木こりと化け物
昔、木曽の村に伊兵衛という若い木こりがいた。
伊兵衛は毎年秋になると山奥深くに入る。仲間の六助と共に小屋で生活しながら、山中の巨木を切るためだ。
ある日伊兵衛が一人で仕事をしていると、どこからか人の声が聞こえたような気がした。
辺りの木々は夕日を受けて赤く染まり、こんな時分山には自分と六助以外だれも入って来ないはずである。不思議に思い声をたどって行くと、林の向こうで何者かが横になりうんうんと唸っているのが見えた。人のようでもあるが、それは伊兵衛の倍近くはありそうな背丈をしていた。
(ありゃ、ヤマロじゃなぁ)
そう思って伊兵衛は腰に提げたナタを取り、そっと近くの木陰へ身を寄せた。
ヤマロというのは人に似た化け物のことで、伊兵衛も見るのは初めてだった。ヤマロはその怪力でよく悪さをし、人を食うことさえあるという。
首を伸ばして見ると、ヤマロは体を曲げて足を抱え、苦しそうな声を洩らしている。傍らには猟師の仕掛けたはさみ罠があった。太い足から流れている血は、どうやらその歯によって傷付けられたものらしい。
伊兵衛はナタを握り直し、ヤマロに近付いて行く。
「弱っているヤマロを見たら必ず殺せ」という村の猟師の言葉が思い出された。猟師たちにとっては猟場を荒らす憎いかたきなのだ。
姿を現した伊兵衛に気付くと、ヤマロは重そうに首を向けてきた。長く白い髪の隙間から真っ赤な眼がらんらんと覗いている。伊兵衛は思わず身震いをした。
だが、ヤマロはすぐに首を戻すと、観念したように頭を地面へ落とした。伊兵衛が近付いても、弱々しく息を吐きただジッと空を仰ぐばかりである。もう声を上げる気力もない様子だった。
伊兵衛は頭の方へ近寄りナタを振り上げた。薄く開かれたまぶたの隙間に伊兵衛の影が映ったが、大きな体はまるで動く気配がない。
そのままの姿勢でしばらくヤマロを見下ろしていたが、やがてふと力を抜き腕を下ろすと、
「痛むのか」
そう言って伊兵衛は足の方へと近付いて行った。
子供の胴ほどもありそうなふくらはぎに木杭の刺さった痕がいくつもあり、そこから痛々しく血が流れている。
「はさみを無理にはがしたのか。さぞ痛かったろうに」
伊兵衛は一度山小屋へ戻ると、酒を持って来て傷口に吹きかけた。ヤマロは悶えながらも抵抗する様子はない。伊兵衛は薬草を煎じた薬を塗ってやり、布を巻いて簡単な手当てをしてやった。
「見つけたのが猟師だったらおめぇをぶち殺してるところだが、おらぁ木こりだからな。おめぇは運が良かった」
ヤマロは何も言わず、去って行く伊兵衛の方を振り向きもしなかった。
小屋に帰ると、用事で里へ下りていた六助も戻って来ていた。
伊兵衛は先程の出来事を話した。
「おめぇはなんてお人好しだ。なんでその場ですぐたたっ殺さなかっただ」
「ケガしてるの見たら、どうにも哀れになっちまってよ」
「なんぼ哀れでも相手は人じゃねえ。情けをかけたところで、化け物がおめぇの顔なぞ覚えているもんかよ」
六助に叱られ、伊兵衛はしょげたように首をうなだれた。
その年の秋が終わり冬も過ぎ、季節はめぐってまた山入りの時期が来た。
伊兵衛と六助は去年と同じように山中での仕事を始める。
巨木に当てたのこぎりを六助が引き、裏から伊兵衛が斧を打ち込んだ。夢中になって作業をするうち、ふと伊兵衛は六助の背後に巨大な影を見た。
「あっ」
と、気付いたときには六助の体がうつ伏せになって倒れ込んでいた。ヤマロの爪によって背中が赤く裂けている。顔を上げると光る大きな目玉がこっちを見下ろしていた。
伊兵衛は震えながらも、とっさに、
「お、おらじゃ、おらぁ一年前お前の傷の手当をしたもんじゃ」
そう叫んだがヤマロの顔は変わらない。
振り下ろされた爪を伊兵衛は何とか斧で防いだものの、重い一撃に耐えかねたまらず尻をついてしまった。
「今日はあ、人間の肉がたんと食えるう」
大きく裂けた口を開け、ヤマロは笑った。その凄まじい形相に伊兵衛は抵抗する気も失せ、ただただ歯を打ち鳴らすしかなかった。
(やはり六助の言った通りじゃったか……化け物に情けは通じん)
巨木の根のような指先が伸び、伊兵衛は最早これまでと観念した。
と、眼の前まで迫った爪が止まった。ハッとして見上げた先に二つの顔がある。
伊兵衛を捕らえんとしたヤマロの後ろにもう一体同じ化け物がおり、それが前の体を羽交い絞めにしていた。
二体の化け物はそのまま地面に倒れ込むと、転げ回りながらの格闘を始めた。拳を振り上げ、鋭い歯で噛み付き、爪で相手の体を切り裂く。そのあまりの激しさ恐ろしさに伊兵衛は体を起こすこともできなかった。
やがて一方が動かなくなると、立ち上がったヤマロが伊兵衛の方へと近付いて来た。
思わず身を硬くする伊兵衛の前で、ヤマロは静かに自分の足を指差す。そこに見覚えのある傷跡があった。
「おめぇは……」
伊兵衛が何か言う前にヤマロはくるりと背を向け、倒れている仲間の体をかつぐと林の奥へと消えていった。
それから後、この山でヤマロの姿を見ることはなくなったという。
木こりと化け物
民話っぽい民話を書こうと思い創作したものです。