動かない…動かないのよ…』って言うもんだからね、私は『ちょっとあなた、自分家にいるの?いるならそのまま待ってなさい!』ってそれで電話を切ってね、当時…いや、今も住んでるパリ郊外の田園地帯の一軒家からね、当時沙恵が住んでいたドイツのライプツィヒまで、あらゆる交通手段を屈指して、その日の昼過ぎには家の玄関前に辿り着いていたの」
「はぁー…あっ」
私は京子の話を聞きつつその様子を思い描いていたのだが、その内容に思わず感心のあまり声を上げてしまった。その直後に無粋にも話を切らしてしまったかと慌てて口を噤んだが、当の京子は微笑みつつ首をゆっくりと横に振り、そして何事も無かったかのように話を続けた。
「でね、着いて早速何度もチャイムを鳴らしたんだけれど、一切応答が無かったの。私、この時に嫌な胸騒ぎがしてね、沙恵が住んでいた所は外国人が珍しい地区だったんだけれど、目立つのも厭わずに大声で『沙恵!沙恵いるの!?ここを開けなさい!』って言いながら取っ手に手をかけたらね、ガチャっとスンナリ開いたの。私はその時一人で気恥ずかしくなりながらも家の中に入ったわ。沙恵の家は昔ながらの伝統的な石造りの家でね、まぁ私のもそうなんだけれども…いや、それはともかく、外からの自然光も入り辛い造りをしていてね、それなのに電気を点けていなかったものだから、昼間だというのに薄暗かったの。それでも何度も来たことがあったから、その中を『沙恵?沙恵いるの?』って声を掛けつつ歩いているとね、ふと一つの部屋のドアが半開きになっていたのに気づいたの。すぐにハッとしたわ。そこは沙恵の練習部屋だったからよ。私は恐る恐る近づいて、取っ手に手を掛けて『沙恵…?いるの?』って口にしながら開けるとね…沙恵はそこにいたわ。…ピアノに突っ伏してね」
京子はここまで話すと、一呼吸を置くようにコーヒーを一口分啜って、それからまた調子を変えずに続けた。
「『さ、沙恵!』って私は驚いてね、慌てて沙恵の側に駆け寄って、揺すって良いものか一瞬考えたけれど、それでもやっぱり何度も揺すったの。そしたら沙恵…ゆっくりと目を開けてね、私の顔を見ると途端に目をまん丸に開けて、ギョッとした表情を浮かべて凄い勢いで背筋を伸ばしたの。それから少しの間私たちは何故か無言で顔を突き合せてたんだけど、私から『沙恵…一体どうしたのよ?』って聞くとね、今まで座っていたピアノ椅子から床に崩れ落ちたかと思ったその次の瞬間、『京子ー!!』って私の足に抱きついてきたの。あまりの突然の時してなかった事態に困惑したんだけれど、親友として出来るのはこれしか無いって思ってね、私はその絡みつく腕をなるべく解けないようにしゃがんでね、それで泣く沙恵の上から抱きしめてあげたんだ…」
「…」
私はすっかり京子の話に夢中になり、今が空港内の喫茶店だという事すら頭から消え失せていた。それなりに周囲は騒ついていたはずだったが、集中していたせいか、京子の声以外が無音にすら感じた。
とふとここで京子が何気無く、”親友として”と何の恥ずかしげも無く自然と言っていた事について、大げさな言い方かも知れないが感銘を受けていた中、京子は話を続けた。
「…それで暫くそうしていたんだけれど、やっと沙恵が落ち着いてきた頃を見計らって、『まぁ取り敢えず座りましょう?』って声を掛けてね、その部屋の中にあった小さなテーブルの側に置かれていた椅子に向かい合って座ってね、それで話を聞いたの。『一体どうしたのよ…?』って聞くとね、沙恵はまだ憔悴し切った様子だったけど、何だか自嘲気味の笑みを零しながらね言ったの。『…もうね、私…ダメかも知れない』『え?どういう事?』って私が聞き返すとね、沙恵は自分の両手を開いたり閉じたりしながらそれを見つつね『この手がもう動かないのよ…』って言うのよ。…これだけ聞くと、冗談にしか聞こえないけれど、でも状況が状況だったから、私も冷やかしたりしないで『でも…あなた、私に電話で言ってたじゃない?病院で検査を受けたら、何も悪い所が無かったって』って聞いたの。そしたらね、沙恵はまた自嘲気味の笑みを浮かべながらね「うん…検査はそうだったんだけれど…』ってそこで言い止まるとね、おもむろに立ち上がって、ピアノの前に座ったの。私は何のことか分からず、取り敢えず沙恵の動向を見守っていると、あの子何の合図も無しにメンデルスゾーンの”ヴェニスの舟歌”を弾き始めたの」
「…」
メンデルスゾーン”ヴェニスの舟歌”…これは私の大好きな曲の一つだ。…だが、これを聞いた瞬間、胸を締め付けられるような感覚に陥った。これはとても暗い曲で、これをわざわざ選曲した師匠の当時の心境、それに伴う状態がひしひしと伝わって来るかのようだったからだ。
そんな私の感想は兎も角、京子もどこか寂しげな様子で続けた。
「私は不思議に思いながらも初めは淡々と聞いてたんだけれど、どこか、何だか『らしくないな…』って感想を持ったの。何て言うのかな…沙恵らしい正確無比な演奏じゃ無かったんだ…。きつい言い方をすれば、所々で誤魔化しが入って聞こえたの。勿論…沙恵基準でだけどね?そんな私の心境を背中越しに敏感に感じたのか、ふと途中で演奏を止めるとね、私の方に振り返って『…ね?』って、とても寂しげに笑ったの。…あの全てを諦めてしまった様な笑顔、もう八年にもなるけれど、今でもハッキリと思い出せるわ…」
「…」
京子がふと窓の外に視線を飛ばしたので、私も思わず外を見ると、その時、
「…二人とも、何を今まで話してたのー?」
「え?」
と慌てて後ろを振り向くと、そこには明るい笑顔を湛えた師匠の姿があった。ふとここで京子の顔を見たが、京子も一瞬驚きの表情を浮かべていたが、これが経験の差なのか、途端に意地悪げな笑みを浮かべつつ師匠に声を掛けていた。
「遅いぞ沙恵ー。まさか本当に迷っていた?」
そう聞かれた師匠は、少し参り気味な苦笑いを浮かべつつ椅子に座りながら返した。
「そんな訳ない…て言いたい所だけど、そう、どこに車を停めたかど忘れしちゃってねぇー、車を見つけるのに手間取っちゃったわ」
「もーう、あなたは昔からしっかりして見えて、どこか一つ抜けてるんだから」
「うるさいなぁー…で、あなたたち二人こそ、今まで何の話をしていたの?」
「え?」
と私は思わず声を漏らしたが、それについて何か不審には思わなかったらしく、師匠はニヤケつつ言った。
「だってさー…このお店に入る前に、あなたたち二人の様子が見えていたけれど、何だかこの席だけ周りから浮いていたよー?まるで…」
とここで師匠は一度止めると、私と京子の顔を見比べてからニターッと笑いつつ言った。
「別れ話をしているカップルみたいに」
「何よそれー」
と京子もニヤケつつ返していたが、ふと急に少し影の入った笑みに表情を変えると、師匠に話しかけた。
「いやね…ちょっと話してたのよ。…昔のことを」
「昔のこと…」
さっきまでの愉快げな雰囲気は何処へやら、師匠はそう呟くと、また私と師匠の顔を見比べていた。私は何だか気まずくて、若干俯き加減になっていた。
どれほどだろうか沈黙が流れた後、フッと短く息を吐き、「…そっか」と師匠は微笑交じりに呟いた。
それを聞いた私は、ふと顔を上げると丁度その時それを受けて京子が「えぇ…」と静かな微笑を湛えつつ返していた。
「…?」
正直そこから何か良くも悪くも展開があると思っていたので身構えていたのだが、何だか和やかな空気が流れたので肩透かしを食った気分だった。
そんな私を尻目に、ふと京子は手元の時計に目を落とすと明るく声をあげた。
「…あ、そろそろ時間だわ。もう出ましょう?」
「仕方ないなぁ…」とぼやきながらもニヤケながら京子が計算を払っていた。「ごちそうさまー」と師匠が明るく言ったので、私も戸惑いつつ挨拶を述べると「いいえー」と京子はさっきまであんな話をしていたとは思えない程に暢気な調子で答えつつ、師匠に駐車券を返していた。
それからは寄り道をせずに、そのまま保安検査場の入り口まで向かった。その間空港のアナウンスが繰り返し流されていて、京子の搭乗するパリ・シャルル・ド・ゴール行きの最終案内だった。
「じゃあ二人とも、送ってくれてありがとう」
京子は肩に提げたバッグの紐に手を掛けつつ言った。
「…ふふ、コーヒー代でチャラにしてあげる」
と師匠がニヤケつつ言うと、京子も「はいはい、ありがとうね」とニヤケ面で返していた。
と、ここで私と目が合うと、京子は笑顔のまま私のそばまで歩み寄り、私の両肩に手を掛けつつ声を掛けてきた。
「琴音ちゃんも、今日はありがとうね?…今日だけじゃなく、あなたのコンクールでの雄姿も観れたし、最近の中じゃ一番楽しかった日本滞在だったよ」
「あ、い、いえいえ、こちらこそ!ありがとうございました!」
と私は肩に手が乗ってるのを失念してそのまま上体ごと倒して頭を下げた。すると京子は「あははは!」と明るく笑ったかと思うと、そのまま明るい調子で
「固い固い!次会う時までに、もっと肩の力を抜くようにね?…何事においても」
と最後にふと微笑みを向けつつそう言われたので、私も合わせるように「はい」と笑顔で返事をした。
「よし!」と明るく声を上げたかと思うと、京子はまた師匠に顔を向けたが、何だか意味深な笑みを浮かべたかと思うとただ一言、
「…じゃあ沙恵、またね」
と声を掛けると、師匠は師匠で同様に意味深な笑みを浮かべつつ
「えぇ…またね」
と返すのだった。
その短いやり取りの中に、何だか色んな意味合いが込められていると感じられたのだが、それがどこから来るのか分からず軽く困惑していたが、それを他所に、京子は足取り軽く検査場の入り口に立つ制服姿の係員にパスポートと航空券を見せると、私たちに向かって大きく手を振った。私と師匠もそれと同じように手を振り返すと、それからは振り返ることなく検査場内へと消えて行った。
しばらく京子の消えた辺りを二人して眺めていたが、
「…じゃあ私たちも行こっか?」
と師匠が優しげに声を掛けてきたので、私も「はい」と答えて、その後は二人仲良く車を停めてある立体駐車場へと向かった。
「さっきは何ですぐに見つけられなかったかなぁ?」
とボヤきつつ師匠は車に乗り込んだ。
「ふふ」
と私は何も掛ける言葉が見つからずに、取り敢えず間を埋めるように微笑みで返した。
師匠は苦笑いを浮かべたままエンジンを掛けると、車を発進させた。駐車券を差し込んでゲートが開いたのを確認すると、そのまま一般道に出た。
「今頃京子の乗った飛行機…飛んだ辺りかなぁ?」
と信号で止まると、不意に師匠が声を漏らした。車に備え付けてある時計を見ると、時刻は正午ぴったりを示していた。
「そうですね…」
と私は若干上の空気味に返した。
…それも仕方ないことだろう。京子の話の盛り上がりがピークに達しようとしていた場面だったというのに、師匠がお店に戻ってきたのと同時に強制終了してしまったからだ。師匠には申し訳ないし、内容が内容なだけに文句を言うのは筋違いにも程があるが、それでももう少し聞きたかったという”なんでちゃん”の不満が胸の中を占めていたのは確かだった。
信号が変わって車が発進してからも、何か会話をしていたはずだったが、正直内容が全然頭に入っていかなかった。
とそんな風に時間が流れていたその時、運転席から短いため息が聞こえたかと思うと、師匠が声を掛けてきた。
「…さてと、琴音、瑠美さんのだけど折角ここまで二人揃って車で来たんだから、どこか寄って行こうか?」
「…へ?」
あまりの予想外の提案に、思わず気の抜けるような間抜けな声を漏らした。師匠は前方を見たまま愉快げな口調で続けた。
「ふふ、丁度お昼時だし、そうだなぁ…うん、近くまで来たんだしあそこに行こう」
と師匠が前に向かって指を指したので、その先を見ると道路案内標識があり、そこには”お台場”と文字が書かれていた。
「良いかな、琴音?」
と聞かれたので、私からすると不満も何も無かったので、素直に「はい」と明るく返した。
「よし!」と師匠は気合いを入れるが如く声を張ると、車線をお台場方向に変更した。
「…よし、じゃあ降りようか?」
「はい」
助手席から降りたそこは、海浜公園内の駐車場だった。見渡すと、所狭しに車が停められていた。パッと見た感じ、私たちの車が入った事で、満車になったようだ。
「ツイてたわねぇ?」
師匠は鍵を閉めつつ言った。
「今日は日曜だから、お台場だし混んでて、もしかしたら駐車場も見つからないかなくらいに思ってたんだけれど」
「…ふふ、確かにツイてました」
と私も笑顔で返すと、師匠もニコッと笑ってから、出口の方をチラッと見てから言った。
「…よし!じゃあ行こうか?」
私と師匠は仲良く並んで駐車場を出ると、間髪入れずにいきなり海が出た。正面にはレインボーブリッジが見えており、私たちのいるすぐ左手には船の発着場が見えていた。
駐車場は何とか一発で空きを見つけられたが、やはりそれでも休日とあって、平日を知らないが、親子連れ、カップル、少人数から大人数まで多種多様な友人グループなどでひしめき合っていた。
「わぁ…」
今まで正直お台場に来たという記憶を思い出せなかった私は、何となく辺りを眺めつつ声を漏らした。それが風景に対してなのか、それとも人の多さについてなのか、まぁ…その両方にだった。
妙に感心した様子を見せていた私を微笑ましげに師匠は見てきていたが、「さて…いつまでもここにいても仕方なし、少し歩こうか?」と言うので、「はい」と私が返すと、ゆっくりとした歩調でそのまま右手に切れ、左手にお台場の海と砂浜を眺めつつ散歩をした。
「今日は瑠美さんにねぇ」
師匠は口調も明るめに言った。
「もし何だったら、京子を送った後で、どこかお昼でも食べて行けば?って言われてたの。そのまま家に直帰されても自分が家にいないからってね」
「はい、私も聞きました」
「だからさ琴音、少しばかり散歩した後で、この近所で何か美味しいものを食べましょうね?…私のおごりで!」
と師匠は言い放つと目をギュッと瞑って見せたので、私も自然と笑みを浮かべながら「ふふ、ご馳走様です」と返した。
師匠はウンウンと上機嫌に頷いていたが、ふと右手に見えていた商業施設群をチラッと見つつ、照れ笑いを浮かべながら言った。
「でもまぁ…私もそんなにお台場には滅多に来ないから、どこがオススメなんだか、さっぱり分からないんだけれどね?」
「ふふ、そうなんですね?」
「うん。…あ、琴音、あそこ」
「はい?」
師匠が不意に声を上げて指を指したので、その指の先を見てみると、今歩いてきた小道の右手にずっと広がっていた緑地の中に、ベンチが一つ空いてるのが見えた。
「琴音、散歩もいいけど、この人出だし、折角ベンチが空いてるんだから、ちょっと座っていかない?あそこに座れば、目の前に海とか色んな景色が見えて、いいロケーションだと思うんだけれど?」
と聞いてきたので、私としては何の反対もあろうはずも無く、
「はい、座っていきましょう」と笑顔で返した。
それから二人してベンチに座り、少しの間遠くの景色や、周囲の人間たちを眺めたりしていた。
この時、何だか私の胸の内は妙なワクワク感に占められていた。恐らく今こうして師匠と二人並んで、ボーッと景色を眺めたりして過ごしているという非日常感のせいかも知れない。
というのも、何だかんだ師匠と二人っきりで、ピアノや音楽、芸能以外でこうして外で過ごした事が今まで無かった。二人で外出自体は何度も数え切れないほどあったが、具体的に言えば、藤花の歌を聴きに学園近くの教会に行ったりと、最近ではそれくらいのものだった。それ以外だと漏れなくお母さんが付いてきたので、繰り返しになるがこの非日常感、その中にいる自分自身を楽しんでいた。
と、ふと私と同い年くらいの子達が、ワイワイ騒いでいるのが見えたので、ふと師匠に話しかけてみた。
「…そういえば師匠?」
「んー?何ー?」
師匠は正面を向いたまま、暢気な調子で間延び気味に言った。
私は私で、さっきの子達の方を見つつ続けた。
「さっき師匠は、滅多に来ないからって言ってましたけど…」
「えぇ」
「そのー…学生時代とかも来たりしなかったんですか?例えば…今の私や、あそこの子達くらいの歳の時に」
「え?…あぁー」
と師匠は私の視線の先に気づくと、そう声を漏らし、少し前傾姿勢になりつつ言った。
「そう言う琴音、あなたは良く友達とここまで遊びに来るの?アレ…こないだ来てくれてた子達と」
そう聞かれた瞬間、頭の中に裕美たちの事が浮かんで、そのままどうだったか記憶を攫ってみた。が…
「…いやぁ、私は…無いですね」
と照れ笑いを浮かべつつ返すと、師匠はふと私の顔を見て、その直後に悪戯っぽい笑みを浮かべつつ「なーんだぁ」と言った。
「聞いてくるものだから、あなたはあるのかと思ったじゃなーい?」「ふふ」
と私はただ微笑みで返したが、この時ふと師匠の言葉使いに引っ掛かったので、それをそのままぶつけてみた。
「師匠、あなた”は”って事は…?」
「え?…あ、あぁ」
と私がすぐに言葉を切ったのにも関わらず、師匠はすぐに私の意図を汲み取ったのか、今度は師匠が照れ臭そうに笑いつつ返した。
「…本当にあなたは、そういう細かい機微に気付くんだからなぁ…我が弟子ながら、感覚が鋭くて、たまに空恐ろしく思う事があるよ。…ふふ、そうねぇー」
師匠はふと、ベンチの背もたれにベタっと自分の背中をつけてから言った。
「んー…正直記憶にないなぁ。まぁそもそも青春時代なんかは練習漬けだったから、ここに来る用事も無かったし…前にさ、軽く話した事あったよね?」
と師匠は姿勢を正し、顔には柔らかい微笑を浮かべつつ続けた。
「ほら…私が何であなたにコンクールに出るように勧めていたのか、その訳をさ?…うん、私はまぁ小学生時代もそうだったんだけれど、中学、高校に入ってからも同じ様に周りの同級生たちとは”ソコソコ”の付き合いに止まっていてねぇ…。ってまぁ、それくらいの歳の時は、小学生の頃とは違って、物理的に友達と外で遊ぶ時間が取れづらかったってのはあるけれどね?」
と最後にニコッと明るく笑った。
「でもまぁ…」
とここでまたベンチに背をつけて、ふと顔を上げて空を見上げたかと思うと、その直後には顔を戻して私に向いて言った。
「その時もし側に京子がいたら…もしかしたら二人してここに来る事もあったかも知れないねぇ」
そう言い終えると、師匠はまたさっきの子達の方に視線を向けた。
「ふふ…京子さんは神戸でしたっけ?」
師匠がそっけない感じを出しつつ話していたのを聞いていたが、それでもその声のトーンから気持ちがこもっているのが端々から見えていて、それが何だか我が師匠に対してながら可愛いらしく思え、楽しい気分に浸りながら聞いた。
すると師匠は若干目を細めつつだったが、口元はニヤケっぱなしで答えた。
「えぇ、そうよー?まったく、今回はキチンと実家に帰った様だけれど、私が言わないと中々帰ろうとしないんだから…。まぁ私がけしかけるたびに京子が言うにはね、『だってー…帰るとまだ結婚はしないのか?ってうるさいんだもん』だってさ。はぁ…まぁ仕方ないわよね?親からしたら、心配にもなるってものだろうし」
「…ふふ、師匠は?」
余りにウンザリげに言うので、私はふと意地悪な気持ちが沸き上がり、思ったまま声を掛けると、一瞬だけ師匠の表情に驚きが見えた。それをみた瞬間、『あ…しまった』と、弟子の立場ながら調子に乗り過ぎたかと反省しかけたその時、「あははは!」と師匠が途端に声を上げて笑い出した。
「ちょっとー、それどういう意味よー?」
そう文句を言いつつも笑みを絶やさない師匠を見て、私がキョトンとしていると、師匠は私の肩をポンポンと叩きながら笑顔交じりに言った。
「あーあ、その感じ、懐かしいわねぇー?小学生の頃は、良くそうやって私に対して軽口を飛ばしてきてたのを思い出したわぁ…生意気にね?」
「…そんな生意気でしたっけ?」
と私も生意気に人を値踏みするかの様な意地悪げな笑顔で言うと、
「そういう所よー」と私のホッペを今度は軽くつねってきた。
「痛いですってー」と私が大げさに痛がってホッペを撫でて見せると、「あははは!」とまた明るく笑うので、私も一緒に笑い合うのだった。
「はーあ、そういえば」
お互いに笑いが収まった頃、ふと師匠が何気ない調子で聞いてきた。「京子といえば、さっきあなた達二人で何の話をしていたの?何だかチラッと遠くから見た感じでは、変に真面目そうだったけれど?」「え…?」
唐突にさっきの喫茶店の話題が振られたので、大袈裟でもなく豆鉄砲を食らった鳩の様に目を丸くしてしまったが、そこはそれ、あの話が中断してからずっと心の中にもやっとした物が居座ってる感覚を解消したかったので、内容が内容なだけにさすがの私も遠慮がちになりながらだったが、
「は、はい…そ、そのー…ですね?」
と時折師匠の顔を伺いつつ、京子との会話の内容を話し始めた。
話し始めると、師匠は始めから私の顔をニコニコしながら見て来ていたのだが、徐々に表情に影を差していき、終いには無表情になっていった。
見る見ると目に見えて変化していったので、私はすぐに喫茶店で京子に質問をしてしまった所からを思い返しつつ反省し始めていていたが、もうここまで来てしまっては仕方ないと、後でどう怒られようと、もしかしたら嫌われるかも知れないとの不安を抑え込みつつ、滔々と話を続けた。
「…それでそのー…って所まで話を聞いてたんですけれど…」
「…」
話し終えると、相変わらず師匠は無表情のまま私の顔をじっと見つめて来ていた。その間は半分間ほどだったと思うが、それでも体感的には最低でも数分ほどに感じた。私たちの周囲は人々で騒がしかったはずだが、さっきの喫茶店での事と同様に、私たち二人の間だけに消音フィルターでもかけられたかの様に、少なくとも私に耳には音が入ってこない様だった。
とその時、「…ふう」と息を大きく吐いたかと思うと、師匠は一度大きく伸びをして、そしてそのままの姿勢で私の方を見た。その顔には普段通りの師匠の笑みが浮かんでいた。
「あーあ、とうとうあなたに知られちゃったか」
とそう言う師匠の顔は苦笑いに変化していた。
「す、すみません…」
そんな師匠の様子に反して、私は心から申し訳なく思い、シュンとなりつつ呟いた。
「本来は師匠に直接聞く事の筈だったんですけれど…でも普段から何だか聞き辛くて…あ、いや、これは師匠がどうこうじゃなく、私自身の問題何ですけれど…」
「…ふふ、うん…」
途中からアタフタとした私の様子を、師匠は小さく吹き出しつつ微笑ましげに聞いていた。
「だからそのー…京子さんを責めないでください。何度も言おうか言うまいか悩んでいた京子さんに対して、無理に話を聞き出そうとしたのは、私…なんですから…」
と最後は俯きつつか細い声をやっとこさ吐き出す様に言い終えた。
その間私は自分の腿あたりを見ていたので、師匠がどんな表情をしていたのかは知らない。
また少し沈黙が流れた後、ふと私の肩に手が置かれた。
顔を上げて見ると、師匠は静かな微笑みを顔に浮かべていた。
が、私と目が合うと、途端に呆れ笑いに変化して言った。
「まったく…琴音、あなたって子は、本当に小さな事でも細やかに周囲に気配りが出来る、良くも悪くも繊細なんだからなぁ」
師匠は私の肩をポンポンと数回叩いてから手を離し、続けた。
「ふふ、分かってるよ。京子には何も言わない。…あなたがフォローを入れてくれたからね?…ふふ。でもそっかぁ」
師匠はここでまた大きく伸びをすると、少し照れ臭そうにしながら続けた。
「…実はね、その話…どこから話せばいいのかなぁー…良くね、京子と話していた事なんだ。…琴音、あなたを含めてね?」
「…え?」
無関係そうな中で唐突に私の名前が出たので、私は思わず声をあげた。
「それってどういう…」
「うん、どういう事かっていうとね?ここ最近では、あなたが実質本格的に私の弟子になった後は顕著だったんだけれど、それ以前…あなたがまだ小学二年生で私の教室に来た時から、私の事についてあなたに話すべきかどうか、京子に相談したり、または話すべきだと諭されたりしていたの」
そう話す師匠の顔には、イタズラのバレた子供風の無邪気な笑みが浮かんでいた。
「話すべきだと言われた時にはね、『まだあの子は小さいから、こんな不用意に私の重たい過去の話をするのはどうなんだろう?』って返していたの。それに…長く付き合っていく中で、あなたがとても感じやすい、繊細な子だということが分かってきたら尚更ね?」
師匠はウィンクして見せた。
「い、いやぁ…」
「ふふ、まぁさっきのあなたの話ぶりじゃ瑠美さんから一度だけ軽く聞いてはいたみたいだけれどねぇー…。まぁそうだなぁ…ここまできて、何も話さないという訳にもいかないし、もう師弟でもある訳だから、これ以上秘密である必要も無いしね…まぁ今までだって内緒にしとく意味は無かったかもだけれど…」
と後半は独り言の様に呟いていたが、パッと私の顔を見ると、一度目を細めて微笑みつつ、
「じゃあ琴音…我ながら少し重たい話になっちゃうけれど、それでも聞いてくれる?」
と聞くので、私はすぐにでも返事をしたかったが、それも何だか無粋に思い、何テンポか置いてから少し真剣な表情を作って「はい」と短く、しかしハッキリと返事をした。
師匠は満足げにコクっと頷くと、静かな笑みを浮かべつつ話し始めた。
「それで、えぇっと…あぁ、京子は自分が当時の私の家に来た辺りまで話したんだったわよね?うん…あ、そうそう、いやぁーよく覚えていたわねぇー、私がその時メンデルスゾーンを弾いただなんて」
師匠はここで呆れ笑い気味に言ったが、本心から呆れてるって感じでは無かった。
「そうそう、途中まで弾いて、やっぱり思い通りに弾けなくて、京子にそう言ったわ…うん、恥ずかしながら、京子に縋り泣いたのも…本当」
師匠はとても照れて見せて、それは今までに見たことが無いほどだった。
「…で、ここまでね、京子が話たのは…?そう…」
師匠はふと空を見上げて、記憶を手繰る様にしていたが、顔をゆっくりと正面に戻しつつ続けた。
「まぁそれからはね?京子に改めて聞かれたわ。『もう一度病院に行ってみましょうよ?』ってね。『もう行ったわよ…』って私が力無く言うと、『それって、検査受けた同じ所でしょ?違う病院に行けば…』『もう何件も行った…』…我ながらね、必死に色々と案を出してくれていた京子に対して、真摯な態度じゃ無かったなぁって後になって申し訳ない気持ちになったんだけれど、もう当時はそれどころじゃ無かったからねぇ…ただ淡々と不愛想に返すのみだったの。でね、何の脈絡も無かったんだけれど、私は不意に聞いてみたの。『さっきの演奏…どうだった?』って」
「…」
「そしたら京子、柄にも無く顔一面に困った表情を見せてね、凄く言うべきかどうか迷ってる風だった。…ふふ、もし今そんな表情を目の前でされたら軽口をぶつける所だけれど、当時はそんな京子が答えてくれるのを、ただ無心になって待っていたの。暫く考えてる風だったけれど、ようやく口を開いて言った言葉がね、『あなたらしく無い』の一言だった」
「…」
「そう言った直後に、今度は何だか困った顔を浮かべていたけれど、私はそう言われてね、何故か急に心の中が澄み渡っていく感覚に陥ったの」
「…え」
「うん、なんていうかなぁ…まぁ素直にその時の感想を言うとね、『あぁ、やっぱり京子だ。キチンと私のピアノを今まで聞いてくれてたんだなぁ』という感謝の念が湧いたんだけれど、後もう一つ湧いたのはね、『キチンと正直に包み隠さず、そんな言いにくいことを言ってくれて有難う』って事だったの」
「あぁ…」
「その最後の言葉ね、それは京子がそう言ってくれた後で、そっくりそのまま言ったの。おそらく私は笑顔だったと思うわ。それを聞いた京子ったら…さっきのあなたみたいに目をまん丸にさせたかと思ったら、その後ではますます困った表情を浮かべていたわ」
と師匠が手を使って自分の目を大きく見開かせて見せたので、私は「ふふ」と小さく控えめにだが笑った。
「それでね、それからまた話は戻って、色々と京子が案を出してくれていたんだけれど…ふと怪我した後から考えていた事を漏らしたんだ…」
師匠はここで一度区切ると、これまた今までに一度も見たことのない程の寂しげな笑みを浮かべて言った。
「『…もう引退…しようかな?』ってね」
「あ…」
私は自分でも分からないままに声を漏らしたが、それには取り合わず、師匠はその寂しげな笑みのまま先を続けた。
「…ふふ、そしたら京子ったら、また目を大きく開かせてね、それに加えて口をあんぐりと開けて固まったの。もうこれ以上無いって程の呆れ具合ね。普段の私だったら、それについても何かしらツッコミを入れてたと思うけれど、繰り返しになるけどそれどころでは無かったから、そんな様子を無視して言葉を続けたの。『…うん、だって…今まで自分なりに、それなりに頑張ってきたつもりだったけれど…もうこうなっちゃった以上、どうしようもないもん…』そう言うと、京子も一緒になってシュンとなって見せてたけど、それでも何か私に言いたげな表情を見せていたわ。そんな様子を見ながらね、私は呑気に、『こんな私なんかの為に、ここまで感情移入してくれるなんて…私は本当に良い友達に恵まれたなぁ』だなんて感想を持っていたの。…あ、いや!」
とここで急にテンションを上げたかと思うと、師匠は照れ臭そうに「今のは…京子に内緒にしてね?」と今更なお願いをしてきた。
そんなお願いに対して「はい」と辞令的に笑顔で返すと、まだ照れ臭さの残る笑みを浮かべつつ話を続けた。
「ふぅ…あ、でね、それからはずっと京子から引退を思いとどまるように説得されていたんだけれど…徐々にね、本当に我ながら酷いなと思うんだけれど、当時の私からしたら、健全な身体を保ちつつ、これから先、私みたいに事故とかのアクシデントに遭遇しない限り、ピアニストとしての明るい未来が見えている京子に対して、そのー…嫉妬心だろうね、私が仮に被災者だとして、他の人達は色々と応援の言葉をかけてくれるんだけれど、それは対岸の安全地帯からの言葉で、どうしたって当事者では無いが故に、何だか身勝手な偽善的な言葉に聞こえてきてしまったの…。京子と偽善とは、どうしたって繋がらないのにね」
師匠はここで一度自嘲気味に笑った。
「それでね、とうとう言ってはいけない事を言ってしまったの…。『…うるさい。京子、あなたに私の何が分かるって言うの…?あなたは良いわよ、これから先まだまだピアノと共に生きていけるんだから…。…私を見てよ?さっきあなたが言ってくれたように、もう私は以前の様には弾けなくなっちゃったのよ…?仮に周りがその演奏に対しても良いと言ってくれたって…何の意味もない。ただその評価、その評価をした人間に対して失望と嫌悪をするだけ…。でも、あなたやごく一部の人々、それに私自身…それら少数の納得いかない演奏をいくらしたって、自己嫌悪に陥ってくだけなのは、火を見るよりも明らか…でしょ?もうさ、京子…私のことはほっといてよ…あなたを見てると、ダメな自分が浮き上がる様で辛いから』とね」
「…」
話の途中から、話の中の京子の様に私もシュンとなって少しうつむく様に話を聞いていた。
と、そんな私の様子を見て、師匠は小さくだが微笑んでから続けた。「そう言うと途端に京子は黙りこくってね、それからはそうだなぁ…もう何十分もお互いに何も言わずにいたと思うわ。それでもね、酷い言葉をぶつけたと言うのに、京子は依然として黙ったままだったけれど、ただジッと私の側から離れようとしなかったの。これは本当に嬉しかった…」
師匠はしみじみと零しつつ、視線を遠くに飛ばした。
「でもね、やっぱり嬉しいのと同時に自分の小ささが益々浮き彫りされていく感じがしてさ…これだけは言うまいと思ってたんだけれど、ある種京子を失望させる為という意地悪な汚い意図のもと、そんな状態になった時から考えていた事を、自嘲気味に笑いつつ言ったんだ…」
師匠はここで一度区切ると、視線はそのまま遠くに飛ばしたまま、何でもないといったトーンで言った。
「『もう…死のうかな?』ってね」
「…」
この一言を聞いて、私は胸を短剣で刺されるかの様な思いがした。
もちろん、以前にも話した様に、師匠が自暴自棄になるがあまりに、そういった願望を持つ様になった事はお母さんから聞いていた。
…聞いていたのだが、実際にその言葉を、自分の尊敬する師匠の口から聞かされると、思っていた以上にその衝撃は計り知れなかった。そんな私とは対照的に、師匠は一度私の方を向くと、フッとまた何か諦めた風な笑みをこぼしてから、また正面を向いて話を続けた。
「そしたらね…また二人の間に重たい沈黙が流れたんだけれど…あ、ほら、京子から聞いたでしょ?当時の私の練習部屋には小さなテーブルと椅子があって、向かい合って座っていたって」
「え、あ、は、…はい」
いきなり何を言い出すのかと思ったが、やけに急に明るい口調でそんな事を聞いてくるので、それに釣られてというか、私は戸惑いつつもすぐに返事をした。
すると師匠は私に笑みを向けつつ、声のトーンも先程までとは比べ物にならないくらいに明るめに続けた。
「京子はね、何の前触れもなく立ち上がったかと思うと、私の座っている側まで来てね、私の事を見下ろしていたの。私が何事かと見上げるとね、次の瞬間…」
師匠はここで言葉を切ると、急に体の正面で空中に向かってビンタをした。
「私の顔にね、思いっきり力強くビンタをしてきたの」
「え?」
私は師匠の言葉以上に、急に目の前でビンタを実演して見せたことに対して驚いていたが、そんな事はつゆも知らない師匠は、何故か愉快な様子で話を続けた。
「パァン!って良い音がしたわよー?その部屋は防音がしっかりなされてたんだけれど、内部はとても音響に気を使った作りにしてたから、尚更良くね?…ふふ。それでね、当然叩かれるだなんて思ってもいなかった私は、当時痛みも感じない程に驚いてね、ただ唖然としながら京子の方を見たの。そしたらますます驚いちゃった。だって…」
師匠はまた静かな微笑みに戻りつつ続けた。
「京子ったら怒った表情を浮かべながら、両目からは大粒の涙を流し続けていたんだもの…。私は驚きを隠せないまま、叩かれた方のほっぺに手を当てつつジッと京子を眺めていたの。そしたらね…何やら小声で軽く俯きつつ言ってるから、『な、何…?』って急に打たれた事について何も文句を言う気も起きないままに聞いたの。そしたらさ、京子ったら鬼の様な形相で肩を怒り肩にしてワナワナと震えながらね、怒鳴ったんだ。『そんなこと言わないでよ…死のうかなだなんて、そんな事言わないでよ!!』ってね」
そう言い終えると師匠はニコッと力無く、どこか寂しげに笑っていた。
「『きょ、京子…』って私はその余りの剣幕に怖気付いちゃってね、オドオドしながらゆっくりと席を立ったらさ、それと同時に京子が私に勢いよく抱きついて来たんだ…。身長が私と京子って同じくらいだから、丁度私の耳元に京子の顔が来ててね、私に言う目的かどうかは判断出来なかったけれど、『沙恵…許さない…そんなの…絶対許さないんだから…』って何度も繰り返し言ってたんだぁ…。それを聞いてたらさ、私も何だか胸が一杯になってきてね…私からも京子を抱き返しながら…泣いちゃった」
と言い終えてニコッと笑う師匠の目元には薄っすらと涙が見えていた。
今まで師匠の話を聞いていた時もそうだったが、またこうして師匠の涙を見てしまっては、私からは何もかける言葉など見つからなかった。
「あーあ!」と師匠は涙を浮かべた事を隠す様に一度明るく声を上げると、また少し寂しさを織り交ぜた様な静かな笑みを浮かべつつ言った。
「まぁそれでね、しきりにお互いに気が済むまで泣き明かした後は、お互いに冷静になってね、二人して元の席に座ったんだけれど…まだ京子があのツリ目気味の目つきで私の事を…もうあの烈火の様な怒りの色は見えなかったけれど、それでもまだジッと私を見てきていたからさ、まぁその時にやれやれと言ったんだよ…『分かったわ…まだ死なない事にする』ってね。『私が死んだ後に、お墓の前でそんな風にあなたに怒鳴られちゃったら、死んでも死に切れない気がするもの』って少し茶化す意味合いも込めて言ったの。そしたらさ、京子ったら、まぁ…当たり前といえば当たり前の反応か、初めの方は見るからに怪訝な表情を遠慮なく浮かべていたんだけれど、その後で『ふぅ』って一度大きく深呼吸でもする様に息を吐いてから、苦笑まじりに『何よそれー…』って返してくれたわ。…いつもの感じでね」
「…」
そう話す師匠自身も心なしかリラックスしてきてる様に見えた。
ここでまた大きく腕を大きく前方に伸ばすと、ゆっくりとお戻しつつ明るい口調で続けた。
「でまぁ、後はまた話自体は逆戻り。京子がまた私にアレコレと気をかける余りにアドヴァイスを言ってくれたわ。リハビリがどうのとかね?…もう私はこの時、憑き物としか言いようのないモノが落ちたのか、素直に話を聞いてたんだけれど…結局二人で話し合った結論はね、このままライプツィヒにいたって、ピアノの弾けない自分が嫌でも浮き彫りになって、また死にたくなる程の自暴自棄に苛まれるとも限らないから、一度落ち着いて色々と自分自身を見つめる…見つめ返すために、環境を変える意味でも、一度日本に帰国するって話になったんだ」
「…あぁ、それでなんですね?」
もう何分くらいだろう?随分と間が空いて、ようやく合いの手を入れることが出来た。
「そう!それで日本に帰って暫く実家に居たんだけれどね…来る日も来る日も家の中でボーッと過ごしていたんだ。…ふふ、親は親で、勿論私が向こうで事故に遭った事を知ってたし、まぁでも京子に言った様に大した事ないって話してたから、私が急に帰国してきた時にはとても驚いてたよ。『やっぱりどこか悪いところが見つかったのか?今から日本の病院にかかるか?』ってな具合でねぇ…もう大騒ぎ」
「はは…」
師匠が余りにも子供っぽく言うものだから、私は何だか呆れ気味に笑う他になかった。そんな私の様子を愉快げに見つつ、調子を変えずに続けた。
「でまぁ何とか日常生活には何の支障もないって事を説明して受け入れてもらったんだけれど、やっぱりどこか私の事を腫れ物の様に扱ってきてねぇ…まぁ大事にしてくれたんだけれど、でもちょっと過保護気味でさ、実家にずっといたんだけれど、それでもどこか息苦しかったんだ…。まぁそのグータラと過ごした期間はすごく長く感じたんだけれど、実際は一ヶ月くらいだったんだ。それである時…って」
とここで不意に話を切ると、師匠は照れ臭そうに笑いつつ
「あ、ごめん…何だか京子との話から、脱線してきちゃってるね」
と言ったので、私は首を横に何度か振ってから
「いえいえ、その繋がりで、その先の話も含めて最後まで聞きたいです」
と笑顔で返すと、師匠は「そーう?」と今度は苦笑まじりに言うと、何ともバツが悪そうな感を残しつつ話を続けた。
「じゃあお言葉に甘えて、んーと…あぁ、そうそう、大体一ヶ月ほど経ったある日ね、お母さんに『私が良く顔を出してるお茶会があるんだけれど、良かったら沙恵も来ない?』って聞かれてね、当時の私に用事なんかある訳がなかったから、まぁ面倒だなくらいには思いつつもオーケーしたんだ。で、その席で出会ったのが…」
とここで師匠はビシッと私に指を指して、何故か得意げに続けた。
「あなたのお母さん…瑠美さんだったの」
「へぇー」
お母さんの話では、共通の友人を介して出会ったという事だったので、密かにもしかしたらその共通の友人が京子だったりしないかと、こないだのお母さんと京子との会話してる姿を見てふと思ったのだが、どうやら私の早合点だった様だ。
そもそも、私の記憶違いなのかも知れないが、共通の友人…ではなく、もっと身近な、友達の娘が師匠だったのが、この時初めて明らかとなった。
まぁそんな事は個人的な事だったので、私は敢えてそれを話す様なことはしなかった。
「まぁ後は聞いてる通りかな?そこで瑠美さんに凄い勢いでピアノ教室を開かないかって提案されて、その勢いに流されたまま、あれよあれよと今日に至るってわけ!」
「なるほどー」
と、これだけ師匠が長い時間をかけて身の上話をしてくれたというのに、『なるほどー』としか返せなかったのは、弟子として痛恨の極みだったが、まぁそれだけボキャブラリーが無いので仕方がないと毎度のごとく開き直るしかない。ただまぁ、そこは私と師匠の長い仲、師匠もそんな私の性質を分かりすぎるほど分かってくれていたので、こんな事くらいで失望される心配はなかった。
「はーあ」
と師匠は不意にため息まじりに声を上げると、ふとまた空を見上げつつ言った。
「過去を話して、こんなに心が晴れ渡る様な気分になれるんだったら、こうしてあなたに聞かれる前に、自分からさっさと話ちゃえば良かったなぁー…琴音?」
「はい?」
と私が返すと、師匠はふとまた静かな笑みを浮かべつつ、口調も穏やかに言った。
「あなたの事だから、私が自分で言うのも何だけれど…もっと早く聞きたかった…よね?…遅くなって、ごめん」
「え、あ、いや、そんな…!」
と私は謝られるとは思ってもみなかったので、自分でも不様な程にアタフタとしながらリアクションを取っていると、それを見た師匠は「あははは!」と無邪気に底抜けな明るい笑い声をあげていた。それにつられる様に、私も一緒になって笑うのだった。
「さて…と!」
と掛け声を上げつつ勢いよく立ち上がると、お尻を軽くはたきつつ
「じゃあそろそろお昼でも食べに行こうか?…」
とここで時計をチラッと見てから続けた。
「…ふふ、もう一時も半を過ぎてるし」
「はい」
と私も立ち上がると、一連の師匠の真似をして身支度をした。
それからは私たち二人は元来た道を戻らずに、左手に海を眺めつつ歩を進め、そして可愛らしい看板を目印に、右手側にずっと見えていた商業施設へと向かった。
「あーあ、まぁ遅くなっちゃったけれど、でもまぁ、もしお昼時だったらどのお店も混んじゃって、もしかしたら中々手頃なトコに入れなかったかも知れないから、結果オーライかな?」
「…ふふ、そうですね」
と微笑みつつ返したが、この時私の頭の中にはある考えが渦巻いていた。
今ここでは細かくは言わないが、それを外しつつ話すと、その考えとは…師匠がこれだけ自分のことを赤裸々に話してくれたというのに、弟子の私が自分のことを何時迄も隠したままでいいのかという点だった。師匠から話を聞いた直後は、長年の疑問が一気に解消されたお陰か清々しい気持ちになっていたのだが、それと同時に、大げさに言えば良心からくる呵責なのか、すごく罪深い心持ちになっていたのだった。
このままでは、やはりいけないんじゃないか…?でもそれを話した時に、どんな災いが起きてしまうのか…?
心の中に生じたモヤモヤを解消したいが為に、師匠に話そうかどうしようか考えあぐねていたのだが、そんな私の変調に気づいたか、少し心配げに師匠が話しかけてきた。
「…琴音?どうしたのよ?…そんなにお腹が空いてた?」
と師匠は最後に悪戯っぽい笑みを向けてきたが、私はそれに一度ニコッと笑ったのみで、それと同時に足を止めた。
「ん?琴音?」
と今度はあからさまに、少し前方から本気で心配げな表情を、師匠は浮かべてこちらを見てきていた。
だが私の方はそれには構わずに、少し俯き足元の地面を眺めつつ、今一度考えを巡らせてから意を決して顔を上げると、心配と疑問が同時に共演してる様な表情を浮かべている師匠に向かって、ゆっくりと慎重に声を発した。
「…し、師匠…。少しの間だけ、話を聞いてくれますか?」
「え?…えぇ」
と師匠は戸惑いつつも私の位置まで戻ってきた。
「で…どうしたのよ?そんな真剣な顔で…?」
そう師匠に聞かれたが、やはり内容が内容なだけに、すぐにはまだ決心がつかなかった。…だが、ここまできてしまった以上、もう引き返せないと私は勇気を振り絞って言った。
「し、師匠…じ、実は私…私も師匠に中々今まで話せなかった事が…あるんです」
「え…?」
と師匠は声を漏らしたが、この時の師匠の顔を見た私の感想としては、どういうわけか、それほど意外に思ってない様に見受けられた。と、この印象に引きずられそうになるのを何とか踏み止まって、先を続けた。
「し、師匠、そのー…」
この時になってようやく師匠の目をまっすぐに見据える事が出来た。「今はまだ詳しいことは言えませんけれど…でも近い将来、私自身に覚悟が出来た時に、そのー…その時、私の話を…聞いてくれますか?」
そう言い終えた後も、私はまっすぐ師匠の方を見つめた。師匠は師匠で表情も少なく見つめ返してきていた。
どれくらいそうしていたのだろう、暫くすると、フッと顔に明るみを徐々に差していった師匠が微笑みつつ口を開いた。
「…ふふ、前にも私言ったでしょ?もう少し周りの大人を信用してって…?あなたは本当にお世辞じゃなく、聡くて、繊細で、気の利く良くできた…んーん、出来過ぎな子だけれど、それでもやっぱりそんなあなたでも、自分一人で抱え込むには大きな事もある…そうでしょ?」
「はい…」
「だからさ?」
とここで師匠はふと私の両肩に手を置いて、笑みを絶やさぬまま言った。
「これも前に言ったけれど、恐らく自分の両親にも言えない秘密が仮に…いや、今のあなたの口ぶりから見るに、あるんだと思う…。でももしそれが一人で抱えるには大き過ぎて重過ぎるのだとしたら、その時は…私を遠慮なく頼りなさい?だって何度でも言うけれど…私はあなたの師匠で、あなたは私の唯一の弟子なんだから」
「…はい」
あれだけ決心した割には曖昧模糊とした説明を抜け出れなかったのが原因だが、師匠は微妙に私の意図とする所からズレて察してくれた様だった。だが、でも、それでも昔から変わらない、私のことをきちんと深い所まで理解しようと努めてくれて、いつでも気を止めてくれている事を再認識出来たので、それには心から感謝の念しか起き得る筈のない私は、その気持ちを何とか体現出来るように意識しながら笑顔で返した。
それに対して師匠もニコッと笑うと、肩に乗せた手を外し、「じゃあほら、今度こそお昼を食べに行くわよー!」と声を上げつつズンズンと歩を進めて行ってしまった。
私は「ふふ…」と一人笑みをこぼすと、少し早足で師匠の後を追うのだった。
第13話 礼拝堂
「…ん?」
突然に意識が飛ばされた様な、そうとしか表現のしようの無い感覚を覚えた。それと同時に鼻腔を埃っぽい臭いが刺激してきて、どこか懐かしい気持ちにさせられた。それに気を取られていると、次に気付いたのは、どうやら自分が両膝を抱えて蹲っているという事だった。目の前が真っ暗なのも頷けた。
とまぁ、幼子の様に一々自分の事なのに一つ一つ確認していってる自分自身を客観的に観察した時、すぐに今の状況を把握した。
あぁ…あの夢か。
私はゆっくりと顔を上げて周りを見渡すと、どうやら自分は天井を支える大きな列柱の一つに寄り添って座っていたらしく、顔の正面には幾つかある内の一つ、縦に細長いステンドグラスがあり、弱い光がそこから室内に差し込んできていた。そしてもう一つ、大きな特徴であり、かつ気持ちを落ち込ませるのに貢献していた点、それは…自分の身体以外の、目に入るありとあらゆる物が灰色だった事だ。これも何も改善されていなかった。
ただ相変わらず手元のカンテラだけは、赤々と燃えて柔らかい光を発し続けており、それだけが目に入る色彩を帯びるものだったので、少しはホッと息が付けた心持ちになった。
「はぁ…」
私はそれでも拭い去れない陰鬱な気持ちのまま、やれやれと溜息をつきながら重たい腰を上げたが、この時急にハッとなった。何故なら、何でこんな柱の陰で蹲っていたのか、その理由を思い出したからだ。
覚えておられるだろうか?何度もこの夢を見ている訳だったが、前回にして初めて自分以外に動くモノを見掛けたのだった。
おさらいする様だが、ソレはとても不気味だった。全身を修道服のような物に身を包んでいたのだが、周りの景色と一緒で灰色一色だった。そのせいで見た目はパッと見人間に見えるのだが、見ていくうちに徐々に人に思えなくなり、終いには有機体にすら見えなくなって、でもそれが何かしらの意思を持つかの様にうごめく様は、繰り返しになるが、不気味としか表現のしようがなかった。
それで前回の最後は、その存在に対して恐怖を覚え、柱の陰に蹲って、そこで夢から覚めたのだった。
私は慌てて意識して柱の陰に身を細めて、そしてそっと前回の夢で見た方角をチラッと見た。
その不気味な修道服姿は、今いる私の位置から一番遠くの広場の奥、上り階段と、その脇にある、おそらく炊事をする所なのだろう、その大きな竃の辺りで箒で掃いていた様だったが、今見た限りではもう何者もいなくなっていた。
この時になって初めて気付いたが、考えてみればさっきから私の息遣いや動作音以外に、この広場で音のしてるモノが無かった。
冷静になればすぐに分かりそうなものだが、さっきも触れた様に、この夢の中にいる時は自分でも不思議に思うほどに思考が働かないのだ。…まぁそれ以前に、ただ単に気が動転しているっていうのが理由なのかも知れない。
とまぁ、それは置いといて、私はホッと一度息を吐くと、ゆっくりと柱の陰から外に出た。そして改めて今いるゴシック様式の大広間を眺め回しながら、前回には近寄れなかった階段と、竃の方へと近寄って行った。
近くまで来て見ると竃は石造りで、火をくべる口元は典型的なアーチ型をしていた。170近くある私が少し腰を屈めただけで中に入れる程の高さがあり、横幅も両腕を目一杯広げてもまだ余裕があるくらいで、正直初めてこの手の物を見たのだが、中々に大きな規模のものだと思われた。
先ほどの修道士姿がいた辺りを見てみた。何やら掃除してた風だったが、元がどの程度汚れていたのか知らないが、竃の中、そしてその口周りの床などを見ても、埃が積もるほどに溜まって”見えた”。
何故わざわざ”見えた”と言ったかというと、しつこい様だが何せ辺りが灰色一色で、精々他に違いが分かるとしたら明暗くらいだったので、正直よく分からないというのが感想だった。
「さてと…」
と私は口に出してから、すぐ脇にある、上への階に続いているであろう階段を見上げた。階段には窓がなく、そして灯りもないらしく、数段上辺りは暗闇に包まれていた。
まぁ暗闇に関しては、今更怖気付くことも無かった。何せ今いる広場に出るまで、手元のカンテラの明かりだけを頼りに、真っ暗闇の中をひたすらに歩いてきたのだ。だから暗いって理由のみで足が竦む様なことは無かった。
…無かったが、やはり先ほどの、得体の知れないナニカが上の階にいるのだろう事を想像すると、階段に足をかける勇気が中々湧いてこないのだった。
こういう時での習慣と化してしまったが、縋るように視線を手元のカンテラに落とした。
カンテラはいつだかの時の様に、少し不安げに中の炎が揺れて見えたが、それでも相変わらず、当然と言えば当然だが何も物を言わないにも関わらず、その無言の明かりからは、あからさまに私を励まそうという意志を感じられた。…これが夢でなかったら、とうとう頭がおかしくなったのかと思う所だろう。
私はカンテラに向かってコクっと一度頷くと、今度はキッと睨みつける様に階段の先を見据え、一段めに足をかけ、おっかなびっくりではあったが、ゆっくりと慎重に、しかし確実に一歩一歩、一段一段を登って行くのだった。
どれほど登っただろう。何せ以前にいた暗闇ほどではないにしろ、薄暗がりの中故に、一度立ち止まって階下を見てみても何も見えなくなってしまっていた。だが今いるのが階段のお陰か、一度立ち止まってキョロキョロと見渡しても、方向を見失う心配はなかった。
後、これは夢特権だろうか、いくら登っても疲れを一切感じなかった。そこを無駄にリアルにされていたら、恐らくこれ程までは登れなかっただろう。
そうして登り続けていたその時、ふと何か鼻腔を刺激してくる香りに気づいた。実はもっと前から何となく異変には気付いていたのだが、それは意識的に嗅ごうとしてやっと感知できるレベルだったが、今いる階段を一段、また一段と登るたびに、その香りが強くなっていくのを感じた。
何の匂いだろう…?
私は一度立ち止まって、誰も見てないのを良いことに、犬の様に色んな方向に鼻を向けると、スンスンと音を鳴らして匂いの出所を含めて探し当てようとしてみた。
だが結局見つけられないと分かると、また一段一段と階段を登っていった。
結局また、以前の様に中々進展が見られないとウンザリしているだろうと思われたかも知れない。だが実際は、気分で言えば、先程の灰色一色の世界だった大広間にいる時よりも、何というか…とても清々しく、そしてとてもリラックス出来ていた。
その理由はやはり、言うまでもなくこの香りのせいだろう。この夢を見はじめてから、初めて遭遇した違う匂いだった。
何のことかと言うと、これまでもずっと五感の一つ、嗅覚もキチンと働いてはいたのだが、その鼻で感知してきていたのは、埃っぽい臭いその一種類のみだったからだ。むしろ途中から、ある意味で嗅覚も制限されているんじゃないかと疑ったほどに、ずっと同じ臭いしか感じてこなかった。これも憂鬱にさせる大きな要因であったのは間違いない。
それがここにきて、急に新たな匂い、それも少し具体的に表現すれば、まるで森林の中にいると錯覚させる様な、爽やかで清涼感のある香りで、心なしか前向きな気持ちにさせてくれる様な効果があった。それと同時に、何も知らないくせに知ったかぶって言えば、何だかとても厳かな匂い…?といった印象を漠然と持ったのも付け加えさせて頂く。
とまぁそんな新たな事象が起きて、視界は相変わらず薄暗いままだったが、足取りも軽くまた暫く歩いていると、急に目の前の階段の段差が消えた。危うく踏み外しそうになったが、どうやら階上まで来たらしい。
私は体勢を整えてから、改めて手元のカンテラを顔の高さまで掲げつつ周りを見渡した。すると、また今までとはまたガラッと違った趣きが現れたので、少しばかり驚いた。
軽く触れてみよう。まず広さだ。階下の大広間は以前にも話した様に、身内ネタで恐縮だが、私の通う学園の体育館程もの床面積があったが、今出た場所は、比べ物にならない程に狭かった。…いや、大広間が広すぎただけで、今いる所も実際は教室程の広さは”ありそう”だった。
…何故”ありそう”と強調したかと言うと、ある物のせいで広さが分かり辛かったのだ。それは何か。それは…これこそがこの場所の特徴的な点だったが、今まで現実世界でも見たことのない様な太い柱が、ズラッと所狭しに並んで立っていたのだ。これを見て私は真っ先に少し驚いたのだった。
そのうちの一つに近寄って、一瞬躊躇ったが思い切って抱きついてみた。恐らく石柱なのだろう、とても冷んやりとしていて、表面も磨きあげられているのかスベスベで、変な言い方だが抱いた感触は良かった。…良かったのだが、何せあまりにも太いので、しがみ付いているのに疲れてしまった。総合面では、それほど抱き心地の良いものではなかった。
…コホン、まぁそんな下らない話はこの辺で終わりにして、後はこの場所…まぁ部屋と言っても良いのか、この部屋を大広間よりも薄暗くしている原因としては、窓の数が圧倒的に少ないせいだろう。ここにもいくつか窓があるにはあるのだが、数が少ないのと同時に、パッと見では大広間のと同じ縦細のステンドグラスなのだが、一回りも二回りも小さいミニチュア版って趣きだったのだ。
とまぁ色々と違いを述べてきたが、それでも相変わらず、見渡す限り、明暗による濃淡の差こそあれど、灰色一色の世界なのには変わりなかった。
それから私は一つ一つの太柱の表面をさすりつつ、丁寧に一本一本観察していたが、ふと何処からか足音が聞こえてきた。その足音は音から察するに、階段を降りて来てるらしい。まだこの部屋に来て今きた階段以外を見つけれてなかったが、この推測は確かの様だ。…前回の夢と同じ調子だったので、それを覚えていた私はお陰ですぐに気付けた。
…いや、一つ…いや、二つばかり前回と違う点があった。まずは、前回は足音が一つだけだったのに、今回は幾つもの足音が聞こえて来ていた。微妙に音がズレていたのだ。
それに気づいて当然ドキッとしたが、もう一つというのは、さっきから私を落ち着かせてくれていた例の香りが、足音が大きくなる度に、香りも強まっているといった点だ。どうもこの香りを漂わせている主が近づいて来ているらしい。
とまぁそんな風に、緊張していると言いながら呑気にこうして思考を巡らせていたが、ふと我に帰り、前回の様に何処かに隠れなくちゃと、身を隠せそうな所を探した。
辺りは太柱ばかりだから、そんな場所は選り取り見取りだと思われそうだが、漠然と前回と同じ様に柱の陰に隠れるのには抵抗があった。それ以外で何かないかと、徐々に大きくなる足音に急かされる様に必死に辺りを見渡すと、ある壁の一部に、薄暗い部屋の中でも一際暗さの目立つ窪みがあるのを見つけた。近寄ってみると、腰を大きく屈めば入れるほどのスペースがあった。
階下にあった竃とは比べられない程に小さかった。今は使われていない様だが、どうやら暖炉らしい。見ると消し炭の様なものがチラホラと見えた。
…悩んでいる暇はないか
私は意を決して中に入った次の瞬間、視界の隅でパッと光が灯るのが見えた。…まぁ、灯りが見えたといっても、私のカンテラの発する光と違って、向こうのは白に近い灰色って具合だったが。
まぁどうやら、今この部屋に来た者共の中の一人が、私の様に何かしらの光源を手にしているらしかった。
私はこの時、なるべく息を潜めてその光の動きを注視していたのだが、ふと何かの拍子に視線が逸れたその時、目の前の太柱の側面上部に、一メートルほどの真っ黒な像が掛けられているのに気づいた。
本当はそれどころではなく、光の行方を気にしていなければならないとは思っていたのだが、不思議とその像から目が離せなかった。
無心のままその像をジッと見つめていると、今いる場所特有の薄暗さに、今になって目が慣れてきたのか、ようやくその像がなんなのか分かった。と、同時に、また少し驚いてしまい、息をひそめるのも忘れてボソッと思わず呟いた。
「え…?もしかして…聖母マリア…様?」
第14話 文化祭 Ⅱ
「…はーあ、っと」
私はここでふと壁に掛かっていた時計に目を向けた。時刻は夕方の五時を少し過ぎた所だった。
「今日はこんな所にしとこうか?」
と私はアップライトピアノの譜面台に置いていた楽譜を纏めて手に取り、トントンと膝の上で均しつつ声を掛けた。
「そうだね」
と藤花も時計をチラッと見ると、その場で大きく伸びをしながら応えた。
「はーあ、疲れちゃった…」
と藤花はそう言いつつも笑顔を浮かべて、いつも通りに部屋の隅に設置してある、藤花が自分で言ってる”ケアゾーン”に向かうと、そこにある吸入器の前に座り、電源を入れ、モクモクと立ち上る水蒸気に口を当てながら、手元には歌詞と楽譜を同時に眺めていた。
私も慣れたもので、その間に色々と帰り支度を含めた片付けをするのだった。
…さて、当然の如く、毎度の様に後出しになってしまったが、それでも説明はいるだろう。今がいつで、どこにいて、そして何故に藤花と一緒にいるのかを。
まずはいつなのかから。今日は京子を見送ってからその週の土曜日。九月の二週めって所だ。
次にどこか。…どこかについては、もう何となく察している方もおられる事だろう。何せ一度長めに時間をとって話した事があったからだ。そう、ここは藤花の家の中にある練習部屋だった。私の家のと同じ様に、しっかりと防音処理をされていて、大まかな種類の違いはあったがピアノがある所まで同じだったが、後は前に話した通りだ。
さて、ようやく何故こうして藤花の練習部屋にお邪魔してるのか…あ、いや違う、正確に言うならば、何故私が藤花の練習部屋にお邪魔してる事を、わざわざこうして触れる必要があるのかを説明する時が来た。何せ私はこんな風にわざわざ取り上げなくても、多い時で月に何度かここにお邪魔していたから、特段珍しいことでは無かったのだが、でも今回ばかりは、こうして取り上げざるを得ない事が起きてしまったのだ。それを話そうと思う。
話は京子を見送りに行った時より少し遡る。始業式が終わって二、三日後の事だった。
昼休み、この日は久しぶりに私と律の教室にわざわざ裕美、藤花、紫が自分の持参したお弁当を持ってきて、五人揃って空いてる机を向かい合わせにしてランチを摂っていた時、ふと教室の壁に備え付けられていたスピーカーに電源が入れられた雑音が鳴ったかと思うと、淡々とした口調で不意に私の名前が読み上げられた。
「職員室で有村先生がお待ちです。至急職員室までお願いします」
ブツっ
放送が終わった直後、呆気にとられていた私の方を、裕美たちだけでなく、たまたま教室にいた生徒の殆どが一斉に視線を向けてきていた。好奇の眼差しだ。
「何だろ…?ゴメンみんな、ちょっと行ってくるね?」
と私がゆっくり立ち上がると、「琴音、呼び出し食らうなんて何をやらかしたのー?」てな具合に裕美たちから軽口を受けたが、それらは軽くスルーして、多くの視線を受けているのを感じつつ職員室へと向かった。
「何ですか?」
職員室に入り、有村先生…改め”志保ちゃん”の席に着くなり聞いた。何だか小ぢんまりとした空のお弁当箱を丁度しまっている所だったが、私の姿を見るなり、志保ちゃんはその手を止めると、大袈裟な笑顔を浮かべて私を迎え入れてきた。
「あぁー、良く来たわねぇー。さぁさぁ、座って座って」
と誰もいない事をいい事に、隣の机に仕舞われていたキャスター付きの椅子を勧めてきた。
「良いんですか”志保ちゃん”、生徒の私が先生の椅子に座ってしまっても?」
と私が聞くと、志保ちゃんはニコニコしながら「良いの良いの」と如何にも何も考えてない風で返してきたので、何だか力負けした感じでフッと呆れ笑いを浮かべつつ、促されるままに座った。
「しっかし…ふふ」
と私が座った直後、志保ちゃんが笑みを零したので「何ですか?」と聞いた。
すると志保ちゃんは今度は苦笑まじりに答えた。
「だって…望月さん、あなた、私の事を多くの他の子と同じ様に”志保ちゃん”って呼ぶくせに、それでいて”ですます”口調なものだから、何だかそのチグハグさが面白くてねぇ」
「…志保ちゃん」
と私はジト目気味に視線を飛ばしつつ、ため息まじりに返した。
「それ…今更すぎです。大分前から私はこんな風ですよ?」
「知ってるわよそれくらいー」
とここで何故か志保ちゃんは膨れて見せつつ言った。
こんな態度を平気で生徒の前でしちゃう所なんかが、“良い意味”で生徒側に対教師に対してよくある様な緊張を起こさせる事もなく、それ故に絶大な人気を誇っているのだろう。
まぁ…本人としては若干舐められていると思っているらしく、もう少し威厳の様なものを持ちたいと口に出してしまっていたのだが、その度に、特に私から直接「そう口に出して言ってるうちは無理ですよ」と生意気に返されるのだった。
それに対してシュンとして見せるまでが常だ。
「…で?」
と私は目を細めたまま、志保ちゃんに聞いた。
「私に一体何の様ですか?」
すると志保ちゃんはまた苦笑いを浮かべつつ「もーう…あなたって子は本当に生意気なんだからー」と言った後で、ふと自分の机の上に置いてあった一枚のプリントを手に取ると、私に手渡してきた。
私はそのまま素直に受け取って中身を見ると、それは、毎年九月末に催されるこの学園の文化祭のチラシだった。如何にも手作り感が出ているイラストが描かれていた。
「これって…文化祭のじゃないですか?」
と私はプリントから視線を外し、志保ちゃんを見ながら言った。
「これがどうかしたんですか?」
とプリントを返しつつ聞くと、志保ちゃんはそれを受け取りつつ「うん…」と声を漏らすと、イラストの描かれている面を私に向けて言った。
「この文化祭だけれどね?そのー…」
と何故か中々先を話さないので、焦れったくなった私は「何ですか?」と先を促すと、志保ちゃんはふと何か憑き物が落ちた様な笑みを浮かべると、プリントをそのままに言った。
「いや、あのさ…あなたに頼みたい事があるのよ」
「頼みたい事?そのー…文化祭関連でですか?」
「そう!」
「頼みたい事…それって、文化祭の実行委員になれとかですか?」
「え…?」
と志保ちゃんはキョトンとして見せたが、すぐに「あははは!」と明るく笑うと笑顔のまま答えた。
「いやいや、違う違う!…そもそもさぁ、望月さんはそういうの率先してやりたがらないでしょ?」
…流石、二年連続で私の担任をしているだけある。
「はい」
と私がさも当然と悪びれもなく返すと、志保ちゃんはまたケラケラ笑ってから
「いや、あのね?お願いというのは…」
と口にしつつまた私の目の前にさっきのパンフレットを近付けて言った。
「望月さん…文化祭の二日目の午後、つまり後夜祭なんだけれど…そのプログラムの中で、そのー…ピアノを弾いてはくれないかな?」
「…は?」
と私は思わずそう声を漏らしてしまった。我ながら生意気な反応だと思うけど、でもまぁこれも志保ちゃん相手にだから出来る事だった。他の先生相手ではこうはいかない。
志保ちゃんも一々顔をしかめたりせずに、笑顔のままだ。
「なんでまた…?」
と私が聞くと、志保ちゃんはここで初めて苦笑いを浮かべて、チラッと周囲を見渡し、私たちに注意を向けている他の教師がいないことを確認すると、顔を近づけて内緒声で答えた。
「それはねー…ほら、あなた始業式、壇上で挨拶したでしょ?その後での職員会議であなたの話で持ち切りになってね、『そういえば近々文化祭があるんだから、せっかくだし何処かの大舞台で出演してもらって、演奏でも頼めないかなぁ?』って話が出たのよ。それであなたたちの担任である私に、あなたにそう頼む様仰せを仕った…そう次第なんだけれど…どう?」
「どうって…」
私は苦笑を浮かべつつ返した。
いきなりそんなことを言われても困るというのが感想だった。ここまで辛抱強く聞いてくれている方なら分かって頂けるだろう。ただでさえ人前に出るのが、死ぬのとどっちが良いかと真剣に悩むほどなのに、この間までのコンクールの精神的な疲れも残る中、又してもこんな話が湧いてくると、正直なところ、『一度許すとこうして面倒な話に巻き込まれていくんだなぁ』と他人事の様にシミジミと思った次第だった。
「んー…」
と目の前で志保ちゃんが懇願する様な視線を送ってきてるのから目をそらしつつ、ただ声を漏らしていると、志保ちゃんも苦笑を浮かべて言った。
「…まぁ、あなたがこういうのが苦手っていうのは、私なりに分かってるつもりだけれどね?ほら…生徒の中には、人前に出てみたくても、何か特技とか何かを持てないばかりに、その夢が叶わない人も大勢いるんだし…もしさ、何だったらそのー…『こういう条件が整えば、出てみても良い』ってのはない?」
「んー…」
なかなか諦めてくれないなぁ。
と私も苦笑を浮かべつつ、相変わらず口を閉じたまま唸っているのみだったが、ふと志保ちゃんの”条件”という言葉にハッと思いついた。
「…あっ」
「え?何?」
「あ、いや、そうですねぇー…」
私は今思いついた事を自分で咀嚼し直してみて、確かに思いつきの割には良いアイデアだと思い、それを志保ちゃんに言ってみる事にした。
「条件…か。…志保ちゃん」
「は、はい?」
私が意味深な笑みを浮かべつつ言ったのが原因か、何故か丁寧に志保ちゃんが返してきた。
それには一々突っ込まずに、私はその表情のまま言った。
「志保ちゃん…、条件って…何でも良いんですか?」
「な、何でも…って訳にはいかないだろうけれど…」
志保ちゃんは私の言葉にあからさまな警戒を見せつつ答えた。
「まぁ…常識の範囲内だったら、そのー…大丈夫よ?」
「そうですか?…ふふ」
とここで、別に狙った訳ではなかったが、自然と笑みを零しつつ言った。
「今から私が言う条件を許してくれるのなら…出ても良いです」
「え?…ってあら、本当?」
と志保ちゃんが驚きの声とともに笑顔で聞くので「はい」と私も笑顔で返した。
「そう?いやぁー良かったぁ…で?」
とここで急に真顔に戻った志保ちゃんがおずおずと聞いてきた。
「あなたの言うそのー…条件ってなんなの?」
「条件ですか?いやいや、大した話じゃないですよ」
真顔の志保ちゃんとは対照的に、私は笑みを零しつつ言った。
「それって…出るの私だけじゃなくても良いんですかね?」
「へ?どういう事?」
「つまりですね…」
顔中に疑問を浮かべている志保ちゃんを他所に、私はふと天井に向かって指をさしながら答えた。
「ある人と一緒でも良いというのなら、出ても良いって事です」
…とまぁこんなあらすじだ。最初の方をご覧になられた方ならもうお分かりだろう。
「ある人って、この学園の子?」と志保ちゃんが聞いてくるので、「はい」と私が笑顔で答えると、「誰なの?」とまた聞いてくるので、一瞬職員室の時計を眺めて、まだまだ昼休みが終わるまで時間があるのを確認すると、「今連れて来ますよ」と私は志保ちゃんの返答を聞かずに職員室を出た。そして早足で自分のクラスに戻った。
戻るとクラスメイト達は私のことをジロジロと興味深げに見てきていたが、この時の私には眼中に無かった。
「あら、お帰りー」と暢気な調子で、もうお弁当は片付けられていたが、座り位置はそのままに裕美たちはそのままでいた。
「で、どうしたのよ?何の用事だったの?」と裕美が声をかけてきたが、「まぁ、ちょっとね」とだけ短く返すと「藤花?」と声を掛けた。
「なーにー?」と間延び気味に返す藤花の手を取ると、「ちょっと私と来てくれる?」と私はそのまま返答を聞かないままに教室を飛び出していった。
後で聞いた話では、他の三人はしばらくポカンと私たち二人の出て行ったドア辺りを眺めていたらしい。さもありなんだろう。
「ちょっとー琴音ー?一体何なのー?どこに連れてく気ー?」
と無理やり連れ出された割には、その声からはイラつきなどは一切見られなかった。楽しんでる風だ。いつもの事だと言いたげに。無理やり引っ張り出したのは私だから何か言えた義理じゃ無かったけど、手を引っ張りながら何だか釈然としないままに志保ちゃんの前に戻ってきた。
藤花と志保ちゃんはお互いに顔を見合わせていた。
「あ、志保ちゃんだ」と藤花が声をかけていたが、志保ちゃんは意外と言いたげに藤花をジロジロと眺め回していた。
「望月さん…ある人と言うのは、並木さんの事?」
志保ちゃんは顔を私に向けつつ、視線は藤花に流しながら聞いた。
「何?どういう事?」
と藤花が聞いてくるのを流しつつ、「はい、そうです」と答えた。
「もーう、二人で何の話をしているのー?」
と藤花が膨れっ面をして見せつつ腰に手を当てて言うと、志保ちゃんは苦笑いを浮かべつつ私に「え?並木さんは何も知らないの?」と聞いてくるので、私は照れ笑いを浮かべつつ「はい、まぁここまで無理やり連れてきてしまいました」と答えるとその直後に「はい、拉致されちゃいましたぁ」と藤花も答えた。
そんな私たち二人の答えに呆れ笑いを浮かべつつ、志保ちゃんは先ほどまでの経緯を掻い摘んで説明をした。
最初の方は笑顔で聞いていた藤花だったが、次第に顔を曇らせていき、最後には私にずっとジト目を流し続けてきていた。
「とまぁ、そういう訳なんだけれど…?」
「…ちょっと琴音ー?」
志保ちゃんが言い終えるのと同時に、藤花は薄目を私に向けてきつつ言った。
「一体どういうつもり?何でこんな話になってるの?」
「え?あ、うん…」
とここにきて初めて我に帰ったと言うのか、途端に冷静になって、若干…いや、かなり暴走してしまったかと既に反省モードに入っていた。だが、それでも自分のアイデア自体がとても良い案だという身勝手な思いを捨てきれずに、藤花にその思いの丈を話した。
「…あ、あのさ、そのー…こうして急に私の事情に巻き込んでしまって悪いとは思ってるのよ?それは反省してる。後でいくらでも文句を聞くし、それを受け入れるけれども…ただね、ほら、私たち一年生の頃から知り合って、今まで何度もあなたの家で一緒に演奏し合ってきたじゃない?リート(歌曲)を私がピアノを弾いて、あなたが歌って」
「あ、並木さん、あなた…歌やってるのね?」
と志保ちゃんが今更な反応をしてきたが、考えてみたら今更も何も、今初めて知ったのだから、当たり前だった。
「は、はい…まぁ」と藤花は私から視線を外す事なく返していたが、それには構わずに私は続けた。
「志保ちゃんから話を聞いた時にね、正直そんなに乗り気じゃ無かったんだけれど…でもね!」
とここで自分でも不思議なほどに熱が入ってきた。
「ふと藤花、あなたのことを思い出して、そして今までの事も一緒に思い出してきてね?もしあなたと一緒に舞台の上で演奏出来たら、どんなに楽しいだろう、どんなに素敵だろうと真面目に思ったのよ」
「ちょ、ちょっとー」
とここで藤花は私を制するように両手をこちらに向けてきつつ、周囲に目を配っていた。今まで無表情に近い顔を見せていたのに、途端に戸惑いと恥じらいの色を浮かべていた。志保ちゃんはずっと真面目な顔つきで私と藤花の顔を見比べていた。
後になって私も恥ずかしくなったが、この時はただ思いの丈を話すのに夢中で気づかなかった。でもまぁここで藤花に制されるままにテンションを落ち着かせて、
「でまぁ、それが志保ちゃんに出した条件だったんだけど…どう、かな?」
と藤花に問いかけた。藤花は途中からすぐにまた静かな表情に戻していたが、私の話を聞き終えると「んー…」と腕を組みつつ呻き声を漏らしていた。
「…望月さん?それって…絶対に並木さんじゃなきゃ駄目なの?」
とここで志保ちゃんが私に話しかけてきた。
「え?」
「だって…この学園はミッション系というのもあって、合唱部なんかもあるし、もし歌曲を演りたいのなら、その子達でも代役は勤まると思うのよね?あ、いや、並木さんに対してどうの言いたいんじゃなくて、ただ急にこんな話を聞いたら、そりゃ困るだろうし…」
私も急な話だったんだけれど…?
と口にはしなかったが思わず苦笑だけ漏らした。が、その直後には真顔に戻って、今だに唸っている藤花に顔を向けると志保ちゃんに答えた。
「…駄目です、藤花でなくては。だって…我ながら偉そうな言い方ですけど、私が信頼を置いてピアノで伴奏を弾けるのは…藤花以外には考えられません」
と私がハッキリとした口調で言うと、ほんの少し沈黙があった。いつの間にか隣から聞こえていた唸りも消えていたのだ。
と暫くして、クスクスと笑い声が聞こえてきた。隣の藤花からだ。
私と志保ちゃんが同時に藤花を見ると、藤花は何だか呆れとも恥じらいとも何とも言えない笑みを浮かべて、そのままの表情で私に声をかけた。
「…ふふ、ちょっと琴音ー?さっきから黙って聞いてれば、あれやこれやと”恥ずい”セリフを次から次へと吐き散らかしてー…そばで聞いてる本人の身にもなってよー?」
声のトーンはいつもの藤花調に戻っていた。
「志保ちゃんもいるしさー?」
と藤花が志保ちゃんにも笑顔で視線を流したのを見て、私も自然と笑顔が溢れた。
「ふふ、ゴメンね」
「全くだよ、もーう」
「ふふ」
「あはは」
と二人して笑い合っていると、「あのー…」と志保ちゃんが何だか申し訳無さげに声を発した。
「楽しそうなところで悪いけれど…並木さん?」
「はい?」
「そのー…で、どうなのかな?」
「え?んー…」
と藤花はホッペを掻きつつ私に視線を送ったりしていたが、フッと一度短く息を吐くと、
「仕方ないなぁー…はい、いいですよ!折角のご指名ですしね?」
と返していた。言い終えた顔は思いっきりニヤケていた。
「ふふ、ありがとうね藤花」
と私がお礼を言ったその時、ちょうどチャイムが鳴った。昼休み終了の合図だ。
鳴り止むと、志保ちゃんは「よいしょ…」と、まだ三十路にも関わらず年寄り臭い声と共に立ち上がると、私と藤花の背中に手を当てて笑顔で言った。
「よし決まり!二人とも、本番はお願いね?」
…こうして私の強引な、藤花の言う拉致によって、何とか来たる文化祭でのお披露目に、二人揃って演奏するという約束を取り付けたのだった。
とその前に、教室に戻ってからは、もう休み時間が終わっていたというのに、まだ裕美と紫が私と律の教室に残っていて、色々と根掘り葉掘り聞こうとしてきたので、後で話すという確約だけして、取り敢えずのところは引き取って貰った。
藤花を含む三人が去った後で、律にボソッと藤花を無理やり連れだした事について小言を食ったのは言うまでもない。それについても後で説明するからと、取り敢えず引き下がって貰った。
それからその日の放課後、早速裕美たち三人が私と律の教室に入って来たので、この場所では落ち着かないからと、例によって学園近くの小さな公園に行こうと提案した。それには皆してすぐに同意してくれた。
着くとこれまた定位置のベンチの上にカバンを置くと、間髪入れずに私と藤花は質問責めにあった。裕美と紫の口ぶりから察するに、私と同じでまだ中身を話していなかったようだ。まぁ時間も無かったのだから仕方ない。
取り敢えず他の三人を落ち着かせて、私と藤花で分担しながら今までのあらすじを話していった。
話し終えると、裕美と紫は途端にテンション上げてはしゃいで見せた。「夢の共演ね!」だとか何だとか、無駄に大袈裟な言い回しをお互いに言い合っていた。
そんな二人を私と藤花は苦笑いを浮かべて顔を見合わせていたが、ふと律が静かな表情を浮かべて私たちに近づいて来た。
それからは律は、私にチラッと冷たく見えるほどの視線を投げてきつつ、藤花にボソッと声をかけた。
「藤花…いいの?」
「え?何が?」
「何がって…」
藤花が普段と変わらないトーンで返すのに一瞬面を食らっている様子だったが、すぐに気を取り直して律は続けた。
「だって藤花…あなた、自分が歌を歌う事を、あまり人に知られたくないって言ってたじゃない…?」
「え?…ふふ」
と律のセリフを聞いて、藤花は一瞬きょとんとしていたが、その直後にはクスッと笑うと、少し意地悪げな笑みを浮かべつつ返した。
「…それを律が言うー?…誰だっけ、私に内緒で勝手に教会にみんなを連れて来たのは?」
「そ、それは…」
流石の律も急所を突かれたと見えて、たじろいでいたが、そんな様子を面白そうに見ていた藤花だったが、次第に表情を柔らかな笑みに変化していくと静かに言った。
「ふふ…律、ありがとう。…いいのよ。…そりゃー確かに、あまり…特に今の所は学園のみんなに知られるというのは、今も気が進まない事ではあるんだけれど…」
とここで藤花は私に視線を流しつつ続けた。
「昼休みにね、職員室で琴音に立て続けに殺し文句を並べられてね、それに何ていうか…絆されちゃってさ、別にいっかって気持ちになったの。…まぁ、こないだのコンクールでの琴音に影響されちゃったのかもね?」
「藤花…」
そう言いながら、こちらにニコッと笑顔を私に向けてきたので、返す言葉がすぐには見つからず、ただ名前を呟くので精一杯だったが、
「…まぁ、そもそもさ?」
と藤花はまた律を正面に見据えると、ニコッと無邪気な笑顔を浮かべつつ言った。
「舞台の上でさ、琴音と一緒に演奏してみたかったって気持ちは、私”も”ずっと持ってたからね!」
…”も”
「…ふふ」
藤花の言葉に私は思わず笑みを零した。それを見た藤花も少し照れ臭げではあったが、笑みをこちらに向けていた。そんな私たちの様子を律一人が首を傾げて不思議そうにしていたが、フッと力を抜くように笑みをこぼすと
「まぁ…藤花がいいなら、それでいい…」
と言った後、「琴音…」と今度は私に声をかけてきた。
「さっきは…何だか問い詰めちゃったようで、そのー…ごめん」
そう言い終えると軽く頭を下げてきた。
確かに後で説明して云々は言われたが、問い詰められたというのは身に覚えがなかったので、こんな風に軽くとはいえ頭を下げられると、相手が友達でも恐縮せざるを得なかったが、私は何とか微笑みつつ
「良いってばー」
と口調は冗談交じりに返した。それを聞いた律は顔を上げると、微笑みを浮かべる私と藤花の顔を交互に見た後に、小さく微笑み返すのだった。
「なになにー?何の話をしてるの?」
とここで、ずっと何だか二人で盛り上がっていた裕美と紫が合流して来たが、まぁ二人には悪いけれども、この間の会話は私たち三人だけの物にしよう…と思ったのは私だけでは無かったらしく、藤花と律も私と顔を見合わせると、笑顔で誤魔化すのだった。
それを見た裕美と紫は、少し膨れて見せた後、苦笑を浮かべるのだった。
…過去にないほどに長い振り返りをしたが、こういった経緯があって、まだ二度目と少ないが、藤花の家の中の練習部屋で、文化祭に向けた特訓をして、それで終わったという初めに戻る。
「ご飯食べてくでしょー?」
ケアを終えた藤花が部屋のドアの取っ手に手を掛けて声を掛けてきた。
「え、えぇ…」
と私は苦笑いを浮かべて返した。最近は藤花の家に来ると、毎回とまではいかないがよく夕食に招待されていた。慣れない私はその誘いに対してどう態度を示せば良いのか分からず、取り敢えず苦笑をして見せる他に無かった。
「じゃあ早く行こう?もうお腹ペコペコだよー」
と藤花は腰を軽く曲げるとお腹辺りをさすって見せた。
「ふふ」と私は藤花が部屋を出るのに続いた。
「はぁ…ん?」
と、部屋を出た瞬間、突然鼻腔が良い香りに気付かされた。来た時にはしていなかった香りだ。まるで森林の中にいると錯覚させる様な、爽やかで清涼感のあるものだった。
あぁ、良い香りね…落ち着く…ってあれ?
とここで私はふと、何だかこの香りに”鼻覚え”(?)とでも言うのだろうか、どこかで嗅いだことがあるのに気づいた。ただ今時点ではすぐに思い出せなかった。
それでも何とか思い出そうと足を止めて頭を巡らせていると、「琴音?」と声を掛けられた。見ると、廊下の先で藤花が不思議そうな表情を浮かべてこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「え?あ、いや…」
と私は何だか気恥ずかしそうに藤花に近寄って言った。
「今この家で匂ってるこの香りがさ、そのー…良い匂いだなって思って」
「あぁ、確かに」
と藤花は軽く顔を上げて、鼻をスンスン鳴らして見せてから返した。「良い匂いだよねぇ」
「えぇ、それでね?何だかどこかで嗅いだことがある様な無いような…それが思い出せなくて、それでちょっと足を止めてたの」
「あぁ、それでかー…って琴音、嗅いだことがあるような無いようなってさぁ…そりゃあるよぉ」
と何故か藤花は呆れ気味に目を細めて見せつつ口調も合わせて言った。
「だってさぁー…これって、私の通う教会の匂いだもん」
「…え?教会?」
思いも寄らなかった言葉に私が目を大きくしながら返すと、藤花は少し誇らしげに胸を張って言った。
「そうよー?なんて言ったっけなぁ…あ、そうそう、”乳香”って香料の匂いなんだって」
「へぇー、そうなんだ…って、そもそもなんで藤花のお家が教会の匂いで満たされているのよ?」
と私が問うと、藤花はますます自慢げな笑みを浮かべつつ、どこか悪戯っ子を潜ませたような表情で返してきた。
「ふっふー、それはね…後でお母さんに聞いて?」
…まぁ何だか取り留めのない会話だったが、これを少しだけ延長させて貰おう。
食事の席で藤花のお母さんに聞いたところによると、この日がたまたま藤花たち家族の通う教会の神父が来ていたらしく、それでこれも珍しい事のようだが儀式の一環として香を焚いたらしい。それを放課後真っ直ぐに来て部屋に籠ってしまっていた私たちには気付けなかったという事のようだった。一月か二ヶ月に一片というペースらしく、結構頻繁にお邪魔している私でも今まですれ違う事すら出来ていなかったらしい。
で、何故その教会特有の乳香の香りで今満たされているのかを聞いてみると、それにもすんなり答えてくれた。
そもそもこの乳香の香りというのは、キリスト教において結構重要な、私なりの俗な言い方で言えば三点セットのうちの一つらしい。
私が質問した事で気を良くしたらしく、食事を摂りながら藤花のお母さんが事細やかに教えてくれた。
何でも聖書に書かれている内容が起源のようで、マタイの福音書に出てくる、イエスが生まれたというので、いわゆる”東方の三博士”がわざわざ出向いて、それぞれが持参した宝物をそれぞれ渡したという所から来てるらしい。ちなみにそれらを紹介すると、”黄金”、”没薬”、そして”乳香”の三品だ。それぞれに意味があるらしく、黄金には”王権の象徴、青年の姿の賢者”、没薬には”将来の受難である死の象徴、老人の姿の賢者”、そして乳香には”神性の象徴、壮年の姿の賢者”ってな具合なようだ。
またここで藤花のお母さんはテンション高めに色々と詳しく話してくれたが、ここでは乳香についてのみ触れてみようと思う。乳香についての解釈を少し掘り進めると、『神への供物、礼拝を象徴するもの』となるらしい。少なくとも、藤花の通うカトリック教会ではそのようだ。イエスが『神から油を注がれた者(キリスト)』であり、聖別されている者であることを意味してて、さらに、イエス自身が崇拝を受ける存在、『神』であることも現すとの事だ。
「へぇー」
今まで私は大まかな話なら、そう、義一と何度かした事はあったが、ここまで実際の信者の人からこういった宗教的な話を聞いた事が無かったので、とても興味深く聞いている中、私の隣で藤花は何だか居心地が悪そうにしていた。
それからはいつも通りといった感じで、夕食のお礼を言い、そのまま帰り支度をして、そして普段着に着替えた藤花に駅まで見送って貰った。
駅までの道中で、「ごめんね琴音、私のお母さんたら、あまり他の人にこの手の質問をされたりした経験が少なかったせいか、こんなに話し込んじゃって」と言うので、私は「んーん」と笑顔で返した。
「とても面白かったよ」
「そーお?本当にー?」
と藤花は何故か疑いの目を向けてきたので、「本当だってー」と苦笑まじりに返した。
これは本心だった。ついさっきも感想を言ったが、それに軽く付け加えると、義一とも会話した事のある旨を言ったが、それというのも、私が義一に借りてよく読んでいた一九世紀の小説なり何なりといった本の中身が、結構キリスト教の事について書かれていたからだった。 それも別にキリスト教圏だからって理由だけではなく、そもそも十九世紀の時点で、キリスト教自体が欧州で弱ってきてるのが顕著になってきていた時期で、それに対してどう対処したら良いのかという苦悶と煩悶の物語ばかりだった。その悩み方が子供ながらに読んでいて鬼気迫る気迫を感じて、徐々に興味が湧き、それで話が戻るが、義一と何度か会話をしたのだった。とはいっても、結局は机上学問と言うのか、二人揃って宗教が門外漢だったので、何だかフワフワとした議論しかできなかったのは否めなく、この日こうして直接”実際家”から話を聞けたのは、大袈裟ではなくとても良い機会だった。正直早く直接義一に会って、今日聞いた話を早くしてみたくてウズウズしていた。
私の返答に対して、藤花は『この子、気を使ってくれてるのね』という風に都合良く解釈をしてくれたらしく、私とはまた別の意味で軽く上機嫌になっていた。
それから私は藤花に送ってくれた事にお礼を言うと、改札の中に入り、そして一度また振り返り、お互いに手を振ると、それからは振り返らずにホームへと向かった。
文化祭当日。の初日。
今年も去年と同様に屋外にて校長が校庭の壇上に上がって、文化祭を開催するに当たっての注意事項を述べていた。その退屈な話を聞き流す中、私はふと顔を上げてまだ残暑の残る陽射しの下、青空を見上げた。
…確か去年は曇り空だったのに、今年は良い天気ねぇ
などといった呑気な感想を思っていると、校長の話が終わったと見えて、これまた去年と同様に唐突にファンファーレが鳴り響いた。紫の所属する管弦楽同好会の面々が、この軽く暑い中、ビシッと決まった去年と同様の、白のワイシャツに黒のスキニーパンツ、それに赤と黒のチェック柄ベストを羽織っていた。トランペットを吹き鳴らす紫の堂々とした姿も見えた。話では去年と同じ様に、文化祭の一日目で体育館で生演奏をする予定になっていた。当然、他の皆で聴きに行く予定だ。以前もついでにと話してしまったが、律も二日目に他校との親善試合があるらしい。これも当然観戦に行く予定だ。とまぁ、前回とさほど違いは無いのだが、一つ、言うまでもなく全く違う点は、私と藤花に予定があるという点だった。そう、後夜祭でのリートのお披露目会だ。
この朝礼の時、退屈していた私はキョロキョロと視線を流していたのだが、ふと隣のクラスだというので、違うクラスでも近くにいた藤花と目が合った。暫くそのまま見つめ合ったが、どちらともなく苦笑を浮かべ合った。…その苦笑を浮かべた理由は、直接は後になっても聞いては無いが、おそらく同じだっただろう。
というのも、我が学園の文化祭、開催一週間前あたりに担任から祭りのパンフレットを貰うのだが、そこに書かれていたプログラムを見てぎょっとしてしまった。私と藤花の出演は、てっきり軽くどこか隙間にポッと入るくらいだろうと思っていたのだが、後夜祭箇所を見てみると、何と最後も最後、大トリに出番がなっていた。私たちの前には、お祭りらしく、中高合わせた生徒たちの催し物がズラッと並べられていたのだが、それらを差し置いての、しつこい様だが大トリなのだ。
文化祭準備期間という、授業も短縮してまで準備をする期間に入っていたせいで、その日は各クラスの準備を手伝った後、いつもの喫茶店に集ってこの話をした。去年と同じ様に”出す”側の紫と、そして律までが面白がってきた。その反応に対して私と藤花は、時折顔を見合わせて苦笑いを浮かべつつ返していると、一人だけポツーンとつまらなそうにしている者がいた。…者がいたというほどでも無いか、それは当然裕美だった。それもそうだろう。裕美は学園内の部活には所属していなかったので、自分のクラスの出し物以外では、他の四人と違って、言ってはなんだが暇になる予定なのだ。…いや、キチンと今言った様にクラスの出し物があるのだから、その準備や当日も働かなくちゃいけないというので、暇という言葉はふさわしくないのかも知れない。…知れないが、この言葉自体が裕美の口から吐かれたものだったのだ。「私だけ何も無いじゃなーい」と拗ねて見せる裕美に、私が今言った様なことを言って慰めたのだが、それでも機嫌を直さなかった。さっきまで私と藤花を冷やかすのを楽しんでいた紫と律も、苦笑まじりに慰めるのに加わったが、状況は変わらなかった。しかしまぁ最終的には、裕美は顔いっぱいに悪戯っぽいニヤケ面を浮かべると、「こうなったら、アンタ達全員を思いっきり冷やかして、面白がって、そして精一杯応援してあげるんだから!」と、励ましなのか何なのかよく分からない、いかにも裕美らしい言葉を聞いて、私たち他の四人は顔を見合わせると明るく笑い合うのだった。
…と、途中からいつの間にかまた回想に入っていたが、まぁついでに一つ付け加えさせて貰うと、裕美のクラスだけじゃなく、私と律のクラスも出し物があったのだが、私と律、加えて紫と藤花もやる事があったので、準備は当然手が空いてたらという条件付きで手伝ったが、本番当日は免除されていた。
…まぁ、見方によってはどっちが面白そうか変わりそうな所だ。実際には準備や、当日に色々と役割分担をして全うするというのは、退屈でつまらない事と思う所も当事者ならあるのかも知れないが、私は横目で彼らのことを見ていて、心なしか羨ましかった。藤花と練習しなくちゃいけない日は早めに準備を抜けたのだが、とても熱気のあるその空間から、とても去りがたい心持ちにさせられていた。後ろ髪を引かれる感覚だった。まぁ…それだけだ。話を戻そう。
午前中は裕美はクラスの出し物、紫はリハーサルに行っていたので、私、藤花、律の三人で校舎内を当てもなくフラフラとしていた。早くも暇になってしまった私たち三人は、『来ても面白く無いから』と、ある種釘を刺されていたのだが、逆に気になっていた裕美たちの教室に行くことにした。教室の前に着くと、いかにも手作りな看板にデカデカと『実写版プリシー』と書かれていた。
何のこっちゃ?と思って受付の子たちに何の出し物なのか聞くと、藤花のクラスメイト達だったので、ニヤニヤと笑みを浮かべつつ、のらりくらりと躱されてしまい、結局は「入ってからのお楽しみー」と流されてしまった。仕方ないとため息を漏らしつつ、言われるままに受付で手続きをすませると、軽いノリのまま中に入った。
入ると何のことは無い、生徒たちは皆して各々色んな仮装をしていた。見た瞬間に何のキャラクターだか分かるものから、よく見ても分からないものまで多種多様だった。後は、教室をベニア板で何分割か区切られており、外側からはチラッと三脚の上に置かれたカメラが見えていた。
珍しげに藤花以外の他クラスである私と律が辺りを見渡していると、「…あっ、アンタ達」と声をかけられた。その方を見ると、Tシャツに下はジャージ姿の、良く言えば動きやすそうなラフな格好をした裕美が、両手でカメラを持ってこちらを見ていた。
「来ちゃったかぁ」と照れ臭そうに笑って言うので、「うん、来ちゃった」と私は、漫画的表現なら語尾にハートマークを付けるようなノリで、ニヤケながら返した。
「そっかぁー。まぁ来たものはしょうがない、まぁ楽しんでってよ」
「えぇ、そのつもりだけど…ところで」
と私はまた一度部屋を見渡しながら聞いた。
「ここは一体なんなの?何するところ?」
とそう言うと、私は今度は手に持っていたパンフレットを開いて、今いる箇所を探し出し、そこに書いてあるのを読み上げながら続けた。
「”実写版プリシー、記念が欲しければまずここへ”…ってさぁ、全く説明になってないんだけれど?」
と最終的には笑いつつそう聞くと、裕美も何だか可笑しそうに笑みを浮かべつつ返した。
「あははは、確かに説明になってないよねぇ?まぁ、その説明になってないのが狙いではあるんだけれど…藤花?」
と裕美はニヤケながら藤花に話しかけた。
「私たちのクラスの約束事、キチンと守っているようね?」
「うん、もちろん!」
と藤花が明るく笑みを零しつつ返すと、
「約束事?」
とここで律がボソッと口を挟んだ。すると裕美は明るい笑みを浮かべながら答えた。
「うん、そう!店名だけ聞いたら、何が何だか分からないでしょ?だったらいっその事、全てを曖昧にして、それで興味を持ったお客さんに足を運んでもらおうっていう魂胆なのよ!」
「…ふふ」
裕美が何だか自信満々にそう言い放ち、他の生徒達に同意を求めて、それに皆して笑顔で同調するのを見て、その息のあった様子が微笑ましく感じて和かに見ていたのだが、私の持ったが病で意地悪く突っ込まざるを得なかった。
「魂胆ねぇー…ヒントがまるで無いのに興味を持つというのは無理があると思うけど?」
「あ、ツッコんだわねー?」
そう返す裕美は挑戦的な視線を私に向けてきつつ、口元は緩めたまま返した。
「だからアンタは毒吐きプリンセスって言われるのよ」
「…今初めて言われたんですけど?」
「うん、今作った」
と何故かここで無邪気な笑みを浮かべたので、やれやれと藤花と律の方を向くと、何と二人して、律まで一緒になって裕美と似たような笑みをこちらに向けてきていたので、「やれやれ…」と直接口にしつつ苦笑いをする他に無かった。
「…で?」
と私は気を取り直して裕美に聞いた。
「実写版プリシーって一体なんの事なの?」
「フッフー、良くぞ聞いてくれました」
私たちが入った直後は何だか迷惑がっていた人とは、同一人物とは思えないほどに、裕美は何だかノリノリになっていた。
「そもそもね、ネタバラシをしちゃうとさ、私たちのクラスの出し物はねぇ…言うなれば実写版のプリクラなのよ」
「プリクラ?」
「そう、プリクラ」
裕美は辺りをぐるっと見渡しながら続けた。
「ほら、いくつか小部屋が設けられてるでしょ?あの一つ一つが要はプリクラマシーンなのよ。でね、それぞれにテーマがあって、映画のワンシーンだったり、ホラーだったり、アニメの一コマだったり、まぁそんな風景をバックに写真を撮る…で、近くのパソコンで好きな字を書き込んで貰って、最後にプリントアウトする…どう?プリクラそのものじゃない?」
「へぇー…アイディアとしては面白いじゃない?」
と私は素直に感心して見せた。
「本当にアンタは姫らしく、上から目線なんだからー」
と言う裕美の軽口をスルーしつつ、
「それは良くわかったけれどさぁ…それで何で名前が実写版プリシーなの?実写版っていうのは今の説明で分かったけれど、プリシーの意味がまるで分からないよ」
と聞くと、裕美は急にパンっと両手を打ったかと思うと、満面の笑みを浮かべつつ答えた。
「待ってました!…ふっふー、それはね、こういう訳だよ。この案で固まった時に、名前をどうしようかって話になったんだけれど、発案者の子がね、ある雑学を教えてくれたの。そもそもね、プリクラっていうのは”プリント倶楽部”の略な訳だけれど、初めてその機械を作った会社がその呼び方を商標登録しているらしくて、厳密にはその名前を使えないらしいの。それでそれ以外のメーカーは、”プリントシール機”って名称を使ってるんだけれど、その”プリントシール機”を略して…」
「プリシーになった訳ね?」
と私が返すと、「その通りー!」と裕美は私にビシッと指をさしてきた。先ほどから天井知らずにテンションを上げていく裕美に対して、それに中々追いついていけてなかった私はただ苦笑を零したが、ここで今まで静かだった藤花がニヤケつつ口を開いた。
「それだけじゃないよー?勿論プリントシール機の略なんだから後付けなんだけれど…」
とここで一度溜めてから、藤花は得意げに続けた。
「この”プリシー”は、可愛いとかの意味の”プリティー”にもかかってるんだから!ねぇー?」
「ねぇー」
とすぐに裕美も同じ調子で続くと、そこからは波状的に他の子達も「ねぇー」だとか「そうよねぇ」みたいに明るい声で反応を返してきていた。
そんな明るく、また息の合った様子を見せられて、私はふと律と顔を見合わせると、どちらからともなく微笑み合うのだった。
とその時、「裕美ー?いくら客足の少ない午前だからって、そろそろそのお客さん達にも写真撮って貰ってー?」と誰かが声を発すると「うーん」と裕美は間延び気味に答えた。
因みに、文化祭初日は主に内輪に解放するという法になっており、生徒の保護者などの関係者、後は入学希望者の親子連れをもてなすというのがメインだった。だから客足はまだ少ないのだ。私たちの学園は招待券制なので、二日目はその券を持った一般客が来る予定だ。お祭りらしさは、どちらかというと二日目の方がある。
「さてお客さん方?」
と裕美が急に店員モードに入って、いつの間に持っていたのか、メニュー表のような物を渡してきつつ話しかけてきた。
「どのモードにします?」
「え?そうねぇ…」
手渡されたメニューを、律と藤花が脇から覗き込むように見てきた。そこには四、五種類ほどのパターンが写真付きで載っていた。
「どれにする?」
と私がメニューの目を落としつつ聞くと、
「うーん、どうしよう?」
「んー…」
藤花と律も決め兼ねていたが、そんな私たちの様子を笑顔で見ていた裕美がふと何か思いついた風な声を上げると言った。
「…あ、じゃあさ、私のオススメにしない?なーに、悪いようにはしないからさ?ね?」
とヤケにグイグイくるのは気になったが、この時はまぁいっかと、私たち三人は裕美の案に乗った。
すると裕美はテンション高く私たち三人をある一角に連れて行ったかと思うと、
「ちょっと二人は先に入ってて?私はこの子にちょっと細工をするから」
「え?ちょ、ちょっとー?」
藤花と律に声をかけたかと思うと、裕美は私の手を強引に引っ張り、部屋の隅に連れて行った。
連れていかれる間際、呆然としている律とは対照的に、何かを察したようにニヤケていた藤花の笑みが印象的だった。
「…はい、お待たせー」
と裕美が声を上げて私を藤花達の前に連れ出した。
私の姿を見た瞬間、「おぉー」と、藤花と律は声を漏らしたが、それと同時に口元は凄くニヤケていた。
藤花達が先に入っていた部屋には鏡が一枚壁にかけられていたのだが、そこに映っていたのは、ラインストーンが散りばめられていたティアラを頭に乗せた、むすっと膨れている私の姿だった。
「おぉーじゃないわよ…」
と声のトーンを落として不満げに声を上げたが、他の三人は露ほども気にしてくれない。
「ふふ、似合ってるわよ?プリンセス?」
と裕美が腰に手を掛けながらニヤケつつ言った。
「…今日一日、その”プリンセス”で通すじゃないでしょうね…?」
と私がジト目を向けつつ聞くと、
「いーや、それはどうだろう?」
と裕美は目を閉じつつ頭を振った。
「どういう意味よ?」
想像していた返答をしてこなかった裕美に対して、何だか拍子抜けになり聞き返すと、裕美は途端にニターッと意地悪げに笑いつつ答えた。
「…ふふ、もしかしたら、今日一日だけじゃなく…以降、定着するかも?」
「勘弁して…」
と私が力無くボソッと言うと、途端に他の三人は明るく笑い合うのだった。それを見た私も釣られるようにして、苦笑いで混ざった。
それからは何枚か、仏頂ズラの私を中心に据えて、御伽の国風の絵が描かれていた壁をバックに、何パターンか写真を撮り、小部屋を出てすぐ脇にあるパソコン画面に映し出された、撮ったばかりの写真にカラフルな色で言葉を書き入れた。
皆テンション高く色々と書いているのを私は眺めていたが、まぁ…何だかんだ言って楽しんでしまった。私の負けだ。…勝ち負けがあればだけど。
そんなこんなしていると、丁度正午になった。
ようやくシフトを外れた裕美と、リハーサルの済んだ紫と合流して、昼食がわりに屋台の出ている校庭に出て、色々な屋台飯を買い漁ると、せっかく天気が良いんだからといって学園の屋上に行った。空中庭園の体をなしている様な、花壇が植えられたりしているアソコだ。少しばかり人がいたが、それでも普段ほどでは無い。昼時などは皆してここに出て来ようとするので、とてもじゃないが落ち着く事が出来なかった。…っと、そういえば去年もこんな話をした記憶がある。いかんいかん。
食事を摂りながら、先ほど撮った”プリティー”な”プリシー”を紫にも見せた。紫は初めの方では面白げに見ていたが、徐々に軽く不機嫌になっていった。「私も行きたかったぁ」ってな調子だ。想定内だ。
表面上はやれやれと言いつつも、ハナからそのつもりだったので、食事を終えるとそのまま直接また裕美達のクラスに戻った。 そして今度は裕美も入れての”プリシー”を撮ったのだった。
…まぁ、撮った後のペン入れを含んで、また楽しんだっちゃあ楽しんだのだが、まさか再度ティアラを乗せられた仏頂ズラの私を、また中心に置いて撮る事になろうとは思ってもみなかった…。これは想定外だった。
…っと、まぁこれ以上話すとキリがなくなるので、初日の話はこの辺にしておこう。勿論この後は紫たち管弦楽団の演奏を体育館で聞いたのだったが、誤解を恐れずに言えば、取り立てて話す事も無かったので割愛させて頂く。別につまらなかったとか、そんな理由ではない。むしろ去年と同じく心から楽しめた。…そう、去年と大体同じだったから、割愛させていただく、それだけの話だ。
夕方五時になると、文化祭初日の終わりを告げる放送が流された。
その後私たち五人は、紫に感想を述べつつ仲良く駅まで行くと、「また明日」と笑顔で別れた。少し気持ちが高ぶっていたから、どこかで軽くお茶をしても良かったのだが、明日は律の試合、そして私と藤花の本番もあるというので、裕美と紫が忖度をしてくれてこう相成った。
文化祭二日目。今日も快晴だ。
実は昨日もそうだったのだが、今日も裕美と待ち合わせて学校に向かった。地元の駅までの道すがら、当然の様に話題は文化祭関係に終始した。
「今日ってシフト入ってないのよね?」
「え、えぇ…。昨日の午前中に出ずっぱりで頑張ったからねー」裕美はそう明るげに返してきていたが、視線はチラチラと、私が肩に下げていた大きめのトートバッグに向けていた。私はその視線に気付きつつも、気付かないフリを続けていたが、ついに我慢が出来なくなったか、裕美は焦ったそうに声をかけてきた。
「ところでさ…その肩に下げている大きなバッグは何なの?」
「あ、あぁ…これ?」
と私はバッグのハンドル…いわゆる持ち手部分に指を引っ掛けて見せながら…思わず苦笑を漏らしつつ返した。
「これはね…ふふ、今日の本番で着る、そのー…衣装よ」
「へ?衣装…?それって、こないだコンクールで着ていた様な?」
と裕美は、外からじゃ分からないだろうにジロジロとカバンを眺めながら言った。
「そう」
「…へぇー」
とここで裕美は上体を軽く屈めつつ、私の顔を下から覗き込む様にしながら、ニヤケつつ言った。
「珍しいわねぇー?アンタが自分から、わざわざそんな衣装を引っ張り出してくるなんて。そんなサービス精神なんか、アンタ持ってたっけ?どんな風の吹きまさし?」
「うるさいなぁ…ふふ、サービス精神って何よ?」
大体思った通りの反応を示してきたので、私は一度裕美の言い回しにクスリと笑みを零してから、思いっきりウンザリだと体全体で表現しながら答えた。
「…違うのよ、ほら、志保ちゃんいるでしょ?志保ちゃんにさぁー…頼まれちゃってねぇ…。『頼み事を飲んでくれた所で悪いんだけれど、ついでにもう一つ頼まれてくれない?』ってね。その要望っていうのが…」
と私はここで自分の肩の”お荷物”に目をくれながら言った。
「『どうせだったら、衣装もコンクール仕様で演ってくれないかな?』だったのよ…」
「へぇー、なるほどねぇ」
と裕美は心なしか声のトーンを明るくしつつ、またジロジロと今度は興味深げにバッグを眺めていた。
「じゃあこの中には、あの時の衣装が入っているのね?」
「え?あ、まぁ…うーん、そう…だね」
私はハッキリと訂正を入れようか入れまいか悩んだ末に、こんな煮え切らない返答をしてしまった。それに気付かない裕美ではない。
早速私に質問してきた。
「…なーにー?その歯に何かが挟まった様な言い方は?何、違うの?」
「違うって訳じゃないのよ…」
自分の事なのに、こんな言い方は可笑しいが、そもそもの訳を知る私としては、我ながらとても気恥ずかしく言う他に無かった。
「まぁ軽く話すとね、それをお母さんに言ったらさ、言い方が難しいけれど、あの時に着ていた衣装って結構高い服だったからさ、てっきり文化祭でちょろっと弾くくらいの事で着るんじゃないって言われるのかと思ってたんだけれど…何だか凄く乗り気になってねー…」
「あはは、その時のおばさんの様子が目に浮かぶ様だわ」
「…ふふ、でね、『どの時の衣装にする?』って話になったの。…あ、ほら、あなたなら分かるでしょ?本選と決勝を観に来てくれたから。毎回毎回衣装を変えてたからね、要は予選の物も含めると三着あるのよ」
「あぁ、それで全て着る訳にもいかないからって、それで選ぶと…で?」
とここで裕美は心から不思議と言いたげに首を軽く傾げつつ聞いた。「その事で、何でアンタはそんなに言い辛そうにしていたの?」
「それはね…」
とここでまた私はカバンに目を向けつつ、少しまた気恥ずかしさが戻ってきたので、それを誤魔化しながら答えた。
「ほ、ほら…みんなはまず決勝の時の衣装は見てるでしょ?だからそれはまず候補から抜いたの。…でね、後の二択。本選のと予選の衣装…。私の好みとしては、予選の時よりも本選の時の方が好みだったんだけれど結局…」
とここで私はカバンの外から軽くパンパンと叩いてから裕美に顔を向けて言った。
「予選時のに決めたんだ」
「…え?それって…」
と流石の長い付き合いで私の特質を知る裕美は気付いたのだろう、見る見るうちに苦悶にも似た表情を浮かび上がらせてきていたが、私はそれに構わずに照れ笑いを浮かべつつ言った。
「ま、まぁ…せっかくだし…ね?『そういえば裕美は、私の予選の時の衣装を見てもらって無かったなぁ』って思い出してさ?それでそのー…まぁ、こうなったのよ」
と言い終えると、またパンパンとカバンを叩いて見せた。
裕美は今は呆気にとられた表情を浮かべていたが、途端に顔中に先ほどの苦悶を浮かべて見せたが、今回はそれに負けじと劣らずの笑顔を器用に練り込みつつ言った。
「…相変わらず、なかなか手の込んだ気の使い方を恥ずかしげも無くしてくるんだからなぁー…”恥ずい”ったらないわよ。でもまぁ…」とここで裕美は照れた時の癖、首筋を何度か掻いて見せつつ、私と同じ様な照れ笑いを浮かべて言った。
「ありがとう…と言っておくわ。そのー…”手間”に対してね?」
「ふふ、どういたしまして」
と私がわざとらしく胸を張って尊大に返すと、それからはまたいつもの様に軽口を言い合いつつ駅へと向かうのだった。
普段通りに途中の秋葉原で紫と合流し、紫にもカバンの中身について軽く説明する中で学園の最寄駅である四ツ谷に着くと、これまたいつもの様に地下鉄連絡口の側で藤花と律に会った。五人揃って学園に向かう途中、文化祭についてお喋りしていたが、そもそも駅までの距離が徒歩五分圏内だったので、あっという間に着いてしまった。
それからは私、藤花と律、裕美と紫といった具合に二手に分かれた。私と藤花は、本番に使う体育館の壇上に用意されているはずのピアノを含む機材チェックを、律は練習試合を体育館で行うというのでそのミーティング、裕美と紫は今日はフリーだったので、本人たち曰く「友達が来るのを待ってるよ」と言っていた。
…ここで一応、この学園の文化祭の仕組みの一つ、招待券制について軽く触れようと思う。いつだか話したかもしれないが、この学園、ただでさえ女子校というのもあったが、それに加えて世間的にはお嬢様校だと目されているのが関係しているのか、普通の女子校よりもまた一段とセキュリティーにうるさい…らしい。あくまで噂だ。
他校がどうだか知らないが、この学園に限って言うと、まず生徒一人あたりにつき、招待券は最大で八枚支給される。これだけ聞くと、中々に多いと、初めて聞いた時には思ったものだったが、ここからが面倒くさい。何せ招待する人について、老若男女問わず、色々と素性の分かる物の用意だとか、学生なら生徒手帳なり何なりの提示が義務付けられていた。予めそれらのコピーを貰い、それを各クラスの担任に渡すまである。最後まで聞くと、それだけで私はグロッキーになってしまい、それと同時に外部に厳しく、内部にとっても手間の多いこのシステムで、そんなに来客を多く望めるのかと漠然と思っていたのだったが、それは杞憂に終わった。去年からこの学園の文化祭の実態を知ってる訳だが、その経験から話すと、この一般向けの二日目は、どこに行っても人、人、人で埋め尽くされていたからだった。色々思うところがあったが、まぁ単純に言えば『結構みんな”マメ”なんだなぁ』といった素朴なものだった。
…と、何故今こうしてこの招待券制について説明をしたのか、それは…今回話す上で便宜上必要だと判断したからだった。
一年生時点でも招待して良かったのだが、他のグループは知らないが、私たち五人に限って言うと、誰も外部の人を招待していなかった。それは、前回の話を聞いてくださった方なら分かると思う。去年は自分の親が来たくらいだった。言ったように、保護者は入り口で誰某の親だとか言えば、その場で全校生徒の名簿の中で確認を取られて、それで無事通過するので、招待券はいらないのだ。
今年も正直誰も誘うつもりは無かったのだが、私の出たコンクールに裕美たちがゾロっと応援に来てくれたあの時、紫たちはあの時初めて私と裕美の学園以外の友達、絵里とヒロを見た訳だったが、それ以降、何だか私たちの間に流れる空気に微妙な変化が訪れた。というのも、あれから取り分け藤花と律だったが、もし他にも友達なり知り合いがいるのなら、是非にとも紹介して欲しいと…まぁ直接口には出さなかったが、会話の端々にそんな心内が見え隠れしていた。藤花と律は初めの方で話した様に、小学校からずっとこの学園の中で過ごしてきた事もあって、二人が言う”外部”にとても興味がそそられる様なのだ。まぁ何と無くだが二人の気持ちも分かるというので、結局そこからナァナァと、私、裕美、紫で、文化祭の日に暇な人を招待するという約束が出来上がってしまったのだった。
で、その流れで、一種のゲームにしようという話になり、まぁまぁ面白そうだと私を含めてその案に乗った。
招待出来る人数は、八人以内だったら上限は無しだとかそういったルールが決まる中、最後に藤花と律の二人から、ゲーム性をより満たす為に、とある条件が言い渡された。その条件は紫には適応されないので、実質私と裕美に対してのものだった。それは…お互いに誰を招待するのか相談したりせず、誰が来るのかは当日にならないと分からない様にしようといったものだった。聞いた瞬間は、私と裕美も面白そうだとその案にも乗ったが、後になって、少なくとも私は困ってしまった。
まぁ裕美は小学校ではみんなの中心にいたし、今だに彼らと付き合いがあるから、その中で選定しなくちゃいけないってんで、それで苦労するだろうけれど…私はなぁ…。
といった具合に、アレコレと頭を悩ます材料が少ないくせに、いやそれ故か困ってしまったのだった。
これは願望のなせる技か、真っ先に候補として浮かんだのは義一だった。だが一瞬にしてボツになった。一々理由を話すまでも無いだろうとは思うが、敢えて一つ具体的に一番易しい理由を挙げると、お母さんと鉢会う可能性があったからだった。お母さんは私に文化祭の日は実家の呉服屋を手伝うと言ってたので、正直来る可能性は少なかった。何せ、私が後夜祭に出ることを伝えた時に、私の勇姿を見れないと大袈裟に悔しがって見せたほどだったからだ。でもまぁ用心するに越したことはないだろうという訳でナシになった。
次に師匠。後夜祭に出る様に志保ちゃんに頼まれたその晩に、出る事になった旨を伝えると、まるで私と同級生かってくらいのノリではしゃいで面白がってくれた。それで一度藤花と外で会って、師匠の知ってる貸しスタジオに行って、何を演奏したら良いのかを相談したり、実際に見て貰ったりしたのだが、とある練習の後で、師匠を思い切って誘ってみた。
聞いた直後にはとても喜んでくれたが、この日はたまたま何か用事があったとかで無理だという話だった。急ピッチだったが、私と、それに藤花の事も診て貰っていたので、その成果を是非聴いて欲しかったが、師匠が『ゴメンね』と苦笑いを浮かべて謝ってきたので、私は慌てて『気にしないでください』と返すのだった。ただ文化祭とはいえ気を抜かずに、楽しみながら精一杯演る事だけは表明しておいた。
次に候補が挙がったのは絵里。ここで一瞬頭を過ぎったのは裕美の事だった。裕美も当然の様に絵里を誘うだろう事は想像出来たからだ。絵里自身が学園の卒業生だというのも大きい。一か八かと絵里に電話でだが連絡を入れてみると、何と気が抜けるほどに二つ返事でオーケーを貰った。私は思わず「図書館司書って暇なの?」と生意気に聞いてしまったが、「暇を作ってあげるのよー」と軽口で返されてしまった。その後は軽く世間話をしていたが、ふとみんなでゲームをしていることを思い出し、その旨を掻い摘んで絵里に説明した。「…だからね、もし裕美から連絡が来ても、フワッとした感じで断ってくれない?」と頼むと、絵里も面白がって「分かった」と良い返事を貰った。とりあえず一人はゲット出来た。
…正直この時、後々の面倒な手続きのことを考えると、絵里一人でも良いかと思ったが、それだと何だか…特に藤花と律をガッカリさせてしまうかもという、我ながらそんな変な気の回し方をして、他に誰かいないか頭を巡らせた。とその時、ある奴のことがすぐに頭を過った。
…すぐに過ったのが癪だったが、そう、それはヒロだった。まぁ藤花と律とは初対面ではないという、ゲームのお題から逸れちゃうかもと思ったが、とは言ってもまだ一度しか会ってないし、それに、コンクールの時はずっと私はみんながどう過ごしていたのか見ていなかったので詳しくは知らないが、おそらくまだ顔をお互いに知ってる程度の親睦具合だろうと想像していた。『だったらまぁ…良いか』と私は早速ヒロの携帯に電話を入れようとした。が、その時、ふと何だかいつだかの…そう、あの決勝に臨む前、ヒロと軽く会話した時に感じた気恥ずかしさにも似た感覚を覚えた。
…?
