終わりの日に
いつも風が吹いている丘の上に、白い家が建っている。住んでいるのは俺ひとりだ。周囲数百キロ四方には誰もいない。
朝になると──緩慢なる地獄の日々をもたらす太陽に災いあれ──俺は庭にソファを引きずって行き、寝転んで景色を眺める。丘の下は砂と岩が地平線まで続いている。西の遥か遠くに墓石のような建物が霞んで見える。その他に見るべきは、空と雲くらいなものだ。植物も鳥も虫の姿もない。それから俺はソファの上で本を読んだり音楽を聞いたり、気ままに過ごす。一日が終わると、ソファを家の中に引きずって行き、その上で眠るのだ。
週に一度くらいの頻度で、俺は例の墓石にトラックで向かう。そこには食料の他、生活に必要なあらゆるものが保管されている。
(地上に戻るのは自殺行為だ)
俺はその倉庫を教えてくれた男を思い出した。
(その場合、この地底都市の市民としてのあらゆる権利は剥奪される)
それから彼はペンの端をくわえて、俺に最終決断の時間を与えてくれた。
「もうすぐ地球は崩壊する。ならば俺は地上で死にたい」
俺はすでに答えを決めていた。彼はため息をついて、地上に残されたままの倉庫の地図と、そこに入るためのキーを渡してくれた。
(これがあれば生きていけるだろう。君の言う「地球崩壊の日」まで)
そして俺たちは握手をした。そのとき彼の手に父親と同じ傷があることに気づいたけれど、俺は何も言わなかった。
地球最後の朝が来た。今日が最期の日だと俺は確信していた。どうしてそんなことを知ったのかは思い出せない。明日になってもまたこの日々が続いていくと考えてみると、それは決して起こらないという強い否定の声が心の底から聞こえてくる。脳内スキャンを受けた結果、何者かから知らされたという痕跡は見つかったものの、それが果たして現実のことだったのか、あるいは創作物で見たのかは分からなかった。俺はそれが真実であると考えることに決めたのだった。
──人の声
俺はもの思いから覚めた。丘の下に女が立っていた。髪は白く、薄く水色がかっている。顔立ちは子どものようにも見えた。女はもう一度、こんにちは、と声を上げた。
俺は上がってくるように言って、ソファに座り直した。やがて彼女は俺の横に座った。人の姿を見るのは何年ぶりだろう。
「今日は最後の日ですから、お別れを言いに来ました」
彼女は木の葉のせせらぎのように言った。その言葉とは裏腹におよそ陰鬱さは感じられない。
「そうだな。地球が崩壊して、僕も君も死ぬ。けれど君との出会いの日でもある」
がらにもないことを、と俺は思った。慰めたかったのかもしれない。けれど彼女は恐れてはいないようだった。その表情は穏やかで、まるで人生を悟った老人のような目をしていた。
「そうね。ようやく出会えたのだから」
彼女は俺と手を重ねた。俺の他にも地上にはわずかな人々が暮らしている。彼女は他の誰かを探してずっと旅をしてきたのだろうか。
「質問をしてもいいかな」
彼女は興味ありげに俺を見た。他人に心の内をさらすのは好きではなかった。けれど今日は地球崩壊の日、つまり俺の人生最期の日なのだ。今さら気取ることもあるまい。
「あなたはなぜ一人で住んでいるの」
「人間が嫌いだから」
俺が即答すると、彼女は吹き出した。
「自分も人間なのに。おかしなことを言うのね」
口先で理解するようなことを言いながら哀れみの目を向けられるより、笑われる方がずっと心地良かった。
「俺は特別みたいだ。異端児ってやつかな。ただの気の触れた奴なのかもしれないけれど」
俺が答えると、
「でも、一人で暮らしていて寂しくはないの」
彼女の声にいたわるような色が混じった。
「寂しいけれど、その寂しいって感情が大好きなんだ」
彼女は声を上げて笑った。
日が沈みかけていた。
「静かね」
彼女は太陽を見つめながら言った。
「まったく。これで最後だなんて思えない」
あるいは最後に相応しいのかもしれないな。そう考えていると、彼女は俺を見た。
