ファゴット コンチェルト

tokasama

ファゴット コンチェルト
  1. 第一楽章
  2. 第二楽章
  3. 第三楽章

第一楽章

 春のうららかな陽気の中、その喜びを全身で感じている男子生徒が机に突っ伏して気持ちよさげな寝息を立てていた。プウプウと鼻から息が漏れていて、そこから飛び出た透明の風船が大きくなったり小さくなったりしている。近づいて耳をすますと「ああーマグロ美味そう……」と涎を流しながら、これまた幸せそうな夢を見ていそうではないか。
 田子山美有は手に持っていた数学のワーク帳をクルクルと棒状に丸め、大きく振りかぶって勢いよく男子生徒の頭に叩きつけた。スコーン! という軽快な音が教室に響く。予想以上の良い音を出すことができて、美有は自分の腕にすこぶる満足した。
「……ってーな! 何すんだよ!」と、弾かれたように男子生徒が顔を上げる。
「デカチョー! もうすぐ部活の時間でしょ! いつまで夢見てんのよ、涎を拭きなさい!」
 デカチョーと呼ばれた男子生徒は叩かれた場所を右手で押さえ、左の袖で涎を拭った。
「タゴぉ、お前さあ、本の角で叩くな、角で。死ぬほど痛てえんだよ。せっかくマグロ寿司を食べようと思っていたのに、マグロがシャリを残して海に逃げたじゃんか」
「本気で叩いた方がスッキリと目覚めもいいでしょ。マグロぐらい週末海にでも行って捕まえてくれば?」
「ちっ、暴力女め……」と呟いたところでワーク帳がまた振り下ろされそうになり、慌てて頭を腕で覆う。と思ったら軽く蹴りを入れられた。
「文句ばかり言わないの。今日は新入生の大事な顔合わせなんだよ。あんたも今日からはブラバンの先輩なんだよ? お願いだから先輩としてちゃんと振舞ってよ」
「分ーってる、分ーってる。今から準備して行くところだったんだよ。心配されなくともちゃあんと行きますよお、おタゴさま」
「ふざけないで、ほんとに頼んだよ? 遅れたら承知しないから」
 返事の代わりにふああと大きな欠伸をして、デカチョーは背筋を伸ばした。もう行くからあっちに行っててと、手を振って美有を追い返す。仕方なく美有はその場を離れ、机を数個分歩く。嫌な予感がしてもう一度振り向く。予想通り、デカチョーは机に突っ伏して幸せそうな寝息をたてていた。
 再びワーク帳の軽快な音が教室に鳴り響いた。


「くっそー、二回も殴るなよ……タゴ鬼め」
 デカチョーは頭のてっぺんを労わるように摩り、ブツブツと文句を言う。デカチョー、またの名を間山敬司という。ケイジだから刑事、デカ、デカ長つまりデカチョーというわけだ。これは美有からいただいた有難いあだ名だった。美有と話すようになったのは去年、中学の吹奏楽部に入ってからである。幼馴染というわけでもないのに何故か敬司はよく美有に絡まれていて、彼女の憂さ晴らしの格好の餌食になっていた。美有は背が高く細身の体でふっくらとした唇が魅力的な、どちらかと言われれば美人の部類に入り、これが恋にでも発展すれば人生最高の中学生ワンダフル青春ライフを謳歌できたはずだ。だが彼女の魅惑的な女性フェロモンは、男勝りの性格と限りなく短い髪型のせいでごっそりと消えてしまっており、女というよりはほとんど男、いや漢である。敬司の青春は人生最高どころか最低ランクにまで落ちぶれてしまった。
 半分寝ぼけ眼のまま、楽器を取りに音楽室へ向かう。その後ろから鬼のような形相をした美有が付いてくる。ツノを隠してはいるがマジで鬼だ。憑いてくる、という表現の方がふさわしい気がすると敬司は心の中で悪態をついた。
「なあ、そんなおっそろしい顔してたら、新入生がビビって入部辞めるぞ」
「この顔はあんた用だよ。新入生には新入生用の仏の顔を作るから、余計な心配はしなくていいの。ちゃんと楽器出して練習してくれたら、この顔はもうやめるよ」
「どうもどうも、有難いご厚意には感謝するねえ。――なあ今年ってさ、部員どれくらい入ると思う?」
「さあね……今年は希望者が多いんじゃないかっていう噂はあるけど」
「男子いるかなあ」
「いるといいね。一人くらいは」
「頼む、いてくれー。ついでにファゴットにも来てくれ」
「それは無理でしょ。ファゴットなんてマイナーな楽器、誰が選ぶのよ。ってか、誰も知らないでしょ。それにファゴット補充は来年だしね」
 まあそうだよな、と敬司は肩を落とす。文化部の中でも吹奏楽は一番の花形で、放っておいても毎年ある程度の入部希望者は集まる。しかし問題がないわけではない。男子が来ないのだ。男なんて大概がサッカー、バスケに陸上といった運動部に行ってしまう。モテたいなら運動部に入るべし……部活希望調査票を提出するときに、一年の男子生徒の間で必ず飛び交う呪いの言葉である。大概のやつは音楽なんて選ばない。
 しかし敬司は吹奏楽を選んだ。別に音楽が好きだったわけではない。運動が大の苦手だったからだ。案の定、その年の吹奏楽に入部した男子は敬司一人だった。部全体では三人だ。一人は三年のパーカッション、もう一人は二年のチューバだった。パーカッションの先輩は卒業して、今現在は敬司を入れて二人のみとなっている。なんとも寂しい限りだが、女子に囲まれて優雅な三年間を送れるだろうと思えば気楽なもんだと敬司は割り切っていた。
 ところが、だ。そんなに世の中甘くはなかった。「持久力を付けるため」という理由により、女子の先輩たちにケツを叩かれながら廊下を走らされることになったのだ。男よりも男勝りな女先輩たちの監視の元、ゼエゼエと息を切らして廊下を端から端まで十往復する。その後は腹筋三十回。敬司は心で泣いた。血の涙を流した。なぜ俺は茶道部を選ばなかったのだろうと激しく後悔した。
 担当楽器はファゴットになった。これまた好きで選んだわけではない。敬司が希望楽器を悩んでいる間に、人気のあるフルート、クラリネット、サックス、トランペットが真っ先に希望者で埋まってしまったからだ。ファゴットは他に希望者がいなかった。顧問が文句を言わなそうな男子生徒に残り物を割り当てただけである。
 なぜファゴットに希望者がいないのか――答えは単純で、知名度が全くないのだ。道行く人十人に聞いて十人が知らないというレベルである。「福」の付く都道府県を三つ答えよと言われる方が遥かに回答率は高い。
 ファゴットとはリードが二枚重ねになっているダブルリードで、木管の低音を担当する楽器である。約一メートル半、重さ三キロもあり、それをストラップ一本で首から掛けて演奏する。薪を束にしたような形をしていて、遠くから見ると茶色い煙突がひょっこり飛び出ているようにも見える。楽譜はヘ音記号とハ音記号。ト音記号しか読めない敬司は、ドの位置さえ分からなくて途方に暮れた。
 しかもこのパートは一年おきでの部員補充となる。高い楽器で学校には二本しかないからだ。十年前に購入した、メッキの剥がれた古い楽器だった。クラリネットやらサックスやら、二十人ほどの団員が一斉にぎゃんぎゃんとパート練習を始める中、先輩と二人で寂しく壁に向かいながらぼへーっと音を出して練習するというのがお決まりの風景となっている。今年なんて先輩も卒業して自分一人だ。パート内の交流も競争もないもんだから、やる気が失せてくるのも当然なんだよ、と敬司はいつも脳内でボヤいているのだった。
 音楽準備室から楽器ケースを取り出し、美有の疑り深い視線からようやく解放された敬司は、木管セクションが集まる教室へ行く。美有はトロンボーンなので金管セクションの方へ。木セクの教室にはすでに木管希望の新入生が集まり、先輩たちから練習内容の説明を受けていた。
「あ、間山くんやっと来た」
 教壇の脇に立っていた女子部員が敬司を見つけて、廊下の窓越しに声を掛けた。
「浅尾、新入生って何人来た? 男子いる?」
 浅尾と呼ばれた女子――浅尾遥香は、綺麗な光の輪ができている真っ直ぐな髪を揺らして小さく頷いた。
「よかったね、間山くん、希望通り木管に一人男の子が入ったよ」と、手を口に当ててヒソヒソと話す。
 マジで、と呟いて教室を見渡すと、十人ほどの女子に交じって、一番後ろの席に黒縁の眼鏡を掛けた男子生徒がいた。小学校を上がったばかりのウブさがまだ残っていて、身体が小さめで顔つきもふっくらとあどけない。先輩の言葉を一言も聞き漏らすまいと背筋を伸ばして真剣な表情で訊いていて、クソ真面目というか、度数の強そうな眼鏡と長い前髪のせいで根暗に見えるなあと敬司は思った。しかし貴重な男子部員確保には違わない。女の花園に飛び込んでくれた彼の無謀な挑戦を、敬司は有難く頂戴した。
 担当の楽器は全体説明会ですでに決められている。教室内で新入生たちがゾロゾロと楽器パートごとに集まって椅子に座り、先輩たちに挨拶をする。当然ながらファゴットには誰もいない。先ほどの男子部員を探すと、フルートに入ったようだった。暇なので何とはなしに彼に近づいてみる。
「……じゃあ新入生の自己紹介をお願いします」
 先輩の声に促されて四人のフルート希望者がそれぞれ挨拶を始める。
「一年五組の篠原亮といいます。よろしくお願いします」
 声変わり途中の不完全なトーンで、男子生徒は座ったまま深々とお辞儀をした。
「亮くんは私と同じ先生のところでピアノも習ってるんだよ。頭がいいからすごく譜読みが早いの」
 嬉しそうに物申す遥香の声に皆の視線が集まる。敬司が思わず口を挟んだ。
「なに、浅尾ってこいつのこと知ってんの?」
「うん、同じマンションに住んでる、ご近所さんなんだよ。ね?」
 遥香に声を掛けられて、篠原は戸惑ったように下向いた。えーすごいと他の先輩たちから声が上がった。
「やるじゃん遥香、期待の新人ゲットだね」
「えへへ」
「へー、そうなんだ。じゃあお前ってもしかしてだけどさ、浅尾を追っかけてブラバンに入ったとか? なーんてな」と、出来心から後輩を弄ってみる。というのも、遥香は彼女にしたいナンバーワンと噂されるほどの人気がある女の子で、こういう邪な理由もあり得なくはないと思ったからだ。
「……は? 何言ってるんすか、先輩?」篠原の眼鏡の奥から二重の鋭い視線が放たれた。「音楽が好きでここに来たに決まってるじゃないですか。浅尾先輩のことなんて関係ないですし、ただ近所に住んでるってだけで囃し立てるようでしたら入部辞めます」
 ふてくされたような様子を見せる後輩に、ごめん、悪かったと軽く謝る。まさか入学早々の新入部員に噛みつかれるとは思わなかった。こいつはクソ真面目で根暗どころか、怒りっぽくって調教に少々手こずるかもしれないと、敬司は即座に彼の性格を分析した。
「……まあでも音楽に強い子が入部してくれたのは嬉しいよね。浅尾さんが認めるんだったら余程上手いんでしょう。誰かさんと違ってね。男子は部を引っ張ってってくれる大事な戦力だから期待してるよ」
 木セクのリーダーでもある三年の大井先輩の発言に、篠原は神妙に頷いた。ってか、誰かさんって誰だよと、反論しなくても分かってしまうのが辛すぎる。居心地の悪くなった敬司はそっとその場を離れた。
 そんなこんなで新入生の顔合わせは続いていく。一人居場所のない敬司は、ふらふらと席を行ったり来たりして、最後まで自分の座る席を決められずにいた。


