真夜中の手術室

「救われることを望めば望むほど、私は死に狂っていくのです」

 『真夜中の手術室』


 「初めまして。私は担当医を務めます××と申します。貴方のお名前は?」
 「……は、初めまして。私は絶望です。地球創世記に生まれて以来、神様からの命令により、人間の心で息をしています」
 「絶望、さんですね。それでは絶望さん、今日はどうされました?心のままにお話ししてみてください」
 「……はい。これは私が生まれた頃から抱いていた苦悩なのですが、最近ようやく気付いたことがあって……どうも私は、『彼ら』の生命活動にとって障害なのではないか、と思うようになりまして」
 「それは大変ですね。誰かにとって自分が不必要であると感じることほど不幸なことはありません」
 「私は彼らを愛しています。けれど、愛すれば愛するほど、私のこの苦しみは募ります。彼らも私と同じように悲愴な顔をして、笑顔を見せなくなっていくのです」
 「貴方が愛すれば、愛するほど?」
 「私が愛すれば、愛するほど」
 「……絶望さん、生き物は誰しも感情を持ち、また常に何かからの影響を受け続けて過ごしています。その影響というのは、地球には数えきれないほど存在します。恋人、友人、仕草、学校。貴方がそう思っていても、彼らが苦しむのは単に生物の基本機能であると考えることはできませんか?この考えは浅薄でしょうか?」
 「い、いえ、いえ、それは、絶対に違うと思うのです。私は長年生きてきました、おそらく貴方よりも長く生きてきました。神様から『人間を助けなさい』と仰せを受けたあのくらい夜から、一日たりとも眠ることなく。それだけの間彼らのことを見ていれば、私が原因で体調や心を崩したりしているのは明白なのです」
 「……なるほど。自分のせいではない、とはあくまで考えないのですね。貴方のことはよく分かりました。では、これからゆっくり時間をかけて治療していきましょうね」
 「ま、待ってください!私のことがよく分かった、とは?まだ私と貴方は出会って数分の──何もお互いのことを知らない霧のような関係ではありませんか!そんな薄っぺらさで私のことを理解したとでも!?」
 「浅い関係ではありません。樹海を覆いつくす霧の中で、彷徨うことなく歩ける人間などいないでしょう?霧の中を歩くには、その霧のことを知り尽くしていなければなりません」
 「それは、」
 「いいですか、絶望さん。私は精神科医です。そして貴方はクライアント、つまり患者様です。私の仕事は心の病を治し、再び元通りの生活ができるよう支援すること。それは分かりますね?」
 「……はい、しかし」
 「分かります。貴方の言いたいことは分かります。確かに普通なら信じられないでしょう。私がもう貴方のことを理解した、などと。……まあでも、確かに軽はずみな言動だったかもしれません。失礼しました」
 「そんな、わ、分かっているのなら」
 「今私は『普通なら』と言いました。つまり私は普通ではないということです。異端の、それも心の闇を数分の会話で見抜くことのできる能力が、私にはあるのです。人ならざる異端を相手にする限られた精神科医の中でも、特に限られた能力を」
 「……私は、異端なのですか?」
 「……結論から言えば、そうなります。しかし貴方は我々が普段カウンセリングしている人ならざるものとはだいぶ違うようです。大抵の異端は利己的で頭の回転も遅いため、会話を成り立たせるのさえ難しいのですから」
 「……私は異端の中でも異端、と、そう言いたいのですね?貴方と、同じように」
 「仰る通りです。それゆえ貴方は私にとって、彼らの数倍理解がしやすい。全ては貴方が聡明だから──そう理解しては頂けませんか」
 「……分かりました。そういうことにしておきましょう。取り乱して、すみません……」
 「いえ、お気になさらず。それでは話を戻しましょう。貴方は、いつからそのように苦しむようになったのですか?」
 「ごく最近です。いえ、最近というのは人間の時間で言うならば数日くらいですね……ええと、ここ十年ぐらいでしょうか。見るからに人間が衰弱している、と突然思ったのです。特に、この国において」
