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数学オリンピックに出場した町山呉乃(これで「くれの」と読むらしい)と初めて話したのは、9ヵ月前の真冬のことだった。
当時まだ18歳の現役女子高生だった彼女は、日本中の期待を背負って、数学の聖地である数学オリンピックに出場した。結果は入賞には至らなかったが、それでも大健闘した彼女の姿は国民中で讃えられた。
そんな彼女と何故、僕が会話できたのかはよくわからない。僕は別に数学がものすごいできる奴でもないし、ましてや勉強も中の上あたりで、通っている高校が超有名進学校なわけでもないし、目立つ要素も特にない普通の18歳だった。
僕はある日、毎週木曜に通っている市民図書館に行った。部活はバスケで、週4回+土日の活動で、唯一の休みが木曜日だったから、その日はなるべく好きなことに時間をつぎ込もうと考えていた。僕は読書が好きで、わりと新書も取り揃えている市民図書館に行くのが習慣になっていたのだ。
市民図書館は市役所の隣にぽつんと建てられている。コンクリート造りの、二階建てのベージュ色の建造物のなかには、小さな市民図書館にもかかわらず約200万冊の本が所蔵されている。木材の棚や椅子、テーブルを主に使用しており、パソコンも10台近く設置されている。落ち着いた空間で、勉強できるスペースも隔離して設置されており、高校受験のときには本当にお世話になった。僕は気になる本をパソコンで検索して、所蔵場所を割り出し、本を探し見つけ、そして二階の最も日のよく当たる席でそれを読むのが好きだった。一度読み出したら、図書館に2時間はいりびたっていられた。その日も僕は、学校が終わるとすぐに、市民図書館の二階の最も日のよく当たる席で本を読んでいたのだ。
僕が物語の中盤にさしかかったころ、向いの席に誰かが座った。椅子をひく音が聞こえた後、荷物を床に置き、コートを脱ぐような衣擦れの音が聞こえた。そうしてなんだか膨大な数の量の本を机の上に勢いよく置いて、向かいにいる人はふうとため息をついた。僕は本から目を離し、ゆっくり顔を上げた。目の前には、髪の長い少女が、机に寄りかかって数学の参考書を眺めている光景があった。
並べられた参考書はどれも僕の知らないものばかりで、わけのわからない名前が書かれた表紙には絵などいっさいなかった。唯一僕も一応存じている赤チャートが机の端のほうに置かれていたが、目の前の彼女はそれには全く興味がないという風に、絵のない表紙の本を立ちながら読んでいた。
僕は唖然として、しおりもせずに本を閉じてしまった。彼女は見た目同い年くらいで、肌が白いので黒くて長い睫毛がくっきりしていて印象強かった。普通に可愛いといわれるような高校生くらいの女の子が、市民図書館で、数学の難しい参考書を読んでいるというのはなかなか普通でない。彼女はただひたすらページをめくり、一言も発することなく、すぐにその本を読み終わり、そうしてけだるい表情を浮かべて次の本へと手を伸ばした。
目が合った。
三秒後くらいに、僕はハッとして、とりあえず自分の持つ本に目を落とした。そうしてゆっくり顔を上げると、彼女は怪訝そうな表情を浮かべて僕を見た。どこかでみたことのある顔だった。
「え、君って……」
「静かにして!」
彼女は咄嗟に赤チャートで僕の頭を殴った。いてっと声をあげると、周囲の人がこちらを見てきた。彼女は参考書で顔を隠しながら、僕のほうをじっと睨んだ。
「わかっても、私の名前を言わないで」
僕は怖じ気づいたまま、首を縦に振った。彼女は周りの様子をみて、周囲の目が散ったことを確認すると、赤チャートを机に置いた。
「やっとね、やっと私見つけたんだから。誰にも声かけられずに、落ち着いて勉強できる場所」
小声でそう囁くと、彼女は机の上の本をまとめだし、そしてコートを身にはおった。え、帰っちゃうのと聞くと、そうよもうあなたに正体がわかってしまったし。面倒なことになりたくないからと言って荷物を手に取った。
「え、ちょっと待ってよ、いや、その」
「なんで待つの?あたしは勉強したいの。いや正確にはしたくないけど…しなきゃいけないの!」
彼女はそう静かに怒ると、その場を立ち去ろうとした。え、待ってと僕が急いで立ち上がると、彼女はちらりとこちらを振り向いた。
「勉強したくないの?すきでやってるわけじゃないの、そんな…めんどうなこと」
僕は彼女の手にする参考書を指差した。参考書を一瞥すると、ああこれと鼻で笑ってから、彼女はこう言った。
「あたしこれしかできないから。これじゃなきゃ食ってけないのよ」
そう吐き捨てるとそのまま立ち去ってしまった。僕はぽかんと口を開けたまま立ち尽くしていたが、ハッとして周りを見渡すと、周囲の人はみんな僕と同じようにぽかんと口をあけたまま、彼女のいた場所をみつめていた。