 新入生が帰った後は、二年、三年が音楽室に集まった。夏のコンクールの自由曲がすでに配られているので、その練習を始める。曲は樽屋雅徳の『ペドロの奇跡の夜』だ。コンクールっていっても、敬司を含めた二年生の大半はどうせ代表に選ばれることはないのが分かっている。ファゴットパートはオプション、つまり指定された他楽器で代替可能だし、オマケだと思うと演奏に気合が入るわけがない。「ぼへっ」という音が飛び出て、指揮者から注意を受けた。
「そこファゴット、ちゃんと出だしを合わせて!」
 顧問で指揮者も担当する女性教諭・宇崎恵美子。通称ウザキン。三十代でまだ独身。肌がきれいで顔立ちもよいこの女性教師は、ピアノに自信があってこの吹奏楽の顧問になった。これがまた、ヒステリックで練習が厳しいのなんの、指導に熱が入り過ぎて細い指揮棒を何度も指揮台に叩きつけるもんだから、指揮棒の折れたことが一度や二度ではない。一度は折れた先が木管のところまで飛んできて敬司の目に突き刺さりそうになり、あやうく流血騒ぎになるところだった。
「もう一度行くよ、Aから――違う違う、何度言ったら分かるの。ファゴットの音だけ浮いてるのよ。ちょっと一人で音出してみて……何て音出してるの。音程も狂ってるよ。長く音出して、ほら早く。――もう相変わらず音がぼんやりしてる。タンギングと腹式がなってないんだよ。だから出だしが早くなったり遅くなったりするの。ちょっとみんなと合わせてみて。サン、シ……ほら、全然駄目でしょう。自分でも分かる? 分からない? 二年生にもなってこんな状態でどうするの。ちゃんとそこ練習しておいて」
 宇崎は女性らしさが完全に吹き飛んだ低い声を吐き出して、パンパンと指揮棒でスコアを叩いた。はい、と敬司は大人しく返事をした。そして合奏が続く。
 ああ、やる気が出ない。どうせファゴットの音なんてロクに聴こえてないくせに。メッキも剥がれて、キイにもガタが来ていてるこんな古い楽器で、どうやっていい音を出せって言うんだよ。怒るだけ怒って、ファゴットを褒めたことなんて一回もないくせに……金管が入って曲全体の高まりを迎えたとき、敬司は悪戯心から吹くのをやめた。リードをくわえて、指だけ動かして、一生懸命に吹く真似だけをした。
 予想通り、宇崎はスコアを見ながらそのまま指揮棒を振り続けていた。
 やっぱりあいつ、全然聴こえてねえじゃん。ウザキンババアめ、ざまあみろ。敬司はリードをくわえる口元の筋肉を少しだけ緩め、心の中で舌を見せた。


 次の日から新入生たちは新しい楽器を始める。楽器を手渡されてからが本格的なスタートだ。後輩たちは物珍しそうに担当の楽器を眺めながら、先輩から指導を受けている。
 敬司には後輩がいないので、一人淡々と個人練習の準備を始める。各教室に分かれた後輩たちを観察する中で気になる人物を見つけた。昨日の愛想のない男子部員だ。彼が手ほどきを受けていたのは、三年生のオーボエの有賀という女子部員だった。ふくよかさを全身で表したような彼女は、ふくふくとした指で楽器を掴んでオーボエの組み立て方を熱心に指導していた。オーボエとはファゴットと同じダブルリードの楽器で、縦に七十センチほど、クラリネットほどの大きさの黒い楽器である。
「あ、デカチョーだ。今日はちゃんと来てるね。偉い偉い」
 トロンボーンケースを持った美有が通りかかって声を掛けてきた。
「なあタゴ、あいつってさ、もしかしてフルート辞めたのか?」
「何? あいつって……シノッチのこと? えーっとね……」
 篠原はすでにシノッチという命名をされたらしい。美有からの情報によると、シノッチこと篠原はオーボエパートに移ったとのことだった。フルートは人数が足りていたし、オーボエパートの希望者がいなかったので、部としても有難く受け入れたという。
 もしかすると昨日の野次がまずかったのだろうか、と少し反省した。
 練習が終わって後輩たちが帰る準備を始めたときに、敬司はオーボエパートの教室に行って例の後輩に声を掛けた。
「なあ篠原、昨日は変なこと言ってすまんかったな」
「変なことってなんですか?」と、後輩は楽器を片付けながら素っ気なく答えた。敬司は篠原の隣の席に座った。
「浅尾のことだよ。もしあいつのことを気にしてフルートを辞めたんだったら悪かったなって」
「別に気にしてませんよ、そんなこと」楽器ケースをパチンと閉めて、篠原は敬司の方へ顔を向けた。「オーボエの希望者がいないからやってみないかって、顧問に頼まれただけです。俺、オーボエも好きだからそれでもいいかなって」
「オーボエが好き? へえ、変わってるなあ」
「なんで」
「だってオーボエなんて知ってるやつ少ねえだろ。ファゴットもだけど。ファゴットの音なんて合奏してても全然聞こえないしなあ。たまに吹いてる真似して休んでるときあるけど、それでもうちの顧問気付かんでやんの。存在自体を忘れられてんだよ。なにそれってな。ははっ。あーもう、やる気ねーって思うときあるわ」
 敬司は足を伸ばし、だらしない格好で椅子に座って気怠そうに話した。雲に隠れていた太陽が窓に差し込み、教室がオレンジ色の夕日に包まれた。篠原はしばらく考え込んだあと、口を開いた。
「……先輩って、オケの曲とか聴きます?」
「オケ? オーケストラか? いや全然」
「じゃあ一度聴いてみてくださいよ。チャイコフスキーとか、ベートーベンとか、ブラームスとか、なんでもいいんで。クラシックを聴くと、作曲者たちにどれだけファゴットが愛されていたかがよく分かると思いますよ。吹奏楽もいいですけど、オケはオケで面白いです。よかったら今度CD持ってきますし。俺、オーボエもファゴットも好きですよ。ダブルリードの楽器って音の揺れをコントロールするのが難しいけど、それだけ感情の一瞬の揺らぎを音色で伝えてくれる気がするから」
「……ふーん?」
「それにベートーベンって、ファゴットの音を『天からの声』って表現したらしいですよ。知ってました?」
「天……? テンって、天気とか、お天とさまのことか?」
「うん、天気っていうよりも天国かな――先輩の吹いてる楽器の中には、天使が住んでるんですよ。ファゴットって天使の歌声なんです。そう思ったらファゴットもちょっとは素敵だなって、演奏するのが楽しくなりますよ、きっと」
 薄紫の雲がたなびく夕暮れを背にして篠原は微笑んだ。眼鏡の奥から「好き」の光が溢れてくる。好きなものを隠そうともしない、なんとも無邪気で愛らしい笑顔だ。昨日の不愛想な表情とのギャップに少しビビった。
 おいおい、こいつって意外と可愛いんじゃねえの――?
 やべえやべえと目を逸らした。CDを借りる約束をして、敬司はいそいそと教室を出た。


 次の日、篠原は早速クラシックのCDを二十枚ほど学校に持ってきた。放課後の練習の前、CDをバラバラっと机の上に広げた。
「先輩、言われた通り持ってきました。有名どころを手当たり次第に選んだんで、好みじゃないかもしれないですけど」
 ベートーベンの交響曲第五番「運命」という有名どころから、ブラームスの四番、チャイコフスキー、ラフマニノフ……とバリエーションに飛んだレーベルがざっと並ぶ。ショスタコービチとかマーラーとか、敬司が名前を聞いたことないものまであった。
「シューマン、シューベルトなんかはファゴットがあんまり目立たないんでやめときました。指揮者はCDを集めてた父親がカラヤン好きだったんで、そればっかりなんですけど、俺としてはショルティなんかが……」
「あーもう分ーった、ありがとよ。指揮者なんかどうでもいいし、こんだけあったらなんとかなるわ。しっかしたくさん持ってきたなあ。四、五枚くらいでよかったのに」
「たくさんあっても悪いことはないですよ。これでも足りないかなって悩んだくらいなんで。シベリウスとかは……」
「よく分かったサンキュー」とすぐさま答えておく。これ以上語らせると、お節介すぎるウンチクが終わらない予感がしたので会話を切った。
「わあ、亮くん、たくさんCD持ってきたね。えっこれって吹奏楽じゃなくてオケのやつ? 見せて見せて」
 遥香をはじめとしたフルートパートの面々が教室にやってきて、皆が物珍しそうにCDを手に取っていった。
「ラフマニノフの二番がある。これって旋律が情熱的というか、ロマンティックで私も好きだよ。ねえ、このラヴェルって作曲家、あの有名なボレロを作った人だよね? チャー、チャラララチャッチャララーってやつ」
 遥香の鼻歌に、篠原は床を見ながらうんと頷いた。
「……その中にある『亡き王女のためのパヴァーヌ』とかも、綺麗……な曲で、俺は好き……かな」
「そっか、亮くんが好きなら間違いないよね。ねえ、このCD貸してもらってもいい?」
 朗らかな笑顔を見せる遥香から目を逸らすようにして、篠原はどうぞと肩を小さくすぼめた。敬司は後輩の様子を目の端で観察した。先日からの篠原の態度は妙に気になる。遥香のことを無理に避けようとしているような。急に目が泳いだり、弱々しい声になるのも怪しい。やはりこいつは遥香のことが好きなのではないか、いやきっとそうに違いないと敬司は邪推し、ニヤニヤとした下品な目つきを後輩に向けた。
「でもクラシックってどうも敷居が高いというか、聴いてても眠くなるときがあるんだよねー」「うん、わたしもブラバンの曲の方がまだ楽しくて好きだなー」「わたしもー」などと周りの女子部員たちがわいわいと感想を言い合う。
「眠くなるのは俺だってありますよ」
「えーっ、そうなの」
「うん、モーツァルトとかハイドンとか、俺もヤバイ。聴きながら結構寝てる。でも眠くなるってのは、それだけいい音楽を聴かされてるってことだから、それで構わないと思いますよ。クラシックって、眠りながら心の一番純粋な部分を音の粒で磨きあげてくれてる気がします」
 篠原はそう言ってCDを片付け始めた。一年のくせにいい事言ってるじゃないか、と敬司は感心した。言っている意味はさっぱり理解できないが。満足そうな笑みを浮かべる篠原の顔を、敬司はぼんやりと眺めていた。

