吠えよ

秋津 澪

数年前に書いた娯楽小説です。BL注意です。めっちゃ思春期です。

 想い出というものは不思議なもので、なにかを得たという想い出よりも、なにかを喪ったという想い出のほうが、心に深く残っているものだ。けれどそれも当然なことで、というのもぼくらはつぎつぎになにかを喪いつづけていて、想い出のなかにあるものこそ、そもそももはやないものなんだから。
 ぼくの青春は、ふたりの関係を煙草の灰のように燃やし尽くしていって、ついにそれは消えてしまった。あとに残ったのは、空に昇った煙のにおいだけだったんだ。
 
 渋谷南といえば、ぼくらの学校ではいわゆるもの笑いの種で、そのきれいな顔立ちに惹かれる一部の女の子たちを除けば、みんなから軽蔑されているようなやつだった。
 というのは、まず勉強がきょくたんにできない。体育の時間は暴れまわるか、だれからもボールをパスされないので突っ立っている。わけのわからないことで喧嘩をふっかけ、しかもすごく弱い。友達がいない。そして最もかれが軽蔑の対象となっていた理由は、かれは放課後に毎日商店街でギターを片手に自作の歌をうたっていたんだけど、それがすこぶるひどいものだったのだ。
 それというのも、まず曲がひどい。まともな作曲の勉強をしていないのか、ギターの音とメロディーが、素人が聞いてもなんだか調和していない。そして歌唱力が壊滅的。もしカラオケでかれが歌ったら、おそらくみんななんの感想もいわずに一斉に無表情で黙りこみ、じっと歌い終わるのを待っていることだろう。つまりは、笑えないくらいに音痴だ。歌詞だってひどい。内容が、思春期特有の情動みたいなものをえがいているのはよしとしよう。プロの歌にも、そんな歌詞だってあるさ。かれらには渋谷南とちがって、才能があるけどね。ところが、彼の歌詞はそもそも日本語がおかしい。「てにをは」から勉強しろと言いたい。
 そんなかれの歌を、不覚にも最後まで聴いてしまったのは、あれは中二の秋だったような気がする。その日、ぼくは部活がやすみだったので図書館に寄り、いっしょに帰るひとがみあたらなかったからひとりで商店街を歩いていたのだ。夕日がきれいだったのをおぼえている。空がまるで燃えているみたいだった。店々は最近できたショッピングセンターとの闘争にはやばやと白旗を挙げたのでいまいち活気がなかったが、そのさびれた感じが秋空のもの悲しさを引き立てていて、それが遠くからでも聞こえるかれの歌のいたましい感じと、非常にマッチしているのだった。
 かれの姿がみえ、ぼくはなるべく見ないようにして(だって、ぼくは殴られるなんてまっぴらごめんだ)、すれ違おうとした。その瞬間、ふっと耳にはいったメロディーが、僕の耳をつんざいた。つんざいだ? それはそこまで大きな音ではなかった。でもそのメロディーは、ぼくの鼓膜を絶叫のように揺らしたんだ。そして、なにかすごくもの悲しい、郷愁にも似た感情が、僕の胸をたっぷりと充たしたのだった。
 なんだろう? とぼくは思わずかれのほうを見た。そして知らず知らずのうちに立ち止まり、その同じフレーズがくりかえされるだけの歌に、じっと耳をすませた。
「そして、俺はここに立っている。そして、俺はここで生きている」
 なんて月並みな歌詞だろう。文法だけは、奇跡的に合っているけれども。だがぼくは失笑さえせず、ただその、永遠にくりかえされるかのように鳴るワンフレーズを聴きつづけた。その拙い音は、ぼくにはなぜか輝かしいもののようにおもえてならなかった。それはやがて失われてしまう青春のひかりなんかじゃなかったとおもう。いったい、このきらめきは、なんなのだろう?
「…驚いたなあ。初めて歌を最後まで聴いてくれた人がいて喜んでたら、秋山くんじゃん! 同じクラスじゃん!」
 うっとうしくも、渋谷南はぼくに抱きついてきた。こいつは、基本的にひとなつっこいやつなのだ。ただ、嫌われているから友達がいないだけなのだ。そして、なぜ嫌われているかというと、ぼくにいわせれば、それは嫌われているからだ。たぶんそれが最大の理由だ。
「うれしいなあ! ねえ、秋山くんは音楽すき? どんなの聴くの?」
「クラシック」
「へえ! かっこいいー!」
 クラシックを聴いてかっこいいといわれて喜ぶ中学生に、真のクラシック好きはいない。ぼくらは、なによりもお洒落でクラシックを聴いている人間といっしょにされることを嫌う。
「じゃあ帰るね」
「え、ちょっと待ってよ!」 ぼくは立ち止まった。
「俺の歌…どうだった?」
 おそるおそるといった様子で、かれは尋ねた。
「…」
「…」
 じっと、まるで子犬のようにみつめている。やっぱり、顔だけはきれい。どこかのアイドルみたい。
「雄々しいのに悲しいという矛盾が、なにか輝かしいものを示しているようで、…なんかよかった」
 さっきまで本を読んでいたせいで、小難しい言いかたになったが、結びの言葉が、僕の足りない知性をしめしているようでなんか嫌だった。そういうわけで、ぼくは恥ずかしくなってすたすたと歩いて帰った。後ろから南の声が聞こえていたが、そんなの知るもんか。

