朽ち果つ廃墟の片隅で 第二巻

遮那

  1. 第1話 コンクール(中)
  2. 第2話 コンクール(下)
  3. 第3話 数寄屋 B
  4. 第4話 数寄屋 b
  5. 第5話 大広間
  6. 第6話 (休題)とある番組内からの抜粋(神谷)
  7. 第7話 (休題)とあるフォーラムでの質疑応答から抜粋(寛治)
  8. 第8話 コンクール(終)前編
  9. 第9話 コンクール(終)中編
  10. 第10話 コンクール(終)後編
  11. 第11話 コンクール(終)結
  12. 第12話 沙恵と京子
  13. 第13話 礼拝堂
  14. 第14話 文化祭 Ⅱ
  15. 第15話 観劇にて
  16. 第16話 (休題)とあるネット討論番組からの抜粋 《日本の良さとは?》
  17. 第17話 告白 上
  18. 第18話 (秘蹟)
  19. 第19話 二十四日
  20. 第20話 (休題)とあるネット討論番組からの抜粋 Ⅱ 《戦後保守を問う》
  21. 第21話 神谷有恒 上
  22. 第22話 曇天下
  23. 第23話 義一(序)
  24. 第24話 (休題)とある地上波番組内からの抜粋 Ⅱ
  25. 第25話 数寄屋 C
  26. 第26話 数寄屋 c
  27. 第27話 影法師(ナニカ)

第1話 コンクール(中)

一巻からの続き

「琴音…」
「あ、律」
ゴールデンウィーク明けてからの、初めての土曜日。例に漏れず私たちの学園も、土曜日は四限目で終わる。正午を少し過ぎた辺りだ。
担任の志保ちゃんからの軽い連絡事項を聞いてから、放課後になり今に至る。
ここで少し、私と律のことに触れようと思う。前にも話したように、一年毎のクラス替えにより、残念ながら裕美と紫と藤花とは別々のクラスになってしまった。新しいクラスになってから、この時点で一ヶ月ばかり経とうとしていたが、少なくとも私が思う意味での新しい友達は、まだ出来ていなかった。元々昔から自分から進んで他人に話しかけるようなタイプでは無かった。人見知りという訳では無いと自分では思っている…現に、話し掛けられさえすれば、相手に合わせて対応することが出来た。ただ、よっぽどのことが無い限り、それはつまり相手に興味を持つという意味だが、自分から話しかけて、交友の幅を広げようって気になれなかったのだ。それは小学生時代もそうだった。その時にも話したと思うが、我ながら周りに助けられていたのだと思う。私から何かアクションを起こさなくても、いつも私の周りには人が何人か屯ろしていた。そのお陰で、一応側から見る限りにおいて、孤独では無かった。これは幸運と受け取り、感謝すべき事だと思うし、実際に感謝していた。
ここまでは私自身の事だったから細かく話せたが、私が思うに、多かれ少なかれ律も同じタイプだった。裕美がどこまで考えての発言だったか知りようも無いが、私と律が似ているというのは、あながち間違ってはいなかったようである。というのも、律も中々自分から人の輪の中に入って行くようなタイプでは無かったからだ。私が言うことではないかも知れないが、律も率先して新たな友達を作ろうという気概は無いように見受けられた。だからある意味自然にというか、ここ一ヶ月ばかり、ずっと二人は一緒に過ごしていた。具体的に言うと、音楽などの教室を移動する時も一緒に、そして教室に着いてからも二人がけに一緒に座る、典型的な例だが体育の時ペアを組む時にも、間違いなく一緒に組んでいた。まぁ尤も体育においては、クラスで一番背が高い律と、二番目に高い私が組むのは、ある種必然であったのかも知れない。そして昼休み。一年生の時には触れなかったが、それはわざわざ触れるまでも無いと判断しての事だった。
でもせっかくなので、ここで纏めて話してみようと思う。私たちの学園には給食が無かったので、それぞれが弁当を持参して来るか、購買部でパンなりお弁当なりを買ったりする。私たちのグループは、よほどの理由がない限り、それぞれが弁当を持参していた。昼休みになると、誰か…席替えが確か一年生の間に三度ほどあったので、それぞれの事について細かく挙げるのは避けようと思うが、取り敢えず窓際に誰か一人がいたら、その周りに集まって一緒に食べるといった感じだった。入学当初は、出席番号順に座っていたので、私と紫が窓際の席だったから、そこの周りに集まって食べていたのを覚えている。雑談が続くが、極たまに解放されている屋上の空中庭園で陽光の下、食べることもあった。まぁこれも、屋上が空いていたらの事だったけれど。それが今はクラスが別れてしまったのがあって、それでもたまに裕美たち三人が纏めてこちらのクラスに食事しに来ることがあったが、大抵は私と律二人で、どちらかの机の上にお互いの弁当を広げて、食べるのが習慣となっていた。
とまぁそういった具合で、二人でいつも過ごしていたのだが、この一ヶ月の間に、律にまた面白い一面があるのに気づいた。それは…これ言っても本人は怒らないと思うが、いつもこの仏頂面で石仮面を被っている律だったが、意外や意外に内面は凄く乙女だという点だった。幾らも例を挙げられるのだが、初めて律のお家に一人で遊びに行った時、部屋に通されて驚いた。部屋の壁紙が薄ピンクで、ベッドの布団もそのような色合いだった。枕元には、大きめなテディーベアーが鎮座していた。小学校に入るくらいまでは私も持っていたのだが、入ってからはテディーベアーどころか人形を持っていた記憶が無かったので、ついつい繁々と見てしまった。床はフローリングだったが、その上に大きめの赤い絨毯が敷かれていた。何だか甘い良い香りもした。この日は、あの文化祭の時に会った、律と見た目が瓜二つでも、性格が真逆のお母さんが留守だというので、私は別に構わなかったのに、お茶の用意をしに何処かへ行ってしまっていた。私は一人ぼっちで手持ち無沙汰だったので、こうして部屋を見渡し、クマを見つけたのだった。無意識的にそれを取り上げ、高い高いをしたりしていたら、ちょうどその時、半開きだったドアが開けられて、律がオボンにコップ二つとジュースの入ったペットボトル、そして小皿に入ったお菓子類を乗せて入ってきた。当然というか、流石の私もそんなキャラに似合わない、ぬいぐるみと戯れているところを見られて、恥ずかしいやら気不味いやら、自分でも分かる程に顔が火照っていたが、律も同じような反応を示していた。律は部屋の真ん中の真っ赤な絨毯上に置かれた、これまた薄ピンク色のコーヒーテーブルの上に、何も言わずに乗せたが、ふと耳が真っ赤に染まっているのが見えた。律は髪がベリーショートだから、耳が隠れる事が無いのですぐに分かる。そしてその前にストンと座ったので、私もならって、ぬいぐるみをすぐ脇のベッドの上に静かに置き、そして座った。すると、律はふと顔を私に向けた。表情は相変わらず無表情というか、凛としていたが、やはりホッペは軽く薄ピンク色になっていた。…凛としていたと言ったが、視線は少し泳ぎ気味で、たまにぬいぐるみの方にも流れていた。そんな調子なのに、澄ました調子を止めようとしない律が、途端に可愛らしく思えてきて、本人には悪いが思わず目の前で吹き出してしまった。すると、律は何も言わず目を大きく見開いたが、それからすぐ後に、フッと見るからに緊張を緩めて、綺麗に横に長く切れた一重の目元を気持ち下げて見せた。これが、律の笑みだった。私も微笑み返したが、少しして「…可愛いでしょ?」と恥ずかしげに言うので、私も「えぇ」と短く、そして少し意地悪げに返すのだった。前から藤花に『律ってすっごく”乙女”なの。少なくとも私たちの中では一番”純粋”だと思うわ』だなんて良く言っていたが、これは藤花なりの冗談かと思っていた。それが本当だというのが、この日に初めて立証されたのだった。それからは私の事、そして律の事についてお喋りした。
一年生の頃からの付き合いだったが、ここまで話を聞いてくれた人からは即座にツッコミが入るだろうが、このグループの中だと、私はどっちかと言うと無口な方だった。主に裕美と紫と藤花が色々と女学生らしい話題を振ってきて、それに対して受け身に回って聞き手に徹していたのだ。それは律も同じだった。それ故というか何というか、こうして二人っきりになれば、もう少し早くこのような関係になれたのだろうが、滅多にその機会がなく、大抵私と律以外に最低もう一人がいたので、第三者がいては出来ないような、裕美が言うところの”恥ずい”心を割るような話も出来なかったのだ。だからといって、少なくとも私の方では疎遠だとは思っていなかったし、大切な友人の一人だと思っていたが、この日を境に、グッと距離が縮まったのを感じた。
これが確かー…四月の真ん中辺りだと思う。そして今五月に入り、律が話しかけてきたという所だ。
「ほら、あそこ…」
「ん?」
律がふと顔を教室のドアの方に向けたので、私も座りながら顔を向けると、そこには裕美たちがドア付近に立ち、私たちに笑顔を向けてきていた。と、私と目が合うと、裕美たちがそのまま大袈裟に手を振ってきていた。時折、外に出ようとする生徒が迷惑そうにしているのを、苦笑気味に頭を下げて平謝りしていた。
「…ね?」
と律が言うので
…何が『ね?』よ?
と心の中でツッコミつつ、
「じゃあ行きますか」
と私は腰に手を当てながら、年寄り風な動きをして見せつつ、のっそりと立ち上がった。その様子を見て、律は僅かに笑みを浮かべていた。そして相変わらず他生徒の邪魔になっている裕美たちの側へと向かった。

「いやー、久し振りじゃない?」
そう声を漏らしたのは紫だ。
「…何が?」
と私はワザと惚けて返した。
ここは学園の目の前の、緑に囲まれた、何て言えばいいのか…一応は公園なのだが、線路に沿うように横に伸びていて、そして学園前の道路にも挟まれている関係で、かなり横幅は狭かった。公園というよりも、緑の多い遊歩道と言ったほうが正しいのかも知れない。ただここは、今説明したように細長い作りをしていて、ベンチが数多く設置されており、緑も多いとあって、気持ち良くて落ち着くと、私たちのグループの溜まり場になっていた。学園内で何かの事情で待ち合わせが困難な時や、気分転換で、ここでよく落ち合う事があった。そしてこのようにベンチの上に全員カバンをおいて、この後の予定などを組むのだった。私たちは気に入っていたが、他の生徒達は違うらしく、すぐ脇の道を、同じ制服姿の女子がゾロゾロと歩いているのを横目で見たりした。敷地内で制服姿は、私たちのみだった。個人的には、そんなところも気に入っていた。藤花が話してくれたが、自分たちも今ままでは素通りしていたとの事だった。すでに触れたように、藤花と律はいわゆるエスカレーター組で、幼稚園からずっとこの近所に触れていたわけだったが、中を通ることはあっても、遊具もないのにこうして立ち止まって何かをする事は無かった様だ。さて、大体予想がつくだろうが、ここを溜まり場にしようと提案したのは裕美だった。裕美は後で私と二人っきりの時に、やはりと言うか公園…いや、緑の多い公園が好きだと話してくれた。昔からの癖で、落ち着くらしい。私も感化されたのか、どこか雑踏をぶらぶらするよりも、よっぽど何もない公園内でボーッとしている方が楽で好きだった。でもこれまたやはりと言うか、私たちの中で最も典型的な”女学生”の紫は、いつまでもジッとしているのが耐えられないらしく、早く予定を立てようと急かすのだった。そこまでがいつもの流れだった。
この日も、紫が率先して口火を切った。
私が惚けて見せると、紫は腰に手を当てつつ、ジト目を向けてきながら返した。
「あのねぇー、私たち五人が全員集まった事がでしょ!」
「ふふ、冗談よ。そんなに怒らないでよ」
「…もーう」
紫はまだ不機嫌そうに見せていたが、徹し切れずに笑ってしまっていた。他の三人も笑っている。
「でもそうだねぇー」
と大きく腕を伸ばしつつ言ったのは藤花だった。
「確かに、何だかんだ全員が集まるっていうのは珍しいからねぇ」
「まぁ、最近ではゴールデンウィークに皆んなで集まったけれどね」
と裕美も、藤花の真似をワザとして見せるように伸びをしつつ言った。「うん」
と短く返すのは律だ。
ゴールデンウィークは、師匠に言われるままに、コンクールのことを忘れて束の間の休みを…取ったはずだったが、何だかんだいつも外をぶらついていて、毎日を忙しく過ごしていた。予定通り、裕美と一緒に絵里のマンションに遊びに行ったし、これは予定に入っていなかったが、ヒロと裕美三人でも地元で遊んだ。そして今話題に出た通り、この五人でお泊まり会をしたのだった。とても面白かったのだが、ここで細かく触れられない事を許してほしい。…いや、そこまで需要があるのかと、自分で言っておいて、自己反省をしてしまうのだが…。まぁとにかく、これも何か機会があったら触れてみたいとは思っている。今は軽くだけ話すとしよう。まぁ結論からいうと、結局紫のマンションでする事になった。誰の家にしようかと皆んなで考えた結果、取り敢えず事情が分かっている紫の家に、またお邪魔しようと相成ったのだった。
…これだけ言うと、随分図図しいように見えるだろうが、真っ先に手を上げてくれたのが紫自身だった。むしろ率先して来て欲しいと言ってくれたので、違う人はまた次回に持ち越しにして、またお邪魔する流れになったのだ。実質一泊二日の旅行みたいだった。まず紫の家にお邪魔して、荷物を先に置かせてもらってから、遊びに出た。平日も別に必ずしも規律に従っていた訳ではなく、放課後も直帰せずにぶらついたりはしていたのだが、それは本当にぶらついていただけで、ただ時間を潰していたという方が正しい言い方だろう。何度も言うように、私たちはそれぞれ個人で忙しくしていたので、それこそ暗くなる前の五時くらいには解散していたのだった。休日も、他のみんなもそうだったが、私自身もコンクールの関係でずっと毎週日曜日は師匠のお宅にお邪魔して練習していたので、尚更遊びらしい遊びをしなくなっていた。だから、このゴールデンウィークは、久し振りに思春期の女の子が遊ぶような事を、主に紫と裕美が中心になって計画を練ってもらい、それに私と律、そして藤花が付き従うという形で過ごした。
ここでまた、余談につぐ余談だが、ふとこう思われた人もいるかも知れない。『底抜けに明るい天真爛漫なキャラクターの藤花も、裕美達に混ざって計画したりしそうなのに』と。これは確かに入学当初、知り合って間もない時は私もそう思っていたが、褒めるようだが、これがまた藤花の人間性の深さと言えるかも知れない。
…大袈裟か?
それはともかく、藤花は律のことを『キャラに似合わず乙女』だと称していたが、それを言うなら私からしたら『藤花もキャラに似合わず硬派』だと称してあげたい。私はご存知の通り、藤花とは同じ音楽の芸という繋がりで、深く付き合いがあった訳だが、付き合っていく内に、意外に頑固で、ストイックで、完全主義者だというのが分かってきた。自分からは言わないから周りも触れなかったが、いつも学校やそれ以外にも水筒を持ってきていた。魔法瓶だ。私はそれでも気になって、ある時…そう、藤花の家にある練習場にお邪魔した時に、その中身を飲んでいるのを見て、思わず聞いてしまったのだった。初めのうちは、目を真ん丸くしたまま固まっていたが、フゥッと息を吐いたかと思うと、何故か恥ずかしげに話してくれた。
簡単にまとめると、中身は喉の炎症を抑えるハーブティーで、古来より歌などの喉を酷使する人々に愛飲されてきたものらしい。それをこうして普段から練習の合間に違和を少しでも覚えたら飲むとの事だ。それを聞いて本心から感心して見せたのが功を奏したか、まぁいいかと言いたげな呆れ顔で笑いつつ、今度は部屋の隅にある机と椅子の方へと近付いた。私も素直に跡を追うと、藤花はその机の上にある、何も書かれていないダンボールの箱に触った。縦横高さが同じ長さ、大体五十センチ程のサイズだった。実は初めてこの部屋に来た時から、密かにずっと気になっていたものだ。この練習部屋が、私の家のと同じで八畳ほどの広さがあったが、アップライトだがピアノもあったりと、色々な歌関係の機材がある中で、この机と段ボールの箱が異質に映ったからだった。私が見つめる中、藤花は中から何やら機械を取り出した。そして、また中から、病院などで見た事のある酸素吸入器の口当て部分の様なものを取り出し、置いて、そしてふとタンスらしき所を開くと、中から一枚のバスタオルと、これまた驚いてしまったが、ミネラルウォーターの入った二リットルペットボトルを取り出した。チラッと見えたが、中にはタオルと水の入ったペットボトルが積まれてしまわれていた。そしてそれを、机の上面に二十センチほど張り出した備え付けの棚に、サイズに合う様に折りたたみ敷いて、その上に先程出した機械なり水なり何なりをゆっくりと慎重に置いていくのだった。そして最後に機械から伸びるプラグをコンセントに挿した。藤花が何も言わずに、いつものといった調子で手際良く作業をしていくので、私はただ黙って見守る他に無かった。と、作業が終わったのか、一度後ろからでも分かる程に頷くと、軽い身のこなしで半回転してこちらに向いた。藤花の顔は、また普段の爛漫な笑みを浮かべていた。でも話す段階になると恥ずかしげに、たまに機械の方を振り向きつつ言った。
「これは吸入器でね、耳鼻咽喉科にある様な本格的な物ではないんだけど、これを使う事によって、喉に潤いを与えて、痛んだ部位を治すのに手助けしてくれるの」
そう言うと、藤花はまた机の方を向いて、水のペットボトルを手に取り、キャップを外したかと思うと何かに注ぎ入れていた。私がゆっくり近づいて見ると、ちょうど支度が済んだ様だった。
藤花はふと私の方を見て、一度ニコッと笑うと、吸入器の電源ボタンを押した。ピッと音が鳴ったかと思うと、次の瞬間、大量の蒸気がモクモクと次から次へと口あての部分から湧き上がってくるのだった。見るのが初めてだったので、ついついジッとその様子を見ていたら、藤花は少し愉快といった調子でまた詳しく説明してくれた。それを聞きながら、ふとさっき感じた疑問をぶつける事にした。
「今藤花の話を聞いて、理由とかはよく分かったけれど、じゃあ何であのハーブティーを学校にまで持ってきてるの?」
「えぇー、それ聞くー?…まぁ聞くよね、そりゃあ…」
と、藤花は電源ボタンをまた押し、吸入器を止めながら言った。そしてこちらにまた向けた顔には、苦笑いが浮かんでいた。そして照れ臭そうに、決まり悪そうに答えた。
「私ってそのー…自分で言うのは馬鹿みたいだけど、お喋りでしょ?でねー…お家に帰って、いざ練習しようとしたら、声が思った通りに出ない事がよくあったの。これは小学生の頃の話ね。すぐにね、あぁ、学校でお喋りし過ぎたからだって分かったんだけど、何とかそのお喋りな性格を治そうとしても、結局治んなかったのね?だから、もうそれは仕方ないから、せめてこうしてお茶を持って行って、なんか喉に違和感が出てきたなって思ったら、飲む事にしているの。まぁー…そんな理由!」
恥ずかしさを拭い去るが為か、最後は無理やり勢いよく言い切った。
私は言い終えても決まり悪そうにしている藤花に対して、その芸に対する態度…しかも小学生の頃からだと言うのに益々感心しつつ、それでも疑問調で話しかけた。
「でもだったら、最初に言ってくれればよかったのにー。私もそうだけれど、多分他のみんなも何だろうって思っているよ?」
「律は知ってるけどねぇ」
藤花は悪戯っぽく笑いつつ、例のハーブティーを飲みつつ答えた。そしてそれが入った魔法瓶を手に持ちつつ、また少し照れ臭そうに笑いながら言うのだった。
「だって…やっぱり何だか恥ずかしいじゃない。普段から何も努力とかしてなさそうな人が、何気無く…私の場合は歌だけど、歌った時に、周りの度胆を抜くっていうのが良いのよ。…私は最初は聖歌隊からだったけど、これだけのめり込んじゃって、パパやママにこんな部屋まで作って貰って…」
藤花はここで一度、愛おしそうに部屋をぐるっと見渡した。それに釣られる様に、私も見渡した。
「どうせだったら、その歌の道を極めたいって、パパとママ以外では、律を除いて大人子供問わずに話したことは無かったけれど、そう思って、恥ずかしさもあって今までコソコソとしてきたんだ。…何も、努力してる所を他人に見せる事は無いもんね?」
「…」
そう言い終えた藤花は、また意地悪目にニヤッと笑って見せたが、私はすぐには返せなかった。
今更だが、この日というのは、私が初めて藤花の歌を聞いて、それから初めて無理を言って行った日だった。それまでは、何かしらの努力があってのあの歌声なのだろうと、漠然とは思っていたが、私たち…少なくとも私の知らない所で、ここまで普段の生活から芸のために摂生をして生きてる人間が、同い年にいるというのに感動していた。義一じゃないけど、裕美という例外はいたけど、こうして何か一つのことに邁進しているのは、私くらいじゃないかって考えていただけに、藤花のことを知って、この時に自分が如何に浅はかな人間なのかを痛切に感じていた。
そんな私の様子に、今度は心配げな表情で声を掛けてきたので、私は慌てて微笑みを作りつつ、同意を示したのだった。
それでも何か異変を感じ取った藤花は、ツカツカとピアノの側により、カバーを開けて、
「何か弾いて聞かせてよ?」
と言ってきた。私が呆気にとられていると、
「…私の秘密を教えたお礼にさ?」
とまた意地悪げにニターッと笑いつつ言った。
それが藤花なりの気遣いだとその時察した私は、「やれやれ…」と口に出しつつ、ピアノの前に座った。
…何を弾いたかまでは覚えていない。それだけ当時、頭がいっぱいいっぱいになっていたのだろう。それでも覚えているのは、弾き終えた後恐る恐る振り返ると、藤花がさっきの様に真ん丸に目を開けて固まった姿だった。私が声を掛けると、ハッと気づいた表情を見せたかと思うと、途端にテンション高く、座ったままの私に抱きついてきたのだった。思い出補正かも知れないが、その時藤花は「琴音凄い!」と連呼していたのを覚えている。この話は以前に軽く触れた事だ。初めて藤花が私の名前を呼び捨てで呼んだ日でもある。
…余談のつもりで軽く触れるはずだったが、ついついこの通り事細やかに描写してしまった。いつも…特に藤花の話をする時は、毎回長くなっている様に…それは自覚している。まぁ…開き直るつもりは無いが、長くなる理由は何度もさせて頂いているので、今更何も言うことはない。ただ一重に、話を聞いてくれてる皆さんの心の広さに対して、感謝を述べたいとは思う。
話をググッと戻そう。
「さてと…。これからどうしよっか?」
「そうだねぇー…またあの御苑近くのに行く?」
紫に裕美が答えた。一年の時によく行っていた、御苑近くの喫茶店だ。一年生の間だけ、同じ学校の生徒や先生に見られない様にと、バレー部の律の先輩に教えて貰った”隠れ家”だった。当初は、一年生の間だけ一時的に使って、それ以降は学園の近所に行こうと話していたのだが、中々妙なもので、不思議と一駅分という微妙な距離にあるこの喫茶店に愛着が湧き、二年に上がった今でも、何かとここを利用していた。静かで落ち着きのある店内が、皆共通して気に入ってたみたいだった。
「そうしよ、そうしよ!」
藤花はその場で飛び跳ねるんじゃないかって程にテンションを上げ気味に言った。爛漫な方の藤花だ。
「うん、いいよ」
と素っ気なくボソッと言うのは律だ。
と、そう言い終えると、律は私に顔を向けてきた。何も言わなかったが、意見を求めてくる時の表情だった。気付くと、裕美も笑顔でこちらを見てきていた。…いや、結局皆して私の方を見てきていた。
さっきも言ったが、久し振りだったのですぐに返答しようとしたその瞬間、不意に頭の中に、コンクールの課題曲が流れてきた。それも、今まで自分の中で消化仕切れていなかったパートだった。私はすぐに口を塞ぎ、黙ったままそのメロディーに耳を傾けていた。他のみんなは、そんな私の様子を、キョトン顔で見つめてきていたが、それには気を止める事なく最後まで聞いていた。
…これは…
「…と、…ょっと、ちょっと琴音!」
「…わっ!な、何!?」
私は不意に強く揺すられたので、びっくりして声を上げた。私を揺らしたのは、裕美だった。私が気付くまで一瞬険しい表情を浮かべていたが、呑気な調子で返すと、裕美は大きくため息をつきながら、声も呆れ調で話しかけてきた。
「何?じゃないよぉー…どうしたの?急に惚けちゃって」
「え?あ、いや…」
何だか気まずくて裕美から視線を逸らすと、他の三人も私に心配げな、もしくは怪訝な表情を向けてきていた。
それを見てまた気まずく思い、裕美に視線を戻して言った。
「あ、いや、何でも無いんだけれどさー…あの、みんな?」
私は少し溜めてから、また裕美を含む皆に視線を回して、それから顔の前でパンと両手を打つと、目をギュッと瞑りつつ、如何にも申し訳無さそうな表情を浮かべつつ「ゴメンっ!」と声を張った。
「せっかくだけれど、今日この後用事があったのを思い出したわ」
それを聞いたみんなは、一瞬キョトンとした表情を浮かべていたが、
「…えぇー!」とまず紫が声を上げた。顔中に不満を表している。
「今更ー?折角良い調子で盛り上がっていたのにぃ」
「本当にゴメン」
私はまた顔の前で両手を合わした。
「本当だよぉー」
と次に声を出したのは藤花だった。藤花も藤花で、不満げな表情を作っていたが、正直出来は良くなかった。目の端と口元が、若干緩んでいた。そもそも、そういうタイプでは無い…のがこういう点からもよく分かるだろう。
律の方をチラッと見ると、律は表情を変えないまま、事の成り行きを静観していた。ふと私と目が合うと、律は片方の眉だけクッと上げて、何とも仕方ないって言いたげな苦笑を浮かべていた。何も言っていなかったが、一応私に同情してくれていた様だった。
「まぁまぁ、お二人さん」
と、律とはまた違った方式で今まで静観していた裕美が、ワーワー騒いでいる紫と藤花を宥めに入った。この瞬間、私は裕美に感謝をしそうになったが、どうやらそれは甘い考えの様だった。
何故なら、
「琴音の口からその訳を聞いてからにしましょうよ?」
と言ってから、私に意地悪そうにニヤケ顔を向けてきたからだった。
裕美ったらー…この裏切り者!
と心の中で悪態をついたが、この間に言い訳を考える時間が取れていたので、私は渋々それを話すことにした。
「聞いてからにしましょうって…まだ何かするつもりなの?まぁいいわ。実はねー…私の師匠、ピアノの先生ね、師匠に与えられた課題を済ませて無いのに気付いたのよ。明日の日曜がレッスン日なんだけれど、それまでに終わらせとかなきゃいけないの…。だから、今からお家に帰って、急いで済まさなきゃ…」
「…」
我ながら”らしい”言い訳を思いついたと思った。内容としても、殆どの嘘は入ってない。師匠の下りの所くらいだ。
私の話を聞き終えたみんなは、一瞬間が空いた後、それぞれ側の人と顔を見合わせたりしていたが、
「…それじゃあ、仕方ないねぇ」
とまたさっきの様に、まず紫が声を出した。一つ違ったのは、表情が苦笑気味の呆れ笑いだった点だ。
「そうだねぇー」
と続いて言った藤花の表情も、紫と似たり寄ったりだった。
「私も練習が佳境に入ると、ついつい籠りがちになっちゃうし…」
「…仕方ない」
と、律はようやく口を開いたかと思ったら、少し優しげな微笑みを見せつつそう呟いた。私は少し呆気にとられて、何も言わず苦笑で返すのみだった。
ふとここで裕美の方を見ると、私と目が合ったが、一瞬こちらに不審に思っている様な視線を向けてきていた。だが次の瞬間、裕美は紫と同じ様な表情とテンション、そして口調で私に話しかけてきた。
「…仕方ないなぁー、今日の所は許すけど、次からはもっと早めに言っといてよねぇ?」
と言い終えると、いつものニヤケ面を向けてきたので、私も冗談交じりに、また顔の前で両手を合わせて「ふふ、本当にゴメン」と返すのだった。
それからはみんなで一頻り笑いあった後、私を除いたみんなで取り敢えず喫茶店に行くと言うんで、地下鉄連絡口の階段の上から、皆が降りて行くのを見送った。最後はお互いに笑顔で両手を振り合ったのだった。
見えなくなると、私は一人息を吐き、それから普段の帰宅ルートに足を運ぶのだった。この頃には、すっかり裕美が一瞬見せた不審げな表情を浮かべていた事を忘れていた。というのも、見送った後で慌ててさっき頭に流れたメロディーを思い出していたからだった。私はホームに着くまで頭の中で反芻し、ちょうど電車が来たので乗り込むと、早速カバンからいつものメモ帳を取り出すと、簡単に五線譜を描いて、そこに音符を書き入れ、余白に解釈を書き入れたりしていた。ある程度、仮に後で間が開いたとしても思い返せば鮮明に思い出せる程度にメモした時には、気付けば地元の駅に降り立っていた。その事実に自分で驚いた。全く道中を、どう歩き、いつ乗り換えたのか、その記憶がアヤフヤだったからだ。それだけ良く言えば集中していたという話だが、よく考えたら色々と危なかったなと、駅から自宅までの道のりを、一人苦笑しながら帰ったのだった。
家の前に着き玄関を開けると、中はシーンと静まり返っていた。どうやら、お母さんはどこかへ出ているらしい。
私は特段感想を持たずに、早足で自室のある二階に上がり、気持ち早く普段着に着替えて、一階にある、防音を施されたグランドピアノの置いてある練習部屋に早速入った。
…いつだったか、私がこの部屋で練習している時に、内線を鳴らされて如何の斯うのといった話をしたと思うが、折角なので、少しだけ細かく触れようと思う。これはお父さんとお母さんに、それぞれ聞いた話だ。家自体はお父さんが建てたらしいが、土地に関しては私のお爺ちゃんの持ち物だったらしい。私が生まれるかどうかって時だった様で、つまりこの家と私はほぼ同い年という話だ。あまり話したくない話題だが、便宜上触れると、立地を言えば、地元でもそこそこのお金を持った人が住む地区だった。この家も大きく広かったが、周囲の家も大きめの家が多かった。それなりに車通りのある道が目の前なのも理由だろう。そうは言っても、夜になると車も疎らで、とても静かだった。何でこんな話をしたかというと、お父さんの趣味でも無いのに、なんで防音を施された一室と、グランドピアノがあるのかの理由を話さんがためだ。それは…お爺ちゃんが深く絡んでいる。というのも、グランドピアノは元々お爺ちゃんの持ち物だった。何十年も前に買ったもので、ここで細かく言っても仕方ないが、ドイツの名門老舗メーカーが作った一級品だった。他のピアノを弾いて見るまでは分からなかったが、とても強いクセを持っていた。軽く分かりやすいところで具体的な点を一つ述べると、鍵盤の一つ一つが異様に固いのだ。結構力を入れないと、思った様な綺麗な音を鳴らしてくれない。子供ながらに弾くのが大変だっただろうが、こんなものだと思っていたので、当時は気にしていなかった。師匠の所のピアノも、あれは師匠の所有する一つだが、アレも家にあるのほどではないにしても、中々に固い代物だった。まずは家ので練習して、それから師匠のを弾くと、力を入れなくても綺麗な音が鳴るから、力まずに具合良く脱力出来るので指がスムーズに動いて、思った以上に綺麗に弾けてしまうので、幼い頃は師匠の所で弾くのが楽しみだった。ただ勿論、強弱のつけ方に関しては、毎度毎度師匠に注意されていたのは言うまでもない。
さて、少し話を戻して、ここで下世話な点にも触れれば、当時のレートと今とでは違うから一概に言えないが、簡単に言えば、この一台と平均的な高級外車の値段が同じくらいだったらしい。義一が表現した様に、私のお爺ちゃんは粋人なのかも知れないが、それでもそんな高価な買い物をしてしまうなんて、その域を越えている事くらいは、いくらまだ幼い私でも分かった。義一が言うには、お爺ちゃんはピアノを弾けないって事だから、尚更理由を知りたくなったが、その訳を聞こうにもお爺ちゃんは既に亡くなっていたし、お父さんに聞いても、そして義一に聞いても、ピアノをわざわざ買った理由を二人とも知らなかった。
お父さんの話では、今では少し古ぼけてしまったこのピアノに対して深く入れ込んでいた様で、土地の所有権の移譲、相続税の減税などなど、そんなの聞いても私にはチンプンカンプンだったが、兎も角お父さんに都合の良い提案をする代わりに、新しく建てる家の一室に、このピアノの部屋を設けてくれと頼んだようなのだ。お父さんは『そこまでこのピアノが大事なのか…?』と呆気に取られたらしいが、条件はすこぶる良かったし、古ぼけていてもグランドピアノだから、持っているだけでそれなりの財産だろうと思ったらしく、快く条件を飲んだようだ。そのお陰で、こうして我が家に環境の整った部屋と、クセの強い頑固なピアノがいる訳だ。
話を戻そう。部屋に入ってからどれほど経ったか、メモ帳を取り出し、それを実際の楽譜の余白に書き込んで、それを実際に弾いてみたりした。この部屋は壁一面が防音してある関係か、一枚も窓が無かったので、今が夜なのかどうなのか直ぐには判断出来なかった。それでも一応時計が壁に掛けてあるので見てみると、七時半を指していた。まさか朝では無いだろうから、言うまでもなく夜だった。部屋に入ってからゆうに四時間が経つ計算になる。ずっと八小節の部分と、その前後数小節を何度も繰り返し弾いてのこの時間だ。我ながらよく飽きずに弾いたなと思ったが、自分で言うのもなんだが、とてもしっくりきて、抽象的で悪いが『これだっ!』と思える、珍しく自分で自分に満足のいく仕上がりになっていた。
一度指を休めて伸びをしながら、「一刻も早く師匠に聞いて貰いたいなぁ…」と独り言を言いながら、明日の事を色々と想定して妄想していたその時、部屋の内線のベルが鳴った。これが何時に鳴らされるかで、大体何の合図か分かるようになっていた。今回の場合は、ズバリ夕食の合図だ。
私は軽く鍵盤を専用の布で丁寧に拭いてから、細長いカバーを敷いて、蓋を閉め、これは私特有のクセらしいが、黒光りする蓋上面も、先程の専用の布で労わるように拭くのだった。
こうして練習後に拭いたり手入れをするのは、習いたての頃に師匠に言われた一番最初の教えだった。『道具を大事にするっていうのがね、上達への一番の近道よ』…そう言った後に『まぁ根拠は無いんだけど』と悪戯っぽく笑って見せていたが、まだ小学二年生に上がったばかりの私には、凄くその話が頭に残って、それ以来ずっと教えを守っているのだった。
拭き終えると、私はまた一度伸びをして、それから部屋を出て居間に向かった。

居間のドアを開けると、夕食の良い香りが鼻に入ってきた。と同時に、途端にお腹が空いてくるように感じた。考えてみたら、今日は土曜日だから弁当を持って行ってはおらず、裕美たちとご飯を食べにも行かなかったので、昼ご飯を食べていなかったのにこの時初めて気づいた。私はいつもピアノの練習の後は、手を洗うのが習慣となっていた。ピアノを弾くのに、ある意味ずっと指を動かすという、師匠に言わせれば指のスポーツでもあるので、少なからず手に汗をかくのだ。だから終わった後に拭くのもその為だ。この場合は食事前だから当たり前は当たり前だが、それ以外でも手を洗うのは、ただ単に汗が気持ち悪いという理由だった。それは兎も角、普段通りふらっと台所のシンクに向かうと、視界の隅にお父さんの姿が見えた。テレビの前のソファーに座っていたが、テレビは点けずに新聞を読んでいた。
「…あ、お父さん、お帰りなさい」
と一度足を止めて挨拶すると、お父さんは新聞を畳みながら「うん、ただいま」と表情は少なかったが、それなりに微笑みつつ返してきた。私はそれを聞くと、改めてシンクに向かうのだった。

週に平均して二度か三度ほどの、親子三人での夕食を終え、私は風呂に入る前に一度自室に入る事にした。何しろ早くピアノを弾きたくて仕方なかったので、ロクに整理をしていない事に気付いたからだ。
私のお母さんは、呉服屋の娘という家庭環境が作用しているのかどうだか知らないが、綺麗好きな上に整理整頓が行き届いていなければ我慢がならない性質だったが、それが遺伝したのか何なのか、私もこうして一つの事に気をとられると、ついつい散らかしてしまう癖に、散らかった状態を見るのが耐えられない性格でもあるので、ほっとくといつまでも頭にその事が残って、酷い時にはそれに頭が占められてしまうので、こうして予めに対処しておくのだった。
ベッドの上に散らして置いたカバンなどを整理し終えると、ふと目に、光を点滅させるスマホに気づいた。誰かが私に連絡を入れたようだった。開いて見ると、SNSには六通来ており、そしてこれが凄く意外だったが、義一から電話が来ていた。それも断続的に三度も。先に履歴を見てみると、夕方の五時あたりにして来ていたようだった。
何故だかこれを見て、漠然とした胸騒ぎを覚えたが、この時はとりあえず保留して、まずメッセージの方から確認した。開いて見ると、裕美たち四人からと、これまた意外に美保子と百合子からも来ていた。それも同時間に。義一の電話とも近かった。それで益々不安にも似た感情に胸が占められていったが、順番的に、まず四時あたりに一斉に来た裕美たちの方から確認した。見ると、四人ともにそれぞれの個性に沿った文面を送って来ていたが、内容的には共通していて、私がいない分楽しんでいるといった調子だった。私はそんな冗談混じりの文面を苦笑しながら見ていると、ふと画像ファイルが添付されていたので開いた。それはあの御苑近くの喫茶店で、パフェなり何なりという多種多様なスイーツにがっつく、四人の写真だった。四人とも写っているという事は、店員さんに撮ってもらったのだろう。その図々しさにまた呆れた笑いが自然と漏れたが、すぐに誰に撮ってもらったか理解した。あまり重要では無い情報だが、このお店には大学生の女性が一人バイトとして勤めていて、何とその女性は私たちのOBだった。向こうから親しげに話しかけてきた。私たちの制服を見て、この近辺ではまず見ないし、それ故に懐かしくなり思わず話しかけたとの事だった。それからは、たまたま彼女のシフトと私たちの都合があった時などは、お店が暇だという条件付きで、一緒にお喋りをしたりするのだった。今日はそんな日だったのだろう。それぞれがそれぞれのスタイルで、おちゃらけ気味にカメラ目線で写っていた。
私は四人それぞれに、冗談ぽく恨み節を書いて送り終わったちょうどその時、ふと電話が鳴った。表示されているのは『義一さん』の文字だった。
私はすぐには取らずに、ソッと忍び足でドアに近付き、静かに開けて、廊下を左右見渡し、誰もいない事を確認すると、またそっとドアを閉めて、ベッドの上に腰をおろし、ようやく取った。
「はい」
「あ、琴音ちゃん?今大丈夫?」
義一の声は心配げな声音だったが、それと同時に少し焦っているようだった。
「あ、うん…大丈夫だけれど、どうしたの?珍しいね、電話なんて」
「…うん、さっき夕方辺りにも電話したんだけれど、出なかったから、多分練習をしているのかとは思ったんだけれども」
「うん、その通り、その時はちょっと籠って練習してたんだ。…で?何かあったの?」
「…」
私がそう聞くと、電話の向こうの義一はほんの数秒ばかり黙り込んだ。そのお陰で、向こうの環境音も小さく微かにだが聞こえていた。テレビが点いているらしい。
義一は少し溜息を漏らすと、静かな口調で言った。
「…今君は家にいるの?」
「う、うん」
ヤケに真剣な口調なので、戸惑いつつ答えると、義一はさらに深刻そうな調子で続けた。
「…ちょっとテレビを点けて見てくれるかな?どのチャンネルでもいいから」
「え?…あ、あぁ、うん、分かった。じゃあ少し待ってて?」
私は万が一お母さんが部屋に入ってきても見られないように、スマホを引き出しの奥に隠してから、一階の居間に降りた。
テレビの前には、先程のようにお父さんがソファーに腰を下ろし、新聞をまた読んでいた。
「お、琴音…どうかしたか?」
「え?あ、いや、なんか暇つぶしにテレビでも見ようかなぁって…」
「ふーん…お前にしては珍しいな」
我ながら咄嗟に上手い対処が出来なかったのに心の中で苦笑いしたが、お父さんはそんな私を訝しむこともなく、軽く流した。
「暇つぶししてるなら、早くお風呂に入っちゃいなさーい」
と台所で作業をしていたお母さんの声がしたので、「後でー」と間延び気味に答えつつ、テレビの電源を入れた。しばらくすると画面一杯に画像が流れたが、丁度国営放送のチャンネルだった。
と、その時、流れている映像にも驚いたが、画面の端に踊る文字にも尚更驚いた。そこに出ていたのは『落語界の名人にして最後の鬼才、〇〇さん死去』だった。この〇〇には私に馴染みのある名前が入っていた。そう、”師匠”だった。
「…え?」
私はそう声を漏らすのが精一杯だった。
突然のこと過ぎて、この時初めて頭が真っ白になる感覚というのを体験した。私は前のめりになって画面を見つめた。
そこには昔の師匠の映像が流されていた。大体三十代から四十代くらいから、師匠自身が認めていた全盛期の六十代までの、数少ないテレビ出演部分や、高座の姿だった。国営放送のその番組は、師匠を偲んでという冠を掲げた臨時番組のようだった。VTRが終わるとスタジオに画面が移り、そこには私はよく知らないアナウンサーと、後は師匠と親交の深かった、師匠より少し後輩の落語協会の現会長が出ていた。アナウンサーがまず師匠が”心筋梗塞”で亡くなった旨を伝えると、その後に色々と如何にも台本通りだといった風な話を振っていた。すると現会長は努めて穏やかな笑みを浮かべながら、師匠の芸名の後に”兄さん”と付けながら、昔の思い出話をしていた。色々興味深いことを話していたが、『兄さんほどに芸を愛し芸に徹した芸人は、後にも先にも現れない』と力強く熱っぽく言った言葉が、特に当時の私の耳には残った。私はこの人の芸は口当たりが良すぎて、そこまで好きな芸人では無かったが、それでも師匠の方でも気に入って可愛がっていたのを、書かれた本などを読んで知っていたので、そんな会長の話を聞いていると、ふと目頭が熱くなるのを覚えていた。でも放送時間との兼ね合いがあったのか、アナウンサーが無情にも会長の話を途中でぶった斬り、そして自分でも感想を述べていたが、とても在り来たりな内容過ぎて、虫酸が走った。「落語界の宝がまた一人消えた」とか、そんな類のことを、仕事柄だからなのか、次から次へと言葉を吐いていたが、そのどれ一つを取っても中身のあるのが皆無だった。ただ言葉を垂れ流しているだけだった。
…私も終に高座を直接見る機会は無かったけれど、一度も落語を聞いたことすら無いくせに、恥も外聞も無く、よくもまぁここまでしおらしくそれらしくコメント出来るものだな…。
そう感想を持ちつつ、私は途中からイライラしてきていたが、ちょうどその辺りで不意に、
「…あぁ、こいつなぁー」
と、今まで黙ってテレビを見ずに新聞を読んでいたお父さんが、もう読み終えたのか新聞を折りたたむと、ソファーに深く座り直しながら声を漏らした。
「最近テレビで見ないと思ったが…まだ生きていたんだなぁ」
「…お父さん、この人の事を知ってるの?」
お父さんのそんな言い草に、益々イライラが募っていたが、なんとか抑えて、この際だからお父さんが師匠のことをどう思っているのか聞いて見たい衝動に駆られて、私も師匠の事を知らないフリをしながら聞いた。もちろん頭の中に、義一が言った、人を見る時の一つの指標の事を頭に浮かべながら。
「あぁ、知ってるよ」
お父さんはテレビとソファーの間に置いてあるテーブルの上から、晩酌用のコップに入ったビールを手に取り、一口飲んでから言った。
「昔はよくテレビで見ていたんだがなー…ここ十年以上テレビで見なくなったから、人気が無くなったんだろうねー…。色々と破天荒な事をやって見せたりしててな、何だか奇抜な事をして世の注意を引こうとするあの態度が、俺には我慢がならなかったよ。…何だか、そんなこいつの態度のどこに惹かれたのか、結構熱烈な信奉者もいたらしいが、まぁ”通ぶっている”奴らには、御誂え向きだったんだろう。…ふーん、享年七十八歳か…まぁ悪童世に憚るとはよく言ったもんだが、こいつはまぁ…このくらいで死んで良かったんじゃないか?…ん?どうした琴音、そんな怖い顔をして?」
「…え?」
突然話を振られたので、私は慌てて自分のホッペのあたりを大袈裟に撫でながら言った。
「そんな怖い顔をしていた?」
「あ、あぁ…。まぁ…何でも無いならそれで良い」
お父さんは少し私の事を奇異な物でも見るかのように見てきたが、それからは呆れ笑いを浮かべながら、チャンネルを変えた。しかしどの局でも師匠の死去について特集を組んでいたので、お父さんはフンッと不満げに鼻から短く息を吐くと、テレビを消してしまった。私はこの時、例の物体を胸の辺りに感じて、息苦しくなっていた。それでも何とか平静を装いつつ、「じゃあそろそろお風呂に入るね」と声を掛けてから居間を出た。そのモノの”重さ”は風呂に入っている間も続いた。頭は真っ白のまんまだった。
ほとんど夢遊病のように、無意識のままに寝支度を済ませ、最後にまだ居間に残っていたお父さんとお母さんに挨拶をしてから自室に入った。
そのままベッドに入ろうとしたその時、ふと義一との電話の途中だったことを思い出し、慌てて引き出しの奥を弄り、そこからスマホを取り出した。見ると電話は切れていた。それはそうだろう。あれからゆうに二時間は経っていた。と、メールが一通来ていた。義一からだった。
すぐに読もうと思ったが、まず美保子たちの方から見た。内容は予想通り、師匠の訃報についてだった。私は一応今情報に触れた旨を書いて、そして驚いたとの感想も入れて二人に返信した。そして次に義一からのを見た。要約すると次のような物だった。
師匠が亡くなった事、死因は心筋梗塞で、今朝中々起きて来ない師匠を心配して家族が寝室に行って見ると、既に事切れていた事、最初の報道があったのは夕方頃で字幕スーパーに流れた事、それにより義一たち含む関係者達も初めて知った事、葬儀は遺族だけで執り行われる事、お別れの会は別にするとの事、それには”数寄屋”に集う”オーソドックス”に所縁のある面子が出席するとの事等々、まだまだキリがないが、事細やかに書かれていた。
私はその文面を何度か見返し、義一にも返信しようかと思ったが、やはりそれはダメだと思い留まり、今度は私から電話を掛けた。さっきの様に周りに注意は払わなかった。
突然の電話だというのに、義一は呼び出し音が二度鳴ったくらいで出た。声は静かだった。
「…見た?」
義一は前置きを置かずに端的に言った。
私は見えていないのは重々承知で、その場でコクっと頷いてから返した。
「…うん、今見た…」
「そっか…」
義一はそう短く返すと、そのまま暫く二人の間に沈黙が流れた。私もそうだったが、こういった場合、何て言えば良いのか困っている様子だった。…いや、この場合の義一は、言葉は持っていても、それを私に掛けるべきかどうかで悩んでいるようにも見えていた。この様な時の義一の”優しさ”は、普段以上に暖かく感じられて、無言が流れる重々しい空気の中にいるはずなのに、少し緊張が緩むのだった。
それからはメールに書かれていた事を繰り返し聞かされた。新しい情報としては、お別れの会の内容は概ね既に決まっていて、平日の午後に、師匠の事を尊敬し慕っていた、当代きっての実力があると評価されている歌舞伎役者がホストを買って出て、歌舞伎座でやる事に、今日の今日で決まったらしい。義一も当然行くとの話だった。私は行けないのが心から残念だと訴えると、義一は電話口で力無く笑うのだった。この事については、改めて後日私の暇な時に”宝箱”で話し合う約束をして、電話を切ったのだった。
それからすぐにベッドに入ったが、中々すぐには寝付けなかった。
今日も目一杯練習したから体は疲れていのだが、頭…精神は興奮状態になっている様で、首の後ろ辺りが火照っているのを感じていた。胸に重くのしかかっていたアレは、今ではまた収まっていたが、相変わらず存在感だけは残していた。その代わりと言っては何だが、その隙間を埋める様に胸を深く冷たく占めたのは、如何ともし難い寂寥感だった。瞼を閉じてみても、あの数寄屋での師匠の様子が浮かぶばかりだった。どれも照れからくる苦笑いだったが、愛くるしく可愛らしい笑みだった。その様な表情で最初の方で『もう十分生きた…』と何気無く言った言葉だとか、最後の方で苦しそうに咳してから力無く繰り返し言った『もう良いんだ』という言葉も、繰り返し耳の奥で木霊していた。この晩は夢を見なかった。

「…うん、いいんじゃない?」
家に着くなり早速ピアノに向かい弾いて見せると、師匠は明るい笑みを零しつつ私に言った。
あの衝撃的なニュースから一晩明けての日曜日。私は寝不足なのも含めて、若干の気怠さを覚えつつも、こうして予定通り師匠宅にお邪魔している。挨拶もそこそこに、師匠も私と同じ様に若干眠そうにしつつ髪を後ろで纏めている間、私は塾に通っていた時から使っているトートバッグから楽譜を取り出し、早速新しく解釈を施した演奏を聴いて貰っていた。
師匠は今言ってくれた様に、その解釈を褒めてくれた。ここで技術的な話は置いとくとして、簡単に言えば『琴音らしい』との感想を頂いたのだった。ただコンクールの課題曲だったのに、この解釈で良いのかまでは言ってくれなかったが、演奏面だけではなく、師匠の”耳”に対しても絶大な信頼を寄せていたので、仮にこれでコンクールが上手くいかなかったとしても、それで満足だくらいには思っていたので、繰り返す様だが、嬉しかったと同時に安堵した。
何はともあれ、そこから何小節か試行錯誤しつつ弾いていると、あっという間にお昼になった。
この日は手抜き…と言っては悪いが、簡単に作れるシナモンシュガーワッフルを作った。前々回くらいにホットケーキを作ったのだが、その時のホットケーキミックスが余っていたとかで、それをタネに作ったのだ。とても簡単だったが、味は普通に美味しかった。ピアノの練習時もそうだが、こうして一緒にお菓子作りをして、ワイワイと食べてる間は落ち着く瞬間で、この日に限って言えば、師匠の事でナイーブになっていた気持ちが、薄らいでいたのだった。
だが…
「どうしたの琴音?今日はいつになく元気が無いわよ?」
「…え?」
今私たち二人は、ワッフルを食べ終えて、洗い物を済まし、午後のレッスンまでのひと時を雑談して過ごしていた時だった。
師匠から、どういった経緯でそんな解釈が思い浮かんだのか聞かれたので、 昨日たまたま不意に予期せぬ所でメロデイーが流れてきて、 折角の友達との親睦を深める機会を”犠牲に”して、 家に帰って改めて深めた旨を冗談ぽく話していた矢先に、ふとこう聞かれたのだった。
「…そう見えます?」
と少しおずおずしつつ聞き返すと、
「うん、そう見える」
と師匠は肘をつきホッペに手を当てながら、口元を緩めつつ言った。だが、目元は真剣そのものだった。本気で心配してくれている様子だ。
そんな視線に耐えられなかった私は、苦笑い気味に
「何でも無いですって」
と返すのがやっとだった。
「ふーん…」
と師匠は納得いかないと言いたげに、私にジト目を向けてきていたが、フッと表情を緩めたかと思うと、
「まぁ…私が少し”オチている”から、あなたまでもそう見えたのかしらねぇ…」とボソッと、中々真意が計りかねる様な言い回しで言った。
それを聞いた私はすかさず、
「…え?それって、どういう意味ですか?」
と質問した。
「師匠”も”…何か落ち込む様な事があったんですか?」
「…ふふ、”も”って、やっぱりあなたも落ち込む事があったんじゃない」
師匠は力無げだったが、それでも悪戯っぽくニヤケながら言い返してきた。
こりゃ一本取られたと、私も苦笑しつつホッペを掻いていたが、フッと師匠は寂しげな表情で笑いながら話しかけてきた。
「…まぁいっか。大人として、そして何よりあなたの師匠として、まず私から話すのが筋ってものかも知れないわねぇー…ちょっと待ってて?」
「は、はい…?」
私の返事を聞くか聞かないか微妙なタイミングで、師匠は不意に立ち上がり、居間を出て、家の何処かに行ってしまった。
この家は、私が小学二年生になりたての頃から来ているが、今だにこの家の全貌を知れていなかった。私が行った事がある…というよりしょっちゅう行っていたのは、レッスン部屋と、今いる居間と、師匠の五畳ほどの、義一の宝箱とは比べ物にならない量だったが、壁一面に本が並んだ書斎くらいだった。寝室や、別にあると聞いたことだけある師匠個人の練習部屋など、まだまだ未開のエリアがあった。当然というか、ここが私の下卑た点だが、好奇心が”無駄”に旺盛なせいで、何とかそういった師匠のプライベートエリアを覗いてみたいという衝動に駆られていたが、流石にもう師弟の関係になってしまったので、そう易々と頼める感じでは無くなってしまった。 こんな事なら、もっと早めに図々しく頼んでおくんだったと、思わなくもない今日この頃って感じだった。
それはさておき、何処かで物音が聞こえていたかと思うと、師匠が何やら紙の束を携えて戻ってきた。そしてそれを何も言わずに、二人分の紅茶が乗っているだけの食卓の上に、静かにその束を置いた。どうやら今朝の朝刊の様だった。スポーツ紙だ。
新聞だ…ってあれ?
師匠がゆっくりとした動作で座ろうとする間、私はチラッと見えた一面の文字に目を奪われ、思わず師匠に断る事無くその中の一つを手に取った。そこには、昨日テレビで見たのと同じ文句が一面にデカデカと載っていた。
『訃報 〇〇死去』
そう、”師匠”の事が一面全面を占めて載っていたのだ。
…っと、この呼び名では、私の師匠と違いが分かりづらいだろう。かと言って、いくら芸名とはいえここで述べるのは何だか引ける…。という事で、”ピアノの師匠”には悪いが、この間だけ”沙恵さん”と、まるでお母さんが言うように呼ばせて頂こう。弟子が気安く師匠の事を下の名前で呼ぶのは不敬だし、呼ぶこちらとしても呼びづらいといった弊害はあるが、少なくとも師匠は気にしないだろうし、それに仮に気にする様な性格だったとしても、訳を言ったら快諾してくれただろう。…若干ネタバレ感があるが、それはすぐ後の”沙恵さん”が話す内容から分かる。話を戻す。
沙恵さんは座ってからも、何故師匠が一面に載っている今日の朝刊を、それも一社だけで無く何社も買っていて、それをまた私に見せているのか、その理由を言い出さなかった。まぁ私の方で、まずそれぞれの師匠の写真が載っているのを一通り見てから、それから一社ずつ、すぐそばに沙恵さんがいるのを忘れかけて、ついつい細かく読み始めてしまったのもあっただろう。
そんな私の様子を、紅茶を啜りつつ眺めていたが、キリがなさそうだと判断したか、沙恵さんは苦笑気味に話しかけてきた。
「…ふふ、これは予想外の反応ねぇ。琴音、あなたまさか、この方の事知ってるの?」
「…え?」
私はこの時まで夢中で読んでいたので、瞬時に何を聞かれているのか分からなかった。が、すぐに慌てつつ、「え、あ、いやっ!」と言った調子で、しどろもどろになって返した。
そんな私の様子を見て、沙恵さんはまた愉快だと言いたげに明るく笑って見せた。
「ふーん…知ってるんだねぇ」
と今度はしみじみ言ってきたので、ある意味私は観念して「…はい」とだけ静かに返した。
「ふふ、そんな叱ってるんじゃないんだから、そんなしんみりしないでよぉ」
沙恵さんは”そう”思ったらしく、努めて明るくして見せながら言った。
「師匠”も”知ってるの?」
私はまだ頭が軽く混乱しつつ、ついつい師弟関係になる前に時折していた様に、タメ口になってしまった。
それを咎める事なく、沙恵さんは明るい笑顔のまま答えた。
「ふふ、また”も”って言ったわね?いくら成熟の度合いが高いっていっても、この辺はまだまだねぇー?…ふふ、さて、からかうのはこの辺にして…うん、そう、私はずっと昔からこの人のファンだったの。…今の琴音くらいか、もっと前からね」
沙恵さんはそう言うと、束の中から一紙を手に取ると、一面を愛おしげに目を細めつつ見ていた。そこには、紺碧の着物を着て、下にはグレーの袴を履いて、高座を終えた時なのだろう、中腰になって立ち上がりかけの時の写真らしく、顔には満面の笑みを浮かべていた。この間、短い間だったが深い話をさせて頂いた印象が強く残っており、まるでその写真の師匠が『どうでぇ、今日の出来は?良かったろ?』とでも言い出しそうに感じたのだった。
「琴音は、昨日のニュースを見た?」
「は、はい」
「驚いたよねぇー…って、私はまだ、あなたがどれ程にこの人に入れ込んでいるのか聞いてないけど、今は取り敢えず私の事を吐露させて貰うとね、うーん…そりゃ驚いたよ。昔…そうだなぁ、今から二十年も前だったか、”師匠”は何度か癌になってねぇ…何度も手術を受けていたのよ」
「…」
私は何も返さなかったが、紙面に目を落としつつ、大きく頷いて感心している素振りを見せていた。当然…というか、今沙恵さんが述べた情報は私も知っていた。それから…数年前に、とうとう喉に癌が転移して、周りが説得したのにも関わらず、腫瘍を撤去する手術だけは受けなかった事。何しろそれまで切除してしまうと、声が出なくなるのは必至だったからという理由を、何処かに書かれていた。声が出なくなるくらいなら、寿命が縮まっても構わないという信念を、ここ最近まで師匠の本を読み込んでいく過程で、感じたのだった。それなのに結局直接には関係なさそうな心筋梗塞で亡くなってしまうとは、これも人生って所なのだろう。
とここで、一つ…いや二つばかり驚いた事、そして同時に嬉しかった事を述べておこうと思う。まず一つ目は、ただ単純な事だが、尊敬している”沙恵さん”が、”師匠”の事を知ってて、それだけではなく”ファン”だと言った事だ。昨日、お父さんの反応を見た直後だっただけに、感動も一入だった。これに関係するのだが、もう一つの理由…それは、これまた単純だが、私と同じ様に”師匠”呼びをしていた事だった。これは別に私が便宜的に沙恵さんの言葉を編集したわけでは無い。そのまま”師匠”と呼んでいたのだった。
「それからは…あ、そうか、私は高校を卒業とともに、ドイツに留学してしまって、そのまま向こうに数年前まで行ってた話はしたよね?」
「はい、それで戻って着てすぐに、お母さんに誘われて、この教室を開いたと」
そうすぐに答えると、沙恵さんは微笑みつつ、人差し指をビッと勢いよく私に向けて「そして、その生徒の一号が琴音、あなた!そして、弟子一号って訳ね」と、ヤケに底抜けの明るさを演出しながらいうので、思わず私も微笑み返すのだった。
「まぁ一号って言っても、他に弟子とる予定もつもりも無いのだけれど…。いや、それはいいとして、そう、ドイツにそれから十年以上行ってたから、それから師匠がどうしていたのかという情報を得られなかったんだ。当時は今みたいにネットも発達していなかったし、向こうに行ってからも…自分で言うのは恥ずかしいけど、日本にいた時以上に修行に励んでいたからねぇー…日本人だからってナメられない様にってね?」
沙恵さんはここでウィンクしつつ、照れ隠しの意味もあるのだろうが、悪戯っぽく笑った。そして今度は、決まり悪そうに苦笑まじりに続けた。
「だから余計に見る機会が無くてねぇー…で、私のちょっとした不注意で日本に戻って来ることになっても、この家を借りる事になったりと、なんだかんだバタバタと慌ただしく忙しくしていたからねぇ…正直に言ってしまえば、ファンであった筈の師匠の事は、今の今まで忘れてしまっていたのよ…。ファン失格ね」
そう言いつつ寂しげに自嘲気味に笑うので、
「そんな事…」
と言いかけたが、その続きを述べられる程、まだ私には語彙が足らなかった。私が一人気落ちしていると、師匠は長い腕を伸ばし、向かいに座る私の頭を少し乱暴に撫でてから続けた。
「…あなたは本当に優しい子なんだからなぁー… 私の弟子にしとくのが勿体無いくらいに。 …ふふ、そんな変な顔をしないでよ?…さて、それでね、普段私は新聞なんて読まないんだけれど、”ある人”から昨日たまたま電話があってねぇ、その人も私と同じ様に子供の頃から師匠のファンだったって言うんで、海外に住んでいる人なんだけど、向こうでたまたまネットでニュースを見たらしくてね、それで私に電話して来たの。…夜中の一時にね。その人は時差とか考えなしに電話して来る様な勝手な人なんだけれども…」
「…?」
一体何の話だろうと不思議に思っていたが、それでも横槍を入れる事なく黙って聞いていた。沙恵さんは途中から呆れ笑いを浮かべていたが、口調やテンションからは不快さは見えずに、寧ろ愉快で楽しいと全体で表していた。
「でね、会話が終わろうとしたその時にね、不意にこう言ったのよ。『そういえば、何かとダメダメな新聞とかの大手メディアでも、アンタの話を聞く限りじゃ、まだドン底までは堕ちて無いみたいじゃない?何でも、夜のニュースでどこも”師匠”の特集を組むくらいだもの。…ん?あ、いや、何が言いたいのかっていうとね、もしかしたら全国紙、んー…少なくともスポーツ紙はどこも何かしら特集を組んでくれるんじゃ無いかしら?でね、アンタに頼みたい事があるのよぉー…。ほら、私今度近々日本に帰るでしょ?だからアンタに…あ、今日か、今日って日曜日よねぇ…?日曜でも新聞って出るのかしら?…まぁ分からないけど取り敢えず、今日の朝刊が出る辺りに、粗方の新聞を買い漁って欲しいのよ。ちゃんと後でお金は出すからー』ってね」
「へぇー」
へぇーっと思わず口から漏れた。沙恵さんの迫真の演技を見せてもらった感じだ。高飛車なところとか、捲し立てて話すところ、所々で自分で勝手に考え込み、そして自分で自分に突っ込んだりするので全体的に話が右往左往して纏まりが無い感じ…どれも特徴をよく捉えていた。
まぁ、それもそのはずだろう、何せその人と沙恵さんは、お互いにそれ以上の深い繋がりの相手がいないのだから。
…こんな調子で私が話すもんで、聞いてくれてる方の中にはもう察してくれてる人もいるだろう。そう、沙恵さんが説明しなくても、途中から既に、その人が誰だか分かっていた。それを助けてくれたのが、沙恵さんの演技にもよるのは言うまでもない。
「その人って…」
私は話がひと段落ついたと見計らって、口を挟んだ。
「もしかして…京子さん、矢野京子さんの事ですか?」
私がそう言うと、沙恵さんは一瞬満面の笑みを浮かびかけたが、すぐに呆れた様な笑みを顔一面に浮かべながら溜息混じりに答えた。
「そっ!本当にあの子ったら、自分勝手なマイペース女なんだからねぇ、いつも振り回されるこっちの身にもなってよって思うけど…でもまぁ今回に関しては、確かに”珍しく”良い提案をして来たからねー」
矢野京子。前に一度軽く触れたと思うが、ここでは詳しい話はしないでおく。…これを言うと、また軽いネタバレになってしまうかも知れないが、彼女については後々詳しく触れることになるので悪しからず。ただ一つ確認のために話しておくと、沙恵さんと京子さんは、色んなコンクールに一緒に出場して、トップで鎬を削りあったライバル同士でもあり、だからこそお互いの心根を分かり合える親友同士だ。その関係は今でも変わらない。
「…で、確かに京子が言ってたけど、今日は日曜でしょ?私も新聞を買わないから販売しているのか分からなかったけど、今のご時世で、私は未だにアナログ人間だから、考えてみればまずネットで、日曜に本当に販売されるかくらいは調べれば良かったのに、それをしないで、今朝はそうだなぁ…取り敢えず五時に起きて近所のコンビニに行ったの。そしたらこうして販売されてるし、それに京子の推測通り、どのスポーツ紙にも特集が組まれていたし、何よりも驚いたのは、新聞の表紙部分、一面を全部使っていたっていうのに益々驚いてね、嬉しさのあまり、何部かずつ買ってしまったのよ」沙恵さんは少しばかりはにかんでいた。
「その大量の紙の束をレジに持っていったら、店員さん、メンドくさそうな顔と、驚きの顔を織り交ぜた様な表情を浮かべていたなぁー…まぁそんなこんなで」
沙恵さんはそう言いかけると、ふと私に新聞の束を纏めて押し出してから
「私と京子の分以外にもまだあるから…良かったらあなたも貰っていく?」
「え?良いんですか?」
私はそう言いつつ、嬉しさのあまり答えを聞く前に束を纏めて両手で持った。
そんな様子を見た沙恵さんは、肘をついて呆れた顔を見せていたが、笑顔で応えた。
「えぇ勿論!…心配しないで?あなたからはお金を要求しないから」
「ふふ、ありがとうございます」
「いえいえ、どういたしまして」
そうお互いに言い合うと、一瞬顔を近づけて見合わせて、その後にはプッと吹き出すと、明るく笑いあうのだった。
とここで”師匠”は時計を見ると、ハッとした表情を見せて、レッスンの再開を宣言したので、私は頂いた新聞の束を丁寧に揃えると、それを取り敢えず食卓の上に置いた。後で帰る時に忘れない様に肝に命じながら。
レッスン部屋に向かう途中、私は思わず思い出し笑いをしてしまった。前を歩いていた師匠は振り返り「なに?どうしたの?」と半笑いで聞いてきたが、「何でもありません」と、こちらも半笑い混じりに返した。師匠は「変な子」と短く微笑みつつ言うと、また先を歩いて行った。その後を追いつつ、ある事を思い出していた。
それは、さっき師匠が京子さんを演じていた時、京子さんにも”師匠”と呼ばせていた事だった。恐らくこれも、さっきの私と同じで、別に勝手に師匠が編集した訳ではなく、京子さんが本当にそう言ったのだろう事を思うと、我ながら細かいところに目が行くなと思いつつ、またそんな所を発見して嬉しがるなんて、我ながら単純だなぁっという意味での”思い出し笑い”だった事は、内容が内容だけに師匠には言えなかった。
そしていつも通り、レッスン部屋に入るのだった。

あのレッスン日から数週間が経った今日、六月二日、とうとうコンクール本番を迎えた。まだ予選とは言え、これがコンクール初参加の私としては、朝から既に自分でも驚くほどに緊張していた。今日は日曜日。学校をわざわざ休む必要が無かったのは助かった。
私の出る中二以下の出番は夕方の五時半からだったので、午前中は本を読んだりとノンビリと過ごし、お昼を取り、それから一時間ばかり楽譜を確認しながら過ごしていると、そろそろ家を出る時間が近づいてきた。支度の為に自室に入り、フォーマルな服装に身を包んだ。その服は、初めてお父さんに誘われて行った”社交”の場に着ていった物だった。
やや光沢のある白いシャンタン生地の上に黒のレース生地を合わせた、大人っぽいドレスだ。因みに、そんな良いものでも無かったし、毎度代わり映えしない同じ様なものだったから”敢えて”触れなかったが、あれからも何度か社交に駆り出された。三度の一度は地元にある例のしゃぶしゃぶ兼懐石料理店だったが、それ以外には浅草だったり新宿だったりした。ただ食事の内容は同じ様なものだった。何度か参加した事もあって、顔馴染みになった人も何人か出来た。勿論、最も顔馴染みになったのは、お父さんの大学時代の後輩の橋本と竹下だったのは言うまでもない。 二人は毎回私の姿を認めると、笑顔で近づいて来て、馴れ馴れしく肩をポンポンと叩いたりしてきながら言葉を掛けてくるのだった。私は何とか笑顔を作って対応していた。…いや、何が言いたいのかというと、何度か出向く約束をする度に、何故かお母さんの方が反応を強く示して、同じ服装はアレだからと、私を連れて行きつけの洋服屋さんに連れて行き、そこで新しい外行きの服を買うのだった。だから、この手の服には困ってない…いや、この手の物に疎い私でも分かる程に、あり過ぎるほどにあった。何せ、この為に私の部屋に新たな洋服ダンスが置かれたくらいだったのだ。昔は…それこそ一番初めの頃、そう、法事に行った時にも軽く言ったが、小学二年生あたりまでは、この様な服を着ると、まるでお伽話のお姫様になったかの様な気分になれたので、他の女の子と同様に嬉しかったのだが、いつからか、日を追うごとに年を追うごとに興味を失っていってしまった。だから、お父さんに誘われる度に増えていく豪華な洋服たちを見る度に、溜息が漏れるのだった。
姿鏡の前で、クルッと一回転したりしながら最終チェックをした。
…よしっと。
私は鏡の中で頷く自分の顔をキッと見つめ返すと、足取り軽く自室を出て、私のメイクや髪型をセットする為に待つお母さんの元へと向かった。因みに今着ている服は、コンクール用のではない。その服は別にある。今は玄関先に置いてある、ローマ字で表記されたブランド名が、洒落て書かれた大きめな紙袋の中に仕舞われていた。今日行く予選会場には着替えるスペースがあるとかで、それならわざわざ家から着て行く事もないだろうと、お母さんが判断した。会場までの道中で、何かの拍子に汚れたら堪ったものではないとの考えらしい。まぁ、尤もと言えば尤もだった。
では何故このフォーマルを着ているかというと、それでもやはり普段着で行くのは筋違いだろうという、これまたお母さんの判断だった。まぁ…これは何度も褒めているから今更かもしれないが、こういった物関連の判断に関しては、全幅の信頼を寄せていたので、まるで着せ替え人形状態ではあったが、別段不満などは無かった。私自身に全くこだわりが無いのが良いのかもしれない。
それはともかく、パウダールームに着くと、そこにはもう準備を終えたお母さんが待っていた。今日のお母さんは着物姿ではなく、フォーマルなドレス姿だった。色はネイビーで、ジョーゼット生地のトップスには三段フリルが付いており、フェミニンな印象を与えると共に、Iラインスカートだったので、大人っぽい雰囲気を醸し出していた。今はまだ羽織っていなかったが、七分袖のブラックジャケットも側に掛けてあった。
私が入ってくるなり、早速お母さんに顔を洗う様に言われた。言われるままにヘアバンドをして洗い終えると、普段通りに自分の化粧水と乳液を付けた。
…ここでどこからかツッコミが来てそうなので、慌てて言い訳をさせて頂きたい。確かにこの様な事は、寝る前の準備の中でこなしている…キャラに似合わず。言わせて頂くと、私自身は全く興味が無いのだが、やはりこれもお母さんからの…大袈裟に言えば”命令”の様なものだった。私が小学校五、六年生の頃から続けている。これは正直面倒だったが、慣れや習慣とは恐ろしいもので、今ではこれらを済ませてからでないと、夜に眠れなくなってしまった。…いや、これはどうでも良い話だった。
私がそれらを済ませると、今度はお母さんが私を椅子に座らせ、自分は立て膝になり、顔を近付けてメイクに取り掛かった。
化粧下地をし、スポンジを肌の表面で滑らす様にしながらパウダー状のファンデーションを伸ばしていった。次にはチークをホッペに、ハイライトを所謂Tゾーンにのせていった。アイシャドウはスモーキーという、ややくすんだ、大人っぽい印象を持たせる色合いだった。クチビルは、お母さんが直に指で丁寧に塗ってくれた。その後は言われた通りに上下の唇を合わせて馴染ませた。
…とまぁここまで描写しておいてなんだが、本来はこんなにメイクの描写はいらなかったかも知れない。だが、それだけ手間を掛けてくれたお母さんの苦労を労う意味で、こうして事細やかに話してみた。話を続けよう。
最後の確認なのか、お母さんは真剣な面持ちのまま私の顔の両端を掴み、少し乱暴に右左と向かせた。そしてまた正面を向かせると、すくっと立ち上がり、腰に手を当てると力強く頷いた。
「…うんっ!完成!」
「…終わった?」
私は少しくたびれた調子で言った。
するとお母さんはニコーっと無邪気に笑うと、
「うん、完璧よ!鏡で見てみなさい?」
と言い、私の背中を押して鏡の前まで誘った。
メイクの間はずっと真剣な面持ちのお母さんとにらめっこしていたので、視界にはそれしか入らず、鏡はどうしても今まで見る事は叶わなかったのだ。それでこの時初めて見る事になった。
見てみると…なるほど、『これが私?嘘みたーい!』みたいな典型的な感想は持たなかったが、今着ている服ともマッチした、中々に大人っぽい”私”がそこにいた。自分で言うのは恥ずかしすぎるが、”淑女”といった風貌だった。 ヒロが見たら間違いなく“馬子にも衣装”みたいな、微妙にズレたことを言った事だろう。今ヒロは全く関係ないのだが、そんな事を思い浮かべていたのだった。
社交に出向く時も毎度お母さんが色々してくれていたが、ここまで本格的にメイクをして貰ったことは無かった。いつも普段から、女性としての品格なり作法なりを身に付けていたお母さんの事を、そういう意味では尊敬し誇らしく思っていたが、久々にこうした一面を見せて貰った気がした。
それからは、そのまま鏡の前で髪をセットされた。…いや、セットと言っても、メイクとは違い、こちらは右下辺りで結んで、髪を肩から前に垂らすだけのシンプルなものだった。だが、今の大人っぽいメイクと服装には、それがかえって程よく色気を演出していた。
こうして私の準備は終わった。本番に着る服は後でのお楽しみだ。…需要があるか知らないけど。
ここで一つ補足というか、ネタバレを一つさせて頂こう。私はこの時初めてこのメイクをして貰ったのだが、少しして気付いた。このメイクは、何度か見せて貰った、師匠がコンクールに出ていた時のメイクにそっくりだったのだ。これは後で師匠に聞いた話だが、お母さんが私の知らないところで、師匠にどういう格好を私にさせれば良いのか相談していたらしい。それを聞かれた師匠は困った様だ。何故なら、自分がプロのソリストとして活躍していた時のメイクなら教えれるが、子供の頃など、今の私の様に母親にされるがままでいたのだから、教えれる訳がなかったのだ。それでもなんとか答えてあげたかった師匠は、この間私に見せてくれた昔の写真をお母さんに見せて、そして何枚か貸してあげたらしい。 それを見てお母さんは、大袈裟に言えば私に内緒で研究して、それをこうして練習することなくぶっつけ本番で仕上げたのだった。
口では言わなかったが、一度も練習をしなかったのは、少しでも私のピアノの練習の邪魔をしない様にという、お母さんなりの気遣いだったって事は、十何年も娘をしているのだから、それくらいの事は分かった。その化粧の腕もさることながら、その想いについても、この話を聞いた直後には感謝をした。
…とまぁ、そんなこんなで、また少し鏡の前で姿を確認すると、嬉しさを表現するために満面の笑みを浮かべて「ありがとうお母さん!」とお礼を言うと、今度はたまたま家にいて、居間でくつろいでいたお父さんに姿を見せに行った。
「お父さん。…どう、かな?」
私は一度目の前でくるっと回って見せてから、少し溜めつつ聞いた。お父さんはいつもの様に、テレビの前のソファーでまた新聞を読んでいたが、ふと「…おぉ」と声を漏らすと、おもむろに新聞を畳み、それをテーブルの上に置いて立ち上がると、顎に指を当てながら舐め回す様に見てきた。この様な類いの事で声を漏らしたのは、私の記憶が定かであれば初めてだったので、その反応に少し戸惑っていたが、お父さんがまた例の如く写真を撮っていいかと聞いてきたので、頭の隅に『またお父さんの仲間たちに見せるのかな…?』と、ある種の嫌悪感を覚えないでも無かったが、それでもやはり実の父親に、こうして容姿の事とはいえ喜ばれたら、それに対しては悪い気がしなく、むしろ嬉しくもあったので、笑顔で了承したのだった。まぁ尤も、普段からお父さんは、私のことを貶しもしなかったが、褒めもしなかったので、その反動もあるのかも知れない。
お父さんが写真を撮っている間、ふとまた別の一つの情景が胸に去来していた。
それは前回に話した師匠との会話の後、別のレッスン日での一コマだった。その日も午前中の練習を終えて、何かしらのお菓子を作って食べて、午後のレッスンまでの間、また二人で雑談をしていた時のこと、ふと疑問が湧いてきたので、師匠に何気なくぶつけて見たのだった。
「師匠、師匠は何で今まで(落語の)師匠のファンだった事を、私に話してくれなかったんですか?」
私がそう聞くと、師匠は「え?…うーん」と首を傾げつつ悩んで見せたが、苦笑まじりに答えたのだった。
「何でって言われてもなぁー…まぁまず琴音、その事を話したところで、あなたが興味を持ってくれるか確信が持てなかったからねぇー…あなたとは色々な芸能について語り合ったりしてきたけれど、それは主に西洋の、向こうの話が中心だったしねぇー…まぁそれは、私たちがやっている音楽という芸能が、欧州由来なのが一番の原因なわけだけれど。まぁそんなわけで、知らず識らずのうちに、そんな話をしていく中で勝手にあなたが、落語を含む日本文化にそこまで今の時点では興味を持ってないのかな…?って思い込んでね、だったら、別に焦って急ぐ話でもないし、いつかは日本人なら興味を持って欲しいなぁー…今の所はって考えての事だったのよ。…まぁ、もっと単純なところを言えば、自分の好きなものを話したところで、相手が乗り気になってくれなかったら…悲しいじゃない?」
師匠は最後に悪戯っぽく笑って見せた。
師匠の話には、どこにもツッコミどころは見つからなかったので、
「なるほどー…」
と素直に納得して見せた。
そんな私の態度に対して、師匠は笑みを零して見せたが、不意に顔を曇らせたかと思うと、調子も低めに話し始めた。
「…うーん、これをあなたに話すのは躊躇われるけど…うん、あなたならちゃーんと誤解なく受け止めてくれると信じて、話してみようかな?…琴音、実はもう一つ…いや、むしろこれこそが、あなたに中々この事を話せなかった…いや、これに限らず、芸について”深い”話を、私の個人的な心情で話せなかった理由があるの」
「…え?それって…」
いつも快活にズバッと話す師匠が珍しく、口ごもりつつ躊躇う姿を見て、私もいつもと違う雰囲気を察し、合わせる様に真剣味を帯びせつつ声を出した。
「何ですか?」
そう聞くと、師匠はまだ少し躊躇っている様に見えたが、意を決した様に目をギンと力強く開けると、口調は穏やかに話し始めた。
「まぁー…誤解を恐れずに結論から言うとね?今まで言えなかった最大の原因は…あなたのお父さんにあるの」
「…え?私のお父さん?」
意外な人物の名前が出たので、黙って最後まで聞こうと思っていたのに、思わず声が漏れた。
「そう、あなたのお父さん」
師匠は力無く笑って頷くと、視線を私から少しズラし、遠くを見る様にしながら先を続けた。
「あれはー…そう、瑠璃さんに『この家を借りて教室を開けば?』ってお誘いを貰ってからすぐの事だったわ。 瑠璃さんに提案されたからって、この家の持ち主はあなたのお父さん、栄一さんだったから、後日に本格的に話し合って契約するために会ったのよ。栄一さんは最初から無表情で、奥さんである瑠璃さんが紹介する私の事を、まるで値踏みをする様に、遠慮もしないでジロジロ見てきたのよ」
師匠は珍しく嫌悪感を顔に表しつつ話していた。普段は誰かに対して、この様な態度を取るのを見た事が無かっただけに、師匠のその時の感情が余計に際立って感じられる様だった。
「まぁ頼む側の私としては、それに対して抗議出来るような立場では無かったから、されるがままでいたの。その間、瑠璃さんが大袈裟に私の事を紹介してたわ。ドイツを中心にヨーロッパで活躍していただの何だのってね…。それを聞く度に栄一さんの目が、益々強くなっていくのを感じて、私は正直居た堪れなくなっていったわ。瑠美さんの話を聞き終えた栄一さんは、一応表向きは快く承諾してくれたんだけれど…ふとこの時に、何で栄一さんが見ず知らずの初対面の私にそんな態度をとったのか、その訳を察したの」
「…それって?」
私は師匠の話を聞きつつ、その情景を思い浮かべながら、何故だか実際にその場にいなかったのに、まるで昔の嫌な思い出を思い出すかの様な、胸が何かしらの負のエネルギーに締め付けられる様な感覚に陥っていた。今までのお父さんへの想いが関係していたのは言うまでもない。
師匠はここでまた先を言い辛そうにしていたが、私が視線をそらす事なくジッと見つめると、諦めたかの様な笑みを零しながら先を続けた。
「うん…それはね、『あぁ…この人って、所謂”芸能”について関心なんか微塵もなくて、それどころか寧ろ”芸”と”芸人”に対して、生産性もないのに何の為に存在しているんだ?社会で何の役に立っているんだ?って小馬鹿にして、一段どころか何段も下に見てるんだ…』ってね、瑠璃さんの話の後、世間話の体で色々と私に略歴を聞いてきたんだけれど、表情からありありと見えてしまったの…」
「あぁー…」
私は思わず、同意の声を出してしまった。
私も事あるごとにお父さんから、今師匠が述べた様な事は随所で感じられていたからだ。
師匠はそんな私の反応が意外だった様で、ハッと目を見開いたかと思うと、その直後には苦笑を浮かべつつ、口調もそれに合わせた調子で言った。
「まぁそんな訳だったからねぇ…、その娘であるあなたに、中々本質的な”芸論”の様な事を話せなかったのよ。…本当は、前にも言った様に、あなたは私と似ていると初対面時から思っていたから、是非ともお喋りしたかったんだけれどねぇー…あなたと栄一さんが、別に親子だからって同じ性格だなんて、そんな短絡的な事を考えていたつもりは無かったんだけれど、それでも何だか気後れしちゃって話が出来なかったんだ」
「…」
私は何も返さなかったが、静かに微笑みつつ、ただ頷いて見せた。
今言った様な師匠の心情は、弟子ながらにヒシヒシと感じ取っていた。師匠は話せなかったと言ったが、確かに今まで話を聞いてくれた方なら分かるとは思うが、そんなに多くは無かったが、それは義一や数寄屋に集まる人々と比べてという事であって、ここぞという所で芸について話してくれていたので、別に皆無という訳ではなかったし、それに数々の芸に関する珠玉の古典を貸して読ませてくれた時点で、師匠の本心が分からないと言う方が無理があった。
私が頷いたのを見ると、ようやく師匠は明るい微笑みを顔に湛えて、悪戯っぽくため息混じりに言った。
「まぁ繰り返しになるけど、あなたが芸に対してただならぬ程に思いを強く持ってくれている事は知っていたし、それに(落語の)師匠の事を知ってるくらいに日本の文化に興味があったんだったら、もっと早く話してみれば良かったって今思うよ」
「…ふふ」
私はここで、何か気の利いた言葉で返そうと思ったが、特に釣り合った言葉を見つけられなかったので、余計な薄っぺらい言葉を吐くくらいならと、ただクスッと笑って見せた。師匠もそんな私の心情を察したか、同じ様にクスクスと笑うのだった。
一息ついて、師匠はコーヒーを一口啜ると、不意にニターッと意地悪げに笑うと声をかけてきた。
「しっかしなぁー、今更繕う事も無いだろうから素直に言うけど、あのご両親の娘なのに、よくもまぁそこまで芸に興味を持てるねぇー。何か取っ掛かりがあったのかな?」
「…えっ?」
私はドキッとした。
取っ掛かりは勿論、師匠自身にあった訳だが、それはどちらかと言うと”音楽”という狭い範囲の話であって、”芸能全般”という意味においては、勿論義一の影響が大きくあった。…いや、全てが義一由来といっても過言ではないかも知れない。 義一は色々な視点を見せてくれる、友達であるのと同時に知恵や知識においての”師匠”でもあったが、ある種”芸”についても”師”であったのかも知れない。私は”芸”においての師匠を二人持っていたという事になる。今思えば…いや、当時からこの事実に気づいた時には、その幸運に対して、何者かに対して感謝をしたのは嘘も偽りも無い事実だ。話を戻そう。
私はこの話をするとどうしても義一の話をせざるを得ない事に気付き、黙り込みつつ頭の中で話すべきかどうするべきか思い悩んでいた。
そんな様子を黙って見ていた師匠だったが、不意に食卓を挟んで向かいに座り、無造作にその上に投げ出していた私の手をそっと握ったので、少しビクッと反応を示してから顔を上げると、師匠は柔らかな笑みを浮かべつつ、静かに言った。
「…ふふ、まぁ無理して言わなくても構わないわ。でもね…これだけは覚えといて?私は何があっても、あなたの味方だって事…。恐らくあなたには、お父さんやお母さんなどの肉親相手にも話せない様な事があると思う…。まぁ、年頃の女の子なら、誰でも一つくらいはあるもんだけどね?…でもね、中には一人で抱え込むには大きすぎる事があると思う…自覚してなくてもね?そんな一人で抱え込み切れなくなりそうになった時は…その時は遠慮なく私に話してみて?あなたが私の事をどう思っているのか分からないけど、こう見えて口が固いのよ?…もし頼まれたならね?」
師匠はニヤッと笑って見せた。
「両親に話せない様なことでも、絶妙な距離感の私相手なら話せる事もあるだろうしね?だから…今抱えている事を話す気がいつか起きたなら、遠慮なく私に話してね?私は…あなたの師匠なんだから」
「…」
私は師匠の言葉に、ありきたりな感想で申し訳ないが感動していた。そしてその時、ふと義一の事を話しても良いかと思ったが、こうして師匠が真摯に話してくれたのに、そんな簡単に話して良いものかどうか、もう少しちゃんと自分の中で考え抜いて、それから話した方が良いんじゃないかと思い、
「…はい」
と、なるべく満面の笑みを意識しつつ応えたのだった。
師匠もそれ時以上は話す事なく、私の微笑みに微笑みで返すのみだった。
…とまぁ、回想が長くなってしまったが、繰り返すと、お父さんに自分のドレスアップした姿を見せている間、この時の事を思い出していたのだった。
お父さんに写真を撮られた後ちょうどその頃、四時になろうとしたその時、不意に家のインターフォンが鳴らされた。お母さんが応対して、玄関が開けられ、そしてお母さんに誘われて居間に入ってきたのは師匠だった。今日は師匠も、お母さんと一緒に付いて来てくれる手筈になっていた。師匠の格好は、お母さんとはまた別の意味で、大人っぽくシックに決まっていた。師匠が着ていたのは黒の、上下がひと続きの所謂オールインワンタイプのパンツドレスだった。今はアイボリーカラーの八分袖ボレロジャケットを羽織っていたが、下はノースリーブで、175ある高身長の師匠に、ますます色気と格好良さを際立たせていた。師匠はまずお父さんに気づくと、軽く挨拶をして、深々と頭を下げた。お父さんはそれなりに表情を緩めつつ、当たり障りない言葉を掛けていた。
そんな社交辞令な掛け合いがなされている中、私は私で視線は師匠の姿に釘付けとなっていた。師匠のそんなドレスアップした姿を初めて見たので、ついつい見惚れてしまっていたが、師匠は私の視線に気づくと照れ臭そうに「そんなに見ないでよぉ」とおちゃらけて見せるのだった。そんな師匠の様子をにこやかに見ていたお母さんだったが、ふと時計を見ると私と師匠の方に向き直り、若干明るめに和かに言うのだった。
「では、そろそろ行きましょうか?」

「いってらっしゃい」
「はい、いってきます」
お父さんが玄関先まで見送ってくれたので、私とお母さんと師匠は靴を履くと一度振り向いて、お父さんに挨拶してから出発した。
六月に入ったばかりで、もう梅雨の時期に入っていたから、天気の心配を軽くしていたのだが、今日に限っていえばこれ以上とない快晴で、オレンジ色に染まる空が頭上に広がり、時々黒い影を作りながら鳥の群れが寝床へ飛んで行くのが見えた。
私は普段使っているミニバッグと楽譜の入ったトートバッグを持ち、お母さんも自分のミニバッグを提げつつ、私の衣装の入った紙袋を持ち、師匠は一番身軽で、これまたミニバッグだけ手に直接持っていた。
仕方ないのだろうが、私とお母さんは、パッと見我ながらキマッていたと思うが、何気に大荷物だったので、チグハグ感は否めなかった。まぁ尤も、そんな事気にする私では無かったが。
会場は巣鴨駅のすぐ脇にある雑居ビル内にある小さなホールだった。なんでも、主催側が持ってるホールらしいが、伝統がある割には、外観からはとてもじゃないがクラシックの演奏がなされる様には見えないと、出演者側からは悪名高いんだと、行く途中の車中で師匠が呆れ笑い気味に教えてくれた。同じく東京出身の師匠も、同じ所で予選を戦った様だ。
その当時の思い出話をして貰っていると、気づくと最後の乗り換え、山手線のホームに着いていた。ここからは後三駅だ。
日曜日という休日にも関わらず、狭いホームは人でごった返していた。まぁこの路線は、平日も休日も関係ないという事なのだろう。
電車を待つ間、ふと師匠が周囲をキョロキョロ見渡したので、
「どうしたの師匠?」
と声をかけた。すると師匠は腰を少し屈めたかと思うと、若干背の低い私の耳に顔を近付けて、そして意地悪な笑みを浮かべつつ答えた。
「いやね、周りの視線を感じたから何事かと思ったら、皆して琴音の事を見ているもんだからねぇー…流石私の弟子、何もしなくても注目を浴びてしまうんだから!」
「あら沙恵さん?」
私がすかさず突っ込もうとしたその時、今度はお母さんが私に視線を向けつつ、これまた同じ様にニヤケながら返した。
「この子は私の娘でもあるんですからね?注目浴びてしまうのは私の功績でもあるのよ?」
「あのねぇー…」
私は堪りかねて、不満げを体全体で表現して見せつつ、ジト目を容赦なく二人に向けつつ言った。
「むしろ注目を浴びているのは、二人の方だからっ!」
…これを聞いた方は、何て下らなく退屈なエピソードなんだと思われたかも知れないが、私自身そう思うのに、不思議とこんな下らない出来事が鮮明に覚えているという事もあるのだ。それだけ、当日は神経が張り詰め、自分で言うのは馬鹿みたいだが、こんな事までずっと覚えているのが、その証拠だと言えなくも無いだろう…。
まぁこんな話はともかく、そんな取り止めのないやり取りをしていると、問題の雑居ビルの前に辿り着いた。
師匠が言った通り、外観はどこにでもある雑居ビルだった。ただ一つだけ違いがあるとすれば、その周囲に私と同い年くらいの、これまたおめかしした男女と、見るからに親御さんだと分かる大人達が、ビルの脇にあるエレベーターホール前で固まっていた事だった。事情を知らない人が見たら異様に映ったことだろう。その陣営へ私たちも入って行った。
ふとその数人が、少し驚いた様な表情でこちらを見てきていたのに気づいた。気づいたのは私だけで、師匠もお母さんも気づいていなかった様だが、私は少しばかり何故か気まずい雰囲気を感じていた。しかし、そんなことで負けてたまるかと、片意地張って俯きそうになる弱気をなんとか奮い起こさせながら顔をまっすぐ前に向けて歩いた。
エレベーターで三階まで上がり、ドアが開くと、すぐ目の前に受付が置かれていて、係員と思しきフォーマルなスーツを着た女性が座っていた。「出場者の方ですか?でしたらまず”参加票”をご提示ください」と言われたので、その通りにミニバッグから参加票を取り出し見せた。すると、係員の女性が今度は、受付のすぐ脇にある掲示板を指差し、「ではこちらで演奏順を確認して下さい」と言われたので、軽く女性にお辞儀してから、掲示板の前に立った。私以外にも、先ほど外で見た数人の男女が睨む様に見ていた。その気迫のこもった様子に少し気後れするのを感じつつ、この中では私が頭一つ分背が高かったので、一つ下がった所から見た。そこには私を含む五名の名前が出ていた。私はてっきりもっと多いものだと思っていたので、
参加者が五名だけなのか…まぁ、他の日にも他の場所でもするみたいだし、今日限定と考えれば、こんなものなのかもねぇ。
とため息も混じりそうになる感想を抱いたが、ふと演奏順を見た時に驚いた。何と私が一番最初になっていたのだ。少し細かく言うと、出場者の内訳としては私を含む女の子三人と、男の子二人という構成になっていた。私は他の子に負けないくらいに、ジッとその掲示板を見ていた。私としては一番最初と最後だけは避けたいと思っていたので、意味がない事と知りつつ見ていた訳なのだが、変化しない代わりに、他の参加者の男女の正体(?)が分かった。どうやら、私以外の子達は、このコンクールを主催している所でやっている、ピアノ教室の生徒達の様だった。それぞれの名前の横に、コンクールの名前のついた教室名の後に、様々な地域の名前が付いていた。
どうやら彼らの出身地の様だった。八王子なり何なりと、都内限定と言えども多岐に渡っていた。どうやら、彼らはそれぞれの教室の代表選手のようだった。当然のように、私の名前の横には何も書かれていなかった。つまりはそういう事なのだろう。
私はこの時に既に、何故私が一番手なのかを理解し、少しつまらないと思いつつ、師匠の元に戻ろうとしたら、何故か師匠は、これまたさっき下で見た、出場者の親御さんと思しき大人達に囲まれていたのだった。何やら質問ぜめにあっていた様で、遠くから見てもタジタジになっているのが分かった。
呆然とその情景を見ていると、師匠が私に気づいて、何か周りに言い訳をしながらかき分けて、私のそばまで歩み寄ってきた。
「ふぅ…参った参った。あっ、琴音、演奏順はどうだった?」
「え?あ、はい…一番手でした」
「え?…あぁ、そっかぁー…一番手だったかぁ」
師匠はわざわざ掲示板を見る事もなく、ただシミジミと天井を軽く見上げつつ言った。
「そっかぁー、まぁ私も部外者だったから一番手だったよ。だから、細かい事は気にせずに、ドンと行こうっ!」
そう言うと、少し強めに私の背中を叩いてきた。それに対して私が大袈裟に痛がって見せると、師匠は心から愉快だと言いたげに笑うのだった。その向こうでチラッと、お母さんが、先ほど師匠を取り囲んでいた大人達と談笑をしているのが見えた。
と、私が早速師匠に、何で取り囲まれていたのかを聞こうとしたその時、係員の声に阻まれてしまった。
「では出場者の皆さん、控え室に集まって下さい。今からコンクールを開催いたします」

「じゃあ私たちは客席で見てるから」
控え室の入り口で、お母さんが紙袋を手渡してきつつ声をかけてきた。
「力まずに”頑張るのよ”?」
「…うん」
私は微笑みつつそう返した。返事を聞いたお母さんも微笑み返し、何も言わずに両手を私の両肩に置いたかと思うと、すぐにその手を離して、こちらに顔を向けたまま後ずさりをして行った。それと入れ替わるように、今度は師匠が近付いてきた。師匠も微笑んではいたが、目付きだけは”マジ”だった。師匠はお母さんとはまた違って、片手だけを私の肩に置くと、静かに言った。
「…ここまで来たら、今更何も言う事は無い。…琴音、あなたはただ何も余計な事は考えずに、コンクールに特化した練習は約半年間という短い間だったけど、あなたはそれ以前からあれだけ練習し、今まで研鑽を積んで来たのだから、その日々を思い出し糧にして、後は指が流れるままに、悔いのないように弾ききって来なさい!」
途中までは静かなままだったが、途中から熱が入り出し、最後には明るい笑みまで浮かべつつ、そう言い切った。
その後で、「…自信を持ちなさい?何たって、私の弟子なんだからっ!」と茶目っ気を入れるのを忘れずに。
その様子に思わず私はクスッと一度笑みを零すと「はいっ!」と師匠に合わせるように返したのだった。師匠は笑顔で何も言わず、掛けたままだった手で肩を何度か上下に摩るのみだった。
私は自分が一番手というのもあって、少し慌ただしく準備をした。十畳ほどの控え室の中に、洋服屋にあるような簡易的な試着室が二つばかり置かれていたので、紙袋を持って中に入った。中には大きな姿見があって、教室の机くらいの大きさのテーブルが、物置として置かれていた。私は早速今着ている服を脱ぎ、時間が限られている中、私が一人暮らしをする準備として、お母さんに特訓されたのが活きたのか、急ぎながらも丁寧に折り畳み、そしてドレスを着込んだ。ドレスに関しては、何度か着てみたので、これも着るのに手間取る事は無かった。…別に誰も待ってはいなかっただろうが、ここでどんなドレスか紹介したいと思う。紙袋から取り出し身に付けたのは、ネイビー一色の、ロングAラインドレスだ。袖は肘より少し上まではあったが、レースで下の素肌が透けて見えて、可愛らしさと同時に大人っぽさを演出していた。同じネイビーなので遠目では分かりにくいが、トップスを中心に上半身部分を覆うように、様々な花が編み込まれたような複雑な柄の刺繍が施されていて、その控え目かつ大胆で凝った模様が、余計にまた大人っぽさを滲ませるのに貢献していた。
…とまぁ、そんなドレスだったが、ここでふと、こんな事を言う人もいるかも知れない。『結果をさて置くとしても、コンクールというものは晴れ舞台なのだから、ここぞとばかりにおめかししなくて良いのか?その様な、こういった場に於いては地味目気味の落ち着いた色合いの単色ドレスで良いのか?』と。これは、後で写真を見せる約束をしている絵里にも言われそうな事だ。確かに、私個人としてはそこまで服装はどうでも良いんじゃないかと思っていたけど、イメージとしては煌びやかな服を身に付けるイメージを持っていたから意外に思ったのは事実だったが、実はこのドレスを選んだのは師匠だった。四月の頭にコンクールに申し込んだ次の週に、私とお母さんと師匠三人で、コンクール用の衣装を買いに行った時のこと。案の定というか、お母さんも例に漏れずに、イメージ通りの如何にもな衣装ばかりを選んでいたが、ことごとく師匠に落第点を貰っていた。師匠曰く、本戦、決勝ならいざ知らず、まだ予選段階で服装ばっかり力入れても仕方ないだろうという、これはある意味で、師匠個人の美意識というか、こだわりだった。お母さんは、これといった具体的な反論をされなかったが故に、少しばかり頑張って説得しようとしたが、結局は師匠に頑固に押し通されて、その売り場にあった一番地味な色合いのこのドレスを買うことになったのだった。
でも一度私たちの家に一緒に帰り、そこで試しに着てみると、先程も述べたが、このドレスは中々に品があって、お母さんもその時になって初めて納得いったようだった。着たまま試しに練習部屋に行き、ピアノの前に座り、軽く師匠作曲のエチュードを弾いてみると、これまた殊の外普段着と変わらない感覚で弾くことが出来た。その事実に、今度は私がこのドレスを本心から気に入ったのだった。
だから、周りがどう思おうが、私には一番のドレスには違いなかった。確かに、私が会場の舞台袖に係員に案内される前に、少しだけ他の参加者が着替えて出て来た姿を見たが、どれもゴテゴテしていて、確かに可愛らしかったりしたが、私個人の感想として、とてもピアノが弾きにくそうに感じられた。…まぁ、余計なお世話だけれど。
もう一つ、その時に感じた余計な感想を述べれば、そんな可愛らしいドレスは、私には似合わないだろうなぁ…といった物だった。先程も軽く触れたように、少なくとも女子の中では、私が頭一つ分大きかったので、そういう点からしても似合わないだろうと客観的に思ったのだった。…まぁ、それだけだ。
係員に促されるままに、舞台袖に立つと、そこから客席がチラッと見えた。この時初めて会場を見たのだが、思ったよりも客席との距離が近いように見えた。袖口で、軽くどのような作法をしなくてはいけないのかを、付け焼き刃的に教えて貰い、出番を待った。
「では演奏番号一番、望月琴音さん、どうぞ」
どこからか声が聞こえて、名前を呼ばれたので、私は静々と舞台袖から会場に出た。
一瞬ライトに目が眩んでしまったが、改めて会場を見ると、何だか私の通う学園の教室ほどの広さしか無かったのに、今更だとは思うが、悪いと思いつつ素直な感想を述べれば、またしても規模の小ささに些かならず驚いた。予想よりも遥かに小さかった訳だが、私が想像する元になったのは、師匠の写真たちだったので、あれは全てが全国大会の写真だった事を、ここに来てまた改めて思い返して、気を取り直してピアノの前まで歩み出て、係員が教えてくれた通りに深々とお辞儀した。そして、これも教えて貰った通りに、ピアノのすぐ脇に設置された長テーブルの後ろに座る男女四人に対しても深々とお辞儀した。どうやら、彼らが審査員のようだ。私はまた一度改めて会場を見渡すと、ほとんどが出場者の関係者で埋め尽くされているのだろうが、その顔々が浮かべている表情は、どれも私を品定めするかの様に、少し顰めっ面の表情が目立っていた。それに気づくと、ここに来て初めて、今朝に感じていた緊張というものがまた湧き上がって来た。自分としては表面だけでも凛として立っていたつもりだったが、正直足がすくむ感覚に陥っていた。
このままの状態で、果たしていつも通り弾けるのかな…?
と不安に思いつつ、我知らずに観客の中に知った顔がいないか探してしまった。と、会場が狭いせいか、すぐに見つかった。お母さんは、ここからでもわかるほどに、心配げな顔をこちらに向けてきていたが、その隣に座る師匠は、あくまで無表情を見せていた。
とここで不意に私と目が合ったことに気付いた師匠は、目付きだけは真剣な眼差しのままに、口元だけをフッと緩ませて見せた。
それを見た瞬間、自分でも確たる理由は分からなかったが、自分でも肩の力が抜けるのは分かった。そして、控え室の前で師匠が私の肩を撫でてくれた事を思い出し、ほぼ無意識にその部分を自分でも数度撫でてから、ピアノの前に座り、一度目を瞑って心を落ち着かせ、精神を集中させてから、静かにゆったりと鍵盤の上に指を置いた。そして指が動くままに演奏に没入して行ったのだった。…

第2話 コンクール(下)