「この国、日ノ本ですか」
「はい。彼らをずっと愛し続けていたのに、気づけなかった。衰弱はおそらくずっと前、もう人間が生まれた時から始まっていたと思うのです。けれど私は数千年が経った今になってようやく気づいた。全ては私のせいだったのだ、と」
「先程と同じ話を仰るのですね。貴方は自分を責めすぎています。私が理解できるのは、貴方は何も悪くないということです。貴方は人類を愛した、いや、愛しているのですよ」
「けれど、そんな私の愛が、取り返しのつかない事態を生んでいる。それは、一体愛だと呼べるのでしょうか」
「取り返しのつかない事態?」
「彼らにとって絶望という概念は、苦痛でしかないらしいのです。それによって精神病はこの国に蔓延しているし、虚ろな自殺が仮想的にも現実的にも行われている」
「絶望さん、一ついいですか。人類には人それぞれ正義という概念があります。それは、敵味方誰であっても激しい対立を生むことさえもある罪深い概念です。しかしそれは同時に美しくもある、なぜなら守りたいものがあってこそ成り立つ概念だから。愛を持つ者が果たして善性愛しか持つことはないと、一体言い切れるでしょうか」
「……難しい話は、分かりません」
「貴方には正義があります。美徳があります。希死念慮を持つほどに、ご自身の職務に責任感を持っている。それだけのことです」
「せ、っ先生、貴方は無責任だ!それが世界の破滅を生むことになっても、正義の一言で片付けられるとでも言うのですか!」
「……失礼、少々言葉が過ぎましたね。しかし世界の破滅というのは少々極端です。妄想症じみていて現実的ではありません。……世界よりも貴方の破滅の方が早いのではないか、というのが私の見解です」
「な、なぜです」
「ご自分の身体をよく見てください」
「……っ!」
「……心臓が半分欠けています。そして貴方は地球上の概念から判断すると女性と男性の両方の面を併せ持つ中性の存在。ですが腹部に穴が空いているせいで、子宮がおおかた重症ですね。これでは次の代を残せずに貴方という概念が人間の中から消えてしまうでしょう……それから、たちどころに傷が……」
「わ、私のことなどどうでも良いのです!ただ人間を……愛しい我が子たちを……!た、助けたくて……!自分のせいだとしても!……どうして。今までこんなに苦しかったことはなかった……私は狂ってしまったのでしょうか……」
「……少し落ち着きましょう。さあ、ゆっくり深呼吸して」
「……すう、はあ、すう、はあ……」
「……絶望さん、一つお伝えしたいことがあります」
「……はい?」
「傷を癒やすためには、新しい病が必要です。それは全生物にも同じこと……代償を払わずに快を得るというのは、到底不可能なことなのです」
「や、病……?ですって?」
「人間は無臭社会を手に入れた代わりに、嗅覚の鋭敏さを失いました。例えば、こんなお話があります。現代を生きている高齢の人間のうち、正常な嗅覚を失った人々による病気の致死率は、正常な嗅覚を持つ人々の数倍も高いそうです。人間は当初、あらゆるものに恐怖を抱いていました。しかし進化を経て、生き残るためにあらゆる障壁を破壊した。つまり死に慣れ、同時に死のにおいを嗅ぎ分けられなくなったのです」
 「……そ、そんな話を、されても……」
 「理解できずとも構いません、私はただのたとえ話をしているだけですから……死への恐怖によって生きることが難しくなるのは、すなわち傷。あらゆるものに鈍感になることはつまり病。傷を治すというのは、つまりはそういうことなのです」
 「そんな……嘘だ、そんな、そんなの本末転倒じゃありませんか。そんなの永遠の苦しみです、地獄です、一体どうやって耐えるというのですか……!?ああ神様、神様お赦しください……私の精神は不浄になってしまった。だからこのように思い悩んでしまう……あああ、あああ……!!」
「…………好きな景色はありますか。もし何かあるのなら、今この部屋をその景色に変えて心を鎮めましょう」
「あ、あああ…………」
「……どうか心を痛めないで」
「……え、と……海の、深海の、痛切な沈黙は、居心地が良かったのを覚えています」
