窓を喰む山羊

書肆彼方

窓を喰む山羊

 あい変わらず山羊は窓を食べていた。近くで倒れた探検家の男は腕をのばし、必死に地軸をつかんでいるが、体を起こす気配はいっこうにない。彼にとって地平線は断崖絶壁で、そこから突きでた一本の棒にかろうじてぶら下がり、今にも底なしの空に投げだされる恐怖と格闘し続けていた。天窓に手が届きさえすれば一助となるのに。男は歯がみし、こぼれる汗は額から地面にむかって落ちる。
 容易ならざる事態において肉体と精神、理性と感情はまったく異なった反応を示し探検家をひっぱりあう。のばした腕はしびれ、とうに限界を超えていたものの、ある種の快感に満たされていた。極地という類まれな状況は探検家にとって至福であったし、たとえ事切れるとしても、底に見える薄明の空を泳ぐことができるならば、さらなる未開の地へとわが身を運んでくれるだろう。それがどれほど胸おどることか。そう、つまり彼にとって現状維持か、手を離して打開するか、どちらでも良かったのだ。しかし、あい変わらず山羊は窓を食べているが。
 さて、地球がロティサリーチキンだと気づいたのは何百年前のことであろう。地軸に刺し通され、回転しながらじりじりとあぶられる鶏皮の上で、人類はどの部位に住むだとか、したたり落ちる肉汁やら油やらを奪い合ったり、しまいには骨までしゃぶり尽くして寸胴鍋につっこみ、ダシまで取ってやろうなどと、まるですべてを知りつくした思いあがりもはなはだしい有名シェフのようにふるまう。そして彼はスーシェフに言った。「できそこないのスープなどぶちまけてしまえ!」と。
『狂気』という看板をかかげた巨漢のシェフはエスカレーターがキッチンだった。移動手すりに乗せられた珍妙な野菜を包丁で順次たたいていくと入り込み口に吸われ、ぐちゃぐちゃポタージュの海が拡がる。海では沖にいる航海士が人魚の甘美な歌声にすっかり聞き惚れていた。彼は長い船旅で疲れきっていたし、優柔不断な船長の指揮と終わらない船路に辟易していたのだから無理からぬことだ。他方、ポタージュは動力室であくせく働くブタへ、せめてもの見舞いとして役割を果たす。階下には爆発したシルクハットをかぶる髭の濃い紳士がテーブルで老婆とイチャイチャしながらアペリティフをかけあっているし、階上ではバレリーナが髪を振りみだしておどっている。それでも、あい変わらず山羊は窓を食べていた。
 はげ頭の馬がカツラをかぶって競走に参加しているのは今に始まったことではない。別段恥ずかしいわけでもない。それに走行中、風にそよいでいたため、観客は周知の事実であり、むしろ彼の美しさは盛りあがる筋肉や、なにより駿馬であることなので話題になることすらなかった。ではなぜ不足をモズクで埋め合わせなければならなかったのか。彼に聞いたところでいつも帰ってくるのはため息だけだ。おそらく古件にかかわることだろうと推測できる。異常なほどプライドが高く、なおかつ自己顕示欲のかたまりなのだから。
 ところで、エゴのかたまりは砂場の土でできていた。フンコロガシがたまたまフンのかわりに丸めた泥であるといっても過言ではない。近くで風呂敷を広げた少女がおままごと(・・・・・)がしたいと駄々をこねていたが、少年たちは彼女を説きふせ、皆がちりぢりに隠れる。じゃんけんに負けたオニは砂場のふちにならべてあったドロだんごをかたっぱしから踏んづけて消えた。すると誰もいなくなった砂場で理屈がミミズのように這い出てきたのである。
 それにしても、理屈は自分の尻から絶えず放出されるおならにいい加減うんざりしていた。ちまたで聞かれる正邪の行進にも。鉄柵付きの窓には鍵をかけ、耳栓と尻にはコルクまでつっこんだはずが朝にはすべてがふりだしに、いつもの雑音のマーチがやかましく鳴り響いた。彼はいつか沈黙が宿る片田舎に引っこむことを夢見て、今日も道理をこね続けているのだ。