「…うん、登録完了のメールが来てるね」
「はい」
私は、すぐ脇に立っている師匠に顔を向けて、パソコンの前で座りつつ返した。
ここは私の自室。初のコンペティションから五日後の金曜日の夕方だ。この日は学校が終わると、裕美たちに断って早足で帰って来たのだった。私が帰ると、既に師匠は居間で私の帰りを待っていた。私が帰ってきたのを確認すると、早速私は制服姿のまま、こうして二人してパソコン画面とにらめっこしていたのだった。因みに制服は夏服になっていた。
「…さて」
師匠は大きく伸びをしたかと思うと、私に明るく笑いかけながら
「じゃあ、下にいる瑠美さんに報告に行こうか?」
と言うので、
「はい」
と私も微笑み返した。そして、私がパソコンの電源を切ったすぐ後で、二人連れ立って一階に降りて行ったのだった。
…ここまで勿体ぶって溜める必要は無かったかもしれないが、察しの良い皆さんなら、もうお判りだろう。
そう、結論から言ってしまえば、無事に予選を通過する事と相成った。あの予選の日、私含めた同い年の男女五人が受けた訳だが、一時間ばかりかかったコンペティションの後、十分ほど待たされたので、着替えたりしていると結果発表の時間となった。発表の場は、演奏会場にて行われた。予選という事もあってか、思っていたよりもあっさりと発表が成された。審査員長と思しき老齢の女性が壇上に出てきて、淡々と勿体ぶらずに、まず優秀賞が二名いる事を知らせた。この優秀賞に選ばれると、次の本選にいけるのだ。私たち出場者は、客席の最前列に横並びに座らされて、固唾を飲んで見守っていた。私自身も勿論緊張をしていたが、ふと両隣にいる他の人を見渡すと、見るからに私以上に緊張しているのが見受けられた。私のすぐ脇に座る女の子なんかは、色が変わるほどに固く手を握りしめていた。保護者たちは一つ分列を離れた所で座って見ていた。まず名前が挙げられたのは、二人いる男の子の内の一人だった。スラッとした見た目で、顔の表情は少なく色白で生気の無い顔つきだというのが第一印象だったが、それでも名前を呼ばれた時には喜びの感情が表に現れていた。名前の後には、どこどこの教室の出身と付け加えられていた。すると両隣の子達が拍手をし出したので、私も何となく合わせる様に拍手をした。
男の子ははにかみつつ壇上に上がると、審査委員長から賞を受け取り、その後から小さな楯を受け取っていた。男の子は客席に向かって深々と一礼をすると、壇上脇にある二、三段の階段から降りて、元の自分の席に戻った。私は好奇心からなのか、特に意味もなく男の子の姿を目で追っていたが、そのすぐ後に、審査委員長がもう一人の名前を挙げた。それが、そう…何と私の名前だったのだ。その瞬間、会場からはため息にも似たドヨメキが起こった。私はボーッとしてしまったのか、すぐに気づかなかったが、不意に係りの一人が側に寄ってきて、無言で壇上に上がる用の階段を指差したので、少しオドオドしつつ、おっかなびっくり転んだりしない様に慎重になりながら、階段を上がって壇上に出た。そして審査員長の前まで行くと、その女性は微笑みつつ「おめでとう』と静かに言うと、私に賞状を渡してきた。私は前の男の子の見様見真似で慣れない調子で受け取った。何せ、賞状など貰うのは、小学校の卒業証書以外これが初めてだったのだ。流石の私も終始戸惑いっぱなしだった。次には楯を受け取り、これまた見真似で会場の客席の方を見た。強目のライトが向けられていたので、少しばかり目が眩んでハッキリとは見えなかったが、微笑んでいるお母さんと師匠の姿だけはしっかりと見えていた。それを見た瞬間緊張がほぐれたのか、自分でも分かる程に軽く微笑みを浮かべて、深々とお辞儀をし、そして壇上脇から降りて自分の席に戻ったのだった。
それからは簡単な事務的な話がなされて、お開きとなった。
終わると、私と男の子の周りを他の参加者たちが取り囲み、中には半泣きの子もいたりしたが、その子も含めて笑顔で讃えてくれた。それに対して、私ともう一人の男の子も笑顔で対応するのだった。途中からは私の話になって、どこから来たのかなどの世間話が中心になった。この辺りは、どこにでもいる普通の中学生といった感があった。まぁ本音は、ポッと出で何処の馬の骨だか分からないって所から、好奇心で聞いてきたのだろう。普段だったら少し煩わしく思う所だったが、私自身思っていたよりも喜びに興奮していたのだろう、心から楽しく会話を楽しんだ。その流れで、何故か師匠の話になりかけたのが印象的だった。みんなが師匠のことを知っていた。とその時、「琴音ー」と少し離れた所からお母さんに声をかけられた。
もう帰るとの話だ。私は名残惜しげに皆に別れを言うと、お母さんと師匠の側に駆け寄った。お母さん達はお母さん達で、出場者の親御さん達と楽しげにお喋りに講じていた様だった。私が近くに寄ると、途端にお母さんは目元をなんとも言えない感じで歪ませつつ、しかし何とか笑顔を作ろうとしているかの様な笑みを浮かべて「琴音やったわね!…おめでとうっ!」と言いながら抱きついてきた。私は咄嗟のことで呆気に取られてしまったが、周りの大人達が微笑ましげに見てくるのに気付いて、途端に恥ずかしくなりこの場から逃げたくもなったが、それと同時に、お母さんの体温を服越しとはいえ感じると、気持ち視界がボヤけるのを覚えた。それから数秒後にお母さんが離れたので、私も笑顔を作りつつ「うん」とだけ返したのだった。保護者の面々も口々に「おめでとう」といった類いの言葉を投げかけて来てくれた。その度に、私は恐縮しつつ、しかし笑顔で応じた。そんな中チラチラと隣の師匠の表情を伺うと、そんな私の様子を、何も言わずにただ微笑みをくれるだけだった。
それから私たち三人は、この場にいた人々の中では一番初めに後にした。エレベーターで下に降り外に出ると、すっかり夜の様相を呈していた。すぐそばのパチンコ店のネオンが、多種多様に眩い光彩を放ち、チカチカと辺りを照らしていた。
私たちはそのまま何処にも寄らず、ここまで来た道をそのままの順序を追う様に帰って行った。
日曜だというのに行楽帰りなのか、親子連れからカップルから何からで混み合う車中、誤解を恐れずに言えば門外漢のお母さんが、何故私が優秀賞を取れたのかと師匠を質問攻めしていた。師匠は私に笑顔を向けてきつつ、「ただ単に、この子の実力ですよ」と返していた。それを聞いたお母さんは、それをそのまま間に受けて、同じく私に微笑みかけながら返していた。私は本心から恥ずかしそうに照れて見せたが、その一方で、何故私が通ったのか、この時点で一つ思うところがあった。というのも、結論から先に言えば、私の演奏だけ途中で切られなかったからだ。
…急に何を言い出すのかと思われただろう。今から説明する。単純な事だ。それぞれ一人当たりの演奏時間が決められていた事は、随分前になるが話したと思う。要は、楽譜通りに弾いてたら、その時間内には弾き終えれない設定になっていたのだ。本来はあったらしいが、私はその旨を説明される様な会には出席しなかったが、その時点でも話されていたはずだったのに、正直今日見た感じ、優秀賞を獲ったもう一人の男の子以外は、それが出来ていなかった様に見受けられた。何故なら、ここでさっきの話に繋がるが、私たち二人以外の参加者は、途中で無情なベルがけたたましく鳴らされて、演奏を中止されていたからだった。でもこれは後で師匠自身に聞いた事だが、そう時間制限を設けられても、それを守れるのはまずいないらしい。殆ど全ての参加者は、演奏途中で切られる様なのだ。だから、一番手で弾いた私は、他の参加者の演奏を舞台袖で見てたりしたが、途中で切られても、誰一人として悔しげな表情を浮かべる事なく、何事もなくしていたのが、これまた印象的だった。私以外の参加者は、このコンクール関係の教室出身者だというのもあって、それを知っていたのだろうと、すぐに納得がいった。
で、何で私が部外者だというのに切られずに演奏を遂行出来たかというと…もう言うまでもないだろう。勿論、これは師匠のお陰以外の何者でもなかった。この半年間、私と師匠とで話し合いながら、課題曲の編曲をし続けてきたのだった。前回の放課後、裕美たちの遊びの誘いを蹴ってまで家に帰った事を覚えておられていると思う。その時に頭に流れたメロディーというのが、この時間内に収まりつつ、楽曲自体の”質”を損ねない様な短縮バージョンだったのだ。だから…勿論この様な事もあったりと、全てという訳ではなかったが、やはり出場経験者にして、しかも全国大会優勝者でもある師匠のアドバイスがあっての優秀賞だというのは、殊勝ぶっていう訳ではなく、本心からシミジミと感じて、ピアノを弾き終えた時、他の参加者の演奏を聞いてた時、そして授賞式で私の名前が読み上げられた時、こうして何気無く帰っている時ですら、ずっと師匠に感謝の念を抱き続けていたのだった。
地元の駅に着くと、途中までは三人一緒に歩いていたが、途中私たちの家と師匠の家との丁度別れ道に差し掛かった時、不意にお母さんが立ち止まったかと思うと、私の肩に手を置いて
「ほら、琴音、今日はここまで来てくれたのだから、ちゃーんと”師匠”をお家まで送って行きなさい」
と悪戯っぽく笑いつつ言った。師匠は、お母さんの口から”師匠”という単語が飛び出たのを聞いて、何だか気恥ずかしそうにしていた。
「うん、分かった」
私は迷う事なく当然の事だと瞬時に明るい調子で返すと、師匠に声を掛けて、一緒に行く様に促した。
師匠は苦笑を浮かべつつ、お母さんに挨拶すると、スッと帰り道へと足を進めるので、私も慌ててついて行こうとしたその時、お母さんが深々と腰を大きく曲げてまでお辞儀をするのを見た。その姿は、何故か今だに鮮明に脳裏にこびりついている。
師匠の家までの道、早速私は今日のデキについての感想を聞いていた。やはり緊張をしていたせいか、思った様には運指が上手くいっていなかった箇所が随所に弾きながら感じていたからだ。師匠もそこは見逃さずに聞いて見ていたらしく、率直に正確な箇所をズバッと指摘してくれた。普通なら、もしかしたらコンクールの直後、それも優秀賞を獲った後だというんで、建前でも辞令的な言葉を掛けてくる様な人もいるだろうけど、私の師匠はこんな時でもどんな場合でも関係なく、ダメな所はダメだったと言ってくれるのだ。他の人は、そんな師匠の態度をどう思うか知らないが、少なくとも私の場合で言えば、間違いをキチンと相手に気を遣わずに言ってくれるのが、とてもありがたかった。勿論、それが感情からくる見当違いな指摘では無いという条件付きだが、そんな心配は師匠には無用だった。普段からの師匠が自身の芸に対して真摯に向かう謙虚な姿勢、その態度、これら全ては私が師匠に対して信用を置くのに余りあるほどの物だった。…我ながら、弟子にして師匠をこうして値踏みする様な発言をするのは、不敬極まると苦笑もんだが、私の性格上、これが一番の賛辞なのだと納得していただく他に無い。
…くだらない話が続いた。話を戻そう。
演奏内容を話し合っていると、あっという間に師匠宅に着いてしまった。
私は玄関先で待つ間、師匠は鍵を開けると大きく開けたままにして、こちらに振り向き、
「今日はお疲れ様!」
と笑顔で言った。それを聞いた私は、お母さんのお辞儀を参考に腰を大きく曲げながら
「今日は有難うございました!」
と、夜のせいと少ない街灯のせいでほぼ真っ暗で静かな住宅街の中、思わず知らずに大きな声で挨拶をした。その瞬間、師匠は「シーーっ」と指を口に当てつつ息を漏らしたが、顔は笑顔だった。私も師匠を真似して口に指を当てて見せると、一瞬お互いに目を合わせると、次の瞬間にはクスクスと笑い合うのだった。
笑いが収まり、師匠に挨拶して帰ろうとしたその時
「…琴音!」
と背後から声を掛けられた。それに応じるために振り返った次の瞬間、何と師匠が私に何も言わずに抱きついてきた。元々普段から人通りの無い裏通りというのもあって、今は周りには誰もいなかったが、さっきお母さんに抱きつかれた時よりも驚いてしまった。そこには、呆気にとられる余地が無いほどだ。ただただ驚いていたが、お母さんよりもまた少し背が高く、これは本来は女性に言うべきことでは無いと知りつつ、褒め言葉として言わせて貰えれば、お母さんとは違ってピアノで鍛えた筋肉質な感触を味わっていた。考えてみたら、師匠に抱きつかれたのは、私が受験をするにあたっての、あの訴えの時以来だった。この時の私は、当時の私のことを思い出していたが、様々な想いが一気に胸に去来したせいか、これまたお母さんに抱きつかれた時には目頭が熱くなったくらいだったのが、気づけばホッペを一筋の温かな水が伝うのを感じていた。視界も滲んでいて、師匠の背後の玄関上の照明がボヤけて見えた。
どれほどそうしていたのか、暫くすると師匠が離れた。顔は若干逆光でハッキリとは見えなかったが、何となく戸惑っている様に見えた。師匠は何かを言おうとしているかの様だったが、口を軽く開けて見せるだけで、肝心の言葉が出てこなかった。他の人なら何かしら気の利いた言葉なり態度が示せたのかも知れないが、私は不器用にも、師匠の言葉をそのままの状態で待っていた。
と、ふと師匠の目が大きく見開かれたかと思うと、苦笑いを浮かべて、不意に私のホッペを優しく撫でながら声を掛けてきた。
「…ふふ、琴音ったら…何泣いてるのよ?」
「…え?あ、あぁ…」
変な言い方で申し訳ないが、この時初めてハッキリと自分が泣いている事を認識した。水がホッペを伝っている時点で気づきそうなものだと、自分でも思うが、それだけショックが大きかったのだ。
「…すみません」
私は何故か謝りながら、師匠に触れられていない、もう片方のホッペを撫でつつ言った。
すると師匠は、今度は愉快げに明るく笑うと、「何で謝るのよぉ?」と言うので、
「あ、いや…すみません」
と、今度は軽く狙って同じ様に謝って見せた。
すると師匠は今度は意地悪くニターッと笑いつつ、私の両方のホッペを軽く抓って引っ張りながら
「また言ってるーー」
と返してきたので、私は何も言わずにニヤケて見せると、師匠もニタニタと笑い返すのだった。
それからは、また改めて感謝と挨拶をすると、師匠宅の玄関前を後にした。曲がり角の所で振り返ると、真っ暗な路地の中、師匠宅の玄関の明かりだけがボーッと灯っていて、その下に人影が見えていた。こんな時でも、師匠はいつも通りに見送ってくれているらしかった。私は見えるのかどうか確信が持てなかったが、試しに大きく手を振ってみると、その人影も大きく振りかえしてくれた。私は一人でクスッと笑みを零すと、名残惜しそうにその人影を見つつ曲がり角を曲がったのだった。

とまぁ、以上が事の顛末だ。それで今に至る。
この日はコンクールの地区本選申込日開始の日で、前回と同様に、師匠にわざわざご足労を頂き、こうして申し込みが済んだのだった。地区本選は、七月下旬、夏休みに入ったばかりの頃に行われる。
今日は金曜日で学校があったので、放課後というのもあって、作業が済んだのは夜の七時だった。師匠は遠慮して見せていたが、お母さんが「是非夕食を食べてって!」と言うので、結局根負けした師匠と三人で食事をしたのだった。お父さんは今日は仕事で食事に間に合わないと言っていたのに、ついつい三人分作ってしまったから助かると、お母さんは師匠にサバサバと明るい調子で話していた。お母さんなりの、相手に気を遣わせない様にとの気遣いなのだろう、それが功を奏したか、見るからに師匠の肩の力が抜けて見えた。

食事終えても少しの間、雑談に花を咲かせた。内容は徐々に私のコンクールの話になっていった。
師匠はまたついて行く旨を話したその時、ふと苦笑を漏らしたかと思うと、そのままの調子で
「…次は目立たない格好で行かなきゃなぁー」
と漏らしたので、私とお母さんは顔を見合わせると、クスクスと笑い合うのだった。
一昨日に、たまたま私たち三人の都合が合ったので、夜、お母さんが企画して、地元の駅中のレストランで食事をする事になった。因みに義一や絵里、聡と行ったファミレスではない。普通の一般的な全国チェーンの焼肉店だ。そこで食事していた時に、何故あの時に囲まれていたのかを聞き出したのだった。
私が聞いた途端、私の隣に座っていたお母さんはニヤケながら向かいに座る師匠を見つめ、当人である師匠は照れ隠しに苦笑を浮かべつつ答えるには、どうも昔に向こう…細かく言えばドイツを中心とした欧州域内で活躍してたのを、流石のピアノファン、クラシックファンのコンクール参加者たちが知っていたらしく、それで見つかってしまったということらしい。師匠本人としては、私が小学生に入るか入らないかくらいの時に引退をしていたので、もうすっかり一般人の気でいたらしいが、今回の件で”懲りた”との事だ。私は初めて師匠に出会ってから、勿論師匠が現役時代にどんな演奏をしていたのかなど、興味が尽きなく、それこそ何度も映像なり何なりを見せてくれとせがんだが、その度に師匠は、他の事ではうるさくなかったが、こと私が師匠の昔の演奏の音源なり映像なりを見たり聞いたりするのは、固く禁じていた。当時は理由を教えてくれなかったが、ここまで私の話を聞いてくれた方なら察してくれると思うが、私は普通とはまた違った意味で人見知りだったのに、殊の外師匠にはすんなり心を開いたので、理由を教えてくれなくても何となく教えをこの時まで守っていた。まぁ尤も、わざわざ映像などを見聞きしなくても、目の前で毎回生演奏をしてくれていたので、そこまで必要性を感じなかったのもあった。だから誤解を恐れずに言えば、幼い頃から知る師匠が、人に囲まれて、しかも憧れの視線を浴びていたのが不思議に見えて仕方なかった。だから今回の件で、改めて昔の現役時代の師匠に興味が湧いたのも仕方なかった…だろう。
まぁそういう事で、師匠自身も何となく納得いっていない感じだったが自覚したようで、そのような決意表明をしたのだった。
因みに、この後すぐ、師匠に黙ってネットで試しに”君塚沙恵”と検索をかけてみた。すると、沢山の結果が現れた。何と、師匠のファンサイトまでがあった。試しに覗いてみると、引退宣言して大分経つので流石に過疎にはなっていたが、掲示板のようなものがあったので過去の書き込みなどを見てみると、最近にもチラホラと書き込みが見られた。その内容の殆どが、復帰を望む声ばかりだった。師匠本人では無いのにも関わらず、思わず胸が一杯になる様だった。
後でくまなく見る事にして、次に動画サイトに飛んで見た。幾らか削除されたりしていたみたいだが、それでも何件も検索に引っかかった。ほぼ全てが師匠のライブ映像だった。
ここで軽くでも感想を述べざるを得ないのを許して頂きたい。そのどれもが私には衝撃的だった。
前にも触れたように、師匠は手首を怪我した事によって、二十代後半にして自主引退をした訳だが、でも正直、弟子の私の意見としては、今の師匠の腕でも十分ソリストとしてやっていけるんじゃないかと素直に思っていた。記憶は定かではないが、恐らく私の事だから、師弟関係になる前に、軽い気持ちで『復帰したら良いのに』と軽い言葉を投げたに違いない。それくらいには思っていた。だが…現役時代の師匠の演奏を聞いて見ると、度肝を抜かれるのと同時に、色々と納得がいった。音は動画サイト上というのもあってか、そこまで良くはなかったが、それでもあまりがある程に、その音の”重厚さ”が伝わってきた。日本人女性にしては大分高めの身長を生かして、鍵盤上を縦横無尽に肩から指先にかけて躍動しているのが良く見えた。たまに師匠の顔も映された。今と何も変化が無く、最近の映像と言われても信じてしまうほどだったが、その師匠の顔は正に”鍵盤上没我”ってな具合で、集中し演奏に没入するあまり、下手したら狂気じみて見える程の表情を浮かべていた。激しいテンポはそんな様子だったが、ゆったりとした所では、これまた何かが憑依したかの様に身体が揺れていた。…ここだけ聞くと、師匠は前に私に避難して見せた、無駄に身体を動かして見せて、演奏内容が希薄なピアニストに自身もなっているんじゃないかと思われて突っ込まれそうだが、説明を代わりにさせて頂くと師匠の場合は、演奏のために余計な力が入らない様に、力を分散させるためにしている…というのは、恐らく弟子の私だから気付ける点だと思う。
それはさておき、ついつい幾つもの師匠の動画を一気に見てしまったのだが、思わずクスッと笑ってしまった事があった。この動画サイトにはコメント欄があるのだが、私が見た限りでは必ずと言っていいほど、あるコメントが賞賛の言葉と共に書かれていた。それは英語で”Japanese Witch”や、フランス語で”La sorciere du Japon”や、はたまたドイツ語で”Die Hexe von Japan”といったものだった。私は当然習ってもいないし学んでもいないので、そこまで海外の言葉を読めたり話せたりは出来ないが、これくらいの簡単なのなら分かる。そう、つまり、英語圏の人や、フランス語圏の人、ドイツ語圏の人が師匠を見て”日本の魔女”と称していたのだ。
私はこれを見た時、師匠がどう思うかは別にして『これだっ!』と思った。年齢不詳で、妖艶で、指先から奏でられる音のソレは魔法の様で、まさに”魔女”に相応しいかった。
…これはまだ、師匠には黙っておこう。
と心の中で一人誓い、その後は大体おすすめ動画として画面脇に出ている、これまた当然というか、師匠の親友で現役のピアニスト、”矢野京子”さんのもチラッと見たりした。
…何故チラッとだけなのかと言うと、そのどれもが少なくとも一度は見たことのあった映像だったからだ。というのも、師匠にコンクールに出たいと宣言したあの日、矢野京子と親友だと教えて貰ったのを覚えておられるだろうか。あれから師匠は、例の毎週日曜日のお昼休み、お菓子を作った後、食卓で二人仲良く食べている時に、師匠はおもむろにDVDを取り出し、セットして、テレビを点けて見せてきたのが、彼女の演奏映像だった。それこそ小学生時代から今に至るまでのものだ。何故そんなの持っているのかを聞くと、『だって、私は京子の一番のファンだもの!』と悪戯っぽく笑いながら戯けて返すのみだった。師匠はここだと自分が思う所を一々止めて、解説をするのだった。勿論彼女自体の演奏のクオリティが高いので、勉強になるのは間違いなかったが、何よりも師匠が本当に心から好きだというのが伝わってきて、毎度毎度何だか心がほっこりとするのを覚えていた。しかし…相変わらず自分の映像は頑なに見せてくれなかったが。
まぁそんなわけで、最近は久しぶりにというか、一つ新たな習慣が加わった。ピアノの練習、雑誌オーソドックス自体や数寄屋に集う人々の書いた物を含む義一から借りた本、そしてこの師匠のライブ映像をネットで見るというものだ。ますます私の”普通の中学女の子”としての時間が使えなくなったのは言うまでもない。

…おっと、折角オーソドックスの話が出たので、その話にも触れたいと思う。時系列的にも丁度良かった。
その話とは勿論、”落語の師匠”関連の話だ。コンクールの予選があったその週の土曜日、私は急いで制服姿のまま直接に義一の家に向かった。今日は数寄屋には行かないと言うんで、会う約束をしていたのだった。着いて合鍵を使い中に入ると、義一が丁度玄関近くにいて出くわし、それから軽く挨拶を交わすと二人連れ立って”宝箱”に向かった。
いつもの様に定位置の椅子に座ると、義一もいつも通りに紅茶セットを持ってきた。そして二人でまず何も言わずに一口啜るのだった。その後二人揃って深く息を吐くと、まず義一が笑顔で
「予選通過おめでとう」
と声を掛けてきたので、「ありがとう」と私も笑顔で返した。
あの日の晩、早速私は義一関連の連絡先を知ってる人々全員に結果報告をした。内訳としては、義一、絵里、聡、美保子、百合子の順だった。私からはただのメールだったのに、その直後、皆して電話を掛けてくれた。義一以外は、みんな私以上に興奮した気配を電話越しにも滲ませていた。百合子ですらだ。苦笑まじりに相手を宥めるのが大変だったが、そうしつつも心から嬉しかった。その時には皆空気を読んでくれたのだろう、師匠のしの字も言わなかった。そんな気遣いを私も察して、それには触れなかった。そして今に至る。
それからはお母さんから送って貰った当日の写真を見せたりした。いつだかの、私が中学に入りたての時、裕美たちと研修旅行に行った時に撮った写真を見せた様に、隣り合って私の手元のスマホを二人で見た。義一は一々私の姿格好を褒めてきたが、ふと師匠の写真の所で「…あぁ」と声を漏らした。私も手をそこで止めた。画面一杯に私とお母さんと師匠が写っていた。
因みに条件付きでというか、義一は”沙恵さん”の事を知っていた。小学生の頃、誰にお菓子の作り方を習っているかという話になって、その時にフルネームを教えたのだった。その時、義一は目をまん丸くして、そしてため息交じりに感嘆でもするかのように、「へぇー…」と私に返すのだった。今思えば、この時既に義一は沙恵さんの事を知っていたのだろう。何せあそこまでクラシックに造詣の深い義一のことだ、我が師匠ながらアレだけ活躍していたのだから、知らない訳が無かった。だが、当時の私はそんな義一の反応に対して何も思わず、そのまま素通りをしてしまった。まぁ仕方がないだろう。
先回り的にネタバレになってしまうが、この時に初めて義一が沙恵さんのことを知っていたのを教えて貰うのだった。
「…?」
義一が沙恵さんに視線を落として溜息を漏らしたかの様に見えたので、私は少し警戒しつつ、でも冗談風に義一に話しかけた。
「…ちょっと義一さん、私の師匠を見て、意味深な溜息をしないでくれる?いくら美人だからって」
考えて見たら…いや、考えなくても、沙恵さんを写真でだが実際に見せるのは、これが初めてだった。本当はもっと早く見せたかった気持ちもないではなかったが、そもそも師匠との写真が今までに皆無だった。あれだけ仲良く何年も付き合いがあるというのにだ。近くに居過ぎると、一緒の写真を撮らない事もあるのだ。そんな事例の一つだった。だから私自身、師匠の写真が手元にあるのがこれが初めてだった。
「…リアクションに困るなぁ」
義一は照れ臭そうに頭を掻きつつ言った。私はそれに合わせる様に意地悪くニヤケながら言った。
「ふふ、まぁいいわ。私の師匠の姿を見せるのは初めてだったよね?」
「え?あ、あぁ…うん、そうだね」
と義一が何故か歯切れ悪く返してきたので、早速私はソコに噛み付いた。
「え?何、その意味深な反応はぁ?気になるなぁ」
私はそう言いつつ、テーブルに肘をつき、隣に座る義一を薄目で見た。相変わらず照れ臭そうにしていたが、そのままにヤレヤレと言いたげな調子で返した。
「…うーん、まぁいっか。実はね、君から初めて君の師匠の名前を聞いた時に、ピンと来てたんだよ。『君塚沙恵…?どっかで聞いた事があったなぁ…』ってね」
「ふーん…」
師匠の容姿に反応した訳じゃないのね。
私は体勢を戻し、テーブルの上に置いたスマホの画面に映る私たち三人の写真を見つつ、感情を悟られない様に返した。
義一も私と同じ様に視線を落としつつ続けた。
「実は彼女の事は、君に教えてもらう前から知ってたんだ。CDも持っているしね。主にバイオリンとチェロとの三重奏の室内楽ばかりでね、…まぁそれは彼女が殆どそれしか出してないからなんだけど…」
「ふーん…」
相変わらず代わり映えのしないリアクションを取ってしまったが、胸中としては義一が師匠に対して興味を持っていて、そして好意的に述べているのを聞いて、毎度の事だろうと言われそうだが、自分のことの様に嬉しかった。
義一はここで子供っぽく無邪気な笑みを見せながら言った。
「それがいつの間にか表舞台から退いたとおもったら、まさか君の師匠になっているだなんて…いやぁ、世の中どんな縁が出来るかわかったものではないね」
「ふふ、そうね。私もまさか数寄屋の人達や、そしてあの”師匠”とも知り合えるとは思わなかったもの」
と私も笑顔でだったがしみじみと感慨深げに言うと、義一は見るからにハッとして見せると「あぁ、そういえば…」と口にしつつおもむろに席を立ち、庭に通づる大きな窓を背にしている書斎机に向かうと、上に置かれていた一般的な見た目の変哲の無いデジカメを持って戻ってきた。
そして座ると、何も言わないままに小さめの液晶を見せてきた。私も何も言わずに覗き込むと、そこには何処かの会場が映し出されていた。どうやら歌舞伎座の様だった。照明の落とされた客席から撮ったのか、強めの照明で照らされた舞台が余計に浮かび上がって見えた。舞台の奥には縦横二メートルくらいありそうなパネル一杯に、恐らく高座での写真なのだろう、自分でも納得のいく出来だったのか満面の笑みを浮かべる”師匠”の写真が出ていた。その手前には椅子が用意されていて、着物姿が何人か座っていた。彼らは私でも知ってる人達だった。一人は今回の会を開いてくれた歌舞伎役者の方だった。そして数人は”師匠”の弟子たちだった。その中には、数寄屋まで”師匠”に付き添って来ていた彼の姿もあった。とその中で異色な老人が一人座っていた。なぜ異色かと言うと、一人だけスーツ姿だったからだ。また周りの人々と比べると、一回りか二回りほど小さく見えた。数枚ある写真のどれを見ても、好々爺よろしく人好きのする笑みを見せていた。ここまで言えば分かるだろう…そう、それは神谷さんだった。写真だったので、何を話しているのかまでは分からなかったが、歌舞伎役者の方などとも心を割って話している様が見て取れた。故人を偲ぶ会ではあるのだが、まさに芸人らしく、神谷さんまで漏れることなく和かに明るく振る舞っているのが分かった。とても楽しそうな会だ。
その感想は正しかったらしく、私が普段して見せる様に、今回は義一が事細やかに一枚一枚を解説してくれた。因みに、この歌舞伎役者の事は、”師匠”を通じてだがよく知っていた。何かにつけ書籍や映像などで、”師匠”が彼を褒めるのを聞いたことがあったからだ。”師匠”自体は当代の彼のお父さん、つまり先代の同名の歌舞伎役者に可愛がって貰った縁で、その息子である彼を終始可愛がって面倒を見ていた様だった。そういう訳で、当代も当代で”師匠”を尊敬し付き合っていた様だ。
次号のオーソドックスで特集を組むというんで、その号が発売されたらまた私にプレゼントをする旨を言ってくれたので私はお礼を言ったが、ふとさっきから小さい事だったが疑問が湧いていたので、お別れ会の話に区切りがついたところで聞いてみた。
「ねぇ義一さん、そのー…こう言うのは失礼かも知れないけど、何で神谷さんが壇上に出ているの?」
「え?」
義一は新しい紅茶を淹れ直して戻ってきたところだった。そしてカップに出来たてのダージリンを注ぎつつ
「それってどういう意味?」
と何気ない調子で返してきた。
私は紅茶のおかわりにお礼を示しつつ続けた。
「うん。…何て言うのかなぁ、神谷さんって”一般人”じゃない?それが何で壇上に上がっているのかなぁー…って単純に疑問に思ったの。いや、ダメって言いたいんじゃなくて、ただ…神谷さんまで上がっていいのなら、他の人もいて然るべし何じゃないかなって思ったの。だって…この中で芸人じゃないの、神谷さんだけなんだもん」
私はデジカメの液晶に目を落としつつ言った。
それを聞いた義一は真向かいに座り、ゆったりとした動作で自分で淹れた紅茶をズズっと味わって一口飲んだが、一瞬微笑んだかと思うと、途端に意地悪くニヤッと笑いながら言った。
「…ふふ、君ってやっぱり今時の子とは一味も二味も違うねぇ。…今みたいなネット社会では、すぐに人の事を検索にかけたりするものだと思っていたけど。…まぁ、僕には言われたくないだろうけどね?」
「うん、あなたには言われたくない」
私は即座に間髪入れずに、なるべく顔にも声にも表情をつけない様にしながら返した。ほんの一瞬お互いに無表情で見合わせたが、次の瞬間にはどちらからともなく吹き出し、クスクスと笑い合うのだった。
笑いが収まると、義一が笑顔を絶やさないまま話し始めた。
「はぁーあ…あ、そうだねぇ、何から話そうかなぁ…うん、そうだ」
義一はふと立ち上がると、ティーセットの乗ったトレイを持ち上げて、何も言わずに”宝箱”内の本棚の無い一角にある、縦が五十センチ、横幅が一メートルほどの大きさの液晶テレビ前にある、円形の竹で作られたコーヒーテーブルの上に置いた。何も言わずとも、良くある事だったので、私もそのまま後をついて行き、テーブルの前にある二人がけのソファーに先に腰を下ろした。
…良くあると言ったのは、覚えておられるだろうか、何度かここで義一に何かしらの映像を見せて貰っていたという事を。それがこのテレビでの話で、私が初めて数寄屋に行った時に少し話した、物理学のドキュメンタリーも、ここでこれで見た物だった。テレビは真っ黒なシンプルなテレビ台に乗っており、一つ一つの棚にはDVDプレイヤーがセットされていた。台の両脇には縦長のスピーカーが設置されていて、そのまたすぐ脇には、天井に届くほどのDVDラックがあった。中には古今東西…いや、比率から言えば”古東西”と言った方が良いくらいの映画が、隙間無く詰められていた。義一に聞いても、本人でも把握しきれていないらしいが、取り敢えず少なくとも千本以上はあるとの事だった。それには、先ほども触れたものも入れたドキュメンタリーも含まれている。今まで機会が無かったから話していなかったが、本だけでなく、この中からも何本か借りたりしていた。
と、ここまでいつも通りだったが、今日は少しばかり違っていた。義一はDVDプレイヤーのセットされている棚のもう一段下に手を突っ込み、何やらゴソゴソしていたかと思うと、不意に中から無線のキーボードとマウスを取り出した。そしてそれをテーブルの上に置いた。呆気にとられると言うほどでは無かったが、不意をつかれた形になったので、取り敢えず私は黙って義一の行動を見守る事にした。義一は慣れた調子でセッティングを終えると、おもむろにテレビの電源をつけた。しばらくして画面が映されたが、そこに出てきたのは、パソコンの起動画面だった。まぁここまでお膳立てされれば、この様な展開は予測する事自体は容易だったが、ただ私達二人でパソコンを弄るというのは初体験だった為に、大げさな様だが新鮮味を覚えていた。義一は私の横に座ると、暗証番号を手際よく打ち込み、デスクトップ画面に飛ばした。そしてそのまま間髪入れずにネットの検索画面に飛び、そこでおもむろに”神谷有恒”と打ち込んだ。すると、すぐにズラッと沢山の検索結果が出てきた。ここまで私も義一も一言も言葉を発していなかったが、この時の私の心情としては、軽く驚いていた。もし検索をかけたところで、大した数では無いだろうと思っていたからだ。取り敢えず今は雑誌を出しているというんで、その関連で検索結果が出ることはあるだろうくらいの事は予測していたが、どうも目の前テレビのモニター一杯に出されている結果は、それだけでは無い事を瞬時に思わせるのには十分だった。私は思わず知らず前のめりになって見ていたが、ふと隣に座る義一が、気持ち愉快げに声のトーンを上げつつ話しかけてきた。
「…ふふ、驚いたかい?まぁこの通り、一番上にはオーソドックスが出てくるわけだけれど、その他にもこれだけ出てくるんだ。えぇっと…まぁ詳しくは、後で君が興味を持った時に見て貰うとして…」
義一は独り言を言うようにマイペースに目の前でアチコチとサイトを覗いて見せたが、ふと一つのサイトに目が止まると、そこをクリックして止めた。それは私の知らない誰かが作ったまとめサイトの様だった。アチコチに点在している動画サイトの中の動画をまとめている様だった。一つ一つサムネイルがあり、その脇にタイトルが出ていた。それぞれ違っていたが、共通していたのは全てに”神谷”の名前が出ていた事だった。私は自分でも分かる程に、もう気持ち半歩分前に前に乗り出して画面を見ていると、先程と変わらぬ調子で義一が話しかけてきた。
「このサイトの管理者は知らないんだけれどね、どうも昔から先生のファンらしくて、こうして昔にテレビに出ていた頃の先生の動画を纏めて載せているんだよ」
「へぇー…先生って、昔テレビに出ていたんだ」
ついつい義一の言葉に引き摺られるように”先生”呼びになりつつ、それを自分自身で気付かないほどに、変に感心しつつ返した。まぁ、これも普段通りの現象だ。
「先生本人は、それが恥だとか、汚点だと思っているみたいだけどね」
義一は悪戯っぽく笑いつつ言うと、おもむろに数ある中から一つのサムネイルをクリックした。するとその直後には、画面一杯に、あるテレビ番組が流れ始めた。そこに出てくる出演者たちの姿形や格好を見るに、今から二十年くらい前だろうと想像された。そのすぐ後には番組名の字がデカデカと表示された。この演出も古臭いものだった。因みに普段からテレビを見ない私でも、この番組の名前は知っていた。金曜日の深夜から、翌日の明け方まで生で放送される、いわゆる討論番組だった。司会進行の男性が何やら初めに話していたが、この人も知っていた。暫くはこの男性しか映っていなかったが、不意にカメラが切り替わったかと思うと、一人の長めの白髪頭の男性が映し出された。
私はすぐに彼が誰だか分かった。確かに二十年以上も前らしく、今と違って言ってはなんだが豊富な白髪を靡かせて、一風変わった見た目をしていて、胡散臭さすら漂わせていたが、顔の作り自体は何も変わっていないせいなのかも知れない。そう、この男性こそ神谷さんだった。五十代の神谷さんだ。今回は約五分あまり流していただけだったので、議論の中身はよく聞いていなかったが、今とは違って目がギラギラしていて、相手を食って掛かるような表情を見せ、口からは次から次へと止めどなく流れる様に言葉が紡ぎ出されていた。この頃から本人の言い方を借りれば多弁症だったらしく、司会が止めに入っても中々止めなかった。しかし、この時は繰り返すがキチンと聞いていた訳では無かったが、その発言には矛盾点は見付けられず、他の人がどう思うかはしらないが、私には発言が長く感じなかった。むしろ、もっと聞いていた気にさせられたのだった。
事あるごとに隣で義一が解説を入れてくれた。二十年前の一、二年の間、この番組の準レギュラーを張っていた事、討論の中での発言が当時の日本社会の中では異端だったので、その新奇さによって人気に火が着いたこと、その理由のために神谷さんが”黒歴史”と思っている事などだ。
「じゃあ、義一さんもこの番組を見ていたの?」
「え?えぇーっと…どうだったかな?」
義一さんはテレビとパソコンの電源を落とし、ソファーに深く腰掛けると、天井を見上げて考えて見せた。
「んー…まぁギリギリ見ていたね。先生は当時一緒に共演していた他の人達にほとほとウンザリしていたようでね、その番組のプロデューサーさんが必死に引き止めようとしたらしいんだけど、とうとう辞めてしまったんだ」
とここまで言うと、勢いよく私に顔を向けると、今度は無邪気な明るい笑みを浮かべて言った。
「それとほぼ同時に始めたのが…オーソドックスだったのさ」
「へぇー」
「さてと」
義一は私の返しに対してこれといった感想を言わずに、またトレイを持つと、いつものテーブルに戻したので、私もあとをついて行って座った。
「でね?」
義一はまた先程のように向かいに座ると、話を続けた。
「前に数寄屋で、先生自身が言ってた事を覚えてるかな?旧帝大で教授をしていたって話」
「うん、最後の教え子の一人が聡おじさんだって話だったよね?」
「そうそう、その通り。まぁ先生は初めからあんな感じだったらしくて、そもそもの所大学で教鞭を執るのにうんざりしていた時期だったらしいんだけれど、たまたまある問題が浮上してね、まぁある人物を教授に推薦するかどうかって話で、教授会の中で一悶着があったらしいんだ。まぁよくある話だし、大した話でも無かったんだけれど、先生は『これはチャンスだ』って思ったらしくてね、わざと他の教授たちとぶつかって、それでとうとう辞めてしまったんだ」
そう話す義一の顔は、呆れたような笑みを見せてはいたが、どこか誇らしげにも見えた。
「それでね、僕は当時まだ中学に入るかどうかくらいだったから知らなかったけれど、結構大きなニュースとして取り上げられたらしいんだ。でね、その騒動を引き起こした中心人物の先生をテレビに出せば、視聴率が稼げると計算した当時のプロデューサーが直接先生に出演依頼をしたらしいんだ。先生は勿論相手がどういうつもりで自分を誘っているのか分かっていたから頑なに断り続けていたらしいんだけれど、そのしつこさにとうとう折れて、一度だけって条件付きで出たんだ。その時の議題は女性問題についてでね、いわゆるフェミニスト相手に先生一人が奮闘するって感じだったんだけれど、先生が言うには、どうせこれが最初で最後だし、そもそも自分の名前は悪名高く全国に広まっているのだから、建前なんぞかなぐり捨てて、本音だけを話そうと思って、ズケズケと衒いなく話したらしいんだ。でね、その翌日、番組のプロデューサーから電話が掛かってきた…。先生が取るとね、相手がすごく興奮した調子で『先生、大変です!』って開口一番言ったらしいんだ」
「苦情の電話が沢山来てますって?」
と私が悪戯っぽく笑いながら返すと、義一も似た様な笑みを浮かべながら返した。
「ふふ、普通はそう思うよね?先生自身もそう思ったらしく『苦情ですか?』って聞いたらしいんだけれど、プロデューサーは益々興奮して見せて『いやいや、違いますよ!』って返した様なんだ。何でも、先生が出演された後、局の電話が鳴りっ放しになった様でね、それは視聴者からだったんだけれど、その半数以上が女性だったんだって。それでね、その電話の内容というのが、『今日出ていたあの人は一体どこの誰なんですか?今まで心の中では思っていたり考えていたりしていても、表立っては口に出来なかった事を、あの人は臆する事なくパァパァ発言してくれて、とても胸がすく思いがしました!これからもあの人を出してください。そうすればまた見ます』といったものらしいんだ」
「へぇー…」
当時は当然、義一が中学になるかどうかくらいだったから、そもそも私が生まれていないので知るはずも無いのだが、それでもその女性の気持ちはよく分かった。神谷さんもそうだが、義一に関しても言えた事だった。
「何となく、分かる気がする」
私がそう返すと、義一はニコッと目を細めて笑って見せると先を続けた。
「それでね、先生の弁を借りれば、本当は一度限りのつもりだったけれど、そんな風に言ってくれるのなら、もう一度くらい出てみようかなって思ったんだって。それで出るたんびに、そんな電話などが来てるって言われて、それでまぁ…嬉しくなったってんで、それでいつの間にか”準レギュラー”になっちゃったって恥ずかしそうに言ってたよ」
「…ふふ」
私は今の好々爺の神谷さんで想像したが、その照れ臭そうにしてる姿を思い浮かべると、何だか可愛く思えて思わず笑みが溢れた。
義一も私に微笑みをくれつつ、先を続けた。
「まぁ後は…さっきの話に繋がるんだけれど、それでもやっぱり嫌になって辞めて、また一人になったらしいんだけれど、テレビに出ていたお陰か、今まで疎遠だったある人から連絡が来たらしいんだ。その人が…そう、西川さんだったんだ」
「…あぁー」
ここでオーソドックスの筆頭スポンサーである西川さんの名前が出たので、すぐに察した。
「それでオーソドックスの発刊をスタートさせたのね?」
そう言うと、義一は満足そうに大きく頷いて見せた。
「その通り!これは君も話を聞いたと思うけど、丁度その頃西川さんもあの”数寄屋”の元になる廃れた店舗を見つけて思わず買ってしまった訳だけれど、丁度その頃にテレビで大学時代の先輩を見かけて、懐かしくて毎回見ていたらしいんだけれど、不意に出演を辞めると発表を聞いた西川さんは、本人曰くほとんど考えないままにテレビ局に電話を掛けて、先生の連絡先を問い合わせたらしいんだ。それで後日に先生と会って、もし今後予定が無いのなら、こんな事をしませんかって提案をして、先生も面白そうだと即座に乗った…これが、雑誌オーソドックスの誕生秘話だよ」
「なるほどねぇ」
私はそう呟くと、一口紅茶を啜った。義一も私に合わせる様に一口啜るのだった。
ほんの数秒間、久々に静けさが辺りを満たしたが、フッと短く息を吐いたかと思うと、義一はニタっと笑いつつ、少し小声で話しかけてきた。
「…琴音ちゃん、今の話、先生には内緒にしておいてね?僕から当時の話を聞いたって知ったら、怒られちゃうから」
「ふふ、分かったわ」
私は義一の様子がおかしくて、半笑いでそう返したが、ふと一つの考えが浮かんだので、すかさず義一にぶつけてみた。
「…という事は、義一さん、あなたがそのー…高校生になりたての時に聡おじさんに連れられて数寄屋に行った時って、何となくだけれど…まだオーソドックスが出来たばかりの頃?」
そう聞くと、義一は少し腕を組み考える”フリ”をして溜めて見せたが、ふと顔を上げると明るい笑みを浮かべつつ返した。
「…そう、ほんの数カ月ばかりはズレてる筈だけれど、雑誌の黎明期から僕はあそこに通っていて、先生や他の人たちに色々と教わってきたんだ」


「へぇー、そうだったんだ…」
と私が返したその時、廊下の向こうで不意にガラガラっとけたたましい音を立てて玄関が開けられる音がした。廊下へのドアが開けっ放しだったので、余計にこっちまでよく聞こえた。誰かが向こうで動く気配がしたかと思うと、足音がこちらに近づいてきて、そしてその足音の主が”宝箱”の入り口付近に立った。その人はノースリーブの白ブラウスに黒のパンツを履いていて、色白の腕は程よく細く色気を醸し出していた。片手にはお土産なのかケーキが入ってそうな紙箱を持っていた。顔の表情は目元は顰めっ面風味だったが、口元はニヤケている。その上には特徴的なおかっぱヘアーを乗せていた。もうお分かりだろう?そう、絵里だった。相変わらずちょっとした時でもお洒落だった。裕美が見たら、また興奮して見せるのだろう。
「…ちょっとー」
絵里はゆったりとした歩みで義一をジトッと見つめながら言った。不満げだ。
「私は今日四時くらいに行くって言ってたでしょー?なのに何で出迎えてくれないの?」
そんな事を言うので、ふと部屋の古ぼけた掛け時計を見ると、四時ピッタシだった。
「いきなりまた随分な言い草だなぁー…」
義一は苦笑しか出来ないって感じだ。
「ふふ、いらっしゃい絵里さん」
と私の家でもないのに、不意にそんな言葉が口から出てそのまま投げ掛けた。絵里はそれに対して何も思わなかったらしく、紙箱を私たちの目の前のテーブルに置くと、いつもの様に(?)座ったままの私にガバッと抱きついてきた。
「琴音ちゃーん!会いたかったよぉー!」
「はいはい、私も私も」
私は敢えて無感情気味に、絵里の背中をポンポンと子供をあやす様に軽く叩いた。私から離れた絵里は、先ほど義一に向けたのとはまた違う種類のジト目をこちらに向けつつ、非難めいた口調で言った。
「まったくー…相変わらずあなたは冷めてるんだからぁ…。あ、ギーさん?」
「ん?」
「はい、これ!」
絵里は一度テーブルに置いた紙箱を手に取ると、義一の前に腕をめいいっぱいに伸ばして差し出しながら言った。
「これ、折角私がここに来る前に駅前まで行って買って来たんだから、お洒落なお皿に盛り付けて来てよ?…あっ!」
とここで絵里は、テーブルに乗っていた飲みかけのティーセットに目を落とすと、また義一に顔を向けて「私の分の紅茶もね?」と付け加えた。
「はいはい…」と苦笑まじりに返しつつ受け取ると、そそくさと宝箱を出てキッチンに行ってしまった。
「やれやれ…」
そんな後ろ姿を見送りながらそう言うので、私は吹き出しながら話しかけた。
「…ふふ、やれやれって…それは義一さんのセリフだと思うけれど?」
「…えぇー、琴音ちゃんはアヤツの味方をするのー?」
絵里は子供の様な不満顔を晒しつつ、先ほどまで義一が座っていた場所に腰を下ろした。私は何も返さず笑顔でいると、絵里は一度ふうっと息を漏らすと、ここに来て初めて優しい笑みを見せたかと思うと、口調も穏やかに話しかけてきた。
「…琴音ちゃん、改めて予選通過おめでとう」
「…うん、ありがとう」
私もそう返しつつ微笑んで見せると、絵里は不意に大きく腕を天井に向けて伸ばして見せて、またさっきまでの調子に戻しつつ言った。
「…いやぁー、ギーさんがいる時、後でケーキを食べる時にでも言っても良かったんだけどさ、ほらー…やっぱり私としては、ちゃんと一対一の時に言っときたかったからね」
「うん、ありがとう」
「どういたしまして」
絵里は目をグッと瞑りつつ今日一番の笑みを私にくれた。…かと思うと、不意に廊下の方に視線を流すと、また不満げに言うのだった。
「…まったくー、いつまで時間をかけてるのかなぁ?客人を待たせるなんて、まったくなっちゃいないよぉー。出迎えも無かったし」
「ふふ」
因みに今更だが、何故今日この場に絵里が来ているのかと言うと、まぁ…言うまでもなく、約束したからだった。以前にも話した様に、絵里にもコンクールの結果を知らせたのだが、その時に大袈裟にお祝いしたいと言い出したので、初めはそんな大層な事じゃ無いからと断っていたのだが、不意に今回の事を思いついて、義一の家でなら良いよと返したのだった。すると今度は絵里の方が渋り出したが、そこは私が何とか我儘を言って、飲み込んで貰っての今日という訳だ。
「でもさー?」
と私はテーブルに肘をつき、少し挑戦的な視線を流しながら言った。
「別に出迎えが無くてもいいじゃない?だって、絵里さんもここの合鍵を持っているんだし」
「ぐっ」
絵里はまるで漫画にでも出る様な声を漏らした。しかしこれは演技では無く素の様だった。
これはいつだったか…今いる宝箱に絵里が何度も足を運んでいるという話は、初めて三人であのファミレスに行った時に出た事だ。その時の話が、何回か絵里の家にお邪魔した時に出た時に、ポロっと絵里が漏らしたのだった。その時はすぐに口を塞ぐジェスチャーを見せたが、もう遅かった。そこから私は何故合鍵を持っているのか根掘り葉掘り聞こうとしたが、結局最初に戻るばかりで、何も得られはしなかった。まぁ恐らく、内容自体は大した事では無いのだろう。義一も、絵里にならと軽い気持ちで渡したに違いなかった。
「…それってどういう意味よー?」
絵里は立て直したのか、意地悪げな笑みを向けつつ、私と同じ様に肘をついて言ってきたので、
「さあねぇー」
と音程を変えずに間延び気味に、視線をズラしつつ返した。
とその時、
「…ん?どういう意味って、何が?」
「え?」
絵里は驚いた表情を見せて声の方を向くと、そこには幾つかある小さなケーキを盛り付けたお皿と、絵里の分のティーカップを乗せたトレイを持つ義一が立っていた。そしておもむろにそれをテーブルの上に置きつつ、視線を私たち二人に向けながら「何の話?」と聞いてきた。
私は面白がって話そうとしたその時、絵里は少し動揺を隠せないままだったが、何とか意地悪風を保って見せつつ言い切った。
「何でもありませーん。私たち女だけの話でーす。男で部外者のギーさんは、気にせんでよろしい!」


「ふふ、何だよそれー…」
義一はまた苦笑いを浮かべつつ絵里のカップに紅茶を注ぎ入れて、それから座ろうとしたが、ふと自分の座る椅子が無いのに気づき、絵里に話しかけた。
「…絵里さん?今あなたがお尻を乗せているその椅子は、私の座るものなんですけど?」
「お尻って…」
言われた絵里は、肘をついたまま、そばで立っている義一にニヤケ顔を向けつつ言った。
「それってセクハラじゃないのー?今のご時世、五月蝿いんだからね?」
「はいはい」
義一は絵里からの忠告(?)には一切気を止めずに、手で虫を払うかの様にシッシッと動かして見せた。
これ以上は冗談が続けられないと判断したのか、絵里は途端に素直になって、
「へいへい、自分の椅子くらい、自分で取ってきますよー」
と不貞腐れて見せつつ席を立ち、キッチンへとトボトボと歩いて行った。そして、食卓にある椅子の一つを手に持って戻ってきた。
私がいない時は当然知る由も無いが、椅子が二人分しか常備していないので、こうして私がいる時は絵里自らキッチンから椅子を一つ持ってくるのだった。
絵里は自分の椅子を廊下側のドアを背にする様に置くと、そこに座った。
座るなりカップを手に持つと、私と義一を交互に見て、最後に私に笑顔を向けると、手を前に突き出して言った。
「さて、では琴音ちゃんの予選通過を祝って…かんぱーい!」
「かんぱーい」
カツーン
これもいつも通りというか、まるでお酒で乾杯でもするかの様に、各自のカップを軽くぶつけ合って一口飲んだ。義一と二人ではまずしない事だったが、絵里とはこの習慣は続いていた。
それからは、絵里が持ってきてくれたお土産のケーキを三人で仲良く食べた。その間の会話は、私の学校生活やコンクールの話に終始した。約束通りというか、どうしても見たがっていたので、義一に見せる時とはまた違った意味で恥ずかしがりつつも、絵里にスマホごと渡して見せた。絵里は一々オーバーリアクションを取りつつ一枚一枚見ていったが、ふとある写真の所で指を止めた。
「何?どうしたの?」と斜め向かいに座る私は、少し腰を浮かせて画面を覗き込んだ。それは、先ほど義一が見ていた私とお母さんと師匠の写真だった。
絵里はそんな私の様子には目もくれずに、元々クリクリっとしてる目を大きく見開かせながら凝視した。
しばらくして、私にスマホを返してきつつ、少し動揺している様な素振りを見せつつ話しかけてきた。
「ありがとう、琴音ちゃん…。ところでー…最後の一枚に写っていたのって…勿論あなたの関係者よね?」
「へ?」
私はホーム画面に戻そうとしているところだったが、妙なことを聞かれたと画面をそのままにして声を漏らした。そして、確認するまでも無かったが、一応その写真を一度見返してから「うん、そうだよ」と返した。
「これが私のお母さんで、こっちが私の師匠」
私は絵里に見える様に画面を向けつつ、指で一人一人指差して紹介した。すると、絵里の目はまた大きく見開かれた。そんな妙な様子に義一も気づいたらしく、何事かと言いたげな表情を浮かべていた。
そんな義一には見向きもせずに、絵里は何か困った様な表情を見せたが、今度は若干苦笑気味に私に話しかけてきた。
「琴音ちゃん…驚かないで聞いてね?」
「ん?何?」
何を話されるのか予想もつかないと、要領を得ないといった風で返した。すると、また何かを言い淀むかのようにワンテンポ間を置いたが、今度は少し目力強めに真っ直ぐ私の目を見てきて言った。
「この…あなたのお母さんだっていう女性ね…私、知ってる人だわ」
「…え?どういう意味?」
私はそう返したが、咄嗟に以前から漠然と思っていた事を思い出していた。絵里は私の質問に、間髪入れずに苦笑いのまま返してきた。
「あなたのお母さんね…私の実家の生徒さんだわ」
…やっぱり。
「…へぇ」
私はいうべき言葉が見つからず、とりあえず間を埋める様に声を漏らしてみた。
「それって…目黒の?」
今まで静かだった義一が、少し真剣な面持ちを絵里に向けつつ聞いた。
「そう」
それに対して絵里も、同じ様な表情を義一に向けつつ短く答えた。
その後は数秒ほど沈黙が流れたが、不意に「んー…」と義一が空気を変える様に大きく伸びをして呑気な声を上げると口火を切った。
「随分と世間が狭いなぁー…。瑠美さんが通っている日舞の教室が、まさか絵里の所だったなんて」
「…まぁ」
と私もそんな呑気な調子につられる様に苦笑いをしつつ言った。
「何となくそんな気はしてたけどねぇー…絵里さんとこが、目黒だって時点で」
「んー…私もそんな気はしてたんだけれど」
と絵里も何だか私たち二人が呑気な調子でいるのに納得いかないって言いたげな顔つきだったが、空気に合わせて苦笑気味に言った。
「絵里は今まで気付かなかったの?ほら…苗字で分かるじゃない?」
と義一が聞くと、絵里は少し不満げな顔を見せて、ジト目を向けつつ答えた。
「知らなかったよー…。だって、さっき知ってるとは言ったけれど、見かけた程度だったし…。私の生徒さんじゃなくて、多分…お父さんかお母さんの生徒さんだもの」
「そっかぁ…」
義一がそう漏らすと、また今度は重苦しい空気が流れた。勿論その訳は知っていたが、私も自分で思うよりも呑気に構えていたのだろう、早くこの気まずい沈黙が過ぎないかと、どう打開すべきかに頭を悩ませていた。
「…うーん、参ったなぁ」
ふと絵里が困り顔で耳の裏あたりを指でポリポリ掻きつつ、正面を向いてはいたが、視線だけ私に流して言った。
「これって、どう考えたら良いんだろう…?もしこの辺りで、私と琴音ちゃんが一緒にたまたまいる所を見られても、”仲の良い図書館司書”って事で、そこから先は追求されないかなぁーくらいに考えていたけれど…」
この話は、小学生時代に、既に絵里と口裏を合わせていた。
「まぁ…教室で数回たまたますれ違ったくらいだから、私が覚えていても、あなたのお母さんが覚えておられるかまでは確信が持てないけれど…こういった所から変に綻びが出て、終いにはギーさんの事を悟られ無いとも…限らないんじゃないかな?」
と最後に、今まで私に向けていた視線を義一に流して言い終えた。
「うーん…」
今の絵里の発言に、私もその可能性を吟味してみようとするあまり、自然と声がまた漏れたが、義一も同時に漏らしていた。
また暫く沈黙が流れたが、腕組んで考えていた義一が不意に顔をあげると、絵里に話しかけた。
「うーん…まぁ確かに、今回の発見はイレギュラーっちゃあイレギュラーだけれど…それって、僕の所まで及ぶ話かなぁ?」
「…それって、どういう意味よ?」
そう返す絵里の目は、先ほどにも見せたジト目ではあったが、側から見てても分かる程に、真剣に怒っている様にも見えた。敢えて私の感想は述べないが、これには色々な感情が含まれていただろう…。勿論、絵里個人の感情もだ。
だが義一はどこ吹く風といった調子で、淡々と返すのだった。
「どういう意味って…そのまんまだよ。今絵里、君自身が言った様に、そもそも瑠美さんは琴音ちゃんに”仲の良い司書さん”がいる事は知っているんだし、それが仮に自分の通っている日舞の教室の先生の一人だって知っても、その偶然に対して、さっきの僕みたいに世間が狭いと驚きつつ喜びこそすれ、そこから僕のことを連想するまでは行かないだろ?…別に、そんなしょっちゅう君と一緒に外を出歩くわけでも無いんだし」
最後にそう言うと、これまた淡々と紅茶を啜った。
「そ、そりゃあー…そうかも知れないけど…」
絵里は何か言いたげだったが、それを言っても仕方ないと思ったか、渋々と両手でカップを包み込む様に持つと、静かに紅茶を啜るのだった。
一連の流れを私は黙って聞いていたが、流石に”この手”の話に疎い私でも、義一に対してデリカシーが足りないなぁと言う感想を抱いた。なかなか難儀なもんだなぁ…
確かに絵里の言った通り、どこかで予測はしていたものの、こうしてハッキリと絵里とお母さんの間に関連性がある事が証明されてしまうと、途端に言い様のない不安感に苛まれた。だが、確かに義一の言う通り、今の所はそれがバレてしまった所で、そこから義一との関連性が疑われるとも…絶対に無いとは言い切れないとは思ったが、可能性は”今の所”無い様に思われた。…その事実を、絵里がどう思ったかは兎も角としてだ。
「はぁー…まぁいいわ」
絵里は表情から緊張を解くと、ため息交じりに苦笑気味に言った。
「確かにギーさんが言った通り、今の所この件についてアレコレ悩んで考えて対策練ろうにもしょうがない…か。その時になって見ないと分からないものねぇ…いい加減で悪いけど」
と最後に済まなそうに力なく笑いつつ私の方を見てきたので、私は若干アタフタとしてしまったが、フッと一度微笑んで見せてから、頭を座ったまま深々と下げて「…ごめんなさい」と声のトーンを落として、心からの気持ちだと伝わってくれる様に言った。
すると今度は絵里がアタフタし始め、「ちょ、ちょっとー、何もあなたがそこまで謝ることじゃ無いったらぁー」と言った直後に、これまた思いっきり不満げな表情を浮かべて、ジト目で義一を睨みつつ言った。
「全ては、この男がしっかりしないのがいけないんだから!」
「何だよー…」
と義一も不満げに返していたが、不意に照れ臭そうに笑いつつ頭を掻きながら「まぁ…否定が出来ないのが辛い所だな」と言うので、
「でしょ?」
と絵里が悪戯っぽく笑いつつ返した。その後は一瞬間が空いたが、三人顔を見合わせると、やれやれと言った感じで最初は苦笑い、途中からは明るく笑い合うのだった。
それからはコンクールの話もひと段落ついたので、今度は絵里が”師匠”のお別れ会の写真を見たがったので、義一はまた立ち上がり、書斎机の上に置いたデジカメを取ってきて、絵里に手渡した。絵里は一枚一枚丁寧に、私のコンクールの写真と同じ様に丁寧に見ていったが、一つだけ違ったのは、私の写真を見る時には明るい笑み、時にはニヤケて見せていたのが、今回の場合は終始優しげな微笑みを浮かべていた事だった。
…ここで軽く説明がいるだろう。そう、もうお分かりの様に、絵里も”師匠”の事を知っていた。…というより、私と同じくらいに”ファン”だった。きっかけも私と同じだ。つまり、義一から薦められたとの事だった。映画もそうだったが、何度か絵里のマンションにお邪魔した時に、ふと本棚に、”師匠”の書籍が並んでいるのに気付いた。その事に触れると、何だか気恥ずかしそうにしながら、実は落語が好きで、そのキッカケが、これまた義一だったと照れ臭そうに話してくれた。何だか自分の恥の部分を話すかの様に見せたので、その時私は満面の笑みを見せていたと思う。
とまぁ、そんなこんなで、”師匠”が亡くなったという報道が流れた時には、絵里からその事について連絡は無かったが、今こうして”師匠”の件について語り合うのだった。
「…そういえば私ね、”師匠”と直接話した事があるんだよー」
「えぇー、いいなぁー!…って、何で?どうやってそんな機会を得たの?」
「それはねぇ…」
私はここで義一に視線を向けて、無言のまま話していいかを聞いた。義一はすぐに察してくれた様で、微笑みつつ頷いてくれたので、絵里の質問に答える事にした。
「絵里さんは知ってるか分からないけど…義一さんがよく行くお店で数寄屋っていうのがあるんだけれどね、そこの常連の中に”師匠”がいたの。それでいつだか行った時に、たまたま鉢合わせてね、そこで色々とお話が出来たんだー」
ありのままを話しても良かったと思ったが、何と無くこの様にボヤかしつつ話した。
すると、絵里はまた不満気にジト目で義一を見つつ、口調も合わせるかの様に言った。
「…あぁ、なるほどねぇー…あそこに連れてって貰ったんだ?」
「…え?絵里さん、数寄屋を知ってるの?」
私がそう聞くと、視線を私と義一と交互に流しながら答えた。
「知ってるというか…まぁ、存在を知ってるって感じかな?…アレでしょ?…”オーソドックス”でしょ?」
「え?オーソドックスまで知ってるの?」
私はさっきよりも声のトーンを上げ気味に聞いた。意外に重なる意外だったからだ。正直、絵里とあの雑誌が繋がらなかったからだ。
そんな私のテンションとは裏腹に、絵里はあくまで不満げな態度を変えずにそのまま返した。
「えぇ…この男に薦められてねぇ…隔月で発売日になったら、送ってくれるのよ」
「へぇー…で?」
「で?って?」
「…」
私は絵里自身があの雑誌を読んで、どの様な感想を抱いているのか、編集者でもないのに凄く気になった。だから問いかけてみたのだ。
絵里は私の質問の意図を汲み取ろうと考え込んでいたが、それが無駄だと悟ったらしく、何故か若干苦笑気味に返してきた。
「まぁー…雑誌自体は面白く読んでるよ。まず他では聞けない様な話ばかりだしね。色んな道で活躍している”プロ”が、その立場からどのように世の中を見ているのか、みんな赤裸々に語っているのが興味深いし」
「でしょっ!?だよねぇー」
「え、えぇ、そうねぇー」
私が思わずテンション上げ気味に返したので、絵里は若干引きつつも笑顔で同意してくれた。
…そっか、絵里さんもそうなんだ…。
「ふふ」と思わず笑みが溢れてしまったが、その時絵里は、今日ずっとの気がするが、今回はどちらかと言うとからかい気味の笑みを義一に向けつつ言った。
「まぁ…普段から何を考えてるか分からんこの男の事も、少しは知れる気もするしねぇー…。何だっけ?最後の方に書いてるコラムみたいなの?アレを読むとね」
そう言い終えると最後にこちらに無邪気な笑みを向けてきたので、私もクスクスと笑って見せるのだった。
「また無駄に人を読ませる様な文才が下手にあるせいで、それがタチが悪いよ」
「あのねぇー…」
とそれまで黙って私と絵里のやり取りを、表情柔らかく聞いていた義一が、ここにきて絵里に対して相変わらずの呆れ笑いを向けつつ言った。
「それって、褒めてくれてるんだろうけど…もっと良い言い方無かった?」
「…えっ!?」
話しかけられた絵里は、座ったまま大きく仰け反って見せた。
そして次の瞬間には体勢を戻すと、テーブルに肘をついてニヤケつつ返した。
「褒めてあげたんだから、それ以上の事は求めないでよぉー。…私、どっかの誰かさんと違って”語彙力”が無いから、これ以上の褒め言葉を知らないのよ」
「ふーん…そっかい」
「ふふ」
義一が珍しく拗ねて見せたので、それが珍しく面白く、私はまた自然と笑いが出てしまった。それを見た義一と絵里もその直後に顔を見合わせると、その瞬間はジト目を向け合っていたが、クスッと笑い合うのだった。
それから少しの間、何故私が数寄屋に行く事になったのかを聞かれたので、正直そのままに話した。そこでした会話の内容なども掻い摘んで話すと、絵里は驚いた表情を見せたり、呆れた表情を見せたりと、百面相を演じて見せてくれた。私が話し終えた直後、また絵里が義一に説教しそうな雰囲気を出してきたので、その前にすかさず横槍を入れた。私が進んで連れて行く様に頼んだ事を話すと、一瞬何故か絵里は哀しげな表情を私に向けてきたが、その直後には、呆れともなんとも言い難い表情で笑いつつ、「あなたがそう言うなら、良いけど…」と言ったので、安心したのも束の間、その直後に絵里は意地悪くニヤケつつ指で私のおでこをツンと押すと、
「一人の女の意見として言わせて貰えれば…、この男の様になるのは、オススメしないな」
と言った。
私はおでこを摩りつつ、こちらもとびっきりのニヤケ面を晒して
「分かってるよ!」
と返した。
「何だよー、二人してー…」
と義一がまた非難めいた声を上げたが、それを尻目に二人してまたクスクス笑うのだった。
それからはまた”師匠”に対して、それぞれが想い想いの話をしていたその時、「あっ!」と声を出したかと思うと、義一は不意に立ち上がり、また書斎机の方へと歩き出した。そして、机の陰に隠れる様にしゃがんだので、私たちの位置からは見えなかったが、何だかガサガサ音を立てていた。暫くして立ち上がると、手に何やら紙袋を手に持って戻ってきた。そしてそれをテーブルの私に近い辺りに置くと、笑顔で言った。
「これなんだけれどね…?是非君にって」
「え?これって…?」
「ふふ、見てみてよ」
「う、うん」
私は薦められるままに紙袋をまず持ち上げようとしてみると、思った以上にズッシリ重くてビックリした。持ち上げられなかったのだ。私は諦めて床に置いたまま中身をみると、そこには古ぼけた文庫本サイズの本が、約三〇冊ほど入っていた。私は何が何だか分からないと顔だけ義一に向けると、義一は何も言わずこちらに微笑みかけてくるのみだったので、聞くのも無駄だと判断した私は、改めてまた中身を覗き込んだ。視界の端で、絵里もこちらを興味深げに見てきていたのも見えていた。
取り敢えず中から一冊だけ取り出して見た。それは相当な年代物らしく、ページの側面なり上面なりが真っ茶色に変色していた。古本特有の、表現するなら甘い香りが仄かにした。と、至る所に色んな色の付箋シールが貼られているのに気付いた。それは十やそこらでは聞かないほどだった。他の数十冊にも貼られていた。表紙を見た。そこには”ジョーク集”と書かれていた。
それを見た瞬間、数寄屋での情景を一気に思い出したので、聞くまでも無かったが、敢えて義一に聞いてみることにした。
「これってまさか…”師匠”の?」
「…うん、そうだよ」
義一は私の手元にあるジョーク集の一つを見つめつつ、優しい口調で返した。絵里一人だけが何の事なのか分からないって風で、私たち二人を交互に見てきていた。まぁ、当然というか、仕方のない事だろう。ある意味、遠回しに説明するためにも、思い出した”師匠”との最後の会話の中身を話した。そして言い終えると、一度また自分の中でその事実を噛み締めてから、ボソッと
「…あの約束、覚えてくれていたんだ…」と溢したのだった。
義一は大きく一度頷くと、静かな口調で言った。
「うん…。何でもね、”師匠”はもうあの数寄屋に行ってた時点で、もう死ぬ気でいたらしくてね、それで処方されていた薬をだいぶ前から飲んでいなかった様なんだけれど…」
「うん…」
今義一が話してくれた事を、私はしっかりと飲み込みつつ聞いていた。もしこの時初めて聞いていたら、動揺したかも知れない。…いや、下手したら泣いてしまったかも知れない。でもこの事実は、”師匠”の訃報が報道された時に義一に貰ったメールの中に書かれていたので、その時にはお父さんの事もあってショックは大きかったが、今は落ち着いて聞くことが出来ていた。
「もう死期が近いと察していたらしくてね、モタモタしてたら間に合わないと、あの後迎えに来たお弟子さんの一人に、『自分が死んだら、あの子に俺のジョーク集を全部上げてやってくれ』と頼んだらしいんだ。それで…」
義一はふと、紙袋に目を落とした。
「お別れ会の時に、そのお弟子さんに会ってね、これをお嬢さんにって渡してきたんだ…。それが、これさ」
「…なるほど…ねぇ」
私は一連の話を聞いていて、少しばかり目頭が暑くなるのを感じていたが、涙が溢れるまではいかなかった。ただシミジミと「そっか…」と何度も呟きつつ、おもむろに無意識的に何冊か紙袋から取り出し、ペラペラとページをめくった。
「…私も良い?」と神妙な面持ちで、控えめな口調で絵里が聞いてきたので、私はそっと微笑み返して小さく頷いた。
それから四、五分間は、三人で何となしに感想を述べながらスラスラと読んでいた。付箋が貼られている所を見てみると、知らないものが多かったが、高座で語られたジョークもいくつかあった。これはまた別の機会に、”師匠”の弟子の一人から聞いた話だが、付箋の色でA、B、Cとランク付けをしていたらしい。Aなら面白い、Bはまぁまぁ、Cは客が玄人だったらぶつけてみる…といったものだ。
初めて義一たちと軽く流して読んだ時には、そこまでは分からなかったが、これは無粋だと思い口にしなかったが、やはり”師匠”は落語を含むお笑いという芸能が誰よりも好きで、こうして飽くなく…これが無粋だが、研究をしてきていたのだなぁっと、深く感心し、そして、義一キッカケとはいえ、最後まで”師匠”のファンで良かったと一人で感傷に浸るのだった。
ここでふと誰ともなく時計を見ると五時間近だったので、リクエストはされなかったが、私がおもむろに「折角だから、コンクールで弾いたのを、何曲か弾こうか?」と言うと、すぐに義一と絵里が喜んで見せたので、義一の座る椅子の真後ろ辺りにあるアップライトピアノに歩み寄り、座り、蓋を開けてと準備を済ませ、ここでハッと気付き、一度立ち上がると、二人の顔をジッと見た後にニコッと微笑み、大きく一回お辞儀をした。コンクール仕様だ。すぐに察したようで、二人ともノリ良く拍手をしてくれた。顔を上げて、その拍手に笑顔で返すと、スッと椅子に座り、大きく伸びや指のストレッチを軽くしてから、一度深呼吸をして弾き始めた。
緊張をしてないせいもあって、本番でトチってしまった部分も改善して、完璧に弾いて見せることが出来た。弾き終えると、義一が拍手をしようとしたその瞬間、絵里が勢いよく立ち上がり、これまたその勢いのままに座る私に抱きついてきた。今回は前触れもなかったので、慣れてるとはいえ驚いてしまったが、今度は往なすような真似はせず、私からも抱きしめ返すのだった。その向こうで、満足そうに微笑む義一の顔も見えた。そんな土曜日の夕方だった。

午後一時の原宿駅。改札を出ると照りつける太陽が燦々と降り注がれて、風が吹いても熱気が巻き上げられるのみで余計に暑さを際立たせた。昔からお気に入りの麦わら帽子を被り直し、信号を渡り右手に切れて、土曜日という休日のせいか、この暑さの中だというのに人通りが多い中を、うんざりとした心持ちで待ち合わせ場所へと向かった。といっても、信号を渡ってすぐの、大きな木が植わっている喫煙エリアのすぐ脇だったので、人通りからはすぐに抜けることが出来た。と、その待ち合わせ場所に着くと、向こうで一人の長身な女の子が、何やらお姉さんに声を掛けられていた。濃い青色のサロペットを身に付け、その下には淡いピンクの緩めのタンクトップを着ていた。足元は黒のパンプスで、手に持ったミニバッグも黒だった。…ここまで引き延ばす必要は無かったかも知れない、そう、彼女は律だった。
私は自然と溜息を漏らしつつ律に近寄って、側の女性を無視しつつ話しかけた。
「…何してるの、律?」
「…あ、琴音」
そう挨拶してくる律の表情は、相変わらず変化に乏しかったが、口調からは安堵が見られた。
「いや…そのー…」
と律が何かを言いかけたその時、
「あのー…」
とまだ側から離れていなかった女性が、今度は私に興味津々な笑みを向けて来つつ話しかけてきた。
「お友達ですか?」
「え?え、えぇ…そうですが…あなたは?」
私は不機嫌さを顔中で表現して見せたが、女性はひるむ様子を見せない。そのまま”営業スマイル”を顔に貼り付けたまま、どこからか名刺を取り出すと、私に差し出してきつつ言った。
「私は〇〇という芸能事務所の者なのですが…芸能界には興味がありませんか?」
「…」
先ほどは狙ってだったが、今度は自然ともっと顔中に渋味を浮かべたと思う。
…これを話すと色々と誤解が生まれそうだが、あえて言わせて頂くと、このように見知らぬ人から話しかけれられるのは、今回が初めてでは無かった。私個人で言えば、記憶には無いのだが、小学生の頃に、ママ友達同士でのお茶の場で、お母さんがそんな話をしていたのを聞いていたのを覚えている。中学に上がってからは、何故かこうして律と二人でいる時に限って、普段以上に声を掛けられる事が増えていた。でもその分、変に慣れてしまった事もあって、あしらい方も心得ていた。
「すみません、興味無いので他を当たって下さい。…行こ?律」
「…うん」
「あ、ちょっと…」
私は深々と麦わら帽子を抑えつつ頭を下げて言うと、律の手を取って、女性が引き止めようとする声を無視してツカツカっと歩き出した。
女性が見えなくなった所で手を離し、それからは人通りの多い、明治通りまでの緩い坂道をトボトボと、周りの歩調に合わせて歩いて行った。
「…ふう、撒けたわね」
私が溜息交じりにそう言うと、隣で律がクスッと小さく笑ってから返した。
「…撒けたって言いかた…。まぁでも確かにそうだね」
「…ふふ」
ただでさえ晴天のピーカン照りの中だというのに、人混みの熱気のせいで、余計に暑さが何割か増しになっていた。
「…しょーがない。どっか喫茶店に入ろうか?」
「…そうだね、あの待ち合わせ場所に戻ると、またあの人に見つかるかも知れないし…藤花たちには悪いけど、場所を変更してもらわなくちゃ」
因みに今日は期末テスト後の、私たちの学園の言い方で言えば”テスト休み”、終業式までの約一週間、謎の休みがあるのだ。…って、これは前回にも話した事があったか。今日は私たち五人の予定が合ったというので、結構久々に集まって遊ぼうという話になったのだ。ただ内訳を話すと、午前中から時間があったのは私だけで、他の四人は何かしらの予定があった。まず律。律は今こうして私と一緒にいるという時点で、私と同じで暇だったんだと思われるかも知れないが、午前中は地元のクラブでバレーボールの練習をしていたらしかった。ただ、この連日の真夏日のせいで、熱中症対策というのもあって、早朝からの練習だったらしく、結構早い時間に終わったらしい。それで律は私と一緒に待ち合わせが出来たのだった。次に裕美。裕美も律と一緒で午前いっぱい地元の水泳クラブで練習をするとの事だった。
律の場合と違って、室内でしかも水の中というのがあるのか、この暑さでも関係なく普段通りの練習をするとの事だった。 当初の予定では一緒に来る予定だったが、練習が少しばかり長引いて、待ち合わせの時間に遅れそうだというので、「アンタまで一緒に遅れちゃ悪いよ」と、先に行くように言ってくれたので、こうして私は一人で来たのだ。因みに藤花も同じような類いだった。今がどうかは知らないが、明日日曜のミサに向けての練習をしてから来るとの事だ。最後に紫。今更こう言っても誤解は無いだろうと思うが、一応念のために言っておくと、一番女子中学生らしい様な”一般的”な理由があった。いつだか触れたように、紫の家庭は、お父さんが中央官庁に勤めている官僚で、お母さんが企業に勤めるOLさんという共働き家庭なので、午前のうちに家事を全て済ませてから来るとの事だった。紫も裕美たちと同じ時間に行くと話していた。ここで一つ雑談めいた感想を言わせて頂くと、私たち五人の中で一番紫が偉く思えた。私含めて他の四人は、大変とは言え自分で好き好んで選んだ道を、自分勝手にただしているだけだというのに、紫は親の都合でやらざるを得ない家事をするのに、これといった不平不満を述べる事なくしているからだ。知っての通り、私は一人暮らしに向けて着々とお母さんという先生の元、家事を覚えていっているのだが、手を抜けばいくらでも楽に出来るのだろうが、もし完璧さを求めたら、これほど大変なこともないだろうと、大袈裟ではなくそう思っていた時期だったので、尚更そう思ったのかも知れない。
…と、また話が大きく脇道に逸れた。話を戻そう。
午後一時に先ほどの場所で待ち合わせていた訳だったが、こうして離れてしまったので、早速他の三人に連絡を入れようとしたその時、私のスマホに電話が掛かってきた。紫だ。
電話の主が紫だと律に伝えた後、すぐに電話を取った。
「もしもし?」
「あ、出た!ちょっとー、どこにいるのー?」
紫の声は不満タラタラだ。
「今ねぇー…」
私はふと周りを見渡すと、そこは丁度明治通りに着いた辺りだったので、その旨を伝えた。すると
「何でそんな所にいるのよー?」
と間延び気味に同じ声音で聞いてきたので、勿論電話越しだから伝わるわけが無かったが、不意に隣の律に苦笑を送った。律もそれだけで察したらしく、同じように送り返してきた。
「まぁまぁ…訳は後で説明するから。今律と一緒にいるんだけれど…」
「あ、律も側にいるの?」
と紫の声が聞こえたかと思うと、
「律もいるんだー」
という、トーンが高めの特徴的な声が聞こえてきた。その声の主はすぐに分かった。
「あれ?藤花も側にいるの?」
「…ふーん」
視線だけを流してそう聞くと、律は気持ち私に寄りつつ声を漏らした。「いるよー」と、おそらく背後からなのだろう、紫よりも小さい声だったが、藤花の返事が聞こえた。
裕美がまだ来てないかの確認だけ取ると、まだだと言うので、取り敢えず今私と律が立っている場所を教えて、そこで落ち合う事にして電話を切った。側に雑貨店が並んでいて、その軒先が日陰になっていたので、そこに律と二人で逃げ込んだ。その間に裕美にメールを打って、それが打ち終わったその頃、丁度向こうから「律ー!琴音ー!」という声が聞こえてきた。見ると、藤花と紫がこちらに向かって来ていた。藤花は満面の笑みでこちらに手を大きく振っていて、隣の紫は、やれやれと言いたげな呆れ笑を浮かべていた。
藤花は、胸元に小ぢんまりとした柄が描かれたシンプルな白地のTシャツに、ハイウェストのデニム地のショートパンツを履いていた。ウエスト部分にリボンベルトをしていた。足には真っ白なスニーカーと、シンプルではあったが、ガーリーな部分が残してある、如何にも藤花に似合っていた。紫も色は白と一緒だったが、フロント結びのトップスに、下はギンガムチェックのフレアスカートだった。如何にも、オシャレに気を使ってますっていった風だ。
一通り挨拶をした後、当然というか予想通りというか、何で待ち合わせの場所から移動したのか訳を聞かれたが、取り敢えずこの近所に来たらよく行ってる喫茶店に行こうと説得して、特に渋々だった紫を引き連れて、その喫茶店に向かった。
そこはいわゆる裏原に位置する所に構えており、人通りの少ない所にあるせいか、休日でも人が混んでいても騒がしかったりしないので、とても重宝していた。座れなかったり、待たされない点も大きかった。さっき裕美にも、この店に来てと連絡を入れて置いたのだった。この日もすんなりと席に通された。
店員さんに、後でもう一人来る旨を伝えると、各々が飲み物だけを注文した。今回は皆してアイスティーを注文した。裕美が来るまでは我慢するとの共通認識があったのだろう。
店員さんが人数分のアイスティーを持って来ると、まずみんなで一口ほど飲んで落ち着いた後、早速紫が訳を聞いてきた。
律が中々話そうとしなかったので、その事態は想定内だった私が率先して訳を話した。
「…だからね、律が”また”スカウトに引っかかっていたから、私が助けてあげてね、その場から逃げ出したのよ」
「ふーん」
私の向かいに座る紫はストローを加えつつ、そんな生返事をしながら律に視線を送った。紫の隣に座る藤花は、ニコニコしながら私と律を交互に見ていた。
「…まぁ、助けてくれたって言えばそうだけど…」
と、不意に隣の律が、私に視線を向けつつ静かに言った。
「…琴音が来た後は、その人、琴音に興味が移って、最後の方はどっちかっていうと琴音が絡まれていたけどね」
「え?そうだっけ?」
私は本気で疑問に思いそう返すと、向かいの紫は大きく肩を竦めて見せて「想像できるわぁー」と言った。「確かにー」と、隣の藤花もニヤケ面で同調してる。
「いやぁー…それはないでしょ?」
私はまた孤軍奮闘しなくちゃいけない雰囲気を感じながらも、負けじと何か反撃の手段は無いかと、隣の律をマジマジと見つつ言った。
「律が声を掛けられるのは分かるよ。だって…今日の律の服、とても律自身に似合っているもの。それに…みんなもね?」
と最後に向かいの二人を見つつ言うと、三人揃って照れ臭そうに苦笑い気味の照れ笑いをしていた。
「前から裕美が言っていたけど、本当に琴音は恥ずい事を恥ずかしげも無く言うんだからなぁ」
「ふふ…まぁ、ありがとうとは言わせてもらうわ」
「…うん」
藤花、紫、律の順にそんな事を口々に言っていた。私はここで、何とか逃げ切れると踏んで、最後に追い討ちをかけた。…が、これが失敗だったらしい。
私は自分の着ている服を見渡してから、
「それに引き換え…私はこんな地味な格好をしているんだもん。…スカウトの人だって、こんな私に興味を抱く筈がないでしょ?」
実際この日の私の格好は地味だった…と思う。さっき軽く触れたが、今は脱いでるがお気に入りの麦わら帽子に、肩が出るタイプではあったが真っ白のTシャツに、七分丈の細身のデニムだったからだ。
そう言い終えた私は自信満々でいたのだが、まず紫が大袈裟に大きく首を横に振りつつ、ため息混じりに言った。
「やれやれ…これだから姫様は…。何も分かっちゃいないんだから」「ふふ、これが”素”なのがタチ悪いよねー」
「…ふ」
紫が言うのをきっかけに、藤花と律も続いた。…律に至っては、ただ優しげな笑みを零しただけだったが。余談だが、普段物憂げな律が時折見せる柔和な笑みは、女の私から見てもドキッとするような大人の色気があった。
そんな考えもあったので、それを突っ込もうと思ったが、多勢に無勢、紫が私のことを”姫様”と称した事も突っ込めず、「何よー…みんなしてー…」と膨れて見せるしか出来なかった。そんな私の様子を見て、他の三人は顔を見合わせつつ笑い合うのだった。
それから約三十分後、グレーのVネックシャツに、デニムのショートパンツを履き、腰に赤と黒のチェックシャツを巻いた裕美が店内に入ってきた。遅刻を詫びる裕美に対して早速、紫を中心に先ほどの話がなされたのは言うまでもない。案の定と言うか、裕美も全く他の三人と同じ反応を示したので、結局今回も、私一人の負けという結果に終わった。ただ一つ、裕美も私の事を”お姫様”と称してきたので、今度ばかりは突っ込んだ。最後の虚しい抵抗だった。むしろそれによって他のみんなの笑みが増し、それにつられて私も笑顔を零すのだった。
それからは普通の女子学生らしい雑談を楽しんだ後、竹下通りに繰り出した。先頭を裕美と紫が率先してどんどん先に進んで行き、一歩下がった位置に藤花が、そしてそのまた一歩下がった位置に私と律が並んで歩くという、普段平日の学園生活と変わらないフォーメーションを組んでいた。まず先ほどの喫茶店で結局何も食べなかったから、クレープで腹ごしらえをして、その次に私たちがよく行く雑貨店に行った。そこは、派手めな物が好きな裕美や紫、可愛いものが好きな藤花、大人っぽい渋めな物が好きな私と律という、それぞれ異なった好みのタイプを、その店では一遍に済ますことが出来た。幅広いジャンルの小物が売られていたので、常連と言うほどでも無いとは思うが、原宿に行く事があればまず足を運ぶのだった。この時は、実際買った人と見ただけの人とで別れたが、お互いに満足し、次には実際に買い物をするわけでも無く、何となしにブランド店の立ち並ぶ表参道を歩いたりした。そして最後に、また竹下通りに戻り、プリクラを撮り終えた頃には夕方の六時になっていた。
藤花が明日があると言うので、これでお開きになった。藤花は気にしないでと言っていたが、そもそもの予定がそのくらいの時間だったので、それだけの旨を伝えた。藤花と律は地下鉄で帰ると言うので、私と裕美も同じと、ここでJRで帰ると言う紫と別れた。別れ際、自分だけが一人だなんてイヤだと寂しがって見せていたが、私たち一人一人が大袈裟に肩を叩いたり、頭を撫でたり慰めてあげると、つり目の目元を若干緩ませ、自分からネタを振ってきたくせに恥ずかしそうにしながら、地下へと続く連絡口の上から私たちが見えなくなるまで見送ってくれた。角を曲がる時に、一度立ち止まり、最後にお互いに大きく手を振りあった。それからは残りの四人で地下鉄に乗り込んだ。座席は人数分空いていたが、もうすぐだと藤花と律が言うので、私と裕美が座り、二人の荷物を私たちで持ってあげた。地下鉄が霞が関に着いた時、ここで乗り換えると言うんで荷物を返し、それを受け取った二人はそそくさと周りの邪魔にならない様に降りると、ちょうど私たちの座る前の窓の向こうに立ち、藤花は満面の笑みで、律は控え目だったが仄かに口角を若干あげる様な笑みを浮かべて見せた。そして電車が発進した時、お互いに手を振りあったのだった。
それからは裕美と二人で今日あった事を思い返しつつお喋りした。裕美はどう思ったか知らないが、何だか懐かしい久しぶりな感覚を覚えていた。中学二年になり、クラスも離れてしまったので、以前ほどの付き合いでは無くなってしまっていたが、それでもお互いに都合が合う、週に三度ほどは待ち合わせて学校まで通ったりしていた。だから本来なら久しぶりと感じるのは不思議な事なのだが、この時は気付いていなかったが、この日は一週間後に迫っていたコンクールの本選の事を、一瞬とはいえ忘れる事が出来ていたのが大きかったのかも知れない。五人全員で遊ぶというのは久しぶりだったので、自分でも思いがけない程に楽しく過ごせたのだろう。
私は買わなかったが、裕美は例の雑貨屋で小物を買っていたので、それを見せてもらったりした。具体的に言うと、黒のエナメルのポーチだった。そして、最後にみんなで撮ったプリクラを二人で和かに笑いながら見せ合い、この場にいない事を良いことに、好き勝手な感想を述べ合った。慌てて付け加えると、別に悪口では無いのであしからず。
そうこうしているうちに、電車は私たち二人としては懐かしの、受験期間に通っていた塾の最寄駅を通り過ぎ、乗り継ぎの駅で降り、乗り換え、地元の駅に着く頃には七時になっていた。

「あーあ、結局混んでるんだもんなぁー」
いつも通っている帰り道。街灯が少ないので、ほとんど真っ暗だ。前から人が歩いて来ても、十メートル以内にまで近付いてやっと判別出来るほどだった。人によってはとても寂しい町だと言うのを聞いた事があったけど、私はこの寂しさが何だか好きだった。
裕美はそう言うと、クルリと私の隣で一回転して見せた。腰に巻いていたチェックのシャツがフワッと広がり、まるでスカートの裾の様に見えた。
「ふふ、そうね」
私はそんな裕美の様子を微笑ましげに見つつ返した。
「この辺りは、あの電車しか無いんだもんねぇ…そりゃ混むわ」
「はぁー…これも、この辺りで生まれ育った、私の宿命なのかぁ」
「…ふふ」
急に裕美が芝居掛かった動作をしながら言ったので、今度は軽く吹き出してしまった。それを見た裕美は、何故か満足げなドヤ顔をこちらに向けてきつつ、その後には私と同じ様に笑うのだった。
それから五分ほど歩くと、裕美のマンションが見えてきた。
とその時、ふと裕美が立ち止まったので、私も釣られて止まった。そこは、私たち二人にとって色々な思い出の詰まった、例の小さな公園の入り口だった。裕美は公園の中を見つめたまま黙っていた。
「…?裕美、どうかした?」
いつまでも裕美がうんともすんとも言わないので、シビレを切らして私から話しかけた。すると、裕美は一度ウンと頷くと、私の方に顔を向け、明るさと静かさを織り交ぜたかの様な調子で話しかけてきた。
「…琴音、アンタ…まだ時間大丈夫?」
「え?えぇっと…うん、大丈夫だけれど…」
私は一応腕時計で確認してから返事した。すると裕美は一度ニコッと笑うと
「…久しぶりに、少し寄って行かない?」
と、公園に少し顔を向けつつ、視線を私に流したまま言った。
私はすぐには裕美の真意を掴めなかったので、本心では戸惑っていたが、それでも確かに今日は久し振りづくめだったので、そのシメには良いかと「えぇ、良いわよ」と快く笑顔で了承した。
「そう?良かったー!じゃあ行こっ?」
裕美は私は返事を返す前に、ズンズンと公園の中に入って行った。
「やれやれ…」と私は一人ボソッとゴチながら後に続いた。
…さっき戸惑ったと言って、その理由も話したが、それ以上に他の理由があった。それは…公園から漏れる薄明かりの下だったから、ハッキリとは見えなかったが、裕美が見せていた笑顔の中で、唯一その目の奥が、真剣味を帯びた光を発していた様に見えていたからだった。それが私に少し身構えさせたのは間違いなかった。
「こっち、こっち!」
と一足先にいつものベンチに座った裕美が、明るい調子で声を上げつつ私に”来い来い”と手招きをした。「はいはい」と私も苦笑まじりに返し、すぐ脇にゆっくり腰を下ろした。見上げると、公園に植わってある幹が太い桜の木々の枝には、桜花の代わりに新緑の葉が繁茂して、ただでさえ小さな光源の灯りを遮っていた。
考えて見たら、裕美とこうして、この公園に立ち寄るのは繰り返しになるが久し振りだった。お互いに忙しいのもあって、桜の時期にも公園を横切ることはあっても、こうしてベンチに座ってゆったりと過ごすことが無かったのだ。記憶が間違いでなければ、小学校の卒業式以来かもしれない。前回からそれだけ月日が経っていた。
私が頭上を見上げたので、裕美も同じ様に見上げた。暫くは、こうして薄暗がりのせいでロクに色合いを感じられない真っ黒の葉っぱを見つめていたが、不意にそのままの体勢で裕美が話しかけてきた。
「…しっかしアンタ…今日もまた街で絡まれたのねぇ」
ここで裕美がこちらを見てきている気配を感じたので隣を見ると、案の定裕美は私にニヤケ面を晒してきていた。
私は大きく溜息ついて見せてから、呆れ笑を含めつつ
「あのねぇー…だから違うって言ったでしょう?あれは律が一人でいた時に…」
と返すと、裕美は手で”ハイハイ”とパタパタ動かして見せつつ「分かった、分かった」と、ニヤケ顔をそのままに返すのだった。
「何が分かったって言うのよぉ?…何も分かってないじゃない」
「いやいや、ちゃーんと分かってるってー。…アンタがモテるって事は、小学生の頃からね」
「あぁー、言ったわねぇー!」
と私が肩を裕美の肩にぶつけると、裕美は明るく笑いつつやり返してきた。一通りやると、一瞬顔を見合わせて、その直後にはまたお互いに笑い合うのだった。何だか小学生に戻った様な心持だった。裕美もそうだっただろう。
「はぁーあ…ってそういえば」
一頻りジャレ合い笑いあった後、裕美に気を落ち着けつつ聞いた。
「今私を公園に行こうって誘ったのは何で?いや、久し振りだったし懐かしさもあって良かったんだけれど…まさか、こんなクダラナイ話をする為だとは言わないでしょうねぇ?」
「んー…まぁ、それもあるんだけれど…」
「あるんかい」
私は思わず突っ込んでしまったが、いつになく裕美の顔に真剣さが差しているのに気付いていた。
裕美は一度小さく息を吐くと、先ほどまでの様な明るい調子で話しかけてきた。
「アンタ…明日って暇?」
「…へ?」
思わぬ問いかけに、気の抜ける様な生返事をしてしまった。明るい調子ではあったが、先ほど見せた真剣さが抜け切れていなかったせいだ。そのせいで無理しているのが見え見えだったのだ。…まぁ、これは長い付き合いの私だから分かった事かもしれないけど。
「んー…あっ」
私はちょっと考えたが、明日の日曜日は重要な予定が入っていたのに気づいた。そう、来週の水曜日に開催されるコンクールの本選に向けての最終確認を、師匠宅でする予定になっていたのだ。
私はこの時点で、裕美が何のつもりでそんな話を振ってきたのか分からなかったが、少し気まずそうな素振りを思わずしつつ言い辛そうに返した。
「いやー…」
「いやー…?いやー…って何?」
裕美は何故かまた真面目な顔つきになって、ベンチに両手をつき、私にズイっと体ごと寄らせてきた。そのあまりの勢いに、私はその分ベンチの上を横滑りした。
私はすぐに返せなかったが、裕美の方でも何も言わずに真剣な眼差しを向けてくるのみだったので、私は仕方ないとホッペを掻きつつ口を開いた。
「いやー…そのー、ね、明日は先客というか…私に師匠いるの知ってるでしょ?その師匠の家でレッスンをしてもらう約束をしていたからー…明日は暇じゃないわ」
「ふーん…レッスンねぇ」
裕美は今度はジト目気味に私を見つつ、最初に座っていた位置に座り直した。私も元の位置に戻った。
「レッスンねぇー…」
そうまた一度呟くと、裕美はガバッと私の方に勢いよく振り向くと、今度は少し意地悪げにニヤケつつ話しかけてきた。
「アンタ…そこまで練習熱心だっけ?」
「…え?どういう意味?」
今度は私の方が少し裕美の方に体を寄せつつ返した。だが、裕美の方では引くことも無く、何故か自信満々な笑みを浮かべていた。
「どういう意味?そのままの意味よ。アンタは確かに、初めて出会った頃から熱心にピアノの練習をしていたよね?ただ…最近のアンタ、何だか以前よりも余計に熱が入っている様に見えるのよ」
「…え?」
ぎくっとした私は、先ほど裕美に詰められた様に少しばかり身を引いた。何を今から話されるのか、予測は少しは出来たが、そのまま言われるのを恐れていた。
そんな私の心中を知ってか知らずか、裕美はふと正面を向くと、また明るい調子に戻して続けた。今度は自然だった。
「明日暇かと何故聞いたかというとね、実際に明日アンタが暇かどうかが重要ではないのよ。…まぁ暇だったら、久し振りに二人っきりで遊ぼうかなくらいには思っていたけれどね?私は暇だったし…」
「…」
『へぇー、そうだったんだ』くらいには思ったが、それを口にする事なく、ただ黙って先を待った。
「そう話を振ったのは、この事を聞きたいが為のフリ…」
そう言うと、裕美は今度はゆっくりとこちらに振り向いた。その瞬間は無表情だったが、その後には優しげな笑みを浮かべていた。そしてその表情のまま、口調も柔らかく言った。
「アンタ…今コンクールに出るんで、特訓してるんでしょ?」
「…」
一瞬何を言われているのか分からなかった。…いや、頭が理解するのを拒否したと言う方が正しいかも知れない。先ほど以上…いや比べ物にならない程の予期せぬセリフに、呆然としてしまった。
暫くして「…え?」と返すのが精一杯だった。
そんな私の反応は想定内だったのだろう。裕美は表情を崩す事なくそのまま静かなトーンで続けた。
「…ふふ、何で分かったのかって顔してるね?実はねぇ…」
そう少し溜めると、今度はニヤッと笑って見せつつ言った。
「私の母さんから聞いたの。アンタのお母さんから聞いたってんでね」
「…え?私のお母さんから?」
「そう!テスト期間に入る前だったかなぁー…夕食食べてる時にね、母さんが話してくれたの。『そういえば琴音ちゃん、今コンクールに挑戦してるんだってねぇ?今回が初出場らしいけど、こないだ予選を通過して、近々本選に出るらしいじゃない。偉いわねぇー』ってね」
最後にニコッと目を細めて笑って見せた。
…あぁ、そういえば、お母さんに誰にもこの事話さないでねと言ってなかったなぁー。
などとこの時にして、やっとツメの甘さに気づいた。この分だとヒロにも伝わっているかも知れない。
それが何だかすごく面倒な気がして、想像するだけで気が滅入ってきていたが、それを察したか…いや、流石にこれは察してはいなかっただろうが、裕美は愉快げな調子で言った。
「あはは、そんな表情しないでよー?このこと知ってるの、少なくとも知る限り、私だけだったから。それとなしに周りに話を振って見たけれど、何のリアクションも無かったから間違いないよ」
「そ、そう…?」
私はその根拠について後になって凄く気になったが、この時はそれよりも、この自体をどう収拾すれば良いのかに気を取られていて、それどころでは無かった。
とここで裕美は突然また正面に向き直ると、「んーーん!」と声を漏らしつつ、大きく伸びをする様に両腕と両足を大きく前に伸ばした。そしてストンと足を地面に下ろし、腕も元の位置に戻すと、一度私の方をチラッと見てから、投げやりな調子で声を出した。
「…あーあ、何でコンクールの事を私に話してくれなかったのかなぁー…」
そう言うと、今度は靴をベンチの縁辺りに起きつつ、片膝を抱える様にして、こちらを見つつ続けた。
「初めに聞くのが親経由って…それはそれで、流石の私でも寂しかったし、少し傷ついたんだぞー?」
と少しおちゃらけて見せたが、目は薄暗がりでも分かる程に真剣さが宿っていた。
「え、あ、いやー…そのー…」
「…まぁ、理由は分かるけれどねぇー…何となくだけれど。何せ、そこそこ長い付き合いだからね!」
私がどう返して良いものかと思いあぐねていると、裕美は片方の足を地面の上に戻し、こちらにとびきりの笑顔を向けて来つつ言った。それからまた正面を向くと、若干顎をあげて、目を瞑って見せ、淡々とした調子で続けた。
「…でもやっぱり、それでも琴音、アンタの口からキチンと聞きたいなぁー…何でそのー…”親友”の私に話さなかったのか…をね?」
「…ふふ」
裕美は途中まではその調子だったのが、”親友”と言うところで急に辿々しくなり、そのまま元に戻らず最後まで話きったのを聞いて、何も変わっていない裕美が嬉しくも面白くて、ついついクスッと笑ってしまった。「何よー?」とまだ照れ臭いのか、苦笑いを浮かべつつ言う裕美に対して、「んーん、何でもない」と私は自然な笑みをこぼしてから、気持ちを落ち着けて答えることにした。
「…あなたも知ってる様に、私は人前に出るのを極度に嫌っているわよね?それは今も変わらないんだけれど…。でも、そのー…裕美、あなたと知り合えて、自分以外にも何か一つのことに打ち込む人がいるんだって気付かされて、それでまた中学に入って、藤花たちとも出会えて、また他にもそれぞれで頑張ってる人がいるんだって知らされたんだ。そしたら…何だかいてもたってもいられなくて、それで今まで断っていた恥を忍んで、師匠に思い切ってコンクールに出たいって言ったの。師匠は何度も私に本気かと聞いてきたけれど、その度に意志を示したら、今度は途端に喜んでくれてね?それが…去年の十一月くらいで、それから今までずっと、これまでのただ単純に芸の腕を磨くってだけじゃなくて、コンクール用の特訓をし続けてきたの。で、そのー…その事について話せなかった訳はね、師匠に対してもそうだったけれど、裕美、あなたにも何度も人前に出たくない訳を話していた手前、中々言い出せなかったし、それに…何だか、先をずっと行ってる気がするあなたに、やっとスタート時点に立ったばかりの私が、コンクールの事を話すのが、そのー…単純に気が引けたのよ。…話としては、こんな感じ…何だけれど」
私は話しながら、所々で自分の吐いたセリフに自分で恥ずかしくなりながらも、何とかこれまでの経緯と思いの丈をつらつらと述べていった。その間裕美は正面に植わってある桜の木の幹をジッと見つめるかの様な体勢のまま静かに聞いてくれた。
私が話し終えると、ほんの数秒ほど沈黙が流れたが、
「…いやー」
と急に声を漏らしたかと思うと、裕美はこちらにゆっくりと向き直った。その顔は先ほど以上に苦笑いだった。
「…私から聞いたんだし、それなりに予想はしていたんだけれど…実際に面と向かって話されると、そのー…やっぱり恥ずすぎる!よくもまぁ、そんな恥じらいも無くスラスラと思いの丈を話せるわねぇ」
こう字面で見ると、中々に厳しい事を言ってる様に見えるが、実際は普段の呆れ笑気味でため息交じりの”裕美調”だったので、
「…ふふ、私だって流石に今回は”恥ずかった”わよ」とお返しとばかりに、呆れ調で返すのだった。
「あははは!」と裕美は声を上げて笑って見せたが、少しすると何だか少し顔の表情を曇らせつつ、何だか言い辛そうに言うのだった。
「はぁーあ、いや、ありがとう。キチンと何も隠す事なく話してくれて…。アンタはやっぱり強いね?」
「え?」
「アンタは強いよ。だって…そこまで自分の弱さを自覚して、それをしかもその相手に向かって吐露出来るんだもん。…私には出来ないよ。それに、アンタは今私の事を褒めてくれたでしょ?それはとても恥ずいながら、とっても嬉しかったんだけれど…でも結局、今年の大会も、三位に終わっちゃったしさ」
「…」
そうなのだ。あえて触れる事は無いだろうと思いそのままにしていたが、覚えておられるだろうか、去年の五月のゴールデンウィーク、久々に裕美は大会に出た訳だったが、結果は三位に終わった事を。その時の裕美は明るく次までに研鑽を積み、優勝すると所信を披瀝していた訳だったが、結局努力は実らず、前回と同じ様に三位に終わったのだった。しかも上位二人は、去年も負けた相手だった。この時もヒロと一緒に観に行ったのだが、大会が終わっての裕美の、何処と無く諦めが滲んだ笑みが今でも忘れられない。
その事に裕美は触れていたのだった。
私が返す言葉が見つからず黙っていると、「んーん!」と、裕美は先ほどの様に大きく伸びをして見せて、淀んだ空気を入れ替えるかの様にテンションを上げて見せつつ言った。
「湿っぽくなっちゃったなぁー…そんなつもりは無かったのに。取り敢えず、何が言いたかったのかというとねぇー…アンタのそのコンクール、本選っていつなの?」
「…え?えぇっとー…来週の水曜日だけど…?」
と私は思わず、最後を疑問調にして返してしまった。
一体何の話だろう…?
と頭を巡らせていると、裕美は思いっきり驚いて見せて声を上げた。「えぇっ!もう一週間も無いじゃない!」
「え、えぇ…そうだけど」
「うーん…来週の水曜…終業式の次の日かぁ…」
私がまだ戸惑っているのを他所に、裕美は腕を組んで何やら考えて見せた。私は何事かとジッとその様子を伺っていたが、ふいに裕美は顔を私に向けると、明るい表情を浮かべつつ、声のトーンも上げ気味に言った。
「…よし!私もその時、観に行くよ!」
「…へ?」
私はますます呆気にとられてしまったが、そんなのに気を止める様子無く、裕美は一人でテンションを上げつつ、私にまたグッと身を寄せてきつつ続けた。
「アンタのそのコンクールって、親とか先生以外にも観に行っていいの?」
「え?えぇっと…」
私は言われるがままに、予選の時の光景を思い出していた。
「…えぇ、大丈夫だと思ったけど」
「そう?良かったぁー!じゃあ…」
と裕美はここまで言いかけると、ふと私の両肩に手を置き、その後に満面の笑みを浮かべて
「応援に行くから、楽しみにしててよー!」と言った。
私はここでも少しばかり呆然としていたが、ようやく事の流れが把握出来たのか、自然と嫌嫌そうな渋い表情を浮かべると、不満げな声とともに言った。
「…えぇー、いいよ別にー…そんな観に来なくたってー…。面白くも何とも無いよ?」
私は今さっき裕美に”言えない理由”を話したばかりだというのもあって、本選とはいえまだまだの段階の時に、裕美にその姿を見せるのは、何だか気が引けたのだ。いくら裕美が、自分の事を謙虚に評価したとしてもだ。
「えぇー、何でよぉー…別にいいじゃなーい。…アンタ、忘れた訳じゃ無いよね?」
「え?何のこと」
裕美がおちゃらけ気味に不満を表現していたかと思うと、今度はまた意地悪な悪戯っぽい笑みを浮かべて続けた。
「ふふ、忘れた?お互いに小学生だった頃、立場は逆だったけど、アンタが私の大会を観に行きたいって言って、実際に観に来たこと」
「…あぁー」
この瞬間に、裕美が何が言いたいのか察したが、あえて何も言わずに、話の続きを待った。
「ふふ、思い出した?私が『いい』って言うのを制してまで、観戦にきた時の事を。だーかーらー…」
裕美は背筋を伸ばして座り直し、正面を向いて一度溜めてから、私に向き直り、明るいながらも静かな笑みを浮かべつつ続けた。
「今度は私の番。借りがある私が観に行く分には、何も文句は無いでしょ?尤も…文句を言われて止められてたって、どっかの誰かさんみたいに無理矢理にでも観に行くけどね?」
結局最後までその表情は止めることが出来なかったらしく、最後はまたニタっとニヤケつつ言い切った。
そんな豊かな表情の変化に、思わず知らず吹き出してしまい、
「何よそれー…」
と苦笑気味に返したが、狙ってやったかどうかは兎も角、少なくとも私の緊張を和らげる効果を発揮し、それと同時に安易に決断を誘発してくれた。
私は見るからに呆れたと言いたげな大きな溜息をして見せると、苦笑い顔をそのままに裕美に話しかけた。
「しょうがないなぁー…いいよ、裕美、あなたさえ良ければ是非観に…っていうか、聞きに来てちょうだい」
「…あ、本当に良いの?…やったー!」
裕美は私の言葉を聞くと、さも意外だと言いたげにすぐには受け止めなかったが、その直後には急に勢い良く立ち上がったかと思うと、両腕を天高く上げて万歳する様な動作を見せつつ声を上げた。チラッと見えていた公園の時計を見ると、八時ちょうどを指していたが、その時間でもこの辺りは薄暗く静かで、水泳をしているのと関係があるのか分からないが、よく通る裕美の声が辺り一面に広がって行く様に感じられた。
「ちょ、ちょっとー…大袈裟ね」
私は慌てて制しようとしたが、すぐに無駄だと悟ると、ただ呆れ調でそう言うしか無かった。裕美は顔だけを器用にベンチに座る私に向けると、またニターッと笑って見せ、そしてベンチに座った。今日ここに来て、一番近い距離だった。
「ふっふーん」
と裕美は座るなり、意味のない声を漏らしつつ、私にじゃれついて来たので、初めの頃は裕美の体に手を当てて押しのけようとしたが、結局は私も一緒になってじゃれ合うのだった。こういった所も、小学生時代と何ら変わっていなかった。我ながら成長しないのに苦笑もんだったが、今の所はそれで良いのかなっと思ったのだった。
それからは軽くまた雑談をして、それから笑顔で裕美のマンション前で別れた。