「あなたはどうして信じているの。今日が地球の最期の日だって」
深い海の色の目を見つめ返していると、心の中にある記憶が甦った。
「それは……ある人が教えてくれたから」
ひとつの言葉にいくつもの欠片が引き寄せられるように、記憶が形づくられていくのを俺は感じた。
「その人は誰」
彼女の声は心地よく響いた。
「幻の少女」
心の奥底にあった言葉が、俺の意識を経ずにそのまま口から発せられた。
「聞かせて、その子のことを。あなたが幻の少女に捧げた詩を」
幻の少女への恋文
光の陰るとき
僕はまた、旅に出る
あの麗しの恋人を見つけるために
限られた夜のうちに
彼女はいつもそこにいる
蝶の吐息をついて微笑み
虹色の光をあびて舞い
水晶の唄で想いを語る
ただ、僕一人のために
偉大なる光よ
夢の人と現つ人は
永久にめぐり逢わぬ運命なのか
彼女は陽炎のごとき幻の少女
僕は紺碧の大地のごとく
やがて、光に満ちる朝が来れば
引き離される悲しきおきて
偉大なる光よ
夢の人と現つ人は
永久にめぐり逢わぬ運命なのか
「悲しい詩」
彼女はそっと言った。
「そうだね」
俺はすでに彼女が何者なのか気づいていた。
「あなたは本気で、幻の少女を愛しているの」
その瞳は揺らめいていた。その理由を悟り、俺は心を静めながら答えた。
「彼女を愛している。だから俺は現実を捨ててきたんだ」
太陽が地平線に隠れ、大地がひとつ大きく揺れた。俺は彼女の体を支えた。
「大丈夫か……」
名前を呼ぼうとして、俺は口ごもった。彼女──幻の少女──の名前を俺は知らなかった。
「ガイア。人間は私をそう呼ぶ」
彼女は答えた。
「ガイアだって」
俺が驚くと、ガイアは俺の腕に体をもたれかけたまま頷いた。
「私が生まれたのは遥か昔。私はずっとこの大地を見守ってきた。生命が誕生してから、特に人間が現れてからは楽しかった。けれど」
ガイアは悲しそうな目で俺を見た。
「人間の文明は私の体を蝕んでいった。空も海も大地もけがれ、他の生き物は消えていった。その代わりに奇妙な石や鉄の塊ばかりが、私の体を覆い尽くしていった」
地面が再び揺れた。ガイアは咳き込み、マグマの色の血が一筋、口元から伝っていった。
「私は人間に、もうやめてと叫んだ。私の震えは大地震となり、私の涙は大雨となった。けれどそれは人間の心に届くことはなかった」
ガイアは苦しそうに息をしていた。
「もう分かった。喋らなくていいから……」
「駄目。まだ大切なことを言っていない。それを言わなくちゃ。今日は最期の日なのだから」
地面は揺れ続け、ガイアは力なく微笑んだ。
「人間の多くは、私を神のように崇めてくれた。けれど私が人間の中に見た……愛という感情。それを私に与えてくれる者はいなかった。だから私は呼びかけた。それを聞くことができた者は私を物語や絵画に描いた。けれど……」
揺れは激しくなっていった。俺はガイアを抱き締めた。彼女の体がだんだんと冷たくなっていくのを感じた。
「私を恋人のように想ってくれたのはあなただけだった。ありがとう、私の愛しい人」
ガイアは目を閉じた。
ついに大地が割け、空は激しく荒れた。
「偉大なる光よ。どうか俺を彼女と共に」
宇宙に浮かぶ、青い水晶のような星。美しく、孤独な星。いまその星が消えてゆく。
俺はどこにいるのだろう。いったい何が起こったのか。まるで長い夢を見ていたように頭がぼんやりとしている。
「さあ、もう行かなくては」
彼女の声がする。俺は手を引かれて、ソファから起き上がった。
「行くってどこへ」
いつも風の吹いている丘の上の白い家を出て、俺はどこに行くのだろう。
「ずっと遠いところよ」
ガイアは笑った。ああ、そうだったっけ。
「けれど君がいなくなったら、人間はどうなってしまうのかな」
僕はガイアに聞いた。
「私の存在のすべては、いまはあなたと共にある」
ガイアはそう答えた。
そして俺たちは丘を降りて、歩き始めた。
終わりの日に