 告白しよう。ぼくは、荻原百子の横顔が好きだ。そのすこし反った、ちょうど百合の花びらのように反った高い鼻が好きだ。ちょっぴり先のめくれた上唇が好きだ。その隙間からみえる、形のいい前歯が好きだ。そして、渋谷南をみつめるときのひたむきな視線が、なによりも好きだ。
 そう、おそらくは、荻原百子は渋谷南が好きなのだ。そんなことは、たとえ彼女が否定したって(うん、彼女と会話したことはないけどね)、火を見るよりあきらかなことだ。授業中にかれをみる回数がその証拠だ。一回の凝視にかける時間の長さがその証拠だ。そして、その視線の美しさが、なによりの証拠だ。
 ぼくが渋谷南を憎んでるだろうかって? そりゃあ、ほんの少しはそういう気持ちもあるさ。けれども、ぼくが彼女に恋をしたのは、渋谷南が原因でもあるんだ。というのも、ぼくが恋をしたきっかけは、荻原百子が渋谷南を見るときの眼差しに、見惚れてしまったことなんだから。つまり、ぼくは恋をした瞬間に失恋をしたみたいなものなんだ。
 授業がおわって、荻原百子の顔は女の子たちの集団に埋れてしまったため、ぼくは仕方なく机でぼーっとすることにした。すると、いつもは机でぽつんとしている南が、ぼくに近づいてきた。なのでぼくはそっぽをむいた。
「ねえ! 秋山くん!」
「…ん?」
「今日さ、放課後うちに来ない? 遊ぼうぜ!」
「ん、考えとく」
「えー! じゃあ、放課後また話しかけるからね! そのとき来るか決めて! 絶対だよ!」
 そして南は自分の机にもどった。
「…なあ、なんであいつに話しかけられたの?」
「知らない」
 わざわざ近づいてきてまで小ばかにした友人の顔が、いとわしかった。

 というわけで、ぼくは放課後に渋谷南の家にいた。なんで行くことにしたのかって? そんなのたんなる気まぐれにすぎないさ。
「友達が家に来てくれるなんて、何年ぶりかなあ」
 勝手に友達認定してやがる。ぼくはその言葉を華麗に無視した。
「ねえ、なにする?」
「…なにができるの?」
 かれの家にかれの部屋はなかった。ワンルームの、いわゆる団地というやつである。
「んー、プロレスごっこでもする?」
「却下」
 そしたら、けたたましく笑った。なにがそんなに面白いのか。
「秋山くんって面白いよね」
「そう?」
「うん。冷めているようにみえて、すごくロマンチストだよね」
 顔が燃えるように熱くなった。
「あ、顔が赤い!」
「黙れ」
 またけたたましく笑う。こんな無神経なところが、嫌われる原因なんだろう。
「どこがロマンチストなの?」
「んー」
 かれは首をかしげる。一挙一動が、なんだか幼かった。
「なんとなく」
「…」
 帰ろうかと思ったが、ちょっと気になったことがあったので聞いてみた。
「放課後にさ、商店街で歌ったあとは、なにしてるの?」
 だってさ、と心のなかでつぶやく。家になんにもないじゃん。
「んー、家事かなあ。うちお母さんいないからさあ」
 …ほんのちょっとあわれみの感情が生まれたことがいやだった。かれだって、あわれまれたいだなんて思ってないだろう。
 ぼくはカバンから本を取り出して、黙って読み始めた。失礼なやつだと思った? でもぼくはこんなやつなんだ。
「ねえ、なに読んでるのー?」
「ひみつ」
「見せて!」
 かれがぼくに体をみょうに接近させてきて、本に手をかけた。ぼくの指とかれの指が、そっと触れる。その瞬間だった。そのとき、まるで電車のなかからみえる知らない町の家々をみたときのような、あのノスタルジックな寂しいきもちが、ぼくの胸をつよく締めつけたのだ。その寂しい感じは、電流のように甘く、ぴりっとしたなにか痛いものだった。
 髪のにおい。あたたかな体温。かれのきれいな顔が、不思議そうにぼくのほうにむけられた。
「…どうしたの?」
 ぼくは軽くかれの体を突き飛ばした。
「近い」
「あ、ごめん!」
 かれは床をすべるようにして体を引いた。
「ごめんね、俺、人との距離感がつかめなくて…」
「子犬みたいだね」
「え?」
 なにか温かい感情に、ふしぎと満たされていた。
「おまえ、子犬みたい」
「…へへ」
 かわいらしい笑顔で、かれはこう言った。
「そんなふうに笑うんだね、秋山くん。好きだなあ」
「は?」
 また顔が燃え上がったのがわかった。
「あ、違うよ! 好きって、そっちの好きじゃない!」
「帰る」
 ぼくはカバンを取って立ち上がった。
「ま、待ってよ! ごめん! ごめんってば!」
 すたすたとドアのとこまで行った。そして言った。
「じゃあ…、また明日ね」
「…やっぱ、その笑顔好きだなあ」
 ぼくはかれを軽く殴ってから外に出た。