本選当日。朝の八時半。まだ朝だと言うのに容赦無く紫外線を降り注ぐ太陽の下、私とお母さんと師匠三人は、裕美のマンション前にいた。待ち合わせよりも十分ばかり早かったのに、既に裕美はエントランス前に立って待っていた。裕美もこの日ばかりはドレスアップしていて、まさに”余所行き”といった趣きだった。ハリのある生地で光沢の美しいネイビーのドレスで、光の当たり具合によっては濃いブルーにも見えるような綺麗な色合いだった。袖のパフスリーブやドレスらしいフィット&フレアのシルエットが、大人らしいのと同時に可愛らしく、水泳で鍛えられたスタイルの良い裕美によく似合っていた。腕には純白のミニバッグを下げていた。ショートボブの髪も、上手いことアップに纏められていて、それがまたドレス姿に合っていた。
裕美は私たち三人に気づくと、明るい笑みを浮かべつつこっちに手を振ってきた。私もそれに手を振り応じた。
「今日もあっついわねぇ」
開口一番、裕美は手でパタパタと顔に向けて仰いで見せながら、渋い表情で言った。
「本当ね」
私も短くそう返しつつ、マジマジと裕美の姿を見つめてから続けた。
「…ふふ、あなたの余所行き、初めて見たけど、よく似合っているじゃない?」
「そーお?」
裕美は私の前で一回転して見せた。ドレスの裾がフワッと広がったのがまた綺麗だった。
裕美は前屈みになると、目をギュッと瞑って見せると「ありがとう!」と言ったので、「どういたしまして」と私も笑顔で無難に返したのだった。
「あらホント!裕美ちゃん、そのドレス可愛いわねぇー。よく似合っているわよ」
ふと私の背後からお母さんが裕美に話しかけた。
すると裕美は、お母さんの姿を、私がさっきしたみたいに見渡した後、明るい笑顔を浮かべて言った。
「ありがとうおばさん!おばさんも、良く似合っているよ」
「ふふ、ありがとう」
今日のお母さんの服装は、前回の予選の時に着てきたのと同じ物だった。色は裕美と同じネイビーだったが光沢は抑えられていて、ジョーゼット生地のトップスには三段フリルが付いている、Iラインスカートのドレスだ。
「母さんが、よろしくと言っていました」
「ふふ、任されました」
お母さんは微笑みつつ裕美に返した。
裕美が本選を観に来る事が決まった後、そのすぐ後にはトントンと手筈が進んでいった。その流れで、一度裕美のお母さんも交えた食事会をしたのだが、その時は一緒に来る話になっていた。だが、急にどうしても抜けれない用事が出来たとかで、昨日の夜にわざわざ家まで来て、私に一緒に行けない旨を伝えたのだった。まぁ尤も、この為だけではなく、何かの用事ついでに立ち寄った様だったけど。逆にこっちが恐縮してフォローを入れたのは言うまでもない。
二人して軽く笑いあった後、裕美は私の姿も改めてマジマジと見ると、何故か一度長めに息を吐いて見せてから、呟くように言った。
「アンタは…ホント、この手のドレスがやたらに似合うのねぇー…ふふ、小学校の合唱コンクールで弾いてた姿を思い出すわぁ」
「やたらって…ふふ、褒めてくれてありがとう」
私は若干の棘が含まれていたのが気になったが、ここは素直に感謝を述べた。私の格好も、お母さんと同じ様に変わらず同じだった。やや光沢のある白いシャンタン生地の上に黒のレース生地を合わせた、大人っぽいドレスだ。化粧や髪も朝早くに起きて、お母さんに一からセットをしてもらった。化粧も以前と同じだったが、ただ髪型だけは前回と違っていた。
予選の時は、右下辺りで結んで、髪を肩から前に垂らすだけのシンプルなものだったが、今回は去年の花火大会の時にしてもらった様な、三つ編みをいくつか作り、ゴムで縛っては軽く引っ張り崩す、この繰り返しで作り上げていく様な、いわゆる編み込みヘアーだった。私は同じにしか見えなかったが、お母さん曰く、少し品を持たせたコンクールバージョンとの事だ。
「…あっ、でもね、実際弾くときは、今着てる服じゃないのよ」
「あ、そうなの?」
「えぇ。それは…」
私は語尾を伸ばしつつ、視線をお母さんの手元に流した。それに釣られる様にして裕美も見た。お母さんの手元には、予選の時と同じ様に紙袋が握られていた。
「今お母さんが持っている、あの紙袋の中に入っているの」
「あ、そうなんだー…へぇー」
裕美がしげしげと見ていると、お母さんはフッと気持ち高めに紙袋を持ち上げて、ユラユラと得意満面の笑みを浮かべつつ揺らして見せていた。
「本番は違うのねぇー…ねぇ、本番では、どんな衣装を着るの?」
「え?それは…本番になってからのお楽しみ!」
と私が勿体ぶって言うと、裕美は私の肩を軽く指先でツンと指しながら「ケチー」と不満げに返してきた。だが、その直後にはお互いに顔を見合わせて、どちらからともなく笑い合うのだった。
「…ふふ、琴音のそんな様子は、何だか新鮮だわぁ」
とここで、今まで黙って微笑みつつ見守っていた師匠が口を開いた。私が咄嗟に師匠の方を向いたので、裕美も合わせて顔を向けた。初めて見るからか、少し顔に緊張を漂わせていた。師匠は、前回を反省して、地味な格好を試みようとしていた様だったが、場が場なだけに、それなりのドレッシーな格好を余儀無くされて、結局は前回と同じ格好に相成った。黒の、上下がひと続きの所謂オールインワンタイプのパンツドレスだ。炎天下の中でもアイボリーカラーの八分袖ボレロジャケットを羽織っていたが、下はノースリーブだ。メイクだけ前回と違って普段通りのナチュラルメイクをしており、クラシカルロングの髪も、少し高めの位置で束ねているのみだった。コソッと教えてくれたが、マスクを用意しているらしい。それが精一杯の変装の様だった。
裕美は、微笑んできている師匠に対し、ピシッと背筋を伸ばしたかと思うと、深々とお辞儀した。そしてすぐに起き上がると、顔を真っ直ぐ師匠に向けて挨拶した。
「初めまして。私は琴音の小学校からの友達の、高遠裕美と言います」
「あらあら」
師匠はそんな裕美の挨拶に、若干苦笑気味の笑みをこぼすと、途端にあっけらかんとした笑顔を見せつつ返した。
「そんな堅苦しい挨拶は無しにしましょう?…ふふ、アナタの事は琴音から良く聞いていたわ。今日は会えて嬉しい。…よく付いて来てくれたわね、歓迎するわ」
と言い終えると、目をギュッと瞑った無邪気な笑顔を見せたので、 裕美はその瞬間は戸惑い気味に「あ、い、いえ…」と返すのみだったが、初対面にありがちなある種の緊張がほぐれたのか、師匠に合わせた様な明るい笑みを浮かべて
「はい、今日はよろしくお願いします!」
と元気に返すのだった。
「うん、こちらこそよろしく!」
「…何だか、あなたの方が気合い入ってるわねぇ…」
と私が苦笑いで言うと
「あんたが気合入れ無さすぎなのよ」
と裕美は裕美で、ジト目を向けてきつつ、口元はニヤケ気味に返してきた。
そんな私たち二人の様子を、師匠とお母さんは微笑ましげに黙って見ていたが、ふと腕時計に目を落としたお母さんが声を挙げた。
「…っと、そろそろ行かないとね。では行きましょうか」

お母さんの合図の後に、私たち四人は地元の駅に向かった。出勤ラッシュのピークは過ぎていたが、それでも近くの人と肩をぶつけあわなければならないほどだった。
予選の時は夕方からだったが、本選は朝の十時半からだったので、この時間に出発した。今日の会場は、合羽橋にある固定300席のシューボックス型コンサートホールだ。予選時は平均的な教室くらいのサイズしかなかったのが、急にホールサイズに格上げだ。今回は事前に師匠に付き添って貰って、実際に会場に足を運んで見た。建物自体は近代的な作りをしており、正面の壁は一面がガラス張りになっていた。中に入ると、吹き抜けの構造になっており、天井が三階分ほど高かった。会場となるホールは、音の反射を考えて作られた木質のパネルが敷き詰められていて、外観とは違って、何だか温かみのある内観をしていた。見上げて見ると、天井も吹き抜けで、軽く十メートル以上はありそうだった。いくつもの照明が取り付けられていて、光を燦々と降り注いでいた。師匠はホールの中で周囲を見渡しつつ、
「自分の時にはこんなホールが無かった、もっと古びた所でやったなぁ」と、少し羨ましげに言っていたが、当の本人としては、急に大舞台に立つことになったので、ホールの奥の舞台を見たその瞬間だけ物凄く緊張した。だが、一度見ておいて正解だったと思う。自分で言うのもなんだが、当日を迎えた私の心持ちは、その時予想したよりかは落ち着いていた。ただ、なんとも言いようの無い、一口に言えば軽い興奮状態にあるだけだった。何だか無性に体を動かしたくなるアレだ。騒ついているとも言えるが、それは心地の良い類いのものだった。まぁそんな心理状態は、裕美には伝わっていなかったらしいが。
ついでと言ってはなんだが、聞いておられる中で、ある事について気になっている方も居ようと思うから、先に軽く触れておこう。
そう、それは…紫たちには伝えなかったのかという事だ。勿論その話は、裕美とあの公園で話している時にも出た。だが、正直胸の内を裕美に話すのがやっとだった私は、そのままなし崩し的に紫たちにも話すという気にはなれなかった。言うまでもないとは思うが、何も依怙贔屓してのことでは無い。ある意味、今の関係を大事に思うからこその態度だった。…まぁもっと露骨に恥を忍んで言ってしまうと、裕美が今回聞きに来るとまで話が進んだ後に、紫たちの事を考えると、何と言うか…憂鬱な気持ちになったのだ。裕美一人でさえ、ここまで動揺する程なのに、何の心の準備が出来ていないまま、他の三人を招待する気にはなれなかったのだ。恐らく、演奏どころでは無くなるだろう。…ここで、こんなツッコミが来るかも知れない。『お前だって、藤花の独唱を、何の前触れもなく聞きに行ったじゃないか』と。確かに、あの時は、藤花が自分がそんなに歌うことに対して真剣に取り組んでいる事を話していなかったのに、急に驚かせる結果になったが、ここで慌てて自己弁護をさせて貰うと、私個人でだが、正直何も知らされずに来て貰った方がありがたい。何故なら、本番のその時は、何も気にせずに演奏に集中出来るからだ。今回私が危惧しているのとは、大分条件が違うのだ。それだけは言わせて欲しい。
…何だか余計な話をしてしまったが、今のような事を、裕美にも話した。裕美は私が言ったことに理解を示してくれて、取り敢えず紫たちには内緒にしてくれると約束してくれた。
だが、一つだけ条件を出してきた。それは…”もし全国大会に出場することになったら、ちゃんと紫たちにも話すこと”というものだった。私はすぐには返さなかったが、その条件は当然だとすぐに思えたので、快く承諾したのだった。
…別に興味がある人はいないだろうが、本人が拗ねると面倒なので、一応触れておく。ヒロの事だ。ヒロに関しては公園での会話で出なかったのだが、その翌日に、裕美から連絡を入れていたらしい。師匠との最終チェックをした帰り道、裕美と落ち合って、またあの公園でお喋りした。裕美がどうしても会いたいからと連絡して来たので、結局昨日の今日でまた会ったのだ。その会いたい理由が、その件を直接話したかったかららしい。それを聞いた私は、練習後の疲れも相まって、物凄くウンザリした表情を浮かべたのは言うまでもない。裕美はそんな私の様子を見て愉快げにニヤケていたが、次の瞬間には軽く落ち込んだ表情を見せた。なんでも、コンクールの話をしたら、ヒロは凄く興味を持って、すぐにいつなのかを自分から聞いてきたらしいが、裕美が日程を伝えると、見るからにテンションを下げて、『その日は部活だわ…』と残念そうに呟いたらしい。と言う訳で、ヒロは本番には来れないということだった。それを聞いた私が安堵したのはそうだが、裕美はそのまま残念そうな面持ちのままだった。この時の私は、てっきり私に泡を吹かそうとした魂胆が実らなくて、それに対してがっかりしているものだと思っていた。それはさておき、しばらくそんな表情でいたのだが、ふと何かを思い出したような顔つきになり、私にニヤケ面を晒しながら、「そういえば、頼まれごとがあったんだ』と言った。それは何かと訝しげに聞くと、『出来る範囲でいいから琴音の勇姿を写真かなんかで撮ってきてくれ』と頼まれた事を、意気揚々と言った。それを聞いた私は、それについて渋々了承しつつも、またウンザリ顔を向けたのは言うまでもない。…とまぁ、そんなこんなで今に至る。
そのまま若干混み合う電車に揺られる事十五分、途中で地下に潜ったので、余計に息苦しさを味わいつつ、会場の最寄り駅に着いた。あまり人が降りなかったので、周りの人に断りつつ押し退けて、やっとホームに降り立った。少し皆して服装を直してから改札を出て、地上に出た時には、本選開始時刻の四十分前だった。
ここから会場まで十分ほどなので、ちょうど良い頃合いに辿り着けた。それからはほぼ一本道の道筋を、私は裕美と、お母さんは師匠とお喋りしつつ歩いていると、会場に着いた。一度見た時と、当然ながら外観は変わっていなかったが、正面玄関付近には、私たちの様にドレスアップした人々が大勢ひしめき合っていた。
予選の時とは雲泥の差ねぇ…
などと呑気な感想を持ったが、まぁ当然だろう。何せ今日は、東京に限って言えば、西東京と東東京とで別れている中の、私が入っている東東京地区の本選だったからだ。因みに裕美も、水泳でだが、東東京地区に入っていた。…まぁそれだけだが、本選のエントリーカードが届いた時に、表にそう書かれていたので、不意に裕美を思い出し、その共通項に一人にんまりしたのだった。話を戻そう。
「わぁー…凄い人ね」
裕美は御上りさんの様に周囲をキョロキョロ見渡しながら声を漏らした。
「うん…私も、こんなに多いのは初めて見た。…やっぱり東京ってだけでも、これだけの人がいるのね」
自分でも分かる程に、若干声が強張りながらそう返すと、ふと私の肩に手を置いてくる人がいた。師匠だった。
師匠はいつの間にかマスクをしていたので、なんだか今着ているドレスとチグハグで、私の目から見ると、余計に悪目立ちしそうな見た目をしていた。だが、これは余計な事だと判断して、黙ったままでいた。裕美が横目で、怪しい人を見るような目つきで師匠を見ていたのが印象的だった。
師匠はマスク越しからでも分かる様な、意地悪風な笑みを向けてきながら、置いた手を動かし、肩を揉みつつ言った。
「こーらっ。演奏する前から、そんなのに飲まれてどうするのよ?ほーら、リラックスしなさい」
「…はい、師匠」
その無邪気な子供の様な笑みを向けられて気が緩んだのか、自然な笑みを零しつつそう返した。
それからは、正面玄関に立っている係員の指示に従って、まず参加証を見せて、その次に他の参加者と関係者でごった返す掲示板の前で、四人揃って演奏の順を確認した。予選の時には、人数が少なかったせいか無所属の私が一番手だったが、本選ともなると、私以外にも無所属の参加者が幾らかいるらしく、無所属の中での一番最後だった。厳密に言えば五番手だ。その後には、予選と似た様なもので、このコンクールを主宰している所の教室に在籍している人の名前が書かれていた。
その中には、私と一緒に予選を通過した男の子の名前があった。姿は見ていないが、おそらく会場のどこかにいるのだろう。
参加者と関係者が別れる廊下のT字路に着くと、まずお母さん、そして師匠の順に軽く私に声を掛けてきた。お母さんは相変わらず「頑張ってね」と言った調子だった。そんなお母さんと入れ替わる様に師匠が近づいてくると、相変わらずマスクをしたままだったが、ふと周りを確認すると、マスクを顎の下辺りまで下げた。現れた表情は神妙な面持ちだったが、途端に先程私の肩を揉んだ時の様な笑みを浮かべて、また同じ様に肩に手を置くと、明るい口調で話しかけてきた。
「…琴音、さっきも言ったけれど、何にも心配のあまり緊張する事なんて無いのよ?間違ったって良い…本番で間違う事は、プロだって良くある事なんだから。もちろん、手を抜いていたという理由での失敗は論外だけれど、あなたは、今までこれだけの練習を積み重ねてきて、良くも悪くも手なんか抜けないような”完全主義者”なんだからね…誰かに似て」
ここで師匠は満面の笑みを浮かべた。そしてすぐ後に照れ笑いをするのだった。気を取り直すように、ワザとらしくコホンと咳払いを一度すると、また表情を戻して続けた。
「取り敢えず、観客がいないものと思って、思いっきり弾いてきなさい。もし舞台に上がって、観客が目についたら、その時は…昔ながらの手垢まみれな言い方だけど、客席を畑だと思って、そして観客自体を”かぼちゃ”だと思えば良いのよ…分かった?」
自分でも予め言ってはいたが、それでもいざ話してみると、そのテンプレートな言い方が恥ずかしかったらしく、その直後にはまた照れ笑いを浮かべていた。それを見た私は、かぼちゃ云々はともかく、師匠のそんな様子自体に励まされた。会場の外でのとはまた違った感じに緊張が解れた私は、「はい」と笑みを浮かべて返したのだった。
師匠と入れ替わりに、最後に裕美が私の前に来た。
裕美は会場の雰囲気に飲まれていたのか、師匠みたいな神妙の面持ちで一瞬私を見つめていたが、次の瞬間、ニターッと笑ったかと思うと、軽く前傾姿勢気味になり、
「…じゃあ、私、客席で見てるから。…私は、アンタも知るように”門外漢”なんだから、素人の私でも分かって、そんでもって楽しめる演奏をしてよね?」
と顔だけ近づけるようにしながら言った。
私はあまりのクダラナイ注文に、呆気にとられてしまったが、これが裕美流の緊張をほぐしてあげようとしてくれている気遣いなのは分かっていたので、
「何よそれー…別にあなたの為に弾くわけじゃ無いのよ?」
と苦笑気味に返した後、自分でも意図しないままに自然と柔和な笑みを浮かべつつ、色んな意味を含めた「ありがとう」を言った。その中身を知ってか知らずか、予想通り裕美はアタフタと動揺して見せて、私の”恥ずいセリフ”に対して抗議をしてきたが、それでも最後には「どういたしまして」と笑顔で返してくれた。そんな私たち二人の様子を、お母さんと師匠が微笑ましげに見てきている気配を感じていた。
それからは、お母さんから着替えの入った紙袋を受け取り三人と別れて、私はまず女子更衣室に入った。更衣室があるのも、予選とは違った所だった。ロッカーには他の参加者の女の子たちが、それぞれ着替えていた。私は避けながら、自分の参加証に書かれている番号のロッカーを探した。見つけると、通路の真ん中に設置された長椅子の上に紙袋を置き、まずロッカーを開けた。それから紙袋の中から、今日着る衣装を取り出した。軽く触れたように、予選とはまた別の、新たに師匠とお母さんとで買いに行った、さらな衣装だった。それは鮮やかなネイビーブルーのティアードロングドレスで、チュール生地を惜しみなく使って仕立てた豪華な4段のティアードスカートが、シックな色合いの中でも可愛らしさを演出していた。
裾にはテグスが通してあるらしく、たっぷりとボリュームがあった。光が当たると星屑のように輝くラインストーンが、胸元に散りばめられていた。腰には、ドレスの色と合わせると控えめに映る、大きめな黒のリボンがアクセントになっていた。
これは買ってもらった時から、あまり服に興味がない私でも大変気に入った一着だった。この日は、それをようやく着れるという喜びもあった。
着替え終えて荷物をロッカーにしまうと、控え室に向かった。入るとそこは、壁と天井が真っ白な、清潔感はあったが無機質な部屋だった。床はグレーの絨毯が敷き詰められていた。予選会場ほどの広さで、部屋の奥には天井から大きめのテレビが二台吊り下げられていて、そこには舞台が映されていた。
そんな様子だったので、第一印象としては、学校の視聴覚教室みたいだというものだった。そんな感想を抱きつつ、いくつか用意されているテーブルの、空いている所に座ると、少し離れた所に見たことのある顔があった。それは、そう、予選で一緒に勝ち上がった男の子だった。と、ふと目が合ったので、こちらから会釈をすると、向こうでも無表情だったが会釈を返してくれた。そして視線をテレビに向けるのだった。しばらくの間、部屋のドアが開けられるたびに、無意識的にその方向に顔を向けたりしていたが、ある程度人が集まってきた頃、係りの人が参加者の番号と名前を読み上げていった。一人、そしてまた一人と、徐々に参加者が消えていった。
死刑囚の気持ちって、こんな感じなのかな…?
などと、自分でも不謹慎だと思うような感想を抱きつつ待っていると、また係りの人が入ってきて、私の番号と名前を読み上げたので、「はい」と小さく返事をすると、席から立ち上がり、ゆっくりとした足取りで後を付いて行った。
案内されるままに付いて行くと、そこは舞台袖だった。真っ暗だったが、すぐそこに眩いばかりの照明が当てられている舞台があったので、そこか漏れてくる光が僅かに差し込んできて、全く見えないほどでは無かった。そこにはパイプ椅子がいくつか用意されていて、既に私よりも先に呼ばれた参加者四人が、緊張の面持ちで座っていた。私もそこに座った。
しばらくこの場には緊張感のある、張り詰めた空気が流れていたが、不意にブーーーっとブザーがけたたましく鳴り響いたかと思うと、どこからか放送が流れた。それは、コンクール本選開始の合図だった。
アナウンスに呼ばれる度に、一人、そしてまた一人と椅子から腰を上げて、のっそりとした足取りで、光の中へと消えて行った。
この時の私は目を閉じて、頭の中で師匠の所で弾いた曲をさらっていたが、自分で言うのもなんだがよっぽど集中していたのだろう、他の参加者の演奏が耳に入らないくらいに没入していた。
不意に側で立ち上がる気配がしたので隣を見ると、私の一つ前の出番の女の子だった。彼女が舞台に向かうその後ろ姿を、何ともなしに見つめていたが、この時ふとある事を思い出し、私も立ち上がった。そんな様子を見た係りの人が、慌てて近寄って来ようとしていたが、私はそれに構わず、どこか寄りかかれる壁はないかと周りを見渡し、お手頃なのを見つけると、そこまで歩いた。係りの人を含む他の裏方の人達も、何事かと興味の視線を私に向けてきていたが、普段だったらついつい恥ずかしがってしまうのだが、この時は気合が入っていたせいか一切気にならず、それからは時間をかけて、自分の出番になるまで入念にストレッチをした。壁に手を当ててする様な腕や手首のストレッチだけではなく、スカートだというのに屈伸やふくらはぎを伸ばすストレッチまでした。その様子を、周りは暗がりだというのにもかかわらず、驚いている表情が見てとれた。
…もうお気づきだろう。そう、これは、師匠の親友の、京子さんが子どもの頃から欠かさず続けて演奏前にしているという習慣を真似したものだった。師匠の所でレッスンを受ける前には、ストレッチと、指を温めるためにエチュードを何曲か弾くといった話をしたと思うが、このストレッチに関しては京子さん由来だと教えてくれた。それらを含めて思い出し、こうして実践してみたのだ。し終わって分かったのは、普段の時にはストレッチをする意味は、そのままの意味で、ただ単に身体の部位を伸ばすだけの為だと思っていたが、実はそれだけではなく緊張を緩める効果もあるというのに、身を以て知った。どこかしらで聞いたことのある事ではあったが、これは思わぬ誤算だった。私は一人でクスッと笑っていると、ちょうどその時に私の番号と名前がアナウンスされたので、気持ち足どり軽く舞台へと出て行った。
舞台袖から出ると一瞬目が眩んだが、そのままピアノの側まで歩いた。そして客席の方を向くと、思ったよりも暗闇に包まれているのに気づいた。人の姿が見えるのは、一番前から二、三列といった所だった。ただ何となく、暗闇の中に人のいる気配だけはヒシヒシと感じていた。
…こんなに見えないんじゃ、かぼちゃ云々どころでは無いわねぇ。
と、不意に師匠の言葉を思い出し、そんな事を思った瞬間思わず笑ってしまいそうになるのを堪えて、深々とお辞儀をし、顔を上げて客席を見渡し、結局見つけられなかったが、裕美たちがいる事を頭の片隅に過らせつつ、スッとピアノの前に座ると、一度大きく息を吐いてから、しーんと静まり返る会場に向けて、第一音を鳴らしたのだった。

第3話 数寄屋 B

「さて行くか」
「うん」
聡の声に、私と義一が同時に返事をした。それと共に、聡の車は義一の家の前を出発した。
今日はコンクールから十日後の八月頭の土曜日、いつも通りというか、お父さんとお母さんが例の慰安旅行に行っているので、こうしてまた”懲りずに”自分から進んで数寄屋に行きたがり、車中の人となっている。
「そういやまだ言ってなかったな…」
聡はふと、運転をしながらだったので前方を見つつだったが話しかけてきた。
「琴音…決勝進出おめでとう」
「…うん、ありがとう」
普段のガサツな口調ではなく、ある種情感のこもった声音で言われたので、少し戸惑いつつも、素直に感謝の念を返した。助手席に座る義一は、後ろを振り向きニコッとただこちらに微笑んでいた。
…不意に聡に”ネタバレ”をされてしまったが…そう、自分でもビックリなのだが、何とと言うか…無事に全国大会に、東京東地区代表として進出する事と相成った。…コンクールに初出場で、しかも決勝進出だなんて、そんな小説の様な旨い話があるのかと突っ込まれそうだが、当人の私ですらそう思っても、事実は小説よりも奇なりって事なのか、何と言われようとこの現実が事実なのだから仕方がない。今だに、私自身がその事実を受け入れられずにいた。だから、今の聡のように祝られても、自分の事のようには深くは喜べないのだった。
ここで、前回の続きを述べたほうがいいだろう。与えられた四十分ばかりの持ち時間を丁度全て使い切るように弾ききった後、控え室に戻って、着替える事なく他の参加者の演奏に耳を傾けていた。ここでもまず直ぐに気付いたのは、本選まで勝ち進んだ参加者たちの殆どが、予選の時のように途中で演奏を切られていた事だった。そしてこれも同様に、参加者たちはそれに対して何も思わないといった風な無表情で、ただ淡々と課題曲をこなしていくのだった。結局演奏を止められずに弾ききれたのは、私と、予選で一緒だったあの男の子と、あと一人か二人程度だった。全ての参加者の演奏が終わると、係員の指示に従ってまた舞台へと上がった。演奏の時とは違って、客席の照明が点けられていた。チラッと見ただけだったが、今回は直ぐにお母さんたちの姿を見つけた。何故なら、裕美がこちらに向けて、何度か手を胸の前で振っていたからだ。会場の中で、手を振っているのは裕美だけだったので、いくら控えめだったとしても舞台上からは軽く目立っていた。私も一度軽く手をあげて見せて、それに応えた。舞台上には、演奏中には無かったパイプ椅子が、ピアノの後ろに人数分ズラッと並べられていた。演奏順に行儀よく並んでここまで来たので、必然的にその順で端から座った。客席から見て、右端から五番目が私の座り位置だった。それから恐らくお偉いさんなのだろう、フォーマルな格好をした膨よかなオールドミスが、マイクスタンドの前で何やら在り来たりな挨拶をした後、その直ぐ後に、そのまま受賞者の発表となった。本選からは賞が三つほど用意されていて、一番上が決勝進出賞、次に優秀賞、そして奨励賞となっていた。
係員が何人かで準備をしていた。具体的にはテーブルを出したり、その上に何やらゴチャゴチャと物を置いたりしていた。そして女性の側には、いつの間にやらこれまたスーツでビシッと決めた壮年の男性が立っており、指示をジッと待っていた。女性はまず奨励賞の発表からする旨を言った。下から順に発表するらしい。…まぁ、下からと言っても、三位なのだから上位には違いないのだけれど。
数秒ほど間を空けてから、所属の教室名と名前を読み上げられたのは、最後の方で演奏をしていた女の子だった。その子は明るく返事をすると席から立ち上がり、ツカツカっと女性の前に出て行った。その間、客席からは拍手が沸き起こっていた。参加者の方でもみんなで拍手をしていたので、私も見よう見まねで拍手した。暫くして鳴り止むと、女性は男性がおもむろに静々と手渡してきた賞状を受け取ると、それを淡々と読み上げた。そして、それを手渡すと、女の子は深々とお辞儀しつつ両手で受け取った。そしてその後は、流れるように男性が盾やらトロフィーやら渡してきたのを、女性はそのまま丁寧に女の子に笑顔で渡していった。女の子の手元は一杯になり、抱えるような格好になっていたが、それでも満足そうな笑みを浮かべていた。そして客席の方を向くと、受け取ったものが落ちないようにしながらだったので、ちょっと不恰好だったが、深々とお辞儀をして、そして自分の席に戻って行った。そして次に女性は、優秀賞を発表する旨を宣言した。今度は十秒ほど間を空けて見せて、それから名前を読み上げられたのは、あの同じ予選を勝ち抜いてきた、あの男の子だった。
拍手の音と共に、ゆっくりとした動作で立ち上がった男の子の表情は、無表情ながらも、少し上気している様に見えた。 それは何も、照明で熱せられただけのものでは無かっただろう。それからは、男の子は前の女の子と同じ様に、賞を含む記念品を受け取り、客席にお辞儀をし、そして席の戻って行った。記念品は、先ほどのものよりも、一回りか二回りほど大きかった。そして次にまた女性は…今度はこの時点から少し間を空けて勿体ぶって見せてから、決勝進出者の発表をする旨を宣言した。客席の方でも、ここで軽く拍手が沸き起こった。鳴り止むと、女性は今度は二十秒近く溜めたので、その間は会場を沈黙が支配した。全体の緊張感が一気に高まるのを、ヒシヒシと感じた。そして読み上げられた名前は…っと、ここで別に溜めることはないだろう。そう、もう既に聡がバラしてしまった様に、初めに”無所属の”という枕詞を付けてから、私の名前が読み上げられた。その瞬間、今日一番の拍手が沸き起こった。参加者たちも一斉に、先ほど受賞した女の子と、あの男の子も合わせて私の方を見て、それから笑顔で拍手をしてきた。みんな好意的な顔を見せてくれていたが、当の本人である私としては、何が起きているのか分からず、端的に言えば頭が真っ白になっていた。まさか、自分の名前が読み上げられるとは思っても見なかったからだ。それは初めの方でも話したから、分かるだろう。『ほら、行かないと』と、右隣の、私と同じく無所属で出場した参加者の女の子が、微笑みつつそう話しかけてきたので、私は自分でも分かる程にぎこちなく立ち上がると、まるで薄氷の上を歩くかの様に慎重にゆったりと女性の前まで行った。まるで自分の体の様な感覚は薄れて、何かロボットでも操縦しているかの様な錯覚に陥っていた。女性の眼の前まで来ると、女性は男性からまず賞を受け取り、それから客席に向かって話し始めた。
「今年の審査は、困難を極めました。ご存知の通り、我々のコンクールは採点式で、それぞれの項目で加点していくのですが、進出者の望月さん、優秀賞の〇〇さん、規定で点数は言えませんが、この二人でとてもせっていて、ギリギリの攻防でした。何が言いたいのかといいますと、望月さん、彼女は只今紹介しました通り、無所属で参加されまして、その無所属の方が決勝に上られるのは、我らがコンクールの過去の歴史で見ても珍しく、少なくとも東京エリアから出るのは、約二十年振りという快挙なのです。 ご本人、または親御さん方、そして、表には出てきてくれていませんが、彼女の様な素晴らしいピアニストを育てて下さいました指導者の方を前にして恐縮ですが、こうして紹介がてら、賞賛の言葉を述べさせて頂いた事をお許し頂けると有難いです。…では改めて」
とここで、女性は器用にマイクから口を離さない様に私に振り向きつつ、「望月琴音さん、決勝進出おめでとう」と笑顔で言うと、また客席から拍手が起きたので、この手のマナーを知らない私でも察し、取り敢えずその場で立ち上がり、ペコッと大きくまた深々とお辞儀をしたのだった。
それから皆して控え室に戻ると、今回の参加者全員が私の周りを取り囲み、決勝進出を祝ってくれた。男の子は握手を求めてきたり、女の子に至っては、握手だけではなく、中には抱きついてくる者もいた。その抱きついて来たのは、先ほど舞台で私にアドバイスしてくれた無所属枠のあの子だった。そして最後の方になると、まず奨励賞を貰った女の子からは、演奏の良さを褒められたので、私も同じ様な返しをした。…まぁ、ここだけの話、彼女の演奏はよく聞いていなかったのだけれど、でもそれでも褒めてくれた分のお返しはした。そして一番最後に優秀賞を獲った例の男の子。彼は私の前に来ると、一瞬眉間に皺を寄せたかに見えたが、次の瞬間、今まで…と言っても今日で二度しか会っていないから知ったかぶるのはどうかと思うが、見たこともない様な笑みを浮かべて握手を求めてきた。私がそれに応じると、奨励賞の子と同じ様に演奏を褒めてくれたが、少し違ったのは、その後に師匠の事を褒めてきた事だった。私はそれに対してもお礼を返していたが、師匠の名前が出た瞬間、場にいた参加者全員が、眼の色を変えてこちらを見てきた。その変貌ぶりに驚いていると、その時控え室の扉が開けられて、その直後には参加者の関係者がなだれ込んで来た。入るなりそれずれの元へと一目散に向かい、ほうぼうで健闘を讃えていた。最後の方になって、お母さん、師匠、そして裕美の順に入って来た。そして私の姿を認めると、三人とも笑顔を見せて、そしてゆっくり近づいて来るかと思いきや、途端に裕美が私の元へ駆け寄って来た。そしてそのまま私にガバッと抱きついた。
私はそのあまりの勢いによろけてしまい、たまたま壁を後ろにしていたのが幸いして、何とか倒れずに済んだくらいだった。
「ちょ、ちょっと裕美…?」
と、壁に押し付けられる様な形で、思わず苦笑いを浮かべつつそう漏らすと、身長差的に胸に顔を埋める形になっていた裕美は、顔を勢いよく上げると、私の両肩に手をかけて腕の力で勢いよく体勢を戻すと、今度はその掴んだままの肩を大きく揺らしながら「やったね!琴音!」と声を張り上げていた。
「あ、ありがとう」私はそのハイテンションに戸惑いつつ返しつつも、視界の端に見えていた、他の参加者と関係者がこちらに向けて来る微笑ましげな表情に恥ずかしくなり、何とか抑えようとしたが、無駄だった。
「凄いじゃない!決勝進出よ!」
「ちょ、ちょっと、裕美?それくらいにして…」
他の参加者が気を悪くするんじゃないかと気が気では無かったが、周りを見渡してみると、そうでもないらしい。相変わらず苦笑気味だったが、微笑んでいるのには違いなかった。奨励賞の子と優秀賞の子も同じだった。
他の人が良いならいいかと、しばらくそのままにされるがままでいた。
裕美が落ち着くと、それを待ち構えた様に、今度はお母さんが私に抱きついてきた。裕美と違い、お母さんは私よりも身長が高いので、今度は私の方がお母さんの胸に顔を埋める形になった。
「おめでとう琴音!本当におめでとう!」
私から体を離してそう言うお母さんの目は、若干潤んでいる様に見えた。…いや、もしかしたら一度既に涙を流した後なのかも知れない。そうだろうとは思ったが、それについてなにか言うほど、それ程には無粋では無かったので、それには触れず「うん」と短く、でも飛び切りの笑顔で返した。お母さんも笑顔でうんと頷くと、チラッと後ろを振り向いた。そこには師匠が黙って立っていた。キチンと(?)マスクをしたままだ。お母さんが何も言わずに笑顔で横にずれると、師匠はゆっくりと私の前に出た。
師匠はほんの数秒ほどだったが、何も言わずに私をただ見つめてくるのみだったので、私も同じ様に見つめ返していた。今までにないパターンだったので、この師匠の様子にどう対応したらいいのか思い倦ねていると、不意に師匠は前触れもなくマスクを外した。そこには、柔和な笑みを浮かべた師匠の顔があった。私もつられる様に微笑み返そうとしたその時、ふと師匠の両目に涙が溜まってきたかと思うと、その涙が溢れるか溢れないかというその瞬間、ガバッと私に抱きついてきた。 そして押し込んだ様な小さな声で、「よくやったわね…よくやったわね…おめでとう」と繰り返し耳元で囁くのだった。師匠はお母さんよりも更に大きかったので、似た様な状況になったが、その涙を見たせいか、私の目にも自然と涙が溜まって行くのを感じた。私からも師匠の背中に腕を回し、同じ様に小さな声で「はい」とだけ返すのだった。これは後でお母さんに聞いた話だが、その様子を見て、自分と裕美が涙ぐんでしまい、ふと二人目が合うと、照れ臭そうに笑い合っていたらしい。とまぁ、この時ばかりは先ほどと違って、周りの目が気にならないほどに、色んな意味で一杯になったのだった。
それからは予選の時と同じ様に、軽く雑談などをしていたのだが、結局師匠は他の参加者や関係者に囲まれてしまっていた。師匠は私から離れるなりまたマスクをしたのだが、それでも例の男の子が私の師匠をバラしてしまったが為に、変装しても無駄になってしまった。この時の師匠は、その経緯を知らなかったので、何でバレたのか訳が分からないといった調子でオロオロと狼狽えて、私の方を見て助けを求めるかの様な視線を送ってきていたが、弟子だというのにそんな師匠の様子を面白おかしげに、微笑ましくただ見ていたのだった。隣にいた裕美も同じくその光景を見ていたが、何のことだか当然分かっていなかったので、呆然と見てはいたが、それでもどこか好奇心に満ちている様な、何とも言えない笑みも覗かせていた。ふとお母さんの方を見ると、丁度私と目が合い、一瞬ただ見つめ合ったが、その直後にはお互いに微笑み合うのだった。
後は参加者みんなと挨拶して、励ましの言葉を貰いつつ一番先に部屋を後にし、決勝進出者はこの場でエントリーをしなくちゃいけないというんで、まず衣装を着替えてからその後受付に向かい、エントリーシートに名前を書いたのだった。ちょうどその時、舞台で賞を渡していた女性が受付に顔を見せて、私に気づくと改めて、今度はくだけた調子でお祝いの言葉をくれた。それに対して感謝の言葉を返すと、激励の言葉もくれたので、それにまた応じると、不意にシートに書き込む私の背後に立っていたお母さんたちに視線を移すと、笑顔で深々とお辞儀をして、私に掛けてきた言葉と同じ様な内容を掛けていた。
それに対し、裕美も含めた三人が私とこれまた同じ様な返しをしていたが、ふと女性がお母さんに 「あなたが師匠さんですか?」と聞いたので、お母さんは「いえいえ、私はこの子の母親です」と返した。それに対して女性は勘違いを詫びつつ改めてお祝いを述べると、お母さんはそれに対してまた繰り返し感謝を述べた。それから私の友達だと裕美を紹介したので、裕美が軽く笑顔で一度お辞儀をすると、今度は師匠の肩に軽く手を触れつつ「この方が、娘の師匠ですわ」と紹介した。この時には紙に必要事項を書き終えていたので、係りの人に内容を確認してもらっている間、振り向き師匠の方を見た。師匠は紹介されると、少し気まずそうに、本人もあまり意味がないことは知っていただろうが、マスクを気持ち上に上げた。それを見て、思わずにやけそうになるのを我慢して、事の成り行きを黙って見ていた。「あぁ、あなたがそうでしたかー」と女性はここで一番テンションを上げて師匠に握手を求めた。師匠はマスク越しでも分かる程に苦笑いしつつ応じた。女性は手を離すと、まず私の事を褒め称えつつ、その指導についても褒め称えた。それに対して、相変わらず押され気味に戸惑いつつ返していたが、この時ばかりは少し口調もハッキリ目に「いえいえ、私は何もしていません。全てはこの子の力ですよ」と返していた。それを聞いていた私の気持ちは、言わなくても分かるだろう。女性はそんな謙遜な態度をまた褒めつつ、調子を変えないまま、「何故指導者登録をなさらないのですか?」と聞いていた。私自身、この時まで知らなかったが、このコンクールには”指導者賞”というものもあるらしい。これは、教え子が優秀な成績を残すと、それと同時にその指導者にも褒賞を与えるというものだった。一口に言ってしまえば、賞金が出るのだ。下世話な話だが、ここまで話したのだから仕方ない、具体的な金額を言えば、五万円ほどだった。これについて、高いと思うのか安いと思うのかは、聞いて下さっている方々にお任せする。
それはともかく、そう聞かれた師匠は、うーんと軽く悩んで見せたが、これは長い付き合いの私には分かった。何も今この瞬間に考えているのではなく、話そうかどうしようか悩んでいる様子だった。だが、結局マスクをしたままだが、視線をハッキリと女性に向けつつ、また少し意志を示す様にハッキリとした口調で返した。
「先ほども申し上げました通り、この結果は全てこの子の実力で得られたモノなので、 一介の私ごときがこの子の努力の結果に乗っかる形で出しゃばるのは、そのー…私の主義ではないので、それで届け出てないのです。…あ、いや、別にこちらのコンクールにケチをつけたいのでは無いんですが…」
途中から少しマズイと判断したのか、師匠の口調に焦りが混じったまま言い終えた。その間、女性は無表情で師匠の事をまっすぐに見つめていたが、話し終えた後、ほんの数秒ほど何も言わずに黙っていたが、途端にまた先ほどまでの笑みを戻したかと思うと、今度は断りも無く不意に師匠の手を握ると、明るく話しかけた。
「いやー、素晴らしい!今時そんな考えを持った方がいらっしゃったんですね!いやー、今時ない様な師弟関係です。感銘いたしました」
「あ、いや…」
私から見てもそうだったが、師匠からしても意外だったらしく、見るからに戸惑っていたが、それには関心が無い様子で、その後もツラツラと師匠の事を褒めちぎっていた。
それからしばらくしてようやく解放されると、四人揃って会場を後にした。夕方の四時ごろだった。その後は四人で適当なお店を見つけて入り、そこで夕食を摂ると、地元に帰り、今日はみんなお疲れだからという事で、裕美のマンション前で裕美と別れ、その後は師匠を師匠宅まで送るという、予選の時と同じ流れに相成った。別れ際、師匠に対して、女性に投げかけていた言葉に対して、何か自分でもハッキリとはしなかったが、無性にお礼を言いたかったのだが、心情に当たる言葉を見つけられず、そのまま無理に言葉にしても、嘘になり、かつまた不要に軽くなってしまうのを恐れた私は、最後に玄関前で大きく深くお辞儀をして、「今日は有難う御座いました」と誠意を示すために、これ以上ないくらいな挨拶をした。師匠はそんな私の仰仰しい態度に苦笑いを浮かべたが、師匠の方でも深々と頭を下げて、そして顔を上げてから笑顔で「どういたしまして。…こちらこそ有難う」としみじみ言うので、これには少し動揺してしまったが、その直後にクスッと笑って見せたので、私も合わせる様に笑い返すのだった。
…とまぁ、相変わらず長すぎる回想を述べてしまったが、これが事の顛末だ。ついでに話すと、その週の土曜日、今度は裕美のお母さんを合わせた五人で会って、私のお祝いと称して、予選を突破した時にも行った地元の焼肉屋さんに行ったのだった。それでその次の週の土曜日…一番最初に戻る。
最初に自分から進んで数寄屋に向かう車中の人とは言ったが、軽くネタバラシをすると、厳密には違っていた。コンクールを終えた日の晩、私は早速義一、絵里、美保子、百合子に結果を報告した。皆して前回と同じ様に手放しで喜んでくれて、わざわざ電話をくれたのだった。美保子に至っては、アメリカにいたというのにだ。シカゴは朝の七時だったらしい。ちょうど来週に日本に戻るというんで、その流れでお祝いをしたいと言ってくれた。私は初めは「別にいいよ」と返したのだが、有り難く好意に甘えることにした。それからはなし崩し的に話が進み、義一や百合子にも話が通り、最初にも言ったがちょうど両親が慰安旅行に行く日とも重なって、それで今日数寄屋に行くことになったのだ。これは聡に聞いたが、今日はたまたま私がまだ面識の無い他のメンツも来るというんで、それでも良いかと珍しく不安げに聞かれたが、それはそれで私にとっては願ったり叶ったりだったので、快く返したのだった。それで今に至る。
「…ちょっとー」
ふと、車に乗ってから静かだった私の隣に座る女性が、漸く口を開いたかと思えば、明らかに不満げな口調で声を漏らした。
「後どれくらいで着くのよぉ?」
「ふふ、どれくらいって…」
義一はわざわざ体を捻って、真後ろに座る女性に向かって苦笑いを向けた。
「絵里、まだ出発したばかりじゃないか」
「だってぇ」
「…あははは!」
と今度は聡が愉快げに豪快に笑いつつ言った。
「相変わらず堪え性のない、落ち着きの無いお嬢さんだ」
「…ふん、おっさんは黙っててよ」
「おっさんかぁ…ひどい事言うなぁ」
そう返す聡の口調からは、落ち込んだ様子は微塵も見られない。
そのアンバランスさに私が思わず「ふふ」と笑みをこぼすと、絵里はこちらを見て、これまた今にも溜め息つきそうな笑みをくれるのだった。
…ここで、何で数寄屋に行く車中に絵里も同行しているのか、当然説明がいるだろう。また軽く触れるはずが長くなってしまうかも知れないことを予め謝っといてから、訳を話そうと思う。
発端はかなり最近の事、幸いにも夏休み中だというんで、平日の水曜日の昼間に”宝箱”を訪れたのだった。
普段の事もあったが、この時は勿論コンクールの結果を直接話すためでもあった。この時も、予選の結果を話したときと同様に、絵里も来ていた。駅前でスイーツを買ってきてくれたのまで同じだ。全体の内容もほぼ同じだ。お母さんにスマホに送ってもらった写真を、三人で仲良く一緒に小さな液晶を覗き込みつつ見た。義一も絵里も、それぞれ個性のある表現をしてくれた。絵里の事で言えば、取り敢えず始終「可愛い!」といった感じだ。…自分で言ってて恥ずかしい。
それはともかく、それからは前とは違いすぐにピアノで本選そのままに、課題曲を弾いて見せた。義一も絵里も手放しで喜んでくれた。人に褒められると、それを素直に受け止めずに、その意図から考えてしまう癖のある私だが、この二人からの賞賛は素直に受け止められるのだった。これは今更言うまでも無いだろうけど。
それから暫くは歓談していた。勿論というか…まぁ言うと、先ほどの美保子の様に、お祝いしたいという内容だ。どうしたら、私みたいな面倒な境遇にいる…いや、自ら陥れている子を、何処かに連れ出して祝えるのかという事だった。まさに今話したその通りに絵里がズバッと言ったので、私も義一もただ何となく照れ臭そうに苦笑いを浮かべるしか無かったのだが、ふとその時、玄関がガラガラっと喧しい音を立てて開けられた。この時は宝箱のドアを閉めていたのだが、それでもよく聞こえた。ミシミシと廊下の古い木々を言わせながらガサツな足取りで近付いてきたかと思うと、バンとこれまた前触れもなく乱暴に開けられた。そこに立っていたのは、何と聡だった。聡はポロシャツにジーンズと、まぁ普通の格好をしていたが、少しサイズが小さめなのか、出っ張ったお腹が強調されていた。
「おーい義一来たぞー…って、あれ?」
聡はワザとらしく驚いて見せて、私たち三人の顔を見ると、声も驚きを隠せない体で言った。
「琴音じゃねぇか!なんだ来てたのか、奇遇だなぁー…っと」
聡は今度は絵里の方を見ると、ジロジロと遠慮なく舐め回すように見てから、意地悪げな笑みを浮かべつつ、口調もネットリと言った。
「琴音とここで会うとは意外だったが…もっと意外な奴が来ているな。絵里じゃねぇか」
「…久しぶりだね、聡さん」
絵里も目付きはジト目だったが、口元は若干緩めつつそう返した。
「おう、久しぶり。…なんだぁ?相変わらずその変なおかっぱ頭をしてんのかよ?折角の美人が台無しだぜ」
「ふふ、褒めてくれてありがとう。…聡さんは、ますます”おっさん”らしさに磨きをかけているね?そのお腹とか」
と絵里がお返しとばかりに聡の姿を舐め回すように見てから、大きく出たお腹に指をさしつつニヤケて言うと、聡は角刈りの頭をポリポリ掻きつつ苦笑いで答えた。
「なんだよー…こっちが褒めたんだから、お前も俺を褒めるところだろ普通ー」
「あら?褒めてなかった?」
「あのなぁ…」
「ふふ…あっ」
いきなり目の前で息の合ったやり取りを見せられて、また思わず吹き出してしまったが、当然の事として一つの疑問が湧いたので、すぐさま聞いて見ることにした。
「ねぇ、二人って知り合いだったの?」
「え?」「ん?」
私がそう言葉を投げかけると、絵里と聡はほぼ同時に私に顔を向けた。そしてお互いに顔を見合わせると、その直後にはまた揃って私に顔を向けた。でも時折お互いの方に視線を流しつつ。
「知り合いっていうか…まぁ知り合いか」
「そうね、そこにいるギーさん繋がりで」
と絵里が言いつつ義一の方を見ると、当人は我関せずといった調子で、呑気に紅茶を啜っていた。それを見た聡は見るからに呆れて見せつつ、
「そういや俺にも何か出してくれよぉ…炎天下の中歩いて来たから、喉乾いちまった」
と言うと、義一は「はいはい」と如何にもやる気無さげにゆっくり立ち上がると、大きく伸びをして見せ、そしてのっそりとした足取りで部屋を出て行った。
「やれやれ…客人に対しての態度がなっちゃいねぇんだからよ」
「誰が客人なの?」
とすかさず絵里が意地悪く突っ込むと、聡は無駄だと判断したのか、何も返さず頭をポリポリと掻くのみだった。
一連の流れをまた笑って見ていたが、さっきの続きを聞くことにした。
「三人はじゃあ長いの?」
「ん?んー…どうだったかな?」
「え?そうねぇー…まぁ少なくとも、私とギーさんが大学生だった頃からだから、長いとは言えるかもねぇ」
「そうなんだー。キッカケとかあるの?」
「キッカケ?…ってなんだっけ?」
「一々私に振らないでよぉ…んー、何だっけ?ギーさん?」
「…え?何?なんの話?」
義一はちょうど片手に氷入りのスポーツドリンクで満たされたグラスを持って戻って来たところだった。
「はい」と義一が手渡すと「お、サンキュー」と聡は呑気な声を上げつつ受け取り、すぐさまそれに口を付けた。
「アレよアレ」
「…いきなりアレって言われても」
と義一が苦笑気味に返しつつ座ると、聡が会話に横槍を入れてきた。「そういや、俺の席は無いのか?」
「聡兄さんの席?それなら…」
義一はそこで切ると、何も言わずに開け放たれて見えている廊下の方に指をさした。
「あっちにあるよ」
と悪戯っぽく笑いつつ言うと、「へいへい、自分で取ってきますよ」と不満を隠そうとしないまま、しかし口調は愉快さを滲ませつつ部屋を出て行った。
「やれやれ」
「…ちょっと、ギーさん?」
「あ、あぁ、ゴメンゴメン…。で、何だっけ?」
「もーう、アレよアレ!」
「だから…アレって言われても分からんよ」
「え?あ、あぁ、そっか…。ほら、私たち…聡さんとも長いけど、聡さんと私って、何がキッカケで知り合ったんだっけ?」
「え?あ、あぁ、その事かぁ…んー、覚えてないな」
「…なーんだ」
私は本人たちはその気はなかっただろうが、何だか話を引っ張られた挙句にこんな結末だったので、すっかり肩透かしを食らった気分になり、不満タラタラに声を出した。
「結局誰も覚えてないのね?」
「んー…そうだね」
と義一が照れ笑いを浮かべつつそう返すと、
「…まぁ、人間関係なんてそんなものなのよ!」
と絵里は逆に、妙に明るいテンションで開き直り気味に言うのだった。何だか勢いで誤魔化された気がしないでも無かったが、それでこの場は引き下がることにした。
聡が絵里のように食卓から椅子を持ってくると、正方形のテーブルの空いてる一辺の前に置いて座った。絵里の時も感じた事だったが、いつも二人で過ごしていたせいか、ほんの一人か二人が来ただけで、何だか急に部屋が狭く感じた。とても賑やかになったようだった。これは絵里と聡のキャラクターだけでは無かっただろう。
それはさておき、何だか恒例になってしまったが、絵里が急に自分のカップを手に持つと、「では、お疲れー!」と言いながら前に突き出したので、私を含む他の三人は慌ててそれに合わせて互いのグラスとカップをぶつけ合った。流石の聡も前触れもなく突然されたので、軽口で突っ込む余裕が無かったようで、そのまま付き合うのだった。
そして皆して一口飲むと、途端に聡が苦笑気味に絵里に声を掛けた。「まったく…お前のその”乾杯グセ”は相変わらずだなぁ」
「え?別にいいじゃなーい?それに、厳密には乾杯じゃないよ?杯を乾してないんだから」
「はぁーあ、減らず口も変わらねぇな。そもそも自分で『かんぱーい!』って言ったんじゃねぇか…」
そう返す聡の表情は明るかった。
と、聡はふと他の三人の手元のカップを見ると、絵里に意地悪げなニヤケ面を見せつつ言った。
「…しっかし、義一、お前も相変わらずだなぁ。こんな凝った茶器を出してもてなすなんて…どっかの誰かよりも、よっぽど女子力が高いぞ?」
「あらぁー?」
それを聞くなりすかさず絵里は、思いっきり目を細めて不満を露わにしつつ、テーブルの上にまだ置かれたままの、ケーキの残骸に目を配りつつ返した。
「ここにあるケーキは誰が持って来たと思ってるのー?私がわざわざ持ってきた物なのよ?」
「あ、これ、ケーキだったのか?」
聡もテーブルの上を見渡しつつ言った。
「なーんだ…だったらもっと早くに来るんだったぜ。そしたら俺も食べれたのに…」
「ちょっとー?ちゃんと私の話を聞いてた?」
「…ふふ」
私はまた同じように、目の前で繰り広げられていた軽口合戦に吹き出して笑ってしまった。それを見た絵里と聡、そして私と同じ様に黙ってやりとりを見ていた義一も、合わせる様に明るく笑い合うのだった。
「はぁーあ…しっかし、さっきも言ったが、ここで会うのは珍しいなぁ…お前、何で義一の所に来てんだ?…あ、まさか、お前ようやく素直に…」
「…ちょっと聡さん?何を言おうとしてるのかしら?」
絵里はすかさず口を挟んだ。字面にすると上品な感じだが、実際は若干慌て気味に、そしてドスを効かせた声音を使っていた。
「いーや、何でもねぇよー?」
とそんな絵里の様子を介する事なく、聡は呑気に間延び気味に返すのだった。絵里は誤魔化したつもりだったろうが、流石の私でも今のやり取りの意味が分かったので、横目でチラッと義一の表情を伺ったが、当人は相変わらずと言うか、先ほどの軽口合戦をしていた二人に向けていたのと同じ、和かに微笑むだけだったので、実際にはしなかったが、心の中で大きく溜息をついたのだった。
「そう、何でもないよねぇー?…って、私からも質問だけれど」
絵里はまだジト目を聡に向けたままだったが、そのまま聞いた。
「聡さん、あなたこそ何で今日ギーさんの所に来たの?タダ水を貰いに来ただけ?」
「おいおい…”タダ飯”ってのは聞いたことあるが、”タダ水”ってのは初耳だぞ?…あ、あぁそうだった。おい…」
聡は呆れ気味に絵里に返していたが、ふと何かを思い出した様で、今度は義一に話しかけた。
「そういや先生から…というよりも、浜岡さんから伝言なんだが、進捗状況を聞いてこいって言われたんだが…どうだ?」
「…え?あ、あぁ…」
とここで義一はふと書斎机の方に視線を流しつつ答えた。先ほどは触れなかったが、机の上は普段見ている時よりも乱雑になっていた。少し具体的に言うと、色んな十何冊ばかりの本が雑多に置かれており、プリントの束のような物も上部を埋め尽くすが為のように置かれていた。
「うん、まぁまぁってところかな?」
「そうか。…まぁ、いつも通りちゃんと間に合うようだって伝えとくよ」
「うん」
「…それって」
と私も義一に倣うように机の方に視線を流しつつ聞いた。
「毎年のアレと関係があること?」
「あ、うん、そうだよー」
義一は私に微笑みつつ答えた。
「…ちょっとー」
と今度は絵里までもが、机の方を見つつ、少し不満げな声で言った。「本はもうちょっと慎重に扱ってよねぇ?あの中に、うちから借りてるのもあるんでしょ?」
「え、あ、うん…気をつけます」
義一は悪戯が見つかった子供のような笑みを浮かべつつ返した。
すると聡が絵里に向かってニヤケつつ「まるで司書みたいだな?」と声をかけると、すかさず絵里は「司書ですけど?」と無表情で返したかと思うと、今度は絵里の方がニヤケつつ聡に「…それに引き換え、聡さんは全く教師に見えないね?」と返した。
聡は「余計なお世話だ」と苦笑気味に返すのみだった。
「…で?」
と、仕切り直しだという風に聡が一口飲んでから言った。
「今日のこの集まりは結局何なんだよ?」
「それはねぇ…」
義一は待ってましたと言わんばかりに、私に視線を向けつつ笑顔で言った。
「琴音ちゃんがピアノのコンクールで全国大会に出場する事が決まったから、そのお祝いと健闘を祈ってというんで、何か出来ないかを話し合っていたんだ」
「…へ?そうなのか?コンクール?」
「あ、う、うん…」
あ、そういえば…連絡先知っているのに、聡おじさんには何も話していなかったなぁ…
とこの時になって初めて気づき、一人で気まずい思いをしていたのだが、当の聡はそれには思いが至らなかったらしく、「なるほどなぁー…」と一人呟いていた。
「んー…あっ」
とここで不意に声を上げたかと思うと、私に話しかけてきた。
「琴音、今週って、数寄屋に来れるか?」
「え?う、うん…元々行くつもりだったけど」
その旨は義一にはすでに伝えていた。
「そっかー…んー…うん!」
聡は私に返答を聞くと、軽く考えて見せたが、ウンと大きく頷くと、今度は絵里に話しかけた。
「絵里、お前…今週の土曜日暇か?」
「え?何?藪から棒に…暇かはともかく、図書館のシフトは入ってないけれど…?」
絵里は何を聞かれているのか分からないといった風で、少し不審げに返した。それを聞いた聡は、絵里とは真逆に明るい笑顔を浮かべると、口調も明るくまた声をかけた。
「じゃあよ、大した予定も無いんだったら、お前…俺たちと一緒に数寄屋に来ないか?」
「え?」「は?」「え?」
絵里、義一、私は同時に驚きの声を上げた。聡はそんな三人の反応が面白いのか、ニヤニヤしている。
「…何言ってんの?」
まず声を出したのは義一だ。見るからに戸惑いを隠せないといった調子だ。
「それ…本気で言ってる?」
「おう、本気も本気よ」
聡は相変わらず呑気な調子を崩そうとしない。
「何でまたそんな事考えたんだよ?」
と義一が今度は目を細めて聞くと、聡は悪戯っぽく笑って見せ、まだ驚きっぱなしの私と絵里の顔に視線を流しつつ言った。
「だってよぉー…要はお前ら、琴音を祝う為の”場”が欲しいんだろ?その場なら、どこよりも数寄屋がうってつけだろうよ。料理の腕にしたって、あのマスターとママ…この二人以上っていうのは、ちょっとやそっとじゃみつからねぇし、それに何より…」
とここで聡は、顔を私に直接向けて言った。
「琴音自身、あの場が気に入ってるんだから、喜んで俺の案を受け入れてくれるだろうよ。…どうだ、琴音?」
「…え?え、あ、う、うん…」
初めは何を言い出すのかと思ったが、今の聡の話を聞くと、途端に良さげな提案に思えた。…後は、絵里がどう思うかだけだった。
すぐに答えるのも何だと思ったので、少し溜めてから返した。
「…うん、確かに悪く無い提案だけれど…」
とここで言葉を切って、ふと絵里の顔を見た。
と、絵里もこちらを見たので目が合った。絵里は相変わらず戸惑っている風な表情を浮かべていた。
「絵里さんがどう思うか…どう、絵里さん?絵里さんさえ良ければ…一緒に来てくれると嬉しいんだけれど…」
「琴音ちゃん…」
とここで不意に義一が私に声を小さく掛けてきたが、この時の私は気づかなかった。その顔に、戸惑いの表情を浮かべていた事にも。
「…んー」
私に声を掛けられて、絵里はようやく口から声を漏らした。顔も伏せ気味で、考え込んでいるようだった。とここで、絵里はチラッと義一の顔を覗くような素振りを一瞬見せた。顔色を伺うようだった。この様子はこの時にも私は気付いたが、特に深い意味があるとは思わなかった。
絵里は一度大きく息を吐くと、私にため息交じりに言った。
「はぁー…琴音ちゃん、前にここで会話した時の事覚えてる?その時の私の言い方で察してると思うけど、あまりそのー…あなたがそこに入り浸るのに対して、良いとは思ってないのよ。でも、これも言ったと思うけど、あなたが自分で進んで、そこに集う人々と付き合って、お喋りしたりして過ごしたいというのなら、その考えを尊重したいとも思っているの。…あ、いや、何が言いたいのかっていうとね?んー…」
絵里はここまで、とても言いにくそうに、普段の竹を割ったような口ぶりとは程遠い、辿々しく言葉を紡いだが、ここでフッと優しい笑みを零すと、口調も穏やかに言った。
「琴音ちゃん、あなたがどうしても一緒に来てと言うのなら…私はそれでも喜んでそのお誘いに乗るわ」
「絵里さん…」
私は、その言葉の裏にある色々な配慮を感じて、胸が一杯になるのを覚えつつ、笑顔で静かに「ありがとう」と言うのだった。
それに対して、絵里も「どういたしまして」と、今度は満面の笑みで返すのだった。
と、絵里はここで一瞬寂しげな笑みを見せたかと思うと、義一に顔を向けて言った。
「ギーさんも…私が行く事に、文句はないでしょ?」
「…文句ってほどの事は無いけど…」
声を掛けられた義一は義一で、何だか顔に影を差したような様子を見せていたが、フッと見るからに力を抜くと、静かな笑みを見せて
「…絵里、本当に良いんだね?」
と聞くと、
「えぇ、私は構わないわ。…ギーさん、あなたが良ければね?」
「…そっか」
「…?」
この一連の二人の会話を聞いて、何だか数寄屋…いや、数寄屋に関連する何かについて、この二人の間に何か大きな問題が横たわっているんじゃ無いかと、この時私は思ったが、この雰囲気の中でその中身を聞くほどには、流石に良くも悪くも肝が座っていなかったので、この場はそのまま流す事にした。
義一はフッと絵里に笑みを向けると、私にもチラッと見せて、それから聡に声を掛けた。
「まぁ…こうして二人が言うんだったら、僕は何も言う事ないよ。じゃあ今週の土曜日、四人で数寄屋に行こう」
「よし、じゃあ決まりだな!」
聡は今までの会話を聞いていたはずなのに、何だかそんな暗い空気が流れていたのを無視するかの様に明るく振る舞った。
それからはコロッと話題が変わって、私のコンクールの話を中心に雑談し、聡が自分で学が無いと断りつつも、それでも私の演奏を聴きたいと言い出したので、仕方ないなと取り敢えず予選の時の課題曲を弾いて見せたのだった。
とまぁそんなこんなで今に至る。先に断った通り、やはり長めの回想になってしまったが、ここからが本編だ。

車は毎度同じルートを辿り、都心の繁華街を抜けて例の駐車場に着いた頃には夕方の5時半になっていた。まだ勢力の強い西日が差し込み、ジッとしてるだけでも汗がじんわりと肌の上に浮き上がるのを感じた。車から降りて周りを見渡すと、見覚えのある車が何台か停まっていた。それはマスター夫婦のものと、後百合子のものだった。どうやらもう来ているらしい。絵里は初めてだからだろうか、まるで私の時と同じ様に、ただの変哲の無い駐車場だというのに、周囲を興味深げに見渡していた。…いや、ここに来る途中も、どうやら思っていたのと違っていた様で、一通だらけの住宅地の中を車が入っている時も、窓の外をジッと眺めていたのだった。
「さて…行くか」
車に鍵をした聡の一声で、私たちはゾロゾロと歩き出し、すぐ脇の数寄屋へと向かった。
店の前に着くと、絵里はまた私の時と同じ様に、「ふーん…」と声を漏らしつつ、店の外観を舐める様に見渡していた。
聡と義一は、そんな様子の絵里を苦笑い気味に微笑みつつ見ていたが、聡が不意にドアを開けたので、それを合図にまたゾロゾロと中に入って行った。絵里は私の後ろから付いて来た。最後尾だ。
「あら、いらっしゃい」
入るなり明るい声で出迎えられた。ママだ。ママはシンプルかつ洗練された例の制服に身を包み、セッセと飲み物の用意をしているところだった。
「お邪魔するぜ」
「今日もよろしく」
聡、義一の順にママに返事をしていた。私もそれに続こうとしたのだが、それは叶わなかった。何故ならママに先手を取られてしまったからだ。
「おっ、今日の主役のお出ましだ!」
ママは私の方を見ると、さっきまでの表情も笑顔だったというのに、ますますその度合いを強めて、両手をナプキンで吹いてから、ワザワザカウンターの外まで出て来て、私に握手を求めてきた。
「いらっしゃい琴音ちゃん!今言うのはアレかも知れないけれど…決勝進出おめでとう!」
「あ、ありがとう」
ママが私の手を乱暴に振りつつ言うので、若干引き気味に返してしまったが、ちゃんと笑顔で返事が出来た。
ママはウンウンと一人満足げに頷くと、いつもの様にカウンター内で何やら料理の下ごしらえを黙々しているマスターに声をかけた。
「ほーら、あなた!あなたからも何か声をかけてあげてよ?」
「…あ、あぁ…」
私の位置からは手元が見えなかったが、何やら道具を置いた音がしたかと思うと、マスターは無表情でこちらを見た。それからほんの数秒間、何も言わずにいたので軽くにらめっこしている様な形になったが、ふと口角を軽く持ち上げて見せて、「…おめでとう」とボソッと言った。
「…もーう、あなたったらぁー…ゴメンね琴音ちゃん、ウチの人があんなんで」
とママが顔をマスターに向けながら呆れ口調で言うので、
「え、あ、いえいえ!そのー…ありがとうございます」
と私が声を掛けると、作業に戻っていたマスターだったが、こちらを見ないままにコクンと頷いてくれた。私には、それだけで十分だった。
「まったく…あ、あなたは…」
ママはため息交じりにこちらに向き直ったが、ふと私の背後に視線を向けた。私も後ろを振り向くと、先ほどから店内を見渡していた様だったが、声を掛けられた絵里は丁度笑顔を軽く浮かべて挨拶するところだった。「あ、わ、私は…山瀬絵里と言います。この子…琴音ちゃんの友達です。今日はお世話になります」
そう言い終えると、頭を一度深く下げるのだった。
「あらあら、これまたご丁寧に。…ゆっくりしていってね?」
ママは何だか大袈裟に驚いた様な動きを見せていたが、すぐに柔和な笑みを浮かべて言った。
「はい」と絵里も同じ様な笑みで返すのだった。
それからはすぐに店の奥、濃い赤色のカーテンをズラし、そこに現れた両開きの磨りガラスの扉を聡が開けたその後を、また順に入って行った。
と、中に入るなり聞き覚えのない男の声が聞こえてきた。
「おっ、義一じゃないか!久し振りだなぁ」
「武史も元気そうだ」
背中越しだったので分からなかったが、心なしか義一の声から少しオフザケムードが漂っていた。どうやら心安い間柄らしい。
義一がそんな挨拶を交わしつつずっと動かないままでいたので、横にスッと動いて前を見た。例のテーブル席、向こう側の定位置には美保子と百合子が座っていたが、以前に聡が座っていた辺りには、スーツ姿の見慣れぬ男性が座っていた。普通に座っていたらドアを背後にする形だったので、わざわざ体を捩りつつコチラに顔を向けて、義一にニヤケ面を見せていた。座っていたので、この時はどれほどの体格の持ち主かは分からなかったが、顔は義一とはまた別のタイプの童顔で、義一を女顔タイプだと分類すると、この男性はあえて例えるなら、何だか小動物系…もっと具体的に言うと、リスに似ていた。目がくりくりしている所なんかもソックリだった。
それからは聡がまず動きだし、
「おぉー、久し振り…って、そこは俺の席じゃねぇか」
「えぇ…別にいいじゃないですか」
そう言いながら男性は約一人分のスペース分横にズレた。聡は普段から座っている辺りに腰を下ろし、それから美保子たちにも挨拶を交わした。
聡と男性のやり取りの間、義一はじっとしていたわけではなく、何も言わずに、男性が一人ぶん横にズレた為に、義一も一人分横にズレた位置に座った。細かく言えば、聡、男性、義一の順だ。
私も何気なく義一の後に付いて行こうとしたが、「琴音ちゃーん」と不意に大きな声で話しかけられた。その声の方を向くと、すでにその時には、豊満でふくよかな身体に捕らえられていた。つまりは抱きつかれたのだ。そう、言うまでも無いだろう。美保子だった。
「おめでとーう!良くやったわね!」
「く、苦しい…」
私は冗談ぽく呻き声をあげて見せた。まぁ…実際に息苦しかったのは内緒だ。
「あははは!ゴメン、ゴメン!」
そんな私の声を聞くと、途端に勢いよく私から体を離すと、底抜けに明るい笑顔で、豪快に笑いつつ言った。
私はやれやれと苦笑いを浮かべて首を横に振ったが、そのすぐ後で優しく微笑みつつ「うん、ありがとう」と返した。
美保子はそれには何も返さず、ウンとそのままの笑顔で頷くのみだった。
美保子は私の腰に手を当てて席に連れて行こうとしたが、その時ふと後ろを振り返った。私も振り向くと、そこには当たり前だが絵里が立っていた。因みにここで言うのもなんだが、絵里にしてはかなりラフな格好をしていた。私と同じ様な格好だ。上が無地のTシャツに、下がスキニータイプの七分丈のジーンズ姿だった。聡に宝箱での会話の後、最後に絵里のその時の格好を見て、「数寄屋に行くときは、変にオシャレして来ないでくれよ?簡単な格好で来てくれ」と言われたのに対して、忠実に守った結果らしい。ついでと言っては何だが、美保子も、そして向こうにいる百合子も相変わらずラフな格好で来ていた。百合子は私と似た様なものだったが、流石に美保子には無理だったのか、ダボダボのヨレたTシャツに、ブカブカのパンツ姿だった。…失礼な物言いに聞こえたかもだが、これは私と美保子の間だから許される言い方だ。
それは置いといて、相変わらずまた部屋に入るなり辺りを見渡していた絵里だったが、ふと美保子と目が合うと、自然で静かな笑みを浮かべつつ、小さくぺこりと頭を下げた。美保子も釣られるように一度頭を下げた。それからほんの数秒間、美保子はおもむろに絵里の様子を上から下、下から上と視線を何往復かさせつつ見ていたが、なぜかここでニコッと笑うと、
「…なるほど、あなたが絵里さんね?」
と声を掛けた。
「…え?え、あ、は、はい、そうです…けどぉー…何で」
知ってるんですか?と言い終える前に、美保子が今度はにやけつつ口を挟んだ。
「何で知ってるのかって?それはねー…」
美保子はここでもう着座して何やら男性と談笑している義一の方をチラッと見てから続けた。
「…”誰かさん”に何度も話を聞かされているからね!」
「は、はぁ…」
絵里は納得いくようないってないような生返事をしつつ、軽く義一の後頭部に視線を流した。と、絵里はここで少し慌てつつ、また一度軽く頭を下げつつ、
「…あっ、私は山瀬絵里と言います。琴音ちゃんの友人です」
と最後に、側で突っ立ったままの私に視線を向けつつ言った。
美保子もそれに釣られるように一度私を見たが、すぐに顔を絵里に戻し、少し苦笑気味に返した。
「…ふふ、そんなに畏まらなくても良いよ?なんて言われてここに連れて来られたのか知らないけど。…ここでは歳の差とか肩書きとか、厳密にはそんなの関係無いんだから。…まぁ、親しき間にも礼儀ありって事で、最低限の節度さえ守ってくれたら、それで良いんだから。…おっと、そう言う私も、自己紹介されたのにいつまでも返さないのは、礼儀違反ね?いかんいかん…コホン、私の名前は岸田美保子。いわゆる”ジャズ屋”をしていて、あなたと同じ様に琴音ちゃんの友達よ、よろしくね!」

「…ちょっと?」
とここで、ふとテーブルの向こうから声を掛けてきた者がいた。百合子だ。百合子は普段から薄目がちだったが、それとは別にジト目を美保子に向けつつ言った。
「美保子さん…何で勝手に自己紹介をしちゃうかなぁー」
「ふふー、早い者勝ちよ!」
「何が早い者勝ちよ」
と百合子が呆れ笑いを浮かべると、美保子はただニコッと笑い、その直後には不意に素早い動きで私と絵里の背後に回ると、片手ずつ私たちの背中に手をやり、そして席まで押していくのだった。
「さぁお二人さん、好きに座って」
そう声をかけると、美保子は定位置の百合子の隣に座った。
「…ふふ。ほら絵里さん、絵里さんは私の隣に座って」
と私が義一の隣に腰を下ろしつつ言うと、「う、うん…」と戸惑いつつ、私の右隣に座った。一番端に座る形で、向かいには百合子がいる。
「お、二人とも、今頃になってようやく座るなんて、今まで何をしてたんだい?」
と、今の今まで男性と談笑していた義一は、不意にこちらに顔を向けると、そう聞いてきた。義一の顔の向こうに、男性の顔が覗いていた。何やら興味津々といった調子の笑みを向けてきていた。
「何って…熱烈な歓迎を受けていたところよ」
「…ん?あははは!」
絵里が視線だけを向かいの美保子に向けつつ、苦笑交じりにそう答えると、美保子は豪快に笑って見せるのだった。
「さてと!」
タイミングを計るならここだと思ったのか、不意に聡は明るく声を上げた。そして一同を軽く見渡してから先を述べた。「まだ約一名来てないけれど…乾杯をしてしまうか!」
「さんせーい!」
男性と美保子がほぼ同時に賛意を示した。絵里と私以外も、それに同調する様に和かに頷いた。
…あれ?そういえば…
私も聡と同じタイミングで見渡したが、確かに一名いない事に気付いた。そう、神谷さんだ。
義一の話では、どんな集まりでも、少なくとも数寄屋での事ならば来てる様なことを聞いていたので、意外に思っていたのだが、今の聡の発言を聞いて疑問は解消された。
…そうか、先生は少し遅れて来るのね。
「じゃあ…」
チリーン
普段は神谷さんが座っている目の前に置かれている呼び鈴を聡が鳴らすと、そのすぐ後に扉が開けられ、ママが顔だけ覗かせて来た。
「聡君、飲み物?」
とママが笑顔で第一声に聞くと、聡も笑顔で「おう、お願いするよ」と返していた。
ママはコクっと頷くと、一瞬はけたかと思えば、次の瞬間には手に”喫茶店”のメニューと、高級感溢れる赤茶色の革表紙のメニューを抱えて入って来た。そして喫茶店の方を私に、無地の革表紙の方を絵里に渡した。
「二人とも、好きな物を頼んでね?」
とママが無邪気な笑みで言ったので、絵里は「あ、ありがとうございます…」と戸惑いつつもゆっくりとメニューを開いた。私はもう決めていたので、開く事なく「アイスティー下さい」と言った。それを聞いたママは、「何でー?別に他のを頼んでも良いのよ?今日はあなたが主役なんだから」と何故か不満げに見せてきたが、「ありがとうございます。でも私は、これで良いんです」と笑顔で返した。
「そーお?まぁ、琴音ちゃんがそう言うのなら、私は別に構わないけれど…で?」
ママは仕切り直しといった感じで声音を代えると、今度は絵里の方に顔を向けた。
「どうお嬢さん?何か飲みたいもの、もしくは気になるものとかあった?」
「あ、は、はい…いやぁ、種類が多すぎて何が何やら…」
絵里は苦笑いを浮かべてホッペを掻いていた。
考えてみたら、この店に来て初めて、お酒のメニューをじっくり見てる人を見た。まぁ私もまだ此処に来るのはこれでまだ三度めだが、それでもみんなはもう飲むものが決まっているらしく、メニューを見ることもなく注文…いや、もう勝手にママが聞かないうちにもう出しているといった調子だったので、何だか新鮮だった。このお酒のメニューも、私が初めて来た時に、ママが私に出して来た時に見て以来だった。
「ふふ、わからない事があったら遠慮せずにママに聞いてね?」
ウンウン言いながらメニューを睨み込んでいる絵里に向かって、不意に美保子が明るい調子で声を掛けた。
「ママは”ちゃんとした”修行を積んで、格式高い所で勤めていたソムリエさんだったんだからー」
「”ちゃんとした”は余計よ」
とママはすかさず悪戯っぽく笑いながら突っ込んだ。美保子はただニヤニヤ笑っている。
「そ、そうなんですかぁ…えぇっと」
そう言われても絵里はまだ煮え切らない様子だったが、ふと一同を軽く見渡したかと思うと、誰に言うでもない感じで声を出した。
「皆さんは何を飲まれるんですか?」
「え?何でそんなことを聞くの?」
と途端に返した美保子の顔は、笑顔のままだったが、不思議だと言いたげな表情も混ざっていた。隣にいた百合子も同様だ。私は試しに男性陣の方を見てみたが、こちらは何も変化がなかった。
「え?えぇっと…」
『何で?』と聞かれるのは想定外だった様で、絵里はすぐには答えなかったが、絵里も何故こんなことを聞かれるのかと言いたげな表情を浮かべつつ返した。
「いや…皆さんと同じ様なお酒を頼めば、皆同じ様に楽しめると…思いまして?」
と最後は自分で言ったのにもかかわらず、何故か疑問調になっていたのが証拠だ。それを聞いた美保子と百合子は一度顔を見合わせたが、どちらからとも無くクスッと笑うと、二人揃って絵里に笑顔を向けてきた。そしてやはりというか、美保子が笑顔のまま話しかけた。
「あははは!あぁ、いや、ごめんなさいね?笑ったりして。悪気は無いのよ。何せ…このお店に集まる人で、場の雰囲気を壊さない様に気を使う様な人なんか、一人もいないもんでね。…”外”ではあなたの心使いが普通なんでしょうけど、此処では無いからそのー…新鮮でね、意外すぎて何だか愉快になってしまったの。…ね?」
と美保子が百合子に話しかけると、百合子もコクンと小さく頷き返し、絵里の方に向くと、微笑みつつまた小さく頭を下げて「ごめんなさい」と言うのだった。
言われた絵里は「いえいえ!別に謝られる謂れは…」と慌てて返していたが、すぐに落ち着いて、何も言う言葉が無かったのか、ニコッと色んな意味を含めた笑みを向けた。それに対し、美保子と百合子もただ笑顔で返すのだった。私も自然と笑みが溢れた。
「…っと、そうだねぇ…私と百合子はいつも同じ赤ワインを頼んで…」
美保子はまだ微笑みを残しつつそう言った後、ふと義一たちの方に視線を流しつつ続けた。
「で、男どもは皆してビールを飲んでいるよ」
「そうなんですか。じゃあ…私も赤ワインを下さい。そのー…ママさんのオススメのやつを」
と絵里がメニューを渡しつつ注文すると、ママはワザとらしく”無い”自然な喜びの表情を浮かべて「はーい、では少しの間待っててね?」と陽気な声音で言いながら、部屋を出て行った。
ママが出て行った直後、美保子はふとハッとした様な表情を浮かべて、少し決まり悪そうな顔つきで絵里に話しかけた。
「…そういえば、さっきも初対面で”絵里さん”だなんて軽々しく下の名前で呼んでしまったけど…悪く思わないでね?」
「え?…ぷっ、あははは!」
そう声を掛けられた絵里は、一瞬きょとんとしたが、その直後には何故か明るい笑い声をあげたのだった。これには流石の美保子も、そして百合子、私も呆然としてしまったが、笑いが収まった絵里は微笑みに近い笑みを向けつつ「はい、私は下の名前で呼んで頂いても構いませんよ」と言ったので、美保子も合わせる様に笑顔に戻ると「そう?よかったー。じゃあよろしくね、絵里”ちゃん”」と言った。絵里は”ちゃん”付けに対しては特に何も言わなかった。まぁ、相手が歳上なのだから、ちゃん付けくらいするだろうという風に察したのだろう。
そんなこんなやり取りが終わるその頃、ママが普段通りカートを押して部屋に入って来た。「まずは主役から!」と、ママはまず私の前にアイスティーを置くと、それからはそれぞれの前にコースターを置き、その上にお酒を置いていくのだった。ママは絵里の前に赤ワインを置きながら「これ…まだそんなにお喋り出来てないから印象でしか選んでないんだけれど…」と最後まで言い切らずに言うと、絵里は顔を上げてママの方を向き、笑顔で「いえいえ、選んで下さってありがとうございます」と返した。するとママは「だからほらー…まだまだ堅すぎるってー」と苦笑気味に声を上げたが、すぐに笑顔で「どういたしまして!」と付け加えていた。
「ではごゆっくりー」
と声を掛けつつママが部屋を後にすると、それとほぼ同時に聡はビールジョッキを片手に立ち上がり、一同を軽く見渡した。
「ゴホン…では改めて、皆さん飲み物を」
「ほら、絵里さん」
「あ、うん」
絵里は私に促されるままに、右手にワイングラスを持った。
聡はまた一度周りを見渡すと、ジョッキを高く掲げて音頭を取った。「それでは…かんぱーい!」

「かんぱーい」
私たちはそれぞれ近くの人とグラスを軽くぶつけ合った。
「絵里さん…ん!」
と私がグラスを前に突き出すと、一瞬苦笑を浮かべたが、そのすぐ後には普段の明るい笑みを浮かべて「うん、かんぱーい!おめでとう琴音ちゃん!」と言いながら、ワイングラスをぶつけて来るのだった。
「うん、ありがとう絵里さん」
「おめでとう、琴音ちゃん」
と今度は右隣から、義一がジョッキをこっちに向けてきつつ笑顔で声を掛けてきた。「うん、ありがとう義一さん」私もグラスを前に突き出してジョッキに当てた。
カツーン。
当て終わると、ふと義一が私の背後に視線を向けたので、私も思わず振り向くと、そこには当然の事ながら絵里がいた。絵里も義一に静かな視線を向けていた。お互いにほんの数秒だが見つめ合ったので、何事かと挟まれた私は漠然とも思ったが、フッと力を抜く様に義一は微笑むと、「絵里もお疲れ…まぁ、来てくれて嬉しいよ。…はい」と最後の方は何だか恥ずかしげに言い、ジョッキをまた突き出した。私の顔の前に来る形だ。するとそんな様子が面白かったのか、絵里は大げさに吹き出して見せて、「…ふふ、もーう、本当よー。わざわざ付き合ってあげたんだから感謝してよね?…ん」と絵里も、何だか気恥ずかしそうにワイングラスを前に突き出した。ぶつかり合ったジョッキとワイングラスから鳴らされた音は、小気味の良い音色を出していた。
この時恐らく気付いたのは私だけだろうが、この二人の様子を、この場にいた全員が微笑ましげに見ていた。あのまだ名も知らない男性までもだ。
それからはいつも通りにことが進んで行った。聡からもお祝いのコメントと共にグラスをかち合った後、向かいに座る美保子ともグラスを当て合い、また改めて声を掛けてくれたので、また同じ様に感謝を述べた。美保子はそのままの流れで隣の絵里としている時、百合子が静かな笑みを浮かべながら、何も言わずにワイングラスを前に突き出してきたので、私も同じ様に応対した。
「…誰かさんのせいで、何だかタイミングを逃しちゃったけれど…決勝進出おめでとう琴音ちゃん」
「うん、ありがとう」
「誰かさんて誰のことよー?」
と絵里とは済ませたらしい美保子がソファーに腰を下ろしながら百合子に声を掛けた。
「さぁねー?」と百合子はとぼけて見せていたが、ふと絵里に顔を向けると、先ほど私にくれた様な静かな笑みを浮かべつつ口調も穏やかに話しかけた。
「初めまして、えぇっと…」
「あ、いや…はい、私は山瀬絵里と言います。琴音ちゃんの友人です」
絵里は来た当初と比べると大分場に慣れて来た様で、率先して自分から話そうという気持ちが見えていた。
百合子もそれが助かった様で、また微笑み度合いを強めつつ言った。「山瀬…絵里さんね?初めまして、私は小林百合子って言います。…よろしくね?」
「はい、こちらこそ…ん?小林…百合子?」
「え?どうかした?」
絵里が急にマジマジと遠慮もなく百合子の顔を見だしたので、私もその様子に驚きつつ聞いた。
「あ、いや…あのー…つかぬ事をお聞きしますが…」
「は、はい」
百合子も絵里の態度の変わり様に少し押され気味に返した。
「もしかして…女優の小林百合子さんですか?」
「は、はい…女優をしていますけれど…?」
「…わぁー!」
百合子の返事を聞いた途端、絵里は急に顔中に笑みを浮かべて声を上げた。それに対して、百合子は上体を軽く仰け反らせて引いて見せたが、それには御構い無しに絵里は続けた。
「わ、私、小林さんのファンなんです!いやぁー、こんな所で会えるなんて思いもしなかったわ!」
「そ、それはどうも…」
絵里のテンションの高さに、相変わらず引いていたが、徐々に慣れて来たのか百合子は笑顔を見せていた。
と、ここでようやく自分が一人ではしゃいでいて、浮いてしまっているのに気づいたらしく、気持ち肩をすぼめて見せながら気まずそうに声の調子も戻して言った。
「…って、あっ…す、すみません、ついついテンションが上がってしまって…」
「ふふ、良いのよ」
そう返すのは、百合子ではなく美保子だった。美保子は悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。
「中々素直に感情を表に出すのねー…気に入ったわ!それに…ここ十年ばかりはマスメディアへの露出がゼロに等しいってのに、久々に百合子のファンを目にしたしね?」
と最後に百合子に視線を流すと、百合子も目はジト目だったが口元をニヤケさせつつ返した。
「そうねー、私のファンなんて今時絶滅危惧種だものねー?…あっ、いや、絵里さんの事をどうこう言ってるんじゃないのよ?この人が余計な事を言うもんだからー…って」
とここで百合子は、ふと一人気まずそうな表情を作ると、絵里に話しかけた。
「絵里さんって言ってしまったわ…。今更だけど…あなたの事、絵里さんって呼んでいい?」
「へ?」
絵里は隣に座る私からも分かる程に、鳩が豆鉄砲を食らったかのような表情を見せたが、途端にニコッと明るい笑みを浮かべると
「はい、勿論です!小林さんに名前でそう呼ばれるのは、光栄ですよ」
とまた先ほど見せたテンションで返したので、百合子もまた同じように「あ、ありがとう…」と苦笑を浮かべたが、こちらもこちらで途端に美保子ばりのニヤケ面を見せて返した。
「…じゃあ私も、ここでは皆に下の名前で呼ばれているから…百合子って呼んでね?」
「は、はい」
この提案に対して、絵里は意外だったのかすぐにテンションを戻したが、笑顔で返事を返すのだった。
それからは絵里、美保子、百合子の三人で軽く雑談をしていた。これには、このあと話す事情で混ざらなかったが、それでも片耳で聞こえて来ていた会話を軽く述べると、「頑なに義一の事には触れずに、執拗に琴音の友達を強調していたね?それは何で?」といったものだった。これもチラッと見ただけだったが、それを聞く美保子と百合子の表情は、何か意味深な笑みを浮かべていた。それに対し、何だかきょどりつつ、ちょくちょく義一に横目で視線を送りながら絵里は苦笑気味に相手をするのだった。
で、私はというと、義一と聡と乾杯をした後で、流れとしては当たり前だが、名も知らぬ男性に乾杯をせがまれていた。
「おめでとーう」と声を掛けてきつつジョッキを突き出してきたので、「あ、ありがとうございます」と私も合わせてグラスをそれに当てた。そしてその後、お互いに一口ずつ飲むと、男性が笑顔で話しかけてきた。
「義一から聞いたよー?何でもピアノのコンクールで全国大会に出るらしいじゃないか。それも、僕でも知っているくらいに大きなのに」
「は、はい…ま、まぁ…」
こういう場合、何と返せばいいのか分からずに、結果として何だか辿々しく返してしまった。
すると「ほら武史ー…」とすかさず義一が男性を嗜めるように見つつ言った。
「言ったよね?この子はそんじょそこらの子と違って、自分の功績を盾に偉ぶる様な子じゃないって。そんな褒められ方をされたら、この様に困ってしまうんだよ」
「あ、悪い悪い」
男性は義一に平謝りをすると、そのまま私にもしてきた。
私は何とも思ってない事を示すが為にニコッと微笑んで見せてから、ジト目気味に義一に言った。
「それで言うなら…今の義一さんの言い方も該当する様だけれど?」
「え?あ、…そうかな?」
と義一が惚けて見せたので、私は大きく肩を落として見せつつ
「はぁ…まぁ今に限った事じゃないけど」
とため息交じりに返した。
と、その時「あははは!」と、私たちのやり取りを見ていた男性が笑い声を上げた。
「中々に息の揃った夫婦漫才じゃないか」
「え?」
「だろう?」
私が戸惑い気味に返すその横で、義一が胸を張ってそう返すので
「何が『だろう?』なのよ…?」
と呆れ気味に返すと、そのどこが面白かったのか分からなかったが、義一と男性は顔を見合わせて笑っていた。その様子を冷めた視線を向けていたのだが、結局は絆されて一緒になって笑うのだった。
「おっと…そういえば!」
とここで、不意に聡が声を上げた。それによって今まで歓談していた一同が一斉に視線を向けた。
聡はゴクッとビールを一口やってから、男性と絵里に顔を向けてから、口を開いた。
「まだこの中で、皆が皆知ってる訳じゃない人がいるよな?…なぁ、絵里と、武史。二人には悪いが、一応この集まりの儀式みたいなもんで、軽く自己紹介をしてくれよ」
「え?」
と絵里は声を漏らしたが、男性は一度大きく息を吐くと、少し不満げに、しかし笑顔で言った。
「はぁ…やっぱしなきゃダメなんだな?”今日は”先生いらっしゃらないから、しないで済むと思っていたのに」
「…?」
ん?先生…がいらっしゃらない?
と私は今男性が言った言葉にとっさに反応したが、それは口には出さなかった。一応空気を読んだ形にはなったが、実際にはただ単純にそのすぐ後で聡が「そうは問屋が卸さねぇよ」と男性にニヤケつつ返して、それに対してまた男性が瞬時に反応したからだった。
「そっかー…改めてこんなに見知った人らの前で自己紹介するのも恥ずかしいなぁー…あのー?」
「…え?あ、私…ですか?」
急に男性が何故か絵里に声を掛けたので、掛けられた絵里はまさか話しかけられるとは思っても見なかった様で、少し慌てつつ返した。すると男性は頭を掻きつつ照れ臭そうに言うのだった。
「あ、いや、あのですね…先にあなたから自己紹介をしてくれませんか?レディーファーストという事で…」
「…何がレディーファーストなのよ?」
と途端に向かいに座る美保子からツッコミが入った。
それに対して男性は手で”どうどう”と、興奮気味の動物を宥めるような仕草をして見せつつ返した。
「まぁまぁ…」
「何がまぁまぁなのよ?」
「あ、いや、別に構いませんよ?」
このままではラチがあかないと思ったのか、絵里は笑顔を作って二人に割って入った。
「そーお?…まぁ、絵里ちゃんが良いならそれでいいけど」
美保子は相変わらず男性にジト目を向けていたが、絵里には笑みを向けていた。…一々付け加える事も無いだろうが、別に険悪な雰囲気になっていた訳ではないので悪しからず。
絵里は座ったまま一度一同を見渡してから、笑みを浮かべつつ静かに言った。
「えぇっと…この中の何人かには既に済ませましたが、改めて…私の名前は山瀬絵里と言います。しがない図書館司書をしています。ここにいる琴音ちゃんの友人です。後…」
絵里はおもむろにここで話を切ると、私を挟んだ向こうの義一に一瞥を投げてから、「…そこにいる”義一さん”の…大学時代の後輩です」とウンザリした風で付け加えた。この時ふと向かいの席を見たが、美保子も百合子も、先ほどの様な意地悪げな笑みを絵里に向けていた。絵里はその後また笑顔に戻ると、「今日はお邪魔させて頂いてありがとうございました」と言って話を締めた。と、その直後に「だから堅いってばー」と美保子がニヤケつつ突っ込むと、絵里は苦笑気味にホッペを掻きつつ照れ笑いを浮かべて、その後は一同の間で和かな笑みと共に拍手が沸き起こった。
「…あぁ、あなたが絵里さんか」
とふいに男性がふと独り言の様に言った。
「え?」
と絵里がそう漏らすと、男性は照れ臭そうに笑いつつ、隣の義一の顔を覗く様に見ながら返した。
「あ、いえね?よくこの男から君の話を聞いていたものだから、何だか初めて会う様な気がしなくてね」
「おいおい、何を言い出すんだよ?」
と義一がすぐに苦笑まじりに反応したが、それを聞いた絵里は、クスッと笑ったかと思うと、男性に返した。
「ふふ、どうせロクでも無い話でしょ?」
「いやいや、そんな事は無いよ?いつもこの男は君の話をする時…」「…武史くん?」
と、男性がまだ言いかけていたその時、声にドスを効かせて義一が割って入った。顔は笑顔だったが、声音とのギャップに、変な威厳を生じさせていた。
「もう酔っ払ってるのかな?」
という義一に対して、男性はまた「悪い悪い」と陽気な平謝りをして、その後何故か大げさに着ているスーツの身だしなみをチェックして見せてから言った。
「さて…次は僕か」
と男性はそう漏らすと、一口ビールを煽ってから、絵里に倣う様に一同を見渡し、そして最後に私に顔を止めて、ニコッと笑いながら言った。
「んんっ!えー…僕の名前は中山武史。京都の大学で准教授をしています。専門は政治思想を中心に…って、これはいらないか」
とここで、中山と名乗る男性は不意に隣の義一の肩に手をかけると、そのまま続けた。
「義一とはもう…何だ?十年くらいの付き合いになるのかな?…そっか、で、歳は今年で三十八になります…ってこれもいらないか。呼び方は、ここの慣例通り、名前呼びでいいよ!取り敢えずヨロシク!」
「は、はい…ヨロシクお願いします」
最後の方は、何だか私に向けて言われた気がしたので、ついそう返すのだった。
とその時、ふと武史の名前に聞き覚え…いや、正確には見覚えがあった。
…そうだ、こないだのオーソドックスの最新号で、対談していた中の一人だ。
私はそのまま、武史にその旨を話して見る事にした。
「…あぁ、武史さんって、あのー…シュペングラーの話をしていた…」
「え?」
と先程までニコヤカな笑みを浮かべていた武史がキョトン顔を見せたので、私は慌てて「あ、いえ…何でもないです」と返した。
すると武史はまた一転して満面の笑顔を見せて、義一に話しかけた。「…クク、義一、お前が言うように、本当にこの子は変わっているなぁー。いくら読んだからと言っても、シュペングラーなんて覚え辛い名前をポンと出すなんて、そう簡単な事じゃないよ」
「ふふ、そうでしょ?」
と義一も笑顔で、口調はどこか誇らしげに返していた。
そのやり取りを、今度は私が目を見開かせて聞いていたが、ふと武史は私に顔を向けると、笑顔で話しかけてきた。
「いやー、琴音ちゃん、僕の…ていうか”僕らの”だけど、対談をそこまで読んでくれてありがとう、嬉しいよ。でだけど…」
と武史はここで話を一旦切ると、少し俯いて見せて考えるふりをして見せたが、その直後バッと勢いよく顔を上げた。
「僕らの会話は…君の目から見てどうだった?そのー…面白かったかい?」
「…え?えぇっと…」
さっきまで笑顔だったのが、少し真剣味を帯びた表情を滲ませてきたので少し呆気に取られてしまったが、
「…えぇ、とても面白かったです。それにとても勉強になりました」と微笑みつつ答えた。すると武史もニコッと笑いながら「そっか…それは良かった」と返すのだった。
「…あぁ、確かにどっかで聞いたことがあると思ったら…」
とここで不意に隣の絵里が会話に入ってきた。
絵里はマジマジと武史の顔を見つつ続けた。
「そうそう、ギーさんから毎号貰ってる雑誌の中で、結構なページを貰っている人だ」
と何だか不躾な調子で、言いながら自分で確認するかの様に言うと、「…ギーさん?」とほぼ同時に、武史と美保子から声が漏れた。私と絵里は示し合わせたわけでもないのに、これもほぼ同時に武史と美保子の方を見た。武史も美保子も何だか興味津々な子供の様な表情を見せていた。肝心の”ギーさん”は苦笑とも照れ笑いとも何とも取れる様な、言いようのない笑みを浮かべているのみだ。
絵里は”しまった!”と慌てて口を塞ぐ様な素振りを見せたが、無かったことには出来ないとすぐに察したか、どうして義一に対してそんなあだ名を付けたのか、その経緯を少し照れ臭そうに説明した。義一の”一”部分が、伸ばし棒に見えない事も無いから、それで”ギー”と読む事にしたといった事だ。私と義一、聡の様な事の経緯を知っている人以外は、絵里のその話を興味深げに聞いていた。そして聴き終えると、まず美保子が「いいアダ名じゃない!」と一声を上げると、その後に続く様に一同が美保子に続いて口々に同意の意を示した。それを見た絵里は気を良くしたのか、今度は自分から美保子たちに向かって「やっぱり良いですよねー?」と言った調子で声を掛けていた。
私も一緒になって同調していたが、ふと当人の方を覗き見てみると、義一はやれやれといった調子で頭をゆっくり、しかし大きく横に振りながら苦笑いをしていた。
「私たちもそう呼ぼうかしら?」と美保子が意地悪な笑みを浮かべつつ言うと、「それだけは勘弁してくださいよぉ…その呼び名は絵里で十分です」と義一が疲れ果てた様子を見せつつ返したので、一同はそれで益々笑いが大きくなるのだった。
笑いにひと段落がつくと、ふと何かに気づいた様な表情を浮かべた美保子が絵里に話しかけた。
「あれ?でも今聞いた感じだと絵里さん、あなた、義一君から私達の雑誌を受け取って読んでくれてるのよね?」
「え?は、はい…まぁ一応…」
絵里は何だか歯切れ悪く答えた。
「ならさぁー…」
絵里のそんな様子には気を止めずに、美保子はまたニタァーっと悪巧みをしてる様な笑みを見せると、隣に座る百合子の肩に手を乗せて続けた。
「この集まりに、百合子さんがいる事は想定出来る事じゃなーい?だって、毎号とは言わなくても、年に二度ほどは寄稿しているんだから。小林百合子名義で」
「そういえば…」
と肩に手を乗せられたまま、百合子も通常通りの薄幸な笑みを見せつつ絵里に視線を送った。すると絵里は痛いところを突かれたと言いたげな苦笑を浮かべると、少し言い辛そうに答えた。
「いやぁー…勿論ここに集まる皆さん方というのが、あの雑誌関連である事はギーさんに教えられたりして知っていたので、そのー…その皆さんの前で言うのも何ですが…要は、そんなにちゃんと読んでいないんです」
「…」
絵里の独白を、一同は静かな表情で見つめながら聞いていた。
絵里はその視線が痛かったのか、不意に顔を逸らし、その先にあった義一の顔を見つめると、少し落ち着いた様子を見せて、そのままの体勢で先を続けた。
「大体そのー…ギーさんの所を最初に読むんですけど、そこで力が尽きてしまい、他の皆さんの所はー…軽く読み飛ばしてしまってるんです。だからえぇっと…百合子さん、あなたがここに寄稿されてた事自体、今まで気付かなかったんです。そのー…すみません」
絵里はそう言い終えると、座ったまま深々と頭を下げた。そして顔を上げると、相変わらず一同は何も言わずにジッと絵里の方を見ていたが、沈黙に耐えきれなかったのか、「…ぷっ」と噴き出す者がいた。見ると、やはりと言うか…それは美保子だった。
美保子は吹き出した後は「あははは!」と一人で豪快に笑い声を上げたかと思うと、笑みを絶やさぬまま絵里に話しかけた。
「はぁーあ、よくまぁ私達本人の前で正直に言ってくれたねぇー?…ふふ、いや、さっきも言ったけど、パッと見常識人に見えて、結構ズカズカと言うタイプなんだねー。変わっているよ」
「ふふ、そうね」
とそれに答える形で百合子も、口元に手を添えつつ上品に笑みを浮かべていた。
「確かに!」
と次に声を上げたのは武史だ。やはり笑顔だ。
「僕たちの書く文章ってのは、無駄に内容が難しい上に、誰も彼もが良く言えば個性的、率直に言えば悪文っていう、いわば全く人に読ませる様な文章でも無いし、それを読み飛ばさず読んでくれていっても無理があるよなぁー」
「そうそう!」
とすかさず聡も同調する。義一は一人黙っていたが、表情はとても柔らかな微笑を湛えて、静かにビールを煽るのみだった。
何度かここに来て、ここに集まる人の性質をそれなりに分かっていた私は、今のこの状況は想定内だったので、ただにこやかに楽しんでいたのだが、当の絵里は当惑した表情を見せて一同を見渡していた。
「あ、あのー…」
と絵里がおずおずとした調子で小さく声を出した。小さかったのにも関わらず、皆は一斉に口を閉め、顔には笑みを浮かべつつ黙って先を待った。
「いやぁー…自分で言っておいて何なんですが…気を悪くされなかったんですか?」
「え?”気”ー?…気ねぇー…どう?」
と美保子がまた百合子に話しかけると、百合子は「んー…」と声を漏らし、可愛らしく人差し指を立てて、その先を顎に当てつつ応えた。
「別に…ねぇ?」
「ふふ、絵里さん」
と不意に武史が、優しい微笑を湛えつつ絵里に向かって口調も柔らかく言った。
「僕を含むここに集まる人種っていうのはね、言うなれば、大昔…そう、それこそ幼少期からずっと少数派として世間に受け入れられないままに生きてきたんだ。それを今更…自分たちの書いたり言ったりする事について、読み飛ばされたりしたくらいで、『まぁ、そんなもんだろう』ってな感想しか持たないんだよ。だから怒るだなんてそんな…むしろ、大体において無視されることの方が多いのに、読み飛ばすってことは、少なくても読んではくれているって事だから、むしろ感謝をしたいくらいだよ。…皮肉じゃなくてね?」
そう言い終えると、ニコッと悪戯っ子風に笑って見せた。最初の方で描写した様に、女顔の為に年齢不詳に感じる義一とはまた別の意味で、リス顏のお陰で年齢不詳の武史がそう笑うと、益々顔が幼く見えた。
武史がそう言い終えると、義一を含む一同が、絵里の方を向き、ただ黙って笑顔で頷いて見せていた。
「そ、そうなんですか…」
「…ふふ、絵里さん?」
とまだ一人納得がいってない様子の絵里に向かって、百合子が小さく微笑みつつ言った。
「次からは…私を含む他の人のも読んで欲しいな?」
「は、はい」
と相変わらず動揺が隠せない様子だったが、それでも絵里は笑顔を見せてそう返した。とその時、ふと美保子がまた口を開いた。
「そんなことよりもさぁー?」
その表情は、また意地悪げな笑顔だ。
「それでも義一くんのパートは、ちゃーんと読んでいるのよね?…それは何で?」
「…え?」
と絵里はさっきとは違った意味で戸惑いつつ、ただそう漏らすと、それを聞いた百合子もウンウンと頷き、美保子と同じような笑みを浮かべて、黙って答えを待っていた。
「…あっ!」とここで何かを察したか、絵里は急に声を上げると、義一に横目で視線を送りつつ、「いやいやいやいや!」と両手をバタバタ振りながら返した。
「み、皆さんが思われている様な理由ではありませんから!」
「皆さんが思われてるって?」
とここで何故か義一が、呑気な声音で横から入ってきた。
「皆んなが何を思うって言うんだよ?」
と義一が言うと、「え、あ、いや、その…」と直後には相変わらずアタフタと慌てて見せていたが、しばらく義一の顔を見ていると、その呑気さが影響してきたのか、徐々にテンションが落ち着いてきて、終いには顔に呆れた感情を見せたかと思うと、口調もそれに合わせる様に言った。
「はぁー…あなたには一生分からないわよ。朴念仁にはね?」
「朴念仁か…」
それに瞬時に反応を示したのは武史だった。武史も絵里に合わせてなのか、顔に呆れ笑いを浮かべつつ、義一に視線を流しつつ「違いない」とだけ言った。その直後、ドッとまた一同が同時に笑い声を上げた。わたしもつられる様に笑った。隣を見ると、絵里も明るく笑っていた。「何だよ皆んなしてー…」と義一一人が不平を漏らしていたが、顔には笑みを覗かせるのだった。
まだ笑いが収まりきらないその時、不意に部屋のドアが開けられた。
ドアを開けて入って来たのは、ジャケットにネクタイとカジュアル気味の正装をした老齢の男性だった。真夏日だというのに、その老人はジャケットの下に同色のベストを身に付けていた。年齢はおそらく六十を越えてはいるのだろうが、頭髪は豊かで、ロマンスグレーを真ん中で分けていた。これだけ聞くと、何だか初めて来た時にお見かけした小説家の勲とそっくりに感じるだろうが、実際はかなり違っていた。勲は目をギョロつかせる様な、ある種異様な雰囲気を醸し出していて、言ってはなんだが近寄りがたいオーラを身に纏っていたが、こちらの老人は目元がずっと緩みっぱなしで、目の周りのシワが良い具合に強調されて、神谷さんとはまた別の種類の好々爺といった風情だった。髪型も、勲さんはストレートのお陰か頭蓋骨の形そのままにピタッとしていたが、少し癖っ毛なのか、この老人の場合は何とか撫で付けてるつもりなのだろうが、少しふっくらと膨らみを見せていた。とまぁ、そんな外見だった。
もちろん初めて見た人だったので、思わずジーッと老人の一挙一動を見守っていた。
老人は座る一同を軽く見渡すと、やれやれと笑顔で顔を横に振りつつ声を出した。
「やれやれ…いや、ごめんなさいねぇー?もっと早く用事が済むはずだったんだけれど、何だか長引いちゃってねぇ」
そう話す老人の声は、外見からも明るい人なんだろうとは予測していたが、実際はそれ以上に声のトーンが高く、そして所々で裏返ってしまっていた。声帯はそんなに強くないらしい。
「おぉー、久し振りですな寛治さん」
聡はおもむろに立ち上がると、手招きしながら老人を呼び寄せた。
老人は笑顔を絶やさぬまま、聡に促されるままにこちらに近づいてきて、そして聡の左隣、いつもなら神谷さんが座っている位置から一席分ズレた位置に座った。そこがおそらく普段からの座り位置なのだろう。
老人は座ると、まだ笑顔のまま聡に返した。
「うん、久し振りだねぇー。僕自身、なかなか日本に帰って来れないせいなんだけど…あっ!」
と老人は、ふと美保子の方を見ると、ますます笑顔の度合いを強めて声をかけた。
「おやおや、美保子さんも来てたんだぁ。お互い普段はアメリカにいるとは言え、なかなか会うこともないからねぇ」
「…ワザとらしい」
とそう返す美保子の顔は、悪戯っぽい笑みで満たされていた。
「私が今日ここに来る事は、事前に話してたじゃないですかぁー」
「あれ?そうだっけ?忘れてたよぉー」
「まったくー」
と、こんな具合なやり取りを見せられつつ、やはり第一印象通り、なかなかに茶目っ気のある老人だなぁ、といった様な感想を抱いていると、ふと老人が私と絵里の方に視線を向けてきた。
そして数秒間私と絵里の顔を見比べていると、不意に義一に話しかけた。
「で、えぇっとー…?見知らぬうら若き女性が二人もいるけれど…どちらが噂の琴音ちゃんかな?」
「え?」
急に”噂の琴音ちゃん”だなどと名指しされてしまったので、すぐには何だか名乗る気になれずに、ふと隣の絵里に顔を向けたが、その時丁度絵里の方でも私の方を見てきていた。おそらく私もだろうが、絵里もキョトン顔をしていた。
「あはは。琴音ちゃんは…」
義一は軽く笑って見せてから、ふと私の背中に手を触れて、
「…彼女ですよ」
と顔を老人に向けたまま答えた。
「へぇー…この子がねぇ」
先程までとは打って変わって、目を大きく見開きつつ、手で顎をさすりながら、遠慮もなしに私のことをマジマジと見てきた。私は何だかデッサンされている様な気にさせられたので、微動だにせずにいたが、老人は満足そうに笑顔を浮かべてウンウン頷いて見せると、私と義一の中間辺りに顔を向けつつ言った。
「なるほど。いや、神谷先生には事前に年齢の事だとか聞いてはいたんだけれど…お二人とも何だか歳がパッと見では分からなかったから、すぐに気付けなかったよ」
「いやいや、そんなぁー」
とここで絵里が照れ臭そうにホッペを掻きつつ声を漏らした。私個人の見解だが、ここにきてようやく絵里の緊張の糸が緩んだ様だった。その証拠に、こうして初対面の老人に対して自分から話しかけたからだ。
「お世辞がお上手ですね?中学生の彼女と、三十路の私なんかで迷われただなんて」
「いやいや、お世辞じゃないよ…って三十路?」
「はい」
老人のその様な問いかけに、絵里は満面の笑みで答えた。
一般的にはこんな事を聞かれては、少なくとも良くて苦笑くらいは浮かべるところだろうが、普段から義一と付き合っているせいか、もしくはここの不文の仕来りや空気に慣れてきたのか、もしくはその両方か、まぁ元々気にするタイプではないのだが、満面の笑みで答える絵里の様子を見て、何故だか心の中に嬉しさとしか言いようのないものが溜まるのを感じた。
そう返された老人は、何かを察した様で、ふと義一に顔を向けると笑顔で話しかけた。
「…あぁ、彼女かね?よく君が話す絵里って子は?」
「え?」
と声を漏らした絵里の表情は、何だか表現しにくいものだった。先程も武史に振られた話題ではあったが、それは予め義一との仲良さげなやり取りを見ていたのもあって、歳の近いもの同士、そんな話もするのかも程度には予想が出来たのだろうが、今回は少しばかり違った様だ。
「え、あ、まぁ…そうですね」
と義一も、何だか言いにくそうに、少し躊躇いがちに答えた。
「どうせ…」
とここで気を取りなおす…いや、空気を変えるためか、急にニヤッと笑いつつ
「その話というのは、私についての悪口なんですよね?」
と絵里が老人に言った。それに対して
「いやいやー、悪口なんてそんな…いつも彼から聞いてる話は…」
とここまで老人が言いかけると、
「別に大した事は話してないよ?」
と急に義一が横から入り込んできた。絵里に向けたその表情は、目だけ細めて、口元はニターッと意地悪くニヤケさせていた。
「普段の、ありのままの、等身大の絵里の事を話していただけさ。…一年先輩であるはずの僕に対しての仕打ちだとかね?」
「えー?何よそれー?」
と絵里も負けじと同じ様な表情を向けて返した。
「ギーさんみたいな変人に対して、私ほど優しく慈悲深く接してあげてる人もいないと思うけど?」
「…あれで?」
「…ギーさん?」
ニヤニヤしながら二人のやりとりを眺めていた老人がそう漏らすと、すかさず隣に座っていた聡が耳打ちで教えてあげていた。
その間もまだ二人の軽口合戦は続いていた。
「私のありのままの姿を話してくれたって事は、余程良い内容なんでしょうねー」
「…はぁ」
とここで義一は見るからに大きく肩を落としてため息をついて見せた。そして絵里に対して、憐れむかの様な視線を向けた。
「絵里は本当に幸せなんだなぁ」
「…?どう言う意味よ?」
「だって…」
とここでまた先程までの表情に戻ると、おどけて言った。
「仮に実際とは違っても、それだけ自分の姿をよく妄想出来るっていうのは、とても幸せじゃないか?」
「…?…あっ!って、あのねぇー…」
絵里は初めのうちは言われた事をすぐには飲み込めなかった様だが、ハッとあからさまに気づいた様子を見せると、途端にジト目で不満げな声を上げた。
「…ふふ」
と私はここにきてこらえきれずに、思わず吹き出してしまった。
この数寄屋に絵里がいるという非日常、それにもかかわらず、普段からよく展開されている様な軽口合戦という日常を見るという矛盾、それが何だか面白くてついつい笑ってしまったのだった。
すると、それを合図にしたかの様に、一人、また一人と笑いをこぼしていくと、遂には義一と絵里も、一度二人して私の顔を見て、それからお互いの顔を見合わせ、ほんの一瞬見つめ合ったかと思うと、プッとほぼ同時に吹き出し、そして笑い合うのだった。
とその時、
「もしもーし?」
と背後から声が聞こえた。振り向くと、ドアのところにトレイを持ったママが、こちらに呆れ笑いを向けつつ立っていた。
「そろそろ皆さん、お喋りも良いけど、お食事にしません?」

