見る目

mute


 人の目は高性能であるが、死角や錯覚といった目の構造や機能に内在する見落としや見間違いを避けられない。この点に関して印象的だったのは、有名な漫画を3D映画化した監督が、公開記念のトークショーの中で受けた質問に答えた内容だった。
 左右の目の偏差を利用して映像を立体に見せる3D映画の作画では、一コマずつ角度の異なる画が統一の画として認識されるよう、左右の目の視線が交差する地点で上手く重なるように画を作らなければならない。
 ひととおり出来上がった映像を観る試写では、したがって、監督を始めスタッフ各人が前記した点を注視することになる。素人の視点から映画の映像であるのだから、重箱の隅を突くように微細にわたるチェックが入ったのだろうと思っていた。しかし、監督の答えは違った。画のズレは、寧ろ簡単に確かな違和感としてすぐに発見できた。苦労したのは、そのズレが余りにも容易に発見出来るため、左右それぞれに作った画を合わせる作業自体の困難さに繋がった点であった。監督は言っていた。3D映画は、脳を騙して作る映画であるが、この脳を騙すことは恐ろしく難しかった。騙しを成功させるため、犠牲にした視力は戻らない、と(笑顔の監督とこの答えに対して、称賛の笑いが起きていた)。
 人が見ているものは、現実にあるもの、起きているものの真実を捉えているかという問いは古来からあった。いま目の前にある物は、昨日の物と同じか。今日の私は、昨日の私と一緒か。物質は、時間とともに風化する。この点を踏まえると、否である。今も風化に向かっている物は、昨日と同じものではない。人の細胞も生まれたときのままではない(いわゆる「諸行無常」である)。
 しかしながら、目の前の対象物の捉え方に変わりはない。物を物たらしめる在り方そのものは維持されている(全ての細胞が新しくなっても、「私」は「私」のままである)。この点を重視すれば、人の目は世界の『型』を正しく捉えているといえる。
 哲学史を紐解けば、最初に目にするであろう本質論、非本質論に踏み込む度胸はないので、視点の違いであろうか、という感想を述べるに止めるが、この視点の違いがあるからこそ、人は世界と付き合えると思う。井筒俊彦氏が書かれたイスラム文化圈の思想史の本には、その冒頭で以下の点が指摘される。人が鋭敏に感覚を働かせ、世界の変化の様をありのままに捉える事が出来るとき、果たして人は明日に向かって生きていけるか。どうせ滅びる運命ならばと、刹那的かつ享楽的に過ごすことを容易く選んでしまうのでないか。この残酷さと向き合うために、人は人以上の存在を必要としたのでないか。信仰の種は、ここにあるのではないか。
 個人的な読み方であり、不正確な理解である可能性を承知で続けると、「同じである」ということは対象について得られた知識、経験を用いて、起こり得ることを把握できる。ここに、安心感が生まれることは否定できない。不可逆に流れる時間の中で、目的をもって生きていく寄る辺として、人の目で「見た」世界は、踏み締めることを可能とする硬い地面となってくれる。
 一方で、違うことを忘れることによる弊害にも、目を向けない訳にはいかない。同じであることは、対象に対する注意を薄れさせる。どうせ同じだからと、対象が変化する可能性が排除され易くなり、そのうちに対象に対する関心が無くなる。対象は、どうせ明日も存在し続ける。だから、向くべきは前となる。過去は時間を消費すべき結果だ。時間は今も生まれている。源泉から溢れて、枯れることがない。一々取り上げるものでもない。だから、「いま」が軽くなる。私たちはこの「地面」を蹴ってどこまでも飛べる。舞える。
 その上限が見当たらない程に至るであろうその振る舞いは、ときに人の命を軽んじて、直接的又は間接的に奪う。それを面白おかしく、愉しめもする。
 他人の行為の価値判断には、節度を保って踏み込まない。考えてみたいのは、適度な重さ。こうして立つことが可能な世界で、何をもって大切とするか、何を大切にするか。「戻って来ない」ものとしての時間感覚、途方に暮れることなく時間を見つめることを可能とする術、大事なことを大事にしたまま、できる限りどこまでも連れて歩ける方法。