2

2度目に彼女に会ったのは、それから8ヵ月後、今から一ヵ月前のことだった。
会った場所はまたも市民図書館だった。その八ヵ月間の間に僕は都内の大学に入学し、一人暮らしを始めた。はじめは慣れない大学生活だったが、一人暮らしにも慣れ、自宅の近所の居酒屋でバイトもはじめて、その頃には中学高校時代やっていたこともあってテニスサークルにも入り、友達の輪も高校のとき以上に広がって、充実した毎日を送れていた。数学の彼女のことはすっかり忘れてしまって、地元に帰ることも少なかったので当然市民図書館に通うこともなくなった。
夏休み、僕は休暇を利用して地元に帰省した。もっとも地元といえど都会外れの一応東京都なので、電車に1時間半程度のれば着いてしまう。実家の様子は変わっていなくて、僕の部屋は誇りにまみれていて、受験のときに使った参考書などがたくさん置かれていた。
僕はそれを整理して東京に帰ることにし、3泊の地元生活を満喫した最終日は、一日家の掃除をした。リビングからキッチン、トイレ、風呂場と順に掃除したあと、最後に自室に取りかかる。わりと整理整頓していたことがあってか、膨大な量の参考書をまとめて東京で古本屋にだすことに決めた。僕は黙々と同じサイズの参考書を何冊かまとめひもで縛る作業に取りかかっていた。そして4つほどの束ができて、次の束の最初の一冊と伸ばした手をとめた。
「これ……」
ゆっくりそれを手に取ると、その本は「数学が嫌いな人へ」という名の分厚い本だった。ぱらぱらとページをめくると数式があるわけではなく、絵などをつかって数学の魅力を延々と説明しているものだった。最後の裏表紙には「●●市民図書館所蔵」と書かれたシールが貼ってある。ハッとした。これはあの日、そう数学の彼女が現れた日に彼女が置いていった本だったのだ。
机の上に無造作に置き去りにされたこの本を、僕はどうしていいかわからず、自分でも興味があったのでそのまま持ち帰ってしまった。しかし読もう読もうと思っていながら結局興味は長続きせず、机の奥のほうに放置されていたのだ。
実を言うとあの日帰宅すると、僕のあまりの受験勉強のしなさに親が怒り、市民図書館への出入りを禁止されてしまった。そんなこともあってあの日以来一度も行っていない図書館に、この本を返しにいくことにした。
そうはいってもこれは彼女が借りたであろう本だ。もしこの本を彼女が借りていたとしたら、僕はどうやってこれを返せばいいのだろう。図書館では一ヵ月延滞で250円の罰金が取られる。8ヵ月で2000円分…これを貧乏学生の僕が払うのは嫌気がさした。だけどとりあえず久しぶりのということで、真夏日和の地元最終日の午後2時頃、僕は市民図書館へと久々に出向いたのだ。