「はいどうぞー」
「あ、ありがとうママさん」
ママに笑顔で差し出された飲み物を受け取りつつ、老人は笑顔で応じていた。その飲み物は、照明が薄暗いせいでハッキリとした色は分からなかったが、少なくともお酒には見えなかった。何かしらのジュースに見えた。
「さてと…じゃあ食事を」
とママが行きかけたその時、
「あっ、ちょっと待ってくれ」
と聡が呼び止めた。
「いや、まだ寛治さんの自己紹介が終わってないから、大体でいいから、その頃合いを見計らって持ってきてくれる?」
と聡が言うと、ママは一度一同を見渡してから、フゥと一度息を吐いて、「はいはい、分かりましたよ」と呆れた笑いを見せつつ部屋を後にした。
ママが出て行った後、老人は苦笑いを浮かべて言った。
「…あぁ、そんな習慣もあったねぇー…ここ最近、新顔が来てなかったから、すっかり忘れていたよ。…でもー」
と、ふと神谷さんがいつも座っているあたりに目を落としつつ続けた。
「今日は先生がいないんだし…しなきゃダメかな?」
「ダメですよ?」
とここで瞬時に口を挟んだのは武史だった。武史は口元をニヤケつつ続けた。
「僕だってしたんですから、寛治さんだけ無しってわけにはいけませんよ」
「あぁそっかぁ…君もしたんだね?いやー…見知った中で改めて自己紹介をするというのは、恥ずかしいんだけれど…」
と老人は、これまたさっき武史がボヤいたのと全く同じ内容を漏らしていたが、諦めをつける様に一度息を吐くと、私と絵里の方に顔を向けて、笑顔で話してきた。
「えぇー…僕の名前は佐藤寛治と言います。普段はアメリカのワシントンでチョコチョコと動き回って過ごしています。えぇっと、他に何を言えばいいのかな…?あ、あぁ、歳は今年で六十三になります。んー…まぁ、そんな感じでよろしくね」
どんな感じだ?
と思わず反射的に突っ込みを入れたくなる様な自己紹介だったが、「はい、よろしくお願いします」と一応笑顔で返すのだった。
ただ情報が何だかあやふやだったので、ついついあの悪いクセが発動しそうになり、口から言葉が漏れそうになったその時、横から義一がまるで私の心を読んだかの様に、寛治の話に付け加えてくれた。
「ふふ、寛治さんは謙遜を含めてあゝ話したけれど、僕から少し詳しく言うとね、ワシントンというアメリカの首都で、その政治の中枢まで入り込んで、向こうの高官レベルの人と対等に議論を交わす様な人なんだ。これは違う人から聞いた話だけれど、この先生、アメリカの悪口ばかりを言うから煙たがられてはいるんだけれど、その反面とても面白がられてるって話なんだ」
「へぇー…じゃあ寛治さんって、政府の人なの?」
と私が当然の帰結としてそう聞くと、寛治は一瞬目を見開いたかと思うと、「ヒヒヒヒ!」という、声を裏返しつつとても特徴的な笑い声を上げた。あまりにあっけらかんと笑うので、思わず一緒に笑ってしまうほどだった。
寛治はその笑みを絶やさぬままに答えた。
「いやいや、僕みたいな好き勝手喋る様な輩は、とてもじゃないけど、今の日本政府の中には入らせて貰えないよ。…偽善で凝り固まった”ポリティカリーコレクトネス”を尊重する様なね」
「”ポリティカリーコレクトネス”っていうのはね?」
と、私が質問する前に義一が横で注釈を入れてくれた。
「まぁ…”政治的正しさ”くらいな意味だよ」
「そうそう!」
とさっきからヤケにハイテンションで寛治が応じていたが、ふと私の中でまた”なんでちゃん”が目を覚まし起き上がった。私個人としては当たり前の疑問が湧いたのだ。
ただ本来ならすぐに質問をするのだが、今回は少しばかり勝手が違っていた。何せ今日は…言うまでもなく絵里が同席していたからだ。
私が小学生の頃に絵里が言った事、『質問をする前に、取り敢えずでも構わないから自分の意見をまず持ってからでなきゃダメ』というアレだ。私はこれまでも何だかずっと胸の中を占めているこの言葉、質問する度に胸に去来しないことが無かったが、それが今回はその元が隣にいるのだ。自然と少し構えるのも無理はないだろう。…まぁもっと単純に言えば、絵里に突っ込まれるのを恐れていただけなのだが。
それはともかく、絵里を横目でチラッと覗くと、絵里も丁度私の方を微笑みつつ見てきていたので、間に合わせに微笑み返した。取り敢えずこの場は引き下がることにした。
何も慌てて今聞くこともないだろうと判断したからだった。
とその時、ふとドアが開けられ、それと共に食欲をそそる料理の薫りが今座っている席まで漂ってきた。それに誘われる様に後ろを振り返ると、いつもの様にママとマスターがそれぞれ二つのカートを押して入ってきた。
ママと目が合うと、ニコッと私に微笑んで、それから一同をそのままの笑顔で見渡してから言い放った。
「そろそろ頃合いでしょう?お食事の時間ですよ」

第4話 数寄屋 b

普段と変わりなく、マスターとママがテキパキと効率よく大皿に乗った多種多様な料理と、人数分の小皿などを配膳していった。途中からはマスター一人に任せると、ママは一人一人に飲み物のお代わりを聞いていった。皆はお代わりを頼んでいたが、種類は変えずにいた。これもいつも通りだ。私も相変わらずのアイスティーだ。
「えぇーっと…絵里さん、よね?」
私の注文を聞き終えた後、ママは笑顔のまま絵里にもお伺いを立てた。
「え、あ、は、はい…絵里です」
と絵里は何だかぎこちない調子で、顔も合わせたかの様な笑みを浮かべて返した。
そんな様子が面白かったのか、ますます笑顔雨の度合いを強めつつ、絵里の前に置かれた空のワイングラスを指しつつ聞いた。
「どうだった、そのワインは?お口に合ったかしら?」
「え、えぇ…まぁそのー…」
とまだ拙いままに返していたが、
「えぇ、お世辞じゃなく本当に私好みの味でした!」
と、途中から普段の調子に戻って返事した。
それを聞いたママは笑顔で腰に両手を当てて「そっか、それは良かった!」と満足げにウンウン頷いていた。
「流石はソムリエさんですねぇー。初対面の私の好みを、ほんの少しの会話なりから察して、合ったワインを出せるんですから」
と絵里が自然体で心から感心している風で言うと、「ふふ、ありがとう」とママは初めのうちは明るく返していたのだが、その直後、途端に何だか気まずそうな、照れ臭そうな笑みを浮かべたかと思うと、横目でチラッと、寛治や武史達と談笑している義一の方を見つつ、絵里の顔の側まで自分の顔を近づけて、今度は悪戯っぽく笑い、
「何でそこまで分かったのかというマジックのタネは、食後にあなただけに内緒で教えてあげる」
と言い終えると、最後にウィンクをした。
「は、はぁ…」
絵里がまた戸惑いの表情を見せたが、それには構わず、ママは足取り軽やかに、自分の押してきた今は空になったカートを押して部屋を出て行った。
それからは何食わぬ顔で注文された飲み物のお代わりを持ってまた入ってきて、それを各々の前に置いて、配り終えると「ではごゆっくりー」と、これまた毎度の間延び気味の声と共に、無言のマスターと共に部屋を後にした。
「さて、皆に飲み物と食事が渡った所で…」
聡は一同を見渡しながらそう声を出したのも束の間、途中で寛治に視線を移し、
「では今日は、年齢順ということで、ここは寛治さんに音頭を取って貰いましょう」
「えぇー、僕ー?…仕方ないなぁ」
寛治はいかにも面倒だという感情を惜しげも無く顔中に浮かべていたが、それでもわざわざその場で立ち上がり、飲みかけの野菜ジュースの入ったグラスを高く掲げ、私の方をチラッと見て、ニコッと笑ったかと思うと明るく声を上げた。
「では…今日の主役は琴音ちゃんの様だから、そのー…取り敢えず、琴音ちゃんの前途を祝して…かんぱーい」
「かんぱーい」
カツーン
それからはまた一同からお祝いの言葉を貰った。そして、最後に寛治からも「おめでとう!」と短かめのお祝いの言葉を貰った。それに対して私も短く「ありがとうございます」と同じ様に短く笑顔で返すのだった。
それから暫くは、出された料理に皆して小皿に思い思いに取りつつ、雑談しながら食事した。料理の内容は、やはり幾らかの小品に変化はあったが、大体前からと大きな変化は無かった。尤も、私は今回で三度目だが、メンバーもほぼ同じなのだから仕方がない。ただそれは、メンバーが変われば料理も変わるという事なので、大皿に乗った料理にも品が少しばかり増えていた。具体的には三品だ。寛治の側に置かれたお皿の上には、ズッキーニとシイタケをオリーブオイルで炒めて、塩、胡椒、砕いたパルミジャーノチーズを入れてさっと混ぜあわせた物だった。武史の側には、餃子と、パッと見つくねに見えるが、鳥の挽肉にシソと生姜を加えて、それをラップでソーセージ状に丸めて包み、冷蔵庫に暫く置いたそれを熱したフライパンで焼いた、所謂皮なしのソーセージが乗っていた。そして私と絵里の側には、私の好物である鳥の唐揚げに、それと共に下ごしらえを施した鳥の挽き肉を粘り気が出るまで捏ねて作った肉ダネを、ピーマンに詰め込んで、熱したフライパンで焦げ目がつくまで焼き、その後は弱火で蒸し焼きにした、通常のよりも少し凝ったピーマンの肉詰めが乗っかっていた。
私と絵里の好物は被っていて、特に肉においては、何を置いても鳥肉が好きだというのが共通していた。だから前回までの食事にも、何かしらの鳥肉料理が出されていたのだった。絵里については、それをどこで知ったか、ママとは別に、マスターはマスターでしっかりと好物を把握していた。
私の分は、普段は義一が選り分けてくれていたのだが、今回は絵里が何も言わずとも率先してしてくれた。
「はい、琴音ちゃん」と絵里が渡してきたので、「うん、ありがとう」とお礼を言いつつ受け取ると、美保子がテーブルの向こうから「絵里ちゃんって、案外女子力高いのねー」と悪戯っぽく声をかけてきたので、すかさず「”案外”は余計ですよ」と絵里は突っ込んでいた。その二人の様子を見て、私と百合子は顔を見合わせて微笑み合うのだった。絵里はすっかり初対面にありがちな”壁”が薄れた様で、傍目からみると普段通りに見えた。
それからは美保子、百合子、絵里、そして私の女四人で、取り止めのない話をした。
「へぇー、絵里ちゃん、日舞の名取なんだ」
美保子が声に感心している様な雰囲気を持たせつつ言った。
「まぁ…それこそ名ばかりですけれどね」
と絵里は照れ臭そうに、私にチラッと横目を向けつつ少し恐縮しつつ答えた。それに対して私は意地悪っぽくニターッと笑い返すのみだった。
絵里が私に向けた視線には、少し恨みがましさが滲ませてあった。まぁそれも然もありなんといったところだろう。何故なら、誰にも聞かれていないのに、私がポロッと絵里の正体をバラしてしまったのだから。絵里は基本的に自分が日舞の家庭だというのを伏せたい体らしかったが、これは私の勝手な我儘だと知りつつも、ことこの数寄屋に集う様な美保子や百合子といった、芸に通じている人に対しては、バカにしているつもりは無いが一介の図書館司書としての絵里よりも、日舞の名取としての絵里を紹介したかったのだ。
それからは美保子と百合子の質問ぜめが始まった。私はそれをニコニコしながら聞いていたが、話の流れの中で、この時に新しい情報が手に入った。実は百合子は二十歳までバレエに真剣に取り組んでおり、わざわざパリの養成スクールまで行こうかというところまでいっていたらしい。これを聞いて、話に夢中になってる百合子の顔を見つつ成る程と思った。身長は今年でとうとう追い抜いてしまったが、それでも女性としては背が高い方の百合子のスタイルは、どのパーツも程よくシュッとしまっており、パッと見細身に見えるのだが、どこかしなやかな筋肉が内在されている様にも見えていたからだ。恐らく十代の頃までに培われたものが、今の百合子を支えているのだろう。ここでは軽くしか触れられないが、以前にマサさん経由で教えられた様に、一五歳の時に女優デビューしているわけだが、その理由というのも元々はそれが何かバレエの役に立つのでは無いかとの考えからの様だった。これは本人が恥ずかしそうに話していたが、何でも街を歩いていたら、律や私が遭遇した様なスカウトに勧誘されて、一度は断ったらしいが、その道をよく通っていた百合子の顔をスカウトの方が覚えていて、見かける度に同じ様に話しかけてきたらしい。繰り返しそんな事が起きると徐々に百合子の方で考えが変化していって、まぁそんなに言うのならと折れてこの世界に入ったというのが本当の様だった。ここからは百合子本人は絵里に対して苦笑いを浮かべて、しかしあっけらかんと言うところによれば、結局バレエダンサーへの道は険しく、高い壁に阻まれたというんで、二十歳になるかならないかという一時期は自暴自棄になっていたらしいが、名前は出さなかったが、デビュー作以来会ってなかったマサさんと不意に再会し、そこで意気投合してタッグを組み、それからは数々の作品を作っていく過程で、徐々に傷ついた心が癒されていったという話だった。
初めのうちは、私が秘密を漏らした事で少し不満げに不機嫌な様相を示していたが、次第に百合子のそんな話に飲み込まれて、最後は自分から日舞について話をし出すまでになっていた。
百合子の話が終わり、今度は絵里が自分の日舞の経歴について話をし出そうとしたその時、ふとさっき沸いた疑問があったことを思い出した。
横目でチラッと絵里を見ると、とても楽しげに夢中で話をしているのを確認して、今まで体を若干女グループに向けていたのを、反対の男グループにクルッと向きを変えた。
ちょうどその頃、義一、聡、武史、寛治の四人は、近況報告が終わった辺りのようだった。
とこの時、ビールに口を付けていた武史と目が合った。
武史はジョッキから口を離すとニコッと笑いながら、ジョッキを軽く持ち上げつつ話しかけてきた。
「…おっ、琴音ちゃん、楽しんでるかい?」
「は、はい」
「そっか!」
とここで武史がおもむろにジョッキを私に近づけてきたので、恐らくその事だろうと、私も手にグラスを持ち、それをカツンとぶつけた。
「お、分かってるねぇー」
武史はそうまた笑顔で言うと、グビッと一口やるのだった。私も倣ってストローから一口分啜った。
「でも何だか感慨深いなぁ」
と何の前触れもなく口を開いたのは寛治だった。
寛治はお酒を飲んではいないはずだったが、心なしか顔が上気している様に見えた。口調も若干ふわふわしている。
寛治は私にニコニコと人好きのする笑みを向けてきつつ話しかけてきた。
「君のことは大分前から、そこにいる義一くんから聞いていたんだよ。何かにつけて外見と内面を褒めちぎってくるものだから、せめて写真だけでも見せてよって頼んでも、それは頑なに見せてくれなかったからさぁ…こうして今日実際にお目にかかれて光栄だよ」
と何だか最後に大げさに仰々しく言われたので、影で私の話をした事について、さっきの絵里の様に意地悪く突っ込もうかと思ったが、興が削がれてしまい、「あ、いえいえ…」とだけ返した後、そういえばまだ寛治に対して自己紹介をしていない事に気づき、この時に慌ててしたのだった。
自己紹介を終えると、寛治は「うん、これからも、雑誌共々よろしくね」と笑顔で先ほどの武史の様にグラスをこちらに差し出してきたので、「はい、お願いします」と私も同じ様に前に突き出して合わせた。
そしてお互いに一口ずつ飲むと、おもむろに義一が私に顔を向けて口を開いた。
「寛治さんは、僕らの雑誌の黎明期から寄稿されていてね、ずっとアメリカ政治の事とか、それに加えて世界情勢についての話を書いて貰っているんだ」
「へぇー」
「寛治さん…ってあれ?寛治さんはアメリカに行ってどれくらいになるんでしたっけ?」
と義一が聞くと、寛治は「うーんっとねぇー…」と語尾を伸ばしつつ考えて見せたが、息が切れるちょうどその時、ハッとした表情を見せると、笑顔で答えた。
「確かー…ワシントンには三十年くらいになるのかな?…って」
とここで、寛治は私に向かって何だかバツが悪そうな表情を見せると、
「僕みたいな変なおじさんの経歴なんか聞いても、面白くも何ともないよね?」
照れ臭そうに言ったので、私はこの時正直どう言う態度を取ろうか悩んだが、一度義一にニターッと意地悪く笑って横目を流し、視線をそのままに顔を寛治に向けると、生意気な調子で返した。
「いえいえー、変人なのは、ここにいる義一さんで慣れていますので。むしろ…そんな人のお話をお聞きしたいです」
「ヒドイなぁ」
と隣の義一は苦笑いを浮かべつつそう突っ込んできたが、それには相手をせずに、寛治の反応を待った。
寛治は私の返しを聞いた瞬間はぽかーんとしていたが、すぐに例の「ヒヒヒヒ!」という特徴ある笑い声を上げた。
「いやぁー、なかなかの跳ねっ返り具合だねぇー…気に入ったよ!」
寛治は益々声を裏返しつつ言ったが、ここで一度クールダウンをする様に一度大きく息を吐くと、笑みを湛えたまま話し始めた。
「んー、何から話せば良いかな?…ま、そっか、時系列で述べるのが一番手っ取り早いね。神谷先生の話もしやすいし。僕はね、十八の時に駒場の経済学部に入ったんだけれど、その時ちょうど、神谷先生が准教授として入られたんだ。でね、先生はゼミを持たれていたんだけれど、それが結構人気があってねぇ…自分で言うのも変だけれど、昔から天邪鬼なところがあって、それなりに勿論興味があったし正直ゼミに入ってみたかったんだけれど、人気があったから結局やめちゃったんだ。だから、僕が先生と知り合うようになるのは大分後なんだけれど…って、こんなグダグダと話していて良いのかな?」
「琴音ちゃん、どう?」
まず寛治がまた苦笑いを浮かべつつ聞いてきた後に、すかさず何故か駄目押しをする様に義一も問いかけてきた。私は笑顔を浮かべて、「えぇ、構いません」と返した。
寛治は「そうかい?」とまだ表情を変えないままでいたが、そのまま話を続けた。
「じゃあいっか。でね、その時いつも連んでいた友達がいてね、今も関係が続いているんだけれど、そいつが神谷先生のゼミを受講していてさ、何かとその中身の話をしてくれたんだ。そいつの名前は佐々木宗輔っていうんだけれど…」
「佐々木宗輔…あっ」
どこかで聞いたことがあると思えば、それは雑誌オーソドックスの顧問の一人だった。因みに顧問という肩書きが付いているのは、神谷さんと佐々木って人の二人だ。
「雑誌の中で、いつも神谷先生の隣に書かれている人の事ね?」
と思わずそう声を漏らすと、寛治と義一、そして何故か武史までもが私に笑顔を見せた。
「そうそう、良く見て覚えていたね」
と義一が話しかけてきた。
「う、うん、まぁ…」と、それに対して何と返せば良いのか分からず、取り敢えず間を埋めるためだけにアヤフヤな返しをすると、今度は寛治が話を続けた。
「そうそう、雑誌で先生と一緒に顧問をしてるヤツ。アイツはね、実質先生の一番弟子でね、要はそこにいる聡君の兄弟子って事になるのかな?」
「いやぁー、照れるね」
聡は一人何故か照れ臭そうに笑っていた。
「それでね、奴は今は京都の旧帝大で人間社会学の教授をしているんだ」
「へぇー…随分と息の長い師弟関係なんですね」
「うん、そうだねぇ」
「そう!」
とここでまた義一が口を挟んだ。顔には悪戯っ子の様な笑みを浮かべている。
「僕と違って、正式な弟子って感じなんだよ。まぁ…たまに雑誌の企画で東京に来られる事もあるんだけれど、僕でも滅多には会えないんだ」
「ふーん…って、あ!」
段々話が逸れてきている気はしたが、持ったが病で、思いついた事を言わずにはおれない浅ましい性分が故に、私から武史に話しかけた。
「ということは…武史さんは、その佐々木さんと何かしら関係があるんですか?そのー…同じ大学に所属してますし」
そう私が聞くと、「おー!」と武史は大袈裟に声をあげて見せたかと思うと、ニコッと笑ってから「そうだよ」と返した。
「もうね、関係があるのかっていうか、大有りだよ。何せ僕は佐々木先生の弟子なんだからね」
そう言う武史は、気持ち胸を張って見せていた。
「なるほどー、という事は神谷先生にとっては孫弟子という事になるんですね?」
「そう、そういう事」
武史はまたニコッと笑った。ただでさえベビーフェイスなのに、この様に無邪気に笑うと、何割り増しか益々実年齢よりも幼く見えるのだった。
「まぁ何だか脱線しちゃったから話を戻すと」
寛治はまた穏やかな笑みを湛えつつ言った。
「宗輔はそのまま先生の元で勉強をしていたんだけれど、僕は卒業してアメリカに渡ったんだ。僕も一緒に勉強しないかって誘われたんだけれどね」
「…どうしてその誘いに乗らなかったんですか?」
私はまた頭に浮かんだ疑問をそのまま投げかけた。すっかりすぐ脇に絵里がいるのを忘れてしまっていたが、この時は運良く突っ込まれる事は無かった。まぁ突っ込まれなかったが為に、拍車がかかったとも言えるけど。
初対面に等しい私の遠慮ない問いに、寛治は嫌な顔を一つせずに、答えた。
「うん、それはねー…んー…少し込み入った話をしても良いかな?」
答えてくれるものとばかり思っていたのに、急にここに来て初めて少し真剣味を帯びた表情を見せたので、これまた急だなとあっけに取られてしまったが、ハッと思い付くと、ミニバッグからいつもの癖でメモ帳を取り出し、ペンを手にして「はい」と短く返した。
そんな私の様子を見て、宗輔だけではなく武史も一瞬目を丸くしたが、すぐにフッと力が抜けた後の様な柔らかな笑みを浮かべて見せた。これは私は気付かなかったが、後で聞いた話では、この時女三人組の雑談に一区切りがついた様で、絵里を含めた三人共が、私たちの方に注目していたらしい。
それはともかく、寛治は私がメモを用意した事には触れずに、口調も柔らかく、相変わらず所々声がひっくり返りながら話した。
「今でもそうなのかなぁー…うん、今の日本の政治状況を見る限り変わってないんだろうけど、僕が通っていた駒場にはね、教養学部っていうのがあったんだけれど、その中に通称アメリカ学科というのがあったんだ。正式名称は、今ちょっと思い出せないけれどね。僕はさっき言った通り経済学部に在籍してたんだけれど、他の学部の授業も受講出来たから、試しに入ってみたんだ。まぁ昔の経済学というのは、いわゆる”マル経”か、それとも無きゃ今もだろうけど学ぶのはアメリカ仕込みのモノだって相場が決まっていたから、そのふた通りしかないのなら仕方ないと、アメリカンな方を選んだけど…って、いやぁー…こんな話、話すのはー…」
とここまで話したところで、不意に寛治は語尾を伸ばしつつ、まず私、そしてその後に義一の方を見て、何だか顔色を伺う様な顔を見せたが、私の位置からは表情が見えなかったが、義一は一度大きく頷くと、「この子は大丈夫です」と短く、しかし何だか口調に自信を滲ませて返した。
それを聞いた寛治は、一度こちらの方をまた見たが、私が表情を変えずにまっすぐただ視線を返すと、「…そっか」と、フッと息を短く吐いた後に言うと、そしてまた穏やかな表情で先を続けた。
「でね、アメリカ仕込みの学問を学ぶなら、まずそもそもアメリカってどういう国なのかって根本のところを学ぼうって思って受講したんだ。そしたらね…いやぁ、酷かったんだ」
そう言う寛治は、顔中にウンザリさ加減を全面に打ち出していた。口調にも感情がこもっていた。
「何が酷いってね、教授たちが皆して、何かにつけて融和がどうのとか、みんなで話し合えば世界平和が実現するんだとかって話ばかりするんだよ。でね、具体的に言うと、第一次世界大戦の時にアメリカで大統領をしていたウッドロウ・ウィルソンってのがいてね、こいつが国際連盟なんてへんてこりんな物を作って、そこで全世界の代表が集まって話し合えば、戦争の無い世の中が訪れるはずだって言ってたんだ。そんな理想主義をね、駒場の教授たちはこぞって何かにつけて口にしてたんだ」
ここまで話すと、寛治は一度ジュースを口にして一息入れると、少し何だか呆れたと言いたげな表情を浮かべて続きを話した。
「僕はね、何かにつけて平和だ平和だ言う教授たちの話を聞いてね、理屈はまだ分からなかったけれど、直感的に違うんじゃないかっていう違和感を覚えたんだ」
「それは…?」
と私が合いの手を入れると、寛治は途端に悪戯っぽい笑みを浮かべて返した。
「それはね…琴音ちゃん、さっき君が自己紹介をしてくれた中で、古典…特に一九世紀のヨーロッパ・ロシア文学が好きだって話してくれたけど、実は僕もそうだったんだ。僕も十代の頃は頻りにそんな本ばかり読んでいたんだけれど、それらの作品が頭に入っているとね、当時教授たちが話す平和が成就するという理想論には与する事が出来なかったんだ。あまりに現実的じゃなくて」
「…それは分かります」
私は思わずそう返した。今の様な具体的な事例では議論したことが無かったが、本質的には散々義一としてきた事だったからだ。
「今寛治さんから聞いただけですけど…知ったかぶって言うのじゃないんですけれど、そんな私でもそれが単なる机上の空論によって生まれた理想論っていうのは分かります。だって…まだ中学生の私ですら、世の中がそんな綺麗事でうまく収まるだなんて、微塵も思わないですもん」
こう話している間、この時に初めて隣から痛いほどの視線が浴びせられているのに気づいたが、それには目もくれずに、今目の前の議論に集中した。
寛治はここ一番の真剣な表情で私の話を聞いていたが、話し終えると、寛治は「はぁー…」と、感嘆とも呆れとも取れる様なため息を一度吐くと、私と義一を交互に見てから口を開いた。
「琴音ちゃん…君ってまだ、自分で言ってたけどまだ中学生なんだよね?いやはや…あ、ハハ、義一くん、そんな目で僕を見ないでくれよ。君に予め言われた通り、下手に褒める様なことは言わない様にするから。まぁ気持ちは山々だけどね…。さて、琴音ちゃん、まさに今君が言ってくれた通りの事を、僕も当時思ったんだ。そんな事を大学時代四年間ずっと、何度先生を変えても同じ事を言われ続けてね、言われるたびに僕の中で疑念がますます膨らんでいったんだ。もう膨らみ過ぎていてね、もうすっかり経済学の事なんか興味はすっかり無くなってしまってて、その代わり所謂”政治学”の方に関心が移っていったんだ。それでね、アメリカというのが本当に教授たちがいう様な国なのかを確かめたくなって、それで大学を卒業と同時に渡米して、それで今に至るんだ」
「はぁー、なるほど…よく分かりました」
私は少し恥ずかしながらも隠す事なく話してくれた寛治にたいして、笑顔でお礼を言った。寛治は言葉には出さなかったが、ただまた人懐っこい笑みを浮かべて応えてくれた。
と、ここでふと今の寛治の話から、要点になりそうな所を拾い上げてメモしたものをチラッと見て、一番聞いて見たかった事を思い出した。話の流れからも不自然ではないだろうと確認して、早速寛治にぶつけて見た。
「あのー…」
「ん?何かな?」
「今の話に関連して…一つ質問してもいいですか?」
「あぁ、良いよ。何かな?」
「そのー…」
私はここでもう一度手元にあるメモに目を落として確認してから、顔を上げて、寛治にまっすぐ視線を送りつつ聞いた。
「寛治さんは先ほど、日本政府の事を”偽善的なポリティカリーコネクトネス”って揶揄してましたけど、そのー…”偽善”って何ですかね?」
「え?」
寛治は、この私の質問は想定外だった様で、目をまた大きく見開きこちらを見てきた。それは、義一の向こうに座る武史も同様だった。と同時に、先ほどから左隣から注がれていた視線が強まっていたのもヒシヒシと感じていた。絵里も少し驚いた様子なのは、付き合いが長い分見なくてもわかった。
寛治はフゥッと一度息を吐くと、義一に一度苦笑を漏らして、それから私に声をかけた。
「いやー…義一くんに前情報をもらっていたとは言え、実際こうして容赦の無い質問を掛けられると、驚いてすぐには返せないものだねぇー。いや、何も文句を言いたんじゃ無いよ?むしろ…こんな質問をされて、僕はとても嬉しいんだ。武史くんだってそうでしょ?」
そう話を振られた武史も、ニコッと私に笑顔を向けてきながら「えぇ」と短く返していた。
「中々ねぇ…あ、いや、少し話が逸れちゃうかも知れないけど、今日僕はここに来る前に、ある大学に呼ばれてね、そこの教授がこれまた僕と駒場時代からの友達だから、その繋がりで講演を頼まれて、少し今のアメリカと、それに関連した世界情勢について話してきたんだ」
「その大学はね…」
とすかさず義一が注釈を入れてくれたのは、三田にある、有名な私立大学だった。
寛治は義一に同意する様にコクっと一度頷くと、そのまま話を続けた。
「一時間ちょっと話した後に、質疑応答の時間があったんだけれど、まぁ話題が話題だから仕方ないかも知れないけれど、何だか今のアメリカの状態についての質問に終始してね、今君がしてくれた様な、もっと本質的な所を突いてくる様な質問者はいなかったんだ。…さて、遠回しに君を褒めることに成功したところで、議論をしてみようか?」
そう言う寛治は、とても子供らしい無邪気な笑みを浮かべていた。
「さて、偽善かぁ…。まぁさっき僕は日本政府を揶揄したけれど、これは日本に限った事じゃなくて、アメリカでも…いや、いわゆる先進国に蔓延している現象とも言えないこともないんだよ。それでもまぁ…日本がとりわけ酷いのはそうなんだけれど…。まぁそれは置いといて、偽善…これって定義をするのは難しいよねぇー…そういった仕事は、今はここにいないけど神谷先生や、ここにいる武史くん、そして義一くんに譲りたいけれど…今の話に沿わせて言えば、要は誰の為にその行為をしようとしているのかに尽きると思うんだよね」
「それってつまり…”善”と”偽善”の違いって事ですか?」
「そう、その通り。善と偽善…。琴音ちゃん、君はこの二つの違いについて聞かれた時、君ならなんて答える?」
「え?うーん…」
そうだった。何も絵里が側にいようといまいと、このお店での議論では、まず私みたいな若輩相手にすら、キチンと考えを聞いて来るのがある種の慣習になっていたのだ。それが頭にあれば、初対面とはいえ、雑誌オーソドックスに集う一人である寛治が私に対してそんな質問を投げかけてくる事くらい予測していなければいけなかった。まぁもっとも、これは言い訳ではなく、その現実をしっかり分かった上で、先程来ずっとたわいも無い会話をしている時ですら、頭の片隅で考えてみた事ではあったが、これという事は思いつかず、ある一つの事しか思い浮かばなかったので、取り敢えずそれを言ってみることにした。
「私も考えてみたんですけれど…今寛治さんが言われたことにも関連するんですが、昔から言われている慣用句の一つに”情けは人の為ならず”というものがありますよね?」
「うん、あるねぇー」
そう返す寛治の顔には、既に私が何を言いたいのか気づいた色が見えていたが、そのまま先を話す事にした。
「これを中には、情けを人にかけてはならないと斜めの方向に解釈している人が稀にいるらしいですが…まぁそれはともかく、これってつまり、字引的な言い方をすると、『情けを人にかけておけば、巡り巡って自分に良い報いが来る』てな具合になると思うんですけれど…ちょっと話が脱線しますが、この解釈もちょっと間違ってるんじゃないかって思うんです」
「うん、構わないよ。面白いから続けて?」
寛治に、まるで神谷さんとダブる様な返しを貰い、それによって少し勇気を貰った私は先を続けた。
「は、はい。それというのも、もし今私が言った通りだとすると、こう突っ込まれると思うんです。『なーんだ、報いが来るのを期待して誰かを助けるのか。じゃあ、報われる期待が全く無ければ、情けをかけなくてもいいんだな?』って」
「…くく」
とここで吹き出したのは、武史だった。
武史はニヤつきながら私に顔を向けると、「その通りだな」と同意を示した。私は何も言わずに、その同意に対してただニコッと笑顔で返すと、先を続けた。
「でもこれって、この慣用句を誰がいつ作ったのか知らないですけれど、本来の意図では無い気がするんです。皆さんの前で出しゃばって言うのはアレだけど…こうして現代人が解釈することが、如何にも上っ面の表面しか、目に見えるものしか信じない様な浅薄の、悪しき功利主義の弊害の結果だと思うんです」
「それはあるねぇー」
とここで不意に声を出したのは、美保子だった。
私がそちらの方を見ると、美保子はワイングラスを揺らし、中の赤ワインを揺らめかせながら滔々と言った。
「その話と関係あると思うんだけれど、よく今時の若い人が努力しないって言うじゃない?まぁそう言ってる年寄りが努力してきたとは到底思えないんだけれど。まぁそれはさて置いて、人に聞いた話だけれど、何で努力しないのかって若い人に聞くと、『どうせ努力したって無駄だ』って答えるらしいのね?『努力したって報われなければ意味ない』って。でもこれは、こう言ってる人が、全く努力というのを勘違いしているって事だと思うの。…ふふ、琴音ちゃん、あなたに質問される前に、先回りして私の考えを述べればね、まぁこれは一応少なくともここに集う人たちの間では何度も議論を重ねて同意を得られた定義だから、私だけの意見って訳じゃなく”オーソドックス”の総意と受け取って貰っても構わないけど、それはこうなの。『努力というのは、世間が言うように、ただ人に課題を与えて貰って、それを期日以内にひたすら片していくようなものではない。自分にはもしかしたら不可能かも知れないと思うけど、それでももしそれをこなす事が出来たら確実に自分が一歩成熟出来ると思える課題を見つけて、それを己に課し、一生かかってでもそれに必死に取り組み続ける…これを努力というんだ』とね。これについては琴音ちゃん、まぁ、予め私たちの総意って前置きを置いといて卑怯だけれど、率直に言ってどう?この意見に対して、何か疑問はあるかな?」
美保子がそう問いかけると、その隣にいた百合子も含めた一同が、それぞれ各様の静かな笑みを浮かべつつ私の反応を待った。
色々と美保子が気を使った言い方をしていたが、そもそもこの話も、私は私で義一と宝箱で何度か議論をし合ったので、答えるのは容易だった。
私は微笑みつつ、しかしやっぱり少し意地悪さを加味して「うん、私もそう思う」とだけ返した。
「そう?良かった」と美保子は胸に手を当てて、大げさにリアクションをとって見せた。その直後に何やら百合子に突っ込まれていたが、ふと寛治に話しかけられたので、意識はそっちに取られた。
「思わぬ流れで同意を得られたところで、話を戻そうか。…うん、本当に君は中学生かって問い質したくなる程に、難しい言葉を無理に使うのでも無く、慎重に言葉を運んでくれたねぇ。…うん、僕もそれには同意だね。人に情けをかけるというのは、得するとか損するとか、そんなクダラナイその時の気分で容易に左右にブレる基準の元での損得勘定でするものでは無いよね?でもこういう反論をすると、すっかり頭の先まで薄っぺらい功利主義に染まった人ならこう返すと思う。『じゃあ逆に聞くけど、どんな他の理屈があって人に情けをかけなければならないんだよ?』とね。これに対しては、君ならなんて答える?」
「うーん…まず直感としては、そう言う人物に対して侮蔑の情が湧いて、虫酸が走りますけど…」
私はそう言いながら、両腕を交差させて両手を二の腕に触れさせ、まるで寒がっているかの様に摩って見せた。
「結局やっぱり浅いレベルでの功利主義なんですよねぇ…私ならこう答えます。『理屈じゃないんだ。これは遥か昔から人々がこれが”善”だと思って培ってきたものなんだ。それを高々今しか生きないロクな基準を持っていない現代人が、何の権利があってそれを踏みにじる必要があるのか?その理由を教えてくれ』と。…まぁ、質問に対して質問で返すという、ある意味最悪な返しですけど…」
と私は一人照れ隠しに苦笑まじりにそう言い終えると、その直後に「いや、本当だよなぁー」と合いの手を入れてくれる者がいた。
声の方を見ると、それは武史だった。武史は目を瞑り腕を組みつつウンウンと頷くと、少し座り位置を前にして、私と顔が良く合う様にすると、笑顔ではあったが若干の苛立ちを交えた様な表情を見せつつ言った。
「何の資格があって言うんだって。大体いわゆる括弧付きの功利主義に毒されている老若男女問わず多くいる連中ってのは、そもそも品が無いよなぁ…琴音ちゃん、今君が言った通りにね?しかもそれを言って恥とも思わずに、しれっとしてるんだからなぁ。つまりは道徳がないって事なんだねぇ」
「私もそう思います。…って生意気ですけど」
とここで何だか武史の話し振りから、そうしても悪く思われないと判断して、少し悪戯っぽく舌をチロっと出して見せた。
するとその目算は正しかったようで、武史もニターッと笑い返してくれた。
「だよなぁー。…人生において、何で道徳が必要なのか、それすらも白髪頭の年寄りには分からなかったりするから…あ、いや、寛治さん達は違いますよ?」
「ヒヒ」
と寛治はまた例の笑い声を上げた後、すかさずジト目を武史に向けて、口元をニヤかしながら言った。
「フォローを入れる事で、余計に嘘くさくなってるから」
「そうですかー?」
と武史もチャラけてそう返したが、私に視線を戻すと、表情はまた静かな笑みへと変わっていた。
「もしかしたら義一と話したことがあったかも知れないが、敢えて簡潔に簡単にいえば、道徳が必要だという大きな論拠の一つは、何が善くて、何が悪いかの基準が無ければ、人生の目標も立てられないって事なんだよ。つまり道徳が無ければ、世の中の大多数みたいに、目先の儲け…いや、これも結局その場しのぎ的な物だから、結果として儲かってるのかも疑問だけど、それを目標にしてるから、繰り返しになるけど浅いレベルの功利主義に足元を掬われるんだなぁ」
「…はい、全面的に賛成です」
と私は、武史の推測通り、宝箱での義一との議論を思い出しつつ、はっきりとした口調で返した。それに対して、武史は如何にも満足そうにウンウンと頷き、たまに義一にも視線を流しつつ笑みを浮かべた。
「まぁ大体議論がまとまってきたところで」
とここで寛治は、空気を変えるように口調も明るく声を発した。
そして私に朗らかな笑みを浮かべつつ話しかけてきた。
「さて、君からの疑問に、僕が思う善と偽善の違いについての考えを述べてみようかな?いいかい?」
「はい」
私はいつもの様に、メモの上に手を置くという臨戦態勢を取って返事した。
「うん、じゃあ言うとね…正直僕が思うに、この二つを分ける大きな理由はこれしか無いと思うんだよ。それはね、その行為をどの目線で見て判断してしてるのかって事」
「…なるほど、その”視点”が大事って事なんですね?」
私はそうメモしながら返すと、寛治は一度ニコッと目を細めてから応えた。
「そう。つまり結論から言っちゃうとね、善というのは、人の目を気にせずに、何と周りに思われようと、何度も繰り返し考え考え抜いてみて、どう考えても正しいと思われる事を成す事だと思うんだ。じゃあ偽善は何かというと、その逆で、自分自身がどう考えているのかは二の次で、それをした事によって、周りが自分のことをどう評価してくれるのか、それに比重を置いて行為する事と称したいんだ」
「ふんふん…」
と私がメモに寛治の話した内容、それについての私の感想を書き込んでいると、「…なるほど、でも…」と不意に隣で今まで静かにいた絵里が口を開いたので、私はあまりに意外に思ったために、バッと勢いよく顔を上げると、絵里の顔をまじまじと見た。
絵里はそんな私の様子には目をくれずに、そのまま寛治の方を真っ直ぐ見ながら、顎に手を当てて考えてる様子を見せつつ続けた。
「今寛治さんが言われた事は、結構すんなり入る様な気はするんですけど…善についてのところ、それは聞き様によっては何だか唯我独尊というか…何だか独りよがりで独善的だと思われないですかね?」
「ふーむ…」
それを受けた寛治も、絵里と同じ様な態勢を取りつつ考え込んで見せた。この時私はというと、ふと視界の隅に笑みが見えた気がしたのでチラッと向かいの席を見ると、美保子と百合子が普段私に向けてくる様な、見守っている様な微笑みを絵里に向けていた。
「確かに…」
と暫くして寛治が今度は絵里に柔らかな笑みを浮かべつつ応えた。
「今えぇっと…絵里さんだったね?絵里さんが言われた様な反論はくるだろうねぇ。それに対しての反論は、実はここに集まる様な人種の間では共有しているのがあるんだ。それはね…」
寛治はここで一度話を止めると、武史や義一の方をチラッと見てから先を述べた。
「さっき武史くん達が話していたけど、要はここでも道徳が出てくるんだ。そう、何も僕らは今あなたが言われた様に、何も独善的に独りよがりでいるのを肯定しているんじゃない。むしろ真逆で、道徳的観点から善を選び取って行動する事と善を定義したかったんだ。…ひひ、まだ納得いってない顔だね?」
と寛治がニコッと笑うと、絵里は少し恐縮した様にアタフタして見せたが、すぐに収まると少し声の調子を落として、小声で言った。
「え、えぇ…その道徳というものが、その人自身、その人個人の感覚のものとしたら、やはりそれは独善なのでは無いんですか?」
「…ほーう」
寛治はそんな様子の絵里とは真逆に、その返しに対してますます見るからにご機嫌になっていった。
ここでふと絵里の顔を見ると、気持ち眉間にシワが寄っていたので、口にはしなくても若干イラついているのが分かった。絵里は結構顔に感情が出るタイプなのだ。
寛治の方でもそれに気づいたか、笑顔のままだったが慌てて返した。
「いやいや、別に馬鹿にしたつもりはないんだけど、もし癪に障ったのなら謝るよ。いや何せね、久しぶりにこうして”らしい”反論をされたものだから、何だか嬉しくて楽しくなっちゃってね、それでついついはしゃいじゃったんだ。…ごめんなさい」
と寛治は座ったままその場でペコッと深く頭を下げると、今度は途端にまた絵里が見るからに恐縮して、今度は直接言葉を投げかけた。「あ、いや、そんな、頭を上げて下さい!」
そう言われた寛治は、頭をゆっくりと上げて絵里を直視した。その表情はパッと見無表情だったが、よく見ると好奇心を隠しきれてない、キラキラとした眼をしていた。
それに気づいているのか無いのか、絵里は一度溜息をつくと、力が抜けた後の様な笑みを浮かべつつ言った。
「まぁ…少し嫌な気がしなかったと言えば嘘になりますが、それで気を悪くする程ではありません。何せ、良いのか悪いのか…」
とここでふと義一に視線を流しながら続けた。
「ここにいるギーさんで慣れっこですしね?」
そう言い終えると、絵里はニコッと目を細めて笑って見せるのだった。
絵里の習性を当然初対面の一同は知らないので、恐らく本気で絵里が気を悪くしているのだと思っていた様だったが、絵里を知る…いや、そう簡単に言ってはいけないか、少なくともここにいる面々よりかは遥かに知っている私としては、これくらいで機嫌が悪くなる様な器では無いと分かっていたので、何の心配をする事なく成り行きを眺めていたのだった。
絵里の笑顔を見て安心したのだろう、実際には起きなかったが、今にも大きなため息が出そうな雰囲気が場に流れていたが、ふと寛治が元の笑顔に戻って言った。
「いやぁ、ありがとう絵里さん。…義一くん、君は普段から絵里さんのことを、”一般”代表として紹介していたけど、いい意味で彼女は一般では無いんじゃないかい?」
「そんな事を言ってたのー?」
と寛治がニヤケつつ言った後、その直後に絵里がすかさず義一に突っ込んでいたが、それには相手にせず、義一は苦笑まじりに絵里に視線を送りつつ「そうですかねぇ」と返していた。
そのやりとりを聞いていた絵里は、一人何かを考えていた様だったが、途端にハッとした表情を浮かべると、その直後にはニヤケ面を義一に向けて言った。
「そうよー?普段から言ってるでしょ?私の心が広いからアナタに付き合ってあげれるんだから、今寛治さんが言われた様に、もっと感謝しなさい?」
「…え?いつ寛治さんが、君に感謝しろって言ったの?」
「似た様な事を言ってたでしょ!」
「えぇー?…そうだったかな?」
…この様な、二人には悪いけど不毛なやり取りが数度繰り返されたが、他の一同は止めに入る事も無く、ただ笑顔で二人を眺めていたのだった。勿論その一同には私も含まれている。
そのやり取りが終わると、寛治が「コホン」と一度咳き込んでから話を切り出した。
「話を戻しても良いかな?…うん、ありがとう。さて、今の絵里さんからの反論、それに答える方法として、『そもそも道徳というのは何か、果たしてそれは一人一人それぞれ好き勝手に持っていいのか?』という話をしてみたいと思う。いいかな?」
「はい」
と絵里は和かに返すのだった。
私はこれを見た時少しホッとした。私が言うのも何だが絵里はとても常識的な、一応括弧付きでの一般人なのに、こんなややこしい、大多数なら逃げ出すような話題だったし、それでいて私としては数少ない好感を持てる女性だっただけに、そう応じながら顔には影を帯びせるのかと思ったからだ。それをすぐさま笑顔で返してくれたのに対して、絵里は何も思惑など無かっただろうが、私は心の中で少なからず感謝した。
「ありがとう。では話を続けよう。…確かに例えばただ一人部屋にこもってジーッと考え続けて出た結論なら独善と言っていいと思うけど、僕が言ったのは違うんだ。むしろ、過去に散々し続けられてきた道徳についての議論、結論が出るのか見通しもついていない議論を引き継いで、それを…」
寛治はおもむろに店内を見渡しながら続けた。
「このお店で夜な夜な繰り広げられている様に、色々なジャンルで研鑽積んでいる人たちが、あれやこれやと延々と議論を続けて、そしてそれをまた…」
と寛治は今度は私の方に視線を向けると、笑顔を浮かべつつ続けた。
「ここにいる琴音ちゃんの様な次世代に同じ様に引き受けてもらう…その行為そのものが道徳であり、その行為こそが善とも思うんだよ。…どうかな?」
「え?…」
と絵里は少し考えて見せたが、私はそれがブラフなのは分かっていた。具体的にはと聞かれたら困るが、ただ言えるのは、絵里の纏う雰囲気の変化とだけだ。柔らかとでも言うのか、本気で考えるときには、目に見えて緊張が現れるのだ。それが今回は無かった。
それを実証するかの様に、絵里は顔を寛治に向けると、先ほど見せたのと同じ和やかな笑みを浮かべて
「はい、それなら私も分かります」
と返した。
「…私も」
と、先程来から久し振りに道徳についての議論が交わされていたので、前にも言ったが宝箱での義一との議論を思い出していた私は、思わずポロっと同意の意を示した。
とここでふと視線を感じたのでその方角に顔を向けると、絵里が私に柔らかい笑みを何も言わないまま向けてきていた。若干呆れを交えながら。私はその意味を問うこともなく、同じ様に笑顔で応えるのだった。
「その話の流れから言うと…」
とここで武史が口を開いた。
そして私と絵里の方に顔を向けつつ続けた。
「偽善の事もかなり分解しやすいなぁ。つまり何が言いたいのかっていうとね、善の人というのは言ったり行動したりする事にブレが出ないって事。それにひきかえ偽善の人というのは、基準が周りの意見に準じるから、いわゆる風見鶏的になって、言動に一貫性が無く、ふわふわとしていて地面に足が付いていない事が多いんだよ。…これは僕ら以外の一般人からしても同意を得られると思うんだけれど、偽善者というのは、大体において”軟派”な奴が多いんだよなぁ」
「あぁー…それはとても分かる気がする」
「うん、私も」
絵里が同調したのと同時に私も声を漏らすと、また二人で顔を見合わせたが、今度の絵里の顔には、普段の屈託のない笑みが広がっていた。
「そうそう」
とここで会話に入ってきたのは義一だ。
義一も武史と同じ様に私たち二人に顔を向けつつ言った。
「今の武史の話で思い出したよ。近代保守思想の父と称されるエドマンド・バークって人がいるんだけれど、その人が面白いことを言ってたなぁー。…それはね『偽善者は素晴らしい約束をする。それは…守る気がないからである』ってセリフなんだけど」
「あぁー、ズバリだね」
と絵里が私に話しかけてきたので、「うん」とただ短く返した。
本当はもっと何か付け加えて返すつもりだったのだが、不意にあるワードが出てきたために、頭をそれに占拠され、そうした態度になってしまったのだ。
私は一度一呼吸を置いてから、寛治、武史、そして義一がまとめて視界に入る様に目線を置くと、静かな調子で質問した。
「前々から気になっていたけれど、そのー…保守って何なの?」
「え?」
「…あぁ、そっかぁ」
私の問いかけに、寛治と武史はまたまた目を丸くして見せたが、義一だけがしまったと言いたげな表情を浮かべていた。
「また随分…」
と寛治が苦笑まじりに口を開いた。
「難しい議題を持ち出したねぇー…。これこそ僕の専門外だから、神谷先生の弟子の中でもホープの二人に答えてもらおう」
と寛治に笑顔で大袈裟な動作付きで振られた二人は、お互いに苦笑いを向け合っていたが、武史が恨みがましそうな口調で言った。
「ずるいなぁー…。僕らだって、そんなの簡単に説明できないよ…なっ?」
「え?あ、うん…あっ!」
振られた義一もチラッと私に視線を送りつつ返していたが、ふと何かに気づいたらしく、途端に明るい笑顔になって私に話しかけた。
「そもそもそれこそ、今寛治さんが言ってくれた様に、僕らにとっての実質の師匠である神谷先生に答えてもらうのが一番なんだけれど…考えてみたら、今日先生、そのテーマでなんかテレビ局に呼ばれていなかった?」
「ん?…あぁ、そういえば!」
「何の話?」
と私がすかさず突っ込むと、義一が笑顔のまま教えてくれた。
何でも、今日神谷さんがこの場にいないのは、BSのとある二時間枠の生放送番組に出演しているからとの事だった。以前義一が話してくれた様に、神谷さんは今から二十年くらい前に出たのを最後にしばらく出演依頼があっても受けなかったらしいが、実はここ二年くらいにちょくちょく引き受けて出てたらしい。ただ言った手前、恥ずかしくて話せなかったという話だ。
「それでね、今日先生が呼ばれた理由というのが、先生が今生きている中で、最大の保守思想家と見られているからなんだ」
そう言い切る義一の顔は、ハタから見てても凄く誇らしげだった。
「まぁ…、テレビ局はどんなつもりで呼んだのか分からないけど、少なくとも先生の事をそう認める人は、かなりの少数派だろうけどね」
と続けて話す武史の表情は一転して、苦虫を噛み潰すかの様な渋い表情を見せていた。
義一はそんな武史の表情を微笑ましげに見てから、私と絵里にまた顔を向けると言った。
「二人は…まぁ絵里は元から興味ないだろう。琴音ちゃん、君は君で世相に対して、僕と同じで興味がない分知らないかもしれないけど、一応今の日本は、”右傾化”してるって言われてるんだ」
「右傾化…?」
と私と絵里はほぼ同時に、ほぼ同じ様な相槌を打つと、義一はコクっと一度頷いてから続けた。
「そう、右傾化。…これは僕らの見解とは、あえて言わせてもらえれば真逆なんだけれど、どうも右傾化イコール保守化らしくてね、それで話を聞くならって先生が呼ばれたらしいんだ」
「まぁ先生も、そんなクダラナイ理由で呼ばれたことは百も承知で今日出張っているわけだけれど…」
と武史は相変わらず苦々しい表情を浮かべつつ言った。
「勘弁して欲しいよなぁ、そこで一括りにするの。今義一が言った様に、いわゆる”右”と”保守”は真逆の思想なのによ」
「…あれ?でも…」
とここで絵里が口を開いた。そして義一と武史に視線を向けつつ続けた。
「でも一般的には同じと見られているよね?…勿論私もそう思っていたけど。だって確か…フランス革命後の議会で、右側に座ったのが旧体制派で、左に座ったのが確かー…ジャコバン派とかいう進歩的な人たちが座っていた事から始まるんでしょ?」
「よく知ってるねぇ?」
と義一がすかさずニヤケつつ突っ込むと
「馬鹿にしないでよ、あったりまえでしょー?」
と絵里も同じ様にニヤケつつ返した。もうすっかり普段の二人だ。
「あなたと同じ大学に通ってたんだからねぇ。これくらい高校の頃、受験勉強でやったわ」
「あはは!」
とここで武史が満面の笑みを浮かべつつ絵里に言った。
「いやいや、受験勉強なんてものは、それこそ受験のためにするものであって、終わった瞬間に忘却しているのが殆どなのに、それだけ覚えているのは偉いよ」
「それって…喜んでいいのかな?」
絵里は一度周りを軽く見渡すと、先ほどから変わらないニヤケ面を武史に向けて言った。
「だって…それだと遠回しに、私もここの皆さんと同じで”変わり者”と認定されてしまった様なものでしょ?」
「ん?…あははは!なかなか鋭い事を言うねぇー」
武史がそう言うのを合図にしたかの様に、私含めた一同でドッと沸くように笑い合うのだった。
ひとしきり終わった後、武史がまた静かな表情に戻ると話を続けた。
「まぁさっき義一が言った様に、詳しくは神谷先生に話して頂いた方が良いとは思うけど、それでもまぁこの話くらいだったら僕だって出来るから話すと…うん、確かにそれから所謂右派と左派とで区分けされる様になっていくんだけれど、この手のものにありがちな、初めの考えが上手いこと継承されずに、大体もう二世代後くらいから既に道が逸れていってしまったんだよ。…両陣営共にね。まぁ、ひたすら進歩や革命を言っていた左派の方は、ある意味何も考えなくても単純な理論だから、一般大衆にも受け入れられたんだけれど、それは右派もそうだったんだ。まぁこの話はしだすとキリがないから、結論だけ言ってしまうとね、我々保守側と、いわゆる右派左派陣営との決定的な違いは…人間をどう見るかによるんだ」
「それって…さっきみたいな視点の話?…あ、御免なさい」
私は思わず口を挟んでしまったが、それと同時にタメ口になってしまったのに気づいてすかさず謝った。
内容までは触れずにただ謝っただけだというのに、武史はほんの数秒ほど考えてみせたが、すぐに察してくれた様で「別に僕は構わないよ?」と笑顔で言ってくれた。
私がそれに対してお礼を言おうとしたその時、途端に意地悪くニヤケ面になると、美保子たちや絵里などに視線を向かわして、
「それに…僕だけタメ口じゃないのは寂しいしね?」
と、また私に顔を戻して言った。
「ふふ、分かりまし…あ、いや、うん、分かったよ」
と私が笑顔で返すと、それまでを黙って見ていた寛治が口を開いた。
「…その理屈からいうと、僕だけが今だに仲間はずれじゃないか」
そう言う寛治の顔は、膨れた子供の様だった。
「いやいや寛治さん…」
と武史がすかさず突っ込んだ。
「流石に年が離れすぎてて、琴音ちゃんもそれは無理だよ…ね?」
と私に話を振ってきたので、冗談の流れなのは分かっていたので、若干済まなそうな表情を作って「はい…」と、これまた力無げに返した。
これは偏見だろうが、三十年もアメリカに住んでいた”悪弊”なのか、やたらに大きく肩を落として見せる様なリアクションを取りつつ、「なーんだ、つまんないの」とボヤいていた。
「ふふ、寛治さん」
と今度は義一が話に入ってきた。
「還暦越えたらダメですよ。だってこないだも、マサさんや勲さんたちに対してもタメ口ではなかったんですから」
「あ、そうなんだ…」
とここからもっと話が逸れていきそうだったので、気づいた武史が無理やり話を遮り、本筋へと進めた。
「さて話を戻すと、うん、今さっき君が言ってくれた通りだよ。要は視点の問題さ。この話の場合で言うとね、人間を”性善説”として捉えるか、”性悪説”として捉えるかの違いなんだ。…って二人とも、漠然とでもいいからこの二つの意味は分かるかな?」
と武史が聞いてきたので、メモを取っていた私はふと顔を上げて
「う、うん…読んで字の如しでしょ?ね?」
と武史に返した後絵里を見ると、絵里も何も言わなかったがコクっと頷いた。
「そうそう」
武史は笑顔で同意を示すと、また表情を落ち着けて先を続けた。
「何で今こんな事を言ったのかというとね、単純化の弊害で少し補足を後で入れなくちゃいけなくなるんだけれど、要は性善説に立っているのが右派左派両方で、保守が性悪説に立つということなんだ」
「ふーん、つまり…」
とここで絵里が口を開いた。
「一般的に言われている右左は、根本的なところでは、人間が善だというのを信じてる点で同じで、そのー…保守?その保守の立場から見ると、人間を悪だと信じているから、そこが違うって意味なのね?」
…ここで改めて言うことでもないだろうが、すっかり絵里も私よりも早い段階でタメ口になっていた。
「でもそれって…」
とここで絵里は少し表情を曇らせつつ、横目でチラッと義一を見つつ言った。
「要はあなた方は、人間が元々”悪”だと言いたいわけよね?いやまぁ、私だって人間が皆が皆立派であるだなんて事は思わないけど、それでも根本的と言うからには生まれてからって事でしょ?生まれ落ちた瞬間から悪とまで言ってしまうのは、それは何だか…極論に聞こえるし、そもそもそれだと人間不信に陥ってしまうと思うけど…?」

私はそれを聞きながら、思わず頷いてしまった。
というのも、ふと小学生時代を思い出していたからだ。私の小学時代はご存知の通り、ひたすら周りから浮かない様に、両親を失望させない様に良い子を演じ続けていた訳だが、それと同時に知らず知らずの間にある種の人間不信に陥っていた事に、今更ながら絵里の発言から知らされたのだ。ストンと腑に落ちた。これも今更言うまでもないことだが、結局小学生時代で心を許していた同世代は、ヒロと、それと裕美だけだった。
この時の私はまだこの後、また別の機会で議論を組み回す前だったので、ただ単純に、普段から何かと義一が保守思想家という枕を入れて金言や名言、考え方を教えてくれたりしていたので、恐らく義一はソッチに傾倒していたのだろうとアヤフヤながら推測していた私は、何だか義一と共有する価値観を見つけれた気がして、ほんの少しだが一人喜んでいた。
絵里のそんな反論を聞いた武史は、「んー…」と苦笑いを浮かべて唸ったかと思うと、早速絵里に返した。
「まぁやっぱり今の話を聞くとそう思っちゃうよね?うーん…やっぱりちゃんと一から説明しなくちゃだな」
武史は最後の方は自分に言い聞かせる様に独り言ちると、私と絵里の方にまた視線を戻し、静かに話し始めた。
「性善説に関しては、今絵里さんが言ったので大体良いと思うけど、性悪説に関してはちょっと説明をさせて欲しいんだ。…コホン、今君が説明した、”生まれ落ちた瞬間から悪”…ある意味これは、キリスト教的な考え方だね。というのもね、まぁ厳密にはキリスト教に限らず、聖書に関係した三大宗教には多かれ少なかれ根底に流れている考え方だけど、それはつまり…“原罪”ってこと」
「原罪…」
と私がいつもの様に口で呟きながらメモを取ると、武史は途端に慌てて付け加えた。
「あ、あぁ、いやいや、こんな宗教の話こそ、僕なんかの若輩が簡単に足を踏み入れていい領海じゃないから、軽くだけ触れるからね?…うん、まぁ簡単に言えば、今絵里さんが言ったような意味だよ。二人とも聞いたことはあるだろ?神様のお膝元のエデンに暮らしていたアダムとイブが、蛇に唆されて食べてはいけない禁断の果実、リンゴをまずイブが食べて、その後にアダムも食べてしまい、それが神様にバレて、罰として楽園を追い出されて地上に降り立った…って話」
「あぁ、うん…あ、ということは、原罪というのはアダムとイブが禁断の果実を食べてしまった事ね?それで、その子孫である私たちにはその原罪が付き纏っているってこと」
と私が言うと、武史は笑顔で「そう!」と返し先を続けた。
「主にキリスト教ではその考えが根強くて、ルネサンス期まではその考えが続いていたんだけれど、それが段々と啓蒙の時代になってくると、理性が大事なんだ、人間が思い付いたことは善い事なんだという考えが出てきて、元からあったはあった性善説の様なモノを膨らませていく事になったんだ」
「でもそれだって」
とここで義一が合いの手を入れた。
「理性がなんだと言い出したデカルトだったり、スピノザ、それにフランス革命の原動力の一つだと言われているルソーの思想だって、一般に言われているのとはだいぶ違うモノだったりするんだけどね」
「そうそう!…って」
義一の相槌に対して余計にテンションを上げて返そうとしていたように見えたが、ふと私たち二人の方を見た武史は、何だか先を言うのを躊躇っている様な顔を見せたが、ふと義一に視線を流した後、軽く息を吐いて、それからまた元の調子で先を続けた。
「まぁそれはともかく、元々強かったはずの性悪説が薄れていったわけだけど、それはフランス革命後も続いた。つまり、右左と争っていたわけだけど、結局根本のところではお互いに”人間は理性的な動物で、神様だとか宗教だとか面倒なのに頼らなくても、人間性を解放していけば世の中が良くなっていくんだ”という考え方を持っていたんだ。左は自覚的に、右は恐らく大半は無自覚にね。ここで軽く、そうだなぁー…ここは質問をしてくれた絵里さんに聞くのが筋だろう。さて、フランス革命後の議会の右に座った連中、彼らは簡単に言えば、どんな連中なのかな?」
「え?あ、はい。んーと…」
突然話を振られた絵里は、当然のことながら少しまごついたが、すぐに返答した。
「まぁ当時の事までは分からないけど、今の右と呼ばれる人たちのことで言えば、簡単に言って、伝統を大事にしろって主張する人達の事…なのかな?」
「そう!そこなんだよ!」
絵里が言い終えるかどうかという辺りで急にテンション高く武史が返してきたので、「…え、えぇ」と絵里は引く他に無かった。
私も少なからず驚いたが、そんな二人の様子は気にも止めない様子で言った。
「確かに右と呼ばれる人達は伝統がどうのと言うもんだから、それで僕らと一緒に思われてしまうんだ。…でもここで大きな違いがあるのを指摘しなければならない。さっきの性善説か性悪説かの話も絡めてね」
話しながら徐々にクールダウンしていった武史は、言い終えたときにはまた話し始めのテンションに戻っていた。
武史はここで一度ビールを一口煽り、それから話を続けた。
「彼らは何かにつけて伝統が大事だなんだと言うんだけれど、そもそも伝統と習慣の違いが分かっているのか疑問なんだ」
「…うん」
と私はメモしつつふと意味のない声を漏らした。前回にここで、伝統について話したことを思い出したからだ。その流れで不意に”師匠”の事も思い出していた。
隣にいた絵里、そして義一もその声に反応して私を見てきていたが、私はメモに夢中で顔を上げなかった。
武史も別に良いと思ったのか、特に話しかけて来ずに、ふとここで義一に話しかけた。
「あれ誰だっけなぁ…ほら、そんな話をした人がいただろう?」
「え?…あ、あぁ、うん」
「それを話してくれよ?」
「いいよ」
義一はそう短く応えると、私たちの方に顔を向けて、穏やかな表情で言った。
「僕ら…って、僕らと同じように言うのはアレなんだけど、文学者にして戦後の保守思想家で有名な小林秀雄が短い文章の中で言ったことがあるんだけれど…」
とここで一度区切ると、ふとずっと今まで黙って、好奇心から来るのか軽く微笑みをたたえつつこちらを見てきていた美保子、百合子、そしてこれまた静かに話を聞いていた寛治、聡の順にぐるっと見渡し、またこちらに戻してから続けた。
「これは本人は言ってなかったと思うけど、おそらく元ネタと思われるモノがあって、それを話した方が他のみんなも面白いと思うから、そこから引用しようかな?その人はね、十九世紀のフランスで活躍していた…これまたね、なんと紹介すればいいのか…小林秀雄も文学者と紹介したけれど、それに収まらない活動をしていたから、その点でも似ているんだけれど…」
「ちょっとギーさん?」
とここで、周りを無視して一人で思考にダイブする癖を起こしていた義一に、私の背後に腕を伸ばして背中をトントンと叩いて言った。
「そんな所で急に一人で考え込まないでよー?」
「え?あ、あぁ、ゴメンゴメン」
と義一が素直に照れ臭そうに謝ると、「もーう、気を付けてよ」と絵里はため息交じりだったがかすかに笑みを浮かべて言った。
二人は気づいていたかどうか知らないが、二人以外の私を入れた一同で、同じような笑みでそんな様子を眺めていたのは言うまでもない。
義一は一人で気を取り直すと先を続けた。
「じゃあ話を戻すとね、昔のフランスにまぁ文学者かなぁ…ポール・ヴァレリーって人がいてね、その人が伝統と習慣の違いについて書いてるんだ。正確な引用じゃないけど、『習慣というのは過去から現在まで続けられてきた活動だが、それは善悪問わずであることが多く、中には悪習と呼ばれ得るものもある。その習慣の中で、これこそが後世に引き継ぎたい、これこそが善いものだろうと、掬い取って大事にする事、それが伝統なんだ』とね」
「なるほどねぇ」
と絵里が感心した様な調子を声に混ぜつつ言った。
「何でもかんでも過去の物だからと引き受けるのは伝統じゃないって事ね?」
「うん、そういう事」
「あ、そういえば」
とここで私も同じ様な話をしていた音楽家がいた事を思い出し、義一と違って、初めてここに来た時に話したなと思ったが、まぁその時にいなかった寛治と武史、それに絵里もいるというので、心ではそれでも躊躇いはあったが、口が既に動いてしまっていた。
ここでは繰り返しになるから詳細はいらないだろう。一応軽くだけ触れれば、その音楽家というのはマラーのことで、『伝統とは博物館に飾られた過去に燃えていたナニカの後に残った灰を拝むことではなく、寧ろ現在の種火で新たに火を灯す事だ』というセリフだ。
これを話すと、先に触れた三人ともが興味深げに感心して見せた。考えてみたら、絵里にこの話をすること…いや、そもそも芸について話したのが初めてだった。
去年の夏に絵里が私と裕美に、自分が日舞の名取だというのを教えてくれた訳だったが、それからは特にその事について深く話す機会は無かった。今思えば不思議だ。何故なら言うまでもなく私は厄介な”なんでちゃん”な上に好奇心が有り余るあまりにそのまま直情的に色々と質問ぜめをしそうなモノなのだが、軽い表面的な話はしても、それについて絵里が何を思っているのかまでには発展しなかった。おそらく絵里の方で踏み入らない様に気を付けていたのだろう。それに今になって気づいた訳だが、特段何も悪い気持ちにはならなかった。それだけは言っておく。
それは置いといて、それからは当然の流れというか、前回にも話した”伝統は伝燈から来ている”という話を義一が軽く触れていた。これには絵里が一人でまた、義一相手だというのに素直に感心して見せていた。こういった所も、数多くある絵里の可愛いところの一つだ。
「でまぁ、ここにいる義一と、そして琴音ちゃんのお陰で習慣と伝統の違いが浮き彫りになった所で」
と武史が今がその時だと判断したのか、本筋にまた話を戻した。
「話を続けようか。そう、ここでまた結論を言うと、彼ら右派というのは、悪戯に何でもかんでも長い間続いてきたものだからと、無闇矢鱈に古いモノを守ろうとするんだ。それが何も悪いと言いたいんじゃないけど、ただ彼らは今僕らが話した様に習慣と伝統を分けないが為に、ある種の原理主義に流されてしまって、それに対して否定的な僕らのことを、彼らは”左派”だと称するんだ」
「え?何でそうなるの?」
と私はすかさずツッコミを入れた。
武史は一瞬笑みを浮かべたかと思うと、それに呆れ度を多分に含めつつ答えた。
「それはね、僕らみたいなのが改善すべきところがあるんじゃないかと言うと、全否定された様に感じるらしいんだ。それで、さっきも言ったけど、原理主義になってしまってるから、反対意見を受け入れないんだ。これは右派左派問わず両陣営に言えるね。特に神谷先生は、それで両陣営から猛反発を入れられてきたんだ」
「ふふ、まぁ僕たちの孤独具合を武史に説目して貰ったわけだけど…」
とここで、武史がネチネチと愚痴に入りそうになったのを察した義一が脇から入った。
「まぁ繰り返しになるけれど、さっきも言った様に保守について語るにはまだまだ僕らは若すぎるから生意気に言うのは憚られるんだけれど、それでも何か言って欲しいと言われたらこう答える事にしてるんだ」
「うん…で?」
と私は自分でも気付かぬうちに隣の義一にお尻半分ぶん近寄った。
それを見た義一は両手で私を制する様なポーズを取った後、コホンと一度咳払いしてから言った。
「たいそうな事じゃないよ。さっき武史が言ってくれたけれど、要は左派と言われる側からは右翼と言われて、右派と呼ばれる側からは左翼と呼ばれる、そんな人の事を保守というんだってね」
「そうそう」
とここですかさず武史が割り込んできた。顔は例の悪ガキの様な笑みだ。
「我々の先生の様にね」
と視線を、普段神谷さんが座る位置に流しつつ言うと、また一同が穏やかな笑いを起こすのだった。
と、その雰囲気が収まらないその時、
「…なるほどねぇ」
と周りがニコニコしている中、一人顎に手を当ててウンウン頷いていた絵里が声を上げた。
そして義一に顔を向けると、これまた普段見せる悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「ギーさんもそんな感じだわー」
「え?それってどう意味?」
と私がすかさず突っ込むと、絵里は目をギュッとつむって見せつつ笑って答えた。
「煮ても焼いても食えない奴って事!」
「違ぇねぇ!」
とここで今まで静かだった聡が絵里に満面の笑みで同意して見せると、そこでまたドッと場が沸いたのだった。

「何だよぉー…」
と義一一人で苦笑まじりに一人ボヤいていたが、まだ場の盛り上がりが冷めやらぬ時に、私に笑みを向けてきつつ話しかけた。
「まぁだから琴音ちゃん、今の時点ではそこまで深い議論をする事は出来ないけれど、次何かの時に、先生も側にいる時に改めて議論をして貰う事にして、今の所は僕のところにある一般的に保守思想家と目されている人々の本を…もし興味がある様だったら、今までの本と一緒に喜んで貸すけど…どう?」
これまた義一らしい、分かりにくく遠回しな言い方に思わず吹き出してしまいつつ、その後にはさっき絵里がした様な笑みを義一に向けて返した。
「ふふ、どうも何も、そもそも私から話を振ったんだから、興味があればって聞くのが愚問よ。…えぇ、是非とも貸して欲しい。お願いね」
と最後には何の含みもない自然な笑みを向けると、義一もこちらに微笑んできつつ「うん、分かった」と短く応えるのだった。
「ではここで一つ話を区切るためにも、纏める頃合いかな?」
と武史が私たちに微笑みを向けてきつつ言った。
「コホン、右派と左派の両陣営は性善説に基づいていて、保守陣営は性悪説に基づいているって言う僕らの説ね?…うん、つまりはこうなんだ。左派はいうまでもなく、右派も漠然と過去から続けられてきた習慣に対してこれといった疑問を持たずに、盲目的に執着して見せる…これっていうのは、過去の人々の人間性を不用意に礼賛して、これを言うと右派からは反発を食らうだろうけど、習慣イコール正義みたいに思い込んでいるんだ。でも、さっきの議論でも出たように、そもそも習慣と伝統は違う、伝統は習慣の中にある善いと思われるモノを守ろうとする事というのは皆で同意出来たね?それを悪習が含まれている可能性のある習慣と伝統をごっちゃ混ぜにしてる時点で、僕ら保守の立場とは右派は相容れない。この違いがどこから来るのか…?んー…」
と武史はここまでは快調に飛ばしていたが、ふとここで止めると神谷さんの席をチラッと見て、そしてその後に義一に目を向けた。
「…なぁ、先生の説…性悪説に関して説明する為に、少しだけ触れても良いよな?」
と問いかけれられた義一は一瞬考えて見せたが、すぐに若干苦笑気味に「…うん、まぁ仕方ないね」と答えた。
それを受けた武史は笑顔で頷くと、また私たちに視線を戻して続けた。
「だよな?…さてお二人さん、ようやくここにきて話が戻ってきたけれど…特に琴音ちゃん、ほんの少しだけ話の流れ上、僕らの師匠の思想を弟子の僕らが軽くだけ話してみるね」
「うん」
とさっき義一に言われた時にはお預けだと思っていたのが、ふと少しとは言え話してもらえるというので、同年代の女子から見たら異端中の異端だろうが、とてもワクワクして続きを待った。ここで隣は見なかったが、恐らく絵里はまた私に呆れ笑いを送っていた事だろう。呆れられても仕方がない。自分で言うのは少し気恥ずかしいが、今更言うことも無いだろうけど、日を追うごとに、たくさん本を読み、知識を身につけ、物の見方のバリエーションが増える度に、この様な頭が沸騰するような難しいけど普段は聞けないような、こういった話が大好きで、それが悪化の一途を辿るのだが。
「よし、じゃあ軽く触れてみるね?…先生は色々な保守思想家と認知されている人々の著作を網羅されているんだけれど、その中の一人に二十世紀の政治哲学者で保守思想家、マイケル・オークショットって人がいてね、この人の説を引用して、先生は保守の三原則と呼ばれる物を定義したんだ。それはね、”不完全性”、”有機体”そして”漸進主義”…この三つから保守は成ると言うんだ」
「んー…」
私は今武史が言った三要素をメモに書き込み、これが後にも大事だと直感して、その三つの下にペンで何本か線を引いた。
「でもここで三つとも話す時間もないし、そもそも先生の説なんだから、先生がいらした時にでも話して貰うとして…今はこの中の一つ、不完全性に絡めて、性善説と性悪説について話してみようと思う」
「…良かったぁ」
とここで不意に絵里がため息交じりに声を漏らした。
「いきなりまた難しそうな話に入りそうになったからどうしようと思ったけれど、ちゃんと戻ってきたのね」
「あぁ、勿論さ」
武史は最後に意地悪く笑う絵里に対して、何故か誇らしげに胸を張って返していた。武史はどうかは分からないが、すっかり絵里の方では心の垣根が下りているように見受けられた。
義一は普段から絵里に対して、一歳上とはいえ、その分一応一年先輩なのに、それ相応の接し方をされていないとボヤいていたが、義一よりもまた三歳年上の武史に対してもこんな調子なのだから、もう諦める他に無いな…という”どうでもいい”感想がこの時に何故か沸いたのだった。
「ここはせっかくだから、義一に話して貰おうかな?」
「え?」
ここで話を振られるとは思わなかったのか、義一は惚けた声を上げて武史を見た。
そんな様子の義一には構わず、武史は笑顔を絶やさぬまま言った。
「ほら…性悪説といえば…」
「あ、あぁ…。じゃあ」
と義一は私と、そして位置的に私の後頭部の後ろにあるであろう絵里の顔を見つつ、少し気まずそうな笑みを浮かべつつ言った。
「もうこれで小難しい話は終わりだから、もう少しだけ辛抱してね?…うん、今はまぁ簡単にだけ触れて、琴音ちゃんがもしそれで興味を持ったら原著を貸そうと思っているけれど…でね、何が言いたいかっていうとね、昔の中国に荀子という人がいて、この人がいわゆる性悪説を唱えたというんで有名なんだ」
「じゅんし…」
と私が呟いてメモを取ろうとすると、義一が何も言わずに私の手からペンを取ると、”荀子”と書き込んでくれた。
「いわゆる孔子からの流れのうちの一人なんだけれど、その性悪説を唱えたというんで当時から、本来同じ流派に属する人達からも攻撃されるような人だった。これは今も続いているんだけれど、原著を読んでみると非難されるような事は書いてないんだよ。…一般的に言われるようなね」
「さっき私が言ったみたいな事?」
と絵里が何の含みも持たせずにスッと口を挟むと、義一の方でも素直に受けてコクっと頷いた。
「そう。…でね、荀子が実際に言ってるのはどういうことか、これを単純に言ってしまえばこうなんだ。『人間というものは不完全な代物なんだ。その不完全なままでいるのを良しとするのは”悪”だけれども、人間というのは自身の不完全性をしかと見つめた上で、もしかしたら無駄かも知れないとどこかで直感的に知りつつも、不完全をどうにか改善しようとするものだ』とね」
「…あぁ」
と私はメモを取り終えると、これに限らずいつもの事だが腑に落ちたのを自覚したのと同時にスカッとした気分になり、こうしてため息混じりの声を漏らしたのだった。
「これは普段、義一さん、あなたがよく言ってる事だね?」
と私が声をかけると、義一はまた照れ臭そうに頭をかいて見せていたが、ふと顔に浮かべていた笑みに少し気まずさを滲ませつつ言った。
「まぁ…今手元に原典がないから、少し僕のバイアスが掛かっちゃってるかもしれないから、実際に見て確認してほしいけれど…まぁそうだね。僕なんかまだまだ保守”見習い”だけれど、目指しているものは所謂”右”などではなくて、”保守”なんだ…っていや、それは今関係ないね。だから何度も出てる結論をまた言えば、少なくともこの雑誌、オーソドックスに集う皆んなで共有している保守についての考えは、まず人間は不完全な代物だというのをしかと認識して、それで終わるんじゃなく、何とかそれを改善できないかと足掻く事、その態度だって事で…こんな所でいいかな、お二人さん?」
と最後に一度区切ってから、私と絵里に目を配ると、まず私がいつものように、勿論異論がないかを確認した上で笑顔で「えぇ」と短く返した。
その少し後で絵里の方を見ると、絵里は一瞬考えるポーズをして見せたが、ニターッと意地悪く、そして呆れ気味に笑うと「えぇ」と絵里も返すのだった。
「そっか…」
と義一が静かな笑みを浮かべつつ返したその時、ふと部屋の扉が開かれた。その先にいたのは、カートを前にしたママだった。
ママは笑顔で一同を見渡してから言い放った。
「さて皆さん、会話は一区切り着いたかしら?そろそろ片しますよ?」

皆がそれに同意すると、ママがまず入って来て、その後すぐにマスターも入室し、テーブルの上の、会話しながらでも綺麗に平らげられた食器群を手際良く片していった。その合間合間でママがまた、飲み物のお代わりを聞いたので、これもいつも通りというか、皆して同じ物を頼むのだった。絵里もそうだった。ただ一つ違うのは、いい意味で絵里の態度から気後れの様なものが消えていた。
片して貰っているその間、ふと今まで静かだった美保子が寛治と雑談を軽くしていた。内容としては、いつ日本に帰って来たのか、そしていつまたアメリカに行くのかといった話だ。
ここで私も何となく、図々しくもその会話に入って見ることにした。
「お二人って…」
「ん?何?」
私が声をかけると、真っ先に美保子が反応した。好奇心に満ちた笑顔だ。
「そのー…気を悪くしないで欲しいんだけれど、何だか二人は親しいようだけれど、何だかパッと見共通点が見つからないの。だって、片やジャズシンガーでしょ?もう片方は国際政治の世界に身を置いている人…ある意味真逆じゃない?この二人が知り合うってのがまず難しいと思うんだけれども…」
と何となく上目遣いを使い、二人の顔を交互に見つつ言うと、私の隣の絵里も「確かにー」と話に入ってきた。その声からは、”無駄”に小難しい話が続いた後の一息を入れれるという安心が現れていた。
「ん?」
美保子と寛治はキョトン顔で顔を見合わせていたが、そのすぐ後で「あははは!」と美保子が底抜けに豪快に笑った。その声にかき消されてしまっていたが、寛治も例の特徴的な笑い声を上げていた。
「確かにねぇー、まぁお互いに普通の生活をしていたらまず接点は無かったと思うよ?ただねぇ…まぁもったいぶる事も無いんだけれど、ただ単純に共通の友人がいたのねぇ…で、その友人というのが」
美保子はここまで言うと、寛治にニヤケ面を向けて言った。
「…彼の奥さんなの」
「へぇー」
と私と絵里が顔を見合わせつつ同じ様なリアクションを取ると、寛治は「まぁね」と短く照れ臭そうに言うのだった。
「彼の奥さんはアメリカ人なんだけれど、私の事務所で働いている人だったの。まぁ友達と言ったって、何も私が紹介したわけじゃなくて、私が彼女の事務所に入る事になった時には既に結婚していたけれどね」
「ヒヒヒヒ!そりゃそうだよ。僕と君とじゃ年齢が全然違うんだしね!」
とここで寛治はますます笑い声を張り、そして喋りながらも収まる気配は無かった。既にわかっていた事だが、どうも彼はとても笑い上戸らしい。
美保子は寛治をそのままにして、でも本人も笑みを絶やさずに続けた。
「そもそもね、この店に来る様になったのも、彼、寛治さんの紹介でなの」
「へぇ」
「まぁオーナーの西川さんにしても、この店を一見様お断りとまでは敷居を高くするつもりは無かったかも知れないけれど、まぁ店の特性上、誰かの紹介無しでは来れない感じだからねぇ」
「そう」
とここで笑いの収まった寛治が合いの手を入れた。
「僕が彼女をね、えぇっと…初めて来てからどれくらい経つっけ?…もう十年以上前になる?そっかー…うん、彼女をそれくらい前に連れて来たんだ。今美保子さんが言ってくれたけれど、妻のお陰で知り合えたんだけれどね、話してみるとその内容が面白いから、丁度その時、神谷先生から誰か面白い人がいたら紹介してって言われてたから、早速紹介したんだ。で、今に至るんだ」
「なるほど」
「ちなみにね?」
私が感心してる風に美保子をチラッと見ると、ふとまた寛治が話し出したのでそちらに顔を向けた。
「多分話の流れで察しがついてると思うけれど、一応話すと、僕はさっき話した通り大学時代には先生と認識が無かったんだけれど、ある時さっき話した僕の友達の今京都の大学で教授をしている宗輔がアメリカの僕のウチに来てね、『先生に君の事を話したら会いたがっているから、ちょっと来ないか?』だなんていうもんだからさ、初めは唐突だったんで呆気に取られたんだけれど、これもさっき言ったように、僕自身、神谷先生に対しての興味はずっと学生時分の時から薄れていなかったから、快く了承して今に至るんだ」
「…でね」
寛治が話し終えるのと同時に、今度はこれまた今まで静かにワインを飲みつつ話を聞いていた百合子が口を開いた。
「私は琴音ちゃんの前では触れたかも知れないけれど、そこには絵里さんがいなかったから言うと、美保子さんがここに来るようになって数年後に、マサさんに連れられてここに来たの」
「そうそう」
百合子がそう言うと、さっきまで寛治に体を向けていた美保子は、ぐるっと豊満な腰を反対に身軽に回して百合子の方に正面に向けた。
「マサさんが言っていたよー、『パッと見物静かなんだが、演技に入ると身の毛がよだつ様な存在感を見せる奴がいて、しかもそいつは俺に負けず劣らず演劇に関して見識があるから今度連れて来る』ってね」
「もーう、恥ずかしいから本人を前に言わないでよそういう事ー」
と百合子は普段の美保子の言う物静かな表情を豹変させ、まるで思春期の幼さ残る女学生風な笑みを見せつつ、美保子に体をぶつけて見せた。偉そうに知ったかぶって言えば、流石は女優といった感じだ。
とここで絵里が何気無くマサさんのことを質問したので、百合子が”石橋正良”の事だと言うと、絵里は初めて百合子さんのことを知った時の様にまた興奮して見せた。細かくは描写しないが、「まだ今も組んでいるんですね!」だとか、まぁそんな所だ。それからは私の知らない百合子の、マサさんが脚本を書いた過去の出演作を列挙して見せていた。
それを傍らで聞いていた私は、ふとある事を思い出したので、ボソッと「絵里さんも昔、私と同い年くらいから何年か、演劇部に所属していたのよね?」と口を挟んだ。
「あっ!ちょ、ちょっと琴音ちゃん…」と絵里は私を慌てて制しようとしたが遅かった。絵里の勢いに苦笑い気味に対応していた百合子が、今度はこっちの番だと言わんばかりに、絵里に質問ぜめをしていた。
これは直接聞いた訳ではないのでハッキリとは言えないが、恐らく事前に絵里が日舞の名取だと知っているのが大きかったと思う。実際、百合子は日舞がどう演劇に通じるものがあるのかどうかと質問していた。誤解を恐れずに言うが、たかだか部活動の範囲内で演っていた絵里に対して、そこまで百合子が熱く聞いてくるというのも変わっていて、絵里もそれには苦笑いしつつも、好きな女優に直接アレコレと深い所で会話する事自体は嬉しいらしく、戸惑いつつも真摯に答えていた。
ふとこの時、昔絵里が話してくれた、演劇部の先輩に入部する様に誘われた時もこんな感じだったんだろうなと思ったのは勿論だ。

丁度その頃、マスターとママ達の後片づけも終わったらしく、これも普段通りにエプロンを取って部屋に入ってきて、自分たちのお酒を作って、隣のテーブルに座って二人で乾杯をしていた。
私はその頃また寛治さんと雑談をしているところだった。
内容としては、私がまずどうやってアメリカの高官達と議論を組み交わす様な立場になったのかを聞いて、それに対して寛治が答えてくれたのを紹介するとこうだ。
「僕はアメリカのことを知ろうと、大学を卒業とともに渡米して、まず向こうの大学に入って国際政治を勉強したんだ。何故かって?今は相対的に弱まったけれど、アメリカが世界の警察だなんて嘯いていた頃だったから、その国際政治を勉強したくなったからなんだ。それで卒業後にある政策会社…まぁ、色々と政治家たちに『この様な政策がありますよ』みたいな事を進言する、日本から見たら結構特殊な会社に勤めたんだ。これを聞くと変わっていると思うだろう。何せ外国人である僕の意見を政治家が聞くんだからね。これはある意味”自由の国”アメリカの弊害の一つだと思うね。まぁ…その弊害のお陰で、僕は飯に困らなかったんだけれど」
そう最後に言った時の寛治の顔は、まるで童心に帰った様な笑顔だった。
その後は端折るが、要はそのまま二十年近く勤めた後、日本人にしては珍しく政治政策面で評価されて、自分が卒業したアメリカの大学に職を持ちつつ、今も高官クラスの人間達と議論を戦わしているという話だった。
ついでだからこの時に出たエピソードの一つを話そうと思う。
私が先ほど寛治が言った”ポリティカリーコレクトネス”の事について聞いた流れで出た話だ。
「向こうの高官と話しているとね、あれやこれやとある種の本音を話してくれるんだ。僕みたいな、日本人とは言っても日本で一切影響力のない奴だったら、本音で語って良いだろうと踏んでる様なんだ」
そう言う寛治は、残念がるどころか、例の笑みを含ませつつ時折声を引っくり返しながら言うのだった。
「それでね、彼らが言うので今思い出した出来事が二つあってね、まず日本人の議論を聞いていると凄くクダラナイと言うんだよ。まぁ僕は全面的に賛成なんだけれど、それというのもね、まるで五歳児と九歳が喧嘩してる様だって言うんだ。それはどういう事かと言うとね、まず五歳児。まだ物心が付いたばかりで右も左も分からない幼稚園児な訳だけれど、この子はまだ世界がどれだけ悪意に満ちていて怖いものなのかを知らない、駄々をこねれば全てが思いのままに動くと思っている…要は現実を見ない、さっきの議論で言えば”左派”という事になるんだ。でね、次は九歳。この頃になると何となくだけれど、小学校に通いだしたりして集団行動を学び、そして授業とかでこれまた何となく世の中は怖いものかも知れないと思う様になる。でも自分で立ち向かおうとは思わない。そこでどうするかというと、力を身に付けようとは考えずに、『確かに世の中生きて行くには危ないかも知れない…でも僕は大丈夫。だって僕には強いパパ、アメリカという強いパパがいるんだから、パパの後ろに隠れれば大丈夫』という…まぁこれも例えれば”右派”という事になる。つまり、戦後日本における言論空間というのは、アメリカの高官たちに言わせれば、五歳と九歳が喧嘩してるだけだと言うんだよ」
と寛治がそう言い終えるのを待っていたのか、すぐさま義一が私の背中に手を当てて、私の小学時代の頃の話をし出した。これには参った。ただただ私は何だか気恥ずかしくて、少し俯いてやり過ごしていた。この頃には一同皆が寛治の話に耳を傾けていたので、必然的に義一の口から吐き出される私の過去をも聞いていた。よくは見ていなかったが、おそらく皆…これには絵里と聡も含まれるが、興味津々に聞いていたのは察せられる。…これだけ言うと自意識過剰に思われそうだが、事実だろうから仕方ない。この手の事で予想を外した事が、残念な事にまだ無かった。
そんな私以外の間に和やかな空気が流れ、ついでにと言うか、絵里までもが美保子と百合子相手に私の話をしていたが、寛治は話がばらけていくのを特段気にせずに話を続けた。
「それでもう一つというのはね?その繋がりで思い出したんだけれど、ある仲良くしている高官が僕にこう言ったんだ。『寛治、お前はいつもアメリカの悪口ばかり言ってて、正直その度にムカついているんだけれど、少なくともお前の言ってることは分かる。でも、日本の政府から派遣されてくる官僚なり外交官と会話してると…何を言ってるのか全然分からないんだよ』とね」
途中から例の笑い上戸が出て、笑いながら話すものだから、かなり愉快な内容だと、何も知らない人が見たら思ったかも知れない。
「要は同じ位の筈の高官なのだから、裏方同士で真剣な実務の議論をしようと思っているのに、日本の高官はそこでも”ポリティカリーコレクトネス”な会話しかして来ないとボヤいていたんだ。まぁそもそも…日本の一流大学を出たところで、ある種の思想哲学を一切学ばず、本もロクに読んでないから一般教養もからっきし無い、そういう本来なら本人達が恥に思わなければならないレベルでいるのにも関わらず、厚顔無恥にやって来るんだ。だから…」
寛治は途中から渋い顔つきで話していたが、ここにきてまたニヤッと笑うと続けた。
「だから僕は向こうにいる時に、相手が日本人を馬鹿にし、悪口を言い出しそうになる前に、僕の口から日本人の事を罵倒するんだ。外人に言われるよりかは、自国民の僕が言った方が良いと判断しての事だけれど、後は…いやこれが本心かな?わざわざ言われなくても、僕自身がそう思っているからね」
「そうねぇー」
とここで不意に美保子が口を挟んだ。
「私も向こうに行ったばかりの時は、『日本人…いや、ジャップごときにジャズが分かるのか?』ってな具合にジロジロと見られたから、それに頭がきて、今寛治さんが言ったように、私も私で『確かに日本人が分かってるかどうかは怪しいけど、そんな変なのと私とを同じにしないで貰える?』って強めに反発したら、そしたらそれからは向こうの人達も、私のことを認めてくれたのか、アジア人だという色眼鏡を外して、私自身の芸を見たり聞いたりしてくれる様になったのよねぇ」
「それを聞いた僕の妻が、美保子さんを紹介してくれたのさ」
と寛治がすかさず口を挟んだ。顔はニヤケ面だ。
「…あなたと同じで、日本人なのに日本人らしく無い、パァパァ好き勝手言う奴がいるってね。…そう、向こう…というか一般的に欧米社会では、勿論礼儀もなく中身もない事を好きかっていうのは許されないけれど、少なくともキチンとした信念を持った人の意見は、意外に人種関係なく聞いてくれるものなんだ。でも日本人のほとんどは、相手の顔色ばかり伺うことばかり考えて、実質何も話す内容を持ってない事が多いから、だから向こうの高官は『何を言ってるのか、いや、何が言いたいのかさっぱり分からない』って感想を持たれちゃうんだよね」
「私もなんだか分かる気がします。…何となくですけど」
と私は、寛治が話した今の内容がすんなり頭に入ってきて、感想を言わずにはおれずにそう呟いた。寛治はそんな私の言葉に笑顔で頷いた。
とここで、もうそんな話をするタイミングでも無いだろうと私自身察してはいたが、持ったが病でついつい口を滑らしてしまった。
「あのー…寛治さん?」
「ん?何かな?」
寛治はお代わりに貰った野菜ジュースを、見るからに美味しそうに味わいつつ飲んでいたところだった。
「えぇっと…さっきの話の中で、要はアメリカ人は日本人の事を子供だと思っているわけですよね?いや、私が言うのはおこがましいんですけど、確かにそんな気がするんです。私たちって成熟してないなぁって。普段から義一さんともそんな話はするんですけれど、ふと今思った疑問で、そのー…大人って何ですかね?」
「え?」
問われた寛治は、今日一番に目を見開いた。私はこのとき見渡しはしなかったが、どうやら私以外の一同、マスターやママも含めて目を丸くしていた様だった。
ほんの数秒間沈黙が流れて、空調の音だけがしていたが、ふと寛治が苦笑気味に口を開いた。
「いやぁ…聞きしに勝る、無理難題を突きつけて来るお嬢さんだね。見た目はそんなに可愛らしいのに。…ひひ、いや、僕が答えるにはちょっと荷が重いなぁー…そうだ、ここは責任を持って義一くんに答えて貰おう」
「え?」
突然話を振られた義一は情けない声を漏らしたが、絵里をも含めた皆が自分に視線を向けて、それで何を話すのか興味を持っているのに気づいた後、私に向けたその顔には苦笑いを浮かべていたが、優しい目をこちらに向けつつ話しかけた。
「…ふふ、いや、君がそんな疑問を呈するのは想像ついていたけれど…まぁ、これは僕が中々その事に関して、君が納得行く様な答えを持っていなかったばかりに先送りにしていたのが悪かったねぇ。…うん、実は今日話すつもりは無かったけれど、僕なりに納得のいく一つの説明をついこの間思い出したから、参考までに聞いてくれる?」
「…ふふ」
義一の相変わらずの分かりにくい話の導入部からの、最後のこれまた分かり辛い言い回しに、これぞ義一だというのが聞けて、思わず笑みが溢れてしまった。
「…うん、お願い」
私が微笑みつつそう返すと、義一はコクっとこれまた笑顔で頷くと話し出した。言うまでもないけど、流石の絵里も、内容が大人についてだったせいか、子供の私に対して、まず自分の意見は?と言った様なツッコミはしてこなかった。むしろ、本人は違うと言い張るだろうが、やはり何だかんだ絵里は私ほどでは無いかもしれないが、義一の、義一ならではの人と違った物の見方に対して面白みを感じている様だった。まぁだからこそ、ここまで十年近く付き合って来れた大きな要因の一つだろう。…まぁ他にもっと大きな要因があるだろうとも思うけど、これ以上冗長ではいけないので話を進めよう。
「うん。これは僕個人の考えだけれど、精神心理学の世界で戦後最大と言いたくなる和光大学で名誉教授でいらっしゃる先生がいるんだけれど、その人が大人と子供の違いについて語っているんだ。『自分の行動規範をどれほど認識し、相対化しているか、その通用する限界をどれだけ知っているかにある。これが大人だ』とね」
「という事は…」
と私はメモをし終えてから顔を上げ、義一に言った。
「その行動規範というのが…前々から私たちが話している文化だとか、伝統って事になるのかな?」
「そう、その通り。あえて確認の意味も含めて言えば、行動規範…規範って言うくらいのものだから、元々ある筈のもので、今から作る様なものではない。それは過去の何処かに内在されているものの筈。そうなると、今日の議論の中にも出たけれど、ただ単に習慣からではなく、その中にある伝統から汲み取れるような物が規範と成り得ると思うんだ」
「うん」
「だからまぁ…また我田引水に過ぎて卑怯な様だけれど、これは保守の態度と同じとも言えると思うんだ」
「だから…」
とここでふと武史がニヤケ面で話に割り込んできた。
「大人になるって事は保守的になるって事で、逆に言えば保守というのは大人な態度とも言える訳だな」
「なるほど…」
と私は軽くまたメモを取りつつそう漏らしたが、ふと顔を上げて義一と武史に視線を配り、そして武史に負けじとニヤッと笑いながら返した。
「確かに…我田引水に感じなくもないけれど、でもまぁ、何も反論の余地も無いから、大人についてという疑問に対しての返答は、それで今日のところは納得してあげる」
「お、変に長ったらしくそう生意気に返すところなんざ、どっかの野郎と同じだなぁ?」
「ふふ、ありがとう」
武史と義一が、それぞれの態度で返してくれたその時、ふと腕時計を見た。時刻は九時半になろうとしている所だった。
ここでふと私は顔を上げて、一同を見渡し口を開いた。
「あのー…私からちょっといいですか?」
これに対して一同は「何?」とそれぞれのやり方で示したが、それに構わず私はその場で立ち上がって続けた。
「今日は私のコンクールでの全国大会進出を祝うためだけの為に、わざわざ集まってくれて有難うございました」
私はここで一度大きく深くお辞儀をした。義一や絵里、そして聡も含めた一同は呆気に取られてしまっていたが、この様な挨拶をしようという計画は、こうしてお店に行く事が決まった時点で思い浮かべていたのだった。
そして顔を上げて、まだ少し呆気にとられたままの一同を見渡し、マスターとママの方向で一度顔を止めると、続けた。
「マスターさん達も、今日はわざわざ私の好みの物の品数を増やして下さって、有難うございました」
と言い終えるとまたお辞儀をすると、「いいえー、どういたしまして!」とママは笑顔で返してくれた。顔を上げてマスターの顔を見ると、相変わらず表情があまり変わらなかったが、口角が気持ち上に持ち上がっていた。視線も微妙に柔和だったと思う。
それを確認すると、今度はチラッと部屋の隅にあるアップライトピアノの方に顔ごと向けてから、一同をまた見渡し、この段階にまで来ると、何故か今更急に気恥ずかしくなりつつも続けた。
「で、ですねぇ…もし良かったらですけれど、そのー…私がコンクールで弾いた曲を、今この場で演らせて貰っても良いでしょうか?お返しになるかは分からないけれど…」
最後の方では顔を上げたままでいることが出来ずに、若干俯き加減になりつつ言い終えた。
どれくらいだったのだろう?実際は十秒も経って無かったかもしれないが、長く感じる沈黙が流れた後、真っ先に口を開いたのは、こう言っちゃあ何だが意外にも百合子だった。
「…そんなの、言うまでもなくお返しになるに決まっているわよ」
そう言う百合子の顔には、静かな透き通る様な微笑みを見せていた。「…ね?」
「…ね?じゃあないよぉー。その役割は私じゃないの?」
と美保子は何故か不満げに百合子を見てから、私に明るい笑顔を見せて続けた。
「百合子ちゃんに先を越されてしまったけれど、そんなの良いに決まっているじゃない!お返しだなんて、むしろお釣りを返さなきゃいけないくらいだわ」
「…ふふ、それは流石に美保子さん、大げさ過ぎ」
美保子の言い分に、私は思わず笑みが漏れてしまった。
「そうそう」
と武史も私にニヤケ面を向けてきつつ言った。
「初めの頃に言ったけど、僕でも知ってるくらいのコンクールだし、前々から気になってはいたんだけれど、当然というか、関係者しかそのコンクールを聞きには原則行けないからねぇー。こうして決勝に出るほどの人の演奏を、こうして生で聞けるだなんて嬉しいの一言だよ」
「そうだね」
と寛治も短く同意してくれたその時、
「そうやって琴音ちゃんに変なプレッシャーをかけないでくれよぉ」と武史はすかさず義一に突っ込まれていた。それに対して武史はただ笑うのみだ。
その様子を見てまた自然と笑顔になっていたその時、ふと背中に温もりを感じたので隣を見ると、絵里がただ静かな穏やかな笑みをこちらに向けて、手をそっと背中に当ててきていた。私は同じ様に何も言わずに見つめ返し、そしてニコッと笑い返すのだった。
武史の相手が終わった義一は私に向き直り、「じゃあ、お願い出来るかい?」と聞いてきたので「うん」と返し、ふとマスターとママの二人の方に顔を向けて「ピアノをお借りしても良いですか?」と遅まきに我ながら間抜けなタイミングで聞くと、「勿論良いわよー」とすっかりほろ酔いのママが間延び気味に答えた。
それを聞くと私は立ち上がり、ピアノの方に向かうと、ふとマスターが立ち上がり、私よりも先にピアノに近づき、底に付いているキャスターのブレーキを外すと、少し移動させた。止めたその場所は、皆の位置から私の姿の右半分が見える所だった。コンクールと同じだ。マスターはその後で椅子を持って来て、最後に蓋を開けてくれた。
「有難うございます」
と私が言うと、「…調律は大丈夫なはずだから」とぶっきら棒な調子で言ってから席へ戻って行った。
「はい」と私は短くお礼のつもりで返事をすると、すぐそばの壁に手をつき、軽くストレッチをした。
そして少し離れた位置に固まって座る一同に振り返り、本番さながらにお辞儀をして見せると、皆は一斉に拍手をくれた。
これは本番とは違っていたが、そんな細かい所には気を向けずに、そこから密かに編曲した課題曲を、三十分かけて弾いたのだった。