 そんなある時、田舎でパンをこねる職人はうっかり夢を窯に入れてしまった。正確にいえば、古い友人に頼まれたヴィエノワズリーの生地に折りこんで焼いたのだが。いつもよりふんわりと甘い香りで工房が満たされ、クロワッサンのようにサクサクのでき栄えに職人はたいへん満足した。夢のほとんどは煙突から出ていったことを彼は知るよしもない。
 そこの煙突がいつまでも続いていることに、夢で編まれたずだ(・・)袋を肩にかつぐ、まぬけな泥棒は気がついていなかった。上下に続く奈落には慣れていたので、すすけたレンガ壁に体をこすりつけながら、すいすいと器用に降りてゆく。いずれ暖炉にでも着地して手始めにマントルピースの上にある小物か、壁にかかった名画を盗むか、それとも書斎の本棚に隠してある時計や宝石にするか、彼の頭で妄想がウジ虫のようにうごめく。吹き抜ける暖かい風は『地獄のオルフェ』に聞こえなくもない。
 なまぬるい風が流れる丘で完璧主義者の本棚は孤独であった。広い草原で見えない力にあおられ、今にも倒れそうに持ちこたえるのが精一杯だったのだ。詰めこまれていた本は種々の鳥となって表紙を羽ばたかせ、言葉の羅列を糞のようにたれ流し、青草は自分たちが汚されたことを嘆き続けていた。慟哭ですら本棚にとっては看過できず、怒りの矛先を天へと向ける。誰も見てはいないのに。何者も関与していないのに。ただ、あい変わらず山羊は窓を食べていた。
 誰も見てくれていない哀れなクラウンが仮面をどこかに失くしてしまった。つぎはぎだらけのボロを身にまとい、舞台の上であまりのみじめさに泣き叫ぶ。これは面白いと大衆は彼を取り囲んで騒ぎ立て、あざ笑うのだ。子供が指差し、老人は腹を抱える。遠くで胸を張る恥知らずな銅像に野犬が足をあげ、小便をひっかけていることなど全く関心はない。どちらが名君だろうかなど群集は考えもしない。
 そういえば、ブロンズでできた民衆をもつ国王はそろそろ裸であることに気がついただろうか。頭に乗せられたクラウンだけが存在の象徴で他のことなどまったくかまわない様子だ。民衆は沈黙を守り、ただ追随しているだけなのかもしれない。国の安寧は長きにわたり保ってきたわけだし、一糸まとわぬ姿のほうがあるいは平和につながるのかもしれない。
 対照的に、虚飾を全身にまとう貴婦人はまっ赤なハイヒールがお好みだ。厚塗りの化粧にはヒビが入ってアリの群れが本性を持ち帰っているものの、まるで役に立たない代物だった。周囲の生物を遠ざけるほどの強烈な香水に寄ってくるのは自己愛だけで、ひとり歩きし始めたハイヒールですら知っている。そして、あい変わらず山羊は窓を食べていた。
 彼女のインソールを滑るやんちゃなオフィスワーカーに足りないのは○○だったのかもしれない。それでもまあ次から次へと雪崩のように同じ像がなんとなく滑り落ちる。取りつく島もなく、なかばあきらめかけた顔でこう言う。「○○があれば、もう少し○○を!」
「○○○○○ならば、△△△△△であり、□□□□□ということになる。○○と△△において□□は、○○△△□□である。したがって○□であれば○△□ができないのである……」。大仰な証明にとりつかれた巨象を、そばにいる無言の赤子がつぶらな双眸(ひとみ)でのぞく。
 人には到底理解できない言語の中枢を舞う少年がパジャマ姿で空虚を抱き寄せた。もうすぐベッドで寝なさいとパパに言われる時刻だ。いつものぬいぐるみがそばにいれば安心できるはず。足がはずれたベッドは宙に浮き、ゆらゆら揺れている。どこに運ばれるのかは知らないし、ここがどこかだってわからない。まぶたを開けても、閉じても同じなのだから。