第二楽章

 夏の吹奏楽コンクールも無事に終わり、冬の定期演奏会への準備が始まった。ちなみにコンクールでは、予想通り敬司の出番はなかった。相変わらず毎日ぼへーっと気合のない音を出し続けている。敬司の古い楽器には、どうやら天使は住みついてはいないらしい。
 しかし最近は篠原とよく話すようになり、居心地の悪さも随分と薄まってきた。怒りっぽくって要注意だと気構えていた彼の性格も、実はそんなにキレやすいというわけでもなく、今では軽口を言ってふざけ合うことも多くなっている。数少ない男子部員で、しかもお互いにダブルリード仲間であることも二人の絆を深めた。練習前の廊下十往復は二人で競うようにして走り、汗だくになって逆に疲れた。図々しくオーボエのパート練習に入れてもらい、有賀先輩にはウザがられた。遥香のことでおちょくると、真っ赤な顔で怒られた。でも分からないことがあれば篠原は真っ先に敬司を頼ってきて、それがとにかく嬉しいのだ。敬司にとって篠原は可愛い弟のような存在だった。そして自分のあるべき居場所もまた彼によって助けられているのだった。
 ただし困ることもないわけではない。敬司に随分と気を許した篠原は、何かとあればクラッシックのウンチクを語り出すのだが、これがまた究極に長いのだ。ファゴットソロはハルサイがいいやら――白菜とかザーサイとか何かの野菜の名前かと思いきや、『春の祭典』という曲の名前だった――、ブラームスの交響曲第一番は完成するのに四十年かかったやら、チャイコフスキーにはゲイの噂があったやら、カルロス・クライバー、シャルル・デュトワ、アバドといった歴代指揮者の講評、あの曲この曲の独自解釈を含めどうでもいい話を延々としてくるのである。おかげで最近は聴く振りをしながら聞き流す術を身につけることができた。
 また篠原は何かとあればすぐにCDを貸そうとする。すでに五十枚くらいは聴かされて、そのうち半分は寝ながら聴いていた。音楽とファゴットの知識が増えたのは助かったが、これ以上はもう勘弁してとはっきり断った。
 そして驚くべきは篠原のオーボエの上達ぶりだ。とにかく早い。こいつのことを遥香が高く評価していたが、実際その通りだと思った。新入生が指遣いを覚えるのに四苦八苦している横でパラパラと音階やアルペジオを鳴らし、ブレスコントロールの基礎訓練を地道に続けていた。
「亮くん、さすがだよね。私の師匠が紹介した人のところで、月に二回ほど個人レッスンを受けてるんだけど、筋がいいってその先生も褒めてたらしいよ」と、遥香が教えてくれた。
 遥香は幼いときからピアノとフルートをプロに習っていて相当な腕前を持っている。その遥香が太鼓判を押したのだから、篠原の才能も大したものだ。もちろん才能だけではない。もっと練習したいからと言って、守衛が門を開ける早朝七時には学校に来て音楽室で自主練習をしていた。それに触発されて遥香まで朝練を始めだした。朝学校に行くと、音楽室の窓から競うようにしてフルートとオーボエの音が聴こえてくる。日曜日はきっちり休みを取っていたが、土曜日は合奏が終わってからも二人で帰宅時間ギリギリまで居残り練習を続けていた。自宅のマンションでは練習ができないからだそうだ。ここの吹奏楽部は強豪校というわけでもないのに、これ以上練習してどうするというのか……お前ら音楽のプロでも目指してるんかいと、敬司は呆れたように心でツッコミを入れていた。
 秋の終わりも近づくころ、オーボエパートの教室から何かのメロディーが流れてきた。ビブラートの揺らぎが心地よくて、どこかで聴いたことのあるフレーズに思わず耳を澄ます。有賀先輩のオーボエは音のチューニングが一定してなくて、聴いている方が不安になるようなメロディーをいつも奏でているのだが、今日は音程が安定していて音が心地いい。いつのまにやら上手くなったもんだなあと感心して教室を覗くと、なんと演奏していたのは篠原だった。廊下から敬司が見ているのに気が付いて、篠原は演奏を止めた。
「あ……邪魔して悪かったな。それって何の曲だっけ。聴いたことあった気がするんだけどなー……えーっと、白鳥の湖だっけ?」
「いえ、シューベルトの『未完成』のソロ部分です。今度のレッスンの課題曲なんで、練習してました」
「あっ、あーそうそう、そうだった。CD借りたよな。しかしすっげーな、お前。てっきり有賀先輩が吹いてるのかと思ったよ。そんなに上手くなるなんてどんだけ練習してんだよ、お前」
「大したことしてませんよ。出来ないところを出来るようになれればいいなって思うだけで」と謙遜しつつも、篠原は嬉しそうに頬を緩めた。
「大したことないって、お前なあ……浅尾と二人でめっちゃ練習してんじゃん。浅尾といつでも一緒にいたいっていう、健気な気持ちは分からんでもないけどさ」
「…………!」
 篠原の双眸から赤いビーム光線が放たれて慌てて謝る。
「……まあでも、二人ともよくやるよなーって、呆れるっつーか、感心するわ。そんな大層なこと、俺には無理だ」
「そうですか? そうなのかな、無理ってこともないと思うけど……間山先輩は今よりももっと上手くなりたくないんですか?」
「俺? 俺は別にそこまでは求めてないよ。音楽なんてテキトーでいい、テキトーで。楽器よりもやりたいことなんていっぱいあるから」
 少しの間、篠原は先輩の顔を見つめ、へえそうなんだ、と膝の上に立てていた楽器へ視線を落とし、「俺は今これしかないんで」とぽつりと呟いて黙ってしまった。ぐっと閉じられた唇がぐにぐにと動いていて、怒っているというか、不機嫌そうというか、篠原の不自然な表情に若干違和感を覚え、はてそんなに悪い事でも言っただろうかと少しばかり不安になる。
「……まあいいや。クッソ真面目なのもいいけど、疲れんのもアレだし少しはサボっとけよ」
 ははっと軽く笑いながら逃げるようにしてその場を離れた。すぐさま篠原は練習を再開したようで、彼のオーボエの音が後ろから付いてくる。丸く澄んだ、輪郭のある音。淀みがないから身体の内へするすると吸い込まれていく。透明で清らかな水が身体に満ちていく陰で、泥のような焦りが底に溜まっていくのも感じた。
 ――あいつ、上手くなるの、さすがに早すぎねえ?
 こんなこと今さらではある。が、後輩の音色を先輩のと聴き間違うなんてどうにかしてる。しかも篠原は楽器を始めてまだ半年だ。そんな経験の浅いやつが三年と同じレベルか、下手するとそれ以上に聴こえてしまうなんて、あいつはいったいどれだけの努力をしているというのだ。近くで演奏している有賀先輩はどういう思いでいるのだろう……敬司の持っている角の擦れたファゴットケースが、いつもよりズシリと重く感じられた。


 冬の定期演奏会では、宇崎の指示により二曲ほど篠原がソロを吹くことになった。有賀先輩を差し置いて。
 篠原のソロを隣で聴いていた有賀先輩は、どことなく虚ろな表情を見せていた。ふくよかな体が、少し震えているようにも感じられた。