「もうすぐで車が来るから」
ママがそう言うと、カウンターの中に入って行った。
ここはお店の”喫茶店部分”。例のごとくまだ私が未成年ということで、こうして足早にお店を後にすることと相成った。ただ普段と違うのは、言うまでも無いことだが絵里が同伴している事だった。今日は三人で帰ることとなる。聡は普段通りもう少しここにいる様だ。

私の演奏が終わったのは、予定通りの十時丁度だった。弾き終えて私がまたお辞儀をすると、まず真っ先に美保子が駆け寄って来て、そしてそのまま豊満な体を押し付ける様に抱きついて来た。
「琴音ちゃん、すごく良かったわよ!初めてあなたの演奏を聞いたけれど、本当に惚れ惚れとしたわ。演奏内容だけでなく、その弾く姿にもね?…いやぁ、人前に出たくないってその言い分も分からないことも無いけれど、勿体無いわぁ」
「ふふ、有難う美保子さん」
私は少し苦笑まじりにだが、それでも本心からお礼を返した。
美保子の私への言葉は、他の人がもし言ったら下手するととても嫌な気持ちになるだろう事が予想されるけれど、こと美保子からだと素直に純粋に嬉しかった。その理由はもう単純なことだ。初めて会った時から美保子の音楽という芸に対する、偉そうな言い方で恐縮だが”本気度”が分かっていたので、そんな真剣に私よりも先に生まれて取り組んでいる美保子にそう言われたら嬉しいのは言うまでもないだろう。
それからは百合子、武史、寛治の順にそれぞれの分野からの視点から褒めてくれた。そのどれもがユニークで、嬉しさと同時にとても参考になった。そして後は、聡、義一、絵里の順にまた褒めてくれた。私のサプライズに対してもだ。
絵里が感想を言い終えた後、義一はおもむろに時計を見て、いつも通りに一同に挨拶して今となる。

私、義一、そして絵里はそれぞれ皆と別れの挨拶をした。
絵里に至っては、美保子と百合子と連絡先を交換していた。
絵里は二人から求められた時は最初は戸惑っていたが、それでも側から見ていて快く応じてる様に見えた。
私は私で、美保子と百合子と挨拶した後、今回初対面の武史と寛治と、その内また会いましょう的な会話を交わし、そして最後にまた改めてマスターとママにご馳走のお礼を言い終えたその時、お店の前に一台のタクシーが停まった。

「いやぁ、驚いたよ」
地元に向かうタクシーの中、助手席に座る義一が正面を向きつつそう漏らした。
「まさかあんなサプライズを用意してたなんて」
「ふふ」
私は、相変わらず街灯の少ない世田谷の住宅地をノソノソと行くお陰で真っ暗な車内で、相手に見えるかどうか考えないまま満面の笑みを浮かべつつ返した。
「あの後ずっと計画練ってたんだー。ちゃんと三十分前後に収まる様に編曲してね」
「それでもキチンと原曲を損なわずに弾いてたね」
「流石だわ、琴音ちゃん!」
と私のすぐ隣にいるはずだが、暗闇の中で顔は見えなかったが、絵里が笑みを浮かべてそうな声を掛けてきつつ、シートの上に無造作に置いていた私の手を握ってきた。
それに対して振り払うこともせずに、されるがままに
「うん、ありがとう」
と返した。
「でもなぁー…」
と絵里は私の手を離すと、少し不満げな声を漏らした。
「せっかくの琴音ちゃんの決勝進出祝いと、決起集会を兼ねてたはずなのに…アレで良かったの?」
「え?どういう事?」
私は何も深読みしなまま、ただ絵里の言葉の意味がよく分からなかったので、素直な気持ちで問い直した。
すると、隣から絵里が顔を私に向けてくる気配を感じた。
「いや、なに、あの集まり自体には何の文句もないのよ?…そもそも、私は部外者だしね?でも、それでも、結局あの場で過半数占めていたのは、そのー…ほとんどが小難しい会話ばかりで、何だか…言い方が難しいんだけれど、んー…琴音ちゃんが主役じゃなかった様な気がしたのよねぇ」
「んー…」
私は、絵里が私を想うあまりに、アレコレと試行錯誤をして話してくれた形跡を、その辿々しさから見出したので、何と返していいものやらと戸惑っていると、「ふふ」と助手席の方から小さな笑みが聞こえた。
「絵里…君だって分かってるだろ?琴音ちゃんは、変に持ち上げられて持て囃されるよりも、あぁして普段通りに一緒に過ごしてくれてる方が嬉しいんだよ」
「…分かってるよぉ」
絵里は前方をキッと睨みつつ、若干恨めしそうな口調で返した。
この時の私としては、これが初めてなら『なにを本人を前にして、あれこれ言ってるのよ』と思ったり、もしくは口に出して突っ込んだりしただろうが、これも日常茶飯事…まぁ絵里が私たち…本人の口癖をそのまま借りれば私の為を思ってというのと、義一の考えの浅さ加減に対して、普段から口に出して叱ってくれていたので、なにも思わないと言うと語弊があるが、そのまま流すことにした。
「でもやっぱり私としては、もうちょっと琴音ちゃんを祝いたかったなぁ」
「ふふ、気持ちだけで十分だよ。…ありがとう、絵里さん」
と私は最後のセルフに情感を込めつつ、今度は私から絵里の手を握った。夏場だと言うのにひんやりとしていて、心地よかった。
「…もーう、ズルいんだからなぁ」
と表情は見えなくとも口調から苦笑いなのが伺えた。
「まぁ…あなたが良かったのなら、それ以上なにも言う事なんか無いわ」
絵里も先ほどの私の様に情感を込めた口調で言うと、私の手を握り返してきた。私は「ふふ」と小さく笑うのみで、私からもほんの少し握る力を増したのだった。
「まぁそれに…」
絵里はそっと私の手を離しながら言った。
「今日はギーさんの習性の本質的な部分が垣間見れた感じもあったし、それなりに収穫はあったかな?」
「ふふ、何だよー、人を動物の様に言って」
義一は前方を見ながらそうボヤいていたが、声の色からは不満と言うよりも、愉快さの方が優っていた。
絵里もそれに乗っかる形で続ける。
「だって、もうかれこれ十五年の付き合いになるのに、今日ほどハッキリとあなたの内面を見れた気がした事は無かったからね。結構口が回る癖に、何だか確信の所に近づくと、ケ・セラ・セラと逃げるんだから」
「あぁー…それは分かるかも」
と私が笑いを含みつつ言うと、「でっしょー?」と絵里も同じ調子で返した。
「何だよー…二人して僕一人にかかって来るのかい?」
と義一は苦笑しっ放しだったが、今度は口調に意地悪げを混ぜて返した。
「今日話した様な内容は、ここまで深く掘り下げなくても、結構会話の中で出てるはずなんだけれどなぁー。それに…僕らの雑誌を読んでくれてるのなら、今日の様な話も出てたと思うけど?」
「まぁねー…でもさ」
絵里は思いがけず素直に返し、そのまますんなりと滞りなく続けた。
「やっぱり、字で読むよりも、こうして直接話してくれた方が、スッと頭に入ってくるものなのよ」
「いや、だから、昔から何となしに織り交ぜていたはずなんだけれど…」
「…ふふ」
と、普段通りの二人のやりとりを聞いて、自然と笑みが溢れたが、絵里の言う事には全面的に賛成だった。
また改めて言うこともないだろうけど、義一からこの時点で五百冊近く本を借りて読んでいた訳だが、確かに一人でジッと読む時も、また義一が貸してくれる本自体の魅力も手伝って、新しい発見が次々と現れてくるのを見れる喜びは感じれていたのだけれど、やはりその後での義一との感想の言い合いこそが、最も面白かった。まだ私が中学生で未熟だというのもあるのだろうけど、それを補足してくれる度に、ただプラスされていくというよりも、感覚としては足し算ではなく掛け算くらいに理解が大きく膨らんでいく様に感じて、それは至福のひと時なのだった。
最近義一がようやくというか、思想哲学の本も貸してくれる様になって、この頃はプラトンを中心に読んでいたのだが、その中で、ソクラテスがさっき絵里が言った様なことを、『何で本を書かないんですか?』という問いに対して答えていたのを思い出していた。
それからはその繋がりというか、主に百合子の話を中心に、絵里が色々と熱のこもった感想を述べていた。私は途中から義一たちと議論をしていたので内容までは聞けてなかったのだが、この時に初めて知れた。細かく話す余裕は今は無いが、絵里は絵里でかなり今回の会合を楽しんでくれた様が見れて、ホストでもないのに、大袈裟な言い草の様だが嬉しさが込み上げてくるのを感じるのだった。

タクシーが夜も深まっているというのにまだ賑わいが引かない都内の繁華街を抜ける頃、義一が「今日の神谷先生のテレビ出演部分を録画してるから、今度見せてあげるよ」と言ってくれた時、私が感謝を述べると、絵里が苦笑していた場面があったり、義一は義一で恐らく狙ったのだろうが、それに付け加えて、寛治がお店に来る前に講演して来たという三田の大学の映像も、「それは大学のホームページにあるというんで、それは興味があったら見てみてね」と追い打ちをかけたので、絵里が一人「あー、ますます琴音ちゃんがギーさん臭くなっていくー」と、それこそ演技臭くボヤいていたが、ふと私の方に顔を向けると、優しい笑顔を浮かべて言った。繁華街を通っているせいか、車内も若干光度を増してよく顔が見えた。
「でもまぁ…一番初めに見た時のお人形さんの様なあなたよりも、今の若干ギーさん臭のする変わったあなたの方が魅力的だわ」
「え、あ、うん…あ、ありがとう」
私は唐突に褒められたのでしどろもどろになったが、すぐに意地悪な笑みを作って返した。
「そのセリフ…もしこの場に裕美がいたら、『そんな恥ずいセリフ、言わないでよぉ』って突っ込まれてたね?」
と声真似までして言うと、「あははは!」と絵里は底抜けに明るく笑った後、「本当そうね!」と返すのだった。
それからは取り止めのない話で盛り上がっていると、いつの間にかタクシーは私の家の前に停まった。毎回そうだが、日が沈んでからもしばらくは、私の前の通りはそこそこ車通りがあるのだが、夜も更けてきたせいか、一台も走っていなく、そもそも来る気配も無かった。
今回は絵里がいるというイレギュラーだったが、それでも普段と変わらず、義一と絵里は一度降りてきて、私と挨拶をした。そして二人がタクシーに乗り込み、ゆっくり走り出す時も、車内から二人が笑みを浮かべてこちらに手を振ってきたので、私も同じように返した。そしてタクシーの赤いテールランプが、一つめの曲がり角を曲がる事によって見えなくなるまで見送るのまでが一つの流れだった。
見えなくなると、私は誰もいない家に入り、シーンと静まり返った中で淡々と寝支度をした。
いくら大人ぶって見せて…いや当人としてはそんなつもりは無いが、おそらくそう思われているかも知れないが、もし何もなく一人で家にいたとしたら、正直とても寂しかったとおもう。何せ言ってもまだ中学二年生なのだ。いや、他の同年代はどうかは知らないが、少なくとも私はそうだった。ここ最近は数寄屋に行かずに、ひたすらコンクールの準備をしていて、毎回では無かったが両親がいない時に、それは実感として持っていたのだ。だが、数寄屋から帰ってきた時は、その日にした会話や議論が頭に甦り、それを反芻しているといつの間にかベッドに入っているのだった。だから寂しさを感じる暇など無かった。こんなところでも良い影響が出ていた。
この日も気づけばベッドの中に入っていた。普段以上に頭を使うせいか、大体横になってしまえばものの数分で寝落ちしてしまうのだが、この日はふと数寄屋を後にする直前の風景を思い出していた。
そして思わず「ふふ」と一人、思い出し笑いをするのだった。
それはこんな光景だった。

「今日はごちそうさまでした」
と絵里がマスターとママに挨拶をしていた時のことだ。
マスターとママは私にするのと同じ要領で返していたが、ふとママが何かを思い出したような顔つきになると、次にはニヤケ顔で絵里の耳元に近寄って何か囁いた。ハッキリとは聞き取れなかったが、内容としては、何でママが絵里の好みのワインを当てられてのかの種明かしだった。そしてそれはどうやらというか、まぁ想像通りだったが、情報源は義一だったらしい。絵里も一緒に数寄屋に行くという段取りになって二、三日しか間が無かったはずだったが、あの時そんな素振りを見せずに飄々としていたのに、裏ではちゃっかりこうして手を回していたという訳だ。これはのちに誰だったか…まぁおそらくママからだろう、聞いた話では、中々すぐには手に入りにくいワインだった様で、結構無理をして取り寄せたといった話だった。
ここから何を察するかは皆さんに任せるにして、この情景を思い出して何で笑みが溢れたかというと、この後の絵里の反応のせいだった。何の変哲も無い反応ではあったのだが、絵里はそれを聞くと、ふと少し離れたところで寛治と武史と談笑していた義一を見つめて、「ギーさんがねぇ…」と短い言葉を漏らしたのだった。
確かに短いのだが、その時の絵里の表情、その言葉に込められた深い情感、とてもじゃないけれど言葉に表しきれないナニカがある様に見えた。そして別にこの時が初めてでは無かったが、照れ隠しに誤魔化さない、ありのままの絵里の本心が改めて見れた様な気がした。
それを最後に私は静かに眠りに入っていった。

第5話 大広間

…ッタ…スタッ…スタッ…
…ん?
気付くと私は暗闇の中を、一定の速度を保ちつつ歩いていた。
…いや、真っ暗などではない。手元にある例のカンテラが足元をボーッとオレンジ色の柔らかい光で照らしていた。
…あぁ、来たか。
私は一度足を止めて、後ろを振り返って見た。そこは前方と変わらぬ暗闇が広がっていて、試しにカンテラを高く掲げてみたが何の変化も無かった。相変わらず何者かの気配は感じていたが、前回にみた夢の時に出会った、名も知らぬ骸の姿は確認できなかった。
暗闇というのもあるだろうが、仮に明るくても、何だかもう既に消えて無くなっているのではないかという、根拠は無いが確信に近い自信があった。
「…はぁ」
私は音が聞こえるのか確かめるためにも、声に出してため息を吐いてみた。しっかりと聴覚は生きていた。
嗅覚は先程からこの暗闇の中で一番に機能していた。前回までと変わらぬ埃っぽい匂いだ。しかし埃っぽいと言っても、むせたり咳き込む気配は無かった。
「さて…」
と私は寂しさを誤魔化すように声に一々出してまた新たに歩を進めた。
普通に考えたら暗闇の中で余所見をあちこちにしていれば方向感覚を失いそうなものだが、不思議とそれには困らなかった。
まぁこれが夢だといえばそれまでなのだが。

それからどれくらい歩いただろうか?
時折側を何者かが走りすぎて言ったるする気配を、ソレが起こしているであろう風によって察していたのだが、それ以外は何も起きない状態が続いた。前回のような骸にも、一度も出会えずじまいだ。
ただただ手元のカンテラだけが、飽きもせず煌々と静かに何も言わずに光を放ち続けている。燃費がどの程度なのか、夢の中だというのに、そんな変にリアリティのある心配をしてみたりしたが、すぐにその心配はいらないと”感じた”。…感じたとしか言えないのだから仕方ない。ただ、何だか前にも思った事で繰り返しになるが、このカンテラからは、勿論おとぎ話の様に突然顔が現れて話し出したりはしないが、それでも漠然と意思の様なものを持っているように”感じる”。この退屈な”散歩”に挫けそうになる度に、その光を見ると、何だか励まされているようで、それでまた前に足を踏み出せるのだった。
とその時
「…あれ?」
急に目の前に、緑色に発光する、よくあるタイプの非常灯のような明かりが見えた。
その柔い明かりの下には、その柔い光に浮かび上がるように、あの初めの部屋にあったような、赤く錆びたような扉がデンと現れたのだ。
余所見せずにただ前だけを見て歩いていたのだから、突然そんなものが目の前に現れるなんて現象は、不可思議でしかなく、常識的には説明がつかない事なのだが、しつこいようだが、夢だという事でただ納得する他になかった。
大体十メートルほどだろうか、その手前で立ち止まり、突然現れた懐かしい赤錆びた扉を眺めていた。
ここがまた変にリアリティがある所で、現実の世界と同じように、心臓が早く鼓動を打っているのが分かった。
私自身の夢にも関わらず、どんな事が起きるのだろうかと若干…いや、かなりビクつきながら、すり足でゆっくりと慎重に近付いた。
手の届くところまで来ると、一度上から下までそのドアを見渡してみた。最初の部屋のドアもそんなにじっくりと眺めた訳ではないから、勿論自信などは無いはずなのだが、アレとコレが同じ種類の代物だという事が分かった。
何度か顔を上下に動かし眺めていたが、これ以上していてもラチがあかないという事で、まだ内心ではビクついていたが、それを何とか抑えつつ、これまた錆び付いているせいか表面がボロボロの取っ手に手を掛けた。そしてゆっくりと回してみると…
何と、一度めにして開いた。
…何でそんなに驚いているのか、ここまで私の夢の話なんかに付き合ってくれた方なら、もう察しているだろう。
そう、初めの部屋にあったあの扉は、二、三度この夢に訪れなければ開かなかったからだ。
私は一度めに開いた事で待ち惚けを食らわないで済むと、胸の”半分は”喜んだが、もう半分はただただ得体の知れない”不安”が満ちるのだった。さっきも言ったように、仮に前回と同じだとすれば、一度めで開く事は無いだろうとたかを括っていただけに、これは驚くべき事だったのだ。
ここが私のヘタレな所なのだろうが、私がこの扉の前でまた足止めを食らう所でこの夢が終わるものだと思っていたから、折角開いたドアをそのまま開ける勇気が湧いてこないのだった。
私は取っ手に手を掛けたまま、指一本分ほど開いた扉の前で固まっていた。
…あ、そうだ。
と私は思い出し、他力本願だが手元のカンテラの光に勇気を貰おうと見てみると、これは現実に話したらバカバカしい事この上ない事だが、…いや、今までもそうだったのだが、心なしかカンテラの方も”緊張”しているように”見えた”。
このような事は初めてだった。
私は思わずカンテラを少し持ち上げ、顔の近くに寄せた。
カンテラは言うまでもなく火による明かりだから、そんなに近くに寄せたら熱くて仕方ないのが普通なのだろうが、このカンテラからはそのような猛烈な熱さは感じない。熱が出ているには出ているのだが、例えるなら羽毛布団を頭まで被って、それによって顔に感じる暖かさといった所なのだ。…分かり辛い喩えだろうが、要はとても心地の良いものだということだ。
カンテラの中身の火は、周りを隙間なく耐熱性のガラスで覆われているから、本来はあり得ないと思うのだが、火が風にでも吹かれているかの様に、あちこちと不規則に揺れていた。
それを見ていた私はまた少し不安の度を増したのだが、とその時、フッと一瞬強めに光ったかと思うと、今までよりもほんの少しだけ、光度が強まった様に見えた。オレンジ色の光に、少し黄色が混ざってきた様にも見える。
相変わらずゆらゆらと揺れるのは変わらないが、それでも私には充分だった。
「…ふふ」
とその時何だか急に”懐かしい”感覚を覚え、思わず笑みが溢れた。
私はすぐその後、今まで扉の取っ手をつかんでいた手で思わず口に手を当てた。
…人間として生きている限り、思わず笑ってしまう事など何の珍しい事では無いのだが、この時ばかりは自分で自分を不思議に思った。原因は、一緒に憶えた”懐かしさ”だった。
…?何なのかしら、この感覚は…?
私は首を大きく傾げて考えたが、特に何もその原因に思い至る事はなく、考えても仕方ないと、一層心が軽くなった事を喜びつつ、また取っ手に手を掛けて、ゆっくりだったが確実な意志を持って扉を押して、今までいた空間におさらばした。

…!
扉をくぐった次の瞬間、強い光を当てられたかの様に目の前がホワイトアウトして、その眩しさにしばらく目が開けられなかったが、その後ゆっくりと目を開けると、どうやら今までいた所と比べたら、遥かに光が満ちていた。カンテラの光が必要ないほどだ。
ようやく視覚がまともに機能する様になったと本来なら喜ぶべきなのだろうが、正直目の前に広がっていた光景に、驚愕するとともに、何だか…気持ちがどんよりとさせられた。
まず何故驚愕させられたか?
それは、今までに見たことの無いような、ゴシック建築様式で凝らされた空間が広がっていたからだった。
…いや、これは私の夢なのだから、イメージの力で現実に見たことの無いものが出現する事はありえる事だとは言っても、それは元の物をそれこそ想像力で膨らませたり縮めたりしての結果な訳だが、起きてる世界でそんなに見たこと無いのに、ここまで現実に沿った物が現れたのは、どう考えてもいくら夢でも説明がつかない。
…まぁ未だに謎だが、結局は意識的には覚えていないだけで、実際は何かの拍子に目に入ったのだろう。
それはさておき、私は相変わらず扉の前で立ち止まっていたが、この場合は仕方ないだろう。取り敢えず動かずに、目で取れる情報を片っ端から取っていくのに専念した。
まず目を惹いたのは天井だ。天井は典型的なゴシック様式の尖頭アーチ型で、それが隙間を作らんばかりにばかりに広がっていて、夢だというのも忘れてただただ見惚れてしまった。視線を下に戻すと、それらを支える為か、列柱もいくつも並んで立っていた。尖頭アーチの端と列柱の間には、葉形模様の装飾が施されていた。
ふとこの時、今更ながら何処に光源があるのか疑問に思い始めた。見た感じ、現代にある様な電化製品がある様には思えない雰囲気だったし、そもそもこの場には似つかわしくなかった。
しかしその疑問もすぐに解消された。こんな事を言っても分からないだろうが、私の通う学園の校庭ほどもありそうなこの部屋の壁の至るところに、縦に長い控えめな窓がいくつもあって、そこからおそらく外だろう、自然光が差し込んできていた。その中の一つが歩いて数歩の所にあったので、ようやく私は重たい足を前に踏み出し近づいた。
その時に初めて気づいたが、この窓にはステンドグラスがはめられていた。…こう言うと、このゴシックの雰囲気なども話したから、まるでヨーロッパの教会にある様な、様々な色彩で彩られた物を想像するだろうが、実際は違った。細かく趣向は凝らされていたが、何の色付けもされていないガラスで、下手に細工しているせいで曇りガラスの様な効果を発揮し、私の身体の幅程しかない窓からは外を見る事は叶わなかった。
さてもう一つ、何故気持ちがどんよりとさせられたかについてだ。
何も外の景色が見えなかったせいでは無い。もっと根本的な事だった。
それは…ここに出てから目の前の景色が灰色一色しか無いということだ。先ほど私は視覚が回復したと言った。実際回復しているのには違いない筈なのだが、どうやら突然私の目が灰色しか感知出来なくなった訳ではなく、そもそも色合いがそれに統一されてしまっているらしい。それを証拠に、この灰色の景色の中で、唯一多様な色を放っているのは、私自身と身に付けている物、そして…手元で灯を放つカンテラがあったからだ。思わず自分の身体とカンテラを確認して、それで安心したという次第だ。
…と、色々描写してみたが、後は特段触れるものは無い。
天井はそんなのだし、仮初めでもステンドグラスがあって雰囲気は良いには良いのだが、全てが灰色に見えるという理由も手伝って感動は半分以下に抑えられてしまい、その感動も慣れていってしまうと、どんよりとした気持ちが優って心を占め始めるのだった。
このまま呆けていてはやられてしまうと、何処かの世界遺産に来た気持ちで部屋の中をグルグルと回った。しかしこのだだ広い空間には、何も物が置かれていなかった。
その分ますます広さを思い知らされていたのだが、部屋の隅に階段らしきものと、屈めば入れそうな程に大きいかまどを見つけたその時、
コツ…コツ…コツ…
と突然足音が聞こえてきた。どうやらすぐ近くの階段を降りて来るらしい。足音は徐々に大きくなっていった。
私はこの夢を見てから初めて自分以外のあからさまな”人”の気配に驚き、少しの間、蛇に睨まれたネズミの様に微動だに出来なかったが、次の瞬間、私は足音をなるべく立てない様に駆け出し、出てきた扉の近くまで行き、その側の列柱の一つの影に身を隠した。
ちょうどその時、その足音の持ち主はこの大広間に降り立った様だ。足音が止んだ。
私は扉を開けるときとは比べ物にならないくらいにドキドキしていた。鼓膜で隔てた内側で、心臓が脈打つ音が大きく聞こえた。外に漏れていないか心配になる程だ。
ザッ…ザッ…ザッ…
何やら掃いている音がしてきた。箒の擦れる様な音が、この広い空間にこだまする。
しばらく、まるで人が出しているとは思えない程に規則正しく鳴り響く音に耳を傾けていたが、次第に恐怖よりも好奇心が勝ち、覚悟を決めてそっと柱の陰から顔を覗かせた。
音の持ち主はカマドの前でホウキを持ち、何かを掃いていた。どうやらカマドの掃除をしているらしい。
…いや、そんな事は音から大体察せられたのだが、何よりも驚いたのは、その者そのものに対してだった。
その者は全身を修道服の”様な”者に身を包んでいて、まさしくこの空間に馴染んでいた。…いや、だったら何も驚く事はないと思われるだろう。…そう、勿論これが理由では無い。というのも、この者は、周りの風景と同じで、灰色一色だったからだ。
おそらくあの者も私と同じ様に人間だと思われるのだが、前にも話した様に、私自身は色合いを残しているのに、すっかり周りの風景に溶け込んでいた。これはゴシック建築と修道服の組み合わせ以上に、学の無い私にとってはもっと馴染んで見えた。修道服の様なと言ったのも、この色合いのせいだ。
そのせいか、次第にその者が何だか人間でなく思えてきて、いや、むしろ”有機体”にすら思えなくなり、すっかりまた好奇心よりも恐怖心に占められていき、顔を引っ込め、その場にしゃがみ込み、膝を抱える様にして、両腕に顔を埋めるのだった。
その間も、耳には規則正しい一定のリズムを刻むホウキで掃く音が聞こえていたが、ふとその時、目を瞑っていたにも関わらず、徐々に視界が狭まっていくのを覚えた。
それに対して私は心から安堵した。
何故なら、これは夢から現実に戻っていく時の現象だったからだ。
それと同時に音も徐々に遠ざかっていった。

第6話 (休題)とある番組内からの抜粋(神谷)

琴音が数寄屋で祝られていた頃、
その裏で神谷がとある生番組に出演していた時の一コマ。
司会はテレビ局の政治部担当記者と女子アナウンサー。
神谷のお相手を務めていたのは、当時都知事だった男性。

番組全体の議題は”保守とは何か”。
話は大戦後日本社会、そして世界について議論が交わされた。
東西冷戦を軸に、日米同盟などの話などが話された後、
ふと司会の男性に、「神谷先生にとって、戦後日本を保守の立場から見ると、どの様な評価になりますか?」と問われ、それに対して答えるところだ。

神谷「それを話すとちょっと長くなるし、これは生番組だから時間も無いし…」
男性「いえ、時間はたっぷりありますから大丈夫です」
神谷「昔から保守思想…その大元であるイギリスの保守の考えには、それこそ三原則があってね。まず一つ目は、英語では”fallible”と言うんだけれど、これは日本語にしたら”可繆性”といって、つまり『人間というのは不完全なものなのだから、その時その場の気分で思い付いた理屈だとか理論なんかに自ら埋没するな。”爾自らを疑え”というのが第一テーゼでね」
男性「なるほど」
神谷「で第二テーゼだけれど、これは社会を”有機体”と捉える考え方で、例えば木とかの植物を傷付けてしまうと枯れてしまったりするでしょ?これは人間社会にも言えて、何せその社会を構成しているのは、生まれも育ちも性別の違う個々人がそれぞれの過去を引きずっている、必ずしも合理的には生きていない代物の集合体なわけだからね。だから第一テーゼとも絡むけれど、過去の事例を無視する様な思いつきの机上の空論なんかで、無闇に改革をしてはいけないという事。でー…少し触れた様に全て関連性があるんだけれど、今までの話の結論として出てくる第三テーゼは、”gradualism”つまり”漸進主義”。要は頭でっかちな右派の様に頑固に過去のものに固執するのではなく、時代が流れれば否応無く変化は逃れられないのは自明なことだけれど、でもそれを息急き切って先頭に立って突っ走るのではなく、一番最後尾からゆっくりと慎重についていく態度、また一番後ろにいるお陰で全体の流れを落ち着いて観れるという美点もあるから、最後尾にいるもんで、もしかしたら先頭に向かって『方向が間違っているよ』と声をかけても届かないかもしれないけれど、それでも飽くなく声を発し続ける…とまぁ、冗長になってしまったけれど、これがまぁイギリスの伝統的な保守主義なんです」
男性「はっはぁー、なるほど…」
神谷「でまぁ、ここで質問に改めて答えるとね、五十年体制とかいってずっと与党に居続けたあの党は、冷戦期はずっとアメリカに擦り寄って、それでずっと過ごしてきた訳だけれど、でも冷戦が終わって、パクスアメリカーナとでも言うのか、アメリカ一強時代が九十年代の間だけ続いたけれど、結局それもポシャって、アメリカはもう世界の警察を辞めるとまで言い出した。…まぁそもそも、日本とごく一部の国以外は、アメリカが世界の警察だなんて認めていないけれども。何せ、今世紀に入ってから、アメリカは傍若無人に我が物顔で偉そうにイスラム諸国に攻め込んで侵略している訳だしね。…いや、何が言いたいかっていうと、アメリカ自身がそろそろ自分の力が落ちてきたことに徐々に気付き始めて、それを認め始めているというのに、この日本ときたら、今だに”冷戦脳”の連中が、政治家、経済界、官僚、そして教育の分野の中にいて、そんな人らが国の行方を左右し、たまに何かし出したなと思えば、改革だのなんだのと、何を血迷ったのか偉そうに、たまさか今産まれて生きているだけの人間が、過去二千年近く続く日本の社会に施そうとして、実際に施してきた訳ですよ。それも、自称保守党と名乗っている政権与党が。…まぁ長くなりましたけど、結論としては、戦後日本では、ポツポツと小さくはいたけれど、大まかに見たら影響力が全く無かったという意味でも、保守というものが無かったということですね」

第7話 (休題)とあるフォーラムでの質疑応答から抜粋(寛治)

三田にある有名な私立大学でのフォーラム。
寛治は数寄屋に来る前に、講演をする様に頼まれて一時間半ばかり話した後、少し休憩を挟んで、また約一時間ばかりの質疑応答の時間を持った。
数人から現在のアメリカの内政についての質問が出て、それに答えた後、どこか別の大学で教授をしているという、寛治よりも歳上…そう、だいたい神谷と同い年くらいの人から質問を受けた。

「…とまぁ、日本政府というのは今に始まった訳では無いですけど、腑抜けにもほどがありますよね?首相、政治家、そして外交官…これらの状態を、アメリカに住む佐藤さん(寛治の事)から見て、どういった感想を持たれているのか、是非開かせて頂きたいです」
それを聞いた寛治は、見るからにイラついて見せつつ答えた。
「僕はー…日本で保守と自称している人達が大っ嫌いで、…あ、いや、神谷先生は違いますよ?神谷先生は、このフォーラムの最初の方で紹介しました様に、本当に僕と仲良くして下さって、僕の方でも駒場の学生の時から尊敬を申し上げていたので、今こうして仲良くしているのが未だに不思議な感じなんですけれど…っていや、何が言いたいかっていいますと、神谷さんは僕から見ると”リアリスト”なんですよ。国際政治学の中で僕が所属しているのは、十九世紀以来の、数カ国の間でパワーバランスを保ち勢力均衡するのがノーマルな状態だと考える”リアリストスクール”という学派なんですけれども、神谷さんもこっちなんですよ。まぁ、神谷さんはご自分を保守だと仰ってますから、僕なんかが否定するなんて事は出来ませんので、そうなんだと受け入れている訳ですけど、そうなると、まるっきりタイプが違うのに自分を保守だと名乗る人が多過ぎるんですよねぇー…ってまた逸れちゃった。何が言いたいかといいますと、日本の月刊誌の外交欄や政治欄とかを読むと胸がムカムカしてイライラしてくるので読まないことにしているんですね。日本の自称保守派というのは、南京問題とか慰安婦問題とか、首相が靖国に行くかどうかになると頭がカーッとなるでしょ?そんな瑣末な事をしている間にも世界情勢は刻一刻と動いている訳ですよね?でね…本当に頭が痛くなるけれども、イラク戦争の時、彼らはアメリカの”ネオコン”に賛成したでしょ?ネオコンみたいなバカな連中に賛成しときながら、保守マスコミ人は中国とか韓国、朝鮮人に対しては威勢が良いんだけれど、アメリカに何か言われると、ピューっと何処かに逃げちゃうのね?『…何だこいつら?』と。アメリカが例えば今世紀に入ってやった侵略戦争に対しておかしいと言わなかったじゃないですか。日本でアレに対してオカシイと論陣を張っていたのは、僕が知る限り神谷先生と、その周りのお弟子さん含む関係者の極一部だけだったんですよ。とにかくもう…日本の自称保守は全然ダメですね!故人なら名前を言っても良いだろうと…まぁこのフォーラムは、大学のホームページでしか見れないらしいから、生きてる人の名前を言っても良いんでしょうけど、岡崎久彦だとか、渡部昇一だとか勘弁してくれって感じでね、全然考えてないよねあの連中ね!もうねー…いや勿論首相含む政治家のレベル、外交官を含む外務省も酷いけれど、言論の自由が許されているはずの言論人がこの低レベルな訳ですよ。アレで知識人と言えるのかと。んー…七十年代に僕がまだ日本で大学生をやってた頃は、田中美知太郎とか、小林秀雄とか、福田恆存なんかがいて、とても立派な事を書いたりして論陣を張っていたんですよ。でその後僕は八十年代はアメリカに行ってまして、その十年間は日本の書籍や雑誌を一切読まなかったんですよ。で、それがあるきっかけで神谷先生と付き合う様になりまして、それをきっかけに九十年代に入って日本の保守雑誌を読み始めたんですよ。そしたらもう…繰り返しますけれどヒドイのね!?もうね、バカみたいなことばかり書いている訳でしょ?彼らにとっては左翼の悪口を言ったり、中国人や朝鮮人の悪口を言っていればそれで済むんですよ。そういうもう…大衆に受けそうなゴミみたいな事を書いて人気稼ぎをしている訳ですよ!それによってますます保守論壇の知的レベルが、どんどん落ちていく訳ね?…ちょっと自己宣伝になってしまうかも知れませんけど、僕も寄稿している神谷先生が顧問の雑誌”オーソドックス”は違いますよ?」
「ははは」
「だからもう平和主義でお花畑の左翼がバカなのは分かってますけれども、だからといっていわゆる保守陣営の知的レベルの貧困化は…本当にヒドイですよ!」


もう一人、最後の質問者の男性だ。
「先ほど先生はネオコンの事を話されました。前のお話の中でも、ネオコンのバックにはウォール街がいて、それらが色々と好き勝手やるたびに、アメリカ社会に徐々に歪みを与えてきたという話だったと思います。それはよく分かりました。で、ですね?ついこないだの大統領選挙で、保護主義を訴える人が当選した訳ですけれど、これはもうグローバリズムに疲れたというアメリカ人の本音が現れた結果だと思うんです。それでですね、何が言いたいのかというと、それなりにアメリカでの選挙で、民主主義が働いたのかなと…。でも問題はこの後で、今までの勢力…ネオコンも含めてですね、この新大統領を何とか引き摺り下ろそうという流れが出来ると思います。そうなると、もしそれでこの大統領が辞める様なことになると、そもそも民主主義が機能しなくなっているというので、私はそれをかなり危惧しているのですが…先生はどうお考えでしょう?」
そう問われた寛治は、少し苦笑を浮かべつつゆっくりと口を開いた。「んー…ちょっと根本的な事を言ってしまいますけれど、僕はー…民主主義に対して悲観的なんですね。だからー…僕がアメリカに対して批判的なのは、僕自身が民主主義に対して好意的ではないからだと…。でもだからといって戦前の様に軍国主義や天皇主義に戻せなんて事は思わないんですけれど。あのー…トクヴィルが”democracy in America”を書いて、アレは1835年に出た上巻と、1840年に出た下巻とがあるんですけれど、この二つは全く違う本なんですね。僕は1840年に出した本の方が優れていると思うんですね。でもその本は、1835年に出した本の十分の一しか売れなかったんですよ。で、ところが最初に出した本の方は一年くらいで書き飛ばして、それがベストセラーになったんですけど、下巻の方は五年間試行錯誤して苦労して書き上げたんですけど売れなかったと。それにガッカリしたトクヴィルに、友人だったえっと…そうそうJ.S.ミルが『下巻の方が良いよ。大体ね、昔から良い本というのは売れないんだから』ってね」
「ははは」
「で皆さんご存知の通り、下巻の中でトクヴィルは有名な”the tyranny of the majority””多数者の専制”と、そこまで言ってるわけですよ。要は、少数の意見を聞こうとしないで、ただ多数決で全てを決めていこうとする事。トクヴィルが書いているのは、普段大衆というのは仕事をしたりと忙しくて考える時間がなくて、いくら自分たちで意見を持ちましょうと言われても結局持てずに、多くの意見が集まる方に吸い寄せられていく…その状態を危惧していた訳です。政治が大衆のその時の気分に流されてしまい、物の考え方の自由まで終いには無くなってしまうだろうと、そこまで書いてる訳ですよ。それだけ大衆社会というのは怖いものだと。で、トクヴィルというのは、あのフランス革命とかいう馬鹿騒ぎの後で外務大臣をやった訳ですけど、その当時のフランスですら民主化が進みすぎていて、その国民世論を気にせざるを得なくて、まともな外交が出来なくなっていったんですよ。外交というのは言うまでもなく、数年先どころか、二十年、三十年、いやもっと先のことを考えてするものですけど、大衆なんていうのは、その時その時の気分で動くものですから、世論なんてものなんかに振り回されたら、まともな外交なんか出来ないんですよ。それに民主主義の外交政策というのは、好き嫌いで進んだりするんですよ。『あの国は嫌いだからやっちまえ』だとか、『最近あの国が経済発展して生意気だから、懲らしめてやろう』ってな具合で。だから民主主義と、まともなプロフェッショナルな人らがやる外交政策というのは相性が悪いんですよ。両立しないんだと。もうその事実が、1840年の時点で問題提起されている訳ですね。で、僕はあの冷戦構造を作った大外交官のジョージ・ケナンが大好きで、日記なり何なりまで書籍しているものは、ほとんど全て読んでいるんですけれど、その中身を見てみると、やはりアメリカ人で、そんな政策のトップにいた様な人でも、民主主義についてボロクソに書いているんですね。せっかく色々と将来を見据えた外交の道筋を立てても、世論に誑かされた議員さん達が勝手に進路を変えたりして、その度に自分たちがその尻拭いをして、そしてまた新たに道筋を立てると。でね、んー…だから僕はー…これは言っちゃいけないよと言われているんですけど、まぁこういった場なので敢えて言ってしまうと、僕は本当は民主主義が大嫌いなんですよ。大嫌いなんですけれど、それは言っちゃいけないという建前で普段は何も言わない様にしているんですけど、ズバリ言ってしまえば、民主主義を続ける限り、まともな国家運営は期待出来ませんね。これで終わります」

第8話 コンクール(終)前編

「…ってことで、いよいよ明日ね?」
「えぇ…」
「…ふふ、声から既に緊張が見えるよ?…大丈夫だって!何の心配も要らないんだから、普段通りにね?」
「えぇ…それは分かっているわ」
「そう?なら良かった。じゃあまた明日ね?お休みー」
「えぇ、お休み」
ツーツー
私から切る前に、裕美が先に切った。私たちが二人電話をすると、大概こうなる。
今は夜の十時を過ぎた辺り。既に寝る準備は済ませ、自室に入り、ふと寝ようとした所に裕美から電話があった。
九時半ごろに来たはずだから…約三十分ほど会話をした事になる。
私はベッドの上に座り、大きめの低反発クッションを抱きしめつつ、その体勢でずっと電話をしていた。
何故裕美が電話をして来たのかというと、それは…明日遊ぶ予定なのを確認する為だった。そこには他にも、律、藤花、紫も来る予定だ。明日からは所謂お盆休み。大抵の大人たちもこの時期に少しばかりお休みを取る時期だ。まぁそれと私たち学生とは関係が無いが、そんな時期に久し振りに皆で集まる予定が組めたのだ。
…察しの良い方なら、何をそんなに先延ばしにして話しているんだと思われただろう。裕美の電話の意味を言うのに躊躇気味な点を突いて。
…その推理はズバリ当たっている。そう、明日は私にとってだが、ただ単に遊ぶだけでは無いのだ。
覚えておられるだろうか、裕美との約束を…?
そう、『もしコンクールで決勝まで進出出来たら、今度は私だけではなく、紫たちにもキチンと話すこと』というアレだ。
私の予想に反して、初出場にして何の因果か、全国大会にまで歩を進める事になったので、この約束を果たさなければならない。
勿論、ここまで来れたこと自体は喜ばしい限りなのだが、今まで黙っていた分、明日あの子たちにこの事を話す事を思うと、胃に何か重石が入れられたような気分になるのだった。
私のウジウジと考えすぎる性格上、話した後で、今まで黙っていた事でアレコレと非難されたらどうしようとか、その時はどう弁解しようかなどと思い巡らし、そして今裕美との電話の時も、その事について軽く相談したりしたのだが、裕美はそんな私の心配を他所に、底抜けに笑いながら「気にせず、ドンと行こう!」といった調子で言うのだった。まぁ、そんな能天気な裕美の話ぶりで、今こうして電話を切った後も、そんなに気分が重くは無いのは感謝すべきだろう。
私は夏用の薄めの布団に潜り込もうとしたが、またふと思いついて起き上がり、ベッドからも出て、明日の準備を済ませた遊ぶ用のカバンの乗る机まで近づき、そしてそのカバンの中から一冊の雑誌を取り出して、それを持ったままベッドに戻った。
そして先ほど裕美と電話をした時のように、ベッドボードを背にして座り、そしてパラパラとページをめくった。この雑誌には私自身が付けた目印用のシールが貼られており、今もその部分を開いて見た。そこには見開きに大きく、ドレスアップした私がデカデカと写っており、ピアノを弾いているのと、大きく客席に向かってお辞儀をしている写真だった。
これは当然説明するべきだろう。これは先週に届いた、コンクール主催元が出している月刊紙だった。私は、こういうのが存在しているのを全く知らなかった。私は本屋を用事もないのに見て回るのが好きなタチなのだが、いわゆる雑誌コーナーでこの雑誌を見かけた事が無かったのだ。これが家のポストに入っていたのを見つけて驚き、早速その中身を見てみたら尚更驚いた。
こんな事を言っては何だが、”オーソドックス”よりも遥かにしっかりと”雑誌然”としていたコレをペラペラ捲ると、あるページから”コンクール特集”というものが組まれていて、何とそこのトップページに私が載っていたのだ。私は思わず自分でも分かる程に目を大きく見開いた。そして動揺したまま私の写真と共に載っている、誰が書いたか知らない文章を読んでいった。色々書いてあったが、要は私に対しての賞賛の記事だった。読んでいて、こそばゆいというか、私の性格をご存知ならば予想がつくだろう…そう、終始一人で苦笑しっぱなしで記事を読んだのだった。
すっかり面を食らった私はその後、次のレッスン時にこれを携えて行くと、師匠自身もコレの存在を忘れていたらしかった。まぁそれなら私自身が知らなくても仕方ない。
それでレッスンの中休みに、お菓子を食べてから師匠の書斎のパソコンで見てみると、『決勝進出者は、私たちが刊行している雑誌に特集される事があります』と、なかなかデカデカと分かりやすい形で説明文が載ってあった。この時まで正直、勝手にこんな風に、言ってはなんだがマイナー雑誌とはいえ、こうして特集を組むなんぞ言語道断だと一人静かに怒っていたのだが、これを見た瞬間一気に怒りは収まっていった。
そしてすぐに一人…いや、師匠と共にお互いの顔を見合わせつつ苦笑いをしたのだった。
これは何度見ても慣れなく、もう何度目になるかと分からなくなるほどだったが、今だに自分の大きな写真を見ると、苦笑いを浮かべずには居れなかった。
何故寝る前に、確認する様にまた見たか?いや、そもそも何故その雑誌が、明日遊びに行く時に持って行くカバンの中に入っていたのか?
…そう、もうお分かりだろう。私のことを説明するのに、これを持って行って見せるのが、一番手っ取り早いと思ったからだ。
…正直本当はこれをあの子たちに見せるのは、考えるだけでも赤面モノなのだが、背に腹は変えられないと、ある種決心して持って行くのだ。ちなみに裕美には、この雑誌が存在している事自体知らせていない。驚かせるつもりはないのだが、言い出せないまま今日になり、結果的にはサプライズになるだろう。
私はため息を吐きつつ雑誌を閉じ、立ち上がり、机の上のカバンに仕舞い、そして戻り、今度こそ布団に入り部屋の電気を消した。
ベッド脇のナイトテーブルに乗せてある、柔らかく仄かな明かりを発する間接照明を点けるのを忘れずに。

次の日の正午、私と裕美は普段通りにマンション前で待ち合わせ、軽く挨拶を交わした後は、そのまま地元の駅に向かった。
今日も太陽が燦々と照り、アスファルトからは陽炎がまるで湯気のようにユラユラ蠢いていた。お盆だからなのか、それとも単純に暑いからなのか、いつもよりも気持ち人が疎らに見えた。
私は普段通りの麦わら帽子をかぶり、後は無地のTシャツとスキニーパンツという格好だったが、正直裕美の格好はよく見ていなかった。取り敢えず私と違って、相変わらずの可愛いお洒落をしていた事は確かだった。帽子はしていなかったと思う。
…正直、この後何を他の三人に話そうかとそればかりに気を取られて、裕美のファッションどころでは無かった。…裕美には悪いけど。そんな私の心中を知ってか知らずか、いや態度で上の空なのが出ていたのだろう、それにも関わらず裕美は果敢に私に色々な話題を振ってきた。まぁ必然と今度の決勝の話に終始した訳だったが、それでも気を楽にしてあげようという気持ちが伝わってきて、実際に裕美と話すだけで気が楽になるのだった。
今日の待ち合わせ場所は、例の新宿御苑脇の喫茶店だった。
学園からは近いのだが、私と裕美の住む場所からは、都内だというのに、一度の乗り換えの時間を含めてだが、五十分もかかる位置にあった。前にも軽く触れたように、一年生の時だけ利用するつもりだったのが、何だか愛着が湧いて、二年生になった今でもそこで、休日でも関係なく、そこで落ち合う率が高かった。次に高いのは、以前にも話した裏原のお店だ。
それはともかく、よくもまぁ五十分もかけて行くものだと呆れる人もおられるだろう。勿論、このグループの中では圧倒的に私たち二人が時間をかけて来る計算になる。確かに改めて所要時間を聞くと遠いなと思うが、それでも私…いや、おそらく裕美も同じ気持ちでいてくれてるだろう、正直こうして二人で待ち合わせの場所に行く時間が、何だか上手くは言えないが、好きな時間だった。
一年生の間もずっと同じ様にはして来たのだが、ご存知の通り、今は裕美とは別のクラスになってしまった関係で、必然と以前と比べてこうして二人で過ごす時間が減ってしまっていた。私自身が忙しくなった理由もその一つだが。それは置いといて、一年生時も二人仲良くお喋りをしていた筈だったが、感覚で言うと、今の方が前よりもお喋りして過ごすのが楽しくなっている気がした。何が違うのかと言われると困るが、何だか同じ楽しいの中に他のプラスな要素が含まれている様な気がするのだ。…あくまで気がするだけなのだが。だがその気がするお陰で、五十分もの道のりが全く苦痛では無いのだった。勿論、休日のお陰で座って行けるというのと、これは流石の私でも言うのは”恥ずい”が…その長い道のりの先に律たちがいると思えば、余計にそんなのは足らぬ問題だと気付かされるのだ。
…毎度の様に、どうでもいい事で時間を割きすぎた様だ。話を戻そう。
その長い道のりの間、会話にひと段落が付いた頃を見計らって、本当は喫茶店で一気に見せるつもりだったのだが、やはりそうもいかないだろうと、話題提供の気持ちもありつつ、おもむろにカバンから例の雑誌を取り出した。「何それ?」と思った通り瞬時に裕美が食いついてきた。顔には好奇心を滲ませている。
私はその質問には答えずに、恥ずかしいのを噛み殺した結果として何も言わないまま、裕美に手渡した。
「何よー?」と少し不満げな声をあげたが、すぐさまページをめくっていった。
…が、昨夜も言った様に、目印のシールを貼っていたので、裕美もそれが重要な箇所だと察したか、すぐ様そのページを開いた。
すると、見る見るうちに目が横から見てても大きくなっていき、それと共に口元がニヤケて行くのが見えた。
そしてギュンッと勢いよく私に顔を向けると、大きく見開いた目をそのまま私に向けてきつつ「何これ…これってアンタよね?」と聞いてくるので、「…えぇ」とやはり改めて確認されると恥ずかしくて、やっとの思いでボソッと返すと次の瞬間、「凄いじゃなーい!」と声を上げながら私に抱きついてきた。私は抱きつかれながら周りを確認した。乗客が疎らなのが幸いした。…いや、そうでも無いか。この車両には十人前後しか乗っていなかったが、それでも何人かはこちらに視線を向けて、半分は何事かと、もう半分は渋い表情を浮かべていた。
それらの視線が痛くて、「ちょ、ちょっと裕美…」と声をかけつつ、少し力任せに裕美を引き離した。流石はスイマー…いや関係してるのかどうか分からないが、取り敢えず引き離すのにも一苦労だった。
「どういう事ー?」
とまだ興奮の冷めやらぬ裕美が聞いてきたので、何だか肩の力がふいに落ち、気を落ち着けて先ほどの様な経緯を端折りつつ説明した。聞き終えた裕美は、腿の上に置いた、私の写真が思いっきり大きく載っている見開きのページに目を落としつつそう呟くと、不意に顔を上げ、そして私に何かを察した様に目を大きく見開きつつ言った。
「…あ、じゃあ、アンタが今日これをわざわざ持って来たのって…”そういう事”ね?」
「…えぇ、まぁね」
と私が答えると、「ふーん…そっか」と一人で、ホッとした様な、もしくは何だか語弊を恐れずに言えば”つまらなそう”なため息交じりにも聞こえたが、この時には何でそんな態度を一瞬見せたのか分からなかった。だが、それに対して強く疑問を持ち、そしてそれに突っ込もうとした時には、既に裕美が話題を変えてきていたので、そのまま流れてしまった。だが、特段それにこだわるつもりも無かった私は、それで良しとして、裕美の話に合わせるのだった。

午後一時少し前。私と裕美は御苑に一番近い地下鉄連絡口に出た。
当たり前の様に燦々と太陽が照っていたが、何だか地元にいる時よりも暑く感じた。まぁ感覚的にそう感じるのも致し方ないのかも知れない。
なんせ地元の駅からここまでは、時間が掛かるとはいえ一度の乗り換えのみで済み、しかも地元を通るこの電車は途中から地下鉄に接続しており、乗り換え時もずっと地下を通って行く訳で、灼熱の地上とは大袈裟に言えば疎遠になっていたのだから。
身体はある程度は冷えていたはずだが、地上に出た次の数瞬後には、至る所で汗が滲んでいくのを感じるのだった。
「あっつーい!」と私と裕美は苦笑気味にお互いに顔を見合わせて声を上げると、少し早足気味に例の喫茶店を目指した。
三分ほど歩くと店の前に着いた。いわゆるチェーン店なので、何も特に描写する所がない。まぁ皆さんが想像するソレで間違い無いと思う。
自動ドアが開き中に入ると、まず鼻腔内がコーヒーの匂いに満たされた。このお店はチェーン店ではあるのだが、コーヒー豆などにかなりこだわりを見せていて、淹れ方もサイフォンを使っているらしかった。いわゆるチェーン店の中ではマイナーなお店なのだが、それ故知る人ぞ知るといった感じがあった。…少し言いにくいのだが、その分このお店は他のと比べて、プラス百円以上値が張る。そのせいなのか、生意気言う様だが客層も少しばかり洗練されていて、前にもちょろっと紹介した様に、店内はいつも落ち着いた雰囲気で満たされていた。…本来学生時分の私たちがたむろするには財布が厳しいはずなのだが、そこはまぁ…私たちみんなの”ご両親”に感謝をしなければならないだろう。私の親も含めて、皆も別に親から何も言われていないらしいから、流石は”お嬢様校”といった所なのだろう。
「いらっしゃいませー…ってあらいらっしゃい!」
と、私たちが入った瞬間、カウンターの中から声を掛けられた。
「あ、今日って里美さんだったんですね!」
と裕美が明るく返すと、それに負けずに女性は「まぁね!」と同じ様に返していた。
「琴音ちゃんもいらっしゃい!」
「お邪魔しますね」
私にも声を掛けてきたので、麦わら帽子を取りつつ、微笑み返した。この女性が、何度か軽く触れた、この喫茶店で私たちに親しくしてくれてるその人だった。
里美さん。私たちはそう呼んでいる。これも私の周りでのありがちなパターンで、下の名前でいつのまにか呼ぶ様になっていた。しっかりと喫茶店の制服の胸元に名字が書かれているはずなのだが、里美さん呼びに慣れてしまってからは、誰一人として名字がなんだったか思い出せずにいた。
現に今こうして話しながら思い出そうと試みたのだが、結局思い出せず仕舞いだ。
見た目もこう言っては何だが、これといった特長の無い、ごく一般的な女子大生って感じなので、何か話すべきことも見つからない。とまぁこう言うと悪口に聞こえるかも知れないが、ある意味で紫にタイプが近く、歳が離れているのにも関わらず、ただOBってだけで親しくしてくれて、でも変に馴れ馴れしく無い、丁度いい距離感を保たせてくる点を、先輩相手に何だが、とても評価をしていた。
「…じゃあ後で持ってってあげるね」
「はい、ありがとうございます」
と私と裕美で返すと、里美さんは一度ニコッと笑顔を見せてから、二階に続く階段を軽く指差し言った。
「もうみんな来てるからね?」

「あ、おーい!こっち、こっち!」
私たちが階段を上がり切るかどうかの所で、遠くから声を掛けられた。見るとその声の主は紫だった。大きく腕を伸ばし、こちらに手を振っている。いつもの窓際のテーブル席だ。視線を逸らすと藤花と律も来ていた。藤花は満面の笑みで紫ほどでは無いにしろ、腕を大きく伸ばしていた。律も気持ち口角を上げて、胸の前でヒラヒラと手を小さく振っていた。大きく腕を伸ばし、こちらに手を振っている。
私と裕美はほぼ同時に手を振り返しながら、テーブルに近づいて行った。
「こらこら紫、声が大きいよ」
と私が苦笑気味にそう返すと、紫はシュンとした表情を作って見せて「はいはい…姫様の仰せのままに」と言いつつ、ゆっくりと腕を降ろした。
「誰が姫じゃ、誰が」
と、すっかり出来上がってしまった一連の”習慣”(これを悪習と言いたい)を済ませると、私、裕美の順に紫側の長椅子に座った。
「それに、仮にそうなら姫に対して”はいはい”って二度続けるのはどうなのよ?それなら”はい”って一度で済ませるものでしょー?」
とまた私が突っ込むと、紫は「はぁ…」とため息をつきながら首を横に大きく振った。
「ホント、このお姫様には、母さんというか、口うるさい小姑までが同居しているんだからねぇ」
「何か言った?」
「なーんも!」
と私がジト目を向けて言ったのにも関わらず、当の紫は悪戯っぽい笑みを浮かべて冗談まじりに返してきた。その瞬間、私以外の四人が同時に笑い合うのを見て、根負けした様に私も一緒に笑うのだった。ここまでもが良くある流れだった。
他の四人はいつ来たのかだとか、今日も暑いねなどといったような話をしていると、里美さんが私と裕美の分の注文した飲み物が運ばれて来た。「ごゆっくりー」と里美さんは座る私たちの顔を見渡しながら言うと、「はーい」と私たちの返す返事を背に受けつつ、スタスタと軽い足取りで階段を降りて行った。
「…おほん、では…」
里美さんの後ろ姿を見送った後、おもむろに紫が手に抹茶のフローズンドリンクを手に持ち声を出した。それを合図に、何も言わずともそれぞれが手に自分の飲み物を持った。
この時点で既に私と裕美以外の皆は注文を済ませていて、テーブルの上に並べていたのだった。
ついでに他の注文は何だったかを話しておこう。
まず藤花。藤花も紫と同じようなフローズンドリンクだったが、種類は抹茶ではなく、ストロベリーだった。上には生クリームが乗っている。何というか、藤花の雰囲気に合っているものだった。まぁ当人は別にキャラとか関係無く、好きなもの、飲みたいものを注文しているだけなのだが。それを言うなら、紫も抹茶が似合っていた。何と言うか…何と無く和風な雰囲気が。
次に律。律はこれまであまり触れてこなかったが、大体においてアイスコーヒーを頼むことが多かった。毎度というわけでは無い。一年生の頃などは、アイスティーと半々だった筈だ。しかし二年生に上がってから、特に私なんかは律と過ごすことが格段に増えたのでよく分かるのだが、何かにつけていつもコーヒーを飲んでいた。私と同じで、渋味が好きらしい。これに触発されてというか、ついでに私の注文したのを紹介すれば、律と同じようにアイスコーヒーだった。これはハッキリ言って、律の影響があったと言わざるを得ない。繰り返しになるが、目の前で何度もコーヒーを飲まれると、何だか興味が湧いてきて、一度何かのキッカケで飲んでみてからハマってしまった。だから最近のこういう店に来てからの注文の配分は、ほぼアイスティー一択だったのから、アイスコーヒーとの半々になっていた。因みに私と律の違いを言えば、律はシロップのみ、私はミルクありといった点だ。最後に裕美を言えば、単純にアイスティーだった。裕美もよく紫や藤花のように、凝った”可愛い”飲み物を頼む傾向が強いのだが、この日はアイスティーの気分らしい。
では話を戻そう。
紫は皆が手に飲み物を持ったのを確認すると、コクっと一度頷き、そして高らかにグラスを掲げて声を上げた。
「じゃあ…かんぱーい!」

「かんぱーい!」
カツーン
紫の合図の後、一斉にテーブルの上でお互いのグラスをぶつけ合った。そして一口ずつストローで吸うのだった。
…ここで察しの良い方ならお分かりだろう。そう、この習慣は絵里由来のものだった。
あれは初めてだったか何度目かだったか…私たちが一年生の頃だ。
初めの頃は各々が注文した後、出て来た順に他の人を待たずに
それぞれのタイミングで好きに飲んでいたのだが、ある時ほぼ同時に五人分の注文したものが出て来た時があった。
その時だ。何の気もなしに、確か裕美からだったと思うが、ふとこちらにグラスを向けてきたので、私も思わずグラスを近づけてカツーンと当ててしまったのだ。それを見た他の四人が「何それ?」と食い付いてきたので、私と裕美で顔を見合わせて”しまった!”とお互い内心思いながらも、こうなったら仕方ないと、絵里のことはあやふやにしつつ、事の経緯を説明した。それを聞いた四人は尚一層「何か私たちだけの”特別なナニカ”が欲しかったのよねぇ」と食いつき、それからはバラバラに注文が出てきても、最後の一人が出てくるまで待ち、出揃ったところで乾杯をするのが習慣となっていったのだった。
何かこうして一つに纏まれてるような、一体感を与えてくれる”儀式”をくれた絵里に、感謝すべきなのだろう。
「…ふぅ、生き返るわー」
とまず裕美が声を上げた。「そうね」と私もすかさず同意を示してから、ふと隣の紫と藤花の前にある飲み物を見比べてから、さっきのお返しとばかりにニヤケつつ言った。
「…しっかし、律はまだしも、藤花と紫が注文したそのー…フローズン系?」
「うん」
藤花が合いの手を入れる。
「それってさー…私はまだ食べた事ないんだけれど、溶けたらマズくなるヤツでしょ?それをよくもまぁ…私と裕美がいつ来るかも分からないっていうのに、頼めるわねぇ…」
と図らずも少し嫌味っぽく言ってしまったが、言われた紫と藤花は向かい合わせに座っていたので、そのまま正面を向きお互いの顔を見合わせていたが、クスッと二人して笑うと、まず藤花から声を出した。
「だってねぇー…さっきも言った通り、私と律が来たのは十分前だったし、紫も同じくらいだしー…ね?」
藤花は答えになっていない事を笑いを含みつつポロッと口に出すと、紫に話を振った。
振られた紫は、一度その抹茶をズズッと啜って見せると、意地悪く笑いながら言った。
「そうそう。…まぁ確かに、あなたが今言った通り、溶けてしまったらどうしようもないんだけれど、そもそもあなた達二人は…遅刻したことが無いからね!だから早めに注文しても良いと思ったのよ」
「そうそう、それが言いたかったの!」
とすぐさま藤花も紫に乗っかった。
それを言われた私は何と返せば良いのか困って、ただ苦笑いを浮かべて見せたが、ふとここで裕美がクスッと笑った。すぐ隣の裕美の顔を見ると、紫のような意地悪げな笑みを浮かべていた。
裕美はその表情のまま、私の顔越しに紫に声をかけた。
「それを言うなら…みんなでしょ?」
そう言うと、裕美は背を伸ばして、向かいに座る藤花と律にも顔を配った。
「考えて見たらそうね…」と私がボソッと呟くと、それが面白かったのか、ただのキッカケだったのか、また皆してクスクスと笑い合うのだった。これには私も初めから参加した。
まだ笑いが収まりきらない頃、紫が私と裕美に視線を配りつつ、ニヤケ面で付け加えるのだった。
「もし仮に遅刻でもして来たら、ペナルティーを負ってもらうからねー?食べ物の恨みは怖いんだから!」

そんな紫からのダメ押し(?)があったせいで、余計に笑い合う時間が伸びたが、その後しばらくは、お互いに会わない間、どう夏休みを過ごしていたのかについてお喋りをした。
…少しネタバレっぽくなるが、ここで不意に裕美が場を仕切り出した。私は何度も言うようにテレビをそんなには見ないのだが、それでも敢えて例えれば、バラエティー番組で出演者に話を振る司会者の様だった。キャラ的には裕美に合ってはいるのだが、実は今まではそんなに表立って仕切るようなタイプでは無かった。それはどちらかと言うと、紫の方がその気があった。だがそれも言挙げするほどではない。強いて言えば紫がまとめ役だというだけの事だ。これも以前に話した通りだ。一年生の頃から変わらない。
…いやそれはひとまず置いといて、だからこういう話になる時は、紫が皆に話を振るのが流れだったのだが、今日だけは違っていた。
繰り返しになるが裕美が場を回し出した。
当時はそこまで深くは分析出来なかったが、あやふやと漠然とはいえ違和感を覚えつつも、雰囲気は和気藹々としたものだったので、その雰囲気に飲まれていた私は、すぐに薄っすらと湧いた疑念を頭の隅に追いやり、会話を楽しんでいた。
まず初めに振られたのは紫だ。振られた紫は「んー…」と少し何だか苦笑気味に声を漏らして、メガネをクイっと直してから話し出した。
「まぁー…私はいつも通りよ。去年と同じ。今年の文化祭でも私の所属してる管弦同好会で演奏をするから、その練習。あとは…あなたたちと会わない時は家で涼んでいたわよ。たまにクラスの友達と…そうそう、裕美と藤花もその場にいたね?遊んだりもしたけれど…藤花は?」
「私?」
紫に振られた藤花は、斜め上に視線を泳がせて考えて見せた。
因みにこれは藤花が何かを考えたり思い出したりする時の癖だ。
「んー…私もいつも通りかな?夏休みだろうと何だろうと、毎週日曜日にはミサがあるしね。それの練習したりだよ。後はー…たまに律と会ったりしてたねぇー。まぁそこは、家が近いもの同士の強みかな?」
「…うん」
と律は、声を掛けられた訳でもないのに藤花に反応した。
これも今更な情報かも知れないが、藤花と律の家は利用する最寄駅が一駅ズレていた。だがだからといって、駅が違うだけで家自体は徒歩五分圏以内だった。もし幼稚園からの一貫校である私たちが通う学園に通ってなくても、地元の小学校で一緒になっていたかも知れない。
律はそのままの流れに乗って話し始めた。
「…私も藤花と紫と大して違わないよ。早朝にクラブに顔を出して練習して、それからは…うん、ほとんど家にいたかな?」
「ふふ、確かに色が白いものね」
と、程よく日に焼けた裕美が、向かいに座る律がちょうど手と手首、そして二の腕の一部をテーブルの上に投げ出していたので、自分の腕を重ね合わせた。確かに律の腕は透き通るような白みを帯びていた。
「う、うん…」
と律が見るからに恥ずかしがりつつ腕を引っ込めていたその時、紫も腕をテーブルの前に投げ出した。考えて見たら、今日の皆の格好は、肩までチラッと見える程の半袖姿だった。まぁこれだけ暑いのだから、似るのは仕方ないのだけれど、私以外は誰に見せるのでもないのに前回の様にお洒落をするタイプだったから、少し意外だった。
それはともかく、紫は見るからにウンザリしたような素振りを見せつつボヤいた。
「私もなぁー…すっかり日に焼けちゃったよぉ。…考えて見たら、日に焼けてるの、私と裕美くらいじゃない?」
「あ、そうね」
と裕美が呼応するように腕をテーブルに投げ出したのを見て、示し合わせた訳でもないのに、それぞれが同じように腕をテーブルに投げ出した。皆片腕ずつだったから計五本の腕がテーブルに乗っていた訳だが、はたから見たら異様に映ったことだろう。
皆が揃ってそれぞれの腕を見比べていたので、私も思わず皆のと自分のを見比べた。確かに、裕美と紫以外、ほんのりとは焼けてる様に見えなくもないが、私を含めた他の三人は物の見事に色白だった。
「まぁ…」
と私は苦笑いを浮かべつつ隣の紫に視線を送り言った。
「私たち色白組はインドア派だから、色白なのも仕方ないでしょ?」
「えー?藤花はともかく…律も?」
「…ふふ、そうね」
とまだ納得していない様子の紫の言葉の後で、すかさず藤花が笑みをこぼした。
「なかなか難しいけど…体育会系とはいえ、室内競技だからインドアっちゃあインドアなのかな?」
「確かにね」
と藤花の言葉に律も納得したかのような力強い同意を示した。
「それならさぁ…」
とまだ引き下がろうとしない紫は、私越しに裕美に顔を向けると言った。
「裕美はどうなのよぉー?裕美だって室内競技でしょー?泳ぐと言っても室内なんだから」
「私?…まぁそうだねぇー、確かに私は普段は室内で泳いでいるけれど…」
と声を掛けられた裕美は、ここで一度言葉を切るとニヤッと笑って続けた。
「私の所属してるクラブで八月の頭くらいに合宿に行って、太陽の下、海で二日ほど泳いできたからねぇ」
そう。確かに裕美はそんな事を言っていた。合宿といっても、日程が合う行ける人だけ参加という、聞いた限りでは、なかなかに緩い類のものらしい。大きな大会もしばらくないというので、親睦会というのが本当の所のようだ。たまに雑談の中で裕美から聞いていたので、私を含む皆はそれを聞いて「あぁー」と声を漏らすのだった。
「私もそういえば、裕美と同じ時期に合宿に行ったわ。クラブの…」と律がおもむろにそう呟いたので、「そういえばそうだね!」と藤花が明るい調子で応えると、暫くは裕美と律の合宿話に花が咲いた。と、まだその場がそんな空気であったのにも関わらず、それを遮るかの様に、
「そりゃ焼けるでしょ!」
と紫は声を上げたかと思うと、行儀悪く上手いこと器用に、テーブルの上の自分の飲み物を避けつつメガネをしたまま突っ伏した。
「あぁー…私は海にも行ってないのに、何でこんなに焼けちゃってるかなぁー」
「…ふふ、もーう紫は…」
とボヤきつつ私は、紫のこの態度が演技なのを知りつつ、慰める体でそっと腕に手を添えた。それと同時に紫が顔だけ私に向けてきたので、苦笑交じりに声を掛けた。
「いいじゃない紫。それだけ私たちよりも夏を謳歌してるって事よ?羨ましい限りだわ」
と最後に大きく笑みを作って見せた。
すると紫はゆっくり体勢を元に戻すと、メガネを直し、苦笑気味…いや、それは一瞬で、次の瞬間には例のニヤケ面を向けてきながら言った。
「なんだかなぁ…いつもあなたのその言い回しに騙されてほだされている気がするんだけれど、でも何だか妙な説得力があるからヤラレちゃうのよねぇー…それに、何だか今の言い方にも棘が含まれてそうだったけれど?」
「え?ソンナコトナイヨー」
と私はわざと顔を逸らしつつ棒読み気味に言った。
「まったく…」
と紫が腰に手を当ててため息をつくと次の瞬間、私たちは一斉に笑い合うのだった。紫も満面の笑みを浮かべていた。
さていよいよかと私が口を開けようとした次の瞬間、紫に先を取られてしまった。
「…で?裕美は結局合宿に行って…それからは?」
「え?ええっとねぇー…いやそれ以外は皆とどっこいどっこいだよ。練習してるか、後は何も無かったかなぁ…あっ!」
「え?」
裕美が何気なく私の顔を見た時にハッとした表情を見せたかと思うと、急に声を上げるものだから、私もつられて声を出してしまった。そんな私の反応をよそに、裕美は一瞬私に笑みを浮かべたかと思うと、今度は私同様に何事かという表情を見せている皆に視線を配ってから、意味深な笑みを見せつつ言った。
「いやいや…そういえば、ここ最近では一番面白く、楽しく、そして何よりも感動的な事があったのよねぇー」
「えー、何よそれー?」
とまず藤花が声を上げた。
「そんな意味深な言い方されたら気になるでしょ?」
と紫も続く。
「…うん」
と律も、相変わらずこういった時でも変化に乏しかったが、それでも好奇心を見せているのは分かった。
ただ私一人だけ分かっていなかった。…いや、分からないふりをしていたと言うべきか。
「勿体ぶらずに言いなさいよー?」
と紫が追い打ちをかけると、裕美は両手で場を収める様な動作を見せると、すっと私の肩に手を置き、顔はそのまま皆に向けて言った。
「その事については…当人であるお姫様…いや、琴音から自分の口で話して頂きましょう…ね?」
「え?」
既に私は裕美に肩を触れられた時に一瞬ビクッとしてしまったのだが、この裕美の言葉からは逃げ道を塞ぐ意図が見え隠れしていた。そのためもう少しこの件については先延ばしにして置こうと算段していた計画が、脆くも崩れた瞬間でもあった。
だが裕美の顔を見た時、その顔には裕美が時折見せる、こちらを慮る様子が見え隠れする静かな笑みを見せてくれていたので、その瞬間裕美の計らいに感謝しつつ、ゆっくりと頭の中身を整理していた。頭の中身がまとまったその時、ふと不思議なことが起きているのに気付いた。先ほどまで会話で盛り上がっていた中で生じていた音が、一切聞こえなくなっていたからだった。不思議に思い周囲を見渡すと、何と皆して私の方に、さっきの裕美と同じ系統の笑みを向けてきているではないか。不機嫌そうに見せていた紫までもそうだ。皆は何も言わなかったが、その表情からは私の言葉を心待ちにしている心中がありありと見えた。
この様子に少しギョッとしたが、一度息を吐き
「まぁ…私が前にあなた達と会ってからの間にしていたことなんだけれど…」
とボソボソ言いながら、椅子の下にある荷物を入れるためのバスケットケースに手を突っ込みカバンを取り出し、そこから例の雑誌を取り出した。実際には見ていなかったが、見なくとも向けられていた好奇の視線が強まるのを感じた。
それにもめげずにテーブルの上に置こうとしたその時、飲み物の入ったグラスや、その周りに付着した水滴によって若干濡れていたテーブル表面を、裕美から始まり、最終的には私以外の皆でそれらを片付けてくれた。そのお陰でテーブルの真ん中に出来たスペースに、印をあらかじめ付けておいた例のページを開き、閉じない様に癖がつくほどに何度か強く押してから、テーブルの上に広げた。
それと同時に裕美を入れた皆が一斉にかぶりつく様に、そのページを覗き込んだ。皆中腰になっていた。
ほんの数秒ほど経っただろうか、先ほどまで静まり返っていたのが嘘の様に、誰彼ともなく「えぇー!!」と皆一斉に声を上げた。
「シーーっ!」
と私は皆の反応に驚きつつ、口に指を当てて制止つつ周りに視線を向けた。
運が良いことに、周囲には私たち以外には一人客が二、三人いた程度だった。前にも言った様に、このお店は普段からさほど混む様な事は無かったが、お盆の時期のおかげか、お店の周りはオフィス街というのもあってか、いつも以上に空いていた。そんな所がこのお店の長所の一つだ。
とは言っても、少ないながらもいた他の客達がこちらをチラッと見てきていたので、私は軽く申し訳なさげに会釈をして、また皆に身体を向けた。
「これって…琴音よね?」
とまず声を出したのはまた紫だ。紫はピアノを弾いている写真の私の顔あたりに指を置き、そして私本人の顔を覗き込む様に言った。
「すっごく綺麗なドレスを着ているねぇ」
と藤花が呑気な調子で写真を見ながら呟いた。
「…うん」
と律は変わらず口数が少なかったが、顔の角度は下にしたまま、視線だけを私に向けてきたので、必然的に上目使いでこちらを見てきていた。
私を含めたそんな様子をしばらく眺めた後、裕美は努めてしているかの様に、明るく何でもないといった調子で言った。
「…そう!私がこの夏休みで何が一番楽しかったかって聞かれたら…そう、ズバリこれ!琴音がピアノのコンクールに出場して、見事に地区大会で優勝するところを見れた事なのよ!」
「…え?地区大会?」
「…で優勝?」
「え…」
紫、藤花、律の順にそう呟くと、三人はまた雑誌の紙面に釘付けとなった。私はそんな様子に対してどう対応したら良いのか戸惑い、ふと裕美の方に顔を向けると、裕美はただ若干苦笑を滲ませた、だがやはり静かな笑みを浮かべるのみだった。
少ししてふと紫がまず顔を上げて、私と裕美の顔を交互に見てから口を開いた。その表情は何だか呆気にとられているかの様に見えたが、実際は当然違っていただろう。
「へぇー…って、これまた急に見せられたから、まだ頭が追いついていかないんだけれど…今裕美、あなたこう言ったよね?『地区大会で優勝する所を見れた云々』って?」
「えぇ」
裕美は態度に変化を見せずに淡々と返す。
この時には、藤花と律も顔を上げて、向かいに座る私たち三人の顔を黙って見ていた。
「って事は…」
と紫はここで静かなトーンに声を変え、私に視線を移すと、気持ち瞼を細めつつ言った。
「つまり…裕美以外、琴音がコンクールに出ているのを知らなかったって事だよね?…二人は知ってた?」
「んーん」
と声をかけられた藤花は首を大きく横に振った。顔は珍しくと言っては何だが、こういう場ではあまり見せない落ち着いた表情を浮かべていた。
「…私も初めて聞いた」
藤花に続いて律もそう言うと、私に静かな、しかし真っ直ぐな強い視線を向けてきていた。私はますます肩身を狭める他に無かった。
とその時、「まぁ…」と裕美が落ち着いた調子で口を開いた。
「私も正直、初めて見たのはこの地区本選からで、予選段階では知らされていなかったんだけれどねぇー…」
と言い終えると、テーブルに肘をつき、顔を手に乗せつつ私の方に顔を向けて、すました様な笑みをこちらに見せてきた。
ある意味挑発的ではあったが、これは私と裕美の間柄での話、それによって背中を蹴飛ばされた気がした。
私は一度また大きく深く息を吐くと、静かな面持ちのままの皆の顔を一通り見渡してから、ゆっくりと口を開き話し始めた。
「…みんなごめんね?黙っていて…。みんなからしたら、今まで黙っていた事で、騙されていたのかとイヤな気になった人もいると思う…。でもこれだけは信じて?別にみんなに話すのがイヤだって事では無かったの。んー…上手く言い訳出来るか分からないけれど…」と結局話がまとまらないままツラツラと話してしまい、尻すぼみになってしまっていたその時、
「まぁ…みんな?」
と、ふとまた裕美が私の肩に手を置きつつ、他のみんなに声をかけた。
「姫様もそう言っているから、取り敢えず言い訳は聞こう?
…ほら、皆覚えてる?いつだか、この姫様が折角私たち五人が集まれたのに、一人さっさと帰っちゃった時のこと」
と裕美が最後の方で意地悪げに笑いつつ言うと、数瞬の間他のみんなは首を傾げていたが、ほぼ同時に思い出した様で「…あぁー」と声を上げつつ、私の方に一斉に視線を集めた。
因みにと言うか、当然私も思い出していた。そう、遊びに行こうとした時に、ふと頭の中でコンクール用の編曲が思い浮かんだあの時だ。
皆は声を上げてからまたしばらく、私が話すのを待つ様に黙っていたので、私はまた一度息を吐いてから、さっきよりかは落ち着いて整理をして、ゆっくりと話し始めた。
とはいっても何から話そうかまだ纏め切れていなかったので、結局何故ピアノを弾き始めたのか、その辺りの話から話し始めた。勿論端折って。
でもこれは皆にとっては何度か聞いた話だろうから、退屈な話ではあっただろう。何せ一年の時の”研修旅行”の時が最初だったが、その後も何度かこの手の話をしたりしてたからだ。
「…でね、私は音楽という芸能自体は大好きなんだけれど、それを人前で演るというのには、凄く抵抗があるって事も話していたよね?まぁ色々長々喋ったけれど…もう簡単に言ってしまうとね?ただ単純に…そんな話をしていた私が、自分から進んでコンクールに出ようって考えて、実際出てしまった事実を、そのー…知られるのが…恥ずかしかったの。そう…それだけ」
私がようやく話し終えると、また窓際の一角にあるテーブル席に沈黙が流れた。遠くのスピーカーから、小粋なジャズが流れてきている。
どれ程経っただろう?まぁ毎度の様に実際は十秒にも満たなかっただろうが、その何倍にも感じられていたその時、
「確かに…」
と口を開いた者がいた。話し終えてから軽く俯いていた私が顔を上げると、向かいに座る、優しい笑みを浮かべてこちらを見てきていた藤花と目が合った。
目が合うと藤花は途端に笑みに苦笑を交えつつ続けた。
「琴音が今言った事…何となく分かるなぁー…。みんな覚えてる?一年の時に行った研修旅行。そこで皆して移動中だとか、食事してる時だとか、布団に入ってからも色々とお喋りしたよね?…でもその時、私は自分の話を全ては話していなかった…」
「…」
皆は、いつもの”キャピキャピ”と天真爛漫な藤花の様子とは180度違う様相を見せられて、その効果故か、私含めて藤花の話に引き込まれていった。
「でもそのすぐ後、ここにいる律が皆を誘って教会に来たでしょ?あの時ねぇ…終わった後みんなして私のそばまで駆け寄って来てくれて、いや嬉しくはあったんだけれど、どんなに驚いたか分かる?」
藤花は時折隣に座る律にジト目を流しつつ、しかし口元はニヤケつつ話していた。それを受けた律は、表情は少なかったが気持ち済まなそうな笑みを見せていた。
「…っていや、何が言いたいのかというとね?本当は、私が歌が好きな事だとか、教会に通って賛美歌を歌っている事だとかを、みんなに知られるつもりは正直…無かったんだ。いや、でも何かの拍子にバレることもあるかな程度には思ってたから、結果オーライではあるんだけれど…想像していたよりも、ずっと早くバレちゃっただけでね」
「…」
「まぁ…だからさ!」
と藤花は、また普段通りの無邪気な笑顔を見せると話を続けた。
「そういう点では私も琴音と同類!まぁ確かに本選が終わった後で、こうして結果だけ知らされるのは、寂しい気がしないでも無いけれど…でもホントのホントの所は、琴音おめでとうって気持ちしかないよ!」
「藤花…」
藤花の屈託のない笑みを見た瞬間、胸に何かが込み上がってくるモノを感じたが、それをそのままに「藤花、ありがとう」と自然と浮かんだ笑みで返すのだった。「うん!」と藤花も表情をそのままに返した。
「そうねぇー…」
と間合いを図っていたのか、紫が”良いタイミング”で、肘をつく先程の裕美と同じ格好を取り、私に視線を送りつつ言った。顔には呆れてるともなんとも言えない表情を浮かべていたが、笑顔ではあった。
「今藤花が言った通り、後から知らされるのはとても寂しいし、琴音、あなたが自分で言った事だけれど、何だか騙された…というか、騙された”様な”心持ちになったのは確かだけれど、でも…」
とここで紫は、不意に私の肩に手をかけると、笑みから呆れ度合いを少し引っ込めてそのまま続けた。
「今の私の気持ちも、地区優勝おめでとうってのしか残ってないよ」
「紫…」
この後にも何か言葉を付け加えようと思いはしたのだが、結局何もふさわしい言葉が見当たらなかったので、そのまま黙って見つめ返していた。紫の、少しツリ目のせいか少し性格がキツめに見える目の奥には、既に普段の思いやりに富んだ光が戻ってきていた。
「ほら…律は?」
「え?」
藤花に話しかけられた律は一瞬戸惑っていたが、さっきまでの私の様に一度息を大きく吐くと、こちらにまっすぐな視線を向けてきつつ、静かにゆっくりと話し始めた。
「まぁ…琴音?…私たち二人が同じクラスになってから、何かにつけていつも一緒に行動してたよね?…うん。…少し話が逸れちゃうかも知れないけど…正直あなたや藤花がしている”芸能”っていうの?それに対して、そんなに良いイメージを持っていなかったの。…いえ、それは今も何だけれど…。それは何故かって言うとね、そのー…テレビだとかで出てくる芸能人と自分で言っている人たちが、あまりにもナンパに見えたからなの」
「えぇ…」
私はただそう短く返した。
律からこの様な話を聞くのはこの時が初めてだったが、何となく律の普段の態度や言動を見ていたから、そんなことを考えているんじゃないのかと思っていた所だったので、その推測が立証されただけのことだった。
私はただ静かに律の続きを待った。
「勿論藤花は違うのよ?普段からどれほど努力を絶やさなかったのかを知っている…まるでアスリートみたいにね。そんな姿を、それこそ…小学生の頃から見て来ているし…」
「ふふ、お互いね?」
と藤花が満面の笑みで相槌を入れた。律もコクっと頷いて見せる。
「でもそれは藤花が特別なだけで、他のいわゆる文化系はカッコばかり付けるだけで、やっぱりナンパなイメージは消えなかったの。そこで現れたのが…そう、琴音、あなただった」
律は話の途中から私の方に視線を戻していたが、ここまで言うと、フッと力が見るからに抜けて見えて、珍しく微笑を湛えていた。
「初めの自己紹介の時に、あなたが『”軽く”ピアノ何かを弾いたりしています』だなんて言うもんだから、『なんだ…この子は軟派な子なんだ』って思っちゃったんだ」
「え?私そんなこと言ったっけ?」
と思わず私が皆の顔を見渡すと、「言ってた、言ってた」と、裕美と紫、そして藤花がニヤケ顔で一斉に突っ込んで来た。
私は肩をすぼめて見せたが、これはさっきと違い冗談だ。
「ふふ…」と律も小さく笑うと、そのまま先を続けた。
「でもね…見てたら全然”軽く”じゃなかった。さっき藤花は非難交じりに言ってたけど、試しにあなたを含めたみんなを誘ったのはね、勿論藤花の晴れ舞台を見てもらいたかったってのはあったんだけれど…もう一つはね、琴音、あなたが藤花を見てどういう感想を持つのか、それが聞きたかったからなの」
「…へ?」
今律が言った内容は、流石に想定外だったので、思わず間抜けな声を上げた。…いやそれは私だけではなく、裕美と紫も同様だった。ただ藤花だけが一人苦笑いを浮かべていた。…いや、律本人も気付いたら苦笑いだ。
律はそのままの笑みで、少しすまなさげに話を続けた。
「ごめんなさいね、試す様な真似をして…?」
「え、あ、いや…別に私は…」
「ふふ…うん、自分でも何でそんな真似をしたのか今だに分からないんだけれど…ただ言えることは、単純にあなたに興味が湧いていて、それを裏付ける何かが欲しくて、その為に私が信頼している藤花の姿を見てもらって、その反応次第で見定めようと思っていたのかも知れない…本当にごめんなさい」
とここで律が頭を下げたので、私は慌てて「ちょ、ちょっとやめてよー」と声をかけたが、ここで何でこんな腹の中の晒し合いをしているのか思い出し、思わず「ふふ」と吹き出してしまった。
それと同時に、関係あるのかどうだか知らないが、律のお父さんはどこかの大学で物理学の教授をしていて、その論理的な思考の片鱗が垣間見れた気もして、一人でこんな会話をしていると言うのに感心していた。
それはともかく、その声に反応して律が顔を上げたので、
「さっきも言ったでしょ?何とも思っていないって」
と微笑みつつ声をかけると、「うん」と律も小さくだがほほえみ返していた。
「話を戻すと…そう、あれから何かにつけて、藤花についてアレコレと私に聞いてきたよね?その場に本人がいたのにも関わらず…。それからすっかり藤花の独唱の時には必ずと言っていいほど教会に顔を見せて…ふふ、そうそう、終いには自分の師匠まで連れてきだしてたよね?…紹介までされちゃった」
「ふふ、私もー」
と藤花が悪戯っ子のような笑みを私に送ってきた。
「あ、そうなんだー」
「私も見たかったなぁ」
と、裕美、紫の順に続けて明るい声を上げた。
「ふふ…うん、まぁ…ね」
と私は何だか気まずい思いに駆られて、苦笑交じりにそう返していた。
律は少しの間、私たちの方を微笑みつつ黙って見ていたが、そろそろ頃合いだと判断したか、またゆっくりと話を続けた。
「その頃から…いや、あなたが自分の師匠を連れて来る前からだったけれど、最終的にこう思ったの。『あぁ…この子って、本当に音楽が好きなんだなぁ…』ってね。正直藤花と同じくらいに見えるほどに、芸能にのめり込んでいるあなたの姿を見て、もうすっかり最初の値踏みをする様な気持ちは消えちゃって、勝手な言い方で…いや、ずっと勝手な言い方をしてきたけど、でも言わせてもらえば、私の方ですっかり心を開いていたの」
「ちょっと律ー?」
とここで藤花が苦笑気味に横槍を入れた。
「それは流石に…聞いてる私たちが恥ずかしすぎるよー」
「ほんと、ほんと!」
と紫も同じ様な笑みを見せつつ藤花に乗っかる。
それを受けた律は、自分でこの時に気付いたらしく、凛とした表情を保って見せてはいたが、真っ白な肌の下が薄っすらと赤みを帯びている様に見えた。
と、その時、
「ふふ」と裕美が急に吹き出したかと思うと、私の方にまた手を掛けて、ニターッと何かを企んでいそうな笑みを浮かべつつ言った。
「やっぱりね!”恥ずい”事をスラスラと話せる所まで、琴音と律…あんたたちソックリだわ!」
「ウンウン!確かにー」
と裕美の言葉にすぐ藤花と紫が同調して見せた。裕美は誇らしげに胸を張っている。
他の三人のその様な反応を尻目に、私と律は顔を見合わせると、クスッと二人で小さく微笑み合うのだった。
「まぁそれはさておき…」
と、まだ赤みが引かないままに、律は表情だけ戻して先を続けた。
「それからしばらくして…琴音、あなた、急に何だか忙しなくしだしたでしょ…?例えば…土日がメッキリ予定が空かなくなったり…」
「え、えぇ…」
「その時辺りからね…」
とここで律は他のみんなに目配せをした。私もつられる様に見ると、皆はそれぞれウンと一度頷いて見せていた。
「琴音が裏で秘密に何かしているんじゃないかって話していたんだ」
「え?」
と私は思わず声を上げて見渡した。これも想定外の一つだった。
まぁ確かに今律が言った様に土日が空けられなくなったのが多くなったのは事実だったが、それ以外はそれなりに隠し通せていたと思っていたからだ。
そんな私の様子を他所に、
「まぁそれを真っ先に指摘したのは…裕美だったけれどね」
と律が言ったので、私が今度は裕美に顔を向けると、裕美は何故か照れ臭そうに首元を掻いていた。
「もーう…その事はもう少し後で話す予定だったのにー」
と不満げな声で、表情はニヤケつつそう言った。
私がおそらくキョトン顔を晒していたのだろう、裕美は私を見るなり、急に優しげな笑みを浮かべて話し始めた。
「…うん、そうなの。琴音…あんたが急に忙しくしだしたものだから、よくこの四人で話したりしてたのよ。…あ、勘違いしないでね?別に悪口じゃないから」
「…ふふ、聞いてもないのに言うと、急に嘘っぽくなるよ?」
「あらそう?…ふふ、でね、でもみんなで話した結果はいつも同じだったの…。『琴音が私たちに話さないのは、何か訳があるに決まっているから、取り敢えず本人が話すまでは置いておこう』ってね」
「そうそう。…でもさぁ」
とここで紫がまた私越しに裕美に声をかけた。
「なのに,あなただけ結局本選を観に行ったんでしょー?…やっぱり、藤花と律の二人と同じで、何だかんだ心配で一人抜け駆けしたのねー?」
と紫が意地悪げな笑みを浮かべて言うと、裕美は一瞬慌てた素振りを見せたがすぐに落ち着いて、しかし苦笑気味に返した。
「あんたねぇ…これまた随分答えづらい話を振ってきたわねえー…。それに対しての答えはしないとして、実際はね…」
と裕美は事の経緯を説明した。私のお母さんから裕美のお母さんに伝わった経緯などだ。それを時折こちらに視線を流しつつ話した。
し終えると、三人は「なるほどー」と納得の声をあげていた。
それを微笑ましげに見ていた裕美だったが、ふと何かに気付いた様子を見せると、律に視線を移し、少しニヤケ面を晒しつつ話しかけた。
「…で、結局、律は琴音について何か言いたい事は無いの?他の三人みたいに」
「…え?」
律はフリじゃなく本気で何を言われたのか分からない様子だったが、裕美の言葉の裏の意味を察したらしく、律にしては珍しく悪戯っぽい笑みを浮かべると、私に顔を向けて言った。
「…あぁ…ふふ、そんなの言うまでもないから言わなかっただけだよ…。うん…私から言えるとしたらただ一つ…琴音、おめでとう」
「…えぇ、ありがとうね、律」
律がまた普段のアンニュイな表情から一変させて大きく慈愛に満ちた微笑みを向けてきたので、若干ドキッとしつつも、私も負けじと微笑みを向けて返した。
「…さて!もうこの話はおしまい!」
ここで不意に紫が空気を変えるための様にパンっと両手を打った。
「じゃあ改めて…琴音が全国大会で良い成績…いや、もっと欲を言って優勝するのを祈って乾杯しましょう!」
「賛成ー!」
紫のこの提案に、最初の方は藤花一人が瞬時に反応をしたが、それに釣られる様に、裕美と、そして律までが声を大きく言うのだった。
「良いよそんなー…」
と私は苦笑まじりに制して見せたが、この時は本気で止める気などなく、ただ言って見ただけだった。他の客の冷たい視線も気にならなかった。
「よし!さてと…ってあれ?」
紫は何かを言いかけたが、ふと皆の空になったグラスを見渡した。
そして大袈裟に肩を落として見せると、ため息まじりに苦笑いを浮かべつつ言った。
「…お代わりをしようか!」

私たちはその案にすぐに賛成し、皆でわざわざレジに行く事も無いだろうと、誰と誰が注文しに行くか決めた。藤花と紫に決まった。
そして皆で飲み物を決めている間、皆が何も事前に打ち合わせをしていたわけでも無いはずなのに、急ピッチで皆で私の飲み物代を出し合う話になっていった。私は当然の様に遠慮をしたが、聞き入れられず、皆の注文を聞いた藤花と紫は意気揚々とレジのある一階へと降りて行った。その後ろ姿をため息まじりに見送る私の事を、裕美と律が何も言わずに、微笑みつつアイコンタクトを交わしていた。
普段よりも時間が掛かっているなと思いだしたその時、
「お待たせー」
と良く通る高めの藤花の声が聞こえたので、その方向を見ると、何と二人の後ろをOBの里美さんが付いてきていた。飲み物自体は藤花と紫が運んでいた。
一瞬何事かと思ったが、たまたま腕時計に目がいったので時刻を見ると、二時半に差し掛かる所だった。他の喫茶店は知らないが、ここをよく利用している私たちから言わせれば、このお店はこの時間になると急に暇になる時があった。まぁ尤も、毎回というわけでは無かったが。その暇になる時に、里美さんはよく手に布巾を持っていたり、それかモップを手にして二階に上がってきて、空いてるテーブルの上や床などを掃除していた。その合間に、ほんの数分くらいのものだったが、私たちの雑談に混じったりしていた。
だから今回のパターンもそれかと思ったが、近付いてくるにつれ、どうも様子がおかしかった。何故なら、掃除用具を一切手にしていなかったからだ。
そんな私の心境をよそに、まず藤花と紫はテーブルの上に注文の品を置いていった。今回は私と律はそのままアイスコーヒーのお代わりを、そして他の三人は同様にアイスティーだった。紫と藤花は前に飲んだ物が余りにも甘かったのか、サッパリするのが欲しかったらしい。
「ありがとー」と持ってきてくれた二人に対して各々がお礼の言葉を軽く言うと、その後で私は皆に笑顔を向けて「ごちそうになります」と座ったままお辞儀をして、ワザとらしく仰々しく言った。
「いいって、いいって」と裕美が真っ先にそう返してきたが、またそのすぐ後で「ちょい待ち!」と声を上げた者がいた。紫だった。
何事かと他の三人で藤花と紫を見ると、二人は顔を見合わせてクスッと笑い、そして二人は後ろにずっと立ったままの里美さんを振り向き、紫が声をだした。
「その事なんだけれどねぇ…実はここにいる里美さんに出して貰っちゃったの」
「え?」
「へっへーん」
里美さんは誇らしげに鼻の下を指ですする様な、今時漫画でもなかなか見かけることが無い仕草をした。
「琴音ちゃーん、聞いたよ?」
里美は明るい笑みを私に向けてきつつ声をかけてきた。その間に藤花と紫は自分の席に戻った。
「ピアノの都大会に出て、優勝したんだって?」
「…え?」
私はそう声を漏らすと、席に着いた藤花と紫の顔を交互に見た。二人共、満足げな笑みを浮かべている。
ここで敢えて本当のところを言うのも無粋に感じ、「え、えぇ…まぁ」とあやふやながらも返した。
すると里美さんは益々笑顔の度合いを強めると、通路側に座っていた裕美の後ろに体半分入ると、私の肩に手をポンポンとリズム良く叩きながら言った。
「凄いじゃなーい!…あ、失礼しました」
自分で思わず知らず大きな声が出てしまったことに、言ってしまった後で気づいたのか、慌てて店内の他の客に向かって会釈をした。
しかしまだ興奮が冷めやらぬ様子で、小声ながら手で叩いてくるのは変わらなかった。
「…優勝するなんて。しかも他のみんなであなたの分をおごってあげる話を聞いて、それに関しても感心しちゃってねぇ…思い切ってここはOBの私も何かしなくちゃって思ってさ?それでそのー…これは私からのお祝い」
先ほどの反省を引きずっているのか、里美さんは最後の方で照れを見せると、そのまま恥ずかしげに私の目の前のアイスコーヒーを指差した。
そんな様子が年上でしかも先輩である里美さんであったが、ふと可愛く見えて、少し吹き出しつつ「は、はい、頂きます。ありがとうございました」と丁寧にお礼を言った。
その何で他人行儀なフリをしたのかをすぐに察した里美さんは、すぐにいつもの屈託のない笑みを見せてくれた。
そんな私たち二人の様子を見て、他のみんなも、さっきの里美さんに倣う様に周りを大袈裟に見渡したりしつつ、コソコソとではあったが、お互いに顔を見合わせて笑いあったのだった。