と私はまた湧いてきたその得体の知れない感覚に戸惑い、そしてまたそれがいつまで経っても引かないので、その日は電話を止した。
それから数日後に、たまたま地元でヒロに出くわしたので、その時にズバッと勢いで文化祭に来ないか聞いてみた。その時ですら、また気恥ずかしさが湧いてきていたが、勢いのおかげで聞く時の口調は普段通りでいられた。その後が胸の中がその小恥ずかしさに占められて、それによって何だか一人で落ち着かない気分でいたが、ふとヒロの方を見ると、何となくだが、ヒロも私と同じ様な様子を見せていた。何だか落ち着きがなかった。私が聞いた直後には目をまん丸に見開いて見せていたが、その後は何だか視線を泳がし、その後は一人で何やら考え込んでいた。徐々に私の方でも落ち着いてきたので、「どうなのよ?」と自分でも不思議と喧嘩腰になってしまいながら声を掛けた。するとヒロは苦笑まじりに「何でそんなに喧嘩腰なんだよー?」と声を漏らすと、「いやー…」と坊主頭をポリポリと掻いて見せつつ「すまん!せっかくの誘うだけれどよ、その日は先客があるんだわ。…悪いな」と言うので、私は半分ホッとした様な、半分…認めたくはないがガッカリした様な、そんな不思議な感情を覚えつつ「なら仕方ないわねぇー。…せっかく、お嬢様校の文化祭に行けるという貴重な機会なのにぃ」とニヤケつつ言うと、「自分で言うか?普通ー…?」と呆れ笑いを浮かべながら突っ込んできた。それからは一つ間が空いて顔を見合わせていたが、その直後には昔と全く変わらない調子で明るく笑い合うのだった。
それからどうしようと思ったその時、不意に小学生時代、裕美と仲良くする前につるんでいた、あの卒業式の日、教室でお互いに泣きながら抱き合った彼女たちの事を思い出した。こんな言い方で悪いが、特にこれといって取り上げる様な出来事が無かったので、今まで話には出ていなかったが、しょっちゅうとは行かないまでも、多い時で月一くらいの頻度で会ってお喋りしたりしていた。まぁ…さっきは言わなかったが、私もそれなりに、小学校時代の人とまだ繋がりがあったのだが、それを裕美の話をしている時に一緒に出すと、妙な誤解をされそうだったので控えた…まぁそれだけだった。
彼女たちにも話を振ってみると、何人かいる内の二人ばかりが来てくれる事となった。そのうちの一人は、覚えておられるだろうか、そう、少しの間疎遠になる前に、よく一緒に学校まで登校をした子だった。
…とまぁ、話下手なせいでいつもの様に回想が長くなってしまったが、後はまぁ私に限って言えば、アレコレと事務的な手続きを済ませ、計三枚の招待券をそれぞれに渡し、そして当日となった。
私と藤花、律で揃って体育館に着くと、既にバレーボールのネットが張られていた。去年と全く同じだ。と、律を見つけた部員達が「副キャプテーン!」と声をこちらに掛けてきたのに対して、律は軽く手を上げて返すと、「じゃあ…」と部員のもとに行ってしまった。
律は今年から中学バレーボール部の副キャプテン乃至副部長となっていた。律の話では、毎年この文化祭の試合が三年生の引退試合も兼ねているらしく、それと同時に引き継ぎの意味合いもあるというので、今日の試合が終わると次期キャプテンは律になるのだそうだ。
…と、それは置いといて、私と藤花は律の後ろ姿を暫く眺めてから舞台の方へと向かった。
舞台は今は幕が下ろされており、実際の機材は外からは見えない風にしてあった。と、舞台下に志保ちゃんの姿があったので近寄ると、笑顔で迎え入れてくれた。「今日の調子はどう?」だとか、「衣装は忘れずに持ってきた?」といった様な質問を矢継ぎ早に繰り出してきたので、私と藤花は苦笑いを浮かべつつ応対をした。
それからは志保ちゃんに案内されるまま、衣装を着替えるスペースと、次に幕裏に案内して貰って、既に設置されていたグランドピアノに近寄り、蓋を上げ、”A”の音、つまり”ラ”の音を鳴らしてみたり、座る椅子の位置なども確認した。その間、藤花は藤花で、どこに立って歌おうか、マイクスタンドの位置もどこが良いのか、自分なりに拘りがあるらしく、微調整を行なっていた。
先ほど登校する時に触れてなかったが、私とは別の意味で藤花も荷物が多かった。キャリーケースを持ってきていた。当然の様に裕美と紫から突っ込まれていたが、それに対しては「今日着る衣装が入ってるのよ」とだけ答えていた。勿論、衣装が中に入っているのはそうだったが、私は…おそらく律もだろう、中身が一体何なのか、今時点で分かっていた。その中身とは、おそらく藤花の練習部屋に置いてあるのと同じ種類の吸入器だろう。何故それが分かるのか、何となく察する人もいろうとは思うけど、話の種に軽く話そうと思う。
毎月一度の、教会での藤花の独唱の日、ほぼ毎回私、それに師匠も一緒になって聴きに行っていた訳だったが、これも毎度という訳ではなかったが、一緒に帰る時があった。その時に、藤花が今日のと同じキャリーケースを引っ張ってきていたのだ。初めて見た時に、私の事だから当然の様にすぐに質問をぶつけたのだが、藤花は何故か恥ずかしそうにしながら、中身が吸入器だと教えてくれた。
今まで藤花関連の話を聞いてくれた方なら分かると思うが、私から見ても藤花は余りにも完璧主義者な故か、誰よりも臆病なほどに失敗を恐れている様に見えた。その具体例の一つがコレだ。本人曰く、「本当は独唱する前に一度喉を整えるために吸入しときたいんだけれど、ああいう場だからそうもいかないでしょ?まぁせめてというか、教会側のご厚意で、ミサの前に空き部屋を一室貸して貰って、そこで吸入してから臨むのよ。ミサの間は例のハーブティーを飲みつつね」との事だった。練習でのルーティン、それを本番でもしたいという気持ちは、私も痛いほどに分かるので、とても共感したのは言うまでもない。
とまぁ、また話過ぎてしまったが、今日もこうして藤花は”本番仕様”を持ってきていて、それほど場所は取らないお陰か、それらの置き場所は最終的に、舞台裏の連絡通路のような所に、教室で使われなくなった古い机の一つを置いて、その上に設置する事で落ち着いた。因みにその横に音楽室から借りて貰える様に頼んでいたキーボードも真横に置いた。これは私のウォームアップ用のだ。
それら全てをこなしても、精々三十分くらいで済み、志保ちゃんに「じゃあ、また後でね?本番一時間前にここに集合よ?」との言葉に「はーい」と返事をすると、荷物を取り敢えず言われた保管場所に置いて、必要最低限の貴重品類だけ手に取った。と、その時、ふとスマホを見ると、メッセージが表示されていた。見ると、招待した友達からだった。
「今着いたよ」
丁度ミーティングの終わった律とまた合流し、その足でそのまま正門前に向かった。三人でお互いに今日の事について健闘を祈り合って行くと、ふと正門前に見慣れた集団が一塊になっていた。
と、まだ数メートルほど離れていたその時、「あっ!」とその集団の中の一人に声を掛けられた。紫だった。こちらに手招きをしている。
「こっち、こっち!」
「はいはい、今行きますよ」
と私は返しつつ徐々に間を詰めて行った。近づいて見ると、軽く目算して、裕美たちを外すと総勢九から十人ほどの様だった。
裕美、紫の周りを固める様に、一種のグループが出来ているのを見て、まだ紹介をし合っていないのが察せられた。
…まっ、程々に集まったわねぇ
などという感想を抱いていたその時、
「よっ!琴音!遅かったじゃねぇか」
という、何故か聞き慣れた男子の声が聞こえた。私はすぐに察したので、それはスルーして、まず目に付いた招待した友人達に声を掛けた。
「二人とも、よく来てくれたわね」
「うん、まぁね」
「今日はよろしく!」
と二人は揃って笑顔を浮かべて応えた。二人は、日曜日だというのに自分の中学の制服を着て来ていた。地元の中学のだ。上は紺のブレザーに暗い赤と黒で構成された縞々柄のリボンタイ、下はグレーと紺の落ち着いた色合いのチェック柄スカートだった。
ここで一人、後々での便宜のために…と言っては本人に悪いが、軽く名前を紹介しておこうと思う。名前は朋子。彼女はあの時の仲良しグループの中の一人で、裕美と知り合う前に、良く二人で登校していた、私自身は無自覚だったが、私の”変化”に真っ先に気付いた”あの子”だった。何年越しかで、ようやく名前を紹介できた。もう一人も当時の仲良しの一人だったが、この子の事は…また何か話に絡むような事があったら紹介しようと思う。
さて、私、裕美、それに紫と、私たち三人がそれぞれに招待した訳だが、この時はまずその自分の招待客と言葉を交わすのに時間を割いた。
それからは当初決めていた通り、まず紹介をし合う為に、あらかじめ決めていた場所に行こうかと声を発しようとしたその時、
「おいおい、無視すんなよー」
とまた懲りずに声を掛けてきた。
…こいつにここまで引っ張る事もないだろう。そう、察しの通りヒロだった。ヒロも何故か自分の学校指定の制服を着て来ていた。上は紺のブレザーに、下はグレーのズボンだった。首には緩めに、暗い赤と黒で構成された縞々柄のネクタイを締めていた。…まぁこれだけで察する人もいるかも知れないが、一応言うと、私の呼んだ友達とヒロは、同じ中学に通っているのだった。”同中”と言うやつだ。まぁ地元同士だし、同じ小学校を出ているのだから、こうして被るのは何も不思議なことではない。
「…あなたも来てたのね?」
と私はため息交じりに言うと、「おう!」と何故かテンション高めに笑顔で応えた。
「こいつらと一緒にな」
とヒロは私の呼んだ二人に視線を流しつつ言うと
「こいつらって何よ、森田ー?」と、さっきの私と同様なジト目をヒロに向けていた。 それを受けてヒロはただ悪びれもせずに、呑気に笑うのみだった。
「はぁ…ヒロ、あなた、今日は何か用事があるとか言ってなかった?」
「は?…あ、あぁ、用事、用事ね。それはお前もちろん…」
とヒロは不意に地面を指差してから答えた。
「これだよ。アイツに誘われてな」
と視線を流すのでその方向を見ると、今までの会話を聞いていたらしく、裕美がニヤケ面をこっちに向けてきていて、私と目が合うとVサインをしてきた。
「いやぁー、アイツにさぁ」
とまだ私が視線を戻さないうちから、ヒロは口を開いた。
「『琴音を驚かせたいから、もしあの子から誘われても、テキトーに誤魔化してよね』って頼まれてよ、そりゃ面白そうだってんで、あん時も断ったろ?」
「え、えぇ…」
自分と同じことを裕美も考えていたことを知って、面白がって良いのやらどう反応したら良いのやら困っていると、それを都合よく解釈したのか、ヒロは明るく笑いながら
「それでー…どうだ?驚いたか?」
と聞いてきたので、
「驚いたというより…呆れたわよ」
とまた私は、ある種の既視感を覚えるような言葉をため息交じりに返した。
「なんだよー…つまんねぇな」と口では言いつつ、顔には笑顔を浮かべながらふと裕美に顔を向けると「な?」と声をかけた。
「ホントよー」
と裕美も何だか呆れて見せながら笑みを零しつつ言った。
「本当に琴音は、驚かしがいが無いんだからぁ」
「…驚かしがいって、初めて聞いたわ」
と私も負けじと呆れて見せつつ返すと、一瞬間が空いた後で三人同時に笑い合うのだった。ふと私の呼んだ二人を見ると、同様に笑っていた。
しばらくそうしていると突然「ヒロくーん?」と言いながらヒロのブレザーの袖を摘むように触る者がいた。私の知らない女子の声だ。
見ると、ヒロ達と同じ制服を着ていたが、何だかチャラめに着崩していた。朋子達も”中学生デビュー”らしくスカートは膝上にしていたが、それよりもまた少し短めに折っていた。髪型は輪郭を覆うような前下がりボブにしていて、背が若干平均よりも小さいせいか、いわゆる可愛い系の彼女には似合っていた。また、まだこの時は会話すらしていなかったのだが、第一印象を言うと、『キチンと自分がどう見られているのか、分かっているなぁ』というもので、変に感心したりもしていたのだった。
「何をそんなに盛り上がってるのー?”千華”も仲間外れにしないで教えてよー?」
「ち、千華…?」
恐らく”千華”というのがこの子の名前なのだろうが、自分の名前を一人称で使う人を初めて見たので、興味深いのと同時に、そのー…初対面の人相手に悪いが、正直引き気味だった。
と、私が声を漏らすと、不意に彼女はこちらを見て、私の姿を上から下まで目だけでだったが何度も往復させると、何故か薄眼を使ってきたが、その時、「ったく、一々服を摘んでくるなよー」とヒロが手をはらうと、途端にまた無邪気な笑顔を見せて「いいじゃん別にー」と言った。
「昌弘君からかうと、面白いんだもん」
「『面白いんだもん』じゃねぇよ…ったく」
とヒロが声色を真似ているのを見て、ふと朋子達の方に目を合わせると、二人揃って苦笑を浮かべながら肩を竦めて見せた。そんな二人の様子から、何となく察して、私も同様に返すのだった。
「ほら倉田、琴音たちに自己紹介しろよ」
とヒロはその子の背中を軽く押すと、彼女は前に一歩分出てきた。丁度私と裕美の正面だった。
「えぇー自己紹介ー?」とヒロの方を振り返りつつボヤいて見せていたが、「仕方ないなぁ」と言うとまた私たちに顔を戻し、笑顔を作って見せてから言った。
「えぇーっと、私は倉田千華って言います。千華って呼んでいいよ。そこにいる朋子たちも、千華のことそう呼んでるし。んー…あ、あぁ、そうそう!ヒロ君の入ってる野球部でマネージャーをしているの。まぁ、よろしくね」
「よ、よろしく…」
と、今まで近くにいなかったタイプが目の前に現れた事によって、まだ慣れずにただ苦笑いをする他になかった私だったが、ふと隣に来ていた裕美の顔を見て、ほんの少しだが驚いた…というよりも、何だか印象的な表情を浮かべていた。言ってしまえば、とても静かな無表情ってな代物だったが、繰り返すようだが印象的だった。
朋子たちは同じクラスだというので、自己紹介されたお返しに、私と裕美も簡単にした。と、丁度その頃、私たちがそんなやりとりをしている裏で、紫が自分の招待した友達を藤花と律に紹介し終えたようで、順番がグチャグチャになってしまったが、今度こそという事で、あらかじめ決めていた場所に皆して行く事となった。
その場所というのは、普段は使われていない空き教室だった。この学園内には幾つかそのような部屋があり、今日のような文化祭の日には大抵休憩室として使われているのだが、 今私たちが向かっているそこは、休憩室に使うという用途にすら外れた場所だった。
…何故そんな場所を、一生徒の私たちが勝手に使えるのか?…これを話すと色々と”うまくない”ので少しボカすが、まぁ要は、志保ちゃんに便宜を図ってもらった…まぁそれだけの事だった。覚えておられるだろうか、志保ちゃんが私に後夜祭に出るように頼んできた時、ついでにという事で、本番用の衣装を着るように追加注文をしてきた事を。私は見返りに藤花との共演を条件に出したのだが、それに加えて、志保ちゃんが追加で頼むのだったら、私からもと、どこか空き教室を使わせてくれと頼んだのだった。言っても志保ちゃんも一教師に過ぎないから、ダメ元で聞いてみたのだが、案外あっさりと無事通過となった。…まぁついでにまた裏話をすると、この部屋を使うにあたって、その使う主が私だというのが決め手だったらしい。何のことかと言うと、今回コンクールで準優勝したという事実が、中々に効力を発揮したらしい。今だに実感が湧かないのだが、それだけあのコンクールは大きいモノのようだった。その私が使いたいというので、学園側が目を瞑ってくれたらしい。用途は何かと聞かれて、本番に向けての準備だとかテキトーな事を言っておいたのだが、実際はこんな程度の事だったので、まぁ軽く罪悪感があったはあったが、最終的には自分勝手に良しとした。裕美たちの四人に感謝されたのが嬉しかったし、罪悪感が薄れる効果を発揮した事も付け加えさせて頂く。
予め開けられていた空き教室に入ると、まず手分けして、教室の壁際に無造作に積まれていた机と椅子を人数分引っ張り出し、それぞれ向かい合うようにくっ付けて、それから座った。
その直後、不意に紫が立ち上がると司会役をかって出た。
「では改めて、もう済ませた人もいるだろうけど、一応軽めに自己紹介をしようか」
と紫が言うと「いいぞ紫ー」と、これまた知らない女の子がニヤつきながら声を掛けていた。「流石、サマになってるよ」とそれに続いてもう一人の女子も声を上げていた。「はい、そこうるさい」と紫がすかさず、その二人に対して突っ込んでいた。なかなかに息の合ったやり取りだった。
都合上詳しく話せないのが残念だが、この二人というのが、紫が招待した外部生だった。紫の通っていた小学校の時の仲良し二人のようだ。
いつだったか…そうそう、一年生の時の研修旅行で、低学年までは男子と遊んでいたが、ある時から男子から除け者にされる事が増えて、嫌になった時に一緒につるみ始めたのがこの二人という話だった。ついでにこの時に「何で”サマになってる”って言ったの?」と一人に聞くと、どうやら紫は学級委員になったり、副生徒会長になったりしてたらしい。初めて聞いたから「へぇー」と、私だけじゃなく裕美たち三人で紫を見ると、紫は今までに見た事がないほどに動揺して見せた。その様子がおかしくて、その二人と共に笑い合うのだった。
続いて裕美。今まで話には出てこなかったが、実はヒロと千華以外に、もう一人呼んでいた。彼女も都合上軽くしか触れられないのが残念だが、私は実は見覚えがあった。
小学生の頃、裕美と一緒に登下校をしていた時、よくスレ違いざまに裕美に声を掛けていたからだった。
私がその旨を言うと、「私も望月さんのこと、よく知ってたよ」と笑顔で返してきた。「え?」と私が戸惑いつつ返すと、その子は構わずに続けて「前から知ってたし、話しかけたかったけれど、何だか結局声を掛けそびれてね、でもいつからか何がきっかけか知らないけれど、裕美が仲良くしているからさ、だからそのうち私も…って思ってたんだけれど、結局そのまま卒業しちゃうし…もう接点がないかと思ったら、ふふ、何だか急に夢が叶ったよ」と何だか大袈裟に言うので、私はますます戸惑って見せたが「ね?琴音って、こういう奴なのよ」と裕美がやれやれと首を大きく横に振りつつニヤケながら返していた。
この一連の流れに対して、何故だか朋子たちも食い気味に同意して、そこからは私をほったらかしにしつつ、私のことで妙に盛り上がっていた。
その流れで、突然裕美が私がこの学園で”お姫様”と呼ばれているという、根も葉も無いデタラメを話し始めたので、私は慌てて制しようと務めたのだが、無駄だった。この裕美の悪ノリに、紫、藤花、それに律までが乗っかったからだ。周りが乗っかってくるのに冗長した裕美は、鼻息荒く”小学校時代”からそうだったと、紫の招待した友達に教える体で話し出したので、これは話に水をかけるチャンスだと思った私は、すかさずここで突っ込む事にした。
何故なら、今ここには昔の私を知る仲良しグループだった二人がいるから、裕美の話す”デタラメ”について反論をしてくれるものと思ったからだった。しかし…結論から言うと、そのー…あまり芳しく無い結果に終わった。朋子を筆頭に、裕美の招待したもう一人の子も揃って顔を見合わせていたが、フッとお互いの顔を見合わせつつ笑みをこぼすと、何と裕美の話に同調し出したのだった。
「そう言われてみたら、琴音ちゃんは確かに”姫様”って感じだったねー」
「ねー」
「いやいや二人とも、何が『ねー?』なのよ?」
「でしょー?」
「ちょっと裕美、あなたは黙ってなさい」
「…ふふ、琴音」
と一斉に冷やかしてくる、元同じ小学校の面々に対してツッコミを入れていると、紫がふとニヤニヤしながらシミジミと声を掛けてきた。
「あなた…本当にお姫様だったのね」
「はぁ…もう勝手にして」
と私はもう孤軍奮闘するのにも疲れて、ため息交じりにそう呟くと、それからは一斉に他の面々で笑い合うのだった。その中で裕美や朋子などの”同小”の面々が、私に向けて謝るジェスチャーをしてきていたが、皆して満面の笑みを浮かべていて、明らかに謝ってる風では無かったが、まぁこの変なノリにも慣れてしまったらしい私は、膨れながらも笑みを浮かべて見せて”あげた”。
と、ふとヒロの方を見ると、ヒロはヒロでニヤニヤと笑っていたのだが、その隣に座っていた千華は一人、口元は軽く笑顔を作っていたのだが、何だか面白く無さげにしていた。紫の友達も含めて和かにしている中、一人だけそうしているせいか、何だか印象に残ったのだった。
因みにここで一応補足をすると、朋子たちと千華は中学で同じクラスの様だが、裕美の友達は違うクラスらしく、ヒロと同じクラスとの事だった。結論として分かったのは、どうも私と裕美が招待して来た五人というのは、中学一年生の時に同じクラスだったという繋がりとの事だ。
とまぁ裕美が要らない話を振ったせいで順番が狂ってしまったが、この後で藤花と律からも自己紹介が終わると、それからはまた軽く雑談をして、それからは折角の文化祭だというので、今いる空き教室から外に繰り出そうという流れになった。
ゾロゾロとまずは裕美のクラスに行って、何度か分かれながら”プリシー”を撮ったり、隣の私と律の教室を覗いたりした。(私のクラスの出し物は、こう言っちゃ何だが、裕美のクラスのものと比べると地味だったので、割愛させて頂こう)。
それからまた校舎内をブラブラしている時に、ふと朋美が話しかけてきた。
「琴音ちゃーん?」
「え?何?」
と私が聞き返すと、朋美はふと後ろを振り向きつつ言った。
「やっぱり今だに森田と仲が良いんだね」
「え?ヒロの事?」
と私も後ろを振り返ると、ヒロは千華とお喋りをしていた。…いや、何というか、千華に構われていたと言うべきか。見るからに面倒そうな表情を浮かべている。
「やっぱりって何よー?まぁ仲が良いというか…腐れ縁よ」
とそんなヒロの様子を見て自然と苦笑いを浮かべつつ返すと、何かを勘違いした様子で、しかし私と同様の苦笑いを浮かべつつ言った。
「千華ったらね、いつもああなの。まぁ…気にしないでね?」
と朋美が最後に何でか申し訳無さそうに言うので、私は不思議に思ったが、まぁ今はただ練り歩いているわけだし、その訳を聞くのも無粋だと判断した私は、「何を気にするっていうのよー?」と冗談めかして言うのに留めた。
「まぁヒロがあんなに女子に懐かれているのは初めて見るけど…ふふ、ほら見てよ、ヒロのあの困った顔。…ふふ、私は確かにアレと長い付き合いだけれど、あんなヒロを見るのはこれが初めてだわ」
と私が愉快げに言うと、
「琴音ちゃんは…」と朋子は何故か少し表情を暗くしつつ私の名前を言ったが、そこで止めたので「どうしたの?」と私は声を掛けた。
するとまた朋子は口を開けて何かを言いかけたが、その口を一度閉じると、
「…あ、いや、琴音ちゃんがそれで良いなら…それで良いよ」
と何だか奥歯に物が挟まった様な物言いをしてきた。これまた疑問を誘う様子だったので、本来の私だったら即座に突っ込むところだったが、さっきも言った様な理由で自重して「何よもーう」と呆れ笑いで返すのみにしておいた。
それに対して朋美も笑顔を見せるのみだったが、しかしどこか朋美は朋美で納得のいかない風にも見えたのだった。
幾つか他の模擬店を周ると、ここら辺で時刻が正午になったので、校庭に展開されていた屋台郡に行って、思い思いに好きなものを買って、例の空き教室に戻って食べた。
食べ終えてからも少しばかり雑談をしていたのだが、「この後はどうする?」と誰からともなく話が上がったその時、ふとスマホにメッセージが来たという表示が出た。見ると絵里からだった。「もう五分ほどで四ツ谷に着く」といったものだった。
…ここまで聞いていて、何で絵里が出てこないのかと思った方もいるだろう。まぁ理由は単純だ。まだ来ていなかったのだから。
絵里から連絡があったのは、昨日の晩の事だった。当初は午前から来てくれることになっていたのだが、急遽絵里の実家の日舞教室を少し手伝わなければならなくなったとかで、目黒に行かなくてはいけなくなったらしく、でもそれは午前中で終わるというので、なるべく早めに用事を済ませて、そのまま直接行く旨を聞いていたのだった。話では午後には行くと言っていたので、予想よりも早めの到着だった。
「…あ、ごめんみんな」
と私はまず絵里に『分かった。じゃあ正門前で待ってる』と返した後で、その場ですくっと立ち上がり、一度皆を見渡してから声をかけた。
「今ね、招待したもう一人がここに向かっていてさ、私、迎えに行かなきゃだから、そのー…どうしようか?」
「え?」
「あ、まだいるんだ」
と裕美たちが口々に言うのと対照的に
「ふふ、どうしようかって」
と何人かが笑みを浮かべつつ同じ様なリアクションを示していたが、「…あ」とここでボソッと声を漏らした者がいた。律だった。
律は自分のスマホの画面に目を落としながら続けた。
「私もそろそろ体育館に行かなきゃ…」
「あ、そっか」
と瞬時に藤花が反応した。
「そろそろ試合の準備をしなきゃだもんね?」
「うん」
「じゃあ、ついでだから琴音の招待客を出迎えに行って、そのまま私たちは体育館に行こうか…って」
と紫はそう話していたが、ここで途中で切ると、他のみんなを見渡して言った。
「みんなはどうする?…お姫様と同じ言い方で悪いけど」
「ちょっと、しつこいわよ?」
と言う私の小さな反抗は届かず、紫は華麗にスルーして続けた。
「私たち学園組は、さっきもお喋りしたと思うけど、これから律の試合を観に行くの。それでまぁ…これは前から予定していた事だから変更は無いんだけれど、そのー…まぁ、これ以降は自由行動って事でどうかな?」
紫が言い終えると、それぞれが近くの人と顔を見合わせたりしていた。
…ここで軽く補足を入れようと思う。結論から先に言うと、私たち学園組以外のみんなも、今日が律の試合があるのと、私と藤花の本番があるのを事前に知っていた。これは何度かした雑談の中で知れた事だ。
私が”お姫様”かどうかという無意味な話が終わった後、その流れで皆から「今日のライブ頑張ってね」の様な応援を貰ったのだった。その繋がりで、律の話にも及び、試合があるのを知っていた皆も、私と藤花にしたのと同じ様に声を掛けていた。私も朋子たちに軽く伝えてはいたのだが、裕美と紫も同様に伝えていたらしい。因みに、今から来る絵里にもその話は伝えてあった。
事前情報があったおかげか、顔を見合わせたその直後に
「それってさぁ」
と紫の友達の一人が声をあげた。
「別に私たちみたいな”外”の人も、観に行って良いんだよね?」
「え?あ、うん」
と紫が返すと、彼女はもう一人の子と顔を見合わせて、それから二人同時に紫に顔を向けると、視線を律に流しながら笑顔で言った。
「じゃあ…私たち”紫組”も、一緒に律ちゃんの試合を観に行くよ」
「…え?」
と律が、普段は少し気だるげに目を薄めにしている事が多かったのだが、この時は珍しく目を大きく見開いて見せた。
それは、他のみんなは兎も角、私も心境としては律と同じものがあったが、それを他所に、今度は朋子たちも一斉に明るい声をあげた。
「え?じゃあ私たち”琴音組”も行くよー。ね?」
「うん」
「”琴音組”って…」
と私が苦笑いでボソッと呟いていると、そこから波状的に”空気”が流れていって、結局は皆して律の試合を観戦する事となった。
「えぇっと、一、二、三、四、…わぁ、十四人もいるよ律!」
と藤花がそれぞれに指をさしながら数えて言った。
それを受けた律は苦笑まじりに「本当ね」と返して、それから私たち以外の他の皆に向かって、そのままの笑みを浮かべたまま何だか気持ち申し訳無さげに言った。
「観戦に来てくれるのは嬉しいけれど…私のクラブ、とても弱いから…観ててそんなに面白く無いかも」
「イイって、そんなぁー」
と律の態度が謙遜に受け取られたらしく、皆して笑顔でフォローの様なモノを入れていたが、しかし、そんな中ふと一人、それはまた千華だったが、また何だか面白く無さげな表情を浮かべつつ、また隣のヒロに小声気味に話しかけていた。
「えぇー…せっかく文化祭に来たのにぃ…昌弘くんも観に行くの?」
「ん?おう、まぁな。元々そのつもりだったし、それに…」
とヒロはここで一度切ると、皆をぐるっと見渡してから続けた。
「…男は俺一人じゃねぇか。それにここ自体も女子校だしよ、見渡すばかり女、女、女ばかりでさ…何だか息が詰まってきた所だったんだよ。だったらさ、まだ…って言っちゃあ悪いけど、試合を観に行く方が何つーか…気が楽なんだよ」
「あはは!確かにー」
とヒロの言葉に、すぐに明るい笑い声を上げながら反応したのは裕美だった。
「女子の中で一人というのはアレかもねぇー」
「そうね」
と私も裕美に続いて、顔には意識的に意地悪げな笑みを浮かべつつ言った。
「今まで見た事ないほどに狼狽して見せてるものね?」
「う、うっさいなぁ」
とヒロが拗ねて見せていたが、ここでクスッと律が笑い、ほんわかとした笑みを浮かべながら「どうぞ」と短く言った。
それに対して、ヒロも「おう」と短く、しかし笑顔で返すのだった。それからまた一度皆で笑い合ったのだったが、その中で千華一人は、ヒロの横顔をチラ見しつつボソッと言うのだった。
「まぁ…昌弘くんが行くなら、千華も行こうかな」
それから私たちは全員で今いる空き教室を出ると、すぐに体育館に行かなくちゃいけないと言う律とはそこで分かれて、残りの皆で正門前に向かった。
正門前に着くと、何やら不審げに辺りをキョロキョロと見渡している一つの人影があった。快晴の日に反射して、頭の”キノコ”がテラテラと輝いている。
「絵里さーん」
と私が声をかけながら駆け寄ると、こちらに振り向き「あ、琴音ちゃーん!」と絵里の方でも笑顔で手を大きく振ってから近付いてきた。
「ふふ、絵里さん、そんなにキョロキョロしてたら、不審者にしか見えないよ?」
と私がニタつきながら言うと、「えぇー、ヒドイなぁ」と絵里は不満げな声を上げたが、それでも笑みのままだった。
「いやね、久々に母校に帰ってきたもんだからさ、懐かしくてねぇー…卒業式以来寄った事無かったから」
「ふーん…それってさぁ」
と私はまたしつこく意地悪な笑みを浮かべつつ言った。
「どれくらい昔の話?」
「…どういう意味よー?」
と絵里は言いながら私の肩を軽く小突いてきた。
「絵里さん…?」
とようやく側まで来た裕美が若干驚きの表情を浮かべながら呟いた。「あら、裕美ちゃん久しぶり!」
と絵里が明るく笑顔を向けると、裕美は呆れ笑いを浮かべつつ言った。
「…絵里さーん?こないだ文化祭に来ないか誘った時、用事がどうのって言ってなかった?」
「え?用事はあったよ?ほら…」
と絵里は腕に提げていた、綴れ織りのクラッチバッグを見せていた。それは上品な代物で、象牙の様な程々の色合いの白地に、表面は金糸を使用した格子模様だった。…バッグは確かに品が良かったのだが、今の絵里の格好には似合っていなかった。首回りの緩い白無地のTシャツに、下はカーゴ系色の細身のパンツ、その上にウール混ジャージーデニムのコーディガンを羽織るという…いや、これはこれで、普段から服装に気を付けている絵里らしい、ラフながらもとても似合っていたが、しつこい様だが今の格好とバッグがチグハグに見えていた。
…なんでここまでしつこく絵里の格好について話したか。これにはきちんと訳がある。絵里は裕美にそのバッグを見せつつ、たまに私に視線をくれながら、何だか意味深にウィンクをしてきていた。この時点で絵里の意図が分かったので、私は私でただ軽く笑顔を返すのみだった。
「そのバッグがどうかしたの?…今まで見た事ないタイプのだね?」
裕美は興味津々にそのバッグを眺めていたが、不思議そうな表情は変わらない。
「…うん、中々に如何にも高そうって物だけれど…これが何?」
「ふっふっふ…」
と絵里はおもむろにバッグの中から、色鮮やかな金銀色糸で織り上げた金襴錦織の扇子入れを出してきた。普通のより若干大きめだ。これまた上品な代物だった。
「…扇子?」
と裕美が声を漏らすと、絵里は「そう!」と今出したばかりの扇子入れをまた戻しながら答えた。
「それもただの扇子じゃなくて、”舞扇子”ね」
「舞扇子…あ」
とここでようやく察したか、裕美は一瞬ハッとして見せたが、次の瞬間にはまた呆れ笑いを浮かべつつ言った。
「ちょっと絵里さーん?今この場でそんなクイズ形式は求めてないんだけれど…?ってかさ」
と裕美はここで腰に両手を当てると、上体を少し倒してから続けた。
「その用事があるって断ったのに、何で今、こうして琴音からの招待券を持って学園の敷地内に入ってるの?」
「あら、裕美」
とここで私は愉快げに横槍を入れた。
「まだ何も言ってないのに、よく私の差し金だったって分かったわね?もしかして…裕美には探偵の素質があるのかしら?」
「…アンタ、おちょくってるの?」
と裕美がジト目を向けてきたが、私は意に介さずにニコニコと笑うので、フッと息を吐いてから苦笑を漏らした。
「なるほど…二人はこうやって裏で工作をしていたのね?」
と裕美が言うので、「そういう事!」と絵里は明るく返事をしていたが、私はお返しとばかりに悪戯っぽい笑みを浮かべて返した。
「…ふふ、裕美、あなたにそんなことを言う資格はないでしょ?ほら…」
と私はここで裕美の後ろ辺りにいるヒロに視線を向けた。裕美も振り返ったが、そのまま私が
「…おあいこでしょ?」
とニヤケつつ言うと、裕美はやれやれと言いたげな表情を浮かべたが、そのすぐ後には笑顔を浮かべて「そうね」と返すのだった。
その後二人で笑い合っている裏で、絵里はヒロを見つけて早速声をかけていた。
「って、あらヒロ君、久し振りー」
「こんちわ」
「それに、こないだコンクールで一緒だった…藤花ちゃんも」
「ふふ、よく覚えてましたね」
「覚えてるよー?何たって私は、可愛い子に関しては記憶力が良いんだから…って」
とここで絵里は、ヒロのまた後ろの方で他のみんなが固まっているのを見て、一瞬目を見開き驚きの表情を見せていたが、すぐに笑顔にまた戻ると、何だかシミジミとした調子で口を開いた。
「…いやー、これまた随分豪華なお出迎えだねぇ。こんな女の子大勢に囲まれたことは無いよ」
「ふふ、もう何言ってるの絵里さん?」
と私は呆れながらも笑顔を浮かべつつ、それからは皆にその場で軽く絵里を紹介した。
私と裕美で朋子の言う”琴音組”と、後ヒロと千華を含む”裕美組”、藤花と紫で”紫組”に、それぞれ分担して説明をした。
絵里が地元の図書館の司書だと説明すると、この中で裕美を除くと私ほどに良く通っていた面々がいなかったので正直分かるかどうか不安ではあったが、それでも皆して「あぁ」と声を上げたので、まぁそれなりに判ったのだろう。その中には千華も含まれている。
…何故ここで千華を取り分け強調したのか。それは、この中で千華だけが同じ小学校ではなかったからだ。
さっきの空き教室での雑談の中で、何だか始終ヒロに構っている千華を見て、てっきり同じ学校だと思ったのだが、いくら記憶を攫ってみても思い出せなかったので不思議に思った。何故なら、あれだけ仲良くしているのだから、何だかんだ良し悪しは別にして、ヒロとはクラスが違う時があっても、六年間ほぼずっと一緒に過ごしてきたから、それなりにヒロの交友関係は把握していたつもりだったのに、繰り返すようだがやはり思い出せないからだった。
それを近くに本人がいるというので、少し内緒話気味に裕美に振ってみると、一瞬何だか渋い表情を見せたが、その後は「私は知ってるけど…まぁ、アンタは知らないで当然だよ」と話してくれた。それが、千華が私たちの通っていた小学校と丁度真ん中に図書館を挟むようにして位置していた別の出身だという情報だった。もちろんそれを聞いた直後に、「何で裕美は知ってるの?」と聞いてみたのだが、それは上手くはぐらかされてしまった。
まぁ今言えることは、千華も同じ学区内だったから、同じ図書館を利用していたというので、それで学校は違ってもすぐに判ったようだった。
それからは軽くお互いに自己紹介をし終えると、私と絵里を先頭に、その後ろを裕美と藤花、その後ろをヒロと千華、そしてそのまた後ろは朋子たちの面々が行儀良く二列に並んで体育館に向かった。
向かい途中絵里たちと世間話をしながら『まるで大名行列ね』などという、クダラナイ事を考えながら。
体育館に着くと、既に他校の女子生徒も含めた子達が、手摺りに掴まり下の様子をワイワイ言いながら見ていた。既に他校の女子生徒も含めた子達が、手摺りに掴まり下の様子をワイワイ言いながら見ていたのまでも同じだったが、言うまでもなく、この大所帯での観戦というのもあって、やはり去年とは勝手が違っていた。明らかにこの応援組の中では浮いていたが、それには構わず、一階のコートの側で、既にユニフォームに着替えていた律が入念に準備体操をしているのが見えたので、早速私たち”学園組”は手摺につかまり声を掛けた。気づいた律は私たちを見上げると、ニコッと微笑みを見せてくれたが、ふとこの時私の脇に絵里が来て「リッちゃーん!応援してるよー!」と声を上げるのを見ると、律は私たちの位置からでも分かる程に唖然としていたが、それから数度ほど間を置いてから深々とお辞儀をして見せて、それから右腕を高く上げて手を振っていた。
それからは”外部組”も加わり、私たちと同じ様な声援を律に送っていた。…言うまでもなく私は律ではないのだが、それでもこの声援は自分の事のように嬉しかった。恐らく裕美たちもそうだっただろう、私が他の三人に目を向けると、丁度皆の顔が合い、それから誰からともなくニコッと微笑み合うのだった。
そうこうしているうちに、去年と同様に二面のコートで同時に試合の合図を知らせるホイッスルの音が鳴り響いた。
…とここで、急に話を区切るのを許してほしい。まぁ前にも文化祭の初日での紫の件もあるし、既に察しておられる方もいるだろうが、ここで律の試合も割愛させていただく事を許してほしい。紫もそうだが、どこかで律の事も話せる機会があれば、その時にでも詳しく触れようと思う。
とまぁそんな前置きをさせてもらって、今は簡単に結果だけ話そうと思う。今年も去年と同様の、我が学園も入れた四校で試合をしたのだが、結果としては何と二位だった。去年は往年のビリけつ集団が三位になったというので大騒ぎをしていたのだったが、今年もそんなもんだろうという前評判を覆し、今年はまた一つ順位を上げるという結果に終わった。まぁ細かい話をすると、優勝したのは去年と同じで、今年三位に終わった学校は去年二位だった。何が言いたいかというと、去年の二位決定戦ではかなり接戦だったのを鑑みれば、今年その学校を破って二位になるのは何も不思議な事じゃない。…っていや、これも言いたいことでは必ずしもなかった。要は、律を含む我が校のバレー部がこの一年間頑張ったということで、それが見事に結果に繋がったというのが喜ばしい、ただそれだけだ。
…こういう時は”頑張った”と言っても何も悪いことはないだろう。
全ての試合が終わると、健闘を讃えあっている律の元へ、他の部員の邪魔にならないタイミングを見計らってから駆け寄った。
先ほども似たような事を言ったが、今日が初対面だというのに、律含むバレーボール部の健闘を讃えていた。相変わらず律の表情は起伏が少なかったが、それでも心なしか恥じらい三割、嬉しさ七割といった様な笑みを浮かべていた。
それからは、律はしばらくチームメイトといるというので、後で合流する約束をしてから分かれた。私と藤花の本番も徐々に近づいていたが、それでもまだ志保ちゃんに戻って来る様に言われていた時間まではまだ少し時間があったので、来たばかりの絵里を案内しようという話になった。
ここで”招待組”と分かれる事になった。また同じことの繰り返しになるのは目に見えていたからだ。皆とは言わないまでも「また付き合うよ」という風な言葉を掛けられたが、流石に悪いからと、また体育館で待ち合わせる約束をして分かれた。
ヒロも初めは私たちと行動を共にしようとしていたが、まぁ”色々”と空気を読んだらしく、結局は招待組に合流した。
その後は私、裕美、藤花、紫、そしてそれに新たに加わった絵里とまた学園内をぐるっと周った。ある程度先ほど皆んなと行った出店に行った後は、ふと絵里から「演劇部に寄って見てもいい?」と聞かれた。これは私の中では当初からの予定に入っていたので、即座に了解して、演劇部の劇が行われている、朝礼などが執り行われている、私が以前に壇上に駆り出されたあの講堂に向かった。
本当は劇を見ようというくらいに漠然と計画を立てていたのだが、私たちが行った時には丁度終わっていた。これは私がロクに文化祭のプログラムを見ていない事による凡ミスだ。何となく行けば観れるだろうくらいに思っていたのだが、甘い考えだった。
「あ…」
と私は一人で気まずく思いながら、そっと覗く様に絵里の顔を見ると、絵里は何かをすぐに察したらしく、ニコッと笑うと、「いいのいいの!」とだけ言って、客のはけた講堂内に足を踏み入れた。
私たちも後に続いて中に入った。と、生徒の一人に「もう劇は終わってしまったんですけれど…」と絵里は声を掛けられていたが、「別に構いませんよ。…ちょっとだけ見てても良いですか?」と断りを入れて、その子が少し不思議がりつつも了承をすると「ありがとう」と笑顔で返していた。
それからしばらく講堂の後ろの壁に寄りかかりながら、視線の下に位置している舞台の方を眺めていた。壇上では、演劇部なのだろう、Tシャツにジャージ姿の部員たちがワイワイ言いながら片付けをしていた。
「…懐かしい?」
と私も同じ様に舞台を眺めつつ聞くと、
「えぇ…まぁね」
と絵里はしみじみと、感慨深げに言うのだった。
その後は、藤花と紫が色々と絵里に質問をしていた。既に絵里が演劇部だったというのは普段の会話の中で知っていたので、ここぞとばかりにアレコレと聞くのだった。
それに対して、初めのうちは少し渋っていた絵里だったが、それでも真摯に答えていると、それが聞こえていたのだろう、ふと先ほどの生徒が絵里に声をかけてきた。
「もしかして…OBの方ですか?」
「え?え、えぇ…まぁ」
と絵里が少し戸惑いつつ答えると、途端にその子は興奮して見せつつ言った。
「やっぱり!どっかで見た事があると思ったんですよ!みんなー!」
「あ、ちょっと…」
と絵里が慌てて制したのも虚しく、しばらくすると、何人かの演劇部員に取り囲まれてしまっていた。
矢継ぎ早に質問されてる中、ふと部員同士の会話を聞いて初めて知ったのだが、どうも部室には歴代の部員の資料を取っといてあるらしく、その中には映像もあって、それで昔の絵里の事を知っていたとの事だった。以前に絵里が話してくれた、例の部長さんとの両壁だったとも話していた。
ふーん、映像かぁ…それは観てみたいな。
などと思っていたが、ふと視線を感じたので見ると、数名の部員に囲まれながら、絵里がこちらに救いを求めるような視線を送ってきていた。それを受けつつ私は私でふと裕美に視線を移すと丁度かち合った。そしてすぐにどちらからともなくフフっと笑い合うと、そのまま絵里の様子を二人して微笑ましげに眺めるのみだった。
「…あ、琴音、そろそろ…」
とここで不意に藤花が、スマホを覗き込みながら話しかけてきた。
「…あぁ」
と私も覗き込むと、時刻は本番の一時間前に差し掛かっていた。
「そうね…ねぇみんな?」
と私は裕美たちに声を掛けた。
「私たち二人そろそろだから…」
「あ、そっか」
と紫が反応した。
「そろそろ行かなきゃか」
「うん」
と藤花が返している間、私は裕美に声を掛けた。
「じゃあ裕美、後はよろしくね?…絵里さんの世話も含めて」
と途中でまだ質問責めにあっている絵里に視線を流しつつ言うと、裕美もそっちに顔を一度向けて、そしてまた顔を戻すと
「うん、任せといて!」
と悪戯っぽく笑いながら応えた。
「じゃあ絵里さん、私たちもう行くからまた後でねー?」
と一応声を掛けて、いざ藤花と一緒に出口に向かった。
「えぇー、いってらっしゃーい!」という絵里の言葉を背に受けながら。
体育館に戻ると、先ほどの試合時とは打って変わってネットなどは全て片付けられて、代わりにズラッとパイプ椅子で埋め尽くされていた。後夜祭の準備も万端といった所だ。
「あ、望月さーん!並木さーん!」
ジャージ姿の志保ちゃんに声を掛けられた。
呼ばれるままに側によると、「どう、調子は?」とまた朝と同じ様に声を掛けられたので、「それ、朝も聞かれましたよ?」と意地悪く笑いつつ答えると、
「その生意気な調子なら大丈夫そうね?」とため息交じりに、しかし笑顔を絶やさぬまま言った。
それからは早速という事で、預けていた荷物を受け取り、それを手に控え室…といえば聞こえが良いが、まぁただの女子更衣室に通された。中に入ると、既に後夜祭の他の出演者の面々が着替えて、リハーサルの出番を待っていた。先ほどもチラッと私の醜態を言ったが、ロクにプログラムを見ていなかったせいで、ここに来て初めて、私たち以外に誰が出るのか知った。トリの私たちを含めて計四組が出る予定で、順番的には漫才などのお笑い、ダンス、軽音部を代表してバンド一組といった順の様だった。
私二人が一番最後だった様で、入るなり皆の視線を集めたが、次の瞬間誰ともなく私たちの周りを取り囲んで、各々が笑顔で挨拶をしてきた。聞いてみると皆がそれぞれバラバラの学年で、私と藤花が一番の後輩だったのだが、そんな一番の若輩がトリを務めることに対して何にも反発があるどころか、あの例の、こう言っちゃあ何だが馬鹿げた始業式での一幕を見られたらしく、その感想を述べられたりと、何だか「楽しみにしてる」といった調子で好意的に声を掛けられたのだった。私は勿論戸惑いつつ、苦笑しっぱなしだったのは言うまでもない。
それからは衣装に着替えて、お互いに乱れをチェックした。その間、各々が順々にリハーサルを進めて、最後の私たちも舞台に上がると、既に設置されていたピアノに近寄って感触を確かめ、その間に藤花は客席の方を向き、上下左右と顔ごと大きく動かしつつ見渡していた。
後は一連の流れだけを再確認すると、リハーサルが終わった。本番開始三十分前だ。既にちらほら椅子に座る人の姿が見えていた。
控え室兼更衣室に引き上げようとしたその時チラッとアリーナを見たが、まだ裕美たちの姿は見えなかった。それを確認すると二人して裏へと引き下がった。
更衣室に戻ると、ふとスマホに表示が出ているのに気付いて確認すると、それは裕美で、今客席に座ったというものだった。最前列らしい。もう既に”外部組”も来てるとも書いてあった。そのメッセージがあったのが数分前だったので、どうやらすれ違いになったらしい。藤花の方にも律から入っていたらしく、二人して顔を見合わせると微笑み合うのだった。
しばらく談笑したその時、ふとブザーが鳴らされた。後夜祭開始の合図だ。
私たち出場者はゾロゾロと更衣室を出て、その足で舞台袖に向かった。
着くと丁度文化祭実行委員というのか、おそらく先輩だろう、何やら色々と挨拶をしている所だった。私と藤花はそっと舞台袖の幕間から客席を覗いてみたが、リハーサル時とは違ってすっかり照明が落とされて真っ暗になっていた。最前列に座っているとの事だったが、残念ながら姿を確認する事は叶わなかった。
それからは更衣室に戻っても仕方なかったので、客席の人々と同様に、出場者は出場者で舞台袖で同じ様に盛り上がっていた。
委員長の挨拶の後は、早速催し物だというので、一番手の漫才が始まった。駆け足で端折る様で悪いが、客席はそれなりに受けていた。
…客席なんて、同じ学園の生徒達なんだから、皆サクラみたいなもので、ウケるのは当然だろというツッコミは受け付けません。
それは置いといて、次のダンスまでは観ていたが、それが終わるのと同時に、私と藤花は裏に引っ込んだ。出るにあたっての準備をするためだ。
朝来た時に舞台裏の連絡通路にあらかじめ置いておいた、藤花の吸入器などの備品、そしてそのすぐ脇のキーボードの前に向かった。
まず藤花がいつもの様に吸入器で喉に蒸気を当ててる間、私はキーボードの電源を入れ、師匠の書いた練習曲の何小節かを弾いたりと、これまた普段通りのルーティンをこなしていった。藤花の喉、私の指が暖まってきたところで、まず私が音階を弾いて、それに合わせて藤花が側で声をだした。半音ずつ上げていって、それで今日の調子を見るというものだった。結果としてはいつも通り、藤花は完璧にこなしていた。それからは今日”二人で演奏する曲”をサラッと浚っていると、どうやら軽音の演奏が終わった様だ。
…何故点々で強調したのか、おいおい分かる事だろう。
私は指のストレッチをしたり、腕を伸ばしたりしながら、藤花は顔をゆったりとした動作で上下左右動かして、念入りに首回りのストレッチをしていた。はたから見てるとさながら、何処かへカチコミに行く不良少女に見えたかも知れない。だがまぁ格好が格好なだけに、そのチグハグさ加減が滑稽に見えていただろう。
因みにというか、これは事前に話した事だから今更紹介も何だと思うのだが、一応衣装を紹介しておこうと思う。
まず私。私はもう事前に話の中で触れた様に、コンクールの予選時に来ていた衣装のそれだった。ネイビー一色の、ロングAラインドレスだ。袖は肘より少し上まではあったが、レースで下の素肌が透けて見えていて、トップスを中心に上半身部分を覆うように、様々な花が編み込まれたような複雑な柄の刺繍が施されており、その控え目かつ大胆で凝った模様が特徴的だったアレだ。計三着コンクールで着た訳だったが、その中でも程々に落ち着いた雰囲気があり、こういった場合にはもってこいかと思ったのだが、着替えた瞬間、思い違いをしていたことが発覚した。何故なら、一緒に出場する先輩達が一斉にアレコレと褒めてきたからだった。まぁ…私は冷やかしだと受け取ったけど。
コホン、私のことはどうでも良い。次は藤花だ。あ、いや…藤花は後のお楽しみにとっておこう。
さて、舞台袖に行くと、そこには志保ちゃんが待っていた。と同時に、あまり面識のない複数の先生の姿も見えた。志保ちゃんを筆頭にワラワラと藤花を置いて私の周りを取り囲み、「頑張ってね」的な声を順々に掛けてきた。表向きは笑顔で対応していたが、『今に見てなさいよ、あなた達…?今日の主役は誰かって事、見せてあげるんだから』と、人ごみの間からチラッと見えていた、こちらに笑顔を向けてきていた藤花を見つつ思ったのだった。
私に構った後、社交辞令的に藤花に先生達が声を掛けた後、ふと舞台の照明が落とされた。その瞬間客席側がざわついたが、それを打ち消す様にどこからともなく放送が流れてきた。
「では後夜祭も佳境に入った所で、それに相応しい最後の出場者に出て頂きましょーう!どうぞ!」
…ふふ、どうぞって…
リハーサル段階では淡々と出て行くという話だったので、なんだか妙な前口上を述べられた後で出づらい気がしつつも、苦笑まじりにまだ暗闇に包まれていた舞台へと上がっていった。それと同時に、目が効かない中どう分かったのか知らないが、歩みに合わせるように徐々に照明が灯されていった。
歩いている間、割れんばかりの拍手がわいたが、それに対してお辞儀しようとはせずに、スルーして早足でピアノの元に行こうとしたその時「琴音ー!こっち、こっちー!」と客席から声がしたので、思わず足を止めてその方角を見た。
そこには、満面の笑みを浮かべてこちらに手を振る裕美がいた。
その右隣には紫が座り、同様の笑みを浮かべていた。左隣には、何故か悪戯っ子のような、何か企んでいそうな笑みを浮かべて、しかも立ち上がってこっちに手を振っているヒロの姿があった。案の定、ヒロのそんな姿に、客席の一部ではクスクスと笑いが起きていた。そのまた隣に座っていた絵里は、そんなヒロの背中を眺めつつ、腹を抑えて笑っていた。
はぁー…
私は一度苦笑を漏らしたが、すぐ後で目を薄めがちに開け、スタスタと舞台の端まで行くと、如何にも文句を言いたげなのが見ただけで分かるように、腰に両手を当てて上体を屈めて見せた。何だか期せずして、文句を言うパントマイムになってしまった。そして上体を起こすと、今度は”どうどう”と宥めるようなジェスチャーをした。するとヒロは頭を掻きつつ客席の方に顔を向けると、ペコペコと頭を下げながらゆっくりと座席についた。このクダラナイ一連の流れの後、さっきの拍手とはまた別に、ドッと大きな笑い声に客席は包まれた。
私はまた大きく肩をガクッと大袈裟に落として見せると、先程までの”如何にもなコンクール感”の空気が消え失せた中、若干口元に微笑みを浮かべつつピアノの前に来ると、今度は何も考えないまま自然と一度客席にお辞儀をして、それからピアノの前に座った。
まださっきの余興(?)の余韻を引きずってか、客席はざわついていたが、私はそれに構わず、少し魅せてやろうという俗な考えの元、大袈裟に両腕を高く上げると、勢いよく鍵盤の上に振り下ろした。
まず私が弾き始めたのは、ショパンのエチュードハ短調 Op.10-12、”革命”の名で知られる曲だ。…いや、これはそもそも当初弾く予定の曲では無かったのだが、この曲は普段クラシックを聴かない人でも、非常に高速で、長く激しく下降する和声的な短音階、その長さとこれら急速なパッセージ、最初の数小節を聞いただけで、かなりのインパクトを与える技巧曲なので、弾くのはもちろん大変なのだが、意識をこちらに向けさせるのには丁度良い曲だ。…ショパンには、こんな意図の元で弾くのは申し訳がなかったけど。でもまぁ案の定というか、こうして弾きながらでも客席が静まり返るのが分かった。二分半ほどで弾き終えると、今度は本来の予定通りの曲を順に弾いていった。
まずはまたショパンから。ポロネーズ 変イ長調 Op.53 ”英雄”だ。全体的に半音階の上昇、低音オクターブによる音量効果、不協和音が多い小節から生み出される切迫した演出効果などなど、それらがピアノに管弦的な色彩豊かな表情を発揮させている曲だ。これまた弾ききるのは大変な曲なのだが、成功した時はとても気持ちのいい曲なのだ。
拍手が一瞬湧いたが、それを抑えるようにすぐさま次に弾いたのは、これまたショパンから。変ホ長調Op.18”華麗なる大円舞曲”だ。一曲目(?)の英雄のような荒々しくも気品溢れる猛々しさのある曲だったが、それとはまた違った雰囲気で、色んな形容が出来るが、一言で言えば、この通説の名前の通り”華々しさ”のこれだ。これを弾くだけでその場が一気に華やかになる。
これを弾き終えると、また間髪入れずに次の曲に取り掛かった。それは、またしつこくショパンから。そして”華麗なる大円舞曲”に続いてまたワルツだ。ワルツ第6番 変ニ長調 Op.64-1”子犬のワルツ”だ。ショパンの当時の恋人であった作家のジョルジュ・サンドが『私のこの子犬がはしゃぐ様子を音楽で表してみて?』というお願いをして、それを受け入れて書いたという曰く付きの曲だ。リズミカルで美しいスケールとトリオの甘いメロディが特徴的で、特にこのトリルが、まるで子犬がコロコロと忙しなく走り回る情景を思い起こさせるのに貢献している。
とまぁ、これら…最初の”革命”を入れたら計四曲を弾き終えたところで、私は椅子から立ち上がるとアリーナーへ向かってお辞儀をした。その途端、客席からは、私がさっき舞台に上がった時よりも数段もっと大きな拍手が沸き起こった。チラッと裕美たちの方を見ると、これまた笑顔で私の方に手を振ってくれていた。さっきはヒロに気を取られてしまっていたが、その周りには”外部組”もちゃんと来てくれていて、同様に笑顔で手を振ってくれたり、声援をくれたりした。
…とここで、突然だが一度話を置いて、色々と軽く私から説明をさせていただきたいと思う。…色々と疑問が湧いている頃だと思うからだ。
まず、何故選曲がショパンのみなのか?それは、前にも触れたように、この話が出来た後で真っ先に師匠に相談したのだが、師匠は『何だかんだ世間に知れ渡っているし、ショパンなら唖然とされることは無いんじゃない?…弾くのは大変だけれど』と飛びきりの笑みを最後にくれながらアイデアをくれたのだった。その通りなのだが、確かに今結果としてこの拍手を見ると、思惑通りだったと言えると思う。
次に…何故私一人でさっきから演奏しているのか?まぁ…私も私で不本意だったのだが、自分で言うのは恥ずかしいことこの上ないのだが、私あっての企画だというので、本来は全編通して藤花とリートを演奏したかったのに、そうもいかず、最終的には『じゃあ三十分ある持ち時間の中で、少なくとも半分はピアノのソロにしてよ』と言うので、渋々それに従った次第だ。
…っと、ここで持ち時間の話が出たので、また逸れるようだが軽く触れると、今回の後夜祭でそれぞれの出場者組に持ち時間が与えられていた。最初のお笑いは十五分、ダンスは二十分、そして軽音も二十分といった具合にだ。トリの私たちだけ十分多めの三十分だった。
とまぁそんな訳で、ここで一つこの繋がりで、何故私がこんなに一々曲間曲間を区切らずに一気に弾ききった理由も分かるだろう。そう、まぁ私自身の気まぐれのせいもあるが、私のソロ演奏に時間をとられて、肝心の藤花との演奏時間が減ってしまうのを恐れたためだった。何とかその努力の甲斐もあり、思ったよりも時間にゆとりが出来ていた。
私はまたストっと椅子に座ると、まだアリーナのざわつきが収まらないのに構わず、おもむろにある曲のイントロを弾き始めた。
それとともに、打ち合わせ通りゆったりとして堂々とした…いや、若干きょどりつつ、藤花が少し足取りも不安定な調子でおずおずと出て来た。
と、ここでようやく今日の藤花の衣装について触れることが出来る。…まぁ、どこまで需要があるかは知らないけど…ってこんな事言ったら藤花に怒られるな…。あ、いや…コホン。では軽くだが触れてみようと思う。…しかしまぁ誤解を恐れずに結論を言えば、ここまで引っ張るほどでも無かったかもしれない。何故なら、今日の藤花の衣装というのは、私のコンクールの決勝に着てきた格好そのものだったからだ。昔の映画に出てくるお嬢様が着ていそうなクラシカルな装いで、胸元にはドットチュールの上にコットンレースが施されており、その周りをフリル状にしたレースで縁取っていて、パフスリーブの袖口にもレースがあしらわれ、背中には幅広のリボンが存在感を示していたソレだ。
これは私からのリクエストだった。初めての時だっただろうか、後夜祭の練習をしようと藤花の家に行ったその時、おばさんから「どんな衣装を用意したらいい?」と聞かれた。その時、おばさんは色んなアイデアを出してくれたが、先ほども触れたように、あの時に来てきてくれた格好があまりにも藤花に似合っていて、私の中ではそれ以外に考えられなかった。その旨を本人を前にして、私のことだから空気を読まずに力説すると、苦笑いを浮かべる藤花を尻目に、おばさんは私の話に妙に同意してくれて、この短期間に改めて用意する手間も省けたと、その場で瞬時に衣装が決まったのだった。
実際、こうして舞台上にいる藤花の姿を見ると、やはりというか、私の目に狂いは無かったと、心の中で一人自画自賛をするのだった。
さて、藤花の姿が見えたのと同時に、また裕美…いや、今度は、当たり前といえば当たり前だが、律が中心になって『藤花ー!』と名前を連呼していた。”部活モード”だ。その度に藤花は小さく手を振り返していたが、それ以外は明らかに空気が前と違っていた。一言で言えば『誰だこいつは?』ってな感じだ。そんな空気を肌身に感じたのだろう、普段からホームであるはずの教会内での独唱の時ですら、今だに出て来るときは慣れない感じが抜けないというのに、急にこうした、ある種のアウェーでの独唱、これで緊張…というか、普段通りでいろと言う方が無理があるだろう。
そんな藤花の様子を眺めつつ、何だか無理矢理連れ出すような真似をして、私の事情に巻き込んじゃって悪いことをしてしまったかと一瞬後悔したが、その直後には『何くそ、藤花、この無礼な客どもに一泡吹かせてやるわよ』と思い直し、その意思を藤花に伝えるべく、繰り返し弾いていた伴奏を徐々にフォルテ(力強く)でかき鳴らしていった。
音の違いを敏感に感じ取った藤花は、少し俯き加減でいた顔を上げて私の顔を見ると、キョトン顔をしていたが、私の位置からも分かるほどにフッと力の抜けた笑みを零すと、それからは軽い足取りで、私の後ろに置かれていたマイクスタンドを手に持つと、それをリハーサル通りに舞台の端すれすれに近いほどの距離に置くと、そこから数歩後ろに下がり、少し俯いて深呼吸をしてから、ゆったりとした動作で私の方を向いた。強めの照明に照らされたその顔には、自信の滲んだ力強い笑みが浮かんでいた。それを見た私も同じ様な笑みを返すと、藤花は一度コクっと頷き、客席の方を向き、そしてまた一度軽く俯いた。これは、藤花の普段の”待ちスタイル”だった。
それを知っていた私は、ずっとフォルテで繰り返していたイントロの調子を徐々に原曲に戻していった。
その間、客席の方では、藤花があまりにもマイクスタンドを、思ったよりも立ち位置から遠めに置いたからだろう、それについて何だか軽く騒めいている様子だったが、『驚くのはまだこれからよ』と、また私は自分の事でもないのに、そんなことを思いながら藤花を曲に誘い入れた。
それに応じて、藤花は静かに第一声を放った。
まず一曲目。それは”オンブラ・マイ・フ”だった。または”ラルゴ”の名前でも知られる、ヘンデルの作曲したオペラ”セルセ”の第1幕第1場の中のアリアだ。歌詞はイタリア語で書かれており、”オンブラ・マイ・フ”を直訳すると”今までに無かった影”となる。詩は『木陰を愛おしむ』といった感じの内容だ。今現在このオペラ自体は滅多に上演されないが、この曲が独立した美しい小品としてファンから愛されており、度々演奏されている。元々はカストラート(去勢された男性歌手)の曲なのだが、今はソプラノ歌手により歌われることが多い。
相変わらず、藤花は第一声で聴いてる者をどこか彼方に連れていってしまうような気分にさせるが、ピアノを弾きながら聞き惚れていた私でも、客席がシーンと静まり返っているのに気づいた。恐らく私と同じ状態だろう…と思った私は、またまた自分のことでも無いのに何だか誇らしく思いつつ、気持ち良く三分と少しの曲を弾ききった。
演奏を終えると、辺りはシーンと静まり返っていた。客席のあちらこちらで疎らに拍手が聞こえたが、それは何というか、拍手するべきかせざるべきか、戸惑っている様子が窺える類のものだった。
その事を察せれたかどうか、裕美は途端にまた少しきょどりつつこちらに視線を向けてきたので、私はニコッと満面の笑みを浮かべて、予定通り次の曲のイントロを弾き始めた。
二曲目。曲名は”ヴォカリーズ”。ある意味、あらゆる独唱の中でも定番中の定番と言えるものだ。これはセルゲイ・ラフマニノフが出版した『14の歌曲集』作品34の終曲で、補筆などを繰り返すうちに管弦楽編曲を行うに至るが、今回はピアノ一本しか無いというので、元(?)通りにピアノの伴奏で私たちは演奏した。”ヴォカリーズ”の性質上歌詞は無く、母音「アー」で歌われるのみの溜め息のような旋律と、淡々と和音と対旋律とを奏でていくピアノの伴奏が印象的な曲だ。
個人的に私はこの曲が大好きで、色々な理由があるが、一つ述べよと聞かれたら、あらゆる作曲家の中で一番大好きで尊敬している”大バッハ”の影が見えるからだと思う。この様な私の好みの源は他にも及ぼしていて、私がショパンが大好きなのも、やはり彼の曲の端々にバッハの影響が見られるからだと断言できる。実際、ショパン自身も書簡だとかあらゆる残された文章の中で、いかにバッハが好きで尊敬しているかを述べていることから見ても、的外れでは無いと言えるだろう。
…っと、思わず余計な事を口走り過ぎたが、ここでも藤花は滞りなく、代名詞であるどこまでも透き通った、聞いた者をどこか天上にでも連れていってしまうかの様な、そんな歌声で見事に歌いきった。
二曲目も無事演奏を終えると、また客席では戸惑いの色が浮かんでいるのが、実際には暗かったのにも関わらず、その様子が手に取るように分かる様だった。
また拍手が疎らだったのを見て、私はふとある事を思いつき、サッとその場で立ち上がった。そしてツカツカっと藤花のそばまで行くと、一度藤花の顔を見て、そしてフッと微笑んでから客席に向かって深々とお辞儀をした。それを見た藤花も慌てつつも私と同様に深々とお辞儀をした。
その次の瞬間、今日一番の割れんばかりの拍手、それに皆が一斉に立ち上がったせいか、地響きにも似た音もそれに混ざって、それらが一斉に舞台上の私たちに降り注がれた。…いや、この場合、藤花”に”注がれたと言うべきだろう。
私はいち早く上体を起こして、まだ頭を下げたままの藤花に対して拍手を送った。まだ気づいてないのか、藤花はゆっくりとオドオドしつつ顔を上げると、私の位置からは横顔しか見なかったが、それでも今までの付き合いの中で一番の驚きの表情を浮かべていた。
これも私は真っ先に気付いていたが、ふと裕美たちの方を見ると、当然と言うべきか、裕美たちも少し涙ぐみながら笑顔をこちらに向けて手を振っていたが、そんな中、律一人がシャンと背筋をピンと張って棒立ちになっていたが、時折目元を拭う様な仕草をしていた。と、ここでふと藤花と視線が合ったのか、さっきよりも何度も目元を拭いつつ、これまた珍しい、とても朗らかな微笑を顔に湛えてこちらを眺めてきていた。それに対して何だか直立不動の姿勢のままでいる藤花を余所に、今度はその微笑みのまま拍手を小さくしだすと、急に藤花は私の方に顔を向けた。 その顔には今だに戸惑いの表情が張り付いていたが、それでも見る見るうちに笑顔になり…、いや、時折何かを我慢するかの様な苦悶の表情を浮かべたりと、百面相を忙しなく浮かべていたが、終いには泣きそうな顔で動きが止まると、そのままガバッと私に抱きついてきた。何も言わなかったが、抱きついたことによって体が密着し、それで藤花の体が小刻みに震えているのが分かった。
…ふふ、予定では後数曲演る予定だったけど、ここまでのようねぇー…
私自身も少し涙ぐみつつそのまま、私からしたら小さな藤花の背中を、まだ会場の興奮の冷めやらぬ中、包む様に上から抱きしめた。
…ただ無言で抱きしめていれば、それで”絵”になったのだろうけど、やはりというか、空気の読めない私はつい、どうしても胸の中を渦巻いていた思いを、そのまま無粋にも口にしたのだった。
「…ほらね?演ってみて正解だったでしょ?藤花?」
第15話 観劇にて
「ふぅ…んーん!」
私は座りながら大きく両手を天井に向けて伸びをした。
ここは自宅の私の部屋。学習机の脇に隙間無く寄せて、くっ付けてあるパソコンデスクの前に座っている。目の前のモニターには、ある番組が丁度終わったところだった。
その番組とは、ネット上でのオンデマンド放送をしている、立場的には所謂”右”と目されている放送局の中の、とある討論番組だった。約三時間ほどのもので、地上波の様に不躾に勝手に発言をカットしたり、もしくは放送しないとか、そういったマネをしない点で、最近でテレビらしい番組を観ているのは、毎週土曜日に放送されるコレのみだった。…いや、それでもやはり毎度ではない。毎度欠かさず見るのは、ある人や、その人関連の面々が出演する時に限られていた。…今日の様に。
こうも引っ張る事もなかったかも知れないが、その人とは…そう、神谷さんだった。
この番組の存在を私に教えてくれたのは、もちろん義一だった。ここ最近…いや、最後に神谷さんと会ってからだいぶ経っていた。何しろ、その落語の師匠を交えて数寄屋で会話し議論してから、一度も会っていなかったのだ。前回お店に行った時は、スレ違いというか、神谷さんが衛星放送局の生放送番組に出ていたというのもあって、会えなかったのを覚えておられる方もいるだろう。あの後で義一に録画したのを見せて貰ったりしていたが、その流れで、比較的に頻繁に神谷さんが出演している番組、放送局があるというので教えて貰った次第だった。
落語の師匠が来られた時にも感じた事だったが、心なしか神谷さんのほっぺがこけて見えたのが印象的だったのだが、それは薄暗い店内での錯覚のなせる技かと思っていた。だが、その後の衛星放送の出演場面や、それ以降よく観ているネット放送番組で確認すると、やはり徐々に顔が痩せ細っていってる様に見えていた。この事は私のことだからすぐにでも義一に聞いてみたいという衝動に駆られていたが、何だかそんな私でも気軽に聞く気にはなれなかった。それで今に至る。ただ見るからに痩せこけてはきていたが、その弁舌たるや、まさに立て板に水といった調子で、次から次へと言葉を紡ぎ出していっていた。当人は「多弁症だから」と自嘲気味に笑うのだろうが、そこいらのただ口が回る割に内容の空っぽな輩とは、比べるのもおこがましいほどに、その言葉一つ一つに深い思索の痕跡が滲み出ていて、それ故に発言が長くても最後まで難なく聞けた。これは、何度か数寄屋で同席した私だから、今更な感想かも知れないが、何度言っても言い過ぎということはないだろう。
コホン、とまぁ、神谷さんやその関係者…ズバッと言えば、雑誌”オーソドックス”に集う面々という意味だが、今度は何故彼らだけが出演してる時のみ観てるのか、これも軽く説明するのを許していただきたい。勿論というか、当然というか、この放送局はオンデマンドというのもあって、私がまだ見始める前の過去の放送が大量に保存されていたので、一種の好奇心でそれらをツラツラと試しに視聴してみたのだが、何というか…言っては何だが、どれも退屈なものばかりだった。どんな内容だったか簡単に言うと、これが所謂”右”と目される所以だろうが、無闇矢鱈と”日本”を褒めちぎり礼賛する物だとか、それに関連して、経済やなんだと、極矮小な話をより矮小化して議論したりしていたのだ。私は地上波をろくに見ないので決めつけは良くないが、漏れ聞こえるところによると、以前よりかは地上波でも日本を礼賛する番組が増えてるとのことだが、そうだとしたら、折角のネットという、良くも悪くも好き勝手やれる場所を持っているのにも関わらず、矮小な近視眼的な、どこか深い思索を経てない様な、ただ情報を垂れ流すだけの空虚な内容の放送しかしないのだから、まぁ地上波との差異が無いのなら見ることはないだろうと、それで結局神谷さんたちが出る時だけに限られてしまった。話を戻そう。
今日の議論は幅広の長テーブルを挟んで、片方には”オーソドックス”から数人が、そしてもう一方にはこの放送局の番組によく出演している面々が座っていた。まぁ今はその内容に触れられるほどの暇が無いので、私の主観的な感想を述べさせて貰えれば、繰り返しになるけど、やはり数寄屋の面々との話す内容の差がひどかった。他の番組でよく見る面々の話す内容が薄っぺらすぎて、三時間あった放送のほとんどが、最後まで噛み合わずに終わったという感じだ。それでも、身内びいき(?)と思われるかも知れないが、神谷さん含む片方の話が興味深くて、それだけで三時間が無駄でなかったと思えた。
因みにというか、今日出演した神谷さん側の出演者の数名は、一人としてまだ私は直接会った事が無かった。雑誌で名前を知ってる程度だった。必要じゃなかったかも知れないが、それだけ補足させて頂く。
天井向けて伸ばした腕をゆっくり下ろしつつ、壁にかけられた時計を見ると、時刻は夜の十一時を示していた。神谷さんたちが出演するという情報は前もって知れるので、このような土曜には早めに寝支度を済ませ、それから八時からパソコンに齧りつくのが習慣となっていたので、電源を落とすとそのままベッドに入り込み寝るのだった。
「…っと、お母さん、今から絵里さん家に遊びに行ってくるね?」
と私は靴を履き終えてから声をかけると、
「えぇ、いってらっしゃーい。あまり迷惑をかけるんじゃありませんよー?」
と居間の方から声だけが聞こえてきたので、少し声を張りつつ答えた。
「分かってるー」
バタン。
私は自宅の玄関を閉めると、そこで一度大きく伸びをして空気を吸い込んだ。
今日は文化祭が終わって一週間が経った、十月の第一日曜日。毎年この時期でも夏の気配がしぶとく残っていたものだったが、例年にしては珍しく”秋”というのを体感的に感じられる日々が続いた。なので今日の私の服装も、厚着ではないにしても、Tシャツの上からカーディガンを羽織っていた。それで丁度いいくらいの陽気だ。空は高く、いわし雲が見えており、まさに秋空といった趣だった。お気に入りの腕時計をして、スマホなどの必要最低限の物だけ入れた普段使い用の黒のミニバッグを手に持つのみだ。
私はそのミニバッグを手元で弄びつつ、気分も軽やかにレンガ調のアプローチを抜けて敷地内を出た。気分だけでなく、いや、それに伴ってか自分でも分かる程に足取りが軽かった。
まぁ然もありなんだろう。勿論一つの理由としては、絵里に会えるというのもある。何だかんだ、あの決勝が終わった後も忙しなかった。勿論というか、前にも話したように、私のお祝いにお母さんが絵里を呼んでくれたり、後は文化祭にも来てくれたりと、結構頻繁に会っていたと言えばいたのだが、それ以前のように、あの絵里のマンションで、ひたすら昔の映画の話だとかを延々と語らう様な、そんな緩い感じは久しかったのだ。
それともう一つ、これが決定的な理由なのだが、それは…絵里に関しては、もう何も色々と小細工をせずとも気軽に会えるという点だった。これはとてつもなく大きい事だった。あの時絵里に「行こう」と言われた時は不安でいっぱいだったが、絵里のその英断のお陰で、少なくとも絵里関連でこれ以上誤魔化さなくても良くなったのには…本当に心の底から絵里に感謝している。
ただ…今日に関しては、また一つ嘘が紛れ込んでいた。
私は土手に向かっていた。土手の麓に着くと、そこから横に切れて、土手に沿って走る高速道路の下をしばらくまた歩いた。倉庫らしきものが建ち並ぶだけの人気の少ない寂しい通りだ。しばらくして斜に出ている狭い路地に入ってまた数分歩くとお目当の家に着いた。
そう、もう言わなくとも分かるだろう。義一の家だった。
まぁ…義一の家自体に来るのも最後が絵里を伴って数寄屋に行くのに待ち合わせ場所に使って以来だから、何だかんだ二ヶ月ぶりというのもあって、それもワクワクした大きな要因の一つだった。
秋に入り、そろそろ冬支度を始めているのか、垣根を越えて外からは家の外観が見渡せないばかりに繁茂していた木々の葉っぱが、若干少なくなっていた。でも、それでも枝が密集して交叉したりしていたので、見え辛いのには変わらない。
合鍵を取り出し鍵を開けた時にふと、借りていた何冊かの本を持ってくるのを忘れたと思い出したが、今日はまぁ仕方ないかと自分勝手に納得し、ガラガラと大きな音を立てる引き戸式の玄関を開けて入った。
「義一さーん、来たよー」
「いらっしゃーい」
と返事を返してきたのは、何と女性の声だった。…”何と”は大げさか。とても聞き慣れた声だった。
廊下の一番奥、”宝箱”から出てきて私を笑顔で出迎えてくれたのは絵里だった。室内だからか、無地で細身の長袖Tシャツにワイドパンツ姿だった。
「あ、絵里さん、もう来てたんだ」
と私は靴を脱ぎつつ言うと、絵里は私の背中に向かって返した。
「そうよー。まったく…ギーさんとこんなボロ家の中で二人っきりとか、息が詰まるかと思ったわ…」
「聞こえてるよー?」
と今度はキッチンの方から男性の声が聞こえた。言うまでもなく義一の声だ。ただ、まだ姿が見えない。
「ふふ」
と私は笑みを零しつつスリッパを履くと、一度腕時計を見てから、ふと絵里の耳元に顔を近付けて、ニヤケつつ小声で言った。
「とか言っちゃってぇ…私はちゃんと時間通りに一時に来たっていうのに、それよりも早く来てるっていうのは何か…」
「…琴音ちゃーん?」
絵里は素早い動きで私から離れると、顔いっぱいに不機嫌そうな表情を浮かべながら返した。
「それって、何が言いたいのかなぁー?」
「え?何?ハッキリと言って欲しいの?」
と私は私で笑顔を崩さずに惚けて見せると、「もーう…」と絵里はため息交じりに声を漏らして苦笑いをするのだった。
それを見て私はまた笑みを浮かべたが、ふとその時、「はぁ…」とため息を吐きながらキッチンから義一が出てきた。
相変わらず長髪を後ろで纏めてポニーテールを作り、伸ばしかけの前髪も無理に纏めず、あえて後れ毛として残しておくだけという、アンニュイな雰囲気の義一に合った髪型をしていた。…あくまで私の個人的な感想だけれど。
服装も白無地のTシャツにジーンズと、これまた代わり映えのしない格好だった。
義一は私の姿を認めると、和やかな笑みを途端に浮かべながら声をかけてきた。
「あ、琴音ちゃん、いらっしゃい」
「うん、久しぶり義一さん」
と私が返すと、義一はキョトン顔になった。
「…あれ?久し振り…だっけ?」
「そうだよー。ほら、この三人で数寄屋に行った振り」
と私が絵里に視線を流しつつ言うと、「…あぁ、そっか、そっか、確かに久しぶりだねぇ」などと呑気な調子で義一が返してきた。
と、その時、「あのさ、ギーさん…?」とここで絵里が話に割って入ってきた。
「レディ二人を、いつまでもこんな所で立ち話させるのはどうなのよ?」
「れでい…?二人…?」
絵里に薄目を向けられながら言われた義一は、おでこに手を当てて辺りを見渡すようなジェスチャーをしながら
「…僕にはレディが一人しか見えないけれど…?」
と最後に私に視線を話しつつ言うと、
「はぁ…」
と絵里は大きくため息をついて見せた。
「まぁ…ギーさんみたいな朴念仁に、いいオンナってのがどんなものなのか、分かってもらおうってのが無理ってもんよねぇ」
「…ふふ」
と、これまたいつも通りの二人の息の合った”夫婦漫才”を見せられて、久しぶりというのもあってか簡単に笑みが溢れてしまった。
「おいおい、見くびってもらっちゃ困るなぁ」
義一はニヤニヤしながら、ふと私の背中にそっと手を置きつつ返した。
「僕はこうして琴音ちゃんが、レディ…つまりは淑女だと分かるんだから」
「ちょっとー」
と急に矛先が私に向いたので、サッと体を横に躱すと義一にジト目を向けた。
「私を巻き込まないでよー」
「確かに…」
と絵里は私の顔を覗き込みつつ、真面目ぶった顔つきで顎に手を当てながら言った。
「琴音ちゃんが淑女だっていうのには、反論はないけれど…」
「…二人ともー?」
と私はジト目のまま義一と絵里の顔を交互に見ながら声を上げた。
それから数瞬は顔を見合わせていたが、途端に明るく笑い合うのだった。
「じゃあギーさん?」
と絵里は宝箱に向かいつつ言った。
「お茶と私の持ってきたスイーツ、ヨロシクね?」
「はいはい」
義一がそう答えつつキッチンに戻るその背中を眺めていると、
「ほら琴音ちゃん?」
「え…?って、わっ!」
絵里が早い動きで私の背後に回ると、そのまま私の背中をグイグイと押してきた。
「ほら、野郎に支度は任せて、女子二人はさっさと座って待っていよう!」
元々この家自体はその香りで充満していたのだが、宝箱に入った途端、香りは一層強まった。古本特有の甘い香りだ。私の好きな匂いの一つだ。入った瞬間に目の前に鎮座する大きな書斎机、壁を覆わんばかりの本棚と本の数々、ピアノだとか大きなテレビや諸々の雰囲気も含めて、やはり私はこの場が大好きだと改めて実感した。
何度も、もう数え切れない程にここに来てるが、それでも毎回宝箱に入ると、一度ぐるっと辺りを見渡さずには居れなかった。
今日もそうしていたのだが、「琴音ちゃん」と絵里に声を掛けられた。
「ほら、さっさと座ろうよ」
「うん」
ここを訪れた初期の辺りでは、二人がけ用の丸テーブルを使っていたのだが、それとは打って変わって最近では定番になった、小洒落た喫茶店のテラスに置かれていそうな、小洒落た面が正方形の四人がけテーブルの周りには、既に三人分の椅子が用意されていた。そのうちの一つは、キッチンにある食卓の椅子だった。
テーブルの四辺のうちの一辺に私が座ると、斜め向かいに絵里が座った。”食卓椅子”だ。
私たち二人が座ったのと同時に、タイミングよく義一がトレイに茶器のセットと、お皿に盛り付けられた絵里のお土産を乗せて入ってきた。
「お待たせ」
「お、待ってました」
義一が茶器と柄が同じの円形のトレイごとテーブルに置くと、絵里は子供のように手を何度か叩きながら言った。
「いやぁ、琴音ちゃんがいると、この男もちゃんとこうしてお茶を出したりと、客人向けの態度をしてくれるから助かるわぁ」
「それを言うならさ…?」
と義一は、小ぶりのケーキを小皿に取り分けつつ、視線だけ絵里に流しつつ
「絵里、君もだろ?琴音ちゃんがここに来ることを事前に知らなかったら、手ぶらで来るんだから」
と苦笑まじりに返すと、絵里は私に視線を流しつつ、不思議と素直に「まぁ、そうね」と微笑みながら言った。
このやり取りに対して、何かしらの良い言葉が見当たらなかったので、取り敢えず二人に合わせて微笑みを浮かべつつ、取り分けられていくケーキの行方を眺めていた。
「…さてと」
三人分のカップに紅茶を注ぎ入れ終わった義一は、自分の席に座ると、チラッと絵里に視線を向けて、フッと表情を緩めるように微笑みつつ「絵里、ほら、例の…」と声をかけると、「え、あ、あぁ、例のね」と明るい笑顔を浮かべつつ、おもむろにカップを手に持ったので、何も言わずとも私と義一も自分のカップを手に取った。
それらを確認すると、絵里はコクっと大きく一度頷き、それから明るく言い放つのだった。
「では…かんぱーい!」
「かんぱーい」
カツーン。
私たち三人はお互いのカップを軽くぶつけ合うと、一口ズズッと紅茶を啜った。
「…はぁー、美味い」
とまず第一声を上げたのは絵里だった。
「本当にギーさんは紅茶を淹れるの”だけ”は美味いよねぇ」
「ふふ、”だけ”は余計だよ」
そう返す義一も満更でもなさそうだ。
「ふふ」
とそんな二人の様子を見て私は微笑みつつ一人紅茶を啜った。
それからは各々が小ぶりのケーキを食べながら、まず初めに私の一連のコンクール話に花が咲いた。
先ほども触れたが、メールなどで連絡は取り合っていたのだが、こうして直接顔を合わせるのは久しぶりだったので、改めて予選からの思い出話を質問されるのを答える形でしていった。
途中でおもむろに義一は立ち上がると、テレビの側で何やらゴソゴソと作業をして、それからテレビの電源を入れた。そこには画面一杯に、私のドレスアップした姿が映し出されていた。
それが映ったのを見た瞬間、私は驚いて思わず口に含んでいた紅茶を吹き出しそうになった。その横で絵里は「おー」と呑気な声を上げていた。
「ギーさん、なかなか粋な計らいをするじゃない?」
「でしょ?」
義一は何故か得意満面に浮かべつつ、何やらリモコンを手に持って戻ってきて座った。
「何が『でしょ?』なのよ…」
と私が苦笑まじりに呟くのを他所に、義一がリモコンを操作するたびに切り替わっていく私のコンクールでの様子を、二人はあーだこーだと、本人が側にいるのを何ら気にする様子を見せないままお喋りしていた。
ちなみにというか、これらは予選時から決勝までのを順々に見ていったのだが、予選、本選、決勝と、お母さんや他の人から送って貰った写真を、私がまたそのまま義一のパソコンに送ったものだった。初めのうちは恥ずかしくてまともに見れなかったが、次第に慣れて、二人が無駄に褒めてくるのに対して呆れ笑いを浮かべながら、ツッコミを逐一入れていった。
その流れで、そのまま写真は後夜祭まで続いていった。これらは裕美たちに送って貰った写真だった。これまた私のドアップが続いていたが、途中でちゃんと(?)藤花のアップも映し出されてきた。写真の中の藤花の視線は、どこか遠くに向けられてる風で、いかにも無心になって歌を放っているのがよく分かる、なかなかに良い写真だった。
…っと、ここでついでというか、閑話休題というか、軽く文化祭以降の私たちの話に触れようと思う。
あれから二週間ばかりは、私の周囲、そして聞くところによると藤花の周辺も騒ついていたらしいのだが、それ以降は徐々に周りの熱も冷めていき、今では通常通りに時を過ごしていた。例の、コンクールの本選の時に同じ会場にいたというクラスメイトとも、以前よりかは話す機会が増えてはいたが、それでもまぁクラスメイトから”知り合い”レベルに上がったくらいのものだった。
相変わらず私は、律と二人で過ごすことが多かった。
まぁ結論を言えば、あれだけ目立った事をした後でも日常に際立った変化は無かったということだ。話を戻そう。
それからはコンクールの話から逸れて、しばらくはお互いに会わなかった間どう過ごしていたのかを報告しあった。といっても、私はコンクール関連しか内容は無かったし、義一は義一で毎年八月恒例の、雑誌オーソドックスの特別号への執筆で忙しくしていたという、まぁ特に思いがけない報告はお互いに無かった。
…いやむしろ、思いがけない報告、それが無かったのに驚いた。どういう事かというと、この会話の中で気付いた方もおられると思うが、絵里が何気無くコンクールに行ったという思い出話を、義一が何も引っかかる事なくすんなりと聞いていた事だった。
まぁ理由についてはすぐに察した。単純に私の預かり知れないところで、絵里が義一に私のお母さんに挨拶に行った事を話していたのだろう。その時に義一がどんな反応を示し、そして絵里に何を言ったのか、それらについては当然気になったが、まぁそれは二人だけの間の話だろうと、自分で言うのも何だが私にしては珍しく、大人しく引き下がることにした。
話題はあちこちに飛び、途中から絵里がいる事もあって、昔の映画の話で盛り上がっていたその時、ふと『ジーーーーっ』という音が家中に響き渡った。
私は一瞬ビクッとした。この音がすぐにインターフォンのチャイム音だとすぐに分かったのだが、この家の中にいて、この音を聞くのは初めてだったので、思いの外大きい音量だったのに驚いたのだった。絵里もそんなに慣れていなかったのか、それとも意外だったのか、私ほどではないにしても少しビクッとしていた。
「義一さん?」
と私が声をかけると、
「うん、誰だろう…」
と義一は首を傾げていた。
「不思議ねぇ」
と絵里も口を開いた。
「ギーさん、今日は誰も来ないって言ってなかったっけ?」
「うん、そのはずだけれど…あ」
と首を傾げたまま考えていた義一だったが、ふと何かを思い出した様子を見せた。
「え?何?」
と私がすかさず突っ込むと、義一はニヤッと意味深に笑うと、ふと立ち上がり、その場で大きく伸びをして見せつつ言った。
「そうだった、そうだった。…あ、いやね、絵里、今君が言った通り、元々今日は来客の予定は無かったんだけれど、今朝だったかなぁ…?ある人から連絡があってね、『今日ちょっと寄ってもいい?』って聞かれたから、僕は快く了承したんだったよ」
「…ちょっとー、ギーさん?」
それを聞いた絵里は、心底呆れたといった様子を見せつつ、ため息交じりに言った。
「今日は私と琴音ちゃんが来ること知ってたよね?それなのに、なーんで了承しちゃうかなぁー?」
「ふふ」
絵里があまりにも演技過剰に言うので思わず笑みを零してしまったが、心情的には私も同意だった。
それでも義一は悪びれた様子を見せずにいると、また『ジーーーーっ』とインターフォンが鳴らされた。すると義一は玄関に向かって数歩歩いてから足を止めてこちらに振り返り、また意味深にニコッと笑うと言った。
「まぁまぁ、そう言わずにさ。きっと今来たお客さんの正体を知ったなら、二人の不満は消えると思うよ?」
「はいはい、今開けますよ」
と言う、玄関の方から義一の声がここまで聞こえてきた。
ガラガラガラ。
けたたましい音を奏でながら引き戸が開けられた音がした。
「すみませんね、出るのが遅くて」
「ふふ、いないのかと思っちゃったよ」
「…女性?」
義一の言葉に返ってきたのが女性の声だったので、不思議に思いつつ絵里に顔を向けると、絵里もこちらに顔を向けてきていて、何だか不審げな、もしくは”不安げ”な表情を浮かべていた。
「うん…みたいね」
「誰だろう?」
絵里の若干不安げな表情を見た時に、我ながら性格が悪いと思うが、何だか少し面白く思いつつも、まだ姿形の見えない女性の登場を、今か今かと待ち構えた。
「車はいつもの所に?」
「えぇ、すぐ近くのコインパーキングにね」
などと義一と会話しながら、ようやくその女性が宝箱の中に入って来たので、全貌が分かった。と、それと同時にハッと驚いた。そしてそのまま絵里の方を見ると、絵里は絵里で目がまん丸になっていた。あまりにも予想外の来客だったからだ。
なんと入って来たのは百合子だった。一応お忘れの方もいるかも知れないので、確認の意味も含めて説明すれば、あの数寄屋に集い、そしてまたオーソドックスに寄稿している一人で、本業は主に舞台で活躍している女優だ。
百合子はチュニックのようなふんわりシルエットの小花のブラウスに、ボトムはスキニーデニム姿だった。手には、私のと似たタイプのミニバッグを持っていた。丸みを帯びた逆三角形のフレームの形をしたメガネを掛けていた。メガネ姿は初めて見たので新鮮だった。因みに触れなかったが、今日も義一はメガネを掛けている。髪は前髪は垂らしたままで、あとは後ろの低い位置で束ねていた。
私たち二人が同様に目を丸くさせて何も言わずにいたのだが、百合子はこちらを見た途端に、ニコッと微笑んでから声を掛けてきた。
「あら琴音ちゃん、久し振り。それに…絵里ちゃんも」
「こ、こんにちわ」
とまだ動揺の治らない私と絵里はほぼ同時に、同様の言葉で返した。ここで初めて、百合子が絵里のことを”さん付け”から”ちゃん付け”に変化してるのに気付いたが、それにツッコミを入れる程の余裕が無かった。
「えぇ、こんにちわ」
「じゃあ百合子さん、僕はちょっと準備してきますね」
と義一は体を返して廊下の方に向きながら言った。
「えぇ、お願いね」
「準備?」
と私が思わず声を漏らすと、義一の去る後ろ姿を見ていた百合子は、またこちらに顔を戻して言った。
「えぇ、今日は二人がいるというので、お土産を持ってきたのよ。…ふふ、まぁ、私が持ってこなくても、既にお菓子はあるようだけれど」
百合子はそう言い終えると、テーブルの上に散らかったケーキ群に目を落とし、和かに笑った。
「さてと…」
義一は百合子の分の新たなお皿に切り分けた羊羹をテーブルの空いたスペースに置くと、ふと椅子が三つしかない事に気付いたらしく、
「あ、百合子さんの分の椅子が無いなぁ…。ちょっと待っててもらえます?今向こうから椅子を持ってきますから」
と部屋を出て行くとしたその時、自分でもビックリだが無意識的に軽口が飛び出した。
「あれ、義一さん?普段はどんな人が来ても、その人に自分で椅子を取ってきて貰ってるじゃない?」
「え、あ、いや、あれは急な来客相手にだけなんだけれど…」
と義一はそんなことを突っ込まれるとは思っても見なかったのだろう、何だか気まずげに頭をポリポリと掻いていたが、それを聞いた絵里がすぐに、苦々しげな表情を浮かべつつ返した。
「…あれ?私、今日キチンと予定が決まっていたのに、ここに着くなり自分で椅子を用意させられたんだけれど…?」
「いやいや…まだ僕が迎え入れる準備をする前に、そっちが勝手に来たんじゃないか?」
と義一も負けじと苦笑いを浮かべつつそう返していたが、それらのやり取りを黙って見ていた百合子が突然「あははは!」と吹き出す様に明るく笑って見せた後で言った。
「あーあ…ふふ、確かに何だか私だけ用意しないっていうのは不公平だよね?義一くん、自分で取ってくるよ」
百合子が戻って来ると、私の座る位置から斜め右向かい、絵里の正面に椅子を置いて座った。
「じゃあ絵里、またで悪いけどまた乾杯の音頭をとってよ」
「乾杯?」
と百合子が声を漏らしつつ不思議そうに絵里に顔を向けると、絵里は何だか照れ臭そうにモジモジしていた。
「う、うん…じゃ、じゃあ、まぁ…百合子さん、お手数ですがカップを手に持ってくれます?」
「え?こう?」
百合子は私や義一の手元を見ながら一緒に持ち上げた。
「コホン…ではまぁカンパーイ!」
「カンパーイ」
「え?あ、カンパーイ?」
カツーン。
当然と言えば当然だが、突然の我々の風習(?)を目にして戸惑いの隠せない百合子だったが、それでもそれぞれとカップを軽くぶつけ合い、それで一口紅茶を飲んだ。
「…はぁ、義一くんの淹れるお茶は、相変わらず美味しいわね」
百合子何だかついさっき誰かが言ったのと同じ様な感想を述べた後で、早速というか、何で乾杯をしたのかの話になった。
それについては早速義一が絵里に振ったので、絵里は何だかバツが悪そうな笑みを零しつつ百合子に説明をした。
絵里の話を微笑ましげに聞いていた百合子は、話を聞き終えると
「面白いわねぇー…今度共演者のみんなとやってみようかしら?」
などと、冗談なのか本心なのか、社交辞令なのか掴みにくい言葉を、何だか感心した風に言うのだった。その言葉に絵里があたふたしたのは言うまでもない。
それからは、百合子が持ってきた羊羹という新たなスイーツをつつきながら、これまた自然な流れ(?)で私のコンクール話、そして文化祭での演奏の話になった。文化祭の話も、予め百合子さん、そして今ここにはいないが美保子さんにも話していたので、何も説明せずとも話ができた。
また義一がテレビを点けて、そこでスライドショーを四人で眺めてお喋りをしていたが、それもひと段落つき、ふと今度は取り止めのない雑談に入ろうとしていたので、さっきからずっと気になっていた事を百合子にぶつけてみる事にした。
「…あ、そういえば、百合子さん?」
「ん?何かしら?」
百合子は手に持っていたカップを置くと静かな笑みを湛えつつ返した。
「うん。そのー…百合子さんは、今日は何の用で義一さんの家に来たの?」
と私が少し遠慮がちに聞いている間、ふと視線を動かして隣を見ると、絵里も同じ気持ちだったらしく、半分好奇心、もう半分は…ふふ、まるで警戒しているかの様な表情を浮かべて、百合子の返答を待っていた。
すると百合子は”パンっ”と急に両手を打つと、何かを途端に思い出したかの様な表情を見せて、明るい笑みを浮かべつつ言った。
「あ、そうそう!今日私が来た理由っていうのはね…って、義一くん?」
とここまで言いかけて、百合子はふと義一に顔を向けた。
「二人には、今日なんで私がここに来たのか話してないの?」
「え?んー…」
と義一はこんな簡単な質問に対して少しばかり考えて見せていたが、「…はい」と何故か照れ臭そうに答えた。
それを聞いた百合子は「はぁ…」と呆れ笑いを浮かべつつ声を漏らしてから言った。
「そういう無駄に人を驚かせようとするところ…あなたも聡くんの事言えないよねぇ」
「いやぁ…」
と相変わらず照れっぱなしの義一をそのままにして、百合子は私、そして絵里にも視線を振り分けると、ふと足元に置いていたミニバッグを手に取り、それを腿の上に置くと言った。
「仕方ない、私から話すとね?今日はまぁ元々、義一くんに渡す物があってここに来る予定だったんだけれど…」
とここで百合子はミニバッグを開けると、中に右手を突っ込んで、軽くガサゴソと中を探って見せながら続けた。
「でも、この日に琴音ちゃんと絵里ちゃんが、たまたま来てるって話を聞いてね?ついでだし、機会があったら、自分からちゃんと手渡したかったから、丁度いいと思ってね…はい」
と百合子がバッグの中から取り出して、義一を含めた私たち三人に手渡してきたのは、無地の封筒だった。
「ありがとうございます」
と義一が笑顔でお礼を言う傍、私と絵里はキョトン顔で、で渡された封筒を眺めていた。
「百合子さん、これって…?」
と私が声をかけると、百合子はニコッと一度目を細めて見せてから私の手元の封筒を指差して言った。
「ふふ、中身取り出してみて?」
「う、うん…」
言われるままに取り出してみると、それは何と舞台のチケットだった。パッと見では下地が黄色に薄桃色が滲んでいる様にも見え、またその逆にも見える様な、そんな色合いの上に黒字で『人形の家』と書かれていた。
絵里もつられて封筒の中身を出して、しげしげとチケットを見ていたが、私は少し興奮気味に百合子に声をかけた。
「こ、これって…前に話していた…?」
「そう」
そう静かに百合子は返したが、静かながらにその語気からは誇りの様なものが滲み出ていた。
「…貰って、良いの?」
と自分でも分かる程に口調からまだ驚きが隠せずに聞くと、百合子は目を細めつつ「もちろん」と返した。
「その為に今日はここに来たんだからね。いやぁ…脚本が上がって、舞台稽古も終わって、ようやくここまで漕ぎ着けてね、今月の中旬から月末まで演るの。場所はね…」
と百合子が言った場所は、池袋にある有名な劇場の名前だった。その脇に小さく”小ホール”と書かれていた。
「へぇー」と、門外漢の私でも知ってる劇場名を聞き、尚更興味深げにチケットをジッと眺めていた。
百合子は普段あまり見慣れていないチケットを興味津々に眺めている私と絵里に一度微笑んでから口を開いた。
「ふふ、まぁ、脚本を書いたマサさんも、ここにいる義一くんとの会話のお陰で、色々なヒントを得れたと言うんで、今義一くんに渡したのは、マサさんから頼まれて持ってきたんだけれど…」
とここまで言うと、今度は私たち二人に顔を向けて、そしてまたフッと一度微笑んでから続けた。
「あなた達二人に渡したのは…私からの招待状。その券は特別仕様になっていてね、よく見てみて?日時の所が空白になってるでしょ?」
「え?…あ、ホントだ」
「ふふ、そのチケットはね、私みたいな出演者が”誰かを誘いたい時に手渡す用”でね、それを持って劇場に行けば、上演期間中はいつでも来れるのよ」
「へぇー」
「あのー…」
例のごとく同じリアクションで感心しっぱなしの私を他所に、絵里が何だか遠慮がちに、戸惑い気味に
「そんなチケットを、私みたいなのも頂いて、そのー…良いんでしょうか?」
と声をかけると、百合子は普段の薄めがちな憂いを孕んだ目を真ん丸にしてキョトンとしていたが、何を聞かれたのか分かったらしく、また静かな微笑を湛えながら答えた。
「え?…あ、あぁ、なーんだ、そんな事?…ふふ、相変わらず絵里ちゃんは、義一くん相手とは違って、今だに私に固いんだから…。えぇ、もちろん。だって、自分の舞台には、大事な友達を招待したいっていうのは当然でしょ?」
「と、友達…」
そう呟く絵里は、恥ずかしがりつつも笑顔を見せていた。
まぁ絵里がそう恥ずかしがりつつ、少し狼狽えるのも分かる。
私の知る限りでだが、この二人はまだ今日で顔をあわせるのが二度目の筈だったからだ。まぁこの二人は、前回の数寄屋での会合の最後に、連絡先を交換しているから、もしかしたら裏で連絡を取り合ったり、ひょっとすると会ったりもした事があったやも知れないけれど。まぁそれはさておいても、そんな少ない回数しか会ってないのに、急に友達呼ばわりされても困るし驚くだろう。…いや、絵里は元々百合子のファンなのだから、困りはしないか…おそらく。
その様子を眺めた後、私の方にも視線を流すと、
「それに今回のも自信作だしね!」
と、これまた普段の百合子とは正反対な、底なしの裏表の無い無邪気な女性風に言い切った。そのあからさまな演技”風”に、私も思わず笑みが溢れた。
「まぁ普段なら、私から義一くんを招待しているんだけれど、今回は珍しくマサさんが直々に招待したいって言うんでね。…ふふ、よっぽど前のオーソドックスでの対談が、お気に召したみたい」
「はは、それはお役に立てた様で光栄です」
そう笑って返す義一を見た後で、百合子はまた私たち二人に視線を戻して言った。
「二人とも、それぞれに都合があるだろうから強制はしないけど、もし良かったら二人一緒に観に来てよ。で、予め私に連絡をしてくれたら、色々と便宜も図るからさ?」
と言い終えた瞬間、今度は悪戯っぽく笑うので、私と絵里は一度顔を見合わせてから、ほぼ同時に百合子に顔を向けると「はい」と笑顔で返した。
それからは、四人で人形の家の原作について熱く語り合ってお開きとなった。
その日の夜。寝支度を済ませ自室に戻ると、今日百合子から貰ったチケットを手に取り、ベッドにゴロンと寝っ転がり仰向けになると、それを光に透かしてみようとしたりした。しかし実際は、中々に紙に厚みがあったので、透ける事は叶わなかった。
「ふふ」と私は一人笑みを零して眺めていたが、ふとチケットを裏返して、そこに書かれていた備考欄のある一行に目を奪われた。そしてその瞬間、あることを思いつき、早速百合子に聞いてみる事にした。まぁ初めから、寝る前に今日の事について、改めてお礼を言おうと思っていた矢先だったので丁度良かった。
ただ電話というのも気を遣わせると思い、ただメッセージを残し事にした。終えると私はチケットを元に戻し、返信が来る前にいつの間にやら眠りに入っていった。
「へぇー、劇ねぇ」
「えぇ」
次の日の月曜日。私と裕美は週二、三ほどの習慣通りに一緒に地元の駅に向かっていた。駅までの道には銀杏が幾らか植わっていて、黄葉した葉が落ち、それが歩道を埋め尽くさんばかりになっていて、軽く滑りそうになるのに気を付けつつ歩いていた。
「でも初めて聞いたわ。アンタに女優さんの友達がいるなんて」
「いやいや、”私の”と言うよりも、”絵里さん”と私の友達だよ」
と私は少し食い気味に訂正を入れた。
裕美のことを信用していない訳ではないが、ふとしたところから話が伝わって、それで終いには義一と私の話に直結するかもというのを恐れていたのだ。しかし、ただそこは、また絵里には悪いが口裏を合わせて貰うことで話は決まっていた。単純なことだ。『百合子と知り合って友達になれたのは、元々絵里の友達だったからだ』という筋書きだ。まぁ裕美も私と同様に、何度か絵里から学園時代の話を聞いていて、演劇部に所属していた時の先輩、部長だった先輩が、今もどこかで演劇を演っているだろうというのが頭に残っているだろうからだ。実際裕美は、絵里にそんな舞台女優の友達がいる事に対して、凄いと興奮して見せこそすれ、一切の疑いは持っていない様子だった。
とまぁ、そこに関しては何の心配も今の所無かったのだが、ここまで話を聞かれて、根本的な疑問を持つ方もおられる事だろう。それは…『何でそもそも、わざわざそんな七面倒な事になるのを知りながら、こうして裕美に話をしているんだ?』といったものだ。これは当然な疑問だ。まぁそうなのだが、それはこの後の話を聞いて頂ければ、すぐに分かると思う。
「でも劇かぁ」
と裕美はふと進行方向に顔を戻すと、空中にボソッと声を漏らした。「私みたいな、何も知らない人が観に行っても面白いのかなぁ?」
…
そう。ここである種のネタバラシをすると、前日に百合子に聞いた事というのは、この話だった。チケットの備考欄を眺めていて、ある一文が目に付いたと言ったが、それは『この券は、同伴者一名に限り有効』といった事だった。分かり辛い文章だと思ったが、要は本人以外にも、後一人分はこのチケット一枚の効力で観覧できるという意味で、それを確認するために、寝落ちする直前にメッセージを送ったのだった。そして朝になると、深夜二時あたりに返信が来ており、その通りだという内容だった。それで自信を深めた私は、朝会うなり裕美にこの話を振ったのだった。
「興味ない?」
と私が聞くと、裕美は少し慌てた様子で首を数回横に振ってから返した。
「いやいや、興味ないって事は無いよ?…うん。だって、絵里さんだって昔は演劇部に所属して演技してた訳だし、写真とかも見せて貰ったりしていく中で、興味は当然持つようにはなったんだけれど…話を聞いてる限りじゃ、何だか本格的な劇じゃない?それって…観ていて私が理解出来るのかなって」
そう。これがある種、あの一文を見たときに、咄嗟に裕美の事を思い浮かべた原因だった。こんな言い方をするのは悪いかも知れないが、よく絵里の家で私たちが映画談義で知らず知らず盛り上がってしまい、ふと裕美を置いてけぼりにしてしまったかと顔を見ると、裕美は口は挟めないながらも、見るからに興味津々に聞いてくれていた。勿論見方によっては、これは裕美の持つある種の優しさからくる態度だと言えなくもないが、後々で会話の端々で軽く触れてみると、どうやら本心からだというのが分かった。
私と絵里の会話というのは、昔の映画、その昔の映画というのは、そのまた昔の舞台で演られていた往年の名作劇を元にしたり、そのまま映像化したものが多かったりするのだが、その流れで自然とそっちの話にも行ってしまっても、それでも裕美は聞き入ってくれていたので、裕美は映画だけでなく、舞台にも実は興味があるんじゃないか…という考えを前々から持っていたので、繰り返すようだが、もし一人だけ誘っていいと言うのなら、裕美しかいないとすぐに考えが及んだのだった。
「まぁ…そりゃ勿論原作を知っていた方が、より劇に夢中になれるってものだけど」
私は和かに微笑みつつ言った。
「今度絵里さんと観に行く、イプセン原作の人形の家って作品は、今からもう百年以上前に初めて上演された作品だけれど、それでも今も繰り返し上演されてきてるっていうのは、それだけ何も知らない人たちにも、それぞれの時代の現実を生きている人たちに訴えかけるものがあるから、ここまで語り継がれてきた訳だから、…うん、少なくとも私は、裕美も楽しく観れるものと確信してるよ。…あ」
途中から何だか芸談まがいの話をしてしまい、我知らずに熱く語りすぎてしまった。それを証拠に、裕美が私の顔をキョトンとした顔を向けてきていた。私は内心『しまった…引かせてしまったかな?それに…軽く上からになっちゃったし…』と途端に後悔し始めていた。
だがふと「ぷっ」と裕美は急に吹き出したかと思うと、明るい笑みを零しながら言った。
「やっぱり琴音だねぇー…。その物の見方や言い方…本当に私と同じ中学生かって、しょっちゅう疑問に思うよ」
「あ、いや、その…」
と私がドギマギするのを観て、裕美は尚一層愉快げに笑みを浮かべながら、正面に顔を向けつつ言った。
「あはは!いやぁー、だからアンタと一緒にいると全く飽きないんだよねぇ」
とここまで言うと、裕美はふとまた私に顔を向けて、ニコッと目をぎゅっと瞑るような笑みを浮かべて続けた。
「…ふふ、うん、そこまでアンタが言うのなら、私、その劇を観に行こうと思うよ。…いや!観たくなっちゃったから、是非とも行かせてもらうよ」
あまりに語気強く言うので、私は圧倒されながらも苦笑を浮かべて返した。
「ふふ、決まりね」
それからは「劇を観覧する時の格好はどうしたらいい?」などの質問を受けて、「別に無作法じゃなければ良いよ」といった様な会話をしていると、地元の駅前にたどり着いた。
出勤ラッシュというのもあって、学生服ばかりでなく、スーツ姿、またはそれ以外の格好の人でひしめき合っていた。
と、駅構内へと続く階段を二人並んで登り始めたその時、ふと下の方で通りを歩く、見覚えのあるブレザー姿が目に入った。
ヒロだった。ヒロは大きな野球バッグを肩に下げて、周りに人がたくさんいるというのに、大きな口を開けて大欠伸をしつつ、間抜け面を晒していた。
私は一人微笑みつつ、隣にいる裕美に声をかけた。
「…ふふ、裕美、見てみてよ。あそこにマヌケな面をしているヒロがいるよ」
「え?ヒロくん?」
と裕美は気持ち声のトーンを上げつつ後ろを振り向き、階下の通りを見下ろした。私もまた振り返って見たが、ちょうどその時、一人の、これまたヒロと同じブレザーを着た女子生徒がヒロに駆け寄っていた。普通なら中々見分けが難しいのだろうが、それでも彼女は遠目から見ても色々と着崩したりと工夫をしていたので、すぐに誰だか分かった。私たちの文化祭に来てくれた中の一人、千華だった。千華はこの位置からでも分かる程に、朝っぱらからハイテンションにヒロに絡んでいるのが見えた。それを受けるヒロは鬱陶しげに千華からの猛攻を凌いでいた。ヒロの心境は知らないが、パッと見ではとても仲良さげに見えた。側をすれ違う通行人の何人かは、そんな二人の様子をチラチラと見ていた。
「あれ?あれって確か…」
と私は呟きつつふと裕美の顔を見たのだが、少し驚いて、その先を言えなかった。裕美の顔があまりにも静寂に覆われており、無表情という表現が生ぬるい程に冷めていたからだった。
「ひ、裕美…?」
と私が恐る恐る声をかけると、裕美は一瞬ハッとして見せて、それから私に向かって力無く一度微笑むと
「…琴音、行こう?」
と言って、返答を聞かないままにツカツカっと階段を登って行ってしまった。
「え、えぇ…」
と私も、聞こえてるかどうかは度外視して一人呟くと、一度また階下のヒロたちをチラッと見てから、少し早足で裕美の後を追うのだった。
それから一週間後の土曜日。今は夜の六時半ちょっと前。私と絵里、そして裕美は連れ立って、マサさん脚本で百合子が主演を務める”人形の家”を観劇する為に、池袋にある駅近の劇場前に来ていた。劇場の外観は普通のコンクリートの土台の上に、ガラス張りの大きな四角錐が横たわって乗っているような、いかにも芸術関係のモノを催していそうな風体をしていた。劇場前には休日というのもあってか、人で溢れかえっており、大道芸人やら何やらがストリートライブをしていたりと、果たしてこの場にいるどれほどの人間が劇場に用があるのか判別が出来なかった。
私と裕美は学園が四限までの午前授業だったので、その後で軽く紫たちとお喋りなどをしてから地元に帰り、一旦着替えて、それから事前に絵里と約束した駅前の時計台の下に向かった。
絵里は絵里で今日も仕事があったらしいが、劇開演が夜、司書という公務員である事もあって、普段通り五時に仕事を終え、後片付けなどなどをしても、そこそこの余裕を持って落ち合う事が出来た。
格好は三人とも、どこか軽く遊びに行く程度のお洒落をしていた。お互いの服装を軽く褒め合ってから電車に乗り込むのだった。
車中では、今日観劇する原作の話や、そして百合子の話をした。原作の本は、あれから私が裕美に貸してあげていた。本自体を見る前から裕美は身構えていたが、私が「せいぜい文庫本サイズで百七十ページくらいだから大丈夫よ」と励ますと、裕美が「あんたは本の虫だから”その程度”なんだろうけど、私には多いわ」と苦笑を漏らしつつ言うのが印象的だった。だが、貸してあげたその次の日の朝、裕美が私に本を返してきた。私は初め、読み始めてすぐに飽きちゃったのか、もう読む気がしないのかとちょっとガッカリしたのだが、その心配は外れた。裕美は興奮した様子で、学園に着くまでの間、ずっと内容について、そして感想を延々と述べてきたのだ。
裕美が言うのには、初めは寝る前に軽く目を通してみるかと、そんな軽い気持ちで読み始めたらしいが、すぐに中身に没入して、気づけば最後まで読みきってしまったらしい。これは本人が言ってた事だから良いと思うが、ただあまり普段から本を読み慣れていなかったから、読破するのに時間がかかり、読み終えた頃には日付が変わっていたと、意地悪げに笑いながら言っていた。
なので、私と絵里の会話にも、裕美は付いて来るどころか、自分なりの確固たる感想を持っていたので、妙な言い方だが互角に渡り合ってきたのだった。私個人の感想としては、このような会話を裕美と出来るとは露ほども想像したことすら無かったので、この日までの会話、そして絵里を交えての会話を歓びをもって楽しんでいた。
会話にひと段落がつくと、今度は百合子の話。初めて百合子のことを出した時、早速裕美は手元のスマホを使ってネットで検索をかけていた。結論を言うと、流石私と違って、人並みに芸能人を知っている裕美とあって百合子を知っていた。とはいっても、もっと具体的に言うと、どこかで見たことがる程度の認識では合ったが。
でも裕美から見ても、憂いを秘めた薄幸美人という、私と同じ感想を覚えたらしいので、それはそれで自分の事のように嬉しかった。
そんなこんなの話をしながら乗り換えをしつつ池袋に着き、今に至る。
早速施設内に入ると、四角錐の横たわったようなガラス張りの部分の内部が頭上に広がっていた。建物自体は吹き抜け構造になっていて、外観からは想像出来ないほどに広々として見えた。この施設内には劇場がいくつかあるらしく、千人単位で収容出来る、オーケストラのコンサートなどが催される大ホールから、二、三百人クラスを収容出来る、一般に劇をする専用の小ホールがいくつかあった。当然私たちが向かうのは、チケットにも書いてあった通り、小ホールの方だ。
地図やパンフレットを確認しつつ、地下にあるという小ホールへと向かった。まぁ尤も、一々地図などの案内を確認するほどでは無かったかもしれない。何故なら、施設内に入ると人々の流れが出来ていて、それらが一斉に地下の方へと向かっていたからだった。今の時間帯からの上演する劇は百合子たちのだけらしい。
入り口付近でチケットを見せ、売店でゆかりのものを買ったりしてると、あっという間に開演の時間が目前に迫っていた。
中に入ると、黒を基調とした場内で、天井からは幾数ものライトが天井からぶら下がっており、両脇の壁の上部半分にもライトがたくさん取り付けられていた。しかし後は何も無く、若干傾斜のついた床に椅子が取り付けられていて、幕の引かれた舞台がデンと正面にあるのみだった。
番号を確認して自分たちの席に座ってからほんの数分後に、開園を知らせるブザーが鳴った。そして鳴り終わると、徐々に客席側の明かりが弱められていき、終いには真っ暗に落とされた。それと同時に幕が上がるのだった。
…
…っと、ここで都合上、一度話を区切るのを許してほしい。というのも、この劇についてまで細かく話せるほどの余裕が無いのだ。まぁもしかしたら、何処かでこの劇の中身を描写する場が出来るかもしれないので、もし興味を持っておられる方がいれば、それまで楽しみにしていて頂きたい。
…コホン。なのでここでは私個人の勝手な感想などを述べるに止めておきたいと思う。結論から言えば…本当に面白かった。これは私と繋がりのある、知り合いであって友達でもある人々の作り上げた劇だからという色眼鏡なしでも、素直に言える自信がある。
原作通り、全部で三幕あった。その合間合間で二十分ほどの休憩が取られる形式だった。原作通り、借金がバレたらどうするんだろうと、若干サスペンスぶくみに話が進んでいくので、元を知ってる私でも思わず知らず劇にのめり込んでいた。
と、同時に、マサさんが今回人形の家を書くに当たって、新たに試みた形跡も発見出来て、それがまた面白かった。
主人公ノーラの幼馴染の友人で”リンデ夫人”という女性がいるのだが、原作でも、今回の劇中でも、脇役ながら物語の重要な部分を占めていた。劇は最初、一人の語り部が出て来て、ノーラと夫のヘルメルの生活について描写し語っていたのだが、途中からその人の背後の舞台に照明が徐々に点けられていくと、そこには既にノーラとヘルメルがいて、まるで語り部に合わせるかの様に、日常生活が演じられていた。
そしてあらかた語り終えると、静かに語り部が傍に下がり、不意に十年ぶりにリンデ夫人がノーラの家に訪れるところから本格的な劇が始まったのだが、今はまず内容については軽く言うのに止めよう。わざわざこう前置きを置いた意味はのちにわかって頂けると思う。
さて、結論から言うと、今回の劇では明らかに原作よりも、このリンデ夫人の役割が大きくなっていた。原作でも、そもそもノーラが借金が夫にバレるんじゃないかとビクつく様になるキッカケとなるのは、このリンデ夫人が、秘密をバラすと脅してくる”クログスタット”という男が夫の元での仕事をクビになる代わりに入るからとも言える。それくらいには原作からして重要人物なのだが、そもそもなんでリンデ夫人が仕事をもらう事になったかと言うと、”夫人”という役名ではあるのだが、実は夫に先立たれた未亡人で、友人を頼って幼馴染のノーラの元に寄って、『寂しさを紛らすことが出来るような、そんな仕事を探している』と漏らした古い友人の力になりたいと思ったノーラが、銀行の頭取になったばかりの夫に、事務として雇ってくれないかと頼んだ事によって、思わず知らずに仕事が手に入ったという次第だった。
ある種未亡人という、自分から進んででは無いにしろ生きていくには自立しなくてはいけないという、後々のノーラに何かしらの示唆を与える様な役でもあるわけだが、このリンデ夫人、彼女自身は必ずしも所謂括弧付きの女性の自立というのに対して好意的では無かった。今回のマサさんの脚本にもそれはあり、セリフをリンデ役の女性が話していたが、それはこういうものだった。
夫が亡くなってから、しばらくして自分の母も死んで、弟たちも自立して仕事に出て独り身になり身軽になったという、その経緯を聞いた後で『今はホッとしたわね?』とノーラが声をかけると、リンデはこう返す。『いえノーラ、なんとも言えない虚しい気持ちよ。生きていく目的がないんですもの』と。
あともう一つ、こんなセリフもあった。ノーラの家庭生活の円満ぶりを聞かされたリンデがふと強く当たってしまった後で、すぐに反省して謝りつつ言ったのは、『誰かのために働く事も出来ないのに、しょっちゅう、あくせくしていなくちゃいけない。生きなくちゃいけないのだから。だから自然と利己的になってくるのよ』というセリフだった。
これらだけを聞いても、必ずしも、少なくともリンデに関しては、自分が今生きるために仕事を探そうとしている状況を”良し”と思っていない事は分かるだろう。本当は嫌だけど、生きていくために仕方なく社会に出て行かなくてはいけない。
そんな自分を不幸だと思っている。だからこそ、家庭にいる主婦として、銀行の頭取の妻として幸せに生きているノーラに対して当たってしまったのだ。
ここでようやく、マサさんがこのリンデにどう重きを置いたのか、そしてどう”マサ調”に仕上げたのかを話せる段階に来た。それは…一口に言えば、原作ではリンデは、ノーラが家庭を出ていくのに何も言わなかったが、今作の劇では必死に考え直す様に引き止めてる点だった。結局は原作通りにノーラは出て行くのだが、そのリンデの行為が別に原作の雰囲気を壊す事なく、むしろ現代の社会風刺も織り交ぜて説得に掛かっていたりと、聞いてる観客側にも問題提起を突きつけていて、そこがまた劇中で一番の盛り上がりを見せており、劇全体を引き締める役割をも担っていた。そこからは、『何故今の時代にこの”人形の家”という劇を上演しなくてはいけないのか?少なくとも我々が何故演じなくてはいけないのか?』というメッセージが伝わってくるかのようで、聞き手の胸に大きな針の様なものを刺してくるような、そしてそれが余韻としていつまでも残るような劇に仕上がっていた。勿論というか、このリンデ役の女優の長回しのセリフを聞いた時、すぐに”オーソドックス”に掲載されていたあの対談が元になっている事を発見したのは言うまでもない。
原作が元から良いというのもあるが、それを現代調に、原作や原作者の意図を壊さないで踏襲しつつ、自分の色を織り込んでも、私みたいな原作ファンをも魅了させるような脚本を書いたマサさんの功績、そして勿論、主人公のノーラを演じる百合子の演技力も素晴らしかった。
当然初めて百合子の演技を目の当たりにしたのだが、また妙な言い方で恐縮だけど…そこにいたのは、紛れもなく本当に”ノーラ”だった。そうとしか言いようがない。”演じてる”風を観客に与えないのだ。なんの疑問もなく”ノーラ”だと納得させられてしまっていた。
こういう演技法は、見方によっては色んな批評が成り立つのは承知の上で、私個人の好みで言えば、百合子のように役をまるで自身に”憑依”させて演じるようなのは、観ていて不気味さと相まって鳥肌が立つし、その様なものが観ていて心を動かされる。前に数寄屋でマサさんが百合子を褒めちぎっていたが、なんだかよく分かる気がした。
試しに一つだけ具体例を挙げると、これは私個人の見解だという言い訳を初めに置かせて貰ってから言うと、勿論何度も繰り返したように、私はこのイプセンの人形の家が大好きなのだが、それでもやはり原作にはツッコミを入れたくなる点が少なからずあった。その大きな一つというのは、一幕、二幕のノーラと、三幕のノーラがあまりにも性格が違いすぎて、言い方が悪いが突然気が狂った様にも見えてしまうのだ。それを百合子は、一、二幕においての無邪気さと、三幕の狂気、無邪気と狂気の間を上手いこと調和させてノーラを演じている様に、少なくとも私は思えた。今こうして簡単に言ったが、言うほど簡単な事ではないだろう。おそらくここは、脚本のマサさん、演出家の方と何度も膝を突き合わせて議論を交わし、試行錯誤を繰り返して作り上げたものだろう。その背後の苦労を思うと、ただただ感嘆する他に無かった。
とここでもう一つ、どうしても取り上げたい大きく印象に残った事を挙げようと思う。それは、ある一人の役者さんの事だった。百合子の演じるノーラの、幼馴染で仲良しの友達、今作でノーラと並ぶ重要な役柄である”リンデ夫人”を演じる女性だ。この女優さんの見た目は、一重ではあったけど横に綺麗に品良く切れていて、鼻筋もシュッとしていたから、例えるなら美人さんな日本人形って見た目だった。百合子と身長は同じくらいだった。彼女が舞台に出てきた時、ふとどこかで見かけた様な気にさせられた。しかしこの時点では、ただの他人の空似程度にしか思わなかった。
と、それはさておき続きを言えば、先ほど触れたリンデがノーラを説得する長回しのセリフを、変に感情っぽく演じるのでも無ければ、妙にリアリティーを持って淡々と演じるのでもなく、これまた百合子の様にその間の微妙な所をバランスよく演じていたのに、これまた驚かされた。百合子と同様に、なんら疑問を聞き手に持たせない程に”リンデ”そのものだった。
とまぁ、この女優さんの演技が百合子に引けを取らない程にとても素晴らしく、だから印象に残ったというのもあったが、実はもっと単純な理由があと一つあった。
それというのも劇の初めの頃、百合子とこの女優さんの会話で始まった訳だったが、「…あれ?」と不意に隣で声を漏らす人がいた。その人は絵里だった。私は顔を舞台に向けたまま、軽く視線を絵里に向けたが、絵里は正面に釘付けになり、横からも分かる程に目を見開き、そしてまたボソッと呟くのだった。
「いや…まさか、そんな…そんな偶然って…」
劇が終わり、舞台側と客席側が同様に照明が点けられた後、舞台上に出演者全員が出てきて、 拍手が湧き上がる中深々とお辞儀をしていた。中央には百合子と、リンデ役の女優さんが並んで立っており、上体を戻すと二人は顔を見合わせて明るく笑顔を交わしお喋りをしていた。
出演者がはけた後、客席でも人々がゾロゾロと席を立ち会場を出て行きだしていたが、私たち三人はそのまま席に座ったままでいた。実はこの後、百合子に「良かったら楽屋に来ないか」と事前に誘われていたのだ。
私たちは余韻を楽しむ様に、特にこれといって示し合わせたわけでは無かったが、口数少なめに軽く感想を言い合いつつ、空になってただ照明の炊かれた舞台の方をジッと眺めていた。
しばらくすると、黒無地の半袖Tシャツ姿の女性が椅子の間を縫ってこちらまで来た。胸には”スタッフ”と書かれた名札を下げている。女性は何やら一枚のメモを取り出し何か一度確認した後で、話しかけてきた。
「あのー…琴音さんと絵里さん…で、いらっしゃいますか?」
「はい、そうですが…?」
と絵里が答えると、女性は一度ニコッと笑ってから言った。
「あぁ、良かったです。では早速、小林さんがお待ちですので、よろしければこのまま私の後に付いて来て頂けますか?」
女性に誘われるままに、私たち三人は自分の荷物を纏めてから立ち上がると付いて歩いて行った。
いくつか”関係者以外立ち入り禁止”が書かれている、見るからに重たそうな扉をいくつか通過すると、急に壁と天井がコンクリート打ちっ放しの空間に出た。廊下の様だ。どうやら今まで観劇していた舞台の真裏らしい。ドアなしの部屋がいくつかあり、廊下自体も明かりは点いていたのだが淡かったので、そのうちの一室から光が廊下まで差し込んできているのが見えた。
この空間に通された瞬間から、その一室から明るい笑い声が届いていた。
「どうぞこちらへ」
私たち三人が足を止めて周囲をキョロキョロと見渡しているのを微笑ましげに見つつ、女性が明かりの漏れる一室の前に立って、部屋の中へ向けて手を差し伸べつつ言った。
「は、はい…」
私個人は…と留保を入れさせて貰うが、何だか妙に緊張しつつ答えて女性の元に近寄った。
部屋の脇を見ると、そこには”楽屋3”と書かれたB3サイズのパネルが貼られていた。
と、またそれをしげしげと興味深げに眺めていると、「あ、来た来た」と声をかけられた。このべらんめぇ口調、どこかで聞いた、久し振りな声だ。
「…何でそんな所に突っ立ってんだよ?」
「ふふ、久しぶりマサさん」
私は部屋に足を踏み入れながら、笑みを浮かべつつ、マサの方を見ながら言った。
「おう、久しぶり」
マサも如何にも不器用な人間にありがちな、照れ笑いとも何とも言えない笑顔を浮かべつつ返してきた。
マサは最後に数寄屋で会った時と同じ格好をしていた。胸元のボタンを幾つかだらしなく開けた、真っ黒なシャツを着ていた。下はジーンズだ。
「で、えぇっと…アンタは?」
とマサに声をかけられた絵里は、見るからに緊張した面持ちで、一度軽く頭を下げてから返事した。
まぁ緊張するのは分かる。前回絵里と数寄屋に行った時の会話の中で、百合子に初めて会ってファンだからと興奮していたが、ついでにマサの名前が出た時にも、同様に興奮していたのを近くで見ていたからだ。
「あ、はい、わ、私はそのー…ここにいる琴音ちゃんの友達してます、山瀬絵里って言います」
「山瀬絵里…あぁ、アンタが」
とマサは目をギョロッとさせると、如何にも興味津々といった風を見せつつ、絵里の姿を一度上から下まで眺めてから言った。
「いやぁー、百合子から聞いてるよ。中々に面白いお嬢ちゃんだってな」
「あ、いや、そんな…」
とまだ恐縮しっぱなしの絵里をよそに、マサは劇が終わった後の興奮が冷めやらないといった調子で、一方的に話しかけ続けた。
「前にそういや一度、あの店に来てくれたらしいな?すまないねぇ…あん時は丁度、今回の劇の脚本が煮詰まってきていた時だったからよ、あそこに顔を出せなかったんだ」
とかそんな調子の内容だ。
それらに対しても一々絵里は首を縦に横に振りつつ応じていたが、百合子から聞いたという話の内容をあらかた話した後で、ここで不意に悪戯っぽい笑みを浮かべると、「あ、あとなぁ…」とニヤケつつ続けた。
「そもそも今回百合子に聞く前によ、奴から何度か事前に聞いてはいたんだよ。どんな人間かはね」
「奴…ですか?」
”奴”…それしか聞いていないのに、絵里は見るからに表情を曇らせていった。それを知ってかしらずか、いやマサのことだ、すっかり察していただろうけど、そのまま話を愉快げに続けた。
「そう、そいつは勿論…義一のヤロウの事だよ」
「やっぱり…」
ここにきてようやく緊張の糸が解けてきたのか、絵里は大げさにため息をついて見せつつ声を漏らした。
そんな絵里の様子を見たマサは「あははは!」と豪快に笑うと、また意地悪げに笑いつつ言った。
「アンタら二人は、お互いの事に触れられると、全く同じ様な反応をするんだな。似た者同士ってところか」
「似てません」
と絵里が間を空けることなく力強く苦笑まじりに返すと、マサはニヤニヤと笑うのみだった。その様子を私と、まだ一言も発していない裕美は顔を合わせてクスクスと笑い合っていたのだが、ふとここにきてマサが裕美に視線を向けて「そこで隠れているお嬢ちゃんは、誰かな?」と聞くので、裕美は一瞬ビクッとして、それから私の顔をチラチラと覗き込んできたので、私が率先して答えることにした。この時の私の感想としては、『まぁ…元気ハツラツな裕美といえども、マサさんの見た目や口調に圧を感じるがあまりに、固くなっちゃうんだろうなぁ…私みたいに』といったものだった。
「あぁ、この子はね?私の小学生時代からの友達で、今も同じ学園に通っているの。…ね?」
と私が最後に微笑みつつ振ると、「う、うん」と少しばかり元気になった裕美はマサの方に顔を向けると、絵里と同様に一度頭を下げてから「高遠裕美です」と自己紹介をした。
それを受けたマサも、本人なりの微笑なのだろう、「おう、ヨロシクな」と答えたその時、この部屋にいる数人のうちの男性一人が苦笑いを浮かべつつマサに声をかけた。
「石橋さーん…自分からは自己紹介しないんすか?」
それを聞いたマサは「うっせぇなぁ…」とその男性を軽く睨みつつボヤいた。
「分かってんだよ…」
とマサは呟くと、また私たちの方に顔を向けて、面倒臭いという新おじゅを一切隠そうとしない表情のまま、しかし若干笑みを浮かべつつ言った。
「あー…俺の名は石橋正良ってんだ。今回のも含めて、まぁ脚本家って肩書きを名乗っている。そのー…まぁ、ヨロシクな」
「しっかし絵里さんよぉー…って、絵里さんで呼び方いいか?なんせ前々から義一から”絵里が、絵里が”って聞かされていたんだが、最近では百合子までが”絵里さん、絵里さん”…いや、ついこないだからは”絵里ちゃん、絵里ちゃん”って言うもんだからよ?」
「ふふ、”あの野郎”の話はともかく、百合子さんにそう言って貰えてるというのは光栄です。そのー…石橋さんにもそう気軽に呼んで頂けたら、私としても嬉しいです」
「そうかい?なら良かった。だったら俺のことも、そこにいる琴音みたいに”マサさん”って呼んでくれよ。何だか義一に所縁のある奴から”石橋さん”って呼ばれると、何だか首筋あたりがむず痒くなるんだ」
マサはそう言いながら実際に自分の首筋を軽く掻いて見せた。それを見た絵里は「ふふ、善処します」と微笑みつつ返していた。
それに対してニコッと笑ったのみだったが、ふと何かを思い出したような表情を浮かべると、また絵里に話しかけた。
「そういや…どうせだったら義一の野郎と一緒に来ればよかったのに。アイツと後…そうそう、武史の野郎は二人で揃って千秋楽に行くなんてほざいていたけれど」
…そう。と、せっかくマサが図らずも義一の観劇について話を出してくれたので、これに便乗して事の話しに触れたいと思う。少しでも気になっていた方もおられるかも知れないからだ。…いや、いないかな?