 演奏会が終わり、トラックに楽器を積み込んで学校へ運んだ。小さめの楽器は女子部員が手分けして音楽準備室へ運び、打楽器は男子部員三人と顧問の宇崎で協力してトラックから下ろす。ティンパニの運搬はいつも一苦労で、美有や遥香たちも手伝いに来た。二十分ほどで全部運び出し、ようやくその場で解散となった。冬の夕暮れは日の落ちるのが早い。バイバイ、お疲れと挨拶をする部員たちは夜の闇に薄っすらと覆われている。チューバの先輩と篠原は自転車小屋の方へ行ってしまい、女子たちは玄関で動こうとせずに演奏会の感想を喋りあっていた。敬司は暗い空と演奏会の疲労感を背負いながら、猫背になってトボトボと一人で校門まで歩いていく。
「デカチョー、おっつかれー!」
 背中に平手打ちの衝撃があり、ツツジが植えられているレンガの花壇へ危うく頭を突っ込みそうになった。
「タゴぉ……ちょっとくらい手加減しろ。お前と違って、こっちはか弱くていたいけな男子生徒なんだぞ」
「あ、ごめん。か弱くていたいけな女子生徒の労いを、有難く受け取ってほしかったんだけど」と、美有はすましたような声を出す。
「アホか。誰がパワハラ女の労いなんか……」と言ったところでケツに一発蹴りが入った。
 校門を出て大通りを真っ直ぐ行った先の住宅街に美有の家はある。敬司の家はそれよりもっと先だ。帰宅方向が途中まで同じなので並んで歩いた。
「デカチョーの音さ、最近良くなってきたよね」
「え? マジで?」と、眉をあげた。ファゴットの音なんて誰も気にしていないと思っていたから、美有に聴こえていたというのは意外中の意外だ。痛みの残るケツを摩っていた手を思わず止めた。美有はトートバッグを両手で持って膝で軽く蹴り上げながら歩いていた。ポスンと跳ね上がる鞄の中から小さな鈴のような音がする。
「うん、音が円やかになってきたっていうか、音程も少しずつ安定してきたよ。経験積んだのもあるけど、やっぱりアレだね、シノッチにCDを押し付けられてるのが効果出てきたのもあるよね」
「CDなんかで? どっちかっつーとありがた迷惑なんだけど」
「音楽を聴いて耳をよくするのは基本中の基本だよ。それで曲を作り上げるイメージが随分と変わってくるから。シノッチの音楽好きが、少しはあんたにも影響してんじゃないかな」
 ふーん、と思わず声が出る。あの変態音楽オタクのお節介も、ちょっとは役に立っているということか。
「あいつすげえよなあ。楽器始めて一年でアレだぜ? まさか有賀先輩のソロ奪うなんてなあ……よくあんだけ集中して練習できるよなって、いつも感心するわ」
「有賀先輩は、うーん、なんていうか、音程やら何やらね……もう少し練習してくれるとよかったんだけどね……」と、美有は慎重に言葉を選んでいるようだった。相手が先輩だから気を遣っているのだろう。まあ確かに敬司から見ても彼女の演奏レベルには多少の難があったように思う。
「今回のソロは、先輩もある程度は覚悟してたっていうか、納得してくれてると思うよ。可哀そうではあったけどね。それにね、シノッチがここまでオーボエに懸けてるのって理由があるんだ。遥香から聞いたんだけど、シノッチさあ、今、家がいろいろとゴタゴタしてるんだって」
「いろいろとゴタゴタって……介護とか病気とか何か?」
「あ、ううん、ご両親がね、仲が悪いっていうか、ちょっと、その……」
 美有はそこまで言って、声を口の中でゴロゴロと転がして閉じてしまった。鞄を片手に持ち替えて鈴の音も消えた。大通りを曲がって静かな住宅街に入る。周囲の車の音も消えると、『俺は今これしかないんで』という篠原の声が蘇ってきた。ああそうか、あの意味したものは……
「親が離婚するのか」
「……うーん、多分ね。だからね、あの子ってさあ、きっと今は音楽をしてないとやってられないっていうか、音楽が救いになってるんじゃないかなあって思うの。オーボエを吹いているときのシノッチって、ほんと幸せそうだもんね」
 なるほどなあ、と思って空を見上げる。暗い空の中で星が一粒、二粒ほどフライングして光っていた。黒いビニール袋に針でぷつぷつと穴を開けたような光だった。でっかい顔があの穴の向こうからこちらを覗いていて、コンバンハ、オゲンキデスカと声が掛かってきそうだ。
 楽器を吹くことが幸せに感じられるなんて一度も考えたことがなかった。自分にとっては、ファゴットも部活も苦痛でしかない。大して上手くもなくて、誰にも聴こえなくて、怒られてばっかりで、なんで俺は嫌な思いしてまで楽器を吹いているんだろうと、合奏を終えるたびに疑問ばかりが身体に残る。部活なんて日々の惰性で淡々とこなしているだけで、はっきり言ってしまえば高校へ進学するための内申点稼ぎでしかなかった。あいつのように突き動かされる情熱というものが、どこにも感じられないのだ。早く三年になって終わってくれればいいとさえ思う。自分の中でファゴットというものがどういう存在価値をもつものかなんて、敬司にはさっぱり――
「……んな難しい事、分かるわけねーわ」
「え?」
「あ、ごめん、こっちの話。……なあ、今からちょっと飯でも食いに行かねえ?」
「メシってどこよ。甘いものとか、お洒落なカフェとか、美味しいとこならいいけど」
「例えば?」
「この間テレビで紹介されてたとこ、美味しそうだったなー。なんとかロールって、ロールケーキみたいな名前のケーキ屋さん。あ、でも、時間が遅いから閉まっちゃったかな」
「あーそれならタゴにピッタリの店、俺知ってるわ。すっげーお洒落でちょー美味しいとこ」
「えっやった、マジで? どこどこ?」
 と喜んで提案された店は、近所にあるハバネロ入り激辛ラーメン専門店だった。
 敬司は再度ケツに一発蹴りを食らう羽目になった。


 三年生が卒業し、敬司たちは最終学年に上がった。春休みも終わりに差し掛かかり来週には新一年生が入学してくる。部活動勧誘の時期はその二週間後だ。
 新入部員も気になるところだが、もう一つ気になるのが夏のコンクールの自由曲だ。この日は合奏の後に新しい曲が配られることになっていた。
 練習が終わり、新しいパート譜が各自配られていく。敬司にも配られて、パート譜に目を通し、二つの意味でギョッとした。
 一つ目はパート譜の左上に小さく「Euphonium」と書かれていたこと。ユーフォニアムの楽譜だ。つまりファゴットのパート譜がないからユーフォの楽譜を使え、ということである。ファゴットパートが、オプション扱いからとうとうパート譜なしの格下げになってしまった。いくら音楽にさほどの思い入れのない敬司とは言え、最後のコンクールでこの扱いとはさすがに悲しい思いに項垂れる。
 そしてもう一つ驚愕したもの、それは――
「先生、『ちはやふる』ってこの曲、アニソンですかー?」
 女子生徒から質問が出て、えーマジでーっと周りからも驚きの声が上がった。
「アニソンがコンクールの曲って、ヤバくない?」「そんなの聞いたことないよ。大丈夫なのかな」「映画音楽じゃないの、これ」「実写のやつ? すずちゃん可愛かったよねー」「わたしは眼鏡の子が好きだよ」「漫画ってどこまで進んだの」「ねー昨日のドラマ見た?」「見た見た。あの俳優めっちゃカッコいいよね」「お腹空いたー」……と、次から次へと声が沸き上がり、話題の内容がどんどん違う方向へとずれていき、音楽室の中は騒々しい女子中学生たちの喧騒ですっかり埋まってしまった。
「し・ず・か・に!」との宇崎の怒声でようやく場が落ち着いた。「――えーっと、これは皆さんが言うようなアニソンでも映画音楽でもありません。樽屋雅徳さんの作られた、れっきとした吹奏楽の曲です。もちろんコンクールにも使えますよ。樽屋雅徳さんは、去年も『ペドロの奇跡の夜』を演奏してるからもう分かるよね? 『ちはやふる』は漫画で有名だしもうみんな知ってるとは思うけど、平安時代の在原業平の短歌で、これはその歌をベースに作られた曲です。竜田川の紅葉の美しさに秘めた恋、天皇のお后である藤原高子との禁断の恋ですね。今からCDを流すから、それをイメージしながら聴いてちょうだい」
 宇崎はCDプレイヤーの音量を上げて曲を流した。
『ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは』――在原業平の詠ったこの歌は、紅葉の美しい景色の中に彼の激しい恋心を潜めている、とも伝えられている。冒頭でパーカッションの音が天を貫いた後、全ての楽器を解き放って業平の恋が語られ始めた。苦しくて、切なくて、あまりにも激しくて、その恋は甘美なものでは決してない。絶対に叶うことのない熱情と欲情と絶望の愛だ。二人の愛を阻む全ての者への怒りは金管が、そして一夜の逢瀬に語られる愛の睦言はサックスとクラリネットが奏でる。やがてその恋は一本の笛の音に託された。その役割を担ったのはフルートの声。悲しみに沈む涙の中で神に祈りを捧げる。何度も、何度も、何度でも。愛する人へ、どうかこの愛と歌が伝わりますようにと――フルートの音色は木管や打楽器にその身を掲げられて天へと昇華する。この世では叶わずとも、来世でもう一度巡り会おう、そして必ず結ばれようという一縷の望みとともに……。
 敬司は息を飲み込んだ。すごい曲だ、と素直に感動した。和の雰囲気が雅でありながらも荘厳で雄大で、がっつりと曲の中に引き込まれる。曲の難易度も去年より高い。そして何よりも印象的だったのが――
「この曲は特にフルートソロの美しさが要なの。浅尾さん、あなたには期待してるからしっかりと練習しておいてね」
 宇崎の指示に真剣な眼差しで遥香は頷いた。この曲は遥香のために用意されたようなものだった。それだけ彼女の技術に期待しているのだろう。パート譜のないファゴットとは大違いだなと敬司は心の中で自嘲した。
 合奏が終わり片付けに入ったとき、篠原の譜面台をちらりと覗いた。オーボエのパート譜はいつものようにオプション扱いのようである。
「何してるんすか、間山先輩」
 楽器ケースを取りに戻った篠原が声を掛けてきた。
「あ、スマン。オーボエの楽譜がどんなんだったのかなーって、ちょっと気になって」と言って、篠原の右手に持つ楽器ケースに目がいく。今まで見たこともない、真新しい紺色の皮のケースカバーが付いていた。
「それって……」
「あ、これですか? この楽器のケースです」と、篠原は椅子に乗せていたオーボエを手に取った。「自分用の新しい楽器を親に買ってもらったんですよ。中古のやつですけど。師匠にお願いして音大の人が使っていた楽器を回してもらいました」
「え、うそ、マジで? お前、わざわざオーボエを買ったの?」
「うん、学校でイングリッシュホルンを購入するって先生に教えてもらったから、それなら俺も自分用のちゃんとした楽器があった方がいいだろうなって思って。前から欲しくて、母親にずっと頼んでたんですよ。学校のオーボエってグレードが落ちるやつだし、古くて音が通りにくいから」
 まるで恋人を愛でるような手付きで、篠原は楽器を優しく撫でた。おいおいそんな大事なことをさらりと言うなよと、敬司は思わず息を飲む。
 イングリッシュホルンとはオーボエよりも大きさが長く、低い音が鳴る楽器である。オーボエよりももっとエキゾチックで幻惑的な音を出すので、それを好んでソロを吹かせる曲も多い。この楽器一本あるだけで、オーボエが活躍する曲の選択がぐっと増えるわけだ。これをわざわざ学校で購入するということは、遥香のフルートだけでなく、オーボエの篠原にもそれだけ期待しているということになる。ちなみにイングリッシュホルンの価格は安くても七十万、篠原の購入したロレー社のオーボエは、新品で購入すれば百万以上もするハイグレードモデルだ。
 恐らく夏の吹奏楽コンクールでは、二年生の篠原も代表メンバーに選ばれるのだろう。敬司は自分との立場の違いに愕然とした。メッキも剥がれてキーもボロボロになっている自分のファゴット。自分はそれをずっと我慢して使っているというのにこの格差はいったい何なんだ。
 ピカピカに磨き上げられている篠原のオーボエを見ていると、ふいに成金上がりの輩が身につけているブランド物の高級時計が思い浮かんだ。傲慢で、見下して、冷たくて、何考えてるか分からなくて、一緒にいるだけで腹が立ってくる、ウザいくらいの拝金主義者だ。しかもそういうやつに限って他人からすこぶる大事がられたり敬われたりする。期待されているやつというのは、なぜこうにもみんなからチヤホヤと優遇されるのだろうか。持っているやつというのは、なぜ全てのものをごっそりと奪っていくのか。恵まれているやつというのは、どうしてこんなにも他人への配慮に欠けているんだろうか。――対して俺のファゴットなんて誰が必要としてる? パート譜もない、聴こえなくてもいい、いなくってもいい、自分の価値なんてなんにもない、ゼロじゃないか!
 オーボエにスワブを通して水気を切っていた篠原は、敬司の視線がなにもない宙の一点を見つめていることに気が付いた。
「間山先輩、どうしたんですか? 早く楽器を片付けないと」
「……いちいちうっせーな、言われなくても分かってるよ、んなこと」敬司は泥がこびり付いたような鈍い声を吐き出した。「そんなにお高い楽器だったら、さぞかしや手入れにも気合が入るだろうなあ。どうせ俺には古臭くて錆びたファゴットがお似合いだよ、お前と違ってさ」
「……は? どうしたんですか。先輩の意味するものがよく分からないんですけど」
「分からんでもいいし。ってか、お前なんかに分かるわけないだろ」
 敬司の口からドロドロしたものが溢れてくる。溢れて、溢れて、どうしても止まらない。敬司から溢れだす醜い感情を、篠原は受け止めきれずにいるようだった。探るように先輩の顔を見つめてくる。
「……分からないって決めつけるのもどうかと。もしかして、新しい楽器のことで怒ってるんですか」
「怒ってなんかねーし! ってか、楽器なんて関係ねーし! お前ってさあ、どうしていっつもそんなに偉そうなんだよ。お前みたいなやつに、期待されないやつの苦しみが分かるのか? 必要とされないやつの虚しさが理解できるのか? 音楽の才能があって、高い楽器も買ってもらえて、顧問に特別扱いされて、先輩のソロまで奪って、二年でコンクールの代表入りで、お前はなんでもかんでも恵まれすぎてんだよ。自慢くせえんだよ。俺はほんと、ぜーんぜんダメだ。才気あふれるシノハラさまとは大違いですわ、ははっ。何でもかんでも知ったかぶりの面なんて、もう見たくもねーんだよ」
 乱暴な足取りで席に戻り、敬司はファゴットを片付け始めた。言いたいことを言ったはずなのに、手首が強張って指先が細かく震えていた。歯が噛み合わずにがくがくとして、それを抑えるように奥歯を喰いしばった。管からベルを外すのに手が滑って随分と時間が掛かった。周りの女子部員たちのお喋りが消えていた。篠原がこちらを気にしていそうだったが、ガン無視した。メッキの剥がれたところに浮かぶ青錆びが、触った指先から身体へ侵食し、内臓をジワリと腐食させていくような不快な感触を覚えた。
 やがて篠原がゆっくりと立ち上がり、水中をゆらりと漂うように敬司のところへ来た。
「先輩、自慢くさいってどういうことですか。知ったかぶりってなんですか。俺は偉そうにしてるつもりもないし、才能なんてものもないし、恵まれてるわけでもないし、ただ上手くなりたくて必死に練習続けてるだけです。どうしてそこまで言われなくちゃいけないのか、理由を教えてください」
 必死に理性を保とうとしているものの、篠原の声は低空を飛び続ける飛行機のような唸りを伴っていた。頬の筋肉とこめかみがぴくぴくと細かく痙攣していて、赤い顔をして、怒りが噴き出す一歩手前まで来ているようだ。敬司は楽器の手入れを手早く終わらせてケースを閉じた。
「理由なんかねーし。わり、急ぐからもう帰るわ」
「ちょっ……ざけんなよ。音楽なんかテキトーでいいって笑ってたのはあんた自身じゃんか。練習をロクにしようともしないで、口ばっかり叩いて偉そうにしてるのはそっちのくせに、新しい楽器を買ったくらいで俺のことを侮辱するなんておかしいだろ」
「はあ? 何それ。お前のその減らず口が――」と言いかけたところで、スコーン! と頭に衝撃があった。
「はい、二人とももうお終いにしなさい。デカチョー、あんた先輩のくせに何してんの。みっともないよ」
 丸めた数学のワーク帳を持った美有が敬司を睨む。敬司はその視線を無言の圧で跳ね返して、重い楽器ケースを持ってさっさと部室を出ていった。
 ――あいつめ、またワーク帳の角で殴りやがった。
 叩かれた跡がヒリヒリと傷む。ケースの重みが掌に痛みを残す。その痛みは瞼へ、喉へ、胸の奥へとゆっくり、ゆっくり伝播していった。