里美さんが仕事に戻った後、今度は裕美の音頭で乾杯をした。
それからしばらくは私が持ってきた例の雑誌に皆して食らいつく様に見ていた。
あぁでもない、こうでもないと言いながら。
皆それぞれに個性的な感想を話してくれたので、とても興味深く、時には吹き出したりしながら楽しんでいた。
時折同じジャンルだというので藤花にも話が集中したりしていたが、藤花自身も今までの私と同じで、この手のコンクールなどには出たことが無いらしく、「知らなーい」の一点張りだった。
後先ほどは私自身、申し訳なさがあった為に突っ込まなかったが、裕美含む全員が、何かにつけて私のドレスアップした写真を見つつ”姫”がどうのこうのと言うので、この時はひたすら一々それらに突っ込んでいったのは言うまでもない。その度に皆が一斉ににこやかに笑うのだった。私も笑った。
それから皆が雑誌の中の私の写真を携帯で撮っていいかと聞いてきたので、もうどうにでもしてくれといった気分になっていた私は、快く(?)承諾をした。それを合図に一斉に、皆が上からページを押しつぶす様にしていたのですっかりペタッと見開きになっていたのを自分の携帯で撮っていくのだった。
それを苦笑いで見ていた私は、ふと池によくいる鯉か何かが、人が投げ入れた餌に一斉に群がる様子を思い浮かべていた。
それもひと段落が着くと、ふと藤花が私に話しかけてきた。
「…そういえばさぁ、そのー…全国大会っていつだっけ?」
「え?えぇっと…そうねぇ」
私は自分の事だというのにすぐに思い出せず、ページが開かれたままの雑誌を手に取り、自分の記事の部分を慎重に吟味した。
その間、他のみんなでまた盛り上がっていた。
「全国大会かぁ」
と紫が軽く中空辺りを見つめながらボソッと言うと
「私はまた観に行くよ」
と裕美がストローを口元で弄びつつ言った。
「…やっぱり、来る気満々なのね?」
と私が嫌々げにそう言うと、「もちろん」と裕美は無駄にハキハキと答えた。
この事は、本選が終わった後の裕美のお母さんも交えた食事会で聞いていたので、驚くこともなかった。…口ではこう言ったが、内心ではとても嬉しかったのは否めない…が、それを口にする訳にもいかないので、こうして裏返しな反応になってしまうのだった。
「あ、行くんだ!」
と紫は何故かテンション高めに、テーブルに少し乗り出してから、裕美の方を向いて言った。
そしてすぐにまた着席すると、まだ私が雑誌の中から情報を探しているというのに、話しかけてきた。
「それってさぁ…なんていうか、部外者も行っていいもんなの?」
「あ、それ気になるー」
と藤花も話に入ってきた。
私は一度雑誌から目を話すと、まず二人に視線を流してから答えた。
「んー…多分。予選の段階では、見渡す限り関係者しかいなそうだったけど、本選の時はすごく大勢の人が来ていたから…うん、大丈夫だったと思うよ。何も裕美が不正を犯して来た訳じゃなくね」
「何よそれー」
「そうなんだー」
「えぇ…っと、あった、あった」
また雑誌に視線を戻していた私は、ようやく全国大会の旨が書かれている箇所を見つけた。
「なになに…あ、来週の水曜日だ」
「なになに…」
私がまた雑誌をテーブル中央に戻したので、他の皆がまた身を乗り出しつつ、その箇所を見た。
そして誰彼ともなくまた椅子に正しく座ると、紫がまた中空に目をやりつつボソッと言った。
「来週の水曜日かぁ…ねぇ」
と今度は私に話しかけてきた。
「それってさぁ…やっぱそのー…”らしい”服を着て行かなくちゃいけないの?…観客も」
「え?あ、え、えぇ…まぁそうなんだろうねぇ、見渡した限りではそれなりの格好をしていたし…」
「私も”らしい”格好をして行ったよ」
と裕美が何故か誇らしげに脇から入った。
「あ、そうなんだ」
と藤花が食いつくと、裕美はおもむろにスマホを取り出すと、液晶部分を見せつつ、
「この中に写真もあるから、後でみんなにも見せてあげるね」
なんてことを言っていた。
それはともかく、なかなかに要領を得ない紫の話に、若干首を傾げつつ付き合っていたのだが、ここで不意に紫がこちらに勢いよく顔を向けると、少し戸惑い気味にだったが、口調自体はある種ハッキリとした調子で言った。
「あのー…さ、そのー…私も琴音のに行っても…いいかな?」
「え?」
と私が紫の言葉に驚いていると次の瞬間、「ずるーい!」と藤花が向かいの席から不満タラタラな表情を浮かべつつ声を上げた。
「私もそれ聞こうと思ってたのにー」
「へっへー、早い者勝ちよ」
「ちょ、ちょっと…」
私はとりあえず、私自身も含めて一度落ち着けようと制しようとした次の瞬間、「…うん、私も」とボソッと律が言ったのをキッカケに、すっかり力が抜けていくのを感じた。
そんな私の様子を、何とも言いようの無い、見ようによっては優しげな笑みを浮かべて見ていた裕美だったが、すぐに他のみんなに同調するようにテンションを上げて混ざっていった。
「あ、いいねぇー!じゃあみんなで行っちゃう?」
「さんせーい!」
「ちょ、ちょっと待って」
もうここしかないと判断した私は、何とかテンションの違う中に入り込むことができた。
「み、みんな…本気?」
と戸惑いげに問いかけると、それにはすぐに答えず、ある者はスマホを眺め、ある者は手帳を開き、ある者は考え込む姿を見せていた。
「…あ、私、大丈夫だ!」
「…私もー」
「…私も」
と、紫、藤花、律が顔を上げるとそう口に出した。そして三人…いや裕美を入れた四人で顔を見合わせると、何も言わずに微笑みあっていた。
その様子に溶け込めないままの私は、一人ただただ戸惑っていたが、それを他所に裕美は一度コクっと大きく頷くと、私の方に向き直り、今度は正真正銘の優しい微笑みをたたえつつ口を開いた。
「まぁ…みんなもこう言ってる事だし、勿論アンタやアンタの母さん、それにアンタの師匠さんにも話を通さなくちゃいけないだろうけど…でもここに集まるみんなは、何も冷やかしに行きたいんじゃなく、ただ純粋にアンタの演奏を聴きたいのだし、弾いてる姿を実際に見てみたいのよ。…こんなドレスアップした姿のね?」
「そうだよ?」
と、裕美が最後にいたずらっ子の様な笑みを見せながら言い終えると、順番を待っていたかの様に、良いタイミングで藤花が口を開いた。その顔には普段の天真爛漫な笑みとは違い、そこにはあのレッスン部屋で見せるもう一つの顔が見え隠れしていた。
「私だって、何度も目の前で演奏を聞かせて貰っていて、それも良かったんだけれどさ?やっぱり…大舞台で弾いてる琴音の姿も見たいよ。それに…私ばかり見られるっていうのもフェアじゃないしね?」
と藤花が最後にまた屈託のない笑みを浮かべながら言い終えると、「うん」と短く律が力強く頷きつつ同意を示した。言葉はそれだけだったが、律の場合それだけで雄弁だった。
「ま、そういう事」
と紫が口を開いた。その顔には苦笑いとも何とも言えない、難しい(?)笑みを浮かべていた。
「藤花以外は大抵そうだろうけどさ?門外漢の私だけれど、そんな私でも分からないなりにでも、やっぱあなたが実際に大きな舞台で弾いてるところを、そのー…ああ!やっぱり上手いこと言えないけど、ただ単純に見たいのよ」
「…ふふ」
最後に紫が、自分の中に渦巻いている想いを何とか纏め上げようとして、何とか絞り出す様に話してくれた事に思わず笑みがこぼれた。
…正直、この提案には”当然の様に”戸惑った。何せ裕美一人が見に来るってだけであれだけ中々踏ん切りがつかなかったのに、それを今度は他のみんな一遍だというので、その事実に一気に混乱してしまったのだが、それでもこうして私が何か言う前に、それぞれが、それぞれの形やり方で、その端々に私への気遣いが見られる様な言葉を紡いで話してくれたお陰で、知らず知らずにうちに覚悟の様なものが生まれ、すっかりその事態を受け止められる態勢が出来上がっていた。

「はぁー…もう、分かったわよ」
と私は一度大きく息を吐いてから、苦笑交じりに言った。
「私の演奏姿で良いなら…うん、是非来て」
「本当?」
「えぇ。まぁ、お母さんや師匠にも聞いて見なきゃだけど…」
「やったー!」
私以外の四人はテーブルに乗り出すように前のめりになりつつ、互いに握手や何やらをし合っていた。
「ちょ、ちょっとー…」
と私はまた慌てて周囲を見渡しつつ制しようとしたが、いつの間にか他の客がはけていた時で、私たちしかいないというのにこの時に気づき、結局は苦笑いを浮かべながら眺めていたのだった。
とその時、他のみんなとジャレ合いつつ、時折裕美が私の方に目を配ると、一瞬だけフッと優しげな表情を見せていたのが印象的だった。
それからは、「お母さんたちにも言わなきゃ!」だとか、「どんな服を着て行けば良い?」という質問にも答えて、その流れで裕美とついでに私がスマホで撮った当日の写真を見せたり喋ったりしていたら、この日はそれでまるまる潰れてしまった。
本来は「夏休みも後半に入ってきたから、また皆で集まって遊ぼうよ」と、私と裕美が呼び掛けて成った集会だったが、出る時に里美さんにお礼と挨拶をして外に出て、寄り道せずに地下鉄の連絡通路を歩いている時に、誰一人として折角の集まりが私の話でほとんど潰れてしまった事に文句や不平を述べたり、言わなくとも表情にすら見せなかった。
今日の事については、思ったよりもすんなりと事が運んで、上手くいきすぎて引っかからない事が無かったかと言われたら嘘になるけど、でも取りあえずは私にしては珍しく、この和やかな空気にそのまま流されて置こうと思った、西日が沈みかけているというのに汗ばむ程にうだるような暑さの中の夕暮れだった。

第9話 コンクール(終)中編

スピーカーから流れ出ていた、ピアノの最後の一音が鳴り終わった。
「…うん、良いじゃない?」
先ほどまで目を瞑って聞いていた師匠はゆっくりと目を開けると、明るい笑みを浮かべて言った。
「…はい」
私も師匠と同じように瞑っていたのだが、目を開けて目を合わせると、笑顔を浮かべて返した。
今日は、紫たちと会って数日後の土曜日。午後のレッスンだ。
今は私が弾いたコンクールの課題曲を録音したものを、こうして師匠と二人で聞いていた所だった。これはコンクールと関係無く、師匠の元で習い始めて、ある程度弾けるようになった頃からの習慣だ。
これをその日のレッスンの最終確認代わりとし、それでお開きとなる流れだった。今日も例外ではない。
レッスン部屋にある時計を見ると、五時に差し掛かろうとしていた。師匠も時計をちらっと見ると、「うーん」と大きく伸びをしながらこちらに顔を向けて
「今日は少し早めに終わったから、少しだけお茶でも飲んでいかない?」
と言うので、そのお誘い自体が嬉しかった私は何も考えないまま、
「はい、頂きます」
と意気揚々と返した。
それから二人はレッスン部屋を出ると、揃ってあの中休みにお菓子を作って食べてる居間へと向かった。
入ると二人揃ってシンクで手を洗い、師匠がお茶の準備をし出したので、私も慣れた調子で食器棚から茶器を取り出した。何年も頻繁に来ているお陰か、我が家のように勝手知ったる何とやらだ。

「では頂きます」
「はい、頂きます」
師匠がまず声を上げて、それを合図に私も返して、それから飲むのも習慣だ。
尤も、このようにお茶をするというのは中休み時に限っていたことだったのだが、最近…コンクールに向けての練習をするようになってからは、レッスンが終わった後もすぐには帰らず、師匠にこうして誘われればそのまま快諾し、三十分から一時間ほど長居をさせてもらって、芸談や日常会話を楽しんでいた。
「来週の水曜日の本番…」
師匠はそう言いかけると、ここで意地悪げな笑みを浮かべて見せてから続けた。
「楽しみだわねぇー…琴音の友達が大集合するんでしょ?」
「…ふふ、もーう。それって私よりも、師匠の方が楽しみにしてません?」
と私はわざと不平気味の口調を使い、呆れとも苦笑とも取れる笑みを浮かべつつ返した。
「ふふ、かもねぇー」
「それに、大集合って程のもんでは無いですよー。こないだの裕美や、師匠も知ってる律も入れて四人ですから」
「四人もよ!」
私がそんな生意気な調子でぼやくように言うと、師匠は同じ笑みのまま少し口調を強めに言った。
「私の時は決勝まで行っても、観客席には友達がいなかったもの」
師匠がおそらく気を遣ってくれてだろう、そう何気無い感じでサラッと今のような事を言ったので、私は変に畏まらなくて済んだのだが、それでも気の利いた返しは思い付かず、ただ静かな笑みを浮かべて、コクっと小さく頷いて見せてから、ズズッと唇を濡らすがためのごとく紅茶を啜った。そんな様子を見た師匠も、「ふふ…」と柔らかく笑うと、同じように紅茶を啜るのだった。この空間には、時折家のそばを通る、恐らく小学生くらいだろう、子供数人が声を上げてはしゃいでいる声以外には、静穏な、しかしとても居心地の良い空気が流れていた。
とその時、ガラガラ…と家の中にいても聞こえる程に鳴り響く、キャスターのついた何か、恐らくスーツケースだろう、特徴のある音が聞こえてきた。
…それだけなら、何も不思議に思うことは無いと思われるだろう。よくある生活音だからだ。私も初めはそう思って、特に気に留めていなかったのだが、その音が徐々に近づいて来たかと思うと、どうもこの家の前で足を止めたようだった。
ここでふと何気無く師匠の顔を見たのだが、師匠もこの足音に耳を傾けていたらしく、そして家の前で止まったのも感じたのか、一瞬だけ眉毛をピクピクとさせていた。この時は単純に、私と同じ思いをしていた故の動きかと思っていたのだが、あとで知れるように、その予想は少しだけズレていたのだった。

ピンポーン。
と不意に一度インターフォンが鳴らされた。
今まで静かだった空間内で急に大きな音が鳴らされたので、正体が分かっていてもビクッとしてしまったが、それと同時にまた師匠の顔をチラッと見ると、何事も無かったかのように紅茶を啜っていた。
「…?」
ピンポーン。
またインターフォンが鳴らされた。また私は師匠の方を見たが、一向に動こうとしない。
ピンポーン。ピンポーン。
またまたインターフォンが鳴らされた。その主の姿を見ていないので定かでは無いが、その音の鳴らし方から苛立ちの色が見えていた。
「あ、あのー…師匠?」
出ないで良いんですか?と言いかけたその時、師匠は不意に優しげな笑みを浮かべて、手元のカップの中を一度覗き込んでから、
「琴音、この紅茶おいしいでしょ?」
と聞いてきたので、「は、はい…お、美味しいです?」と若干呆気に取られてしまったので、何故か最後に疑問調でそう返した。
ピンポ、ピンポ、ピンポ、ピンポーン。
何度も連打をしているのだろう、鳴り止む前にまた押している様で、音が切れ切れに鳴っていた。
「はぁ…」とここでようやく師匠が、先ほどまで和やかな表情だったのを一変させて、心の底からウンザリだと言いたげな表情を見せたかと思ったその時、
ガチャっ。
と玄関の方で解錠した音がしたかと思うと、次の瞬間には玄関が開けられる音がして、ゴソゴソと何やら動いている音がしていた。時折例の、カラ…カラ…とまるで車輪がついているものがある様な気配もあった。
そんな事が起きているのにも関わらず、師匠はそのまま渋い表情で黙々と紅茶を啜っていたので、私も黙って事の成り行きを見ている他になかった。
足音が廊下の方に鳴り響き、居間のドアの前で止まると、間を空けずにその人は中に入ってきた。
その人物は女性だった。ネイビーのつば広帽子を頭にしていて、その下から出ている長めの髪にはウェーブがかかっていた。後ろは軽く纏めていた。服装は、青と白の細いストライプ柄のシャツワンピだった。長さは膝あたりまであり、ダラリとゆったりとしたシルエットだ。胸元は深めに入ったスキッパーデザインで、涼しさを演出している。ワンピースの下からは、スキニータイプのジーンズが覗いていた。
女性は部屋に入ってくるなり、一度グルっと辺りを見渡していたが、私は私でこの女性に釘付けになっていた。何故なら…私はこの女性をよく知っていたからだ。
「ちょっとー…」
女性はふと師匠に顔を向けると、帽子を脱ぎつつ不満タラタラに言った。
「何で何度もチャイム鳴らしたのに、出てくれなかったのよぉ?」
「…だって」
そう声をかけられた師匠も、居間のドアを背にして座っていたので、体を軽くよじりつつ、背もたれに腕をかけながら、負けじと不満な様子を隠そうともせずに返した。
「あなた…今日来るなんて言ってなかったじゃない?そもそも、空港まで迎えに行ってあげる約束までしてたはずだけれど…?」
そう返された女性は、途端に子供のような明るい笑みを浮かべると、口調も朗らかに言った。
「あはは!驚かせようと思ってね?…驚いた?」
「驚いたというか…呆れたわよ」
そう返す師匠の顔には、私が今までに見たことの無いような、屈託のない笑みを見せていた。
「あはは!」と女性はまた声を上げて笑うと、笑みをそのままに続けた。
「ただいま、沙恵」
「まぁ…お帰り、京子」
…ここまで引っ張ることは無かったかもしれないが、こうして当人たちが挨拶を交わしたので紹介すると…そう、彼女こそが、師匠と幼い頃から鎬を削ってきた、ライバルでもあり、かつ互いに唯一無二の親友である矢野京子その人である。
背丈は師匠よりも若干低かったが、私よりかは高かった。スタイルも師匠に負けず劣らずスラッとしたスレンダー体型だ。若干肩幅がある所まで似ている。
…何故ゆったり目の服装なのに分かるのか?それは普段から良く師匠に彼女の今の姿なり何なりを見せてもらったりしていたからだ。ただ声のトーンは、いつもではないが基本的に師匠の声は落ち着いた調子なのだが、それとは反対に京子さんの声はいつもハキハキしている感じだった。
「んーん…ってあれ?」
大きく伸びをして見せていた京子さんだったが、ふと私に視線を向けると、途端に好奇心に満ちた笑みを隠すことなく前面に押し出しつつ言った。
「この可愛い子ちゃんはどなた?」
「あ、あぁ、その子はねー…」
と師匠が答えようとしたその時、「あぁ!」と急に大きな声を上げた。
「あなたが例の沙恵のお弟子さんね?確か名前は…そうそう!琴音ちゃん!」
「は、はい!琴音です!」
あまりにハイテンションな京子さんに釣られるようにして、私も思わず声を上げ気味に返したが、それだけではいかんだろうと思い、スクッとその場で立ち上がると、一度息を整えてから頭を下げつつ「弟子の望月琴音です」と挨拶をした。
するとなかなか反応が返ってこないので、少し不審に思いつつ頭を上げると、京子さんは目を合わせた瞬間まではキョトン顔をしていたが、すぐにまた笑顔を浮かべると、今度は師匠に声を掛けた。
「…ふふ、沙恵ー、アンタが言ってた通り、今時珍しく”弟子弟子しい”振る舞いをする、面白い子だねぇ」
「ふふ、そうでしょ?」
師匠も京子さんに同じ調子で笑顔で返した。
そんな会話を目の前で繰り広げられていたのだが、正直私の頭はまだこの時、混乱したままだった。
それはそうだろう。先ほどもチラッと言ったが、京子さんは私の数少ない、いわゆる芸能人という枠組みの中でのファンの一人なのだ。これはいつだったか言ったが、勿論すでに知ってはいたのだが、師匠と縁の深いという事を知ると、我ながら単純だと思いつつも、ますますファン度が強まってしまったのだった。その人が突然に、前触れもなく目の前に現れて、そして気軽に私に話しかけてくれている…緊張するなという方が無理な話だろう。…そう、もう亡くなられた落語家の師匠と突然数寄屋で出会ったのと、似たような…いや、それ以上に緊張していた。
そんな私の心中を知ってか知らずか、少しばかり師匠と軽口を言い合った後、京子さんはまた私に顔を向けると、目を細めるようにして、まだ立ったままの私に声を掛けてきた。
「って、あぁ、そうだった!琴音ちゃんが名前を名乗ってくれたのに、私はまだだったね?コホン…私の名前は矢野京子。あなたの師匠の友達よ、よろしくね?」


「は、はい!よろしくお願いします…や、矢野…さん?」
私は返事をしようとしたのだが、不意に何と返せば良いのか分からず、結局は名字に”さん”付けをしてみたのだが、それでもしっくりとこず、遂には疑問調になってしまった。というのも、普段師匠と会話している中では、気安く”京子さん”と下の名前で呼んでいたからだった。咄嗟にアドリブが効かなかった。
そんな私の妙な様子から察したか、京子さんはテーブルをグルッと回って私のそばまで来て、帽子を持ったのと反対の手を私の肩に乗せ、ポンポンと軽く叩きながら「固いよー」と冗談交じりに声を掛けてきた。そして肩に乗せた手で座るように促してきたので、私が着席すると続けて言った。
「京子で良いよ、京子で!私は確かにあなたの師匠の友達ではあるけれど、私たち二人の間には師弟関係は無いんだから、もうちょっとリラックスして、気軽な感じで接してくれると嬉しいな?」
と京子は言い終えると、戯けながらウィンクをして見せたので、今まで雑誌や映像で見たまんまの、そして師匠から話を聞いたまんまの、そのままのイメージ通りの姿を見せられて、私は思わず「ふふ」と笑みが溢れてしまい、この瞬間から自然と緊張がほぐれていった。
そしてその笑顔のまま「はい、京子さん」と明るく返したのだった。
「ウンウン」と京子は満足げに頷いていたが、
「そうよー、琴音」と、ここで師匠が会話に入ってきた。表情はニヤケ面だ。
私はこの時、少なからず驚いていた。普段から冗談を言う支障ではあったが、これほどまでに辛辣なのは聞いた事がなかったからだ。
「いくらあなたが京子のファンだからってね、普段は何てことはない、どこにでもいるお調子者の三十越えた一人の女なんだから、気遣いは無用よ」
「ちょっとぉー、随分な言い草じゃなーい?」
と京子はジト目で師匠を睨んで見せていたが、口元はニヤケていた。と、ここで不意に私に顔を向けると、何だか決まり悪そうな表情を浮かべつつ話しかけてきた。
「…って、あ、そうなんだ…。琴音ちゃん、あなた…私の、そのー…ファン、なの?」
流石のサバサバしたキャラの京子も自分では言い難いのか、少し辿辿しげに言うので、それが伝染したのか、私も何と答えたらいいのか迷ってしまったが、気の利いた言い回しが思いつかず、結局は素直に「は、はい…」とだけ短く返した。
「そ、そっかぁー…いやぁー」
京子は照れ臭そうにホッペを掻いていたが、「それはー…ありがとうね?」と返してくれた。それに対して私も照れながら「は、はい…」と、先ほどと全く同じ返しをしたが、この空気に耐えられなくなったのか、「何の話か分からなくなっちゃったなぁ…」と独り言ちたかと思うと、途端に京子は努めて明るく声を上げつつ、今までの流れをニヤケつつ黙って眺めていた師匠に話しかけた。
「アンタの弟子にしては、不思議なくらいに人を見る目があるじゃない?」
「”しては”は余計よ」
師匠は軽い抗議をしたが、表情は緩めたままだ。
と、ここで不意に、テーブルを挟んで座る私に視線を流しつつ、顔は京子に向けたまま言った。
「まぁでも…確かに、私には”出来過ぎた”弟子なのは違いないわね」
「あ、あの、その…」
不意にまた師匠と京子が私の事を褒めてきそうになったので、何とか押しとどめようとしていたその時、京子はふと自分の体を見下ろしてから師匠に声を掛けた。
「…ていうかさぁ、いつまで私を立たせたままにしておく気ー?これでも私はお客様なんだけれど」
「…ふふ、誰もあなたを今日招待していないけれどねー」
そう口にしながら師匠は、やれやれと重たい腰をゆっくりと上げると、
「じゃあテキトーに座ってて?今お茶を淹れてあげるから」と口にしつつキッチンに向かった。
「ありがとうー」と師匠の背中に声を掛けると、京子は師匠が今まで座っていた隣に腰を降ろした。
「琴音ー、あなたもお茶、お代わりいるでしょー?」
と師匠が声を掛けてきたので、
「はーい、いただきまーす」
と、同じ部屋にいるのに、船を見送るような声で返した。

「では頂きます」
「はい、頂きます」
「いただきまーす」
師匠がまた号令をかけると、私、そして京子が声を揃えるように言い、そして一口ズズッと啜った。
「京子、今日泊まっていくんでしょ?」
「えぇ。ていうか…二週間ばかり日本にいるつもりだから、その間は泊まらしてよ?」
そう京子が言うと、師匠は見るからに嫌そうな表情を浮かべつつ言った。
「えぇー…毎度毎度、ほんっとうに勝手なんだから…。まぁいいわ、良いよ、こっちにいる間泊めてあげる。何のお構いも出来ないけどね」
「あはは、ありがとうね」
「まったく…実家があるんだから、たまには帰ってあげれば良いのに」
「だってー…神戸って遠いじゃない?もちろん、一回は顔を見せに行くけどね」
「で、また戻って来ると…」
「えへへ。よろしくね」
「はいはい」
こんな二人のやり取りを見ている間、私は美保子と百合子のことを思い浮かべていた。実際には見た事が無かったが、おそらくこういったやり取りを、毎度のように繰り広げているのだろう事は、想像するのに難しく無かった。
私は黙って自然と笑みを浮かべながら二人の顔を見ていたが、元から少し垂れ目がちの師匠の目元が今は釣り上がり気味なのに対し、普段はツリ目気味…そう、考えて見たら、目元は紫にソックリ…いや、話すのを忘れていたが、今京子はメガネをしているのだが、そのメガネも所謂”ざますメガネ”なせいか、余計に似ている事に、この時初めてハッと気づいた。…いや、そんな事を言いたかったのではなく、ツリ目気味の京子の目元は打って変わって終始ニコニコしているせいか、若干緩んでいて、この二人の目元の違いに気づいた時、ますます吹き出しそうになるのだった。
それからは、師匠と京子の二人が、友達同士で繰り広げられる内輪の話を軽くした後、不意に京子は私に顔を向けると、ニコーっと笑いながら話しかけてきた。
「そういえばさー…琴音ちゃん、いよいよ本番ね?」
「はい?」
何の話かと私は気の抜けたような調子で返してしまったが、それには意に返さずそのまま続けた。
「ほら…コンクールの事よ!あなた…決勝まで行ったんでしょ?」
「は、はい…」
呆気に取られたままの私をよそに、京子はここで今日一番の笑みを浮かべて言った。
「…それ、私も観に行くからね!…応援こみで」
「え?…えぇー!」
私は思わずその場で立ち上がって声を上げた。そんな様子の私を京子はニコニコしながら見ていたが、片や師匠は隣に座る京子を横目でジロッと見ていた。
…まぁ正直のところ、京子が目の前に”このタイミングで”現れた時点で、頭のどこか片隅によぎらなかったと言うと嘘になるが、それでもやはり実際に言われると驚いてしまった。
私が思わず立ち上がってしまったのを、若干恥ずかしく思いながら椅子に腰掛けると、「はぁー…」と師匠が深くため息をついてから京子に話しかけた。
「やれやれ…。京子、あなたがこの子を観に来ることは、当日まで内緒にしておくつもりだったのに、よくもまぁ早々にバラしてくれたわね」
「えー?…あぁ、あんたもサプライズを用意してたんだ。…琴音ちゃんに」
京子は顔は師匠に向けたまま、視線だけ私に流しつつ言った。口調からは愉快げな感情が見えている。
「そう言ってくれなきゃー」
と何故か勝ち誇ったような表情で言う京子に対し、師匠はやれやれと首を横に振ったものの、その直後にはフッと息を吐きつつ「それもそうね」と言って、そのまたすぐ後で、今度は私に顔を向けた。
その顔には半分照れ、半分は気まずさが混じったような笑みを浮かべていた。
「…まぁ、バレてしまっては仕方ないか。琴音、今京子が言った通りよ。そうねー…こないだの本選が終わった直後くらいかしら?その時に京子と連絡を取り合っていた時にね、あなたの話になって、コンクールはどうなっているかって話になったの」
「私から話題を振ってね?」
京子が、出された紅茶を啜りつつ合いの手を入れる。
「そうなの。…これもあなたには内緒にしていたんだけれど、あなたの事をね、芸の事も含めて、色々と話をしていたんだー。そのー…私の弟子になる前からね?」
「え?そ、そうなんですか…?」
私は途端に、今までのここでの自分の行いを、思い出せる範囲で思い返していた。何か恥ずかしいことをしていないか、といった辺りだ。
私の頭がフル回転している時に、京子がまた明るくニコニコした笑みを浮かべつつ話しかけてきた。
「聞いたよー?”師匠”の事、好きなんだってね?」
「”師匠”…?」
とここで私は、向かいに座る師匠に視線を流すと、その瞬間京子は「あははは!」と声を上げて笑ったかと思うと、その笑顔を絶やさぬまま続けた。
「違う、違う。ほら…」
と京子が名前を挙げたのは、そう、先日亡くなった、落語家の”師匠”だった。「あぁー」と私は声を出してから、「はい」とだけ短く返すと、京子は今度は好奇心に満ちた笑みで、私の顔を覗き込むようにしながら言った。
「本当だったんだねぇー。いやー…そもそも、あなたの年代で、”師匠”の名前自体を知ってる人が稀だと思うんだけど、知ってるばかりか、好きだって言うんだからねぇー…ふふ、いや、ただ不思議がってるんじゃないのよ?とても”センス”が良いって言いたかったの。…その歳にしてね?」
「は、はぁ…」
何だか話の展開が早く感じて、とてもついていけてる気がしなかった。何とか返答をするだけで精一杯といった感じだ。
「”師匠”がテレビに出ていた時でさえ、私たちはこの子よりも遅めだったものねぇー…魅力に気付くのが」
と師匠が言うと、京子は腕を組みつつ「ウンウン」と口に出しながら頷いていたが、ハッと何かを思い出したような顔つきになると言った。
「そういえばさ、師匠の記事、ちゃーんと取っといてくれた?」
「えぇ、ちゃーんと取っといてあるわよ。…朝に早起きして買ってね?」
「ふふ、それはそれは、ありがとうございました」
と京子が深々と頭を下げると、師匠は苦笑交じりに「どういたしまして」と返していた。
と、京子が体勢を戻している間、師匠はまた私に顔を戻すと
「まぁそういう訳なんだけれど…琴音、ごめんね?勝手に色々とあなたの話を京子にしちゃって」
と少し声のトーンを落としつつ言ったので、
「え?あ、い、いえいえ、そんな!私は別に…」
と私は慌てて返した。この時はこれで終わってしまったが、『むしろ、師匠だけでなく、好きな京子さんにまで私のことを認知してくれていたなんて、それだけで嬉しいです』くらいの事を言えれば良かったなぁくらいには思っていたが、当時の私にはそこまでは気が回らなかった。…いや、変に口が回る方が嘘っぽく見えたり聞こえたりしたかもだから、結果オーライだったかも知れない。
「ついでと言ってはなんだけど…」
と師匠はまた苦笑交じりに付け加えた。
「瑠美さん…あなたのお母さんにも話は付けてあるから」
「え?」
これには私も苦笑いをする他になかった。尤も、他には何の感想も持たなかったから、この話はこれで終わった。
それからは私のコンクールの話に終始した。師匠はここで録っていた練習音源を京子に送っていたらしく、簡単にだが、京子は色々と私にアドバイスをくれた。元々帰り支度を済ませていた私は、すぐそばにカバンを置いていたので、咄嗟に中からノートを取り出し、自分なりに纏めて書き出していった。
この時の私はメモするのに必死だったので実際には見ていなかったが、後で師匠が言うのには、私がわざわざカバンからノートを取り出したのを見て、この時初めて目を丸くして驚いて見せていた様なのだが、その直後には隣に座る師匠と顔を合わせて、師匠が一度優しげな笑みを浮かべつつコクっと一度頷くと、京子も微笑み返した様だった。
…まぁそれは置いといて、京子が色々と師匠とはまた違った見方を示してくれたので、とても面白くメモを取ることが出来た。
その後は軽く師匠と京子の”当時のコンクール秘話”に話が向かいそうになったその時、「あっ」と師匠が声を上げたので、その視線の先を見ると、掛け時計が時刻六時半を示していた。師匠の所での最長滞在時間だ。
「じゃあ取り敢えず、今日はこの辺りでお開きにしましょう」

「あ、琴音ちゃん。連絡先を教えてくれない?お近づきの証として」と京子が戯けつつ言ってくれたので、私は咄嗟のことで驚き慌てつつも喜びを隠せぬままに笑顔を浮かべてスマホを取り出した。京子も私とほぼ同時にスマホを取り出しながら言うには、普段は全く使わないが、日本用の携帯を一応持っているとの事だ。まぁ余談だけど。
そのやり取りが終わると、それから私は一人身支度をし、そして玄関に続く廊下に出た。その後を、師匠と京子が付いてくる。
玄関に着くと、すっかり暗くなった辺りを明るくするために、師匠が灯りをつけた。すると、すぐ近くに見慣れない真っ赤なスーツケースがあるのに気づいた。
…なるほど、さっきのカラカラ音が鳴っていたのは、この音だったのか。
と私は視線をスーツケースに向けたまま靴を履いていると、その間、師匠も私の背後で見ていたらしく、感想を述べていた。
「京子、またそんなド派手な色合いのスーツケースを使っているの?」
「ド派手って…ただの赤一色じゃない?」
「それがド派手って言ってるのよ。暗い色合いならともかく、原色に近いじゃない?」
「もーう、ほっといてよ」
こんなやり取り背に支度をしていたのだが、何だか親友同士というよりも、親子の様な会話だったので、思わず知らず「ふふ」と笑みが溢れてしまった。
そして靴を履き終えた私が立ち上がり振り返ると、師匠と京子二人ともが、何だか決まり悪そうに照れ臭そうに笑みをこちらに向けてきていた。一瞬間が空いたが、私が何も言わぬまま自然とニコッと微笑むと、それを合図にしたかの様に、二人も私に笑いかけてくれた。
「気をつけて帰ってねー」
と二人が揃いも揃って同じ言葉を私に掛けてくれた。そして二人揃って玄関先まで出てきて、私が例の曲がり角でまた振り返り見ると、街灯が少ないのもあってハッキリとは見えなかったが、ボンヤリとした明かりの下にいる二つの影が私に手を振ってくれていたので、私も二、三度大きく手を振り返し、名残惜しげにゆっくりと角を曲がり、日中と変わらぬ暑さの引かない夜道だというのに、足取り軽く家路を急いだ。


「…あはは。バレちゃったのねぇ?」
お母さんは手に持った茶碗を一度置いてからにこやかに言った。
自宅の食卓。テーブルの上には煮魚などの和食の品々が程よく並べられていた。もう慣れたものの、お母さんとの二人きりの夕食だ。
家に帰ると、まずお母さんに「何故今日はこんなに遅くなったの?」と聞かれたのだが、今までの経緯を説明すると、悪戯を見つかった子供の様な笑みを浮かべて「あはは」と笑って誤魔化していた。お咎めなしだ。私もそれに対して何も反発を覚えず、取り敢えず苦笑で返すのみに終わった。
因みにこの日の夕食…いや、慌てて付け加えさせて貰うと、だけではなく、最近はお母さんの料理を助手する事が当たり前になっていた。そう、これも近い将来、一人暮らしをする時に向けての”修行”の一環だった。見せられなくて残念だが、この煮付けは私が作ったものだ。
…っと、それは置いといて、
「もーう、驚いたよー」
と、私も行儀悪く口に箸を咥えながら返した。
「だって、いきなり矢野さん…いや、京子さんが目の前に現れるんだもの」
「ふふ、それに関しては私も驚いたわ。話では決勝の日の前日か何かに来る予定だって聞いてたから」
と私が悪戯っぽく付け加えると、お互いに顔を近づけてクスッと笑い合うのだった。
それからは二人で食器をシンクの方に運び、それぞれ役割分担をして手際良く片していった。
そしてこれも普段通りだからと何も示し合わせる事無く、私は冷蔵庫から家で作ったチョコチップクッキーを取り出すと、 それをレンジに入れてスイッチを入れて、その間にお母さんはこれまた慣れた手つきでお茶の準備をし出した。 時間帯にもよるが、寝支度を始めるには早い時などは、大抵こうして食事を終えても居間に残り、こうしてお茶を飲みながら団欒をするのだった。
レンジで温めた、ワザと柔らかめに作ったクッキーを皿に乗せテーブルに戻ると、丁度お茶の準備も終わっていた。
私とお母さんの二人は、夕食の時とは違って何も挨拶を交わさないままに、気ままにクッキーをチビチビと齧りながらお茶を啜るのだった。因みにこの日は、急須で入れた渋目の緑茶だった。私好みだ。
それからは二人で、チョコクッキーチビチビと齧りつつ、渋い緑茶をズズッと啜りながら、夕食時の会話の続きを楽しんだ。お母さんからは私の知らない、師匠と出会う以前の京子を含む話、私からは如何に京子が凄いのかの話をし合った。とても心身ともに充実したひと時だった。


「そうなんだ、師匠さんの友達がねぇ」
「えぇ、そうなの」
と私は向かいに座る絵里にそう返すと、出してもらった紅茶を啜った。
この日は月曜日。例のごとく(?)というか、結構久しぶりに絵里の家にお邪魔している。お昼下がりの二時半あたりだ。
「前からあなたが話してくれていた、好きだって人でしょ?」
「うん。だからもう…びっくりしちゃった」
「あはは、そうだったんだねぇ…琴音ちゃんの驚く姿見たかったなぁ」
などと絵里がニヤケ面を向けてきつつ言うので、
「あー、それ何か感じ悪ーい」
と私もワザとらしくイジケテ見せながら返した。その後一瞬顔を見合わせたが、その直後にはクスクスと笑い合うのだった。
因みに、久しぶりに絵里の家に行くというので、裕美も誘ったのだが、この日はクラブがあるとかで来れなかった。とても残念がっていたのは言うまでもない。何せ裕美”も”絵里の事が大好きだからだ。
一頻り笑いあった後、ふと絵里は「そっかー…」とため息交じりにボソッと言ったかと思うと、不意に時計にチラッと視線を送った。
私も釣られる様に視線を合わせていると、「…うん」と絵里は一人で何かを覚悟したかの様にコクっと頷くと、テーブル挟んで向かいに座る私に真っ直ぐな視線を送り、そして、先ほどまでとは違って顔に真剣味を負わせつつ口を開いた。
「そういえば琴音ちゃん…唐突なことを聞く様だけれど、今日ってお家にお母さんいるの?」
「…え?」
絵里が自分で言った様に、実際唐突な問いかけだったので若干驚いてすぐには思考が定まらなかったが、聞かれている内容自体は単純な事だったので返した。
「んー…多分いると思う…よ?家出る時、何も聞いていなかったから」
何故絵里がそんなことを今聞いてきたのだろうかとアレコレ推測しつつ答えた。
それを聞いた絵里は「そっか…」とまたため息交じりに言ったかと思うと、座っている椅子をテーブルに気持ち近付けて、姿勢も一旦真っ直ぐに伸ばした後に、私に近づく様に軽く前傾になると、顔は真剣なまま口を開いた。
「…琴音ちゃん、驚かせる様で悪いけど…今日この後、あなたのお家に行ってもいいかな?そのー…挨拶の意味で」
「…へ?」
とこれまた予想だにしない、意外な提案をされたがために、今度は気の抜ける様な声を思わず上げてしまった。そして絵里の顔を穴が置くほどに凝視した。何か思惑が見え隠れしていないかと判断する故でもあったが、結局絵里の真剣味を帯びた表情からは何も知れなかった。
で、結局「…な、何で?」と聞くのが精一杯だった。
すると、今まで無表情に近い顔をこちらに向けてきていた絵里は、今度はフッと見るからに力を抜いたかと思うと、少し口元に微笑みを浮かべつつ、静かに話し始めた。
「何でって…ふふ、何も今思いつきで言ってるんじゃないのよ?これまでも…うん、琴音ちゃん、あなたが初めてここ、私の家に遊びに来てくれた時あたりからずっと考えていた事なの。…だってさ?」
とここで絵里はテーブルに肘をつき、手を自分のホッペに当てる体勢を取り、リラックスした様子で話を続けた。顔はますます緊張の度合いが緩んできていた。
「ほら、いつだったか…あ、そうそう、その時に、あなたとギーさんの事について色々と話したでしょ?」
「あ、うん…」
私はこの時瞬時に、あの時の情景を思い出していた。
自分で言うのはとても恥ずかしい…いや、絵里にとっても若しかしたら恥ずかしい思い出なのかも知れないが、私のことを想うばかりに涙ぐみながら、私と義一の…そう、両親に黙って、コソコソ隠れる様にして会っている事について、本気で心配をしてくれたあの日だ。私自身もそんな絵里の態度に、視界がゆがんだのは話した通りだ。
私が覚えていることを暗に示すと、絵里はフッと一度笑みを漏らしたかと思えば、今度は私から一度視線を逸らし、斜め上の方に顔ごと視線を向けると、若干ウンザリげに言った。
「まぁ…ギーさんにアナタ達の話を聞いた時から、何となく考えていた事ではあったんだけれど…」
とここでまた絵里は私に顔を戻すと、今度は少しニヤケ気味に言った。
「あの時のアナタとの会話で、私の中ではその時初めてハッキリと腹が決まったのよ…」
ここで絵里はまた真剣な面持ちになりながら、気持ちを込めるかの様に力を貯めつつ言った。
「…ギーさんがどうしようと構わない。あの人はあの人なりに、真剣に琴音ちゃんを想って行動しているとは思うから。でも、私はやっぱり、同じやり方は出来ない。だって…このままアナタに、こんなまだまだか弱いアナタに、この嘘をつき続けて欲しくはないから…」
「…!」
私はここで一瞬ビクッとしてしまった。何故なら、無造作にテーブルの上に置いていた私の手に、自分の手を重ねてきたからだ。
私がまだ驚いているのも束の間、絵里は態度を変えずにそのまま続けた。
「でも、これでも、あなた達二人の言いたい事、やりたい事をわかっているつもりなの。あなたも、それに…ギーさんに対しても、それなりに尊敬の念を持っているしね?」
”ギーさん”の名前のところで一瞬苦笑して見せたのが印象的だった。
「でも…少なくとも、私の所にこうして遊びに来ている事自体は、これ以上嘘を重ねることはないだろう…って思ったのよ。そう…ギーさんに初めて”数寄屋”に誘われた、あの日にね」
「…」
私はこの時点ですぐに、絵里が何について言いたいのか察した。
そう、私の本選突破を記念して、お祝いしてあげるという事で一緒に行くという話をしたアレだ。途中で聡が来て、その様な話になったわけだったが、絵里が言いたいのは、その前の三人での会話の中身についてだ。
私がコクっと一度頷いて見せると、絵里は絵里で私の心を読み取ったらしく、それについて詳しく言わないままに先を続けた。
「…うん、あの時ギーさんとも話したでしょ?そう、あなたのお母さんが、私の実家の日舞の生徒さんだって事。…それから私のことがいずれ知られて、芋ズル式にギーさんまで行くんじゃないかと思ったけれど、確かにあやつの言う通り、今の所はそこまで関連性が見出されないっていうのに気付かされてね?だったら…」
とここで絵里は、私の手の上に乗せていた自分の手で、今度は気持ち強目に握ってきつつ言った。
「繰り返しになるけど、ギーさんとの事についての嘘はともかく、私との話は隠す事も無いんじゃないかって思うんだけれど…どう?」
「え…?ん、んー…」
あまりに突然の提案だったので、私は思わずすぐには返事出来なかったが、今絵里が話した様なことは私も何と無くだが考えていた事だった。例の会合以来というのも同じだ。今絵里は言わなかったが、私がお母さんに、よく行く図書館の中の司書と仲が良いというのも知られているし、その事を絵里も知っていたのが大きかった。だいぶ前になるが、話をした通りだ。
図らずもだが、ある意味お膳立てはしっかりと出来ていたのだ。
私はすぐに返すのも軽薄だと思い、少し溜めてから、一度絵里の手を退かせてから、改めてその上に今度は私から手を被せて答えた。
「…うん、私もそんな事考えてたんだ。…いいよ、一緒に私の家に行こう?」
「琴音ちゃん…」
と絵里がフッと先ほどまで作っていた真剣な面持ちを緩めて、優しげな視線をこちらに向けてきたが、私はというと、ここで意地悪げな笑みを浮かべて見せて
「それに…友達をいつまでもお母さんに紹介しないってのも不公平だしねぇー…裕美はすぐだったし」
…実際は、裕美の水泳大会を観に行く時になって初めて紹介したから、”すぐ”でも無かったのだが、そんな私のセリフを聞いた絵里は、普段通りの明るい笑顔を見せると、ドヤ顔の私のおでこを指で軽く小突いてから返した。
「あははは!そんなまた”友達”だなんてワードを使ったら、その裕美ちゃんがこの場にいたら『恥ずいっ!』って言われちゃうよー?」
「ふふ、違いないわね」
それから二人はクスクスと笑い合うのだった。


しばらくして…と言っても、ものの十数分だろうが、私たち二人は各々で外に出る準備をした。言うまでもないが、私は帰り支度だ。
マンションを出ると、まだ昼から夕方にかかる辺りの三時半ごろのせいか、ある意味夏の日中内で一番暑さの厳しい時間帯であった。
私はいつも通り、例の麦わら帽子を被っていたが、絵里は何も被っていなかった。燦々と照る太陽の光に、絵里の頭に乗っかってる”キノコ”が反射して、典型的な天使の輪を作っていた。普段から思っていた事だが、変な髪型の割に、やはりそれなりに気を使っているらしく、髪質自体は女の私から見ても上質なものらしかった。下はカーキ色の幅のあるパンツを履いていたが、上は真っ白なノースリーブシャツ、その上に薄手のサマーカーディガンを羽織っていた。聞いても無いのに絵里が言うのには、『あなたのお母さんに初めてお会いするんだから、いくら暑いとはいえ肌をなるだけ晒すのは良くない』という理由かららしい。私は何とも言えず、ただそれに対して苦笑したのみだった。
絵里のマンションから私の家まで大きな通りを通る事は無いのだが、それ故にいわゆる街路樹が無い上に、身長の低い民家ばかりなので、程よい日陰が得られず、緑が少ないくせに蝉の鳴き声がけたたましく辺りを占めていた。
そんな中、道中ずっと、着いてお母さんに会ったら何を話そうかという打ち合わせに終始した。最初の方は意気揚々と話していた絵里だったが、徐々にテンションが目に見えて落ちていった。普段からは想像出来ないが、それなりに緊張していた。
「もーう…言い出しっぺなんだから、もうちょっとシャキッとしてよ?」と私が生意気に笑いつつ言ったお陰か、その分だけ和らいではいた。五、六分歩くと、ついに家の正面玄関に着いた。
「へぇー…ここかぁ」
絵里は着くなり、家の外観を色んな角度から眺め回していた。
私は車とは別の、人が出入りする様の鉄製の門扉に手を掛けていたが、そんな様子の絵里に苦笑気味に声をかけた。
「ふふ、もーう絵里さん?ウチに来たのって初めてだっけ?…って、前にすき…あ、いや、例の所に行った帰りに寄って来なかったっけ?」
思わず”数寄屋”と言いそうになったのを何とか既のところで留めた。もう自宅前だ。どこで誰が聞いてるかも分からないところで、それを聞いたところで知らないかもしれなくても用心に越した事は無いだろうという、自分なりの最大限の配慮だった。
絵里もそんな私の態度から察したか一度フフっと笑うと、その直後には普段通りの笑みを浮かべて言った。
「確かにあの時、前までは来たけれど真っ暗だったでしょ?それに直ぐにおさらばしちゃったし…しっかし」
絵里はここまで言うと、一度家の方を眺めてからシミジミ続けた。
「本当に琴音ちゃんは、お嬢様だったんだねぇ」
「も、もういいから!は、早く行こう?」
私はこの時途端に恥ずかしくなって、空気を入れ替えるためかの如く、反応を見ずにそのまま門扉を開けて、家の玄関前まで続く数メートル程のレンガ調のアプローチをズカズカと早歩きで行くのだった。その後ろを、絵里が微笑みながらゆったりとした調子でついて来た。…たとえ振り向いて見なくとも、そこそこ長い付き合い、絵里がどんな態度をとるのかは直ぐに分かる。
私は私でここまで来るまで緊張を少なからずしていたのだが、さっきのやり取りのお陰か、すっかりいつもと変わらぬ調子で鍵穴に鍵を差し入れ、間を置かずにそのまま半回転させた。
ガチャ。
その音と共に解錠したのが手元の感覚からも伝わり、そのまま玄関を開けて中に入った。
「ただいまー」
入って開口一番声をかけてみた。普段、お母さんがいようといまいと、これは習慣の様なものだった。お母さんがいればそのまま挨拶になるし、いなくとも言葉を投げる事によって、家に誰かいるのか判断出来る故に、その便利さに気付いてからは、意識的にやる様にしていた。で、この時は…
「あら、おかえりー」
と居間の方角から耳慣れた声が返ってきた。お母さんの声だ。やはりと言うか、今日はお母さんはそのまま家にいたらしい。
この時ふと下駄箱近くの時計を見てみたが、時刻は三時半に差しかかろうとしていた。どうやらまだ夕食の買い物には行ってなかったみたいだ。
ガチャ。
と居間のドアが開けられて、そこからお母さんが廊下に出て玄関に近づいて来た。相変わらずお母さんは、何も外に用事がない様なこんな日でも、質素では当然あったが、身なりをきちんとしていた。無地ではあったが清潔感のあるTシャツに、下は膝下まである紺のロングスカートだった。
別にこの時、そこまで頭を働かせたわけでは無かったが、約束無しの突然の来訪でも、私のお母さんだったらダラシのない格好はしていないだろうという確信があったので、急の絵里の提案にも乗れたというのもあった。もうこの時期の私は、もうそんな見てくれのことなど、小学校低学年時ほどには何も感じなくなっていたのだが、それでも、なんだかんだ言って一般の他のお母さんたちと比べても、その立ち居振る舞いに凛としたものがあるのは、密かに誇りに思っていた事だった。
…何だか、何が言いたいのか自分でも分からず、また聞いてる方でもよく分からなくなってしまっていると思うが、まぁ”いい加減”に感覚で感じて頂けると助かります。話を戻そう。
「今日は結構早めじゃない?もう少し遅くなると思って…あら?」
お母さんはこのような事を言いながら玄関まで歩いて来たが、目の前まで来ると、まるで今絵里の存在に気付いたかのようにハッとして見せた。
「こちらの方は…どなた?」
と、お母さんは、玄関先でまだ靴を履いたままでいる私と絵里の顔を何度か交互に見ながら聞いてきた。
「あ、うん、この人はね…」
と私が慌てて答えようとすると、
「初めまして」
と隣にいた絵里が不意に頭を大きく下げると、口調に真剣味を負わせつつ応えた。
「私、琴音ちゃんが足繁く来てくれてる図書館で司書をしています、山瀬絵里と言います。そのー…突然お邪魔してすみません」
「え?図書館の司書…?あ、あぁー」
それを聞いたお母さんは、私に顔を向けると、目は気持ち大きく見開きつつだったが言った。
「この方なのねー?あなたが昔からよく言っていた、仲のいい司書さんというのは?」
「う、うん、そう!」
私自身よく分からなかったが、何だか何かを誤魔化すかの様に若干食い気味に返した。
「ふんふん」とお母さんはそんな私の心中は知らずにか、一人納得いってる風に大きく何度か頷くと、今度は絵里の方に向いて、顔には愛想の良い笑顔を浮かべて声をかけた。
「顔を上げてくださいな?えぇーっと…山瀬さん、だったわね?」
「は、はい」
と絵里は畏まりつつもゆっくりと顔を上げた。それを見たお母さんは笑みを崩す事なく続けた。
「わざわざ来て下さってありがとうね?取り敢えず、こんな所で立ち話も何だし、良かったら上がっていきません?大したお構いも出来ませんけど」
「は、はい。で、では…お邪魔…します」
「どうぞー」
お母さんは陽気に間延び気味にそう声をかけると、スタスタと居間の方に歩いて行った。その途中で「琴音ー、山瀬さんにスリッパをお出ししてねー?」と言うので、「はーい」と私も返事をしてから、いくつかあるスリッパの中から来客用のを出して、絵里の前に差し出した。
「あ、ありがとう、琴音ちゃん」
と絵里はここにきてまた少し緊張の度合いを強めて見せていたので、私は自分の分のスリッパを出してから、絵里の背中にそっと手を置いて「どういたしまして!」と笑顔で返した。それが功をそうしたのかは、そこまで自惚れていない私からは何とも言いようがないが、その後に絵里はフッと力の抜けた自然な笑みを見せていた。
因みに余談だが、というか今更かも知れないが、我が家では来客以外でも、友達などの心安い人なども含めて皆がスリッパを履くことになっていた。それは家族も例外ではない。だから私も普段から自宅ではずっとスリッパを履いている事になる。まぁ余計なつまらない補足だ。話を戻そう。
「テキトーに座ってて下さいねー?琴音、あなたが案内しなさい?」とお母さんはドアを背にして支度をしていたというのに、私と絵里が居間に入って来たのを察したのか、こちらに声を掛けてきたので、「はーい」と私は返事をして、普段夕食や家族団欒時に使っているテーブルの方に案内して、そして私がいつも座る椅子の隣の席に絵里を座らせた。普段はお母さんが座る位置なのだが、来客がありテーブルの前に座って貰う時には、そこに座らせるのが習わしになっていた。最近では師匠がうちに来る度にそこに座っている。お父さんがいる時にはまた違うが、大体まずいないし、その場合はお父さんの定位置にお母さんが座るのだった。
絵里は私に促されるままにおずおずと座ると、少し遠慮深げに視線だけでキョロキョロと居間を見渡していた。私はその横顔を面白げに眺めていた。
元々絵里がウチに来た理由が理由なだけに、もう少し私の方でも緊張感を持っていた方が良いだろうとは思っていたのだが、この時の私の心境としては、言いようの無いワクワク感が胸を占めていた。
何だろう…?分かりやすく言えば、凄く好きな友達を初めて自宅に招待した時の様な、何だかアレコレとお節介を焼きたくなる様な、そんなアレかも知れない。…って、この状況と寸分と変わらない時点で、例えにはなっていなかったか。まぁ良い。
そんな心境でいると、お母さんがまだ支度をしながらまた声を上げた。
「山瀬さーん、あなたはコーヒーと紅茶、どちらが良いのかしら?」
「あ、そんな、お構いなくー」
と絵里が遠慮がちに言うので、すかさず私が脇から入った。
「茶菓子にもよるだろうけど、絵里さんは大体紅茶だよー」
「あら、そうなの?」
お母さんは一度手を休めると私たちの方に向き直った。
「じゃあ琴音、私は紅茶を用意してるから、あなたは自分でこないだ作ったワッフルを冷蔵庫から出して、少しレンジで温めてくれる?」
「ワッフル?」
「うん、分かった。絵里さん、ちょっと待っててね?」
「え、あ、うん」
絵里のそんな辿辿しげな反応を背に冷蔵庫から、ラップに包まれたシュガーシナモンワッフルを取り出した。中身をチラッと見ると、女三人分くらい丁度の量だった。
それをそのままレンジに入れてスイッチを入れている頃、お母さんは紅茶を淹れつつ絵里に話しかけていた。
「ご存知かも知れませんけれど、うちの子、お菓子作りに凝っていましてね?それでまた、下手の横好きではなく、ちゃーんと美味しく作るんですよー。召し上がって上げて下さいね?」
「もーう、お母さん?そんな話はいいから」
と私がすかさずツッコむと「何よ照れちゃって?」とお母さんはおちゃらけ気味に返した。
「…ふふ」
とその一部始終を見ていた絵里は、ふと吹き出す様に笑みを零した。それを見た私とお母さんは一瞬顔を見合わせると、次の瞬間には同じ様にクスッと笑い合うのだった。
「どうぞー」
「はい、頂きます」
最初来た時の様な緊張と比べるとかなり和らいだ様子で、絵里は口調を丁寧に返した。
「いいえー」とお母さんが椅子に腰かけようとしていた時、今度は私が温めたばかりのワッフルの入ったお皿をテーブルの中央に置きつつ言った。
「どうぞ私からも、召し上がれ」
「うん、ありがとう琴音ちゃん」
「ん!」
と私は口を結んだまま答えると、絵里の隣にまた腰を下ろした。
それを見たお母さんは、明るいトーンで声を上げた。
「では頂きます」
「頂きます」
「え、あ、い、頂き…ます」
当然と言えば当然だが、突然我が家のルールでお茶会が始まったので、少し面を食らったのか、若干オドオドしつつ絵里も後から続いた。
それからは三人揃ってカップを手に取り一口ずつ啜ると、すぐさまお母さんが絵里に話しかけた。
「どうかしら山瀬さん、紅茶の方は」
「あ、はい、美味しいです」
「そう?良かったー」
「絵里さん」
私はお皿を少し絵里の前に寄せて見せてから言った。
「このワッフルも食べてみて?自信作なの」
「あ、そうなの?じゃあ、お言葉に甘えて」
絵里は中から一つを手に取ると、一口ワッフルを食べた。
「どう?」
と私が聞くと、絵里は無言でモグモグと勿体ぶって見せたが、パッと勢いよく目を開けると、
「うん、とっても美味しいよ」
と満面の笑顔で答えてくれた。
それに釣られる様にして私も笑みを零しつつ「良かったぁ」と返す、そんな私たち二人の様子を、お母さんは口元に微笑みを浮かべつつ、ズズッと紅茶を静かに啜るのだった。
「いやぁ、ほんと、よく来てくれたわねぇ絵里さん…って、あ、あなたの事を絵里さんと呼んでも構わないかしら?この子から良くあなたの話を聞くものでね、その度に絵里さん絵里さんって言うもんだから、すっかり私の中でも絵里さんで固まっちゃってるのよ」
「ふふ、えぇ、勿論です。そう気軽に呼んで頂けると、私としても嬉しいです」
「ふふ、ありがとう」
「本当にでも、突然お邪魔してすみません。迷惑ではありませんでしたか?」
「え?…」
お母さんはふと居間の壁にかけれられていた時計に目配せをした。
「…いーえ、まぁ確かに一時間ほどしたら夕食の買い出しに行かなくちゃいけないのだけれど、まだそれまで時間があるしね?気にしないでよ」
とすっかり打ち解けた調子でお母さんは返した。我が母ながら、人との付き合い方の上手い人だと感心させられる。娘の私とは真逆のタイプだ。
「なら良かったです」
と絵里も笑みを浮かべつつそう返し、ワッフルをまた一口頬張り、その後で紅茶をズズッと啜った。
それから暫くは、お母さんからの質問ぜめに絵里はあっていた。と言っても、私との出会いだとかそんな話だ。絵里は流石に私に話す様には軽い調子で話せていなかったが、それでも本人を前にしてだというのに、止めどなく流れる様に話していった。…ここで自分で言うのはとても恥ずかしいのだが、おさらいの様に話すと、元々私の容姿に惹かれていて、それが声をかけてみて話していくうちに、その惹かれる要因が見た目だけではなく、本人の中身から由来しているというのに気づいて、ますます私の虜になっていった…とまぁ、そんな話を恥じらいも無く話して…いや、語っていた。
それを隣で聞いていた私は、まるで話が聞こえていないかの様に振舞いつつ、若干肩身が狭い思いをしつつ黙々とワッフルを食べ、紅茶を啜っていたのは言うまでもない。
…それだけなら、まぁ普段からもそんな調子だからすぐに突っ込んで終わりなのだが、この日ばかりはその話にお母さんが悪ノリをしたので、暫くその話題で盛り上がってしまっていた。ここまで来ると、流石の私も無表情でいられなくなり、最後の方は苦笑しっぱなしだった。
とまぁ、私と絵里の馴れ初め(?)の話にひと段落がついた時、ふとお母さんは何か思いついたかの様な表情を見せると、少し今までとは声のトーンを落としつつ、絵里に話しかけた。
「なるほどねぇー…って、そういえば今更だけれど、今日はまた何で突然ウチに来られたの?」
「え?あ、それはー…ですね?」
今まで和気藹々と私の話題(?)で盛り上がっていた絵里は、このお母さんからの急な問いに対して、思わず苦笑いを浮かべつつ声を漏らした。この苦笑いには、色々な意味が込められていそうだった。絵里は一度紅茶で喉を潤してから、ふと隣の私に顔を向けて、それまで緩めていた表情を固くすると、またお母さんに顔を戻し、声にも真剣味を帯びせつつ言った。
「…あ、いや、先ほど急にお邪魔してすみませんとお詫び申し上げましたが、それ以前に、今までの非礼に対して、キチンと謝罪をしたかったんです」
「え?」
急に真面目モードになった絵里に対して、お母さんは驚きを隠せないと言った調子で声を漏らした。こんな話になるとは想定していなかったらしい。
ちなみに私も若干面を食らっていた。勿論絵里がそれなりの覚悟で来てくれたことは分かっていたつもりだったが、具体的な話はここまで来る道中でも知らされていなかったので、ただただこの時は、絵里の身体から発せられる緊張感に感染したかの様に、同じ様に体が畏まってしまっていた。
お母さんが声を漏らした後で特に言葉を続けないというのを確認すると、絵里はまた静かに話し始めた。
「…はい、それは…私の様な何処の馬の骨とも取れない様な人間が、大事な一人娘である琴音ちゃんと頻繁に会っているというのに、これまで一度もこちらに顔を見せなかった、その非礼に対してです」
「…」
お母さんはここで何かハッとした様な、口を軽く”あ”の形に開いたが、そのままで声を発することは無かった。絵里は続けた。
「…本来でしたら、初めて琴音ちゃんに、友情の証として、名前で呼んで貰った約二年前、琴音ちゃんがまだ小学五年生の時に、こちらに伺うのが筋だったのは分かっていたんですが…今までも、これからも話す内容が言い訳でしか無いのですけど、そのー…」
とここまで話すと、不意に絵里は私に顔を向けると、フッと寂しげな笑みを漏らして言葉を続けた。
「もしこの子のご両親に嫌われて、もうあの様な女とは付き合ってはいけませんと言われてしまって、それで金輪際会えなくなったらと思うと、そのー…それで結局今まで引き伸ばしてしまったんです」「…話は分かりました。でも、それで…」
と、絵里の雰囲気に合わせてか、お母さんもすっかり真剣モードになって、声のトーンも落とし気味に言った。
「それなのに、何故今日こうして足を運びになられたの?」
「はい、それは…」
そう問いかけられた絵里は、不意に今度は私の背中にそっと手を当てて、そのまま答えた。背中に伝わるのは、何と無く覇気の無い手の感触だった。
「私…今もこうして変わらずに琴音ちゃんと付き合わせて頂いているんですけれど、私なりに琴音ちゃんの習性を分かっているつもりだったんです。それが…今、この子、コンクールに出場されていますよね?…はい、私も初め聞いた時には驚きました。会話の中で、彼女がピアノにのめり込んでいる事は知っていたんですが、それでも人前に出るのを極度に嫌がっているのも同時に聞いてたんです。それが、中学に上がってしばらくして、こうして自ら進んでコンクールに出てみる気を起こしたのを聞いて、そのー…」
絵里はここまで所々詰まりながらも口調はハッキリと話をしていたが、ふとここで一度溜めてから、私の背中から手を離し、気持ちまた一段と口調をハッキリと続けた。
「私も…いつまでもウジウジとしていちゃあ、この子の前で…恥ずかしいと思ったんです。まだまだ若輩ですけど、この子よりも歳上という点で大人ですし…友達としても」
絵里はここで一度私に視線をくれてから続けた。
「能書きが長くなってしまいましたが…琴音ちゃんのお母さん、いきなり不躾な事を聞く様ですが、そのー…私の事、見覚えないでしょうか?」
「へ?」
今度はお母さんが麺を食らう番だった。流石のお母さんも想定外の言葉に目を丸くしていた。
「それってどういう…」と呟きながらも、少し遠慮がちに絵里の顔を、体勢も前屈みにジッと見つめていた。
…遠慮がちと言っても、結構な時間眺めていた様に見えたが、お母さんは少し訝しげに体勢を戻しつつ呟くように、
「言われて見たら、確かに何だか見覚えが…って」
と言ってからここで一度切り、
「それって、私が絵里さんと一度出会っているって事よね?…ごめんなさい、言われて見たらってレベルで、ハッキリとはそのー…思い出せません」
「あ、いやいや!」
お母さんがすまなそうにそう言うのを聞いて、絵里は慌てて手を胸の前で大きく振りつつ返した。
「ち、違うんです!…あ、いや、違うと言いますか、そのー…私の話の切り出し方がおかしかったですね。こちらこそすみません…。いや、私が話したかったのはですね?そのー…驚かないで聞いて欲しいんですが…」
「は、はい…」
絵里がやけに溜めるのを聞いて、お母さんも若干身構えていた。
「…目黒の〇〇って日舞の教室、ご存知ですよね?」
「…へ?…いや、まぁ…はい」
お母さんは、今度はさっきよりもより一層驚いた表情を作りつつ、それでも何とか返していた。私の方でも、すでにこの時、絵里が何を切り出そうとしているのか察していたので、お母さんとは違う意味でドキドキしていた。
「あそこの師範代が実は…私の、実の父なんです」
「…え?って事は…?」
お母さんはそれ以上には驚きのレパートリーが無かったのか、そのまま変わらぬ調子のまま声を漏らした。
絵里は一度大きく頷いて見せると、意を決したようにゆっくりと口を開いた。
「はい…あそこは私の実家でして、そして一応私も…名取として、たまに父や母の手伝いをしています」
「…あ、あぁー!」
絵里がいい終えた後、今度は遠慮もなくマジマジと顔を眺めていたお母さんは、見るからにハッとした表情を浮かべると、目を大きく見開いたまま言った。
「確かに、何処かで見たことがあると思ったら、それでー…って」
とお母さんは一人感心したように独り言ちていたが、絵里の視線を感じたからか、途端にバツが悪そうな苦笑いを浮かべて言った。
「本人を前にしてというのに、すみませんね?」
「あ、いえ」
「しかし…妙な縁もあるものねぇ。琴音、あなたが足繁く通っている図書館の、そのまた仲の良い司書さんが、私の通う日舞の教室のご子息で、しかも名取だなんて」
「ま、まぁ…そうだね」
私も相槌がわりにそう返したが、何だか話が逸れて行きそうな気配を感じた。絵里も同様らしく、お母さんが日舞の話に持って行きそうになるのを何とか修正を試みるように、無理やり口火を切った。
「そ、それでですね?そのー…琴音ちゃんからコンクールの話などを聞く中で、その時の写真を見せて貰っていたんです。そしたら…見覚えのある方がいるなぁと思った次の瞬間、私の実家に通われている生徒さんだと気付いたんです。その後すぐに琴音ちゃんに確認して見ると、お母さんだと仰りました。…今までの話で何が言いたいのかと言いますと、繰り返しになりますが、琴音ちゃんの変化、その意志に影響されたのも大きいのですけど、こうしてこの子のお母さんが、私と実はこんなに大きな繋がりがあったのを知って、それを後々でひょんな事から知れるような、そんな知れ方がどれほど失礼かを感じたら居ても立っても居られなくなってしまって…それでこれまで挨拶が遅れた非礼をお詫びする意味でも、こうして馳せ参じた次第…です」
絵里がそう言い終えると、辺りはシーンと静まり返った。
絵里は言い終えた直後、視線のやり場に困ったのか、まだ残りのあるカップの中身を覗き込んでいた。お母さんは静かな表情で、少し目を細めつつ、向かいの絵里を見ているのかどうなのか定かでは無い様子を見せていた。そんな二人を、私はただ時折交互に見るしか無かった。…心の中で絵里の話を反芻している間、また絵里が私からしたら不用意な、私を持ち上げる様な事を話していたのを思い出して、この雰囲気の中思いっきり苦笑をしていたのだが、流石にそれを顔に実際浮かべる様なヘマはしなかった。我ながら、少しは成長しているらしい。
どれくらい経ったか、不意に「ふふ」と吹き出す声が聞こえた。
その方角を見ると、その主はお母さんだった。
絵里も私と同様に、声がしたのと同時にお母さんの方を見たので、お母さんは少しバツが悪そうに笑いながら口を開いた。
「…あぁ、ごめんなさい、吹き出す様な真似をして。悪い気がしたのなら謝ります」
「あ、いえ…」
と絵里がまだ硬い表情のまま、声もそのままに返すのを見て、「ふぅ…」と一度息を吐くと、お母さんは苦笑まじりに言った。
「…もーう、絵里さん、余りにも固すぎるわぁー。その流れで、あまりに唐突にカミングアウトするものだから、必要以上に驚いてしまったしね?…勿論、あなたなりの誠意の示し方なのは分かっていますし、それを茶化す気など微塵も無いのですけど…ほら、さっきまで、アレコレ和かに話していたのに、突然そんな風に真剣に話されたら…こちらとしても困っちゃうわ」
「え、あ、いや、そのー…すみま…せん?」
と絵里はお母さんのそんな態度が予想外だったのか、見るからに呆気に取られていた。語尾が疑問調になっているのが、その証拠だ。
お母さんもそんな絵里の様子から察したか、ますます普段通りの明るい調子に戻しつつ続けた。
「あははは、ほらー、謝らないでよー?…ふふ、絵里さん?」
「は、はい」
お母さんが今度は優しげな笑みを浮かべて、声のトーンも抑え気味に話しかけてきたので、その百面相ぶりに、時折私に流し目を寄越してきつつ返事をした。
「…わざわざ来てくれてありがとうね?そんな事を話してくれるために…。あ、いや、今のは皮肉に聞こえちゃうかな?…誤解があると困るから慌てて弁明させて欲しいのだけど、寧ろ今私はあなた…絵里さんの態度に感心し、大袈裟じゃなく感動しているの」
「え?」
「だって…今時、いくら大人と言ったって、こうしてわざわざ挨拶に来る人って稀でしょ?しなくちゃいけないと仮に思っていたとしても、実際に行動出来る人もね?そりゃあ、学校の先生なり何なり、家庭訪問という形で来ることはあるけど、それはある種の義務みたいなもので、ある種仕方なしな所があるでしょ?」
「は、はぁ…」
大分前から、お母さんは絵里に対して、持ち前の対人力の高さを活かして、かなり馴れ馴れしく話していたのだが、ここにきて、絵里はますますそんなお母さんにただただ押されているらしく、生返事をするのがやっとに見えた。
こんな会話の最中だというのに、同性相手…いや、それに関わらず絵里が他人に押されているのを初めて見た私は、興味深げにシミジミと絵里を眺めていたのだった。
「だからね、そんな人が多い中で絵里さん、あなたはこうして誠実にもこの子の母親である私の元に足を運んでくれた…それだけで、あなたに対して何もそれ以上に望むものは無い…んですよ?なので…」
ここまで話して切ると、お母さんは満面の笑みを浮かべて
「これからも、この子、琴音と仲良くしてあげて下さいね?」
と言った後、顔がテーブルにつくんじゃないかというほどに頭を下げたので、絵里はまたアタフタと慌てて恐縮した様子を見せたが、すぐに同じ様に頭を下げつつ「こ、こちらこそ…よろしくお願いします」と返した。
それを聞いたお母さんはゆっくりと顔を上げて、それに合わせて絵里も顔を上げたが、数瞬互いに顔を見合わせ、まずお母さんが「ふふ」と笑みを零すと、その直後に目を細めて意地悪げに笑いつつ
「琴音だけではなく、私もついでによろしくお願いしますよ?先生?」
と言った。何の事かと絵里はキョトンとしていたが、すぐに日舞関連だと気付いたか、それにつられる様にして絵里も同様に笑みを零しつつ「はい」と明るく返事をした。その直後に「とはいっても、私はまだただの名取なので、指導する事は出来ませんが」と苦笑交じりに付け加えるのを忘れずに。
その後はまた二人揃って和やかに笑いあっていたが、その雰囲気に飲まれてか、ずっと黙って一部始終を眺めていた私も笑みを零すのだった。

「あ、紅茶のお代わりいる?」
とお母さんがすっかり馴れ馴れしい口調で話しかけると、絵里は一度カップの中を確認してから恭しく
「は、はい…頂きます。琴音ちゃんのお母さん」と返した。
まだ声からは緊張が覗いていたが、顔の表情はいつもの絵里に戻っていた。
「はーい、じゃあ待っててね?」
お母さんはそう言うと、慣れた調子で手際良くまたお代わりを取ってきた。その間、私は自作のワッフルを絵里に薦めていた。
「ありがとう、美味しいよコレ、本当に」
「ふふ、それは作った私がよーく知ってます」
と私が得意げに胸を張りつつ返すと、絵里は意地悪げな笑みを浮かべつつ「あ、生意気ー」と言いながら自分の肩を私の肩に軽くぶつけて来た。
「あはは!…あ、ありがとうお母さん」
「あ、ありがとうございます」
トレイにお代わりの紅茶の入ったカップを人数分持って来たお母さんが、それらを私たちの前に置いていったので、それぞれがお礼を言った。
「いーえ」
お母さんはゆっくりとした動作で席に着いたが、ふと私と絵里の顔を見合わせると、クスッと一度笑ってから口を開いた。
「いやぁ…本当、あなた達二人は仲が良いのねぇ。…あ、昔、あなたが言ってた事、思い出したわ」
「え?何のこと?」
と私が聞くと、お母さんは私と絵里の顔を見比べるようにしてから、ニヤケつつ答えた。
「ほら、あなた覚えてない?昔、あなたがまだ小学生だった頃言ってたじゃない?仲良しの司書さんがいて、まるでその人が自分の本当のお姉ちゃんみたいだって」
「え?」
「…あ」
思い出した。そう、流石に覚えておられる人はいないだろうが、昔、初めて絵里の家に遊びに行く時に、地元の駅前で待ち合わせをしていて、不意に絵里が私に人の往来が多い所で私に抱きついてきたのだ。それをお母さんの知り合いか誰かが見ていたと言うんで、その晩、お母さんにその女性が誰かと聞かれたのだ。その時に初めて確か司書さんの事を話したと記憶しているのだが、その流れで『お姉ちゃんみたいな人』と言った…?ような気がする。
私は隣で「え?」という反応が聞こえたので嫌な予感がしていたのだが、ゆっくりと顔を横に向けると、案の定、絵里がこちらに満面の笑みを浮かべていた。
「あ、あのね、絵里さん、これには深い訳が…」
とすぐに言い訳をしようとしたが無駄だった。
「琴音ちゃーん!」
「わっ!」
絵里が突然私に抱きついて来た。相変わらず、炎天下の下を歩いて来たというのに汗臭くなく、寧ろ鼻には衣類から香る柔軟剤の匂いしかしなかった。
「ちょ、ちょっと…」
私は視線だけお母さんの方に向けた。
お母さんは一瞬絵里の行動に驚いていたようだったが、すぐに微笑ましげな様子でニコニコとこちらに笑みを送っていた。
「私のことをそんな風に話してくれてたのー?」
「いや、それは、その、何かの誤解で…って、ほら、絵里さん」
「ん?なーに?…あ」
絵里は私が目だけで合図を送って見せると、そっちの方角に顔を向けた。そこにはニコニコと何も言わずに笑っているお母さんがいたので、途端に自分のしている事が恥ずかしい事だとようやく気付いたか、それでもゆっくりとした動作で私から体を離すと、ホッペを掻きながら「いやー…」なんて声を照れ臭そうに漏らしていた。
何が「いやぁー」よ…。
と私は心の中でツッコミつつ、絵里にジト目を流していたが、その直後、
「あははは!」
とお母さんは目を思いっきり細めつつ明るく大きく笑い声を上げた。あまりに豪快に笑うので、私と絵里は顔を見合わせてキョトンとしていたが、すぐにその笑い声につられて、私たち二人も笑うのだった。

それからは、先ほどとはまた違った点で絵里はお母さんから質問攻めに遭っていた。勿論、日舞についてだ。
その勢いは、絵里の幼少期からの話を聞き出そうとする勢いだった。…いや、実際にそれは質問していて、それに関しては私も興味津々にお母さんに乗っかったが、それはまた今度にして下さいと上手くあしらわれてしまった。
その代わりと言ってはなんだが、絵里が今私の通う学園のOBだというのを二人のどっちから漏らしたか、その話になると、日舞の話を流されて若干不満げだったお母さんは、それに多大な興味を示して、結局絵里が帰る算段になる頃まで、その話で終始した。

「さて…ってあら」
とお母さんは居間の時計に目を向けると、私と絵里に視線を戻し、笑みを浮かべつつ言った。
「もう五時半かぁ…結構経ってしまったわね。今日はこの辺りでお開きにしましょう」
お母さんのその言葉をキッカケに、私たちは身の回りの整理を始めた。お母さんは買い物するか、それとも今日がお父さんが夕食までに帰ってこれない日だというので、仕方なしに駅前で外食にしようかと口に出して考えていた。その流れでふとお母さんは絵里に、「もし良かったら、夕食を共にしない?」と誘っていたが、絵里は丁重に断っていた。私はこの時、何気なく絵里の横顔を見たのだが、お母さんがお父さんの事をチラッと漏らした時に、一瞬顔を曇らせたのを見逃さなかった。
それには気付かなかったらしく、お母さんは「ならまた今度ね」と約束とも言えないような言葉を吐いて、そして私たちは揃って外に出た。
夏真っ盛りの八月下旬といっても、この時間になると流石に空は暗闇が目立ち始めていた。ただ、暑さだけはしっかりとしつこくまだ残っていた。
「じゃあ折角だから、私、絵里さんを送っていくよ」
「え?別にいいよー」
「あぁ、そうね、そうしなさい。よいしょっと」
ガチャンの音と共に、お母さんはママチャリを出した。
お母さんはこの後、駅前のスーパーに行くとの事だ。
「じゃあ絵里さんを送ったら、あなたも後でスーパーに来なさいね」「うん、分かった」
ガチャン。
私も自分の自転車を出しながらそう答えた。
「じゃあ絵里さん、また近いうちにお茶でもしましょう?」
「えぇ、是非」
「じゃあ…」
とお母さんはサドルに跨がりかけたが、「あっ、そういえば」と声を漏らしたかと思うと、また自転車の横に戻った。
何だろうと私はお母さんのことを見ていたが、お母さんは絵里に笑顔で明るい口調で声をかけた。
「今更ながら思い付いたけれど、絵里さん、あなた、今度の水曜日空いてる?」
「え?水曜日ですか?えぇっと…」
突然話を振られた絵里は、空を見上げつつ必死に予定を思い出していた。
それを見たお母さんは「あはは」と一度笑ってから、また話しかけた。
「いやいや絵里さん、今急に聞かれても困るだろうから、無理してすぐに答えてくれなくてもいいんだけれど、ほら、琴音から聞いてないかしら?その日がね…コンクールの決勝の日なのよ」
「あ、あぁ、なるほど!」
絵里は私に顔を向けながら、力強くそう返した。
「そうなの。でね?何が言いたかったのかというと…あなた、良かったら、この子の決勝…私たちと一緒に応援に来てくれないかしら?時間に都合がつくようなら」
「あ」
と私が声を漏らしたのも束の間、「え?良いんですか?そのー…私なんかが行っても?」と絵里がまた先ほどの真剣味を負わせた会話の時のように若干強張りつつ聞いた。
すると、お母さんはまた一層笑顔を明るくしつつ言った。
「ほらー、またそんなに硬くなっちゃってぇー…。ふふ、勿論良いに決まってるじゃない!だって、絵里さん、あなたは琴音の大事なお友達なんですもの」
「る、る、…瑠美さん」
絵里はぎこちなく、何度か最初の一文字を言ってから、何とかお母さんの名前を呼んだ。それに対して、お母さんは満足げに何度も頷くのだった。
…これはさっきの雑談の中で出来た約束だった。そう、絵里がお母さんの事を”瑠美”と名前で呼ぶというものだ。いつまでも絵里が”琴音のお母さん”と、ある意味当たり前だと思うのだがそう呼ぶのに業を煮やしたらしく、「そんな長ったらしい呼び方じゃなくて、気軽に下の名前で呼んで」とお母さんが頼んだのだ。普段は私や裕美に対して自分がしていた事を今度は頼まれた側に回ったわけだが、流石の絵里も少し恐縮していた。…これを機に、少しは私たちの気持ちも考えて見て欲しいものだ。
…っていや、そんなことはともかく、何度か押し引きがあった後、結局は絵里が折れて、名前で呼び合うことが約束されたのだった。
「琴音はどう?」
「え?」
急に話を振られたので、咄嗟に返せなかったが、その短い言葉だけで、何を聞かれているのかはすぐに分かった。
私は一度絵里の顔を見た。絵里は不安げとも言うのか、ただ単に戸惑いの表情だったのか判別の難しい顔つきをしていたが、私の心は一瞬にして決まっていたので、絵里には一度微笑んでからお母さんに向き直り答えた。
「どうって…勿論、私は大歓迎だよ!」
「琴音ちゃん…」
「そっか…うん、じゃあ決まり!」
お母さんは元気よくハキハキとそう言うと、またサドルに跨がり、
「じゃあ絵里さん、すぐじゃなく、遅くても当日でも構わないから、時間があったり都合がついたら、是非ともご一緒しましょう?遠慮しないでね」
「は、はぁ…ありがとうございます」
と絵里がお母さんの勢いに負けつつそう返すと、「じゃあ琴音、後でね。車に気をつけて来るのよ?」
と言うと、ペダルに足をかけ力強く前に押し出して行ってしまった。「分かったー」
と私はその走り去る背中に声を掛け、呆気に取られたままの絵里に笑顔で声を掛けた。
「じゃあ、私たちも行こ?」

「しっかしまぁ…」
絵里はため息交じりに声を発した。
「琴音のお母…瑠美さん、正直言って、琴音ちゃんと正反対って感じの人だったね?」
「まぁ結構明るい性格ではあるよね。私みたいな根暗と違って」
と私は自転車を手で押しながら、ニヤケつつ返した。
「まぁでも何と言うか…誤解生みそうな言い方だけど、裏表があるよ。さっきみたいに子供っぽいところを見せるかと思えば、凛とした様子を見せたりするし」
「ウンウン、さっき話していて、その凛とした感じ、よーく伝わってきたもん」
絵里はワザとらしく両肩を大きく落として見せた。
「慣れないこととはいえ…もう少し上手く話せなかったもんかなぁー…」
「え?結構上手く話せていたと思うけど?」
本当はここで、また私のことを美化し過ぎに話したことを突っ込もうと思ったが、今日ばかりは私のことを想っての行動だというのが痛いほど分かっていたので、いらぬ茶々を入れて冷やかすのは自重した。
絵里はそんな私のフォローに対して、一瞬自然な笑みを見せたがすぐに苦笑に変化させて言った。
「いやいや…偉そうなことを言いつつ、結局なんだか嘘を解消できないままに、中途半端に終わった感が強いもの」
「んー…」
それを言われてしまうと、当事者の私としては困ってしまうが、それでも何かを返さなくてはと思ったので、私も苦笑交じりに言った。
「まぁ…私が言うのも何だけれど、正直私と義一さんとの関係がある限り、今日以上の成果は見込めなかったと思うよ?そんな面倒な事の中で、ここまで最善を尽くしてくれて、そのー…」
と私はここで足を止めたので、絵里も同じく足を止めた。
私は、すっかり私の方が背が高くなった関係で、少し見下ろす形になってしまっていたが、両手で自転車を押さえたまま大きく頭を下げて言った。
「…絵里さん、今日は本当にありがとう…ございました」
「琴音ちゃん…」
絵里は私の頭上からそう声を漏らしたが、「ふぅ」と言葉にして息を吐いたかと思うと、私の肩に手を乗せた。
私が顔を上げると、絵里は顔に思いっきり意地悪な笑みを浮かべて見せていた。
「本当だよー。こんなややこしい事に巻き込まれて…。でもまぁ、琴音ちゃん、それに…ついでにアヤツも入れてあげて、この二人と付き合うその面白さと比べたら、こんな苦労も軽いもんだよ」
「ふふ、何それー」
「あはは!」
と絵里が笑いながら急に歩き始めたので、私も後から早足で追いかけた。
「…あ、そういえば」
「ん?どうかした?」
「あ、いやね、意外だったと言うか…」
「何が?」
「ほら…絵里さんとお母さんが面識なかったのが」
「え?いや、ほら、それはさぁ…もしあるにしても教室で精々すれ違うくらいで」
「あ、いや、日舞の事じゃなくてさ。ほら、前によく言ってたじゃない?」
「ん?何を?」
そう絵里が聞き返すのを、私はニターッと笑いながら返した。
「ほらー…私のお父さんを指してよく言ってたじゃない?『あの高慢ちきが…』どうのって」
「え?…あ、あぁー」
絵里はすぐに思い出したらしく、顔全体に参った表情を見せていた。それに対して私は何故か得意満面な様子で続けた。
「だからさ、絵里さんと私のお父さんが面識あるのなら、お母さんともあるのかと思って…さ…」
とここまで話したところで、今更ながらふと都合の悪い事に気づいた。考えてみたらすぐに気づく事で、我ながらのんびりしてると言うか何というか、察しが悪すぎると思わず苦笑いをしてしまった。
そう、もし仮に絵里とお母さんの間につながりが無かったとしても、今日こうして繋がりができてしまった訳で、そこからお父さんに話が遅かれ早かれ話が行く事は時間の問題なのは火を見るよりも明らかだ。絵里が頼んだ事とはいえ、それについて絵里を責めることはできない。何せこれは、私と義一、そして主にお父さんとの問題なのだ。
それを厳密には当事者では無い絵里に文句を言うのはお門違いというものだろう。そんな事は言うまでもない。提案された時に拒否をしなかった私が全面的に悪いのだ。
といったような事を、自分で話しながら思いつき考えてしまったのだが、そんな私の様子を見ていた絵里は、また一度息を吐いて、何も言わずとも全て知ってる体で話しかけてきた。
「あぁ、なるほどねぇ…。ふふ、大丈夫だよ」
「…え?何が大丈夫なの?」
と私が自分でも分かる程、不安を隠しきれない調子で聞き返すと、絵里は優しげな笑みを浮かべつつ、しかし口調はハキハキと言った。
「だってね、多分あなたは勘違いしてる…ってまぁ、キチンと今まで話したことが無かったから仕方ないけれど、瑠美さんと顔を合わせたのは本当に今日が初めてだよ。これは本当。で…そう勘違いしちゃったのは、私が余計な軽口を言ったせいだろうけれど…」
とここで絵里は、少し照れたような様子を見せつつ先を続けた。
「確かに、あなたのお父さんにして、ギーさんのお兄ちゃんである”あの人”とは面識があるっちゃあるんだけれど…それはね、今から大体十五年くらい前の話なの」
「…へ?」
「それも一度だけね」
「い、一度…」
「うん。確かー…詳しくは私自身も覚えていないんだけれど、私が大学に入ったばかり…そんでもって、ギーさんと出会ったばかりの時くらいにね、何がきっかけだったのか全然思い出せないんだけれど、多分大学構内かな?たまたまギーさんとお兄ちゃんが居るところに、私が鉢合わせたの。その一度きり」
「…はぁー」
私は一気に力が抜けていくように感じた。…いや、実際に気を抜くと地べたにストンと腰を落としそうになるほどだった。ある意味自転車を押しているお陰で、倒れずに居れたのかもしれない。
「その一度だけなんだ…」
「そう、その一度だけ。しかも居合わせただけだから、自己紹介もロクにしなかったし、ギーさんが私のことを後で話さなければ、今も私のことを名前すら知らないんじゃないかな?…顔すらも覚えてないかも。その時はまだこの頭じゃなかったし」
絵里は得意げに頭に乗るキノコを何度か撫でた。
「なーんだ…じゃあ何で、高慢ちきがどうのって言ってたの?」
と私は呆れた心中を隠そうともせず、むしろ大ぴらに見せつけるようにしながら聞くと、絵里は何故か愉快げに答えた。
「ふっふー、それはね…まぁ、そもそもそのほんの一瞬しか実際には顔を合わせなかったんだけれど、何だか良い印象は持たなかったのよねぇー…って、実の娘の前で言うのも何だけれど」
「ふふ、本当よ」
と私が悪戯っぽく笑うと、絵里も同様の類いの笑みを見せつつ言った。
「まぁ、私と琴音ちゃんの仲だから言える事だけれどねぇー。何度かあなたのお父さんについて話しているし…。いや、それでね、その後で聡さんと話したんだけれど、その時の印象をそっくりそのまま話したらさぁ、聡さんが言ったんだよ。『アイツは高慢ちきな所が玉に瑕なんだよなぁ』ってね」
「あぁー、言いそう…って、元ネタは、聡おじさんだったんだね」
「そう、その通り!…って、おっと」
と絵里がわざとらしく見上げると、その先には絵里のマンションが建っていた。気付かぬうちにもうここまで来ていたらしい。
「今日は送ってくれてありがとうね?」
「いーえ、どういたしまして。っていうか、私こそ、ありがとう」
と私がまたお礼を言うと、「もーう、良いってばぁ」と照れを隠すようにちゃらけて見せていた。
慣れた手つきで番号を押してオートロックを解除すると、自動ドアが開いた。
「じゃあまたねぇー」
と中に入って行きかけたが、絵里はふと立ち止まり、私に振り返ると、笑みを浮かべて声を掛けてきた。
「コンクールってさぁ…やっぱりドレスコードあるよね?」

第10話 コンクール(終)後編

「でね、いよいよ明日な訳だけれど、この子の応援に来てくれる人で大所帯になりそうなの」
「ほう」
今日はあれから次の日の火曜日。明日の水曜日はいよいよ全国大会だ。
今は久し振りにお父さんが早めに帰って来たので、こうして親子水入らず夕食を摂っていると言う次第だ。
話題は当然のように、明日の事に終始していた。
「で…」
とお父さんは、お母さんの隣に座る向かいの私に話しかけてきた。
「その大所帯というのは、具体的にはどれ程の人数なんだ?」
「え?えぇっとねぇ…」
お母さんが事前に大所帯だなんて言うもんだから、お父さんがどれくらいの人数を想定しているのか分からず、別にどうでも良いといえばどうでも良いのだが、本当に大所帯なのか自分でも確認したくなり、馬鹿正直に数えてみる事にした。因みに、最初の頃は裕美一人が見に来ることすらあれ程アレコレ悩んでいたのだが、この段階まで来ると、良くも悪くも開き直れていた。
えぇっと…まずお母さんと師匠でしょ?それに裕美、それから律、藤花、紫…あぁ、後土曜日に来られた京子さん。後は…あ、そうそう、直前で決まった絵里だ。
「んー…お母さんと師匠、そして京子さんを含めると…七人かな?」「京子さん…?」
とお父さんが疑問を呈すると、
「ほら貴方、沙恵さんのご友人で、ヨーロッパで活動していらっしゃる…」
とお母さんがすかさず説明を入れた。
それを聞いたお父さんはすぐに思い至ったらしく、「あぁー…」とボソッと漏らしてから、私とお母さんを同時に視界に入れる様な視線を向けながら
「ほーう…それで八人もか」
と、食事を終えて熱い緑茶を啜っていたお父さんは、心なしか感心したかの様に口にした。
「ね?結構な人数でしょ?」
と何故かお母さんは誇らしげに胸を張らんばかりに言った。
「この子、昔から自分から進んで人付き合いをする様な子じゃなかったから、こういう時にはどうだろうと思ってたんだけれど、いざそうなってみると、意外や意外に、こうして時間を割いてまでこの子の応援に来てくれる友達がこんなにもいるっていうんだから、有難いよねぇ」
「もーう、うるさいなぁ」
私は不機嫌な様子を作りつつ拗ねて見せると、「ごめんごめん」とお母さんも態とらしく慇懃に謝ってくるのだった。
「ふふ…あ、そういえば」
とお母さんは何かを思い出したらしく、少しだけ目を大きく見開きながら話しかけてきた。
「その人数には、絵里さんも入ってるのよね?」
「え?あ、あぁ…うん、もちろん」
絵里の名前が出た瞬間ギクッとして、チラッとお父さんの顔を覗き見つつそう返した。
絵里が来るというのはだいぶ早めに決まった。何せ、絵里とお母さんが初めて出会ったあの日の夜、寝支度をすませて、まだ目が冴えていたから義一から借りた本を読もうとした所、絵里から正式に行くという電話を貰ったのだった。
前回のことを覚えておいでの方は、今更と思われるかも知れない。何せマンションの前での別れ際、絵里がコンクールの観覧時の衣装について聞いてきたのだから。だがあの後は「結婚式だとか、その辺りのレベルの正装で良いと思うよ」と軽く話しただけで終わったのだ。だから正式にという訳では無かった。絵里なら進んで観に行くと言ってくれるものだと心の片隅では期待していたのは事実だったが、それでも繰り返す様だが急も急だしどうかと心配していたのだ。それがこの結果だ。電話口で、驚きと喜びのあまり、調子が外れてしまうのを押さえるのが大変だった。こういう時は、お互いの顔が見えない電話というのは有難い。後は軽くまた衣装の話をして、参考にしたいからと私の演奏時の衣装が見たいというので、渋々ながら幾つか送ってあげる約束をして切ったのだった。因みにというか、裕美のお母さん、そして律のお母さん達まで、私の応援、それにコンクールという中々普段生活している中では味わえない特殊な空間に出向いて見たいという好奇心を含めて、行きたいという話になっていた様だったが、流石にそれだと十人を超える人数になってしまうというので、”今回”ばかりは自重して頂く事になった。…”今回は”というと、次回があるみたいだけれど。
話を戻そう。
この時ちょうど私とお母さんも綺麗に食べ終えたので、またお父さんの号令のもと、ご馳走様でしたの挨拶をして、お母さんが鼻歌交じりに片付けをしている間、ふとお父さんが私に話しかけてきた。
「そういえば…絵里さんって誰だ?」
「えっ!」
何とかあのまま何となしに流れると思って安心していた所で、不意に、しかもお父さんの口から絵里の名前が飛び出したので、さっきとは比べ物にならない程に驚いた。
でもそれは何とか持ち前の”演技力”を屈指して、動揺を悟られない様に気を落ち着かせようと苦心していたその時、洗い場からお母さんが会話に入ってきた。
「ほら貴方、前に話したけれど覚えてない?琴音が小学生の頃、この子、良くあの区立図書館に行ってたでしょ?まぁ今も良く行ってるけど」
「あぁ…で、それが?」
「ほら、この子、そこの司書さんの一人と仲良くしてるって話をしてたじゃない?それが絵里さんなのよ」
「ほーう…それが例の司書なのか。で、どんな人なんだ?」
「え?えぇっとねぇ…」
間にお母さんが割って入ってきてくれたお陰で、心を落ち着かせる時間を稼げた私は、まだ少しぎこちなさが残るものの、何とか平静を装って答えようとしたのだが、私たちを背に洗い物をしていたお母さんには、お父さんが私に質問したのが分からなかったらしく、私に代わって答えるのだった。
「可愛い人だったわよー。何というか、顔は小動物系って感じでね、でもその可愛らしさの中に、どこか清廉された綺麗さを秘めてる様な一瞬を見せてね、それが上手いこと混ざり合って良い効果を生み出していたの」
と、絵里がこの場にいたら顔を赤くしてモジモジとしそうな言葉を淀みなくツラツラ話したお母さんは、洗い物が終わったのか、トレイに私と自分の分のお茶を乗せて、私たちのいるテーブルに戻ってきた。
「それが絵里さん。…ね?」
とお母さんがお茶を私と自分の席の前に置き、そして急須からお父さんの陶器の湯呑みにお代わりを注ぎ入れながら話しかけてきたので、「はは…ま、まぁ…ね」と苦笑まじりに返す他無かった。
「あぁ、ありがとう…」とお父さんはお母さんにお礼を言ってから続けて言った。
「でもまぁ、瑠美がそう言うのなら、よっぽどの女性なのだろうな」「えぇ、本当に美人さんでしたよ。ただ…」
とここでお母さんは自分の席に着くと、ニヤッと意地悪く笑いながら、私に顔を向けつつ言った。
「折角の美人さんだというのに、髪型がねぇ」
「髪型?」
「ね?琴音?」
「え、あ、うん…まぁね」
と相変わらず苦笑のままの私はそのまま返した。
「どういう事?」
とお父さんが聞いてきたので、
「頭にね…キノコを乗せてるの」
と私は言いながら、自分の頭を触って見せた。
それを聞いたお父さんは珍しく大きなリアクションを取りながら
「キノコ…?」
とだけ呟いた。そんな私のセリフを聞いたお母さんは、少し間をおいてから、その後に「あははは!」と大きく笑い出し、口調もそれに乗っからせる様にして言った。
「『キノコを乗せてる』ねぇー。面白い表現するじゃない琴音」
「ふふ、これってね、実は裕美が絵里さんを初めて見た時に、私に言ってくれたセリフなの」
「あぁ、そっかぁ、裕美ちゃんも絵里さんの事知ってるんだもんね」「うん」
そう、裕美も絵里の事を知ってるという話は、初めの方の雑談の中で出たことだった。
「なるほどな…」
とお父さんはすぐにいつも通りの冷静な様子に戻ると、一度お茶をズズッと啜ってから言った。
「結構変わっている人らしいが、それでも琴音が好きだというのなら、悪い人ではないのだろう」
「うん」
お父さんの言い回しに何か引っ掛からなかったかと問われたらないとは言えなかったけれど、それでも少なくとも悪い印象は持たれていなかったという点でホッとしていた。
…いや、もっとホッとしていたのは、絵里という名前が出た時に、お父さんが何も引っかからなかった点だった。これは言わずもがなだろう。絵里は確かにあの後二人でマンションまで歩いていた時に、ほんの一瞬顔を合わせただけで、自己紹介すらロクにしなかったと言っていたから、それなりにそれを信用して安心していたのは事実だったけれど、それでもやはりこうして実際にお父さんの前でその様な話題になったとなると、緊張が増すのは当然の摂理だ。
だがそれも心配はいい意味で徒労に終わった様だ。何せ、絵里と私の関係についての話題はこれでお開きとなり、それからはずっと、実は絵里が自分の通っている目黒の日舞教室のお嬢さんで、しかも名取だったという話を、お母さんが延々とお父さんにしていたからだ。これには流石のお父さんも、”キノコ”とは比べものにならない程に驚いて、お父さん自身も興味深げにお母さんの話を聞いていた。お母さんが「あの清廉さは、間違いなく日舞から来てるわよね?」だとか何だとか、一々私に確認を取ってくるので、また私はずっと苦笑まじりに同意する他になかったが、そうしつつも実は私自身、絵里と出会ってからずっと、何だか話そうとしてもすぐに義一を連想してしまい、勝手にブレーキがかかって、なかなか切り出せなかったのが実情だったが、こうして家族で絵里について和気藹々と会話が出来る事に、大げさに聞こえるかも知れないが、喜びを感じていた。こうして全国大会前日の晩は、何だかんだリラックスして過ごす事が出来たのだった。

本番当日の朝。時刻は六時半少し前。
自分で思っていたよりも緊張していたのか、普段から目覚めは良い方なのだが、いつも以上に早起きをしてしまった。二度寝しようかと一瞬頭を過ぎったが、すぐにその考えを捨てて、ベッドから抜け出て大きく伸びをした。厚手のカーテンを引くと、まだ日も昇ってそんなに時間が経っていないだろうに、もう既にその日差しからは容赦の無い熱量を感じていた。
身体が気持ち硬くなっている様に感じていた私は、ただの伸びから、本格的なストレッチに移行していった。そう、京子から師匠経由に伝わった例の方法だ。予選や本選時にもしたが、確かに肉体だけではなく、心をもほぐしてくれるのに貢献してくれた。
「さてと…」と誰に言うでもなく一人ごちると、何となしに自室を出た。
出た瞬間、耳に小気味良い音が聞こえてきた。どうやら階下、一階から聞こえてきているらしい。どうやら包丁で何かを切っている音だ。もうお母さんはとっくに起きていたらしく、言うまでもないが、朝食の支度をしている様だ。階段をゆっくりと降りて行く度に、徐々に鼻腔を、かつおダシ特有の食欲をそそる香りが刺激してきた。同時に味噌の香ばしい匂いも漂っている。
居間に入ると、お母さんは割烹着を着て忙しなく、しかしあくせくと言うよりも手慣れた感じで優雅に見えるほどの手際でこなしていた。
ほんの数秒ほどその様子を眺めていたが、ワザと少し気怠げな口調で声をかけた。
「おはよー…」
「あ、おはよう。今日は早めね?」
お母さんは一度手を止めると、顔だけ後ろに振り返りつつ私に挨拶をした。
「うん…まぁね」
と私はまだ気怠げな様子を続けつつ、冷蔵庫に近寄り、中から牛乳を取り出すと、作業をしているお母さんの背後を器用に通り抜け、食器棚からコップを取り出すと、その中に今取った牛乳を流し込んだ。
「早めに起きて身体を起こしてあげた方が、本番までに調子を持って行きやすくなるからねー」
と私はその場で立ちながら、たまにお母さんの手元を見つつ、もっともらしい言葉を吐いて見せた。
「ふふ、そうなんだ」
とお母さんは手元に視線を置きつつ、何だか面白げな様子を見せつつ言った。
「まぁ…師匠の受け売りだけれどね」
と私も今度は悪戯っぽく言ってから、流し桶の中に空になったコップを入れて、それから何か言われる前に習慣として、今度はお皿なりの準備をした。
今はまだ姿が見えないが、今日はお父さんが一緒に朝食を取れるというので、三人分の支度をした。
テーブルの上に普段通りにすませたその時、ちょうど何処からかお父さんが居間に入ってきた。お父さんも寝る時は寝巻きなのだが、すでにスーツをビシッと着込んでいた。いつでも出勤できる態勢だ。
他のお医者さんがどうかは知らないが、少なくともお父さんに関して言えば、こうして自分の物である病院に出勤する時には、いつもこうして綺麗にクリーニングされたスーツをビシッと身に付けて出勤するのが普通だった。だらしない格好を見た事が、少なくとも私は今までにない。『先輩がこんなキマった格好で来るもんだから、我々としても気を抜いて普段着で行けないんだよ』と冗談交じりにボヤいていたのは、大学時代からの付き合いだという、私が受験する事になった遠因の橋本さんの弁だ。
「あ、お父さん、おはよう」
と自分の仕事が終わった私が自分の定位置に腰を下ろしつつ声を掛けると、お父さんは何故か一度私の事をジロジロと眺め回してから、これまたいつもの様に気持ち目元と口元を緩めつつ「あぁ、おはよう」と低い声で返し、そしてスタッと椅子に座った。
「…?」
私は普段の流れの中で、ほんの少し違う事があったのに気付き、思わず今度は私からお父さんをじーっと見つめてしまっていたのだが、その様子を、今度は出来上がった朝食を大皿に乗せて持ってきたお母さんが勘づき、聞くまでもなくその理由を、テーブルの上に並べつつ説明しだした。
「…ふふ、琴音、あなた今日はまだ家を出るまで時間があるでしょ?」
「え?あ、うん」
と私はお母さんが並べるのを手伝いつつ返事した。
因みにお父さんがいる時は、まず最初にお父さんから支度をするのが習わしになっていた。他の家庭が見たらどう思うか知らないが、いくら今時古風にも程があると言われようと、これが我が家での普通なのだから仕方ない。
「ふふ、お父さんたらね」
と不意にお母さんは、お父さんに目配せをしつつ、ニヤケながら言った。
「本選の時は朝早かったから、おめかしをした琴音の写真を撮れると喜んでいたのに、今日は午前にゆとりがあるからって説明したら…ふふ、お父さんったら見るからにガッカリしてたのよ」
「おいおい、お母さん?」
とお父さんにしては珍しく、若干狼狽して見せながら口を挟んだ。
「そんな事、話さないでくれよー…」
「あらあら、お父さんったら、照れちゃって」
とそんなお父さんの様子を面白がりつつ、お母さんは私の隣に座った。いつの間にか割烹着は脱いでいた。
「そうだよ、お母さん」
と私もすかさず突っ込んだ。勿論、苦笑交じりだ。
「その話…何気に私まで辱めてるじゃないの?」
「あら、そう?…もーう、親子揃って恥ずかしがり屋なんだから」
「そういう問題?」
と私が突っ込みつつ向かいのお父さんと顔を合わせると、次の瞬間にはお互いにやれやれと首を横に振りつつ呆れ笑をするのだった。
そんな様子を見て、お母さんただ一人だけが愉快げに明るく笑うのだった。
その後はまた普段通りに戻り、お父さんの合図の元、朝食を取った。食べ終えると、私は後片付けを手伝ったりしていたが、お父さんの出勤時間になると、私とお母さんは揃って玄関までお父さんを見送った。因みにというか、これは毎度というわけではない。毎度なのはお母さんのみだ。今回は何となく私も見送る事にしたのだ。ただの気分だ。
「では、行ってくるよ」
「はい、いってらっしゃい」
「いってらっしゃーい」
お母さん、私の順に声をかけると、お父さんは何も言わず一瞬微笑みを見せたかと思うと、玄関の取っ手に手をかけた。
そのまま出るのだろうと思っていたその時、中々お父さんがそのまま出ないので、少し訝しげにお父さんの背中を眺めていたのだが、ふとお父さんは一度私たちの方に振り返り、そして何だか心配げな様子を見せるとお母さんに話しかけた。
「あ…瑠美」
「え?何?何か忘れ物?」
とお母さんが返すと、お父さんは”誰かさん”みたいに、照れた時の癖、頭をぽりぽりと掻きながら言い辛そうに言った。
「いや、忘れ物…って程では無いんだが…」
「じゃあ何ですの?」
お母さんは何故かここで少し気取って見せて返した。
ここまでお父さんとお母さんのやり取りを見ていただいた方なら感じただろうが、お母さんはその時の自身の気分で、お父さんに対して丁寧語になったり、くだけて言ったりするのだった。娘の私でもまだその”法則性”は掴めずにいたが、それでも何かしらの考えがあるのは間違いなかった。…いやどうでもいい話をしてしまった。話を戻そう。
そう返されたお父さんは、チラッと今度は私に視線を流しつつ、しかし相変わらず辿々しく言った。
「ほら…今日の琴音の、そのー…」
「…あ、あぁ!ハイハイ!アレね?」
とお母さんはハッと気づいた様子を見せたかと思うと、今度は終始にやけながら言った。
「ふふ、分かってますよ。しっかり、この子の勇姿を撮ってきますから」
とお母さんは、私の背中に手を置きつつ言った。
するとお父さんは苦笑いを浮かべて「まぁ…頼んだよ」とお母さんに返すと、今度は不意に私に近寄り、私の手をおもむろに取ると、優しげな視線を向けて来ながら「じゃあな…」とだけ、短い言葉だったが感情を練り込んだような深みのある口調で言うと、私の返事を聞く事もなく、今度はサッと外に行ってしまった。しばらくして、お父さんの愛車のエンジンかかる音がしたかと思うと、その直後には音が遠のいていくのが聞こえたのだった。
…ふふ、『じゃあな…』って…お父さんらしいや。
「ふふ」
「ん?何よー?」
と、私は不意に笑みを零したのを不振がったお母さんが声を掛けてきたのを、「何でもなーい」と間延び気味に返しつつ、そそくさと居間に戻るのだった。