√2 2度目の再会

市民図書館はいい意味で全くといっていいほど変わっておらず、係員の面子もおなじみで、縁ある人は大学頑張ってる?と声を掛けてきてくれた。そんなこんなで僕は久々の図書館を十分楽しんでから、この「数学が嫌いな人へ」の本の対処をすることにした。
それにしても、数学の彼女はなぜこんな本を選んだのだろうか。「これで食ってかないといけないから」とかカッコいい決め台詞を残しておいて、こんな意思とは正反対の本を読むなんてなんだか話がおかしい。しかし彼女は数学が嫌いとも言っていたからまあなんか一種のやりすぎが原因で息抜きもしたくてこんな本を読んじゃったんだろうなと軽く勝手に解釈しておいた。そうして僕はかつての自分の特等席、二階の窓際の日が一番当たる所に急いだ。(ちなみに夏は冷房直撃でカーテンも閉めてあるため涼しい)
いろんな本棚の間をすり抜けて、僕はやっと特等席についた。しかしそこには既に先客がいて、僕のなかでやり場のない自分勝手な怒りが沸々と煮えだして、思わずその先客の目の前に回り込み、文句を言おうとしてしまった。
「ちょ、あの…え?」
ハッとして、もっていた本を落としてしまった。
そこに座っていたのは、分厚い辞書のようなものを読む、眼鏡をかけた数学の彼女だったのだ。
「あれ?」
彼女は一瞬僕のかおをみて戸惑ったが、すぐに思い出したようで、あのときの、とつぶやいた。
「あなたあのとき、あの本どうした?」
彼女は分厚い本をパタンと閉じ、立ち上がると僕の目をじっと見てきた。
「わかる?もう忘れたか。数学が嫌いな人へって本だよ!」
迫ってくるようにして勢いよく言ってくるので、僕は腰を抜かしそうになったが、足を震えさせながら落とした本を彼女に渡した。
「やっぱりあんたが持ってたのね。道理で8ヶ月もみつからなかったわけだ。おかげで延滞金2000円もとられちゃったんだからね」
彼女はイタズラっぽく笑うと、僕の手からさっと本を奪い取った。
「なんか…8ヶ月探してた?」
恐る恐る訪ねると、彼女は椅子に座り直し、機嫌良さそうにその本を読んでいた。
「延滞金とか、なんかその、ごめんなさい、僕が勝手にそれ、もって帰りっぱなしにしちゃって」
「ん?いいよいま読めてるし。お金のことは気にしないで。あたしが借りときながら置いてったのが悪いわけだし」
彼女はこの8ヶ月間でどうやら性格が大分丸くなったようだ。
「君、最近テレビで見ないね」
小声でそうつぶやくと、彼女はフッと鼻でわらった。
「そうかもね。もう出演断ってるし」
「え?なんで?」
僕はびっくりして彼女をみた。長い髪を耳にかけて、赤い眼鏡もかけて、
心地良さそうに本を読んでいる。
「数学嫌いになっちゃったの?」
「嫌い?うんまあ、嫌いっちゃ嫌いだね」
あまりにもあっさりした返事が返ってきてしまったため、僕は拍子抜けしてしまった。
やがて彼女は本を閉じると、ふうと小さくため息をついた。
「なんで嫌いになったの?好きでやってたわけじゃないの?そんな、難しくて普通人がやりたがらないようなこと」
「しつこいわね。あんたには関係ないでしょ」
急に鋭い目つきでこちらを睨みながらそう言ってきたので、僕はやはり彼女は8ヵ月前から実質性格面ではあまり変化はなかったなと思った。
「いやだって、気になるでしょ、あんな国際大会みたいなのにまで出て、数学嫌いなんてさ」
僕がそう返すと、彼女は数学が嫌いな人への表紙を指でなぞりながら、うーんと唸った。
「まあ気になるよね。そうだよね。理由っていう理由はないの。ただねなんだか」
彼女は空を切ったように上を見上げ、何かを考えているように見えた。
「私もともと数学がものすごく好きだった。みんなが趣味っていうような、たとえばサッカーとか、野球とか、ダンスとか、ピアノとか、絵を描くこととか、歌を歌うこととか、そんな感じで数学が私の趣味のひとつだった。小学生のときから難しい参考書とか読みあさって、そのころでは高校レベルの問題くらい余裕でとけたし。数学が得意だとはあまり思わなかったけど、とにかく大好きだった。数学をやってないと落ち着かないの。依存症みたいなね、一種の。あ、恋人のような存在だった。強いて言えば」
一気にそう言うと、彼女はこんなどうでもいい話聞きたくないよねといってまたあの本を開こうとした。僕はそれをとめて、その話が聞きたいと言った。彼女は少し驚いていたけれど、また指で表紙をなぞりながらゆっくりと話し始めた。