まぁそれはともかく説明しよう。勿論というか最初の最初は一緒に観に行く様な話は出ていた。それは裕美が一緒に来る事に決まった時でもだ。
…もう去年の話になるか、そう、絵里のマンションから花火を見た時、その時に裕美と義一は顔を合わせていたのだった。それにあの花火の後、我ながら空気が読めないと思い出すだけで苦笑もんなのだが、人通りの全くない薄暗がりの裏道で、義一と私の事について、『今は訳を聞かないで、誰にも話さないで』と懇願に近い心境で頼んだのを、中には覚えておられる方もいると思う。それに対して、裕美は約束通りそれ以上詮索する事なく聞き入れてくれて、それは今も続けてくれていた。勿論”恥ずい”し、他の理由もあって口には絶対に出してあげないが、数多くある裕美に対して感謝している事の中でも最上級の事だった。
話を戻すと、それ故私は何の疑いもなく裕美という人間を信用しているので、だから別に義一と同行してもいいと思っていたのだが、結局単純に予定が合わなくて、そのまま今日のような形になったという訳だった。
絵里とマサの二人がそんな会話をしている中、私と裕美はその会話に聞き耳を傾けつつ、楽屋の中をジロジロと見渡していた。入ってきた時は、マサとの挨拶や会話に気を取られて周囲をロクに見ていなかったが、今こうして冷静に見渡すと、先ほど私たちを案内してくれた女性を含めて、同じような服装、そして同じ”スタッフ”と書かれた名札を首に下げて、何やら片付けたり準備をしたりしていた。その手際の良さに目を奪われていたが、ふと今更な疑問が湧いてきたので、まだ”義一話”に夢中になっていた二人に割り込んだ。
「ところでマサさん?」
「ん?何だよ?」
「あのさぁ…」
と私は一度大げさに楽屋内を見渡してから続けた。
「そのー…百合子さんはどこ?それに…他の出演者の方々の姿も見えないけれど」
「ん?…あ、あぁ、アイツらの事か。アイツらなら今頃舞台上でメディア関係から取材を受けてるんじゃないか?」
「え?でも私たちが劇場内にいた時は誰もいなかったよ?」
「ん?なら…きっとすれ違いになったんだろ。そもそも、客の前ではその手の取材は受けないし、しないしな」
「ふーん…」
と私は納得しかけたが、明らかな矛盾が目の前にあったので、それにすかさず突っ込んだ。
「何で劇の取材というのに、その脚本を書いた張本人であるマサさんが、呑気にこうして楽屋にいるの?」
「呑気ってお前なぁ…」
そうボヤくマサの顔には笑みが溢れていた。
と、ここで「ふふ」と先ほどマサに自己紹介を促していた男性がクスッと笑うと、「お前はいいんだよ」と語気は強めだったが、どこかした思い遣りの感じる口調で言った後、呆れ笑いを浮かべつつ答えた。
「お前とは久し振りに会うが、何だかあの野郎に似てきやがるなぁ…まぁ初対面からそう感じたが。で、何だっけ……ってそうそう、まぁ本来は俺も行かなきゃいけないんだろうけれどもよぉ…」
とここまで言うと、マサは途端に今度は照れ臭そうにハニカミつつ続けた。
「何つーか…面倒じゃねぇか」
「…へ?面倒?」
それまで黙っていた絵里と裕美までもが、揃って声を漏らした。口にしないだけで、私と同じ疑問は持っていたようだ。
「そうなんですよ」
とここでまた不意に、先ほどの男性が苦笑まじりに口を挟んだ。
「先生ったら、自分の作品だっていうのに、中々取材を受けないんですから…」
「あっバカ!」
とマサは驚きのあまりに声を大きく上げた。その様子を見て、その男性も慌てて両手で口元を覆いつつ、視線を私たちに向けてきたが、何やら開き直った様子を見せると、ジト目を向けてくるマサを他所に話を続けた。
「今日だって、舞台監督さんと演出家さんに全部押し付けて、自分はのうのうと楽屋で休んでいるんですから」
「お前なぁ…」
とマサは、話し終えた男性のもとに寄ると、ため息交じりに声をかけた。
「もうお前ここはいいから、そろそろ奴らが戻ってくる頃だろうし、迎えに行ってやれ」
「はーい」
と男性は特段悪びれる様子もなく、仰せのままに楽屋を軽い足取りで出て行った。
「ったく…あんの馬鹿野郎は」
と男性の背中に毒づくように呟いていたが、当然のように今のやり取りの中で気になった…いや、正直さっきから気になっていた別の事も含めて聞いてみることにした。
「…え?マサさん、先生って呼ばれているの?っていうか…あの男性は何者なの?」
「…ほらなぁ」
とマサは途端に呆れ笑いを浮かべつつボヤくように言った。
「だから”なんでちゃん”の前では知られたくなかったんだよ」
「…ふふ、”なんでちゃん”か」
とここで瞬時に絵里が反応を示した。顔はニヤケ面だ。ついでに隣の裕美も同じ笑顔だった。
「琴音、アンタ…私たち以外の所でもそう言われてるの?」
とまず裕美が私に声をかけてきた。
「あ、いや、ちが…」と私が瞬時に訂正を入れようとしたその時、”何故だか”マサが裕美の発言に食いついた。
「なーんだ、こいつが”なんでちゃん”って呼ばれてるのは本当だったんだな」
「えぇ、本当ですよー。それこそ小学校から今に至るまでずっと変わらずです」
と、先ほどまでの萎縮した様子は何処へやら、裕美は笑顔で意気揚々と答えていた。
そんな”一人”を除いて和気藹々とした空気が醸成されてきていたが、何だか照れ臭いのを含めて無理やりに話を軌道修正にかかった。
「…もーう、みんなそれは今いいから!ほらマサさん、私の質問に答えてよ」
「あはは、分かった、分かった、そう焦るなよー」
と相変わらずニヤニヤしながら返してきたが、いざ話す段階になると、何だかバツが悪そうに話し出した。
「あんの野郎…後でみっちり文句を言ってやらにゃあ…あ、あぁ、そうだな。んー…まずそうだな、今この場にいる奴らが何者かを紹介するか」
マサはそう言うと、ぐるっと楽屋を見渡した。その瞬間、その場にいた全員が手を止めると、マサの一挙一動に注目した。
「こいつらはな…俺の事務所のスタッフなんだ」
「こんにちわー」
とマサの発言を合図にして、一斉に皆してこちらに挨拶をしてきた。そのチームワークの良さを見せつけられた私たちも思わず「こ、こんにちわ」と返すのだった。
それを見届けた後、またマサは話を続けた。視界の隅には、また作業に没頭するスタッフの姿が見えた。
「でな、今出て行ったアイツもスタッフの一人なんだが…まぁスバっと言うとな、そのー…」
とマサは如何にも言いにくそうにしていたが、そのまま調子を崩さずに、若干私たちから視線を逸らし気味に続けた。
「まぁ…脚本において、アイツの、そのー…師匠になる…んだよ」
「…へ?師匠?」
思わぬ単語が出てきたので、咄嗟に返した。声にはしなかったが、おそらく他の二人も驚いていただろう。
「あくまで形式的にだがな」
もう開き直ったのか、普段通りの苦虫を潰したような表情を浮かべつつ続けた。
「まぁ昔は脚本家にも師弟関係ってのがあってな、事実俺にも師匠はいたんだが、今はもう良くも悪くもそんな時代じゃないからよ、俺の代では無いと思ってたんだが…そこにあの馬鹿が転がり込んで来てな。初対面の時にアレコレと、いきなり俺の過去の作品をツラツラと並べ立てやがってな、それで感動したってんで、ぜひ弟子にしてくれってほざきやがったんだ」
「へえ」
と私は思わず楽屋の出口の方に視線を向けつつ呟いた。
「面倒だから断るつもりでな…」
マサは続けた。
「試しに一度何か書いてこいって言って、持って来させたんだが…タチが悪いことに、それがそこそこに面白くてな?まぁ今時あんなバカも珍しいし、そばに置いとくのもいいかと思って、普段はアイツが書いている”本”を添削して見たり、それ以外は修行らしく、こうしてたまに事務所のスタッフに混ざって雑務をやらせたりしてるんだよ」
「なるほどねぇ…それで先生か」
と一度笑みを見せつつそう呟くと、マサに戻した顔を無意識的にまた楽屋の外に向けたその時、丁度マサの言う”アイツ”が明るい表情を見せつつ戻ってきて言い放った。
「せんせーい!皆さんが戻って来られました!」
「馬鹿野郎、先生は外ではナシだと言ってるだろうが…」
とボヤくマサを尻目に、唯一だという弟子はニヤニヤしながら元の自分の持ち場に戻って行った。
その直後、ガヤガヤと廊下がざわついたかと思うと、ゾロゾロと人々が楽屋に入ってきた。
その気配に思わず振り返ると、「あ、琴音ちゃん」と声を掛けられた。見ると百合子だった。
百合子は舞台を捌ける時にも一緒に話していた、”リンデ夫人”役の女優さんを一度待たせてから、真っ先に私たちの元へ一直線に歩み寄って来た。
「よく来てくれたわねー。それに絵里ちゃんも!」
「は、はい…」
まだ舞台後の興奮が冷めないといった所か、百合子がいつに無くテンション高めに握手を求めたりしてきたので、私と絵里はその勢いも含めて圧倒されながらも、笑顔で応じた。
握手を交わし終えると、ふと私の隣にいた裕美を見て、ほんの一瞬キョトンとして見せていたが、すぐにまた明るく笑いながら、まず私に話しかけてきた。
「…あっ、この子ね?こないだ一緒に見に来てくれるって言ってた友達っていうのは?」
「う、うん、そうだよ」
と応じながら裕美に顔を向けると、裕美の方でも一度コクっと頷き、それから百合子の方を向くと、マサにしたように一度お辞儀をしてから自己紹介をした。
それを受けた百合子は、また明るく笑顔を浮かべながら裕美とも握手を交わした。
「で、早速だけれど…」
とここで急に普段通りの静かな笑みを見せたかと思うと、次の瞬間には、何だか企んでいるかの様な意地悪げな笑みを見せつつ話しかけてきた。
「…どうだった?私たちの劇は?」
「え?えぇっと…」
そう聞かれたのは私たち三人全員に対してだと思うのだが、裕美と絵里はそう声を漏らしつつ、二人して私の顔を覗き込んできた。
気づけば、マサを含めた事務所のスタッフ一同、それに今入ってきた役者の皆皆、後何となくだが、マサと年恰好が似ているという理由だけで推測するに、舞台監督と演出の人もこちらに注目してきてるのが、肌感覚で何となく分かった。まぁ当事者としては、良くも悪くも私たち三人が気になるのは仕方ないだろう。何せ今この場で部外者なのは、私たちのみなのだから。ここで今更ながら、マサとあれだけ会話をしたというのに、今だに感想を述べていないのに気づいた。
それはともかく、私はそんな二人の様子に、やれやれと心の中でため息をつきつつ口を開いた。
「そうねぇ…まぁこんな事を、軽々しく言うのは気がひけるんだけれど…」
と私は、私なりに気を使っていると言うのを、その口ぶりで何とか周りに察して貰える様にというセコイ考えの元、一度ここで一同を見渡して、それからまた好奇心に満ちた笑みを浮かべている百合子に顔を戻して続けた。
「…うん、とっても面白かったよ」
そう言うと、百合子は一瞬目を大きく見開いて見せたが、次の瞬間には目を細める様に微笑みつつ「…ふふ、ありがとう」と返すのだった。
それに対して私からも微笑み返したその時、突然この場にいた一同がドッと一斉に笑い声を上げた。
私のいる位置からは、百合子の背後に全員の姿が見えていたのだが、その全員が明るく笑っているのだった。
突然のことで、私は急に笑われたのに対して不快に思う前に驚いてしまい、裕美や絵里に取り敢えず視線を流すと、二人もキョトン顔でこっちを見てきていた。
「ちょっと、みんなー?」
と百合子は後ろを振り向き皆に向かって声を掛けた。
「急に何でそんなに笑うのよ?」
「だってぇ」
と百合子に近づいて来つつ言う女性がいた。”リンデ夫人”だった。顔にはこれ以上ないってほどの笑みを零している。
彼女は私に一度一瞥を投げた後、ニコッと目を細めて見せてから百合子に向かって言った。
「マサさんや、それに百合子さんから聞いてた通りの子なんだもの。…ふふ、特にマサさんからね、『今日百合子が招待した客の中に、琴音っていうガキがいるんだけれどな、そいつはまだ小娘だというのに、パァパァ生意気に好き勝手な事を臆面もなく言ってくるからな?気を付けてかかれよ?ボロクソに言われるかも知れねぇからな』だなんて言うもんだからさ」
と女性は途中から、これまたマサの特徴をよく捉えたモノマネをしつつ言った後で、ふと本人の方を向くと、当人は「余計な事を言うなよ」となぜか照れ臭そうに笑いつつボヤいていた。
「ちょっとマサさーん?」
と急に場の雰囲気が変わったのにも慣れてきた私は、マサの言う通りに合わせて(?)生意気な調子でそう態度を示すと、また一同が和かに明るく笑うのだった。
「あはは!ま、でもさ」
と女性は一歩私の前に歩み出ると、一度私の顔をジッと覗き込み、その後にはニコッと笑いながら言った。
「楽しんで貰えたようで良かったよ。ありがとね!」
「あ、いや、こちらこそ、そのー…ありがとうございました?」
と、百合子の時も正直そうだったのだが、これが生意気と言われる所以なのか、そんなお礼を言われる筋合いは無いと瞬時に思ってしまったので、どうそれに返したらいいのか迷ってしまい、こうして結果的に辿々しく、語尾が疑問調になってしまった。
そんな私の心境を知ってか知らずか、女性はまたニコッと笑うと、今度は裕美にも感想を聞いていた。
裕美は私と同じようにまだ動揺していたが、それでもチラッと私の方を見てきつつも笑顔で「はい、私も面白かった…です」と返していた。
「そっか!それは良かったよー」
と気づいたら、初めは百合子に感想を聞かれていたはずだったのに、いつの間にか”リンデ夫人”に変わってしまっていた。
裕美が聞かれている間、チラッと百合子の方を見ると、百合子はいかにも困り顔な笑みを見せつつ、その様子を眺めて見ていた。
「…で?」
と女性は不意に絵里の方を向くと、一度全身を眺め回し、それから急に悪戯っぽい笑みを浮かべたかと思うと口を開いた。
「…絵里は?絵里は今日の劇、どうだった?」
「…え?」
この女性の言葉には、私と裕美はもちろん、百合子、それにこの場にいる中の数人が同様な声を漏らした。まさかの言葉だったからだ。というのも、女性がまだお互いに自己紹介をしてもいないというのにも関わらず、絵里のことを名指しで話しかけたからだった。
まぁでも字ズラだけ見ると、そこまで不思議では無いのかも知れない。何せ、ついさっき百合子が私たちを見た時に、名前を呼んでいたからだ。だからこれだけだと、まぁそれでも急に馴れ馴れしく声を掛けるのはオカシイのだが、それでもまぁ無くはないと思える範囲だ。だが、それでもなお引っ掛かったのは、この女性が絵里に言った声のトーンが、とても感情が込められている様に、他者である私達にすら感じさせたのだった。
それを証拠に、思わず私は絵里の顔を見たのだが、絵里は何の動揺も浮かべることなく、ただ静かな表情を浮かべていた。
だが、フッと一度短く息を吐いたかと思うと、静かに微笑みを浮かべつつ口を開いた。
「…ふふ、やっぱり有希先輩だったんですね」
「え?」
と私と裕美がまた顔を見合わせてると、それを他所に女性は懐かしむように目を細めつつ「ふふ、『やっぱり』って…」と笑みをこぼした。
「それは私のセリフだよ。”絵里”って百合子さんが言うのを聞いた時にさ、懐かしい名前を聞いたから思わず見たら…ふふ、あれからもう十五年以上も経つというのに、あなたは何も変わってないのね」
「…ふふ、その言葉は、そっくりそのままお返しします」
そう言う絵里の顔には、これまでに見た事のあるのとはまた違った種類の微笑を浮かべていた。
「あのー…絵里さん?」
そんな和かな雰囲気の中、”あえて”空気を読まずに私は”有希”と呼ばれた女性に視線を向けつつ絵里に話しかけた。
「この女性って…」
「ん?あ、あぁ、この人はね…」
と絵里が答えようとしたその時、女性は急に明るい調子に戻って割って入ってきて言い放った。
「あ、そうそう!まだ自己紹介がまだだったわね?…コホン、私は今回”人形の家”で”リンデ夫人”を演じた、澤村有希って言います!それと…そこにいる絵里の、中高時代の一年先輩で、同じ演劇部に所属していたの。まぁ何と言うか…よろしくね?」
…やっぱり。どこかで見た事があると思ったら、それは絵里から何度か見せて貰っていた昔の写真の中で、よく絵里と写っていた女の子その人だったんだ。
思わぬところでの再会を祝い合っている二人の様子を眺めつつ、時折裕美と見合わせながら一人合点がいくのだった。
「すぐに分かった?」
「いえいえ、すぐには分かりませんでしたよ。何せ…十九世紀風の衣装や髪型、それにメイクをしてましたから」
ちなみにここで軽く補足すると、有希含めて他の出演者はすっかり衣装だけは着替えていて、スタッフ達と変わらない、無地のTシャツ姿になっていた。
「あはは、そっかぁ」
「でもまぁ…」
とここで絵里は軽く薄眼を使いつつ、口元を緩めながら言った。
「声のトーンだとか、演じ方だとかで、どこか引っ掛かったんですよ。それでジッと劇中目を凝らしていたら、分かったんです」
それを聞くと、「あはは!」とまた有希は明るく笑ったが、その直後、何かに気付いたような素振りを見せると、途端に納得いかないと言いたげな顔つきでボヤくように言った。
「何だかなぁー…それって、私が学生時代と比べて、何も進歩してないって事じゃない?へこむわぁー…」
「あはは!」
「おいおい、笑い事じゃないぞー?」
そんなキリなく会話を続ける二人の様子を眺めていた百合子が、ここだと思ったのか、笑みを浮かべつつ口を挟んだ。
「…しっかし、こんな偶然があるのねぇ?まさか絵里ちゃんと有希、あなた達が知り合いだったなんて」
「それを言うなら百合子さん」
と有希の方は悪戯小僧よろしく笑いつつ返した。
「私からしたら、百合子さんと絵里が知り合いだっていう方が不思議ですよ」
「あら、そう?ふふふ」
と百合子はそれ以降には言葉を発せず、ただ絵里の方を向きながら、如何にも意味深げに笑って見せるのだった。
それに対して、どこか納得いかない様子だったが、いつもの事なのだろう、「まぁ、いいですけれどね」と呆れ笑いを浮かべるのだった。
「でもさ?」
と有希はまた絵里に話しかけた。
「私の名前って芸名も何も本名そのままじゃない?てっきりプログラムを見た時に分かったんだと思ったよ」
「あぁ…まぁ、見たなら気付いたんだと思うんですけれど、物販でその手のモノを買っていたら、もう上演時間が迫ってまして、じっくり見る暇が無かったんですよ」
「あら、そうだったの」
…
…とまぁ、ほっとくと話が尽きないといった様子を、他の人たちは空気を読んでくれていたらしく、思わぬ再会劇を一方的に見せられたのにも関わらず、文句を言わずに見守ってくれていた。
ようやくその寸劇に、取り敢えずの区切りがついたと見るや、他の出演した役者さん達が私たちの元に近づいてきて、それから挨拶を交わした。百合子と有希を含んで、男女合わせて総勢九人のキャストだったので、残りの七人と軽く会話を交わした。
内容としては、先ほど笑ってしまった事について謝られたり、その繋がりで、今日まで百合子とマサにアレコレと吹き込まれたという内容を聞かされたりした。その度に、裕美と絵里も一緒になって愉快げに笑顔を浮かべるのだった。やれやれと私も最終的には一緒になって笑い合った。
その後で、舞台監督と演出家の方とも挨拶を交わした時に、何故だかもう少し細かく感想を聞かせて欲しいと言われたので、流石の私でも、一役者の百合子相手よりもなお一層恐縮してしまったが、それでも頼まれた以上仕方ないと、開き直り気味に滔々と、劇を見終えた直後に話したような感想を、そのまま隠す事なく言った。
私の悪癖の一つのせいで、自分で話していて夢中になってしまい変に熱く語ってしまっていたが、話し終える頃にふと我に帰り周りを見渡すと、それぞれ皆細かくは当然違っていたが、一同のどの顔つきも、好奇心に満ちた興味深げな表情を浮かべて聞いてくれていた。それに気づいた瞬間、途端に恥ずかしくなって話を切りたい衝動に駆られたが、もうここまで来たら仕方ないと、ケツをまくって最後までイタくも語りきった。
その後は楽屋内に数瞬沈黙が流れたが、その後には舞台監督や演出家の方を筆頭に、各々がそれぞれ私に寄ってきて、色々と声をかけてくれた。その中には百合子や有希、それにマサもいた。その中身を、まぁ簡単に一括りに言うと、自分で言うのも馬鹿らしいが一風変わった視点からの感想を面白がってくれたといった調子だった。
一斉に色々と声をかけられてる中、「な?俺の言った通りだろ?」と何故か自慢げに周囲に漏らしたマサの言葉が、不思議と明瞭に耳に届いたのだった。
第16話 (休題)とあるネット討論番組からの抜粋 《日本の良さとは?》
番組名「日本の良さとは?」
サブタイトル「雑誌 オーソドックススペシャル」
長テーブルを挟んで、片方には神谷さんを司会者の一番側に、”オーソドックスメンバー”が並び、もう片方には番組のレギュラーを持つ数名と、この回は女性の国会議員二名ほどが出席していた。この番組の視聴者には常連の二名だ。両陣営合わせて八名ほどの討論番組。
因みに毎回出てくるこの司会者は、このネットテレビ局の代表権社長で、神谷さんとは長い付き合いらしい。名前は木嶋均。歳は六十六。数寄屋に初めて行った時に知り合った、小説家の勲さんと同い年だ。テレビ局の運営以外にも、色んな活動をしているらしい。この人も追々話に大きく絡んでくる。
…
木嶋「えー、では神谷先生、毎度の事ですが、まず議論に入る前に、皆さんに一度話を伺うという事で、先生からそのー…問題提起と言いましょうか、話して頂けたらと思います」
神谷「んー…問題提起ねぇ…。木嶋さんは今日のテーマで僕を呼ぶあたり、嫌がらせのつもりじゃないかと思うんだけれど(笑)」
一同(特にオーソドックスの面々)「あははは」
…ふふ。
木嶋「い、いやいや、そんなつもりはないですよ(苦笑)」
神谷「んー…まぁ、日本の良さ…。大体人から『あなたの良い所はどこなんだい?』と聞かれて、まさかアレコレと幾つかの例を出して説明する訳にもいかない…恥の感覚があれば答えられない事で。まぁそれはともかく、今こうして日本人として生まれ落ちて、何十年も生き、そしてまぁ近々死ぬ事になるんですがね」
一同「いやいや(苦笑)」
…
神谷「で、自分が日本というものに馴染んでいるというのは、何も幾つか良い所があるのを見つけれたからではなく、仮にこの国が四季折々など全くなく、灼熱だったり、はたまた寒冷地だったり、砂漠だらけの不毛な土地に占められた国家だとしても、その国家に生まれ落ちたからには、必然的にその国家が危機に晒されれば何とかしようと足掻くし、で、そう戦っていくうちに、尚更その国家、母国という感覚が湧き上がってきて、ますます愛着が湧いてきて、そして母国が一番だと、そう自覚が生まれてくるものだと思う。…でも、最近巷で流行っているのを見たら、何処かの国と比べて何が良いとか優れてるとか、一種の自信の無さとしか見えない神経症にしか私なんかからしたら見えないけれど、良さを十項目上げられたから好きになるとしよう…そんな馬鹿げた価値判断は無いですよね?男女の関係を見たらすぐに分かるでしょう。これは…こないだお亡くなりになった、落語界で最後の名人だと自他共に認めておられた”師匠”、彼が私に、とあるね、自分にとって師匠格にある人の落語の一部を教えて貰ったんですがね…ある貧乏長屋で、昼間、井戸端で奥さん二人が会話してるって場面。『アンタの亭主、今日もどこかで仕事もしないで呑んだくれてるのかい?』『えぇ、まぁね』『アンタの前だけど、すごくグータラなのね?』『えぇ、本当に参っちゃう』『何か見込みがあるの?』『無いわよ、あんな人なんか』『…じゃあ何で一緒になってるのよ?』『だって”寒いんだもん”』」
一同「あー…」
あー…
神谷「とまぁ、こんな具合で、理屈が確かにつくこともあるだろうけれど、何かを好きになるって時に、何も全てに理由…いや、少なくとも自覚できるレベルというのはマレですね。…っていや、話が逸れちゃったな。だからまぁ…もし仮に、他の何処かに日本以上に良い点を挙げられる国があったとしたら、そっちの方を好きになるのか?…そんなことは無いでしょう?だから木嶋さん、こんな日本の良さなんて番組、ここいらで良しとしませんか?(笑)」
木嶋「あ、え、いやいや、まぁそう言わずに、どうせなんで、どうか最後まで付き合って頂きたいと思います(苦笑)。では次どうぞ…」
議論は段々と、他の国との差異が何処にあるかに向かった。その中で、ネット界隈では”右のテレビ局”と称される局の代表を務めるだけあって、木嶋は徐々に一人熱くなり、天皇論から何からを語り始めた。
木嶋「…だから、日本人というのは、昔から相手と戦争などで戦っても絶滅させることは無いですし、西洋の人たちみたいに”自分”と”他人”を分けないんですよ」
神谷「いやいや、まぁそれは日本人の特質としてあげても良いんですけれどね、そもそも今日の議題は日本の”良さ”でしょ?これは価値判断の話ですよ。価値を見極めるためには、それを計る物差し、基準が必要でしょう?それは国家国民それぞれ各様なはずですよ。その基準というのは、その国々の歩んできた歴史の中で醸成されてくるもの。要はどこに自分の視点を置いているのかキチンと自覚した上で、判断をしなくてはならない。木嶋さん、あなたは確かに自分の価値基準の元、日本人の良さをおっしゃった。天皇がおわすからだとか、二千年以上の歴史がある国だとか、日本人の本性として、自と他を分けないだとか。…最後の自と他を分けないという点は後に置いといて、そもそも天皇がいるから日本は良い国だとか、二千年以上歴史があるからと、”それだけの理由”、そんな表面的な理由だけでは、いくらこれが良さだと言ったって、他の国には説明出来ないし、言えば言うほど煙たがられて無視されてくのがオチですよ。…っていや、何が言いたいかっていうと、別にその個々の例に関して反対なんかしない。ただ今の世界情勢の中で、いつ食われるかもしれないという激動の時代の中で、そんな引きこもりよろしく、自閉的に内向的になって、あれやこれやと無理くり自分の良さを何とか探し出して、それを愛でてるだけでは、結局周囲の国際情勢によって蹂躙されて、お陀仏になりますよと言いたいんですよ」
…うん、なるほどなぁ…まったくその通りだ。流石神谷先生。
木嶋「い、いや、先生…」
神谷「ちょっと待ってください、後あなたが言った”自と他を分けない”という事についても触れたいので。いいですか?自と他を分けない…それがあなたの言う”和”なのでしょう。まぁ百歩譲ってそうだとして、私からしたら、だからどうしたとしか言いようが無いんです。確かに西洋人、特にヨーロッパの人々はその気があります。でもこれはさっきも言ったように、あくまで一つの違いであって、良い悪い、善悪の話じゃないでしょう?自と他を分けないと言うのが、自と他をはっきりと区別する欧州人と比べて、何処が良いといえるんですか?」
番組レギュラーの男性A「それは先生、先生もご存知の通り、彼らはその為というか、一神教というのもあるせいか、あちらこちらに敵を作っては戦争をずっとしてきたじゃないですか?木嶋さんが言われてましたけど、最終的には相手を絶滅させるような」
女性議員A「そうですよ先生。だから、それだからこそ、今日本というのは世界から注目されているんじゃないですか?」
神谷「注目?だから?他の国々に注目されて褒められたからなんだって言うんですか?他国に褒められないとプライドが満たされない、そんな貧相な国民しかいない国なんですか、日本は?まぁそうだと言うのなら、私も同調しないでもないけれど。んー…いや、良いんですよ?日本が世界で一番良い国だと言うのは。私も討論の初めに言ったように、そもそも何の因果か日本という国に、日本人として生を受けたのだから、否応なく母国だというその理由だけで、『自分にとって世界で一番良い国は日本』この一言で終わるはずだと思うんですけれど、さっきから言ってるように、何かアレコレと例を引っ張ってきて、だから日本は良い国なんだと言い張る者共が多すぎる…それじゃあダメだと言ってるんですよ」
この場面は、討論が始まって一時間半ほどの場面だった。
神谷さんはずっとこのような話を一貫してしてるのだが、この木嶋という司会者兼パネリスト、そしてその周りのレギュラー陣、それに加えて自称保守だと言い張る女性議員、彼らとの議論がずっと平行線に終わっていた。
私個人の見解を述べれば、自然と頭に入ってきて納得出来るのは、勿論神谷さんの論だった。これは何も義一の”身内”だからではない。個人的な感想を言えば、とても客観的に日本人を俯瞰している神谷さん、そしてここでは挙げなかったが他のオーソドックスの皆さんと比べると、他の出演者はあまりにも些細な、瑣末な事柄に耽溺しすぎて、マーラーが言ったような、昔の燃えかすである灰をただ拝んでいる、その事に喜びを見出しているだけのクダラナイ偏狭な”伝統主義者”としか見えなかった。
神谷「自と他を分けない…まぁ百歩譲って、本当にそれが”良いこと”だとしましょう。でも、それに固執していると、その内にこの国は激動の国際情勢の荒波に飲まれて、すぐに消滅してしまいますよ?自と他を分けない、という事は、他者と自分を区別しないという事ですよね?今この国、日本にもたくさんの移民が流れ込んで来てるけど、今日はこの場にいないが武史くん(この間、”数寄屋B”に登場した、義一と仲良さげに話していた男性だ)から聞いた話では、今や世界的に見てもベスト5位に入るほどのペースらしい。…さて、今後もたくさんの多国籍の人が入って来るのだろう。しかも、どの国民も”自と他を分けない”だなんて考えを持っていないから、日本に来ても決してその土地の風土には馴染まないし、そもそも馴染もうとはしないだろう。彼らはキチンと自国のアイデンティティーを、まぁ表面上は移民してる時点で母国を捨ててるのだから、必ずしも言えないという反論は受けつつ、それでも育ってきた環境に人間というものは影響されないという事はあり得ない、それを引き摺った者が移民として入ってくる…それを受ける我々側が、自と他を分けないだなんて態度でいたら、長い月日など待たずとも、すぐにその移民たちに文化、いわゆる日本人の個別性を壊されるのは、火を見るよりも明らかじゃないですか?自と他を分けないのだから…」
レギュラーB「でも先生、そもそもそんな風に和をもって尊して来たから、今こうして日本文化があるんじゃないんですか?昔も当時の中国から、仏教から何からが伝来してきても、それでも結局は全てが日本流になって、溶けてしまってるじゃないですか?」
神谷「んー…まぁ色々と突っ込みたいのだけれど、ちょっとあまりにも私ばかり話してしまってるから、他の人にも振りたいからという前置きをさせてもらって、それでも少し話させてもらいましょうか…。今この限られた時間の中で触れられるとすればこの点、あなたは今『今こうして日本文化がある』とおっしゃった…おっしゃったけれどね、一体どこにその日本文化があるんですか?勿論全くないとは言いませんよ?でもそれはもう息絶え絶えに、何とか一部の良識のある人々によって辛うじて残ってるのみで、その他大勢は外国…もっとハッキリと言えばアメリカ流に全てを置き換えようとしてるじゃないですか?確かに、そういう流れは今は昔ほどでは無くなったと聞いてますけど、それでもやはり脈々と、いや、今は巧妙に隠れているからなおタチが悪い。というのも、これも武史くんから教えてもらった事だけれど、彼は大学の先生をしてるからね、普段から生徒たちと会話をしているというんでこんな話をしてくれた。確かに彼らは今や我々のような年寄り、下はそうだなぁー…まぁ大体四十代までのアメリカ文化にどっぷりな世代と比べると表面上はアメリカナイズされてない。…されてはないけど、彼らが学ぶ、いわゆる社会科学というもの、この社会科学を武史くんの教え子たちは必死になって勉強してるわけだけれども、今の日本で主流になってる社会科学というのは、元を辿ればアメリカ流に歪められた思想観念が盛り込まれた学問なわけです。それをいくら自分がアメリカナイズされてはいないと思っていても、結局は知らず知らずのうちに汚染されていってしまう…こういう訳なんです。いや、また話が逸れてしまったけど、昔も確かに、主に当時の中国から色んな思想などの形而上のものから、物品などの目に見える形而下のものまで入ってきても、最終的には日本的なものになる、それはあなた…それに、このチャンネルに集う方々の言う通りでしょう。しかし、考えてみて下さい、昔はそれこそ、仏教伝来は西暦で言うと五百年代と言われていますが、その後で、便宜上単純化して言わせて頂くが、神道を守ろうとする物部氏と、新しく来た仏教を推そうと考えた蘇我氏の間で血みどろの闘争をしたり、まぁその他でも、一神教の国じゃない我が日本でも、それなりに色々としてた訳です。で、何が言いたいかというと、当時の日本人は、新旧共に、いや、特に昔からの風習を守ろうとする人々は、自分の命のことなど置いといて、それらを守ろうとして多くの血を流してきた訳ですよ。要は、簡単に日本的にしていくとおっしゃったが、そんな単純なものじゃない。日本化するためにどれほどの苦難を経たのか、それを念頭に置かなければいけないでしょう。で、問題なのは現代、現代人です。今巷では、このチャンネルの効果も大きいと聞きますが、主に若者を中心に”右傾化”してるという。それはそれで、木嶋さんを初めとする皆さんには朗報なのでしょうが、私は全くそれに関して諸手を挙げて喜べません。そもそもどんな思想観念を持って、こちら側に賛意を示してくれてるのか全く見えない以上、すぐには喜べませんね。…っていや、また話が逸れました。確かに今若者の層は、移民に対して反対らしい。…あなたがたと違って、キチンと『自と他を分けて、自分とは一体何者なのか?』それを考え始めたような兆候が見えるのも事実です。それはそれで良いですが、果たして彼らが昔の日本人のように、自分の血を流す覚悟、自分の命を捨てる覚悟があると、そう思われますか?『それを言うなら、そんな世の中にしたお前ら年寄りが責任を取れ』と言われそうです。そう言われてしまえば、私はまず一度素直にその若者たちに首を深く垂れて謝ります。謝りますが…私も一人の人間、力及ばずと知りつつも、この日本という国家の片隅で、必死になるべくブレないようにしながら、訴え続けてきたつもりだと、それだけは自己弁護のために言うでしょう。…と、そんな与太話は置いといて、まぁ話を戻せば、そういうわけで、私は皆さんのおっしゃる『自と他を分けない』という日本人の特質性…自と他を分けずに他者に対して、”おもてなし”の美名の下、自分の臆病さを誤魔化しつつおもねる様な、この特質性は今の世に於いて悪習でしかないと言い切りたいと思います」
…こういった、またもや私からしたらスッと入ってくる様な論も、木嶋含む向こう側の人々にはダメだったらしく、せっかく大局的な話をしていたのに、また些細な事例の羅列に終始してしまった。
時折神谷さんを初めとするオーソドックスの皆さんの顔は映し出されていたが、皆苦笑を浮かべていた。それを自室で見ていた私も、一人ため息をつかざるを得なかった。
三時間番組も、結局”いつも通り”に平行線に終わろうとした最後の数分。あれほど激論をしたのに、今はまた神谷さんと木嶋、その他の面々が笑顔で談笑をしていた。これぞ本当の討論って感じだが、その”本当”が出来たのも、神谷さんのお陰を置いて他に無いだろう。
神谷「…でもなぁ、今日みたいな一つの分野に括られないような、多角的な討論の時には、ぜひ出て来て欲しい人材がいるんだけれどね」
木嶋「へぇー、それは一体どなたです?先生がそこまでおっしゃる方というのは?」
浜岡洋次郎(軽くしか触れてないので覚えていなくて当然だが、彼は文芸批評家にして雑誌オーソドックスの編集長、小さな大学に文学部教授という役職を持ち、そして鎌倉にある博物館で館長を務める、今年還暦を迎えた人だ)
「先生、それは先ほど触れていらした中山くん(武史のこと)ですか?」
木嶋「中山くん?あぁ、武史さんのことですか」
神谷「あはは、そう、勿論武史くんもそうなんだけれど、あと一人、私たちの雑誌の中で、一番の秘蔵っ子がいるんだよ」
木嶋「ほーう、誰ですか?その方は?随分の入れ込み様ですけれど」
神谷「あはは、ごめんね?いくら木嶋さんのお願いでも、今は名前を言えないんだ。あれほどの頭脳と才能を持ち合わせているのに、本人が人前に出たり、名前が出るのを嫌がっててね?でも…『近々僕は死ぬんだから、その後は嫌でもなんでも、今度は君が出てこなければいけないよ?』と脅してるんだけれど」
一同「またまた先生ー、そんな事を言ってー(苦笑)」
神谷「あははは」
木嶋「あはは…さて、このまま雑談をしててもアレなので、今日の討論は以上にしたいと思います。では皆さん、先生も、今日はどうもありがとうございました」
一同「ありがとうございました」
第17話 告白 上
「じゃあ、ごゆっくりね?」
と里美が私たち五人分の飲み物を置くと、一度ニコッと笑みを浮かべてから階下に降りて行った。
あの観劇から少しばかりの月日が経った十一月の初旬。土曜日の放課後。この週の土曜日もたまたま皆が空いていたので、こうして例の御苑近くの喫茶店に来ていた。まぁ、学園のOBである里美が出て来た時点で、お分かりかと思う。
「さて…」
とおもむろに紫は立ち上がると、一同をぐるっと見渡してから、片手に持った、名前を言おうとすると舌が攣りそうになるような、如何にもガーリーな飲み物の入ったグラスを軽く掲げると、乾杯の音頭を取った。
「じゃあみんな…今日までお疲れー!」
「お疲れー」
カツーン。
毎度の恒例行事と化したグラスのぶつけ合いを済ませると、それぞれが一度一口分飲み物を啜ると、皆して同様に一息を吐いた。
「やっと終わったわねぇ」
とまず裕美が、如何にも疲労困憊といった体でボヤいた。
「ウンウン」
と藤花がストローを咥えたまま頷いていた。
そんな二人の様子を見て、私は私で目の前に座る律と視線を合わせると、律の方でもこちらを見て来ていて、それからは二人して自然と笑みを零し合った。
とここで、紫が苦笑まじりにグラスの中をストローでかき混ぜながら言った。
「まぁ…試験自体はたったの三日間だけれど、疲れるっちゃあ疲れるわね」
そう、この日がたまたま私含めた五人が暇だったと話したと思うが、それもそのはず、今日までの三日間が中間テスト期間だったのだ。
だからさっきは、試験について『お疲れー』と乾杯をし合ったのだった。
「でも紫はさぁー?」
とここで裕美が紫に、何だか恨めしそうな表情を向けつつ声を掛けた。
「別にいいじゃん…どうせまた今回の試験も好成績なんでしょ?」
「…ふふ、どうせって何よー?」
そう返す紫の顔は、流石に苦笑いだった。
…そう。まぁ今まで話の流れとは関連していなかったから、触れることも無かったのだが、ついでだし、”こう見えても”少なくとも私も学生の本分を疎かにしてないことを証明する意味でも触れようと思う。
結論から言えば、今裕美がからかい気味に触れたように、学期内で三学期を除いて二回ずつ行われる定期試験で、紫は総合成績で一学年に二百人ほど生徒がいる中で、毎回トップ五位以内に入っていた。これは当然、私たちの中では圧倒的に成績がずば抜けている。私を含めた他の四人も、言い訳じみるがそれなりに成績は中の上か、上の下くらい、具体的には皆そろって取り敢えずは百位以内には滑り込んでいたのだが、紫と違って皆それぞれに得意不得意な科目にバラツキがあり、取る点数も得意科目は満点近く、苦手なのは中には赤点ギリギリのもあったりと、何だか両極端なせいで、全体的にはパッとしないのだった。
まぁここでは大雑把に説明するために、本来は文系、理系という分け方は、以前に義一達と数寄屋で会話したように何の意味も無いのだが、この場だけ便宜的に使わせて頂くと、意外に思われるかも知れないが、私と藤花は主に理系の科目で得点を稼ぎ、裕美と律は文系科目で稼いでいた。中学一年の頃などは、初めての中間試験の結果を知って、物理学者の父を持っているのに、”理系”の成績がそれ程振るわなかった律を、ついついからかってしまったりしてしまった。今思えば…というか、ついつい口を滑らせてしまったと瞬時のその場で反省をしたのだが、藤花のフォロー、それに「ふふ、よく言われる」と照れ臭そうに笑いつつ律が返してくれたので、その場は無事通過となった。今その時の事を思い出しても、一人でついつい顔を顰めてしまう。
まぁそんな他人の事はこれくらいにして私個人で言うと、文系でも英語や国語などは得意だったが、何よりも社会科全般の成績が毎回振るわないのだった。まぁ一口に言えば、いわゆる暗記モノが苦手なのだ。
…ここで、これまでの私の話を聞いてくれた人には、こう突っ込まれるかも知れない。『あれ?普段あれだけ歴史や何やらを義一とかと話したり、それの関連で色んな書物を読んだりしているんじゃないのか?』と。それは中々痛い指摘で、初めの頃は私自身不思議に思っていたのだが、最近になって、何となく説明らしい理屈を思いつけた。それは、義一や他の人々と会話を楽しむためや、自分自身の知識欲を満たすためにアレコレと学ぶのは好きなのだが、どうやらいわゆる”試験勉強”という、皆横並びで『よーい、どん』と競走”させられる”というのが、そもそもの点で私自身が気づかないところで”気にくわない”らしい。
…分かり辛いかも知れないが、要は『さぁ、今から試験勉強をするぞ』と思ってから取り掛かろうとすると、自分ではそれなりに覚えようと集中しているつもりなのだが、どうやら普段のピアノや読書の時ほどには出来ていないらしく、それでいわゆる文系にありがちな”暗記モノ”には滅法弱いのだった。まぁでも、私自身はそれについて、それほど変に劣等感は持たない。というか持てなかった。落ち込んだり悩むよりも、『あれだけ普段から歴史についての文献を読み込んでいて、そこに書かれている内容も正確に覚えられるほどに、自分で言うのも何だが記憶力には自信があるのに、何故か学校の試験では良い成績が取れない』という事実が、他人事のようだがとても面白く、それをまた恥ずかしげも無く義一に話したりするのだった。
…ここでお分かりだと思うが、長々と分かり辛い”自己分析”を述べたが、正直に白状すれば、その内容の半分以上は義一由来のものだった。義一は義一で、私が言うのも何だが、いわゆる世間にありがちなモノを測る尺度を”あえて”持っていなかったので、そんな私の試験結果を一緒になって面白がってくれた。
因みに、思った通りというか想像通りというか、私から見るとこれほどにキレッキレな頭脳を持っている義一でも、中高の成績は真ん中くらいだったらしい。本人の弁をそのまま言えば『試験勉強は途中で飽きちゃうから』だった。
まぁそれはともかく、たまに試験初日の一、二週間前などは、前にも軽く触れたように私たち五人が揃って試験勉強をしたりするのだが、当然のようにその中心には紫がいた。勿論皆それぞれに得意科目があるので、それを補い合えば良いと思われるかも知れないが、私自身他人の事を言えないが、皆人に教えるのが下手くそだった。そんな中、教え方が上手かったのが紫だったのだ。だから中心になるのも必然だった。授業をとったノートなども、そもそも字が綺麗というのもあって見やすく、それにどれだけ救われたか分からなかった。
…と、コホン。大分話過ぎてしまったが、自分で話していてなんだが、最近紫の話に触れていなかったと思っていた矢先だったので、良い機会だからと、紫の長所を長めに述べてみた。話を戻そう。
「まぁ…今回も”そこそこ”じゃない?」
と紫が何気ない感じでボソッと言うと、「やな感じー」と裕美はジト目を向けつつもニヤケつつ言った。
そんな二人のやり取りを見て一頻り笑い合った後、試験関連の話を軽くして、それからは不意に流れが文化祭の思い出話に向かった。
前にも軽く触れたように、文化祭後の一、二週間ほどは周りが騒がしかったが、それでも徐々に収まっていって、今では以前とそれ程には変わらない毎日を過ごしていた。とはいっても、確かに他クラスの子や先輩、後輩に声を掛けられることはままあったが。
「確かにー」
と藤花は詳細は分からないが南国系のフルーツを絞ったジュースを一口飲んでから言った。
「なんか今もたまに話しかけられるから、まぁその時はどうしたら良いのか今だに戸惑うけれどね」
「そりゃそうだよねぇー…で?」
と相槌を打っていた紫は、ふと斜め前に座る律に顔を向けると、ニターッと笑顔を浮かべて話しかけた。
「今のような現状になった事について、律はどう思っているの?そのー…藤花の保護者として」
「ほ、保護者?」
と律が呆気にとられてキョトンとしながらボソッと漏らした。その横で藤花は苦笑いを浮かべている。が、当事者にも関わらず、途端に藤花も紫のようにニターッと意地悪い笑みを浮かべると、律に声を掛けた。
「律って私の保護者だったの?」
「い、いや、違うでしょ」
と律は戸惑いを隠さぬままそう返し、ふとここで私に困りげな視線を向けてきたが、私は私で今の状態を楽しんでいたので、律からの”救難信号”は無視して、ただ微笑みを返すのみに留まった。
それを見て観念したか、律は一度深くため息をつくと、視線を藤花に向けつつ、顔は紫に向けて返した。
「まぁ…藤花が変に目立っちゃったりするのは、そのー…友達として心配にはなるけれど…今回は、仕方ないとは…思う。そもそも、藤花自身が了承して引き受けたんだし、私が後からとやかく言うこともないよ」
「ふふ」
と律の発言を聞いた直後、藤花は何だか照れ臭そうにしつつ、それを誤魔化すかのように一度ニコッと笑ってから「ありがとうね」と返していた。
そんな二人の様子を眺めつつ、他の三人で顔を見合わせながら笑い合っていたのだが、ここでふとまた紫が何かを思い出した風な様子を見せて、またニヤケ面を晒しながら口を開いた。
「…って、律…あなた今悪目立ちがどうのって言ってたけれど…あなたも普段から相当目立っている事について、自覚はあるの?」
「…え?」
と律は、これまた身の覚えのない話を振られて、先ほどのようにまた鳩が豆鉄砲を食ったような表情を見せた。今日は律にしては珍しく表情が豊かだ。
「どういう意味?」
と律が聞き返す中、まだ悪ノリの引かない私も紫に乗っかることにした。
「そうなんだー。…あ、確かに、律も今はもうバレー部の部長兼キャプテンに就任したし、文化祭での試合でも大活躍だったもんねぇ」
と私がニヤケつつそう声を掛けると、「い、いやぁー…うん」と律が戸惑いげに、同意とも否定とも取れるような曖昧な反応を示していた。
そんな律の様子を微笑ましく思いつつ、ふと紫の方を向くと、何故か紫は今度は私に薄眼を使いつつ口元を緩めて見つめてきていた。
そして私と目があうと、やれやれと言いたげな溜息を大げさに吐いて見せると、そのまま私に声を掛けた。
「はぁ…琴音、あなた…何であなたがそんな他人事のような態度を取ってるのよ?」
「え?だって…」
何で急にこっちに矛先が向いたのか理解が追いつかない私は、心底不思議に思いつつ、
「他人事でしょ?…って、律には悪いけれど」
と律に視線を飛ばしつつ返すと、紫は一度何故か裕美と藤花に視線を配ってから続けた。
「いやいや。まぁ確かに、今あなたが言ったような事は、律が目立っている理由の一つではあるんだけれど…それともう一つあるのよ。それはね…」
とここで今度は悪戯っ子な笑みを零しながら続けた。
「普段の律と琴音、あなた達がしょっちゅう一緒に過ごしている事も、目立っている原因なのよ」
「ねぇー?」とここで急に裕美と藤花も加わって、三人で同調して見せていた。が、「ねぇー?」と言われただけでは、一体どういう意味か分からないと、私と律はただお互いに顔を見合わせる他に無かった。
「何が『ねぇー?』なのよ?どういう意味?」
と私が苦笑まじりに聞くと、その直後に律も続いた。
「それって…琴音のせいで、私が悪目立ちをしてるって事?」
「え?」と私はすかさず律の顔を見たが、その顔には今度は意地悪な笑みが浮かんでいた。本当に今日は良く表情が変わる。
「ちょっと律、それってどういう意味よー?」
「ふふ、ごめん」
と律が静かな笑みを浮かべつつ返してきたが、そんな私達の様子を見ていた裕美がニヤケつつ口を開いた。
「まぁ、琴音のせいっていうのはそうなんだけれど…」
「…ちょっと裕美?」
と私はすかさずジト目を向けたが、それには構わず裕美はそのまま続けた。
「勿論、律、あなたも責任が半分あるのよ?」
「…ん?どういう意味?」
と律は先ほどと変わらぬ反応で返した。
すると、今度は裕美の後を引き受ける形で不意に紫が口火を切った。
「実はね…琴音と律、あなた達は今結構何かにつけて行動を一緒にすることが多いでしょ?」
「んー…まぁ、ね?」
「うん…楽だし」
と私と律が確認し合うと、紫はその返答に一度笑みを零してから続けた。
「でね?ほら、あなた達、同学年の中でも背が高い方でしょ?で、しかもあなた達二人は背筋をピンと伸ばしてスッと歩いている。…ふふ、あなた達を前にして言うのも何なんだけれど、まぁまずは琴音。あなたはほら…言わずもがな”姫”でしょ?」
「言わずもがなって何よ…」
本当は私自身も飽き飽きとしてはいるのだが、こうして勝手なことを言われると、突っ込まざるを得ない。
「姫なんて呼んでるの、あなた達だけじゃない」
と私がウンザリな心境を思い切り表に出しながら言ったが、それでも紫は一向だにしない。
「まぁほら、私なんかは良くね、クラスメイトのみんなから色々と話しかけられるのよ。『宮脇さんて、一組の望月さんや富田さんと良くお喋りしてるけれど、仲良いの?』ってな具合にね」
「私もあるよ」
と藤花もすかさず同意を示した。裕美は黙って一人ニヤケつつ、ただ頷いている。
「それってさぁ…私が始業式で晒し者になったからでしょ?」
私は負けじと、何やら話の流れ的に不穏な空気を感じて、それを何とか回避しようと足掻いていた。だが紫の追撃は止まらない。
「いやいや、それも一種の拍車を掛ける事にはなったけれど、それ以前からよ。まぁ勿論私達クラスの全員って訳じゃないけれど、それでも何度も聞かれるから、『何でそんなに琴音と律のコンビが気になるの?』って聞いたのよ。そしたらね…何やら興奮した感じでツラツラと語り出したのよ」
コホンとここで紫は調子を整えるためか咳払いを一度し、それからまた意地悪げな笑みを浮かべつつ言った。
「まず琴音。さっきあなたは『姫さま呼びしてるの私達だけ』みたいなことを言ってたけれど、あながちそれは正しくないのよ。…あ、待って!まだ反論は受け付けてないから。…ふふ。私なんかは言われてやっと気づいたけれど…あなたって普段歩く時、まるで一本の細い白線の上でも歩くように、左右にあまりブレないらしいのよ。それが何だか上品で”お嬢様”っぽいって言ってたよ」
最後の方で何だか吹き出しそうになるのを我慢するかの様に言ったので、私は不満を見せつつ
「本当にその子達、”お嬢様”だなんて言ってた?」と問いただすと、「言ってた、言ってた」とここでまた三人の”二組グループ”が笑顔で同調し合っていた。
まぁ一組の私としては、その場に居合わせなかっただけに何とも否定のしようがなく、何となく律に視線を向けると、心なしか愉快げに口元を緩めているのに気づいた。
…あなただって、当事者なんだけれど?
と心の中でツッコミを入れている間、紫がまだ懲りずに先を続けた。
「それでね、歩いている時でもたまにそうしているらしいんだけれど、ただ立っている時でも、両手を身体のヘソの前辺りで前で軽く重ねてたりしてるんだって。カバンも前で両手で持ったりと…それがさ、また彼らに言わせればエレガントで良いんだってさ」
とまたニヤニヤしながら言い終えたので、「ちょっとー、良い加減にしなさいよ?」と私は小言で返したが、ふと自分でも不思議に思い、そこまで細かく知らない間に、知らない人に観察されていたという、後から考えれば中々に引く様な事実にも関わらず、この時はその場で普段の様子を思い浮かべていた。
「私って普段、どんな風でいるっけ?…って」
と私は三人にまたジト目を流しつつ、しかし口元は緩みつつ言った。
「もーう、急に変なことを言い出すから、自分でも訳が分からなくなっちゃいそうだわ…。一々動きがどうかと考えちゃって、終いには挙動不審になりそう」
「あはは!…って律?」
と今度は藤花が隣に座る律に意地悪げな笑みを向けつつ言った。
「あなたも他人事じゃないんだからねぇ?」
「…えぇー」
と律にしては珍しく、ウンザリそうな苦い表情を浮かべつつ漏らした。
と、ここで藤花がチラッと紫に視線を向けると、合点したといった感じで、また滔々と言葉を続けた。
「そうだよ律ー?…まぁここにいる姫ほどじゃないけれども、それでもあなたの事も大体似たようなことを聞いてね。まぁ片や黒髮ロング、片や黒髮ベリーショートっていう相反する見た目なんだけれど、まぁ端折って結論言えば、あなた達二人が並んで歩いていると、見栄えが良くて、よく目立つって事らしいわ」
「事らしいわって言われても…ねぇ?」
と私は何だか反論する気も失せてしまい、ただもう力無く笑みを漏らしながら律に言うと、「うん…」と律も同様な反応をするに留まっていた。
そんな”一組”の様子を尻目に、いや肴にして、”二組”は一頻り笑い合うのだった。
「…あ、そういえば…」
長々と続いた、私と律にしてみれば何も得しない話がやっと終わったと思ったその時、ふと一人ボソッと漏らしたかと思うと、裕美が一冊のパンフレットをおもむろにカバンから取り出しつつ言った。
「みんなに前に話した、琴音と一緒に観に行った劇のパンフレット…頼まれたから一応持って来たよ」
「お、待ってました」
と藤花は明るく声を上げると、そのままテーブルの周りを整理しだしたので、それにつられるように私を含む他の三人も加わった。
グラスを直に置いていたので若干湿っていた部分は裕美自身が軽くナプキンで拭き取ると、そこにパンフレットを置いた。
それは劇を見る前に、物販スペースで絵里と三人で揃って買ったモノだった。表紙は質素な造りで、色合いもクリーム色と焦げ茶色の二色しかなかった。中央部分を占めて描かれていたのは銅版画で、主人公のノーラと思しき中年の女性が、何故か片手にタンバリンを持って踊っているかの様なのだが、顔の表情は曇っていた。それも二色で表現されており、何か示唆的なものを見るものに印象付ける類のものだった。
中身は単純なもので、出演者の顔写真と、原作のあらすじ、それを受けてどうこの劇では解釈をしたか、勿論詳細は書かれていなかったが、それでもヒントの様なものだけ示されていた。この出演者の欄を見たならば、すぐに絵里は有希に気付いたのだろう。
ワイワイ言いながら、紫たちに質問をされるたびに、裕美と手分けして答えていった。
あらかた劇についての感想を述べ終わった後で、今度は百合子の話になった。
「へぇ、絵里さん繋がりでねぇ」
と紫がポロッと漏らすと、裕美はふと意地悪げに目を細めつつ私に視線を向けてきながら答えた。
「まぁ、そう私は聞いていたんだけれど…さっきも言ったように、楽屋でのこの子と百合子さん、それに脚本家の人との会話などを聞いていたら、何だか絵里さんを介してというよりも、琴音自身がもう既に”当事者感”が出ていたのよ」
「あはは、当事者感?」
と藤花が明るく笑いつつそう聞き返すと、裕美も一緒に同様の笑みを浮かべて返した。
「うん。なんつーか…もう長い事付き合いがあるような感じでねぇー?」
と裕美は最後に意味深に笑いつつ、語尾を上げながら言い終えた。
「あ、そうなんだ?」
と藤花も私に顔を向けながら言った後で、「そこんところ、どうなの?」と紫も追撃してきた。直接は見ていないが、何となく律が黙って頷いている気配も感じていた。
「あはは…」と私は取り敢えず、肯定とも否定とも取れるような曖昧な返事をした。別に正直、義一だけ避けて軽く触れても良かったかも知れないが、先ほどの会話に疲れてしまい、こうした反応に留めておいた。
「何よ、意味深ねぇー」
と紫が焦ったそうに言うと、「そうだそうだ」と藤花も追随した。
それでも私が何も言わないでいると、「…ま」と裕美が一度ため息交じりに声を漏らし、そしてテーブルに肘をつきつつ隣の私に薄眼を使ってきながら言った。
「肝心なところはこうして誤魔化されるんだけれど…琴音、本当にこれまでも色んなことで驚かされてきたけれど…アンタって何者なの?」
「…」
”アンタって何者なの?”
このセリフ…実は裕美から聞かれたのはこれが初めてでは無かった。とは言っても、前回言われたのはつい最近の事だ。あの観劇の帰りのことだった。
劇自体は十時に終わり、何やかんやと楽屋で関係者の方々とお喋りしていたら、百合子とマサに挨拶して劇場を出たのは、もう十一時を何分か過ぎていた頃だった。池袋から地元の駅まで、裕美と絵里とでまだ劇の感想なり、そして百合子、それに勿論有希についての話をした。…うん、この時は有希の事についての内容に終始していたかも知れない。二人は別れ際に連絡先を交換していた。
地元の駅に着くと、しばらくして絵里と別れて、そこから裕美と二人で帰り道を歩いたのだが、ふとこの時に、今藤花達の前で言ったような事を聞かれたのだった。それで今みたいに私が返事を渋っていると、これまた同じように言われたのだった。『アンタって何者なの?』と。
…もしかしたら、これまで延々と私の話を聞いてくれて、それでまた私の性格を熟知してくれている方なら、こう言われる人もいるかも知れない。『そんな事を言われて、またどこかで本性をバラしてしまったんじゃないか、相手にまた変に奇異に映ったんじゃないかと無駄に気にして、落ち込んだりしなかったのか?』と。
…ふふ、確かに、特に小学生の頃の私だったらそう考えたかも知れない。だが、この「アンタって何者?」というセリフ…実は私自身がある人に投げかけたことのあるモノだったのだ。
もうお気づきだろう、そう、義一に対して小学生の私が言い放ったセリフだった。
それに対して義一は、自分の事だというのに悩んで見せて、それから自嘲気味に笑いつつ『確かに、僕って何者なんだろう?』と答えたのを、大分前だが覚えておられる方もいるかも知れない。
まぁとにかく、そんな事もあってか、観劇後の時にそう言われた時、まず胸に去来したのは懐かしさだった。それでまた直後にその出来事を思い出し、思わずクスッと笑ってから義一と同じ様に、返したのだった。「本当…私って何者なんだろうね?」と。
私の場合は何だか照れ笑いになってしまったが、それを受けた裕美もそこまで本気の問いかけでは無かったので、「何よそれー…私に聞かないでよ」と苦笑交じりに返してきてその場は収まった。
話がまた大きく逸れたが、今もこうして喫茶店内で、律たちの前でまた同様の問いを掛けられても、私が返せる答えはただ一つしかなかった。
「…ふふ、私って何者なんだろう?」
あれから暫く経ってからの十一月下旬。今日は第三日曜日だ。裕美と共に絵里のマンションの前に来ている。
「暇だったら来ない?先輩…あ、こないだのね?あの人が何だかこの日がオフだっていうんで、ついでに私に家に行きたいって言うもんだからさ、もし良かったらあなた達もどう?先輩も良いって言ってるし」
と言うので、私も裕美もたまたまこの日が空いていたから、喜んでお呼ばれに預かることにした。
…とここで一つ聞かれてもいないのに言い訳をさせて頂きたいと思う。それは…『最近は師匠の元でピアノの練習をしていないのか?』という疑問に対してだ。まぁ言い訳というか事実を言うと、コンクール後、そして文化祭後も、以前と変わらぬペースで師匠の元に出向いてレッスンを受けていた。それだけは一応私自身の名誉の為に触れておく。まぁ、コンクールに出る様な、その手の予定は今の所ないので、それ以前の、私たちのペースに戻って練習している感じだった。因みに裕美もそうだ。今も変わらず地元のクラブで練習に励んでいる。話を戻そう。
私と裕美はいつもの場所で待ち合わせをして、それから絵里の部屋に着いたのは昼の一時過ぎだった。入ると既に有希が来ていて、何やらDVDラックや、その脇の本棚を興味深げに眺めている所だった。
私たちから声を掛けて挨拶をすると、それに対して有希も明るく返してくれた。
「琴音ちゃん、裕美ちゃん、こんにちわ」と名前呼びでだ。
直接は聞かなかったが、恐らく私たちが来る前に絵里が教えていたのだろう。まぁ違うとしたら、それは恐ろしく有希の記憶力がいいという事だ。
「こないだは劇を観に来てくれて、ありがとね?」
「いえいえ、こちらこそです」
と挨拶を交わしている間、絵里が普段通りにお茶の準備をしてくれていたらしく、テーブルの上に茶器を置きながら私たちを呼び寄せた。
呼ばれるがままに行き、そして私と裕美は定位置に座った。向かい合わせだ。と、有希は側で立ったまま、何やら考え込んでいたが、コクっと一度頷くと、私から見て斜め右に座った。
それを見た絵里も、その向かいに座ると、一度私たちさん人の顔を眺めてから、おもむろにカップを手に取ると有希に声を掛けた。
「ほら、先輩も」
「え?え、えぇ」
と一瞬戸惑って見せたが、次の瞬間には何やら思い出し笑いをしつつ返した。
それを受けて絵里も一度ニコッと笑みをこぼすと、若干カップを高く掲げて音頭を取った。
「さてと。今日は珍しいお客さんも来てるという事で…先輩、お久しぶりですという事で…かんぱーい」
「かんぱーい」「ふふ、かんぱーい」
カツーン。
私たち四人は揃って一口分口に含んでから、ほぼ同時にカップをテーブルに置いた。
ふう…と四人が揃って一息を吐いたが、ふとここで、乾杯時にも一人笑みを零していた有希が、また吹き出しつつ口を開いた。
「…ふふ、絵里…あなた今だに昔と変わらずにお茶の席でも乾杯をするのね?」
「え、えぇ、まぁー…そうですね」
と絵里は何だか照れ臭そうに頭を掻きつつ答えた。
「あの演劇部での感じが抜けなくて…」
「あはは!私もだよ」
と有希は満面の笑みを浮かべつつ返した。
「私も所属してる劇団の中だとか、こないだみたいに別の劇に出た時なんかも、他の演者を巻き込んで乾杯するもの」
「ふふ…」
そんな二人の様子が何だか微笑ましく、思わず笑みを零してから話しかけた。
「そんな昔からしてたんですね?」
「そうよー?」
と有希は相変わらずの笑顔を私に向けてきつつ言った。
「誰がやりだしたのか分からないんだけれど、何だか我が部の伝統みたいになっててね、打ち上げの時に主にやってたんだけれど、癖になっちゃったみたいで、それ以外の時でもついついやっちゃってたなぁ」
「あはは、私もですよ」
と絵里も愉快げに返した。
「あ、そういえば…いつからだったか、一緒に二人でお茶してた時に、急に百合子さんが乾杯をせがんできたの。その時は、ただただ驚いたんだけれど…その原因は…絵里、あなたねー?」
と有希が呆れつつ笑いながら聞くと、「えぇ、まぁ…かもです」と絵里は照れ臭そうに返すのだった。
「ふーん、絵里さんの乾杯グセは、そこからだったんだね?」
とここで不意に裕美が誰に言うでもなくポロっと言うと
「まぁねー」と、絵里と有希が示し合わせたわけでも無いだろうに、ほぼ同時にそう明るく返すのだった。
それからは、有希が持ってきてくれたという、羊羹や葛切りなどがセットになったお土産の和菓子を絵里がお皿に盛り付けて、それをテーブルまで持ってきて置き、それらを食べながら、有希が頻りに私たち三人の関係性について質問してくるので、三人で分担しつつ答えていった。
そんな中、一図書館司書が、特に小学生の私に構いっぱなしだったという事実を聞いて、一頻り絵里をからかってから、
「しっかし、絵里が図書館の司書になるだなんてねぇ」
とシミジミと思い深げに言う有希の様子が印象的だった。
私たち三人の馴れ初めについて話が終わるとその時、有希がハッとした面持ちで口を開いた。
「そういえばさ、絵里?」
「何ですか?」
と絵里が聞き返すと、有希はふと本棚の方に視線を向けて言った。
「さっきあそこで物色してたらさ…」
「勝手に物色しないで下さい」
と瞬時に絵里が突っ込んでいたが、それには構わずに続けて言った。
「あそこにアルバムを見つけたんだけれど…折角だし、ちょっと見せてよ?」
「え?んー…」
と絵里は一瞬躊躇って見せたが、すぐに一度息をフッと吐いてから「分かりましたよ…よいしょっと」
といかにも重たげに腰を上げると、ノソノソとした足取りで本棚の前に行った。
「言い出したら聞かないんだからなぁー…昔から先輩は」
「あはは!ごめんねぇ」
「全く…っと」
絵里は一冊のアルバムを取り出すと、それを持って戻ってきた。それは以前に私も裕美も見せてもらったのと同じものだった。
「ありがとー」
と有希が絵里からアルバムを受け取る間、私と裕美で少しだけテーブルの上のものを整理した。
「あ、二人ともごめんねぇー?よいしょっと…」
と有希はテーブルの上にアルバムを置くと、それを何も前置きを置かずにすぐさま一ページ目から開いた。
「懐かしいー!」
と有希は一ページ目にして途端に明るく声を上げた。
「先輩、シーーーっ!」
とすかさず絵里が唇に指を当てつつ言うと
「ごめんごめん」
と有希はウィンクしながら平謝りをしていた。
そんな二人の様子を見つつ、私と裕美は顔を合わせて笑うのだった。
そこには以前と変わらない…って当たり前だが、一ページ目から学園時代の、揃って二人が写ってる写真がいくつも収納されていた。
有希は一つ一つの写真を一々凝視して、吟味し、それから私と裕美に解説を入れてくれた。とても細かかった。と、その説明を聞いている時ふと、絵里もそういえば事細やかに説明してくれたことを思い出し、何だか思わず吹き出し笑いをしてしまった。この時裕美も笑みを浮かべていたので、聞いてはいないが恐らく私と同じだっただろう。
絵里も加わり、演劇部時代の思い出話に花が咲いていたその時、不意に有希は頭を上げた。
それからふと絵里の頭を見たかと思うと、苦笑いを浮かべて、写真と見比べつつ声をかけた。
「しっかし絵里…何であなた、そんな髪型にしてるの?この頃はこんなに可愛かったのに」
「え?」
と突然髪型に触れられたせいか、頭のキノコヘアーを軽く摩りつつ声を漏らした。
「今もこの頃と顔は別段変わらないんだしさぁ…」
と有希はまた写真と今の絵里を見比べつつ言った。
「この頃の髪型にすれば、かなりの美人として通ると思うのに…勿体無い」
「勿体無いですよねー?」
とここで急に、今まで大人しかった裕美が勢いよく話に割って入って行った。
「せっかくこんなに美人さんなのに」
「ちょ、ちょっと裕美ちゃん…?」
と慌てて絵里が制しようとしていたが遅かった。
有希はいきなりの裕美の勢いに驚いていた様子だったが、その言葉を聞くとニヤッと笑い、そして斜め向かいに座る裕美に若干身体を寄せると、視線だけ絵里に向けつつ言った。
「だよねぇー?せっかくの和美人さんが台無しだよ。まぁ…そのマッシュルームが、若干市松人形に見えなくも無いけれど…もっと横を伸ばせば。前髪はパッツンだし」
と有希は自分のサイドの髪を軽く持ち上げて見せながら言った。
因みにというか、有希の髪型は真ん中分けのロングヘアーだ。前に持ってきている髪は、胸よりも下まで長かった。雑談の中で言うには、
「髪は簡単に切れないのよ。いつどんな役が来るか分からないし、それに合わせて髪型を変えるから、なるべく長髪のままでいた方が良いの。まぁ最悪、ウィッグをすれば良いんだけれどね?」との事だった。
今有希が絵里の頭を称して、市松人形に見えなくもないと言ったが、確かに今の絵里の頭は、気持ちサイドが伸びてきていて、若干キノコらしさが無くなっていた。
「何ですかそれー?…でもまぁ、そっか…市松人形かぁ」
と絵里は一人で言ちながら、指先でサイドの髪をクルッと弄っていた。
「そろそろ切ろうと思ってたけれど…サイドだけ少し伸ばしてみようかな?」
「あはは!…そういえば絵里、あなた司書をしつつも、今も日舞をしてるんでしょ?」
「え?あ、はい…まぁ」
と絵里は何故か言いづらそうにしつつ返した。
「だったら、市松人形風の髪型もいいかもよ?着物にも似合うだろうし」
「ふふ、どんな理屈ですか?」
「あはは!…って、話が逸れちゃった」
と有希は急に我に返った風を見せると、軽く薄目にしながら焦ったそうに言った。
「だからー…何で絵里は今、そんなおかっぱ頭にしているのよ?」
「そうそう!」
とここで不意に裕美が食い気味に話に割って入っていった。
その勢いに押され気味な表情を有希が浮かべて、絵里が裕美を見ていたが、それには構わず続けた。
「前々から気になってて、何だか今まで聞けずじまいだったけれど、初めて喋った時から思ってたの」
あぁ…まだ絵里に聞いてなかったんだ。てっきり、私の知らないところで聞いてると思ってた。
「…あはは、気になるよねー?」
「はい!」
と何だかここにきて急に裕美と有希は意気投合し出した。
「そんな大した理由は無いんだけれど…」
とそんな二人の様子を苦笑まじりに眺めつつ、そのままゆっくりと、以前に私に話してくれた通りの話をした。大学での一コマだ。
全て聞き終えると、有希が「なるほどねぇ」とまず声を漏らした。
「要は思いつきだったのね?で、勢いでやっちゃったと」
「あはは、まぁ…そうです」
と絵里が照れ笑いで返していると、ふと裕美が腕を組みつつ感慨深げに
「ふーん、なるほど…」
と漏らしていたが、不意にニヤケ面を作るとそのまま続けた。
「…ってかさ、やっぱり絵里さんってモテてたんだねぇ」
「や、やっぱりって裕美ちゃん…」
と絵里が苦笑いで返すと、「そりゃそうよ」と有希がすかさず反応した。
「ほら、この写真を見てよ?まぁ女子校だったからアレだけれど、恐らく共学だったら、そりゃモテてただろうねぇ」
と最後に悪戯小僧よろしく笑みを浮かべながら言い終えると、
「ちょっと先輩、からかわないで下さいよぉ」
とすっかりタジタジになりながら返していた。
そんな絵里の様子を見て、私たち三人は顔を見合わせつつ笑い合うのだった。
「…でさー?」
と有希は一度紅茶をすすり一息入れてから言った。
「さっきの話で、あなたのその髪型の遠因になって、しかも司書になるように薦めてきた色男は誰なの?」
「え?」
「あ、気になるー」
と裕美がまた前のめり気味になりつつ食らいついた。私は先ほどから変わらずに、ただ微笑みを湛えつつ、絵里の様子を肴に紅茶を啜っていた。
「い、色男って…」
と絵里は苦笑気味に返していた。が、ここで話を流されると瞬時に判断した有希は、逃すまいと追い込みをかけるように言った。
「ほらー、誤魔化さないでよー?…変に躊躇して伸ばすと、余計に意味深に見えるよ?」
と思いっきりニヤケて見せつつ言うと、とうとう観念したといった風を見せて、絵里は一度大きくため息をついてから言った。
「はぁー…本当先輩は変な所も変わらないんだからなぁ…。まぁ…その男は、私の大学時代の一年先輩なんですけれどね?…そうです。歳は有希先輩と同い年ですよ。後は…」
とここで絵里はふと私に流し目を向けつつ続けた。
「そこにいる琴音ちゃん、彼女の叔父さんでもあります」
「へぇー、この子の?」
と有希が好奇心満々といった調子で私に事をジロジロと見てきていたが、ふとここで裕美が何かを思い出したように「あっ」と声を漏らすと言った。
「…あ、こないだ、ここで花火大会を見た時に来ていた、あの人の事ね?」
「…ふふ、今気づいた?」
と私が応じると、「花火大会?」とすかさず有希が食らいついた。
その反応を見た絵里は、やれやれとため息交じりに、去年の夏の出来事を話した。
聞き終えた有希は、またニヤケながら絵里に声をかけた。
「…なーんだ、やっぱり絵里の色男じゃない?」
すると絵里は苦笑まじりに、しかしジト目を容赦無く向けながら答えた。
「…先輩、ちゃんと私の話を聞いてました?そこにいる琴音ちゃんが、勝手にアヤツを招待したんですよ」
「その割には、愉快げに話してたじゃない?」
と有希がめげる事なく、いや気にする節も見せずにニヤケ顔を続投したまま言うと、「はぁ…」と力無く笑みを零しつつ溜息をつくのだった。
「そういえば…」とここで裕美もテンション高めに口を開いた。
「あの時撮った写真…私のスマホに入ってますよ?見ます?」
そう裕美が聞くと、「あ、見るー」と有希も裕美に合わせてなのか、”女学生風”に答えた。
裕美はニコッと一度笑ってから、足元に置いていた自分のミニバッグからスマホを取り出し、軽く操作をしてから有希に手渡した。
「どれどれ…」
おそらく気を使ってくれたのだろう、有希は自分だけ見ようとはせずに、テーブルの上に置いて皆が見えるようにした。
なので私も若干中腰になりモニターを覗き込むと、そこには、ベランダに出した椅子に座り、片手にお酒を持ちながら、外を眺めつつ談笑している浴衣の男女の姿があった。義一と絵里だ。部屋から漏れる明かりしか無かったせいで、あまりハッキリとまでは写っていなかったが、それがむしろ顔の表情を際立たせるのに貢献していて、二人の微笑みがしかと写っていた。
因みに、右端に帯が若干写っていたが、それはどうやら私の物のようだった。
「ひ、裕美ちゃん…これって…?」
絵里自身も初めて見たらしく、明らかに戸惑って見せていた。
私も意外…というか、今まで知らなかったので、絵里の代わりに聞いてみることにした。
「裕美、いつの間にこんなの撮ってたの?」
と私が聞くと、裕美も私と同じ体勢を取っていたが、「ふっふーん」と得意げに鼻で大きく息を吐いてから答えた。
「だって、あの時、ベランダの一角だけが何だか良い雰囲気になってたからさぁ…絵里さんには悪いと思ったけれど、良いシーンだなって思って、ついつい撮っちゃったの。…絵里さん、ゴメンね?」
と最後に裕美は顔の前に両手を合わせてジェスチャーをした。
「もーう…しょうがないなぁ」
と怒る気力もないのか、ただただ呆れたといった調子で苦笑するのみだった。
「はい、裕美ちゃん、ありがとう」と有希は笑顔で裕美にスマホを返すと、また絵里に話しかけた。
「なかなかに良い男じゃない?座ったところしか見てないけれど、今時あんなに浴衣の似合う男っていないよ?」
「まぁ…」
とさっきから呆れ笑いっぱなしの絵里だったが、ここでふとテーブルに肘をつき、有希から顔を背けるようにしながら、視線を遠くに飛ばしつつボソッと言った。
「ギーさんのそういう”姿”の良さは認めるけれど…って何ですか?」
絵里の言葉を聞いた瞬間、有希、それに私と裕美がほぼ同時にフッと微笑ましげに笑ったのに気づいたのか、三人に向けてまたジト目を向けてきた。
すると私たちは予め決めてたわけでもないのに、皆同じ気持ちだったのか、お互いに一度顔を見合わせると頷きあい、そして絵里に声を揃えるようにして返すのだった。
「何でもありませーん」
「…まぁこの辺で勘弁してやるか!」
と有希は急に明るげな様子を見せると声を発したが、その直後にはまた今度はイヤラシげな視線を絵里に流しつつ続けた。
「今日のところはね」
「はいはい、先輩ありがとうございますぅ」
と絵里も力無げな笑みを零しつつも、口調はしっかりとおちゃらけ成分を盛り込みつつ返した。
そんな返しに、有希だけでなく私と裕美も一緒になって笑顔を見せたが、ふと有希が本棚とDVDラックの方を見つつ言った。
「そういえばさ、絵里、あなたは確かに昔から本をたくさん読んでいたし、それ繋がりなのか今は図書館司書をしている訳で、それはそれで納得がいくんだけれど…昔、学生時代、あんなに昔の映画とか観てたっけ?」
「え?あ、いや、まぁ…そうなんですけれど…」
と絵里はまたバツが悪いといった笑みを零しつつ、有希から視線を逸らし、逆に私に視線を向けてきた。
「何?また何か訳があるの?」
と有希がまた好奇心旺盛に身を乗り出すが如くに聞くと、もうヤケだと言わんばかりに、ため息交じりにだったが答えた。
「まぁ…ついさっき漸く離れられた所なんですけれど…これも例の色男、ギーさんが関係してるんですよ」
「あらそうなんだー?」
と、絵里とは対照的に、目をキラキラとさせながら有希が返した。
…いや、有希だけではない。気づけば裕美も全く同じ態度をとっていた。
そっか、この話も裕美は知らないのね…。
と私は呑気な感想を覚えつつ、この急場をどう絵里が忍ぶのか、当人には悪いが先程から面白く”観劇”していた。
絵里はしかしここで不意にある事に気付いたらしく、ここでこそ自分の名誉の回復の時だと言わんばかりに、若干意気揚々と訳を話し始めた。
内容は私に語ってくれた内容と同じだ。覚えておられるだろうか?そう、『色気とは何か?』という話になって、それを絵里と私で議論をしていた時に、絵里が話してくれたエピソードだった。
まぁこの出来事についてだけ掻い摘んで言うと、大学時代、講義と講義の間の時間帯に、義一が女の子に告白されているのを、たまたま絵里が遭遇したという話だ。その女の子というのが昔に仲良くしていた友達だというのも興味深い。結局義一は断ったというか、ズバッと言えばフったのだが、その内容というのが中々にヒドイ。女の子が何でダメかの理由を聞いた時に、そう、義一は簡単に言えば
「僕のタイプは色気がある女性なんだけれど、あなたからは何も感じないからダメ」と、これはあまりにも縮め過ぎではあるが、内容としてはこの通りだ。当然相手の女性は怒り狂ってその場を去ったのだが、それを一部始終見ていた絵里が義一に「こんなことしてると、その内背後から刺されるよ」的な忠告を施した…とまぁ、そんな話だ。
…話は戻るが、絵里が何に気付いて若干持ち直したのか、もうお分かりだろう?そう、まぁこれは私の推測だが、いかにその”色男”が実は、女心など一切分からない唐変木だというのを話せる機会を得られたからだろう。それを証拠に、絵里は義一がフる場面を少し強調しつつ話していた。
それを初めのうちは面白げに聞いていた有希と裕美だったが、しかし例の場面に差し掛かると、二人揃って苦笑いを浮かべていた。
絵里はそんな二人の様子を見て、はたから見ててもやっといつもの調子が戻ってきている様に見受けられた。
興が乗ったのか、そのまま色気とは何かについての義一の持論、その流れで自分も昔の映画にハマってしまった話までし終えた。
一連の話を聞き終えると、まず裕美は紅茶をすすりつつ私や有希の顔を覗く様に見てきていた。有希も一口紅茶を啜っていたが、急にここで「ふふっ」と吹き出す様に笑うと、その笑顔のまま絵里に話しかけた。
「まぁ確かに、絵里が言う様に、ちょっとその”ギーさん”は女心に疎そうね?」
「えぇ、そりゃあもう」
と絵里が力強く瞬時に返したが、それを制するかの如く間をおく事なく有希は言った。
「でもさー…まぁ写真で見た感じとかでの想像、イメージとはかけ離れているけれど、でも、それ以上にとても面白い人だね」
「え…」
そう有希に言われた直後の絵里の表情は、何とも表現しがたい。笑顔は笑顔なのだが、口に片方の端を若干持ち上げて、ピクッピクとさせている…としか言いようがなかった。
「確かにー」
と裕美は何故か私に視線を向けつつも同調して見せた。
「凄く変わっているけれど、とても面白い人だねぇ…琴音、アンタの伯父さんって」
「え、えぇ…でしょ?」
急に話を振ってきたので、それを想定していなかった私は思わずキョドりつつ返した。
「うん。だって、今絵里さんが話してくれたエピソードも、若干引かないでも無いけど、でも何だか色々と一々口にする理屈が面白くてさ。色気についての話だって、普通ここまで深く考えないよ」
「ウンウン、そうだよねー」
と今度は有希から裕美に同調した。
「しかも何だか面白い上に…いや、面白いからか、何だかスッと納得出来ちゃう感じだものねぇー?いやぁ…流石絵里が気にいるだけの男なわけだ」
「あ、いやだからそれは…」
有希と裕美の反応が想定外だったのだろう、それはまぁ私から見てもそうなのだが、タジタジになっている絵里に対して、畳み掛けるように有希は笑顔で言った。
「確かにさっき軽く流してたけれど、相談にも乗ってくれるんでしょ?こんな面白い、普通の人がしないような見方を披露してくれつつ」
「え、あ、いや、まぁ…」
「それに、自分の発言をコロコロと変えない感じじゃない?話を聞いてる限りでは」
「まぁ…はい、それは…そうです」
何だか側から見てると、諭されているように見えなくも無い。
「そういう人って、ちょっとやそっとじゃブレないから、信用に値して見えて、相談しやすくもあるよねぇ」
「…それは認めます」
今何が目の前で繰り広げられているのか分からなかったが、面白かったのは事実だったので、時折裕美と顔を見合わせつつ観劇していた。「で、こうしてそのギーさんに影響されて、素直に趣味が変わったり増えたりしてる訳だ」
「まぁ…認めたくはないですけれどね」
と絵里はここで抵抗らしきものをして見せたが、とても弱弱しいものだった。
「…まぁ絵里の本心としては、女心、女なりの機微が分からないのには呆れつつも、たまに相談に乗ってくれたり、こうして普通の人からは得られない経験を与えてくれる…そんなギーさんの事が…」
最後に向かうに連れて、有希が徐々に表情をニヤケ面に変化させつつ言葉を紡いだが、次の瞬間「わぁーーー!」と絵里が大声を上げた。
「絵里さん、シーーーーーっ」
私と裕美、そして有希までが加わって、皆同様に唇に指を当てるポーズを示した。
それを見た絵里はすぐに冷静を取り戻し、「ご、ごめん…」と一人恥ずかしげに頭を掻いていた。が、すぐに薄目を使いつつ、声も極端に小声になりつつ言った。
「せ、先輩!いきなり何を言い出すんですか?」
「…」
有希はそれにはすぐに答えずに、おもむろに今日初めて柔和な微笑を顔に湛えてジッと絵里を見たかと思うと、すぐにまた今度は悪戯小僧よろしく笑顔を浮かべて返すのだった。
「ふふ、絵里、ごめんね?”今日のところは”本当にこれでお終いにするから」
有希が言った通り、今度は話題がガラッと変わって、有希の今までの舞台遍歴に移った。この話もとても興味深くて面白かったのだが、そろそろ余裕が無くなってきたので、また何かの機会があったら、そこで改めて触れてみたいと思う。
そんなこんなの話をしていると、ふと外から”夕焼け小焼け”が流れてきた。区役所が放送する、五時になったという合図だった。
エコー気味の音楽が鳴り終わると、私と裕美はふと時計を見て確認し、お互いに顔を見合わせるとコクっと頷き、そして絵里と有希に向かって、そろそろ帰る旨を伝えた。
「じゃあ気をつけて帰ってね?」
「うん」「うん」
絵里の部屋のある六階、全員でエレベーターホールにいる。
絵里と有希がわざわざ見送りに出てくれた。二人ともサンダル姿だ。有希はこの日は絵里の所に泊まるというので、学生時代を思い出してワクワクすると、私と裕美が玄関で靴を履いてる時に話してくれた。
「ね、絵里?学生気分で今日は夜通し、恋話でもしましょうね?」
とニヤケつつ言う有希に対して
「勘弁してください…」
と力無く笑う絵里が印象的だった。私たちが去った後も、絵里の受難は終わらない事が示唆された。
「じゃあまたねー」
「またね二人とも、今日は楽しかったよ」
絵里、有希の順に声を掛けられながらエレベータに乗り込むと、また私と裕美で挨拶を返し、”閉めるボタン”を押した。そして下に降りる間際、扉に取り付けられている縦長の細い窓から二人が見えなくなるまで手を振ったのだった。
絵里たちも笑顔で振り返してくれた。
「あーあ、今日も楽しかったね」
帰り道、裕美が中空に向かって言葉を飛ばすように言った。
「そうね」
と私も、何となく裕美が見ていそうな雲の一つに視線を投げつつ返した。
十一月の夕方五時。まだ日は完全には沈まず、西の空にはまだ陽光の残滓を残していたが、それでもやはり徐々に暗くなる時間帯が早まってきているのを感じた。普通にしてる限りではそうでもないが、それでも時折吹く風からは、すぐそこに冬が来ていると気付かされた。
あるT字路に着くと、おもむろに顔を見合わせた。しばらく何も言葉をお互いに発しなかったが、「ちょっと行こうか?」と裕美が笑みを零しつつ言うので、「えぇ」と私も同様にボソッと零した。
それからは、どちらからともなく、家とは反対方向に舵を切って歩いて行った。その道は地元の駅前まで続いている。
歩きながらもそれについては触れなかったが、お互いに確認しなくても意図が同じなのは察せられた。これは裕美との仲だから出来るワザなのだろう。折角絵里のところで楽しいお喋りをした後なのに、そのまま直帰するのも忍びなかった、まぁそういう事だった。
私たち二人はよくこの手の事をした。これといった地元の駅前に用事がなくてもだ。
「あの花火大会の時にも思ったけれど…」
裕美は正面を向きつつ、横から見てもニヤケてるのが分かる程に口元を緩めつつ言った。
「やっぱ絵里さんって…アンタの叔父さんの事、好きだよねー?」
そう言い終えると、そのニヤケ面をこちらに向けていたので、
「…ふふ、うん、私も絵里さんが義一さんの事を好きなのは確実だと思うんだけれど…正直、義一さんの気持ちがよく分からないのよねぇ」
と私もつられるように答えた。
それから少しの間、一緒になって笑っていたのだが、ふと急に裕美が苦笑いを浮かべながら言った。
「…ふふ、まぁあの花火大会の後とか、それからも何度か聞かされていたけれど、やっぱ慣れないわぁ…。アンタのその、自分の叔父さんを”名前呼び”するのに」
そう言われた私は、もう既に何度も言われていた事だったので、こちらも苦笑を浮かべつつ返した。
「って言われてもなぁー…もう何年もこの呼び方で定着しちゃってるから、今更変えられないよ」
それを聞くと、裕美は途端にまた明るく笑顔を作り返した。
「あはは、まぁ別に変わってて面白いから良いんだけれどね」
とそんな話の流れから、色々と義一と絵里の間柄について、この場に当人たちがいない事をいいことに、好き勝手に推測したりしてお喋りし合いながら歩いていた。今だに裕美はアレ以来まだ義一と会ってなかったので、まだ一回しか会合の機会を得てなかったのだが、二人きりの時に、話の流れ的に義一に掠りそうになった時などで軽く紹介していたので、裕美の中ではすっかり、私のバイアス、フィルター越しという偏った見方によるものだが、義一のイメージが出来ていたようだった。それを証拠に、こうして私と会話が出来る程だった。
とまぁ、何やかんやそうして歩いていると、駅前のロータリーまで出た。以前にも触れたように、私が小学校に入るか入らないかくらいから駅前の再開発が進み、そして数年後の今となってはすっかり様変わりをしていた。駅ビルも改装されて”今時”になっていたが、それよりも目立つのは、その駅の正面玄関の真正面に、大規模な商業施設が出来たことだった。都心部にあるようなチェーン店の洋服屋だとか雑貨屋とかで内部は犇めき合い、一階部分の広いスペースを全部占有しているスーパーマーケットには、毎日のようにお母さんが買い物に来ていた。
私と裕美でその脇を歩いていた時、ふと私は何気なく、その商業施設に併設されるように建っていた、例のマンションをふと見上げた。高校に上がったら、私が一人暮らしをする予定になっているマンションだった。今いる位置が丁度西日を背後にしている構図になっていたので、建物の外壁は真っ暗に見えていたが、所々ポツポツと明かりが点在して灯っていた。まだ出来て三年ちょっとだと思うが、既に何世帯か生活しているらしい。…って当たり前か。人が聞くと自虐に聞こえるかも知れないが、私としてはある種の誇りを持って言えば、一応都内とはいえいい具合に田舎っぽいこの地元、そんな地域の駅前という立地なのだが、それでもやはり需要はあるらしい。
…まぁ何か言いたいわけではない。話を戻そう。
ちなみに裕美にはまだ私が高校に上がってから一人暮らしをする事は話していない。裕美に対してまだなくらいだから、当然他の三人にもだ。まぁ深い理由はない。大して急いで話す事でもないと判断してのことだった。実際に一人暮らしを始めてからでも遅くはないだろう。
「…ん?琴音、どうしたの?」
と裕美が、不思議そうにこちらを見てきつつ言った。私がジッと空に向かってそびえるマンションを眺めていたからだろう。
「…ふふ、何でもない」
と私は誤魔化すように笑みを作りつつ、少し先に歩いていた裕美のそばに駆け寄った。
「変な琴音。…って、いつも変だけれど」
「ん?何か言った?」
「何でもなーい」
それから私と裕美は、いわゆる”いつもの”調子で軽口を言い合いながら、フラフラと駅前を歩いていた。
とその時、「お、琴音ー?それに裕美じゃねぇか?」と不意に名前を呼びかけられた。
二人してその方向を見ると、まぁ改めて言う事も無い…当然ヒロだった。ヒロはユニフォーム姿で、大きな野球バッグとバットケースを肩に提げて、駅ビルの正面口から出てくるところだった。
「ゲッ…」
と私が”わざと”声を漏らし、それに合わせて顔も作ると、途端にヒロも調子を合わせてきた。
「…おい、聞こえてんぞ?何だよ会って早々”ゲッ”ってリアクションは…」
「ふふ」
と裕美が私の隣で笑みを零していたが、それに気づいたヒロは自然な笑みを浮かべつつ裕美に声をかけた。
「おう裕美、こんにちはだな」
「ふふ、うん、こんにち…って」
とここで裕美は不意に空を見上げて、ジッと見つめたかと思うと顔を戻しながら悪戯っぽい笑みを浮かべつつ
「ヒロくん…それを言うなら今晩はじゃない?」
と返した。
するとヒロはすぐに表情を、私に向けてきたのと同じのに戻しつつ返した。
「おいおい裕美、お前…何だか琴音に似てきたなぁ…チンチクリン具合が」
「あ、ヒロ、ちょっと今なんて…」
と私がすかさずツッコミを入れようとしたその時、隣で裕美がウンザリげな表情を浮かべながら、私に薄眼を向けてきつつ返した。
「えぇー、やめてよぉー」
「あははは!」
「ふふ」
裕美とヒロが明るく笑い声を上げるので、すっかりタイミングを見失った私も、仕方ないと一緒になって笑うのだった。
「ごめーん、昌弘くーん!何だか中が混んでてさ…」
とここで急にヒロに向かって駆け寄る者がいた。その子は休日だというのに学校指定のブレザーを身に付けていたが、洒落っ気たっぷりに可愛らしく着崩していた。ここまで言えば分かるだろう、そう、ヒロと一緒に文化祭に来ていた千華だった。
「あーあ…って、あ…」
と、ふとここで私たち二人のことに気付いたらしく、先ほどまで”キャピキャピ”していたのを抑えると、キョトン顔でこちらを不思議そうに眺めてきた。
ここで何となく、こちらから話しかけた方が良いだろうと、私は私なりに何でこの場に千華がいるのかを不思議に思ったが声を掛けた。
「あ、え、えぇっと…こないだヒロとかと一緒に文化祭に来てくれたよね?んーっと…わざわざ来てくれてありがとう」
と何だか見え透いた言葉を投げかけてしまい、途中から自分で恥ずかしくなってしまっていたが、何とか最後まで言い切った。
それを聞いてもまだ暫くはキョトン顔を収めなかったが、それでもふとまた”可愛い子”風の雰囲気をバッと身体の周囲に纏うと笑顔で返してきた。
「…う、うん!あの時は楽しかったねぇー、何と言っても、最後のあの演奏、正直私はああいう音楽は普段全然聞かないんだけれど、でも何だか感動しちゃった!」
「…ふふ、ありがとう」
と私がお礼を返していると、ここでふとヒロが私と千華にジト目で視線を配った後で、苦笑まじりに言った。
「お前らさ…さては、お互いに相手の名前を思い出せてないな?」
…鋭い。
「んー…」と私は照れ隠しにホッペを掻くのみだった。
確かに今ヒロが指摘した通り、私はこの時は実際思い出せてなかった。すごく言い方が悪いのを承知の上で言うが、記憶力が良いと自負している私でも、なかなか興味を持てない相手の名前を覚えるのは至難の技なのだった。確かに文化祭で初めて見た時が、一人称が”千華”の時点でキャラが立っていたので、それなりに興味は湧いていたのだが、他人事のようで恐縮だが、こうして思い出せなかったという事は、まぁその程度だったのだろう。
でもそれはおあいこだ。千華も私と同じようなリアクションを取っていたからだ。
「しょうがねぇなぁ…っと」
ヒロはため息まじりに漏らしたが、ふと人通りの多い周りを見渡し、そして次にすぐ近くの先に時計が乗っかっていたポールの方を見ると、私たちに声をかけた。
「いつまでもここにいたら人の邪魔だからよー、取り敢えずあそこに行こうぜ?」
ヒロの提案に乗り、ポールの下まで四人で行った。
と行くまでのこの時、ふと裕美がさっきから一度も声を発していないのに気付き、不意に顔を覗いたが、その時の裕美の表情は何とも言えない静かなものだった。
その時ふと心配に思って声を掛けようとしたのだが、ヒロがこの時に、改めて自己紹介をしあうように言ったので、ヒロに言われる筋合いはないと内心ムッとしたが、言ってることは正鵠を射ていたので、やれやれと紹介をしあったのだった。
千華にまずしてもらい、それから私がし終えると、「琴音ちゃんね、うん、よろしく!」と明るく返してきた。
が、ふとその流れで裕美とも紹介をし合ったその時、ふとまた何か不穏な空気が二人の間に流れるのを感じた。それを感じた瞬間、それに自分で驚いてしまった。何故なら、冷静に側から二人の様子を見ている限りでは、何も不穏感が生まれる余地など見えなかったからだ。二人とも和かに名前を名乗りあっていた。…しかし、やはり何度考えても、肌で感じたこの空気感は、気のせいなどではない…理由は説明できないが、その皮膚感覚だけは確かだった。
そんな私の胸の内は当然他所に、こうして改めてお互いに顔と名前を覚えたのだったが、今思えば不思議なのだが、何故だかこの時には連絡先を交換する流れにはならなかった。…まぁ、それだけだ。
「でさ…?」
そんな胸の中のモヤモヤをさておき、私はそれよりも先に気になっていた疑問を解消することにした。
「二人は何だか今さっき駅から出てきたようだけれど、どこか行ってたの?」
と二人を眺めつつ聞くと、ヒロと千華は一度顔を見合わせて、それからまたこっちに顔を戻すと、ヒロが笑顔を浮かべて答えた。
「あぁ、まぁな。今日はちょっと豊島区にある他校と練習試合をしてきたんだよ。それでその帰りさ。で…」
とここで千華の方をチラッと見つつ続けた。
「で、ここにいる倉田が俺らの部のマネージャーだからよ、こうして一緒に帰ってきたって訳さ」
「ねぇー?」
と間をおく事なく千華が合いの手を入れると、ここで不意に今まで静かだった裕美が口を開いた。表情には意地悪さを見せている。
「だったら、他の部員は?姿が見えないけれど、何で二人だけなの?」
…まるで”なんでちゃん”みたいね
などという、今思えば見当違いな感想を覚えていたが、そんなのんきな私を他所に会話は進んでいった。
「フッフー」
とここで何故か千華は意味深な笑みを浮かべると、一歩ほど裕美に近づいて言った。
「何故だか知りたい?それはね…」
とここで語尾を伸ばすと、ピョンっと身軽に後ろに下がり、そして何と急に恋人同士の様にヒロの腕に飛びついたのだった。
これには裕美も目を丸くしていたが、流石の私も千華の行動にとても驚いてしまった。
そんな私達の様子を愉快げに見てきながら、笑顔で千華は続けた。
「他のみんなは先に帰ったよー?で、残った私と昌弘君で、時間が余ったから少し池袋でデートをして来たの」
「で、デート?」
また思いがけない単語が出てきたので、思わず面を食らってしまったが、ここでふとヒロの格好を見て、その直後に、何だかそのチグハグさ加減が面白くなり、ついついここで吹き出してしまった。
その様子を、今度は千華が何だか怪訝そうな表情でこちらを見てきたので、私は素直に悪いと思いつつも、笑みを抑えることが出来ないままに言った。
「…ふふ、ごめんなさいね?私ってね、ほら、ヒロはよく分かると思うけれど、こういう恋愛ものっていうの?その手のものに疎くてね、千華ちゃんは良いんだけれど、そのー…ヒロの格好がユニフォーム姿のままだからさ、デートするには流石に格好がつかないんじゃないかって思ってね」
それを聞いた千華は、無表情でチラッとヒロの格好を見ていたが、その時「あははは!」と急に明るく笑う者がいた。裕美だった。
裕美は笑顔のまま私の肩に手を置くと、そのまま言葉を続けた。
「はぁー、確かに琴音、アンタの言う通りだわ。デートにユニフォーム姿はないよねぇー」
「ちょ、ちょっとあなた達…」
とここで千華が思わず私たちに何かを言いかけたが、それを今までされるがままでいたヒロが口を開いた。
「お前らなぁー…黙って聞いてりゃ…お前もだぞ」
「え?あ、ちょっとー」
ヒロが鬱陶しげに千華の腕を払うと、パンパンと服を払い、そして不機嫌そうな表情を浮かべつつ言った。
「ったく、今での話だと、俺があまりにもイタイ奴みたいじゃねぇか」
「あら、違うの?」
と私は、『いつもの軽口の流れでしょ?』ってな具合にからかい口調で口を挟んだ。この時私は、いつもの調子で軽口が返ってくるものと待ち構えていたのだが、その予想は外れてしまった。
ヒロは何故か目を丸くして、その後で何故か一瞬寂しげな表情を見せた。が、それは本当に一瞬で、次の瞬間には
「いやいや、そもそも違うんだ」と、何だかアタフタと慌て気味に言った。
「何が違うの?」
と、そんなヒロの珍しい姿に戸惑いつつも、何とか意地悪い笑みを浮かべつつ聞き返した。
「何がって、そりゃお前…はぁ、倉田ー、お前、妙な冗談をするんじゃねぇよ」
「…冗談?」
と私が漏らすと、一瞬間が空いた後で途端に千華が明るい笑い声をあげた。
「あははは!別に良いじゃなーい?昌弘君は冗談だって分かってるんだから」
「俺が分かっててもしょうがねぇだろ?同中の奴らならいざ知らず、こいつらは別の学校なんだから、何が冗談なのか分かる筈ないんだからよ」
「…なーんだ」
それを聞いた私は、自分でも分からないレベルで力が入っていたらしく、思わず力が抜けていくのを覚えながら溜息交じりに言った。
「冗談だったの?てっきり本当に恋人同士なのかと思ったよ」
「…え?」「え?」
とここで何故か千華と、それに裕美がほぼ同時に驚きの声を上げた。私も私でそんな二人の様子を不思議そうに眺めていたのだが、ここで急にまたヒロが、先ほどよりも慌てふためきつつ口を開いた。
「ば、バカ!そ、そんな訳ないだろ!勘違いすんなよな!れ、練習が終わった後によ、自由解散ってことになったんだが、せっかく池袋の近所に来たってんで、有名なスポーツショップに寄ろうと思って一人で行こうとしたんだよ。そ、そしたらな」
バシッバシッ
とここでヒロは何故か隣にいた千華の背中をバシバシと力強く良い音を鳴らして叩いた。
「い、痛いよー、昌弘くーん?」
と千華は大袈裟…でも無いのか、背中をさすりつつ抗議をしていたが、それに対してもヒロはただジト目を向けて「そもそもお前が余計な事をするから、こんな面倒な事になってんだろうが」とここで最後にまた一発背中を叩いた。
「ここにいる千華が勝手に付いてきてよ。俺は帰れって言ったんだが聞かねぇから仕方なく一緒に行ったんだ。で、でな、それでお店に寄ってよ、それでグローブの手入れ用の油とかを買ってな、それからは直接ここまで帰ってきたんだ。う、嘘じゃないぞ!」
「ふ、ふーん…?」
その余りにもな必死さ加減に驚いて、その勢いに押され気味になりつつ、また何故そこまでムキになるのか意味が分からずに混乱していたが、それでも何か返さなきゃと思い、自分でも見当違いだと思ったが、それをそのまま口に出した。
「…って、何をそんなにムキになってるのよ?冗談だってちゃんと分かってるってば。誰も疑ってないし。…ていうか、そんな事よりもさぁ…人の事をバカ呼ばわりしないでよね!」
と最後の方は、普段通りの軽口風味を入れつつ言った。
先ほども言ったが、今こんなことに突っ込むことも無いとは当然思ったが、場を収めるにはこれしか無いと思ったのだった。
そしてそれはどうやら功を奏した。
ヒロも当然私の意図とする所が瞬時に分かったようだった。何せ小学校入学以来の付き合いだ。阿吽の呼吸も出来て当然だろう…多分。
「お前なぁー…」
とヒロは坊主頭を掻きつつ、呆れ笑いを浮かべながら言った。
「そこ突っ込むかぁー?…てかよ、お前こそ普段から俺のことバカ呼ばわりをしてるじゃねぇか」
「私?…私はいいのよ」
とここで私は胸を張って見せて続けた。
「だって、事実だもの。私は正直者だから、嘘なんかつけないわ」
それを聞くと、ヒロは大きく溜息を吐いて、それから今度は苦笑まじりに返すのだった。
「はぁ…幾つになってもお前の言ってること、意味がわからねぇ」
「何よー」
と私が不満げに返すと、ここにきてようやく「ふふ」と裕美と千華が笑みを浮かべた。…まぁ浮かべたと言っても、初めは苦笑いからだったが。しかし途中からヒロも加わり明るく笑い始めると、それにつられてか、二人の笑みも自然なものに変化していった。当然、私もそれに混じって笑い合うのだった。
がしかし、この時ふと一つの情景が頭にこびりついて何故か消えなかった。
それは…ヒロがアタフタと言い訳をしている時、視界の隅に見えていた、裕美と千華の表情だった。二人とも、何故か私の方を同様に見てきつつ、そしてこれまた同じ、さっき裕美が一人で浮かべていた、静かな表情をしてきていたのだった。
「じゃあなー」
先ほど私と裕美がいた、家路と駅前への分岐路でヒロと千華の二人と別れた。なんでも家に帰るより前に、部室に用事があるのを思い出したとの事だった。
あの人騒動があった後、何か変な感じ、微妙な感じになってしまったと皆が思ったのだろう、自然とそのまま帰ろうという話になった。その道中、まぁ当然と言えば当然なのだが、ヒロの野球部の話に終始した。
今回が初めてではなく以前にも聞いていたのだが、今ヒロは中学二年に上がるに当たって、野球部でレギュラーを張っていた。一年生段階でも既に準レギュラーにはなっていたのだが、今は正式にだ。
私はほとほと野球には疎いのだが、ポジションとしては四番ショートというものらしい。聞く人が聞けば中々らしいが、私は知らない。ついでにヒロは今副キャプテンだ。キャプテンはまた別にいて、同学年で同クラスの男の子だという話だ。その子はピッチャーで三番らしい。同じクラブ、同じクラス、キャプテンと副キャプテンという関係故に、いつの間にか、いつも一緒につるむ仲になったとの事だった。
話を戻すと、ヒロが言うには雑務は主に副キャプテンがしなくてはいけない、その話を鵜呑みにすれば、それ故に思い出したそれを片すために戻るとの事のようだ。そんな事に対して、覚えておられるだろうか、顧問である聡から”たまに”褒められる事もあるとの話もしてきた。それに対しては生返事でだが納得して見せて、心の中では、何か機会があった時に聡に直接聞いてみようと思うのだった。
「なら私も一緒に行くよ。マネージャーの仕事があるのを、思い出したし」との事で、千華も一緒に行ってしまった。
そんな二人の姿を適当に見送り、「私たちも行こうか?」と裕美に声をかけると「うん」と心なしか元気なく返すのだった。
それから私たちは連れ立って歩いていたのだが、変わらずに何だか元気なく、ここに心あらずといった調子なので、少し心配した私は無理に色々と話を振ってみた。だが、一応反応は示してくれるのだが、どこか上の空だった。
いっそのこと思い切ってその理由を聞いてみようとも思ったが、今までに見た事のない裕美の様子に気圧されてしまったか、結局なにも聞けずじまいだった。
と、例の公園のそばに差し掛かろうとしたその時、不意に裕美が足を止めた。公園の入り口の真横だ。
私は少し前に進んでいたので、振り返り「裕美?」と声をかけた。
声をかけられても数秒間ジッと公園内に視線を向けていたが、そのままの体勢で「…琴音?」と静かに口を開いた。
「…ちょっと時間を貰えるかな?」
と言うと、ここで不意に私に顔を向けた。その顔には静かな、しかしさっきまでとは違って若干微笑みを浮かべつつ続けた。
「話したい事が…あるんだけれど」
「…」
その口調からは、並並ならぬ真剣味が感じられて、また今までの付き合いの中では見えなかった新たな一面を見せられたからか、ヒロ達に遭遇してからのアレコレも思い出されて、それ故にすぐには返せなかったが、それでも直後には答え自体は決まっていた。
私もなるべく合わせるように微笑みを浮かべながら応えた。
「…えぇ、もちろん…良いよ」
「…ありがとう」
裕美は一度ニコッと笑いつつ言うと、スッと前触れもなく公園内に入って行った。私もその後に続いた。
これまたすっかり定位置になった、二つあるうちのベンチの一つに並んで腰掛けた。
この時期にこの公園内に来ると、ついつい毎度の様に小学生時代のあの日を思い出す。あの日というのは勿論、そう、私と裕美がお互いに下の名前を呼び捨てあい始めた日だ。無理を言って、初めて裕美の大会を応援に観に行った帰りだ。
今日もあの日と変わらずに、ふと上を見上げると、私達の座るベンチの後ろに植わっている桜の木の枝が、頭上で所狭しと絡み合うように繁っていた。もう葉はほどんで落ちてしまっていたが、それでもやはり空が見え難い程であった。
座り位置から見て斜め数メートル先の一つ限りの外灯が、チカチカと時折点滅しつつ、頼りない淡い光を灯し、公園内に薄明かりを提供していた。
座ってから裕美はすぐには口を開かなかった。ただいつものように上を見上げたりしていたので、私も同じく黙りつつ上を見上げていた。
どれほどそうしていただろう、不意にクスッと笑ったかと思うと、裕美は顎を引き、私に顔を向けて口を開いた。
「…しっかし、アレだねぇー」
「…アレ?」
と私も元に戻して顔を向けると、裕美はニコッと一度笑い、そして続けた。
「うん、ただ単に今日も又聞きだったけれど、アンタの叔父さん…改めて変わってるなぁって」
薄明かりの中、そう言う裕美の表情は普段通りに見えた。
「それで今日ふと…いや、アンタからたまに義一さんだっけ?叔父さんの話を聞くたびに思ってたけれど…」
とここで裕美は悪戯っぽく目を瞑るようにして笑って言った。
「アンタのその変人具合って…その叔父さんにそっくりなんだね」
「…え?」
と私は思わず声を漏らしたが、これは別に何かショックを受けてそうしたのではなく、ただ単純に、何で急に義一の話をし出したのか、その意図を汲み取れないがゆえだった。妙に聞こえるかも知れないが、私と義一がそっくりと言われた事については、素直に嬉しかったと言っておこう。
そう漏らした私をほっといて、裕美はまた淡い笑みを浮かべつつ続けた。
「本当はこう言っちゃあ悪いんだろうけれど、まぁ琴音、アンタなら誤解なく受け止めてくれると信じてるから言えば、私…正直ね、不思議だったんだ。まぁ普通の家庭よりかは裕福って点では違うだろうけれど、それでもアンタの母さん、それにまだ一、二回くらいしか会ったことないけれどアンタの父さん…二人とも、とても”普通”の人でしょ?…ふふ、これは初めて言うかもだけれど、正直初めてアンタの母さんと喋った時ね、少し肩透かしだったんだ。だって…アンタがこれだけ変わってて、それでいて、またそれ故に面白い子だからさ、よっぽどアンタの親からして同じくらい変わってて面白い人なんだと思ってたんだもん。…ふふ、これが別に悪口じゃないってことは、アンタなら分かってくれるよね?」
「えぇ」
突然何だか身の内を話されて、少し面を食らっていたのだが、それでも裏のない裕美の素直な心内を聞かされて、それ程に信頼を寄せてくれているというのが暗に感じさせられて、私も嬉しく楽しく面白く聞かせて貰っていた。
私が微笑みつつそう返すと、裕美は満足げに一度コクっと頷き、今度は若干ニヤケ面を浮かべながら話を続けた。
「でね、ずっと不思議だったんだけれど…うん、一つその原因の一つが分かったんだ。恐らく琴音、アンタは元からなんだろうけれど、その個性を失わずに今まで来れた理由というのが…その叔父さん、義一さんがそばに居たからじゃないかってね?」
「…」
すぐには返せなかった。何せ、余りにも裕美の言うことが正鵠を射ていたからだ。そう、間違いなく裕美の言う通りだと思う。義一と付き合いがないまま、小学五年生の夏に義一と再会出来ていなかったら、本音の部分ではそう変わらないとは思うけれど、それでも表面上はもっと上手く、裕美の言うところの”変わった部分”は持ち前の演技力で誤魔化し誤魔化し生きていただろうと思う。
…何で裕美の話を聞くという理由で公園内に座ったというのに、こんな話をしているのか疑問に思わぬじゃなかったが、それでもそのまま裕美の話に素直に乗っかった。
「…えぇ、そうかも知れない…っていうか、ズバリそうね」
「…ふふ」
裕美はそう微笑みをこぼすと、今度は突然「んー」と大きくその場で座ったまま伸びをしつつ言った。
「何で急にこんな話をしたのか、アンタのことだから不思議に思ったでしょ?…アンタは”なんでちゃん”だからね?…ふふ。アンタ覚えてるでしょ?あの花火大会の後、あの時来てた叔父さんについて、内緒にしてって頼んできた事」
「えぇ…」
と私が返すと、裕美はまた行儀よく座り直し、そしてまた柔和な笑みを浮かべつつ、しかしどこか恥じらいつつも続けた。
「あの時もアンタに言ったと思うけれど…そんな大事な話を私なんかにしてくれて、そのー…とても嬉しかったのよ。…うん。でも、その後で言ったと思うけれど、まだアンタは私に話しきれなかった点はボヤかしてたよね?自分でもそう言ってたし。…ふふ、でもさ、今日のことも含めて、『アンタが何で自分の両親に隠れて、叔父さんという近い親戚に会うのに、コソコソとしなくちゃいけないのか?』っての理由が何だか、ハッキリとじゃないけれど分かった気がするの…どう?」
「…」
この問いかけに対して、私は何も言わずに、肯定とも否定とも取れるような曖昧模糊とした微笑みを浮かべて見せた。
しかしキチンと裕美は察してくれたようで、「まぁ、いいわ」と明るく笑いながら言った。それ以上その微笑みの意味について言及してくることは無かった。
と、ここでまた裕美は表情を落ち着けると、声のトーンも落とし気味に言った。
「でさ、その時に…んーん、その前、小学校の卒業式の後に会話したの覚えてる?…お互いに、身も心も大人になったら、まだその時に話せなかった事を言い合おうって約束したの…」
「…もちろん」
当然、忘れる訳がなかった。裕美との間で交わした約束の中で、圧倒的に一番大事で重要な類だったのだから。
私が意思を示すが為に、若干語気を強く返すと、裕美は一瞬ニコッと笑ってから続けた。
「うん…。でさ、今も触れたけれど…琴音、アンタはそれでも何だかんだ私に、色々と胸の内やら何やら…叔父さんの事とか、色々と話してくれたでしょ?」
「…」
「その度に、そんな約束を交わした一方の私としては、そう話してくれた事について、んー…アンタと違って、私には”恥じらい”というものがあるから言いにくいんだけれど…」
「何よー」
と私は膨れて見せたが、それでも話を途切らせまいと、ほどほどのところで留めた。裕美は続けた。
「…ふふ。うん…そう、やっぱりそう話してくれて嬉しかったは嬉しかったのよ?…うん。ただ一方的に話された事に対して、今文句を言いたいんじゃないの。…ただね、そう話されるたびにさ、ここまで私に対して信頼を置いてくれてて、それで色々と話してくれてるというのに、私は何一つとして今だに話せてなかったなぁ…って、普段から思っていたの」
「…」
今だに、裕美が何故私を公園に誘い入れた理由が見えなかったが、それは別にして、久しぶりに裕美の口から”恥ずい”話をして貰って、これはこれで不満はなかった。満足だった。
「でもね…」
とこれまで私に顔を向けつつ話していた裕美は、ふとため息交じりに言ったかと思うと、不意に正面を向き、目の前数メートル先にあるベンチを眺めつつ、少し疲れ気味にも取れるような口調で続けた。
「そんな勇気のない意気地無しな私でも、とうとうそんな呑気な態度を取っていられなくなってきたのよ」
「…?どういう…こと?」
と私は聞き返したが、裕美はこちらに振り向かず、そのまま顔を正面にしたまま続けた。
「まぁ…事態が急速に変化していってて、このままではどんどんライバルに出し抜かれて、終いには取られちゃうって結末になるんじゃないかって心配なのよ」
「…ん?イマイチ話が見えないんだけれど…?」
と私がそろそろ焦れったくなってきて、口調もそれを隠さないままに言うと、ここで裕美はやっと顔を私に戻し、そして若干表情を笑みに近いような緩め具合で言った。
「あのさ…琴音?」
「なに?」
「…今日、さっき会った、そのー…ヒロ君と千華ちゃん…さぁ」
「え、えぇ…あの二人がどうかしたの?」
ここにきて突然、ヒロと千華が出ていたので、少し驚きつつ聞き返すと、裕美は少し表情を曇らせて言った。
「うん…琴音はそのー…あの二人を見て…どう思う?」
「え?ど、どうって聞かれても…」
まぁそう聞かれたので、私は馬鹿正直にさっきの駅前での事を思い出して見た。
「んー…まぁ、仲良さげには見えるかな?…若干、いや、かなり千華ちゃん…だっけ?千華ちゃんのスキンシップ過剰には驚いたし、そのー…引いたけれど」
もう少しオブラートに包んで言おうと思ったが、だがこれ以外に言いようがなかったので、素直にそう言った。
すると突然裕美は勢いよく体を捻って、「だよね!」と言いながら、私に上体ごと正面に向けて、両手はベンチの座面について、私の方にグイッと近寄ってきた。
「え、えぇ」
あまりの裕美の突然の変貌ぶりに心底驚いて、タジタジながら同意だけしておいた。
そんな私のことは他所に、先程までとは打って変わって、妙にハキハキとした口調で、興奮を抑えられないといった様子のまま言った。
「千華ったらね、さっきも話でポロっと出ていたけれど、アレは普段かららしいの」
「アレ?」
と私が聞き返すと、裕美はここでやれやれと首を横に振ってから、苦笑交じりに言った。
「アンタも自分で言ってたでしょ?あのスキンシップよ!自分の身体をくっつけるような」
「あ、あぁ…」
と、私が間に合わせの相槌を打つと、裕美は「もーう」とまた苦笑いを浮かべつつそう漏らした。
繰り返しになるが、この変貌ぶりには驚いたが、それはただ普段通りに戻ったとも言える訳で、なんだかんだでホッとしていた。さっきから”千華ちゃん”じゃなく”千華”と呼び捨てにしてるのにも気づかない程に。
「こないだ文化祭に、アンタと私が誘った友達みんなにも話を聞いたんだけど、そうらしいんだよぉー。千華本人は冗談って言ってたけど、やっぱり周りは多かれ少なかれ引いてはいるみたい」
「ふ、ふーん…」
と一応また相槌を打ったが、正直言ってそれ程面白い話じゃないし、興味もそんなに無かったので、ここで初めて裕美が千華を呼び捨てにしてるのに気付いたのだった。
「…ん?てかさ、今千華ちゃんの事を呼び捨てで話してたよね?」
「え?う、うん」
とここで勢いを急に止められたせいか、見るからに不完全燃焼な様子で、キョトンとしつつもそう返してきた。
私は構わず続けた。
「裕美、あなた…実は前々から、千華ちゃんのこと知ってたの?」
「…」
そう、私たちの小学生時代の事を覚えておいでだったら分かると思うが、裕美は初対面の人に対して、こうして本人のいない場合ですら呼び捨てにすることは無かった。もちろんそれ以降は、相手によるが徐々に呼び捨てになるのが常だったが、繰り返すが初対面でというのは初見えだった。だから違和感を覚えたのだ。
それを聞かれた裕美は、その直後にはまだキョトン顔を崩さなかったが、ふと途端に「あははは!」と明るく笑ったかと思うと、その明るい笑みのまま私に、さも感心した風で言った。
「なるほどなぁー。すぐそこに気付くとは、流石琴音ってところかな?」
「…バカにしてるのー?」
と私がわざとらしくジト目を向けると、「あははは、褒めてる褒めてる!」と返すのだった。
しばらく一人で笑っていたが、ふと今度は照れ笑い気味の苦笑を浮かべると言った。
「まぁそこまで察せられちゃったら仕方ない…。うん、白状するとね、実は…うん、知ってたよ」
「へぇー」
と私はここにきてようやく、この今だに何の目的と意味があって続いているのか分からない会話に対して、初めて興味が湧いてきた。と同時に疑問も。
「そうなんだ…って、あれ?おかしくない?だってあなた達、さっき自己紹介をし合ってたじゃないの?…あ、そうか」
と私は一人でブツブツ言いながら、ふと一つの考えが浮かんだので、それを言ってみることにした。
「あれか、文化祭で知り合ったって、その意味?」
それを聞いた裕美は、何だか記憶を手繰るような様子を見せていたが、「…ぷ」と一度小さく吹き出すと、若干口元を緩めつつ返した。
「いやいや、違うよ。もっと前…うん、だいぶ前から知ってたよ。聞いてくれる?」
もうかれこれこの公園に入って、ベンチに座り会話を始めてからどれほど経ったのだろう。十一月の夕方…夕方と言っても、もう日も落ちて辺りは真っ暗になっており、木々に囲まれてるとはいえ時折それでも冬の気配を含んだ風が通り過ぎていた。当然寒く感じるのが普通の筈なのだが、この時の私、そしておそらく裕美も、夢中のあまりに感じないのだった。
「えぇ」と私が間をおく事無く返すと、裕美はまた正面に顔を向け、気持ち顎を上げて中空に向かって話すように言った。
「あの文化祭の時に自己紹介しあってさ、その流れで、千華が私達とは違う小学校に通ってたって話をしたのは覚えてる?そう、千華は別だった訳だけれどね、それでもある事がきっかけで、私と千華の繋がりが出来たの。それはね…」
裕美はここで一度区切り溜めて見せてから言った。
「ヒロ君が大きく関係しているの」
「…え?ヒロが?」
「うん…。というのもね、実は私と千華が知り合う事になった場所というのが、ヒロ君の所属してる野球クラブの試合、それを観戦して応援していた場でだったの」
「へぇー」
ヒロが絡んでくるのも意外だったが、私の知らないところで、そんな繋がりが出来てることにも驚いていた。まぁでも、私が知らなくて当然だった。
何せ、裕美に誘われるまでは一度たりともヒロの試合を観に行った事が無かったからだ。
「ヒロ君が打席に立った時とかにさ、私は当然『森田くーん!頑張ってー!』ってな具合に声援を送ってたんだけど、ふと私と同じように送ってた女の子がいるのに気付いたの。それが…千華だったんだ」
「へぇ…」
と相変わらずのボキャブラリーの無いリアクションをしていたが、それでも裕美は慣れっこなので、構わず先を続けた。
「何度か鉢合わせになるとね、その内時々会話をするようになって、それから自己紹介をし合ったりしたんだ。それでね、直接ではないけど何となしに聞いてみたんだ。『何でヒロ君…まぁ当時はまだ森田君って呼んでたけど、ヒロ君を応援してるの?』ってね。だって何度も言ってるけど、学校違うし、それだと中々知りようが無いじゃない?他校の生徒の事なんて。そしたらまぁ千華が言うにはね、友達の友達…って何だかややこしいけど、その男の子がヒロ君のチームメイトだったらしいの。それで友達に何気なく観に行こうよって誘われて、初めは乗り気じゃなかったらしいんだけど、それでも行ってみたら、なんかヒロ君がグランドでガムシャラにやってるのが目に入ったんだって。一際目立っていたらしく…って、それは千華に言われるまでもなく私も知ってるけれど、まぁそれからは、ヒロの応援に行くようになった…そういう話らしいわ」
「へぇー…奇特な人もいるものねぇ」
と私は感心して見せて、それから裕美に笑みを浮かべつつ言った。
「裕美は自分の水泳の試合を応援に来てくれてたって理由で、そのお返しの意味を込めて行ってたっていうのは理解が出来るけれど、千華ちゃん、あの子は何の借りもないのに応援に行ってたって事だものね?」
と、私は冗談ぽく言ったのだが、それを聞いた直後の裕美の顔を見て驚いた。半分は呆れたといった感じだったが、もう半分がどこか哀しげな笑みだったからだ。
思わず『裕美?』と声を掛けたくなるほどだったが、裕美はすぐに苦笑を浮かべると、そのまま話を続けた。
「…まぁとりあえずね、そんな訳だったから、あの子…千華ったら、私のことを知らない筈がないのに、ああやって初対面ぶるんだからなぁー。因みにヒロ君は千華の事を知らなかったはずよ?だって、試合後は私はいつも真っ先に駆け寄ったけれど、千華は遠くから眺めているのみだったもん」
「へ、へぇ」
最後に何だか気持ち誇らしげに言うのも軽く引っかかったが、それよりも、根本的な疑問がまだ解消されていなかったので、それを聞いてみる事にした。
「…っていうかさ、じゃあそもそも何で千華ちゃんは、今日みたいに初対面ぶったんだろうね?」
そう聞くと、裕美はまた座りながら大きく伸びをしつつ「さぁねー?」と言った。
「さぁねーって、あなたも分からないんだ」
と少し不満げに返すと、
「そりゃあね、だって…冗談と称しつつも、ああやってスキンシップを恥ずかしげもなくするような子だもん」
と悪戯っぽく笑いながら言った。
それに対して私も同様に返そうと思ったが、ふとここで裕美は体勢を戻すと、先程までのような静かな笑みを浮かべつつボソッと言った。
「まぁでも…どんな感情から来るのかは、分かるなぁ…」
「え?それは何で?」
と私が聞くと、裕美はふと片足をベンチの上に置き、膝を抱え込むようにして、その上に顔を乗せて私に向きつつ、どこか寂しげな笑みを浮かべながら言った。
「だって…私と同じなんだもん」
「…え?…裕美と…同じ?」
と私がまた訳がわからないと言った様子を見せると、ほんの数秒ほど裕美は静かな視線をこちらに向けてきていたが、ふぅ…っと一度ため息をついたかと思うと、次の瞬間には呆れ笑いを浮かべつつ言った。
「…はぁ、見た目はお姫様で乙女チックだというのに、肝心の乙女心はサッパリなんだからなぁ…察して貰おうというのは無理な話か」
「…ちょっとー、こんな時にまでお姫様呼びはやめ…って、え?…乙女…心?」
いつもの癖というか、癖にさせられたというか、瞬間的にツッコミを入れようとしたその時、その習慣癖をも止めるほどのインパクトがあった単語だった。
そんな私の様子を見て、ますます呆れ具合を強める裕美は、「そう、乙女心よ」と言ったが、途端にここで口をつぐむと、何だか少し苦しげな表情を浮かべて、何やら逡巡して見せた。
何か話しかけようとも思ったが、ここは我慢のしどころと、私は黙って続きを待った。
どれほど経ったか、まぁ言っても十秒も無かっただろうが、ふと裕美は、これまた今までに見たことのない程までの照れ笑いを浮かべて見せつつ、そして如何にも重たげな口をゆっくりと開いて話し始めた。
「そのー…ね?ここでようやく、琴音、アンタに今まで話せなかった事の一つ…いや、アンタのと同じで連動してるから細かく言えば違うけど…っていやそんな話じゃなくて、うーん…琴音、笑わないで聞いてくれる?」
「…」
そう聞かれた時、ふと小学生時代を思い出した。そう、裕美が初めて自分の将来の夢、医者になりたいという夢を語った時のことだ。
私は思わず思い出し笑いをしそうになるのを堪えつつ、表面上は静かなまま「えぇ、もちろんよ」と返した。
そう返しても、まだどこか照れ臭さは抜けていなかったが、もう開き直ったのか、そのまま続けた。
「ありがとう…。そのー…ね、ヒロ君…さ、…いるー…でしょ?」
「え、えぇ…」
笑わないでと釘を刺したのだから、これが冗談じゃないことくらいの事は私でも分かった。それでも何か言わずにおれなかった私は、ただ単純に「いる…わね」と頭悪そうな相槌を打っといた。
裕美はそんな私の言葉が耳に入っていない様子だったが、ふと力強く意を決したように私の顔を直視し、それから静かに、しかしどこか意志の強さを感じさせるようなトーンで言った。
「私ね、じ、実は…む、昔…そう、小学生の、頃…からね?ヒ、ヒロ君の、そのー…事が…」
とここで裕美は言葉を止めたが、一瞬全身に力を入れたかと思うと、それとは裏腹に弱々しげな声でやっとといった調子で続けた。
「…好きなの。そしてそれは…変わらずに今も」
「…」
あまりの突然の”告白”に、おそらく言い終えた裕美もそうなのだろうと想像出来たが、それを受けた私の方でも頭が真っ白になった。
それでも口からは、意識しないままに「…へ?」と意味の無い声だけを漏らした。
裕美の方ではいつの間にか自分の腿あたりに視線を落として俯いて黙っていた。
私の頭も混乱したままだったが、それでも何とか過ぎった単語をボソッと投げかけてみた。
「それって…も、もちろん…友達、として…では、無いー…よね?」
「…」
裕美は俯きつつ黙ったままだったが、それでも小さくコクっと頷いた。
「そ、そっかー…」
と私はやっとの思いで口から漏らすと、それからは私も一緒になってしばらく黙ったままでいた。
何せこういう時、どんな言葉を掛ければいいのか、何一つとしてストックを持っていなかったからだ。しかも私の知らない人ならいざ知らず、私の知る人…いや、そんな言い方では生ぬるい程に、お互いに良いところも欠点も知る尽くしていると思われるような、ヒロという男子、それが相手となると、こちらとしても色んな想いが嵐のように胸の中を渦巻いて、その中から適切な言葉を抜き出すのは至難の技だった。
…これまで長々と私の話を聞いてくれた人からすれば、今更感もあるだろう。裕美がヒロに対して、並並ならぬ想いを募っているというのは、その一挙一動から推察するのは容易に見えるからだ。しかし、ここで言い訳をさせて頂きたい。意識的には無くても、この手のことに疎い私でも流石に無意識のレベルでは何となくは分かっていたと思う。だが、私の中にあるヒロ、私が勝手に作り上げた、長年に渡る付き合いで構築された”ヒロ像”には、いわゆる恋愛話が生まれる、もしくは絡むようになる様な、そんな要素があろうとは、露ほどにも思わなかったし、想像だに出来ない事だったのだ。まぁ有り体に言えば、ヒロに恋愛話をからめまいと、先ほど軽く触れた無意識の部分で、考え自体を遮断していたのだろう。その遮断していた理由自体は今だに謎ではあるのだが。
まぁこんなキリのない自己分析はこの辺りで留めておいて、話を続けよう。
しばらく沈黙が流れていたが、とうとう私の方が我慢が出来なくなり、辿々しくも話しかけた。
「そのー…さ、因みに…ヒロのどこに惹かれたの?」
「…え?」
と私の言葉に反応して、裕美はようやく上体を起こした。その顔には極度の疲労度が浮かんでいた。それほどまでに、裕美からしたら覚悟のいる”告白”だったのだろう。
裕美はしばらく私の顔を眺めていたが、この時私が努めて微笑みを浮かべていたのが功を奏したか、裕美は力無げではあったが微量の笑みを浮かべつつ、消え入りそうな音量で答えた。
「そ、そうだなぁ…ま、まぁまずあの明るい性格でしょ?それと…」とここで何か言いかけたところで裕美は突然話を止めた。
そしてゆっくりとカブリを振ると、ふっと力のほどよく抜けた微笑を湛えつつ、しかしまだ何処かに照れを忍ばせながら言った。
「…んーん、こんな細かいところなんかじゃない。えぇっと…前にどこかで言わなかったっけ?…私の理想的なタイプは?って話」
「えぇ、確かあれは…ふふ、絵里さんの所にあなたと二人では初めて行った時に出た話よね?」
と私が答えると、裕美はここで一瞬意地悪げな笑みを浮かべて「アンタがロクに恋話も出来ないくせに、その手の話題を振ったからね?」と返してきた。
「まぁね…」と私はそれには返す言葉もなく、バツが悪そうに苦笑を浮かべて漏らすのみだった。
だが心の内としては、あの時の裕美と絵里がアタフタとしていた姿を思い出してたりして、その苦笑には思い出し笑いも含まれていたのだった。
裕美はそんな私の様子にただ黙ってニコッと一度笑うと、また元の顔に戻って言った。
「その時にも言ったと思うけれど、繰り返し言えばね?私の好きなタイプというのは、これは別に男の子に限った話でもないんだけれど…そう、私自身がどんな状態であっても、どんな境遇下にあっても、一切今までの態度を変える事なく私に接してくれる…そんな人が私の理想、そんなことを話したと思うけれど…うん、私にとってのソレが…ヒロ君だったの」
「…」
「琴音、アンタのその歯に衣着せぬというのか、全て本気で来るような態度に思わず絆されて話しちゃった事あったよね?そう、私が初めて都大会で優勝した時、朝礼で表彰されたりと目立ったりなんかして、それ以降、急にクラスメイトやら何からが私の周りを取り巻くようになって、まぁ…結構チヤホヤされてたって。その直後には良く言われてたのよ。『次の大会とかってあるの?あるのなら何があっても絶対に応援に行くからね!』ってね。その時私もついつい嬉しくなって『うん、ありがとう!』って返してた。でも…そのうちに段々と周りの人間は、自分たちがそう言ったのを忘れたみたいに、一切水泳の事には触れなくなった。まぁ…私から話を振らなかったというのもあるけどね?でも…私が勝手なのかも知れないけど、相変わらずに私の周りには多くのクラスメイトがいたけれど、でもそんな周囲の態度が変容していったように見えて、そのー…とても気持ち悪く思っちゃってたの」
「…」
なるほど…初めて私が水泳の大会を応援に行っていいかを聞いた時、最初に渋って見せてたのは、ただ恥ずかしいだけじゃなくて、こんな想いがあったからなんだなぁ…
と私はここまで聞きながら改めて一人納得していた。
「その態度の変容の具体的な例で言えば、そう、次にあった別の水泳の大会の時。私はその時久しぶりに周りにその事を伝えてみたの。『後何週間後には水泳の大会があるんだー』ってな具合に、ちょっとした雑談形式でね。…別にその時には”応援来てくれない?”みたいな恥ずい事は言わないで、ただその反応を見てたんだけど…」
とここで裕美は自嘲気味に笑いつつ続けた。
「ふふ…思った通りというか何というか、皆大体おんなじ様な素っ気ない反応を返してきたの。『あ、ゴメン。その日は用事が…』だとか、そんな類のね。まぁこれまた私の勝手なんだろうけれど、『何があっても絶対に…』って言ってくれたのに来てくれないんだなぁ…って思って、少し…うん、寂しい気分になったのは本当。でもね、そんなある日にさ」
とここで今まで少し表情に影を差していた裕美は、ここで途端に明るみを全面に打ち出しつつ、しみじみと感慨深げに晴れやかに続けた。
「『おい、高遠?』って急に話しかけられたの。それが…ヒロ君だった。『何?』って私は少し素っ気なく返したの。だって…普段周囲にいるみんなの中にはいなかったし、だからその当時はそんなに会話をしたことが無かったから、少しオチていた事もあって、意外な人物に話しかけられたってんで身構えちゃったの。まぁそれは置いといて、私がそう聞き返すとね?…ふふ、ヒロ君ったら、何だか言いづらそうにしながら、照れ臭そうに頭を掻きつつ突然前置きもなく聞いてきたの。『お前さぁ…今度大会があるんだろ?』『う、うん…』私はいきなり大会の話を振られたから、何の意味か分からずにただ取りあえず肯定したの。そしたらヒロ君…ふふ、何故か急に胸を張るようにしながらね、こう言い放ったんだ…。『今度応援に行かせてくれよ?前にほら…約束したじゃんか?』」
「…え?それって…」
と瞬時に矛盾点に気づいた私はすかさず突っ込もうとしたが、裕美の苦笑いに押しとどめられた。
「んー…ふふ、うん、そう。大会で優勝した後で色々と話かけられた中に、ヒロ君もいたみたい…。…うん、あまり自分では認めたくないけれど、まぁ急に周りにチヤホヤされるようになって、舞い上がってたんだねぇ。だからそのー…一々一人一人を見ていなかったってことかな…。ふふ、そう考えると、なかなかに私自身もヒドイ奴だね?…でね、当時の私はすっかり驚いてしまって、そのー…ふふ、うん、アンタに初めて応援に行きたいって言われた時と同じように、最初は何度も断ったんだ。…本当は嬉しかったくせにね?でも、それでもヒロ君は引かなかった。『約束したじゃねぇかよー』の一点張りでさ?」
そう言う裕美の顔は、本当に楽しげで、歓びが満ちてるようだった。
「まぁそんな訳だったけど、でもその嬉しさを前に出すのも恥ずかったから、『もーう…じゃあ、まぁ…いいよ?』って少しつっけんどんに返したの。そしたらさ、ヒロ君てば…大袈裟にガッツポーズなんかしちゃってさ?見ているこっちが恥ずかしかったけれど、そのー…うん、ヒロ君のこと、私って実は好きなんじゃないかって自覚し始めたのはもっと後になってから…この時とはまた違う次の大会に観に来てくれて、私の成績に対して、まるで自分の事のように喜んでくれた、その時だったけれど…うん、実はもうこの『応援に行く』って言ってくれた、この頃から…自分でも気づかないところで、すでに好きになり始めていたのかも知れない…って」
とここまで話した裕美は、不意に照れ臭げに笑みを漏らしながら言った。
「どんなところが好きなのか聞かれただけなのに、何だか余計なことまで喋っちゃったね?」
私はそれを聞いて、ゆっくりと首を横に振って「んーん」とだけ返した。
実際、裕美からここまで本音を聞いたのは久しぶりだったと言うのもあって、言い方が適切かどうか怪しいが、とても興味深くて面白がっていた。
私の反応を見ると、「ふふ」と一度また照れ笑いを浮かべた後で、ここでまた不意に今度はとても自然でしおらしい、静かな微笑を浮かべつつ、私の目をまっすぐ見てきながら言った。
「…琴音、…今日が初めてって訳じゃないけれど、そのー…私のこんな恥ずい、真面目な話を最後まで真剣に聞いてくれて、そのー…ありがとう、ね?」
「…」
私はこんな時、どう返すのが一番ベストなのか、元来頭でっかちな性分ゆえに、ついつい思考を巡らせてしまっていたが、フッと一度笑みをこぼしてから返した。
「…ふふ、当然のことをしたまでよ。…親友としてね?」
この”親友”と言う言葉を吐いたその時、頭にあったのは師匠と京子のことだった。
…ただ、今回はうまく無かったらしく、裕美は目を大きく見開いた後で、顔面いっぱいに苦笑いを浮かべつつ「もーう」と言った。
「相変わらずそんな恥ずいセリフを臆面もなく言うんだからぁー。聞いてるこっちの身にもなってよー…でもさ」
とここでまたスッと表情を落ち着けると、目を細めて微笑みつつ言った。
「…琴音、本当にありがとうね」
これに対して、私が返す言葉は一つしかない。
「…ふふ、どういたしまして」
それから二人で一瞬真顔で顔を見合わせた後、どちらからともなく、初めはクスクスと小さく、それからは徐々に大きく、最終的には明るく笑い合ったのだった。
そんな夜も七時になった、寒風の時折吹く十一月、晩秋の公園だった。
第18話 (秘蹟)
ビュー…ビュー…
…ん?