それからほんの数十分ばかりノンビリと過ごしたのだが、その後はまた例の如く、お母さんの命令通りに支度を始めた。
ます自室に入り、昨夜のうちに出しておいた余所行きの服に袖を通した。聞いておられる人はどう思うか…まぁどうでも良いと思っている人が大半だと思うが、一応念のために言うと、予選、そして本選の時と変わらぬ服装に落ち着いた。例の、光沢のある白いシャンタン生地の上に黒のレース生地を合わせた、大人っぽいドレスだ。本来は…特にお母さんが、折角決勝まで行ったのだから、新たにそれなりの服を用意したかった様なのだが、本選から決勝までの時間があまり無かったというのもあって、結局渋々と同じ服装に収まった。私としてはどっちでも良かったのは言うまでもない。と言っても、結局本番時に着るドレス自体は、少ない時間の中で暇を見つけて、新たに一緒に買いに行かされたのだから、お母さんも少しは妥協してくれないと困る。…って、これも当人の吐くセリフでは無いのだろうけど。
それはともかく、もう何度か…そう、予選、本選の時だけではなく、例のお父さんの社交仲間との食事会に引っ張り出された時などによく着ていたので、もう慣れたものだった。
着替え終えると、またこれも慣れたもので、お母さんにパウダールームに連れて行かれて、そこでお化粧なり髪型のセットなりをされた。
お母さんは今回に関して、髪型について一番頭を悩ませていたらしいが、今日着るドレスに合わせて、予選の時と同じ、右下辺りで結んで、髪を肩から前に垂らすだけのシンプルなものになった。
私の支度が終わると、お母さんが自分の支度をすると言うので、その間に、私は一旦自室に戻り、これまた昨晩のうちに準備をしておいた持ち物を持って居間に戻り、そこでお母さんの準備が終わるのを待った。時刻は九時半になっていた。

「いやぁー、あっつい」
外に出た瞬間思わず口から飛び出したセリフがそれだった。
上を見上げると、雲一つないまさに晴天日和だった。青がどこまでも突き抜けていってるように見える。
「本当に暑いわねぇ」
と鍵を閉めたお母さんも思わず声を漏らした。そしてその言葉のすぐ後にすかさず日傘を差すのだった。
「あなたも差しなさい」
「はーい」
と私もカバンから日傘を出して、それを差した。
お母さんが紺色ので、私のは若干桃色の入った白だった。
普段はお母さんはともかく、私は日傘など差さないのだが、今年の夏…そう、本選が終わった後、新しくドレスを買いに行くついでに、その流れでお母さんが買ってくれたのだ。私は最初遠慮していた。なんせ同年代で、日傘を差している子など見たことが無かったからだ。”お嬢様校”の生徒ですら見たことがない。しかし別にお母さんが私を困らせようと買い与えてきたわけではない事くらいは分かっていたので、今日こうして初めて外で差すのだった。
「さて、行きますか」
お母さんの言葉と共に、私たち二人は歩き出した。
今日の予定としては、まず会場が銀座にあるのだが、そこに出場者は十一時までに来るようにとの事だったので、こうしてそれなりに余裕を持って家を出た。その途中、まず本選の時と同様に、まず裕美と合流し、三人でそのまま銀座まで出る予定だった。着いたら、あらかじめ決めていた改札口で、そこで律、藤花、紫と落ち合う手筈になっていた。とここで疑問に思われる人もいるだろう。そう、師匠と、それに京子さんはどうしたのかと。本来は私の家で会う話になっていたのだが、前日に京子さんの用事に連れ回されたとかで、二人とは現地集合と相成ったのだった。

私とお母さんで軽く雑談しながら歩いていると、すぐに裕美のマンション前に近づいてきた。すでにエントランスの辺りに、見覚えのある余所行きの服装をした女の子が見えていた
私は思わず自分から”おーい”と声をかけようとしたその時、ふと裕美の横に、これまた見慣れぬ正装をした坊主頭の男の子の姿が見えた。何やら裕美と和かにおしゃべりをしている。
…まさか。
嫌な予感と共に、瞬時に分かりたくもない事の次第を察して、思わず足を止めてしまったその時、
「…あ、琴音ー!」
と裕美がこちらに顔が向いたかと思った次の瞬間、すぐさま大きく腕を振って声を掛けてきた。と、その直後、
「おー!琴音ー!」
と部活で鍛えたかなんだか知らないが、よく通る大きな声で、隣の坊主頭もこちらに向かって声を掛けてきた。
…そう、奴の為に引き延ばすことも無いだろう。察しの通り、この坊主頭の正体はヒロだった。正装はしてはしていたが、小学校の卒業式の時と同様に、着せられてる感が半端なかった。この点で、ヒロが全く成長していないという事が証明された。…まぁ、前に行った通り、背丈は抜かれてしまったけれど。
「おっせぇーじゃねぇか!」
「『おっせぇーじゃねぇか』じゃ無いわよ全く…」
と私は見るからにテンションを落として見せつつ、ため息交じりに言った。そして、さっきからニヤケっぱなしの裕美にジト目を送りつつ聞いた。
「…これって、どういう事?」
「ふふ、どういうことって…」
と裕美は、何だかしてやったり顔を私に向けてきつつ、それに伴って口元を緩めながら答えた。
「ほら…私が本選を観に行った時に話さなかったっけ?その時にヒロ君にも声をかけたって」
「…あぁ、言ってたわね」
「ふふ、その時にね、あんたには悪いけど実は一つ約束をしててさ。もし琴音が決勝にいける事になったら、その時には何とか調整して一緒に応援に行こうって。で、晴れて今日を迎えたワケよ」
「そういう事」
とヒロは無邪気な満面の笑みで合いの手を入れた。
「なぁー」「ねぇー」
ヒロと裕美は顔を向かい合わせて、仲良さげに声を上げていた。
「ごめんねー琴音」
とお母さんが口調を申し訳無さげに声を掛けてきたので顔を見ると、表情はとても悪戯っ子のような笑みを覗かせていた。
「私ね、実はこれも裕美ちゃんのお母さんから話を聞いてね、本当はあなたを動揺させまいと、予め話しておいたほうが良いって思ったんだけれど、その後にヒロ君に言ったら『アイツなら大丈夫です!』って言うもんだから」
「アンタ…」
と私はお母さんの話を聞くと、すぐさま又ヒロの方にジト目を向けた。が、先ほどよりかは呆れた感情が表に出ていただろう、自分で言うのもなんだが、表情自体は柔らかくなっていたと思う。
「まぁまぁ、そうカリカリすんなよ」
と当事者であるはずのヒロは、呑気に笑いながら言った。
「お前、裕美と何度か俺のチームの試合見に来てくれてただろ?なんつーか…俺だけ観られるってのも不公平だしよ、今度は俺の番って事で、観に行く事にしたんだ」
「不公平…って、これはあなたのセリフね?」
と私はすかさず裕美に声をかけると、裕美はただ何故か得意げに笑うのみだった。
そんな私を他所に、ヒロは今度は急に少し照れ臭そうに、しかし若干真面目成分を増しながら言った。
「まぁいいだろ?色々言ったけど、単純に観に行きてぇんだよ。そのー…ダチとして」
最後の方で、照れ隠しに頭を掻きつつ言うその姿が、そのー…自分で焼きが回ったかと思ったけど、何だか可愛らしく見えて思わず知らず微笑みが漏れてしまった。それをヒロに悟られるのが直後に恥ずかしくなって、それを誤魔化すが為に大きく溜息をつきつつ返した。
「はぁー…まぁいいわ、招待してあげるわよ。そのー…ダチとして」
言い終えた後に前屈みになり、悪戯っぽい笑みを向けると、「おう!」とヒロも満面の笑みで返した。
「これで決まりね!」
と裕美も明るい笑顔で言い放つと、私の肩に腕を回して来た。私はそれに対して、ただ笑顔で返すのみだった。
と、この一連の流れを微笑ましげに見ていたお母さんは、ふと腕時計に目を落とすと、空気を入れ替えるように”お母さん”らしい口調で言い放った。
「よし、では皆そろってしゅっぱーつ」

それから四人で地元の最寄り駅に向かうと、私たちにとって馴染み深い駅前の時計台の下に、これまたキメに決めた良く知る女性が佇んで立っていた。時折側を通る男性が振り返り見てるのが見える。
と、その女性は時折手首の腕時計に目を落としていたが、私がパッと腕を上げて手を振ると、視界に入っていたのか、その女性はこちらに顔を向けると途端に笑顔になって、同様に大きく振り返してきた。…ここまで引っ張る事も無かっただろうが、予想通り、そう、絵里だった。
「あ、琴音ちゃーん!おっそーい!」
「ふふ、ゴメンねー」
と、私は思わず駆け寄ってから声をかけた。
絵里はまず私の格好を執拗に何度も品定めをするかの様に見た後、途端にニヤケ面を大いに作って口を開いた。
「いやぁー…今までも可愛い格好を見てきてたけど、今日はまた格別ねぇ」
「もーう、大袈裟なんだから…。まぁ褒めてくれてるみたいだから、お礼は言っておくよ」
「あら、生意気ー」
と絵里はいつもの様に私のホッペを触ってきそうになったが、すんでの所で手を止めた。どうやら今日はお化粧をしているというのが分かったせいらしい。絵里は絵里なりに気を使ったのだろう。
私はそれに対しては特に触れず、
「何せ見ての通り、ちょっとしたサプライズがあったものだから」
と後ろを振り返りつつ言うと、「サプライズ?」と絵里は口に漏らしつつ、私の視線の先に目を向けた。
そこには数メートル離れた所で立ち止まる、裕美とヒロが突っ立っていた。顔には驚きの表情が出ていた。お母さんは当然(?)の様に笑顔でいる。
「絵里さん、おはよー…って」
裕美たちがまだ動かないでいる時、お母さんも私達のそばに近付いてきた。そして絵里の姿を上から下まで舐め回す様に見ると、明るい笑みを零しつつ言った。
「あらー、とても良いお召し物をしてるじゃない?流石ね!」
今日の絵里は、私も見た事のないお召し物をしていた。生地をふんだんに使った、動きに合わせてサラリと揺れるシフォンがとても可愛らしい、濃い紺色のパーティーワンピースだった。一色だったのでシンプルといえばシンプルだが、二つか三つばかりのパールのネックレスをしているせいか、地味すぎず、また華やか過ぎずという絶妙なバランスを生み出していた。袖は丁度二の腕が隠れるほどの長さで、結構ゆったり目のワンピースだった。
「え、あ、いやぁ…」
と絵里は自分の服に目を落としつつ照れ臭そうに返していたが、今度はお母さんの服装をお返しとばかりに褒めていた。
とその時、トントンと肩を叩かれたので振り返ると、そこには薄目で私を睨んでいる裕美の顔があった。
「ん?どうしたの?」
と私がニヤケながら惚けて見せると、裕美はその表情のまま恨めがましげに言った。
「…ちょっとー、絵里さんも来るだなんて聞いてなかったんだけれど?」
「ふふ、驚いたでしょ?これでおあいこよ」
と、一人手持ち無沙汰になっていたヒロの方に視線を流しつつ言うと、「もーう…」と裕美もヒロの方を見つつため息交じりに返した。
と、ここで裕美はまた私に一度視線を戻すと、今度はお母さんと談笑をしている絵里の方に視線を移した。
「…ところでさ、いつの間にアンタの母さんと絵里さんが知り合いになってたの?」
「あ、それはねー…」
と私が返事をしようとしたその時、
「あら、裕美ちゃーん!」
と不意に絵里が裕美に声をかけてきた。
その声に反応して二人してそっちの方を見ると、絵里がこちらに明るい笑顔を向けていた。その隣で、意外だと言いたげに、お母さんは絵里と裕美の顔を交互に見ていた。
「あらー、今日はまた普段と違った可愛い格好をしてるじゃない?」
「う、うん。ひ、久しぶり」
とまだ動揺が引かない裕美は辿々しく答えた。
「ふふ、驚いたでしょ?」
「そりゃ驚くよー」
なんてやり取りを繰り返していたが、徐々に普段の二人に戻っていった。
その様子を笑顔で見ていたが、
「あら、ヒロ君?」
とお母さんはふと、少し離れた所に立っていたヒロに声をかけた。
「ほら、そんな所に立ってないで、こっちに来たら?」
「は、はい…」
とヒロはおずおずとこちらに歩いて来た。
その姿をお母さんは和かに見ていたが、今度は絵里が目を真ん丸に見開き驚いていた。次の瞬間には私にそのまま視線を移して来た。何か言いたげだったが、私は苦笑をする他に無かった。
「ほらヒロ君、今日ご一緒してくれる一人の…」
とお母さんが手を絵里に向けたその時、
「…ひ、久しぶり…で良いのかな?」
と絵里が苦笑交じりに割り込んで言った。
絵里の言葉にまた軽く驚いた表情をお母さんは浮かべていたが、それを他所に「お、お久しぶりです」とヒロも、流石に意外だったのかバツが悪そうに返していた。
「どうなってるの?これは…」
とお母さんは一人狸にでも化かされたと言いたげな表情でいたから、仕方なしと私が皆の代わりに答えた。
「まぁ…これもお母さんに言ってなかったけど、実はヒロも絵里さんの事は知ってるの。…あ、いや、ヒロはこれでまだ二度目かな?」
と私が振ると、少し考えて見せたが「おう」と、裕美ほどの衝撃はなんだかんだ言ってなかったらしく、平静のまま答えた。
「あらま…」
とそれを聞いたお母さんは、一瞬訝しげな表情を見せたが、すぐに苦笑を浮かべると「世間は狭いわねぇ」とつぶやく様に言った。それに対して、私と絵里は顔を見合わせつつ、同じ様に苦笑いをするのみだった。
…これが普段だったら、もしかしたら根掘り葉掘り聞かれてたかも知れない。それだとちょっと危なかったと、内心冷や汗をかいていたのは本当だ。実は今日の事について、予め絵里と軽く打ち合わせはしていた。何についてかというと、『何で裕美ちゃんと絵里さんが知り合いなの?』と聞かれた時の対処についてだ。予定では、今さっき言った様な事から初めて、それで済まなかったとしたら、軽くあの去年の花火大会の事について触れる予定だった。あの時も家を出る時に、『友達と見に行ってくるね』と言っただけだったから、そこには裕美以外の友達が来る余地が生まれていたので、後からその場に絵里がいたと分かったとしても、お母さんが深くアレコレ細かく聞いてくる心配は無いと、我が母ながら分かっていたのだ。最悪、絵里の家で見たというのも、大きな嘘をつく上では、小さな嘘がバレても仕方ないと判断していた。それがまさか、ヒロというイレギュラーがあるとは考えても見なかったので、それで少し…いや、もしかしたら大きく予定は狂ったのだが、結果としてみると、今の所はさざ波程度で済んだ様だ。
それからは、ある種絵里が色々と察して空気を読んで、お母さんの詮索が裕美とヒロに及ばない様にするためか、進んでお母さんと二人っきりになっていた。その姿をチラチラ見つつ、絵里が同行する件について色々と裕美とヒロから質問攻めにあっていたのだが、その間、心の中は絵里への感謝の気持ちで一杯だった。同時に当然として、大きな罪悪感を覚えていた。
考えてみたら、ある意味ここまで危ない橋を渡るのは、義一との再会以来初めてだった。例の、たまに私の胸に存在感を表し、ズンと物理的に息苦しくなるほどに重さを増してくる”ナニカ”とはまた別種の、胸がキュッと締め付けられる様な感覚に陥っていた。

挨拶もし終えると、それから一人加わった五人は駅構内に向かい一路線しかない電車に乗ると、約三十分ばかり揺られていた。…いや、平日とはいえ、もう朝ラッシュはとうに終わっていたので、片方には絵里とお母さん、もう片方には裕美、私、ヒロといったフォーメーションで仲良く横並びに座って行けた。
車中はずっと私たち子供三人で近況報告をし合っていた。久しぶりと言うほどでもなかったが、当然学校が違うので、しょっちゅう会うということは無くなっていたので、何となく久々感があり、それで結構話し込んでしまっていると、気づけば銀座に到着していた。
ホームに降り、会場に一番近い方の改札に向かうと、流石に都心というせいか、正午でもないというのに人でごった返していたが、それでも改札の向こうで、これまた他所行きの服に身を包んだ一群の少女たちの姿が見えた。すぐに誰だか分かった。そう、律たちだった。
向こうでも私たちに気づいてあからさまにハッとした表情をこちらに向けて来ていたが、軽く笑みを向けてから、周りの人の流れの邪魔にならないように、まずはスムーズに改札を出る事に注意した。
まず私が改札外に出ると、まず紫が駆け寄って来た。顔はすでにニヤケ面だ。視界の端で、後を追うように藤花と律が近寄ってくるのが見えた。
「おっそーい!少し遅れてるじゃないの」
紫はジト目気味に時折手首に目を落としつつ言った。実際にはしてなかったが、腕時計を見ている体らしい。
「いくらお姫様だからって、遅刻は許されないんだからねぇー」
「姫はやめてってばー。…ふふ、ごめんごめん、ちょっとした”イレギュラー”があってね」
と私は苦笑しつつ、本物の(?)自分の腕時計に目を落としながら言った。
「イレギュラー?」
と紫は訝しげに声を漏らしたが、その直後には藤花と律がすぐそばまで来ていたので、二人にも挨拶をした。二人が来たタイミングで裕美も加わり、私と同じく挨拶を交わした後、それぞれお互いに服装を褒めあったのだった。
一応というか何というか、折角のお洒落を皆して着て来たのだから、紹介してあげようと思う。
まず裕美から。裕美は本選を観に来た時のと同じ格好だった。ハリのある生地で、光の当たり具合によっては濃いブルーにも見えるような光沢の美しいネイビーのドレスだ。腕にはこれまた前回と同様の純白のミニバッグを下げていて、ショートボブの髪もアップに纏めていた。
お次は先に駆け寄って来た紫。黒地に小さな薔薇がたくさん散りばめられた様なワンピースだった。袖部分は裏地がついておらず肌が透けて見えて、今日の様な真夏日にはもってこいといった感じだった。この面子の中では一番良い意味で普通の女学生な紫は、普段から裕美と同じくオシャレに気を使っていたのだが、こうしたフォーマルな格好を見るのは初めてだった。それがとても新鮮で、さっきもチラッと紹介した様にシンプルではあるのだが、お世辞じゃなくよく似合っていた。 紫は元々若干の天然パーマ気味のボブヘアーなのだが、それには手を付けず普段通りにしていた。外に毛先が跳ねている髪型なのだが、それが今着ているワンピースにも合っていた。
次に藤花。藤花はこれまた自分の見た目がよく分かっているなといった服装だった。第一印象は、私が好きな昔の映画に出てくるお嬢様が着ていそうな、クラシカルな装いだった。紫と同じ様に黒地のワンピースではあったが、柄モノではなかった。胸元にはドットチュールの上にコットンレースが施されていて、その周りをフリル状にしたレースで縁取っていた。パフスリーブの袖口にもレースがあしらわれていて、藤花の背の低めな見た目からくる、キャラ通りの愛らしさとマッチしていた。背中には幅広のリボンが存在感を示していた。似合っているかどうかをここまで話した上で言うのは無粋だろう。髪の長さは私と同じ程なのだが、普段は単純に低い位置で纏めてるだけなのが、今日は高めの位置で纏めていて、簡単に言えばポニーテールにしていた。
最後に律。律もこれまたまさに見た目のキャラ通りの格好だった。上はゆったり目のノースリーブシャツに、下もこれまたゆったり目のサロペット、上下共に黒一色に纏められた、紫以上にシンプルな物だった。前にも触れた様に、律は実際の中身はこのグループの誰よりもガーリーな趣味を持っているのだが、それでも格好については冷静に自分の見た目のバランスを考えて、大人っぽい服装を普段からしていた。とはいえ、胸元にはアクセントとして白パール二連のネックレスをして、後ライトベージュの総レース袖付きストールを羽織っていた。髪型はベリーショートなので、そのままにしている感じだ。
…とまぁ、皆元から持っていたのか、それともわざわざ今回の為に短い期間の間で繕ったのか知らないが、繰り返しになるがそれぞれがよく似合っていた。
とふと簡単に挨拶し、軽くおしゃべりしていると、ふと他の人たちのことが頭を過ぎった。他人行儀な言い回しで恐縮だが、お母さんとヒロ、そして絵里だった。
ふと視線をズラすと、お母さんと絵里は先程から微笑ましげに私たちの事を見ていたが、ヒロの姿が見えなかった。どこに行ったのかと周りを見渡すと、ヒロは一つ離れた柱の下でコチラにつまらなさげな視線を送って来ていた。
「あ、こんにちわー」
とその時、会話にひと段落がついた紫たちは、まずお母さんに挨拶をした。文化祭以来、お母さんと紫たちは面識があったのだ。
「今日はよろしくお願いします」
と三人は声を揃える様にして言うと、「よろしくねー」とお母さんも明るい笑顔で返していた。
「お母さんからも、よろしくとの事でした」
の様な事をまた三者三様に言うと、「はいはい、任されましたよ」と、お母さんはまた同様な調子で返していた。
裕美含むお母さん方とは既に話が通っているらしく、それの確認だった。
「あ、そうそう!」
とここで急に裕美は絵里の元に駆け寄ると、有無を言わさず律たちの前に引っ張って来た。私と絵里含めて、皆して何事かと裕美を見ていると、裕美は絵里の手を離し笑顔で言い放った。
「みんな、紹介するね?この人が、いつも私が話している絵里さんだよ」
「え?」
と絵里がキョトン顔で声を漏らしたその時、私以外のみんなが一斉に絵里の周りに群がった。
「へぇー、この人が」なんて事を各々が口々にしていた。
と、絵里が何もリアクションを取らないのに気づいたみんなは、ジロジロと見すぎたのを反省してか、一歩づつ絵里から離れると、少しバツが悪そうにまず紫が頭を軽く下げてから口を開いた。
「あ、あぁ、すみません。いつも裕美や琴音から話を聞いていたものですから、何だか初めてお会いする気がしなくて…」
と紫がとても”いい感じ”なセリフを吐くと、「ウンウン」と藤花がすぐさま合いの手を入れた。律は黙っていたが、ウンウンと頷くのは同じだった。
「あら、そうだったの?」
と絵里はもう既にいつもの調子に戻って、普段図書館で児童を相手にする様な様子で応えていた。
それからは皆がリラックスした状態で各々お互いに自己紹介をし合っていた。絵里が「こんな私みたいなのがお邪魔してゴメンね?」だなどと言うと、藤花たちは一斉に首を振ってフォローを入れていた。そもそも裕美がチラッと言ったが、普段から確かに絵里についてよく話しており、その流れで当然絵里が自分たちの通う学園のOBだというのも既に知っていた。
話の流れでひょんなとこからそんな話になると、益々絵里は砕けた調子になり、”学園あるある”で盛り上がっていた。
絵里を含めたそんな集団を、また和かに眺めていたお母さんだったが、チラッと時計を確認すると口を開いた。
「さてと、そろそろじゃあ行きますか!…って、ほらヒロ君、そんな所にいないで、一緒に行きましょう?」
とお母さんが声を発すると、他の私たち全員が少し離れた所にいたヒロに顔を向けた。
「はいはい…」
とヒロは何だか照れ臭いのか何なのか、坊主頭を掻きつつこちらに近寄って来た。そしてこれまた何故か私の右隣に陣取り、立ち位置からすれば一番端に控えめに立っていた。
何なのこいつは…?
と普段のヒロとキャラが違うのに違和感を覚えつつ周りを見渡すと、何と裕美を除く他のみんなはヒロの事を、恐る恐る、しかし興味が尽きないといった様子で、直接じっと見ると言うよりかは、チラチラと盗み見ているといった感じだった。
…?
これはどういう事だろうと一人頭を傾げていたが、そんな私たちの様子を他所に、お母さんはズイズイと歩き始めてしまったので、私たちも慌てて後を追った。

人でごった返す地下道を、お母さん一人を先頭に二列に並んで歩いて行った。お母さんの真後ろには私とヒロ、その後ろに裕美と絵里、そしてそのまた後ろを律たちが歩くといった調子だ。歩きながらまだ裕美たちは話に夢中になっていた。
「ヒロ、今日はどうかしたの?」
と私がジト目を送りつつヒロに声をかけた。
するとヒロは顔を進行方向に向けつつ、時折視線を背後に向かわせながら、何だか煮え切らない感じで返した。
「お、俺?…いや?いつも通りだろ?」
「そう…?」
と私は訝しげつつ、ヒロが後ろに視線を向けたので、改めて私も後ろの裕美たちに顔を向けた。
視線があった裕美はこちらに笑顔を見せていたが、藤花たちは依然として何だか戸惑った様な表情を見せていた。
と、私が不思議そうな顔つきでいるのでそこから察したか、裕美が私にも聞こえる様にか口調をハッキリと口を開いた。
「どうしたのよみんなー?何だかテンション低いよ?別に今日は琴音の大会であって、みんながそこまで緊張する必要ないじゃない?」 裕美の”大会”というフレーズから、何だか体育会系の匂いを感じ、思わず私は笑みを零しつつ、裕美のその話に乗っかることにした。
「そうだよみんな。当人の私よりも、みんながそこまで緊張する必要ないじゃない?それともアレ?普段着ない服装だから、それで固くなってるの?」
と後ろ向きで歩きつつそう言うと、「いやぁー」と他の三人は顔を見合わせてそう呟いた。
が、ここでふと紫が、「だってぇ…」と苦笑いを浮かべつつ言った。「…他にも誰か来るなんて聞いてなかったからさぁ」
「そうそう」
「うん」
と紫に続く様に、矢継ぎ早に藤花と律も口を開いた。その視線は裕美にというよりも、ヒロの背後に行っていた。ヒロは後ろを振り返らなかったが、ちゃんとこの会話は聞こえているだろう。
「絵里さん…で良いんでしたっけ?」
と紫が絵里に遠慮がちに声をかけると
「モチのロンよ!」
と、当時小学五年生だった私に対してと同じ調子で返していた。
その反応に若干苦笑気味に、しかし面白そうに紫は続けた。
「絵里さん…は、まぁ裕美から色々聞いてるし…ね?」
と紫は隣を歩く藤花に話を振った。
「…え?あ、う、うん、まぁ…ね?」
と藤花も何だか煮え切らない調子だ。
「絵里さんはまぁアレなんだけど…」
「アレって何よー?」
と絵里はおどけて見せている。とその時、
「まぁ…さ」
と律があからさまにヒロの背中を直視しつつ口を開いた。
「皆驚いているんだよ。そのー…同年代の男の子が急に現れた事について」
「え?」
と私は思わず声を漏らした。この言葉に反応してか、ヒロも若干顔を横に向けていた…が、元々このような膠着状態に我慢出来るようなタチでは無いので、我慢出来ないといった調子で勢いよく後ろを振り返った。
その瞬間、紫たち三人は見るからにビクッとして見せた。
そのまた後間が空いたが、ヒロが頭をポリポリと掻きつつ照れ臭そうに口を開いた。
「いやぁー…なんかスマンネ?女ばかりの所に、俺みたいな男が急に入り込んできて。っつーかよぉ」
とここでヒロは裕美にジト目を向けつつ言った。
「何で俺も観戦に行く事を、この人らに内緒にしてたんだよ?」
「だってぇー」
と裕美はおどけて見せていた。反省の色なしだ。私はというと、ヒロの言った”観戦”というワードが何故かツボに入り、一人クスクスと笑っていた。
「『だってぇー』じゃねぇよ、全く…」
とヒロが裕美の声色を真似して言ったその時、
「そうよ裕美ー」
と紫もジト目を裕美に向けつつ言った。
「さっき律が言ったけれど、事前に何も言われないままに、急に男子が現れたら、元々共学出身の私でも驚くわ」
「うん、ホント、ホント」
と藤花も加勢に入った。が、藤花はジト目というよりも苦笑いだった。
「私も今日まで知らなかったけれど…」
とついでとばかりに私も話に入った。
「まさか他のみんなにも内緒にしてるとは思わなかったわ」
と呆れ気味に言うと、当の裕美は何も悪びれる気配を見せないままに笑顔で言った。
「まぁまぁみんな、中々みんなでこんな風にお洒落する機会なんて無いんだからさ、女子校に通う私らだけど、男っ気が合ったほうが色気があるでしょ?」
「色気って…」
と他の三人は三様に苦笑いを浮かべていたが、
「男って…こいつの事?」
と私はヒロのことを薄目で見つつ言った。
「うーん…男は男だけれど…」
「な、何だよ?」
私が屈めて下から顔を見上げるように見たので、ヒロは少したじろぎつつ声を漏らした。
と、私は体勢を元に戻すと、裕美にため息交じりに話しかけた。
「裕美…コヤツじゃその期待には添えないよ。男は男だけれど、色気要員にはどう見ても役不足だからさ」
「な、何だよー」
とヒロがあからさまに、いつものといった調子で拗ねて見せると、少し間が空いた後で、誰からともなくクスクスと皆して笑い出した。
「ちょっと琴音ー、それは失礼なんじゃなーい?」
「琴音、言い過ぎ」
「…ふふ」
藤花、紫、律はそう私に非難めいた言葉を投げかけてきたが、顔の表情や口調はとても愉快げだった。
ヒロは一瞬きょとんとしていたが、場の雰囲気が和んだのに気づくと、やれやれといった様子で笑うのだった。
「はぁーあ、ほらヒロ君」
と笑いの収まった裕美がヒロに話しかけた。
「そろそろ自分の正体を、私と琴音の学園での友達たちに自己紹介をしてあげて?」
「お、おう」
「ヒロに自己紹介なんて出来るの?」
と私がまた軽口で茶々を入れると、また藤花たちはクスッと笑みを零した。
「もうそれは良いんだよー…ったく」
とヒロは私にうんざりして見せてから、改めて自己紹介をした。
それからは、私たちの配列も入れ替わり、お母さんが先頭なのは同じだったが、その後ろに私と絵里が、その後ろを裕美とヒロに変化した。
案の定というか何というか、矢継ぎ早に堰を切ったように、私と裕美とヒロの関係について質問が飛び交っていた。
…流れでだったが、私は絵里の隣になって良かった。何せ他の三人の勢いといったら、とてつもない熱気だったからだ。自業自得とはいえ、裕美は三人の質問に答えるのにてんやわんやになっていた。まぁ仕方の無いことだ。私はその様子を、ただニヤニヤしながら眺めているのみだった。
途中からヒロが野球部に所属している事が知れると、今度は律がヒロに強烈に興味を示し出していた。しかもだいぶ前に話しで触れたが、律とヒロの二人に運動系ってだけでは無い共通点があったのも大きいのだと思う。それは、学校のクラブだけではなく、地元の元々小さい時から所属している地域のクラブにも所属していて、それを今だに継続しているという点だ。律の勢いに最初は押され気味のヒロだったが、途中からエンジンが掛かったか、”運動バカモード”の律と対等に渡り合っていた。その間は裕美と紫と藤花は顔を見合わせて苦笑して見てるだけだった。もう色気どうこうの話では無くなった。
とまぁ何やかんやあって、地下道を歩いて行く中で皆が何だかんだ打ち解けたその頃、数多くある地上連絡口の一つから漸く地上に出た。十分も歩いてなかったはずだったが、内容が内容なだけに、もっと長く歩いた気になっていた。
地上は相変わらず”無駄に”張り切ってる太陽の光が降り注いでいて、気のせいかも知れないが、アスファルトの焼ける匂いがする気がした。
お母さんに促されて日傘を差すと、まず裕美たちにからかわれた。「流石お姫様は違う」といった類のものだ。私は勿論すかさず「誰が姫じゃ」とツッコミ返した。
「何お前、学校でお姫様やってんの?」
とヒロが思いっきり引いて見せつつ言うので、
「んなわけないでしょ…?」
とツッコミ疲れた私は力無げに答えた。
だいたい予想がつくだろうが、その直後には裕美が「そうだよー」なんて言葉を発したのを最初に、すっかり打ち解けた調子で、紫たちが”無いこと無いこと”をヒロに吹き込んでいた。「はぁ…」やれやれと一人首を振る私の姿を含めて、お母さんと絵里は時折顔を見合わせつつ笑いあっていた。
ついでにというか、後でどうでも良いことを聞かされたので、それを何となしに付け加えると、地元にいる時点でも私は日傘を差していたのだが、その時は裕美もヒロも、私を驚かすのに頭を持って行かれていて、その姿をからかう余裕が無かったらしい。因みに絵里もそんな事だったようだ。
…本当にどうでも良い事だった。話を戻そう。
何のフォローか知らないが、散々からかっていた後に、それぞれがそれぞれの言い方で、私のそんな姿を頻りに褒め出してきたので、それにもウンザリしつつやり過ごしていると、ようやく決勝の会場前に辿り着いた。

そこは日本を代表する楽器メーカーの名前を冠したビルディングだった。中央通りに面して、銀座と新橋のほぼ中間地点に位置していた。前の建物が老朽化により一時閉館、つい数年前にリニューアルオープンしたらしいが、それだけあって確かに建物の外観も近代的だった。何と表現すれば良いのか、実際にはガラスなのだが多様な色合いのタイルが、これでもかとばかりに外壁に敷き詰められているといった様相だった。私が見た第一印象は、ロマン派以降の幾何学的な模様を屈指した近代絵画のソレだった。
ビルの外でも同じだったが、内部に足を踏み入れると、その密集具合は比べ物にならなかった。私と同じように、余所行きの服装に身を包んだ同年代の男女で既にひしめき合い、実際の今いる一階のホールは、まるで何処かの一流どころのホテルのロビーと見間違うほどに絢爛としていただろうが、人が多すぎて何が何だかよく分からないというのが実情だった。そんな中ふと時計を見ると、まだ会場が開くまで二十分ばかり時間があった。
その異様な雰囲気を私含めた全員が、その熱気を前に固まって一度足を止めて眺めていると、
「おーい、琴音ちゃーん!こっちこっち!」と声をかけてくる女性の声がした。
あまりに人が多いので、すぐにはその主を見つけることが出来なかったが、ツバの大きな麦わら帽子を被る、若干背の高めの女性二人組が見えた。この時見えていたのは頭だけだったが、片や黒と白のシンプルな、片や紫にピンクの大きなリボンの付いた派手めなのだったが、ツバ広の麦わら帽子という点では共通していた。また二人とも室内だというのに、顔の半分を覆うほどのサングラスをしている。
…とまぁ今見えてる分だけ描写してみたが、すぐにこの二人が誰だか分かっていた。
「あ、師匠ー!」
と私は姿を見つけた瞬間二人目掛けて駆け出していた。
そしてすぐ近くに寄ると、派手めな帽子の方の女性にも声をかけた。
「京子さんも、こんにちわ」
「うん、こんにちわ」
とサングラス越しだからよく見えなかったが、優しげな視線を送って来てくれてるのは感じた。
「ちょっと…」
とここでシンプルな黒の麦わら帽子をした師匠が、周りをキョロキョロ伺いつつ、少しうんざりげに京子に声をかけた。
「こんな人通りの多い前で声を上げないでよぉ…。前にも、ついさっきも言ったでしょ? 表に出てない私ですら顔がバレちゃってめんどくさいのに、あなたなんか現役なんだから、もう少し控えめにしてもらわないと…」
「あらー?」
とそんな師匠とは対照的に、京子は堂々と周囲を見渡しつつ明るく返した。
「私は全然構わないわよ?元々目立つのは好きな方だし。…バレて困るのは沙恵、あなただけでしょー?」
と口元をニヤケつつそう言うと、師匠はサングラスをしてても参った様子を見せていた。タジタジだ。お母さん以外の人相手にタジタジになっているのを見るのは初めてだったので、意地悪な言い方だが新鮮で面白かった。
因みにというか、お二人の格好について軽く触れようと思う。
…とは言っても、実質紹介するのは京子だけになるのだけど。何故なら、師匠は結局予選、本選の時と全く同じ格好だったからだ。黒の、上下がひと続きの所謂オールインワンタイプのパンツドレスのアレだ。流石に今日は気温が高めというので、アイボリーカラーの八分袖ボレロジャケットは羽織っていなかった。だからノースリーブからは色白の腕が丸出しになっていた。メイクも前回と同様に普段通りのナチュラルメイクをしたが、今回は帽子をしていたせいか、クラシカルロングの髪を束ねる事なく、軽く低い位置で纏めているのみにしていた。京子も帽子の下から、緩やかなパーマ質の髪が艶っぽく流れ出ていた。京子はフレアデザインのゆったり目の黒ワンピースだった。下はノースリーブらしいが、その上からライトベージュの七分袖のボレロを羽織っていた。見た瞬間に思ったのは、よく似合っているなというのと同時に、絵里と若干被っているなという点だった。
私たち三人が軽く挨拶をしていると、少し遅れて「沙恵さーん」とこちらに声を掛けてきつつお母さんたちが近づいてきた。
「あら、京子さん!お久しぶりねー!」
「あはは、瑠美さんも相変わらずで!」
お母さんと京子は、言い方が悪いが年甲斐も無く女学生のようにキャッキャ言いながらじゃれ合っていた。直接は聞かなかったが、その様子から、京子が海外住みというのもあって仲が良くても中々会えてなかった様子がうかがえた。
と少しばかり手持ち無沙汰になった私は、ふと裕美たちの方に顔を向けると、向こうでも私と同じで、どう見知らぬ大人たちに接したら良いのか困惑している様子を見せていた。絵里やヒロですらそうだ。
と、大人の直感が働いたか、私と同様に少し暇になっていた師匠はふと裕美たちに視線を移すと、一瞬ギョッとした表情を浮かべたが、すぐに笑顔を見せつつ自分から近寄って行った。
「皆さんが琴音のお友達の皆さんね?…随分初めに聞いていた人数と、老若男女の比率が違っているけれど?」
「あはは…」
実は私もこれは想定外です…と返そうと思ったが、何と無く押し留めた。
そんな反応を示す私を置いといて、師匠は改めてヒロと絵里を含めてぐるっと見渡してから明るく声を発した。
「一、二、三…へぇー、六人もいるじゃない?四人って聞いてたけれど…お久しぶり、裕美ちゃん」
「琴音の師匠さん、お久しぶりです」
と声を掛けられた裕美は明るく笑顔で返事をした。
「今日はよろしくお願いします」
「ふふ、こちらこそ。で…あ、藤花ちゃんと…りっちゃんだよね?」と今度は藤花と律に声を掛けた。
藤花は何故か一瞬自分の胸元に目を落としてから、裕美と同種の笑みを浮かべて「はい!」と明るく返事をした。
「いつも教会に足を運んで下さって、ありがとうございます」
と藤花が軽く頭を下げると、師匠は何だか照れ臭そうにしつつ「いやいや…」と返した。
「教会にっていうか…あなたの歌を聴きに行ってるだけだから、不敬にも程があるんだけれど…」
「あはは!」
と藤花が笑うその側で、律が何も言わずにただ頭を下げた。そして頭をあげたが、その無表情に見える顔からは穏やかな笑みが見え隠れしていた。律とも何度か面識のあった師匠は、それに対して何も言わずに、同様の笑みを浮かべて「りっちゃんも、今日はよろしくね?」と話しかけていた。因みにこの”りっちゃん”は、師匠のオリジナルな呼び名だった。律もそう呼ばれて満更でもないらしい。のちに聞くと、律の小学生時代の呼び名だったようだ。だが中学生…いや、小学校高学年の時点で、背の事も含めて周囲と比べて大人びた雰囲気を身に纏い出した律に対して、気軽に”りっちゃん”と呼ぶ人が減っていったらしい。下の名前を呼び捨てにするのが、藤花を含めてデフォになっていた。それがこうして懐かしい呼び方をされて、繰り返しになるが本人も嬉しかったようだ。
「この人が、あなた達が話していた、見た事のある琴音の師匠さんなのね?って、あ…」
と紫が、恐らく頭に浮かんだままを口に出したのだろう、言い終えてしまった後すぐに自分で言うべき言葉では無かったと反省をして、「すみません…」と師匠に謝って見せていたが、顔を上げた紫に向って、師匠は首をゆっくりと横に振り、そして暗い雰囲気を払拭するが如く底抜けに明るい声を上げた。
「あははは!良く気の使える子だねぇー。良いの、良いの、別に構わないよー。あなたにはまだ自己紹介がまだだったよね?コホン、私は琴音の師匠をしています、君塚沙恵っていいます。師弟共々よろしくね?」
と最後に満面の笑みを浮かべると、言われた紫も緊張がほぐれたか、笑みを浮かべて自己紹介をしていた。
「あ、そうそう」
と私は絵里とヒロの手を取って、師匠の前に連れ出した。
「おいおい」「ちょっとー」
とヒロと絵里は苦笑まじりに声を上げていたが、私はワザとガン無視をした。
「師匠、今ままで何気なく話に出していた友達を紹介しますね。彼女が司書の絵里さんで、コヤツが腐れ縁のヒロです」
「コヤツって何だよー…あ、こんちわ」
と初めの方は私に薄目を向けて来ていたが、師匠と目が合うと、ペコっと視線を合わせたままお辞儀をしつつ挨拶をした。
すると師匠は顎に指を当てつつ少しだけ考えて見せていたが、ふと何か思い出したようにハッとなり、何故か意味深にニヤケつつ声を掛けた。
「…あぁー、ヒロ君ね?小学生の頃からあなたの話を、よく聞いてたよ」
「よ、よくですか?」
「…師匠ー?」
ヒロが何故か戸惑いげに声を漏らしていたが、私はというと、そんなヒロの様子には構わずに、ジト目を向けつつ師匠に言った。
「よくって…そんなしょっちゅうは話に出した事無いじゃないですか?」
「あら、そうだったっけ?」
ふふふと愉快そうに笑みを零していたが、ふと絵里に視線を移すと、今度は大人向けの穏やかな笑みを浮かべつつ声を掛けた。
「で、えぇっと…絵里さん、でしたよね?」
「え?あ、はい、そうです」
と絵里の方は笑顔を作ってはいたが、何処かぎこちなかった。
師匠はその様子を微笑ましげに見ると、今度は私に視線を向けてきつつ言った。
「絵里さん…って、気安く呼ぶのもどうかと思うんですけれど、あなたについて”も”、普段からよく話を聞いていたし、その度に”絵里さん、絵里さん”だなんてこの子が言うものだから、名字も知らずにそう言わざるを得ないんだけれども」
「”も”って何ですか?」
と私が虚しいツッコミをしている間、そんな師匠の言い訳(?)じみた話を聞いた絵里は、一瞬呆気にとられていたが、その次の瞬間には「ふふ」と明るい普段の笑みを吹き出すように漏らすと、予想通りというか何というか、絵里は急に私の背後を取り、そして両肩に手を乗せてくると意地悪げな口調で声を掛けてきた。
「琴音ちゃーん?そんな前から私の話をしてくれてたのー?」
「…ほら師匠ー?」
と私は私でされるがまま、また師匠に非難めいた薄目を向けつつ言った。
「言ったじゃないですかー?この人は、こんな風な過剰スキンシップキノコなんですよ」
「…ぷっ」
と私の声が聞こえたのか、藤花達とおしゃべりしていた裕美が吹き出す声が聞こえた。
「そんな事言ってたのー?」
と絵里は今度は目を細めて私に非難の意思を伝えてきたが、相変わらず口元はにやけたままだった。
師匠は師匠で、まだサングラスをしたままだったから断定は出来なかったが、視線はおそらく絵里の頭のキノコに向いていただろう、それからその後でクスッと小さく笑った。
が、その後、申し訳なさげにえりに話しかけた。
「…あ、ごめんなさいね?何せ、琴音から聞いた通りの、イメージ通りの女性だったものだから」
「ふふ、今の琴音ちゃんの反応を見るに、良いイメージでは無さそうですけれど」
と絵里もすっかり初対面の人に対しての緊張がほぐれたのか、軽くニヤケつつ師匠に返していた。
師匠は師匠で「いやいや、そんな事無いですよ」と笑顔を湛えつつ和かに絵里に返していた
そのままの笑顔で返した。
とその時、絵里はハッとして見せると、今度は屈託の無い笑顔を見せつつ師匠に言った。
「あ、そうだ。まだ私たち自己紹介をしてませんでしたね?私は山瀬絵里。区立図書館で司書をしています」
「あぁ、あそこの」
と師匠は知っているという意思表示を示してから、軽く佇まいを正して自己紹介をしていた。二人は私が普段から話していたせいだが、何も言わずとも歳が二つ違いでしか無いというのを知っていたので、これからはお互いにタメ口で、下の名前で呼び合うのが決められた。と、その時、
「沙恵ー?何一人で勝手に友達作ってんのよー?私にも紹介して?」と京子がいつのまにか師匠の背後に立っており、肩越しに絵里を見つつ言った。
…ここは端折ろうと思う。何せまた同じ事の繰り返しだったからだ。絵里は京子とも師匠と同じような約束事を作って、それから軽く私の目の前で私の話を三人でしだしたので、一足早くその場から抜け出し、裕美達の中に入っていった。
とその時、拡声器を持ったスーツ姿の男性がホール入り口付近に設置されていた台に乗ると声を発した。
「お待たせいたしました。出場者の皆様と保護者含む二名だけ、どうぞ受付にお進みください。その他の関係者はすみませんが、そのままもう暫く思いおもいにお過ごしください」

私と後二人だけと言うので、お母さんと師匠だけが付き添ってくれた。去り際「何だよー、俺らも行きたいよなぁ?」とヒロが、すっかりもう打ち解けた様子で律たちにそう話しかけると、「こらこら少年、我慢なさい?今は取り敢えず、これだけの美人どころを、あなた一人が独り占めに出来てる、そのハーレム感を存分に楽しみなさいな?」と、直接見た訳ではないが、恐らく京子が悪戯っぽく笑いつつヒロに言っていた。それに対してヒロは何か慌てて返していたようだが、その部分は会場の雑音に掻き消されてしまった。まぁ後で個人的に裕美あたりに聞いて見ることにしよう。
受付の前には、私たちと同じように親子と先生と思しき組み合わせが、静かに整列して順番を待っていた。後ろを振り返ると誰もいなかったので、どうやら一番最後らしい。
と、順番を待つ間、今更ながらジワジワと時間と共に緊張感が湧き上がってきていた。というのも、ここに来るまでの話を聞いてくれた方なら分かると思うが、とてもじゃないが緊張を覚えるような暇など、良くも悪くも無かったのだ。ヒロが待ち合わせ場所にいたということに始まり、数々のてんやわんやがあり、何だか今日は皆勢ぞろいで、どこかに遊びに来たかのような感覚に陥っていたのだった。それが急にコレだ。隣を見ると、お母さんは尚のこと、師匠もシンとした表情で、前方に視線を向けていた。私もまた視線を前に戻したが、ふとまたここまでの事を思い出すと、ついさっきまで体が固くなっていくのを感じていたのに、何だか肩から力が抜けていくような感覚を覚えた。
…これは後になって気づいたが、恐らくあのようなグチャグチャした出来事のお陰で、結果として必要以上に緊張せずに入られたのだろうと思う。裕美やヒロを始めとして、誰一人としてそれを狙っていた訳では無いのだろうが、取り敢えずまぁ、感謝すべき事なのだろう。
それはさておき、ついに私たちの番になると、まず番号札が渡された。見ると五十一番だった。何と最後から数えて二番目だった。
とは言っても、それほど余裕がある訳では無い。今日は午前と午後と分かれており、半分は朝早くこちらの会場に来て、順に既に決勝が行われていたのだった。一階があんなに混み合っていたのも、午前の部を終わらせた人々が外に出ず、そのまま留まっていたのも一つの原因になっていたのだ。
話を戻すと、午後の部という枠組みの中で考えると、私は実質二十五番目だった。この順番も、出場者の知らないところで大分前に決められていたらしい。
それからは受付の人からこの後の流れを聞き、そして別の係の人に促されるままに、決勝の舞台となるホールの中へと三人で踏み入れた。

中に入ると、まずその天井の高さに圧倒された。本選の時のホールにも感動したが、ここはまたひと回りもふた回りも高く見えた。先ほども触れたようにこの建物は所謂ビルディングなのだが、どうやら建物の高さの半分ほどを使っているようだ。具体的には五階分の高さがあった。いくつものライトから煌々と光が降り注がれていた。「ほー…」とおもわず声を、師匠も揃って声を漏らすと、係の人がこちらに微笑みかけてきながら、本番時は今いる客席側の照明は落とされる旨を教えてくれた。それを聞きつつ壁面を見ると、これまた凝ったつくりになっていた。壁面は全て斜め格子のウッドパネルで覆われており、これまた建物の外壁の様に近代チックで有るのと同時に、木の温もりが伝わってきそうなウッドブラウンの優しい色合いが、とても目に心地よかった。実際、何度も頻繁に取り替えられているのか知らないが、このホールに入った瞬間、芳醇な木の香りがしたのが印象的だった。この壁は舞台にまで及んでいたが、舞台自体はライトベージュといった趣で、上から注がれるライトが強いせいか、パッと見真っ白に見えた。
係員に連れられて三人でゆっくりと舞台に近付いて行くと、一番前の列に、私と同年代の男女が行儀よく横並びに客席に着席しているのが見えた。
その視線の先には、舞台を背にしてまた別の係員が立っていた。
と、その係員が私たちに気付くと、「あ、最後の方ですね?どうぞ右端にお座り下さい」と言うので、言われるがままに私一人が既に座っていた子の隣に座った。保護者はまた別に何列か離れた位置に席があるらしく、お母さんたちはそっちに座った。
それからはコンクールの流れについて説明を受けた。こう言ってはなんだが、予選、本選と比べると、格段に丁寧に説明をしてくれていた。
約三十分ほどだっただろうか、説明が終わると更衣室に案内すると言うので、そこで師匠たちと一旦分かれた。お母さんから着替えを受け取るのを忘れずに。
更衣室に入ると、ロッカーがあり、それぞれに番号が振られていた。勿論全く同じというのはあり得ないが、それでもここでは本選を彷彿とさせられた。本選の様に、自分の番号”五十二番”と書かれた場所を見つけて、ロッカーを開けた。その時ふと周りを見渡すと、どの女の子も真剣な険しい表情を浮かべて、誰にも顔を合わせんとするかの様に、黙々と視線を動かす事なく作業的に着替えていった。私もそれに倣い、早速紙袋から本番の衣装を取り出し、それに着替えるのだった。
まぁ興味が無いかもしれないが、何だかんだ予選、本選とどんな衣装を着ていたのか話してきたので、今回も話してみようと思う。
それは、スカート部分が艶やかな光沢が綺麗な濃い紺色のタフタの上に、チュール三枚を重ねて使用されたAラインロングドレスだった。そのスカートの裾部分は、これまた綺麗な三巻き仕上げだ。内部にはパニエを二段縫い付けてあるらしく、程よい広がりの華やかなシルエットを演出していた。胸元は水色に少し灰色の混ざった様な下地の上に、淡い色合いの金色の花柄が象られたレースが上品に映えて見え、優美さを醸し出していた。肩や鎖骨がガッツリと露出するベアトップ、もしくはベアショルダータイプだった。
本選の後、また師匠を伴って衣装を買いに行ったのだが、相変わらずお母さんが今来ている様な露出度高めの派手なドレスを選んだのだが、今度ばかりは師匠もこれに賛成した。以前にも軽く触れたが、本選までならいざ知らず、もう全国大会という晴れの舞台にまで進出したとならば、これだけ派手でもむしろ行くべきだと力説された。
まぁ今紹介した様に、色合い自体は落ち着いていたので、渋々試着をしたのだが、上体がかなり露出していたので、恥ずかしくてそもそも試着室から中々出れなかった。そんな状態でいるというのに、お母さんと師匠はその姿を見た瞬間、これでもかとばかりに誉めそやしてきた。あまりの勢いに押されて、仕方なしに同意をしたという経緯があった。まぁ自分には、露出が多い分動きやすいんだと理屈をつけて無理やり納得させた次第だ。でも流石にずっとこのままなのは恥ずかしいと訴えると、何とか肩の上から羽織る、スカートと同色の大判ストールも買ってもらった。着替え終えた今はそれを羽織っている。
支度が終わると、先ほど係の人から説明を受けた通りに、またさっきいた一階の広場に出て行った。
相変わらずガヤガヤしていたが、先程とは違い、明らかに空気がピリピリとしていた。
順番的にも私が一番最後に出てきてしまったが、その瞬間「琴音ー」と声を掛けられた。その方角を見るとお母さんだった。その後ろにはみんなもいて、ゾロゾロとお母さんの後をついて行く。
私の目と鼻の先に着くなり、お母さんは真剣な眼差しで上下、前後ろと何度も往復させながらジロジロと見てきたが、満足したのか背筋を伸ばすと、優しい笑みを浮かべて「よし!」と言った。
「今回のは中々着るのは難しいと思ったけれど、流石我が娘、しっかりと身に付けてるわね。…似合ってるわよ」
「うん、ありがとう」
と私も同様の笑みを浮かべて返すと、お母さんはふと「ほら琴音、これ持って行きなさい?」と言いながら、ずっと手に持っていたのか、私に常温のお茶の入ったペットボトルを手渡してきた。受け取るとそれは、私の今ハマっている玄米茶だった。
「ありがとう」とお礼を言うと、早速その場でキャップを開け、一口分飲んだ。
そんな私の様子を微笑みつつ見ていたお母さんだったが、ふと口を開けたかと思ったその時、
「琴音ー!」
と裕美、紫、藤花、律たちがお母さんの脇から私の前に出てきた。律も含めた四人して顔は明るい笑顔だった。
この人数の発言を一々今拾い上げるのは流石に余裕が無いので、裕美たちには悪いけど割愛させて頂く。まぁ言い方が悪くて恐縮だが、それぞれの表現の違いはあれど、皆して同様の反応だったからだ。
…自分で言うのはとてつもなく”恥ずい”のだが、四人共が私の今の見た目について、これでもかというくらいに褒めちぎってきた。…『流石姫様だね』といった様な、余計な言葉を添えて。
…まぁ、本人達には言わなかったが、そんないつものノリのお陰で、緊張が和らいだのは本当だった。これはこの会場に来たばかりの時に言った通りだ。ロッカーを出て今いる広場に出てくるまでに、やはりと言うか流石にと言うか、他の参加者の緊張が伝染したのもあるのだろう、すっかり身体が縮み上がっていたのだ。それを意図せずとも緩和してくれた事には、繰り返しになるが密かに感謝をしていた。
散々からかわれた後、裕美が不意に一歩前に出てくると、フッと力を抜いた自然な笑みを浮かべると
「でも本当に似合っているよ。…みんなで、客席で観てるから」
と途中で後ろを振り返りつつ言うので、私もその方向を見ると、さっきとは打って変わって、他の三人が三様に今の裕美の様な静かな笑みをこちらに向けてきていた。
「…うん」
と私も静かに微笑みつつそう返すと、ほんの数秒そのまま微笑みあったが、ここで不意にガラッとまた先ほどの様な”からかう空気”に一斉に戻ると、誰からともなく「ほら!」と裕美を除く三人が何やら後ろから誰かを前に引っ張り出してきた。
「おいおい…」と戸惑いつつ出てきたのは、ヒロだった。
立ち位置的には裕美のすぐ脇といった所に立った。
ヒロは私に目の前に来たのは良いものの、何も声を発しないので、いつもの軽口ばかり叩くヒロらしく無い様子を見せられ、私は私で黙って眺めていると、やれやれと溜め息をつきつつ隣の裕美が、ヒロの背中をバシンと強めに叩いた。とても良い音がなった。
それによって、気持ち半歩ほど裕美よりも私に近い形になった。
「いってー!何すんだよー?」
とヒロが大げさに背中を摩りつつ痛がって見せていたが、裕美はそれには付き合わずに、私に視線を流しつつ声をかけた。
「ほらヒロくん、いつまでもボケーっとしてないで、琴音に何か…さ?」
そう言われたヒロは、「お、おう…」と声を漏らすと、何故かこっちには体を向けず、真横を向いて中々視線を合わせてくれなかった。この時内心では、普段のスパッと気持ちのいいヒロとは真逆の様子だったので、若干イラっとしていたが、その間にふとその後ろを眺めると、これまた何故か紫達が口元をニヤかしつつこっちの様子を伺っていた。
その様子を不思議に思いつつ見ていると、ようやくチラチラと視線が合ってきたかと思うと、何だか煮え切らない調子で口を開いた。
「そのー…なんだ、琴音、今のそのー…」
「何よー?はっきり言いなさいよー?」
と私はストールがずれ落ちない様にしつつ、前屈みになって下からヒロの顔を覗いた。するとヒロは変に驚いて見せて、バッと勢いよく私から一歩分離れた。そんな予期せぬ反応にキョトンと呆気にとられていると、ヒロはなんだか照れ臭そうに頭を掻きつつ言った。
「そのー…よ、…よく似合っているぜ」
「え?何て?」
最後の方が蚊の鳴き声の様に消え入りそうな音量だったので、ガヤついている今の広間ではよく聞こえなかった。
ヒロはそんな私の返しに、今度は私に代わって呆気にとられて見せたが、「はは…」と苦笑まじりに笑みを漏らすと、途端に普段通りの悪戯っ子のような笑みを浮かべつつ言った。
「だからよー、馬子にも衣装って感じで似合ってるって言ったんだよ!」
「…アンタねぇー」
と私も”いつもの”といったノリで、腰に手を当てつつ目を細めて返した。
「アンタ、それしかボキャブラリーが無いの?前にも言ってたじゃない?」
「は?ボキャブ…ボキャブラ…?って何だ?」
と本気なのか冗談なのか見分け辛いリアクションをとってきたので、「はぁ…もう良いわよ」とため息交じりに返した。しばらくその後は互いにジト目で見つめ合ったが、大概の場合にらめっこの様になってしまい、この時もどちらからともなく吹き出して笑い合うのだった。
「はぁーあ、まぁ琴音、俺が応援してやるんだから、敵をぶちのめしてくるんだぞ?絶対に勝てよ?」
と鼻息荒く何故か自信満々にヒロが言ってきたので、
「あのねぇ…何を勘違いしているのか分からないけれど、今日のはその手のものじゃないのよ?」
と私が呆れつつそう返すと、ヒロは何だかムキになって
「わかってら!」
と返してきた。そんなヒロのムキになった表情を見ていると、益々緊張から縁遠くなっていくのを覚えつつ、それにも密かに感謝しているという意を込めて
「まぁ…ありがとうね」
と実際にはやれやれといった調子で言った。
それに対してヒロは「おう!」と先ほどの不機嫌はどこに行ったのか、小学生の頃から変わらない笑顔で応えてきた。
…余計なことかも知れないが、この一連の流れを、裕美は笑顔で見ていた。が、それは何かその裏に大きな秘密を宿している様な影を差していた類のもので、私の位置からも視界の隅にそんな裕美の様子がチラッと見えていて、何だかそれが印象的だったのを付け加えとく。
それはさておき、ようやくというか何というか、今度はまたお母さんと、そして師匠、京子が三人並んで私の前に来た。それから一歩下がった所で絵里が控えめに立っていた。そんな様子を見兼ねたお母さんに背中を押されつつ、絵里が前に出てきた。
絵里は私の顔を見ると、何だか照れ臭そうにホッペを掻いてるのみで、中々口を開かなかった。私はというと、自惚れも甚だしく聞こえるだろうが、いつものパターンからいくと、てっきりテンション高く私の見た目を褒めちぎってくるものと思っていたので、何というか拍子抜けだった。
と、そんな私と絵里の様子を見ていた京子は、不意に絵里の肩に自分の肩を軽く当てると、口調も明るく言った。
「ほら琴音ちゃーん、見てよー?何だか絵里さんと服装が被っちゃって、良く言って仲の良い姉妹、普通に言って昔の漫才師みたいじゃない?」
「ちょ、ちょっと、京子さん…?」
と絵里が苦笑まじりに声を漏らしていた。それを見た私は、自分の見ていない間に何でこんなに打ち解けてるのかと単純な疑問を持ったが、次の瞬間には「ふふ」と自然と笑みをこぼしていた。
「言い得て妙だね」
と私が笑顔で返すと、「またそんな難しい言葉使いをしてぇ」と京子を手で軽く押し退けつつ絵里が言った。京子のお陰(?)か、その顔にはもう妙な照れ臭さは無くなっていた。
「まぁ…何だろ?」
とそれでもやはりいざ口を開く時にはまだ照れが残っていた。
絵里は時折視線を何処かに流しつつ、何か言葉を探している風だったが、「はぁ…」とふいに一人溜息をつくと、こちらに微笑みを向けてきつつ口を開いた。
「いやぁ…やっぱり、気の利いた言葉を思いつけないなぁー…。まぁ、琴音ちゃん?」
「うん」
と私が合いの手を入れると、絵里は一人コクっと頷き、それから笑顔で腰に両手を当てつつ「まぁ、楽しんできてね!」と言い放った。
この時、私はまずどこか懐かしい気持ちにさせられた。なのでその直後に何でか思いを巡らせたが、その出所を思い出した。
そう、あの入試当日の朝、あの日は義一と絵里がメールをくれた訳だったが、絵里がくれたメールが今言ってくれた『楽しんできてね』の一文だったのだ。
我ながらよく覚えていて、しかもよくもまぁ瞬時に思い出せたなと感心していたが、いかにも絵里らしい物言いに、何だか心がほっこりした様な気持ちを覚え、言い終えた後に何故かバツが悪そうにしている絵里に対して「うん!」と力強く笑顔で返したのだった。
「よし!」と絵里も同じ調子で応えてくれた後、絵里は笑顔のまままた一歩後ろに下がったその時、目の前に師匠が出てきた。
相変らずつば広の帽子と、サングラスをしている。本人はバレない様に目立たない様にしているつもりらしいが、正直結構目立っていた。その証拠に、師匠自身は気付いてないらしいが、すれ違う人が時折好奇心の眼差しを向けてきているのに私は気付いていた。だが、何だかその様子が面白くて、今まで何も言わないでいたのだ。我ながら、本当に不貞の弟子だとつくづく思う。
「琴音…」
と周囲を一度確認してから、おずおずと慎重にサングラスを外した。表情は静かだったが、私の知る師匠の顔と比べると、若干強張っている様に見えた。それを脇で京子が口元を緩めつつニヤニヤして見ている。
「ほら師匠?」
と京子が師匠の背中をバシッと強めに叩くと、師匠は「何するのよまったく…?」と背中をさすりつつボヤいていたが、その顔からは強張りが消えていた。
それを自覚してるかしてないかともかく、師匠はフッと柔和な笑みを浮かべると、私の両肩に手を置き、口調も静かに言った。
「琴音…。決勝まで上ってきたあなたに、今更師匠として何か助言出来ることなんか一つも無いわ。そうね…予選と本選の時も言ったけれど、この半年間…いや、あなたが小二だった頃から数えたら約六年間、ずっと私からのムチャな指導にもキチンとブー垂れる事無く着いてきてくれて、それであなた自身の努力のお陰でここまで来た…。まずそれ自身に誇りを持ってね?」
「…はい」
「そして…これも言ったけれど、技術面で言えば、間違ったって良い…プロだって本番で間違う事あるんだから」
「そうよー?」
とここで京子が無邪気な笑顔を浮かべつつ口を挟んだ。
「私ですらね?」
「…京子?」
と師匠が呆れ笑いを浮かべつつ顔を向けると、「あ、ごめんごめん」と京子は両手を顔の前で合わせて平謝りをして見せた。
「もーう…まぁ、後はさ?」
とすっかり興を削がれた形になった師匠は先ほど京子に見せた笑みを浮かべたまま、今度は絵里をチラッと見つつ言った。
「さっき絵里さんが言ってたけれど…折角の大舞台、日本でも屈指のホールなんだから、思う存分楽しんで弾き込んで来なさい」
「はい」
と私は師匠と絵里に視線を流しつつ、微笑みを浮かべて返した。
師匠も微笑み返してくれたがその時、
「さてと…」
とさっき絵里にした様に、師匠の肩に自分の肩を軽くぶつける様にして、京子はサッとサングラスを取った。勝気そうなツリ目は若干緩んでいた。
隣で「あっ…」とサングラスを取ったのに対して師匠が目を丸くしつつ声を上げたが、それには目もくれずに京子は、一度振り返り、他の皆を見渡してから話しかけてきた。
「いやぁ、お母さんや、これだけの大勢の良いお友達、それに弟子想いの師匠…琴音ちゃん、とても恵まれてるなぁと嬉しい反面…」
とここで一度区切ると、上体だけ倒して私の顔に自分の顔を近づけると「やっぱり…どうしたって緊張するよね?」と言った。
言われた私は、癖でまずその言葉の意図を考えていたが、「は、はい…まぁ」とだけ取り敢えず相槌を打った。
それを聞いた京子は勢いよく上体を戻すと、人差し指だけを天井に向けつつ、まるで講義をする風に構えつつ口を開いた。
「だよねー?そこで、現役の私、京子先生からの一口アドバイス!」「は、はぁ…」
「始まった…」
何が何だか分からず戸惑う私の脇で、師匠が苦笑いを浮かべつつ声を漏らしていた。
と、何だか突然ちゃらけて見せた京子だったが、途端に先ほどの師匠のような柔和な笑みを見せると、口調も穏やかに言った。
「琴音ちゃん…?緊張しないように、しないようにって思うほど、ますます緊張しちゃうもんだよね?…うん、まぁ一般的には緊張はなるべくしない方が良いって言われてるし…。でもね、勿論極端には良くないけれど、程ほどには緊張した方が良いのよ?…いや、緊張出来た方が良いと言うべきか…」
「それって…どういう意味ですか?」
先ほどの謎のキャラが吹っ飛ぶほどの京子の話ぶりに惹かれて、私は前のめりになりつつ聞いた。
「それはね?さっき、あなたの師匠、沙恵があなたに言ったでしょ?今までの努力が云々かんぬん。…そう、日々そうやって努力すればするほど、上達の実感があればあるほど自信がついていくけれど、それと同時に失敗を恐れるようになる…。だって、失敗しちゃったら、じゃあ今までしてきたのは何なんだろうって思っちゃうからね?」
「…」
京子の話を聞きつつ、確かに身を以て、こうしている間にも身体がまた強張っていくのを覚えていた。
「ちょっと、京子…?」
と師匠が何かを感じたか口を挟もうとしたその時、京子はニコッと一度目を細めて笑って見せてから話を続けた。
「でもね、それはどんなジャンルでも、必死に努力してきた人には平等に訪れるものなのよ、その類いのプレッシャーってね?…私もそう。私ももうデビューしてから数え切れない程に演奏してきたけれど、今だに本番前は凄く緊張するの」
「…え?京子さんでも?」
「えぇ、京子さんでもね?…ふふ、でもその緊張ってさ、今まで話した通り、必死に努力してきた者にしか訪れないものでしょ?逆に言えば、努力をせずにグータラで生きてれば、私、それに今あなたが感じている緊張を体験出来ない訳じゃない?だからね、何だかこんなつもりじゃなかったのに長々と喋っちゃったけれど…」
とここで京子は照れ臭そうに帽子から漏れ出ていた、パーマのかかった髪を指で弄びつつ、若干苦笑気味に言った。
「まぁ何が言いたいのかっていうとさ、今感じている緊張を無理に排除しようとしないで、むしろそれを含めて楽しんでやろうって気で行こう!ってことさ」
何だか最後は早口になっていたが、本番直前とは言え、不意に現役のソリストである京子から深めの芸談を聞けて、何か大事な事を身に付けられた感覚を覚え、これは意図していなかっただろうが、京子の言葉が頭を支配したのと同時に、先ほど新たに湧いてきていた緊張が少しほぐれていた。
「はい、ありがとうございます」
と衒いもなく、軽く頭を下げて色々な意味を込めたお礼を言うと、「いえいえー」とまるで照れを誤魔化すかのごとく、京子はまたおちゃらけて見せつつ応えた。
「もーう、京子は…」
と師匠はまたさっきと同じ呆れ笑いを浮かべつつ京子に話しかけた。「これから本番に臨むって子に、そんなまた言葉をかけて…」
「えー、別に良いじゃない?」
と顔は師匠に向けたまま、視線だけ私に流しつつ返した。
「私は何も、誰も彼もこんな話をする訳じゃないわ。それに値する人に対してだけするの」

そんな京子からのアドバイスが終わった辺りで、また台に同じ係りの人が立つと、拡声器を使って出場者と保護者一組に控え室に行くように言った。それを合図に、広場で散り散りになって関係者と歓談していた出場者と付添人たちがゾロゾロと案内に従って一斉に動き始めたので、「いってらっしゃい」というような言葉を背に受けつつ、私とお母さんで控え室に向かった。
本選までは出場者のみだったが、決勝は保護者同伴と予め知らされていた。私の場合お母さんだが、お母さんは私の演奏を、控え室で聴く事となる。
入るとそこは、本選時の様な会議室のような部屋だった。が、少しだけ違ったのは、四面ある壁の一面が、照明付きの鏡で占められていた事だった。前回にもあるにはあったが、こんなに場所を取っていなかった。私たちよりも先に入室した出場者の何人かが、早速鏡の前の椅子に座って身繕いをしていた。鏡ごしに番号が見えた。どうやら早番の面々らしい。
私とお母さんは慣れない雰囲気に戸惑いつつ、軽く室内をぐるっと歩いてから、幾つか設置されている長テーブルの一つに近寄り、その端の一角にあった椅子に座った。
控え室は程よく温度調節をされていたが、重々しい空気が充満していた。保護者がそれぞれ一人ついているはずなので、単純計算で四十人ほどいるはずだったが、時折ひそひそ声が聞こえるのみで、その他に聞こえるのは天井から冷気を送り込んでいる空調音だけだった。それが尚更この場に異様さを与えて深めるのに貢献していた。とても息苦しかった。お母さんに貰ったペットボトルのお茶を飲もうにも、蓋を開ける音、それを飲むに当たって鳴る喉越しの音、体内で鳴ってる音だから本人には実際どれほどの大きさか知れないのだが、何だかそんな単純な行為ですら気を遣わせる雰囲気だった。
だが、係員が部屋に入ってきて、五、六人の出場者の番号と名前を呼び、該当者が外に出て行き、しばらくして出場者達が控え室の正面に設置された、天井から吊り下げる式の大きなモニターに映し出されて演奏が始まった時は、その音で急に賑やかになり、先ほどまでの重々しい空気は緩和されていった。

…なるほど、確かに師匠が言ってた通り、その当時と変わってなければだけど、この雰囲気の中、誰か見ず知らずの他の参加者に、しかもこうして保護者がそばにいるというのに話しかけられるとは、夢にも思わないなぁ…。
と、すでにコンクールが始まり、いわゆるライバル達が演奏を繰り広げているというのに、我ながら抜けてるというか何というか、待つ間、いつだったか、師匠が話してくれた、初めて京子と出会ったエピソードを思い出していた。
…まぁ、師匠の当時の先生も、おそらくコンクールが終わってからの事を言いたかったんだろうなぁ…京子さんというイレギュラーは、想定外だっただろうし。
隣に座ったお母さんを見ると、お母さんは姿勢をピンと真っ直ぐにしたまま、正面にあるモニターを凝視していた。一人、また一人と演奏していき、そして終わるたんびに拍手が送られているのを聞く度に、胸がキュッと締まる思いをしていた…と、後日お母さんから直接聞かされた。
そんな心中など知るはずも無い私は、相変わらず頭の中で、当時の師匠と京子の様子を勝手に妄想しながら過ごしていた。
演奏が終わった出場者達は、またこの控え室に戻って来たが、そのどの顔もやり切ったような、無表情の中にも少し明るみが差している様な、見方によっては微笑んでいる様にも見えた。
暇を持て余した私は、途中から一人で何も無い壁を見つけると、それを使って念入りに、戻ってくる彼らの表情を時折眺めつつストレッチをしていた。お母さんはそんな私の様子に一瞬戸惑いの表情を浮かべていたが、一度フッと微笑んだかと思うと、それからは私とモニターを交互に眺めていた。まだ出番が終わっていない出場者は相変わらず閉じこもっていたが、終わった人らは興味深げに私の様子をチラチラと盗み見てきていた。…というのも、お母さん情報だ。周りのそんな様子が気にならない程に、それだけ集中していた。
そしてようやく、私を含む最後の組が呼ばれた。
私は一度テーブルの前に戻り、肩に今まで下げていたストールを脱ぎ、お茶を一口飲み、それをまた戻すと、その手をふとお母さんが取ってきた。私は一瞬ビクッとしてしまったが、お母さんの顔を見ると、見た瞬間は強張って見えたが、途端にフッと微笑んできたかと思うと、次の瞬間には真顔でコクっと頷いて来たので、私もまず微笑み返してから、真剣な表情を作ってコクっと頷き返した。
そしてそっとお母さんの手を退けると、それからは後ろを振り返らず、係りの誘導に従って、他の数人と共に外に出た。
ほんの少し廊下を歩いた所で、真っ暗な場所に通された。
本選を経験しているお陰で、すぐにそこがどこだか知れた。舞台袖だった。真っ暗ではあったのだが、今通って来た廊下や舞台からの光が漏れてきていて、厳密には暗闇では無かったので、それほど周りに気を使う事は無かった。
これも本選と同じだったが、パイプ椅子が五つほど置かれていて、誘導に従い、番号順、つまりは演奏順に座らされた。
それからは一人、また一人と目の前で出場者達が舞台に出て行って演奏していくのを、流石に控え室の時の様に妄想するほどの余裕は無くなっていたらしく、我ながら神妙に耳を傾けていた。
…うん、傾けてはいたはずだったが、自分でも不思議なのだが、聞いてるはずなのに、どんな演奏をしていたのかを聞き取る事が出来ていなかった。何を言ってるのか分からないだろう。それもそのはず、こう話す私自身も今だにその時自分がどんな状態だったのか、ハッキリと断言出来ずにいた。まぁ一般論から推測するに、それだけやはり緊張していたのだろう。この時もそう自分で思ったのだが、ふと同時に、控え室に行く直前に、京子が話してくれた事を思い出していた。思い出した所で緊張は消えなかったが、背中を冷や汗が伝っている様な感覚、体温が頭から下に向けてサァーっと引いてく感覚を覚えていたのが、そのお陰か、徐々にまた血気が戻ってくる様に感じた。
私の一つ前の人が舞台に出たのと同時に、我知らず「ふふ」と小さく笑みをこぼすと、椅子から立ち上がり、これまた本選の時と同じ様に、ストレッチをした。これを話すのも何度目かになるが、このストレッチも緊張を程よく緩めるのに貢献してくれた。後から思えば、京子様様だ。
それはともかく、ブーーっとブザーが鳴ったかと思うと、舞台の方から番号と私の名前が呼ばれた。
私は最後の締めだと、腕と手首のストレッチを終えてから、ゆっくりと舞台袖から外に出た。
少しの間暗い所にいたせいか、急に照明が強くたかれた舞台上に出ると、一瞬目の前がホワイトアウトしたが、歩みは止めなかった。
ただ耳には、客席の方から割れんばかりの拍手が聞こえてきていた。モニターで見ている時より、また、袖にいる時とは比べ物にならない程の音量だった。
私は舞台中央に置かれているグランドピアノを目掛けて最短距離で近寄った。そして椅子の真横に着くと、一応頭の中で、着物を着た時の、凛としたお母さんの振る舞いをイメージして、それらしく振舞いつつ客席に身体を向けた。観客席はやはり真っ暗で、またそっちからも照明を向けられていたので、全く人々の顔は見えなかったが、それでも大勢いるという感触が、視覚以外からヒシヒシと感じた。
この時、自分でも不思議に思ったが、我ながら全く硬くなっていなかった。眩しいながらも、堂々と会場を見渡していた。緊張感はキチンとあったのだが、心はしんと静まり返っていた。言葉一つない、物心ついてから初めて『無』と呼べそうな感覚に陥った。鼓動も一定だ。これはストレッチした事や、お母さんを思い浮かべただけのお陰では無いだろう。
頭を深く下げると、客席からまた一度拍手が湧き、頭を上げると早速ピアノの前に座り、一度両手を腿の上に乗せた。
そして一度数秒ずつかけて深呼吸をしたが、その時の心境としては、先ほどの”無”とは打って変わって、早く演奏したくてウズウズしていた。要は、とてもワクワクしていたのだ。この感覚は、そう、ピアノを習い始めて、ようやく基本的な運指が出来かけてきて、今まで弾けなかった曲が弾ける様になり、それを延々と弾いていた頃のに近かった。注意してないと、思わずにやけてしまいそうになる程だ。それを抑えるためにもまた一度深呼吸をして、それからそっと鍵盤の数センチ上に両手を浮かせて、ワンテンポ置いてから慎重な手つきで第一音を鳴らした。

第11話 コンクール(終)結

最後の一音を弾き終え、自分でも少し余韻に浸ってから椅子から立ち上がり、来た時と同じ位置に立ってお辞儀をすると、出てきた時よりも大きな拍手をもらった。
とここで遅ればせながら、予選、本選とこの二つでは端折ってしまったが、決勝ともなると紙面を割いて触れない訳にもいかないだろうと思い、軽くでも触れることにする。クラシックファンしか興味を惹かないだろうが、一応私が決勝に選んだ曲目を披露すると、モーツァルトのソナタ KV330 第2楽章、ハイドンのソナタ Hob.ⅩⅥ:34 第1楽章、大バッハのフランス組曲 第6番 ホ長調 BWV817より クーラント、そしてショパンの練習曲 Op.10-4 嬰ハ短調の四曲を、約十五分程かけて演奏した。
仕方ないとはいえ所々で演奏しながらも分かる程度の失敗はあったが、それでも持てる実力を出し切った感があったので、この時ばかりは変に卑屈にならずに、客席からの拍手を素直に受け止めて、まだ鳴り止まぬ間に静々と舞台袖に引っ込んだのだった。
控え室のドアを開けて、お母さんがいた位置にすぐ視線を送ると、お母さんはその瞬間に椅子から立ち上がり、まだドアの前で立ち止まる私に早足で近寄ってきた。
一メートルも無いほどの位置で立ち止まると、お母さんは何とも言えない様な少し強張りのある様な表情を見せていたが、フッと側から見てても分かる程に緊張を緩めると、「…お疲れ様」と言って、私と同じ体の向きになり、背中にそっと手を添えてきた。
さっきも言った様に、私はそんな心持ちになっていたので、無心のまま「うん」と自然な笑みを零しつつ返した。
それからは待ち時間にしていた様に、全く同じ位置に親子二人並んで座って、最後の出演者の演奏を見ていた。一々眺め回した訳では無かったが、それでも皮膚感覚で感じていたのは、控え室の雰囲気が以前と比べ物にならない程に軽くなっていた事だった。勿論ガヤガヤとでは無かったが、至る所で雑談を含む会話が聞こえてきていた。まぁ何せ歴史のある、全国に教室がたくさんある様なコンクール、そういった所から横の繋がりがキチンと形成されているのだろう。時々聞こえる会話の中身も、お互いの教室についての話などが多い様に感じられた。

私が最後から二番目というのもあって、一人演奏が終わると、私たちはモニター越しだったが、これで取り敢えずコンクールの終了という宣言が音声でなされた。
これから審査を始めるというので、その待っている間は休憩時間だと、観客席の人々はゾロゾロと会場から外に出て行く様子が画面越しに見えた。
客席が空になった辺りで控え室に係員が入ってきて、これから授賞式のリハーサルをすると言うので、お母さんたちを残したまま、出場者が揃って舞台袖に戻った。そこは本番とは違って明かりが灯されており、既に午前に終わらせていた他の出場者がスタンバイをしていた。そして間をおく事無く、全員纏まって礼儀正しく自然と列を作りながら舞台に上がった。
いつのまにセッティングされたのか、ピアノを奥に移動させて、その前に五十二ものパイプ椅子がズラッと並べられていた。
ふとその時会場を見渡すと、すっかり照明が戻っており座席がハッキリと肉眼で見える様になっていて、何だかついさっきにここで自分が演奏していたのが夢だったんじゃないかという錯覚に陥りそうになっていた。
それはともかく、実際はキチンと係りの人の誘導に従って自分の座り位置や、名前を呼ばれた時の作法など、軽く説明を受けた後、倍に増えた出場者と共に、一斉にゾロゾロと控え室に戻って行った。
控え室にも見知らぬ大人達が増えており、すぐに午前の部の関係者だと察した。
戻ってから四、五十分、雑談しつつ待っていたが、この時何と無く妄想していたのは、やはり師匠と京子の事だった。
こんな和気藹々とした雰囲気の中で、話してくれた様な事が起きただなんてねぇ…
などと、感銘を受けたのか、ただ呆れていたのか自分でも判断しかねる感想を持っていると、ようやく受賞者の発表の旨を知らせる放送がスピーカーから流れた。

保護者は観客席から見るというので、そこでお別れをして、私たち出場者はリハーサル通りに手順を踏んだ。
舞台袖に着くと、係りの人が胸元に付けた番号札を確認して配列の整理に追われていた。私と最後に演奏した子が先頭に立つ事となった。
会場に鳴り響く司会者の声に促されて、ふと隣の子に目配せをして、初対面で、しかもまだ話したことの無かった二人だったが、お互いにコクっと頷くと、少しぎこちなさを残しつつ舞台上に歩み出て行った。その瞬間、会場からは割れんばかりの拍手が鳴り響いていた。本番の時とは比べ物にならない程だった。それに加えてまた一つ大きく違っていたのは、会場からフラッシュによる光の点滅がチカチカと瞬いていた事だった。たまたま客席に目を移していたので、その光に目が眩みつつ、リハ通りの自分の椅子に腰掛けたのだった。舞台一番端、二列に並べられた椅子の前といった位置だった。
出場者が全員座り終えるまで、普通にしていたら顔が客席にいくものだから、何だか気恥ずかしくなってキョロキョロと視線を泳がしていた。以前と違ったのは、前は観客席で手を振る裕美を見つけられたが、今回は結構大所帯であったにも関わらず、チラ見しただけだったがそれでも皆を見つけることは叶わなかった。
…とまぁこんな具合で事が進んで行ったのだが、ふと一人の正装した男性の老人が舞台脇からノソノソと出てくると、中央に既に置かれていたマイクスタンドの前に立ち、一度咳払いをした。
すると、会場は先程までの賑わいが嘘の様にシーンと静まり返った。どうやらプレゼンターは、本選の時のふくよかな女性とは違うらしい。私の位置からはほんの一瞬しか顔が見えなかったが、何処と無く見覚えがあった。だが、まだ誰かまでは思い出せずにいた。
老人は背をまっすぐに、何とも落ち着いた口調でゆっくりと話を始めた。まぁ言ってはなんだが、初めの方はコンクールの歴史なり何なりを触れるのに終始していたので、ここでは割愛させて頂く。
「えー…では早速、本日、金賞、銀賞、銅賞を見事勝ち取られた三名の名前を読み上げたいと思います」
と老人が言い終えると、係員が数人出て来て、本選の時とはまた幾分か多くの荷物を携えて老人の脇に立ち、その中の一人が持ってきたテーブルの上に、それらを丁寧に置いた。そして一人を除き、他の数名は早足で舞台から退場した。残った一人は、テーブルと老人の中間地点に微動だにせずに立っていた。
「えー…では、総勢52名の決勝進出者のうち、まず三位に輝きました方のお名前を読み上げたいと思います…」
と老人がどこからか出した紙を覗き込み、少しの間沈黙した。何となくだが、こんな時はドラムロールなどで空間を埋めるものなのかと思っていたが、この間は何も物音がせずに、私たち出場者、そして観客席にいる関係者一同がジッと老人の次の言葉を待っていた。
幾らか間が空いたその時、呼ばれたのは、私の座るところから一番離れた位置に座っていた女の子だった。
その瞬間客席側から拍手と共にピンスポットライトが当てられ、戸惑いの表情を浮かべている女の子を際立たせていた。女の子は思わずといった感じで既に立ち上がっていたが、私の様な遠い位置にいる者からも、口元を両手で覆いつつ涙ぐんでいるのが見えた。
出場者たちが笑みを浮かべつつ拍手をしていたので、私もそれに倣ってしていると、女の子はどこか危なげな足どりで老人の元に向かった。
そして前に立つと、老人はまず客席に向かって、彼女の演奏がどれだけ素晴らしかったかを力説していた。そこで初めて、さっきから彼女のことが見覚えなかったのだが、その理由が知れた。まぁただ単純に、午前の部に出ていたという訳だった。
私からは、老人に関しては背中しか見えなかったが、それ越しに見えていた女の子の表情は、緊張している様な、もしくはどこかホッとしている様に見える顔つきをしていた。ただ、目の下にライトに反射してか、光の筋が二本ほど見えていた。
「おめでとう」との言葉と共に、側に立つ係員から手渡されるがままに、まず賞状、次にメダルを首に老人自らが女の子に提げさせ、最後にトロフィーを手渡した。相変わらずこうして客観的に見ると抱える様な感じになって一杯一杯に見えたが、それでも女の子はようやくここで満面の笑みになり、何とか片手を空けて老人と握手をすると、最後に客席に向かって深くお辞儀をし、拍手の音が大きくなる中自分の席に戻って行った。
座る瞬間、また別の係員が一時的に今貰った物を預かる為に出てきていたが、それを待たずして、また老人は客席に体を向けると、またゆったりとしたペースで話し始めた。
「…さて、お次はいよいよ銀賞の発表になりますが、ここで一つ少し触れさせて頂きたいお話があります。それは…今年度の、この中学生の部のレベルが、近年稀に見るハイレベルだったということです。いや…この決勝に限りません。私自身は残念ながら体験出来ませんでしたが、全国のどの地区でも、誰を決勝の舞台に立たせようか、これほど難儀したことは無いという悲鳴を、各地の審査員から聞いてました。…ふふ、それはとても嬉しい悲鳴です。そしてその嬉しい悲鳴は今日、私も含めて同じ様に上げることと相成りました。特にこの…今年度の金賞と銀賞、この二人の演奏はタイプこそ真逆でしたが甲乙つけ難く、実際に選りすぐりの審査員が個別に点数を付けたというのに、結果としては過去に異例の無い程の僅差となりました。…」
…何だか、本選の時にも同じことを聞いたなぁ。
などと、初めの方ではあんなに緊張して固くなっていたというのに、もうすっかり慣れてしまって、他人事の様にそんな下らない感想を覚えつつ、老人の話に耳を傾けていた。
と、ようやくお話が終わると、老人は見るからに佇まいを正し、また一度咳払いをしてから
「…では、そんな中でまず銀賞を見事獲られた方のお名前を読み上げたいと思います」
と言うと、さっきよりもまた幾らか間を作って見せた。その間同じ様にこの場にいる人全員が固唾を飲んで老人の次の言葉を待った。
と、老人は少し俯いていたのだが、これまたゆったりとした動作で顔を上げると、感情を込めて一人の名前を読み上げた。
「…東京都出身、…エントリーナンバー五十一番、望月琴音さん」
そう言い終えた瞬間、目の前がホワイトアウトした。まず最初に戸惑ったのはソレだ。何が起きたのかすぐには分からなかった。どうやらさっき銅賞を受賞した女の子が受けていたライトが、私に向けられたせいらしい。
「…え?」
と私はようやく目が慣れると思わず声を漏らし、自分でも意味が分からず取り敢えず周囲を見渡した。すると他の出場者の男女が笑みを向けてきつつ、手元では頻りに拍手をしていた。
ふと老人の方を見ると、老人もこちらに笑みを向けて拍手をしていた。ついでに隣に立っている係りの人もだ。
ここでようやく、大袈裟ではなく聴力を取り戻した様だ。どう言う意味かというと、ここにきて客席の方からも大きな拍手を向けられている事に気付いたのだ。
ここまで実質数秒足らずだろうが、私の感覚では少なくとも一分程に感じていたが、何だか自分のではなく他人の身体でも操縦するかの様な、何とも言いようの無いぎこちなさを覚えつつ、やっとこさ立ち上がり、我ながら照れてるのか何なのか分からない感覚に包まれつつ、老人の前に出向いた。
何だかまだ足に力が入ってない様な感覚を覚えて、きちんと真っ直ぐ立てているのか自信を持てないままジッとしていると、何か老人はまたさっきの様に客席に向かって何か話していた様だったが、何も耳に入ってこなかった。だが、変な所は冷静になっていたらしく、その間ずっと老人の顔を眺めていたが、ふとその時、なぜこの老人の顔に見覚えがあるのかを思い出した。
…あ、そうだ、この人…京子さんがエッセイを書いている、私が毎月読んでいる雑誌でよく見る人だ。
そう、彼は前に京子の事に触れる中でチラッと触れた雑誌に連載を持っている御仁だった。この時はうる覚えでしか思い出せなかったが、確か国内の有名な交響楽団で首席指揮者だったと思う。後で知ったが、このコンクールの理事も務めているらしい。それで今回この役回りをする事になった様だ。
とまぁ、そんな事に気を向けていると、ふと老人が私に向き直り、
「望月さん…おめでとう」と穏やかな口調で言いながら、前と同じ様に係りの人から受け取った賞状を私の前に差し出した。
「あ、ありがとうございます」
と私は自分でも分かる程声を震わしつつ、カミカミでそう言いつつ丁寧に受け取った。この時ふと思ったのは、『私の声がマイクに乗らなくて良かった…』という単純でくだらない事だった。
それからは流れ作業的に、銀色のメダルを首から提げて貰い、トロフィーを受け取ると、さっきの女の子の行動を思い出し、それをそのまま真似て客席に向かって深くお辞儀をすると、自分では早足のつもりで席に戻った。座る前に、いつからいたのか係りの人がスタンバイしていたので、何も言われなかったが、今受け取った賞品を全てそのまま手渡した。
それからの事は…正直よく覚えていない。当然流れとしては次に優勝者の発表があったはずなのだが、勿体ぶるのでもなく本当に記憶になかった。
ただ辛うじて頭に残存しているのは、ハタから見てどうかは兎も角、座っている間、感覚的には興奮のあまりか小刻みに震えていた事、顔が異様に火照っていた事、それに…これは後で誰かに聞いた話だが、座っている間私は無表情ながら涙を流していたらしく、それを仕切りにメイクが崩れるのを気にする素振りも見せずに何度もゴシゴシと擦っていた様だ。
発表が終わった後、老人の合図とともに皆一斉に立ち上がると、その場で深く頭を下げて、そしてまた出てきた時と同じ様に舞台袖に引き上げるのだった。
と、控え室に戻る途中、係りの人から賞状、メダル、トロフィーを返して貰っていると、廊下で他の出場者に口々に声を掛けられた。男女問わずだ。皆して同じ様な笑顔だ。皆して私の演奏を褒めてくれて、そして銀賞、準優勝をした事についても喜んでくれた。
…もちろん、コンクールは言うまでもなく戦いの場だから全員では無い。むしろこうして声を掛けてくれた人は全体のうちの少数だった。だが、それでもその少数のこの子たちの口の端からは、何か卑屈な物だとかそんなのは感じなかった。ただ単純に、お互いに精一杯持てる力を出し切っての今だと、そういうやり切った後の清々しさとでも言うのか、上手く言えないが、その様な感じを受け取っていたので、私も素直に何か理屈をこねる事なく「ありがとう」と自然と笑みを零しつつ返した。
…っと、ここで一応慌てて付け加えると、別にこうして私に声をかけて来なかった多数に対して何か言いたい訳では無い。それだけはハッキリと言っておく。
とまぁそんなこんなで、本来は数分で行けるものを、こうして挨拶を交わしていたら、通常の何倍も時間をかけて控え室に着いた。
私と、それと銅賞の子と優勝した子も同様に挨拶攻めに遭っていたので、この三人が最後に入る形となった。
中に入ると、すでに他の出場者は各々関係者と抱き合ったりなんなりしていて、私はぼーっと少し眺めていたが、
「琴音ー!」と通る大きな声で呼ばれたのでその方角を見ると、そこには満面の笑みを浮かべたお母さんと、それと静かな笑みを浮かべて目を細めている師匠の姿があった。
「お母さーん!」
と何も考えがないままに、無心のまま体の赴くままにお母さん達の元へと駆け寄った。
「琴音ー!やったわね!」
と途中からお母さんからも私に駆け寄り、不意にガバッと腕を広げると、次の瞬間にはガシッと力強く抱きついてきそうになったので、私は慌てて
「ちょ、ちょっと、お母さんってばー…」
と私は手元の賞品三点セットに目を落としつつ苦笑交じりで言うと、「あ、あぁ、そうね?」
とお母さんもさっきの勢いは何処へやら、側のテーブルに私と手分けしてそれらを置いてから、「やったわね!」と少し落ち着いた様子で声を掛けてきつつ、改めて私に抱きついてきた。
私も身長が伸びているとはいえ、今だにお母さんの方が身長が高かったので、上手いことスポッと収まっている感覚を覚えていたが、
「うん!」
と私も胸の中でコクっと力強く頷きつつ返した。
その直後、お母さんはガバッと勢いよく私の肩に手を置いて体を離すと、満面の笑顔ではあったが、時折目元を指で軽く擦りつつ、
「琴音…あなた…頑張ってたものね…頑張ってたもんね…」
と若干涙声で何度もそう呟くのを見聞きして、普段はアレコレと複雑な想いがある為に、その様な姿や言葉を聞いても我ながらかなり冷めた気持ちを覚えていたのだが、この時ばかりは眼鏡なくお母さんのその言葉を丸々受け止めたせいか、この時初めて自覚的に涙がホッペを伝うのを気づけた。
そして私からも「うん…うん…」と同じ回数分答えていると、ふと視界の隅に師匠の姿が映った。
ふとお母さんに目配せをすると、何も言わなかったが伝わったらしく、フッと微笑んだかと思うと、視線だけを師匠の方に流したので、数歩分離れた師匠の前に出た。
師匠は今だにつば広帽子とサングラスをしていて、暫くこちらジッと見つめてきていたが、突然何も言わないままに、お母さんと同じ様にガバッと抱きついてきた。その瞬間、あまりの勢いでか、帽子が師匠の背後に落ちていくのが最後に見えた。
「し、師匠…?」
なかなかそのままの体勢のまま変えないでいるので、私は少し戸惑い気味に声を漏らすと、また同じ様に勢いよく私から離れて、床に落ちた帽子を軽くはたき、そしてそれを被り直すと、コンクール前とは打って変わって、周囲を気にする様子を一切見せないまま、今度はサングラスを取った。その下から現れたのは、長い付き合いの中でも見たことの無いような、一番の柔和な微笑みを見せてくれていた。
と、それも束の間、これもお母さんと同様に私の両肩をガシッと掴んだかと思うと、
「よくやったわね!よくやったわね琴音!本当によく…」
と初めの方は明るい笑みを浮かべつつ繰り返し言っていたのだが、途中からは段々と語気が弱まっていき、終いには涙を堪えるためか、苦悶をしている様な表情と、それでも気丈に笑顔を作ろうとする、その二つが同居した様な顔を向けてきていた。
「もうダメね…」
師匠は私の肩から手を離すと、目をこするんでも無く、ただ目元に指の側面をそっと添えつつ、照れ笑いを浮かべていた。
「師匠としてキチンと弟子の功績に対して、オタオタせずに声を掛けてあげようと思ってたのに…」
「…師匠!」
と私は、一人で何故か反省を始めた師匠を見ていて、色んな感謝の言葉が心の中を渦巻いていたが、それを一度に口にする事が困難だと分かった次の瞬間、考えるよりも身体が動いて、気付いた時には師匠に飛びかかる様な勢いで抱きついた。
「おっと…」
と咄嗟のことで声からも驚きを隠せていない様子が聞き取れたが、流石は私の師匠(?)、そのまま後ろに倒れる事なく、キチンと私を受け止めてくれた。
私は師匠に飛びついたまま、その胸に顔を埋めたまま身動き一つせずジッとしていた。何でそうしていたのか分からない。ただこの時は、時間の許す限りずっとそうしていたかったのは紛れもない真実だった。
「…ふふ、もーう」
と顔は見なかったが、師匠は明らかに呆れた風な口声を漏らしていた。
「私の弟子がこんなに甘えん坊だったなんてね…?」
と囁く様に言うと、師匠の方からも、さも壊れ物に触れるが如くに、そっと優しく包み込む様に抱きしめ返してくれた。

どれほどそうしていただろう?どちらからともなく体を離して、私と師匠が顔を見合わせて微笑み合い、そしてそのままお母さんとも微笑み合っていたその時、不意に一人の男性が控え室に入ってきたのが目に入った。その瞬間、控え室の空気が変わった様に感じた。その男性の姿を見て騒めき立っていた。
まぁそれもそのはず、その男性というのが、そう、先ほど舞台上で私たちに賞を受け渡していたあの老人だったからだ。
まぁそもそもこの老人に対してざわつくのは何も今日の審査の責任長だからという理由だけではない。先ほども言った様に、この老人は日本でも有数の交響楽団の首席指揮者を勤めていたので、音楽ファンなら色めき立って不思議では無かった。
とここで老人の姿を見た瞬間、師匠はハッと大きく目を見開いたかと思うと、慌ててサングラスをして、そして帽子を目深く被り、そして軽く顔をソッポに向けていた。
何だかその反応が過敏に見えて、またそれが面白く感じ、私はジッとそんな様子を笑顔で眺めていたのだが、老人の方は視線が一斉に注がれているのには構わずキョロキョロと辺りを見渡していたが、ふと私と視線が合うと、「あぁ!」とこっちにまで声が聞こえる程に声を上げると、一直線に私の元に歩いてきた。それと同時に師匠は私から数歩離れた。
私がその姿に対して、流石にと面白がるのを通り越して不思議がっていると、老人が笑顔で私に話しかけてきた。
「あぁ、いたいた。いやぁー、本来は舞台上で発表する流れだったのだが、何せこうしてこちらのコンクールに関わらせて頂くのも久しぶりだったから、段取りをとちってしまってねぇー…って、あ、いや…」
と開口一番一人でペラペラとまくしたてる様に話すと、今度はそんな自分に対して苦笑いを浮かべつつ、
「望月さん…だよね?」
と聞いてきたので、私はすっかり呆気にとられていながらも「は、はい…そうです」と返した。
すると今度は満面の笑みを浮かべたかと思うと、私に右手を差し出してきながら、
「今日はおめでとう!」
と言葉を掛けてきたので「あ、ありがとう…ございます」と返した。…もうこの時点で、私は早くこの場から逃げ去りたかった。何せあれだけ控え室に来てからずっと注目されていたこの老人が、ずっと私に構ってくるために、必然と他の人々の視線が私に集まって来ていたからだった。恥ずかしすぎて、穴があったら入りたい気分だった。
と、そんな私の心中など知る由もない老人は、次にお母さんに握手を求めていた。お母さんは持ち前の社交性で程々に明るく対処していたが、次の師匠はそうはいかなかった。
師匠も握手に応じていたが、サングラスをしたままで、それに顔を若干背けていたのを見た老人は、訝しげにジッと真顔になりつつ眺めていたが、フッと短く息を吐くと、私の事、そしてその指導に対して褒めた後に、また私の元に戻って来た。
「…さて、望月さん、私が今ここにわざわざ来たのはね、ある事を君にお願いしになんだ」
「あ、ある事…ですか?」
急に何を言い出すのか、そして何をお願いされるのかと身構えつつ返すと、老人は「あはは!」と愉快げに笑って見せてから続けた。
「ほら君…プログラムか何かで見なかったかな?このコンクールの決勝の後には、”後夜祭”があるって」
「え…あ、あぁ、はい、知ってます」
と私は一瞬何を問われたのか判断出来なかったが、冷静に記憶を手繰り、すぐに思い至ったのでそう返した。
これは今老人が言った様に、プログラムにも書かれていたし、それ以前にホームページ上にもデカデカと載っていたので、流石の私でもそれは目に通っていた。
「そうかい?良かった…なら話が早い」
老人は人好きのするニコニコ顔から、ふと柔らかい笑みにギアチェンジをして見せたかと思うと口を開いた。
「望月さん…この後の後夜祭、ソリストとして、私のオーケストラと共に演奏してくれないかい?」
「…へ?」
あまりに突然の、そして予想だにしなかった提案に度肝を抜かれ、自分でも分かる程に目をまん丸に見開かせながら老人の顔を眺めた。それから私は何だか気が落ち着かないままに、まずお母さんの方を見ると、お母さんも私ほどではなかったが驚きを隠せない様子だった。次に師匠の方を見ると、師匠は私と同じか、いやもしかしたら私以上に驚いて見せていた。サングラス越しでも分かる程だ。ついさっきまで身を隠す様に小さく目立たない様にしていたのに、正面から老人を見据えていた。気づけば辺りも静まり返り、それによって尚更突き刺す様な視線を肌にヒリヒリと感じる様だった。
これほど驚くのも無理はないと了承してほしい。何せこれは大分前にも触れたが、師匠と私とでどこのコンクールに出ようかと話し合っていた時に、最終的に今出てるコンクールに決めた大きな要因の一つがコレだったのだ。勿論このコンクールが、師匠と京子の初出会いの場というのもあって、私も間接的に関わりたい意味も込めて出てみたかったのは事実だったが、その時にも言ったが、私に密かな夢、オーケストラの中でピアノを弾いてみたいという大きな夢があったのだ。ピアノが実感として上達し始めた頃からのだ。ホームページを眺めていた時に、『決勝に進出した者のうち、成績如何ではオーケストラとの共演があります』と載っていたのを見ていたのだ。だからある種私はこれを目標に頑張ってきた所があるのだが、成績如何と書かれている以上、それは暗に優勝しなければその資格を得られないものだと思い込んでいたのだ。
…ここでまた少し話が逸れるのを許して欲しい。私は先ほど表彰をされた時、舞台上で座りつつ思わず知らず涙を零し、そしてこうして控え室でお母さん、そして師匠と抱き合いつつまた涙を流した訳だが、これには理由があった。
何を今更と思われるかも知れないが、最後まで聞いてほしい。
勿論初のコンクール出場にして、我ながら上手く決勝の舞台にまで昇り詰め、そして最終的な結果として何と全国の中で二位になれた、その嬉しさのあまりに涙を流したのは本当だ。だが、それと同時に、これはそこまでこの時に覚えた感想では無かったが、そうは言ってもやはりどこかで、優勝したかったという想いが強くあったのだろう。私自身はその所謂”名誉”面に関しては冷めた見方をしていると自分で分析していたのだが、意外と”熱い”部分もあったらしい。
これは余談だが、後日にお母さんや他の人に準優勝について誉められるたびに、「優勝したかったなぁ」と嘯いてみたり、師匠に対しては一度真剣に、本当は優勝したかった旨を話したりした。
…っと、何で今こんな話をしたのかと言うと、さっきも言ったように、優勝者しかその後夜祭のメインイベント、オーケストラとの共演というのが出来ないと思い込んでいた私は、もう一つの夢が破れたという点でも悔しくて泣いたんじゃないか…という自己分析を披露したかったのだ。…まぁそれだけだ。本筋に戻そう。