 一晩寝て、起きて、布団の中で昨日のことを思い出す。ああしまったと頭を抱えて、寝ぐせのついた髪の毛を掴んでぎゅっと引っ張った。時間が経てば経つほど、昨日の自分の行動がいかにバカだったかということが否応なしにはっきりしてくる。恵まれてるも何も、あいつは音楽を必死にならざるを得ない家庭の事情があるんだと、美有から教えてもらっていたではないか。あれだけ懸命になって練習してるやつに、自分は何を僻んでいるのだ。本当にバカだった。情けなさで涙が出る。
 しかしどうしてあのときあんなにも抑えが利かなかったのか――そんなにも俺は自分の実力に不甲斐なさを感じていたのだろうかと思うと、それはそれで意外だったようにも感じられる。
 兎にも角にも今日の部活であいつに詫びようと反省していたら、枕元のスマホがピロリンと音を鳴らしてLINE着信を知らせた。
『どう、少しは目が覚めた? あれからシノッチ落ち込んでたよ』
 美有からのメッセージだった。ちゃんと謝るよと返事をしておく。布団からフラフラと起き上がって部活に行く準備を始めた。


 重い足取りでオーボエパートの教室へ向かう。椅子に座って俯いている篠原の姿を見つけて、「なあ、昨日は悪かったな。言い過ぎたよ、ごめん」と廊下から軽く声を掛けて、彼がこちらを振り向く前にさっとその場を離れた。今はこれくらいでいいだろう。あとはきっと時間が解決してくれるはずだと、敬司は自分に言い聞かせた。
 途中で顧問の宇崎に出くわし、ちょっと職員室へ来てほしいと言われる。昨日の口喧嘩のことが耳に入ったのだろうかとビクビクして付いていくと、職員室で出されたのは全く違う案件だった。
「間山くんにお願いがあるの。実はね、今度のコンクールのことなんだけど、打楽器の人数が足りないのよ」
「はあ……?」
「打楽器に最低五人は欲しいのだけど、次の一年で二人入れるとしても、あと一人足りなくて困ってるの。それでね、間山くん……『ちはやふる』のあなたのパート、楽譜がないでしょ? もしできるなら、自由曲のときにパーカッションに替わってもらえないかなって思って」
「え? ファゴットを辞めろってことですか?」
「違う違う、そんな殺生なことは言わないわよ。せっかく二年間も続けてきたんだし、課題曲のときにはもちろんファゴットを吹いて欲しいと思ってる。ただね、その後の『ちはやふる』の曲になったらパーカッションに替わってほしいの。コンバートってやつね。課題曲と自由曲でメンバーの入れ替えはできないから、代表メンバーの中でお願いするしかないのよ。もちろん無理にとは言わない。ファゴットと打楽器の二重の練習になるから大変だしね。もし間山くんが無理だって言うんだったら、他の子にも訊いてみようかとは思ってるよ」
 はあ、と敬司は再び気のない声で応えた。吹奏楽コンクールでは、課題曲と自由曲の二曲を連続して演奏する。宇崎が言いたいのは、課題曲ではファゴットを吹き、それが終わって自由曲を演奏する前に打楽器の方へ移動しろということだ。打楽器の人数不足問題はよくある話で、楽器のコンバート自体も珍しいことではない。ただし、中学最後のコンクールでコンバート要員という扱いが気にならなければの話だが――
「……別にいいですよ。打楽器なんて経験ないから簡単なやつでお願いしたいですけど」
「えっほんとにいいの? 助かるよ、ありがとう! じゃあパーカッションの子たちにも話をつけておくね。でね、してもらいたい楽器はねえ……」
 スコア本をペラペラと捲りながら嬉しそうに話し続ける宇崎の声をぼんやりと聞き流す。聞き流すのも慣れたもんだ。ウンチクを聞き流す訓練がまさかここで役立とうとは思わなかった。しかしオプションからパート譜なしへ、パート譜なしから打楽器へのコンバート、か……これはこれで自分らしい選択だなと、訊く振りをしながら黙考する。まあ、代表メンバーに無事に入れてもらえただけでも良しとするか。敬司は自分のファゴットの存在価値の低さにやれやれとため息をついた。