 すると真紅のどん帳が上がり、手品師が何もかもすべて消して浮いていた。そもそも何もなかったのではないか。ペテン師だとヤジが飛ぶ。誰から? 観客ですらそこにはなかったのに。手品師はこちらを見てから口角を上げ、慇懃無礼(いんぎんぶれい)に頭をたれる。
 どうか顔を上げてほしい。針を失った鳩時計が砂漠を歩き続けているのがわかるだろうか。ただ通念が邪魔をし、後ろを振り向くことができないだけなのだ。あきれた鳩が彼を見捨てて新しい主人を探しに旅立つ。それを知ってか知らずか、あい変わらず山羊は窓を食べていた。
 花婿を乗せて砂漠の荒野を旅するラクダは希望が消えた。忘却の彼方に見えるオアシスはぶら下げられた人参のように、いつまでも距離を詰めることができない。蜃気楼かと思ったが、残念ながら彼は何も信じない。背中にまたがるマネキン人形は疲れ果ててへばり、ボロボロになった白いタキシードが赤い風でたなびく。早く婚礼に間に合わせたかったが、だいぶ前、過去へと連れ去られてしまったようだ。
 一方、オアシスでは成長の遅れたウシガエルが不満を吐き続けていた。群がる彼らの優しい歌はけたたましく、言葉は意味を失して枯渇した。宮殿の入りぐちにある朽ちかけた石像も耳をふさぎ、過去のために沈思黙考していたのだ。これからのためにではない。しかし、これからとはなにか。
 遠くにある象牙色の宮殿がしじまの夕べに、燃える空に沈んでゆく。美しい女と共に。王は彼岸で娘の名を呼び続けた。
 焦げた空のもと、その声は錫杖のように、一定のリズムで近づいてきた。探検家の男は地面に横たわり両手を上げてもだえる。しかし彼の顔には不敵な笑みがあった。漸進(ぜんしん)的到達か、さらなる好奇心か、まだ選択の余地が残っていたからだ。状況は機会を与えていたに過ぎず、苦痛は冒険に不可欠なスパイスみたいなものである。
 唯一自由が許されていた目をきょろつかせ、鉄がこすれる音の出どころを懸命に探るが何も見えない。もしかすると探検家はきっかけを求めていたのかもしれない。決定の動機付け、行動に至らしめる原因を。ならばロティサリーチキンの上でいつまでも寝そべっている男は単に優柔不断なだけで、探検家と称するペテン師、狂気に満ちた自己顕示欲のかたまりはエゴでできていて、理屈っぽく夢は抜け落ち、妄想癖の完璧主義者なうえに裸で哀れで虚飾にまみれた大仰なウシガエルということか。
 自嘲する探検家の前に白く輝いた脚がある。くるぶしに飾られた金のアンクレットが歩くごとにぶつかり、清らかな音色で耳をくすぐっていたのだ。それだけではなく、バンダ・デニソニアナの甘い香りで身体中の緊張がほぐれ、自然と握りしめた拳は花開こうとする。片手に杖を持つ美しい乙女は探検家を見下ろし、緩慢に手を差しのべるが、それはまるで浮世をつかみ、長く久しい安息へ誘惑しているようにも思えた。
 男は意を決して全身に力を入れ、スイングを始める。体はブランコのごとく前後に勢いよく揺れ、虚空に向かって身を投げ出す。
 初めから誰もいない世界で、あい変わらず山羊は窓を食べていた。

窓を喰む山羊

窓を喰む山羊

旧友とセリ鍋つついて,やはりヒゲだとかヒゲがうまいとか. ヒゲ談義しながらヒゲを食べ続けていたので,ヒゲみたいなのを. 『six pianos』,『Music for 18 Musicians』Steve Reich

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