風音に似ているが、実際は違うとすぐに察せられる様な、なんとも表現し難い音と、それと同時に鼻腔を微かにくすぐる様に満たす爽やかで芳しい香りに気づかされた。
…そう、後になって藤花と藤花のお母さんに教えてもらった、乳香の匂いだった。
前回と同じで、蹲った所から始まった様だ。…もう言うまでもないだろうけれど、敢えて言えば、またあの夢の中に来たらしい。
「…っと」
と思わず声を漏らして顔を上げたが、この瞬間、何故蹲っていたのかを思い出し、途端に口元を両手で塞いだ。
そうだった。今私は以前いた大広間から移動して階段を登り、今は太い柱が数え切れない程に立ち並ぶ、礼拝堂の様な所にいたのだった。そして最後、幾人か…正直今だに姿形こそ人だったが、人とは思えないその”ナニカ”の群れが突如現れて、そしてこうして今の様にたまたま見つけた。基礎を屈めれば入れる程度の広さの窪みに隠れて、息を潜めていたのだった。
ふとまたあることを思い出し、目の前の柱の一つの、その上部を眺めてみた。
相変わらず辺りは、私の手元で淡く柔らかいオレンジ色の光を漏らしているカンテラ、それにぼうっと照らされて浮かび上がる私の身体以外は、灰色一色、違いがあるとすれば、光による濃淡のみだった。
そんな気が重くなる様な風景の中、柱の上部には前と変わらずに真っ黒のマリア像が飾られており、薄暗がりにも関わらず、その顔は私の方を見下ろし、そして心なしかこちらに微笑みかけてきてる様に見えた。
思わずその黒いマリア様に見惚れていると、また例の音が耳に届いた。
ビュー…ビュー…
…さっきからなんだろう、この音は…?
やはり何事も、特にこのような異様な空間の中で突然出現する思い掛けない出来事に関しては、胸の中を恐怖感が占めていくのだが、しばらくして慣れてくると、今度は一気に好奇心に心を揺さぶられるのだった。
私は今いる窪みからそっと這い出て、目の前の”黒いマリア様柱”の影に合わせて立ち上がり、それからそっと向こう側を見ると、前回見た修道士姿の”ナニモノタチ”が、何やら祭壇らしき前に集まり、そしてその中の一人が膝をついて何やら口元を動かしていた。
…何故わざわざ口元を動かしていたなどと、曖昧な言い方にしたか。それは…先程来聞こえていた風音もどきの出所が、そのモノの口から発せられているのに気づいたからだった。
口元は忙しなく動いており、私に読唇術の心得があったなら分かったかも知れないが、結局耳に届くのはビュービュー音のみで、それが何を意味してるのか、まぁ何か祈りを唱えていること以外には分からなかった。
しばらくすると、跪いていたモノは立ち上がり、半歩ほど後ろでジッとしていた他のモノどもを伴って、礼拝堂の中を、柱の間を縫うようにゆっくりとしたペースで歩き回り始めた。
シャン…シャン…シャン…
と同時に、何だか規則正しく鳴る鈴の音が、礼拝堂内に響き渡っていた。
…何の音だろう?
思わずその音に気を取られそうになったが、途端に我に返った私は慌てて、また窪みに慌てて滑り込んだ。
徐々に鈴の音、それと一緒に乳香の匂いが強まるのを覚えつつ、また膝を抱え込んだその時、ちょうど目の前を修道服姿の数名が、のっそりとしたペースで通り過ぎるところだった。
と、おそらく先ほど跪いていたモノだろう、先頭を歩いていたがその手元には、鈍い光を反射する金属物があった。それは金属製の鎖によって吊り下げられており、よく見ると鈴が鎖に付けられていた。それを等間隔に左右に振っていたので、それによって鈴が鳴っていたのだった。
と、それと同時に、うっすらと隙間から乳白色の煙が漏れているのも見えた。どうやらこれが乳香の香りの元らしい。目の前を過ぎる時が一番匂いが強まっていた。
相変わらず何か祈りの言葉を吐いていた様だが、やはり耳には風の音の様なものしか聞こえなかった。
どれほどそうしていたのだろう、一通り済んだのか、その一団はふと、私がここまで来るのに使った階段の方へ向かって、それから揃って階下の方へと歩いて行ってしまった。
「ふぅ…」
と私はまた窪みから這い出ると、思いの外緊張していたらしく、体がカチコチになっていたので、その場で大きく伸びをしたりした。
そして一度また黒のマリア様に目を向けて、それからは好奇心を抑えることなく、先ほどの集団が固まっていた祭壇の方へとまっすぐ向かった。一体何に向かって、そんなに熱心にお祈りをしていたのか気になったからだった。
だが、着いてみてすぐには、何が何かは把握できなかった。と同時に、少し…いや、かなりガッカリもしたのだった。
というのも、目の前にあったり置かれたり、飾られたり全てが、一口に言って煤けてボロボロになっていたからだった。
祭壇自体は幅が二、三メートルほどだろうか、それ自体はなかなかしっかりした頑丈そうな作りをしていたが、その上を覆う様に掛けられていた織物が、これでもかという程に至る所が破けており、見るからに埃まみれで、手で触るのは躊躇するほどだった。息を吹きかけたら、それだけで舞い上がりそうな程に積もっていた。それでも灰色一色の世界の中とはいえ、よーく見ると、そのボロ切れは、元々は上等な物だというのが辛うじて分かった。美しい透かし模様のシルク・ビロード・サテンで作られた精巧なものだったらしい…が、その上等さはもう見られなかった。
少し屈んで見ると、ボロ切れの隙間から祭壇の前面にも凝りに凝ったレリーフ…の跡が見えた。中心には生まれたばかりのイエスキリストを抱いたマリア…らしきものがいて、その両脇を合計四人の天使…らしきものが取り囲んでいた。この手のモノについて門外漢の私でも、前回に修復なり何なりをしてから大分月日が経っているのが分かった。
祭壇の両脇には二本のロウソクたてがあったが、両方ともロウソクは刺さっていなかった。ただあるのみだった。
…とまぁ、色々とガッカリポイントは挙げるだけでもキリが無いほどにあったが、極めつけは…祭壇の後ろにあった祭壇画だった。
それは三枚の板絵が横一列に、左右の板絵が中央の板絵のトビラとなるように連結された三連祭壇画…ではあった。その表面の三分の二ほどは剥げ落ちてしまっていて、下地が無残にも露わとなっていた。それでも残りの三分の一部分で、辛うじてどんな場面が描かれているのかが分かった。中央部分に、顔の剥げ落ちたキリストと、体の殆どを消失しているミカエル、その周りに”本来は”いるはずの聖母マリアと洗礼者ヨハネを始めとする十二使徒の姿は…見事に全て消え失せていた。翼の左端、そこには聖ペテロと救われた者たちの群れる天国が描かれていたハズだったが、やはり所々破けていたりしていて、とてもじゃないが天国には見えなかった。それと反対側には地獄が描かれていたのだが、本来は罰すべき者が地獄へと堕ちていく様子が描かれている…ハズなのだが、それもやはり天国と同じほどの損傷具合だったので、こちらの場合は”地獄具合”がすっかり薄れて、見るも無残な見た目をしていて、恐ろしさがあるどころか滑稽だった。
…とまぁ、ここでまるで元を知ってるかの私の口ぶりに、不思議に思った方もおられることだろう。
…そう、”勿論”私は元を知っていた。それもそうだろう。言うまでもなくこれは、私の夢なのだから。
そもそも現実世界で知らないものを、夢で見ると言うのは、余程の偶然でも無い限り無理な話だ。
…と、ここでこんなツッコミが来るかも知れない。
『お前、こないだ大広間に出た時、ゴシック建築様式なんぞ見た事無いって言ってたじゃないか』と。
…そう、その通り。夢の中では見たことが無いとそう思い、だからこそ不思議に思った訳だったが、夢から覚めて何度か宝箱を訪れた時に、ふと何かの拍子でゴシック建築を纏めてある画集を見せて貰った時に、その時に初めて、『あぁ、こうして前に見せて貰った事があったな』と思い至った次第だった。
…私の記憶力のなさに対して、素直に謝りたいと思う。
と、それはさておき、話を戻すと、この祭壇画も先ほど触れた様に、何かの拍子で義一に見せて貰った画集の中にあったものだった。
軽く触れると、オリジナルは北方ルネサンスの巨匠である、ハンス・メムリンクが書き上げた「最後の審判」だった。新約聖書に記された、世界の終末にイエス・キリストが再臨し、生者も死者も全て天国へ送る者と地獄へ送る者に選別するという“最後の審判”の様子が描かれている。
その壮大な元ネタを知ってただけに、ガッカリ具合もひとしおだった。
ガッカリしたと同時に、先ほどの不気味な修道着姿の一団に対しても、異様さからきてたはずの恐ろしさがすっかり薄れてしまっていた。何せ、あそこまで荘厳な儀式をしていたというのに、肝心の祭壇なり何なりの整備が全くなされていなくて、明らかに今までほっといていたのが丸わかりという事実…単純な感想を言えば、これらすべてを引っくるめて、ただの”ごっこ遊び”としか思えなく、そこにはいわゆる”信仰心”なるものが微塵も見られなかった。繰り返す様だがあまりに滑稽で、恐れが薄れるのと同時に、すっかり白けてしまった。
私は一人呆れ笑いを力無く浮かべると、ストンとその場に座り、膝を抱え込んだ。そして体育すわりをしつつ、ジッと目の前にある悲惨な見た目をした祭壇画を見ていた。
と、見ながらふと、ある意味当然の疑問が湧いてきた。
今更だけど…何でそもそも私って、繰り返しこの夢を見てるんだろう…?私の夢なんだから、何かしら私の意識が関係しているのは間違いないだろうけれど…今まではとても色んな荘厳な物を見せられたりして、そこには何かしらの深い意味もありそうだとか、そんなことを思ったりしたけれど…今回に限っては、最初に見た黒のマリア像を除けば、見るもの全てがとても醜く、汚らしく、でもその具合が中途半端なせいで、滑稽さに拍車をかけている…。ここにきて急にこんな夢を”私”が”私”に見せてきたのにも…何か理由があるのかしら?
「…理由を、知りたい?」
「…え?」
突然、妙にハッキリした声で話しかけられて、心臓がキュッと締め付けられる様に感じるほど、面を食らい驚いて慌てて辺りを見渡したが、当然…というか、この場には私以外にいなかった。
驚くのも無理はない。何せ、この夢を見だしてから、そもそも独りというのもあって、まず声を発してこなかった中で、急に他者の声が、しかも鮮明に聞こえたとあれば、誰でも驚くだろう。
…あれ?誰も…いない…よね?でも…まるですぐ背後で話しかけられたかと思う程に、身近に、すぐ側に感じた…んだ、けれど…。…っていや、そんな事よりも
と、私はまた一度周囲を見渡して、今浮かんだ自分の考えを、自ら確認するが為のように、ボソッと口に出した。
「あの声、私…よく知ってる」
第19話 二十四日
十二月に入り、期末テストも無事に切り抜けた次の日からは、学園恒例の謎の”試験休み期間”だ。終業式までの一週間ある休みの内のある日、私たち五人はいつもの様に御苑近くの喫茶店で落ち合った。ついでに挨拶しようと思っていたのだが、この日は残念ながら、学園OBである大学生でバイトの里美さんはいなかった。
私たちは各々好きな飲み物を頼んで、いつもの定位置と化した窓際のテーブル席に座った。
…いつものとは言ったが、普段ではたまに座れないこともあった。まぁ当然のことだ。だが、今日みたいに平日の二時という、何とも微妙な時間帯に落ち合ったので、ただでさえ普段から程よく空いているのに、とても空いていて、こうして楽々と陣取れたのだった。
因みにというか、どうでもいいことを言えば、以前話した様に、この後は原宿まで移動をして、クレープでも買いながらブラブラとする予定だったので、スイーツは抜きだった。
私たちは絵里由来…いや、この間分かった新事実で言えば、絵里と有希が所属していた演劇部由来の乾杯をして、皆がそれぞれ一口づつ飲むのだった。相変わらず私と律は、今日は寒かったのでホットコーヒーの砂糖少々、裕美はホットレモンティ、紫と藤花は同じホットココアだった。
「…さてと」
と不意に紫が皆の顔を見渡すと、このグループのまとめ役らしく口火を切った。
「今年もこの時期が来ましたねぇ」
「おぉー」
と、裕美と藤花が声を上げた。それに続いて「うん」と律がボソッと、しかし微笑みつつ続いた。
私もそのまま続いても良かったのだが、何だかそれは味気ないと、「…え?」と惚けることにした。
「なんか…あったっけ?」
と言うと、すぐに紫がジト目をこちらに向けてきつつ言った。
「もーう、十二月のこの時期だよぉー?これだから世間知らずの姫は…」
「姫じゃないってばぁ…まぁ世間知らずに関しては強く反発出来ないのが辛いところだけれど」
と私が渋々返すと、途端に他の四人が笑顔を浮かべた。
「ちょっとー?笑うところじゃないんだけれど?」
と私はすかさず不満を述べたが、それでもどうしても笑みを抑えられなかった。
とここでふと何かを思いついた風を見せつつ、真顔でなるべく自然を装いつつ言った。
「えぇー?十二月でしょー…あ、分かった!大掃除の季節だ」
「主婦か!」
と紫が何とも言えない良い間を置いてから、キレのあるツッコミを入れてきた…いや、くれたので、ここでまた今度は五人一斉に笑い合うのだった。
とまぁ、私が始めたどうでも良い掛け合いが済むと、紫が改めてといった調子で口火を切った。
「さてと、世間知らずなお姫様は置いといて…ふふ、今年のクリスマスはどうしよっか?」
「あぁ、クリスマスか」
「琴音ー、もうそれは良いから」
と藤花にニヤケつつ突っ込まれた。
「藤花はまた今年も教会でミサ?」
と裕美が聞くと、藤花は「うん、まぁねー」と返した。
「まぁ毎年の事だからね。で、去年と同じ様に、今年もまた二十五日に独唱する事になってるけれど…」
「ってことはー…」
とそれを逃すまいと紫が悪戯っぽく笑いながら言った。
「一つの予定はこれで決まったわね」
「ちょ、ちょっとー」とすかさず苦笑交じりにだが藤花が口を挟んだが、その後で私たちの顔を眺めると、
「…もーう、分かったよ。…良いよ、是非来て」
とため息交じりに言った。どうやら私たちの顔が、絶対に断らせないぞという表情でいたらしい…とは藤花の弁だ。
「まったく…クリスチャンでもないでしょうに」
とボソッと独り言ちる藤花を他所に、私たちは一度喜びを示しあった後、話をどんどん進んでいった。
「去年みたいにさ、また私ん家に来る?」
紫が言った。
「え?いいの?またで悪いけど…」
と返す裕美。
「別に構わないよ。みんなで各々パジャマ着てさ?めっちゃ面白かったじゃない?…律の、色っぽい寝間着姿、また見たいし」
「ちょっとー…」
と返す律の顔には、苦笑が浮かんでいた。と同時に照れ臭げだ。
「あははは」
「まぁ…面白かったよねー。それぞれみんな、個性が出てた寝巻きだったし」
とここで藤花が悪戯っ子の様な、トレードマークの無邪気な笑みを浮かべつつ言った。
「紫はだって…普段は今みたいにお洒落に気を使うくせに、部屋の中では…ふふ、上下揃わないジャージ姿なんだもん」
「何よー?」
と紫は一度自分の格好を眺めてから、ジト目を向けつつ返した。口元は緩んでいる。
「それって、どういう意味ー?何か不満でも?」
「あははは!不満なんかないよ?ただ…」
とここで一度区切ると、藤花は自分の胸の辺りに両手を持っていき、膨らみを歩くなぞる様な動作を何度かして見せつつ続けた。
「紫のお胸がさぁ…あのジャージだと窮屈そうに見えたりして、…でもある意味大きさが強調されてたから、紫、あなた…律のこと言えないよ?」
「ちょっ!」
藤花の言葉を聞いた紫は、顔を赤らめつつ、自分の胸元を慌てて隠した。紫の普段のキャラからは、こう言っては何だが想像つかないが、結構この手の話題には奥手だった。そのギャップが、私個人の見解を言わせて貰うと、そんなウブなところが可愛らしい。
「やめてよー」
「あははは」
「もーう…そういうあなたは」
と紫は何とか反撃をしようとしてるが如く息巻きつつ、若干ニヤケ面を晒しながら、指を藤花に向けつつ言った。
「ある意味イメージ通りだったわ。…ふふ、ヌイグルミみたいな格好をして」
「え?いいじゃないのー?」
と藤花はほっぺを大きく膨らませつつ、ブー垂れながら言った。
「あれって、モフモフしてて、すっごく暖かいんだから」
「あはは!別に悪いだなんて言ってないでしょ?イメージ通りって言ってんだから」
「…なーんか、裏がありそうなんだよなぁ」
「ないない!」
…とまぁ、こんな具合で、思わず途中から、ちょうど去年の紫の家でのお泊まり会、その思い出話で盛り上がった。
この後もついでにというか、私と裕美の話にもなったが、まぁ特段取り上げるまでも無い。…今までの流れと似た様なものだったからだ。裕美のショートパンツ姿が”エロっぽい”と紫と藤花が騒ぎ立て、自分が”色っぽい”と言われたのを気にしていたのか、同じ類に茶化され始めた同士を見つけた喜び故か、律も声の表情はあいも変わらず少なかったが、それでも珍しくノリに乗っかっていた。律まで参戦するのは想定外だった様で、この手の流れでは珍しい、裕美の苦笑いを見れた。私はまぁ…一言で言えば、無理矢理にお姫様に終始例えられていた。…体のラインが出る長袖Tシャツと、伸縮性のあるレギンス姿だったのいうのに。
会話は逸れまくっていたが、それでもそれなりに盛り上がっていたその時、ふと紫が口火を切った。
「はぁーあ、まぁさ、今までみんなで話した様に、別に去年と同じ様に過ごしても、それはそれで良いと思うんだけれどさぁ?そのー…なんか後一つ、一つだけでも良いから新しい催しを加えてみたくない?」
「お、いいねぇー…で?」
と裕美が私を挟んで向こうに座る紫にニヤケ面を向けつつ言った。
「具体的には?何するの?」
「もーう…」
と紫は心からうんざりした風で、指先を裕美に向けつつ言った。
「だからー…それを今から考えんでしょうに」
「あはは」
とここでまた皆して笑い合った後、それぞれ五人で提案を出していった。
「ってかさ」
と裕美。
「これって、そもそも…クリスマス当日は無理だよね?」
「え?」
と、藤花は何か意外な提案をされたかの様な態度で返した。
裕美は藤花に顔を向けると、何か思い出しながらいう風に言った。
「だってさ、二十五日はアンタの歌を聴きに行って…そんでその後に紫の家に行くじゃない?…時間無いっしょ?」
「あ、そっか…」
と藤花はふと、隣に座る律の方をチラッと見つつ、少しバツが悪そうな反応を示したので、すかさず裕美は突っ込んだ。
「…あれ?何か…マズかった?」
「だって…うん」
と藤花は見るからにテンションを落としつつ言った。
「私さぁ…イブの日は夜通しで、教会にいるもの…ね?」
「うん…」
と律も瞬時に同調した。
「あ、律も?」
と紫。
「律もイブの日って…教会に行ってたんだ?」
「…ん?あれ…言って…無かったっけ?」
と律は、そう聞かれたのがさも意外だと言いたげに返した。
「うん…まぁ、藤花の家庭と違って、そもそも私の家は信者じゃないけれど、でも昔からの付き合いだから…というか、もう私と藤花の家族での恒例行事と化してるからさ、…うん、もしイブにするって言うなら、私と藤花は…無理かな?残念だけれど」
「ごめんね、みんな…?」
藤花と律が二人して急にすまなさげな態度をしだしたので、私を含む他の三人は慌ててフォローを入れた。
「それなら仕方ないなぁ…」
と紫。
「そんじゃ、まぁ、去年と同じ様にクリスマス当日に遊ぼう!」
「そうねー」
「えぇ」
紫の提案に、裕美と私が同調すると、途端に藤花が慌てて、苦笑いを浮かべつつ返した。
「いやいやいや、私と律はこの際置いといてさ、他のみんなはイブも楽しんできてよ?」
「そうそう」
と律も何度も頷きつつ言った。
「えぇー、でもなぁー」
と紫が腕を組みつつ首を傾げて悩むポーズをして見せると、藤花は今度はニターッと意地悪げに笑って言った。
「あはは、紫ぃー?何だかその態度、あなたらしくないよー?」
「え?…ちょっとー、それってどういう意味ー?」
聞いた直後にはすぐには返せなかった紫だったが、普段通りの軽口だと察したのか、同じ様な笑みを浮かべつつジト目気味に言った。
「私らしくないって…この中で私ほど、みんなの”和”の事を考えているのはいないと思うんだけれど」
「…ちょっと紫ー?」
とここですかさずツッコミを入れるのは裕美。顔中に悪戯っ子の様子が浮かんでいた。
「今のはアンタにらしからぬ”恥ずい”セリフだわぁー…どっかのお姫様みたいに」
と最後に私に視線を向けてきたので、「ちょっとー?」と私も身に降りかかった火の粉を叩くために、瞬時に応戦した。
「今の今まで私は関係なかったじゃないの…勝手に巻き込まないでよー」
「あはは、それを言うなら、キャラに似合わないセリフを吐いた紫に文句を言って?」
と裕美は変わらずににやけていた。仕方ないと、私は顔を一八〇度変えて紫に向かって、今度は私もニヤケつつ言った。
「…紫ぃー、ほら、あなたがこうしてこの場をしっちゃかめっちゃかしたんだから、早く治めてよ?」
「何よー琴音までー…何で私のせいになってるのかな…」
と紫は不満タラタラだったが、それでも顔には笑顔が覗いていた。まぁこんな事を言っては何だが、これも私たちの間ではよくあるノリだったので、今回も紫はコホンと一度咳払いをすると、
「はいはい、私が悪うござんしたねぇー?…すんません」
と、いわれもないのに座ったまま頭を下げた。
その後ほんの一瞬間が空いたが、その直後にはまた一斉に笑い合うのだった。
笑い合っている間、ふと紫が笑顔のままボソッと呟いた。
「…あれ?何の話をしてたんだっけ?」
「しっかりしてよ司会者ー?」
と裕美が声をかけると、紫は「誰が司会者じゃ」と苦笑いで返していた。
と、その時、いつまでもこうしていても拉致が開かないと、「でもさぁ」とここでボソッと私から口火を切った。
「藤花と律の前だと、イブの予定を話すのは気がひけるなぁ」
「…ぷ」
とここで何故か裕美が吹き出した。
「何よ、裕美?」
と私が怪訝な顔つきで返すと、裕美は悪びれる様子もなく言った。
「あはは、ごめんごめん。いやね?今のアンタの言い方だと、まるで自分が彼氏かなんかがいてさ、その予定を友達の前で話そうとしてしまうのを、直前で躊躇ってる…そんな女の子風に聞こえたもんだからさ」
「…何よ、その…長くも分かり辛い例えは?」
と私が苦笑いで返すと、「確かにー」といった調子で他の三人も裕美に同調した。またここで話が大きく脱線していく気配を感じた私は、事前に対処しなくてはと思い、無理矢理にその空気に水を差しつつ言った。
「まぁ…律たちが別に不満が無いって言うのなら、今予定を立てても良いけれど」
「良いって、良いって」
と藤花が笑顔で返す。
「次の日のクリスマスにさ、この五人で集まって、少し街をぶらついてる時とか、その後で泊めてもらう紫の家でのおしゃべりネタとしてさ、私たちとしても楽しめそうじゃない?だからぁー…その計画、今ここで立ててよ。まぁ…何も知らない方が、後々で面白いだろうけれど…ね、律?」
「うん」
と律は向かいに座る、”イブに予定が無い女子組”の三人に微笑みをくれつつ言った。
「そう?なら良いけど…じゃあ」
と私は一度、両隣に座る裕美と紫に視線を配ってから笑みを浮かべつつ言った。
「イブに暇な私たちの計画を立てますか?」
「そう言われると、ちょっと虚しいわねぇ」
「あはは」
紫の苦笑混じりの言葉、裕美の明るい笑いと共に、作戦会議がはじま…いや、再開した。
当然と言うか、藤花と律も当然混じってアレコレと話し合っていた。と、しばらくして、「あっ」と紫が声を上げた。
「何?」
と私が声をかけると、紫は漫画なら頭の上に裸電球が浮かんでそうな表情のまま言った。
「そういやさ、今年って、去年と大きく違うことが…一つあるよね?」
「…?大きく…違うこと?」
「なになに、紫、それってナゾナゾか何か?」
と裕美がニヤケつつそう声をかけると、紫はやれやれと呆れ笑いを浮かべつつ返した。
「違う違う。ほら…何だか今年に入って、急に私たちの交友の幅が広がったと思わない?」
「あぁー」
と私は思わず声を漏らしたが、それは他の三人も同様だった。
そんな私たちの反応を見た紫は、さっきまでと違って少し機嫌が良さそうに続けた。
「ね?まぁ敢えて言えばさ、クラス替えから始まって…琴音、あなたのコンクールを応援に行ったその時、学園以外でのあなたの交友ある人たちとも知り合えたし」
「…えぇ、そうね」
と私が同意の意味を込めて自然な笑みで返すと、「まぁ…全体的に”大人”が多かったけれどね?」と紫は一度ニヤケつつ付け加えた後、私の反応を見る前に先を続けた。
「で、文化祭。ついこないだって今でも思うけれど、あれって九月末だったんだよねぇー…?で、そこで、私の地元での友達三人、琴音、裕美も三人ずつ招待してさー…楽しかったよねぇ?」
…さっきから続いている紫の話、ここからは今のところ何故こんな話をしているのか、その意図がまだ掴めずにいたが、でもいつの間にか始まった思い出話…何だかんだで思わないところが無きにしも非ずだったので、私は聞きながら一緒になって思い出にふけっていた。他の三人も何の不満を述べることなく同調しているところを見るに、私と同じ気持ちなのだろう。
「楽しかったねぇ」
と裕美。
「出し物を出したり」
「試合をしたり…」
とこれは言うまでもなく律。
「私もとうとう皆の目の前で歌ったり…」
と続くように藤花はボソッと言った後で、ふと私に顔を向けると、
「…琴音にまんまと乗せられてね」
と途端に意地悪げな笑みを浮かべつつ続けたので、私はそれに対しては「あはは」と乾いた笑いを浮かべるのみだった。
と、それらを聞き終えた紫は、司会者よろしくここでまた話に入った。
「琴音のコンクールで初めて会った、絵里さん…だよね?琴音と裕美の共通の友達、あの人も文化祭に来てくれて、とても気さくに話してくれてさ。二人の話した通りの人で、めっちゃ良い人だっていうのが分かったけれど…後一人」
「後一人?」
紫が変に最後で勿体ぶって見せたので聞き返すと、私、そして裕美にニヤケ視線を向けてから続けた。
「そう。えぇっと…そうそう、ヒロくん…だっけ?なんか…この呼び方は馴れ馴れしくて、今だに何だか気がひけるんだけれど」
「…え?ヒロ?…いや、ていうかさ」
と私は、ヒロが出てきた時点でようやく話が大きく逸れまくっていることに気づき、ここで軌道修正を試みることにした。
「紫、あなた一体何が言いたいの?いや、思い出話それ自体はとても面白いし良いんだけれど…ふふ、話が逸れまくってるじゃない?」
「え?…あ、あぁ。ふふ、確かにそうね?」
と紫自身もすぐに察して、また一度コホンと咳払いをしてから言った。
「うん、結局私が何が言いたかったかっていうとね?そのー…せっかくこれだけの人と一遍に知り合えたのだから、イブの日に…うん、もう一回くらい集まれないかなぁー…って思ってさ?」
「…あぁー、なるほどー」
とようやくここにきて、紫の意図とするところが分かり、途端に納得して声を出した。
「なるほどねぇ、要はクリスマスパーティーをするって事ね?」
と裕美も笑顔で続く。
「うん、まぁ予定が無くて来れる人だけね?無理強いはナシ!」
と紫は明るく何かを宣言するかのように言った。
「あ、いいなぁ」
と藤花が向かい側から羨ましげな声を上げた。
「まだどれくらい来るのか分からないけれど…でも楽しそう」
「うん」
と律も後に続く。
その二人に対して私たちはさも自慢げな笑みで返していたが、ふと私はあることに気づき、左右の二人に顔を振ってから言った。
「あ、でもさ…それってどこでやるの?」
「え?」
と、裕美と紫、それに藤花と律も同様に声を漏らした。
私は一度全員に視線を向けてから続けた。
「だって…もし仮に皆が来たりしたら、それって総勢…十人くらいになりそうじゃない?流石にその人数だと…誰かの家って訳にはいかないでしょ?」
「あ、そっかぁ」
と誰かが漏らすと、それからは「うーん…」と私も含めた全員で唸り声を上げた。
計画自体はとても魅力的なのだが、残念ながらまだ中学二年生という社会的にはまだ弱い立場にいるせいで、なかなか上手いアイデアは出てこなかった。
取り敢えず”場”については置いとくことにして、これが学生にありがちの見切り発車ではあるのだが、誰が暇か、そして来れるのかを各自が聞いておくようにという結論に終わった。
この後はまた少しだけ喋った後で、予定通り原宿に向かうために喫茶店を出たのだが、出るときに、ふとこの結論が出た直後の会話を思い出し、一人クスッと笑ってしまった。それは、こんなやり取りだった。
話が流れ掛けたその時、不意に瞬間的に意地悪な考えが浮かんで、それをそのまま裕美に対して、笑顔もそれに寄せつつ言った。
「じゃあ私は朋子とか、後一応絵里さんにも声を掛けておくけれど…ふふ、裕美はヒロに話を通しといてね?」
「え!?」
と反応した裕美の顔は、しばらく忘れられないだろう。そう言った後で、顔は私に向けたまま、チラチラと他の三人の方に視線を泳がせていた。その三人はというと、急に大きな声を上げたので、そのことに対して裕美を見ていたのだが、裕美の方では心中穏やかでは無かったようだ。
「どうしたの裕美?急に大きな声を出して?」と三人から声をかけられていたのだが、それに対して「な、なんでもないよ」と裕美は苦笑いを浮かべつつ返していた。
アタフタと落ち着きなく対応をし終えた後で、私に向かって抗議の視線を送ってきたので、私は一度ニコッと屈託無く笑って見せてから、無言のまま謝るジェスチャーをするのだった。それを受けた裕美は、やれやれとまた苦笑いを浮かべるのみだった。
…さて、ここで少し話は前後するが、前回の公園でのやり取りの続きを話させて頂きたい。実はまだその後で会話があったのだが、話の都合上、あそこで区切るのがキリ良かったので途中で終わらせてしまったのだ。まぁ…実際わざわざ取り上げるほどでも無いと言えば無いのだが、もしかしたら今後次第で必要になってくるかも知れないので、この場を借りて補足として入れさせて貰うとしよう。
「ところでさ…」
と裕美は少し遠慮がちに声をかけてきた。
「…何よ?」
自分から口を開いたのに中々続きを言わないので、私は少し意地悪く笑いつつ言った。
すると、まだ変わらずに言いづらそうな様子を見せていたが、何か一度覚悟を決めたようなそぶりを見せてから、ふと私の方に力強い視線を向けながら口を開いた。
「あ、あの…さ?そのー…琴音は私のー…事、さ?お、おう…応援ー…とか、…して、くれるの…かな?」
このように、あまりにぶつ切りな形で言うので、直接聞いた私自身もすぐには飲み込めなかったが、フッと力を抜くように笑うと返した。
「…ふふ、まぁ、そっか…好きだと言うんだから、そりゃあ…最終的には付き合いたいって事だよね?」
「う、うん…」
実際はどうだか知らないが、私目線で判断するに、裕美は私の笑顔に押されるようにしながらも答えた。
当然このような、誰かから好きな人がいるんだという話を聞くのは…いや、小学生の頃に、元いた仲良しグループ内では聞いたことがあったが、でもこうしてサシでは初めて、しかもかなりの真剣具合なのは初めてだったのだが、やはりというか持ったが病で、私は不謹慎にもこの状況を心から楽しんでいた。その相手が裕美だからと言うのは付け加えさせて頂く。
私はそれなりに気を使うつもりで、あまり気乗りはしなかったがヒロの事を褒めてやることにした。
「まぁ…ヒロは良い奴だよ、うん。…裕美なら、あんなお猿さんよりもイイ男がいそうにも思うけれど…ふふ、まぁあなた達は似た者同士だし、その分お似合いかもね?」
そう、ヒロは”良い奴”だ。…以前、というか大分前に、義一と”優しいとは何か?”について深く議論をした訳だったが、その中で似た様な言葉の例として”良い人”について触れた事を覚えておいでの方も…おそらくおられる事だろう。そうだ、確かに今ヒロについてのも、その意味合いで称したのだが、当時、そして今もこの”良い人”というのは私にとってはマイナスの言葉ではあるのだが、それは私自身についての事であって、他者であるヒロに対してのコレは、私なりの賛辞である。
ヒロは本人がどう思うかはともかく、私の意見を言えば、一緒にいると何かと”都合が良い”。何せ小学校入学以来の付き合いのお陰で、最近も言ったかも知れないが、何かいちいち言わなくてもツーカーで考えが通じ合うことが良くある。まさに”私にとって都合が良い人”、それがヒロだった。
誤解をさせるような言い方をしたようだが、必要以上に友達を持ち上げても仕方ないし、それが相手を貶めるために使うのではなく、自分なりに冷静に判断した結果だと自信を持って言えるのならば、そう言っても良いだろう…とここまで考えた上での判断だ。
…と、ここでもう一つ、裕美が分かってるのかどうか知らないし、コレは私にとってヒロの存在を話すに当たりかなり大事な部分なので、裕美相手にも言わないが、こんな話も出たというので、折角だから久しぶりに敢えて触れてみたいと思う。
そう、私から見るヒロの最大の長所、それは…どんな時でも誰かを…少なくとも私の事を一度も裏切ったことが無い点だった。私は良くも悪くもハスに構えて、世の中の事を反対から見ようとする習慣が、勿論義一の影響もあってあるのだが、そんな私の目から見ても、一度とて、敢えて上から目線な物言いをすれば、ガッカリさせたり落胆させられる事が一切無かった。…いや勿論、普段の生活の中でお互いにふざけあったりして、軽口を飛ばしあったりしてるから、側から見てると終始呆れてる様には見えるだろう。…ふふ、確かに呆れるのは日常茶飯事なのだが、それでもガッカリしたことは一度たりとて無かった。
具体的に言えば、何にも置いてやはり”義一関連”だろう。
小学五年生のあの夏、何の縁かヒロとまず二人で義一と出会うために土手を散策し、そしてその後、義一の家にお菓子を初めて作りに行ったその途中でも、これまた偶然にヒロに会い、無理やり付いて来るのを仕方なく許したあの日々だ。覚えておられるだろうか、私はあの時に、ヒロに真剣な態度で義一のこと、そして私が義一に会ってることを、私の両親を含んだ誰一人にも他言しないでと懇願したのだった。…何が言いたいのかというと、その私との約束を、ヒロは律義に中学になった今となっても忠実に守ってくれていた。その証拠は至る面で証明できるが、やはり一番最近で言えば、あのコンクールの決勝の場での事だろう。後で絵里に聞いたのだが、あの時お母さんは私に付きっきりだったので、そこまで時間があったわけでは無かったのだが、それでも私の見てないところでふと、絵里とヒロが何で打ち解けた感じで喋ってるのかの話になったらしい。絵里はその瞬間どきっとした様だ。それはそうだろう、何せヒロはあの花火大会、そう、義一もその中にいた花火大会を見るために、絵里のマンションに来ていたのだから。もしヒロがそこに触れたりなんかしたら、そこから漏れに漏れて終いには義一まで辿り着くんじゃないか…?とは絵里の弁だ。その話を聞いた時、私も同じ様にどきっとしたが、現実にはそうならなかった。話を聞くところによると、ヒロは『えぇっと…』と初めは言い渋っていたらしいが、その後には笑顔でこう言ったらしい。『あ、いやね、あれは…そう、去年、去年の夏休みに野球部の練習に向かっていた時に、途中で琴音と裕美に会ってね、それでまだ練習まで時間があったってんで、暇潰しについて行ったんだ。そこは図書館でさ、で絵里さんに出会ったんだよ。…”それだけ”』『へえ…って、”それだけ”?その一度きり?その一度きりで随分と仲良さげなのね?』とお母さんが容赦なく突っ込んできて、これには流石のヒロも少し上手く言葉を紡げなかったらしいが、この間で絵里がヒロの意図を汲み取れたらしく、その裏を合わせる様に代わりに答えた様だ。『あ、いやぁー…こないだ話した様に、私と琴音ちゃんは付き合いが長いんですが、今まで周りに男の子が見えなかったもので、それで初めてヒロ君という初男子を見た時に、思わずテンションが上がってしまってですね?そのー…色々と根掘り葉掘り喋っちゃったんですよ』と。
絵里の物言いに、何故かヒロは照れていたらしいが、まぁそれでその場はお母さんが何も疑問を持たずに治った…との事だった。
まぁここまで長々と具体例としてエピソードを述べてきたが、ここから何が言いたいのかというと、そのー…中々自分にとっては”大きな言葉”であり、”大事な言葉”なので、本人には勿論言わないし、言えないし、言ってあげないし、それを使ってヒロを称するのは、とても”恥ずすぎる”ので、この場を借りてサラッと一言投げてから、慌てて話に戻るとしよう。
…私にとって、ヒロは”良い奴”であり、それに…”優しい奴”だ。
「…てことは」
と裕美はおずおずと顔を窺うようにしながら、しかし声には若干喜びの感情を滲ませつつ言った。
「私のことを…応援してくれるのね?」
「…ふふ、もーう」
と私は悪いと思いつつも、
「当たり前でしょー?今までの話の文脈上」
と、思わず笑みを漏らしながら返した。
すると裕美は一瞬何か色々と思うところがありそうな、そんな意味深な表情を見せたが、だがそれは本当に一瞬で、後々の事を知っている今の私が思い返してやっと分かる程度だった。
この時の私の印象から言えば、裕美は一瞬苦笑を浮かべたかと思うと、すぐに自然な笑みを浮かべて見せると急に抱きついてきてそのまま言った。
「ありがとうね、琴音」
「ちょ、ちょっと裕美…」
と急に抱きしめられたので、驚きのあまり避難混じりの声を出してしまったが、すぐにその背中を摩りつつ返した。
「どういたしまして」
…そんな事があったからか、いや、私自身も何だかそれで満足してしまったのか、この時についつい聞くのを忘れてしまっていた。
それは…裕美がチラッと言っていた、何故私に、自分がヒロの事が好きだというのを話そうと思ったキッカケだという、あるセリフの具体的な意味についてだった。
『勇気のない意気地無しな私でも、とうとうそんな呑気な態度を取っていられなくなってきたのよ』
『…事態が急速に変化していってて、このままではどんどんライバルに出し抜かれて、終いには取られちゃうって結末になるんじゃないかって心配なのよ』
「クリスマスイブー?」
とヒロはストローを口に咥えたまま言った。
「えぇ、そう。あなた、暇?」
と私は、隣に座る裕美に薄眼を流しつつ聞き返した。
それに気づいた裕美は、私に苦笑いを浮かべている。
今日は終業式の三日前。土曜日。私とヒロ、そして裕美の三人で、地元の駅ビル内のファミレスに来ていた。義一と絵里とで来たのが思い出深いあのお店だ。ドリンクバー目的だったが、何か頼んだ方が安上がりだと言うので、ツマミがわりにポテトだとかその様なものを頼んだ。そんな類のジャンクな三品がテーブルに既に置かれていた。
…と、ここで当然不思議に思われるだろう。何故この場に私がいるのかを。それは…正直私自身も聞きたい。当初はこないだ私が頼んだ通り、裕美がヒロに話を通す予定だったのだが、直前になって『お願い、やっぱりアンタも来て』と頼まれたので、まぁ今回は予定日まで間がなく余裕が無かったので、変に渋ってる暇もないと仕方なしに承諾して、ノコノコと出てきた次第だった。
ヒロの方も、この日は学校も部活も無かったというので、こうしてお互いに普段着でいた。私たち二人も今日は予定が無かったが、ヒロの方でも練習は無かったらしい。
とまぁそんな雑談から始めたのだが、いつまでも裕美が切り出さないので、我慢弱い私が思わずそう話を振った…のが最初のところだ。
「ほらヒロ、あなた、今年は私のコンクールの応援に来てくれたじゃない?」
「お、おう…そうだな」
「その繋がりでさ、私たちの友達とも知り合ったでしょ?文化祭にも、あなた来たし」
「おう…で?だから?」
「だからー…」
とここで、『この先はあなたが言う?』的な視線を裕美に送ったが、なんだかキャラに似合わずしおらしく見せていたので、私はため息を吐きつつ続けた。
「皆とも話したんだけど、折角知り合えたんだし、それを記念にって訳じゃないけど、一緒にクリスマスイブだってんで過ごそうよって事なのよ」
「ふーん…」
とヒロは相変わらず無意味にストローを今まで咥えていたが、ここに来てようやく口から外すと、私と裕美の顔を交互に見てから言った。
「他には誰が来んの?」
「え?…」
暇かどうか聞いたのに、誰が来るのかを逆に聞かれたので、若干イラっとしつつも別に今に始まったことでもないかと、ここは素直に答えた。
「えぇっとねぇー…一応今回の趣旨に合わせてというんで、色んな人に声を掛けたんだけれど…」
と私はこの間、あの喫茶店から一週間ばかりの流れを思い返していた。
実はこの話が出た時に、真っ先に思い浮かべたのは師匠だった。我ながらに不思議に思ったのだが、だがすぐに一つの結論に達した。
一口に言えば、少しだけ師匠に対して後ろめたい気持ちがあって、そこから生じたのだろうというものだった。というのも、この間の百合子とマサ、有希の劇を観に行った時、この時は裕美を誘った訳だが、第二候補として師匠が上がっていた。勿論芸能関係だから、それを師匠と分かち合いたくて誘いたかったのだ。もしもう一人招待出来るのだったら間違いなく招待していたのだが、それとは別にもう一つ大きな理由があった。
それは…私が今だに言えずにいる、師匠に話せずにいる事を、いつか話すという約束、その手始めとして、その話せずにいる原因と所縁のある、百合子たちと顔を合わせてみたかったというのがあったのだ。 そこを取っ掛かりとして、将来的には義一と師匠を引き合わせたい…これは師匠関連では今一番大きな目標となっているのだ。だがそれはこうしてオジャンと流れてしまったので、また次の機会に期待するしか今は無い。
と、これと本当に関係しているのか、話していて自分でも不安になってきたが、取り敢えず次のレッスンの日に師匠に話を振ってみた。すると、師匠は途端に苦笑いを浮かべて、「それは…幾ら私でも何でも行きづらいわ」と言われてしまった。「一応私はあなたの師匠な訳だし、それを皆知ってるでしょ?私にその気が無くても、あの子たち、とても良い子達だから…気を使うんじゃないかな?」と言うのに、私も納得をした。でも私は自覚がないままに残念がって見せていたらしく、すかさず師匠が付け加えた。「まぁその日はアレでも、藤花ちゃんの独唱するミサ…これだったら、私もご一緒しても大丈夫…かな?さっきも言ったけれど、一応皆と私は面識ある訳だし。去年は私は一人で聴きに行った訳だけど、今年は…ね?」そう言うので、私は勿論瞬時に承諾した。そして、この件はすぐに他の四人にも確認を取った。本番に歌う藤花自身は、去年も聞きに来ていたという事実を初めて知ったのも含めて恐縮していたが、それでも他の三人と一緒に好意的に了承してくれた。勿論、その後で時間があればブラブラする程度はご一緒するが、その後のお泊まり会には参加しない事を確認して。
次に聞いたのは勿論…と言っていいのか、絵里だ。絵里に関してはすぐに分かった。結論としてはダメだった。何でも普通に図書館は開館しているらしく、またクリスマス企画もあるというので何かと忙しいらしい。
ただとても残念がってくれたので、それだけでヨシとしといた。
次に話を聞いたのは、文化祭に来てくれた朋子たちだ。小学五年生の二学期頭くらいまでよくつるんでいた、仲良しグループの面々だ。一応確認のために触れておくと、文化祭に来てくれたのは、朋子を含むそのうちの二人だった。朋子は私が裕美と知り合う前まで一緒に登下校をしていた仲だった。何故絵里のところで『勿論と言っていいのか』と渋って見せたのか、これで分かると思う。
さて、結論を言ってしまうと、皆彼氏持ちだったり、自分の学校のクラスメイトと過ごす予定が先に入ってたというので、とても残念がってくれつつ返事をくれた。しかし、そんな中で、なんと朋子が、今回急遽来てくれることとなった。朋子自身も、当然その予定が入っていたのにも関わらずだ。私が気を使って見せたが、朋子は意に介さずといった調子で、笑顔でもうひと押ししてくれたのだった。
さて、今までずっと話を聞いてくれた中で、ふと腑に落ちていない方もいるかも知れない。というのは、そう、コンクールの事を彼女らには話さなかったのかという事だ。…うん、その通り、彼女らには全てが終わってからになってしまった。まず初めに簡単なところから言い訳をさせて貰うと、紫たちのお母さんたちに断った様に、人数が多すぎたので、これ以上は増やせなかったというのがあった。だが、それでも、話すことだけは出来たはずだ。そうなのだが、ついには彼女らには話せずに全てが終わってしまった。後になって、文化祭で藤花と一緒に後夜祭に出場することになって、招待する意味も含めて話したのが初めてだった。その瞬間、彼女らは驚きに満ちた反応を示していたが、何というか、私は好意的に解釈をしたのだが、要は彼女らが私に対して大変に心を広く持ってくれていたせいか、何で今まで黙っていたのかという話にはならずに、ただ単純に全国大会での準優勝を頻りに褒め称えてくれたのだった。我ながらずるいと思うのだが、私は彼女らのそんな好意に対して甘えて乗っかり、ただただ感謝を述べたのだった。話を戻そう。
「えぇっと…絵里さんは図書館が忙しくてダメで、あと…あ、そうそう、朋子は来てくれるみたい」
「?…あ、あぁ、こないだ文化祭に来てくれてた、アンタの元同級生ね?」
「そうそう。後は…って、これくらいかな?私は。裕美はどうだった?」
「え?私ー?私はね…」
と裕美は途端に苦い表情を浮かべると、首を大きく横に振りつつ言った。
「…私の方は全滅。ちょーっとばかし、タイミングが遅かったみたいね。文化祭に私が呼んだあの子達とか、他のにも声を掛けたけれど、もう既に予定が入っちゃってたわ…。だからさ?」
とここで裕美はふと自然な笑みを浮かべてヒロに言った。
「このままだと、私と琴音がさ…急とはいえ声を掛けたら、琴音の同級生一人、朋子ちゃんしか呼べないっていう、人徳の無さが露呈しちゃうのよぉ…。ってのもあってさ、ヒロ君、ね?どうかな…?」
「どうかなって言われてもよぉ?」
と言われたヒロは、顔中に苦笑いを浮かべていたが、すぐ直後には意地悪げな笑みを浮かべつつ返した。
「人徳のなさ…それはどうだか知らねぇけれどもよ?どうだって良いじゃねぇか?」
「いやいや、ヒロ君。これで紫が、こないだの文化祭組を全員連れて来るような事になったら、ちょっと…気まずいじゃない?」
「んー…そんなもんかね?っていうかよ」
とヒロは途端にブッキラ棒な調子になりつつ言った。
「そう言われると、何だか”イイぜ”って言いにくいんだよなぁ…」
「…え?」
と、そんなヒロのセリフを聞いた裕美は、見るからにテンションを上げてヒロに聞いた。
「って事は…来てくれるの?」
「…だーかーらー」
ヒロは照れ隠しなのか、ますます不機嫌に見せつつ言った。
「いつ俺が行かないって言ったよ?他に誰が来るのか、聞いただけだろ?…まぁ、せっかくだからな。この三人、まぁ実際はこの三人だけじゃねぇけれど、何だかんだクリスマスを過ごすってのも初めてだろ?別にそのー…良いぜ?」
「ヒロ…」「ヒロ君…」
と、私と裕美がほぼ同時に声を漏らし、その後でお礼を述べようとしたその時、「…ただし!」とヒロがなぜか得意げに目を瞑りつつ言った。
「条件があるぜ?」
「じょ、条件…?」
と、私と裕美が顔を見合わせつつ漏らすと、ヒロは坊主頭を掻きつつ、何だか面倒臭そうに言った。
「あぁ。そのー…よ?まぁ、今回の集まりってのは、お前らの所の文化祭だとかに来たことのある奴ってのが、ある種の条件だろ?」
「えぇ」
と私が返答すると、今度は照れ笑いを交えつつ続けた。
「そのよー…結局それって、その中で男は俺だけだろ?…スッゲェ嫌じゃん。あ、いや…浮きまくるだろ?その中で俺がいたら」
「あー…」
「ふふ」
聞いた瞬間、裕美は納得した風に声を上げていたが、私は思わず笑みを零してしまった。それを見たヒロは、途端に私にジト目を向けて来つつ「何だよ?」と聞いてきたので答えた。
「あ、いや、ゴメンね?…ふふ、クリスマス…いや、厳密に言えばイブだけれどさ、そんな日に、あの野生児のヒロが女子に囲まれてアタフタしてるの想像したら…笑っちゃったの」
「おいおい…喧嘩売ってんのか?」
と口調は凄んで見せていたが、口元はニヤケ…いや、思いっきり苦笑いでいた。
「お前なぁ…こっちは頼まれてる方だってのに、この仕打ちはないだろ?」
「ふふ、だからゴメンって」
「ったくー」
とまだ顔には不機嫌が残っていたが、これもいつもの事だというので、半分諦めの境地なのだろう、すぐに態勢を取り戻し、今度は自然な笑みを浮かべつつ言った。
「いや、その条件っていうのはよ?そのー…お前らの文化祭には来ていないんだけど、男の俺の友達の一人を…招待していいか?」
「…え?」
私と裕美はほぼ同時に声を漏らすと、またお互いの顔を見合わせた。
「どうかな?」
「どうかなって…どうだろう琴音?」
と裕美が私にすぐさま流すように振ってきたので、私は思わず苦笑まじりに言った。
「ふふ、もーう、すぐそうやって私に流してー…。そうねぇ…ヒロ、それって本当に一人なの?」
「ん?…おう、一人だけだ」
「そう…。ねぇ裕美」
と私は少しだけ考えて末、裕美に言った。
「別にいいんじゃないかな?一人くらいは。他の三人も、一人くらい男子が増えても、それほど変な感じにはならないんじゃない?」
「そうだねぇー…まぁ、後でみんなに一応確認は取ってみるけれど、多分大丈夫だと思う」
という裕美の考えを聞いて、そのままヒロの提案に乗っかろうとしたその時、ふと一つの考えが頭を過ぎったので、大したことでは無かったが敢えて聞いてみた。
「…あっと、その前にヒロ…?」
「ん?何だよ?」
「その男子さぁ…そんな中に連れて来ても大丈夫な人?」
「…?どういう意味だ?」
「つまりさ…和気藹々とした雰囲気をさ、妙なハイテンションでぶち壊しに掛かるような、そんな人ではないかって事。つまりさ…」
とここで私はニヤッと笑いつつ、ビシッとヒロに指をさしてから続けた。
「騒がしいムードメイカーは、ヒロ、あなただけで十分だからさぁ…”ソレ要員”はもういらないからね?」
「おいおい、あのなぁ…」
もう怒りを通り越してるのか、ヒロは、ただただ呆れ笑いを見せるのみだった。が、しかし、ふと一度考えを巡らす素振りを見せたかと思うと、何だかバツが悪そうな笑みを浮かべつつ言った。
「まぁ…場の雰囲気をぶち壊すような奴では、そのー…無いと、…思う」
「何よー、その自信なさげなのは?」
と私が今度は薄目を向けつつ言うと、
「だ、大丈夫、大丈夫だって!何かあっても、俺が何とかするから」
「何?”たまに”何とかしなくちゃいけない事が、その呼ぼうとしてる人は起こすの?」
「そ、そんなことは…ねぇよ?」
「どうだか…」
ヒロの自信のなさ加減に、ため息まじりに対応していた私だったが、そんな私たち二人の様子を見ていた裕美が「あはは」と一度笑うと、隣の私の肩にそっと手を置いてから言った。
「まぁまぁ、琴音、ヒロ君がこう言ってるんだし、なるべくなら人数が欲しいところなんだしさ、任せてみようよ…ね?」
「さすが裕美、分かってるなぁ」
「まぁ…裕美がそう言うなら」
「ふふ、ありがとう。っていうかヒロ君?」
と裕美は私の肩から手を離すと声をかけた。
「勝手に話してるけれどさー…その肝心の彼は、その日に予定は入ってないの?」
「あ、ソレもそうね」
と、今更なことに気づいて、私もヒロに視線を向けた。
すると、ヒロはここでは何故か自信ありげに胸を張りつつ笑顔で返した。
「あぁ、それなら心配いらねぇよ。”こんな”機会、アイツならどんな用事をもすっぽかしてでも参加してくるからさ」
点で囲った部分が気にならないでも無かったが、まぁそのどこに根拠があるのか定かでは無い人の言葉を、諸々含めて、とりあえずは信用することにした。まぁ実際、結局のところダメでしたとなっても、それほどの実害は無いのだし。
「じゃあ決まりだな!」
とヒロが目をギュッと瞑るようにして笑いながら言うと
「そうだね!」と裕美も同じように笑うのだった。
私も同じように笑いに混ざったその時、ふとヒロが笑みを残しつつ言った。
「あっ、そういえば…」
「どうしたの?」
「ん?何?」
「あぁ、あのよー…、ところでさ、まださ、そのクリスマス会って、どこでするのか、その場所を聞いてなかったなって思ってさ」
「あぁ」
と私は一度裕美に目配せをすると、何も言おうとする気配が無かったので、私が答えることにした。
「その場所はね…」
二十四日当日。今は午前十時。私と裕美はいつものようにマンション前で待ち合わせをした。
この日は快晴だったのだが、もうすっかり冬といった風情で、二人揃ってコートを羽織り、マフラーに顔を埋めていた。
軽い挨拶を交わした後、そのまま何気無く地元の駅へ行き、それから電車に乗って目的地へと向かった。
結局今回のパーティー会場は、カラオケボックスに決まった。喫茶店でアレコレと会話した後、手分けしてというか、ネットなども屈指して、私たち中学二年生がクリスマスパーティーが出来る”場”がどこかに無いか、あれこれと探してみたのだが、大概において居酒屋だったりばかりが引っかかり、当然の事ながら私たちが利用出来そうに無かった。勿論、親同伴だったらなんとか出来るところは数多くあったのだが、それは何だか…嫌だというのが共通認識だった。まぁ当然だろう。
結局最終的に候補として残ったのは、カラオケボックスだった。事前に予約をしておけば、大人数でも入れる部屋も取れるし、中には外から持ち込みオッケーな場所もあったりと、これが一番現実的かと思われた。…思われたのだが、ただ一つ、贅沢な悩みなのだが、ただ一つ引っかかる所があった。それは…なんでも都の条例にあるとかで、中学生がいられるのは夕方の六時までとの事だった。…でもまぁ別に、六時までと言われても、そんなに困る訳でもない。ということで決まったのだった。具体的には、いつも屯する喫茶店近くのカラオケボックスだった。
外から持ち込み可、そしてもうシーズンに入っていたというのにも関わらずに予約の取れるカラオケボックス、そんな条件を満たした場所…それがソコだったのだ。私たちのグループは、ごくたまにしかカラオケに行かないのだが、それでも数回行った中で、こうしたことにも対応しているというのは知っていたので、そう相成った。
…さて、もしかしたら今回の話を聞いた時に、こんなことを思い描いた人がいるかも知れない。というのは…そう、集まる”場”が欲しいのなら、”数寄屋”などどうだろう?というものだ。
それは確かに私も考えた。ママや…まぁ無口だから直接は聞いていないがマスターも、『何も雑誌の集まりである土曜日以外でも、気軽な気持ちで来てね?』といった様な事を言ってくれてたので、どうせならと頭を過ぎったのは本当だ。
もしかしたら突っ込まれるかも知れないが、私の考えでは、もし仮に数寄屋に皆を集めてしまったとしても、そこからお父さんたちにバレるような心配はしていなかった。いざという時は、絵里に一肌脱いで貰おうと都合よく勝手に思っていたというのもある。絵里が防波堤になって、それ以上は広まらないだろうという易い算段をしていた。だが、見ての通り、それはただの思いつきに留まった。まず義一を通してママ達に話をしなければだったし、やはりというか当たり前の話として、今更ながら絵里を無理やり巻き込む事に気が引けたというのが…一番デカかった。話を戻そう。
今ここで、私の誘った朋子、裕美が誘った体のヒロ、そしてヒロが連れてくるであろう誰かさん、その三人が何故今一緒にいないかの説明も込みで色々と触れようと思う。
まずパーティーの開始時間。開始時間自体は十二時に設定していた。
…とここで、いくら私と裕美の地元から御苑まで時間がかかるとはいえ、多く見積もっても一時間で着くので、あまりに早過ぎじゃないかと思われるかも知れないが、これには訳があった。というのも、先ほども少し触れたが、”外から持ち込むため”その準備のためだった。まぁ引き延ばす話でもないので先に言うと、その準備とは、あらかじめ予約しておいた、これまた喫茶店近辺にある洋菓子屋さんからケーキを受け取るためだった。ホールケーキだ。この役割は私と裕美に任されていた。このケーキ代は、私たち学園組の私、裕美、紫のお母さんたちが割り勘で出してくれた物だった。因みに、紫と後一人という、”紫の地元組”は誰よりも早くカラオケボックスの中に入って、外から注文したオードブルの様なものを待ち構える役だった。…ここでネタバレというか、結局紫も呼べたのが一人のみだというのが分かるだろう。
と、ついでにというか、ここで少し下世話な話にも触れておこう。このパーティーの経費の出所についてだ。今話した様に、ケーキ代、それにオードブル代も、私たち三人の家庭から出されていたのだが、ふとこれだけ聞くと、他の参加者に対して優遇し過ぎじゃないかと思われるかも知れない。だが、その心配はいらない。何故なら、当たり前といえば当たり前だが、今から数日前に最終的に誰が来れるのか分かったので、そこから計算して、私、裕美、紫以外の参加者から、会費という形で幾らか出してもらう事にしていたからだ。
カラオケボックスの使用料などなどを込みで、皆が平等に負担するようにしたので、そこに関しては問題はない。
この流れで、ヒロや朋子、その他の面々が何をしているのかも軽く触れておこう。まぁ今言える範囲で、ヒロと朋子について。
この二人は同じ学校だし、同じクラスだというので話は通っていた。という事で、地元組の中でも私と裕美の”学園組”、そしてヒロと朋子、それにヒロが連れて来るという男子一人、そして、これは今初めて言うが直前にもう一人増えて合わせた四人の”地元同中組”、こうして二班に別れて買い出しに行こうという話になったのだ。
地元の駅でもしかしたら鉢会うかもと思ったが、そうはならず、詳しくは知らないが向こうも今頃新宿に向かっていて、私と裕美がケーキを受け取っている頃には、お菓子類や飲み物という一応決まっている課題に沿った物を、繁華街で買っている事だろう。
私と裕美は向かう途中、今日の会について色々とおしゃべりをしていたが、あまりヒロの話…いや、”例”に関連してのヒロの話にはならなかった。
というよりも、何だかんだ裕美からの”告白”があってから、それ以降にはあまり私と裕美の間でコレ系の話にならなかったのだった。別に避けていた訳ではないと自分では思っているのだが…いや、無意識のうちに避けていたのかも知れない。あの公園での会話の中で、「相談に乗ってくれる?」的なことも言われたので、当然私は快く応じたのだが、肝心の裕美が相談しない事には、私から出しゃばってアレコレとは言えない… うん、言えないし、そもそも何か言うだけの”経験値”がゼロだったので、ただ出方を待つ他にないというのも理由としてあった。だから、こんなイブという、世間的には絶好の日ではあるのだが、何だかからかって良いのかどうなのか、そこから私は未だに判断がつきかねているのだった。
なので、こうして電車の中での会話でも、イブというのとヒロを組み合わせて話すことは無かった。
乗り換えしつつ雑談に花を咲かせていると、私たち二人は御苑に降り立ち、そしてそのまま真っ直ぐに洋菓子屋へと向かいケーキを受け取った。
それから会場であるカラオケボックスに向かったのだが、私が持ったケーキの入った紙袋に目を向けつつ「大丈夫?やっぱり私が持とうか?」などといった、まるで幼子に対してハラハラしている母親然とした言葉を投げかけてきたので、
「大丈夫だよママ」と、そんな軽口を吐きあいつつ歩いていた。
お店に着き、受付の人に声を掛けると、もう二名ほどが来ている旨を知らせてくれた。お気付きの通り、すぐに紫とその友達の事だというのは分かった。部屋の番号を教えてくれたのにお礼を言うと、私と裕美は揃ってその部屋に向かった。そこは一階部分の一番奥まった所だった。
ガチャっ。
と、手に荷物を持った私に気を使って裕美が開けてくれた。
中に入ると、そこは中々に広いお部屋だった。入ってすぐ右手には、カラオケにありがちな大きなモニターが置かれており、その脇には、これまた特有の機械類で占められていた。”ザ・カラオケ”といった風だ。当たり前だが。
入って左手に空間が広がっていた。長テーブルが一つドンとあり、その周りをソファーがぐるっと取り囲んでいた。容易に十人以上が楽々と座れそうだった。
「…あ、琴音ー、裕美ー」
とテーブルの上で色々と、人数分のお皿を並べたりしていた紫が声をかけてきた。
「ケーキ、取って来てくれたー?」
「ふふ、もちろんよ」
と私は誇らしげに、手に持った紙袋を軽く持ち上げて見せた。
それを見た紫も、何故か胸を張って見せつつ「よろしい!」と返してきたので、私と裕美、それに紫の友達と笑い合うのだった。
改めて紫の友達と挨拶をし、まだ途中だと言うので準備を手伝った。それから…おそらく十分も経ってないだろう、不意に部屋のドアが開けられた。そして、その開けた主はすぐには入って来ないで、何故かヒョコッと顔だけ中に入れて、そして中をキョロキョロと見渡していた。ヒロだった。
と、ヒロは私と裕美の姿を認めると、途端に悪戯っ子な笑みを浮かべて、部屋に入ってきつつ言った。
「…お、琴音ー、裕美ー!良かったぁ、部屋間違えてなかったみたいだな」
中に入ってきて初めて気づいたが、手には大きく膨らんだビニール袋が二、三個あった。
「よく来たわね」「いらっしゃい、ヒロ君!」
私と裕美がほぼ同時に声を掛けた。
「おう」とヒロも今度は無邪気な”ガキ大将スマイル”を見せながら返した。
「…ふふ、ヒロ、随分な大荷物ね?」
と私がニヤケつつ聞くと、ヒロも同様の表情を見せて言った。
「あぁ、こうやってお前らの注文通りの品を買って来たからな!…っと、ここに置いとけば良いか?」
「えぇ」
「うん、そこで良いよ」
と紫がここで今日初めてヒロに声を掛けた。
「お、そうか?じゃあ置くぜ…っと」
「ありがとう」
と紫が笑顔で返すと、「どーいたしまして」と何故か棒読み気味にヒロが返していた。その直後、紫、ヒロ、そして裕美の三人が一緒になってクスッと笑うのだった。
その後で、三人が久しぶり的な挨拶を交わしていたその時、私は開けっ放しのドアをチラッと見てから、ヒロに話しかけた。
「…あれ?そういえば他の三人は?」
「ん?」
ヒロは紫とその友達に言われるがままに、自分の持ってきたお菓子の盛り付けをしていた所だった。
ヒロは一度私の方に視線を向けると、一瞬何かを思い出すかのような様子を見せてから言った。
「んー…あ、あぁ、そういや…置いてきちまったんだった」
「え?」
と、ヒロ以外の私を含めた皆で声を揃えて漏らした。
「置いてきちゃった?」
「あぁ、なんつーかな、今日寒かったじゃんか?」
「え、えぇ」
「でな、ここまで来る途中でよ、信号が点滅してるから、早く室内に入りたい一心で走って渡っちまったんだ。そしたらそこで信号渡れなかったアイツらと、渡った俺とで分かれちまったんだ。待っても良かったんだけれどもよー…」
とここで不意に何故かヒロは意味深な笑みを少し浮かべてから、また呑気な調子で続けた。
「まぁ…よ、さっきも言ったけど俺は寒かったからなぁ…で、こうして二人を残して一足先に来たって訳さ」
「何よそれー…呆れた」
と私がため息まじりに言うと、その後に続くように
「来たって訳さじゃないよヒロ君」
「ひどいなぁ」
「ひどい、ひどい」
裕美、紫たちの順に非難をヒロに浴びせかけていた。まぁもっとも、皆して明るい笑顔ではあったが。
「でもさ?」
と私一人は呆れ顔を保ちつつ言った。
「それにしたって遅すぎじゃない?たかが信号くらいで」
「んー…そうだなぁ」
とヒロはその場で腕を組みつつ考えて見せたが、すぐに何かひらめいた様子を見せると言った。
「…あ!そっか、アイツらな、俺とは違って水系を運んでいるからよぉ…それで遅くなってるんだ」
「呆れた…」
と私は腰に両手を当てつつ大きく溜息を吐いてから言った。
「あなた…そんな三人を置いて一人ここまで来たの?」
「え?…あ、いやいや、勘違いすんなよ?」
とヒロはアタフタしながら返した。
「俺は今、たまたまお菓子袋を持って来たけれどよ?さっき言った信号の辺りまでは俺が水系持ってたんだぜ?そこでアイツにバトンタッチして、それでついつい身が軽くなった序でに走ってここへ…」
「はぁ…」
と私がもう何もいえないって風でまた大きく息を吐くと、
「もーう…悪い男だなぁ」と流石の裕美も苦笑まじりに言った、その時
「ほんとほんと、悪い男だよお前は」
と不意にドアの方から声が聞こえた。男の声だ。
その瞬間部屋にいた全員が手を休めて一斉にそちらに顔を向けた。
そこに立っていたのは、身長がヒロよりも数センチ程高い、ぱっと見では痩せ型に見える男子だった。冬着特有の膨張して見える服装をしていたというのに、その下には引き締まった体があるのが分かった。頭はボウス頭だった。顔付きは如何にも男性的なヒロと違って、髪型さえ見なければ女に見えなくもない程に中性的な顔つきをしていた。両手には見るからに重そうなビニール袋が手袋越しに握られていた。顔には苦笑いが浮かんでいる。
「お!遅かったじゃねぇか」
とヒロが悪びれる様子を一切見せずに男の元に歩み寄ると、
「遅かったじゃないよ全く…ほら」
と男子は苦笑いのまま投げやりな感じでヒロに”水系”を渡していた。
「本当に置いてくんだもんなぁ」
「あはは、悪い悪い!」
とヒロは言葉とは裏腹な態度を取ったまま、受け取った水系を空いてるソファーの上に置いた。
そんな二人の様子を、男子と同じように苦笑まじりに私たちも眺めていたその時、
「…ちょっと翔悟くん?そんな入り口で立ってられると、私が入れないんだけど?」
と廊下側から声が聞こえてきた。女性の声だ。見ての通り不満げだが、もちろん冗談調だった。
「ふふ、言い方、言い方」
と続いてまた別の女子の声が聞こえた。こちらは呆れ調だ。
「あ、ごめんごめん」
と”翔悟”と呼ばれた男子が脇に一歩寄ると、外からこれまた両手にビニール袋を二つ持った女子が不満げに膨れ顔を見せつつ入ってきた。今日来た皆…いや、”私を除いた”女子は、クリスマスだというんでそれなりにオシャレに気合を入れて来ていたが、今入って来た女子も負けていなかった。ここでは触れないが、その小柄な体型にとても似合った服装をしていたとだけ言っておこう。
もうお気づきかも知れないが、敢えて言えば、そう、千華だった。先ほどに軽く触れた、急遽一人追加となったという人物は千華なのだった。…まぁ、これは言い方が悪いかも知れない。意外だと言いたげに聞こえるかも知れないからだ。まぁもっとも、今回の趣旨には当然千華は当たる訳だから、意外でもなんでも無い。もし急な提案なのに参加してくれたというのが理由なのだとしたら、紫の友達、ヒロ、そしてその友達の”翔悟”もそれに当たるだろう。…いや、もう一人いた。
「ちょっと千華ー?あなたこそ入り口にいつまでも立ってたら、私が入れないじゃない?」
と言いながら、片手で千華の背中を押して入ってくる人がいた。朋子だった。千華と同様に両手に袋を持っていた。ついでに言うと、二人とも、片手には水系、もう片方にはお菓子系を持っていた。
「ちょっとー」
と背中を押された千華は不満げな声を上げていたが、表情は愉快げだった。
「はぁーあっと…ほら森田!」
と朋子は瞬時にヒロの姿を見つけると、ジト目を向けつつ手に持った袋をグッとヒロの方に向けた。
「あなた勝手に行っちゃうんだからー…ほら、さっさと私と千華の分を受け取って」
「へいへい…」
とヒロは、まるで尻に敷かれた気弱な夫よろしく、苦笑いを浮かべながら千華と朋子から荷物を受け取り、翔悟から受け取った荷物の側に置いた。
「まったく…女子二人に重い荷物を持たせて、そんで自分は軽いお菓子だけ入った荷物を持ってさっさと行っちゃうんだからなぁ…ね、千華?」
「ほんとほんと!」
と千華もすかさず同調したが、荷物を整理していたヒロが作業を続けつつ、顔だけ千華に向けながらニヤケつつ言った。
「おいおい倉田、お前は平気だろー?いつも部活の最後に、俺らと一緒になって片付けしてるじゃねぇか…な?翔悟?」
「んー…」
と翔悟は千華にチラッと視線を向けてから苦笑まじりに答えた。
「…ノーコメント」
「ちょっと昌弘くん?それってどういう意味ー?」
と千華が薄眼を使って言うと、ヒロは一度翔悟をチラッと見てから、「じゃあ俺も…ノーコメントで」
と悪戯っぽい笑みを浮かべて返した。
「何よそれー」
「あはは」
とここで誰からともなく、いわゆる”地元同中組”以外の皆で笑い声をあげた。
私たちをそっちのけで、急に目の前で”内輪ネタ”に近いものをやり出したのには戸惑ったが、それでもその場にいなくても、今の会話から普段の彼らの様子が手に取るように分かるようで、それが微笑ましくも面白く、それで思わず吹き出し笑ったという次第だった。
そんな私たちの様子を見て、同中組は揃って顔を一度見合わすと、こちらに照れ笑いに近い苦笑を向けてくるのだった。
その後はそれぞれ持ってきた物を整理しつつ、お互いに軽く挨拶をした。私個人としては朋子とお互いに…私の姿には褒める要素は無かったと思うのだが、それでもお互いに服装を褒め合いつつ準備を進めたりした。まだこの段階では、ヒロが連れてきた男子とは会話が無かった。今だに彼の名前が”翔悟”というのしか分からずじまいだった。裕美と千華もこの時挨拶を交わしていたが、側から見ててもやはり、何かギスギスしたような雰囲気は見られなかった。
準備も整い、紫たちが持ってきてくれた紙コップに、ヒロたち…いや、ヒロ”以外”の皆で持って来てくれた飲み物を注ぎ終えると、不意に部屋の入り口に一番近い位置に座っていた紫がふと立ち上がると、モニター前に立ち、おもむろにマイクを手にした。
因みにというか細かい事だが、今言ったように紫が一番入り口に近いところに座り、そこから順に紫の友達、裕美、私、朋子、千華、ヒロ、そして”翔悟”の順に座っていた。”翔悟”と向かい合わせに紫が座るような形だ。
トン、トン
紫がマイクのスイッチを入れたまま、指先で叩いたので、それがそのままスピーカーから鳴っていた。
紫は何かの確認を終えると、空いてるもう片方の手に紙コップを持つと、一同を見渡してからマイクを口元に近付けて口を開いた。
「えぇーっと…今日はお日柄もよく…」
「…ぷ、何それ?」
とまず瞬時に紫の友達が吹き出しつつ言うと
「天気は良いけど、寒いぞー!」
とそれに続いて裕美がニヤケつつ、よく分からないツッコミを入れていた。その直後、二人して顔を見合わせつつクスッと笑い合っていたが、それに続くように、私がボソッと苦笑まじりに呟いた。
「何だか…ふふ、オジン臭いよ?その挨拶」
「何よ皆してー…」
と紫がいじけて見せると、「良いぞー!宮脇ー!」と前触れも無くヒロが明るく声を上げた。
「琴音たちのことなんか気にすんなよー?俺は良いと思うぜー?」
「何よあなた、今紫が挨拶をしてる途中なんだから、口を挟まないでよ」
とすかさず私が突っ込むと「お前が言うかそれー…」とヒロが苦笑いで応じてきた。と、その時
「おほん!」と紫がマイクを使ってわざとらしく咳払いをしたので、私とヒロも同じようにワザとらしく畏まって見せながら体勢を戻した。
それを見た紫もこくんと偉ぶって見せつつ大仰に頷いて見せたが、次の瞬間にフッと力を抜くような笑みをこぼすと、片手に持ったコップを軽く持ち上げつつ言った。
「…ふふ、まぁ確かに挨拶なんかいらないよねぇー、上手いこととか面白いことなんか言えないし、まぁ取り敢えず、琴音や裕美はともかく、他の学校のみんな、よくこうしてクリスマスイブという日に来てくれたね?今日は思う存分楽しもう!」
「おぉー!」
「では…かんぱーい!」
「かんぱーい!」
紫も一度着席し、そして一人残らず改めて挨拶を交わしつつ「メリークリスマス」と紙コップをぶつけ合った。
一通り終えると、ここでふとヒロが隣に座っている彼の背中を一度バシンと叩いてから声をかけた。
「そういやよ、翔悟、お前この集まりがそもそも何だか知ってるだろ?こないだ俺が誘った琴音たちの文化祭に来なかったんだからさ、当然皆お前のこと知らないだろ?だからさー、ここで一つ自分で自己紹介をしてくれよ」
「えぇー…」
と彼は一同を見渡しつつ声を漏らしたが、顔は笑顔だった。
最後にヒロに顔を戻すと、少し不満げな調子で返した。
「文化祭来なかったってさぁー…俺は昌弘、お前に誘われた時乗り気だっただろう?俺だって女子校の…しかも、俺だって知ってるお嬢様校の文化祭となっては、何としてでも行きたかっ…あ、いやー」
とここで、私、裕美、紫の視線に気づいたのか、何だか照れ臭そうにしながらも続けた。
「ともかく、行きたくても外せない用事が入っちゃったからって、それで泣く泣く千華ちゃんに譲ったんじゃないかぁ…ね?」
「ね?って言われても…」
と千華はコップに入っているジュースを一口飲むと、苦笑まじりに返した。
「なんて答えれば良いの?」
「あ、いや、なんでも無いんだけれどさー…ともかく、是非とも行きたかったんですよ皆さん!」
とここで”翔悟”は私たち学園組の顔を見渡しつつ言ったので、私と紫は一度顔を見合わせると「はぁ…」とだけ返した。そうとしか返しようが無かった。紫がどう思っていたのかはともかく、私個人としては、第一印象とは全く違うなと思い始めていた。まぁいきなり千華に色々と言われてたり何なりを見ていたから、少し大人しめなタイプかと思っていたのだが、どうも違うらしい。ヒロとはまた違うタイプの”お調子者”キャラのようだった。類友ってやつらしい。
裕美だけが何故か動じていなかったが、そんな私たちの反応をよそに、彼は続けた。
「ま、そんな事は置いといて、自己紹介ね!えぇっと…俺の名前は溝口翔悟。ここにいる昌弘と同じ野球部です!そこで一応キャプテン兼部長をしていまーす。で、後は…そうそう、ここにいる千華ちゃんと朋子ちゃんとも同じ中学に通ってます」
「当たり前だろー」
バシッ
とすかさずヒロが漫才よろしくツッコミを入れていた。
「スベっているぞー」
と私の左隣に座っていた朋子も後に続く。
「そういうのいらないから」
と最後に千華が声に表情をつけないままに冷たく言った。
ここで余談だが、何だか普段はキャピキャピしてる…いや、してそうなのに、何だか彼に対してだけは、この短い時間の間だけ見ての判断ではあるが、千華の彼に対する対応が違って見えるという感想を持っていた。まぁそれだけだ。
翔悟は「何だよ、みんな冷たいなぁ」と見るからに大げさに落ち込んで見せつつボヤいていたが、ふとまた私たちに顔を向けると満面の笑顔を作り言った。
「まぁ昌弘たち同中は、こうして俺のことを”翔悟、翔悟”って呼んでるからさ、みんなも気軽に翔悟って呼んでね?」
そう言い終えると、ぱちっとウィンクをしてきたので、冗談だとは知りつつも、翔悟には悪いがサブイボが立ってしまった。
「は、はぁ…うん」
と、相変わらず平静でいる裕美をチラッと横目で見てから、紫と顔を見合わせていたが、お互いにフッと苦笑を漏らすと、紫が今度は一同を見渡して、それから空気を変える為かのように、パンっと一度手を打ってから明るく言った。
「さて、翔悟くんの自己紹介も終わったところで、ここから改めてパーティーを楽しもう!」
「おー!」「おー!」
ヒロが率先して声を上げた後を続く形で、他のみんなも続いた。
それからは、んー…この会の前半部分に関しては、これといって取り上げる事は無い。
というと、まるで退屈だったと受け取られそうだが、それは違う。私個人の感想を言えば、とてもリラックスした雰囲気の中、時間を忘れて楽しんでいた。ただ…言い方が悪くて、他のみんなには悪いかもだが、私含む中学二年生の集まりでワイワイやった中身について、時間を割いてまで全編を話すほどでは無いと思うのだ。
まぁそれでも流れだけ軽く触れると、まず私と裕美が持ってきたケーキを皆で分け合って食べたり、紫たちが取り分けてくれたオードブルを食べたり、ヒロたちが買い込んできたお菓子や飲み物を飲み食いしたり…と、勿論楽しくお喋りをしながらだったが、まぁこんな調子だったので、前半部分は端折らせて頂く。
途中から、せっかくカラオケに来たというので、紫、紫の友達、朋子、それに千華がそれぞれ歌を楽しんでいた。その関係で席順も変わり、紫とその友達はそのままだったが、その向かいには翔悟に変わって、朋子と千華が座っていた。最終的には、入り口に近い所から時計回りに紫、その友達、裕美、私、ヒロ、翔悟、千華、朋子の順に座っていた。
ここに来て、すっかり”紫組”と”同中女子組”はこの短時間でより親密になったらしく、厳密にはこの四人は終始立ちっぱなしで、アイドルやら何やら本人の物真似を交えつつモニターを前に盛り上がっていた。
勿論他の私たちも一緒になって盛り上がっていたが、ある所でふと小さな疑問を思い出したので、どんちゃん騒ぎの中、聞いてみることにした。
「しかしさぁ」
と私はふと裕美に声をかけた。
「裕美、あなた、翔悟くんの”色々”を見ても、何の驚きも見せなかったわね?」
「え?」
と裕美が声を漏らしたその時、
「えぇー、ヒドイな琴音ちゃーん」と聞こえたのか翔悟がすかさず横から入ってきた。
「あ、いや」と私が軽くフォローを入れようとしたその時、
「お前なぁー」とヒロがウンザリそうにため息交じりに制した。
「一々そう絡むなって…面倒いやつだなぁ。すまねぇな琴音、こいつは悪いやつじゃ無いんだけれどよー」
「あ、いや、私は別に…」
「ほらー、琴音ちゃんは”別に”って言ってるだろー?」
「いやいや…はぁー、琴音、あまりコイツを甘やかすなよ?すぐに調子に乗るんだから」
「…まぁ、肝に銘じとくわ」
と私は悪戯っぽく笑いながら翔悟に視線を流しつつ言った。
「二人揃って、ヒドイなぁ…」と翔悟が苦笑交じりに愚痴った後、裕美が私に答えた。
「それはねー、私は前から翔悟くんの事を知ってたからなの」
「…?」
「そうそう」
とここでまた翔悟が若干上体を前のめりにしつつ話に入ってきた。
「裕美ちゃんはね、よく俺らの試合の応援に来てくれてるんだよ。な、昌弘?こんな可愛い子に応援されたら、俄然やる気が湧いてくるってもんだよな?」
「そ、そんな可愛いって…」
と裕美はここで一人軽く照れて見せていたが、ここでヒロがチラッとそんな裕美を薄目がちに見た後で翔悟に答えた。
「あのなぁ…そりゃ試合に必死になるってもんだろ。だってこんなゴリラ女が見てる前で何かとちったりしたらよー…後で何されるか分かったもんじゃねぇ…」
「…ちょっとヒロ君?」
と、さっきまで照れ気味だったのが嘘みたいに、裕美は冷めた表情でヒロを気持ち睨みつつ言った。
「誰がゴリラ女だってー?それに…まるで普段から私が色々とヒロ君にしてるみたいじゃない?」
「え?してるだろ?」
とわざとらしくキョトン顔を作りながらヒロが答えるのを見て、「あはは」と私と翔悟が、ほぼ同時に笑い声をあげた。
それに気づいた翔悟が、また体勢を前のめりにしつつ、私の方に自分の体を、ヒロ越しとは言いつつも寄せてきながら言った。
「まぁそれで裕美ちゃんは良く応援に来てくれてたからさ、昌弘の紹介もあって何度かお喋りなんかもしてたんだけれど…その会話の中でね、琴音ちゃん、しょっちゅう君の話を二人から聞いてたんだ」
「ふーん…どうせ私の悪口でしょ?」
と私がヒロと裕美に視線を配りつつ、意地悪げな微笑を湛えながら言うと、「あははは」と翔悟は明るく笑いながら答えた。
「いやいやいや、悪口なんか言ってないよ。まぁ…敢えて悪口っぽいのを取り上げるとしたら、『何度も見に来いって言ってんのに、アイツは中々来ねぇ…そんな薄情者なんだ』と昌弘が言って、それに裕美ちゃんが同調して見せたり、後は何かにつけて琴音ちゃんの事を『チンチクリンの変わり者』と称したりね?」
「ふーん…二人とも、随分な褒め言葉をありがとう」
と私がわざとらしく屈託無さそうな笑みを向けて言うと、二人は一度顔を見合わせてから、悪びれる様子を見せずに、むしろ何故か照れ笑いを浮かべるのだった。
それを見て何かを察したのか、少し慌てつつ翔悟が付け加えた。
「いやいや、勿論褒め言葉も言ってたよ?えぇっと…あ、そうそう、これは裕美ちゃんだと思うけど…」
とここで翔悟は不意に私の全身…まぁ座っていたしテーブルもあったから厳密には違うが、まるで全身を眺めるようにしてから続けた。
「『あの子は変わってるけれど、そこが面白いし、それにそんな中身なのに容姿はバッツグンに良くて、ピアノもバッツグンに上手いし、なんか色んなことに詳しかったりするから、それらを全部ひっくるめて、私たちの間では”お姫様”もしくは”お嬢様”って呼んでるの』って言ってたよ」
翔悟は何故か得意げにここまで言い切ったが、当の私はますます顔に苦い表情を滲ませつつ、話の途中からヒロと裕美にジト目を向けていた。向けられた二人は「あははは」と棒読み風な笑みを浮かべていた。
「はぁ…」と私は大きく溜息をついてから翔悟に噛んで含めるように返した。
「あのね翔悟君、今の話はねー…私が変わってるだとか以上の悪口なんだよ」
「え?…今の話にソレ以外で何か悪いところあったかなー?」
と翔悟が心から不思議そうにしているのを見て、裕美が苦笑交じりに言った。
「…ね?変わってるでしょ?翔悟君、要はねー…この子が悪口だって言ってるのは、私たちが”お姫様”って呼んでて、それに因んで扱われてる事についてなのよ」
「へ?」
「普通だったらさぁ、喜んでしかるべしだと思うんだけれど、この子ったら…中々受け入れてくれないんだもん」
「あのね…」
と怒る気も失せてしまった私は、私こそその権利が大アリだと苦笑交じりに言った。
「あなた達はただ単に、そう言って面白がってるだけでしょうがー?」
「ソンナコトナイヨー」
と裕美はあからさまに私から視線をそらして、今にも口笛でも吹き出しそうなほどに唇を軽く尖らせつつ、棒読み風に返した。
「まったく…」と私が溜息つきつつ力無く笑い、ふと翔悟の方を見ると、いつからなのか、ジロジロとまた私の方を眺めてきてるのに気づいた。
「…?なに?どうかした?」
と私が聞くと、翔悟はニコッと満面の笑みを浮かべて見せてから答えた。
「いやね、そんなルックスをしてるのに、それを多かれ少なかれっていうか、普通は自慢に思ったりするもんだと思うんだけれど…君は違うんだねぇー」
「…は?」
と私は何の話をし出したのか分からないと素直に疑問の声を上げたが、それに構うことなく翔悟は続けた。
「いやー、俺の周りには君みたいなタイプが今まで一人もいなかったからさ?こう言っちゃあ何だけど、そこそこの見た目ってだけで、それを誇らしげに見せびらかすのがほどんどでさー?君みたいな本当に可愛い…っていうか、美人と言った方が良いのかな?それなのにむしろ控え目っていうのが面白いよ」
「はぁ…」
初めからずっと私の容姿を面と向かって褒めてきていて、これは私が毛嫌いする代表的なことの一つであったハズなのだが、あまりにも明け透けに言われたせいか、嫌悪感よりも、この男が何の意図を持ってこんな話をするのかの方に関心が向いて最後まで聞いたのだった。
「あ、ありがとう…」
と取り敢えず相槌がわりにお礼を言うと、翔悟は満足げに頷いていて、また私に話しかけてきた。
「そういやさー、裕美ちゃんから聞いてたけれど…やっぱり小学生時代からモテてた?」
「やっぱりって何よー…?」
と私が苦笑いを浮かべるのを無視して、想像通りというか案の定、裕美が嬉々として”無いこと無いこと”をツラツラと、本当に何だか感心しちゃうほどに止め処なく話していた。普段からおそらくストックしているのだろう。…無駄な。
裕美の話を最後まで愉快げに聞いていた翔悟だったが、聞き終えるとまた前傾姿勢になって、私にニコッと微笑みを向けてきつつ言った。
「なるほどなぁ…高嶺の花だったって訳だ。…あははは!琴音ちゃん、そんな冷たい視線を向けないでくれよー?でもそっか…じゃあ今琴音ちゃんは、そのー…フリーなんだね?」
「え?」
と私は何だか怪しい気配を感じて少し体を翔悟の方から離しつつ返した。
「それって…どういう意味?」
「え?…って、そりゃあ勿論…」
と何故か翔悟は少しここで一度溜めてから続けた。
「…彼氏?」
辛子…?と一瞬、自分でもサムイと思うダジャレがふと頭を過ぎったが、そんなくだらない事を考えるほどに、自分に聞かれている事だとすぐには認識できなかった。
以前に裕美から”告白”をされた時に、まるでヒロと恋愛話が結びつかないといった旨を話したと思うが、それ以上に自分自身にこのような話が振られるとは、下手すれば物心ついてこの方一瞬でも考えた事が無かったのだ。だから我が事のようには思えず暫く沈黙をしてしまったのだが、ふと隣に視線を配ったその時、ここでまた心の中でだけで態度には出さなかったが驚いてしまった。
何故なら、ヒロも裕美も口元には笑みを浮かべていたのだが、私を見てくる目の奥には真剣味のある光を宿していたからだった。裕美に関して言えば、例の告白の時と似たような光を帯びていた。
私はそこでますます面を食らってしまったが、気を取り直す意味も、場の雰囲気をもっと柔らかいものにしようという意図を持って冗談めかして笑いつつ答えた。
「…え?私?私に彼氏がいるかって?…ぷ、あははは!中々にブラックなことを聞くのね?もし彼氏、恋人がいるのなら、今日みたいなイブって日に、こうしてみんなで騒ぐところに来やしないよ」
「あ、そうなんだー。あははは」
私と翔悟はここで少しの間笑い合ったのだが、その間もヒロと裕美は、何となく合わせるためだけの、社交辞令的な微笑みを浮かべるのみだった。
「でもそっか…」
とここで翔悟は不意に落ち着きを取り戻すと、また体を前のめりにして、そして柔らかな笑みを浮かべつつボソッと言った。
「フリーなら、それじゃあ…俺が彼氏に立候補しようかなー?」
「へ?」「え?」「は?」
それを聞いた瞬間、私、裕美、ヒロは同時に声を上げた。私は翔悟に視線を釘付けにしていたが、おそらく他の二人も私と同様に目をまん丸にしている事だろう。
と、この時ふと視界の隅にたまたま見えたのだが、さっきから変わらずに紫たちと一緒に歌を楽しんでいた千華が、ふとこちらの方に視線を向けていたのに気付いたのだが、この時の私は、千華が少しの間こちらを見てきていた意味を考える程の余裕が無かった。
そんな私たちの驚きを他所に、ますます笑みを強めつつ、ジリッとお尻半分分私の方に近寄りつつ言った。
「確かに今日初めて会う訳だけれどさー、さっきも話したけど、昌弘たち二人から散々君の話を聞いててね、それですっかり惹かれちゃったんだよー」
「う、うん…」
と私はあのセリフを聞いた瞬間に頭が真っ白になってしまい、大げさな言い方をすれば茫然自失してしまっていたので、ただそう相槌を打つことしか出来ないでいた。
そんな私を他所に「だめかなー?」とまたお尻半分翔悟がこちらによってきたその時、
「お前な…本当にいい加減にしろよ」
とヒロが私の方に背を向けて、結果的に庇うような形になって、翔悟の肩に両手を置いて抑えながら言った。声からは若干の苛立ちが見えていた。
「何だよー?」
と翔悟は素直に少し体を後退させながらもブー垂れつつ言うと、ヒロは肩から手を離して、チラッと私の方を振り返りつつ言った。
「何だよじゃねぇーだろ?お前な…時と場合を考えろよ。今はみんなでワイワイ楽しくって場だろう?自分勝手な事を、思い付きでするんじゃねぇよ」
「思い付きだなんて、酷いなぁー」
と相変わらず翔悟は膨れたままだったが、ここでふとヒロは急に今だに歌って騒いでいる紫たちの方を見ると、急に明るげな態度を見せて、おもむろにバッと立ち上がり、翔悟の前を通り、そして力任せに翔悟の腕を取った。
「そんなずっと座ってるから余計な事をするんだよ。ほら、俺らのタイプはそんなんじゃないだろー?アイツらみたいに楽しまなくちゃ!ほら、行くぞ!」
「ちょ、ちょっと待てよ昌弘ー?…やれやれ仕方ない」
と初めの方は無理やりだったのもあってか、顔に少しイラつきが見えていたが、ヒロの勢いに絆されたか、すぐにヒロと同じような調子になって一緒になって紫たちと混ざって騒ぎ歌っていた。
二人が行こうとしている間、私はふと何気無く隣の裕美を見たが、この時に初めて裕美が真顔だったのに気付いた。
それを不思議に思ったその瞬間、裕美は我に返ったように途端に苦笑いを浮かべて「あはは…」と力無げに呆れ笑いをしたので、私も合わせて苦笑いをしたのだった。
それから私たちは、今までずっと部屋の一番奥まった所にいたので、二人して移動して紫の定位置の席まで行き、そこで座りながら一緒になって盛り上がっていた。最終的には私と裕美も立ち上がり、そこからは予約の夕方六時まで皆して立ちっぱなしで騒いだのだった。
六時になると、皆してゴミを片付けて、あとはお店の人が捨てるまでの事はしてくれるというので、去り際すれ違う店員さんや、受付の人に対してそれぞれが挨拶をしつつ外に出た。
当たり前だがもう六時のせいか、空は真っ暗になっていた。新宿とは言っても御苑近くなので、空は真っ暗だった。だがふと視線を逸らせば、すぐそこの空は新宿のネオンに照らされた、もやっとした白みのかかった色合いを見せていた。
そこから私たちは新宿駅までゾロゾロと、しかし広がる事なく整列しながらもワイワイお喋りをしつつ、年末の繁華街を歩いた。駅に着き、人で犇めく構内を歩き、やっとの思いでJRの改札に辿り着き皆で入り、そこから学園沿線の電車に乗り込んだ。
秋葉原で紫たちと別れて、その他の地元組である私たちは揃って最寄り駅まで一緒に帰った。
駅に着くと、駅ビルの正面口に出て、一度時計が先についたポールの下に皆で足を止めた。
それぞれが「今日は楽しかった」などの事を挨拶がわりにした後で、朋子と千華、それに翔悟の三人は今から地元の友達たちと合流するというので、そこでさよならの挨拶をした。
と、去り際「琴音ちゃん、俺は真剣だから、ちゃんと考えといてね?」と翔悟が言うのを「もういいから、さっさと行け」とヒロがすかさず苦笑まじりに両手で朋子たちの方に押し出した。
「何だよー」と翔悟も苦笑いだったが、素直にヒロに従い、そして三人は私たちの方角とは反対の方に歩いて行った。時折振り返ってきたので、私たち三人が手を振ると、向こうでも皆して手を振り返してくれた。
三人の姿が見えなくなった頃、「じゃあ…私たちも行こっか?」と裕美が言うので、
「えぇ」「おう」
と、私とヒロが同時に答えて、それから三人並んで人通りの少なく明かりの乏しい道を歩いて行った。
「いやー、しっかし驚いたねぇ」
と歩いてすぐに裕美が、何だか感心した風に声を漏らした。
「何が?」
と私が聞くと、裕美はチラッと私を挟んで向こうにいたヒロの顔を見つつ答えた。
「何がって…そりゃあ、ヒロ君が連れてきた翔悟君だよ」
「…あぁー」
と私はため息まじりに声を漏らすと、ヒロに顔を向けて言った。
「何だったの?アレは…?」
「んー…すまん」
とヒロは少し長めに唸って見せたかと思うと、その場でペコっと頭を下げた。
「別にヒロが謝る事じゃないよ」
と私は苦笑まじりに言った。
「まぁ驚いたけれど、でもまぁ結果としては、彼がいた事も含めて盛り上がったんだし…ね?気にしてないよ?裕美もでしょ?」
と裕美に振ると、振られるとは思ってなかったのか、少しきょどりつつも「うん、まぁね」と返してくれた。
「そっか?まぁお前が良いって言うんなら、それで良いけどよ…っと」
とヒロは呟きつつふと足を止めた。そこはヒロの家の前だった。過去に何度か触れたが、ヒロの家が駅近だったので、すぐに着いてしまった。
ヒロは門扉に手を掛けたまま後ろを振り返り言った。
「そんじゃまぁ…今日は誘ってくれてありがとうな?楽しかったぜ」
「えぇ、そうね。私も楽しかった」
「うん、私も…うん」
私が応えた後に続くようにして裕美も応えたが、何かを言いかけてすぐに口を噤み、最後に静かな、意味深な笑みを浮かべた。
そんな裕美の変化に気づいているのかどうか、その顔からは判別が出来なかったが、パッと見では普段と変わらない調子で「おう」とだけ、いつもの笑顔を浮かべつつ返した。
「じゃあまたな?」
とヒロが門扉を開けようとしたその時、ふとまた振り返ると、こちらを数瞬の間だけジッと見た。
挨拶を返そうと思っていた矢先だったので、不思議に思い、相手の出方を待つ意味で私もジッと見つめ返したが、ふとヒロが途端に照れ臭そうに坊主頭を掻きつつ言った。
「こ、琴音…?あのよー…本当に、別に、そのー…気にしてないんだよな?」
「…え?」
何をそんな事で何度も確認取ってくるんだろうと、私はその裏の意図までいつもの癖で探ろうとしてしまったが、良くも悪くも相手がヒロだとすぐに悟り、少し呆れて見せながら答えた。
「…もーう、さっきも言ったでしょ?別に気にしてないって」
「そ、そうか…?なら良い」
とヒロは見るからにホッとした様子を見せたので、その意外な反応に心内では驚いてしまっていたのだが、それでもこの場はスルーしておいた。
それからは改めてお互いに挨拶をし合い、ヒロとはそこで別れた。
裕美と二人での帰り道、ここでも不思議とヒロの話にはそれ程にはならなかった。先ほどのヒロの不思議な態度についてもだ。あの変化を裕美が見逃すはずがない。…それは別にヒロに惚れてるだとか置いといてもだ。
取り敢えずというか、今日のパーティーの内容だとかで、如何にも女子中学生が喋りあうようなノリで明るく笑いながら歩いた。
しばらくして裕美のマンション前に着くと、何歩かエントランスの方に歩いて行ってから振り返り
「じゃあ琴音、また明日ここでねー?」
と明るく声を上げた。
…お忘れかも知れないが、明日は明日で、今度は藤花と律と一緒という普段のグループでクリスマスを過ごす予定になっていたのだ。内容はほぼ去年と同じで、教会で藤花の歌を聴き、街を少しぶらついてから最後は紫の家でお泊まり会だった。
「えぇ、また明日ねー」
と私は声を掛けつつ普段通りにスッと自宅への道を歩き始めていたが、ここでふと一瞬違和感を覚えた。
それは…もう辺りは暗くなっていて、この辺りは街灯も少なく、それ故に薄暗かったので、尚更マンションのエントランスからの明かりが際立ち、毎度の事とはいえ裕美の姿が逆光により黒い塊に見えてしまっていたのだが、それでも一瞬裕美が帰途につく私に向かって手を振ってくれたその表情が、笑顔は笑顔でいたのだが、何だか寂しげな、そんな影のようなものが差していたように感じたのだった。
…だが、多分私の思い過ごしか、勘違いだろう。
家に帰ったのは七時半になるところだった。玄関までお母さんが出迎えてくれて挨拶をしてくれたので、私からも返した。
それからは、一緒に居間に行く間に、今日のパーティーの事を軽く聞かれたので、今日の情景を思い浮かべつつ、自分でも分かる程にテンションが若干上がりつつ答えていった。
この日もお父さんは病院だというので、お母さんと二人、これまた普段通りの馴染みある夕食を摂ると、また先ほどの今日の事についてお喋りをして、その後は寝支度に入った。
風呂から上がり、お母さんに寝る前の挨拶をして自室に引き上げたのは夜の十時半を過ぎていた。
私は何も考えないまま真っ直ぐにベッドに向かい、ただその上に横になったのだが、お母さんとの会話もあってか、パーティーでのテンションが残っていたせいか目がまだ冴えていたので、またスクッと起き上がると、ふと時計に目を向けた。
…そうか、今日は土曜日か。…あ、そういえば今回は…
と私はおもむろに立ち上がると、パソコンデスクに向かった。そして電源を入れて、最初のデスクトップ画面が表示されると、慣れた手つきで暗証番号を打ち込んだ。その後はすぐにネットに入り、ブックマークの中からある一つのサイトに飛んだ。
それというのが、以前にも触れた、ネット内で”右のネットテレビ局”と称されているホームページだった。今日は土曜日。この局は毎週のように新たな討論番組が放送されているのだが、こうして毎週土曜日の夜十時に動画としてアップしていた。三時間番組だ。
…まぁこれも以前に軽く話した事だが、私は別に毎回見ているわけではない。ただ欠かさずに見ていたのは、そう、神谷さんを含む”オーソドックス”に集う面々が出てくる時のみだった。毎回欠かさずに、この局の社長兼代表が司会者兼パネリストとして同席しているのだが、どうやら神谷さん自身とこの人が懇意な間柄らしく、一、二ヶ月に一回というペースで『オーソドックス・スペシャル』と題を打って討論がなされていた。
…と、わざわざ今こんな説明をしたのかというと、そう、今日この日が、その『オーソドックス・スペシャル』の回だというのを思い出したからだった。また年末というのもあって、そのまんまだが『年末スペシャル』と副題が付けられていた。
それを思い出したので、まだ眠れないというので暇つぶしに軽く覗いて見るつもりで、番組名の所にカーソルを合わせるとクリックした。
その直後には画面いっぱいに討論番組のサムネイルが出た。真ん中に再生マークが出ていたが、三時間もあるというので、また普段見る時も勉強のつもりで覚悟をしてメモ帳を傍らに見ていたので、実際見るのは後ほどという事にして、今はただ出演者欄を見た。
年齢順やキャリア順ではなく”アイウエオ順”に縦に名前がズラッと並べられていた。
ふんふん…えぇっと、神谷先生は当然出ていてっと…ん?