 新一年生も入り、美有が新部長となって、新生吹奏楽部が本格的にスタートした。ファゴットとオーボエにも一人ずつ女子生徒が入った。ただし敬司は打楽器の練習もあるため、新入部員に楽器の扱い方と練習方法をある程度教えてはパーカッションにも顔を出し、またファゴットに戻って課題曲の練習もするという、二重、三重生活の忙しない日々を送っていた。
 篠原とはあれから普段通り挨拶を交わすようになり、何事もなかったかのように振舞えるようになった。感情をずるずると引きずるのはあまり好きではない。普通に接することが出来るのであればそれでいいと思う。しかし毎日の慌ただしさの中で、篠原との会話の時間は確実に減った。コンクールが終われば元に戻るだろうと、焦らず気楽に構えておくことにする。
 自由曲のパーカッションでは和太鼓を担当することになった。直径五十センチほどの小さめの和太鼓で長胴太鼓という名前らしい。
 楽譜を見せてもらってその音符の数に慄いた。連打、連打の嵐である。
「これって……俺の和太鼓ずっと叩きっぱなしじゃん」
「あー、うん、今回の曲さー、パーカスってどれも難しいんだよ。あんたにティンパニは無理だし、鍵盤楽器だってやったことないでしょ? この和太鼓が一番無難っぽくってさ。まあ、半分くらいは休みがあるし、平太鼓と同じ動きをするから多分大丈夫なんじゃないの?」
 適当に応じたのは三年の藤見という女子部員だ。椅子に座って脚を組み、肩のあたりで方々に跳ねている髪の毛を指で触りながら気怠そうな声を出す。甘ったるい話し方をして、笑うと前歯がにゅっと飛び出すのが彼女の特徴だった。
「大丈夫ったってさ、俺、打楽器の経験ないんだよ」
「そんなの新しい一年も一緒じゃん」と、藤見は器用に右側だけの頬をあげた。
「いやいや、俺さ、これだけじゃなくてファゴットも抱えてるんだよ。課題曲の練習もしないといけないから」
「まーそれはご愁傷さまって思うけど、やるって決めてくれたんだからどうしようもないじゃん」
「それはそうだけど……もっと簡単なやつを任されると思ってたよ。こんなに難しそうなのって、初心者でもできるもんなのかな」
「和太鼓は家でも練習できるし、ドンドコ叩くだけだからリズムさえ覚えればなんとかなるって。太鼓の達人ってゲームあるでしょ? あんな感じだって思ってくれればいいよ。まだ四か月もあるんだから毎日特訓すれば大丈夫。バチの持ち方と叩き方は教えるからさ」
 藤見は綺麗に並んだ前歯を見せながらハハンと笑った。なんといい加減な。まだ四か月じゃなくて、たった四か月しかないんだぞ。敬司は再びやれやれと肩を落とす。
 バチの持ち方を教えてもらい実際に叩いてみたが、意外にこれが難しい。右と左で速さが微妙にずれるのだ。音が均等に叩けるように、メトロノームを使ってリズムを体で覚えていく。この基礎訓練だけは絶対にサボるなと藤見からアドバイスをされた。学校での練習だけでは不安なので、シリコン製の練習道具を持ち帰って家でも復習する。勉強部屋でパコパコと叩いていると、何をしているのかと親に不審がられた。それでも不安が消えなくて、プロが和太鼓を叩く動画を見まくってイメージトレーニングを繰り返した。
 しかし掛け持ちというのは想像していた以上に大変で、ファゴットの練習量が絶対的に足りなくなった。いくつか指の回らない箇所があって、合奏をするたび宇崎にバレないかとヒヤヒヤしながら吹いている。完璧に吹けないのは今に限ったことではないし、誤魔化しながら演奏するのもよくあることだが、最終学年でのコンクールでみっともない演奏をするのも気が引けるので、仕方なく敬司は篠原たちの朝練に参加させてもらうことにした。二人のことをクソ真面目やらなんやらと散々扱き下ろしていたくせに、まさか自分までもが朝練する羽目になるとは思いもしなかった。皮肉にも楽器をコンバートすることによって、敬司の音楽への積極性が飛躍的に伸びたわけである。部活を始めてからの二年半で今が一番努力をしているんじゃないかと、敬司は自分で自分を素直に褒めた。
 一番緊張するのは、やはり課題曲の合奏だ。太鼓の音は思った以上に音楽室によく響くから、一つでも打ち間違いがあるとすぐにバレる。言うなれば太鼓はソロと同じだった。平太鼓と同じ動きをするので、ソロというよりは二人でソロをする『ソリ』に近いか。どちらにせよ、ものすごく目立つ。神経を研ぎ澄まし、指揮棒を意識しながら平太鼓と呼吸を合わせる。平太鼓は一年の内村という男子部員が担当していた。打楽器には他に小堀という一年の男子生徒もいて、贅沢なことにこのパートには男子生徒が二人も入ったわけである。
「そこ太鼓! リズムに遅れないで。もっと軽く、タン・タ・タン、タン・タ・タンって。二人でやってみて、イチ、ニ……そう、もっと足を踏ん張って腰を据えて叩いて。……あーもうそれじゃダメだって! もう一度するよ!」
 この曲は打楽器の活躍が多く、宇崎の集中砲火も自然と増えてきて、些細なミスにも容赦なく彼女の指揮棒が唸った。この夏で打楽器のためにすでに指揮棒を二本折っている。ヒステリックに叫ぶ宇崎の声にウンザリして、「ウザいしキンキンうるせーよ……」とぼそりと呟くと、サスペンドシンバルを叩く二年生は頬が緩まないように口を引き締め、ティンパニの藤見はハハンと白い前歯を見せ、一年男子も揃ってクスクスと笑ってくれた。宇崎という一人の敵により、打楽器メンバーに結束感が生まれてきたわけである。特に一年坊主たちがとにかく可愛い。敬司のブラックユーモアにもすぐ反応してくれて、一癖ある変態音楽オタクの後輩とは全く違うフレッシュボーイズの純粋さに、敬司は初めて物分かりのよい後輩ができたような感動を覚えたのである。
「間山くん、調子どう? もしコンバートがしんどいようだったら他の子に頼むから、気にしないで言ってねえ」
 ある日、宇崎が珍しく敬司を気遣う素振りを見せてきた。いったいどうしたのか、普段聞かないような猫撫で声で話しかけてきたものだから、気持ち悪いことこの上ない。ここまで来て他人に太鼓を代わってもらうとか絶対にありえなくて、「全然大丈夫です」と速攻でその提案をはね返した。
 すでに打楽器は敬司の音楽に欠かせないものとなっていた。打楽器パートで作り上げる一瞬の呼吸、隙のない動き、チームのような連帯感。今ここで必要とされているのは、太鼓を叩く自分という存在である――そんな感覚が何よりも嬉しかったのだ。もしかするとファゴットを選んでしまった自分は選択を間違っていたんではないだろうかと、バチを叩きながら敬司はしみじみと感慨にふけるのであった。
 そんなこんなでコンクールの日を迎え、敬司はファゴットと太鼓の二足の草鞋をなんとかこなしきった。無理だ無理だと思っていたのに、やればできるものである。もちろんのこと遥香のフルートも美しかった。結果は銀賞だったが、金賞まであと一歩というレベルにまで成長したとウザキンは部員たちの努力を称えた。こうして中学最後の吹奏楽コンクールは、無事に終わりを告げたのだった。

第三楽章

 コンクールが終わればあとは冬の定期演奏会、そして一月のアンサンブルコンテストだけとなる。これでようやく吹奏楽部も卒業だ。アンサンブルコンテストは希望者のみの出場であり、周囲では誰が参加するのか、誰と演奏するのか、曲は何にするのかという話題でもちきりになっていた。もちろんのこと敬司はそんな面倒な大会に出るなんてこれっぽっちも考えていない。定演をそつなくこなして部活をとっとと終わらせてしまおうと呑気に構えていた。
「間山先輩、アンサンブルコンテストってどうしますか」
 コンクールの一月後、合奏が終わってから篠原が声を掛けてきた。
「アンコンなんてまだまだ先の話だろ? 今訊かれても分かんねえけど、どうせ誰にも誘われないだろうし、多分出ねーよ」
 黒い金属の譜面台をパタパタと畳みながら敬司は答えた。悲しいかな、敬司はアンコンに一度も出場したことがなかったのだ。
「そうですか……お願いがあるんですけど、俺と一緒にアンコンに出てもらえませんか」
 隣の椅子に座っておずおずと声を掛けた篠原を、敬司は軽く一蹴した。
「はあ? お前とアンサンブル? 冗談キツイって。お前と一緒にやっても、俺のファゴットなんて足引っ張るだけだし他誘えよ。なんなら浅尾とやったらいいじゃん。お前と浅尾なら金賞は間違いないだろ」
「でも……」
「俺なんかお前の技術に付いていくなんてできないから。ウザキンだってそう思ってるよ。まあ頑張ってくれ」
 名残惜しそうな篠原を無視して敬司は音楽室を後にした。
 しかし篠原はしつこかった。次の日の放課後、再び敬司を誘いに来たのである。
「間山先輩、お願いですからアンサンブルしましょうよ。宇崎先生には事前に承諾もらってますから」
「いやだから無理だって。ウザキンがどう言おうが何度誘われてもやらないよ。お前には浅尾がピッタリじゃん」
「浅尾先輩も誘ってますよ。やりたいのはフルート、オーボエ、ファゴットの三重奏なんです。ハイドンの『ロンドン・トリオ』ってやつ。先生に頼んで楽譜も取り寄せてあります」
「ええっもう楽譜を準備してんの? 出るの「出」の字も言ってないのに、お前って相当のアホだな」
 敬司は篠原の差し出した楽譜を見た。パート譜を見た限りでは、四分音符と八分音符ばかりで、それほどの技術は必要ないようにも思える。
「どうですか。見た感じはそれほど難しそうではないでしょ。これなら間山先輩でも大丈夫ですよ。浅尾先輩もこの曲でいいって」
「うーん、まあ吹けなくはなさそうだけど……でもお前さあ、なんで浅尾と二人でしないんだよ。俺なんか誘わなくったってアンサンブルくらい出来るじゃんか」
 と言ってパート譜から篠原の顔へと視線を動かすと、俯いた篠原の唇がグニグニと不自然に動いているのに気が付いた。言うべきことを言うことができないときの、いつもの彼の癖だ。はて、何を我慢しているのだろうかと不思議に思う。そのとき、敬司の脳裏に何かが閃いた。もしかするとこれは……
「お前、もしかしてさあ、浅尾と二人だけでアンサンブルするのが恥ずいのか?」
 そこからの篠原の表情の変化は、連続写真を撮って画像をSNSへアップしたいくらいの絶妙な流れがあった。ぱっとこちらを向いて、目を開いて、顔を赤くして、口をぐっと結んで押し黙る。絵に描いたような恥じらい男子っぷりに、見ているこちらの方が照れてしまいそうだ。
「はあーなるほど、ようやく腑に落ちた。つまり、俺をダシにして浅尾とアンサンブルをしようっていう魂胆だったんだな。お前もほんとよく考えるよなあ」
「いや……そ……んなこと、ありませんよ……」と言いながら、目玉を左右に動かして瞼をバチバチと鳴るくらいに閉じたり開いたりする。
「まあいいよ、俺の力が少しでも役に立つんだったらやってみるよ。二人の仲人役が務まるかどうかは分からんけどさ」
 いつもであれば即座に拒否反応を起こす遥香イジリでさえも、動揺した篠原は気が付かないようだった。めったにお目に掛かれない後輩の狼狽えっぷりがあまりにも面白くて、敬司のニヤニヤとした目つきに下衆さが増す。これほど委縮した篠原を見ることができただけでも儲けもんだったなと、敬司は大満足した。
 とにかく今日からアンサンブルコンテストの練習をしなければ。アンコンなんて初めての挑戦だ。興味がなかったはずなのに、敬司は不思議な胸の高まりを覚えるのであった。