「ではそれにしましょうか。この空白の空間は貴方には息が詰まるでしょう」
「……確かに、虚無は苦手です。空っぽなのは苦しくて」
「おや、”絶望”なのに」
「いいえ、虚無と私の関係はあまり……良いものではありません。虚無は今私と同じように闇に支配されて病と薬に拘束されているので、最近では顔を合わせることはありませんが」
「”絶望”と”虚無”とは全く違う、と」
「……はい、そうです。何らかの感情を持っている時と、全く何も持っていない時とは全然違うのです……それが健康的であるとは必ずしも言いませんが……ああ、ありがとうございます。幾分か、安らぎますね」
「海の静寂が好きだと語る患者様は少なくありません。生命の故郷だからでしょうか」
「──先生、さっき私の身体について仰ったとき、次の代を残せない、と」
「はい。確かにそう申し上げましたね」
「私には寿命はありません。あえて言うのならば、人間が死に絶えるとき──あるいは、彼らが私を愛し始めたときだけ、私は死にます」
「なるほど、そうだったのですね。それは大変な道のりでしょう。心を病んでしまうのもおかしくない話です。……しかし、貴方を愛し始めたときだけ、とはどういう事でしょうか?随分と詩的ですね」
「……私は我が子たちに愛されてはいけないのです。私が愛しい彼らを愛することはあっても、私が彼らの愛を受け取っては絶対にいけないのです」
「その理由とは?」
「……私が、”絶望”だからです」
「……失礼、少々土足で踏み込んでしまいましたね。謝罪します」
「いえ……」
「……さて、絶望さん。この空間は比喩でも何でもなく果てしない深海だと思ってください。私以外に貴方の話を聞く者はいません。どうか包み隠さず貴方の心の中を見せてください」
「……はい、それで私の苦痛が終わるのなら」
「ありがとうございます。それでは、次に貴方が今まで生きてきた中で一番美しいと思った出来事を教えてください」
「う……美しい、ですか?楽しい、ではなく?」
「そうです、答えたくなければ答えなくても構いませんよ」
「そ、そうですね……今のような深海の風景も好きですし、神様が私をお創りになったとき初めて見た海辺の夕陽と揺れる木々……それから……最初の人間が産まれたときの産声…」
「……つまり、誕生の瞬間を美しいと思った、ということですね?」
「は……はい、そうとでも言うのでしょうか…はい、そうなのだと思います」
「唐突な質問ばかりで失礼ですが、貴方は記憶力は優れている方だとご自分で思いますか?」
「……え?ええ、人の心の機微には敏感で、それを無意識に記憶し続けているので、多少は……」
「そうですよね、では忘れるという経験をしたことは?」
「ありません……私は、記憶を忘れてはいけないですから」
「忘れてはいけない?そんな制約が?」
「……忘れるということは、その事実自体を自分の心から抹消させるということです。それは一番、やってはいけない。私は人間の心がどういう時に動いたかを全て記憶しなければならない。それを分かった上で、愛という概念を加速させるのです。彼らの生命活動のために」
「分かりました。それにしても貴方……随分と生きづらいでしょう」
「……不便は感じます。とりわけ最近は」
「絶望さん、貴方は先ほど人間が自分のことを愛してはいけないと言いましたね。それが分かっているのであれば、もう貴方は苦しむ必要はないかと思われます。この言葉が他人事のように聞こえるのは承知で申し上げますが」
「……え」
「貴方は自分が不必要な存在だと考えていますね?」
「はい……はい、私は、私の愛は、彼らの生命活動にとって邪魔な存在なのではと……苦しくて……今の彼らは他人との関係に自分の心の弱さに社会的価値に、とにかく色々なものに囚われすぎていて、ああ、もう、先生。やっぱり私は産まれるべきではなかったのですか……」
「貴方は聡明です。ご自分で感情の整理がおおかた出来ている。最初に貴方は人を愛すれば愛するほど切ないと仰いました」
「……それは、封じ込めねばならないのでしょうか」
「確かに……貴方のその愛によって苦しみ、死ぬ人間も多いことは事実でしょうね」