と、ここで一人、この局では馴染みの無い名前が載っているのに気付いた。
中山…武史?…あ、あぁ!武史さん!へぇー…今回初めての出演になるなぁー。あれから何度か雑誌の中の寄稿を読んだけれど、ヨーロッパの政治哲学者の思想を中心に据えて、今の日本のみならず世界の情勢を分析するのが、私みたいな門外漢からしても切り味が鋭くて、しかも論理的で、予め反論が予想される所もキチンと抑えているから、疑問を持つ事なくサラッと読めちゃうんだよねぇー。皆んな勿論それぞれに面白く読んでるけれど、やっぱり毎号に寄稿している中でと言うと、神谷先生、義一さん、そして武史さんってなっちゃうんだよねぇ。…まぁ、それは直接こないだ話した時も感じたんだけれど、とても楽しみだなぁー…って、ん?
ってな具合に、武史が出演するというので、こんな事を思いながら一人モニターを眺めつつニヤケながら今からワクワクしていたのだが、ふとスクロールしていく中で、その出演者欄の一番下に”見覚えがあり過ぎる”名前が載っているのを見つけて、武史の名前を見た時以上…いや、比べ物にならない程に驚いてしまった。
心の中でとはいえ絶句してしまった。
その名前とは…
第20話 (休題)とあるネット討論番組からの抜粋 Ⅱ 《戦後保守を問う》
討論『年末 オーソドックス・スペシャル』
一応副題には”戦後日本を問う”と銘打たれていた。
長テーブルを挟んで四人、そして上座に司会者兼パネリストの代表である木嶋の計五人という、この番組にしては少数の出演者数でのスタートだ。
まず初めに木嶋が毎度の如く軽く名前を読み上げて、それからまず手始めに、議題に沿ったそれぞれの想いなり考えを軽く述べて貰うところから始めた。
まずはこれも”オーソドックス・スペシャル”では恒例となった神谷さんによる、問題提起から始まった。
…と、前回に見た時も思ったのだが、ここに来てますます、ホッペがこけて、顔色も色白く、時折見せる例の好々爺然とした笑顔にも力が入ってない様に見受けられた。私自身、コンクールが忙しくて、その後も中々数寄屋に行くことも出来なく、結局それからは今年中にまた神谷さんと顔を直接合わせる事は叶わなかったのだが、こうして画面越しでも目に見えて弱っている様に見える姿は、こう言うと失礼に当たるかも知れないが、とても胸がキュッと締められる様な、痛々しい思いに襲われるのだった。そんな神谷さんの異変に初めて気付いてからというものの、何度か義一に聞いてみようとも思ったのだが、何だかこちらから言い出せずに今日までなってしまった。今モニター越しに見る神谷さんは、いくら冬とはいえスタジオ内にいるというのに、首元には厚手のネックウォーマーをして、手袋を履いて、ジャケットの下には何やら厚手の物を挟んでいる様だった。一人だけ暖かい飲み物を飲んでいた。
だが、そんな見た目であるにも関わらず、ますますというか舌鋒に鋭さが増しているように感じられた。
…この話をしている時に、聞いておられる方でふと、神谷さんにまた別の変化が見られる事にお気づきだろうか?
そう、勿論最低限のマナーは守っているのだが、言い方が難しいのだが、最近の神谷さんはどこか子供の様な、無邪気なユーモラスを交えつつ、それをまた意識的にしつつ話している様に見えた。これは私と直接会話していた時には感じなかった事だった。
これは私が見るに、神谷さんの唯一無二にして、本人が「尊敬している」と公言して憚らない、あの”落語の師匠”の死をキッカケにしている様だった。一口に言えば、肩の荷が降りて力が抜けている様に見受けられた。
さて、神谷さんはいつもの様に問題提起を話し始めたが、その前に木嶋に「戦後日本とは、戦後右派と戦後左派の争いの歴史でもある」と言っていたのを引き受けたので、神谷さんの”保守論”、そしてそこから見る現状認識の話に終始した。
この中で、ふと今の政治状況にも触れたのだが、その訳は…いや、今は控えておこう。それだけで話がいっぱいになってしまう。
取り敢えず今軽く言えるとしたらこうだ。私は当然と言ってはいけないのだろうが、政治理論や政治の歴史には大いに関心があるのだが、そこまで”現実”政治には関心がなく、オーソドックスの中での特集でも、その手のものは読み飛ばしてしまっていたのだが、それでも覚えている。それは…今年に入って最初の号の特集に、『政権交代万歳』といった様な記事が表紙に踊っていたのだった。これだけだと何でそんな大騒ぎをするのか分からないと思うが、何を隠そう、今年の初めに政権を奪還した新総理というのが、神谷さんの薫陶を受けていた人だったからだ。
名前は岸辺純三。歳はこの年で還暦になったばかりの、政治家にしてはまだ若い議員だ。実は一度、数年前に総理をしていたのだが、閣僚の不祥事というよくありがちなスキャンダルで、一年と保たずに辞めてしまっていた。奇跡的な復帰を果たしたという事だ。
話が長くなって恐縮だが、ここだけではなく、後々に彼も物語にちょくちょく直接的にも間接的にも関わってくるので、今しばらく紹介するのを我慢して聞いて欲しい。
岸辺はいわゆる右派から絶大な支持を得ていた。というのも、頻繁に「日本が云々」「日本の伝統が云々」極め付けは、「皇室を尊重している云々」とよく公言していたからだった。神谷さん自体は、過去の雑誌内での発言を見る限り、他の右派とは違って一定の距離を置いていたようだ。それが何故神谷さんの薫陶を受けるようになり、そして総理職に復帰した時に特集まで組む様になったのか?
それは、先ほど述べた一年弱で総理を辞めたことと関連がある。
これはのちに義一と武史から聞いた話だが、スキャンダルで追い込まれていた時、今までワラワラと岸辺の周りに集まっていた右派の知識人たちが一斉に引き、あろうことか他の左派と変らぬ調子で避難を始めたらしい。それを見た神谷さんが、それはあんまりだろうと、退陣して独りになった岸辺をオーソドックスの集まりに呼んで、そこに集うみんなと共に数年間じっくりと勉強会を開催していたらしい。だからある意味で岸辺という男は、実質オーソドックスグループで、それでいて神谷さんの弟子とも言えなくもないのだ。実際、今も岸辺の方からたまに連絡が来て、食事でもと誘われるらしいが、総理になってからは、神谷さんは自分からは近寄らない様にしているらしい。…この”近寄らない”ということ、それに先ほど話した、他の右派と違って初めから岸辺と距離を置いていたという点、これは後々に大きな意味を持ってくるので、この件については是非しっかり頭の隅に置いていて欲しい。
…とまぁ、長々と今この場にいない人に関して話してしまったが、今回の討論でもある意味で話題の中心になっていたので、便宜上前情報として触れずには居れなかった。話を戻すとしよう。
神谷さんが述べた後、ここでの座り順は年齢順というので、神谷さんの向かいに座っていた浜岡が口を開いた。
…いきなり浜岡と言われても、頭の上にハテナマークが浮かんでいる方が大多数だと思うが、彼は文芸批評家にして、雑誌オーソドックスの編集長を勤めている方だ。その為か、まずこの『オーソドックス・スペシャル』には欠かさずに出席している。以前にも軽く触れたが、確認の意味も込めて言うと、年齢は先ほど話した岸辺と同じ還暦で、その割には真っ黒な髪が豊富にあり、真ん中分けにしていたが、癖っ毛のせいか所々外に跳ねていた。
浜岡「今神谷先生の話を聞きながら、普段から雑誌内で話していることを思い出したんで、それを今フリップに書き出してみたんで…ちょっと見てくれますか?」
木嶋「はい、どうぞ」
許可を貰った浜崎は、手元に伏せておいていたフリップをおもむろに持ち上げた。そこには如何にも今書きました感の溢れる、手書きの羅列が載っていた。
浜岡「まぁ戦後保守ってことが出たんで、ことさら新しくはないですが、視聴者の為って意味も込めて話そうと思います。戦後保守の定義ですね。まず第一は『親米保守』。アメリカに従属すれば良いという”従属根性”ですね。まぁ冷戦の時はそれで良かったんでしょうけれど、それを今なお続けているという点。次、第二の点は『改革保守』。これはもうここ二十年ばかり延々と続けられている、”改革”騒ぎですね。これは残念ながら、岸辺総理も例に漏れないのですけど、何だか明治維新に引っ掛けて、維新のことを改革することと意味を履き違えているんですが、まぁこれに関しても我々の雑誌はもう何度も議論を重ねているので、今日も議論になるかも知れませんが、もし興味を持たれたら我々の雑誌をお読み下さい」
木嶋「はい(笑)皆さん、どうぞご購入ください」
これを聞いた時、瞬時に寛治を思い出したのは言うまでもない。
浜岡「(笑)で、えぇっと…第三はまぁ『経済保守』とここでは書いてますが、要は戦後の高度成長期を礼賛して、それを懐かしみ、例えば日本を取り戻すと言う時に思い描いているイメージが、この時だけという浅はかな成金趣味に陥った輩どものことですね」
ふんふん…
一同「笑い」
浜岡「まぁこれはある意味戦後日本を考える上で一番分かりやすいところかとも思います。戦後日本は軽武装で商人国家を目指してきた訳ですが、でまぁ『戦争には負けたけど、経済ではアメリカに勝ったんだ!』、『JAPAN as No. 1』ってな本が外国人に書かれて、それで気を大きくした日本人…まぁ繰り返しますが、成金趣味に堕した訳ですね。この点に関しては、経済学、いや、そんなせせこましいことじゃなくて、経済思想的な観点からの話にもなりそうなので、それはこの後の若い二人にじっくりと話して頂こうと思います」とここでふとカメラが、明るく笑い声を上げている武史と、”例のあの人”が優しげに笑うのを映し取ったので、私は一瞬モニターの前でビクッとしてしまった。
…本当にいるんだ。
浜岡「で、えぇっと…発言が長くなって恐縮ですが、第四としては『反共産主義、反左翼保守』。これはいわゆる世間的に認知されている括弧つきの保守の姿そのものですね。自分自身には何も確固たるブレない思想信条が無いのにも関わらず、取り敢えず反対陣営に反対していれば良しとしている…ここに書いましたが、『右翼小児病患者』ですね」
木嶋「苦笑」
一同「爆笑」
浜岡「えー…これはそんな小児病の方と関連があるんですが、第五、『皇室保守』。皇室を盲目的に愛護すれば良しとする『中今主義』です」
木嶋「んー…」
中今かぁ…
一同「爆笑」
浜岡「勿論皇室は日本特有の伝統そのものであり、それを大事にしようと思うのは保守的な態度と言えなくもないんですが、戦後の天皇制度のあり方ですね、明らかに、まぁこれは明治以来変質してきた訳ですけど、取り分け戦後、尚更に何というか…一口に言えば”薄められてしまっている”そんな状態なのは…誰も否定は出来ない事であろうと思います。…あ、いや、このチャンネルに集う人々、それに木嶋さんは反論があると思いますけれど」
木嶋「あ、いや…”今は”はい、大丈夫です。続きをどうぞ(苦笑)」
…ふふ、嫌そうな顔をしてるなぁ
一同「笑」
浜岡「そうですか?(笑)えぇっと…そもそも右派の方々と言うのは、その時代の流れの中で変質してきた皇室、皇統の事について、何だか金科玉条の如くに思い込むがあまりに、その事について議論すらしてきませんでした。不敬だとか言ってですね。そもそも明治以前は、天皇ご自身も含めて、側近たちやその他の周りの者たちと、我々の存在とはいかなるものか、どのような想いを込めて後世まで引き継いできたのか、その流れを途絶えさせまいと、その為にキチンと議論して来たはずなんですね。それをまぁ、こんな話を我々オーソドックスが議論をすると、右派から総バッシングを受けると(笑)」
一同「笑」
浜岡「でまぁ、ここに書いた中今主義についても軽く触れると、これは要はこんな具合の言説です。『天皇が過去ずっとおわして来たのだから、未来も明るい』といった、あまりに幼稚で稚拙な信仰に近い信条…いや、信条とも言えないものですね。『天皇陛下万歳』と言っていれば全て片がつくみたいな。まぁ今はその事については後に置いとくとして…さて、これでやっとクダラナイ私の発言も最後です。最後、これは天皇論ともある種関連してますけど、第五は『風土論保守』です。これも本当に多いんですが、要は、キリスト教やイスラム教などの一神教の事をロクに勉強したり調べたりもしないくせに、何だか思いこみに基づいて神道を持ち出して『一神教は戦争や殺戮ばかりして野蛮だけれど、我らが多神教は大らかで平和的で良い』などという、あまりに単純な考えに埋没している者共の事です」
一同「爆笑」
木嶋「苦笑」
浜岡「そうは言ってもですね、良くも悪くも、いや、勿論私も良いとは思いませんけれど、実際まだ力が弱って来てるとはいえ、今もなお世界は、アメリカやイギリスを初めとするヨーロッパなどのキリスト教圏の影響に振り回せれている訳です。だったら、何も別に一緒になって一神教に改宗しろなんて暴論は言わないですが、せめて相手がどんな意図を持って行動しているのかを知るためにも、そんな偏狭な考えを持たずに、もう少し一神教についての理解を深めてみようとしても良いんじゃないか?…とまぁ、最後に私の意見を軽く述べさせて貰って、長い発言を終えようと思います」
木嶋「…はい、ありがとうございます。では…ここから発言して頂くお二方は揃って初登場となります。では中山さん(武史のこと)、よろしくお願いします」
おっ。
武史(ここでは便宜上この標記にしておく)「はい、えぇっと…初めまして、と言えば良いんですかね?…はは、はい、中山と言います。京都にある”とある旧帝大”で准教授をしています。えー…神谷先生の出しておられるオーソドックスで書かせて貰ってます。先生との繋がりとしてはですね、私の大学時代の先生、師匠が佐々木宗輔という人でして、来年に定年退職する…これって、クリスマスかなんかの放送ですよね?…あ、はい、良かったです。その来年定年を迎えられる師匠の、そのまた師匠が神谷先生なんですね。その繋がりで、私がまだ大学院生だったときから目をかけて頂いてまして、それ以来ずっとの付き合いとなっています。で、えぇっと…テーマは戦後日本、それと一緒に戦後保守とはって事なんですけれど、まぁ一応ー…今言いました様に、僕はオーソドックスに書かせて貰っているので、勿論保守を目指している…んですけど、で、保守について僕がどんなイメージを持ってるかと言うと、簡単に言うと『経験を積んだ大人の知恵』みたいな…そんなイメージなんですね」
んー…なるほど…
武史「で、そうなりたいと。私はまだそう歳をまだ取ってもいないのでして、そのー…まだ『保守見習い』なんですね。もう少し歳を取らないとなれないなと。人間社会というのは言うまでも無く複雑で、でもその中で生きる人間の能力、知性、理性というのには限界があるから、それでも色々と試行錯誤をして経験を積んで、後で歳を取ってから思い返して、『あー、アレってそういう事だったんだ』って分かる、思い至ることがあるんですね。その”知恵”を身に付けたい、それに尽きるんですね」
うんうん
武史「でー…それで言うとですね、実際保守と言われている、国内外の立派な先人たちというのは、もう…卓越している。その人らの書物を読んだ時、一度ではとてもじゃないけれど理解をし切れない。月日が経った後になってまた読み返すと、また新たな発見があるみたいな、そんな超一流の人しかいないんですね」
うんうん!
私はパソコンの前で、一人で何度も強く頷いた。
ここ一年弱の間に、義一から借りた、義一たちの思う、多ジャンルに及ぶ保守思想家の本を何冊も読み漁っていた時期だったので、尚更に頷ける箇所がほとんどだった。
武史「めちゃくちゃ頭が良くて、知識や知恵がジャンルを横断するかの様に多岐に渡っていて、でまた表現力が豊かだと。これが保守だとするとですね、なんか今の日本において、自分が保守だと言ってる人が多すぎる!」
ふふふ
一同「あははは」
武史「本当にまぁ、この多すぎるっていうのが問題で。なんかそのー…靖国参拝した程度のことで保守だとかですね、天皇万歳って口にしてる程度で保守とかですね、反左翼だから保守だとか、そのー…その程度の奴らというのは保守ではなく、ただの”馬鹿”なんですよね」
あははは
一同「爆笑」
木嶋「笑」
武史「でー…単純な理屈を繰り返すー…『マッチョで自己愛過剰な馬鹿』がですねー…保守と世間的に呼ばれているのが、そのー…僕は一応保守になりたいと思っているので、そのー…そういう人たちが保守と呼ばれているそれ自体が…嫌だと。まぁそんな感じですね」
木嶋「…はい、ありがとうございました。いや、初登場とは思えない程に、グサッグサッと鋭く言ってくれたと思います。では最後…」
ごくっ
と私はこの時点で生唾を飲みつつ見守った。
とその時、カメラがスッと切り替わったかと思うと、画面いっぱいに一人の男性が現れた。
顔つきは女性を思わせるほどの中性的な顔つきで、目は少し垂れ気味の二重、鼻筋は品良くスッと通っており、鼻自体は小さめ、唇は薄く、長髪は気持ち低めの位置で纏めたポニーテールにしていて、伸ばしかけの前髪も、無理にまとめず、あえて後れ毛として残していた。後は絵里に誕生日にプレゼントして貰ったであろう、私も見た事のあるメガネの一つを掛けていた。とまぁ、その髪型のせいで他の人と比べても浮いていたのだが、それ以上に服装の点でもっと浮いていた。武史、浜崎、木嶋はスーツ姿、神谷さんもジャケットを羽織っていたというのに、彼は冬というのもあるのだろうが、体型の線が出る程の細めのセーターを着ているのみだった。それは濃いグレーのアラン模様のセーターで、普段からよく見る姿だった。要は普段着だった。
さて…前回から妙に引き延ばしてきたが、こんな引っ張るまでもなく、この男性の正体はもうお分かりだろう。
…そう、まさしく、正真正銘に義一だった。疑いようも無い。他人の空似や、同一同名などからくる勘違いなどでもない。何しろ、繰り返す様だが普段着だからだ。
義一は照れた時の癖、頭を掻きつつ、口元は緩めながら口を開いた。
義一「はい、えぇっと…望月です。初めまして…で良いんですよね?武史…あ、いや、中山さんもそうしてたんで。…はい、で、ですねー…今下に僕の紹介テロップが出てると思うんですが…」
確かに。今私が見ている画面には、義一の胸あたりにテロップが出ており、そこに紹介文が書かれていた。これは今までも、神谷さんや他の人も同様に出ていた物だった。過去の討論中も、何かにつけて不定期にテロップが出ていた。…のだが、見るからに義一の紹介文は他の人と比べて圧倒的に文章量が少なかった。『昭和何年何月何日生まれで何処何処の大学卒業』…後はただ『雑誌オーソドックスに、その黎明期から寄稿をしている』その一文だけだった。それに名前の横がただの空欄になっていた。とても珍しい…というか初めて見た。その欄は通常はいわゆる肩書きが書かれていて、神谷さんなら”評論家”、浜崎なら”文芸批評家”、武史なら”大学准教授”とあるのだが、繰り返すが義一の横は空欄だった。
義一「まぁこちらのスタッフさんと事前に打ち合わせした時も、色々と困っちゃいましたよ…お互いに。『何て紹介文をテロップに出せば良いですか?』だなんて聞かれても、僕としては…そんなこと考えたことも無かったんで、困ってしまいましてねー…でまぁすべてお任せということで、今頃苦心の末の完成品が出ていると思うんですけれど」
…ふふ、”らしい”なぁー。開口一番がソレなの?義一さん?
武史「おいおい…。義一、初登場だっていうんで自己紹介しなきゃって時に、開口一番それかよ?…って、あ、すみません。普段から下の名前を呼び捨てあってるんで」
木嶋「あはは。いやいや、良いですよ。普段通りで」
武史「あ、そうですか?だってよ、義一?」
義一「そうですか?じゃあ、お言葉に甘えて…。こほん、えぇっと…あ、そうだ、僕とオーソドックスの話から始めた方が良いですよね?僕は武史みたいに、いわゆるアカデミックな学者では無いので、ちょっと変わったキッカケだったんです。僕に年上のある従兄弟がいましてね、彼が神谷先生がまだ大学で教鞭をとられていた、その最後の年の生徒だったんです。それでー…従兄弟が今もですけれど卒業後も神谷先生と繋がりを保っていて、それである時ふといきなり彼が、まだ高校生だった僕を先生の元に連れて行ったんです。自分で言うのもなんですが…『面白い奴がいるんで、連れてきました』てな具合で」
神谷「あはは、そうそう」
義一「でまぁ、そこから今に至るまで二十年近くの付き合いをさせて頂いています。まぁそうですねー…見ている方からしたら、僕のような者は得体の知れない胡散臭い奴としか思えないでしょうから…」
ふふ
一同「あはは」
木嶋「苦笑」
義一「まぁそうですね…オーソドックスにしか寄稿したり書いたりしてないですが、まぁ著述家とでも思ってください。…さて、こんな自己紹介にもなっていない紹介はこの辺で勝手に終わらせて頂いてっと…戦後日本ですか」
ゴク…
ここから本題というので、番組を見始めたときから手元にメモ用紙を置き、実際にメモを取っていたのだが、ここにきてまた一段と心して義一の言葉を待った。義一も手元に目を落としている。自分の取ったメモを見ているのだろう。
義一「そうですねー…いやぁ、武史があらかた喋っちゃったからなぁー…僕の分まで」
武史「あはは、悪い悪い」
一同「笑」
義一「まったく…まぁ武史を含めて、先生を初め皆さんがあらかた話されて、その内容には何の反論もないので、僕からは付け加えるという形で短く話そうと思います。というのは…武史、彼が言ったように僕も保守を目指している、保守見習いの一人だと自覚、自認しているわけですが、確かに今の日本で保守と名乗っている人が多過ぎますよね?そのー…『アメリカだとかの大国相手には浅ましくペコペコ頭を下げる事大主義者のくせに、中国とか南北朝鮮などの自分よりも下だと勝手に思い込んでいる相手に対しては嵩にかかった態度を取るようなマッチョで、正直そこまで本当は日本古来の伝統芸能だとかに興味が無いくせに、自信がない自分を誤魔化したいが為に良くもわからずに陶酔する”フリだけの”自己愛過剰な、恥も外聞も無く自己礼賛に明け暮れる愚かで救いようの無い馬鹿』っていうのが、繰り返し言うように、武史が言った、世間一般の保守に対するイメージなわけですけれど」
武史「おいおい…俺…あ、いや、僕はそこまでは言ってないぞ?(笑)」
義一「え?そうだっけ?」
あははは
一同「あははは」
木嶋「苦笑」
義一「それではまぁ、これは僕個人の見解って事で良いです。…さて、今までの話に一つ付け加えたいと思うんですが、保守とは『経験を積んだ大人の知恵』…この定義から発展させると、簡単に言ってしまえば、保守というのは老人のものであるべきなんですよ…あ、すいません(笑)」
神谷「何で謝るんだい?何も言ってないじゃないか?(笑)」
一同「笑」
義一「笑。…でまぁ、若い時というのはイケイケドンドンで、新しいモノを追い求め続ける、いわゆる革新的なのがまぁ本来だとは思います。若気の至りって奴ですね。それが何故か、どういう訳だかこの国では、年寄りの方が変に若作りをして『革新だ!』『外へ打って出ろ!』だとか、白髪頭が騒いでいる訳ですよ。『最近の若者は元気がない』って言ってるのを聞いたりしますけど、年寄りが元気を出すなと」
一同「笑」
義一「そもそもまぁ…さっき浜岡さんが述べられた、経済保守のような発言に聞こえてしまうかも知れないので、浜崎さんの論に全面的に賛成してる分言いにくいんですが、そもそも若者に元気がない理由の一つが、この二十年以上続くデフレ不況によって、所得がどんどん減っていく事で貧乏になっていってるのがあるんですね。その被害というのは、元を辿れば今の年寄りたちが目の前に提示された馬鹿げた経済政策に無思慮に乗っかって、それを反省することもなく延々と賛成して続けてきた結果が今な訳ですよ。年寄りは良いですよ?自分の親たち、戦前生まれの人間たちが必死になって死と隣り合わせの状況の中で頑張ってきたその遺産を、そのまま受け継げば良かったんですから。それを徒に、道楽息子よろしくその遺産を全て食い潰した後で、自分たちは余生を過ごす分だけの小銭があるからいいものの、これから生きる為に稼がなくちゃいけない若い世代は、こんな所得が減っていく一方のデフレな世の中で、その小銭ですら貯められない現実がある…その事実を無視して『若者には元気が無くていかん。我々が若い時には…』だなどと嘯くわけですね。自分が若い時に、今の若者ほどの苦労をしていないというのに」
…うん
一同「あぁ…」
義一「まぁ今はそれぞれの思うところを話す場なので、取り敢えず後はのちの議論に任せるとして、今とある言葉を思い出したので、それを最後に僕の発言を取り敢えず終えようと思います。ちょっとうろ覚えなんですが、小林秀雄だか山本夏彦だかが言ったっていうんですがね?それはこんなセリフでした。『最近の若者は…ってセリフはよく聞く。何しろこのセリフは、古代エジプトの遺跡から見つかった文章にも出てくる程で、大昔から人間は変わらないって事なのだろう。だが、今問題なのは若者だけではない。そう、今は年寄りらしい年寄りを見なくなった。まったく最近の年寄りは…である』」
ここでまたひと笑いがあった後、それからは議論のためにと、以前私が数寄屋に行ってた裏で出演していたテレビ番組で、話していた、イギリスの保守思想の流れから汲み取った神谷さん流の保守思想の三原則『哲学的観点からの可繆主義、社会学的観点からの社会有機体論、政治学的観点からの漸進主義』、この三点の認識を共有しているかの確認をしてから、そこから具体論へと討論は推移していった。
神谷「…でまぁ、よく右派の方から聞くのは、妙に家族というのを賛美するんですね。いや、家族がダメだなんて言いたいんじゃないですよ?こういうこと言うと、すぐに何だか『あいつは反家族主義者か!』ってレッテルを貼られるんで辟易するんですけれど…(笑い)まぁそれはともかく、まぁ私自身が保守の定義の中で”社会有機体論”を言ったもんだから、今こうして家族論になってる訳だけれど、でもこの家族を有機体の最小単位と見做す…いや、結果的にはそれで良いんですがね、その結論が出るまでのプロセス、どのような思想信条の元、そこに辿り着いたのか、これはかなり重要なことだと思いますね。そもそも家族ったって、そこにはいくら血の繋がった親子とはいえ、その間には世代間格差があり、それだけではないけれど、そこからも生じる内部矛盾…それが存在する事をはっきりと認識して、日々の生活の中で解釈していかなければならない訳です。…まぁこう言うと、何だか小難しくて大変なように聞こえますけれどね、昔の慣習に基づいて、それに準じて生きていた人間たちというのは、自覚的か無自覚かは別にして、こういうもんだと素直に受け入れ、そしてその矛盾葛藤を何というか…人間として生まれてしまった避けがたい”運命”として受け入れていたと思うんですよ」
うんうん
一同「頷く」
神谷「で、そこで肝心なのは、昔の人々というのは、それらを楽しんで面白がっていた。この面白がるというのがとても大事な事で、これが武史くんがちょっと言った『大人の知恵』だと思うんですよね。それが今や変に合理的になった現代人というのは運命なんてものがあるのを一切信じなくなってますからね、『自分は生まれながらに自由だ!』『たまたま思いついたけれど、今この瞬間では新奇で面白そうだから、取り敢えずやってみるか!』とまぁ、そんなのばっかりな訳です。で、ええっと…家族話に戻すと、今の現代人は家族程度の束縛ですら耐えられなくなっている、まるで甘やかされて育った子供たちが自由になりたいと駄々を捏ね続けているみたいな訳ですが」
義一「spoiled childrenですね?『甘やかされた子供たち』。スペインの、20世紀を代表する保守思想家にして哲学者のホセ・オルテガ・イ・ガセット、『大衆の反逆』ですね?」
神谷「そうそう。もうね、そんな七面倒な慣習だとか伝統だとか、そんなものは自分を縛るものだと全てをかなぐり捨てたいって、何の考えもないくせに主張する。別にそれを捨てたからといって、その後にやりたい事も無いというのに。…あ、いや、話を戻すと、戦後社会における右派も左派も、家族に話にしろ何だか表面上の事しか話してこなかった様に思うんですよ」
浜岡「今先生の話を聞いていて思い出したんですが、昔福田恆存が、『右派であれ左派であれ、現実という臭いものに蓋をして天下国家を語っている』と。自分や家族、そういった一番身近な矛盾については蓋をしている、そう言っていた訳です。ずっと右派も左派も、戦後ずっと自己欺瞞をしてきたという事なんですよね」
うんうん
一同「その通りですね」
木嶋「ま、まぁ言われるところは分かりますけれどね?そのー…家族には勿論良い面もある訳ですよ。そのー…さっき浜岡さんが言われたそのフリップに該当するから、またガツンと言われそうだけれど、基本的にこの日本という国は、神武天皇以来、家族の様な国家、西洋みたいに理念などを立てて、社会契約論的に作ってきた国家ではない、自然国家ですからね」
んー…?
義一「まぁ…分からなくもないんですけれど、それはあまりにも話を単純化しすぎでは?社会契約論…まぁ凡そホッブス辺りからそんな話が出てき始める訳ですけれど、何もホッブス達の理論に従って国を作った訳ではなく、以前からずっとあった国家というものは、どういう理論体系を持ってすれば解釈し理解が出来るのか、あの当時、ルネッサンスという時代の後期あたりから、中世まで続いてきた、いや、これが伝統だと守り続けてきたキリスト教の伝統が、合理主義というものが出てきたのと同時に、徐々に薄れてきて、”終わりの始まり”の様なことが、ホッブスの時代から始まるわけです。それを敏感に感じ取ったホッブスが、このままでナァナァでいたら、今の国家が根っこから崩れて無くなってしまう、その恐怖感があったから、『リバイアサン』という大著を記したわけですよ。木嶋さん、社会契約論がどうのこうの、僕はこのチャンネルの一視聴者として良く見させて貰ってますがね?あなたは良く今話されたことを言いますが、そもそもそれらの著作を読んだことがありますか?例えば、今僕が自分でたまたま例に出したので敢えて触れれば…そう、ホッブスの『リバイアサン』を読めば、すぐに分かることです。アレは確かに全体の三分の一、その前半部分は国家について論じてますよ。『万人の万人に対する闘争』などが有名ですね。自然状態、人間はそのまま個人では生きていけないから、個人個人で契約を交わし、共同体を作り、それの延長で国家が出来上がる。ついでに触れれば、何故国民が国家に従い税金も納めなければならないのか?それは、国家が国民の生命と財産を守る、守ってくれるという契約があるからと説明してます。しかし、後の後半部分は、ずっと延々とキリスト教の解釈、聖書の解釈に尽きてます。それだけ、どれだけその当時から社会の大きな基盤であるキリスト教が崩れかかっている、その状態をどう判断し解釈し認識しなければならないのか、その書を読めばその苦悩が痛いほどに分かります。何が言いたいのかというと、ホッブスは何も一からこの理論を作り上げた訳ではなく、その時、そしてそれ以前の社会や歴史を見つめた時に、そこに何か今を救う上でのヒントがないかと必死に追い求めて、その結果として、あの理論体系が出来上がった訳で、何もゼロから作った訳ではないんです。その理論自体に問題がないかと言われたら、それはそれで議論すれば良いんですけれど」
…うんうん、まさしくその通り。…ていうか、テンションこそ妙に高めだけれど、相変わらずブレないなぁ
義一の言葉を聞いた木嶋は、アタフタとして見せつつ、苦笑いを浮かべながら口を開いた
木嶋「あ、いや、まぁ…」
神谷「…ふふ、義一くん、今日は僕が無理言って一緒に共演してくれて嬉しいんだけれど、そんないきなりガツンと言わないであげておくれよ(笑)」
義一「あ、いやー…すみません。若輩が長々と話しすぎました」
一同「あははは」
神谷「あはは、何も謝らなくても(笑)あ、いや、今義一くんの話を引き継ぎたかったんだけれどね、それは…家族の話ですがね?いや、ある事を思い出したんですよ。今の様な家族の解体というのは今に始まった事ではなく、十九世紀以降、資本主義がここまで進むと、必然的にというか、今まで家庭内にいた女までが外に働きに出てくる訳です。もう既に今から少なく見積もっても百年前から今と同じ様な事に、全世界的になっていった訳です。その流れの中で、働きに出てきた…いわゆるOLですね、彼女らが今でもそうなのかなぁー…主婦をバカにする様な態度を取り始めていた頃だったんです。その時に、保守思想家にして著名なミステリー作家だったチェスタートンが、こんな事を言うんです。『よく働きに出ている女達は、家事だとかを毎日繰り返している主婦達をバカにして下に見ている。でも馬鹿にするのはおかしい。毎日毎日同じ事を繰り返せるのは、エネルギーが有り余ってるから繰り返せるのだ。それを証拠に子供達を見てみなさい。子供達は毎日毎日、大人から見たら単純に見える事を、何度も何度も飽く事なく繰り返しているではないか。あれほどエネルギッシュに。新しい事に一々目移りするのは、その人に生きる活力がないから、何か刺激になる物はないかと辺りをうろつき彷徨っているだけだ。尊敬されるべきは子供達と主婦だ』といった調子の事を書いてるんですね。だから…まぁ私はもうじき死ぬ身だし、だから敢えてこう言っても、別にそれによって非難が来ても構わないから言ってしまえば、今現代で家庭に入りたがらない女どもというのは、昔と比べても活力を失って、よっぽど弱ってしまっているんじゃないですかね?」
なるほど…最近私もチェスタートンを借りて読んではいたけれど、この部分は読み飛ばしてしまっていたか、今初めて気づいたなぁ。んー…流石に面白い観点だ。
普段は、京都人でもないのに”はんなり”としか表現のしようのない様子でいる義一が、こうして熱っぽく話している姿を見て、良い意味で裏切られた新しい一面を発見出来て面白く、そして義一を含むオーソドックスの面々の語り口やその内容がまた、紙面で見るのとはまた違ってすんなりと頭に入ってく様な感覚を覚えて、それがまた面白かった。
武史「えぇっとー…今まで家族についてだとかの具体論で来てたんですけれど、ここでちょっとまた抽象論に戻る様な話をさせてもらいます。えぇっと…先ほど先生が、チェスタートンを引いて、人間の活力について話されましたけれど、これはー…今日の議題の一つである、保守とは何かにかなり関係があると思います。というのも…先生がさっき話された保守の三大定義の一つ…その一番目に挙げられた『懐疑主義』ですね。これは活力と関係が深い様に思います。でー…人間というのは不完全なシロモノなので、其れ等の説は”仮説”に終わってしまうのが大方な訳ですけれど、だからこそ人間は…延々と議論をしていく訳ですね」
神谷・義一「…ああ、なるほど」
武史「ですがー…僕の言う戦後保守、バカ保守の連中というのはですね、必ず『理屈じゃなくて実行だ!行動だ!』『対案を出せ!』『議論だけしてても仕方ない』と言うんですね。でもー…先程来名前が挙がっている立派な保守思想家である小林秀雄なんかは、これに対して批判しています。『何をバカな事を言ってるんだ。大事なのは飽くなき批評精神なのであって、何でそのあとに実行、実力行使の段階が来るんだ?飽くなく批評を続けていく、その活力こそが大事なんだ』と。バカ保守に典型的な、すぐに実行だとか、デモなんかに参加する様な奴を見て、元気が良さそうに一見見えるんですが、実は逆だと」
一同「笑」
木嶋「苦笑」
…ふふ。
ここで私が思わず笑みを零したのは、このチャンネルの代表である木嶋、彼がこの局とは別に、とある有名な右派の政治団体で幹事長を務めていて、何かあるたびに街宣でデモ活動をしていたのを知っていたからだった。武史からの痛烈にして、私個人の感想を述べれば胸のすく様なセリフだった。
ここで一つ私個人の考えを述べさせて頂ければ、そもそもデモ自体に何か意味があるとは思えない。…いや、よく日本で見る様なレベルではと補足をさせて頂く。というのも、海外、特に欧州やアメリカだとかの先進国でも、今のご時世など特にそこら中で大規模なデモが行われている訳だが、それは少なくとも数万人規模で、警官隊とぶつかって死ぬ可能性があるのを知りつつも、どう考えてもおかしいと思う事に関して訴える”最後の”手段として、デモをするのだ。これには賛成だ。だが、日本の場合は、警察官に先導されつつ、行儀よく隊列を組み、口先で『〇〇はんたーい』と練り歩くのみだ。しかも多くても五十人を超えることは稀。…いや、一応表現の自由が約束されているし、それは社会一般観念にもなっているから、それに関して勝手にやれば良いと思わないでもない。しかし…いわゆる左派がするのは別に構わないが、自称保守を標榜する輩が、自分がいかにも国士だと言いたげに、得意満面な顔で通りをデモ行進するのには反吐が出るのだ。
今武史が言ったような事は、漠然と私も考えていた事で、ニュアンスは違うだろうが、デモ行進してさも何か行動していると勘違いしている右派が、大抵神谷さん達の様な保守派に対して、『あいつらは何も行動していない』『アレコレと批判するのみで対案を出さない』と、こんなくだらない批判をしてくるのだ。なので本来は勝手にしろと言いたいところなのだが、武史や義一と同じように、『あんな連中と私たちを一緒にしないでくれ』と、この討論を見て益々その考えを深めたのだった。
…と、私の感想を長く述べすぎた。話を戻そう。
武史「確かに学者でも、馬鹿げた議論を繰り返す奴らがいるのは確かなので、そう言いたい気持ちは分かりますがね」
一同「あはは」
武史「分かるんですが、それでも活力を保ちつつ議論や批評を続けていかなくてはいけない…んですが、僕は初めに言ったように『保守見習い』ですからねぇ…あまりくだらない議論を聞かされると『もういいよ、じゃあ』ってちゃぶ台を引っくり返して帰りたくなっちゃうんですけれどね」
一同「笑」
神谷「今武史くんが言った事は重要でね、そもそも政治というのは、その時の思いつきの不完全な政策論を云々と話し合う、そんなくだらない事ではなくて、政治の本質というのは『批評』なんだと」
義一・武史「そうですね」
うんうん
神谷「特に今みたいな民主主義において、この場のような議論する場所が一番政治には大事なんですよね。何も民主主義というのは、今は期日前投票なんかがあったりするから、その限りじゃないけど、日曜日の朝に投票場に行って一票を投じる…ズバッと言ってしまえば、こんなのはどうでもいい事であって、一番大事なのは、投票する前に、こうして家族内でも、友達でも、近所の人や職場の人なんかと車座になって、アレコレと社会や人生について語り合ったとき初めて、色んな考えが自分の中に生成されて、それでようやく何が正しくて悪いのかって判断が出来る様になる訳ですよ。『言論とは政治だ』というこの原則を、戦後特に忘れ去られてしまってるんですね」
義一「まぁ…武史の『バカ保守論』に繋げて、ふと話したいと思ったんですが…」
一同「笑」
武史「爆笑」
義一「保守というのは歴史が大事って言って、歴史に学べってよく言うんですけれど、それというのは、何も昔の立派な人たちが何をしたってだけじゃなく、その滑稽にすら見える失敗談が大事だったりする訳ですよ。その時代に生まれてしまった運命を引き受けて、なんとかしようと足掻くんですが、結局は無駄骨に終わり、どうにもならずに失意のまま死んでいく…。そんな歴史を見て、今生きる我々というのは、『昔から人間の愚かさは変わらないなぁ』と思うのと同時に、見方からしたら滑稽にすら見える程の悪戦苦闘ぶりを見て、『なるほどなぁ、昔の偉人達も無理だと知りつつ頑張ってきたのだから、その歴史の流れ上にいる僕達も足掻いてみようかな?』って思えるのが、保守だと思うんですね」
一同「頷く」
…
このとき私は、まだ義一と再会したばかりの、あの宝箱の中での会話を思い出して、懐かしさのようなものを覚えつつ聞き惚れていた。
義一「でもここでやっかいなのが…武史の言う『バカ保守』なんですね。例えば南京大虐殺が本当にあったかどうか、そんな事ばかりに目くじらをたてるようにして熱くなったりしますけれど、本来の保守の態度はそんな些細な事では無いはずなんですよ」
一同「頷く」
木嶋「苦笑」
義一「それと同時に、日露戦争の日本軍は素晴らしかったとか、そういう歴史の、本人達が思う良い面しか見ようとせずに、どんな国だって歴史を紐解けば悪い面もあるのが当たり前なんですが、それには一切触れない…臭いものに蓋を被せるんです」
一同「あははは」
義一「例えば、明治以降だって日本というのは戦後と同じように西洋に被れて、当時だって”モガ、モボ”、ようはモダンガールとモダンボーイの略ですが、そんな軽薄な日本人が戦前の時点で溢れかえっていた訳です。何も戦後に限った話では無い。なのにバカ保守達というのは、その事実には目を瞑り、ひたすらに戦後の日本を批判するのに終始してます。今の社会状況というのは、何も戦後に始まったわけではなく、仕方なかったとはいえ、明治維新のやり方に無理があったのは疑い様の無い事実なわけですから、まずそこから話を始めないと、どこにも行けないと思うんですよね」
うんうん
一同「頷く」
義一「…って、また長々と話しすぎてまた逸れちゃいましたが、何が言いたかったのかというと、何も過去の些細な出来事を拾いあげてきて、『こんな事があったから、日本は素晴らしいんだ』と、また武史理論を引用すると、自己愛過剰な態度をとる、そんなのは保守でも何でもなく、ただの馬鹿だという事ですね」
武史「まぁ…義一がすっかり僕の理論だと言い張るんで、じゃあそれならと、むしろ今回はこれにこだわって言えば…やはり馬鹿保守ですね。まぁ何度も議論に上がってますが、所詮左翼への反発でしか無い。それでですね、今まで馬鹿保守と言いすぎたので、敢えて馬鹿左翼も取り上げてみるとですね、まず自虐史観ですね。次に小賢しい理屈、で後は空虚な理想主義…。そうすると、馬鹿保守というのはですね、この三つをひっくり返しているだけなんですね。自虐的な歴史観が嫌だから自己愛的な歴史観になると…」
うん
一同「うんうん」
武史「で、左翼的な小賢しい理屈が嫌だから、安易に実力行使を唱える…」
義一「感情論だね」
武史「そうそう、感情論に流される…。でー…左翼的な理想主義が嫌だからってんで、ベタベタの現実主義に陥ると。アメリカの様な強国に従属すると」
義一「もちろん、現実主義それ自体は、いわゆる本来の意味での保守思想からしたら正統なものですよね。まぁこの場にはいないし、これを聞いたら本人は嫌な顔をするかも知れませんが、僕達の仲間の一人であるワシントン在住の佐藤寛治さんなんかは、この代表例の様に見えますね。寛治さん自身は自分が保守ではなく”リアリスト”だと言ってますが、影響を受けている人々を全部羅列してみても、どう考えても保守…いや、正統な保守なんですが。ってまぁそれは置いといて、そもそも現実感の無い理想などは空虚でしか無いのと同時に、理想の無い現実なんかは、味気の無い、何の為に生きてるのか、その生きがいを感じないままに生きながらにして錆び付いていくしかない様な人生にしかならない…こんな事は、本来いちいち言わなくても、分かっていなければいけない事だと思いますね」
…といった具合に、沈黙が流れることは一瞬たりとてなく、自己紹介時に見られた…特に義一に見られたある種の遠慮のある緊張感はとっくに消えうせて、忌憚ない議論が目の前で繰り広げられた。
お陰様でというか、これは毎度のことではあるのだが、すっかりメモ帳がビッシリと文字で埋められて、遠目から見たら真っ黒に見える程だった。
書き込めるスペースが無くなりかけたその時、三時間という、数字だけ聞くと長そうに思えるが、実際はあっという間に感じる程に時間が過ぎ去り、そして残り十分という所で、司会の木嶋が神谷さんに話を振った。
「…さて、残り十分なんですけれど、あと何か言いたい方など…先生などどうですか?」
神谷「んー…まぁ、話があっちへ飛んだりこっちへ飛んだり、中には他人のお座敷で『馬鹿、馬鹿』と連呼される様な場面もあって、もしかしたら番組の視聴者の殆どが嫌な思いをしたかも知れないので、ここは私が代表して、若者、前途ある期待の若者二人に代わって謝ります(笑)」ぺこり
義一・武史「(笑)」ぺこり
神谷「あははは。さて、そうだなぁ…まぁ色々と今の日本の危機的な状況について触れたりもしたわけだけど、ふと今思い出した言葉を引用しようかな?…戦前の日本にも紹介されてたというんで、あれは…ニーチェの弟子と自称していた、オットー・ヴァイニンガーね。十六、七、八から娼窟に入り浸ってた様な奴なんですが、突如として『女ほど薄汚いものはない』と言い出すんですね。最後は二十代半ばで自殺しちゃうんですが、その前にあれは…『性と性格』って名前だったかな?そんな内容の書物を書き上げるんですが、それを昔に読みましてね。で、その本は最後の一ページが凄いんですが…こう締めくくるんですよ。『私が男女の交接をするなと言うと、世の人々は、そんな事だと人類が滅びるじゃないかと文句を言う奴らがいる』最後の一行、『…人類が滅びてどこが悪いんだい?』」
あぁ…
一同「爆笑」
神谷「あははは。何もね、別に人類滅べと叫びたいわけではないんですよ?ですけれどね、ただ『生きたい!』だとか、『滅びたくない!』って所から始めると、何をしてでも生き残ろうっていう卑しい精神に堕落してしまうと言いたいわけで」
なるほど…
「『人類滅びて何処が悪い?』これぐらいの気構えを持って日々生活していれば、今よりずっと神経が研ぎ澄まされて、少しは真面目に世の中、社会のことを考える人が増えるんじゃないか?…とまぁ、相変わらず今日も日本に対して批判的な、絶望的な事を言い振り撒いて、視聴者からまた批判のメールが木嶋さんの元に来るかも知れませんが(笑)」
木嶋「いえいえ、うちの視聴者は先生を始めとするオーソドックスの方々の話を、きちんと素直に受け入れてくれてますよ」
神谷「どうだか…(笑)」
木嶋「(苦笑)。まぁ今日も年末スペシャルという名に恥じないほどに、濃密な討論が出来たと思います。そして何よりも、話や噂では聞いていた、先生の秘蔵っ子の二人に出演して頂けて、それだけでも今日は有意義だったと思います」
義一・武史「(笑)」ぺこり
木嶋「二人とも初登場にして、私個人としても初めてお目にかかるんですが、それなのに次から次へとガツンガツンと言ってもらいまして、私としても刺激を受けました」
義一・中山「あははは」
木嶋「というわけで、次の放送は来年の三が日以降となりますが、皆さんもお身体などにお気をつけになって新年をお迎えください。今日は皆さん、ありがとうございました」
一同「ありがとうございました」
第21話 神谷有恒 上
イブの夜は番組を視聴しないまま素直にそのまま電源を落とし、そしてベッドに入ったのだが、流石に最後に見たのが印象強すぎて、色んな考えが頭の中を一気に駆け巡ったせいで、中々寝付けなかった。
しかしこれが若さなのか何なのか、気づくと寝落ちしていたらしく、目覚めたのは平日の、学校がある時と同じ時間帯だった。
ずっと頭の片隅に、それでもずっと出演者欄にあった義一の名前が瞼の裏でチラついていたが、普段からパソコンを立ち上げて見る様な習慣は、そもそも無かったので、クリスマスの朝は普段通りに過ごした。
朝は少し時間があったので、休日における普段通りに朝食を摂った後、練習部屋に向かい、師匠から出されていた課題曲に取り組んでいた。
時間になると、予め用意したお泊まりセットの入った荷物を持って家を出た。
約束通りにマンション前で裕美と落ち合い、それからまずは紫の家に直接向かった。
向かう途中、昨日のイブでのパーティーの話をし合っていたが、まだこの時の私の脳裏には、昨日去り際に見せた、裕美の意味深な笑みがこびり付いていたのだが、その時にも言った様に、やはり私の思い過ごしだと”この時は”思っていたので、それには触れないままに雑談に花を咲かせていた。実際、裕美は普段通りに見えた。
話は変わるが、何故今紫の家に向かっているのかを説明しようと思う。去年は荷物を持って直接藤花の通う学園近くの教会に行ったのだったが、やはりというか当然というか、一泊とはいえ中々の荷物、それを抱えてミサが終わった後で街をうろつくというのは、無理ではないが、やりたくはない事だった。
結局去年はそのまま皆揃って紫の家に直行したのだが、話し合った結果、今年のゴールデンウィークでのお泊まり会の時の様に、紫の家に一度荷物を置いてから、それから教会に行こうという話になった。もちろんこれは、紫、そして紫の両親が快く了承してくれたから出来た技だった。感謝しかない。
という事で、私と裕美は真っ直ぐに紫の地元に向かった。
最寄駅に着き、駅から徒歩五分もしないタワーマンションの高層階に行くと、すぐに紫自身が迎え入れてくれた。すでに外行きの格好だ。案内されるままに入ると、人の気配がしないのに気づいて、それを質問すると、「父さんは去年と同じ、お母さんも今日は日曜だけど、済まさなくちゃいけない仕事があるというんで、夕方まで会社に出ている」との事だった。
その流れで、暇だったから一人掃除をしていたというので、私と裕美は揃って紫を褒めてあげた。…両側から二人で小突きながら。
紫が鬱陶しげに苦笑いを浮かべつつ、もうすっかり馴染みになった自分の部屋に通してくれた。入ると、既に私たちが持ってきた様な大きめのカバンが二つ置かれていた。紫の話では、三時間ほど前に藤花と律が揃って来た後らしい。今は何時かというと…昼の三時を少しすぎたところだった。
藤花と律はイブから日付の変わるクリスマスの深夜二時まで教会で過ごしていたはずだが、そこから一度家に帰って寝て、それから改めて二人は合流し、今日は藤花の”本番”があるというので、少し早めに教会に行かなければならないというので、律も合わせて一緒に、私たちよりも一足先に来ていた様だ。
まだ中途半端に時間があったので、一時間ばかり昨日の思い出話をして、そして三人揃ってマンションを出た。
藤花が歌う予定のミサ開始時間が夕方の五時からだったので、丁度良い時間だった。
部屋での雑談の続きを楽しんでいると、あっという間に四ツ谷に着いた。電車一本なのは、やはり羨ましい。
改札を出ると、駅前は普段以上に人でごった返していた。と、教会の方角に、白を基調としたオーナメントで煌びやかに飾られた”本物の”モミの木が、天高くそびえてるのがすぐに目に付いた。教会自体が駅前にあるというのもあって、すごく目立っていた。時期が時期だからだろう、明らかに信者ではなさそうな人々が、思い思いにイルミネーションの前で写真を撮ったりしていた。
その人混みを掻き分けるように進んでいたその時、「あ、琴音ー」と声を掛けられた。声だけで誰だか分かったが、一応念のために確認するが如く声の方を見た。そこには師匠が立っていて、こちらに笑顔で大きく手を振ってきていた。
「師匠ー」と私は裕美と紫を置いたまま駆け寄った。
「師匠、メリークリスマス」
「はい、メリークリスマス」
とお互いに声を掛け合ったその時、私はふと腕時計に目を落としつつ「あれ?私たち、遅かったですか?」と聞くと、師匠は明るい笑顔を浮かべながら首を大きく振って返した。
「んーん、私が早く来すぎたの。あなたたちは時間通りよ…あら、こんにちわー」
と師匠は、ふと私の背後に追いついた他の二人に視線を移すと、同じ調子で言った。
「いや、今晩はかなー?」
と師匠はふと空を見上げてからニヤケつつ言った。確かに今は夕方の五時ちょっと前、空はもうすっかり暗色が大勢を占めており、陽の光は残滓しか残っていなかった。
「ふふ、そうですね」
と裕美も同じように空を見上げてから笑顔で返した。
「今晩は」
「はい、今晩は」
「今晩は、琴音の師匠さん」
と今度は紫が声をかけた。すると師匠はずいっと自分の顔を紫に近付けると、ふとここで軽くニヤケながら返した。
「ふふ、うん、今晩は”ムラサキ”ちゃん。今日も寒いね」
「寒いですねー」
と紫は返しつつ、手袋をしたまま手をこすり合わせて見せた。視線を逸らすと、裕美も同じようにしていた。そんな二人の様子を見て、師匠がこちらに微笑みをくれたので、私もほほえみ返すのだった。
…さて、ここにきて本当に今更な新事実が分かったと思う。それは…実際に私たちが紫のことを、”ゆかり”と本名で呼んでいるのか、”ムラサキ”と、小学生時代のアダ名で呼んでいるのかという事だ。見ての通り、結局私たちは皆して紫のことを”ムラサキ”と呼んでいた。師匠のお陰で、妙なキッカケだが、こうして入学以来の謎(?)がこれでようやく暴かれることとなった。
…まぁこの話はこの辺で置いとくとして、まぁ確認のために一応触れれば、約束通りこうして師匠と合流した。
去年も一人でコソッと聞きに来てはいたのだが、こうして師匠も一緒に…皆で藤花の歌を聞くのはこれが初めてだった。
ついでに言うと、文化祭には師匠を誘えなかったという事もあって、個人的には凄く久しぶりな感覚だった。というのも、十、十一月の二月の間、行こうと思えば行けたとは思うのだが、触れていない間に、コンクールの課題から解放されて、文化祭の準備からも解放された後、自分でも引くくらいに、約一年前まで続けてきたルーティンに復帰する事が、自分でも分からないほどに嬉しかったらしく、こうして口にするのは恥ずかしいのだが、これまでよりも嬉々としてピアノに打ち込むようになっていたのだった。そのせい…だとは思うが、月一の教会での藤花の歌も、日曜日という午前中からレッスン出来るというので、たまたまレッスン予定日と藤花の独唱の日が被ってしまい、結局二度ほどあったはずのチャンスに恵まれずに年末を迎えてしまった。
なので、今日の日の事を話した時に、師匠自身、とても楽しみにしていると言っていた。当然その旨は、”わざと”すぐに藤花に話したが、勿論藤花はウンザリ笑顔で私に文句を言ってきたのは本当だ。それで今に至る。
挨拶を交わしあった後、思い出したように改めて「メリークリスマス」と声を掛け合ってから、四人で教会敷地内を歩いていると、主聖堂の入り口で佇んで立っている長身の女性が見えた。律だ。
「メリークリスマス」と今日何度目かわからないほどの挨拶をお互いに交わすと、それからは律の案内で中に入った。
相変わらずというか、今日という日のためか、今年も去年と変わらずに信者で溢れかえっていた。
「人凄いなぁ…」と、律があらかじめ取っといてくれていた席に座りつつ、思わず呟いた師匠に、すかさず律は「ふふ、昨日のイブなんかは気持ちもっと多いですよ」と微笑みつつ答えていた。紫とかとは違って、もう何度も顔を合わせているせいか、律も師匠との会話に慣れが見えていた。
結構時間がギリギリだったせいか、それからはロクに会話をしないままに、ミサが厳粛な、厳かな雰囲気の元始まった。
…まぁ、ここからは端折らせて頂こう。何せ去年と変わらない流れだったからだ。でもまぁ、前回も思った感想を述べさせて頂ければ、当然信者では無いから勝手な物言いになってしまうが、それでもミサの、この厳粛な雰囲気は嫌いでは無い…いや、むしろ、好きといって差し支えがなかった。…昔からの習慣と化している、もしくは親友の藤花が関係してるからと幾つか理由があるとはいっても、律がこうして信者でもないのに付き合うその気持ちは分かる気がする。
そして肝心の藤花の独唱。これまた去年と同じだった。
何処からともなく大バッハの『平均律クラヴィーア曲集第一巻』の『前奏曲 第1番 ハ長調』が流れてきたので、すぐに何の曲が歌われるのか分かった。グノーが、前段に言ったバッハの曲を伴奏に、ラテン語の聖句『アヴェ・マリア』を歌詞に用いて書いた声楽曲だ。ふとこの時、隣の師匠に顔を向けると、師匠の方でも私に顔を向けてきており、視線が合うとお互いにニコッと小さく笑うとまた正面に戻した。
これも素人ながらの感想を述べるだけに留めておこうと思う。まぁ一口に言って…毎度お馴染みの代わり映えのしない感想で恐縮だが、相変わらずに完璧だった。ただ…去年と同じ曲を聞いたお陰か、一つ新たな発見があった。それは…見るからにではなく”聞くからに”、去年と比べてパワーアップしていた点だった。声楽は素人なので、こんな表現になってしまうのだが、まぁそれでも何とか説明しようと試みると、藤花の澄み渡るような歌声に…何か”芯”の様なモノが加わったような、そんな印象を持った。そしてそれは勿論…熟達し成長している証だった。
三分余りの歌が終わった後、裕美たち含むこの場の千人ばかりの観客(?)全員が、一斉に藤花に向かって拍手を送っていた。そんな中、自分たちも拍手をしつつ、ふとまた私と師匠は顔を見合わせたが、今度は二人ほぼ同時に微笑み合うのだった。のちにこの微笑みの訳を含めて感想を聞くと、大方私と同じものだったので、安心したのと同時に嬉しかったのを覚えている。当然これも藤花にすぐに教えてあげた。…まぁこれは後にという事になったが。
それからミサ自体が終わると、外にゾロゾロと向かう人々が捌けるまでその場で座って待ち、疎らになった所で揃って藤花の元に行った。
既に藤花のそばには両親が立っていた。お母さんは相変わらず良い意味で中学生の子を持つ母親って感じで、お父さんは相変わらず口元のちょび髭が胡散臭さを演出していた。
私たち四人は両親に挨拶をした後、それぞれが想い想いの感想を投げつけている間、師匠は改めて、藤花の両親に挨拶をしていた。師匠と藤花の両親は、もう既に何度か顔を合わせていたが、今日に関しては、この後、一緒に食事をするというので、その話をしていたのだった。師匠のおごりだ。
私たち五人は藤花の両親にお別れをした後、揃って駅に向かい、電車で後楽園まで行き、駅周辺の繁華街から少し外れたところの、外観からしてお洒落な、こじんまりとした洋食屋さんに入った。日本に帰ってからの行きつけのお店の一つだという事だった。私も初めてだった。
中に入ると、あらかじめ注文されていた食事に舌鼓を打った。この話が出た時から、師匠に裕美たちの好みを聞かれていたので、その答えたのに沿った料理が出てきていた。皆、私も含めて満足していた。
ただ…ワイワイとお喋るする中で、小学二年生の頃から私を知ってるせいで、師匠があれやこれやと昔のエピソードを、嬉々として話すのには終始照れてしまった。そんな私を他所に、他の四人はそんな師匠の話を興味深げに、こちらも終始同じ、表情を緩めっぱなしで、時折こちらに笑みを向けてきつつ聞き入っていた。後で裕美が言ってたが、出会う以前の話がふんだんに盛り込まれていたので、とても新鮮に聞けたとのことだった。
そんなこんなで、クリスマスの夜は過ごした。
二十七日からは、我が家恒例の海外旅行に行ってしまったので、年末年始は前回と同様に裕美たちとは過ごせなかった。しかし、今回は若干…いや、だいぶ大きな変更が二つあった。一つは、直前まで微妙だったのだが、結局お父さんが日本で留守番する事になった事だ。お母さんと二人旅だ。せっかくなのに…と、”この頃の”私はまだ辛うじて、そういった感想を覚えていたが、しかし同時に、今回だけはそれでも良かったのかもと思ったりした。
というのも、二つ目に繋がるのだが、毎回年末は、そもそも芸術にさほど興味を持っていない両親なのに、何だかんだ私の為になると思ってくれてのことだと思うが、冬のヨーロッパに旅行に行っていたのだが、今回はあらかじめ”ある人”と会う約束を取り付けていたのだ。…まぁ、”ある人”だなんてもったいつける事も無いだろう。そう、それは京子だった。何カ国か周遊する中で、フランスに寄った時に、パリ郊外住まいの京子が、『折角だし良かったら寄ったら?』と言ってくれたので、その誘いに私たちは乗ったのだった。…ここでさっき言ったことが繋がる。
…さて、ドイツはフランクフルトから国際高速鉄道に乗って”パリ東駅”に着くと、そこで京子と落ち合った。それからは立ち話も外気がマイナス近いからと挨拶もそこそこに、京子が運転してきた車に早速乗り込んだ。レンジローバー イヴォークの赤だ。細かい話は聞いていなかった私も悪いのだろうが、てっきりパリ郊外と言うので、東京ほどではないにしても鉄道網が整備されているパリで、わざわざ車でお迎えだとは…と思っていたのだが、どうやら、私たちの感覚と、京子の感覚は微妙にズレていたらしい。具体的に言うと、京子はパリ中心部から車で一時間ほどの距離にある、『プロヴァン』という、町の殆どが中世からある城壁に囲まれた、周囲が田園地帯の田舎町に住んでいた。
京子の家に着いた時にはもう夜だったので、全景は見えなかったが、京子の家は城壁から少し外に出た、田園に囲まれた所に立地しており、周囲を見渡しても、農家らしき家がポツポツと点在して見えるのみだった。 京子自身の家も、無駄に大きい私の家と比べて倍はありそうな大きさだったが、とても古そうな、伝統的な農家の家に見えた。伝統的な”ザ・ヨーロッパの田舎の家”といった趣のある家だった。中もいい具合に古ぼけていたが、ただ一つ、練習部屋だけは近代的に整備されていて、その区画だけが浮いているのだった。まぁ何はともあれ、この古さが私はとても気に入った。この日はすぐに寝て、次の日は京子にプロヴァンを案内してもらった。町自体が世界遺産に登録されているというのもあって、見渡す限りどこも私好みの風景が広がっていた。中世そのままといった感じの、こじんまりとした町並みだった。
何というか…京子個人でみると、中々快活な性格の持ち主なので、勝手な印象だが、このような閑静な田舎町では自分を持て余すのではないかと一瞬思ったが、すぐに、私の師匠と約二十五年もの知己だし、あの師匠とそこまで馬が合うというのは、こんな共通点もあるからなんだと、妙に納得したりした。
大晦日の夕方になるかならないかくらいの時間帯に、裕美たちから一斉にメッセージを受け取った。『あけおめ、ことよろ』というものだ。こちらは時差の関係で随分早い時間帯に来たなと苦笑いを一人浮かべたが、こちらからも同様のメッセージと、それに私と京子のツーショット、後は、京子に借りてる部屋から見渡せる、どこまでも広がる田園風景の写真を添えて一斉送信した。するとすぐに皆から各様のウンザリした風な返信が来たが、それと一緒に、『いいもん別に。こっちは琴音以外のみんなで初詣に行ってくるから』と、何だか憎たらしく笑うスタンプを添えていたりした。私はそれには素直に『私の分まで楽しんできて』と満面の笑顔のスタンプを添えて返した。それからは少しの間四人でラリーを交わして御開きとなった。
時間は前後するが、とはいっても、結局去年と同じに、帰国してから改めて私の初詣に付き合ってくれた裕美たちであった。
大体大晦日にはドイツのケルンにいて、そこで新年を迎えるのが最近の習わしになっていたのだが、今回はそのまま京子の家で、適当に手分けして部屋を飾り付けたり、三人で料理を作って食べたりと、しっぽりと過ごして新年を迎えた。
「さてと…」
ガラガラガラガラ…
周囲にけたたましく無骨な音をばら撒きながら、引き戸が開いた。
その瞬間、鼻腔を例の古本特有の甘い“ような”匂いが刺激した。
本当に飽きのこない、好きな匂いだ。
今日は一月の第二週目の日曜日。昼の一時だ。今日はレッスンが休みだったので、こうして義一の元に遊びにきた。肩にはトートバッグを提げており、中には十冊以上の借りた本が入っていた。中々の重さだった。
…もちろん、この本を返す事、その内容、そしてそれに繋がるような世の中の話などを議論したり、そして時間があればその後でピアノを弾いてみせたり、一緒に何か映画なり何なりの映像を見たり、そして帰り際にまた十冊以上の新たな本を借りたりと、そんな普段通りのことを過ごすために来たのも一つではあるが、今回は何よりの理由があった。
それは…まぁ言うまでもないだろう。勿論私が義一の紹介で見始めた討論番組に、義一自身が出演していた点について、根掘り葉掘り問い詰め…いや、質問ぜめするためだった。
年末はゴタゴタしていて、結局番組を見てからも何も連絡を入れずにいたのだが、年が変わって帰国した直後に、早速「あけおめ」という挨拶と共に話に触れた。すると、義一はただ電話越しに照れ臭そうにするのみだったので、こうしてお互いの都合を付けて、そして私がわざわざ馳せ参じた次第だった。ただ電話を切る間際に、向こうで「ふふ」という思わせぶりな笑みが少し気になっていた。
「義一さーん、来たよー?」
…
あれ?
何の反応もない。これは珍しいことだった。大概し型が見えないにしても、声だけは聞こえてくるものだった。
…ま、いっか。
私は特に気を止めるでもなく、靴を脱ごうとしたその時、ふといくつか見知らぬ靴が置かれているのに気づいた。どれも革靴で、どうやら男物のようだった。
不思議に当然思ったが、後で分かるだろうと早速宝箱へと向かった。と、ここでまた一つ、ごく小さな事だが異変があるのに気づいた。宝箱へのドアが閉められていたからだ。これも普段は、少なくとも私が来る時には全開に開け放たれてるか、それとも無くても、若干開いて居るものだった。それが今回は締めきられている。
客観的に見ればあまりにもまどろっこしい様に思われるかもだが、それくらいに珍しかったので、こうして一々考えて判断しつつ、そしてスッとドアを開いた。
開けた瞬間、中から暖かな空気が流れてきた。どうやら暖房が効いているらしい。…効いているのだが、普段よりも室温が高めに設定されているようだ。と、それと共に何やらテレビからなのか、その手の音が耳に入ってきた。テレビを点けてるとは珍しい。
義一さんが昔言ってたけど、本当にドアを閉めちゃえば、中の音が一切聞こえない程に防音がしっかりなされているんだなぁ…
などと、ドアをゆっくり開ける間に、このような事を思っていると、その瞬間、「あ、琴音ちゃん」と声を掛けられた。勿論声の主は義一だ。
ドアの真正面に位置する例の重厚な書斎机を前に座っているのが見えた。…見えたのだが、その机の上には、これまた今まで見たことのない程に、何十冊もの本が所狭しと置かれていた。積み重ねていたので、やっと義一の顔が私の位置からだと見えるほどだった。メガネをして髪を後ろで普段通りに纏めていたが、普段以上にキチンと纏めていないせいか髪がピョンピョンと跳ねていて、それが何だか義一の見た目を窶れてるように見せていた。
「義一さん、こんにちわ」
と私が声を掛けたその時、
「こんにちわ、琴音ちゃん」
と不意に左側から声を掛けられた。テレビとソファーが置かれている方だ。
玄関を見て、他に誰かがいるのは察していたが、こうして急に話しかけられると驚いてしまった。そして、その方を見るとますます驚いてしまった。何とテレビの前のソファーに深く座っていたのが、神谷さんだったからだ。その隣には、オーソドックスにはお馴染みの浜岡もいた。
神谷さんは、こんなに暖房が効いている部屋だというのに、あの年末討論で見た時と同じ、分厚めのネックウォーマーを首にしていた。ジャケットこそ来てはいなかったが、これまた何枚も重ね着しているのが見るだけで分かるほどに膨らんだセーターを身につけていた。膝には毛布をかけている。隣に座っていた浜岡が、スーツ姿とはいえ軽い格好をしているのを見ると、ますます神谷さんの異様さが目立った。
「か、神谷…先生?」
と私は書斎机の前に座ったままで、こちらに微笑みを送ってきていた義一に視線を移しつつ声を漏らすと、
「ふふ…久しぶり」
と神谷さんは力無げに微笑みつつ返した。
年末の番組を見ても思ったが、こうして久しぶりに直接顔を合わせると、見るからに衰弱している様子が際立って分かった。
「ひ、久しぶり…です」
と、当初の目的を忘れて、ただこうして何だか辿々しく応対をしていると、ふと隣の浜岡が立ち上がり、私のそばに寄ってきた。
「あぁ、君だね?義一くんの姪っ子で、よく数寄屋の方に来てくれて、それだけではなく、我々の雑誌の執筆陣に刺激を与えてくれるような会話をしてくれる琴音って子は?」
と、こんな風に一気にまくし立て上げられたので、若干圧倒されながらも「は、はぁ…まぁ」と返すと、浜岡はますます和かに明るく笑いながら続けた。
「…ふふ、初めましてだね?僕のことは、もしかしたら先生…いや、少なくとも義一くんから聞いてるかな?」
「は、はい…浜岡ー…さん、ですよね?」
「お、そうそう!その浜岡さん。…ゴホン、改めて自己紹介させてもらうね?僕は浜岡洋次郎。オーソドックスで編集長の任を仰せつかっている者です。よろしくね?」
「…え?あ、は、はい。私は望月琴音といいます。よ、よろしく…おねがいします?」
急に自己紹介の流れになったので、私からも返そうとしたのだが、何と付け加えればいいのか分からず、結局こんな謎の疑問調になってしまった。
それを受けた浜岡は、「あはは、よろしく」と笑顔で返してくれたが、ふとここで笑顔に照れを滲ませるとボソッと言った。
「まぁー…それも直々変わるけどね」
「…え?」
それってどういう意味ですか?と聞き返そうと思ったが、ここでふと、今まで黙ってこのやり取りを見ていた神谷さんが声を掛けた。
「…ふふ、琴音ちゃんも来て、無事に自己紹介もし終わった所で、浜岡くん、そろそろ行く時間じゃないかね?」
「え?…あ、あぁ、そうですね」
そう言われた浜岡は、いそいそと身支度を済ませ、ビジネスバッグの様な物を手に下げると、義一に顔を向けて声を掛けた。
「じゃあ義一くん、その調子でよろしく頼むよ?僕からも言っておくから」
「…?」
「わかりました」
ふふっと苦笑まじりに義一が返すと、浜岡は一度コクっと満足げに頷き、「では先生、今日はこれで」と神谷さんに声を掛けると「ハイハイ、気をつけてね?」と返されていた。
「はい」と応えた後、浜岡が最後に私の方に向き、
「じゃあ琴音ちゃん、また今度どこか…数寄屋かどこかでゆっくりとお話ししようね?」と言いながら手を伸ばしてきたので、「は、はい、是非…」と思わず私からも手を伸ばすと、それから私たちは握手を交わした。その後は「では…」とだけ言うと宝箱から慌ただしげに出て行ってしまった。外の環境音は相変わらず聞こえなかったが、おそらくあの調子だと、私がするよりも五月蝿く、あの引き戸を開けたことだろう。
私からしたら嵐のような数分間だったが、ここにきてようやく耳に、付けっ放しのテレビの音が耳に入ってくるようだった。
「…ふふ、驚いたかい?」
と義一が話し掛けてきたので見ると、その顔には悪戯を仕掛けて成功して喜んでるかの様な無邪気な笑みを浮かべていた。
「…驚くよそりゃあ」
と私はジト目を向けつつ溜息混じりに呟きながら、例のテーブルの側に置かれた二つの椅子のうちの一つに座った。
「ふふ、驚くよね?」
と神谷さんが笑顔でゆっくりと立ち上がろうとしたのを見た義一が、慌てた様子で言った。
「せ、先生、そのまま座っていて下さい」
それを聞くと、神谷さんはキョトン顔を作りつつ、しかし笑顔は残したままで、立ち上がるのを止めないままに返した。
「ん?何でかね?こうして琴音ちゃんと久しぶりに会えて、キチンと顔を合わせて話そうとしたら、私が近くに行くのが筋ってものだろう?」
「え、あ、いや、じゃあ私が…」
と察して私がすぐさま立ち上がろうとすると、神谷さんは手を前に出して制するような素振りを見せつつ言った。
「あ、いいんだ、いいんだ。琴音ちゃん、君はそのままそこにいてくれ」
「は、はぁ…」
と私はそのまま座り掛けたが、せめてと思い、ゆったりとした神谷さんの動作をチラッと確認しつつ、なるべく素早く椅子を並び替えた。今向かって来る神谷さんの一番近くになるように一つを置き、それを基準に、書斎机の後ろに座る義一とも無理な体勢を取る事なく会話が出来る様に、瞬時に色々と考えてセッティングした。その間、チラッと見ていた中で、ふと神谷さんが私にフッと柔らかな微笑みをくれていたのに気づいたが、何だか恥ずかしくなってすぐに目を逸らした。その間に義一が「じゃあ、僕は先生たちの分のお茶を淹れてきます」と台所に行ってしまった。
「…あぁ、ありがとう琴音ちゃん」
「あ、いえ…」
お礼を言う神谷さんを椅子に座らせると、私もすかさず自分の分の椅子を同じように”丁度良い”位置に置いて座った。結果的には、口で言われるだけじゃ分かり辛いだろうが、義一から見て、テーブルを挟んで右手に神谷さんが、左手に私が座る事になった。神谷さんのまた右手には、先ほどまで座っていた二人がけのソファーがあり、そのまた右手には付けっ放しのテレビがあった。
義一がお茶の準備をしている間、何か話しかけようと思ったが、神谷さんはテレビの方に向いてしまったので、まぁいいかと私も神谷さんの頭越しにテレビを見た。
と、そこにはある番組が流れていたのだが、それは日曜日の昼間限定の情報番組で、何かの特集番組のようだった。画面の右上には何やら文字が出ており、そこには『どうなる!?自由貿易協定』とあった。それはある種の討論番組の形式をとっており、幾人かの様々な肩書きの面々が座っていた。今はその中の一人、何とというか、そこには時の政権の経産大臣が、パネリストの一人からの質問に答えている所だった。
…ん?自由貿易協定…あぁ、なんか聞いた事あるなぁ
と、ボヤーっとした感想をふと持ったその時、すぐそばでカチャンと音がしたので見ると、義一が茶器をテーブルに置く所だった。
「ふふ、先生、琴音ちゃん、テレビに夢中になるのも良いですけど、せっかくの淹れたてなんですから、どうぞ温かいうちに召し上がって下さい」
「…ふふ、あぁ、いただくよ」
「うん、ありがとう」
と私が礼を言うと「どういたしまして」と笑顔で返し、そのあとはいそいそと台所から空きの椅子を一つ持ってきて、それに座った。座り位置としては、私の左隣、ドアを後ろに、前を書斎机にしている位置どりだった。
「では義一くん、いただきます」
「いただきます」
と二人して言うと、「どうぞ」と短く義一が返し、それからは三人共に一口ずつ飲んだ。
「はぁ…」と三人揃って声を漏らすと、ふとここでまず神谷さんが私に笑顔で話し掛けてきた。
「…あ、そういえば、まだ直接は言えてなかったね?琴音ちゃん…コンクール、全国大会準優勝おめでとう」
「…え?」
せっかく言ってもらって何だが、何だかもう遠い過去のように思えて、すぐには反応出来なかったが、その後にはすぐにペコっと一度座ったままお辞儀してから「ありがとうございます」と微笑みつつ返した。
それからは和かな雰囲気の中、私としては思いがけない…いや、さっきから思いがけないことの連続なわけだったが、まさかコンクールの話を蒸し返すとは思ってもみなかった。…みなかったのだが、それでもスマホを持ってきていたので、すぐさま取り出し、神谷さんの望むままに写真を見せていった。画像が切り替わるたびに、神谷さんは面白がってくれた。
と、この時、私は今までに無かった心境を覚えていた。これはもしかしたら双方に失礼かもしれないのだが、正直に言うと、何だか自分のおじいちゃんにアレコレと自分の晴れ姿を見せている孫の心境になっていた。とはいっても、実のおじいちゃんはとっくに亡くなっているし、そもそも私は会ったことが無かったから偉そうに知ったかは出来ないのだが、それでも『おじいちゃんがいたら、こんな感じなんだろうなぁ』と思うのだった。
「ふふ、ありがとう」
と神谷さんにスマホを返してもらったその時、丁度先ほどまで流しっぱなしにしていた番組が終わった所だった。
それに気づいた義一はふと立ち上がり、ソファーに置いていたらしいリモコンを取ると、何やら操作をしていた。しばらくすると、画面には静止画が出てきた。何も聞かなかったが、すぐに先ほどの番組のオープニングだというのが分かった。どうやら、先ほどまで流れていたのはリアルタイムらしいが、どうも今まで録画をしていたらしく、今録ったばかりの番組を出して止めているようだ。
リモコンを持ったまま戻ってくる義一に、早速私は話しかけた。
「…義一さん、これってさっきまでやってた番組だよね?録画してたんだ?」
「え?…ふふ、うん、そうだよー」
義一は手に持ったリモコンをテーブルに置くと、フッと力を抜くように笑いながら答えた。
「ふーん…っていうかさ」
と私は向かいに座る神谷さんにも視線を流しながら言った。
「今日…この宝箱に、神谷先生が来てるって事、聞かされてなかったんだけれど?」
「え?…あぁ!」
と、ふとここで神谷さんが不思議だと言いたげな顔を浮かべていたが、すぐに一人で得心したらしく、笑顔になりながら言った。
「宝箱ね。ここの事かな?」
「え、あ、そうです」「ふふ、そうです」
と、私と義一がほぼ同時に答えた。
「宝箱ね。…ふ、言い得て妙だなぁ」
と神谷さんが部屋を見渡しつつ一人で感心していたが、義一は一口勿体ぶって紅茶を啜ると答えた。
「…ふふ、うん、琴音ちゃん、君を驚かせようと思ってね」
「驚いたよぉ…まさか過ぎて。何で今日、神谷先生がここに…あ」
と途中で言いかけて、本人を前にしていうセリフでも無いかと直ぐに止めて、チラッと気まずげに神谷さんの方を見つつ続けた。
「何も、私が来る時と先生をダブルブッキングしなくてもいいのに…」
とここで私は書斎机の上の書物、そして書類の束、そして静止画が映っているテレビの方にも視線を流してから続けた。
「何かそのー…大事な話でもしてたんじゃないの?さっき浜岡さんも来てたし…。こんな日に、そのー…私なんかが来たら…邪魔じゃない?」
「…ん?イヤイヤ」
と、この私の言葉に、瞬時に反応を示したのは、義一ではなく神谷さんだった。相変わらずというか力無げではあったが、それでも好々爺の痕跡を残す笑みを浮かべていた。
「そもそもね、琴音ちゃん、君がここに来る予定だと言うのを聞いて、だったら私の予定を合わせようって事になったんだ」
「…え?それってどういう…」
と私が聞くと、神谷さんはフッと視線だけ義一に流し、そして笑みを浮かべつつ言った。
「いやね、まぁキッカケは聡くんが勝手にというか、ここにいる義一くんみたいに我々のところに連れて来たわけだけど、幸いな事に、琴音ちゃん、君もどうやら義一くんと同じように、私たちの事に少なからず共感をしてくれてるようだし…」
「あ、はい、それは…そうです」
「ふふ、ありがとう。…でね、そんな君にも、こうして何度も楽しく有意義な議論をしてくれた君だけを、”この事”に関して除け者にする訳にもいかないというので、それでこうして予定を合わせたんだよ」
「”この事”?」
「先生?」
まだ依然として先生がここに来た理由が判然としない中、ふと私が声を漏らすと、ここで義一が苦笑まじりに神谷さんに声をかけた。
「そろそろ本題を…」
それを受けて神谷さんは、照れ臭げに産毛程度を蓄えた頭を照れ臭そうに摩ると、話し始めた。
「あぁ、そうだったね。…ゴホン、琴音ちゃん、今回…といっても、実はよくこのー…”宝箱”だったかな?ふふ、良い名前だ…あ、いや、この宝箱にはよく来ていたんだがね、今日はそのー…いくつか重要な用事があって、それで来たんだよ」
「重要…」
「ふふ、そう。だから…ちょっといきなり全部説明するのは骨が折れるから、順に話すから少し我慢して聞いてくれる?」
「は、はい」
と私はこの”重要”という単語を聞いた時からウズウズしていたのだが、ここがチャンスと、おもむろにカバンからいつものメモ帳とペンを取り出し、それをテーブルの上に置いた。
と、準備が終わりふと顔を上げると、こちらに柔和な微笑みを向けてきていた神谷さんと視線が合った。
もう何度も合わせているというのに、普段はあの数寄屋内の雰囲気の良い薄明かりの中でだったのが、書斎机の後ろの大きな窓から差し込んでくる冬の陽光に照らされてるからか、神谷さんの好々爺とした笑みが強調されて、何だか新鮮なのと同時に気恥ずかしくなり、思わず照れて軽く下を俯くのだった。
それを見た二人は微笑み合うと、神谷さんは話を続けた。
「…さて、そうだなぁー…まぁ、まずはいきなりだけど、我々にとって一番重要な話からしようかな?…なぁ、義一くん?」
と神谷さんは、ここでふと書斎机の方に視線を向けた。私と義一も釣られるようにして見たが、すぐに何かを察したか、気持ち声のトーンを落としつつ「はい」と義一が答えた。
「うん、そうだなぁ…これは、義一くんから話すかい?」
「…そうですね」
と義一は数瞬ばかり考えた後でそう答えると、義一は若干真面目くさった表情を見せたかと思うと私に向かって言った。
「…ふふ、琴音ちゃん、実はね…この度というか、雑誌”オーソドックス”の編集長に、そのー…僕が先生から拝命されたんだよ」
「…え?編集長…?へぇーーー」
と大声を上げはしなかったが、それでも驚きは一入だった。なんとなしにこれから先で、もっと深く義一がオーソドックスに関わっていくだろう事は予測できたが、いきなり編集長というのは予想していなかった。
そんな私の様子を見て、神谷さんは愉快げに笑いつつ言った。
「そう、今までさっきまでいた浜岡くんに編集長をしてもらっていたのだけどね、彼には僕がしていた顧問を引き継いでもらって、その浜岡くんの後を、是非義一くんに引き継いでもらいたくてね、それでこうして”嫌々ながらも”引き受けてくれたって訳なんだよ」
「そりゃあ、嫌々ですよ…」
とすかさず義一が、苦笑まじりに言った。
「浜岡さんですら大変そうだったのに、僕みたいな者が、あの集う面々を制御しきるのは、想像するだけで気が滅入ります」
「あははは。まぁそうだろうけれどさ」
「はぁ…。あ、琴音ちゃん、まぁこういうわけで僕は拝命を受けたわけだけれど、僕で実は編集長は三人目でね?二代目は勿論浜岡さんだけれど、初代は神谷先生だったんだ」
「へぇー…そうなんですね?…っていや」
と私は何かメモろうと思ったのだが、これについては特に書くこともなく、ただただ驚くばかりだったので、頭を整理するためにも二人の話を一度止めた。
「いやいや、あまりの唐突な話すぎて、正直なところ付いていけてないっていうのが本当なんだけど…二人とも、質問して良いですかね?」
「どうぞ」
と神谷さんと義一がほぼ同時に同じ様に笑顔で答えたので、私は自分の頭の中を何とか整理しつつ口を開いた。
「えぇっと…まず根本的な所から。…先生、先生は何でまた急に義一さんに編集長を指名したんですか?」
「…ん?琴音ちゃんはー…義一くんでは不満かな?」
と神谷さんが途端に意地悪げにニヤケつつ聞いてきたので、私は少し慌てつつ返した。
「いえいえ、そんな事は…勿論ないですよ。たださっきも言いましたけど、突然の話だったんで。…まぁ、本人を前にして言うのもなんですけれど、私は義一さんがオーソドックスの編集長をするのは良い事だと思います。そのー…さっきいた浜岡さんが違うのかと訊かれると困りますけど、少なくとも私が知る先生、それに義一さん、この二人はー…はい、これほどの色んな物事についての知見を広めていらっしゃるので、あの雑誌に集う面々を取り纏めるには適任だと…思います」
と、何とか言葉を紡ごうとした結果、何だか頭でっかちな内容になってしまった。それが生意気だったかと、言い終えてから二人を見ると、義一と神谷さんはキョトン顔で顔を見合わせると、どちらからともなく苦笑を浮かべて、そしてまず神谷さんがその笑みのまま口を開いた。
「んー…ふふ、ありがとう琴音ちゃん、そこまで我々を褒めてくれて。でもね、確かに今君が言ってくれたことのほとんどは正しいよ。私なんかは、今君が褒めてくれた様な人間じゃなく、何も知らないただの人ではあるけれど、あの面子を、天文物理化学、人文社会科学や、マサさん、勲さん、美保子さんに百合子さん…それに君、琴音ちゃんの様な芸能に秀でた人間たち、この様な多種多様な個性の強い面々を取り纏めるには、…義一くんの様なあらゆる知見を広めている、そして今も飽くなく広め続けている様な人間が適任だと僕も思って、こうして頼んだんだよ」
「先生も琴音ちゃんも二人して…」
と神谷さんの言葉を聞き終えた義一は、色白の顔をほんのりと紅潮させ、照れ臭げに頭を掻きつつ恨みがましげに言った。
「そんな不用意に褒められたら困るって分かってて言うのは、人が悪すぎですよ?」
「…それを義一さんが言う?」
と私がすかさず淡々とした口調で返すと、義一は今度はバツが悪そうに、相変わらず頭を?いていたが、そんな私たちの姿を見て、「あははは」と神谷さんは愉快げに笑った。
「まぁ勿論、我々オーソドックスに集う人材というのは見ての通り豊富なんだけれどね?それでもまぁ…また本人は照れるかもしれないが、繰り返せば、この中で一番多岐に渡る知見を擁しているのは誰かとなると…うん、やっぱり義一くんかなって思って、私の中では真っ先に編集長の第一候補に挙がっていたんだよ」
「…あ、そうだ」
また照れっぱなしの義一を微笑ましく横目で見つつ、さっき途中からやっとメモを軽く取り出したのだが、ここでまた気づいたことがあったので、早速ぶつけてみる事にした。
「そういえば先生、さっきこう言ってましたよね?『浜岡さんに編集長をしてもらっていたのを、私がしていた顧問を引き継いでもらって、その後を義一くんに引き継いでもらう』と」
「うん、そうだね」
「って事はですよ…?」
と私はここでまた一度メモに目を落として確認してから、神谷さんの顔を直視して聞いた。
「…先生はじゃあどうするんですか?」
「…」
私がそう言った直後、神谷さんは何だか苦笑いを浮かべ…いや、どことなく照れ臭そうに笑いながら自分の頭を軽く撫でていた。
が、すぐにその照れ笑いのまま答えた。
「んー…まぁ、何と言うかなぁ…私はね、琴音ちゃん、これを機に…引退しようと思うのだよ」
「…え?」
「…」
私が言葉を失う中、ふと横を見ると、義一はどこか寂しげに笑いつつ紅茶を啜っていた。
「…え?何で…ですか?」
と私がタドタドしげに聞くと、神谷さんは相変わらず照れ笑いを浮かべながら、しかし先ほどまでと違って、フッと力の抜けた表情で答えた。
「…ふふ、何でって聞かれてもなぁー…。うん、まぁ一口に言えばね、私はもう今ね、歳が76にこないだなったんだよ。後期高齢者だね?…ふふ。まぁ、もう十分この雑誌の中で言い尽くしてきたし、これ以上私みたいな年寄りが居座っても、邪魔でしかないからねぇー…。皆気を使うだろうし」
「そんな事…」
と義一はすかさず苦笑まじりに漏らしたが、それには取り合わずに神谷さんは続けた。
「まぁこうして義一くんを編集長に、そして浜岡くん、後は京都にいる…あぁ、琴音ちゃん、君はまだ会った事ないよね?今年の三月で大学の職を定年って事で退官する佐々木くん…まぁ前から変わらないけど、この二人で新たに雑誌の顧問になってもらうという、そういう新体制に引き継いで、私は引退するわけだけれど…まぁ、まだ私みたいな枯れ果てた老木の与太話を聞きたいとか、議論したいとか言われれば、ヌケヌケと恥もなくまだあちこちに顔を出すつもりだよ。…数寄屋にもね?」
「あ、そうなんですね」
と私が初めに”ほっ”とため息を入れてからボソッと言うと、神谷さんは意地悪げな笑みを浮かべつつ
「あ、琴音ちゃん…今、心底呆れただろう?『この人、引退って言いながら、まだしぶとく幅をきかせようとしてるのか?』って」
「ふふ、いえいえ、そんな事は…ないですよ?」
と私は冗談ぽく、敢えて間を置いてから自信無さげに言うと、「あははは」と神谷さんは陽気に笑い返してくれた。
「なるほどー…では、次の質問良いですか?」
と私がメモに目を落としつつ言うと、「ふふ」と神谷さんは義一に目を向けつつ言った。
「何だか琴音ちゃんにこう訊かれると…まるで記者会見でも受けてるみたいだねぇ」
「あはは、そうですねぇ。…まぁ僕らがそんな表舞台に出る用事は無いですけれど」
と二人して談笑し始めたので、「ちょっと、お二人ともー?」と私がジト目を向けつつ不満を漏らすと、二人はバツが悪そうに笑いつつ口を閉じた。
そんな二人の様子を冷ややかに、しかし笑いつつ見ていたのだが、ここでふと「あっ!」と声を漏らした。我ながら呑気だと思うが、ここにきて何故今日義一の家に来たのか、その理由を思い出したのだった。
私が急に声を上げたので、二人して不思議そうにこちらを見てきたが、それには構わずに早速質問をぶつけてみる事にした。
「…っていうかさ、義一さん、今の話を聞いて何となく分かるは分かるんだけれど…さぁ?そもそも何であの討論番組に、年末に出演していたの?義一さんって…人前に出るのが嫌な人じゃなかった?…私みたいに」
「え?…ふふ、あははは!」
と義一はここぞとばかりに照れて見せながら笑い声を上げた。それを神谷さんはまた愉快げに笑いつつ眺めている。
義一は勿体つけて一度紅茶を飲んでから口を開いた。
「まぁ…そう、今君が言ったように、僕も同じで人前に出るのは嫌なタチだった…いや、今もそうなんだけれど…うん、まぁ、もう察してるとは思うけれど、あれもね、神谷先生に無理やり引っ張り出されて、ついに出てしまったんだよ」
「あははは」
義一の言葉を聞いた瞬間、神谷さんはまた明るく笑い声を上げた。ここで初めて気づいたが、今日の神谷さんは、何か憑き物でも落ちたかのようによく笑っていた。
「でもその割には…」
と神谷さんはまた意地悪げな笑みを浮かべつつ言った。
「あの年末の時、気兼ねなくズバズバと切り味鋭く、あの代表を斬り捨ててたじゃないか?」
「あ、本当ですよねー?」
と私もずっと同じことを思っていたので、意地悪な気が起き、生意気にニヤケながら神谷さんに乗っかった。
「凄くイキイキとしてたよ?義一さん」
「参ったなぁ…」
私たち二人から攻められた義一は、照れた時の例の癖を頻りにして見せていた。
「でもまぁ今まで散々断られていたからねぇー…やっと念願が叶ったよ」
「せ、先生ー…そんな大袈裟な」
と苦笑いを顔全面に浮かべて見せた後、また私に向き直り話を続けた。
「まぁ先生の言葉を借りれば、そのー…新しい”オーソドックス”の新体制のお披露目というか、まぁたまたま討論が”オーソドックス特集”だったってのもあって、まぁ…とうとう出てきてしまったって訳さ」
と義一が心の底からウンザリげに言うので「ふふ、なるほどね」と私が思わず笑みを零しつつ言うと、
「今からそんな風では困るよー?」
と神谷さんも意地悪く笑いつつ言った。
「これからは、どんどんもっと表舞台に出て行って貰うんだから」
「まぁ…そうですけれど」
と義一が苦笑まじりにふと、今だに静止画のままのテレビ画面に視線を向けたので、すぐに何かしら関連があると察した私は、すぐにこのまま質問をぶつけた。これもそこそこ長い付き合いだから成せる技だろう。
「それって…相変わらずあそこで止まったままの映像と、何かしら関係があるの?」
と私が聞くと、その瞬間義一と神谷さんは顔を見合わせると、一度クスッと笑い、その笑顔のまま二人揃って私の方を見た。
「いやいやー、流石の琴音ちゃん。察しが良すぎるねぇ」
「流石の義一くんの姪っ子って事かな?」
と二人してからかってるのか何だか判別つきにくい褒め方をしてきたので、取り敢えず薄眼を使いながらテキトーにいなして、そして改めて義一に聞いた。
すると義一はまた一息いれる為かのように紅茶を一口飲むと話した。「…ふふ、まぁー…そういう事になるね。まぁ本当にたまたまというか何というか… 僕が編集長に抜擢されるかどうかって時に、こんなタイミングでこんな事態が起きるなんてねぇ…」
「…え?」
と何だかまた具体的なことが一つも出ない、何の取っ掛かりのない事を話し出したので、私はまた薄眼調でジッと見つめながら、
「それって、どういう事?」
と聞くと、すぐに私の心中が分かったのか、何だか照れ臭げに頭を掻きつつ答えた。
「あぁ、いや、あのね?実は…いや、実際見て貰う方が早いですかね?」
と途中で急に神谷さんに振ると、「ん?まぁ…そうかもね?いや、判断は君に任せるよ」と返された義一は、
「じゃあ琴音ちゃん、まず僕から説明する前に…ちょっとテレビ画面を見てくれる?」
と言うので、「う、うん」と私は言われるままに視線を向けた。
その瞬間、義一がリモコンで操作したので、先ほど録画したのであろう番組の静止画が、ようやく動画として動き出した。
その番組は何やら”らしい”BGMと共に始まり、最初に司会者らしき初老の男性アナウンサーが挨拶をして、その脇の女子アナも同じ様な挨拶をしていた。それからは一人一人出演者の紹介が始まったのだが、最後に紹介されたのは、先ほども触れた、現政権の経産大臣だった。
全員の紹介が終わると、先ほどの男性司会者が今日のテーマを述べた。それは先ほども見た時に、右上にテロップとして出ていた『どうなる!?自由貿易協定』のそのままだった。
と何気なくそのままテレビを見ていたのだが、ここで急に義一がまた映像を止めた。
「…ん?」
と私は思わず声を漏らしたが、それには触れずに義一はまたリモコンをそっとテーブルの上に戻してから言った。
「…まぁ、見ての通りというか、琴音ちゃんは知ってるか、もしくは知っててもさほど興味ないと思うけど、今急にね、この画面右上に出ている様に、新たな自由貿易協定を結ぶかどうかの話が出て来てるんだよ」
「…うん、まぁ私もニュースでチラッとは聞いたことあるけれど…これが何なの?」
とまだ意図が掴めないままの私がそう聞くと、義一は穏やかな表情のまま答えた。
「うん、まぁ…これは今の一つ前の政権がまず発端なんだけれど、そうだなぁ…今はろくな話も出来ないんだけれどね?要は、僕らのオーソドックスの共通認識としては、この自由貿易協定には断固として反対という立場なんだよ」
「ふーん…」と私はまたテレビ画面に一度目を向けてからまた義一に顔を戻して続けた。
「それは何で反対なの?…って質問したいけれど、それは今すぐには説明出来ないほどに、複雑な問題なんだね?」
そう聞くと、義一はチラッと神谷さんの方に視線を流してから、ニコッと笑い言った。
「うん、その通り。ゴメンね琴音ちゃん、別に隠そうって訳じゃないんだよ。ただ…特に君には、キチンと時間を設けてもらって、それからじっくりと誤解のない様に話したいと…思うんだ」
「…うん、それはよく分かってるよ。義一さん、あなたはこういう事で変に隠し立てしたり、ごまかしたりする様な不誠実な人でない事は分かってるからね」
と私は目を瞑る様にニコッと笑って見せると、「ありがとう」と義一も笑顔で返し、そしてまた穏やかな表情に戻ると先を続けた。
「まぁ今とりあえず簡単に言えるのはね、もしこの自由貿易協定なんかに参加したりしたら、ただでさえ今の日本は滅びかかってるのに、そのスピードに拍車をかける様なことになるんじゃないかって危惧してるからなんだ」
「うん…」
私はのちに質問するのを忘れない様に、メモに”自由貿易協定”と書きこんだ。
「でね…」
と義一は不意に書斎机に顔を向けると続けた。
「まぁ先生もそうおっしゃるし、今言った様に本当にこのままほっとけば日本がますます駄目になると思うから、初めから負け戦、自分の力が微力過ぎて無駄に終わる事を今から予期しつつも、少しは足掻いてみようかと思ってね、それで今ああやって経済学に始まるありとあらゆる分野の学問を総ざらいして、今ね…何冊かの本を同時進行して書いてるんだ」
「…え?義一さん…今本を書いてるの?」
と私も書斎机の上に積まれた本の山に目を向けて言うと、義一はまた静かにニコッと笑って何処か恥ずかしそうに答えた。
「まぁ…ね。実はさっき浜岡さんが来てたのも、僕が本を出すのを手伝ってくれてるからなんだ。浜岡さんは編集長を長年してきたし、その前から本職の文芸批評家というのもあって出版社にコネがあるんだよ。それでね、まぁ…僕なんかの本を出してくれる様な、自分で言うのも何だけど変わってる所を見つけてくれてね、それで今そうだなぁ…去年の十二月の頭くらいからずっと毎日休まずに執筆してたという訳さ」
なるほど…だからこんなに気持ち窶れてるのか
と私は改めて義一の姿をジロジロ見ながら納得した。
「今日に限って言えば、神谷先生にわざわざお越し頂いたのも、先生は元経済学出身っていうのもあって、そこからの観点からの今回の件について、教えを請うためって事でもあったんだ」
「あー…そういえばそうなんでしたね」
と私が感心した風に神谷さんに顔を向けると、当人は何だかバツが悪そうに、
「経済学出身って言ったって若い時の話だからね…若気の至りだよ」と苦笑いを浮かべつつ答えていた。
そんな神谷さんに一度微笑んでから、義一は続けた。
「こんな弱音を琴音ちゃんに言うのもなんだけれど大変だよ。今回の自由貿易協定の批判本、これを書くだけでも骨が折れるのに、それに加えて、そんな上っ面の点だけを批評しても、後から後から同じ様な問題が次々と湧いてくるだろう事は目に見えてるからね…だからもう一冊、これは…そもそも何で今の日本がこんな如何にも駄目だとすぐに分かりそうな事に容易に飛び付いちゃうのか、それを分析したいわゆる思想哲学の本も書いてるんだよ」
「なるほどね…」
と私はまた一度本の山にまた目を向けてから言った。
と、視線を戻した時にふと思いついたので、それをそのまま深く考えないままに口に出した。
「…あ、その思想って…それって、”保守”…って事?」
「え?」
とその瞬間、義一と、そして神谷さんが同時に声を上げた。…上げたが、しかしすぐに顔には好奇心に満ちた表情に変化していた。
「…ふふ、義一くん」
と神谷さんは何だか悪戯っ子のような笑みを浮かべつつ、視線は私に向けながら義一に話しかけた。
「君が最近よく言ってくれてる様に、琴音ちゃんは良く君の所から
、最近は私たちの思う保守思想家たちの本や、それに限らず他の思想家、哲学者の本も読んでるんだねぇ?」
「えぇ、その通り…というか、この通りです」
と義一は何だか若干誇らしさを滲ませつつ、しかし何処かおどけて見せながら答えた。
「まぁ保守に限って言えば、先生が昔に書かれた、西洋保守思想家の大家を網羅した著作に載っている人物、その著作群を全て網羅する勢いで読んでいます」
「そっか…って、別に私の本なんかどうでもいいけれど、ふーん…まだ中学二年…だよね?その年齢にしてそんな事に関心を多大に寄せて、それだけに終わらずに原典を読み込もうとするなんて…よっぽどのモノだなぁ」
「はい、彼女は”善きほど”の転である、”よっぽど”なんです」
「あ、あのー…お二人さん?」
ここまで居た堪れない気持ちに苛まれながらも、我慢して聞いていたが、我慢の限界がきた私は神谷さんと義一にジト目を向けて非難まじりの口調で言った。
「先生も義一さんも、さっき自分たちで話したばっかりじゃないですか…?あまり本人の前で褒めるのは云々と」
「え?…」と義一と神谷さんは顔を一度見合わせたが、次の瞬間、同時に私に顔を向けると、二人して何だか照れ笑いと苦笑の入り混じった笑みでこちらを見てきた。
それを見た私が、やれやれと溜息と共に呆れ笑いを見せると、義一が苦笑のまま口を開いた。
「あはは、ごめんごめん。…さて、君の質問に答えるとだね…うん、そう、僕らの考える保守思想の観点から見ると、この協定があまりにも酷い…うん、そればかりじゃなくて、その議論の持っていきかたがあまりに不誠実だから腹に立ってね?まぁ…だから、さっき君が言ってくれた様に、これやられると全て駄目になっちゃうからってんで、こうして嫌々ながらも物を書いてるって訳だよ」
「ふーん、なるほどね…」
…『なるほどね』っと言っては見たが、実はまだそこまで腑に落ちていなかった。義一の言い分にほとんど納得はもちろんいってはいたのだが、それでもまだもうひと押しある様な気がした。
これは…さっきも言ったが、私と義一の付き合いの中で醸成された直感に近いものだった。この直感には自信があった。
そもそもそれ程外した事が無かったし、それに…これを言うのはとても恥ずかしいのだが、再会して以来ずっと、義一のことを些細なことまでジッと見続けてきたから出来る芸当なのは間違いなかった。…話を戻そう。
「でもさ…」
と私は早速思いついたことそのままぶつけてみる事にした。
「いや、今義一さんが言った事には何の疑問もないし、それ自体には納得行ったんだけれど…でもね、まだ何か…引っかかるの」
「え?何だろ?」
義一はもう説明責任を果たしたと、表情も緩めて紅茶を啜っていた。
「うん、だってさ…やっぱりまだ完全には納得いかないよ。いや、何というか、今言ったのと矛盾する様だけれど…うん、だって、勿論今まで義一さん、あなたともう数え切れないほどに議論や会話を楽しんできて、私は私なりに今の世の中の現状を認識しているつもりだけれど、でも…それって今に始まった事じゃないでしょ? それこそ元を辿れば…うん、義一さん自身からもそうだし、神谷先生、それにオーソドックスに集う皆もそれぞれの視点から論じてる様に、明治維新それ自体に懐疑的だったりして、まずあの時点からボタンの掛け違いで今まで来てしまった…うん、それ自体の論評は私からの質問にもキチンと答えてくれたりしたから分かったつもり…だけれど、だったら何で急に今回の協定を結ぶかって話が出た時に、それ程までに重たかった義一さんの腰が上がったのか、それが…まだ腑に落ちないのよ」
「…」
義一はずっと黙って、途中からは目の奥に好奇心と真剣味を同居させてる様な、議論する時に見せる”いつもの”視線をこちらに向けてきていたが、私が話し終えると、義一はふと目を瞑りながら、紅茶の味を今更ながら味わう様に時間をかけて一口ぶんを啜った。
その間神谷さんは、私と義一の顔を見比べる様に見ていたが、静かな表情の中でも、口元だけは若干品よく緩めていた。
と、カップをカチャンと置いたかと思うと、義一はこれまた見慣れた微笑みを顔の湛えつつ口を開いた。
「…ふふ、相変わらず鋭いんだからなぁー。参っちゃうよ。…あはは、そうだねぇ…まぁ確かに、今までずっと話した事には偽りはないんだけれど、うん…琴音ちゃん、君の推理通り、実は…今回じゃなくて、この貿易協定の話が初めて出た、あれは…今新年だから一昨年になるのかな?琴音ちゃん、君が中学生になったばかりの時の事なんだけどね?で、さっきチラッと僕が言ったけど…その議論、話の持って行き方があまりにもヒドく感じて、ずっと鬱積した思いが溜まりに溜まっていたんだ。でも…ほら、僕は人前に出たがらない、まぁズバッと言ってしまえば”臆病者”でしょ?」
「…え?あ、いや…」
『そんな事は一度も思ったことが無い』と続けようとしたのだが、この私の態度を見て何を思ったか、義一は照れ笑いを浮かべながら続けた。
「あ、いや、琴音ちゃん、君は違うけどね?これはあくまで僕個人の話。…ふふ、でもね、そんな臆病者の僕でも、もう何度も繰り返してるけど、政府の説明やマスコミの報道の仕方、この協定についての説明が酷かったから、それで、んー…」
とここで不意に話を区切ると、義一はまたふと書斎机の方を見たかと思うと、私に顔を戻し聞いた。
「琴音ちゃん、この話をするにあたって、軽くでもこの協定について触れざるを得ないんだけれど…良いかな?」
「…良いかなって」
私は何を今更と言いたげに、フッと先ほど見せた呆れ笑いを浮かべつつ、
「そんなの願ったり叶ったりだよ。早く話して?」
と答えると、義一は神谷さんにチラッと視線を流してから、なぜか申し訳なさげに苦笑を浮かべつつ「ありがとう」と返し、それから話を続けた。
「そうだなぁ、何から話そう…。あ、そうだ、じゃあさっきからしつこく言ってる、世の中のその不誠実な議論の持って行き方というのがどういうものなのか、それについて話させてもらおうかな?」
「うん」
と私は答えつつ、手元にメモとペンをしっかりと準備した。
そんな様子を見てニコッと無言で微笑んだかと思うと、義一は先を続けた。
「まずこの話が出た、今から一年ちょっと前だね?その時の政府がどう説明したかと言うと、『これからはグローバルな時代なんだから、日本も乗り遅れてはいけない』だとか、後は…『第三の開国だ』だとかね?もう…しつこい様だけれど、そんな言い方、そんな理由とかアリなのかって思ってさ」
そう言う義一は、後半から表情も眉間にしわを寄せるようにしながら、苦虫を噛むように苦々しげに言った。
「琴音ちゃんも知っての通り、日本っていうのは過去にも何度か”開国、開国”って呼ばれた出来事があった訳だよ。勿論第一の開国は”ペリーの来航”だよね?そして第二の開国は”先の大戦の敗北”、そして今回って事なんだけれど…世間的にはこの開国って言葉が良い意味として認知されてるみたいなんだけれど、僕にはね、それが全く理解出来ないんだよ…。『何?また開国したいの?…は?また敗北したいわけ?』ってね」
「うん…」
義一の話を聞きながら、一年ちょっと前に、あまりテレビや新聞を”敢えて”見ないようにしてきた私でも、そんな私の耳にもそんな話が届いていた。
そして当然…というか、今義一に言われたからではなく、世間が一様に同じ方向を向き出したのに対して、中身がどうこうまでは精査出来なかったが、その流れ自体に違和を覚えていたのは確かだった。そして今、義一が”また今回も”、私のこの自分では言葉に出来ない心情を、こうしてまた理屈をつけてくれた事に対して感謝を覚えながら相槌を打った。
「私もそれ…すっごく違和感がある」
「…ふふ」
と義一はまたチラッと神谷さんの方に視線を流したかと思うと、すぐさま又私に視線を戻して笑みを浮かべつつ言った。
「ありがとう琴音ちゃん。…さて、それでね、あまりにも開国開国ってウルサイし、まぁこれはここ何十年も言われ続けてきた事だけれど、『日本というのは外圧が無ければ変わらないんだ』って、他の国の指導者なりエリート階級が言ったら袋叩きにあうような事を平気で言うからね、『日本ってこんなクダラナイ国だったかな…?昔からそうなのかな…?』って疑問に思ってさ?それで…いっその事時代を思いっきり遡って、その始め…第一の開国と呼ばれたペリー来航の時に、日本人…日本人はどう行動したのかを改めて調べてみたくなってね、それで…これも琴音ちゃんは知ってると思うけれど、現代では何だか悪い事として捉えられている、天皇を尊んで、それでもって攘夷…要は夷(東方の未開人)を攘う…東方から来る野蛮な未開人を打ち払うって意味の”尊王攘夷”…その手引き書と言われていた、江戸時代の水戸藩士にして水戸学藤田派の学者、会沢正志斎の記した『新論』という本を読み返してみたんだ」
「へぇ…」
と私はここで、まだ義一の話が途中だと言うのを知りつつも、思わず声を上げて口を挟んだ。
私はここ一年近くは、古典文学以外にも歴史書、それに保守思想を中心とした哲学書、思想本を借りて読んでいたのだが、今のところはどうしても西洋を中心としていたので、ふと今、義一の口から江戸の思想家の名前が出たので、それが意外にして、そしてとても面白かったので、それ故に口を出してしまったのだった。
「尊王攘夷ってそんな意味があったんだ…。って事は、夷っていうのは、東…ん?アメリカって事?じゃあペリーのことだよね?んー…尊皇して、東からくる野蛮人を攘う…あれ?何が悪いの?」
「…」
先ほどから同じ様な事が続いていたが、今回もまた、途中から独り言のように、考えをまとめる意味も込めて口に出していたのを聞き終えた二人は、また一度顔を見合わせると、今度は「あははは」とどちらからともなく明るい笑い声を上げるのだった。
私がキョトン顔で二人の方を見ていると、そんな私の様子に気づいた義一が、その笑顔のまま話しかけてきた。
「はぁ…あ、あぁ、いや、琴音ちゃん、気を悪くしないでよ?何だか今更ながら基本的な事に気付かせて貰って、それが愉快だから笑っただけなんだから」
「そうだよ琴音ちゃん?」
と神谷さんも愉快げな笑顔のまま続いた。
「まさに”夷”というのは、地理的に日本から見て東に位置してるアメリカで間違いないよねぇ?…ふふ、ありがとう、根本的な所を思い出させてくれて」
「え、あ、いえ…」
何だか思わぬ形で感謝をされてしまったので、私からはもう何も言うことが無くなってしまい、ただタジタジとする他に無かった。
そんな私の様子を微笑ましげに見てきながら義一は続けた。
「ふふ…さてと、そう、今君が言ってくれてた様にさ、何で尊王攘夷して悪いのか分からないよね?うん…。まぁダメだと言う人たちの言い分というのが、先の大戦の大きな要因の一つだというロジックがあっての事で、もうあの様な戦争は嫌だと、まぁそんな浅薄な考えの元から発生するんだけれど…ってまぁ、今はそんな左翼的な平和主義的な考えについての批判は置いといて…うん、話を戻すと、改めて会沢正志斎の『新論』を読み返してみたんだ。…っと、その前に、今軽く紹介するとね、この尊王攘夷の理論的な学者が二人いて、一人は正志斎、そしてもう一人に藤田東湖という、この人も水戸の人なんだけれど、この人は安政の大地震で死んじゃうんだ。でもこの藤田って人もとても尊敬されていて、有名なところで言えば、西郷隆盛だとか、ああいう人に私淑されていたんだ」
こう話す義一は、こう言っては何だが子供の様な無邪気な笑みを浮かべて見せていたので、今日に限った事ではないが、こうして話す義一を見ると、話の内容に惹かれるのと同時に、その無邪気さがとても微笑ましく思うのだった。
「正志斎も、いわゆる右翼にとってのアイドル、吉田松陰なんかも長州…今でいう山口県だね、そこからわざわざ正志斎に会いに行くためだけに、山口から水戸藩、茨城まで来たくらいに、この二人というのは尊敬されていたんだ」
「へぇー」
「でね、右翼の好きな言葉で『草莽崛起』って言葉があるけど、要は皆んなで立ち上がろうって意味だけど、これはどうもヒントは正志斎にありそう…またそんな説があるっていうのを知って、僕もそうかも知れないと思ったんだ。何故ならね、水戸藩というのは、侍と農民の中間というのか、それくらいに位置している人々に武装をさせていたんだけど、その『自分たちで武器を持って自立して戦え』っていう姿勢を見た松陰がえらく感動して、それで長州に戻ったその時期から言い出した事だというので、まぁ繰り返すけれどそうだと思うんだ。…っと、それでね、正志斎に戻すと、まぁまずその前に、大国の清国がアヘン戦争でイギリスにボロクソに負けたってんで、これは日本にとって大きなショックだったんだ。あんな大国でも西洋列強に、こんなに簡単に負けてしまうのかってね。で、それで大騒ぎしてる、これからどうすればいいのかって右往左往している時に、この正志斎の新論が市中にばら撒かれたんだ。で、この新論に影響を受けた幕末志士たちが尊王攘夷運動にのめり込む様になるんだけれど、実はね、この新論、正志斎がこの本を書いたのは、実はこの騒ぎが起こる、えぇっと…アヘン戦争が起こるのが大体一八百四十年くらいだったから…そう、それから二十年も前に出たものだったんだ」
「はー、二十年も」
「そうなんだよ。正志斎がこの本を書いてる時代でも、たまに海岸とかに西洋の船だとかが漂着したりしてた時期で、漁民が薪や食料なんかを分け与えていたりしてたんだけど、それを正志斎はつぶさに観察するんだね。それでね、ここがまず正志斎が凄いんだけれど、その現場を見て『これはヤバイ。これはまずいな』と思ったんだよ」
「へぇー…凄い先見の明だねぇ」
と私はすっかり当初の『何で義一が表舞台に出ようと決心したのか』と質問したのをすっかり忘れて、”師友モード”の義一の話にすっかり惹きつけられて、一心にメモを取りつつ合いの手を入れた。
「でね、当時の江戸時代の人々も、もうずっと徳川政権の下で戦争もロクに無かったから、今みたいに惰眠を貪っていたから、それで尚更危機感を募らせた正志斎は、世の人々の目を覚まさなくてはと、この新論を書いて、それを水戸藩の藩主、徳川斉脩に見せたんだ。でもその内容というのがね、さっきも言った様に、草莽崛起の元になるくらいだから、国防を司る武士は百姓と一緒に暮らしてみたいな事が書いてあるんだけれど、これは当時の幕藩体制ではご法度だったんだ。農民や職人、商人が刀などの武器を所持するのを禁止してたからね」
「あー」
「でもそうやって皆んなが武装しなくちゃ勝てないぞって書いてあるんだけれど、藩主は『書いてあることは一々納得するし、その通りだと思うけれど…この本を世の中に出したら、幕府に水戸藩が潰される』と危惧して、で結局は水戸藩の幹部クラスの中だけで読まれただけで、その外には広まらなかったんだ」
「はー…」
「でまぁその後、ある時というか、藩政改革の問題点を指摘されて当時藩主になっていた徳川斉昭が隠居・謹慎を命じられると、正志斎も蟄居を命じられた事があったんだ。で、その時に正志斎の弟子たちが、当時のアヘン戦争後の混乱した世の中に向かって、勝手に師匠の記した門外不出だった新論を書き写して、それをばら撒いたんだ」
「あぁ、なるほど…ここに来るんだね」
と私がメモに目を落としつつ言うと、義一は「そう」と明るい口調で返し、それからまた続けた。
「で、清国が敗れたというので国内が沸騰している中で、急に二十年前の預言書の様なものがばら撒かれて、『これってマジか、凄いな』ってあっという間に広まったんだ。…って」
とここで不意に義一は神谷さんの方を見ると、何だか照れくさいのか、バツが悪そうにしながら
「先生…先生がいらっしゃるのに、こんな僕ばかりが話して…良いんですかね?」
と言うと、神谷さんはすぐにまた例の好々爺然とした笑みを浮かべて返した。
「ん?あははは!イヤイヤ、楽しく聞かせて貰ってるから構わないよ?…ふふ、君がまだ高校生の頃の、周りに遠慮する事なくパァパァ話してた時のを思い出してたよ」
「いやぁ…」
そう言われた義一は途端に一層照れて見せたが、まだ若干その表情を残しつつも、私にまた顔を戻して続けた。
「んー…あ、でね?まぁ僕も御多分に漏れずに戦後生まれの戦後育ちだから、周囲から尊王攘夷ってものは、排外主義的で、外人は皆んなぶっ殺せみたいな、そんな危ない考え方だって、少なくとも学校では習ったんだけれど…全然違うっていうのが、昔に初めて読んだ時に気付いたんだ」
「うんうん」
「勿論ね、さっきも言ったけれど皆んな惰眠を貪っていたから、目を覚まさせようって意図のもとで激しいことも書いてるんだけれども、実はあらゆる事を冷静に分析しててね、…いや、その当時に日本国内にいながらにして、入手出来る情報をすべて網羅していたんだよ」
「ふーん」
「例えばね、当時の幕府の幹部クラスは、一般的には鎖国でどうのと思われてるけど、それでも世界情勢はしっかりと認識してたんだけど…」
「…あ、オランダ風説書きとか?」
「あ、よく知ってるねぇ」
「あ、いやぁ…」
思わず思い出した単語を口に出してしまったせいで、すぐにこうして神谷さんに褒められてしまい、おどおどしている私を尻目に義一は微笑みを湛えつつ続けた。
「そうそう。その様な物から知っていてね、よくまぁこれも世間一般的には、いきなり浦賀に黒船が四隻来て慌てふためいたって事が流布されてるけど、全然違っていてね?幕府はちゃんと一年前から、ペリーが黒船四隻で来る事が分かってたんだ」
「へぇー」
「でも幕府としては、そんな情報があっても今更どうしようも無かったってだけの話だったんだよ。でね、話を戻すと、当時幕府官僚だった、肩書きは…最終的には勘定奉行だったかな?今で言う…財務大臣ってところで、川路聖謨って人がいてね、まぁ勘定吟味役の職務の関係で西洋諸国の動向に関心を持つようになってたらしくて、当時の海外事情や西洋の技術などにもある程度通じていたんだ。そんな彼がたまたま正志斎の新論を読んだ時に、驚いたらしいんだ。『何者なんだコイツは?何でこんなに色んなことを知ってるんだ?この戦略性の凄さも只者ではない。ぜひ直接会ってお話ししたい』って言ってたっていうのが、記録に残っているんだ」
「あはは、そんな事まで記録に残ってるんだね」
「ふふ、そうなんだよ。でね、そんな幕府の官僚トップである川路聖謨ですら驚くほどだった…。まぁでも、今から見ると勿論間違いや勘違いもあったりするんだけれど、それは致し方ない事だね。でまぁこの正志斎って人も、水戸藩の中では幹部クラスにいた訳だけれど、自分自ら動く人でさ、水戸…茨城の浜辺に漂着した人がいるという情報を耳にすると、我先にと直接出向いて会いに行くんだよ」
「はー、何だか所謂偉い人とは思えないほどに機動力があるね」
「そうなんだ。でね、少し逸れちゃうけれど、そもそも正志斎の文章自体も凄くてね、僕が言うのもなんなんだけれど…例えば、今現代の所謂論文とかを書こうとする時に、自分の論を書いた後で、その論に反論が来る事を見越して、予めにその反論に対する答えを付け加える…これがまぁアカデミズムという世界での基本的な書き方なんだけれど、既に正志斎は当時にしてマスターしてるんだよ」
「え?」
「そういう書き方をすれば、読んでる方がより説得される…それをもう正志斎…いや、当時、当時までの日本の知識人たちは自然とマスターしてたみたいなんだ」
「はー」
「例えばね…こんな事が書いてあるんだよ。『私…』これは正志斎自身ね?『私は最近になって漂着者が増えていることに対して危惧、危機感を覚えている。国防をしっかり考えないといけないと思う。でも、私がそんな事を言うと、大抵の人からはこう言われる。『イヤイヤ、来ている船は捕鯨船ばっかりだから。軍艦じゃないんだから。侵略や占領したいなどの意図などないんだ。ただ鯨を取りたいだけなんだ。刺激する必要はない』と。しかし、それは根本的な間違いである』と書くんだね。それでなんて書くかと言うとね、『グリーンランドというのがある…』」
「グリーンランド…デンマークの?」
「そうそう、デンマークの。『その近海で鯨が取れると聞いている。何でこんな遠くまで出張って来てまで取ってるんだ?』って書いてあるんだよ」
「はーー」
「正志斎はね、当時ありとあらゆる手段を用いて、こんな情報も手に入れていた訳なんだ。それにね『西洋の商船などは、いざという時には軍艦に変わることが出来ると聞いている。ほっといて大丈夫か?』とも書いてるんだ」
「はぁ…凄いね」
「『そもそも、この辺りをウロウロされて、日本の地理情報をスパイされたら…ヤバイじゃないか』とも書いてて、もうね、本当に綺麗に理路整然と反論していく訳」
「うんうん、本当だね」
自分でも分かる程に、気持ちが高ぶっていくのを感じつつ相槌をうった。
義一も自分で話していてそうなったのか、私と同じように、話始めと比べると、ますますテンションを上げていきつつ続けた。
「あ、そうだ、こんなのもあった。…コホン、尊王攘夷って聞くとさ、『日本は神国だ』だとか、『俺たちは侍、武士の国だ』とか、『あいつらは野蛮人、西洋人など恐るるに足らぬわ』みたいな、なんかマッチョなイメージがある…と思うんだけれど、でも正志斎自体はそんな事は必ずしも書いていないんだ。『国防体制をしっかりと敷いて戦う準備をしろと私が言うと、こう反論するものがいる。『イヤイヤ、何を言う。我が国は神国だぞ?それに我が国は武士、武勇の国なるぞ?夷狄なんぞ恐るるに足らぬわ。だからそんな準備をする必要がない』と。それは違う』って正志斎はせせら笑うんだ。それでなんて返すかと言うとね…『お前な…いくら侍の国って言ったって、二百年も実戦経験が無いんだぞ?』と書いてるんだ」
「はぁー…」
さっきからずっと関心しっぱなしだったが、ここでふと頭を過ぎったのは、何度も言うように普段からそんなに見てはいないのだが、年末に義一が初出演を果たしたあのネットテレビ局に集う、自称保守の面々だった。
「つまりね、正志斎は確かに『神国だ」的な事を書いてたりもするんだけれども、だから大丈夫だなんて書かない…つまり、”自分”というものを見失ってないんだよ。本当の意味で”反省”をしているんだ。もう本当にね…ただただ凄い」
義一はここまで話すと、一度一息入れる意味で紅茶を啜ってから、気持ちテンションを落ち着けつつ続けた。
「いくら自国を神国だと思ってたって、それでも現実を見ないままに怠け続けていれば亡国の一途だって分かるからこそ、新論を書いたって訳だね。…でね、正志斎は何度も言うけれど、この新論を書いた意図としては、だらけてしまった日本人の目を覚まさせようって事でさ?煽り立てるというか、所謂アジテーションの文章だから…もうね、改めて今回読み返したら、その凄い戦略性、論理性、また読み易い文語調でしょ?読み終えた頃には僕はすっかり尊王攘夷論者になってしまったよ」
フフフとここで義一は一度、照れ笑いか自嘲か、はたまたその両方か判断しずらい笑みを浮かべて続けた。
「それでさ、『いつまでも臆病風に吹かれている場合じゃないな!覚悟を決めて表舞台に繰り出そう!何の因果かこうして自由貿易協定などという馬鹿げた話が出て来たんだし…よーし、こうなったら手始めにこの協定からぶっ潰してやる!』って、思っちゃったんだよ」
「…」
急に目の前で義一が豹変(?)して見せて、このように言ったので、ほんの暫くは呆気にとられてただ見ていたのみだったが、フッと思わず笑みを零しながら言った。
「…ふふ、なるほどねぇー。あ、いや、そもそも何で表舞台に出ようと思ったのかを聞いたのに、急にそのー…尊皇攘夷だとか、会沢正志斎だとかの話をし出したから、凄く面白くて聞き惚れつつも、どこか『どこに話が行くんだろう?』って思ってたんだけど、でもそっか…ふふ、その新論を読み返しちゃったもんだから、ついつい勢いで腰を上げちゃったのね?」
と言い終えた後に、思いっきり意地悪な笑みを浮かべて見せると、「あははは」と途端に神谷さんがにこやかに笑う中、義一一人が照れ臭げに頭を掻きつつ答えた。
「んー…ふふ、まぁそういう事なんだよ。当時の幕末の志士達みたいにね、もう百五十年以上前の本だけれど…すっかり煽られちゃってさ?…ふふ、こんな本、読み返さなきゃ良かったよー」
そう言うと、義一はふと書斎机の方に顔を向けた。
そしてまた顔を戻すと、今度はまた静かな笑みに戻しつつ口を開いた。
「まぁそれでね、正志斎の本を読み返すに当たってさ、それからその流れでというか…正志斎って滅茶苦茶に凄いけど、実は他にも日本の思想界には凄い人がいるんじゃないか、過去に読んだはずの思想家達…今読み返せば、正志斎の件のようにまた新たな発見があるんじゃないかって思ってね?それでー…それらを纏めてみようと思ったんだ。…って、あのー…お二方?」
とここに来て、義一は私と神谷さんの方に視線を交互に流すと、いかにも申し訳無さげに聞いてきた。
「また少し脱線しつつ、そのー…また話してしまうと思うんですが、良いですかね?」
「え?」
と声を漏らしつつ私と神谷さんは一度顔を見合わせたが、次の瞬間には示し合わせたわけでもないのに、ほぼ同時にニコッと微笑み合い、そしてまず神谷さんが口を開いた。
「あはは、私は当然構わないよ?そもそも今日は、こんな話を聞くために来たようなものだからね」
…?
