穴の音

山口祐馬

穴の音

 僕は下水道の掃除をしなければならないと思い、家の床にあけてある円形の穴に掃除をする為の機械を入れ込む為に、蓋を開けた。穴を覗いても真っ暗で、果てしないのではないかと思うくらいに果てが見えない。が、僕はその事に然して不安も疑問も抱かなかった。僕は大変に重たい機械一式を担ぎ、それを穴の中にそっと入れ込んでゆく。一見ラジエーターの様にも見えるそれがどの様に下水道を掃除しているかなんて、僕は考えた事もなかった。ただいつも闇雲に、実務的に僕はそれをこなした。だから、いつもの様に僕はそのラジエーターの様な機械を穴に入れ込み終わると、それ自体から伸ばしてあるスイッチをオンにした。すると、ブオオオオオオンという音を立てて、ラジエーターらしき機械は動作を開始した。僕はそこまでやると、ただ呆然とその機械が止まる事なく延々と下水道を綺麗にしてゆくであろうことを見届けるだけだ。この機械は終わりを知らない。僕がスイッチをオフにするまで動作し続ける。不思議に下水道の掃除を行う優れものである反面、畢竟人間の手に開始と停止を委ねるしかない莫迦者である。機械のこの二面性について僕は屡々考えさせられる訳であるが、一向解答は得られない。そして僕自身も本当に下水道が綺麗になったか否か結句は判らないのだから、開始はまだしも、停止はテキトーであり、それが適当であるかどうか定かでない。僕は僕と、それから機械の両面についても考えてみるが、これも解答はない。さて、そろそろかとスイッチをオフにしようとちらとスイッチを見たところ、僕は機械の動作音のその奥で、なんだか妙な音が聞こえる事に気がついた。それは雷鳴の様であった。また、吃音症の嬌声の様でもあった。或いはアトピーを掻き毟る様な音でもあった。結句はまだ若輩の僕が聞いた事のない、戦慄に値する恐ろしい音であった。僕は機械を停止させ、それを穴からそっと抜いた。僕にはなんだか胸の辺りがどきどきした。そして、なんだかその音に吸い寄せられた。僕は穴の中に落ちてしまう事がない様に気をつけながら、ぎりぎりまで耳を穴に近づけた。僕はじわじわと起こる皮膚を感じながら、慄いていた。音は次第にこちらに近づいてきていた。僕には僕の全ての神経がその音に集中していることが分かった。もしかすると、僕はこの時遊離していたのかもしれない。僕は僕自身が僕であり、僕でなくなっている様な感覚を覚えていた。僕は音が近づいてきていることを心から恐れた。怖い怖いと思いながら、知らぬ間に消えてなくなることを祈りながら、しかし、僕は心のどこかでその音の正体に非常な興味を抱いていた。音は間近に迫ってきた。僕にはこの時点で既に、僕が最前感じた複数の音の正体がわかっていた。僕は穴を見た。すると、沢山の犬が僕に向かって飛び掛かってきた。僕は下水道から湧いた犬など穢いに決まっていると信じて、「うわ穢い」と叫びながら飛びかかってくる犬から体を避けようとしたのだが、豈図らんや、犬はとても綺麗で毛も短く刈られ、嗅いでみればなんだかシャンプーの匂いがするではないか。僕は俄然犬らを可愛く思える様になり、よしよしよしと撫でながら、愛でながら、感じた事のない幸福に目を細めた。すると、部屋から母が出てきた。僕は母に犬を飼っていいかと聞いた。母はぶっきらぼうに、「ちゃんと世話しなさいよ」と答えた。

穴の音

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  • 小説
  • 掌編
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