『ロンドン・トリオ』は一七九四年、ハイドンがロンドンにいたときに作曲したものといわれている。元々の原曲は、フルート二本とチェロ一本の構成であるが、このアンサンブルではフルートのセカンドを篠原のオーボエが、チェロのパートを敬司のファゴットが担当することになる。フルートとオーボエの掛け合いが音階の流れを楽しむように何度も繰り返されて、その裏で鳴らされるファゴットが軽やかで豊かなテンポを作り、曲を支えてリードしていく。「楽しい音楽の時間」をそのまま音符で表現したような、軽快でワクワクするようなハイドンらしい曲の作りとなっていた。ロンドン・トリオは全部で四曲あるが、今回のアンサンブルでは第一番からアレグロ・モデラートを演奏することにした。
 ざっと見は簡単だと思っていた楽譜も、いざ練習を始めると細かい音符の動きが意外に難しい。特に第二主題の転調で臨時記号が増えると、演奏技術の拙い敬司ではそう簡単には指が回らなかった。九月に楽譜をもらってひと月後の十月、三人で初めて音合わせを始めたのだが、敬司の運指は他の二人に全く追いついていけなかった。
「ごめん……まだ仕上がってなくて申し訳ない。もう少しテンポがゆっくりでもいい?」
「今はまだいいですよ。最終的にはテンポ百二十でするつもりなので、しっかり練習しておいてください。繰り返しもしたいから」
「でも間山くん、リズム感覚がすっごっくよくなったね。あと息の合わせ方も。太鼓の成果が出てるんじゃないかな」
「うん、確かにそれだけは良かったな……あ、でも、間山先輩の音程がちょっと気になるな。腹式とアンブッシュアがちゃんと出来てない気がする。特にフィスの音が絶望的に高い。俺、チューナーを二個持ってるんで一つ貸します。運指だけじゃなくて音程をきっちりと合わす練習もしておいてください」
宇崎よりもはるかに的確で心に傷を残すような厳しい指摘が延々と続く。敬司の個人練習はまだまだ足りていないが、篠原と遥香はさすがというか、すでに完璧に吹きこなしていた。恋人のようにピッタリ寄り揃う二人の音を聴くと、なんだよそれ、やっぱり俺は邪魔者じゃんと、泣きたい気持ちに駆られてくる。とにかく小生意気な後輩に言われっぱなしというのも癪に障るので、毎日チューナーと睨めっこをしながら必死になって練習を続けた。
 太鼓のときでもそうだったのだが、いったんそうと決めると敬司は努力を惜しむことはない。それからまたひと月経って冬の寒さを迎える頃には、敬司の運指はほぼ完璧に仕上がっていた。本番まであとひと月半。三人のアンサンブルも随分と形になってきたような気がする。
「なあ、ハイドンってさあ、演奏してても眠くなる気がしね? 単調すぎるっていうか、ダイナミックさがないっつーか」
 演奏が終わった後、敬司は以前から感じていた感想を漏らした。
「古典って音符がシンプルだから、今の曲と比べるとどうしても派手さがないよね。私はストレートなところがかえって魅力的で好きなんだけど、演奏者の技術がないとそれが素直に出ちゃうから、古典は誤魔化しが効かなくて難しいんだよね」
「じゃあもっとメロディーの面白い曲を選んだらよかったのに。なんでハイドンにしたんだよ」
 敬司は休憩するために、重い楽器をストラップから外して床におろした。篠原は膝の上に楽器を立て、左上の天井の無機質な白い模様を見て、何かの記憶を手繰り寄せているようだった。
「俺、ハイドンの生き方が好きなんですよ。若いときは貧乏で音楽の環境に恵まれてなかったのに、常に前向きな気持ちで大好きな音楽に情熱を傾けようとしてたとこが。楽観主義な人で曲の中に悲しみを残さなかったから、ハイドンの曲は他人の心に訴えるのが難しいんですけど、奏者は『楽しい』っていう純粋な気持ちで演奏できるなって気がするんです。音楽をしてるときぐらい楽しくありたいじゃないですか」
 ふうん、と敬司は答えた。やっぱりこいつの言葉は分かるようでよく分からない。現代風の賑やかな曲だって、十分楽しく演奏できそうなものだが。
 遥香は譜面台の楽譜と鉛筆を手に取った。
「ねえ、ここのフォルテのとこからメゾフォルテにいくとこ、もうちょっとフワッと優しく入ろうよ。アーティキュレーションをはっきりさせた方がいいんじゃないかな」
「楽譜に書いてないことを極端にするのもどうかなって気もするけど……うん、確かに強弱が弱いかもしれない。フォルテの終わり、心持ち強めに終わりましょうか。それから五十五小節目のファゴット、連続する八分音符って走りやすいから気を付けて」
「へーい、了解」
 などと意見を言い合い、もう一度演奏して録音し感想を述べていく。レベルの高い二人に挟まれて感じていた胃の傷むようなストレスは、練習を重ねるにつれて徐々に消えていき、最近では自分の演奏を酷評されることもぐっと減ってきた。というか、もっと上手くなりたいとさえ思うようになってきた。こいつらと同じ音楽を共有しているという連帯感も嬉しかった。夏のコンクールで感じたような高揚感が、再び敬司の心にムクムクと湧き上がってきたのである。


 アンサンブルコンテストの本番まであと二日となった。最後の調整ということもあり、部員たちは宇原に頼んで下校時間を特別に一時間ほど遅らせてもらった。すでに外はとっぷりと暗く震えるくらいに風が冷たい。一人で猫背になって校門まで歩いていると、背後から「デカチョーあのさ……」と甲高い声がして、思わず頭に手を置いた。
「なにしてんのよ、鳥の糞でも落ちてきた?」
「いや、ただの自己防衛だよ」と言って今度はケツを両手で隠したが、今日は珍しく蹴りもないようだった。
「タゴ、風邪でも引いたのか? 手が出ないと逆に不安になるよ」
「なんでよ、私だってしおらしくするときくらいあるよ」美有はふっくらとした唇をきゅっと尖らせた。「デカチョーたちのアンサンブル、上手くいってそうじゃん。ウザキンが褒めてたよ」
「あいつにだけは見返したかったからな。タゴの金管の方はどう?」
「うーん、なんとか仕上がったかな、ありがと。それよりさ、ちょっと訊きたかったことがあるんだ。――最近のシノッチの様子ってどう? 変わったことない?」
「篠原が?」敬司は今日の彼の様子を頭に浮かべた。「いや、いつも通り真面目に練習してたけど。あいつになんかあったの? 親の離婚のことで問題でもあった?」
 美有はマフラーで口元を隠して返事を言い淀んでいるようだった。
「んーそうじゃなくて……どうせいつかは耳にしちゃうだろうからここで言っておくね。遥香がさ、サッカー部の男子と付き合うことにしたんだって。エースストライカーの有原ってやつだよ、知ってる?」
 ええっと仰天した声で、道路の向こう側で歩く人がこちらを振り向いた。
「知ってるも何も、二組のやつだろ。イケメンだけど浮気ばっかりするって、あんまりいい噂がないやつじゃん。浅尾ってあんな軽い男が趣味だったのか?」
「趣味ってわけでもないよ。遥香ってさ、優しすぎるっていうか、天然っていうか、強引に押されると流されちゃうような危なっかしいところがあるんだ。今までは私が壁になってあげてたんだけど、有原ってさすがでさ、私の壁なんか平気で乗り越えちゃったわけ。今クラス中でこの噂がもちきりになってて、学校中に噂が広まるのも時間の問題だと思う。……でね、心配なのがシノッチなんだよ。あの子って、音楽をしてる原動力は遥香の存在が大きいから、これを知ったらどうなるんだろうって気になってさ。はっきりした態度を取らなかったあの子も悪いんだけど」
 まあそうだよな、と敬司も否定はしない。
「だからしばらくはシノッチの様子を見ていてあげて欲しいんだ。あの子さあ、あれで意外と繊細だし、家庭の問題で精神的に参ってるところもあるだろうから。悪いけどお願いできるかな」
 大通りを行く車のライトが何度か美有の顔に当たり、不安げな表情を照らした。手に提げている鞄から、鈴の揺れる音がする。そういえばこうやって並んで歩いたのは一年も前のことになるのか。いつの間にか敬司は美有の身長を抜いていた。
「まあしゃあないな。でも時期が悪いよなあ。こんな下世話なニュースなんて、せめて明後日のアンサンブルが終わってからにして欲しかったよ」
「そうだよね。デカチョーがアンサンブルできるのもシノッチのお陰だしね」
 は? と驚いて美有の顔を見た。「篠原はアンサンブルを浅尾としたかっただけだろ。俺はオマケなだけで」
「違うよ、やっぱりデカチョーは知らなかったんだ」と、美有は目を細めた。「夏のコンクールでデカチョーがコンバート要員になったでしょ? そんときシノッチが怒り心頭だったんだ。『間山先輩のファゴットがいらないっていうなら、代表辞退して部活も辞めます』ってウザキンに直訴して。仕方ないからコンバートを取り消そうってことになったんだけど、肝心のあんたが打楽器に夢中になっちゃったから、ウザキンもどうしようか困ったんだって。シノッチの怒りも収まらないしね。それで結局は、シノッチがデカチョーとアンサンブルをするっていう妥協案で落ち着いたみたい。ウザキンの本音としては、シノッチと遥香のデュオで金賞獲らして全国に行かせたかったみたいだけどね」
 確かに一度だけ、宇崎がコンバートを他の子に代えてもいいと訊いてきたときがあった。敬司は必要ないとすぐに断ったが――
「そんなはずはないだろ」と、すぐさま反論した。「浅尾と二人だけでアンサンブルをしたいんだろっておちょくったら、あいつ、分かりやすいくらいに顔を赤くして照れてたんだぞ」
「じゃあ一芝居打ったんじゃない? あんたを騙すためにね。分かりやすいように照れたらデカチョーが乗ってくるんじゃないかって、演技したんだよ思うよ。そうでもしないとアンサンブルなんて絶対にしてくれないでしょ」
敬司はアンサンブルを頼んできたときの篠原の様子を思い出した。目を大きく開いて顔を赤くした、絵に描いたような恥じらい男子。あれが演技だったって? まさか……
「やっぱり信じられないよ。あいつが一番求めてるのは浅尾と一緒に音楽をすることだろ。俺のファゴットなんて余計な存在なのに、なんでそこまで……」
「だからさっきも言ったでしょ。ウザキンとシノッチの妥協案は『デカチョーとアンサンブルをすること』だったんだ。シノッチはどうしてもファゴットの活躍の場をあんたにあげたかったんだよ。あんたに音楽の楽しさを味わってほしかったんだよ。大好きな遥香をダシにしてまでね」
 嘘だろう、と敬司は言葉を失った。街灯で照らされるだけの暗い道なのに、敬司の顔を見つめる美有の目には光が揺らめいていた。
「デカチョーさあ、ファゴットやっててあんまり楽しくなかったかもしんないけど、私は一緒にやってて楽しかったよ。遥香も、シノッチも、みんなそう。演奏の技術云々なんて関係なく、あんたのファゴットがみんな大好きだったんだ。デカチョーの居場所は、確かにここにあったんだよ。だから――自分のことを必要ないだとか、全然ダメだとか、そんな寂しいことはお願いだから思わないで」
「…………」
 ああヤバイ、と敬司は喉の奥に力を込めた。自分の欲しかった言葉が、まさかここで、彼女の口からもたらされようとは思わなかった。ずっと欲しくて、手を伸ばそうとして、でも諦めていた内なる叫びだ。美有の瞳はそれを逃さなかった。消えかかっていた敬司の腕を掴んで、決して離そうとせずに意識の外へ引きずり上げた。目の奥に熱を感じて慌てて真っ直ぐ前を向く。車のライトがピカリと光ってこちらへ向かっていた。光を避けるようにして二人は住宅街の方へ入る。行く先はさらに真っ暗だ。一つ目の角で美有が別れようとしたとき、敬司はそれを呼び止めた。
「なあ……折角だし、もう一つ先の角まで一緒に歩いてくんない? もし美有がいいんだったら」
 美有は少し驚いた様子を見せたが、「いいよ」と一言だけ返事をして敬司と一緒に歩いた。鈴も小さな声で応えてくれた。二人の足音がいつもよりもよく響く。ここで何を言うべきなのか、敬司は考える。「ありがとう」か、「一緒に頑張ろう」か、それともそれとも……
 戸建ての門の前をいくつか通り過ぎた。角まであと三十メートル、十メートル、五メートル……ゆっくり、ゆっくりと細い道を並んで歩きながら自分からは声を出せなくて、そんな勇気が出なくて、美有からここに必要な何かがもたらされるのではないかと僅かな希望を抱いた。もしかすると、彼女も同じことを考えてくれているのではないか、と。しかし隣を歩く美有から話しかけてくることはなかった。二人は黙ったまま歩き、水銀灯の光がぼんやりと明るく照らす曲がり角でじゃあねと言って、そのまま別れた。
 美有と一緒に帰ったのはこれが最後になった。
 そして「美有」と敬司が呼んだのも、この日が最初で最後となった。