当然今の神谷さんの言い回しには引っかかる部分があったが、それでも取り敢えず保留することにして、
「…うん、私も構わないよ。とても面白いし、考えてみればー…ここ最近は私がコンクールがあったりとかで、何だかんだ、ここまで時間をかけて深い話を、議論をしあうような機会が減ってたから、私としては願ったり叶ったりだよ」
言い終えた後で、満面の笑みをトッピングすると、義一は一瞬ますます照れ笑いを浮かべた後で、すぐにまた静かな笑みに戻し、それからゆっくりと口を開いた。
「いやぁ、お気遣いどうも…。ふふ、では…まずね、この正志斎の新論を読んだ後で、この正志斎を研究してる本などを、これは今初めて読み始めたんだけれどね、そこに所謂思想の流れが書かれていたんだけれど、それらの研究書を読むと、どうやら伊藤仁斎って人までまず単純に遡れるって事だったんだ。で、その流れで次に荻生徂徠に繋がっていく…まぁ、そんな流れの先に正志斎が来るようなんだね。…ちょっと脱線するけど、この仁斎、徂徠、この二人も、僕がまだ子供だった頃に読んではいたんだけれどねぇー…?ってまぁ、どうでも良いけど…コホン、でね、この二人の流れを一般的に、古い学と書いて”古学”っていう、日本独自の儒学の伝統があるんだ。…あ、まだ琴音ちゃん、君には既に儒学者の本は貸してたっけ?」
「…え?えぇっと…」
ちょうど”古学”とメモしていた所で声を掛けられたので、すぐには答えられなかったが、顔を上げてふと視線を斜め上に流し思い返した。
「んー…四書五経っていうの?孔子の論語なり大学、中庸、それに孟子、それらの四書と…一応易経、書経、詩経、礼記、春秋…だよね?その五経はー…読んだり、後、当然すぐには読んでも理解が出来ない点があったから、それらは義一さん、あなたに解説してもらったりして、後は…老子だとか、荘子、荀子だとか…うん、その流れで今度は王陽明を貸して貰う約束…だったと…思う…けど?」
と、最後の方が急に途切れ途切れになってしまったのは、途中からふと視界に、好奇心を満々に顔中に満たして笑顔を見せていた神谷さんが入っていたからだった。目元のみは驚きから来るような様子を見せていたのだが、それ以外は綻んで見えた。
私は少し身を小さくしながら言い終えると、義一はそんな表情を浮かべる神谷さんをチラッと見て、何やら二人でアイコンタクトをしたかと思うと、義一はまた私に顔を戻して続けた。
「あぁ、そうだったねぇー。うん、王陽明は近々貸すとして…そっか、結構儒教家の本も気付かないうちに読んでたんだねぇ…あ、いや、今は取り敢えずそれは置いといて、でまぁ話を戻すと、確かに新論を読んでいると、『仁斎先生曰く』だとか、『徂徠先生曰く』だとか出てくるんだ。まぁ、こんな点からも、正志斎が大きな流れで見て、この二人から影響を多大に受けているのは分かる訳だね。でまぁ仁斎と徂徠の本も読み返すと、これまた凄いことばかりが書いてあって、流石にこの二人のことまで触れると、あまりにも時間がかかり過ぎるから端折るけれど、さっきも言ったけれど、正志斎と同様に、この二人のことも纏めておこうと思ったんだ。でね、ここで前々から気になっていた…福沢諭吉」
「あ、一万円札」
「ふふ、そうそう。その福沢諭吉の事もね、前々から…うん、時間があれば、今回のことが無くても一度読み返したいなって思っていた所だったんだ。…ここにいらっしゃる、神谷先生も、『福沢諭吉論』っていう、これまた類例のない、下手したら福沢諭吉本人の著作以上に難しい諭吉論を書かれていて、それを昔に読んでから、その興味が尽きることが無かったんだけれど…」
「ちょ、ちょっと義一くん…?」
とここですかさず神谷さんが口を挟んだ。如何にもな照れ顔だ。
「あまり年寄りを揶揄うもんじゃないよー?」
「ふふ、先程のお返しです。…ね?」
と義一がニヤケつつ同意を求めてきたので、私は一度チラッと何気無く神谷さんの方を見たが、すぐに悪乗りする形でニヤケつつただ「うん」と応じた。
「やれやれ…」と神谷さんが一層照れ笑いを強めて頭をさすってるのを見て、私と義一は顔を見合わせて笑うのだった。
「さてと、ここででも、なんでこの尊王攘夷、そして古学、この流れで何で福沢諭吉が出てくるのかについて、ちょっとまた説明させて貰うね?…コホン、これも世間的な見方だけれど、諭吉っていうのは啓蒙主義的で、彼自身が水戸出身の尊王攘夷論者に命を狙われたりして、開国開明、文明開化が云々カンヌンと、それ関連で触れられることが多いんだけれどね?まぁ実際そんな尊王攘夷って言って、無謀な事をする奴はダメだと言ってはいるんだけれど…先生の前で諭吉論を話すのは恐縮だけれど、まず自分で幼い頃に読んで、それから先生の諭吉論を読んで勉強していたら、何だか世間で言われているイメージと結構な割合でズレてるんじゃないかって密かにずっと思っていてね?その論点から今回読み返してみたら…諭吉は尊王攘夷論者だというのがハッキリと分かったんだ」
「…え?今までの話からは、そう思えないけれど…?」
「ふふ、だよね?僕も意外だったんだけれど、注意深く読んでみたら、どうもその様なんだ。まず尊皇に関しては明確でね、”尊王論”とか”帝室論”なんかを記してる時点で、これは疑いようも無い。でね、『皇統が連綿と繋がってきていて、皇統があるからこそ日本国民が一つに統合されているんだ、そういう良いところがあるんだ』みたいな、そんな事も書かれているんだけれども、その本の初めの方でね、『そういう理屈もあるけど、とにかく私は、皇統が神聖なものだと信じている。そこには理屈なんか無いんだ』とね」
「へぇ…」
「『そうに決まってる。決まってるんだけれども、今の世の中…』これって当時の話だから、その当時ですらね?『今の世の中では、そう言っても分からない奴が増えてきて多いから、こうして理屈を付けて書きました』みたいな事が書いてあるんだよ。…で、次は攘夷だけれど…」
「うん」
「これも明らかなんだ。これは先生も著作の中で指摘されてるけれど、そもそも福沢諭吉が自分に課した使命は、日本国を独立させるって事に尽きるんだ。西洋の列強が迫ってきている中で、どう独立を確保するかというのが大事であると。あの”学問のすゝめ”の中の有名な一節、『一身独立して一国独立す 』というのがあるけど、つまりは一国が独立するためには、国民一人一人が自立して考えて、国の為にはどう自分が行動しなければいけないか、それを説く為に学問を勧めている部分もあるんだ。…でもね、特に戦後の知識人たちは、この諭吉の言葉を個人主義、つまり一人一人が自分で誰にも頼らずに、甘えずに個人で生きなければならないみたいな、何だか見事と言いたくなるほどに上辺しか見てない解釈をして、それを世間に広めたんだけれど…琴音ちゃんは今の話を聞いてどう思うかな?」
「…え?んー…」
また急に話を振られたが、今回は何だか振られそうな気がしていたので、あらかじめ準備をしていたお陰か、スンナリと返した。
「…うん、私はまだ東洋系で言えば、まだ孔子だとかその辺りしか読んでなくて、今福沢諭吉に関しては、義一さんの言葉から判断するしか無いんだけれど、でも、今話を聞く限りでは、個人主義では全然無いなって思うよ。だって…あくまで諭吉は国が独立する為に、国民一人一人が勉強したりして”自立”そして”自律”しようって訴えかけてるんだから、目指してる目標が個人ではなく国家の時点で、個人主義とは相容れないよね」
「うんうん」
と神谷さんが目を瞑って何度か頷いてくれたのを見て、私はホッと胸をなでおろす気分だった。
義一も同意の意味の笑みを一度浮かべると、先を続けた。
「そう、さすが琴音ちゃん、今の話だけでズバッと言ってくれたよ。…ふふ、でね、その流れでしっかりと書いてあるんだけれど、もし日本の独立を脅かす様な無礼な国は…攘うべしと書かれていて、それって…攘夷だよね?」
「うん、まさしく」
「ふふ…っと、まぁ随分長く調子に乗って話しちゃったけれど、まぁさっき言った自由貿易協定に対しての本と、それとまぁ、さっき保守がどうのって言ったけれど、僕個人としては、少なくとも日本における保守思想家だと思う人々の中のうちの、今の時代の様な”開国騒ぎ”に対して対抗というか…まぁ対抗は出来ないにしても、せめて冷水を浴びせかける程度のことはしたいなって事で、仁斎、徂徠、そして正志斎と諭吉と、この四人の事についての本を書いてるんだよ」
と途中からまた視線を机の方に向けつつ言った。
「なるほどねぇ…」
と私も思わず机の上の書籍群に視線を向けたがその時、
ガラガラガラガラ…
とここで不意に玄関の引き戸が開けられる音がした。そしてしばらくすると、ペタペタと廊下を歩く足音がしたかと思うと、ガチャっと宝箱のドアが開けられた。
そこに立っていたのは、なんと言えば良いのか…こう言ってはなんだが、どこにでもいるタイプの、アラフォー女性が立っていた。中肉中背の典型的な日本女性で、真っ黒のダウンコートを羽織っていた。
誰だろうとついつい顔を不躾に眺めていたのだが、どこかで見たことのある様な感想を覚え始めたその時
「…お、房子、来たか」
と神谷さんが柔和な笑みを浮かべて声をかけた。
「…?」
と私は思わず神谷さんに視線を向けたが、その時ふと義一に声をかけられた。
「ふふ、この方はね…神谷先生のお嬢様だよ」
「え?」
「あはは、お嬢様ってほどのものでは無いよ」
とすかさず神谷さんが笑顔で突っ込んでいたが、それには取り合わずに、
「…あら、初めまして」
と房子と呼ばれた女性は、モモあたりに両手を添える様に置くと、上体を深々と下げて挨拶をした。
「私、ここにいる神谷の娘の房子です」
「あ、初めまして…」
と私も、その彼女の佇まいに合わせる様にその場で立ち上がると、同じ様に深々と頭を下げて挨拶を返した。
「私は望月琴音って言います。えぇっと…ここにいる義一さんの姪っ子に当たります」
「あら…あなたがなのね?」
と房子は急に目を大きく見開いたかと思うと、ジロッと一通り私に姿を見た後で、ニコッと何処かの誰か…その誰かの正体は今明かされた訳だが、神谷さんに似た人好きのする笑みを浮かべつつ言った。
「ふふ、よく父や義一さんから、琴音さん、あなたのお話は伺っています。それはもう…大層なモノだと。…ふふ、聞いていた通り、聡明そうなお嬢さんだこと」
「え、あ、いや…」
とまた新たな登場人物の口から急に褒め言葉を頂いたので、不意を突かれた私はまたたじたじとなっていたが、その様子を微笑ましげに見ていた房子は、ふと手首の小ぢんまりとした時計に目を落とすと、「お父さん?」と声をかけた。
「約束通り、もう四時だから、そろそろお暇をしましょう?」
「え?あぁ…もうそんな時間か。よっこらしょっと…」
と神谷さんは少し困難な様子で椅子から立ち上がると、その場で軽く伸びをした。そしてまずチラッと書斎机の方に目を向けてから義一に話しかけた。
「じゃあ義一くん、今日も長いことお邪魔したね?」
「いえいえ先生…ふふ、何をおっしゃいますか」
「あはは。まぁ最近は毎度の別れる挨拶がわりのセリフになってしまったが、義一くん、まぁそのー…大変だと思うけど、まぁ”適当”にバランス良くやっておくれね?」
「…ふふ、はい。”適当”に頑張ります」
それからは皆して玄関の外に出た。外は四時というのもあってか、夕暮れが深まっていて、時折吹く風がとても寒くはあったのだが、普段よりも強めに暖房が入っていたせいか火照っていた体からすると、しばらくは体感的には心地良いものだった。
「じゃあ房子、行こうか」
「はい」
と房子は一度私たちにまた会釈をすると、先に門扉のすぐ脇の垣根にギリギリに寄せていた軽自動車に乗り込もうとしたその時、
「あ、房子、ちょっと待ってくれ」
と神谷さんが呼び止めた。
「なーに?お父さん?」
「あぁ、ちょっと待ってくれ…琴音ちゃん?」
「はい?」
と私が返すと、神谷さんは房子の方に視線を流しつつ言った。
「いや、その、すまないがね、房子にそのー…君の連絡先を教えてあげてくれないかな?」
「え?」
何のことだろうと私が呆気にとられている中、側に房子が寄るのを確認しつつ神谷さんはそのまま続けた。
「うん。いつもそのー…君と何か連絡を取りたい、話したいとふと思った時にね、今は義一くん経由でしか出来ないじゃないか?でね、何だかふとこないだ…ふふ、うん、君が全国大会で準優勝をしたと知った時にも、本当は直接お祝いを言いたかったのに、それも義一くんに伝えてもらうって事になってしまったからね?だから…どうかな?」
何だか議論の時などには立て板に水といった調子で、次から次へと言葉を矢継ぎ早に繰り出しているイメージとは裏腹に、辿々しく、明らかに私に気を遣って話してくれてる、その様子がヒシヒシと伝わってきた私は、思わずニコッと笑みを零しながら、しかし自分なりに慎み深げに
「…はい、私のなんかで良ければ是非」
と答えた。
すると神谷さんと房子は顔を一度見合わせると、二人同時にニコッと笑い、そして房子がおもむろにスマホを取り出したので、私も慌てて同様に出した。
「…よしっと。終わったよ、お父さん」
「うん。…琴音ちゃん?」
と神谷さんはふと房子にまた視線だけ流しつつ、しかしイタズラっぽい笑みを浮かべながら言った。
「これからは義一くんとかだけではなく、私にも遠慮なく、些細な事でもいいから連絡をしてきておくれね?いや、無理にとは言わないけれど、それでもいつでも取り敢えず、房子が受けてくれるからさ」
「遠慮しないでね?」
と房子がダメ押しとばかりにニコッと笑いながら付け加えたので「はい」と短く、しかしハッキリと笑顔で返した。
房子がまず初めに挨拶を改めて述べてから車に乗り込んだのを見た神谷さんも、また一度挨拶を掛けてきた。
「じゃあまたね。…琴音ちゃんも」
「は、はい」
と私はその場でペコっと軽く頭を下げると、神谷さんは明るく微笑んで見せて、
「また数寄屋か、それともなきゃ宝箱でまたお喋りをしよう」
と言いながら、私からの返答を聞くことなく車に乗り込んだ。
「はい」
と聞こえてるかどうかはともかく、取り敢えず返事だけ漏らし、それから車内から手を振ってくれる神谷さんを乗せた、房子の運転する車が見えなくなるまで見送った。
「…さてと、寒いし、もう中に入ろうか?」
と義一が言うので、「うん」と私が微笑み返しつつ言うと、二人揃って家の中に戻っていった。
「…でもそっか、だからかぁー」
と私は、義一が新たに淹れ直してくれた紅茶を一口啜り、一つ大きく息を吐いてから呟いた。
「ん?何がだい?」
と義一も私と同じ様に紅茶を啜っていたが、柔らかな笑みを浮かべつつ返した。
「うん。そのー…ね?何だかんだ私たち二人が顔を合わせるのって、一ヶ月ぶりくらいでしょ?今日久々に顔を見たら、そのー…義一さんがくたびれて見えたからさ?…ふふ、また何をしているのかなって今日来た当初はそう思ったの。髪もぴょんぴょん跳ねてるし」
「え?…」
と義一は自分の頭を手で触れるかどうかの位置で撫でる様にすると、「あははは!」と明るい笑い声を上げた。
「確かにねー。今日は折角君が来てくれるってんで、最近はずっとヘアバンドで誤魔化してたんだけれど、これでもね、一応纏めたつもりだったんだ。…ふふ、自分で言うのも何だけれど、こんな所に疲れが出てるのかも知れないね」
「ふふ。…でもその様子からも分かるけど」
と私はふと机の方に視線を向けつつ言った。
「やっぱり大変なんだね?」
「え?あ、うん…まぁ、大変は大変だけれど…」
と義一も同じ様に机の方を向きつつ言った。
「まぁやり甲斐はあるよ。うん。…実はね、さっきは言いそびれたんだけれど」
と義一はおもむろに立ち上がると、書斎机の方に向かい、その上から何か一冊の本を持ってきた。
そしてそれを私に、何だか若干の恥じらいをもって手渡してきた。私は何も思わないままに受け取り見た。
それはいわゆる新書本で、表紙も味気なくほぼ単色で占められており、そこにただ書名が載っているのみだった。そこには『自由貿易の罠 黒い協定』と横書きで書かれていた。その字の下に小さく『望月義一』とあった。
「義一さん、これって…」
と私がふと顔を上げて聞くと、ちょうど席に座る所だった義一は照れ臭そうに笑いながらも答えた。
「うん…ふふ、そう、それがさっきから話をしていた、僕の処女作…って事になるのかな?」
「へぇ…って、もうこれって完成品…だよね?」
と渡された本をくるくると回して表紙と裏表紙を眺めながら聞いた。
「まぁ…そうだね。それはいわゆる”見本”ってやつでさ?その本の題名はね、本来は出版社が決めるんだけれども、僕の意見を多分に入れて貰ったんだ。そうだなぁ…今年入ってすぐくらいに、浜岡さん含む他の担当の人と共に間違いが無いか最終チェックをしてね、新年すぐで慌ただしいというのに校了したんだ。それでたまたま今日にね、こうして見本が出来上がっていうんで、浜岡さんがわざわざ持ってきてくれたんだよ」
「ふーん…って」
と私は一度その本をテーブルに置くと、軽く意地悪げな笑みを浮かべつつ聞いた。
「もうそれって…あと少ししたら実際に書店に売られる段階まで来てるって事だよね?」
「え?あ、うん、そうだよ。確かー…来週か再来週、遅くとも今月中には本屋に出回るんじゃないかな?」
「ふーん…っていうかさ、私はそんな出版業界の事なんか何も分からないけれど、そんな簡単にすぐには出版までは行き着かない…でしょ?ってことは…義一さん、あなた、私に内緒で、実はあーだこーだ言いながらも、着々と準備を続けてたんじゃないの?」
「…」
そう聞かれた義一は、一瞬真顔になったが、その次の瞬間にはニターっと笑ったかと思うと、今度は若干苦笑まじりに返した。
「ふふ…あ、いやいやー、そんな事はないよー?確かに色々と資料を集めていたのは事実だけれど、それはほら、オーソドックスのための事であって、別に自分で本を書こうってためじゃないんだ。うん。…まぁ実はね、僕自身も今回が初めてというだけあって、出版の事なんか右も左も分からなかったんだけれども…うん、確かに今君が言った通りね、こんなに急ピッチで出版まで漕ぎつくっていうのは余り過去に例が無いことらしいんだ。でもね、まぁ見ての通り新書というのもあるし、表紙もだからシンプルでしょ?だからその分携わる人間が少なくて済んだ…まぁこれは浜岡さんの言葉だけれど、本当に僕は去年の十一月の…うん、早くて中旬あたりに一気に書ききって、それで校正を何度か繰り返して、それでこうして完成となったんだよ」
と義一はおもむろに見本本を手に持ちつつ言った。
「まぁこれは自分で言うのも何だけれど、どうも浜岡さんや担当さんが言うのにはね、どうも今回の自由貿易協定の反対論を書く人がなかなかいなくて、出る本のほぼ全てが揃って賛成意見ばかりだから、僕みたいな異論を出したいって考えもあったらしく、そんな諸々の思惑が上手いことタイミング的に重なって、それで急ピッチに色々と工面してくれたって話なんだ。だからまぁ…この二ヶ月くらいは黙ってた分隠してたって事にはなるから、それについては謝るけれど…それ以外は僕は無実を主張するよ。だからー…信じてよ琴音ちゃん?」
「…ふふ」
義一の最後に見せた表情が、あまりにわざとらしく芝居掛かった哀願の表情と声音だったので、思うわず吹き出し笑いしてから、その流れのままの笑顔で返した。
「…分かったよ。信じてあげる」
「あはは、ありがとう琴音ちゃん」
と義一が言いながら本をテーブルに戻したので、また私はそれを手に取り、パラパラとページをめくってみた。
新書なだけあって文量は少なめだった。ページで言うと、全部で二四〇ページ程だった。軽く見た感じでは、所々に表や出典なども沢山書かれていて、ページ数の割には読み応えがありそうな感が窺えた。
「まぁ処女作というのもあるし、正直恥ずかしさがマックスなんだけれど…」
と義一はジッと何度もペラペラとページを捲る私の様子を照れ半分入った苦笑いで見ていたが、カップを手にしつつ言った。
「もし琴音ちゃんが読んでくれるというのなら…そんな見本段階のではなく、キチンとした本をあげたいと思っているよ」
「…あ、本当?」
と私はようやくここで本から目を離して、思わず声を上擦らせながら返した。
「うん、本当だよ」
と私にリアクションに戸惑いつつも笑みを絶やさぬまま義一が返してくれたので、私の方ではますますテンションを上げて言った。
「やったー!ありがとう義一さん!期待して待ってるね」
「え?…ふふ、うん、今の君の期待分には何とか添えるだろうくらいには自信があるから、まぁ…乞うご期待ってトコかな?」
それから二人で暫く明るく笑い合った後で、今は先ほどずっと話していた思想の本、こちらは新書ではなくもう少し、義一の言葉を借りればキチンとした本になると言うので、少し発売がズレるとの事だったが、それでも来月中には発売の目処が立っているらしい。
繰り返すようだが、出版社のみに限らず、いわゆる執筆業の人らがどんなペースで本を出しているのか分からないが、そんな素人の私から見ても、途轍もないペースだというのだけは分かった。
そんな感想をそのまま述べると、義一はまた例の如く、何だか恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべるのみだった。
と、ここでチラッと時計を見ると、まだ四時半になったところで、まだ若干の時間があると気づき、そして今回のような思わぬ機会に恵まれたというのもあって、それと同時にあることを思い出したので、それをそのまま義一に聞いてみることにした。
「…そういえばさ、義一さん」
「ん?なんだい?」
そう返された私は、閉められた宝箱のドアにふと何気なく顔を一度向けてから言った。
「そのー…これを聞くのは何だか気が引けるんだけれど…聞きたいのはね、そのー…神谷先生の事なの」
「あ…」
と私の言葉を聞いた瞬間、すぐに察したらしく、義一はフッと困惑が少し混じったような、そんな微笑を浮かべつつ漏らした。
「うん…」
「そのー…さ、ほら、私、先生と直接会ったのって、あの落語の師匠が数寄屋に来た時以来でしょ?何だかんだで今日で半年ぶりくらいだった訳だけれど…それから見るとさ、何だか見るからに、そのー…先生の様子が、なんて言えば良いのかな…とても力無いげに見えた…の」
「うん…」
と義一は相変わらずの微笑だったが、それでもどこか寂しげだった。
「いや、その…ね、ついでにと言っては何だけれど、そのー…そもそもね、最後に数寄屋で会った時でも、そんな印象は持っていたの。その時はあの店内が雰囲気良く薄明かりの下だったから、それでそんな風に見えてただけかなって思ったりもしたんだけれど、やっぱりあの時から既に少しそのー…気持ち弱々しげに見えてた…んだけれど…」
『どうして?』とまでは流石の私も言えずに、結局最後はこんな中途半端な物言いになってしまった。
義一は最後の私の言葉を聞いた時にだけ、ふと一瞬目を大きく見開いて見せたが、次の瞬間にはそれ以前よりももっと柔和な微笑を顔に湛えつつ最後まで静かに黙って聞いていた。
そして聞き終えると、一度紅茶を一口啜り、それからは感心した風な表情を浮かべつつ静かに口を開いた。
「…ふふ、琴音ちゃん、君はあの時からそんな感想を持っていたんだねぇ…。いやはや、本当に良く君は”人間(ひと)”というものを見ている…感心するよ」
「で…?」
と私はいつものような不用意な賛辞はいらないと口調のみで主張すると、義一は今度はまた柔和な微笑を浮かべつつ話した。
「うん…そうだなぁ、せっかく今君が前回の時の事に触れたから、そこから始めるとしようか。別に今この場に先生がいないからって、僕がその理由を話しても、何も悪くは思われないのも知ってるからね。…コホン、まぁまずあの数寄屋の時点での事だね?あれはね…まぁ先生は恥ずかしがって認めたがらないけれど、そのー…実はね、あの数日前にね、先生のそのー…奥方、奥さんがね、…亡くなられたばかりの時だったんだ」
「え…」
と私が神妙な調子で声を漏らすと、義一は力無げに一度笑みをこぼしてから続けた。
「先生の奥さんはね、ここ十年以上も心臓の方に病を患ってらしてね、それでその十年前の時点で余命が一年もないみたいな事を宣告されていたんだ。それで先生ご夫妻はね、そんな余命が幾ばくもないのなら、何もつまらない病院にいる事もないだろうと、そのすぐ後で退院して自宅療法を受けていたんだ。それまでは所謂西洋式の医療を受けていたんだけれど、それからは、たまたま知り合いに紹介してもらった漢方医にね、つまり東洋医学を受けていたんだ。そしたら、今言った通り、余命が一年どころか、十年も延命が出来た…これは先生の弁だけれど、それだけで奥方本人と共に、儲けものをしたような、そんな心持ちでいたから、別にこうしてとうとう亡くなるという結果になったとしても、何も悔いは無いとおっしゃってたんだ」
「そんな事があったんだ…」
「うん…ふふ、だからね、そうは言ってもずっと先生は献身的に奥方の介護に情熱を持ってなされていて、本当に…他人が聞いたら、僕が先生を尊敬してるって色眼鏡があるから信用されるかどうか分からないけれど、それでもやっぱり客観的に見て、お互いに信頼、信用、尊敬しあっていた、理想的な夫婦でいらっしゃったんだって思うんだ」
「うん…そんな感じだね」
神谷さんの奥さんは当然見たことはなかったが、それでも普段の神谷さんの様子を見るに、あの例のネット番組にゲスト出演をする際に、何かにつけて照れ笑いを浮かべつつも、ハニカミながら自分の妻のことを話している姿を見ていたので、素直に今の義一の言葉に納得がいったのだった。
「ふふ、だからね、先生以外の僕らの仲間内でもね、先生はそう否定なさってたけれど、あの時はそのショックがまだ大きかった時期で、それで心なしか元気が無いんじゃないかって、話し合っていたんだよ。…それでね」
とここで、神谷さん夫婦の話をしていた時には明るい笑顔でいたのに、ここにきてまた一段と表情を物憂げにしつつ、声のトーンも落とし気味に言った。
「…実はね、先生の奥方も心臓病だったんだけれど…先生ご自身もね、実は一度癌で入院されてたんだ」
「え…癌…?」
義一があまりに何気なく言うものだから、受け手の私としても何だか直ぐには実感が湧かなかった。それよりも頭を過ぎったのは、やはり落語の師匠の事だった。
「うん…。まぁ師匠と違って”あの頃”の時点では初期段階だったから、胃癌だったんだけれど、内視鏡で済んだんだ。 …ただね、去年の今頃にね、何だか身体に違和感を覚えたというので、先ほど来ていた房子さんを連れ立って病院に行ったら…癌が身体中に転移しているのが分かったようなんだ」
「…え」
「うん…。まぁ最初の癌治療の時に、どうやら見過ごしがあったらしくてね、それでその癌から人知れず、本人も知らない間に徐々に転移をしていったらしくて、もう今の時点ではそのー…手遅れって事らしいんだ」
「…」
もう私は声を漏らす事すら出来なかった。おそらく話している義一も、いや、私以上に辛いはずなのだが、それでも普段の調子を崩すことなく話を続けた。
「まぁ一般論として、見落としがあっただなんて聞いたら、その前の病院なり医師なりに文句を言ったり慰謝料を要求したりするものかも知れないけれど、そこはやはりというか…先生なんだなぁ」
と義一はここでふと視線を斜め上に泳がせて、何か懐かしむようにしながら続けた。
「やはりね、あの”師匠”と親友のように付き合ってきた人だから、そんな自分の死さえも何というか…笑い飛ばしちゃうんだね。…僕に初めて告白してくれた時にはね、こうおっしゃってくれたよ。『別にまぁ私は、普段から言ってるように、何も今の時代の技術が絶対に間違いを犯さずだなんて愚かな事は思ってこなかったし、こんな事もあるだろうって感想しか持たないよ。それに…これは師匠がよく言ってた事だけれど、勿論末期癌で苦しみながら死んでいく人もいるんだろうから一概には言えない…でも、ポックリ逝きたいって人が多いだろうけど、…癌というのは、未練を整理する時間が設けられているんじゃないか?もしも神というのがいるとしたら…ってのをね」
「あぁ…なるほど…」
私はここでふと亡くなった”師匠”のことを思い出し、ふと思わず目頭が熱くなる気配を覚えた。
「だからさ、僕はこれをキチンと運命と受け止めて、まぁ…それでも痛いのは嫌だから、鎮痛のための治療だけ受け続けて、余命を生きようと思ってるよ』とおっしゃってたんだ。…僕としては、そうは言っても何が何でも先生には長生きをして、この国の行く末を見届けて…いや、今の僕の感情としては、漸く臆病を押し殺して立ち上がろうとしている僕の事を、叱咤激励も含めて見ていて欲しい…んだけれどね。まぁ…仕方ない…んだよ」
先程からずっと私から顔を背けて、途中から相変わらず静止画のままのテレビ画面の方に視線を飛ばしながら話していたのだが、そう言い終えた義一の横顔は、今まで見てきた中でも一番に哀愁が漂っていた。生意気ながらその義一の心情が手に取るように分かる…いや、伝わってくるようで、私は何も返さずに、義一と同じ様に、ただテレビ画面を眺めるのだった。
第22話 曇天下
ボヤァ…
と、何とも表現が難しいが、まず気付いたのは視界がボヤけているという事だった。ただボヤけている中でも、色盲になった訳ではなかったので、辛うじて身の回りの景色が、基本灰色で占められているのは気づけた。そう…もうお気づきだろう。私もこの時点で、今がどこで、どういう状況下にいるのかすぐに察せた。
と、その前に、どうでもいいことを言えば、確かに私は実際に最近視力の低下を感じる事があった。こう言うのは恥ずかしいのだが、どうもこの歳になって、ついにというか、今までずっと本の虫で、おそらくこの時点で千冊を軽く超える書籍を読んできたツケが請求されようとしていた。そろそろ、私の身の回りでは紫以来の眼鏡キャラに片足を踏み入れようとしている事に、ほんの少しばかり覚悟をしている今日この頃だった。
…って、本当にどうでもいいことを話してしまった。話を戻そう。
そうは言ってもまだ眼鏡がいる程ではないはずなのに、視界はボヤけていたのだが、そう意識したからか分からないが、徐々に普段通りの視力に戻っていった。そして目の前に現れたのは…そう、そこら中が破れに破れて、元の金銀細工の部分もすっかり煤けてしまい、本来の姿を知ってるが上に余計に無残な姿を晒している、とても”ガッカリ”な祭壇画だった。…言うまでもなく、また私はあの夢を訪れた様だ。
一応礼拝堂のはずだが、相変わらず埃っぽい匂いは変わらずに辺りを立ち込めていた。前回の香炉から漏れ出ていた乳香の匂いはすっかり消え失せてしまっていた。
「はぁ…」
と、これもいつも通りというか、キチンと音が生きているのかを確認する上でも試しに声を出してみると、どうやら大丈夫のようだった。
とこの時に、ふと私は思わず辺りをキョロキョロと見渡した。
何故なら…そう、前回の夢の終わりで、この夢を見て初めてナニモノかに話しかけれられたから、すぐさま自分以外に誰かいないか確認したくなったのだ。何せ、例の謎の修道服を着込んだ集団以外に動くモノを見た事は無かったし、そのモノ達も、口(?)からおそらく発せられていたであろう言葉らしきものは、風の吹く、空気の流れる音としか私の耳では認識出来なかったのが、それが突然、私にも分かる言語で、しかも話しかけられたとあれば、その正体について興味を持つなという方が無理がある。
それに私は生粋の”なんでちゃん”だ。恐怖心よりも好奇心が圧倒的に頭を占めていた。
それ故に、他のあのモノ達にもしかしたら見つかる心配があるとも思ったのだが、それでも思い切って大声を出してみる事にした。
「すみませーん!誰かー?誰かいませんかー?」
いませんかー…いませんかー…いませんかー…
どこをどう反射したのか、私の声がヤマビコのように繰り返し聞こえてくるのみで、それに対する返答の言葉は無かった。
その反響音も収まると、また辺りを静寂が支配した。
私はフゥッと一度ため息をついたのだが、ここでふと、何だか”例の”気配がすぐ近くにいる様な感覚を覚えた。
その例のモノとは…覚えておられるだろうか?この夢を見始めた時に一度だけボソッと言ったのを。
それは…最近は現実の世界では、しこりの様に相変わらず胸の奥に存在感だけは示していたが、それでも息苦しくなるほどに主張を強めるには至っていない…そう、”どす黒く、形の捉えようが無く、それでいて普段から違和を覚えさせるほどの重量と存在感を表しているナニカ”が、この夢の中では随時ますますその力を強めていたと言ったのを。
慣れというのは恐ろしいもので、もうそれが”普通”になってしまった今となっては、苦しくなる様な事もここ暫く無いせいで、現実においては特に気にする事も少なくなっていた。
ただ…その時に同時に言ったと思うが、力が強まっているのはその通りなのだが、この夢の中だと、息苦しくなったり身体が重く感じる事は一切なく、むしろ軽やかに清々しく思えるほどであった。
…と同時に、それは現実世界ではずっと胸の中に留まっていたはずの”ナニカ”が、この夢の中では外に出ていることを意味していた。その証拠に、どうにも証明のしようはないが、繰り返しになるが、目には見えなくともずっと側にいる様な気配はずっとヒシヒシと感じていたのだった。
「はぁ…」
とまたわざと音を出しつつため息をつき、見窄らしい祭壇画を眺めていたのだが、ここでふと、祭壇画の後ろの方に、上り階段があるのが見えた。
前回の時にも言った通り、蝋燭台があるにはあるのだが、蝋燭そのものが刺さっていないせいで用を足していなく、辺りは相変わらず私の手元のカンテラの明かりと、小さな縦長の窓からの微光くらいしか光源が無いというのもあって、確かに分かり辛いといえば分かり辛い…のだが、それでも…
…ん?あんな所に…階段なんて…あった、かな?
と疑問に思わずには居れなかった。
…居れなかったのだが、それでもいつまでもこの”惨めな”空間に長居は無用だと、ようやく違う所に行けると思った私は、若干足取りも軽く、早速その階段を上り始めた。
相も変わらずに真っ暗なせいで、いくら試しにカンテラを高く掲げて見ても、階段の上部までは光が全く届かなかった。
やれやれ…。まぁ、あの礼拝堂に行くまでも、それ以前も当て所なく延々と歩いたり上ったりして来たのだから、今更アレコレ言うこともないか…
と、自分的には大人な感想を覚えつつ、夢だからか疲れを覚える事もなく変わらぬペースで上り続けていた。
とその時、ふと急に…と私は感じたのだが、目の前に木戸が現れた。まず私はカンテラを使って観察をした。
これはまた随分と年季の入ってそうな木戸だった。相変わらず私以外の配色は灰色の濃淡のみだったので、何とも判断が難しいが、長い月日の試練を掻い潜って来てそうなシロモノだった。取っ手は一応ついており、それは金属の輪っかの様な形状をしていた。それを木戸本体にぶつける事によって、インターフォンがわりになる様な、そんな物だった。
…とまぁ、これ以上に何か真新しい発見も無さそうだったのでいつまでもじっとしてても仕方ないと、私は思い切ってその金属の輪に手をかけて見た。
すると、予想に反して簡単にその取っ手は右回りして、しかも押し戸だったらしく、勢いのあまりにそのまま押して開け放ってしまった。
「うっ…」
と私は思わず呻き声に似た声をあげた。何故なら開けた瞬間に目の前がホワイトアウトしたからだ。今まで暗い中にいたせいもあるだろうが、どうやら明るい場所が目の前に広がっているらしい。
なかなか目が効く様になるまで時間が掛かったが、そんな中でも聴覚などの他の感覚は生きていたので、それに神経を研ぎ澄まさせた。
まずすぐに気付いたのは、猛烈な風だった。ビュービューと、鼓膜を叩いてくるかの様に感じられるほどに吹いていて、それらの風が私全身を絶えず打ち、そして過ぎ去って行くのを肌で感じていた。
ようやく目が慣れてくると、まぁその前から察していたことではあったが、それでも現実に目の前に広がると驚いた。
どうやら私は、外に出たらしい。
…こう改めて口にするのは馬鹿みたいだが、それでも実際にそう思ったのだから仕方ない。
こんな所でカッコ付けていても仕方ないだろう。
さて、まだ内側にいた私は、思い切って外に出て見た。そしてまず周りを見渡して、今まで自分がどこに居て、そしてどこに出たのかを瞬時に把握した。…把握したのと同時にまた改めて驚いた。
…説明するので少しお待ち頂きたい。まぁ…出来るかどうかは微妙だが、それでも頑張ってしてみよう。
まず見渡して目に入ってきたのは、空一面を覆う雲だった。曇天だ。今にも雨を降らせそうな気配を匂わせる程に濃い灰色で、雲の下がモコモコとしていたのだが、それでも…まぁ自分の夢ゆえか、実際には雨が降らない事を、この時の私は知っていたのだった。
外に出ても灰色一色、それに曇天…現実には私は結構曇り日が好きなのだが、この時ばかりは流石に気が滅入ってしまった。
…と、ふとこの時に、これだけの風が吹いているのに、自分の長い髪がそれほどには乱されない事実に、そのご都合的な事実に気づいて一人自嘲気味に笑っていたのだが、不意に手元のカンテラのことが心配になり、風から守る様に身体を盾にして眺めた。見てみると、ユラユラといつも以上に炎が揺れていたが、何となく、消える事は無いというのがすぐに分かった。安心した。
何しろ、当然ここに来るまでに何度も挫けそうになったり、ウンザリしてきたその時に、当然喋ったりは、そこは夢だというのに妙にリアルでしなかったが、それでも何度も励ましてくれてたので、今このカンテラを失うわけにはいかなかったのだった。
この時で言えば、唯一灰色以外の色彩を放っているのが、自分以外ではこのカンテラの炎だけだったので、これのお陰でまだ必要以上に気が滅入るのを防いでくれていた。
空の次に見たのは、点々とある塔の様なものだった。高いものから低いもの、太いものから細いものと、多種多様な塔が天に向かってまっすぐ立っていた。まだ目を凝らさなくては見えないほどの距離にそれらはあったが、それでもやはりというか、御多分に漏れずに、どの塔も所々にヒビが入っていたり、灰色だから本物かイミテーションか判断がつきかねたが、恐らく本物だろう、蔦と草が絡み付いて本体が見えない程の物もあった。時代を感じた。
私に今いる位置からは、その程度しか取り敢えず見えなかったが、それでも、そんな少ない手がかりのみでも、この時点でこの場所がどういった所なのか察していた。
それは置いといて、今度は視線を身近に戻した。そして辺りを見渡すと、すぐにまた自分のいる場所が知れた。
どうやら城壁部分の上部に設けられている回廊にいる様だ。
これに関しては別に彷徨かなくてもすぐに分かった。何故なら、のこぎり型狭間が延々とあったからだった。…こう言われても困る方もいるだろうが、要は、城壁って言われたら誰でもすぐに思い浮かべる、上部のあの凸凹の事だ。
この回廊は幅が五メートルほどで、片方は拓けているのだが、もう片方は目の前に岩壁が迫っていた。手で触れられる程だ。
…と、ここまで先延ばしにする必要は無かったかも知れない。
もう皆お分かりだろうが、そう、この場所は…典型的な中世のお城の様だ。少なくともその形式だった。
…いや、典型的とも言えないかも知れない。何故なら…すぐそこに岩壁が見えていた時点ですぐに分かったが、どうやらこのお城は、元からある岩山の形状を利用して建てられたものの様だ。
…確かに、その気配はずっと中で過ごしていてあった。
やけに外からの自然光が入ってこない作り、あの大広間は別だが、あの礼拝堂にしても、見窄らしいとはいえ小ぢんまり感が否めなかった。”ミニチュア”といった趣だった。それに…あの礼拝堂に関していえば、前回だか触れた様に、数え切れないほどにあった太い列柱群…あれは今思えば、この岩山に合わせて無理に作ったのを何とか補強しようとした苦肉の策の果てだったのだろう。努力の結果と言うわけだ。
…さて、外に出てから内側ばかり見ていたので、今度は外側、先程来の強風の吹いてくる方向、その拓けている方を見ようと、城壁のすぐそばまで向かい、それから凸凹の隙間から外を眺めた。
そして…眺めた途端に、今回一番に驚いた。
見渡すばかりの水が眼下に広がっていた。それと同時に、この時初めて、今いる所が意外に高いというのを知った。
…いや、そんな事よりも、空が曇天なせいか水面も暗かったが、時折白い波が起きているのが確認出来た。
少し靄が掛かっていて、キチンとは見えなかったが、それでも対岸らしきものも見えた。
それらの情報を、景色を眺めつつまとめた結果、最初の推測が少しズレているのに気づいた。
それは…今いるこのお城というのは、何も単純…いや単純でも無いのだが、岩山に沿って作られたものとばかり思っていたのだが、そうではなく、そもそもこのお城は、まだ海なのか湖なのかまではハッキリとしないが、そのどちらかの中の小島にあり、その小島全体を覆う様に、地形に合わせて建築されているという事実だった。
単なる岩山などではなく、島だったのだ。
「はぁ…」
とその事実を知った後でまた改めて眼下の水面を眺めつつため息を漏らしたが、これは例の礼拝堂にいた時とは全く違う類いのものだった。
感嘆のため息を漏らしつつ、灰色一色とはいえ景色に見とれていたので、それまで背後に突如として出現した気配に気付かなかった。
そして、ソレは不意に私の肩に手の様なもの(?)を置いたので、あまりにも想定外の出来事に私は振り返ることが出来ずに、そのままの体勢で固まってしまった。
どれほど経っただろうか、視線は眼下の水面に向けたままだったが、ずっと肩に置かれたままの、手の様な感触はずっと感じていた…と、その時、突然少し愉快げに、背後から聞き覚えのある声で話しかけられたのだった。
「…ふふ、良い景色よね?」
「…え?」
第23話 義一(序)
「いやぁ…」
と、感心なんだか呆れてなのか、側からは判断が難しい声を漏らして、目の前に座る絵里は手元の新書サイズの本を開いて、その中身に目を落としていた。
「あやつが本当に、こんな本を書いて、しかも出版するだなんてねぇ…」
「ふふ」
と向かいに座る私も、もう何度か読み返したせいで、すっかり開きグセのついた、これは自分で勝手に身に付いてしまったクセだが、重要な事が書かれている、もしくはそう判断したページの端を折っていたが為に、そこら中が”ドッグイヤー”だらけになってしまった、今絵里が手にしているのと同じ新書を同じ様に開いたまま、顔だけ上げて、その表情の絵里の様子を微笑ましく眺めた。
あれから二週間弱経った一月の最終土曜日。私は絵里のマンションに来ている。午前で授業が終わりなのだが、律たちが今日はそれぞれに用事があるとかで、学校を出るとそのまま別れたのだった。
この事は事前に知っていたので、あんな事がなくても、元から今日という日に遊びに来る予定を立てていた。約束もしていた。
当然この日に一緒に行こうと裕美を誘ったのだが、裕美にも断られた。…まぁそれでも、地元までは一緒に下校したのだが。
というのも、裕美は去年の五月の大会での雪辱を晴らすべくというので、今年は一ヶ月のうちの第二、第四の土日はクラブに入り浸って練習に励むつもりだと宣言を受けていた。私は勿論それほどまでに熱心に本腰を入れて特訓をしている、そんな裕美を励まし応援しようと思い、それなりに自分ではしているつもりなのだが、それとは別に最近になってある意味初めて知った事実があった。
それは…私という人間の本性の中に、『恋をしている人間を茶化したくなる』病というものだ。勿論この件についても、裕美を全面的に応援する気持ちではいた。…まぁ、何故かこの事を思い出すたびに、毎回不意に胸の奥のどこかがむず痒くなるというか、例の”ナニカ”とはまた違った違和感を覚えはしていたのだが…。
まぁそれは”ナニカ”から派生した迷いだろうと結論を出して、気にしない事にして、そんな裕美に対してついついからかいたくなる衝動に”ごく稀に”襲われるのだった。
話を戻すと、この場合で言えば、水泳の大会に向けて練習にのめり込む裕美に、「そうよねぇ…勿論都大会で毎回三位になるというのも凄いとは私は思うのだけれど。でもそろそろ…また一位になる所を見せたいよねぇー…ヒロに?」とニヤケ顔を抑えられないままに言ってしまうのだった。それに対して、大体裕美のパターンは決まっていて、まずアタフタと毎度毎度顔を赤くして狼狽えて見せて、でもその直後には、私のニヤケ顔が気に食わないと、ジト目で文句を返してくる、それで私が平謝りをする、それを見てため息交じりに苦笑で返す…と、ここまでが一連の流れだった。一応今の所は裕美も心広く寛大に私の軽口を許してくれている。
…が、そろそろ爆発しないとも限らないので、自重するべきだろう。
…って、こんなことを話すつもりじゃなかったのに、いつもの様にまた長々と余計なことを話してしまった。本筋に戻そう。
なので今日は私一人で絵里のマンションに遊びに来たという訳だ。
…ふふ、もう初めの方で気づかれた方もおられる事だろう。…絵里の手元に例の本がある事を。
そう、これは言うまでもなく、義一の処女作、『自由貿易の罠 黒い協定』だった。約束通り私は発売日の二、三日前に、義一のいる宝箱まで出向いて受け取っていたのだが、それでもやはり何だか気になって、本来の発売日、今週の木曜日の放課後に、よく立ち寄ってる数件の本屋を試しに一人で覗いてみた。
…また少し話がそれるが、その時の私は『どうせ何も世間に知られていない義一さんの本なんか、仮に置かれていたとしても隅の方だろうなぁ…』と、まぁ義一なら怒らないし嫌な気にもならないだろうが、一般的には凄く失礼な事を想像しながら行ってみた。…のだが、行ってみて正直驚いてしまった。
何故なら…本屋の正面玄関前、当然そこは一番目立つ、店内に入った人の目に真っ先に付く場所に、一応チョコンと置かれていたからだった。勿論その周りには、私は一度か二度くらい読んでもう読まなくなった、今流行りらしい作家たちの本が場所を大部分占めてはいたのだが、それでも、その中でも一応義一の処女作は、自分の場所を確保していた。そんな事で、しかも自分の事でもないのに異様に感動してしまった私は、テンションを一人変に上げていたせいか、今思い返すと中々に頭の悪い事をしたものだと苦笑もんだが、その平積みスペースに置かれた義一の本にピントを合わせて写メを撮ったのだった。そことは別の本屋にも行って、同じ様に平積みされてるのを見たら、それも当然の様に写メを撮った。
時系列が前後するが、これを後に義一に見せると、ただただ始終照れ笑いを浮かべるのみで、良いとも悪いとも返さなかった。…さて、話を戻そう。
発売日に本屋で見かけたという話は、その日のうちに、”数寄屋関係”の面々に知らせた。やはりというか当然というか、皆も義一に事前に貰っていたらしく、もうみんな読破してしまった様で、それぞれがそれなりの感想を返してくれたその中で…当然数寄屋、オーソドックスのメンバーではないが、この時に流れで絵里にも送っていたのだが、やはりというか想像通り、絵里一人だけが苦笑交じりの何とも言えない、あくまで抽象度の高めな返信をくれた。ケ・セラ・セラといった感じだ。ただそれでも、その文面があらかじめ知ってた風を滲ませてはいたので、「絵里さんも義一さんの本持ってる?持ってたら、もう読んだ?」といった内容を吹っかける意味も込めて試しに送ると、「その続きは土曜日にね?」と流されてしまった。それで今日となる。
家に寄らずにそのまま来たので、制服姿のままの私は、慣れた調子でいつも座っている小洒落たあのテーブルの近くに座ろうとしたその時に、その上に例の本が置かれているのを見つけた。本当はこの話をする前に雑談からとも考えていたのだが、これ見よがしに目のつきやすい所に置いてあるし、それに…もうすでに読み終えた様子が見て取れたので、ついつい自分の事のように嬉しくなってしまい、私や裕美が来た時にまずしてくれる、お茶の準備をして戻ってきた絵里に、もう抑えられなくなっていた私は今朝からカバンの中に忍ばせていた義一の本を取り出して、絵里のヤツの近くに自分のを置き、すぐさまこの話題を振った…とまぁ、そんな訳だった。それで一番最初に戻る。
「…絵里さん、やっぱり義一さんの本をもう手にしてたんだね?」
と私が意味深に笑みを浮かべつつそう聞くと、ちょうど紅茶を飲もうとしていた絵里は吹き出しそうにしてから、まずカップをテーブルに戻して、それから苦笑交じりに答えた。
「…ふふ、何よその”やっぱり”っていうのはぁ…?」
と言い返すと、視線だけ自分の”義一本”に向けつつ続けた。
「まぁ…手にしたっていうか…手にさせられたっていうか…」
「…ふふ」
と、今度は私が思わず吹き出してから
「なーに、その”手にさせられた”っていうのは?」
と聞くと、絵里は何だかバツが悪そうに苦笑い調の笑みを零しつつ、視線を正面の私から少し逸らし気味に返した。
「んー…その、ね?なんていうかー…まぁ事実だけ言うとね、今週の月曜日だったかなぁ?夕方頃、私が図書館から帰ってきたくらいの時にね、急に珍しくギーさんから電話が来たんだ。あまりにも珍しいからさ、何だろうと少し身構えてそれを取ったらさ…『今家にいる?』って聞いてきたのよ」
ここで絵里が義一のモノマネを始めたのは勿論だ。
「『え、えぇ…まぁ、今帰ってきた所だけれど?』って答えたらさ、『ちょっと渡したい物があるから…今から行っていい?』って聞かれてねぇ…」
と絵里は言うと、ふと壁に掛かっている時計に目を向けつつ続けた。…相変わらず絵里の話、特に義一関係の話の再現度の高さが光って、まるで目の当たりにするかの様な心持ちで”見聞き”していた。
「私は一瞬何事かと、約束した覚えも無かったから、その身に覚えの無い唐突な提案をされて一瞬戸惑っちゃった…。何せ、確かあの時は、夜の八時に差しかかろうとしていた頃だったしね?たまーに、いや、”本当に”たまーにここに来る事があったけど、それでも夜に来る事は無かったから少し迷ったけれど…でもまぁ、何だか引く気配も感じられなかったから、そのー…『…まぁ、良いけど』って返したんだ。したらね、電話でだったから直接は見えなかったけど、それでも声色から若干の喜びをみせてね、『じゃあ待っててね』って言って、それですぐに切っちゃったんだ」
私はここまで黙って絵里の様子を眺めていたのだが、何だか途中から微妙に照れを隠そうとするかの様にぶっきら棒に話すので、何だかその様子が微笑ましく、自分でも分かる程に口元を緩めつつ話を聞いていた。
「でまぁ…あまりに急だったんで、しばらく電話をジッと眺めてたんだけれど…ふと、はたと気づいてね、これは大変だとちょっと慌てちゃったんだ」
「…何で?」
と、ここがタイミングだろうと、私はニヤケ面を晒しつつ、口調もそれに合わせて聞いた。
すると絵里は当初は何を聞かれているのか分からない様子だったが、ふと突然まだアワアワし出したかと思うと、口調も慌て調のまま答えた。
「え?…え!あ、いやいやいやいや!違う、違う!そうじゃなくってー…ほ、ほら、私さ、帰ってきたばかりって言ったでしょ?もう部屋着に着替えてたんだけれど、それでも昼間に来ていた服を脱ぎ散らかしててさ?それをー…ほら、男であるギーさんに見られる訳にもいかないでしょ?だ、だからそのー…それで慌てちゃったの」
「ふーん…」
と私は一応の納得をした風に見せたが、意味深な笑みは忘れなかった。
「…絵里さんって、ギーさんをキチンと”男”として認識してるんだ?」
特に意味の無いところに我ながら噛み付いたと思ったが、どうも最近裕美からの”告白”があったせいか、それ以降なんだかんだで私の思考回路が”恋愛脳”になっていたらしい。…いや、世間で言うのとは少し違うかも知れないが、ついつい、裕美に対してと同じ様に、絵里に対しても何かしらの意地悪をしたくなってしまったのだった。案の定、こんな大した意味の無い揚げ足取りにも、見事に絵里は引っかかり、またアタフタとして見せていたが、ふと肩を大きく落とすと、力無げに「もう勘弁してぇ…」と、こちらに恨みがましげな視線を向けてきつつ言うので、「ふふ、ゴメンね絵里さん」と私は満面の笑みで謝った。
それを見た絵里は、苦笑交じりに「もーう…」と呟くと、テンションを整えてからまた続きを話した。
「…あ、でね、それで一応軽く整理をし終えたその時に、インターフォンが鳴らされてさ、見たらギーさんだったから、何も言わずにオートロックを開けたの。で、しばらくして今度は玄関のチャイムが鳴らされたから、これにも直接には出ずに、そのまま玄関を開けたの。そこにはギーさんが立っていたわ。…まぁ寒かったっていうのもあって、ロングダウンコートを羽織ってね。私は一度なんとなく何も言わずにギーさんの全身を眺めてから聞いたわ。『どうしたのギーさん、こんな時間に…?珍しいじゃない?』ってね。そしたらギーさんは『え?…あ、うん、確かにそうだね』だなんて、少し馬鹿真面目に記憶を辿って見せてから、ニコッと笑いつつ返したんだ。…これを見た瞬間にさ、あまりにいつもの調子と変わらないから、何だか…気が抜けちゃったよ」
と呆れつつ絵里は言っていたが、どこか嬉しげに見えたのは私の見間違いではないだろう。
「何事かと思ってたからさ、どんな大ごとが起きたのかって思ってたんだけど、この瞬間にそれほどの事じゃないって気づいて、今みたいにため息交じりに聞いたんだ。『もう…で?』『ん?』『いや、だから…今日は何の用事だったの?…独り暮らしの女性の元に、こんな夜分に来て』『…え?それって…』とここでね、またギーさんが余計な軽口を叩こうとしてたからさ、私は慌ててね…」
と絵里はここで、自分の両腕を交差させて、上腕をさする様にして見せながら続けた。
「『取り敢えずさ…ギーさん、寒いからそのドア閉めて、入って来てくれない?』って言うとね、『あ、うん』って今更私が部屋着のままなのに気づいて、それでハッとした面持ちのまま閉めたんだ。『上がってく?』と、なんか…今思えば大胆なことを言っちゃったんだけれど、何気なくそう聞いたらね?ギーさんの方は何の感想も持っていない感じで『あ、いや、今日はすぐに帰るよ』って答えたんだ。…まぁ、それに対して私は『あ…っそ』って返したんだけれど…」
「…ふふ」
絵里の最初の方のセリフに、この手の話には同年代の女子と比べても圧倒的に恋愛偏差値の低い私ですら、その…言っては何だが年相応ではない感想を聞いて、これまた何だか自分を棚に上げて可愛らしいなどという感想を覚えたのだが、極め付けに、最後の方で何だかウンザリなのか、それとも…むしろ残念がっていたのか、そんな風に直感的に思った直後に、我知らずに笑みが溢れてしまったのだった。
それを見た絵里は、何だか不思議そうな、納得の行かなそうな表情で少し笑みを浮かべて見せつつ、しかしそれに対しては何も突っ込まないままに話を続けた。
「?…あ、でね、そんなことを言って、なかなか話を始めないから、もう焦れったくなってね…『で?何の用?』ってつっけんどんに聞いたんだ。そしたらね、ギーさん…何やらダウンのポケットから一冊の本を取り出して、それをまずは何も言わずに私に手渡してきたんだ。それが…」
とここで絵里はおもむろに”自分の”本を手に取ってから続けた。
「この本だったの。『え…?』と私はあまりに予想外の事で呆気にとられつつ本を眺めたわ。…あ、いや、今までにもね、そのー…さっきというか、もう何度かあなたとの会話の中でも出してると思うけれど、ギーさんはここにもよく来てるんだけれど…うん、まぁ誤魔化さずに言うとさ、本の貸し借りや何やと、それで来る事はよくあったからさ、別に特段珍しいことでは無かったんだ…けれど、やっぱり遅い時間に来たのは初めてだったから、それで…うん、驚いちゃったの。『これって…あ!』とね、まずこれが何かを聞こうとしたその時にさ、表紙に見慣れた人の名前が出てたからね、思わず声を上げてからさ、『これって…ギーさん?同姓同名じゃ…無いよね?』って聞いたのね。そしたらギーさん、さっきまで呑気な笑みを浮かべてたのが、急に照れ臭そうに頭を掻いて見せつつさ、『うん…まぁね』って答えたんだ」
絵里はここで一度区切ると、紅茶をズズッと啜ってから溜息と共に続けた。
「とまぁ、そんな訳でね、後は色々と、何で本を書く事になったのか、あれやこれやと根掘り葉掘り聞こう…としたんだけれど、『よかったら、ちょっとそれ読んでみてよ。発売日はあさってくらいなんだけれど…今日の昼間に僕の手元に届いたからさ、他のみんな…さっきは琴音ちゃんにもあげたんだけれど、そのー…そんな中で、絵里にだけあげないというのもなんか違うと思ってさ?それにー…あらかじめね、人にあげる分は頼んでいたから、余っても何だと思ってさ…』ってね、何だか急に捉えどころの無い、まぁギーさんにありがちなセリフを吐き始めたからさ、『…?』って不思議に思ったんだけれど…」
とここで絵里は、何故か急に照れ笑いと微笑みを混ぜたような、そんな笑みを小さく浮かべたかと思うと、その表情のまま、少し口調も愉快げに続けた。
「まぁ…もう十五年以上の付き合いだからねぇー…ギーさんが何が言いたいのか分かっちゃってさ、私は一度クスって笑ってからね、やれやれ仕方ないなって思いつつ、それを態度に表しながらね『…うん、わざわざありがとう。…仕方ないなぁ、あの雑誌の次は、今度はギーさん自身の本か。…良いよ、読んであげる』ってね、最後にこんな笑顔を見せてあげたの」
と絵里が実際に見せてくれたのは、自分で自覚があるかどうか知らないが、とても可愛らしい、どこか子供っぽい気配の残る悪戯っぽい笑顔だった。
「…ふふ」
「『何だよそれー』ってギーさんも苦笑いで返してきたけれどね、まぁ後は…特にこれといった大した会話をしないで、それから数分後にはギーさんは帰ったの。…んー」
とここまで一人で長いこと話した疲れが出たのか、絵里は座ったまま大きく伸びをすると、それからまた私に話しかけてきた。
「でまぁ、ギーさんが帰った後は、その受け取った刷り上がったばかりの本はこのテーブルの上に取り敢えず置いといて、色々寝支度をしてから、それから改めてまぁ…折角だし、そこまで気を使うことも無いんだけれど、ギーさんにも悪いし、取り敢えずチラッと眺めてみたんだ」
絵里は、私が聞いてもないのに、流れ上でか、義一の本に関する感想を述べ始めた。…まぁ、そもそもそれも聞く予定だったから、こちらとしては何の不満もなく、結果オーライだった。
むしろ…そう自分から義一関連で話そうとするのが珍しかったし、この時点で意気揚々と口火を切っていたのが、何というか…例えが難しいのだが、んー…漠然とだけど、”嬉しい”というのが一番近いのかもしれない。
絵里はふと先程来手に持っていた本の、その表紙を眺めつつ話した。「まぁこれは…琴音ちゃん、あなたがこないだ言ってたように、ギーさんにとっての処女作な訳だけれど、それが随分と何というか…率直な感想としてね、意外に思ったのよ。普段から例の雑誌の中では、よく経済学というものに対してボロクソに書いてるでしょ?近づくのも嫌って感じで書いてるのにさー…そんな人が、こんなど真ん中に突っ込んでいくような内容で本を出すなんてってね」
「…ふふ」
絵里の話を聞きながら、ふとあることを思い出していた。
それは、絵里と初めて数寄屋に行った晩の事だった。その時に絵里に言われたセリフ、『あまりあなたが彼らのような面々と親しくなったり、その深みに嵌っていくことに対してはどうかと思う』といった内容だった。前々から勿論察していたし、だから直接面と向かって言われても、特段ガッカリしたりとかイラついたりという感情は一切起きなかったのだが、…あ、いや、今それについて何かを言いたいんじゃなく、ただこの時思ったのは『…ふふ、なんだかんだ言って、まぁ実際にチラッと言ってはいたけれど、こうしてキチンと、少なくともあの雑誌の義一さんの文章だけは読んでるんだなぁ』というもので、それで思わず笑みをまた零してしまったのだった。
と同時に、冷静に絵里の話を聞いて、それもそうだという感想も同時に持った。…もしも事前に、神谷さんを交えたあの宝箱での件が無ければ、私も絵里と同じ感想を持った事だろう。
絵里は私が笑みを零した事については特に触れずに、そのまま話を続けた。
「もうね、読んであげようとは思ったんだけれどー…まずこの題名でね、既に挫折しそうになっちゃった。だって…私は文学部の出身だし、経済や政治のことなんか微塵も分からないんだからねぇ…。当初これを見た時に、この頭を使いそうな題名の時点で、『ギーさんらしい』とその点では思ったのと同時にさ、…ふふ、”理性の怪物、その面目躍如だとまず思ったの」
”理性の怪物”…これを覚えておられる方はいるだろうか?…そう、初めて義一と絵里、そして私を交えて例のファミレスに行って会話した中で、教えて貰った、義一本人は知らない…だろう、大学時代のアダ名だった。発信元は、義一と絵里の共通の担当教授らしいが、その教授にして、どんな小さな事でも自分が納得いくまで緻密に分析せずにはいられない、最初の感情に基づく直感を、そのままにはして置かずに、そこから、周りから見ると病的に見えるほどに理性的に追い求め続ける、そんな義一の態度を見て、そう付けられたのだった。
このアダ名を絵里の口から聞くのは本当に久しぶりだったが、それでも中々に義一の本質を突いてるなと今だに思う。
…それだからか、今こうして聞いた瞬間に思わず知らず軽く吹き出してしまったのだった。
「…ふふ、確かに。理性の怪物らしい本の名前だよねー?まぁ、題名自体は担当とも協議したって言ってたけど」
と言うと、絵里もとても愉快げに「あはは、本当だよねー?」と返してきたが、その直後にまた手に本を取ると、何だか少し悔しげな苦笑を滲ませつつ続けた。
「…まぁでもさ、それでその晩にペラペラとページを捲っていたらねぇー…いや、確かに内容も小難しい事がたくさん書かれてたんだけれど、でも…んー、ギーさん相手に褒めてあげたくないんだけれど、何だか気づいたらのめり込んじゃって、それでー…」
とここで絵里はふと時計の目を向けて言った。
「次の日も仕事だったってのに、んー…一気に最後まで、あとがきも含めて読みきっちゃった」
そう絵里は言い終えたが、その表情が本当に悔しげだったので、「ふふ」と私はまた笑みを零して、それからは「確かにー」と同意の気持ちを表明した。
「私もだよ。そのー…多分、今話を聞いた感じだと、まず私がほんの少し絵里さんよりも先にこの本を渡されたと思うんだけれど…ふふ、私もね、少しだけ目を通すくらいにしておくつもりだったのに、一気に最後まで読んじゃった」
と私は顔の前に自分の本を持ち上げて、それで口元を隠すようにして見せつつ、その裏では思いっきりニコッと笑って見せた。
先ほどもチラッと言ったが、私の本は例に漏れずに、面白い箇所、勉強になった箇所、その他諸々のページの端を折る、いわゆる”ドッグイヤー”を、それこそ沢山してしまって、絵里の本よりも見るからに幅が膨らんでしまっていたのだが、それを含めて見た絵里は、何だか呆れに近い笑いを浮かべて返した。
「まぁねー…いつだったか…あ、そうそう、その雑誌の話をした時にも言ったと思うけど、次から次へと延々と理屈の嵐だからさぁ…本当だったら読んでて疲れちゃって、終いには最後まで読めずに終わるのが普通だと思うんだけど…悔しいことに、あやつの文章は、何だか人を惹きつけるというのか、んー…まぁ、たまには褒めてやると、下手に文才があるせいでねぇー…読んじゃうのよねぇー…」
と絵里は途中から、正面に座る私から徐々に視線を逸らしていき、言い終えた時には顎に手を当てて、真横を向いてしまっていた。
これが絵里の照れ隠しの態度なのはとっくに知っていた私は、ただそれをクスッと微笑みつつ、この時は静かに紅茶を啜ったのだった。
それから少しばかり”何事も無く”月日が経った二月の中旬の第三日曜日。午後四時半前。私は地元の駅前広場にある、例の時計台の下で、この寒空の中、マフラーの顔を埋めつつ本を読んでいた。というのも、今日は裕美に呼び出されていたからだった。
今日は私は師匠の元でレッスンを受けていたのだが、この後で何やら用事があるとかで、普段よりも一時間早めに終わったのだった。これは事前に知らされていたので、この日のレッスン後に顔の前で両手を合わせて謝ってくる師匠に対して、私の方も恐縮しつつ、しかし苦笑気味に「気にしないでください」的な返答をしたのだった。その話を先週のレッスン時に聞いていたので、それを何気なく裕美に話すと、「私もその日練習だけれど、大体同じ時間に終わりそうだから、その後で軽く会おうよ」と誘われて、それで今に至る。
他にロクな遊び場がないせいか、いつもこの駅前というのは人で溢れかえっていたが、それでも私は周りに気をとられる事なく読書に集中していた。
と、ここでふと雑談をさせて貰うのを許して頂きたい。ついで…裕美の来るまでの間だけだ。
コホン、私は普段から、どこかしらにいつも本を忍ばせていた。通学鞄や、今日の様なレッスン用のトートバッグの中にもだ。前もチラッと触れたが、クラスが分かれてしまったというのもあって、裕美とは一緒に通学するのが、一年時と比べると半分に減っていた。具体的には週に二、三度といった頻度だ。…まぁ、見る人によっては、それでも多いと思うかもだけれど。で、そんな時のためにって事ではないが、通学時、学園の最寄りの四ツ谷まで、掛かって四、五十分ほどする時間を、無駄にするまいとこうして本を一、二冊入れているのだった。勿論それらには、全てに、合格祝いにお父さんにプレゼントして貰った、純革製のブックカバーを付けてだ。
ついでに話すと、これも以前に軽く触れたが、それ以上に今私の自室の本棚は、そろそろ一つの壁を占めようとするほどに増えていた。残りの一つ以外の本棚はすでにパンパンの状態だ。というのも、義一から借りた本の中には、文庫などで再販されているものもあったりするので、それをワガママ言って両親に新たに買って貰っていたのだ。いわゆる東西問わない古典文学だ。どうでもいい話だが、自分で言うのは恥ずかしいが、普段から滅多に何かモノをねだる事が少ない私だからか、それに加えて、そもそも本に限ることのお陰か、頼めばそれらは全て買ってくれたのだった。この本棚に本が埋まっていく、大げさに誤解を恐れずに言えば”快感”の様なもの…これは読書家の皆さんなら共感してくれるだろう。
…コホン、それらを買ってくれる度に、…これは別に文句でも何でもなく、しかしただ素直な感想なのだが、義一から借りる本は総じて古くてボロボロなのに対し、両親に買って貰ったのは言うまでもなく新品なので、それを見てついついテンションの上がってしまう私はまた読み返したりするのだった。
それに加えて、これはお母さん個人だが、師匠から借りた本も自分の手元に置いておきたいとねだると、お母さんは若干渋りつつもキチンと要望を叶えてくれた。まぁこれはお母さんの名誉のために付け加えると、何もこんな芸の本なんかって蔑んで渋っていたわけではない。まぁ…専門書というのは、値が張る、今はそれを言うだけに留めておこうと思う。
…ふふ、もしかしたらずっと、初めの方でわざわざ点々でワザとらしく囲った部分が気になってる人もいるかも知れない。『”何事も無く”月日が経った二月の中旬…』の部分だ。
勿論これには理由がある。…二月の中旬という単語から、すぐに察する人もいるだろう。
そう、今日までの間に例のあの日、二月十四日、そう、バレンタインデーがあったのだ。
ここで雑談に次ぐ雑談を許してほしい。裕美がまだ来てない今しか話し辛い内容だからだ。
まず初めに、私を含めた今までのバレンタインデーの過ごし方から披露しよう。…誰得とは思いつつだ。
まぁ、まさか誤解される事は万が一にも無いだろうが、実は毎年私は、話に出さない間に、ちゃっかりヒロにバレンタインにチョコをあげている。言うまでもなく義理チョコだ。いや、今風に言えば友チョコの方が近いかも知れない。これは小学校入学当初から続いている、まぁ…儀式というか習慣のようなものだった。今となってはよく覚えていないが、私の記憶が正しければ…お互いに小学一年生の頃に、私は全く意識…いや、当時は今と違って既に良い子を演じてきだした時期だったので、もしかしたら建前でも意識してたかも知れない。
それはともかく、その一年生時のバレンタインデーに、何を思ったか、ヒロがその何日か前に、私にチョコをせがんできたのだった。私はその当時からヒロに対する態度、んー…また誤解されそうな事を言えば、恐らくそれなりに心を許していたのだろう、”素”で接していたので、今とそんなに変わらずに付き合っていた相手から、そんな事を言われたので、子供ながらに驚き、その時は憎まれ口の一つや二つを言い放ったと思うが、その後で家に帰りお母さんに言うと、何を勘違いしたかその次の日の夕方には、いつの間に行っていたのか、百貨店で買ってきたらしい、素敵に包装された、小学校低学年の子が渡すにしては高級すぎるチョコの詰め合わせを手渡されたのだった。これには、当然良い子を演じていた当時の私ですら、その演技を忘れるほどに引いてしまったが、それでもお母さんの強引な押しにやられてしまい、それをバレンタイン当日に、学校に持って…行きはしたのだが、登校して早々ヒロに絡まれ、早速チョコ、チョコと煩く構ってきたのにウンザリし、結局学校では渡せなかった。
だが、そのまま持って帰るのも、そのー…多分、当時の私は、それなりに折角買ってきてくれたお母さんに対して申し訳なく…思ったのだろう、当時の良い子の私としては。なので周りの包装紙にマジックペンで『琴音』と書いて、キョロキョロと周囲に誰もいない事を確認し、それをヒロの家の郵便受けの中に投げ込むようにして入れて走り去ったのだった。
帰ってから、何度もお母さんに『どうだった?』としつこく聞かれたが、『喜んでくれたよ』的な言葉で濁すだけに終わった。
その夜、この時点で既に一年弱ほどの付き合いとなるとはいえど、そこまでまだヒロの習性を把握しきれていなかった時期だったので、何となく普段の表面的なおチャラけた部分しか見えてなかったので、恐らく明日になれば、クラスメイトの前で騒ぐんじゃないかと、気が気がじゃ無かった…のは覚えている。
だが次の日、恐る恐る重たい気分の中教室に入ると、何の変化も無かった。ヒロはこの頃から、クラスの中心にいるようなタイプだったが、周りにいたクラスメイト達とお喋りしてはいても、側から聞いている感じでは、琴音の”こ”の字も出していないようだったので、その時は取り敢えずホッとした。ただ…その日も、それからしばらくも、バレンタインについて言わないし触れもしないので、逆に不安になった。
『もしかしたら…私からって気付いてないのかな…?でも…名前を書いたしなぁ…』と、まぁ悔しいながら軽く煩悶しつつ一月ばかり過ごしたある日、その日はまぁホワイトデーだったわけだが、そんなのはすっかり忘れていた私は、夕方、食事を摂る時間になったその時、ふとお母さんがニヤケつつ、オカズの置いてないテーブルの隅に、何やら淡い水色の包装紙で包まれた立方体を置いた。『何これ?』と聞くと『ひっくり返して見なさい?』と言うので、不思議に思いつつも言われるままにひっくり返してみると、そこには、赤ペンで汚い字で『マサヒロ』と片仮名で書かれていた。その瞬間、自分がどうやってヒロに渡した…というか、ポストに投げ込んだかを思い出し、お母さんのニヤケ面が気になりつつも、それでも思わず『ふふっ』と自然に笑みを零してしまうのだった。開けてみると、そこには、可愛らしい瓶に幾つもの包装された飴が入っていた。
その後は私もヒロも、その次のバレンタインからは面と向かって、流石にお母さんに『あんなのじゃなくて、普通のにして』とは頼んだが、それをあげたり、そしてホワイトデーには、また瓶詰めの飴をヒロから貰うというのが、習慣となっていった。
…と、ここで一つ忠告しておきたいのだが、『本当によく覚えていないのか?』というツッコミは受け付けません。
…さて、しかしまぁそれも多少の変化が起きたというか、これ以降は皆さんに話してきたのと被るが、私がそう、師匠からお菓子作りを習い始めた頃から、まぁ…毒味の意味も込めて、あまり作り慣れていない菓子を中心に、手作りのをあげるように最近はなっている。…あの例の、ヒロと初めて義一の家に遊びに行って、その時に作ったチョコブラウニーをヒロが食べて、『美味しい』と屈託ない笑顔で言ってくれた…というのは、そのー…関係ない。
…コホン、まぁその習慣も中学生になった今も続いている。今年も私は何かしらを作って渡した。因みに、ヒロは何の芸もなく、相変わらず、それなりに趣向の凝らされたものではあったが、飴なのには変わらなかった。毎年だ。恐らく今度の三月のお返しも同様だろう。
…って、何故か私の話ばかりしてしまった。いけない、いけない…。そんな私みたいなどうでも良い話はこの辺りにして、ここにきてようやく裕美の話だ。裕美は私の知る限り…今までヒロにバレンタインには何も渡していない…いや、”何も”ではないか。まぁ…ありがちだろうが、駄菓子屋とかで売られている、いわゆる三十円くらいのチョコをポンと手渡してるくらいだった。言うまでもなく義理チョコだ。…まぁ、そんな様子を毎度毎度そばで見ていたので、尚更裕美の”告白”に驚いたのも無理はないだろう。
さてようやく本題だが…結論から言えば、裕美は今年は何と、その義理チョコすらあげてなかった。と、ここで慌てて裕美のフォローをすると、本来はあげる予定でいた。
…何故私が知ってるかと言うと、まぁ…私が裕美に、こう言っては何だがいたずら心もあって、『折角だったら手作り菓子を渡そうよ』とけしかけたのだ。最初は渋っていた裕美だったが、何度か押せば受け入れるだろうことは予想が出来たので、私はしぶとくせっついた。というのも、私の腕を裕美はよく知ってるという自負があったからだった。というのも、ヒロに手作りの菓子をあげるのと一緒に、裕美にも毎年あげてたのだ。違う見方から言えば、裕美の前でヒロにバレンタインという日に渡していたということになる。まぁでも、当時は当然裕美の本心なんぞ知る由も無かったし、それにむしろ、二人っきりの時に手渡すよりも、そのほうがまだマシだと、後付けだがそう思うようにした。
なので、今年の場合も、裕美の心を知った今も、敢えて裕美の前で手渡すようにした。何も言わないが、恐らく裕美は私のこの気遣いを、それなりに分かってくれてるだろうと思っている。
…と、また話が逸れた。…まぁ話が逸れたと言っても、正直これ以上話す事も無い。要は裕美に実際にお菓子作りを教えたし、綺麗にラッピングしようか段階まで来ていたのだが、そこでまぁ…言ってはなんだが、裕美は直前で日和ってしまった、そういうわけだ。
でもそれについてこれ以上私からアレコレと言うことはない…というか、言うべきでないだろう。私には”まだ”分からないが、恐らく誰かを本気で好きになる、また、その度合いが強ければ強いほど、特にこの年齢の女子からすれば、何と比べても身を裂かれるほどにキツく厳しく大変なことなのだろう。それを外野、それもド素人も良いところの私が何か言えるはずもない。ただ見守るしかないのだ。
…とまぁ、アレコレと本人がいない事に話してきた…いや、話してしまったが、でもまぁ、私自身の話もたくさん無駄に話したのだから、裕美にはそれで良しとして貰おう。
…さて、雑談と断っておいてはいながらも、それに甘えて調子に乗ってグダグダと話してきたが、丁度というかやっと裕美が来た様なので、ここで話を戻そうと思う。
「…琴音?」
「…わっ」
と私は思わず声を上げた。何故なら急にほっぺに冷たいものが触れたからだ。見ると、どうやら裕美が冷えた手で気付かない間に触ってきたからの様だ。
「びっくりしたー…」
と触られた方のほっぺに手を当てて言うと、「あははは」と裕美は明るく笑って返した。
「ごめんごめん。でもさー、さっきもあそこ辺りから声を掛けてたんだよー?」
と裕美の指差した方には、私たちの家へと続く裏道があった。
「すぐに気づくかと思うから、恥ずいの我慢して声を上げたのに、あんたはちっとも気付かないんだから…これでおあいこよ」
と裕美が目をぎゅっと瞑って返すのを見て、まず思わずクスッと笑ってしまったが、それでも今更遅いながらに不機嫌な風を見せつつ
「何がおあいこよ」と返したが、やはりうまくいかずに、それからはどちらからともなく笑い合うのだった。
それからは、何気なく二人して、新しく出来た方、お母さんがよく行くスーパーのある、ショッピングモールの方に足を向けた。
私はまぁ…想像出来るとは思うが、まずこの手の人で普段からゴッタ返すような所には自分から行かないので、何度かこうして裕美、もしくは朋子たちとぶらついたりもしないことも無いのだが、それでも今だに把握が出来ていなかった。それとは逆に、裕美はもう自分の庭だと言いたげ…いや、実際に言っているが、このだだっ広いモールの中を知り尽くしているようで、いつも私を”いい意味で”つれ回してくれるのだった。この日もそうだ。
…そうだったのだが、そういえば最近本屋に足を向けていない事に気付き、この中にも本屋があるのを何となく知っていたので、それをまず裕美に言うと、「本当にアンタは本の虫なんだからー」と呆れ笑いをしつつも率先して本屋を探してくれた。
モールの中では一番端の一角にその本屋はあった。中々に広いお店だった。全国にチェーン展開している本屋さんだった。
後々の話の為に、この場で予め言い訳をさせて頂くと、この時はたまたま、正面からではなく、裏(?)というか、もう一方の方から店内に入った。というのも、正面のすぐ脇にはレジがあり、そこには列が出来ていて人の往来が激しかったから、それを避ける意味でそこから入ったのだった。
これが初めてではなく、それこそ小学生の頃からこうして付き合って貰っていたので、私は入った瞬間手前から、実用書から専門書など、 ジャンルを問わずに一つ一つの本棚を縫うように練り歩くのを、ろくに振り返って見たことはないが、恐らくは呆れ笑いを浮かべつつ後についてきてくれていた。
…と、ここで、まず白状しておかなければならないだろう。何故こうして裕美を連れ立って、せっかく会ったというのにまず本屋に立ち寄ったのかを。
ここで慌ててまた言い訳をさせて貰うと、別に裕美とは正直全く関係が無かった。ただ単に…そう、先ほども言ったように、普段は立ち寄らないが、それでも自宅の近所にあるこの本屋には、果たして義一の本が売られているのか…それについてふと思うところがあり、裕美がいるというのにその衝動に”抗わず”、その思いつきにただ付き合って貰った、そういう次第だった。
もう一つ言い訳をさせて貰うと、さっき人混みが多くて、それで裏から入ったと言ったが、勿論それもあるのだが、それだけではなく、発売されてからもう一、二週間で一ヶ月が経とうとしていたので、もうどこか本棚の隅にでも追いやられているだろうと、本人がそう言っているから言いやすいのだが、私もそうだろうと推測し、こうして結局普段通りではあるのだが、それを頭に入れながら練り歩いていた。
だが…結局義一の本は見つけられなかった。
なーんだ…もうどこか奥にでも仕舞われちゃったのかな…?
と一人心の中で、自分のことでも無いのに、いや、本人がこれまた一切他人事のように気にしないので、その代わりも含めてガッカリした。
と、そんな様子が表に出ていたのか、
「…ちょっと琴音?アンタ…大丈夫?」
と顔を覗き込むように聞いてきたので、
「え?何が?…ふふ、大丈夫よ。ってか、何も無いでしょ?」
フフっと最後に自分なりには明るい笑みを浮かべて、「もう行こっか」と店内を一周したので、今度は正面から出ようとしたその時、ふと何気なく目がいった平積みゾーンを見て、私は思わず足を止めた。
恐らくわざとだろうが、後ろを歩いていた裕美は私の背中に自分の体をぶつけてきてから「何よー?急に立ち止まらないでよー?」と不満げな声を上げていたが、この時の私はその声が耳にほとんど届いていなかった。それくらいに、その平積みにされている本に目が行ってしまっていた。
そこにあったのは何と『自由貿易の罠 黒い協定』だった。そう、義一の本だ。まぁ…これだけ目をまん丸に見開いて驚いた理由として、勿論まだこうして平積みされているのもそうなのだが、それ以上に…何と、そのゾーンが発売日に見た時とは比べ物にならない程に増えていた事だった。前に言った様に、義一の本は精々一列に何冊か積み重ねられていた程度だったが、今は…この本屋で言うと、その棚の三分の一を義一の本で占められていた。そして、これは私が以前は見落としていたのかも知れないが、今回は何やら恐らく店員が書いたものだろう、手書きのPOPが側に複数置かれていた。そこには『彗星の如く現れた、未だ正体不明だが、舌鋒鋭い新鋭の論客の作家』というものと、『今話題の新たな自由貿易協定。その賛成論者たちに真っ向から立ち向かう』などなどと、カラフルなペン使いで書かれていた。因みに、これまた私としては意外だったのだが、初めの方で本屋で見かけた時は、ごくシンプルな帯しか無かったのが、今目の前に置かれているその本の帯は、今触れたPOPに書かれていた煽り文句が、少しアレンジが入った…いや、POPの方がアレンジしてるのかも知れないが、それはともかく、同じ様なのが書かれており、その帯の幅自体も、本の半分を覆うほどに太くなっていた。…因みに、最初の帯には推薦文が一行書かれていたのだが、それは神谷さんのものだった。
…ふふ、正体不明って…その通りだわ。
と一人愉快げに思わず口元を緩めていると、その脇を人が義一の本を取って行っていた。そしてレジに並ぶのを、何となく眺めているのだった。
私は、聞いてる方は大げさに思われるかも知れないが、この思わぬ事態にロクに頭が働いていなかったが、「何見てるの?」という裕美の暢気な声で現実に戻された。
「なになにー…」
と裕美は私が見ていたPOPを眺めた後で、何気なく一冊本を手に取って見た。
「『自由貿易の罠 黒い協定』…?これまた何だか小難しそうな本ねー?でも…これだけ並べられてるんだから、結構売れてるのかな?…ん?」
と、そう独りごちつつ本の表紙を眺めていた裕美は、ふと”何か”に気付いた様子を見せた。
そして裕美はハッと顔を上げると、先ほどの私と同じ様に目をまん丸に開けて、口調は慎重に期する風に声をかけてきた。
「ねぇ…ここに書いてある名前…って、もしかして…もしかすると、まさかアンタの…おじさん?」
「んー…」
と私は不意に口元がにやけそうになるのを抑えつつ、声のトーンも上擦りそうになっていたので、そこは何とか慎重になりつつも、最終的にはニヤケ混じりの微笑を湛えながら答えた。
「どうやらー…そのようね?」
「え?…って、えぇーーー!」
と裕美が声を上げたので、一気に店内にいる人々の視線を感じた私は一度周囲を見渡して裕美を制した。
「ちょ、ちょっと裕美!声が大きい!」
「あ、あぁ、うん…」
と、まだ表情は興奮が冷めやらぬといった様子で、しかし一度周囲にペコっと恥ずかしげにお辞儀をして見せてから、今度は打って変わって小声で言った。
「ちょ、ちょっと琴音、これって…どういう事?」
「んー…どういうことって言われてもねぇ…」
と私も小声で返しつつ、そっとまた周囲を見渡したが、やはりと言うか、店内の人々の好奇な視線が止む気配が無かったので、私は一度ニコッと笑ってから、心なしか気持ちが上擦ったまま返した。
「…あのさ、誰かさんのせいで何だかここに居づらくなっちゃったから、さ?取り敢えずここを出てー…あ、そうだ。裕美、あなたのよく行くっていう喫茶店に行きましょ?そこでなら…話してあげる」
「誰かさんのせいって…何よその言い草ー?」
と不満を露わにしながらそう返してきたが、それでも気持ちは同じだったようで、次の瞬間にはいそいそと本屋を後にした。
そしてそれからの道中はこれといった会話をする事もなく、自分達でも不思議だったが気持ち早足で、一軒の喫茶店に入った。そこはチェーン店で、まず都内で見ないことはない程に見慣れたお店だった。
入ると流石というか混み合ってはいたが、運良く外を見るカウンター席が二人分ちょうど空いた時だったので、何も言わずとも、裕美に並んでいて貰い、そのまま私の分の注文まで取ってもらい、その間に私は裕美の荷物を預かり、そして今空いたばかりの席にそそくさと座った。
まぁこれは、長年の付き合いで生まれたフォーメーションの一つだった。どうでもいい事を話すと、初めのうち、まだこうして作戦が固まっていなかった時などは、私が注文に回る事もあったのだが、何せ自分で言うのも何だがこの手の事には同年代の子たちと比べ物にならない程に疎い私は、何度も裕美に頼まれた注文が出来ないのが続いた。なので、結局はこうして私が荷物番に落ち着いたのだった。
こういう時は、最近の私の注文はホットコーヒーと決まっていたので、そのまま裕美が持ってきて、 そして取り敢えず、混み合う店内というので肩身を狭くしながらも「かんぱーい」と小さく言い合いながら、カツーンとそっとお互いのカップをぶつけ合い、それから一口ずつ飲むのだった。
因みに裕美はホットレモンティだった。
「はぁ…で?」
と一息入れる間も無く、裕美は何だか見るからに待ちきれないといった様子で口を開いた。
「まずまた確認するけど…アレってやっぱりアンタの叔父さん…なんだよね?同姓同名…ってわけじゃなく」
「えぇ、そうよ」
と私はまだ心なしか、”何故か”誇らしげな気分のまま答えた。
「えぇー…って、ちょっと待って?」
と裕美はおもむろにスマホを取り出すと、素早い手つきで何やら打ち込んでいたが、ふと手を止めると、液晶をこちらに向けてきながら言った。
「さっきの本って…コレだよね?」
「ん?」
と私はわざわざ息がかかるほどの距離まで顔を近づけてみた。
それはとあるネットのページで、全世界的に知られたネット通販のサイトだった。確かにそこには義一の本が出ていた。
私は一度顔を離し、体勢を戻してから答えた。
「…えぇ、そう、その本よ」
「はぁー…」
裕美は、何とも捉えようのないため息を吐きつつ、出ているページをしげしげと眺めていた。
「ふーん…って、へぇー、この本のレビュー、全部が五つ星じゃない」
と裕美はまたこちらに液晶を見せてきたが、今回はチラッとだけで、また自分一人で見ていた。
…先ほど私は、全世界で有名がどうのと紹介したが、それは裕美含むその他の人に聞いただけで、普段からネット自体ろくに見ない私からすると、イマイチよく分かっていなかった。
「へぇ…って、それってどんな事を意味してるの?」
と素直に他意なく聞くと、裕美は一瞬キョトンとして見せたが、その直後には苦笑まじりに返した。
「…まったく、アンタは本当に現代人か、たまーに…いや、しょっちゅう疑問に思うよ」
「うるさいなぁ…で、どうなの?」
「んー…って、私もこれに関しては、よく分かってないんだけれど」
と裕美は最後に照れ笑いを浮かべたので「なーんだ」と私が今度は呆れ笑いを見せたが、でもすぐに裕美はまた画面に目を落としつつすぐに返した。
「んー…でもさ、少ししか見てないけれど、最低でもここにわざわざコメントしている人は、この本を良い本だって思ってるみたいだよ」
「へぇー…そう?」
と私は何の気なし風に返したが、内心はまた何だかほっこりとする様な心持だった。
そんな私には気を止めずに、それから少しばかりレビューや、他の紹介などを眺めていたが、画面をそのページにしたままテーブルに置くと、一度レモンティーを飲んでから口を開いた。
「…で、だからこれって…なんて質問したら良いのか迷うけれど…これってどういう事?」
「…ふふ」
何だか口調は不満げなのに、顔の表情は困り顔だったので、そのアンバランスさに思わず笑みを零してしまったが、それを見た裕美は何だか力が抜けた様子で、今度は苦笑を浮かべつつ続けた。
「はぁ…ってかさ、何だかさっきこの本を見た時に、アンタはそんなに…いや、驚いてはいたみたいだけれど、なんかすぐに今度はテンション上げてたよね?それって…細かいことはともかく、この本の存在自体は知ってたって事?」
…鋭い。
この様に、たまに鋭い洞察を見せる裕美の長所を見せられて、トントンと液晶画面を指で軽く叩いて見せている裕美に対して、またまた笑みを零してから、今度はそれで終わらさずに答えた。
「…ふふ、流石裕美、鋭いわねぇー…」
と私は勿体ぶって一度コーヒーを啜ってから続けて答えた。
「…そう、私はもう既にね、義一さんが本を出してる事は知ってたわ。それも…まだ発売される少し前からね」
私はこれに続けて、あとでどうせ聞かれるだろうからと、そのまま例の宝箱での話を掻い摘んで話した。
もちろん、神谷さんが帰ってからの話だ。
それを、私の想い越しのフィルターがかかっているかも知れないが、心なしか裕美は興味津々に聞いてくれていた。
そして話し終えると、「ふーん」と一度声を漏らして、何気なく、スリープ状態に入って真っ暗になっていたスマホの画面を起こして、そこに出たままの義一の本を眺めつつ言った。
「なるほどー。じゃあこれがアンタの叔父さん、そのー…義一さん?その義一さんの処女作って訳なのね?ふーん…ってかさぁ?」
と裕美はまた私に視線を戻すと、意地悪げな笑みを浮かべつつ聞いた。
「何でこんな面白い話、内緒にしておくかなぁー?私だって、たった一度、あの花火大会に絵里さん家で集まった時に会っただけだけど、それでもさぁー…教えてくれても良かったじゃない?これでも見れるけれど…もう発売日から半月ちょっと経ってるし」
「えー?」
と私はなんとなく視線を外して、慌ただしく外を歩く人の流れを眺めてから、また視線を戻して答えた。
「だってー…今もあなたに話したでしょ?義一さん自身も含めて、私も言った通り全部読んだんだけれど…なんというか、おそらく世の中的には”ウケない”だろうと予想してたのよ。私はもちろん面白かったんだけれど…でもまぁ、私も義一さんも世間から見ると変わり種の部類に属するのは自覚してるからねぇ」
「あはは」
とそれを聞いた瞬間に裕美が無邪気に明るく笑って見せたので、「ちょっとー、そこは何かフォローを入れてよー?」とジト目を向けつつ不満げに突っ込んだが、その後にまた表情を戻して続けた。
「まぁだからさ、私が面白いって思うものは、んー…繰り返すけど、何となく世間受けは良くないだろうって思ってたからさ?だから…まぁ単純に言うと、あまり売れない本を書いたっていうんで、何もあなたとかみたいな、私が親しくしている人たちに知らせて、義一さんを辱めることも無いだろう…って思ったのよ。…わかる?」
と私が聞くと、「んー…なんと…なく?」と裕美は苦笑い気味に答えた。まぁこの様な反応は分かりきっていたし、慣れっこだったのでそれは流して「そっか」と笑顔で返すのみで済まして続けた。
「まぁ…それでね?さっきあなたが奇しくも言ってくれたけれど、それでも…ふふ、そりゃあ驚くわよ。だって…さ、義一さんの、…義一さんの本があんなに広く展開されて平積みされてるなんて…想像もしなかった事だもん」
と私は言い終えると、また外の景色を何となく見ていたのだが、ふと隣から「ふふ」と笑みを零す声が聞こえた。
見ると、裕美が何だか柔和な笑みを浮かべて見せていたが、視線が合うとそのままの表情でボソッと言った。
「…ふふ、アンタ、何だか…さっきからだけれど、何だか嬉しそうだね?…やっぱそんなにあのおじさんの事が好きなんだねぇ?」
「…ぶっ!」
聞いた瞬間私は思わず吹き出してしまった。口に飲み物を含んでいなかったのが幸いだ。
私は何となく口の周りをナプキンで拭いてから、まだ動悸がおさまらないままに薄眼を向けつつ口を開いた。
「ちょ、ちょっと裕美ー…急に変なことを言わないでよー」
「あははは」
と裕美は愉快げに一人笑っていたが、そのままの調子で返した。
「別に変な事なんか言ってないじゃなーい?昔からアンタは、コレに関しては妙なトコで引っ掛かって見せるんだから」
「むぅ…」
と私も、裕美の言う事がもっともだと頭では理解しつつも、こればかりは自分でも原因がよく分からず、今の時点でも解決法が見つかっていなかったので、取り敢えず膨れて見せるしか無かった。
義一が好きかどうかなんて…そんな”恥ずい”答えは返せない。
「まぁいいわ」
と裕美は心無しか満足げな表情を浮かべると、またスマホに目を落として、サラッと軽く操作をして見せつつ言った。
「まぁでも、こうして見ると…アンタたち変わり種の二人も、この本に関して言えば、結構世の中に受け入れられてるみたいじゃない?」
「何よ、その言い草ー?」
と私は不満タラタラで返したが、しかしすぐに私の口元を見て察したらしい裕美が、何も言わずにニコッと目を瞑った笑顔を見せたので、私も一度鼻から息を吐くと、裕美に合わせた笑みを浮かべた。
それからは、さっきもチラッと触れたのだが、絵里も義一から本をプレゼントされた、しかもわざわざ寒夜にマンションまで足を運んでまでという、その話が裕美には興味深かったらしく、これ以降は義一と絵里のこれからの話に、本人たちがいない事をいいことに、好き勝手あーだこーだ言うのに終始したのだった。
その後何やかんやあって…これは後で触れるが、それから別れて家に帰ると、先ほど裕美が見せてくれたサイトに私も飛んで見た。すると、確かにいくつかレビューが書かれていたが、どれも十人十色な論評ではあったが、好意的なものばかりだった。私は一人でそれを「ふふ…」と思わず笑みを零しながら見ていたが、どうせならと、今度は検索サイトにわざわざ義一の書名を打ち込んでみた。
すると、驚いたことに、数え切れないほどの検索結果が出てきた。
これも繰り返しになるが、言い方がいくら義一さん相手とはいっても悪いが、どうせ義一の書いた本などは世間が見向きをする筈ないと思っていたところでの結果に、少なからず…いや、思わず自室にいるというのに大声を上げそうになった程だ。
この時はもう既に寝支度を済ませていたのだが、軽く覗くだけのつもりが、気づけば一時間ほどもずっと、ネット内の義一の記事、果ては個人ブログまで覗いたりした。
それで何となく、何で義一の本がここまで広まってきていたのか、何となく全容が分かってきた。
というのは、今言ったブログにしろ何にしろ、特にそういった個人の文章でよく散見できた共通の単語が出てきていたからだ。それは…義一も出演することになった、右のネット放送局と称されている、例のテレビ局の番組内で、大々的に義一の本を紹介していたのが大きいようなのだ。何度も言うように、私は神谷先生たちが出演する討論番組しか見ていなかったので、気づかなかったが、三十分ほどの時間を設けて、この番組に集う様々な肩書きを持った人々が、アレコレと、好意的に論評をしていたらしい。
…これは私の見た数あるブログの中の一人が書いていたことだが、このチャンネルというのは、今、若者に絶大な支持があるとかないとかで、その管理人が言うには、どうもこのチャンネル発進じゃないかと考えているようだった。他のも似たようなものだった。序でにその人が書かれていたのだが、その繋がりで例の年末特番に義一が出演してるというので、その動画の再生数が一気に伸びたらしい。
…ここで白状するが、今更と言われそうだが、私が見ていたこの局というのは、全世界的に知名度のある動画サイトの中にもチャンネルを持っており、以前からこのサイトで視聴していたのだが、そこには所謂コメント欄というものがあって、ログイン出来るならば誰でも書き込める形式になっていた。…のだが、私はあまり番組以外には興味が無いせいか、義一にも勧められていなかったし、たまにチラッと目に入るもの以外はロクに見て読んだことがなかった。で、何が言いたいのかと言うと、その管理人の話によれば、繰り返しになるがその回の再生数がうなぎ登りに増えていって、コメントも増えていったのだが、三時間あった番組に対する感想が、ほとんど義一、それに武史に占められていたとの事だった。まだ私はこう言ってるのにも関わらず今だに覗いていないのだが、どれも好意的だったらしい。
とまぁ話が逸れたが、私がそういう意味ではあまりにも遅れてるだけで、世間の若者…具体的な年齢層は分からないが、それでも確かに実際に本屋…といっても一件のみだが、それと、ネット通販界での最大手でのレビューを見た限り、何かしら関連がありそうにも思えたのだった。
次の日の月曜日。放課後、この日は前から予定を立てていたので、他の四人と一緒に例の喫茶店へと向かった。 皆この日はまた外が寒かったというのもあって、私と律はいつも通りホットコーヒーを、そして裕美含む他の三人は、ホットレモンティーやミルクティーを頼んでいた。
それからはまずいつもの儀式を済ませると、普段からしょっちゅうは五人全員が集まるというのは珍しいというので、それまで溜め込んできた、全員で共有すべき、もしくはしたい話題やネタを、それぞれがそれぞれ各様にここぞとばかりに振っていくのだった。
あらかた話し終えたかに見えたその時、ふと裕美が私に話を振ってきた。
「…あ、そういえば琴音、アンタ例のモノ持ってきてくれた?」
「例のモノ?」
それを聞いた瞬間、紫と藤花が同じ言葉で同時に声を出した。律も何も言わないながらも、興味を目だけで示してきていた。
「え、えぇ…」
と私は若干照れ臭く感じつつも、通学カバンの中から一冊の雑誌を取り出した。それは興味がない人でも名前くらいは聞き覚えのある、そんなメジャーな週刊誌だった。
表紙が目次代わりとでも言う風に、ワザとなのだろう、雑多に見出しがあちこちに踊っていた。その中には、よーく目を凝らさないと見つからない程だったが、ある書物の名前と、あと本当によく知る人物の名前が小さく載っていた。
「んー…?」
と私がテーブルの真ん中に置いた瞬間、裕美以外の三人は中腰になりつつ皆してその表紙を見下ろした。
そして誰からともなく座ると、まず紫が第一声をあげた。
「ただの…週刊誌、だよ…ね?これがどうかしたの?」
「えぇーっとねぇ…」
と私は一度その雑誌を手に取ると、それをパラパラとめくって見せた。…いかにも探している風だったが、もう何度も見たせいで、とあるそのページにだけ開きグセがついてしまって、そのおかげですぐにお目当のページに辿り着けた。
それは見開きのページで、そこからもう二ページ分、計四ページの特集欄だった。見出しには
『今尤も話題でホットな本を書いた、それなのにこの情報社会の中で未だ顔を表に出さない、知られていない、正体不明のこの人物について語る』
と、出ていた。
これを初めて見た時は思わず笑ってしまった。特集を組んでみたのはいいものの、どう組んだらいいのか、どう紹介したらいいのか、どう論じればいいのか、どこにも取っ掛かりがないと途方に暮れてる感が滲み出ていたからだった。
因みにこの雑誌は、あの後に買ったものだった。ふとネットの情報で、ある雑誌の最新号で特集されてるという記事を見つけた私たちは、その喫茶店を取り敢えず後にし、恥を忍んでまたあの本屋に戻ったのだった。もう日曜日だったし、正直あるか心配だったが、なんとかすぐに見つけられる位置に置かれていた。軽くパラパラと捲って見ると、それは確かにネットに出ていたものと合致していたので、早速それをレジに持って行き買ったのだった。それがコレだ。
その後また喫茶店に戻ると、もう席が無くなってしまって入れないんじゃないかと思わないでも無かったのだが、運良く、寧ろ先ほどよりも店内が空いていて、テーブル席が空いていたので、また飲み物を一品ずつ注文して、それから一時間弱ばかり二人で向かい合って、その買ったばかりの雑誌を眺めていたのだった。
この中身については…特に論じるまでもない。なんと言うか…こんな事を言うのはアレだろうけど、まぁ大衆向け週刊誌にありがちな、薄っぺらな推測が並べられてるだけの内容だった。
まぁ、その推測が一々的から外れていて、それが寧ろ面白くはあったのだが、まぁ今時間を割くほどのものでは無いので話を戻そう。
「んー…っと」
と今度は藤花がその見出しをわざわざ口に出して、幼子よろしく辿辿しげに読み上げていった。
そして最後に「なになに…」と作者名のところを、同じ調子で読み上げた。
「えっと…望月…ぎ、ぎいち?」
「え?違うでしょ?」
とすかさず、同じように座ったままの体勢でも何とか身を乗り出しつつページを眺めていた紫が、一度チラッと藤花を見てから言った。
「これって”よしかず”って読むんじゃないの?」
「え?あ、あぁ、そっかー」
と藤花は何だか間違いに気づいた子供のように、少し恥ずかしそうにしながら返していたが、「…いえ」と私は思わず苦笑まじりに口を挟んだ。
「読み方は藤花で合ってるよ。”義”に”一”と書いて”ぎいち”て読むの」
「あ、そうなんだー」
と藤花は途端に無邪気な笑顔を浮かべたが、すぐに今度は意地悪げな笑みで紫に声をかけた。
「ほらぁ、紫ー?私の方が合ってるんじゃーん」
「ほらって…」
と紫は若干照れ臭そうに笑いつつも、ジト目で藤花に視線を送りつつ返した。
「藤花、あなただって『そっかー』って間違いを一瞬認めてたじゃない?」
「間違いじゃ無かったもーん」
と藤花はここぞとばかりに、自分の見た目とマッチしてると”分かった”上での天真爛漫風に笑顔で返していた。
それによって毒気が抜けてしまったのか、紫は一度力無く笑みを溜息と共に零してから、また雑誌に目を落として、今度は私をチラッと見てから言った。
「でもさぁー、普通分からないって。だって、どう考えても普通は”よしかず”って読む、読ますでしょ?…”ぎいち“だなんて、変わってるねぇ」
「まぁね」
と私も微笑みつつ返した。
「確かに変わってるっちゃあ変わってるけれど、でも昔にそう読む人もいたのよ?大昔の総理大臣に、田中義一(ぎいち)って人がいたくらいだし」
「へぇー」
とこれには裕美も含めた他の四人が感心した風な声を漏らした。しばらくそうしていたが
「…で?」
と声をボソッと漏らした者がいた。声の持ち主は律だった。
律も他の二人と一緒で雑誌を覗き込んでいたのだが、いち早く上体をまっすぐに戻すと、私に視線を向けつつ聞いてきたのだった。
「この特集されている、んー…正体不明の人が、どうかしたの?」
「…ふふ」
と私は、昨晩からこの”正体不明”というワードが出るたびにツボに入ってしまっていたので、こうして律の口から淡々と言われてさえも、この様に思わず吹き出してしまった。
他の三人は不思議と言いたげな表情で、そんな私の様子を見てきていたが、「…琴音?」とここで裕美に、苦笑まじりに声をかけられた。
「え?」と私は隣の裕美を見たが、何も言わずにいても『私から話そうか?』と言いたげな顔つきを見て取って、私は一度首を横にゆっくりと振ってから、一度そんな様子の他の三人を眺め回して、フッと息を整えた後で、視線を見開いたページに落としつつ口を開いた。
「この正体不明の人のことだけれど…実はね、私がそのー…よく知る人物なの」
「…へ?」
と紫、藤花、そして律までもが、何だか気の抜けたような声を漏らした。私が一瞬顔をあげると、皆が一斉にこちらを、昨日の裕美の様に目をまん丸に開けて見てきていた。因みに、予め話をしていた裕美も、私のこの言葉を聞いた瞬間、表情には出さなかったが、それでも若干ビクッとしたのに気づいた。
…それだけ私の事を分かってくれているということだろう。
私は何も表には出さなかったが、心の中で裕美に対しての想いは留めておいて、表情は若干悪戯っぽく笑いつつ続けて答えた。
「実はねー…この人、私の、そのー…お父さんの弟さん、つまり叔父さんなの」
「へ?…へぇー」
と裕美を除く他の三人は声を漏らして、皆してまた雑誌のそのページを食い入るようにして見てから、今度は何だか感心した風な声をあげた。
「…って、そういえばそっか」
とここでまず一番初めに顔を上げた紫が、私に顔を向けて言った。
「この正体不明の人の名前…ここに出てるけど、”望月”って書いてるもんねー。…言われて初めて気づいたわ」
と最後に照れ臭げに苦笑いをしていたが、その直後に今度は藤花が顔を上げて続いた。
「…ふふ、確かにー。まぁ…望月って名字は、私は少なくとも琴音が初めてだったしさー、どの程度日本人で多いのか知らないけれど、でもまさかと思うから、琴音の親戚かもって所までは考えが行かないよね」
「うん…」
と最後に律が顔を上げたが、ほんの少しの間私の顔を眺めてきたかと思うと、ニッと少しニヤケて見せて口を開いた。
「っていうか…名前が出てる時点で、そもそも正体不明じゃないけれど」
そう律がボソッと呟くと、数瞬ばかり間が空いた後で、誰からともなく最初はクスッとから、最終的には私と裕美も含めて明るく笑い合うのだった。
「…で?何?」
と笑いが収まりだした頃、ふと紫が手に顎を乗せてコチラを見てきつつ言った。
「要はこれって…ふふ、叔父さん自慢なの?」
「…え?」
と一瞬何を聞かれているのか直ぐには理解出来なかったのだが、ふと気づくと私は慌てて首を振りつつ、苦笑まじりに返した。
「…あ、いやいや!そんなんじゃ無いよ。そんなんじゃなくて、そのー…」
とここで一度裕美をチラッと見た。すると、裕美の方ではずっとコチラを見てきていたらしく、すぐに目が合ったが、次の瞬間にはニコッと柔らかな笑みを向けてきてくれたので、心の中でだけでコクっと頷き返すと、いざ言おうと思うと急に恥ずかしくなってきつつも、何とかそれを抑え込みつつ、しかし結局は照れ笑いを浮かべながら言った。
「んー…ほら、さ、もう去年になるけれど…コンクールのことさ、中々みんなに言い出せなかった…じゃない?だから今回くらいはさ、そのー…いずれバレるかも知れないと思ったから、んー…自分からキチンとアレコレと明るみに出る前に、言おうとそのー…思って、ね?だからよ」
「…」
私が言い終えた後は、裕美含む他の四人は黙っていた。私からの視点でしか言いようがないが、初めは取り敢えずそれぞれが個人で私の言葉を咀嚼していたようだった。そして次に、お互いに顔を見合わせたりしていたが、フッとまず笑みを零しつつ口を開いたのは、やはりまた紫からだった。
「…ふふ、もーう、急に何を言い出すかと思えば。私は軽いノリで聞いちゃったってのに、そんな風に重たくマジな感じで返されると、そのー…困るわぁ」
そう返す紫の表情は…笑みと言ったが、それは呆れ笑いに近かった。
「あ、いや、別に文句を言いたいんじゃないよ?」
と紫にしては珍しく…と言うと文句が来そうだが、しおらしく、しかし笑みを見せつつ言った。
「ただまぁ…今に限った事じゃないけれど、ふふ、相変わらずあなたは何に対しても、いつでもマジなんだからねぇ…それが良いところでもあるんだけど」
「紫…」
と私は何か思わず返しそうになったが、それを制するように、ふと顔を背けると、
「まったく、こんな私でもついついこんな”マジな”返しをしちゃうんだからねー…ね、裕美?」
と、私を挟んで向こうに座る裕美に視線を向けて話しかけると、裕美はすぐには返さなかったが、ふと私の方をチラッと見て、それから紫と同じ様に「うん、そうだね」と私の顔越しに返した。
「もう何度目になるか分からないけど、本当にこの子には振り回されっぱなしだよ」
「な、何よー」
と私は間に挟まれていたというのもあって、両側の二人を代わり番こに見つつ不満げな声を上げたが、次の瞬間
「本当、本当ー」
と、何となく予期はしていたが、やはりというか藤花も向かいの席から乗っかってきた。「うんうん」と律も案の定続く。
「はぁ…」と私がまぁ”いつものアレ”って事で、大げさに肩を落として見せると、また他の四人、今回は裕美も加わって笑い合うのだった。
「で、因みにさぁ」
と今度は藤花が口火を切った。
「その琴音の叔父さんの本って、どんな本なの?」
「あ、それはね…」
と、私はおもむろに椅子下に置いていたカバンを腿の上に持ってくると、中から本を取り出した。ドッグイヤーをし過ぎて妙に幅の広がった本だ。
…言うまでもないだろう、そう、これは義一の本だった。
私はそれをテーブルの中心に置くと、私がカバンを戻している間に裕美も含んだ他の四人が一斉に表に置かれた表紙を眺めた。
「へぇー」
とここで裕美は本を手に取ると、まずそれを縦にして見ていた。どうやら、まずその膨らみに興味が行ったようだ。まぁ、私の持ち物の本自体は今回初めて見るのだし、それに、地元のあの本屋で読まれる前の新品を見ていたこともあってか、その違いをこの中では一番わかるのだろう。
裕美はまたゆっくりと、まるで壊れ物を労わるようにテーブルに戻すと、私に苦笑いなのか、呆れ笑いなのか、もしくはその両方か、そのような笑みを浮かべつつ言った。
「…ふふ、話には聞いてたけど、本当に読み込んでるねぇ」
「あ、やっぱりそうなんだ」
と、私が返答する前に、今度は紫が本を手に取って、裏返したりとあまり意味のない行為をしつつ続いた。
「はー…めちゃくちゃページの端が折られてるね?これってどういう意味でしてるの?」
「あぁ、これはね…ちょっといい?」
「うん」
私は紫から本を受け取ると、ペラペラとページを捲って見せながら答えた。
「これはねー…ほら、こうしてページを折ると角が内側に向くでしょ?その先のどこかに…その折った時に重要だと思った文章なり何なりがあるって意味なの。…まぁ別に、今後もおそらく私しか読まないだろう事はすぐに予想がつくわけだけど、その読み返すであろう未来の私にね、『ここのページ内のどこかに、少なくとも角の先のどこかに、昔の私の気になった箇所があるんだけれど、果たしてあなたはどうかな?』ってね」
とここで私は適当なページを開くと、それをそのままテーブルの真ん中に置いた。そして皆が見たのを確認すると、また本を手元に戻して続けた。
「今見ての通りね、別に線とかは引かずにいるんだけれど…まぁ、ヒントは少なければ少ないほどに、想像は広がっていくから、もしかしたら気づかない事もあるだろう、でもそれも面白いってんで、まぁー…そんな理由で”色んな角度で”折ってるの」
「へぇー」
言い終えると、裕美含めて、好意的に解釈すれば感心した風に声を漏らしてくれた。
…あ、この事は裕美には話したことが無かったっけ?