3


「中学は親の勧めもあって受験した。中高一貫の学校で、それなりに名高いっていうか、まあ頭のいい子が多かったね。あたしもまあまあの成績は残してたけど、そのなかでやっぱり数学はやってるだけあってテストでは毎回一位だった。上の学年の問題をやらせてもできるし飲み込みもわりと早かったから、あたしは数学の先生からは結構好かれてたよ。それである先生から、数学オリンピックを目指してみないかって言われたの。最初はあんまり乗り気じゃなかったけど、半ば強制的に受けさせられたんだよね。まずは日本の中で予選本選と受けるんだけど、どっちも通って、合宿にも参加した。周りの子もすごくできが良かったけど、自分で言うとあれだけどさ、あたし一番できたから、国際数学オリンピックに出れることになったんだ。
そのときには自分がまさかここまで数学ができるとは思ってもいなかったし、趣味の範囲でやってたようなもんだからなんだろ、ああ好きこそ物の上手慣れってこういうこというのかななんて軽い自負心も持ってたよ。それが高2のときだった。ある日ね、ドキュメンタリー番組でほかの数学オリンピック出場者の人の特集がやってたの。あたしその人と別に仲が良かったわけでもないんだけど、まあ一番できたからちょっとだけインタビューってかんじでテレビに映ったんだ。そしたらそれからいろんなテレビ局があたしのところに取材にやってきた。雑誌も。まあいろいろ報道されてたから言わなくてもわかるだろうし、こんなこと自分でも言いたくないけど美人女子高校生が数学オリンピック日本代表に選出っていうことで日本中が大騒ぎになった。
はじめはあたしも人間だし、やっぱりちょっと浮かれてたよ。あんまり数学も勉強しなくなった。する暇がなくなったっていうか。というよりは、それよりも数学抜きのあたしが人々に受け入れられるようになったの。わかるかな、あたしは数学あってのあたしなのに、それがなくてもテレビに出れるの。事務所までオファーにきて、もはや数学オリンピックに出場するとかそういうことは周りにはどうでもいいことになってたの。それがいけないことだと気づいたのは、オリンピック1ヵ月前のことだった。あたし焦って、今までやってきた難しい問題集をひたすら解いたの。でもね、なんどもなんども解いて解き方も、理屈も完璧に理解してたはずなのに、どこかしらミスをしていて。そのときあたしだめだなって思った。あたしは調子に乗ったから、数学に振られちゃったのよ。
今さら棄権ってわけにもいかないから、一応そのまま大会には出たよ。けど結果はボロボロ。きっと昔のあたしなら金メダル取れたとおもう。終わった後涙が止まらなかった。悔し涙じゃないよあれは。テレビはそういってたけど、あれはね、もう数学と仲良く出来ないかもしれないっていう不安で泣いてたんだよ。あたしはいままで生きてきたなかで、多分15年以上は数学と一緒に生きてきた。数学が大好きで、いなきゃだめな存在だった。辛いときは数学の問題を解いて気を紛らわしてたし、まあ今考えると変なやり方なんだろうけどさ、なのにあたしは、自分という存在自身がちやほやされて、数学のことを見失ってたの。放置してたの。だから数学に見放されちゃったんだよあたし。一番大切な存在に、嫌われてしまったの」
彼女の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。数学が嫌いな人への本を指でなぞるのをやめることなく、また続けた。
「あたしはそのあとのテレビ出演や雑誌インタビューはすべて断った。そうして数学にまた振り向いてもらいたくて、昔のようにただひたすら問題を解いた。けれど、いつまでたっても前の感覚は戻ってこなかった。そんなときにこの本を図書館で見つけたのよ。あなたと初めてここで会ったあの日、あたしはあまり人目につかないような町の市民図書館に、本当にたいした理由もなく入ったの。そこで数学についての本を探していたときに、これを見つけてね、読もうと思って他の参考書と一緒にこの机の上に置いたら、あんたとまあいろいろあったせいで忘れてしまった。家に帰ってから思い出したけど、あたしの家からここの町は遠いからまたいこうというのもなんだかあれで、結局放置していたのよ」
彼女はしゃべるのを一度やめると、窓の外を眺めた。もう目に涙は浮かんでいなかった。
「結局あたしはね、数学の才能とか、そんなのなかったんだよ。ずっとずっと、大袈裟にいえば数学と生きてきたから、だから問題がとけるのは当たり前だったの。あたしが好きなのは、数学の中にある深みだった。たった10個しかない0から9までの数が、組み合わせられることによって命が吹き込まれるみたいにいろんな数に七変化する。無限にね。それがあたしは大好きなの。でもいまは、昔よりはその好奇心が失われているんでしょうね」
そう言うと彼女は本をなぞる指をとめた。その表情は昔の張りつめた緊張感はなく、リラックスしていてあか抜けたようだった。しかしどことなく寂しげな瞳は、数学が嫌いな人への本ではなくもっと違うものを見つめていた。僕はなんと言えばいいのかわからず、俯いた。
「なんかこんなどうでもいい話を長々としてごめんね。ただこれをだれでもいいから誰かに言いたかっただけなの。これから先はもう数学のない人生を生きたいの。普通の女の子として生きたいの」
気がつくと自分と彼女の周りに人がいなくなっていた。沈黙が続いて、その空気に耐えられなくなった僕は口を開いた。
「大学は、行ってないの?」
なんてしょうもないことを聞くんだろうと自分を恨んだ。今数学なしの人生を生きると彼女は宣言したばかりなのに勉強に関わる話を振るなんて僕はつくづくダメな男だと思う。
「うん、行ってないよ。受けなかったの」
「就職は?その…数学抜きになっちゃうんでしょ、大学いかなくていいの?」
この質問をしたあと、彼女は少し考えこむように黙った。そして僕は、自分は彼女のことを結構心配しているんだなと思った。
「あたしケーキを作りたいの。それから、スキューバダイビングやってるから、それのインストラクターとか、いや、海で働きたいのかな。とにかくさ、あたしは思うんだよね、大学は行かないし就職とかの問題もいろいろあるけど、とりあえず自分のやりたいことをやろうかなって。我が儘だよね。自分がやりたくて数学やってきたのに、結局これからも気ままに生きたいだなんて。人生のこと必死に考えてる人もいるのにさ」
「いや、君は十分に考えてると思う」
僕は彼女の言葉を遮りそう一言告げた。
彼女は自分の生き方に苦しみ、普通の人が考えないくらい思考をぐるぐる張り巡らせて、そうして悩んだ末の決断にこういう結果を下したのだ。僕みたいに、なんにも考えずに、とりあえず就職できればいいやなんて適当に生きてる奴のほうがよっぽど我が儘なんだ。これ以上彼女に自虐的発言をさせたくなかった。
「自分のこと、そこまで深く考えてる人ってなかなかいないよ。俺なんて就職できればいいやって気持ちなだけで大学入ったようなもんだし。生きてきた19年間で本気でなにかを好きになったことなんてないし、だからそういうものを失った喪失感っていうのかな、そんなのも感じたことないし。こんなつまんない人間もいるんだからさ。君は十分に人生を必死に生きてると思うよ。少なくとも僕に比べては」
少し俯いたままそう言って、急に恥ずかしくなった。顔を上げたら彼女は泣いて僕の顔をじっと見つめていた。そうして「君に比べたら、ね」と言ってフフッと笑った。
「ありがとう、なんか、君に言えてよかった。スッキリした。あたし数学がなくても生きていける気がする。今そう思ったわ」
彼女は数学が嫌いな人へを少し見てから、それを僕のほうに差し出した。
「これあんたが借りて読んだほうがいいよ。あんたがあたしの代わりに数学、ちょっとでもいいから勉強してみて」
そう言うと、すっと立ち上がり、ひと呼吸置いてからじゃ、と左手を上げくるりと後ろを向いた。
「え、待ってよ、俺が数学?」
「そうだよ。読んでね。ちゃんと。またここにくるから。そのときにもしあんたもここに来たら、感想聞かせてよ」
あのときと同じように、かっこいい台詞を残して彼女は言ってしまった。僕は特になにもしていないけれど、彼女の後ろ姿はなんだか大人の女性というものを連想させた。その姿にうっとりしつつ、僕の中でもなにかがカチリと変わった気がした。そして、彼女が残していった数学が嫌いな人へをゆっくり開いてみた。