「なんだ……全然、簡単な話だったのですね。つまり私が消えれば、全て解決するのでしょう。絶望というもの自体が消滅すれば、もう私はこんな靄のような思いを抱くこともなく、彼らは悲愴な顔をする必要もない……大丈夫です、自分の殺し方ぐらい分かります」
「いえ、それは違います。貴方が居なくなれば間違いなく人間は人間としての生命を失うでしょう」
「……慰めは結構です。先生は、答えを最初から知っていますよね」
「慰めではありません。私は患者様に優しくするようには出来ておりませんから……例えば想像してみてください。荒廃した世界で食糧もなく道もなく、周囲には自分と縁のない数少ない人間しかいない。勿論貴方はヒーローではありません。ただのしがない一般人だとします。最先端機械は壊れ、天災に遭い、巨大な怪物がもし目の前に現れたとき、一番最初に人間が感じるのは何ですか?」
「……絶望、でしょう」
「そうです。ではもし絶望というものがなかったとしたら?」
「立ち向かうはずです。絶望感を抱かなければ、何だってできるのですから」
「そうですね。立ち向かうか逃げるかの二択でしょうね。しかし、立ち向かっても勝てはしません。自分以外の人間はどんどん死んでいきます」
「……思いの強さだけでは希望は生まれませんからね。希望というのは最強の切り札を持っている場合にのみ許される手の届かない存在です」
「……希望と自信は別物ですね。話を戻しますが、通常は仲間を失った人間は自然な感情の働きによって絶望感を抱きますよね。しかしそれが一切ないので、もし立ち向かうという選択肢を最初に選んだのならばもはやロボットのように立ち向かい続けるしかなくなります。逃げる、というのは一切考えなくなるのです。なぜならば喪失感が存在しないからです」
「つ、都合が良すぎます。絶望感と喪失感とは別物でしょう」
「いえ、同じです。そしてその時何が起こるか。自分も同じように怪物に立ち向かいます。そしてあえなく死んで、終わりです。では逆に、そこに絶望があったとしたら?仲間が殺されていく時点で顔は青くなり、ここで逃げるという選択をしますよね」
「待ってください!先生の言うことには穴がありすぎます。そんな状況、足がすくんで動けないに決まってますよ」
「私はあくまで可能性の話をしているだけです。絶対などということは自然の摂理上有り得ませんから。……感情は生き物の持つ性質の中で最も高度なものと言われています。絶望さん、貴方がもし居なくなれば同時に彼らは人間ではなくただの人形になってしまうのです。貴方は、切ない死から逃れるための唯一の防御線なのですよ」
「…………」
「貴方が愛するから人間は悲愴になる。けれど愛は人間には必要不可欠。感情が一つでも欠けたら、貴方がいることによって救える命も救えないのですよ。貴方の愛する子供たちは、文字通り貴方のせいで死にます」
「……なんだか話が複雑ですね、頭が混乱してきました……」
「少し休みましょうか。紅茶でも?」
「ええ……ありがとうございます。……ああ、甘い。とても落ち着きます……地球の母乳もこんな味だった」
「……絶望さん、一つ言っておきますが自殺することは悪いことではありませんし、いずれにしろ貴方は、これから先も愛し続けたいのなら、彼らを信じるしかありません」
「分かっています……愛した私が悪い。そういうことなのですね……もう、分かりました。やはり私が害悪だということですね。納得させてくれて、ありがとうございました」
「…………今日は、ここまでにしましょうか。次の患者様を待たせていますので」
「……はい、じゃあ、失礼します」
「はい、お気をつけて……また明日、必ずお会いしましょう」

真夜中の手術室

真夜中の手術室

人間を愛することすら許されない感情「絶望」をカウンセリングし、再び人間の絶望として歩めるように治療を試みる精神科医との対話。会話文のみ。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-02-04

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