守と猛

守と猛

 すっざけんな!と言って、高橋守は明石猛を殴った。ふ、ではなく、す、である。ふざける、というのはつまり、面白半分に何か物を言ったりすることを言う。ということは、高橋守は、明石猛が面白半分に、何かは分からないけれど、何かをして、それに対し、ふざけるなの心算で、すっざけんな、と言いながら、殴りかかったのだろう。余りにふざけ過ぎている。もしも面白半分に明石猛が何かをしたとしても、何も殴らなくったっていいではないか。ツッコミの心算なのだろうか。それにしては、強く殴りすぎではないだろうか。殴った際に、でゅくし、と音が聞こえる程の強さである。尤も、高橋守、或いは、明石猛の口からでゅくしと発したのか、高橋守の拳、或いは、明石猛の頬からでゅくしと鳴ったのか、それとも私の脳内が状況に即した効果音を脳内に響き渡らせたのか判然とはしないけれど。よもやそれくらいの強さで殴らなければ、今の世の中では笑いが起こらないのだろうか。世も末とはつまり、こういうことを言うのだろうか。
「ってえな」
 明石猛は殴ってきた高橋守に対して、てえな、と言った。分からない人もいるに相違ないから、一応説明しておくけれど、てえな、というのはおそらく高齢者が用いる排泄ケア用品のブランド名のことである。因みにテーナは排泄ケア用品、世界シェアナンバーワンである。
 これはあくまで私の推論に過ぎないけれど、高橋守と明石猛は友人同士で、明石猛が高橋守に対して何か良くない事をしてしまったのだろう。それに対し、高橋守は憤り、こういった状況に陥っているのであろう。何か良くない事とは言ったが、何をしたのかはさっぱり分からない。もしかすれば、明石猛は何も悪い事はしていないのかもしれない。善悪の判断というのは些か難しいもので、誰かが善だと言い張ることをまた他の誰かが悪だと言えば、それはもう善悪の判断はつけられない。だったら多数決で決めればいいというわけにもいかないだろう。マジョリティーイコール正常というわけではないし、マイノリティーイコール異常というわけでもない。が、憤懣やるかたないといった状態の高橋守に対して、それを嘲るように排泄ケア用品のブランド名を口にした明石猛はあまり褒められたものではない。人の本気を嗤うのは恥ずかしいことである。
「糞が! ぶっころっそ!」
しかし、いくら本気とは言え友人に対し糞と罵るのは感心しない。見ていて心持ちが良くない。綺麗じゃない。糞は、うんこである。うんこ。いくら自身の本気に対し、明石猛が排泄ケア用品のブランド名で返したからと言って、一人の人間に対し、うんこと言うのは良くない。全体、高橋守は明石猛が排泄するうんこのことをどう説明するつもりなのだろうか。うんこのうんことでも言うのかしら。しかしそれでは説明がつかない。納得がいかない。そして高橋守の言葉には矛盾が生じている。糞が、の後に続くぶっころっそという言葉だ。ぶっころっそはイタリア語でもなければ韓国語でもない。いや確かに高橋守がどういう了見でぶっころっそを口にしたかなんて、傍観者の私には判然しない筈だけれども、この状況を鑑みれば、ぶっ殺すぞと言ったのだということは自明であろう。ぶっ殺すぞのぶっという音は全体何のことを指すのかということは置いておくにしても、眼前の相手をうんこと認識しているにもかかわらず、殺す、と言っているわけである。うんこ自体に死生観なんてものはない。それはつまり、殺すことも能わないということなのではないだろうか。それとも、高橋守はうんこに対し死生観を持ち、その上で殺すと言っているのだろうか。或いは、高橋守自身、うんこに関して何か深い考えがあって、それをここで、この状況下であえて、明石猛に対し、哲学的、宗教的テーマを投げかけたのだろうか。
「話を聞いてくれ」
高橋守のうんこの哲学に明石猛が乗った。私は心底驚いた。よもや明石猛までうんこの死生観を持っていようとは。これは面白い。私も人の哲学を聞くことを好いている。明石猛のうんこの哲学に耳を傾けることも吝かでない。
「っるせ!」
クリストフ・ルセとはフランス出身の指揮者である。が、高橋守はなぜ、今、フランス出身の指揮者の名を口にしたのだろうか。すると、高橋守はズボンの後ろポケットからナイフを取り出した。そしてその切っ先を明石猛に向け、走り出した。
「うらあ!」
裏と叫ぶ様にして言う。高橋守は明石猛の腹にナイフを突き刺して、それから裏と言った。正直、私は困惑した。最大にして最高の哲学に違いなかった。しかし、私にはその意味がまるで判然しなかった。フランス出身の指揮者の名を口にしたすぐ後に、走り出し、それから明石猛の腹をナイフで刺して、裏と言ったのだ。まるで意味が分からない。明石猛には分かるのだろうか。自身が友人にナイフで刺された意味が分かっているのだろうか。
「……ってえな」
高橋守にナイフで刺され、膝から崩れ落ちながら、ううと呻きつつ、明石猛はテーナと言った。この期に及んでまで、明石猛は高橋守を嘲るように、排泄ケア用品世界シェアナンバーワンのブランド名を口にしたのである。もう私には、高橋守と明石猛のどちらの頭がおかしくなっているのか分からなかった。もしかしたら私の頭がおかしいのかもしれないと考えるまでに、私は眼前の景色を受け入れられないでいたのである。
「ひいっ」
 高橋守は非違と言った。無論である。人をナイフで刺したのだから。自らの行為を自らで説明する者などそうはいない。滑稽だと評するのが滑稽になるほど、高橋守は狂っていた。血に染まったナイフを手から落とした高橋守は、その場から走って逃げ去った。私は逃げてゆく高橋守を見ていた。見ていた筈だったのだけれど、私の目にうつっていたのは、明石猛がううと呻いて苦しむ姿だった。
 私は立ったまま、明石猛に話しかけた。
「大丈夫ですか?」
 明石猛はううと呻いて、ナイフで刺された腹に手を当て、てえ、なのか、へえ、なのか、ぜえ、なのか判然しない声で何かをいいたそうにしていた。時折、声が裏返った。私はその裏返った声を聞くと、明石猛に対し憐憫を覚え、もう一度、今度はしゃがみこんでから明石猛に話しかけた。
「大丈夫ですか? あなたは一体何をしたのですか?」
それでも明石猛は私の問いに答えようとはしなかった。
それからどれ程の時間が過ぎたか知れない。少し落ち着いたか、明石猛は仰向けになり、天を仰いで深呼吸をした。私は立った。そして、一つ大きなため息を吐いてから、その場を去った。私は歩きながら、明石猛の真似をして空を見た。空には沢山の星が鏤められ、それらを総括するように、少しも欠ける事なく、大きくて丸い月が私たちを見下ろしていた。明日は快晴に違いない。

守と猛

守と猛

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-02-07

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