私は頭の中身を整理するのに精一杯だったが、やっと今言われた提案が私の中で現実味を帯びてくると、何とか嬉しさのあまり飛び上がりたくなる衝動を抑えつつ
「…はい、私でよければお願いします」
と老人に返した直後、お母さんと、すっかり私の真横に近寄って立っていた師匠に「…いい、かな?」と聞いた。
お母さんはまだ何が何だか事態を把握しきれていないようだったが、
「あなたがしたいなら、そうしなさい」と笑顔で言ってくれた。
「うん!で、あのー…」
と隣の師匠の顔を下から覗き込むように見つつ遠慮気味に声を掛けると、少し想像とは違って、師匠は間を空ける事なく満面の笑みを浮かべて返した。
「ふふ、何を躊躇うことあるの?あなたのコンクールよ?そして、あなたが自分の力で手にした機会、それをどう活かそうがあなたの自由なのよ?…やって来なさい!」
「…はい!」
と私が師匠に同じ類の笑みで返すと、気のせいかも知れないが、その瞬間また控え室に活気が戻ったように感じた。
「よし、じゃあそうと決まれば…」
と老人はまた人懐っこい笑みを浮かべつつ言った。
「これから何十分か、打ち合わせとリハーサルをしなくちゃ…あ、お母さんとお師匠さん?」
「は、はい」
とお母さんが返事をすると、老人は同じ笑顔のまま言った。
「他にも、もし望月さんの応援に来られた方がいらっしゃるのなら、私たちが打ち合わせをしている間に声をかけてあげて下さい。今会場は人々が掃けて空になってますが、もし良かったら後夜祭が始まるまでの間、そこでリハーサルをしますので、その合間に一度顔を合わせた方がいいでしょ?心配しているでしょうし、どうぞ会場内に案内してあげて下さい」


「は、はい、ありがとうございます。…じゃあ後でね、琴音」
「うん」
お母さんと師匠に見送られながら、出口まで他の参加者たちに声を掛けられながら老人と二人で外に出た。
「本当はねー、会場内での記念写真とかは、後夜祭が終わってからして貰う事になっているんだけれどねぇ?」
と廊下を歩いつつ老人が話しかけてきた。舞台とは反対方向だ。
「こうして後夜祭に出場するのが決まった人にだけ、特別にその関係者のみなさんも含めて許す事になっているんだ」
と老人は言い終えると、真横を歩く私に笑みを向けてきた。
「は、はぁ…」と若干の緊張を覚えつつそう返した。
それもそうだろう、半分以上諦めていた所でのこの状態、そして驚きが引かないままに今度はそのオーケストラの皆さんと打ち合わせをして、今日のうちに演る事になるだなんて、それこそ思いもしなかったからだ。
そんな本番とはまた一味違った緊張を孕みつつ老人について行くと、とある両開きのドアの前で立ち止まった。それから老人は間髪入れる事なくそのドアを開けた。元から音は漏れていたが、開けた瞬間Aの音、ドレミで言う所の”ラ”の音が大音量で鼓膜を振動させてきた。
と、老人が入った瞬間、その音は一斉に止んだ。
「やぁやぁ、お待たせー。ほら、望月さんも入って」
「は、はい…お邪魔します」
中に入ると、入口からでは分からなかったが、中々に広い空間が広がっていた。壁の一部は鏡張りになっており、顔をいくらズラしても映る自分と目が合った。どうやらリハーサル室のようだ。
もう既に入っていた三十人ちょっとの老若男女が、目の前に譜面台を置いて、それぞれ自分の楽器を持って半円形に座っていた。
その中央には指揮者台もあった。その脇…コンマスのすぐ近くにはグランドピアノも設置されていた。
みんなカジュアルでは無かったが、私ほどにはフォーマルでは無かった。
と、一同が皆して私に一斉に注目しながら多様の笑顔を向けてきたので、何だか気恥ずかしく身を小さくしていると、それを他所に老人が明るくそれぞれに声を掛けていた。
「やぁ、待たせてしまったかな?」
「待ちくたびれましたよー」
と、コンマスの位置に座る初老の男性がニヤケつつ返していた。
とここで不意に目が合うと、コンマスは笑顔を浮かべて「ようこそ」と穏やかに声を掛けてきたので、私は慌ててその場でお辞儀をしつつ「よ、よろしくお願いします」と返事をした。
すると何処からともなく「ふふ」と優しげに微笑む声が楽団内から聞こえてきたかと思うと、「うん、よろしく」とまた皆を代表してか、コンマスがその場で立ち上がると握手を求めてきた。
それに対して少し恐縮しつつ応じると、それを合図に他の皆も順々に私に握手を求めてきた。皆言い方こそ違っていたが、大体似たようなものだった。私の本番での健闘を讃えてくれたりした。その合間に老人が「この人らはね、私が指揮を振っている楽団の皆さんなんだ」と紹介してくれた。その中の精鋭だという補足も忘れずに。
流石に人数が人数だったので、軽くとは言っても数分ばかり時間が掛かったが、最後の一人とし終えると、老人が私にピアノの前に座るように言うので、素直に従って座った。
「さてと…」
老人はいつの間に用意していたのか、指揮者台の脇に置かれたパイプ椅子に座ると、私に話しかけてきた。
「望月さん、これから後夜祭のリハをする訳だけれど…急も急だから、そのー…突然のことで驚きもするし、それに伴って緊張もするよね?」
「は、はい…まぁ」
と私は照れ笑いと苦笑を同居させたような笑みを浮かべつつ答えた。すると老人は「ははは」と明るく笑うと言った。
「だよねぇー。まぁ、これも毎年恒例ではあるんだけれど、取り敢えずはね、今までの人もそうやって緊張してしまってるから、それをほぐす意味でも、少しばかり会話をしてるんだよ。何せ…折角のお祭りなのに、その主役であるはずの当人が緊張のあまり楽しめないで終わっちゃ、勿体無いからね」
「主役って…私のことですか?」
と自分でも場違いな返しだと思ったが、そう思った時にはもう口から出ていた。
それを聞いた老人はキョトンとしてみせると、次の瞬間にはまた「ははは」と明るく笑い、その表情のまま言った。
「そりゃそうだよー。…さて、この会話というのも、まず主役の人から質問を受け付けるんだけれど…何かある?」
「え?えぇっと…」
これまた急に質問があるかと話を振られて少し戸惑ってしまったが、根っからの”なんでちゃん”…もう中二にもなって”ちゃん”付けは”イタイ”気がしないでも無いが、そのなんでちゃんからしたら、それはもうずっと前から聞きたくて仕方なかった事が胸の中を渦巻いていたので、実際は遠慮がちにだったが質問してみることにした。
「そうですねぇ…あのー」
「ん?何かな?」
老人は好奇心に満ち溢れた笑みを向けてきていた。
「はい…そのー…何で私が選ばれたんですか?」
「…というと?」
そう聞き返す老人の表情は、想定内だと言わんばかりに顔つきに変化は見られない。
「だってそのー…私は今回の結果は準優勝でしたし、そのー…よく知らないんですけれど、こういうのは優勝者が選ばれるものだとばかり思ってたものですから、まさか私が選ばれるだなんて思っても見なくて…」
と私は照れ隠しにホッペを掻きつつ、失礼を承知で途中から視線を明後日の方角に飛ばしながら言った。
と、すぐに反応が返ってこなかったので、ゆっくりと視線をまた戻すと、老人は私に向かって子供のような悪戯っぽい笑顔を向けてきていた。そして目が合うと、口調もそれに合わせる様に言った。
「…ふふ、君は緊張をしていると口では言ってたけど、なかなかにどうして、キチンと筋道だった話をしてくれるじゃないか?それに…中学生とは思えない程の言葉遣い…君らならできる?」
とここで老人は楽団の皆の方に顔を向けた。すると一同はクスッと笑ったかと思うと「いいえー」と呑気な調子で返していた。
「いえいえ、咄嗟には無理ですよ。それに中学生だといったら尚更です」
と最後にコンマスが明るく返すと、老人はウンウンと頷いて見せていた。そんな空気の中、どう反応をしていれば良いのか判断出来なかった私は、微動だにせずに成り行きを見守っていた。
と、そんな私の様子に気づいたか、老人は若干申し訳無さげに笑いつつ言った。
「…あ、いやいや、ごめんごめん!主役をほっといて勝手に盛り上がってちゃいけなかったね?…ゴホン、ではその質問に答えようか。まぁ細かい話はともかく、確かに何で自分が選ばれたのか知りたいよねぇ?…とその前に望月さん、そもそもの所、どうやって選定されると思っていた?」
「え?それはやっぱり…今言いました様に、そのー…成績順かと」
「うん、そう思ってたって言ってたね。でも実際は優勝者でなく、準優勝者の君が選ばれた…って、準優勝でも十分凄いんだけれど」
アハハと老人は自分で言った直後に笑っていた。
「はぁ…。あ、そうそう、でも実際は違うよね?じゃあ、どうやってるのかと言うとね…」
とここで老人はふと楽団の方を向き、ぐるっと全員を見渡してから続けた。
「ここにいるみんなに選んで貰うんだ」
「…え?」
それを聞いた私も、思わず老人に倣って一同に顔を向けた。皆して私に色んな種類の笑顔を送ってくれていた。
私がまだ視線を戻さない間に、老人は愉快げな口調で先を続けた。
「まぁ、少数精鋭とはいえ、それでもこの人数だからねぇー。全員という訳ではないけれども、何人かは密かに観客に紛れて客席で演奏を聴いたりしてね、それ以外はこの部屋で聴いて、それで、”誰と一緒に演奏してみたいか”を多数決で決めるんだよ。…私も含めてね」
最後の方で私は老人の方に顔を戻したのだが、老人は最後に目を瞑った笑顔を見せた。
「なるほどー…」
と、本当に自分でも納得したのか何なのか定かでは無いのに、間を埋める為だけに声を漏らした。
「ふふ、さっきも舞台で言ったけれどねぇ」
と老人は今度は優しく微笑みつつ穏やかな調子で言った。
「コンクールの審査は彼らとは別に、この場にはいない審査員と協議の上で決めたんだけれど、その時も言ったよね?なかなかに僅差だって」
「は、はい…」
と、まだアレが今日の出来事だったのかも怪しく思うほどに記憶が曖昧だったが、そう返した。
「その中身は今も言えはしないんだけれど…まぁ端的に言って、君と優勝したあの子では、タイプが丸っきり違っていて、それ故に好みが大きく分かれるんだ。まぁ、それが今に繋がるわけだけれども…つまりね、まず結論から言っちゃうと、今回の後夜祭の出場者は、満場一致で君に決まったんだ」
「え?」
と私は先ほどから代わり映えのしない声を漏らして、またこれも同様に楽団の方に顔を向けた。皆は目が合うと笑みを浮かべつつ頷いて見せていた。
「これは結構珍しくてねぇ?まぁ毎度、優勝者と準優勝者の二択で分かれることは良くあるんだけれども、今回の様に満場一致する事は珍しいんだ。それをね、皆を代表して私が訳を説明させて貰うと…」
とここで一度老人は溜める様に言葉を切ってから、一度視線だけ軽く楽団に流すと、それから私に微笑みつつ言った。
「君の演奏からは、この手のコンクールには珍しく、型に嵌っていない、いや、そう思わせつつ、どこか何か色んな側面を見せられてる様な、一口だけ食べただけなのに、色んな味わいを感じさせてくる様な、そんなイメージを持たされたんだ」
「…い、いやぁー」
と、私みたいな未熟者が、プロの演奏家達の前で口を挟むのはどうかと思ったが、持ったが病で、どうしても反応せずには居れなかった。
「そ、そうです…か、ねぇ…?」
「…ほら先生?」
とここで不意にコンマスが口を挟んだ。口調に笑いが混じっている。「そんな面と向かって褒められたもんだから、彼女、困っちゃってるじゃないですか?」
「あ、そっか。…すまんね、望月さん」
「あ、いえいえ…」
老人がコンマスの言葉を受けた後、苦笑まじりにそう言うので、私はまた慌てつつ返した。
「とまぁ、そんな訳でね」
と老人は気を取り直して続けた。
「優勝した子も、それはそれは上手かったんだけれど、何というか…まぁ、コンクール仕様って感じだったんだよ。あ、いや、別にこれは貶しめる意図は無いんだけれどね?それはそれで一つの個性だろうし。でもまぁ…どうせこうして一期一会、いつまた何処で一緒に演奏出来るか分からないと思った時に、君のような今時珍しい、角度を変えて見れば見るほど違う側面を見せてくれるような、そんな面白い人と、是非こうしたお祭りの舞台でご一緒したいなー…って、ここにいるみんなが同様に思ったのさ」
「…ふふ」
老人が言い終えた後に、また無邪気に笑って見せたので、釣られたのか私も思わずクスッと笑みを零した。この老人が身にまとっている雰囲気のお陰か、自分でも分かる程にリラックス出来ていた。
「褒めてくださってありがとうございます」
と気後れなく自然にお礼の言葉を言うと、「如何いたしまして」と老人も笑顔で返してくれた。
「さてと、場も和んできたところで…」
そう言いながら老人はのそっと立ち上がると、指揮者台の上に登り、そして譜面に目を落としつつ言った。
「お祭りとはいえ、手を抜いて良いって事じゃないからね。本気で楽しむには、それなりに準備をしなくちゃ…」
老人のその声と共に、楽団員全員がゴソゴソと譜面を見たり楽器の準備をし出した。
このスイッチの切り替えの早さもプロのうちなのかな?
などと知ったかぶって感心しつつ、私も何となくそれに倣って、既に置かれていた譜面に視線を向けた。
「望月さん、譜面を見てくれてる?」
と老人が声をかけてきたので「はい」と短く、しかしハッキリと返した。
すると老人はニコッと一度微笑むと、
「ところで、その曲だけれども…君はそれ知ってるかな?」
と聞いてきたので、正直一瞬見ただけで分かってはいたのだが、それでも一応もう一度確認してから「はい」とまた返事をした。
「では、この曲、知ってるだけじゃなくて、そのー…弾けるかな?」と声の少し心配げな様子を混ぜつつ聞いてきたので、これはどこか私の何かに引っかかったのか、思わずムキになりながら、しかしそれでも笑顔で「はい」と力強く答えた。
…というのも、この曲は散々繰り返し師匠の家で弾き込んでいた曲だったからだ。
その曲とは、ショパンのピアノ協奏曲第1番ホ短調だ。短調というだけあって、曲通して少し哀愁や暗さを滲ませるような曲なのだが、その感じが私は大好きだった。
師匠のところでよく弾いていたとは言ったが、言うまでもなくこれはオーケストラと一緒に演奏するものなので、実際は音源を流して、それに合わせて弾くといった感じだ。曲が始まって最初の四分ほどは出番が無いが、それからはピアノがメインに曲が展開していく。まぁこの曲について説明をし出すと長くなるし、曲自体も軽く三十分は越えるので省かせて頂くが、なかなか弾くのは難しいのだが、それでも上手く弾ききれた時の嬉しさったらないものだった。
とここで一つ、これは直接聞いた訳では無いから定かではないが、恐らくそうだろうと言う話を付け加えさせて頂く。というのも、何で老人も含めて皆さんが、数ある協奏曲の中でこの曲を選んだのかという事だ。これは想像するに、事前に私がこの曲を弾ける事を知っていたからだと思われる。何故そこまで自信を持っているのかというと、ネタバラシをすれば、このコンクールに申し込むに当たって、アンケートを取らされたのだ。
その中の数ある質問の中で、『協奏曲では何か弾きこなせる、もしくは弾き慣れたものはあるか』というのがあった。アンケートに答えている時も側に師匠がいたのだが、師匠に私が何の曲なら答えて良いかを相談したところ、師匠は色々と何曲も言ってくれたが、その中から抜粋して三曲ほど答えた中の一曲がコレだったのだ。
「そうかい?では…」
と老人もそれ以上深く何も言わぬまま、合わせるのが難しい所を中心にリハーサルを重ねた。…といっても、実質三十分ちょっとくらいか、私はこんな簡単に終わらせていいのかと心配したが、それが顔に出ていたのか、老人は笑顔で「まぁさっきは手を抜かずにとは言ったけど、煮詰め過ぎてもキリが無いから、後は本番、どれだけ気を楽に楽しんで演奏出来るかだけだからさ?まぁ、よろしく頼むよ!」
と握手を求められたので、「は、はい」と私も苦笑いを浮かべつつ応じた。
それからは楽団の皆と一緒に支度を済まして、ぞろぞろと部屋を出て舞台に向かった。

舞台に出ると、そこには本番時とは違って、ピアノ以外にリハーサル室にあったような物が、そのままそっくり設置されていた。
ここまで楽団の皆と一緒に列をなして来たのだが、最後尾を老人と共にしていたので、舞台上には一番最後に入る形となった。
私が入る頃には、楽団員は皆自分の定位置に座りゴソゴソと準備をしていたが、ふとその時
「あ、琴音ー!」
と、最初の方は一人の声しかしなかったが、途中から何人かの声が混ざって私の名前を呼ぶ声が客席からした。流石、音楽に特化したホール、実際はそれほど大声では無かっただろうが、こちらまでよく声が響いた。
この時初めて客席を見た。老人が言った通り、本番時、そして表彰時とはまた別、人もまばらな客席は照明が点けられ、隅々までよく見えた。その私のいる舞台上から数列ほど離れた位置に、ある集団が固まっているのが見えた。その中の余所行きの装いの、私と同年代の子供たちが私に笑顔で手を振っている。そう、裕美たちだった。「あ、裕美ー。みんなー」
と私も声を上げると、裕美たちは笑顔で早足にこちらに近づいて来た。
とこの時、私はふと老人の方に目を移した。何も聞かされていなかったが、後もう少しで本番、最後に何か確認をしたりするんじゃないかと、裕美たちと絡んでいて良いのかと顔を覗いた。
指揮者台上で何やら準備をしていた老人は私の視線に気づくと、一瞬無表情だったが、すぐに笑顔になり、こちらに向かって来る途中の裕美達の方に視線をチラッと流してから言った。
「…ふふ、まだ本番まで時間があるから、ほら、あぁしてお友達が来てくれてるんだから、相手をしてあげて?さっきも言ったけど、今この会場には誰もいないでしょ?本当なら、出場者も含めて記念撮影とかは、後夜祭まで終わってからしばらく会場を開放して、その時にして貰う形式なんだけれど…結構その時は皆一斉にするもんだから、なかなか落ち着いて出来ないんだよ。だから、こうして大会と後夜祭の合間に誰もいない時にやれるのは…後夜祭に出れる者の特典なのさ」
と最後に例の無邪気な笑みをこちらに見せてきたので、「なるほど」と私も笑顔で応えた。
「ほら、行っておいで」と老人が言ってくれたので、「はい」と私は答えると、もうすぐそばまで来ていた裕美達の方に顔を向けた。
そして一つだけある三、四段ほどの階段を使って舞台袖に降りると、その瞬間、「琴音ー!」との掛け声と共に、裕美たちが一斉に私に抱きついてきた。その声はまたもや会場によく響いた。
「おっと…」
私はその勢いに思わずよろけてしまい、苦笑まじりに声を漏らしたが、その抱きついてきた裕美たちと一歩離れた所で立っていた律と目が合うと、次の瞬間、律がこれまた一年に一度か二度見れるかどうかの微笑みをしてみせたので、それが最後の決め手になったか自然と笑みが溢れた。
「ふふ、ちょっとみんなー?」
と私は我に返りまた舞台の方を見ると、老人含む楽団の皆は同様の微笑みを向けてきていた。
「ふふ、構わんよ」
と何も言ってないのに老人が微笑みつつそう言うので、私は小さく会釈をすると、もう頭からは遠慮の字が薄まっていった。
そんなやりとりを目の前で見ていたというのに、裕美たちは興奮した面持ちで、それぞれの見方による個性的なやり方で褒めてくれた。
…この場面を端折るのを勘弁してほしい。何せ皆して一斉に言うものだから、今上手く当時のことを話せないと言うのと、…これこそ身勝手な話だが、上手く話せない分、裕美たちの言葉は私の胸の中に閉まっときたいと思うのだ。
それはさておき、私はそれに対して一つ一つ丁寧にお礼を言っていったが、この時ふと、皆の瞼が若干腫れぼったく見えたのだが、当初これを、いくら照明がつけられたとは言っても、軽く薄暗かったので、その成せる技かと漠然と思っていた。だが、この後しばらくしないうちに、誰かさんによって訳をバラされる事となる。
一通り裕美たちと会話を済ませると、それまでジッと空気を読んでなのか、まだ裕美たちが私のそばを離れない時に、絵里、ヒロ、そして京子さんがゆっくりと近づいて来た。京子はサングラスは外していたがつば広帽子をしたまま明るい笑みで、絵里は何だか愁いを感じさせる今まで見た事のない類いの笑み、そしてヒロも何だか不機嫌なのか、照れ臭いのか、そのどれとも取れるような表情を浮かべていた。と、ふとその後ろにお母さんと師匠の姿も見えた。数歩離れた位置にいる。師匠もサングラスはしていなかったが、帽子を目深に被っていた。
「琴音ちゃーん!」
とまず話しかけてきたのは京子だった。そしてその直後にガバッと力強く抱きついてきた。
「おめでとー!」
「わっ!」
と私は咄嗟のことで思わず声を上げてしまったが、直後に胸に去来したのは、先ほどの控え室での一コマだった。
「あ、ありがとうございます」
と京子が体を離した後に、私が苦笑まじりに返すと京子は何も言わずにウンウンと笑顔で頷くのみだった。
「ほら、二人も」
と京子は不意に一歩後ろにいた絵里とヒロの隣に立つと、絵里の背中を軽く押して前に出るように促した。
「あ、はい…」
と絵里は何だかしおらしく反応して私の前に来た。
私はそんな絵里の様子に何とも言い難い不安に襲われたが、ふと絵里の瞼も若干腫れているのに気づいた。
「え、絵里…さん?」
と私が恐る恐る声をかけた次の瞬間、絵里が何も言わずに、これまた京子と同じ様に抱きついてきた。…いや、同じではないか。
細かい話だが、京子は私よりも大きく、また控え室での一コマでも、お母さん、師匠共に私よりも背が高かったので感触は違った。若干私よりも低い絵里が抱きつくと、自然と私の鎖骨あたりに顔が行っていた。
「え、絵里さん…?」
抱きついたまま何も言わないので、さっきとはまた違う意味でオドオドしたが、数秒ほどそうした後、絵里は勢いよく顔を上げて、両手をむき出しの私の両肩にかけた。少し震えていた。
顔を見ると驚いた。満面の笑みを浮かべていたが、両目からは大粒の涙を零していたからだ。
「え、絵里さ…」
と芸もなくまた繰り返し名前を呼ぼうとしたその時、
「おめでとう!琴音ちゃん!…お、おめでとう…」
と最後の方は涙声で、しかし気丈に笑顔を保とうとしつつ言った。
「え、絵里さん…」
と私はそれに驚きつつも、同じに胸に一気に膨らむ様々な思いに締め付けられる様な感覚に襲われて、それのせいなのか、私の視界も滲んでいくのを感じた。
本当は色々と言いたいことがあったのだが、場が場なだけに自重しようという、我ながら冷静な判断が働き、ただ一言
「…うん、ありがとうね絵里さん」
と、鏡などで見てないから定かではないが、おそらく絵里と同様であろう笑みを浮かべて返した。
「うん!」
と絵里が明るく装い言葉を発すると、
「…ふふ、もーう」
とここで裕美が苦笑を浮かべつつ言った。
「絵里さんったらー…またそんなに泣いちゃってー。琴音、絵里さんたらね、アンタの演奏が終わった後も、”誰よりも”先にポロポロと涙を零してねー?」
とここで絵里に意地悪げな視線を向けつつ続けた。
「受賞の発表の時なんか、また”いの一番”にまた泣いてたのよ」
…”誰よりも”だとか、”いの一番”という言い方にすかさずツッコミを入れたくなったが、裕美がそう言い終えると、今度は絵里が泣き腫らした顔でニヤケながら返した。
「…あらー?それを言っちゃうの?どっかの誰かさんだって同じじゃなかったっけ?…そんな目を腫らして」
と絵里が自分の目元に指を当てつつ言うと、
「うっ!うーん…」
と裕美は言われた瞬間大げさにバツ悪げな反応をして見せた後、私に視線をチラチラと流しつつ、照れ臭そうに首筋を掻きつつ笑っていた。ふと側の藤花たちを見ると、裕美と同様のリアクションを取っていた。それを見て私は、ただただ微笑むだけだった。
この時は誰も言葉を吐かずに、皆して微笑む中、「あははは!」と京子一人が豪快に笑っていた。
「そ、それはさておき!」
と裕美がアタフタとぎこちなく、急に声を上げた。
「何をさておくの?」
とすっかり普段通りの調子を取り戻していた絵里が冷やかしていたが、裕美はそれに対してジト目で一瞥をくれただけで、先ほどから絵里よりもまた一歩離れた所にいたヒロに声をかけた。
「ほらヒロ君、そんな後ろにいないで前に来なよ?」
「え?お、おう…」
ヒロは何だか渋々といった調子でトボトボと前に進み出た。
途中で絵里に微笑まれつつ背中を押されていた。
「…ヒロ」
腕を伸ばせば手の届く距離まで近づいた時に声をかけたが、何故かヒロは中々私に顔を合わせようとしなかった。
私は絵里の時とはまた違った、これまた普段通りでないヒロに対して苛立ちにも似た感情を覚えていたが、ここで何故かふと、何だかヒロがそんな態度をしているのを見て、徐々に何だか恥ずかしさに似た感覚を覚えていった。
…?
これには我ながらに驚いた。ヒロとはもう小学校入学時からの付き合いなので、この中ではお母さんを除いて一番付き合いが長いのだが、今までの内でヒロと一緒にいてこんな感覚に陥るのは初めてだった。こんな所で出所の不明な訳わからない感覚に襲われるのは想定外だったので、思わず自分の胸元に手を当ててみたりした。
と、その時「うーん…」と、呻き声にも似た声が側から聞こえた。その主は言うまでもなくヒロだった。
「うーんと…よ?」
「な、何よ?」
と、まだ恥ずかしさから抜け出せていなかった私は、この場にはふさわしくないとは思ったが、それでも思わず喧嘩腰な物言いで返した。この時までさっきから周りを見てはいなかったが、見なくとも皆してこちらに向かって良くて微笑んでるか、まぁ大体はニヤケ面を向けてきているだろう事は想像できた。…何故か。
と、そんな私の返しにヒロは目をキョトンとさせていたが、次の瞬間「プッ」と一度吹き出すと、苦笑まじりに言った。
「…ったくー、何でお前はこんな時でも喧嘩腰なんだよー?」
その様子が普段のヒロそのものだったので、この時になってようやく出所不明の恥ずかしさから解放されて、自然とニヤケつつ返した。
「…何を今更言ってんのよ?これが私の”地”じゃない?」
するとヒロは大きく溜息ついて見せながら返した。
「なーんだ、ガキの頃から何も変わってねーじゃねーか。せっかく俺が褒めてあげようと思ったのによ」
「お互い様でしょ?それに…いつからあなた、誰かを褒めれる程に偉くなったの?」
「…何か言ったか?」
「聞こえなかった?もう一度言ってあげましょうか?」
と二人で無駄な時を浪費しつつ軽口を言い合って、ここでお互いに無言で顔を突き合わせると、どちらからともなく吹き出すように笑みをこぼし合うのだった。
「ねぇ裕美?ヒロは何も成長してないよね?」
とあくまで軽口の延長で、これも普段から三人でしているノリのままに裕美に振ると、私と目が合ったその瞬間、何だか一瞬真顔でこちらを見てきていた様に見えた。
がしかし次の瞬間、
「え?あ、うんうん!何も成長もしてないし、変わってもないよ…アンタら二人ともね?」
とニヤケつつ言うので、
「おいおい!このへんちくりんと一緒にしないでくれ」
「ちょっとー、こんなお猿さんと一緒にしないでよー」
と私、ヒロがほぼ同時にそう返すと、
「あははは!」
と裕美は明るく声を上げて笑うのだった。それにつられる様に、波状的に笑いが広がっていった。最終的には、一度ヒロと顔を見合わせてから、初めは苦笑から、最終的には明るくお腹の底から笑うのだった。…そう笑いつつも、やはりどこか納得いかない点を残して。
皆と会話が終わった頃、老人がそろそろ良いかと聞いてきたので、「はい」と答えて舞台に戻ろうとした時、
「あ、その前に…」
と老人は舞台袖にいた係員の女性を呼び寄せた。
そして何か耳元で声を掛けたかと思うと、女性は舞台から降りて来ようとしたので、私は登ろうとしたその足を引っ込めた。
係の女性が私の脇を通り過ぎるのを目で追ってると、老人が声をかけてきた。
「さてと!そろそろ後夜祭の始まる時間が近づいていますが、その前に…もし良かったら、この舞台を背に写真でも撮りませんか?皆さんの」
「…え?良いんですか?」
と今まで静かだったお母さんが遠くから返した。
すると老人は無邪気な笑顔で返した。
「えぇ、もちろんですよ。…これも後夜祭出場者の特典です」
と老人は言い終えると、舞台下の私にウィンクをしてきた。
「そこにいる女性が、写真を撮ってくれますので、撮って欲しい方は彼女に写真機なり、携帯なりを渡して下さい」
「どうぞ?」
と係の女性が笑顔で手を差し伸べたので、初めは逡巡して見せたお母さんだったが、「ではお願いします」と笑顔でカメラを手渡した。と、次の瞬間、裕美たちが一斉に女性に駆け寄った。そして自分の携帯を我先にと手渡すのに躍起になっていた。これには流石の係の女性も、私の位置からも分かる程に苦笑い気味だった。
結局一人残らずお母さん以外は師匠や京子まで携帯を手渡したので、女性は側の座席の上にそれらを纏めて置いた。
その間、老人に促されるままに私、お母さん、裕美たち、絵里、ヒロ、師匠、京子の順に舞台に上がった。裕美たちやヒロ、絵里は興味深げに舞台上を見渡していたが、ふと師匠の方を見ると、何やら老人に絡まれていた。いつの間にか帽子を脱いでいた。師匠は何でか照れ臭げで、それとは対照的に京子は満面の笑みで対応していた。そんな様子に気を取られていると、
「では撮りますよー?」
と係の女性が声をかけてきたので、私を囲む様に、ああでもないこうでも無いと言いながら場所どりをした。
最終的に舞台に向かって右から、律、藤花、紫、裕美、中心位置のお母さんと私、師匠、ヒロ、絵里、京子という順に立った。
そろそろ時間だといいつつ、お母さんのカメラを入れて個数分撮らなければならなかったので、何だかんだ時間が経った。撮られながらふと思い出したのは、中学一年生での研修旅行、東京湾上のパーキングエリアで、初めて今日来てくれた四人との集合写真を撮った事だった。後で皆に聞いたら、私と同じだったらしい。

撮り終えると、”本当に”これから本番だからというので、私を残して皆ゾロゾロと舞台を降りていった。その時に、私に「頑張ってね」的な言葉を掛けてくれた。
それに応じると、まず登場から始めるというので、老人含めた楽団員と共に舞台袖に引っ込んだ。
それと時を同じくして、会場に音声が流れたかと思うと、ゾロゾロと人々が入ってくるのが気配から感じた。
私は好奇心に駆られて舞台袖からそっと客席を覗き込むと、さっき写真を撮った時とは微妙に順序が違っていたが、最前列の客席に仲良く横並びに座っていた。
と、ここで不意に背中にそっと手を当てられたので振り返ると、そこには老人の笑みがあった。
「さて…楽しもうね?気楽に…でも気は緩めずに」
と声をかけてきたので「はい」と目つきは真剣に、しかし口調は朗らかに返した。そしてまた顔を舞台へと向けた。
と、ここで前触れもなく客席の照明が弱められたかと思うと、
ブーーーっ
というブザーが鳴らされた。これから後夜祭が始まる。
鳴り終えると、楽団員がゾロゾロと舞台へと出ていった。私の脇を通るたびに、無言ながらも笑みを浮かべつつ軽く握手をした。
そして最後に老人が舞台に出ると、老人は深々と客席に向かってお辞儀をした。その瞬間客席からは大きな拍手が沸き起こった。
この時初めて…と言っては失礼だと思うが、老人がクラシックファンにこれほど認知され、それと同時に人気があるのを知った。
この拍手を聞いたその瞬間、また体に緊張が溜まるのを覚えたが、すぐにその場で軽くストレッチをした。
とふとここで舞台上の老人と目が合った。私のそんな様子に対してだろうか、好奇心に満ちた笑みを向けてきていたが、しばらくして、『もう呼んでもいいかな?』と言いたげな視線を向けてきたので、私は力強く頷いた。
すると老人は、まだ拍手の残る客席に対して体を向けつつ、右手をバッと私のいる舞台袖に向けた。
私は一度「はぁー…」と深呼吸をしてから、コクっと自分に対して頷き、それから静々と、しかししっかりとした足取りで、舞台上に足を踏み出していったのだった。

第12話 沙恵と京子

「はぁ…ごちそうさまでした」
私は空になったお皿を流しに持っていき、既に他の食器類を洗っているお母さんに声をかけた。
「はーい」
とお母さんは私に笑顔を振りまきつつお皿を受け取った。
と、私の様子を見たお母さんは、やれやれと言いたげな表情を浮かべつつ「もーう」とため息交じりに声を漏らした。
「シャキッとなさい?今日から二学期でしょ」
「う、うん」
と私はそう言われてもまだテンション低めに返した。
それを見たお母さんは手をタオルで拭いてから、私の背中をポンと叩いて笑顔で言った。
「ほーら、今日朝礼があるんでしょ?シャキッとしなさい?」
そう、それがあるからこうして私は朝から気が重いのだ。
「はぁーあ…」
と私はワザとらしく大きく溜息をつきつつ、学校の支度をする為に自室に戻って行った。

…何でこれ見よがしに、ここまで大袈裟とも取られかねない程にテンションがダダ落ちなのか説明がいるだろう。それにはまず、あのコンクール後の、今日までの話に軽く触れざるを得ない。
まず後夜祭自体について。まぁ結論から言えば、周囲の本心はともかくとして、私自身はとても楽しめた。ショパンのピアノ協奏曲第1番ホ短調を、オーケストラの皆さんと共に演奏した訳だったが、この三、四十分間は至福のときだった。後になって色んな人に、演奏時の私の写真を見せて貰ったが、タイミングにもよったのだろうが、どの写真に写る私は笑みを零していた。自分でも気付いていなかったが、それほどまでにオーケストラと共演できる事が嬉しく、そして楽しかったのだろう。勿論ここで言い訳をさせて貰うと、急も急だったので失敗が無かっただなんて言わないが、それを抜きにして楽しめ、そして終わった後に、お祭りだからと贔屓目があったのだろうが、客席からは暖かく大きな拍手を頂き、そして老人を含むオーケストラの面々から先に、「今日の共演はとても楽しかった」というお褒めの言葉を頂いて、私からも慌ててお礼を言ったのだった。
後夜祭が終わった後は、しばらく会場に残り、裕美たちと写真を何枚か撮ったりして、会場の外に出た時にはもう夜の九時に近付こうとしていた時だったので、打ち上げはまた別の日のと約束をし、まず銀座で紫、藤花、律とサヨナラをし、そして残る面々で仲良く地元へと帰ったのだった。
…ここまで聞いた中では、どこにそんな落ち込む要素があるのだと不思議に思われているだろうと思うが、問題はこの後にあった。
決勝の日がそもそも始業式の十日前だったというのもあって、その間に裕美や絵里、ヒロなどの地元組、そこに師匠と京子、そして裕美とヒロのお母さんまでが加わって、駅中のそこそこ格式のある和食屋で食事会をしたり、これとはまた別に、律たちのお母さんなども加わった”学園”関係の皆ともまた別に食事会を催してもらったり、これはただ連絡したのみだったが、勿論義一に、そして美保子や百合子にも結果報告をして、それに対するお祝いの言葉などを受けたりしていたりと、何だかんだ忙しない夏休み終盤を過ごしていたのだが、始業式の二日前、不意に学園から我が家に電話がかかってきた。この時私は家にいなかったのだが、帰ってくると、お母さんがわざわざ玄関まで出迎えにきて、何故かテンション高く挨拶をしてきた。この時の私は不思議に思いながらも普通に挨拶を返したが、次の瞬間、衝撃的な話を聞かされた。
まず学校から電話があった旨を話したその後で、その要件を言うのには、何でもコンクールの主催元から連絡が入ったとかで、それを是非とも始業式で壇上で触れたいから、もしかしたら演壇に上がっても貰うことにもなるかも知れないとの内容だったらしい。
これを聞いた時、私は唖然とした。何でそんな大袈裟な話になっているのかと。と同時に、この時すぐ頭に思い浮かべたのは、私自身は覚えていなかったのだが、小学生時代、裕美が水泳で都大会を優勝した時に、朝礼で祝られていたという事だった。
「はぁー、許されるのなら朝礼にお邪魔して、琴音のその勇姿を見たいわぁ」などと言うお母さんの言葉を流しつつ、私は早速裕美にその話をした。
話を聞いた裕美は、電話越しにでも分かる程に愉快げに笑ってみせたので、私は少し膨れてみせつつ「笑いごとじゃないよぉー」と言った。すると裕美は、まだ笑いが収まらない様子で
「まぁ諦めるんだねー。アンタがそうやって変に目立つような真似をしたくないっていうのは、私くらいの付き合いがあればすぐに分かるけれど、でも大概の人にとっては、そうやって大勢の前で褒められたりするのは嬉しい事なんだから、まぁ…開き直って、なかなかない体験をすると割り切って行くしかないんじゃない?」とまるで他人事…いや、他人事なのだがそう軽く諭されてしまったので、私は渋々でも頷くほか無かった。まぁ、経験者の裕美にそう言われてしまっては仕方がない。
というわけで、始業式の朝、何も夏休みが終わってしまったことに対してブルーになっていたんじゃなく、この後に起きるであろうことに対してブルーになっていたのだった。
「いってきまーす…」の声と同時に、のっそりと家を出た。天気は私の気分に反してぴーかん照り、まだまだ余熱の残る夏の日差しだった。
「おーい、琴音ー!」と裕美のマンションの前で呼び止められた。私はまだ歩道にいたが、裕美がエントランスから笑顔でこちらに駆け寄って来た。これまた私に反して明るい笑顔だった。日差しにも負けていない。
「おはよう…」と私が肩を落とし気味に挨拶をすると、「おはよう!」とワザとなのか普段よりもテンション上げ気味に返してきた後で、「もーう、何でそんなにテンション低いのー?」とニヤケながら付け加えた。
「あなたねぇ…」とジト目で裕美の方を見た後、駅に向かって足を踏み出しつつ言った。
「…そりゃあテンションも上がらないわよ。この後の事を想像するだけで、気が滅入っちゃう」
「あはは」
と裕美は一度明るく笑い声を上げると、そのまま表情を崩さないで言った。
「私も小学生の頃、初めての時は確かにナイーブにはなってたけれど、今のアンタほどでは無かったわ。…私の小学生の頃に負けてるわよ?」
「うるさいわねぇ…」
と裕美のニヤケ面に一瞥をくれると、フッと息を短く吐いてから、今度は私から意地悪げな表情を浮かべつつ言った。
「私はどっかの誰かさんと違って、繊細なのよ」
「繊細ー?」
「何よ?何か文句でも?」
と私が聞くと、裕美はクスッと一度笑って見せてから言った。
「自分で繊細って言ってる人が、普段からあれだけ毒を吐くかね?」
「…私がいつ毒を吐いたって言うのよ?」
「え?…普段から」
と裕美はワザとらしくキョトンとした表情を見せつつ返してきたので、もうこうなったら仕方ないと諦め気味に苦笑をしていたが、ふとある言葉が浮かんだので、それを口に出した。
「…仮にそうだとしても、それはねー…コンプレックスの裏返しなのよ。それのなせる技なの」
我ながら上手い事を思いついたと思ったが、言われた当の裕美は、今度は心からのキョトン顔を浮かべて、何か吟味をしている風だったが、ふと今度は裕美が苦笑まじりに言った。
「…もーう、アンタはまたそんな分かるような分からないような、分かり辛い言い方をしてー…ほら、さっさと駅に向かうわよ?」

裕美と会話を楽しんだお陰か、良くも悪くも開き直りの心境に達していたが、乗り換えの秋葉原で待ち合わせをしていた紫と会うと、必然的に今日の朝礼の話になったので、また胃が重くなるのだった。そんな私を他所に…いや、巻き込みつつ、紫と裕美は四ツ谷に着くまで終始盛り上がっていた。
四ツ谷に着いて、学園までの通り道上にある地下鉄連絡口の方に向かうと、そこには既に藤花と律が立って待っていた。お互いにほぼ同時に姿を認めると、どちらからともなく手を振りあった。
私含めた五人が寄り合うと、挨拶はそこそこに、またしても私の話に終始した。以前にも話した通り、学園までの道を私たちは二列に原則並びながら歩いていくのだが、前方を歩く裕美、紫、藤花は何かを話す度に、こちらをチラチラと見てきながら笑い合っていたので、「ほら三人とも?道でそんなフラフラしてちゃ、回りに迷惑でしょう?」と保護者風なイジらしい抵抗をしてみたが焼け石に水だった。ふと助けを求めるつもりで隣を歩く律に視線を移したが、律は律で珍しく、目元と口元に若干の意地悪げな微笑みを湛えて見せていた。私はもう抵抗は虚しいと、一人大きく溜息をついて、学園までの道を足取り重く行くのだった。
学園に着き、いつものように中学二年のクラスが纏まって接している廊下まで揃って行き、また後でと声を掛けつつ私と律のクラスの前で別れた。
それから私と律と揃って教室に入ると、思ったよりも何の変化もなかった。
…何でそんな風に思ったかと言うと、てっきりもう既にクラス全員に今日のことが知らされていて、この時点でクラスメイトに冷やかされたりするものだと思っていたからだ。だが、時折挨拶をする程度で、一学期の時と何ら変化がなかったので、肩透かしを食う形となった。まぁもっとも、この時思ったのは、今時クラスメイトが朝礼で取り上げられる程度の事で、そんなに盛り上がったりするほど他人に対して興味が無いのかもと、聞く人によっては自虐に聞こえるかもだが、私としてはそれは嬉しい誤算であった。
チャイムと共に、私たちの担任である”志保ちゃん”が教室に入ってきた。学級委員の挨拶の後に続いて言った後、出席を取られ、そしてその流れのまま、朝礼や式典に使われている、軽く傾斜のつけられた斜面に沿って座席が設置されている講堂へ向かうために、ゾロゾロと廊下へ出た。最後の方で律と一緒に出ようとしたその時、不意に志保ちゃんに呼び止められた。
「何ですか?」
と私が聞く側を、残りのクラスメイトたちが通り過ぎて行った。最終的には、私と律だけになっていた。
「望月さん、今日の事なんだけれど…」
と志保ちゃんはそこで言葉を区切ったが、もうその時点で何が言いたいのか察した私は「はい」とだけ返事をした。
すると志保ちゃんは、ふとずっと私の側に黙って立っている律に視線を流したが、「…律は大丈夫です」と私がすかさず言うと、「そう?」と志保ちゃんは笑みを軽く浮かべつつ、今日の式の流れについて話してきた。
まぁ簡単に言うと、さっきも触れたが今から行く講堂というのが座席が設置された所なので、下手に奥まったところにいると、呼ばれた時にはその座席が邪魔をして中々容易に出て行けないという難点があった。なので、志保ちゃんが自分が案内する、今日みたいな時用に余分に用意してある最後尾の位置に向かうように言った。ついでに、律にも私の隣に行くように言われたので、律は短くボソッと「はい」と返事をした。
結局志保ちゃんに連れられて講堂に入ったのは、生徒の中では私と律が最後だった。
因みにこの学園は中高一貫だったので、それを一斉に集めるのは、校庭以外では無理だとの判断か、最初を中学生、次に高校生と分けて始業式が執り行われていた。
他の生徒たちはガヤガヤと自分たちの間で喋り合っていたので、誰も私たちに気付く者などいなかった。
最後尾の席に座ったその時、傾斜がついているお陰で良く見渡せたが、ふとたまたまだと思うが、裕美たち三人が固まって座っているのがチラッと見えた。
と、徐々に講堂の照明が弱められたかと思うと、その騒つく講堂の壇上に、老齢の女性がツカツカと演台の前に向かった。校長だ。と、その瞬間、生徒達は一斉に口を噤み、先ほどまでのザワつきがウソのように静まり返った。
自分たちを褒めるようで何だが、他の学校は知らないが、こういったところは所謂格式のある学園って感じだと思っている。
校長はツラツラと、ありきたりな話を五分か十分ほど話していたが、最後の方になってふと今まで堅持していた硬めの表情を緩めたかと思うと、口調も柔らかく口を開いた。
「…さて、本日の朝礼はこれでお開きにします…としたいところですが、実は我が校にとってとても嬉しいニュースが、この夏休みの間にもたらされたんです。…」
「望月さん…」
と不意に背後から小さく声を掛けれた。顔だけ軽く後ろに向けると、そこに居たのは微笑みを浮かべる志保ちゃんだった。
彼女が何を言わんとしているのかすぐに察した私は、「はい」と同じ様に小声で応じつつ、ふと隣の律に顔を向けた。
律は私と目が合うと、フッと一瞬目元を緩めてコクっと頷いて見せたので、私からもコクっと頷き返し、志保ちゃんに促されるままに立ち上がり、壇上までの通路に立った。
「…ではご本人にご登壇して頂きましょう。中学の部、二年一組の望月琴音さん?」
名前を読み上げられたので、私はおずおずと若干俯き気味に、ゆっくりとした歩調で演壇へと向かった。
歩いている途中、好奇の視線をヒシヒシと感じていたが、講堂の明かりが暗いのが助かった。自分でも顔が火照っているのを感じていたが、恐らく側からはそんなに顔が赤くは見えていなかっただろう。何となく裕美たちが見えた辺りを特に意識的に見ない様にして、何とか壇上に上がった。ここまで正味一分ほどだっただろうが、体感的にはその何倍にも思えた。

…この話は取り敢えずここで終わらせるのを許してほしい。
まぁ特段触れる内容も無いからだ。実際は壇上に上がると、校長の脇に立たされて、校長がマイクの届かない所で「何か一言話します?」と聞かれたので、私は慌てて「いえいえ!」と断った。次の瞬間、少し態度が悪かったかと思ったが、校長は「あら、そう?」とやんわりとした口調で言うと、私をそのままに、改めて軽く私のコンクールの話をした。その間私は視線をどこに向けたらいいのか分からず、最後まで定まらないままに目を泳がせていた。
「…。では望月琴音さんでした」と校長が私の名前をまた言ったので、私は取り敢えず深々とその場でお辞儀をすると、生徒側からは程々に拍手が送られた。
最後に校長と握手をすると、舞台下にいた先生の一人に誘われて、演壇から降りる小さな階段を慎重に一段ずつ降りた。
何せ足に力が思った様に入らなく、自分のモノとは思えない感覚だったので、衆人環視の中で転ぶ様な事があったなら、もう目も当てられないと、もしかしたらあの受賞の場以上に神経を張っていたかも知れない。
無事降りて、気持ち早足でさっき自分が座っていた最後尾まで緩やかな坂を登って行った。その間、行き以上に好奇の眼差しを感じていたが、そんな中ふとこんな場なのに、どこからか私の名前を小声で大きな音量で出そうとしている様なのが聞こえたので見ると、そこには裕美たち三人が笑顔でこっちに揃って手を振ってきていた。私は最初は無視してさっさと行こうと思ったが、まぁ応援に来てくれた事に対して大袈裟に言えば恩に着ていたので、見えるかどうかは度外視で、胸の前で小さく振り返してから、気持ちまたペースを上げて席に戻ったのだった。戻ってからは、律は何も言わずにただ微笑んでくるのみだった。

式が終わった後、教室までは律とまた二人で教室に戻ったのだが、その途中、クラスメイトたちにテンション高く一言二言話しかけられた。「ピアノやってたんだー?」だとか、「全国大会で準優勝でしょー?凄いねぇ」といった類いのものだった。まぁ初めから期待をしていないが、隣にいる律が助け舟を出してくれそうな気配が微塵も無かったので、私はただ苦笑まじりに「ありがとう」的な言葉で返した。
教室に戻って自分の席に着いてほっと息を吐いたのも束の間、すぐにまたクラスメイト達にぐるっと周りを囲まれてしまった。そして同じ様な質問ばかりしてきたので、必然とこちらとしても同じ答えをする事になる訳だが、初めはキチンと真摯に答えていたのが、何だか飽きてくるのと同時にうんざりしてきたその時、最後の方で話しかけてきた中で一つ面白い話があった。
まぁ雑談的に軽く触れると、その子は実は、私がこうして準優勝する前から、私がその大会に出ていることを知っていたと言うのだ。
「え?」と私が思わず驚きの余りに声漏らしたのは言うまでもない。まだ私の周りに固まっていた他の子達も同様に驚いていた。そして次の瞬間には、私の代わりにその子に皆が質問を投げかけていたが、それに答えるのには、何でも本選まで勝ち上がってきた女の子の中に、この子の友達がいたと言うのだ。それを詳しく話してもらってはたと思い出した。何とその友達というのが、本選での授賞式の時、呆気に取られて中々賞を受け取りに行こうとしない私に、笑顔で話しかけてきながら早く行く様に促してきたその子だった。
「あぁー…あの子」と私がボソッと言うと、その子は笑顔で「うん!」と大きく頷いて返した。
…これをこの場で私が自分で話すのはかなり恥ずかしいので、本当は言いたくないが、こうして触れてしまった以上最後まで話さなくてはいけないので、恥を忍んで言うと、この子は初めは私の事に気付かなかったらしいが、どこかで見た事があるなくらいには思ったらしい。そう思っていた次の瞬間、私の名前が読み上げられた時、すぐに私だと気付いたとの事だった。それで…ここからが恥ずかしい箇所なのだが、それまでは友達の演奏以外には興味が無くて、この子が言うのには退屈していたらしいのだが、その事があって、私の演奏を真剣に聞いてくれたらしい。それでそのー…とても感動してくれた様なのだ。コンクールが終わった後で、出場して惜しくも敗退した友達に、一応気を遣いつつ、私の事を聞いてみた様なのだが、その友達は笑顔で『とても良かった』と皮肉でも自虐でも無く素直に言ってくれたらしい。その話を聞いた瞬間、私が思わずその友達の度量の大きさについて褒めると、その子は急にモジモジと照れて見せたが、満更でもない様子だった。
私は気付かなかったが、本選が終わって会場内で談笑をしていた時に、私の姿を見たらしい。これも何かの縁だと話しかけようとしたらしいのだが、同年代の女の子、保護者らしき背の高い女性二人に囲まれて喋っているのを見て、何だか話しかけ辛く思い、その場で断念したと言っていた。私はそれを聞いて「別に話しかけてくれて良かったのに」と笑顔で言ったが、その子はただ私の言葉に照れ笑いを浮かべるのみだった。
それからまた話が盛り上がって行きそうになったその時、
「ほらー、いつまで喋っているのー?皆席に着いてー」と志保ちゃんが教室に入るなり、人だかりが出来ていたこちらの方に声を掛けてきた。それで取り敢えずのお開きとなった。

始業式の日というのもあって、軽く連絡事項を志保ちゃんから聞き終えると、今日はそれで学校はアガリとなった。
帰り支度をしている間、クラスメイト達が今だにチラチラとこちらを覗き見てきていたが、私は何とかポーカーフェイスを保ちつつ済ませ、それと同時に律が私の元に来たので、「帰ろうか」と声をかけ、去り際にクラスメイト達が普段の何倍も声を掛けてきたのでそれに一々返しつつ教室を出た。そして律と二人で学園近くの”いい意味で”何も無い例の公園へと向かった。そこには既に私達よりも先に裕美達が向かっているとの事だった。
私は知らなかったが、何でも律に藤花がその旨を伝えていたらしい。いつもみたいに廊下で待ち合わせるのは、今日に限っては難しいとの判断だった様だ。それを私はさっき律が私の側に来た時にボソッと教えてくれたのだが、その時は「そんな大袈裟な…」と苦笑いを浮かべたのだが、確かに自惚れでも無く、廊下に出てからも他のクラスの子からもチラチラと視線を向けられたり、中には話した事のない子にも挨拶されたりしたのだ。今にして思えば、藤花…いや、藤花達の判断が正しかった…のだろう。
その好奇の視線を振り切る様に早足で公園に辿り着くと、定位置と化したベンチの一つに、裕美達が固まってたむろっていた。
と、私から声をかける前に、向こうから私達二人に笑顔で手を振ってきた。
「…あぁ、こっちこっち!」
と藤花が相変わらずの所謂アニメ声で声を上げた。
「お待たせ」
と私が間を埋めるためだけの社交辞令的に言うと、まず紫が意地悪げな笑みを浮かべつつ話しかけてきた。
「おっと…お姫様のご登場ね?」
「誰がよ…?」
と私はため息交じりに返しつつ、手には拳を作り、それを紫の肩に押し付ける様に当てた。それに対して紫は大げさに痛がって見せている。
そんな様子の紫に対して、私はジト目を向けつつ
「夏休み明けでも変わらないのね、まったく…」
と呟くと、今度は藤花が無邪気な笑みを浮かべつつ言った。
「まぁまぁお姫様、今日は確かにお疲れだったと思うけれど…」
「えぇ、確かに今日は疲れて…って藤花?」
と私は思わずスルーして単に返そうとしたが、すぐさま今度は藤花にジト目を向けつつ返した。
「あなたまでその呼び方をするの?」
「えぇー、だってぇー」
と藤花は、何が”だってぇ”なのか説明しないままに紫に笑顔を向けていた。それに対して紫も同様に応じる。
その様子をやれやれと首を振りながら見ていた私の肩に手を置いた者がいた。振り向くと裕美だった。
裕美も私と同様に首を横に振りながら、同情する風に言った。
「まぁまぁお姫様、この子達には私から後できつく言っときますから…」
「…ちょっとー」
と私は肩に乗せられた裕美の手を、埃を払う様に振り解くと、今度は裕美にジト目で
「自然にお姫様呼びしないでよー」
と突っ込んだ次の瞬間
「プッ」
と吹き出した声が聞こえたので、裕美と共にその方を見ると律だった。
律は軽く握った右手の甲を口元に添えていたが、私の顔をチラッと見ると、スッといつもの表情少ない石仮面を被ってから
「…姫」
と呟いた。それからは二つほど間が空いた後、誰からともなく笑いが漏れていった。暫くは四人のその様子を薄目がちに眺めていたが、「やれやれ…」と心に思った事を思わず口に出し、次の瞬間には私も同様に笑いに混じるのだった。
笑いあった後、四人から平謝りをされて、そしてその後に、誰が提案するのでもなく、”これこそ”自然の流れで、いつもの御苑近くの喫茶店に行くことに相成った。
まぁ喫茶店での会話は、取り立てて話す事もない。普段通りの会話だったからだ。まぁ勿論向かう電車の中、歩く中、そして喫茶店に入ってからも、この日の朝礼での出来事に関してで話題は終始したが、まぁどれも私に対する”愛情のこもった”冷やかしばかりだったので、わざわざ取り上げるまでも無い。ただ、先ほど教室に戻ってからクラスメイトの一人に聞かされた話は面白いと、裕美達にそのまま話した。最後まで律まで含めた他の四人は興味深そうに聞いてくれた。
と、私が話し終えると裕美が口を開いた。
「…あぁ、その同年代の子って、私の事かー」
「そのようね」
と私が返した。
「まぁこの後話を続けようとしたら、志保ちゃんが教室に入ってきちゃったから、お喋りはそれでお開きになっちゃった。でも後で別に気軽に話しかけてくれたら良かったのにって言ったんだけれど」
「…うーん、まぁ分からなくはないかな?」
とここで紫が口を挟んだ。
「今話を聞いてる感じだと、今日までその子とそこまで親しく話してこなかったんでしょ?」
「え?うーん…まぁね」
私は軽く記憶を探ってみたが、思い出したのは事務的なやり取りくらいだった。
それを聞いた紫は肘をつき、隣の私に顔を向けながら言った。
「ならまぁ…それは話しかけ辛いでしょ?もしさぁ…そんな和気藹々と、自分と同年代の子…まぁこれは裕美だったわけだけれど、おしゃべりしている中に、そんな中にはなかなか度胸が据わってないと入って行けないでしょ?」
「そうだねぇ」
とここで向かいに座る藤花が合いの手を入れるように言った。
「よく話しているならともかく、そんなに話したことが無いクラスメイトを見かけて、勇気を起こして話しかけたとしても、もし相手が私のことを覚えていなかったらと考えると…ちょっと話しかけにくいよねぇ」
藤花は最後に、隣に座る律に話しかけるように言い終えると、律はただ静かに何度か頷いて見せた。
「なるほどねぇ」
紫達の話を聞いて素直に感心して見せると、途端に紫が呆れてるのか何なのか、取り敢えずニヤケながら言った。
「…ふふ、そんなに感心するほどの事だった?」
「え?」
「まぁ、私たちがそんな普通だと思うところで感心して見せたりする癖に、妙なところで引っ掛かって来たりするからねぇー」
と笑顔で付け加えるように言うのは藤花だ。
「…まっ!」
と間髪入れずにパッと言葉を差し込んだのは裕美だ。
裕美はさっきの紫の様に肘つき隣の私に顔を向けつつ、満面の笑みを浮かべて言った。
「そんな普通とズレたりしてるのが、アンタの個性的な所で、それが飽きなく面白い所なんだけれどね!」
「あはは!違いない!」
と紫が間を空ける事なく返すと、「ウンウン!」と藤花も応じた。律も笑顔を私に向けながら頷いていた。
私は一瞬漠然とした嫌な感じが胸の中に生じた思いをしたが、裕美の言葉を聞いて、小学生の頃、初めて裕美を誘って土手に行って、アレコレとお喋りした時を、情景を含めて思い出し、その思い出がそんな些細な事を瞬時に忘れさせてくれた。
「そのズレてる所がー…」
と笑いが収まり出した時に、紫がまたニタニタとしながら一度他の四人に視線を流して、最後に私に止めて言った。
「見た目と相まって、ますますお姫様っぽい!」
「まだ言うか」
と私が声に表情を付けずに、目だけ細めてつっこむと、また幾らか間が空いた後で、皆で笑い合うのだった。この時は私も初めから加わって笑った。
それからは、決勝のあの日にそれぞれが撮った写真を見せ合って過ごした。例の全員で舞台に上がって撮って貰った写真以外は、それぞれが思い思いに写真を撮っていたらしく、四人のどの写真も同じ物がなく、こんな所に目が行くのかと見ていてとても面白かった。
途中で裕美のを見ていると、その中でヒロとのツーショット写真があった。見た感じ、恐らく授賞式後に撮った物の様だった。ヒロはキャラ通りの呑気な笑顔をこちらに向けてきていたが、裕美は笑顔ではいたのだが、どこかぎこちなく見えた。軽く緊張して見えた。
私は思わずこの写真について裕美に突っ込もうかと思ったのだが、何だかこれに関して軽々しくからかってはいけないと、どこかでブレーキが働いた。それで最終的には、ただ単にいつどこで撮ったのかの質問のみした。裕美はそれに対して、淡々と、先ほどの私の推測通りの答えをして終わった。
…考えてみたらコンクール以降、ヒロ関係でそんな妙な事が続いているなぁ
と漠然と不思議がりつつも、このまま四人とお喋りを過ごした始業式の日の放課後だった。


「じゃあそれでお願いしまーす」
「はい、では少々お待ちください」
京子が声を掛けると、ウェイトレスは一度お辞儀をしてから下がって行った。
今日は始業式の何日後かの日曜日の午前。場所は羽田空港国際線ターミナルだ。今は出発ロビーのある階内の、駐機場が眺める喫茶店に、師匠と京子と来ている。
何故こんな所に三人で来ているのか。もうお分かりだろう。そう、京子が活動拠点のフランスに戻るというので、私と師匠とで見送りに来たのだ。当初はお母さんも付き添う予定だったが、急遽実家の呉服店を手伝わなきゃいけなくなったというので、こうして師匠と二人で来たのだった。
私と師匠はTシャツにジーンズとラフな格好をして来たが、京子も日本に帰って来た時と同じ格好をしていた。師匠のところで一度洗濯したらしい。
スーツケースはもう既に預けて、チェックインも済ませて今に至る。
ウェイトレスが持ってきた小ぢんまりとした焼き菓子を食べつつ、アイスコーヒーを三人揃って飲みつつ、フライトまでの時間を過ごしていた。
「まぁねー、分からんでもないけど」
と京子が向かいに座る私に笑顔で言った。
初めは京子があの後に実家のある神戸に、何日か里帰りをしていた話に始まり、今はコンクールの話から、私が何で今まで出場する事を拒んできたのかについて話が及んでいた。
「確かに、まぁ一般の人でもピアノ自体は常識の範囲内で知られているけれど、実際にそれに本気で取り組んでいる人間自体についての理解は、今も昔も乏しいのは確かねぇ」
私が話した事に対して、京子はこういった視点から話を始めた。私は当初これが本当に関係してるのか訝っていたが、すぐに師匠とはまた違った考え方を提示されてる事に気づき、私の中の好奇心お化けが目を覚ますのを覚えていた。
「でもね、琴音ちゃん?」
とここで京子はテーブルに両肘をつくと、気持ち前傾姿勢になって続けた。
「私もあなたくらいの時、周りに対して自分がピアノをしているのを話すのが、何だか躊躇われた時期があったわ。…何も悪い事をしているんでも無いのにね?」
「そうねぇ」
とここで私の隣に座って静かにしていた師匠が合いの手を入れた。
「何だかねぇー…まぁ誤解を恐れずに言えば、よく分かってくれている人からなら良いけど、よく分かりもしないのにそれで不用意に褒めてきたり持ち上げられたりするというのが、何というかー…嫌だもんね」
師匠はここまで言うと、ふと私の方に顔を向けて、そして明るい笑みを浮かべつつ言った。
「琴音、あなたもさっき、始業式での事を話してくれたけれど、私たちと同じじゃない?」
「…はい」
と私は何だか苦笑い気味の笑みを零しつつ答えた。
「あはは。まぁ、私もそうだったんだけれどねぇ…琴音ちゃん?」
と京子はここまでニヤケ気味の笑顔でいたのだが、ふと柔和な微笑みを顔に浮かべたかと思うと、口調も穏やかに言った。
「でも結局隠している事には変わりない…いや、そう私は感じていてね、どこかでいつも同級生と一緒にいても、大袈裟な言い方をすれば罪悪感みたいなのが仄かにあったのね?それで悩むって程ではなかったんだけれど、そんな時にね、ある人の書いた本の中で引用されていた一節に目を惹かれたの。それはね…」
とここで京子が名前を出したのは、先日亡くなったあの落語家の”師匠”だった。
その名前が出た瞬間すぐに察したか、「あぁ…」と師匠が隣で軽く笑みを浮かべつつコーヒーを啜った。京子は続けた。
「でね、あの師匠が引用した人というのが、戦後で一番と言っても良いくらいに有名な能役者の方だったの。その人も”師匠”と同じで、自分の帰属する芸能がこのままでは廃れる一方じゃないかと苦心して、一般向けに色々と本を書いていたんだけれど、その中にね、こんな話があったの」
京子はここまで話すと、区切りをつけるように一旦コーヒーを一口分飲んでから続けた。
「『ごく小さな子供の頃、装束を着せられて楽屋に待たされている間に、時としてふと嫌な気持ちにさせられた事があるのを、今でも記憶しています。これから舞台に出て、多くの観客の前に身を晒す、それが何だか自分を見世物にされている様な感じが時々フッとしたのです』」
「…あぁ」
と私は思わず声を漏らしてしまったが、それに対して一度ニコッとしたのみで、先を続けた。
「『また中学の頃は、自分が能の役者だというのを周囲の人に知られるのが大変に嫌だった…。それは、能が古臭い、現代の社会には通用しないと人々が思っていて、それを演っている人間などは異端に見られていそうな、何か気恥ずかしい感じがしていた』」
「分かるなぁ…」
と安易に同意をしてしまったかなと直後に反省していると、京子はここでまた先ほどまでの明るい笑顔に戻り言った。
「まぁ、この方の話はここから現代における芸談に話が進んでいくんだけれど、それは一旦置いといて、何がここから私が言いたいのかというとね?あなたを含め、そして私、あなたの師匠を含む芸に携わる人々というのは、今だけに関わらず、昔からそんな事を経験しながら生きてきた…その事実を知っている、自分だけじゃないという事実を知るだけでも、変に孤独感を味あわずに過ごせるんじゃないかって事なんだけれど…」
とここで京子が私の顔を覗き込む様にしてきたので、私は照れも含んだ笑みを浮かべて返した。
「…はい、よく分かりました」
と返すと、京子はまた姿勢を正して
「ふふ、よろしい」
と満足げな表情で言うのだった。
「もしその能役者さんに興味を持ったのなら、そこにいる師匠に本を借りるといいわ。確か持ってるはずだったから…ね?」
「え?…えぇ」
と師匠は何だかバツが悪そうな笑みを私に向けつつ応えた。
「そうね…琴音が読みたいと言うのなら、私はもちろん喜んで貸すよ」
「はい、よろしくおねがします」
と私が明るく師匠に応えるとその直後、
「物分りが良くて助かるわぁ…ねぇ、沙恵?」
と京子がふと師匠に話しかけた。
「ん?何?」
と師匠が聞くと、京子は私に視線を流しつつ、口元はニヤケ気味に言った。
「琴音ちゃんを私に頂戴よぉ?こんな出来の良い子、滅多な事じゃ見つからないし」
「あのねぇ…」
と師匠は苦笑気味だったが、目つきは若干キツ目に京子に返した。
「琴音は物じゃないんだから、あげたり貰ったりする類いじゃないでしょ?」
「分かってるわよそれくらいー…気を悪くしないでね?」
「ふふ、分かってます」
と私が笑みを浮かべて返すと、京子はまたニヤケ面を浮かべて、
「ほらー、よっぽど琴音ちゃんの方がよく分かってるじゃない?」
と師匠に言うと、師匠は「はぁ…」と私と京子に視線を向けつつ苦笑い交じりの溜息を吐いた。
「まぁとりあえず…そんなに弟子が欲しいのなら、勝手に自分で探しなさいな」
「何よケチー…琴音ちゃん?」
と京子はまた前傾になって、私の顔に自分の顔を近づけて、そして内緒話をする風に口元に手を当てつつボソッと言った。
「もし沙恵に何か意地悪をされたら、いつでも私に連絡してきてね?相談に乗るから」
「…ちょっと?聞こえてるんですけど?」
と師匠は薄目でジッと京子を見ながら言うと、京子は明るく無邪気に「あははは!」と笑った。
「いや、『あはは』じゃないわよ全く…」
と呆れる師匠の姿を含めて、その一連の様子が面白かった私はクスクスと笑うのだった。
それを見た師匠も仕方ないと鼻で息を吐くと、私と一緒になって笑っていた。

「…あっ」
とここで不意に師匠は伝票に目を落とすと、突然声を上げた。
「ん?どうかした沙恵?」
と京子が聞くと、師匠は何だか照れ臭そうな様子で答えた。
「いやね…この空港内のお店って、駐車券を見せれば、駐車代がタダになるでしょ?そのー…駐車券を車に置いてきちゃった」
「えぇー」
と京子も苦笑交じりに声を漏らした。
因みに今日は、師匠の運転する車でここまで来た。真紅のフォルクスワーゲン・ゴルフだ。
師匠自身は車を持っていなかったのだが、これはお母さんの所有車だ。昨日京子は師匠を伴ってウチまで挨拶に来たのだが、その流れでどうやって空港まで行くのかの話になった。京子は「荷物が少ないから電車で行きます」と返していたが、側にいた師匠に向かって「もし沙恵さんさえ良かったら、私の車を使って送って差し上げて下さらない?」とお母さんが聞いていた。その瞬間「いや、いいですって」と京子が遠慮して見せたが、師匠は師匠で「別に私は構わないんですけど…良いんですか?」とお母さんに聞いていた。するとお母さんは笑顔で「別に構いませんよ。沙恵さん、あなたが良いと言ってくれるならね?」と言うのを聞いた師匠は「では…」と京子を空港まで送るという任務を仰せつかっていた。その間私は側で京子の様子を眺めていたのだが、珍しくというか何だか恐縮しているのが印象的だった。
後でというか、ここに来るまでの車中で教えてくれたが、師匠は何度かこの車を運転したことがあったらしい。お母さんが同乗してがほとんどのようだったが、ただ単に師匠に貸すという事もあったようだ。
「京子、まだ飛行機の時間大丈夫?」
「え?…んー」
と京子は手首にしていた小ぶりの腕時計に目を落とした。
「…えぇ、まだ出発まで一時間以上あるけど」
「あ、そう?じゃあ…ちょっと二人ともゴメンね?」
と師匠は席を立ち上がりつつ言った。
「早足でちょっと取ってくるから」
と既に店の出口に向かう師匠の背中に向かって
「ゆっくりで良いわよー?迷子にならないようにねー?
と声をかけていた。
師匠の姿が見えなくなった頃、京子は一口分ストローでコーヒーを啜ってから言った。
「やれやれ…。あの子は相変わらずね。普段は本当にしっかりしているんだけれど、こういう所で間抜けなんだから」
そう言う京子の顔には、何とも言えない優しげな微笑みが見えていた。
「あ、あのー…」
とここで私は、ふと昔から漠然と持っていた思いを成就するには今がチャンスだと、少し遠慮がちにだが話を振ってみることにした。
「ん?何?」
「あ、そのー…」
と私はもう姿の見えない、師匠の消えた店の出口辺りに視線を向けつつ聞いた。
「師匠って…昔から今と変わってないんですか?」
「…ふふ、気になる?」
京子はテーブルの下で足を組むと、微笑みの中に若干のイジワル成分を混ぜつつ言った。
私は少しきょどりつつも、「は、はい…まぁ」と何だか我ながら煮え切らない調子で返した。
すると京子は数秒ほど私の目をジッと品定めをするかの様に見たかと思うと、フッと見るからに力を抜いて、その流れでため息交じりに口を開いた。
「…ふふ、まぁ沙恵もねぇー…中々自分の事を話さないからなぁ…で?」
とここで京子は肘をつきホッペに手を当てると、少し挑戦的な笑みを浮かべつつ「何が聞きたいの?」と聞いてきた。
「え?えぇっと…」
私は改めてそう問われて、本当に聞きたい内容が内容なだけに、こんな場で気軽に質問して良いのか少し逡巡してしまったが、本来は流す所なのだろうが”なんでちゃん”の本領発揮といったとこか、私は一度生唾を飲んでから質問した。
「そのー…こんな気軽に聞くのは何だと思うんですけど…」
「うん」
とここでまだ京子が笑みを絶やさずにいてくれたのが功を奏したか、私は勇気を奮い起こして言葉を続けた。
「…師匠がそのー…ピアニストとして、ソリストとしてのキャリアを引退したという話…何ですけど…」
とまぁ結局こんな感じで、辿々しく、ハッキリとは聞けない感じで、最後などは京子の顔が徐々に曇っていく様に見えた私は、その顔を直視出来ずに俯いてしまった。
「んー…」と私の話を聞いていた京子は唸っていたが、「琴音ちゃん、顔を上げて?」と声を掛けられたので、言われるままに恐る恐る顔を上げた。そこで見たのは、何とも言えない、あまりに参って笑うしかないと言いたげな苦笑いを浮かべる京子の顔があった。
ほんの数秒間見つめあった後、京子はその笑みのまま優しい口調で言葉を発した。
「まぁ…それこそ弟子としては気になるよねー?自分の師匠が何故引退したのか、その事情が」
「は、はい…」
「…うーん、それこそ本来は本人の口から聞くのが筋だろうけれど…どうしても聞きたい?」
とここで京子が、急に真面目な顔つきになって、射竦めるような視線を送ってきたので、その変貌ぶりに驚きつつ狼狽えたが、師匠のことを知りたいという気持ちは、生半可な、ワイドショウ的なたまさかの好奇心によるものと比べようの無いものだったので、私からもその視線に対して目を逸らさずに、「はい」とだけ短く、しかし自分なりに力強く返した。
それからまた二人の間に数秒間の時が流れたが、ここでフッと京子は短く息を吐くと、また先ほどまでの独特な苦笑いを浮かべて、トーンも戻して口を開いた。
「…そっか。そこまで言うのなら、私の知る範囲、私に関連している点からのみという条件付きで良いのなら、話してみようかな。…それで良い?」
「は、はい。お願いします」
「じゃあまぁ話すけど…もし遠くで沙恵の姿が見えたら、その時点でお開きだからね?」
と京子が、位置的には私の斜め後ろに位置する店の出入り口に視線を流しつつ悪戯っぽい笑みを浮かべて言ったので、私も思わず笑みを零しつつ「はい」と返した。
「よし!」と京子は目を細めてニコッと笑い言った直後、また表情を戻して、そしてゆっくりと話し始めた。
「まぁ…中々に暗めな話だから、私自身話すのが難しいんだけれど…。琴音ちゃん、あなたは何故沙恵が引退したのか、そもそもどの辺りまで知ってるのかな?」
「あ、は、はい…えぇっと…」
私は昔にお母さんから聞かされた話を思い出しつつ、そのまま京子に話した。これには少し苦労をした。
何せ最後に聞いたのが、師匠の元に通いたての頃、つまりは私がまだ小学二年生になったばかりの頃だったからだ。しかもその一度きりで、それ以降お母さんは自分の口からその話をする事は無かった。だが、その話をしてくれた時のお母さんの表情は今でもハッキリと覚えている。ハキハキと当時から話すタイプだったのが、この話をする時には表情を曇らせつつ遠慮がちに見えた。それを見た当時の私でも、幼心に深入りして質問するのは躊躇われて、それで今日まできたのだった。
内容はだいぶ前に触れたので、ここでは軽く流すが、要は師匠が何かしらの事故で手を痛めて、日常生活に支障が出るほどでは無かったが、繊細さを求められるピアニストとしてはこれ以上活動していくのは無理だと引退し、それ以降は自暴自棄になって日本に戻ってきて覇気なく毎日を過ごしていた時に、共通の友人でたまたま私のお母さんがいて、お母さんの強い勧めでピアノ教室を開く事になった…という話を、今話したよりももう少し端折りつつ答えた。
私が話している間、京子は興味深げに黙って聞いていたが、私が話し終えると、一度アイスコーヒーを啜ってから、表情は変えずに口を開いた。
「…うん、あらましとしては、今あなたがお母さんから聞いたって言ってたけれど、大体あってるよ。…うん、でもそっか…あなたが小学二年の頃に、沙恵が教室開いたのよねぇー…。って事は、もうあれから七年ちょっと経ったのかぁ…」
と最後に窓の外にふと視線を外しつつシミジミと言った。
「…」
私は下手な相槌は打つまいと、黙って京子の言葉を待った。
京子はゆっくりとまた私に顔を向けると、一度フッと寂しげな笑みを見せた後、また表情を戻して続けた。
「…ふ、自暴自棄…か。確かにあなたのお母さんが言ったように、あの頃の沙恵はそうとしか言い様のない感じだったわねぇ…。で、琴音ちゃん、あなたはその事をもう少し詳しく知りたいって事なのよね?」
と京子が最終確認をしてきたので、私はまた真剣な面持ちで何も言わずに力強く頷いて見せた。冷やかしではない意思を示すためにだ。それを見た京子も、私に倣ってでは無いだろうが、同じく一度頷くと、重たげに口を開いた。
「…じゃあ、話すね?…教室を開いたのが七年前よね?という事は…その一年前、つまり八年前になるのか、その時にね…沙恵は向こうで交通事故に遭ったの」
「…え?交通事故…?」
どこかで何かしらの事故に遭ったのだろうくらいの想像はしていたのだが、こうして改めて明らかにされると、思った以上の衝撃があった。
京子はまた一度コクっと頷くと話を続けた。
「そう、交通事故。自分で運転した時に、対向車にぶつけられてね?…これは勿論後で聞いた話だから、もし機会があったら本人に聞いてくれたら良いと思うけど…。まぁ、沙恵からは中々話してくれないだろうけどね?」
「…」
「まぁ事故自体はお互いに上手くハンドルをきったというか、結局接触はしたんだけれど、命に関わる大惨事にはならなかったの。で、警察が来て現場検証をした結果、相手側が不注意運転をしていたというので、沙恵はただの被害者として、慰謝料なりを受け取って、その時に病院に行って検査をしてもらったらしいんだけれど、幸いにもどこにも怪我は無かったようなの。でね?」
とここで京子はふと苦笑いを浮かべてから続けた。
「病院で検査が終わった辺りでね、沙恵から連絡を貰って、事故に遭っちゃっただなんて気軽に言うもんだから、当時の私は本当に心の底から驚いてね、大丈夫なのかを何度もしつこく確認したんだけれど、本人はあっけらかんとしたもんで、『大丈夫、大丈夫、今病院で診てもらったんだけれど、どこにも怪我は無いってさ』って言うのよ。私はその時はもう呆れっぱなしで、ネチネチと沙恵にしっかりしないとって説教しちゃったんだけれど…」
と京子はここまで話すと、急に表情を暗くして、声のトーンも数段落としつつ続けた。
「でもある時ね、それから一ヶ月…いや、一ヶ月も経たないくらいだったかな?沙恵が私にある日の朝電話してきたの。私が軽い気持ちで出るとね、受話器の向こうでずっと黙っていたの。たまになんかすすり泣きが聞こえるのみで、中々話さないから焦れったくなって『何?何なのよ?電話しときといて何も話さないのは?切るよ?』と、私と沙恵の間ならではの軽いノリで言うとね、沙恵がボソッと涙混じりの声で言ったの。『…きょ、京子…ど、どうしよう…手が…手が…動いてくれない…』ってね」
「…え?」
「うん、私も『え?』と突然の告白に驚いてね、『手が動かない…?ちょ、ちょっと沙恵、それってどういう事?』って聴き直したんだけれど、電話の向こうで沙恵は質問には答えずにずっと『動かない…動かないのよ…』って言うもんだからね、私は『ちょっとあなた、自分家にいるの?いるならそのまま待ってなさい!』ってそれで電話を切ってね、当時…いや、今も住んでるパリ郊外の田園地帯の一軒家からね、当時沙恵が住んでいたドイツのライプツィヒまで、あらゆる交通手段を屈指して、その日の昼過ぎには家の玄関前に辿り着いていたの」
「はぁー…あっ」
私は京子の話を聞きつつその様子を思い描いていたのだが、その内容に思わず感心のあまり声を上げてしまった。その直後に無粋にも話を切らしてしまったかと慌てて口を噤んだが、当の京子は微笑みつつ首をゆっくりと横に振り、そして何事も無かったかのように話を続けた。
「でね、着いて早速何度もチャイムを鳴らしたんだけれど、一切応答が無かったの。私、この時に嫌な胸騒ぎがしてね、沙恵が住んでいた所は外国人が珍しい地区だったんだけれど、目立つのも厭わずに大声で『沙恵!沙恵いるの!?ここを開けなさい!』って言いながら取っ手に手をかけたらね、ガチャっとスンナリ開いたの。私はその時一人で気恥ずかしくなりながらも家の中に入ったわ。沙恵の家は昔ながらの伝統的な石造りの家でね、まぁ私のもそうなんだけれども…いや、それはともかく、外からの自然光も入り辛い造りをしていてね、それなのに電気を点けていなかったものだから、昼間だというのに薄暗かったの。それでも何度も来たことがあったから、その中を『沙恵?沙恵いるの?』って声を掛けつつ歩いているとね、ふと一つの部屋のドアが半開きになっていたのに気づいたの。すぐにハッとしたわ。そこは沙恵の練習部屋だったからよ。私は恐る恐る近づいて、取っ手に手を掛けて『沙恵…?いるの?』って口にしながら開けるとね…沙恵はそこにいたわ。…ピアノに突っ伏してね」
京子はここまで話すと、一呼吸を置くようにコーヒーを一口分啜って、それからまた調子を変えずに続けた。
「『さ、沙恵!』って私は驚いてね、慌てて沙恵の側に駆け寄って、揺すって良いものか一瞬考えたけれど、それでもやっぱり何度も揺すったの。そしたら沙恵…ゆっくりと目を開けてね、私の顔を見ると途端に目をまん丸に開けて、ギョッとした表情を浮かべて凄い勢いで背筋を伸ばしたの。それから少しの間私たちは何故か無言で顔を突き合せてたんだけど、私から『沙恵…一体どうしたのよ?』って聞くとね、今まで座っていたピアノ椅子から床に崩れ落ちたかと思ったその次の瞬間、『京子ー!!』って私の足に抱きついてきたの。あまりの突然の時してなかった事態に困惑したんだけれど、親友として出来るのはこれしか無いって思ってね、私はその絡みつく腕をなるべく解けないようにしゃがんでね、それで泣く沙恵の上から抱きしめてあげたんだ…」
「…」
私はすっかり京子の話に夢中になり、今が空港内の喫茶店だという事すら頭から消え失せていた。それなりに周囲は騒ついていたはずだったが、集中していたせいか、京子の声以外が無音にすら感じた。
とふとここで京子が何気無く、”親友として”と何の恥ずかしげも無く自然と言っていた事について、大げさな言い方かも知れないが感銘を受けていた中、京子は話を続けた。
「…それで暫くそうしていたんだけれど、やっと沙恵が落ち着いてきた頃を見計らって、『まぁ取り敢えず座りましょう?』って声を掛けてね、その部屋の中にあった小さなテーブルの側に置かれていた椅子に向かい合って座ってね、それで話を聞いたの。『一体どうしたのよ…?』って聞くとね、沙恵はまだ憔悴し切った様子だったけど、何だか自嘲気味の笑みを零しながらね言ったの。『…もうね、私…ダメかも知れない』『え?どういう事?』って私が聞き返すとね、沙恵は自分の両手を開いたり閉じたりしながらそれを見つつね『この手がもう動かないのよ…』って言うのよ。…これだけ聞くと、冗談にしか聞こえないけれど、でも状況が状況だったから、私も冷やかしたりしないで『でも…あなた、私に電話で言ってたじゃない?病院で検査を受けたら、何も悪い所が無かったって』って聞いたの。そしたらね、沙恵はまた自嘲気味の笑みを浮かべながらね「うん…検査はそうだったんだけれど…』ってそこで言い止まるとね、おもむろに立ち上がって、ピアノの前に座ったの。私は何のことか分からず、取り敢えず沙恵の動向を見守っていると、あの子何の合図も無しにメンデルスゾーンの”ヴェニスの舟歌”を弾き始めたの」
「…」
メンデルスゾーン”ヴェニスの舟歌”…これは私の大好きな曲の一つだ。…だが、これを聞いた瞬間、胸を締め付けられるような感覚に陥った。これはとても暗い曲で、これをわざわざ選曲した師匠の当時の心境、それに伴う状態がひしひしと伝わって来るかのようだったからだ。
そんな私の感想は兎も角、京子もどこか寂しげな様子で続けた。
「私は不思議に思いながらも初めは淡々と聞いてたんだけれど、どこか、何だか『らしくないな…』って感想を持ったの。何て言うのかな…沙恵らしい正確無比な演奏じゃ無かったんだ…。きつい言い方をすれば、所々で誤魔化しが入って聞こえたの。勿論…沙恵基準でだけどね?そんな私の心境を背中越しに敏感に感じたのか、ふと途中で演奏を止めるとね、私の方に振り返って『…ね?』って、とても寂しげに笑ったの。…あの全てを諦めてしまった様な笑顔、もう八年にもなるけれど、今でもハッキリと思い出せるわ…」
「…」
京子がふと窓の外に視線を飛ばしたので、私も思わず外を見ると、その時、
「…二人とも、何を今まで話してたのー?」
「え?」
と慌てて後ろを振り向くと、そこには明るい笑顔を湛えた師匠の姿があった。ふとここで京子の顔を見たが、京子も一瞬驚きの表情を浮かべていたが、これが経験の差なのか、途端に意地悪げな笑みを浮かべつつ師匠に声を掛けていた。
「遅いぞ沙恵ー。まさか本当に迷っていた?」
そう聞かれた師匠は、少し参り気味な苦笑いを浮かべつつ椅子に座りながら返した。
「そんな訳ない…て言いたい所だけど、そう、どこに車を停めたかど忘れしちゃってねぇー、車を見つけるのに手間取っちゃったわ」
「もーう、あなたは昔からしっかりして見えて、どこか一つ抜けてるんだから」
「うるさいなぁー…で、あなたたち二人こそ、今まで何の話をしていたの?」
「え?」
と私は思わず声を漏らしたが、それについて何か不審には思わなかったらしく、師匠はニヤケつつ言った。
「だってさー…このお店に入る前に、あなたたち二人の様子が見えていたけれど、何だかこの席だけ周りから浮いていたよー?まるで…」
とここで師匠は一度止めると、私と京子の顔を見比べてからニターッと笑いつつ言った。
「別れ話をしているカップルみたいに」
「何よそれー」
と京子もニヤケつつ返していたが、ふと急に少し影の入った笑みに表情を変えると、師匠に話しかけた。
「いやね…ちょっと話してたのよ。…昔のことを」
「昔のこと…」
さっきまでの愉快げな雰囲気は何処へやら、師匠はそう呟くと、また私と師匠の顔を見比べていた。私は何だか気まずくて、若干俯き加減になっていた。
どれほどだろうか沈黙が流れた後、フッと短く息を吐き、「…そっか」と師匠は微笑交じりに呟いた。
それを聞いた私は、ふと顔を上げると丁度その時それを受けて京子が「えぇ…」と静かな微笑を湛えつつ返していた。
「…?」
正直そこから何か良くも悪くも展開があると思っていたので身構えていたのだが、何だか和やかな空気が流れたので肩透かしを食った気分だった。
そんな私を尻目に、ふと京子は手元の時計に目を落とすと明るく声をあげた。
「…あ、そろそろ時間だわ。もう出ましょう?」

「仕方ないなぁ…」とぼやきながらもニヤケながら京子が計算を払っていた。「ごちそうさまー」と師匠が明るく言ったので、私も戸惑いつつ挨拶を述べると「いいえー」と京子はさっきまであんな話をしていたとは思えない程に暢気な調子で答えつつ、師匠に駐車券を返していた。
それからは寄り道をせずに、そのまま保安検査場の入り口まで向かった。その間空港のアナウンスが繰り返し流されていて、京子の搭乗するパリ・シャルル・ド・ゴール行きの最終案内だった。
「じゃあ二人とも、送ってくれてありがとう」
京子は肩に提げたバッグの紐に手を掛けつつ言った。
「…ふふ、コーヒー代でチャラにしてあげる」
と師匠がニヤケつつ言うと、京子も「はいはい、ありがとうね」とニヤケ面で返していた。
と、ここで私と目が合うと、京子は笑顔のまま私のそばまで歩み寄り、私の両肩に手を掛けつつ声を掛けてきた。
「琴音ちゃんも、今日はありがとうね?…今日だけじゃなく、あなたのコンクールでの雄姿も観れたし、最近の中じゃ一番楽しかった日本滞在だったよ」
「あ、い、いえいえ、こちらこそ!ありがとうございました!」
と私は肩に手が乗ってるのを失念してそのまま上体ごと倒して頭を下げた。すると京子は「あははは!」と明るく笑ったかと思うと、そのまま明るい調子で
「固い固い!次会う時までに、もっと肩の力を抜くようにね?…何事においても」
と最後にふと微笑みを向けつつそう言われたので、私も合わせるように「はい」と笑顔で返事をした。
「よし!」と明るく声を上げたかと思うと、京子はまた師匠に顔を向けたが、何だか意味深な笑みを浮かべたかと思うとただ一言、
「…じゃあ沙恵、またね」
と声を掛けると、師匠は師匠で同様に意味深な笑みを浮かべつつ
「えぇ…またね」
と返すのだった。
その短いやり取りの中に、何だか色んな意味合いが込められていると感じられたのだが、それがどこから来るのか分からず軽く困惑していたが、それを他所に、京子は足取り軽く検査場の入り口に立つ制服姿の係員にパスポートと航空券を見せると、私たちに向かって大きく手を振った。私と師匠もそれと同じように手を振り返すと、それからは振り返ることなく検査場内へと消えて行った。
しばらく京子の消えた辺りを二人して眺めていたが、
「…じゃあ私たちも行こっか?」
と師匠が優しげに声を掛けてきたので、私も「はい」と答えて、その後は二人仲良く車を停めてある立体駐車場へと向かった。

「さっきは何ですぐに見つけられなかったかなぁ?」
とボヤきつつ師匠は車に乗り込んだ。
「ふふ」
と私は何も掛ける言葉が見つからずに、取り敢えず間を埋めるように微笑みで返した。
師匠は苦笑いを浮かべたままエンジンを掛けると、車を発進させた。駐車券を差し込んでゲートが開いたのを確認すると、そのまま一般道に出た。
「今頃京子の乗った飛行機…飛んだ辺りかなぁ?」
と信号で止まると、不意に師匠が声を漏らした。車に備え付けてある時計を見ると、時刻は正午ぴったりを示していた。
「そうですね…」
と私は若干上の空気味に返した。
…それも仕方ないことだろう。京子の話の盛り上がりがピークに達しようとしていた場面だったというのに、師匠がお店に戻ってきたのと同時に強制終了してしまったからだ。師匠には申し訳ないし、内容が内容なだけに文句を言うのは筋違いにも程があるが、それでももう少し聞きたかったという”なんでちゃん”の不満が胸の中を占めていたのは確かだった。
信号が変わって車が発進してからも、何か会話をしていたはずだったが、正直内容が全然頭に入っていかなかった。
とそんな風に時間が流れていたその時、運転席から短いため息が聞こえたかと思うと、師匠が声を掛けてきた。
「…さてと、琴音、瑠美さんのだけど折角ここまで二人揃って車で来たんだから、どこか寄って行こうか?」
「…へ?」
あまりの予想外の提案に、思わず気の抜けるような間抜けな声を漏らした。師匠は前方を見たまま愉快げな口調で続けた。
「ふふ、丁度お昼時だし、そうだなぁ…うん、近くまで来たんだしあそこに行こう」
と師匠が前に向かって指を指したので、その先を見ると道路案内標識があり、そこには”お台場”と文字が書かれていた。
「良いかな、琴音?」
と聞かれたので、私からすると不満も何も無かったので、素直に「はい」と明るく返した。
「よし!」と師匠は気合いを入れるが如く声を張ると、車線をお台場方向に変更した。

「…よし、じゃあ降りようか?」
「はい」
助手席から降りたそこは、海浜公園内の駐車場だった。見渡すと、所狭しに車が停められていた。パッと見た感じ、私たちの車が入った事で、満車になったようだ。
「ツイてたわねぇ?」
師匠は鍵を閉めつつ言った。
「今日は日曜だから、お台場だし混んでて、もしかしたら駐車場も見つからないかなくらいに思ってたんだけれど」
「…ふふ、確かにツイてました」
と私も笑顔で返すと、師匠もニコッと笑ってから、出口の方をチラッと見てから言った。
「…よし!じゃあ行こうか?」

私と師匠は仲良く並んで駐車場を出ると、間髪入れずにいきなり海が出た。正面にはレインボーブリッジが見えており、私たちのいるすぐ左手には船の発着場が見えていた。
駐車場は何とか一発で空きを見つけられたが、やはりそれでも休日とあって、平日を知らないが、親子連れ、カップル、少人数から大人数まで多種多様な友人グループなどでひしめき合っていた。
「わぁ…」
今まで正直お台場に来たという記憶を思い出せなかった私は、何となく辺りを眺めつつ声を漏らした。それが風景に対してなのか、それとも人の多さについてなのか、まぁ…その両方にだった。
妙に感心した様子を見せていた私を微笑ましげに師匠は見てきていたが、「さて…いつまでもここにいても仕方なし、少し歩こうか?」と言うので、「はい」と私が返すと、ゆっくりとした歩調でそのまま右手に切れ、左手にお台場の海と砂浜を眺めつつ散歩をした。
「今日は瑠美さんにねぇ」
師匠は口調も明るめに言った。
「もし何だったら、京子を送った後で、どこかお昼でも食べて行けば?って言われてたの。そのまま家に直帰されても自分が家にいないからってね」
「はい、私も聞きました」
「だからさ琴音、少しばかり散歩した後で、この近所で何か美味しいものを食べましょうね?…私のおごりで!」
と師匠は言い放つと目をギュッと瞑って見せたので、私も自然と笑みを浮かべながら「ふふ、ご馳走様です」と返した。
師匠はウンウンと上機嫌に頷いていたが、ふと右手に見えていた商業施設群をチラッと見つつ、照れ笑いを浮かべながら言った。
「でもまぁ…私もそんなにお台場には滅多に来ないから、どこがオススメなんだか、さっぱり分からないんだけれどね?」
「ふふ、そうなんですね?」
「うん。…あ、琴音、あそこ」
「はい?」
師匠が不意に声を上げて指を指したので、その指の先を見てみると、今歩いてきた小道の右手にずっと広がっていた緑地の中に、ベンチが一つ空いてるのが見えた。
「琴音、散歩もいいけど、この人出だし、折角ベンチが空いてるんだから、ちょっと座っていかない?あそこに座れば、目の前に海とか色んな景色が見えて、いいロケーションだと思うんだけれど?」
と聞いてきたので、私としては何の反対もあろうはずも無く、
「はい、座っていきましょう」と笑顔で返した。
それから二人してベンチに座り、少しの間遠くの景色や、周囲の人間たちを眺めたりしていた。
この時、何だか私の胸の内は妙なワクワク感に占められていた。恐らく今こうして師匠と二人並んで、ボーッと景色を眺めたりして過ごしているという非日常感のせいかも知れない。
というのも、何だかんだ師匠と二人っきりで、ピアノや音楽、芸能以外でこうして外で過ごした事が今まで無かった。二人で外出自体は何度も数え切れないほどあったが、具体的に言えば、藤花の歌を聴きに学園近くの教会に行ったりと、最近ではそれくらいのものだった。それ以外だと漏れなくお母さんが付いてきたので、繰り返しになるがこの非日常感、その中にいる自分自身を楽しんでいた。
と、ふと私と同い年くらいの子達が、ワイワイ騒いでいるのが見えたので、ふと師匠に話しかけてみた。
「…そういえば師匠?」
「んー?何ー?」
師匠は正面を向いたまま、暢気な調子で間延び気味に言った。
私は私で、さっきの子達の方を見つつ続けた。
「さっき師匠は、滅多に来ないからって言ってましたけど…」
「えぇ」
「そのー…学生時代とかも来たりしなかったんですか?例えば…今の私や、あそこの子達くらいの歳の時に」
「え?…あぁー」
と師匠は私の視線の先に気づくと、そう声を漏らし、少し前傾姿勢になりつつ言った。
「そう言う琴音、あなたは良く友達とここまで遊びに来るの?アレ…こないだ来てくれてた子達と」
そう聞かれた瞬間、頭の中に裕美たちの事が浮かんで、そのままどうだったか記憶を攫ってみた。が…
「…いやぁ、私は…無いですね」
と照れ笑いを浮かべつつ返すと、師匠はふと私の顔を見て、その直後に悪戯っぽい笑みを浮かべつつ「なーんだぁ」と言った。
「聞いてくるものだから、あなたはあるのかと思ったじゃなーい?」「ふふ」
と私はただ微笑みで返したが、この時ふと師匠の言葉使いに引っ掛かったので、それをそのままぶつけてみた。
「師匠、あなた”は”って事は…?」
「え?…あ、あぁ」
と私がすぐに言葉を切ったのにも関わらず、師匠はすぐに私の意図を汲み取ったのか、今度は師匠が照れ臭そうに笑いつつ返した。
「…本当にあなたは、そういう細かい機微に気付くんだからなぁ…我が弟子ながら、感覚が鋭くて、たまに空恐ろしく思う事があるよ。…ふふ、そうねぇー」
師匠はふと、ベンチの背もたれにベタっと自分の背中をつけてから言った。
「んー…正直記憶にないなぁ。まぁそもそも青春時代なんかは練習漬けだったから、ここに来る用事も無かったし…前にさ、軽く話した事あったよね?」
と師匠は姿勢を正し、顔には柔らかい微笑を浮かべつつ続けた。
「ほら…私が何であなたにコンクールに出るように勧めていたのか、その訳をさ?…うん、私はまぁ小学生時代もそうだったんだけれど、中学、高校に入ってからも同じ様に周りの同級生たちとは”ソコソコ”の付き合いに止まっていてねぇ…。ってまぁ、それくらいの歳の時は、小学生の頃とは違って、物理的に友達と外で遊ぶ時間が取れづらかったってのはあるけれどね?」
と最後にニコッと明るく笑った。
「でもまぁ…」
とここでまたベンチに背をつけて、ふと顔を上げて空を見上げたかと思うと、その直後には顔を戻して私に向いて言った。
「その時もし側に京子がいたら…もしかしたら二人してここに来る事もあったかも知れないねぇ」
そう言い終えると、師匠はまたさっきの子達の方に視線を向けた。
「ふふ…京子さんは神戸でしたっけ?」
師匠がそっけない感じを出しつつ話していたのを聞いていたが、それでもその声のトーンから気持ちがこもっているのが端々から見えていて、それが何だか我が師匠に対してながら可愛いらしく思え、楽しい気分に浸りながら聞いた。
すると師匠は若干目を細めつつだったが、口元はニヤケっぱなしで答えた。
「えぇ、そうよー?まったく、今回はキチンと実家に帰った様だけれど、私が言わないと中々帰ろうとしないんだから…。まぁ私がけしかけるたびに京子が言うにはね、『だってー…帰るとまだ結婚はしないのか?ってうるさいんだもん』だってさ。はぁ…まぁ仕方ないわよね?親からしたら、心配にもなるってものだろうし」
「…ふふ、師匠は?」
余りにウンザリげに言うので、私はふと意地悪な気持ちが沸き上がり、思ったまま声を掛けると、一瞬だけ師匠の表情に驚きが見えた。それをみた瞬間、『あ…しまった』と、弟子の立場ながら調子に乗り過ぎたかと反省しかけたその時、「あははは!」と師匠が途端に声を上げて笑い出した。
「ちょっとー、それどういう意味よー?」
そう文句を言いつつも笑みを絶やさない師匠を見て、私がキョトンとしていると、師匠は私の肩をポンポンと叩きながら笑顔交じりに言った。
「あーあ、その感じ、懐かしいわねぇー?小学生の頃は、良くそうやって私に対して軽口を飛ばしてきてたのを思い出したわぁ…生意気にね?」
「…そんな生意気でしたっけ?」
と私も生意気に人を値踏みするかの様な意地悪げな笑顔で言うと、
「そういう所よー」と私のホッペを今度は軽くつねってきた。
「痛いですってー」と私が大げさに痛がってホッペを撫でて見せると、「あははは!」とまた明るく笑うので、私も一緒に笑い合うのだった。

「はーあ、そういえば」
お互いに笑いが収まった頃、ふと師匠が何気ない調子で聞いてきた。「京子といえば、さっきあなた達二人で何の話をしていたの?何だかチラッと遠くから見た感じでは、変に真面目そうだったけれど?」「え…?」
唐突にさっきの喫茶店の話題が振られたので、大袈裟でもなく豆鉄砲を食らった鳩の様に目を丸くしてしまったが、そこはそれ、あの話が中断してからずっと心の中にもやっとした物が居座ってる感覚を解消したかったので、内容が内容なだけにさすがの私も遠慮がちになりながらだったが、
「は、はい…そ、そのー…ですね?」
と時折師匠の顔を伺いつつ、京子との会話の内容を話し始めた。
話し始めると、師匠は始めから私の顔をニコニコしながら見て来ていたのだが、徐々に表情に影を差していき、終いには無表情になっていった。
見る見ると目に見えて変化していったので、私はすぐに喫茶店で京子に質問をしてしまった所からを思い返しつつ反省し始めていていたが、もうここまで来てしまっては仕方ないと、後でどう怒られようと、もしかしたら嫌われるかも知れないとの不安を抑え込みつつ、滔々と話を続けた。
「…それでそのー…って所まで話を聞いてたんですけれど…」
「…」
話し終えると、相変わらず師匠は無表情のまま私の顔をじっと見つめて来ていた。その間は半分間ほどだったと思うが、それでも体感的には最低でも数分ほどに感じた。私たちの周囲は人々で騒がしかったはずだが、さっきの喫茶店での事と同様に、私たち二人の間だけに消音フィルターでもかけられたかの様に、少なくとも私に耳には音が入ってこない様だった。
とその時、「…ふう」と息を大きく吐いたかと思うと、師匠は一度大きく伸びをして、そしてそのままの姿勢で私の方を見た。その顔には普段通りの師匠の笑みが浮かんでいた。
「あーあ、とうとうあなたに知られちゃったか」
とそう言う師匠の顔は苦笑いに変化していた。
「す、すみません…」
そんな師匠の様子に反して、私は心から申し訳なく思い、シュンとなりつつ呟いた。
「本来は師匠に直接聞く事の筈だったんですけれど…でも普段から何だか聞き辛くて…あ、いや、これは師匠がどうこうじゃなく、私自身の問題何ですけれど…」
「…ふふ、うん…」
途中からアタフタとした私の様子を、師匠は小さく吹き出しつつ微笑ましげに聞いていた。
「だからそのー…京子さんを責めないでください。何度も言おうか言うまいか悩んでいた京子さんに対して、無理に話を聞き出そうとしたのは、私…なんですから…」
と最後は俯きつつか細い声をやっとこさ吐き出す様に言い終えた。
その間私は自分の腿あたりを見ていたので、師匠がどんな表情をしていたのかは知らない。
また少し沈黙が流れた後、ふと私の肩に手が置かれた。
顔を上げて見ると、師匠は静かな微笑みを顔に浮かべていた。
が、私と目が合うと、途端に呆れ笑いに変化して言った。
「まったく…琴音、あなたって子は、本当に小さな事でも細やかに周囲に気配りが出来る、良くも悪くも繊細なんだからなぁ」
師匠は私の肩をポンポンと数回叩いてから手を離し、続けた。
「ふふ、分かってるよ。京子には何も言わない。…あなたがフォローを入れてくれたからね?…ふふ。でもそっかぁ」
師匠はここでまた大きく伸びをすると、少し照れ臭そうにしながら続けた。
「…実はね、その話…どこから話せばいいのかなぁー…良くね、京子と話していた事なんだ。…琴音、あなたを含めてね?」
「…え?」
無関係そうな中で唐突に私の名前が出たので、私は思わず声をあげた。
「それってどういう…」
「うん、どういう事かっていうとね?ここ最近では、あなたが実質本格的に私の弟子になった後は顕著だったんだけれど、それ以前…あなたがまだ小学二年生で私の教室に来た時から、私の事についてあなたに話すべきかどうか、京子に相談したり、または話すべきだと諭されたりしていたの」
そう話す師匠の顔には、イタズラのバレた子供風の無邪気な笑みが浮かんでいた。
「話すべきだと言われた時にはね、『まだあの子は小さいから、こんな不用意に私の重たい過去の話をするのはどうなんだろう?』って返していたの。それに…長く付き合っていく中で、あなたがとても感じやすい、繊細な子だということが分かってきたら尚更ね?」
師匠はウィンクして見せた。
「い、いやぁ…」
「ふふ、まぁさっきのあなたの話ぶりじゃ瑠美さんから一度だけ軽く聞いてはいたみたいだけれどねぇー…。まぁそうだなぁ…ここまできて、何も話さないという訳にもいかないし、もう師弟でもある訳だから、これ以上秘密である必要も無いしね…まぁ今までだって内緒にしとく意味は無かったかもだけれど…」
と後半は独り言の様に呟いていたが、パッと私の顔を見ると、一度目を細めて微笑みつつ、
「じゃあ琴音…我ながら少し重たい話になっちゃうけれど、それでも聞いてくれる?」
と聞くので、私はすぐにでも返事をしたかったが、それも何だか無粋に思い、何テンポか置いてから少し真剣な表情を作って「はい」と短く、しかしハッキリと返事をした。
師匠は満足げにコクっと頷くと、静かな笑みを浮かべつつ話し始めた。
「それで、えぇっと…あぁ、京子は自分が当時の私の家に来た辺りまで話したんだったわよね?うん…あ、そうそう、いやぁーよく覚えていたわねぇー、私がその時メンデルスゾーンを弾いただなんて」
師匠はここで呆れ笑い気味に言ったが、本心から呆れてるって感じでは無かった。
「そうそう、途中まで弾いて、やっぱり思い通りに弾けなくて、京子にそう言ったわ…うん、恥ずかしながら、京子に縋り泣いたのも…本当」
師匠はとても照れて見せて、それは今までに見たことが無いほどだった。
「…で、ここまでね、京子が話たのは…?そう…」
師匠はふと空を見上げて、記憶を手繰る様にしていたが、顔をゆっくりと正面に戻しつつ続けた。
「まぁそれからはね?京子に改めて聞かれたわ。『もう一度病院に行ってみましょうよ?』ってね。『もう行ったわよ…』って私が力無く言うと、『それって、検査受けた同じ所でしょ?違う病院に行けば…』『もう何件も行った…』…我ながらね、必死に色々と案を出してくれていた京子に対して、真摯な態度じゃ無かったなぁって後になって申し訳ない気持ちになったんだけれど、もう当時はそれどころじゃ無かったからねぇ…ただ淡々と不愛想に返すのみだったの。でね、何の脈絡も無かったんだけれど、私は不意に聞いてみたの。『さっきの演奏…どうだった?』って」
「…」
「そ