 一月某日、府中の森芸術劇場にてアンサンブルコンテストが開催された。
 チューニング室へ入る時間が近づいたのに、篠原がどこかへ消えた。敬司が探しに行くと、底冷えする廊下の隅で、人目から隠れるようにして座り込んでいる男子生徒を見つけた。膝を抱えて頭を埋めて顔が見えないが、制服と背中の姿から察するにどうやらそれは篠原のようである。
「篠原、もうすぐチューニン……」と声を掛けたところで絶句する。ゆらりと半分顔をあげた彼の眼鏡は白い蒸気で曇り、周りの頬と鼻の下は水か何かで濡れて光り、蒸気で湿った柔らかな前髪があらゆる方向へ跳ねていた。
「どうした篠原、緊張でしんどいのか?」
「間山先輩……今、フルートの後輩たちが喋っていたのを偶然聞いたんですけど……浅尾先輩が有原ってやつと付き合ってるってほんとですか」
 ああ、と思わず天を仰いだ。お喋りフルートどもめ。まさかこのタイミングで篠原が知ることになろうとは。敬司の反応を見て、篠原の頬が涙と鼻水でさらに濡れた。ズビビッと大きな音を出して洟を啜る。
「うっ……先輩は、し、知ってたんですね」
「……うん、悪り、知ってた」
「じゃあ知らなかったのって……ズビッ……お、俺だけですか」
「まあそういうことになるな」
「うう……俺、浅尾先輩の隣で演奏なんてもう無理です。音楽もできません」
「ま、そう思い詰めるな。女がいなくても音楽はできる。浅尾がいなくても世界は回る」
「……茶化さないでください。泣いてる俺がバカみたいじゃないですか」
「女目当てで音楽するならただのバカだな。せめて音楽オタクの音楽バカになれ」
「音楽オタクも音楽バカもどっちも嫌です。音楽なんてもう辞めます」
「じゃあ俺も音楽辞めるよ。俺のファゴットなんて需要ないし」
「……! それは困ります。先輩はファゴットを続けてください」
「それならお前もちゃんとしろよ。今日の演奏を最後までしてくれたら、俺はファゴットを続けるよ」
「……え? マジですか」
 篠原がぱっと敬司の顔を見た。眼鏡の蒸気がようやく消えて、柴犬のような潤んだ瞳がその奥から現れた。蛍光灯の明かりで鼻水がキラリと光る。――こいつ、素直にしてると可愛いんだけどな!
「マジだよマジで。ファゴットを続けるよ。だから本番行こーぜ、な」
「……はい」
 コンニャクのようにフラフラとよろめく篠原の肩を抱えながら、敬司はチューニング室へ向かった。篠原の失恋は予想通り、というより、予想以上に惨憺たるものだった。やっぱりこいつのアンサンブルの目的は、自分ではなく遥香だったんじゃないだろうか……あのときの照れっぷりは芝居でも演技でもなく、本気で恥ずかしがっていたんではないだろうかと、ゲッソリとやつれた後輩の顔を見て、敬司はどうしても怪しまずにはいられないのであった。


 遥香、篠原、敬司の三人は緊張の面持ちでステージに上がった。ステージ脇の寒さが消えてライトの光で身体が火照る。背筋を伸ばして会場を見渡すと、美有、打楽器の藤見、木セクメンバー、打楽器の後輩、他の部員たちの顔が丸見えで、思わず下を向いてニヤニヤと頬を緩めてしまった。これだけでも緊張が随分と治まった。
 椅子に座る。一息つく。敬司は遥香を見る。目を真っ赤に腫らした篠原も遥香を見る。遥香は篠原と敬司を順番に見て、『行くよ』と目で合図を送り、息をすうっと吸い込んでアインザッツを出した。
 遥香のフルートと篠原のオーボエが仲睦まじく語り合う。フルートの女の子と、オーボエの男の子。二人の小さな天使たち。こんにちは、……今日は何して遊ぶ? ……あっちの川の畔へ行こうよ……綺麗なお花もあったよ……
 トトトト トトトト
 敬司のファゴットが二人に川の畔への道筋を教えた。二人の仲を邪魔せぬように、軽やかなリズムで道標を作る。
 遥香と篠原の演奏は完璧だった。先ほどの失恋などどこ吹く風で、篠原は遥香のフルートにピッタリと寄り添い、遥香を見つめながら音のパートナーとしてオーボエを吹いていた。なんて幸せそうなんだろう、と篠原の顔を見て敬司は羨ましく思う。音楽があるだけで、こんなに無邪気に、こんなに愉し気に。
『音楽をしてるときぐらい楽しくありたいじゃないですか』
 あの言葉は篠原の本心だったのだろう。ハイドンの曲はその願いを叶えてくれる力を持っていた。純粋な美しさは、天上へと昇るような快楽を与えてくれた。フルートとオーボエは、天国の花園で舞っている可愛らしい天使のカップルだ。
 トトトト トトトト
 敬司はタンギングを続ける。それならこのファゴットは何だろう。篠原が『天からの声』と教えてくれたファゴットの音。天国からの声? 天使の歌声?
 トトトト トトトト
 ああそうか、と二人の天使を見つめて敬司は気が付いた。――俺の音は、天国へ駆けあがる天使の足音だ!
 トトトト トトトト
 天使たちは二人でじゃれ合いながら階段を上がったり降りたりを繰り返す。どうする? 空まで行っちゃう? えーもう少し遊ぼうよ……
 ファゴットのタンギングが終わる。足音がなくなった。二人はこちらに気が付いた。
 篠原が、敬司を見た。遥香が、敬司を見た。
 ねえねえ、君も一緒に空まで駆け上がろうよ。
 二人が差し出した手を掴んで、敬司のファゴットも勢いよく天まで舞い上がった。三人で同じ空に飛びあがる。上へ、もっと上へ。この開放感……!
 やがて地面に舞い降りて、ふわりと着地し、曲は終わった。
 敬司は吹ききった。拍手が鳴った。遥香、篠原、そして敬司の演奏に皆が拍手をしてくれた。
 ――あなたの居場所はここにあるよ。
 天から舞い降りた天使たちが、耳元でそっと囁いたような気がした。


 春の暖かな風の吹く中、敬司は大学のキャンパスをのんびりと歩いていた。大学棟をぐるりと囲む細い上り坂を行った先に、各種サークルが集まる「サークルボックス」という建物がある。今日はそこに顔を出して、とあるサークルの入団申し込みをするつもりでいた。
 ――三年前のアンサンブルで敬司たちは金賞を受賞した。地区突破にはならなかったが、それでも嬉しくて嬉しくて、初めて音楽で涙を流した。
 中学を卒業して高校に入り、再び吹奏楽部に入ろうと思った……が、入らなかった。実力第一主義の部のガツガツとした雰囲気が、敬司に全く合わなかったためだ。貴重なファゴット経験者としてチヤホヤとされても、敬司の心は冷めたままだった。入って一週間で部活を辞めた。
 やっぱり自分には音楽が向いていないんだろうと毎日をダラダラと過ごした。しかし時間が余ると思い出すのは、アンサンブルで得た高揚感だ。あのときの気持ちが忘れられなくて、舞台に出た瞬間を夢でも見るようになった。それを誤魔化すために、生徒会活動や文化祭実行委員など様々な活動に手を出した。けれどやはり、何をやってもあの高揚感と同じものを手に入れることができなかった。
 大学が決まって真っ先に調べたのはサークル活動だった。『〇〇大学管弦楽団』というサークルがあることを知って、必ず入団しようと決意した。篠原のお陰でオケのことにも若干の知識はある。
 ――あいつは音楽を続けてくれただろうか。
 失恋したときの不細工な顔を思い出して、つい口元が緩む。あいつのことだ、高校でも音楽のウンチクを垂れ流して、周りからウザがられているに違いない。篠原は愛用するロレーのオーボエを鳴らしながら、今でもきっと音楽を続けていることだろう。
 山手に建つ大学は坂道が多くて、歩くのにも少し疲れてきた。息切れしながら歩き続けていると、ようやくベージュ色の四角い建物が見えてきた。どうやらあれが目指しているサークルボックスだろう。
 懐かしいファゴットの音がサークルボックスから風に乗って聴こえてきた。ポコポコと軽やかで優しい天使の歌声。
 天使たちの住処はここにもある。天へ駆けあがる音を目指して、敬司は前へと歩み続けた。

ファゴット コンチェルト

ファゴット コンチェルト

中学二年の間山敬司は吹奏楽部でファゴットを吹いている。実力もなく、活躍の場もなく、やる気も出ないが、一人の男子部員との交流により少しづつ思いが変化していく。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-02-10

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