4

あの日以来、町山呉乃はテレビでも雑誌でもいっさい姿を見せなくなった。あれだけ話題になった彼女の存在を、国民はしだいに忘れていった。時代の人としてネットなどには時たまのせられたが、やがてそれもなくなり、彼女と2度目に会った日から1年が過ぎた。

僕はというと、あのあと東京での一人暮らしを辞め、実家に戻った。実家から大学に通い、バイトも居酒屋のは辞めて、あの市民図書館で働きだした。決して給料はよくなかったが、好きなことにいつでも携われているのがすごく嬉しかった。ただ本の整理などを行うだけでなく、オススメの本についてのポスターを作ったり、僕なりに工夫をしてみた。すると、市民図書館には今までの倍以上に人が訪れるようになり、貸し出しされる本の数もそれに比例して増えた。大学のほうも、外国語科なので英語やその他の国の言葉を勉強し、さまざまな国の本にチャレンジするようになった。勉強が楽しいと思えるようになった。友達の幅もなんだか増えた気がした。そして、好きな女の子もできた。
数学の彼女からもらった数学が嫌いな人へは、長かったものの半年で読破した。内容は意外にも面白くて、読み終えたときにはなぜ彼女が数学にハマったのかがちょっとだけ分かった気がした。
ある日僕はいつものように大学の授業を終え、市民図書館で本の整理をしていた。かつてのお気に入りの場所を囲む本棚に、返却された本を並べているところだった。カツカツと、ハイヒールの音をたてこちらに近づいてくる誰かがいた。ふいに手をとめ、振返ると、見覚えのある顔、僕の好きな人がにっこりと笑ってしゃがみこんだ。
「読み終わった?感想教えてよ」


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  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-10-31

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著作権法内での利用のみを許可します。

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