 指先が触れた瞬間に、ぼくはかれに惹かれはじめたんだ。勘違いしないでくれ、あれは恋じゃない。からかわないでほしい、断じて恋じゃないんだ。だって、恋って、あんなに寂しい感情じゃないだろう? 恋ってのは、もっと熱情的なものだ。たぶんね。
 電車から知らない町の家々がみえたときの感情、あれは、それらが自分となんの関わりもないという、でもひとびとはぼくの知らないところで生活していて、なのにそれらはすぐに自分から去っていき、ぼくにはそれをもはや想い出の片隅に置いておくしかないというどうしようもない切なさだ。だって渋谷南のこころにぼくがはいりこむなんてできっこないんだし、おたがいを理解しあえるなんて絶対にできないし、どうせふたりはいつかは別れちゃうんだ。ただ、それが寂しかっただけなんだ。指先が触れたところで、それはやがて追憶のなかに、瞬間の体温としてこころにしまうことしかできないんだ。

 次の日から、ぼくは部活がおわると商店街で歌う南のとなりに座り込んで、ずっと歌を聴くようになった。音楽としては拙さの極みだったけれども、ぼくは初めてぼくの脚をとめさせた曲…「吠えよ」だけは、すごく好きだった。外が真っ暗になると、ぼくらはふたりで歩いて帰った。こんな時間が、一日のうちで最も好きになっている自分がいた。しばしば、南と一緒にいないようにと親から忠告されたが、ぼくの子供らしい反抗心はその意見を聞き入れなかった。

 学校でも南といっしょにいるようになった。友人たちもたびたびぼくに忠告した。
「おまえ、評判悪くなってるよ」
「へえ」
 そしてクラスメイトに限らず、同じ部活の人の一部いがいはぼくと話してくれなくなった。ぼくだって思春期だ、ひとからどう思われているかがすごく気になるし、ひとから嫌われていることは辛い。でも、ぼくの思春期はそれ以上に、世間への反発心をもっていた。というのは、あんな可愛くていいやつをみんな嫌うなんて、学校中のやつらのほうがクズだなんて意識が、ぼくのなかにあったから。
 けれども、そういう気持ちは、結局のところかれへのあわれみの気持ちゆえだというのも、ぼくにはわかっていた。

 …骨と骨の打ち合う音がひびいた。女の子たちの悲鳴がきこえた。なんかうるさいなと思って見てみると、渋谷南がまた、クラスメイトの男を殴ったようだった。南は泣いていた。
「どうしたんだよ」
 ぼくが近づいて南に話しかけると、かれは震える声で言った。
「あいつが…俺の家のことを…」
 かれから聞いたことだが、かれの父親は働いていなくて、生活保護をもらっていた。母親はかれが小さい頃に離婚して、どこに行ったのかわからなかった。
「行こう。落ち着こう」
 ぼくはかれの肩を抱いて教室から出ようとした。
「おい秋山」
 殴られたほうが、ぼくの名前を呼んだ。かれとぼくは、以前クラスでは一番仲がよかった。
「おまえも、こいつと同じように、学校中から嫌われてるよ。成績がいいからって、周りを見下してるってな」
 言い返す勇気がないので、僕は黙って震える肩を抱いたまま、ふたりで歩いた。
 …