 ここで語りたい画家は、異国の画家である。人が寡黙で、物が雄弁に語るような画家の作品を見て、入念な計算の下で一枚、一枚を仕上げたのだろうと思った。その機能に合わせ、作られた家具を構成する形を大小様々に並べ、ときには開いた各部屋のドアの角度も利用して、描く屋内に奥行きをつけ、家具とともに人を置き、その所作を『形』として扱い、広狭のあるリズムを生む。場面自体は日常のものであり、そこに世界の真実を暴くかのような強調される意味がないと思えるのに、力強い興味を引く。どこが良いと思ってしまうのだろう、という疑問は常に付き纏う。ノスタルジックな雰囲気という紹介文の内容には、ああ成る程、と納得する。塗られた色の濃淡が生む古びた物の良さ、独特の味わいが絵の全体から伝わる。ある絵では、ドアが開いた見えない奥の部屋を満たしているんであろう、外から降り注ぐ日光が揺るぎない中心となって、描かれた手前の部屋の良い雰囲気を繋ぎ止めていた。アンティークの椅子が備える、長い年月を経ても失うことの無かったその形があってこその良さを、端的に指摘するかのようであった。同じように日光又は灯る蝋燭の火がもたらす明かりが描かれた作品も、そこを足がかりにして時を過ごして来た部屋の時間を体感できた。画面では同じ色の濃淡が揺らぐ。違う色の対照が、家具等の形の上で遊び、壁面の質感として喋る。光があってこそ生まれたものとして描かれる影も、震える黒のグラデーションでリズムを生む。画面いっぱいにたゆたう時間は、光に支えられて消えない。だから、鑑賞者も迷う必要がない。地に足をつけて、見続けることができる。
 対して、描かれるこの時間が局所に見られる一筆ごとの濃淡より生まれるのでなく、画面全体に統一して描かれたとき、その画家の絵を観る者は当事者感覚でその場面に立たされる。部屋の右側に、女性が背中越しに立っている姿が描かれた代表的な一枚は、他の絵と比べてチラつきなく現れたある日の場面であり、例えばテーブルに手を置きながら、その名前を呼びかけることが憚られる。そこに在りながら、干渉することが躊躇われる。ここでも何故、という自問は生まれる。しかし、考える間もなく判断は下されている。ともに立ち、ただただ同じ時間を過ごすことが最善と思う、と。どこにも見当たらない時計の針が進む音を聞いて、私たちは見る。決して戻ることのない作者が生きた時代。歴史となる前の、私たちがいまこうして過ごしている日常と変わらなかったはずのもの。作家が描きたかった瞬間。時を止めて描いたはずの時間が、ここでは規則正しく、濃密に流れている。支える光の代わりのように働く作家の視線は、光に支えられるよりも鑑賞者に時間の手触りを与える。『私たち』は見ている。額縁の中の絵に触れることのないまま、鑑賞者の心は掴まえられている。
 文字通り、時間に命を与えるために、異国の画家が一筆ごとに十分な意味を込めたのであれば、その作品を余すところなく評価するには、それこそ慎重な時間をかけるべきなのだろう。絵に描かれた時間は幸いにも消えない。ならば、その幸運をしっかりと味わうのが醍醐味というものだ。
 絵に描かれるのは虚構だ。でも、虚構をどう楽しむかは自由だ。傷つくことなく、現在まで残ったそれがいう。



 掛け軸に描かれた絵を観るとき、私は余白から見てしまう。ある作家が書かれた作品の一場面で、主人公が居間に掛けられた一枚の掛け軸を何となしに見ていると、行方知らずになっていた友人が舟を漕いで『向こう』から出てくる。おーい、と呼びかける友人を見て、主人公は思う。ああそうか、やつはもう『ここ』には居ないのだ、と。
 何歩も歩かなければならない程に描かれた屏風絵には、覗き込むようにしゃがんで見なければ気付けない、墨をこぼしたような鳥が数羽、小さく羽ばたいているときがある。それに気付いた途端、端に描かれた陸を波打つ際から屏風絵に収まりきれずに広がる海の真ん前に立っていることを知る。だから、異なる時間が流れる、異なる世界があることを知る。空間から知る時間。
 これもまた、一つの方法なのだ。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-02-09

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