とこの時の私は思っていたが、ふと今度は藤花が『次は私の番』とでも言いたげな笑みで本を手に取った。
「なるほどねぇー…でもさ、琴音?」
「ん?何?」
と聞き返すと、藤花は一番その折られたのが見えやすいように、その側面を私に向けると、その後ろでニマッと笑顔を見せつつ言った。
「あなたが凄く読書家なのは知ってるつもりなんだけれど…でも、読書家って普通は本自体を大切にするもんじゃないの?」
「え?どういうこと?」
「うん。あのねぇー…私の知ってる子でね、琴音に会うまでは一番の読書家だって思えた子が居たんだけれど…」
「…あぁ」
とここで、相槌なのか律がボソッと藤花に顔を向けて言った。
藤花は何も言わずにただニコッと笑みで律に返すと続けた。
「その子は何だか本をすごく大事にしててね、というのもさ、私自身がそんな目に逢ったからよく覚えてるんだけれど…一度その子の家に遊びに行った時にね、部屋に通されたんだけれど、その部屋の一角が本で一杯だったの。私は何か物珍しいのもあって感動してね、その子は何か飲み物か何かを準備しに出ていたから、一人で勝手に思わず一冊の本を手に取って見たの。そしたらその子が丁度入って来たんだけれど…もうね、私の事を目をこーんなに大きくして見つめてきてさ」
と藤花は自分の指で目を大きく見開いて見せた。
「『あ、ありがとー』って飲み物を持って来てくれてたからお礼を言ったら次の瞬間ね…『あ、あなた一体何をしてるの!』って怒鳴られたんだ」
「え?」
「ふふ、私も今の琴音みたいに、何を言われているのか分からずに、そう声を漏らしたんだけど、その子の勢いは止まらずにね、まぁそれでも一度冷静に手に持った飲み物だとかはテーブルに置いてだったけど、でもその後でね、ツカツカって私の元まで来たかと思うと『返して!』って言いながら、乱暴に私から本を取り上げたの。私はそんないきなり乱暴な態度をされた訳だけれど、その時は何だかずっと呆気にとられてしまってね、それからずっと取り敢えずその子の行動を眺めてたんだけど…なんかね」
とここで藤花は手に持った私の本を、上下左右と忙しなく反転させて見たり、表紙や裏表紙を空いてる手ではたいて見せたりながら続けた。
「こんな風に、何か大事な我が子かペットか、うーん…何かそんな感じで労ってるのを見てね、何だかそのー…その前からだったけど、一気に居心地が悪くなってね、その後は自分の荷物を持って、それで部屋を出る時に『ごめん…ね』って、自分でもよく分からないままに謝りつつ後にしたんだ」
とここまで話すと、藤花は一度本をテーブルに戻すと、紅茶を一口飲んでから続けた。この間、いつのまにか急に始まった藤花の思い出話だったが、おそらく私だけでなく、もしかしたら例の反応を見るに一部始終を知っている律までもが、こう言っては何だが面白がりつつ他のみんなで聞き入っていたのだった。
「それからはまぁ、後で学校でその子と会ってね、『昨日はごめんね』って素直に謝って来てくれたから仲直りしたんだけれど…でもそのおかげでね、何か読書家っていうのは、皆してその子みたいに”本そのもの”まで後生大事にするのかなって漠然と思ってたの。でも…どうやら琴音は違うみたいね?」
と藤花は一瞬また本に視線を落としてから、またすぐに私に戻すと、ニコッと天真で無邪気な笑みを向けてきた。
「んー…」と正直そんな事を考えたことも無かった私は、ふと今までの自分の本の扱い方を思い出して、
考えてみたら、義一さんから借りた本は自分なりに大事に扱ってたつもりだけれど…うん、確かに自分個人の所有本に関しては…
「…うん、確かに雑かもね」
とただ実際には苦笑まじりにそう返した。
「あはは」と何となくまた皆で笑い合ったが、ふとここで「…あっ」と、紫があからさまに何かを思い出した風に見せながら声を漏らした。その表情はニヤケ面なのだが、これは入学以来の付き合いである私だから分かるのだろう、 すぐさま何か良からぬ事だとすぐに察した。
なので私が「…どうかした?」と、この時点で若干薄眼を使って話しかけると、このような私の反応も慣れっこな紫は、ますますニヤケ度を強めて言った。
「え?あ、あぁ、いや、なに…ふふ、何か今、琴音、あなたとその読書が云々って話でね、また例の子たちが話しているのを思い出してさ」
「始まった…」
と私は思いっきり大きく溜息を吐いて、そのままに続けて言葉を漏らした。例の子たちとは、覚えておられるだろうか?…少なくとも私は別に覚えていたくはないのだが、以前に何だか私と律が一緒にいる事について、アレコレと意味が分からない調子で褒めちぎっていたという彼女らの事だ。あれ以来、味を占めたのか、紫だけに限らず、当然というか裕美からも、そして藤花からも彼女たちの、私と律に関する評価を何度か聞かされていたのだった。
この時点ではまだその子たちを実際に見ていなかったので、実はこれは紫、裕美、藤花という”二組グループ”の陰謀じゃないか、デタラメじゃないかと密かに”一組グループ”の私と律は考えていた。
…とそれはともかく、この時に私自身は実際に見ていないが、恐らく”例の子たち”というワードが出た瞬間に、毎度そうだったから今もそうだろう、律も小さくだが苦笑いを浮かべていたに違いない。
そんな私達を他所に、紫は何だか愉快げに口を開いた。
「これに関しては琴音個人のことなんだけど…」
「ほっ…」
とこの言葉を聞いた瞬間に、律は大げさに胸元に手を添えて息を吐いて見せた。
その様子を私は苦笑ながらもじっと視線を飛ばしていたが、それには構わずに紫は私にニターッと意地悪い笑みを見せつつ続けた。
「琴音、あなた…あのファン達から何て呼ばれてるか知ってる?」
「ファンって誰のことよ…?」
と私は”あえて”空気を読ますに一々話の流れを止めようとしたが、この様な力無げな調子では焼け石に水も良いところだった。紫は続けた。
「それはね…ふふ、『深窓の令嬢』って呼ばれてるらしいよ」
「…は?」
と私が呆気にとられる余りに声を漏らすと、それをどう受け取ったか「あ、意味はねー…」と紫が口を開いたので、私はジト目を向けつつそれを制した。
「…意味は知ってるわよ。なんていうか…身分の高い家に生まれた女の子の事を称する言葉でしょ?令嬢って付いてるくらいだし…。深窓っていうのは、元々家深い所って意味で、そんな所に隔離されて育てられた、何というか世間から離れて育てられたばかりに、俗世に染まっていないって意味もあったよね?…って」
とここまでグダグダ話してきてようやく自分で気づき、
「何で私が解説してるのよ!」
と思わず突っ込んでしまった。
とそんな私の言葉にすかさず裕美がニヤケ顔で突っ込んできた。
「おっ、琴音、アンタって…ノリツッコミも出来るのねー?」
「”も”ってなによ、”も”って?」
「あはは」
とまた私以外の皆がこのやり取りの後で笑みを零していたが、その笑顔のまま紫がまた口を開いた。
「あははは。そうそう、何かそんな意味らしいよ。…ふふ、あの子達の中の一人に聞いたんだけれど、琴音、あなたと比べてどうかは知らないけれど、その子は結構な文学少女らしくてね、私はそう言われても分からなかったから、その後ですぐに意味を調べちゃったよー」
と何故か笑顔のままではいたが、恨みがましげな口調で言うので、「あはは」とただ乾いた笑いだけをしておいた。
「要は…」
と藤花はテーブルに肘をつき、両手を組んで、その上に顎を乗せてから、こちらに意味深な笑みを見せつつ言った。
「あの子達は琴音の事を…箱入り娘って言いたかったんだね」
「まぁ…それだけ聞くとそうだけどぉ…」
とここで裕美は、テーブルに肘をつき、手に顎を乗せながらこちらに視線を向けると、何だか呆れ顔で言った。
「この子は何だか”箱入り”って感じはしないんだよなぁー…。何つーか、妙なことに対して機敏に、敏感に反応して見せて、その時の行動力は凄いものがあるからねぇ…なんせこの子は」
「”なんでちゃん”だからね」
とここで、私以外の四人が、別に打ち合わせをした訳でもないだろうに、ここで急に口を合わせて、各人が各様なニヤケ顔を浮かべて私を見つつ言った。
「な、なによー…」
と毎度の事ではあるが、この手の話題ではいつも孤軍奮闘せざるを得ない私は、取り敢えず苦笑まじりにブー垂れて見せるしかなかった。
「なにも私は自分で言ってないでしょ?」
「あはは。そりゃあそうだけど」
「でもさ?」
と他の三人は許して(?)くれたというのに、一人、裕美だけは相変わらず同じ体勢でこちらにニヤケて見せながら言った。
「でもあながち箱入り娘っていうのも、見当違いではないんだよなぁ…」
「…さっき、あなた、自分でまず否定してたじゃない?」
と私がすかさずツッコミを入れたのだが、予想通りそれをスルーして裕美は続けた。
「だってさ…琴音、アンタのその『世間の流行に鈍感で、俗世間に塗れてない』っていうのはー…その通りじゃない?」
「あ、確かにー」
と藤花のひと声があった後、また私以外の皆で明るく笑い合うのだった。
これとは当然別だが、内容的にはもう何度目になるか分からない”流れ”だったので、私は少し照れ臭そうにバツが悪そうに笑いながら
「んー…まぁ、強くは否定出来ないわね」
とボソッと呟くと、ますます場の雰囲気が明るくなり、私も最後はそれに”塗れた”のだった。
この週の土曜日。放課後。私は一人で義一の家の前に立っていた。
片方の手にはミニバッグ、そしてその反対側の方には普段使いのトートバッグを提げていた。毎度のように、宝箱から借りていた本を返しにきた、今日はそれだけの用事だった。まぁ、それは、返した後で、その本についての議論も入っている。いつもながら、とても楽しみな時間だ。
ガラガラガラっと私は合鍵を使って玄関に入るなり「義一さん、来たよー」と声を張ってみたが、何の返答もなかった。
あれ…?
と私はそのまま靴を脱ごうとしたその時、ふと見覚えのない革靴が一足あるのに気づいた。
…ん?これって…
と思わず私が繁々とその革靴を眺めたことに対して、引かないで欲しい。…これは仕方ないだろう。だって…
…これって、デジャブだわ。
と感想を覚えつつ思い出したのは、そう、私にとっては前回ではないが、お話しした中では前回ここ来た時に鉢合わせた、雑誌オーソドックスの”前”編集長でこれから顧問となる浜岡と、”前”雑誌顧問の神谷さんが来ていた時と状況が瓜二つだったからだ。
ただ、思わずそれでも革靴を眺めてしまったのは、そのー…神谷さん達には失礼かも知れないが、今見ているその靴というのが、とても綺麗に手入れをされていた、見るからに高そうな品物だったからだ。当然この次に思ったのは、『客人がいるんだろうけど、前の二人ではないな』というものだった。
そんな事を考えつつ、靴を脱ぎスリッパを履いて、廊下をそのまま一番奥の宝箱まで一直線に行った。
目の前に着くと、推理どおり…とまで大袈裟には言わないが、やはりドアは閉じていた。
前回は珍しさの余りというか、何も考えずにそのまま開けてしまったが、今回は取手に手を掛けた瞬間、ノックくらいはしとくべきかと少しばかり思った。親しき仲とはいえ、また、中にいるであろう客人のことも考えると、ノックした方が良いのは分かっていたが、それでも何だかそんな礼儀正しく振る舞う自分の姿を想像した途端に恥ずかしくなってしまい、結局そのままドアを開けて入った。
「義一さん、来たよー」
と玄関先でと同じ挨拶をした途端に、ある男性と目が合った。
男性は書斎机にこちら側から腕を乗せて上体を前のめりにして何かを覗き込んでいたが、私が入ってきた瞬間に顔だけ後ろに向けた事で目が合ったのだ。男性は土曜日だというのにスーツをビシッと着ていた。
男性はすくっと起き上がると、私の方に数歩歩み寄って、それからニコッと笑顔を見せつつ声を掛けてきた。
「やぁ琴音ちゃん。久しぶりだね」
「う、うん…」
と私はまだ自分で思う以上に声を上擦らせてしまったが、それには構わず、同じように笑みを浮かべて返した。
「久しぶり、武史さん」
そう、何となくは聞いておられる方は察しておられたと思うが、この男性の正体は武史だった。
背は義一ほどではないにしろ、こないだ何かの機会に試しに計ったら170センチになっていた私の背丈よりも少し高かった。例えるなら小動物系、具体的にはリスに一番近い顔付きをしていて、何というか…初対面時にも話したかも知れないが、本人には悪いし言うべき事でもないが、何ともアンバランスな風体をしていた。ただし、そのリス顔に浮かぶ笑みは、とても人懐っこく、年齢がよく分からないという点でも義一と似ていた。
「うん、久しぶり」
「あ、琴音ちゃん」
とここで義一が、椅子に座ったままのせいか、今の今まで武史の影に隠れて見えてなかったが、ふと上体を横に倒して、武史の脇から顔を覗かせるようにしつつ、屈託のない笑顔を浮かべて言った。
「ごめんね、今日はお出迎えできなくて」
「え?あ、あぁ、いいよー、そんなの」
と私が返すと、義一はニコッと一度微笑んで返してから、
「さてと」とゆっくりと立ち上がると、
「じゃあ武史、僕はこれから琴音ちゃんの分の紅茶を淹れてくるから、ちょっと待っててよ」
と声を掛けた。「はいはい」と武史が返すと、義一はそのままノソノソと宝箱を出て行った。
その後ろ姿を私は見ていたが、「じゃあ俺は座ろうか?」と武史が声を掛けてきたので、「えぇ」と私は素直にその誘いに乗った。
例のテーブルの周りにある、すっかり定位置になった椅子に座ると、武史はそれを確認してから、”来客用の食卓椅子”に静かに腰を下ろした。
こないだの神谷さんがいた時のように、戻ってくるまで二人っきりでどうしようと一瞬頭を過ぎったが、今回はこの時点ですぐその後に義一が茶器を持って入ってきていた。
もう慣れたもので、そのまま流れ的にテーブルにそれらを置いて行くと、義一自身も席に座り、それから武史を交えて乾杯をするのだった。
武史はこの”風習”に対して特に戸惑った様子を見せなかったので、まずそのことについて質問をすると、「前々からやってる事だから」と悪戯っぽい笑みを浮かべながら返された。
「へぇー…」
とそれを聞いた時、私はふとそう声を漏らしつつ義一に視線を流した。
ふーん…義一さん、他の人ともこんな絵里さん由来の事するんだー…。
と、こんな感想を覚えていたのだが、「ん?琴音ちゃん、どうかした?」と義一に聞かれたので、私は大きく首を振り「んーん、何でもなーい」と間延び気味に返してから、目を瞑りつつ、味わうように紅茶を啜ったのだった。
「…?」
と笑顔ながらも頭に?マークを義一は浮かべていたが、それにはこれ以上突っ込まれなかったので、私は早速チラッと斜め左に座る武史に視線を流しつつ聞いた。
「…で?最近はこんな事ばっかな気がするけれど…何で今日ここに武史さんがいるの?あ、いや、何でまた例によって誰かいることを内緒にしておいたのよ?」
「あ、それはね…」
と、義一は予想に反してすぐに薄眼がちになると、その目を斜め右に座る武史に向けつつ答えてた。
「僕もまぁ…別に話しておいても良かったと思うんだけれど、先月、一月の上旬というか中旬というか、あの時の先生を交えた話をこの男にしたらさ…」
とここまで義一が話していたのを、不意に武史が意地悪な笑みを私に向けて浮かべて見せつつ引き継ぐように言った。
「だったら俺の時もそれで頼むよって頼んだんだ。そのー…仲間外れはイヤだからね」
と言い終えた後でウィンクをして見せた。
「あはは…」と私は典型的な呆れ笑いを作って見せたが、この時同時に心の中で思ったのは『数寄屋であった時と、キャラが若干違うなぁ』といったものだった。聞いておられる中でも、そう思われた方もいるだろう。でもこれは…当たり前といえば当たり前だが、すぐに、この程度の振れ幅はどの人間でもあるもんだとすぐに思い至った。
ただ…年末の討論時は別にして、公私ともに全く変わらない、例えば武史は今”俺”と一人称を使っているのだが、どんな時でも義一は”僕”呼びを止めることはなかった。これがまぁ、いくら私が仮に藤花たちが言うように、箱入り娘と称されるほどに世間知が無いとしても、それでも義一が”このような点に於いても”変わってるというのは分かっていた。話を戻そう。
「でー…あ、そうそう、何で今日俺がここに来てるかって事ね?それはね…」
と武史はふと、今年に入ってから一度も整理されてるところを見た事がないほどに何十冊もの本が重ねて置かれている書斎机の方に視線を流しつつ言った。
「オーソドックスの新生第一号の原稿が上がったから、そのチェックを受けに来たんだよ」
「へぇー、なるほどね…って」
と私も同じように書斎机に視線を向かわせていたのだが、すぐにふと思うところが出来て、すぐさま悪戯っ子な笑みを、武史だけではなく義一にも向けつつ言った。
「そのためにわざわざ京都から来たの武史さん?」
…そう、先ほど武史が宝箱にいたことについて驚いた理由の一つにコレがあった。
「私も正直分からないから、ただの知ったかで言うんだけれど…それって別にメールかなんかでもいいんじゃないの?」
私がそう言い終えると、ふと二人は顔を見合わせたが、次の瞬間クスッと笑い合うと、「そうだなぁー」と武史が和かな顔つきで口を開いた。
「確かに確かに。今君が言った通りだよ。俺もまさかわざわざそのためだけには来ないって。でもまぁ…」
とここでまたチラッと机の方に視線を流しつつ続けた。
「良い機会だからなぁー…そりゃメールでチョチョイって出来ちゃうのはありがたいけれど、でも出来るなら、やっぱサシで顔を突き合わせて生で会話した方が、中身も何だかんだ違ってくるからねぇ」
「あぁー…何となく分かる気がする。…けれどさ」
と私はまた新たな疑問が湧いてきたので、それを新たにぶつけてみる事にした。
…ってさっきから大袈裟かもしれないが、まぁ実際こんな風に思考が廻っていたので、このまま続けることにする。
「って事は、何かの用事ついでに義一さんのトコに寄ったって事?」
「んー…」
と私が聞いた瞬間、武史は腕を組み何やら考えるポーズをして見せていたが、数秒したのちにバッと顔を勢いよく上げたかと思うと、ニコッと笑顔を浮かべて
「ご名答ー!」
と言うのだった。そんなテンション高めの武史とは反対に、ただただ唖然として、そして呆れ笑いを浮かべるしか無かった私だったが、このやり取りを義一はただ静かに、何だか微笑ましげに紅茶を啜りつつ眺めるのみだった。
そんな中、私を余所に若干テンションを落としつつ武史は話を続けた。
「そう、今琴音ちゃんが言ったように、まぁ…厳密には二つばかりの用事を済ませるために、こうしてわざわざ京都の片田舎から東京まで出張って来たんだよ」
「…二つ?」
と私が相槌にも及ばない程度に声を漏らすと、武史はまたニコッと一度笑みを浮かべてから、ふと足元に置いていた、パッと見ビジネスバッグに見える手提げ鞄を取り、そしてそれを腿の上に置いたかと思うと、それからおもむろに鞄を開けて何やらゴソゴソと中を探っていた。
「んーっと…お、あった、あった」
と武史が中から取り出したのは、紐付きの茶封筒だった。…だったのだが、まぁ私の実際に今まで見た事が無かったから偉そうには言えないが、想像していた物よりも、とても小ぢんまりとしたサイズだった。言うなれば、わざわざ鞄に入れずとも、そのまま深めのポケットになら入りそうな代物だった。
「…?」
と私は何事か分からず、ただそのまま武史の一挙一動を眺めていたのだが、「はい」と武史は相変わらずに笑顔でいながら、今取り出した茶封筒をこちらに差し出してきた。
「え…?」
と私が戸惑っていると、それを余所に調子を変えないまま「はい」とだけ言って、その手を引っ込めずに、むしろ徐々に私に近付けて来るのだった。
ふと私は義一に視線を向けると、丁度目が合った義一はカップを口につけていた所だったが、そのままの体勢でコクっと一度微笑みつつ頷いて見せたので、
「う、うん…」
とまだ戸惑いが抜けないままにソレを受け取った。
手に持った感じでは、何やら本が入ってそうだというのはすぐに何となくだけれど分かった。
少しの間だけ眺めた後、顔をふと上げて「これって…?」と聞くと、武史はまた一度ニコッと笑うと
「まぁまぁ、開けて見てよ」
とだけ言うので、私はボタンに絡めて止めてある紐をグルグルと慣れない感じで解いて、封を開けて中身を取り出してみると、出てきたのは…まぁ、先ほど話した通り、想像した通りに一冊の本だった。ソレは新書サイズの本で、ふとまず思ったのは、義一の本とそっくりだなというものだった。 勿論、中身をまだ見ていないので、厳密には同じかどうかまでは言えないが…。
と、そんなクダラナイ事はともかく、しかし表紙のデザインまで義一のとそっくりだったので、『まさか義一さんの本を私に…?もう持ってるのに』などと瞬時に思ったものだったが、ふと表紙に書かれている言葉を見て、その考えはすぐに捨て去った。
表紙には『亡国のFTA』と書かれており、その下には…ここまで聞いたらもうとっくに分かった方もおられるだろう、そう、その書名の下には小さめの字で『中山武史』と出ていた。
「…あ」
と私が声を漏らしてふと顔を上げると、武史、それに義一までもが、何も言わずに似たような笑みを浮かべていた。
「これって…武史さんの本?」
「そう、その通り」
と武史は先ほどからずっと笑顔のままだったが、それでも徐々に真顔気味にシフトチェンジしていっていた。
「その本はねー…まぁ言うなれば、義一の先月出した本、『自由貿易の罠 黒い協定』と同じような内容の本なんだ。つまり…」
とここで一度義一に視線を流してから続けた。
「義一と同じでね、俺も今回の協定が大問題だと考えててねぇ?それで遅ればせながら俺も書いたんだよ。…って、あ、この本の題名に『FTA』とあると思うけれど、それは『Free Trade Agreement』の頭文字をとったものなんだ。日本語に略せば『自由貿易協定』って意味なんだけど…」
「うん、知ってるよ。…義一さんの本で覚えたもの」
と私はすぐさま、自分でも恥ずかしいほどに若干誇らしげに、視線をチラッと義一に向けつつ返した。
すると、武史は一瞬目を見開いて見せた後で「あははは」と、見た目から想像していたのとは違って、本当は字にすると『ガハハハ』に近いほどに豪快に笑ってから言った。
「そうか、そうか、知ってたかぁー。…ふふ、琴音ちゃん、いくら読んだからって、数寄屋で会話した感じでは、元々そんなに経済学的な事には興味も関心も無さそうだったってのに、よくもまぁそこまで、義一の本を読んで勉強したねぇ」
と終いにはニヤケつつ言い出したので、正直武史の言葉の本意が見えなかった私は、取り敢えず苦笑いを浮かべるのに留めておいた。
そんな私の心中を察したかどうか分からないが、私の話だというのに何故か気持ち照れ臭そうにしていた義一に一瞥を投げると、武史は和かに口を開いた。
「まぁさ、今日わざわざここに来た理由の一つってのが…それ、俺の書いた本を君にあげようと思ってね?それを京都から持ってきたんだ。…貰ってくれる?」
と最後に今までとは打って変わって柔和な笑みを浮かべて言ったのを受けて、私は手にずっと持ったままだった武史の本を一度眺めてから、別に悩むほどの事ではなく、手渡された時点で、生意気言う様だがまぁそんな事だろうと思ってたし、それと同時に迷いなく心は決まっていたので、顔を上げるとニコッと自然に笑みを零しつつ「うん」と答えた。
「勿論だよ。ありがとう」
と私が返すと、武史は目を細めるように笑みを作ると
「どういたしまして!」
と口調は明るく返すのだった。
「いやー良かったー」
と武史は座りながら両腕を大きく天井に向けて伸びをしながら言った。
「いや、義一から聞いてはいたんだけれど…普通の中学女子は、こんな事なんかに関心なんか起こさないだろうと思ってて、勿論数寄屋の夜の事とか覚えてはいるし、それ以前にも義一から色々と聞かされてはいたけれど、それでも今の今までどうかと思っていたんだが…いや、わざわざ持ってきて良かったよ」
何だか妙な言われ方をしたものだと思ったが、それでも別に微塵も嫌な気は起きなかったので、「ふふ」と短く微笑みを零すのみにしておいた。
「せっかくだから琴音ちゃんだけじゃなく、絵里ちゃんの分も持って来ようとしたんだけれどね?」
と武史は私に顔を向けつつ、視線だけは義一に流しながら言った。
「『絵里はいいよ。僕の本で一杯一杯なんだから』って言うもんだから、持ってこなかったんだ」
「まぁ仕方ないよ」
と義一はズズッと紅茶を一口飲むと、カップを置きつつ間を空けずに言った。
「自分で言うのもなんだけど、僕の書いたあの本は、いわゆる専門書では無いから、そこまで難しいとは思わないんだけれど…あれでもうウンザリって言われたからねー…。琴音ちゃん、ちょっと今回の武史の本は、僕が書いたのよりも、まぁ本人が経済学ではなく政治学出身とは言いつつも、それなりの専門性が強いから、読むのに少し骨が折れるとは思うけれど…でもまぁ」
とここで義一はチラッと武史に視線を流しつつ続けて言った。
「その本も読んであげてね?僕の本をより発展的に書いてくれてるから」
「よろしくね」
と武史もすかさず、何だか下手くそなウィンクをしてきつつ言ったので、
「…ふふ、分かったわ」
と思わず笑みを零しつつも返した。
その直後には、三人揃って和かに笑い合うのだった。
「本当は俺も同時くらいに発売予定だったんだけれどさ、ちょっと忙しくてねぇ…出遅れちゃったんだ」
と、聞いてもないのに武史が言い訳がましいことをブツブツ言っていたが、それを軽く笑みを見せるのみで流して、残った疑問をぶつけてみる事にした。
「それでさ…」
「ん?」
「うん…あと一つっていうのは?」
と私が聞くと、「んー…」と何故か義一も一緒になって唸って見せた。
…見せたのだが、武史は愉快げに、義一は何だか苦笑を浮かべて、バツが悪そうに照れ臭げと、ここでまた謎の対照的な反応をしていたのが印象的だった。
「…?」
と私は黙ったまま二人の様子を見ていたのだが、顔にハテナが沢山浮かんでいたのが分かったのだろう、武史はチラッと義一を見て、そしてまたこちらに戻して、それから口を開いた。
「まぁ何というか、ある意味この件が一番最初にあって、それに今まで話してきた事ってのが付随してきたんだけれど…」
「…ん?」
何やら小難しい言葉を並べ立てて話し出したので、『こんな所は、何となく義一さんに似ているなぁ…類友ってやつか』などと呑気な感想を覚えつつ
「要はどういう事なの?」
と堪え性のない私は、少し焦ったげに自分でも分かる程思わず薄眼がちになりつつ聞いた。
すると、相変わらず照れ臭げにしている義一をチラッと見て、「ふっ…」と小さくため息交じりに笑ったかと思うと、武史は私に何故か悪戯っ子のような、何か悪巧みをしている風な笑みを浮かべつつ言った。
「そうだなぁー…琴音ちゃん、来週の月曜日の夜の九時って時間ある?」
「え?」
思いもしなかった言葉に、思わずキョトンとしてしまったが、その直後に記憶を辿って、それから何とかといった調子で答えた。
「…う、うん、時間はある…と思うけど?」
「あ、そうかい?じゃあ…」
と武史はここでふと鞄からメモ帳を取り出すと、そこから一枚綺麗に紙を切り取り、それをテーブルに置いた。
そしてその白紙に何やら書き込んでから、それを私に手渡してきた。今度は何の気もなしに差し出されるままに受け取ると、そこには、普段からテレビをほとんど見ない私ですら知ってる、時事ネタを扱う討論バラエティー番組だった。
「…え?これって…?」
と相変わらず全く意味の分からないヒントを手渡されて、ますます疑問が湧いてくるのを覚えていたが、それを余所に、武史はまた一度チラッと義一に視線を流しつつ、先ほどの笑みのままいうのだった。
「暇だったら、その番組を見てみてよ。そこに最後の質問の答えが出ているからさ?」
当然この後も何度か詳しく説明を求めたが、二人にのらりくらりと躱されて、この日は前回、神谷さんがいた時と同様に、この後は借りてた本についての議論は取り敢えず保留して、主に義一の本の感想について、今度は武史からその内容についてどう思うかについての質問攻めにあって、それに戸惑いつつも答えるのに終始した。
ある雑談の中でも出た事だが、どうも武史は東京に出てくると、義一の家に泊まるのが常となっていた様だった。初めて数寄屋で出会った後も、私と絵里を送る意味で早退した義一だったが、朝方近くにやはりあの時も武史はこの家に来たらしい。
何が言いたいのかというと、この日”も”武史はこのまま義一の元に泊まるとの事だった。”も”を強調したのは、武史はその教えてくれない用事の為に、今週の木曜日からこっちに来ていて、今日が三泊目との事らしい。
夕方五時になったので、私が帰る旨を伝えると、義一と武史が二人して送り出しに玄関先まで出てくれた。
靴を履き、間間にあった雑談時に今回また義一に選定してもらった十冊ばかりの本の入ったトートバッグを、座りながら肩に提げ立ち上がり、二人を振り返り改めて見たのだが、私はフッと思わず笑みを零してしまった。
片やスーツをビシッと着ているのに、片や義一の方はこの時期によく着ているアラン柄の黒いセーターと、下はジーンズというカジュアルだったからだ。あまりに正反対の格好に、並んだ時のそのアンバランスさに思わず笑ってしまったという次第だ。
因みにこれも雑談で出たことだが、何も普段から武史は部屋の中でもスーツを着ている様な奇特な方ではないらしい。ただこの日は、午前中にどこかの大学の研究室にいる先生に会いに行くというので、それでスーツを着ていて、ただそのままだったとの事だった。まぁ武史には悪いけど…どうでもいい。
手を振り合い別れて家に帰り、普段と変わらず夕食をお母さんと共に食べて、お喋りし、寝支度を済ませ、自室に入った時には夜の九時半ごろになっていた。
ベッドの布団の上から座り、私は早速武史に貰った自身の本、『亡国のFTA』をまず前書き部分から読み始めた。
義一がボソッと言っていたが、確かにこの時点で、この後に専門性の高い議論が待ち構えていることが示唆されていたが、と同時にワクワクもしていた。今日は早めに自室に引き揚げたことだし、このまま読みきってしまおうかと思ったその矢先、ふと武史の言葉を思い出して、一旦本を布団の上に置くと、私はパソコンデスクに向かい立ち上げた。そして検索サイトに向かい、先ほど書いてもらったメモを手元に置いて見ながら、その番組名を打ち込んだ。
すると一秒もしないうちに検索結果が出て、その一番上に公式のサイトが出ていたので、早速それをクリックした。
その中での次回の出演者欄を見つけて、それをスクロールしていって見ると、ある人物の名前が載っていたのを見て、唖然とするとお同時に、一人で思わず苦笑交じりに呟いてしまうのだった。
「…これまたデジャヴだわ」
第24話 (休題)とある地上波番組内からの抜粋 Ⅱ
毎週月曜日の夜九時から放映されている一時間番組、いわゆる討論バラエティー番組内での一コマ。
この番組は、私は正直そんなに評価しない…といっても、まぁどうしたって先日亡くなった”師匠”と比べてしまうので仕方ないが、世間一般的にはお笑い界での大御所と持ち上げられている還暦過ぎたお笑い芸人と、やたら口の回る歳のいった女性、この二人がメイン司会者で番組は進行される。
テーマによってそれぞれ出演者も変わるのだが、この日はこの度話題になっている『FTA』がテーマだったので、経済界関係者なり、学者先生なり、そして極め付けは、それを主導する内閣の一人、経産大臣までが出席していた。
…いや、私からしたらこんな経産大臣なんぞどうでも良い。私にとっての極め付けはやはり…
女「…です。その隣に座られているのは、今月にこちらの本、『亡国のFTA』をお書きになって、発売してから一気に話題をさらった訳ですが、その著者で国立大学准教授でいらっしゃいます、政治思想がご専門の中山武史さんです」
武史「(ただお辞儀する)」
女「はい。で、最後にですねぇ…ようやくと言いましょうか、ここ一ヶ月以上ずっと世間を賑わせていた…なんと言いますか、発売は今年一月の中旬辺りでしたが、それから今までどこの本屋でも平積みされているのを見ない日は無いって程のベストセラーを書かれたにも関わらず、ご本人が一切表に出てこないものだから、そのミステリアス加減に益々話題が加速された感があるわけですが…当番組にてようやく顔出しをしてくれました。初のメディア出演です。ご紹介しましょう、『自由貿易の罠 黒い協定』をお書きになった、…望月義一さんです」
とここで画面がパッと義一一人にフォーカスが行った。画面一杯に現れた義一は、一度辿々しく周囲を見渡してから、ハニかんだ笑みを零しつつペコっと一礼をした。
…本当だ、本当に義一さんがテレビに出ている。
そこにいる義一は、私が今までの付き合いの中で見たことのない様な、ビシッとしたスーツに身を包み、髪も相変わらず長かったが、普段よりもピチッと纏められている印象があった。
女「いやぁ…初めましてですね」
芸人「当たり前だろ?(笑)」
女「そりゃそうですけど…(笑)。いやぁ、ご本はもちろん読ませて頂きましたが、まさかこんな、まるでモデルの様な綺麗な見た目の方が書かれたなんて、意外ですもの」
芸人「初っ端からそんなので浮かれすぎだろ(笑)」
一同「あははは」
と、まだ序盤だからか、まるで意味のない話から始まったが、こういった笑い合う空気の中、カメラは何度も義一の表情を抜いて映していた。義一特有の苦笑いからは、居た堪れなくて離席したくて仕方ないといった心境が、ヒシヒシと感じ取れた。何となくだが、この時の心中は、よく分かるような気がしつつも、どこか意地悪な気持ちも湧いてきていて、私は一人クスッと笑いながら眺めていた。
そんな空気の中、突如としてBGMが流れて、一気に話の本題へと進行していった。
番組はまず、私も義一の本を読んで初めて知ったのだが、今話題のFTA は、まだ交渉に参加するかどうかで国内が紛糾しているという現状で、それで交渉参加すべきかどうかの話になった。
元々義一の本を読み、その後で何度か宝箱で議論を重ねたり、質問に答えてもらったり、そして、この放映日までに何とか武史の本も読破し終えたので、それなりに何とかすんなりと主張が頭に入っていっていた。何が言いたいのかというと、結論としては義一も武史も一緒で、”交渉参加自体を行なってはダメだ”といったものだった。それについては、私自身も何も知らないなりに、それまでのやり取りなどの中で、それは当然のように思えた。
ついでに、ここで少し細かい事に触れると、この番組は一応表面上は”賛成派”と”反対派”を公正中立に呼んだ体をしていたが、義一と武史を除く、経産大臣は言うに及ばず、それ以外の出演者はみんな賛成派で占められていた。
色んな今回のFTAについてのVTRが流された後で、映像はスタジオに戻り、メイン司会者の二人に戻った。
芸人「そういえば、いつだったか…以前ここに来た経済学者の一人が、『これは合コンみたいなもので、好みじゃない子しかいなかったら、無理してその中から一人を選ばずに、外に出ちゃえばいい』みたいな事を言ってたんだけれど…」
賛成派「そうだと思います」
武史「いやぁー…違うと思いますね」
芸人「というと?」
武史「それは、んー…ここにいる望月さんが本の中で書かれている事だから、本人に言ってもらうのが一番良いんでしょうけれど…これは合コンなんかじゃないですよ。ね?」
義一「…ふふ、そうですね」
女「あ、では望月さん、是非お願いします」
義一「そうですねー…これは少なくとも、合コンなどではなく”婚約”と、僕はまぁ本では書いたんですけど」
女「婚約…ですか?」
義一「えぇ…。んー…これはまぁ、そもそもこの例え自体がクダラナイんですけど、この『合コン話』は、この協定が急に持ち上がった頃から言われてたんで、それに一応レベルを合わせる意味も込めて、反論として婚約と例えたんですがね」
…ふふ、義一さんらしいな。
芸人「婚約…って、まだ今だによく意味が分かってないんだけど、それってどういう意味ですか?」
義一「あ、あぁ、すみません…僕の悪い癖で、どうしても話が脱線してしまうんですよ。コホン、婚約というのはですね…まぁ、そのまんまの意味ですよ。そもそも考えてみてください?『さぁ、これから貿易交渉をするぞ』って周りが息巻いてる時に、ぬけぬけと後から来たくせに『あ、僕はちょっと今顔を出しておくけれど、別に本気じゃないから。嫌だったら出て行くからねー』だなんていう奴がいたら、どう思います?」
芸人「あはは、張り倒したくなりますな」
女「ほんと、ほんと」
義一「まぁ合コンって喩えている人は、こんな考えのもとで言ってるんですよ。そうでしょ?でも婚約…って、今思えば、コレよりも、昔ながらの古風な”お見合い”の方が例えとしては近いかも知れません。両家お互いが中々に歴史のある家柄だとして、当人たちが顔を突き合わせてお見合いに臨む…。ここには、先ほどのようなフザケタ空気は生じ得ませんよね?国家間の交渉だって…まぁこんなお見合い話と一緒にするのもどうかと思いますが、同じです。それほどの緊張感を持ってやり取りを交わし、本人たちの問題だけではなく、両家の都合も当人たちは考えなくてはいけない、そんな難しい交渉を重ねた挙句に、先ほどの軟派な男みたいに『やっぱ気にくわないから止めるわ。じゃーねー」みたいな事を言って、実際に仮に出ていったと考えてみてください?残った両家の面々は、この男のことをどう思いますか?」
司会者「あはは」
とここで何故か司会の二人のアップになり、笑っている映像が流れたが、賛成派の面々の姿は映さなかった。まぁ、特には気にならなかったけど。
義一「同じ事をしたなら、その瞬間どの国からも軽蔑されますよ」
武史「あはは。まぁその通りでしょう。まぁ尤も…もっと昔から馬鹿にはされてるでしょうけれどね」
賛成派「な!?」
と急にここにきて賛成派の並ぶ陣営が映されたが、「あはは」と豪快に笑う例の武史の笑い声が画面外から聞こえてきて、その直後にはまた武史が画面に映った。微妙に義一も見切れて入っていたが、武史をチラッと見つつ、手で軽く上品に隠してはいたが、口元は”思いっきり”緩めていた。
武史「時間があるか分かりませんが、今のぎい…あ、失礼、望月さんの話をより具体的に証明する事例を挙げますとね、そもそもアメリカの今回の交渉担当官がズバッと言ってのけてますよ。『そんな途中で抜けてもいいだなんて考えで交渉に来られても困る。これだけ今回のFTAは、何カ国か巻き込んでする大事業なのだから。交渉には勿論我が国も含めて、本来ならあまりテーブルに出したく無いような手札も出さざるを得ない…そんな調子だというのに、それを我々の手札だけをチラッと見て、それで後はさよならと言われては…”困る”』と言ってましたよ」
武史は手元に持ってきていた自身の資料を読み上げつつ、最後の部分だけ意味深に溜めてから言い終えた。
ここでまた何だかドキッとさせるようなBGMが鳴ったかと思うと、前回との脈略がない感じで次に議題に移っていった。
賛成派の経済界関係者で、紹介では何でも今の内閣のブレーンの一人だとの触れ込みだった。
ブレーン「望月さんと中山さん両名のご本を読ませて頂きまして、それなりに面白く、その反論もよく分からないでも無いのですが…まずそもそも現時点で今回のアメリカ主導の地域間FTAが出てくるまで、それまでは別に中国が自分でFTAを既に作ろうとしていた訳です。今我々に突きつけられているのは、アメリカ主導のFTAに参加するか、中国主導のFTAに参加するか、これを選ばなくてはいけない…」
武史「…」
…は?
義一「…プッ」
画面には映っていなかったが、明らかに義一と思われる吹き出し笑いが聞こえていた。が、私は武史と同じで無表情…いや、もしかしたらかなり怖い表情でいたかも知れない。
ブレーン「これはお二人も、私たちと同じ考えのはずですよ?中国のか、アメリカのか…このどちらかを選べと言われたら、それはー…今回のアメリカ主導のものでしょ?」
はぁー?
と私は先ほどから、この男性…いや、この男が軽薄な笑みを浮かべつつ、ツラツラと述べる言葉を聞くたびに、その中身の無さとその態度の相乗効果か、思わずテレビ前で声を漏らすほどに、イライラが募りに募っていっていた。
が、画面に映し出されていた賛成派の者たちは、大臣も含めて時折賛意を示すような頷きを見せていた。
とその時、
「プッ」
という吹き出し音が”また”聞こえてきた。
この時ばかりは、勿論これは収録したものだからそう編集したのだろうが、パッと画面が切り替わったそこには、テーブルに両肘をつき、手を組んでそれを口元に軽く当てるという、義一独特の考えるポーズの一つをしていたが、目を凝らさねば分かり辛いが、若干緩んだ口元が見えていた。
そんな様子を見た、先程まで少し怒りが見える無表情でいた武史は、やれやれと言いたげな呆れ笑いを浮かべつつ義一を眺めていた。
とここで一瞬パッとまた賛成側が映し出されていたが、こちらはさっきと打って変わって、見るからに不機嫌そうな様子を見せていた。
ブレーン「…何ですか?さっきから…」
義一「あ、いや、すみません。悪気はないんですけれどー…ふふ、いや、何せ今の政府のブレーンだと言われる方が、ここまで堂々と、『我が国にはそもそも主権がなく、せめて今の二つの超大国のどっちにつくかしか、生き残れるのは不可能なんです』と言われるもんですから…」
ブレーン「そ、そんなことは一言も言ってないでしょ!?」
義一「まぁまぁ、そんなに興奮なさらないでください。私はある意味で感心してるんですから。そのー…仮にも政権中枢と繋がりがあるお人の口から、そんな事を仰るだなんて…ある意味、勇気があるなぁー…と」
ブレーン「なっ…」
…クスッ。あははは。
武史「あははは。まぁそうですねぇー…まぁ今望月さんが”正直”な事を仰ったので、それを私が”上塗り”しますとね…」
とここで武史は、先ほどまで義一の話す言葉に一々この中で一人爆笑していたのだが、スンっと無表情に戻すと、今度は若干緊張感を滲ませた口調で続けた。
武史「そもそもですよ?確かに今望月さんが何の衒いもなく正直に言われた通り、この国というのは戦後に入ってから、アメリカやその他の大国…以前はソ連だった訳ですけれど、海外の目ばかり気にして、一切の主体性を放棄し続けてきた国です。…確かにそんな情けない国なんですが、それを…仮にも政権のブレーンとして働いていらっしゃる方が、自らの口からそんな事を言うというのは…もし他の国だったら、その時点で袋叩きに遭いますよ?『何なんだお前らは?この国の行く先を、国益の観点から考えて行く先を決める、そんなエリートじゃないのか?』とね」
うんうん
それからは、このブレーン(?)から始まり、賛成派が二人に野次る様子が一瞬映し出されていたが、ここでまたVTRへと画面は切り替わっていった。
が、その直前、一瞬義一と武史の表情が映っていたのだが、二人共、向かい側の面々とは対照的に愉快げな笑みを浮かべていたのが印象的だった。私も揃って笑みを浮かべてしまうほどに。
番組は中盤から終盤に差し掛かり、議題は”食の安全、それと他の交渉材料について”に移っていった。
女「貿易が自由になって、まぁ価格が安くなるのは主婦としても助かるなぁって思うんですが、それでもやはり安かろう悪かろうっていうんで、食品の安全は保たれるのかなぁって思ったりもするんですけど…守れ…るんですか?」
これに答える男性は、肩書きが某日本最高学府と称されている大学の経済学部教授というものだった。
「それは守れるしー…守らなくてはいけないものですよ。恐らく今回のFTAも、WTO(World Trade Organization)つまり『世界貿易機関』ですね、そこの取り決めに従ってする事になると思います。でそこでは食の安全に関しては、科学的根拠に基づくというのが大原則です。これはハッキリとどの国も従うはずなので、そこは心配が要らないと…」
武史「んー…?」
教授「…?お、思います」
女「あら?中山さんが唸っていらっしゃいますけれど…?」
義一「ふふ」
と義一はそんな武史の様子を見て、一人また和かに笑みを浮かべるのだった。ちなみに私も画面内の義一に釣られて笑みを零していた。
武史「いやだってー…あまりにも無責任…いや、もし覚えておいでだとしたら無責任、確信犯、でー…もしど忘れしておいでだとしたら、それはもう…”色々と”不自由な方なのかなって同情しますけれど」
義一「ぷっ」
…ふふ、いつも雑誌内で言っている『”頭”の不自由な方』って言おうとして止めたわね。
教授「…ゴホン、それは一体…ど、どういう意味ですかな?」
武史「え?あ、いや、簡単な話ですよ。私の口から説明させるんですかー?最高学府の教授ともあろう方が、京都とはいえ同じ国立大学に職を持つとはいえ、単なる准教授の私に…?まぁいいですよ、後輩としてでは恐れながらも説明させていただきます」
ふふ。
武史「そもそもですねぇー…いや、先生が惚けていらっしゃる前提で話しますけれど、確かにWTOでは今仰ったような取り決めは”一応”していますよ?していますけれど…お忘れではないですか?数年前になりますが、アメリカから輸入された牛肉が汚染されていた事を」
義一「んー」
うんうん
武史「あれだってWTOの取り決めの中での貿易の中で起きた事象ですよね?…あ、まだ待ってください。私は何もWTOを批判したいんじゃないんですよ。いやむしろ、今回のFTAだって、このWTOの枠組みでなら良いと思ってるんです。何せ…」
とここで武史は一度隣の義一に視線を配り、それに応えるように義一が微笑みつつ頷くと、武史はまたその教授の方に向き直って、悪戯っぽい笑みを浮かべつつ続けた。
武史「二〇〇一年十一月に、カタールのドーハで行われた、いわゆる”ドーハ・ラウンド”が開催された訳ですが、九年にも及ぶ交渉にも関わらず、先進国と、当時急速に台頭してきたブラジル、ロシア、インド、中国の四カ国からなる、通称BRICsと呼ばれる新興諸国との対立によって、中断と再開を繰り返した挙句に、ジュネーブで行われた第四回WTO閣僚会議で『交渉を継続していくことを確認するものの、近い将来の妥結を断念する』との議長総括が出されて、事実上停止状態になった訳ですよね?…何が言いたいかというと、今回のFTAもそうなれば良いなっていう希望はあるのですが、それはともかく、発言が長くて恐縮ですけど…そもそもそんな法律文書に何が書かれていたって、それを守らない限りは何の意味もない、ただの紙切れに過ぎない訳です」
教授「ちょ、ちょっと待ってください。どの国だってキチンと国際法を守るというのが大原則なんですよ?それをそんな軽率に扱って…」
義一「ふふ」
教授「…何が”また”おかしいんですか?」
義一「あ、すみません…ついつい議論が面白くて笑ってしまいました」
…ふふ、嘘ばっかり
義一「いやぁ…たけ…あ、違う、中山さん、ちょっと横から失礼しても良いですか?」
武史「あはは、どうぞどうぞ」
義一「すみません。…いやぁ、先生、先生が法を遵守してるというのは痛いほどに伝わってくるのですけれど、今この場では深いことは話せないのが歯痒いですが…先生、そもそも法律というのは、それを犯したものに対して罰する、いわば権力が無ければ成り立たないのは分かりますね? …まぁ、答えて下さらないのなら良いです。誰でもわかることですからね?…ふふ。では先生…国際法、この場合はWTOの取り決めですけど、これを犯すと誰がその国に対して罰を、ペナルティを与えるんですか?…これは答えられないでしょう?それは僕もです。なぜなら…そもそも世界を纏める統治機構が無い限り、それを罰する機構も存在し得ないからです」
うんうん
「これを聞いてる方の中には、『それは国連じゃないか?』だとか、中には『それは世界の警察であるアメリカじゃないか?』のような意見まで出てきそうですが、それのどれも違う…少なくとも先生、あなたはこの意見は分かってくれてますよね?何せ…ご自分でこの話を振ったのですから」
教授「…」
義一「そもそも今の時代、多様性がどうのこうの云々カンヌンと言われている中で、そんな”世界統一機構”、言うなれば”世界政府”…こんなものは少なくとも現時点ではどう考えても無理だし、そもそも出来てはいけないものですよね?出来たらそれこそ”多様性”が失われるのですから。…話が大きく逸れてしまって、今僕が話したのがどれほどオンエアで使われるのかは知りませんが、僕の発言はこのあたりで終えようと思います」
ここからは終盤戦。議題はそのまま延長戦といった趣だったが、ここからは今まで黙って議論を静観していた経産大臣が、満を辞してといった感じで加わった。
大臣「そもそも我々日本政府とアメリカ政府との間で共有しているのはですね?国際基準を重要視しましょうって事なんです。で、ですね、先程来の議論ですけれど、WTOには”SPS”という、衛生植物検疫措置の適用に関する協定がありまして、これがいわゆる食の安全に関わる重大なものの一つなんですが、アメリカは『それについて外せなどとは言いません』と言ってるんです」
…は?
司会者「ふーん」
と大臣のこの発言を聞いて、賛成派含む皆して頷いたり感心して見せたりしていたが、ただ二人、そう、もちろん義一と武史はそれには当然加わらなかった。
順々に出演者の顔が映し出されていっていたが、最後の方で義一と武史が出されたが、二人して怒りを通り越したような、そんな類の苦笑いを浮かべていた。義一に至っては、頭をカリカリと掻いている程だった。それはそうだろう。
…この大臣、今回の協定に関する、総理を除いての最高責任者のはずだけど…一体今まで、何の議論をしていたのかキチンと聞いてたのかしら…?いや、そもそも、義一さんと武史さんの話を、キチンと真剣に真面目に聞いてたのかな…?
大臣「今世界では、日本の食品の安全性が認知されてきていますよね?例えば中国産の粉ミルク…これを含めて、もう中国人自身が自国のものをなるべく買わないようにしてますよ。安全かどうか分からないですからね?ですから、今中国だとかでも、日本の物産品の人気は高まっているんです。とても国際競争力があるものだと思いますよ?日本の農産品は」
その他の一同「あー」
義一・武史「はぁ…」
私「はぁ…この大臣、何で急に中国の話をし出しているんだろ…?今回のFTAは、さっきブレーンかなんか知らないけれど、そもそもいち早く中国が動き出していたFTAに対抗する意味もあるって言ったばかりだよね…?それを今中国では日本製品が人気みたいな、まるで関係ないことを言い出して、ついには日本の農産品には国際競争力があるだなんて…。はぁ…大臣という重要なポジションについているというのに、まるで食に関しての国防意識が一切無いんだな…。義一さん、それに武史さんも本に書いてるけれど、それでもし仮に日本の農産品が負けて無くなってしまったら、一体どうするつもりなんだろう?」
と、知らず知らずのうちに、ボソボソとテレビ画面に向かって独り言ちてしまっていた。普段だったらすぐに気づいた後で、一人赤面…とまではいかないまでも、自嘲気味に苦笑するところだったが、この時ばかりは番組に殊の外集中していたせいか、そんな暇なく没頭していた。
女「まぁしかしー…そんな話し合うだけで、そんな共通のルールなんて物が容易に出来るもんですかねー?それぞれの思惑が当然あって議論を戦わすわけでしょ?」
…お、結構良いこと言ってるなぁ
教授「それはですねぇ、日本政府の肩を持つわけじゃ無いですけれども…大丈夫だと思いますよ?」
義一「…クス」
女「…大丈夫なんですかー?」
と女がふと、視線だけチラッと義一に向けつつ言ったのが印象的だった。
教授「こういう交渉ごとというのは、WTOでもやってきてますし」
だからさー…そもそもWTOというのは、義一さんたちの本で知ったけれど、今現在百六十四カ国もの国々が加盟してる…そんな多国間での交渉だったら、いくら弱ったとはいえ世界一の力を保持しているアメリカにも、早々簡単に好き勝手は出来なかった訳だけれど…自分たちも認めたように、今回のはアメリカが主導の、あくまで地域間のFTAじゃないの…?はぁ…頭が痛くなってきた…。
番組が終わる残り五分前になった。ここで個人的見解から軽く総括すると、最初の方は義一と武史が沢山話していた印象だったが、結局後半部分はずっと賛成派が話している様な感じだった。義一たちはずっと、賛成派の、何も分からない私が聞いても、その議論の筋道がデタラメ過ぎるのが分かる程の、賛成する中身スカスカな論拠を恥じなく述べ立てられたのに対して、終始苦笑いを浮かべている映像のみだった。
最後に言葉を求められて、大臣はまた勿体振るようにゆったりとした調子で口を開いた。
大臣「まず日本の現状を見てもらうのが重要だと思うんですよね。日本というのは少子高齢化社会に大分前から突入していてですね…このまま無策でいると五十年後には、日本の全人口が一億人を割るという試算が出ています」
…で?
大臣「それによって生産年齢人口も、消費人口も減っていきます。老人が増えていくわけです」
…は?もう色々とツッコミどころ満載だけれど、仮に生産人口が云々を良しとしても、何で消費人口まで減るの?老人が増えるんでしょ?だったら消費人口は減らないじゃないの…。長寿社会だし、その中で老人は一切消費しないとでも思ってるのかな?この大臣は…
大臣「当然老人が増えれば社会保障費も増えてくるわけで、このままだと税収が先細りになるだけではなく、支出ばかりがどんどん増えて聞く事になるわけです。…で、ですね?ふと周辺の国々を見渡すと、人口爆発していて、それで経済成長もしている国々がたくさんあるわけです。だったら、その国々と行き来を自由にしてですよ?そこの成長を取り込んでいく事を普通に考えていかなくてはいけないんじゃないでしょうか」
はぁー…
と私がリアルに頭を両手で抱えてしまったので、本当の最後までは見えなかったが、耳には司会者二人が番組を締める旨を伝えるのが入ってきていた。
第25話 数寄屋 C
番組のエンデイングに入り、画面下に出演者とスタッフの名前が流れ出した頃、ピッとテレビの電源を切り、座ったまま大きく伸びをして、ふと横を向いた時、思わず私はそのままの体勢のまま固まってしまった。
何故なら、寝間着姿に着替えたお母さんが、食卓に添え置かれている椅子に座り、何やら湯気を立ち上らせているカップの中身をズズッと飲んで、それを置きながら、こちらに静かな笑みを浮かべていたからだった。
「あ、お、お母…さん」
と、これでも何とか動揺を悟られないように、自然体を装って話しかけた。
…一体いつからそこにいたんだろう…。
この時は、心臓が大きく脈打つ音が鼓膜の裏側で鳴り響き、そのあまりの大きさに、それがそのまま外まで漏れ出ていて、その音がお母さんの耳にまで届いているんじゃないかと、本気で心配したほどだった。それほどまでに集中していた証拠ではあるだろうが、本気でお母さんが今いる居間に来た気配など、微塵も感じなかった。
そんな私とは対照的に、お母さんは今だにその静かな笑みを絶やさぬまま、…これは私のこの時の感情によるフィルターが掛かっていたせいかも知れないが、口調も普段よりも何だか大人しげで、それがむしろ凄みを受け手に与えていた。
「…ん?なーに?」
「あ、いや、その…」
『いつからそこにいたの?』と思わず質問しそうになったが、何だかそれを聞いてる自分が不自然に思えて、すんでの所で留めた。
「…んーん、何でもない」
と最終的に、こんな無難な返しをすると、お母さんはまたズズッと一口すすると、今度は普段通りの笑みを浮かべつつ言った。
「ふふ、珍しいわねぇー?あなたがテレビ番組を見るだなんて。それも…」
とここでお母さんは途端にニヤケて見せると続けて言った。
「何だかとても難しい内容の討論番組だったみたいじゃない?」
「う、うん…」
…やっぱり、今来たんじゃないんだ…
実際はかいてはいなかったが、気分としては冷や汗を全身にかいている心持だったが、それでも何とか、少なくとも声だけは上擦らないように注意した。
まさか…義一さんが出ている所は見てなかった…よね?
こう聞かれたらこう返そうとか、こうしている間にもアレコレと頭の中でシミュレーションをしていたが、どれも付け焼き刃に過ぎず、粗さしか見えずに、余計に思考が混乱するばかりだった。
…ただこの時は、普段は見慣れているはずのお母さんの笑顔が、何だか裏の思惑があるように見える程に、猜疑心に苛まれていく感覚だけは確かに思えた。…自分勝手だけど。
「まぁ…何だか今ね、本を読む気にはなれなかったしさ、この時間…ピアノの練習なんてのも違うでしょ?それでー…消去法をしていったら、『まぁ…たまにはテレビでも見てみるかな?』って思ってね、それでたまたま点けてみたら、さっきの番組がやっててさ?本当は他のチャンネルも覗こうと思ったんだけど、ただぼーっとしてたらずっとそのままでいちゃったの」
と、如何にも何か隠している人にありがちな、本心を隠そうとするが為に言葉を次から次へと紡ぎ出すという、今振り返っても不自然極まりない言葉を吐いてしまった。
言い終えた瞬間も、これはマズかったかと瞬時に反省したが、それを黙って聞いていたお母さんはニコッと一度笑うと「そうなの」と普段通り…に見える調子で返すと
「琴音、あなたも紅茶飲む?」
と続けて聞いてきた。
私は正直、もう色々と限界だったので、さっさと今すぐにでも自室に引き上げたかったが、繰り返すようだが、この時点で大分客観的に見ても怪しさ全開だった私が、ここでいそいそと引き上げるのは、それこそ致命的だろうと瞬時に判断し、
「う、うん。じゃあ…貰おうかな?」
と、何とか笑顔を意識して返した。
するとまたお母さんは「そう?」とニコッとまた一度笑ってからスクッと立ち上がると、
「じゃあこっちに来なさい?今淹れてあげるから」
とキッチンに向かいつつ言った。
もしあんなことが無ければ、どう見てもいつも通りのお母さんだった。
「はーい…」
と私は、気持ちの問題だと思うが重たい腰をやっとこさ持ち上げて、ヨタヨタと自分の定位置の椅子に座った。
「はい」
とお母さんが私の目の前にカップを置いてくれたので、
「うん、ありがとう…」
と私がお礼を言うと、「如何いたしまして」と明るく返したその直後に、お母さんは自分のカップを軽く持ち上げると、「ん…」とこちらに差し出してきたので、この時は頭が混乱していたというのもあってか、すぐには反応出来なかったが、その直後には何の事だか分かった私は、「ふふ」と笑みを零して、それから同じように自分のカップを持ち上げた。
そして、それからは二人して何も言わないままに、お互いのカップをカツンと軽くぶつけ合い、それからズズッと静かに啜るのだった。一口飲んでからは、これまた普段通りの雑談をし合った。何の変哲もなく。
そのお陰か、ようやく私の方でも緊張が解けてきたのだが、ふと、お母さんがテレビに視線を流しつつ、何気ない調子で言った。
「ふふ、でもさ、本当に珍しいこともあるもんねぇー。私が入ってくるのを気づかない程に、ぼーっとしてるなんて」
「う、うん、ま、まぁね…」
何が『まぁ』なのか自分にツッコミたいが、実際にそう返すと、そんな私の様子をどう受け取ったか分からないが、お母さんはクスッと一度柔らかく微笑んでから言った。
「…ふふ、いや、別に良いのよ?んー…なんて言うのかしらねぇー…まぁ普通はこんな風に、自分の娘の事は褒めないのでしょうけれど、琴音、あなたは…うん、普段から何だか神経がピリピリしているように見えるのね?私の目から見ると」
「う、うん…?」
一体何の話をされるのか、よく把握出来ないせいで、一応相槌は打っといたものの、何だか語尾が上がってしまい、疑問調になってしまった。
そんな私には構わずに、同じ笑みを浮かべたままお母さんは続けた。
「いつも普段から、我が娘ながら隙が全くないように見える…ふふ、それはそれで他の今時の子にはない美点といえば美点だから、とても誇らしい事ではあるんだけれど、やっぱり…母親としては、どこかで、んー…変な事言うようだけど、そのー…もう少し”抜けてて欲しい”って思ってたのよ」
と後半から徐々に、静かな笑みから悪戯っぽい笑みに変化させていって、言い終えた直後には目をぎゅっと瞑って見せたのを見て、私は思わず「ふふ」と笑みを零した。
それと同時に、ますます肩から力が抜けていくように感じるのだった。
「…ふふ、抜けてるって」
「あはは。確かに普通だったら、『そんなぼーっとしてないで、もっとシャンとしなさい!』って小言を言ったりするんだろうけれど、琴音、あなたはそんな小言を私にさせてくれないからねぇー…。だからさ?」
とここでお母さんは、ふと自分の二の腕をベタっとテーブルにつき、そして軽く前のめりになりつつ、顔にはまた悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「今日みたいに、たまにはボーッとして見せなさい?そうすれば…私があなたに小言を言えるんだから」
「…ふふ、何それー?どんな頼み事なのよ?」
と私は、先ほどのことがまるで夢の出来事だったかくらいに、遠い記憶の様に感じつつ、素直にお母さんの軽口に呆れ笑いを浮かべつつ返した。
「それが母親が娘に言うセリフー?」
「あら、悪いー?」
「…ふふ」
「あははは」
と私とお母さんは、一度無言で顔を見合わせた後、どちらからともなく笑い出し、そのまま明るく笑い合うのだった。
それからまた簡単におしゃべりをした後で、私は本当に眠気に襲われてきたので、お母さんに挨拶した後、また歯磨きなどの寝支度をすませ、自室に引き上げた。
ベッドに入り一人冷静になると、すぐに先ほどの情景が思い出されたのだが、自分で思うほどには衝撃が和らいでいた。
…今更と思われそうだが、自分ではかなりの悲観主義者だと自認していたのだが、こんなところを見ると、意外と楽観的でもある様だ。
寝落ちする直前まで、呑気に先ほど頭の中で巡らしたシミュレーションを思い起こしたりして過ごした。
それらを思い出す中で、ふと自分で笑ってしまう点が一つあった。それは…もしお母さんに『暇だったとしても、それでも普段からまず観ないあなたが、何でテレビを観ていたのか気になるわ』と言われた時に、私はこう返す予定だったのだ。『それはね、ほら、自分で言うのも馬鹿みたいだけれど、普通の女子中学生と比べて、私っていわゆる流行り物に疎いでしょ?今までも別に裕美たちはそんな私のことを面白がってくれてるから、無理する事はないと思うんだけれど、それでもやっぱり、いつも裕美たちに一方的に教えて貰ってばかりだから、たまには自分でも情報を仕入れてみようと思ったの』と。
だが…まぁ確かに情報というカテゴライズでは、今回の番組は趣旨に合ってると思うが、今冷静に思い返せば、それは余りにも不自然だと、当たり前なのだがそう気づいた。
情報は情報でも、女学生同士の会話で、まさか『昨日の討論番組観たー?今回はFTAについてだったよねぇー。マジで面白かった』などという会話は…まぁ私は出来るし、むしろしたい側の人間ではあるが、そんな私ですら、それが余りにも世間ズレしている事くらいは分かる。
何でわざわざこんなクダラナイ例え話をしているかと言うと、冷静に考えてみたら、この番組の裏で、今クラスでも流行ってる、某有名な高視聴率ドラマが放送されていたからだった。
テレビを点けて真っ先に映ったのが、そのドラマだったのだ。当然私は何とも思わずチャンネルをすぐに変えたのだが、まぁ…結論を言うと、あまりにテンパり過ぎて、こんなシミュレーションまでしていたのかと、それを思い出して、繰り返すがその馬鹿さ加減に一人笑う…というよりも、苦笑いを浮かべるのだった。
その放送のあった次の日の朝。起きて一階の居間にいくと、お父さんが既にワイシャツ姿で食卓前に座っていた。
お父さんの姿を見た瞬間、昨夜の出来事を思い出し、心臓がキュッと締められる様な感覚に陥ったが、それでも何とか挨拶をすると、新聞を眺めていたお父さんは一度それを下に置いて挨拶を返して来た。いつも通りだ。
お母さんによる朝食の支度が終わると、これまたいつも通りに、お父さんの号令のもと朝食を摂った。
何の変哲も無い、普段と変わらない平日の朝だった。
この日はお父さんは朝が早いというので、食事が終わった次の瞬間には、クリーニング直後の様な洗練としたスーツを着ると、そのまま出るというので、いつもはお母さんがわざわざ見送りに出ているのを、私も何となく付き合った。
私は毎度では無いが、これは何も珍しいことではない。なので、こういった行為からは何も察せられる心配はなかった。
…とまぁ、昨日の失敗から学習して、この日の朝はそれなりに考えて行動したのだった。
だがまぁ、お父さんを見送った時の私の心境としては、若干の肩透かしを食らった感は否めなかった…が、もちろんそれは結果オーライというやつで、別に不満なんぞあるはずも無い。ホッと一息というのが本心だった。
番組放映の次の日には、少なくとも私の身の回りには何の変化も見られなかった。せいぜい、義一や武史に、番組を見た感想などをメールなりで送った程度だった。
…と、義一相手には、この間のことは何となく伏せておいた。別にことなきを得た様子だし、私以上に私のことに対して敏感に反応する義一のことだ、無闇に心配させることもないだろうと考えてのことでもあった。
しかし…それから二日経った木曜日の朝、ここにきて急に変化が訪れた。
この日は裕美と一緒に通学する予定になっていたので、普段通りに裕美のマンション下に向かい、そこで落ち合い、それから並んで地元の駅に向かったのだが、何やら私の横で落ち着きなくソワソワしていたので、私はわざと薄眼を使いつつ、しかし口元はニヤケながら声をかけた。
「…さっきから何よ裕美?何をそんなにソワソワしてるの?もしかして…トイレ?」
「ぶっ!」
と裕美は思わず吹き出し、その勢いのあまりに前傾姿勢を取っていた。が、すぐに立ち直ると、こちらに思いっきりジト目を向けてきつつ…しかし口元はやはり緩めつつ返した。
「何を急に言い出すのよー?違う違う!えぇっとねぇ…」
とおもむろに自分のスマホを取り出すと、今度はニターッとニヤケながらそれを差し出してきつつ言った。
「…ふふ、これよ、これ!」
「これ…?」
と私は裕美のスマホを受け取り、液晶に出ているのを眺めて見ると、それはどうやら、どこかの掲示板の様だった。チラッと見えているサイト名は、ネットに”も”疎い私ですら知ってるものだった。
と、そんな感想を覚えたのも束の間、今映っている”スレ名”の所を見て驚いてしまった。
そこには、今週の月曜日に見た討論バラエティー番組名が出ていたのだが、それと一緒に、何と”望月義一”の名前まで併記されていたからだった。
「…あれ?これって…義一さん?」
と私がそう呟きつつ隣を見ると、裕美は何故か誇らしげに胸を軽く張りつつ「そう!」と明るく応えた。
「アンタの叔父さんよ。…ふふ、実はねぇー…」
と裕美は私から何も言わずにスマホを取り上げると、また何やら操作をして、そしてまた私に渡してきた。
されるがままにまたそれを眺めて見ると、そこはこれまた某有名なポータルサイトのホーム画面が出ていた。そのトップ画面には最新ニュース欄がズラッと並んでいるのだが、その上から三番目くらいの位置に…何とまた、義一の名前がチラッと出ていたのを見つけた。「これって…」
と我ながらさっきから何の代わり映えのしないリアクションばかりでツマラナイとは思うが、それほどに驚きが深いと受け取って頂きたい。
と、そんな私の様子を面白げに見ていた裕美は、「ちょっといい?」と今度は一度断ってから、しかし今度は私が手に持ったまま、そこで裕美が義一のニュース欄をタップした。するとページはそのニュース自体に飛び、デカデカと義一の記事が出てきた。
私は思わずそのまま記事を読もうとしたが、ふとここで裕美が。今度は先ほどと同じ様に私からスマホを取り上げつつ言った。
「…はい、とりあえずここまで!…ふふ、後は自分のスマホで見てみてね?」
「あ、うん…」
と、別に何か文句なり何なり返すことも無かったので、 素直にそれには従ったが、それでも疑問はぶつけずには居れなかった。
「一体これって…どういう事、なの?」
と私が一度区切りつつ聞くと、裕美はクスッと笑みを零して、それから苦笑いか呆れ笑いか判別が難しい笑顔を見せて返した。
「え?…ふふ、どういう事なのって聞かれたって、私がわかる訳ないでしょ?いくら”なんでちゃん”のアンタにも、こればかりは答えられないわ。でもね…」
とここで一度溜めると、裕美は悪戯っぽい笑みを浮かべつつ続けた。「まぁ、ただ一つ言えるのは、何やらアンタの叔父さん、義一さんがジワジワと、特にネット界隈で話題になってきてるのは確かね。まぁ…こないだの時点でその兆候が出てきていたのは知ってたけど。…というのもね、私も今のを知ったのは、えぇっと…うん、昨日だったかな?ふとね、何気なくアンタの叔父さんの名前を検索してみたの。…あ、今は”なんでちゃん”は勘弁ね?別に大した理由は無いの。検索したのはただの好奇心、思いつきなんだから。…ふふ、でね、そしたらさぁ…以前よりも見るからに多くの検索結果が出てきてね、私…驚いちゃった。でもまぁすぐに、色々と通販サイト内のレビューなり、これはアンタに教えてもらったけれど、個人ブログだとか、それらを事前に見て知ってたから、まぁー…結局はただ単純に『へぇー、こんなに広がってるんだ…』くらいの感想を持ったんだけど…」
とここで、裕美はまた私に、今度は自分で手に持って、こちらに液晶を見せてきつつ言った。
「この掲示板が結構検索結果の上部に出てきててね?それで、普段は私でもこの掲示板は滅多に覗かないんだけれど…これまた興味本位で見てみたのね?」
その画面に出ていたのは、一番最初に見せて貰った画面だった。
「そしたらさ…見て、ここのところ」
「え?…」
と、裕美が指をさした先には、何やら数字が出ていた。”38”と出ていた。
「3…8?」
とただそのまま読み上げると、裕美はクスッと一度笑って、スマホをまた元の位置に戻しながら続けた。
「そっ!”38”。…まぁこれは、要は今が更新何個目のスレッドって意味らしい…って、私もそこの所はよく知らないし、それがどんな意味をしているのかもよく分かってはいないんだけれど…でもね、何となくそのままこのスレの中のコメントを読んでみるとね、どうやらこの数は、最近の中ではトップクラスに多いらしいのよ」
「ふーん…」
と私は漸く落ち着きを取り戻すと、裕美に思いつくがままに聞いた。
「という事は、それだけ沢山の人が、そのー…義一さん関連のスレッド?だっけ?…それに、コメントを寄せたって訳ね?」
「うん、そうらしいわ。…でもさぁ」
とここで裕美は軽い身のこなしで私の前に躍り出ると、両手を後ろに回し、顔には意地悪げな笑みを目一杯に浮かべつつ言った。
「このスレを見て初めて知ったけど…何で教えてくれなかったのー?アンタの叔父さんが、そんな全国放送の、夜九時からなんていう看板番組に出ていたなんて…私は聞いてないぞー?」
「…ふふ」
とそんな裕美の様子が面白く笑みを零したが、しかしすぐにスンとわざと澄まして見せながら返した。
「別に自分の叔父さんがテレビに出るからって、それを誰か、友達だとかに話すまでも無いかと、そう思ったのよ」
「…何だかなぁ」
と裕美は、いかにも納得いかない様子でまた私の隣に戻りつつ言った。
「普通だったら、自分の身内がテレビに出る…しかも、チラッとじゃなくて半メインとして出るだなんて、すぐさま言いふらしそうなものだけど…アンタは本当に、達観してるというか何というか…」
「ふふ」
とそんな裕美の感想に対して、ただ微笑んで返した。
そんな私の態度に、いつまでも付き合っても面白味がないと判断したか、裕美はやれやれとでも言いたげな様子で、しかしまた明るい笑顔を浮かべながら言った。
「まぁ、それでさ、何となくその大量のコメを眺めていたら…ふふ、勿論中には、この手のものにはありがちな、何も考えないままに取り敢えず反対しとけって感じのもあったけど…大概はとても好意的、いや、礼賛するようなものばっかだったよ」
「へぇー…」
と私はここにきて、漸く自分のスマホを取り出し、早速その掲示板を見てみようと操作し始めていたが、それを眺めていた裕美は、クスっと一度笑うと、顔は見ていないが如何にもニヤケてる風の口調で言った。
「…ふふ、まぁ良かったじゃない?…アンタの大好きな叔父さんが、これだけ支持されてて」
「…ぶっ」
と私は思わず液晶に自分の唾を大量に吐きかけそうになるのを、何とか躱した。が、その思わぬ言葉に動揺を隠せないまま、
「な、何をまた急に言い出すのよ!?」
と、我ながらアタフタとみっともなく返すと「あははは」と裕美は愉快げに明るく笑いながら言った。
「アンタさぁ、もう何度もこの手の話はしてるんだから、いい加減に慣れてくんない?」
「そ、そう言われたって…ねぇ」
と、確かに自分でも過剰反応だとは、こう裕美に言われる度に思う所だったので、これ以上は強く返せなかった。
裕美も私のこんな失態を見て満足したのか、笑みを今だに浮かべたまま口を開いた。
「あはは、まぁ、さ、そのスレも良いし、私もその後でさっき見せたポータルサイトにも飛んでみたら、そこでもこんな風に話題のニュースとしてトップページに出ていたし、掲示板とおんなじようにコメントも並んでるから、それを見てみるのも面白いかもよ?」
「あはは…」
と疲れた風…いや、実際に疲れてはいたのだが、それ風に乾いた笑いをして見せたが、それからはすぐに元の顔に戻して
「まぁ…教えてくれてありがとね」
とお礼を言った。
すると裕美はニコッと目を瞑るようにして笑うと
「どういたしまして!」
と明るく応じた。
と、ここで駅前に着いたので、改札のある階まで朝ラッシュで混みあう外階段を上りつつ、さっき見せて貰った他のサイトも探していると、ボソッと裕美が言った。
「まぁ、アンタのことだから、まず自分で叔父さんの名前すら検索かけないだろうしねー」
それからは、特にこの件についてアレコレと思い巡らせる事は無かった…というよりも、その暇がなかった。なんせ、実はこの週は、三学期の期末試験、その一週間前だったからだ。
敢えてまた言わせて貰えれば、こう見えても私もイチ女子中学生なので、こうしてキチンと学生の本分を果たしている事も軽く触れておくとする。
この時期も当然のように、紫を中心にして勉強会を何度も開催した。…こう言うと語弊がありそうだが、この時期になると普段以上に、私たちの中に紫がいてくれて、本当に良かったと思うのだった。試験は二月と三月に跨ぐ形で四日間行われて、その後は例の如く、終業式まで試験休みに入った。
それと同時に、何気にかなり久し振りだが、お父さん達の土日にかけての一泊二日、学会旅行と都合が合い、義一と共に数寄屋に行く事となった。
「んー…」
と義一は、私が手渡したスマホの画面に目を落としつつ、薄暗がりの中だというのに、その苦笑いが隣に座る私の位置からでも伺えた。
一々説明は不要だろう。そう、今私たちは、聡の運転する車の後部座席に座っている。ちょうど今は夕暮れ時の繁華街を走っている時で、地元と数寄屋の中間地点といった所だった。
「ふふ、ね?色々と書かれているでしょ?」
と、慣れない手つきでスマホを操作する義一に、微笑みながら声を掛けると「んー…」とまた義一は唸るのだった。
因みに、あれから私は裕美に教えてもらった掲示板なりを、この日まで気が向いた時限定、このスレ限定だが、何度か覗いてみていた。そこには、確かに裕美が言っていた様に、根拠のない誹謗もあったが、大概は好意的なものだった。
ついでだし、今義一が見ている箇所を含んだ例をいくつか挙げてみよう。
『この番組見てたけど、なんか胸がスカッとしたよな?内閣のブレーンだろうと大学教授だろうと、肩書きなんか関係無くコテンパンに論破しちゃうんだから』
『←だよな!…って、この望月って人自体の肩書きが不明なんだがなw』
『←そうそう、この番組内でも肩書きが紹介されてなかったから、結局正体が分からずじまいっていうねw』
『でもま、コイツが何者かは今だに分からないけどよ?言ってることは一々腑に落ちるよなー』
『←言えてる。ただ…なんか一々言い回しが難しくて…そういう意味ではすぐには飲み込めないんだけれど…w 私の頭じゃ一度聞いただけでは理解出来ないw…詳しくは本を買って読めってことか』
『←つまり…これは新手の高度なステマな可能性が微レ存…?w』
『←さて…買うかw』
『てかさ?皆気づいた?ほら…一緒に反対派として出ていた中山って人…あの人もズバズバとモッチーに負けない程に論破していってて、あの人もあの人で凄いと思ったけれど…中山は手元に大量に資料を持ってきてたのに、モッチーは何も無かったのをさ?』
『←あ、やっぱそうだよな?俺もそれ気づいた』
『←あぁ、俺も俺も。いや、中山って人はそれはそれで良かったけれどさ、あのモッチーは…何も資料を見ていなかったのに、あの賛成派どもの妄論にすぐに論破してたよな?すげぇ…』
『しかも毎回何ともいえない笑顔でなw』
『←な?でもさ、モッチーは経済学者ではないんだよな…?なのに、なんでああして直ぐに次から次へと正確に引き出せるんだろうなぁ』
『←ほんと、ほんと、頭の中身どうなってるんだモッチー…』
『←ここまで誰もツッコむ者ナシ…。なんでモッチーって呼び名が自然に定着してるんだよw』
…とまぁ、結構イラナイものまで引っ張って来てしまったかも知れないが、おおよそこんなコメントだった。
こう言ってはなんだが、私が言う資格は本来無いことを自覚しているのを前提に、保険に言わせて貰うと、まぁこの手の掲示板、そんな”マジ”な会話なんぞ見込めないのは分かっているし、好意的と言ってもこの程度ではあったのだが、こんな程度の質でも、それでも義一の論、そして勿論共演した武史の論に対する好意は、嬉しさのあまりか私も我が身の様にそれらを読むたびに、思わずほおが綻んでしまうのだった。
「…はい」
と義一はあらかた見終えたのか、私に返してから言った。
「やれやれ…。僕もすっかり晒し者だなぁ」
とこれ以上ないって程にため息を織り交ぜて吐くので、「ふふ」と私はまた自然と笑みを零すのだった。
「まぁいいじゃねぇか?」
とここで前方の運転席にいる聡が、バックミラー越しに私たち二人を見てきながら言った。
「お前が晒し者になればよ、それだけ雑誌を手に取って貰えるチャンスが増えるんだからよ?」
「お、聡おじさん、良いこと言うねぇー…たまには」
「あはは、”たまには”は余計だ」
「…ふふ、二人してー…。まるで他人事なんだからなぁ」
と義一がボヤいた直後、私と聡は示し合わせてたわけでも無いのに、ほぼ同時に明るく笑い声を上げるのだった。
…この時は、これ以上義一を”イジメては”可哀想だと思ったので、敢えて触れなかったが、実は、確かに先ほど例に出した様に、その討論の中身、そしてその延長で、例の年末討論番組での出演についてまでも話が広がって、それはそれなりに意見が沢山交わされていたのは事実なのだが…実は、それは全体のうちで約半分ほどに納まっていた。
では、もう半分はどんなコメントで占められていたのかと言うと…大げさに言えばこれが玉石混交のネット言論空間とでも言うのか、そのもう半数の中身の殆どが…義一のルックスについてだった。
さっき拾い上げたコメの中にもいたが、あの人を食ったような笑顔だとか、時折見せる真剣な目つき…後、義一特有の、テーブルに両肘をついて口元で両手を組ませるといった考えるポーズなど、そんなのが話題に上がっていた。
スクリーンショットなのか、スマホで撮ったのか何なのか、私には詳しい事など分からないが、今回の番組のと年末番組での場面場面が画像として、そこかしこにアップされていた。わざわざ引っ張ってくるまでも無いと思うので、これに関しては遠慮しておくが、まぁー…これを仮に義一が見たら、先ほどとは比べ物にならない程に苦笑い…いや、もうそれを通り越して、渇いた笑いしか出てこないだろう事は容易に想像できた。
これらのコメントを見た瞬間、流石の私も一人苦笑いを浮かべざるを得なかった。
…さて、それからは番組の話の流れでふと、私たち三人の共通の知人友達である絵里の話になった。
いつだったか…間に期末テストを挟んだので定かには覚えていないが、放送のあったその二、三日後かに、私から絵里に連絡を取っていた。案の定というか、ちょうど絵里も私に隙を見て連絡を取ろうとしていたらしい。
最初に雑談を軽くした後で、それから本題である番組についての感想を言い合った。
私はただただ面白かったと述べたのだが、絵里はどうも違ったらしい。
これも絵里の言い回し方が面白かったので触れたい所なのだが、この短い時間では到底無理なので、仕方なく端折って言うと、
『なんだか初めに番組に出る的なことを言われた時は、何か犯罪にでも手を染めたんじゃ無いかって、六割くらい心配したんだけれど、実際見てみたら、そんな心配以上に、番組が終わるまで終始ハラハラしっぱなしだったよ。まぁギーさんがあぁいった場だからといって、態度を良くも悪くも変える様なタマじゃないのは分かってた。…うん、分かってはいたんだけれど、あんな普段と同じ調子、まるで私とかに対して取るような態度を、同席していたお偉いさん方相手にも、あんな小馬鹿にする様に一々吹き出し笑いしながら喋るもんだから…もうね、面白かったとか何とか、そんな感想以前の問題だったよ』という”感想”だった。
それをふと思い出して、今までの会話の流れで私から振ったのだ。
そして、まず私が今話したような事を別の言い方をしながら喋ると、聡が豪快に笑って見せる中で、義一は一人また照れ臭そうに頭を掻きつつ言った。
「そうそう、僕のところにも絵里から放送の翌日に連絡が来てね?んー…ふふ、琴音ちゃん、今君が話してくれたような事を、それをもう少し説教臭く、なんて言うかなぁ…ふふ、まるで子供を呆れつつ叱る母親のように感想を言ってくれたよ」
その様子がありありと簡単に想像出来たので、また私はクスッと自然に笑みを零すのだった。
それから車はいつもの駐車場に着くと、私にとっての”前回”だが、それと同様に聡は直ぐに戻らなくてはいけないと言うので、軽く挨拶をお互いに交わすと、聡はさっさと駐車場を後にした。
それから私と義一は、いつものといった調子で、そのまま数寄屋の方へと足を運んだ。
中に入ると、早速マスターとママに暖かく迎えられた。前回から日にちを少しばかり跨いでいたというのもあって、ママから冗談交じりに非難されたので、私も笑顔で謝るのだった。
そのような会話を少ししてから、店の奥の暗い赤カーテンのむこうに閉ざされてある部屋へと、義一、私の順に足を踏み入れるのだった。
中に入るなり、「お、来たなぁ」と明るく声を掛けられた。この瞬間に、義一に軽口を投げかけたのが、その声から直ぐに武史だと分かった。
「遅いぞ編集長?」などと続けて言われた義一は
「ごめんごめん」と平謝りしつつ室内へとどんどん入って行った。
私もすかさずその後を追ったのだが「あははは」と、これまた愉快げに笑う、今までに聞いた事のないタイプの声が耳に入ってきた。どうやら、今日は初対面の人がいるらしい。
それを確認するためにも、スッとそのまま自分の定位置に座る義一を他所に、私は一度立ち止まって見渡してみる事にした。
私と義一以外に、すでにこの室内には四人が座っていた。
皮肉っぽく聞こえるかもしれないが、引退すると言っていた神谷さん、武史、顧問になった浜岡さん、後は…もう一人いるのだが、この方がまだ一度も会った事が無かった人だった。男性だ。
しかし、妙な言い方だが、初対面という感じは受けなかった。それもそのはず、何度も雑誌の紙面なり、また、例のネット番組内での討論にもしょっちゅうお出になっていたからだった。ある意味、義一とかと同じで、雑誌オーソドックスにはお馴染みの一人であった。何度もと言ったが、毎号欠かさずに寄稿しているのだから、見覚えがあって当然だった。確かマサや勲、寛治などと同じくらいの年齢で、六〇代半ばだと思った。頭髪は側面に若干残すのみだったが、黒々としており、また、顔の肌がツヤツヤと、この薄暗い室内だというのにそれが分かる程だったので、実年齢よりも見た目は若かった。
後は、なんて表現すれば良いのか…メガネを掛けていたのだが、それが何とも、今時年寄りですら滅多に見かけない、しないような”ザ・昭和のお父さん”って感じのメガネを掛けていた。ベージュ色のジャケットを羽織っていたのだが、肩の部分が見るからに余って見えた。どうやらサイズが少しばかり大きめらしい。
と、そんな風に眺めていたのだが、やはり…義一にあのような話を聞いたからか、スッと視線を横に流し神谷さんの格好も見た。いくら冬真っ盛りとはいえ、暖房の効いた室内だと言うのに、ぱっと見だとギブスに見間違えるかの様な分厚いネックウォーマーをしていた。以前会ったのが一月とちょっと前くらいのはずだったが、それよりもまた一回り小さく見えた。
私も義一と同じように、神谷さんなり武史に声を掛けられたので、私からも笑顔で返して、そして「ようやくここで会えたね」と浜岡に笑顔で言われたので「ふふ、そうですね」と私も同じように返していると、その間ずっとではあったのだが、ふとある位置からずっと、好奇に満ち満ちた視線を受けているのに気づいていた。
まぁおおよそ予想はついていたのだが、一通り挨拶を終えてからその方向を見ると、やはりというか、そこにはその御仁がいた。
先ほどから挨拶を交わす中で、ずっと立ちっぱなしでいたので、このまま座ってもいいだろうと思いはしたのだが、ふと、この場でのある種の”慣習”があるのを思い出し、どうせ後でするのなら早いほうがいいだろうと思い、早速私からその男性にこちらから話しかけた。
「…あ、どうも初めまして。私は望月琴音っていいます。そこにいる義一さんの姪っ子に当たります。そのー…今日はよろしくお願いします」
と最後にペコっと一度お辞儀して、上体を戻してから気持ち軽く微笑みを付け加えた。
すると男性…あと、義一たちも含めた全員が私を一様に見てきたが、「あははは」と途端に、体を大きく揺すりながらという、これまた特徴的な笑い方をして見せてから、私に向かって座ったまま手を前に差し出しながら言った。
「ああ、君がよく話題に上がる琴音ちゃんだね?ささ、そんな所にいつまでも立ってなんかいないで、どうぞ座って座って?」
「あ、はい」
と私は促されるままに、義一のすぐ隣、男性の正面に座った。私と男性以外は、先ほどから私に対して微笑みをくれていた。
「さてと…あ、先生?」
と、私が座ったのを見届けると、男性は笑顔が引かない表情を神谷さんに向けて言った。
「今さっそく琴音ちゃんが自己紹介をしてくれたんで、僕からもしても良いですかね?」
「ふふ、それは私に聞く前にさ…?」
と聞かれた神谷さんは、視線だけを義一に向けて、ニヤケつつ言った。
「それは編集長である義一くんに聞いておくれよ。僕は引退した身なんだから」
「あははは。そうですね。…どう?義一くん?」
「ふふ」
と義一は一度笑みを零し、それからおもむろに羽織っていたジャケットのポケットから懐中時計を取り出し、その文字盤に目を落としてから答えた。
「んー…ふふ、はい、時間はたっぷりと余裕がありますから大丈夫です」
「あ、そうかい?では改めて…んんっ!」
と男性は口を閉じたまま咳払いをすると、これまた人懐っこい笑顔を浮かべつつ口を開いた。
「初めまして琴音ちゃん。僕の名前は島谷秀明といいます。まぁ肩書きは…ジャーナリストという事になるけれど、どこにも所属はしていないから、その中でもフリージャーナリストって枠内で活動しています。よろしくね?」
「あ、はい…よろしくお願いします」
と私がまた言葉を返すと、不意にここで神谷さんが明るく笑いながら口を開いた。
「琴音ちゃん、彼はね?確かに自分で言った通り、ジャーナリズムの世界に身を置いてるんだけれども、でもね、ただのそんじょそこらの情報屋って言うのとは違って、ありとあらゆる物事に対して造詣が深くてね、彼が主に今まで取り扱ってきたのは経済問題が中心なんだけれど、思想哲学にも詳しかったりするから、今時の経済学者どもなんぞは、彼の前に出たら裸足で逃げ出すほどなんだよ」
「あははは!」
と、島谷はまた体を大きく揺すり笑いながらも、照れ臭そうに口を挟んだ。
「ありがとうございます。先生にそこまで言って貰えてなんて光栄ですよ、あははは」
あまりに底抜けに笑うので、私も思わず釣られて口元を緩めつつも声をかけた。
「…ふふ、私も島谷さんのは、そのー…オーソドックスで毎号読ませて頂いています。私は経済のことなんて何一つとしてわかりませんけれど、でも…とても分かりやすく諸問題を解説されているので、すんなりと門外漢の私ですら楽しんでいます」
「え?あ、いやぁ…」
と島谷は、神谷さんに言われたのと同じか、もしかしたらそれ以上に照れて見せつつ、また豪快に笑いながら返した。
「あははは!いやぁ、ありがとうね琴音ちゃん。…クク、いやぁ…先生や義一くん、それに武史くんや浜岡さんが言ってたように、本当に面白いお嬢さんだねぇー」
「でしょう?」
と、島谷の言葉に各人各様ではあったが、この様な返しを一斉に知るのを見て、今度は私が照れる番だったが、ここでガチャっと部屋の扉が開けられたかと思うと、ママがチラッと顔だけ覗かせて、そして笑顔で口を開いた。
「そろそろお飲み物をお運びしても良いですかね?」
ママはトレイに乗せてきたお酒類を、毎度ながら手際良くそれぞれの前に置いていった。神谷さんは升とその中に入れられた小グラス、その両方を満たす様に入れられた日本酒、浜岡は赤ワイン、その他の三人は揃って生ビールという、浜岡と島谷は初めて見るが皆して毎回同じモノだった。かくいう私も、いつも通りのアイスティーだ。
「ではごゆっくりー」
と言いながらトレイを押して出て行くママを見届けると、早速、今日は義一の号令のもとで乾杯をした。
それぞれがそれぞれ全員とグラスなりジョッキを当て終わると、おもむろに義一が、ポケットから小さな電化製品を取り出し、それをテーブルの真ん中辺りに置いた。見るとそれはボイスレコーダーだった。
…さて、話し始めてから大分時間が経ったが、ここで何故今日この集まりが起こったのか、それの説明をさせていただくとしよう。
『別に自分でも言ったように、毎週土曜日には、時間に都合がつくのが前提で、それなりに理由もなく集まったりもするらしいから、わざわざ説明なんかいるのか?』と突っ込まれそうだが、今回に関しては違う。…今回の場合は、私にとっては初めてのことなのだ。
というのも、今日の集まりというのは…そう、雑誌の中のメインコーナーである、その時世間を賑わしていたり、もっと根本的な事などを議題にして論じ合う、座談会の収録のためであった。
これは事前に知らされていたので、流石の私もそんな場にノコノコと顔を出して良いのか、邪魔になりはしないかと思ったり、それなりに心配したりしたのだが、次号、つまり今回の座談会が収録される号からの編集長である義一が、呑気な調子で許可するものだから、こうしてヌケヌケと出てきたという次第だった。
義一は「どんどん発言しておくれね?勿論、琴音ちゃんの名前は伏せとくから」などと追い討ちを掛けられたが、自分的にはなるべく静観していようと心に誓っていた…この時点までは。
義一がレコーダーを出すのを見るや、浜岡さんがおもむろに、足下からビジネスバッグを取り出し、腿の上で開けると、中から数枚の書類を出した。そして、それを何も言わないままに隣に渡していったが、受け取った者は自分の分を受け取ると、残りをまた隣に回していった。
最後に、一番端に座っていた私にまで回ってきた所で、全てが丁度行き渡ったようだ。どうやら、はなから私にまで渡す予定だったらしい。
その事実に何とも言えない感情を覚えたが、それは取り敢えず無視して、渡された紙に目を落とした。
紙自体は二枚ほどで、1枚目には大雑把に言って、『座談会』というのと、今日の議題が書かれていた。それは…『”過剰な”FTAは亡国への道』だった。まさに今旬といった感じだ。
私が目を落としている間も、義一と神谷さんを除いて、武史と島谷も、先ほどの浜岡と同様に、自分の鞄を取り出すと、中から色々な資料と思しき紙の束をテーブルの上に広げていっていた。
さて、皆の準備が整ったと見た浜岡が、おもむろに口火を切ろうとしたので、義一はすかさずレコーダーのスイッチを入れた。
それを見た浜岡は、義一に一度コクっと頷くと、静かに口を開いた。
「…さて、今回もこうして座談会が始まるわけですが、ご案内の通り、今号からは私ではなく、長年メイン執筆者として頑張って来られた望月義一さんが編集長に就任されるというのを、まぁ…記念というか、その第一号になる訳ですけれど」
「はい、皆さん、よろしくお願いします」
と義一は仰々しく、しかし穏やかな笑みを浮かべながら、座ったままで一礼した。
それに対して皆して一斉に軽く拍手をしているのを見て、私も同じように拍手を送った。
義一は私に顔を向けると苦笑いを浮かべて、それからその表情のまま口を開いた。
「まぁ僕の話はこの辺にしておいてですね、早速今回のお題に沿って議論を展開していきたいと思います…」
「あ、義一くん、その前に良いかな?」
と、ここでふと島谷が何やらカバンの中を探りつつ口を挟んだ。
そして中から取り出したのは、二冊の新書だった。
…そう、もうお気づきだろう。
「それについて議論をする前に、まずこの二冊について触れなくてはね」
島谷は、飲み物の置かれていない場所を見つけて、そこに二冊を表紙を表にして置いた。義一の本と武史の本だった。
おそらく…というか、間違いなく私物だろう、パッと見で分かる程に数え切れない程の付箋が二冊ともに貼られていた。
それを見て、自室にある私のドッグイヤーだらけな”義一本”を思い出したのは言うまでもない。
「そうですねぇ」
と浜岡は島谷の取り出した本に目を落としてから、義一と武史に若干の意地悪さを滲ませつつ声を掛けた。
「…あ、そうだ、手始めにというか、例の全国ネットの番組に出た時の話でも、イントロダクションとして聞きましょうか」
「えぇー、アレをですか?」
とすかさず武史が苦笑交じりに返した。義一も同様だった。
「あははは」とまた島谷が体を大きく揺すりながら笑う中、「そうだね」と神谷さんも、ここにきて一番の笑みを浮かべて口を開いた。「せっかくだから二人とも頼むよ。読者の皆も気になってるところだろうし、それに…全く触れないというのも変だからね」
「まぁ…先生がそうおっしゃるなら…なぁ?」
「うん」
武史と義一がそう顔を見わせて言うと、ここは編集長として先に言わなければと思ったかどうかは知らないが、振られる前に自分から話を始めた。
「そうですねぇ…って、別に此れといって話す内容も無いんですけれど…まぁ、私自身も実際の放送を見たんですが…感想としては、『あ、意外と思ったよりもカットされてなかったな』ってものでした」
「そうだなぁ」
と武史は口では同意を示したが、しかし顔には苦虫を噛み潰したような渋い表情を浮かべていた。
「でもまぁ、番組の後半はずっと賛成派の人らの意見ばっかが取り上げられて、私らはずっと苦笑いをしているのみの映像だけだったからな」
「あはは、そうだったね」
…ふふ、やっぱりこの場では一人称が”私”なんだな。
などというどうでも良い感想を覚えつつ、私は黙って会話を聞いていた。因みにというか、今義一が言ったような感想は、予め義一自身から聞いていたので、ここで口を挟む必要はなかった。
「まぁそんなもんですよねぇ」
と浜岡も相槌を打つと、ここで義一がふと苦笑交じりに言った。
「まぁなんでしょうねぇー…先ほど『思ったよりも』と言いましたが、何故そう思ったのかを説明しますと、んー…収録前にスタッフの皆さんと打ち合わせをしたんですが、あ、意外と若い人でやってるんだというのに驚きました。僕は今三十代半ばですが、スタッフさん達もそれくらいって感じでした。あ、いや、それでですね、その打ち合わせの時に色々と話していく中で、純粋に驚いてしまったのが…番組を作っている彼ら自身が、全くこのFTAについての知識を身に付けていない、全く理解していなかったという点でした」
「そうそう」
とここで武史が加勢した。
「まぁよく知らないし、彼らを弁護する訳でも無いけれど、彼らはまぁ彼らなりに時間の制約の中で頑張って番組を作ってはいるんだろう…けれども、やはりバラエティーとはいえ評論番組、それなりの政治色強めの番組なのに、自分たちの報道なりなんなりしている物事について、何も知らないで制作しているのを、まぁ何となく予測はしていたものの、実際に目の当たりにすると…愕然したのと同時に、空恐ろしく思いましたね。『なんて状況にあるんだ…この国の世論は』と」
「うんうん」
と、義一、武史の今の話も事前に聞いていたので我慢しようと思えば出来たはずだったが、結局こうして思わず力強く頷きつつ声を漏らしてしまった。
あ…っと、その直後に慌てて口を両手で塞いだのだが、時すでに遅し、周りを見渡すと、義一含む一同がこちらに微笑みを向けてきていた。
若干の座りの悪さを感じて軽く俯くと、「ふふ」と一同が笑みを零して、今度は静かだった神谷さんが口を開いた。
「まぁそうだねぇー…。私の時ですらというか、私の場合は二十年くらい前の話になるけれど、テレビ局のスタッフは何も知らなかった、少なくとも私の言ってることが理解できていなかった様に見えたねぇ」
「でも先生?」
とここでまた満面の笑みを浮かべている島谷が、義一と武史をチラチラと見つつ神谷さんに話しかけた。
「テレビ局などのマスコミ内部周辺はそうなんでしょうが、あの放送以降、二人への反響は大きいんですよ。例のネット通販大手の内部のランキングを見ると、まぁ以前からそうだと言えばそうなんですが、それ以降もまた順位が上がっていってですね、義一くんの本、そして武史くんの本が、何と”ビジネス・経済”という枠内でのランキングで、トップテン入りを果たしているんですから」
「ふふ、私も君からそんな話を聞いてはいたけれど」
とここで神谷さんも義一と武史に視線を流し、そして好々爺よろしく明るい笑顔を浮かべて言った。
「そうらしいね。ただ…ふふ、私はこの手のことにはほとほと疎くて、それが何を意味するのかまでは分析出来ないんだけれども」
「あはは」
「まぁそれなりに…」
と、義一がまた苦笑いを浮かべつつ言った。
「全国ネットの場にのこのこと出ていった甲斐は、あったのかも知れませんね。…あ、いや、そういえば、その話の繋がりで、ある事を思い出しましたよ。それはですねぇ…僕は島谷さんからではなく、まず一番初めはある女性に教えられて、その後で自分でも見てみたのですが…」
途中から義一は、私に微笑みかけてきながら話していた。
「あれはえぇっと…レビューって言うんですかね?まぁ色々な本についての感想が書かれていまして、それこそ十人十色、評価もバラバラではありましたが、その中でふと、ある一つの文章に目が止まったんです。見て読んだ瞬間、ついつい嬉しくて一人微笑んでしまったんですが…それはこんなのでした。『要はこの作者は、ごく当たり前の事を話しているのに過ぎないんだ』と」
「あぁー」
と、どこか思うところがあるのか、瞬時に武史が反応を示した。
それをチラッと見て、柔らかな笑みを浮かべつつ義一は続けた。
「その感想も良かったんですけれど、何よりも嬉しかったのは、その感想を書いてくれて、尚且つ星を…あ、評価するんで五段階の基準があるんですが、それでその人は一番評価の高い五つ星をくれたんです。これは嬉しかった」
「あぁ…」
と、これも義一から予め聞いていたので、その時の宝箱内での情景を思い出していたのだが、その時と寸分違わない調子で、義一は笑顔のまま話していた。
「僕らは…って、武史はまぁ学者だけれど、僕は何者でも無いわけですが、それでもこうして小難しい本を出した以上、心掛けなければいけないと、まぁー…これは特に神谷先生が普段から、昔から言い続けられていた事ですけれど、いわゆる”常識”、それもフラフラと風向き次第でどこにでも流れていってしまう様な流行などではなく、昔からずっと変わらずに残ってきたその国民の感覚、感性、それらを常識と言うならば、その常識に準じて生きている人々から『それって常識と違うな。普通じゃ無いな』と言われる様な、疑問にもたれる様な言説は、出さない様にしなければならない…もししてしまって、それを指摘されたなら恥ずかしいと思わなければならない、というか実際に恥ずかしい…とまぁ、そんな考えでいたので、その様なレビューをくれたのがとても嬉しかったんです」
「そうだよなぁ」
とここで武史がしみじみといった調子で口を開いた。
「ここ最近…って、もうそれこそ二十年以上も改革騒ぎをし続けてきて、それがまた現在進行形な訳だけれど、改革するその根拠というのが、その常識が欠落した学者…”曲学阿世の徒”どもが、何やら頭の中での夢想から生み出した、理論とも言えない理論によって断行されてきた訳だけれども…本当に世間に常識というものがまだ残っているならば、ここまでのクダラナイ騒ぎは続かなかったはずだけれども、んー…今時の世間というのは、”某有名何々大学の何々学部教授”だとか、そんな肩書きをチラつかせられると、一瞬その理論を聞いた時には違和感を覚えつつも、『そんな先生が言うんだったらそうなのかなぁー?』だなんて思っちゃうんだよねぇ…困ったもんで」
「あはは、本当に困ったもんだよねぇ」
とここで島谷が、まるで困ってなさそうな様子で明るく笑いながら言った。
「でもー…あはは、武史くん、まぁ義一くんもだけれど、君たち二人はあの番組内で、日本最高学府の”自称”経済学者の人相手に、ズバズバと反論を言ってのけて、それを見た…特に二、三十代らしいけれど、そんな若者たちを中心に喝采を起こしたっていうんだから、日本もまだまだ捨てたものでは無い”かも”知れないですねぇ」
わざとだろう、島谷が点々で囲った部分を強調して言うのを聞いて、武史と義一は視線を合わせて苦笑いを浮かべた。
その後で、武史がまた渋い表情を浮かべて口を開いた。
「いやぁー、でもあの教授…本当に酷かったですよ。当然の様にカットされてましたが、放映されてない部分で、義一と一緒に何度もあの”おっさん”相手に攻めまくったんですが…」
「…ふふ、武史くん」
とここで不意に神谷さんが口を挟んだ。
口には出さなかったが、おそらく”おっさん”呼びをした事についての注意だろう。学校の先生よろしく、チョークを投げる動作をして見せていたが、顔には満面の笑みを浮かべていた。
それを受けて「あ、すみません」と、頭を深く下げた武史の顔にも笑顔が浮かんでいた。
それらの一連の流れを見た、私を含んだ他の一同は一斉に明るい笑い声を上げるのだった。
「まぁー…それでですね、本当にほとほと嫌になった…というか、これが発端だったんですけれど、これは”何故か”放映されていたので読者の方々も分かると思うんですが…というのもですね?あのおっさ…あ、いや、”大先生”がですね、何かにつけて国際法だなんだとのたまうので、それでついついからかい気味に反論してしまったんですよ」
「うんうん」
と私は、義一が”常識”の話をし出した辺りから、配られた紙の余白をメモがわりに色々と思うところを書き込んでいた。
いや、余白部分と言いはしたが、実際はメモ用の余白が設けられていて、そこに書き入れていっていただけだった。
これは毎回の様で、私以外の他の一同も、その部分に色々とメモを取っていた。
「あの時も確か、あの先生に対して『ただの無知な馬鹿なのか、それともなきゃ知ってて言ってる確信犯なのか?』的な話をしたと思うんですが…」
「あはは」
「あの時は時間の関係上話せなかったんですが、具体的に話したかったのはこういう事だったんです。そもそもあの先生…いや、あの場に出ていた賛成派の人全員が、何やらアメリカが今まで国際法を守ってきた体で話していたのですが、少しでも記憶力があれば、ほんの十年と少し前に何があったか、思い出せるはずです」
「あぁ、イラク戦争の事ね…って、あ」
と私はメモに気をとられるが余りに気が緩み、ついに具体的に声を漏らしてしまった。
この時は丁度手が塞がっていたので、ただただ気まずげな表情を浮かべて周囲を見渡していたのだが、誰一人として無表情の者はいなく、むしろ先ほどよりも笑みを強めていた。
武史もその一人だったが、そのまま話を続けた。
「そうそう、そのイラク戦争。あれは確か…あの時の国連の事務総長をしていたアナンが、アメリカのイラク侵攻について『これは間違いなく、アメリカのイラクに対する侵略だ』と堂々と非難をしたんだが、それでもアメリカはケロっと何処吹く風といった感じで、その後も何年にも渡って侵略を続けたんだ」
「侵略…」
と私は呟きつつそうメモを取ったが、ふとここで疑問が一つ湧いたので、確認の意味も込めて口を開いた。
今日に限っては遠慮しようと思いはしたのだが、結局もうすっかりいつもの調子に戻ってしまった。
「侵略って…何をもって侵略としたの?そのー…アナンって人は」
「あぁ、それはね、一応国際法には厳密な定義は書かれていないんだけれど…」
「あ、番組内でも言ってたことだね?」
「そう。そもそも国際法というのは厳密には定義…というか、記すこと自体がまず無理なんだ。というのもね、世の中の情勢というのは今こうしている間にも、刻一刻と移り変わっていってるだろう?それに対応する様な明確な文章なんぞは、到底作れない」
「…うん、それはそうだね」
「そう。だから法律文章としては”これが正しい””こうしなさい”みたいな、いわゆるポジティブリスト的な文章なんぞは書けっこない。どうしても”あれはしてはいけない””これはしてはいけない”という、ネガティブリストにならざるを得ないんだ」
「横から入る様で悪いけど…」
と、ここまで私と同じ様にメモを取り続けていた義一が、ふと口を開いた。
「今武史が言った通りだよ。琴音ちゃん、昔から法律というのは、わざわざモンテスキューを取り上げるまでもなく、というかそれ以前から、法律というのは”禁止の体系”だっていうのは分かられてきたことなんだ」
「禁止の体系か…なるほどね」
恐らく雑誌向きだったのだろう、少なくとも義一個人は”ですます口調”で話していたのに、私のせいなのか、すっかりいつもの調子で話していた。
「ふふ、そうなんだよ…って、これ以上深入りすると、議題からどんどん逸れていっちゃうから、ここで本論に戻しましょう」
「あ、ごめんなさい”編集長”」
と武史はニヤケつつそう義一に声を掛けると、また私に向き直り話を続けた。
「えぇっと…あ、そうそう、それで言いたかったのはね、そもそもアメリカという国は、さっき取り上げた事も含めて、おおっぴらに堂々と国際法違反をし続けてきたわけだよ。それをだね…『国際法ではこう決まってるから大丈夫』だなんて、そんな無意味な言葉で飾られても、その偽善にただただ虫唾が走るって事なんだ」
この時私は、以前に数寄屋に来た時、そう、あの時は寛治も交えて話していた訳だが、その時に”偽善”について議論したのを思い出し、ストンと腑に落ちる思いをしながら「なるほどね」とただ短く相槌を打ったのだった。
「さてと…」
とここで義一が空気を変える様に一度咳払いをしてから、司会めいたことをし出した。
「順序が前後してしまいましたが、ここでまず、毎度恒例の様に、ご出席の皆さんから、今回の議題についての自分の考えを軽く述べて貰うところから始めたいと思います。では先生…」
「…あ、私?」
と神谷さんは微笑みつつ自分の顔に指を指しながら漏らした。
「えぇ、お願いします」と義一も笑顔で対応すると、神谷さんは照れ臭そうに頭をジョリジョリと撫でつつ口を開いた。
「いやぁ…前号でも言ったように、私はもう引退した身と思ってるからねぇー…さっきの議論もそうだけれど、これからは若い皆で頑張って頂きたいと思っているし、それをただ面白く傍観してたい身ではあるんだけれど…」
「あはは、またまたー」
とここで武史が笑顔でチャチャを入れた。
「まだまだ喋り足りないのに、何を言っちゃってるんですかぁ?」
「あははは、そうですよ」
と、すぐ後に島谷も続く。
「こんなにまだまだ元気が有り余ってるんですから」
「いやぁ…元気はもう無いんだけれど」
と、神谷は二人からそう言われて、ますますテレの度合いを強めていっていたが、それを私も和かに眺めていた中、ふと隣の義一の顔を盗み見ると、なんというか…同じ様に笑顔ではいたのだが、どこか寂しげな様子をほんのりと滲ませていた。
「ま、それは置いといて、今回のFTA…ねぇ…。私は今回、義一くん、武史くんと二人が表立って頑張ってるから、遅ればせながら何となく考えてみた…それを話してみようと思います」
神谷さんは、ここで一度日本酒を一口口に含んでから、静かに軽く笑みを浮かべつつ話し始めた。
「具体的な内容自体は、この二人から逐一細かく聞いていて、考えれば考えるほどに、ダメなものだというのは分かったんです。なので、先ほども言った様に黙っていても良いんですけれど、折角のご指名なので、私からは今回の協定自体というよりも、その周辺事情について話そうと思います。今回の協定が、”第三の開国”か”第四の開国”か、そんな事はどうでも良いんですけれど、この馬鹿騒ぎは今に始まった事では無いんですね。元を辿れば数十年、いや、明治維新にまで遡れるんですが、そこまで行くと話が広がり過ぎるので、近々に限って言いますと、今の元号に入ったあたり、これが特に顕著だった訳ですが、”構造改革”だなんだとあの時も騒いだわけですが、あの時の政府に対する国民の支持が八割もあって、賛成の大合唱をしたというのを忘れられないんですよ。んー…ちょっとだけ脇道に逸れますが、そもそも”構造改革”という言葉は、昔イタリア共産党の指導者、パルミーロ・トリアッティから出てきてるんですね。要は、共産主義の言葉なわけです。口先では自分たちが保守政党だと言ってる党の指導者の口から構造改革の声が出るというのは、どんなブラックジョークだと思いましたが…」
「あはは、確かに」
と一同が皆して同意の笑みを零していたが、私もそれに混じっていた。何しろ、今の神谷さんの話は、今回の義一と、それに武史の本にも出てきていた内容だったからだ。
「まぁ私は小学生の頃から”世論”というものを信用した事など一度も無いのですが、それはさておき、読者の皆さんは覚えておられるか、昔土光敏夫って人がいて、この人が昭和の末期に『民間活力だ』とか言いはじめて、それが元号が変わった辺りから、エコノミストどもが中心になって、『”マーケットメカニズム”つまり市場をどんどん広げてオープンにすればするほど、その国民には”活力”が生まれてくるんだ』『政府は余計な介入をするな。小さい政府がいいんだ』『市場に任せよ。自由に開放しろ』などと、前世紀末から今世紀初めに入って、そして今の今も変わらずに言い張り続けているわけです。これは勿論日本だけの話ではなく、全世界的にそうなんですが、特に日本は顕著でした。でもそんな話も、今世紀に入ってすぐ辺りに証券バブルがクラッシュして、約百年前の世界恐慌が再び訪れた…というのに、今だに我が国では自由化万歳を繰り返している訳です。さて、先ほど他の国も事情が同じと言いましたが、必ずしもそう言い切れない。というのも、少なくとも欧州、それにアメリカまでもが、行き過ぎた自由化、行き過ぎたグローバリズム、それに対して反省…少なくともしようとしているというのにも関わらず、我が日本では一切その様な声が上がらない訳です。何度もエコノミストの出してくる、空想だか何だか知らないけれども、それにまた易々とこの国民は一斉に流されていく。勿論エコノミストどもは、自分の言った言葉に対して何の責任も取ろうとしない、そんな人非人、人品骨柄の卑しい輩が殆どだというのは周知の事実…いや、我らの雑誌の読者諸君からしたらそうだろうけれども、でもまた国民自身も、一切反省する事なくまた騙され様としている。私から見ると、嬉々として進んでって風に。『自由貿易?全ての関税の撤廃?まぁ…自由ってイイものだよな。しがらみは全て無くした方が良いんだよな』っていう漠たる雰囲気…雰囲気といっても、この漠たるものが戦後から今まで延々と続いてきたものですからね、病膏肓に入るにも程があるんですが、そういうものがベースにあって、今回の馬鹿げた話が急浮上してきたわけです。…毎度の通り話過ぎで悪いですが、具体的な話、普段もう情報もロクに取らなくなった私ですら、今回の協定に入ることによって、日本の農業の競争力が強まるだなどという話を聞きました。でもおかしいと思いませんか?”競争”…例えば、受験競争に晒されて、何となく自分の行きたい所に合格の目処が立ちそうな人は頑張るんでしょうが、『え?競争?自分の過去現在を見る限り、とてもじゃないけれど進学校になんぞいけない、他の人に勝てるわけなんかないわ』といって、早々に競争を自らリタイアする人なんて大勢いる訳です」
「うんうん」
と私はメモを取りながら、何だか身近な話題なせいか身につまされる様な思いをしつつ、しかしすっかり話に魅入られながら黙々とメモを取り続けていた。
「さて、何が言いたいかというと、競争の場を広げただけでは”活力”なんか出ないんですね。活力が出る様にするためには、競争に参加する人間たちが、将来の展望とか、環境なりの先の見通しがつく、もし市場に合わせて考えても、国際市場に丸裸で晒されるのではなく、どんな国家理念、どんな国策体系に基づいて進路が決まっているのか、”財”だけではなく”政”も”官”も、それら三つが合わさってベストミックスが何処にあるのかを探りつつ、時には自由だけではなく”保護”の事も視野に入れて考えながら行かなくてはいけないんですね。市場を安定させるためにも、政府は公共事業なりなんなり、いわゆるインフラストラクチャー、インフラって言葉の意味は元々”下部構造”って意味ですが、その反対のスープラストラクチャー、つまり”上部構造”、この場合で言うと市場ってことになるわけですが、市場を支えるインフラがしっかりしてなくては、安定なんて見込めるわけがないのです。将来に対するビジョン、見通しが立てば、『よし、そっちの方向にいくのか。そのためにこれだけ準備をしてくれたのか。じゃあ私も少し頑張ってみようかな?』って思うものなんですね。これが活力なわけです。それを一切の見通しもビジョンも示さないくせに、本来の意味でいう自由ではなく、ただの”放任”のくせして、自由貿易というたわごと、これのみに従ってきたのが今の元号における流れな訳です。しかし、先ほども言った様に、急にこんなおバカさんが大量に出てきて始まった事ではなく、戦争に負けて以来、『アメリカンフリーダムだ 』『アメリカンデモクラシーだ』などというのを天下の社会正義の様に思い込んで、モノを考え方針を出すというのを半世紀以上に亘って繰り返してきた訳ですが、んー…」
と、ここまで一気に喋った後、ふとここで一度話を切ると、私の方に顔を向けて、何だかバツが悪そうな苦笑を浮かべつつ、口調も先程までとは打って変わって辿辿しげに続けた。
「普段だったらここでズバッと言ってのけるんですが…今回は訳あってちょっと言うのを躊躇うんですけれども…まぁ、誤解が無いだろうと信じているのでそれでもズバッと言わせて頂くと、ここにいる私に信頼している皆さん、特に義一くん、武史くん、この二人がいくら頑張っても、今回のFTA交渉を諦めて貰うのは…無理でしょうね」
「あははは」
神谷さんが言い終えた後、その他の一同は一斉に明るい笑い声をあげた。流石の私もこの空気は初めてだったので、どう反応して良いのか迷ってしまい、取り敢えず作り笑いだけ浮かべておいた。
笑いがまだ治らない中、義一も笑顔を浮かべつつ言った。
「先生、ありがとうございました。…ふふ、先程中山さんなり島谷さんなりが言われた様に、まだまだこれだけ元気が有り余っているというのを見せつけて貰いました。…あはは。さて、次に島谷さん、よろしくお願いします」
「あはは、はい」
と島谷は満面の笑みのまま、恐らくその全てが今回の協定の資料なのだろう、手元にある大量の紙の束を纏めつつ口を開いた。
「えぇー、島谷です。…あは、確かに今神谷先生が言われた様に、義一くん、武史くん、それに僕も陰ながら頑張ったとしても、恐らくどうにもならないでしょう。でも、それでも何とか足掻いてみたい。…ふふ、先生、それは先生自身が今までずっとしてきた事ですよね?だから、僕らも同じ様に足掻いてみたいと思います。…さて、僕はジャーナリストなんで、ジャーナリストらしい切り口から行きたいと思うんですが、まずいきなり今回の自由貿易協定について触れる前に、恐らく皆さんも変だと思うニュースが飛び込んできたと思われた方もおられると思うので、それについて軽く触れようと思います。これも全く違う問題の様で、実は根底では繋がっているからであります。というのは、とある郵便物を取り扱っている会社と、アメリカに本社を置くガン保険会社が”仲良く”やるという話なんですね。今まで実は既に一千局辺りでこのガン保険を取り扱っていたんですが、僕はこの件について色んな本を出してきたので知ってるんですが、実はあまり上手くいってなかったんですね。ところがここに来ていきなり二万件もの局でですね、このアメリカ製のガン保険を扱うことにしましたって言うんです。で、この発表をした社長が何を言うかというと、『えー、ちゃんと保険会社様と話し合って、お互いに良い道を選ぶことにしました』…嘘言うんじゃないっての」
「あはは」
「嘘つきですねー?昨年の五月だったでしょうか、アメリカからカトラーっていうオバサンがやって来まして、この人はUSTR、アメリカ通商代表部の次席代表かなんかなんですが、この人が何しに日本に来たかというと、当時日本側のこの社長は独自にガン保険に進出したいと思ってたんですが、それを潰しに来たんですねー。で、その時の大手新聞社の一面に載ってましたが、そこになんて書いてあったかというと、『今協議中のFTAを前提として、えー…”配慮する”』ということなんですが、これまた全くの嘘です。僕が取材した限りでは、カトラーと、日本側の例の社長、それから外務省の高官、それと総務省の高官が膝を突き合わしたんですが、この時にカトラーオバサンがギシギシと攻めまくりまして、『それでは”凍結”と良いことでどうでしょう?』という話になった、これは永田町で知らぬものなど無い事実であります。何が言いたいかというと、今回もその様な圧力を掛けられて、とうとう屈して受け入れることになったって話です。つまりですね、まだFTAの本交渉の前の時点で既に、日米の関係の元、事前協議でですね、めちゃくちゃ負けてるわけですよ。今の首相、まぁ先生や僕たちともそれなりに付き合いのある方ですが、彼がなんて言ったか、『日本には外交力があるから大丈夫です』って言ったんですね。なんか…僕の個人的な気持ちを述べれば、言ってることが全然違う…総理には今すぐにでも退陣してくれって言いたいところなんですが、それは今は置いときます。取り敢えずはこれで…」