 ぼくらは、中庭のすみまで行った。隠れた場所で、ぼくはかれを抱きしめた。体温と肌のやわらかさが、かれが生きているということを示していた。そしてぼくには、それがあまりにも悲しいもののように思えた。かれはまるで傷ついた小動物だった。
「家を出たい…家を出たい…」
「家を出てどうするんだよ」
「お母さんのところに…」
 お母さんのところに? おまえの母親は、おまえを捨てて出て行ったんだぞ。そんな言葉がのどまで出かかったが、かれにそんなこと言えるはずがなかった。
「お母さんが好きなの?」
「あんまり覚えてない…でも、抱きしめられたときの温度と、あったかい気持ちだけ覚えてる…」
 同情しすぎるんじゃない。ぼくは自分に言いきかせた。可哀想なものをあわれむ気持ちは、どうせ卑しい気持ちをさそってしまうんだ。でも、ならばぼくはどうすればいい? この、泣きじゃくる不幸な友達に、ぼくはなにをしてやればいい?
 やがてかれは泣き止んだ。そしてぼそっと呟いた。
「…家出する」
「それで? 家出したあと行くあては?」
「お母さんを探す」
 深い悲しみの気持ちが、ぼくの胸にしみこんだ。
「付いて行くよ」
「え?」
「こんな町、ぼくだって嫌気が差しているところだ。ぼくも付いていく」
「三人で暮らすの?」
 涙でぐしゃぐしゃの顔で、かれは笑った。
「うん」
 そうぼくは言った。
「ずっと一緒にいよう」

 そんなことは中学生ふたりには断じて無理な話だった。じゃあ、なんでぼくはそう言ったんだ? この言葉は、結局かれをより苦しめただけじゃないか? ずっと一緒にいようという不可能なことを言うなんて、ぼくはあまりにも不誠実だったんじゃないか?
「よお」
 南は、自転車に乗って待っていた。
「自転車持ってたっけ」
「拾った」
「クズじゃん」
 そしてけたたましく笑う。もともと、かれは盗難なんてするやつじゃなかったんだけれども。
「どこに行くの?」
「こっち」
 かれは西を指差した。
「こっちにいるの?」
「え、知らない!」
 またけたたましく笑った。それがぼくには、あまりにも痛ましい。
 ぼくはかれの後ろに乗った。Tシャツのしわのなかで、あまりにも華奢な背中が空気にふるえていた。少し汗ばんだそれが接近すると、ぼくの心臓はどぎまぎした。
「もっとくっつけて」
「無理だろ」
「危ないよ!」
 ぼくは胸をかれの背中に、おそるおそる押しつけた。…離れてしまう。肉のうすい背中を胸に感じると、こんな意識がぼくを襲った。この背中を、いつかぼくは喪ってしまう。この温かさを、ぼくは記憶からたぐり寄せるしかできなくなってしまう。ぼくは思わず南の背中を強く抱きしめた。
「…へへ」
 かれの横顔から流れる汗が、青空のなかでひかっていた。
「いっくぞー!」

 公園についたので、ぼくらは休憩することにした。ちょうど正午ごろだ。
「昼ごはん食べよっか」
「…」
「どうした?」
 ぼくは察した。家に食べ物がなかったので、かれは弁当を持ってきていないのだ。
「今日の昼ごはんは、おまえが自転車こいでくれてるんだし、俺のをふたりで食べよう」
 かれがぼくのほうを見た。感激した小動物って、こんな顔をしてるんだろう。
「うん!」
 ぼくらは、どこかの二十代で死んだ歌手の歌ように、社会に背を向けて、青春のワガママ勝手な衝動のままに、町から逃げ出しているのだ。金なんか持たず、その日分の食べ物だけを持って。自分たちは落ちこぼれなのだという意識が、ぼくの内臓の調子を悪くする。けれども、汗にかがやく南の顔をみるたびに、後悔してはいけないと思う。だけれども、ぼくはいったい、南の人生にとって、価値ある存在でありえているだろうか?
「潤、水筒ある?」
「…忘れた」
 ぼくはあたりを見渡した。
「あ、水飲み場があるよ」
「やった!」
 ぼくらは水飲み場まで行った。まっさきに蛇口に口を近づけたのは南のほうだ。こういう気遣いができないから嫌われるのだ。
「おい、少しは遠慮というものを…」
 南の、桜の実のように血色のいい唇が、ふき上がる水に濡れて、なまめかしくひかっている。水の垂れる頬は、燃えるように紅潮している。
「俺にも、はやく飲ませろよ」
 ぼくも蛇口に口を近づけた。南が、びっくりしたようにぼくを見た。しかし、ふき上がる水から、顔を放そうとしない。
 ぼくはゆっくりと南の唇に自分の唇を近づけ、そっと触れさせた。ぴくりと、南は体を硬直させる。ぼくはかれの両手をとった。また、そっと唇を触れさせる。こんなにも柔らかいんだ、とぼくはおもった。こんなにも柔らかいかれが、こんな不幸のなかで、華奢な背中をふるえさせているんだ。失いたくない。こんな可哀想なかれを、失いたくない。もう一度、ぼくはかれの唇を、唇の先でそっと挟んだ。
「…どうして泣いてるの?」
 ぼくは自分が涙をながしていることに気がつかなかった。けれど、もし自分がいま涙をながしているのならば、それはかれの為ではなくて、自分の為だろうというのはわかっていた。
「水が…目にはいったんだ」

 昼からはぼくが自転車をこいだ。
 やがて空が暗くなり、ぼくらは森のなかにはいった。疲弊した体を、そこでじっと休めることにした。
「焚き火したいね」
「危ないだろ」
「そか」
 ぼくは、逃避行でたどりついた夜の森という感傷的な雰囲気もあって、「吠えよ」を歌ってよと頼んだ。かれは照れ臭がりながらも頷いた。
「そして、俺はここに立っている。そして、俺はここで生きている」
 すぐにぼくはその歌を聴くのが苦しくなった。かれの歌が酷かったのが原因ではない。というのは、この歌は、現在のぼくたちを非難していたからだ。
 おーい、と呼ぶ声がした。みると、三人の警察官が、ぼくらのほうへ近づいていた。
「君たち、こんな遅くになにやってるの?」
「母親を…」
「え?」
 そしてぼくらはあの町へと連れ戻された。ぼくは両親に二発ずつ殴られ、南と遊ぶのを禁止された。

 それからもかれとは放課後よく遊び続けていた。部活はやめた。南との時間が欲しかったからだ。ぼくは自分が南に恋をしていることを自覚した。おそらくは南もそうだと思っていた。だって、かれは一度だってぼくからのキスを拒まなかったから。ぼくは自分が、南への思いやりをもっていると信じていた。もはやかれへの哀れみが卑しい気持ちをさそっているだなんて思っていなかった。ぼくはかれを愛しているんだと確信していた。

 朝、クラスにはいると、荻原百子が泣いていた。ぼくは以前ほどではないにしても、彼女を好きな気持ちはあったから、友達に囲まれて慰められている彼女をそっと盗み見ていた。
「大丈夫だよ、百子かわいいし、すぐにまた彼氏できるよ」
「そんなことない。あんなに素敵な人見つからない」
「いまはそう思うだろうけどさあ」
 荻原百子には、知らないうちに彼氏がいたようだった。ぼくはなにかいやな予感がした。
「渋谷くんより、いい男が…」
 ぼくは立ち上がった。そしてすたすたと机で眠りこけている渋谷南のそばにいき、かれの顔をつかんで無理矢理起こし、強く殴った。

 こうして、ぼくはぼくの恋が単なる自分勝手な欲望にすぎないことを知ったのだった。

 そして、俺はここに立っている。そして、俺はここに生きている。渋谷南への恋ごころは、南がぼくのキスを受け入れながらも、荻原百子と付き合い続けていたことへの怒りだけでは消えなかった。けれども、それ以来南はぼくを避けるようになり、ぼくらは卒業するまで一言も口をきけなかった。謝ることさえもぼくにはできなかったのだ。けれど、ぼくが南を喪ったように、恋ごころもいつか喪われるものだ。ぼくはやがて楽にはなった。
 そして、部活をやめたぼくにはやることが勉強しか残されていないので、勉強に熱中するようになって、そこそこいい高校に合格した。南は定時制の高校に行った。その後、ぼくらは一度も会ったこともなければ、みかけたことすらない。
 あの「吠える」という歌を想いだすたびに、ぼくのこころに傷のように刻まれた事実がある。それは、生きるということは、痛いということだ。

吠えよ

読んでくれてありがとうございました。

吠えよ

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-02-08

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