「あはは。はい、ありがとうございました。では武史…あ、いや、中山さん、お願いします」
「ふふ…あ、はい、中山です。えー…私は京都の片田舎でひっそりと暮らしておったのですが、ひょんなことから…そう、ここにおられる編集長様に触発されまして、ついついノコノコと出て来てしまったという次第です」
「あははは」
「で、ですねぇ、今の神谷先生と島谷さんの話に絡むんですが、細かい情報も大事なんですけれど、もう何というかー…”気分”で動いている、その胡散臭さ、その軽薄さ加減が、ズバッと言えば気に入らないんですね。何が恐ろしいって、政府、財界も皆して賛成していて、政府批判の大好きなマスコミまで、右から左まで足並み揃えて賛成している、この不気味さがとても気持ちが悪いんですね。で、実際調べてみると、今島谷さんが仰られていたのも含めて話にならないんですが、何でこの”開国”だとか、”改革”だとかっていう中身のないフレーズに騙されるのかなぁと思うわけですよね。で、話が変わる様ですが、よく『未来に禍根を残すな!』『将来にツケを残すな!』ってな具合な事を良く聞くわけですね。でもですよ、今回の様な馬鹿げた騒ぎ、いや、これに限らず神谷先生が仰られた様に幾度もこの手の馬鹿騒ぎを続けてきた訳ですが、それを五十年後とかの子孫がこの事について歴史として勉強するんですよ。我々が幕末明治の開国なんかを勉強した様に。この馬鹿げた内容…これをどうやって将来教えるんだろう?と。勿論、私も神谷先生やこの雑誌に集う皆さんと同じで、jやり方などを含めて明治維新それ自体に対して懐疑的なんですが、それでも、それなりに当時の人間たちというのは、持てる力で死に物狂いで懸命に頑張ってた訳ですよ。でもここ数十年みたいな、思いつきでチャラけてふざけ通してきた今の時代を過ごしてしまって、それをバトンタッチしてしまう事に対して、同時代人として将来の人間たちに申し訳なくて恥ずかしいのも良いところってのが、まぁ…今の気持ちです」
「そうですねぇ…はい、ありがとうございました。では浜岡さんも…」
と義一に話を振られたが、浜岡はニヤッと一度笑うと口調もそれに寄せつつ言った。
「いやいや、今日は引き継ぎの意味もあるから、取り敢えず今日は、こうして編集長代理としているつもりなんだよ。だから義一くん、君もあんな本を出して、その急先鋒なんだから、私は気にせずに今まで通りに意見を述べてよ」
「え、あ、いやぁー、参ったなぁ」
と、義一は照れた時の癖、頭をぽりぽりと掻いていたが、私を含む一同をグルッと一度見渡すと、苦笑まじりに言った。
「その心使いは有り難いんですが、もう既に御三方が僕の言いたい事を全て言ってしまったんで、何も言う事なんて今のところは残ってないですよ。…琴音ちゃん?」
「…へ?あ、うん、何?」
まさか話を振られるとは思っても見なかったので、我ながら抜けた声を漏らしつつも返した。
その瞬間、一同の視線が一斉に私に注がれたが、それには構わず義一は微笑みをたたえつつ
「君は今までの話を聞いてきて、何か思うところ、疑問に思うところは無かったかな?」
と聞いてきたので、まだ驚きが収まらないままではあったが、それでも今まで取っていたメモに目を落としつつ、自分なりに誠実に考えてみた。
が、何度見返してもこれといった疑問点なりが見つからなかったので
「…んーん、ここまでは大丈夫。ちゃんと付いて行けてる…と思うよ」
と、その点を聞かれているわけではない事くらい分かっていたが、それでも何となくこの場はこう返すのが得策だろうと判断して、顔を上げて言うと、
「そっか」
と義一もこちらの意図を汲み取って、微笑み度合いを増しつつ返した。
義一の肩越しに見えていた一同の表情も、今の義一と同じ様なものだった。
それからは一巡したというんで、義一はまた神谷さんに話を振った。
神谷さんはまた最初の様に留意点を述べてから、それでも快活といった調子で話し始めた。
「まぁ皆さんの言う通りで、何度も言うことも無いとは思いますが、私からは何も付け加える事なんて一つも無いんです。でもまぁ、私が最も大嫌いで軽蔑している”経済学”の問題からあえて入りたいんですけど」
「あはは」
「経済学者から財界人まで誤解しているのが、市場というものなんですね。私はもう今更小難しい本を読むほどの体力も忍耐も無くなってしまってるので、時折思い出した様に漢和辞典を引いたりするんですけれどね、今の中国人はロクでも無いのが多いみたいですけれど、昔の中国人…いや、細かく言うと、あの中国大陸にいた昔の人々は立派だったみたいで、”市場”の”市”って字がありますよね?あれを引いてみると面白いですよ。なんて書いてあるかというと、『公正な価格で取引される場所』とあるんですね。まぁ当たり前の事なんですけれど…良いですか、月に賃金で二十万ほど貰っても、次の月になったらその給料で米も買えない、そうなった途端にどんな企業も勤労組織も崩壊するなどという事は見当がつきますよね?…って、これは確認の為も含めて読者向けに話してるんですが、まぁ一口に言えば”デフレ”って事で、本当はもっと根本的にはデフレのほうが怖いんですが、今はそれは置いといて、勿論マーケット、市場というのは上がり下がりが当然起こるものです。が、しかし、価格の変化の度合いが、まぁまぁ予測以内、想定範囲内に収まるという、そういう見通しが無ければ、いつ何時風船が破裂する様に機能不全に堕ちる可能性があるわけです。問題は、ではどうすれば安定する事が出来るのか…?これはマーケット自身ではどうにも出来ない事なんです。そこで改めて”保護”の問題が出てくるんですね。これは世間に行き渡っている雰囲気ですが、『え、保護?自由の反対だから悪いんじゃないの?』と脊髄反射的に反対してきますがね、保護というのは”防衛”と同じ意味なんですよ。英語で言うと“Defend””Protection”、どちらも英語圏でその様な意味合いでも使われています。当たり前ですよね。防衛と聞くと、軍事の事ばかりが取り沙汰されますが、国家は国民の生活の安全、安寧、それに安定を考えて舵取りしなければならない…この安定というのは、当然国民生活、つまりは経済、市場も含まれているわけです。その安定がなければ、昔の中国大陸人が言った様な”公正”な取引なんか出来るわけが無いじゃないですか。勿論、昔の共産圏の様に雁字搦めがいいだなんて極論を言ってるんでは無いですよ?ただその時代時代の程よいバランスが何処かにあるはずで、自由がいいんだと全部規制を取っ払っちゃうとか、保護が大事だと規制まみれにしちゃうとか、この幼稚な二元論の議論が戦後日本では延々とされてきたわけです。ほとほとウンザリしますね」
「うんー…」
「…ふふ。いや、それは置いといて、こんな今まで話した様な事は、初めの方で中山君たちも言ってた事だけれど、ある意味なんの変哲もないコモンセンス、常識的な話ですよね?こんな事は、十九、二十歳を過ぎたくらいになったら常識として分かってなければならない事ですよ」
「うんうん」
「…ふふ、もう引退した身だし、良い機会だからと老人の特権として好き勝手に言わせてもらえれば、今回に限らないという事は話しましたが、今までだってそうでしたが、一々議論するのが嫌になっちゃうのがですね、根本的にこの常識というのを失くして既に何十年が過ぎてしまったわけですよ。そういうことの帰結として、またぞろこんなFTA騒ぎが沸き上がると。…ごめんね義一…、あ、いや、望月君、こんなにまた喋ってしまって」
「え?あ、いや…ふふ」
と急に話を打ち切ったと思えば話しかけられた義一は、咄嗟のことでキョトン顔を晒していたが、すぐに笑みを浮かべると返した。
「いやいや先生、先生の前ですけれど、普段から結構ズバズバと快刀乱麻といった調子で切っていってるんですから、今更ですよ。最近ではその鳴りを潜めていて、少し寂しがっていた読者もいるだろうと思われるので、そのまま先をお願いします」
「んー…そんな奇特な読者がいるかね?」
と神谷さんは訝って見せたが、口元はニンマリとニヤケていた。満更でもないといった風だ。一同…自覚はないが恐らく私もだっただろう、神谷さんに向かって言葉をかけるでもなく、しかし微笑みをただ向けていた。…若干の悪戯っぽさを滲ませつつ。
神谷さんはそんな私達の顔をぐるっと見渡すと、好々爺よろしい笑みを浮かべつつ先を続けた。
「うまく乗せられた感が否めないけれど、都合よく編集長の言葉に乗っかるとしますか。ふふ…。さて、ちょっと話が変わるけど、今人生における私の唯一の幸せな事というのはですね…孫がいない事なんですよ」
「…」
この時点では特にメモを取る必要を感じなかったから、ただ黙って話を聞いていたのだが、ここでふと気持ち寂しげな笑みをこちらに向けてきつつそんなことを言うので、私は思わずぎくっとしてしまった。敢えてここで補足すると、別に嫌な感情によるものではない。
それはともかく、神谷さんはここで一度ニコッと私、そして視線の向き的に予測するに、義一にも微笑みを流していたが、ここで途端に悪戯っ子のような笑みに変えると話を続けた。
「…ふふ、もし孫がいる読者の方がいたら、アレですよ、自分はもう墓に入ってお終いですけれど、やっぱり孫子の世代になった時に、さっきこれも中山君が話していた事と繋がるけれど、今の日本の現状を考えると…背筋が寒くなるし、もっと言えば…往生際が悪くなりますよ」
「うん…」
「…って、これまた続けると収拾が付かなくなるからこの辺にしときますがね、今回のも含めてこんな馬鹿げた事を旗揚げてこれまで続けてきたのは、財界の馬鹿者たちですよ。人間も歴史も国家も国民も公共活動も一切考えない、考える脳がない連中…。自分の企業の収益…いや、自分が社長でいる間だけの事しか考えてない様な、利己的なことしか考えない財界人たちが、その場の都合で圧力を掛けて、それをバカな新聞記者が取材して、それを大きく膨らませて報道してるという…ってまぁ、また長々と話してしまいましたが、結論としてはやはりダメでしょうね」
「あははは」
「ふふ」
と私も他の皆と同じ様に笑みを零していたが、心のうちではいろんな点から来る感動に酔いしれていた。
勿論今神谷さんの話していたことの内容にも惹きこまれて、一分の隙もない、少なくとも私には正論と思える言説に圧倒されたのだが、それと同時に、義一に教えられてから、思い出した時に時折ネットに上がっている、昔神谷さんが出ていた二十年以上前の番組を観てたのだが、その時の様な力強く、説得力のあるその言い回しを目の前で見れて、そんな点でも何というか…この時の感情を一口に言うと、何だか得した様な気分だった。
笑いが収まった後、また義一が司会者よろしく次に振ろうとすると、ここで浜岡がニヤッと笑いつつ、「いや、今度は望月くん、君にお願いするよ」と言われたので、私も何となく自然と笑みを浮かべながら見ると、義一は何だか照れ臭そうに笑いつつも、すぐに静かな微笑を顔に湛えて口を開いた。
「そうですねぇ…ふふ、まぁ先ほど神谷先生が言われた通りで、これは負け戦ですよね」
「ん…」
「もう多勢に無勢で、マスコミも所謂左派から右派まで諸手を挙げて賛成している訳ですが、政府が賛成して財界が賛成してっていう状況…これを未だ嘗て引っくり返したっていうのは記憶に無いですよ。でー…これはよく中山さんと話しているんですが、何でそもそも僕が表に立って、しかも経済に関する様な、興味がないというか…ふふ、先生みたいに忌み嫌っていたものに関して声を上げるべく腰を上げなくてはいけないのかと…」
「ふふ」
「…ふふ、思うんですよねぇ。僕個人でいえば、僕みたいな何処の馬の骨とも分からない奴が出る前に、肩書き立派な先生がたくさんいらっしゃるんだから、先生方がよろしくお願いしますよぉ…って気持ちがあるんです。…って愚痴から初めて申し訳ないですが、まぁ何なんでしょうねぇー…。確かにここにおられる中山さん、そして島谷さん、このお二方は綿密に今回の協定の内容について調べられていて、一般の人はそんな時間が無いのもあって知れるはずが無い…無いのは事実なんですが、ここで重要なのは、先ほど先生が言われた”常識”の事なんです」
「うん」
「例えばですね、ここにおられるお二方のおっしゃっている、『今回のFTAと日米関係における国防の問題というのは関係が無い』という点なんですが、仮に日米の軍事同盟が大事だとしましょう。では今回の協定に参加しないからって、軍事同盟に支障をきたすのかというと、僕はそうは思わない訳ですね。もし本当に大事にして重要なのだとしたら、アメリカの東アジア戦略において固有の意義があるからしてる訳ですよね?これも常識で考えると簡単でして、もし仮に自分が一国の指導者だとして、自国の軍隊、兵士に対してですね、『農業市場だとか金融市場だとか食い物にしたいから、君たち悪いけど命をかけて、外国なんだけどあの国を守ってやってくれないか?』…こんなの、説得出来る訳ないじゃないですか」
「うんうん」
「僕も戦後だいぶ経っての生まれなんで、戦争がどんなものだとか詳しく身体的には知らないですけど、常識を持って考えればですよ、命をかけて戦うっていうのは、祖国を守る為だとか、その根底にある祖国に対する愛着、愛国心が無ければ出来ない事な訳ですよ。アメリカ側は勿論口先では言いますよ。アメリカは日本の事なんか、ここ何十年間変わらずにナメきってますからね。まぁ…そのナメられる原因は百パーセント日本にあり非があるんで、僕はそれについてアメリカに何か言いたい事なんか何も無いんですが…。それはさておき、『もし協定を結んでくれれば、軍事同盟をもっと強化してあげるよ』などと…まぁ僕は、というか、この雑誌に集う方々の共通の認識としては、軍事同盟を強化するのが果たして良いのか?ってところもあるんですが、それはひとまず置いといて、それもあくまで口先であって、これも中山さんが言われた事ですが、アメリカは今までも平気で他国との約束を何度も反故にしてきた”実績”のある国な訳ですよ。それをそんな口車にまんまと乗せられてはいけない」
「うん」
「で、ですね、話を戻すと、そんな小銭を稼ぎたいからって口実では、一国の指導者は軍人に向かって『死んでくれ』だなんて言えない、こんな事すら想像する事すらが出来なくなっているっていうのは、先生の話ですが、相当に常識というものが痛んでいるんじゃないかと思います。えぇっと…少し話が逸れますが、これはアメリカ在住の、この雑誌にはお馴染みの佐藤寛治さんからの情報提供で、実際に過去に寄稿して頂いた内容ですが、今の様にアメリカが世界で覇権を握る、これを打ち出したのは世界大戦直後からなんですね。その当時はどの国も戦争で疲弊していて、アメリカが一国だけ経済的に有利に立っていた訳です。なんせ、当時の世界のGDP、その時の指標はGNPですが、世界の五十パーセントをアメリカ一国が占めていたんです。その国が軍事費を支出して覇権に乗り出そうというのは、まぁ正当か正義か道徳的にどうとかは別にして、よく分かる事ではあるんですね。しかし、アイゼンハワー大統領…因みに僕、佐藤さんなんかは、戦後のアメリカの大統領で唯一といって良いくらいに好きな人なんですが、彼の時で既に三十パーセント台、石油ショックなどの時のニクソン政権時で三十パーセントを割り、IMFや世界銀行などによると、今既にアメリカの占める世界のGDPシェアというのは十六、七パーセントにまで衰退している訳ですよ。しかしそれでも今だに世界に覇権をと、”パクス・アメリカーナ”の考えを捨てずにいるんですが、どう考えても昔、GDPシェアが世界の半分だった時に打ち出した政策を、二十パーセントを割ってしまった現在も手放さないという、無理を断行している現状な訳です。そんな訳で、勿論他の国々はそんなアメリカの内部が矛盾してる事など分かってますから、いくらアメリカが覇権を唱えても内心では相手にしてないんですが、何故か日本一国のみが今だに盲目的にアメリカに追従しているんですねぇ…。って、何が言いたいかといいますと、そんな衰退してしまっているんですから、いくらFTAに参加しようと何しようと、いざという時にアメリカが日本を助けてくれるはずがないんですね。これも今の話を聞けば、小学生にすら分かる話です。これも常識の問題な訳ですがー…って、先生方はともかく、よく僕自身、常識があるのかと疑われてしまうタチなので、説得力は皆無だと思いますが…」
「…ふふ」
と私がメモを取りつつも思わず大きく吹き出すと、義一は照れ臭そうに頭を掻いて、不満げと微笑を顔面上で同居させた様な表情を浮かべつつ話を続けた。
「ふふ、んー…コホン、まぁそんな僕ですら分かる様な事が世間が分からないという現状が、イカレてるというのが一つですね。で、ですね、もう一つ言いたいのは、そもそも議論の仕方が気にくわないんですね」
「うん」
「今回のFTAの問題というのは農業だけでは無いというのが、ここにおられる中山さん、島谷さん、そして僕の意見なんですが、仮に農業の問題だとしましょう。農業が自由化によって競争が激化して大変になる訳ですよね?神谷先生も言われた様に、別に単純に競争の場を広げたって、活力も生まれないし良いことなんか一つもない訳ですよ。確かにうまく順応した農家は生き残るかも知れない。でもですよ、非効率な所は潰れて廃業したりする訳ですよね?これも常識で考えれば、そんな事が良い事だなんて思わないはずなんですよ。だって、色々な計算方法があるんで一概には言えませんが、よく日本の食料自給力が低いだの何だのという訳ですよ。でもですよ、それを片方で言いながら、もう片方では平気で自由化がどうのといってる訳ですよ。もう…頭がクラクラとするようなフザケタ議論ばかりが繰り返されてきて、そしてまた繰り返されようとしているんですが、また話がそれるようですが、他の国はではどうしているかというと、一つ例にあげたいと思います。それはフランスです。フランス含めたヨーロッパ諸国というのは、皆さんご存知の通り”EU”という、ある意味グローバリズムをあの域内でやってる訳ですね。人、物、金などが自由に行き交い取引されています。が、しかし、では国ごとで”どっかの国”みたいに何もしないで指を咥えているだけかというと、そうではないんですね。勿論、ヨーロッパと一口に言っても、何十カ国とあの地域には国があるわけで、各国各様の言語、文化、歴史を持っているんです。経済も例外ではなく、今言ったような”インフラ”のもとで、それぞれの経済を運営してる訳ですから、国家間で経済力の差があるわけです。イギリスや、ポーランド、チェコなどの中央ヨーロッパの国々は”賢く”もユーロに加盟はしませんでしたが、フランスは加盟してしまいました。その事によって、他の物価の安い国々から安い物品が入ってくるようになる、当然人々は安いからってそれらの物品を買うようになるんですが、そうすると、地場産業の物だとか食品などが買われなくなってしまい、終いには衰退してしまう。それを恐れた政府は、関税や国境の壁が取り払われた後で、慌てて農家などの第一次産業に対して補助金を、今までも付けてはいたんですが、それ以上に付けるようになりました。読者の皆さん、それがどの程度だと思われますか?…なんと、一農家の収入の九割近くが補助金だという程なんです。もうここまで来ると、公務員と言っても過言ではないでしょう。因みに僕個人は、農家だとかの第一次産業というのは、国民の胃袋なりなんなりを支える生命維持装置の一つなんですから、公務員化して良いじゃないかと考えます」
「うんうん」
「まぁでも、こんなことを言うと『お前は共産主義者か』とレッテルを貼られそうですが、それは別にどうでも良いことです。さて、これもついでですが、アメリカ自体も、それぞれ州ごと、食品ごとに違いますが、大体三十から四十パーセントくらい補助金を出していますが、日本は色々と過去に補助金の事で農家を叩いたりしてきましたが、それでもせいぜい一五、六パーセント程度なんですね。しかも生産量から見ても、言うまでもなく広大な土地で組織的な耕作をしている国と、山ばかりの国土で、数少ない平野を使って細々と営んでいる日本の農家、その両方が競争なんて、そもそも出来るわけが無いのは火を見るよりも明らかです」
「うん」
「また話が逸れ過ぎたので話を戻すと、非効率な所は淘汰されるでしょう。これは近代経済学の考えからすると、肯定されます。”自己責任”だとか何だとかと言って。過剰な競争によって外食産業にも皺寄せがきて、コストカットするために失業者も増えると。自由が大事だ規制緩和だとかでタクシー業界なんか酷い事になりましたよね?要は新規参入が無駄に増えて飽和状態になるわけです。一応企業が増えるので就職が出来ると、失業した人々がそのような労働市場になだれ込むわけですが、今のようなデフレ化において、そのような労働者が増えると、勿論今あるパイを皆で分け合うって事で、賃金はますます下がっていく、つまりはデフレ化が進行していくわけです。要は、このような無思慮に自由化だ規制緩和だと進めれば、国民全体で不幸になるわけですよ。で、ですね…少し話しすぎで悪いですが…」
「ふふ、どうぞ」
「ふふ、すみません…。また一つ気に食わない点を言わせて頂くとですね、そのー…日本人一般、取り分けですね、製造業、輸出企業…つまりは外資ですね、その労働者、勤労者の方々ってですよ、単純に言えば農業を犠牲にすれば輸出が伸びるかも知れないって思ってるわけですよ。つまり、他人が苦しんで痛みを伴って自分が楽できると考えてるわけですよね?これって、ここ二十年ばかり続けてきた構造改革の思想の延長線上にあるわけですよ。何でもかんでも既存の規制分野を悪者に仕立てて、皆してそれらをぶっ叩く…」
「…」
「土建屋が悪いだとか、公共事業はもういらないんだとか、具体例を挙げればキリがないくらいにあります。『誰かが甘い蜜を吸ってる”かも知れない”』そんな自分で本気で調べたわけでも無いくせに、周囲の、世間の空気に流されてまんまと乗っかって、それによって叩かれた側に失業者が出て路頭に迷う人々が出ても、『企業努力が足りなかったんだ』『効率性が低いから淘汰されて当然なんだ』『非効率な奴らはただの邪魔者。足を引っ張るだけのものは排除しなくちゃ』って、こんな論理で今まで来たわけですよね?」
「うん…」
「これはまず道徳の問題からして不道徳なんですけど、それ以前にですね、そんな事をやり続けると必ず”報い”が来るんですよ。つまり”デフレ”。会社自体もそうなんですが、今回のような農業などの第一次産業を犠牲にして自分が楽になりたいが為にFTAに賛成したような勤労者たちは、実際には日本国内で生活してるわけで、デフレの影響をモロに受けて、賃金は下がる一方、次に今回のFTA 話の流れで沸き上がって来た議論ですが移民を入れようって話、移民が入ってくれば、そのように自由だ規制緩和だとかを賛成した人々は、その移民たちに職を奪われ、賃金もますます下げられ、貧困を深めていくと言うのは目に見えてるわけです。だから…他人を潰して、自分だけ楽になろうとした報いは必ず来るんですよ」
「うんうん」
「こんな事を言うのはアレですが…ザマァみろと。つまりこれも常識の問題で、こんなゲスな考えをしてはいけないって昔はそんなの当たり前のこととして周知されていたはずなんですが、『そんな古臭い考えは嫌だ』っていう風な子供っぽい、堪え性のない幼稚な、体ばかりが大きくなって歳だけ無駄に食っている大人たちが、こんなフザケタ事を恥もなくのたまうのが今の現状です。もっと言えばですよ、何で…何でたかが非効率ってだけで淘汰されて路頭に迷わなくてはいけないんだと。オカシイでしょうと」
「うんうん」
「読者の皆さんだって、周りを見渡せば言うまでもなく皆働いてるのが分かるでしょう。けれど、デフレで色々とあるし、能力の問題もあるから一生懸命に働いたって効率性なんか上がらないですよ。非効率だけれども、マジメに働いて家族を養って生活してるわけですよ。繰り返しますけど…何でそんな人らが路頭に迷わなければいけないんだと」
「うんうん!」
先ほどからずっとこんな調子で相槌を打っていたのだが、自然とわれ知らずに段々とその度合いを強めていき、この時には力強く合いの手を入れるのだった。
他の一同も同じ気持ちだったようで、神谷さん含む皆全員が、義一の今までの発言を、長いとか退屈だとかそんな感情なんぞを表に出すことなく、むしろ興味津々、真剣な顔つきで聞き惚れるように聞き入っていた。
義一はここまで話すと、一度グビッとビールを煽ってから、また続けた。
「おそらく僕の今の、今までの発言は、この雑誌の読者の方々には受け入れてくれるものと信じてますが、反論してこない事をいいことに、このような論理で立場の弱い誰かを叩き続けてきたわけです。オカシイでしょうと。…って、これ以上話すとまた長くなってしまうので、これくらいにしておきます」
最後で照れ笑いを浮かべながら言い終えると、一同がクスッと笑う中「ありがとうございました」と浜岡が言うと、「一区切り付きました?」と明るく浮かべながらママがドアを開けて隙間から顔を覗かせた。
皆して返事をすると、既にその後ろに用意していたのか、お代わりを乗せたいつものカートを室内に押して入り、各々にそれらを配膳していった。
「はい、琴音ちゃんも」と私にアイスティーのお代わりをくれたので、「うん、ありがとう」と微笑み付きでお礼を言いながら受け取ったが、ふとやはり、何故このような絶妙なタイミングで入ってくれるのかを訝り、ふと部屋の周囲を見渡したが、カメラらしきものなどは見当たらなかった。今だに謎のままだ。
それはさておき、ママが去った後、今度はまた義一に”司会権”が戻り、まだテレの抜けない様子のまま、義一は島谷に話を振った。
振られた島谷は、先ほどまでの真剣な表情を途端に崩し、何度か肩を大きく揺らしながら笑い、それから手元の大量の資料を眺めつつ口を開いた。
…余談だが、これまで長く義一は発言をしていた訳だが、あの番組内と同様に、一切資料を見ないままでのものだったと、どうでもいい事だとは思いつつ付け加えさせて頂く。
「あははは、いやぁー、流石義一くん…いや、編集長というか、本当に心に染み渡るような演説を聞かせて頂きました。…あははは。えぇっとー…そうですね、僕からはそうだなぁ…、今の発言を受けて、それに僕なりに具体例をまた付け加えさせて頂くって体で発言させて頂きましょう。っと、その前に…」
とここで島谷は、おもむろに資料の束の中から一つの雑誌を取り出した。そしてその表紙をこちらに見せてきたので、気持ち前のめりになって覗き込むと、それは最大手の経済新聞が版元のものだった。表紙には今回のFTAの字が大きく踊っていた。
「えぇーっと、あは、我々の間では悪名高い経済”音痴”新聞系雑誌に、何と我らが編集長の出した本についての書評が載っていますんで、それをまず紹介したいと思います」
と島谷はペラペラと、これまた付箋まみれの雑誌を捲りつつ言っていたが、あるところで止めると、テーブルの空いてるスペースにそれをページ見開きで置いた。
また私はさっきよりも少し前のめりになって覗き込むと、義一の名前が大きく見出し部分に載っていた。約二、三ページに渡っての書評で、私は知らないが世間的には知名度の高い経済学者が書いていた。
ふと周りを見渡すと、覗き込んでいたのは私のみで、義一含む他の面々は遠目で見ているんだけだったので、どうやら皆は既にこの記事を見て知っていたようだった。
「あはは、琴音ちゃん」
と島谷が私に話しかけてきた。
「初めて見るのなら、今ちょっと軽くでも読んでみる?」
と言うので、
「え?いいんですか?」
と聞き返すと、
「あは、もちろん」
と満面の笑顔で返されたので、「じゃあ…」と私はそれを手元に引っ張ってきて持ち、それを斜め読みに読み流していった。
島谷は私のそんな様子を微笑ましげに見てから話を始めた。
「わざわざ”高名な”経済学者の先生に、こんなにページを割いて評して頂いた、編集長、今の率直な感想をお聞かせくれますか?」
「…ふふ、島谷さん」
と、話を振られた義一は、苦笑気味ではあったが、どちらかと言うと明るい笑みを零しつつ返した。
「今は僕じゃなくて、あなたの番だと思うんですが?」
「あはは。いやぁ、ほら、僕はジャーナリストでしょ?どうしても野次馬根性があるんでねぇ…。当人は、この記事を読んでどう思ったのか、ぜひ直接聞きたいなって思ったんですよ」
このやり取りの間、私はずっと読んでいってはいたのだが、簡潔に述べれば、要は義一の意見に対して全面的な反論だった。『経済学の事を全く分かっていない』だとか、『こんな素人の本が売れるというのは、とても危うい事態だ』だとか、そんな類だ。
私は読んでいて、自分の事のように、その上からの物言いに段々苛立ってきていたが、その当人もこれを読んだはずなのに、飄々としたもので、島谷のその言葉にも笑顔で明るく返事をしていた。
「ふふ、人が悪いですねぇ…。まぁ、いいですよ。そうだなぁー…感想ねぇ…」
「…え?」
と、ここでふと隣の義一が身体を私に寄らせて紙面を覗き込んできていたのに、一瞬驚いたが、そんな反応の私を他所に、義一はそのまま目を落としながら口を開いた。
「んー…まぁ、これは浜岡さんに送られてきた、僕の本に対する批評が書かれている雑誌の中の一つにあったんで、勿論読みはしましたが、多すぎてどれがどうとかまでは覚えていません…ので、今こうして読み返してますが…ふふ」
と不意に義一は吹き出すように笑みをこぼすと、体勢を元に戻してから先を続けた。
「まぁー…この記事に書かれている”大先生”の、僕に対する”お叱り”の言葉を一つ今そのまま引用しますと、『自由貿易で輸入品の値段が下がったりしたら、それがデフレ圧力になり、ますます深めてしまうという望月氏』、ふふ、これは勿論僕のことですね。『望月氏の議論に至っては、デフレと相対価格の変化を混同するものだ。輸入品の価格が下がる事は、消費者の利益であり、”貨幣現象”に過ぎないデフレとは無関係である』…ふふ、とまぁ、そう書かれていますね」
「あはは」
と島谷は、義一の読み上げた部分を聞き終えると、また豪快に身体を揺らしながら笑っていたが、その笑顔のまま義一に
「で、編集長、こう書かれているんですが、これにはどう反論しますか?」
と聞くと、義一は如何にもやれやれと言いたげな様子で頭を掻いてから、しかし口元は緩めつつ返した。
「んー…ふふ、どう反論…ですか?どう反論って言われても…あまりにも間違い過ぎて、大先生には悪いですけど、その気にもなりませんね」
「あはは」
「ふふ」
「んー…でもまぁ敢えて反論しろって言われるならば…根本的に間違ってるんじゃないですかね?ええっと…何でしたっけ?…あ、あぁ、勿論安い輸入品がたくさん入ってきたからって、それがデフレの原因だなんて言うつもりは無いんですが、デフレの時に安い物が入ってくると、ますますデフレが進んじゃうって事なんですよね。そもそも経済には需要と供給の二つのサイドがあるわけですけど、デフレというのは供給過剰の状態の事を指すんですよね。…その経済学における”権威”さんが、あくまで貨幣現象だと言い張りたいみたいですけど」
「あはは」
「でー…ですね、要は世の人々がお金を使わない、これが需要不足って事で、それによって物が売れずに倉庫にブタ積みになってたりする、これを供給過剰と、簡単に言ってしまえばこういう事で、これがデフレの正体の大きな一側面なわけです。で、ですよ?こんな物が余って困ってるという社会状態なのに、その時に自由貿易で外からどんどん入ってくるようになったら、ますます物余りになって、それがデフレ圧力に拍車をかける…んー」
とここで義一は、さっきよりも”やれやれ感”を表に出しつつため息混じり、苦笑まじりに続けた。
「こんな事は、経済学だなんて事を知らなくても、いや、知らなくて良いんですが、知らなくてもすぐに分かる事ですよね?」
「うんうん」
「で、ですね…また別の観点から言いますと、確か最近の経済財政白書にも書かれてましたけど、『外から安いものがたくさん入ってくると、競争が激化する。そうすると生産性が上がる』とあるんですね。でー…、デフレというのは今申したように、生産品が過剰になってるって側面があるわけですよね?需要に対して供給が大きいので、ますますその差、いわゆる”デフレギャップ”が広がっていくって事になるわけです。ですから経済白書は自分で『自由貿易をやると、デフレになる』と言ってるんですね。これはまぁ今までの話を聞かれた読者の方々なら、すんなりと納得いっていただけると思います」
「うん」
「自由貿易をすると、競争が激化すると言いましたが、そうなると当然他社よりも安く商品を提供しようという、そのような競争に入るわけですが、どの会社もまず何を削減するかというと、当然人件費なわけです。もしくは、競争に負けたせいでその会社自体が潰れるとか、そのような事態になると。失業者が増えますと。また外食産業に限っていっても、安く済まそうと考えると、高い国産のを使うよりも、安い輸入品を使うようになるんで、それで国内の農家なども打撃を受けて、失業するなり自主的に辞めるようになってしまうと。で、失業者は当然ロクに消費が出来ませんから、今まで関係ないと思われていた、思っていた他分野の企業にまで影響が及び、遅かれ早かれ同じような事態に追い込まれると」
とここまで話すと、一度義一は一息いれる意味もあってか、また先程のようにビールで唇を湿らせてから、改めて続きを話した。
「先程の、えぇっと…名前は知らないですが、ナントカって大先生は、『消費者の利益になる』だとか何とか”ほざかれて”ましたが」
「ふふ」
「今までの単純な論理から考えてみても、中長期的には利益になるどころか、不利益、悪影響にしかなってない事がお分かりになられたと思います。当たり前ですよね?だって…経済、世の中というのは全てが繋がっていて、例外など一つもないんですから。これも、普段生活していれば、肌感覚で分かる、もしくは神谷先生の言葉を借りれば、分かってなくちゃいけない常識ですよ。消費者というのは労働者でもあるわけですから」
「フォーディズムだな」
と、これまで大人しめだった武史が、ここで”絶妙のタイミング”で合いの手を入れた。
「自動車会社のフォードの創業者、その名もヘンリー・フォード。この人は自分の社員たちの給料をなるべく下げないように、むしろ上げるようにしていた訳だが、それを見た周りが『何でそんなに社員達に給料を配ってるんだ?人件費は下げた方が会社の利益になるじゃないか?』と言うんだが、それに対してフォードはこう返すんだ。『勿論短期的に見れば、コストになるかも知れないが、キチンと平均以上の給与を与えれば、この社員達が今度は消費者側に回って、我が社の車を購入するかも知れないだろう?』とね」
「なるほどー」
「ふふ、そう。今中山さんが良い具体例を述べてくれたけど、それを今の日本…いや、何も日本に限った事じゃないけど、社員を今や”人材”つまり、”材料”や”資材”程度にしか見てない、コストとしか見てないような、少なくとも大企業はそういう考えに染まってしまっていますね」
「グローバル人材とかね?」
と、これまた今まで静かだった浜岡さんが、ニヤケつつ横から入れた。
「グローバル人材ねぇ」
と次に口を開いたのは神谷さんだ。
「グローバル人材…普段もうテレビも何も見なくなってしまった私ですら、よくこの様な話を聞く様になったけれど…今の日本は、ありとあらゆる価値観を喪失してしまっていますが、それで最後に行き着いた価値観が”グローバル”…。ふふ、悪い冗談を言う様ですが、そもそもグローバルというのは、”グローブ”、つまり地球、球形の意味でしかないんですが、要は今の日本人の最後の価値観は『地球人になりたい』っていうんですからねぇ」
「あはは」
「なるほどー…ふふ」
「色んな大学でも今うるさいですよ。グローバル何々学科だとか」
「ふふ、たけ…中山さん、あなたの所の大学も、格式のある歴史ある旧帝大というのに、なんかその風潮があるみたいじゃないですか?」
「はぁー…そうなんだ…あ、そうなんですよ。『グローバル人材を育成する、グローバル大学を目指す』だなんてホザ…あ、いや、”ほざかれてる”んだから」
「ふふ」
「そもそも”人材”だなんて無粋な言葉…琴音ちゃん?」
「ふふ…え、あ、はい?」
と急に神谷さんに振られたので、何だか素っ頓狂な声を上げつつ聞き返すと、神谷さんはニコッと例の好々爺の様子で聞いてきた。
「勿論君の名前、それに年齢まで伏せるという大前提のもとで聞くけど、今世間では、人材活用の一環として”女性活用”だとかそんな話で盛り上がってるんだけど、これについてはどう思うかな?」
「…え?ん、んー…」
と、今度は神谷さんから急に振られたので、またもや呆気にとられてしまったが、ふと見渡すと、他の一同が顔に興味津々といった調子の笑みを滲ませながらこちらを見てきていたので、以前から義一と議論していたこともあり、自分なりではすぐ様に答えた。
「そ、そうですねぇ…も、勿論、私はまだそんな社会に出る様な年齢…って、これだと自分で歳を明かしてしまってる様なものかな?」
「あははは」
「ふふ、琴音ちゃん、大丈夫だよ。僕が何とかその辺はボカしとくから」
「あ、そう?…ふふ、じゃあ、えぇっと…まだ社会に出る様な年齢ではなく、むしろまだ守られている側ではありますが、それでも、そんな私でも、皆さんの話ではないですが、この議論の持っていかれ方、その仕方に大きな違和感を覚えます。それはもう単純と言いますか、今までの議論で散々出てきたことですけど、”人材”だとか、”活用”…私もよく普段からテレビや雑誌、もっと言えばネットすらよく見ないんですけれど、それでも耳に入ってくるのは、活用って言われて、世の女性達は、本心からかどうかはともかく、喜んでいるって話なんです」
「うん」
「これは…正直驚くと同時に…引きました。同じ女として。だって…”活用”ですよ?まず私が思ったのは、『何でそんなに上から言われなければならないんだ?』って事だったんです。だってそうですよね?『活用してやる』って、主に男側から言われてるんですから。何なんですかね…?世の女達は、口では『今まで男に差別されてきた。下に見られて見くびられてきた。これからは男女平等でなくてはいけない』などと言うくせに、それで代わりに何を出だすかと思えば、大昔からあった”男の社会”に入りたいが為に、わざわざ自分を”人間”ではなく、ただの物か道具程度に卑下して、『どうかお願いですから、私たちを使ってください』って頼み込んでるのが、今の現状な訳です。…んー、こう言うと、本人達からは違うと反論されそうですが、少なくとも私にはそう見えます。というか…そうとしか見えません」
と私は、途中から一人で熱くなってしまい、ここまで一気に話切ったが、ふと周りを見渡すと、島谷さんを除く他の面々が、満足そうな柔らかな笑みを浮かべてきてくれてたので、この面々の中ではあながち的外れな意見では無かったんだと胸を撫で下ろした。
だが、島谷さん一人が、”昭和メガネ”の奥にある、つぶらな瞳を目一杯大きく見開いてこちらを見てきていたので、彼だけ違うのかと、少しおずおずとしながら見つめ返していたが、フッとある瞬間になると、「あははは」と、例のごとく身体を大きく揺らしながら笑い出した。
「あははは!いやぁ、ここにいる皆さんから話を聞いていたけれど、直接会うまでは、そんな子が本当にいるのかと訝ってたんだけど…ふふ、本当に考え、思考が深い子なんだねぇ」
「あ、い、いや、そんな…」
と、例のごとくとコレに関して自分で言うのは馬鹿みたいだが、また私を褒める様な雰囲気が醸成されてきつつあるのを察した私は、慌てて否定を試みた。
「い、いやいや、今話したのは、義一さんと以前に二人で議論した内容を、そのまま話しただけなので、その…私だけの意見では…」
「ふふ」
と、まだ訂正の途中だったが、ここで不意に義一の微笑みに途切らされた。
「まぁ今のところはこの辺にしておこうか。で、何だかどんどん話が逸れていってしまってる様だけれど、大事な話だから少しばかり掘り下げてみると…うん、琴音ちゃん、今君が言った通りだよね。えぇっと…」
と義一は、おもむろに紙に”奴”の字を若干大きめに書いた。
この瞬間、先ほど言った、この問題について以前宝箱で議論をした時と同じ流れだったので、すぐに何を話そうとしているのか分かったが、まだこれが雑誌の中身のモノだと気付き、余計な口を挟むのは控えた。
「”奴”って漢字がありますよね?これも読者の皆さん向けに話すんですが、”奴”…この漢字というのは辞書を引くと『人を卑しめていうとき、無遠慮にいうときに用いる』とあります。もしくは、『奴隷の様に地位の低いさま。能力の劣ったさま』とあったり、『女性が自分をへりくだっていう言葉』とあります」
「うん」
「で、ですね、そもそも元々はと言うと、この字は”女”と”又”の二つに分けられるわけですが、これが何を意味してるか?それは…『手で労働する女の奴隷』って事なんです」
「うん」
「ふふ、もうお分かりでしょう?つまりですね…ふふ、今この場には女性が一人しかいないんですが、その彼女が自分の口でズバッと言ってのけてくれたので言いやすいんですが、そもそも昔の女性というのは、自分から男の社会である”仕事”、外に出て仕事するというのを卑しいものと認識していたって事なんですね。だってそうでしょう?読んで字の如くで」
「うんうん」
「ふふ、ありがとう。またこうして彼女が力強く同意してくれたので、また話し易いのですが、今では死語になってしまってますが、ついこないだ、数十年前までよく奥様同士で話されてたはずですよ。『全くウチの亭主ときたら、仕事仕事ってこればかりなんだから。そんなに外で仕事をしてる、それだけで偉いのかしらねぇ?全く…家事しかしないって主婦を馬鹿にしてるんだから。誰が家を守ってると思ってるのかしらね?私がいなければ何も出来ないくせに』と」
「あははは」
「そうだねぇ」
と、ここで神谷さんが、悪戯っぽい笑みを浮かべつつ口を挟んだ。
「今時、まぁ世の風潮のせいもあるんだろうけれど、そんな”常識”的な事を言う女性も少なくなったねぇ…。まぁ琴音ちゃん、そして勇気を持って話してくれた義一くんに乗っかる様だけれど、年寄りの特権を乱用させてもらって、それに沿う形で一つ、ある人の言葉を思い出したから述べさせて貰うね?」
「…ふふ」
これも年寄りの特権なのか、まだ雑誌の中の対談だというのに、神谷さんはすっかり普段の調子に戻り、”義一くん”と”編集長”を呼んでいた。それに気づいて思わずクスッと笑ってしまったのだが、そんな私にニコッと一度、こちらの意図を知ってかしらずか笑って見せてくれた後で、神谷さんは続けた。
「これは勿論、義一くん、それに武史くんなど他の皆も知ってる話だけれど…私の好きな人でチェスタートンっていう、十九世紀から二十世紀にかけて活躍した、推理小説家にして偉大な保守思想家がいるけれども…」
チェスタートンの名前は、これまでも何度か出てきてるからお馴染みであるだろう。義一との会話の中でも何度も出てきてるし、一度軽くこの数寄屋で保守とは何かの話をした時、その後で実際にそれら関係の本も借りる様になり、これまで読んだ中で既にチェスタートンの本も読み終えていた。
「こんな事を言ってたね。『今の女性たち、主に男たちが沢山いる会社などの中で働いている、いわゆるOLたちというのは、どこか家事をしている専業主婦をしている女性たちを見下しているフシがある。『何さ、あの主婦という連中は。毎日毎日家事をしてるだけで、同じ事を繰り返してさ。よく飽きないものだね』と。それが見下す一つの点らしいが、私の考えは全く違う。主婦の方々は活力がないから同じ事を繰り返しているのでは無い。活力が有り余ってるから、倦む事なく毎日同じ事を繰り返せるのだ』」
「うんうん」
「『子供を見てみればいい。子供というのは、毎日毎日同じ遊びを何度も繰り返しても、それでも飽きずに明るくはしゃいで見せているではないか。子供は活力が当然、一般的な大人たちなんかよりも有り余ってるから、ああして何度も同じ事を繰り返せるのだ。それに引き換え、大人になった男ども、それに最近では”男の真似事”に精出している女性たちはどうだ?活力を失ってるが為に、どこか刺激が無いと落ち着かないというので、家の中に留まる事が出来ずに、仕事と称して新奇なもの、退屈を紛らわせてくれるものを求めてさまよい歩いているではないか?これが果たして、子供、主婦と比べて優れているだなんて言えるのだろうか?』とね」
「うんうん!」
と私は力強く、”一応”メモを取りつつ頷いた。
…というのも、実際に本で読んだというのもあるが、それ以前に繰り返し言ってる宝箱での議論の中で、義一が話してくれてた事だったからだ。これを引用する辺りも、括弧付きではあるのだが師弟でそっくりだった。
神谷さんが話し終えた後、一同はにこやかに笑い合っていたのだが、ここで今更ながら、ふと浜岡の姿が無いのに気づいた。
ママが飲み物のお代わりを持ってきていた時に、何やら耳打ちをされていた様だったが、その後で知らないうちに部屋を出て行っていた様だ。
不思議には思いつつも、それに対して誰も何も触れないので、私は空席になった浜岡の座っていた辺りをチラッと見るのみにとどめた。「あははは。でも先生」
と満面の笑みを浮かべつつ、島谷が神谷さんに話しかけた。
「その主婦の方々もすっかり様変わりしてしまったというか、自信を喪失してしまってる様で、ここ最近ずっと出ている事なんですが、主婦たちに自信を持たせる為に、何と、家事というのが時給に換算するといくらなるかだなんて指標を出してたりしてるんですよ」
「へぇ」
「はぁ…」
と、これを聞いた武史は、テーブルに肘をつき、おでこに手を当てつつ、首を大きく横に振りながら溜息混じりに言った。
「やれやれ…。そんな無粋な事をやるなんてねぇ…。これでまた、主婦から目に見えた表立った反発が無いっていうのが、もう…イかれてますね」
「あははは」
「あはは。…って、いやぁ…」
と、神谷さんは禿頭をまた自分で撫でて見せつつ、照れ臭げに一度一同を見渡し、最後に義一の向きで止めると言った。
「まぁ私のせいなんだが、話がすっかり逸れてしまったから…編集長、話を元に戻して貰えるかね?」
「ふふ、それは中山さんが”フォーディズム”に触れたことから始まった気もしますが」
「あ、そっか…。ふふ、悪かった」
「ふふ。えぇーっと…はい、分かりました」
そう答えた義一は、自分のメモに目を落として確認してから口を開いた。
「まぁ付け足すこともこれと言ってないんですが…何で自由貿易を進めても、デフレ圧力にはならないって言ってるんでしたっけ?そのー…誰だっけ?」
「あははは」
「ふふ」
「あはは。デフレと相対価格の変化を混同してると。デフレと市場競争は別なんだって言ってるんですねぇ」
「ふふ。でも、今説明した…というか、整理した様に、どこが別なんだか分かりませんよねぇ?」
「ふふ、うん」
「そいつの中では別かも知れないけれど、世の中では一緒何だけれど…あ、すみません」
武史がこの様な合いの手を入れた途端、また神谷さんが昔の教師よろしく、チョークを投げる様な動作をして見せたので、武史はすかさず座ったまま深く頭を下げた。二人とも明るい笑顔だった。
「ふふ」
「ふふ。まぁでもー…」
と義一はこう口を開くと、語尾を伸ばしながら周りをグルっと見渡し、それから続けて言った。
「分かりませんよ?”そいつ”さんは経済学者の大先生で、僕はただの人ですから」
「ふふ」
「僕は経済学の事なんてよく知らないですし…。ふふ、もしくはー…もしその先生が経済学では正しいのだとしたら、そもそも経済学自体が間違っているのでしょう」
義一のこと発言の後、また一度、私も含めた皆して明るい笑い声を上げたが、ふとこの時ガチャっと部屋の扉が開いた。その方を振り返り見ると、そこには今まで退席していた浜岡が、手に紙袋を下げて立っていた。
そして何も言わないままにテーブルに近寄り、
「はい編集長、ようやく来ましたよ」
と笑顔でそれを義一に手渡した。
「?」
と不思議に思いつつ傍からその紙袋を眺めていたが、「あ、ありがとうございます」と、義一は紙袋の中を覗き込みつつ返していた。
「ねぇ義一さん…それは?」
と声を掛けると、義一はニコッと目を細めて笑って見せるだけだった。
そして義一は紙袋の中に手を突っ込むと、中のモノを順に順に取り出し、それをテーブルの上に置いていった。
見るとそれは、どうやら本のようだ。どれも同じのらしい。
私が何だろうと表紙を見ようとしたその時、義一はおもむろに立ち上がると、それらを神谷さんに始まり、順にそれらを配っていった。面々は何も言わずとも分かっているらしく、
「ありがとう」などと各々各様にお礼を言いつつ受け取っていた。
今だに意味がわからない私は、ただ呆然と眺めていたのだが、最後に義一は元の席に座ると、残った一冊のそれを私に差し出してきながら言った。
「…ふふ、琴音ちゃん。これは一応琴音ちゃんの分なんだけれど…」
「え?」
と声を漏らしつつ受け取り、その表紙を見ると、そこには『二十一世紀の新論』と、ただこれだけのシンプルな題名が出ていた。
表紙だけ見ると、縦長のいわゆる新書サイズに見えるのだが、しかしそれを横から見ると、新書らしからぬほどに分厚いものだった。
ペラペラと何気なくページを捲ると、字も小さめなサイズで、一番最後のページ番号を見ると、四百何十ページとプリントされていた。「これって…」
と、最後の後書き部分に目を落としつつ声を漏らすと、義一は柔らかな口調で返した。
「んー…ふふ、以前に…そうそう、神谷先生が宝箱に来た時に君も鉢合わせたでしょ?その時に会沢正志斎などの所謂古学、国学者の話と、その流れ上にいる福沢諭吉の話をしたと思うけれど、その本がようやくこうして形になったんだ」
「あ、あぁー」
と、私はその言葉を聞いて、今度は目次部分を探して見ると、そこには以前に義一が触れた思想家たちの名前が連なっていた。
「だからね」
と、私がまた本に目を落としている中、調子を変えることなく話しかけてきた。
「予定よりも一ヶ月ばかり遅れてしまったけれど、もし良かったらそのー…僕のその本を、また読んでみてくれないかな?それでー…また感想をくれるとありがたいんだけれど…?」
と、途中から”何故か”不安げな口調に変化させながら言うので、思わず私は顔を上げて、そしてすぐに苦笑いを浮かべつつ義一の顔を見た。そしてその苦笑を交えつつ、すぐに返した。
「…ふふ、義一さんー?もう何度目になるか分からないけれど、私とあなたの間で、そんな気の使い方は不要よ?そんなの…」
と私はここで一度手元の義一の新刊を、表裏と何度かひっくり返して見せながら続けた。
「当然読むに決まってるじゃない。そのー…ありがとうね」
と言い終えて、最後に微笑みをくれてあげると、「いやぁー…うん、こちらこそ」と義一はまた照れた時のクセ、頭をポリポリと掻きながら返した。
その直後には、また一同で和やかに微笑み合うという柔らかな雰囲気が場を満たし始めたがその時、ガチャっとまた”絶妙な”タイミングで部屋のドアが開けられた。
そしてヒョコッとママが顔だけ見せた後思うと、明るい笑みを浮かべつつ私たちに声をかけてきた。
「先生方ー、今がキリが良いようなので、この辺で一先ず打ちきって食事でもどうですか?」
第26話 数寄屋 c
毎度の通りに、マスターが腕によりを掛けた料理、私達それぞれの好物の品々を摂りつつ、雑談に花を咲かせた。
食事もあらかた済み、フッと気の抜けた雰囲気の中、義一の側に置かれた紙袋に目を向けつつ口を開いた。
「…あぁ、だから浜岡さんは途中から席を外してたんですね?」
「え?…あ、あぁ」
と浜岡も同じ様に紙袋に目を向けると、表情も穏やかに答えた。
「そうそう。さっきママに教えてもらってね、元々その予定ではあったんだけど、私の知り合いの雑誌編集者が来たってんで、それでちょっと席を外してたんだよ。で、この刷り上がったばかりの義一くんの本を、持ってきて貰ったってわけさ」
「なるほどー」
それからは、これまたいつも通りに空いたお皿をママとマスターが分担しつつ片して部屋を出て行った後、おもむろに義一はまたテープレコーダの電源を入れ、それをテーブルの真ん中に置いた。
この間誰も声を発しなかったが、ほぼ同時にメモ用に使っていた紙を皆してテーブルに戻したので、私もそれに倣った。
どうやらこれから後半戦がスタートするってことらしい。
私個人としては、まだまだ話を聴き足りなかった感があったので、願ったり叶ったりだった。
…この話を聞いておられる皆さんは、どうだか分からないけれども。「あ、そういえば、話が逆戻りする様ですけれど」
と前置きを置いてから、編集長の義一が口火を切った。
「せっかくこの場に島谷さんがいらっしゃるので、先ほどチラッと触れておられた、ガン保険の話をもう少し詳しく聞きたいなと思うのですけれど…」
「あはは!はい」
「あれはー…ヒドい話だと思うんですよね。日本は今回のFTA交渉を上手く取り纏めるためって言い訳をしつつ、アメリカのとの事前協議で既に沢山の分野で譲歩してるんですよね?今回の保険話もその一環な訳ですけれど、アレは元々国が管理していたというのもあって、今だに筆頭株主は日本政府で、要は税金を使って株を持ってるって現状です。さっき島谷さんがおっしゃってた様に、アメリカ側は新たなガン保険の様なものを日本側が作るのは罷りならんと思っているし、実際に公式に公に『仮に作ったとしても、日本政府がこれを認可するのは許さない』と高官が話している訳です。これって…おかしいですよね?主に日本側がって意味ですが…」
「…」
義一が話している間、他の皆と同様に島谷もニコニコ顔をしまい込みつつメモを取っていたが、話し終えると、それなりに真面目な顔つきではあったが、それでも元からの顔つきだから仕方ないのか、パッと見笑みを浮かべている様に見える表情で口を開いた。
慌てて付け加えさせて頂くと、別にその様な島谷に対して反感があるわけではない。むしろ、聞く側に緊張を与えないという意味で良い点だと思っている。
「んー…ふふ、そう、今編集長が言われましたけれど、アメリカにとっては何もおかしくないんですね。当たり前ですけれどね。思い出すのは九四年から九六年に掛けて”日米保険協議”というものがありましたよね?この中で日本側とアメリカ側であるUSTRの担当官とで話し合って、話がまとまりだしたその時、アメリカ最大の保険会社”AIG”の代表が日本に乗り込んできてですね、で、どっかのホテルをワンフロア貸し切ったと言われてますが、貸し切っていきなり指揮をとってですね、ギシギシと日本政府に圧力をかけていったんですね。今までの交渉を後から来たくせにご破算にしてしまったんです。で、自分たちのやっているガン保険をですね、もう数年独占させてもらう様に要求しまして、それで今日があるわけです。今回も全く同じ轍を踏んでるんですが、とある国内最大手の経済新聞の記者が『今回のこのガン保険の話は、FTA交渉に影響があるんでしょうか?』と聞いたところ、アメリカのUSTR側は『全くありません。これからも今まで通り日本側の保険なりを含む金融の解放を求めていく』と答えてるんですね。日本は”これまで通り”ますますガタガタとやられていく事になるかと思います」
「いやぁー、具体的なお話をありがとうございました。で、ですね、ついでと言っては何ですが、もう一つ聞きたいことがありましてー…」
「あはは!何でしょう?」
と島谷は、照れを一切隠そうともしないで明るく笑いながら返した。
「ふふ、それはですねぇ…いや、私たちは普段から付き合いがあるので知ってる、もしくは知ってるつもりなんですが、今こんな事態ですから改めてお聞きしたいと思って聞くのですが…九十年代、バブルが弾けた後ですね、世の中で”グローバルスタンダード”という話が出始めて、もうそこかしこでこの単語が連呼されてました。そんな風に、右も左も盛り上がっているそんな時に、もうその時に島谷さんは”グローバルスタンダード”に対する批判本を書かれてまして、この胡散臭さについて誰よりも真っ先に書かれていたと思うんです。で、ですね、遅ればせながら僕や中山さん、まだそんな日が経って無いのもあって、自分たちで言うのは恥ずかしいのですが、そこそこに同意してくれる、その様な本を書いてもキチンと読んでくれる人々が、細々とはいえ増えては来ているのですけど、九十年代の後半というのは、本当に島谷さんと、後はここにおられる中では神谷先生くらいしかそういうことを言ってなかったと思うんですね」
「私の事はいいよー」
と神谷さんは、急に名前を出された途端に照れて見せていた。
「ふふ。で、ですね、何故島谷さんはそういった問題意識、関心を抱けたんでしょうか?」
「んー…あはは!」
と島谷も神谷さんとは別の様子で思い切り照れていたが、その照れ笑いのまますぐに答えた。
「えぇーっと…ふふ、今編集長が触れられた様に、僕以外にも神谷先生が批判されていたので、僕なんかに聞くよりも先生が話される方が有益だと思いますが…あはは、あ、そうですか?ではお言葉に甘えて…。んー…しつこい様ですが、そもそも僕は神谷先生との付き合いがもう結構長いので、その間で色々と勉強させて頂いたから問題意識を持てたというのが一つあります。九十年代どころか、七十年代辺りから、それこそ味方がほとんどいない中で言論を張り続けておられたのは、神谷先生、そしてその周囲の人々のみだったんですね。ですからその質問に僕が勝手に答えるのは、ちょっと…難しいというのは分かってくださいね?読者の皆さん。…ぷ、あははは!さて、その上で話させて頂きますが、そうですねぇー…そもそもですね、僕みたいなフリーのジャーナリストに聞くべき質問では無いんですね。たまたま当たったんですよ」
とここまで言うと、島谷は一度ビールを一口飲んでから話を続けた。
「あるビジネス誌からですね『お前、ちょっと今世間を賑わしているグローバルスタンダードってヤツを、取材してこいや』と言われましてね、アハ、取材をしたり話を直接聞いたりしたら、なんかー…しつこい様ですけれど、神谷先生との普段の付き合いもあったのかも知れませんが、当時報道されている事とまったく違うなって印象を持ったんです。それは何故かと言うと、『この世の中にはグローバルスタンダードってものがあって、それを日本が採用してこなかったから、バブル崩壊後の経済の低迷を招いたんだ。だから今こそグローバルスタンダードを日本社会に取り入れなければならないんだ』ってな話を、政、官、財と皆して繰り返し一生懸命に言っていました。読者の皆さん、これは年齢にもよるでしょうが、お忘れかも知れませんが九十八年、正月の大企業の社長による年頭挨拶、その殆どの社長達が『グローバルスタンダードが云々カンヌン…』って喋ってたんですね。…バカみたいでした、ハッキリ言って」
「はぁー…」
私は島谷の話を聞きながら、当事者でも無いのに片手をおでこに当てつつ声を漏らした。
「その頃からなんですね…」
「アハ、そうなんだよぉー。んー…で、ですね、この一年後には、このグローバルスタンダードについて、グレン福島っていう日系人でUSTRの中の人によって暴露されまして…和製英語だったんです」
「…え?」
「あはは、つまりグローバルスタンダードっていうのは、全く”グローバル”には通用していない、通用しない考え方だったんです。で、その後で僕はコレについての本を書き始めたんですが、もう当時はなんでも書けそうな気がしました。…あまりにも胡散臭くて。えぇー…アメリカというのはですね、それまでですね“de facto”って言われてたんです」
島谷がこう言った途端、義一が私の紙の余白部分にスペルを書いてくれた。
「まぁこれはラテン語でして、要は”事実”って意味ですが、いわゆるスタンダードを立てないで、実力でどんどん市場を奪っていくのがやり方なんだって言われてきました。事実…もちろんカッコ付きなんですが、事実の方が勝つからスタンダードなんか立てなくても勝手に規格なんてものなども自然とアメリカ式になっていくんだと、そう考えてたんですね。ところが、どっかの国みたいに属国よろしく、アメリカのやる事なす事全てに盲目的に従っちゃう島国…まぁ日本の事ですが」
「あははは」
「他の国はもう少し立派…というかまともな国なので、なんとかしてそんな事に対して足払いをかけたいというので、ヨーロッパの大陸諸国とイギリスが、独自の共通ルールを作って、『俺たちが作ったルールに従わなければ、市場に入ってきてはいかんぞ!』といった事をやろうとしたんです。既にアメリカの一強時代は始まってたんですが、それでも流石のアメリカも頭を散々悩まして、それで結局どうしたかというと…ふふ」
と島谷はここで一人思わず吹き出して見せてから続けて言った。
「ヨーロッパの、そういう規格を決める機関を次々と乗っ取っていったんです」
「はぁー」
「物凄いやり方ですよね?アメリカというのは、少しでも自分の気にくわない事をする奴がいたり、起きたりした時は、普通なら、道徳的に考えたら出来ないような、普通思いついても実際にはやらないような事を平気でしてきた国なんだと、それを日本の皆さんに紹介したほうがいいと考えて、それで本を書きました。んー…自分の本ながら、今読み返すのも辛いくらいに舌烈ですけれど、でもまぁ情熱だけはこもっていたと思います」
「ふふ、ありがとうございました」
と義一は返した。
「いやぁ…いや、もちろん僕も島谷さんのその本を読ませて頂きましたが、そのー…何というか、日本人は本当にそういった”大義名分”に弱い…というか、あまりにも何も考えないままに拙速に飛びついちゃうんですねぇ」
「うーん」
「”グローバルスタンダード”だとか、”開国”だとか、その意味が何なのかロクに考えないんですねぇ…。アメリカ…だけでは無いですが、先ほどの中山さんの話にも絡みますが、国際法がどうであろうと、どの国もその時の状況に応じて、何が国益なのかをきちんと考えた上で、平気で今まで取りまとめてきた事も蔑ろにしたりすると…よく言われる”公正”だとか何だとかは気にもしていないというのに、この我が日本だけは、良く言って”お人好し”、普通に言えば何も考えない”ただのバカ”なんですよねぇ…」
「うん…」
「好き好んで騙されに行くんですよねぇ…」
「いや、本当そうで」
と、ここで武史が話を引き継いだ。
「私と編集長でしょっちゅう話してる事なんですが…もうズバッといってしまうと、日本人というのは心理的な葛藤というのが一番気持ちが悪いんだと。アメリカだとか他の国、他者が大義名分を出してきたのにタダ乗りしていれば、頭の片隅で変だと、納得いかない点があったとしても、その他者と対立や軋轢にストレスを感じるよりは、丸損する事が目に見える、国益を損ない未来に禍根を残すのだとしても、飲み込んで信じてしまおう…いや、少なくとも”信じたふり”をしようと。これを”和”などという、一般的には美徳とされていますが、この言葉で自分のそんな怠惰を誤魔化す…それに躍起になってきたのが、近代の日本人じゃないですかねぇ」
「ふふ、いや、本当にその通りだと思います」
と神谷さんが笑顔で同意を示した。私も及ばずながらウンウンと力強く頷いた。
「和というのは、表立って言われ出したのは恐らく聖徳太子の”十七条憲法”の第一条、和(やわらぎ)を以て貴しと為し云々の箇所だと思うのですが、これは当時の物部氏と蘇我氏の、神道と仏教を巡っての争いで世が荒れ果てたから、それを是正したいという気持ちの上で出てきてる事で、何も日本人の特質だからどうのという、いわゆる右翼の連中が言ってるような世迷言では無いんですが…って、今こんな事を話したいのではなくて、もしこの”和”が日本の特質で誇るべきものだとしても、その意味内容が示すのが、ただの事なかれ主義だとしたら、そんな”和”を貴ぶなんて考え方は、少なくとも悪習としか思えませんね。現に、その”和”、事なかれ主義が蔓延しているせいで、今の日本があるんですから」
「うん」
「あはは」と島谷が笑う中、今回は裏方に徹していた浜岡が、これまた笑顔…というかイタズラっぽく笑いながら言った。
「まぁ…ただそれは、いわゆる戦後保守、勿論自称保守の方々なんですが、こんな点で余計に”左翼”呼ばわりされるんでしょうね」
「あははは」
「ふふ」と私も笑みをこぼす中、ふと、三田にある有名私立大学で講演した寛治の話を思い出していた。昔マッカーサーがアメリカに戻っての議会で『日本は成熟していない十二歳の子供に過ぎない』と言ったのと、今のアメリカの高官クラスが『左は五歳児で、右は九歳児でしかない』と言ったのを聞いたって話だ。
議論はまた今回のFTAに戻ってきて、ここでまた島谷が、膨大な資料の中に目を落としつつ口を開いた。
「そもそも今回の大義名分、建前が自由貿易って事になっていて、それがさも日本の国益になるかのごとき議論をしてるんですが…そうなのでしょうか?初めてこの話が出てきた時に、加盟によってどれほどのGDP押し上げ率があるのかって話が出ました。で、それがいくつかというと…結局十年で2兆円しか無いって事が分かりました。これだけ聞くと大きく見えますが、年間にして国民一人当たりで計算すると、一年間にたったの二千円くらいの上乗せ効果しかありません。さて、これはパーセントにすると0.54なんですが…アメリカの方はどうなんでしょう?日本の計算は、某有名証券会社の名前が冠された研究所に所属している経済学者が試算したんですが、アメリカでもシンクタンクの内部の学者が計算しています。で、ですね、その学者が出した指標はどの程度かというと…何と、GDP押し上げ効果が、たったの0.07しか無いんですよ」
「え…?」
「つまり、日本も大して得しませんが、アメリカはもっと得しないんですよ。まぁ、僕もこの数値を見た時一瞬驚きましたが、考えてみたら当たり前なんです。何せ、今少なくとも先進国間での関税というのは、もう既に底打ちに近い状態になっていまして、実質自由貿易は完成されてしまってるんですね。…さて、アメリカはこんな得にならない、儲からない事をわざわざ何故するのか…?これは今回の雑誌の議論の場ではこれ以上話しませんが、これに疑問を感じた読者の方々は、ここにおられる望月編集長、中山さん、そしてついでに僕の本なんかを思考の一つの手段に使って読んでいただいて、考えて見てほしいと思います」
「ふふ、ありがとうございます。…琴音ちゃん?」
「え?」
と、明らかに議論が終わる雰囲気だったのに急に話しかけられたので、少しきょどりつつも返事をした。
「何?」
「ん、あ、いやね…せっかくだから、琴音ちゃん、君の意見も最後に聞きたいなぁーって思ってね?そのー…雑誌とか関係なしに」
それを聞いた私は、おずおずと周囲を見渡すと、神谷さんはじめとして、皆してこちらに黙って微笑みをくれてきていた。
それを見た私は「私なんか…」と、恐縮しつつボソッと呟いたが、それでも流れそうになかったので、覚悟を決めて私は一度、一同をまっすぐに見渡してから、最後に武史の目の前に置かれた一冊の本に目を落とした。それは義一の処女作だった。
「武史さん…それ、ちょっと借りてもいい?」
と私が聞くと、一瞬何の事かと目を丸くさせて見せたが、
「はい、どうぞ」と笑顔で快く貸してくれた。
「ありがとう」とお礼を言いつつソレを受け取ると、ペラペラとページをめくっていき、一番最後辺りで止めた。
そして私はまた一度顔を上げて見回してから、ページに目を戻して口を開いた。
「私なんかがアレコレと何か言う資格があるとは到底思えませんけど…それでも今までの議論を聞いてきた中での感想を話せと言われたら…別に顔を合わしているからとか、それだから気を使ってってことではなく、何の疑問もなく納得して聞けました」
「ふふ、ありがとう」
「なので、そんな点からしても何も言う事なんて無いんですが、それでも何か言いたい事があるとしたら…今回の義一さんの本のあとがきに書かれている話です」
と私が言うと、貸している武史と、そもそも手元に持っていない義一を除く他の面々が、おもむろにあとがき部分を探し始めた。
探し終えたのを確認して、それからまた話を続けた。
「そこには、義一さん自身も、今の私とは別に、『アレコレと長々と書いてきましたが、自分ごとき、何か書き添える事など持ち合わせていません』などと、”変”に謙遜して書かれていますが…」
「あははは」
「…ふふ、琴音ちゃーん…」
「ふふ、で、ですね、その後でこう書かれてるんです。そのまま読みますね…『…ですから、自分ごとき何かを偉そうに話すような事など無いのですが、その代わりに過去の政治家で、今のように、全体主義的に、その場の思いつき、気分、空気に流されるままに議論が抽象的に為されていくのに対して、敢然と反対の演説をした有名な方がいます。それは斎藤隆夫先生です。彼は1940年に『反軍演説』と呼ばれるものをしました。当時は支那事変、日中戦争が泥沼化しようとしている中で、軍部の批判をして、参議院議員を辞めさせられた方です。そのような目にあった、そのような目に合うのを当然知りつつも、それでも勇敢にも演説をした偉大な政治家の反軍演説、粛軍演説を、”反FTA演説”として読み替えて終わりの言葉としたいと思います…』」
とここまで読むと、別に自分がするわけでも無いのに、喉を潤す意味で一口アイスティーを飲んでから静かに続けた。
「『我々が国家競争に向かうに当たりまして、徹頭徹尾、自国本位であらねばならぬ。自国の力を養成し、自国の力を強化する、これより他に、国家の向かうべき道は無いのであります』」
「…」
「『この現実を無視して、徒に”開国”の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く自由貿易、曰く経済連携、曰く農業再生、曰くアジアの成長を取り込む、かくの如き雲を掴むような文字を並べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るような事が有りますならば、現在の政治家は、その死をもってしても、その罪を滅ぼすことは出来ない』」
「…」
話し終えると、室内はシーンと静まり返っていた。
私も何度も読み返した箇所だと言うのに、実際に口に出して読んだのはこれが初めてだったせいか、自分の口でとはいえ義一の文章に圧倒されてしまい、本に目を落としていた。
どれ程経ったか、「ふふ」と微笑む声が聞こえたので顔を上げると、その主は神谷さんだった。こちらに柔らかな笑みを向けてきていた。その視界には当然、真横に座る義一も入っているだろう。
と、目が合うとニコッと一度目を細めてから神谷さんが話しかけてきた。
「いや、琴音ちゃん、ありがとう。…ふふ、義一くんの本の中の数ある部分で、その箇所を引用してくれるとは…流石だねぇ」
「え、あ、いや…」
「ふふ、私も義一くんのこのFTA批判の本では、勿論他のどのページにしても興味深く読ませて貰ったんだけれど…これを、反軍演説を引用して見せて、そしてそれをこうして見事なモノに読み替えて締めてみせるというのは、んー…処女作には有るまじき完成度だと思うよ」
「あ、いや、先生、そんな…」
と、ついさっき褒められてアタフタした私の様に、義一もしどろもどろに反応して見せていたが、それを見た、神谷さんを含めた他の一同が声を上げて明るく笑うのだった。
それを受けた私と義一は、隣同士顔を見合わせたが、その直後にはクスッと一度笑みをこぼし、それから一同に混ざって笑い合うのだった。
場が収まると、ここで一度今回のFTAの議論は終わりを告げて、せっかく…というか、話しぶりでは元々の予定だったらしいが、雑談交じりに義一の本にも軽く触れることとなった。
初めのうちは、義一が照れつつも自分の本の中身について話していたが、これは以前に宝箱で聞いたのと大差なかったので端折らせて頂く。
「うん、義一くんありがとう」
義一が話し終えると、神谷さんは笑顔で口を開いた。
「でもまぁ、義一くんの事だから、この間話してくれたり、普段からの会話からだとか、今出版されている本の中身を見るに、今もらったばかりだから分からないけれど、恐らく良い本だとは思うけれどねぇ…」
とこのようなことをボソボソと言いつつ、不意に手にその刷り上がったばかりの本を手に取ると、悪戯っぽい笑みを浮かべつつ言った。
「…言論界は、この本を無視するだろうね」
「ふふ」
と途端に義一も、その言葉を受けて途端に明るい笑みを零したが、ここで口を挟んだのは浜岡だった。こちらも変わらぬ笑顔だ。
「あはは。でも先生?実はここにいる義一くんは、実は今、二、三十代の若者から絶大な支持を得てるんですよ」
「へぇー、そうなの?」
「はい。ほら先生、去年の年末、初めて義一くんが公の場に出てきたじゃないですか?そこでの立ち居振る舞い、言論の中身などで、その時点でネットの中では『義一って何者なんだ?』ってな具合に盛り上がってたんですが」
「あはは」
と当人である義一は浜岡の言葉にウケていた。
「それでこないだの全国放送での露出…そこには武史くんも出てたけれど、この二人が揃ってまた話題性が強まった感があるんです」
「は、浜岡さん…」
と、義一は苦笑交じりに口を挟んだ。もう一人である武史も、ただ黙って苦笑いだ。
「僕たちの事はこの辺にして…」
「あはは、ごめんごめん」
「なるほどねぇ…」
と神谷さんは、今度はまるで孫を見るかの様な柔和な笑みを浮かべて、義一と武史を交互に見ていた。
しかしふと何か思いついた様子を見せると、また先ほどの様な笑みを浮かべて義一に話しかけた。
「でも義一くん、まだこの本が二冊目だとはいえ二ヶ月後に今度は、また畑違いなこの様な本を出すという、出版のペースとしてはかなりハイペースだと思うけれど…私も自分で言うのもおかしいけれど筆が早くて…時々自分で恥ずかしく思うことがあるんだけれど…君は恥ずかしくなかった?」
「あははは」
「ふふふ」
と私も含む一同で明るく笑い合った後、義一は笑みを絶やさぬままに答えた。
「あはは、そうですねぇ…。でもまぁ、今先生が言われましたけれど、言うほど私は今回この本を出すにあたって、前回の本とそれほど別のことをしているという気がしなかったんですよ」
「なるほどねぇ。…あ、一つまた余計なことを思い出したけれど…」と神谷さんは、ふと手元の紙に何かを書き込みつつ言った。
「あれは…琴音ちゃんにも少し言ったかなぁ?でも…これは多分言ってなかっただろうからこの場を借りて、その時の事に付け加えさせて頂く体で話すと…攘夷の”攘”って漢字があるよね?」
「はい」
と、明らかに私に向けて話しかけてきていたので、素直にすぐに返事をした。
すると神谷さんはニコッと一度微笑んでから先を続けた。
「これは手偏なんだけれど、”譲”、つまり言偏の方と同じで元々は”ゆずる”って意味らしいんだね」
「へぇ」
私はこの二つの漢字を書いて見比べつつ声を漏らした。
「攘夷って時に使う攘は、今も義一くんが話してくれた様に”追い払う”って意味なんだけれど、戦後日本人にとっての”じょうい”っていうのは、東の方の野蛮人に自らを”譲る”、”譲夷”になってしまったんだろうねぇ」
「あぁ…本当ですね」
「うんうん」
「だから、気持ち的には言偏から手偏に戻せって感じだね」
と神谷さんは笑みを零しつつそう言うと、義一の新刊をまた手に持ち、その帯に書いてある字を読み上げた。
「副題は…『プラグマティズムからナショナリズムへ』か…。ふふ、中々良い副題だと思うけれど…」
と今度は目次を開いて見ながら続けた。
「このプラグマティズム、今回義一くんが取り上げた、伊藤仁斎、荻生徂徠、会沢正志斎、そして福沢諭吉と、この四人に共通しているのがそれなんだよね」
「はい、その通りです」
「プラグマ…ティズム?」
とメモを取りつつそう呟くと、義一がこちらに顔を向けて、普段通りの若干の”教師モード”を表情に滲ませつつ、しかし柔和な笑みを浮かべて言った。
「そう、プラグマティズム。これはそうだねぇ…元々ギリシャ語の”Pragma”からきてて、意味としては”事象”ってぐらいだけれど、このプラグマティズム自体は一般に”実用主義”と訳されているんだ」
「そう」
と義一の言葉を引き継いで、また神谷さんが口を開いた。
「ただ一般にはそうなんだけれど、でもただ単に役に立つ事をやれとか、そんな俗っぽい話なんかじゃなくて、人間の感じ方、考え方、振舞い方、それが日々の実践…この本になぞらえて言えば、仁斎の言う”活物”ね」
「そう、活物ですね」
「活物…」
「そう。”活ける物”って意味だね。活き活きと活動しているという、そういう現実の中で物事の考え方などが養われていく…これがまぁプラグマティズムなんだよ」
「ほー…」
「人間というのは社会的動物であり、また歴史的動物な訳だよね?過去を覚えていない、過去を喪失している人間というのは、言い方が悪けれど人格崩壊者って事になる訳で」
「はい」
「これは勿論国家にも当てはめられるんだけれど、活物、活ける物としての人間を考えると、歴史、つまり先祖だとか伝統だとかを考えていくと、どうしても国というものが出てくる。これがつまり、この本の副題のもう片方、ナショナリズムって事なんだね」
「はい、おっしゃる通りだと思います。で、ですね…って」
と、ここで義一は、私を含む一同を眺め回すと、照れ臭げに
「こんなに僕と先生ばかりが喋ってて良いんですかね…?」
と言うと、「あははは」という島谷さんの豪快な笑い声に始まり、皆して笑顔で構わないといった様な言葉で返した。
それを、これまた照れながらも受けた神谷さんが、その照れ笑いのまま口を開いた。
「少し今までの議論とズレるかもしれないけれど、ふと諭吉が面白いことを言ってたのを思い出したから、それを述べさせてもらおうかな?福沢諭吉が大事にしていた言葉に”通義”というのがあってね」
「通義…」
「そう、”義”を通すって書くんだけれど、まぁ…社会に通用している正義って意味かな?もっと簡単に言えば”常識”って事だと思うけれど」
ここで、意図した訳ではないだろうが、今回の議論の中心的な論点に戻ってきたので、ますます腑に落ちる思いがした。
「もう一つ諭吉が言ってた中で印象的なのが”気風”ね。『文明とは、国民の気風である』とね」
「国民の気風…」
「これらの言葉は、仁斎と同じものだね?」
と神谷さんが聞くと、義一はすぐさま笑顔で応じた。
「はい。まぁ仁斎は”気”って言ってたんですけれど、私が取り上げた、諭吉を含む全員が同じ様な事を言ってたんですよねぇ」
「そうなんだよ。諭吉を読んでいてもね、別に仁斎がどうのとか名前は出てこないんだけれども、あの当時の広い意味、広義における知識人たちにとっては”常識”だったんだろうね」
「そうだったんでしょうね」
義一は我が意を得たりといった様子で、腕を組み大きく頷きつつ返した。
「それを明治以降、特に戦後日本人、知識人からスッポリ抜け落ちて、福沢諭吉をいわゆる”西洋派”、”開国派”だなんて読み間違えるんだからねぇ…本当に、何をそんなに勉強してたのか」
「ふふ、本当ですね」
「あははは」
「確かに…」
とここで笑顔のままの義一が話を受け継いだ。
「勿論尊王攘夷論者にもイかれた連中はいて、諭吉は水戸藩の奴らに命を狙われていたのは事実で、『イかれた攘夷はダメだ』と言ってるんですが、彼は同時に『攘夷にも見所がある』と言ってます。西洋が迫ってきてるという危機感の中で団結した、あのエネルギー、あれは素晴らしかった。諭吉はそう言った後で何て付け加えるかというと、『あの攘夷運動を起こした”気”、この気を使えば文明開化が出来る、この気を使って近代国家を作ろうじゃないか』と言うんですね。で、この危機感の中で国民を束ねようとする”気”…これがいわゆる先程来議論になっている、これがナショナリズムなんですよね」
「うんうん」
他の人、特に一般人が聞いてどう思うかはともかく、当時の私は至極その通りだと、別に今に始まった事ではない、それも皆さんはご承知だと思うが、しきりに頷きつつメモを取りつつ聞き入っていた。
「福沢諭吉って人は一般に”啓蒙派”って事になっていて、確かに”学問のすゝめ”というのを書き著しているし、実際に学問を勧めてはいますが、彼が勧めている学問というのは、何も今時でいうところの狭い意味ではなく、『日本人は学問をして”自立”…”自律”しなくてはいけない。国のために自分の頭で考える、一人一人がそうすれば日本の独立が保たれる。『もし他国が無礼な事をしてきたならば、此れを以て打ち払て可なり』と、『遠慮に及ばざる事なり』」
「ふふ…」
今の話は、勿論今年の初めに初めて神谷さんと宝箱で遭遇した時にも聞いた話だったので新鮮味はなかったが、でも中々に濃い内容なので、久しぶりというのもあって思わず笑みを零してしまった。
ここからはまた神谷さんに主導権が移り、滔々と話し始めた。
「思想の次元に戻すと、元々江戸時代、江戸幕府の公式の学問で朱子学というのがあって、この朱子学の場合、その当時ヨーロッパでも芽吹き始めていた”合理主義”的な考えがあって、今まで我々で話し合った、語り合ってきた”気”とは別の、”理”、合理の理ね、この世を支配するのは”理”であるべきだと、理にそぐわない気というのは無くさなければならない、とまぁこんな体系的なものなんだよね」
「はい」
「合理主義って言えば…」
とここで、今まで静かにしていた武史がふと口を挟んだ。顔にはニヤケ顔が浮かんでいる。
「話を折るようですが、ふとニーチェが面白い事を言ってるのを思い出しました。『この世で一番”不合理”なものがある。…それは”合理主義”だ』ってね」
「あははは」
「…ふふ」
武史が妙に芝居かかって言ったのもあるが、如何にもニーチェらしい物言いに、そこまでまだ深く読み込んでいなかった私だったが、これまたふふっと笑みを漏らすのだった。
一同も武史の発言に明るく笑いつつ、その明るい雰囲気のまま神谷さんが発言を続けた。
「これは今にも通じていて、朱子学は中国由来なわけだけど、戦後はアメリカ由来のチャチな合理主義が入って…いや、朱子学の時と同じで自ら進んで受け入れていったんだけど、それがずっといい事だという風にしてきて今日があるんだねぇ…」
「うーん…あっ」
と、先ほどから実はどこか引っかかる所があり、それが何処なのか自分でもはっきりと目星がついていなかったのだが、ここにきて、ようやくその正体が分かったので、表面上では口を挟むべきではないと思いつつも、根っからの”なんでちゃん”としては黙っておれず、そのまま口にしてみることにした。
「でもさ、そのー…」
とタメ口気味になってしまったが、元々義一に話しかけるつもりだったので、そのまま隣の義一に顔を向けてから話を続けた。
「あ、いや、今までの話になんの疑問もないんだけれど…さ?義一さん、あなたは自分の口では別に言ってないけれど、結構”理”を大事にしているよね?何せ…絵里さんに聞いた事だけれど、大学時代に周りに『理性の怪物』って付けられたくらいだもん」
「理性の怪物?」
「絵里さん?」
武史、島谷がそれぞれ各様の反応を示す中、「こ、琴音ちゃーん」と、義一は心の底から照れ臭そうに、いつも以上に頭を乱暴に掻いて見せていた。
これは長い付き合いの私だから分かる。何も知らない人が見ると、苛立ちを抑える、もしくは見せんがための行動に見えなくもないだろうが、義一は、私が今言ったような事で苛立つほど、本人には言ってあげないが器が小さくないのだ。だから、これはただ単純に”参った”というのが本当のところだろう。
ただ笑っていた浜岡も混じり、理性の怪物、そして絵里について説明するために、ちょっとの間のインターバルが設けられた。
絵里に関しては、まず私が説明すると、その後を引き継いだ武史が「要は義一の”コレ”ですよ」と小指を立てて見せつつ言った。
「あぁ、なるほどー」と特に初耳だったらしい島谷が感心した風に見せると、「おいおい武史…」と、義一は心からウンザリだと言いたげな表情を浮かべていた。私はどんな顔を見せるのか多大な関心を持って見たのだが、そこには一切の照れが見えなかったのだった。
「いやぁ…」
と不意に義一が、話を無理やり戻そうとするがごとく、長めに声を漏らすと、今度は本当に照れ臭そうに笑みを零しつつ私に目を向けながら言った。
「流石琴音ちゃん、中々に痛いところを突いてくるねぇ」
「ふふ、本当だね」
とここで何故か神谷さんも義一に乗っかってきた。
すると義一は途端に慌て気味に「いやいや、先生は別に…」とフォローを入れようとしていたが、神谷さんが手を前に突き出し制したので、義一は口をつぐんだ。
それを確認した神谷さんは一度ニコッと義一に笑みをくれ、そして私に視線を移すと同じようにニコッと笑ってから口を開いた。
「ふふ、確かに…琴音ちゃん、君は本当に、ここにいる義一くんだけではなく、私たちの話も良く聞いてくれてるんだねぇ。それが今の発言からもよく分かるよ」
「え、あ、いやぁ…」
「ふふ。さて…義一くんがそう呼ばれているっていうのは、実は私は知ってたんだよ。何せ…本人に教えて貰ってたからね」
「ふーん…」
と私が視線だけ隣に向けると、相変わらず義一は照れ笑いを浮かべていた。
やっぱり…知ってたのね。
この時の私の頭には、絵里と三人で初めて行った、例のファミレスでの情景が蘇っていた。
「その教授を私は知らなかったけれど、中々にいいあだ名だよね。まさに義一くんを言い表している。…ふふ、義一くん、誤解がないとは思うけれど敢えて言えば、別にこれは悪口では無いし、何か言いたいわけでは無いからね?」
「ふふ、承知しています」
「うんうん。さてと、琴音ちゃん、今君はズバリ義一くんの話をしてくれたけれど、実は何を隠そう、私自身も理性に侵されているというのを白状しなくてはならない」
「…」
何か返そうと思ったが言葉が見当たらず、ただ黙って神谷さんの続きを待った。
神谷さんも義一同様に照れ笑いを浮かべつつ、時折頭を撫でて見せながら話を続けた。
「今日もそうだし、今までの話を覚えてくれていたら分かると思うけれど、散々”理性”や、もっと言って”合理主義”を批判してきたんだけれど、結局そう言ってる自分自身が中々合理から抜け出れないんだ」
「…」
聞きつつふと周囲を見回すと、義一含む他の四人も何だかバツが悪そうな苦笑を浮かべていた。
「これは私個人の事だけれど、私はずっと若い頃からいわゆる西洋の思想について研究、勉強してきたせいでね、気づいた頃には、西洋人以上に西洋化してしまっていたんだ。考え方がね?」
「西洋化…」
「そう。私はいわゆる宗教家では無いから、西洋の精神の根底にあるキリスト教に対して門外漢だし、洗礼を受けるつもりもなかったから、結局西洋化しているといっても、それすら中途半端になってしまっているんだ」
ここまで言うと、神谷さんは一瞬日本酒に手が伸びたが、ほんの手前で止めると、その脇にあったお冷に手を伸ばし、それを一口飲んでから先を続けた。
「まぁ今や西洋人も悪い意味で無宗教化してしまってるんだけれど…っていや、それはともかく、んー…いざこの様な鋭い疑問を提示されると答えに窮する、その時点で偽物じゃないかって思われそうだけれど…」
「あっ!そんな事は…」
自分では勿論純粋に疑問に思ったから聞いて見たのは事実だが、ここまで深刻な話になるとは露ほどにも思っていなかった私は、少しオドオドしながらそう返したが、神谷さんは力無げにニコッと笑ってから先を続けた。
「ふふ、ありがとう琴音ちゃん。君は”本当に”優しいね。んー…さて、それでも折角の重大な質問、なんとか説明するとしよう。…私みたいな凡人の事を話すよりも、偉大な先人たちの話を引き合いに出した方がいいだろう。…ゴホン、いわゆる合理主義というのはデカルトから始まったと言われているけど、何もデカルト自身も、今言われる様な唯物論、精神などの形而上の価値を認めない様なものではなく、目に見えないもの、価値を定める絶対的なもの、それを神と呼ぼうが呼び名はなんでも良いが、それを求めて最後はそれらしいものに出会うのだけれど、そのデカルトの信奉者、通称デカルト派というのか、彼らはデカルトの考えを単純化して解釈し、今言った唯物論に流れていくんだ」
「…」
いきなりとても難しい話が始まったので面を食らった心情だったのは事実だが、それでも何とか我ながらついて行っていた。これも今までに、義一から本を借りたり、それについて何度も語り合ったり議論してきたお陰だろう。
「それに反発して、私が思う保守主義の黎明と考える一人、イタリア人のジャンバッティスタ・ヴィーコ 、彼がそのデカルト主義者達、その思想である合理主義を批判したんだ」
「…はい」
「彼は彼らについて中々に面白く、的確な物言いをしているんだけれど、それはこんなだったんだ。『彼ら合理主義者は、何でもかんでも”単純化”する恐ろしい人たちだ』とね」
「…あぁー」
「あはは」
「ふふ」
「そう、つまり、これは皆が一応私の考えに同意してくれてるから、そこは端折って言うけれど、まず保守思想というものは”合理主義批判”から始まったものと考えて良いと思う」
「はい」
「ふふ、よし。さて…話が急に逸れるようだけれど、琴音ちゃん、義一くんに聞いたら、最近は、私たちが考える保守思想家の本を手当り次第に読んでるって聞いたけれど…」
「は、はい…難しいところも勿論あるんですけれど…」
と私は流石に軽口で滔々と話す気は起きなかったが、しかしそれでも普段思っていることでもあったので、それをスラスラと淀みなく言った。
「んー…でも、それでも何というか、私なんかが言うのも何ですけれど、普段から義一さんと付き合ってるって点があるかも知れませんが、読む度にすんなりと頭に入ってくるような気がしています。…はい」
と最後の方で神谷さんの好奇に満ちた視線に耐えられなくなり、若干目を伏せつつそう言い切ると、「あはは、そうかい?」と途端に笑顔で返してくれるのだった。
「あはは、いやぁ、何が言いたかったかって言うとね?それに限らず、そのー…それに合わせて私の本も読んでくれてるって聞いたものだから」
「え?あ、はい。勿論です」
と私がさも当然、自然だといった調子で返すと、神谷さんは頻りに頭を撫でて見せつつ照れながら返した。
「んー…ふふ、勿論って…琴音ちゃん?別に私の本なんか読まなくても、それだけの過去の偉い人たちの本を読んでるのだったら、無理して私のなんか読まなくても良いんだよ?」
「へ?あ、そ、そんなぁ…」
と急に何故か自虐気味な事を言い出したので、こんな時の言い返しのストックを持ち合わせていなかった私はオドオドするのみだったが、私以外の一同は慣れっこといった調子で「あははは」と明るく笑うのだった。
私も失礼がない程度に合わせるように「ふふ」と笑みを浮かべてみると、それを見た神谷さんはこれまた何故か優しげな微笑を浮かべて話を続けた。
「さて、何の話…あ、そうそう。それで何が言いたいのかというとね、ようやくだけれど…ふふ、私が言い始めたって言われてるんだけれど、本当は二十世紀最大の保守政治哲学者、オークショットの説を引用して、そこから所謂保守の三原則というのを言い出したんだけれど」
「はい、存じてます」
覚えておられるだろうか…?いや、別に覚えてなくても構わないのだが、以前チラッと、そう、初めて数寄屋でこの場にいる武史と面識を持った時に、ふと軽くだが、保守についての話をしたのだった。その後も約束通り、義一から保守と称される人々の著作は読んできたのだが、その中でも難しい部類に入るのが、神谷さんの出されたオークショットの著作だった。義一の解説付きとはいえ、それでも難しかったが、その流れでというか、神谷さんが今から二十年ほど前に出された本に、それら保守思想家を紹介するという体のがあり、それの中にオークショットも含まれており、それもまた原著の読解の手助けになったのだった。
神谷さんは「ふふ」とまた小さく笑うと話を進めた。
「で、その三原則の中でオークショットが言ってた中に、英語で”fallible”と言うんだけれど、これは日本語にしたら”可繆性”といって、つまり『人間というのは不完全なものなのだから、その時その場の気分で思い付いた理屈だとか理論なんかに自ら埋没するな。”爾自らを疑え”というのがあるんだけれど…」
「はい」
いつだったか、テレビに出ていた神谷さんが話していたそのままだった。
「合理を信奉している、所謂合理主義者というのは、自覚しているか無自覚かはともかく、少なくとも話しぶりを聞く限りでは人間の可謬性を認めてないようなんだね。何せ、理性というものがこの世には既にあって、それに人間は合わせて生きていけるはずだ、もしくは生きているはずだなんぞという、私からしたら人間に対する過剰期待をして判断を誤っている…。だって、そうでしょう?私もそれなりに長く生きてきて、勉強なり、本を読んだり、直接いろんな人と会ってきたけれど…当然私自身を含めて、理性的な、合理な人間になんか出会った事が今までに無いからね」
「はい…あ、そこで…」
と私はここでふと武史の方に視線を流しつつ
「武史さんが引用した言葉がここに繋がるんですね?『この世で一番”不合理”なものがある。…それは”合理主義”だ』と言ったニーチェに」
と言うと、その途端に「あはは」と、今まで静かに私と神谷さんの会話を聞いていた他の一同が笑みを零した。
神谷さんも笑みを浮かべつつ返した。
「そうそう、その通り。そもそも人間なんて合理的に、理性的に動かないんだから、そこに合理主義を持ってきたって無理が出るのは火を見るよりも明らか…でもね?かといってじゃあ、『人間なんてその程度のものなんだから、じゃあいっそそんな片意地貼って、頭でアレコレと考えるよりも、その場限りの思いつきのままに生きてれば良いのか』というと、それはまた違うと私は思うんだ」
「はい」
「あまりにも理性というものに信頼を置きすぎるのも害があるし、かといって無駄だと理性をかなぐり捨てて感情のままに思い付くままに生きるのも害がある…。ということは、要はバランスが大事なんだね」
「はい…そうだと思います」
「うん、ありがとう。でね、義一くんとかとの会話の中でしたかも知れないけれど、そのバランスを取るための、サーカスで言えば、綱渡りをする曲芸師がバランスを取るために手に持っている棒、それが伝統だったり、もっと言えば保守だと思うんだね」
神谷さんが言った通り、保守がどうのというのは後から出た話しだったが、あの義一との再会以来、ずっとこの”バランス”について、アレコレと教わってきたんだというのを、この時改めてハタと気付いて、先程よりも我が意を得たりといった調子で「はい」と短く返した。
神谷さんは「ふふ」とまた小さく微笑んでいたが、ふと何かに気づいた様子を見せると、照れ臭そうに頭を撫でながら言った。
「あー…って、なんだかいつもの調子で話が大きく逸れちゃったけれど、要は何が言いたかったかっていうとね琴音ちゃん?確かに義一くんは、私が言うのもなんだけれど”理性の怪物”であるのはそうなんだ…」
「せ、先生ー…」
義一は苦笑いだ。
「あはは。そうなんだけれどね、でも、慌てて付け加えると、あくまで私個人の見方だけれどもね、さっき言った事に付け加えると、今の世の中、今に限ったことでは無いけど、変に理性信仰をしている一方と、ハナからそんなのは自分とは関係ないと考えなしに生きている一方、その両極端、いや、端と端にあるように見えて、実は根底、つまりどちらも”人間性”に対する楽観的な見方をしているという点では同じだと思うんだけれど…」
「はい」
この時、以前この場で義一が荀子を持ち出して”性悪説”について軽く話していたのを思い出していた。
「義一くんは違う…と私は見ているんだ。義一くんは自分があまりに理性的に物事を考え過ぎる、余りに理屈っぽく考えてしまうというのを恥を持って自覚していて、それをどうにか極端に触れないようにバランスをどう取ればいいのか、それを今の今まで悩み考え抜いてきた…この行為そのものが保守だと、私は言いたいなぁ」
「…先生?」
と義一が、珍しく神谷さんに対してジト目を向けつつ、
「僕がこの場にいるのを忘れてるんじゃないでしょうね?」
と口を尖らすようにしながら言うと、神谷さんは「あははは」と何の言い訳をするのでもなく明るい笑い声をあげるのみだった。
何も返されなかったので、義一はやれやれと苦笑まじりに頭を掻くのみで、それを見て私も思わず微笑むのだった。
と、ここでふと義一が、恥ずかしいのを誤魔化すためなのかどうかはともかく口を挟んだ。
「でまぁ、先生が色々と理性の悪い面というか世間一般に誤解されている点を述べて頂いたので、僕はちょっと違う視点、付け加えるのも含めて今度僕の出した本になぞらえて話させてもらいましょう。確かに朱子学では理性信仰、いわゆる合理主義的な傾向が強く…というのも、合理”主義”というくらいのもので、英語で言うと”rationalism”ですが、そもそもこの”ism”という言葉、これには今一般に捉えられているような、一つの主義に凝り固まるような、そんな意味では元々無かった訳ですが、それでも一般論に沿って言えば、合理という絶対的なものがあって、それに付き従うみたいな事になってる近代の状態ですね。今日の議題であった経済の話、自由貿易の話に沿って言えば、自由貿易というのは経済学の世界、経済学の考える”理”の中では正しい、”いつでも”正しいのかも知れないけれど、現実の世界では、自由貿易が正しい場合と、そうでない場合、保護を強めたほうが良い場合だってあるはず…そうでしょ?」と最後に私個人に語りかけてきたような様子を見せたので、私もすぐに「うん」と同意を示した。
「要はバランスだよね?」と、チラッと神谷さんの方に視線を流しつつ言うと、神谷さんは何も言わず静かにニコッと笑うのみだった。義一も笑みを一度浮かべてから話を続けた。
「そう、その通り。バランスが大事なんだよ。僕、もしくは敢えて僕たちと言わせてもらうけれど、何も理性を頭ごなしに否定する訳じゃない。”理性的”でなければいけないとは思うけれど、何も理性が全て正しいとは一ミリも考えていない。理性が大事だと思いつつも、その理性に己自身が埋没しないように、そのバランスをどう取るのか、とても難しいことだけれどもそれがとても大事だと思う…たださっきの先生の話の繰り返しになっちゃったけれど、要はそういうことなんだよ。でね、また話が逸れちゃったけれど、仁斎たちはあの当時から僕らの言ったような事は分かってて、合理主義を否定はしたんだけれど、”理”、”道理”の重要性は何度も説いているんだ。要は『状況によって”道理”も変わる』…まぁ、そんな当たり前、常識的な事を説いたんだね」
「うん、その通りだと思うよ」
「ふふ。でね、仁斎が言った言葉が凄くてね、『活道理』…って琴音ちゃん、君には既に何度か話したね?…うん、ふふ、そう、まぁ繰り返しになるけど、”理”は理でも、合理主義者がいうところの凝り固まった物なんかではなく、現実の中で、実践の中で生きていく、活きていくような”理”が大事なんだと言っていて、さっきチラッと出した例をまた引き合いに出せば、『いつでも自由貿易が正しい』という風な、どんな状況下でも正しいという風なものを仁斎は『死道理』と呼んでいて、活道理は良いけれど、死道理はダメだと言っていたんだ。これが面白いんだけれど、先ほど先生がふと上げられたヴィーコ、彼も大体仁斎と同時代人だけれど、合理主義を批判する中で同じことを言ってるんですよね」
「あぁー」
「そうそう」
と神谷さんが笑みを浮かべつつここで口を挟んだ。
「しかも面白いのが、二人とも同時代人とはいえ、片やイタリア、片や東方の小さな島国で生きていて、なんの接点も無かったというのに、同じような結論に達したんだからねぇ」
「古今東西問わず、バランス感覚の優れた人の辿り着く場所は同じだということですよね」
「なるほど…」
ようやくという感は否めなかったが、ここにきて私の初めの質問に戻ってきたので、何とも言えない気持ちのすくような心持ちになりつつ聞いていた。
と、ここでふと武史が何か思い出したような様子を見せると、またニヤケながらボソッと言った。
「そういえば、チェスタートンがこんなことを言っていたのを思い出しましたよ。『狂人とは、理性をなくした人の事を言うのでは無い。狂人とは、理性以外の全てをなくした人の事を言う』」
武史の言葉を受けて、私も含めてまた和かな雰囲気が場を包んだが、その中で神谷さんが何だか悪戯っぽい笑みを浮かべつつ、時折義一に視線を流しながら私に話しかけた。
「でね、琴音ちゃん、もう一つ、さっき言いかけた事に戻らさせて貰うとね?この義一青年の前で若干悔しいのはねぇ…私は彼よりも四十以上歳上なんだけれども、さっき言った通り、私はヨーロッパから勉強に入ったんだよ。でね、いわゆる保守思想家、保守主義者から感銘を受けて色々と学ばせて貰ったんだけれども、その中で、今義一くんに話して貰った”活道理”、これもね、西洋保守思想の考えの中に”vital reason”、日本語に訳すと”生理性”となると思うんだかけれどもコレだとか、または”生の哲学”とか言ってたヴィルヘルム・ディルタイだとか、そこから入ったもんで、私が仁斎などを知ったのはもうずっと後になってからなんだよ…。ふふ、何が言いたいのかというとね、義一くんはこうして、何も今までだって一つも彼に対して何も教えたり、そんな大仰なことなんか一つもしていなかったんだけれども、こうして自ら周りに何を言われるでもなく、私よりも圧倒的に早い時期に、西洋的理性への考えから脱出を図るべく、こうして仁斎らに代表される国学に足を踏み出す…これが自分勝手な言い方だけれど、私はとても嬉しいんだよ」
「せ、先生…」
と先ほど目の前で褒められた時とはまた別な反応を示しつつ、それでも義一がやはり照れて見せると「あははは」とまた、これまた先程とはまた違った風に、にこやかに皆して笑い合うのだった。
…今更ではあるが、キリがないのでこの辺りで切り上げさせて頂こう。この後もずっとこんな調子で議論、会話が弾んだのだが、今回はここで終わりにする。
どこか機会があれば触れることもあるだろう。
さて、まだまだ会話に熱の冷めやらぬといった雰囲気だったが、ふと義一が時計を覗き込み、今日の会のお開きを宣言した。
その時私も何気なく腕時計に目を落としたが、時刻は夜の十一時を指し示していた。
これも毎度のように、ママ達がタクシーを呼んでくれていたので、来るまでの間、お店の喫茶店部分で皆でたむろして待っていた。
その間も会話が途切れる事は無かったが、お店の前に車が停まった気配がすると、それぞれ皆に今日お邪魔した事をお詫びしつつお礼を言って、その対応に対して一同それぞれから各様の冷やかし、笑顔を受け取り、義一と二人で帰りのタクシーに乗り込んだ。
「今日はどうだった、琴音ちゃん?」
と乗ってすぐに義一が話しかけてきた。
「今日は、雑誌の企画って事での来店だったわけだけど」
「うん」
相変わらずこの近辺は、街灯が少ないせいもあって、すぐ傍にいるはずの義一の顔が全く見えなかったが、それでもそちらの方に顔を向けつつ笑顔で答えた。
「凄く面白かった。…まぁ、毎度そうだけれど」
「あはは。それは良かった」
そう返す義一の方を見ても表情までは分からなかったが、それでも暗闇の中でボーッと見慣れたあの照れ笑いが目の当たりに浮かぶようだった。
「でも…」
と私が口を開いた。
「何だかホッとしたよ」
「え?何が?」
「だって…」
と私はワンクッション置いてから、
「今日の神谷先生、とっても溌剌としてたじゃない?義一さん、あなたに教えられてから何度か先生の昔の映像を見たりしてたけれど、その当時と変わらない様子だったもの」
と言うと、義一も答えるまで数秒ほど間を空けた。
…これは勿論、私がしたような無意味なものでない事くらいはすぐに察した。
「そうだねぇー…今日の先生、確かにここ最近では見せない程に、明るく振舞っていたね」
と、明るめではあったが、これは私だからなのか、どこか無理してる感を感じ取った私は、すぐにその旨を伝えることにした。
「…なーんか、歯に物が挟まったような言い方だね?」
と私が言うと、「あはは」と一度笑いはしたが、また少しばかりの間を置いて、それからは少し哀愁混じりの声音で口を開いた。
「んー…まぁね。今回の雑誌内恒例である対談、議論ていう企画だったわけだけど、僕が初めて編集長になって初めての仕事だというので、無理を承知で先生に出てもらうように頼んだんだ。…琴音ちゃん、君も知っての通り、先生はあの健康状態の悪さでしょ?今日はお酒のお代わりもされてなかったし。それを押して出てもらって、しかもあれだけ往年のように振舞っていただいて…とても嬉しく感謝の念に堪えないのは勿論だけれど、んー…なんかね…」
義一の言った『なんかね…』のセリフ、この何の変哲も無い台詞の中に、どれほどの感情が入っているのか、これがまた自分の事のように覚えた気持ちになって、「うん…」と私も小さく、しみじみとついつい返すのだった。
それからは、義一の新著について、貰った事についての感謝に始まり、地元に着くまでアレコレとお喋りをし合ったのだが、顔が見えずとも、義一の心がどこか上の空であるのを、言葉の端々から感じていたのだった。
「じゃあね、義一さん」
「うん、お休み」
普段通りに自宅前でタクシーを止めて貰い、そして一度降りてから義一と挨拶を交わし、家に入ろうとしたその時
「…あ、そういえば」と声が聞こえたので、振り返り「何?どうしたの?」と思わず振り返り声を掛けると、義一は何故か照れた時にする例の頭を掻く仕草をして見せつつ聞いてきた。
「うん、琴音ちゃんって…ラジオとか聞く?」
1940-02-02(昭和15年)斎藤隆夫 所謂『反軍演説』より抜粋
「…この歴史上の事実を基礎として、我々が国家競争に向うに当りまして、徹頭徹尾自国本位であらねばならぬ。自国の力を養成し、自国の力を強化する、これより他に国家の向うべき途はないのであります。
かの欧米のキリスト教国、これをご覧なさい。彼らは内にあっては十字架の前に頭を下げておりますけれども、ひとたび国際問題に直面致しますと、キリストの信条も慈善博愛も一切蹴散らかしてしまって、弱肉強食の修羅道に向って猛進をする。これが即ち人類の歴史であり、奪うことの出来ない現実であるのであります。
この現実を無視して、ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくのごとき雲を掴むような文字を列べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことかありましたならば現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことは出来ない。…」
第27話 影法師(ナニカ)
「…ちょっと?」
「え?」
急に…と私は感じたのだが、まず初めに身体に強くぶつかってくる風に気づいた。そしていつの間にか俯いていたらしく、目の前、眼下には濃い灰色をした水が広がっていた。
…そう、どうやらまた例の夢に来てしまったらしい。
…らしいのだが、今までと明らかに違うのは、初っ端からいきなり声を掛けられた事だった。前回の、そのままの続きらしい。
「ちょっとー?」
と、声の主は前回までと同じように、私の肩に手”らしき”ものを乗せたままだったが、先ほどの口調よりも若干の苛立ちが見え隠れしていた。まぁしかし、本気でというよりも、気心の知れた間柄にありがちな、良くある類のものだった。
「無視しないでよー?」
そのあまりにも拍子抜けな、馴れ馴れしい態度に自然と緊張がほぐれたのか、私は思わずクスリと苦笑を漏らしつつ振り返ってみた。
「…え」
と、その声の主の姿を見て、まず思わずそう声を漏らさずを得なかった。
主は女の子だった。…まぁそれは振り返らずとも声から分かっていたので、それには驚きはしなかったが、この夢に来て初めて言葉の分かる者が現れたとはいえ、それでもやはり異様な身なりをしていた。
まず目を惹いたのは、全体的に”真っ黒”の点だった。真っ黒といっても単純に黒一色というわけでは無い。何と形容すればいいのか…第一印象で思い浮かべたのは『影みたい…』というものだった。勿論今までこの夢を何度も経験してきたので、目に映る色彩が灰色の濃淡でしか無かったので、今更黒一色の者が現れても驚くに値しないと言われそうだが、この”影”みたいという印象、その印象を受けたと同時に、得体の知れない”不気味さ”…いや、”不自然さ”を覚えたのだった。
とはいっても”異形”というわけでは無い。少なくとも恐怖は感じなかった。その訳を言うためにも、それを順に説明してみようと思う。
”彼女”は…少女だった。年齢はどれほどだろう…パッと見では小学生程に見えた。服装はその”影”な見た目にも関わらず、”何故か”真っ白な、純白な、そして新な半袖のAラインワンピースだった。それが何故か分かったと同時に、ここでまた不思議な気分になった。
…あれ、あの服どこかで…
と、すっかり私は好奇心に流されるままに、しげしげと遠慮なく少女の姿を舐め回すように眺め続けていた。
視線が顔に差し掛かったが、これまたどこかで見た事のある様な麦わら帽子を目深に被っていたので、顔がどんな形状なのか判断つきかねていたが、少なくとも分かるのは、その部分、顔面部分はより一層”影”が濃いというだけだった。
とその時
「…ふふ」と少女が笑った。”真っ暗”な顔の下の一部分に動きが見えたかと思うと、夜空に弦月が浮かび上がっているかの様に見える様な、そんな見た目の白い部分が顕となった。どうやら口が開いたらしい。笑顔の様だった。
私はふとその声で我にかえると、自分の夢、この異質な空間にいることすら忘れて、現実世界にいる時の様に変に律儀に少し照れ臭く笑いながら話しかけた。
「あ…ご、ごめんなさい、そのー…マジマジと見ちゃって」
と私が言うと、「え?」と少女は弦月の端々を気持ち下に落として見せつつ声を漏らしたが、また元の位置まで上げると笑い交じりに答えた。
「あははは!いいのいいの!…そりゃそうよねぇ」
と少女はワンピースの裾を掴むと、その場で一回転して見せた。それと同時にワンピースがフワッと横に広がり、呑気な感想だがとても綺麗だった。
一回転してまた正面に戻ると、今度は愉快な調子になりながら言った。
「いきなり前触れも無く背後から話しかけられたら、どんな人だってまずその相手の観察から始めるもの」
そう話しながら、少女はふと私の脇に歩み寄ると、先程の私の様に城壁の隙間か眼下に広がる水を見下ろしだした。
続きがあると思い何も言わずにいたのだが、少女はそのまま黙って見下ろしていたので、私も仕方なくそれに倣うことにした。
夢だと気付いた瞬間に、未だに正体の掴めない少女との遭遇があったために今の今までロクにキチンと見渡していなかったのだが、こうして改めて見渡してみると、周囲の景色にも前回との違いが現れているのに気付いた。
前回までは乳白色の靄が掛かっていて、水の向こう側までは見えなかったのだが、今回はすっかり靄が晴れておりハッキリと周囲の状況が掴めた。
対岸が見えた。それも今私のいる位置から見てふた方向左右に。
こうして視界が開けた事によって、前回にあくまで推測の域を出ていなかった事実、今いるのが”岩山”ではなく”島”だというのが証明された。
と同時に、左右に分かれた、その間をやはりそれなりの幅を持った水辺によって区切られたそれぞれの対岸が、これらはまた此方と違って、奥まで地平が広がっているところを見ると、彼方は二つとも大陸らしいと見受けられた。
これまた自分の夢ながら興味深い景色だった。
それぞれ対岸の方にもお城…いや、お城を模したというのか、高層建築が見えているのだが、こちらと違っていくつも乱立していた。十ではきかない程の数だ。形状こそ片や東洋風、片や西洋風だったが、それを除けば二つに共通していた。
遠目だし、そこまでまだハッキリとは断言できそうも無いが、どうやらそれらはまだ新しいものらしい。思わず今いる自分のいるお城を振り返って見直したのだが、如何にも古びた、苔生した、そこら中ひび割れだらけでロクに手入れのされてない感の否めない外観と比べると、明らかに彼方さんのは如何にも新しげだった。
ただ建物の高さ自体は、どうやら私の今いるお城の方がだいぶ高いらしい。が、精々こちらが誇れるとしたらその点のみだった。
これこそ双眼鏡でも無いと確実には分からないが、ただ何やら賑やかな物音、ドンチャンしている風な音が風に乗ってこちらにまで届いていた。
どうやらこれまたこちらと違って、向こうは活気があるようだった。「…ふふ」
と、私がここまで分析をするのを待っていたかの様に、絶妙なタイミングで、景色を見つめたまま口を開いた。
「いい景色よね?」
「…ふふ」
と、ここにきて前回の終わりの部分を思い出した私は、思わず吹き出しつつ返した。
「それ…こないだも同じ事言ってなかった?」
と我知らず何だか自然と馴れ馴れしく返してしまったが、それに対して何のリアクションもせず、むしろそれが当たり前、普段通りだと言いたげな調子で、少女は私に顔を向けて同じく笑みを零しつつ返した。
「ふふ、そうよー?だって…前はあなた、キチンと応えてくれなかったじゃない」
私も同様に少女の顔を見た。相変わらず深い影に満ちていて判然とはしなかったが、それでも何となく、初めて見た時よりもハッキリと顔が分かるような気がしてきていた。
「ふふ、そうね…」
と私は微笑みつつまた外に目を向けると、
「ねぇ?」と肩を軽く何度か叩いてきながら声を掛けてきたので「何?」とすっかり打ち解けた調子で振り向くと、ホッペに何やら当たった。
それは人差し指だった。少女が私が振り返るのを想定して、人差し指をほっぺが来る位置で待ち構えていたのだ。
「あははは!」
と少女は手を引っ込めると明るい笑い声を上げた。
それを見た私は、指されたほっぺを軽く摩りつつ、
「もう…子供なんだから」
と呆れ笑いを浮かべつつ言うと、ハタと一旦笑顔を引っ込めたが、それはほんの一瞬の事で、少女はまた明るく笑い声を上げた。
そしてそのまま何の前触れも無くトコトコと歩き出したので、「ちょ、ちょっと…」と私も慌てて後を追った。
「急に歩き出さないでよ…」
と少女の横に並んで声を掛けると「あはは、ごめーん」と、まるで悪びれるつもりが無いのが丸わかりな返しをしてきたので、
「もーう…」
とまた呆れつつも笑顔で漏らした。
…が、ここにきてふと急に我に返った。そして、今の異様な事態を改めてハッキリと認識し始めた。
…で、この子…一体誰…なんだろ?いや…”何なんだろう”?
城壁上部をゆっくりとしたペースで歩きつつ、目だけで隣の、どこか不思議と懐かしさの込み上げてくる姿をした少女を覗き見ていたのだが、クスッと一度微笑んだかと思うと、少女はそのまま正面を向いたまま口を開いた。
「…ふふ、何か言いたげ…いや、聞きたげね?」
「え?あ…」
相手は見るからに年下の少女だというのに、何故かそんな相手をしている気にはなれず、若干オドオドしながら返した。
「え、えぇ…ねぇ?」
「んー?」
「一体あなたは…」
とここでふと私は足を止めた。それと同時に、何歩か前に行った少女も立ち止まるとこちらを振り返った。
…何となく微笑んできてるように”見えた”。というのも、若干影が強まっているらしく、さっきまでと違ってまた判別が難しくなっていたからだ。
ここにきて”不気味さ”がジワジワと増してきていたが、それでも何とか臆病を押し殺しつつ重たい口を開いた。
「あなたは…誰なの?」
「…」
最初の方でも言ったが、前回と同様に髪がなびかなかったので気付かなかったが、二人でこうして黙ってしまうと、辺りはビュービューという風の切る音で支配された。
少女の顔部分は真っ暗になってしまっていた。口元を閉じてしまっているからだろう。恐らく一、二分ほどは経っていたのかも知れないが、不思議と長くは感じなかった。
と、ふと少女の口元が何となく緩んだかと思うと、トコトコと私に近寄ってきた。
あまりに突然だったので、身構える余裕も無かった。
私が腕を伸ばせば届くくらいの位置辺りで止まると、今度はわかりやすく口元を開けてニヤケて見せると愉快げに言った。
「…ふふ、”琴音”、もう気付いているでしょ?」
「…え?」
いきなり名前を呼ばれたので、思わず短く声を漏らした私には気を止める様子を見せずに、スキップをするかのように軽い足取りで先ほど辺りの立ち位置に戻ると振り返った。
「琴音、足元を見てみて?何かに気付かない?」
「え…?」
無邪気な口調ではあったのだが、どこか説得力のある声圧のせいか、戸惑いつつも問われるままに身の周りを見渡した。
初めは何のヒントもないと思っていたので、すぐに分かるとは思っていなかったが、何となく足元に注意を向けられた気がしたので、その通りに目を落とすと、「…え?」と思わずまた違う意味で声を漏らした。
何とそこには、当然あるはずの私の影が無かった。
いくら曇天下だとはいえ、光がゼロではない以上、微量であっても影が出来て当然だと思うのだが、繰り返すが其処には無かった。
今振り返ればある意味夢ではあるんだし、今までの出来事を思い返せば其処まで反応する事かと思わないでもないけれど、しかしそれでも事実として心底驚いていた私は、ジッと足元に目を落としたままでいたが、そんな私の様子を見てクスッと一度笑ったので、自分でも分かるほどに目をまん丸に見開きつつ顔を上げた。
それを待っていたのか、途端に少女は可愛らしく両腕を後ろに回し、少し前かがみになって見せて、そして…多分上目遣いをしているのだろう、下からこちらを見上げるようにしつつ微笑み混じり…いや、それに若干の子供特有のイタズラっぽさを交えつつ言い放った。
「ふふ…そう、私はあなたが普段呼んでいるところの…”ナニカ”よ。そして…琴音、”あなた自身”…の”陰”ってとこかしら?」
三巻へ続く
朽ち果つ廃墟の片隅で 第二巻